「華厳経」賢首品第十二(八十巻中十四巻目)読了。
「もしも衆生が無限の寿命を欲して、色々な煩悩の業火を燃やすことがあれば、
菩薩は老病死の患いを現じて衆生を調伏する」というようなこともまた書かれてある。
「人はいつかは誰しも死ぬものだが、意外とこれが忘れられがちで、まるで生が限りのないもので
あるかのように勘違いして人は放逸に走る」ということを池波正太郎も「鬼平」で書いてあるが、生老病死らの
四苦八苦にあえぐ運命にある、人としての身の程を衆生にわきまえさせることもまた、菩薩の使命なのだという。
「菩薩は一切世間の技術能力をよくたしなみ、あるいは国王となり大臣となり、良医となり工匠となって、
賈客商人の導者ともなる」とあり、儒者の貴ぶ君子とは違い、菩薩はすこぶる多能ですらあるとされる。
君子も多能であることはあるが、多能であることが君子としての条件などではない。一方で、菩薩が菩薩たる
条件のうちには多能であることが含まれており、このあたり、儒学よりも仏教が融通のきく点だといえる。
ただし、その多能さを身に付けるためにこそ、朱子が「巨石を抱いて水の中に身を投じるが如し」と揶揄した、
常人の域を遥かに超えた厳しい厳しい精進修行へと邁進していくのでもある。
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