歓喜者の「失利」や「差別」に対する苦しみこそが、まさに資本主義や民主主義を推し進める原動力ともなって居り、
心境がウレシがりの状態にすら置かれていなければ、別に失利や差別を必ずしも苦しみと受け止めるとも限らない。
聖人君子などであればむしろ、失利や差別が天下国家の安寧のために善用されることを楽しみもする。
歓喜者がそれらを苦しむ原因(集諦)は「非実法」だったり「煩悩法」だったり「狭劣見」だったりするわけで、
これらに相当するものが新旧約聖書や、洋学系の哲学書や法律書や経済書などにこそ、延々と書き連ねられている。
(あるいは、これらの書物を著述する姿勢自体が「狭劣見」だったりする)
歓喜者が上記のような原因からなる苦しみを解くためには、「断集」や「分別尽」や「正念行」や「常寂路」
などの方法(道諦)が適当であるとされ、それでこそ「破依止」や「不放逸」や「真実」や「平等」や
「善浄」や「無病」や「無曲」や「自在」といった形での、苦しみの消滅(滅諦)に与れるという。
極端な歓喜状態に常に置かれている現代人が、上記のような方法に基づいて、
上記のような様態での、苦しみの消滅を試みているようなことからして、基本、ない。
むしろ、「続集」や「無分別」や「邪念行」や「常騒路」を試みることで、「囚依止」や「大放逸」や
「不実」や「大差別」や「悪濁」や「捻曲」や「不自在」といった、さらなる苦しみの増長こそを呼び込んでいる。
「非実法」や「煩悩法」や「狭劣見」にすがることで、そのような悪循環ばかりを進行させてしまっているのである。
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