新旧約聖書は、死人が生き返るだのなんだのの絵空事ばかりが書き殴られてて、
それが無理やり信仰されてるぐらいなのだから、「本当の所はこうなんだよ」などと言った所で、
信じない者は信じるまい。ただ、刑死したユダヤ男が生き返ったとされる瞬間に
処女懐胎の聖母である女と、娼婦である同名の女が同時に居合わせてるぐらいだから、
両者が同一人物であるぐらいのことも当然あるだろう。全ての人間は死んだ以上は生き返らず、
処女と姦通や懐胎は相容れない、現実の法則が全く通用しない世界の物語なのだから。
本当に聖母マリアと娼婦マリアが同一人物であろうがなかろうが、父親に認知されてもいない
私生児はすでに妾腹の子であり、東洋では「わざわい」と同一視されるほどにも卑しまれる。
そのせいでいじけたまま人生を終えることもあれば、孔子や鬼平のように一念発起して大活躍することもある。
ただ、私生児であることを開き直って、私生児こそは神の子であり、偉大であるだなんて転倒夢想は通らない。
そんなものを賞賛したりすれば、君子父子夫婦の序列も反故にされて、世の無秩序化をも招きかねない。
だからあくまで私生児は、そうであること自体は「わざわい」と同列視されるほどにも賤しいことであり、
そうであっても活躍するかどうかは、本人自身の努力如何にかかっているという
>>272の孟子の意見のほうが正しい。
個人的には、マリアは娼婦でもあっただろうと思うが、マリアが娼婦か否かに関わらず、誰が父親とも知れない
イエスの境遇は卑賤であり、そうであることをバネにがんばるのはいいにしても、そうだからといって偉くはない。
たとえイエスの父親が貴人だろうとも、非嫡出の非認知のままにしたのにはそれなりの理由があるのであり、
真に父子の序列を重んじるのならば、その父親の意向を汲んで、私生児であることを卑しまなければならない。
私生児にされたことを偉ぶったりするのは、かえって父親の意向にも反しており、父子の序列を乱してもいる。
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