「華厳経」世主妙厳品一の三(八十巻中三巻目)読了。
「妙荘厳鳩槃荼王は一切の衆生の愛欲の海を消竭する解脱門を得」とあり、
やはり大乗仏教でも、愛欲に溺れて正気を見失うことなどはよくないこととされていることが分かる。
一方でやはり、「可愛楽光明摩睺羅伽王」のような、「可愛」を冠した王が衆生の救済者としてこの品にも登場する。
その可愛楽光明摩睺羅伽王を含む複数の摩睺羅伽王が、衆生に善不善、福非福といった不平等に
あえぐ衆生を救済するとある。その方法は、煩悩を除いた清浄の悦楽を衆生に知らしめることであり、
ちょうど「愛欲の海」への惑溺から妙荘厳鳩槃荼王が衆生を救い出すことと符合している。
善悪正邪も、所詮は世俗社会の利害(公益)にまつわる判断基準でしかなく、物質的な利害を超越した
唯心論の観点からすれば、一つの虚妄であるとも見なせる。故に、善悪正邪の判断によって邪悪と
みなされ、故に社会的な福徳に与れないような者もまた、虚空の徳によって救い上げられることはある。
ただし、その過程で物質主義を排するから、金銭への執着なども当然捨て去ることにはなる。
この品に、「群品(ぐんぽん)」という言葉が出てくる。
大正蔵のデータベースで検索してみたら、多くの仏典で用いられている一方、主要な漢籍での初出は「後漢書」であり、
仏教が伝来した後漢の代に、仏典漢訳の際、仏語として「群品」が考案されたのだろうことが予想できる。
この「群品」という言葉、「古事記」の序文に「羣品」と、字を代えて引用されている。
古事記編纂者の太安万侶の存命中には、まだ華厳経も華厳宗も日本に渡来していなかったはずだが、
その安万侶が「群品」という仏語を、日本神道の原点といえる「古事記」の序文に引用している。
日本神道はその最原初の頃から、仏教文化の影響を受けつつ文書化されていったことが分かる。
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