人間という生き物は醜い(特に外見) 東洋的審美眼の真骨頂
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近ごろ、各地の博物館や刀剣店などを巡って各種の名刀を目にしてるんだが、
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
日本刀の中でも、特に名刀とまで呼ばれているものの美しさを見るにつけ思うのが、
「これを美しさとするのなら、人の見た目の美しさなどものの数にも入らないな」ということだ。
別に、それで異性への愛欲が断たれたりするわけではないが、
ただ、特別に美男美女扱いされているような人間(特に白人)の見た目などを
普遍的な美しさだなどと勘違いして、畏怖するような思いだけは完全に絶える。
顔立ちにしろ身体つきにしろ、日本人は昔からあまり美しいとまではいえないような人間が多いが、
それもこのような、人の美しさなどに囚われない諦観が根付いていたからなのだろうな、と。
美男美女なんてただの色男色女に過ぎないという見立ては、今ではすり減って久しいものだが、
色ボケに世の中が振り回されるような羽目に陥ることがないようにするためにも、
今一度先人たちの遺産に目を向けるべきだと言えるだろう。
「これを美しさとするのなら、人の見た目の美しさなどものの数にも入らないな」ということだ。
別に、それで異性への愛欲が断たれたりするわけではないが、
ただ、特別に美男美女扱いされているような人間(特に白人)の見た目などを
普遍的な美しさだなどと勘違いして、畏怖するような思いだけは完全に絶える。
顔立ちにしろ身体つきにしろ、日本人は昔からあまり美しいとまではいえないような人間が多いが、
それもこのような、人の美しさなどに囚われない諦観が根付いていたからなのだろうな、と。
美男美女なんてただの色男色女に過ぎないという見立ては、今ではすり減って久しいものだが、
色ボケに世の中が振り回されるような羽目に陥ることがないようにするためにも、
今一度先人たちの遺産に目を向けるべきだと言えるだろう。
刀の美しさによって審美眼を育んだからといって、
別に刀以外の何もかもが醜く見えてくるわけではない。
花鳥風月、山川草木のような自然の美しさはやはり普遍的なものだし、
そこにぶつかることなく調和できている人の営みもまた、醜いとまでは言えない。
体の線が出ない着物や大きな笠といった純和風の装束なども、
人体の醜さをうまく隠してそのような美しさに溶け込む配慮があるのだと知れる。
してみれば、そこからの逆算によって、実は美しいわけではないと
バレてしまうものが、美男美女の他にも複数出てくる。
物量投入によって見るものを威圧する大都市のインフラなども、デザイニングに
よっては美しさまでもが謳われるが、決して普遍的な美しさには当たらない。
諸々の工業製品も、全てがワンオフである日本刀と比べれば作りのアラが目立つ。
ことさらに体のラインを強調して性的な魅力をアピールする洋装の美しさなども、
人体の美しさ自体が虚構に過ぎないことに連動してハリボテ扱いとなる。
決して現代人の多くがたやすく賛同できるような美意識ではないだろうが、
少なくとも昔の日本人にとってはごく常識的な感覚だったようである。
別に刀以外の何もかもが醜く見えてくるわけではない。
花鳥風月、山川草木のような自然の美しさはやはり普遍的なものだし、
そこにぶつかることなく調和できている人の営みもまた、醜いとまでは言えない。
体の線が出ない着物や大きな笠といった純和風の装束なども、
人体の醜さをうまく隠してそのような美しさに溶け込む配慮があるのだと知れる。
してみれば、そこからの逆算によって、実は美しいわけではないと
バレてしまうものが、美男美女の他にも複数出てくる。
物量投入によって見るものを威圧する大都市のインフラなども、デザイニングに
よっては美しさまでもが謳われるが、決して普遍的な美しさには当たらない。
諸々の工業製品も、全てがワンオフである日本刀と比べれば作りのアラが目立つ。
ことさらに体のラインを強調して性的な魅力をアピールする洋装の美しさなども、
人体の美しさ自体が虚構に過ぎないことに連動してハリボテ扱いとなる。
決して現代人の多くがたやすく賛同できるような美意識ではないだろうが、
少なくとも昔の日本人にとってはごく常識的な感覚だったようである。
上記のような日本的、東洋的審美眼が別に性欲を減退させるものでないのは、
江戸期の日本における性風俗文化の隆盛などからも知れたことである。
性欲を完全に断ち切るというのなら、万事万物の見た目の美醜に囚われない
「色即是空」の境地にまで至ることが必要なわけだが、それと比べれば、
審美眼の巧拙を論じている今の話は、だいぶ程度が低いものにあたる。
高尚な審美眼もあれば、低俗な審美眼もあり、美女の色気にたぶらかされる
程度の段階の人間には、美々しく飾り立てた遊女があてがわれもしていた。
ただ、それは程度の低い領域の美醜なのだから、哲学的、宗教的な領域とは
全く別物の俗物としての身の程がわきまえられていた。そうですらあれば
美女を愛でたりするのも全く問題はないのであり、むしろ神聖不可侵なもの
として敬遠したりすることがなくなる分、より営みが旺盛ともなり得るのである。
江戸期の日本における性風俗文化の隆盛などからも知れたことである。
性欲を完全に断ち切るというのなら、万事万物の見た目の美醜に囚われない
「色即是空」の境地にまで至ることが必要なわけだが、それと比べれば、
審美眼の巧拙を論じている今の話は、だいぶ程度が低いものにあたる。
高尚な審美眼もあれば、低俗な審美眼もあり、美女の色気にたぶらかされる
程度の段階の人間には、美々しく飾り立てた遊女があてがわれもしていた。
ただ、それは程度の低い領域の美醜なのだから、哲学的、宗教的な領域とは
全く別物の俗物としての身の程がわきまえられていた。そうですらあれば
美女を愛でたりするのも全く問題はないのであり、むしろ神聖不可侵なもの
として敬遠したりすることがなくなる分、より営みが旺盛ともなり得るのである。
本当は、直刃(刃紋がまっすぐ)の刀の美しさも例示したいんだが、
直刃の美しさを画像で示すのはほぼ不可能に等しいので、
已む無く乱れ刃や彫刻の美しさの例示を優先している。
俺もまだまだ勉強中だが、最上級に良い刀と悪い刀の見分けぐらいはだいぶ付いて来た。
良い刀は刃金と地金の焼き分けが上手くて、刃金は白く地金は青黒い。
悪い刀は全体的に白く、焼き入れすぎのせいで実戦では折れかねない。
つまり良い刀は実際に丈夫である一方、悪い刀は弱い。
焼き入れがうまくて地金と刃金のメリハリが立っているから、刃紋の美しさも映える。
美しい刀はそれ即ち強い刀であり、あらゆる美しさの中でも機能美の極致にあるといえる。
東洋的美意識は機能美とこそ不可分なものであり、一般人には落書きかゴミにしか
見えないような現代アートに大金をつぎ込む西洋的美意識などとは根本的に相反している。
刀もいいいものは数百万円〜数千万円、
中には億を超えるものもあるが(画像の山鳥毛一文字など)、
原価だけでも数十万円はかかっているし、それを名刀に仕上げる工匠の手間賃を考えれば
決してふっかけているなどということはない。浮き足立たないまともな経済感覚を育んで、
金満への無闇な幻想を抱かないことにも、刀の勉強は一役買うことができる。
直刃の美しさを画像で示すのはほぼ不可能に等しいので、
已む無く乱れ刃や彫刻の美しさの例示を優先している。
俺もまだまだ勉強中だが、最上級に良い刀と悪い刀の見分けぐらいはだいぶ付いて来た。
良い刀は刃金と地金の焼き分けが上手くて、刃金は白く地金は青黒い。
悪い刀は全体的に白く、焼き入れすぎのせいで実戦では折れかねない。
つまり良い刀は実際に丈夫である一方、悪い刀は弱い。
焼き入れがうまくて地金と刃金のメリハリが立っているから、刃紋の美しさも映える。
美しい刀はそれ即ち強い刀であり、あらゆる美しさの中でも機能美の極致にあるといえる。
東洋的美意識は機能美とこそ不可分なものであり、一般人には落書きかゴミにしか
見えないような現代アートに大金をつぎ込む西洋的美意識などとは根本的に相反している。
刀もいいいものは数百万円〜数千万円、
中には億を超えるものもあるが(画像の山鳥毛一文字など)、
原価だけでも数十万円はかかっているし、それを名刀に仕上げる工匠の手間賃を考えれば
決してふっかけているなどということはない。浮き足立たないまともな経済感覚を育んで、
金満への無闇な幻想を抱かないことにも、刀の勉強は一役買うことができる。
久しぶりにというか明和で初めて興味ある意見を見たような見なかったようワニな
それほどまでに美しい刀創り出す精神性は
善悪別にしても相当高い位置に志をおいておらねば創れないワニね
美しさというものは形”ではないと言う境地に辿りついたのワニね
それほどまでに美しい刀創り出す精神性は
善悪別にしても相当高い位置に志をおいておらねば創れないワニね
美しさというものは形”ではないと言う境地に辿りついたのワニね
人間の見た目の美しさの寿命なんて、どんなに頑張っても数十年がいいとこだが、
刀の美しさは数百年でも、千年以上でも持つ。
(画像は平安時代中期に作られた童子切安綱)
悪い刀ならサビが深く根を張って早々とダメになる場合もあるが、
良い刀は鉄の清浄度が高くて酸素含有量が低いから錆びにくい上に、錆が根を張らない。
故に研ぎ直しも最小限で済み、千年以上の後にも元の体配を保ち続ける。
もちろん、何万年何十万年とまでなればさすがに劣化を来たすだろうし、
最終的には地球ごと肥大化した太陽に飲み込まれて消え去るしかないのだから、
完全に永久的な美しさなどというものはなく、色即是空のみが真に永久普遍たる。
ただ、せいぜい数十年しか持たない人間の見た目の美しさなどと比べれば、
刀の美しさのほうが遥かに普遍的だし、自身が寿命百年やそこらの人間にとっては十分に半永久的である。
そういった安定度の高い美しさを、仮初めの美醜なぞの上に置いて考えられるようになるのは、
仏の悟りとまでは行かない範囲での、一種の大人びた達観となるには違いない。
刀の美しさは数百年でも、千年以上でも持つ。
(画像は平安時代中期に作られた童子切安綱)
悪い刀ならサビが深く根を張って早々とダメになる場合もあるが、
良い刀は鉄の清浄度が高くて酸素含有量が低いから錆びにくい上に、錆が根を張らない。
故に研ぎ直しも最小限で済み、千年以上の後にも元の体配を保ち続ける。
もちろん、何万年何十万年とまでなればさすがに劣化を来たすだろうし、
最終的には地球ごと肥大化した太陽に飲み込まれて消え去るしかないのだから、
完全に永久的な美しさなどというものはなく、色即是空のみが真に永久普遍たる。
ただ、せいぜい数十年しか持たない人間の見た目の美しさなどと比べれば、
刀の美しさのほうが遥かに普遍的だし、自身が寿命百年やそこらの人間にとっては十分に半永久的である。
そういった安定度の高い美しさを、仮初めの美醜なぞの上に置いて考えられるようになるのは、
仏の悟りとまでは行かない範囲での、一種の大人びた達観となるには違いない。
>>8
いや、最終的には形が全てを顕すので形が最も重要となる。
一周回って本質に到達するのよ。
形と言うのは情報の最終形。
どんなに御託を並べても形に表せないのであれば口だけって事。
んで>>1は刀には思い入れがあるのは分かるが、対比としての“俗物”の勉強が不足している。
一方の情報だけ肥大して、もう一方の情報が少ない状況で結論を出そうとするとこうな。
議論や主張にも美しさがあって、>>1は刀の美しさを説いてるのにその理屈が美しくない事に気づいていない。
美しいものを語るときその理屈は醜悪なものになる法則があるが、それを出来るだけ醜くならないように勉強して情報を集めるのだが、>>1はそれが十分ではないので醜悪な論理を並べ立てる恥さらしになる。
刀の美しさを語ってるが、それは別のものを投影してる事に自分で気づいていないから醜くなる。
ま、簡単に言うと
バカほど物事を複雑化しようとする典型が>>1です。
いや、最終的には形が全てを顕すので形が最も重要となる。
一周回って本質に到達するのよ。
形と言うのは情報の最終形。
どんなに御託を並べても形に表せないのであれば口だけって事。
んで>>1は刀には思い入れがあるのは分かるが、対比としての“俗物”の勉強が不足している。
一方の情報だけ肥大して、もう一方の情報が少ない状況で結論を出そうとするとこうな。
議論や主張にも美しさがあって、>>1は刀の美しさを説いてるのにその理屈が美しくない事に気づいていない。
美しいものを語るときその理屈は醜悪なものになる法則があるが、それを出来るだけ醜くならないように勉強して情報を集めるのだが、>>1はそれが十分ではないので醜悪な論理を並べ立てる恥さらしになる。
刀の美しさを語ってるが、それは別のものを投影してる事に自分で気づいていないから醜くなる。
ま、簡単に言うと
バカほど物事を複雑化しようとする典型が>>1です。
実際、刀の美しさをどんなに言葉で語っても、語るに落ちる。
それどころか、こうして画像で示しても十分に教えられたとは言えない。
博物館のガラスケース越しに遠目で見てもまだ十分だとは言い難く、
実際に手に取って、適切な照明の下で穴が開くように凝視してからやっと分かる所まである。
良い刀を見てから街に出ると、かつては地上に降りた満天の星空のように見えた
東京都心の街並みなども、途端につまらないものに思えてくる。
実際、刀の材料になっている玉鋼ほど上質な鋼材で作られた建物や車などどこにもなく、
工業品質としての観点から見てもガラクタの山にしか見えなくなるのだ。
人間についても同じことだ。
表参道か代官山あたりに群れ集っているような美男美女が性的に魅力的ではあろうとも、
それが神々の集いか何かのようにまで扱われているような風潮には興ざめする。
実のところ実物がそこまで大したものではないという自覚が本人たちにもあるからこそ、
今ではインスタグラムなどの画面上での美醜ばかりに囚われてもいるのだろうし。
それどころか、こうして画像で示しても十分に教えられたとは言えない。
博物館のガラスケース越しに遠目で見てもまだ十分だとは言い難く、
実際に手に取って、適切な照明の下で穴が開くように凝視してからやっと分かる所まである。
良い刀を見てから街に出ると、かつては地上に降りた満天の星空のように見えた
東京都心の街並みなども、途端につまらないものに思えてくる。
実際、刀の材料になっている玉鋼ほど上質な鋼材で作られた建物や車などどこにもなく、
工業品質としての観点から見てもガラクタの山にしか見えなくなるのだ。
人間についても同じことだ。
表参道か代官山あたりに群れ集っているような美男美女が性的に魅力的ではあろうとも、
それが神々の集いか何かのようにまで扱われているような風潮には興ざめする。
実のところ実物がそこまで大したものではないという自覚が本人たちにもあるからこそ、
今ではインスタグラムなどの画面上での美醜ばかりに囚われてもいるのだろうし。
>>8
普遍的な美しさが全く形を伴わないなんてことはないが、
世間一般が考えているような美しさと比べれば、かなり微妙不可思議なものだ。
上研ぎでピカピカに磨き上げられた刀が輝いていて美しいことぐらいは
誰にでもわかるが、ランクの低い刀でも研ぎたてならそれぐらいの
美しさはあるから、素人が騙される原因にもなりやすい。
刃紋もただ派手な乱れ刃やのたれ刃であればいいというものではなく、
よく見ると定規で描かれたような不自然なものだったりする場合もある。
直刃の良し悪しを見分けるのはもっと難しくて、俺もまだよく分からない所が多い。
要するに、難しい。立ち入れば立ち入るほど奥深さが見えてくる伏魔殿。
だからといって現代アートのような虚構なのではなく、
>>7に書いた通り、難解な美しさには難解な美しさなりの機能性が備わってもいる。
形はあれども、決して安易ではない。
まるで人の本性の美醜を見分けるのと同じように、刀の美醜を見分けるのも難しい。
普遍的な美しさが全く形を伴わないなんてことはないが、
世間一般が考えているような美しさと比べれば、かなり微妙不可思議なものだ。
上研ぎでピカピカに磨き上げられた刀が輝いていて美しいことぐらいは
誰にでもわかるが、ランクの低い刀でも研ぎたてならそれぐらいの
美しさはあるから、素人が騙される原因にもなりやすい。
刃紋もただ派手な乱れ刃やのたれ刃であればいいというものではなく、
よく見ると定規で描かれたような不自然なものだったりする場合もある。
直刃の良し悪しを見分けるのはもっと難しくて、俺もまだよく分からない所が多い。
要するに、難しい。立ち入れば立ち入るほど奥深さが見えてくる伏魔殿。
だからといって現代アートのような虚構なのではなく、
>>7に書いた通り、難解な美しさには難解な美しさなりの機能性が備わってもいる。
形はあれども、決して安易ではない。
まるで人の本性の美醜を見分けるのと同じように、刀の美醜を見分けるのも難しい。
頭の理解と心理的な体得を分けて考えるのは、ちょっと君には難しいかねえ。
いや〜やっぱり分からんようじゃのう。
読み書きできたりできなかったりの昔のお百姓さんや、
11年前の俺にでも分かる程度のことが、分からんもんには分からん。
別に誰にも分からんのではない。
おまえが特筆して分からん側の人間なだけじゃ。
より分からん方向に突っ走る劣情が滾ってるようだから、今はもうやめとけ。
読み書きできたりできなかったりの昔のお百姓さんや、
11年前の俺にでも分かる程度のことが、分からんもんには分からん。
別に誰にも分からんのではない。
おまえが特筆して分からん側の人間なだけじゃ。
より分からん方向に突っ走る劣情が滾ってるようだから、今はもうやめとけ。
今の刀剣の愛好家たちが、誰も彼も卓越した審美眼を備えているわけではなく、
刀剣商の間でも「あそこは駄目だ」系の陰口がよく行き交ってるような
始末なので、下手にその道に入ったりするのは決してお勧めしない。
ろくな審美眼もないのに刀剣に入れ込んでいる人間の特徴として、
刀そのものの純粋な美しさを愛好する欲求と、
他の欲求が抱き合わせになってしまっているというのがある。
変態的な愛好家は性欲と倒錯しているようだし、
金満的な愛好家は粗雑な財欲と混同しているようである。
珍宝を好む系の好事家が単なる物珍しさで愛好している場合もある。
そういう連中が刀を見ながらニチャニチャしてる姿を見て、
俺も下手に刀を買ったりするのはやめておこうとして来てるが、
やはり美しいものは美しい。今までにここに書いてきたような特性を
承った上で、刀により審美眼を磨くことは、ものの良し悪しや人の心の
美醜を推し量る上で有用になるため、刀を買わない内からでもお勧めする。
刀剣商の間でも「あそこは駄目だ」系の陰口がよく行き交ってるような
始末なので、下手にその道に入ったりするのは決してお勧めしない。
ろくな審美眼もないのに刀剣に入れ込んでいる人間の特徴として、
刀そのものの純粋な美しさを愛好する欲求と、
他の欲求が抱き合わせになってしまっているというのがある。
変態的な愛好家は性欲と倒錯しているようだし、
金満的な愛好家は粗雑な財欲と混同しているようである。
珍宝を好む系の好事家が単なる物珍しさで愛好している場合もある。
そういう連中が刀を見ながらニチャニチャしてる姿を見て、
俺も下手に刀を買ったりするのはやめておこうとして来てるが、
やはり美しいものは美しい。今までにここに書いてきたような特性を
承った上で、刀により審美眼を磨くことは、ものの良し悪しや人の心の
美醜を推し量る上で有用になるため、刀を買わない内からでもお勧めする。
意外にも、刀への審美眼を曇らせる最大級の障壁になりがちなのが、
攻撃性の過剰さである。
日本国内では最強度の蛮人の集いであり、刀がへし折れるほどの打ち据えばかりを
特訓する示現流を修めていた薩摩人なども、昔から良い刀を愛好する習慣などはなく、
明治期には廃刀と城郭破却の率先者となった。その薩摩人こそをリーダー格として編成された
日本軍も、粗悪な軍刀を帯びて敵に突撃する好戦主義によってある程度は勝ち、遂には敗亡した。
刀もまた攻撃のための武器には違いないが、護身用も兼ねるのを本分としているし、
戦地では大昔から槍薙刀や弓矢に次ぐ扱いをされていた近接戦闘用具である。そのため
ある程度以上に攻撃性の強い(我が身を滅ぼすことも厭わないほどの)人間にまであまり
好まれることはなく、銃砲ミサイル核爆弾その他、より強力な武器や兵器の陰に隠れることとなる。
そして、刀の美しさというもの自体が極めて繊細な美しさであり、攻撃意欲に身を焦がしてばかりの
粗忽者には理解できないものであるために、必要に駆られた所で「適当なものでいい」となる。
今でもヤフオクあたりに出品されているような大量のクズ刀が、そのようなヤクザ者の
放棄品だったりするのが多いわけで、刀の現存数自体はかなり多いものの、
実は本当に美しい刀を好んでいた人間など昔からそんなにいなかったことが分かる。
(刀を美術品として保護し始めたのは戦後のことで、元は実用品でもあったのだし)
攻撃性の過剰さである。
日本国内では最強度の蛮人の集いであり、刀がへし折れるほどの打ち据えばかりを
特訓する示現流を修めていた薩摩人なども、昔から良い刀を愛好する習慣などはなく、
明治期には廃刀と城郭破却の率先者となった。その薩摩人こそをリーダー格として編成された
日本軍も、粗悪な軍刀を帯びて敵に突撃する好戦主義によってある程度は勝ち、遂には敗亡した。
刀もまた攻撃のための武器には違いないが、護身用も兼ねるのを本分としているし、
戦地では大昔から槍薙刀や弓矢に次ぐ扱いをされていた近接戦闘用具である。そのため
ある程度以上に攻撃性の強い(我が身を滅ぼすことも厭わないほどの)人間にまであまり
好まれることはなく、銃砲ミサイル核爆弾その他、より強力な武器や兵器の陰に隠れることとなる。
そして、刀の美しさというもの自体が極めて繊細な美しさであり、攻撃意欲に身を焦がしてばかりの
粗忽者には理解できないものであるために、必要に駆られた所で「適当なものでいい」となる。
今でもヤフオクあたりに出品されているような大量のクズ刀が、そのようなヤクザ者の
放棄品だったりするのが多いわけで、刀の現存数自体はかなり多いものの、
実は本当に美しい刀を好んでいた人間など昔からそんなにいなかったことが分かる。
(刀を美術品として保護し始めたのは戦後のことで、元は実用品でもあったのだし)
俺自身、あまり「美しさ」というものに頓着して来たほうではない。
自分がそんなに美男ではないというのもあるが、
とにかく地を這ってでも生き延びて先祖に報いるという泥臭さこそを
本分にして来たものだから、美しさなど縁の遠いものだと思い込んで来た。
しかし、先祖代々伝わる殿中差しの小さ刀のほか、古今の名刀の美しさ
などにも触れて、案外美しいものなんて身近にあることに気づいた。
刀だけじゃない、刀の美しさと比較して美しいと思えるもの、
安易な外面ではなく、内面や内面からの美しさを持つものとなれば、
別にフランスやイタリアに行かずともそこら中に散見される。
合気道の開祖のように「万有愛護」とまでは行かずとも、
美しさ故に愛せるものは案外多い。武道や仏道の達者にまでなれなくとも、
そこから始められる庸徳の道もまたあるようである。
自分がそんなに美男ではないというのもあるが、
とにかく地を這ってでも生き延びて先祖に報いるという泥臭さこそを
本分にして来たものだから、美しさなど縁の遠いものだと思い込んで来た。
しかし、先祖代々伝わる殿中差しの小さ刀のほか、古今の名刀の美しさ
などにも触れて、案外美しいものなんて身近にあることに気づいた。
刀だけじゃない、刀の美しさと比較して美しいと思えるもの、
安易な外面ではなく、内面や内面からの美しさを持つものとなれば、
別にフランスやイタリアに行かずともそこら中に散見される。
合気道の開祖のように「万有愛護」とまでは行かずとも、
美しさ故に愛せるものは案外多い。武道や仏道の達者にまでなれなくとも、
そこから始められる庸徳の道もまたあるようである。
ワニさんもそこまで刀を深く考えた事はないが
婆13年介護し一昨年無事目の前で召して魅せた大好きだった婆まのあたりにして
是非日本刀一振り欲しいと思ってたワニよ、もし自分が老いたり
要介護なったりなにかあって生きていけなくなったとき、己の腹引き裂いても
惜しくはない程美しい刀があればワニが
婆13年介護し一昨年無事目の前で召して魅せた大好きだった婆まのあたりにして
是非日本刀一振り欲しいと思ってたワニよ、もし自分が老いたり
要介護なったりなにかあって生きていけなくなったとき、己の腹引き裂いても
惜しくはない程美しい刀があればワニが
な、結局リア充僻みなだけだろw
オタク気質な奴がインスタとかで楽しそうなの僻んでるだけでも惨めなのに
さらに刀がどうとか言い出して余計に自分を惨めにしてるだけw
刀が美しいのは良いとして、それをもってして人間の醜さを論う必要はねーだろうにw
つまり最初からリア充の批判をしたい事が目的ww
そして、得てしてこういう話のポイントは普段から自分のコンプレックスである部分を強調する心理が働くので、>>1は自分の見た目の醜さを普段から気にしてるって事がモロバレw
それを他人に転嫁して、さらに対比として刀を持ち出す事でカモフラージュするというチキンっぷりw
いくら読んでもスレ主の文章からは刀に対する愛情も感じられなければリスペクトも感じられない。
最初からリア充の連中への敵意だけはビシバシ感じるがww
オタク気質な奴がインスタとかで楽しそうなの僻んでるだけでも惨めなのに
さらに刀がどうとか言い出して余計に自分を惨めにしてるだけw
刀が美しいのは良いとして、それをもってして人間の醜さを論う必要はねーだろうにw
つまり最初からリア充の批判をしたい事が目的ww
そして、得てしてこういう話のポイントは普段から自分のコンプレックスである部分を強調する心理が働くので、>>1は自分の見た目の醜さを普段から気にしてるって事がモロバレw
それを他人に転嫁して、さらに対比として刀を持ち出す事でカモフラージュするというチキンっぷりw
いくら読んでもスレ主の文章からは刀に対する愛情も感じられなければリスペクトも感じられない。
最初からリア充の連中への敵意だけはビシバシ感じるがww
ワニさんのその、次世代に極力迷惑をかけまいとする志しは大変美しいものだと思うし、
その志しに見合った美しさの刀を手に入れてもらいたいなとも思うけど。
現代人はそんな美意識なんてろくに理解もできないし、
実際切腹を見ればキチ◯イ沙汰として鼻つまみ者扱いにするようなザマなので、
現状の世の中では美談として扱われることがないのは覚悟してほしいけども。
それでも構わないというのなら、お勧めするのは古刀大磨り上げの脇差かな。
普通の刀は長すぎるし、新刀以降の脇差はハンマー効果を狙って先端部分を
太めに作ってあるのが多いから、自分の腹に突き立てるのは難儀っぽいので、
切っ先が細くて軽めの脇差でいいものを探せば良いよ。
なるべくなら、その刀がワニさんの腹に突き立てられたりすることなく、
賢人の佩刀としてあらたな歴史的価値を帯びてくれることを願うけどね。
その志しに見合った美しさの刀を手に入れてもらいたいなとも思うけど。
現代人はそんな美意識なんてろくに理解もできないし、
実際切腹を見ればキチ◯イ沙汰として鼻つまみ者扱いにするようなザマなので、
現状の世の中では美談として扱われることがないのは覚悟してほしいけども。
それでも構わないというのなら、お勧めするのは古刀大磨り上げの脇差かな。
普通の刀は長すぎるし、新刀以降の脇差はハンマー効果を狙って先端部分を
太めに作ってあるのが多いから、自分の腹に突き立てるのは難儀っぽいので、
切っ先が細くて軽めの脇差でいいものを探せば良いよ。
なるべくなら、その刀がワニさんの腹に突き立てられたりすることなく、
賢人の佩刀としてあらたな歴史的価値を帯びてくれることを願うけどね。
男たるもの、軟弱なイケメンの美しさなどあっても恥ぐらいに思うべき
という考えから、美しさ全般を忌み避けるような考えにも陥りがちだけども。
(俺もそうだったように)
それでは単なるガサツ者になりかねないし、
かといって異性の美しさなどにたぶらかされるのもまた軟派に振れすぎる。
刀の美しさや、それに準ずるような機能美の美しさこそを愛でることで、
ガサツと軟派の両方を排した悠然たる大丈夫となる。
もちろん、男らしさとして尊ぶべき程度の武骨さは保ち続けるし、
結婚して子孫を拵えるため程度の異性関係は持つ。
野蛮人でもなければ軟弱な俗人でもなく、かといって坊さんでもない、
あらゆる面において一つ覚えの痴態を排し去った人の鑑となる。
という考えから、美しさ全般を忌み避けるような考えにも陥りがちだけども。
(俺もそうだったように)
それでは単なるガサツ者になりかねないし、
かといって異性の美しさなどにたぶらかされるのもまた軟派に振れすぎる。
刀の美しさや、それに準ずるような機能美の美しさこそを愛でることで、
ガサツと軟派の両方を排した悠然たる大丈夫となる。
もちろん、男らしさとして尊ぶべき程度の武骨さは保ち続けるし、
結婚して子孫を拵えるため程度の異性関係は持つ。
野蛮人でもなければ軟弱な俗人でもなく、かといって坊さんでもない、
あらゆる面において一つ覚えの痴態を排し去った人の鑑となる。
刀剣文化を発達させた日本人に限らず、東洋人は全体的にヒトという
生き物の外見上の美しさなどを、さほど重視して来なかったようである。
だから歴史上の偉人の肖像画や彫像も粗末なものが多いし、
服飾や髪型もあまり身体の線を強調しないようなものを重用して来ている。
人体の造形というものをあまり美化したがらなかったのは、
肉体を不浄なものと断じている仏教思想の影響などもあるだろうし、
貴人ほど身体の線を隠すような服装を好んで来ているのは、
「易経」繋辞伝における(おそらく孔子の)推奨にも基づいているものである。
美術文化そのものはそれと別に大変発達しており、
仏像彫刻などもギリシャ彫刻を上回るような技法で作られたものが多々見られるが、
それにしても仏様自体は、筋骨隆々でも何でもない微妙な容貌に彫られたものばかり。
仏菩薩よりも格が低いとされる明王や天部がいかめしい筋肉質で造形されることが多い
ことからも、それこそがより偉大な大悟の境地として確信的に形作られていることが確か。
生き物の外見上の美しさなどを、さほど重視して来なかったようである。
だから歴史上の偉人の肖像画や彫像も粗末なものが多いし、
服飾や髪型もあまり身体の線を強調しないようなものを重用して来ている。
人体の造形というものをあまり美化したがらなかったのは、
肉体を不浄なものと断じている仏教思想の影響などもあるだろうし、
貴人ほど身体の線を隠すような服装を好んで来ているのは、
「易経」繋辞伝における(おそらく孔子の)推奨にも基づいているものである。
美術文化そのものはそれと別に大変発達しており、
仏像彫刻などもギリシャ彫刻を上回るような技法で作られたものが多々見られるが、
それにしても仏様自体は、筋骨隆々でも何でもない微妙な容貌に彫られたものばかり。
仏菩薩よりも格が低いとされる明王や天部がいかめしい筋肉質で造形されることが多い
ことからも、それこそがより偉大な大悟の境地として確信的に形作られていることが確か。
そういった風潮が完全に人口に膾炙していたのは、日本なら江戸時代までで、
明治以降は肖像画を実物以上に美化して描いたりする西洋の風習が持ち込まれた。
右画の東郷平八郎などは本人も実際に美男子だったというし、古写真にも、
今の尺度でも美男美女と言えるような男女がそれなりにいたりするから、
美形を世界標準的な価値観で持て囃す傾向もそれなりにあったことが分かる。
しかし、人の美醜を普遍的な美醜と取り違えるようなことまではなく、
極端な言い方をすれば「性器の具合の良し悪し」ぐらいに低俗な要素止まりに
扱われていたものだから、そう大々的にあげつらわれることもなかったわけである。
そんな古き良き清浄文化も徐々に鳴りを潜め、敗戦後ともなれば、
そんな価値観が昔存在していたことまでもが完全に忘れ去られてしまった。
日本人が総出で色ボケに陥り始めたのもその頃からだし、あたかも日本人が
世界標準並みの美意識を持ち始めたように思い込まれている戦後こそは、
日本古来の美意識が完全に形骸化してしまった契機であるといえよう。
明治以降は肖像画を実物以上に美化して描いたりする西洋の風習が持ち込まれた。
右画の東郷平八郎などは本人も実際に美男子だったというし、古写真にも、
今の尺度でも美男美女と言えるような男女がそれなりにいたりするから、
美形を世界標準的な価値観で持て囃す傾向もそれなりにあったことが分かる。
しかし、人の美醜を普遍的な美醜と取り違えるようなことまではなく、
極端な言い方をすれば「性器の具合の良し悪し」ぐらいに低俗な要素止まりに
扱われていたものだから、そう大々的にあげつらわれることもなかったわけである。
そんな古き良き清浄文化も徐々に鳴りを潜め、敗戦後ともなれば、
そんな価値観が昔存在していたことまでもが完全に忘れ去られてしまった。
日本人が総出で色ボケに陥り始めたのもその頃からだし、あたかも日本人が
世界標準並みの美意識を持ち始めたように思い込まれている戦後こそは、
日本古来の美意識が完全に形骸化してしまった契機であるといえよう。
足の裏が世界最高峰の造形とまで言われているほど、
細部まで精緻の限りを尽くした作り込みでいて、
総合的にはやはり一般的な仏像の規格に落ち着いている。
ギリシャ彫刻の影響を受けた初期の仏像は露骨なほどに写実的だった一方、
そこから一旦無益な肉体美を排する抽象化の道を辿った上で、
またある程度の写実性に立ち返り始めていた時代の傑作。
東博などで歴史を追いながら見比べて来たが、
これ以前の仏像は背骨の湾曲を強調した女性的な体つきである一方、
だんだんと背筋のまっすぐな男性的な体つきになっていることもわかる。
安易な肉体美などとは全く別の次元で、ある種の美しさを仏像の人体造形も
表現しようとして来ているのであり、そこに見惚れるほどの感傷を
抱けるようなら、そこで悟りをも開けるようになっているようである。
細部まで精緻の限りを尽くした作り込みでいて、
総合的にはやはり一般的な仏像の規格に落ち着いている。
ギリシャ彫刻の影響を受けた初期の仏像は露骨なほどに写実的だった一方、
そこから一旦無益な肉体美を排する抽象化の道を辿った上で、
またある程度の写実性に立ち返り始めていた時代の傑作。
東博などで歴史を追いながら見比べて来たが、
これ以前の仏像は背骨の湾曲を強調した女性的な体つきである一方、
だんだんと背筋のまっすぐな男性的な体つきになっていることもわかる。
安易な肉体美などとは全く別の次元で、ある種の美しさを仏像の人体造形も
表現しようとして来ているのであり、そこに見惚れるほどの感傷を
抱けるようなら、そこで悟りをも開けるようになっているようである。
先祖代々の栄養不足による小柄化、胴長短足、
骨盤後傾でのヒョロガリ化、巻き肩によるコケシ体型化、…
肉体そのものをそこまで美化しようともして来なかった痕跡は、
現代の美男美女扱いな日本人に至るまで尾を引き続けているし、
中途半端な衣食住の西洋化によって身長ぐらいは伸びながら、
相応のタンパク質摂取が足りてないことによる筋肉量不足が、
昔の日本人にはなかったような身体の歪みや、そのせいでの
新疾患 (ロコモティブ症候群)を招くことともなってしまっている。
人口密度では欧州諸国の5倍以上、アメリカと比べれば10倍以上という
(だだっ広くて人がいないと言われてる北海道でも欧州並みだという)
国土のせまっ苦しさの中で、これ以上日本人が総出で恵体を志しても
邪魔にしかならないのだから、大谷や渡邊みたいな恵体を持て囃すよりも前に、
肉体美なんかを無闇に称賛することの低俗さのほうが見直されて然るべきだといえる。
骨盤後傾でのヒョロガリ化、巻き肩によるコケシ体型化、…
肉体そのものをそこまで美化しようともして来なかった痕跡は、
現代の美男美女扱いな日本人に至るまで尾を引き続けているし、
中途半端な衣食住の西洋化によって身長ぐらいは伸びながら、
相応のタンパク質摂取が足りてないことによる筋肉量不足が、
昔の日本人にはなかったような身体の歪みや、そのせいでの
新疾患 (ロコモティブ症候群)を招くことともなってしまっている。
人口密度では欧州諸国の5倍以上、アメリカと比べれば10倍以上という
(だだっ広くて人がいないと言われてる北海道でも欧州並みだという)
国土のせまっ苦しさの中で、これ以上日本人が総出で恵体を志しても
邪魔にしかならないのだから、大谷や渡邊みたいな恵体を持て囃すよりも前に、
肉体美なんかを無闇に称賛することの低俗さのほうが見直されて然るべきだといえる。
戦後における、日本人の西洋的耽美を推し進める
最大級の代表者となったのが他でもない、あの三島由紀夫である。
右翼の精神的支柱だとか、近代最後の文豪だとかのイメージが強いが、
それらと同時にどういうわけだか本人が好んでいたのが、西洋的な肉体美。
おそらくは西洋的美と東洋的美を混同しながらの唯美主義によって、
東洋文化からはかけ離れるような裸体美の追及にも及んでいたのである。
三島の愛国論や日本文化への賛美自体は見るべきものも多いのに、
このような悪趣味極まる肉体主義と抱き合わされたせいでクソミソに
それらのイメージも悪化し、保守が鼻摘まみ者扱いをされる原因ともなった。
本人が憂慮していたとおり、古来の日本人の精神性は年を重ねるごとに衰退
して行ったが、三島もまたその原因を作った一員であることには変わりない。
小柄で文弱だった三島が下手の横好きでひけらかしたボディビルなどの
肉体主義志向自体は、また別のところでろくな精神性を帯びたりすることも
ない形で興隆し、その点では本人の好みが部分的には受け入れられたともいえる。
東洋的美と西洋的美が到底相容れないことをその体現によって示し、
ほとんどの日本人に前者を棄てて後者を採ることを選択させた三島の業績は、
東洋的審美眼こそを尊ぶ立場からすれば、百害あって一利ないものであった。
最大級の代表者となったのが他でもない、あの三島由紀夫である。
右翼の精神的支柱だとか、近代最後の文豪だとかのイメージが強いが、
それらと同時にどういうわけだか本人が好んでいたのが、西洋的な肉体美。
おそらくは西洋的美と東洋的美を混同しながらの唯美主義によって、
東洋文化からはかけ離れるような裸体美の追及にも及んでいたのである。
三島の愛国論や日本文化への賛美自体は見るべきものも多いのに、
このような悪趣味極まる肉体主義と抱き合わされたせいでクソミソに
それらのイメージも悪化し、保守が鼻摘まみ者扱いをされる原因ともなった。
本人が憂慮していたとおり、古来の日本人の精神性は年を重ねるごとに衰退
して行ったが、三島もまたその原因を作った一員であることには変わりない。
小柄で文弱だった三島が下手の横好きでひけらかしたボディビルなどの
肉体主義志向自体は、また別のところでろくな精神性を帯びたりすることも
ない形で興隆し、その点では本人の好みが部分的には受け入れられたともいえる。
東洋的美と西洋的美が到底相容れないことをその体現によって示し、
ほとんどの日本人に前者を棄てて後者を採ることを選択させた三島の業績は、
東洋的審美眼こそを尊ぶ立場からすれば、百害あって一利ないものであった。
古来より、戦場にあえて裸体で繰り出す武者など居りはせん。
甲冑でも鎖帷子でも、刺子の着物一枚でもいいからなるべく羽織って、
主君や親に仕える身の程である我が命を極力守ろうとする。
本人としては、東洋的美と西洋的美の止揚を実現した
ベストショットの一つのつもりだったのだろうが、
実際にはただの一枚で両者の矛盾性を明示する戯画となっている。
本人も空手家で、合気道の達人である塩田剛三をボディガードにしていた
田中清玄氏のほか、本式の武道を知る人々の三島への評価もすこぶる低い。
この写真における刀の握りもデタラメだし、武道についてはかじった程度で
ろくに取り組んでいなかったのが、多少覚えがある程度の人間からも明らか。
そして何より、彼の美学に賛同できないという武道家が幾人もいる。
武の嗜みだけでなく、文学者としては本領であるはずの精神面における
美意識自体が稚拙で評価に値しないものだと、三島以上に命を危ぶむ経験を
何度も積み重ねていた武道家が話していたのを、俺も聞いている。
甲冑でも鎖帷子でも、刺子の着物一枚でもいいからなるべく羽織って、
主君や親に仕える身の程である我が命を極力守ろうとする。
本人としては、東洋的美と西洋的美の止揚を実現した
ベストショットの一つのつもりだったのだろうが、
実際にはただの一枚で両者の矛盾性を明示する戯画となっている。
本人も空手家で、合気道の達人である塩田剛三をボディガードにしていた
田中清玄氏のほか、本式の武道を知る人々の三島への評価もすこぶる低い。
この写真における刀の握りもデタラメだし、武道についてはかじった程度で
ろくに取り組んでいなかったのが、多少覚えがある程度の人間からも明らか。
そして何より、彼の美学に賛同できないという武道家が幾人もいる。
武の嗜みだけでなく、文学者としては本領であるはずの精神面における
美意識自体が稚拙で評価に値しないものだと、三島以上に命を危ぶむ経験を
何度も積み重ねていた武道家が話していたのを、俺も聞いている。
自衛官が堕落していたからでも、三島が生まれつきの貧体だからでもない。
一番根本的なところの美意識に致命的な欠陥があったからこそ、
ただ一人の賛同者も現場で得られることなく惨めに死んでいったのだ。
切腹の介錯を頼んだ男と事前に同衾までしていたという、悪趣味の極み。
生粋の同性愛者だからではなく、それが東西の美意識の止揚の完成形になると
見込んでの確信犯だったのだから、勘違いの醜態こそがそこで完成されたと言える。
男色は実際、昔の日本にもあったが、それも色事全般を不浄なものと戒める
仏教的価値観の流布があった上でのことである。むしろその不浄の戒めのほうが
本懐であったのにも関わらず、不浄の開き直りとしてごく一部に持て囃されていた
過度の好色のほうを本体と見たあたり、根本的に馬鹿だったのである。
帝大時代の東大を出て大蔵省に入ったという経歴から見て、単なる馬鹿ではない。
戦後における「天才バカボン」の走りであり、その愚かさに見合う末路だったといえる。
一番根本的なところの美意識に致命的な欠陥があったからこそ、
ただ一人の賛同者も現場で得られることなく惨めに死んでいったのだ。
切腹の介錯を頼んだ男と事前に同衾までしていたという、悪趣味の極み。
生粋の同性愛者だからではなく、それが東西の美意識の止揚の完成形になると
見込んでの確信犯だったのだから、勘違いの醜態こそがそこで完成されたと言える。
男色は実際、昔の日本にもあったが、それも色事全般を不浄なものと戒める
仏教的価値観の流布があった上でのことである。むしろその不浄の戒めのほうが
本懐であったのにも関わらず、不浄の開き直りとしてごく一部に持て囃されていた
過度の好色のほうを本体と見たあたり、根本的に馬鹿だったのである。
帝大時代の東大を出て大蔵省に入ったという経歴から見て、単なる馬鹿ではない。
戦後における「天才バカボン」の走りであり、その愚かさに見合う末路だったといえる。
閑話休題
男と女は所詮、内面的な敵対を避けられない生き物同士であり、
どちらかがもう一方に譲ることによってのみ結婚生活なども上手くいく。
現代の日本はフェミニズムとまで行かずとも、単なる人権主義だけでも
男尊女卑が固く禁じられている世の中なものだから、世の男女夫婦たちは皆、
女尊男卑を暗黙の了解とすることでなんとか関係を円滑化している状態にある。
知力であれ技術であれ体力であれ精神力であれ、
男が女に優位を示す根拠となる要素は無数にあるが、
女が男にマウントを取れる材料は極めて少ない。
出産能力は、生理のような生活上の不都合と引き換えのものである上に、
それ自体が決して美しくもなんともないグロテスク沙汰であるものだから、
男に対してマウントを取る材料にまではなりにくい。
男と女では、肉体美や顔面美を普遍的な美と受け止めやすいのが
どちらかといえば女であるものだから、これこそは最大級のマウント材料となる。
男と女は所詮、内面的な敵対を避けられない生き物同士であり、
どちらかがもう一方に譲ることによってのみ結婚生活なども上手くいく。
現代の日本はフェミニズムとまで行かずとも、単なる人権主義だけでも
男尊女卑が固く禁じられている世の中なものだから、世の男女夫婦たちは皆、
女尊男卑を暗黙の了解とすることでなんとか関係を円滑化している状態にある。
知力であれ技術であれ体力であれ精神力であれ、
男が女に優位を示す根拠となる要素は無数にあるが、
女が男にマウントを取れる材料は極めて少ない。
出産能力は、生理のような生活上の不都合と引き換えのものである上に、
それ自体が決して美しくもなんともないグロテスク沙汰であるものだから、
男に対してマウントを取る材料にまではなりにくい。
男と女では、肉体美や顔面美を普遍的な美と受け止めやすいのが
どちらかといえば女であるものだから、これこそは最大級のマウント材料となる。
さほど美人でもない場合が多い日本の女も、トップの女優やモデルの
美しさなどを見て「女とはそういう生き物なのだ」と思い込み、
男を下に見る偏見を養っては、男との付き合いに備える。
その心構えは死ぬ瞬間まで続き、自分のほうが家庭で夫より
優遇されるのも当然のことだと思い込み、夫の死後には何十年と長生きする。
実際に女が見惚れるほど美しいのなんて若い頃の一時だけだろうとて、
始めに犯した毛筋ほどの過ちが積もりに積もって千里となり、万里となる。
まず最原初の内から「人体の美しさなど普遍的な美の内にも入らぬ」
とよくわきまえさせて、女が男にマウントを取る余地など毛筋ほども残さぬ。
さすれば後から暴力などによって無理やり言うことを聞かせるまでもなく、
ほとんど全ての面で自分よりも優位にある男との正しい付き合い方を思い知るであろう。
美しさなどを見て「女とはそういう生き物なのだ」と思い込み、
男を下に見る偏見を養っては、男との付き合いに備える。
その心構えは死ぬ瞬間まで続き、自分のほうが家庭で夫より
優遇されるのも当然のことだと思い込み、夫の死後には何十年と長生きする。
実際に女が見惚れるほど美しいのなんて若い頃の一時だけだろうとて、
始めに犯した毛筋ほどの過ちが積もりに積もって千里となり、万里となる。
まず最原初の内から「人体の美しさなど普遍的な美の内にも入らぬ」
とよくわきまえさせて、女が男にマウントを取る余地など毛筋ほども残さぬ。
さすれば後から暴力などによって無理やり言うことを聞かせるまでもなく、
ほとんど全ての面で自分よりも優位にある男との正しい付き合い方を思い知るであろう。
昔の日本人が、家系図に女子の名前も載せないほどナチュラルな男尊女卑だったのも、
女が男よりも無能な上に、別段女を美の象徴だとも捉えていなかったからである。
出産みたいな惨めな能力と引き換えに、ほとんどの分野で男に劣る能力しか持たない
女という性別の、美しさにおける優位ぐらいは認めてやろうかとて、それもまた許さぬ。
それにより、女が完膚なきまでに男の下位互換扱いとなり、
有無をも言わすことなく男に付き従う身分に押し留められることとなる。
現代の女にとっては地獄にも等しい仕打ちのように映るかも知らんが、
ひるがえって現代の男が女と付き合う際には必ず受け入れさせられている仕打ちでもあり、
男の側がそれを拒む以上は、自分たちの側が甘受する以外に選択肢のない宿命である。
女が男よりも無能な上に、別段女を美の象徴だとも捉えていなかったからである。
出産みたいな惨めな能力と引き換えに、ほとんどの分野で男に劣る能力しか持たない
女という性別の、美しさにおける優位ぐらいは認めてやろうかとて、それもまた許さぬ。
それにより、女が完膚なきまでに男の下位互換扱いとなり、
有無をも言わすことなく男に付き従う身分に押し留められることとなる。
現代の女にとっては地獄にも等しい仕打ちのように映るかも知らんが、
ひるがえって現代の男が女と付き合う際には必ず受け入れさせられている仕打ちでもあり、
男の側がそれを拒む以上は、自分たちの側が甘受する以外に選択肢のない宿命である。
人体の美しさもまた一種の美しさとして認めた上で、
三島のように男の肉体美で女にマウントを取ろうとて、
そんな悪趣味に付き合える者はどこまでも少数派に止まる。
その証拠に、マッチョイズムの流行が著しいアメリカ大陸の性志向までもが見ての通り。
他国以上に女体だけへの執着が強いのは、一種の反作用とでも見るべきか。
女の美しさによるマウントを絶やす方法はただ一つ、
人体の美しさを普遍的な美しさなどとは見なさないことのみ。
その方法は、仏道帰依による色即是空の定立から、
より普遍的な日本刀の美しさへの傾倒など、いくつでもある。
仏門が形骸化している現代においては、後者のほうが手っ取り早いし、
在俗でも実践が可能である点からも、より常識化されて然るべきものである。
帯刀や所有まで行かずとも、認知が行き届くだけでも世の中が変わる。
三島のように男の肉体美で女にマウントを取ろうとて、
そんな悪趣味に付き合える者はどこまでも少数派に止まる。
その証拠に、マッチョイズムの流行が著しいアメリカ大陸の性志向までもが見ての通り。
他国以上に女体だけへの執着が強いのは、一種の反作用とでも見るべきか。
女の美しさによるマウントを絶やす方法はただ一つ、
人体の美しさを普遍的な美しさなどとは見なさないことのみ。
その方法は、仏道帰依による色即是空の定立から、
より普遍的な日本刀の美しさへの傾倒など、いくつでもある。
仏門が形骸化している現代においては、後者のほうが手っ取り早いし、
在俗でも実践が可能である点からも、より常識化されて然るべきものである。
帯刀や所有まで行かずとも、認知が行き届くだけでも世の中が変わる。
かつて女は男を魅了するため、愛する夫と歩いて恥をかかせないために着飾っていた。
今の女は自己満足のため、同性同士での馴れ合いやインスタ映えのために着飾る。
家事や仕事の邪魔になる上に、男からの評判もさほど良くないネイルアート等に凝るのも、
鏡越しでなければ見られない顔や全身と違って、自分自身が肉眼で見て楽しめる手先の装飾だから。
女がそのようであっても別に構わないとされているのも、
女の美しさこそは高尚な芸術の領域にも通ずるものと見なされているから。
女が美しいこと、それ自体に独立的な価値があるのだから、男の好むような
格好やメイクをあえて好むのは恥ずべき「媚び」だとして、同性嫌悪の対象となる。
女に眉と書いて「媚」と書くほど、女が男に媚びるのはごく常識的なこととされていたのが、
今や男が女の機嫌を伺うこと以上の恥とされる。それほどにも人体美への狂信が極まっているということ。
男の側としても、そのような狂信の支配下に置かれている以上はうまく苦言を呈することもできぬ。
そもそもそのような風潮を招いた張本人からして西洋の男なのだから、男の責任であるともいえる。
今の女は自己満足のため、同性同士での馴れ合いやインスタ映えのために着飾る。
家事や仕事の邪魔になる上に、男からの評判もさほど良くないネイルアート等に凝るのも、
鏡越しでなければ見られない顔や全身と違って、自分自身が肉眼で見て楽しめる手先の装飾だから。
女がそのようであっても別に構わないとされているのも、
女の美しさこそは高尚な芸術の領域にも通ずるものと見なされているから。
女が美しいこと、それ自体に独立的な価値があるのだから、男の好むような
格好やメイクをあえて好むのは恥ずべき「媚び」だとして、同性嫌悪の対象となる。
女に眉と書いて「媚」と書くほど、女が男に媚びるのはごく常識的なこととされていたのが、
今や男が女の機嫌を伺うこと以上の恥とされる。それほどにも人体美への狂信が極まっているということ。
男の側としても、そのような狂信の支配下に置かれている以上はうまく苦言を呈することもできぬ。
そもそもそのような風潮を招いた張本人からして西洋の男なのだから、男の責任であるともいえる。
いま、こうして女について積極的に論じ立ててみた所で、少しも浮ついた所がない。
俺自身、少しでも女が絡む話をする時には心が浮つくのを感じていたが、
「女の美しさなどは普遍的な美しさの内にも入らない」という、
このスレの趣旨に沿った文脈で話すのであれば、少しも浮つく所がない。
俺自身が愛欲から解脱したからでも、性欲が減退したからでもない。
今までにも意識的にまでは分断させて来なかった、普遍的な美意識と人体美の
倒錯こそが、そのような惑いを差し挟む元凶になっていたからである。
俺自身、少しでも女が絡む話をする時には心が浮つくのを感じていたが、
「女の美しさなどは普遍的な美しさの内にも入らない」という、
このスレの趣旨に沿った文脈で話すのであれば、少しも浮つく所がない。
俺自身が愛欲から解脱したからでも、性欲が減退したからでもない。
今までにも意識的にまでは分断させて来なかった、普遍的な美意識と人体美の
倒錯こそが、そのような惑いを差し挟む元凶になっていたからである。
どうして今まで気づかなかったのかといえば、俺については複数の名刀の
美しさに触れる機会を持ってこなかったからだが、誰しもがそのような
機会を持つだけで気付けるのかといえば、決してそこまでのことはない。
思うに、ズブの素人が初めて刀の美しさを目にした時に高確率で抱く感覚、
あの妖気にでもあてられたような感覚こそは、現代人としての自らの心中に居座る
稚拙な美意識がガラガラと音を立てて崩れ陥ちそうになっている感覚なのではなかろうか。
せいぜい、女体美あたりを最高の美だなどと思い込んでいられている
幼稚な美意識を、できることならより多くの人間に保っておいてもらいたいものだから、
「名刀には妖気がある」云々の風説によって極力、人々を刀から遠ざけようとしていまいか。
いやむしろ、それならいっそのこと、刀の美しさにあてられて目を覚ませよ!
と当然俺は思うが、婦女子諸君以上にそれが都合の悪い権力者も多かろうな。
美しさに触れる機会を持ってこなかったからだが、誰しもがそのような
機会を持つだけで気付けるのかといえば、決してそこまでのことはない。
思うに、ズブの素人が初めて刀の美しさを目にした時に高確率で抱く感覚、
あの妖気にでもあてられたような感覚こそは、現代人としての自らの心中に居座る
稚拙な美意識がガラガラと音を立てて崩れ陥ちそうになっている感覚なのではなかろうか。
せいぜい、女体美あたりを最高の美だなどと思い込んでいられている
幼稚な美意識を、できることならより多くの人間に保っておいてもらいたいものだから、
「名刀には妖気がある」云々の風説によって極力、人々を刀から遠ざけようとしていまいか。
いやむしろ、それならいっそのこと、刀の美しさにあてられて目を覚ませよ!
と当然俺は思うが、婦女子諸君以上にそれが都合の悪い権力者も多かろうな。
女の耽美症は、男ほどには色情と結び付かない一方で、
自分こそが美の本源であるという認識からの思い上がりや、
美的に思われない事物への執拗な見下しや嫌悪を招く。
それが人生の上でいつ如何なる場合においても通用するのならともかく、
現実にはそうも行かない。見た目に自分ほど美しくない男に抱かれて子を宿し、
腹を痛めて産んだその子の夜泣きに付き合い、おしめまで換えさせられる。
ちっとも思ってたように美しくはない、自分自身の女としての人生の現実に
打ちひしがれてノイローゼとなり、ひどい場合にはネグレクトや虐待にまで走る。
(そこまで行かずとも夫への当たり散らしや別居離婚沙汰ぐらいは当然の権利のように行われる)
女なんて、所詮は男の完全な下位互換に過ぎない、見た目が魅力的なのも
単なる生殖目的だという考えでいれば、そんな思い上がりが原因の苦悩に
駆られるはずもないのに、今となっては大多数の女が抱く苦悩にまでなっている。
自分こそが美の本源であるという認識からの思い上がりや、
美的に思われない事物への執拗な見下しや嫌悪を招く。
それが人生の上でいつ如何なる場合においても通用するのならともかく、
現実にはそうも行かない。見た目に自分ほど美しくない男に抱かれて子を宿し、
腹を痛めて産んだその子の夜泣きに付き合い、おしめまで換えさせられる。
ちっとも思ってたように美しくはない、自分自身の女としての人生の現実に
打ちひしがれてノイローゼとなり、ひどい場合にはネグレクトや虐待にまで走る。
(そこまで行かずとも夫への当たり散らしや別居離婚沙汰ぐらいは当然の権利のように行われる)
女なんて、所詮は男の完全な下位互換に過ぎない、見た目が魅力的なのも
単なる生殖目的だという考えでいれば、そんな思い上がりが原因の苦悩に
駆られるはずもないのに、今となっては大多数の女が抱く苦悩にまでなっている。
結婚・出産・育児という常道的な女の人生を歩まなくとも、
若い頃には美しかった女までもが加齢によっては美貌を損ない、
昔のようにチヤホヤされなくなったことを苦悩のタネとする。
それが安易なフェミニズムへの傾倒の他、諸々の妄言妄動を来たす原因ともなる。
全ては「女こそがあらゆる美の根本」という倒錯からの思い上がりを
元凶としているのであり、まさに始めの過ちの雪だるま式の肥大化に当たる。
女が着飾るのなんて遠い昔からの人類文化の伝統ではあるが、
ただ一つ、女性美なんかをあらゆる美の極致とまで思い込むような勘違いだけは
古来の多数派の常識などではなく、故に今の世の中よりも健全であった。
女が無知だったからではない。事実を正しく認識していたから健全だったのである。
若い頃には美しかった女までもが加齢によっては美貌を損ない、
昔のようにチヤホヤされなくなったことを苦悩のタネとする。
それが安易なフェミニズムへの傾倒の他、諸々の妄言妄動を来たす原因ともなる。
全ては「女こそがあらゆる美の根本」という倒錯からの思い上がりを
元凶としているのであり、まさに始めの過ちの雪だるま式の肥大化に当たる。
女が着飾るのなんて遠い昔からの人類文化の伝統ではあるが、
ただ一つ、女性美なんかをあらゆる美の極致とまで思い込むような勘違いだけは
古来の多数派の常識などではなく、故に今の世の中よりも健全であった。
女が無知だったからではない。事実を正しく認識していたから健全だったのである。
耽美症はその特性上、女が男にマウントを取る材料にしやすいものだから、
その都合の良さ故に女のほうが容易に罹患する。
仏教やイスラムへの帰依によって総出で男尊女卑を徹底している国でもない限りは、
人権意識の低い近世以前にも女が耽美症となることはよくあったようである。
(呂后や則天武后や西太后にかき回されていた頃の中国なども含め)
男の耽美症までもが恒常化するのは、たとえばキリスト教の聖母マリア信仰
などによってそれが文化的に強制された場合が主であり、男個人が自発的に
耽美症となったりするのは、発達障害などの癲狂を原因としている場合にほぼ限る。
(だから電通も頭がイカれるような広告で日本人の色ボケをけしかけ続けている)
老若男女総出で耽美症に罹患することは、女がいい気分でいられると同時に、
過度の情欲に駆られた男からの危害を終生恐れなければならない事態を招く。
実質キリスト教国な今の韓国を含め、宗教によってまで耽美症を全国民に強制
しているような国々の性犯罪率こそは極めて高く、その他の犯罪率も軒並み高い。
(国民の富裕度が高ければ、性犯罪以外の犯罪率は下がる傾向にあるようだが)
>>52に書いたようなノイローゼを女たち自身が患う原因にもなったりと、
耽美症による女の祭り上げは結局、女にとっても利害の両面が大きすぎる毒薬となる。
その都合の良さ故に女のほうが容易に罹患する。
仏教やイスラムへの帰依によって総出で男尊女卑を徹底している国でもない限りは、
人権意識の低い近世以前にも女が耽美症となることはよくあったようである。
(呂后や則天武后や西太后にかき回されていた頃の中国なども含め)
男の耽美症までもが恒常化するのは、たとえばキリスト教の聖母マリア信仰
などによってそれが文化的に強制された場合が主であり、男個人が自発的に
耽美症となったりするのは、発達障害などの癲狂を原因としている場合にほぼ限る。
(だから電通も頭がイカれるような広告で日本人の色ボケをけしかけ続けている)
老若男女総出で耽美症に罹患することは、女がいい気分でいられると同時に、
過度の情欲に駆られた男からの危害を終生恐れなければならない事態を招く。
実質キリスト教国な今の韓国を含め、宗教によってまで耽美症を全国民に強制
しているような国々の性犯罪率こそは極めて高く、その他の犯罪率も軒並み高い。
(国民の富裕度が高ければ、性犯罪以外の犯罪率は下がる傾向にあるようだが)
>>52に書いたようなノイローゼを女たち自身が患う原因にもなったりと、
耽美症による女の祭り上げは結局、女にとっても利害の両面が大きすぎる毒薬となる。
見た目もそう美しくない上に、女へのデリカシーやレディーファーストの精神まで
欠けているとされる日本の男の性犯罪率こそが、主要キリスト教国の10分の1以下で
あるのも、耽美症にまでかかっているような男の数が段違いに少ないからである。
耽美症などではないが故に、女を完全な男の下位互換と見られているからこそ、
いざ女と結婚しようものなら、責任を持って“弱者”を養ってやろうともする。
しかし日本も、女が耽美症にかかっている率は相当に上がってしまった。
女を下位の弱者として養ってやろうとする男と、自分のほうが上位の強者だと
思い込んでいる女、お互いのことを永遠に理解し合えないながらにも、男の側が
奴隷となる主従関係だけは成立し、結婚によって男は必ず地獄の余生を味わうこととなる。
自分たちのほうも耽美症のせいで家事ノイローゼや育児ノイローゼにかかってるから、
女の側も男への同情などは一切せず、逆に家事や育児まで仕事のある夫に押し付けようとする。
そのせいで男はあまりキツイ仕事ができなくなり、稼ぎが減って
共働きしなければやっていけなくなる悪循環をも招く。
欠けているとされる日本の男の性犯罪率こそが、主要キリスト教国の10分の1以下で
あるのも、耽美症にまでかかっているような男の数が段違いに少ないからである。
耽美症などではないが故に、女を完全な男の下位互換と見られているからこそ、
いざ女と結婚しようものなら、責任を持って“弱者”を養ってやろうともする。
しかし日本も、女が耽美症にかかっている率は相当に上がってしまった。
女を下位の弱者として養ってやろうとする男と、自分のほうが上位の強者だと
思い込んでいる女、お互いのことを永遠に理解し合えないながらにも、男の側が
奴隷となる主従関係だけは成立し、結婚によって男は必ず地獄の余生を味わうこととなる。
自分たちのほうも耽美症のせいで家事ノイローゼや育児ノイローゼにかかってるから、
女の側も男への同情などは一切せず、逆に家事や育児まで仕事のある夫に押し付けようとする。
そのせいで男はあまりキツイ仕事ができなくなり、稼ぎが減って
共働きしなければやっていけなくなる悪循環をも招く。
耽美症を耽美症と見定めない内から、
それによる世相の乱れを取り締まろうとした実例は多々見られる。
美女ばかりが優先的に火あぶりに処されていたという魔女狩りをはじめ、
キリスト教圏においても幾多の粛清が図られてはぶり返す歴史が重ねられている。
しかし、西洋はキリスト教以前の古代ギリシャ・ローマに至るまで
最高強度で文化文明を耽美症と合致させ続けて来た社会であるために、
耽美による汚濁の粛清=一概な文化破壊という様相を来してしまう。
一番直近では、共産主義革命あたりがその最たる実例であり、
近代の軟派文化の主たる提供者である資本主義の打倒を西洋的思考によって
実現しようとした結果、共産化した国における文化破壊が一大事業となった。
その共産主義の歴史的挫折によって、世の中はまた一概に文化的堕落を容認する
方向へと振り切れたが、そういった極端から極端への一つ覚えな転換自体が
完全な西洋ペースでの狂態であり、仏教文化や武家文化によって世相の腐敗を
適度に防いでいた、かつての東洋社会の足元にも及ばない愚妹であるという他ない。
それによる世相の乱れを取り締まろうとした実例は多々見られる。
美女ばかりが優先的に火あぶりに処されていたという魔女狩りをはじめ、
キリスト教圏においても幾多の粛清が図られてはぶり返す歴史が重ねられている。
しかし、西洋はキリスト教以前の古代ギリシャ・ローマに至るまで
最高強度で文化文明を耽美症と合致させ続けて来た社会であるために、
耽美による汚濁の粛清=一概な文化破壊という様相を来してしまう。
一番直近では、共産主義革命あたりがその最たる実例であり、
近代の軟派文化の主たる提供者である資本主義の打倒を西洋的思考によって
実現しようとした結果、共産化した国における文化破壊が一大事業となった。
その共産主義の歴史的挫折によって、世の中はまた一概に文化的堕落を容認する
方向へと振り切れたが、そういった極端から極端への一つ覚えな転換自体が
完全な西洋ペースでの狂態であり、仏教文化や武家文化によって世相の腐敗を
適度に防いでいた、かつての東洋社会の足元にも及ばない愚妹であるという他ない。
仏教文化も武家文化も、決して文化破壊によって耽美症を防ぐのではない。
安易な人体美などよりも高尚な抽象美や機能美を寺社仏像刀剣などによって示し、
それを至高のものとして崇めたてることによって、情欲と美意識の倒錯を防ぎ止める。
仏道や武道の修行も奨励はするが、義務とまでするのは正式な身分を持つ僧侶や武士のみ。
天下万民にあまねく府令して実質的に強制していたのは、上記のような情操のほうである。
出家や帯刀が近代化の邪魔になるといっても、明治以降の軍人も帯刀して頭を丸めて
修行並みに厳しい訓練に明け暮れることがままあったのだし、本当に西洋的な近代化と
根本的に相容れなかったのも、耽美症を徹底排除する仏門や武家の気風のほうである。
それこそ、坊主や侍たち自身に限らず、万人が了解して尊重しているのでもなければ、
自分たちのほうの存在意義が根本から失われ去ってしまう志操だったのだし。
安易な人体美などよりも高尚な抽象美や機能美を寺社仏像刀剣などによって示し、
それを至高のものとして崇めたてることによって、情欲と美意識の倒錯を防ぎ止める。
仏道や武道の修行も奨励はするが、義務とまでするのは正式な身分を持つ僧侶や武士のみ。
天下万民にあまねく府令して実質的に強制していたのは、上記のような情操のほうである。
出家や帯刀が近代化の邪魔になるといっても、明治以降の軍人も帯刀して頭を丸めて
修行並みに厳しい訓練に明け暮れることがままあったのだし、本当に西洋的な近代化と
根本的に相容れなかったのも、耽美症を徹底排除する仏門や武家の気風のほうである。
それこそ、坊主や侍たち自身に限らず、万人が了解して尊重しているのでもなければ、
自分たちのほうの存在意義が根本から失われ去ってしまう志操だったのだし。
命知らずな上に、軍刀や情婦の陰毛をお守りにしていたという帝国軍人のあり方も、
表面的には武士や修行僧のあり方と似てなくもないが、ことに耽美症を排する
美意識の高さが全く欠けている点では、近縁の内にすら入らないものである。
官給のスプリング刀は文化的価値のカケラもないような代物だし、
陰毛に至っては言わずもがな。精鍛なる日本刀や精緻なる仏像こそが持ち得る
邪念を取り払う効果などは、少ないどころか微塵もありはしないことが確か。
武士や仏僧こそが持ち得ていた美意識の高さを毛ほどにも持ち合わせていない
連中が命知らずでもあるのだから、獣のような野蛮さまでをも帯びてしまった。
その野蛮さまでもが、軍人たち自身が信奉していた武士道に基づいていたなどと
勘違いされ、今の日本人までもが武士道を野蛮なものだとよく思い込んでいる始末。
透徹した美意識に欠けていたが故に野蛮だったという点では、
帝国軍人も武士よりかは体育会系の現代人あたりに近い。
前者は己れの命を顧みず、後者は仕事上の部下や下請けといった他人の命を
顧みないでいるのだから、どちらのほうがより凶悪に野蛮であるのかも知れたものである。
表面的には武士や修行僧のあり方と似てなくもないが、ことに耽美症を排する
美意識の高さが全く欠けている点では、近縁の内にすら入らないものである。
官給のスプリング刀は文化的価値のカケラもないような代物だし、
陰毛に至っては言わずもがな。精鍛なる日本刀や精緻なる仏像こそが持ち得る
邪念を取り払う効果などは、少ないどころか微塵もありはしないことが確か。
武士や仏僧こそが持ち得ていた美意識の高さを毛ほどにも持ち合わせていない
連中が命知らずでもあるのだから、獣のような野蛮さまでをも帯びてしまった。
その野蛮さまでもが、軍人たち自身が信奉していた武士道に基づいていたなどと
勘違いされ、今の日本人までもが武士道を野蛮なものだとよく思い込んでいる始末。
透徹した美意識に欠けていたが故に野蛮だったという点では、
帝国軍人も武士よりかは体育会系の現代人あたりに近い。
前者は己れの命を顧みず、後者は仕事上の部下や下請けといった他人の命を
顧みないでいるのだから、どちらのほうがより凶悪に野蛮であるのかも知れたものである。
刀の美しさは、殊更に男性的というわけでもなければ、女性的というわけでもない。
刀身自体、細身で優美なものもあれば、太身で豪壮なものもある。
刀装も龍や明王をあしらったいかにも男らしいものから、
花や小動物をあしらった、現代では少女趣味にも見紛いそうなものまである。
ただ、一部の同田貫や美濃刀のように実用第一で美観を蔑ろにしたりするのではなく、
あくまでその美しさをも大事にするというのであれば、刀の美しさは
野蛮なほどに過剰な男性性と、軟弱に過ぎるような女性性の
いずれをも良しとしない、人としての中庸さに与するものとなる。
男性性も女性性も過剰であれば色欲に結びつき、色欲が過剰ならばその邪念から
>>60に書いたような理由で心が騒ぎ、刀と共に無難などではいられなくなる。
如来や菩薩の仏像も殊更に性的な特徴を強調したりしない造形で彫られるように、
普遍性を象徴せんとする美は自ずと過剰な性から遠ざかる。そこから完全に
色欲を捨て去った出家者となるのか、俗世での家系ぐらいは守り続ける君子となるのかは
本人の立場にもよる所だが、天下万人誰しもにとっての浄心の指標となるのには違いない。
刀身自体、細身で優美なものもあれば、太身で豪壮なものもある。
刀装も龍や明王をあしらったいかにも男らしいものから、
花や小動物をあしらった、現代では少女趣味にも見紛いそうなものまである。
ただ、一部の同田貫や美濃刀のように実用第一で美観を蔑ろにしたりするのではなく、
あくまでその美しさをも大事にするというのであれば、刀の美しさは
野蛮なほどに過剰な男性性と、軟弱に過ぎるような女性性の
いずれをも良しとしない、人としての中庸さに与するものとなる。
男性性も女性性も過剰であれば色欲に結びつき、色欲が過剰ならばその邪念から
>>60に書いたような理由で心が騒ぎ、刀と共に無難などではいられなくなる。
如来や菩薩の仏像も殊更に性的な特徴を強調したりしない造形で彫られるように、
普遍性を象徴せんとする美は自ずと過剰な性から遠ざかる。そこから完全に
色欲を捨て去った出家者となるのか、俗世での家系ぐらいは守り続ける君子となるのかは
本人の立場にもよる所だが、天下万人誰しもにとっての浄心の指標となるのには違いない。
あの、野蛮と妖艶を極める物騒大国のロシアでも、
刀を贈答品にするのは好まれていない。
日本では江戸時代まで、刀を贈り合うのが頻繁化し過ぎていたために、
徳川吉宗が倹約のため高価すぎる刀を贈刀にするのを法度で禁止したほどだが、
これは単なる験担ぎなどには止まらない、実相からの文化的相違があってのこと。
刀身を銃弾などと同じ消耗品として捉えている欧米社会では基本、
刃物の美しさを愛でるような慣習がなかったし(刀装具の美しさを愛でることはある)、
武器に強さと美しさの止揚を求めたりすること自体が前代未聞のことだったから。
武器の美しさなどを仮に追求してみたところで、
強さ一辺倒の野蛮な男にも、性的な美しさ一辺倒の妖艶な女にも
取り立てて好まれることがないから、そもそもの需要が始めからありもしない。
まず、性的な美しさに溺れる色情を忌む貞操観念が世を挙げて重んじられた上で、
それを武具の美しさのような方便によって守ろうとする工夫が加味されたことにより
日本刀のような美麗を極める刀が産まれ、それが贈答品としても好まれるに至った。
どちらかといえば、ロシアよりも日本のほうが世界的に稀有な事例だが、
この世に日本刀が実在している以上は、日本の側が遠慮する必要などはないことである。
(日本ほど高品質な刀を鍛えてきた歴史のない朝鮮がどうであるかは知らないが)
刀を贈答品にするのは好まれていない。
日本では江戸時代まで、刀を贈り合うのが頻繁化し過ぎていたために、
徳川吉宗が倹約のため高価すぎる刀を贈刀にするのを法度で禁止したほどだが、
これは単なる験担ぎなどには止まらない、実相からの文化的相違があってのこと。
刀身を銃弾などと同じ消耗品として捉えている欧米社会では基本、
刃物の美しさを愛でるような慣習がなかったし(刀装具の美しさを愛でることはある)、
武器に強さと美しさの止揚を求めたりすること自体が前代未聞のことだったから。
武器の美しさなどを仮に追求してみたところで、
強さ一辺倒の野蛮な男にも、性的な美しさ一辺倒の妖艶な女にも
取り立てて好まれることがないから、そもそもの需要が始めからありもしない。
まず、性的な美しさに溺れる色情を忌む貞操観念が世を挙げて重んじられた上で、
それを武具の美しさのような方便によって守ろうとする工夫が加味されたことにより
日本刀のような美麗を極める刀が産まれ、それが贈答品としても好まれるに至った。
どちらかといえば、ロシアよりも日本のほうが世界的に稀有な事例だが、
この世に日本刀が実在している以上は、日本の側が遠慮する必要などはないことである。
(日本ほど高品質な刀を鍛えてきた歴史のない朝鮮がどうであるかは知らないが)
「刀の美しさは、野蛮すぎる男性性と軟弱すぎる女性性に与しない」
と>>61には描いたが、このうちの「軟弱すぎる女性性」のうちには、
女ならではの心の弱さを原因としたヒステリーをも含む。
野蛮すぎる男とヒステリーに駆られた女、両者の間に
刀なんかを置いたら一体どうなるか、だいたい知れたもの。
ドストエフスキー文学の時代からそんな男女が持て囃されていた
ロシアなんかで刃物が縁起のいい贈り物になるはずがないし、またそこまで
女がヒステリーを表向きにさらけ出していない他の外国でも事態はそう変わらない。
中国であれ朝鮮であれアメリカであれイギリスであれフランスであれ、
日本よりも気の強い女が多い国は枚挙にいとまがないが、
なぜ日本よりも男らしい男が多いとされている国ですらそんななのか。
必要なのは殊更に強い男でも、表向きの態度をよく取り繕う女でもなく、
両者の本音の不埒さをもくじき倒すだけの美しさを持つ刀である。
そうと知れたからには、もう不毛な男女のせめぎ合いは金輪際、全世界で終わりなのである。
と>>61には描いたが、このうちの「軟弱すぎる女性性」のうちには、
女ならではの心の弱さを原因としたヒステリーをも含む。
野蛮すぎる男とヒステリーに駆られた女、両者の間に
刀なんかを置いたら一体どうなるか、だいたい知れたもの。
ドストエフスキー文学の時代からそんな男女が持て囃されていた
ロシアなんかで刃物が縁起のいい贈り物になるはずがないし、またそこまで
女がヒステリーを表向きにさらけ出していない他の外国でも事態はそう変わらない。
中国であれ朝鮮であれアメリカであれイギリスであれフランスであれ、
日本よりも気の強い女が多い国は枚挙にいとまがないが、
なぜ日本よりも男らしい男が多いとされている国ですらそんななのか。
必要なのは殊更に強い男でも、表向きの態度をよく取り繕う女でもなく、
両者の本音の不埒さをもくじき倒すだけの美しさを持つ刀である。
そうと知れたからには、もう不毛な男女のせめぎ合いは金輪際、全世界で終わりなのである。
誰かを傷つけるつもりはないのだけれども、率直に気になる点が4つ。
・無職ゆえ周りの人から敬ってもらえず、肩身が狭くて寂しいのかな?
・本当は楽しく心を通わせたいのに、一方的に自分の話ばかりしちゃうせいで、孤立してるのかな?(自制心のブレーキが効かないほど、寂しさが暴走してるのかな?)
・淋しさに対処できないウサギさんが、愛欲を克服できるのかな?
・愛されたくても愛されたいと言えず、ブクブクと太ったプライドのせいで、ルサンチマンのお化けになっているのかな?
「武士は食わねど高楊枝」とは、普通「やせ我慢」の意味で使われる言葉だが、
宮本武蔵や新井白石ほどにもある種の能力に秀でた浪人だったなら、
逆境などものともしないほどの自信に満ち溢れていたこともあっただろう。
浪人差しは普通一本のみだが、百姓町人と違って長いのを差せたのも誇りの根拠の一つ。
ただ、刀の美しさに相応な内面からの才覚があればこそ真の誇りたり得た一方、
中身カラッポの歩く刀掛け状態の故に、プライドもハリボテということもあったろう。
事実、貧しさに負けて悪行を働くような浪人が
少なからずいたことからも、ろくでもない連中もまたいたことが確かだが。
全員が全員そんなだったとも、それこそが浪人の素性だなどと決めつけるのもおかしい。
いざ登用してみて使い物になった者がいたとすれば、
それは貧しさの中にも真の誇りを克ち得ていたぐらいの傑物であったろうし。
宮本武蔵や新井白石ほどにもある種の能力に秀でた浪人だったなら、
逆境などものともしないほどの自信に満ち溢れていたこともあっただろう。
浪人差しは普通一本のみだが、百姓町人と違って長いのを差せたのも誇りの根拠の一つ。
ただ、刀の美しさに相応な内面からの才覚があればこそ真の誇りたり得た一方、
中身カラッポの歩く刀掛け状態の故に、プライドもハリボテということもあったろう。
事実、貧しさに負けて悪行を働くような浪人が
少なからずいたことからも、ろくでもない連中もまたいたことが確かだが。
全員が全員そんなだったとも、それこそが浪人の素性だなどと決めつけるのもおかしい。
いざ登用してみて使い物になった者がいたとすれば、
それは貧しさの中にも真の誇りを克ち得ていたぐらいの傑物であったろうし。
昔の刀の内でも、戦国期以前の古刀には製法が失伝していて再現不能なものが多いし、
江戸期の新刀や新々刀にも、今より頻繁に作刀されていたために高CPなものが多い。
文明は一方的に進化し続けるものだとか、
金をかけさえすればいいものが作れるとかいった西洋的、
資本主義的な価値観を、その実在によって否定するものが日本刀でもある。
現代医療では治療が不能な難病を、古流の武道やヨガの援用によって治したり、
そのために極力世の不浄を遠ざけて来たりしている俺にとっても、刀は仲間である。
孟子のいう「世の中を掌の上で転がす」感覚を
確かな根拠と共に抱く者が、自己体現の象徴とするに相応しい道具である。
あまりにも世の中のほうが矮小なら、いかなる世の中での仕事にも勝ることも。
江戸期の新刀や新々刀にも、今より頻繁に作刀されていたために高CPなものが多い。
文明は一方的に進化し続けるものだとか、
金をかけさえすればいいものが作れるとかいった西洋的、
資本主義的な価値観を、その実在によって否定するものが日本刀でもある。
現代医療では治療が不能な難病を、古流の武道やヨガの援用によって治したり、
そのために極力世の不浄を遠ざけて来たりしている俺にとっても、刀は仲間である。
孟子のいう「世の中を掌の上で転がす」感覚を
確かな根拠と共に抱く者が、自己体現の象徴とするに相応しい道具である。
あまりにも世の中のほうが矮小なら、いかなる世の中での仕事にも勝ることも。
そりゃあ凄い、同じ様に肩やら腰やら壊した土方連中に広めてやってくれ。
(震え声)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/t65198288...
ワニさんまだ見てたら、こんなのはどうだろうね?
お遍路や霊峰登山用の杖と一緒に立てかけとけば違和感ナシ。
子供がイタズラするような危険がある場所は駄目だがね。
家族がいるのなら、刀は自分の居場所を確保する口実にもなる。
ワニさんまだ見てたら、こんなのはどうだろうね?
お遍路や霊峰登山用の杖と一緒に立てかけとけば違和感ナシ。
子供がイタズラするような危険がある場所は駄目だがね。
家族がいるのなら、刀は自分の居場所を確保する口実にもなる。
童貞無職が恥ずかしくて、
高級取りと人気者が恨めしいばかりに、
「俺のテクニックは100億円」と
妄想してるのか?
そんな空疎な自己宣伝をして、虚しくならないのか?
それとも既にある虚しさに耐え切れなくて、誰かに構ってほしいだけか?
高級取りと人気者が恨めしいばかりに、
「俺のテクニックは100億円」と
妄想してるのか?
そんな空疎な自己宣伝をして、虚しくならないのか?
それとも既にある虚しさに耐え切れなくて、誰かに構ってほしいだけか?
もし自分の腕を本気で信じているなら、
肩の悩みを抱えている人を実際に治して
感謝されてみろ!その方が、こんなトコ
でくだらない承認欲求を満たすよりも
遥かに有意義だ。
恥をかきたくなければ、偉そうにさえ
しなければいいだけの話。
肩の悩みを抱えている人を実際に治して
感謝されてみろ!その方が、こんなトコ
でくだらない承認欲求を満たすよりも
遥かに有意義だ。
恥をかきたくなければ、偉そうにさえ
しなければいいだけの話。
凄いねぇ!でもアウトプット出来るのはヨガだけ?
世に出るとか新政府がとかギャーギャー言ってたけどここ数年でどんな変化あった?
世に出るとか新政府がとかギャーギャー言ってたけどここ数年でどんな変化あった?
いいねえ!妄想が広がってきてて何よりだ
残念なのは以前ほど皆が相手してくれない事
残念なのは以前ほど皆が相手してくれない事
さも鬼の首を獲ったかのように、誇らしげに自慢しているが、難病を治すなんて事はそんなに珍しいことでもない。
治らない病気というのは、ただ単に「病院の治療では治しにくい病気」という意味だったりするし、俺も完治とは行かないまでも、医者に丸投げしないようにして、難病をほぼ全快くらいの所まで治した事くらいはある。
例えば過敏性大腸炎というよく聞く病気ですら、病院の治療で治る確率は50%しかなく、西洋医薬よりも漢方薬が効いたりするわけだが、医学が純粋な科学とは違うのだという事を理解していないと、「病気を治した俺は、医者より凄い」という勘違いをしてしまったりする。
ちなみにアレフを脱会した元信者も、難治性の病気(アトピー)を信仰で治したと証言しているし、持病の快癒をきっかけにのめり込んだオウムの元幹部もいた事から分かるように、病気からの回復は素晴らしい事であっても、そういうのを殊更有り難がっててもどうしようもない。
https://tocana.jp/2018/03/post_16227_entry_3.htm...
治らない病気というのは、ただ単に「病院の治療では治しにくい病気」という意味だったりするし、俺も完治とは行かないまでも、医者に丸投げしないようにして、難病をほぼ全快くらいの所まで治した事くらいはある。
例えば過敏性大腸炎というよく聞く病気ですら、病院の治療で治る確率は50%しかなく、西洋医薬よりも漢方薬が効いたりするわけだが、医学が純粋な科学とは違うのだという事を理解していないと、「病気を治した俺は、医者より凄い」という勘違いをしてしまったりする。
ちなみにアレフを脱会した元信者も、難治性の病気(アトピー)を信仰で治したと証言しているし、持病の快癒をきっかけにのめり込んだオウムの元幹部もいた事から分かるように、病気からの回復は素晴らしい事であっても、そういうのを殊更有り難がっててもどうしようもない。
https://tocana.jp/2018/03/post_16227_entry_3.htm...
「医学が純然たる科学とは言い難い」というのは俺も認めるところだ。
極めていびつで狭い範囲だけを執拗に取り扱っている博物学の一種であり、
数理物理学の理論的な整然さや万物に至るまでの征服性とは対照的なものともいえるが。
それでも、今まさに人々が苦しめられている病を、確立された手法によって確実に
治してかかり命を救うその信頼度の高さ故に、医者こそが最たる尊敬の的ともなっている。
理論的にいびつであっても、治療の原理がよく解明されていて、神秘性などに
頼っている点がないのがかえって民間療法などよりも信頼の置かれている点でもある。
そういった面で、俺が編み出した治療法こそは、むしろ現代医療をも上回っている。
右肩関節の緩みを右股関節に落とし、さらに左股関節や左肩へも分配して引き締める。
伸筋と屈筋、上腕二頭筋と三頭筋、内転筋と外転筋、腓腹筋内側頭と外側頭などの
独立的な調整によってそれを可能とすると共に、それらの不整合による副作用も防ぐ。
そのために活用する技法もまた、全て力学的な根拠を持ち合わせていて神秘性などはない。
(過敏性腸炎も腹直筋と腹斜筋の不整合等を原因としている場合にはこれで治療が可能)
治療の原理が厳密に判明している度合いでも、治療不能とされている病を治せる度合いでも
俺の療法>現代医学療法>その他の民間療法>カルト療法であり、
そもそも現代医学をより高度に理論化させて行く可能性を秘めているのでもある。
極めていびつで狭い範囲だけを執拗に取り扱っている博物学の一種であり、
数理物理学の理論的な整然さや万物に至るまでの征服性とは対照的なものともいえるが。
それでも、今まさに人々が苦しめられている病を、確立された手法によって確実に
治してかかり命を救うその信頼度の高さ故に、医者こそが最たる尊敬の的ともなっている。
理論的にいびつであっても、治療の原理がよく解明されていて、神秘性などに
頼っている点がないのがかえって民間療法などよりも信頼の置かれている点でもある。
そういった面で、俺が編み出した治療法こそは、むしろ現代医療をも上回っている。
右肩関節の緩みを右股関節に落とし、さらに左股関節や左肩へも分配して引き締める。
伸筋と屈筋、上腕二頭筋と三頭筋、内転筋と外転筋、腓腹筋内側頭と外側頭などの
独立的な調整によってそれを可能とすると共に、それらの不整合による副作用も防ぐ。
そのために活用する技法もまた、全て力学的な根拠を持ち合わせていて神秘性などはない。
(過敏性腸炎も腹直筋と腹斜筋の不整合等を原因としている場合にはこれで治療が可能)
治療の原理が厳密に判明している度合いでも、治療不能とされている病を治せる度合いでも
俺の療法>現代医学療法>その他の民間療法>カルト療法であり、
そもそも現代医学をより高度に理論化させて行く可能性を秘めているのでもある。
スレ違いではあるが、なかなか信じ難いことでもあるだろうから、
これ以上のこの手の話がしたかったら以下のスレに移動してくれ。
http://bbs33.meiwasuisan.com/health/1559975762...
これ以上のこの手の話がしたかったら以下のスレに移動してくれ。
http://bbs33.meiwasuisan.com/health/1559975762...
刀の美しさこそを真の美しさとみなす価値観からすれば、
森羅万象のうちの大半は美しいものだと認められるし、
そうでないもののうちの大半もまた美しいものであり得ると認められる。
薄毛のサルに過ぎないヒトの外見の美しさなどに囚われれば、
それとは価値観がひっくり返ったせいで、美しさへの選り好みが
過剰で神経質になり過ぎたあまり潔癖症となったり、他人や他物を
傷付けることに良心の呵責も抱かないサイコパスになってしまったりする。
いずれの価値観に定住するのかを、必ずしも日本刀美への造詣の有無に
頼る必要があるわけではないが、そういった価値観の相反自体は遍在している。
残念ながら、ホモサピエンスの容貌の美しさごときに囚われている
人間が多すぎるが故に、今や地球全土にまで広がっている人類社会が
全体的に荒廃の様相を来しているのが現状である。
美しさの遍在を認めるか、偏在にこだわる余り遍在を損ねるかは、
無軌道な美意識の肥大ではなく、美意識の洗練によってのみ裁き売ることである。
森羅万象のうちの大半は美しいものだと認められるし、
そうでないもののうちの大半もまた美しいものであり得ると認められる。
薄毛のサルに過ぎないヒトの外見の美しさなどに囚われれば、
それとは価値観がひっくり返ったせいで、美しさへの選り好みが
過剰で神経質になり過ぎたあまり潔癖症となったり、他人や他物を
傷付けることに良心の呵責も抱かないサイコパスになってしまったりする。
いずれの価値観に定住するのかを、必ずしも日本刀美への造詣の有無に
頼る必要があるわけではないが、そういった価値観の相反自体は遍在している。
残念ながら、ホモサピエンスの容貌の美しさごときに囚われている
人間が多すぎるが故に、今や地球全土にまで広がっている人類社会が
全体的に荒廃の様相を来しているのが現状である。
美しさの遍在を認めるか、偏在にこだわる余り遍在を損ねるかは、
無軌道な美意識の肥大ではなく、美意識の洗練によってのみ裁き売ることである。
道端の名も無き仏身も国宝級の其れも仏前では等し
[YouTubeで再生]
人体の美醜こそをあらゆる美醜の根本と捉えている欧米人が、
いざ自然を守ろうなどと考えると、これまた人間中心の独善的なものとなり、
牛や豚を食べながらクジラやイルカの命だけは守ろうとするような矛盾に陥る。
欧米人と比べて見た目が美麗とは言い難い人間が多い日本人への
バッシングばかりを強めているのもまた、同様の理由による。
世界を見れば、随一の美男美女産出国と言われているウクライナやアフガニスタンこそが
ずっと血みどろの紛争が冷めやらぬこの世の地獄でもいる。敵対国同士の緩衝地帯だから
混血が進んで美男美女が生まれやすい一方で、争いも多い。それがこの世の実相である。
道端の、もはや侵食で人間の形をほとんど成してもいないようなお地蔵さんにも
手を合わせられる心がけこそが、石が侵食されて様変わりするほどの長期にわたる平和の
原動力ともなる。これもまた肉体の仮初めな美しさへの固執などとは相反する実相である。
何百年にもわたって変わらない美しさを保ち続ける刀剣への愛好によって、
仮初めの美への妄執を断ち切るのは、その中間ぐらいの心がけであろうか。
煩悩と悟りの橋渡しを用意するやり方自体もまた、極めて大乗的なものだが。
人体の美醜こそをあらゆる美醜の根本と捉えている欧米人が、
いざ自然を守ろうなどと考えると、これまた人間中心の独善的なものとなり、
牛や豚を食べながらクジラやイルカの命だけは守ろうとするような矛盾に陥る。
欧米人と比べて見た目が美麗とは言い難い人間が多い日本人への
バッシングばかりを強めているのもまた、同様の理由による。
世界を見れば、随一の美男美女産出国と言われているウクライナやアフガニスタンこそが
ずっと血みどろの紛争が冷めやらぬこの世の地獄でもいる。敵対国同士の緩衝地帯だから
混血が進んで美男美女が生まれやすい一方で、争いも多い。それがこの世の実相である。
道端の、もはや侵食で人間の形をほとんど成してもいないようなお地蔵さんにも
手を合わせられる心がけこそが、石が侵食されて様変わりするほどの長期にわたる平和の
原動力ともなる。これもまた肉体の仮初めな美しさへの固執などとは相反する実相である。
何百年にもわたって変わらない美しさを保ち続ける刀剣への愛好によって、
仮初めの美への妄執を断ち切るのは、その中間ぐらいの心がけであろうか。
煩悩と悟りの橋渡しを用意するやり方自体もまた、極めて大乗的なものだが。
人の醜さに執着している人間の醜さによ。
http://namekkutake.livedoor.blog/archives/17401827.htm...
肉体も顔貌も、醜いよりは美しいほうがいいとも思えようが、
人体の美しさほど機能美から程遠い美しさも他になく、
美しさそのものを競い合う以外のほとんどの分野で足かせとなる。
背の低さや脚の短さ故の重心の低さが時に有利に働き、
脂肪の多さがスタミナや防御力の糧ともなる。
柔軟性を引き換えにした筋肉の付けすぎが運動能力の低下を招き、
自律神経の失調による一層の心神の耗弱をも来たしてしまう。
それでもなお、見た目の美しさと実力の両立ができるのなら、
それに越したことはないのではないかという僅かな希望が残ろうが、
世界最高・最強・最先端を競い合う領域ではそうとばかりも言って居られぬ。
故に、実力よりも巧言令色ばかりが企業人事から偏重され始めてからの日本も弱体化した。
大して国民の見た目が美しくなったわけでもないのに、社会情勢の不安定さだけは
ウクライナやアフガニスタンに一歩も二歩も近づいた。
少なからず性欲のある俗人の立場から言わしてもらえば、
人体の美しさもまたやはり、ないよりはあったほうがいいいと思う。
しかし、それ以外の人としてのいかなる実力にも優先する価値などはないとも思う。
もちろん、世のため人のためを心がける徳性よりも。あくまで先後の問題としては。
肉体も顔貌も、醜いよりは美しいほうがいいとも思えようが、
人体の美しさほど機能美から程遠い美しさも他になく、
美しさそのものを競い合う以外のほとんどの分野で足かせとなる。
背の低さや脚の短さ故の重心の低さが時に有利に働き、
脂肪の多さがスタミナや防御力の糧ともなる。
柔軟性を引き換えにした筋肉の付けすぎが運動能力の低下を招き、
自律神経の失調による一層の心神の耗弱をも来たしてしまう。
それでもなお、見た目の美しさと実力の両立ができるのなら、
それに越したことはないのではないかという僅かな希望が残ろうが、
世界最高・最強・最先端を競い合う領域ではそうとばかりも言って居られぬ。
故に、実力よりも巧言令色ばかりが企業人事から偏重され始めてからの日本も弱体化した。
大して国民の見た目が美しくなったわけでもないのに、社会情勢の不安定さだけは
ウクライナやアフガニスタンに一歩も二歩も近づいた。
少なからず性欲のある俗人の立場から言わしてもらえば、
人体の美しさもまたやはり、ないよりはあったほうがいいいと思う。
しかし、それ以外の人としてのいかなる実力にも優先する価値などはないとも思う。
もちろん、世のため人のためを心がける徳性よりも。あくまで先後の問題としては。
醜いものの殺生に、美しい刃物など使わぬわい。
人の命を奪うものだからこそ、刀剣は美しくあらねばならぬのだ。
命への敬意が籠もればこそ、武具も華麗に装い、刀剣も澄み渡るほどに磨かれねばならない。
憎悪や恨み、憤怒で殺めんとすれば、叩き欠いた錆びた鋸刃で十分。
戦をなんと心得る!
人の命を奪うものだからこそ、刀剣は美しくあらねばならぬのだ。
命への敬意が籠もればこそ、武具も華麗に装い、刀剣も澄み渡るほどに磨かれねばならない。
憎悪や恨み、憤怒で殺めんとすれば、叩き欠いた錆びた鋸刃で十分。
戦をなんと心得る!
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/39887829...
買う気はないが、サムネでもはっきりと目視できるほど
映りがクッキリと立っている鎌倉期の古刀。
これなら軟鉄製の西洋甲冑ぐらいは胴体真っ二つにできるだろう。
貴重な文化財でそんな酔狂をすべきではないが、やればできる。
単純に、通り魔や幼児襲撃に用いるにはオーバースペックである。
宝物として大事にするだけでなく、武具として有効に扱ってやろう
とする場合にも、用途が限られてくることを自ずから察する。
美しい刀を美しく扱おうとすれば、その時に初めて人もまた真の美しさを帯びる。
葵小僧を井上真改で手討ちにする鬼平のように、それが鼠賊の斬殺の時であることも
あるだろうが、社会的な非難の目を向ける余地もないTPOとなるには違いあるまい。
買う気はないが、サムネでもはっきりと目視できるほど
映りがクッキリと立っている鎌倉期の古刀。
これなら軟鉄製の西洋甲冑ぐらいは胴体真っ二つにできるだろう。
貴重な文化財でそんな酔狂をすべきではないが、やればできる。
単純に、通り魔や幼児襲撃に用いるにはオーバースペックである。
宝物として大事にするだけでなく、武具として有効に扱ってやろう
とする場合にも、用途が限られてくることを自ずから察する。
美しい刀を美しく扱おうとすれば、その時に初めて人もまた真の美しさを帯びる。
葵小僧を井上真改で手討ちにする鬼平のように、それが鼠賊の斬殺の時であることも
あるだろうが、社会的な非難の目を向ける余地もないTPOとなるには違いあるまい。
たとえば、上掲の尻懸ような上作の古刀が、
江戸時代の前期までは武家間の贈答品として好まれていた。
あまりにも高額品の取引が頻繁化し過ぎて財政を圧迫していたために、
8代将軍の徳川吉宗が、古刀と高価すぎる刀の贈答を規制した。(当該書参照)
それと同時に吉宗は、特に薄給な中下級の武士の昇給を取り決めた。
贈刀はただの礼物ではなく、家康公の質素倹約志向に倣って薄給を甘受していた
武士たちへの賞与としての意味合いも持ち合わせていたために、その穴埋めを試みたわけだ。
刀を贈ること、特に武家階級のみが佩用を認められている6尺以上の大刀を贈ることは
これまた武家の特権であるために、富豪からの賄賂などとは明確な一線を引くことができる。
それ故に、贈刀自体は仁義道徳的にも殊勝なこととして江戸時代を通じて振興され続けたのだった。
贈答用に傷物や見栄えの悪い刀を用いるのは非礼になるからとて、比較的低ランクで
いながらコストパフォーマンスの高い刀が江戸中期以降は量産されるようになったようで、
それが今に至るまでの関などにおける刃物産業の隆盛の礎ともなっている。
(中部地方の自動車産業の発達とも全くの無関係ではない)
江戸時代のような平和な時代にも刀が好まれ続けたことが、
政治腐敗の予防や鉄工業の隆盛など、多くの恩恵をもたらした。
もちろん美術品として高い価値を持つほどの刀剣が好まれていたが故の所産だから、
低品質な刀剣しか存在しない諸外国が真似たからといって実現できたことでもあるまいが。
江戸時代の前期までは武家間の贈答品として好まれていた。
あまりにも高額品の取引が頻繁化し過ぎて財政を圧迫していたために、
8代将軍の徳川吉宗が、古刀と高価すぎる刀の贈答を規制した。(当該書参照)
それと同時に吉宗は、特に薄給な中下級の武士の昇給を取り決めた。
贈刀はただの礼物ではなく、家康公の質素倹約志向に倣って薄給を甘受していた
武士たちへの賞与としての意味合いも持ち合わせていたために、その穴埋めを試みたわけだ。
刀を贈ること、特に武家階級のみが佩用を認められている6尺以上の大刀を贈ることは
これまた武家の特権であるために、富豪からの賄賂などとは明確な一線を引くことができる。
それ故に、贈刀自体は仁義道徳的にも殊勝なこととして江戸時代を通じて振興され続けたのだった。
贈答用に傷物や見栄えの悪い刀を用いるのは非礼になるからとて、比較的低ランクで
いながらコストパフォーマンスの高い刀が江戸中期以降は量産されるようになったようで、
それが今に至るまでの関などにおける刃物産業の隆盛の礎ともなっている。
(中部地方の自動車産業の発達とも全くの無関係ではない)
江戸時代のような平和な時代にも刀が好まれ続けたことが、
政治腐敗の予防や鉄工業の隆盛など、多くの恩恵をもたらした。
もちろん美術品として高い価値を持つほどの刀剣が好まれていたが故の所産だから、
低品質な刀剣しか存在しない諸外国が真似たからといって実現できたことでもあるまいが。
いや、お陰様で日本刀の美に改めて気づかせていただきました。
その日本刀、現代刀ではありますが、困ったことに海外製が流通跋扈しているとのこと。
日本はクールジャパンなどと、くだらぬ所へ金突っ込まず、日本刀「ブランド」などとは呼びたくはありませんが、日本刀文化の保護に真剣に力を注いでいただきたい。
その日本刀、現代刀ではありますが、困ったことに海外製が流通跋扈しているとのこと。
日本はクールジャパンなどと、くだらぬ所へ金突っ込まず、日本刀「ブランド」などとは呼びたくはありませんが、日本刀文化の保護に真剣に力を注いでいただきたい。
[YouTubeで再生]
こういうのだろう?
ヤフオクでもしょっちゅう出品されては質問欄から警告されてる。
だいたい日本語がたどたどしくて、中華の業者の仕業らしい。
登録証がない時点で日本では違法商品だから警察沙汰だ。
もちろん申請したところで通らないし、
本物を見慣れて来れば遠目からでも偽物だと一目瞭然になる。
鍔とかの刀装具も同様に。
精巧な偽物なんかを作ろうとすれば、原価がかかり過ぎて絶対に割りに合わなくなる。
だから偽銘品等はともかくとして、製法からの偽物に本物が淘汰される心配はまずない。
ただ、この動画のオッサンのように、本物を知らないが故に騙される人間が
多発して刀への評判が悪くなるのは由々しきことだな。現代武道がスポーツ化して
本物の武芸の深遠さからかけ離れているが故に批判されることが多いのとも同じく。
こういうのだろう?
ヤフオクでもしょっちゅう出品されては質問欄から警告されてる。
だいたい日本語がたどたどしくて、中華の業者の仕業らしい。
登録証がない時点で日本では違法商品だから警察沙汰だ。
もちろん申請したところで通らないし、
本物を見慣れて来れば遠目からでも偽物だと一目瞭然になる。
鍔とかの刀装具も同様に。
精巧な偽物なんかを作ろうとすれば、原価がかかり過ぎて絶対に割りに合わなくなる。
だから偽銘品等はともかくとして、製法からの偽物に本物が淘汰される心配はまずない。
ただ、この動画のオッサンのように、本物を知らないが故に騙される人間が
多発して刀への評判が悪くなるのは由々しきことだな。現代武道がスポーツ化して
本物の武芸の深遠さからかけ離れているが故に批判されることが多いのとも同じく。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q24101938...
日本の場合、刀身自体よりも刀装具の詐欺商品の横行のほうがひどい。
真剣はおろか、模造刀に使うのも憚られるような悪趣味な意匠。
日本古来の赤銅や四分一ではなく、青銅か真鍮か、ひどけりゃ亜鉛で作られてる。
これも見慣れてくると一目瞭然だが、ど素人ならたやすく騙されるし、
土産物程度の感覚で買う外国人などはいいカモになるだろう。
これが実は、近年の中国製に始まったことではなく、日本国内でも昔から一定数存在するもの。
戦前に粗悪な官給品の軍刀などを量産していた業者が、失業対策で戦後にも
粗悪な模造品の刀を相当数作り続けたらしく、今でも古い土産物屋などで残滓が散見される。
刀剣文化の軽視自体、日本でも明治以降ずっと長く続いていることで、
偽物を黙認している度合いは寿司や天ぷらの比ではない。
それでも本物が本物ゆえに淘汰される心配がないのも日本刀の貫禄だが、
本物を知らないゆえに勝手に本物まで侮るような風潮が蔓延して、本物の時価が下がり続け、
中華の成金に安く買い叩かれたりすることになってるのはなんとかしたい所だな。
日本の場合、刀身自体よりも刀装具の詐欺商品の横行のほうがひどい。
真剣はおろか、模造刀に使うのも憚られるような悪趣味な意匠。
日本古来の赤銅や四分一ではなく、青銅か真鍮か、ひどけりゃ亜鉛で作られてる。
これも見慣れてくると一目瞭然だが、ど素人ならたやすく騙されるし、
土産物程度の感覚で買う外国人などはいいカモになるだろう。
これが実は、近年の中国製に始まったことではなく、日本国内でも昔から一定数存在するもの。
戦前に粗悪な官給品の軍刀などを量産していた業者が、失業対策で戦後にも
粗悪な模造品の刀を相当数作り続けたらしく、今でも古い土産物屋などで残滓が散見される。
刀剣文化の軽視自体、日本でも明治以降ずっと長く続いていることで、
偽物を黙認している度合いは寿司や天ぷらの比ではない。
それでも本物が本物ゆえに淘汰される心配がないのも日本刀の貫禄だが、
本物を知らないゆえに勝手に本物まで侮るような風潮が蔓延して、本物の時価が下がり続け、
中華の成金に安く買い叩かれたりすることになってるのはなんとかしたい所だな。
痩せてりゃそこそこ美男子なのに、祖父や父に倣って
ブクブクと肥え太り、豚だ19号だと揶揄されて来てはいるが。
そのおかげで米大統領にすら恰幅では負けず、
若さゆえに侮られるような危険性も拭い去っている。
側近が無理にでも太らせただろう計略も大成功というわけ。
この場にヒョロガリのジャニタレなんかがいれば、
どんなにイケメンだったところで下僕か侍従にしか見えまい。
単なる外見というその一点においても、
世間一般で好まれているものと、本当に意味があるものは違う。
むしろ醜怪であるほうが、美麗であるよりも有力たり得る。
だから醜さこそを好めと言われれば、それは俺でも拒むが、
人の美醜などに囚われないようにする心がけぐらいは持ち得よう。
ブクブクと肥え太り、豚だ19号だと揶揄されて来てはいるが。
そのおかげで米大統領にすら恰幅では負けず、
若さゆえに侮られるような危険性も拭い去っている。
側近が無理にでも太らせただろう計略も大成功というわけ。
この場にヒョロガリのジャニタレなんかがいれば、
どんなにイケメンだったところで下僕か侍従にしか見えまい。
単なる外見というその一点においても、
世間一般で好まれているものと、本当に意味があるものは違う。
むしろ醜怪であるほうが、美麗であるよりも有力たり得る。
だから醜さこそを好めと言われれば、それは俺でも拒むが、
人の美醜などに囚われないようにする心がけぐらいは持ち得よう。
>>97
江戸時代までは、どんなに金持ちだろうとも武家以外は所持を禁止されていた
6尺以上の大刀は、まともに使いこなすためにも相当な武芸の修練が必要だから、
タダの成金なんかが持ってても宝の持ち腐れにしかならない、というのもある。
あと、「油断」という言葉は和製熟語で、中国にはない。
刀に油を塗って清浄な鞘に収めて長期間錆を防ぎ続けるような慣習が
中国にはないから、昔輸出されていた日本刀なども皆錆だらけになってしまっている。
刀の保存には最も不適切な、切っ先を下に向けての保存もあちらでは常套なため、
最も重要な物打ちや帽子部分の損傷も著しい。そして、日本刀ほど精魂を込めて
モノを作るという価値観自体がないから、モノへの扱いが全般的に雑である。
日本においては、大宝律令で工芸品への記銘が義務付けられて以来、
責任を持ったモノ作りの風習が連綿と温められて来た。それが日本刀の品質の向上の
真因ともなって来たのだが、幾度となく王朝が古法ごと断絶させられて来た中国では
そのような慣習が定着する余地はなかった。この差は一時の富裕化程度では
到底埋め合わせられるものではなく、必ずや持ち去られた日本刀も哀れな末路を辿る。
要するに、日本刀の精髄はカネではどうにもならないところにあるから、
成金の投機対象としては不適切であるということ。
貧乏でも家の守りを重んずる者の手元にあるほうがよっぽどマシである
江戸時代までは、どんなに金持ちだろうとも武家以外は所持を禁止されていた
6尺以上の大刀は、まともに使いこなすためにも相当な武芸の修練が必要だから、
タダの成金なんかが持ってても宝の持ち腐れにしかならない、というのもある。
あと、「油断」という言葉は和製熟語で、中国にはない。
刀に油を塗って清浄な鞘に収めて長期間錆を防ぎ続けるような慣習が
中国にはないから、昔輸出されていた日本刀なども皆錆だらけになってしまっている。
刀の保存には最も不適切な、切っ先を下に向けての保存もあちらでは常套なため、
最も重要な物打ちや帽子部分の損傷も著しい。そして、日本刀ほど精魂を込めて
モノを作るという価値観自体がないから、モノへの扱いが全般的に雑である。
日本においては、大宝律令で工芸品への記銘が義務付けられて以来、
責任を持ったモノ作りの風習が連綿と温められて来た。それが日本刀の品質の向上の
真因ともなって来たのだが、幾度となく王朝が古法ごと断絶させられて来た中国では
そのような慣習が定着する余地はなかった。この差は一時の富裕化程度では
到底埋め合わせられるものではなく、必ずや持ち去られた日本刀も哀れな末路を辿る。
要するに、日本刀の精髄はカネではどうにもならないところにあるから、
成金の投機対象としては不適切であるということ。
貧乏でも家の守りを重んずる者の手元にあるほうがよっぽどマシである
https://www.seiyudo.com/ka-061111.ht...
>賀州住兼若と言えば、当時の 加州では
>「たとえ禄が低くとも”兼若”を持つ者には嫁にやる」と言われるほどの誉れ高き名工です。
>武用に適した刀であったことが窺い知れます。
刀もただ持つだけではなく、その価値を知った上で持つことこそが、己が誉れともなる。
武に通じ、仁徳に通じる者であるがゆえに、その価値をも計り知ることができるのは、
どんなに大金を持ち合わせていることよりも正真な、刀の所有者としての資格となる。
田宮流居合術の創始者なども、職を転々として4年も貯金した上でやっと肥前忠吉に
刀を特注したという。金で買うとしても、それぐらいの経緯があるほうがよっぽど好ましい。
刀との巡り合いが物語になるような立場こそは、君子士人としても最適である。
その美しさに相応な由緒の一環として自分もまた歴史に名を刻めるように精進すべき。
>賀州住兼若と言えば、当時の 加州では
>「たとえ禄が低くとも”兼若”を持つ者には嫁にやる」と言われるほどの誉れ高き名工です。
>武用に適した刀であったことが窺い知れます。
刀もただ持つだけではなく、その価値を知った上で持つことこそが、己が誉れともなる。
武に通じ、仁徳に通じる者であるがゆえに、その価値をも計り知ることができるのは、
どんなに大金を持ち合わせていることよりも正真な、刀の所有者としての資格となる。
田宮流居合術の創始者なども、職を転々として4年も貯金した上でやっと肥前忠吉に
刀を特注したという。金で買うとしても、それぐらいの経緯があるほうがよっぽど好ましい。
刀との巡り合いが物語になるような立場こそは、君子士人としても最適である。
その美しさに相応な由緒の一環として自分もまた歴史に名を刻めるように精進すべき。
中華の成金に限らず、日本の企業経営者だって、
人材を捨て駒として好き勝手に使い潰すような心がけの悪さでは到底、
名刀を末永く愛好して行くような慈しみ深さも持てまい。
江戸時代なら帯刀身分だった政治家や公務員だって、
民への慈愛など犬猫に対するほどにも持たず、
財界と結託しては庶民を痛めつけて疲弊させているような体たらくなのだから、
法律上の資格以前に、刀を持つに値する人格者としての素養がない。
政官財がグルとなって下々を痛めつけ過ぎているが故に、少子高齢化や
財政難で国が傾いているのも、廃刀によって刀を持つ資格もないような連中を
権力の座に引き込んでしまったがための災難でこそあるといえる。
人材を捨て駒として好き勝手に使い潰すような心がけの悪さでは到底、
名刀を末永く愛好して行くような慈しみ深さも持てまい。
江戸時代なら帯刀身分だった政治家や公務員だって、
民への慈愛など犬猫に対するほどにも持たず、
財界と結託しては庶民を痛めつけて疲弊させているような体たらくなのだから、
法律上の資格以前に、刀を持つに値する人格者としての素養がない。
政官財がグルとなって下々を痛めつけ過ぎているが故に、少子高齢化や
財政難で国が傾いているのも、廃刀によって刀を持つ資格もないような連中を
権力の座に引き込んでしまったがための災難でこそあるといえる。
「今さえよければそれでいい」
「自分さえよければそれでいい」
「自分が生きてる間だけ世の中が無事ならそれでいい」
そんな思いでいる連中が世間の大多数なのだから、
数百年の後にも保たれ続ける日本刀の美しさなんて、猫に小判もいいとこ。
自分個人の命よりも普遍的なもの、
歴史的な功業、血筋、平和と繁栄に満ちた社会の情景、
それらを尊べる心意気の持ち主だけが、刀の真の美しさをも計り知る。
700年間、柄内の茎まで丹念に手入れされ続けて来た刀ならではの美しさ、
それは刀そのものの美しさであると同時に、人の業の美しさでもある。
自意識過剰に溺れることなく、真摯に世を継いでいた者たちの美しさは、
彼らが骨や灰となって消え去った後にも確かに残り続けて行く。
それこそが人という生き物にとっての真の美しさでもあるといえる。
「自分さえよければそれでいい」
「自分が生きてる間だけ世の中が無事ならそれでいい」
そんな思いでいる連中が世間の大多数なのだから、
数百年の後にも保たれ続ける日本刀の美しさなんて、猫に小判もいいとこ。
自分個人の命よりも普遍的なもの、
歴史的な功業、血筋、平和と繁栄に満ちた社会の情景、
それらを尊べる心意気の持ち主だけが、刀の真の美しさをも計り知る。
700年間、柄内の茎まで丹念に手入れされ続けて来た刀ならではの美しさ、
それは刀そのものの美しさであると同時に、人の業の美しさでもある。
自意識過剰に溺れることなく、真摯に世を継いでいた者たちの美しさは、
彼らが骨や灰となって消え去った後にも確かに残り続けて行く。
それこそが人という生き物にとっての真の美しさでもあるといえる。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q30868508...
日刀保の鑑定書付きの、真物らしき井上真改。
(鬼平が凶悪な強盗強姦殺人犯を斬首に処したことで有名な刀)
古研ぎで肌荒れが強いが、それでも地鉄と刃鉄の黒白がクッキリと分かれているし、
上の尻懸ほどではないにしろ映りも出ている。江戸後期の新々刀には、
全体を焼き入れ過ぎて地鉄まで白っぽくなっているものが多く、そういう刀は
曲がりづらい代わりに折れやすい傾向があるが、これはそのような心配もない。
鎬地の幅が広くて鎬が高いものが多いのが江戸時代の刀の特徴だが、
これを含めて井上真改は特にその傾向が強い。そのため、
刀身の強度が高くて相手の刀を鎬で受けることにも長ける一方で、切れ味はやや落ちる。
同じ江戸時代の刀工である虎徹や忠吉が切れ味でも最上大業物に認定されている一方、
井上真改が4ランク中最低の業物に指定されているのもこれが原因と思われる。
日刀保の鑑定書付きの、真物らしき井上真改。
(鬼平が凶悪な強盗強姦殺人犯を斬首に処したことで有名な刀)
古研ぎで肌荒れが強いが、それでも地鉄と刃鉄の黒白がクッキリと分かれているし、
上の尻懸ほどではないにしろ映りも出ている。江戸後期の新々刀には、
全体を焼き入れ過ぎて地鉄まで白っぽくなっているものが多く、そういう刀は
曲がりづらい代わりに折れやすい傾向があるが、これはそのような心配もない。
鎬地の幅が広くて鎬が高いものが多いのが江戸時代の刀の特徴だが、
これを含めて井上真改は特にその傾向が強い。そのため、
刀身の強度が高くて相手の刀を鎬で受けることにも長ける一方で、切れ味はやや落ちる。
同じ江戸時代の刀工である虎徹や忠吉が切れ味でも最上大業物に認定されている一方、
井上真改が4ランク中最低の業物に指定されているのもこれが原因と思われる。
ただ、こういう刀は斬撃時の圧力が高くて三つ胴や四つ胴のような記録を出しにくい代わりに、
刃筋が勝手に通るので力任せに振ってもある程度は切れるという特徴も持ち合わせている。
正宗や郷義弘を真似た高温焼き入れで、刃鉄の硬さも最高度まで高めている。
(鍛え割れの出やすい焼き入れ方法だが、そのような瑕疵も見られない)
その上で切りやすく、折れにくく、鎬で敵の刀を受けることにも長けているということは、
激戦での実用に大変向いた作り込みになっているということである。
(品質ははるかに劣るが、軍刀も形だけはこれを真似ている場合が多い)
刀がサブウェポンかつ首刈り道具だった戦国時代までではなく、
メインウェポンとなった江戸時代だからこその、刀でのより本格的な戦闘を想定した作り込み。
刀は、何も切れ味ばかりが機能性ではないことをよく体現しているといえる。
そしてそこにはまた、切れ味を重視した刀とは別個の美しさがある。
表面上だけではなく、内実から滲み出る美しさに心酔すれば、もう後には戻れない。
刃筋が勝手に通るので力任せに振ってもある程度は切れるという特徴も持ち合わせている。
正宗や郷義弘を真似た高温焼き入れで、刃鉄の硬さも最高度まで高めている。
(鍛え割れの出やすい焼き入れ方法だが、そのような瑕疵も見られない)
その上で切りやすく、折れにくく、鎬で敵の刀を受けることにも長けているということは、
激戦での実用に大変向いた作り込みになっているということである。
(品質ははるかに劣るが、軍刀も形だけはこれを真似ている場合が多い)
刀がサブウェポンかつ首刈り道具だった戦国時代までではなく、
メインウェポンとなった江戸時代だからこその、刀でのより本格的な戦闘を想定した作り込み。
刀は、何も切れ味ばかりが機能性ではないことをよく体現しているといえる。
そしてそこにはまた、切れ味を重視した刀とは別個の美しさがある。
表面上だけではなく、内実から滲み出る美しさに心酔すれば、もう後には戻れない。
新々刀にしたって、新撰組が多用していたような刺突攻撃でブレや曲がりが
生じないようにするために全体の焼き入れを強めにしていたのだから、全くの無意味ではない。
鎌倉時代から幕末までの武家時代において、刀剣は確かに「用の美」を極めた。
馬上からの切りつけを第一に想定した鎌倉期の太刀から、
外の物(アウトレンジ武器)の戦法と共に次々と移り変わっていった室町期以降の古刀に、
諸手刀法の変遷に基づいて徐々に形を変えていった江戸期の新刀や新々刀と、
それぞれがそれぞれの時代に即した最上級の機能美を湛えている。
故に「古刀こそは最高」「刀の序列はあくまで古刀>新刀>新々刀」などという、
おおむねの刀剣愛好家が同意する主張もさほどあてにはならない。
生じないようにするために全体の焼き入れを強めにしていたのだから、全くの無意味ではない。
鎌倉時代から幕末までの武家時代において、刀剣は確かに「用の美」を極めた。
馬上からの切りつけを第一に想定した鎌倉期の太刀から、
外の物(アウトレンジ武器)の戦法と共に次々と移り変わっていった室町期以降の古刀に、
諸手刀法の変遷に基づいて徐々に形を変えていった江戸期の新刀や新々刀と、
それぞれがそれぞれの時代に即した最上級の機能美を湛えている。
故に「古刀こそは最高」「刀の序列はあくまで古刀>新刀>新々刀」などという、
おおむねの刀剣愛好家が同意する主張もさほどあてにはならない。
ただ、武家時代が終わって廃刀が強いられた明治以降となると、話は変わる。
近代までは、軍刀が機甲戦闘に見合わない無用の長物の飾り物として疎まれながら
なんとか残存したが、当然そこに武用のための刀の進化などがありはしない。
(強いて言えば取り回しがいいように六尺強までの短寸が好まれた程度)
現代以降はさらに刀の実用の場がなくなり、ヤクザの抗争でなければ武道練習目的のみとなった。
その武道練習も居合用の細身か試斬用の幅広ばかりが好まれて、いずれも実戦の用には耐えない。
耐えないだけでなく実際、見た目にも美しいものではない。できる限り実戦に近い稽古を
目的とした剣道がGHQの強制で形骸化されたために、刀剣が用の美に即する希望も全く絶えた。
今でも、美麗な刀剣の作成を心がけている刀鍛冶はいるが、そういう流派ほど昔の名刀の
忠実な再現ばかりを志している始末。それも技術の保存のためにやっておくに越したことはない
ことではあるが、武家時代の有機的な刀剣の進化醸成と比べればいささかと言わず心もとない。
刀剣美はもはや、過去の遺物であろうか。
だったらそれに変わるほどの機能美があってもらいたいものだが、
残念ながら一つも見つからない。ということは、時代も劣化しているということであり、
民主主義なぞで世の中がより良くなったなどという考えも虚妄に過ぎないわけである。
近代までは、軍刀が機甲戦闘に見合わない無用の長物の飾り物として疎まれながら
なんとか残存したが、当然そこに武用のための刀の進化などがありはしない。
(強いて言えば取り回しがいいように六尺強までの短寸が好まれた程度)
現代以降はさらに刀の実用の場がなくなり、ヤクザの抗争でなければ武道練習目的のみとなった。
その武道練習も居合用の細身か試斬用の幅広ばかりが好まれて、いずれも実戦の用には耐えない。
耐えないだけでなく実際、見た目にも美しいものではない。できる限り実戦に近い稽古を
目的とした剣道がGHQの強制で形骸化されたために、刀剣が用の美に即する希望も全く絶えた。
今でも、美麗な刀剣の作成を心がけている刀鍛冶はいるが、そういう流派ほど昔の名刀の
忠実な再現ばかりを志している始末。それも技術の保存のためにやっておくに越したことはない
ことではあるが、武家時代の有機的な刀剣の進化醸成と比べればいささかと言わず心もとない。
刀剣美はもはや、過去の遺物であろうか。
だったらそれに変わるほどの機能美があってもらいたいものだが、
残念ながら一つも見つからない。ということは、時代も劣化しているということであり、
民主主義なぞで世の中がより良くなったなどという考えも虚妄に過ぎないわけである。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g36648168...
実用刀の雄として名高い肥後同田貫も、やはり鎬地が広くて刃筋を通しやすい造りになっている。
美術的価値が低いとは言われているが、諸手刀法での戦闘を念頭に置いた上であれば、
井上真改などと同じくまた格別の美しさを帯びたものであるように見受けられる。
兼元や兼定に代表される美濃伝の刀にも似た傾向があり、まさに「武骨の美」とでも言うべき。
殊更にうわべの美しさばかりが愛でられる現代においては格下の扱いを受けやすい部類だが、
本来、刀はそういった着実さと共に美しさまでもが昇華されて行くべきなのである。
美しさで最高峰の扱いを受けている備前刀なども、太刀としての実用性を極めようとしたが故の結実なのだし。
実用刀の雄として名高い肥後同田貫も、やはり鎬地が広くて刃筋を通しやすい造りになっている。
美術的価値が低いとは言われているが、諸手刀法での戦闘を念頭に置いた上であれば、
井上真改などと同じくまた格別の美しさを帯びたものであるように見受けられる。
兼元や兼定に代表される美濃伝の刀にも似た傾向があり、まさに「武骨の美」とでも言うべき。
殊更にうわべの美しさばかりが愛でられる現代においては格下の扱いを受けやすい部類だが、
本来、刀はそういった着実さと共に美しさまでもが昇華されて行くべきなのである。
美しさで最高峰の扱いを受けている備前刀なども、太刀としての実用性を極めようとしたが故の結実なのだし。
いや、あんたの顔が一番醜いよ。
試しに、一番うまく撮れた写真でいいから、ここに自撮りをアップしてみて、みんなの反応を見てみるといい。
それまでの人生が表れた薄気味悪い顔をしているのか、昼間からヤフオクで骨董品を探してそうなジジイの顔つきをしているのかどうか、掲示板を見てる人はそれだけを楽しみにしていると言っても過言ではない。
図書館などで色々調べてて知ったが、井上真改が作刀で好んだ体配は主に
正宗の弟子の郷義弘を参考にしているという。その郷義弘もやはり鎬が高くて、
なおかつ肉置きの少ない刀を好んで作ったという。つまり刃部の断面が
ハマグリ状ではなく三角▽状により近い。側面の画像だけでは分かりづらいが、
これが同様形状の刀の刃筋が通りやすい理由になっているようである。
(つまり鎬が高くてハマグリ刃の度合いも強いようなら刃筋が通りにくくなる)
郷義弘の刀も一度見せてもらって手に取ったこともあるが、かなり異様な刀だ。
乱れ刃と皆焼の中間的な刃紋で、部分的に刃鉄の焼入れが鎬にまで達していた。
さすがに井上真改もそんな所までは真似してないが、南北朝時代の珍奇な作刀の
流行に好んで乗っていた部分もあるように見受けられる、夭折の天才刀工の作。
こういうものを好む人間がいるのもわかるが、決して万人向けではない。
ド派手趣味の秀吉が好んだというのもむべなるかな。
そういう分かりやすい特徴のある名物の影に隠れて、大和伝の尻懸のような
質実剛健で無駄を極力省いた佳作刀が打ち棄てられていくようなことがあるとすれば、
それは避けねばならない。常道あってこその逸脱なのだから。
正宗の弟子の郷義弘を参考にしているという。その郷義弘もやはり鎬が高くて、
なおかつ肉置きの少ない刀を好んで作ったという。つまり刃部の断面が
ハマグリ状ではなく三角▽状により近い。側面の画像だけでは分かりづらいが、
これが同様形状の刀の刃筋が通りやすい理由になっているようである。
(つまり鎬が高くてハマグリ刃の度合いも強いようなら刃筋が通りにくくなる)
郷義弘の刀も一度見せてもらって手に取ったこともあるが、かなり異様な刀だ。
乱れ刃と皆焼の中間的な刃紋で、部分的に刃鉄の焼入れが鎬にまで達していた。
さすがに井上真改もそんな所までは真似してないが、南北朝時代の珍奇な作刀の
流行に好んで乗っていた部分もあるように見受けられる、夭折の天才刀工の作。
こういうものを好む人間がいるのもわかるが、決して万人向けではない。
ド派手趣味の秀吉が好んだというのもむべなるかな。
そういう分かりやすい特徴のある名物の影に隠れて、大和伝の尻懸のような
質実剛健で無駄を極力省いた佳作刀が打ち棄てられていくようなことがあるとすれば、
それは避けねばならない。常道あってこその逸脱なのだから。
今またちょっと調べてきたけど、郷義弘は大和千手院で学んだ鍛治で、
正宗とは無関係だと主張している人間もいるんだな。
真偽のほどは定かではないが、見る人が見れば大和伝系とも取れるぐらい、
作りに実直な側面があった上での奇抜さだから至宝扱いなのだろう。
鎬が高い刀も大和伝に多い一方、相州伝や備前伝は低いものが多いから、
総じて前者に作りの似る郷を大和伝系と見る主張も無根拠ではないとわかる。
しかし、皆焼じみた焼き幅の広さの刀なども好んで作っていることから、
その手の作風の多い相州伝に私淑していた可能性も考えられなくはない。
ーー話が単なる刀剣論ばかりに偏りすぎているから、
刀剣美の思想哲学的な価値というスレの本旨に話を戻すなら、
やはり大和伝のような実直な作刀の心がけの下地があって初めて、
郷義弘のような大名物の昇華もあったわけだから、刀が本物である以上は、
用の美の追及から完全に逸脱することなどはできないということである。
正宗とは無関係だと主張している人間もいるんだな。
真偽のほどは定かではないが、見る人が見れば大和伝系とも取れるぐらい、
作りに実直な側面があった上での奇抜さだから至宝扱いなのだろう。
鎬が高い刀も大和伝に多い一方、相州伝や備前伝は低いものが多いから、
総じて前者に作りの似る郷を大和伝系と見る主張も無根拠ではないとわかる。
しかし、皆焼じみた焼き幅の広さの刀なども好んで作っていることから、
その手の作風の多い相州伝に私淑していた可能性も考えられなくはない。
ーー話が単なる刀剣論ばかりに偏りすぎているから、
刀剣美の思想哲学的な価値というスレの本旨に話を戻すなら、
やはり大和伝のような実直な作刀の心がけの下地があって初めて、
郷義弘のような大名物の昇華もあったわけだから、刀が本物である以上は、
用の美の追及から完全に逸脱することなどはできないということである。
男の見た目なんて業績に付いてくるだけのものなんだから、さほど気にする必要もない。
ただ業績に傷を付けるほどもの醜態を避けるようにすればいいだけとは、
俺も昔からずっと思ってるから、先に顔をひけらかすようなことも避けてるが。
今は多少、考えを修正しててな。
やっぱり「男は顔じゃない」とは思うが、何もかもにかけて「男は見た目じゃない」とも思わない。
その業績に見合った刀剣や甲冑などの装束を以って、我が見た目にも代える。
それにより巧言令色に長ける女子小人の無闇な祭り上げにも牽制をかける。
どうせ我が身もいつかは命尽きて骨となり、灰に帰するものなのだから、
もう少し諸行無常のはかなさに耐える物品を永劫に至るまでのわが形代ともしようぞ。
それを可能とするのも、それなりの業績を己が素養によって挙げられる益荒男だけなのだし。
ただ業績に傷を付けるほどもの醜態を避けるようにすればいいだけとは、
俺も昔からずっと思ってるから、先に顔をひけらかすようなことも避けてるが。
今は多少、考えを修正しててな。
やっぱり「男は顔じゃない」とは思うが、何もかもにかけて「男は見た目じゃない」とも思わない。
その業績に見合った刀剣や甲冑などの装束を以って、我が見た目にも代える。
それにより巧言令色に長ける女子小人の無闇な祭り上げにも牽制をかける。
どうせ我が身もいつかは命尽きて骨となり、灰に帰するものなのだから、
もう少し諸行無常のはかなさに耐える物品を永劫に至るまでのわが形代ともしようぞ。
それを可能とするのも、それなりの業績を己が素養によって挙げられる益荒男だけなのだし。
人は、忘れられる生き物である
http://bbs56.meiwasuisan.com/discussion/1566949904...
誰が立てたか知らんが、ちょうどいいタイミングでうまい提起をしてくれている。
昔から「人は二度死ぬ」といい、一つは命そのものの死、もう一つが人々の記憶からの死。
無名の一般人はもちろんのこと、芸能人やスポーツ選手のような有名人ですら、
箱庭の内側での持て囃し止まりな名声では、じきに人々の記憶から消えて行ってしまう。
美名であれ悪名であれ、後世まで末永くその名や業績が語り伝えられて行く可能性が
最も高いのが政治家、その次が軍人や役人。さらにその次が芸術家や学者あたり。
特に政治や軍事は、優秀な大人の男が最大級の力量を発揮してようやく歴史的な功績に
なるかならないかといった難業なので、自然と歴史上にもそういう人種ばかりが伝えられてる。
刀匠も相当な体力を要する仕事だから、自然と男性名を冠した作品だけが遺されてる。
だから歴史的な功績者との相性がいいと断定するのはちと短絡的だが、我が命の死後に
至るまで名声と共に伝えられ続ける形代となるのに、刀ほど絶好なものも他になく、
故にそれに値するほどの偉人だけが「我が見た目」とする資格をも持つわけである。
全国に名を知られている有名人や政治家を含めて、そんな人間が今の日本には皆無なものだから、
刀の美しさに自己投影してまで刀を楽しむことのできる人間もまずいない状態なわけだが。
http://bbs56.meiwasuisan.com/discussion/1566949904...
誰が立てたか知らんが、ちょうどいいタイミングでうまい提起をしてくれている。
昔から「人は二度死ぬ」といい、一つは命そのものの死、もう一つが人々の記憶からの死。
無名の一般人はもちろんのこと、芸能人やスポーツ選手のような有名人ですら、
箱庭の内側での持て囃し止まりな名声では、じきに人々の記憶から消えて行ってしまう。
美名であれ悪名であれ、後世まで末永くその名や業績が語り伝えられて行く可能性が
最も高いのが政治家、その次が軍人や役人。さらにその次が芸術家や学者あたり。
特に政治や軍事は、優秀な大人の男が最大級の力量を発揮してようやく歴史的な功績に
なるかならないかといった難業なので、自然と歴史上にもそういう人種ばかりが伝えられてる。
刀匠も相当な体力を要する仕事だから、自然と男性名を冠した作品だけが遺されてる。
だから歴史的な功績者との相性がいいと断定するのはちと短絡的だが、我が命の死後に
至るまで名声と共に伝えられ続ける形代となるのに、刀ほど絶好なものも他になく、
故にそれに値するほどの偉人だけが「我が見た目」とする資格をも持つわけである。
全国に名を知られている有名人や政治家を含めて、そんな人間が今の日本には皆無なものだから、
刀の美しさに自己投影してまで刀を楽しむことのできる人間もまずいない状態なわけだが。
尻懸のような古刀期の太刀にしろ、井上真改のような新刀期の打刀にしろ、
ある種の実戦性の高さを追求して用の美をも極めた名刀には違いないのだが、
実はあえて実戦性をないがしろにした名刀というものもまた存在する。
南北朝から室町期にかけて地味に流行していた、1尺〜1尺5寸程度の平造りの小刀。
鎬がないので敵からの斬撃を受け流し辛く、刃こぼれもしやすい。
長さが半端に長いので超接近戦や暗殺のような短刀の用途にも向かない。
にもかかわらずなぜ流行っていたかというと、最上級の斬れ味と絶妙な長さの両立が、
すでに戦死した敵将の斬首や、自分自身が追い詰められた時の自刃用に大変向いていたからである。
これが江戸期以降に規格が厳格化された「脇差」のはしりであるが、
屋内戦闘を想定した鎬造りである場合が多い新刀の脇差と比べても、よりサブウェポン
であることに特化しており、実戦にかけては使って使えないこともない程度の機能しかない。
しかし、これはこれである種の妙味があるし、新刀の脇差以上に無駄を省いた用の美を湛えてもいる。
実戦ではなく、斬首と自刃にこそ用途が特化された、今際の際を象徴する鬼の刑具。
ある種の実戦性の高さを追求して用の美をも極めた名刀には違いないのだが、
実はあえて実戦性をないがしろにした名刀というものもまた存在する。
南北朝から室町期にかけて地味に流行していた、1尺〜1尺5寸程度の平造りの小刀。
鎬がないので敵からの斬撃を受け流し辛く、刃こぼれもしやすい。
長さが半端に長いので超接近戦や暗殺のような短刀の用途にも向かない。
にもかかわらずなぜ流行っていたかというと、最上級の斬れ味と絶妙な長さの両立が、
すでに戦死した敵将の斬首や、自分自身が追い詰められた時の自刃用に大変向いていたからである。
これが江戸期以降に規格が厳格化された「脇差」のはしりであるが、
屋内戦闘を想定した鎬造りである場合が多い新刀の脇差と比べても、よりサブウェポン
であることに特化しており、実戦にかけては使って使えないこともない程度の機能しかない。
しかし、これはこれである種の妙味があるし、新刀の脇差以上に無駄を省いた用の美を湛えてもいる。
実戦ではなく、斬首と自刃にこそ用途が特化された、今際の際を象徴する鬼の刑具。
かの有名な妖刀村正にも実はこの平造り脇差の名品が多く(画像も伝村正)、
>117の正利も村正と同じ千子派の系統である。
こういう機能上から斬れ味に優れた刀を専門的に作っていたのだから、業物が多いのも自然なことだが、
そのぶん実戦性に欠けている面もあるので、反徳川の連中が好んで村正ばかりを求めた結果、
かえって戦闘力を目減りさせるようなことがあったとしても自己責任だといえよう。
村正が徳川に害を為したとされる伝説もみな、奇襲や事故や切腹ばかりで、
正々堂々の戦における敗北などは一つも見当たらない。にもかかわらず、
反幕の意図で村正を好むような連中はみなその魂胆の卑しさが透けて見えてるし、
その卑しさゆえに本当の強さを身につけられることもないのである。
>117の正利も村正と同じ千子派の系統である。
こういう機能上から斬れ味に優れた刀を専門的に作っていたのだから、業物が多いのも自然なことだが、
そのぶん実戦性に欠けている面もあるので、反徳川の連中が好んで村正ばかりを求めた結果、
かえって戦闘力を目減りさせるようなことがあったとしても自己責任だといえよう。
村正が徳川に害を為したとされる伝説もみな、奇襲や事故や切腹ばかりで、
正々堂々の戦における敗北などは一つも見当たらない。にもかかわらず、
反幕の意図で村正を好むような連中はみなその魂胆の卑しさが透けて見えてるし、
その卑しさゆえに本当の強さを身につけられることもないのである。
平造り脇差の鍛刀によっても斬れ味を蓄積していた千子村正の刀を、
徳川家康自身も好み、本人自身は最期まで禁忌扱いに反対していたという。
遺体の斬首や速やかな自刃といった、本来の用途を念頭に置くのであれば、
村正が名刀中の名刀であるのにも違いはなく、家康公もまたそれに反対はすまい。
最上の斬れ味を持つ村正による切腹によって、嫡子信康も速やかに世を去れたと
いうのなら、道具としての刀自体には功こそあれど罪はなかったといえる。
結局、平時の社会においては、斬首や切腹自体が極力避けられてしかるべき
ことなのだから、その用途に特化された村正が忌み避けられたことにも、
多少は江戸期における平和維持の効果があったかもしれない。そして
明治以降に村正が好まれたことが、無駄な戦乱を呼び込む要因になったとも。
徳川家康自身も好み、本人自身は最期まで禁忌扱いに反対していたという。
遺体の斬首や速やかな自刃といった、本来の用途を念頭に置くのであれば、
村正が名刀中の名刀であるのにも違いはなく、家康公もまたそれに反対はすまい。
最上の斬れ味を持つ村正による切腹によって、嫡子信康も速やかに世を去れたと
いうのなら、道具としての刀自体には功こそあれど罪はなかったといえる。
結局、平時の社会においては、斬首や切腹自体が極力避けられてしかるべき
ことなのだから、その用途に特化された村正が忌み避けられたことにも、
多少は江戸期における平和維持の効果があったかもしれない。そして
明治以降に村正が好まれたことが、無駄な戦乱を呼び込む要因になったとも。
また調べてきたが、村正の長尺な刀の作風として、
総合的な作りは平均的ないし若干細身であった上で、なおかつ平肉が枯れるという。
つまり上で述べたような刃の断面がハマグリよりも三角に近い刀であり、
なおかつ重ねも薄くて鎬も低いのだから、平造りの脇差がよく切れるのと
全く同じ原理で切れ味に優れることが約束づけられているといえる。
俺が手にとってみたことのある鑑定書付きの村正(大磨上の小太刀)も、確かにそのような
体配だったと記憶しているが、数多の新々刀などと同じく地鉄が全体的に白っぽかった。
肌が詰んでなくて有機的な模様をしていたのでやっぱり古刀だろうなというのは分かったが、
相州伝の名刀に見られるような、硬軟のメリハリの利いた鋼の折重ねによる荒沸なども見られない。
要するに、細身で平肉も枯らして最上級の斬れ味を追求してはいるものの、
刀身の靭性をそこまで高めているわけではないから、正宗のような
より上位の品質の刀と打ち合わせた場合には、折れたりする危険があるということ。
生半可の刀と比べれば強かろうとも、最高の実戦能力を帯びた刀とまではいえない。
とにかく斬れ味に優れるので具足を着込まない平時のゲリラ戦で、特に相手が名刀持ちでもない
と知れた場合には最高の戦果を発揮するだろう。もはやイジメとも取れなくないが。
総合的な作りは平均的ないし若干細身であった上で、なおかつ平肉が枯れるという。
つまり上で述べたような刃の断面がハマグリよりも三角に近い刀であり、
なおかつ重ねも薄くて鎬も低いのだから、平造りの脇差がよく切れるのと
全く同じ原理で切れ味に優れることが約束づけられているといえる。
俺が手にとってみたことのある鑑定書付きの村正(大磨上の小太刀)も、確かにそのような
体配だったと記憶しているが、数多の新々刀などと同じく地鉄が全体的に白っぽかった。
肌が詰んでなくて有機的な模様をしていたのでやっぱり古刀だろうなというのは分かったが、
相州伝の名刀に見られるような、硬軟のメリハリの利いた鋼の折重ねによる荒沸なども見られない。
要するに、細身で平肉も枯らして最上級の斬れ味を追求してはいるものの、
刀身の靭性をそこまで高めているわけではないから、正宗のような
より上位の品質の刀と打ち合わせた場合には、折れたりする危険があるということ。
生半可の刀と比べれば強かろうとも、最高の実戦能力を帯びた刀とまではいえない。
とにかく斬れ味に優れるので具足を着込まない平時のゲリラ戦で、特に相手が名刀持ちでもない
と知れた場合には最高の戦果を発揮するだろう。もはやイジメとも取れなくないが。
村正の斬れ味が優れているのは、要するに剃刀や包丁やカッターに準ずるような、
並みの日本刀よりも薄刃な作り込みによって鋭利さを稼いでいるからである。
見る者をたぶらかす妖刀扱いされているのも、その見かけからの鋭利さのため。
日本刀は上掲3つのような専門用途のある刃物と比べればはるかに重ねが厚く、
同様の形状の刀を軟鉄などで作ってもろくな切れ味が稼げない作りになっているから、
素人目には切れ味の想像がつき難い。そのため武の素人である犯罪者が日本刀を
凶器として用いることもほとんどないが、村正ならばそうなるとも限らない。
村正を手にして妖艶さを感じるということは、それだけ自らに武の心得がないということ。
素人が適当に振っても人を殺せそうな鋭利さを見るからに帯びているものだから、
素人こそはあてられてしまう。そんな人間はなるべく村正を目にも触れるべきではない。
並みの日本刀よりも薄刃な作り込みによって鋭利さを稼いでいるからである。
見る者をたぶらかす妖刀扱いされているのも、その見かけからの鋭利さのため。
日本刀は上掲3つのような専門用途のある刃物と比べればはるかに重ねが厚く、
同様の形状の刀を軟鉄などで作ってもろくな切れ味が稼げない作りになっているから、
素人目には切れ味の想像がつき難い。そのため武の素人である犯罪者が日本刀を
凶器として用いることもほとんどないが、村正ならばそうなるとも限らない。
村正を手にして妖艶さを感じるということは、それだけ自らに武の心得がないということ。
素人が適当に振っても人を殺せそうな鋭利さを見るからに帯びているものだから、
素人こそはあてられてしまう。そんな人間はなるべく村正を目にも触れるべきではない。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f36899963...
江戸期の代表的な脇差といえばこんな風。
屋内戦闘ではメインウェポンとしての役割も果たせるように尋常な鎬造りとし、
先幅や先重も並みの太刀以上に太めに採ることでハンマー効果を稼いでいる。
銀座で見せてもらった助直や照包の脇差もこれに似た体配をしていた。
二本差しを法的に厳格化させた時代ならではの造り込みだが、正直、
個人的にはあまり好きではない。というのも、ここまでなんでも機能性を
詰め込むのなら、いっそのこと柳生厳包愛用の風鎮切光代のような
片切刃造りにでもしてしまったほうが、より能力が極まるものだから。
見た目がいかにも、栄養不足で縦に伸びてない当時の日本人ぽくもある。
これを含め、名工の作品の刃紋や肌の味わい自体は申し分ないのだが、
現代社会で脇差が特筆して不人気と化してしまっている原因だともいえる。
この世に帯刀身分というものがあるとすれば、脇差は確かに重要な意味を
持ってくるが、江戸期には江戸期の、戦国期には戦国期の独特な脇差文化が
あったからには、これからの時代における最適な脇差というものもまた
模索されて然るべきだろう。むしろ脇差のほうがメインになるような。
江戸期の代表的な脇差といえばこんな風。
屋内戦闘ではメインウェポンとしての役割も果たせるように尋常な鎬造りとし、
先幅や先重も並みの太刀以上に太めに採ることでハンマー効果を稼いでいる。
銀座で見せてもらった助直や照包の脇差もこれに似た体配をしていた。
二本差しを法的に厳格化させた時代ならではの造り込みだが、正直、
個人的にはあまり好きではない。というのも、ここまでなんでも機能性を
詰め込むのなら、いっそのこと柳生厳包愛用の風鎮切光代のような
片切刃造りにでもしてしまったほうが、より能力が極まるものだから。
見た目がいかにも、栄養不足で縦に伸びてない当時の日本人ぽくもある。
これを含め、名工の作品の刃紋や肌の味わい自体は申し分ないのだが、
現代社会で脇差が特筆して不人気と化してしまっている原因だともいえる。
この世に帯刀身分というものがあるとすれば、脇差は確かに重要な意味を
持ってくるが、江戸期には江戸期の、戦国期には戦国期の独特な脇差文化が
あったからには、これからの時代における最適な脇差というものもまた
模索されて然るべきだろう。むしろ脇差のほうがメインになるような。
片切刃造りの刀ってのは基本、みんな注文打ちで、
はじめの所有者の手癖や剣術流派に合わせて作られてるから、
中古で手に入れるのが最も向かない。これが>123画のような
両鎬造りの脇差ほど普及しなかった理由だと思われる。
相手の斬撃を受け流せるように、差表か差裏のどちらかを鎬造りとし、
斬れ味を稼ぐためにもう一方を切刃造りないし平造りにする。
中には表裏が切刃と平造りになっているものなどもあり、
さらに長さや反りも様々で、とても自分にピッタリのものなど見つからない。
この柳生厳包の愛刀も、俺にも合うなどとはとても断定できないが、
ヤフオクなどでたまに見る片切刃造りの刀と比べれば、
段違いに戦闘能力が高いだろうとは見込まれる。
その機能の高さを活かすためには、新陰流の「竜の口」と呼ばれる手の内で
我が身と刀を一体化させねばならず、それが不十分なら自らの体を傷める
ことともなってしまう。玄人中の達人のみが扱う資格のある刀だといえる。
はじめの所有者の手癖や剣術流派に合わせて作られてるから、
中古で手に入れるのが最も向かない。これが>123画のような
両鎬造りの脇差ほど普及しなかった理由だと思われる。
相手の斬撃を受け流せるように、差表か差裏のどちらかを鎬造りとし、
斬れ味を稼ぐためにもう一方を切刃造りないし平造りにする。
中には表裏が切刃と平造りになっているものなどもあり、
さらに長さや反りも様々で、とても自分にピッタリのものなど見つからない。
この柳生厳包の愛刀も、俺にも合うなどとはとても断定できないが、
ヤフオクなどでたまに見る片切刃造りの刀と比べれば、
段違いに戦闘能力が高いだろうとは見込まれる。
その機能の高さを活かすためには、新陰流の「竜の口」と呼ばれる手の内で
我が身と刀を一体化させねばならず、それが不十分なら自らの体を傷める
ことともなってしまう。玄人中の達人のみが扱う資格のある刀だといえる。
今は、刀の実戦機能に焦点を当てて話をしているから、
刀の刃紋の美しさばかりが取り沙汰される一般的な刀剣鑑賞の論議と比べると、
だいぶ刀全体の外形的な体配の話に重点が偏っているといえる。
つまり、刀の大まかな形と刃紋を作り出す刀工だけでなく、
細部に至るまでの完成形を仕上げる研師の仕事にも注目しているといえる。
研師は当然、刀工の「こんな刀を作りたい」という思いを汲んで、
それに沿った刀の正体を引き出す女房役となることを本分としているわけだが、
場合によっては刀の所持者の注文を優先することもあるだろうし、
自分自身のポリシーを優先させることだって部分的にはあるだろう。
しかし、現代の研師が最上研ぎにおける最優先課題としているだろう
「刀の波紋を最も美しく見せる」という使命は、必ずしも武用目的とは両立しない。
斬れ味を上げるためにわざと美観を損ねるほどの寝刃合わせ(鋸刃仕上げ)を行う場合だけでなく、
より一層の斬れ味や耐久性のためにあえて平肉の多さを加減するといった行為もまた、
ただ刃紋の美しさを追求することとは相容れない場合がある。
刀の刃紋の美しさばかりが取り沙汰される一般的な刀剣鑑賞の論議と比べると、
だいぶ刀全体の外形的な体配の話に重点が偏っているといえる。
つまり、刀の大まかな形と刃紋を作り出す刀工だけでなく、
細部に至るまでの完成形を仕上げる研師の仕事にも注目しているといえる。
研師は当然、刀工の「こんな刀を作りたい」という思いを汲んで、
それに沿った刀の正体を引き出す女房役となることを本分としているわけだが、
場合によっては刀の所持者の注文を優先することもあるだろうし、
自分自身のポリシーを優先させることだって部分的にはあるだろう。
しかし、現代の研師が最上研ぎにおける最優先課題としているだろう
「刀の波紋を最も美しく見せる」という使命は、必ずしも武用目的とは両立しない。
斬れ味を上げるためにわざと美観を損ねるほどの寝刃合わせ(鋸刃仕上げ)を行う場合だけでなく、
より一層の斬れ味や耐久性のためにあえて平肉の多さを加減するといった行為もまた、
ただ刃紋の美しさを追求することとは相容れない場合がある。
今の研師は大体が、観賞用と武用の研ぎを完全に分けて請け負っているようだが、
そうせざるを得ないのも、用の美を追求する本分から若干以上に外れてしまっているからである。
名品の天正拵や、この山鳥毛一文字の拵などに見られる柄の形状(立鼓)も、
今の柄巻師がいくら真似してもどうにも再現しきれない凄みを帯びていると言われる。
刀が正真の仕事道具だった武家時代ならではの、実用に駆られた作り込みの妙技を、
その目的性に沿って再現して行く機縁に恵まれないものだから、魂のこもった復元ができない。
研ぎについても似たようなことが言える。
昔の名刀も、ただ刃紋の美しさを引き出そうとしたのではなく、その時代々々の用途に沿った
平肉の加減だとか鎬の高低だとかいった研ぎ上げ上の工夫がなされているからこそ、
現代刀がどうしても再現できない体配からの美しさを帯びていたりもする。
そしてそこにこそ、美しさばかりを追求して引き出されたというわけでもないが故に、
より一層美しい刃紋までもが見られる。名刀の手入れを請け負った研師などはぜひ、
そのあたりの心がけを、初めて仕上げを請け負った古の研師から学んでもらいたいものだ。
そうせざるを得ないのも、用の美を追求する本分から若干以上に外れてしまっているからである。
名品の天正拵や、この山鳥毛一文字の拵などに見られる柄の形状(立鼓)も、
今の柄巻師がいくら真似してもどうにも再現しきれない凄みを帯びていると言われる。
刀が正真の仕事道具だった武家時代ならではの、実用に駆られた作り込みの妙技を、
その目的性に沿って再現して行く機縁に恵まれないものだから、魂のこもった復元ができない。
研ぎについても似たようなことが言える。
昔の名刀も、ただ刃紋の美しさを引き出そうとしたのではなく、その時代々々の用途に沿った
平肉の加減だとか鎬の高低だとかいった研ぎ上げ上の工夫がなされているからこそ、
現代刀がどうしても再現できない体配からの美しさを帯びていたりもする。
そしてそこにこそ、美しさばかりを追求して引き出されたというわけでもないが故に、
より一層美しい刃紋までもが見られる。名刀の手入れを請け負った研師などはぜひ、
そのあたりの心がけを、初めて仕上げを請け負った古の研師から学んでもらいたいものだ。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u29855191...
日本刀には一定数、刀だけでなく「剣」も存在する。
戦闘用ではなく、寺社の法具として主に作成されたもの。
日本式の槍よりもその来歴が古く、槍(特に両鎬槍)の起源にもなったものと思われる。
これが結構、ヤフオクなどでも多く出回っている。
それだけ廃仏毀釈や近年の経営難で廃業してる寺が多いということ。
剣を宝具として用いたりするのは密教系の戒律が厳格な寺が主だが、
そんな寺ほど衰退し、商売にも手を出してるような生臭坊主ほど生き延びる。
戦国時代などともまた別の、文化腐敗としての乱世を象徴する出来事だといえる。
日本刀には一定数、刀だけでなく「剣」も存在する。
戦闘用ではなく、寺社の法具として主に作成されたもの。
日本式の槍よりもその来歴が古く、槍(特に両鎬槍)の起源にもなったものと思われる。
これが結構、ヤフオクなどでも多く出回っている。
それだけ廃仏毀釈や近年の経営難で廃業してる寺が多いということ。
剣を宝具として用いたりするのは密教系の戒律が厳格な寺が主だが、
そんな寺ほど衰退し、商売にも手を出してるような生臭坊主ほど生き延びる。
戦国時代などともまた別の、文化腐敗としての乱世を象徴する出来事だといえる。
寺から流出したらしい剣だけでなく、神社から流出したらしい奉納刀もたまに見る。
こちらも副業をしないとやっていけないほど食い詰めている所が多いとは聞いてるが。
実戦で功を挙げてから奉納されたものではなく、始めから奉納を目的として打ち鍛えられた
刀ともなると、非常な長寸だったり反りが高かったりして実用性が低いものも多い。
法具用の剣と同じく、実用されないことを目的として作られているわけで、
何もかもを使い捨てて止まない大量消費社会に出回るのが極めて危うい。
日本の寺社は信仰の場であると同時に、文化財保護の牙城としても大きな役割を担ってきた。
成金はおろか、並みの名家が代々伝えて行く家宝以上に厳重な保存下に置かれてきた宝物の数々。
平安時代の刀剣を秘蔵しているような所もザラにあり、比較的時代が浅くて希少価値の低いような
ものから手放すようにも心がけているとは思われるが、できればそれもなくて済んで欲しいものだ。
現代の刀剣商や愛好家には所有はおろか、目にする資格もないような輩も多いのだし。
こちらも副業をしないとやっていけないほど食い詰めている所が多いとは聞いてるが。
実戦で功を挙げてから奉納されたものではなく、始めから奉納を目的として打ち鍛えられた
刀ともなると、非常な長寸だったり反りが高かったりして実用性が低いものも多い。
法具用の剣と同じく、実用されないことを目的として作られているわけで、
何もかもを使い捨てて止まない大量消費社会に出回るのが極めて危うい。
日本の寺社は信仰の場であると同時に、文化財保護の牙城としても大きな役割を担ってきた。
成金はおろか、並みの名家が代々伝えて行く家宝以上に厳重な保存下に置かれてきた宝物の数々。
平安時代の刀剣を秘蔵しているような所もザラにあり、比較的時代が浅くて希少価値の低いような
ものから手放すようにも心がけているとは思われるが、できればそれもなくて済んで欲しいものだ。
現代の刀剣商や愛好家には所有はおろか、目にする資格もないような輩も多いのだし。
どう見ても贋物の井上真改
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d38451745...
>>103の真物と比べて明らかに刃紋や肌の鍛えの凄みに欠けるし、
鍛えが悪いせいで錆による朽ち込みまでもが入ってしまっている。
朽ち込みが入ってしまっている部分はいずれも刃鉄。
地鉄も手入れの行き届かない鍛え割れ部分等から朽ち込む場合があるが、
刃鉄のほうが炭素含有量が多いぶん、鍛錬不足で不純物の酸素が
残ったままの場合にはより朽ち込みやすいようである。
鍛えのいい刀も白錆は浮くが赤錆はほとんど出ないし、出ても根を張らない。
「どうせ研ぎに出すから」といって赤錆だらけの刀(通称赤鰯)を安く買っても
銭失いになりかねないし、鍛えが悪いせいで試し切りでもよく切れなかったりする。
不純物の少なさによる錆びにくさ故の保存性のよさ、刃鉄の硬さ故の切れ味のよさ、
そして鍛え込みの手堅さ故の見映えのよさ、あらゆる面で名刀のほうが凡刀を上回る。
故に実戦での名刀の実用を憚って、クズ刀ばかりに命を託したりするわけにもいかない。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d38451745...
>>103の真物と比べて明らかに刃紋や肌の鍛えの凄みに欠けるし、
鍛えが悪いせいで錆による朽ち込みまでもが入ってしまっている。
朽ち込みが入ってしまっている部分はいずれも刃鉄。
地鉄も手入れの行き届かない鍛え割れ部分等から朽ち込む場合があるが、
刃鉄のほうが炭素含有量が多いぶん、鍛錬不足で不純物の酸素が
残ったままの場合にはより朽ち込みやすいようである。
鍛えのいい刀も白錆は浮くが赤錆はほとんど出ないし、出ても根を張らない。
「どうせ研ぎに出すから」といって赤錆だらけの刀(通称赤鰯)を安く買っても
銭失いになりかねないし、鍛えが悪いせいで試し切りでもよく切れなかったりする。
不純物の少なさによる錆びにくさ故の保存性のよさ、刃鉄の硬さ故の切れ味のよさ、
そして鍛え込みの手堅さ故の見映えのよさ、あらゆる面で名刀のほうが凡刀を上回る。
故に実戦での名刀の実用を憚って、クズ刀ばかりに命を託したりするわけにもいかない。
朽ち込みの位置や刃こぼれの痕からして、実戦に使ったのだろうなと。
刃こぼれしてしまったものだから血痕も残したまま放置で、今に至る。
おそらく元の所有者は、贋物なのを知っててわざと用いてる。
坂本龍馬を誅殺した贋物の越後守包貞なども同様の扱いをされているし、
江戸時代まではそういう慣習があったらしいが、だからこそあえて
傷や錆にまみれてもいい贋物の刀を使いもしてたようである。
贋物の虎徹で池田屋に乗り込んだ近藤勇の事績なども見るに、
自己防衛ではなく進撃用途となると、刀が傷む確率もより高まるから、
贋物などの価値の低い刀が優先的に用いられたようである。
してみれば、当時から国宝級の名刀だった江雪左文字を、
徳川頼宣が大坂の陣の際の差料に用いていたのなどは、あくまで豊臣方の
殲滅ではなく自主的な降伏を望んでいた意思の現れだとも見て取れる。
個人の剣術を蔑んだ項羽が覇権に溺れていた太古の頃から
王道には名刀、覇道には駄刀。その因果も必ず自分自身に返ってくる。
刃こぼれしてしまったものだから血痕も残したまま放置で、今に至る。
おそらく元の所有者は、贋物なのを知っててわざと用いてる。
坂本龍馬を誅殺した贋物の越後守包貞なども同様の扱いをされているし、
江戸時代まではそういう慣習があったらしいが、だからこそあえて
傷や錆にまみれてもいい贋物の刀を使いもしてたようである。
贋物の虎徹で池田屋に乗り込んだ近藤勇の事績なども見るに、
自己防衛ではなく進撃用途となると、刀が傷む確率もより高まるから、
贋物などの価値の低い刀が優先的に用いられたようである。
してみれば、当時から国宝級の名刀だった江雪左文字を、
徳川頼宣が大坂の陣の際の差料に用いていたのなどは、あくまで豊臣方の
殲滅ではなく自主的な降伏を望んでいた意思の現れだとも見て取れる。
個人の剣術を蔑んだ項羽が覇権に溺れていた太古の頃から
王道には名刀、覇道には駄刀。その因果も必ず自分自身に返ってくる。
自分自身が命を捨てて戦うつもりでいる急先鋒の下士ともなると、
あえて名刀の佩用を避けることが多かったようではある。
土方歳三の愛刀として有名な和泉守兼定も、骨董的価値のより高い古刀の兼定ではなく、
末代の新々刀(当時の現代刀)の兼定であり、今でもそう高い評価なわけではない。
実ははるかに価値の高い初代康継の刀なども松平容保公から下賜されていたのだが、
酷使をはばかって戊辰戦争の前に友人に譲渡してしまっていたのである。
この葵御紋康継も、柄糸が擦り切れていてそれなりに実用した痕跡はあるのだが、
刃こぼれ一つなく、激戦で用いることはあえて避けられたようである。
(有名な和泉守兼定は刃こぼれだらけだったのを研ぎ直したものである)
本当は、この康継を常時佩用できるような身分となって故郷に錦を飾りたかったが、
そうとも行かず、石田三成のように最後まで名刀に固執して正宗を傷物にして
しまうような真似はすまいと、遂には手放して末代兼定と共に散っていった。
命を惜しまずとも、生きて栄華に与れる可能性もまた戦死の幾分か前までは
期待していたという新撰組隊士の意外な側面。明治以降の日本兵たちが
ろくに見習うことも許されなかった側面でもある。
あえて名刀の佩用を避けることが多かったようではある。
土方歳三の愛刀として有名な和泉守兼定も、骨董的価値のより高い古刀の兼定ではなく、
末代の新々刀(当時の現代刀)の兼定であり、今でもそう高い評価なわけではない。
実ははるかに価値の高い初代康継の刀なども松平容保公から下賜されていたのだが、
酷使をはばかって戊辰戦争の前に友人に譲渡してしまっていたのである。
この葵御紋康継も、柄糸が擦り切れていてそれなりに実用した痕跡はあるのだが、
刃こぼれ一つなく、激戦で用いることはあえて避けられたようである。
(有名な和泉守兼定は刃こぼれだらけだったのを研ぎ直したものである)
本当は、この康継を常時佩用できるような身分となって故郷に錦を飾りたかったが、
そうとも行かず、石田三成のように最後まで名刀に固執して正宗を傷物にして
しまうような真似はすまいと、遂には手放して末代兼定と共に散っていった。
命を惜しまずとも、生きて栄華に与れる可能性もまた戦死の幾分か前までは
期待していたという新撰組隊士の意外な側面。明治以降の日本兵たちが
ろくに見習うことも許されなかった側面でもある。
この遺刀の兼定よりも、>>131の康継のほうが拵の作りもだいぶ良い。
殿様どころか上士でもない身分上、金銀螺鈿や龍虎の装飾は避けてるが、
今の銀座の刀屋でもなかなか見ないぐらい上等な金物で誂えられている。
半太刀拵なのも、容保公らへの謁見や登城用途があったからだと思われる。
それを戊辰戦争の前に手放したということは、もう出世を諦めていたということ。
自らの戦闘責任が上司に転嫁されることを避ける目的も兼ねて。
兼定は帯に差すための栗型が付いてるが、康継は軍刀のように佩環が一つだけ付いている。
土方は後期には洋装で銃器も携帯していたというし、決して旧態依然とした武家文化
ばかりに固執していたわけではない。軍刀やサーベルよりも遥かに上質でセンスのいい
拵をまとった康継を佩く土方らが次代の為政者として日本に君臨していたとすれば、
それがどれほどマシな影響を近代以降の日本に与えていたことだろうか。
殿様どころか上士でもない身分上、金銀螺鈿や龍虎の装飾は避けてるが、
今の銀座の刀屋でもなかなか見ないぐらい上等な金物で誂えられている。
半太刀拵なのも、容保公らへの謁見や登城用途があったからだと思われる。
それを戊辰戦争の前に手放したということは、もう出世を諦めていたということ。
自らの戦闘責任が上司に転嫁されることを避ける目的も兼ねて。
兼定は帯に差すための栗型が付いてるが、康継は軍刀のように佩環が一つだけ付いている。
土方は後期には洋装で銃器も携帯していたというし、決して旧態依然とした武家文化
ばかりに固執していたわけではない。軍刀やサーベルよりも遥かに上質でセンスのいい
拵をまとった康継を佩く土方らが次代の為政者として日本に君臨していたとすれば、
それがどれほどマシな影響を近代以降の日本に与えていたことだろうか。
越前康継こそは、虎徹や真改や助広忠吉以上の「新刀の旗手」であり、
将軍家御用鍛治として徳川時代の刀の最も規範的なあり方を打ち出している。
その最大の特徴が、戦国の世が終わって用済みになった銃砲などを溶かした鉄を
再利用して刀を鍛えている点。これに倣って他の刀工たちも廃棄された屑鉄などを
刀の素材に用い始めた(もちろん名刀のためにはそれなりの鉄を選別するなどしながら)。
これが幕末に水心子正秀らによって批判され、以降はまた玉鋼からの鍛刀が
心がけられるようになり、今やその条件を満たさなければ日本刀として認められず、
作刀が法的にも許可されないまでになってしまっている。
つまり、江戸時代の刀も現代の尺度では日本刀と認められないものが多いわけだが、
再利用鉄からの鍛刀が認められたことで江戸時代の刀の品質も安定したし、
そのおかげで刃紋の描き込みの工夫なども相当に進化した。鋳鉄技術と共に
鋳銅技術なども発達して、極めて芸術性に富む刀装具や金工芸が生み出されるようになった。
古刀の復刻ばかりを目指している現代よりも遥かに先進的な作刀姿勢だし、
そもそも古刀時代にも鍛刀以外の冶金技術が未熟であるが故の工夫がいろいろと
行われていたはずなのだから、現代の刀工の作刀姿勢のほうが異常というべきである。
将軍家御用鍛治として徳川時代の刀の最も規範的なあり方を打ち出している。
その最大の特徴が、戦国の世が終わって用済みになった銃砲などを溶かした鉄を
再利用して刀を鍛えている点。これに倣って他の刀工たちも廃棄された屑鉄などを
刀の素材に用い始めた(もちろん名刀のためにはそれなりの鉄を選別するなどしながら)。
これが幕末に水心子正秀らによって批判され、以降はまた玉鋼からの鍛刀が
心がけられるようになり、今やその条件を満たさなければ日本刀として認められず、
作刀が法的にも許可されないまでになってしまっている。
つまり、江戸時代の刀も現代の尺度では日本刀と認められないものが多いわけだが、
再利用鉄からの鍛刀が認められたことで江戸時代の刀の品質も安定したし、
そのおかげで刃紋の描き込みの工夫なども相当に進化した。鋳鉄技術と共に
鋳銅技術なども発達して、極めて芸術性に富む刀装具や金工芸が生み出されるようになった。
古刀の復刻ばかりを目指している現代よりも遥かに先進的な作刀姿勢だし、
そもそも古刀時代にも鍛刀以外の冶金技術が未熟であるが故の工夫がいろいろと
行われていたはずなのだから、現代の刀工の作刀姿勢のほうが異常というべきである。
水心子正秀に発する幕末期の新々刀の興隆は、その経緯上、
玉鋼からの作刀を特徴としているわけだが、すでに絶えるとまで行かずとも
衰退していた作刀法を無理に復刻したせいか、全体的に鍛えが入りすぎて
地鉄までもが白っぽく、曲がらないが折れやすいという弱点を帯びている。
実際に、正秀の弟子の大慶直胤の刀が試し切りで折れた等の逸話も残されている。
現代刀もこの頃からの作刀法に倣っているものだから、同様の危険がある。
古刀時代の製鉄法と、新刀時代の鍛刀法を掛け合わせるという無理が
刀の進化はおろか、江戸時代並みの作刀品質の達成すらをも阻んでいる。
満鉄刀などの一部の軍刀のほうがまだ機能が高いとされているのも故あってのこと。
(これも玉鋼から鍛えられていないので日刀保の品質鑑定には合格しないが)
いっそのことチタンやカーボンナノチューブの配合でも試してみたほうが、
まだ昔の名刀の品質に近づける可能性が高い。そのためには法改正から必要となるが。
玉鋼からの作刀を特徴としているわけだが、すでに絶えるとまで行かずとも
衰退していた作刀法を無理に復刻したせいか、全体的に鍛えが入りすぎて
地鉄までもが白っぽく、曲がらないが折れやすいという弱点を帯びている。
実際に、正秀の弟子の大慶直胤の刀が試し切りで折れた等の逸話も残されている。
現代刀もこの頃からの作刀法に倣っているものだから、同様の危険がある。
古刀時代の製鉄法と、新刀時代の鍛刀法を掛け合わせるという無理が
刀の進化はおろか、江戸時代並みの作刀品質の達成すらをも阻んでいる。
満鉄刀などの一部の軍刀のほうがまだ機能が高いとされているのも故あってのこと。
(これも玉鋼から鍛えられていないので日刀保の品質鑑定には合格しないが)
いっそのことチタンやカーボンナノチューブの配合でも試してみたほうが、
まだ昔の名刀の品質に近づける可能性が高い。そのためには法改正から必要となるが。
[YouTubeで再生]
古刀期の製鉄法+江戸時代の鍛刀法ではどうしても刀が硬く脆くなり過ぎるものだから、
焼き入れの後にまた焼き戻すことで刀身の粘りを稼いでいる。(45:08〜)
もちろん極力そうならないように心がけてはいるだろうが、
焼き戻したぶんだけ切れ味は落ちる。何かこんなイタチごっこ状態ではない、
一回の焼き入れだけで最高の斬れ味と粘り強さが完成する鍛刀法があったはずである。
粗悪刀の量産地と化してしまう以前の大和や、洪水で壊滅する以前の備前、
正宗の鍛刀法が辛うじて正伝されていた頃の相州、・・・何かがあったはずだ。
現代どころか、江戸時代の刀工すらもが想像もつかなかったような何らかの手法が。
それが再発見できないうちは、玉鋼からの作刀も一旦取りやめたほうが吉だろう。
満鉄刀のような工業鋼からの鍛造でも、品質が良ければ可としたほうが。
古刀期の製鉄法+江戸時代の鍛刀法ではどうしても刀が硬く脆くなり過ぎるものだから、
焼き入れの後にまた焼き戻すことで刀身の粘りを稼いでいる。(45:08〜)
もちろん極力そうならないように心がけてはいるだろうが、
焼き戻したぶんだけ切れ味は落ちる。何かこんなイタチごっこ状態ではない、
一回の焼き入れだけで最高の斬れ味と粘り強さが完成する鍛刀法があったはずである。
粗悪刀の量産地と化してしまう以前の大和や、洪水で壊滅する以前の備前、
正宗の鍛刀法が辛うじて正伝されていた頃の相州、・・・何かがあったはずだ。
現代どころか、江戸時代の刀工すらもが想像もつかなかったような何らかの手法が。
それが再発見できないうちは、玉鋼からの作刀も一旦取りやめたほうが吉だろう。
満鉄刀のような工業鋼からの鍛造でも、品質が良ければ可としたほうが。
江戸時代から明治に移行するに際して、文明開化の直接的な元手になったのも、
日本刀の鍛造技術よりは、製鉄技術のほうである。
鍛刀はあくまで「工芸」の領域であり、「工業」とは規模が違い過ぎる。
製鉄は古来より重工業なみの規模で行われて来たものだから、
近代化文明の構築のためにもたやすく技術が流用された。
日本製の工業製品が「高品質」と言われ始めたのも、高度経済成長期以降のことであり、
それまではアメリカ製にも劣る粗悪品扱いがザラだったのも、
日本刀の工芸技術までもが近代工業に流用されていたわけではないから。
刀工が過去の遺物扱いされ始めて、手先が最上級に器用な人間までもが工業開発に
「職人」として動員され始めたことで、MADE IN JAPANもハイブランド化したが、
日本刀ほど普遍性のある製品を作っているわけでもないために、職人たちも
冷遇されて段々と数を減らしたり、海外に引き抜かれたりしていってる始末。
今すべきなのは、日本刀でもその他の伝統工芸でもなんでもいいから、
工業と工芸の分裂の修復。それによる名工たちの権威の復興。
刀に関して言えば、満鉄刀のような時代に見合った名刀の精鍛の心がけが
それに当たることになるだろう。もちろんたたら製鉄から始める
古刀風の鍛刀もそれはそれで心がけられ続けて行けばいいのだが。
日本刀の鍛造技術よりは、製鉄技術のほうである。
鍛刀はあくまで「工芸」の領域であり、「工業」とは規模が違い過ぎる。
製鉄は古来より重工業なみの規模で行われて来たものだから、
近代化文明の構築のためにもたやすく技術が流用された。
日本製の工業製品が「高品質」と言われ始めたのも、高度経済成長期以降のことであり、
それまではアメリカ製にも劣る粗悪品扱いがザラだったのも、
日本刀の工芸技術までもが近代工業に流用されていたわけではないから。
刀工が過去の遺物扱いされ始めて、手先が最上級に器用な人間までもが工業開発に
「職人」として動員され始めたことで、MADE IN JAPANもハイブランド化したが、
日本刀ほど普遍性のある製品を作っているわけでもないために、職人たちも
冷遇されて段々と数を減らしたり、海外に引き抜かれたりしていってる始末。
今すべきなのは、日本刀でもその他の伝統工芸でもなんでもいいから、
工業と工芸の分裂の修復。それによる名工たちの権威の復興。
刀に関して言えば、満鉄刀のような時代に見合った名刀の精鍛の心がけが
それに当たることになるだろう。もちろんたたら製鉄から始める
古刀風の鍛刀もそれはそれで心がけられ続けて行けばいいのだが。
日本刀を過去の遺物ではなく、進化し続ける武器として見るなら、
新刀の鍛刀法と古刀の製鉄法を掛け合わせるなんていう、
木に竹を継ぐような製法をしている現代刀などよりも、
満鉄刀のほうがよっぽど「正統の日本刀」に位置するものである。
もちろん、これで日本刀の進化が極まっているなんていうことはない。
現代の製鉄技術とそれに見合った鍛刀を試みるのなら必ずや、
さらに上の刀が作り得るはずである。
工作機械用などに作られた刃物鋼は大体がもろ過ぎるし、
車体用などのスプリング鋼はやわ過ぎる。ステンレス鋼に代表される合金鋼は
硬度が稼ぎにくい上に硬め過ぎると割れやすくなるなど、
個々の現代鋼に焦点を当ててみれば結局、用途が違いすぎて即座に
作刀に回せるようなものは見つからないが、製鋼業者が真摯に
日本刀の進化に取り組むのであれば、少なくとも満鉄刀超えぐらいは容易だろう。
そんな心がけを持てる人間がほとんどいない、
特に文弱高学歴がほとんどな経営陣に皆無なのはわかってる。
なんとか国営化とまではいかない動態保存の範囲内でできればいいね。^^
新刀の鍛刀法と古刀の製鉄法を掛け合わせるなんていう、
木に竹を継ぐような製法をしている現代刀などよりも、
満鉄刀のほうがよっぽど「正統の日本刀」に位置するものである。
もちろん、これで日本刀の進化が極まっているなんていうことはない。
現代の製鉄技術とそれに見合った鍛刀を試みるのなら必ずや、
さらに上の刀が作り得るはずである。
工作機械用などに作られた刃物鋼は大体がもろ過ぎるし、
車体用などのスプリング鋼はやわ過ぎる。ステンレス鋼に代表される合金鋼は
硬度が稼ぎにくい上に硬め過ぎると割れやすくなるなど、
個々の現代鋼に焦点を当ててみれば結局、用途が違いすぎて即座に
作刀に回せるようなものは見つからないが、製鋼業者が真摯に
日本刀の進化に取り組むのであれば、少なくとも満鉄刀超えぐらいは容易だろう。
そんな心がけを持てる人間がほとんどいない、
特に文弱高学歴がほとんどな経営陣に皆無なのはわかってる。
なんとか国営化とまではいかない動態保存の範囲内でできればいいね。^^
贋物らしき虎徹
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c75582135...
茎尻が虎徹特有の入山形と刃上栗尻の中間的な形状になってない、
銘が間伸びしていていかにも図像を模写した風であるなど、
それなりに贋物らしい特徴はあるが、>>129の井上真改の贋物と比べると
よっぽどうまく作ってあるし、刃紋からもそこそこの名刀であると知れる。
新撰組が池田屋を襲撃した際に、ほとんどの隊士たちの刀が刃こぼれや折損に
見舞われた一方で、局長近藤の虎徹銘の刀だけは傷一つなかったという。
それも贋物だとしても良くできた、このような刀ではなかったか。
一説には、源清麿の作だったとも言われる。
清麿の刀は新々刀としては例外的なほどに地鉄が黒くて靭性が高い。
一見すると新々刀というよりは、非常に保存状態のいい新刀のようにも見える。
これもそれに似た特徴があるから、虎徹ではないにしても清麿やその系統の
刀工の作品かもしれない。日刀保は偽銘刀を問答無用で不合格にするので、
鑑定は一度不合格で偽銘を確認の後に偽銘を消して再提出の手間がかかるが。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c75582135...
茎尻が虎徹特有の入山形と刃上栗尻の中間的な形状になってない、
銘が間伸びしていていかにも図像を模写した風であるなど、
それなりに贋物らしい特徴はあるが、>>129の井上真改の贋物と比べると
よっぽどうまく作ってあるし、刃紋からもそこそこの名刀であると知れる。
新撰組が池田屋を襲撃した際に、ほとんどの隊士たちの刀が刃こぼれや折損に
見舞われた一方で、局長近藤の虎徹銘の刀だけは傷一つなかったという。
それも贋物だとしても良くできた、このような刀ではなかったか。
一説には、源清麿の作だったとも言われる。
清麿の刀は新々刀としては例外的なほどに地鉄が黒くて靭性が高い。
一見すると新々刀というよりは、非常に保存状態のいい新刀のようにも見える。
これもそれに似た特徴があるから、虎徹ではないにしても清麿やその系統の
刀工の作品かもしれない。日刀保は偽銘刀を問答無用で不合格にするので、
鑑定は一度不合格で偽銘を確認の後に偽銘を消して再提出の手間がかかるが。
今の刀剣愛好家は大体、偽銘を蛇蝎のように忌み嫌うし、日刀保も
それに準じて偽銘刀を「偽銘なれども◯◯」という鑑定対象にすらしない。
しかし、江戸時代には偽銘も屑鉄からの鍛刀などと同じく、
一種の文化習俗として定着していたようであり、
乱戦や武道練習に気兼ねなく使える消耗品として重宝されていたようである。
刀剣が過去の遺物扱いではなく、人間社会に息づいているのであれば
そのような刀の用途も当然あり得るのであり、それでこそ剣豪なども生じ得る。
木刀や竹刀はおろか、合金製の模造刀とも根本的に異なる真剣の振り心地。
ちょっと体験してみる程度では、腕が未知の筋肉痛に見舞われるばかりで要領を
掴むこともできず、それなりに回数を重ねることでやっとその意義を帯びてくる。
そこまで行き着くためには名刀ではなく、数打ちの刀でも我慢すべきだし、
拵も傷んでいい程度の低級品で済ますべき。美術刀剣の愛好という観点からは
モノの数にも入らないようなクズ刀でも、そういった用途には絶好となる。
すでに達人の域に達していただろう新撰組の局長でも、まだ偽銘刀を用いてた。
相手が名刀のサビにする価値もないような鼠賊だったということもあろうが、
名刀を佩くに値する大丈夫となる道は長く険しいものであるともわきまえるべき。
それに準じて偽銘刀を「偽銘なれども◯◯」という鑑定対象にすらしない。
しかし、江戸時代には偽銘も屑鉄からの鍛刀などと同じく、
一種の文化習俗として定着していたようであり、
乱戦や武道練習に気兼ねなく使える消耗品として重宝されていたようである。
刀剣が過去の遺物扱いではなく、人間社会に息づいているのであれば
そのような刀の用途も当然あり得るのであり、それでこそ剣豪なども生じ得る。
木刀や竹刀はおろか、合金製の模造刀とも根本的に異なる真剣の振り心地。
ちょっと体験してみる程度では、腕が未知の筋肉痛に見舞われるばかりで要領を
掴むこともできず、それなりに回数を重ねることでやっとその意義を帯びてくる。
そこまで行き着くためには名刀ではなく、数打ちの刀でも我慢すべきだし、
拵も傷んでいい程度の低級品で済ますべき。美術刀剣の愛好という観点からは
モノの数にも入らないようなクズ刀でも、そういった用途には絶好となる。
すでに達人の域に達していただろう新撰組の局長でも、まだ偽銘刀を用いてた。
相手が名刀のサビにする価値もないような鼠賊だったということもあろうが、
名刀を佩くに値する大丈夫となる道は長く険しいものであるともわきまえるべき。
「近藤勇は自らの愛刀を本物の虎徹だと信じ込んでいた」
とも言われているが、これには同意しない。
副長の土方に「店なんかに本物の虎徹が置いてあるわけがないだろう」
とたしなめながらもあえて購入したというあたり、いかにも確信犯めいてる。
その後も事あるごとに贋物だと揶揄されながら、「いやこれは本物だ」と
洒落で言い張るようなことがあったのではないかとは思われる。
「虎徹銘が様になるほど良くできた偽銘刀」だったらしいのは>>138にも書いた通り。
松平公から真物の葵御紋康継を戴くほどの名声を博しながらも、
実戦ではあえて贋物の虎徹や末代の兼定を用いていたあたりに、
百姓上がりの傭兵集団の頭領や副頭領としての遠慮がうかがえるがーー
実は清麿だった可能性のある偽虎徹、末代といえども和泉守兼定、
それはそれで最高峰に準ずる程度の価値は帯びているあたりにも矜持を感じる。
決して単なる捨て駒扱いばかりに殉じる気もなかったという。
とも言われているが、これには同意しない。
副長の土方に「店なんかに本物の虎徹が置いてあるわけがないだろう」
とたしなめながらもあえて購入したというあたり、いかにも確信犯めいてる。
その後も事あるごとに贋物だと揶揄されながら、「いやこれは本物だ」と
洒落で言い張るようなことがあったのではないかとは思われる。
「虎徹銘が様になるほど良くできた偽銘刀」だったらしいのは>>138にも書いた通り。
松平公から真物の葵御紋康継を戴くほどの名声を博しながらも、
実戦ではあえて贋物の虎徹や末代の兼定を用いていたあたりに、
百姓上がりの傭兵集団の頭領や副頭領としての遠慮がうかがえるがーー
実は清麿だった可能性のある偽虎徹、末代といえども和泉守兼定、
それはそれで最高峰に準ずる程度の価値は帯びているあたりにも矜持を感じる。
決して単なる捨て駒扱いばかりに殉じる気もなかったという。
近藤勇も真剣での殺し合いにはめっぽう強かったのに、竹刀剣道はそれほどでもなかったというし、
土方歳三も天然理心流の正伝からはかけ離れた刀の握り方をしていたことが、
愛刀の柄糸の擦り切れ方からうかがえるという。
それだけ真剣と木刀や竹刀とでは、扱いの勝手がかけ離れているということ。
竹刀を考案した新陰流も当初は、その点を理解して当てっこ剣道に耽溺することを戒めていたというし、
今の剣道の直接的な源流に当たる撃剣も、松平定信が武士たちの肺活量の鍛錬のために奨励し始めた
ものだという。それだけでは真剣での戦闘に応用できないのは始めから知られていたことであり、
当てっこ剣道で勝っただけで偉ぶるような身の程知らずも昔はいなかったのである。
では、真剣を用いた鍛錬も志すとして、それが束売りのクズ刀での稽古ばかりに終始するようでは、
どうしてもモチベーションに欠ける。いざという時にはそれなりの刀を持って戦いに臨むという
想定や用意があって初めて、実際に人を斬り殺す訳にもいかない真剣での稽古にも身が入り始める。
名刀で真剣勝負をするようなことは、昔の武士といえども人生に一度や二度あるかないかといった
程度だったが、それでもそのわずかな機会のために、竹刀から木刀、刃引き(模造刀)から真剣へといった
迫真の強度を変えた全ての剣術稽古を欠かさないことこそが、真の剣道であり、武道であり、武士道であった。
机上の空論にも鉄砲玉状態の殺し合いにも振り切れない、中庸の武こそは日本の武道だったのである。
土方歳三も天然理心流の正伝からはかけ離れた刀の握り方をしていたことが、
愛刀の柄糸の擦り切れ方からうかがえるという。
それだけ真剣と木刀や竹刀とでは、扱いの勝手がかけ離れているということ。
竹刀を考案した新陰流も当初は、その点を理解して当てっこ剣道に耽溺することを戒めていたというし、
今の剣道の直接的な源流に当たる撃剣も、松平定信が武士たちの肺活量の鍛錬のために奨励し始めた
ものだという。それだけでは真剣での戦闘に応用できないのは始めから知られていたことであり、
当てっこ剣道で勝っただけで偉ぶるような身の程知らずも昔はいなかったのである。
では、真剣を用いた鍛錬も志すとして、それが束売りのクズ刀での稽古ばかりに終始するようでは、
どうしてもモチベーションに欠ける。いざという時にはそれなりの刀を持って戦いに臨むという
想定や用意があって初めて、実際に人を斬り殺す訳にもいかない真剣での稽古にも身が入り始める。
名刀で真剣勝負をするようなことは、昔の武士といえども人生に一度や二度あるかないかといった
程度だったが、それでもそのわずかな機会のために、竹刀から木刀、刃引き(模造刀)から真剣へといった
迫真の強度を変えた全ての剣術稽古を欠かさないことこそが、真の剣道であり、武道であり、武士道であった。
机上の空論にも鉄砲玉状態の殺し合いにも振り切れない、中庸の武こそは日本の武道だったのである。
虎徹と正宗は、あまりにも後代の人間が模倣の対象にし過ぎたせいで、
画像で見ただけではありきたりな姿のように思えていまいちパッとしない。
もちろん現物を見れば名刀中の名刀であることが一目瞭然なのだが、
博物館や超高級店のような特殊な場所でしかまず目にできないので、
これまた平常心でその素晴らしさを感じ取るのが難しい。
古刀で正宗以上、新刀で虎徹以上の刀はない扱いであるからには、
その期待を持って見ようとしたにもかかわらず、自らの眼力不足や勉強不足のせいで
いまいちそこまでの凄さを見出せないということもあろうから、
そういう場合にはもっと自分のほうが経験を重ねておくべきだろう。
日本刀の最高峰であるからには、それを実用するようなことも極めて憚られる。
実際に正宗を用いて傷物にした石田三成は敗死し、正宗を佩用するも主力武器は
槍として実用しなかった本田忠勝のほうが最強最勝の武将となったからには、
使わないで済むようなシチュエーションを守ることが勝利の決め手になるとも言える。
「最高の刀はその美しさで実用する思いを萎えさせる」とも言われるが、
ここまで行くと名刀の形骸化を助長しかねないために、これまた同意はできない。
実戦をも想定し、あくまで勝利を企図する上で、結果的に実用しないことが勝機に繋がる、
それが名刀中の名刀であるには違いなく、故により強力な重火器が溢れかえっている
現代においても、名刀の存在価値が危ぶまれるようなことはないのである。
画像で見ただけではありきたりな姿のように思えていまいちパッとしない。
もちろん現物を見れば名刀中の名刀であることが一目瞭然なのだが、
博物館や超高級店のような特殊な場所でしかまず目にできないので、
これまた平常心でその素晴らしさを感じ取るのが難しい。
古刀で正宗以上、新刀で虎徹以上の刀はない扱いであるからには、
その期待を持って見ようとしたにもかかわらず、自らの眼力不足や勉強不足のせいで
いまいちそこまでの凄さを見出せないということもあろうから、
そういう場合にはもっと自分のほうが経験を重ねておくべきだろう。
日本刀の最高峰であるからには、それを実用するようなことも極めて憚られる。
実際に正宗を用いて傷物にした石田三成は敗死し、正宗を佩用するも主力武器は
槍として実用しなかった本田忠勝のほうが最強最勝の武将となったからには、
使わないで済むようなシチュエーションを守ることが勝利の決め手になるとも言える。
「最高の刀はその美しさで実用する思いを萎えさせる」とも言われるが、
ここまで行くと名刀の形骸化を助長しかねないために、これまた同意はできない。
実戦をも想定し、あくまで勝利を企図する上で、結果的に実用しないことが勝機に繋がる、
それが名刀中の名刀であるには違いなく、故により強力な重火器が溢れかえっている
現代においても、名刀の存在価値が危ぶまれるようなことはないのである。
備前刀には、正宗や虎徹以上に見るからに優美な作品が多いが、
これは鎌倉以前の太刀様式の典型的な作風になっているからで、
反りの高さや鎬の低さ、切っ先の細さなどが諸手刀法にはあまり向かない。
元寇の戦いで敵の革鎧を突き通せなかったり帽子が欠けたりした経験から、
日本刀のより一層の強化を図ったのが相州正宗であり、
幾分かの面において正宗は確かに備前刀の進化系ともなっている。
その分、正宗以降の刀はその見た目からして剛毅さを増した。
それもまた一種の美しさであるとは言えるが、女性的な優美さでは幾分か劣る。
(備前刀でも室町以降の祐定などはこの方向に作風が寄っているが)
刀に性別はないのだから、美しさが男性的なのも女性的なのも等しく美しさには違いない。
ただ、人間の男が肉体的な美しさを追求することが悪趣味に転じやすいのと比べると、
刀が男性的に美しいことには何らの嫌味ったらしさもなく、それこそが己が肉体以上に、
偉大な男にとっての身代とすべき美しさであるようにも見受けられる。
刀で革鎧を突き通すということも、男の膂力でなければ務まらぬ話。
それが女ではなく男の強さを象徴するものとなるのは筋肉などとも変わらない。
これは鎌倉以前の太刀様式の典型的な作風になっているからで、
反りの高さや鎬の低さ、切っ先の細さなどが諸手刀法にはあまり向かない。
元寇の戦いで敵の革鎧を突き通せなかったり帽子が欠けたりした経験から、
日本刀のより一層の強化を図ったのが相州正宗であり、
幾分かの面において正宗は確かに備前刀の進化系ともなっている。
その分、正宗以降の刀はその見た目からして剛毅さを増した。
それもまた一種の美しさであるとは言えるが、女性的な優美さでは幾分か劣る。
(備前刀でも室町以降の祐定などはこの方向に作風が寄っているが)
刀に性別はないのだから、美しさが男性的なのも女性的なのも等しく美しさには違いない。
ただ、人間の男が肉体的な美しさを追求することが悪趣味に転じやすいのと比べると、
刀が男性的に美しいことには何らの嫌味ったらしさもなく、それこそが己が肉体以上に、
偉大な男にとっての身代とすべき美しさであるようにも見受けられる。
刀で革鎧を突き通すということも、男の膂力でなければ務まらぬ話。
それが女ではなく男の強さを象徴するものとなるのは筋肉などとも変わらない。
鎌倉期までの太刀様式の備前刀や、ド派手な刃紋の大坂新刀のほうが、
正宗や虎徹よりも見た目の美しさの分かりやすさではよっぽどまさる。
ただ、それが機能美としてもより優位というわけではなく、また全く機能美ではない
というわけでもない、一般的な刀の用途からすれば「特殊な機能美」に当たるものである。
湾刀や大乱れ刃を玄人ぶって好まない人間もいるが、そのうちの何人が、
反りや刃紋の尋常な名刀の価値を本当の意味で計り知っているであろうか?
武家時代までの人間がそのような刀の価値を知るのは、刀が実用されていた世相故に
容易だったろうが、現代ともなると形骸化した技法の居合抜刀稽古がせいぜい関の山。
それでも見た目に美々しすぎる刀を忌み避けたりするのは、ただの見栄ではないか。
革鎧をも突き通し、三つ胴四つ胴をものともしない切れ味を稼ぐ、
そのための作り込みからの機能美に通暁している人間などは、実はそう多くあるまい。
正宗や虎徹も名ばかりの独り歩き状態で、本当にその美しさに惚れている人間などはもう。
正宗や虎徹よりも見た目の美しさの分かりやすさではよっぽどまさる。
ただ、それが機能美としてもより優位というわけではなく、また全く機能美ではない
というわけでもない、一般的な刀の用途からすれば「特殊な機能美」に当たるものである。
湾刀や大乱れ刃を玄人ぶって好まない人間もいるが、そのうちの何人が、
反りや刃紋の尋常な名刀の価値を本当の意味で計り知っているであろうか?
武家時代までの人間がそのような刀の価値を知るのは、刀が実用されていた世相故に
容易だったろうが、現代ともなると形骸化した技法の居合抜刀稽古がせいぜい関の山。
それでも見た目に美々しすぎる刀を忌み避けたりするのは、ただの見栄ではないか。
革鎧をも突き通し、三つ胴四つ胴をものともしない切れ味を稼ぐ、
そのための作り込みからの機能美に通暁している人間などは、実はそう多くあるまい。
正宗や虎徹も名ばかりの独り歩き状態で、本当にその美しさに惚れている人間などはもう。
たたら製鉄における風送りが機械化されていて、完全な人力だった頃とは加減が異なるとか、
機械ハンマーによる鍛刀はやたらと地鉄が硬くなり過ぎるとか、機械化の弊害も多い。
伝統的製法と先進的製法を切り分けているのならともかく、
表向きは伝統を守るという体裁でいながら、要所要所でローコスト化目的の機械化を挟む。
まさに「最低限伝承されていってるだけマシ」という状態。
明治から戦前にかけても、過度の機械化が試みられて伝統技法が蔑ろにされ、
刃紋の美術性に欠けすぎる刀ばかりが打たれたという(>>137の満鉄刀もその内だろう)。
これはこれで問題だから、伝統と進化の両道を庇護して行く途こそがあって然るべき。
古刀はすでに研ぎ細っているものがほとんどなのだから、いくら名刀といえども
今の体配をそのまま参考にするような真似は避けるべきというのも聞いてみれば当然のこと。
古の偉大な技工の再現のためにこそ、新たな工夫が加味されて行く必要もまたある。
機械ハンマーによる鍛刀はやたらと地鉄が硬くなり過ぎるとか、機械化の弊害も多い。
伝統的製法と先進的製法を切り分けているのならともかく、
表向きは伝統を守るという体裁でいながら、要所要所でローコスト化目的の機械化を挟む。
まさに「最低限伝承されていってるだけマシ」という状態。
明治から戦前にかけても、過度の機械化が試みられて伝統技法が蔑ろにされ、
刃紋の美術性に欠けすぎる刀ばかりが打たれたという(>>137の満鉄刀もその内だろう)。
これはこれで問題だから、伝統と進化の両道を庇護して行く途こそがあって然るべき。
古刀はすでに研ぎ細っているものがほとんどなのだから、いくら名刀といえども
今の体配をそのまま参考にするような真似は避けるべきというのも聞いてみれば当然のこと。
古の偉大な技工の再現のためにこそ、新たな工夫が加味されて行く必要もまたある。
賞賛としても中傷としても根拠がなさ過ぎて、意味が認められないな。
研師のインタビューも読んだが、研ぎの技術は明らかに今のほうが進歩しているという。
ロウソクの灯りを頼りにしていた昔と比べて、電気照明に頼れるのが大変な助けになり、
研ぎ跡一つない美麗な仕上げや、偽の刃紋を作ることまでもが今の技術なら容易だという。
拵の塗りなども昔のほうがムラがあるものが多い一方、今のほうが高水準の工作精度が要求されている。
実は昔の日本のほうが、力を入れる分野とその必要のない分野のメリハリが効いていて、
決して誰しもが最高の仕事を要求される「(一億)総活躍社会」などではなかったのである。
これは、何事にかけてもランク分けが重んじられていた封建社会ならではの現象でもある。
刀工にしろ研師にしろ鞘師にしろ、将軍大名御用達ともなれば最高の品質を要求される一方、
下士や平民が相手ならそこまで行かずとも良いという、緩急の許容が普及していたが故の所産。
激安チェーンの外食屋でも最高のサービスが要求されるなんてのは、海外はおろか、昔の日本にも
なかったことであり、八公二民の苛政を敷いていたような暴君に支配されている時代故の奇事である。
ロウソクの灯りを頼りにしていた昔と比べて、電気照明に頼れるのが大変な助けになり、
研ぎ跡一つない美麗な仕上げや、偽の刃紋を作ることまでもが今の技術なら容易だという。
拵の塗りなども昔のほうがムラがあるものが多い一方、今のほうが高水準の工作精度が要求されている。
実は昔の日本のほうが、力を入れる分野とその必要のない分野のメリハリが効いていて、
決して誰しもが最高の仕事を要求される「(一億)総活躍社会」などではなかったのである。
これは、何事にかけてもランク分けが重んじられていた封建社会ならではの現象でもある。
刀工にしろ研師にしろ鞘師にしろ、将軍大名御用達ともなれば最高の品質を要求される一方、
下士や平民が相手ならそこまで行かずとも良いという、緩急の許容が普及していたが故の所産。
激安チェーンの外食屋でも最高のサービスが要求されるなんてのは、海外はおろか、昔の日本にも
なかったことであり、八公二民の苛政を敷いていたような暴君に支配されている時代故の奇事である。
元々、日本製といえば粗悪品の代名詞だったのが、
バブル期以降に高品質の代名詞に成り代わったのも、
工匠間の封建体質がその時点で瓦解したからのようである。
大量生産大量消費の、ボールペン一つに至るまで高品質の限りを尽くす。
それにより確かに日本製も人気を博したが、古来の日本の伝統工芸とは
根本的に異質なものだし、そのせいでの弊害も多く来している。
粗製乱造にかけては中国がそのシェアを奪い、
わざわざ今でも日本で作られる製品が一部に限定され出したのは、
日本の産業の先祖返りという点からもむしろ好ましいことである。
駄目なのは、それが日本刀の刀身級に突き抜けて高級な製品まで対象としてはいないこと。
ひどい所では、100円ショップの商品が多数日本製化しているなんてのもある。
精魂込めて作り上げるに値するものとそうでないものの分別を損ねてしまった禍根を
修復するためには、製造業の個別的な努力だけではない済まない所も当然あるだろう。
勤労姿勢の緩急の許容によって、平民の疲弊による少子化が解消されると共に、
力を入れるべき製造業のより一層の高級化も図られる。一粒で二度も三度もおいしい
案ではあるが、政治から換えて行かないことには務まらないことでもあるに違いない。
バブル期以降に高品質の代名詞に成り代わったのも、
工匠間の封建体質がその時点で瓦解したからのようである。
大量生産大量消費の、ボールペン一つに至るまで高品質の限りを尽くす。
それにより確かに日本製も人気を博したが、古来の日本の伝統工芸とは
根本的に異質なものだし、そのせいでの弊害も多く来している。
粗製乱造にかけては中国がそのシェアを奪い、
わざわざ今でも日本で作られる製品が一部に限定され出したのは、
日本の産業の先祖返りという点からもむしろ好ましいことである。
駄目なのは、それが日本刀の刀身級に突き抜けて高級な製品まで対象としてはいないこと。
ひどい所では、100円ショップの商品が多数日本製化しているなんてのもある。
精魂込めて作り上げるに値するものとそうでないものの分別を損ねてしまった禍根を
修復するためには、製造業の個別的な努力だけではない済まない所も当然あるだろう。
勤労姿勢の緩急の許容によって、平民の疲弊による少子化が解消されると共に、
力を入れるべき製造業のより一層の高級化も図られる。一粒で二度も三度もおいしい
案ではあるが、政治から換えて行かないことには務まらないことでもあるに違いない。
http://ginza.choshuya.co.jp/sale/stand/index_stand.ht...
うちに、これとほぼ同等の紫檀製の太刀掛があるんだが、
時代劇ブームのあった1970年代後半に量産されたものらしく、
当時の新聞にくるまれて専用の段ボール箱に入れられてた。
接合部とかもそれなりにしっかり作られているんだが、塗りは結構ムラがある。
当時はまだ紫檀もそんなに稀少ではなかったらしく、雑な所は雑に作られてる。
金銀螺鈿の施された大名道具の太刀掛なんかより現代建築にも合うし、
結構気に入っている。塗りムラも一種の景色ぐらいに思えばどうということもない。
日本の工業製品が軒並み高品質化する直前ごろに作られた、
最後の昔風な制作体制の伝統工芸。太刀掛ならこれぐらいでも構わない。
製作の無事を神社や神棚に祈願するほどの物品はまた別にあったのだから。
うちに、これとほぼ同等の紫檀製の太刀掛があるんだが、
時代劇ブームのあった1970年代後半に量産されたものらしく、
当時の新聞にくるまれて専用の段ボール箱に入れられてた。
接合部とかもそれなりにしっかり作られているんだが、塗りは結構ムラがある。
当時はまだ紫檀もそんなに稀少ではなかったらしく、雑な所は雑に作られてる。
金銀螺鈿の施された大名道具の太刀掛なんかより現代建築にも合うし、
結構気に入っている。塗りムラも一種の景色ぐらいに思えばどうということもない。
日本の工業製品が軒並み高品質化する直前ごろに作られた、
最後の昔風な制作体制の伝統工芸。太刀掛ならこれぐらいでも構わない。
製作の無事を神社や神棚に祈願するほどの物品はまた別にあったのだから。
数年前にスレまで立てて話したことだが、
アベノミクスが始まった頃に、国内生産の再振興が試みられて、
高級な鍋などの家財道具が大量に量販店に並んでいるのを見たんだ。
そのうちの南部鉄製の最高級品がいつまでも売れないままで残り、
最後は半額の半額の半額、驚異の87.5%引きで投げ売りされてるのを見たもんだ。
努力の方向を見誤っている。
金と技術をかける対象のランクが低い所で頭打ちにされているせいで、
必要もないようなものを高級化するような空回りが生産者側でも起きるし、
消費者もまたそんなものには食指が動かないせいで消費を滞らせる。
機能性が高いだけでなく、それが機能美にまで昇華されている上、
機能美を誇るに値するだけの用途を帯びた器物でもあるもの、
それを工匠に追い求めさせるのでなければ、経済的な効果すらもが見込まれないのだ。
アベノミクスが始まった頃に、国内生産の再振興が試みられて、
高級な鍋などの家財道具が大量に量販店に並んでいるのを見たんだ。
そのうちの南部鉄製の最高級品がいつまでも売れないままで残り、
最後は半額の半額の半額、驚異の87.5%引きで投げ売りされてるのを見たもんだ。
努力の方向を見誤っている。
金と技術をかける対象のランクが低い所で頭打ちにされているせいで、
必要もないようなものを高級化するような空回りが生産者側でも起きるし、
消費者もまたそんなものには食指が動かないせいで消費を滞らせる。
機能性が高いだけでなく、それが機能美にまで昇華されている上、
機能美を誇るに値するだけの用途を帯びた器物でもあるもの、
それを工匠に追い求めさせるのでなければ、経済的な効果すらもが見込まれないのだ。
日本人は、だいたいアメコミが好きではないし、俺もその一人ではある。
世界中で興収一位を獲得した映画のアヴェンジャーズが日本でだけコナンに負けるなど、
その忌み嫌われっぷりは筋金入りであると同時に、アレルギーレベルにも達している。
その内実を知る者として言わせて貰えば、
過度に肉体の力強さばかりを強調しているのが悪趣味だし、
その肉体で武器や兵器の強さをも凌駕しているのが子供騙しだし、
なおかつそれが日本のバトル漫画みたいに開き直ってふざけてるわけではなく、
本当に格好いいものとして売り出そうとしているのが薄ら寒いしで、コテンパンである。
おっさんの肉体美なんざよりも日本刀のほうがはるかに美しい上に、実際にもより強い。
フィクションならノンフィクション以上の面白さを目指してもらいのにあらゆる面で
現実に敵っていないのだから、刀の美しさを知っている日本人には受け入れられない。
世界中で興収一位を獲得した映画のアヴェンジャーズが日本でだけコナンに負けるなど、
その忌み嫌われっぷりは筋金入りであると同時に、アレルギーレベルにも達している。
その内実を知る者として言わせて貰えば、
過度に肉体の力強さばかりを強調しているのが悪趣味だし、
その肉体で武器や兵器の強さをも凌駕しているのが子供騙しだし、
なおかつそれが日本のバトル漫画みたいに開き直ってふざけてるわけではなく、
本当に格好いいものとして売り出そうとしているのが薄ら寒いしで、コテンパンである。
おっさんの肉体美なんざよりも日本刀のほうがはるかに美しい上に、実際にもより強い。
フィクションならノンフィクション以上の面白さを目指してもらいのにあらゆる面で
現実に敵っていないのだから、刀の美しさを知っている日本人には受け入れられない。
ただ、日本人の目から見ても、こういうおっさんは格好いい。
写真が残っている内なら、>>31のおっさんとか合気道開祖の植芝盛平氏とか、
存命のうちなら黒田鉄山氏とかも日本人の納得する格好よさを帯びている。
全く肉体的に貧相なわけではなく、武蔵や植芝氏にも怪力の伝説がある。ただ、
それがゴリラレベルの体育会系に止まらず、高尚な思想哲学や芸術性とも並存している。
そして、なんといっても刀の扱いに究極の精神性を見出し、己が栄達の元手ともしている。
心技体の三位一体に文武両道、剣心一如の完璧超人に極めて近い存在であるが故に格好もいい。
狂人ニーチェの超人思想を参考にしていて、最初期のスーパーマンから諸々の欠陥を
抱えた人間として描かれているアメコミヒーローなどよりも「完全無欠」の度合いが高い。
その上さらに、この世に実在していた(いる)!
どうしておっさんの肉体美や美顔程度でこの差を埋められようか。
写真が残っている内なら、>>31のおっさんとか合気道開祖の植芝盛平氏とか、
存命のうちなら黒田鉄山氏とかも日本人の納得する格好よさを帯びている。
全く肉体的に貧相なわけではなく、武蔵や植芝氏にも怪力の伝説がある。ただ、
それがゴリラレベルの体育会系に止まらず、高尚な思想哲学や芸術性とも並存している。
そして、なんといっても刀の扱いに究極の精神性を見出し、己が栄達の元手ともしている。
心技体の三位一体に文武両道、剣心一如の完璧超人に極めて近い存在であるが故に格好もいい。
狂人ニーチェの超人思想を参考にしていて、最初期のスーパーマンから諸々の欠陥を
抱えた人間として描かれているアメコミヒーローなどよりも「完全無欠」の度合いが高い。
その上さらに、この世に実在していた(いる)!
どうしておっさんの肉体美や美顔程度でこの差を埋められようか。
そもそも思想哲学的な意義がなさ過ぎて板違いな論題だな。
討論/議論板でやれ。
討論/議論板でやれ。
外見が、深遠な哲学性の表出であるということは実際、西洋にはないのだろう。
美しいということも、情念に訴えかけることを主目的としているのだから、
冷厳を極めるべき純粋哲学からは最も遠いものとすら思われている。
情動の止滅の先にあるもの、それこそが美しいということ。
仏教美術や能の演舞もまさにそれを表現しようとしているし、
刀剣もまた人の死を司る器物であるからには、その種の美しさに該当する。
西洋美術も、哲学的なサインを盛り込むようなことはあるようだが、
そのサイン自体が美しいのではなく、ただ単にオマケを付けているだけ。
それとは違い、美しさがそのまま哲学性の表徴であるということ。
見る側もまた、心を山中の湖面のように静止させてようやく理解できるものであり、
情動にこそ訴えかけて行く部類の美しさと比べれば、遥かに難解でもある。
しかし、そういう美しさもまた頑として実在しているのだから、
理解できないからといって否定するぐらいなら、ただ敬遠しておけばいい。
美しいということも、情念に訴えかけることを主目的としているのだから、
冷厳を極めるべき純粋哲学からは最も遠いものとすら思われている。
情動の止滅の先にあるもの、それこそが美しいということ。
仏教美術や能の演舞もまさにそれを表現しようとしているし、
刀剣もまた人の死を司る器物であるからには、その種の美しさに該当する。
西洋美術も、哲学的なサインを盛り込むようなことはあるようだが、
そのサイン自体が美しいのではなく、ただ単にオマケを付けているだけ。
それとは違い、美しさがそのまま哲学性の表徴であるということ。
見る側もまた、心を山中の湖面のように静止させてようやく理解できるものであり、
情動にこそ訴えかけて行く部類の美しさと比べれば、遥かに難解でもある。
しかし、そういう美しさもまた頑として実在しているのだから、
理解できないからといって否定するぐらいなら、ただ敬遠しておけばいい。
能楽「卒都婆小町」
https://youtu.be/Us434W_cWF...
かつては天下一の絶世の美女として名を馳せた小野小町が、
100歳の老婆となってもはや世に打ち捨てられ、朽木の如く野に伏せる。
たまたま休むために座った朽木が卒都婆であったことを僧たちに咎められるも、
「我れのような極楽の外に居る者に罰当たりもへったくれもないわ」と言い負かす。
そこから狂乱を始めて、かつての男の中でも最も心残りのある深草少将の亡霊が
取り憑いたかのような振る舞いを始めるその姿は、今風にいえば老年性の情緒失禁からの
統合失調症の発症ともとれなくはないわけだが、そのような人間の有様の中でも最も
惨めで醜悪な様態を題材として取り上げるのみならず、最上級の芸術表現にまで昇華
させているのは、そこに諸行無常の仏法を重んじようとする信心があったからでもある。
日本で伝統的に芸能が賤業として卑しまれて来たのも、このような高度な哲学性や
道徳性を宿した本格の伝統芸能が既存していたからであって、決して芸能の全てを
否定していたからではない。耳目の欲望を手軽に満たすような安易さを控えるどころか、
情欲の発露の真逆の領域にこそ高度な美意識を見出そうとしているのだから、これこそは
西洋の古典演劇やクラシックや絵画などとも別次元の高尚さを帯びた芸術であるといえる。
https://youtu.be/Us434W_cWF...
かつては天下一の絶世の美女として名を馳せた小野小町が、
100歳の老婆となってもはや世に打ち捨てられ、朽木の如く野に伏せる。
たまたま休むために座った朽木が卒都婆であったことを僧たちに咎められるも、
「我れのような極楽の外に居る者に罰当たりもへったくれもないわ」と言い負かす。
そこから狂乱を始めて、かつての男の中でも最も心残りのある深草少将の亡霊が
取り憑いたかのような振る舞いを始めるその姿は、今風にいえば老年性の情緒失禁からの
統合失調症の発症ともとれなくはないわけだが、そのような人間の有様の中でも最も
惨めで醜悪な様態を題材として取り上げるのみならず、最上級の芸術表現にまで昇華
させているのは、そこに諸行無常の仏法を重んじようとする信心があったからでもある。
日本で伝統的に芸能が賤業として卑しまれて来たのも、このような高度な哲学性や
道徳性を宿した本格の伝統芸能が既存していたからであって、決して芸能の全てを
否定していたからではない。耳目の欲望を手軽に満たすような安易さを控えるどころか、
情欲の発露の真逆の領域にこそ高度な美意識を見出そうとしているのだから、これこそは
西洋の古典演劇やクラシックや絵画などとも別次元の高尚さを帯びた芸術であるといえる。
老女のヒステリーとか、人殺しの道具とか、
ただでさえ忌み嫌われて遠ざけられることの多い事物を、
精魂を込めた芸術表現の対象にしてしまう逆転の発想。
しかも酔狂や偏屈ではなく、大真面目の取り組みとして。
その屋台骨となっているのはやはり、大乗仏教の方便荘厳の思想であったり、
あるいは老荘の思想であったり。
「兵は不祥の器、君子の器に非ず。已むを得ずして之れを用ふるときは、
恬淡を以て上となす。勝つも美とせず。而るに之れを美とする者は、是れ人を殺す
ことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、以て志しを天下に得べからず」
という老子の哲学を忠実に実践するために、刀剣そのものの美しさを高めて、
極力その使用を躊躇わせようする思いが日本刀の発明者たちにもきっとあったわけで、
さもなくば1000年以上もの間刀一つの美しさばかりにこだわることもなかったはずである。
高度な思想哲学の体現であると同時に、高度な思想哲学による裏付けがあるのでなければ
瓦解してしまう自明さを帯びた美しさでもある。そのため格式張っていてとっつき難いのが
遠ざけられる原因にもなりやすいが、要は美しさこそが保たれていればそこで守られるべき
格式も守られているわけで、その範疇で取り組める表現もまた無限大であるに違いないのだ。
ただでさえ忌み嫌われて遠ざけられることの多い事物を、
精魂を込めた芸術表現の対象にしてしまう逆転の発想。
しかも酔狂や偏屈ではなく、大真面目の取り組みとして。
その屋台骨となっているのはやはり、大乗仏教の方便荘厳の思想であったり、
あるいは老荘の思想であったり。
「兵は不祥の器、君子の器に非ず。已むを得ずして之れを用ふるときは、
恬淡を以て上となす。勝つも美とせず。而るに之れを美とする者は、是れ人を殺す
ことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、以て志しを天下に得べからず」
という老子の哲学を忠実に実践するために、刀剣そのものの美しさを高めて、
極力その使用を躊躇わせようする思いが日本刀の発明者たちにもきっとあったわけで、
さもなくば1000年以上もの間刀一つの美しさばかりにこだわることもなかったはずである。
高度な思想哲学の体現であると同時に、高度な思想哲学による裏付けがあるのでなければ
瓦解してしまう自明さを帯びた美しさでもある。そのため格式張っていてとっつき難いのが
遠ざけられる原因にもなりやすいが、要は美しさこそが保たれていればそこで守られるべき
格式も守られているわけで、その範疇で取り組める表現もまた無限大であるに違いないのだ。
いやいや、日本刀は
人を殺す道具ではなくて、
自分やら自分の仲間を守る為の
携行しやすい護身具だよ。
日本刀の殺傷力はそんなに高くなかったそうだなら、そもそもの出発点が違う。
昨今の日本刀ブームに乗っかって、あれやこれやと日本刀をワッショイしたいんだろうけど、過ぎ去った時代にロマンを求め過ぎれば、歴史修正主義になる。
一番大事なのは護身具自体ではなく、それを使って守りたいと思える人なのだから、道具自体に執着するのは主客転倒ってもんよ。
◆日本刀が戦場で「主要な武器」になったことは一度もない! 殺傷率は「投石」以下
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/4921...
護身にも使えるし、近接戦での攻撃にも使える。
騎馬戦で長寸の太刀による馬上からの斬り付けが無類の強さを誇ったこともある。
ただ、日本刀が永年を通じて必ずといっていいほど帯びていたのは、
「打首の道具」としての機能であり、敵将の首を刈って戦を終わらせる(戈を止める)
節目で用いられる武具であるが故に、あらゆる武の象徴になると同時に、
>159の戦を好むべからずという老子の言にも適った道具となっている。
(太刀が長大化し過ぎた室町初期には>>117のような脇差の原型も作られた)
「守る」ということに関していえば、ただの保身ではなく、士分の名誉を守ることを
最優先で用いられた。大刀は無礼討ちのため、小刀は己が切腹のため。
実際に江戸時代にそういう目的で用いられた事例がそんなに多くはないとしても、
武家に接する民百姓と、本人自身の礼節を戒める抑止力として機能し続けていた。
(武家の女なら自害用の短刀を携帯し続けることも)
今こうして述べたことも、決して日本刀の用途の全てではあるまい。
あまりにも使い道が多岐にわたるが故に、実用主義では割り切れぬ価値をも帯びている。
見た目の美しさもまた、そのような不可思議な用の美こそを体現しているものなのだから、
その美しさを軽んずるのは、美しさに溺れるのとも同じような一つ覚えの罪となる。
騎馬戦で長寸の太刀による馬上からの斬り付けが無類の強さを誇ったこともある。
ただ、日本刀が永年を通じて必ずといっていいほど帯びていたのは、
「打首の道具」としての機能であり、敵将の首を刈って戦を終わらせる(戈を止める)
節目で用いられる武具であるが故に、あらゆる武の象徴になると同時に、
>159の戦を好むべからずという老子の言にも適った道具となっている。
(太刀が長大化し過ぎた室町初期には>>117のような脇差の原型も作られた)
「守る」ということに関していえば、ただの保身ではなく、士分の名誉を守ることを
最優先で用いられた。大刀は無礼討ちのため、小刀は己が切腹のため。
実際に江戸時代にそういう目的で用いられた事例がそんなに多くはないとしても、
武家に接する民百姓と、本人自身の礼節を戒める抑止力として機能し続けていた。
(武家の女なら自害用の短刀を携帯し続けることも)
今こうして述べたことも、決して日本刀の用途の全てではあるまい。
あまりにも使い道が多岐にわたるが故に、実用主義では割り切れぬ価値をも帯びている。
見た目の美しさもまた、そのような不可思議な用の美こそを体現しているものなのだから、
その美しさを軽んずるのは、美しさに溺れるのとも同じような一つ覚えの罪となる。
小野小町のような絶世の美女といえども、老後に身寄りがなければ
鼻つまみ者の卑しい老婆となり、狂乱と共に野に身をやつすしかなくなるという、
この世の実相こそを教訓的に描いた伎楽が、哲学的価値までもがあるものとして
貴ばれていたから、昔の女たちは早め早めの嫁ぎをあえて目指した。
(DQNが痴情にかられて早婚早産したりするのとは全くの別物)
https://vanillafudge.jp/discussion/2016/0428_1...
そんな情操教育のない時代に生きて、子供を産めなくなる年頃まで独身で
居てしまった女がどんなに身の程を嘆いても、返ってくるのは傷を舐め合うような
同情の言葉ばかりで、多少の慰めにはなろうとも、解決の手段などには決してならない。
あらかじめ、そんな哀れな女をなるべくこの世に生じさせないようにするために、
卒都婆小町のごとき能楽もあえてその演舞が振興されて来たに違いない。
心象的な同情を取り付けるものと、実際の成果を挙げるものが食い違う実例。
鼻つまみ者の卑しい老婆となり、狂乱と共に野に身をやつすしかなくなるという、
この世の実相こそを教訓的に描いた伎楽が、哲学的価値までもがあるものとして
貴ばれていたから、昔の女たちは早め早めの嫁ぎをあえて目指した。
(DQNが痴情にかられて早婚早産したりするのとは全くの別物)
https://vanillafudge.jp/discussion/2016/0428_1...
そんな情操教育のない時代に生きて、子供を産めなくなる年頃まで独身で
居てしまった女がどんなに身の程を嘆いても、返ってくるのは傷を舐め合うような
同情の言葉ばかりで、多少の慰めにはなろうとも、解決の手段などには決してならない。
あらかじめ、そんな哀れな女をなるべくこの世に生じさせないようにするために、
卒都婆小町のごとき能楽もあえてその演舞が振興されて来たに違いない。
心象的な同情を取り付けるものと、実際の成果を挙げるものが食い違う実例。
護身目的に特化された刀の扱い方を修練するのが「居合」であり、
まだ抜いてない状態や座った状態、刀を差してない状態からの抜き付けや抜き打ちまでやる。
これはこれで大変高度な技法であり、鞘をレール代わりにするため抜いた状態よりも
速い切り付けが可能になるともされているが、決して常道の剣術ではない。
古流の日本武術では、必ず剣術と居合は区別されていて、
刀を抜いて構えた状態からの攻撃やカウンターを「剣術」とか「勢法」とかいう。
抜き身の剣術こそがやはり武芸の王道中の王道であり、秘伝を継承する古流もより多い。
有名なところでは、柳生新陰流にも剣術の項目が数多ある一方、居合術の項目はない。
槍術も棒術も薙刀術も柔術(無刀取り)もやってるが、居合術は正伝されてない。
居合術が新陰流よりも流行が遅い上、無刀取りがある程度護身の代役を果たすから。
居合があくまで江戸時代以降の武芸として広まったことこそは、
刀が決して護身だけを目的として愛用されていた武具ではない証拠にもなっている。
真剣を扱う技法といえば居合ばかりやっている今の剣道家の感覚からすれば、
刀なんてものは護身にしか使えないものと思い込まれることもあるかも知れないが。
まだ抜いてない状態や座った状態、刀を差してない状態からの抜き付けや抜き打ちまでやる。
これはこれで大変高度な技法であり、鞘をレール代わりにするため抜いた状態よりも
速い切り付けが可能になるともされているが、決して常道の剣術ではない。
古流の日本武術では、必ず剣術と居合は区別されていて、
刀を抜いて構えた状態からの攻撃やカウンターを「剣術」とか「勢法」とかいう。
抜き身の剣術こそがやはり武芸の王道中の王道であり、秘伝を継承する古流もより多い。
有名なところでは、柳生新陰流にも剣術の項目が数多ある一方、居合術の項目はない。
槍術も棒術も薙刀術も柔術(無刀取り)もやってるが、居合術は正伝されてない。
居合術が新陰流よりも流行が遅い上、無刀取りがある程度護身の代役を果たすから。
居合があくまで江戸時代以降の武芸として広まったことこそは、
刀が決して護身だけを目的として愛用されていた武具ではない証拠にもなっている。
真剣を扱う技法といえば居合ばかりやっている今の剣道家の感覚からすれば、
刀なんてものは護身にしか使えないものと思い込まれることもあるかも知れないが。
[YouTubeで再生]
刀が居合のような先手必勝のための剣技ばかりに用いられるのなら、本造りの
日本刀に必ずある鎬(相手の斬撃を受け流すための刀身側面の盛り上がり)もいらない。
>>1画や>>117-118画のような平造りの刀のほうが切れ味もより稼げて好都合になる。
でも大半の日本刀は鎬造りだし、特に2尺以上の大刀で平造りなんてのはほとんどない。
居合術の始祖の一人である田宮重正も普通に鎬造りの刀を肥前忠吉に特注しているし、
刀を扱う以上は鎬を削り合うような激戦をも想定するのが当然の嗜みとなっている。
日本刀の強度を見くびる者が、刀を刀で受けるのは不可能に等しいなどという妄言を
垂れ流していることもあるが、実際はこの動画の通り。刀が傷付くことを甘受し、
なおかつ鎬で受けることをよく修練さえしておけばまったく可能なことである。
もちろん薙刀や槍を受け流すこともあるし、深い矢傷が鎬付近にある古刀などもある。
最上の切れ味と、鎬造りによる防御力の確保で攻防一体を体現している日本刀の体配は、
不意を襲われるようなシチュエーションではなく、彼我がすでに武器を構えて激戦に
臨むシチュエーションでこそ最大級の能力を発揮するようになっている。
武の素人同然な現代の剣道家ならともかく、実際の殺し合いにも興じていた
かつての武士までもがどうして、刀を護身にしか使えない等ということがあったろうか?
武家時代700年がずっと、宝の持ち腐れの時代だったというのか?
刀が居合のような先手必勝のための剣技ばかりに用いられるのなら、本造りの
日本刀に必ずある鎬(相手の斬撃を受け流すための刀身側面の盛り上がり)もいらない。
>>1画や>>117-118画のような平造りの刀のほうが切れ味もより稼げて好都合になる。
でも大半の日本刀は鎬造りだし、特に2尺以上の大刀で平造りなんてのはほとんどない。
居合術の始祖の一人である田宮重正も普通に鎬造りの刀を肥前忠吉に特注しているし、
刀を扱う以上は鎬を削り合うような激戦をも想定するのが当然の嗜みとなっている。
日本刀の強度を見くびる者が、刀を刀で受けるのは不可能に等しいなどという妄言を
垂れ流していることもあるが、実際はこの動画の通り。刀が傷付くことを甘受し、
なおかつ鎬で受けることをよく修練さえしておけばまったく可能なことである。
もちろん薙刀や槍を受け流すこともあるし、深い矢傷が鎬付近にある古刀などもある。
最上の切れ味と、鎬造りによる防御力の確保で攻防一体を体現している日本刀の体配は、
不意を襲われるようなシチュエーションではなく、彼我がすでに武器を構えて激戦に
臨むシチュエーションでこそ最大級の能力を発揮するようになっている。
武の素人同然な現代の剣道家ならともかく、実際の殺し合いにも興じていた
かつての武士までもがどうして、刀を護身にしか使えない等ということがあったろうか?
武家時代700年がずっと、宝の持ち腐れの時代だったというのか?
>>160やその提示先ページの筆者などが陥っている心理現象に、
「故人バイアス」とでも呼ぶべき現象がある。
故人というのは、すでに死んでいるから故人である。
その当たり前な大前提を見失って、存命だった頃の事績をなにもかも御伽噺か
何かのように感じて、本気の参考対象にすることを一切合切破棄してしまう。
昔の武将や武士の事績にも伝説的なものが多く、
中には妖怪を斬っただとかの到底信じられないものもあるが、
重い真剣での二刀流や、6?を超える大槍を自由自在に使いこなしたとかの、
必ずしも不可能とまでは言えないような伝説もあるのに、
遠い昔の故人の話だからとて、その全てを空想か何かのように片付ける。
「舜も人、我れも人なり」という孟子の諭しの言葉などを鑑みるに、
故人バイアスに相当するような現象は太古の昔からあったようで、
小人はこのせいで先人たちの知恵を軽んじ、同じ過ちを何度でも繰り返す。
そういう者たち自身だけが、古の偉人たちなどには到底及ばない凡愚で
あり続けるのであり、現代人といえども伝説的な功を成せる可能性はいくらでもある。
心の底から本気で、先人たちの知恵や事績に真摯に学ぼうとするのならば。
「故人バイアス」とでも呼ぶべき現象がある。
故人というのは、すでに死んでいるから故人である。
その当たり前な大前提を見失って、存命だった頃の事績をなにもかも御伽噺か
何かのように感じて、本気の参考対象にすることを一切合切破棄してしまう。
昔の武将や武士の事績にも伝説的なものが多く、
中には妖怪を斬っただとかの到底信じられないものもあるが、
重い真剣での二刀流や、6?を超える大槍を自由自在に使いこなしたとかの、
必ずしも不可能とまでは言えないような伝説もあるのに、
遠い昔の故人の話だからとて、その全てを空想か何かのように片付ける。
「舜も人、我れも人なり」という孟子の諭しの言葉などを鑑みるに、
故人バイアスに相当するような現象は太古の昔からあったようで、
小人はこのせいで先人たちの知恵を軽んじ、同じ過ちを何度でも繰り返す。
そういう者たち自身だけが、古の偉人たちなどには到底及ばない凡愚で
あり続けるのであり、現代人といえども伝説的な功を成せる可能性はいくらでもある。
心の底から本気で、先人たちの知恵や事績に真摯に学ぼうとするのならば。
[YouTubeで再生]
古流の居合術には敵からの攻撃を刀で受ける技法もあるが、現代の居合道の制定形には一つもない。
剣道形には一応あるが、極端に近い間合いに踏み込んでからの受け流しであるため実用性がない。
剣道形は1912年、居合道形は1958年に初めて制定されたものであり、
古流ではない上に、古流の形に倣ったものですらない。
特定の流派への贔屓になることを避けるため、あえてどこの流派にも似ない形にしたものだから、
実戦性などはないに等しいと、制定に携わった剣術家たち自身が証言している。
現代の剣道形や居合道形に似ないどころか、逆に近いようなことをやるのが古流の主流。
一撃必殺だけが取り柄のタイ捨流などを除いて、鎬による受け流しからのカウンターのほうが主体。
新陰流の合し打ちや一刀流の切落などの奥義もそうだし、剣の理合を応用した大東流や合気道の
組み伏せ術もそうである。柔術なら相手の捕縛に移れるが、剣なら相手への殺傷攻撃となる。
攻防一体の武器としてこそ最強なのが日本刀であり、現代の剣道や居合道ではそこが疎かに
されているものだから真価を汲み取れず、実用性に関しては妄想ぐらいしかできなかったりする。
古流をちょっと教わっただけでもすぐ分かることを分かろうとしないのも、一種の故人バイアスだろう。
古流の居合術には敵からの攻撃を刀で受ける技法もあるが、現代の居合道の制定形には一つもない。
剣道形には一応あるが、極端に近い間合いに踏み込んでからの受け流しであるため実用性がない。
剣道形は1912年、居合道形は1958年に初めて制定されたものであり、
古流ではない上に、古流の形に倣ったものですらない。
特定の流派への贔屓になることを避けるため、あえてどこの流派にも似ない形にしたものだから、
実戦性などはないに等しいと、制定に携わった剣術家たち自身が証言している。
現代の剣道形や居合道形に似ないどころか、逆に近いようなことをやるのが古流の主流。
一撃必殺だけが取り柄のタイ捨流などを除いて、鎬による受け流しからのカウンターのほうが主体。
新陰流の合し打ちや一刀流の切落などの奥義もそうだし、剣の理合を応用した大東流や合気道の
組み伏せ術もそうである。柔術なら相手の捕縛に移れるが、剣なら相手への殺傷攻撃となる。
攻防一体の武器としてこそ最強なのが日本刀であり、現代の剣道や居合道ではそこが疎かに
されているものだから真価を汲み取れず、実用性に関しては妄想ぐらいしかできなかったりする。
古流をちょっと教わっただけでもすぐ分かることを分かろうとしないのも、一種の故人バイアスだろう。
刀の防御力の検証については、
>>165の動画のように実際に打ち合わせてみるのが難しいようなら、
体験程度にでも刀を研いでみるとよくわかる。
俺も錆びだらけのクズ刀を研がせてもらったことがあるが、思いのほか研げない。
美術研ぎの綺麗な刀を見ると、まるでガラス細工か何かのようで、いかにも
傷つきやすいような印象を受けかねないが、そんな想像よりもはるかに硬い。
刃鉄だけでなく地鉄もかなり硬く、錆びを落としきるのにもかなりの力を要する。
だから研師もほぼ全員が男性だし、年季者ともなると力の込めすぎで背中が丸まってたりもする。
それほどにも硬いから、他の刃物での斬撃を受け流したりすることも可能である。
受け方が悪いと大きな傷が入るが、うまければほとんど傷もいかない。
日本刀が日本刀たる特徴は、切れ味以上にこの防御力の高さにあるとすらいえる。
それほどにも体配の隅々にわたるまで精魂を込めて作られているものだからこそ、
刃紋の美しさを追求するような機縁までもが生じたのでもある。
>>165の動画のように実際に打ち合わせてみるのが難しいようなら、
体験程度にでも刀を研いでみるとよくわかる。
俺も錆びだらけのクズ刀を研がせてもらったことがあるが、思いのほか研げない。
美術研ぎの綺麗な刀を見ると、まるでガラス細工か何かのようで、いかにも
傷つきやすいような印象を受けかねないが、そんな想像よりもはるかに硬い。
刃鉄だけでなく地鉄もかなり硬く、錆びを落としきるのにもかなりの力を要する。
だから研師もほぼ全員が男性だし、年季者ともなると力の込めすぎで背中が丸まってたりもする。
それほどにも硬いから、他の刃物での斬撃を受け流したりすることも可能である。
受け方が悪いと大きな傷が入るが、うまければほとんど傷もいかない。
日本刀が日本刀たる特徴は、切れ味以上にこの防御力の高さにあるとすらいえる。
それほどにも体配の隅々にわたるまで精魂を込めて作られているものだからこそ、
刃紋の美しさを追求するような機縁までもが生じたのでもある。
>>163
故人バイアスで、過去の偉人たちの事績をみんな御伽噺扱いで切り捨て、
自分自身が真摯な生き方の参考にするようなことも見限ってしまう。
だからこそおまえみたいな劣等感と嫉妬心の塊にもなってしまう。
特に、今の日本人は戦後70年以上ろくな偉人に恵まれていない特殊事情のせいで、
故人の事績から目を背けたのでは決してろくな人間になれることがない。
船坂弘氏や小野田寛郎氏のようにも、なれる素質があった所でなれない。
東大出ようが、自衛隊の精鋭になろうが、有名アスリートになろうが、
その天井は犬小屋のように低く、身をかがめたままでしかいることができないから。
ただ何者をも恐れることなく悠然と持論を述べているだけの俺にすら
嫉妬心を抱いてしまうほどのイジケ加減も、確かにそれこそが原因だ。
歴史的に見ても世界的に見ても、明らかにそちらのほうが異常な精神状態である。
故人バイアスで、過去の偉人たちの事績をみんな御伽噺扱いで切り捨て、
自分自身が真摯な生き方の参考にするようなことも見限ってしまう。
だからこそおまえみたいな劣等感と嫉妬心の塊にもなってしまう。
特に、今の日本人は戦後70年以上ろくな偉人に恵まれていない特殊事情のせいで、
故人の事績から目を背けたのでは決してろくな人間になれることがない。
船坂弘氏や小野田寛郎氏のようにも、なれる素質があった所でなれない。
東大出ようが、自衛隊の精鋭になろうが、有名アスリートになろうが、
その天井は犬小屋のように低く、身をかがめたままでしかいることができないから。
ただ何者をも恐れることなく悠然と持論を述べているだけの俺にすら
嫉妬心を抱いてしまうほどのイジケ加減も、確かにそれこそが原因だ。
歴史的に見ても世界的に見ても、明らかにそちらのほうが異常な精神状態である。
この文脈だと飼い主がアメリカ、犬小屋が今の日本で、
犬が日本人だと分かりそうなもんだがなあ。
今の日本の企業経営者の労働者への目に余るような横暴も、
仁義に篤い戦前世代が軒並み死に絶えたことによる故人バイアスを原因としている。
だいたい、日本ほど下々の労働者への手厚い保護を昔から心がけて来た国は他にない。
日本で初めて奴隷使役や人身売買が禁止されたのは今から776年前の寛元元年(1243年)、
アメリカの奴隷解放宣言より619年も前のことである。この人権尊重意識の高さから、
全世界共通の奴隷装束である耳ピアスが日本では廃れ、隣の中国ですら通用的だった
女や僧侶の耳環装束までもがなくなった。すでに奴隷制が廃止されて久しい室町後期の
日本に奴隷売買を持ち込んだ咎で、秀吉や家康もキリシタンを禁教にして排除したし、
その後も江戸時代の間中、人身売買が永続的に規制され続けていたからこそ、裏で
口利き(今の人材派遣に相当)をやっていた越後屋のような商人が、お代官さまに賄賂を
渡してお目こぼしを頂くことが許されざるべき犯罪行為と見なされていたのでもある。
今やそのような、武家時代には常識的だった人権意識も絶えて、牛馬のごとき
扱いを被っては貧窮や過労死にあえぐ労働者が一定数に上るようになってしまった。
これも刀の美しさを解し尊べるほどの美意識を持つ武士や、その魂の継承者が絶えたため。
人間の顔面か裸体の性的魅力ぐらいにしか目がいかない下衆ばかりとなってしまったためだ。
犬が日本人だと分かりそうなもんだがなあ。
今の日本の企業経営者の労働者への目に余るような横暴も、
仁義に篤い戦前世代が軒並み死に絶えたことによる故人バイアスを原因としている。
だいたい、日本ほど下々の労働者への手厚い保護を昔から心がけて来た国は他にない。
日本で初めて奴隷使役や人身売買が禁止されたのは今から776年前の寛元元年(1243年)、
アメリカの奴隷解放宣言より619年も前のことである。この人権尊重意識の高さから、
全世界共通の奴隷装束である耳ピアスが日本では廃れ、隣の中国ですら通用的だった
女や僧侶の耳環装束までもがなくなった。すでに奴隷制が廃止されて久しい室町後期の
日本に奴隷売買を持ち込んだ咎で、秀吉や家康もキリシタンを禁教にして排除したし、
その後も江戸時代の間中、人身売買が永続的に規制され続けていたからこそ、裏で
口利き(今の人材派遣に相当)をやっていた越後屋のような商人が、お代官さまに賄賂を
渡してお目こぼしを頂くことが許されざるべき犯罪行為と見なされていたのでもある。
今やそのような、武家時代には常識的だった人権意識も絶えて、牛馬のごとき
扱いを被っては貧窮や過労死にあえぐ労働者が一定数に上るようになってしまった。
これも刀の美しさを解し尊べるほどの美意識を持つ武士や、その魂の継承者が絶えたため。
人間の顔面か裸体の性的魅力ぐらいにしか目がいかない下衆ばかりとなってしまったためだ。
「おしん」のような貧農の人身売買が常套化してしまったのも、実は明治以降のこと。
東京への一極集中化によって地方の農村がジリ貧となり、なおかつ庄屋の横暴に
歯止めをかける役割を果たしていた武士がいなくなって寄生地主の権限が増大し、
小作農が江戸時代をもはるかに上回るような貧窮に苛まれ始めたことによる。
(おしんの舞台になった山形も元来は幕府直轄で富裕に恵まれていた土地である)
全ての武家が帯刀を廃し、髻を切ってザンギリ頭となった時点ですでに、
最上級の美意識に基づく人間社会の統治にも綻びが生じ始めていた。
それでもまだ武家時代を知る者や、彼らやその文化を尊重できる意識があったのが
「昔取った杵柄」として多少は存続していたのが、ほぼ完全に絶えて今に至る。
すでに当時を知る者も、当時を知る者を知る者すらも死ぬかボケ果てている昨今、
確かに当時のままで現存しているといえるのは刀そのものであったり、古武術や
伝統芸能の形であったり。ただそれらを重んずるだけでなく、それらを血肉と共に実用
していた人々が確かにいたという実感を持てることが、より心がけられるべきだといえる。
東京への一極集中化によって地方の農村がジリ貧となり、なおかつ庄屋の横暴に
歯止めをかける役割を果たしていた武士がいなくなって寄生地主の権限が増大し、
小作農が江戸時代をもはるかに上回るような貧窮に苛まれ始めたことによる。
(おしんの舞台になった山形も元来は幕府直轄で富裕に恵まれていた土地である)
全ての武家が帯刀を廃し、髻を切ってザンギリ頭となった時点ですでに、
最上級の美意識に基づく人間社会の統治にも綻びが生じ始めていた。
それでもまだ武家時代を知る者や、彼らやその文化を尊重できる意識があったのが
「昔取った杵柄」として多少は存続していたのが、ほぼ完全に絶えて今に至る。
すでに当時を知る者も、当時を知る者を知る者すらも死ぬかボケ果てている昨今、
確かに当時のままで現存しているといえるのは刀そのものであったり、古武術や
伝統芸能の形であったり。ただそれらを重んずるだけでなく、それらを血肉と共に実用
していた人々が確かにいたという実感を持てることが、より心がけられるべきだといえる。
元北条家重宝「鬼丸国綱」
特に恒時の弟、時頼の愛刀だったことで有名。
元来、武士という身分自体が奴隷並みかそれ以上に命を捨ててかかることを
頻繁に強いられるものであることから、奴隷への慈しみも湧いたのだろう。
世界的には、軍隊の兵士というのも奴隷身分が配属されることが昔は多かった。
特にその奴隷兵を、督戦隊が背後から射かけることで進軍を強要するという、
非道極まる戦法によって領土を拡大していったのが、かのモンゴル帝国なのだが、
戦はあくまで武士の領分だからとて、老兵まで借り出して防衛に臨んだ鎌倉武士たちの、
最高峰の利刀による斬り付け攻撃にあえなく敗れ、大陸への撤退を余儀なくされた。
まさに、元寇における蒙古の撃退こそは、奴隷廃止の奴隷酷使に対する勝利でもあった。
現代でも日本刀の最高峰と称される正宗ほかの鎌倉後期の刀と、それを自由自在に
扱えるだけの戦闘スキルを武家としての責任感によって温めて来た鎌倉武士が、
今の日本のブラック経営にも似るような人材使い捨ての暴虐を叩き潰した事績。
その美意識こそは確かに、畜生道同然の品性の下劣さよりも強いものである。
強いものであり、なおかつより普遍的な美しさをも帯びている。
知り得た者から不退転となるのが当然な領域となっている。
特に恒時の弟、時頼の愛刀だったことで有名。
元来、武士という身分自体が奴隷並みかそれ以上に命を捨ててかかることを
頻繁に強いられるものであることから、奴隷への慈しみも湧いたのだろう。
世界的には、軍隊の兵士というのも奴隷身分が配属されることが昔は多かった。
特にその奴隷兵を、督戦隊が背後から射かけることで進軍を強要するという、
非道極まる戦法によって領土を拡大していったのが、かのモンゴル帝国なのだが、
戦はあくまで武士の領分だからとて、老兵まで借り出して防衛に臨んだ鎌倉武士たちの、
最高峰の利刀による斬り付け攻撃にあえなく敗れ、大陸への撤退を余儀なくされた。
まさに、元寇における蒙古の撃退こそは、奴隷廃止の奴隷酷使に対する勝利でもあった。
現代でも日本刀の最高峰と称される正宗ほかの鎌倉後期の刀と、それを自由自在に
扱えるだけの戦闘スキルを武家としての責任感によって温めて来た鎌倉武士が、
今の日本のブラック経営にも似るような人材使い捨ての暴虐を叩き潰した事績。
その美意識こそは確かに、畜生道同然の品性の下劣さよりも強いものである。
強いものであり、なおかつより普遍的な美しさをも帯びている。
知り得た者から不退転となるのが当然な領域となっている。
大日本帝国も、鎌倉武士の元寇撃退を先祖たちの英雄譚としてよく持て囃していたが、
そんな自分たちがやっていたことはといえば、完全に蒙古軍寄りの所業ばかりである。
鎌倉武士の専守防衛的な姿勢からは程遠い、止めどなき領土拡大路線。
貧農あたりから奴隷の徴発同然に兵士を駆り出してきては使い潰す人材軽視。
鎌倉時代の刀の足の裏にも及ばないような、粗悪なスプリング鋼製の軍刀を持たせてのバンザイ突撃。
現行犯の逃亡兵の即時射殺なんかも当然のこととして行われていた。
大和魂がアメリカに敗れたのではなく、蒙古魂が破れたのも同然のこと。
あんなものを日本人の伝統的な美意識の亜流とでも思い込むことすら、勘違いの極みとなってしまう。
そんな自分たちがやっていたことはといえば、完全に蒙古軍寄りの所業ばかりである。
鎌倉武士の専守防衛的な姿勢からは程遠い、止めどなき領土拡大路線。
貧農あたりから奴隷の徴発同然に兵士を駆り出してきては使い潰す人材軽視。
鎌倉時代の刀の足の裏にも及ばないような、粗悪なスプリング鋼製の軍刀を持たせてのバンザイ突撃。
現行犯の逃亡兵の即時射殺なんかも当然のこととして行われていた。
大和魂がアメリカに敗れたのではなく、蒙古魂が破れたのも同然のこと。
あんなものを日本人の伝統的な美意識の亜流とでも思い込むことすら、勘違いの極みとなってしまう。
本物の武士道、本物の大和魂は、鬼丸国綱や正宗のような
美術的価値でも最高峰にあたるような名刀に象徴されるものである一方、
大日本帝国や旧日本軍の実質蒙古も同然なブラック経営魂は、
ろくに刃紋もないようなスプリング軍刀が象徴であっても十分な程度のものでしかない。
だから、両者の区別を徹底するためにも、刀の美しさを軽んずるようなことがあってはならない。
本物の美意識は本物の美しさを求め、贋物の美意識は贋物の美しさに終始するものなのだから、
表向きの見た目だけの美しさを愛でるようなことは忌み避けられるべきだとしても、それを
根本的な本質からの美しさにまで派生させるような真似を決してすべきではないのだ。
美術的価値でも最高峰にあたるような名刀に象徴されるものである一方、
大日本帝国や旧日本軍の実質蒙古も同然なブラック経営魂は、
ろくに刃紋もないようなスプリング軍刀が象徴であっても十分な程度のものでしかない。
だから、両者の区別を徹底するためにも、刀の美しさを軽んずるようなことがあってはならない。
本物の美意識は本物の美しさを求め、贋物の美意識は贋物の美しさに終始するものなのだから、
表向きの見た目だけの美しさを愛でるようなことは忌み避けられるべきだとしても、それを
根本的な本質からの美しさにまで派生させるような真似を決してすべきではないのだ。
真面目に付き合うほどの相手か?
なぜ欧米人は、芸者(娼婦)だの忍者(盗聴者)だのという、
卑賤な上に一般的でもなんでもないようなものばかりを
昔から日本文化の代表として持て囃し続けているのか?
自分たち自身が、日本に逗留するとなればそんな人種ばかりを
好き好んで寄せ付けるような不真面目さの持ち主ばかりだから。
高貴な身分や清浄な心の持ち主ほど遠ざかるし、遠ざける。
類は友を呼び、敵に警戒心を抱かせて。
真面目に日本文化を学ぼうとするような欧米人もいるにはいるが、
あくまで少数派だから、本国では日本といえばゲイシャにニンジャ。
いくら表向きの修辞で真面目ぶろうとも、頭隠して尻隠さず。
そういう人種が残念ながら、近ごろは日本でも多いことよ。
卑賤な上に一般的でもなんでもないようなものばかりを
昔から日本文化の代表として持て囃し続けているのか?
自分たち自身が、日本に逗留するとなればそんな人種ばかりを
好き好んで寄せ付けるような不真面目さの持ち主ばかりだから。
高貴な身分や清浄な心の持ち主ほど遠ざかるし、遠ざける。
類は友を呼び、敵に警戒心を抱かせて。
真面目に日本文化を学ぼうとするような欧米人もいるにはいるが、
あくまで少数派だから、本国では日本といえばゲイシャにニンジャ。
いくら表向きの修辞で真面目ぶろうとも、頭隠して尻隠さず。
そういう人種が残念ながら、近ごろは日本でも多いことよ。
いま真面目かどうかじゃなくて、根本的に真面目な人間かどうかだ。
別に不真面目なら不真面目でもえいんや。
ただ、高尚な学問や、刀や能の美しさなどについて語り合う相手にはならないだけでな。
漫画か近ごろの音楽あたりならいいとして。
別に不真面目なら不真面目でもえいんや。
ただ、高尚な学問や、刀や能の美しさなどについて語り合う相手にはならないだけでな。
漫画か近ごろの音楽あたりならいいとして。
友人や先輩後輩ぐらいは居たこともあるが、
端的にいってつまらんのよなあ。
ふざけたこと話してはしゃぎ合ってもつまらんし、
真面目な話をしようとして茶化されてもつまらん。
特別DQNな相手だったわけでもないけど、
俺がしたいほど真面目な話や計画に付き合える人間は一人もおらんかった。
そういう経験があるから今でもSNS一つやらず、
こうしてただ一人、誰が聞いていようがいまいが構わん体裁で
タラタラと自論を垂れ流し続けておるわな。
つまらん奴だと思われても、お互い様なんだから別に構わん。
今さら孤独感を抱かされるほど世の中に期待してもいないし。
端的にいってつまらんのよなあ。
ふざけたこと話してはしゃぎ合ってもつまらんし、
真面目な話をしようとして茶化されてもつまらん。
特別DQNな相手だったわけでもないけど、
俺がしたいほど真面目な話や計画に付き合える人間は一人もおらんかった。
そういう経験があるから今でもSNS一つやらず、
こうしてただ一人、誰が聞いていようがいまいが構わん体裁で
タラタラと自論を垂れ流し続けておるわな。
つまらん奴だと思われても、お互い様なんだから別に構わん。
今さら孤独感を抱かされるほど世の中に期待してもいないし。
この世には、面白おかしく勉強ができる人間もいれば、嫌々しかできない人間もいる。
大半の人間は後者であり、一生懸命勉強していい大学を出たような人間といえども、
あくまで進学を社会的地位を得るための手段としていただけだから、
社会に出てからは本格的な勉強なんか一切しなくなるような連中が大半である。
実際俺も、勉強のための勉強を好んでいるような自分の性向のほうが、LGBT以上に
仲間を見つけ難い変態の部類なのだろうと自覚しているから、誰に押し付けようともしない。
勉強に次ぐ勉強、修行に次ぐ修行の果てに超人的な能力が獲得されたり、
難病を克服できたりといった見返りもあってこそ臨んでいることだが、それもまた常人の
想像を絶するような困難の果てにのみ得られるものだから、人を釣るエサなどにはできない。
そのため一生孤独でいるか、距離感を保った上での人付き合い程度はするか、
億が一程度には自分と志しを同じゅうする者と出会えるか、
どうなるにしても、そればかりを気にしていても埒のあかないことである。
大半の人間は後者であり、一生懸命勉強していい大学を出たような人間といえども、
あくまで進学を社会的地位を得るための手段としていただけだから、
社会に出てからは本格的な勉強なんか一切しなくなるような連中が大半である。
実際俺も、勉強のための勉強を好んでいるような自分の性向のほうが、LGBT以上に
仲間を見つけ難い変態の部類なのだろうと自覚しているから、誰に押し付けようともしない。
勉強に次ぐ勉強、修行に次ぐ修行の果てに超人的な能力が獲得されたり、
難病を克服できたりといった見返りもあってこそ臨んでいることだが、それもまた常人の
想像を絶するような困難の果てにのみ得られるものだから、人を釣るエサなどにはできない。
そのため一生孤独でいるか、距離感を保った上での人付き合い程度はするか、
億が一程度には自分と志しを同じゅうする者と出会えるか、
どうなるにしても、そればかりを気にしていても埒のあかないことである。
四書五経なんか読んでも何がいいのかさっぱりわかりゃあせん、
刀の刃紋や能の演舞も見てて何が面白いのかわからん。
そんな、真面目を楽しめず不真面目を楽しむ人間のほうが圧倒的大多数だし、
武家時代の日本といえども百姓間などでは過半数ではなかったろうか。
ただ、高尚なものを楽しめる真面目な人間のほうが、
不真面目なものは楽しめないのかといえば、そういうわけではない。
近年の漫画や音楽や映画などもそれなりに楽しめるし、
むしろより上位互換の普遍的な楽しみを知っている分だけ、
俗文化を楽しむことにも余裕が生まれる。
たとえば音楽なら、クラシックやジャズはいいけどロックはダメだとか、
メタルはいいけどパンクはダメだとか、洋楽はいいけど邦楽はダメだとか
いったような中二病じみたこだわりを捨てて、音楽全般を楽しめる。
近頃の日本人は、大人になるとこだわりを持って音楽を聴くことに疲れて、
音楽趣味を一切合切捨ててしまうなんていう人間も多いが、
より高尚な伎楽文化なども知ればこそ、そのような極端に走ってしまうことがない。
モーツァルトもコルトレーンもビートルズも米津玄師も、
大衆ウケが第一な俗文化であることには変わりないのだから、
無駄な分け隔て意識などを持つ必要はない。その余裕こそは、
本当に高尚な文化の楽しみも知る者だけが抱けるものである。
刀の刃紋や能の演舞も見てて何が面白いのかわからん。
そんな、真面目を楽しめず不真面目を楽しむ人間のほうが圧倒的大多数だし、
武家時代の日本といえども百姓間などでは過半数ではなかったろうか。
ただ、高尚なものを楽しめる真面目な人間のほうが、
不真面目なものは楽しめないのかといえば、そういうわけではない。
近年の漫画や音楽や映画などもそれなりに楽しめるし、
むしろより上位互換の普遍的な楽しみを知っている分だけ、
俗文化を楽しむことにも余裕が生まれる。
たとえば音楽なら、クラシックやジャズはいいけどロックはダメだとか、
メタルはいいけどパンクはダメだとか、洋楽はいいけど邦楽はダメだとか
いったような中二病じみたこだわりを捨てて、音楽全般を楽しめる。
近頃の日本人は、大人になるとこだわりを持って音楽を聴くことに疲れて、
音楽趣味を一切合切捨ててしまうなんていう人間も多いが、
より高尚な伎楽文化なども知ればこそ、そのような極端に走ってしまうことがない。
モーツァルトもコルトレーンもビートルズも米津玄師も、
大衆ウケが第一な俗文化であることには変わりないのだから、
無駄な分け隔て意識などを持つ必要はない。その余裕こそは、
本当に高尚な文化の楽しみも知る者だけが抱けるものである。
人は自分を写す鏡か…お前も良い事言う時もあるな
だったら、日々を慌ただしく仕事に追われていて趣味も持てないような社会人のほうが、
高尚な趣味のある無職者よりも不真面目な人種であるということになるから、
そんな連中のほうが無職を不真面目な人種として蔑む資格もないといえる。
自分が無職者になってしまうことへの恐怖から、すでに機械による自動化や在宅勤務化が可能で
あるような仕事も、あえて自分が通勤で続けてやろうとしたりするのも、不真面目さゆえの所業である。
家族を養うような最低限の責務のためというのなら、なぜ今の日本人は
江戸時代の倍以上の労働時間でいて、なおかつ江戸時代ほどにも人口動態面から
世の中を健全に営むことができていないのか。身に余るような富裕さのための債務に追われて、
ろくに趣味も持てないほどの忙殺に見舞われていることの方がむしろ主体であるからだろう。
高尚な趣味のある無職者よりも不真面目な人種であるということになるから、
そんな連中のほうが無職を不真面目な人種として蔑む資格もないといえる。
自分が無職者になってしまうことへの恐怖から、すでに機械による自動化や在宅勤務化が可能で
あるような仕事も、あえて自分が通勤で続けてやろうとしたりするのも、不真面目さゆえの所業である。
家族を養うような最低限の責務のためというのなら、なぜ今の日本人は
江戸時代の倍以上の労働時間でいて、なおかつ江戸時代ほどにも人口動態面から
世の中を健全に営むことができていないのか。身に余るような富裕さのための債務に追われて、
ろくに趣味も持てないほどの忙殺に見舞われていることの方がむしろ主体であるからだろう。
なおかつ、儒学や刀や能の勉強がなぜ「高尚な趣味」であり得るのかといえば、
そこで培われた知識こそが善政などの優れた仕事の糧になるからである。
せいぜい自分一人か自分の家族を養うためでしかなく、なおかつそのためには
世の中での我田引水による危害すら厭わない仕事もこの世には数多くあるが、
そんな仕事よりも、世の中にとって有益な仕事をすべきなのはもちろんのこと、
有益な仕事をするための勉強をしているほうがまだはるかにマシである。
「今の日本は故人バイアスのせいで不埒な振る舞いをする人間が増えた」
ともここや他スレで述べていたが、故人バイアスなんていう小市民らしい心象に
陥ってしまって脱却することができないのも、いにしえの叡智を尊ぶ真面目な勉強を
ろくにして来ていないからである。そんな人間は一切働くなというのも無理があるが、
少なくとも人の上に立ったり、世の中を大きく動かすような仕事をすべきではないといえる。
そこで培われた知識こそが善政などの優れた仕事の糧になるからである。
せいぜい自分一人か自分の家族を養うためでしかなく、なおかつそのためには
世の中での我田引水による危害すら厭わない仕事もこの世には数多くあるが、
そんな仕事よりも、世の中にとって有益な仕事をすべきなのはもちろんのこと、
有益な仕事をするための勉強をしているほうがまだはるかにマシである。
「今の日本は故人バイアスのせいで不埒な振る舞いをする人間が増えた」
ともここや他スレで述べていたが、故人バイアスなんていう小市民らしい心象に
陥ってしまって脱却することができないのも、いにしえの叡智を尊ぶ真面目な勉強を
ろくにして来ていないからである。そんな人間は一切働くなというのも無理があるが、
少なくとも人の上に立ったり、世の中を大きく動かすような仕事をすべきではないといえる。
まーた、話を逸らしたよ。
生産性のない人間は、宗教やら芸術やら文化に自己の拠り所を求める。で、笠地蔵はものの見事に役満。
世の中に不満があるのは分かるけども、ニートの身分で偉そうにするのはよくない。
「難病治した / ◯◯がうまい(自称)」なんてのは、せいぜい「高校の部活で、県大会ベスト16でした」程度の自己アピールにしかならんのだから、今の労働のあり方がおかしいと感じるのなら、自給自足なり自分が潔しと思う働き方をすりゃいいんだよ。
どう言い訳したって、乞食と無職の方が安逸だ。
生産性のない人間は、宗教やら芸術やら文化に自己の拠り所を求める。で、笠地蔵はものの見事に役満。
世の中に不満があるのは分かるけども、ニートの身分で偉そうにするのはよくない。
「難病治した / ◯◯がうまい(自称)」なんてのは、せいぜい「高校の部活で、県大会ベスト16でした」程度の自己アピールにしかならんのだから、今の労働のあり方がおかしいと感じるのなら、自給自足なり自分が潔しと思う働き方をすりゃいいんだよ。
どう言い訳したって、乞食と無職の方が安逸だ。
いやいや、自称ニートだからこそ尊大な態度を取る。
いざ働き始めたりした日にゃ決してこんな態度ではいられない。
余裕を持って生きることの偉大さと、金儲けに身をやつしていることの卑しさを差別するために。
自分が家族を養うようなことにまでなるようならば、
自分の代わりに独身や無職同然の生活を一生貫いてくれる坊さんへの崇敬を欠かさないようにもする。
世のため人のため、自分の仕事があくまで社会の平和のためになることを守るためにな。
いざ働き始めたりした日にゃ決してこんな態度ではいられない。
余裕を持って生きることの偉大さと、金儲けに身をやつしていることの卑しさを差別するために。
自分が家族を養うようなことにまでなるようならば、
自分の代わりに独身や無職同然の生活を一生貫いてくれる坊さんへの崇敬を欠かさないようにもする。
世のため人のため、自分の仕事があくまで社会の平和のためになることを守るためにな。
「病気治した/◯◯がうまい」も、大した自慢にならない程度のものもあれば、
ノーベル賞や金メダリストを超える程度のものもある。
別に俺の能力が、後者に相当するようなものだとここで認められるとも思ってはいない。
俺にその能力がないからではなく、ここにそれを審査できる能力の持ち主がいないから。
これからも能力を認められる機会がないが故に、有象無象の民間療法士や曲芸師の中に
埋もれるようなことも当然想定してはいる。ただそれが、人類史上に未曾有級の能力を
得たと確かに自覚している者の自信に、かすり傷ひとつ付けられるようなこともない。
自信がないから、他人に認められることを欲する。
自分がそうだからといって、誰でもそうだと思ってたら大間違い。
ノーベル賞や金メダリストを超える程度のものもある。
別に俺の能力が、後者に相当するようなものだとここで認められるとも思ってはいない。
俺にその能力がないからではなく、ここにそれを審査できる能力の持ち主がいないから。
これからも能力を認められる機会がないが故に、有象無象の民間療法士や曲芸師の中に
埋もれるようなことも当然想定してはいる。ただそれが、人類史上に未曾有級の能力を
得たと確かに自覚している者の自信に、かすり傷ひとつ付けられるようなこともない。
自信がないから、他人に認められることを欲する。
自分がそうだからといって、誰でもそうだと思ってたら大間違い。
だいたい、問答無用に安逸を卑しんで苦渋を尊ぶのは、
奴隷でなければ奴隷の主人の発想である。
北条恒時が奴隷制を禁止し、秀吉や徳川もキリシタンの奴隷売買を排除した、
この日本における伝統的な価値観などでは決してない。
日本の伝統でない上に、世界的にも過去の遺物にすべきとされている
反倫理的な発想である。制度としての奴隷制を否定するのならば、
奴隷的価値観もまた非とされてしかるべきなのが当然のこと。
現実問題、働いて生計を立てなければならないとか、家族を養わねばならない
ぐらいのことは大昔からの日本社会を含むこの世のことわりではあるが、
だからといって働くことを無制限に讃え、働かないことを無条件に蔑むような
価値観の蛇足なんぞを誰も必要としてはいないし、あるだけ害なものでしかない。
働かない人間が増えすぎるのが困るようなら、江戸時代の日本などとも同じように
不労罪を定めればいいだけなのだし、そのほうが倫理的にも良好であるのだから。
奴隷でなければ奴隷の主人の発想である。
北条恒時が奴隷制を禁止し、秀吉や徳川もキリシタンの奴隷売買を排除した、
この日本における伝統的な価値観などでは決してない。
日本の伝統でない上に、世界的にも過去の遺物にすべきとされている
反倫理的な発想である。制度としての奴隷制を否定するのならば、
奴隷的価値観もまた非とされてしかるべきなのが当然のこと。
現実問題、働いて生計を立てなければならないとか、家族を養わねばならない
ぐらいのことは大昔からの日本社会を含むこの世のことわりではあるが、
だからといって働くことを無制限に讃え、働かないことを無条件に蔑むような
価値観の蛇足なんぞを誰も必要としてはいないし、あるだけ害なものでしかない。
働かない人間が増えすぎるのが困るようなら、江戸時代の日本などとも同じように
不労罪を定めればいいだけなのだし、そのほうが倫理的にも良好であるのだから。
いやいや、ヨガや断食とかやって全能感に目覚めるのはよくある事よ。オウム事件の幹部だって、それで傾倒したわけだし。
ただね、あんたは
「リア充憎し、外見で人を愛好する軽薄な奴らめ」 ※と言いつつ、エロ動画でオ●ニー →→ 「(親のスネを齧ってでも)日本刀を称えるのが正しい道だ」と言って、謎のマウンティングを取り始める
って事しかやってないじゃん。
(親のカネや資本家をアテにせずとも)人間らしく生計を立て、多少貧しくとも豊かに暮らす方法を実践・伝授するならまだしも、延々と自己満してるだけ。
僧侶だ仏教だと言ってるが、仏陀は無所有と貧しくて困っている人を助けよと説いたのに、あんたは困ってる人を助ける気もなく、却ってカネの掛かる趣味を楽しんでいるだけ。
麻原みたく、都合の良いように権威ある昔の人の言葉を、切り貼りしているに過ぎない。
反省はしてるんだろうけどさ、そもそも出発点が非モテの僻みって時点で、「まだ極めてはないんだな。精神的な未熟さがあるんだな」ってのは、アホにだって分かる。
ただね、あんたは
「リア充憎し、外見で人を愛好する軽薄な奴らめ」 ※と言いつつ、エロ動画でオ●ニー →→ 「(親のスネを齧ってでも)日本刀を称えるのが正しい道だ」と言って、謎のマウンティングを取り始める
って事しかやってないじゃん。
(親のカネや資本家をアテにせずとも)人間らしく生計を立て、多少貧しくとも豊かに暮らす方法を実践・伝授するならまだしも、延々と自己満してるだけ。
僧侶だ仏教だと言ってるが、仏陀は無所有と貧しくて困っている人を助けよと説いたのに、あんたは困ってる人を助ける気もなく、却ってカネの掛かる趣味を楽しんでいるだけ。
麻原みたく、都合の良いように権威ある昔の人の言葉を、切り貼りしているに過ぎない。
反省はしてるんだろうけどさ、そもそも出発点が非モテの僻みって時点で、「まだ極めてはないんだな。精神的な未熟さがあるんだな」ってのは、アホにだって分かる。
だいたい、自分自身がまず第一の救済対象であった。
松坂大輔や斎藤佑樹のほか、数多のプロ野球投手が選手生命を終わらせて来た原因であり、
なおかつ現代の医学では治癒が不能とされている肩の故障。
ノーベル賞級の医学者が何百人と集まって、
何百億という予算を投入されようとも治せない病を、自力で治した。
そこでは確かに、技術的にはヨガや古武道などの先人たちの知恵が役に立ったが、
心理面では、いま上に俺が書いたようなものの考え方や、その実践こそが原動力となった。
安逸を尊び、苦渋を卑しみ、肩をそびやかしへつらい笑うような金儲けを極力遠ざける。
そこでの本格的なヨガや古武道の技術的実践によって、不治の病までもが治された。
俺自身がその被験者なのだから、むしろ救済された者としてこそ決して考えを譲ることがない。
確かな結果を挙げている道なのだから、口先だけの空論などに譲るわけがない。
松坂大輔や斎藤佑樹のほか、数多のプロ野球投手が選手生命を終わらせて来た原因であり、
なおかつ現代の医学では治癒が不能とされている肩の故障。
ノーベル賞級の医学者が何百人と集まって、
何百億という予算を投入されようとも治せない病を、自力で治した。
そこでは確かに、技術的にはヨガや古武道などの先人たちの知恵が役に立ったが、
心理面では、いま上に俺が書いたようなものの考え方や、その実践こそが原動力となった。
安逸を尊び、苦渋を卑しみ、肩をそびやかしへつらい笑うような金儲けを極力遠ざける。
そこでの本格的なヨガや古武道の技術的実践によって、不治の病までもが治された。
俺自身がその被験者なのだから、むしろ救済された者としてこそ決して考えを譲ることがない。
確かな結果を挙げている道なのだから、口先だけの空論などに譲るわけがない。
心の底から安逸を尊べるのでなければ務まらない、日に15時間以上の休息の繰り返し。
苦渋を卑しめるのでなければ務まらない、最難関のヨガ技巧中における危険行為の回避。
それらがあって初めて可能となった、超ノーベル賞級の難病の治癒。
単なる主観的な主張ではなく、客観的な効能(MRI検査による医師の診断)を伴う真実への見識。
それがたまたま今の俺の考え方や言行規範でもあったものだから、実現されたことである。
俺が考えを改めるぐらいはわけもないが、それにより俺は普遍的な叡智からかけ離れ、
難病を治癒する能力を失うのみならず、また病状を悪化させてしまう危険すらある。
自分のためにもならず、他人のためにもならない。そんな俺に何を期待されても困るだけだ。
苦渋を卑しめるのでなければ務まらない、最難関のヨガ技巧中における危険行為の回避。
それらがあって初めて可能となった、超ノーベル賞級の難病の治癒。
単なる主観的な主張ではなく、客観的な効能(MRI検査による医師の診断)を伴う真実への見識。
それがたまたま今の俺の考え方や言行規範でもあったものだから、実現されたことである。
俺が考えを改めるぐらいはわけもないが、それにより俺は普遍的な叡智からかけ離れ、
難病を治癒する能力を失うのみならず、また病状を悪化させてしまう危険すらある。
自分のためにもならず、他人のためにもならない。そんな俺に何を期待されても困るだけだ。
あと俺は、別にそんなに高価な刀を“買っている”わけでもない。
日本刀にまつわることとして俺が個人的に精を入れてるのは、
極力真剣の扱い方に準拠した木刀の素振りとかのほうだ。
そのために色々な種類の木刀を試してみて、近頃は画像の右端や左2みたいな
江戸時代製の木刀を、リサイクル屋で1000円ちょいで買って振るとかもしてみてる。
そしたらこういう木刀のほうが、右2みたいな現代の木刀よりも見た目は真剣から程遠いのに、
古流の剣術にはより向いていて、なおかつ初めから真剣を振ったりした場合に付きがちな
悪い手癖を矯正してくれる効果があることがわかった。
真剣を正しく振る剣術技巧は肩を壊さないどころか、壊れた肩を矯正までしてくれる一方、
不正な剣振りは肩を壊す原因になってしまう。俺が刀の偉大さを改めて見直したのも
これこそが真因だし、だからこそ「真剣」の価値を重んずるのでもある。
竹刀振り止まりの剣術ごっこではあっという間にその道を外れてしまうものだから。
日本刀にまつわることとして俺が個人的に精を入れてるのは、
極力真剣の扱い方に準拠した木刀の素振りとかのほうだ。
そのために色々な種類の木刀を試してみて、近頃は画像の右端や左2みたいな
江戸時代製の木刀を、リサイクル屋で1000円ちょいで買って振るとかもしてみてる。
そしたらこういう木刀のほうが、右2みたいな現代の木刀よりも見た目は真剣から程遠いのに、
古流の剣術にはより向いていて、なおかつ初めから真剣を振ったりした場合に付きがちな
悪い手癖を矯正してくれる効果があることがわかった。
真剣を正しく振る剣術技巧は肩を壊さないどころか、壊れた肩を矯正までしてくれる一方、
不正な剣振りは肩を壊す原因になってしまう。俺が刀の偉大さを改めて見直したのも
これこそが真因だし、だからこそ「真剣」の価値を重んずるのでもある。
竹刀振り止まりの剣術ごっこではあっという間にその道を外れてしまうものだから。
信じてくれるかどうかはわからんが、
俺には始めから「外見コンプレックス」なんていうものはない。
別に美男子などであるわけではないが、
「男は外見じゃない」と大昔から思い続けていて、
男のクセして外見を売るような連中を鼻つまみ者扱いにし続けて来た。
そこからちょっとだけ軌道修正して、
「名刀が似合うような男が格好いいのはアリかな」
とも思い始めた。要は、外見否定から外見許容(一部限定)への変節だ。
骨盤歪みが少なくて、ヒョロガリにもキモデブにも振り切れない男前。
刀が似合う男ってのはそういう人種だから、今の世界には皆無にも等しい。
そういう相手にコンプレックスを抱かされるような時代に生まれなかった
ことを喜ばしく思うよりは、志しの育てにくさを戒めるべきであろうな。
俺には始めから「外見コンプレックス」なんていうものはない。
別に美男子などであるわけではないが、
「男は外見じゃない」と大昔から思い続けていて、
男のクセして外見を売るような連中を鼻つまみ者扱いにし続けて来た。
そこからちょっとだけ軌道修正して、
「名刀が似合うような男が格好いいのはアリかな」
とも思い始めた。要は、外見否定から外見許容(一部限定)への変節だ。
骨盤歪みが少なくて、ヒョロガリにもキモデブにも振り切れない男前。
刀が似合う男ってのはそういう人種だから、今の世界には皆無にも等しい。
そういう相手にコンプレックスを抱かされるような時代に生まれなかった
ことを喜ばしく思うよりは、志しの育てにくさを戒めるべきであろうな。
本当は和服を着て暮らしたいんだけどなあ。
今の日本は江戸時代よりも10度は平均気温が高いから、
当時の規格に沿った和服は暑すぎて常用できたもんじゃない。
それでもちゃんと和服を着ましょう、日本家屋に住みましょうとなれば、
それこそ日本刀趣味どころではない費用がかさむことになるわな。
カネは大事やぜ。
金満で我を見失うことがないようにするためにこそなあ。
今の日本は江戸時代よりも10度は平均気温が高いから、
当時の規格に沿った和服は暑すぎて常用できたもんじゃない。
それでもちゃんと和服を着ましょう、日本家屋に住みましょうとなれば、
それこそ日本刀趣味どころではない費用がかさむことになるわな。
カネは大事やぜ。
金満で我を見失うことがないようにするためにこそなあ。
化繊の安物の和服なんか着ても大して見栄えしない上に、
それでもまだ安い洋服より維持費がかかるからな。
それでもまだ安い洋服より維持費がかかるからな。
見栄えw和服なら作務衣とか甚兵衛とか浴衣でも良いのでは?
むしろ冬のが寒そうとか以前に面倒臭いんだろ?ジャージ楽だもんな。
むしろ冬のが寒そうとか以前に面倒臭いんだろ?ジャージ楽だもんな。
その辺で安いのはだいたい made in china だぞ。
>208の下はダサいけど一応 made in japan。
パジャマも純綿で日本製で安いのを好んで着てる。
金をかけねば格好いい日本製ってのはあり得ないな。
武道着ですら近頃の安いのは中国製だし。
>208の下はダサいけど一応 made in japan。
パジャマも純綿で日本製で安いのを好んで着てる。
金をかけねば格好いい日本製ってのはあり得ないな。
武道着ですら近頃の安いのは中国製だし。
あ〜ぁ…痛い所疲れておどけ始めたよ
ちょっと程度を下げてやりすぎたかえ?
和服を安く着る試みはもう何度も試みたんじゃ。
そのたびに最低限のでも贅沢趣味になる現状に返り討ちに遭ってきた。
贅沢が許されるんなら今後一生でも着てやるわえ。
今は貧乏な世の中だから、なかなか難しいことだろうがのう。
和服を安く着る試みはもう何度も試みたんじゃ。
そのたびに最低限のでも贅沢趣味になる現状に返り討ちに遭ってきた。
贅沢が許されるんなら今後一生でも着てやるわえ。
今は貧乏な世の中だから、なかなか難しいことだろうがのう。
敢えて人様を傷つけるつもりは毛頭ないけども、、、、、触れられたくない話をされた時に、「肩が〜、ヨガが〜」とか言って、延々と話を逸らす癖はやめた方がいいよ。
・非モテのルサンチマン
・外見に執着するのは愚かと言いつつ、ガッツリ外見で選んでオ●ニーしてる
・親の財産に養われながら、高尚ぶってるだけ(人に言えないような、空白だらけの経歴。フリーター並みの市場価値)
・釈迦の説いた重要な戒め(無所有と慈善など)を無視しながら、権威ある言葉を都合よく切り貼りしてるだけ
このうちのどれか、或いはいくつかに触れられたくないんだろうけど、そうやって自分の感情に見て見ぬフリをしたり、矮小化する働きを「否認」って言うんだよ。
んでもって否認が働いてる人間は、あんたに限らず、その反動で偉そうに振る舞うもの。言っても無駄だろうけど、お節介までに一応言っとく。
たとえば、今までに人を殺した経験が一度もないのに、
「おまえ人を殺しただろう?」と詰め寄られれば、そりゃあ否認するわな。
「おまえ人を殺しただろう?」と詰め寄られれば、そりゃあ否認するわな。
そう言えば一時期橋本環奈にぞっこんだったよなw
設定盛りすぎなんだよwこのスレだって刀の良さと
侍の精神的拠り所程度にしときゃ分かり易いべ?
服にしたって今時洒落や伝統とフォーマル位しか
着る機会ないし洋服のが機能的って程度の話。
設定盛りすぎなんだよwこのスレだって刀の良さと
侍の精神的拠り所程度にしときゃ分かり易いべ?
服にしたって今時洒落や伝統とフォーマル位しか
着る機会ないし洋服のが機能的って程度の話。
普遍的な合理性ね、見栄えも含め洋服が台頭してるのは事実
しかしお前は経済>哲学で洋服を着る…ダサすぎるわ。
しかしお前は経済>哲学で洋服を着る…ダサすぎるわ。
近頃よく俺の話し相手になってくる奴、一体誰なのかも何人がかりなのかも知らんが、
俺の意見にも賛同できない、文章も駄文で読む気になれないで、
よく相手をし続けるだけの情熱を保っていられたもんだな。
俺の考えを変えさせられる見込みも全くないのに。
俺のほうは、考えの整理がてらの話が捗って助けになってるぐらいだが。
ほんとありがとうな。^ ^
俺の意見にも賛同できない、文章も駄文で読む気になれないで、
よく相手をし続けるだけの情熱を保っていられたもんだな。
俺の考えを変えさせられる見込みも全くないのに。
俺のほうは、考えの整理がてらの話が捗って助けになってるぐらいだが。
ほんとありがとうな。^ ^
格好良くなりたいという思いはまああるけれども、
その先にいるのがこの人(國井善弥氏)とかなんで、
たぶん「いかにして格好良くなるか」という話自体が噛み合わないと思う。
見た目がそんな美男子や男前でなくとも、
米軍の銃剣術教官を難なくねじ伏せるほどの武威によって、
自然と大の男が感服させられるだけの格好良さを帯びている。
>>154の武蔵像だって美男とかなわけではないし、おまけにハゲだが、
そんなことはどうでも良くなるぐらいに荒武者としてのオーラが出ている。
断じて女にモテることなどを目的とした部類の格好良さではないが、
だからこそ俺のような男までもが心から認められる格好良さにもなっている。
その先にいるのがこの人(國井善弥氏)とかなんで、
たぶん「いかにして格好良くなるか」という話自体が噛み合わないと思う。
見た目がそんな美男子や男前でなくとも、
米軍の銃剣術教官を難なくねじ伏せるほどの武威によって、
自然と大の男が感服させられるだけの格好良さを帯びている。
>>154の武蔵像だって美男とかなわけではないし、おまけにハゲだが、
そんなことはどうでも良くなるぐらいに荒武者としてのオーラが出ている。
断じて女にモテることなどを目的とした部類の格好良さではないが、
だからこそ俺のような男までもが心から認められる格好良さにもなっている。
そういう、男が惚れる系の格好良さすらもかなぐり捨てる部類の
聖人然とした人間像もまたあって、これは個人的にはなりたいとまでは思えないが、
よく崇敬していかねばならない人種ではあるのだろうなとは思う。
この人を初めて見たときは、臨済宗の高僧だった玄峰老師とかを思い出したもんだが、
なぜこの人は本職の坊さんではないかというに、今の金満まみれの仏門などに
収まっていられる志しの持ち主ではないからなのだろうなと察したものだ。
ただ、この人自身も奥さんに逃げられてるし、>>239に書いたような格好良さを追求する
男たち以上にも妻帯などが向かない人種である。その辺はちゃんと、本格の出家僧
としての社会的立場等を整備してやるのでなければ擁護してやれもしない所である。
仮に、この人がショーンコネリーみたいにダンディな爺さんだったとしても似合わないし、
そうだったとすればここまで挺身的な慈善活動に邁進したりもしなかっただろう。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、色気などなければこそなれる聖賢もまたあるのである。
聖人然とした人間像もまたあって、これは個人的にはなりたいとまでは思えないが、
よく崇敬していかねばならない人種ではあるのだろうなとは思う。
この人を初めて見たときは、臨済宗の高僧だった玄峰老師とかを思い出したもんだが、
なぜこの人は本職の坊さんではないかというに、今の金満まみれの仏門などに
収まっていられる志しの持ち主ではないからなのだろうなと察したものだ。
ただ、この人自身も奥さんに逃げられてるし、>>239に書いたような格好良さを追求する
男たち以上にも妻帯などが向かない人種である。その辺はちゃんと、本格の出家僧
としての社会的立場等を整備してやるのでなければ擁護してやれもしない所である。
仮に、この人がショーンコネリーみたいにダンディな爺さんだったとしても似合わないし、
そうだったとすればここまで挺身的な慈善活動に邁進したりもしなかっただろう。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、色気などなければこそなれる聖賢もまたあるのである。
糧にならんのはどっちやねん
答えられない事はスルーするのに気に入らないと噛み付く幼児みたい
>>239
國井善弥氏は存在自体がかっこいい。
>>213
10度はちょっと大げさでは?最も温暖だった縄文早期でも、そこまで高くなかったような。
>>165
興味深い映像有難うございます。
>>160
平安時代から室町時代にかけて、最も多く人を殺傷した武器は弓矢。次が槍。
室町末期から漸次鉄砲が主役の座に着く。その間、戦場における刀の役割は
専ら首切りだったのは事実。但し、江戸時代の末期、いわゆる幕末には、
日本刀が戦闘の主力だった。もちろん、野戦では鉄砲にかなわないものの、
室内戦や敵味方入り乱れての乱闘では刀が大活躍した。
明治になっても、西南戦争では薩摩兵の示現流が鎮台兵を脅かし、逆に政府
軍の士族による抜刀隊がよく薩摩兵を苦しめた。さらに、日清戦争に於いて
さえも抜刀兵が相応の働きをしている。
國井善弥氏は存在自体がかっこいい。
>>213
10度はちょっと大げさでは?最も温暖だった縄文早期でも、そこまで高くなかったような。
>>165
興味深い映像有難うございます。
>>160
平安時代から室町時代にかけて、最も多く人を殺傷した武器は弓矢。次が槍。
室町末期から漸次鉄砲が主役の座に着く。その間、戦場における刀の役割は
専ら首切りだったのは事実。但し、江戸時代の末期、いわゆる幕末には、
日本刀が戦闘の主力だった。もちろん、野戦では鉄砲にかなわないものの、
室内戦や敵味方入り乱れての乱闘では刀が大活躍した。
明治になっても、西南戦争では薩摩兵の示現流が鎮台兵を脅かし、逆に政府
軍の士族による抜刀隊がよく薩摩兵を苦しめた。さらに、日清戦争に於いて
さえも抜刀兵が相応の働きをしている。
「大量殺戮」が可能な武器や兵器ほど、普遍的に優れているのか?
狙撃銃よりも機関銃のほうが、戦車よりも自走砲のほうが、戦闘機よりも爆撃機のほうが
より大きな火力で大人数の弱者を痛めつけられるから、あらゆる面で優れているというのか?
兵法書「六韜」の虎韜(虎の巻)には、
「都市攻略の際には、敵方の責任者を明確化してその処罰を布令せよ」とある。
その心は、戦争犠牲者の無益な増加を極力防いで、都市をなるべく無傷に近い状態で占領するためである。
日本刀こそは、「敵将の首を取って戦を終わらせる」というその最大級の用途により、
どんなに強力な兵器以上にも虎韜の秘伝を遂行することに特化された武器である。
敵地の占領を穏便に執り行うことは、軍事以上に軍政上での重要な意味合いを帯びている。
刀はまさに、軍政のための道具としてこそ最上級の効用を発揮するものである。
もちろん護身用の武具としても格好だし、剣術の修練が至上の戦術感覚を養うものでもある。
個人的には、難病を治療するための必須アイテムになりもした。
この世に利益をもたらす武具としてこそ、未だに日本刀を超えるものはないともいえる。
狙撃銃よりも機関銃のほうが、戦車よりも自走砲のほうが、戦闘機よりも爆撃機のほうが
より大きな火力で大人数の弱者を痛めつけられるから、あらゆる面で優れているというのか?
兵法書「六韜」の虎韜(虎の巻)には、
「都市攻略の際には、敵方の責任者を明確化してその処罰を布令せよ」とある。
その心は、戦争犠牲者の無益な増加を極力防いで、都市をなるべく無傷に近い状態で占領するためである。
日本刀こそは、「敵将の首を取って戦を終わらせる」というその最大級の用途により、
どんなに強力な兵器以上にも虎韜の秘伝を遂行することに特化された武器である。
敵地の占領を穏便に執り行うことは、軍事以上に軍政上での重要な意味合いを帯びている。
刀はまさに、軍政のための道具としてこそ最上級の効用を発揮するものである。
もちろん護身用の武具としても格好だし、剣術の修練が至上の戦術感覚を養うものでもある。
個人的には、難病を治療するための必須アイテムになりもした。
この世に利益をもたらす武具としてこそ、未だに日本刀を超えるものはないともいえる。
病気が再発するかも知れないからと言うが、病気になる前からプー太郎じゃないの?
今の経済や仕事のあり方に問題点があるのは誰もが知ってるが、かと言ってあんたみたいに何も生産しなかったら、共同体が破綻するわな。
ヒトに何かを売りつけたり、後ろめたい事をせずとも、ヴィジョンと能力さえあれば、小さくとも自分でビジネスをする事はできるんだから、文句言って無職でいるよりは、何か自分で始めればいいんだよ。
(生計に関して)あんたは自分の手を労することも汚すこともせず、ただ親に寄生するという最も楽な道を選んでおきながら、坊さんごっこや侍ごっこをして、偉そうに御託を垂れる卑怯者でしかない。
もしカネを稼ぐのが汚い事だと言うなら、その汚いカネで買った食べ物を食べてるあんたの体も汚いだろうに。
君は外見云々の話ばかりするが、外見云々以前に、そんな男と付き合いたがる女がいるとでも思ったのかい?
もしあんたが娘を持つ父親だったなら、そんな男は言語道断に違いない。
このスレ自体が、人の外見を論題の一つにしているから、
それに合わせて外見の話もしているだけでな。
基本的には、容貌に関する話なんかそんなにして来なかったし、
それに合わせて、ここでも批判的に取り扱っている。
美麗な容姿で異性にモテたいとかいう願望などが始めから
どこにもないのだから、それを大前提にしたような
物言いからしてお門違いもいいとこ。
ハシカン云々も、絶対に自分とは一生縁がない相手だからこその戯れだったな。
女にモテるための努力など何もしてないし、する気もない所からの戯言。
キモオタが二次元のアニメキャラにブヒ付いたりするのともなんら変わりの
ないことだったと俺自身が認める。それにより、異性づきあいなどに
さして真剣になる気がない意思を示したまでのことである。
それに合わせて外見の話もしているだけでな。
基本的には、容貌に関する話なんかそんなにして来なかったし、
それに合わせて、ここでも批判的に取り扱っている。
美麗な容姿で異性にモテたいとかいう願望などが始めから
どこにもないのだから、それを大前提にしたような
物言いからしてお門違いもいいとこ。
ハシカン云々も、絶対に自分とは一生縁がない相手だからこその戯れだったな。
女にモテるための努力など何もしてないし、する気もない所からの戯言。
キモオタが二次元のアニメキャラにブヒ付いたりするのともなんら変わりの
ないことだったと俺自身が認める。それにより、異性づきあいなどに
さして真剣になる気がない意思を示したまでのことである。
いくら不労安逸の清浄さを謳う俺の物言いの揚げ足を取ったところで、
俺自身がその清浄さの果報によって難病を治せたことには変わりない。
無職期間を挟むこともなく、若いうちから医者や医学者や療法士などになって
働いていたりしたのでは絶対に治せなかった病が、長期無職の功徳によってこそ治された。
それは、俺自身の身を以ての確信と、医者からの診断もあることのため揺るがしようがない。
そしてこれこそが、他者への善根の回向の糧ともなる経験でもあったのだから、
あえて無職であり続けて来たことを含む全ての経歴を少しだって非難される筋合いはない。
俺の人生にとっては、まさにこれこそが最善の選択であり、故に最善の結果を得た。
すでに善因善果という結果が伴っていることに対して非難を加え、
ああすればいいだのこうしろだのと上から目線の指図だけする、
ここじゃなくて自分ちの便器の底にでも向かって語りかてたほうが分相応ではあるまいか。
俺自身がその清浄さの果報によって難病を治せたことには変わりない。
無職期間を挟むこともなく、若いうちから医者や医学者や療法士などになって
働いていたりしたのでは絶対に治せなかった病が、長期無職の功徳によってこそ治された。
それは、俺自身の身を以ての確信と、医者からの診断もあることのため揺るがしようがない。
そしてこれこそが、他者への善根の回向の糧ともなる経験でもあったのだから、
あえて無職であり続けて来たことを含む全ての経歴を少しだって非難される筋合いはない。
俺の人生にとっては、まさにこれこそが最善の選択であり、故に最善の結果を得た。
すでに善因善果という結果が伴っていることに対して非難を加え、
ああすればいいだのこうしろだのと上から目線の指図だけする、
ここじゃなくて自分ちの便器の底にでも向かって語りかてたほうが分相応ではあるまいか。
人間誰にでも間違いはある。
言い間違いや、言葉の綾や読解力不足による誤解。
そういう瑣末な過誤は仕方のないこととして、
総合的に見てもやはり一貫性がないかどうか。
あるんだなあ、これが。
俺自身もその全容を把握しきれない域に至るまで。
言い間違いや、言葉の綾や読解力不足による誤解。
そういう瑣末な過誤は仕方のないこととして、
総合的に見てもやはり一貫性がないかどうか。
あるんだなあ、これが。
俺自身もその全容を把握しきれない域に至るまで。
誰しもが無職にまでなれずとも、苦渋を尊んで安逸を卑しむような顛倒ぐらいは捨てて、
(宴席で「俺が若い頃はサビ残ぐらい当たり前だった」云々と自慢するような不埒さなど)
なるべくなら奴隷にならず、なれるものなら無職になりたいぐらいの志しの高さでいられるように。
無職になったからといって全く何もできなくなるのではない。
むしろそこでこそ享受できるより真面目で高尚な勉強や修行があり、
それによって医者にも治せないような難病が治せたり、
大学教授やアスリート以上の能力が得られるようなこともある。
単なる無職では、体裁が悪いのも確かなこと。
今は俺だけでなく尾畠春夫さんなども、仏門の腐敗具合を警戒して出家などは避けているが、
出家者ともなれば肉食妻帯商売を本当に禁忌とする本物の仏門を建て直して、
そこを「尊ばれるべき無職(住職)」の居場所として整備して行くべきでもあろう。
こういったことも、今までに何度も何度も述べて来たことだ。
にもかかわらず「この世の全員が無職に!」だの「逆らう者は処刑!」だのと、
事実無根の決めつけを何度も何度も一つ覚えで吠え立て続けるのは、
痴呆でなければ確信犯のアンチぐらいのものだろう。
そういう連中は匿名ネット全域においてスルーが基本とされているがな。
(宴席で「俺が若い頃はサビ残ぐらい当たり前だった」云々と自慢するような不埒さなど)
なるべくなら奴隷にならず、なれるものなら無職になりたいぐらいの志しの高さでいられるように。
無職になったからといって全く何もできなくなるのではない。
むしろそこでこそ享受できるより真面目で高尚な勉強や修行があり、
それによって医者にも治せないような難病が治せたり、
大学教授やアスリート以上の能力が得られるようなこともある。
単なる無職では、体裁が悪いのも確かなこと。
今は俺だけでなく尾畠春夫さんなども、仏門の腐敗具合を警戒して出家などは避けているが、
出家者ともなれば肉食妻帯商売を本当に禁忌とする本物の仏門を建て直して、
そこを「尊ばれるべき無職(住職)」の居場所として整備して行くべきでもあろう。
こういったことも、今までに何度も何度も述べて来たことだ。
にもかかわらず「この世の全員が無職に!」だの「逆らう者は処刑!」だのと、
事実無根の決めつけを何度も何度も一つ覚えで吠え立て続けるのは、
痴呆でなければ確信犯のアンチぐらいのものだろう。
そういう連中は匿名ネット全域においてスルーが基本とされているがな。
佐藤寒山も傑作と認める二代兼元。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s68773961...
東博で見た兼元もこれに似た、刃縁のよく締まった刃紋だったと記憶している。
国宝重文級の名刀が数多ひしめく展示室の中では、反りの低さや身幅の広さが
ひときわ武骨さを醸し出していて、お世辞にも美麗な部類ではなかったが、
室町期の実用刀の最高峰という点では兼定や祐定をも上回っているといえる。
当時、香取神道流や鹿島新当流(塚原卜伝の創始)などの最古層の剣術流派が
ポツポツと現れ始めた頃で、兼元の刀もこれに合わせて刃長や茎を長めに
採っている点がこれ以前の片手打用の刀とは異なる。祐定の茎が短すぎるために
諸手刀法で柄が折れたなどというのは有名な実話で、少なくともこれ以前には
打刀を今の剣術のように両手で駆使する技法は主流ではなかったようである。
規格としては、剣術稽古に準拠した形状が主流となった江戸期以降の新刀のはしりである。
古流といえども、現代に伝承されている剣術に用いるのであれば、兼元以降の刀のほうが相応しい。
ただし、反りの低い刀を両手で振るのと、高い刀を片手で振るのとでは、
前者のほうがずっと刃筋を通すのが難しく、三島に後代兼元での介錯を頼まれた
森田必勝も何度も斬りつけに失敗し、刀をS字状に曲げてしまったという。
刃筋を通す鍛錬をちゃんとこなしていない素人なら、これまた扱う資格がない。
現代人が刀の正しい扱いによってその真価を計り知るのは極めて遠く険しい道となっている。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s68773961...
東博で見た兼元もこれに似た、刃縁のよく締まった刃紋だったと記憶している。
国宝重文級の名刀が数多ひしめく展示室の中では、反りの低さや身幅の広さが
ひときわ武骨さを醸し出していて、お世辞にも美麗な部類ではなかったが、
室町期の実用刀の最高峰という点では兼定や祐定をも上回っているといえる。
当時、香取神道流や鹿島新当流(塚原卜伝の創始)などの最古層の剣術流派が
ポツポツと現れ始めた頃で、兼元の刀もこれに合わせて刃長や茎を長めに
採っている点がこれ以前の片手打用の刀とは異なる。祐定の茎が短すぎるために
諸手刀法で柄が折れたなどというのは有名な実話で、少なくともこれ以前には
打刀を今の剣術のように両手で駆使する技法は主流ではなかったようである。
規格としては、剣術稽古に準拠した形状が主流となった江戸期以降の新刀のはしりである。
古流といえども、現代に伝承されている剣術に用いるのであれば、兼元以降の刀のほうが相応しい。
ただし、反りの低い刀を両手で振るのと、高い刀を片手で振るのとでは、
前者のほうがずっと刃筋を通すのが難しく、三島に後代兼元での介錯を頼まれた
森田必勝も何度も斬りつけに失敗し、刀をS字状に曲げてしまったという。
刃筋を通す鍛錬をちゃんとこなしていない素人なら、これまた扱う資格がない。
現代人が刀の正しい扱いによってその真価を計り知るのは極めて遠く険しい道となっている。
兼元が創始した「三本杉」という刃紋自体、どうにもただ美しいとは言い難い代物である。
一見しただけなら備前刀の重花丁子だとか、大阪新刀の濤乱刃とかのほうが美しい上に
派手だし、まず美しさを計る上では規則性が強すぎるように思える。
しかし、これこそを武骨さの極みとして愛好した武将も数多いし、
俺もその気持ちが分からなくはない。他の乱れ刃やのたれ刃はおろか、
直刃以上にも「刃紋の美しさを愛でる」という行為への惑溺を拒絶させんとする紋様。
刀は構造上、刃紋ができるように作ったほうが強さと切れ味を両立させられるのだから、
刃紋をなくすなんてことは考えるべきでもないが、かといって刃紋の美しさばかりに囚われて
武備を疎かにするのでは本末転倒となるから、刃紋そのものに耽美への戒めを込めたのではないかと。
そんな兼元を最上位工とする美濃伝の刀が、全体的に美術的評価が低くて
現代では二束三文で売り買いされてることが多いのも由々しき事態だといえるし、
欲しがる側からすれば買い時だともいえる。これこそを最も欲しがったりするのも偏屈に過ぎるだろうが。
一見しただけなら備前刀の重花丁子だとか、大阪新刀の濤乱刃とかのほうが美しい上に
派手だし、まず美しさを計る上では規則性が強すぎるように思える。
しかし、これこそを武骨さの極みとして愛好した武将も数多いし、
俺もその気持ちが分からなくはない。他の乱れ刃やのたれ刃はおろか、
直刃以上にも「刃紋の美しさを愛でる」という行為への惑溺を拒絶させんとする紋様。
刀は構造上、刃紋ができるように作ったほうが強さと切れ味を両立させられるのだから、
刃紋をなくすなんてことは考えるべきでもないが、かといって刃紋の美しさばかりに囚われて
武備を疎かにするのでは本末転倒となるから、刃紋そのものに耽美への戒めを込めたのではないかと。
そんな兼元を最上位工とする美濃伝の刀が、全体的に美術的評価が低くて
現代では二束三文で売り買いされてることが多いのも由々しき事態だといえるし、
欲しがる側からすれば買い時だともいえる。これこそを最も欲しがったりするのも偏屈に過ぎるだろうが。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m35799132...
刀剣史上、おそらく最も同名刀工の多い備前祐定。
中には数百万円を超えるような高級品もある一方、二束三文のクズ刀もある。
そのクズ刀も別に贋物とかいうわけではなく、下位工の祐定の真作だったりする。
なぜそんなことになっているのかというと、室町期に備前長船派が
数打ちも認める量産体制に入って、名代を安売りし始めたからである。
匂出来の刀の美しさでは最高峰の誉れを受ける流派だったにもかかわらず、
その美しさに陰りを見せ、機能面でも低位に甘んずるようなナマクラを量産した。
剣技の嗜みのない素人向けで、茎から寸足らずな片手打ちの刀も特に多い。
美しさばかりにこだわっていた流派が、増産に転じ始めた途端に手抜きを始めたのと比べれば、
最上位でも三本杉の兼元などが代表である美濃刀は、増産にかけても高CPを維持し続け、
信長秀吉家康らの天下取りの多大なる助けになった点が確かに優れているといえる。
三本杉刃紋の規則性による模倣のしやすさも、高CPな刀の量産にとっての助けになったろう。
美しさにこだわり過ぎることの弊害をうまくいなした日本刀までもが実在するのは特筆すべきことである。
刀剣史上、おそらく最も同名刀工の多い備前祐定。
中には数百万円を超えるような高級品もある一方、二束三文のクズ刀もある。
そのクズ刀も別に贋物とかいうわけではなく、下位工の祐定の真作だったりする。
なぜそんなことになっているのかというと、室町期に備前長船派が
数打ちも認める量産体制に入って、名代を安売りし始めたからである。
匂出来の刀の美しさでは最高峰の誉れを受ける流派だったにもかかわらず、
その美しさに陰りを見せ、機能面でも低位に甘んずるようなナマクラを量産した。
剣技の嗜みのない素人向けで、茎から寸足らずな片手打ちの刀も特に多い。
美しさばかりにこだわっていた流派が、増産に転じ始めた途端に手抜きを始めたのと比べれば、
最上位でも三本杉の兼元などが代表である美濃刀は、増産にかけても高CPを維持し続け、
信長秀吉家康らの天下取りの多大なる助けになった点が確かに優れているといえる。
三本杉刃紋の規則性による模倣のしやすさも、高CPな刀の量産にとっての助けになったろう。
美しさにこだわり過ぎることの弊害をうまくいなした日本刀までもが実在するのは特筆すべきことである。
美濃伝の刀の、見た目の美しさを蔑ろにしてまでのCPの確保という姿勢は、
良くも悪しくもトヨタなどの日本の量産化工業にも受け継がれている。
山城、大和、備前、相模、美濃という刀剣五ヶ伝の中では、自他共に認める最低位である
美濃伝の工産姿勢だけがかろうじて近代工業にも通用し、シェア面からの覇者ともなっている。
仮に備前伝や大和伝の、より高邁な職人姿勢を現代に適用しようなどとすれば、
あっという間に体制が瓦解して、戦国期のような粗製乱造状態に陥ってしまうだろう。
(大和も後代には土産物用の数打ちが専門の不毛地帯になっていた)
日本刀の作刀姿勢とも全くの無関係なのではなく、作刀姿勢としては最も低位な
あり方ばかりに倣っているのが現代の日本工業であり、量よりも質を尊ぶのであれば
新機軸による発展などがまだまだいくらでも見込めるのである。ただそれはもう、
酒の席で過労を自慢するような団塊的卑俗さでも務まることにだけはならないであろう。
良くも悪しくもトヨタなどの日本の量産化工業にも受け継がれている。
山城、大和、備前、相模、美濃という刀剣五ヶ伝の中では、自他共に認める最低位である
美濃伝の工産姿勢だけがかろうじて近代工業にも通用し、シェア面からの覇者ともなっている。
仮に備前伝や大和伝の、より高邁な職人姿勢を現代に適用しようなどとすれば、
あっという間に体制が瓦解して、戦国期のような粗製乱造状態に陥ってしまうだろう。
(大和も後代には土産物用の数打ちが専門の不毛地帯になっていた)
日本刀の作刀姿勢とも全くの無関係なのではなく、作刀姿勢としては最も低位な
あり方ばかりに倣っているのが現代の日本工業であり、量よりも質を尊ぶのであれば
新機軸による発展などがまだまだいくらでも見込めるのである。ただそれはもう、
酒の席で過労を自慢するような団塊的卑俗さでも務まることにだけはならないであろう。
自動車産業分かってないねS660からセンチュリーまで調べてみてな
その辺とかレクサスとかが、美濃刀でいうところの兼元や兼定みたいな
上位工の作品に相当するわけで、低ランクの日本車はもっと下位の刀工の作品に相当する。
下位であっても美濃伝ならそれなりの品質を保っている一方、量産型祐定などはさにあらず。
そちらに相当するのは故障しまくりのアメ車とか、排ガス垂れ流しまくりのVW車とか。
値段の高さや最高速度だけなら、フェラーリとかランボルギーニとかロールスロイスとか
上には上がいろいろとあるが、金持ちの購買意欲をくすぐるような奇抜さに長けるだけで、
故障のしにくさとか乗りやすさとか最低限の品質で日本車を凌駕しているわけではないので、
最盛期の備前刀や相州物のような高級さを帯びているなどとは言いがたい。
品質や機能性も含むあらゆる面で日本車を上回り、最高級でもあるような車、
現時点においては実在しないし、作れるとしても日本人だけだろう。
「車」という工業製品にそこまでする価値があるとも知れないが。
上位工の作品に相当するわけで、低ランクの日本車はもっと下位の刀工の作品に相当する。
下位であっても美濃伝ならそれなりの品質を保っている一方、量産型祐定などはさにあらず。
そちらに相当するのは故障しまくりのアメ車とか、排ガス垂れ流しまくりのVW車とか。
値段の高さや最高速度だけなら、フェラーリとかランボルギーニとかロールスロイスとか
上には上がいろいろとあるが、金持ちの購買意欲をくすぐるような奇抜さに長けるだけで、
故障のしにくさとか乗りやすさとか最低限の品質で日本車を凌駕しているわけではないので、
最盛期の備前刀や相州物のような高級さを帯びているなどとは言いがたい。
品質や機能性も含むあらゆる面で日本車を上回り、最高級でもあるような車、
現時点においては実在しないし、作れるとしても日本人だけだろう。
「車」という工業製品にそこまでする価値があるとも知れないが。
>>品質や機能性も含むあらゆる面で日本車を上回り、最高級でもあるような車、
現時点においては実在しないし、作れるとしても日本人だけだろう。
外車乗った事ないのかな?
高級車クラスと言うとメルセデスのE以上としてもGSやLSと比較してごらん
品質を壊れにくさとするならそこは哲学の違いだよね、ブッシュ類の交換とか
長持ちした方が良いか寿命はあるけどパフォーマンスを重視するのか
あと1000万オーバーの車はなるほどって思う所あるよ
現時点においては実在しないし、作れるとしても日本人だけだろう。
外車乗った事ないのかな?
高級車クラスと言うとメルセデスのE以上としてもGSやLSと比較してごらん
品質を壊れにくさとするならそこは哲学の違いだよね、ブッシュ類の交換とか
長持ちした方が良いか寿命はあるけどパフォーマンスを重視するのか
あと1000万オーバーの車はなるほどって思う所あるよ
備前伝は美麗な刃紋の増産が叶わず、相州伝は焼き入れ温度を極限まで高める
作刀技法の難しさを普及させられず、刀の量産という面では一定の挫折を見た。
代わりに美濃伝や肥後の同田貫などが、質と量の両立という点では先んじた。
それほどにも工産業態のバリエーションが豊富であり、
世相の転換にも柔軟に応じられること自体が日本刀文化の奥深さの恩恵でもある。
欧米にだって最高級品を妥協なく作り込む工匠文化や、大量生産の文明はあるが、
両者をできる限り両立させて行くという発想がなかったものだから、
一時は日本製品の輸出攻勢に圧され、円高攻勢で日本自体を抑圧し返して後は、
日本式の量産体制が移管された中国やアジア諸国の攻勢に圧されている。
(黄色い猿などから何も学ぶことはないとする差別意識もまた仇となり)
信用ある会社が作った車なら、10万キロ走ろうともまず壊れないという保証。
その起源を辿ってみれば、実はある種の日本刀にあったりもするのである。
日本刀が取り立てて美しかったりするのは、さらにその先の領域にあること。
作刀技法の難しさを普及させられず、刀の量産という面では一定の挫折を見た。
代わりに美濃伝や肥後の同田貫などが、質と量の両立という点では先んじた。
それほどにも工産業態のバリエーションが豊富であり、
世相の転換にも柔軟に応じられること自体が日本刀文化の奥深さの恩恵でもある。
欧米にだって最高級品を妥協なく作り込む工匠文化や、大量生産の文明はあるが、
両者をできる限り両立させて行くという発想がなかったものだから、
一時は日本製品の輸出攻勢に圧され、円高攻勢で日本自体を抑圧し返して後は、
日本式の量産体制が移管された中国やアジア諸国の攻勢に圧されている。
(黄色い猿などから何も学ぶことはないとする差別意識もまた仇となり)
信用ある会社が作った車なら、10万キロ走ろうともまず壊れないという保証。
その起源を辿ってみれば、実はある種の日本刀にあったりもするのである。
日本刀が取り立てて美しかったりするのは、さらにその先の領域にあること。
>>261
相州伝の正宗に準ずるような刀は、焼き入れ温度が高いから鍛え割れを起こしやすい。
だから沸出来の刃紋の美しさと引き換えに多少の鍛え傷があったりするのが、
ある程度は黙認されるべきとかいったような風潮が、刀剣界でもあるんだってさ。
でも鍛え傷があるような刀を恥ずかしげもなく売りに出すのは、刀匠としてのプライドが許さない、
特に原料になる鉄の品質が安定し始めた江戸期以降には以ての外、ということで、
相州伝は正宗という究極の始祖を持つにも関わらず、衰滅せざるを得なかったんだ。
故障しやすいのに高額で売り出されてる外車とかも、これに似たようなもの。
たとえ金持ちが節税目的で買ったところで、やたらと壊れやすかったりするようなら、
常用するのはサブの日本車とかになってしまう(日本の医者とかはよくこういう乗り方をしている)。
多少切れ味がいいとか、乗り心地がいいとかの機能面での優位性があったとしても、
総合的にプラマイゼロ以下であるようでは、最後は見栄っ張りのやせ我慢のための形骸となる。
正宗や貞宗並みの伝説的遺産が尊ばれようとも、現行品の人気は必然として衰えるのである。
相州伝の正宗に準ずるような刀は、焼き入れ温度が高いから鍛え割れを起こしやすい。
だから沸出来の刃紋の美しさと引き換えに多少の鍛え傷があったりするのが、
ある程度は黙認されるべきとかいったような風潮が、刀剣界でもあるんだってさ。
でも鍛え傷があるような刀を恥ずかしげもなく売りに出すのは、刀匠としてのプライドが許さない、
特に原料になる鉄の品質が安定し始めた江戸期以降には以ての外、ということで、
相州伝は正宗という究極の始祖を持つにも関わらず、衰滅せざるを得なかったんだ。
故障しやすいのに高額で売り出されてる外車とかも、これに似たようなもの。
たとえ金持ちが節税目的で買ったところで、やたらと壊れやすかったりするようなら、
常用するのはサブの日本車とかになってしまう(日本の医者とかはよくこういう乗り方をしている)。
多少切れ味がいいとか、乗り心地がいいとかの機能面での優位性があったとしても、
総合的にプラマイゼロ以下であるようでは、最後は見栄っ張りのやせ我慢のための形骸となる。
正宗や貞宗並みの伝説的遺産が尊ばれようとも、現行品の人気は必然として衰えるのである。
LAST SHOGUN こと徳川慶喜も実は「寿命(としなが)」とかいう、
兼元や兼定よりもはるかに作位の低い美濃の刀工の作品を
好んで差し、多数私有していたともいう。
将軍なら正宗でも虎徹でも、名刀が選り取り見取りなのにあえてしなかったのは、
慶喜が刀剣嫌いだったためなどとも一部で噂されているが、そういうわけでもない。
一橋慶喜の故郷である水戸藩は、とりわけ質素倹約を重んずることで知られた藩。
刀剣もまた高額すぎるものは避けていたが、かといって粗悪な刀を差していざという時に
折れたり曲がったりしたのでは武士の名折れともなる。そのため水戸藩士たちは
安価な刀を買い込んでは川に赴き、腰まで浸かっては刀の側面を川面に打ち付けた!
表面張力で川面は岩のような硬さとなり、粗悪な刀はみんな折れるか曲がってしまう。
それでも無事でいた刀だけが、用に足るものとして佩刀に採用された。
慶喜公の刀もそういう刀の一つであり、美濃伝が下位工に至るまで品質の保証された
流派である逸話ともなっている。刀にとって「折れる」ほどの弱点も他にないわけで、
如此く品質の位列をよく整理してきたこともまた、作刀文化文明の恩恵であるといえよう。
人間にとって、その物品に対して何を最も要求するかの位列。
壊れにくさが低位に位置するのなら、日本車がそう売れたはずもない。
兼元や兼定よりもはるかに作位の低い美濃の刀工の作品を
好んで差し、多数私有していたともいう。
将軍なら正宗でも虎徹でも、名刀が選り取り見取りなのにあえてしなかったのは、
慶喜が刀剣嫌いだったためなどとも一部で噂されているが、そういうわけでもない。
一橋慶喜の故郷である水戸藩は、とりわけ質素倹約を重んずることで知られた藩。
刀剣もまた高額すぎるものは避けていたが、かといって粗悪な刀を差していざという時に
折れたり曲がったりしたのでは武士の名折れともなる。そのため水戸藩士たちは
安価な刀を買い込んでは川に赴き、腰まで浸かっては刀の側面を川面に打ち付けた!
表面張力で川面は岩のような硬さとなり、粗悪な刀はみんな折れるか曲がってしまう。
それでも無事でいた刀だけが、用に足るものとして佩刀に採用された。
慶喜公の刀もそういう刀の一つであり、美濃伝が下位工に至るまで品質の保証された
流派である逸話ともなっている。刀にとって「折れる」ほどの弱点も他にないわけで、
如此く品質の位列をよく整理してきたこともまた、作刀文化文明の恩恵であるといえよう。
人間にとって、その物品に対して何を最も要求するかの位列。
壊れにくさが低位に位置するのなら、日本車がそう売れたはずもない。
刀にとっての一番の問題は「折れる」ことだし、
車にとっての一番の問題は「壊れる」ことだ。
他にも問題になることはいくらでもあるが、これらに優る
問題とは認められないものだから、優先順位としては低い。
止持戒あっての作持戒、最低限できていることがあった上での付加価値。
その篩にかけられて淘汰されるものと生き延びるものとの
命運が分かたれること自体は、別に悪いことでもない。
だいたいそれこそが、キリスト教の試みでもなかったか。
自分たちが淘汰される側になることを想定していなかっただけで。
車にとっての一番の問題は「壊れる」ことだ。
他にも問題になることはいくらでもあるが、これらに優る
問題とは認められないものだから、優先順位としては低い。
止持戒あっての作持戒、最低限できていることがあった上での付加価値。
その篩にかけられて淘汰されるものと生き延びるものとの
命運が分かたれること自体は、別に悪いことでもない。
だいたいそれこそが、キリスト教の試みでもなかったか。
自分たちが淘汰される側になることを想定していなかっただけで。
話に付いて来れなくなると……華麗にスルーw
この厚かましさは役人みてえw
この厚かましさは役人みてえw
追いかけてんじゃねえ
付いて来させようとしてんだ
付いて来させようとしてんだ
はぁ!?誰がお前みてえなのに付いて行く?
お母さんとお父さんかw大変な債務をこさえたもんだw
お母さんとお父さんかw大変な債務をこさえたもんだw
俺に付いて来ないのなら、あとは離れて行くだけだ。よかったな
確かに車が壊れないに越した事はないよね
窓落ちとか内装剥がれなんかは変な話誤差だよ
それ以上の魅力があっても故障で降りる人多いね
さっきも書いたけど国産車もリコール含め細かい
故障あるんだけどね
スレ主には海外生産になる前のカブおすすめだよ
あとよく分からないけど日本刀と車、例えとして
どうなんだろ?車は壊れてもエンジン買ってきて
載せ替えれば動くけど
窓落ちとか内装剥がれなんかは変な話誤差だよ
それ以上の魅力があっても故障で降りる人多いね
さっきも書いたけど国産車もリコール含め細かい
故障あるんだけどね
スレ主には海外生産になる前のカブおすすめだよ
あとよく分からないけど日本刀と車、例えとして
どうなんだろ?車は壊れてもエンジン買ってきて
載せ替えれば動くけど
この気の短さw
この話の一貫性のなさw
早くお寺行って修行して来いよw
「俺に付いて来ないのなら、あとは離れて行くだけだ。」
カッケーw
超カッケーw
…でも親はこんなのでも子供だから可愛いんだな
この話の一貫性のなさw
早くお寺行って修行して来いよw
「俺に付いて来ないのなら、あとは離れて行くだけだ。」
カッケーw
超カッケーw
…でも親はこんなのでも子供だから可愛いんだな
車のエンジンを載せ替えるとか、刀でいえば拵だけ残して刀身を交換するようなもんだ。
全てが一点ものな日本刀ではほとんど不可能なことだが。
三十二年式とか九五式とかの、量産品の軍刀あたりならできないことでもない。
つまり、全く同一規格の製品を量産している点などでは、自動車は日本刀よりも軍刀に近い。
車を含む日本製品が、1970年代ごろまで粗悪品混じりだったのもこのため。
工業規格の量産品の生産なんかに力を入れることに根強い抵抗があったから。
量産品の消費に慣れきってしまうと、人間は格物致知の能力が段違いに落ちる。
全ての物品は消耗品に過ぎないと決め込んで、単純にモノを粗末に扱うようにもなってしまう。
工業製品の中にもヴィンテージ的な付加価値を帯びるものがあるが、
それも限定品だったりレアな古物だったりすることを主な理由としている。
大量生産による儲けが第一な近代工業にとっては副次的な要素に過ぎない。
全てが一点ものな日本刀ではほとんど不可能なことだが。
三十二年式とか九五式とかの、量産品の軍刀あたりならできないことでもない。
つまり、全く同一規格の製品を量産している点などでは、自動車は日本刀よりも軍刀に近い。
車を含む日本製品が、1970年代ごろまで粗悪品混じりだったのもこのため。
工業規格の量産品の生産なんかに力を入れることに根強い抵抗があったから。
量産品の消費に慣れきってしまうと、人間は格物致知の能力が段違いに落ちる。
全ての物品は消耗品に過ぎないと決め込んで、単純にモノを粗末に扱うようにもなってしまう。
工業製品の中にもヴィンテージ的な付加価値を帯びるものがあるが、
それも限定品だったりレアな古物だったりすることを主な理由としている。
大量生産による儲けが第一な近代工業にとっては副次的な要素に過ぎない。
モノを大切にしない人間は人も大切にせず、人を大切にしない人間は国も大切にしない。
玩物害知寓意邪心、滅身蔑家亡国乱天下。
「どうせこれを壊したって代わりがあるから」
刀だって乱戦用にクズ刀や贋刀を用いることはあったが、
最高級品に至るまでそういう扱いでも構わなくなるのが工業製品。
人だって利用するだけ利用すれば使い捨て、国だって税制を強めたりすれば捨ててやる。
何もかもを安易な実用の対象とばかり決め込み、最後は自分自身までもがその毒牙にかかる。
単純にそれは、つまらないことである。
そんな精神状態や言動規範に陥ってしまったのでは、
どんなに大金があって、なんでも買えるような立場になろうとも、何も面白くない。
自分自身の浅ましさこそが、あらゆる物品を鼻紙も同然の消耗品と見なしてしまったがために、
宝の山までもが鼻紙の山に見えるようになる。程度の差こそあれど、そういった篤心の
欠如ゆえの心の渇きに陥ってしまっている人間が、大量生産大量消費の時代には多いものだ。
玩物害知寓意邪心、滅身蔑家亡国乱天下。
「どうせこれを壊したって代わりがあるから」
刀だって乱戦用にクズ刀や贋刀を用いることはあったが、
最高級品に至るまでそういう扱いでも構わなくなるのが工業製品。
人だって利用するだけ利用すれば使い捨て、国だって税制を強めたりすれば捨ててやる。
何もかもを安易な実用の対象とばかり決め込み、最後は自分自身までもがその毒牙にかかる。
単純にそれは、つまらないことである。
そんな精神状態や言動規範に陥ってしまったのでは、
どんなに大金があって、なんでも買えるような立場になろうとも、何も面白くない。
自分自身の浅ましさこそが、あらゆる物品を鼻紙も同然の消耗品と見なしてしまったがために、
宝の山までもが鼻紙の山に見えるようになる。程度の差こそあれど、そういった篤心の
欠如ゆえの心の渇きに陥ってしまっている人間が、大量生産大量消費の時代には多いものだ。
はっきり言って、それ自体は地味を極めるもの。
ただでさえ黒く仕上がる表面に、さらに艶消し的な風合いになる彫刻を施す。
現代でいえば陰キャが好む黒服にも近いような装束こそが最高級扱い。
室町時代なら足利将軍しか金細工が許されないとかの制約があったようだが、
安土桃山時代にそれが解除されて誰でも派手な拵を差せるようになった。
ただ徳川家康がそのような派手趣味を忌み嫌い、助真拵のような実直第一の刀装を
好んでいたものだから、武士たちもそれに倣い、江戸期の刀装具は質朴なものが主になった。
派手な刀装が全くないというわけではなく、元禄期の豪商の脇差などには
秀吉的な金ピカ趣味のものも若干数見られる。そんなものを「粋ではない」
として忌み嫌う江戸っ子の気風こそは当時のオシャレだったわけだが、たとえば
赤銅魚々子地の刀装具が重宝されるような方向性こそがその根源であったからには、
現代のオシャレ感覚などともかなりかけ離れたものだったことが明らかだといえる。
ただでさえ黒く仕上がる表面に、さらに艶消し的な風合いになる彫刻を施す。
現代でいえば陰キャが好む黒服にも近いような装束こそが最高級扱い。
室町時代なら足利将軍しか金細工が許されないとかの制約があったようだが、
安土桃山時代にそれが解除されて誰でも派手な拵を差せるようになった。
ただ徳川家康がそのような派手趣味を忌み嫌い、助真拵のような実直第一の刀装を
好んでいたものだから、武士たちもそれに倣い、江戸期の刀装具は質朴なものが主になった。
派手な刀装が全くないというわけではなく、元禄期の豪商の脇差などには
秀吉的な金ピカ趣味のものも若干数見られる。そんなものを「粋ではない」
として忌み嫌う江戸っ子の気風こそは当時のオシャレだったわけだが、たとえば
赤銅魚々子地の刀装具が重宝されるような方向性こそがその根源であったからには、
現代のオシャレ感覚などともかなりかけ離れたものだったことが明らかだといえる。
赤銅魚子地の刀装具が最高級扱いされるような時代もあれば、
金無垢のロレックスやダイヤを散りばめたカルチェが最高級扱いされる時代もある。
オシャレの基準なんてのは時代時代によってコロコロと変わるもの。
西洋文化主体の現代ではあまり見栄えのしない日本の男などにも、
かつては自分たちならではのオシャレ文化があった。
表は地味に、裏は派手にといったコントラストの強調などもその内。
少なからず地味な部分があるからには、何もかもを派手に仕立てるものと
比べれば一見して地味に見えることは避けられない。その初手の劣勢さを乗り越えて
滋味深さのあるオシャレの価値を認められたなら、若いうちだけに止まらない
終身に至るまでの楽しみともなり得る、最終勝利者にこそ相応しいオシャレである。
金無垢のロレックスやダイヤを散りばめたカルチェが最高級扱いされる時代もある。
オシャレの基準なんてのは時代時代によってコロコロと変わるもの。
西洋文化主体の現代ではあまり見栄えのしない日本の男などにも、
かつては自分たちならではのオシャレ文化があった。
表は地味に、裏は派手にといったコントラストの強調などもその内。
少なからず地味な部分があるからには、何もかもを派手に仕立てるものと
比べれば一見して地味に見えることは避けられない。その初手の劣勢さを乗り越えて
滋味深さのあるオシャレの価値を認められたなら、若いうちだけに止まらない
終身に至るまでの楽しみともなり得る、最終勝利者にこそ相応しいオシャレである。
>>275-276画みたいなのが、刀装具のパブリックイメージとして
よく見受けられるものだとは思うが、ただそうなだけでなく、
日刀保の重要刀装具や特別重要刀装具に指定されている、
一枚数百万円するような鍔に至るまでが、これに似た意匠。
違うのは、魚子や象嵌彫刻の彫り込みがより精緻であったりする点。
数百万円級のものは実際、同額の機械式高級時計などと同等か
それ以上の金工が施されている、まさに技術の粋の結晶である。
日本刀の刀身自体は、神の域にも通じるものなので理解の度を超えるかも知れないが、
江戸期の刀装具程度にまで話のレベルを下げると、これはこれで分かることがある。
当時には当時ならではのオシャレがあり、それが高級時計や宝飾の域でもあったこと。
今のオシャレですら理解できない人間には理解できないようなものが多々あるのに、
どうしてそのオシャレだけを否定などできようか。数百年前のものにしては
よっぽどその格好よさが推し量れるほどの普遍性をも帯びているのだし。
よく見受けられるものだとは思うが、ただそうなだけでなく、
日刀保の重要刀装具や特別重要刀装具に指定されている、
一枚数百万円するような鍔に至るまでが、これに似た意匠。
違うのは、魚子や象嵌彫刻の彫り込みがより精緻であったりする点。
数百万円級のものは実際、同額の機械式高級時計などと同等か
それ以上の金工が施されている、まさに技術の粋の結晶である。
日本刀の刀身自体は、神の域にも通じるものなので理解の度を超えるかも知れないが、
江戸期の刀装具程度にまで話のレベルを下げると、これはこれで分かることがある。
当時には当時ならではのオシャレがあり、それが高級時計や宝飾の域でもあったこと。
今のオシャレですら理解できない人間には理解できないようなものが多々あるのに、
どうしてそのオシャレだけを否定などできようか。数百年前のものにしては
よっぽどその格好よさが推し量れるほどの普遍性をも帯びているのだし。
江戸時代の日本に、別に金銀財宝がなかったわけではない。
それどころか、世界でも有数の貴金属の産出地であり、
旅人が非常用の路銀を着物の裾に縫いこんでおくのが嗜みだったともいう、
まさに「黄金の国ジパング」ですらあった。
しかし、支配階級である武士がその手の財宝欲に溺れるようなことはなく、
わずかな金銀を配合した銅合金製の、素銅や真鍮よりも黒ずむ刀装具を好んだ。
中には金銀の象嵌を凝らした細工などもあったが、
それも使用されている金銀の量は知れたもの。
西洋人のマルコポーロらが初めて日本を目にした時に最も着目した「黄金の国」
という側面も、所詮は目にした側の品性の下劣さゆえに際立って見えた部分に過ぎず、
日本人の側には例えばインカ帝国のような、金銀の眩さに溺れたりする神経はなかった。
そんなものよりも工匠の業のほうをより尊ぶ心がけの真摯さこそが、
南蛮人による日本の征服を甚だ不可能なことならしめてもいたわけである。
それどころか、世界でも有数の貴金属の産出地であり、
旅人が非常用の路銀を着物の裾に縫いこんでおくのが嗜みだったともいう、
まさに「黄金の国ジパング」ですらあった。
しかし、支配階級である武士がその手の財宝欲に溺れるようなことはなく、
わずかな金銀を配合した銅合金製の、素銅や真鍮よりも黒ずむ刀装具を好んだ。
中には金銀の象嵌を凝らした細工などもあったが、
それも使用されている金銀の量は知れたもの。
西洋人のマルコポーロらが初めて日本を目にした時に最も着目した「黄金の国」
という側面も、所詮は目にした側の品性の下劣さゆえに際立って見えた部分に過ぎず、
日本人の側には例えばインカ帝国のような、金銀の眩さに溺れたりする神経はなかった。
そんなものよりも工匠の業のほうをより尊ぶ心がけの真摯さこそが、
南蛮人による日本の征服を甚だ不可能なことならしめてもいたわけである。
江戸期までの本歌の刀装具で、「真鍮製」というのがほとんどないのは前から気になっていた。
安価で加工しやすく、物理特性も良くて、おまけに金ほど煌びやかではないものの金色をしている。
「庶民の金」とも謳うわれ、今でも銃弾の薬莢などとして重用されている銅と亜鉛の合金を、
調合法が分かっていたにもかかわらず、なぜ武士たちは刀装具の要所に用いるのを好まなかったのか?
(画像は象嵌部分だけが真鍮製な江戸初期の平安城鍔)
一つには、粘りがなさ過ぎ斬撃によって叩っ斬られる危険がある点。
(これは日本刀が他の刀剣よりも段違いに切れ味がいいことに基づく)
もう一つが、「偽物の金」なんていうものを好むことに抵抗があったからではないかと思われる。
銅に亜鉛を混ぜて金のように見せかけるよりは、1%程度でもいいから金を混ぜて黒く見せる。
そちらのほうが、見せかけに囚われぬ意志の高潔さの現れとなるが故に好んだのだろう。
また、支配者階級である以上は、金銀財宝の流通を掌握下に置くことまで避けるべきではないから、
多少の金銀を用いることはあえて続けた。極端の一つ覚えを避けた手堅い好みだったといえよう。
安価で加工しやすく、物理特性も良くて、おまけに金ほど煌びやかではないものの金色をしている。
「庶民の金」とも謳うわれ、今でも銃弾の薬莢などとして重用されている銅と亜鉛の合金を、
調合法が分かっていたにもかかわらず、なぜ武士たちは刀装具の要所に用いるのを好まなかったのか?
(画像は象嵌部分だけが真鍮製な江戸初期の平安城鍔)
一つには、粘りがなさ過ぎ斬撃によって叩っ斬られる危険がある点。
(これは日本刀が他の刀剣よりも段違いに切れ味がいいことに基づく)
もう一つが、「偽物の金」なんていうものを好むことに抵抗があったからではないかと思われる。
銅に亜鉛を混ぜて金のように見せかけるよりは、1%程度でもいいから金を混ぜて黒く見せる。
そちらのほうが、見せかけに囚われぬ意志の高潔さの現れとなるが故に好んだのだろう。
また、支配者階級である以上は、金銀財宝の流通を掌握下に置くことまで避けるべきではないから、
多少の金銀を用いることはあえて続けた。極端の一つ覚えを避けた手堅い好みだったといえよう。
良くも悪しくも、アメカジあたりには真鍮(ブラス)がよく似合う。
なぜ似合うかといって、庶民にも財欲を諦めさせてはならない、
底辺は指をくわえて金持ちを羨む子羊であるべきとしたのがアメリカだからだ。
軍刀にも真鍮製の装具が多いし、日本もすでに通った道。
ただ、そのせいで戦前アレルギーからの西洋かぶれとなった戦後の日本人は、
カジュアルな洋服にブラス金具を合わせるという選択を極力避けてしまったんだ。
日本人でカジュアルな洋装を好む連中がアクセサリーにしたがるのは、主にシルバー。
これは白人には似合うが黄色い肌には最も似合わない。かといって金は高すぎる。
ブラス金具というアメカジの必須要素を避け過ぎたせいで、
近頃は洋装趣味も萎え、「若者のジーンズ離れ」とかも指摘されている。
かといって和装にまでは戻れないので、近頃の若者のファッションはすこぶるダサい。
韓流スターの猿真似とかの醜悪の極みが流行ってるような始末。
まあこれも、災い転じて福という機縁には格好と悦ぶべきか。
なぜ似合うかといって、庶民にも財欲を諦めさせてはならない、
底辺は指をくわえて金持ちを羨む子羊であるべきとしたのがアメリカだからだ。
軍刀にも真鍮製の装具が多いし、日本もすでに通った道。
ただ、そのせいで戦前アレルギーからの西洋かぶれとなった戦後の日本人は、
カジュアルな洋服にブラス金具を合わせるという選択を極力避けてしまったんだ。
日本人でカジュアルな洋装を好む連中がアクセサリーにしたがるのは、主にシルバー。
これは白人には似合うが黄色い肌には最も似合わない。かといって金は高すぎる。
ブラス金具というアメカジの必須要素を避け過ぎたせいで、
近頃は洋装趣味も萎え、「若者のジーンズ離れ」とかも指摘されている。
かといって和装にまでは戻れないので、近頃の若者のファッションはすこぶるダサい。
韓流スターの猿真似とかの醜悪の極みが流行ってるような始末。
まあこれも、災い転じて福という機縁には格好と悦ぶべきか。
私はね、
? わが身かわいさに、何ひとつ人に奉仕せず生きてる人間が、己を捨てる生き方を説く武士道や仏教について語るのはどうなのか?治ったなら社会復帰すればいいのに、「俺の身体能力は凄い」と言いつつ「病状の悪化が怖いから働きたくない」と言うんじゃ、ただのインチキかヘタレではないか。結局は宗教を利用して、(世人が望むのと同じく)楽をしながら偉そうにしたいだけなのではないか?
? いつまでも自立せず、親に依存するというカッコ悪い生き方をしておきながら、平然と美しい生き方がどうのこうのと論じるのはどういった了見か?
といった多くの人が感じるであろう素朴で手厳しい質問に対する回答が欲しかったのだけれども、「難病を治したのだから私は正しい(天がスネ齧りを命じている)」みたいな事しか返って来ないんじゃあ、お粗末だよ。
? わが身かわいさに、何ひとつ人に奉仕せず生きてる人間が、己を捨てる生き方を説く武士道や仏教について語るのはどうなのか?治ったなら社会復帰すればいいのに、「俺の身体能力は凄い」と言いつつ「病状の悪化が怖いから働きたくない」と言うんじゃ、ただのインチキかヘタレではないか。結局は宗教を利用して、(世人が望むのと同じく)楽をしながら偉そうにしたいだけなのではないか?
? いつまでも自立せず、親に依存するというカッコ悪い生き方をしておきながら、平然と美しい生き方がどうのこうのと論じるのはどういった了見か?
といった多くの人が感じるであろう素朴で手厳しい質問に対する回答が欲しかったのだけれども、「難病を治したのだから私は正しい(天がスネ齧りを命じている)」みたいな事しか返って来ないんじゃあ、お粗末だよ。
(キツい事ばかり言って申し訳ないけども)たとえ奇跡を起こしたとしても、その事だけで「考えの全てが正しい」とまでは担保できないはず。
それとも君は、宗教界隈で時たま耳にする「癌が消えた」「耳が聞こえるようになった」という話が事実だと確認できたら、すぐそこの教団に入信しちゃうタイプなのかな?
「超ノーベル賞級」と、創●学会の池●先生や北朝鮮の指導者以上に自分を礼賛しているが、その程度の奇跡であれば枚挙に暇がないほど、毎日のように世界中で起きているだろうに。
それとも君は、宗教界隈で時たま耳にする「癌が消えた」「耳が聞こえるようになった」という話が事実だと確認できたら、すぐそこの教団に入信しちゃうタイプなのかな?
「超ノーベル賞級」と、創●学会の池●先生や北朝鮮の指導者以上に自分を礼賛しているが、その程度の奇跡であれば枚挙に暇がないほど、毎日のように世界中で起きているだろうに。
まず、本家本元のちゃんとした武士道や仏教が、
「己を捨てる生き方」なんてものを奨励していたような事実からしてない。
戦さ場での奮闘、不手際があった時の切腹、飢饉時の口減らしも兼ねた即身仏化、
みな「非常時の覚悟」であって、日常生活にまであえて苦渋を欲するような?倒とは無関係。
血に染まる切腹の場に、必要もなく他の武士が立ち会うのは「穢れが移ること」として
忌み避けられていたし、「寿命」とか「延寿」とかいった縁起のいい名前の刀を
好んで贈答し合う慣習もあった(徳川慶喜もそれを再利用するなどしていた)。
臨済宗妙心寺派管長の山本玄峰老師に「おまえは何のために参禅しておるか」
と問われて、田中清玄は「世のため人のためであります」と答えた。
玄峰老師は「馬鹿者、わしは自分のためにしておるわ」と。
あとで振り返ってみて田中も「ああ、あれこそは自利即利他の教えだったんだな」
と気付かされたという。自分も救えない者に他者が救えるはずもなく。
「己を捨てる生き方」なんてものを奨励していたような事実からしてない。
戦さ場での奮闘、不手際があった時の切腹、飢饉時の口減らしも兼ねた即身仏化、
みな「非常時の覚悟」であって、日常生活にまであえて苦渋を欲するような?倒とは無関係。
血に染まる切腹の場に、必要もなく他の武士が立ち会うのは「穢れが移ること」として
忌み避けられていたし、「寿命」とか「延寿」とかいった縁起のいい名前の刀を
好んで贈答し合う慣習もあった(徳川慶喜もそれを再利用するなどしていた)。
臨済宗妙心寺派管長の山本玄峰老師に「おまえは何のために参禅しておるか」
と問われて、田中清玄は「世のため人のためであります」と答えた。
玄峰老師は「馬鹿者、わしは自分のためにしておるわ」と。
あとで振り返ってみて田中も「ああ、あれこそは自利即利他の教えだったんだな」
と気付かされたという。自分も救えない者に他者が救えるはずもなく。
怪しい宗教やらセミナーやらによる治療で、
難病が克服できたことが「確認」されたことも、ほとんどない。
ほとんどはろくな証拠もない自己証言や伝聞止まり。
中には、当時治癒が不能だった結核や癌を、医者の診断も受けて、
世界中の名医や学者の助けを受けながらも治せず、インドの山奥の
ヨガ行者に師事してやっと治した中村天風氏のような人もいる。
これなどは本物だからこそ世界中の権力者までもが好んで傾倒した一方、
一般向けには公益法人として非営利でしか教えてないものだから、
経済活動への直接的な貢献度の薄さ故に、近年では廃れかけてる。
俺が知ってるもっと信用のおけない系のヨガセミナーとかを見ると、
参加者から大金をせしめて論文まで書かせるクセに病気は一向に治せず、
自分がやってるヨガと病気の相関関係を統計をとって調べてみるとかいう、
いかにも科学的めいた手法の披瀝だけで人気を得ている。はたから見れば
眉唾にも程がある代物だが、こういう所のほうがむしろ天風会などよりも
近ごろは活況だったりする。ただ「金を払った」という所に信用性を感じるようで。
そういうわけで、正規の医療行為でもないような領域での病気が治るだの、
治っただのの言い分が信用ならないものばかりであるのは俺も認める。
近ごろ人気であるような所ほどより信用できないとも。ただ、それが
あらゆる民間療法の効果を否定する根拠などにもならない。中には
天風会系のラージャヨガのように、正規医療以上の効果を発揮するものもある。
難病が克服できたことが「確認」されたことも、ほとんどない。
ほとんどはろくな証拠もない自己証言や伝聞止まり。
中には、当時治癒が不能だった結核や癌を、医者の診断も受けて、
世界中の名医や学者の助けを受けながらも治せず、インドの山奥の
ヨガ行者に師事してやっと治した中村天風氏のような人もいる。
これなどは本物だからこそ世界中の権力者までもが好んで傾倒した一方、
一般向けには公益法人として非営利でしか教えてないものだから、
経済活動への直接的な貢献度の薄さ故に、近年では廃れかけてる。
俺が知ってるもっと信用のおけない系のヨガセミナーとかを見ると、
参加者から大金をせしめて論文まで書かせるクセに病気は一向に治せず、
自分がやってるヨガと病気の相関関係を統計をとって調べてみるとかいう、
いかにも科学的めいた手法の披瀝だけで人気を得ている。はたから見れば
眉唾にも程がある代物だが、こういう所のほうがむしろ天風会などよりも
近ごろは活況だったりする。ただ「金を払った」という所に信用性を感じるようで。
そういうわけで、正規の医療行為でもないような領域での病気が治るだの、
治っただのの言い分が信用ならないものばかりであるのは俺も認める。
近ごろ人気であるような所ほどより信用できないとも。ただ、それが
あらゆる民間療法の効果を否定する根拠などにもならない。中には
天風会系のラージャヨガのように、正規医療以上の効果を発揮するものもある。
「自分を捨てる生き方」なんてものを格好いい生き方だなどと思ってしまう、
中二病じみた美意識の持ち主がいるのも一応知ってはいる。
ただ、そんなものは普遍的な美意識でもなんでもない。
特に日本刀の実用を憚られるほどの美しさを尊ぶような、
古来の日本的、東洋的美意識と相容れるようなものでは決してない。
一家の嫡男こそは、親が引退するまでは部屋住み。
それがこどおじ呼ばわりで蔑まれるようなことがない時代もあった。
その部分だけを見れば別に美しい生き方などとも思われないが、
粛々と家督が継承されて行ってた家系図の整然さなどを見れば、やはり美しい。
要は、異なる美意識を持つ者同士では、見ている部分が違う。
幼稚な美意識の持ち主の視点は近視眼的で視野が狭い一方、
成熟した美意識の持ち主の視点は俯瞰的で、常に総合的である。
美しい城の石垣にへばり付いているナメクジを見て、
「この城は醜い」などと豪語する人間も中にはいるようである。
いくら文句を言われても、歯牙にもかけない以上の対応策があり得ようか?
中二病じみた美意識の持ち主がいるのも一応知ってはいる。
ただ、そんなものは普遍的な美意識でもなんでもない。
特に日本刀の実用を憚られるほどの美しさを尊ぶような、
古来の日本的、東洋的美意識と相容れるようなものでは決してない。
一家の嫡男こそは、親が引退するまでは部屋住み。
それがこどおじ呼ばわりで蔑まれるようなことがない時代もあった。
その部分だけを見れば別に美しい生き方などとも思われないが、
粛々と家督が継承されて行ってた家系図の整然さなどを見れば、やはり美しい。
要は、異なる美意識を持つ者同士では、見ている部分が違う。
幼稚な美意識の持ち主の視点は近視眼的で視野が狭い一方、
成熟した美意識の持ち主の視点は俯瞰的で、常に総合的である。
美しい城の石垣にへばり付いているナメクジを見て、
「この城は醜い」などと豪語する人間も中にはいるようである。
いくら文句を言われても、歯牙にもかけない以上の対応策があり得ようか?
雌伏の時を脱して、いざなんらかの活動に臨む段になろうとも、
せっかく治った持病をまた悪化させてしまうような蛮行は極力避ける。
それが結局は自分のためだけでなく、人のためにもなる。
戒律厳守を心がける坊さんの活動が、そのまま断悪修善の模範ともなるように、
己が身を滅ぼすような真似を人々に踏みとどまらせる社会福祉の一環となる。
これまた、苦渋こそを美しい姿などと思い込んでいる人種には理解しがたいことだろうが。
たとえば、カカトばかりでドシドシ歩くような人間や、そのせいで膝や腰を壊して
ヨチヨチ歩きになってしまうような人種が減った結果、市井が颯爽とした
歩き方の人間ばかりになったとすれば、それだけでも見るからに美しい。
なおかつそれで、整形外科疾患による医療負担の増大も防がれる。
滋養を尊ぶ美意識の流布こそは、この世の美しさと経済性すらをも両立させる。
それを美意識として認められるかどうかなどはまた別の話として、な。
せっかく治った持病をまた悪化させてしまうような蛮行は極力避ける。
それが結局は自分のためだけでなく、人のためにもなる。
戒律厳守を心がける坊さんの活動が、そのまま断悪修善の模範ともなるように、
己が身を滅ぼすような真似を人々に踏みとどまらせる社会福祉の一環となる。
これまた、苦渋こそを美しい姿などと思い込んでいる人種には理解しがたいことだろうが。
たとえば、カカトばかりでドシドシ歩くような人間や、そのせいで膝や腰を壊して
ヨチヨチ歩きになってしまうような人種が減った結果、市井が颯爽とした
歩き方の人間ばかりになったとすれば、それだけでも見るからに美しい。
なおかつそれで、整形外科疾患による医療負担の増大も防がれる。
滋養を尊ぶ美意識の流布こそは、この世の美しさと経済性すらをも両立させる。
それを美意識として認められるかどうかなどはまた別の話として、な。
「いい加減、武士道や仏教を自分たちの都合のいいように曲解するのをやめろ」
というのが、このスレの副題とするのにも相応しい論題ではある。
非常時に惜しみなく身を捨てるためにこそ、日頃は常人以上の安逸(禅那)を欠かさないし、
金銀財宝への安易な欲望を制するためにこそ、銅合金の刀装具や木製の仏像に心酔した。
そしてそれによってこそ、現代以上に戦争も犯罪もないような時代を何百年と守り続けた。
現実問題、「非常時」なんてものを極力ないように制止できていたものだから、それが可能となった。
してみれば、非常時への覚悟の有無は別として、実際に身を滅ぼすような蛮行に及んで
しまっている度合いはむしろ、現代人のほうがよっぽど昔の武士や仏僧などよりも多い。
そんな現代人に見倣わせるべき武士や仏僧の生き方があるとすれば、それもむしろ、
日頃の養生や謹慎の心がけのほうであろう。これ以上自分たちの身を軽んじさせたのでは、
少子高齢化や人材不足による亡国のより一層の助長にしかならないのだから。
というのが、このスレの副題とするのにも相応しい論題ではある。
非常時に惜しみなく身を捨てるためにこそ、日頃は常人以上の安逸(禅那)を欠かさないし、
金銀財宝への安易な欲望を制するためにこそ、銅合金の刀装具や木製の仏像に心酔した。
そしてそれによってこそ、現代以上に戦争も犯罪もないような時代を何百年と守り続けた。
現実問題、「非常時」なんてものを極力ないように制止できていたものだから、それが可能となった。
してみれば、非常時への覚悟の有無は別として、実際に身を滅ぼすような蛮行に及んで
しまっている度合いはむしろ、現代人のほうがよっぽど昔の武士や仏僧などよりも多い。
そんな現代人に見倣わせるべき武士や仏僧の生き方があるとすれば、それもむしろ、
日頃の養生や謹慎の心がけのほうであろう。これ以上自分たちの身を軽んじさせたのでは、
少子高齢化や人材不足による亡国のより一層の助長にしかならないのだから。
哲学的な話が出て来たね、そもそも美しいって何だろ?
絵画、建築物、写真、工芸品などなど無垢な子供が見て
これ良いネ!って思わせる物もそうだし、薀蓄や歴史が
重なって美しいとなる事もあるだろうし…そこの定義が
ないと話は無限に広がっちゃうんじゃない?
絵画、建築物、写真、工芸品などなど無垢な子供が見て
これ良いネ!って思わせる物もそうだし、薀蓄や歴史が
重なって美しいとなる事もあるだろうし…そこの定義が
ないと話は無限に広がっちゃうんじゃない?
非常時の挺身は覚悟するが、平時は安楽でいる。
物欲も捨て去るわけではないが、金銀財宝に目がくらむような安易さは避ける。
そこでこそ醸成される、生活スタイルだとか美術工芸だとかの美しさは、
いうなれば「中庸の美」「中道の美」に相当するものである。
何とかの一つ覚えではなく、中正の保守の先にこそある美。
そのため、本人の心持ちの如何によっては理解しがたい場合もある。
美女が美しいとか、金無垢の腕時計やダイヤの指輪が豪華だとかは、馬鹿でもわかる。
故に世の中の教育水準が落ちれば落ちるほどそちら側の欲望に溺れる者が増え、
刀や仏像の美しさを解する者は減る。もちろん武士道仏道の真価を知る者も。
刀の時価が最低値まで落ち、密教法具の宝剣が投げ売りされているような
現代の時勢はどうかといえば、言わずもがな。
物欲も捨て去るわけではないが、金銀財宝に目がくらむような安易さは避ける。
そこでこそ醸成される、生活スタイルだとか美術工芸だとかの美しさは、
いうなれば「中庸の美」「中道の美」に相当するものである。
何とかの一つ覚えではなく、中正の保守の先にこそある美。
そのため、本人の心持ちの如何によっては理解しがたい場合もある。
美女が美しいとか、金無垢の腕時計やダイヤの指輪が豪華だとかは、馬鹿でもわかる。
故に世の中の教育水準が落ちれば落ちるほどそちら側の欲望に溺れる者が増え、
刀や仏像の美しさを解する者は減る。もちろん武士道仏道の真価を知る者も。
刀の時価が最低値まで落ち、密教法具の宝剣が投げ売りされているような
現代の時勢はどうかといえば、言わずもがな。
子供は分別がないから、大人が行かないような危険な場所にも平気で踏み込む。
特に、その傾向が強い多動気味の子供がいたとして、
「もっと張り切って遊べ」と促すべきか、「もっと注意しなさい」と促すべきか。
大人たち自身の振る舞いとしては、
馬鹿笑いしてはしゃぎ回っているような姿を見せるべきか、
なるべく慎重な行動を心がけている姿を見倣わせるべきか。
自分たち自身が河原でのBBQで増水に巻き込まれて流されるような大人なら、
子供たちも当然それに倣う。育てにくい子供が自然と増えたのではなく、
自分たちの振る舞いによってわざわざあえて増やしている。
ただ、子供の側から見れば、真面目な大人よりも不真面目な大人のほうが付き合いやすい。
自分たちと同レベルの大人だからこそ。そこで生じてしまう劣勢さを挽回するために、
真面目な大人こそを引き立てる美しさだとか格好良さが重要にもなってくる。
とはいえ、その手の美観自体が玄人好みで、子供どころか並みの大人も理解しがたい
ようなものになりがちだから、真面目な大人のほうがまずそれを心から楽しめることが
重要となる。子供には成長力があるから、共に楽しんで学ぶのならば、
大人に対する以上に英才教育的な教化ともなるであろう。
特に、その傾向が強い多動気味の子供がいたとして、
「もっと張り切って遊べ」と促すべきか、「もっと注意しなさい」と促すべきか。
大人たち自身の振る舞いとしては、
馬鹿笑いしてはしゃぎ回っているような姿を見せるべきか、
なるべく慎重な行動を心がけている姿を見倣わせるべきか。
自分たち自身が河原でのBBQで増水に巻き込まれて流されるような大人なら、
子供たちも当然それに倣う。育てにくい子供が自然と増えたのではなく、
自分たちの振る舞いによってわざわざあえて増やしている。
ただ、子供の側から見れば、真面目な大人よりも不真面目な大人のほうが付き合いやすい。
自分たちと同レベルの大人だからこそ。そこで生じてしまう劣勢さを挽回するために、
真面目な大人こそを引き立てる美しさだとか格好良さが重要にもなってくる。
とはいえ、その手の美観自体が玄人好みで、子供どころか並みの大人も理解しがたい
ようなものになりがちだから、真面目な大人のほうがまずそれを心から楽しめることが
重要となる。子供には成長力があるから、共に楽しんで学ぶのならば、
大人に対する以上に英才教育的な教化ともなるであろう。
美女は、誰から見ても美しいからこそ美女とされるし、
(もちろん時代による好みの変遷はあるにしろ、その時代〃において)
金銀財宝を散りばめた宝飾も、誰が見ても豪華に見えるようにあえて作られている。
刀剣美とか仏像美とかは、必ずしもそうではない。
美麗を極めた刃紋とか、金塗りの阿弥陀像とか、なるべく誰にでも
豪華さが分かるように作られたものもあるが、あくまで部分に過ぎず、
基本的には勉強を重ねないとわからない部類の美しさこそを本旨としている。
かといって現代アートのようにまったく抽象的なのではなく、
勉強が満了すれば誰にでも分かるようになる具体的な美しさも帯びている。
そしてその美しさや美しさへの理解こそが、仁徳盛業の礎ともなる。
一見して分かりづらい代わりに、分かりやすい美しさ以上に意義のある美しさ。
一長一短ゆえに、いつの時代も理解者が限られることは避けられないが。
(もちろん時代による好みの変遷はあるにしろ、その時代〃において)
金銀財宝を散りばめた宝飾も、誰が見ても豪華に見えるようにあえて作られている。
刀剣美とか仏像美とかは、必ずしもそうではない。
美麗を極めた刃紋とか、金塗りの阿弥陀像とか、なるべく誰にでも
豪華さが分かるように作られたものもあるが、あくまで部分に過ぎず、
基本的には勉強を重ねないとわからない部類の美しさこそを本旨としている。
かといって現代アートのようにまったく抽象的なのではなく、
勉強が満了すれば誰にでも分かるようになる具体的な美しさも帯びている。
そしてその美しさや美しさへの理解こそが、仁徳盛業の礎ともなる。
一見して分かりづらい代わりに、分かりやすい美しさ以上に意義のある美しさ。
一長一短ゆえに、いつの時代も理解者が限られることは避けられないが。
逆に言えば、馬鹿でも分かるのが、金銀財宝や美女の美しさの強みでもある。
銃砲や爆弾やミサイルのほうが、日本刀よりも簡単に大量殺戮ができるのと同様。
「威力」という面でそれらが刀剣美や仏像美を上回るのには違いない。
しかし、高尚さや公益性においてまで上であるなどということはない。
殺戮よりも生育を、破壊よりも建設を重んずるのなら、
より尊ばねばならない部類の美しさがまた別にある。
財宝は、富の偏在であるが故に財宝である。
寡占するよりは世に広め、自分も合金や象嵌のために少しもらうぐらいのほうが
世の中も豊かになり、自分自身もより高尚な美術工芸の愛好に与る。
仏教でいう「自利即利他」に通じる財欲姿勢であるともいえよう。
銃砲や爆弾やミサイルのほうが、日本刀よりも簡単に大量殺戮ができるのと同様。
「威力」という面でそれらが刀剣美や仏像美を上回るのには違いない。
しかし、高尚さや公益性においてまで上であるなどということはない。
殺戮よりも生育を、破壊よりも建設を重んずるのなら、
より尊ばねばならない部類の美しさがまた別にある。
財宝は、富の偏在であるが故に財宝である。
寡占するよりは世に広め、自分も合金や象嵌のために少しもらうぐらいのほうが
世の中も豊かになり、自分自身もより高尚な美術工芸の愛好に与る。
仏教でいう「自利即利他」に通じる財欲姿勢であるともいえよう。
刀装具の中でも、画像の目貫・笄・小柄袋の三つだけは、鍔縁頭鐺口金などと比べて
酷使度の低い金具であるために、例外的に金無垢の細工を施すことが認められた。
(画像では獅子の彫刻部分が金無垢彫刻になっている)
そのため、この三つだけは金品としての価値が生ずることから、
「三所物」などといって別格の扱いを受けた。(目貫と小柄袋を合わせて二所物と呼ぶ場合も)
別格扱いというのは、決して普遍的に格上の扱いというわけでもない。
「装飾」として別格なだけで、武具としての重要度はむしろ低く、
拵によっては小柄や笄を付属しない場合もあるし、目貫も金無垢などでない場合のほうが多い。
金無垢を使用しているような高級な三所物との付き合いこそは、
武士にとっての財宝との付き合い方の雛型ともなった。
相応の功績を挙げるようなことがあれば頂くし、ないようなら受け取らない。
あってもいいし、なくてもいいぐらいの存在。
全く用いないのも無粋とされ、脇差の拵に小柄を差すことぐらいはエチケットともされた。
そして必要とあらば、困っている仲間に質入れ用などのために貸すこともあった。
だいたい小柄や笄は目貫と意匠を合わされているものだから、ただカネを貸す場合以上に
返済の義務感が増す。色々と合理的な意味合いも伴ったオシャレであった。
酷使度の低い金具であるために、例外的に金無垢の細工を施すことが認められた。
(画像では獅子の彫刻部分が金無垢彫刻になっている)
そのため、この三つだけは金品としての価値が生ずることから、
「三所物」などといって別格の扱いを受けた。(目貫と小柄袋を合わせて二所物と呼ぶ場合も)
別格扱いというのは、決して普遍的に格上の扱いというわけでもない。
「装飾」として別格なだけで、武具としての重要度はむしろ低く、
拵によっては小柄や笄を付属しない場合もあるし、目貫も金無垢などでない場合のほうが多い。
金無垢を使用しているような高級な三所物との付き合いこそは、
武士にとっての財宝との付き合い方の雛型ともなった。
相応の功績を挙げるようなことがあれば頂くし、ないようなら受け取らない。
あってもいいし、なくてもいいぐらいの存在。
全く用いないのも無粋とされ、脇差の拵に小柄を差すことぐらいはエチケットともされた。
そして必要とあらば、困っている仲間に質入れ用などのために貸すこともあった。
だいたい小柄や笄は目貫と意匠を合わされているものだから、ただカネを貸す場合以上に
返済の義務感が増す。色々と合理的な意味合いも伴ったオシャレであった。
赤銅とか四分一とかの、江戸金工で頻繁に用いられている銅合金は、
作ろうと思えば現代でも作るのが容易な合金なのに、
現代の工業製品に使用されているのをついぞ見ない。
銅ごときの卑金属に、金や銀を混ぜるのがもったいない、
染色液で表面色だけ繕っておけばいいだろうという思いから。
その時点ですでに、モノづくりに対する真摯さで江戸時代に負けている。
長年の使用で擦り切れようとも、酸化膜による自己修復で元の色に
戻るように考慮していた昔の工匠に、モノを大切にする心で負けてる。
ただ赤銅や四分一も使うようにするだけでは済まない。
それらの合金をあえて使うに値するほど普遍的価値のある物品であること。
空き缶やペットボトルまで高精度に作り込んでいるような時代に
そのような物品を規格化するのは、かえって難しい。
金や銀を混ぜることでより煌びやかにするのではなく、渋い色合いにする、
それこそが「粋」になるような物品であること。これもまた
特級の美的センスが問われるために難しいことである。
刀装具のような伝統工芸の範囲で昔のあり方を踏襲することはできても、
モノづくりへの姿勢の気高さ自体を近代工業にまで応用するとなれば、
至難の業となる。ただそれは、モノを大切にすることで大量消費頼みに
歯止めをかけて行く、エコロジーのための試みをも兼ねるだろう。
作ろうと思えば現代でも作るのが容易な合金なのに、
現代の工業製品に使用されているのをついぞ見ない。
銅ごときの卑金属に、金や銀を混ぜるのがもったいない、
染色液で表面色だけ繕っておけばいいだろうという思いから。
その時点ですでに、モノづくりに対する真摯さで江戸時代に負けている。
長年の使用で擦り切れようとも、酸化膜による自己修復で元の色に
戻るように考慮していた昔の工匠に、モノを大切にする心で負けてる。
ただ赤銅や四分一も使うようにするだけでは済まない。
それらの合金をあえて使うに値するほど普遍的価値のある物品であること。
空き缶やペットボトルまで高精度に作り込んでいるような時代に
そのような物品を規格化するのは、かえって難しい。
金や銀を混ぜることでより煌びやかにするのではなく、渋い色合いにする、
それこそが「粋」になるような物品であること。これもまた
特級の美的センスが問われるために難しいことである。
刀装具のような伝統工芸の範囲で昔のあり方を踏襲することはできても、
モノづくりへの姿勢の気高さ自体を近代工業にまで応用するとなれば、
至難の業となる。ただそれは、モノを大切にすることで大量消費頼みに
歯止めをかけて行く、エコロジーのための試みをも兼ねるだろう。
何ダァ!?美女美女うるせえな、相当女に飢えてんだな?
粋とかロックとか口に出した瞬間クソダサくなるのは何故だろうw
粋とかロックとか口に出した瞬間クソダサくなるのは何故だろうw
現代は「電気」の時代であるものだから、
電材の王様である銅に混ぜ物がされるのは再利用上不都合ということもあろうな。
その割りに、日本の貨幣はぜんぶ銅合金でもある。(亜鉛やニッケルとの)
鋳貨技術の一般化を防ぐために、銅合金の多用も規制して来たのか。
つまり、江戸時代の銅合金工芸文化こそは、資本主義の金満量産志向によって
潰されてしまったわけである。それこそ廃仏毀釈にも匹敵するぐらいの強度で。
江戸時代よりも完全に上位互換であるはずの工業生産においてですら、
現代のほうが劣るところがある。しかも、刀身の出来ですらないところで。
確かに凄惨が過ぎて、恥を知る余裕もなかったことだろうな。
電材の王様である銅に混ぜ物がされるのは再利用上不都合ということもあろうな。
その割りに、日本の貨幣はぜんぶ銅合金でもある。(亜鉛やニッケルとの)
鋳貨技術の一般化を防ぐために、銅合金の多用も規制して来たのか。
つまり、江戸時代の銅合金工芸文化こそは、資本主義の金満量産志向によって
潰されてしまったわけである。それこそ廃仏毀釈にも匹敵するぐらいの強度で。
江戸時代よりも完全に上位互換であるはずの工業生産においてですら、
現代のほうが劣るところがある。しかも、刀身の出来ですらないところで。
確かに凄惨が過ぎて、恥を知る余裕もなかったことだろうな。
口だけ野郎お薬足んねえんじゃね?
坊さんごっこに侍ごっこすらも出来てねえ
坊さんごっこに侍ごっこすらも出来てねえ
確かに、ごっこ遊びは苦手だ
これだけ電器や機械やコンクリートやアスファルトが溢れかえっている
現代社会で、土の路面に木造の掘建小屋が主体だった時代の
武家文化などをそのまま復興したりするのも、さすがに無理がある。
日本家屋だって、完全に昔のままの工法で建てたりするよりは、
現代工法を多少取り入れたほうが安上がりに済む上、耐震性や耐火性も上がる。
贅沢ではなく、「そのほうが安く済むから」程度な理由の範囲内で現代文明も
多少は許容しながら、昔の文化の良質な部分を復興して行くのが現実的である。
今よりも多少は和風度が高かった、戦前の和洋折衷文化などを鑑みるに、
書生や隠遁者のような文民的立場の人間ほど和服などの伝統性を色濃く残し、
軍人や警官などの武断的立場の人間のほうが制服に限らず洋服を好むといった
風潮が見られた。これはむしろ逆であるべきであり、武人としての役職を担った
時にこそ和風の装束をより心がけるべきである。何しろ江戸文化は基本的に
武家文化だったのだから。文民ならばむしろ平安文化の本格的な復興でも志すべき。
和の文化こそは、弱さではなく強さの象徴となるように。
和洋の位相にかけては、むしろ戦前の逆を行くように。
「おまえら」はスーツかTシャツでも着たままでいればよく。
現代社会で、土の路面に木造の掘建小屋が主体だった時代の
武家文化などをそのまま復興したりするのも、さすがに無理がある。
日本家屋だって、完全に昔のままの工法で建てたりするよりは、
現代工法を多少取り入れたほうが安上がりに済む上、耐震性や耐火性も上がる。
贅沢ではなく、「そのほうが安く済むから」程度な理由の範囲内で現代文明も
多少は許容しながら、昔の文化の良質な部分を復興して行くのが現実的である。
今よりも多少は和風度が高かった、戦前の和洋折衷文化などを鑑みるに、
書生や隠遁者のような文民的立場の人間ほど和服などの伝統性を色濃く残し、
軍人や警官などの武断的立場の人間のほうが制服に限らず洋服を好むといった
風潮が見られた。これはむしろ逆であるべきであり、武人としての役職を担った
時にこそ和風の装束をより心がけるべきである。何しろ江戸文化は基本的に
武家文化だったのだから。文民ならばむしろ平安文化の本格的な復興でも志すべき。
和の文化こそは、弱さではなく強さの象徴となるように。
和洋の位相にかけては、むしろ戦前の逆を行くように。
「おまえら」はスーツかTシャツでも着たままでいればよく。
脇差ってのは基本、刃長が持ち主の肩幅以内に収まるように作る。
それにより本人が立ち入れる範囲におけるどんな閉所にも
難なく持ち込んで取り回せるようになっている。
成人男性なら40cm前後。
近年は日本人も昔より大柄化しているが、
狭っ苦しい国土での生活や法規で雁字搦めな自動車運転のせいで
胸筋が萎縮してるので、肩幅はそれほど変わってない。
江戸時代には、大刀の携帯資格がないヤクザ者の部類が、
刃渡り50〜60cm程度の長脇差を好んで差してもいたようだが、
これは威力で大刀に敵わない上、閉所での戦闘では中脇差にも劣るという
なんとも中途半端な代物。坂本龍馬も長脇差を好んで差していたせいで、
屋内での中脇差での襲撃に応対しきれず脳天をかち割られて死んだという、
基本的に正規の武士の持ち物ではない。(新撰組も大刀が損傷した
場合のサブとしての長脇差を好んだというが、これはまた別の話)
それにより本人が立ち入れる範囲におけるどんな閉所にも
難なく持ち込んで取り回せるようになっている。
成人男性なら40cm前後。
近年は日本人も昔より大柄化しているが、
狭っ苦しい国土での生活や法規で雁字搦めな自動車運転のせいで
胸筋が萎縮してるので、肩幅はそれほど変わってない。
江戸時代には、大刀の携帯資格がないヤクザ者の部類が、
刃渡り50〜60cm程度の長脇差を好んで差してもいたようだが、
これは威力で大刀に敵わない上、閉所での戦闘では中脇差にも劣るという
なんとも中途半端な代物。坂本龍馬も長脇差を好んで差していたせいで、
屋内での中脇差での襲撃に応対しきれず脳天をかち割られて死んだという、
基本的に正規の武士の持ち物ではない。(新撰組も大刀が損傷した
場合のサブとしての長脇差を好んだというが、これはまた別の話)
坂本龍馬については、脱藩中に路銀の確保のために刀の柄巻を切って目貫を売り、
柄巻を巻き直さずに手ぬぐいを巻いて済ましていたような輩だったらしく、
士道不覚悟もいい所なサムライモドキで、たやすく殺されたのも当然といえば当然。
寺田屋事件で襲撃を受けた時には拳銃で応戦し、槍で襲って来た相手を殺害したともいうが、
乱戦の最中に弾を交換しようとしてリボルバー銃のシリンダーを落とし、紛失したという。
その時はなんとか逃げ延びたが、もう少し攻め手の人数が多いなどすればやられていた所。
銃には弾切れがあるし、跳弾の危険もある。オートマチック式の銃なら詰まる(ジャムる)危険も。
特に閉所での防護武器という点では、脇差(特に中脇差)の完全な上位互換などではあり得ないし、
武器商人の懐を潤わせるなんていう弊害をも帯びているのだから、「最終的には自分の命は
自分で守る」という体裁を守るためにも、官製の銃剣ですらない脇差を帯びておくべきである。
柄巻を巻き直さずに手ぬぐいを巻いて済ましていたような輩だったらしく、
士道不覚悟もいい所なサムライモドキで、たやすく殺されたのも当然といえば当然。
寺田屋事件で襲撃を受けた時には拳銃で応戦し、槍で襲って来た相手を殺害したともいうが、
乱戦の最中に弾を交換しようとしてリボルバー銃のシリンダーを落とし、紛失したという。
その時はなんとか逃げ延びたが、もう少し攻め手の人数が多いなどすればやられていた所。
銃には弾切れがあるし、跳弾の危険もある。オートマチック式の銃なら詰まる(ジャムる)危険も。
特に閉所での防護武器という点では、脇差(特に中脇差)の完全な上位互換などではあり得ないし、
武器商人の懐を潤わせるなんていう弊害をも帯びているのだから、「最終的には自分の命は
自分で守る」という体裁を守るためにも、官製の銃剣ですらない脇差を帯びておくべきである。
新撰組が、大刀が折れた時のサブとして長脇差を好んでいたのも、
やはり攻撃ばかりに特化して守りを失ってしまっていた証左だといえる。
そこからの形成悪化による戦死や打ち首。これもまた百姓上がりの
サムライモドキとしての性分を引きずっていたからといえばそうである。
結局、幕末から明治にかけてのイザコザのほとんどは最下級の武士ないし
郷士に任せて、正規の身分のある武士たちのほとんどは近代以降にまんまと立場を改め、
渋沢栄一が興した旧佐幕派系の企業に務めたり(鬼平の子孫も証券マンだという)、
土木事業を取り仕切って来た経歴を活かして土建業の上役になったり、先祖代々
古武術や書道で培われた手先の器用さを活かして音楽家や芸術家になったりしている。
倒幕の動乱に興じて散って行った連中と比べて、ちっとも格好の良い事績などではないが、
身分上から中士や上士以上だった本物の武家ほど、それぐらい守りの意識も強い。
それは例えば、いついかなる時も脇差を携えて襲撃に備えていたような慣習をも元手としている。
「死ぬことと見つけたり」とかいう、武士道の皮を被った丁稚奉公の心得は誰かにでも
永劫付与しておいて、新たな時代の武士はどこまでも本物志向こそを心がけるべきせある。
やはり攻撃ばかりに特化して守りを失ってしまっていた証左だといえる。
そこからの形成悪化による戦死や打ち首。これもまた百姓上がりの
サムライモドキとしての性分を引きずっていたからといえばそうである。
結局、幕末から明治にかけてのイザコザのほとんどは最下級の武士ないし
郷士に任せて、正規の身分のある武士たちのほとんどは近代以降にまんまと立場を改め、
渋沢栄一が興した旧佐幕派系の企業に務めたり(鬼平の子孫も証券マンだという)、
土木事業を取り仕切って来た経歴を活かして土建業の上役になったり、先祖代々
古武術や書道で培われた手先の器用さを活かして音楽家や芸術家になったりしている。
倒幕の動乱に興じて散って行った連中と比べて、ちっとも格好の良い事績などではないが、
身分上から中士や上士以上だった本物の武家ほど、それぐらい守りの意識も強い。
それは例えば、いついかなる時も脇差を携えて襲撃に備えていたような慣習をも元手としている。
「死ぬことと見つけたり」とかいう、武士道の皮を被った丁稚奉公の心得は誰かにでも
永劫付与しておいて、新たな時代の武士はどこまでも本物志向こそを心がけるべきせある。
脇差は、江戸時代には道中差などとして誰でも所持ができた上、近年でも
ヤクザの抗争などに用いられて来たものであるため、大変市場に出回っている数が多い。
ただ、それだけ粗悪品や使い込まれた摩耗品も多く、本格的な小太刀術を伝承している
古武道も少ないことから現代では人気が低く、買おうと思えば簡単に安く入手できる。
手には入れられるが、いつ如何なる時も携帯する護身武器としての使用は法律上不可。
そこを、ある種の身分に限って可能にすることこそが肝となる。
サムライは大小、パンピーは小だった江戸時代と比べて、サムライは小、パンピーは丸腰
というのは明らかに下位互換となる。ただ、鎌倉室町から江戸期に移るにかけても、
長大な太刀の携帯が禁じられて打刀までになったなどあるし、妥当といえば妥当でもある。
戦前まで軍人はみんな片手打ちサイズの軍刀を携帯していたのだし、そこから急に
敗戦のせいで総員丸腰に陥れられた現代日本のほうが、時代の流れとしては異常である。
ここ70年はなかったことにでもしたほうが、昭和天皇の御霊も浮かばれようもの。
ヤクザの抗争などに用いられて来たものであるため、大変市場に出回っている数が多い。
ただ、それだけ粗悪品や使い込まれた摩耗品も多く、本格的な小太刀術を伝承している
古武道も少ないことから現代では人気が低く、買おうと思えば簡単に安く入手できる。
手には入れられるが、いつ如何なる時も携帯する護身武器としての使用は法律上不可。
そこを、ある種の身分に限って可能にすることこそが肝となる。
サムライは大小、パンピーは小だった江戸時代と比べて、サムライは小、パンピーは丸腰
というのは明らかに下位互換となる。ただ、鎌倉室町から江戸期に移るにかけても、
長大な太刀の携帯が禁じられて打刀までになったなどあるし、妥当といえば妥当でもある。
戦前まで軍人はみんな片手打ちサイズの軍刀を携帯していたのだし、そこから急に
敗戦のせいで総員丸腰に陥れられた現代日本のほうが、時代の流れとしては異常である。
ここ70年はなかったことにでもしたほうが、昭和天皇の御霊も浮かばれようもの。
脇差も、本物の武家身分が差していたものと、
平民やヤクザが差していたものとでは根本的にランクが違う。
もちろん武家の脇差のほうが上等であり、刃紋も美しい。
それと同時に、襲撃された際に応戦しなければかえって士道不覚悟を罰せられることから、
>>123に書いたようなより実戦性を高めた作り込みになっているものが多い。
(逆に、非武家用は隠し持つのに好都合なように細めに作ったり)
もちろん武家用の脇差のほうが好ましいが、これは程度の良いものなら
大刀なみの価格で今も取引されている。それだけ現存数も少ないわけで、
普及させるためには新たに増産していく必要も出てくるだろう。
新造する以上は良いものを。戦前のスプリング刀みたいなのを造るぐらいなら
安い古物にでもしたほうがマシ。いまそこまで脇差に情熱を注いでいるような人間は
刀剣愛好家にも刀匠にもほとんどいないことだし、時代の転換から必要ともなろう。
平民やヤクザが差していたものとでは根本的にランクが違う。
もちろん武家の脇差のほうが上等であり、刃紋も美しい。
それと同時に、襲撃された際に応戦しなければかえって士道不覚悟を罰せられることから、
>>123に書いたようなより実戦性を高めた作り込みになっているものが多い。
(逆に、非武家用は隠し持つのに好都合なように細めに作ったり)
もちろん武家用の脇差のほうが好ましいが、これは程度の良いものなら
大刀なみの価格で今も取引されている。それだけ現存数も少ないわけで、
普及させるためには新たに増産していく必要も出てくるだろう。
新造する以上は良いものを。戦前のスプリング刀みたいなのを造るぐらいなら
安い古物にでもしたほうがマシ。いまそこまで脇差に情熱を注いでいるような人間は
刀剣愛好家にも刀匠にもほとんどいないことだし、時代の転換から必要ともなろう。
誰にとっても、平安と充足が一番大事なのは分かる。
ただ、麗しい言葉で自分の不義を虚飾する為に、宗教や思想だとかを利用する卑怯な連中がいるわけだが、(療養中はともかく)病気云々の前からニートで、そんな自分をよく見せたいが為に「僧侶だ」「侍だ」ってカメレオンしてるなら、軽蔑モンだ。
経文や古人の言葉を引用しつつ、人間の醜さや弱さ、怠惰や不甲斐なさ、或いは堕地獄の大不埒までをもそれらしく理論づけて正当化するのは、難しい事ではない。気に入った信者との性交渉、お布施の強要、聖職者への批判封じ.....etc。「奇跡(※言うほど大した事ない)を起こした俺に文句言う奴の方が、おかしい」なんてのは、威圧的な態度のカルト教祖とまったく変わらないしね。
話は少し逸れるが、「男は見た目じゃない」とは、その通りだ。
ただ、それはある程度イケてる男に適合する言葉であって、一定の割合でいる「もうちょい見た目を気にした方がいい男たち」に、努力しない言い訳を与える為の言葉ではない。「潔癖症はよろしくない」という正論も、異臭を放つ小汚い男が言えば、「あなたの場合、少しは潔癖症の人を見習いなさい」となるのと同じ。
ただ、麗しい言葉で自分の不義を虚飾する為に、宗教や思想だとかを利用する卑怯な連中がいるわけだが、(療養中はともかく)病気云々の前からニートで、そんな自分をよく見せたいが為に「僧侶だ」「侍だ」ってカメレオンしてるなら、軽蔑モンだ。
経文や古人の言葉を引用しつつ、人間の醜さや弱さ、怠惰や不甲斐なさ、或いは堕地獄の大不埒までをもそれらしく理論づけて正当化するのは、難しい事ではない。気に入った信者との性交渉、お布施の強要、聖職者への批判封じ.....etc。「奇跡(※言うほど大した事ない)を起こした俺に文句言う奴の方が、おかしい」なんてのは、威圧的な態度のカルト教祖とまったく変わらないしね。
話は少し逸れるが、「男は見た目じゃない」とは、その通りだ。
ただ、それはある程度イケてる男に適合する言葉であって、一定の割合でいる「もうちょい見た目を気にした方がいい男たち」に、努力しない言い訳を与える為の言葉ではない。「潔癖症はよろしくない」という正論も、異臭を放つ小汚い男が言えば、「あなたの場合、少しは潔癖症の人を見習いなさい」となるのと同じ。
あんたがそうだとは断定しないが、「多弁、誇大妄想の厨房病(自称・世界一なのに無名、高齢の無職童貞、友達ゼロ」と来てるもんだから、誰が見たって限りなくクロ。これをクロだと感じない人は、出会い系サイトの広告を真に受ける連中よりも知能が低いだろうね。
他人からどう見えるのかが分からないはずないとは思うけど、もし自分を客観視する能力なりメタ認知が欠如してるなら、自閉症か何かのお病気なんじゃないかな?
文面からは世間や異性に対する恨み辛みや、いつまでも過去の事を根に持っている器の小ささが滲み出ているし、そもそも北朝鮮の国営放送並みに自分をさんざん持ち上げておいて、周りがおかしいだの何なのと批判しまくる無職の人間の中に、まとも精神状態の人間がどれだけいるのやら......?
他人からどう見えるのかが分からないはずないとは思うけど、もし自分を客観視する能力なりメタ認知が欠如してるなら、自閉症か何かのお病気なんじゃないかな?
文面からは世間や異性に対する恨み辛みや、いつまでも過去の事を根に持っている器の小ささが滲み出ているし、そもそも北朝鮮の国営放送並みに自分をさんざん持ち上げておいて、周りがおかしいだの何なのと批判しまくる無職の人間の中に、まとも精神状態の人間がどれだけいるのやら......?
どこの誰だか知らないが、おまえもだいぶ自分自身の人格障害的な性格の歪みを露呈し始めたな。
・>>249ですでに、ニートになる前から病気を患っていた旨を証言しているが無視or信じない。
・肩の脱臼癖を完治させられるのなら大功績なのは医者にでも聞いてくれば分かることなのに主観で否定。
・MRI画像などの証拠もそれなりに提示しているのに「大した価値はない」と主観で豪語。
その割りに無職童貞・友人なし・ブ男などのネガティブな要素は、証拠も提示していない内から確信。
匿名の無責任さに乗じて悪念を極大化させている小人型ネット参加者の典型例であり、
「敵に回せば恐ろしいが、味方に付けると頼りない」という名言でその存在価値も
看破されている。そのため積極的にそんなに認められたいなどとも思えない。
自分が他人からどう見えているかを俺が心配する以前に、おまえに人を評価したりする資格がない。
そうでない人間にはそれなりに理解される努力もしているから、おまえが心配してくれる必要はない。
・>>249ですでに、ニートになる前から病気を患っていた旨を証言しているが無視or信じない。
・肩の脱臼癖を完治させられるのなら大功績なのは医者にでも聞いてくれば分かることなのに主観で否定。
・MRI画像などの証拠もそれなりに提示しているのに「大した価値はない」と主観で豪語。
その割りに無職童貞・友人なし・ブ男などのネガティブな要素は、証拠も提示していない内から確信。
匿名の無責任さに乗じて悪念を極大化させている小人型ネット参加者の典型例であり、
「敵に回せば恐ろしいが、味方に付けると頼りない」という名言でその存在価値も
看破されている。そのため積極的にそんなに認められたいなどとも思えない。
自分が他人からどう見えているかを俺が心配する以前に、おまえに人を評価したりする資格がない。
そうでない人間にはそれなりに理解される努力もしているから、おまえが心配してくれる必要はない。
信じるのなら全て信じるべきだし、信じないのなら全て信じるべきではない。
自分の主観で都合のいい所だけ信じて、都合の悪い所は信じないというのでは、
「私は真面目に話し合う価値のない下衆です」と独白しているのも同様なことだ。
こちらとしても、そんな連中に褒められたからといって嬉しがるべきでもなければ、
貶されたからといって落ち込むべきでもない。認められたい相手と
その必要がない相手を選別するぐらいの権利は当然こちらにもあるし、
そちらの主観の都合の良さと比べればよっぽど客観的で冷静な分別だといえる。
自分の主観で都合のいい所だけ信じて、都合の悪い所は信じないというのでは、
「私は真面目に話し合う価値のない下衆です」と独白しているのも同様なことだ。
こちらとしても、そんな連中に褒められたからといって嬉しがるべきでもなければ、
貶されたからといって落ち込むべきでもない。認められたい相手と
その必要がない相手を選別するぐらいの権利は当然こちらにもあるし、
そちらの主観の都合の良さと比べればよっぽど客観的で冷静な分別だといえる。
日本もだいぶ愚民化が進んで、9MM8pdEUtUみたいな、
評価されることを喜ぶにも値しないような客観的判断力の低さの持ち主が増えた。
そんな連中から見てもなるべく評価に値するような振る舞いを心がけようとしているのが民主主義下の
政治家であり、案の定、内実は無能であり、なおかつ外面的にも賢明な大人が魅力を感じるような代物ではない。
仮に、俺が思い描いているような君子士人による社会統治が今実現されたとして、そこですぐに統治者たちが
江戸期の侍のような羨望の対象になるとも思われない。今の政治家よりも強面だったりすることから、
女子供はまず怖がるだろうし、マスコミに「独裁の始まり」などともレッテルを貼られかねない。
そこで本当に北朝鮮的な独裁支配を敷いて、被治民を総員喜び組と化して
しまうことだってできなくはないだろうが、極力そんなことはすべきでない。
士人の側としては、誰にでも慕われるほどの八方美人はまず無理なこととして、「分かる人間には分かる」
という部類の自分磨きや、それによる修己知人を心がける。それにより段々と「分かる人間」、
自分たちを偉大な人間だと客観的に理解して畏敬してくれる人々が多数派となるようにすべきである。
侍だって、戦国期までは野盗辻斬り魔の入り混じる恐怖の対象であったのが、封建的な自己統制によって
徐々に信頼をかち得ていったのだから、すでに自衛隊の災害復興事業などでそれなりに好印象を
得ている所から始められるのは、むしろ侍以上に恵まれた境遇にあるともいうべき。
評価されることを喜ぶにも値しないような客観的判断力の低さの持ち主が増えた。
そんな連中から見てもなるべく評価に値するような振る舞いを心がけようとしているのが民主主義下の
政治家であり、案の定、内実は無能であり、なおかつ外面的にも賢明な大人が魅力を感じるような代物ではない。
仮に、俺が思い描いているような君子士人による社会統治が今実現されたとして、そこですぐに統治者たちが
江戸期の侍のような羨望の対象になるとも思われない。今の政治家よりも強面だったりすることから、
女子供はまず怖がるだろうし、マスコミに「独裁の始まり」などともレッテルを貼られかねない。
そこで本当に北朝鮮的な独裁支配を敷いて、被治民を総員喜び組と化して
しまうことだってできなくはないだろうが、極力そんなことはすべきでない。
士人の側としては、誰にでも慕われるほどの八方美人はまず無理なこととして、「分かる人間には分かる」
という部類の自分磨きや、それによる修己知人を心がける。それにより段々と「分かる人間」、
自分たちを偉大な人間だと客観的に理解して畏敬してくれる人々が多数派となるようにすべきである。
侍だって、戦国期までは野盗辻斬り魔の入り混じる恐怖の対象であったのが、封建的な自己統制によって
徐々に信頼をかち得ていったのだから、すでに自衛隊の災害復興事業などでそれなりに好印象を
得ている所から始められるのは、むしろ侍以上に恵まれた境遇にあるともいうべき。
>>306の陸自のエンブレムも、「封建時代」の武家の装束である
時代拵の日本刀をあしらっていることが非民主的だとして批判を受けていた。
あれが軍刀拵だったら、さらなる非難の的ともなっていただろう。
どちらも現代社会にそのまま復権することなどが錯誤になり過ぎるのは同じである。
現代にこそ特有の刀剣文化というものの創出を勘案してみるに、
まず拵の様式からして新規にして行くべきである。かといって全く伝統を
無視するのではなく、江戸期の時代拵の延長線上にある進化系的なもので、
なおかつ軍刀拵みたいな品質の粗悪化を防ぐようにする。
>>131の土方歳三遺品の康継の半太刀拵とか、この虎徹の庄内拵とか、
言葉は変だが“ハイカラ”な要素も見受けられる。幕末以前のものだが、
この辺で刀装具文化の進化も止まってしまっているので、またここから始めるべき。
それこそ、オシャレでもあるべき。帯刀込みでオシャレとなる装束なら、
どう転んでも外見だけの取り繕いなどにはなり得ないからな。刀が本物なら。
時代拵の日本刀をあしらっていることが非民主的だとして批判を受けていた。
あれが軍刀拵だったら、さらなる非難の的ともなっていただろう。
どちらも現代社会にそのまま復権することなどが錯誤になり過ぎるのは同じである。
現代にこそ特有の刀剣文化というものの創出を勘案してみるに、
まず拵の様式からして新規にして行くべきである。かといって全く伝統を
無視するのではなく、江戸期の時代拵の延長線上にある進化系的なもので、
なおかつ軍刀拵みたいな品質の粗悪化を防ぐようにする。
>>131の土方歳三遺品の康継の半太刀拵とか、この虎徹の庄内拵とか、
言葉は変だが“ハイカラ”な要素も見受けられる。幕末以前のものだが、
この辺で刀装具文化の進化も止まってしまっているので、またここから始めるべき。
それこそ、オシャレでもあるべき。帯刀込みでオシャレとなる装束なら、
どう転んでも外見だけの取り繕いなどにはなり得ないからな。刀が本物なら。
常用するのが短寸の脇差になるのだから、
拵の装飾はある程度ゴチャついてたほうが見栄え面では釣り合う。
https://tokka.biz/sword/taira-takada.htm...
こういう、二本差しで用いるには過剰すぎるぐらい、
大鐺やら責金やら猿手やら笄やらの装飾が凝らされているものがいいな。
服装に関わらず佩用できるように佩環(吊り金具)も取り付けて。
光の反射で狙撃の標的にならないように金ピカの細工は避けるか、
もしくは着脱が容易な外袋を付ける。これはビニールとかでも構わん。
昔のように革や油紙を使っても耐水性が低いし、色々と新たな工夫が可能な所。
ちゃんと現代文明を凌駕して行くように工夫すれば、
絶対にニューナンブなんざよりも格好いいからな。おまけに実用的。
拵の装飾はある程度ゴチャついてたほうが見栄え面では釣り合う。
https://tokka.biz/sword/taira-takada.htm...
こういう、二本差しで用いるには過剰すぎるぐらい、
大鐺やら責金やら猿手やら笄やらの装飾が凝らされているものがいいな。
服装に関わらず佩用できるように佩環(吊り金具)も取り付けて。
光の反射で狙撃の標的にならないように金ピカの細工は避けるか、
もしくは着脱が容易な外袋を付ける。これはビニールとかでも構わん。
昔のように革や油紙を使っても耐水性が低いし、色々と新たな工夫が可能な所。
ちゃんと現代文明を凌駕して行くように工夫すれば、
絶対にニューナンブなんざよりも格好いいからな。おまけに実用的。
9MM8pdEUtUみたいな、自らの矛盾混じりな発言規範によって
人を評価する資格のなさを露呈する人間は、確かに匿名のネット上に多いが、
対面下でもそのような本性を露呈してくる人間はたまにいる。それどころか、
相手に不快感を与えるためではなく、おべっかを使っていい気分にさせるために
曲解混じりのお世辞を弄してくるような人間ならば、実名の場のほうが多いぐらいである。
元禄赤穂事件における、浅野殿中刃傷沙汰の真相は未だに解明されていないが、
仮に被害者の吉良が通説のとおり歪んだ性格の持ち主で、相手への曲解混じりな誹謗中傷も
好んで行うような不埒者だったとする。そこで相手が他人を評価する資格もない人間であることを
冷静に受け止め、名誉毀損を公正な裁きにかける分別を持てたらよかったものを、一時の怒りに
任せて殿中なんかでの殺人未遂や傷害に及んでしまったのは、確かに浅野側の落ち度であった。
(赤穂浪士たちも浅野の切腹処分ではなく、吉良への喧嘩両成敗の免除こそを不服とした)
新たな帯刀身分となる人間も、浅野内匠頭のような真似をすれば引責自殺が免れられない。
一方で、不名誉をそのまま黙認し続けるような真似をするのでも許されない。
そのあたりのさじ加減を学んで行くことが、自らの君子としての成長ともなる。
人を評価する資格のなさを露呈する人間は、確かに匿名のネット上に多いが、
対面下でもそのような本性を露呈してくる人間はたまにいる。それどころか、
相手に不快感を与えるためではなく、おべっかを使っていい気分にさせるために
曲解混じりのお世辞を弄してくるような人間ならば、実名の場のほうが多いぐらいである。
元禄赤穂事件における、浅野殿中刃傷沙汰の真相は未だに解明されていないが、
仮に被害者の吉良が通説のとおり歪んだ性格の持ち主で、相手への曲解混じりな誹謗中傷も
好んで行うような不埒者だったとする。そこで相手が他人を評価する資格もない人間であることを
冷静に受け止め、名誉毀損を公正な裁きにかける分別を持てたらよかったものを、一時の怒りに
任せて殿中なんかでの殺人未遂や傷害に及んでしまったのは、確かに浅野側の落ち度であった。
(赤穂浪士たちも浅野の切腹処分ではなく、吉良への喧嘩両成敗の免除こそを不服とした)
新たな帯刀身分となる人間も、浅野内匠頭のような真似をすれば引責自殺が免れられない。
一方で、不名誉をそのまま黙認し続けるような真似をするのでも許されない。
そのあたりのさじ加減を学んで行くことが、自らの君子としての成長ともなる。
自分の都合で事実も否定し、虚構も肯定するという矛盾的発言規範を、
相手を不快にさせるためではなく、褒めて思い上がらせるために用いる人間。
実社会ではむしろこちらのほうがより警戒すべき人種ともなる。
悪代官と越後屋の如き賄賂での蜜月も、まさにそれこそが元凶となる。
自らもまた悪代官側として汚濁に溺れてしまう以前においても、浅野内匠頭のような
分別の未熟さでいたのではやはり危うい。相手に嫌な思いをさせられる場合だけでなく、
いい思いをさせられる場合においても心理的な警戒を欠かさず、事実を捻じ曲げたり
虚言を弄してまで自分を褒め称えて来るような人間を遠ざけるようにする。
(もちろんそんな連中からの投資を頼んだりすることも)
理論的な分別だけでも済まず、分別で気付いた時にはすでに賄賂の術中に陥って
しまっているような場合もある。だから、相手の発言が不埒さを帯びていることを
感覚で察知して、熱湯から瞬時に手を遠ざけるように避けられる感性や
反射神経の良さも磨いておくべきである。それは結局、自分自身の
心の美しさを刀剣や仏像の如く成していくことともなるわけである。
相手を不快にさせるためではなく、褒めて思い上がらせるために用いる人間。
実社会ではむしろこちらのほうがより警戒すべき人種ともなる。
悪代官と越後屋の如き賄賂での蜜月も、まさにそれこそが元凶となる。
自らもまた悪代官側として汚濁に溺れてしまう以前においても、浅野内匠頭のような
分別の未熟さでいたのではやはり危うい。相手に嫌な思いをさせられる場合だけでなく、
いい思いをさせられる場合においても心理的な警戒を欠かさず、事実を捻じ曲げたり
虚言を弄してまで自分を褒め称えて来るような人間を遠ざけるようにする。
(もちろんそんな連中からの投資を頼んだりすることも)
理論的な分別だけでも済まず、分別で気付いた時にはすでに賄賂の術中に陥って
しまっているような場合もある。だから、相手の発言が不埒さを帯びていることを
感覚で察知して、熱湯から瞬時に手を遠ざけるように避けられる感性や
反射神経の良さも磨いておくべきである。それは結局、自分自身の
心の美しさを刀剣や仏像の如く成していくことともなるわけである。
「心の美しさ」というのは、ちっとも抽象的でも愛玩的でもない。
少なくとも東洋的、日本的な定義においては極めて具体的で実用的なものである。
仕事中とか勉強中とかの一時に限らず、
常日頃からIQ100以上の正気を保ち続ける、所謂「明鏡止水」の境地。
これが美しい心でもある一方、その波長の平坦さ故に、
正気が乱高下している精神病質(サイコパス)や発達障害の人間とは波長が合わない。
その波長の違い故に、明鏡止水の側の人間からは相手の本性が容易に察せる。
場合によっては一言も言葉を交わさない内から、姿勢や表情の歪みだけでも見抜ける。
そこからとっさに危険人物を遠ざけられるかどうかは、反射神経にかかってる。
明鏡止水がインプット面での能力なら、反射的拒絶はアウトプットの能力。
まったく同一というわけではないが、だいたい一緒に育まれて行くものである。
少なくとも、純正な古武道や仏道の修行に基づくのであれば。
(紛い物のヨガで一緒に衰えるなんてことも)
少なくとも東洋的、日本的な定義においては極めて具体的で実用的なものである。
仕事中とか勉強中とかの一時に限らず、
常日頃からIQ100以上の正気を保ち続ける、所謂「明鏡止水」の境地。
これが美しい心でもある一方、その波長の平坦さ故に、
正気が乱高下している精神病質(サイコパス)や発達障害の人間とは波長が合わない。
その波長の違い故に、明鏡止水の側の人間からは相手の本性が容易に察せる。
場合によっては一言も言葉を交わさない内から、姿勢や表情の歪みだけでも見抜ける。
そこからとっさに危険人物を遠ざけられるかどうかは、反射神経にかかってる。
明鏡止水がインプット面での能力なら、反射的拒絶はアウトプットの能力。
まったく同一というわけではないが、だいたい一緒に育まれて行くものである。
少なくとも、純正な古武道や仏道の修行に基づくのであれば。
(紛い物のヨガで一緒に衰えるなんてことも)
西洋的な定義でいうところの「美しい心」は、全くこれとは異なる。
ドストエフスキーの「白痴」だとか、トルストイ小説の女登場人物だとかに
象徴される心の美しさとは、言うなれば、耳障りや見栄えのいい言行のためには
道理も捻じ曲げる部類の精神状態。悪代官に取り入る越後屋と比べれば容貌が小綺麗だったり、
打算を考慮できるような知性が欠けていたりする点が異なるが、根本的な所は同じ。
そういう精神状態にある人間ってのは女に多いものだから、
女こそは見た目だけでなく心までもが美しい人種であるなどと本気で考える。
そういう考え方で女に接するものだから、西洋の男もまた女にも好かれやすい。
明鏡止水の美しさを蔑ろにすればこその、男女の痴情の燃え上がり。
日本人も近代以降はなるべく見習おうとしたが、やはりモノにはならなかった。
別にそれはそれで構いやせず、問題は昔の美しさこそをどうやって取り戻して行くかだ。
ドストエフスキーの「白痴」だとか、トルストイ小説の女登場人物だとかに
象徴される心の美しさとは、言うなれば、耳障りや見栄えのいい言行のためには
道理も捻じ曲げる部類の精神状態。悪代官に取り入る越後屋と比べれば容貌が小綺麗だったり、
打算を考慮できるような知性が欠けていたりする点が異なるが、根本的な所は同じ。
そういう精神状態にある人間ってのは女に多いものだから、
女こそは見た目だけでなく心までもが美しい人種であるなどと本気で考える。
そういう考え方で女に接するものだから、西洋の男もまた女にも好かれやすい。
明鏡止水の美しさを蔑ろにすればこその、男女の痴情の燃え上がり。
日本人も近代以降はなるべく見習おうとしたが、やはりモノにはならなかった。
別にそれはそれで構いやせず、問題は昔の美しさこそをどうやって取り戻して行くかだ。
「是非もなく何でも肯定してやれる者こそは美しい心の持ち主」
「是非を正そうとも何かを悪く言う者は醜い心の持ち主」
これが西洋の心にまつわる美醜観である。一方、
「是非を正して物事を冷静に批評できる者こそは美しい心(明鏡止水)の持ち主」
「痴情に溺れて是非を見失う者は肯定的だろうとも醜い心(煩悩)の持ち主」
これが東洋的な心にまつわる美醜観である。
その精神的な起源になっているのは、やはりキリスト教と仏教である。
どちらもそれなりに共感できる人間がいて、心象の規範とすることが
軌道に乗る者だからこそ、多くの信者を獲得して来たのには違いない。
ただ、片やそういう精神状態に安住するのが簡単だから支持されて来た一方、
難儀だけども普遍的に良いことだから支持されて来たという違いはある。
明鏡止水の境地なんて、なかなか至れないのに多数に支持されて来たのは、
そこに確かな美観もまた伴い得るからである。モンスーン気候の土地など
であれば、そのほうがむしろアガペーの美飾などよりも似合うぐらいに。
「是非を正そうとも何かを悪く言う者は醜い心の持ち主」
これが西洋の心にまつわる美醜観である。一方、
「是非を正して物事を冷静に批評できる者こそは美しい心(明鏡止水)の持ち主」
「痴情に溺れて是非を見失う者は肯定的だろうとも醜い心(煩悩)の持ち主」
これが東洋的な心にまつわる美醜観である。
その精神的な起源になっているのは、やはりキリスト教と仏教である。
どちらもそれなりに共感できる人間がいて、心象の規範とすることが
軌道に乗る者だからこそ、多くの信者を獲得して来たのには違いない。
ただ、片やそういう精神状態に安住するのが簡単だから支持されて来た一方、
難儀だけども普遍的に良いことだから支持されて来たという違いはある。
明鏡止水の境地なんて、なかなか至れないのに多数に支持されて来たのは、
そこに確かな美観もまた伴い得るからである。モンスーン気候の土地など
であれば、そのほうがむしろアガペーの美飾などよりも似合うぐらいに。
世間的に「美しい心」とされる精神状態は、だからこそ尊ばれる一方、
「心が醜い」と見なされればそれ故に卑しまれる。
これは、身分とか人種とか血統とも無縁であるはずな自身の「心」という内面の評価
なものだから、平等主義の世の中においてですらそれによる差別が緩められることがない。
洋の東西でも心の美醜の評価基準が違うし、隣国同士や国内においてですら
必ずしも統一されてはいない。その手の軋轢の最大級の原因になるのはやはり宗教だが、
逆に価値観を統一させて人間性の矯正を図って来たのも宗教ないし宗教国家であり、
それにより同好の士の寄り合いによる国や経済の発展を促しても来た。
江戸時代までの日本では仏教的価値観によって心の美醜の統制が図られていたのが、
明治以降はキリスト教の影響を色濃く受けた国家神道に取って代わられ、敗戦後は
宗教的統制のなさ故の根無し草状態となった。とはいえ特別根本的な精神性の改めが
図られたわけでもない手前、戦後の美醜意識も東洋系よりは西洋系のほうが優勢である。
特に心の美しさ如何の基準は、まったくキリスト教的因習に囚われたままである。
「心が醜い」と見なされればそれ故に卑しまれる。
これは、身分とか人種とか血統とも無縁であるはずな自身の「心」という内面の評価
なものだから、平等主義の世の中においてですらそれによる差別が緩められることがない。
洋の東西でも心の美醜の評価基準が違うし、隣国同士や国内においてですら
必ずしも統一されてはいない。その手の軋轢の最大級の原因になるのはやはり宗教だが、
逆に価値観を統一させて人間性の矯正を図って来たのも宗教ないし宗教国家であり、
それにより同好の士の寄り合いによる国や経済の発展を促しても来た。
江戸時代までの日本では仏教的価値観によって心の美醜の統制が図られていたのが、
明治以降はキリスト教の影響を色濃く受けた国家神道に取って代わられ、敗戦後は
宗教的統制のなさ故の根無し草状態となった。とはいえ特別根本的な精神性の改めが
図られたわけでもない手前、戦後の美醜意識も東洋系よりは西洋系のほうが優勢である。
特に心の美しさ如何の基準は、まったくキリスト教的因習に囚われたままである。
このスレでの反応を見ていても、武士道を新渡戸稲造が曲解したような
紛い物に即して分かった気になって、その実価値観は完全に現代的、
西洋的なままでいるものだから、そんな自分が評価できない俺の言動を
「武士道に悖るもの」として非難嘲笑するような連中が一定数いるわけである。
仏道への無理解はもっとひどく、自利即利他の精神がキリスト教的価値観への
囚われのせいでどうしても理解できないせいで、俺や現代の生臭坊主はおろか、
昔の日本の仏門までをも紛い物として否定してかかるような連中すらいる始末。
理解ができない原因はおまえらの眼前ではなく、おまえら自身の心中にある。
根本的な心象の美醜意識が西洋側にどっぷり浸かっていて、そこから一時的に
抜け出すことすら頑なに拒絶するが故に、それでは絶対に理解不能な本物の
武士道や仏道を曲解して自分たちに合わせ、その武士道モドキや仏道モドキに
反するような振る舞いをする俺のほうを不心得者として叩く。
本物の武士道や仏道のほうがよっぽど、自他を丁重な安楽や平和に導けるもので
あるにもかかわらず、アレルギー反応にも等しい拒絶意識で従属を拒むのは、
やはり心の美醜からの美意識の相違を最大の原因としているのに違いない。
「生理的に受け付けられない」とかだったとしても、その真因がこれだ。
最終命題までカンニングの余地を与えておいてくれる、甘やかしげな先生だな。
紛い物に即して分かった気になって、その実価値観は完全に現代的、
西洋的なままでいるものだから、そんな自分が評価できない俺の言動を
「武士道に悖るもの」として非難嘲笑するような連中が一定数いるわけである。
仏道への無理解はもっとひどく、自利即利他の精神がキリスト教的価値観への
囚われのせいでどうしても理解できないせいで、俺や現代の生臭坊主はおろか、
昔の日本の仏門までをも紛い物として否定してかかるような連中すらいる始末。
理解ができない原因はおまえらの眼前ではなく、おまえら自身の心中にある。
根本的な心象の美醜意識が西洋側にどっぷり浸かっていて、そこから一時的に
抜け出すことすら頑なに拒絶するが故に、それでは絶対に理解不能な本物の
武士道や仏道を曲解して自分たちに合わせ、その武士道モドキや仏道モドキに
反するような振る舞いをする俺のほうを不心得者として叩く。
本物の武士道や仏道のほうがよっぽど、自他を丁重な安楽や平和に導けるもので
あるにもかかわらず、アレルギー反応にも等しい拒絶意識で従属を拒むのは、
やはり心の美醜からの美意識の相違を最大の原因としているのに違いない。
「生理的に受け付けられない」とかだったとしても、その真因がこれだ。
最終命題までカンニングの余地を与えておいてくれる、甘やかしげな先生だな。
サムライが、極めて美意識の高い人種だったというのは、
現代人でもなんとなく察していることではある。しかし、
その美意識がどんなものだったかといえば、これは想像がつかない。
もしくは、自分たちが持ち合わせたり知悉しているような美意識を
そのまま極大化させていったような美意識だったのではないかと考える。
分別をかなぐり捨ててまでの自己犠牲だとか、利害を見失ってまでの奴隷的奉仕だとか。
自分たちにとっての美意識の延長線上で考えてしまうものだから、
そんなものばかりを想像する。実際、現代どころか戦前の日本人までもが
そのような思い込みのままでの侍魂の模倣を試み、特攻玉砕で散っていった。
これがまた武士道への曲解を地固めさせる大きな原因にもなってしまっている。
いくら大日本帝国が武士道だの大和魂だのとうそぶいていたのだとしても、
実際問題、明治以降に武家はこの世から絶やされたのである。国を挙げての
価値観の転換による資本主義経済の発展のため、侍ならではの美意識もまた
あえて絶やされた。そこで国威発揚のために喧伝されていた武士道魂なども
全くの形骸でしかなく、本物の武士道を図り知るための参考程度にもならない。
本物の武士道や、そこにあった美意識なんて、なんとなく程度にすら知らないものだと、
現代人は考え直すべき。知ってるから敬遠してるなんていうのですら、勘違いである。
旧日本軍的な人命軽視を忌み嫌ったりするのも、むしろ自己嫌悪でこそある。
現代人でもなんとなく察していることではある。しかし、
その美意識がどんなものだったかといえば、これは想像がつかない。
もしくは、自分たちが持ち合わせたり知悉しているような美意識を
そのまま極大化させていったような美意識だったのではないかと考える。
分別をかなぐり捨ててまでの自己犠牲だとか、利害を見失ってまでの奴隷的奉仕だとか。
自分たちにとっての美意識の延長線上で考えてしまうものだから、
そんなものばかりを想像する。実際、現代どころか戦前の日本人までもが
そのような思い込みのままでの侍魂の模倣を試み、特攻玉砕で散っていった。
これがまた武士道への曲解を地固めさせる大きな原因にもなってしまっている。
いくら大日本帝国が武士道だの大和魂だのとうそぶいていたのだとしても、
実際問題、明治以降に武家はこの世から絶やされたのである。国を挙げての
価値観の転換による資本主義経済の発展のため、侍ならではの美意識もまた
あえて絶やされた。そこで国威発揚のために喧伝されていた武士道魂なども
全くの形骸でしかなく、本物の武士道を図り知るための参考程度にもならない。
本物の武士道や、そこにあった美意識なんて、なんとなく程度にすら知らないものだと、
現代人は考え直すべき。知ってるから敬遠してるなんていうのですら、勘違いである。
旧日本軍的な人命軽視を忌み嫌ったりするのも、むしろ自己嫌悪でこそある。
なぜ、見境のない自己犠牲や奴隷奉仕を好むような人間が、
美術的・宝物的価値まで帯びるような名刀などを好んで差していたのか?
そして、それを蔑ろにされることを何よりも嫌っていたのか?
その刀の多くには鎬(しのぎ)があり、斬れ味だけでなく、
敵からの攻撃を受け止める防御面でも細心の工夫が凝らされている。
死地においても決して生還への望みを捨てず、生きて我が名誉を守り、
有職ならその職責を果たすことが、武士の美意識だったからこそ。
そしてその生き様こそが美しく、佩刀の美しさの生き写しともなるように。
捨て身は美しく、守り身は美しくないものだと勝手に思い込んでいる
近代人にとっては最も理解しがたい「厚生の美」こそは、武家の美意識。
意外と保身的だから期待はずれだというなら、自分自身の見当違い
こそを責めるべき。そこにはまた感性の成熟した人間こそが図り知る
真の美しさが遍在しているのだから、自らの見る目のなさこそを恥じるべき。
美術的・宝物的価値まで帯びるような名刀などを好んで差していたのか?
そして、それを蔑ろにされることを何よりも嫌っていたのか?
その刀の多くには鎬(しのぎ)があり、斬れ味だけでなく、
敵からの攻撃を受け止める防御面でも細心の工夫が凝らされている。
死地においても決して生還への望みを捨てず、生きて我が名誉を守り、
有職ならその職責を果たすことが、武士の美意識だったからこそ。
そしてその生き様こそが美しく、佩刀の美しさの生き写しともなるように。
捨て身は美しく、守り身は美しくないものだと勝手に思い込んでいる
近代人にとっては最も理解しがたい「厚生の美」こそは、武家の美意識。
意外と保身的だから期待はずれだというなら、自分自身の見当違い
こそを責めるべき。そこにはまた感性の成熟した人間こそが図り知る
真の美しさが遍在しているのだから、自らの見る目のなさこそを恥じるべき。
それに、都合がいいも悪いも、「治った」という話を含め、あんたの言う事ははとりあえず信じているではないか。MRIの画像だけで確証が取れた事にはならないものの、治ったという前提で話は聞いてる。
ただ、前述の通り、難治性の病気が治ったという話はチラホラ聞くので、「(とても嬉しいのは分かるけども、あんたが自分で絶賛してるほど)そんなに大した事ではない」と書いただけ。
もし「チラホラ聞く話は、確認の取れてないデマだ」と言うのなら、あんたの話だって確認は取れてないが、あんたの話が嘘だろうと真実だろうと、その程度の事が起きたとして、そんなに珍しくもない。
ただ、前述の通り、難治性の病気が治ったという話はチラホラ聞くので、「(とても嬉しいのは分かるけども、あんたが自分で絶賛してるほど)そんなに大した事ではない」と書いただけ。
もし「チラホラ聞く話は、確認の取れてないデマだ」と言うのなら、あんたの話だって確認は取れてないが、あんたの話が嘘だろうと真実だろうと、その程度の事が起きたとして、そんなに珍しくもない。
>>337
無職になる前から病気を患っていたことがわかるようには書いた。
それ以外の面での難癖を付けてくるのは後出しでしかない。
1つだけ付言してやるなら、子供の頃にやってたスポーツ剣道で肩を脱臼させた。
それから20年以上外れっぱなしでいたのだ。
>>338
難病にも色々ある。
膵臓癌だって難病だし、足の小指の爪が綺麗に生えないのだって難病だ。
前者が転移ごと治せればノーベル賞ものだが、後者はイグノーベル賞にもなるまい。
それら全ての治療を十把一絡げに「大したことない」と断言しているおまえの神経は、
世の中や他人のことを真摯に理解できないか、しようともしていない点でやはりおかしい。
要は非社会性のパーソナリティ障害である可能性が高いわけだな。断定はせんが。
無職になる前から病気を患っていたことがわかるようには書いた。
それ以外の面での難癖を付けてくるのは後出しでしかない。
1つだけ付言してやるなら、子供の頃にやってたスポーツ剣道で肩を脱臼させた。
それから20年以上外れっぱなしでいたのだ。
>>338
難病にも色々ある。
膵臓癌だって難病だし、足の小指の爪が綺麗に生えないのだって難病だ。
前者が転移ごと治せればノーベル賞ものだが、後者はイグノーベル賞にもなるまい。
それら全ての治療を十把一絡げに「大したことない」と断言しているおまえの神経は、
世の中や他人のことを真摯に理解できないか、しようともしていない点でやはりおかしい。
要は非社会性のパーソナリティ障害である可能性が高いわけだな。断定はせんが。
http://bbs68.meiwasuisan.com/news/1570579573...
9000万円とかいう、鑑定済みの正宗が買える値段の高級時計でも、
全く同じものが30個は量産されているという、このつまらなさよ。
最低劣のクズ刀から精巧な写し物に至るまで、
刃紋も体配も全く同じものはただの1組も存在しないという、日本刀の多様性。
あえてそうしているのではなく、製法上そうでしかあり得ない。
何万層もの鋼の多層構造を手作業の折り返し鍛錬によって形作って行くという、
量産化工業の斉一性からは最もかけ離れた製法規格のために。
だからこそ、その存在性が神的なのでもある。
人の手によって作られるものなのに、高度に有機的でもある所が。
強いて言えば、木製品なども全く同じものはほぼないが、
(日本刀の肌模様もしばしば木目に例えられる)
木目という有機的な部分はあくまで自然の業である。
日本人は、よく大木なども御神木として崇め奉って来ているが、
そのような自然の有機性を尊ぶ心持ちこそが、
日本刀の有機的工芸美をも昇華させたのであろう。
9000万円とかいう、鑑定済みの正宗が買える値段の高級時計でも、
全く同じものが30個は量産されているという、このつまらなさよ。
最低劣のクズ刀から精巧な写し物に至るまで、
刃紋も体配も全く同じものはただの1組も存在しないという、日本刀の多様性。
あえてそうしているのではなく、製法上そうでしかあり得ない。
何万層もの鋼の多層構造を手作業の折り返し鍛錬によって形作って行くという、
量産化工業の斉一性からは最もかけ離れた製法規格のために。
だからこそ、その存在性が神的なのでもある。
人の手によって作られるものなのに、高度に有機的でもある所が。
強いて言えば、木製品なども全く同じものはほぼないが、
(日本刀の肌模様もしばしば木目に例えられる)
木目という有機的な部分はあくまで自然の業である。
日本人は、よく大木なども御神木として崇め奉って来ているが、
そのような自然の有機性を尊ぶ心持ちこそが、
日本刀の有機的工芸美をも昇華させたのであろう。
日本刀は鉄鋼製品なのだから、サビの原因になる湿気が大敵のように思われがちだが、
実はむしろ乾燥のほうが大敵である。刀身に塗った油が速く乾いて錆びる原因になるため。
バイオリンやピアノやギターなどの楽器は基本、乾燥状態に置いたほうが良い。
鉄製の金具は極力使わないか、使う場合には防錆塗装やメッキを施すなどしているため、
木材部位の腐朽を防ぐためにも、演奏時の音色のためにも湿気を避けたほうが良いとされる。
どちらのほうが寿命が長いかといえば、圧倒的に日本刀のほうである。
刀は正しく手入れさえし続ければ1000年以上持つが、ピアノは100年未満。
バイオリンやギターはもう少し長いが、どんなに丁寧に保管しても結局木部が朽ちてしまうから、
300年前のストラディヴァリウスなども弾けなくはないが、すでに音色が劣化してしまっているという。
湿気は日本人もあまり好むものではないが、豊かな自然を育む要因ともなる。
中東のような乾燥は緑を絶やす上に、紫外線の透過で細菌すらも殺してしまう。
モンスーン気候の上に、梅雨のような雨季もあれば台風もある、世界でも屈指の
多湿地帯としての日本の環境こそが、鉄製の刀を何百年と錆びさせずに保管する文化をも育んだ。
木造家屋の寿命の短さなどとは裏腹な、文化財全般への物持ちの良さ。
その指針ともなって来た鉄刀保存の風習。面倒なようでも、これもまたあって然るべき手間であった。
実はむしろ乾燥のほうが大敵である。刀身に塗った油が速く乾いて錆びる原因になるため。
バイオリンやピアノやギターなどの楽器は基本、乾燥状態に置いたほうが良い。
鉄製の金具は極力使わないか、使う場合には防錆塗装やメッキを施すなどしているため、
木材部位の腐朽を防ぐためにも、演奏時の音色のためにも湿気を避けたほうが良いとされる。
どちらのほうが寿命が長いかといえば、圧倒的に日本刀のほうである。
刀は正しく手入れさえし続ければ1000年以上持つが、ピアノは100年未満。
バイオリンやギターはもう少し長いが、どんなに丁寧に保管しても結局木部が朽ちてしまうから、
300年前のストラディヴァリウスなども弾けなくはないが、すでに音色が劣化してしまっているという。
湿気は日本人もあまり好むものではないが、豊かな自然を育む要因ともなる。
中東のような乾燥は緑を絶やす上に、紫外線の透過で細菌すらも殺してしまう。
モンスーン気候の上に、梅雨のような雨季もあれば台風もある、世界でも屈指の
多湿地帯としての日本の環境こそが、鉄製の刀を何百年と錆びさせずに保管する文化をも育んだ。
木造家屋の寿命の短さなどとは裏腹な、文化財全般への物持ちの良さ。
その指針ともなって来た鉄刀保存の風習。面倒なようでも、これもまたあって然るべき手間であった。
今月号の月間武道掲載。第23代警視総監でもあり、
近代剣道(今の警察剣道に相当)の実質的な創始者である西久保弘道。
この、戦前の人間とは思えないほどでっぷりとした胴回りと、
それに相反するかのような、子供のような細さの前腕。
相撲並みに力当たりばかりに拘泥して、手先の技巧は
まったく疎かにしていたことが見るに明らかな体つき。
実際、こいつは学校剣道の導入者である永井道明(剣道家ではない)とも並んで、
剣の稽古から技術的な要素を確信犯的に排除しながら剣道を広めた張本人である。
剣道といえば体育会系、スポーツ系で、手先の器用さなんか無関係という
風潮を作り出したのもこいつが最初。脳筋で融通の利かない警察官の走り。
剣ってのは、本来はそういうもんではない。全身も使うが手先も使う。
手先の器用さも楽器演奏並みに必要だったから、佐幕派の中上級の
武士の末裔の中にも、音楽家をやっているような人間が数多くいる。
こいつは、佐賀鍋島藩士の末裔だという。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な葉隠も佐賀藩士の著。
薩長と比べれば、政官財に幅を利かせた度合いも低くてさほど
問題視されることがない「薩長土肥」の肥前こと佐賀もまた、
世間知らずで不器用な田舎侍の吹き溜まりだったというわけ。
近代剣道(今の警察剣道に相当)の実質的な創始者である西久保弘道。
この、戦前の人間とは思えないほどでっぷりとした胴回りと、
それに相反するかのような、子供のような細さの前腕。
相撲並みに力当たりばかりに拘泥して、手先の技巧は
まったく疎かにしていたことが見るに明らかな体つき。
実際、こいつは学校剣道の導入者である永井道明(剣道家ではない)とも並んで、
剣の稽古から技術的な要素を確信犯的に排除しながら剣道を広めた張本人である。
剣道といえば体育会系、スポーツ系で、手先の器用さなんか無関係という
風潮を作り出したのもこいつが最初。脳筋で融通の利かない警察官の走り。
剣ってのは、本来はそういうもんではない。全身も使うが手先も使う。
手先の器用さも楽器演奏並みに必要だったから、佐幕派の中上級の
武士の末裔の中にも、音楽家をやっているような人間が数多くいる。
こいつは、佐賀鍋島藩士の末裔だという。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な葉隠も佐賀藩士の著。
薩長と比べれば、政官財に幅を利かせた度合いも低くてさほど
問題視されることがない「薩長土肥」の肥前こと佐賀もまた、
世間知らずで不器用な田舎侍の吹き溜まりだったというわけ。
上の近代剣道創始者のおっさんを見ても、
今でも剣道が必修科目な日本の警察官の容貌や振る舞いを見ても、
ちっとも「美しい」ようには思われない。
いくら日本刀が美しいものであっても、
それを扱うための稽古を積んでいるはずの者が美しくないのでは、
少なくとも「剣心一体」の境地ではないことが明らか。
実際、近代剣道ってのは真剣の扱いから遠くかけ離れたものでしかない。
あえて真剣の扱いのための技巧をかなぐり捨てた、竹刀のあてっこ、
だからこそ剣道家も美しくないのだから、それを見て剣心一体の心がけが
人の美しさを育むことなどないなどと思うのは、勘違いもいいとこ。
真剣こそを正しく扱い、真剣と我が身の一体化を図ることで、
我が身の振る舞いもまた美しくなる。もはやあり得ないこととすら
思い込まれているきらいがあるから、真剣も遠ざけられて時価が暴落している。
何もかもが勘違いに囚われている悪循環こそが、現代人の呪縛であるといえる。
今でも剣道が必修科目な日本の警察官の容貌や振る舞いを見ても、
ちっとも「美しい」ようには思われない。
いくら日本刀が美しいものであっても、
それを扱うための稽古を積んでいるはずの者が美しくないのでは、
少なくとも「剣心一体」の境地ではないことが明らか。
実際、近代剣道ってのは真剣の扱いから遠くかけ離れたものでしかない。
あえて真剣の扱いのための技巧をかなぐり捨てた、竹刀のあてっこ、
だからこそ剣道家も美しくないのだから、それを見て剣心一体の心がけが
人の美しさを育むことなどないなどと思うのは、勘違いもいいとこ。
真剣こそを正しく扱い、真剣と我が身の一体化を図ることで、
我が身の振る舞いもまた美しくなる。もはやあり得ないこととすら
思い込まれているきらいがあるから、真剣も遠ざけられて時価が暴落している。
何もかもが勘違いに囚われている悪循環こそが、現代人の呪縛であるといえる。
月間秘伝の質問コーナーで、剣術家の黒田鉄山氏が「道」について聞かれたとき、
「道というものはあまりにも深遠で、とてもそれ自体を頭で理解したり教えたり
できるものではありませんので、我々は差し当たって出来ることとしての
技術の研鑽に取り組んで行くのみです」ということを言っていた。
だから「剣道」ではなく「剣術」であることにもこだわっているが、
こちらのほうがよっぽど「道」への姿勢も真摯であると言えまいか?
それとも、でっぷりと太った体による力任せな打ち込みと奇声で
圧し勝てば勝ち、圧し負ければ負けみたいなほうが剣の道だというのか?
剣の道は、断じて相撲道ではない。
むしろ「技即道」の極致ともいえる技術研鑽の道でこそある。
何しろ日本刀という工芸品自体が、超絶技巧の精髄でもあるのだから。
技術研鑽の結果、刀を持たせたら最強となり、
その剣技もまた見るに美しいというあり方こそ、真の剣の道であろう。
でなければ、本物の武士たちの末裔の多くが、今の剣道なぞよりは
芸術への道のほうを好んで選んでいる理由も立つはずがなく。
「道というものはあまりにも深遠で、とてもそれ自体を頭で理解したり教えたり
できるものではありませんので、我々は差し当たって出来ることとしての
技術の研鑽に取り組んで行くのみです」ということを言っていた。
だから「剣道」ではなく「剣術」であることにもこだわっているが、
こちらのほうがよっぽど「道」への姿勢も真摯であると言えまいか?
それとも、でっぷりと太った体による力任せな打ち込みと奇声で
圧し勝てば勝ち、圧し負ければ負けみたいなほうが剣の道だというのか?
剣の道は、断じて相撲道ではない。
むしろ「技即道」の極致ともいえる技術研鑽の道でこそある。
何しろ日本刀という工芸品自体が、超絶技巧の精髄でもあるのだから。
技術研鑽の結果、刀を持たせたら最強となり、
その剣技もまた見るに美しいというあり方こそ、真の剣の道であろう。
でなければ、本物の武士たちの末裔の多くが、今の剣道なぞよりは
芸術への道のほうを好んで選んでいる理由も立つはずがなく。
それより台風が来る。
傘地蔵は東京に住んでるの?
傘地蔵は東京に住んでるの?
住んでねえよ。近ごろ用事(×仕事)でよく行ってたが。
台風19号でも都心部はろくな被害がなかったし、
未だに神君家康公の霊威に守られているんだな、と。
(現実的に言えば、徳川時代の治水の成果だが)
今ろくな奴らが住んでない率が高いのも認知しているが、
いい人間もいるし、蔵刀の多さなど、武家社会だった名残りの魅力も未だ色濃い。
下手な移住の仕方をしてもろくな目に合わないのが分かってるから、
そうそうには考えないが、いつかは大きな爪痕を残してやりたいもんだ。
台風19号でも都心部はろくな被害がなかったし、
未だに神君家康公の霊威に守られているんだな、と。
(現実的に言えば、徳川時代の治水の成果だが)
今ろくな奴らが住んでない率が高いのも認知しているが、
いい人間もいるし、蔵刀の多さなど、武家社会だった名残りの魅力も未だ色濃い。
下手な移住の仕方をしてもろくな目に合わないのが分かってるから、
そうそうには考えないが、いつかは大きな爪痕を残してやりたいもんだ。
いつかは大きな爪痕を残してやりたいもんだ。
カッケーw
カッケーw
ヤフオク含めたネット上での刀剣検索も、だいぶ飽きてきた。
刀剣熱自体は全く冷めてないんだが、目が肥え過ぎて、
ほとんどろくな刀が出回ってないのが段々わかってきたから。
特に、「沸出来」の名刀の掘り出し物なんてのは本当にない。
正宗を最高峰とする、刃紋の粒子が荒くて粒になって見える出来の刀。
これは格段に高温の焼き入れと急冷で作られるものなので、刃鉄もひときわ硬度が高くて
実用面でも機能性が高いんだが、そのぶん作るのが難しく、鍛え傷などができやすい。
(正宗の真作にすら、許容できる程度の鍛え傷が見られるものがある)
あまりにも作刀が難しいため、正宗が創始者である相州伝の刀工流派も早くに衰滅した一方、
刃紋が荒沸化しない「匂出来」の範囲での刃紋の美しさを追求していた備前伝は隆盛した。
天正18年の大洪水で備前伝の流派が壊滅して後も、同類の匂出来の名刀の再現を試みる
刀工は無数に上った一方、沸出来の名刀の再現はあまりにも難しいために憚られ、
そんな中でも再現に成功した井上真改や源清麿らが稀代の名工として持て囃されもした。
(画像は真作の虎徹の刃紋で、贋物にはまずこのような荒沸は見られない)
刀剣熱自体は全く冷めてないんだが、目が肥え過ぎて、
ほとんどろくな刀が出回ってないのが段々わかってきたから。
特に、「沸出来」の名刀の掘り出し物なんてのは本当にない。
正宗を最高峰とする、刃紋の粒子が荒くて粒になって見える出来の刀。
これは格段に高温の焼き入れと急冷で作られるものなので、刃鉄もひときわ硬度が高くて
実用面でも機能性が高いんだが、そのぶん作るのが難しく、鍛え傷などができやすい。
(正宗の真作にすら、許容できる程度の鍛え傷が見られるものがある)
あまりにも作刀が難しいため、正宗が創始者である相州伝の刀工流派も早くに衰滅した一方、
刃紋が荒沸化しない「匂出来」の範囲での刃紋の美しさを追求していた備前伝は隆盛した。
天正18年の大洪水で備前伝の流派が壊滅して後も、同類の匂出来の名刀の再現を試みる
刀工は無数に上った一方、沸出来の名刀の再現はあまりにも難しいために憚られ、
そんな中でも再現に成功した井上真改や源清麿らが稀代の名工として持て囃されもした。
(画像は真作の虎徹の刃紋で、贋物にはまずこのような荒沸は見られない)
沸出来ならただ鍛え傷がないだけでもめっけもんだが、安価ではまずない。
匂出来は比較的安価でも無傷なものがあるが、それだけでは大した価値があるとも言えない。
だから傷のない沸出来か、際だって出来のいい匂出来の刀こそを探してみれば、
これは本当にあるべき所にしかなくて、安く掘り出せるなんてことは皆無と見ていい。
あまりよく分かってなかった頃には、ネット上に膨大な数の「本物」の日本刀が
紹介されて売りに出されてるのにビックリして、宝の山にも思えたものだが、
本当に出来のいい「本物中の本物」となると、やっぱりごく一部に限られる。
ただ、その「本物中の本物」だけでも、総数なら一万本ぐらいはあるだろう。
その上で、一応実用できる程度の「本物」の日本刀が百万本以上現存している。
ただ本物を手に入れるのなら簡単だし、本物中の本物を手に入れるのも難しいが不可能ではない。
まるでとっくの昔に消失してしまったオーパーツのように扱うのは誤解もいいとこ。
匂出来は比較的安価でも無傷なものがあるが、それだけでは大した価値があるとも言えない。
だから傷のない沸出来か、際だって出来のいい匂出来の刀こそを探してみれば、
これは本当にあるべき所にしかなくて、安く掘り出せるなんてことは皆無と見ていい。
あまりよく分かってなかった頃には、ネット上に膨大な数の「本物」の日本刀が
紹介されて売りに出されてるのにビックリして、宝の山にも思えたものだが、
本当に出来のいい「本物中の本物」となると、やっぱりごく一部に限られる。
ただ、その「本物中の本物」だけでも、総数なら一万本ぐらいはあるだろう。
その上で、一応実用できる程度の「本物」の日本刀が百万本以上現存している。
ただ本物を手に入れるのなら簡単だし、本物中の本物を手に入れるのも難しいが不可能ではない。
まるでとっくの昔に消失してしまったオーパーツのように扱うのは誤解もいいとこ。
たとえば、沸出来の刀と匂出来の刀で鍔迫り合いをすれば、
沸出来のほうが刃鉄が硬いから、匂出来に競り勝って切り折る可能性が高い。
(匂出来が主流の備前刀は実際、太刀や片手打ちの刀が主で、
鍔迫り合いをあまり想定していないものが多い)
ただ、匂出来の刀は刃鉄が比較的やわい代わりに刀身が柔軟な上、
緻密な打ち鍛えで折重ねをよく詰ませることが可能なため、靭性がより高い。
国宝の大般若長光も、震災で折れ曲がった所を慎重に修復すれば元通りに戻ったというし、
そういう上出来な匂出来の刀で、沸出来の刀の鎬や棟などに強く切りつければ、
むしろ匂出来のほうが沸出来を叩き斬れる可能性が高い。(逆だと曲がっても折れない)
ただ、「折れず曲がらずよく斬れる」という性能を最上級に達成する可能性があるのは、
沸出来でなおかつ地鉄や芯鉄が匂出来並みに高い靭性を獲得している刀であり、
正宗や虎徹はこの条件を満たしているとされるため、新古の日本刀の最高峰ともされている。
匂出来で美しい波紋の備前刀なども魅力的ではあるが、実用性を見れば多少は譲る。
最高級の備前刀は正宗以前のものばかりだから、古さ故の骨董的価値は高いが、
実戦を想定するのであればやはり、沸出来の名刀のほうにより憧れるものである。
沸出来のほうが刃鉄が硬いから、匂出来に競り勝って切り折る可能性が高い。
(匂出来が主流の備前刀は実際、太刀や片手打ちの刀が主で、
鍔迫り合いをあまり想定していないものが多い)
ただ、匂出来の刀は刃鉄が比較的やわい代わりに刀身が柔軟な上、
緻密な打ち鍛えで折重ねをよく詰ませることが可能なため、靭性がより高い。
国宝の大般若長光も、震災で折れ曲がった所を慎重に修復すれば元通りに戻ったというし、
そういう上出来な匂出来の刀で、沸出来の刀の鎬や棟などに強く切りつければ、
むしろ匂出来のほうが沸出来を叩き斬れる可能性が高い。(逆だと曲がっても折れない)
ただ、「折れず曲がらずよく斬れる」という性能を最上級に達成する可能性があるのは、
沸出来でなおかつ地鉄や芯鉄が匂出来並みに高い靭性を獲得している刀であり、
正宗や虎徹はこの条件を満たしているとされるため、新古の日本刀の最高峰ともされている。
匂出来で美しい波紋の備前刀なども魅力的ではあるが、実用性を見れば多少は譲る。
最高級の備前刀は正宗以前のものばかりだから、古さ故の骨董的価値は高いが、
実戦を想定するのであればやはり、沸出来の名刀のほうにより憧れるものである。
沸出来の孫六兼元、匂出来の寿命、同じく匂出来の新々刀備前長船の断面図。
黄色い所が刃鉄、赤い所が地鉄、白い所が芯鉄で、硬さは刃>地>芯。
孫六兼元が配合からも体配からもいかにも物切れしそうではあるが、折れやすそうでもある。
新々刀長船はそれよりも折損には強そうだが、ハマグリ刃の強さのせいで切れにくそうである。
寿命が最も折れにくそうな上に、体配上から切れ味もまあまあ良さそうである。
これが>>265みたいな耐久試験で合格度が高かった角で、慶喜公が寿命を愛用した根拠でもあろう。
ただし、これだけうっすらと地鉄で芯鉄を覆ったのでは沸が出せない上に、
匂出来の刃紋もまたあまり工夫ができなくて、美麗なものにはならない。
実際、寿命の美術刀剣としての評価は低く、比較的安価に取引されているのもこのためである。
黄色い所が刃鉄、赤い所が地鉄、白い所が芯鉄で、硬さは刃>地>芯。
孫六兼元が配合からも体配からもいかにも物切れしそうではあるが、折れやすそうでもある。
新々刀長船はそれよりも折損には強そうだが、ハマグリ刃の強さのせいで切れにくそうである。
寿命が最も折れにくそうな上に、体配上から切れ味もまあまあ良さそうである。
これが>>265みたいな耐久試験で合格度が高かった角で、慶喜公が寿命を愛用した根拠でもあろう。
ただし、これだけうっすらと地鉄で芯鉄を覆ったのでは沸が出せない上に、
匂出来の刃紋もまたあまり工夫ができなくて、美麗なものにはならない。
実際、寿命の美術刀剣としての評価は低く、比較的安価に取引されているのもこのためである。
就職したのか。そりゃめでたい^_^
変質者のクソ長い屁理屈の何が思想やら宗教だよ
ここも投げ出していたのかカス
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スレッドタイトル:人間という生き物は醜い(特に外見)