仏典総合スレ


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001 2012/02/22(水) 17:01:58 ID:F4.5uskZuk
華厳経全訳購入記念。ありそうでなかった仏典スレ。

仏教典籍(仏典)は基本、仏者が読み書きする典籍のことであり、
書き手だけでなく、読み手もまた一人前の出家修行者であることを前提としている。
(ただし、浄土経典などを例外とする)

一般人が仏典を読んで、それで意見を述べたからと言って「仏説」にはならないから、
もちろん仏典のうちにも入らない。おかしな逸話の多い禅僧である一休や良寛の著書が
仏典たり得たとしても、在俗の仏教学者である中村元の著書などは仏典ではあり得ない。

一般人にとって取っ付きづらい書物であるのは当然のことながら、仏典中に文学や思想哲学として極めて
優れたものが多いのも事実であり、漢訳大乗仏典の秀逸さなどは、人類史上でも未曾有のものですらある。
ただの文学としてみても、華厳経典こそは世界最高の文学だし、般若経典こそは世界最大の文学でもある。
中観部の論典こそは世界最高の哲学であるし、唯識部の論典こそは人間にとっての思想の極北でもある。

仮にここで仏典の感想を述べたところで、自分が正式な出家者でない以上は、仏説たり得ないし、
どんなに論及として優れていた所で、仏典の内に新たに組み込まれるようなこともない、ということを
重々承知の上で、何か書きたいことがあった場合に書く程度の、気軽な扱いのスレでよろしく。

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002 2012/02/22(水) 17:05:34 ID:Jp9jczGVuo
華厳経が伝えているポイントを簡単に要約してくれ

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003 2012/02/22(水) 17:46:29 ID:8I9./uZ6P.:au
華厳経(大方広仏華厳経)の要約書は仏典中にも万巻とあるようだが、
般若経典の場合の「般若心経」ほどにも、人口に膾炙しているものはないようだな。

>>1の書の解題で訳者(本職の禅僧)がすでに述べているが、法華経が華厳経の「おまけ」なわけ。
法華経ばかりをありがたがっている日蓮信者などもいるが、広大過ぎて掴みどころのない
華厳経の世界を、円熟期の釈迦の方便に載せたのが法華経(妙法蓮華経)なわけで、
法華経こそは、華厳経の最良の要約書であるとも言えなくはないわけだが。

弘法大師も「秘密曼荼羅十住心論」で、華厳こそを顕教中最高の教えとし、
法華をそれに次ぐものとしている。もちろん密教が全ての顕教以上だと大師は言われるが、
密教は強度の実践主義であり、実践によってこそ理解が可能となる密教経典をただ素読することには
大した意味がないとされる。だから、常人が参考として素読する上で最も価値のある経典となれば、
やはり顕教中最高である華厳宗の教義を記した、華厳経だということになる。

俺も、牛乳飲んでチキンカレー食ってたりするわけだから、全く以って仏道へのまい進など
ないままで仏典を読んだりもするわけで、自分で読むことに価値があるのも、せいぜい華厳経止まり。

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004 2012/02/22(水) 19:14:38 ID:F4.5uskZuk
華厳経の成立時期は今から約1900年前。ちょうど、新約聖書の成立時期とほぼ全く同じ。

般若経典の成立がこれ以前で、般若経を拠り所とするような菩薩行の成果として、華厳思想が結実した。
特に、「中論」や「大智度論」の著者である竜樹菩薩が大乗仏教の主要な代表者とされるが、
竜樹が活躍していた頃にはすでに、華厳経や般若経の文面に相当するものは大方既存していて、
それを竜樹などが、今の経典に相当するような体裁に纏め上げたのだという。

華厳経や般若経の文面の初作者は、結局のところ不明。編纂者の竜樹ですらその経歴に不明な部分が
多いのだから、原作者が不詳なのもうべなることだといえるが、ただ、その歴史的な経緯からいって、
その原作者に相当する人間が、般若経についてはイエスよりもやや年上の人間であり、
華厳経についてはイエスとほぼ同年代の人間だったろうことが予想される。

ヤスパースが「枢軸時代」と呼ぶ、紀元前500年前後の世界的な文化交流の後、
まるでその後始末のように、人類史上最高の宗教書が大乗仏典としてインドに花開き、
逆に、世界を破滅に陥れる史上最悪の宗教書が新約聖書としてイスラエルに発生した。

西暦起源である今から2012年前の前後に、確かに人類社会は究極の転換点を迎えていた。
それは、イエスの生誕などではなく、大乗仏教の興隆にこそ、もっとも顕著なことだった。
その頃に、イスラエルではなくインドでこそ、人類による絶対真理の把捉が完遂されていたのだ。

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005 2012/02/22(水) 23:58:41 ID:8I9./uZ6P.:au
×世界的な文化交流の後
○世界的な文化興隆の後

仏典は、図書館でも今は持ち出し禁止になっている場合が非常に多い。
漢文はまだ、新釈漢文大系などの新版があるから借りて読めもするが、
>>1画の国訳一切経を含め、仏典は一部の主要経典を除いて、
ほとんどが昭和初期までで改版が滞ったままでいるから、
その稀少価値からも、図書館もおいそれとは貸し出してもくれない。

仏典を、本腰を入れて管理できるほど精進してる人間が、
今の日本にはもうほとんどいないってこと。

いちいち図書館に通って大経典を通読するのも難儀だから、
仕方なく高価な旧版の古本を買って読んだりもするが、
もっと気軽に仏典が読めるようになるに越したことはない。

戦国の争乱を平定して後、家康公が封禅の意図も込めて大蔵経を増刷したように、
仏典が人々の身近にあるか否かが、当世が治世か乱世かを判定する普遍基準ともなるのである。

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006 2012/02/23(木) 13:24:13 ID:LbRBMKh29c:au
「大方広仏華厳経」八十巻本の国訳を読み始めた。

初っ端の世主妙厳品一の一から、尊格名の雨あられ。
こういう、群像キャラの大進行で話を押しきるような志向は、
戦隊シリーズやガンダムやドラゴンボールみたいな、男子向けのコンテンツでもよく流用されている。
軍隊として大陣形を組む時に、個々の兵士が武装や飾りに様々な工夫を凝らすことへの
憧れみたいなものが、男子には本能的に備わっているのだと思われる。

「可愛楽光明天王(かわいぎょうこうみょうてんのう)」とかの、
頭に「可愛」を冠した尊格が、複数名挙げられている。
「可愛い(かわいい)」は、実は仏語だったのだ。

他にも「我慢」とか「差別」とか「平等」とか、
今の日本語で多用されているような熟語が多数見受けられる。
「論語」級の有名書はともかく、紀元前の漢籍のほうが、今の日本人にとって
馴染みの薄いような熟語(流連荒亡、弁士一曲、釈遠謗近など)が多数出て来るし、
言葉遣いも今の日本人に取っ付き辛いようなものが多い。だから、日本人とっては、
太古の漢籍などよりも漢訳の仏典のほうが、読み下しでも読みやすかったりする。

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007 2012/02/23(木) 14:46:11 ID:LbRBMKh29c:au
「汝、愛すべし」
これがすでに、華厳思想の一環。

誰かれ構わず愛しまくって濁愛に溺れるのではなく、愛すべきものを愛す。
だから「愛す可し」であり、愛す可きであるが故に、可愛い。

聖書信仰の「神の愛」のような、濁愛に溺れていた者が失神後に、一転して
嫌悪まみれのニヒリストになったりする。それは濁りから濁りへの振り切れだから、
むしろ、愛すべきものを愛するKAWAIIの精神が、より清廉なものとしてあてがえる。

今の漫画やアニメに限らず、昔の日本の戯画などにも、これ見よがしに可愛いものが
多々あるが、これも華厳思想を代表とする仏教思想に根ざしたものであり、
別に何の拠り所もなかったりするわけではない。

「可愛い」の精神の輸出は、それ自体がいっぱしの仏教思想の輸出にも
なっているわけで、何も漫画やアニメみたいな一部の分野ばかりに限らず、
もっと本格的に輸出されて然るべきものだと言える。

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008 2012/02/23(木) 19:40:56 ID:H4In365jYA
「愛すべきもの」とは?
「愛すべきもの」とそうでないものとの違いは何なのか?

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009 2012/02/23(木) 22:13:48 ID:LbRBMKh29c:au
愛する対象は、そりゃあ人それぞれに決まってる。
自らの恋人だったり配偶者だったり、親だったり子だったり。

むしろ、愛する対象を「神の愛」だなんだで統制しようとするほうが、下衆なこと。

自ら愛すべきものを探し出し、真摯にそれを愛せという、愛と義務と自主性の合致、
それが本来の意味での「可愛」。愛すべきものを愛すことこそは、悟りにも繋がる。
だから悟りを拓いた瞬間の釈尊の周囲にも、「可愛」を名に冠する尊格が数多侍っていたのだ。

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010 2012/02/24(金) 20:08:45 ID:PfauooWRKM
「華厳経」世主妙厳品一の二(八十巻中二巻目)を読了。

さすが自力作善の聖道門の根本聖典なだけあって、如来を取り囲んでいた
数多の梵王や天王、天子らが、実際に衆生を救済し始める姿が描かれている。

他力の信者に対して「これこれこうしなさい、そしたら救ってあげよう」などと呼びかける、
浄土経などにも見られる記述形式ではなく、数多の天王が具体的に衆生を
どういう風に救っていくかということを、ごく能動的に述べている。

天台宗の五時教判では、「華厳経」にあるような悟りを拓いた釈尊が、布教による
衆生救済の菩薩行に臨む過程で、阿含経や般若経や方等経、そして法華経や涅槃経に
あるような教えを広めていったとする。中でも釈尊の円熟期の教えを述べたのが
法華経だから、法華こそは未熟な華厳の教えよりも上位にすらあると天台宗はしている。

しかし、その経典の成立年代からいって般若経→華厳経→法華経であり、般若経が
釈尊成道後の菩薩行に載せた言葉であるとするのは、些か不自然であるように思われる。

まず、般若経典にあるような中観修行があった上で、その後に華厳経典にあるような悟りが拓かれた。
釈尊の悟りを本気で再現しようとした数多の初期大乗仏教の沙門が、まずは般若思想に相当するような
一切皆空の修練に務めた。そしたら「真実不虚(般若心経)」という結論に至り、一斉に悟りを拓いた。

数多の大乗修行者が、釈尊に仮託した出家修行によって得た「真実不虚」の悟り、
その不虚なる真実をありのままに経典化したのが華厳経であり、さらにその文面を収斂したのが
法華経だったりする。(大乗の経典ではない阿含部の経典は、当然この内に入らない)

不虚なる真実のうちに、「愛す可し」もまたあるのであり、実際に世主妙厳品一の二でも、
「可愛」を頭に冠した数多の天王たちが、色々な手立てを尽くした衆生の救済にも臨んでいる。
上座部の出家者以上にも、自分たち自身で釈尊の悟りを再現するための柔軟な手管を尽くしていた、
大乗の修行者たちが導き出した結論として、原始仏典にはない「愛すべし」という教理もまたあった。

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011 2012/02/24(金) 23:48:42 ID:S2/Uqhy66o
>>1
買っただけで安心して読まないタイプとみた

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012 2012/02/25(土) 00:16:57 ID:W5CGAKecWk:au
一日一品、多くて二、三品。
あんまり根詰めて一気に読み通す気にもなれないな。
華厳経ともなると。

積ん読(つんどく)状態の本もあるにはあるがね、大体が近代以降の著作。
大古典を何度もじっくり読み通すことのほうが面白くて、
なかなか雑書に目を通すことにまでは頭が回らない。

儒学の衰亡と廃仏毀釈によって、近代以降の著作物は、
否応なく小人の書物ばかりと化してしまった。

資料として有益なことを述べている場合はあっても、
近代以降の文筆家の意見にまで感銘を受けるようなことは、
ほとんど皆無といっていいほどない。

むしろ、戦前までの軍人の手記などのほうが、
よっぽど読んで感慨を抱かされることが多い。

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013 2012/02/25(土) 15:14:43 ID:W5CGAKecWk:au
「華厳経」世主妙厳品一の三(八十巻中三巻目)読了。

「妙荘厳鳩槃荼王は一切の衆生の愛欲の海を消竭する解脱門を得」とあり、
やはり大乗仏教でも、愛欲に溺れて正気を見失うことなどはよくないこととされていることが分かる。
一方でやはり、「可愛楽光明摩睺羅伽王」のような、「可愛」を冠した王が衆生の救済者としてこの品にも登場する。

その可愛楽光明摩睺羅伽王を含む複数の摩睺羅伽王が、衆生に善不善、福非福といった不平等に
あえぐ衆生を救済するとある。その方法は、煩悩を除いた清浄の悦楽を衆生に知らしめることであり、
ちょうど「愛欲の海」への惑溺から妙荘厳鳩槃荼王が衆生を救い出すことと符合している。

善悪正邪も、所詮は世俗社会の利害(公益)にまつわる判断基準でしかなく、物質的な利害を超越した
唯心論の観点からすれば、一つの虚妄であるとも見なせる。故に、善悪正邪の判断によって邪悪と
みなされ、故に社会的な福徳に与れないような者もまた、虚空の徳によって救い上げられることはある。
ただし、その過程で物質主義を排するから、金銭への執着なども当然捨て去ることにはなる。

この品に、「群品(ぐんぽん)」という言葉が出てくる。
大正蔵のデータベースで検索してみたら、多くの仏典で用いられている一方、主要な漢籍での初出は「後漢書」であり、
仏教が伝来した後漢の代に、仏典漢訳の際、仏語として「群品」が考案されたのだろうことが予想できる。

この「群品」という言葉、「古事記」の序文に「羣品」と、字を代えて引用されている。
古事記編纂者の太安万侶の存命中には、まだ華厳経も華厳宗も日本に渡来していなかったはずだが、
その安万侶が「群品」という仏語を、日本神道の原点といえる「古事記」の序文に引用している。
日本神道はその最原初の頃から、仏教文化の影響を受けつつ文書化されていったことが分かる。

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014 2012/02/25(土) 22:26:33 ID:2IKqzAr2lQ
「華厳経」世主妙厳品一の四(八十巻中四巻目)読了。

ここまでですでに、華厳思想はヴァーストゥ・シャーストラ(インド風水)の影響を色濃く受けていることが分かる。
空神、風神、火神、水神、地神らが、他の数多の尊格と共に釈尊の悟りに共鳴している。
他にも海神や河神や林神や山神、そして金剛神なとが登場する。登場の順番は

空神→風神→火神→水神→海神→河神→林神→山神→地神→金剛神

であり、これは物質としての固着度ないし体積あたりの重力エネルギーの少なさの順番に並べているのだと思われる。
また、上記のような自然的存在ではなく、社会的存在を神格化した尊格までもが数多登場する。その順番は

空神→風神→火神→水神→海神→河神→稼神→薬神→林神→山神→地神→城神→道場神→足行神→身衆神→金剛神

であり、華厳思想が商業(稼)や医業(薬)を、君子業(城)や出家業(道場、足行)よりも下に置き、
それでいて出家業のさらに上に一切衆生の営み(身衆)を、金剛に次ぐものとして置いている事が分かる。

ここで「上下」と呼んだのは、この世主妙厳品の最後(一の五)に、仏を除く最高級の尊格である菩薩が登場するからで、
世主妙厳品一の一とは逆順で登場する一の二〜一の四の尊格たちは、少なくとも中盤から後半にかけては、
最初ほど下であり、最後ほど上であるという格付けで、順序だてて登場しているものと見なされるのである。
ただし、上記の空神の登場以前は

八部衆→昼神→夜神→方神→(空神→・・・)

という順序であり、むしろ尊格の格付けが下がっているようにすら見える。つまり、一端、登場する尊格の格付けが
下がった上で、また格付けが上がりつつ、最後には菩薩が登場するという「下がって上がって」の順列による登場である
と見なすことが妥当である。ちょうどこの内では「風神」が登場順位のど真ん中で、風神あたりが最も格が低い。だから
「平家物語」冒頭でも「たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」と、風にすらなびく塵の儚さが詠われてもいる。

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015 2012/02/25(土) 23:17:40 ID:2IKqzAr2lQ
風の隣りに、空がある。さらにその空の隣りに、「方」がある。

幾何(方)の先にある昼夜をも乗り越えて、仮に稼あたりが八部衆のような、
いかにも世俗での成功者然とした尊格にならんと目指したなら、
まず自分のすぐ隣りの「空」でつまずく。あえてその逆流を
踏み進んだとしても、その過程において必ず自分自身が皆空に帰す。

傍から読んでてもよく分からないだろうけど、そういうことになる。
顕教ではあるにしろ、やはり華厳思想だって、体得しているものがなければ、
ただ読んだだけでは理解できないだけのものを多々包摂している。
というか、ただ読んだだけでは理解できないものの集大成ですらある。

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016 2012/02/25(土) 23:58:46 ID:W5CGAKecWk:au
誰か、>>13-14に書いたことが少しでも理解できる人いる?

いないんなら、もう少し論評のレベルを下げようと思うけど。

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017 2012/02/26(日) 01:05:07 ID:SGPMZ9Dgbo
いかつい漢字術語のこけおどしの割に内容薄いなぁ。
いや君の論評じゃなくて、仏教全般が大昔からそういうスタンスで売ってるよね。
ウンタラカンタラ王とか俺ならバカバカしくなるがよく頑張って読めるね。

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018 2012/02/26(日) 06:23:27 ID:qISgG8TMe6:au
×>>13-14
>>14-15

仏教が権威を保てる時代こそは平和だ。
権威の保てない時代こそは乱世だ。

「繊細な深み」が理解できる人間のいる時代と
そうでない時代との差異があるから。

元より、肉のうま味あたりが最高の価値基準である小人(稼人)には、
繊細な深みなどを理解する能力はないので、仏法の世俗流布が一定レベルを超えるためには、
君子階級によるトップダウンの仏教振興がどうしても必要になるようである。

「庶民の帝王」池田大作がいくら仏教の権威化に努めたところで、
大多数の一般人はかえって、仏教を鼻つまみもの扱いにするようになるばかりである。

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019 2012/02/26(日) 06:43:06 ID:qISgG8TMe6:au
つーか、ガチガチの現実主義である儒学ばかりを論じていたせいで
誰一人として反応すらできなくなっていたところに、儒学よりは遥かに
柔和な側面を持つ仏教の話を持ち込んでやった途端にこれだよ。>>17

仏の声も届かない、餓鬼畜生の群がる乱世には、
やはり重罪人を容赦なく罰していく儒学道徳か、
せいぜい他力の浄土門あたりでのからかいがお似合いか。

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020 2012/02/26(日) 07:39:39 ID:qISgG8TMe6:au
それこそ、仏法こそは「愛すべし」でもある。

勧善懲悪のために容赦なく重罪人を罰していく儒学道徳を、
たとえば重罪人の立場から好きになろうたってそりゃあ無理な話で、
実際に儒書にも「憎んでその善を知れ(礼記)」とあるとおり、
むしろ憎まれるぐらいでこそ、悪逆非道に邁進する最悪の状態よりも薄皮一枚だけ上、
「悪鬼羅刹を踏み潰す明王さまの足の裏」としての冥利にも尽きるのだといえる。

仏弟子を愛するあまり、一緒に出家して比丘尼となった逸話(摩登女経)もあるように、
仏教こそは、愛欲すらも悟りに変えられるだけの度量を持っている。

未だ濁愛にまみれているのだとしても、「愛すべし」という大きな義務感を持って、
その愛を仏道への邁進に振り向けたなら、それこそ並み以上の大成すらもが期待できるというものなのに。

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021 2012/02/26(日) 22:43:22 ID:LlHSCMatng
「華厳経」世主妙厳品一の五(八十巻中五巻目)読了。

八部衆や諸神に次いで、菩薩の登場。
ただ、その登場の仕方や語り口は今までと同じで、理論展開として新たなものは特に見当たらない。

個人的に、ここまで読み進んで来て、思わずニヤニヤと
不審な笑みを思わず浮かべるようになって来てしまった。

読んでて、意味が分かるから。

長年の漢文の読み込みのおかげで、>>17がウンタラカンタラで意味不明だと決め付けている
数多の尊格の名前の意味がスラスラと理解できる。尊格名以外の色々な仏語も、今までに知らなかったものも、
その字面を見るだけで大体意味が分かるから、言葉としてのいかつさなどよりも、術語としての巧みさのほうに興味が置ける。

たとえば「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩は、一念に無尽の成正覚門を現じて不思議の衆生界を教化し成熟する解脱門を得」
とあるとき、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩」という名の尊格が、「一念に……解脱門を得」という目的を実現することが
因果律に適っている。「キリスト(神の子)は死んで蘇った」という文章は、「キリスト(神の子)」という名の下に
「死んで蘇る」という目的が達成されることが全く因果律に適っていないため、文章として読んだ途端に、違和感を抱かされる。
しかし、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩が、一念に……解脱門を得る」という文章は、因果律が完全に満たされているから違和感を抱かせない。
尊格の名の意味も、尊格が為すことの内容も十分に理解できたなら、必ずその全ての記述が因果律にかなっていることが分かる。

無数の尊格が、自らの名の下に目的を実現していくその有り様が、全てことごとく因果律に適いきっているため、
まるで延々と落ち続ける滝の水を見ているときのような爽快感が、どこまでも続くのである。

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022 2012/02/26(日) 23:21:51 ID:LlHSCMatng
因果律に適った論理構造の文章を読むことが、これほどにも違和感なく、
爽快なものであるのだということを思い知らされるせいで、思わずニヤニヤしてしまう。
これと比べれば、因果律が破綻している文章を読まされることには、
まるで糞詰まりのような精神的苦痛が伴っていることがよく分かる。

在俗の凡夫としての立場から華厳経を読んでいると、ある種の「憧れ」を抱かされる。
それは、ある時は歴戦の将兵に対して少年が抱く憧れのようであるし、またある時は、見目麗しい
美女にこれまた未熟な少年が抱く憧れのようである。自分が決して未熟な少年などではないとしても、
在俗の凡夫であるというのなら、より高度な境地にあることが確かである華厳思想に対して、
まるで未熟な少年が、自分よりも成熟した何ものかに対して抱くような憧れを抱かせるのである。
(おそらくこれが、仏門の出家修行者が自分たちを「坊主〈未熟者〉」と呼びたがる所以でもある)

現存の華厳経のような、現代人にはなかなか読み辛い漢訳仏典を、現代人でも読みやすいように
意訳するなり、要約するなりしたとする。そしたら、歴戦の将兵はまるでぬいぐるみの兵隊人形の
ようになり、美女は面会もできずに延々と匿名掲示板上だけで会話させられるかのようなザマとなる。
いずれも、未熟な少年だろうとも辟易して憧れを失うような代物となるわけで、初めから英雄や女が
そんなものでしかあり得ないと思い込まされた時には、二度と憧れなんかを抱くこともないだろう。

漢語や梵語の高度さこそは、明らかに現代日本語や西洋言語などと比べて別次元なものであり、
それをより低次元な言語表現に落とし込んだ時点で、必ず膨大な分量の意味の欠落を生ずる。
それによって、原文によってなら抱けるような憧れまでもが、始めから抱かれもしなかったり
することにもなるわけで、次元の低さに何もかもを落とし込もうとして、そのせいで不満の塊と
なった挙句にドッカンファビョンなるという悪循環の不実さが、今こそ神妙に汲み取れるのである。

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023 2012/02/26(日) 23:35:59 ID:qISgG8TMe6:au
一日一品の寸評だけでも、明和のサーバが悲鳴を上げているよ。

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024 2012/02/27(月) 00:31:27 ID:v6znZ22aXg
>>21
ウンタラカンタラとは書いたが、意味不明だとは決め付けていないよ。
意味はわかる。仏教なんて字面がいかついだけで内容はいたってシンプルだから。
マンダラのような緻密な文字の粉飾に幻惑される気持ちもわかるが、
バカっぽく見えるのでそろそろ目を覚ました方がいい。

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025 2012/02/27(月) 01:12:19 ID:Rl0utfhgGw:au
意味は分かっていないよ。
分かっていないから、意味と意味との因果応報が
ことごとく成就している滋味深さを味わうこともできないままでいる。

因果律保存の滋味深さを味わえない所でこそ、
糞詰まりの悩乱からなる馬鹿の開き直りまでもが生じるのである。

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026 2012/02/27(月) 11:37:33 ID:XS./sh2Yac
大乗非仏説ってありますよね。

この辺の経典は、作者不詳の、作り話のおとぎ話と分かっていても
そこから得るもってあるのでしょうか?

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027 2012/02/27(月) 12:41:35 ID:Rl0utfhgGw:au
「作者不詳の作り話のおとぎ話」

そりゃ新旧約聖書のほうだ。

大乗経典の作者:
釈迦個人の論弁や教義を杓子定規に受容することばかりに
終始している上座部仏教に反感を抱いた部派仏教の出家修行者
大乗経典の内容:
釈迦の成道以前の修行や布教活動なども参考に、より本格的な出家修行に
努めた大乗の仏者たちが得た悟りの心象などのありのままの表記

これほどにも、大乗経典の作者と内容とは、見るに明らかなものだ。

「マタイ」とか「ルカ」とか署名が明記されているから作者が明らかで、
「キリストは生き返った」と作中で何度も証言されているから
作り話おとぎ話ではないなどという転倒夢想の悩乱状態にあるのなら、
作者名も証言もされていない大乗経典の記述姿勢を以って、
「作者不詳の作り話のおとぎ話」などと決め付け苦しんだりするのかもしれないが。

返信する

028 2012/02/27(月) 13:06:15 ID:Rl0utfhgGw:au
たとえば、釈尊がチョモランマの初登頂者だとする。

上座部の仏者は、その釈尊の偉業を称えて、初登頂
ならではの感興や、その登頂経路の保全だけに務めている人々。

大乗の仏者は、初登頂者としての釈尊の偉業を称えつつも、
自らもまたチョモランマに登頂することを志し、新たな登頂経路
なども開拓しつつ実際に頂上に登り詰めて、自らの言葉で
その感想を述べたりすることにも務めている人々。

どうあっても、人類として二度と「チョモランマの初登頂者」に
釈尊以外の誰かがなり得ることはないし、初登頂者ならではの、
登頂経路の新造などの労苦を、今さら誰かが繰り返したりする必要もない。
だから、釈尊以降の人間としての立場からすれば、チョモランマ登頂を
より一般化してくれている大乗の教義を受容するほうが、理に適っている。

ほとんど「遺跡保全係」も同然の存在である
上座部のほうに、興味本位の一般人がたかったりするほうが、
上座部の側にとっても迷惑千万なことにすらなり兼ねない。

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029 2012/02/28(火) 22:25:24 ID:CHYD6iiyhA
「華厳経」如来現相品第二(八十巻中六巻目)読了。

とにかく光、光、光、明、明、明、照、照、照の大プッシュ。
浄土門の阿弥陀仏も「無量光寿仏」の異名を取るけれども、そもそも仏教という宗教自体が、
尽十方をあまねく照らし尽くすことを目的とした「光の宗教」だったことが分かる。

光や闇ってのは、あくまで善徳や罪悪の比喩表現ではあるわけだが、
その光や闇といった象徴表現をそのまま当てはめるなら、

仏教・・・何もかもが光で満たされることを画策する。
悪魔信仰・・・何もかもが闇に蔽われることを画策する。
キリスト信仰・・・何もかもが闇に蔽われる中で、自分たちだけが限られた灯火に与ることを画策する。

であり、仏教が闇黒崇拝の悪魔信仰と相容れないのはもちろんのこと、
暗闇の中のともしびをありがたがる(暗いと不平を言うよりも、 すすんであかりをつけましょう)
キリスト信仰ともまた、根本的に相容れないものであったことが分かる。

仏教と悪魔信仰、仏教とキリスト教が全く相容れず、並存が全くの不能である一方で、
悪魔信仰とキリスト教は相容れるかどうかはともかく、並存が可能である。

尽十方が無辺に光で照らし出されたのでは、尽十方を暗闇で蔽おうと画策する者の立場はないし、
漆黒の暗闇の中でのともしびこそを愛でようとする者もまた、どこにも居場所がなくなることになる。
それとは違って、何もかもを暗闇で蔽い尽くそうとする者と、暗闇の中の限られた灯火を愛でようと
する者となら、志すところは違っていても、同じ場所に並存していることが一応可能となるのである。

光闇、明暗といった象徴表現は確かに、善悪正邪の微妙な相関法則を説明する、巧みな方便ともなっている。

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030 2012/02/28(火) 22:58:15 ID:CHYD6iiyhA
ここまで読んで、阿弥陀仏は別に、西方浄土を司る如来だから、
特定して光寿無量だったりするわけではないということが分かった。

尽十方を照らし尽くす内でも、日没する方角であるが故に暗愚をも想起させる
西方を照らし出すことを任された如来が、特に阿弥陀仏であるというだけのことで、
暗闇や、暗闇の中の灯火を愛でたがるような陰湿な性格の持ち主にまでも
光明の有難みを思い知らせることが、阿弥陀様に課された特有の使命だったのである。

ここに、悪人正機の謎もまた、解明されたといえる。
全ての如来は、諸方を照らし尽くすことを目的としているけれども、その中でも特に、
日没する西方を照らし出すことを担われたのが阿弥陀様だから、世界が暗闇と化すことを好むような、
最悪の悪人までをも救い取ることこそは、特定して阿弥陀様の使命でもあったのである。

だから、阿弥陀様による救済を欲する念仏信仰において、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という仏説もまた、生じたのである。

阿弥陀如来の他にも、一切衆生を救済することを任された如来は多数居らっしゃり、
それぞれに東方を照らしたり、北方を照らしたり、南方を照らしたり、西北方を照らしたりと、
縦横無尽の活躍をされることによって、尽十方の衆生を無量の光明で照らし出して、救い取る。

だから、日没する西方を好き好むような悪人の部類でもないのなら、わざわざ西方浄土を司る
阿弥陀如来ばかりに救いを乞う必要はないのであり、阿弥陀如来による救済についてこそ
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とのたまわれた親鸞聖人の悪人正機を、
善人でも悪人でもあり得る全ての人間に対して普遍的に適用したりするのは、おかしいのである。

悪人正機が、さも仏法上の根本命題として提唱されたかのようにすら思い込まれるきらいがあるのは、
それほどにも今の世界が、日没する西方を好き好む悪人ばかりで満たされているからなだけなのである。

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031 2012/02/29(水) 11:40:57 ID:bZwLppgLik:au
神道も光明を貴びはするが、最高神にして光明の源たるアマテラスからして、
スサノオの高天原での乱暴に怯えて岩戸隠れし、世を闇夜にしてしまったりする。
これは実際に毎日昇っては没している天体としての太陽に当てはまる性格だし、
陰陽法則からいっても、光明と闇とが代わる代わる世界を支配することのほうが普遍的ですらある。

しかし、仏教で如来がもたらすとされる無量の光明は、そのような陰陽法則にも根差さない。
昼神や夜神や火神とも別のものとしての、如来の悟りから溢れ出る無量の光明があり、
それが日没する西方を含む尽十方を無限に照らし尽くすというのだから、
もはや如来の光寿は陰陽法則すら守る気のないことが見て取れる。

これは、その地理的な緯度の低さからも、非常に強力な日光に日々さらされている
インドの人々ならではの考えのようで、ここまで陽性一辺倒な志向は西洋人はもちろんのこと、
日本人や中国人などの極東の人間にすらほとんど備わってはいない。

あまりにも光明一辺倒なものだから、
仏教という信教自体が、やはり陰陽法則に根差して世俗から立場を追われることがある。
華厳思想のような聖道門の教理も、武家社会の庶民にまで行き渡るようなことは
ほとんどなかったわけで、本格的な仏教が廃れざるを得ない末世におけるシェルターとして、
浄土門の念仏信仰などが置かれもしたのだった。

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032 2012/02/29(水) 14:23:32 ID:47YnZkwb3c
如来がもらたす光とか、浄土の存在とか
そういう、諸々の大乗フィクションは、いわゆる方便の一つでしょう?

何百年もかけて発展した物語世界は、とてつもなく広がっていますが
そこを追いかけ、没入するばかりでは、本末が転倒してると思います。
あまり深入りするのは、良いとは思えません。

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033 2012/02/29(水) 17:18:14 ID:bZwLppgLik:au
自分が聖道門を盛り立てて行くことは愚か、
その価値を計り知る程度のことすらも覚束ない、
罪悪深重、煩悩最極重の小凡夫であることの、
頼まれてもいない内からの告白をわざわざどうも。

君ぐらいの程度の人間は、仏法の価値を計り知ることもできない内からの、
浄土教の方便に乗せられての、泣く泣くながらの被摂取不捨に引き続き喘いでいればいいよ。

聖道門の、十方に無尽に広がる法界の荘厳に価値がないというのなら、
少なくとも、それ以上に脆弱な、物質的な富の積み重ねや、
それらの宝飾による飾り立てにも価値はないのだといえる。

マンハッタンや東京の高層ビル群も、所詮は数百年以内の風化による崩壊が免れ得ず、
西洋の王候が好き好んで宝飾に用いていた宝石類なども、もはや価格協定すら解消されれば
いくらでも同等品が人工的に量産できるような時代となっている。

無限に積み重ねられようとする物質的な富もまた、
所詮は虚空に遍満する法界の荘厳以内の以下でしかなく、
普遍性という点では、虚空のほうが物質よりも遥かに上であることもまた確か。

「普遍的なものを追い求めよ」というのなら、
物質的な希求を捨てて、虚空の探求こそを本旨とすべきなのであり、
決して普遍的なものへの希求などではないことをわきまえた上で、
物質的な希求もまた為されるべきなのである。

それでこそ、物質的な欲望もまた程度が保たれて害が無くなるわけだから、
物質的な希求の儚さをわきまえるための手段としてだけでも、
虚空の荘厳を探求していくことには紛れもない価値があるのだといえる。

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034 2012/02/29(水) 18:10:35 ID:/MN.n7SJSw
「華厳経」普賢三昧品第三(八十巻中七巻目)を読了。
この品は他品と比べて短編で、次の世界成就品第四と併せて七巻目とされる。

普賢菩薩が、十方の仏に頭頂を撫でられるという描写がある。
インド人は、子供でも他人に頭を撫でられることを嫌がるというが、インドでは、
目上の者が目下の者の頭を撫でることがれっきとした儀礼の内に入れられているから、
子供を褒めたりする目的でその頭を不用意に撫でるようなことをしてはいけないのである。

その他にも、密教などで、明王さまが悪鬼羅刹を踏み潰すといった描写が典型化されてもいる。
カーストのような大雑把な社会身分の区分けだけでなく、インドでは太古の文化習俗から、
諸々の事物の序列を執拗に秩序立てていくことが非常に好まれていることが分かる。

序列志向にも、良性のものと悪性のものがあり、良性の序列志向は、弱肉強食による
世相の荒廃を食い止めるための秩序を目的とする一方で、悪性の序列志向は、
弱肉強食の結果としての上下関係をそのまま絶対的な秩序にしてしまおうとする。

インドのカーストは儒学上の士農工商などと同様、商人を含む平民階級(バイシャ)と
士族階級(クシャトリヤ)が分断されているため、政商の横暴による世相の弱肉強食化が
事前に食い止められるようになっている。それだけでなく、祭司階級(バラモン)までもが
平民階級とは区別されるため、宗教利権が商売化して膨れ上がることまでもが禁止されている。

武家時代にすでに奴隷制が廃止されている日本の人間などからすれば、奴隷階級(スードラ)
までをも固定化してしまうインドのカーストを手放しに肯定する気にもなれない所があるが、
政商とその取り巻きだけが絶対的な支配者となり、それ以外の人間はすべて奴隷や家畜も同然の扱いを
受ける資本主義社会の秩序などよりは、まだ積極的な良心をカーストにも認めることができるのである。

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035 2012/02/29(水) 23:30:08 ID:/MN.n7SJSw
「華厳経」如来現相品を改めて精察し直してみるに、
浄土三部経中の「無量寿経」などとは明らかに違う部分があった。
それは、「金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、硨磲、碼碯」といったような
物質的な宝物によって仏国土を飾るといった風な、下世話な描写がなかったこと。
尊格名や文中で「寶(宝)」という文字は無数に用いられているのに、世俗社会で
普遍的な価値があるとされるような、カタチある宝物による荘厳の描写がない。

達磨大師がまだインドの小国の王子だった頃、それはそれは見事な宝玉を見せられたことがあった。
兄弟たちは無条件にその美しさを褒め称えたものの、達磨だけは「確かにすばらしい宝玉ですが、
この宝玉も光を受けて輝いているだけに過ぎないのです」と評したという。

他から光を受けてこそ美しい輝きを放つ宝物を好むような俗人に対する方便として、
西方浄土もまた七宝のような実物の宝物によって飾られた国土として描かれたのであり、
そのような俗人に限らず、あらゆる人々を救い取ることを本是とした聖道門の聖典である
「華厳経」においては、「無量の光明によって尽十方を照らし尽くす」というところまでで救済の
表現までもが尽くされるのであり、具体的な宝物によって利益を象徴化することすらしないのである。

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036 2012/03/01(木) 11:38:11 ID:Sf6e7YEyS6:au
仏教が唯物論を外道に相手取った唯心論であることは、
大乗仏教か原始仏教かに依らず共通していること。

それも、「心の持ちよう」なんていう生易しいものではなく、
本当に心象の世界に、マンハッタンや東京の高層ビル群を上回る規模と、
デビアスの所蔵宝石を上回る宝飾とでの荘厳を尽くすのである。

心象の世界に構築される荘厳が、実物の宝物によって表現されたりするのは
まだ方便の内で、「無量の光」や「大海」などとして表現されることすら、本当は比喩の内である。

「心の持ちよう」というだけなら、今でも一般的に言われることだが、
その心の持ちようの体系的な強化によって、乞食並みの物質的貧窮からすら解脱することを
本気で画策していたのが、インドの沙門宗教の王者たる仏教なわけで、
それは確かに、未だ物質的欲望の際限なき貪りが容認されている時代においては
副次的な手段であり、中にはそのストイックさを鼻で笑うような
どぐされ外道もいたりするわけだけれども、封建社会のような、
物質的欲望の貪りが総出を挙げて戒められる社会においては本気で貴ばれるものだし、
世界的な資源不足や財政破綻の危機に見舞われている、これからの社会においても、
その価値が本気で見直されていかなければならないものだといえる。

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037 2012/03/01(木) 21:52:10 ID:PB9V9bGShw
「華厳経」世界成就品第四(八十巻中第七巻目)読了。

普賢菩薩が観察した広大な世界海の有り様を流麗な頌歌と共に述べてゆく。
ここでもやはり、即物的な世界の荘厳は極力控えられ、辛うじて「宝樹」とか
「宝冠」とかいったような漠然と物品を表すような言葉が用いられるのみ。

だからこそ、菩薩の境地に至ることで初めて目前に開かれる世界の広大さへの想像力までもが
かき立てられるわけだが、そうして世界観の広大さを間接的にでも思い知らされることが、
思い知らされた人間の脳の記憶情報を最適化する役割までをも果たせるようである。

人間の脳をPCの部位に喩えると、前頭葉が長期記憶を司るハードディスクに当たり、
側頭葉が短期記憶を司るメモリと、情報処理を司るCPUの役割を果たしている。

PCにCPUの性能以上の情報処理を任せると稼働率100%となって、処理が滞るし、
メモリに容量以上の短期記憶を蓄積させようとすると、過剰な記憶情報がハードディスク上の
ページングファイルに回されたりするために、非常に情報の出し入れが遅くなってしまう。

人間の脳でいえば、上記のような状態は「考えが煮詰まる」という状態であり、
煮詰まって悩乱状態となるのを避けるためには、あまりものを考えすぎないようにしたり、
数独のような脳トレを行って、CPUとしての脳の情報処理力や、メモリとしての脳の
短期記憶力を鍛え上げたりすることが、今でも一般的に試みられている。

しかし、仏教は上記のような方法とはまた別の方法によって、人間の脳が考えを煮詰め過ぎないようにする。

華厳経の世界成就品にあるような、広大な世界観を信者なり出家者なりが体得する。
すると、今まで自分の脳内に蓄積されて来た、俗世に関する雑多な知識や考え方がすべて
俯瞰できるようになる。俯瞰することによって、間違った知識や考え方(断片化したファイル)を
整理して、正しい知識や考え方へと再構築する(デフラグする)ことができるようになる。

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038 2012/03/01(木) 21:57:12 ID:PB9V9bGShw
俗世間の範囲内でしか知識を得たことも考え方を構築したこともない人間が、
一旦だけでも全ての知識や考え方を超俗的な観点から俯瞰して、その整理や修復に努めたならば、
その知識や考え方を処理することを任される側頭葉(CPU、メモリに相当)の負担も軽くなる。
わざわざ脳のCPUやメモリに相当する部分の性能を上げたりはせずに、ハードディスクに相当する
前頭葉に蓄えられた長期記憶を整理して、その記憶を処理する側頭葉の負担を元から減らしてしまうという、
デフラグツールなどのシステム最適化ツールに相当するような役割を、仏教が俗人に対しても担うことができる。

これと似たような精神医療の試みが、「ロボトミー手術」という精神外科手術によって為されたことがある。
これは前頭葉の脳細胞を物理的に破壊して、側頭葉による情報処理の負担を軽減するといったもので、
前頭葉の記憶情報を自力で整理する場合と比べてあまりにも乱暴で、失う所も数多い、下手な試みだといえる。

ロボトミー手術は、患者の精神的な苦痛をやわらげるないし解消することを目的に考案された。
「精神的苦痛」というのは、まさに側頭葉の考えが煮詰まりすぎているが故の悩乱のことなのであり、
仏門への帰依はそのような悩乱を解消する上に、ロボトミー手術の場合のような長期記憶の欠損も伴わない。

悩乱のあるところ、必ず妄言妄動が生ずるのであり、故に世相を荒廃させる乱行の元凶とすらなる。
広大な虚空の世界の荘厳に身を置く立場から、強制的に矮小化された俗界にまつわる知識やものの考え方などを
よく整理して、側頭葉の情報処理に無駄な負担をかけさせないようにすれば、自然と妄言妄動や暴行の
元凶となる悩乱もまた立ち消えになる。すると悩乱が招くような禍いもまた未然に防ぎとめられるのであり、
唯心主義に根ざした虚空の荘厳への心象の安住が、紛れもなく天下の平定、国家の鎮護にまでも結び付くのである。

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039 2012/03/01(木) 22:42:19 ID:Sf6e7YEyS6:au
>>37で述べた、考えが煮詰まることによる悩乱を避けるために、現社会でもよく試みられている二つの手段、

・あまり考えすぎないこと
・情報処理を司る側頭葉の性能を高めること

いずれもが、「普賢(普段から賢いままでいること)」をかえって殺ぐ原因となってしまう。

考えないことを試み続ければ、当然賢さは殺がれるし、考える能力(情報処理力)を高める
ことばかりを試み続けても、実際問題、人間が激高な思考能力を保ち続けることなどは無理である。

世に「天才」だ「秀才」だなどと言われている人間も、所詮は一時的な思考能力を高めているというばかりのことであり、
まるでPCのCPUやメモリを交換するようにして、自らの思考能力を格段に高められたりしているわけではない。

むしろ、無理に一時的な思考能力を高めすぎたあまり、常時一定以上の思考能力を保つ能力は殺がれてしまっている。

考えすぎないでいることを心がけた挙句に「普賢」でなくなるのはもちろんのこと、瞬発的な思考能力を
高めようとし過ぎたあまり、恒常的な思考能力を衰えさせてしまった場合にも、「普賢」ではなくなる。

「普段から賢いままでいること」という意味での「普賢」は、脳機能の濫用ばかりが横行している現社会にあっては、
蔑ろにされて衰退させられていることこそあれど、増進されていることなどは決してないのである。

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040 2012/03/02(金) 12:12:24 ID:lro2Er8SYQ:au
側頭葉の情報処理機能に多大な負担をかけ過ぎることが悩乱(精神的苦痛)ともなるので、
前頭葉の長期記憶がひどく断片化するなどして、考えること即ち多大な情報処理を必要とすることと
化してしまっている人間は、考えること即ち悩乱を催すこととも化してしまっているため、
常日頃から適度な思考を保つようなこともまたできなくなってしまう。

一方、虚空の荘厳への心象の安住などによって、前頭葉の長期記憶をよく整理修復した人間は、
考えるということがあまり側頭葉の情報処理に多大な負担をかけ過ぎないようになっているために、
常日頃から適度な思考能力を保ち続けていることができる。

長期記憶が最適化されている人間ほど「普賢」を保つことが可能である一方、
断片化が進んでいる人間ほど普賢を保つことは困難なこととなる。

断片化が進み過ぎて、脳の情報処理に激烈な苦痛が伴うようになってしまえば、
常日頃は畜生並みの白痴状態(IQ40以下)でしかいられなくなったりもするのである。

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041 2012/03/02(金) 13:04:16 ID:lro2Er8SYQ:au
側頭葉の情報処理能力の高さが、
本人の精神的苦痛をやわらげるということは、本当はない。

フラッシュ暗算の習得者なども、まるで苦虫を噛んでいるかのような
険しい表情が身に付いてしまう場合があるが、もしも側頭葉の情報処理能力の高さと、
前頭葉の長期記憶の断片化の進行が両立していた場合、その人間は
クソまずい料理を大量に短時間で喰らい尽くすような能力が身に付くまでで、
相変わらずクソまずい料理ばかりを食わせられ続けているも同然の状態であることには変わりない。

長期記憶が十分に修復整理されている人間こそは、側頭葉の情報処理がまるで、
美味な料理を食するも同然の至福となり得るわけで、その料理を大量に食えたり、
短時間で食い尽くせたりするということには、そんなに意味はないのである。

仕事人として、大量の情報を短時間で処理する頭脳力が役立つということはあっても、
それだけで本人の精神的苦痛が緩和されるということは、基本ない。
相変わらず「キリストは、刑死して蘇ることで、全ての人々の罪を償った」のような、
因果律が破綻した情報(断片化した記憶)ばかりで前頭葉の長期記憶が埋め尽くされているのであれば、
その記憶情報を側頭葉が処理することが、まるでクソまずい料理を食わされるかのような、
多大なる精神的苦痛を催させることには変わりないのである。

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042 2012/03/02(金) 23:28:40 ID:NMuT/L4O72
削除(by投稿者)

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043 2012/03/02(金) 23:31:38 ID:NMuT/L4O72
「華厳経」華厳世界品第五の一(八十巻中八巻目)読了。

ここに至って、「真珠」や「栴檀」「蓮華」といった、実在の自然物による荘厳が出てくる。
>>35で「無量寿経」における仏国土の荘厳として挙げた七宝(金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、硨磲、碼碯)もまた、
真珠、玫瑰、琴瑟と合わせた「十宝」として一応は出てくる。虚空の荘厳の尽くされる尽十方のうちには、
当然日没する西方もまた含まれているわけだから、西方人が好むような物資的財宝による荘厳もまた、あるわけだ。
ただ、尽十方の内では西方もいち方位に過ぎないわけだから、そのようなどぎつい宝物による荘厳の描写の割合は
華厳経全体としては少なく、むしろ蓮華や栴檀、樹や林などの、財宝とも言えないようなものによる荘厳のほうが多い。

まさに、華厳経は「三千大千世界の風土記」だといえる。

この世界、この宇宙に限らず、この世界の形而上の形而上や、逆にこの世界の形而下(プログラム上の仮想世界など)や
そのまた形而下に至るまでの、あらゆる世界を統べる最勝の法王たる如来にとっての、三千大千世界の風流への感興である。

この世に生きる人間としての立場からすれば、把握の対象とできるのは俗世間か、せいぜい自然界まで。
その俗世間や自然界の風流が詩歌などに乗せて唄われることはよくあるが、それと全く同じようにして、
この世界この宇宙に限らぬ、三千大千世界の虚空に安んずる如来の観点から、虚空の風流こそがありのままに謳われている。

人間である以上、いつかは誰しもがこの世を去る。この世を去った後も魂が残るとしたところで、身体は灰塵に帰して
跡形もなくなる。その無常さを嘆くこともまた一つの風流の内には入れられるが、この世界に限らぬ、あらゆる世界を統べる
世尊たる如来が、世界海の風流に対して抱かれた感慨すらをも察することができたならば、自らの命が尽きて、この世界で灰塵に帰する
ぐらいのことは瑣末なこととして受け止められて、死への恐怖からなる妄念や妄動を催したりすることもなくて済むようになるのである。

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044 2012/03/03(土) 02:18:33 ID:AF1vPoaf5Y:au
この世の風流すら解することのない精神障害者が、
三千大千世界の風流に限って理解できるなどということが、何故ある?

仮に自分がこの世界の形而上の世界に上り得たところで、一世の風流すら解さぬその未熟さが、
またその世界での悩乱からなる渇望を募らせるばかりのことではないか。

必要なのは世界の超越などではなく、
一世の風流すら解せる己れの虚心さでこそある。

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045 2012/03/05(月) 22:53:40 ID:xqTUzCBSXA
「華厳経」華厳世界品第五の二(八十巻中九巻目)読了。

この世界の上に別の世界が、さらにその上にこれまた別の世界がといった、
「世界の重畳」が展開される。さらに、それぞれの世界の形が三角形だったり、
八角形だったり卍形だったりと、重畳するごとに様々な形状の変化を見せる。

まさに「フラクタル」の描写そのもの。

法界の真理の描写にかけては、実際に密教が曼荼羅という形でフラクタル図像化もしており、
華厳経におけるフラクタル的な世界の重畳の描写も、完全に確信的なものであることが分かる。

フラクタルはこの世界、この宇宙の範囲内にかけても無数に見られる現象で、
無限次元の非線形幾何学構造としてしか数理化しようのない現象がこの世界に数多見られることが、
この世界を線形の数理物理によって数理化しようとした、アインシュタインのような科学者の
頭を悩ませてもいた。神がサイコロを振ろうが振るまいが、無限次元の非線形系を
人間がコンピュータなどによって完全にシミュレートし尽くすのも無理がある話しで、
不可思議要素を研究対象から強制的に除外する、「オッカムの剃刀」の悪癖を持ち越している
西洋の科学者などからは、非線形科学もあくまで異端のものとして扱われて来ている。

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046 2012/03/05(月) 22:56:05 ID:xqTUzCBSXA
しかし、残念ながらフラクタルを始めとする非線形系こそは、この世界この宇宙を司る真理であるし、
この世界この宇宙ばかりに限らない、三千大千世界の全てに対して通用する絶対真理ですらある。

仮にこの世界が自己完結的な数理構造によって記述され尽くしたとする。だとすれば、
この世界全体を当該の数理構造によって司っている超越者なりを想定することもできなくはない。
しかし、今度はその超越者を司る超々越者の実在性が疑われることになるだけで、その超々越者の
存在性が定立されたところで、これまたその超々々越者を司る超々々々越者の実在性が疑われるまでのこと。

上記のような形而上の超越性の探求は、試み始めればきりがないことだということを
荘子も述べていて、新井白石も同様の意見を、たった一段階上の超越神についてしか
論じない西洋の宣教師に述べたら、ろくな答えも返しては来なかったという。

荘子もそう断じている通り、中国思想は、形而上論などはきりがないから途絶してしまっている。
しかし、インド哲学の雄でもある仏教は、形而上論をも徹底的に突き詰めて、そこに「フラクタル」に
相当する結論を提示している。たった一段階上の形而上しか論じない西洋の形而上学などとは違い、
仏教の形而上論こそは、形而上の重畳についても透徹していて、だからこそ絶対真理にすら合致している。
太古の昔に、形而上学は仏教哲学の一環として、完成してしまっているのである。

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047 2012/03/06(火) 23:21:59 ID:tn7NU.vGG2
「華厳経」華厳世界品第五の三(八十巻中十巻目)読了。

五の二で上の世界、上の世界へと垂直方向に重畳する展開が繰り広げられたのに対し、
五の三で次の海、次の海と、水平方向へと視野が広がっていく展開が進められていく。

五の二が形而上や、そのまた形而上の果てなる世界への、仏眼の透徹の描写であるのに対し、
五の三はこの世界の範囲内での、世界の果てまでの仏眼の透徹の描写であるといえる。

地球は球体だから、水平方向への進行がいつかは円転に帰することになる。地球上に限っての
世界の広さは限られているから、華厳経の描写も、必ずしもそのまま当てはめられはしない。
しかし、「次の海、次の海」という描写を、「次の星、次の星」という風に言い換えてみたなら、
この宇宙の果てへと仏眼が透徹していることにも代えられるわけで、華厳世界品五の三をそういった
宇宙の果てまでの透徹に見立て、五の二をこの宇宙の形而上への透徹にも見立てることができる。

しかし、この三千大千世界をどこまでも包摂し尽くす華厳世界にまつわる普賢菩薩の頌歌の中で、
餓鬼畜生の域に陥った衆生が地獄の責め苦に苛まれたり、あるいは人界や天界での浄業に専念した結果、
快楽(けらく)に与れたりするのを見るといった描写もまたある。つまり、仏道の観点からすれば
さほど高尚でもない衆生界において、鬼畜に対する悪因苦果や、人天に対する善因楽果が
因果応報として成就しているのを見るのだという。三千大千世界に透徹する慧眼に与れる観点から、
善因楽果悪因苦果の罪福異熟が衆生界において成就することが、事実、見受けられるのだという。

それは、この世界この宇宙やその形而上やそのまた形而上といった、広大な世界海における「巨大な現象」
というわけでも決してないのだが、ことに、衆生界というごく部分的な領域における普遍法則としては、
三千大千世界を包摂する広大極まりない観点からも、絶対的と見なさざるを得ないものなのである。

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048 2012/03/08(木) 00:05:45 ID:apbAeqkfEk
「華厳経」毘盧遮那品第六(八十巻中十一巻目)読了。

喜見善慧王という名の王様が出てきて、この王様には三万七千人の妻妾と、
五百人の王子(妻妾の人数と比べてだいぶ少ないのがリアル)、それに六万人の大臣がいるという。
この王様が仏門に帰依することで、何十億という眷属や人民が福徳三昧に与れたという。

仏教というと、いかにも精進修行第一という印象があるが、それはあくまで「出家者」についてであって、
在家信者については、喜見善慧王ほどにも数多の妻子や眷属を侍らせることすらもが認められているのである。

自力作善の聖道門においてこそ、在家信者が数多の妻妾を侍らせる王者であることすらもが認められるのであり、
他力本願の浄土門こそはむしろ、一夫多妻なんか経済的にできやしない、百姓などを主要な在家信者としてもいる。

経済的な理由に限らず、民間人の仕事ってのは、男でも女でもできるようなものがほとんどだから、
男尊女卑が健全に機能せず、一夫多妻を実行しようにも、女の側からの不平を十分にいなすこともできない。
だから貧乏な小百姓に限らず、裕福な庄屋や豪商であっても、一夫多妻というのはあまり一般化しない。

君子階級の男こそは、男にしかできない仕事をやってのけるから、一夫多妻すら当然のものとして押し通せる。その、
君子階級の男が帰依するものとしてこそ、聖道門の仏教もまた相応しいのであり、民間人は浄土門だけで十分なのである。

君子階級の人間が在家信者として聖道門に帰依してこそ、その功徳が民衆にまでも振り向けられるのであり、一夫一妻でも
なければこっぱずかしい民間人の分際でいて、華厳宗や禅宗の在家信者であったりすることには、大した意味はないのである。

日本の皇族はもちろんのこと、中国末代皇帝の宣統帝溥儀すら、時代の風潮に流されて一夫多妻を破綻させざるを
得なかった近現代において、聖道門に帰依することが本当に意味のある人間などは、もはや絶えたといっていい。
(ムスリムはイスラム信仰によって一夫多妻を是認しているのだから、仏教に改宗してそれが存続できるわけでもない)

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049 2012/03/08(木) 02:56:47 ID:8Fa7PujBPc:au
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050 2012/03/09(金) 00:26:43 ID:8WpgUw2eVA:au
「華厳経」如来名号品第七および四聖諦品第八(併せて八十巻中十二巻目)読了。

如来名号品で、西方中仏刹微塵数の果ての世界に「蓮華色」という名の世界があり、
そこでは仏が「滅闇智」と号されているという。「智恵に暗いものを滅ぼす」という意味であり、
日没する西方の住人から見た場合の仏がやはり、最闇黒にさす無量の光でこそあると見受けられている。
本品における十方の羅列順序は

東→南→西→北→東北→東南→西南→西北→下方→上方

であり、本品と四聖諦品は「東方の遥か彼方に至るまで・・・であり、東方の如く南西北方四維上下もこのようである」
という語で〆られてもいるため、華厳経は、東方優位西方劣位の理念に即して書かれていることが分かる。
これによって生じた西方救済の希薄化を、西方浄土を説く浄土信仰が補完しているのだともいえる。

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051 2012/03/09(金) 00:28:24 ID:XqDwV/EiBs
四聖諦品はそれこそ、出家修行によってでもなければ実感が追いつかないような、精密な名辞論となっている。
苦・集・滅・道が具体的にどのような名前の現象として現出するのかが、世界観の違いにも基づいて膨大に羅列されている。
しかも、その全てが絶対的な普遍性にも基づいているというのだから、四書五経レベルの名辞論ですら
その理解が覚束ない現代人などに、自力仏教の名辞論などが毛先ほどに理解できるなどということもない。

とはいえ、まあ、

「この娑婆世界に言う所の苦聖諦は、彼の歓喜世界の中にて、或いは流転と名づけ、或いは出生と
名づけ、或いは失利と名づけ、或いは染著と名づけ、或いは重擔(重荷)と名づけ、或いは差別と名づけ、
或いは内険(内憂)と名づけ、或いは集会と名づけ、或いは悪舎宅と名づけ、或いは苦悩性と名づく」

これなどは比較的、現代人にとっても分かりやすい苦諦の実例かと思う。現代人にとって特にこれが分かりやすいのは、
「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ5:16)」という、新旧約聖書の邪義にも根ざした情報洗脳によって、
誰しもが常にウレシがっているような状態に置かれているからで、極端に歓喜極まっているような状態の人間には
上記のような事物が苦しみとして受け止められる法則があることが、仏門においてはとっくの昔に看破されている。

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052 2012/03/09(金) 00:33:04 ID:XqDwV/EiBs
歓喜者の「失利」や「差別」に対する苦しみこそが、まさに資本主義や民主主義を推し進める原動力ともなって居り、
心境がウレシがりの状態にすら置かれていなければ、別に失利や差別を必ずしも苦しみと受け止めるとも限らない。
聖人君子などであればむしろ、失利や差別が天下国家の安寧のために善用されることを楽しみもする。

歓喜者がそれらを苦しむ原因(集諦)は「非実法」だったり「煩悩法」だったり「狭劣見」だったりするわけで、
これらに相当するものが新旧約聖書や、洋学系の哲学書や法律書や経済書などにこそ、延々と書き連ねられている。
(あるいは、これらの書物を著述する姿勢自体が「狭劣見」だったりする)

歓喜者が上記のような原因からなる苦しみを解くためには、「断集」や「分別尽」や「正念行」や「常寂路」
などの方法(道諦)が適当であるとされ、それでこそ「破依止」や「不放逸」や「真実」や「平等」や
「善浄」や「無病」や「無曲」や「自在」といった形での、苦しみの消滅(滅諦)に与れるという。

極端な歓喜状態に常に置かれている現代人が、上記のような方法に基づいて、
上記のような様態での、苦しみの消滅を試みているようなことからして、基本、ない。

むしろ、「続集」や「無分別」や「邪念行」や「常騒路」を試みることで、「囚依止」や「大放逸」や
「不実」や「大差別」や「悪濁」や「捻曲」や「不自在」といった、さらなる苦しみの増長こそを呼び込んでいる。
「非実法」や「煩悩法」や「狭劣見」にすがることで、そのような悪循環ばかりを進行させてしまっているのである。

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053 2012/03/09(金) 12:56:07 ID:8WpgUw2eVA:au
たとえば、飲酒運転や刀剣所持のような、それ自体が誰に対して迷惑をかけるわけでもない
虚罪に対して不当な重罰を科す、悪質な実定法があったとする。するとこれは「非実法」であると言える。

政財界がグルになって、自分たちばかりに不正な利得を呼び込む商業法規を
でっち上げて世の中に強いたとする。するとこれは「煩悩法」であるといえる。

性風俗に対する極端な規制緩和などをしても煩悩法になるし、
逆に極端に規制を強化したりしても、これまた非実法になる。

これら全て、自らの挟隘な了見を社会的に普遍化しようとする、「狭劣見」によって催される。

歓喜世界にまつわる四聖諦の法則は、確かに近代の法治主義にもそのまま当てはめられる。
しかも、これは四聖諦の法則の内でもごく初歩的なものに過ぎないのだから、
仏法の普遍性は、歓喜世界の構築一辺倒な近代法のそれを軽く上回っているのだといえる。

「華厳経」四聖諦品は、明らかに、ただの学者や作家が著述できるような代物ではない。
厳しい精進修行を積んだ出家者が、尽十方にあまねき絶対真理を把捉し尽くした先に
拵えられた論述でこそあり、故にこそ近代法が取り扱うものの全てである、
歓喜世界の四諦などは完全に看破した上で、なおのこと、ごく部分的なものとしてのみ取り扱ってすらいる。

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054 2012/03/10(土) 23:22:51 ID:1ukpR0Jn0A
「華厳経」光明覚品第九(八十巻中十三巻目)読了。

文殊師利菩薩が諸仏への讃頌の中で、「導師は地獄の中にも身を置いて、
衆生を度さんがためにその苦しみをも耐え忍ばれた」と唄っている。もちろん
罪があるから地獄に堕ちたのではなく、自ら進んで地獄におもむいて、そこでの責め苦を
あえて体験したのであり、それでこそ地獄の苦しみをも超越した諦観を得たのである。
このあたり、朱子が「巨石を抱いて水の中に身を投じるが如し(近思録)」と徒労扱いした部分であり、
始めから地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に立ち入りすらしない儒学の中庸志向などとの決定的な相違点となっている。

仏教の「中道」は、善悪の両極端を完全に計り知った上で、その中正の悟りを得ることである。

本品に「丈夫師子の歩」という言葉が出てくる。これは、釈迦が生誕時に七歩歩いて、
天地を両手で指差して「天上天下唯我独尊」と言ったとされる伝説、この伝説における「七歩」を指している。
どうせフィクションには違いないにしろ、この、諸法無我を説く仏教の開祖である釈迦の伝説にしては
どうにも理解し難い説話の意味が、光明覚品全体の趣意を汲み取ることで、初めて理解できる。

釈迦の我は、皆無といってもいいほどにも真空だったのである。真空だったから、万物万全をも包摂し、
三千大千世界に唯一つのものとして、他に比するものすら見出せなかった。そしてなおのこと、その我が尊かったのだ。

万物万全を包摂する自我が尊かったことこそは、万物万全が、己れの我によって
本当に包摂できすらしたならば、それが確実に尊いものであると分かる証拠だったのである。
(包摂できない限りにおいて、尊いものであることが分からないのも、この法則に根ざしている)

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055 2012/03/10(土) 23:39:37 ID:1ukpR0Jn0A
中国の道家では、荘子が「万物斉同」という教理を説いている。これは仏教で言えば、説一切有部の概括版とでも
いったものに相当するものであり、万物の内に存在としての自己をも包摂して、その全てに帰することを意味する。

しかし、大乗仏教の根幹に据えられている中観に基づくなら、一切は有でも無でもなく、有も無も均等に否定する
「空」にこそ還元することができるとされる。これは、コンピュータプログラムなどにも用いられる全ての論理回路が、
空の論理に相当するNAND回路によって構築することが可能であることからも、真実であると証明されていることだが、
論理的に一切万物万全を包摂することのできる「空」にこそ、釈迦の自我もまた合致していた。だから、釈迦の自我は
天地万物一切と、その形而上や形而上や形而上、形而下の形而下の形而下に至るまでの一切全てとも合致できたのである。

道家思想に仏教と類似する点が多々見られることは、現行版「列子」の序文で張湛などが指摘してもいるが、
三千大千世界を包摂し尽くす絶対真理の把捉を「空」という理念によって煮詰め切れてまではいないあたり、道家も、
上座部や説一切有部に相当するような考え方止まりであったのだといえる。(道家の発祥時期は上座部とほぼ同じでもある)

道家によってですら把握しきれていなかった、三千大千世界を包摂する絶対真理としての「空」の体系的な把捉までもが
完遂されていたから、大乗仏教が中国や日本でも取り入れられた一方、道家によって説明が尽くされている程度の教義だから、
上座部仏教などは、その経典(阿含経典)が輸入され訳出されていたにもかかわらず、中国や日本には広まらなかった。

大乗と上座部とを問わぬ、仏教全体の開祖である釈迦がどうだったかといって、やはり、いちいち「空」などという言葉で、
NAND回路に相当する真理を概括的に把握してまではいなかった。しかし、やはり、釈迦の自我が「空」に相当するものではあった。
だから、わざわざ言葉にするまでもなく、全くの我流で空の論理に即した悟りを得た。釈迦が空の論理を自我としていたのは
ほぼ先天的なことですらあったから、釈迦はその生誕時からすでに、「天上天下唯我独尊」ですらあったというわけだ。

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056 2012/03/11(日) 22:09:25 ID:PXIjiZ5uPs
「華厳経」菩薩問明品第十(八十巻中十三巻目)読了。

ロボットが、出てくる。

「衆生が苦を述べたり楽を述べたりするのは、機関の木人が我も非我もないままに声を発するようなもの」
とあり、まさに「機関の木人」とは、今でいうロボットのことだといえる。「列子」にもロボットに相当
するような人造人間が出てくる逸話があり、これがロボットの具体的な描写としては世界最古のものに当たるが、
華厳経におけるロボット(機関の木人)の描写は、さらに、ロボットのメカロニクス的な側面にまで
踏み入っており、「人間が作った人間が動いた」というばかりの列子の逸話以上にも、深遠であるといえる。

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057 2012/03/11(日) 22:27:01 ID:PXIjiZ5uPs
話はそれるが、リグ・ヴェーダに「ヒラニア・ガルパ(黄金の胎児)の歌」という賛歌がある。
ヒラニア・ガルパは、生まれた瞬間から万物の独一の主となり、天地をあまねく平定するとされる。
これこそは、釈迦が生誕の瞬間に七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と唱えたという「丈夫師子の歩」の逸話の
原型に相当するものであるといえるが、実際にヒラニア・ガルパが釈迦であったとして、その釈迦が人間の自我を
ロボットのそれも同然の非我非非我であると悟ったのである。人間の胎児も自我と呼べるほどの我を持たず、
産まれ落ちた瞬間に気道が開通する痛みによって泣き声を上げ、それによって初めて自我と呼べるような自我を抱く。
その自我を抱く以前の胎児のように、自我を得た後の人間もまた、ロボットも同然の空なる自我を持つだけなのである。

この世界の全ての人間が、胎児やロボットも同然の無我によって司られることで、世界も平安に帰するということが、
華厳経とリグ・ヴェーダとの両者によって保証されている。いま、こうやって書き込んでいるインターネットも、
自我一つ持たないコンピューターによって司られているが、仮にこのコンピューターに司られたインターネットが
世界の平安に貢献することがあるとすれば、それは、仏教哲学などの古代インド哲学にこそ根ざした結果となる。

近現代の科学者や技術者が確信していたといないとに関わらず、コンピューターとかロボットとかいった工作物は、
仏教哲学に即して世界を安寧に導くことが可能となるように設計されている。デューリングやノイマンやリッチーやゲイツが、
確信的にコンピューター文明を仏教哲学に即して提唱していたのかどうかも知らないが、コンピューターやロボットは、
もしも善用されたなら、仏教哲学に基づいて世界を平安に導くこともまた可能となるようにできているのである。

コンピューターシステムの正体は、開発者たち自身の意向にすら関わらず、仏教哲学の成就でこそあったのだ。

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058 2012/03/13(火) 22:52:18 ID:grP8Zq94nU
「華厳経」浄行品第十一(八十巻中十四巻目)読了。

仏道の具体的な実践方法が、在俗から出家後の日々の行いや視覚的な観察、
はたまた大小便時に考えることに至るまで、ことこまかに列記されている。
文殊師利菩薩が智首菩薩からの問いに答える形式で述べられているが、文殊菩薩が
智首菩薩の問いに答えてやるのは、智首菩薩が「世間を哀愍し天人を利楽せんと欲するがために、
最勝無上となる行法を問うたから」だという。儒学道徳の修得に「修身斉家治国平天下」のような
明確かつ正当な目的性が伴っているのと同じように、人が仏道を修めていくことにも、世間をよく哀れみ、
人界や天界に属するような善良な衆生を利楽するという、純正な目的が必要とされているのである。

「婆羅門を見れば 常に願うべし衆生 永く梵行(婆羅門としての浄行)を持して 一切の悪を離れんと」
とあり、沙門宗教である仏教には、俗界の祭司階級に当たるバラモンのお株を奪う気など毛頭ないことが分かる。
日本でいえば宮司、中国でいえば道教の祭司にあたる存在などと仏者が対立したりすることは許されていないわけで、
そのような所業に及ぶ輩は、少なくとも大乗仏教の帰依者には当たらない。(神道の権威を貶める日蓮信者など)

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059 2012/03/13(火) 22:53:45 ID:grP8Zq94nU
バラモンのような俗界の祭司階級との住み分けを明言しているところに及んで、仏教は完全に、
人間社会の統治原理としての役割を元から担わされていたことが分かった。俗界の最高権力者として、栄華を
ほしいままにする君子階級の王侯などには、自分たちだけで中下層の衆生の苦悩などを計り知ることも覚束ない。
多少衆生を監視の対象などにしてみたところで、所詮は桁外れの行為能力を思うがままに扱える非常人としての分際。
衆生の苦しみを観察できたところで、ルサンチマンまみれな衆生から自分の身を守ることばかりが優先対象ともなってしまう。

そこで、自らが乞食も同然の立場にある沙門として、権力者と一般の衆生とを等分な観察の対象にする仏者の存在が、
治世のためのバランサーとしての有効な役割を果たす。結果的にそういった役割をも担っているのではなく、
始めからそういった目的を企図して仏門自体が創立されているのであり、国を挙げての仏法帰依に努められた
平安時代の日本などが、400年間死刑の一つも執行しなくて済むほどの治世に与れたのも、まぐれ当たりなどではない。

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060 2012/03/15(木) 00:10:18 ID:IMS5/S2juo:au
「華厳経」賢首品第十二(八十巻中十四巻目)読了。

「もしも衆生が無限の寿命を欲して、色々な煩悩の業火を燃やすことがあれば、
菩薩は老病死の患いを現じて衆生を調伏する」というようなこともまた書かれてある。
「人はいつかは誰しも死ぬものだが、意外とこれが忘れられがちで、まるで生が限りのないもので
あるかのように勘違いして人は放逸に走る」ということを池波正太郎も「鬼平」で書いてあるが、生老病死らの
四苦八苦にあえぐ運命にある、人としての身の程を衆生にわきまえさせることもまた、菩薩の使命なのだという。

「菩薩は一切世間の技術能力をよくたしなみ、あるいは国王となり大臣となり、良医となり工匠となって、
賈客商人の導者ともなる」とあり、儒者の貴ぶ君子とは違い、菩薩はすこぶる多能ですらあるとされる。
君子も多能であることはあるが、多能であることが君子としての条件などではない。一方で、菩薩が菩薩たる
条件のうちには多能であることが含まれており、このあたり、儒学よりも仏教が融通のきく点だといえる。
ただし、その多能さを身に付けるためにこそ、朱子が「巨石を抱いて水の中に身を投じるが如し」と揶揄した、
常人の域を遥かに超えた厳しい厳しい精進修行へと邁進していくのでもある。

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061 2012/03/15(木) 00:12:23 ID:IMS5/S2juo:au
人界だけでなく、天界の技能なども菩薩は嗜む。仙術や易占などの類いも副学してよしとするのが大乗であり、
ただひたすら仏道にのみ耽って他を顧みないのは、大乗が上座部などに対して「小乗」と批判した論拠でもある。
(ただし、大乗仏教のうちでも禅仏教などは、簡素化によってまた仏道一筋に先祖がえりしている所がある)

「全裸をよしとする外道、邪まな生活をする外道、非法最勝外道、身体を火で焼いたり、
牛や鹿や犬の真似をしたりすることを戒とするような外道を教化する」とあり、やはり異端の邪教邪学は、
菩薩にとっても調伏の対象になるとされる。仏教の観点から見ても、正統とされる教派と異端とされる教派の区別は
やはりあるのであり、バラモン教や神道などは正統とされる一方、上記のような志向を具えた信教は、異端とされるのである。

「人はみないつかは死ぬ(諸行無常)」「原因には必ず相応の結果がある(因果応報)」
この当たりの正法に決定的に相反する教義を具えているのが、仏教にとっての「非法最勝外道」であり、
菩薩や仏にとっても共存共栄の対象などではなく、調伏度脱の対象と見なされるのである。

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062 2012/03/17(土) 00:53:14 ID:6kk9xTbqK6
「華厳経」賢首品第十二の二(八十巻中十五巻目)読了。

「日が世間に昇ろうともめくらには一向に見えないように、大士の光明も邪信・劣解の凡夫には見えもしない」
とあり、やはり華厳思想は、煩悩愚爆の凡夫にすら理解の便宜を図ってやったりしているわけではない、
自利作善の聖道門向けの「頓教」であることが明言されている。如来の悟り得た生のままの絶対真理が、
邪信劣解の凡夫などには理解できないものであるということは浄土信仰でも了解されていることであり、
凡夫には理解も不能な悟りからなる無量光によって、阿弥陀如来が下品下生の衆生までをも救い取るという。
一切衆生を救済するという点では、聖道門も浄土門も変わりはしないが、聖道門が自力作善による救いを
優先したことに対するカウンターバランスの埋め合わせとして、他力本願による救いが浄土門として
提示されたのであり、両方あってこそ初めて、完全なる一切衆生の救済が論理的に確立されるのだといえる。

かの有名な、帝釈天による阿修羅退治の描写があり、帝釈天は手に金剛杵と杖を持ち、兵杖の雨を降らして
阿修羅を降伏するとされる。剣・槍・弓矢といったいかにも攻撃力の高い武具ではなく、むしろ殺傷力を
控えたような武具でもって、阿修羅を退治する。孟子も「仁者は杖一つで秦の堅甲利兵をも討ち取るべし」
といっていて、杖が特に、修羅道や鬼畜道を調伏する武具としてインドでも中国でも持て囃されていることが分かる。

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063 2012/03/17(土) 00:56:21 ID:6kk9xTbqK6
「帝釈天は九十二那由他人の天女を召し抱えていて、その全てが
『天王さまは私独りとだけ楽しんでいる』と思っている」そうな。

出家者の禁欲に関する取り決めが甚だしい一方で、帝釈天や喜見善慧王のような超弩級の一夫多妻制の描写もある。
この世界、この宇宙が陰陽法則に司られている以上、欲望ばかりを貪るよりも、禁欲にもそれなりに努めた上で、
欲望もまた発散させられたなら、その時にこそ最大級の大欲すらもが実現される。そのような、大宇宙の根本法則に即して、
禁欲修行をも是とする仏教が興されているのであり、ただ禁欲ばかりに専らであるのが仏法の本是というわけでもないのである。

中国の気功などでは、とにかく息を吐くことが重視される。息を吐ききれば自然と吸うことも活発化するから、
とにかく息を吐ききることが大事とされる。仏教帰依による禁欲や制欲はこの「息を吐く」ことのようなものであり、
完全に息を吐ききることでこそ、「息を吸う」ことのほうに当たる欲求の発露もまた、健全化される。

大欲を叶えるために、何でも欲望が満たされる環境を整えたりするのではなく、むしろ欲望を控えるのである。
完全に欲望を控えきった先にこそ、適正であるが故に無上なる欲求の発露もまた達成されるのであり、
仏教のような、制欲を是とする教学を拠り所としたところにこそ、無上の欲望もまた満たされるのであるといえる。

虚空の荘厳も豊かな仏教こそは、単なる「知足(老子)」にすら
飽き足らない、大欲を満たし尽くす中での不生不滅をも実現する。

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064 2012/03/17(土) 22:13:56 ID:6kk9xTbqK6
「華厳経」昇須弥山頂品第十三および須弥頂上偈讃品第十四(八十巻中十六巻目)読了。

「若し分別に住すれば 則ち清浄の眼を壊りて 愚痴邪見を増し、永く諸仏を見たてまつらず」
とあり、表層だけの弁別に専らであるなら、仏の悟りからも遠ざかるとされる。これは、
生兵法状態の儒者などにも多々見られる悪癖であり、純正な善悪を論じているにしても、
儒学だけを見れば、それ止まりだと思われても仕方のない志向性の一種であるといえる。

そして、真実慧菩薩が謳う頌の中に「実に於いては真実を見 非実においては不実を見る」とある。

歓喜世界の苦集聖諦(苦しみの因子)に、「非実法」が含まれていることを>>52で引用した。
必ずしも全てが全てそうではないにしても、法治国家たる今の日本において公布されている諸々の
実定法(六法など)もまた、その多くが実罪(他者に危害を加える罪。「大智度論」などを参照)でも
ないような罪を徹底的に摘発することを義務化するなどしている非実法(実に非ざる法)となっている。

徳治主義ではなく、法治主義こそは、表層の分別だけを絶対化する統治理念であり、
「悪法も法である」の論理によって、非実法の厳守すらをも絶対化することを開き直る。
これこそは、仏の悟りから最も遠ざかる志向性なのであり、法文による表層分別の絶対化を危む
徳治主義のほうがまだ、法治主義よりも、仏の悟りから遠ざかりにくいものであることが確かなのである。

立憲主義を含む法治主義こそは、仏法による社会統治と決定的に相容れないものである。だからこそ、
明治期にも、廃仏毀釈によって徹底的に仏教が弾圧された上で、日本でも立憲君主制が敷かれたのであり、
法家の有用性をそれなりに認めている儒家以上にも、仏教こそは、法治主義と併存することが全くの不能で
あるが故に、法治主義の公布に及んで、社会規範としての実権を全面的に剥奪されるしかなかったのである。

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065 2012/03/19(月) 14:31:13 ID:svDWqZ9mYk:au
「華厳経」十住品第十五(八十巻中十六巻目)読了。

「菩薩は是処非処、善悪の業報、諸根の勝劣、種々の解の差別、
一切至処道、諸禅解脱三昧、宿命無碍、三世漏普尽の智法を縁して心を発す」とあり、
表層的な分別が悟りから遠ざかる原因になるとしながらも、菩薩については、精進修行によって
絶対真理に根ざした根本的な是非善悪やその業報、勝劣などの差別智を得るという。


「分別」が「恣意による決め付け」という意味で仏典では用いられている一方、
「差別」が「絶対真理に根ざした普遍的な別個化」という意味で用いられているようで、
このあたり、現代における「分別」や「差別」といった言葉の用い方とは逆転しているといえる。

仏を「法王」という王に対比するならば、その王子たる菩薩は、王たる仏に「宴寝」を教わるという。
宴寝とは、「昼間には理由もなく酒を飲まず、夜には理由もなく外で寝ない」ことを意味し、
王が昼夜の区別をよく保つことを王子が教わるという意味だといえる。もちろん聖道門の出家修行者は
飲酒も禁止となるが、仏と菩薩を仮に王と王子に喩えるなら、そういう風になるという意味で、
ある意味、仏門が在俗の信者などに対しては飲酒も認めている証拠的な描写になっている。
ただ、その飲み方が上記のような、節度を保った飲み方であることを在俗者にも勧めているわけで、
人々が昼となく夜となく人工的な酩酊に耽ることを、仏門もまた決して奨励してはいないのだといえる。

昼から酒を飲むことや、夜に理由もなく出歩くことを戒めていれば、自然と飲酒運転などもなくなる。
仕事仲間や友人同士で飲み交わすことは放任しておいて、飲酒運転だけは徹底的に取り締まる
というのも実質性に欠けることで、一般人に余計な交通費を嵩ませる原因にもなる。じゃあ飲酒運転を
是認すればいいのかといえば、そうでもない。飲酒運転をしなければならなくなるような事態を、始めから
なくしていくようにすればいい。それでこそ、世の中に対する、非実法ではない正法の布令にもなるといえる。

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066 2012/03/19(月) 16:27:03 ID:svDWqZ9mYk:au
夜に児童は出歩かないようにさせて、昼は大人でも酒を飲まないようにさせれば、
飲酒運転の車が通学中の児童に突っ込んで多数を死傷させるようなこともなくなるわな。

仏法帰依が行き届いた世の中では、始めからそんな現象からして発生し得ない。

返信する

067 2012/03/20(火) 06:11:35 ID:IcDnvdwrJY
068 2012/03/20(火) 22:52:19 ID:MoelRo85/Q
「華厳経」梵行品第十六および初発心功徳品第十七(八十巻中十七巻目)読了。

本品は長大だが、内容は至って明瞭かつリズミカルで読み進みやすかった。
似たような文体による多様な金言の繰り返しが、リズムを取りつつ内容を理解していくことを助けてくれる。
お経の読誦など単調なイメージがあるが、本来、仏教は非常に音律を大切にした教学であったことが分かる。
すでに楽経が絶えている儒家以上にも、経典を読むだけでそこに一種の音律が備わっていることが分かる。

「菩薩が阿耨多羅三藐三菩提の心を発した心意気はこれほどにも大きい」ということが、
比較対象を多数引き合いに出しつつ示される。比較対象となる功徳もそれなりに良質なものばかりで、
にもかかわらず菩薩は、それ以上もの功徳を志しているのだと述べられる。菩薩自身の為す功徳に関しては
むしろ描写が簡素であり、それによって「菩薩の功徳は何ものにも増して重畳である」ということを示している。
仏教全般が、現象界における具体的な善行の提示に乏しいのも、具体的な善行にかけては、時代によって流転していく
社会規範に併せて、さらにその上を行くことに特化しているからで、だからこそたとえば、科学文明が発達した
現代社会に対して仏道を適用することで、功徳にかけてさらにその上を行くということが、必ず可能となるのである。
そのための心構えないし心意気を唯心主義たる仏教は蓄えているのであって、心という根本の部分の徹底的な精進に
取り組んでいればこそ、末節に当たるモノの領域にかけて、モノに囚われている場合以上の功徳が必ず実現できるのである。

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069 2012/03/20(火) 23:01:11 ID:MoelRo85/Q
仏教が一般に理解し難いものであるのは、民間の産業従事者などにとって、自らの価値観を司るほぼ全てである
「モノ」についての論及が極めて乏しく、そのくせして膨大な文言をも湛えているからだ。その、膨大な文言の
言わんとするところは偏に、「心」の精進についてでこそある。「たかが心など」と、心無き現代人の多くは、
仏法の内実がそうであることを見くびるのでもあるが、仏道修行によって心田を耕すことに努めた人間というのは必ず、
モノばかりに囚われた状態のままで何もかもを為している人間以上にも、より多くの現実的な功徳をも積むことができる。

モノに囚われて何もかもを為す以前に、まずモノを扱う自分自身の心をよく養い修める。そのための手段をモノに
頼るようなことすらせず、心によって直接心を修養する。その体系化が仏教なものだから、常日ごろからモノの扱い方を
第一に考えている一般人(特に民間人)には、心によって心を養う、仏教の理解がちんぷんかんぷんとなってしまう。

仮に仏門に帰依してみたところで、在俗信者の、しかも民間人であったりするのなら、相変わらず自分がする仕事は
モノに関わることばかりであり続ける。だからといって「唯心主義の仏教など無駄だ」などと思わず、仏教帰依によって
心の豊かさを養いつつ、自らの生業にも励んでいくようにすればいいのであり、さすれば、心の余裕と共に仕事に打ち込むことが、
自らの仕事をより良質なものへと昇華させる機縁ともなるのである。江戸時代までの日本人が仏教帰依にも敬虔であったからこそ、
その末裔である近現代の日本人もまた、先祖から受け継がれた心の豊かさを糧に、激動の時代を生き抜いて来られたのでもある。

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070 2012/03/22(木) 22:47:12 ID:gbpa6Mlapc:au
「華厳経」明法品第十八(八十巻中十八巻目)読了。

「菩薩は諸行無常、諸法因果、涅槃寂静、諸行皆苦の法印を知りながら心に奇著なく」といい、
「四無所畏(一切智、漏尽、説障道、説尽苦道の四つを恐れないこと)を出生して清浄ならしむ」という。
四つの法印はどれも有名だが、異義異論を差し挟むことなく、絶対真理としてよくわきまえている者となると、
極端にその数が減る。そのため、諸行無常へのわきまえのなさと共に、一切智の万能感を得たニヒリストが、
自分に酔い過ぎた挙句に発狂してしまったりするし、諸行皆苦のわきまえのないウレシがりの人間が、
耳には痛くとも、結果的には苦を減らすことに繋がる、辛い問題に関する議論(説障道)や、進んで労苦に
励んでいくことに関する議論(説尽苦道)などを嫌がって、耳を傾けなくなるようなことが起きるわけである。

中盤に「六和敬の法を修習す」という風にあるが、「和敬」とは「事業を共にすることで和合すること」と注釈にある。
「六和敬」とは行事を同じくする身和敬、口調を同じくする口和敬、意志を同じくする意和敬、戒行を同じくする戒和敬、
見解を同じくする見和敬、利益を同じくする利和敬の六つをいう。事業を同じくする者同士の理念としていま有名なのが、
かの「友愛」だが、明らかに友愛よりも和敬のほうが、字面からして、事業を同じくする者同士の理念としても相応しい。
(修行仲間も「善知識」と呼んだりと、仏門では友人関係を否認する傾向が多々見られる。友人関係こそは社会関係でしかない
人間関係として他人同士に次ぐ者であるから、超俗志向を明らめるためにも、友好という関係性は排除しているのである)

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071 2012/03/22(木) 22:47:43 ID:gbpa6Mlapc:au
「般若波羅蜜自在なるが故に所説の法相は違背せず」と、般若思想の有意義さが的確かつ簡潔に喝破されている。
「俺はこう思う」「いやいや俺はああだと思う」などと、「〜である」という主張を我を張って言い争えば、意見が
相反する場合に正面衝突して、もはや議論の余地もなくなってしまう。それ以前に、「〜ではない」「〜ではないでもない」
といった「〜ない」の重畳をやり尽くした心境でいたなら、意見が衝突し合う以前にどこまでも議論を掘り下げていける。
否定の重畳の先に一切皆空へと至った般若波羅蜜自在の菩薩ともなれば、必ず所説の法相が違背したりしないところまで
議論を掘り下げつくせる。故に、意見の衝突で議論の余地がなくなって、暴力での争いに発展したりすることもなくなるのである。

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072 2012/03/24(土) 22:39:40 ID:x1ogUBilWc
「華厳経」昇夜摩天宮品第十九および夜摩宮中偈讃品第二十、十行品第二十一の一(八十巻中二十巻目)読了。
漢訳華厳経は分量にばらつきがある各品を、適当な分量ずつで八十巻にぶった切っているので、
巻数と品数の整合性がかなり錯綜している。品分けでいえば不自然なものの、分量的には、一巻ずつ
読み進んで行ったほうが明らかに読みやすく、仏典が「出家修行者の参考書」としてより扱いやすいように
整理を行き届けられてきたことが分かる。このあたり、ただ読むためだけに書かれた文芸書や論文など
にはない便宜で、修行の実践者に対するマニュアルとしての配慮が行き届いているのだといえる。

夜摩宮中偈讃品に「世間は妄に分別す」とあり、なおかつ十行品に「仏の法は世間の法に異ならず、
世間の法は仏の法に異ならず、仏の法と世間の法と雑乱有ることなくまた差別なし」とある。
その心は、衆生はそれぞれに適当な分別を決め込むものの、それはどこまでも迷妄の範囲内である一方、
菩薩は般若波蜜多などによって絶対真理に辿りつき、真理に根ざした絶対的な「仏の法」を悟る、
けれどもそれは結局、世間で最も純正な理法に合致するものであり、たとえその理法を定立するにしても、
衆生ならばただ迷妄によって定立するしかないものの、菩薩は昭らかな悟りによって定立するということである。

世間法としては結局のところ、四書五経にあるような儒学上の道徳律が、仏法ともよく合致している。
しかし、世人や生兵法の儒者などが儒学道徳を定立したところで、やはり新旧約聖書の邪義を定立する場合などと
同じように、単なる迷妄の範囲内で定立することにしかならない。しかし、仏者が絶対真理としての仏法を
悟り得たとき、仏法が純正な世間法たる儒学道徳などとも等価なものであることを大悟するが故に、
仏者の立場から純正な世間法を定立したとき、それは迷妄ではなく悟りによって定立することになるのである。

世人の分別は、たまたま仏法にすら合致する世間法に基づく分別であったところで、やはり迷妄に依る一方、
仏者の分別は、悟り得た仏法と合致する世間法に基づく分別である場合に限るので、迷妄には依らないのである。

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073 2012/03/24(土) 22:40:08 ID:x1ogUBilWc
「譬えば算数の法は 一を増して無量に至るも 数法には体性無きが如く、智慧の故に差別す」といい、
これもまた「世間は妄に分別す」という内だという。「1+1は2だ」という正気の判断と、「1+1は3にも4にもなる」
という狂気の判断と、いずれもが世間の範囲内では迷妄な分別のうちである。しかし、仏の悟りに基づいて
「1+1は2だ」というとき、あるいは「1+1は3にも4にもなる」というとき、確かにそれは悟りに根ざしている。
どちらを仏が是とするとも知れないが、仏によってこそ判断されるとき、それは迷妄な分別とはならないのである。

「菩薩は飢餓にあえぐものに身肉をも呈する」という。どこかで聞いたことがあるような教義だが、
そのために菩薩が取り組むのは出家修行であり、冤罪で重罪人の代わりに刑死してやったりすることではない。
自らが貧窮の苦しみを乗り越えることで、過度の富裕にある者には貧窮への恐怖を取り払わせ、貧窮への恐怖を
取り払った過度の富裕者の散財を通じて、貧窮者にもまた財を恵むという、因果律に根ざした貧窮の根絶が実現できる。

菩薩は、それはそれは酷い邪説暴言にまで耳を傾ける忍辱行に挑み、それでいて動じず、かえって自らの
比較的な清浄さからなる歓喜を抱き、その歓喜によって衆生にも仏法への帰依を好き好ませるのだという。

「ニートでも、重権力犯罪者であるおまえらよりはまだマシだ」という、かの偉大なる現世調伏の悟りもまた、
着実に菩薩行の根本原理には根ざしていたのであり、ただ、仏法への本格的帰依が実質的な禁止状態に置かれている
現代という非常事態に際して、出家修行のような純正な菩薩行によってそれが実現されるということもなかった。

親鸞聖人の主著「教行信証」でも、浄土経と華厳経の比較査読がつとに顕著であり、華厳経に記されているような出家修行を
前提とした菩薩行が、他力本願の俗人によっていかに為し得るかということが、よく考え抜かれていたことが確かである。
そこにこそ、善因楽果悪因苦果の罪福異熟を材料とした、悪人正機説の定立もまたあったのであり、悪人正機説によって、
仏法帰依も絶えた末世における、菩薩行による場合と同等の調伏を用意していたこともまた、確信的なことなのである。

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074 2012/03/27(火) 22:22:05 ID:eQVz7MoHTE
「華厳経」十行品第二十一の二(八十巻中二十巻目)読了。

後半の偈頌に「一切の諸有諸趣を見て其の心に分別せず」とあり、「所行所作も戯論を超える」とある。
そう至る過程は経中に延々と謳い尽くされているが、実際に読み通してみれば漠然とでも、
菩薩がなぜそのような境地に至るのかが、ただの読者なりに察せられるところがある。

仏道は、ただ一心不乱に、傍観も戯れも置き去りにし去るほどもの、純善一筋である。

儒者のように「君子と小人」「仁と不仁」などといった分別を利かせているとき、本人は、分別した両者を傍観している。
傍観しているぶんだけ遊びができて、その遊びが戯論を呼び込む原因ともなってしまう。儒者はそのような遊びを
君子としての業務によって埋め合わせようとする一方、道術者はそもそもそのような分別から遠ざかって済ませようとする。

一方で仏者は、分別を語る語らない以前に、自らが純善たる存在であることに特化する。
そうであることに努める方法は華厳経にも延々と書かれてある通りだが、自らが純善たる存在となった結果、
戯論を控えるために分別を語らないこともあれば、必要に駆られた場合に語ることもある。

善悪の傍観による遊びの発生という儒家の欠点と、
隠退に専らであるが故に怠惰に過ぎるという道家の欠点を、
仏教は同時に克服して、断悪修善であることにかけても究極の境地に至っている。

積極性に特化する儒家の長所を伸ばして短所を省き、消極性に特化する道家の長所も伸ばして短所も省く、
単なる道理思想止まりである儒家や道家のあり方も、最も最適化された形で仏家は包摂している。
それと引き換えに、実践上の出家修行という、儒家にも道家にもない荒行をも自力仏教は大前提としている。

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075 2012/03/27(火) 22:51:59 ID:eQVz7MoHTE
[YouTubeで再生]
あんまりうまい言葉で説明し尽くす自信もないんだが、
仏教は、武道でいうところの「裏」を取っている。

「表」としての社会情報や自然情報を語り通し唄い通すことに儒家は特化しているし、
仏教と同じ超俗主義を標榜しながらも、道家もまた「表のための裏」を追求することに止まっている。
すなわち、世のため人のために無為自然がいかに必要かということを、見抜くことに特化している。

仏教は、ほとんど専ら「裏」の探求である。
社会や自然といった現象を表とするところの裏、その裏と表を総合したところの絶対真理。
表のことは俗人たちがせっせとやってくれるから、仏門はそんなに専らに探求したりはしないが、
自分たちでは裏を探求しぬいて、世俗の表情報もそれなりに見る対象ぐらいにはして、
結果として、裏表の合まった絶対真理に即した言葉を、裏についても表についても語れる。

表側の人間には、表のことは分かっても、裏のことは分からない。
一方で裏側の人間には、裏のことも分かって、表のこともまた全て分かる。

裏の探求の開発の記録として、仏典も膨大な分量が編集されているが、
その全てが全て、裏の開発にまつわる記録だから、表側の俗人には、全く以って理解し難い。

それでいて別に、仏典は不健全なことを記録しているわけでもなく、むしろ表側の人間の壮健さこそを
増進するようなことばかりが書かれている。裏からの補強によって、表社会がより繁栄できるように
なるようなことこそが、特に大乗経典には専門的に書かれているわけで、だからこそ裏に関する
記録でありながら、表社会にも大々的に公表できるような記録ばかりとなっているのである。

下手に表に公表することもできない、表を貶めるための裏の悪用法の記録などは、実際に表には出されもしない。
そして、そのような裏の悪用法を降伏する手段もまた、仏典のほうには書かれているのである。

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076 2012/03/29(木) 18:28:08 ID:kuY9HmlI9I
「華厳経」十無尽蔵品第二十二(八十巻中二十二巻目)読了。

いわゆる「無為の法」とされるもののうちに「数縁滅」「非数縁滅」というものが含まれるという。
それぞれ「pratisarilkhyanirodha」「Apratisamkhyanirodha」の訳で、「択滅」「非択滅」とも訳される。
むしろ「択滅」「非択滅」のほうが訳語としては有名で、自分もこちらの訳語だけを知っていたが、「数縁滅」「非数縁滅」
という訳語のほうが、数にひどく囚われている現代人にはかえって意味を察しやすいのではないかと思う。

数縁滅には、善でも悪でもない知恵にまつわる法、数理や物理や形而上学やその他の概念論が含まれ得る。
といっても知恵の法が必ずしも数縁滅なのではなく、知恵を勧善懲悪や断悪修善に利用する方法が数縁滅になる。
一方で、非数縁滅はもはや知恵の法ではない。善因楽果悪因苦果の罪福異熟が、本性清浄の理に根ざして、
概念的、数的な智恵をも超えたところで結実する法則を非数縁滅としている。

非数縁滅を悟るところがあって初めて、諸々の概念的な知恵の法のうちの何が数縁滅で、何が数縁滅でないのかも分かる。

儒学を始めとする中国思想は、非数縁滅をあまり深くは探求しない。しかし、易学などを通じてその肝要を大まかに
計り知った上で、数縁滅に当たる法則を探求し、実践の対象ともした。ただ、非数縁滅の探求のほうが非常に簡易なままで
あり続けたから、数縁滅の探求もまた、政治思想などの限定された領域に止まることとなってしまった。

数縁滅に相当するものは、古来からの西洋哲学や西洋思想でも探求しようと試みられたことはある。しかし、非数縁滅に
関してはほとんど探究されたことすらなく、そのため数縁滅の探求もまた、間違いの羅列ばかりであり続けてきた。
そのため数縁滅と非数縁滅があいまうことで生ずる縁起もまた、善思善言善行の原動力になることもなかった。

非数縁滅、非択滅に関する探求は、大乗仏教全般の内では唯識思想が主に司っている。
それこそ、華厳や法華や中観などよりもずっと以前に、まず勉強すべき大乗仏教の基本中の基本であり、
より高度な修学に及ぶにあたっても、初心として忘るべからざるべきものとして扱われてきたものである。
(弘法大師も十住心論で、識見の高低を十住心のランク分けの基準に用いられてもいる)

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077 2012/03/29(木) 18:34:43 ID:vSgLj0KRn6
>>76
何?この表面的な理解は..

こんな事して意味あるの?時間の無駄だろ

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078 2012/03/29(木) 19:23:21 ID:wyf2sPeAj.:au
そんなに都合の悪いことを書いてあるか?
なるべく現代人としての、平易な仏典理解に努めようとしているだけなのに。

>>76は、古くから大乗仏教に帰依して来た日本人の一人として、
洋学の心理的な手法が甚だ馴染みにくい一方で、仏教や儒学の手法は、
別に深く勉強もしていない内から馴染みやすく感じられてきた、
その理由が分かって、深く納得させられる心持ちで書いた。

仏教などに深く傾倒して来た歴史もない外人や、日本人であっても、
仏教帰依を自ら拒絶して来た秦系部落所属者などには、
何も共感できる所がないから、表面的な理解にしか見えなかったかもしれないが。

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079 2012/03/29(木) 21:59:07 ID:kuY9HmlI9I
「華厳経」昇兜率天宮品第二十三(八十巻中二十二巻目)読了。
>>76の十無尽蔵品第二十二は(八十巻中二十一巻目)の誤り。

華厳経は、ただの煩悩愚縛の凡夫としての立場からでも、一品に付き二、三語ぐらいはグッと来るものがある。
その語によって「一を聞いて十を知る」とまでは行かずとも、一を聞いて三、四を知るぐらいのことはできる。
本当にちゃんと出家修行を積んだ坊さんであれば、それこそお経の全文に対してですら、それほど以上もの納得があるはず。
「一々の毛孔に無数の如来あり」という華厳経の決まり文句も、そういったことを指し示しているのである。

たとえば本品では、「悉く能く衆生の善根を観察して清浄の業報を壊滅せず」というのがカチッときた。
やはり仏門は超俗としての立場から、世俗の衆生への善業の促しを取り仕切っていくことを本旨としている。
それは、在俗信者が俗人なりの自力作善に努める場合と、完全な他力本願となる場合の、両方を包摂している。
そうであることを簡潔に言い表しているのが上記の語であり、華厳経自体は自力作善向けの経典ではあるにしろ、
他力本願状態の衆生に対してですら、清浄の業報を壊滅させないための便宜を図ることを認めているのである。

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080 2012/03/29(木) 21:59:27 ID:kuY9HmlI9I
「一切の衆生は業の所繋に随いて永く生死に眠る、如来出世して能く之を覚悟して其の心を安慰にして憂怖無からしむ」
という部分を読んで、思わずニヤッとした。衆生ごときは生きようが死のうが、輪廻の業に囚われたままでいる、
何ら刮目するところのない惰眠者の群れだという。またそうであるからこそ個体の死を極度に怖れ、生きる限りに
おいても極度の苦楽という悩乱に苛まれる。それら一切が、真の覚醒たる仏の悟りによって一掃され、生死を超えた安楽へと導かれる。

まるで、覚せい剤の効能のようでもあるが、もちろん仏門は麻薬も服用せず、聖道門なら飲酒すら御法度である。それでいて仏門は、
老い先短い老人にすら、真の安楽を幾度となく授けてきたのであり、全くのシラフでありながら、副作用のない安楽を提供する。
華厳経における法界の荘厳も、妙香・妙音・妙光と、シラフの人間の健全な安楽を促進するようなものばかりで、
特に妙香は御香などの形で実際に仏門でも用いられている。酒や麻薬による荘厳などを、たとえ比ゆとしてでも用いないのは、
ただ仏門でそれらが禁忌とされているからなだけでなく、実際に酒や麻薬以上もの、真の安楽を仏法が提供することを目的としているからだ。

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081 2012/03/30(金) 11:42:16 ID:Hj4YmwzlAU:au
中国にも当然、仏教は渡来したが、儒学のほうが国教も同然の扱いを受けて来たことから、
相対的に仏教帰依の頻度が、日本や東南アジアの仏教国などと比べると低いものであり続けた。
(そのため簡素化された仏教宗派としての禅宗が興隆しもした)

するとどうなったかといって、君子階級と小人階級との間に、極端な民度の格差が生じた。

洋学のように「全くの不能」ではないにしろ、易学もまた、
非数縁滅を詰めて把捉していけるだけの精密さは持たない。
そのため数縁滅にまつわる方法論(儒学)のほうが、権力道徳のような極めてマクロな領域においてしか磐石化しない。

易学の民間人向けの簡易利用である易占が、
甚だ信用のならないものであることにかけては定評があるように、
雑多で微細な業務を仕事とする小人階級の民間人には、全体的に
大雑把すぎる易学による縁起の善良化などが、ほとんど期待できない。

そのため仏教以上にも儒学が偏重されて来た中国では、
君子階級の出身者は極めて優秀である一方、小人階級の出身者は
禽獣も同然の民度しか持たないという格差問題が生じてしまった。

一方で、儒学が国教としてまでは扱われなかった日本などでは、
非数縁滅の法則までをも精密に捉え抜いた坊さんが、民間人に対する教化までをもよくやり抜いたため、
仏教帰依を自ら拒絶していた秦人系の部落所属者などを除くほとんどの民間人に対して、
善良な性格や、良質な仕事を行う能力を潤沢に備わらせたのだった。
(寺子屋教育を通じて、江戸時代の日本の民間人の識字率も、
世界でも抜群の水準まで向上した)

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082 2012/03/30(金) 14:42:03 ID:Hj4YmwzlAU:au
特に、日本のロボット産業の隆盛が、昔からの仏教帰依による民の教化の産物としては顕著だといえる。

数多の中国製品や韓国製品なども、今でもやはり日本の製造機械に頼る所が大きい。
ただ理工学の教育が行き届いているというだけでなく、理工学の知識を実物の生産面において、
欧米人以上にも巧みに駆使することを、日本人は為し得た。
それは、一つには武士による民の徳化があった一方で、さらにそこに、
仏者にもよる有機的な精神教育が民に施されたからである所が大きい。

明王や天王などの尊格の造形も、それはそれは細緻なものであり、
それこそロボットの造形などにも応用したくなる気持ちを駆り立てさせる。

「法輪」や「転輪」といった形で円転の理を仏教は非常に貴んでいるから、
歯車やドリルやファンといった回転構造を駆使する工業技術とも、趣きがすり合わせやすい。

しかも仏教帰依には安楽が伴っているから、異教徒が苦痛がって放り出してしまうほどにも
複雑怪奇な機械構造の設計や製作にも、ある種の楽しみすらをも抱きつつ、臨めるのである。

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083 2012/04/01(日) 20:23:48 ID:2TROe0ZqyA
「華厳経」兜率宮中偈讃品第二十四(八十巻中二十三巻目)読了。

「三世の諸々の衆生は 悉く其の数を知るべくとも 如来の示現する所は 其の数を得べからず、
或る時は一二 乃至無量の身を示して 普く十方の刹に現ずるも 其の実は二種無し、譬えば
浄満月の 普く一切の水に現じて 影像は無量なりと雖も 本の月は未だ曾て二ならざるが如し」

禅の公案でもよく取り上げられる、「水に映る月」という比喩。これが例えば、
華厳思想における釈迦牟尼仏と毘盧遮那仏の同一性、密教における大日如来と毘盧遮那如来の同一性、
本地垂迹における日本神話の神々と、仏教上の尊格の同一性などを確証する論拠ともなっている。

ムスリムが、異教でありながら、仏教に関しては例外的に承認の対象とするのも、ただ聖道門の戒律が厳格で
あるだけでなく、その根本に、多神教的な世界観が方便であることを認めているところがあるからだといえる。
(ヒンズー教も「化身」として諸神の同一性を主張する場合があるが、「全ての神は根本を一にする」
という所までは同一化が徹底的ではないから、イスラム教徒などに否認の対象とされる場合が多い)

なぜ、本体を同じくする如来が様々な形をとって現れるかという疑問には、よく言われる
「山の頂上は同じでも、頂上に至る道は様々である」という比喩を基にするのが分かりやすい。
頂上は同じでも、様々ある頂上への山道のいずれを選択するかで、そこに現れる如来も多様化するのである。

「乾屎橛(かんしけつ. 糞かきベラ)すら仏である」という禅問答もある通り、何でも仏ではあり得る。
人類史上最悪の邪教である聖書教ですら、悟りに至る手段に絶対になり得ないなんてはずはない。ただ、
そのためには模範の対象とするのではなく、完全な反面教師とするのが適切である点が、特殊なだけだ。

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084 2012/04/01(日) 20:56:56 ID:2TROe0ZqyA
「我は難思なるを以て 心業の能く取ることなきが如く 仏の難思なるもまた爾り 心業の現ずる所にあらず」

現象構造として難易度を極めたものの考え方が、心の有り様すべてを把握できるなんていことはない。
他人の心はともかく、自分の心を自分が思考によって捉えきるということは、ヘビが尻尾から自分の身体を
食い尽くすことが不可能であるのと同じように、不可能なこと。どうしても心業を捉え尽くすためには、
言語思考を絶した、不可思不可説の域に立ち入る必要がある。仏の悟りもまたそこにこそあるのであり、
言葉として、思考として現出するものだけをどうにかしようとするのでは、決して悟りに至ることはない。

その、言語道断の境地を尊べるかどうかで、仏教に対する理解、仏教への評価もガラリと変わる。尊べない限りに
おいて理解もできず、何の価値も見出せない一方、尊べたなら理解もできて、そこに無上の価値までもが見出せる。

今の日本や西洋などの大学機構のほとんどは、可思可説の領域だけを専門的な研究の対象としているため、
そこで勉強に努めれば努めるほど、より仏教の価値が分からなくなるという致命的な問題を抱えてもいる。
東大生だからといって、人並み以上に仏教の価値が分かるなんてこともなく、むしろ余計に分からなかったりする。
仏教だけでなく儒学なども、不可思不可説なる言語道断の域に尊ぶべきものを持っているから、やはり洋学系の
大学で勉強に励んだからといって、より理解できるようになったり、その価値が計り知れるようになったりもしない。

洋学者で初めて難思の限界を察したのは、おそらく不確定性原理を発見したハイゼンベルクあたりかと思われる。
不完全性定理を発見したゲーデルあたりがそれに次ぐだろうが、いずれも難思の限界を察したことを
否定的に捉えており、ゲーデルに至っては神経症を来たして餓死してもいる。可思可説の領域を全てとする
洋学者の立場からは、難思の限界の存在が絶望的に映ったのだろうが、仏教は元から、言語道断の領域の実在を
肯定的に捉え、不可思議なる仏の悟りこそを素晴らしさこの上ないものとして、荘厳の対象ともして来たのである。

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085 2012/04/02(月) 23:04:57 ID:PpQlMS46bE:au
「華厳経」十回向品第二十五の一(八十巻中二十三巻目)読了。

「仏子よ、汝当に仏の威神の力を承けて此の法を学ぶべし。〜過失無き浄法を集めんが故に」
仏法を学ぶことが、諸々の雑多な浄法を収集することをも目的とすべきだという。それでいて、
「大士は〜悉く以って衆生を益して 難思の無上智に住せしめん」ともあり、言語思考を絶する
非数縁滅の探求とはまた別に、数縁滅に基づく「難思の無上智」もまた、仏菩薩は醸成せしめるのである。
ということはつまり、仏門においては洋学などの雑学知識を参考に「過失無き浄法」を収集して、
「難思の無上知」を精製せしめることもまた、正統な活動の内に入れられるのである。

弘法大師も、土木工事や山師としての仕事にも従事していたし、江戸時代までのお寺といえば、
仏教知識に限らない、諸々の実学知識の所蔵庫でもあった。坊さんも完全に、今でいうところの正規の学者や
教師のような役割を果たしていたのであり、仏教といえば仏道修行か、葬式などの仏事以外には何もやることが
ないとされている今のほうが、>>60の引用のような記述もある、仏典の実践からも乖離してしまっている。

「異端を攻むるはこれ害あるのみ(為政第二・一六)」とする儒学と比べても、大乗仏教の異学異教に対する
姿勢は明らかに、より寛容である。にもかかわらず、明治期には廃仏毀釈によって徹底的に仏門が弾圧されて、
本格的な修習がもはや禁忌も同然の扱いとされた一方、儒学のほうは徳育教育などとして一応のところ保全された。

これは何故かといって、江戸時代までは禁教禁学扱いだった洋学や聖書信仰が解禁されて、全くの無整理なままに、
とにかく洋学などの知識を国を挙げて取り入れようとしたからで、「過失無き浄法」こそを集めることを目的とする
仏教の実践との併存が全くの不能と化してしまったからだ。儒学のほうはまだ、その内容がごく当たり前な人間学で
あるのと、儒学を学校教育に取り入れることを切望された明治天皇のご意向とがあって、洋学とは別個の学として
保全もされたわけだが、仏教のほうはそうもいかず、正規教育の場からは完全に撤退せざるを得なくなったのだった。

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086 2012/04/02(月) 23:05:41 ID:PpQlMS46bE:au
しかし、もはや洋学知識の取り入れは十二分となり、聖書信仰も人類史上最悪の邪教であることが完全に
判明したわけだから、日本の教育機関も聖書教を禁教扱いとして、仏門のペースに根ざした洋学知識からの
「過失無き浄法」の収集、それによる「難思の無上智」の精製を開始すべきである。東大も慶大もお寺に
してしまい、そこで洋学知識の善用に関する研究も行う。研究者は元大学教授などの、正式な出家得度をした
坊さんであり、仏戒の厳守という十分な実践修養と共に、洋学知識の善用研究にも務めていくのである。
(京大なら著名な寺院が近隣に多数あるから、それらの寺院の下位組織になるだけでも十分だ)

洋学知識の善用研究を仏道に根ざして行うのなら、東大生などが今までに溜め込んできた洋学知識も全くの無駄には
ならない。しかし、洋学知識をやたらめったらに収集してきただけの、今までの研究姿勢は完全に改める必要がある。

「菩薩摩訶薩は親友にあらざるものに於いて守護し回向して、其の親友と等しくして差別なし。〜
衆生に於いて一念も親友にあらずとの想いを起こさず」といい、特定のギルド(商工組合)からの支援が旺盛で
あった関係などから、洋学者にはつとに顕著な、友人知り合いをえり好みする性格は完全に捨てなければならない。

自分を怨み害しようとする相手を含む、全ての衆生を救済の対象とすることを誓い、決して誰一人として見捨てる
対象としてはならない。そしてその決意を二度と捨ててはならず、その目的の達成のためには、自分自身の
あらゆる享楽すらをも捨て去って、ただ衆生を利楽せしめんことにのみ一生涯、専念していかねばならない。
(というようなことが、十回向品第二十五の一にも相当に書き連ねられている)

それができないというのなら、仏道に根ざした洋学知識の善用研究には手出しをすべきでない。戒律などない
儒学に根ざした洋学の善用研究なら、もう少しハードルが下がるが、そのぶんだけ研究の仕方も大雑把になる。
仏道にも儒学にも何にも根ざさない、洋学のための洋学研究というのは、もう聖書信仰並みの禁忌扱いとなる。

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087 2012/04/03(火) 15:37:44 ID:LBdt7MW74g:au
東大生を始めとする高学歴者には、「向上心」がない。

別に、自分が聖人君子として大成するためでもなく、
ただできる限り金銭的な虚栄を誇りたいあまりに、猛勉強を志したというばかりの存在だから、
自分自身の栄華はかなぐり捨てて、ただひたすら仁者としての向上を志していく
菩薩行に向いているか向いていないかでいえば、当然、向いてないほうだといえる。

まだ自らの栄華と、世の中の繁栄とを両立させようとする儒者のほうが、
自己利益を絶対的なものとしてきた立場からも、共感できる所があるだろう。

いずれにしろ、今の世の高学歴者が自らの性格に基づいて、
仏道や儒道を邁進していくことが適しているなんてことは決してなく、
むしろ人並み以上にも自己利益を第一として来た分だけ、
より儒仏を志し難い心理構造にすらなってしまっているといえる。

それでいて尚、高学歴者にも仏道らを志す素養があるとすれば、それは、
「亜数縁滅」にまつわる知識の、人並み以上の豊富さだといえる。

その、亜数縁滅にまつわる知識とて、非数縁滅のわきまえを全く欠いたままのものなのだから、
(だから「数縁滅」ではなく「亜数縁滅」止まりである)
今の知識の豊富さだけを以て、自らが人並み以上の存在だなどと偉ぶることも許されない。

数縁滅の知識に非数縁滅のわきまえが伴って初めて、畏敬されるに値する僧侶ともなれるが、
そのためにはやはり、厳しい仏道修行を果たしていく必要がある。
(他力本願で無戒律の浄土教は、無上知を志したりもしない)

元東大教授や東大生だからといって、「絶対に出家しろ」なんてことは言わない。
ただ、あまりにも常人離れした立場に置かれ続けて来たせいで、
外野に放たれてもろくに自活していく目処も立たず、挙句には被差別部落すら
形成してしまい兼ねないというのなら、その代わりにでも、出家すべきだと言える。

今までの悪逆非道の数々も、
比丘二百五十戒・比丘尼三百四十八戒の終身厳守によって
あがなうというのなら、誰も文句は言うまい。

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088 2012/04/05(木) 19:34:16 ID:5HK6sNsYiM:au
そこそこ読み進んで来たけど、やっぱり聖道門の経典は、
俗人である自分には敷居が高すぎるなと思う。

四書五経を読んでいる場合などにはない、
出家修行者を相手取ることを前提としているが故の
読者にかける多大な心労みたいなものが備わっている。
四書五経だって、読むのが辛い人間には辛いんだろうが、
四書五経ぐらいは難なく読みこなせる自分にも、
仏典の精読には相当な心労を抱かされる。

華厳経はもちろん通読するし、その感想も書いていく予定だけど、
もう少しペースを下げて行こうかとは思う。

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089 2012/04/10(火) 21:54:45 ID:F4QkfBz5yY:au
「華厳経」十回向品第二十五の二(八十巻中ニ十四巻目)読了。

四書五経と華厳経の兼修はなかなか難儀だし、在俗の聖典と超俗の聖典ということで、
実践面で相反する記述も両者間には多い。あくまで実践込みの研究は四書五経のほうとし、
仏典は参考程度のものとするため、華厳思想もなるべくゆったりと学んでいくようにしたい。

「経行処」という、座禅の休憩所に当たる言葉が出てくる。
これは今の禅寺でも「きんひん」の場として設置されていて、参禅の初心者もここで足の痺れを癒したりする。
華厳経は本当に、座禅行を実践する上での切実なマニュアルともなっているのであり、経典の読書よりも
座禅などの実践による教外別伝を重んじた禅宗の祖・達磨大師の姿勢もまた、それ自体が華厳思想に適っている。

「無量無数の難思の劫に 恭敬し尊重して常に歓喜し 未だ曾て一念も疲厭を生ぜず」という。
「いつも喜んでいなさい」と信者にけしかける、どこぞやの邪教もかつてあったが、
自力仏教における修道者たる菩薩こそは、利他行によって自分たちが常日ごろから歓喜し、疲厭もしないという。

ところで、大乗小乗共通の比丘戒および比丘尼戒で禁止されている項目に「戯笑」というのがある。書いて字の如く
「戯れ笑う」という行為で、犯したところで懺悔などの罰を受ける程度の、軽罪相当の扱いではあるものの、
れっきとした罪(突吉羅罪)の一つとされ、すべきかすべきでないかでいえば、すべきでないものとして扱われる。

常に歓喜していながら、菩薩は戯笑などはしない。戯れにかられてのせせら笑いなどは、
精進修行による真の歓喜からなる笑いの価値すらをも無みしてしまうものだから、むしろ避けるのである。
仏の悟りからなる真の歓喜を人々に広め知らせる上では、ウレシがりの戯笑などは、かえって邪魔なのだ。

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090 2012/04/11(水) 19:01:44 ID:OehzAIkYPY:au
「華厳経」十回向品第二十五の三(八十巻中ニ十五巻目)読了。

「菩薩摩訶薩は〜一切の法に作者有ること無きを知り」といい、
究極的な意味での創造主に値するような存在を、仏教は認めていないことが分かる。
万物斉同の汎神論的な世界観に基づけば、全世界を傍観する超越者などというものを
容認するわけにはいかなくなるが、仏教の場合は三千大千世界、この世界の形而上の形而上の形而上や、
形而下の形而下の形而下に至るまでの全ての世界の包摂を尽くした上で、絶対的な創造主
などという存在はないのだということを悟らしめる。それにより、絶対的な超越者を否定するよりも
肯定することのほうが、世界観の拡大に寄与することとなるかのような妄念もまた絶たせてしまう。

「未だ曾て声聞乗を憶念せず、亦復縁覚の道を求めず」と、半ば小乗仏教を鼻つまみもの扱いも
同然のものとする記述がある。それほどにも大乗仏教が勃興した約二千年前のインドでは、
上座部仏教の腐敗が深刻化していたようで、それに対する反発として大乗仏教も生じたのだと思われる。

「法に於いて自在にして、見る者は咸く伏し、刑せず罰せずして、徳に感じて化に従い」という。
仁義道徳も刑法や民法を越えたところにある礼楽によって民を予め善良ならしめようとするが、仏法もそれと
同じように、バカでも従える実定法などよりずっと高尚な領域における、民の徳化を念頭においているのである。

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091 2012/04/11(水) 19:03:59 ID:OehzAIkYPY:au
「願わくは一切の衆生は大願を成満して、皆悉く無上の智王と為ることを得ん」
「願わくは一切の衆生は智慧の日光をもって、愚痴の暗を破せん」
「願わくは一切の衆生は賢聖の床座を得て、凡夫の意を捨てて菩提心に住せん」

この志しの高さには、心から恐れ入った。同時に、今の世の体たらくと
対比した場合の、あまりの高潔さに感動して、思わず涙ぐませられもした。

儒者ですら、一切衆生に最高智を知らしめるとまでは行かず、いつの世にも多少は必ずいる小人を、
君子が徳治によって先導していくというところまでに止まる。けれども仏教はそれにすら飽き足らない、
本当に一切衆生を「無常の智王」にすらならしめようとする。ほとんど想像すらし得ないほどの志しを具えている。

この志しの高さこそは、、日本経済が欧米経済を圧倒して、
人類総家畜化を推し進めていた悪魔崇拝者を撃退する原動力ともなったのだ。

江戸時代の民の徳化は、主にサムライによって為されたにしろ、それ以前には仏門に頼る所が大きかったし、
江戸時代においても寺子屋で坊主が民の教師となったり、あるいは侍自身が剣禅一如の気風によって民を化してもいた。
それによって日本国民の民度が相当に高められていたから、庶民を「ゴイム(家畜)」などと呼んで蔑む権力犯罪者が
最高支配者であり続けてきた欧米社会との、経済戦を含めた総力戦において、優勢となることもできたのである。

悪魔は、確かに仏によって降伏されたのである。

(画像は日本の民衆仏教の祖、行基の像)

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092 2012/04/12(木) 20:48:33 ID:/Jvu/Mexj2:au
「華厳経」十回向品第二十五の四(八十巻中二十六巻目)読了。

想像を絶する記述があった。

「佛子、菩薩摩訶薩、見有獄囚、五處被縛、受諸苦毒、防衞驅逼、將之死地、欲斷其命、捨閻浮提、一切樂具、
親戚朋友、悉將永訣、置高碪上、以刀屠割、或用木槍、豎貫其體、衣纒油沃以火焚燒、如是等苦、種種逼迫、菩薩見已、
自捨其身、而代受之、如阿逸多菩薩、殊勝行王菩薩、及餘無量、諸大菩薩、爲衆生故、自捨身命、受諸苦毒、菩薩爾時、
語主者言、我願捨身、以代彼命、如此等苦、可以與我、如治彼人、隨意皆作、設過彼苦、阿僧祇倍、我亦當受、令其解脱、
我若見彼、將被殺害、不捨身命、救贖其苦、則不名爲住菩薩心、何以故、我爲救護一切衆生、發一切智菩提心故」
「仏子よ、菩薩はもしも獄中に囚われて、四肢五体を縛られて責め苦を受ける者を見、兵衛の者たちも今まさにその者を
刑場に行かしめてその命を絶とうとしているのを見たならば、閻浮提に所有する一切の楽具すらをも捨て去って、
親戚や朋友たちとも永遠の別れを果たした後、自らこそは刑場の高台に上って刀によって割り屠られ、木槍によって
自らの身体を立てに貫かれ、衣服に油を注がれて火を点けられ、灼熱の炎によって焼かれようとする。このような苦しみは
少しも癒えることなく、どこまでも逼迫していくものだが、菩薩は他の無数の菩薩もまたそうするようにして、罪人に対する
処罰を代わりに受けて、自らの身命を捨て去ることにより、衆生の苦毒を代わりに受ける行を為す。その時、菩薩はこのように言う。
『願わくは私こそが、わが身を捨てて彼(死刑囚)の命に代えてみせましょう。彼が受ける諸々の苦しみは全て私に与えて
いただければよろしい。政治にまつわる問題もまた、全てそれに従って頂ければよろしく、それにより例え私が彼の阿僧祇倍の
苦しみを受けることになろうとも、それをも解脱のすべに変えてみせもする。もし私が、彼がまさに殺害されんとするのを見て、
我が身命を捨ててその苦しみを救い贖うことができなかったならば、私は菩薩としての称号を剥奪されても構いはしない』
なぜそうしようと思うのか。『私は一切の衆生を救済し、守護するためにこそ、一切智の菩提心をも発したのだから』」

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093 2012/04/12(木) 21:41:30 ID:vXQhUp1/xw
拘束され、縛られ、油を注がれ、高台に連れて行かれ、槍で縦に突かれて割り屠られる・・・
まさに、キリストの受難劇そのものの描写となっている。

違うのは、

・菩薩は刑死後に生き返るなどとはしていない点。
・菩薩は妾腹の私生児だからといって「神の子」を自称したりはしていない点。
・冤罪の許容が社会的な犯罪現象の増大に加担しかねないことを示唆している点。
・特定の信者を救うのではなく、一切衆生を救護せしめることを目的としている点。

といったところ。

一切衆生の救済の象徴として、地獄の責め苦を受けることが必定な重罪人すらをも救済の対象とすることを挙げている。
あくまで「最悪の悪人までをも救う」という善人正機的な意味合いでの記述であり、「最悪の悪人こそは救われる」
などというような主張には根ざしていない。そしてこれは自力作善の聖道門の経典であり、肉食妻帯もご法度とする、
日本ではいま事実上絶えているような厳しい出家修行の先にこそ、その回向もまた可能になるとされているもの。

「五逆や誹謗正法を犯さない信者に限って救う」という、阿弥陀如来こと法蔵菩薩の請願は、これと合致していない。
殺父や殺母に及ぶような重罪人は俗界でも重罰の対象となるから、このような人間は阿弥陀仏によっては救われない一方、聖道門に
よっては救われ得もする。一方で、今の世の中では聖道門の仏教はほぼ絶えている。だから重罪人が菩薩によって救われることもない。

それは結局、キリスト教勢力がこの世界をメチャクチャに破壊し尽くして、聖道門の仏教などは根絶やしも同然の状態に
追いやってしまったからである。重罪人の身代わりにもなるという菩薩の行業を強奪し、「私は神の子だ」「私を信じれば救われる」
「刑死しても蘇る」などという仏法(造物主否定、一切衆生悉有仏性、諸行無常)に決定的に相反する邪義を触れ回りつつ、無責任に
冤罪信仰による犯罪現象を肥大化させ過ぎたものだから、重罪人すらをも本当に救う聖道門が、この世に存する余地すらもが奪われたのである。

キリストは、菩薩の為すべき行いを妄りに剽窃して、仏法に一切適わぬ邪義を触れ回ることで、
仏法によってですら重罪人が救われなくなる状態を、あえて招いたのである。

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094 2012/04/13(金) 13:54:24 ID:1bxZLpQvzg:au
犯罪聖書の教義は、諸行無常や諸法因果、一切衆生悉有仏性といった
基本的な仏法に違反してはいるが、「ただ違反しているだけ」という意味では、
その全てが仏教の把捉する範疇であるといえる。

そして、新約犯罪聖書のハイライトに当たるイエスの受難劇、
これもまた全く同じ物語構造が、「華厳経」に記録されていたことが判明した。

結局、キリスト教やユダヤ教は、完全に仏教以内の、仏教以下でしかないのである。

違うのは、決定的に仏法に違背する邪義を並べ立てている点だけなのだ。

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095 2012/04/13(金) 14:38:41 ID:1bxZLpQvzg:au
仏法に決定的に違反しているから、
不能を可能にする虚構の超越神を定立もしなければならない。

仏法に即する範囲で、そんな邪神を定立しなければならない必要はどこにもない。
仮に神を定立するにしても、絶対服従のドグマの化身などである必要は全くない。

あくまで、仏法に違反しているから、
そんなどうでもいいものに固執していなければならない、だけでしかない。

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096 2012/04/16(月) 22:10:38 ID:.EkIaLJZSc:au
「華厳経」十回向品第二十五の五(八十巻中二十七巻目)読了。

菩薩の身体の諸々の部位を衆生に施すことによる利益が列挙される。
肉髻、眼、耳、鼻、歯、舌、頭、手足、血、髄、臓器、骨、皮、指の順番にその利益が述べられる。
上にあるものと下にあるものでは、上にあるものが先、下にあるものが後に書かれている。
ここから窺えるのは、仏菩薩に特有の形相とされる「肉髻」の存在意義。
これはどうも、「地水火風空」の五大の最上位に位置する「空」をあらわしている模様。
虚空の悟りの象徴こそは肉髻であり、悟りの象徴として仏の頭部にこれがあるわけだ。
孔子の頭部などは逆にへこんでいたというから、儒者の長たる孔子などは象徴としても、
悟りを開いた仏の一員などとしては扱うべきでないのだろう。

前から読んでて思っていたことだが、ここに至って確信したのは、華厳経は、著者が本当に無邪気なのだ。
サンテグジュペリの「星の王子さま」みたいな偽りの無邪気さではない、著者本人の心底からの完全な無邪気さ。
そう思わせる根拠は、文面からにじみ出る「権力意志」の完全なる不在。新旧約聖書の記述が権力意志たらたら
なのはもちろんのこと、権力犯罪を忌む儒者の正典である四書五経だって、華厳経などと読み比べてみれば、
おっさんくさい権力意志が随所にちりばめられていることがよく分かる。しかし、華厳経には全くそれがない。

数多の妻妾を侍らす大国の君主なども出ては来るが、あくまで他人行儀な扱い。
菩薩摩訶薩はどこまでも、色欲も断っての精進修行一筋。それでいて上記のような君主を含む大権力者の
フォロワーともなり、国家鎮護の礎にもなるという奉仕精神の旺盛さ。そこには、儒者や聖書信者のような
権力意志がまったく見られないだけでなく、道家の徒のような、権力への専らな嫌悪意識もまた見られない。

どこまでも権力というものを諦観し尽くした上で、なおかつ権力者を補佐するような余裕すらも持ち合わせている。
中国の道家も本来は治国平天下を目的として提唱されたに違いないのだが、ここまで達観しきれているようなことはない。

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097 2012/04/16(月) 22:12:02 ID:.EkIaLJZSc:au
仏教は俗世の価値観を否定しつくした虚空を荘厳し、そこへの人々の安住を促す、
それによって俗世における最大級の栄華にすら余裕を与える。その余裕の充実のために、出家者である菩薩は
精進修行に励む、その姿が極めて献身的であることから、皮肉骨髄を施与の対象とする本品の記述すらもが為されている。

後半には、その菩薩の精進修行の利益として、俗世での屠畜までをも行っての肉欲の貪りがなくなること、
二本足の人だけでなく、四つ足や多足や無足の畜類までもが救済の対象となり、誰しもが長命に与るように
なることが挙げられる。インド人は牛肉を食べない一方、牛を神聖な動物とし、方々で放し飼いにもしているが、
仏門はこのインドの伝統をも興隆させると言っていて、決して四つ足を絶対的な不浄の象徴などともしていない。

最後に、菩薩行による俗世での利益として、「宦官の根絶」が約束されてもいる。
これは、中国では仏教によっては実現し得なかったことで、日本では始めから実現され続けて来たこと。
仏道の出家者は結局、政界における宦官の役割をも代行できるのであり、その能力は中国以上にも日本で活かされた。
仏の悟りはロボトミー手術の効果にも似ていると>>38でも述べたが、仏道修行は去勢抜きでの、去勢並みの禁欲をも実現する。
宦官だからといって性欲が全くなくなるわけでもないから、むしろ出家修行のほうがより禁欲を徹底するものだといえる。

ロボトミー手術や去勢のような不健全な手段によって試みられ、結局不調に終わり続けてきたある種の試みが、
仏道の本格修行によってこそ成就されて来たことがある。確かに聖道門の教義は繊細で、濁世には一挙にその実践が
不能と化してもしまうものだが、本当に実践すらできたなら、世の中に対して未曾有の利益をもたらしもするのである。

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098 2012/04/23(月) 23:25:00 ID:kIDjrBjRqE
「華厳経」十回向品第二十五の六(八十巻中二十八巻目)読了。

「願わくは一切の衆生は無明の欲を捨てて仏の志楽に住せん」

仏教が無欲や制欲を促すことを本分とした信教であるのは、いちいち言い直されることも稀なほどの、周知の事実である。
しかし、世俗の欲望を捨て去っての、仏道追求の志しにこそ楽しみを抱くという。その楽しみこそは「深楽」であり、
楽しむべきものとそうでないものとの区別も付かないウレシがりなどよりも遥かに深い「可愛楽」をもたらすのでもある。

俗人にはチンプンカンプンな内容の仏典に根ざした仏教の実践が、
昔は世界規模ですら実現していたのも、それが楽しかったからこそ。

本品では、俗世における「家」の脆弱さが強調され、妻子を養う俗人としての立場を捨ててまでの、仏門への没入を促す
記述もある(これまでにもいくらかあった)。そこまでして仏門に帰依することの価値が謳われるのも、それが楽しいからだ。
涅槃寂静の域にこそ、いかなる世俗上の喧騒にも勝る楽しみがあるからこそ、不可解な用語を多数操りつつまでもの、
超俗や出家の価値が仏典でも謳われ、実際にもそれに数多の人々が随順してきたのである。

自分自身が出家するとまでは行かずとも、出家することで、いかなる在家の楽しみ以上もの楽しみを得た坊主が
そこら中にいるなかで、在俗の信者である男が、「おまえらなんか俺にとっちゃ重荷でしかない」というオドしを
効かせつつ、自らの妻子にまでも接することが、夫唱婦随や父子の序を健全化することにもなるわけで、
それは夫や父たる男にとっても楽しいことだし、妻や母たる女、いつかは一人前にならなければならない
我が子に対してもよい影響を及ぼし、以って、人生における最大の楽しみを享受させることにもなるのである。

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099 2012/04/28(土) 14:53:43 ID:uim6jTdRIw:au
ここまで読んで、もう分かった。

「華厳経」は、絶対に今すぐ実用できるような代物じゃない。

四書五経なら今すぐにでも実用できるが、
華厳経の実用化には、まだ数十年以上の期間が必要だ。

だからまだ、そんなに急いで読む気にもなれない。
本を読むばかりが、人生の全てであっていいわけでもないし。

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100 2012/05/03(木) 15:44:03 ID:YqMODdTOC6:au
「華厳経」十回向品第二十五の七(八十巻中二十九巻目)読了。

「一切の衆生をして悉く一切の資生の物を捨てて施す心に住せしめん」といいながら、
「菩薩の有する所の資生の具は 種々豊盈にして限億無く〜悉く十法の無量の刹に遍して 普く一切に施して充満せしむ」ともいう。
一見矛盾しているようにも見える両者の記述にも、厳密な整合性が伴っている。

「資生」とは仏語ではなく、「易経」坤卦の彖伝に出てくる陰陽道用語である。
その意味は、「資源」とか「資本」とかいった言葉の言語構造に当てはめて考えてみれば、よく分かる。
資源はモノだし、資本はカネ、一方で資生は命そのものだから、資生こそは資源や資本以上にも根本的なものであるといえる。

その資生を捨ててまでの、施与の志しを菩薩は一切衆生にまで備わらせながら、
自らの有する所の無量なる資生の具をこれまた一切衆生に施して、その際限はどこまでも限りないともいう。
「菩薩の資生が無量なら、その施しを受ける衆生がなぜ自らの資生を捨ててまでの施しを志さねばならないのか」
という疑問を抱かざるを得ないが、そこにもちゃんと、理に適った含蓄があるのである。

ちょうど「資生堂」という化粧品会社が日本にあるので、女の化粧に喩えて説明してみよう。

素が美人である女が化粧によってその美しさを増すこともあれば、素顔は不細工な女が化粧によってそれなりの
見栄えになることもある。巣が美人であれば、美しさを増すための化粧を自分がすることにも一定の余裕が
備わる一方、素顔の不細工さを取り繕うために化粧をやり尽くす所には、全く余裕がない。その余裕の無さが
さらに上質な化粧、さらにさらに上質な化粧といった、化粧への貪りを生むことになる。その貪りは結局、
素顔の不細工さへの諦観が本人に備わらないことには、どこまでも際限がない。化粧への貪りが際限ない
ままの状態でいて、なおかつ本人の、素顔に対する劣等感からなる苦しみもまた、持ち越されたままである。

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101 2012/05/03(木) 15:44:31 ID:YqMODdTOC6:au
だからその、素顔の不細工さに対する劣等感をまず捨てさせる。それはすなわち、自らの生命としての存在価値から
完全に捨て去れるぐらいの達観を得させるということであり、上記の「資生の物を捨てる」という記述と一致する。
それでこそ、素顔が美人か不細工かであるに関わらず、自らが化粧を行うことにも一定の余裕が備わる。
その余裕が備わった相手に対して、菩薩が施す「資生の具」も、これまた無量であり、「二度と化粧なんかしない」
というような極端への振れ切りも控えさせて、女であるなりの資生の化粧程度は、無量にやらせてやるのである。

「衆生に資生を捨て去る達観を抱かせながら、なおかつ菩薩が衆生に資生の具を施す」という本品の記述の意図する所は、
女の化粧に喩えてみるなら、以上のようだといえる。そして、菩薩が上記のような回向を実現するための行業が
「不動の業」であるとも本品にある。国訳一切経版の注釈には、「毀誉褒貶に動かされざる業」と説明されているが、
仏教教義上の「不動」といえば、必ずしもそればかりのことではない。ただ、この注釈ももちろん間違った「不動」の解釈などではなく、
「毀誉褒貶に動かされない」ということは、上記の女の化粧の喩えの内で、素顔が不細工な女が回りからの中傷などにも
打ちひしがれたりしないことがこの内に入るといえる。毀誉褒貶に動かされないための仏道修行にも色々あるわけだが、
菩薩はそのような修行を通じて、不細工な女が外見への中傷などに惑わされないようになるための手本ともなっていくのである。

春秋戦国時代の悪徳外交家である蘇秦や、暗黒帝国だった秦帝国で宰相として辣腕を振るった李斯など、若「年期に身分の低さに
対する多大なコンプレックスを抱いていた」というエピソードが「史記」の列伝などにもある。そのような上等ともいえない劣等感を
バネにして蘇秦や李斯が社会的に為した行いたるや、笑いものや鼻つまみもの扱いとされるほどにもろくでもないものであり、しかも
二人とも政争に巻き込まれての非業の最期を遂げている。資生を捨て去る志しを持てないが故に、甚だしい劣等感を抱く人間が、実際に
世の中に実害を及ぼす実例ともなっており、菩薩の資生を衆生に捨てさせる回向が、確かに天下の泰平にも寄与するものであることが分かる。

返信する

102 2012/05/05(土) 14:01:37 ID:oZQBqOwyH2:au
世の中を破滅に陥れようとするような、
卑劣な権力意志の根底には、必ず甚だしい劣等感がある。

乞食行などによる忍辱を通じて、その劣等感を克服し、
ある意味では、機械的にのみ権力機構にも携わるだけの諦観を身に付ける。

ニーチェが「ルサンチマン」と呼んだ権力者への嫉妬心も、
仏道修行によって人工的に廃絶してしまう。しかもそれは自力の修行者たる
菩薩のみならず、他力本願の在家信者にまでも回向として及ぶのだという。

仏法の難解さ不可思議さは、あらゆる思想哲学の中でも突出したものだが、
その享受による功徳が世の中に与える影響の善良さだけは、明らか且つ確かなものだ。

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103 2012/05/15(火) 18:58:07 ID:lHMg0oNjHU:au
「華厳経」十回向品第二十五の八(八十巻中三十巻目)読了。

「願わくは一切の衆生は諸々の菩薩の甚だ愛楽すべき善観察智を得ん」など、
「願わくは一切の衆生は(菩薩の)愛楽すべき〜とならんことを」という構文の誓願が多数出てくる。
菩薩が衆生を愛楽するに値する条件というのは、上記のように清浄さを期したものばかりで、
性的に魅力的だったりというような、邪念を伴う条件によって愛楽の対象となったりするわけではない。

禁欲修行などを通じて愛執をも絶った菩薩がなお、衆生を愛するようなことがある。
それは自らの回向にも依って、愛す可き善業に乗じた衆生でこそあり、愛情を善用する
「可愛楽」という華厳思想の一端に基づいて、衆生が愛されたりすることもあるというのである。

仏教哲学ではなく、仏教思想止まりである上座部仏教の経典(法句経など)には、
「愛を捨て去れ」という釈尊の言葉をそのまま真に受けて、「愛全般を捨て去れ」という風に記録して
あるように読むことも出来なくはない記述が多々ある。それはあくまで「愛執」や「濁愛」といった、
劣悪な志向性を伴う愛についての見識だったはずなのであり、ただ祭司階級の出身ではない釈尊ご自身が、
そのあたりまで精密に説きほぐしてて、「可愛楽」などという離れ業を体系化までしたりはしていなかっただけだ。

「仏教哲学の書」と呼ぶに値する大乗仏典をそこそこ理解した上で、「仏教思想の書」止まりである
原始仏典を読めば、決して間違ったことを書いているわけではないが、あまり語り口が精密ではないことに
気づかされる。逆に言えば、原始仏典の記述をそのまま精密化したのが大乗仏典で、精密化に際して
理論立ての高次元化もまた進んだために、原始仏典では全面的に禁じられているように思われる、
「愛」に対する肯定的な記述すらもが垣間見られる。それは決して仏法に反しているものではなく、
より高次の離れ業的な理論立てに基づいて、仏法にも適わせているものなのだから、原始仏典などと
記述が相反しているように思われたからといって、大乗非仏説などにまで発展させるべきものでもない。

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104 2013/08/14(水) 11:42:12 ID:.prQ4d0qbw:au
http://bbs0.meiwasuisan.com/bin/read/toriaezu/1376397317...
十回向品第二十五の九以降の感想は上のスレシリーズで。

どうせ一週間で消えてしまうスレだがな。それもまたよし。

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105 2014/05/20(火) 20:00:19 ID:4PBbLZ4xsY:au
衆生は皆な妄りに 善悪の諸趣の想を起こし 
是れに由りて或いは天に生じ 或いは復た地獄に堕す、

菩薩は世間を観ずるに 妄想業の起こす所 
妄想無辺なるが為めに 世間もまた無量なり、

一切諸々の国土は 想網の現ずる所 
幻網の方便の故に 一念に悉く入る。

「華厳経」普賢行品第三十六

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106 2014/05/21(水) 08:30:15 ID:BRugEtUvKI:au
所見に差別無く 亦復雑乱無く 
各々自業に随いて 其の果報を受用す

「華厳経」普賢行品第三十六


一切衆生みな平等であるが故に、因果応報もまた平等である。

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