仏典総合スレ


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001 2012/02/22(水) 17:01:58 ID:F4.5uskZuk
華厳経全訳購入記念。ありそうでなかった仏典スレ。

仏教典籍(仏典)は基本、仏者が読み書きする典籍のことであり、
書き手だけでなく、読み手もまた一人前の出家修行者であることを前提としている。
(ただし、浄土経典などを例外とする)

一般人が仏典を読んで、それで意見を述べたからと言って「仏説」にはならないから、
もちろん仏典のうちにも入らない。おかしな逸話の多い禅僧である一休や良寛の著書が
仏典たり得たとしても、在俗の仏教学者である中村元の著書などは仏典ではあり得ない。

一般人にとって取っ付きづらい書物であるのは当然のことながら、仏典中に文学や思想哲学として極めて
優れたものが多いのも事実であり、漢訳大乗仏典の秀逸さなどは、人類史上でも未曾有のものですらある。
ただの文学としてみても、華厳経典こそは世界最高の文学だし、般若経典こそは世界最大の文学でもある。
中観部の論典こそは世界最高の哲学であるし、唯識部の論典こそは人間にとっての思想の極北でもある。

仮にここで仏典の感想を述べたところで、自分が正式な出家者でない以上は、仏説たり得ないし、
どんなに論及として優れていた所で、仏典の内に新たに組み込まれるようなこともない、ということを
重々承知の上で、何か書きたいことがあった場合に書く程度の、気軽な扱いのスレでよろしく。

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058 2012/03/13(火) 22:52:18 ID:grP8Zq94nU
「華厳経」浄行品第十一(八十巻中十四巻目)読了。

仏道の具体的な実践方法が、在俗から出家後の日々の行いや視覚的な観察、
はたまた大小便時に考えることに至るまで、ことこまかに列記されている。
文殊師利菩薩が智首菩薩からの問いに答える形式で述べられているが、文殊菩薩が
智首菩薩の問いに答えてやるのは、智首菩薩が「世間を哀愍し天人を利楽せんと欲するがために、
最勝無上となる行法を問うたから」だという。儒学道徳の修得に「修身斉家治国平天下」のような
明確かつ正当な目的性が伴っているのと同じように、人が仏道を修めていくことにも、世間をよく哀れみ、
人界や天界に属するような善良な衆生を利楽するという、純正な目的が必要とされているのである。

「婆羅門を見れば 常に願うべし衆生 永く梵行(婆羅門としての浄行)を持して 一切の悪を離れんと」
とあり、沙門宗教である仏教には、俗界の祭司階級に当たるバラモンのお株を奪う気など毛頭ないことが分かる。
日本でいえば宮司、中国でいえば道教の祭司にあたる存在などと仏者が対立したりすることは許されていないわけで、
そのような所業に及ぶ輩は、少なくとも大乗仏教の帰依者には当たらない。(神道の権威を貶める日蓮信者など)

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059 2012/03/13(火) 22:53:45 ID:grP8Zq94nU
バラモンのような俗界の祭司階級との住み分けを明言しているところに及んで、仏教は完全に、
人間社会の統治原理としての役割を元から担わされていたことが分かった。俗界の最高権力者として、栄華を
ほしいままにする君子階級の王侯などには、自分たちだけで中下層の衆生の苦悩などを計り知ることも覚束ない。
多少衆生を監視の対象などにしてみたところで、所詮は桁外れの行為能力を思うがままに扱える非常人としての分際。
衆生の苦しみを観察できたところで、ルサンチマンまみれな衆生から自分の身を守ることばかりが優先対象ともなってしまう。

そこで、自らが乞食も同然の立場にある沙門として、権力者と一般の衆生とを等分な観察の対象にする仏者の存在が、
治世のためのバランサーとしての有効な役割を果たす。結果的にそういった役割をも担っているのではなく、
始めからそういった目的を企図して仏門自体が創立されているのであり、国を挙げての仏法帰依に努められた
平安時代の日本などが、400年間死刑の一つも執行しなくて済むほどの治世に与れたのも、まぐれ当たりなどではない。

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060 2012/03/15(木) 00:10:18 ID:IMS5/S2juo:au
「華厳経」賢首品第十二(八十巻中十四巻目)読了。

「もしも衆生が無限の寿命を欲して、色々な煩悩の業火を燃やすことがあれば、
菩薩は老病死の患いを現じて衆生を調伏する」というようなこともまた書かれてある。
「人はいつかは誰しも死ぬものだが、意外とこれが忘れられがちで、まるで生が限りのないもので
あるかのように勘違いして人は放逸に走る」ということを池波正太郎も「鬼平」で書いてあるが、生老病死らの
四苦八苦にあえぐ運命にある、人としての身の程を衆生にわきまえさせることもまた、菩薩の使命なのだという。

「菩薩は一切世間の技術能力をよくたしなみ、あるいは国王となり大臣となり、良医となり工匠となって、
賈客商人の導者ともなる」とあり、儒者の貴ぶ君子とは違い、菩薩はすこぶる多能ですらあるとされる。
君子も多能であることはあるが、多能であることが君子としての条件などではない。一方で、菩薩が菩薩たる
条件のうちには多能であることが含まれており、このあたり、儒学よりも仏教が融通のきく点だといえる。
ただし、その多能さを身に付けるためにこそ、朱子が「巨石を抱いて水の中に身を投じるが如し」と揶揄した、
常人の域を遥かに超えた厳しい厳しい精進修行へと邁進していくのでもある。

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061 2012/03/15(木) 00:12:23 ID:IMS5/S2juo:au
人界だけでなく、天界の技能なども菩薩は嗜む。仙術や易占などの類いも副学してよしとするのが大乗であり、
ただひたすら仏道にのみ耽って他を顧みないのは、大乗が上座部などに対して「小乗」と批判した論拠でもある。
(ただし、大乗仏教のうちでも禅仏教などは、簡素化によってまた仏道一筋に先祖がえりしている所がある)

「全裸をよしとする外道、邪まな生活をする外道、非法最勝外道、身体を火で焼いたり、
牛や鹿や犬の真似をしたりすることを戒とするような外道を教化する」とあり、やはり異端の邪教邪学は、
菩薩にとっても調伏の対象になるとされる。仏教の観点から見ても、正統とされる教派と異端とされる教派の区別は
やはりあるのであり、バラモン教や神道などは正統とされる一方、上記のような志向を具えた信教は、異端とされるのである。

「人はみないつかは死ぬ(諸行無常)」「原因には必ず相応の結果がある(因果応報)」
この当たりの正法に決定的に相反する教義を具えているのが、仏教にとっての「非法最勝外道」であり、
菩薩や仏にとっても共存共栄の対象などではなく、調伏度脱の対象と見なされるのである。

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062 2012/03/17(土) 00:53:14 ID:6kk9xTbqK6
「華厳経」賢首品第十二の二(八十巻中十五巻目)読了。

「日が世間に昇ろうともめくらには一向に見えないように、大士の光明も邪信・劣解の凡夫には見えもしない」
とあり、やはり華厳思想は、煩悩愚爆の凡夫にすら理解の便宜を図ってやったりしているわけではない、
自利作善の聖道門向けの「頓教」であることが明言されている。如来の悟り得た生のままの絶対真理が、
邪信劣解の凡夫などには理解できないものであるということは浄土信仰でも了解されていることであり、
凡夫には理解も不能な悟りからなる無量光によって、阿弥陀如来が下品下生の衆生までをも救い取るという。
一切衆生を救済するという点では、聖道門も浄土門も変わりはしないが、聖道門が自力作善による救いを
優先したことに対するカウンターバランスの埋め合わせとして、他力本願による救いが浄土門として
提示されたのであり、両方あってこそ初めて、完全なる一切衆生の救済が論理的に確立されるのだといえる。

かの有名な、帝釈天による阿修羅退治の描写があり、帝釈天は手に金剛杵と杖を持ち、兵杖の雨を降らして
阿修羅を降伏するとされる。剣・槍・弓矢といったいかにも攻撃力の高い武具ではなく、むしろ殺傷力を
控えたような武具でもって、阿修羅を退治する。孟子も「仁者は杖一つで秦の堅甲利兵をも討ち取るべし」
といっていて、杖が特に、修羅道や鬼畜道を調伏する武具としてインドでも中国でも持て囃されていることが分かる。

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063 2012/03/17(土) 00:56:21 ID:6kk9xTbqK6
「帝釈天は九十二那由他人の天女を召し抱えていて、その全てが
『天王さまは私独りとだけ楽しんでいる』と思っている」そうな。

出家者の禁欲に関する取り決めが甚だしい一方で、帝釈天や喜見善慧王のような超弩級の一夫多妻制の描写もある。
この世界、この宇宙が陰陽法則に司られている以上、欲望ばかりを貪るよりも、禁欲にもそれなりに努めた上で、
欲望もまた発散させられたなら、その時にこそ最大級の大欲すらもが実現される。そのような、大宇宙の根本法則に即して、
禁欲修行をも是とする仏教が興されているのであり、ただ禁欲ばかりに専らであるのが仏法の本是というわけでもないのである。

中国の気功などでは、とにかく息を吐くことが重視される。息を吐ききれば自然と吸うことも活発化するから、
とにかく息を吐ききることが大事とされる。仏教帰依による禁欲や制欲はこの「息を吐く」ことのようなものであり、
完全に息を吐ききることでこそ、「息を吸う」ことのほうに当たる欲求の発露もまた、健全化される。

大欲を叶えるために、何でも欲望が満たされる環境を整えたりするのではなく、むしろ欲望を控えるのである。
完全に欲望を控えきった先にこそ、適正であるが故に無上なる欲求の発露もまた達成されるのであり、
仏教のような、制欲を是とする教学を拠り所としたところにこそ、無上の欲望もまた満たされるのであるといえる。

虚空の荘厳も豊かな仏教こそは、単なる「知足(老子)」にすら
飽き足らない、大欲を満たし尽くす中での不生不滅をも実現する。

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064 2012/03/17(土) 22:13:56 ID:6kk9xTbqK6
「華厳経」昇須弥山頂品第十三および須弥頂上偈讃品第十四(八十巻中十六巻目)読了。

「若し分別に住すれば 則ち清浄の眼を壊りて 愚痴邪見を増し、永く諸仏を見たてまつらず」
とあり、表層だけの弁別に専らであるなら、仏の悟りからも遠ざかるとされる。これは、
生兵法状態の儒者などにも多々見られる悪癖であり、純正な善悪を論じているにしても、
儒学だけを見れば、それ止まりだと思われても仕方のない志向性の一種であるといえる。

そして、真実慧菩薩が謳う頌の中に「実に於いては真実を見 非実においては不実を見る」とある。

歓喜世界の苦集聖諦(苦しみの因子)に、「非実法」が含まれていることを>>52で引用した。
必ずしも全てが全てそうではないにしても、法治国家たる今の日本において公布されている諸々の
実定法(六法など)もまた、その多くが実罪(他者に危害を加える罪。「大智度論」などを参照)でも
ないような罪を徹底的に摘発することを義務化するなどしている非実法(実に非ざる法)となっている。

徳治主義ではなく、法治主義こそは、表層の分別だけを絶対化する統治理念であり、
「悪法も法である」の論理によって、非実法の厳守すらをも絶対化することを開き直る。
これこそは、仏の悟りから最も遠ざかる志向性なのであり、法文による表層分別の絶対化を危む
徳治主義のほうがまだ、法治主義よりも、仏の悟りから遠ざかりにくいものであることが確かなのである。

立憲主義を含む法治主義こそは、仏法による社会統治と決定的に相容れないものである。だからこそ、
明治期にも、廃仏毀釈によって徹底的に仏教が弾圧された上で、日本でも立憲君主制が敷かれたのであり、
法家の有用性をそれなりに認めている儒家以上にも、仏教こそは、法治主義と併存することが全くの不能で
あるが故に、法治主義の公布に及んで、社会規範としての実権を全面的に剥奪されるしかなかったのである。

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065 2012/03/19(月) 14:31:13 ID:svDWqZ9mYk:au
「華厳経」十住品第十五(八十巻中十六巻目)読了。

「菩薩は是処非処、善悪の業報、諸根の勝劣、種々の解の差別、
一切至処道、諸禅解脱三昧、宿命無碍、三世漏普尽の智法を縁して心を発す」とあり、
表層的な分別が悟りから遠ざかる原因になるとしながらも、菩薩については、精進修行によって
絶対真理に根ざした根本的な是非善悪やその業報、勝劣などの差別智を得るという。


「分別」が「恣意による決め付け」という意味で仏典では用いられている一方、
「差別」が「絶対真理に根ざした普遍的な別個化」という意味で用いられているようで、
このあたり、現代における「分別」や「差別」といった言葉の用い方とは逆転しているといえる。

仏を「法王」という王に対比するならば、その王子たる菩薩は、王たる仏に「宴寝」を教わるという。
宴寝とは、「昼間には理由もなく酒を飲まず、夜には理由もなく外で寝ない」ことを意味し、
王が昼夜の区別をよく保つことを王子が教わるという意味だといえる。もちろん聖道門の出家修行者は
飲酒も禁止となるが、仏と菩薩を仮に王と王子に喩えるなら、そういう風になるという意味で、
ある意味、仏門が在俗の信者などに対しては飲酒も認めている証拠的な描写になっている。
ただ、その飲み方が上記のような、節度を保った飲み方であることを在俗者にも勧めているわけで、
人々が昼となく夜となく人工的な酩酊に耽ることを、仏門もまた決して奨励してはいないのだといえる。

昼から酒を飲むことや、夜に理由もなく出歩くことを戒めていれば、自然と飲酒運転などもなくなる。
仕事仲間や友人同士で飲み交わすことは放任しておいて、飲酒運転だけは徹底的に取り締まる
というのも実質性に欠けることで、一般人に余計な交通費を嵩ませる原因にもなる。じゃあ飲酒運転を
是認すればいいのかといえば、そうでもない。飲酒運転をしなければならなくなるような事態を、始めから
なくしていくようにすればいい。それでこそ、世の中に対する、非実法ではない正法の布令にもなるといえる。

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066 2012/03/19(月) 16:27:03 ID:svDWqZ9mYk:au
夜に児童は出歩かないようにさせて、昼は大人でも酒を飲まないようにさせれば、
飲酒運転の車が通学中の児童に突っ込んで多数を死傷させるようなこともなくなるわな。

仏法帰依が行き届いた世の中では、始めからそんな現象からして発生し得ない。

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067 2012/03/20(火) 06:11:35 ID:IcDnvdwrJY
068 2012/03/20(火) 22:52:19 ID:MoelRo85/Q
「華厳経」梵行品第十六および初発心功徳品第十七(八十巻中十七巻目)読了。

本品は長大だが、内容は至って明瞭かつリズミカルで読み進みやすかった。
似たような文体による多様な金言の繰り返しが、リズムを取りつつ内容を理解していくことを助けてくれる。
お経の読誦など単調なイメージがあるが、本来、仏教は非常に音律を大切にした教学であったことが分かる。
すでに楽経が絶えている儒家以上にも、経典を読むだけでそこに一種の音律が備わっていることが分かる。

「菩薩が阿耨多羅三藐三菩提の心を発した心意気はこれほどにも大きい」ということが、
比較対象を多数引き合いに出しつつ示される。比較対象となる功徳もそれなりに良質なものばかりで、
にもかかわらず菩薩は、それ以上もの功徳を志しているのだと述べられる。菩薩自身の為す功徳に関しては
むしろ描写が簡素であり、それによって「菩薩の功徳は何ものにも増して重畳である」ということを示している。
仏教全般が、現象界における具体的な善行の提示に乏しいのも、具体的な善行にかけては、時代によって流転していく
社会規範に併せて、さらにその上を行くことに特化しているからで、だからこそたとえば、科学文明が発達した
現代社会に対して仏道を適用することで、功徳にかけてさらにその上を行くということが、必ず可能となるのである。
そのための心構えないし心意気を唯心主義たる仏教は蓄えているのであって、心という根本の部分の徹底的な精進に
取り組んでいればこそ、末節に当たるモノの領域にかけて、モノに囚われている場合以上の功徳が必ず実現できるのである。

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069 2012/03/20(火) 23:01:11 ID:MoelRo85/Q
仏教が一般に理解し難いものであるのは、民間の産業従事者などにとって、自らの価値観を司るほぼ全てである
「モノ」についての論及が極めて乏しく、そのくせして膨大な文言をも湛えているからだ。その、膨大な文言の
言わんとするところは偏に、「心」の精進についてでこそある。「たかが心など」と、心無き現代人の多くは、
仏法の内実がそうであることを見くびるのでもあるが、仏道修行によって心田を耕すことに努めた人間というのは必ず、
モノばかりに囚われた状態のままで何もかもを為している人間以上にも、より多くの現実的な功徳をも積むことができる。

モノに囚われて何もかもを為す以前に、まずモノを扱う自分自身の心をよく養い修める。そのための手段をモノに
頼るようなことすらせず、心によって直接心を修養する。その体系化が仏教なものだから、常日ごろからモノの扱い方を
第一に考えている一般人(特に民間人)には、心によって心を養う、仏教の理解がちんぷんかんぷんとなってしまう。

仮に仏門に帰依してみたところで、在俗信者の、しかも民間人であったりするのなら、相変わらず自分がする仕事は
モノに関わることばかりであり続ける。だからといって「唯心主義の仏教など無駄だ」などと思わず、仏教帰依によって
心の豊かさを養いつつ、自らの生業にも励んでいくようにすればいいのであり、さすれば、心の余裕と共に仕事に打ち込むことが、
自らの仕事をより良質なものへと昇華させる機縁ともなるのである。江戸時代までの日本人が仏教帰依にも敬虔であったからこそ、
その末裔である近現代の日本人もまた、先祖から受け継がれた心の豊かさを糧に、激動の時代を生き抜いて来られたのでもある。

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070 2012/03/22(木) 22:47:12 ID:gbpa6Mlapc:au
「華厳経」明法品第十八(八十巻中十八巻目)読了。

「菩薩は諸行無常、諸法因果、涅槃寂静、諸行皆苦の法印を知りながら心に奇著なく」といい、
「四無所畏(一切智、漏尽、説障道、説尽苦道の四つを恐れないこと)を出生して清浄ならしむ」という。
四つの法印はどれも有名だが、異義異論を差し挟むことなく、絶対真理としてよくわきまえている者となると、
極端にその数が減る。そのため、諸行無常へのわきまえのなさと共に、一切智の万能感を得たニヒリストが、
自分に酔い過ぎた挙句に発狂してしまったりするし、諸行皆苦のわきまえのないウレシがりの人間が、
耳には痛くとも、結果的には苦を減らすことに繋がる、辛い問題に関する議論(説障道)や、進んで労苦に
励んでいくことに関する議論(説尽苦道)などを嫌がって、耳を傾けなくなるようなことが起きるわけである。

中盤に「六和敬の法を修習す」という風にあるが、「和敬」とは「事業を共にすることで和合すること」と注釈にある。
「六和敬」とは行事を同じくする身和敬、口調を同じくする口和敬、意志を同じくする意和敬、戒行を同じくする戒和敬、
見解を同じくする見和敬、利益を同じくする利和敬の六つをいう。事業を同じくする者同士の理念としていま有名なのが、
かの「友愛」だが、明らかに友愛よりも和敬のほうが、字面からして、事業を同じくする者同士の理念としても相応しい。
(修行仲間も「善知識」と呼んだりと、仏門では友人関係を否認する傾向が多々見られる。友人関係こそは社会関係でしかない
人間関係として他人同士に次ぐ者であるから、超俗志向を明らめるためにも、友好という関係性は排除しているのである)

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071 2012/03/22(木) 22:47:43 ID:gbpa6Mlapc:au
「般若波羅蜜自在なるが故に所説の法相は違背せず」と、般若思想の有意義さが的確かつ簡潔に喝破されている。
「俺はこう思う」「いやいや俺はああだと思う」などと、「〜である」という主張を我を張って言い争えば、意見が
相反する場合に正面衝突して、もはや議論の余地もなくなってしまう。それ以前に、「〜ではない」「〜ではないでもない」
といった「〜ない」の重畳をやり尽くした心境でいたなら、意見が衝突し合う以前にどこまでも議論を掘り下げていける。
否定の重畳の先に一切皆空へと至った般若波羅蜜自在の菩薩ともなれば、必ず所説の法相が違背したりしないところまで
議論を掘り下げつくせる。故に、意見の衝突で議論の余地がなくなって、暴力での争いに発展したりすることもなくなるのである。

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072 2012/03/24(土) 22:39:40 ID:x1ogUBilWc
「華厳経」昇夜摩天宮品第十九および夜摩宮中偈讃品第二十、十行品第二十一の一(八十巻中二十巻目)読了。
漢訳華厳経は分量にばらつきがある各品を、適当な分量ずつで八十巻にぶった切っているので、
巻数と品数の整合性がかなり錯綜している。品分けでいえば不自然なものの、分量的には、一巻ずつ
読み進んで行ったほうが明らかに読みやすく、仏典が「出家修行者の参考書」としてより扱いやすいように
整理を行き届けられてきたことが分かる。このあたり、ただ読むためだけに書かれた文芸書や論文など
にはない便宜で、修行の実践者に対するマニュアルとしての配慮が行き届いているのだといえる。

夜摩宮中偈讃品に「世間は妄に分別す」とあり、なおかつ十行品に「仏の法は世間の法に異ならず、
世間の法は仏の法に異ならず、仏の法と世間の法と雑乱有ることなくまた差別なし」とある。
その心は、衆生はそれぞれに適当な分別を決め込むものの、それはどこまでも迷妄の範囲内である一方、
菩薩は般若波蜜多などによって絶対真理に辿りつき、真理に根ざした絶対的な「仏の法」を悟る、
けれどもそれは結局、世間で最も純正な理法に合致するものであり、たとえその理法を定立するにしても、
衆生ならばただ迷妄によって定立するしかないものの、菩薩は昭らかな悟りによって定立するということである。

世間法としては結局のところ、四書五経にあるような儒学上の道徳律が、仏法ともよく合致している。
しかし、世人や生兵法の儒者などが儒学道徳を定立したところで、やはり新旧約聖書の邪義を定立する場合などと
同じように、単なる迷妄の範囲内で定立することにしかならない。しかし、仏者が絶対真理としての仏法を
悟り得たとき、仏法が純正な世間法たる儒学道徳などとも等価なものであることを大悟するが故に、
仏者の立場から純正な世間法を定立したとき、それは迷妄ではなく悟りによって定立することになるのである。

世人の分別は、たまたま仏法にすら合致する世間法に基づく分別であったところで、やはり迷妄に依る一方、
仏者の分別は、悟り得た仏法と合致する世間法に基づく分別である場合に限るので、迷妄には依らないのである。

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073 2012/03/24(土) 22:40:08 ID:x1ogUBilWc
「譬えば算数の法は 一を増して無量に至るも 数法には体性無きが如く、智慧の故に差別す」といい、
これもまた「世間は妄に分別す」という内だという。「1+1は2だ」という正気の判断と、「1+1は3にも4にもなる」
という狂気の判断と、いずれもが世間の範囲内では迷妄な分別のうちである。しかし、仏の悟りに基づいて
「1+1は2だ」というとき、あるいは「1+1は3にも4にもなる」というとき、確かにそれは悟りに根ざしている。
どちらを仏が是とするとも知れないが、仏によってこそ判断されるとき、それは迷妄な分別とはならないのである。

「菩薩は飢餓にあえぐものに身肉をも呈する」という。どこかで聞いたことがあるような教義だが、
そのために菩薩が取り組むのは出家修行であり、冤罪で重罪人の代わりに刑死してやったりすることではない。
自らが貧窮の苦しみを乗り越えることで、過度の富裕にある者には貧窮への恐怖を取り払わせ、貧窮への恐怖を
取り払った過度の富裕者の散財を通じて、貧窮者にもまた財を恵むという、因果律に根ざした貧窮の根絶が実現できる。

菩薩は、それはそれは酷い邪説暴言にまで耳を傾ける忍辱行に挑み、それでいて動じず、かえって自らの
比較的な清浄さからなる歓喜を抱き、その歓喜によって衆生にも仏法への帰依を好き好ませるのだという。

「ニートでも、重権力犯罪者であるおまえらよりはまだマシだ」という、かの偉大なる現世調伏の悟りもまた、
着実に菩薩行の根本原理には根ざしていたのであり、ただ、仏法への本格的帰依が実質的な禁止状態に置かれている
現代という非常事態に際して、出家修行のような純正な菩薩行によってそれが実現されるということもなかった。

親鸞聖人の主著「教行信証」でも、浄土経と華厳経の比較査読がつとに顕著であり、華厳経に記されているような出家修行を
前提とした菩薩行が、他力本願の俗人によっていかに為し得るかということが、よく考え抜かれていたことが確かである。
そこにこそ、善因楽果悪因苦果の罪福異熟を材料とした、悪人正機説の定立もまたあったのであり、悪人正機説によって、
仏法帰依も絶えた末世における、菩薩行による場合と同等の調伏を用意していたこともまた、確信的なことなのである。

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074 2012/03/27(火) 22:22:05 ID:eQVz7MoHTE
「華厳経」十行品第二十一の二(八十巻中二十巻目)読了。

後半の偈頌に「一切の諸有諸趣を見て其の心に分別せず」とあり、「所行所作も戯論を超える」とある。
そう至る過程は経中に延々と謳い尽くされているが、実際に読み通してみれば漠然とでも、
菩薩がなぜそのような境地に至るのかが、ただの読者なりに察せられるところがある。

仏道は、ただ一心不乱に、傍観も戯れも置き去りにし去るほどもの、純善一筋である。

儒者のように「君子と小人」「仁と不仁」などといった分別を利かせているとき、本人は、分別した両者を傍観している。
傍観しているぶんだけ遊びができて、その遊びが戯論を呼び込む原因ともなってしまう。儒者はそのような遊びを
君子としての業務によって埋め合わせようとする一方、道術者はそもそもそのような分別から遠ざかって済ませようとする。

一方で仏者は、分別を語る語らない以前に、自らが純善たる存在であることに特化する。
そうであることに努める方法は華厳経にも延々と書かれてある通りだが、自らが純善たる存在となった結果、
戯論を控えるために分別を語らないこともあれば、必要に駆られた場合に語ることもある。

善悪の傍観による遊びの発生という儒家の欠点と、
隠退に専らであるが故に怠惰に過ぎるという道家の欠点を、
仏教は同時に克服して、断悪修善であることにかけても究極の境地に至っている。

積極性に特化する儒家の長所を伸ばして短所を省き、消極性に特化する道家の長所も伸ばして短所も省く、
単なる道理思想止まりである儒家や道家のあり方も、最も最適化された形で仏家は包摂している。
それと引き換えに、実践上の出家修行という、儒家にも道家にもない荒行をも自力仏教は大前提としている。

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075 2012/03/27(火) 22:51:59 ID:eQVz7MoHTE
[YouTubeで再生]
あんまりうまい言葉で説明し尽くす自信もないんだが、
仏教は、武道でいうところの「裏」を取っている。

「表」としての社会情報や自然情報を語り通し唄い通すことに儒家は特化しているし、
仏教と同じ超俗主義を標榜しながらも、道家もまた「表のための裏」を追求することに止まっている。
すなわち、世のため人のために無為自然がいかに必要かということを、見抜くことに特化している。

仏教は、ほとんど専ら「裏」の探求である。
社会や自然といった現象を表とするところの裏、その裏と表を総合したところの絶対真理。
表のことは俗人たちがせっせとやってくれるから、仏門はそんなに専らに探求したりはしないが、
自分たちでは裏を探求しぬいて、世俗の表情報もそれなりに見る対象ぐらいにはして、
結果として、裏表の合まった絶対真理に即した言葉を、裏についても表についても語れる。

表側の人間には、表のことは分かっても、裏のことは分からない。
一方で裏側の人間には、裏のことも分かって、表のこともまた全て分かる。

裏の探求の開発の記録として、仏典も膨大な分量が編集されているが、
その全てが全て、裏の開発にまつわる記録だから、表側の俗人には、全く以って理解し難い。

それでいて別に、仏典は不健全なことを記録しているわけでもなく、むしろ表側の人間の壮健さこそを
増進するようなことばかりが書かれている。裏からの補強によって、表社会がより繁栄できるように
なるようなことこそが、特に大乗経典には専門的に書かれているわけで、だからこそ裏に関する
記録でありながら、表社会にも大々的に公表できるような記録ばかりとなっているのである。

下手に表に公表することもできない、表を貶めるための裏の悪用法の記録などは、実際に表には出されもしない。
そして、そのような裏の悪用法を降伏する手段もまた、仏典のほうには書かれているのである。

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076 2012/03/29(木) 18:28:08 ID:kuY9HmlI9I
「華厳経」十無尽蔵品第二十二(八十巻中二十二巻目)読了。

いわゆる「無為の法」とされるもののうちに「数縁滅」「非数縁滅」というものが含まれるという。
それぞれ「pratisarilkhyanirodha」「Apratisamkhyanirodha」の訳で、「択滅」「非択滅」とも訳される。
むしろ「択滅」「非択滅」のほうが訳語としては有名で、自分もこちらの訳語だけを知っていたが、「数縁滅」「非数縁滅」
という訳語のほうが、数にひどく囚われている現代人にはかえって意味を察しやすいのではないかと思う。

数縁滅には、善でも悪でもない知恵にまつわる法、数理や物理や形而上学やその他の概念論が含まれ得る。
といっても知恵の法が必ずしも数縁滅なのではなく、知恵を勧善懲悪や断悪修善に利用する方法が数縁滅になる。
一方で、非数縁滅はもはや知恵の法ではない。善因楽果悪因苦果の罪福異熟が、本性清浄の理に根ざして、
概念的、数的な智恵をも超えたところで結実する法則を非数縁滅としている。

非数縁滅を悟るところがあって初めて、諸々の概念的な知恵の法のうちの何が数縁滅で、何が数縁滅でないのかも分かる。

儒学を始めとする中国思想は、非数縁滅をあまり深くは探求しない。しかし、易学などを通じてその肝要を大まかに
計り知った上で、数縁滅に当たる法則を探求し、実践の対象ともした。ただ、非数縁滅の探求のほうが非常に簡易なままで
あり続けたから、数縁滅の探求もまた、政治思想などの限定された領域に止まることとなってしまった。

数縁滅に相当するものは、古来からの西洋哲学や西洋思想でも探求しようと試みられたことはある。しかし、非数縁滅に
関してはほとんど探究されたことすらなく、そのため数縁滅の探求もまた、間違いの羅列ばかりであり続けてきた。
そのため数縁滅と非数縁滅があいまうことで生ずる縁起もまた、善思善言善行の原動力になることもなかった。

非数縁滅、非択滅に関する探求は、大乗仏教全般の内では唯識思想が主に司っている。
それこそ、華厳や法華や中観などよりもずっと以前に、まず勉強すべき大乗仏教の基本中の基本であり、
より高度な修学に及ぶにあたっても、初心として忘るべからざるべきものとして扱われてきたものである。
(弘法大師も十住心論で、識見の高低を十住心のランク分けの基準に用いられてもいる)

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077 2012/03/29(木) 18:34:43 ID:vSgLj0KRn6
>>76
何?この表面的な理解は..

こんな事して意味あるの?時間の無駄だろ

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078 2012/03/29(木) 19:23:21 ID:wyf2sPeAj.:au
そんなに都合の悪いことを書いてあるか?
なるべく現代人としての、平易な仏典理解に努めようとしているだけなのに。

>>76は、古くから大乗仏教に帰依して来た日本人の一人として、
洋学の心理的な手法が甚だ馴染みにくい一方で、仏教や儒学の手法は、
別に深く勉強もしていない内から馴染みやすく感じられてきた、
その理由が分かって、深く納得させられる心持ちで書いた。

仏教などに深く傾倒して来た歴史もない外人や、日本人であっても、
仏教帰依を自ら拒絶して来た秦系部落所属者などには、
何も共感できる所がないから、表面的な理解にしか見えなかったかもしれないが。

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079 2012/03/29(木) 21:59:07 ID:kuY9HmlI9I
「華厳経」昇兜率天宮品第二十三(八十巻中二十二巻目)読了。
>>76の十無尽蔵品第二十二は(八十巻中二十一巻目)の誤り。

華厳経は、ただの煩悩愚縛の凡夫としての立場からでも、一品に付き二、三語ぐらいはグッと来るものがある。
その語によって「一を聞いて十を知る」とまでは行かずとも、一を聞いて三、四を知るぐらいのことはできる。
本当にちゃんと出家修行を積んだ坊さんであれば、それこそお経の全文に対してですら、それほど以上もの納得があるはず。
「一々の毛孔に無数の如来あり」という華厳経の決まり文句も、そういったことを指し示しているのである。

たとえば本品では、「悉く能く衆生の善根を観察して清浄の業報を壊滅せず」というのがカチッときた。
やはり仏門は超俗としての立場から、世俗の衆生への善業の促しを取り仕切っていくことを本旨としている。
それは、在俗信者が俗人なりの自力作善に努める場合と、完全な他力本願となる場合の、両方を包摂している。
そうであることを簡潔に言い表しているのが上記の語であり、華厳経自体は自力作善向けの経典ではあるにしろ、
他力本願状態の衆生に対してですら、清浄の業報を壊滅させないための便宜を図ることを認めているのである。

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080 2012/03/29(木) 21:59:27 ID:kuY9HmlI9I
「一切の衆生は業の所繋に随いて永く生死に眠る、如来出世して能く之を覚悟して其の心を安慰にして憂怖無からしむ」
という部分を読んで、思わずニヤッとした。衆生ごときは生きようが死のうが、輪廻の業に囚われたままでいる、
何ら刮目するところのない惰眠者の群れだという。またそうであるからこそ個体の死を極度に怖れ、生きる限りに
おいても極度の苦楽という悩乱に苛まれる。それら一切が、真の覚醒たる仏の悟りによって一掃され、生死を超えた安楽へと導かれる。

まるで、覚せい剤の効能のようでもあるが、もちろん仏門は麻薬も服用せず、聖道門なら飲酒すら御法度である。それでいて仏門は、
老い先短い老人にすら、真の安楽を幾度となく授けてきたのであり、全くのシラフでありながら、副作用のない安楽を提供する。
華厳経における法界の荘厳も、妙香・妙音・妙光と、シラフの人間の健全な安楽を促進するようなものばかりで、
特に妙香は御香などの形で実際に仏門でも用いられている。酒や麻薬による荘厳などを、たとえ比ゆとしてでも用いないのは、
ただ仏門でそれらが禁忌とされているからなだけでなく、実際に酒や麻薬以上もの、真の安楽を仏法が提供することを目的としているからだ。

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081 2012/03/30(金) 11:42:16 ID:Hj4YmwzlAU:au
中国にも当然、仏教は渡来したが、儒学のほうが国教も同然の扱いを受けて来たことから、
相対的に仏教帰依の頻度が、日本や東南アジアの仏教国などと比べると低いものであり続けた。
(そのため簡素化された仏教宗派としての禅宗が興隆しもした)

するとどうなったかといって、君子階級と小人階級との間に、極端な民度の格差が生じた。

洋学のように「全くの不能」ではないにしろ、易学もまた、
非数縁滅を詰めて把捉していけるだけの精密さは持たない。
そのため数縁滅にまつわる方法論(儒学)のほうが、権力道徳のような極めてマクロな領域においてしか磐石化しない。

易学の民間人向けの簡易利用である易占が、
甚だ信用のならないものであることにかけては定評があるように、
雑多で微細な業務を仕事とする小人階級の民間人には、全体的に
大雑把すぎる易学による縁起の善良化などが、ほとんど期待できない。

そのため仏教以上にも儒学が偏重されて来た中国では、
君子階級の出身者は極めて優秀である一方、小人階級の出身者は
禽獣も同然の民度しか持たないという格差問題が生じてしまった。

一方で、儒学が国教としてまでは扱われなかった日本などでは、
非数縁滅の法則までをも精密に捉え抜いた坊さんが、民間人に対する教化までをもよくやり抜いたため、
仏教帰依を自ら拒絶していた秦人系の部落所属者などを除くほとんどの民間人に対して、
善良な性格や、良質な仕事を行う能力を潤沢に備わらせたのだった。
(寺子屋教育を通じて、江戸時代の日本の民間人の識字率も、
世界でも抜群の水準まで向上した)

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082 2012/03/30(金) 14:42:03 ID:Hj4YmwzlAU:au
特に、日本のロボット産業の隆盛が、昔からの仏教帰依による民の教化の産物としては顕著だといえる。

数多の中国製品や韓国製品なども、今でもやはり日本の製造機械に頼る所が大きい。
ただ理工学の教育が行き届いているというだけでなく、理工学の知識を実物の生産面において、
欧米人以上にも巧みに駆使することを、日本人は為し得た。
それは、一つには武士による民の徳化があった一方で、さらにそこに、
仏者にもよる有機的な精神教育が民に施されたからである所が大きい。

明王や天王などの尊格の造形も、それはそれは細緻なものであり、
それこそロボットの造形などにも応用したくなる気持ちを駆り立てさせる。

「法輪」や「転輪」といった形で円転の理を仏教は非常に貴んでいるから、
歯車やドリルやファンといった回転構造を駆使する工業技術とも、趣きがすり合わせやすい。

しかも仏教帰依には安楽が伴っているから、異教徒が苦痛がって放り出してしまうほどにも
複雑怪奇な機械構造の設計や製作にも、ある種の楽しみすらをも抱きつつ、臨めるのである。

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083 2012/04/01(日) 20:23:48 ID:2TROe0ZqyA
「華厳経」兜率宮中偈讃品第二十四(八十巻中二十三巻目)読了。

「三世の諸々の衆生は 悉く其の数を知るべくとも 如来の示現する所は 其の数を得べからず、
或る時は一二 乃至無量の身を示して 普く十方の刹に現ずるも 其の実は二種無し、譬えば
浄満月の 普く一切の水に現じて 影像は無量なりと雖も 本の月は未だ曾て二ならざるが如し」

禅の公案でもよく取り上げられる、「水に映る月」という比喩。これが例えば、
華厳思想における釈迦牟尼仏と毘盧遮那仏の同一性、密教における大日如来と毘盧遮那如来の同一性、
本地垂迹における日本神話の神々と、仏教上の尊格の同一性などを確証する論拠ともなっている。

ムスリムが、異教でありながら、仏教に関しては例外的に承認の対象とするのも、ただ聖道門の戒律が厳格で
あるだけでなく、その根本に、多神教的な世界観が方便であることを認めているところがあるからだといえる。
(ヒンズー教も「化身」として諸神の同一性を主張する場合があるが、「全ての神は根本を一にする」
という所までは同一化が徹底的ではないから、イスラム教徒などに否認の対象とされる場合が多い)

なぜ、本体を同じくする如来が様々な形をとって現れるかという疑問には、よく言われる
「山の頂上は同じでも、頂上に至る道は様々である」という比喩を基にするのが分かりやすい。
頂上は同じでも、様々ある頂上への山道のいずれを選択するかで、そこに現れる如来も多様化するのである。

「乾屎橛(かんしけつ. 糞かきベラ)すら仏である」という禅問答もある通り、何でも仏ではあり得る。
人類史上最悪の邪教である聖書教ですら、悟りに至る手段に絶対になり得ないなんてはずはない。ただ、
そのためには模範の対象とするのではなく、完全な反面教師とするのが適切である点が、特殊なだけだ。

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084 2012/04/01(日) 20:56:56 ID:2TROe0ZqyA
「我は難思なるを以て 心業の能く取ることなきが如く 仏の難思なるもまた爾り 心業の現ずる所にあらず」

現象構造として難易度を極めたものの考え方が、心の有り様すべてを把握できるなんていことはない。
他人の心はともかく、自分の心を自分が思考によって捉えきるということは、ヘビが尻尾から自分の身体を
食い尽くすことが不可能であるのと同じように、不可能なこと。どうしても心業を捉え尽くすためには、
言語思考を絶した、不可思不可説の域に立ち入る必要がある。仏の悟りもまたそこにこそあるのであり、
言葉として、思考として現出するものだけをどうにかしようとするのでは、決して悟りに至ることはない。

その、言語道断の境地を尊べるかどうかで、仏教に対する理解、仏教への評価もガラリと変わる。尊べない限りに
おいて理解もできず、何の価値も見出せない一方、尊べたなら理解もできて、そこに無上の価値までもが見出せる。

今の日本や西洋などの大学機構のほとんどは、可思可説の領域だけを専門的な研究の対象としているため、
そこで勉強に努めれば努めるほど、より仏教の価値が分からなくなるという致命的な問題を抱えてもいる。
東大生だからといって、人並み以上に仏教の価値が分かるなんてこともなく、むしろ余計に分からなかったりする。
仏教だけでなく儒学なども、不可思不可説なる言語道断の域に尊ぶべきものを持っているから、やはり洋学系の
大学で勉強に励んだからといって、より理解できるようになったり、その価値が計り知れるようになったりもしない。

洋学者で初めて難思の限界を察したのは、おそらく不確定性原理を発見したハイゼンベルクあたりかと思われる。
不完全性定理を発見したゲーデルあたりがそれに次ぐだろうが、いずれも難思の限界を察したことを
否定的に捉えており、ゲーデルに至っては神経症を来たして餓死してもいる。可思可説の領域を全てとする
洋学者の立場からは、難思の限界の存在が絶望的に映ったのだろうが、仏教は元から、言語道断の領域の実在を
肯定的に捉え、不可思議なる仏の悟りこそを素晴らしさこの上ないものとして、荘厳の対象ともして来たのである。

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085 2012/04/02(月) 23:04:57 ID:PpQlMS46bE:au
「華厳経」十回向品第二十五の一(八十巻中二十三巻目)読了。

「仏子よ、汝当に仏の威神の力を承けて此の法を学ぶべし。〜過失無き浄法を集めんが故に」
仏法を学ぶことが、諸々の雑多な浄法を収集することをも目的とすべきだという。それでいて、
「大士は〜悉く以って衆生を益して 難思の無上智に住せしめん」ともあり、言語思考を絶する
非数縁滅の探求とはまた別に、数縁滅に基づく「難思の無上智」もまた、仏菩薩は醸成せしめるのである。
ということはつまり、仏門においては洋学などの雑学知識を参考に「過失無き浄法」を収集して、
「難思の無上知」を精製せしめることもまた、正統な活動の内に入れられるのである。

弘法大師も、土木工事や山師としての仕事にも従事していたし、江戸時代までのお寺といえば、
仏教知識に限らない、諸々の実学知識の所蔵庫でもあった。坊さんも完全に、今でいうところの正規の学者や
教師のような役割を果たしていたのであり、仏教といえば仏道修行か、葬式などの仏事以外には何もやることが
ないとされている今のほうが、>>60の引用のような記述もある、仏典の実践からも乖離してしまっている。

「異端を攻むるはこれ害あるのみ(為政第二・一六)」とする儒学と比べても、大乗仏教の異学異教に対する
姿勢は明らかに、より寛容である。にもかかわらず、明治期には廃仏毀釈によって徹底的に仏門が弾圧されて、
本格的な修習がもはや禁忌も同然の扱いとされた一方、儒学のほうは徳育教育などとして一応のところ保全された。

これは何故かといって、江戸時代までは禁教禁学扱いだった洋学や聖書信仰が解禁されて、全くの無整理なままに、
とにかく洋学などの知識を国を挙げて取り入れようとしたからで、「過失無き浄法」こそを集めることを目的とする
仏教の実践との併存が全くの不能と化してしまったからだ。儒学のほうはまだ、その内容がごく当たり前な人間学で
あるのと、儒学を学校教育に取り入れることを切望された明治天皇のご意向とがあって、洋学とは別個の学として
保全もされたわけだが、仏教のほうはそうもいかず、正規教育の場からは完全に撤退せざるを得なくなったのだった。

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086 2012/04/02(月) 23:05:41 ID:PpQlMS46bE:au
しかし、もはや洋学知識の取り入れは十二分となり、聖書信仰も人類史上最悪の邪教であることが完全に
判明したわけだから、日本の教育機関も聖書教を禁教扱いとして、仏門のペースに根ざした洋学知識からの
「過失無き浄法」の収集、それによる「難思の無上智」の精製を開始すべきである。東大も慶大もお寺に
してしまい、そこで洋学知識の善用に関する研究も行う。研究者は元大学教授などの、正式な出家得度をした
坊さんであり、仏戒の厳守という十分な実践修養と共に、洋学知識の善用研究にも務めていくのである。
(京大なら著名な寺院が近隣に多数あるから、それらの寺院の下位組織になるだけでも十分だ)

洋学知識の善用研究を仏道に根ざして行うのなら、東大生などが今までに溜め込んできた洋学知識も全くの無駄には
ならない。しかし、洋学知識をやたらめったらに収集してきただけの、今までの研究姿勢は完全に改める必要がある。

「菩薩摩訶薩は親友にあらざるものに於いて守護し回向して、其の親友と等しくして差別なし。〜
衆生に於いて一念も親友にあらずとの想いを起こさず」といい、特定のギルド(商工組合)からの支援が旺盛で
あった関係などから、洋学者にはつとに顕著な、友人知り合いをえり好みする性格は完全に捨てなければならない。

自分を怨み害しようとする相手を含む、全ての衆生を救済の対象とすることを誓い、決して誰一人として見捨てる
対象としてはならない。そしてその決意を二度と捨ててはならず、その目的の達成のためには、自分自身の
あらゆる享楽すらをも捨て去って、ただ衆生を利楽せしめんことにのみ一生涯、専念していかねばならない。
(というようなことが、十回向品第二十五の一にも相当に書き連ねられている)

それができないというのなら、仏道に根ざした洋学知識の善用研究には手出しをすべきでない。戒律などない
儒学に根ざした洋学の善用研究なら、もう少しハードルが下がるが、そのぶんだけ研究の仕方も大雑把になる。
仏道にも儒学にも何にも根ざさない、洋学のための洋学研究というのは、もう聖書信仰並みの禁忌扱いとなる。

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087 2012/04/03(火) 15:37:44 ID:LBdt7MW74g:au
東大生を始めとする高学歴者には、「向上心」がない。

別に、自分が聖人君子として大成するためでもなく、
ただできる限り金銭的な虚栄を誇りたいあまりに、猛勉強を志したというばかりの存在だから、
自分自身の栄華はかなぐり捨てて、ただひたすら仁者としての向上を志していく
菩薩行に向いているか向いていないかでいえば、当然、向いてないほうだといえる。

まだ自らの栄華と、世の中の繁栄とを両立させようとする儒者のほうが、
自己利益を絶対的なものとしてきた立場からも、共感できる所があるだろう。

いずれにしろ、今の世の高学歴者が自らの性格に基づいて、
仏道や儒道を邁進していくことが適しているなんてことは決してなく、
むしろ人並み以上にも自己利益を第一として来た分だけ、
より儒仏を志し難い心理構造にすらなってしまっているといえる。

それでいて尚、高学歴者にも仏道らを志す素養があるとすれば、それは、
「亜数縁滅」にまつわる知識の、人並み以上の豊富さだといえる。

その、亜数縁滅にまつわる知識とて、非数縁滅のわきまえを全く欠いたままのものなのだから、
(だから「数縁滅」ではなく「亜数縁滅」止まりである)
今の知識の豊富さだけを以て、自らが人並み以上の存在だなどと偉ぶることも許されない。

数縁滅の知識に非数縁滅のわきまえが伴って初めて、畏敬されるに値する僧侶ともなれるが、
そのためにはやはり、厳しい仏道修行を果たしていく必要がある。
(他力本願で無戒律の浄土教は、無上知を志したりもしない)

元東大教授や東大生だからといって、「絶対に出家しろ」なんてことは言わない。
ただ、あまりにも常人離れした立場に置かれ続けて来たせいで、
外野に放たれてもろくに自活していく目処も立たず、挙句には被差別部落すら
形成してしまい兼ねないというのなら、その代わりにでも、出家すべきだと言える。

今までの悪逆非道の数々も、
比丘二百五十戒・比丘尼三百四十八戒の終身厳守によって
あがなうというのなら、誰も文句は言うまい。

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088 2012/04/05(木) 19:34:16 ID:5HK6sNsYiM:au
そこそこ読み進んで来たけど、やっぱり聖道門の経典は、
俗人である自分には敷居が高すぎるなと思う。

四書五経を読んでいる場合などにはない、
出家修行者を相手取ることを前提としているが故の
読者にかける多大な心労みたいなものが備わっている。
四書五経だって、読むのが辛い人間には辛いんだろうが、
四書五経ぐらいは難なく読みこなせる自分にも、
仏典の精読には相当な心労を抱かされる。

華厳経はもちろん通読するし、その感想も書いていく予定だけど、
もう少しペースを下げて行こうかとは思う。

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089 2012/04/10(火) 21:54:45 ID:F4QkfBz5yY:au
「華厳経」十回向品第二十五の二(八十巻中ニ十四巻目)読了。

四書五経と華厳経の兼修はなかなか難儀だし、在俗の聖典と超俗の聖典ということで、
実践面で相反する記述も両者間には多い。あくまで実践込みの研究は四書五経のほうとし、
仏典は参考程度のものとするため、華厳思想もなるべくゆったりと学んでいくようにしたい。

「経行処」という、座禅の休憩所に当たる言葉が出てくる。
これは今の禅寺でも「きんひん」の場として設置されていて、参禅の初心者もここで足の痺れを癒したりする。
華厳経は本当に、座禅行を実践する上での切実なマニュアルともなっているのであり、経典の読書よりも
座禅などの実践による教外別伝を重んじた禅宗の祖・達磨大師の姿勢もまた、それ自体が華厳思想に適っている。

「無量無数の難思の劫に 恭敬し尊重して常に歓喜し 未だ曾て一念も疲厭を生ぜず」という。
「いつも喜んでいなさい」と信者にけしかける、どこぞやの邪教もかつてあったが、
自力仏教における修道者たる菩薩こそは、利他行によって自分たちが常日ごろから歓喜し、疲厭もしないという。

ところで、大乗小乗共通の比丘戒および比丘尼戒で禁止されている項目に「戯笑」というのがある。書いて字の如く
「戯れ笑う」という行為で、犯したところで懺悔などの罰を受ける程度の、軽罪相当の扱いではあるものの、
れっきとした罪(突吉羅罪)の一つとされ、すべきかすべきでないかでいえば、すべきでないものとして扱われる。

常に歓喜していながら、菩薩は戯笑などはしない。戯れにかられてのせせら笑いなどは、
精進修行による真の歓喜からなる笑いの価値すらをも無みしてしまうものだから、むしろ避けるのである。
仏の悟りからなる真の歓喜を人々に広め知らせる上では、ウレシがりの戯笑などは、かえって邪魔なのだ。

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090 2012/04/11(水) 19:01:44 ID:OehzAIkYPY:au
「華厳経」十回向品第二十五の三(八十巻中ニ十五巻目)読了。

「菩薩摩訶薩は〜一切の法に作者有ること無きを知り」といい、
究極的な意味での創造主に値するような存在を、仏教は認めていないことが分かる。
万物斉同の汎神論的な世界観に基づけば、全世界を傍観する超越者などというものを
容認するわけにはいかなくなるが、仏教の場合は三千大千世界、この世界の形而上の形而上の形而上や、
形而下の形而下の形而下に至るまでの全ての世界の包摂を尽くした上で、絶対的な創造主
などという存在はないのだということを悟らしめる。それにより、絶対的な超越者を否定するよりも
肯定することのほうが、世界観の拡大に寄与することとなるかのような妄念もまた絶たせてしまう。

「未だ曾て声聞乗を憶念せず、亦復縁覚の道を求めず」と、半ば小乗仏教を鼻つまみもの扱いも
同然のものとする記述がある。それほどにも大乗仏教が勃興した約二千年前のインドでは、
上座部仏教の腐敗が深刻化していたようで、それに対する反発として大乗仏教も生じたのだと思われる。

「法に於いて自在にして、見る者は咸く伏し、刑せず罰せずして、徳に感じて化に従い」という。
仁義道徳も刑法や民法を越えたところにある礼楽によって民を予め善良ならしめようとするが、仏法もそれと
同じように、バカでも従える実定法などよりずっと高尚な領域における、民の徳化を念頭においているのである。

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091 2012/04/11(水) 19:03:59 ID:OehzAIkYPY:au
「願わくは一切の衆生は大願を成満して、皆悉く無上の智王と為ることを得ん」
「願わくは一切の衆生は智慧の日光をもって、愚痴の暗を破せん」
「願わくは一切の衆生は賢聖の床座を得て、凡夫の意を捨てて菩提心に住せん」

この志しの高さには、心から恐れ入った。同時に、今の世の体たらくと
対比した場合の、あまりの高潔さに感動して、思わず涙ぐませられもした。

儒者ですら、一切衆生に最高智を知らしめるとまでは行かず、いつの世にも多少は必ずいる小人を、
君子が徳治によって先導していくというところまでに止まる。けれども仏教はそれにすら飽き足らない、
本当に一切衆生を「無常の智王」にすらならしめようとする。ほとんど想像すらし得ないほどの志しを具えている。

この志しの高さこそは、、日本経済が欧米経済を圧倒して、
人類総家畜化を推し進めていた悪魔崇拝者を撃退する原動力ともなったのだ。

江戸時代の民の徳化は、主にサムライによって為されたにしろ、それ以前には仏門に頼る所が大きかったし、
江戸時代においても寺子屋で坊主が民の教師となったり、あるいは侍自身が剣禅一如の気風によって民を化してもいた。
それによって日本国民の民度が相当に高められていたから、庶民を「ゴイム(家畜)」などと呼んで蔑む権力犯罪者が
最高支配者であり続けてきた欧米社会との、経済戦を含めた総力戦において、優勢となることもできたのである。

悪魔は、確かに仏によって降伏されたのである。

(画像は日本の民衆仏教の祖、行基の像)

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092 2012/04/12(木) 20:48:33 ID:/Jvu/Mexj2:au
「華厳経」十回向品第二十五の四(八十巻中二十六巻目)読了。

想像を絶する記述があった。

「佛子、菩薩摩訶薩、見有獄囚、五處被縛、受諸苦毒、防衞驅逼、將之死地、欲斷其命、捨閻浮提、一切樂具、
親戚朋友、悉將永訣、置高碪上、以刀屠割、或用木槍、豎貫其體、衣纒油沃以火焚燒、如是等苦、種種逼迫、菩薩見已、
自捨其身、而代受之、如阿逸多菩薩、殊勝行王菩薩、及餘無量、諸大菩薩、爲衆生故、自捨身命、受諸苦毒、菩薩爾時、
語主者言、我願捨身、以代彼命、如此等苦、可以與我、如治彼人、隨意皆作、設過彼苦、阿僧祇倍、我亦當受、令其解脱、
我若見彼、將被殺害、不捨身命、救贖其苦、則不名爲住菩薩心、何以故、我爲救護一切衆生、發一切智菩提心故」
「仏子よ、菩薩はもしも獄中に囚われて、四肢五体を縛られて責め苦を受ける者を見、兵衛の者たちも今まさにその者を
刑場に行かしめてその命を絶とうとしているのを見たならば、閻浮提に所有する一切の楽具すらをも捨て去って、
親戚や朋友たちとも永遠の別れを果たした後、自らこそは刑場の高台に上って刀によって割り屠られ、木槍によって
自らの身体を立てに貫かれ、衣服に油を注がれて火を点けられ、灼熱の炎によって焼かれようとする。このような苦しみは
少しも癒えることなく、どこまでも逼迫していくものだが、菩薩は他の無数の菩薩もまたそうするようにして、罪人に対する
処罰を代わりに受けて、自らの身命を捨て去ることにより、衆生の苦毒を代わりに受ける行を為す。その時、菩薩はこのように言う。
『願わくは私こそが、わが身を捨てて彼(死刑囚)の命に代えてみせましょう。彼が受ける諸々の苦しみは全て私に与えて
いただければよろしい。政治にまつわる問題もまた、全てそれに従って頂ければよろしく、それにより例え私が彼の阿僧祇倍の
苦しみを受けることになろうとも、それをも解脱のすべに変えてみせもする。もし私が、彼がまさに殺害されんとするのを見て、
我が身命を捨ててその苦しみを救い贖うことができなかったならば、私は菩薩としての称号を剥奪されても構いはしない』
なぜそうしようと思うのか。『私は一切の衆生を救済し、守護するためにこそ、一切智の菩提心をも発したのだから』」

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093 2012/04/12(木) 21:41:30 ID:vXQhUp1/xw
拘束され、縛られ、油を注がれ、高台に連れて行かれ、槍で縦に突かれて割り屠られる・・・
まさに、キリストの受難劇そのものの描写となっている。

違うのは、

・菩薩は刑死後に生き返るなどとはしていない点。
・菩薩は妾腹の私生児だからといって「神の子」を自称したりはしていない点。
・冤罪の許容が社会的な犯罪現象の増大に加担しかねないことを示唆している点。
・特定の信者を救うのではなく、一切衆生を救護せしめることを目的としている点。

といったところ。

一切衆生の救済の象徴として、地獄の責め苦を受けることが必定な重罪人すらをも救済の対象とすることを挙げている。
あくまで「最悪の悪人までをも救う」という善人正機的な意味合いでの記述であり、「最悪の悪人こそは救われる」
などというような主張には根ざしていない。そしてこれは自力作善の聖道門の経典であり、肉食妻帯もご法度とする、
日本ではいま事実上絶えているような厳しい出家修行の先にこそ、その回向もまた可能になるとされているもの。

「五逆や誹謗正法を犯さない信者に限って救う」という、阿弥陀如来こと法蔵菩薩の請願は、これと合致していない。
殺父や殺母に及ぶような重罪人は俗界でも重罰の対象となるから、このような人間は阿弥陀仏によっては救われない一方、聖道門に
よっては救われ得もする。一方で、今の世の中では聖道門の仏教はほぼ絶えている。だから重罪人が菩薩によって救われることもない。

それは結局、キリスト教勢力がこの世界をメチャクチャに破壊し尽くして、聖道門の仏教などは根絶やしも同然の状態に
追いやってしまったからである。重罪人の身代わりにもなるという菩薩の行業を強奪し、「私は神の子だ」「私を信じれば救われる」
「刑死しても蘇る」などという仏法(造物主否定、一切衆生悉有仏性、諸行無常)に決定的に相反する邪義を触れ回りつつ、無責任に
冤罪信仰による犯罪現象を肥大化させ過ぎたものだから、重罪人すらをも本当に救う聖道門が、この世に存する余地すらもが奪われたのである。

キリストは、菩薩の為すべき行いを妄りに剽窃して、仏法に一切適わぬ邪義を触れ回ることで、
仏法によってですら重罪人が救われなくなる状態を、あえて招いたのである。

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094 2012/04/13(金) 13:54:24 ID:1bxZLpQvzg:au
犯罪聖書の教義は、諸行無常や諸法因果、一切衆生悉有仏性といった
基本的な仏法に違反してはいるが、「ただ違反しているだけ」という意味では、
その全てが仏教の把捉する範疇であるといえる。

そして、新約犯罪聖書のハイライトに当たるイエスの受難劇、
これもまた全く同じ物語構造が、「華厳経」に記録されていたことが判明した。

結局、キリスト教やユダヤ教は、完全に仏教以内の、仏教以下でしかないのである。

違うのは、決定的に仏法に違背する邪義を並べ立てている点だけなのだ。

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095 2012/04/13(金) 14:38:41 ID:1bxZLpQvzg:au
仏法に決定的に違反しているから、
不能を可能にする虚構の超越神を定立もしなければならない。

仏法に即する範囲で、そんな邪神を定立しなければならない必要はどこにもない。
仮に神を定立するにしても、絶対服従のドグマの化身などである必要は全くない。

あくまで、仏法に違反しているから、
そんなどうでもいいものに固執していなければならない、だけでしかない。

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096 2012/04/16(月) 22:10:38 ID:.EkIaLJZSc:au
「華厳経」十回向品第二十五の五(八十巻中二十七巻目)読了。

菩薩の身体の諸々の部位を衆生に施すことによる利益が列挙される。
肉髻、眼、耳、鼻、歯、舌、頭、手足、血、髄、臓器、骨、皮、指の順番にその利益が述べられる。
上にあるものと下にあるものでは、上にあるものが先、下にあるものが後に書かれている。
ここから窺えるのは、仏菩薩に特有の形相とされる「肉髻」の存在意義。
これはどうも、「地水火風空」の五大の最上位に位置する「空」をあらわしている模様。
虚空の悟りの象徴こそは肉髻であり、悟りの象徴として仏の頭部にこれがあるわけだ。
孔子の頭部などは逆にへこんでいたというから、儒者の長たる孔子などは象徴としても、
悟りを開いた仏の一員などとしては扱うべきでないのだろう。

前から読んでて思っていたことだが、ここに至って確信したのは、華厳経は、著者が本当に無邪気なのだ。
サンテグジュペリの「星の王子さま」みたいな偽りの無邪気さではない、著者本人の心底からの完全な無邪気さ。
そう思わせる根拠は、文面からにじみ出る「権力意志」の完全なる不在。新旧約聖書の記述が権力意志たらたら
なのはもちろんのこと、権力犯罪を忌む儒者の正典である四書五経だって、華厳経などと読み比べてみれば、
おっさんくさい権力意志が随所にちりばめられていることがよく分かる。しかし、華厳経には全くそれがない。

数多の妻妾を侍らす大国の君主なども出ては来るが、あくまで他人行儀な扱い。
菩薩摩訶薩はどこまでも、色欲も断っての精進修行一筋。それでいて上記のような君主を含む大権力者の
フォロワーともなり、国家鎮護の礎にもなるという奉仕精神の旺盛さ。そこには、儒者や聖書信者のような
権力意志がまったく見られないだけでなく、道家の徒のような、権力への専らな嫌悪意識もまた見られない。

どこまでも権力というものを諦観し尽くした上で、なおかつ権力者を補佐するような余裕すらも持ち合わせている。
中国の道家も本来は治国平天下を目的として提唱されたに違いないのだが、ここまで達観しきれているようなことはない。

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097 2012/04/16(月) 22:12:02 ID:.EkIaLJZSc:au
仏教は俗世の価値観を否定しつくした虚空を荘厳し、そこへの人々の安住を促す、
それによって俗世における最大級の栄華にすら余裕を与える。その余裕の充実のために、出家者である菩薩は
精進修行に励む、その姿が極めて献身的であることから、皮肉骨髄を施与の対象とする本品の記述すらもが為されている。

後半には、その菩薩の精進修行の利益として、俗世での屠畜までをも行っての肉欲の貪りがなくなること、
二本足の人だけでなく、四つ足や多足や無足の畜類までもが救済の対象となり、誰しもが長命に与るように
なることが挙げられる。インド人は牛肉を食べない一方、牛を神聖な動物とし、方々で放し飼いにもしているが、
仏門はこのインドの伝統をも興隆させると言っていて、決して四つ足を絶対的な不浄の象徴などともしていない。

最後に、菩薩行による俗世での利益として、「宦官の根絶」が約束されてもいる。
これは、中国では仏教によっては実現し得なかったことで、日本では始めから実現され続けて来たこと。
仏道の出家者は結局、政界における宦官の役割をも代行できるのであり、その能力は中国以上にも日本で活かされた。
仏の悟りはロボトミー手術の効果にも似ていると>>38でも述べたが、仏道修行は去勢抜きでの、去勢並みの禁欲をも実現する。
宦官だからといって性欲が全くなくなるわけでもないから、むしろ出家修行のほうがより禁欲を徹底するものだといえる。

ロボトミー手術や去勢のような不健全な手段によって試みられ、結局不調に終わり続けてきたある種の試みが、
仏道の本格修行によってこそ成就されて来たことがある。確かに聖道門の教義は繊細で、濁世には一挙にその実践が
不能と化してもしまうものだが、本当に実践すらできたなら、世の中に対して未曾有の利益をもたらしもするのである。

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098 2012/04/23(月) 23:25:00 ID:kIDjrBjRqE
「華厳経」十回向品第二十五の六(八十巻中二十八巻目)読了。

「願わくは一切の衆生は無明の欲を捨てて仏の志楽に住せん」

仏教が無欲や制欲を促すことを本分とした信教であるのは、いちいち言い直されることも稀なほどの、周知の事実である。
しかし、世俗の欲望を捨て去っての、仏道追求の志しにこそ楽しみを抱くという。その楽しみこそは「深楽」であり、
楽しむべきものとそうでないものとの区別も付かないウレシがりなどよりも遥かに深い「可愛楽」をもたらすのでもある。

俗人にはチンプンカンプンな内容の仏典に根ざした仏教の実践が、
昔は世界規模ですら実現していたのも、それが楽しかったからこそ。

本品では、俗世における「家」の脆弱さが強調され、妻子を養う俗人としての立場を捨ててまでの、仏門への没入を促す
記述もある(これまでにもいくらかあった)。そこまでして仏門に帰依することの価値が謳われるのも、それが楽しいからだ。
涅槃寂静の域にこそ、いかなる世俗上の喧騒にも勝る楽しみがあるからこそ、不可解な用語を多数操りつつまでもの、
超俗や出家の価値が仏典でも謳われ、実際にもそれに数多の人々が随順してきたのである。

自分自身が出家するとまでは行かずとも、出家することで、いかなる在家の楽しみ以上もの楽しみを得た坊主が
そこら中にいるなかで、在俗の信者である男が、「おまえらなんか俺にとっちゃ重荷でしかない」というオドしを
効かせつつ、自らの妻子にまでも接することが、夫唱婦随や父子の序を健全化することにもなるわけで、
それは夫や父たる男にとっても楽しいことだし、妻や母たる女、いつかは一人前にならなければならない
我が子に対してもよい影響を及ぼし、以って、人生における最大の楽しみを享受させることにもなるのである。

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099 2012/04/28(土) 14:53:43 ID:uim6jTdRIw:au
ここまで読んで、もう分かった。

「華厳経」は、絶対に今すぐ実用できるような代物じゃない。

四書五経なら今すぐにでも実用できるが、
華厳経の実用化には、まだ数十年以上の期間が必要だ。

だからまだ、そんなに急いで読む気にもなれない。
本を読むばかりが、人生の全てであっていいわけでもないし。

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100 2012/05/03(木) 15:44:03 ID:YqMODdTOC6:au
「華厳経」十回向品第二十五の七(八十巻中二十九巻目)読了。

「一切の衆生をして悉く一切の資生の物を捨てて施す心に住せしめん」といいながら、
「菩薩の有する所の資生の具は 種々豊盈にして限億無く〜悉く十法の無量の刹に遍して 普く一切に施して充満せしむ」ともいう。
一見矛盾しているようにも見える両者の記述にも、厳密な整合性が伴っている。

「資生」とは仏語ではなく、「易経」坤卦の彖伝に出てくる陰陽道用語である。
その意味は、「資源」とか「資本」とかいった言葉の言語構造に当てはめて考えてみれば、よく分かる。
資源はモノだし、資本はカネ、一方で資生は命そのものだから、資生こそは資源や資本以上にも根本的なものであるといえる。

その資生を捨ててまでの、施与の志しを菩薩は一切衆生にまで備わらせながら、
自らの有する所の無量なる資生の具をこれまた一切衆生に施して、その際限はどこまでも限りないともいう。
「菩薩の資生が無量なら、その施しを受ける衆生がなぜ自らの資生を捨ててまでの施しを志さねばならないのか」
という疑問を抱かざるを得ないが、そこにもちゃんと、理に適った含蓄があるのである。

ちょうど「資生堂」という化粧品会社が日本にあるので、女の化粧に喩えて説明してみよう。

素が美人である女が化粧によってその美しさを増すこともあれば、素顔は不細工な女が化粧によってそれなりの
見栄えになることもある。巣が美人であれば、美しさを増すための化粧を自分がすることにも一定の余裕が
備わる一方、素顔の不細工さを取り繕うために化粧をやり尽くす所には、全く余裕がない。その余裕の無さが
さらに上質な化粧、さらにさらに上質な化粧といった、化粧への貪りを生むことになる。その貪りは結局、
素顔の不細工さへの諦観が本人に備わらないことには、どこまでも際限がない。化粧への貪りが際限ない
ままの状態でいて、なおかつ本人の、素顔に対する劣等感からなる苦しみもまた、持ち越されたままである。

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101 2012/05/03(木) 15:44:31 ID:YqMODdTOC6:au
だからその、素顔の不細工さに対する劣等感をまず捨てさせる。それはすなわち、自らの生命としての存在価値から
完全に捨て去れるぐらいの達観を得させるということであり、上記の「資生の物を捨てる」という記述と一致する。
それでこそ、素顔が美人か不細工かであるに関わらず、自らが化粧を行うことにも一定の余裕が備わる。
その余裕が備わった相手に対して、菩薩が施す「資生の具」も、これまた無量であり、「二度と化粧なんかしない」
というような極端への振れ切りも控えさせて、女であるなりの資生の化粧程度は、無量にやらせてやるのである。

「衆生に資生を捨て去る達観を抱かせながら、なおかつ菩薩が衆生に資生の具を施す」という本品の記述の意図する所は、
女の化粧に喩えてみるなら、以上のようだといえる。そして、菩薩が上記のような回向を実現するための行業が
「不動の業」であるとも本品にある。国訳一切経版の注釈には、「毀誉褒貶に動かされざる業」と説明されているが、
仏教教義上の「不動」といえば、必ずしもそればかりのことではない。ただ、この注釈ももちろん間違った「不動」の解釈などではなく、
「毀誉褒貶に動かされない」ということは、上記の女の化粧の喩えの内で、素顔が不細工な女が回りからの中傷などにも
打ちひしがれたりしないことがこの内に入るといえる。毀誉褒貶に動かされないための仏道修行にも色々あるわけだが、
菩薩はそのような修行を通じて、不細工な女が外見への中傷などに惑わされないようになるための手本ともなっていくのである。

春秋戦国時代の悪徳外交家である蘇秦や、暗黒帝国だった秦帝国で宰相として辣腕を振るった李斯など、若「年期に身分の低さに
対する多大なコンプレックスを抱いていた」というエピソードが「史記」の列伝などにもある。そのような上等ともいえない劣等感を
バネにして蘇秦や李斯が社会的に為した行いたるや、笑いものや鼻つまみもの扱いとされるほどにもろくでもないものであり、しかも
二人とも政争に巻き込まれての非業の最期を遂げている。資生を捨て去る志しを持てないが故に、甚だしい劣等感を抱く人間が、実際に
世の中に実害を及ぼす実例ともなっており、菩薩の資生を衆生に捨てさせる回向が、確かに天下の泰平にも寄与するものであることが分かる。

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102 2012/05/05(土) 14:01:37 ID:oZQBqOwyH2:au
世の中を破滅に陥れようとするような、
卑劣な権力意志の根底には、必ず甚だしい劣等感がある。

乞食行などによる忍辱を通じて、その劣等感を克服し、
ある意味では、機械的にのみ権力機構にも携わるだけの諦観を身に付ける。

ニーチェが「ルサンチマン」と呼んだ権力者への嫉妬心も、
仏道修行によって人工的に廃絶してしまう。しかもそれは自力の修行者たる
菩薩のみならず、他力本願の在家信者にまでも回向として及ぶのだという。

仏法の難解さ不可思議さは、あらゆる思想哲学の中でも突出したものだが、
その享受による功徳が世の中に与える影響の善良さだけは、明らか且つ確かなものだ。

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103 2012/05/15(火) 18:58:07 ID:lHMg0oNjHU:au
「華厳経」十回向品第二十五の八(八十巻中三十巻目)読了。

「願わくは一切の衆生は諸々の菩薩の甚だ愛楽すべき善観察智を得ん」など、
「願わくは一切の衆生は(菩薩の)愛楽すべき〜とならんことを」という構文の誓願が多数出てくる。
菩薩が衆生を愛楽するに値する条件というのは、上記のように清浄さを期したものばかりで、
性的に魅力的だったりというような、邪念を伴う条件によって愛楽の対象となったりするわけではない。

禁欲修行などを通じて愛執をも絶った菩薩がなお、衆生を愛するようなことがある。
それは自らの回向にも依って、愛す可き善業に乗じた衆生でこそあり、愛情を善用する
「可愛楽」という華厳思想の一端に基づいて、衆生が愛されたりすることもあるというのである。

仏教哲学ではなく、仏教思想止まりである上座部仏教の経典(法句経など)には、
「愛を捨て去れ」という釈尊の言葉をそのまま真に受けて、「愛全般を捨て去れ」という風に記録して
あるように読むことも出来なくはない記述が多々ある。それはあくまで「愛執」や「濁愛」といった、
劣悪な志向性を伴う愛についての見識だったはずなのであり、ただ祭司階級の出身ではない釈尊ご自身が、
そのあたりまで精密に説きほぐしてて、「可愛楽」などという離れ業を体系化までしたりはしていなかっただけだ。

「仏教哲学の書」と呼ぶに値する大乗仏典をそこそこ理解した上で、「仏教思想の書」止まりである
原始仏典を読めば、決して間違ったことを書いているわけではないが、あまり語り口が精密ではないことに
気づかされる。逆に言えば、原始仏典の記述をそのまま精密化したのが大乗仏典で、精密化に際して
理論立ての高次元化もまた進んだために、原始仏典では全面的に禁じられているように思われる、
「愛」に対する肯定的な記述すらもが垣間見られる。それは決して仏法に反しているものではなく、
より高次の離れ業的な理論立てに基づいて、仏法にも適わせているものなのだから、原始仏典などと
記述が相反しているように思われたからといって、大乗非仏説などにまで発展させるべきものでもない。

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104 2013/08/14(水) 11:42:12 ID:.prQ4d0qbw:au
http://bbs0.meiwasuisan.com/bin/read/toriaezu/1376397317...
十回向品第二十五の九以降の感想は上のスレシリーズで。

どうせ一週間で消えてしまうスレだがな。それもまたよし。

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105 2014/05/20(火) 20:00:19 ID:4PBbLZ4xsY:au
衆生は皆な妄りに 善悪の諸趣の想を起こし 
是れに由りて或いは天に生じ 或いは復た地獄に堕す、

菩薩は世間を観ずるに 妄想業の起こす所 
妄想無辺なるが為めに 世間もまた無量なり、

一切諸々の国土は 想網の現ずる所 
幻網の方便の故に 一念に悉く入る。

「華厳経」普賢行品第三十六

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106 2014/05/21(水) 08:30:15 ID:BRugEtUvKI:au
所見に差別無く 亦復雑乱無く 
各々自業に随いて 其の果報を受用す

「華厳経」普賢行品第三十六


一切衆生みな平等であるが故に、因果応報もまた平等である。

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