仏典総合スレ


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001 2012/02/22(水) 17:01:58 ID:F4.5uskZuk
華厳経全訳購入記念。ありそうでなかった仏典スレ。

仏教典籍(仏典)は基本、仏者が読み書きする典籍のことであり、
書き手だけでなく、読み手もまた一人前の出家修行者であることを前提としている。
(ただし、浄土経典などを例外とする)

一般人が仏典を読んで、それで意見を述べたからと言って「仏説」にはならないから、
もちろん仏典のうちにも入らない。おかしな逸話の多い禅僧である一休や良寛の著書が
仏典たり得たとしても、在俗の仏教学者である中村元の著書などは仏典ではあり得ない。

一般人にとって取っ付きづらい書物であるのは当然のことながら、仏典中に文学や思想哲学として極めて
優れたものが多いのも事実であり、漢訳大乗仏典の秀逸さなどは、人類史上でも未曾有のものですらある。
ただの文学としてみても、華厳経典こそは世界最高の文学だし、般若経典こそは世界最大の文学でもある。
中観部の論典こそは世界最高の哲学であるし、唯識部の論典こそは人間にとっての思想の極北でもある。

仮にここで仏典の感想を述べたところで、自分が正式な出家者でない以上は、仏説たり得ないし、
どんなに論及として優れていた所で、仏典の内に新たに組み込まれるようなこともない、ということを
重々承知の上で、何か書きたいことがあった場合に書く程度の、気軽な扱いのスレでよろしく。

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101 2012/05/03(木) 15:44:31 ID:YqMODdTOC6:au
だからその、素顔の不細工さに対する劣等感をまず捨てさせる。それはすなわち、自らの生命としての存在価値から
完全に捨て去れるぐらいの達観を得させるということであり、上記の「資生の物を捨てる」という記述と一致する。
それでこそ、素顔が美人か不細工かであるに関わらず、自らが化粧を行うことにも一定の余裕が備わる。
その余裕が備わった相手に対して、菩薩が施す「資生の具」も、これまた無量であり、「二度と化粧なんかしない」
というような極端への振れ切りも控えさせて、女であるなりの資生の化粧程度は、無量にやらせてやるのである。

「衆生に資生を捨て去る達観を抱かせながら、なおかつ菩薩が衆生に資生の具を施す」という本品の記述の意図する所は、
女の化粧に喩えてみるなら、以上のようだといえる。そして、菩薩が上記のような回向を実現するための行業が
「不動の業」であるとも本品にある。国訳一切経版の注釈には、「毀誉褒貶に動かされざる業」と説明されているが、
仏教教義上の「不動」といえば、必ずしもそればかりのことではない。ただ、この注釈ももちろん間違った「不動」の解釈などではなく、
「毀誉褒貶に動かされない」ということは、上記の女の化粧の喩えの内で、素顔が不細工な女が回りからの中傷などにも
打ちひしがれたりしないことがこの内に入るといえる。毀誉褒貶に動かされないための仏道修行にも色々あるわけだが、
菩薩はそのような修行を通じて、不細工な女が外見への中傷などに惑わされないようになるための手本ともなっていくのである。

春秋戦国時代の悪徳外交家である蘇秦や、暗黒帝国だった秦帝国で宰相として辣腕を振るった李斯など、若「年期に身分の低さに
対する多大なコンプレックスを抱いていた」というエピソードが「史記」の列伝などにもある。そのような上等ともいえない劣等感を
バネにして蘇秦や李斯が社会的に為した行いたるや、笑いものや鼻つまみもの扱いとされるほどにもろくでもないものであり、しかも
二人とも政争に巻き込まれての非業の最期を遂げている。資生を捨て去る志しを持てないが故に、甚だしい劣等感を抱く人間が、実際に
世の中に実害を及ぼす実例ともなっており、菩薩の資生を衆生に捨てさせる回向が、確かに天下の泰平にも寄与するものであることが分かる。

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102 2012/05/05(土) 14:01:37 ID:oZQBqOwyH2:au
世の中を破滅に陥れようとするような、
卑劣な権力意志の根底には、必ず甚だしい劣等感がある。

乞食行などによる忍辱を通じて、その劣等感を克服し、
ある意味では、機械的にのみ権力機構にも携わるだけの諦観を身に付ける。

ニーチェが「ルサンチマン」と呼んだ権力者への嫉妬心も、
仏道修行によって人工的に廃絶してしまう。しかもそれは自力の修行者たる
菩薩のみならず、他力本願の在家信者にまでも回向として及ぶのだという。

仏法の難解さ不可思議さは、あらゆる思想哲学の中でも突出したものだが、
その享受による功徳が世の中に与える影響の善良さだけは、明らか且つ確かなものだ。

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103 2012/05/15(火) 18:58:07 ID:lHMg0oNjHU:au
「華厳経」十回向品第二十五の八(八十巻中三十巻目)読了。

「願わくは一切の衆生は諸々の菩薩の甚だ愛楽すべき善観察智を得ん」など、
「願わくは一切の衆生は(菩薩の)愛楽すべき〜とならんことを」という構文の誓願が多数出てくる。
菩薩が衆生を愛楽するに値する条件というのは、上記のように清浄さを期したものばかりで、
性的に魅力的だったりというような、邪念を伴う条件によって愛楽の対象となったりするわけではない。

禁欲修行などを通じて愛執をも絶った菩薩がなお、衆生を愛するようなことがある。
それは自らの回向にも依って、愛す可き善業に乗じた衆生でこそあり、愛情を善用する
「可愛楽」という華厳思想の一端に基づいて、衆生が愛されたりすることもあるというのである。

仏教哲学ではなく、仏教思想止まりである上座部仏教の経典(法句経など)には、
「愛を捨て去れ」という釈尊の言葉をそのまま真に受けて、「愛全般を捨て去れ」という風に記録して
あるように読むことも出来なくはない記述が多々ある。それはあくまで「愛執」や「濁愛」といった、
劣悪な志向性を伴う愛についての見識だったはずなのであり、ただ祭司階級の出身ではない釈尊ご自身が、
そのあたりまで精密に説きほぐしてて、「可愛楽」などという離れ業を体系化までしたりはしていなかっただけだ。

「仏教哲学の書」と呼ぶに値する大乗仏典をそこそこ理解した上で、「仏教思想の書」止まりである
原始仏典を読めば、決して間違ったことを書いているわけではないが、あまり語り口が精密ではないことに
気づかされる。逆に言えば、原始仏典の記述をそのまま精密化したのが大乗仏典で、精密化に際して
理論立ての高次元化もまた進んだために、原始仏典では全面的に禁じられているように思われる、
「愛」に対する肯定的な記述すらもが垣間見られる。それは決して仏法に反しているものではなく、
より高次の離れ業的な理論立てに基づいて、仏法にも適わせているものなのだから、原始仏典などと
記述が相反しているように思われたからといって、大乗非仏説などにまで発展させるべきものでもない。

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104 2013/08/14(水) 11:42:12 ID:.prQ4d0qbw:au
http://bbs0.meiwasuisan.com/bin/read/toriaezu/1376397317...
十回向品第二十五の九以降の感想は上のスレシリーズで。

どうせ一週間で消えてしまうスレだがな。それもまたよし。

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105 2014/05/20(火) 20:00:19 ID:4PBbLZ4xsY:au
衆生は皆な妄りに 善悪の諸趣の想を起こし 
是れに由りて或いは天に生じ 或いは復た地獄に堕す、

菩薩は世間を観ずるに 妄想業の起こす所 
妄想無辺なるが為めに 世間もまた無量なり、

一切諸々の国土は 想網の現ずる所 
幻網の方便の故に 一念に悉く入る。

「華厳経」普賢行品第三十六

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106 2014/05/21(水) 08:30:15 ID:BRugEtUvKI:au
所見に差別無く 亦復雑乱無く 
各々自業に随いて 其の果報を受用す

「華厳経」普賢行品第三十六


一切衆生みな平等であるが故に、因果応報もまた平等である。

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