サムライが、極めて美意識の高い人種だったというのは、
現代人でもなんとなく察していることではある。しかし、
その美意識がどんなものだったかといえば、これは想像がつかない。
もしくは、自分たちが持ち合わせたり知悉しているような美意識を
そのまま極大化させていったような美意識だったのではないかと考える。
分別をかなぐり捨ててまでの自己犠牲だとか、利害を見失ってまでの奴隷的奉仕だとか。
自分たちにとっての美意識の延長線上で考えてしまうものだから、
そんなものばかりを想像する。実際、現代どころか戦前の日本人までもが
そのような思い込みのままでの侍魂の模倣を試み、特攻玉砕で散っていった。
これがまた武士道への曲解を地固めさせる大きな原因にもなってしまっている。
いくら大日本帝国が武士道だの大和魂だのとうそぶいていたのだとしても、
実際問題、明治以降に武家はこの世から絶やされたのである。国を挙げての
価値観の転換による資本主義経済の発展のため、侍ならではの美意識もまた
あえて絶やされた。そこで国威発揚のために喧伝されていた武士道魂なども
全くの形骸でしかなく、本物の武士道を図り知るための参考程度にもならない。
本物の武士道や、そこにあった美意識なんて、なんとなく程度にすら知らないものだと、
現代人は考え直すべき。知ってるから敬遠してるなんていうのですら、勘違いである。
旧日本軍的な人命軽視を忌み嫌ったりするのも、むしろ自己嫌悪でこそある。
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