自分から一方的に他者の利益を奪い取ることも仁義ではないが、 
 他者への奉仕に溺れるあまり、自己を見失うこともまた仁義には当たらない。   
 己れを捨ててでも他者への熱情的な奉仕に及んでいるとき、その人間は必ず、 
 万人のうちの一人である自己への愛も捨てているから、自明にその愛情は「偏愛」となっている。 
 自愛を捨て去り、自暴自棄状態となりつつ他者への奉仕を欲する商売人や婦女子などは、 
 自他の利益を同時に慮る仁愛を持てていないが故に、仁義に即していない点ではヤクザとも共通している。   
 ヤクザと商売人と婦女子、この三つが仁義道徳から最も程遠い部類の人種であり、にもかかわらず 
 ヤクザが「仁義」を掲げたりするのは、一つには道家における「大道廃れて仁義あり(老子)」という 
 仁義道徳への皮肉に即している所があり、もう一つは、文明開化の四民平等によって武家身分が消滅したために、 
 血みどろの殺傷行為の危険性に日常的に晒されている人間が自分たちヤクザしかいなくなったため、武家が貴んでいた 
 「仁義」という言葉に少なからず帯びている血なまぐささを、ヤクザが拝借して使っているというのがある。   
 もちろん、伝統的な解釈に即せば、ヤクザが仁義を騙るなど片腹痛いことで、武士はヤクザなどと違って 
 天下万民を公正に統治支配する、正式な為政者の身分であり、だからこそ自分たちに反抗する輩のうちで 
 どうしようもない奴らを切り捨て御免とする血なまぐささをも嗜んでいたのだから、不当利得の死守のために 
 血を流す任侠などとは決して同列に扱ってはならない。また、「史記」遊侠列伝においても、今のヤクザや 
 マフィアの身分にあたる遊侠の徒であった郭解が、仁義道徳を盾にその行いの悪さを糾弾した儒生を殺して、 
 その舌を引っこ抜くなどの暴挙にも及んでいる。仁義道徳はヤクザと親しいどころか、ヤクザともっとも 
 相容れないものとして受け止められてきた歴史のほうが遥かに長いのであり、その仁義とヤクザの相反性 
 こそを、老子も「大道廃れて仁義あり」という言で皮肉っている。漢学なんかほとんど学んでいないくせに、 
 ごく一部の滑稽じみた知識にかけてだけはやたらと精通している、現代社会や現代人。
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