人間という生き物は醜い(特に外見) 東洋的審美眼の真骨頂
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近ごろ、各地の博物館や刀剣店などを巡って各種の名刀を目にしてるんだが、
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
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そういう、男が惚れる系の格好良さすらもかなぐり捨てる部類の
聖人然とした人間像もまたあって、これは個人的にはなりたいとまでは思えないが、
よく崇敬していかねばならない人種ではあるのだろうなとは思う。
この人を初めて見たときは、臨済宗の高僧だった玄峰老師とかを思い出したもんだが、
なぜこの人は本職の坊さんではないかというに、今の金満まみれの仏門などに
収まっていられる志しの持ち主ではないからなのだろうなと察したものだ。
ただ、この人自身も奥さんに逃げられてるし、>>239に書いたような格好良さを追求する
男たち以上にも妻帯などが向かない人種である。その辺はちゃんと、本格の出家僧
としての社会的立場等を整備してやるのでなければ擁護してやれもしない所である。
仮に、この人がショーンコネリーみたいにダンディな爺さんだったとしても似合わないし、
そうだったとすればここまで挺身的な慈善活動に邁進したりもしなかっただろう。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、色気などなければこそなれる聖賢もまたあるのである。
聖人然とした人間像もまたあって、これは個人的にはなりたいとまでは思えないが、
よく崇敬していかねばならない人種ではあるのだろうなとは思う。
この人を初めて見たときは、臨済宗の高僧だった玄峰老師とかを思い出したもんだが、
なぜこの人は本職の坊さんではないかというに、今の金満まみれの仏門などに
収まっていられる志しの持ち主ではないからなのだろうなと察したものだ。
ただ、この人自身も奥さんに逃げられてるし、>>239に書いたような格好良さを追求する
男たち以上にも妻帯などが向かない人種である。その辺はちゃんと、本格の出家僧
としての社会的立場等を整備してやるのでなければ擁護してやれもしない所である。
仮に、この人がショーンコネリーみたいにダンディな爺さんだったとしても似合わないし、
そうだったとすればここまで挺身的な慈善活動に邁進したりもしなかっただろう。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、色気などなければこそなれる聖賢もまたあるのである。
糧にならんのはどっちやねん
答えられない事はスルーするのに気に入らないと噛み付く幼児みたい
>>239
國井善弥氏は存在自体がかっこいい。
>>213
10度はちょっと大げさでは?最も温暖だった縄文早期でも、そこまで高くなかったような。
>>165
興味深い映像有難うございます。
>>160
平安時代から室町時代にかけて、最も多く人を殺傷した武器は弓矢。次が槍。
室町末期から漸次鉄砲が主役の座に着く。その間、戦場における刀の役割は
専ら首切りだったのは事実。但し、江戸時代の末期、いわゆる幕末には、
日本刀が戦闘の主力だった。もちろん、野戦では鉄砲にかなわないものの、
室内戦や敵味方入り乱れての乱闘では刀が大活躍した。
明治になっても、西南戦争では薩摩兵の示現流が鎮台兵を脅かし、逆に政府
軍の士族による抜刀隊がよく薩摩兵を苦しめた。さらに、日清戦争に於いて
さえも抜刀兵が相応の働きをしている。
國井善弥氏は存在自体がかっこいい。
>>213
10度はちょっと大げさでは?最も温暖だった縄文早期でも、そこまで高くなかったような。
>>165
興味深い映像有難うございます。
>>160
平安時代から室町時代にかけて、最も多く人を殺傷した武器は弓矢。次が槍。
室町末期から漸次鉄砲が主役の座に着く。その間、戦場における刀の役割は
専ら首切りだったのは事実。但し、江戸時代の末期、いわゆる幕末には、
日本刀が戦闘の主力だった。もちろん、野戦では鉄砲にかなわないものの、
室内戦や敵味方入り乱れての乱闘では刀が大活躍した。
明治になっても、西南戦争では薩摩兵の示現流が鎮台兵を脅かし、逆に政府
軍の士族による抜刀隊がよく薩摩兵を苦しめた。さらに、日清戦争に於いて
さえも抜刀兵が相応の働きをしている。
「大量殺戮」が可能な武器や兵器ほど、普遍的に優れているのか?
狙撃銃よりも機関銃のほうが、戦車よりも自走砲のほうが、戦闘機よりも爆撃機のほうが
より大きな火力で大人数の弱者を痛めつけられるから、あらゆる面で優れているというのか?
兵法書「六韜」の虎韜(虎の巻)には、
「都市攻略の際には、敵方の責任者を明確化してその処罰を布令せよ」とある。
その心は、戦争犠牲者の無益な増加を極力防いで、都市をなるべく無傷に近い状態で占領するためである。
日本刀こそは、「敵将の首を取って戦を終わらせる」というその最大級の用途により、
どんなに強力な兵器以上にも虎韜の秘伝を遂行することに特化された武器である。
敵地の占領を穏便に執り行うことは、軍事以上に軍政上での重要な意味合いを帯びている。
刀はまさに、軍政のための道具としてこそ最上級の効用を発揮するものである。
もちろん護身用の武具としても格好だし、剣術の修練が至上の戦術感覚を養うものでもある。
個人的には、難病を治療するための必須アイテムになりもした。
この世に利益をもたらす武具としてこそ、未だに日本刀を超えるものはないともいえる。
狙撃銃よりも機関銃のほうが、戦車よりも自走砲のほうが、戦闘機よりも爆撃機のほうが
より大きな火力で大人数の弱者を痛めつけられるから、あらゆる面で優れているというのか?
兵法書「六韜」の虎韜(虎の巻)には、
「都市攻略の際には、敵方の責任者を明確化してその処罰を布令せよ」とある。
その心は、戦争犠牲者の無益な増加を極力防いで、都市をなるべく無傷に近い状態で占領するためである。
日本刀こそは、「敵将の首を取って戦を終わらせる」というその最大級の用途により、
どんなに強力な兵器以上にも虎韜の秘伝を遂行することに特化された武器である。
敵地の占領を穏便に執り行うことは、軍事以上に軍政上での重要な意味合いを帯びている。
刀はまさに、軍政のための道具としてこそ最上級の効用を発揮するものである。
もちろん護身用の武具としても格好だし、剣術の修練が至上の戦術感覚を養うものでもある。
個人的には、難病を治療するための必須アイテムになりもした。
この世に利益をもたらす武具としてこそ、未だに日本刀を超えるものはないともいえる。
病気が再発するかも知れないからと言うが、病気になる前からプー太郎じゃないの?
今の経済や仕事のあり方に問題点があるのは誰もが知ってるが、かと言ってあんたみたいに何も生産しなかったら、共同体が破綻するわな。
ヒトに何かを売りつけたり、後ろめたい事をせずとも、ヴィジョンと能力さえあれば、小さくとも自分でビジネスをする事はできるんだから、文句言って無職でいるよりは、何か自分で始めればいいんだよ。
(生計に関して)あんたは自分の手を労することも汚すこともせず、ただ親に寄生するという最も楽な道を選んでおきながら、坊さんごっこや侍ごっこをして、偉そうに御託を垂れる卑怯者でしかない。
もしカネを稼ぐのが汚い事だと言うなら、その汚いカネで買った食べ物を食べてるあんたの体も汚いだろうに。
君は外見云々の話ばかりするが、外見云々以前に、そんな男と付き合いたがる女がいるとでも思ったのかい?
もしあんたが娘を持つ父親だったなら、そんな男は言語道断に違いない。
このスレ自体が、人の外見を論題の一つにしているから、
それに合わせて外見の話もしているだけでな。
基本的には、容貌に関する話なんかそんなにして来なかったし、
それに合わせて、ここでも批判的に取り扱っている。
美麗な容姿で異性にモテたいとかいう願望などが始めから
どこにもないのだから、それを大前提にしたような
物言いからしてお門違いもいいとこ。
ハシカン云々も、絶対に自分とは一生縁がない相手だからこその戯れだったな。
女にモテるための努力など何もしてないし、する気もない所からの戯言。
キモオタが二次元のアニメキャラにブヒ付いたりするのともなんら変わりの
ないことだったと俺自身が認める。それにより、異性づきあいなどに
さして真剣になる気がない意思を示したまでのことである。
それに合わせて外見の話もしているだけでな。
基本的には、容貌に関する話なんかそんなにして来なかったし、
それに合わせて、ここでも批判的に取り扱っている。
美麗な容姿で異性にモテたいとかいう願望などが始めから
どこにもないのだから、それを大前提にしたような
物言いからしてお門違いもいいとこ。
ハシカン云々も、絶対に自分とは一生縁がない相手だからこその戯れだったな。
女にモテるための努力など何もしてないし、する気もない所からの戯言。
キモオタが二次元のアニメキャラにブヒ付いたりするのともなんら変わりの
ないことだったと俺自身が認める。それにより、異性づきあいなどに
さして真剣になる気がない意思を示したまでのことである。
いくら不労安逸の清浄さを謳う俺の物言いの揚げ足を取ったところで、
俺自身がその清浄さの果報によって難病を治せたことには変わりない。
無職期間を挟むこともなく、若いうちから医者や医学者や療法士などになって
働いていたりしたのでは絶対に治せなかった病が、長期無職の功徳によってこそ治された。
それは、俺自身の身を以ての確信と、医者からの診断もあることのため揺るがしようがない。
そしてこれこそが、他者への善根の回向の糧ともなる経験でもあったのだから、
あえて無職であり続けて来たことを含む全ての経歴を少しだって非難される筋合いはない。
俺の人生にとっては、まさにこれこそが最善の選択であり、故に最善の結果を得た。
すでに善因善果という結果が伴っていることに対して非難を加え、
ああすればいいだのこうしろだのと上から目線の指図だけする、
ここじゃなくて自分ちの便器の底にでも向かって語りかてたほうが分相応ではあるまいか。
俺自身がその清浄さの果報によって難病を治せたことには変わりない。
無職期間を挟むこともなく、若いうちから医者や医学者や療法士などになって
働いていたりしたのでは絶対に治せなかった病が、長期無職の功徳によってこそ治された。
それは、俺自身の身を以ての確信と、医者からの診断もあることのため揺るがしようがない。
そしてこれこそが、他者への善根の回向の糧ともなる経験でもあったのだから、
あえて無職であり続けて来たことを含む全ての経歴を少しだって非難される筋合いはない。
俺の人生にとっては、まさにこれこそが最善の選択であり、故に最善の結果を得た。
すでに善因善果という結果が伴っていることに対して非難を加え、
ああすればいいだのこうしろだのと上から目線の指図だけする、
ここじゃなくて自分ちの便器の底にでも向かって語りかてたほうが分相応ではあるまいか。
人間誰にでも間違いはある。
言い間違いや、言葉の綾や読解力不足による誤解。
そういう瑣末な過誤は仕方のないこととして、
総合的に見てもやはり一貫性がないかどうか。
あるんだなあ、これが。
俺自身もその全容を把握しきれない域に至るまで。
言い間違いや、言葉の綾や読解力不足による誤解。
そういう瑣末な過誤は仕方のないこととして、
総合的に見てもやはり一貫性がないかどうか。
あるんだなあ、これが。
俺自身もその全容を把握しきれない域に至るまで。
誰しもが無職にまでなれずとも、苦渋を尊んで安逸を卑しむような顛倒ぐらいは捨てて、
(宴席で「俺が若い頃はサビ残ぐらい当たり前だった」云々と自慢するような不埒さなど)
なるべくなら奴隷にならず、なれるものなら無職になりたいぐらいの志しの高さでいられるように。
無職になったからといって全く何もできなくなるのではない。
むしろそこでこそ享受できるより真面目で高尚な勉強や修行があり、
それによって医者にも治せないような難病が治せたり、
大学教授やアスリート以上の能力が得られるようなこともある。
単なる無職では、体裁が悪いのも確かなこと。
今は俺だけでなく尾畠春夫さんなども、仏門の腐敗具合を警戒して出家などは避けているが、
出家者ともなれば肉食妻帯商売を本当に禁忌とする本物の仏門を建て直して、
そこを「尊ばれるべき無職(住職)」の居場所として整備して行くべきでもあろう。
こういったことも、今までに何度も何度も述べて来たことだ。
にもかかわらず「この世の全員が無職に!」だの「逆らう者は処刑!」だのと、
事実無根の決めつけを何度も何度も一つ覚えで吠え立て続けるのは、
痴呆でなければ確信犯のアンチぐらいのものだろう。
そういう連中は匿名ネット全域においてスルーが基本とされているがな。
(宴席で「俺が若い頃はサビ残ぐらい当たり前だった」云々と自慢するような不埒さなど)
なるべくなら奴隷にならず、なれるものなら無職になりたいぐらいの志しの高さでいられるように。
無職になったからといって全く何もできなくなるのではない。
むしろそこでこそ享受できるより真面目で高尚な勉強や修行があり、
それによって医者にも治せないような難病が治せたり、
大学教授やアスリート以上の能力が得られるようなこともある。
単なる無職では、体裁が悪いのも確かなこと。
今は俺だけでなく尾畠春夫さんなども、仏門の腐敗具合を警戒して出家などは避けているが、
出家者ともなれば肉食妻帯商売を本当に禁忌とする本物の仏門を建て直して、
そこを「尊ばれるべき無職(住職)」の居場所として整備して行くべきでもあろう。
こういったことも、今までに何度も何度も述べて来たことだ。
にもかかわらず「この世の全員が無職に!」だの「逆らう者は処刑!」だのと、
事実無根の決めつけを何度も何度も一つ覚えで吠え立て続けるのは、
痴呆でなければ確信犯のアンチぐらいのものだろう。
そういう連中は匿名ネット全域においてスルーが基本とされているがな。
佐藤寒山も傑作と認める二代兼元。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s68773961...
東博で見た兼元もこれに似た、刃縁のよく締まった刃紋だったと記憶している。
国宝重文級の名刀が数多ひしめく展示室の中では、反りの低さや身幅の広さが
ひときわ武骨さを醸し出していて、お世辞にも美麗な部類ではなかったが、
室町期の実用刀の最高峰という点では兼定や祐定をも上回っているといえる。
当時、香取神道流や鹿島新当流(塚原卜伝の創始)などの最古層の剣術流派が
ポツポツと現れ始めた頃で、兼元の刀もこれに合わせて刃長や茎を長めに
採っている点がこれ以前の片手打用の刀とは異なる。祐定の茎が短すぎるために
諸手刀法で柄が折れたなどというのは有名な実話で、少なくともこれ以前には
打刀を今の剣術のように両手で駆使する技法は主流ではなかったようである。
規格としては、剣術稽古に準拠した形状が主流となった江戸期以降の新刀のはしりである。
古流といえども、現代に伝承されている剣術に用いるのであれば、兼元以降の刀のほうが相応しい。
ただし、反りの低い刀を両手で振るのと、高い刀を片手で振るのとでは、
前者のほうがずっと刃筋を通すのが難しく、三島に後代兼元での介錯を頼まれた
森田必勝も何度も斬りつけに失敗し、刀をS字状に曲げてしまったという。
刃筋を通す鍛錬をちゃんとこなしていない素人なら、これまた扱う資格がない。
現代人が刀の正しい扱いによってその真価を計り知るのは極めて遠く険しい道となっている。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s68773961...
東博で見た兼元もこれに似た、刃縁のよく締まった刃紋だったと記憶している。
国宝重文級の名刀が数多ひしめく展示室の中では、反りの低さや身幅の広さが
ひときわ武骨さを醸し出していて、お世辞にも美麗な部類ではなかったが、
室町期の実用刀の最高峰という点では兼定や祐定をも上回っているといえる。
当時、香取神道流や鹿島新当流(塚原卜伝の創始)などの最古層の剣術流派が
ポツポツと現れ始めた頃で、兼元の刀もこれに合わせて刃長や茎を長めに
採っている点がこれ以前の片手打用の刀とは異なる。祐定の茎が短すぎるために
諸手刀法で柄が折れたなどというのは有名な実話で、少なくともこれ以前には
打刀を今の剣術のように両手で駆使する技法は主流ではなかったようである。
規格としては、剣術稽古に準拠した形状が主流となった江戸期以降の新刀のはしりである。
古流といえども、現代に伝承されている剣術に用いるのであれば、兼元以降の刀のほうが相応しい。
ただし、反りの低い刀を両手で振るのと、高い刀を片手で振るのとでは、
前者のほうがずっと刃筋を通すのが難しく、三島に後代兼元での介錯を頼まれた
森田必勝も何度も斬りつけに失敗し、刀をS字状に曲げてしまったという。
刃筋を通す鍛錬をちゃんとこなしていない素人なら、これまた扱う資格がない。
現代人が刀の正しい扱いによってその真価を計り知るのは極めて遠く険しい道となっている。
兼元が創始した「三本杉」という刃紋自体、どうにもただ美しいとは言い難い代物である。
一見しただけなら備前刀の重花丁子だとか、大阪新刀の濤乱刃とかのほうが美しい上に
派手だし、まず美しさを計る上では規則性が強すぎるように思える。
しかし、これこそを武骨さの極みとして愛好した武将も数多いし、
俺もその気持ちが分からなくはない。他の乱れ刃やのたれ刃はおろか、
直刃以上にも「刃紋の美しさを愛でる」という行為への惑溺を拒絶させんとする紋様。
刀は構造上、刃紋ができるように作ったほうが強さと切れ味を両立させられるのだから、
刃紋をなくすなんてことは考えるべきでもないが、かといって刃紋の美しさばかりに囚われて
武備を疎かにするのでは本末転倒となるから、刃紋そのものに耽美への戒めを込めたのではないかと。
そんな兼元を最上位工とする美濃伝の刀が、全体的に美術的評価が低くて
現代では二束三文で売り買いされてることが多いのも由々しき事態だといえるし、
欲しがる側からすれば買い時だともいえる。これこそを最も欲しがったりするのも偏屈に過ぎるだろうが。
一見しただけなら備前刀の重花丁子だとか、大阪新刀の濤乱刃とかのほうが美しい上に
派手だし、まず美しさを計る上では規則性が強すぎるように思える。
しかし、これこそを武骨さの極みとして愛好した武将も数多いし、
俺もその気持ちが分からなくはない。他の乱れ刃やのたれ刃はおろか、
直刃以上にも「刃紋の美しさを愛でる」という行為への惑溺を拒絶させんとする紋様。
刀は構造上、刃紋ができるように作ったほうが強さと切れ味を両立させられるのだから、
刃紋をなくすなんてことは考えるべきでもないが、かといって刃紋の美しさばかりに囚われて
武備を疎かにするのでは本末転倒となるから、刃紋そのものに耽美への戒めを込めたのではないかと。
そんな兼元を最上位工とする美濃伝の刀が、全体的に美術的評価が低くて
現代では二束三文で売り買いされてることが多いのも由々しき事態だといえるし、
欲しがる側からすれば買い時だともいえる。これこそを最も欲しがったりするのも偏屈に過ぎるだろうが。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m35799132...
刀剣史上、おそらく最も同名刀工の多い備前祐定。
中には数百万円を超えるような高級品もある一方、二束三文のクズ刀もある。
そのクズ刀も別に贋物とかいうわけではなく、下位工の祐定の真作だったりする。
なぜそんなことになっているのかというと、室町期に備前長船派が
数打ちも認める量産体制に入って、名代を安売りし始めたからである。
匂出来の刀の美しさでは最高峰の誉れを受ける流派だったにもかかわらず、
その美しさに陰りを見せ、機能面でも低位に甘んずるようなナマクラを量産した。
剣技の嗜みのない素人向けで、茎から寸足らずな片手打ちの刀も特に多い。
美しさばかりにこだわっていた流派が、増産に転じ始めた途端に手抜きを始めたのと比べれば、
最上位でも三本杉の兼元などが代表である美濃刀は、増産にかけても高CPを維持し続け、
信長秀吉家康らの天下取りの多大なる助けになった点が確かに優れているといえる。
三本杉刃紋の規則性による模倣のしやすさも、高CPな刀の量産にとっての助けになったろう。
美しさにこだわり過ぎることの弊害をうまくいなした日本刀までもが実在するのは特筆すべきことである。
刀剣史上、おそらく最も同名刀工の多い備前祐定。
中には数百万円を超えるような高級品もある一方、二束三文のクズ刀もある。
そのクズ刀も別に贋物とかいうわけではなく、下位工の祐定の真作だったりする。
なぜそんなことになっているのかというと、室町期に備前長船派が
数打ちも認める量産体制に入って、名代を安売りし始めたからである。
匂出来の刀の美しさでは最高峰の誉れを受ける流派だったにもかかわらず、
その美しさに陰りを見せ、機能面でも低位に甘んずるようなナマクラを量産した。
剣技の嗜みのない素人向けで、茎から寸足らずな片手打ちの刀も特に多い。
美しさばかりにこだわっていた流派が、増産に転じ始めた途端に手抜きを始めたのと比べれば、
最上位でも三本杉の兼元などが代表である美濃刀は、増産にかけても高CPを維持し続け、
信長秀吉家康らの天下取りの多大なる助けになった点が確かに優れているといえる。
三本杉刃紋の規則性による模倣のしやすさも、高CPな刀の量産にとっての助けになったろう。
美しさにこだわり過ぎることの弊害をうまくいなした日本刀までもが実在するのは特筆すべきことである。
美濃伝の刀の、見た目の美しさを蔑ろにしてまでのCPの確保という姿勢は、
良くも悪しくもトヨタなどの日本の量産化工業にも受け継がれている。
山城、大和、備前、相模、美濃という刀剣五ヶ伝の中では、自他共に認める最低位である
美濃伝の工産姿勢だけがかろうじて近代工業にも通用し、シェア面からの覇者ともなっている。
仮に備前伝や大和伝の、より高邁な職人姿勢を現代に適用しようなどとすれば、
あっという間に体制が瓦解して、戦国期のような粗製乱造状態に陥ってしまうだろう。
(大和も後代には土産物用の数打ちが専門の不毛地帯になっていた)
日本刀の作刀姿勢とも全くの無関係なのではなく、作刀姿勢としては最も低位な
あり方ばかりに倣っているのが現代の日本工業であり、量よりも質を尊ぶのであれば
新機軸による発展などがまだまだいくらでも見込めるのである。ただそれはもう、
酒の席で過労を自慢するような団塊的卑俗さでも務まることにだけはならないであろう。
良くも悪しくもトヨタなどの日本の量産化工業にも受け継がれている。
山城、大和、備前、相模、美濃という刀剣五ヶ伝の中では、自他共に認める最低位である
美濃伝の工産姿勢だけがかろうじて近代工業にも通用し、シェア面からの覇者ともなっている。
仮に備前伝や大和伝の、より高邁な職人姿勢を現代に適用しようなどとすれば、
あっという間に体制が瓦解して、戦国期のような粗製乱造状態に陥ってしまうだろう。
(大和も後代には土産物用の数打ちが専門の不毛地帯になっていた)
日本刀の作刀姿勢とも全くの無関係なのではなく、作刀姿勢としては最も低位な
あり方ばかりに倣っているのが現代の日本工業であり、量よりも質を尊ぶのであれば
新機軸による発展などがまだまだいくらでも見込めるのである。ただそれはもう、
酒の席で過労を自慢するような団塊的卑俗さでも務まることにだけはならないであろう。
自動車産業分かってないねS660からセンチュリーまで調べてみてな
その辺とかレクサスとかが、美濃刀でいうところの兼元や兼定みたいな
上位工の作品に相当するわけで、低ランクの日本車はもっと下位の刀工の作品に相当する。
下位であっても美濃伝ならそれなりの品質を保っている一方、量産型祐定などはさにあらず。
そちらに相当するのは故障しまくりのアメ車とか、排ガス垂れ流しまくりのVW車とか。
値段の高さや最高速度だけなら、フェラーリとかランボルギーニとかロールスロイスとか
上には上がいろいろとあるが、金持ちの購買意欲をくすぐるような奇抜さに長けるだけで、
故障のしにくさとか乗りやすさとか最低限の品質で日本車を凌駕しているわけではないので、
最盛期の備前刀や相州物のような高級さを帯びているなどとは言いがたい。
品質や機能性も含むあらゆる面で日本車を上回り、最高級でもあるような車、
現時点においては実在しないし、作れるとしても日本人だけだろう。
「車」という工業製品にそこまでする価値があるとも知れないが。
上位工の作品に相当するわけで、低ランクの日本車はもっと下位の刀工の作品に相当する。
下位であっても美濃伝ならそれなりの品質を保っている一方、量産型祐定などはさにあらず。
そちらに相当するのは故障しまくりのアメ車とか、排ガス垂れ流しまくりのVW車とか。
値段の高さや最高速度だけなら、フェラーリとかランボルギーニとかロールスロイスとか
上には上がいろいろとあるが、金持ちの購買意欲をくすぐるような奇抜さに長けるだけで、
故障のしにくさとか乗りやすさとか最低限の品質で日本車を凌駕しているわけではないので、
最盛期の備前刀や相州物のような高級さを帯びているなどとは言いがたい。
品質や機能性も含むあらゆる面で日本車を上回り、最高級でもあるような車、
現時点においては実在しないし、作れるとしても日本人だけだろう。
「車」という工業製品にそこまでする価値があるとも知れないが。
>>品質や機能性も含むあらゆる面で日本車を上回り、最高級でもあるような車、
現時点においては実在しないし、作れるとしても日本人だけだろう。
外車乗った事ないのかな?
高級車クラスと言うとメルセデスのE以上としてもGSやLSと比較してごらん
品質を壊れにくさとするならそこは哲学の違いだよね、ブッシュ類の交換とか
長持ちした方が良いか寿命はあるけどパフォーマンスを重視するのか
あと1000万オーバーの車はなるほどって思う所あるよ
現時点においては実在しないし、作れるとしても日本人だけだろう。
外車乗った事ないのかな?
高級車クラスと言うとメルセデスのE以上としてもGSやLSと比較してごらん
品質を壊れにくさとするならそこは哲学の違いだよね、ブッシュ類の交換とか
長持ちした方が良いか寿命はあるけどパフォーマンスを重視するのか
あと1000万オーバーの車はなるほどって思う所あるよ
備前伝は美麗な刃紋の増産が叶わず、相州伝は焼き入れ温度を極限まで高める
作刀技法の難しさを普及させられず、刀の量産という面では一定の挫折を見た。
代わりに美濃伝や肥後の同田貫などが、質と量の両立という点では先んじた。
それほどにも工産業態のバリエーションが豊富であり、
世相の転換にも柔軟に応じられること自体が日本刀文化の奥深さの恩恵でもある。
欧米にだって最高級品を妥協なく作り込む工匠文化や、大量生産の文明はあるが、
両者をできる限り両立させて行くという発想がなかったものだから、
一時は日本製品の輸出攻勢に圧され、円高攻勢で日本自体を抑圧し返して後は、
日本式の量産体制が移管された中国やアジア諸国の攻勢に圧されている。
(黄色い猿などから何も学ぶことはないとする差別意識もまた仇となり)
信用ある会社が作った車なら、10万キロ走ろうともまず壊れないという保証。
その起源を辿ってみれば、実はある種の日本刀にあったりもするのである。
日本刀が取り立てて美しかったりするのは、さらにその先の領域にあること。
作刀技法の難しさを普及させられず、刀の量産という面では一定の挫折を見た。
代わりに美濃伝や肥後の同田貫などが、質と量の両立という点では先んじた。
それほどにも工産業態のバリエーションが豊富であり、
世相の転換にも柔軟に応じられること自体が日本刀文化の奥深さの恩恵でもある。
欧米にだって最高級品を妥協なく作り込む工匠文化や、大量生産の文明はあるが、
両者をできる限り両立させて行くという発想がなかったものだから、
一時は日本製品の輸出攻勢に圧され、円高攻勢で日本自体を抑圧し返して後は、
日本式の量産体制が移管された中国やアジア諸国の攻勢に圧されている。
(黄色い猿などから何も学ぶことはないとする差別意識もまた仇となり)
信用ある会社が作った車なら、10万キロ走ろうともまず壊れないという保証。
その起源を辿ってみれば、実はある種の日本刀にあったりもするのである。
日本刀が取り立てて美しかったりするのは、さらにその先の領域にあること。
>>261
相州伝の正宗に準ずるような刀は、焼き入れ温度が高いから鍛え割れを起こしやすい。
だから沸出来の刃紋の美しさと引き換えに多少の鍛え傷があったりするのが、
ある程度は黙認されるべきとかいったような風潮が、刀剣界でもあるんだってさ。
でも鍛え傷があるような刀を恥ずかしげもなく売りに出すのは、刀匠としてのプライドが許さない、
特に原料になる鉄の品質が安定し始めた江戸期以降には以ての外、ということで、
相州伝は正宗という究極の始祖を持つにも関わらず、衰滅せざるを得なかったんだ。
故障しやすいのに高額で売り出されてる外車とかも、これに似たようなもの。
たとえ金持ちが節税目的で買ったところで、やたらと壊れやすかったりするようなら、
常用するのはサブの日本車とかになってしまう(日本の医者とかはよくこういう乗り方をしている)。
多少切れ味がいいとか、乗り心地がいいとかの機能面での優位性があったとしても、
総合的にプラマイゼロ以下であるようでは、最後は見栄っ張りのやせ我慢のための形骸となる。
正宗や貞宗並みの伝説的遺産が尊ばれようとも、現行品の人気は必然として衰えるのである。
相州伝の正宗に準ずるような刀は、焼き入れ温度が高いから鍛え割れを起こしやすい。
だから沸出来の刃紋の美しさと引き換えに多少の鍛え傷があったりするのが、
ある程度は黙認されるべきとかいったような風潮が、刀剣界でもあるんだってさ。
でも鍛え傷があるような刀を恥ずかしげもなく売りに出すのは、刀匠としてのプライドが許さない、
特に原料になる鉄の品質が安定し始めた江戸期以降には以ての外、ということで、
相州伝は正宗という究極の始祖を持つにも関わらず、衰滅せざるを得なかったんだ。
故障しやすいのに高額で売り出されてる外車とかも、これに似たようなもの。
たとえ金持ちが節税目的で買ったところで、やたらと壊れやすかったりするようなら、
常用するのはサブの日本車とかになってしまう(日本の医者とかはよくこういう乗り方をしている)。
多少切れ味がいいとか、乗り心地がいいとかの機能面での優位性があったとしても、
総合的にプラマイゼロ以下であるようでは、最後は見栄っ張りのやせ我慢のための形骸となる。
正宗や貞宗並みの伝説的遺産が尊ばれようとも、現行品の人気は必然として衰えるのである。
LAST SHOGUN こと徳川慶喜も実は「寿命(としなが)」とかいう、
兼元や兼定よりもはるかに作位の低い美濃の刀工の作品を
好んで差し、多数私有していたともいう。
将軍なら正宗でも虎徹でも、名刀が選り取り見取りなのにあえてしなかったのは、
慶喜が刀剣嫌いだったためなどとも一部で噂されているが、そういうわけでもない。
一橋慶喜の故郷である水戸藩は、とりわけ質素倹約を重んずることで知られた藩。
刀剣もまた高額すぎるものは避けていたが、かといって粗悪な刀を差していざという時に
折れたり曲がったりしたのでは武士の名折れともなる。そのため水戸藩士たちは
安価な刀を買い込んでは川に赴き、腰まで浸かっては刀の側面を川面に打ち付けた!
表面張力で川面は岩のような硬さとなり、粗悪な刀はみんな折れるか曲がってしまう。
それでも無事でいた刀だけが、用に足るものとして佩刀に採用された。
慶喜公の刀もそういう刀の一つであり、美濃伝が下位工に至るまで品質の保証された
流派である逸話ともなっている。刀にとって「折れる」ほどの弱点も他にないわけで、
如此く品質の位列をよく整理してきたこともまた、作刀文化文明の恩恵であるといえよう。
人間にとって、その物品に対して何を最も要求するかの位列。
壊れにくさが低位に位置するのなら、日本車がそう売れたはずもない。
兼元や兼定よりもはるかに作位の低い美濃の刀工の作品を
好んで差し、多数私有していたともいう。
将軍なら正宗でも虎徹でも、名刀が選り取り見取りなのにあえてしなかったのは、
慶喜が刀剣嫌いだったためなどとも一部で噂されているが、そういうわけでもない。
一橋慶喜の故郷である水戸藩は、とりわけ質素倹約を重んずることで知られた藩。
刀剣もまた高額すぎるものは避けていたが、かといって粗悪な刀を差していざという時に
折れたり曲がったりしたのでは武士の名折れともなる。そのため水戸藩士たちは
安価な刀を買い込んでは川に赴き、腰まで浸かっては刀の側面を川面に打ち付けた!
表面張力で川面は岩のような硬さとなり、粗悪な刀はみんな折れるか曲がってしまう。
それでも無事でいた刀だけが、用に足るものとして佩刀に採用された。
慶喜公の刀もそういう刀の一つであり、美濃伝が下位工に至るまで品質の保証された
流派である逸話ともなっている。刀にとって「折れる」ほどの弱点も他にないわけで、
如此く品質の位列をよく整理してきたこともまた、作刀文化文明の恩恵であるといえよう。
人間にとって、その物品に対して何を最も要求するかの位列。
壊れにくさが低位に位置するのなら、日本車がそう売れたはずもない。
刀にとっての一番の問題は「折れる」ことだし、
車にとっての一番の問題は「壊れる」ことだ。
他にも問題になることはいくらでもあるが、これらに優る
問題とは認められないものだから、優先順位としては低い。
止持戒あっての作持戒、最低限できていることがあった上での付加価値。
その篩にかけられて淘汰されるものと生き延びるものとの
命運が分かたれること自体は、別に悪いことでもない。
だいたいそれこそが、キリスト教の試みでもなかったか。
自分たちが淘汰される側になることを想定していなかっただけで。
車にとっての一番の問題は「壊れる」ことだ。
他にも問題になることはいくらでもあるが、これらに優る
問題とは認められないものだから、優先順位としては低い。
止持戒あっての作持戒、最低限できていることがあった上での付加価値。
その篩にかけられて淘汰されるものと生き延びるものとの
命運が分かたれること自体は、別に悪いことでもない。
だいたいそれこそが、キリスト教の試みでもなかったか。
自分たちが淘汰される側になることを想定していなかっただけで。
話に付いて来れなくなると……華麗にスルーw
この厚かましさは役人みてえw
この厚かましさは役人みてえw
追いかけてんじゃねえ
付いて来させようとしてんだ
付いて来させようとしてんだ
はぁ!?誰がお前みてえなのに付いて行く?
お母さんとお父さんかw大変な債務をこさえたもんだw
お母さんとお父さんかw大変な債務をこさえたもんだw
俺に付いて来ないのなら、あとは離れて行くだけだ。よかったな
確かに車が壊れないに越した事はないよね
窓落ちとか内装剥がれなんかは変な話誤差だよ
それ以上の魅力があっても故障で降りる人多いね
さっきも書いたけど国産車もリコール含め細かい
故障あるんだけどね
スレ主には海外生産になる前のカブおすすめだよ
あとよく分からないけど日本刀と車、例えとして
どうなんだろ?車は壊れてもエンジン買ってきて
載せ替えれば動くけど
窓落ちとか内装剥がれなんかは変な話誤差だよ
それ以上の魅力があっても故障で降りる人多いね
さっきも書いたけど国産車もリコール含め細かい
故障あるんだけどね
スレ主には海外生産になる前のカブおすすめだよ
あとよく分からないけど日本刀と車、例えとして
どうなんだろ?車は壊れてもエンジン買ってきて
載せ替えれば動くけど
この気の短さw
この話の一貫性のなさw
早くお寺行って修行して来いよw
「俺に付いて来ないのなら、あとは離れて行くだけだ。」
カッケーw
超カッケーw
…でも親はこんなのでも子供だから可愛いんだな
この話の一貫性のなさw
早くお寺行って修行して来いよw
「俺に付いて来ないのなら、あとは離れて行くだけだ。」
カッケーw
超カッケーw
…でも親はこんなのでも子供だから可愛いんだな
車のエンジンを載せ替えるとか、刀でいえば拵だけ残して刀身を交換するようなもんだ。
全てが一点ものな日本刀ではほとんど不可能なことだが。
三十二年式とか九五式とかの、量産品の軍刀あたりならできないことでもない。
つまり、全く同一規格の製品を量産している点などでは、自動車は日本刀よりも軍刀に近い。
車を含む日本製品が、1970年代ごろまで粗悪品混じりだったのもこのため。
工業規格の量産品の生産なんかに力を入れることに根強い抵抗があったから。
量産品の消費に慣れきってしまうと、人間は格物致知の能力が段違いに落ちる。
全ての物品は消耗品に過ぎないと決め込んで、単純にモノを粗末に扱うようにもなってしまう。
工業製品の中にもヴィンテージ的な付加価値を帯びるものがあるが、
それも限定品だったりレアな古物だったりすることを主な理由としている。
大量生産による儲けが第一な近代工業にとっては副次的な要素に過ぎない。
全てが一点ものな日本刀ではほとんど不可能なことだが。
三十二年式とか九五式とかの、量産品の軍刀あたりならできないことでもない。
つまり、全く同一規格の製品を量産している点などでは、自動車は日本刀よりも軍刀に近い。
車を含む日本製品が、1970年代ごろまで粗悪品混じりだったのもこのため。
工業規格の量産品の生産なんかに力を入れることに根強い抵抗があったから。
量産品の消費に慣れきってしまうと、人間は格物致知の能力が段違いに落ちる。
全ての物品は消耗品に過ぎないと決め込んで、単純にモノを粗末に扱うようにもなってしまう。
工業製品の中にもヴィンテージ的な付加価値を帯びるものがあるが、
それも限定品だったりレアな古物だったりすることを主な理由としている。
大量生産による儲けが第一な近代工業にとっては副次的な要素に過ぎない。
モノを大切にしない人間は人も大切にせず、人を大切にしない人間は国も大切にしない。
玩物害知寓意邪心、滅身蔑家亡国乱天下。
「どうせこれを壊したって代わりがあるから」
刀だって乱戦用にクズ刀や贋刀を用いることはあったが、
最高級品に至るまでそういう扱いでも構わなくなるのが工業製品。
人だって利用するだけ利用すれば使い捨て、国だって税制を強めたりすれば捨ててやる。
何もかもを安易な実用の対象とばかり決め込み、最後は自分自身までもがその毒牙にかかる。
単純にそれは、つまらないことである。
そんな精神状態や言動規範に陥ってしまったのでは、
どんなに大金があって、なんでも買えるような立場になろうとも、何も面白くない。
自分自身の浅ましさこそが、あらゆる物品を鼻紙も同然の消耗品と見なしてしまったがために、
宝の山までもが鼻紙の山に見えるようになる。程度の差こそあれど、そういった篤心の
欠如ゆえの心の渇きに陥ってしまっている人間が、大量生産大量消費の時代には多いものだ。
玩物害知寓意邪心、滅身蔑家亡国乱天下。
「どうせこれを壊したって代わりがあるから」
刀だって乱戦用にクズ刀や贋刀を用いることはあったが、
最高級品に至るまでそういう扱いでも構わなくなるのが工業製品。
人だって利用するだけ利用すれば使い捨て、国だって税制を強めたりすれば捨ててやる。
何もかもを安易な実用の対象とばかり決め込み、最後は自分自身までもがその毒牙にかかる。
単純にそれは、つまらないことである。
そんな精神状態や言動規範に陥ってしまったのでは、
どんなに大金があって、なんでも買えるような立場になろうとも、何も面白くない。
自分自身の浅ましさこそが、あらゆる物品を鼻紙も同然の消耗品と見なしてしまったがために、
宝の山までもが鼻紙の山に見えるようになる。程度の差こそあれど、そういった篤心の
欠如ゆえの心の渇きに陥ってしまっている人間が、大量生産大量消費の時代には多いものだ。
はっきり言って、それ自体は地味を極めるもの。
ただでさえ黒く仕上がる表面に、さらに艶消し的な風合いになる彫刻を施す。
現代でいえば陰キャが好む黒服にも近いような装束こそが最高級扱い。
室町時代なら足利将軍しか金細工が許されないとかの制約があったようだが、
安土桃山時代にそれが解除されて誰でも派手な拵を差せるようになった。
ただ徳川家康がそのような派手趣味を忌み嫌い、助真拵のような実直第一の刀装を
好んでいたものだから、武士たちもそれに倣い、江戸期の刀装具は質朴なものが主になった。
派手な刀装が全くないというわけではなく、元禄期の豪商の脇差などには
秀吉的な金ピカ趣味のものも若干数見られる。そんなものを「粋ではない」
として忌み嫌う江戸っ子の気風こそは当時のオシャレだったわけだが、たとえば
赤銅魚々子地の刀装具が重宝されるような方向性こそがその根源であったからには、
現代のオシャレ感覚などともかなりかけ離れたものだったことが明らかだといえる。
ただでさえ黒く仕上がる表面に、さらに艶消し的な風合いになる彫刻を施す。
現代でいえば陰キャが好む黒服にも近いような装束こそが最高級扱い。
室町時代なら足利将軍しか金細工が許されないとかの制約があったようだが、
安土桃山時代にそれが解除されて誰でも派手な拵を差せるようになった。
ただ徳川家康がそのような派手趣味を忌み嫌い、助真拵のような実直第一の刀装を
好んでいたものだから、武士たちもそれに倣い、江戸期の刀装具は質朴なものが主になった。
派手な刀装が全くないというわけではなく、元禄期の豪商の脇差などには
秀吉的な金ピカ趣味のものも若干数見られる。そんなものを「粋ではない」
として忌み嫌う江戸っ子の気風こそは当時のオシャレだったわけだが、たとえば
赤銅魚々子地の刀装具が重宝されるような方向性こそがその根源であったからには、
現代のオシャレ感覚などともかなりかけ離れたものだったことが明らかだといえる。
赤銅魚子地の刀装具が最高級扱いされるような時代もあれば、
金無垢のロレックスやダイヤを散りばめたカルチェが最高級扱いされる時代もある。
オシャレの基準なんてのは時代時代によってコロコロと変わるもの。
西洋文化主体の現代ではあまり見栄えのしない日本の男などにも、
かつては自分たちならではのオシャレ文化があった。
表は地味に、裏は派手にといったコントラストの強調などもその内。
少なからず地味な部分があるからには、何もかもを派手に仕立てるものと
比べれば一見して地味に見えることは避けられない。その初手の劣勢さを乗り越えて
滋味深さのあるオシャレの価値を認められたなら、若いうちだけに止まらない
終身に至るまでの楽しみともなり得る、最終勝利者にこそ相応しいオシャレである。
金無垢のロレックスやダイヤを散りばめたカルチェが最高級扱いされる時代もある。
オシャレの基準なんてのは時代時代によってコロコロと変わるもの。
西洋文化主体の現代ではあまり見栄えのしない日本の男などにも、
かつては自分たちならではのオシャレ文化があった。
表は地味に、裏は派手にといったコントラストの強調などもその内。
少なからず地味な部分があるからには、何もかもを派手に仕立てるものと
比べれば一見して地味に見えることは避けられない。その初手の劣勢さを乗り越えて
滋味深さのあるオシャレの価値を認められたなら、若いうちだけに止まらない
終身に至るまでの楽しみともなり得る、最終勝利者にこそ相応しいオシャレである。
>>275-276画みたいなのが、刀装具のパブリックイメージとして
よく見受けられるものだとは思うが、ただそうなだけでなく、
日刀保の重要刀装具や特別重要刀装具に指定されている、
一枚数百万円するような鍔に至るまでが、これに似た意匠。
違うのは、魚子や象嵌彫刻の彫り込みがより精緻であったりする点。
数百万円級のものは実際、同額の機械式高級時計などと同等か
それ以上の金工が施されている、まさに技術の粋の結晶である。
日本刀の刀身自体は、神の域にも通じるものなので理解の度を超えるかも知れないが、
江戸期の刀装具程度にまで話のレベルを下げると、これはこれで分かることがある。
当時には当時ならではのオシャレがあり、それが高級時計や宝飾の域でもあったこと。
今のオシャレですら理解できない人間には理解できないようなものが多々あるのに、
どうしてそのオシャレだけを否定などできようか。数百年前のものにしては
よっぽどその格好よさが推し量れるほどの普遍性をも帯びているのだし。
よく見受けられるものだとは思うが、ただそうなだけでなく、
日刀保の重要刀装具や特別重要刀装具に指定されている、
一枚数百万円するような鍔に至るまでが、これに似た意匠。
違うのは、魚子や象嵌彫刻の彫り込みがより精緻であったりする点。
数百万円級のものは実際、同額の機械式高級時計などと同等か
それ以上の金工が施されている、まさに技術の粋の結晶である。
日本刀の刀身自体は、神の域にも通じるものなので理解の度を超えるかも知れないが、
江戸期の刀装具程度にまで話のレベルを下げると、これはこれで分かることがある。
当時には当時ならではのオシャレがあり、それが高級時計や宝飾の域でもあったこと。
今のオシャレですら理解できない人間には理解できないようなものが多々あるのに、
どうしてそのオシャレだけを否定などできようか。数百年前のものにしては
よっぽどその格好よさが推し量れるほどの普遍性をも帯びているのだし。
江戸時代の日本に、別に金銀財宝がなかったわけではない。
それどころか、世界でも有数の貴金属の産出地であり、
旅人が非常用の路銀を着物の裾に縫いこんでおくのが嗜みだったともいう、
まさに「黄金の国ジパング」ですらあった。
しかし、支配階級である武士がその手の財宝欲に溺れるようなことはなく、
わずかな金銀を配合した銅合金製の、素銅や真鍮よりも黒ずむ刀装具を好んだ。
中には金銀の象嵌を凝らした細工などもあったが、
それも使用されている金銀の量は知れたもの。
西洋人のマルコポーロらが初めて日本を目にした時に最も着目した「黄金の国」
という側面も、所詮は目にした側の品性の下劣さゆえに際立って見えた部分に過ぎず、
日本人の側には例えばインカ帝国のような、金銀の眩さに溺れたりする神経はなかった。
そんなものよりも工匠の業のほうをより尊ぶ心がけの真摯さこそが、
南蛮人による日本の征服を甚だ不可能なことならしめてもいたわけである。
それどころか、世界でも有数の貴金属の産出地であり、
旅人が非常用の路銀を着物の裾に縫いこんでおくのが嗜みだったともいう、
まさに「黄金の国ジパング」ですらあった。
しかし、支配階級である武士がその手の財宝欲に溺れるようなことはなく、
わずかな金銀を配合した銅合金製の、素銅や真鍮よりも黒ずむ刀装具を好んだ。
中には金銀の象嵌を凝らした細工などもあったが、
それも使用されている金銀の量は知れたもの。
西洋人のマルコポーロらが初めて日本を目にした時に最も着目した「黄金の国」
という側面も、所詮は目にした側の品性の下劣さゆえに際立って見えた部分に過ぎず、
日本人の側には例えばインカ帝国のような、金銀の眩さに溺れたりする神経はなかった。
そんなものよりも工匠の業のほうをより尊ぶ心がけの真摯さこそが、
南蛮人による日本の征服を甚だ不可能なことならしめてもいたわけである。
江戸期までの本歌の刀装具で、「真鍮製」というのがほとんどないのは前から気になっていた。
安価で加工しやすく、物理特性も良くて、おまけに金ほど煌びやかではないものの金色をしている。
「庶民の金」とも謳うわれ、今でも銃弾の薬莢などとして重用されている銅と亜鉛の合金を、
調合法が分かっていたにもかかわらず、なぜ武士たちは刀装具の要所に用いるのを好まなかったのか?
(画像は象嵌部分だけが真鍮製な江戸初期の平安城鍔)
一つには、粘りがなさ過ぎ斬撃によって叩っ斬られる危険がある点。
(これは日本刀が他の刀剣よりも段違いに切れ味がいいことに基づく)
もう一つが、「偽物の金」なんていうものを好むことに抵抗があったからではないかと思われる。
銅に亜鉛を混ぜて金のように見せかけるよりは、1%程度でもいいから金を混ぜて黒く見せる。
そちらのほうが、見せかけに囚われぬ意志の高潔さの現れとなるが故に好んだのだろう。
また、支配者階級である以上は、金銀財宝の流通を掌握下に置くことまで避けるべきではないから、
多少の金銀を用いることはあえて続けた。極端の一つ覚えを避けた手堅い好みだったといえよう。
安価で加工しやすく、物理特性も良くて、おまけに金ほど煌びやかではないものの金色をしている。
「庶民の金」とも謳うわれ、今でも銃弾の薬莢などとして重用されている銅と亜鉛の合金を、
調合法が分かっていたにもかかわらず、なぜ武士たちは刀装具の要所に用いるのを好まなかったのか?
(画像は象嵌部分だけが真鍮製な江戸初期の平安城鍔)
一つには、粘りがなさ過ぎ斬撃によって叩っ斬られる危険がある点。
(これは日本刀が他の刀剣よりも段違いに切れ味がいいことに基づく)
もう一つが、「偽物の金」なんていうものを好むことに抵抗があったからではないかと思われる。
銅に亜鉛を混ぜて金のように見せかけるよりは、1%程度でもいいから金を混ぜて黒く見せる。
そちらのほうが、見せかけに囚われぬ意志の高潔さの現れとなるが故に好んだのだろう。
また、支配者階級である以上は、金銀財宝の流通を掌握下に置くことまで避けるべきではないから、
多少の金銀を用いることはあえて続けた。極端の一つ覚えを避けた手堅い好みだったといえよう。
良くも悪しくも、アメカジあたりには真鍮(ブラス)がよく似合う。
なぜ似合うかといって、庶民にも財欲を諦めさせてはならない、
底辺は指をくわえて金持ちを羨む子羊であるべきとしたのがアメリカだからだ。
軍刀にも真鍮製の装具が多いし、日本もすでに通った道。
ただ、そのせいで戦前アレルギーからの西洋かぶれとなった戦後の日本人は、
カジュアルな洋服にブラス金具を合わせるという選択を極力避けてしまったんだ。
日本人でカジュアルな洋装を好む連中がアクセサリーにしたがるのは、主にシルバー。
これは白人には似合うが黄色い肌には最も似合わない。かといって金は高すぎる。
ブラス金具というアメカジの必須要素を避け過ぎたせいで、
近頃は洋装趣味も萎え、「若者のジーンズ離れ」とかも指摘されている。
かといって和装にまでは戻れないので、近頃の若者のファッションはすこぶるダサい。
韓流スターの猿真似とかの醜悪の極みが流行ってるような始末。
まあこれも、災い転じて福という機縁には格好と悦ぶべきか。
なぜ似合うかといって、庶民にも財欲を諦めさせてはならない、
底辺は指をくわえて金持ちを羨む子羊であるべきとしたのがアメリカだからだ。
軍刀にも真鍮製の装具が多いし、日本もすでに通った道。
ただ、そのせいで戦前アレルギーからの西洋かぶれとなった戦後の日本人は、
カジュアルな洋服にブラス金具を合わせるという選択を極力避けてしまったんだ。
日本人でカジュアルな洋装を好む連中がアクセサリーにしたがるのは、主にシルバー。
これは白人には似合うが黄色い肌には最も似合わない。かといって金は高すぎる。
ブラス金具というアメカジの必須要素を避け過ぎたせいで、
近頃は洋装趣味も萎え、「若者のジーンズ離れ」とかも指摘されている。
かといって和装にまでは戻れないので、近頃の若者のファッションはすこぶるダサい。
韓流スターの猿真似とかの醜悪の極みが流行ってるような始末。
まあこれも、災い転じて福という機縁には格好と悦ぶべきか。
私はね、
? わが身かわいさに、何ひとつ人に奉仕せず生きてる人間が、己を捨てる生き方を説く武士道や仏教について語るのはどうなのか?治ったなら社会復帰すればいいのに、「俺の身体能力は凄い」と言いつつ「病状の悪化が怖いから働きたくない」と言うんじゃ、ただのインチキかヘタレではないか。結局は宗教を利用して、(世人が望むのと同じく)楽をしながら偉そうにしたいだけなのではないか?
? いつまでも自立せず、親に依存するというカッコ悪い生き方をしておきながら、平然と美しい生き方がどうのこうのと論じるのはどういった了見か?
といった多くの人が感じるであろう素朴で手厳しい質問に対する回答が欲しかったのだけれども、「難病を治したのだから私は正しい(天がスネ齧りを命じている)」みたいな事しか返って来ないんじゃあ、お粗末だよ。
? わが身かわいさに、何ひとつ人に奉仕せず生きてる人間が、己を捨てる生き方を説く武士道や仏教について語るのはどうなのか?治ったなら社会復帰すればいいのに、「俺の身体能力は凄い」と言いつつ「病状の悪化が怖いから働きたくない」と言うんじゃ、ただのインチキかヘタレではないか。結局は宗教を利用して、(世人が望むのと同じく)楽をしながら偉そうにしたいだけなのではないか?
? いつまでも自立せず、親に依存するというカッコ悪い生き方をしておきながら、平然と美しい生き方がどうのこうのと論じるのはどういった了見か?
といった多くの人が感じるであろう素朴で手厳しい質問に対する回答が欲しかったのだけれども、「難病を治したのだから私は正しい(天がスネ齧りを命じている)」みたいな事しか返って来ないんじゃあ、お粗末だよ。
(キツい事ばかり言って申し訳ないけども)たとえ奇跡を起こしたとしても、その事だけで「考えの全てが正しい」とまでは担保できないはず。
それとも君は、宗教界隈で時たま耳にする「癌が消えた」「耳が聞こえるようになった」という話が事実だと確認できたら、すぐそこの教団に入信しちゃうタイプなのかな?
「超ノーベル賞級」と、創●学会の池●先生や北朝鮮の指導者以上に自分を礼賛しているが、その程度の奇跡であれば枚挙に暇がないほど、毎日のように世界中で起きているだろうに。
それとも君は、宗教界隈で時たま耳にする「癌が消えた」「耳が聞こえるようになった」という話が事実だと確認できたら、すぐそこの教団に入信しちゃうタイプなのかな?
「超ノーベル賞級」と、創●学会の池●先生や北朝鮮の指導者以上に自分を礼賛しているが、その程度の奇跡であれば枚挙に暇がないほど、毎日のように世界中で起きているだろうに。
まず、本家本元のちゃんとした武士道や仏教が、
「己を捨てる生き方」なんてものを奨励していたような事実からしてない。
戦さ場での奮闘、不手際があった時の切腹、飢饉時の口減らしも兼ねた即身仏化、
みな「非常時の覚悟」であって、日常生活にまであえて苦渋を欲するような?倒とは無関係。
血に染まる切腹の場に、必要もなく他の武士が立ち会うのは「穢れが移ること」として
忌み避けられていたし、「寿命」とか「延寿」とかいった縁起のいい名前の刀を
好んで贈答し合う慣習もあった(徳川慶喜もそれを再利用するなどしていた)。
臨済宗妙心寺派管長の山本玄峰老師に「おまえは何のために参禅しておるか」
と問われて、田中清玄は「世のため人のためであります」と答えた。
玄峰老師は「馬鹿者、わしは自分のためにしておるわ」と。
あとで振り返ってみて田中も「ああ、あれこそは自利即利他の教えだったんだな」
と気付かされたという。自分も救えない者に他者が救えるはずもなく。
「己を捨てる生き方」なんてものを奨励していたような事実からしてない。
戦さ場での奮闘、不手際があった時の切腹、飢饉時の口減らしも兼ねた即身仏化、
みな「非常時の覚悟」であって、日常生活にまであえて苦渋を欲するような?倒とは無関係。
血に染まる切腹の場に、必要もなく他の武士が立ち会うのは「穢れが移ること」として
忌み避けられていたし、「寿命」とか「延寿」とかいった縁起のいい名前の刀を
好んで贈答し合う慣習もあった(徳川慶喜もそれを再利用するなどしていた)。
臨済宗妙心寺派管長の山本玄峰老師に「おまえは何のために参禅しておるか」
と問われて、田中清玄は「世のため人のためであります」と答えた。
玄峰老師は「馬鹿者、わしは自分のためにしておるわ」と。
あとで振り返ってみて田中も「ああ、あれこそは自利即利他の教えだったんだな」
と気付かされたという。自分も救えない者に他者が救えるはずもなく。
怪しい宗教やらセミナーやらによる治療で、
難病が克服できたことが「確認」されたことも、ほとんどない。
ほとんどはろくな証拠もない自己証言や伝聞止まり。
中には、当時治癒が不能だった結核や癌を、医者の診断も受けて、
世界中の名医や学者の助けを受けながらも治せず、インドの山奥の
ヨガ行者に師事してやっと治した中村天風氏のような人もいる。
これなどは本物だからこそ世界中の権力者までもが好んで傾倒した一方、
一般向けには公益法人として非営利でしか教えてないものだから、
経済活動への直接的な貢献度の薄さ故に、近年では廃れかけてる。
俺が知ってるもっと信用のおけない系のヨガセミナーとかを見ると、
参加者から大金をせしめて論文まで書かせるクセに病気は一向に治せず、
自分がやってるヨガと病気の相関関係を統計をとって調べてみるとかいう、
いかにも科学的めいた手法の披瀝だけで人気を得ている。はたから見れば
眉唾にも程がある代物だが、こういう所のほうがむしろ天風会などよりも
近ごろは活況だったりする。ただ「金を払った」という所に信用性を感じるようで。
そういうわけで、正規の医療行為でもないような領域での病気が治るだの、
治っただのの言い分が信用ならないものばかりであるのは俺も認める。
近ごろ人気であるような所ほどより信用できないとも。ただ、それが
あらゆる民間療法の効果を否定する根拠などにもならない。中には
天風会系のラージャヨガのように、正規医療以上の効果を発揮するものもある。
難病が克服できたことが「確認」されたことも、ほとんどない。
ほとんどはろくな証拠もない自己証言や伝聞止まり。
中には、当時治癒が不能だった結核や癌を、医者の診断も受けて、
世界中の名医や学者の助けを受けながらも治せず、インドの山奥の
ヨガ行者に師事してやっと治した中村天風氏のような人もいる。
これなどは本物だからこそ世界中の権力者までもが好んで傾倒した一方、
一般向けには公益法人として非営利でしか教えてないものだから、
経済活動への直接的な貢献度の薄さ故に、近年では廃れかけてる。
俺が知ってるもっと信用のおけない系のヨガセミナーとかを見ると、
参加者から大金をせしめて論文まで書かせるクセに病気は一向に治せず、
自分がやってるヨガと病気の相関関係を統計をとって調べてみるとかいう、
いかにも科学的めいた手法の披瀝だけで人気を得ている。はたから見れば
眉唾にも程がある代物だが、こういう所のほうがむしろ天風会などよりも
近ごろは活況だったりする。ただ「金を払った」という所に信用性を感じるようで。
そういうわけで、正規の医療行為でもないような領域での病気が治るだの、
治っただのの言い分が信用ならないものばかりであるのは俺も認める。
近ごろ人気であるような所ほどより信用できないとも。ただ、それが
あらゆる民間療法の効果を否定する根拠などにもならない。中には
天風会系のラージャヨガのように、正規医療以上の効果を発揮するものもある。
「自分を捨てる生き方」なんてものを格好いい生き方だなどと思ってしまう、
中二病じみた美意識の持ち主がいるのも一応知ってはいる。
ただ、そんなものは普遍的な美意識でもなんでもない。
特に日本刀の実用を憚られるほどの美しさを尊ぶような、
古来の日本的、東洋的美意識と相容れるようなものでは決してない。
一家の嫡男こそは、親が引退するまでは部屋住み。
それがこどおじ呼ばわりで蔑まれるようなことがない時代もあった。
その部分だけを見れば別に美しい生き方などとも思われないが、
粛々と家督が継承されて行ってた家系図の整然さなどを見れば、やはり美しい。
要は、異なる美意識を持つ者同士では、見ている部分が違う。
幼稚な美意識の持ち主の視点は近視眼的で視野が狭い一方、
成熟した美意識の持ち主の視点は俯瞰的で、常に総合的である。
美しい城の石垣にへばり付いているナメクジを見て、
「この城は醜い」などと豪語する人間も中にはいるようである。
いくら文句を言われても、歯牙にもかけない以上の対応策があり得ようか?
中二病じみた美意識の持ち主がいるのも一応知ってはいる。
ただ、そんなものは普遍的な美意識でもなんでもない。
特に日本刀の実用を憚られるほどの美しさを尊ぶような、
古来の日本的、東洋的美意識と相容れるようなものでは決してない。
一家の嫡男こそは、親が引退するまでは部屋住み。
それがこどおじ呼ばわりで蔑まれるようなことがない時代もあった。
その部分だけを見れば別に美しい生き方などとも思われないが、
粛々と家督が継承されて行ってた家系図の整然さなどを見れば、やはり美しい。
要は、異なる美意識を持つ者同士では、見ている部分が違う。
幼稚な美意識の持ち主の視点は近視眼的で視野が狭い一方、
成熟した美意識の持ち主の視点は俯瞰的で、常に総合的である。
美しい城の石垣にへばり付いているナメクジを見て、
「この城は醜い」などと豪語する人間も中にはいるようである。
いくら文句を言われても、歯牙にもかけない以上の対応策があり得ようか?
雌伏の時を脱して、いざなんらかの活動に臨む段になろうとも、
せっかく治った持病をまた悪化させてしまうような蛮行は極力避ける。
それが結局は自分のためだけでなく、人のためにもなる。
戒律厳守を心がける坊さんの活動が、そのまま断悪修善の模範ともなるように、
己が身を滅ぼすような真似を人々に踏みとどまらせる社会福祉の一環となる。
これまた、苦渋こそを美しい姿などと思い込んでいる人種には理解しがたいことだろうが。
たとえば、カカトばかりでドシドシ歩くような人間や、そのせいで膝や腰を壊して
ヨチヨチ歩きになってしまうような人種が減った結果、市井が颯爽とした
歩き方の人間ばかりになったとすれば、それだけでも見るからに美しい。
なおかつそれで、整形外科疾患による医療負担の増大も防がれる。
滋養を尊ぶ美意識の流布こそは、この世の美しさと経済性すらをも両立させる。
それを美意識として認められるかどうかなどはまた別の話として、な。
せっかく治った持病をまた悪化させてしまうような蛮行は極力避ける。
それが結局は自分のためだけでなく、人のためにもなる。
戒律厳守を心がける坊さんの活動が、そのまま断悪修善の模範ともなるように、
己が身を滅ぼすような真似を人々に踏みとどまらせる社会福祉の一環となる。
これまた、苦渋こそを美しい姿などと思い込んでいる人種には理解しがたいことだろうが。
たとえば、カカトばかりでドシドシ歩くような人間や、そのせいで膝や腰を壊して
ヨチヨチ歩きになってしまうような人種が減った結果、市井が颯爽とした
歩き方の人間ばかりになったとすれば、それだけでも見るからに美しい。
なおかつそれで、整形外科疾患による医療負担の増大も防がれる。
滋養を尊ぶ美意識の流布こそは、この世の美しさと経済性すらをも両立させる。
それを美意識として認められるかどうかなどはまた別の話として、な。
「いい加減、武士道や仏教を自分たちの都合のいいように曲解するのをやめろ」
というのが、このスレの副題とするのにも相応しい論題ではある。
非常時に惜しみなく身を捨てるためにこそ、日頃は常人以上の安逸(禅那)を欠かさないし、
金銀財宝への安易な欲望を制するためにこそ、銅合金の刀装具や木製の仏像に心酔した。
そしてそれによってこそ、現代以上に戦争も犯罪もないような時代を何百年と守り続けた。
現実問題、「非常時」なんてものを極力ないように制止できていたものだから、それが可能となった。
してみれば、非常時への覚悟の有無は別として、実際に身を滅ぼすような蛮行に及んで
しまっている度合いはむしろ、現代人のほうがよっぽど昔の武士や仏僧などよりも多い。
そんな現代人に見倣わせるべき武士や仏僧の生き方があるとすれば、それもむしろ、
日頃の養生や謹慎の心がけのほうであろう。これ以上自分たちの身を軽んじさせたのでは、
少子高齢化や人材不足による亡国のより一層の助長にしかならないのだから。
というのが、このスレの副題とするのにも相応しい論題ではある。
非常時に惜しみなく身を捨てるためにこそ、日頃は常人以上の安逸(禅那)を欠かさないし、
金銀財宝への安易な欲望を制するためにこそ、銅合金の刀装具や木製の仏像に心酔した。
そしてそれによってこそ、現代以上に戦争も犯罪もないような時代を何百年と守り続けた。
現実問題、「非常時」なんてものを極力ないように制止できていたものだから、それが可能となった。
してみれば、非常時への覚悟の有無は別として、実際に身を滅ぼすような蛮行に及んで
しまっている度合いはむしろ、現代人のほうがよっぽど昔の武士や仏僧などよりも多い。
そんな現代人に見倣わせるべき武士や仏僧の生き方があるとすれば、それもむしろ、
日頃の養生や謹慎の心がけのほうであろう。これ以上自分たちの身を軽んじさせたのでは、
少子高齢化や人材不足による亡国のより一層の助長にしかならないのだから。
哲学的な話が出て来たね、そもそも美しいって何だろ?
絵画、建築物、写真、工芸品などなど無垢な子供が見て
これ良いネ!って思わせる物もそうだし、薀蓄や歴史が
重なって美しいとなる事もあるだろうし…そこの定義が
ないと話は無限に広がっちゃうんじゃない?
絵画、建築物、写真、工芸品などなど無垢な子供が見て
これ良いネ!って思わせる物もそうだし、薀蓄や歴史が
重なって美しいとなる事もあるだろうし…そこの定義が
ないと話は無限に広がっちゃうんじゃない?
非常時の挺身は覚悟するが、平時は安楽でいる。
物欲も捨て去るわけではないが、金銀財宝に目がくらむような安易さは避ける。
そこでこそ醸成される、生活スタイルだとか美術工芸だとかの美しさは、
いうなれば「中庸の美」「中道の美」に相当するものである。
何とかの一つ覚えではなく、中正の保守の先にこそある美。
そのため、本人の心持ちの如何によっては理解しがたい場合もある。
美女が美しいとか、金無垢の腕時計やダイヤの指輪が豪華だとかは、馬鹿でもわかる。
故に世の中の教育水準が落ちれば落ちるほどそちら側の欲望に溺れる者が増え、
刀や仏像の美しさを解する者は減る。もちろん武士道仏道の真価を知る者も。
刀の時価が最低値まで落ち、密教法具の宝剣が投げ売りされているような
現代の時勢はどうかといえば、言わずもがな。
物欲も捨て去るわけではないが、金銀財宝に目がくらむような安易さは避ける。
そこでこそ醸成される、生活スタイルだとか美術工芸だとかの美しさは、
いうなれば「中庸の美」「中道の美」に相当するものである。
何とかの一つ覚えではなく、中正の保守の先にこそある美。
そのため、本人の心持ちの如何によっては理解しがたい場合もある。
美女が美しいとか、金無垢の腕時計やダイヤの指輪が豪華だとかは、馬鹿でもわかる。
故に世の中の教育水準が落ちれば落ちるほどそちら側の欲望に溺れる者が増え、
刀や仏像の美しさを解する者は減る。もちろん武士道仏道の真価を知る者も。
刀の時価が最低値まで落ち、密教法具の宝剣が投げ売りされているような
現代の時勢はどうかといえば、言わずもがな。
子供は分別がないから、大人が行かないような危険な場所にも平気で踏み込む。
特に、その傾向が強い多動気味の子供がいたとして、
「もっと張り切って遊べ」と促すべきか、「もっと注意しなさい」と促すべきか。
大人たち自身の振る舞いとしては、
馬鹿笑いしてはしゃぎ回っているような姿を見せるべきか、
なるべく慎重な行動を心がけている姿を見倣わせるべきか。
自分たち自身が河原でのBBQで増水に巻き込まれて流されるような大人なら、
子供たちも当然それに倣う。育てにくい子供が自然と増えたのではなく、
自分たちの振る舞いによってわざわざあえて増やしている。
ただ、子供の側から見れば、真面目な大人よりも不真面目な大人のほうが付き合いやすい。
自分たちと同レベルの大人だからこそ。そこで生じてしまう劣勢さを挽回するために、
真面目な大人こそを引き立てる美しさだとか格好良さが重要にもなってくる。
とはいえ、その手の美観自体が玄人好みで、子供どころか並みの大人も理解しがたい
ようなものになりがちだから、真面目な大人のほうがまずそれを心から楽しめることが
重要となる。子供には成長力があるから、共に楽しんで学ぶのならば、
大人に対する以上に英才教育的な教化ともなるであろう。
特に、その傾向が強い多動気味の子供がいたとして、
「もっと張り切って遊べ」と促すべきか、「もっと注意しなさい」と促すべきか。
大人たち自身の振る舞いとしては、
馬鹿笑いしてはしゃぎ回っているような姿を見せるべきか、
なるべく慎重な行動を心がけている姿を見倣わせるべきか。
自分たち自身が河原でのBBQで増水に巻き込まれて流されるような大人なら、
子供たちも当然それに倣う。育てにくい子供が自然と増えたのではなく、
自分たちの振る舞いによってわざわざあえて増やしている。
ただ、子供の側から見れば、真面目な大人よりも不真面目な大人のほうが付き合いやすい。
自分たちと同レベルの大人だからこそ。そこで生じてしまう劣勢さを挽回するために、
真面目な大人こそを引き立てる美しさだとか格好良さが重要にもなってくる。
とはいえ、その手の美観自体が玄人好みで、子供どころか並みの大人も理解しがたい
ようなものになりがちだから、真面目な大人のほうがまずそれを心から楽しめることが
重要となる。子供には成長力があるから、共に楽しんで学ぶのならば、
大人に対する以上に英才教育的な教化ともなるであろう。
美女は、誰から見ても美しいからこそ美女とされるし、
(もちろん時代による好みの変遷はあるにしろ、その時代〃において)
金銀財宝を散りばめた宝飾も、誰が見ても豪華に見えるようにあえて作られている。
刀剣美とか仏像美とかは、必ずしもそうではない。
美麗を極めた刃紋とか、金塗りの阿弥陀像とか、なるべく誰にでも
豪華さが分かるように作られたものもあるが、あくまで部分に過ぎず、
基本的には勉強を重ねないとわからない部類の美しさこそを本旨としている。
かといって現代アートのようにまったく抽象的なのではなく、
勉強が満了すれば誰にでも分かるようになる具体的な美しさも帯びている。
そしてその美しさや美しさへの理解こそが、仁徳盛業の礎ともなる。
一見して分かりづらい代わりに、分かりやすい美しさ以上に意義のある美しさ。
一長一短ゆえに、いつの時代も理解者が限られることは避けられないが。
(もちろん時代による好みの変遷はあるにしろ、その時代〃において)
金銀財宝を散りばめた宝飾も、誰が見ても豪華に見えるようにあえて作られている。
刀剣美とか仏像美とかは、必ずしもそうではない。
美麗を極めた刃紋とか、金塗りの阿弥陀像とか、なるべく誰にでも
豪華さが分かるように作られたものもあるが、あくまで部分に過ぎず、
基本的には勉強を重ねないとわからない部類の美しさこそを本旨としている。
かといって現代アートのようにまったく抽象的なのではなく、
勉強が満了すれば誰にでも分かるようになる具体的な美しさも帯びている。
そしてその美しさや美しさへの理解こそが、仁徳盛業の礎ともなる。
一見して分かりづらい代わりに、分かりやすい美しさ以上に意義のある美しさ。
一長一短ゆえに、いつの時代も理解者が限られることは避けられないが。
逆に言えば、馬鹿でも分かるのが、金銀財宝や美女の美しさの強みでもある。
銃砲や爆弾やミサイルのほうが、日本刀よりも簡単に大量殺戮ができるのと同様。
「威力」という面でそれらが刀剣美や仏像美を上回るのには違いない。
しかし、高尚さや公益性においてまで上であるなどということはない。
殺戮よりも生育を、破壊よりも建設を重んずるのなら、
より尊ばねばならない部類の美しさがまた別にある。
財宝は、富の偏在であるが故に財宝である。
寡占するよりは世に広め、自分も合金や象嵌のために少しもらうぐらいのほうが
世の中も豊かになり、自分自身もより高尚な美術工芸の愛好に与る。
仏教でいう「自利即利他」に通じる財欲姿勢であるともいえよう。
銃砲や爆弾やミサイルのほうが、日本刀よりも簡単に大量殺戮ができるのと同様。
「威力」という面でそれらが刀剣美や仏像美を上回るのには違いない。
しかし、高尚さや公益性においてまで上であるなどということはない。
殺戮よりも生育を、破壊よりも建設を重んずるのなら、
より尊ばねばならない部類の美しさがまた別にある。
財宝は、富の偏在であるが故に財宝である。
寡占するよりは世に広め、自分も合金や象嵌のために少しもらうぐらいのほうが
世の中も豊かになり、自分自身もより高尚な美術工芸の愛好に与る。
仏教でいう「自利即利他」に通じる財欲姿勢であるともいえよう。
刀装具の中でも、画像の目貫・笄・小柄袋の三つだけは、鍔縁頭鐺口金などと比べて
酷使度の低い金具であるために、例外的に金無垢の細工を施すことが認められた。
(画像では獅子の彫刻部分が金無垢彫刻になっている)
そのため、この三つだけは金品としての価値が生ずることから、
「三所物」などといって別格の扱いを受けた。(目貫と小柄袋を合わせて二所物と呼ぶ場合も)
別格扱いというのは、決して普遍的に格上の扱いというわけでもない。
「装飾」として別格なだけで、武具としての重要度はむしろ低く、
拵によっては小柄や笄を付属しない場合もあるし、目貫も金無垢などでない場合のほうが多い。
金無垢を使用しているような高級な三所物との付き合いこそは、
武士にとっての財宝との付き合い方の雛型ともなった。
相応の功績を挙げるようなことがあれば頂くし、ないようなら受け取らない。
あってもいいし、なくてもいいぐらいの存在。
全く用いないのも無粋とされ、脇差の拵に小柄を差すことぐらいはエチケットともされた。
そして必要とあらば、困っている仲間に質入れ用などのために貸すこともあった。
だいたい小柄や笄は目貫と意匠を合わされているものだから、ただカネを貸す場合以上に
返済の義務感が増す。色々と合理的な意味合いも伴ったオシャレであった。
酷使度の低い金具であるために、例外的に金無垢の細工を施すことが認められた。
(画像では獅子の彫刻部分が金無垢彫刻になっている)
そのため、この三つだけは金品としての価値が生ずることから、
「三所物」などといって別格の扱いを受けた。(目貫と小柄袋を合わせて二所物と呼ぶ場合も)
別格扱いというのは、決して普遍的に格上の扱いというわけでもない。
「装飾」として別格なだけで、武具としての重要度はむしろ低く、
拵によっては小柄や笄を付属しない場合もあるし、目貫も金無垢などでない場合のほうが多い。
金無垢を使用しているような高級な三所物との付き合いこそは、
武士にとっての財宝との付き合い方の雛型ともなった。
相応の功績を挙げるようなことがあれば頂くし、ないようなら受け取らない。
あってもいいし、なくてもいいぐらいの存在。
全く用いないのも無粋とされ、脇差の拵に小柄を差すことぐらいはエチケットともされた。
そして必要とあらば、困っている仲間に質入れ用などのために貸すこともあった。
だいたい小柄や笄は目貫と意匠を合わされているものだから、ただカネを貸す場合以上に
返済の義務感が増す。色々と合理的な意味合いも伴ったオシャレであった。
赤銅とか四分一とかの、江戸金工で頻繁に用いられている銅合金は、
作ろうと思えば現代でも作るのが容易な合金なのに、
現代の工業製品に使用されているのをついぞ見ない。
銅ごときの卑金属に、金や銀を混ぜるのがもったいない、
染色液で表面色だけ繕っておけばいいだろうという思いから。
その時点ですでに、モノづくりに対する真摯さで江戸時代に負けている。
長年の使用で擦り切れようとも、酸化膜による自己修復で元の色に
戻るように考慮していた昔の工匠に、モノを大切にする心で負けてる。
ただ赤銅や四分一も使うようにするだけでは済まない。
それらの合金をあえて使うに値するほど普遍的価値のある物品であること。
空き缶やペットボトルまで高精度に作り込んでいるような時代に
そのような物品を規格化するのは、かえって難しい。
金や銀を混ぜることでより煌びやかにするのではなく、渋い色合いにする、
それこそが「粋」になるような物品であること。これもまた
特級の美的センスが問われるために難しいことである。
刀装具のような伝統工芸の範囲で昔のあり方を踏襲することはできても、
モノづくりへの姿勢の気高さ自体を近代工業にまで応用するとなれば、
至難の業となる。ただそれは、モノを大切にすることで大量消費頼みに
歯止めをかけて行く、エコロジーのための試みをも兼ねるだろう。
作ろうと思えば現代でも作るのが容易な合金なのに、
現代の工業製品に使用されているのをついぞ見ない。
銅ごときの卑金属に、金や銀を混ぜるのがもったいない、
染色液で表面色だけ繕っておけばいいだろうという思いから。
その時点ですでに、モノづくりに対する真摯さで江戸時代に負けている。
長年の使用で擦り切れようとも、酸化膜による自己修復で元の色に
戻るように考慮していた昔の工匠に、モノを大切にする心で負けてる。
ただ赤銅や四分一も使うようにするだけでは済まない。
それらの合金をあえて使うに値するほど普遍的価値のある物品であること。
空き缶やペットボトルまで高精度に作り込んでいるような時代に
そのような物品を規格化するのは、かえって難しい。
金や銀を混ぜることでより煌びやかにするのではなく、渋い色合いにする、
それこそが「粋」になるような物品であること。これもまた
特級の美的センスが問われるために難しいことである。
刀装具のような伝統工芸の範囲で昔のあり方を踏襲することはできても、
モノづくりへの姿勢の気高さ自体を近代工業にまで応用するとなれば、
至難の業となる。ただそれは、モノを大切にすることで大量消費頼みに
歯止めをかけて行く、エコロジーのための試みをも兼ねるだろう。
何ダァ!?美女美女うるせえな、相当女に飢えてんだな?
粋とかロックとか口に出した瞬間クソダサくなるのは何故だろうw
粋とかロックとか口に出した瞬間クソダサくなるのは何故だろうw
現代は「電気」の時代であるものだから、
電材の王様である銅に混ぜ物がされるのは再利用上不都合ということもあろうな。
その割りに、日本の貨幣はぜんぶ銅合金でもある。(亜鉛やニッケルとの)
鋳貨技術の一般化を防ぐために、銅合金の多用も規制して来たのか。
つまり、江戸時代の銅合金工芸文化こそは、資本主義の金満量産志向によって
潰されてしまったわけである。それこそ廃仏毀釈にも匹敵するぐらいの強度で。
江戸時代よりも完全に上位互換であるはずの工業生産においてですら、
現代のほうが劣るところがある。しかも、刀身の出来ですらないところで。
確かに凄惨が過ぎて、恥を知る余裕もなかったことだろうな。
電材の王様である銅に混ぜ物がされるのは再利用上不都合ということもあろうな。
その割りに、日本の貨幣はぜんぶ銅合金でもある。(亜鉛やニッケルとの)
鋳貨技術の一般化を防ぐために、銅合金の多用も規制して来たのか。
つまり、江戸時代の銅合金工芸文化こそは、資本主義の金満量産志向によって
潰されてしまったわけである。それこそ廃仏毀釈にも匹敵するぐらいの強度で。
江戸時代よりも完全に上位互換であるはずの工業生産においてですら、
現代のほうが劣るところがある。しかも、刀身の出来ですらないところで。
確かに凄惨が過ぎて、恥を知る余裕もなかったことだろうな。
口だけ野郎お薬足んねえんじゃね?
坊さんごっこに侍ごっこすらも出来てねえ
坊さんごっこに侍ごっこすらも出来てねえ
確かに、ごっこ遊びは苦手だ
これだけ電器や機械やコンクリートやアスファルトが溢れかえっている
現代社会で、土の路面に木造の掘建小屋が主体だった時代の
武家文化などをそのまま復興したりするのも、さすがに無理がある。
日本家屋だって、完全に昔のままの工法で建てたりするよりは、
現代工法を多少取り入れたほうが安上がりに済む上、耐震性や耐火性も上がる。
贅沢ではなく、「そのほうが安く済むから」程度な理由の範囲内で現代文明も
多少は許容しながら、昔の文化の良質な部分を復興して行くのが現実的である。
今よりも多少は和風度が高かった、戦前の和洋折衷文化などを鑑みるに、
書生や隠遁者のような文民的立場の人間ほど和服などの伝統性を色濃く残し、
軍人や警官などの武断的立場の人間のほうが制服に限らず洋服を好むといった
風潮が見られた。これはむしろ逆であるべきであり、武人としての役職を担った
時にこそ和風の装束をより心がけるべきである。何しろ江戸文化は基本的に
武家文化だったのだから。文民ならばむしろ平安文化の本格的な復興でも志すべき。
和の文化こそは、弱さではなく強さの象徴となるように。
和洋の位相にかけては、むしろ戦前の逆を行くように。
「おまえら」はスーツかTシャツでも着たままでいればよく。
現代社会で、土の路面に木造の掘建小屋が主体だった時代の
武家文化などをそのまま復興したりするのも、さすがに無理がある。
日本家屋だって、完全に昔のままの工法で建てたりするよりは、
現代工法を多少取り入れたほうが安上がりに済む上、耐震性や耐火性も上がる。
贅沢ではなく、「そのほうが安く済むから」程度な理由の範囲内で現代文明も
多少は許容しながら、昔の文化の良質な部分を復興して行くのが現実的である。
今よりも多少は和風度が高かった、戦前の和洋折衷文化などを鑑みるに、
書生や隠遁者のような文民的立場の人間ほど和服などの伝統性を色濃く残し、
軍人や警官などの武断的立場の人間のほうが制服に限らず洋服を好むといった
風潮が見られた。これはむしろ逆であるべきであり、武人としての役職を担った
時にこそ和風の装束をより心がけるべきである。何しろ江戸文化は基本的に
武家文化だったのだから。文民ならばむしろ平安文化の本格的な復興でも志すべき。
和の文化こそは、弱さではなく強さの象徴となるように。
和洋の位相にかけては、むしろ戦前の逆を行くように。
「おまえら」はスーツかTシャツでも着たままでいればよく。
脇差ってのは基本、刃長が持ち主の肩幅以内に収まるように作る。
それにより本人が立ち入れる範囲におけるどんな閉所にも
難なく持ち込んで取り回せるようになっている。
成人男性なら40cm前後。
近年は日本人も昔より大柄化しているが、
狭っ苦しい国土での生活や法規で雁字搦めな自動車運転のせいで
胸筋が萎縮してるので、肩幅はそれほど変わってない。
江戸時代には、大刀の携帯資格がないヤクザ者の部類が、
刃渡り50〜60cm程度の長脇差を好んで差してもいたようだが、
これは威力で大刀に敵わない上、閉所での戦闘では中脇差にも劣るという
なんとも中途半端な代物。坂本龍馬も長脇差を好んで差していたせいで、
屋内での中脇差での襲撃に応対しきれず脳天をかち割られて死んだという、
基本的に正規の武士の持ち物ではない。(新撰組も大刀が損傷した
場合のサブとしての長脇差を好んだというが、これはまた別の話)
それにより本人が立ち入れる範囲におけるどんな閉所にも
難なく持ち込んで取り回せるようになっている。
成人男性なら40cm前後。
近年は日本人も昔より大柄化しているが、
狭っ苦しい国土での生活や法規で雁字搦めな自動車運転のせいで
胸筋が萎縮してるので、肩幅はそれほど変わってない。
江戸時代には、大刀の携帯資格がないヤクザ者の部類が、
刃渡り50〜60cm程度の長脇差を好んで差してもいたようだが、
これは威力で大刀に敵わない上、閉所での戦闘では中脇差にも劣るという
なんとも中途半端な代物。坂本龍馬も長脇差を好んで差していたせいで、
屋内での中脇差での襲撃に応対しきれず脳天をかち割られて死んだという、
基本的に正規の武士の持ち物ではない。(新撰組も大刀が損傷した
場合のサブとしての長脇差を好んだというが、これはまた別の話)
坂本龍馬については、脱藩中に路銀の確保のために刀の柄巻を切って目貫を売り、
柄巻を巻き直さずに手ぬぐいを巻いて済ましていたような輩だったらしく、
士道不覚悟もいい所なサムライモドキで、たやすく殺されたのも当然といえば当然。
寺田屋事件で襲撃を受けた時には拳銃で応戦し、槍で襲って来た相手を殺害したともいうが、
乱戦の最中に弾を交換しようとしてリボルバー銃のシリンダーを落とし、紛失したという。
その時はなんとか逃げ延びたが、もう少し攻め手の人数が多いなどすればやられていた所。
銃には弾切れがあるし、跳弾の危険もある。オートマチック式の銃なら詰まる(ジャムる)危険も。
特に閉所での防護武器という点では、脇差(特に中脇差)の完全な上位互換などではあり得ないし、
武器商人の懐を潤わせるなんていう弊害をも帯びているのだから、「最終的には自分の命は
自分で守る」という体裁を守るためにも、官製の銃剣ですらない脇差を帯びておくべきである。
柄巻を巻き直さずに手ぬぐいを巻いて済ましていたような輩だったらしく、
士道不覚悟もいい所なサムライモドキで、たやすく殺されたのも当然といえば当然。
寺田屋事件で襲撃を受けた時には拳銃で応戦し、槍で襲って来た相手を殺害したともいうが、
乱戦の最中に弾を交換しようとしてリボルバー銃のシリンダーを落とし、紛失したという。
その時はなんとか逃げ延びたが、もう少し攻め手の人数が多いなどすればやられていた所。
銃には弾切れがあるし、跳弾の危険もある。オートマチック式の銃なら詰まる(ジャムる)危険も。
特に閉所での防護武器という点では、脇差(特に中脇差)の完全な上位互換などではあり得ないし、
武器商人の懐を潤わせるなんていう弊害をも帯びているのだから、「最終的には自分の命は
自分で守る」という体裁を守るためにも、官製の銃剣ですらない脇差を帯びておくべきである。
新撰組が、大刀が折れた時のサブとして長脇差を好んでいたのも、
やはり攻撃ばかりに特化して守りを失ってしまっていた証左だといえる。
そこからの形成悪化による戦死や打ち首。これもまた百姓上がりの
サムライモドキとしての性分を引きずっていたからといえばそうである。
結局、幕末から明治にかけてのイザコザのほとんどは最下級の武士ないし
郷士に任せて、正規の身分のある武士たちのほとんどは近代以降にまんまと立場を改め、
渋沢栄一が興した旧佐幕派系の企業に務めたり(鬼平の子孫も証券マンだという)、
土木事業を取り仕切って来た経歴を活かして土建業の上役になったり、先祖代々
古武術や書道で培われた手先の器用さを活かして音楽家や芸術家になったりしている。
倒幕の動乱に興じて散って行った連中と比べて、ちっとも格好の良い事績などではないが、
身分上から中士や上士以上だった本物の武家ほど、それぐらい守りの意識も強い。
それは例えば、いついかなる時も脇差を携えて襲撃に備えていたような慣習をも元手としている。
「死ぬことと見つけたり」とかいう、武士道の皮を被った丁稚奉公の心得は誰かにでも
永劫付与しておいて、新たな時代の武士はどこまでも本物志向こそを心がけるべきせある。
やはり攻撃ばかりに特化して守りを失ってしまっていた証左だといえる。
そこからの形成悪化による戦死や打ち首。これもまた百姓上がりの
サムライモドキとしての性分を引きずっていたからといえばそうである。
結局、幕末から明治にかけてのイザコザのほとんどは最下級の武士ないし
郷士に任せて、正規の身分のある武士たちのほとんどは近代以降にまんまと立場を改め、
渋沢栄一が興した旧佐幕派系の企業に務めたり(鬼平の子孫も証券マンだという)、
土木事業を取り仕切って来た経歴を活かして土建業の上役になったり、先祖代々
古武術や書道で培われた手先の器用さを活かして音楽家や芸術家になったりしている。
倒幕の動乱に興じて散って行った連中と比べて、ちっとも格好の良い事績などではないが、
身分上から中士や上士以上だった本物の武家ほど、それぐらい守りの意識も強い。
それは例えば、いついかなる時も脇差を携えて襲撃に備えていたような慣習をも元手としている。
「死ぬことと見つけたり」とかいう、武士道の皮を被った丁稚奉公の心得は誰かにでも
永劫付与しておいて、新たな時代の武士はどこまでも本物志向こそを心がけるべきせある。
脇差は、江戸時代には道中差などとして誰でも所持ができた上、近年でも
ヤクザの抗争などに用いられて来たものであるため、大変市場に出回っている数が多い。
ただ、それだけ粗悪品や使い込まれた摩耗品も多く、本格的な小太刀術を伝承している
古武道も少ないことから現代では人気が低く、買おうと思えば簡単に安く入手できる。
手には入れられるが、いつ如何なる時も携帯する護身武器としての使用は法律上不可。
そこを、ある種の身分に限って可能にすることこそが肝となる。
サムライは大小、パンピーは小だった江戸時代と比べて、サムライは小、パンピーは丸腰
というのは明らかに下位互換となる。ただ、鎌倉室町から江戸期に移るにかけても、
長大な太刀の携帯が禁じられて打刀までになったなどあるし、妥当といえば妥当でもある。
戦前まで軍人はみんな片手打ちサイズの軍刀を携帯していたのだし、そこから急に
敗戦のせいで総員丸腰に陥れられた現代日本のほうが、時代の流れとしては異常である。
ここ70年はなかったことにでもしたほうが、昭和天皇の御霊も浮かばれようもの。
ヤクザの抗争などに用いられて来たものであるため、大変市場に出回っている数が多い。
ただ、それだけ粗悪品や使い込まれた摩耗品も多く、本格的な小太刀術を伝承している
古武道も少ないことから現代では人気が低く、買おうと思えば簡単に安く入手できる。
手には入れられるが、いつ如何なる時も携帯する護身武器としての使用は法律上不可。
そこを、ある種の身分に限って可能にすることこそが肝となる。
サムライは大小、パンピーは小だった江戸時代と比べて、サムライは小、パンピーは丸腰
というのは明らかに下位互換となる。ただ、鎌倉室町から江戸期に移るにかけても、
長大な太刀の携帯が禁じられて打刀までになったなどあるし、妥当といえば妥当でもある。
戦前まで軍人はみんな片手打ちサイズの軍刀を携帯していたのだし、そこから急に
敗戦のせいで総員丸腰に陥れられた現代日本のほうが、時代の流れとしては異常である。
ここ70年はなかったことにでもしたほうが、昭和天皇の御霊も浮かばれようもの。
脇差も、本物の武家身分が差していたものと、
平民やヤクザが差していたものとでは根本的にランクが違う。
もちろん武家の脇差のほうが上等であり、刃紋も美しい。
それと同時に、襲撃された際に応戦しなければかえって士道不覚悟を罰せられることから、
>>123に書いたようなより実戦性を高めた作り込みになっているものが多い。
(逆に、非武家用は隠し持つのに好都合なように細めに作ったり)
もちろん武家用の脇差のほうが好ましいが、これは程度の良いものなら
大刀なみの価格で今も取引されている。それだけ現存数も少ないわけで、
普及させるためには新たに増産していく必要も出てくるだろう。
新造する以上は良いものを。戦前のスプリング刀みたいなのを造るぐらいなら
安い古物にでもしたほうがマシ。いまそこまで脇差に情熱を注いでいるような人間は
刀剣愛好家にも刀匠にもほとんどいないことだし、時代の転換から必要ともなろう。
平民やヤクザが差していたものとでは根本的にランクが違う。
もちろん武家の脇差のほうが上等であり、刃紋も美しい。
それと同時に、襲撃された際に応戦しなければかえって士道不覚悟を罰せられることから、
>>123に書いたようなより実戦性を高めた作り込みになっているものが多い。
(逆に、非武家用は隠し持つのに好都合なように細めに作ったり)
もちろん武家用の脇差のほうが好ましいが、これは程度の良いものなら
大刀なみの価格で今も取引されている。それだけ現存数も少ないわけで、
普及させるためには新たに増産していく必要も出てくるだろう。
新造する以上は良いものを。戦前のスプリング刀みたいなのを造るぐらいなら
安い古物にでもしたほうがマシ。いまそこまで脇差に情熱を注いでいるような人間は
刀剣愛好家にも刀匠にもほとんどいないことだし、時代の転換から必要ともなろう。
誰にとっても、平安と充足が一番大事なのは分かる。
ただ、麗しい言葉で自分の不義を虚飾する為に、宗教や思想だとかを利用する卑怯な連中がいるわけだが、(療養中はともかく)病気云々の前からニートで、そんな自分をよく見せたいが為に「僧侶だ」「侍だ」ってカメレオンしてるなら、軽蔑モンだ。
経文や古人の言葉を引用しつつ、人間の醜さや弱さ、怠惰や不甲斐なさ、或いは堕地獄の大不埒までをもそれらしく理論づけて正当化するのは、難しい事ではない。気に入った信者との性交渉、お布施の強要、聖職者への批判封じ.....etc。「奇跡(※言うほど大した事ない)を起こした俺に文句言う奴の方が、おかしい」なんてのは、威圧的な態度のカルト教祖とまったく変わらないしね。
話は少し逸れるが、「男は見た目じゃない」とは、その通りだ。
ただ、それはある程度イケてる男に適合する言葉であって、一定の割合でいる「もうちょい見た目を気にした方がいい男たち」に、努力しない言い訳を与える為の言葉ではない。「潔癖症はよろしくない」という正論も、異臭を放つ小汚い男が言えば、「あなたの場合、少しは潔癖症の人を見習いなさい」となるのと同じ。
ただ、麗しい言葉で自分の不義を虚飾する為に、宗教や思想だとかを利用する卑怯な連中がいるわけだが、(療養中はともかく)病気云々の前からニートで、そんな自分をよく見せたいが為に「僧侶だ」「侍だ」ってカメレオンしてるなら、軽蔑モンだ。
経文や古人の言葉を引用しつつ、人間の醜さや弱さ、怠惰や不甲斐なさ、或いは堕地獄の大不埒までをもそれらしく理論づけて正当化するのは、難しい事ではない。気に入った信者との性交渉、お布施の強要、聖職者への批判封じ.....etc。「奇跡(※言うほど大した事ない)を起こした俺に文句言う奴の方が、おかしい」なんてのは、威圧的な態度のカルト教祖とまったく変わらないしね。
話は少し逸れるが、「男は見た目じゃない」とは、その通りだ。
ただ、それはある程度イケてる男に適合する言葉であって、一定の割合でいる「もうちょい見た目を気にした方がいい男たち」に、努力しない言い訳を与える為の言葉ではない。「潔癖症はよろしくない」という正論も、異臭を放つ小汚い男が言えば、「あなたの場合、少しは潔癖症の人を見習いなさい」となるのと同じ。
あんたがそうだとは断定しないが、「多弁、誇大妄想の厨房病(自称・世界一なのに無名、高齢の無職童貞、友達ゼロ」と来てるもんだから、誰が見たって限りなくクロ。これをクロだと感じない人は、出会い系サイトの広告を真に受ける連中よりも知能が低いだろうね。
他人からどう見えるのかが分からないはずないとは思うけど、もし自分を客観視する能力なりメタ認知が欠如してるなら、自閉症か何かのお病気なんじゃないかな?
文面からは世間や異性に対する恨み辛みや、いつまでも過去の事を根に持っている器の小ささが滲み出ているし、そもそも北朝鮮の国営放送並みに自分をさんざん持ち上げておいて、周りがおかしいだの何なのと批判しまくる無職の人間の中に、まとも精神状態の人間がどれだけいるのやら......?
他人からどう見えるのかが分からないはずないとは思うけど、もし自分を客観視する能力なりメタ認知が欠如してるなら、自閉症か何かのお病気なんじゃないかな?
文面からは世間や異性に対する恨み辛みや、いつまでも過去の事を根に持っている器の小ささが滲み出ているし、そもそも北朝鮮の国営放送並みに自分をさんざん持ち上げておいて、周りがおかしいだの何なのと批判しまくる無職の人間の中に、まとも精神状態の人間がどれだけいるのやら......?
どこの誰だか知らないが、おまえもだいぶ自分自身の人格障害的な性格の歪みを露呈し始めたな。
・>>249ですでに、ニートになる前から病気を患っていた旨を証言しているが無視or信じない。
・肩の脱臼癖を完治させられるのなら大功績なのは医者にでも聞いてくれば分かることなのに主観で否定。
・MRI画像などの証拠もそれなりに提示しているのに「大した価値はない」と主観で豪語。
その割りに無職童貞・友人なし・ブ男などのネガティブな要素は、証拠も提示していない内から確信。
匿名の無責任さに乗じて悪念を極大化させている小人型ネット参加者の典型例であり、
「敵に回せば恐ろしいが、味方に付けると頼りない」という名言でその存在価値も
看破されている。そのため積極的にそんなに認められたいなどとも思えない。
自分が他人からどう見えているかを俺が心配する以前に、おまえに人を評価したりする資格がない。
そうでない人間にはそれなりに理解される努力もしているから、おまえが心配してくれる必要はない。
・>>249ですでに、ニートになる前から病気を患っていた旨を証言しているが無視or信じない。
・肩の脱臼癖を完治させられるのなら大功績なのは医者にでも聞いてくれば分かることなのに主観で否定。
・MRI画像などの証拠もそれなりに提示しているのに「大した価値はない」と主観で豪語。
その割りに無職童貞・友人なし・ブ男などのネガティブな要素は、証拠も提示していない内から確信。
匿名の無責任さに乗じて悪念を極大化させている小人型ネット参加者の典型例であり、
「敵に回せば恐ろしいが、味方に付けると頼りない」という名言でその存在価値も
看破されている。そのため積極的にそんなに認められたいなどとも思えない。
自分が他人からどう見えているかを俺が心配する以前に、おまえに人を評価したりする資格がない。
そうでない人間にはそれなりに理解される努力もしているから、おまえが心配してくれる必要はない。
信じるのなら全て信じるべきだし、信じないのなら全て信じるべきではない。
自分の主観で都合のいい所だけ信じて、都合の悪い所は信じないというのでは、
「私は真面目に話し合う価値のない下衆です」と独白しているのも同様なことだ。
こちらとしても、そんな連中に褒められたからといって嬉しがるべきでもなければ、
貶されたからといって落ち込むべきでもない。認められたい相手と
その必要がない相手を選別するぐらいの権利は当然こちらにもあるし、
そちらの主観の都合の良さと比べればよっぽど客観的で冷静な分別だといえる。
自分の主観で都合のいい所だけ信じて、都合の悪い所は信じないというのでは、
「私は真面目に話し合う価値のない下衆です」と独白しているのも同様なことだ。
こちらとしても、そんな連中に褒められたからといって嬉しがるべきでもなければ、
貶されたからといって落ち込むべきでもない。認められたい相手と
その必要がない相手を選別するぐらいの権利は当然こちらにもあるし、
そちらの主観の都合の良さと比べればよっぽど客観的で冷静な分別だといえる。
日本もだいぶ愚民化が進んで、9MM8pdEUtUみたいな、
評価されることを喜ぶにも値しないような客観的判断力の低さの持ち主が増えた。
そんな連中から見てもなるべく評価に値するような振る舞いを心がけようとしているのが民主主義下の
政治家であり、案の定、内実は無能であり、なおかつ外面的にも賢明な大人が魅力を感じるような代物ではない。
仮に、俺が思い描いているような君子士人による社会統治が今実現されたとして、そこですぐに統治者たちが
江戸期の侍のような羨望の対象になるとも思われない。今の政治家よりも強面だったりすることから、
女子供はまず怖がるだろうし、マスコミに「独裁の始まり」などともレッテルを貼られかねない。
そこで本当に北朝鮮的な独裁支配を敷いて、被治民を総員喜び組と化して
しまうことだってできなくはないだろうが、極力そんなことはすべきでない。
士人の側としては、誰にでも慕われるほどの八方美人はまず無理なこととして、「分かる人間には分かる」
という部類の自分磨きや、それによる修己知人を心がける。それにより段々と「分かる人間」、
自分たちを偉大な人間だと客観的に理解して畏敬してくれる人々が多数派となるようにすべきである。
侍だって、戦国期までは野盗辻斬り魔の入り混じる恐怖の対象であったのが、封建的な自己統制によって
徐々に信頼をかち得ていったのだから、すでに自衛隊の災害復興事業などでそれなりに好印象を
得ている所から始められるのは、むしろ侍以上に恵まれた境遇にあるともいうべき。
評価されることを喜ぶにも値しないような客観的判断力の低さの持ち主が増えた。
そんな連中から見てもなるべく評価に値するような振る舞いを心がけようとしているのが民主主義下の
政治家であり、案の定、内実は無能であり、なおかつ外面的にも賢明な大人が魅力を感じるような代物ではない。
仮に、俺が思い描いているような君子士人による社会統治が今実現されたとして、そこですぐに統治者たちが
江戸期の侍のような羨望の対象になるとも思われない。今の政治家よりも強面だったりすることから、
女子供はまず怖がるだろうし、マスコミに「独裁の始まり」などともレッテルを貼られかねない。
そこで本当に北朝鮮的な独裁支配を敷いて、被治民を総員喜び組と化して
しまうことだってできなくはないだろうが、極力そんなことはすべきでない。
士人の側としては、誰にでも慕われるほどの八方美人はまず無理なこととして、「分かる人間には分かる」
という部類の自分磨きや、それによる修己知人を心がける。それにより段々と「分かる人間」、
自分たちを偉大な人間だと客観的に理解して畏敬してくれる人々が多数派となるようにすべきである。
侍だって、戦国期までは野盗辻斬り魔の入り混じる恐怖の対象であったのが、封建的な自己統制によって
徐々に信頼をかち得ていったのだから、すでに自衛隊の災害復興事業などでそれなりに好印象を
得ている所から始められるのは、むしろ侍以上に恵まれた境遇にあるともいうべき。
>>306の陸自のエンブレムも、「封建時代」の武家の装束である
時代拵の日本刀をあしらっていることが非民主的だとして批判を受けていた。
あれが軍刀拵だったら、さらなる非難の的ともなっていただろう。
どちらも現代社会にそのまま復権することなどが錯誤になり過ぎるのは同じである。
現代にこそ特有の刀剣文化というものの創出を勘案してみるに、
まず拵の様式からして新規にして行くべきである。かといって全く伝統を
無視するのではなく、江戸期の時代拵の延長線上にある進化系的なもので、
なおかつ軍刀拵みたいな品質の粗悪化を防ぐようにする。
>>131の土方歳三遺品の康継の半太刀拵とか、この虎徹の庄内拵とか、
言葉は変だが“ハイカラ”な要素も見受けられる。幕末以前のものだが、
この辺で刀装具文化の進化も止まってしまっているので、またここから始めるべき。
それこそ、オシャレでもあるべき。帯刀込みでオシャレとなる装束なら、
どう転んでも外見だけの取り繕いなどにはなり得ないからな。刀が本物なら。
時代拵の日本刀をあしらっていることが非民主的だとして批判を受けていた。
あれが軍刀拵だったら、さらなる非難の的ともなっていただろう。
どちらも現代社会にそのまま復権することなどが錯誤になり過ぎるのは同じである。
現代にこそ特有の刀剣文化というものの創出を勘案してみるに、
まず拵の様式からして新規にして行くべきである。かといって全く伝統を
無視するのではなく、江戸期の時代拵の延長線上にある進化系的なもので、
なおかつ軍刀拵みたいな品質の粗悪化を防ぐようにする。
>>131の土方歳三遺品の康継の半太刀拵とか、この虎徹の庄内拵とか、
言葉は変だが“ハイカラ”な要素も見受けられる。幕末以前のものだが、
この辺で刀装具文化の進化も止まってしまっているので、またここから始めるべき。
それこそ、オシャレでもあるべき。帯刀込みでオシャレとなる装束なら、
どう転んでも外見だけの取り繕いなどにはなり得ないからな。刀が本物なら。
常用するのが短寸の脇差になるのだから、
拵の装飾はある程度ゴチャついてたほうが見栄え面では釣り合う。
https://tokka.biz/sword/taira-takada.htm...
こういう、二本差しで用いるには過剰すぎるぐらい、
大鐺やら責金やら猿手やら笄やらの装飾が凝らされているものがいいな。
服装に関わらず佩用できるように佩環(吊り金具)も取り付けて。
光の反射で狙撃の標的にならないように金ピカの細工は避けるか、
もしくは着脱が容易な外袋を付ける。これはビニールとかでも構わん。
昔のように革や油紙を使っても耐水性が低いし、色々と新たな工夫が可能な所。
ちゃんと現代文明を凌駕して行くように工夫すれば、
絶対にニューナンブなんざよりも格好いいからな。おまけに実用的。
拵の装飾はある程度ゴチャついてたほうが見栄え面では釣り合う。
https://tokka.biz/sword/taira-takada.htm...
こういう、二本差しで用いるには過剰すぎるぐらい、
大鐺やら責金やら猿手やら笄やらの装飾が凝らされているものがいいな。
服装に関わらず佩用できるように佩環(吊り金具)も取り付けて。
光の反射で狙撃の標的にならないように金ピカの細工は避けるか、
もしくは着脱が容易な外袋を付ける。これはビニールとかでも構わん。
昔のように革や油紙を使っても耐水性が低いし、色々と新たな工夫が可能な所。
ちゃんと現代文明を凌駕して行くように工夫すれば、
絶対にニューナンブなんざよりも格好いいからな。おまけに実用的。
9MM8pdEUtUみたいな、自らの矛盾混じりな発言規範によって
人を評価する資格のなさを露呈する人間は、確かに匿名のネット上に多いが、
対面下でもそのような本性を露呈してくる人間はたまにいる。それどころか、
相手に不快感を与えるためではなく、おべっかを使っていい気分にさせるために
曲解混じりのお世辞を弄してくるような人間ならば、実名の場のほうが多いぐらいである。
元禄赤穂事件における、浅野殿中刃傷沙汰の真相は未だに解明されていないが、
仮に被害者の吉良が通説のとおり歪んだ性格の持ち主で、相手への曲解混じりな誹謗中傷も
好んで行うような不埒者だったとする。そこで相手が他人を評価する資格もない人間であることを
冷静に受け止め、名誉毀損を公正な裁きにかける分別を持てたらよかったものを、一時の怒りに
任せて殿中なんかでの殺人未遂や傷害に及んでしまったのは、確かに浅野側の落ち度であった。
(赤穂浪士たちも浅野の切腹処分ではなく、吉良への喧嘩両成敗の免除こそを不服とした)
新たな帯刀身分となる人間も、浅野内匠頭のような真似をすれば引責自殺が免れられない。
一方で、不名誉をそのまま黙認し続けるような真似をするのでも許されない。
そのあたりのさじ加減を学んで行くことが、自らの君子としての成長ともなる。
人を評価する資格のなさを露呈する人間は、確かに匿名のネット上に多いが、
対面下でもそのような本性を露呈してくる人間はたまにいる。それどころか、
相手に不快感を与えるためではなく、おべっかを使っていい気分にさせるために
曲解混じりのお世辞を弄してくるような人間ならば、実名の場のほうが多いぐらいである。
元禄赤穂事件における、浅野殿中刃傷沙汰の真相は未だに解明されていないが、
仮に被害者の吉良が通説のとおり歪んだ性格の持ち主で、相手への曲解混じりな誹謗中傷も
好んで行うような不埒者だったとする。そこで相手が他人を評価する資格もない人間であることを
冷静に受け止め、名誉毀損を公正な裁きにかける分別を持てたらよかったものを、一時の怒りに
任せて殿中なんかでの殺人未遂や傷害に及んでしまったのは、確かに浅野側の落ち度であった。
(赤穂浪士たちも浅野の切腹処分ではなく、吉良への喧嘩両成敗の免除こそを不服とした)
新たな帯刀身分となる人間も、浅野内匠頭のような真似をすれば引責自殺が免れられない。
一方で、不名誉をそのまま黙認し続けるような真似をするのでも許されない。
そのあたりのさじ加減を学んで行くことが、自らの君子としての成長ともなる。
自分の都合で事実も否定し、虚構も肯定するという矛盾的発言規範を、
相手を不快にさせるためではなく、褒めて思い上がらせるために用いる人間。
実社会ではむしろこちらのほうがより警戒すべき人種ともなる。
悪代官と越後屋の如き賄賂での蜜月も、まさにそれこそが元凶となる。
自らもまた悪代官側として汚濁に溺れてしまう以前においても、浅野内匠頭のような
分別の未熟さでいたのではやはり危うい。相手に嫌な思いをさせられる場合だけでなく、
いい思いをさせられる場合においても心理的な警戒を欠かさず、事実を捻じ曲げたり
虚言を弄してまで自分を褒め称えて来るような人間を遠ざけるようにする。
(もちろんそんな連中からの投資を頼んだりすることも)
理論的な分別だけでも済まず、分別で気付いた時にはすでに賄賂の術中に陥って
しまっているような場合もある。だから、相手の発言が不埒さを帯びていることを
感覚で察知して、熱湯から瞬時に手を遠ざけるように避けられる感性や
反射神経の良さも磨いておくべきである。それは結局、自分自身の
心の美しさを刀剣や仏像の如く成していくことともなるわけである。
相手を不快にさせるためではなく、褒めて思い上がらせるために用いる人間。
実社会ではむしろこちらのほうがより警戒すべき人種ともなる。
悪代官と越後屋の如き賄賂での蜜月も、まさにそれこそが元凶となる。
自らもまた悪代官側として汚濁に溺れてしまう以前においても、浅野内匠頭のような
分別の未熟さでいたのではやはり危うい。相手に嫌な思いをさせられる場合だけでなく、
いい思いをさせられる場合においても心理的な警戒を欠かさず、事実を捻じ曲げたり
虚言を弄してまで自分を褒め称えて来るような人間を遠ざけるようにする。
(もちろんそんな連中からの投資を頼んだりすることも)
理論的な分別だけでも済まず、分別で気付いた時にはすでに賄賂の術中に陥って
しまっているような場合もある。だから、相手の発言が不埒さを帯びていることを
感覚で察知して、熱湯から瞬時に手を遠ざけるように避けられる感性や
反射神経の良さも磨いておくべきである。それは結局、自分自身の
心の美しさを刀剣や仏像の如く成していくことともなるわけである。
「心の美しさ」というのは、ちっとも抽象的でも愛玩的でもない。
少なくとも東洋的、日本的な定義においては極めて具体的で実用的なものである。
仕事中とか勉強中とかの一時に限らず、
常日頃からIQ100以上の正気を保ち続ける、所謂「明鏡止水」の境地。
これが美しい心でもある一方、その波長の平坦さ故に、
正気が乱高下している精神病質(サイコパス)や発達障害の人間とは波長が合わない。
その波長の違い故に、明鏡止水の側の人間からは相手の本性が容易に察せる。
場合によっては一言も言葉を交わさない内から、姿勢や表情の歪みだけでも見抜ける。
そこからとっさに危険人物を遠ざけられるかどうかは、反射神経にかかってる。
明鏡止水がインプット面での能力なら、反射的拒絶はアウトプットの能力。
まったく同一というわけではないが、だいたい一緒に育まれて行くものである。
少なくとも、純正な古武道や仏道の修行に基づくのであれば。
(紛い物のヨガで一緒に衰えるなんてことも)
少なくとも東洋的、日本的な定義においては極めて具体的で実用的なものである。
仕事中とか勉強中とかの一時に限らず、
常日頃からIQ100以上の正気を保ち続ける、所謂「明鏡止水」の境地。
これが美しい心でもある一方、その波長の平坦さ故に、
正気が乱高下している精神病質(サイコパス)や発達障害の人間とは波長が合わない。
その波長の違い故に、明鏡止水の側の人間からは相手の本性が容易に察せる。
場合によっては一言も言葉を交わさない内から、姿勢や表情の歪みだけでも見抜ける。
そこからとっさに危険人物を遠ざけられるかどうかは、反射神経にかかってる。
明鏡止水がインプット面での能力なら、反射的拒絶はアウトプットの能力。
まったく同一というわけではないが、だいたい一緒に育まれて行くものである。
少なくとも、純正な古武道や仏道の修行に基づくのであれば。
(紛い物のヨガで一緒に衰えるなんてことも)
西洋的な定義でいうところの「美しい心」は、全くこれとは異なる。
ドストエフスキーの「白痴」だとか、トルストイ小説の女登場人物だとかに
象徴される心の美しさとは、言うなれば、耳障りや見栄えのいい言行のためには
道理も捻じ曲げる部類の精神状態。悪代官に取り入る越後屋と比べれば容貌が小綺麗だったり、
打算を考慮できるような知性が欠けていたりする点が異なるが、根本的な所は同じ。
そういう精神状態にある人間ってのは女に多いものだから、
女こそは見た目だけでなく心までもが美しい人種であるなどと本気で考える。
そういう考え方で女に接するものだから、西洋の男もまた女にも好かれやすい。
明鏡止水の美しさを蔑ろにすればこその、男女の痴情の燃え上がり。
日本人も近代以降はなるべく見習おうとしたが、やはりモノにはならなかった。
別にそれはそれで構いやせず、問題は昔の美しさこそをどうやって取り戻して行くかだ。
ドストエフスキーの「白痴」だとか、トルストイ小説の女登場人物だとかに
象徴される心の美しさとは、言うなれば、耳障りや見栄えのいい言行のためには
道理も捻じ曲げる部類の精神状態。悪代官に取り入る越後屋と比べれば容貌が小綺麗だったり、
打算を考慮できるような知性が欠けていたりする点が異なるが、根本的な所は同じ。
そういう精神状態にある人間ってのは女に多いものだから、
女こそは見た目だけでなく心までもが美しい人種であるなどと本気で考える。
そういう考え方で女に接するものだから、西洋の男もまた女にも好かれやすい。
明鏡止水の美しさを蔑ろにすればこその、男女の痴情の燃え上がり。
日本人も近代以降はなるべく見習おうとしたが、やはりモノにはならなかった。
別にそれはそれで構いやせず、問題は昔の美しさこそをどうやって取り戻して行くかだ。
「是非もなく何でも肯定してやれる者こそは美しい心の持ち主」
「是非を正そうとも何かを悪く言う者は醜い心の持ち主」
これが西洋の心にまつわる美醜観である。一方、
「是非を正して物事を冷静に批評できる者こそは美しい心(明鏡止水)の持ち主」
「痴情に溺れて是非を見失う者は肯定的だろうとも醜い心(煩悩)の持ち主」
これが東洋的な心にまつわる美醜観である。
その精神的な起源になっているのは、やはりキリスト教と仏教である。
どちらもそれなりに共感できる人間がいて、心象の規範とすることが
軌道に乗る者だからこそ、多くの信者を獲得して来たのには違いない。
ただ、片やそういう精神状態に安住するのが簡単だから支持されて来た一方、
難儀だけども普遍的に良いことだから支持されて来たという違いはある。
明鏡止水の境地なんて、なかなか至れないのに多数に支持されて来たのは、
そこに確かな美観もまた伴い得るからである。モンスーン気候の土地など
であれば、そのほうがむしろアガペーの美飾などよりも似合うぐらいに。
「是非を正そうとも何かを悪く言う者は醜い心の持ち主」
これが西洋の心にまつわる美醜観である。一方、
「是非を正して物事を冷静に批評できる者こそは美しい心(明鏡止水)の持ち主」
「痴情に溺れて是非を見失う者は肯定的だろうとも醜い心(煩悩)の持ち主」
これが東洋的な心にまつわる美醜観である。
その精神的な起源になっているのは、やはりキリスト教と仏教である。
どちらもそれなりに共感できる人間がいて、心象の規範とすることが
軌道に乗る者だからこそ、多くの信者を獲得して来たのには違いない。
ただ、片やそういう精神状態に安住するのが簡単だから支持されて来た一方、
難儀だけども普遍的に良いことだから支持されて来たという違いはある。
明鏡止水の境地なんて、なかなか至れないのに多数に支持されて来たのは、
そこに確かな美観もまた伴い得るからである。モンスーン気候の土地など
であれば、そのほうがむしろアガペーの美飾などよりも似合うぐらいに。
世間的に「美しい心」とされる精神状態は、だからこそ尊ばれる一方、
「心が醜い」と見なされればそれ故に卑しまれる。
これは、身分とか人種とか血統とも無縁であるはずな自身の「心」という内面の評価
なものだから、平等主義の世の中においてですらそれによる差別が緩められることがない。
洋の東西でも心の美醜の評価基準が違うし、隣国同士や国内においてですら
必ずしも統一されてはいない。その手の軋轢の最大級の原因になるのはやはり宗教だが、
逆に価値観を統一させて人間性の矯正を図って来たのも宗教ないし宗教国家であり、
それにより同好の士の寄り合いによる国や経済の発展を促しても来た。
江戸時代までの日本では仏教的価値観によって心の美醜の統制が図られていたのが、
明治以降はキリスト教の影響を色濃く受けた国家神道に取って代わられ、敗戦後は
宗教的統制のなさ故の根無し草状態となった。とはいえ特別根本的な精神性の改めが
図られたわけでもない手前、戦後の美醜意識も東洋系よりは西洋系のほうが優勢である。
特に心の美しさ如何の基準は、まったくキリスト教的因習に囚われたままである。
「心が醜い」と見なされればそれ故に卑しまれる。
これは、身分とか人種とか血統とも無縁であるはずな自身の「心」という内面の評価
なものだから、平等主義の世の中においてですらそれによる差別が緩められることがない。
洋の東西でも心の美醜の評価基準が違うし、隣国同士や国内においてですら
必ずしも統一されてはいない。その手の軋轢の最大級の原因になるのはやはり宗教だが、
逆に価値観を統一させて人間性の矯正を図って来たのも宗教ないし宗教国家であり、
それにより同好の士の寄り合いによる国や経済の発展を促しても来た。
江戸時代までの日本では仏教的価値観によって心の美醜の統制が図られていたのが、
明治以降はキリスト教の影響を色濃く受けた国家神道に取って代わられ、敗戦後は
宗教的統制のなさ故の根無し草状態となった。とはいえ特別根本的な精神性の改めが
図られたわけでもない手前、戦後の美醜意識も東洋系よりは西洋系のほうが優勢である。
特に心の美しさ如何の基準は、まったくキリスト教的因習に囚われたままである。
このスレでの反応を見ていても、武士道を新渡戸稲造が曲解したような
紛い物に即して分かった気になって、その実価値観は完全に現代的、
西洋的なままでいるものだから、そんな自分が評価できない俺の言動を
「武士道に悖るもの」として非難嘲笑するような連中が一定数いるわけである。
仏道への無理解はもっとひどく、自利即利他の精神がキリスト教的価値観への
囚われのせいでどうしても理解できないせいで、俺や現代の生臭坊主はおろか、
昔の日本の仏門までをも紛い物として否定してかかるような連中すらいる始末。
理解ができない原因はおまえらの眼前ではなく、おまえら自身の心中にある。
根本的な心象の美醜意識が西洋側にどっぷり浸かっていて、そこから一時的に
抜け出すことすら頑なに拒絶するが故に、それでは絶対に理解不能な本物の
武士道や仏道を曲解して自分たちに合わせ、その武士道モドキや仏道モドキに
反するような振る舞いをする俺のほうを不心得者として叩く。
本物の武士道や仏道のほうがよっぽど、自他を丁重な安楽や平和に導けるもので
あるにもかかわらず、アレルギー反応にも等しい拒絶意識で従属を拒むのは、
やはり心の美醜からの美意識の相違を最大の原因としているのに違いない。
「生理的に受け付けられない」とかだったとしても、その真因がこれだ。
最終命題までカンニングの余地を与えておいてくれる、甘やかしげな先生だな。
紛い物に即して分かった気になって、その実価値観は完全に現代的、
西洋的なままでいるものだから、そんな自分が評価できない俺の言動を
「武士道に悖るもの」として非難嘲笑するような連中が一定数いるわけである。
仏道への無理解はもっとひどく、自利即利他の精神がキリスト教的価値観への
囚われのせいでどうしても理解できないせいで、俺や現代の生臭坊主はおろか、
昔の日本の仏門までをも紛い物として否定してかかるような連中すらいる始末。
理解ができない原因はおまえらの眼前ではなく、おまえら自身の心中にある。
根本的な心象の美醜意識が西洋側にどっぷり浸かっていて、そこから一時的に
抜け出すことすら頑なに拒絶するが故に、それでは絶対に理解不能な本物の
武士道や仏道を曲解して自分たちに合わせ、その武士道モドキや仏道モドキに
反するような振る舞いをする俺のほうを不心得者として叩く。
本物の武士道や仏道のほうがよっぽど、自他を丁重な安楽や平和に導けるもので
あるにもかかわらず、アレルギー反応にも等しい拒絶意識で従属を拒むのは、
やはり心の美醜からの美意識の相違を最大の原因としているのに違いない。
「生理的に受け付けられない」とかだったとしても、その真因がこれだ。
最終命題までカンニングの余地を与えておいてくれる、甘やかしげな先生だな。
サムライが、極めて美意識の高い人種だったというのは、
現代人でもなんとなく察していることではある。しかし、
その美意識がどんなものだったかといえば、これは想像がつかない。
もしくは、自分たちが持ち合わせたり知悉しているような美意識を
そのまま極大化させていったような美意識だったのではないかと考える。
分別をかなぐり捨ててまでの自己犠牲だとか、利害を見失ってまでの奴隷的奉仕だとか。
自分たちにとっての美意識の延長線上で考えてしまうものだから、
そんなものばかりを想像する。実際、現代どころか戦前の日本人までもが
そのような思い込みのままでの侍魂の模倣を試み、特攻玉砕で散っていった。
これがまた武士道への曲解を地固めさせる大きな原因にもなってしまっている。
いくら大日本帝国が武士道だの大和魂だのとうそぶいていたのだとしても、
実際問題、明治以降に武家はこの世から絶やされたのである。国を挙げての
価値観の転換による資本主義経済の発展のため、侍ならではの美意識もまた
あえて絶やされた。そこで国威発揚のために喧伝されていた武士道魂なども
全くの形骸でしかなく、本物の武士道を図り知るための参考程度にもならない。
本物の武士道や、そこにあった美意識なんて、なんとなく程度にすら知らないものだと、
現代人は考え直すべき。知ってるから敬遠してるなんていうのですら、勘違いである。
旧日本軍的な人命軽視を忌み嫌ったりするのも、むしろ自己嫌悪でこそある。
現代人でもなんとなく察していることではある。しかし、
その美意識がどんなものだったかといえば、これは想像がつかない。
もしくは、自分たちが持ち合わせたり知悉しているような美意識を
そのまま極大化させていったような美意識だったのではないかと考える。
分別をかなぐり捨ててまでの自己犠牲だとか、利害を見失ってまでの奴隷的奉仕だとか。
自分たちにとっての美意識の延長線上で考えてしまうものだから、
そんなものばかりを想像する。実際、現代どころか戦前の日本人までもが
そのような思い込みのままでの侍魂の模倣を試み、特攻玉砕で散っていった。
これがまた武士道への曲解を地固めさせる大きな原因にもなってしまっている。
いくら大日本帝国が武士道だの大和魂だのとうそぶいていたのだとしても、
実際問題、明治以降に武家はこの世から絶やされたのである。国を挙げての
価値観の転換による資本主義経済の発展のため、侍ならではの美意識もまた
あえて絶やされた。そこで国威発揚のために喧伝されていた武士道魂なども
全くの形骸でしかなく、本物の武士道を図り知るための参考程度にもならない。
本物の武士道や、そこにあった美意識なんて、なんとなく程度にすら知らないものだと、
現代人は考え直すべき。知ってるから敬遠してるなんていうのですら、勘違いである。
旧日本軍的な人命軽視を忌み嫌ったりするのも、むしろ自己嫌悪でこそある。
なぜ、見境のない自己犠牲や奴隷奉仕を好むような人間が、
美術的・宝物的価値まで帯びるような名刀などを好んで差していたのか?
そして、それを蔑ろにされることを何よりも嫌っていたのか?
その刀の多くには鎬(しのぎ)があり、斬れ味だけでなく、
敵からの攻撃を受け止める防御面でも細心の工夫が凝らされている。
死地においても決して生還への望みを捨てず、生きて我が名誉を守り、
有職ならその職責を果たすことが、武士の美意識だったからこそ。
そしてその生き様こそが美しく、佩刀の美しさの生き写しともなるように。
捨て身は美しく、守り身は美しくないものだと勝手に思い込んでいる
近代人にとっては最も理解しがたい「厚生の美」こそは、武家の美意識。
意外と保身的だから期待はずれだというなら、自分自身の見当違い
こそを責めるべき。そこにはまた感性の成熟した人間こそが図り知る
真の美しさが遍在しているのだから、自らの見る目のなさこそを恥じるべき。
美術的・宝物的価値まで帯びるような名刀などを好んで差していたのか?
そして、それを蔑ろにされることを何よりも嫌っていたのか?
その刀の多くには鎬(しのぎ)があり、斬れ味だけでなく、
敵からの攻撃を受け止める防御面でも細心の工夫が凝らされている。
死地においても決して生還への望みを捨てず、生きて我が名誉を守り、
有職ならその職責を果たすことが、武士の美意識だったからこそ。
そしてその生き様こそが美しく、佩刀の美しさの生き写しともなるように。
捨て身は美しく、守り身は美しくないものだと勝手に思い込んでいる
近代人にとっては最も理解しがたい「厚生の美」こそは、武家の美意識。
意外と保身的だから期待はずれだというなら、自分自身の見当違い
こそを責めるべき。そこにはまた感性の成熟した人間こそが図り知る
真の美しさが遍在しているのだから、自らの見る目のなさこそを恥じるべき。
それに、都合がいいも悪いも、「治った」という話を含め、あんたの言う事ははとりあえず信じているではないか。MRIの画像だけで確証が取れた事にはならないものの、治ったという前提で話は聞いてる。
ただ、前述の通り、難治性の病気が治ったという話はチラホラ聞くので、「(とても嬉しいのは分かるけども、あんたが自分で絶賛してるほど)そんなに大した事ではない」と書いただけ。
もし「チラホラ聞く話は、確認の取れてないデマだ」と言うのなら、あんたの話だって確認は取れてないが、あんたの話が嘘だろうと真実だろうと、その程度の事が起きたとして、そんなに珍しくもない。
ただ、前述の通り、難治性の病気が治ったという話はチラホラ聞くので、「(とても嬉しいのは分かるけども、あんたが自分で絶賛してるほど)そんなに大した事ではない」と書いただけ。
もし「チラホラ聞く話は、確認の取れてないデマだ」と言うのなら、あんたの話だって確認は取れてないが、あんたの話が嘘だろうと真実だろうと、その程度の事が起きたとして、そんなに珍しくもない。
>>337
無職になる前から病気を患っていたことがわかるようには書いた。
それ以外の面での難癖を付けてくるのは後出しでしかない。
1つだけ付言してやるなら、子供の頃にやってたスポーツ剣道で肩を脱臼させた。
それから20年以上外れっぱなしでいたのだ。
>>338
難病にも色々ある。
膵臓癌だって難病だし、足の小指の爪が綺麗に生えないのだって難病だ。
前者が転移ごと治せればノーベル賞ものだが、後者はイグノーベル賞にもなるまい。
それら全ての治療を十把一絡げに「大したことない」と断言しているおまえの神経は、
世の中や他人のことを真摯に理解できないか、しようともしていない点でやはりおかしい。
要は非社会性のパーソナリティ障害である可能性が高いわけだな。断定はせんが。
無職になる前から病気を患っていたことがわかるようには書いた。
それ以外の面での難癖を付けてくるのは後出しでしかない。
1つだけ付言してやるなら、子供の頃にやってたスポーツ剣道で肩を脱臼させた。
それから20年以上外れっぱなしでいたのだ。
>>338
難病にも色々ある。
膵臓癌だって難病だし、足の小指の爪が綺麗に生えないのだって難病だ。
前者が転移ごと治せればノーベル賞ものだが、後者はイグノーベル賞にもなるまい。
それら全ての治療を十把一絡げに「大したことない」と断言しているおまえの神経は、
世の中や他人のことを真摯に理解できないか、しようともしていない点でやはりおかしい。
要は非社会性のパーソナリティ障害である可能性が高いわけだな。断定はせんが。
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