「華厳経」如来現相品を改めて精察し直してみるに、
浄土三部経中の「無量寿経」などとは明らかに違う部分があった。
それは、「金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、硨磲、碼碯」といったような
物質的な宝物によって仏国土を飾るといった風な、下世話な描写がなかったこと。
尊格名や文中で「寶(宝)」という文字は無数に用いられているのに、世俗社会で
普遍的な価値があるとされるような、カタチある宝物による荘厳の描写がない。
達磨大師がまだインドの小国の王子だった頃、それはそれは見事な宝玉を見せられたことがあった。
兄弟たちは無条件にその美しさを褒め称えたものの、達磨だけは「確かにすばらしい宝玉ですが、
この宝玉も光を受けて輝いているだけに過ぎないのです」と評したという。
他から光を受けてこそ美しい輝きを放つ宝物を好むような俗人に対する方便として、
西方浄土もまた七宝のような実物の宝物によって飾られた国土として描かれたのであり、
そのような俗人に限らず、あらゆる人々を救い取ることを本是とした聖道門の聖典である
「華厳経」においては、「無量の光明によって尽十方を照らし尽くす」というところまでで救済の
表現までもが尽くされるのであり、具体的な宝物によって利益を象徴化することすらしないのである。
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