人間という生き物は醜い(特に外見) 東洋的審美眼の真骨頂


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001 2019/05/20(月) 10:37:28 ID:jdOeueAT3E
近ごろ、各地の博物館や刀剣店などを巡って各種の名刀を目にしてるんだが、
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。

心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。

一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。

にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。

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117 2019/08/29(木) 12:05:42 ID:qU6YxvY.sg
尻懸のような古刀期の太刀にしろ、井上真改のような新刀期の打刀にしろ、
ある種の実戦性の高さを追求して用の美をも極めた名刀には違いないのだが、
実はあえて実戦性をないがしろにした名刀というものもまた存在する。

南北朝から室町期にかけて地味に流行していた、1尺〜1尺5寸程度の平造りの小刀。
鎬がないので敵からの斬撃を受け流し辛く、刃こぼれもしやすい。
長さが半端に長いので超接近戦や暗殺のような短刀の用途にも向かない。
にもかかわらずなぜ流行っていたかというと、最上級の斬れ味と絶妙な長さの両立が、
すでに戦死した敵将の斬首や、自分自身が追い詰められた時の自刃用に大変向いていたからである。

これが江戸期以降に規格が厳格化された「脇差」のはしりであるが、
屋内戦闘を想定した鎬造りである場合が多い新刀の脇差と比べても、よりサブウェポン
であることに特化しており、実戦にかけては使って使えないこともない程度の機能しかない。

しかし、これはこれである種の妙味があるし、新刀の脇差以上に無駄を省いた用の美を湛えてもいる。
実戦ではなく、斬首と自刃にこそ用途が特化された、今際の際を象徴する鬼の刑具。

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118 2019/08/29(木) 12:22:56 ID:qU6YxvY.sg
かの有名な妖刀村正にも実はこの平造り脇差の名品が多く(画像も伝村正)、
>117の正利も村正と同じ千子派の系統である。

こういう機能上から斬れ味に優れた刀を専門的に作っていたのだから、業物が多いのも自然なことだが、
そのぶん実戦性に欠けている面もあるので、反徳川の連中が好んで村正ばかりを求めた結果、
かえって戦闘力を目減りさせるようなことがあったとしても自己責任だといえよう。

村正が徳川に害を為したとされる伝説もみな、奇襲や事故や切腹ばかりで、
正々堂々の戦における敗北などは一つも見当たらない。にもかかわらず、
反幕の意図で村正を好むような連中はみなその魂胆の卑しさが透けて見えてるし、
その卑しさゆえに本当の強さを身につけられることもないのである。

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