「華厳経」世主妙厳品一の五(八十巻中五巻目)読了。
八部衆や諸神に次いで、菩薩の登場。
ただ、その登場の仕方や語り口は今までと同じで、理論展開として新たなものは特に見当たらない。
個人的に、ここまで読み進んで来て、思わずニヤニヤと
不審な笑みを思わず浮かべるようになって来てしまった。
読んでて、意味が分かるから。
長年の漢文の読み込みのおかげで、
>>17がウンタラカンタラで意味不明だと決め付けている
数多の尊格の名前の意味がスラスラと理解できる。尊格名以外の色々な仏語も、今までに知らなかったものも、
その字面を見るだけで大体意味が分かるから、言葉としてのいかつさなどよりも、術語としての巧みさのほうに興味が置ける。
たとえば「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩は、一念に無尽の成正覚門を現じて不思議の衆生界を教化し成熟する解脱門を得」
とあるとき、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩」という名の尊格が、「一念に……解脱門を得」という目的を実現することが
因果律に適っている。「キリスト(神の子)は死んで蘇った」という文章は、「キリスト(神の子)」という名の下に
「死んで蘇る」という目的が達成されることが全く因果律に適っていないため、文章として読んだ途端に、違和感を抱かされる。
しかし、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩が、一念に……解脱門を得る」という文章は、因果律が完全に満たされているから違和感を抱かせない。
尊格の名の意味も、尊格が為すことの内容も十分に理解できたなら、必ずその全ての記述が因果律にかなっていることが分かる。
無数の尊格が、自らの名の下に目的を実現していくその有り様が、全てことごとく因果律に適いきっているため、
まるで延々と落ち続ける滝の水を見ているときのような爽快感が、どこまでも続くのである。
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