先人の切り開いた風景の地平線上に思いをはせ、それぞれの有限な才能と智推を交流させる。
これが「世界に現れる不思議」について語りあう道楽の基本、あるいは理想。
どこかで見聞した言葉ですが、どうやらそのようには進んでいかなくなってきましたね。
人間の善性や徳性、それを利害や苦楽の沼に沈めてしまわないための栄光や名誉。
残念ながらこうした哲学的命題は、あなたのおっしゃる「科学」では捕らえることができません。
こころの探求者は未だ深い霧の中に沈んだ森の中を手探りで進んでいるのですよ。
それゆえ、学者タレントたちがマスコミなどで、戯画化された心理解釈を垂れ流して平然。
なんてことも自由なのです。カントのいう「傾向」の餌食にされているということも事実です。
「世界に現れる不思議」とは素粒子の探求や、宇宙開発者の前に立ちはだかる
未知と同じもので、概念の積み重ねの中に答えを見つけることはできません。
フロイトは個人の心の発達の仕組みを、ユングはこころの発生に内在する社会的装置を予言した
偉大な出発点にかわりはありません。そしてカントは社会的機能として「善」を提起しました。
この理論は「決定論的科学」からは理論でさえなく、排除されて当然でしょう。
返信する