「華厳経」十回向品第二十五の八(八十巻中三十巻目)読了。
「願わくは一切の衆生は諸々の菩薩の甚だ愛楽すべき善観察智を得ん」など、
「願わくは一切の衆生は(菩薩の)愛楽すべき〜とならんことを」という構文の誓願が多数出てくる。
菩薩が衆生を愛楽するに値する条件というのは、上記のように清浄さを期したものばかりで、
性的に魅力的だったりというような、邪念を伴う条件によって愛楽の対象となったりするわけではない。
禁欲修行などを通じて愛執をも絶った菩薩がなお、衆生を愛するようなことがある。
それは自らの回向にも依って、愛す可き善業に乗じた衆生でこそあり、愛情を善用する
「可愛楽」という華厳思想の一端に基づいて、衆生が愛されたりすることもあるというのである。
仏教哲学ではなく、仏教思想止まりである上座部仏教の経典(法句経など)には、
「愛を捨て去れ」という釈尊の言葉をそのまま真に受けて、「愛全般を捨て去れ」という風に記録して
あるように読むことも出来なくはない記述が多々ある。それはあくまで「愛執」や「濁愛」といった、
劣悪な志向性を伴う愛についての見識だったはずなのであり、ただ祭司階級の出身ではない釈尊ご自身が、
そのあたりまで精密に説きほぐしてて、「可愛楽」などという離れ業を体系化までしたりはしていなかっただけだ。
「仏教哲学の書」と呼ぶに値する大乗仏典をそこそこ理解した上で、「仏教思想の書」止まりである
原始仏典を読めば、決して間違ったことを書いているわけではないが、あまり語り口が精密ではないことに
気づかされる。逆に言えば、原始仏典の記述をそのまま精密化したのが大乗仏典で、精密化に際して
理論立ての高次元化もまた進んだために、原始仏典では全面的に禁じられているように思われる、
「愛」に対する肯定的な記述すらもが垣間見られる。それは決して仏法に反しているものではなく、
より高次の離れ業的な理論立てに基づいて、仏法にも適わせているものなのだから、原始仏典などと
記述が相反しているように思われたからといって、大乗非仏説などにまで発展させるべきものでもない。
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