仏典総合スレ
▼ページ最下部
華厳経全訳購入記念。ありそうでなかった仏典スレ。
仏教典籍(仏典)は基本、仏者が読み書きする典籍のことであり、
書き手だけでなく、読み手もまた一人前の出家修行者であることを前提としている。
(ただし、浄土経典などを例外とする)
一般人が仏典を読んで、それで意見を述べたからと言って「仏説」にはならないから、
もちろん仏典のうちにも入らない。おかしな逸話の多い禅僧である一休や良寛の著書が
仏典たり得たとしても、在俗の仏教学者である中村元の著書などは仏典ではあり得ない。
一般人にとって取っ付きづらい書物であるのは当然のことながら、仏典中に文学や思想哲学として極めて
優れたものが多いのも事実であり、漢訳大乗仏典の秀逸さなどは、人類史上でも未曾有のものですらある。
ただの文学としてみても、華厳経典こそは世界最高の文学だし、般若経典こそは世界最大の文学でもある。
中観部の論典こそは世界最高の哲学であるし、唯識部の論典こそは人間にとっての思想の極北でもある。
仮にここで仏典の感想を述べたところで、自分が正式な出家者でない以上は、仏説たり得ないし、
どんなに論及として優れていた所で、仏典の内に新たに組み込まれるようなこともない、ということを
重々承知の上で、何か書きたいことがあった場合に書く程度の、気軽な扱いのスレでよろしく。
仏教典籍(仏典)は基本、仏者が読み書きする典籍のことであり、
書き手だけでなく、読み手もまた一人前の出家修行者であることを前提としている。
(ただし、浄土経典などを例外とする)
一般人が仏典を読んで、それで意見を述べたからと言って「仏説」にはならないから、
もちろん仏典のうちにも入らない。おかしな逸話の多い禅僧である一休や良寛の著書が
仏典たり得たとしても、在俗の仏教学者である中村元の著書などは仏典ではあり得ない。
一般人にとって取っ付きづらい書物であるのは当然のことながら、仏典中に文学や思想哲学として極めて
優れたものが多いのも事実であり、漢訳大乗仏典の秀逸さなどは、人類史上でも未曾有のものですらある。
ただの文学としてみても、華厳経典こそは世界最高の文学だし、般若経典こそは世界最大の文学でもある。
中観部の論典こそは世界最高の哲学であるし、唯識部の論典こそは人間にとっての思想の極北でもある。
仮にここで仏典の感想を述べたところで、自分が正式な出家者でない以上は、仏説たり得ないし、
どんなに論及として優れていた所で、仏典の内に新たに組み込まれるようなこともない、ということを
重々承知の上で、何か書きたいことがあった場合に書く程度の、気軽な扱いのスレでよろしく。
華厳経が伝えているポイントを簡単に要約してくれ
華厳経(大方広仏華厳経)の要約書は仏典中にも万巻とあるようだが、
般若経典の場合の「般若心経」ほどにも、人口に膾炙しているものはないようだな。
>>1の書の解題で訳者(本職の禅僧)がすでに述べているが、法華経が華厳経の「おまけ」なわけ。
法華経ばかりをありがたがっている日蓮信者などもいるが、広大過ぎて掴みどころのない
華厳経の世界を、円熟期の釈迦の方便に載せたのが法華経(妙法蓮華経)なわけで、
法華経こそは、華厳経の最良の要約書であるとも言えなくはないわけだが。
弘法大師も「秘密曼荼羅十住心論」で、華厳こそを顕教中最高の教えとし、
法華をそれに次ぐものとしている。もちろん密教が全ての顕教以上だと大師は言われるが、
密教は強度の実践主義であり、実践によってこそ理解が可能となる密教経典をただ素読することには
大した意味がないとされる。だから、常人が参考として素読する上で最も価値のある経典となれば、
やはり顕教中最高である華厳宗の教義を記した、華厳経だということになる。
俺も、牛乳飲んでチキンカレー食ってたりするわけだから、全く以って仏道へのまい進など
ないままで仏典を読んだりもするわけで、自分で読むことに価値があるのも、せいぜい華厳経止まり。
般若経典の場合の「般若心経」ほどにも、人口に膾炙しているものはないようだな。
>>1の書の解題で訳者(本職の禅僧)がすでに述べているが、法華経が華厳経の「おまけ」なわけ。
法華経ばかりをありがたがっている日蓮信者などもいるが、広大過ぎて掴みどころのない
華厳経の世界を、円熟期の釈迦の方便に載せたのが法華経(妙法蓮華経)なわけで、
法華経こそは、華厳経の最良の要約書であるとも言えなくはないわけだが。
弘法大師も「秘密曼荼羅十住心論」で、華厳こそを顕教中最高の教えとし、
法華をそれに次ぐものとしている。もちろん密教が全ての顕教以上だと大師は言われるが、
密教は強度の実践主義であり、実践によってこそ理解が可能となる密教経典をただ素読することには
大した意味がないとされる。だから、常人が参考として素読する上で最も価値のある経典となれば、
やはり顕教中最高である華厳宗の教義を記した、華厳経だということになる。
俺も、牛乳飲んでチキンカレー食ってたりするわけだから、全く以って仏道へのまい進など
ないままで仏典を読んだりもするわけで、自分で読むことに価値があるのも、せいぜい華厳経止まり。
華厳経の成立時期は今から約1900年前。ちょうど、新約聖書の成立時期とほぼ全く同じ。
般若経典の成立がこれ以前で、般若経を拠り所とするような菩薩行の成果として、華厳思想が結実した。
特に、「中論」や「大智度論」の著者である竜樹菩薩が大乗仏教の主要な代表者とされるが、
竜樹が活躍していた頃にはすでに、華厳経や般若経の文面に相当するものは大方既存していて、
それを竜樹などが、今の経典に相当するような体裁に纏め上げたのだという。
華厳経や般若経の文面の初作者は、結局のところ不明。編纂者の竜樹ですらその経歴に不明な部分が
多いのだから、原作者が不詳なのもうべなることだといえるが、ただ、その歴史的な経緯からいって、
その原作者に相当する人間が、般若経についてはイエスよりもやや年上の人間であり、
華厳経についてはイエスとほぼ同年代の人間だったろうことが予想される。
ヤスパースが「枢軸時代」と呼ぶ、紀元前500年前後の世界的な文化交流の後、
まるでその後始末のように、人類史上最高の宗教書が大乗仏典としてインドに花開き、
逆に、世界を破滅に陥れる史上最悪の宗教書が新約聖書としてイスラエルに発生した。
西暦起源である今から2012年前の前後に、確かに人類社会は究極の転換点を迎えていた。
それは、イエスの生誕などではなく、大乗仏教の興隆にこそ、もっとも顕著なことだった。
その頃に、イスラエルではなくインドでこそ、人類による絶対真理の把捉が完遂されていたのだ。
般若経典の成立がこれ以前で、般若経を拠り所とするような菩薩行の成果として、華厳思想が結実した。
特に、「中論」や「大智度論」の著者である竜樹菩薩が大乗仏教の主要な代表者とされるが、
竜樹が活躍していた頃にはすでに、華厳経や般若経の文面に相当するものは大方既存していて、
それを竜樹などが、今の経典に相当するような体裁に纏め上げたのだという。
華厳経や般若経の文面の初作者は、結局のところ不明。編纂者の竜樹ですらその経歴に不明な部分が
多いのだから、原作者が不詳なのもうべなることだといえるが、ただ、その歴史的な経緯からいって、
その原作者に相当する人間が、般若経についてはイエスよりもやや年上の人間であり、
華厳経についてはイエスとほぼ同年代の人間だったろうことが予想される。
ヤスパースが「枢軸時代」と呼ぶ、紀元前500年前後の世界的な文化交流の後、
まるでその後始末のように、人類史上最高の宗教書が大乗仏典としてインドに花開き、
逆に、世界を破滅に陥れる史上最悪の宗教書が新約聖書としてイスラエルに発生した。
西暦起源である今から2012年前の前後に、確かに人類社会は究極の転換点を迎えていた。
それは、イエスの生誕などではなく、大乗仏教の興隆にこそ、もっとも顕著なことだった。
その頃に、イスラエルではなくインドでこそ、人類による絶対真理の把捉が完遂されていたのだ。
×世界的な文化交流の後
○世界的な文化興隆の後
仏典は、図書館でも今は持ち出し禁止になっている場合が非常に多い。
漢文はまだ、新釈漢文大系などの新版があるから借りて読めもするが、
>>1画の国訳一切経を含め、仏典は一部の主要経典を除いて、
ほとんどが昭和初期までで改版が滞ったままでいるから、
その稀少価値からも、図書館もおいそれとは貸し出してもくれない。
仏典を、本腰を入れて管理できるほど精進してる人間が、
今の日本にはもうほとんどいないってこと。
いちいち図書館に通って大経典を通読するのも難儀だから、
仕方なく高価な旧版の古本を買って読んだりもするが、
もっと気軽に仏典が読めるようになるに越したことはない。
戦国の争乱を平定して後、家康公が封禅の意図も込めて大蔵経を増刷したように、
仏典が人々の身近にあるか否かが、当世が治世か乱世かを判定する普遍基準ともなるのである。
○世界的な文化興隆の後
仏典は、図書館でも今は持ち出し禁止になっている場合が非常に多い。
漢文はまだ、新釈漢文大系などの新版があるから借りて読めもするが、
>>1画の国訳一切経を含め、仏典は一部の主要経典を除いて、
ほとんどが昭和初期までで改版が滞ったままでいるから、
その稀少価値からも、図書館もおいそれとは貸し出してもくれない。
仏典を、本腰を入れて管理できるほど精進してる人間が、
今の日本にはもうほとんどいないってこと。
いちいち図書館に通って大経典を通読するのも難儀だから、
仕方なく高価な旧版の古本を買って読んだりもするが、
もっと気軽に仏典が読めるようになるに越したことはない。
戦国の争乱を平定して後、家康公が封禅の意図も込めて大蔵経を増刷したように、
仏典が人々の身近にあるか否かが、当世が治世か乱世かを判定する普遍基準ともなるのである。
「大方広仏華厳経」八十巻本の国訳を読み始めた。
初っ端の世主妙厳品一の一から、尊格名の雨あられ。
こういう、群像キャラの大進行で話を押しきるような志向は、
戦隊シリーズやガンダムやドラゴンボールみたいな、男子向けのコンテンツでもよく流用されている。
軍隊として大陣形を組む時に、個々の兵士が武装や飾りに様々な工夫を凝らすことへの
憧れみたいなものが、男子には本能的に備わっているのだと思われる。
「可愛楽光明天王(かわいぎょうこうみょうてんのう)」とかの、
頭に「可愛」を冠した尊格が、複数名挙げられている。
「可愛い(かわいい)」は、実は仏語だったのだ。
他にも「我慢」とか「差別」とか「平等」とか、
今の日本語で多用されているような熟語が多数見受けられる。
「論語」級の有名書はともかく、紀元前の漢籍のほうが、今の日本人にとって
馴染みの薄いような熟語(流連荒亡、弁士一曲、釈遠謗近など)が多数出て来るし、
言葉遣いも今の日本人に取っ付き辛いようなものが多い。だから、日本人とっては、
太古の漢籍などよりも漢訳の仏典のほうが、読み下しでも読みやすかったりする。
初っ端の世主妙厳品一の一から、尊格名の雨あられ。
こういう、群像キャラの大進行で話を押しきるような志向は、
戦隊シリーズやガンダムやドラゴンボールみたいな、男子向けのコンテンツでもよく流用されている。
軍隊として大陣形を組む時に、個々の兵士が武装や飾りに様々な工夫を凝らすことへの
憧れみたいなものが、男子には本能的に備わっているのだと思われる。
「可愛楽光明天王(かわいぎょうこうみょうてんのう)」とかの、
頭に「可愛」を冠した尊格が、複数名挙げられている。
「可愛い(かわいい)」は、実は仏語だったのだ。
他にも「我慢」とか「差別」とか「平等」とか、
今の日本語で多用されているような熟語が多数見受けられる。
「論語」級の有名書はともかく、紀元前の漢籍のほうが、今の日本人にとって
馴染みの薄いような熟語(流連荒亡、弁士一曲、釈遠謗近など)が多数出て来るし、
言葉遣いも今の日本人に取っ付き辛いようなものが多い。だから、日本人とっては、
太古の漢籍などよりも漢訳の仏典のほうが、読み下しでも読みやすかったりする。
「汝、愛すべし」
これがすでに、華厳思想の一環。
誰かれ構わず愛しまくって濁愛に溺れるのではなく、愛すべきものを愛す。
だから「愛す可し」であり、愛す可きであるが故に、可愛い。
聖書信仰の「神の愛」のような、濁愛に溺れていた者が失神後に、一転して
嫌悪まみれのニヒリストになったりする。それは濁りから濁りへの振り切れだから、
むしろ、愛すべきものを愛するKAWAIIの精神が、より清廉なものとしてあてがえる。
今の漫画やアニメに限らず、昔の日本の戯画などにも、これ見よがしに可愛いものが
多々あるが、これも華厳思想を代表とする仏教思想に根ざしたものであり、
別に何の拠り所もなかったりするわけではない。
「可愛い」の精神の輸出は、それ自体がいっぱしの仏教思想の輸出にも
なっているわけで、何も漫画やアニメみたいな一部の分野ばかりに限らず、
もっと本格的に輸出されて然るべきものだと言える。
これがすでに、華厳思想の一環。
誰かれ構わず愛しまくって濁愛に溺れるのではなく、愛すべきものを愛す。
だから「愛す可し」であり、愛す可きであるが故に、可愛い。
聖書信仰の「神の愛」のような、濁愛に溺れていた者が失神後に、一転して
嫌悪まみれのニヒリストになったりする。それは濁りから濁りへの振り切れだから、
むしろ、愛すべきものを愛するKAWAIIの精神が、より清廉なものとしてあてがえる。
今の漫画やアニメに限らず、昔の日本の戯画などにも、これ見よがしに可愛いものが
多々あるが、これも華厳思想を代表とする仏教思想に根ざしたものであり、
別に何の拠り所もなかったりするわけではない。
「可愛い」の精神の輸出は、それ自体がいっぱしの仏教思想の輸出にも
なっているわけで、何も漫画やアニメみたいな一部の分野ばかりに限らず、
もっと本格的に輸出されて然るべきものだと言える。
「愛すべきもの」とは?
「愛すべきもの」とそうでないものとの違いは何なのか?
「愛すべきもの」とそうでないものとの違いは何なのか?
愛する対象は、そりゃあ人それぞれに決まってる。
自らの恋人だったり配偶者だったり、親だったり子だったり。
むしろ、愛する対象を「神の愛」だなんだで統制しようとするほうが、下衆なこと。
自ら愛すべきものを探し出し、真摯にそれを愛せという、愛と義務と自主性の合致、
それが本来の意味での「可愛」。愛すべきものを愛すことこそは、悟りにも繋がる。
だから悟りを拓いた瞬間の釈尊の周囲にも、「可愛」を名に冠する尊格が数多侍っていたのだ。
自らの恋人だったり配偶者だったり、親だったり子だったり。
むしろ、愛する対象を「神の愛」だなんだで統制しようとするほうが、下衆なこと。
自ら愛すべきものを探し出し、真摯にそれを愛せという、愛と義務と自主性の合致、
それが本来の意味での「可愛」。愛すべきものを愛すことこそは、悟りにも繋がる。
だから悟りを拓いた瞬間の釈尊の周囲にも、「可愛」を名に冠する尊格が数多侍っていたのだ。
「華厳経」世主妙厳品一の二(八十巻中二巻目)を読了。
さすが自力作善の聖道門の根本聖典なだけあって、如来を取り囲んでいた
数多の梵王や天王、天子らが、実際に衆生を救済し始める姿が描かれている。
他力の信者に対して「これこれこうしなさい、そしたら救ってあげよう」などと呼びかける、
浄土経などにも見られる記述形式ではなく、数多の天王が具体的に衆生を
どういう風に救っていくかということを、ごく能動的に述べている。
天台宗の五時教判では、「華厳経」にあるような悟りを拓いた釈尊が、布教による
衆生救済の菩薩行に臨む過程で、阿含経や般若経や方等経、そして法華経や涅槃経に
あるような教えを広めていったとする。中でも釈尊の円熟期の教えを述べたのが
法華経だから、法華こそは未熟な華厳の教えよりも上位にすらあると天台宗はしている。
しかし、その経典の成立年代からいって般若経→華厳経→法華経であり、般若経が
釈尊成道後の菩薩行に載せた言葉であるとするのは、些か不自然であるように思われる。
まず、般若経典にあるような中観修行があった上で、その後に華厳経典にあるような悟りが拓かれた。
釈尊の悟りを本気で再現しようとした数多の初期大乗仏教の沙門が、まずは般若思想に相当するような
一切皆空の修練に務めた。そしたら「真実不虚(般若心経)」という結論に至り、一斉に悟りを拓いた。
数多の大乗修行者が、釈尊に仮託した出家修行によって得た「真実不虚」の悟り、
その不虚なる真実をありのままに経典化したのが華厳経であり、さらにその文面を収斂したのが
法華経だったりする。(大乗の経典ではない阿含部の経典は、当然この内に入らない)
不虚なる真実のうちに、「愛す可し」もまたあるのであり、実際に世主妙厳品一の二でも、
「可愛」を頭に冠した数多の天王たちが、色々な手立てを尽くした衆生の救済にも臨んでいる。
上座部の出家者以上にも、自分たち自身で釈尊の悟りを再現するための柔軟な手管を尽くしていた、
大乗の修行者たちが導き出した結論として、原始仏典にはない「愛すべし」という教理もまたあった。
さすが自力作善の聖道門の根本聖典なだけあって、如来を取り囲んでいた
数多の梵王や天王、天子らが、実際に衆生を救済し始める姿が描かれている。
他力の信者に対して「これこれこうしなさい、そしたら救ってあげよう」などと呼びかける、
浄土経などにも見られる記述形式ではなく、数多の天王が具体的に衆生を
どういう風に救っていくかということを、ごく能動的に述べている。
天台宗の五時教判では、「華厳経」にあるような悟りを拓いた釈尊が、布教による
衆生救済の菩薩行に臨む過程で、阿含経や般若経や方等経、そして法華経や涅槃経に
あるような教えを広めていったとする。中でも釈尊の円熟期の教えを述べたのが
法華経だから、法華こそは未熟な華厳の教えよりも上位にすらあると天台宗はしている。
しかし、その経典の成立年代からいって般若経→華厳経→法華経であり、般若経が
釈尊成道後の菩薩行に載せた言葉であるとするのは、些か不自然であるように思われる。
まず、般若経典にあるような中観修行があった上で、その後に華厳経典にあるような悟りが拓かれた。
釈尊の悟りを本気で再現しようとした数多の初期大乗仏教の沙門が、まずは般若思想に相当するような
一切皆空の修練に務めた。そしたら「真実不虚(般若心経)」という結論に至り、一斉に悟りを拓いた。
数多の大乗修行者が、釈尊に仮託した出家修行によって得た「真実不虚」の悟り、
その不虚なる真実をありのままに経典化したのが華厳経であり、さらにその文面を収斂したのが
法華経だったりする。(大乗の経典ではない阿含部の経典は、当然この内に入らない)
不虚なる真実のうちに、「愛す可し」もまたあるのであり、実際に世主妙厳品一の二でも、
「可愛」を頭に冠した数多の天王たちが、色々な手立てを尽くした衆生の救済にも臨んでいる。
上座部の出家者以上にも、自分たち自身で釈尊の悟りを再現するための柔軟な手管を尽くしていた、
大乗の修行者たちが導き出した結論として、原始仏典にはない「愛すべし」という教理もまたあった。
一日一品、多くて二、三品。
あんまり根詰めて一気に読み通す気にもなれないな。
華厳経ともなると。
積ん読(つんどく)状態の本もあるにはあるがね、大体が近代以降の著作。
大古典を何度もじっくり読み通すことのほうが面白くて、
なかなか雑書に目を通すことにまでは頭が回らない。
儒学の衰亡と廃仏毀釈によって、近代以降の著作物は、
否応なく小人の書物ばかりと化してしまった。
資料として有益なことを述べている場合はあっても、
近代以降の文筆家の意見にまで感銘を受けるようなことは、
ほとんど皆無といっていいほどない。
むしろ、戦前までの軍人の手記などのほうが、
よっぽど読んで感慨を抱かされることが多い。
あんまり根詰めて一気に読み通す気にもなれないな。
華厳経ともなると。
積ん読(つんどく)状態の本もあるにはあるがね、大体が近代以降の著作。
大古典を何度もじっくり読み通すことのほうが面白くて、
なかなか雑書に目を通すことにまでは頭が回らない。
儒学の衰亡と廃仏毀釈によって、近代以降の著作物は、
否応なく小人の書物ばかりと化してしまった。
資料として有益なことを述べている場合はあっても、
近代以降の文筆家の意見にまで感銘を受けるようなことは、
ほとんど皆無といっていいほどない。
むしろ、戦前までの軍人の手記などのほうが、
よっぽど読んで感慨を抱かされることが多い。
「華厳経」世主妙厳品一の三(八十巻中三巻目)読了。
「妙荘厳鳩槃荼王は一切の衆生の愛欲の海を消竭する解脱門を得」とあり、
やはり大乗仏教でも、愛欲に溺れて正気を見失うことなどはよくないこととされていることが分かる。
一方でやはり、「可愛楽光明摩睺羅伽王」のような、「可愛」を冠した王が衆生の救済者としてこの品にも登場する。
その可愛楽光明摩睺羅伽王を含む複数の摩睺羅伽王が、衆生に善不善、福非福といった不平等に
あえぐ衆生を救済するとある。その方法は、煩悩を除いた清浄の悦楽を衆生に知らしめることであり、
ちょうど「愛欲の海」への惑溺から妙荘厳鳩槃荼王が衆生を救い出すことと符合している。
善悪正邪も、所詮は世俗社会の利害(公益)にまつわる判断基準でしかなく、物質的な利害を超越した
唯心論の観点からすれば、一つの虚妄であるとも見なせる。故に、善悪正邪の判断によって邪悪と
みなされ、故に社会的な福徳に与れないような者もまた、虚空の徳によって救い上げられることはある。
ただし、その過程で物質主義を排するから、金銭への執着なども当然捨て去ることにはなる。
この品に、「群品(ぐんぽん)」という言葉が出てくる。
大正蔵のデータベースで検索してみたら、多くの仏典で用いられている一方、主要な漢籍での初出は「後漢書」であり、
仏教が伝来した後漢の代に、仏典漢訳の際、仏語として「群品」が考案されたのだろうことが予想できる。
この「群品」という言葉、「古事記」の序文に「羣品」と、字を代えて引用されている。
古事記編纂者の太安万侶の存命中には、まだ華厳経も華厳宗も日本に渡来していなかったはずだが、
その安万侶が「群品」という仏語を、日本神道の原点といえる「古事記」の序文に引用している。
日本神道はその最原初の頃から、仏教文化の影響を受けつつ文書化されていったことが分かる。
「妙荘厳鳩槃荼王は一切の衆生の愛欲の海を消竭する解脱門を得」とあり、
やはり大乗仏教でも、愛欲に溺れて正気を見失うことなどはよくないこととされていることが分かる。
一方でやはり、「可愛楽光明摩睺羅伽王」のような、「可愛」を冠した王が衆生の救済者としてこの品にも登場する。
その可愛楽光明摩睺羅伽王を含む複数の摩睺羅伽王が、衆生に善不善、福非福といった不平等に
あえぐ衆生を救済するとある。その方法は、煩悩を除いた清浄の悦楽を衆生に知らしめることであり、
ちょうど「愛欲の海」への惑溺から妙荘厳鳩槃荼王が衆生を救い出すことと符合している。
善悪正邪も、所詮は世俗社会の利害(公益)にまつわる判断基準でしかなく、物質的な利害を超越した
唯心論の観点からすれば、一つの虚妄であるとも見なせる。故に、善悪正邪の判断によって邪悪と
みなされ、故に社会的な福徳に与れないような者もまた、虚空の徳によって救い上げられることはある。
ただし、その過程で物質主義を排するから、金銭への執着なども当然捨て去ることにはなる。
この品に、「群品(ぐんぽん)」という言葉が出てくる。
大正蔵のデータベースで検索してみたら、多くの仏典で用いられている一方、主要な漢籍での初出は「後漢書」であり、
仏教が伝来した後漢の代に、仏典漢訳の際、仏語として「群品」が考案されたのだろうことが予想できる。
この「群品」という言葉、「古事記」の序文に「羣品」と、字を代えて引用されている。
古事記編纂者の太安万侶の存命中には、まだ華厳経も華厳宗も日本に渡来していなかったはずだが、
その安万侶が「群品」という仏語を、日本神道の原点といえる「古事記」の序文に引用している。
日本神道はその最原初の頃から、仏教文化の影響を受けつつ文書化されていったことが分かる。
「華厳経」世主妙厳品一の四(八十巻中四巻目)読了。
ここまでですでに、華厳思想はヴァーストゥ・シャーストラ(インド風水)の影響を色濃く受けていることが分かる。
空神、風神、火神、水神、地神らが、他の数多の尊格と共に釈尊の悟りに共鳴している。
他にも海神や河神や林神や山神、そして金剛神なとが登場する。登場の順番は
空神→風神→火神→水神→海神→河神→林神→山神→地神→金剛神
であり、これは物質としての固着度ないし体積あたりの重力エネルギーの少なさの順番に並べているのだと思われる。
また、上記のような自然的存在ではなく、社会的存在を神格化した尊格までもが数多登場する。その順番は
空神→風神→火神→水神→海神→河神→稼神→薬神→林神→山神→地神→城神→道場神→足行神→身衆神→金剛神
であり、華厳思想が商業(稼)や医業(薬)を、君子業(城)や出家業(道場、足行)よりも下に置き、
それでいて出家業のさらに上に一切衆生の営み(身衆)を、金剛に次ぐものとして置いている事が分かる。
ここで「上下」と呼んだのは、この世主妙厳品の最後(一の五)に、仏を除く最高級の尊格である菩薩が登場するからで、
世主妙厳品一の一とは逆順で登場する一の二〜一の四の尊格たちは、少なくとも中盤から後半にかけては、
最初ほど下であり、最後ほど上であるという格付けで、順序だてて登場しているものと見なされるのである。
ただし、上記の空神の登場以前は
八部衆→昼神→夜神→方神→(空神→・・・)
という順序であり、むしろ尊格の格付けが下がっているようにすら見える。つまり、一端、登場する尊格の格付けが
下がった上で、また格付けが上がりつつ、最後には菩薩が登場するという「下がって上がって」の順列による登場である
と見なすことが妥当である。ちょうどこの内では「風神」が登場順位のど真ん中で、風神あたりが最も格が低い。だから
「平家物語」冒頭でも「たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」と、風にすらなびく塵の儚さが詠われてもいる。
ここまでですでに、華厳思想はヴァーストゥ・シャーストラ(インド風水)の影響を色濃く受けていることが分かる。
空神、風神、火神、水神、地神らが、他の数多の尊格と共に釈尊の悟りに共鳴している。
他にも海神や河神や林神や山神、そして金剛神なとが登場する。登場の順番は
空神→風神→火神→水神→海神→河神→林神→山神→地神→金剛神
であり、これは物質としての固着度ないし体積あたりの重力エネルギーの少なさの順番に並べているのだと思われる。
また、上記のような自然的存在ではなく、社会的存在を神格化した尊格までもが数多登場する。その順番は
空神→風神→火神→水神→海神→河神→稼神→薬神→林神→山神→地神→城神→道場神→足行神→身衆神→金剛神
であり、華厳思想が商業(稼)や医業(薬)を、君子業(城)や出家業(道場、足行)よりも下に置き、
それでいて出家業のさらに上に一切衆生の営み(身衆)を、金剛に次ぐものとして置いている事が分かる。
ここで「上下」と呼んだのは、この世主妙厳品の最後(一の五)に、仏を除く最高級の尊格である菩薩が登場するからで、
世主妙厳品一の一とは逆順で登場する一の二〜一の四の尊格たちは、少なくとも中盤から後半にかけては、
最初ほど下であり、最後ほど上であるという格付けで、順序だてて登場しているものと見なされるのである。
ただし、上記の空神の登場以前は
八部衆→昼神→夜神→方神→(空神→・・・)
という順序であり、むしろ尊格の格付けが下がっているようにすら見える。つまり、一端、登場する尊格の格付けが
下がった上で、また格付けが上がりつつ、最後には菩薩が登場するという「下がって上がって」の順列による登場である
と見なすことが妥当である。ちょうどこの内では「風神」が登場順位のど真ん中で、風神あたりが最も格が低い。だから
「平家物語」冒頭でも「たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」と、風にすらなびく塵の儚さが詠われてもいる。
風の隣りに、空がある。さらにその空の隣りに、「方」がある。
幾何(方)の先にある昼夜をも乗り越えて、仮に稼あたりが八部衆のような、
いかにも世俗での成功者然とした尊格にならんと目指したなら、
まず自分のすぐ隣りの「空」でつまずく。あえてその逆流を
踏み進んだとしても、その過程において必ず自分自身が皆空に帰す。
傍から読んでてもよく分からないだろうけど、そういうことになる。
顕教ではあるにしろ、やはり華厳思想だって、体得しているものがなければ、
ただ読んだだけでは理解できないだけのものを多々包摂している。
というか、ただ読んだだけでは理解できないものの集大成ですらある。
幾何(方)の先にある昼夜をも乗り越えて、仮に稼あたりが八部衆のような、
いかにも世俗での成功者然とした尊格にならんと目指したなら、
まず自分のすぐ隣りの「空」でつまずく。あえてその逆流を
踏み進んだとしても、その過程において必ず自分自身が皆空に帰す。
傍から読んでてもよく分からないだろうけど、そういうことになる。
顕教ではあるにしろ、やはり華厳思想だって、体得しているものがなければ、
ただ読んだだけでは理解できないだけのものを多々包摂している。
というか、ただ読んだだけでは理解できないものの集大成ですらある。
いかつい漢字術語のこけおどしの割に内容薄いなぁ。
いや君の論評じゃなくて、仏教全般が大昔からそういうスタンスで売ってるよね。
ウンタラカンタラ王とか俺ならバカバカしくなるがよく頑張って読めるね。
いや君の論評じゃなくて、仏教全般が大昔からそういうスタンスで売ってるよね。
ウンタラカンタラ王とか俺ならバカバカしくなるがよく頑張って読めるね。
それこそ、仏法こそは「愛すべし」でもある。
勧善懲悪のために容赦なく重罪人を罰していく儒学道徳を、
たとえば重罪人の立場から好きになろうたってそりゃあ無理な話で、
実際に儒書にも「憎んでその善を知れ(礼記)」とあるとおり、
むしろ憎まれるぐらいでこそ、悪逆非道に邁進する最悪の状態よりも薄皮一枚だけ上、
「悪鬼羅刹を踏み潰す明王さまの足の裏」としての冥利にも尽きるのだといえる。
仏弟子を愛するあまり、一緒に出家して比丘尼となった逸話(摩登女経)もあるように、
仏教こそは、愛欲すらも悟りに変えられるだけの度量を持っている。
未だ濁愛にまみれているのだとしても、「愛すべし」という大きな義務感を持って、
その愛を仏道への邁進に振り向けたなら、それこそ並み以上の大成すらもが期待できるというものなのに。
勧善懲悪のために容赦なく重罪人を罰していく儒学道徳を、
たとえば重罪人の立場から好きになろうたってそりゃあ無理な話で、
実際に儒書にも「憎んでその善を知れ(礼記)」とあるとおり、
むしろ憎まれるぐらいでこそ、悪逆非道に邁進する最悪の状態よりも薄皮一枚だけ上、
「悪鬼羅刹を踏み潰す明王さまの足の裏」としての冥利にも尽きるのだといえる。
仏弟子を愛するあまり、一緒に出家して比丘尼となった逸話(摩登女経)もあるように、
仏教こそは、愛欲すらも悟りに変えられるだけの度量を持っている。
未だ濁愛にまみれているのだとしても、「愛すべし」という大きな義務感を持って、
その愛を仏道への邁進に振り向けたなら、それこそ並み以上の大成すらもが期待できるというものなのに。
「華厳経」世主妙厳品一の五(八十巻中五巻目)読了。
八部衆や諸神に次いで、菩薩の登場。
ただ、その登場の仕方や語り口は今までと同じで、理論展開として新たなものは特に見当たらない。
個人的に、ここまで読み進んで来て、思わずニヤニヤと
不審な笑みを思わず浮かべるようになって来てしまった。
読んでて、意味が分かるから。
長年の漢文の読み込みのおかげで、>>17がウンタラカンタラで意味不明だと決め付けている
数多の尊格の名前の意味がスラスラと理解できる。尊格名以外の色々な仏語も、今までに知らなかったものも、
その字面を見るだけで大体意味が分かるから、言葉としてのいかつさなどよりも、術語としての巧みさのほうに興味が置ける。
たとえば「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩は、一念に無尽の成正覚門を現じて不思議の衆生界を教化し成熟する解脱門を得」
とあるとき、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩」という名の尊格が、「一念に……解脱門を得」という目的を実現することが
因果律に適っている。「キリスト(神の子)は死んで蘇った」という文章は、「キリスト(神の子)」という名の下に
「死んで蘇る」という目的が達成されることが全く因果律に適っていないため、文章として読んだ途端に、違和感を抱かされる。
しかし、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩が、一念に……解脱門を得る」という文章は、因果律が完全に満たされているから違和感を抱かせない。
尊格の名の意味も、尊格が為すことの内容も十分に理解できたなら、必ずその全ての記述が因果律にかなっていることが分かる。
無数の尊格が、自らの名の下に目的を実現していくその有り様が、全てことごとく因果律に適いきっているため、
まるで延々と落ち続ける滝の水を見ているときのような爽快感が、どこまでも続くのである。
八部衆や諸神に次いで、菩薩の登場。
ただ、その登場の仕方や語り口は今までと同じで、理論展開として新たなものは特に見当たらない。
個人的に、ここまで読み進んで来て、思わずニヤニヤと
不審な笑みを思わず浮かべるようになって来てしまった。
読んでて、意味が分かるから。
長年の漢文の読み込みのおかげで、>>17がウンタラカンタラで意味不明だと決め付けている
数多の尊格の名前の意味がスラスラと理解できる。尊格名以外の色々な仏語も、今までに知らなかったものも、
その字面を見るだけで大体意味が分かるから、言葉としてのいかつさなどよりも、術語としての巧みさのほうに興味が置ける。
たとえば「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩は、一念に無尽の成正覚門を現じて不思議の衆生界を教化し成熟する解脱門を得」
とあるとき、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩」という名の尊格が、「一念に……解脱門を得」という目的を実現することが
因果律に適っている。「キリスト(神の子)は死んで蘇った」という文章は、「キリスト(神の子)」という名の下に
「死んで蘇る」という目的が達成されることが全く因果律に適っていないため、文章として読んだ途端に、違和感を抱かされる。
しかし、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩が、一念に……解脱門を得る」という文章は、因果律が完全に満たされているから違和感を抱かせない。
尊格の名の意味も、尊格が為すことの内容も十分に理解できたなら、必ずその全ての記述が因果律にかなっていることが分かる。
無数の尊格が、自らの名の下に目的を実現していくその有り様が、全てことごとく因果律に適いきっているため、
まるで延々と落ち続ける滝の水を見ているときのような爽快感が、どこまでも続くのである。
因果律に適った論理構造の文章を読むことが、これほどにも違和感なく、
爽快なものであるのだということを思い知らされるせいで、思わずニヤニヤしてしまう。
これと比べれば、因果律が破綻している文章を読まされることには、
まるで糞詰まりのような精神的苦痛が伴っていることがよく分かる。
在俗の凡夫としての立場から華厳経を読んでいると、ある種の「憧れ」を抱かされる。
それは、ある時は歴戦の将兵に対して少年が抱く憧れのようであるし、またある時は、見目麗しい
美女にこれまた未熟な少年が抱く憧れのようである。自分が決して未熟な少年などではないとしても、
在俗の凡夫であるというのなら、より高度な境地にあることが確かである華厳思想に対して、
まるで未熟な少年が、自分よりも成熟した何ものかに対して抱くような憧れを抱かせるのである。
(おそらくこれが、仏門の出家修行者が自分たちを「坊主〈未熟者〉」と呼びたがる所以でもある)
現存の華厳経のような、現代人にはなかなか読み辛い漢訳仏典を、現代人でも読みやすいように
意訳するなり、要約するなりしたとする。そしたら、歴戦の将兵はまるでぬいぐるみの兵隊人形の
ようになり、美女は面会もできずに延々と匿名掲示板上だけで会話させられるかのようなザマとなる。
いずれも、未熟な少年だろうとも辟易して憧れを失うような代物となるわけで、初めから英雄や女が
そんなものでしかあり得ないと思い込まされた時には、二度と憧れなんかを抱くこともないだろう。
漢語や梵語の高度さこそは、明らかに現代日本語や西洋言語などと比べて別次元なものであり、
それをより低次元な言語表現に落とし込んだ時点で、必ず膨大な分量の意味の欠落を生ずる。
それによって、原文によってなら抱けるような憧れまでもが、始めから抱かれもしなかったり
することにもなるわけで、次元の低さに何もかもを落とし込もうとして、そのせいで不満の塊と
なった挙句にドッカンファビョンなるという悪循環の不実さが、今こそ神妙に汲み取れるのである。
爽快なものであるのだということを思い知らされるせいで、思わずニヤニヤしてしまう。
これと比べれば、因果律が破綻している文章を読まされることには、
まるで糞詰まりのような精神的苦痛が伴っていることがよく分かる。
在俗の凡夫としての立場から華厳経を読んでいると、ある種の「憧れ」を抱かされる。
それは、ある時は歴戦の将兵に対して少年が抱く憧れのようであるし、またある時は、見目麗しい
美女にこれまた未熟な少年が抱く憧れのようである。自分が決して未熟な少年などではないとしても、
在俗の凡夫であるというのなら、より高度な境地にあることが確かである華厳思想に対して、
まるで未熟な少年が、自分よりも成熟した何ものかに対して抱くような憧れを抱かせるのである。
(おそらくこれが、仏門の出家修行者が自分たちを「坊主〈未熟者〉」と呼びたがる所以でもある)
現存の華厳経のような、現代人にはなかなか読み辛い漢訳仏典を、現代人でも読みやすいように
意訳するなり、要約するなりしたとする。そしたら、歴戦の将兵はまるでぬいぐるみの兵隊人形の
ようになり、美女は面会もできずに延々と匿名掲示板上だけで会話させられるかのようなザマとなる。
いずれも、未熟な少年だろうとも辟易して憧れを失うような代物となるわけで、初めから英雄や女が
そんなものでしかあり得ないと思い込まされた時には、二度と憧れなんかを抱くこともないだろう。
漢語や梵語の高度さこそは、明らかに現代日本語や西洋言語などと比べて別次元なものであり、
それをより低次元な言語表現に落とし込んだ時点で、必ず膨大な分量の意味の欠落を生ずる。
それによって、原文によってなら抱けるような憧れまでもが、始めから抱かれもしなかったり
することにもなるわけで、次元の低さに何もかもを落とし込もうとして、そのせいで不満の塊と
なった挙句にドッカンファビョンなるという悪循環の不実さが、今こそ神妙に汲み取れるのである。
一日一品の寸評だけでも、明和のサーバが悲鳴を上げているよ。
意味は分かっていないよ。
分かっていないから、意味と意味との因果応報が
ことごとく成就している滋味深さを味わうこともできないままでいる。
因果律保存の滋味深さを味わえない所でこそ、
糞詰まりの悩乱からなる馬鹿の開き直りまでもが生じるのである。
分かっていないから、意味と意味との因果応報が
ことごとく成就している滋味深さを味わうこともできないままでいる。
因果律保存の滋味深さを味わえない所でこそ、
糞詰まりの悩乱からなる馬鹿の開き直りまでもが生じるのである。
「作者不詳の作り話のおとぎ話」
そりゃ新旧約聖書のほうだ。
大乗経典の作者:
釈迦個人の論弁や教義を杓子定規に受容することばかりに
終始している上座部仏教に反感を抱いた部派仏教の出家修行者
大乗経典の内容:
釈迦の成道以前の修行や布教活動なども参考に、より本格的な出家修行に
努めた大乗の仏者たちが得た悟りの心象などのありのままの表記
これほどにも、大乗経典の作者と内容とは、見るに明らかなものだ。
「マタイ」とか「ルカ」とか署名が明記されているから作者が明らかで、
「キリストは生き返った」と作中で何度も証言されているから
作り話おとぎ話ではないなどという転倒夢想の悩乱状態にあるのなら、
作者名も証言もされていない大乗経典の記述姿勢を以って、
「作者不詳の作り話のおとぎ話」などと決め付け苦しんだりするのかもしれないが。
そりゃ新旧約聖書のほうだ。
大乗経典の作者:
釈迦個人の論弁や教義を杓子定規に受容することばかりに
終始している上座部仏教に反感を抱いた部派仏教の出家修行者
大乗経典の内容:
釈迦の成道以前の修行や布教活動なども参考に、より本格的な出家修行に
努めた大乗の仏者たちが得た悟りの心象などのありのままの表記
これほどにも、大乗経典の作者と内容とは、見るに明らかなものだ。
「マタイ」とか「ルカ」とか署名が明記されているから作者が明らかで、
「キリストは生き返った」と作中で何度も証言されているから
作り話おとぎ話ではないなどという転倒夢想の悩乱状態にあるのなら、
作者名も証言もされていない大乗経典の記述姿勢を以って、
「作者不詳の作り話のおとぎ話」などと決め付け苦しんだりするのかもしれないが。
たとえば、釈尊がチョモランマの初登頂者だとする。
上座部の仏者は、その釈尊の偉業を称えて、初登頂
ならではの感興や、その登頂経路の保全だけに務めている人々。
大乗の仏者は、初登頂者としての釈尊の偉業を称えつつも、
自らもまたチョモランマに登頂することを志し、新たな登頂経路
なども開拓しつつ実際に頂上に登り詰めて、自らの言葉で
その感想を述べたりすることにも務めている人々。
どうあっても、人類として二度と「チョモランマの初登頂者」に
釈尊以外の誰かがなり得ることはないし、初登頂者ならではの、
登頂経路の新造などの労苦を、今さら誰かが繰り返したりする必要もない。
だから、釈尊以降の人間としての立場からすれば、チョモランマ登頂を
より一般化してくれている大乗の教義を受容するほうが、理に適っている。
ほとんど「遺跡保全係」も同然の存在である
上座部のほうに、興味本位の一般人がたかったりするほうが、
上座部の側にとっても迷惑千万なことにすらなり兼ねない。
上座部の仏者は、その釈尊の偉業を称えて、初登頂
ならではの感興や、その登頂経路の保全だけに務めている人々。
大乗の仏者は、初登頂者としての釈尊の偉業を称えつつも、
自らもまたチョモランマに登頂することを志し、新たな登頂経路
なども開拓しつつ実際に頂上に登り詰めて、自らの言葉で
その感想を述べたりすることにも務めている人々。
どうあっても、人類として二度と「チョモランマの初登頂者」に
釈尊以外の誰かがなり得ることはないし、初登頂者ならではの、
登頂経路の新造などの労苦を、今さら誰かが繰り返したりする必要もない。
だから、釈尊以降の人間としての立場からすれば、チョモランマ登頂を
より一般化してくれている大乗の教義を受容するほうが、理に適っている。
ほとんど「遺跡保全係」も同然の存在である
上座部のほうに、興味本位の一般人がたかったりするほうが、
上座部の側にとっても迷惑千万なことにすらなり兼ねない。
「華厳経」如来現相品第二(八十巻中六巻目)読了。
とにかく光、光、光、明、明、明、照、照、照の大プッシュ。
浄土門の阿弥陀仏も「無量光寿仏」の異名を取るけれども、そもそも仏教という宗教自体が、
尽十方をあまねく照らし尽くすことを目的とした「光の宗教」だったことが分かる。
光や闇ってのは、あくまで善徳や罪悪の比喩表現ではあるわけだが、
その光や闇といった象徴表現をそのまま当てはめるなら、
仏教・・・何もかもが光で満たされることを画策する。
悪魔信仰・・・何もかもが闇に蔽われることを画策する。
キリスト信仰・・・何もかもが闇に蔽われる中で、自分たちだけが限られた灯火に与ることを画策する。
であり、仏教が闇黒崇拝の悪魔信仰と相容れないのはもちろんのこと、
暗闇の中のともしびをありがたがる(暗いと不平を言うよりも、 すすんであかりをつけましょう)
キリスト信仰ともまた、根本的に相容れないものであったことが分かる。
仏教と悪魔信仰、仏教とキリスト教が全く相容れず、並存が全くの不能である一方で、
悪魔信仰とキリスト教は相容れるかどうかはともかく、並存が可能である。
尽十方が無辺に光で照らし出されたのでは、尽十方を暗闇で蔽おうと画策する者の立場はないし、
漆黒の暗闇の中でのともしびこそを愛でようとする者もまた、どこにも居場所がなくなることになる。
それとは違って、何もかもを暗闇で蔽い尽くそうとする者と、暗闇の中の限られた灯火を愛でようと
する者となら、志すところは違っていても、同じ場所に並存していることが一応可能となるのである。
光闇、明暗といった象徴表現は確かに、善悪正邪の微妙な相関法則を説明する、巧みな方便ともなっている。
とにかく光、光、光、明、明、明、照、照、照の大プッシュ。
浄土門の阿弥陀仏も「無量光寿仏」の異名を取るけれども、そもそも仏教という宗教自体が、
尽十方をあまねく照らし尽くすことを目的とした「光の宗教」だったことが分かる。
光や闇ってのは、あくまで善徳や罪悪の比喩表現ではあるわけだが、
その光や闇といった象徴表現をそのまま当てはめるなら、
仏教・・・何もかもが光で満たされることを画策する。
悪魔信仰・・・何もかもが闇に蔽われることを画策する。
キリスト信仰・・・何もかもが闇に蔽われる中で、自分たちだけが限られた灯火に与ることを画策する。
であり、仏教が闇黒崇拝の悪魔信仰と相容れないのはもちろんのこと、
暗闇の中のともしびをありがたがる(暗いと不平を言うよりも、 すすんであかりをつけましょう)
キリスト信仰ともまた、根本的に相容れないものであったことが分かる。
仏教と悪魔信仰、仏教とキリスト教が全く相容れず、並存が全くの不能である一方で、
悪魔信仰とキリスト教は相容れるかどうかはともかく、並存が可能である。
尽十方が無辺に光で照らし出されたのでは、尽十方を暗闇で蔽おうと画策する者の立場はないし、
漆黒の暗闇の中でのともしびこそを愛でようとする者もまた、どこにも居場所がなくなることになる。
それとは違って、何もかもを暗闇で蔽い尽くそうとする者と、暗闇の中の限られた灯火を愛でようと
する者となら、志すところは違っていても、同じ場所に並存していることが一応可能となるのである。
光闇、明暗といった象徴表現は確かに、善悪正邪の微妙な相関法則を説明する、巧みな方便ともなっている。
ここまで読んで、阿弥陀仏は別に、西方浄土を司る如来だから、
特定して光寿無量だったりするわけではないということが分かった。
尽十方を照らし尽くす内でも、日没する方角であるが故に暗愚をも想起させる
西方を照らし出すことを任された如来が、特に阿弥陀仏であるというだけのことで、
暗闇や、暗闇の中の灯火を愛でたがるような陰湿な性格の持ち主にまでも
光明の有難みを思い知らせることが、阿弥陀様に課された特有の使命だったのである。
ここに、悪人正機の謎もまた、解明されたといえる。
全ての如来は、諸方を照らし尽くすことを目的としているけれども、その中でも特に、
日没する西方を照らし出すことを担われたのが阿弥陀様だから、世界が暗闇と化すことを好むような、
最悪の悪人までをも救い取ることこそは、特定して阿弥陀様の使命でもあったのである。
だから、阿弥陀様による救済を欲する念仏信仰において、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という仏説もまた、生じたのである。
阿弥陀如来の他にも、一切衆生を救済することを任された如来は多数居らっしゃり、
それぞれに東方を照らしたり、北方を照らしたり、南方を照らしたり、西北方を照らしたりと、
縦横無尽の活躍をされることによって、尽十方の衆生を無量の光明で照らし出して、救い取る。
だから、日没する西方を好き好むような悪人の部類でもないのなら、わざわざ西方浄土を司る
阿弥陀如来ばかりに救いを乞う必要はないのであり、阿弥陀如来による救済についてこそ
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とのたまわれた親鸞聖人の悪人正機を、
善人でも悪人でもあり得る全ての人間に対して普遍的に適用したりするのは、おかしいのである。
悪人正機が、さも仏法上の根本命題として提唱されたかのようにすら思い込まれるきらいがあるのは、
それほどにも今の世界が、日没する西方を好き好む悪人ばかりで満たされているからなだけなのである。
特定して光寿無量だったりするわけではないということが分かった。
尽十方を照らし尽くす内でも、日没する方角であるが故に暗愚をも想起させる
西方を照らし出すことを任された如来が、特に阿弥陀仏であるというだけのことで、
暗闇や、暗闇の中の灯火を愛でたがるような陰湿な性格の持ち主にまでも
光明の有難みを思い知らせることが、阿弥陀様に課された特有の使命だったのである。
ここに、悪人正機の謎もまた、解明されたといえる。
全ての如来は、諸方を照らし尽くすことを目的としているけれども、その中でも特に、
日没する西方を照らし出すことを担われたのが阿弥陀様だから、世界が暗闇と化すことを好むような、
最悪の悪人までをも救い取ることこそは、特定して阿弥陀様の使命でもあったのである。
だから、阿弥陀様による救済を欲する念仏信仰において、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という仏説もまた、生じたのである。
阿弥陀如来の他にも、一切衆生を救済することを任された如来は多数居らっしゃり、
それぞれに東方を照らしたり、北方を照らしたり、南方を照らしたり、西北方を照らしたりと、
縦横無尽の活躍をされることによって、尽十方の衆生を無量の光明で照らし出して、救い取る。
だから、日没する西方を好き好むような悪人の部類でもないのなら、わざわざ西方浄土を司る
阿弥陀如来ばかりに救いを乞う必要はないのであり、阿弥陀如来による救済についてこそ
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とのたまわれた親鸞聖人の悪人正機を、
善人でも悪人でもあり得る全ての人間に対して普遍的に適用したりするのは、おかしいのである。
悪人正機が、さも仏法上の根本命題として提唱されたかのようにすら思い込まれるきらいがあるのは、
それほどにも今の世界が、日没する西方を好き好む悪人ばかりで満たされているからなだけなのである。
神道も光明を貴びはするが、最高神にして光明の源たるアマテラスからして、
スサノオの高天原での乱暴に怯えて岩戸隠れし、世を闇夜にしてしまったりする。
これは実際に毎日昇っては没している天体としての太陽に当てはまる性格だし、
陰陽法則からいっても、光明と闇とが代わる代わる世界を支配することのほうが普遍的ですらある。
しかし、仏教で如来がもたらすとされる無量の光明は、そのような陰陽法則にも根差さない。
昼神や夜神や火神とも別のものとしての、如来の悟りから溢れ出る無量の光明があり、
それが日没する西方を含む尽十方を無限に照らし尽くすというのだから、
もはや如来の光寿は陰陽法則すら守る気のないことが見て取れる。
これは、その地理的な緯度の低さからも、非常に強力な日光に日々さらされている
インドの人々ならではの考えのようで、ここまで陽性一辺倒な志向は西洋人はもちろんのこと、
日本人や中国人などの極東の人間にすらほとんど備わってはいない。
あまりにも光明一辺倒なものだから、
仏教という信教自体が、やはり陰陽法則に根差して世俗から立場を追われることがある。
華厳思想のような聖道門の教理も、武家社会の庶民にまで行き渡るようなことは
ほとんどなかったわけで、本格的な仏教が廃れざるを得ない末世におけるシェルターとして、
浄土門の念仏信仰などが置かれもしたのだった。
スサノオの高天原での乱暴に怯えて岩戸隠れし、世を闇夜にしてしまったりする。
これは実際に毎日昇っては没している天体としての太陽に当てはまる性格だし、
陰陽法則からいっても、光明と闇とが代わる代わる世界を支配することのほうが普遍的ですらある。
しかし、仏教で如来がもたらすとされる無量の光明は、そのような陰陽法則にも根差さない。
昼神や夜神や火神とも別のものとしての、如来の悟りから溢れ出る無量の光明があり、
それが日没する西方を含む尽十方を無限に照らし尽くすというのだから、
もはや如来の光寿は陰陽法則すら守る気のないことが見て取れる。
これは、その地理的な緯度の低さからも、非常に強力な日光に日々さらされている
インドの人々ならではの考えのようで、ここまで陽性一辺倒な志向は西洋人はもちろんのこと、
日本人や中国人などの極東の人間にすらほとんど備わってはいない。
あまりにも光明一辺倒なものだから、
仏教という信教自体が、やはり陰陽法則に根差して世俗から立場を追われることがある。
華厳思想のような聖道門の教理も、武家社会の庶民にまで行き渡るようなことは
ほとんどなかったわけで、本格的な仏教が廃れざるを得ない末世におけるシェルターとして、
浄土門の念仏信仰などが置かれもしたのだった。
如来がもらたす光とか、浄土の存在とか
そういう、諸々の大乗フィクションは、いわゆる方便の一つでしょう?
何百年もかけて発展した物語世界は、とてつもなく広がっていますが
そこを追いかけ、没入するばかりでは、本末が転倒してると思います。
あまり深入りするのは、良いとは思えません。
そういう、諸々の大乗フィクションは、いわゆる方便の一つでしょう?
何百年もかけて発展した物語世界は、とてつもなく広がっていますが
そこを追いかけ、没入するばかりでは、本末が転倒してると思います。
あまり深入りするのは、良いとは思えません。
自分が聖道門を盛り立てて行くことは愚か、
その価値を計り知る程度のことすらも覚束ない、
罪悪深重、煩悩最極重の小凡夫であることの、
頼まれてもいない内からの告白をわざわざどうも。
君ぐらいの程度の人間は、仏法の価値を計り知ることもできない内からの、
浄土教の方便に乗せられての、泣く泣くながらの被摂取不捨に引き続き喘いでいればいいよ。
聖道門の、十方に無尽に広がる法界の荘厳に価値がないというのなら、
少なくとも、それ以上に脆弱な、物質的な富の積み重ねや、
それらの宝飾による飾り立てにも価値はないのだといえる。
マンハッタンや東京の高層ビル群も、所詮は数百年以内の風化による崩壊が免れ得ず、
西洋の王候が好き好んで宝飾に用いていた宝石類なども、もはや価格協定すら解消されれば
いくらでも同等品が人工的に量産できるような時代となっている。
無限に積み重ねられようとする物質的な富もまた、
所詮は虚空に遍満する法界の荘厳以内の以下でしかなく、
普遍性という点では、虚空のほうが物質よりも遥かに上であることもまた確か。
「普遍的なものを追い求めよ」というのなら、
物質的な希求を捨てて、虚空の探求こそを本旨とすべきなのであり、
決して普遍的なものへの希求などではないことをわきまえた上で、
物質的な希求もまた為されるべきなのである。
それでこそ、物質的な欲望もまた程度が保たれて害が無くなるわけだから、
物質的な希求の儚さをわきまえるための手段としてだけでも、
虚空の荘厳を探求していくことには紛れもない価値があるのだといえる。
その価値を計り知る程度のことすらも覚束ない、
罪悪深重、煩悩最極重の小凡夫であることの、
頼まれてもいない内からの告白をわざわざどうも。
君ぐらいの程度の人間は、仏法の価値を計り知ることもできない内からの、
浄土教の方便に乗せられての、泣く泣くながらの被摂取不捨に引き続き喘いでいればいいよ。
聖道門の、十方に無尽に広がる法界の荘厳に価値がないというのなら、
少なくとも、それ以上に脆弱な、物質的な富の積み重ねや、
それらの宝飾による飾り立てにも価値はないのだといえる。
マンハッタンや東京の高層ビル群も、所詮は数百年以内の風化による崩壊が免れ得ず、
西洋の王候が好き好んで宝飾に用いていた宝石類なども、もはや価格協定すら解消されれば
いくらでも同等品が人工的に量産できるような時代となっている。
無限に積み重ねられようとする物質的な富もまた、
所詮は虚空に遍満する法界の荘厳以内の以下でしかなく、
普遍性という点では、虚空のほうが物質よりも遥かに上であることもまた確か。
「普遍的なものを追い求めよ」というのなら、
物質的な希求を捨てて、虚空の探求こそを本旨とすべきなのであり、
決して普遍的なものへの希求などではないことをわきまえた上で、
物質的な希求もまた為されるべきなのである。
それでこそ、物質的な欲望もまた程度が保たれて害が無くなるわけだから、
物質的な希求の儚さをわきまえるための手段としてだけでも、
虚空の荘厳を探求していくことには紛れもない価値があるのだといえる。
「華厳経」普賢三昧品第三(八十巻中七巻目)を読了。
この品は他品と比べて短編で、次の世界成就品第四と併せて七巻目とされる。
普賢菩薩が、十方の仏に頭頂を撫でられるという描写がある。
インド人は、子供でも他人に頭を撫でられることを嫌がるというが、インドでは、
目上の者が目下の者の頭を撫でることがれっきとした儀礼の内に入れられているから、
子供を褒めたりする目的でその頭を不用意に撫でるようなことをしてはいけないのである。
その他にも、密教などで、明王さまが悪鬼羅刹を踏み潰すといった描写が典型化されてもいる。
カーストのような大雑把な社会身分の区分けだけでなく、インドでは太古の文化習俗から、
諸々の事物の序列を執拗に秩序立てていくことが非常に好まれていることが分かる。
序列志向にも、良性のものと悪性のものがあり、良性の序列志向は、弱肉強食による
世相の荒廃を食い止めるための秩序を目的とする一方で、悪性の序列志向は、
弱肉強食の結果としての上下関係をそのまま絶対的な秩序にしてしまおうとする。
インドのカーストは儒学上の士農工商などと同様、商人を含む平民階級(バイシャ)と
士族階級(クシャトリヤ)が分断されているため、政商の横暴による世相の弱肉強食化が
事前に食い止められるようになっている。それだけでなく、祭司階級(バラモン)までもが
平民階級とは区別されるため、宗教利権が商売化して膨れ上がることまでもが禁止されている。
武家時代にすでに奴隷制が廃止されている日本の人間などからすれば、奴隷階級(スードラ)
までをも固定化してしまうインドのカーストを手放しに肯定する気にもなれない所があるが、
政商とその取り巻きだけが絶対的な支配者となり、それ以外の人間はすべて奴隷や家畜も同然の扱いを
受ける資本主義社会の秩序などよりは、まだ積極的な良心をカーストにも認めることができるのである。
この品は他品と比べて短編で、次の世界成就品第四と併せて七巻目とされる。
普賢菩薩が、十方の仏に頭頂を撫でられるという描写がある。
インド人は、子供でも他人に頭を撫でられることを嫌がるというが、インドでは、
目上の者が目下の者の頭を撫でることがれっきとした儀礼の内に入れられているから、
子供を褒めたりする目的でその頭を不用意に撫でるようなことをしてはいけないのである。
その他にも、密教などで、明王さまが悪鬼羅刹を踏み潰すといった描写が典型化されてもいる。
カーストのような大雑把な社会身分の区分けだけでなく、インドでは太古の文化習俗から、
諸々の事物の序列を執拗に秩序立てていくことが非常に好まれていることが分かる。
序列志向にも、良性のものと悪性のものがあり、良性の序列志向は、弱肉強食による
世相の荒廃を食い止めるための秩序を目的とする一方で、悪性の序列志向は、
弱肉強食の結果としての上下関係をそのまま絶対的な秩序にしてしまおうとする。
インドのカーストは儒学上の士農工商などと同様、商人を含む平民階級(バイシャ)と
士族階級(クシャトリヤ)が分断されているため、政商の横暴による世相の弱肉強食化が
事前に食い止められるようになっている。それだけでなく、祭司階級(バラモン)までもが
平民階級とは区別されるため、宗教利権が商売化して膨れ上がることまでもが禁止されている。
武家時代にすでに奴隷制が廃止されている日本の人間などからすれば、奴隷階級(スードラ)
までをも固定化してしまうインドのカーストを手放しに肯定する気にもなれない所があるが、
政商とその取り巻きだけが絶対的な支配者となり、それ以外の人間はすべて奴隷や家畜も同然の扱いを
受ける資本主義社会の秩序などよりは、まだ積極的な良心をカーストにも認めることができるのである。
「華厳経」如来現相品を改めて精察し直してみるに、
浄土三部経中の「無量寿経」などとは明らかに違う部分があった。
それは、「金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、硨磲、碼碯」といったような
物質的な宝物によって仏国土を飾るといった風な、下世話な描写がなかったこと。
尊格名や文中で「寶(宝)」という文字は無数に用いられているのに、世俗社会で
普遍的な価値があるとされるような、カタチある宝物による荘厳の描写がない。
達磨大師がまだインドの小国の王子だった頃、それはそれは見事な宝玉を見せられたことがあった。
兄弟たちは無条件にその美しさを褒め称えたものの、達磨だけは「確かにすばらしい宝玉ですが、
この宝玉も光を受けて輝いているだけに過ぎないのです」と評したという。
他から光を受けてこそ美しい輝きを放つ宝物を好むような俗人に対する方便として、
西方浄土もまた七宝のような実物の宝物によって飾られた国土として描かれたのであり、
そのような俗人に限らず、あらゆる人々を救い取ることを本是とした聖道門の聖典である
「華厳経」においては、「無量の光明によって尽十方を照らし尽くす」というところまでで救済の
表現までもが尽くされるのであり、具体的な宝物によって利益を象徴化することすらしないのである。
浄土三部経中の「無量寿経」などとは明らかに違う部分があった。
それは、「金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、硨磲、碼碯」といったような
物質的な宝物によって仏国土を飾るといった風な、下世話な描写がなかったこと。
尊格名や文中で「寶(宝)」という文字は無数に用いられているのに、世俗社会で
普遍的な価値があるとされるような、カタチある宝物による荘厳の描写がない。
達磨大師がまだインドの小国の王子だった頃、それはそれは見事な宝玉を見せられたことがあった。
兄弟たちは無条件にその美しさを褒め称えたものの、達磨だけは「確かにすばらしい宝玉ですが、
この宝玉も光を受けて輝いているだけに過ぎないのです」と評したという。
他から光を受けてこそ美しい輝きを放つ宝物を好むような俗人に対する方便として、
西方浄土もまた七宝のような実物の宝物によって飾られた国土として描かれたのであり、
そのような俗人に限らず、あらゆる人々を救い取ることを本是とした聖道門の聖典である
「華厳経」においては、「無量の光明によって尽十方を照らし尽くす」というところまでで救済の
表現までもが尽くされるのであり、具体的な宝物によって利益を象徴化することすらしないのである。
仏教が唯物論を外道に相手取った唯心論であることは、
大乗仏教か原始仏教かに依らず共通していること。
それも、「心の持ちよう」なんていう生易しいものではなく、
本当に心象の世界に、マンハッタンや東京の高層ビル群を上回る規模と、
デビアスの所蔵宝石を上回る宝飾とでの荘厳を尽くすのである。
心象の世界に構築される荘厳が、実物の宝物によって表現されたりするのは
まだ方便の内で、「無量の光」や「大海」などとして表現されることすら、本当は比喩の内である。
「心の持ちよう」というだけなら、今でも一般的に言われることだが、
その心の持ちようの体系的な強化によって、乞食並みの物質的貧窮からすら解脱することを
本気で画策していたのが、インドの沙門宗教の王者たる仏教なわけで、
それは確かに、未だ物質的欲望の際限なき貪りが容認されている時代においては
副次的な手段であり、中にはそのストイックさを鼻で笑うような
どぐされ外道もいたりするわけだけれども、封建社会のような、
物質的欲望の貪りが総出を挙げて戒められる社会においては本気で貴ばれるものだし、
世界的な資源不足や財政破綻の危機に見舞われている、これからの社会においても、
その価値が本気で見直されていかなければならないものだといえる。
大乗仏教か原始仏教かに依らず共通していること。
それも、「心の持ちよう」なんていう生易しいものではなく、
本当に心象の世界に、マンハッタンや東京の高層ビル群を上回る規模と、
デビアスの所蔵宝石を上回る宝飾とでの荘厳を尽くすのである。
心象の世界に構築される荘厳が、実物の宝物によって表現されたりするのは
まだ方便の内で、「無量の光」や「大海」などとして表現されることすら、本当は比喩の内である。
「心の持ちよう」というだけなら、今でも一般的に言われることだが、
その心の持ちようの体系的な強化によって、乞食並みの物質的貧窮からすら解脱することを
本気で画策していたのが、インドの沙門宗教の王者たる仏教なわけで、
それは確かに、未だ物質的欲望の際限なき貪りが容認されている時代においては
副次的な手段であり、中にはそのストイックさを鼻で笑うような
どぐされ外道もいたりするわけだけれども、封建社会のような、
物質的欲望の貪りが総出を挙げて戒められる社会においては本気で貴ばれるものだし、
世界的な資源不足や財政破綻の危機に見舞われている、これからの社会においても、
その価値が本気で見直されていかなければならないものだといえる。
「華厳経」世界成就品第四(八十巻中第七巻目)読了。
普賢菩薩が観察した広大な世界海の有り様を流麗な頌歌と共に述べてゆく。
ここでもやはり、即物的な世界の荘厳は極力控えられ、辛うじて「宝樹」とか
「宝冠」とかいったような漠然と物品を表すような言葉が用いられるのみ。
だからこそ、菩薩の境地に至ることで初めて目前に開かれる世界の広大さへの想像力までもが
かき立てられるわけだが、そうして世界観の広大さを間接的にでも思い知らされることが、
思い知らされた人間の脳の記憶情報を最適化する役割までをも果たせるようである。
人間の脳をPCの部位に喩えると、前頭葉が長期記憶を司るハードディスクに当たり、
側頭葉が短期記憶を司るメモリと、情報処理を司るCPUの役割を果たしている。
PCにCPUの性能以上の情報処理を任せると稼働率100%となって、処理が滞るし、
メモリに容量以上の短期記憶を蓄積させようとすると、過剰な記憶情報がハードディスク上の
ページングファイルに回されたりするために、非常に情報の出し入れが遅くなってしまう。
人間の脳でいえば、上記のような状態は「考えが煮詰まる」という状態であり、
煮詰まって悩乱状態となるのを避けるためには、あまりものを考えすぎないようにしたり、
数独のような脳トレを行って、CPUとしての脳の情報処理力や、メモリとしての脳の
短期記憶力を鍛え上げたりすることが、今でも一般的に試みられている。
しかし、仏教は上記のような方法とはまた別の方法によって、人間の脳が考えを煮詰め過ぎないようにする。
華厳経の世界成就品にあるような、広大な世界観を信者なり出家者なりが体得する。
すると、今まで自分の脳内に蓄積されて来た、俗世に関する雑多な知識や考え方がすべて
俯瞰できるようになる。俯瞰することによって、間違った知識や考え方(断片化したファイル)を
整理して、正しい知識や考え方へと再構築する(デフラグする)ことができるようになる。
普賢菩薩が観察した広大な世界海の有り様を流麗な頌歌と共に述べてゆく。
ここでもやはり、即物的な世界の荘厳は極力控えられ、辛うじて「宝樹」とか
「宝冠」とかいったような漠然と物品を表すような言葉が用いられるのみ。
だからこそ、菩薩の境地に至ることで初めて目前に開かれる世界の広大さへの想像力までもが
かき立てられるわけだが、そうして世界観の広大さを間接的にでも思い知らされることが、
思い知らされた人間の脳の記憶情報を最適化する役割までをも果たせるようである。
人間の脳をPCの部位に喩えると、前頭葉が長期記憶を司るハードディスクに当たり、
側頭葉が短期記憶を司るメモリと、情報処理を司るCPUの役割を果たしている。
PCにCPUの性能以上の情報処理を任せると稼働率100%となって、処理が滞るし、
メモリに容量以上の短期記憶を蓄積させようとすると、過剰な記憶情報がハードディスク上の
ページングファイルに回されたりするために、非常に情報の出し入れが遅くなってしまう。
人間の脳でいえば、上記のような状態は「考えが煮詰まる」という状態であり、
煮詰まって悩乱状態となるのを避けるためには、あまりものを考えすぎないようにしたり、
数独のような脳トレを行って、CPUとしての脳の情報処理力や、メモリとしての脳の
短期記憶力を鍛え上げたりすることが、今でも一般的に試みられている。
しかし、仏教は上記のような方法とはまた別の方法によって、人間の脳が考えを煮詰め過ぎないようにする。
華厳経の世界成就品にあるような、広大な世界観を信者なり出家者なりが体得する。
すると、今まで自分の脳内に蓄積されて来た、俗世に関する雑多な知識や考え方がすべて
俯瞰できるようになる。俯瞰することによって、間違った知識や考え方(断片化したファイル)を
整理して、正しい知識や考え方へと再構築する(デフラグする)ことができるようになる。
俗世間の範囲内でしか知識を得たことも考え方を構築したこともない人間が、
一旦だけでも全ての知識や考え方を超俗的な観点から俯瞰して、その整理や修復に努めたならば、
その知識や考え方を処理することを任される側頭葉(CPU、メモリに相当)の負担も軽くなる。
わざわざ脳のCPUやメモリに相当する部分の性能を上げたりはせずに、ハードディスクに相当する
前頭葉に蓄えられた長期記憶を整理して、その記憶を処理する側頭葉の負担を元から減らしてしまうという、
デフラグツールなどのシステム最適化ツールに相当するような役割を、仏教が俗人に対しても担うことができる。
これと似たような精神医療の試みが、「ロボトミー手術」という精神外科手術によって為されたことがある。
これは前頭葉の脳細胞を物理的に破壊して、側頭葉による情報処理の負担を軽減するといったもので、
前頭葉の記憶情報を自力で整理する場合と比べてあまりにも乱暴で、失う所も数多い、下手な試みだといえる。
ロボトミー手術は、患者の精神的な苦痛をやわらげるないし解消することを目的に考案された。
「精神的苦痛」というのは、まさに側頭葉の考えが煮詰まりすぎているが故の悩乱のことなのであり、
仏門への帰依はそのような悩乱を解消する上に、ロボトミー手術の場合のような長期記憶の欠損も伴わない。
悩乱のあるところ、必ず妄言妄動が生ずるのであり、故に世相を荒廃させる乱行の元凶とすらなる。
広大な虚空の世界の荘厳に身を置く立場から、強制的に矮小化された俗界にまつわる知識やものの考え方などを
よく整理して、側頭葉の情報処理に無駄な負担をかけさせないようにすれば、自然と妄言妄動や暴行の
元凶となる悩乱もまた立ち消えになる。すると悩乱が招くような禍いもまた未然に防ぎとめられるのであり、
唯心主義に根ざした虚空の荘厳への心象の安住が、紛れもなく天下の平定、国家の鎮護にまでも結び付くのである。
一旦だけでも全ての知識や考え方を超俗的な観点から俯瞰して、その整理や修復に努めたならば、
その知識や考え方を処理することを任される側頭葉(CPU、メモリに相当)の負担も軽くなる。
わざわざ脳のCPUやメモリに相当する部分の性能を上げたりはせずに、ハードディスクに相当する
前頭葉に蓄えられた長期記憶を整理して、その記憶を処理する側頭葉の負担を元から減らしてしまうという、
デフラグツールなどのシステム最適化ツールに相当するような役割を、仏教が俗人に対しても担うことができる。
これと似たような精神医療の試みが、「ロボトミー手術」という精神外科手術によって為されたことがある。
これは前頭葉の脳細胞を物理的に破壊して、側頭葉による情報処理の負担を軽減するといったもので、
前頭葉の記憶情報を自力で整理する場合と比べてあまりにも乱暴で、失う所も数多い、下手な試みだといえる。
ロボトミー手術は、患者の精神的な苦痛をやわらげるないし解消することを目的に考案された。
「精神的苦痛」というのは、まさに側頭葉の考えが煮詰まりすぎているが故の悩乱のことなのであり、
仏門への帰依はそのような悩乱を解消する上に、ロボトミー手術の場合のような長期記憶の欠損も伴わない。
悩乱のあるところ、必ず妄言妄動が生ずるのであり、故に世相を荒廃させる乱行の元凶とすらなる。
広大な虚空の世界の荘厳に身を置く立場から、強制的に矮小化された俗界にまつわる知識やものの考え方などを
よく整理して、側頭葉の情報処理に無駄な負担をかけさせないようにすれば、自然と妄言妄動や暴行の
元凶となる悩乱もまた立ち消えになる。すると悩乱が招くような禍いもまた未然に防ぎとめられるのであり、
唯心主義に根ざした虚空の荘厳への心象の安住が、紛れもなく天下の平定、国家の鎮護にまでも結び付くのである。
>>37で述べた、考えが煮詰まることによる悩乱を避けるために、現社会でもよく試みられている二つの手段、
・あまり考えすぎないこと
・情報処理を司る側頭葉の性能を高めること
いずれもが、「普賢(普段から賢いままでいること)」をかえって殺ぐ原因となってしまう。
考えないことを試み続ければ、当然賢さは殺がれるし、考える能力(情報処理力)を高める
ことばかりを試み続けても、実際問題、人間が激高な思考能力を保ち続けることなどは無理である。
世に「天才」だ「秀才」だなどと言われている人間も、所詮は一時的な思考能力を高めているというばかりのことであり、
まるでPCのCPUやメモリを交換するようにして、自らの思考能力を格段に高められたりしているわけではない。
むしろ、無理に一時的な思考能力を高めすぎたあまり、常時一定以上の思考能力を保つ能力は殺がれてしまっている。
考えすぎないでいることを心がけた挙句に「普賢」でなくなるのはもちろんのこと、瞬発的な思考能力を
高めようとし過ぎたあまり、恒常的な思考能力を衰えさせてしまった場合にも、「普賢」ではなくなる。
「普段から賢いままでいること」という意味での「普賢」は、脳機能の濫用ばかりが横行している現社会にあっては、
蔑ろにされて衰退させられていることこそあれど、増進されていることなどは決してないのである。
・あまり考えすぎないこと
・情報処理を司る側頭葉の性能を高めること
いずれもが、「普賢(普段から賢いままでいること)」をかえって殺ぐ原因となってしまう。
考えないことを試み続ければ、当然賢さは殺がれるし、考える能力(情報処理力)を高める
ことばかりを試み続けても、実際問題、人間が激高な思考能力を保ち続けることなどは無理である。
世に「天才」だ「秀才」だなどと言われている人間も、所詮は一時的な思考能力を高めているというばかりのことであり、
まるでPCのCPUやメモリを交換するようにして、自らの思考能力を格段に高められたりしているわけではない。
むしろ、無理に一時的な思考能力を高めすぎたあまり、常時一定以上の思考能力を保つ能力は殺がれてしまっている。
考えすぎないでいることを心がけた挙句に「普賢」でなくなるのはもちろんのこと、瞬発的な思考能力を
高めようとし過ぎたあまり、恒常的な思考能力を衰えさせてしまった場合にも、「普賢」ではなくなる。
「普段から賢いままでいること」という意味での「普賢」は、脳機能の濫用ばかりが横行している現社会にあっては、
蔑ろにされて衰退させられていることこそあれど、増進されていることなどは決してないのである。
側頭葉の情報処理機能に多大な負担をかけ過ぎることが悩乱(精神的苦痛)ともなるので、
前頭葉の長期記憶がひどく断片化するなどして、考えること即ち多大な情報処理を必要とすることと
化してしまっている人間は、考えること即ち悩乱を催すこととも化してしまっているため、
常日頃から適度な思考を保つようなこともまたできなくなってしまう。
一方、虚空の荘厳への心象の安住などによって、前頭葉の長期記憶をよく整理修復した人間は、
考えるということがあまり側頭葉の情報処理に多大な負担をかけ過ぎないようになっているために、
常日頃から適度な思考能力を保ち続けていることができる。
長期記憶が最適化されている人間ほど「普賢」を保つことが可能である一方、
断片化が進んでいる人間ほど普賢を保つことは困難なこととなる。
断片化が進み過ぎて、脳の情報処理に激烈な苦痛が伴うようになってしまえば、
常日頃は畜生並みの白痴状態(IQ40以下)でしかいられなくなったりもするのである。
前頭葉の長期記憶がひどく断片化するなどして、考えること即ち多大な情報処理を必要とすることと
化してしまっている人間は、考えること即ち悩乱を催すこととも化してしまっているため、
常日頃から適度な思考を保つようなこともまたできなくなってしまう。
一方、虚空の荘厳への心象の安住などによって、前頭葉の長期記憶をよく整理修復した人間は、
考えるということがあまり側頭葉の情報処理に多大な負担をかけ過ぎないようになっているために、
常日頃から適度な思考能力を保ち続けていることができる。
長期記憶が最適化されている人間ほど「普賢」を保つことが可能である一方、
断片化が進んでいる人間ほど普賢を保つことは困難なこととなる。
断片化が進み過ぎて、脳の情報処理に激烈な苦痛が伴うようになってしまえば、
常日頃は畜生並みの白痴状態(IQ40以下)でしかいられなくなったりもするのである。
側頭葉の情報処理能力の高さが、
本人の精神的苦痛をやわらげるということは、本当はない。
フラッシュ暗算の習得者なども、まるで苦虫を噛んでいるかのような
険しい表情が身に付いてしまう場合があるが、もしも側頭葉の情報処理能力の高さと、
前頭葉の長期記憶の断片化の進行が両立していた場合、その人間は
クソまずい料理を大量に短時間で喰らい尽くすような能力が身に付くまでで、
相変わらずクソまずい料理ばかりを食わせられ続けているも同然の状態であることには変わりない。
長期記憶が十分に修復整理されている人間こそは、側頭葉の情報処理がまるで、
美味な料理を食するも同然の至福となり得るわけで、その料理を大量に食えたり、
短時間で食い尽くせたりするということには、そんなに意味はないのである。
仕事人として、大量の情報を短時間で処理する頭脳力が役立つということはあっても、
それだけで本人の精神的苦痛が緩和されるということは、基本ない。
相変わらず「キリストは、刑死して蘇ることで、全ての人々の罪を償った」のような、
因果律が破綻した情報(断片化した記憶)ばかりで前頭葉の長期記憶が埋め尽くされているのであれば、
その記憶情報を側頭葉が処理することが、まるでクソまずい料理を食わされるかのような、
多大なる精神的苦痛を催させることには変わりないのである。
本人の精神的苦痛をやわらげるということは、本当はない。
フラッシュ暗算の習得者なども、まるで苦虫を噛んでいるかのような
険しい表情が身に付いてしまう場合があるが、もしも側頭葉の情報処理能力の高さと、
前頭葉の長期記憶の断片化の進行が両立していた場合、その人間は
クソまずい料理を大量に短時間で喰らい尽くすような能力が身に付くまでで、
相変わらずクソまずい料理ばかりを食わせられ続けているも同然の状態であることには変わりない。
長期記憶が十分に修復整理されている人間こそは、側頭葉の情報処理がまるで、
美味な料理を食するも同然の至福となり得るわけで、その料理を大量に食えたり、
短時間で食い尽くせたりするということには、そんなに意味はないのである。
仕事人として、大量の情報を短時間で処理する頭脳力が役立つということはあっても、
それだけで本人の精神的苦痛が緩和されるということは、基本ない。
相変わらず「キリストは、刑死して蘇ることで、全ての人々の罪を償った」のような、
因果律が破綻した情報(断片化した記憶)ばかりで前頭葉の長期記憶が埋め尽くされているのであれば、
その記憶情報を側頭葉が処理することが、まるでクソまずい料理を食わされるかのような、
多大なる精神的苦痛を催させることには変わりないのである。
削除(by投稿者)
「華厳経」華厳世界品第五の一(八十巻中八巻目)読了。
ここに至って、「真珠」や「栴檀」「蓮華」といった、実在の自然物による荘厳が出てくる。
>>35で「無量寿経」における仏国土の荘厳として挙げた七宝(金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、硨磲、碼碯)もまた、
真珠、玫瑰、琴瑟と合わせた「十宝」として一応は出てくる。虚空の荘厳の尽くされる尽十方のうちには、
当然日没する西方もまた含まれているわけだから、西方人が好むような物資的財宝による荘厳もまた、あるわけだ。
ただ、尽十方の内では西方もいち方位に過ぎないわけだから、そのようなどぎつい宝物による荘厳の描写の割合は
華厳経全体としては少なく、むしろ蓮華や栴檀、樹や林などの、財宝とも言えないようなものによる荘厳のほうが多い。
まさに、華厳経は「三千大千世界の風土記」だといえる。
この世界、この宇宙に限らず、この世界の形而上の形而上や、逆にこの世界の形而下(プログラム上の仮想世界など)や
そのまた形而下に至るまでの、あらゆる世界を統べる最勝の法王たる如来にとっての、三千大千世界の風流への感興である。
この世に生きる人間としての立場からすれば、把握の対象とできるのは俗世間か、せいぜい自然界まで。
その俗世間や自然界の風流が詩歌などに乗せて唄われることはよくあるが、それと全く同じようにして、
この世界この宇宙に限らぬ、三千大千世界の虚空に安んずる如来の観点から、虚空の風流こそがありのままに謳われている。
人間である以上、いつかは誰しもがこの世を去る。この世を去った後も魂が残るとしたところで、身体は灰塵に帰して
跡形もなくなる。その無常さを嘆くこともまた一つの風流の内には入れられるが、この世界に限らぬ、あらゆる世界を統べる
世尊たる如来が、世界海の風流に対して抱かれた感慨すらをも察することができたならば、自らの命が尽きて、この世界で灰塵に帰する
ぐらいのことは瑣末なこととして受け止められて、死への恐怖からなる妄念や妄動を催したりすることもなくて済むようになるのである。
ここに至って、「真珠」や「栴檀」「蓮華」といった、実在の自然物による荘厳が出てくる。
>>35で「無量寿経」における仏国土の荘厳として挙げた七宝(金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、硨磲、碼碯)もまた、
真珠、玫瑰、琴瑟と合わせた「十宝」として一応は出てくる。虚空の荘厳の尽くされる尽十方のうちには、
当然日没する西方もまた含まれているわけだから、西方人が好むような物資的財宝による荘厳もまた、あるわけだ。
ただ、尽十方の内では西方もいち方位に過ぎないわけだから、そのようなどぎつい宝物による荘厳の描写の割合は
華厳経全体としては少なく、むしろ蓮華や栴檀、樹や林などの、財宝とも言えないようなものによる荘厳のほうが多い。
まさに、華厳経は「三千大千世界の風土記」だといえる。
この世界、この宇宙に限らず、この世界の形而上の形而上や、逆にこの世界の形而下(プログラム上の仮想世界など)や
そのまた形而下に至るまでの、あらゆる世界を統べる最勝の法王たる如来にとっての、三千大千世界の風流への感興である。
この世に生きる人間としての立場からすれば、把握の対象とできるのは俗世間か、せいぜい自然界まで。
その俗世間や自然界の風流が詩歌などに乗せて唄われることはよくあるが、それと全く同じようにして、
この世界この宇宙に限らぬ、三千大千世界の虚空に安んずる如来の観点から、虚空の風流こそがありのままに謳われている。
人間である以上、いつかは誰しもがこの世を去る。この世を去った後も魂が残るとしたところで、身体は灰塵に帰して
跡形もなくなる。その無常さを嘆くこともまた一つの風流の内には入れられるが、この世界に限らぬ、あらゆる世界を統べる
世尊たる如来が、世界海の風流に対して抱かれた感慨すらをも察することができたならば、自らの命が尽きて、この世界で灰塵に帰する
ぐらいのことは瑣末なこととして受け止められて、死への恐怖からなる妄念や妄動を催したりすることもなくて済むようになるのである。
この世の風流すら解することのない精神障害者が、
三千大千世界の風流に限って理解できるなどということが、何故ある?
仮に自分がこの世界の形而上の世界に上り得たところで、一世の風流すら解さぬその未熟さが、
またその世界での悩乱からなる渇望を募らせるばかりのことではないか。
必要なのは世界の超越などではなく、
一世の風流すら解せる己れの虚心さでこそある。
三千大千世界の風流に限って理解できるなどということが、何故ある?
仮に自分がこの世界の形而上の世界に上り得たところで、一世の風流すら解さぬその未熟さが、
またその世界での悩乱からなる渇望を募らせるばかりのことではないか。
必要なのは世界の超越などではなく、
一世の風流すら解せる己れの虚心さでこそある。
「華厳経」華厳世界品第五の二(八十巻中九巻目)読了。
この世界の上に別の世界が、さらにその上にこれまた別の世界がといった、
「世界の重畳」が展開される。さらに、それぞれの世界の形が三角形だったり、
八角形だったり卍形だったりと、重畳するごとに様々な形状の変化を見せる。
まさに「フラクタル」の描写そのもの。
法界の真理の描写にかけては、実際に密教が曼荼羅という形でフラクタル図像化もしており、
華厳経におけるフラクタル的な世界の重畳の描写も、完全に確信的なものであることが分かる。
フラクタルはこの世界、この宇宙の範囲内にかけても無数に見られる現象で、
無限次元の非線形幾何学構造としてしか数理化しようのない現象がこの世界に数多見られることが、
この世界を線形の数理物理によって数理化しようとした、アインシュタインのような科学者の
頭を悩ませてもいた。神がサイコロを振ろうが振るまいが、無限次元の非線形系を
人間がコンピュータなどによって完全にシミュレートし尽くすのも無理がある話しで、
不可思議要素を研究対象から強制的に除外する、「オッカムの剃刀」の悪癖を持ち越している
西洋の科学者などからは、非線形科学もあくまで異端のものとして扱われて来ている。
この世界の上に別の世界が、さらにその上にこれまた別の世界がといった、
「世界の重畳」が展開される。さらに、それぞれの世界の形が三角形だったり、
八角形だったり卍形だったりと、重畳するごとに様々な形状の変化を見せる。
まさに「フラクタル」の描写そのもの。
法界の真理の描写にかけては、実際に密教が曼荼羅という形でフラクタル図像化もしており、
華厳経におけるフラクタル的な世界の重畳の描写も、完全に確信的なものであることが分かる。
フラクタルはこの世界、この宇宙の範囲内にかけても無数に見られる現象で、
無限次元の非線形幾何学構造としてしか数理化しようのない現象がこの世界に数多見られることが、
この世界を線形の数理物理によって数理化しようとした、アインシュタインのような科学者の
頭を悩ませてもいた。神がサイコロを振ろうが振るまいが、無限次元の非線形系を
人間がコンピュータなどによって完全にシミュレートし尽くすのも無理がある話しで、
不可思議要素を研究対象から強制的に除外する、「オッカムの剃刀」の悪癖を持ち越している
西洋の科学者などからは、非線形科学もあくまで異端のものとして扱われて来ている。
しかし、残念ながらフラクタルを始めとする非線形系こそは、この世界この宇宙を司る真理であるし、
この世界この宇宙ばかりに限らない、三千大千世界の全てに対して通用する絶対真理ですらある。
仮にこの世界が自己完結的な数理構造によって記述され尽くしたとする。だとすれば、
この世界全体を当該の数理構造によって司っている超越者なりを想定することもできなくはない。
しかし、今度はその超越者を司る超々越者の実在性が疑われることになるだけで、その超々越者の
存在性が定立されたところで、これまたその超々々越者を司る超々々々越者の実在性が疑われるまでのこと。
上記のような形而上の超越性の探求は、試み始めればきりがないことだということを
荘子も述べていて、新井白石も同様の意見を、たった一段階上の超越神についてしか
論じない西洋の宣教師に述べたら、ろくな答えも返しては来なかったという。
荘子もそう断じている通り、中国思想は、形而上論などはきりがないから途絶してしまっている。
しかし、インド哲学の雄でもある仏教は、形而上論をも徹底的に突き詰めて、そこに「フラクタル」に
相当する結論を提示している。たった一段階上の形而上しか論じない西洋の形而上学などとは違い、
仏教の形而上論こそは、形而上の重畳についても透徹していて、だからこそ絶対真理にすら合致している。
太古の昔に、形而上学は仏教哲学の一環として、完成してしまっているのである。
この世界この宇宙ばかりに限らない、三千大千世界の全てに対して通用する絶対真理ですらある。
仮にこの世界が自己完結的な数理構造によって記述され尽くしたとする。だとすれば、
この世界全体を当該の数理構造によって司っている超越者なりを想定することもできなくはない。
しかし、今度はその超越者を司る超々越者の実在性が疑われることになるだけで、その超々越者の
存在性が定立されたところで、これまたその超々々越者を司る超々々々越者の実在性が疑われるまでのこと。
上記のような形而上の超越性の探求は、試み始めればきりがないことだということを
荘子も述べていて、新井白石も同様の意見を、たった一段階上の超越神についてしか
論じない西洋の宣教師に述べたら、ろくな答えも返しては来なかったという。
荘子もそう断じている通り、中国思想は、形而上論などはきりがないから途絶してしまっている。
しかし、インド哲学の雄でもある仏教は、形而上論をも徹底的に突き詰めて、そこに「フラクタル」に
相当する結論を提示している。たった一段階上の形而上しか論じない西洋の形而上学などとは違い、
仏教の形而上論こそは、形而上の重畳についても透徹していて、だからこそ絶対真理にすら合致している。
太古の昔に、形而上学は仏教哲学の一環として、完成してしまっているのである。
「華厳経」華厳世界品第五の三(八十巻中十巻目)読了。
五の二で上の世界、上の世界へと垂直方向に重畳する展開が繰り広げられたのに対し、
五の三で次の海、次の海と、水平方向へと視野が広がっていく展開が進められていく。
五の二が形而上や、そのまた形而上の果てなる世界への、仏眼の透徹の描写であるのに対し、
五の三はこの世界の範囲内での、世界の果てまでの仏眼の透徹の描写であるといえる。
地球は球体だから、水平方向への進行がいつかは円転に帰することになる。地球上に限っての
世界の広さは限られているから、華厳経の描写も、必ずしもそのまま当てはめられはしない。
しかし、「次の海、次の海」という描写を、「次の星、次の星」という風に言い換えてみたなら、
この宇宙の果てへと仏眼が透徹していることにも代えられるわけで、華厳世界品五の三をそういった
宇宙の果てまでの透徹に見立て、五の二をこの宇宙の形而上への透徹にも見立てることができる。
しかし、この三千大千世界をどこまでも包摂し尽くす華厳世界にまつわる普賢菩薩の頌歌の中で、
餓鬼畜生の域に陥った衆生が地獄の責め苦に苛まれたり、あるいは人界や天界での浄業に専念した結果、
快楽(けらく)に与れたりするのを見るといった描写もまたある。つまり、仏道の観点からすれば
さほど高尚でもない衆生界において、鬼畜に対する悪因苦果や、人天に対する善因楽果が
因果応報として成就しているのを見るのだという。三千大千世界に透徹する慧眼に与れる観点から、
善因楽果悪因苦果の罪福異熟が衆生界において成就することが、事実、見受けられるのだという。
それは、この世界この宇宙やその形而上やそのまた形而上といった、広大な世界海における「巨大な現象」
というわけでも決してないのだが、ことに、衆生界というごく部分的な領域における普遍法則としては、
三千大千世界を包摂する広大極まりない観点からも、絶対的と見なさざるを得ないものなのである。
五の二で上の世界、上の世界へと垂直方向に重畳する展開が繰り広げられたのに対し、
五の三で次の海、次の海と、水平方向へと視野が広がっていく展開が進められていく。
五の二が形而上や、そのまた形而上の果てなる世界への、仏眼の透徹の描写であるのに対し、
五の三はこの世界の範囲内での、世界の果てまでの仏眼の透徹の描写であるといえる。
地球は球体だから、水平方向への進行がいつかは円転に帰することになる。地球上に限っての
世界の広さは限られているから、華厳経の描写も、必ずしもそのまま当てはめられはしない。
しかし、「次の海、次の海」という描写を、「次の星、次の星」という風に言い換えてみたなら、
この宇宙の果てへと仏眼が透徹していることにも代えられるわけで、華厳世界品五の三をそういった
宇宙の果てまでの透徹に見立て、五の二をこの宇宙の形而上への透徹にも見立てることができる。
しかし、この三千大千世界をどこまでも包摂し尽くす華厳世界にまつわる普賢菩薩の頌歌の中で、
餓鬼畜生の域に陥った衆生が地獄の責め苦に苛まれたり、あるいは人界や天界での浄業に専念した結果、
快楽(けらく)に与れたりするのを見るといった描写もまたある。つまり、仏道の観点からすれば
さほど高尚でもない衆生界において、鬼畜に対する悪因苦果や、人天に対する善因楽果が
因果応報として成就しているのを見るのだという。三千大千世界に透徹する慧眼に与れる観点から、
善因楽果悪因苦果の罪福異熟が衆生界において成就することが、事実、見受けられるのだという。
それは、この世界この宇宙やその形而上やそのまた形而上といった、広大な世界海における「巨大な現象」
というわけでも決してないのだが、ことに、衆生界というごく部分的な領域における普遍法則としては、
三千大千世界を包摂する広大極まりない観点からも、絶対的と見なさざるを得ないものなのである。
「華厳経」毘盧遮那品第六(八十巻中十一巻目)読了。
喜見善慧王という名の王様が出てきて、この王様には三万七千人の妻妾と、
五百人の王子(妻妾の人数と比べてだいぶ少ないのがリアル)、それに六万人の大臣がいるという。
この王様が仏門に帰依することで、何十億という眷属や人民が福徳三昧に与れたという。
仏教というと、いかにも精進修行第一という印象があるが、それはあくまで「出家者」についてであって、
在家信者については、喜見善慧王ほどにも数多の妻子や眷属を侍らせることすらもが認められているのである。
自力作善の聖道門においてこそ、在家信者が数多の妻妾を侍らせる王者であることすらもが認められるのであり、
他力本願の浄土門こそはむしろ、一夫多妻なんか経済的にできやしない、百姓などを主要な在家信者としてもいる。
経済的な理由に限らず、民間人の仕事ってのは、男でも女でもできるようなものがほとんどだから、
男尊女卑が健全に機能せず、一夫多妻を実行しようにも、女の側からの不平を十分にいなすこともできない。
だから貧乏な小百姓に限らず、裕福な庄屋や豪商であっても、一夫多妻というのはあまり一般化しない。
君子階級の男こそは、男にしかできない仕事をやってのけるから、一夫多妻すら当然のものとして押し通せる。その、
君子階級の男が帰依するものとしてこそ、聖道門の仏教もまた相応しいのであり、民間人は浄土門だけで十分なのである。
君子階級の人間が在家信者として聖道門に帰依してこそ、その功徳が民衆にまでも振り向けられるのであり、一夫一妻でも
なければこっぱずかしい民間人の分際でいて、華厳宗や禅宗の在家信者であったりすることには、大した意味はないのである。
日本の皇族はもちろんのこと、中国末代皇帝の宣統帝溥儀すら、時代の風潮に流されて一夫多妻を破綻させざるを
得なかった近現代において、聖道門に帰依することが本当に意味のある人間などは、もはや絶えたといっていい。
(ムスリムはイスラム信仰によって一夫多妻を是認しているのだから、仏教に改宗してそれが存続できるわけでもない)
喜見善慧王という名の王様が出てきて、この王様には三万七千人の妻妾と、
五百人の王子(妻妾の人数と比べてだいぶ少ないのがリアル)、それに六万人の大臣がいるという。
この王様が仏門に帰依することで、何十億という眷属や人民が福徳三昧に与れたという。
仏教というと、いかにも精進修行第一という印象があるが、それはあくまで「出家者」についてであって、
在家信者については、喜見善慧王ほどにも数多の妻子や眷属を侍らせることすらもが認められているのである。
自力作善の聖道門においてこそ、在家信者が数多の妻妾を侍らせる王者であることすらもが認められるのであり、
他力本願の浄土門こそはむしろ、一夫多妻なんか経済的にできやしない、百姓などを主要な在家信者としてもいる。
経済的な理由に限らず、民間人の仕事ってのは、男でも女でもできるようなものがほとんどだから、
男尊女卑が健全に機能せず、一夫多妻を実行しようにも、女の側からの不平を十分にいなすこともできない。
だから貧乏な小百姓に限らず、裕福な庄屋や豪商であっても、一夫多妻というのはあまり一般化しない。
君子階級の男こそは、男にしかできない仕事をやってのけるから、一夫多妻すら当然のものとして押し通せる。その、
君子階級の男が帰依するものとしてこそ、聖道門の仏教もまた相応しいのであり、民間人は浄土門だけで十分なのである。
君子階級の人間が在家信者として聖道門に帰依してこそ、その功徳が民衆にまでも振り向けられるのであり、一夫一妻でも
なければこっぱずかしい民間人の分際でいて、華厳宗や禅宗の在家信者であったりすることには、大した意味はないのである。
日本の皇族はもちろんのこと、中国末代皇帝の宣統帝溥儀すら、時代の風潮に流されて一夫多妻を破綻させざるを
得なかった近現代において、聖道門に帰依することが本当に意味のある人間などは、もはや絶えたといっていい。
(ムスリムはイスラム信仰によって一夫多妻を是認しているのだから、仏教に改宗してそれが存続できるわけでもない)
削除(by投稿者)
「華厳経」如来名号品第七および四聖諦品第八(併せて八十巻中十二巻目)読了。
如来名号品で、西方中仏刹微塵数の果ての世界に「蓮華色」という名の世界があり、
そこでは仏が「滅闇智」と号されているという。「智恵に暗いものを滅ぼす」という意味であり、
日没する西方の住人から見た場合の仏がやはり、最闇黒にさす無量の光でこそあると見受けられている。
本品における十方の羅列順序は
東→南→西→北→東北→東南→西南→西北→下方→上方
であり、本品と四聖諦品は「東方の遥か彼方に至るまで・・・であり、東方の如く南西北方四維上下もこのようである」
という語で〆られてもいるため、華厳経は、東方優位西方劣位の理念に即して書かれていることが分かる。
これによって生じた西方救済の希薄化を、西方浄土を説く浄土信仰が補完しているのだともいえる。
如来名号品で、西方中仏刹微塵数の果ての世界に「蓮華色」という名の世界があり、
そこでは仏が「滅闇智」と号されているという。「智恵に暗いものを滅ぼす」という意味であり、
日没する西方の住人から見た場合の仏がやはり、最闇黒にさす無量の光でこそあると見受けられている。
本品における十方の羅列順序は
東→南→西→北→東北→東南→西南→西北→下方→上方
であり、本品と四聖諦品は「東方の遥か彼方に至るまで・・・であり、東方の如く南西北方四維上下もこのようである」
という語で〆られてもいるため、華厳経は、東方優位西方劣位の理念に即して書かれていることが分かる。
これによって生じた西方救済の希薄化を、西方浄土を説く浄土信仰が補完しているのだともいえる。
四聖諦品はそれこそ、出家修行によってでもなければ実感が追いつかないような、精密な名辞論となっている。
苦・集・滅・道が具体的にどのような名前の現象として現出するのかが、世界観の違いにも基づいて膨大に羅列されている。
しかも、その全てが絶対的な普遍性にも基づいているというのだから、四書五経レベルの名辞論ですら
その理解が覚束ない現代人などに、自力仏教の名辞論などが毛先ほどに理解できるなどということもない。
とはいえ、まあ、
「この娑婆世界に言う所の苦聖諦は、彼の歓喜世界の中にて、或いは流転と名づけ、或いは出生と
名づけ、或いは失利と名づけ、或いは染著と名づけ、或いは重擔(重荷)と名づけ、或いは差別と名づけ、
或いは内険(内憂)と名づけ、或いは集会と名づけ、或いは悪舎宅と名づけ、或いは苦悩性と名づく」
これなどは比較的、現代人にとっても分かりやすい苦諦の実例かと思う。現代人にとって特にこれが分かりやすいのは、
「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ5:16)」という、新旧約聖書の邪義にも根ざした情報洗脳によって、
誰しもが常にウレシがっているような状態に置かれているからで、極端に歓喜極まっているような状態の人間には
上記のような事物が苦しみとして受け止められる法則があることが、仏門においてはとっくの昔に看破されている。
苦・集・滅・道が具体的にどのような名前の現象として現出するのかが、世界観の違いにも基づいて膨大に羅列されている。
しかも、その全てが絶対的な普遍性にも基づいているというのだから、四書五経レベルの名辞論ですら
その理解が覚束ない現代人などに、自力仏教の名辞論などが毛先ほどに理解できるなどということもない。
とはいえ、まあ、
「この娑婆世界に言う所の苦聖諦は、彼の歓喜世界の中にて、或いは流転と名づけ、或いは出生と
名づけ、或いは失利と名づけ、或いは染著と名づけ、或いは重擔(重荷)と名づけ、或いは差別と名づけ、
或いは内険(内憂)と名づけ、或いは集会と名づけ、或いは悪舎宅と名づけ、或いは苦悩性と名づく」
これなどは比較的、現代人にとっても分かりやすい苦諦の実例かと思う。現代人にとって特にこれが分かりやすいのは、
「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ5:16)」という、新旧約聖書の邪義にも根ざした情報洗脳によって、
誰しもが常にウレシがっているような状態に置かれているからで、極端に歓喜極まっているような状態の人間には
上記のような事物が苦しみとして受け止められる法則があることが、仏門においてはとっくの昔に看破されている。
歓喜者の「失利」や「差別」に対する苦しみこそが、まさに資本主義や民主主義を推し進める原動力ともなって居り、
心境がウレシがりの状態にすら置かれていなければ、別に失利や差別を必ずしも苦しみと受け止めるとも限らない。
聖人君子などであればむしろ、失利や差別が天下国家の安寧のために善用されることを楽しみもする。
歓喜者がそれらを苦しむ原因(集諦)は「非実法」だったり「煩悩法」だったり「狭劣見」だったりするわけで、
これらに相当するものが新旧約聖書や、洋学系の哲学書や法律書や経済書などにこそ、延々と書き連ねられている。
(あるいは、これらの書物を著述する姿勢自体が「狭劣見」だったりする)
歓喜者が上記のような原因からなる苦しみを解くためには、「断集」や「分別尽」や「正念行」や「常寂路」
などの方法(道諦)が適当であるとされ、それでこそ「破依止」や「不放逸」や「真実」や「平等」や
「善浄」や「無病」や「無曲」や「自在」といった形での、苦しみの消滅(滅諦)に与れるという。
極端な歓喜状態に常に置かれている現代人が、上記のような方法に基づいて、
上記のような様態での、苦しみの消滅を試みているようなことからして、基本、ない。
むしろ、「続集」や「無分別」や「邪念行」や「常騒路」を試みることで、「囚依止」や「大放逸」や
「不実」や「大差別」や「悪濁」や「捻曲」や「不自在」といった、さらなる苦しみの増長こそを呼び込んでいる。
「非実法」や「煩悩法」や「狭劣見」にすがることで、そのような悪循環ばかりを進行させてしまっているのである。
心境がウレシがりの状態にすら置かれていなければ、別に失利や差別を必ずしも苦しみと受け止めるとも限らない。
聖人君子などであればむしろ、失利や差別が天下国家の安寧のために善用されることを楽しみもする。
歓喜者がそれらを苦しむ原因(集諦)は「非実法」だったり「煩悩法」だったり「狭劣見」だったりするわけで、
これらに相当するものが新旧約聖書や、洋学系の哲学書や法律書や経済書などにこそ、延々と書き連ねられている。
(あるいは、これらの書物を著述する姿勢自体が「狭劣見」だったりする)
歓喜者が上記のような原因からなる苦しみを解くためには、「断集」や「分別尽」や「正念行」や「常寂路」
などの方法(道諦)が適当であるとされ、それでこそ「破依止」や「不放逸」や「真実」や「平等」や
「善浄」や「無病」や「無曲」や「自在」といった形での、苦しみの消滅(滅諦)に与れるという。
極端な歓喜状態に常に置かれている現代人が、上記のような方法に基づいて、
上記のような様態での、苦しみの消滅を試みているようなことからして、基本、ない。
むしろ、「続集」や「無分別」や「邪念行」や「常騒路」を試みることで、「囚依止」や「大放逸」や
「不実」や「大差別」や「悪濁」や「捻曲」や「不自在」といった、さらなる苦しみの増長こそを呼び込んでいる。
「非実法」や「煩悩法」や「狭劣見」にすがることで、そのような悪循環ばかりを進行させてしまっているのである。
たとえば、飲酒運転や刀剣所持のような、それ自体が誰に対して迷惑をかけるわけでもない
虚罪に対して不当な重罰を科す、悪質な実定法があったとする。するとこれは「非実法」であると言える。
政財界がグルになって、自分たちばかりに不正な利得を呼び込む商業法規を
でっち上げて世の中に強いたとする。するとこれは「煩悩法」であるといえる。
性風俗に対する極端な規制緩和などをしても煩悩法になるし、
逆に極端に規制を強化したりしても、これまた非実法になる。
これら全て、自らの挟隘な了見を社会的に普遍化しようとする、「狭劣見」によって催される。
歓喜世界にまつわる四聖諦の法則は、確かに近代の法治主義にもそのまま当てはめられる。
しかも、これは四聖諦の法則の内でもごく初歩的なものに過ぎないのだから、
仏法の普遍性は、歓喜世界の構築一辺倒な近代法のそれを軽く上回っているのだといえる。
「華厳経」四聖諦品は、明らかに、ただの学者や作家が著述できるような代物ではない。
厳しい精進修行を積んだ出家者が、尽十方にあまねき絶対真理を把捉し尽くした先に
拵えられた論述でこそあり、故にこそ近代法が取り扱うものの全てである、
歓喜世界の四諦などは完全に看破した上で、なおのこと、ごく部分的なものとしてのみ取り扱ってすらいる。
虚罪に対して不当な重罰を科す、悪質な実定法があったとする。するとこれは「非実法」であると言える。
政財界がグルになって、自分たちばかりに不正な利得を呼び込む商業法規を
でっち上げて世の中に強いたとする。するとこれは「煩悩法」であるといえる。
性風俗に対する極端な規制緩和などをしても煩悩法になるし、
逆に極端に規制を強化したりしても、これまた非実法になる。
これら全て、自らの挟隘な了見を社会的に普遍化しようとする、「狭劣見」によって催される。
歓喜世界にまつわる四聖諦の法則は、確かに近代の法治主義にもそのまま当てはめられる。
しかも、これは四聖諦の法則の内でもごく初歩的なものに過ぎないのだから、
仏法の普遍性は、歓喜世界の構築一辺倒な近代法のそれを軽く上回っているのだといえる。
「華厳経」四聖諦品は、明らかに、ただの学者や作家が著述できるような代物ではない。
厳しい精進修行を積んだ出家者が、尽十方にあまねき絶対真理を把捉し尽くした先に
拵えられた論述でこそあり、故にこそ近代法が取り扱うものの全てである、
歓喜世界の四諦などは完全に看破した上で、なおのこと、ごく部分的なものとしてのみ取り扱ってすらいる。
「華厳経」光明覚品第九(八十巻中十三巻目)読了。
文殊師利菩薩が諸仏への讃頌の中で、「導師は地獄の中にも身を置いて、
衆生を度さんがためにその苦しみをも耐え忍ばれた」と唄っている。もちろん
罪があるから地獄に堕ちたのではなく、自ら進んで地獄におもむいて、そこでの責め苦を
あえて体験したのであり、それでこそ地獄の苦しみをも超越した諦観を得たのである。
このあたり、朱子が「巨石を抱いて水の中に身を投じるが如し(近思録)」と徒労扱いした部分であり、
始めから地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に立ち入りすらしない儒学の中庸志向などとの決定的な相違点となっている。
仏教の「中道」は、善悪の両極端を完全に計り知った上で、その中正の悟りを得ることである。
本品に「丈夫師子の歩」という言葉が出てくる。これは、釈迦が生誕時に七歩歩いて、
天地を両手で指差して「天上天下唯我独尊」と言ったとされる伝説、この伝説における「七歩」を指している。
どうせフィクションには違いないにしろ、この、諸法無我を説く仏教の開祖である釈迦の伝説にしては
どうにも理解し難い説話の意味が、光明覚品全体の趣意を汲み取ることで、初めて理解できる。
釈迦の我は、皆無といってもいいほどにも真空だったのである。真空だったから、万物万全をも包摂し、
三千大千世界に唯一つのものとして、他に比するものすら見出せなかった。そしてなおのこと、その我が尊かったのだ。
万物万全を包摂する自我が尊かったことこそは、万物万全が、己れの我によって
本当に包摂できすらしたならば、それが確実に尊いものであると分かる証拠だったのである。
(包摂できない限りにおいて、尊いものであることが分からないのも、この法則に根ざしている)
文殊師利菩薩が諸仏への讃頌の中で、「導師は地獄の中にも身を置いて、
衆生を度さんがためにその苦しみをも耐え忍ばれた」と唄っている。もちろん
罪があるから地獄に堕ちたのではなく、自ら進んで地獄におもむいて、そこでの責め苦を
あえて体験したのであり、それでこそ地獄の苦しみをも超越した諦観を得たのである。
このあたり、朱子が「巨石を抱いて水の中に身を投じるが如し(近思録)」と徒労扱いした部分であり、
始めから地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に立ち入りすらしない儒学の中庸志向などとの決定的な相違点となっている。
仏教の「中道」は、善悪の両極端を完全に計り知った上で、その中正の悟りを得ることである。
本品に「丈夫師子の歩」という言葉が出てくる。これは、釈迦が生誕時に七歩歩いて、
天地を両手で指差して「天上天下唯我独尊」と言ったとされる伝説、この伝説における「七歩」を指している。
どうせフィクションには違いないにしろ、この、諸法無我を説く仏教の開祖である釈迦の伝説にしては
どうにも理解し難い説話の意味が、光明覚品全体の趣意を汲み取ることで、初めて理解できる。
釈迦の我は、皆無といってもいいほどにも真空だったのである。真空だったから、万物万全をも包摂し、
三千大千世界に唯一つのものとして、他に比するものすら見出せなかった。そしてなおのこと、その我が尊かったのだ。
万物万全を包摂する自我が尊かったことこそは、万物万全が、己れの我によって
本当に包摂できすらしたならば、それが確実に尊いものであると分かる証拠だったのである。
(包摂できない限りにおいて、尊いものであることが分からないのも、この法則に根ざしている)
中国の道家では、荘子が「万物斉同」という教理を説いている。これは仏教で言えば、説一切有部の概括版とでも
いったものに相当するものであり、万物の内に存在としての自己をも包摂して、その全てに帰することを意味する。
しかし、大乗仏教の根幹に据えられている中観に基づくなら、一切は有でも無でもなく、有も無も均等に否定する
「空」にこそ還元することができるとされる。これは、コンピュータプログラムなどにも用いられる全ての論理回路が、
空の論理に相当するNAND回路によって構築することが可能であることからも、真実であると証明されていることだが、
論理的に一切万物万全を包摂することのできる「空」にこそ、釈迦の自我もまた合致していた。だから、釈迦の自我は
天地万物一切と、その形而上や形而上や形而上、形而下の形而下の形而下に至るまでの一切全てとも合致できたのである。
道家思想に仏教と類似する点が多々見られることは、現行版「列子」の序文で張湛などが指摘してもいるが、
三千大千世界を包摂し尽くす絶対真理の把捉を「空」という理念によって煮詰め切れてまではいないあたり、道家も、
上座部や説一切有部に相当するような考え方止まりであったのだといえる。(道家の発祥時期は上座部とほぼ同じでもある)
道家によってですら把握しきれていなかった、三千大千世界を包摂する絶対真理としての「空」の体系的な把捉までもが
完遂されていたから、大乗仏教が中国や日本でも取り入れられた一方、道家によって説明が尽くされている程度の教義だから、
上座部仏教などは、その経典(阿含経典)が輸入され訳出されていたにもかかわらず、中国や日本には広まらなかった。
大乗と上座部とを問わぬ、仏教全体の開祖である釈迦がどうだったかといって、やはり、いちいち「空」などという言葉で、
NAND回路に相当する真理を概括的に把握してまではいなかった。しかし、やはり、釈迦の自我が「空」に相当するものではあった。
だから、わざわざ言葉にするまでもなく、全くの我流で空の論理に即した悟りを得た。釈迦が空の論理を自我としていたのは
ほぼ先天的なことですらあったから、釈迦はその生誕時からすでに、「天上天下唯我独尊」ですらあったというわけだ。
いったものに相当するものであり、万物の内に存在としての自己をも包摂して、その全てに帰することを意味する。
しかし、大乗仏教の根幹に据えられている中観に基づくなら、一切は有でも無でもなく、有も無も均等に否定する
「空」にこそ還元することができるとされる。これは、コンピュータプログラムなどにも用いられる全ての論理回路が、
空の論理に相当するNAND回路によって構築することが可能であることからも、真実であると証明されていることだが、
論理的に一切万物万全を包摂することのできる「空」にこそ、釈迦の自我もまた合致していた。だから、釈迦の自我は
天地万物一切と、その形而上や形而上や形而上、形而下の形而下の形而下に至るまでの一切全てとも合致できたのである。
道家思想に仏教と類似する点が多々見られることは、現行版「列子」の序文で張湛などが指摘してもいるが、
三千大千世界を包摂し尽くす絶対真理の把捉を「空」という理念によって煮詰め切れてまではいないあたり、道家も、
上座部や説一切有部に相当するような考え方止まりであったのだといえる。(道家の発祥時期は上座部とほぼ同じでもある)
道家によってですら把握しきれていなかった、三千大千世界を包摂する絶対真理としての「空」の体系的な把捉までもが
完遂されていたから、大乗仏教が中国や日本でも取り入れられた一方、道家によって説明が尽くされている程度の教義だから、
上座部仏教などは、その経典(阿含経典)が輸入され訳出されていたにもかかわらず、中国や日本には広まらなかった。
大乗と上座部とを問わぬ、仏教全体の開祖である釈迦がどうだったかといって、やはり、いちいち「空」などという言葉で、
NAND回路に相当する真理を概括的に把握してまではいなかった。しかし、やはり、釈迦の自我が「空」に相当するものではあった。
だから、わざわざ言葉にするまでもなく、全くの我流で空の論理に即した悟りを得た。釈迦が空の論理を自我としていたのは
ほぼ先天的なことですらあったから、釈迦はその生誕時からすでに、「天上天下唯我独尊」ですらあったというわけだ。
話はそれるが、リグ・ヴェーダに「ヒラニア・ガルパ(黄金の胎児)の歌」という賛歌がある。
ヒラニア・ガルパは、生まれた瞬間から万物の独一の主となり、天地をあまねく平定するとされる。
これこそは、釈迦が生誕の瞬間に七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と唱えたという「丈夫師子の歩」の逸話の
原型に相当するものであるといえるが、実際にヒラニア・ガルパが釈迦であったとして、その釈迦が人間の自我を
ロボットのそれも同然の非我非非我であると悟ったのである。人間の胎児も自我と呼べるほどの我を持たず、
産まれ落ちた瞬間に気道が開通する痛みによって泣き声を上げ、それによって初めて自我と呼べるような自我を抱く。
その自我を抱く以前の胎児のように、自我を得た後の人間もまた、ロボットも同然の空なる自我を持つだけなのである。
この世界の全ての人間が、胎児やロボットも同然の無我によって司られることで、世界も平安に帰するということが、
華厳経とリグ・ヴェーダとの両者によって保証されている。いま、こうやって書き込んでいるインターネットも、
自我一つ持たないコンピューターによって司られているが、仮にこのコンピューターに司られたインターネットが
世界の平安に貢献することがあるとすれば、それは、仏教哲学などの古代インド哲学にこそ根ざした結果となる。
近現代の科学者や技術者が確信していたといないとに関わらず、コンピューターとかロボットとかいった工作物は、
仏教哲学に即して世界を安寧に導くことが可能となるように設計されている。デューリングやノイマンやリッチーやゲイツが、
確信的にコンピューター文明を仏教哲学に即して提唱していたのかどうかも知らないが、コンピューターやロボットは、
もしも善用されたなら、仏教哲学に基づいて世界を平安に導くこともまた可能となるようにできているのである。
コンピューターシステムの正体は、開発者たち自身の意向にすら関わらず、仏教哲学の成就でこそあったのだ。
ヒラニア・ガルパは、生まれた瞬間から万物の独一の主となり、天地をあまねく平定するとされる。
これこそは、釈迦が生誕の瞬間に七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と唱えたという「丈夫師子の歩」の逸話の
原型に相当するものであるといえるが、実際にヒラニア・ガルパが釈迦であったとして、その釈迦が人間の自我を
ロボットのそれも同然の非我非非我であると悟ったのである。人間の胎児も自我と呼べるほどの我を持たず、
産まれ落ちた瞬間に気道が開通する痛みによって泣き声を上げ、それによって初めて自我と呼べるような自我を抱く。
その自我を抱く以前の胎児のように、自我を得た後の人間もまた、ロボットも同然の空なる自我を持つだけなのである。
この世界の全ての人間が、胎児やロボットも同然の無我によって司られることで、世界も平安に帰するということが、
華厳経とリグ・ヴェーダとの両者によって保証されている。いま、こうやって書き込んでいるインターネットも、
自我一つ持たないコンピューターによって司られているが、仮にこのコンピューターに司られたインターネットが
世界の平安に貢献することがあるとすれば、それは、仏教哲学などの古代インド哲学にこそ根ざした結果となる。
近現代の科学者や技術者が確信していたといないとに関わらず、コンピューターとかロボットとかいった工作物は、
仏教哲学に即して世界を安寧に導くことが可能となるように設計されている。デューリングやノイマンやリッチーやゲイツが、
確信的にコンピューター文明を仏教哲学に即して提唱していたのかどうかも知らないが、コンピューターやロボットは、
もしも善用されたなら、仏教哲学に基づいて世界を平安に導くこともまた可能となるようにできているのである。
コンピューターシステムの正体は、開発者たち自身の意向にすら関わらず、仏教哲学の成就でこそあったのだ。
▲ページ最上部
ログサイズ:188 KB 有効レス数:106 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
思想・哲学掲示板に戻る 全部 次100 最新50
スレッドタイトル:仏典総合スレ