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聖書 Part8
▼ページ最下部
世に「聖書」として扱われている書物が、単なる学術書や文芸書などと決定的に異なっている点は、
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
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自らの拠り所とするものが絶対的であることにかまけて驕り高ぶったりすることは、
女子供のような依存的傾向の強い者ですらもが、なるべく避けるべきことだといえる。
漢の呂后や淀殿のような、自らの夫が強大であることの嵩にかかって悪女ぶりを発揮した
歴史上の女も居るように、依存性を高めることによってこそ深刻化する驕りというものがある。
男であってもそれはあり得ることで、邪教の虚構神への依存によって驕り高ぶることもその一つである。
しかしたとえば、邪教信仰が正統な神仏への崇敬によってそれなりに抑制されているこの日本において
ですら、依存的傾向を強めて驕りを募らせる男というのがかなり居る。それらの男は神でも仏でもなく、
立憲制によって絶対化された「法権」を嵩にかかって偉ぶっている。特に分かりやすいのは現今の
腐敗甚だしい警察官などだが、ただの民間の企業社員などであっても、憲法27条に明記されて
いる「労働の義務」を自分が果たせていることなどに基づいて驕り高ぶったりする。これもまた、
一人前であるはずの男が、何らかの絶対的存在への精神的依存によって驕りを募らせた例だといえる。
一国における主君への忠義なども、時には隷従とすり替えられての驕りに発展してしまうことがある。
戦前の大日本帝国における権力者の驕りなどもその例で、主君たる天皇陛下への忠節に励むということを
口実に、自制を放棄してのやりたい放題に及んでいった。そうではなく、主君のために自ら自主性を持って
事業に務めることが真の忠義にもなるのであり、そこは奴隷的服従などとも混同してはならない部分だといえる。
実際問題として、この世界、この宇宙に絶対的な超越神などはいない。そんなものは存在しないから、
自らが自主的な存在であることにこそ恭しさが伴わねばならない。ドイツ人哲学者のニーチェのように、
キリスト教徒ばりの依存症を持ち越したままで無神論者となり、永遠を結婚相手に見立てての
思い上がりに及んだりしたなら、それによって気が狂ってしまうことにすらなりかねない。
女子供のような依存的傾向の強い者ですらもが、なるべく避けるべきことだといえる。
漢の呂后や淀殿のような、自らの夫が強大であることの嵩にかかって悪女ぶりを発揮した
歴史上の女も居るように、依存性を高めることによってこそ深刻化する驕りというものがある。
男であってもそれはあり得ることで、邪教の虚構神への依存によって驕り高ぶることもその一つである。
しかしたとえば、邪教信仰が正統な神仏への崇敬によってそれなりに抑制されているこの日本において
ですら、依存的傾向を強めて驕りを募らせる男というのがかなり居る。それらの男は神でも仏でもなく、
立憲制によって絶対化された「法権」を嵩にかかって偉ぶっている。特に分かりやすいのは現今の
腐敗甚だしい警察官などだが、ただの民間の企業社員などであっても、憲法27条に明記されて
いる「労働の義務」を自分が果たせていることなどに基づいて驕り高ぶったりする。これもまた、
一人前であるはずの男が、何らかの絶対的存在への精神的依存によって驕りを募らせた例だといえる。
一国における主君への忠義なども、時には隷従とすり替えられての驕りに発展してしまうことがある。
戦前の大日本帝国における権力者の驕りなどもその例で、主君たる天皇陛下への忠節に励むということを
口実に、自制を放棄してのやりたい放題に及んでいった。そうではなく、主君のために自ら自主性を持って
事業に務めることが真の忠義にもなるのであり、そこは奴隷的服従などとも混同してはならない部分だといえる。
実際問題として、この世界、この宇宙に絶対的な超越神などはいない。そんなものは存在しないから、
自らが自主的な存在であることにこそ恭しさが伴わねばならない。ドイツ人哲学者のニーチェのように、
キリスト教徒ばりの依存症を持ち越したままで無神論者となり、永遠を結婚相手に見立てての
思い上がりに及んだりしたなら、それによって気が狂ってしまうことにすらなりかねない。
そうではなく、禅僧のように徹底的なしごきの下で己れの自意識過剰を叩き潰し、
恭しさの中にも恭しさを湛えられるようになってこそ、超越神など存在しないこの世界、
この宇宙における最前線の自主性を自らが保てるようにもなるのである。
自主性と恭しさとでの良循環を本体として、社会的には君臣関係や父子夫婦関係などの上下関係も嗜む。
そういう人間であってこそ、社会においても有益無害な功績を挙げられる可能性が生ずる。それとは逆に、
何かにかけて依存を全てとしているようならば、結局、害以上の益を産み出せたりするようなこともない。
自主性によってこそ恭しさが養われ、依存性によってこそ驕りを募らせることになる。
それが、この世界この宇宙の実相に即した人間性の法則である。この世に介在する人間としては、
自主的であることも依存的であることも実際に両方ともあり得ることだが、どちらかといえば
依存的であることよりも自主的であることのほうを尊ぶべきで、より自主性の高い男や大人を、
より依存性の高い女や子供よりも尊ぶなどの実践がそのために推奨されもするのである。
虚構の絶対神への強依存などを至尊としたなら、この位相はひっくり返ってしまうが、そしたら人間は
恭しさを萎縮させて驕り高ぶりを募らせるようになる。知ってるようでいて誰も知らない基本法則だといえる。
「四夷の左衽も、咸な頼らざるは罔く、予れ小子も永く多福を膺けん」
「四方の遠方に至る異族までもが、この周朝の徳を依り頼まないことがない。私もまたその多福を受けたい。
(周の康王の即位時の言葉。世界中の誰しもを禍いから守る以上に、多福に与らせる。また周の威徳がそれほど
ものものであればこそ、周の王こそは最終的にそのおこぼれに与る。志しの高さと遠慮とが尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
恭しさの中にも恭しさを湛えられるようになってこそ、超越神など存在しないこの世界、
この宇宙における最前線の自主性を自らが保てるようにもなるのである。
自主性と恭しさとでの良循環を本体として、社会的には君臣関係や父子夫婦関係などの上下関係も嗜む。
そういう人間であってこそ、社会においても有益無害な功績を挙げられる可能性が生ずる。それとは逆に、
何かにかけて依存を全てとしているようならば、結局、害以上の益を産み出せたりするようなこともない。
自主性によってこそ恭しさが養われ、依存性によってこそ驕りを募らせることになる。
それが、この世界この宇宙の実相に即した人間性の法則である。この世に介在する人間としては、
自主的であることも依存的であることも実際に両方ともあり得ることだが、どちらかといえば
依存的であることよりも自主的であることのほうを尊ぶべきで、より自主性の高い男や大人を、
より依存性の高い女や子供よりも尊ぶなどの実践がそのために推奨されもするのである。
虚構の絶対神への強依存などを至尊としたなら、この位相はひっくり返ってしまうが、そしたら人間は
恭しさを萎縮させて驕り高ぶりを募らせるようになる。知ってるようでいて誰も知らない基本法則だといえる。
「四夷の左衽も、咸な頼らざるは罔く、予れ小子も永く多福を膺けん」
「四方の遠方に至る異族までもが、この周朝の徳を依り頼まないことがない。私もまたその多福を受けたい。
(周の康王の即位時の言葉。世界中の誰しもを禍いから守る以上に、多福に与らせる。また周の威徳がそれほど
ものものであればこそ、周の王こそは最終的にそのおこぼれに与る。志しの高さと遠慮とが尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
妾腹の子として孔子を産んでしまった自らの不徳を恥じて、自分からは父親の身元を教えなかった
孔子の母親と、不倫ないし売春で夫以外の男の子供を身ごもってしまったために気が狂って幻覚を見、
その子供(イエス)を「神の子」だなどと思い込んでしまったマリアとでは、いずれもが不徳な母親では
あったにしても、その往生際の善し悪しに大差があったというもの。その母親からの影響が、孔子にも
イエキリにもなかったとは言えず、成長後の人生に多大な影響を及ぼしただろうことも確かである。
孔子の母親には言うべきでないことを言わない分別があったから、孔子も分別ある物言いを心がけるように
なったのだろうし、マリアがあることないことしゃべくる気狂いの虚言者であったればこそ、イエスもまた
あることないこと平気で駄弁りまくる虚言癖持ちのカルト教祖になってしまったのだろうとも考えられる。
母親の善し悪しについては、確かにイエスの母親のマリアこそは最悪の狂人であり、孔子の母親は
そこまではいかない分別の持ち主だっということが言える。しかし、孔子には育ての父親がいなかった一方、
イエスには育ての父親ともなった義父のヨセフがいた。そのヨセフへの孝悌によって自らの正気を育んで
いくこともできなくはなかったはずなのに、イエスはあえてそれを拒んだ。大工屋というヨセフの
生業の卑しさに嫌悪を抱いたのか知らないが、少なくとも自らがヨセフの系譜を継いだりすることを、
マリアの「神の子を身ごもった」という妄言にも味方するかたちで退けた。
孔子が若年の頃に、倉庫番や農牧者などのさして尊貴とも言えない仕事に従事して、
それでも任務を忠実にこなすことを旨としていたことが「孟子」万章章句下・五などにも記録されている。
そういう、与えられた立場に即して真摯でいる姿勢がイエスにも備わっていたなら、狂った母親の
「おまえは神の子だ」なんていう言い分も退けて、大工であるヨセフへの孝悌などにも尽くせたはずだが、
それができなかったのは、イエスに孔子並みの自主的な立場のわきまえが欠けていたからで、イエスが
マリアの狂気に取り込まれて自らまでもが狂人と化してしまったことにも、イエス自身の責任があるといえる。
孔子の母親と、不倫ないし売春で夫以外の男の子供を身ごもってしまったために気が狂って幻覚を見、
その子供(イエス)を「神の子」だなどと思い込んでしまったマリアとでは、いずれもが不徳な母親では
あったにしても、その往生際の善し悪しに大差があったというもの。その母親からの影響が、孔子にも
イエキリにもなかったとは言えず、成長後の人生に多大な影響を及ぼしただろうことも確かである。
孔子の母親には言うべきでないことを言わない分別があったから、孔子も分別ある物言いを心がけるように
なったのだろうし、マリアがあることないことしゃべくる気狂いの虚言者であったればこそ、イエスもまた
あることないこと平気で駄弁りまくる虚言癖持ちのカルト教祖になってしまったのだろうとも考えられる。
母親の善し悪しについては、確かにイエスの母親のマリアこそは最悪の狂人であり、孔子の母親は
そこまではいかない分別の持ち主だっということが言える。しかし、孔子には育ての父親がいなかった一方、
イエスには育ての父親ともなった義父のヨセフがいた。そのヨセフへの孝悌によって自らの正気を育んで
いくこともできなくはなかったはずなのに、イエスはあえてそれを拒んだ。大工屋というヨセフの
生業の卑しさに嫌悪を抱いたのか知らないが、少なくとも自らがヨセフの系譜を継いだりすることを、
マリアの「神の子を身ごもった」という妄言にも味方するかたちで退けた。
孔子が若年の頃に、倉庫番や農牧者などのさして尊貴とも言えない仕事に従事して、
それでも任務を忠実にこなすことを旨としていたことが「孟子」万章章句下・五などにも記録されている。
そういう、与えられた立場に即して真摯でいる姿勢がイエスにも備わっていたなら、狂った母親の
「おまえは神の子だ」なんていう言い分も退けて、大工であるヨセフへの孝悌などにも尽くせたはずだが、
それができなかったのは、イエスに孔子並みの自主的な立場のわきまえが欠けていたからで、イエスが
マリアの狂気に取り込まれて自らまでもが狂人と化してしまったことにも、イエス自身の責任があるといえる。
こうやって、東洋随一の聖人君子である孔子の経歴とも丹念に照らし合わせてみればこそ、
イエスもまた決して悲劇の人というばかりではなく、自業自得で非業を呼び込んだならず者でもあった
ことが明らかになる。ただイエスやマリアの行業にしか目を向けないのならそこまでは察知できず、
ただ新約の物語構造の非業さ加減に打ちひしがれて、恐れおののくぐらいのことしかできなかったりする。
比較対象としての孔子を知らない内には、イエスを信奉してしまったとしても仕方がないほどに、
新約の物語構造は偽善劇として巧妙である。だから今までにイエスを信奉してしまったことを過失と
見なしても妥当だといえるが、こうしてイエスのならず者さ加減や、新約の物語構造の化けの皮が
剥がされたからには、もはやイエスや新約を信奉の対象などにすることも一切許されることはない。
未だ人口に膾炙するような形での情報発表を尽くしているわけではないから、聖書信仰に完全な歯止めを
かけることにも今少しの時間はかかるかも知れないが、理論的に証明された以上は、証明されていなかった
頃に立ち戻るなどということももはやない。人類の未来はもはや、聖書信仰が絶えていく方向にしかない。
「人、道を弘むに能う。道、人を弘むるに非ざるなり」
「人間自身のみが正道を弘めていくことができる。正道が道を弘めていくことなどはできない。
(外力によって何かをしてやれる神などには、永久に不可能なことである。実在しないとはいえ、
マリアはそのような妄想上の邪神にすがり、イエスもまたそのような悪癖をあえて継いだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二九より)
イエスもまた決して悲劇の人というばかりではなく、自業自得で非業を呼び込んだならず者でもあった
ことが明らかになる。ただイエスやマリアの行業にしか目を向けないのならそこまでは察知できず、
ただ新約の物語構造の非業さ加減に打ちひしがれて、恐れおののくぐらいのことしかできなかったりする。
比較対象としての孔子を知らない内には、イエスを信奉してしまったとしても仕方がないほどに、
新約の物語構造は偽善劇として巧妙である。だから今までにイエスを信奉してしまったことを過失と
見なしても妥当だといえるが、こうしてイエスのならず者さ加減や、新約の物語構造の化けの皮が
剥がされたからには、もはやイエスや新約を信奉の対象などにすることも一切許されることはない。
未だ人口に膾炙するような形での情報発表を尽くしているわけではないから、聖書信仰に完全な歯止めを
かけることにも今少しの時間はかかるかも知れないが、理論的に証明された以上は、証明されていなかった
頃に立ち戻るなどということももはやない。人類の未来はもはや、聖書信仰が絶えていく方向にしかない。
「人、道を弘むに能う。道、人を弘むるに非ざるなり」
「人間自身のみが正道を弘めていくことができる。正道が道を弘めていくことなどはできない。
(外力によって何かをしてやれる神などには、永久に不可能なことである。実在しないとはいえ、
マリアはそのような妄想上の邪神にすがり、イエスもまたそのような悪癖をあえて継いだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二九より)
「幸せ」を求めない
http://bbs0.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/toriaezu/13462310...
幸いは、最悪かマシか、死刑か奴隷化かといった最悪状態での切り抜けを意味する。
モンゴル帝国が全世界に派遣を拡大させていった時にも、殺されるか、
さもなくば奴隷になるかという強要によって異民族を屈服させていた。
それによって征服下に置かれ、奴隷として何とか生き延びた人間の末裔が今の
中国人だったりするから、古代にはなかったような卑屈さをどこか帯びていたりもする。
大日本帝国において欧米列強と奮闘し、討ち死にした日本人は誇りを保てたのかも
しれないが、最終的に米英らに敗戦して支配下に置かれた今の日本人たるや、
民族としての誇りなどは皆無に等しい状態ともなってしまっている。
そんな、何とか今まで生き延びてきた中国人や日本人こそは、幸いでもある。
モンゴル帝国や米英に屈従してでも生き延びたが故に、殺された人間などよりも幸い。
幸いだが、そんなことを嬉しがる日本人や中国人も居はしない。ただ恥を忍んで生き延びた
ばかりのことで、むしろ戦って殺された人々に対するコンプレックスを抱いてすらいる。
米英やモンゴル帝国が、「殺すか奴隷にするか」みたいな粗悪な流儀によって世界中へと
覇権を拡大させていったことからして、あるよりもないほうがマシな災禍でしかなかった。
それによって死んだ人間も、隷従して生き延びた人間も、ないほうがマシな危害を被ったのみ。
しかしそもそも、欧米キリスト教圏やモンゴルからして、「不幸か幸いか」しかない社会だった。
キリスト教圏がそうであるのは聖書に書いてある通りだし、モンゴル地域もまた子が親を殺し、
同族間で奪い合い殺し合うことも辞さない状態であり続けていることが、古代の
北方民族である匈奴の「史記」や「漢書」などにおける記録からも明らかである。
http://bbs0.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/toriaezu/13462310...
幸いは、最悪かマシか、死刑か奴隷化かといった最悪状態での切り抜けを意味する。
モンゴル帝国が全世界に派遣を拡大させていった時にも、殺されるか、
さもなくば奴隷になるかという強要によって異民族を屈服させていた。
それによって征服下に置かれ、奴隷として何とか生き延びた人間の末裔が今の
中国人だったりするから、古代にはなかったような卑屈さをどこか帯びていたりもする。
大日本帝国において欧米列強と奮闘し、討ち死にした日本人は誇りを保てたのかも
しれないが、最終的に米英らに敗戦して支配下に置かれた今の日本人たるや、
民族としての誇りなどは皆無に等しい状態ともなってしまっている。
そんな、何とか今まで生き延びてきた中国人や日本人こそは、幸いでもある。
モンゴル帝国や米英に屈従してでも生き延びたが故に、殺された人間などよりも幸い。
幸いだが、そんなことを嬉しがる日本人や中国人も居はしない。ただ恥を忍んで生き延びた
ばかりのことで、むしろ戦って殺された人々に対するコンプレックスを抱いてすらいる。
米英やモンゴル帝国が、「殺すか奴隷にするか」みたいな粗悪な流儀によって世界中へと
覇権を拡大させていったことからして、あるよりもないほうがマシな災禍でしかなかった。
それによって死んだ人間も、隷従して生き延びた人間も、ないほうがマシな危害を被ったのみ。
しかしそもそも、欧米キリスト教圏やモンゴルからして、「不幸か幸いか」しかない社会だった。
キリスト教圏がそうであるのは聖書に書いてある通りだし、モンゴル地域もまた子が親を殺し、
同族間で奪い合い殺し合うことも辞さない状態であり続けていることが、古代の
北方民族である匈奴の「史記」や「漢書」などにおける記録からも明らかである。
不幸か幸いかのいずれかでしかあり得ない社会というのは、それ以上の多福を追い求める
余地のある社会と比べて、総体的に、不幸か幸いかのうちの「不幸」の部類に入ってしまう。
争いによって外界を制覇して勝ち誇ったりした所で、自分たちが不幸か幸いかでしか
あり得ない以上は、所詮は清潔な世界にまでゴミを撒き散らしただけでしかなかった、
不幸まみれな自分たちの行状の真相に、いつかは気づいて打ちひしがれるしかない。
モンゴル帝国の場合は、自分たちがチベット仏教に帰依することでその恥をすすいだ。
欧米キリスト教勢力も結局は、仏教あたりへの帰依によって今までの汚辱を清算することに
なるのだろうが、自分たちで特段独自の信教を持ち合わせているわけでもなかったモンゴル人
と比べて、キリスト教徒には自分たちの信教がある。その信教を捨ててまで恥をすすぐ必要が
あるのは、モンゴル人などにはなかった障壁だといえ、より一層の思い切りが必要ともされる。
人類史上、全世界規模の覇権が掌握されることは、モンゴル帝国とキリスト教勢力とで最低二度
あった。しかいずれもが覇権止まりで、全世界が威徳ある王権によって統治された試しは未だない。
「三度目の正直」があるかないかは、世界規模の覇権主義の不実さが二度にわたって実証された
これからにこそ明らかになり得る。覇権はただのゴミの撒き散らし止まりだったが、王権は果たして。
「善人上に在れば、則ち国に幸民無し。
諺に曰く、民之の幸多きは、国の不幸なりと。是れ善人之り無きを謂うなり」
「善人が政治を執れば、国に幸いを乞い求める民がいなくなる。古語に『民に幸いを求める
者が多いのは、国が不幸である証拠だ』とあるのも、善人が政治を執っていないことを意味する。
(人々に幸いに与ることをけしかけるからには、国家社会規模での不幸を画策しているのだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十六年より)
余地のある社会と比べて、総体的に、不幸か幸いかのうちの「不幸」の部類に入ってしまう。
争いによって外界を制覇して勝ち誇ったりした所で、自分たちが不幸か幸いかでしか
あり得ない以上は、所詮は清潔な世界にまでゴミを撒き散らしただけでしかなかった、
不幸まみれな自分たちの行状の真相に、いつかは気づいて打ちひしがれるしかない。
モンゴル帝国の場合は、自分たちがチベット仏教に帰依することでその恥をすすいだ。
欧米キリスト教勢力も結局は、仏教あたりへの帰依によって今までの汚辱を清算することに
なるのだろうが、自分たちで特段独自の信教を持ち合わせているわけでもなかったモンゴル人
と比べて、キリスト教徒には自分たちの信教がある。その信教を捨ててまで恥をすすぐ必要が
あるのは、モンゴル人などにはなかった障壁だといえ、より一層の思い切りが必要ともされる。
人類史上、全世界規模の覇権が掌握されることは、モンゴル帝国とキリスト教勢力とで最低二度
あった。しかいずれもが覇権止まりで、全世界が威徳ある王権によって統治された試しは未だない。
「三度目の正直」があるかないかは、世界規模の覇権主義の不実さが二度にわたって実証された
これからにこそ明らかになり得る。覇権はただのゴミの撒き散らし止まりだったが、王権は果たして。
「善人上に在れば、則ち国に幸民無し。
諺に曰く、民之の幸多きは、国の不幸なりと。是れ善人之り無きを謂うなり」
「善人が政治を執れば、国に幸いを乞い求める民がいなくなる。古語に『民に幸いを求める
者が多いのは、国が不幸である証拠だ』とあるのも、善人が政治を執っていないことを意味する。
(人々に幸いに与ることをけしかけるからには、国家社会規模での不幸を画策しているのだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十六年より)
古代オリエント文明の遺跡に刻まれた文字列なども、解読してみれば、
どうということもないような内容のものばかりであることがすでに知られている。
そこに精神文化としての秀逸さなどはなく、かえって俗悪な文化ばかりが
当時の社会にもすでに根付いていたことが明らかとなっている。
ヘブライ文化や西洋文化も、その古代オリエント文化の系譜を汲む文化であり、
精神文化として特に優れているようなことは全くない一方で、俗悪さを極めることにかけては、
確かに東洋文化が忌避するような技巧が尽くされている。新旧約聖書や諸々の西洋古典も
そのような俗悪な文化を文章におこしたものであり、確かにそれによって金融物質主義的な
卑俗さを発展させていくことはできるが、何ら人間精神の洗練に与したりすることはない。
古代オリエントの豪華絢爛な遺跡と比べれば、随分と矮小であるインドのモヘンジョダロ遺跡
などは、矮小ながらにもインド独特の風水(バーストゥ・シャーストラ)を理念とした設計が
施されていて、その設計理念は寺院を始めとする東洋中の仏教建築にも受け継がれている。そして
ヴェーダやウパニシャッドや仏典といった、インド古典にもその理念は巧妙に埋め込まれていて、
俗悪さを排し、悟りを得た明鏡止水の境地こそを文明化していく指針としての価値をも帯びている。
しかしたとえば、仏教建築のうちでも浄土系の寺の堂内の造形などには、相当に卑俗なものもある。
内陣はキンキラキンに塗りたくられ、天井には数多の天女が待っているような下世話な造形は、
それこそ古代オリエントこそを源流とする西方浄土思想に根ざしたもの。浄土教を含む仏教全般
において提示されている「地獄」という観念もまた、元はといえば古代オリエントの発祥である。
どうということもないような内容のものばかりであることがすでに知られている。
そこに精神文化としての秀逸さなどはなく、かえって俗悪な文化ばかりが
当時の社会にもすでに根付いていたことが明らかとなっている。
ヘブライ文化や西洋文化も、その古代オリエント文化の系譜を汲む文化であり、
精神文化として特に優れているようなことは全くない一方で、俗悪さを極めることにかけては、
確かに東洋文化が忌避するような技巧が尽くされている。新旧約聖書や諸々の西洋古典も
そのような俗悪な文化を文章におこしたものであり、確かにそれによって金融物質主義的な
卑俗さを発展させていくことはできるが、何ら人間精神の洗練に与したりすることはない。
古代オリエントの豪華絢爛な遺跡と比べれば、随分と矮小であるインドのモヘンジョダロ遺跡
などは、矮小ながらにもインド独特の風水(バーストゥ・シャーストラ)を理念とした設計が
施されていて、その設計理念は寺院を始めとする東洋中の仏教建築にも受け継がれている。そして
ヴェーダやウパニシャッドや仏典といった、インド古典にもその理念は巧妙に埋め込まれていて、
俗悪さを排し、悟りを得た明鏡止水の境地こそを文明化していく指針としての価値をも帯びている。
しかしたとえば、仏教建築のうちでも浄土系の寺の堂内の造形などには、相当に卑俗なものもある。
内陣はキンキラキンに塗りたくられ、天井には数多の天女が待っているような下世話な造形は、
それこそ古代オリエントこそを源流とする西方浄土思想に根ざしたもの。浄土教を含む仏教全般
において提示されている「地獄」という観念もまた、元はといえば古代オリエントの発祥である。
仏教はそういった、古代オリエント発祥の俗悪文化も丸ごと飲み込んだ上での精神文化の
洗練を旨としているため、相当に清濁併せ飲んでもいる。ほとんど清濁を併せ飲んですらいない、
清浄一辺倒なのが日本の神道文化などで、部分的には古代中国の祭祀文化なども受け継いではいるが、
あまりにも清浄一辺倒であるために、すでに中国での伝統は絶えて、日本にのみ残るものとなってもいる。
「文化」にかけては、より精神性の洗練されたものこそを貴び、そうでないものを卑しむように
すべきだが、カネやモノの魔性を最大級に増幅してくれるのは、かえって俗悪な文化のほうである。
西洋文明こそは東洋文明よりも物質的に豊満だし、東洋においても、精神性の重視に特化された
神道文化がとっくの昔に中国では滅びるなど、洋の東西を問わず精神文化こそは「脆弱」である。
カネやモノを第一とする俗悪な文化によってこそ、古来から人々は自業自得の苦悩を募らせて来た。
始めからそのような俗悪な文化を退けて、高尚な文化にのみ与ればいいものを、カネやモノの魔性に
囚われて結局は俗悪な文化ばかりを貪り、そのせいであえて高尚な文化を退けてきてもしまった。
そのような、自業自得での苦難を呼び込む俗悪文化の、ここ2000年来の根幹となっているのは、
西洋文化のうちでも特に唯一無二とされる聖書文化でこそある。そのことは素直に認めた上で、
世界中を俗悪さの洪水で飲み込み尽くした後のけじめとして、思い切って聖書文化から捨て去る。
それがいま必要とされていることである上に、実現できたなら、極めて好ましいことでもある。
古代オリエントを源流とする物質主義的文化が、精神的に優れていたなんてことは一貫して
なかったのだから、数千年来の悪癖から人類が解放される、吉事中の吉事になるといえる。
洗練を旨としているため、相当に清濁併せ飲んでもいる。ほとんど清濁を併せ飲んですらいない、
清浄一辺倒なのが日本の神道文化などで、部分的には古代中国の祭祀文化なども受け継いではいるが、
あまりにも清浄一辺倒であるために、すでに中国での伝統は絶えて、日本にのみ残るものとなってもいる。
「文化」にかけては、より精神性の洗練されたものこそを貴び、そうでないものを卑しむように
すべきだが、カネやモノの魔性を最大級に増幅してくれるのは、かえって俗悪な文化のほうである。
西洋文明こそは東洋文明よりも物質的に豊満だし、東洋においても、精神性の重視に特化された
神道文化がとっくの昔に中国では滅びるなど、洋の東西を問わず精神文化こそは「脆弱」である。
カネやモノを第一とする俗悪な文化によってこそ、古来から人々は自業自得の苦悩を募らせて来た。
始めからそのような俗悪な文化を退けて、高尚な文化にのみ与ればいいものを、カネやモノの魔性に
囚われて結局は俗悪な文化ばかりを貪り、そのせいであえて高尚な文化を退けてきてもしまった。
そのような、自業自得での苦難を呼び込む俗悪文化の、ここ2000年来の根幹となっているのは、
西洋文化のうちでも特に唯一無二とされる聖書文化でこそある。そのことは素直に認めた上で、
世界中を俗悪さの洪水で飲み込み尽くした後のけじめとして、思い切って聖書文化から捨て去る。
それがいま必要とされていることである上に、実現できたなら、極めて好ましいことでもある。
古代オリエントを源流とする物質主義的文化が、精神的に優れていたなんてことは一貫して
なかったのだから、数千年来の悪癖から人類が解放される、吉事中の吉事になるといえる。
「公曰く、敢えて問う、何をか身を成すと謂う。孔子對えて曰く、物に過ぎざるなり。
公曰く敢えて問う、君子何をか天道を尊ぶや。孔子對えて曰く、其れ已まざるを尊ぶ。日月は東西相い従いて
已まざるが如し、是れ天道なり。閉じずして其れ久し、是れ天道なり。〜仁人は物に過ぎず、孝子は物に過ぎず。
是の故に、仁人の親に事うるや天に事うるが如く、天に事うるや親に事うるが如し。是の故に孝子は身を成す」
「哀公が孔子に問うた。『身を成すとはどういうことであろう』 孔子は答えた。『事物の理に合致して離れぬことを言います』
哀公。『君子はなぜ天道を尊ぶのか』 孔子。『天道はいつまでも止むことがありません。そのために尊ぶのです。
日月の軌道は東西に巡って決して止むことがありません、これが天道です。閉じることもなく久しい、これが天道です。
仁人や孝子は事物の理に合致して、決して逸脱することがありません。そのため仁人が親に仕える姿たるや、まるで
天道に仕えるが如くであり、天道に使える姿もまた、親に仕えるが如くであります。そうして孝子もまた身を成すのです』
(事物の理に合致して逸脱することのない仁人や孝子たれば、天道が永遠であるが如く、成道もまた永遠となる。
それは、久しくして止まぬ、太陽や月の運行の下でこそ計り知られることでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
公曰く敢えて問う、君子何をか天道を尊ぶや。孔子對えて曰く、其れ已まざるを尊ぶ。日月は東西相い従いて
已まざるが如し、是れ天道なり。閉じずして其れ久し、是れ天道なり。〜仁人は物に過ぎず、孝子は物に過ぎず。
是の故に、仁人の親に事うるや天に事うるが如く、天に事うるや親に事うるが如し。是の故に孝子は身を成す」
「哀公が孔子に問うた。『身を成すとはどういうことであろう』 孔子は答えた。『事物の理に合致して離れぬことを言います』
哀公。『君子はなぜ天道を尊ぶのか』 孔子。『天道はいつまでも止むことがありません。そのために尊ぶのです。
日月の軌道は東西に巡って決して止むことがありません、これが天道です。閉じることもなく久しい、これが天道です。
仁人や孝子は事物の理に合致して、決して逸脱することがありません。そのため仁人が親に仕える姿たるや、まるで
天道に仕えるが如くであり、天道に使える姿もまた、親に仕えるが如くであります。そうして孝子もまた身を成すのです』
(事物の理に合致して逸脱することのない仁人や孝子たれば、天道が永遠であるが如く、成道もまた永遠となる。
それは、久しくして止まぬ、太陽や月の運行の下でこそ計り知られることでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
それを好き好んで得ようとするものに限って「摂取不捨」となるのが完全誤謬であるのに対し、
好むと好まざるとに関わらず、悟ってしまった以上は摂取不捨となるのが完全真理である。
そこは真理と誤謬とで決定的に異なる点であり、真理への悟りは拒んだところで二度と捨て
去れはしないのに対し、誤謬への惑溺は自分が拒みすらすればいつでも捨てられるものである。
仮に精神外科手術などによって、キリスト教レベルの劣悪教義にしか安住していられない
白痴状態を固定化してしまったとする。そしたらもう二度とキリスト信仰を拒絶することも
できなくなるわけだから、摂取不捨の強度が増すといえるが、その場合、悪知恵を駆使しての
キリスト信仰の体系的な実践も覚束なくなるため、害悪の度合いも皆無に帰することになる。
片やキリスト信仰による重度知的障害レベルへの知能退行を可能としながら、片や常人
以上の知能によって金融詐欺などの悪行に及び、不正な暴利をせしめることをも可能とする。
そういった、知能を乱高下させられる重度精神障害者のキリスト教徒であればこそ、信仰が
財物としての実利にも結び付く。ただ知能退行の酩酊に酔い痴れるだけでなく、高い知能を
駆使する能力もあればこそ、キリスト教圏が悪逆非道による勢力の拡大を推し進めていく
こともできたわけだが、残念ながら、その知能の高さこそが「善行は普遍的な安楽に結び付き、
悪行は普遍的な辛苦に結び付く」という、罪福異熟の絶対真理をも悟らざるを得なかったのである。
悪逆非道を可能とする高い知能を保つ以上は、悪因苦果に基づく自分たちの行いの惨めさに
気づかざるを得ない。一方で、そのような真理に気づかないでいようとしたなら、もう二度と
高い知能を駆使した悪行に及ぶことができない。ここが、キリスト信仰の頭打ち地点だといえる。
高知能を保てば不必要に苦しみ、低知能を固定化すれば廃人としての立場が決定的になる。
さすれば、キリスト信仰を保守するメリットなどはもはやどこにもない。今までも本当は
なかったが、これからはもう、信仰にメリットがあるかのように思い込んでいることすらできぬ。
好むと好まざるとに関わらず、悟ってしまった以上は摂取不捨となるのが完全真理である。
そこは真理と誤謬とで決定的に異なる点であり、真理への悟りは拒んだところで二度と捨て
去れはしないのに対し、誤謬への惑溺は自分が拒みすらすればいつでも捨てられるものである。
仮に精神外科手術などによって、キリスト教レベルの劣悪教義にしか安住していられない
白痴状態を固定化してしまったとする。そしたらもう二度とキリスト信仰を拒絶することも
できなくなるわけだから、摂取不捨の強度が増すといえるが、その場合、悪知恵を駆使しての
キリスト信仰の体系的な実践も覚束なくなるため、害悪の度合いも皆無に帰することになる。
片やキリスト信仰による重度知的障害レベルへの知能退行を可能としながら、片や常人
以上の知能によって金融詐欺などの悪行に及び、不正な暴利をせしめることをも可能とする。
そういった、知能を乱高下させられる重度精神障害者のキリスト教徒であればこそ、信仰が
財物としての実利にも結び付く。ただ知能退行の酩酊に酔い痴れるだけでなく、高い知能を
駆使する能力もあればこそ、キリスト教圏が悪逆非道による勢力の拡大を推し進めていく
こともできたわけだが、残念ながら、その知能の高さこそが「善行は普遍的な安楽に結び付き、
悪行は普遍的な辛苦に結び付く」という、罪福異熟の絶対真理をも悟らざるを得なかったのである。
悪逆非道を可能とする高い知能を保つ以上は、悪因苦果に基づく自分たちの行いの惨めさに
気づかざるを得ない。一方で、そのような真理に気づかないでいようとしたなら、もう二度と
高い知能を駆使した悪行に及ぶことができない。ここが、キリスト信仰の頭打ち地点だといえる。
高知能を保てば不必要に苦しみ、低知能を固定化すれば廃人としての立場が決定的になる。
さすれば、キリスト信仰を保守するメリットなどはもはやどこにもない。今までも本当は
なかったが、これからはもう、信仰にメリットがあるかのように思い込んでいることすらできぬ。
イカサマで一方的に利益を巻き上げられ続けることが確実な違法賭博、キリスト信仰の実態は
そのようなもので、さっさとやめるに越したことはないが、博打中毒の心理に陥ってしまって
いるような人間には、それもなかなか難しい。博打を打つことそれ自体が脳内麻薬を分泌させて
くれるのが楽しいからやめられない。イカサマと分かっていてもやめられない、博打にかけての
バカであることが、当該の博打がイカサマであることへの冷静な認識を上回ってしまっている
ために、傍目には愚かしさ極まりない墓穴掘りを延々と続けるようなザマに陥ってしまっている。
「イカサマでしかない」という冷静な認識が、中毒状態からなるバカをほんの少しでも
上回れたなら、キリスト信仰をやめることだって実際にできる。真理はイカサマではないから、
そんな理由によって捨て去れはしないが、キリスト教教義は真理に違う完全誤謬だから、
誤謬であることに対する冷静な認識が、ほんの少しでも信仰狂いに打ち克てたなら、
キリスト信仰については、そういった手続きに即して確かに捨て去ることができる。
何の価値もないうえに害がある、しかもそうであることが理知によって完全に察知されて
しまっている。そこから目指すべきなのはもはや脱却のみで、これ以上の耽溺などであるはずもない。
そしてその手段は以上の如くであり、何一つとして不満や不足を唱える余地もないといえる。
「故旧、大故なければ、則ち棄てず」
「古くからの馴染みは、致命的に大きな過ちでもない限りは捨てない。
(キリスト信仰ももう2000近くの歴史を持つが、大きな過ちであったと
確認できたなら捨ててもよい。それが人道に根ざした分別ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・一〇より)
そのようなもので、さっさとやめるに越したことはないが、博打中毒の心理に陥ってしまって
いるような人間には、それもなかなか難しい。博打を打つことそれ自体が脳内麻薬を分泌させて
くれるのが楽しいからやめられない。イカサマと分かっていてもやめられない、博打にかけての
バカであることが、当該の博打がイカサマであることへの冷静な認識を上回ってしまっている
ために、傍目には愚かしさ極まりない墓穴掘りを延々と続けるようなザマに陥ってしまっている。
「イカサマでしかない」という冷静な認識が、中毒状態からなるバカをほんの少しでも
上回れたなら、キリスト信仰をやめることだって実際にできる。真理はイカサマではないから、
そんな理由によって捨て去れはしないが、キリスト教教義は真理に違う完全誤謬だから、
誤謬であることに対する冷静な認識が、ほんの少しでも信仰狂いに打ち克てたなら、
キリスト信仰については、そういった手続きに即して確かに捨て去ることができる。
何の価値もないうえに害がある、しかもそうであることが理知によって完全に察知されて
しまっている。そこから目指すべきなのはもはや脱却のみで、これ以上の耽溺などであるはずもない。
そしてその手段は以上の如くであり、何一つとして不満や不足を唱える余地もないといえる。
「故旧、大故なければ、則ち棄てず」
「古くからの馴染みは、致命的に大きな過ちでもない限りは捨てない。
(キリスト信仰ももう2000近くの歴史を持つが、大きな過ちであったと
確認できたなら捨ててもよい。それが人道に根ざした分別ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・一〇より)
死を闇とみなし、生を栄光と見なして、闇への恐怖を原動力とした
盲滅法な生を貪ろうとするから、そういった者同士での争いまでもが生ずる。
思い切って生こそを闇と見なし、死こそを光と見なしてしまう。
それにより暗愚な生を切り抜けての明るい死こそを目指す。
それぐらいのほうが、高い知能によって「個体の死」というものを
察知してしまっている人間のような生き物にとっては、適切なあり方ともなる。
もちろん、生が闇だからといって暗愚な生ばかりに専らでいようと
するのではなく、栄光の死に向けたなりの生をも送ればよい。
生きてる間の放辟邪侈ばかりに專らでいたなら、後世に笑いものにすら
なりかねない一方、未来永劫にわたって人々に好影響を及ぼし続けるような
偉大な功績を挙げたなら、それにより死後に至るまでの名声が得られるというもの。
その死後の名声も、自らの子孫の繁栄などの実利的価値を帯びもするわけで、
生きてる内から個体の生死を超えた大偉業を志すことにも、確かな意味があるのだと言える。
「どうせ死後に渡るまで評価されるような偉業を挙げた所で、自分自身には
何の利益もないじゃないか」と、重度の個人主義者であれば考えるのに違いない。
子々孫々の代々に至るまでの、自らの系譜の継承などにもさして価値を見い出せず、
とにかく自分が生きてるうちにどれだけ幸せでいられるかばかりを全てとしているのだから。
盲滅法な生を貪ろうとするから、そういった者同士での争いまでもが生ずる。
思い切って生こそを闇と見なし、死こそを光と見なしてしまう。
それにより暗愚な生を切り抜けての明るい死こそを目指す。
それぐらいのほうが、高い知能によって「個体の死」というものを
察知してしまっている人間のような生き物にとっては、適切なあり方ともなる。
もちろん、生が闇だからといって暗愚な生ばかりに専らでいようと
するのではなく、栄光の死に向けたなりの生をも送ればよい。
生きてる間の放辟邪侈ばかりに專らでいたなら、後世に笑いものにすら
なりかねない一方、未来永劫にわたって人々に好影響を及ぼし続けるような
偉大な功績を挙げたなら、それにより死後に至るまでの名声が得られるというもの。
その死後の名声も、自らの子孫の繁栄などの実利的価値を帯びもするわけで、
生きてる内から個体の生死を超えた大偉業を志すことにも、確かな意味があるのだと言える。
「どうせ死後に渡るまで評価されるような偉業を挙げた所で、自分自身には
何の利益もないじゃないか」と、重度の個人主義者であれば考えるのに違いない。
子々孫々の代々に至るまでの、自らの系譜の継承などにもさして価値を見い出せず、
とにかく自分が生きてるうちにどれだけ幸せでいられるかばかりを全てとしているのだから。
だからこそ、後世の笑い者になるような放辟邪侈にも及び、まるで暗愚な生の典型
のような生ばかりを貪った挙句に死ぬ。そしてそのような人生を送った人間こそは、
死こそが闇であるかのようにも考える。本当は生きてる内こそが人並み以上の暗闇であり、
その暗闇から死によって解き放たれるのですらあるのに、自らの生こそが自業自得の
暗闇であった責任を死に擦り付け、死こそが闇であるかのように決め付ける。そうして
死を憎み、栄光としての生をより一層に追い求めようとするが、そのような人間が追い
求めている生こそは生粋の暗愚な生でもあるのだから、どこにも光の差し込む余地がない。
光を追い求めているつもりで、実はより一層の暗闇を追い求めてしまっているような
悪循環に陥ってしまっている人間ともなれば、死後に至るまでの栄光のような、
真の光を追い求めることに即座に鞍替えすることも覚束ない。まずは自分たちの
明暗に対する認知が転倒していることを悟って、その転倒を是正していくところ
から始めなければならない。主体的に光を追い求めることはまだ人に譲り、まず闇を
追い求める悪癖を癒すことから専念していく。そういった役割分担が必要となっていく。
「禹崩じ、三年の喪畢りて、益、禹の子を箕山の陰に避く。朝覲訟獄する者、益に
之かずして啓に之く。曰く、吾が君の子なりと。謳歌する者は益を謳歌せずして啓を謳歌す」
「夏の禹王が崩じて後、三年の喪が終わり、禹王の重臣だった益は禹の子の啓を箕山の陰に
追いやった。すると、拝謁するものも訴訟を請う者もみな益を避けて啓の所に通うようになった。
みな『啓こそは我が君の子ではないか』と称え、益の世を謳歌せずに啓の世を謳歌した。
(居場所の陰陽などどてはなく、自らの徳の有無が雌雄を決した例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・六より)
のような生ばかりを貪った挙句に死ぬ。そしてそのような人生を送った人間こそは、
死こそが闇であるかのようにも考える。本当は生きてる内こそが人並み以上の暗闇であり、
その暗闇から死によって解き放たれるのですらあるのに、自らの生こそが自業自得の
暗闇であった責任を死に擦り付け、死こそが闇であるかのように決め付ける。そうして
死を憎み、栄光としての生をより一層に追い求めようとするが、そのような人間が追い
求めている生こそは生粋の暗愚な生でもあるのだから、どこにも光の差し込む余地がない。
光を追い求めているつもりで、実はより一層の暗闇を追い求めてしまっているような
悪循環に陥ってしまっている人間ともなれば、死後に至るまでの栄光のような、
真の光を追い求めることに即座に鞍替えすることも覚束ない。まずは自分たちの
明暗に対する認知が転倒していることを悟って、その転倒を是正していくところ
から始めなければならない。主体的に光を追い求めることはまだ人に譲り、まず闇を
追い求める悪癖を癒すことから専念していく。そういった役割分担が必要となっていく。
「禹崩じ、三年の喪畢りて、益、禹の子を箕山の陰に避く。朝覲訟獄する者、益に
之かずして啓に之く。曰く、吾が君の子なりと。謳歌する者は益を謳歌せずして啓を謳歌す」
「夏の禹王が崩じて後、三年の喪が終わり、禹王の重臣だった益は禹の子の啓を箕山の陰に
追いやった。すると、拝謁するものも訴訟を請う者もみな益を避けて啓の所に通うようになった。
みな『啓こそは我が君の子ではないか』と称え、益の世を謳歌せずに啓の世を謳歌した。
(居場所の陰陽などどてはなく、自らの徳の有無が雌雄を決した例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・六より)
「漢書」食貨志などを読んでみても、漢の治世中、民が土に安んじて本業(農業など)に
励んでいる頃には国レベルでの収支が安定し、蓄積も十分となったのに対し、
流民が増大して末業(商業など)ばかりを興じるようになった頃には、
国富が不足して餓え死ぬ民までもが頻発するようになったとある。
だから君子階級でもないような一般民が無闇に遠出することを推奨したりすべきではないし、
さらには為政者こそが必要もなく民を方々へと引きずり回すともなれば、なおさらのことである。
だからこそ昔の東洋の封建社会では、関所を設けて民の自由な往来に一定の制限をかけるなどしていた。
一方で、君子階級こそは科挙としての登用や参勤交代などを通じて中央と地方を頻繁に往来し、
諸国を皇帝や将軍の十分な統制下に置く助っ人としての役割をも発揮していた。
為政者は腰が軽く、民は腰が重いというのが、社会的な陽唱陰和の実現の上でも格好となり、
民をよく土着させて下手な往来をも思い止まらせられたなら、なにも全住民を戸籍登録し
尽くしたりする必要もない。関所による往来管理も厳粛だった江戸時代にこそ、無戸籍の
漂泊民などの存在も多少は容認されていたのに対し、関所も撤廃されて行商の往来なども
無制限と化した明治以降にこそ、全国民に対する住民登録が必須なものともなった。
民主主義社会において、民こそは諸国の往来なども勝手気ままに行える自由の徒となるのに対し、
為政者こそは地元の組織票みたいな、ある種の限られた勢力による拘束を被る存在となる。結果、
民間人の政商や悪徳外交家こそが国家権力以上もの権能を手に入れるようなことにもなりかねず、
そのような事態を来たした時にこそ、もはや世界レベルでの大破綻までもが逃れられるものではない。
中東地域のような、農産も覚束ない不毛の地に暮らす者が、シルクロード交易のような商業によって
食いつなぐことは不可避なことでもあるにしろ、モンスーン気候の東洋社会や、欧米社会のような、
土着による自活が可能である地域においてまで流民をのさぱらせるのは余計なことであり、
その程度があまりにもひどければ、上に書いたような理由での大破綻すらもが免れられない。
励んでいる頃には国レベルでの収支が安定し、蓄積も十分となったのに対し、
流民が増大して末業(商業など)ばかりを興じるようになった頃には、
国富が不足して餓え死ぬ民までもが頻発するようになったとある。
だから君子階級でもないような一般民が無闇に遠出することを推奨したりすべきではないし、
さらには為政者こそが必要もなく民を方々へと引きずり回すともなれば、なおさらのことである。
だからこそ昔の東洋の封建社会では、関所を設けて民の自由な往来に一定の制限をかけるなどしていた。
一方で、君子階級こそは科挙としての登用や参勤交代などを通じて中央と地方を頻繁に往来し、
諸国を皇帝や将軍の十分な統制下に置く助っ人としての役割をも発揮していた。
為政者は腰が軽く、民は腰が重いというのが、社会的な陽唱陰和の実現の上でも格好となり、
民をよく土着させて下手な往来をも思い止まらせられたなら、なにも全住民を戸籍登録し
尽くしたりする必要もない。関所による往来管理も厳粛だった江戸時代にこそ、無戸籍の
漂泊民などの存在も多少は容認されていたのに対し、関所も撤廃されて行商の往来なども
無制限と化した明治以降にこそ、全国民に対する住民登録が必須なものともなった。
民主主義社会において、民こそは諸国の往来なども勝手気ままに行える自由の徒となるのに対し、
為政者こそは地元の組織票みたいな、ある種の限られた勢力による拘束を被る存在となる。結果、
民間人の政商や悪徳外交家こそが国家権力以上もの権能を手に入れるようなことにもなりかねず、
そのような事態を来たした時にこそ、もはや世界レベルでの大破綻までもが逃れられるものではない。
中東地域のような、農産も覚束ない不毛の地に暮らす者が、シルクロード交易のような商業によって
食いつなぐことは不可避なことでもあるにしろ、モンスーン気候の東洋社会や、欧米社会のような、
土着による自活が可能である地域においてまで流民をのさぱらせるのは余計なことであり、
その程度があまりにもひどければ、上に書いたような理由での大破綻すらもが免れられない。
農産技術と交通機関が共に発展した近代社会において、かつての東洋的封建社会ほどもの
徹底的な民の土着や鎖国政策が敷かれるべきだとも断定できないが、少なくともこの地球上
から餓死者がいなくなる程度にまでは、民の身勝手な放浪にも制限をかけるべきだといえる。
具体的にどのくらいかといえば、やはり民間人のフットワークが為政者のフットワークを
下回る程度までだといえる。そしたら世界規模での財政破綻が回避できて、その結果として
飢餓や戦乱のような社会問題も未然に防がれるようになる。いくら文明が進歩しようとも、
為政者こそが民の一歩先を行くべきだという陰陽法則までもが破綻することはないのである。
「梁の恵王曰く、寡人の国に於けるや、心を尽くせるのみ。河内凶すれば、
則ち其の民を河東に移し、其の粟を河内に移す。河東凶せるも亦た然り。隣国の政を察するに、
寡人の心を用うるに如く者無し。隣国の民少なきを加えず、寡人の民多きを加えざるは何ぞや」
「梁の恵王が孟子に問うた。『わしのこの国に対する姿勢は、ただ心を尽くすというばかりのものだ。
もし河内地方が飢えるようなことがあればその民を河東に移し、河東からも支援の穀類を河内に運ばせる。
河東が飢えた場合にもこの逆の対策を施す。周りの国を見ても、これほどにも内政に心を尽くしている国は
ないというのに、周りの国の民が減ることもなければ、わしの国の民が増えることもないのはなぜだろう』
(このあと孟子が指摘するとおり、恵王は農繁期や斧斤時もお構いなしに民を身勝手に引きずり回しているから、
そのせいで自分こそが飢饉を引き起こしてしまっている。住民登録のために帝国の民を引きずり回して、ろくに
その宿場も用意しなかった皇帝アウグストゥスなども、この恵王並みかそれ以上の暗君だったことだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・三より)
徹底的な民の土着や鎖国政策が敷かれるべきだとも断定できないが、少なくともこの地球上
から餓死者がいなくなる程度にまでは、民の身勝手な放浪にも制限をかけるべきだといえる。
具体的にどのくらいかといえば、やはり民間人のフットワークが為政者のフットワークを
下回る程度までだといえる。そしたら世界規模での財政破綻が回避できて、その結果として
飢餓や戦乱のような社会問題も未然に防がれるようになる。いくら文明が進歩しようとも、
為政者こそが民の一歩先を行くべきだという陰陽法則までもが破綻することはないのである。
「梁の恵王曰く、寡人の国に於けるや、心を尽くせるのみ。河内凶すれば、
則ち其の民を河東に移し、其の粟を河内に移す。河東凶せるも亦た然り。隣国の政を察するに、
寡人の心を用うるに如く者無し。隣国の民少なきを加えず、寡人の民多きを加えざるは何ぞや」
「梁の恵王が孟子に問うた。『わしのこの国に対する姿勢は、ただ心を尽くすというばかりのものだ。
もし河内地方が飢えるようなことがあればその民を河東に移し、河東からも支援の穀類を河内に運ばせる。
河東が飢えた場合にもこの逆の対策を施す。周りの国を見ても、これほどにも内政に心を尽くしている国は
ないというのに、周りの国の民が減ることもなければ、わしの国の民が増えることもないのはなぜだろう』
(このあと孟子が指摘するとおり、恵王は農繁期や斧斤時もお構いなしに民を身勝手に引きずり回しているから、
そのせいで自分こそが飢饉を引き起こしてしまっている。住民登録のために帝国の民を引きずり回して、ろくに
その宿場も用意しなかった皇帝アウグストゥスなども、この恵王並みかそれ以上の暗君だったことだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・三より)
漢の高祖劉邦も、まだぶらつき者だった頃に見知らぬ老人から
「あなたの人相は見たこともないほど素晴らしい」と言われたといい、
おそらくそれを励みにしての出世をも志したのに違いない。
この手の、あまり根拠があるわけでもないような予言なり占いなりも、個人的な励みに
するぐらいなら他愛ないものだが、予言の内容が不埒だったり、無理に根拠を付けて
信憑性を持たせようとしたりし始めると、色々と度し難い側面を帯びてくるようになる。
魏の曹操がまだ下級役人の小倅でしかなかったころ、これまた顔相見の達人が
曹操の元に現れ、「おまえは乱世の奸雄の相を帯びている」と指摘した。それが警告目的
だったのか、そうなることを推奨したのかは知れないが、実際に曹操は、三国時代において
最も腐敗した国情を帯びた国でもある魏の実質的な帝王ともなった。その存命中には漢室の存命を
許したものの、息子の曹丕の代にはついに帝位を簒奪させ、後漢の治世に終止符をも打たせた。
おそらく、自他共に認める形で実行されただろうこの曹家の横暴も、元はといえば曹操がまだ若年
であった頃の「おまえは乱世の奸雄になる」という、人からの予言をも原動力にしていたに違いない。
予言とか瑞祥とかいったものを、一貫して善用に付すのならまだしも、悪用に及ぶこともいくらでもできる、
そして悪用に及ぶ場合のほうがその実践も遥かに込み入っていて、予言がそれだけで物語になっていたりする。
未来には、確定的な要素もあれば、不確定的な要素もある。全てを総合すれば少なからず不確定的だから、
予言に基づく必然性などばかりに頼らずに、自らもその場その場での自主的な判断を講じていくべきである。
そうともせず、予言への狂信ばかりに一辺倒で、もはや聞く耳も持たないというのならば、その姿勢自体が
すでに最善を尽くしていないあり方となる。何もかもを去来今の三世に渡って自由自在にできる超越神などは
実際に存在せず、予定調和的であることもあれば、そうでないこともあることにかけてこそ普遍的である
万事万物の実相に即して、予言などは参考程度のものとして、まず自助努力のほうを心がけるべきなのである。
「あなたの人相は見たこともないほど素晴らしい」と言われたといい、
おそらくそれを励みにしての出世をも志したのに違いない。
この手の、あまり根拠があるわけでもないような予言なり占いなりも、個人的な励みに
するぐらいなら他愛ないものだが、予言の内容が不埒だったり、無理に根拠を付けて
信憑性を持たせようとしたりし始めると、色々と度し難い側面を帯びてくるようになる。
魏の曹操がまだ下級役人の小倅でしかなかったころ、これまた顔相見の達人が
曹操の元に現れ、「おまえは乱世の奸雄の相を帯びている」と指摘した。それが警告目的
だったのか、そうなることを推奨したのかは知れないが、実際に曹操は、三国時代において
最も腐敗した国情を帯びた国でもある魏の実質的な帝王ともなった。その存命中には漢室の存命を
許したものの、息子の曹丕の代にはついに帝位を簒奪させ、後漢の治世に終止符をも打たせた。
おそらく、自他共に認める形で実行されただろうこの曹家の横暴も、元はといえば曹操がまだ若年
であった頃の「おまえは乱世の奸雄になる」という、人からの予言をも原動力にしていたに違いない。
予言とか瑞祥とかいったものを、一貫して善用に付すのならまだしも、悪用に及ぶこともいくらでもできる、
そして悪用に及ぶ場合のほうがその実践も遥かに込み入っていて、予言がそれだけで物語になっていたりする。
未来には、確定的な要素もあれば、不確定的な要素もある。全てを総合すれば少なからず不確定的だから、
予言に基づく必然性などばかりに頼らずに、自らもその場その場での自主的な判断を講じていくべきである。
そうともせず、予言への狂信ばかりに一辺倒で、もはや聞く耳も持たないというのならば、その姿勢自体が
すでに最善を尽くしていないあり方となる。何もかもを去来今の三世に渡って自由自在にできる超越神などは
実際に存在せず、予定調和的であることもあれば、そうでないこともあることにかけてこそ普遍的である
万事万物の実相に即して、予言などは参考程度のものとして、まず自助努力のほうを心がけるべきなのである。
「世子生まるれば、則ち君沐浴し朝服す。夫人も亦た之の如くす。皆な阼階に立ちて西卿す。
世婦、子を抱いて西階より升る。君之れに名づけ、乃ち降る。適子庶子は外寝に於いて見、其の首を撫で
咳きて之れに名づく。礼初めに帥うも、辞無し。凡そ子に名づくるに、日月を以てせず、国を以てせず、隱疾を以てせず、
大夫、士の子は敢えて世子と名を同じくせず。妾、将に子を生まんとするに、月辰に及び、夫れ人を使いて日に一たび
之れを問わしむ。子、生まれて三月の末、漱浣し夙斎して内寝に見ゆ。之れを礼すること始めて室に入るが如くす。
君已に食し徹し、之れを使して特り餕せしめ、遂に入御す。公庶子生まるるときは、側室に就く。三月の末、其の母
沐浴し朝服して君に見ゆ。擯者其の子を以て見ゆ。君賜ふ有る所なれば、君之れを名づく。衆子は則ち有司を使て之れを名づく」
世婦、子を抱いて西階より升る。君之れに名づけ、乃ち降る。適子庶子は外寝に於いて見、其の首を撫で
咳きて之れに名づく。礼初めに帥うも、辞無し。凡そ子に名づくるに、日月を以てせず、国を以てせず、隱疾を以てせず、
大夫、士の子は敢えて世子と名を同じくせず。妾、将に子を生まんとするに、月辰に及び、夫れ人を使いて日に一たび
之れを問わしむ。子、生まれて三月の末、漱浣し夙斎して内寝に見ゆ。之れを礼すること始めて室に入るが如くす。
君已に食し徹し、之れを使して特り餕せしめ、遂に入御す。公庶子生まるるときは、側室に就く。三月の末、其の母
沐浴し朝服して君に見ゆ。擯者其の子を以て見ゆ。君賜ふ有る所なれば、君之れを名づく。衆子は則ち有司を使て之れを名づく」
「国君の嫡子が生まれた時には、主君は沐浴して正装をする。夫人たちも同じようにし、東の階段に立って西を見る(追儺目的)。
宮女が子を抱いて西の階段から昇って来ると、主君がこれに名づけて、また階段を下る。嫡子の実弟や庶子の場合には寝殿の外で
その首を撫でながらつぶやくようにして名付ける。基本的な礼式は嫡子の場合と同じだが、訓戒などの辞を与えたりはしない。
子を名付ける上では日月星辰の名を以てせず、国名を以てせず、隠れた悪い意味があるような言葉を以てせぬようにする。
国君以下の大夫や士の子は、あえて主君の嫡子と同じ名前にしたりはしない。妾が子を産もうとするときには、臨月ごろから
使いを毎日よこして子が産まれたかを問う。子が生まれて三ヶ月の後に、略式の斎戒沐浴をして妾の居場所に行く。妾はまるで
初めて夫に出会ったかのように振る舞い、まず夫が先に料理を食してから、その食べ残しを食べ、後に正式に侍御するようになる。
公君の庶子が生まれた時には側室に養わせる。子が生まれて三月の後に、母は沐浴し正装して君に見え、乳母がその子を抱える。
特に気に入った妾の子であれば君自らが子に名付ける。そうでない諸々の庶子の場合には、係りの役人に任せて名付けさせる。
(一夫多妻が常套であった封建時代にも、それなりに子を名づけたり妾を侍御させたりする上での礼式があった。その礼式を尽く
破って、夢想に即した根拠で妾腹の私生児を無闇に祝福したり、神の子だなと呼ばわったりする。それら全てが患いごとであり、
そのような根拠に即して『イエス』と名付けたりしたことも、『子に名づくに隱疾を以てせず』という礼制に反している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
宮女が子を抱いて西の階段から昇って来ると、主君がこれに名づけて、また階段を下る。嫡子の実弟や庶子の場合には寝殿の外で
その首を撫でながらつぶやくようにして名付ける。基本的な礼式は嫡子の場合と同じだが、訓戒などの辞を与えたりはしない。
子を名付ける上では日月星辰の名を以てせず、国名を以てせず、隠れた悪い意味があるような言葉を以てせぬようにする。
国君以下の大夫や士の子は、あえて主君の嫡子と同じ名前にしたりはしない。妾が子を産もうとするときには、臨月ごろから
使いを毎日よこして子が産まれたかを問う。子が生まれて三ヶ月の後に、略式の斎戒沐浴をして妾の居場所に行く。妾はまるで
初めて夫に出会ったかのように振る舞い、まず夫が先に料理を食してから、その食べ残しを食べ、後に正式に侍御するようになる。
公君の庶子が生まれた時には側室に養わせる。子が生まれて三月の後に、母は沐浴し正装して君に見え、乳母がその子を抱える。
特に気に入った妾の子であれば君自らが子に名付ける。そうでない諸々の庶子の場合には、係りの役人に任せて名付けさせる。
(一夫多妻が常套であった封建時代にも、それなりに子を名づけたり妾を侍御させたりする上での礼式があった。その礼式を尽く
破って、夢想に即した根拠で妾腹の私生児を無闇に祝福したり、神の子だなと呼ばわったりする。それら全てが患いごとであり、
そのような根拠に即して『イエス』と名付けたりしたことも、『子に名づくに隱疾を以てせず』という礼制に反している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
本当の親子関係であれば、主従関係を尽くすことが
どこまでいっても「主人と奴隷の関係」ような殺伐としたものにはならない。
実の親子関係はもちろんのこと、養父子の関係であろうとも、
本当に恭敬を尽くした上下関係を志したなら、そこに殺伐さなどは介されない。
ただ、やはり養父と養子などだと、実の親子並みの親密さを育むことがなかなか難しい。
だから「君臣父子夫婦」の三綱に基づき、主君への忠誠に類推して養子が養父への
尊敬を尽くすということが昔は嗜まれていた。だからこそ、侍社会でも同等の
家格の武家同士での養子縁組などが滞りなく行われてもいたが、将軍や大名のような
三綱五常の実践対象ともできる実質的な主君が廃されて、天皇一尊の立憲君主制が敷かれた
明治以降にはそうもいかなくなり、旧来の養子縁組ありきな家系保全がままならなくなって
しまったことから、お家断絶などの憂き目に遭う武家が多発したりもしたのだった。
実の親子関係や、三綱五常の保護下にある養父子関係であれば、そこで上下関係を講じようとも、
決してその関係性が殺伐化したりすることはなく、むしろ無闇に対等関係であろうとしたりした
場合にこそ、対立や喧嘩などの問題が生ずる。それは、親子関係というものが「家」という
流れの中に自然と存在するものだからで、上下関係を講ずればその流れに自然と乗れる一方、
無闇な対等関係であろうとした場合にこそ、その流れに逆らうことにもなるからだ。
親戚関係でもないような、全くの赤の他人同士であるのなら、始めからそんな流れが
備わっていることはない。主君と臣下の関係ですら、他人同士ならそんな流れはないから、
まずは親子関係における序列を尽くした上で、その序列を君臣間に及ぼすのでなければ、
いくらそれ自体に恭敬を尽くした所で、君臣関係もまた殺伐としたものになりかねない。
どこまでいっても「主人と奴隷の関係」ような殺伐としたものにはならない。
実の親子関係はもちろんのこと、養父子の関係であろうとも、
本当に恭敬を尽くした上下関係を志したなら、そこに殺伐さなどは介されない。
ただ、やはり養父と養子などだと、実の親子並みの親密さを育むことがなかなか難しい。
だから「君臣父子夫婦」の三綱に基づき、主君への忠誠に類推して養子が養父への
尊敬を尽くすということが昔は嗜まれていた。だからこそ、侍社会でも同等の
家格の武家同士での養子縁組などが滞りなく行われてもいたが、将軍や大名のような
三綱五常の実践対象ともできる実質的な主君が廃されて、天皇一尊の立憲君主制が敷かれた
明治以降にはそうもいかなくなり、旧来の養子縁組ありきな家系保全がままならなくなって
しまったことから、お家断絶などの憂き目に遭う武家が多発したりもしたのだった。
実の親子関係や、三綱五常の保護下にある養父子関係であれば、そこで上下関係を講じようとも、
決してその関係性が殺伐化したりすることはなく、むしろ無闇に対等関係であろうとしたりした
場合にこそ、対立や喧嘩などの問題が生ずる。それは、親子関係というものが「家」という
流れの中に自然と存在するものだからで、上下関係を講ずればその流れに自然と乗れる一方、
無闇な対等関係であろうとした場合にこそ、その流れに逆らうことにもなるからだ。
親戚関係でもないような、全くの赤の他人同士であるのなら、始めからそんな流れが
備わっていることはない。主君と臣下の関係ですら、他人同士ならそんな流れはないから、
まずは親子関係における序列を尽くした上で、その序列を君臣間に及ぼすのでなければ、
いくらそれ自体に恭敬を尽くした所で、君臣関係もまた殺伐としたものになりかねない。
家においてこそ、上下関係が親密さと共に遍在できるのは、先祖代々に渡る系譜の継承があるから。
今から四代前ともなれば、父子ともにその先祖と触れ合ったことすらないのが当たり前なもので、
そのような神秘的な領域にまで配慮を働かせる必要があるから、親子関係が秩序的であることでこそ
親密さが損なわれなくても済む。別に、やたらと愛し合っているから親密でいられるというばかりでもない
のだから、他人同士で親子並みの愛し合いを心がけてみた所で、同等の結果が得られたりするものではない。
先祖代々の系譜の継承があるから、実の親子関係だけでなく、養父子関係すらもが秩序立てに
よってこそ親密さを保てる。一方で、そのような事実があるわけでもないから、他の上下関係をいくら
秩序立ててみたところで、それが親密さに結びつくようなことはなく、かえって殺伐さばかりを助長する。
だから本当は、全ての上下関係を親子関係の派生系として捉えるべきなのであり、それが叶わないのなら、
世界中が上下関係に基づく殺伐さに見舞われることになる。その殺伐さを嫌うあまり、あらゆる上下関係を
この世から排する平等主義などを希求し、挙句には父子の親までをも損なうことにすらなってしまうのである。
「今商王受、〜正士を囚奴とし、郊社を修めず、宗廟を享らず。
〜上帝順わず、祝ちて時の喪を降す。爾其れ孜孜として、予れ一人を奉じ、恭しみて天の罰を行え」
「いま殷の紂王は、(数多の暴虐を列挙して)立派な人々をも囚人や奴隷とし、社稷霊廟を修繕して
先祖の神を祭り尊ぶこともしない。天帝もまたこれを美しとせず、現状を断ち切っての大喪を下される。
おまえたちも孜孜としてよく励み、天命を受けた我れ(武王)こそを奉じて、慎んで天の罰を行うがよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
今から四代前ともなれば、父子ともにその先祖と触れ合ったことすらないのが当たり前なもので、
そのような神秘的な領域にまで配慮を働かせる必要があるから、親子関係が秩序的であることでこそ
親密さが損なわれなくても済む。別に、やたらと愛し合っているから親密でいられるというばかりでもない
のだから、他人同士で親子並みの愛し合いを心がけてみた所で、同等の結果が得られたりするものではない。
先祖代々の系譜の継承があるから、実の親子関係だけでなく、養父子関係すらもが秩序立てに
よってこそ親密さを保てる。一方で、そのような事実があるわけでもないから、他の上下関係をいくら
秩序立ててみたところで、それが親密さに結びつくようなことはなく、かえって殺伐さばかりを助長する。
だから本当は、全ての上下関係を親子関係の派生系として捉えるべきなのであり、それが叶わないのなら、
世界中が上下関係に基づく殺伐さに見舞われることになる。その殺伐さを嫌うあまり、あらゆる上下関係を
この世から排する平等主義などを希求し、挙句には父子の親までをも損なうことにすらなってしまうのである。
「今商王受、〜正士を囚奴とし、郊社を修めず、宗廟を享らず。
〜上帝順わず、祝ちて時の喪を降す。爾其れ孜孜として、予れ一人を奉じ、恭しみて天の罰を行え」
「いま殷の紂王は、(数多の暴虐を列挙して)立派な人々をも囚人や奴隷とし、社稷霊廟を修繕して
先祖の神を祭り尊ぶこともしない。天帝もまたこれを美しとせず、現状を断ち切っての大喪を下される。
おまえたちも孜孜としてよく励み、天命を受けた我れ(武王)こそを奉じて、慎んで天の罰を行うがよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
「人の患いは、好んで人の師となるに在り」
(離婁章句上・二三)
親子以外の上下関係、特に師弟関係などは、親が子に教師をあてがう場合でもないのなら、
あくまで弟子となる側の自由意思によって形成されるべきものだ。一旦師弟となって、
ものを教わるからには、厳しい教育姿勢なども受け入れなければならなくなるが、
まず師弟となるかどうかという所で、弟子となる側の自由意思による従属の
決断がないのならば、いくら師となろうとする側ばかりが師ぶったところで、
全く真の師弟関係と見なすには値しないままであり続けるのである。
古来から「信者になるか殺されるか」という最悪の覇道によって信者を獲得してきた
キリスト教の神なんぞに、真に自らの弟子であると見なすことのできる相手など、一人もいない。
自分が誰かの親代わりになる資格などがないのはもちろんのこと、人に何かを教えてあげる教師
として適格となる程度の資格すらをも、覇権志向によってあらかじめかなぐり捨てているといえる。
親でもなければ教師でもない、単なる「情報屋」としての役割ていどは、確かに聖書教が果たした。
世界の征服を企てる過程で博物志向をも大いに発揮し、理論と実物の両面における豊富な情報を収集した。
しかしそれとて、世界中の財宝を自分たちだけで独り占めにしようとする下衆な下心があってのことで、
実際にそれらの情報を駆使することで、世界中の資源の八割以上を欧米聖書圏だけで独占するほどもの
暴挙を実現しているわけだから、何ら尊敬するにも値しない。今さら情報屋としての仕事ぶりに
対する報酬を与えてやったりする必要もないし、大体そんな余裕ももうこの地球上にはない。
(離婁章句上・二三)
親子以外の上下関係、特に師弟関係などは、親が子に教師をあてがう場合でもないのなら、
あくまで弟子となる側の自由意思によって形成されるべきものだ。一旦師弟となって、
ものを教わるからには、厳しい教育姿勢なども受け入れなければならなくなるが、
まず師弟となるかどうかという所で、弟子となる側の自由意思による従属の
決断がないのならば、いくら師となろうとする側ばかりが師ぶったところで、
全く真の師弟関係と見なすには値しないままであり続けるのである。
古来から「信者になるか殺されるか」という最悪の覇道によって信者を獲得してきた
キリスト教の神なんぞに、真に自らの弟子であると見なすことのできる相手など、一人もいない。
自分が誰かの親代わりになる資格などがないのはもちろんのこと、人に何かを教えてあげる教師
として適格となる程度の資格すらをも、覇権志向によってあらかじめかなぐり捨てているといえる。
親でもなければ教師でもない、単なる「情報屋」としての役割ていどは、確かに聖書教が果たした。
世界の征服を企てる過程で博物志向をも大いに発揮し、理論と実物の両面における豊富な情報を収集した。
しかしそれとて、世界中の財宝を自分たちだけで独り占めにしようとする下衆な下心があってのことで、
実際にそれらの情報を駆使することで、世界中の資源の八割以上を欧米聖書圏だけで独占するほどもの
暴挙を実現しているわけだから、何ら尊敬するにも値しない。今さら情報屋としての仕事ぶりに
対する報酬を与えてやったりする必要もないし、大体そんな余裕ももうこの地球上にはない。
覇権主義の拡大を通じて、聖書圏こそはこの世界、この宇宙にまつわる最大級の物質的情報を獲得した。
そこにはあまりにも多くの犠牲が伴っていた上に、精神的理解も全く欠けたままであり続けてきたのだから、
専ら精神修養を心がけてきた東洋社会などと比べて、聖書圏がより偉大な功績を挙げられたなどということは
全くもってない。どこまでも小人の妄動ゆえの所産というまでのことで、見下されこそすれど、見上げられる
ことなどがあって然るべきでないことでは一貫している。そうであることがまず大前提としてあった上で、
あまりにも甚大な災禍を聖書圏がこの地球上にもたらしたことへの弁償代として、聖書圏において蓄積
されてきた博物的情報が提供されることにより、聖書権の人間の罪状が多少軽減するということはある。
全くの見返り抜きで、この世界の復興や繁栄のために聖書圏の博物情報が無制限に活用されて、それでやっと
聖書圏の人間の罪が差し引きゼロになるか、やっぱり有罪なままかといったところで、親代わりや教師は
おろか、単なる情報屋として自分たちを誇れるようなことすらまずないままであり続ける。所詮は聖書信者
として為したことが、少しでも有益無害であるようなことも決してないのだから、完全に聖書信仰を棄却し、
聖書信仰による罪も完全に償って後にやっと、元聖書信者が誇りを取り戻していく余地も生ずるのだといえる。
「其が心を懲らさずして、覆りてその正しきを怨む」
「自分の(過った)心を懲らしめることもせずに、(己の過ちと他人の正しきを)覆して正しいものを責めようとする。
(謂れ無き危害を他者に及ぼすようなやからの心理はえてしてこのようなもので、それほどもの
妄念に囚われた愚か者であるからこそ、自分を他人の親だなどとまで倒錯してしまえるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
そこにはあまりにも多くの犠牲が伴っていた上に、精神的理解も全く欠けたままであり続けてきたのだから、
専ら精神修養を心がけてきた東洋社会などと比べて、聖書圏がより偉大な功績を挙げられたなどということは
全くもってない。どこまでも小人の妄動ゆえの所産というまでのことで、見下されこそすれど、見上げられる
ことなどがあって然るべきでないことでは一貫している。そうであることがまず大前提としてあった上で、
あまりにも甚大な災禍を聖書圏がこの地球上にもたらしたことへの弁償代として、聖書圏において蓄積
されてきた博物的情報が提供されることにより、聖書権の人間の罪状が多少軽減するということはある。
全くの見返り抜きで、この世界の復興や繁栄のために聖書圏の博物情報が無制限に活用されて、それでやっと
聖書圏の人間の罪が差し引きゼロになるか、やっぱり有罪なままかといったところで、親代わりや教師は
おろか、単なる情報屋として自分たちを誇れるようなことすらまずないままであり続ける。所詮は聖書信者
として為したことが、少しでも有益無害であるようなことも決してないのだから、完全に聖書信仰を棄却し、
聖書信仰による罪も完全に償って後にやっと、元聖書信者が誇りを取り戻していく余地も生ずるのだといえる。
「其が心を懲らさずして、覆りてその正しきを怨む」
「自分の(過った)心を懲らしめることもせずに、(己の過ちと他人の正しきを)覆して正しいものを責めようとする。
(謂れ無き危害を他者に及ぼすようなやからの心理はえてしてこのようなもので、それほどもの
妄念に囚われた愚か者であるからこそ、自分を他人の親だなどとまで倒錯してしまえるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
欧米聖書圏ではごく当たり前な存在として受け止められている、
一部富裕層の組織的共謀に基づく大規模な金融犯罪や国際権力犯罪、
近ごろだとイルミナティやフリーメイソンのような外的名義で行われている
カルト犯罪が、たとえばこの日本だと「そんなものがあるわけがない」みたいな
受け止められ方をする。「そんなものが社会的な健在を許されるはずがないから」と、
自分たちの常識では考えてしまうから。キリスト教圏でもなければ、ユダヤ教徒を
庇護するような慣習があったこともないこの日本で、国や世界を破滅に陥れる程もの
カルト犯罪が容認され続けるなどということが、想像すらできるものではないから。
(オウム真理教によるカルトテロがあっという間に一掃された実例などもある)
そのような、日本でなら決して黙認されることもないような組織的カルト犯罪が聖書圏で
横行し続けているのも、他でもない、聖書圏が「聖書圏」であるからにほかならない。
別にカルト指定を受けているわけでもないような、正統とされているような
キリスト教であろうとも、普遍的な基準からいえば、その教義が十分にカルト的である。
神の所業であれ悪魔の所業であれ、聖書信仰は「マッチポンプ」を容認する信仰である。
犯罪聖書中における神や悪魔の所業が丸っきりマッチポンプそのものなのだから、どんなに
真っ当に聖書の記述を信じてみた所で、必ずマッチポンプを容認させられる破目におちいる。
だから、イルミナティのような悪魔崇拝のカルト犯罪組織が悪行を企てるのであっても、
そこに「大戦での勝利」みたいな正義めいた「ポンプ」の要素が付加されるのであれば、
それだけで全てのキリスト教徒がカルト犯罪全般を黙認してしまうことになる。
マッチポンプを宗教的に容認する風潮のある社会では、例えそれが、自分たちが敵視している
悪魔崇拝者によるものであろうとも、マッチポンプ型のカルト犯罪が横行することを、一定以上に
容認してしまう状態が続くことになる。それが聖書信仰に基づくとは限らないが、聖書信仰で
ある以上は必ず、マッチポンプ型の悪逆非道を容認し続けるザマに陥るようになっている。
一部富裕層の組織的共謀に基づく大規模な金融犯罪や国際権力犯罪、
近ごろだとイルミナティやフリーメイソンのような外的名義で行われている
カルト犯罪が、たとえばこの日本だと「そんなものがあるわけがない」みたいな
受け止められ方をする。「そんなものが社会的な健在を許されるはずがないから」と、
自分たちの常識では考えてしまうから。キリスト教圏でもなければ、ユダヤ教徒を
庇護するような慣習があったこともないこの日本で、国や世界を破滅に陥れる程もの
カルト犯罪が容認され続けるなどということが、想像すらできるものではないから。
(オウム真理教によるカルトテロがあっという間に一掃された実例などもある)
そのような、日本でなら決して黙認されることもないような組織的カルト犯罪が聖書圏で
横行し続けているのも、他でもない、聖書圏が「聖書圏」であるからにほかならない。
別にカルト指定を受けているわけでもないような、正統とされているような
キリスト教であろうとも、普遍的な基準からいえば、その教義が十分にカルト的である。
神の所業であれ悪魔の所業であれ、聖書信仰は「マッチポンプ」を容認する信仰である。
犯罪聖書中における神や悪魔の所業が丸っきりマッチポンプそのものなのだから、どんなに
真っ当に聖書の記述を信じてみた所で、必ずマッチポンプを容認させられる破目におちいる。
だから、イルミナティのような悪魔崇拝のカルト犯罪組織が悪行を企てるのであっても、
そこに「大戦での勝利」みたいな正義めいた「ポンプ」の要素が付加されるのであれば、
それだけで全てのキリスト教徒がカルト犯罪全般を黙認してしまうことになる。
マッチポンプを宗教的に容認する風潮のある社会では、例えそれが、自分たちが敵視している
悪魔崇拝者によるものであろうとも、マッチポンプ型のカルト犯罪が横行することを、一定以上に
容認してしまう状態が続くことになる。それが聖書信仰に基づくとは限らないが、聖書信仰で
ある以上は必ず、マッチポンプ型の悪逆非道を容認し続けるザマに陥るようになっている。
儒学や仏教のような、マッチポンプ型の悪行の有害無益さを具さに見極めて、始めから
そのような悪行の専らな防止に努めていく教学を本旨とするのであれば、例えばこの日本のように、
イルミナティの如きカルト犯罪組織の存在を徹底して拒絶し尽くす風潮を生み出すこともできる。
今はそのような国も限られているが、世界中が日本並みにカルト犯罪組織の市民権を全否定
していけるようになったならば、始めからイルミナティ級の激甚カルトは生じないようになる。
そうなるためには、ただマッチポンプの存在価値を否定し尽くす文化を広めていくのみならず、
マッチポンプを黙認してしまうような要素を含む文化を駆逐していく必要までもがある。
必ずしもマッチポンプによる悪行に自分たちが及ぶわけではなくても、キリスト教やユダヤ教は
全てが全て、マッチポンプを容認してしまうぐらいの要素は必ず含有しているものだから、
この世からマッチポンプ犯罪を根絶してくためには、キリスト教やユダヤ教の根絶から
務めて行く必要がある。カルト組織のマッチポンプ犯罪が人類の滅亡にすら手をかけ始めて
いる現今においては、もはや聖書信仰からの根絶が急務にすらなっているのである。
「昔の大猷に若って、治を未乱に制し、邦を未危に保んじよ」
「古えの大道に則って、未だ乱が生じぬ内からよく統制し、万邦が危機に陥る前からよく保全せよ。
(具体的には、大水の害が生じたりする前からの治水を心がけるなど。大水害を
生じさせてからのマッチポンプなども当然、始めから企てさせないようにする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・周官より)
そのような悪行の専らな防止に努めていく教学を本旨とするのであれば、例えばこの日本のように、
イルミナティの如きカルト犯罪組織の存在を徹底して拒絶し尽くす風潮を生み出すこともできる。
今はそのような国も限られているが、世界中が日本並みにカルト犯罪組織の市民権を全否定
していけるようになったならば、始めからイルミナティ級の激甚カルトは生じないようになる。
そうなるためには、ただマッチポンプの存在価値を否定し尽くす文化を広めていくのみならず、
マッチポンプを黙認してしまうような要素を含む文化を駆逐していく必要までもがある。
必ずしもマッチポンプによる悪行に自分たちが及ぶわけではなくても、キリスト教やユダヤ教は
全てが全て、マッチポンプを容認してしまうぐらいの要素は必ず含有しているものだから、
この世からマッチポンプ犯罪を根絶してくためには、キリスト教やユダヤ教の根絶から
務めて行く必要がある。カルト組織のマッチポンプ犯罪が人類の滅亡にすら手をかけ始めて
いる現今においては、もはや聖書信仰からの根絶が急務にすらなっているのである。
「昔の大猷に若って、治を未乱に制し、邦を未危に保んじよ」
「古えの大道に則って、未だ乱が生じぬ内からよく統制し、万邦が危機に陥る前からよく保全せよ。
(具体的には、大水の害が生じたりする前からの治水を心がけるなど。大水害を
生じさせてからのマッチポンプなども当然、始めから企てさせないようにする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・周官より)
「正統か異端かに関わらず、「マッチポンプ」という権力犯罪現象を容認するのが
全ての聖書信仰の通義だから、この世からマッチポンプ系の権力犯罪を根絶するためには、
正統派とされるものを含む、全ての聖書信仰の根絶にも務めなければならない」
今日書いたことを要約すれば、こうなる。
その理由は全文を読んで理解してもらう他はないが、
さしあたっての軍人などに対する速やかな情報伝達を必要とするのなら、こう言う。
全ての聖書信仰の通義だから、この世からマッチポンプ系の権力犯罪を根絶するためには、
正統派とされるものを含む、全ての聖書信仰の根絶にも務めなければならない」
今日書いたことを要約すれば、こうなる。
その理由は全文を読んで理解してもらう他はないが、
さしあたっての軍人などに対する速やかな情報伝達を必要とするのなら、こう言う。
他人が最悪の不幸に追い込まれている中で、
自分がそれよりはまだマシな境遇に置かれていることへの相対的な幸福感を抱く
という性向が、人間には残念ながら備わっている。日本の小中高におけるいじめ問題
などもそのような性向に起因していて、いじめっ子となる側も別にさして恵まれた境遇に
いるわけでもないが、そのような立場から同級生などをいじめることで相対的な優越感を
抱くという場合が非常に多く、教師や親にろくな教育を受けていないことなども常なので、
これは完全に人としての精神的な未熟さに基づいて来たしてしまった問題だといえる。
ほんの形式ばかり、体裁ばかりだけでも人よりマシそうでいられたらそれで幸せ、
そういった、人としての向上心が完全に途絶え切った人間ばかりが楽しみとする幸せも、
自分たち自身が全世界、全人類のうちでも最低最悪の立場に追い込まれた時には、ついに絶える。
自分たちよりももっと不幸そうなもの、もっと恵まれていなさそうなものを探し尽くしても、
もはやどこにもそんな相手が見つからない、それ程にも自分たち自身が最悪の立場に陥る。
そこまで自分たち自身を追い詰める人間もそう多くはないが、他者をより悲惨な境遇に
陥れることで、自身の境遇の相対的なマシさ加減を幸せがることを本旨とするユダヤ=
キリスト両聖書教が最終的に行き着いた帰結点というのは、まさにそれだった。
何が何でも他者を自分たち以上に貶めようとする意地汚さに即して、異教徒を硬軟織り混ぜた
徹底的な迫害下に置いてはみたものの、それによって全世界が人類滅亡級の危機に晒される
ことともなった。今の世界で最大級の影響力を誇っているのが自分たちで、しかもその世界を
究極の破滅に陥れている張本人も自分たちなのだから、もはや自分たちで責任を取る他はない。
責任を取る以上は自分たちが最下等の処遇に甘んじることすら必ずしも避けられるものではない、
そういった、実質面からの最悪の不遇がすでに確定してしまっていることがまず一つ。
自分がそれよりはまだマシな境遇に置かれていることへの相対的な幸福感を抱く
という性向が、人間には残念ながら備わっている。日本の小中高におけるいじめ問題
などもそのような性向に起因していて、いじめっ子となる側も別にさして恵まれた境遇に
いるわけでもないが、そのような立場から同級生などをいじめることで相対的な優越感を
抱くという場合が非常に多く、教師や親にろくな教育を受けていないことなども常なので、
これは完全に人としての精神的な未熟さに基づいて来たしてしまった問題だといえる。
ほんの形式ばかり、体裁ばかりだけでも人よりマシそうでいられたらそれで幸せ、
そういった、人としての向上心が完全に途絶え切った人間ばかりが楽しみとする幸せも、
自分たち自身が全世界、全人類のうちでも最低最悪の立場に追い込まれた時には、ついに絶える。
自分たちよりももっと不幸そうなもの、もっと恵まれていなさそうなものを探し尽くしても、
もはやどこにもそんな相手が見つからない、それ程にも自分たち自身が最悪の立場に陥る。
そこまで自分たち自身を追い詰める人間もそう多くはないが、他者をより悲惨な境遇に
陥れることで、自身の境遇の相対的なマシさ加減を幸せがることを本旨とするユダヤ=
キリスト両聖書教が最終的に行き着いた帰結点というのは、まさにそれだった。
何が何でも他者を自分たち以上に貶めようとする意地汚さに即して、異教徒を硬軟織り混ぜた
徹底的な迫害下に置いてはみたものの、それによって全世界が人類滅亡級の危機に晒される
ことともなった。今の世界で最大級の影響力を誇っているのが自分たちで、しかもその世界を
究極の破滅に陥れている張本人も自分たちなのだから、もはや自分たちで責任を取る他はない。
責任を取る以上は自分たちが最下等の処遇に甘んじることすら必ずしも避けられるものではない、
そういった、実質面からの最悪の不遇がすでに確定してしまっていることがまず一つ。
そもそも、他者を貶めることで自分たちの相対的なマシさを幸せがろうなどとすること自体が
専らな悪行であり、故につまらない。そのような所業に始めから手を染めないようにしてきた
他の人々などと比べて、悪因苦果の甘受という道理の面から不遇にあり続けてきたことが二つ。
実物面と心理面、両面において、聖書信者こそは世界最悪の不遇に追い込まれ、以って、
他社を貶めることで自分たちを幸せがる醜悪な論理の推進も、完全に潰えることとなった。
上にも書いたとおり、この論理は未成年における「いじめの論理」などにも通じているもので、
いじめっ子の抱くような未熟故の思い上がりを社会的に発展させ尽くしたなら、最終的に
どうなるのかといったことの見本ともなっている。結果は、他でもない最悪の破滅だったわけで、
聖書信者だけでなく、いじめを好んでいるような未成年や大人もまた、この事実を神妙に
受け止めて、自分たちが好き好んでいることの因果応報をも恐れ慎むようにすべきだといえる。
「周公、武王に相たり、紂を誅し奄を伐ち、三年にして其の君を討ち、飛廉を海隅に駆りて
之れを戮す。国を滅ぼす者五十、虎、豹、犀、象を駆りて之れを遠ざけ、天下大いに悦べり」
「魯の周公は武王の首相として殷の紂王を誅殺し、紂王を助けた奄国を征伐し、三年をかけて
そこの主君を討ち取り、紂王の寵臣だった飛廉も海辺の果てに追い込んでこれを誅戮した。
殷紂の暴虐の連帯責任で取り潰した国は五十に上り、トラやヒョウやサイやゾウのような害獣をも
遠方へと追っ払っため、天下の人々がみな大いに喜んだ。(仁者のもたらす喜びは局地的でない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句・九より)
専らな悪行であり、故につまらない。そのような所業に始めから手を染めないようにしてきた
他の人々などと比べて、悪因苦果の甘受という道理の面から不遇にあり続けてきたことが二つ。
実物面と心理面、両面において、聖書信者こそは世界最悪の不遇に追い込まれ、以って、
他社を貶めることで自分たちを幸せがる醜悪な論理の推進も、完全に潰えることとなった。
上にも書いたとおり、この論理は未成年における「いじめの論理」などにも通じているもので、
いじめっ子の抱くような未熟故の思い上がりを社会的に発展させ尽くしたなら、最終的に
どうなるのかといったことの見本ともなっている。結果は、他でもない最悪の破滅だったわけで、
聖書信者だけでなく、いじめを好んでいるような未成年や大人もまた、この事実を神妙に
受け止めて、自分たちが好き好んでいることの因果応報をも恐れ慎むようにすべきだといえる。
「周公、武王に相たり、紂を誅し奄を伐ち、三年にして其の君を討ち、飛廉を海隅に駆りて
之れを戮す。国を滅ぼす者五十、虎、豹、犀、象を駆りて之れを遠ざけ、天下大いに悦べり」
「魯の周公は武王の首相として殷の紂王を誅殺し、紂王を助けた奄国を征伐し、三年をかけて
そこの主君を討ち取り、紂王の寵臣だった飛廉も海辺の果てに追い込んでこれを誅戮した。
殷紂の暴虐の連帯責任で取り潰した国は五十に上り、トラやヒョウやサイやゾウのような害獣をも
遠方へと追っ払っため、天下の人々がみな大いに喜んだ。(仁者のもたらす喜びは局地的でない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句・九より)
親からもらった我が身を無闇に危うからしめることと、
我が身可愛さが全てで他者への配慮を著しく欠くこととの、両方が中正を損なっている。
前者は若者や男が陥りやすい傾向である一方、後者は年寄りや女が陥りやすい傾向であり、
ある程度は老若男女がそれぞれにそのような性向を帯びつつ世の中を形成していくものでもあるが、
それも無闇もっぱらであり過ぎたりしたのなら、必ず乱世などの弊害をもたらすものである。
今だと欧米聖書圏の人間の、自分たちばかりを可愛がって他者を顧みない性向の過剰が、
世界中のあらゆる災厄の元凶ともなっている。「人権」「自由」「平和」などと色々な美辞麗句で
飾り立ててみてはいるものの、要は自分たち自身を底なしに可愛がってい続けたいというだけのこと。
女々しすぎる事もとっくの昔に開き直り済みで、イギリスのように本当に老婆を王君にしている国もある。
高年の女あたりが最もその傾向を極大化させる「我が身可愛さが全て」という心理が、全世界における
金科玉条にまで指定され、捨て身の荒業はおろか、一人前の責任を負うために相応の苦労をすることすら
評価が保証されない事態と化している。とにかく自分個人の安居や栄華が達成されていることこそは
最評価の対象とされ、その条件を満たしやすい富豪あたりが成功者のみならず、偉人としてすら扱われている。
何も、誰しもが赤穂義士のような捨て身の生き方こそを目指すべきだなどということはないし、
それ以上にも見るべき所のない犬死になどなら、むしろ避けることを心がけるべきであるにも違いない。
しかし、今という時代があまりにも「我が身可愛さ」の偏重に振れきってしまっている世の中だから、
もう少し世相を中正に反す目的でも、自己犠牲的な生き方の復権を目指していくべきだといえる。
我が身可愛さが全てで他者への配慮を著しく欠くこととの、両方が中正を損なっている。
前者は若者や男が陥りやすい傾向である一方、後者は年寄りや女が陥りやすい傾向であり、
ある程度は老若男女がそれぞれにそのような性向を帯びつつ世の中を形成していくものでもあるが、
それも無闇もっぱらであり過ぎたりしたのなら、必ず乱世などの弊害をもたらすものである。
今だと欧米聖書圏の人間の、自分たちばかりを可愛がって他者を顧みない性向の過剰が、
世界中のあらゆる災厄の元凶ともなっている。「人権」「自由」「平和」などと色々な美辞麗句で
飾り立ててみてはいるものの、要は自分たち自身を底なしに可愛がってい続けたいというだけのこと。
女々しすぎる事もとっくの昔に開き直り済みで、イギリスのように本当に老婆を王君にしている国もある。
高年の女あたりが最もその傾向を極大化させる「我が身可愛さが全て」という心理が、全世界における
金科玉条にまで指定され、捨て身の荒業はおろか、一人前の責任を負うために相応の苦労をすることすら
評価が保証されない事態と化している。とにかく自分個人の安居や栄華が達成されていることこそは
最評価の対象とされ、その条件を満たしやすい富豪あたりが成功者のみならず、偉人としてすら扱われている。
何も、誰しもが赤穂義士のような捨て身の生き方こそを目指すべきだなどということはないし、
それ以上にも見るべき所のない犬死になどなら、むしろ避けることを心がけるべきであるにも違いない。
しかし、今という時代があまりにも「我が身可愛さ」の偏重に振れきってしまっている世の中だから、
もう少し世相を中正に反す目的でも、自己犠牲的な生き方の復権を目指していくべきだといえる。
ちょうど、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三武将が、命知らず・保身過剰・攻防自在の適例となっている。
信長は命知らずの破壊行為に及びすぎたし、秀吉は晩年に保身の鬼と化して人々からの信奉を失った。
この両者の両極性を反面教師として模範的な天下取りたり得たのが家康公であり、三方ヶ原の戦いで
先陣切って戦うことで命の危機に晒されたこともあれば、大坂の陣では血気にはやる若手の侍たちに制動
をかける側にも回っていた。かと思いきや、大やぐらに据えた最新型の大砲で大坂城を砲撃するなど、その
行いに出処進退自由自在な融通があり、これこそは保身にも捨て身にも振り切れない中正な生き方だといえる。
今が老齢期の秀吉のような、保身過剰ばかりに覆われている世の中だから、次は信長のような命知らずばかりに
世の中が覆われるべきだなどということもない。確かに、秦帝国崩壊後に項羽のような猪武者が暴れまわった
ようにして、保身に過ぎた世相の跳ねっ返りとしての捨て身屋の多発が生ずることも、必ずしも完全に避けられる
ことではないが、最終的に目指すべきなのは、あくまで家康公のような攻防自在の中正の境地であり、
そこに最終的に収まることでこそ、世の中も本当の平安や繁栄にあり付けるようになる。
うだる程にも保身まみれな時代が続いたからといって、漫画やSFでよく描かれているような「世紀末社会」
などを希求するのも考えものである。それこそ、カルト文化にとっての思うツボともなるのだから。
「父母没すと雖も、将に善を為さんとするに、父母の令名を貽さんと思いて、必ず果たす。
将に不善を為さんとするにも、父母の羞辱を貽さんことを思いて、必ず果たさず」
「すでに父母が没してからも、善を為すからには、父母の名を挙げることを念頭に置いて、必ず果たそうとする。
悪を為しそうになった時にも、そのせいで父母を辱めてしまうことを思い起こして、必ず踏みとどまるようにする。
(家の名誉や辱めは死後にまで続く。それは自分個人の保身ばかりに拘泥することで得たり守れたりするものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
信長は命知らずの破壊行為に及びすぎたし、秀吉は晩年に保身の鬼と化して人々からの信奉を失った。
この両者の両極性を反面教師として模範的な天下取りたり得たのが家康公であり、三方ヶ原の戦いで
先陣切って戦うことで命の危機に晒されたこともあれば、大坂の陣では血気にはやる若手の侍たちに制動
をかける側にも回っていた。かと思いきや、大やぐらに据えた最新型の大砲で大坂城を砲撃するなど、その
行いに出処進退自由自在な融通があり、これこそは保身にも捨て身にも振り切れない中正な生き方だといえる。
今が老齢期の秀吉のような、保身過剰ばかりに覆われている世の中だから、次は信長のような命知らずばかりに
世の中が覆われるべきだなどということもない。確かに、秦帝国崩壊後に項羽のような猪武者が暴れまわった
ようにして、保身に過ぎた世相の跳ねっ返りとしての捨て身屋の多発が生ずることも、必ずしも完全に避けられる
ことではないが、最終的に目指すべきなのは、あくまで家康公のような攻防自在の中正の境地であり、
そこに最終的に収まることでこそ、世の中も本当の平安や繁栄にあり付けるようになる。
うだる程にも保身まみれな時代が続いたからといって、漫画やSFでよく描かれているような「世紀末社会」
などを希求するのも考えものである。それこそ、カルト文化にとっての思うツボともなるのだから。
「父母没すと雖も、将に善を為さんとするに、父母の令名を貽さんと思いて、必ず果たす。
将に不善を為さんとするにも、父母の羞辱を貽さんことを思いて、必ず果たさず」
「すでに父母が没してからも、善を為すからには、父母の名を挙げることを念頭に置いて、必ず果たそうとする。
悪を為しそうになった時にも、そのせいで父母を辱めてしまうことを思い起こして、必ず踏みとどまるようにする。
(家の名誉や辱めは死後にまで続く。それは自分個人の保身ばかりに拘泥することで得たり守れたりするものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
古代のイスラエル宗教やギリシャ学の形成に携わった人間というのは、非常に少ない。
儒学の祖である孔子の下には3000人の弟子が集まっていたというし(「史記」孔子世家参照)、
その中でも六芸(易詩書礼楽春秋)に通じている高弟が72人に上ったという。その高弟の一人
である曾子などにも、常に七十人程度の従者がいたというから(「孟子)離婁章句下・三二参照)、
昔から儒学というものがいかに膨大な数の人々に支持され研鑽されてきたのかが分かるというもの。
片や、イエスに随順した弟子なんてのはたったの13人止まりで、その弟子すら、イエスの命令も
聞かずに居眠りしていたような体たらく。そのイエスの興したキリスト教が爆発的に広がったのも、
「信じるか殺されるか」という強圧的な態度によって宗教的覇権を拡大していったからに他ならず、
決して自分たちから進んでキリスト信仰を取り入れていったような人間がいたからでもない。
西洋では宗教だけでなく、学術のほうでも、古代のアカデミアの頃からの伝統として、学術を
完全な専門機関の寡占下に置き、在野の研究者の権威を一切認めないという姿勢が貫かれている。
科挙試験のような実地の役人登用試験こそが決定的な関門とされ、それまでの勉学は私塾に依ろうが
自学自習に依ろうが自由とされていた中国の学術姿勢などと比べても、「学問をする資格」自体を世間
一般から剥奪する性格が強かったため、学術の存在目的が全くの商工業目的に限られる様相をも呈した。
(アカデミアの如き専門機関を運営していくために、結局は商工組合などのスポンサーを必要とするから)
たとえば、秦帝国による法家支配が敷かれていた頃の中国などにおいても、在野の学者が勝手に
政治学的意見を述べたりする「横議」が法的に禁止されて、その禁を破った儒者を多数穴埋めにして
処刑するなどの暴政がまかり通っていた。とはいえ、市井に至るまでの儒学の普及率は、洋学のそれ
などとは段違いなものだから、家の壁に儒書を塗り込んで隠したり、狂人のフリをして摘発を免れたり
していた数多の儒者の協力にも基づいて秦帝国が討伐を受け、漢帝国が新たに樹立されもした。
儒学の祖である孔子の下には3000人の弟子が集まっていたというし(「史記」孔子世家参照)、
その中でも六芸(易詩書礼楽春秋)に通じている高弟が72人に上ったという。その高弟の一人
である曾子などにも、常に七十人程度の従者がいたというから(「孟子)離婁章句下・三二参照)、
昔から儒学というものがいかに膨大な数の人々に支持され研鑽されてきたのかが分かるというもの。
片や、イエスに随順した弟子なんてのはたったの13人止まりで、その弟子すら、イエスの命令も
聞かずに居眠りしていたような体たらく。そのイエスの興したキリスト教が爆発的に広がったのも、
「信じるか殺されるか」という強圧的な態度によって宗教的覇権を拡大していったからに他ならず、
決して自分たちから進んでキリスト信仰を取り入れていったような人間がいたからでもない。
西洋では宗教だけでなく、学術のほうでも、古代のアカデミアの頃からの伝統として、学術を
完全な専門機関の寡占下に置き、在野の研究者の権威を一切認めないという姿勢が貫かれている。
科挙試験のような実地の役人登用試験こそが決定的な関門とされ、それまでの勉学は私塾に依ろうが
自学自習に依ろうが自由とされていた中国の学術姿勢などと比べても、「学問をする資格」自体を世間
一般から剥奪する性格が強かったため、学術の存在目的が全くの商工業目的に限られる様相をも呈した。
(アカデミアの如き専門機関を運営していくために、結局は商工組合などのスポンサーを必要とするから)
たとえば、秦帝国による法家支配が敷かれていた頃の中国などにおいても、在野の学者が勝手に
政治学的意見を述べたりする「横議」が法的に禁止されて、その禁を破った儒者を多数穴埋めにして
処刑するなどの暴政がまかり通っていた。とはいえ、市井に至るまでの儒学の普及率は、洋学のそれ
などとは段違いなものだから、家の壁に儒書を塗り込んで隠したり、狂人のフリをして摘発を免れたり
していた数多の儒者の協力にも基づいて秦帝国が討伐を受け、漢帝国が新たに樹立されもした。
漢帝国においては市井での横議も許可され、私的な儒学の勉強によって能力を養ったものが
高官として登用されることなども頻発するようになった。それでこそ漢帝国も400年にわたる
治世を打ち立てられたわけで、学問が象牙の塔の内側などに隠し込まれずに、広く万人に
よって享受されていくことの有意義さが歴史的に証明された実例ともなっている。
徳川幕府開府後の江戸時代の日本においても、数多の経書や兵法書や仏典が官命で増刷され、
当時世界一の識字率と共に、人々が揃いも揃って最高級の学術文化を享受することができていた。
その頃に養われた民度の高さがあればこそ、明治以降、敗戦以降と徐々に強化されていった愚民化洗脳の
下でも、未だ日本人の民度が世界最高級の水準を保てている。「高尚なことは全て一部の人間に任せ、
あとの人間はみな畜生も同然ののんべんだらりとした生活を送る」という西洋的な俗悪支配が推進
され続けている中にも、未だ大多数の日本人が節度ある振る舞いを心がけようとしているのは、大昔に
先祖が取った杵柄としての、高尚な学術理解にも基づく本能からの品格が未だに残されているからだ。
大昔から「一部の宗教家や知識人と、大多数の愚民」という体制を続けてきた西洋社会などには、
当然そのような根拠に基づく民度の高さはない。民たち自身に自主的な民度の向上を促したところで
決してそんなことも不可能であり、権力者こそが高尚な文化を象牙の塔にしまい込む悪癖を払拭し、
人々に広く学問享受や勉学の余地を与えていくようにしなければ、これ以上の民度の向上も見込めない。
象牙の塔を打ち壊して大々的にその中身を開示してみた結果、洋学も聖書教もろくでもない代物で
あったことがバレてしまうというのならそれまでのことで、もうそんなものをもったいぶって
高嶺の花に掲げておくことから永久に辞めてしまうに越したことはないのである。
高官として登用されることなども頻発するようになった。それでこそ漢帝国も400年にわたる
治世を打ち立てられたわけで、学問が象牙の塔の内側などに隠し込まれずに、広く万人に
よって享受されていくことの有意義さが歴史的に証明された実例ともなっている。
徳川幕府開府後の江戸時代の日本においても、数多の経書や兵法書や仏典が官命で増刷され、
当時世界一の識字率と共に、人々が揃いも揃って最高級の学術文化を享受することができていた。
その頃に養われた民度の高さがあればこそ、明治以降、敗戦以降と徐々に強化されていった愚民化洗脳の
下でも、未だ日本人の民度が世界最高級の水準を保てている。「高尚なことは全て一部の人間に任せ、
あとの人間はみな畜生も同然ののんべんだらりとした生活を送る」という西洋的な俗悪支配が推進
され続けている中にも、未だ大多数の日本人が節度ある振る舞いを心がけようとしているのは、大昔に
先祖が取った杵柄としての、高尚な学術理解にも基づく本能からの品格が未だに残されているからだ。
大昔から「一部の宗教家や知識人と、大多数の愚民」という体制を続けてきた西洋社会などには、
当然そのような根拠に基づく民度の高さはない。民たち自身に自主的な民度の向上を促したところで
決してそんなことも不可能であり、権力者こそが高尚な文化を象牙の塔にしまい込む悪癖を払拭し、
人々に広く学問享受や勉学の余地を与えていくようにしなければ、これ以上の民度の向上も見込めない。
象牙の塔を打ち壊して大々的にその中身を開示してみた結果、洋学も聖書教もろくでもない代物で
あったことがバレてしまうというのならそれまでのことで、もうそんなものをもったいぶって
高嶺の花に掲げておくことから永久に辞めてしまうに越したことはないのである。
「君に事える者は量りて後に入り、入りて後に量らず。
凡そ人に乞い假るもの、人の為めに事え従う者も亦た然りとす。
故に上に怨み無く、下も罪から遠ざかるなり。密を窺わず、旁りに狎れず、旧故を道わず、戯色せず」
「主君に仕える者はまず可否を量って後に仕えるようにし、仕えてから量ったりしないようにする。
人に何かを乞い求めたり、君に限らず誰かに仕えたりする場合にも、必ずこれと同じようにする。
自分にとって秘密裏とされていることを濫りに窺ったりせず、無闇に馴れ馴れしくしたりせず、
昔の過ちを改めて指摘したりせず、巧言令色を弄んだりしないようにする。
(イエスの復活すら万人には秘密裏であるのに、上記のような正しい
礼儀に即してキリスト教が人々に受け入れられたはずもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
凡そ人に乞い假るもの、人の為めに事え従う者も亦た然りとす。
故に上に怨み無く、下も罪から遠ざかるなり。密を窺わず、旁りに狎れず、旧故を道わず、戯色せず」
「主君に仕える者はまず可否を量って後に仕えるようにし、仕えてから量ったりしないようにする。
人に何かを乞い求めたり、君に限らず誰かに仕えたりする場合にも、必ずこれと同じようにする。
自分にとって秘密裏とされていることを濫りに窺ったりせず、無闇に馴れ馴れしくしたりせず、
昔の過ちを改めて指摘したりせず、巧言令色を弄んだりしないようにする。
(イエスの復活すら万人には秘密裏であるのに、上記のような正しい
礼儀に即してキリスト教が人々に受け入れられたはずもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
善因楽果悪因苦果の因果応報に特定の超越的な基準などは存在せず、
全くの人間自身の定義に因っている。とはいえ人間は「五体を持つ胎生の霊長」
といったような特定の範囲内にのみ存在する生物だから、その範囲に即して
それぞれが善とみなすもの、悪とみなすものも自然と似通っていくことになる。
善とは本来楽果を期待すべきものであり、悪とは本来苦果を期待すべきもので
あると人間自身が言葉の交わし合いの中からも自然と定義していっているから、
誰しもが楽果に与れるものを善、苦果に苛まれるものを悪と、自然に定義しもする。
しかし、善因楽果悪因苦果の因果応報に何らかの超越的な基準が存在し、
その基準によって外的に善悪が決められるとしたなら、そうもいかなくなる。
自分が苦果の因子であるように思えるものも善である可能性があることになるし、
楽果の因子であるように思えるものが悪である可能性もまたあることになる。
善因楽果悪因苦果を人工的に規定しようとする試みの一つが実定法であり、
仮に実定法で「強盗殺人をしなければ死刑」と規定されていたために、強盗殺人を
しなかっただけで死刑になるとしたなら、それが苦果であるために、強盗殺人をしない
ことが悪であり、強盗殺人を行うことが比較的な善であることにすらなってしまう。
旧約冒頭のモーセ五書を「律法(トーラー)」とする犯罪聖書もかくの如くであり、
トーラーに規定されている法規の大半は、自然に人々が定義する善悪などとは
大幅に乖離した、虚構の善悪を取り決める「徒法」の集成となっている。人間個人の
自然な感覚とは全く以て無関係なところに、無機質な虚構の倫理構造を構築していく
そのあり方は、近代法学に基づく法治主義社会などにも少なからず応用されてしまっていて、
六法の如き法文構造による倫理的締め付けの強化が、人々に極度の精神的怠慢をもたらし、
もはや人間自身の自然な感覚に基づく善悪などはなかったことにすらされてしまっている。
全くの人間自身の定義に因っている。とはいえ人間は「五体を持つ胎生の霊長」
といったような特定の範囲内にのみ存在する生物だから、その範囲に即して
それぞれが善とみなすもの、悪とみなすものも自然と似通っていくことになる。
善とは本来楽果を期待すべきものであり、悪とは本来苦果を期待すべきもので
あると人間自身が言葉の交わし合いの中からも自然と定義していっているから、
誰しもが楽果に与れるものを善、苦果に苛まれるものを悪と、自然に定義しもする。
しかし、善因楽果悪因苦果の因果応報に何らかの超越的な基準が存在し、
その基準によって外的に善悪が決められるとしたなら、そうもいかなくなる。
自分が苦果の因子であるように思えるものも善である可能性があることになるし、
楽果の因子であるように思えるものが悪である可能性もまたあることになる。
善因楽果悪因苦果を人工的に規定しようとする試みの一つが実定法であり、
仮に実定法で「強盗殺人をしなければ死刑」と規定されていたために、強盗殺人を
しなかっただけで死刑になるとしたなら、それが苦果であるために、強盗殺人をしない
ことが悪であり、強盗殺人を行うことが比較的な善であることにすらなってしまう。
旧約冒頭のモーセ五書を「律法(トーラー)」とする犯罪聖書もかくの如くであり、
トーラーに規定されている法規の大半は、自然に人々が定義する善悪などとは
大幅に乖離した、虚構の善悪を取り決める「徒法」の集成となっている。人間個人の
自然な感覚とは全く以て無関係なところに、無機質な虚構の倫理構造を構築していく
そのあり方は、近代法学に基づく法治主義社会などにも少なからず応用されてしまっていて、
六法の如き法文構造による倫理的締め付けの強化が、人々に極度の精神的怠慢をもたらし、
もはや人間自身の自然な感覚に基づく善悪などはなかったことにすらされてしまっている。
ある程度以上に大規模な社会であれば、古今東西を問わず法制による社会管理というものが
多少は必要となるものである。とはいえ当該の社会が徳治社会であるのならば、法文による
善悪の規定などよりも、人間自身が自然と合致させる普遍的善悪のほうをより尊重する。
それすらなくなるのが法治社会であり、何も大社会だからといって必ずしも法治社会で
なければならないわけではなく、法治社会には必ず徳治を上乗せすることができる。
人間自身の自然な取り決めから乖離した所に作為的な善悪を置く、それを根絶すべきだ
などとまでは言わないが、少なくともそんな行いを良質なものだなどと見なすべきではない。
「神が即した法規に即して善を為し、神の計らいによって楽果を受ける」というような
虚構の因果応報の流布も大概にすべきであり、そんな所に真の善因楽果などあり得ない
とすら考えてしかるべきだ。そんな所に全てを還元するというのなら、かえって
それによる甚大な悪因苦果の最終的なぶり返しこそが危ぶまれるというものだ。
「仁は天下の表なり、義は天下の制なり、報は天下の利なり」
「仁は天下に遍くその正大さを表すものであり、義はその正大さに即して天下を制するものである。
そしてその仁義の報いが天下の大利となる。(大乗仏教の唯識思想などが構築される500年以上前から、
善因楽果の因果応報が自明なものとして把捉されている。仁徳に超越者の介在の余地などはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
多少は必要となるものである。とはいえ当該の社会が徳治社会であるのならば、法文による
善悪の規定などよりも、人間自身が自然と合致させる普遍的善悪のほうをより尊重する。
それすらなくなるのが法治社会であり、何も大社会だからといって必ずしも法治社会で
なければならないわけではなく、法治社会には必ず徳治を上乗せすることができる。
人間自身の自然な取り決めから乖離した所に作為的な善悪を置く、それを根絶すべきだ
などとまでは言わないが、少なくともそんな行いを良質なものだなどと見なすべきではない。
「神が即した法規に即して善を為し、神の計らいによって楽果を受ける」というような
虚構の因果応報の流布も大概にすべきであり、そんな所に真の善因楽果などあり得ない
とすら考えてしかるべきだ。そんな所に全てを還元するというのなら、かえって
それによる甚大な悪因苦果の最終的なぶり返しこそが危ぶまれるというものだ。
「仁は天下の表なり、義は天下の制なり、報は天下の利なり」
「仁は天下に遍くその正大さを表すものであり、義はその正大さに即して天下を制するものである。
そしてその仁義の報いが天下の大利となる。(大乗仏教の唯識思想などが構築される500年以上前から、
善因楽果の因果応報が自明なものとして把捉されている。仁徳に超越者の介在の余地などはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
なぜ「しれっと」した書き込みは連続規制ではないのですか
明和は今日で終わり。書き込みも無意味で無駄。
「聖書」の話題になるとしつこいのがいるからなぁ。
情報傍受システムで何もつくるきにもならない。ほんまに
しょうーもないのはその手段と結局自分等のはばきかせ。
明和は今日で終わり。書き込みも無意味で無駄。
「聖書」の話題になるとしつこいのがいるからなぁ。
情報傍受システムで何もつくるきにもならない。ほんまに
しょうーもないのはその手段と結局自分等のはばきかせ。
「最終的な安楽への到達」というものが、結局のところ、東洋では一貫して劣後されている。
極楽浄土への往生を乞い願う浄土教ですら、来世に往生する「体失往生」よりも、
現世でありのままに往生する「不体失往生」のほうが本懐だとされている。
他力信仰としてみれば不自然な気もするが、生きてるうちからの成道による有余涅槃があって、
死んで無余涅槃に達するという仏法のあり方に即すれば、むしろこのほうが至当となっている。
>>259の「礼記」からの引用を見ても分かるように、東洋文化というのは概ね、善因楽果悪因苦果の
罪福異熟に対する漠然とした察知が伴っている。罪福異熟を特に理論的に究明しているのは大乗仏教の
唯識学派だが、別に唯識派に限らずとも、他の多くの東洋思想哲学宗教が罪福異熟に相当する法則を予め
諾っている。また、それぐらいは当然のこととして踏まえているような教学(儒学や仏教など)こそが正統
とされ、それすら踏まえられていないような教学(縦横家や害為正法外道など)こそが異端ともされている。
自らの身命を損なってまで孝養に務められた者はいない、孝養にすら務められないのだから、
天下のための仁行などにも当然務められはしないというのが、儒家の基本的な姿勢でもある。
この考え方も、善因楽果の諾いに強固に根ざしていて、もしもこの逆に、自殺行為や親子兄弟での
殺し合いなどによって天国の到来のような結果が得られるとするならば、これは「悪因楽果」を肯定して
いることになり、実際にキリスト教などはかくの如き罪福異熟に違背する法則を肯定しているわけである。
「苦難の先に福徳が待っている」と言えばいかにも聞こえがよく、実際に孟子も告子章句下・一五で
それに似たことを言ったりもしているわけだが、楽果の因子となる行いはあくまで善行だから、
善行を為すにことかけての「浩然の気」からなる清々しさが必ず付帯している。だから、
行いとしてどんなに苦難であるとした所で、悪行を為す時に伴うような、疚しさからなる
不健全な苦しみなどは伴わない。だから「(悪徳商人のように)肩をそびやかして諂い笑うのは、
真夏の炎天下に田畑を耕すよりも疲れる(滕文公章句下・七)」ともいうのである。
極楽浄土への往生を乞い願う浄土教ですら、来世に往生する「体失往生」よりも、
現世でありのままに往生する「不体失往生」のほうが本懐だとされている。
他力信仰としてみれば不自然な気もするが、生きてるうちからの成道による有余涅槃があって、
死んで無余涅槃に達するという仏法のあり方に即すれば、むしろこのほうが至当となっている。
>>259の「礼記」からの引用を見ても分かるように、東洋文化というのは概ね、善因楽果悪因苦果の
罪福異熟に対する漠然とした察知が伴っている。罪福異熟を特に理論的に究明しているのは大乗仏教の
唯識学派だが、別に唯識派に限らずとも、他の多くの東洋思想哲学宗教が罪福異熟に相当する法則を予め
諾っている。また、それぐらいは当然のこととして踏まえているような教学(儒学や仏教など)こそが正統
とされ、それすら踏まえられていないような教学(縦横家や害為正法外道など)こそが異端ともされている。
自らの身命を損なってまで孝養に務められた者はいない、孝養にすら務められないのだから、
天下のための仁行などにも当然務められはしないというのが、儒家の基本的な姿勢でもある。
この考え方も、善因楽果の諾いに強固に根ざしていて、もしもこの逆に、自殺行為や親子兄弟での
殺し合いなどによって天国の到来のような結果が得られるとするならば、これは「悪因楽果」を肯定して
いることになり、実際にキリスト教などはかくの如き罪福異熟に違背する法則を肯定しているわけである。
「苦難の先に福徳が待っている」と言えばいかにも聞こえがよく、実際に孟子も告子章句下・一五で
それに似たことを言ったりもしているわけだが、楽果の因子となる行いはあくまで善行だから、
善行を為すにことかけての「浩然の気」からなる清々しさが必ず付帯している。だから、
行いとしてどんなに苦難であるとした所で、悪行を為す時に伴うような、疚しさからなる
不健全な苦しみなどは伴わない。だから「(悪徳商人のように)肩をそびやかして諂い笑うのは、
真夏の炎天下に田畑を耕すよりも疲れる(滕文公章句下・七)」ともいうのである。
浩然の気からなる清々しさすら伴わない、疚しさばかりにまみれた不健全な苦しみの先に、楽果が
期待できるなんてことまでは、さすがにない。それは罪福異熟の絶対真理にも即して断じられることだし、
上記のような儒学レベルの漠然とした論及に即しても、納得づくめで断定する他のないものである。
自分が強盗殺人を犯して逃亡し回っていて、当局の操作から逃げ回ってもはやヘトヘトでいる、それ程にも
苦労したから罪が報われるなんていう、都合のいい話が当然あるはずもなく、往生際も悪く逃げ回り続けて
来たことによる罪状が新たに加味されて、一層の重刑が科されるというばかりのことにしかならない。
「悪因楽果」などというものが存在しない実例もかくの如くであり、どこにも不思議な所はないといえる。
努力して苦労するにも、そうすべき処と、そうすべきでない処がある。考えてみれば、当たり前のことである。
「昔、仲尼蜡賓に与り、事畢りて、観の上に出て遊び、喟然と而て嘆く。
仲尼の嘆くは、蓋し魯を嘆くなり。言偃側らに在りて曰く、君子何を嘆く。孔子曰く、
大道の行われるや、三代の英に与れる、丘未だ之れに逮ばざるなり、而こうして志有り」
「昔、孔子が魯の蜡祭に賓客として招かれたとき、祭事の後に観台の上に登って、溜息をしながら嘆いた。
孔子が嘆いたのは魯の現状を嘆いてのことだった。近侍していた弟子の言偃が『なぜ嘆いているのですか』
と問うと、孔子は答えた。『夏殷周の三代の頃には、英智によって世に大道が敷かれていたというのに、
私は未だそれに及ぶことができない。志しだけはあるというのに』(その嘆き方も聖人君子ならではのもので、
心の中ではなく天下に大道が敷かれることこそが望みなのだから、下手な気休めも決して及びはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
期待できるなんてことまでは、さすがにない。それは罪福異熟の絶対真理にも即して断じられることだし、
上記のような儒学レベルの漠然とした論及に即しても、納得づくめで断定する他のないものである。
自分が強盗殺人を犯して逃亡し回っていて、当局の操作から逃げ回ってもはやヘトヘトでいる、それ程にも
苦労したから罪が報われるなんていう、都合のいい話が当然あるはずもなく、往生際も悪く逃げ回り続けて
来たことによる罪状が新たに加味されて、一層の重刑が科されるというばかりのことにしかならない。
「悪因楽果」などというものが存在しない実例もかくの如くであり、どこにも不思議な所はないといえる。
努力して苦労するにも、そうすべき処と、そうすべきでない処がある。考えてみれば、当たり前のことである。
「昔、仲尼蜡賓に与り、事畢りて、観の上に出て遊び、喟然と而て嘆く。
仲尼の嘆くは、蓋し魯を嘆くなり。言偃側らに在りて曰く、君子何を嘆く。孔子曰く、
大道の行われるや、三代の英に与れる、丘未だ之れに逮ばざるなり、而こうして志有り」
「昔、孔子が魯の蜡祭に賓客として招かれたとき、祭事の後に観台の上に登って、溜息をしながら嘆いた。
孔子が嘆いたのは魯の現状を嘆いてのことだった。近侍していた弟子の言偃が『なぜ嘆いているのですか』
と問うと、孔子は答えた。『夏殷周の三代の頃には、英智によって世に大道が敷かれていたというのに、
私は未だそれに及ぶことができない。志しだけはあるというのに』(その嘆き方も聖人君子ならではのもので、
心の中ではなく天下に大道が敷かれることこそが望みなのだから、下手な気休めも決して及びはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
悟りをひらいた者こそは、悲観を捨てて楽観(常楽我浄)に入るのでも
あるからこそ、西洋人などなら「ニヒリズムだ」などとも決め付けかねない
ような教義的特徴をも持つ仏教が、東洋では真摯に貴ばれて来てもいる。
厳格すぎて気が狂う者も昔はよく居たという、座禅修行などを通じて悟りをひらくことで、
かえって「蠢動含霊のウジ虫に至るまで価値があることに気づく(山本玄峰)」という。
禅仏教こそは特定の神を尊崇したりすることもない、ニヒリズムにも最も近しい教義を持つが、
ニーチェやヒトラーの如き西洋のニヒリストと違って、禅僧は無宗教的な愛執に至るまで
全ての情念を捨離しきって、無念無想の極みの先にこそ悟りをひらく。そしてその悟りこそは
無闇に事物を軽視したり嫌悪したりすることもない、歓喜と恭敬とを兼ね備えてもいるのである。
それは、ニヒリズムを抱いた人間が必ずしも到れるような境地ではなく、適切な精進修行も介さない
限りにおいては到底、到れるものでもない。特に、無宗教的な愛執に至るまでの全ての情念を俗世で
振り切ることが極めて困難で、それに失敗してしまうからこそ、単なるニヒリストというのは概ね、
悲観にまみれた情念に囚われて、万事万物に対する軽蔑や嫌悪を抱くようになってしまうのである。
その悲観的な情念を楽観的な情念に転換するために、ニヒリストから神格信仰者へと転向するとする、
それが先祖崇拝程度に止まるのなら決して悪くはないし、架空の神仏を信仰対象とするのであっても、
当該の神仏の品質がそれなりに上等であれば、情念そのものの制御が効いて問題を来すことがない。
しかし、信仰の対象が全知全能の絶対超越神などであるために、まるで何でも買ってくれる
売春相手を溺愛する娼婦か何かのような心境に自らが陥ったとする。そしたらそのような対象を
信仰してしまったせいでどこまでも情念が激化することになり、その情念が「失神」によって楽観から
悲観に転じたりしたならば、自殺級の悪念に自らが見舞われるようなことにすらなってしまうのである。
あるからこそ、西洋人などなら「ニヒリズムだ」などとも決め付けかねない
ような教義的特徴をも持つ仏教が、東洋では真摯に貴ばれて来てもいる。
厳格すぎて気が狂う者も昔はよく居たという、座禅修行などを通じて悟りをひらくことで、
かえって「蠢動含霊のウジ虫に至るまで価値があることに気づく(山本玄峰)」という。
禅仏教こそは特定の神を尊崇したりすることもない、ニヒリズムにも最も近しい教義を持つが、
ニーチェやヒトラーの如き西洋のニヒリストと違って、禅僧は無宗教的な愛執に至るまで
全ての情念を捨離しきって、無念無想の極みの先にこそ悟りをひらく。そしてその悟りこそは
無闇に事物を軽視したり嫌悪したりすることもない、歓喜と恭敬とを兼ね備えてもいるのである。
それは、ニヒリズムを抱いた人間が必ずしも到れるような境地ではなく、適切な精進修行も介さない
限りにおいては到底、到れるものでもない。特に、無宗教的な愛執に至るまでの全ての情念を俗世で
振り切ることが極めて困難で、それに失敗してしまうからこそ、単なるニヒリストというのは概ね、
悲観にまみれた情念に囚われて、万事万物に対する軽蔑や嫌悪を抱くようになってしまうのである。
その悲観的な情念を楽観的な情念に転換するために、ニヒリストから神格信仰者へと転向するとする、
それが先祖崇拝程度に止まるのなら決して悪くはないし、架空の神仏を信仰対象とするのであっても、
当該の神仏の品質がそれなりに上等であれば、情念そのものの制御が効いて問題を来すことがない。
しかし、信仰の対象が全知全能の絶対超越神などであるために、まるで何でも買ってくれる
売春相手を溺愛する娼婦か何かのような心境に自らが陥ったとする。そしたらそのような対象を
信仰してしまったせいでどこまでも情念が激化することになり、その情念が「失神」によって楽観から
悲観に転じたりしたならば、自殺級の悪念に自らが見舞われるようなことにすらなってしまうのである。
何もかもの願いを叶えてくれる全能の神など、この世界や宇宙には実在しない。
だからそんな神に仮託しての全能ごっこなどもいつかは潰えて、全能の神への狂信なども
強制的に途絶するしかなくなってしまう。そしたら今まで楽観的でいられた激烈な情念が、
一挙に悲観へと振れきってしまうしかなくなる。ちょうど躁病患者が鬱病患者に転換する
ようなことになり、躁がひどかったものほど、鬱に振れ切った時の自殺願望なども強くなる。
諸行無常の絶対真理にも即して、全能の超越神などに依存し過ぎた人間はそのような運命に
必ず見舞われることともなってしまうのだから、超越神への依存などによって情念を無闇に
激化させたりするようなことからして、あるべきでないことだといえる。本格の仏者のように
情念を丸ごと捨てきるのもなかなか難しいことではあるにしろ、最低でも、依存対象をあくまで
先祖やまともな神仏などに止めて、依存性からなる情念の激化にも歯止めをかけるべきだといえる。
「往く攸有るに利ろしからず、小人長ずればなり。
順に而て之れ止まる、象を観ればなり。君子消息盈虚を尚ぶ、天の行いなればなり」
「小人がその勢力を伸ばしている時には、何もかもが虚しくなって、何をするにも適さない。
このような事情をも真摯に見極めて、これに従って君子は行動を控える。天下の事情の
消息盈虚をよく尊んで蔑ろにしたりしないのも、全てが天の行いであるからに他ならぬ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・剥・彖伝より)
だからそんな神に仮託しての全能ごっこなどもいつかは潰えて、全能の神への狂信なども
強制的に途絶するしかなくなってしまう。そしたら今まで楽観的でいられた激烈な情念が、
一挙に悲観へと振れきってしまうしかなくなる。ちょうど躁病患者が鬱病患者に転換する
ようなことになり、躁がひどかったものほど、鬱に振れ切った時の自殺願望なども強くなる。
諸行無常の絶対真理にも即して、全能の超越神などに依存し過ぎた人間はそのような運命に
必ず見舞われることともなってしまうのだから、超越神への依存などによって情念を無闇に
激化させたりするようなことからして、あるべきでないことだといえる。本格の仏者のように
情念を丸ごと捨てきるのもなかなか難しいことではあるにしろ、最低でも、依存対象をあくまで
先祖やまともな神仏などに止めて、依存性からなる情念の激化にも歯止めをかけるべきだといえる。
「往く攸有るに利ろしからず、小人長ずればなり。
順に而て之れ止まる、象を観ればなり。君子消息盈虚を尚ぶ、天の行いなればなり」
「小人がその勢力を伸ばしている時には、何もかもが虚しくなって、何をするにも適さない。
このような事情をも真摯に見極めて、これに従って君子は行動を控える。天下の事情の
消息盈虚をよく尊んで蔑ろにしたりしないのも、全てが天の行いであるからに他ならぬ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・剥・彖伝より)
「焉んぞ仁人位に在る有りて、民を罔みして為むべけんや(滕文公章句上・三の重複文を引用済み)」
「どうして仁者が為政を執り行う上で、民を網で摸るような真似をすることが許されようか。
(『民を無みする』とも解す場合がある。『民を網する』と解すのは朱子の説)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)
たとえば、自由主義市場での経済戦争なり、国際紛争なりを煽ることで、万民の万民に対する
闘争状態を画策したとする。所詮はこの世界の富の絶対量も限られたものだから、闘争に勝って
富を得たものと、闘争に敗れて餓死級の貧困に見舞われるものとの両極に世界が振れきってしまう、
そのような勝ち負けの操作を行うことも、市場経済の金融システムを取り仕切っている人間などには
可能なことであり、金利の不正操作などの手続きを通じて、裏から勝ち負けを篩い分けられるのである。
そういった企てが、実際に「民を網する」行為ともなるわけで、許しがたいのは、
あくまでイカサマの博打経済に世界を司らせようとしている点にある。
孟子も反共産主義者であり(滕文公章句上・四参照)、市場にかける税などもできる限り簡素化
すべきだとの論陣を敷いているが(公孫丑章句上・五参照)、同時に無闇な商品の横流しのような、
行き過ぎた投機を戒めてもいる(公孫丑章句下・一〇参照)。上記のような言葉を述べた孟子と
いえども、市場経済の自由さを決して否定するものではないが、そこにイカサマが介在すること
まではさすがによしせず、イカサマの横行による裏からの統制が行われることを全くの非としている。
民を網するようなことがなくなったからといって、自由主義的な市場経済が滞るわけでもない。
それどころか、裏からの統制すらなくなることで、本物の自由主義市場こそが現出することともなる。
それはたとえば、江戸時代の日本の市場経済などがほぼその条件を満たせていたものであり、武士が
貧窮して刀を質屋に入れるほどにも、市場への介入が皆無であったことから発展した日本の市場経済は、
今に至っては、不正な統制を裏から行い続けてきた欧米経済をも圧倒するまでに至っている。
「どうして仁者が為政を執り行う上で、民を網で摸るような真似をすることが許されようか。
(『民を無みする』とも解す場合がある。『民を網する』と解すのは朱子の説)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)
たとえば、自由主義市場での経済戦争なり、国際紛争なりを煽ることで、万民の万民に対する
闘争状態を画策したとする。所詮はこの世界の富の絶対量も限られたものだから、闘争に勝って
富を得たものと、闘争に敗れて餓死級の貧困に見舞われるものとの両極に世界が振れきってしまう、
そのような勝ち負けの操作を行うことも、市場経済の金融システムを取り仕切っている人間などには
可能なことであり、金利の不正操作などの手続きを通じて、裏から勝ち負けを篩い分けられるのである。
そういった企てが、実際に「民を網する」行為ともなるわけで、許しがたいのは、
あくまでイカサマの博打経済に世界を司らせようとしている点にある。
孟子も反共産主義者であり(滕文公章句上・四参照)、市場にかける税などもできる限り簡素化
すべきだとの論陣を敷いているが(公孫丑章句上・五参照)、同時に無闇な商品の横流しのような、
行き過ぎた投機を戒めてもいる(公孫丑章句下・一〇参照)。上記のような言葉を述べた孟子と
いえども、市場経済の自由さを決して否定するものではないが、そこにイカサマが介在すること
まではさすがによしせず、イカサマの横行による裏からの統制が行われることを全くの非としている。
民を網するようなことがなくなったからといって、自由主義的な市場経済が滞るわけでもない。
それどころか、裏からの統制すらなくなることで、本物の自由主義市場こそが現出することともなる。
それはたとえば、江戸時代の日本の市場経済などがほぼその条件を満たせていたものであり、武士が
貧窮して刀を質屋に入れるほどにも、市場への介入が皆無であったことから発展した日本の市場経済は、
今に至っては、不正な統制を裏から行い続けてきた欧米経済をも圧倒するまでに至っている。
民を網するがごとき、イカサマの統制が裏から介され続けて来たことで、欧米経済を中心とする
世界経済は非常識な勢いでの膨張を続けてきた。稼働すればするほど金融システムの元締めに
暴利が流出して行ってしまうことからなる不安定さが、人々に狂乱的な経済競争をけしかけて来た。
それがもはや飽和点に達して、これ以上の膨張を維持するためには世界戦争すら避けられない様相を
呈してしまっている。当然、次の世界戦争では核攻撃により破滅的被害を被ることが避けられないので、
これ以上の"民を網する"イカサマ経済の膨張すなわち人類滅亡の事態ともあいなってしまっているのである。
そのような自体を回避するために必要なのは、自由主義経済全体の閉鎖ではなく、民を網する
イカサマ経済の終了である。無闇な投機の放任なり、金利の不正操作なり、各国中央銀行の談合なりの、
むしろ市場の健全性を損なってしまっているような要素こそを駆逐し、まともな商売を心がける
者には、今まで以上に自由なサービスを推進していけるような余地をも与えてやるのだ。
「是の月や、司空に命じて曰く、時雨将に降らんとし、下水上騰せん。
〜田獵の罝罘、羅網、畢翳、獣に騊わすの薬、九門より出す毋れと」
「川水の氾濫の危険もある雨期に至り、国土の保全を司る役人に命じ、
大小の鳥獣の狩りのために用いる網や麻酔薬などを城門から持ち出さないようにさせる。
(旧約創世記やイエスが到来を予言しているような非常時に、網を用いるような大規模な狩りは行わない。
日本の漁師なども当然、台風や暴風雨などの到来した時期の漁は休む。火事場泥棒的狩漁の禁)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
世界経済は非常識な勢いでの膨張を続けてきた。稼働すればするほど金融システムの元締めに
暴利が流出して行ってしまうことからなる不安定さが、人々に狂乱的な経済競争をけしかけて来た。
それがもはや飽和点に達して、これ以上の膨張を維持するためには世界戦争すら避けられない様相を
呈してしまっている。当然、次の世界戦争では核攻撃により破滅的被害を被ることが避けられないので、
これ以上の"民を網する"イカサマ経済の膨張すなわち人類滅亡の事態ともあいなってしまっているのである。
そのような自体を回避するために必要なのは、自由主義経済全体の閉鎖ではなく、民を網する
イカサマ経済の終了である。無闇な投機の放任なり、金利の不正操作なり、各国中央銀行の談合なりの、
むしろ市場の健全性を損なってしまっているような要素こそを駆逐し、まともな商売を心がける
者には、今まで以上に自由なサービスを推進していけるような余地をも与えてやるのだ。
「是の月や、司空に命じて曰く、時雨将に降らんとし、下水上騰せん。
〜田獵の罝罘、羅網、畢翳、獣に騊わすの薬、九門より出す毋れと」
「川水の氾濫の危険もある雨期に至り、国土の保全を司る役人に命じ、
大小の鳥獣の狩りのために用いる網や麻酔薬などを城門から持ち出さないようにさせる。
(旧約創世記やイエスが到来を予言しているような非常時に、網を用いるような大規模な狩りは行わない。
日本の漁師なども当然、台風や暴風雨などの到来した時期の漁は休む。火事場泥棒的狩漁の禁)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
試練は試練、それ自体はどこまでも苦しみ。
ただその試練が仁徳のような正義の実現のためのものであるからには、
善行の一環であるが故の善因楽果としての浩然の気が伴う。
だから、相当に厳しい試練の中でもケロッとしていられたりする。
戦時中、日本軍がフィリピンのバターン半島で行った、アメリカ兵やフィリピン兵の
捕虜に対する徒歩での移動措置、いわゆる「死の行進」で、日本兵は別に捕虜たちに
虐待を強いたようなつもりはなかった。自分たちが「当然このぐらいは可能だろう」
と考える程度の、日に約20キロの、炎天下での栄養不足状態での行進を強いた結果、
多数のアメリカ兵らが飢えや疲労などで死亡した。別に第二次世界大戦における日本の
戦いに必ずしも大義があったなどとも言えないが、少なくとも末端の兵士あたりは
自分たちの行いがアジア諸国の白人支配からの解放のような正当な目的を伴っていると
堅く信じていたから、米兵あたりにやらせれば即死してしまうような過酷な任務すらをも、
浩然の気からなるすがすがしさと共にたやすくこなしてしまえていたのである。
そういったすかすがしさは、戦後の日本人にこそなくなってしまった。
ただひたすら経済的覇権を拡大していくエコノミック・アニマルとしての勤めようを
何とか美化しようとしてみた所で、やはりそこに浩然の気までは伴っていないわけだから、
「ただひたすら過労の苦痛を耐え忍んで」というような表現の仕方しかしようがない。
それこそ、昭和天皇の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という玉音放送の一文にも
符合しているわけだが(この一文を考案したのが>>263で挙げた山本玄峰老師でもある)、
今の日本ではもはや社会的な行いの全てが浩然の気のすがすがしさ抜きでしかあり得ないから、
「耐え忍び難いところをあえて耐え忍んで」という所に、全てを還元するしかないのである。
ただその試練が仁徳のような正義の実現のためのものであるからには、
善行の一環であるが故の善因楽果としての浩然の気が伴う。
だから、相当に厳しい試練の中でもケロッとしていられたりする。
戦時中、日本軍がフィリピンのバターン半島で行った、アメリカ兵やフィリピン兵の
捕虜に対する徒歩での移動措置、いわゆる「死の行進」で、日本兵は別に捕虜たちに
虐待を強いたようなつもりはなかった。自分たちが「当然このぐらいは可能だろう」
と考える程度の、日に約20キロの、炎天下での栄養不足状態での行進を強いた結果、
多数のアメリカ兵らが飢えや疲労などで死亡した。別に第二次世界大戦における日本の
戦いに必ずしも大義があったなどとも言えないが、少なくとも末端の兵士あたりは
自分たちの行いがアジア諸国の白人支配からの解放のような正当な目的を伴っていると
堅く信じていたから、米兵あたりにやらせれば即死してしまうような過酷な任務すらをも、
浩然の気からなるすがすがしさと共にたやすくこなしてしまえていたのである。
そういったすかすがしさは、戦後の日本人にこそなくなってしまった。
ただひたすら経済的覇権を拡大していくエコノミック・アニマルとしての勤めようを
何とか美化しようとしてみた所で、やはりそこに浩然の気までは伴っていないわけだから、
「ただひたすら過労の苦痛を耐え忍んで」というような表現の仕方しかしようがない。
それこそ、昭和天皇の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という玉音放送の一文にも
符合しているわけだが(この一文を考案したのが>>263で挙げた山本玄峰老師でもある)、
今の日本ではもはや社会的な行いの全てが浩然の気のすがすがしさ抜きでしかあり得ないから、
「耐え忍び難いところをあえて耐え忍んで」という所に、全てを還元するしかないのである。
戦前といえども、政財界や軍部の上層部などの腐敗が著しかったことには変わりなく、
決して当時に戻りすらすればいいなんてはずもないわけだが、未だ徳育教育も行われていた頃の
庶民の道徳観の高さなどには、確かに見習うに値するものがあり、その頃の生存者が日本社会の
上層部にもある程度食い込めていたからこそ、ほんのこの前まで日本社会も最悪級の腐敗までは
どうにか免れられてもいた。もはやその時代も過ぎて、戦後生まれの団塊世代が世の中のトップ
に君臨し始めたために、世相の腐敗もついに極まり、権力者に見るべき所が少しもなくなった。
円高の野放しによる国内産業の空洞化が著しい一方、日本人だからこそこなせていた
過酷な生産労働を中国やインドなどに移管した結果、大きな反発を招き、領土問題などに
ことかけての反日運動を激化させる温床ともなっている。日本の権力者の行いにも、道義性の
欠片すら認められず、ただひたすら自分たちの利益を維持や拡大していこうとする魂胆ばかりが
見え透いているため、尖閣諸島などの領土問題については日本に分があるにしても、不満の矛先を
日本に向けたがる今の中国人の心境も、全く看過し去っていいものであるともいえないのである。
徳育教育も受けていた戦前生まれの日本人がトップを走っていた頃には、「耐え難きを耐え、
忍び難きを忍び」でも何とか持っていたが、それも過ぎ去った今となっては、もはやこのまま
でもいけない。奴隷か牛馬の如く苦しみに煩悶しつつこき使われるばかりでは道義性は伴わず、
浩然の気を保てるぐらいであってこそ道義性も保てる。その判別能力のある者が世の中から
完全に消え去ってしまった今、むしろ浩然の気と共に物事を為していくことを人工的に矯正して
いく必要性すらもが生じている。徳育教育の復活などもその手段になることはなるが、学生への
徳育が有効性を持つぐらいに世の中の側から変革していくことが、やはり必要ともなるだろう。
決して当時に戻りすらすればいいなんてはずもないわけだが、未だ徳育教育も行われていた頃の
庶民の道徳観の高さなどには、確かに見習うに値するものがあり、その頃の生存者が日本社会の
上層部にもある程度食い込めていたからこそ、ほんのこの前まで日本社会も最悪級の腐敗までは
どうにか免れられてもいた。もはやその時代も過ぎて、戦後生まれの団塊世代が世の中のトップ
に君臨し始めたために、世相の腐敗もついに極まり、権力者に見るべき所が少しもなくなった。
円高の野放しによる国内産業の空洞化が著しい一方、日本人だからこそこなせていた
過酷な生産労働を中国やインドなどに移管した結果、大きな反発を招き、領土問題などに
ことかけての反日運動を激化させる温床ともなっている。日本の権力者の行いにも、道義性の
欠片すら認められず、ただひたすら自分たちの利益を維持や拡大していこうとする魂胆ばかりが
見え透いているため、尖閣諸島などの領土問題については日本に分があるにしても、不満の矛先を
日本に向けたがる今の中国人の心境も、全く看過し去っていいものであるともいえないのである。
徳育教育も受けていた戦前生まれの日本人がトップを走っていた頃には、「耐え難きを耐え、
忍び難きを忍び」でも何とか持っていたが、それも過ぎ去った今となっては、もはやこのまま
でもいけない。奴隷か牛馬の如く苦しみに煩悶しつつこき使われるばかりでは道義性は伴わず、
浩然の気を保てるぐらいであってこそ道義性も保てる。その判別能力のある者が世の中から
完全に消え去ってしまった今、むしろ浩然の気と共に物事を為していくことを人工的に矯正して
いく必要性すらもが生じている。徳育教育の復活などもその手段になることはなるが、学生への
徳育が有効性を持つぐらいに世の中の側から変革していくことが、やはり必要ともなるだろう。
「予れ其れ懲りて、後の患えを鋆まん。予れ蜂を荓いて、自ら辛螫を求むる莫し」
「私は苦しみには素直に懲りて、後の患いを減らしていくことに務める。自分から
蜂をつついて刺されるような、痛苦をあえて求めるような馬鹿な真似はしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・小鋆より)
「私は苦しみには素直に懲りて、後の患いを減らしていくことに務める。自分から
蜂をつついて刺されるような、痛苦をあえて求めるような馬鹿な真似はしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・小鋆より)
「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草に之れ風をくわうれば、必ずふす(既出)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)
犯罪聖書の暴言と比べれば、真正聖書における上記のような表現上の「風」が、
人々に良質な影響を及ぼす徳化の比喩であることが如実ともなっている。
「草に対する風」という表現は、いかにも下民に形而上的な立場から君臨する何者かであるらしい。
その形而上的な何者かが真正聖書中では「君子」と表現されていて、君子は「立派な人間」と共に、
「正規の為政者」という意味を帯びている。孔子や孟子も正規家臣としての士官をあくまで志し続けていたように、
下民に対して形而上的な存在として君臨するからには、それなりの正式な手続きを追わなければならないとしている。
一方、犯罪聖書における「草に対する風」は、そのまま「形而上の超越神」として表現されている。
実際にそうであるのならともかく、これは全くの架空であり、実際には政商や食客や縦横家の如き汚れ仕事に
よって世界を引っ掻き回す権力犯罪者のことを指している。古代ユダヤ人も政商詐欺集団であったように、権力に
不正な形で取り入るならず者こそは「草に対する風」とされ、故に、その風が吹けば草花も枯れてしまうのである。
真正聖書(四書五経)も犯罪聖書(新旧約聖書)も、形而上的な立場にある何者かによって下民が支配されるという
形式を執っていることには変わりなく、しかも現実的には、いずれもが社会的な実権を保持する権力者による支配を
念頭に置いている。違うのは、真正聖書は正規の権力者が公明正大に世の中を統治することを是としているのに対し、
犯罪聖書は不正な権力者が陰湿な手法によって世界を強権的な支配下に置くことを是としている点にある。
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)
犯罪聖書の暴言と比べれば、真正聖書における上記のような表現上の「風」が、
人々に良質な影響を及ぼす徳化の比喩であることが如実ともなっている。
「草に対する風」という表現は、いかにも下民に形而上的な立場から君臨する何者かであるらしい。
その形而上的な何者かが真正聖書中では「君子」と表現されていて、君子は「立派な人間」と共に、
「正規の為政者」という意味を帯びている。孔子や孟子も正規家臣としての士官をあくまで志し続けていたように、
下民に対して形而上的な存在として君臨するからには、それなりの正式な手続きを追わなければならないとしている。
一方、犯罪聖書における「草に対する風」は、そのまま「形而上の超越神」として表現されている。
実際にそうであるのならともかく、これは全くの架空であり、実際には政商や食客や縦横家の如き汚れ仕事に
よって世界を引っ掻き回す権力犯罪者のことを指している。古代ユダヤ人も政商詐欺集団であったように、権力に
不正な形で取り入るならず者こそは「草に対する風」とされ、故に、その風が吹けば草花も枯れてしまうのである。
真正聖書(四書五経)も犯罪聖書(新旧約聖書)も、形而上的な立場にある何者かによって下民が支配されるという
形式を執っていることには変わりなく、しかも現実的には、いずれもが社会的な実権を保持する権力者による支配を
念頭に置いている。違うのは、真正聖書は正規の権力者が公明正大に世の中を統治することを是としているのに対し、
犯罪聖書は不正な権力者が陰湿な手法によって世界を強権的な支配下に置くことを是としている点にある。
そもそも、一部の権力者による下民への一方的な支配に非を唱えたのが「民主主義」であり、いま民主主義国と
されているような国ではその目的が一程度は達成されているかのように表向き捉えられている。実際には全く
そんなことはなく、犯罪聖書が「形而上の超越神」と表現する所の、政商や悪徳外交家の如き権力犯罪者が
裏からの絶対的支配を確立しているのが民主主義社会なだけでしかない。「民は上に主君を頂くのでなければ、
自分たちで正し合って生きていくこともできない(書経・太甲中)」ともあるとおり、本当に無政府状態、
無支配状態と化してしまった民衆社会というのは、今のソマリアのような最悪の争乱状態に陥るしかない。
だから結局陰にであれ陽にであれ、一定以上に大規模な都市社会を健全に保っていくためには、ほとんど
形而上的な程もの権能を持つ強大な支配者が必須となるわけだが、陰ながらの支配だけでは、これまたどうしたって
不足する所がある。いくら監視者としての統制力などを強めてみた所で、裏からの支配ばかりでは、民たちの
思い上がりまでをも制することができない。思い上がりにまみれた民たちの欲望を無制限に叶え続けようとした結果、
他国への侵略戦争による資源の収奪みたいな悪逆非道にすら及ばなければならなくなる。当然そんな暴慢まみれの
統治がいつまでも持つわけがないから、民主制の革をかむった裏からの支配も、いつかは潰えるしかない。
裏からの支配が潰えて、表からの君子による支配を復権するしかなくなるとして、それが「民主化の挫折」などと
触れ回ったりするのは、欺瞞の至りだといえる。民主制だろうが独裁制だろうが、何者かによる強権的な支配が
存続し続けていたのには変わりない、ただ裏からの強権支配の挫折が、表向きの民主制の終焉に連動してしまう
というばかりのことなのだから、むしろその、裏からの強権支配の頓挫こそを専らな問題視の対象とせねばならない。
「大社会には絶対的な支配者が必須である」と再認識することによって、表向きばかりの幻想も絶たねばならない。
されているような国ではその目的が一程度は達成されているかのように表向き捉えられている。実際には全く
そんなことはなく、犯罪聖書が「形而上の超越神」と表現する所の、政商や悪徳外交家の如き権力犯罪者が
裏からの絶対的支配を確立しているのが民主主義社会なだけでしかない。「民は上に主君を頂くのでなければ、
自分たちで正し合って生きていくこともできない(書経・太甲中)」ともあるとおり、本当に無政府状態、
無支配状態と化してしまった民衆社会というのは、今のソマリアのような最悪の争乱状態に陥るしかない。
だから結局陰にであれ陽にであれ、一定以上に大規模な都市社会を健全に保っていくためには、ほとんど
形而上的な程もの権能を持つ強大な支配者が必須となるわけだが、陰ながらの支配だけでは、これまたどうしたって
不足する所がある。いくら監視者としての統制力などを強めてみた所で、裏からの支配ばかりでは、民たちの
思い上がりまでをも制することができない。思い上がりにまみれた民たちの欲望を無制限に叶え続けようとした結果、
他国への侵略戦争による資源の収奪みたいな悪逆非道にすら及ばなければならなくなる。当然そんな暴慢まみれの
統治がいつまでも持つわけがないから、民主制の革をかむった裏からの支配も、いつかは潰えるしかない。
裏からの支配が潰えて、表からの君子による支配を復権するしかなくなるとして、それが「民主化の挫折」などと
触れ回ったりするのは、欺瞞の至りだといえる。民主制だろうが独裁制だろうが、何者かによる強権的な支配が
存続し続けていたのには変わりない、ただ裏からの強権支配の挫折が、表向きの民主制の終焉に連動してしまう
というばかりのことなのだから、むしろその、裏からの強権支配の頓挫こそを専らな問題視の対象とせねばならない。
「大社会には絶対的な支配者が必須である」と再認識することによって、表向きばかりの幻想も絶たねばならない。
「民事を軽んずること無く、惟れを難くせよ」
「民衆たちの労役などの営みを決して軽んじてはならない。困難なものであることを察して尊重してやらねばならない。
(自分たちの営みが困難なものであればこそ、民たちも自分たちで政治までは取り仕切れないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
「民衆たちの労役などの営みを決して軽んじてはならない。困難なものであることを察して尊重してやらねばならない。
(自分たちの営みが困難なものであればこそ、民たちも自分たちで政治までは取り仕切れないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
税吏、酷吏、関所役人、このあたりは特に民衆から嫌われやすい官吏の典型だといえるが、さりとて
「賤業」にまでは当たらず、いっぱしの士人として扱われるべき役職でであることには違いない。
赤穂四十七士筆頭、大石内蔵助の息子の通称「主税(ちから)」なども、士人が
年貢などの民からの税によって力を得ていることをあからさまに示したものとなっている。
>>270-271でも述べた通り、ある程度以上に大規模な都市社会には形而上的な権限を持つ統制者
というものが少なからず必要になるもので、全くの無統制状態ではソマリア級の争乱すら避けられない。
どうしたって強大な統制者が必要である以上は、人々からの正式な信認を受けた政府がその立場を
担うべきで、正式な政府は当然、民からの納税によってその運営が保全される。人々を形而上的な
権限によって統制することも生半なことではないから、自分たち自身で耕し織りながら為政にも
携わるなんてことも無理なので、確信的に租税を食い物として人々の統制に臨むのである。
それが結局、世の中を統治する手法として最善であり、それと比べれば民間の政商による裏からの
支配などは、どうしたって大局社会の脆弱化や破綻を招いてしまうものだから、最善とは言えない。
所詮は租税を食い物とするものこそが専門的に人々の統治に取り組んでこそ最善となるのだから、
決して税制の存在自体を非難したりしてはならず、為政者の放辟邪侈のために民間人が重税を
強いられるような不正がある場合に限って、その問題のみを特定して非難するようにせねばならない。
税制を伴う正規の政府の価値を認めない、あるとした所でその存在を卑賤視する、
これこそは「最善を否定する」姿勢であり、劣悪か最悪かのいずれかでしかあり得ない態度となる。
特に度し難いのは、正規の政府を認めないこと以上にも、その存在価値を卑しむことのほうだといえる。
完全な無政府状態では現ソマリア級の争乱すらまぬがれ得ないから、完全な無政府主義なんてのも
そんなに勢力を保てるものじゃない。正規の政府の存在価値を卑しむことのほうが、キリスト教団の
ような形での勢力の拡大や維持に加担しやすいため、実質的にはこちらをより警戒すべきだといえる。
「賤業」にまでは当たらず、いっぱしの士人として扱われるべき役職でであることには違いない。
赤穂四十七士筆頭、大石内蔵助の息子の通称「主税(ちから)」なども、士人が
年貢などの民からの税によって力を得ていることをあからさまに示したものとなっている。
>>270-271でも述べた通り、ある程度以上に大規模な都市社会には形而上的な権限を持つ統制者
というものが少なからず必要になるもので、全くの無統制状態ではソマリア級の争乱すら避けられない。
どうしたって強大な統制者が必要である以上は、人々からの正式な信認を受けた政府がその立場を
担うべきで、正式な政府は当然、民からの納税によってその運営が保全される。人々を形而上的な
権限によって統制することも生半なことではないから、自分たち自身で耕し織りながら為政にも
携わるなんてことも無理なので、確信的に租税を食い物として人々の統制に臨むのである。
それが結局、世の中を統治する手法として最善であり、それと比べれば民間の政商による裏からの
支配などは、どうしたって大局社会の脆弱化や破綻を招いてしまうものだから、最善とは言えない。
所詮は租税を食い物とするものこそが専門的に人々の統治に取り組んでこそ最善となるのだから、
決して税制の存在自体を非難したりしてはならず、為政者の放辟邪侈のために民間人が重税を
強いられるような不正がある場合に限って、その問題のみを特定して非難するようにせねばならない。
税制を伴う正規の政府の価値を認めない、あるとした所でその存在を卑賤視する、
これこそは「最善を否定する」姿勢であり、劣悪か最悪かのいずれかでしかあり得ない態度となる。
特に度し難いのは、正規の政府を認めないこと以上にも、その存在価値を卑しむことのほうだといえる。
完全な無政府状態では現ソマリア級の争乱すらまぬがれ得ないから、完全な無政府主義なんてのも
そんなに勢力を保てるものじゃない。正規の政府の存在価値を卑しむことのほうが、キリスト教団の
ような形での勢力の拡大や維持に加担しやすいため、実質的にはこちらをより警戒すべきだといえる。
私的な宗教勢力や政商などが、正規の政府以上の存在として世に君臨したりすることも、
社会統治は正規の政府に任せることが最善とする立場からすれば、決して許されることではない。
ただ、正規の政府の存在価値を卑しむような立場からすれば、上記のような変則的支配者の存在性も
是とすらしかねないものだから、やはりそのような政府劣後の考え方から正していかなければならない。
財界と癒着しての腐敗が著しい、今の日本政府などを支持する気になれなかったとしても全く仕方のない
ことだが、だからといって正規の政府の存在意義までをも否定し去ってしまおうとするのは行き過ぎである。
正規の政府がいかに治世を成してくれるかこそを最優先に期待し、仁政に熱心であるようなら喜んで、
自分たちから納税はおろか、寄付すらする、それぐらいの姿勢が民間人の側にもあったほうがいい。
民間人だけを見るに、日本人などにはそのような気概がまだ保たれているように思えるが、欧米人
などにはありそうに見えて、実はない。政府や政治家なんざゴミ回収業者か何かぐらいにしか考えておらず、
民間人である自分たちこそはより偉大だとすら考えている。それが道家的な隠遁思想に基づいているのなら
ともかく、民間人としてこそ大業を成そうとするような歪んだ野望すらをも帯びているのだから、頂けない。
それも長年のキリスト信仰の禍根であり、ないに越したこともないものなのだから、深い反省が必須である。
よく正規の為政者こそを貴び、自らが大業を成そうというのであっても、まずは為政者を志す、
その逆ばかりであろうとし続けてきた自分たちの性向が、最善たり得ない劣悪さや最悪さばかりを
帯びていたことをよく反省するのでなければ、元祖為政主義国の中国あたりによる征服も免れ得まい。
社会統治は正規の政府に任せることが最善とする立場からすれば、決して許されることではない。
ただ、正規の政府の存在価値を卑しむような立場からすれば、上記のような変則的支配者の存在性も
是とすらしかねないものだから、やはりそのような政府劣後の考え方から正していかなければならない。
財界と癒着しての腐敗が著しい、今の日本政府などを支持する気になれなかったとしても全く仕方のない
ことだが、だからといって正規の政府の存在意義までをも否定し去ってしまおうとするのは行き過ぎである。
正規の政府がいかに治世を成してくれるかこそを最優先に期待し、仁政に熱心であるようなら喜んで、
自分たちから納税はおろか、寄付すらする、それぐらいの姿勢が民間人の側にもあったほうがいい。
民間人だけを見るに、日本人などにはそのような気概がまだ保たれているように思えるが、欧米人
などにはありそうに見えて、実はない。政府や政治家なんざゴミ回収業者か何かぐらいにしか考えておらず、
民間人である自分たちこそはより偉大だとすら考えている。それが道家的な隠遁思想に基づいているのなら
ともかく、民間人としてこそ大業を成そうとするような歪んだ野望すらをも帯びているのだから、頂けない。
それも長年のキリスト信仰の禍根であり、ないに越したこともないものなのだから、深い反省が必須である。
よく正規の為政者こそを貴び、自らが大業を成そうというのであっても、まずは為政者を志す、
その逆ばかりであろうとし続けてきた自分たちの性向が、最善たり得ない劣悪さや最悪さばかりを
帯びていたことをよく反省するのでなければ、元祖為政主義国の中国あたりによる征服も免れ得まい。
「象は其の国を為むること有るを得ず。
天子吏を使いして其の国を治め、其の貢税を納れしむ。故に之れを放つとも謂えり」
「舜帝の弟の象は、国を治める資格もないほどに暴虐な性格だったので、体裁上は国君としての立場を与えてやりながら、
代理の官吏を派遣して一切の政治を司らせた。徴税すら代行させたので、象は追放者も同然の存在とみなされた。
(徴税自体は下級役人が行う場合が多いが、それを命ずるのは国君ですらあるのだから、決して蔑んでいいものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・三より)
天子吏を使いして其の国を治め、其の貢税を納れしむ。故に之れを放つとも謂えり」
「舜帝の弟の象は、国を治める資格もないほどに暴虐な性格だったので、体裁上は国君としての立場を与えてやりながら、
代理の官吏を派遣して一切の政治を司らせた。徴税すら代行させたので、象は追放者も同然の存在とみなされた。
(徴税自体は下級役人が行う場合が多いが、それを命ずるのは国君ですらあるのだから、決して蔑んでいいものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・三より)
悲しむべき所を楽しんだり、楽しむべき所を悲しんだりする喜怒哀楽の転倒は、
本人の立場が、大社会から暴利を巻き上げて自分たちだけでの虚栄を謳歌するような
「ガン細胞人種」である場合などに生ずる。春秋戦国時代末期から秦代にかけての、
王侯たちの権力犯罪まみれな有り様もまさにそのようであったから、荀子もそのような
ガン細胞人種としての喜怒哀楽の転倒に耽る者どもを「狂生の者」と呼んで揶揄していた。
物事には悲しむべきところ、楽しむべきところが実際にある。
大まかな所では、天下国家の興亡や盛衰に自らの楽しみや悲しみを連動させることが、
人としてそうあるべき姿だといえる。国や天下が繁栄に与れていれば自分もそれと共に楽しみ、
困窮や諸国の衰亡が著しいようなら、それに伴って自分も悲しむべきである。
それが正順である一方で、天下国家の繁栄を妬んだり、衰亡を楽しんだりするのが
逆順であり、これこそは「狂生」の最たるものでもあるといえる。そう断じられるのは、
天下国家の興隆が引いては自らの福徳にも結びつく一方、その衰亡が自らへの災禍にも
結びつくことが絶対的だからで、いつまでも天下国家の興亡と自らの喜怒哀楽を
転倒させ続けていることのほうが絶対に不可能なことであるからに他ならない。
そして、天下国家の興亡と自らの非楽を正順に連動させた時にこそ、最大級の楽しみや悲しみにも与る。
それこそは、もう二度と非楽を転倒させることもできないほどにも完全な楽しみや悲しみであり、
概念夢想による感情の不埒な操作からも永久に卒業してしまうほどもの絶対的な楽しみや悲しみである。
実相と概念の内で、人間の苦楽を絶対的に決定づけるのは実相のほうであり、人間にとっての
最大級の実相の大局はあくまで天下国家だから、そこでこそ、最大級かつ絶対的な非楽にも与るのである。
本人の立場が、大社会から暴利を巻き上げて自分たちだけでの虚栄を謳歌するような
「ガン細胞人種」である場合などに生ずる。春秋戦国時代末期から秦代にかけての、
王侯たちの権力犯罪まみれな有り様もまさにそのようであったから、荀子もそのような
ガン細胞人種としての喜怒哀楽の転倒に耽る者どもを「狂生の者」と呼んで揶揄していた。
物事には悲しむべきところ、楽しむべきところが実際にある。
大まかな所では、天下国家の興亡や盛衰に自らの楽しみや悲しみを連動させることが、
人としてそうあるべき姿だといえる。国や天下が繁栄に与れていれば自分もそれと共に楽しみ、
困窮や諸国の衰亡が著しいようなら、それに伴って自分も悲しむべきである。
それが正順である一方で、天下国家の繁栄を妬んだり、衰亡を楽しんだりするのが
逆順であり、これこそは「狂生」の最たるものでもあるといえる。そう断じられるのは、
天下国家の興隆が引いては自らの福徳にも結びつく一方、その衰亡が自らへの災禍にも
結びつくことが絶対的だからで、いつまでも天下国家の興亡と自らの喜怒哀楽を
転倒させ続けていることのほうが絶対に不可能なことであるからに他ならない。
そして、天下国家の興亡と自らの非楽を正順に連動させた時にこそ、最大級の楽しみや悲しみにも与る。
それこそは、もう二度と非楽を転倒させることもできないほどにも完全な楽しみや悲しみであり、
概念夢想による感情の不埒な操作からも永久に卒業してしまうほどもの絶対的な楽しみや悲しみである。
実相と概念の内で、人間の苦楽を絶対的に決定づけるのは実相のほうであり、人間にとっての
最大級の実相の大局はあくまで天下国家だから、そこでこそ、最大級かつ絶対的な非楽にも与るのである。
あくまで、自分が民間人としての立場を貫いている人間などが、そのような最大級の非楽に
与るということは滅多にないことだが、全世界を支配下に置くほどもの強権を手に入れた政商あたりなら、
自らの悪逆非道に基づく逃れようのない天下国家レベルの敗亡によって、一切紛らわしようもない程の、
救いなき悲しみに見舞われることもあり得なくはない。秦帝国の宰相となった呂不韋などもそれに近い
立場にあったが、悲劇に見舞われた頃にはすでに公職にあったわけで、民間の政商などとしての立場を
保ったままに、天下国家の敗亡に連動する究極の悲しみを被った人間となれば、ついぞ見られない。
これから、そのような悲しみに見舞われる連中がいたとすれば、それこそ稀有なことだ。
稀有であり、未曾有だからこそ、その先にあるものをまだ侮っている所もあるだろうが、
実際にその悲しみがやって来るからには、帝国の責任者などとして亡国を体験させられる並みの悲しみに
見舞われることが間違いない。今までそのような運命に陥ることから逃れ続けてきた挙句に、絶体絶命の
運命と共に否応なくそのような悲しみに見舞われることが、それ以下で済むなんてことがあるはずもない。
そこには正式な為政者たらんとした者にはなかった惨めさまでもが付きまとうのだから、それ以上である可能性のほうが高い。
「予れ之れを懐いて悲しむ。万姓予れを仇とす、予れ将に疇れにか依らん。
郁陶乎たる予が心、顔厚にして忸怩たること有り。厥の徳を慎む弗く、悔ゆと雖も追う可けんや」
「私はひどく悲しんでいる。天下の万民が(暴政の主導者となってしまった)自分を仇敵とみなしている。
もはやどこにも頼るべき相手もいない。大いなる悲しみに打ちひしがれたこの心、恥辱のあまり少しも
晴れることもない。自らの行いを慎むことをも怠ってきたのだから、いくら悔いた所で取り返しも付かない。
(一切の救いのない自業自得による亡国の悲しみ。そこには一切幸せがるべき要素もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・五子之歌より)
与るということは滅多にないことだが、全世界を支配下に置くほどもの強権を手に入れた政商あたりなら、
自らの悪逆非道に基づく逃れようのない天下国家レベルの敗亡によって、一切紛らわしようもない程の、
救いなき悲しみに見舞われることもあり得なくはない。秦帝国の宰相となった呂不韋などもそれに近い
立場にあったが、悲劇に見舞われた頃にはすでに公職にあったわけで、民間の政商などとしての立場を
保ったままに、天下国家の敗亡に連動する究極の悲しみを被った人間となれば、ついぞ見られない。
これから、そのような悲しみに見舞われる連中がいたとすれば、それこそ稀有なことだ。
稀有であり、未曾有だからこそ、その先にあるものをまだ侮っている所もあるだろうが、
実際にその悲しみがやって来るからには、帝国の責任者などとして亡国を体験させられる並みの悲しみに
見舞われることが間違いない。今までそのような運命に陥ることから逃れ続けてきた挙句に、絶体絶命の
運命と共に否応なくそのような悲しみに見舞われることが、それ以下で済むなんてことがあるはずもない。
そこには正式な為政者たらんとした者にはなかった惨めさまでもが付きまとうのだから、それ以上である可能性のほうが高い。
「予れ之れを懐いて悲しむ。万姓予れを仇とす、予れ将に疇れにか依らん。
郁陶乎たる予が心、顔厚にして忸怩たること有り。厥の徳を慎む弗く、悔ゆと雖も追う可けんや」
「私はひどく悲しんでいる。天下の万民が(暴政の主導者となってしまった)自分を仇敵とみなしている。
もはやどこにも頼るべき相手もいない。大いなる悲しみに打ちひしがれたこの心、恥辱のあまり少しも
晴れることもない。自らの行いを慎むことをも怠ってきたのだから、いくら悔いた所で取り返しも付かない。
(一切の救いのない自業自得による亡国の悲しみ。そこには一切幸せがるべき要素もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・五子之歌より)
四書五経に明記されている倫理基準そのものは、決して体系的ではない。
孔子や孟子の提示する倫理判断も直観的で散逸的なものばかりで、
その一つ一つの言葉の絶対性に固執することが、儒学の粗雑な
宗教化(儒教化)を招く危険性をも孕んでいる。
一方で、四書五経を学ぶことで本人自身が体得する体系的な倫理基準というものは実在する。
特に、易詩書礼春秋の五経を的確に学ぶことで、自らに普遍的かつ体系的な倫理的判断力が
身に付くようになっていて、そこから派生する言行こそは確かに、孔孟のそれにも近似する。
特に基幹となるのは、易の陰陽法則を体得レベルで理解することで、それが経書の勉学の内
でも最難関となる一方、体得すらできたなら孔孟級の聖賢にすら決してなれなくはない。
四書五経を学ぶことによって体得する倫理体系そのものはあまりにも膨大すぎて、
完全に文面化しようとしても永遠にとりとめのないものとなってしまう。それは、
易の陰陽法則から有機的に派生する倫理体系が無尽蔵であると共に、それを勉学の対象
とした者自身が、全身全霊によって当該の無尽蔵な倫理体系を受け止めてもいるからだ。
脳の記憶容量は10テラバイト(5兆文字)以上といい、しかもその記憶構造が本人自身の人体構造や生活とも
密接に関係し合っている。易の陰陽法則もまた、そのような心身全体によって体得されるものであるため、
他人がちょっと聞きかじってみたりした所で、その全容は愚か、片鱗すら掴みようもない場合がほとんど。
しかし、それ程もの膨大さを湛えていればこそ、その倫理体系が実社会でも健全に機能できるのである。
孔子や孟子の提示する倫理判断も直観的で散逸的なものばかりで、
その一つ一つの言葉の絶対性に固執することが、儒学の粗雑な
宗教化(儒教化)を招く危険性をも孕んでいる。
一方で、四書五経を学ぶことで本人自身が体得する体系的な倫理基準というものは実在する。
特に、易詩書礼春秋の五経を的確に学ぶことで、自らに普遍的かつ体系的な倫理的判断力が
身に付くようになっていて、そこから派生する言行こそは確かに、孔孟のそれにも近似する。
特に基幹となるのは、易の陰陽法則を体得レベルで理解することで、それが経書の勉学の内
でも最難関となる一方、体得すらできたなら孔孟級の聖賢にすら決してなれなくはない。
四書五経を学ぶことによって体得する倫理体系そのものはあまりにも膨大すぎて、
完全に文面化しようとしても永遠にとりとめのないものとなってしまう。それは、
易の陰陽法則から有機的に派生する倫理体系が無尽蔵であると共に、それを勉学の対象
とした者自身が、全身全霊によって当該の無尽蔵な倫理体系を受け止めてもいるからだ。
脳の記憶容量は10テラバイト(5兆文字)以上といい、しかもその記憶構造が本人自身の人体構造や生活とも
密接に関係し合っている。易の陰陽法則もまた、そのような心身全体によって体得されるものであるため、
他人がちょっと聞きかじってみたりした所で、その全容は愚か、片鱗すら掴みようもない場合がほとんど。
しかし、それ程もの膨大さを湛えていればこそ、その倫理体系が実社会でも健全に機能できるのである。
四書五経よりもさらに些少な文面上に、「〜しろ」「〜してはならない」形式の実定法を多少
羅列しているだけの旧約の律法なぞが、実社会に適用することで問題を来さなくて済んだりする
わけがないのはもちろんのこと、日本国の中枢で日夜構築が続けられている六法等の現行法ですら、
実社会全体を司る倫理体系としては、あまりにも矮小かつ粗雑なもののままであり続けている。
ある一定の文章や教条などに、この世界を司らせて全く差し支えないなんてことがあるわけがない。
それは孔子や孟子の言葉といえども同じことで、ただ、その言葉が易の陰陽法則から派生している
ことを体得レベルで理解し、自らも同等の普遍法則に即した自主的な言行を心がけることによってのみ、
この世界を正規の為政者として司る君子たるに相応しい人間へと自分がなれるということがあるのみ。
だから、文面至上主義の対象として四書五経を扱うべきですらなく、特定の文面や教義に依存する
怠惰な姿勢を卒業していく取っ掛かりとしてこそ、四書五経を根幹とした為政が推奨できるのでもある。
この文面でも、あの教条でもうまくいかなかったから、今度は四書五経の文面に頼ろう、
そんなことばかりであっていいはずもないのである。
「其の笠伊れ糾きつけ、其の鎛と斯れ趙にて、以て荼蓼を薅う。
荼蓼は朽ちて止み、黍稷は茂りて止む。之れを穫りて桎桎、之れを積みて栗栗」
「菅笠を頭に巻きつけて、鋤鍬を手に田畑の夏草を切り払う。切り払った夏草が
朽ち果てた頃に、穀物もよく茂る。穀物もせっせと刈り取って、せっせと積み上げる。
(食えないものは切り払って朽ち果てさせ、食えるものも刈り取って食うというばかりのこと。
硬直的支配をありがたがっても、いつかは秦帝国のように崩壊して食い物になるばかりのこと)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・良耜より)
羅列しているだけの旧約の律法なぞが、実社会に適用することで問題を来さなくて済んだりする
わけがないのはもちろんのこと、日本国の中枢で日夜構築が続けられている六法等の現行法ですら、
実社会全体を司る倫理体系としては、あまりにも矮小かつ粗雑なもののままであり続けている。
ある一定の文章や教条などに、この世界を司らせて全く差し支えないなんてことがあるわけがない。
それは孔子や孟子の言葉といえども同じことで、ただ、その言葉が易の陰陽法則から派生している
ことを体得レベルで理解し、自らも同等の普遍法則に即した自主的な言行を心がけることによってのみ、
この世界を正規の為政者として司る君子たるに相応しい人間へと自分がなれるということがあるのみ。
だから、文面至上主義の対象として四書五経を扱うべきですらなく、特定の文面や教義に依存する
怠惰な姿勢を卒業していく取っ掛かりとしてこそ、四書五経を根幹とした為政が推奨できるのでもある。
この文面でも、あの教条でもうまくいかなかったから、今度は四書五経の文面に頼ろう、
そんなことばかりであっていいはずもないのである。
「其の笠伊れ糾きつけ、其の鎛と斯れ趙にて、以て荼蓼を薅う。
荼蓼は朽ちて止み、黍稷は茂りて止む。之れを穫りて桎桎、之れを積みて栗栗」
「菅笠を頭に巻きつけて、鋤鍬を手に田畑の夏草を切り払う。切り払った夏草が
朽ち果てた頃に、穀物もよく茂る。穀物もせっせと刈り取って、せっせと積み上げる。
(食えないものは切り払って朽ち果てさせ、食えるものも刈り取って食うというばかりのこと。
硬直的支配をありがたがっても、いつかは秦帝国のように崩壊して食い物になるばかりのこと)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・良耜より)
聖書信仰は、人の生死の惨めさを完全に開き直っている。
だからこそ、人が死への恐怖を緩和する手法としては最も稚拙な
「磔刑への恐怖に基づく思考停止。IQ40以下への知能停滞」
などという手法をも臆面もなく標榜している。
それによって実際に死への恐怖が緩和されるのであるにしても、
そんな手法によって恐怖を緩和するような人間たち自身が、あまりにも
小人然とし過ぎているために、その程度の品性の人間がこの世の中に増加
し過ぎたならば、世の中のほうが立ち行かなくなるのもまた、実際的なことだ。
だから、死への恐怖をもう少しマシな手段によって緩和する施策を講じていく必要が生じても来る。
仏門あたりにその手の手段は多数用意されているが、あえて一旦、仏門の話は捨て置くとする。
まだ仏教が存在しなかった頃、古代の中国などで慣習とされていた、親の死に際しての哭泣や断食、
三年に渡る服喪などもまた、遺族たち自身が死への恐怖を緩和する手段として確かに機能していた。
「永遠の命を手に入れる」という虚偽によって自己を慰める聖書信仰とも、虚空の徳によって死への
恐怖を技術的に捨て去る仏教とも違い、親族のような近親の人々の死への、心の底からの悲しみによって、
死への恐怖を捨て去るとも言わず、紛らわしていた。死への恐怖を乗り越える手段としては決して
便利なものではないし、見た目にも決して美しいものなどではない。しかし、それによって死への
恐怖を緩和できる人間ともなれば、確実に聖書信仰によって死への恐怖を和らげる人間などよりも、
マシな品性を持ち得ていた。マシな品性を持てていたから、そのような人間が世の中に多数
出回ったところで、聖書信者が溢れ返る場合のような世の中の破綻を招くこともない。
人はいつかは必ず死ぬ、常人であるからには死への恐怖も抱く、だから死への恐怖を緩和する。
そこまでは儒学も仏教も聖書信仰も何ら変わりはない。ただ、その手法の巧拙に差異があるために、
手堅い手法を擁する儒学や仏教に依れば、社会の破綻までは招かない一方で、稚拙な手法に
もっぱらである聖書信仰に依れば、世界中にヤク中患者が溢れ返る場合のようにして
世の中のほうが立ち行かなくなり、挙句には破滅を招くようなことにすらなる。
だからこそ、人が死への恐怖を緩和する手法としては最も稚拙な
「磔刑への恐怖に基づく思考停止。IQ40以下への知能停滞」
などという手法をも臆面もなく標榜している。
それによって実際に死への恐怖が緩和されるのであるにしても、
そんな手法によって恐怖を緩和するような人間たち自身が、あまりにも
小人然とし過ぎているために、その程度の品性の人間がこの世の中に増加
し過ぎたならば、世の中のほうが立ち行かなくなるのもまた、実際的なことだ。
だから、死への恐怖をもう少しマシな手段によって緩和する施策を講じていく必要が生じても来る。
仏門あたりにその手の手段は多数用意されているが、あえて一旦、仏門の話は捨て置くとする。
まだ仏教が存在しなかった頃、古代の中国などで慣習とされていた、親の死に際しての哭泣や断食、
三年に渡る服喪などもまた、遺族たち自身が死への恐怖を緩和する手段として確かに機能していた。
「永遠の命を手に入れる」という虚偽によって自己を慰める聖書信仰とも、虚空の徳によって死への
恐怖を技術的に捨て去る仏教とも違い、親族のような近親の人々の死への、心の底からの悲しみによって、
死への恐怖を捨て去るとも言わず、紛らわしていた。死への恐怖を乗り越える手段としては決して
便利なものではないし、見た目にも決して美しいものなどではない。しかし、それによって死への
恐怖を緩和できる人間ともなれば、確実に聖書信仰によって死への恐怖を和らげる人間などよりも、
マシな品性を持ち得ていた。マシな品性を持てていたから、そのような人間が世の中に多数
出回ったところで、聖書信者が溢れ返る場合のような世の中の破綻を招くこともない。
人はいつかは必ず死ぬ、常人であるからには死への恐怖も抱く、だから死への恐怖を緩和する。
そこまでは儒学も仏教も聖書信仰も何ら変わりはない。ただ、その手法の巧拙に差異があるために、
手堅い手法を擁する儒学や仏教に依れば、社会の破綻までは招かない一方で、稚拙な手法に
もっぱらである聖書信仰に依れば、世界中にヤク中患者が溢れ返る場合のようにして
世の中のほうが立ち行かなくなり、挙句には破滅を招くようなことにすらなる。
ヤク中患者ばかりが溢れ返っていたんじゃ世の中も立ち行かなくなるから、麻薬を規制するように、
聖書信仰も規制の対象となる、それは純粋な公益目的であり、私的な損益に立ち入ったことではない。
また、人々を生死の業の惨めさから救い出してやることを必ずしも保証してやる措置なわけでもない。
密教僧や禅僧のように、まるで旅行か何かに行くようにして、軽々と入定遷化することができるように
誰しもがなれることを、現時点で保証できるようなものではないし、場合によっては、古代の中国の
葬礼の慣習のように、聖書信仰よりも見た目には惨めにすら思えるような手段によって、死への恐怖を
緩和させていくようなことまでもがあり得る。純粋に世の中の破綻を免れるためであるからには、
それもまた一つの手段になり得るわけで、聖書信仰からの脱却=惨めさ全般からの脱却とも限らない。
人類社会の最終防衛戦の死守に、決して美しさばかりを期待していられるようなことはない。
むしろ、見てくれの美しさばかりを貪ってきた代償としての、惨めさ醜さを最大級に甘受して
いかなければならない時であり、それを諾える者こそは先頭に立つべき時でもある。
「隠れたるを求め怪しきを行うに、後世述ぶる有らん。吾れは之れを為さず」
「人の知らないようなことをあえて求めて、怪しげなことを企てたりするからこそ、
後に語り告げられたりすることもある。そういった功名の仕方を私(孔子)は目指さない。
(知識学問を閉鎖的な目的のために利用することもなければ、探求することもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一一より)
聖書信仰も規制の対象となる、それは純粋な公益目的であり、私的な損益に立ち入ったことではない。
また、人々を生死の業の惨めさから救い出してやることを必ずしも保証してやる措置なわけでもない。
密教僧や禅僧のように、まるで旅行か何かに行くようにして、軽々と入定遷化することができるように
誰しもがなれることを、現時点で保証できるようなものではないし、場合によっては、古代の中国の
葬礼の慣習のように、聖書信仰よりも見た目には惨めにすら思えるような手段によって、死への恐怖を
緩和させていくようなことまでもがあり得る。純粋に世の中の破綻を免れるためであるからには、
それもまた一つの手段になり得るわけで、聖書信仰からの脱却=惨めさ全般からの脱却とも限らない。
人類社会の最終防衛戦の死守に、決して美しさばかりを期待していられるようなことはない。
むしろ、見てくれの美しさばかりを貪ってきた代償としての、惨めさ醜さを最大級に甘受して
いかなければならない時であり、それを諾える者こそは先頭に立つべき時でもある。
「隠れたるを求め怪しきを行うに、後世述ぶる有らん。吾れは之れを為さず」
「人の知らないようなことをあえて求めて、怪しげなことを企てたりするからこそ、
後に語り告げられたりすることもある。そういった功名の仕方を私(孔子)は目指さない。
(知識学問を閉鎖的な目的のために利用することもなければ、探求することもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一一より)
「小人閑居して不善を為す。至らざる所なし」(大学)
「恒産無くして恒心あるは、ただ士のみ能く為す。
民の如きは、則ち恒産無ければ因って恒心無し。
苟くも恒心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ」(孟子)
匹夫小人の類いが多動を志して、何もかもをやってしまおうとするプロセスは
上記の既出の引用で完璧なまでに看破されている。民といえども、自らの生業に
専念して思う所がその位を出なければ、無闇な多動を志したりすることもないわけだが、
豪商や地主のドラ息子あたりの、富裕でいて有閑でもいるような類いの匹夫がこの条件に
必ずしも適う必要がないために、多動を志して為さざる所がなくなってしまう場合がある。
「君子は下流に居ることをにくむ(子張第十九・二〇)」という、いかにも差別主義めいた
言葉が真正福音書にあるけれども、この「下流」とは他でもない、殷の紂王のことを指している。
由緒正しき帝国の主君たる立場にありながら、盗賊や悪徳政商ともつるんでの放辟邪侈三昧に及んだ
その姿は、いくら君子階級の立場にあるといえども、閑居して不善を為して至らざる所のない小人のあり方
そのものだったから、「下流」の代名詞扱いをされるようにになったのも仕方のないことだというのである。
何も、不動の禅定ばかりを志さずとも、自らの身の程にも即した正行に専念するだけでも、
放辟邪侈を尽くして止まない下流に落ち込んだりはしなくて済むようにはなれるのである。
一心不乱な念仏行なども、自然とそれを達成させるものであるし、多少異端派の妄動などが目立つものの、
日蓮宗における題目なども、本来は一心不乱さによる恒心の養生を目指したもののはずだったのである。
「恒産無くして恒心あるは、ただ士のみ能く為す。
民の如きは、則ち恒産無ければ因って恒心無し。
苟くも恒心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ」(孟子)
匹夫小人の類いが多動を志して、何もかもをやってしまおうとするプロセスは
上記の既出の引用で完璧なまでに看破されている。民といえども、自らの生業に
専念して思う所がその位を出なければ、無闇な多動を志したりすることもないわけだが、
豪商や地主のドラ息子あたりの、富裕でいて有閑でもいるような類いの匹夫がこの条件に
必ずしも適う必要がないために、多動を志して為さざる所がなくなってしまう場合がある。
「君子は下流に居ることをにくむ(子張第十九・二〇)」という、いかにも差別主義めいた
言葉が真正福音書にあるけれども、この「下流」とは他でもない、殷の紂王のことを指している。
由緒正しき帝国の主君たる立場にありながら、盗賊や悪徳政商ともつるんでの放辟邪侈三昧に及んだ
その姿は、いくら君子階級の立場にあるといえども、閑居して不善を為して至らざる所のない小人のあり方
そのものだったから、「下流」の代名詞扱いをされるようにになったのも仕方のないことだというのである。
何も、不動の禅定ばかりを志さずとも、自らの身の程にも即した正行に専念するだけでも、
放辟邪侈を尽くして止まない下流に落ち込んだりはしなくて済むようにはなれるのである。
一心不乱な念仏行なども、自然とそれを達成させるものであるし、多少異端派の妄動などが目立つものの、
日蓮宗における題目なども、本来は一心不乱さによる恒心の養生を目指したもののはずだったのである。
何かにかけて一心不乱であることを、聖書圏の人間が「アスペルガー症候群」だの「モノマニア」だのと
いった言葉で病的に扱おうとすることがあるが、これもカルト洗脳の一環であると断ずるほかはない。
百姓も農作業に、工人も工作作業に一心不乱であってこそ自らの仕事を達成するのだから、何かにかけて
一心不乱であることこそは、人間にとっての欠くべからざる要素ですらあるといえる。にもかかわらず
その性向こそを病気扱いして、市場を傍観しての投機に走る悪徳商人あたりこそが必要とする能力でもある、
注意欠陥気味のなんでもし放題な心理こそを健康と見なしたりするのだから、これこそは完全なる顛倒だといえる。
百姓や工人が自らの正業に一心不乱であることによって仕事を成すのと同じように、士人もまた
模範的な者ほど仁徳に根ざした自らの仕事に専らであろうとする。「文明社会の原罪」たる商売を
専業とする者といえども、「売り手良し、買い手良し、世間良し」の三方よしを心がけるような
最低限の節度を保つのであれば、やはりそのために「ここまで」と押し止まる一線を持つはずなのである。
日本刀の刃ほどにも、鋭利かつ一直線なところに一筋であることこそは、人間にとっての実質的な「糧」となる。
そうであることによってこそ人は生きられる一方、そこから外れた所で人は無益な不善を為すしかなくなる。
然れば、何かに一心不乱である所にのみ正義もまたあるのだから、何もかもを為してしまおうとする不埒さを
非難することが許されようとも、正行に一心不乱であろうとする熱心さを非難していいなどということはない。
「仲尼は己甚だしきを為さざる者なり」
「孔先生は決して甚だしいことを企てたりはしない人だった。
(できるできない以前に、君子は甚だしいことなどやらないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一〇より)
いった言葉で病的に扱おうとすることがあるが、これもカルト洗脳の一環であると断ずるほかはない。
百姓も農作業に、工人も工作作業に一心不乱であってこそ自らの仕事を達成するのだから、何かにかけて
一心不乱であることこそは、人間にとっての欠くべからざる要素ですらあるといえる。にもかかわらず
その性向こそを病気扱いして、市場を傍観しての投機に走る悪徳商人あたりこそが必要とする能力でもある、
注意欠陥気味のなんでもし放題な心理こそを健康と見なしたりするのだから、これこそは完全なる顛倒だといえる。
百姓や工人が自らの正業に一心不乱であることによって仕事を成すのと同じように、士人もまた
模範的な者ほど仁徳に根ざした自らの仕事に専らであろうとする。「文明社会の原罪」たる商売を
専業とする者といえども、「売り手良し、買い手良し、世間良し」の三方よしを心がけるような
最低限の節度を保つのであれば、やはりそのために「ここまで」と押し止まる一線を持つはずなのである。
日本刀の刃ほどにも、鋭利かつ一直線なところに一筋であることこそは、人間にとっての実質的な「糧」となる。
そうであることによってこそ人は生きられる一方、そこから外れた所で人は無益な不善を為すしかなくなる。
然れば、何かに一心不乱である所にのみ正義もまたあるのだから、何もかもを為してしまおうとする不埒さを
非難することが許されようとも、正行に一心不乱であろうとする熱心さを非難していいなどということはない。
「仲尼は己甚だしきを為さざる者なり」
「孔先生は決して甚だしいことを企てたりはしない人だった。
(できるできない以前に、君子は甚だしいことなどやらないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一〇より)
「易経」繋辞上伝に、易学の効果的な利用方法としての「開物成務(物を開き務めを成す)」が提示されている。
易の法則に司られた自然現象自体は純粋に数理的なもので、そこに超越的な恣意などが介在する余地もないが、
たとえば、たびたび氾濫を起こす自然のままの河川の治水のために、底をさらったり分水路を切り開いたりする
といったような、天地万物の自然な化育に人が上手に介入していく活動というものがいくらでも想定できる。
そのような活動を実践していくことが開物成務となるわけで、決してそれが罰当たりになったりするわけでもない。
人間が企てる活動の内には、開物成務の条件を満たすものとそうでないものとの両方がある。開物成務の条件を
満たす活動とは、治水や灌漑やその恩恵に与っての農産などで、本当に世のため人のためになる公共事業は必ず
開物成務の条件を満たしている。一方、開成の条件を満たさない活動とは、世の中のためには特に害も益もない
活動や、世の中や自然に害ばかりをもたらす活動のことだといえる。他人が熱心な開成によって積み立てた公益を
私利私益のために不正に奪い取ったりとか、極度の自然破壊を伴う開発だとかは、開成の条件を満たしていない。
残念ながら、近現代の産業革命を発端とした世界発展は、開物成務の条件を満たせている頻度があまりにも低すぎる。
有益無害な構築活動よりも、有害無益な破壊活動のほうが常に優勢であり続けているから、全体としても有害無益で、
人類社会を繁栄以上の破滅に常に見舞わせ続け、挙句には滅亡の危機をも呼び込むこととなってしまったのである。
近現代の世界発展の主導者が聖書圏の人間ばかりであり続けて来たからこそ、開物成務が十分だった試しもない。
新旧約聖書で「絶対神」と寓意されている悪徳政商こそは、開成が絶対に不能な職分の最たるものであり、
そんなものが世界で絶対的な権限を握っているからには、総体としての開成が十分であることなどもあり得ないから。
政商行為を絶対的なものとして崇め立てる聖書圏の人間などが世界の支配者としてのさばっている以上は、
文明発展における開物成務の頻度が十分であるために世界が滅亡の危機から免れられるようなこともないのである。
易の法則に司られた自然現象自体は純粋に数理的なもので、そこに超越的な恣意などが介在する余地もないが、
たとえば、たびたび氾濫を起こす自然のままの河川の治水のために、底をさらったり分水路を切り開いたりする
といったような、天地万物の自然な化育に人が上手に介入していく活動というものがいくらでも想定できる。
そのような活動を実践していくことが開物成務となるわけで、決してそれが罰当たりになったりするわけでもない。
人間が企てる活動の内には、開物成務の条件を満たすものとそうでないものとの両方がある。開物成務の条件を
満たす活動とは、治水や灌漑やその恩恵に与っての農産などで、本当に世のため人のためになる公共事業は必ず
開物成務の条件を満たしている。一方、開成の条件を満たさない活動とは、世の中のためには特に害も益もない
活動や、世の中や自然に害ばかりをもたらす活動のことだといえる。他人が熱心な開成によって積み立てた公益を
私利私益のために不正に奪い取ったりとか、極度の自然破壊を伴う開発だとかは、開成の条件を満たしていない。
残念ながら、近現代の産業革命を発端とした世界発展は、開物成務の条件を満たせている頻度があまりにも低すぎる。
有益無害な構築活動よりも、有害無益な破壊活動のほうが常に優勢であり続けているから、全体としても有害無益で、
人類社会を繁栄以上の破滅に常に見舞わせ続け、挙句には滅亡の危機をも呼び込むこととなってしまったのである。
近現代の世界発展の主導者が聖書圏の人間ばかりであり続けて来たからこそ、開物成務が十分だった試しもない。
新旧約聖書で「絶対神」と寓意されている悪徳政商こそは、開成が絶対に不能な職分の最たるものであり、
そんなものが世界で絶対的な権限を握っているからには、総体としての開成が十分であることなどもあり得ないから。
政商行為を絶対的なものとして崇め立てる聖書圏の人間などが世界の支配者としてのさばっている以上は、
文明発展における開物成務の頻度が十分であるために世界が滅亡の危機から免れられるようなこともないのである。
商行為こそは、文明発展における原罪といえ、その活動のほとんどが開物成務の条件を満たさないにも関わらず、
カネやモノを右から左へと横流しするその行いによって、文明社会を雪だるま式に肥大化させる役割を担い得る。
そこには全く生産性が伴わない上に、政治権力との結託に及んでの政商ともなろうものなら、世の中にとっての
大害悪にすらなってしまいかねないわけだが、仮に「文明発展すなわち正義」だと考えるのなら、政商を含む
商行為にも全く存在意義がないわけではなく、「必要悪」程度の存在意義はあるということにすらなってしまう。
「文明発展すなわち正義」ではなく、「文明発展が人々の福徳に寄与する場合に限って正義」と捉えた場合にこそ、
政商や悪徳商売が必要悪ですらない不必要悪となり、三方よし(>>283参照)を常に心がける善賈の商売に限って、
必要悪程度の存在意義を獲得できるようになる。普遍的に見ても、そこにこそ正義の基準を定むべきだといえるし、
またこれからの時代においてはそう定めるのでなければ、もはや世の中もやって行けくなってしまうのである。
「唯だ天下の至誠、能く天下の大経を経綸し、天下の大本を立て、天地の化育を知ると為す。
(ここまで既出)夫れ焉んぞ倚る所有らん。肫肫たる其の仁、淵淵たる其の淵、浩浩たる其の天、
苟くも固に聡明聖知にして天徳に達する者ならずんば、其れ孰れか能く之れを知らん」
「ただ天下において至誠なる者だけが、天下の大筋を整え、天下を根本から正立せしめ、天地万物の化育に通達する。
そうでいられるとすれば、どうして偏頗でいたりすることがあろうか。(旧約の神のような偏頗はあり得ない)
ねんごろな仁徳と、深遠な厚徳と、広大な上天とを、聡明叡智にして天徳に達する者でなければどうして知り得ようか。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三二より)
カネやモノを右から左へと横流しするその行いによって、文明社会を雪だるま式に肥大化させる役割を担い得る。
そこには全く生産性が伴わない上に、政治権力との結託に及んでの政商ともなろうものなら、世の中にとっての
大害悪にすらなってしまいかねないわけだが、仮に「文明発展すなわち正義」だと考えるのなら、政商を含む
商行為にも全く存在意義がないわけではなく、「必要悪」程度の存在意義はあるということにすらなってしまう。
「文明発展すなわち正義」ではなく、「文明発展が人々の福徳に寄与する場合に限って正義」と捉えた場合にこそ、
政商や悪徳商売が必要悪ですらない不必要悪となり、三方よし(>>283参照)を常に心がける善賈の商売に限って、
必要悪程度の存在意義を獲得できるようになる。普遍的に見ても、そこにこそ正義の基準を定むべきだといえるし、
またこれからの時代においてはそう定めるのでなければ、もはや世の中もやって行けくなってしまうのである。
「唯だ天下の至誠、能く天下の大経を経綸し、天下の大本を立て、天地の化育を知ると為す。
(ここまで既出)夫れ焉んぞ倚る所有らん。肫肫たる其の仁、淵淵たる其の淵、浩浩たる其の天、
苟くも固に聡明聖知にして天徳に達する者ならずんば、其れ孰れか能く之れを知らん」
「ただ天下において至誠なる者だけが、天下の大筋を整え、天下を根本から正立せしめ、天地万物の化育に通達する。
そうでいられるとすれば、どうして偏頗でいたりすることがあろうか。(旧約の神のような偏頗はあり得ない)
ねんごろな仁徳と、深遠な厚徳と、広大な上天とを、聡明叡智にして天徳に達する者でなければどうして知り得ようか。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三二より)
人の命を重んずればこそ、死を不吉なものとして忌み避けることを慣習とするのもむべなることだといえる。
日本語で死(し)と読みが同じである数字の「四、4」を不用意に用いることが忌み嫌われたり、
六曜で不吉とされる日に「仏滅」という言葉が当てられたりするのも、迷信にしたって、罪の無い類いのもの。
特に、釈迦入滅を意味する「仏滅」が不吉な日に当てられている所など、東洋人の死生観の巧みさがよく現れている。
仏滅日が不吉であるのはやはり間違いないけれども、六曜の規則上は仏滅日もまた避けることはできない。
生きとし生けるものはみないつかは死に帰する、諸行無常の絶対真理を根本教義に掲げる仏教などに即して、
人の死を厳重に取り扱いはするが、ただやはり、その扱い方をどこまでも畏れ慎んでもいる。
「生は地獄、死こそはめでたい」なんていうような極論に走ることは、やっぱり避けるべきである。
というのも、それはそれで残念ながら実際にあることだから。さっさと死んでしまったほうがむしろ楽に
なれるほどにも地獄のような生を送ってしまうということも実際にあるわけで、それは、悪因苦果を
もたらす罪業まみれの生であるからこそ。そのような生き方になるべく陥らないようにすべきだから、
やはり生を吉、死を不吉なものとして扱う。「生きていることこそは死よりもめでたい」というほどにも、
よい生き方をしていくことを目指していくためにも、やはりを死こそを生よりも不吉なものとして扱うべきなのである。
不吉なものだから死を恐れるのと、命を失うから死を恐れるのとでは、似ているようで実は異なる。
35歳で悟りを拓いたとされる釈迦が、80歳の入滅時に抱いた「まだ死にたくない」という感興などは、
死が不吉なものであることへの恐れでこそあった一方、そんじょそこらの匹夫小人が死に対して抱く恐れなどは、
ただ命を失うことを恐れているばかりのことである。人間としての命を失うことへの恐れなどはとっくの昔に
乗り越えていながらも、善因楽果をもたらす生者としての功徳の積みようが死によってなくなってしまうから死を
恐れたのが釈迦であるのに対し、匹夫はただ自分の個我や肉体が消失することが嫌だから死を恐れているだけの存在である。
日本語で死(し)と読みが同じである数字の「四、4」を不用意に用いることが忌み嫌われたり、
六曜で不吉とされる日に「仏滅」という言葉が当てられたりするのも、迷信にしたって、罪の無い類いのもの。
特に、釈迦入滅を意味する「仏滅」が不吉な日に当てられている所など、東洋人の死生観の巧みさがよく現れている。
仏滅日が不吉であるのはやはり間違いないけれども、六曜の規則上は仏滅日もまた避けることはできない。
生きとし生けるものはみないつかは死に帰する、諸行無常の絶対真理を根本教義に掲げる仏教などに即して、
人の死を厳重に取り扱いはするが、ただやはり、その扱い方をどこまでも畏れ慎んでもいる。
「生は地獄、死こそはめでたい」なんていうような極論に走ることは、やっぱり避けるべきである。
というのも、それはそれで残念ながら実際にあることだから。さっさと死んでしまったほうがむしろ楽に
なれるほどにも地獄のような生を送ってしまうということも実際にあるわけで、それは、悪因苦果を
もたらす罪業まみれの生であるからこそ。そのような生き方になるべく陥らないようにすべきだから、
やはり生を吉、死を不吉なものとして扱う。「生きていることこそは死よりもめでたい」というほどにも、
よい生き方をしていくことを目指していくためにも、やはりを死こそを生よりも不吉なものとして扱うべきなのである。
不吉なものだから死を恐れるのと、命を失うから死を恐れるのとでは、似ているようで実は異なる。
35歳で悟りを拓いたとされる釈迦が、80歳の入滅時に抱いた「まだ死にたくない」という感興などは、
死が不吉なものであることへの恐れでこそあった一方、そんじょそこらの匹夫小人が死に対して抱く恐れなどは、
ただ命を失うことを恐れているばかりのことである。人間としての命を失うことへの恐れなどはとっくの昔に
乗り越えていながらも、善因楽果をもたらす生者としての功徳の積みようが死によってなくなってしまうから死を
恐れたのが釈迦であるのに対し、匹夫はただ自分の個我や肉体が消失することが嫌だから死を恐れているだけの存在である。
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両者には似ているようで厳然たる違いがあり、前者の恐れは本人に妄念妄動をけしかけたりはしない一方で、
後者の恐れは、あまりにもの恐怖感からなる妄念妄動をけしかけるといった、効能面からの相違を伴っている。
恐怖のあまり妄念妄動にかられてしまうというのなら、みだりに死を思うのもむしろ避けるべきで、
実際に神道や儒学などは、下手に死を口にしたりすることからしてなるべく避けもする。貴人が死んだ場合にも
「お隠れになる」とか「お去りになる」とかいった言い方をあえてするわけで、別にそれが不誠実なわけでもない。
人の死と真っ向から向き合う教学として仏教に勝るものも他にないが、その仏教も出家第一の精進主義であり、
在俗の人間誰しもにまで死と向かい合い続けていることなどを要求するものではない。あまり人の死にばかり
囚われすぎてもうまくいかなくなるのが世の中というもので、なればこそ、儒学の礼法などにおいても、近親関係や
社会関係の如何によって、葬礼への携わり方に細密な差別を設けてもいる。まったく死から目を背けてのがむしゃら
ばかりでいるのも時に弊害をもたらしかねないが、常人なら、死との距離感を保つぐらいのことはあってしかるべきだといえる。
「葉公、子路に孔子を問う。子路対えず。子曰く、女じ奚ぞ曰わざる、其の人と為りや、
発奮して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ、と」
「楚の県知事の葉公が子路に孔子の人となりを問うた。子路は答えられなかった。それを聞いて孔先生は言われた。
『どうしておまえ(子路)はこう答えなかったのだ。発奮しては食を忘れ、楽しみがあっては憂いを忘れ、
いつかは老いて死ぬことすら知らないでいるかのような人間だと』(この自己評価は若干謙遜じみているが、それ程
にも孔子が勉強熱心だったのも事実だろう。良からぬことにこれ程にも熱心であったりすればそれは考えものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・一八より)
後者の恐れは、あまりにもの恐怖感からなる妄念妄動をけしかけるといった、効能面からの相違を伴っている。
恐怖のあまり妄念妄動にかられてしまうというのなら、みだりに死を思うのもむしろ避けるべきで、
実際に神道や儒学などは、下手に死を口にしたりすることからしてなるべく避けもする。貴人が死んだ場合にも
「お隠れになる」とか「お去りになる」とかいった言い方をあえてするわけで、別にそれが不誠実なわけでもない。
人の死と真っ向から向き合う教学として仏教に勝るものも他にないが、その仏教も出家第一の精進主義であり、
在俗の人間誰しもにまで死と向かい合い続けていることなどを要求するものではない。あまり人の死にばかり
囚われすぎてもうまくいかなくなるのが世の中というもので、なればこそ、儒学の礼法などにおいても、近親関係や
社会関係の如何によって、葬礼への携わり方に細密な差別を設けてもいる。まったく死から目を背けてのがむしゃら
ばかりでいるのも時に弊害をもたらしかねないが、常人なら、死との距離感を保つぐらいのことはあってしかるべきだといえる。
「葉公、子路に孔子を問う。子路対えず。子曰く、女じ奚ぞ曰わざる、其の人と為りや、
発奮して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ、と」
「楚の県知事の葉公が子路に孔子の人となりを問うた。子路は答えられなかった。それを聞いて孔先生は言われた。
『どうしておまえ(子路)はこう答えなかったのだ。発奮しては食を忘れ、楽しみがあっては憂いを忘れ、
いつかは老いて死ぬことすら知らないでいるかのような人間だと』(この自己評価は若干謙遜じみているが、それ程
にも孔子が勉強熱心だったのも事実だろう。良からぬことにこれ程にも熱心であったりすればそれは考えものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・一八より)
たとえば、我が子への健全な教育を志す家庭において、
今の俗悪な民法のテレビ放送を見せないようにするなどの措置を講じたとする。
仏教で言うところの「顕教」に相当するような教育を志しているのなら、それも結構なことで、
特に皇族のような尊貴な立場にある人々が、安全面にかけても万全を期した教育を
心がける場合などには、「密教」に相当するような教育までは省くのも賢明なことだといえる。
そうでなくたって、ある程度以上に我が子への自愛の豊かな親であるのなら、我が子に
危険要素を含む教育や鍛錬を受けさせることに躊躇を抱いたとしても、当然のことである。
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落として、這い上がって来られた者だけを育てる」などという
ような発想も、過ぎたるはなお及ばざるが如しで、仮に我が子に厳しい教育などを施すにしても、
万全の信頼の置ける教師などを付けて、失敗や粗相のないようにさせるぐらいであるべきだといえる。
高貴な身分の家庭における教育はもちろんのこと、親が我が子に押し付ける教育全般のうちに、清濁併せ
呑ませてそれを乗り越えさせるような、「密教」的な教育までをもを組み込むようなことは奨励すべきでない。
弘法大師も、親の反対をも押し切っての、自らの意志によって出家し、真言密教の開祖ともなったように、
大きな危険すら伴うような荒行への従事は、あくまで本人自身の意志によって選択させるのが基本である。
これから全国的・世界的な教育改革が実施されるとして、親が我が子に惜しみなくその教育を
勧められる範囲の、顕教レベルの教育材料に指定されるうちでも、最も模範的なのが儒学教育である。
儒学のうちには本来、「爾雅」にあるようような言語教育も含まれるので、国語教育の一部はそのまま
儒学の範疇ともなる。史学や社会学なども本来は儒学の十八番であるし、算術や自然学なども本来、
多少は儒学の領分だったわけで、儒学道徳に即して無害と見なされた近現代の数学的、
科学的知識などが、多少は顕教教育のうちにも組み込まれることになるだろう。
他には、顕教である仏教教義の初歩、道家や兵家のようなためになる要素のある東洋学の知識も、
あまり込み入って立ち入らない範囲での教育が、顕教レベルの教育のうちに含まれ得る。
今の俗悪な民法のテレビ放送を見せないようにするなどの措置を講じたとする。
仏教で言うところの「顕教」に相当するような教育を志しているのなら、それも結構なことで、
特に皇族のような尊貴な立場にある人々が、安全面にかけても万全を期した教育を
心がける場合などには、「密教」に相当するような教育までは省くのも賢明なことだといえる。
そうでなくたって、ある程度以上に我が子への自愛の豊かな親であるのなら、我が子に
危険要素を含む教育や鍛錬を受けさせることに躊躇を抱いたとしても、当然のことである。
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落として、這い上がって来られた者だけを育てる」などという
ような発想も、過ぎたるはなお及ばざるが如しで、仮に我が子に厳しい教育などを施すにしても、
万全の信頼の置ける教師などを付けて、失敗や粗相のないようにさせるぐらいであるべきだといえる。
高貴な身分の家庭における教育はもちろんのこと、親が我が子に押し付ける教育全般のうちに、清濁併せ
呑ませてそれを乗り越えさせるような、「密教」的な教育までをもを組み込むようなことは奨励すべきでない。
弘法大師も、親の反対をも押し切っての、自らの意志によって出家し、真言密教の開祖ともなったように、
大きな危険すら伴うような荒行への従事は、あくまで本人自身の意志によって選択させるのが基本である。
これから全国的・世界的な教育改革が実施されるとして、親が我が子に惜しみなくその教育を
勧められる範囲の、顕教レベルの教育材料に指定されるうちでも、最も模範的なのが儒学教育である。
儒学のうちには本来、「爾雅」にあるようような言語教育も含まれるので、国語教育の一部はそのまま
儒学の範疇ともなる。史学や社会学なども本来は儒学の十八番であるし、算術や自然学なども本来、
多少は儒学の領分だったわけで、儒学道徳に即して無害と見なされた近現代の数学的、
科学的知識などが、多少は顕教教育のうちにも組み込まれることになるだろう。
他には、顕教である仏教教義の初歩、道家や兵家のようなためになる要素のある東洋学の知識も、
あまり込み入って立ち入らない範囲での教育が、顕教レベルの教育のうちに含まれ得る。
顕教教育からは確実に排除されるべきであるのが、有害無益であることが明らかな洋学知識や異学異見、
そしてカルト宗教などの知識で、これはもう、親が子供に学習を奨められるような扱いは二度と受けなくなる。
ただ、だからといってこの世から完全に根絶されるのではなく、密教の修得を自分で選択した有志が、
その俗悪さを乗り越えるための材料として勉学することに限って、これからも許されることになる。
教育制度を顕教レベルと密教レベルに段階分けすべきだということは、これまでにも何度か提唱してきた。
その区分基準は、「まともな親が我が子に無条件にその学習を奨められるか否か」というのが相応しく、
国が義務教育に定める教育材料も、この条件を満たすものに絞るべきである一方、私塾や密教寺などでの
非正規の教育に止めるべきなのが、この条件を満たさない教育材料だといえる。非正規といえども、
そこに寺社奉行の如き公的な監査は入れるべきで、密教の体裁を借りながら、邪教邪学の悪用目的での
修得を企てていたような場合には最悪、取り潰し級の制裁措置をも科すようにしていくのである。
この世には実際、よっぽどの覚悟でもない限りは知らないでいたほうがいいような情報知識がいくらでもある。
それを何もかも知らせつくすというのは、親子の家族関係の睦まじさもあってこそであるこの世の中において、
決して通用することではないから、そのような知識に対する然るべき隔離措置を執ることもあるべきなのである。
そしてカルト宗教などの知識で、これはもう、親が子供に学習を奨められるような扱いは二度と受けなくなる。
ただ、だからといってこの世から完全に根絶されるのではなく、密教の修得を自分で選択した有志が、
その俗悪さを乗り越えるための材料として勉学することに限って、これからも許されることになる。
教育制度を顕教レベルと密教レベルに段階分けすべきだということは、これまでにも何度か提唱してきた。
その区分基準は、「まともな親が我が子に無条件にその学習を奨められるか否か」というのが相応しく、
国が義務教育に定める教育材料も、この条件を満たすものに絞るべきである一方、私塾や密教寺などでの
非正規の教育に止めるべきなのが、この条件を満たさない教育材料だといえる。非正規といえども、
そこに寺社奉行の如き公的な監査は入れるべきで、密教の体裁を借りながら、邪教邪学の悪用目的での
修得を企てていたような場合には最悪、取り潰し級の制裁措置をも科すようにしていくのである。
この世には実際、よっぽどの覚悟でもない限りは知らないでいたほうがいいような情報知識がいくらでもある。
それを何もかも知らせつくすというのは、親子の家族関係の睦まじさもあってこそであるこの世の中において、
決して通用することではないから、そのような知識に対する然るべき隔離措置を執ることもあるべきなのである。
「何をか言を知ると謂う。曰く、詖辞は其の蔽わるる所を知り、
淫辞は其の陥る所を知り、邪辞は其の離るる所を知り、遁辞は其の窮する所を知る」
「公孫丑『人の言葉を知るということは、たとえばどういったことでしょうか』
孟子『極端に偏った言葉からは、その人の心が濁念に覆われていることが知れるし、
ふしだらな言葉からは、その人の心が劣情に陥っていることが知れるし、
邪まな言葉からは、その人の心が道理からかけ離れてしまっていることが知れるし、
言い逃れの言葉からは、その人が心理的に窮してしまっていることが知れる』
(イエスを含む犯罪聖書の登場人物の言葉も、このような反面教師的な知識の
汲み取り対象としては扱えるが、やはり顕教レベルで奨められるものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
淫辞は其の陥る所を知り、邪辞は其の離るる所を知り、遁辞は其の窮する所を知る」
「公孫丑『人の言葉を知るということは、たとえばどういったことでしょうか』
孟子『極端に偏った言葉からは、その人の心が濁念に覆われていることが知れるし、
ふしだらな言葉からは、その人の心が劣情に陥っていることが知れるし、
邪まな言葉からは、その人の心が道理からかけ離れてしまっていることが知れるし、
言い逃れの言葉からは、その人が心理的に窮してしまっていることが知れる』
(イエスを含む犯罪聖書の登場人物の言葉も、このような反面教師的な知識の
汲み取り対象としては扱えるが、やはり顕教レベルで奨められるものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
女子供はともかく、大人の男にとってまで「常日ごろから絶対的な拠り所とすべきもの」などは何もない。
実際問題、主君や親のような拠り所とすべき対象もあるし、困った時の神頼み仏頼みということもある。しかし、
一人前の成人男性ともなれば、自主的な精進作善こそを第一として、その成果を人間関係に回向するためにこそ、
君臣父子夫婦その他の上下関係や、確かな根拠に根ざした神仏への崇敬などをも副次的に嗜むべきなのである。
武士が自家や君主の家紋を掲げて役儀をこなしたり、軍人や役人が自国の旗を掲げて任務に就いたりするのも、
あくまで見る者に自らの身分を示すためであるのが基本であって、自分自身が依存心を高めるのが本義ではない。
昔の家紋はともかく、国旗については、自分たち自身の国家主義を扇情するために掲げたりする場合も非常に多く、
中には「国旗侮辱罪」なんていう罪を法定している馬鹿な国までもがあるが、身分の識別という本来の用途を
重視すれば、国旗によって誇りを育てる、国旗への侮辱によって誇りを傷つけられるなんてこと自体が本末転倒の
事態であることが分かる。どちらかといえば、国旗を侮辱されたりすることよりも、身分証明以外の目的で妄りに
濫用されたりすることのほうを取り締まるべきなのに、よりにもよって、国旗侮辱罪などを制定しているような
国こそは、自国の国旗が好き勝手に利用されることを奨励していたりもするのだから、おかしなものだといえる。
戦前の日本の下級兵などが、「天皇陛下万歳」などと叫びながら玉砕していったのも、キリスト信仰並みに依存心
を高める国家神道に服していたからで、これも哀れみの対象にこそすれど、称賛の対象とまですべきものではない。
「皇帝陛下万歳」は本来「無門関」の表文などにもある禅語であり、自主性を重んずる日本人にも多少は馴染みのある
言葉なのだが、戦前の軍部がそんな意味で「天皇陛下万歳」を用いていたわけでもなく、ただ下級兵たちに自分たちの
激情を煽る言葉として用いさせていたまでで、その点「アーメン」や「アラーアクバル」とも何ら相違はなかったのである。
(だからこそ、臨済宗妙心寺派管長の山本玄峰老師も、太平洋戦争の早期終結を天皇陛下に進言したのだった)
実際問題、主君や親のような拠り所とすべき対象もあるし、困った時の神頼み仏頼みということもある。しかし、
一人前の成人男性ともなれば、自主的な精進作善こそを第一として、その成果を人間関係に回向するためにこそ、
君臣父子夫婦その他の上下関係や、確かな根拠に根ざした神仏への崇敬などをも副次的に嗜むべきなのである。
武士が自家や君主の家紋を掲げて役儀をこなしたり、軍人や役人が自国の旗を掲げて任務に就いたりするのも、
あくまで見る者に自らの身分を示すためであるのが基本であって、自分自身が依存心を高めるのが本義ではない。
昔の家紋はともかく、国旗については、自分たち自身の国家主義を扇情するために掲げたりする場合も非常に多く、
中には「国旗侮辱罪」なんていう罪を法定している馬鹿な国までもがあるが、身分の識別という本来の用途を
重視すれば、国旗によって誇りを育てる、国旗への侮辱によって誇りを傷つけられるなんてこと自体が本末転倒の
事態であることが分かる。どちらかといえば、国旗を侮辱されたりすることよりも、身分証明以外の目的で妄りに
濫用されたりすることのほうを取り締まるべきなのに、よりにもよって、国旗侮辱罪などを制定しているような
国こそは、自国の国旗が好き勝手に利用されることを奨励していたりもするのだから、おかしなものだといえる。
戦前の日本の下級兵などが、「天皇陛下万歳」などと叫びながら玉砕していったのも、キリスト信仰並みに依存心
を高める国家神道に服していたからで、これも哀れみの対象にこそすれど、称賛の対象とまですべきものではない。
「皇帝陛下万歳」は本来「無門関」の表文などにもある禅語であり、自主性を重んずる日本人にも多少は馴染みのある
言葉なのだが、戦前の軍部がそんな意味で「天皇陛下万歳」を用いていたわけでもなく、ただ下級兵たちに自分たちの
激情を煽る言葉として用いさせていたまでで、その点「アーメン」や「アラーアクバル」とも何ら相違はなかったのである。
(だからこそ、臨済宗妙心寺派管長の山本玄峰老師も、太平洋戦争の早期終結を天皇陛下に進言したのだった)
念仏などは、他力本願の体裁を取りながらも、信者の不健全な依存心を立ち消えにさせる効能を伴っている。
現世で悪因苦果に苛まれた劣解の凡夫こそは、特筆して弥陀の計らいによる往生にも与れるという、
人間心理の深層にまで深く食い入った信教構造によって、自然と信者に現世からの自主的な断悪修善をも促してしまう。
そういった、依存心を逆手に取ることで自主性を育む離れ業的な他力信仰も一応はあるわけだけれども、
結局は自主的な精進こそが善因楽果を結実させるという法則の域内には完全に止まっているわけで、
決して「依存心を持って何かをする」ということが善因楽果に結び付く証拠になったりしているわけではない。
ただ、逆に独立意識にばかり専らでい過ぎたなら、今度は「独立」という概念への依存心を募らせることにもなる。
同様に、「自由」や「民主」などといった概念への依存心を強める場合もあり、まるで独立的であるかのような
理念によって、かえって依存心を募らせてしまうような落とし穴もあるわけだから、これまた警戒が必要である。
してみれば、「依存でもなければ独立でもない、理念でもなければ理念でないものでもない」といったような、
般若思想的な中観の確立によってのみ、人は不健全な依存心を脱した心持ちを保ち続けていられることが分かる。
このようなことは、大乗仏教以前の思想家である孟子によっても多少は提唱されていて、仏教か儒学か、
インドか中国か、西か東か今か昔かなどに依らない普遍性を具えていることまでもが知れるのである。
儒学の教条といえども、絶対的な理念などに掲げたりはせずに、自らの自主的な積功累徳のための参考にこそ
すべきであるとは>>278-279に書いた通りである。もちろん自分がここに書いている文章なども、利用するにしたって
そのような利用目的に止められるべきで、決して狂信の対象にすべき代物などではない。概念依存や実物依存、
そして文章依存の深刻化を防ぐためにも、こうして読みやすくもない、粗雑な文筆に止め置いてもいるのだから。
現世で悪因苦果に苛まれた劣解の凡夫こそは、特筆して弥陀の計らいによる往生にも与れるという、
人間心理の深層にまで深く食い入った信教構造によって、自然と信者に現世からの自主的な断悪修善をも促してしまう。
そういった、依存心を逆手に取ることで自主性を育む離れ業的な他力信仰も一応はあるわけだけれども、
結局は自主的な精進こそが善因楽果を結実させるという法則の域内には完全に止まっているわけで、
決して「依存心を持って何かをする」ということが善因楽果に結び付く証拠になったりしているわけではない。
ただ、逆に独立意識にばかり専らでい過ぎたなら、今度は「独立」という概念への依存心を募らせることにもなる。
同様に、「自由」や「民主」などといった概念への依存心を強める場合もあり、まるで独立的であるかのような
理念によって、かえって依存心を募らせてしまうような落とし穴もあるわけだから、これまた警戒が必要である。
してみれば、「依存でもなければ独立でもない、理念でもなければ理念でないものでもない」といったような、
般若思想的な中観の確立によってのみ、人は不健全な依存心を脱した心持ちを保ち続けていられることが分かる。
このようなことは、大乗仏教以前の思想家である孟子によっても多少は提唱されていて、仏教か儒学か、
インドか中国か、西か東か今か昔かなどに依らない普遍性を具えていることまでもが知れるのである。
儒学の教条といえども、絶対的な理念などに掲げたりはせずに、自らの自主的な積功累徳のための参考にこそ
すべきであるとは>>278-279に書いた通りである。もちろん自分がここに書いている文章なども、利用するにしたって
そのような利用目的に止められるべきで、決して狂信の対象にすべき代物などではない。概念依存や実物依存、
そして文章依存の深刻化を防ぐためにも、こうして読みやすくもない、粗雑な文筆に止め置いてもいるのだから。
「君子は貞にして諒ならず」
「立派な人間は(人の言うことをよく聞くような)貞順さは保つけれども、
何かを専らに信じ込んでそれに依存しきったりすることはない。(他力本願も貞順でいられる
範囲なら健全でもいられるが、専らであり過ぎて聞く耳も持たなくなるようなら不健全の極みとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三七より)
「立派な人間は(人の言うことをよく聞くような)貞順さは保つけれども、
何かを専らに信じ込んでそれに依存しきったりすることはない。(他力本願も貞順でいられる
範囲なら健全でもいられるが、専らであり過ぎて聞く耳も持たなくなるようなら不健全の極みとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三七より)
「性、相い近し。習えば、相い遠し」
「人の性分というのは、本来は似通っているものだが、
色々な学習によって成長していくに連れて、お互いの性分が遠ざかるようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・二より)
人の本性には善も悪もない、成長によって後々に善悪の開きが出てくるというのが、
あまり形而上的な性情論を語りたがらなかった孔子の言い分である。その上で、成長過程における
学習の如何によって「上知と下愚は移らず(陽貨第十七・三)」という程もの格差が生じるとも言っている。
ここに、多少の形而上学的な解釈を加えたのが、孟子の性善説や朱子の性即理説であり、
これらも結局は、孔子の性情論を掘り下げた結果としてこのような結論に至ったものだといえる。
だからこそ、人間の本性が善であり理に適っているとしながらも、後天的な濁念からの侵害によって
人が悪や不条理に染まることがあることをも諾っているのである。ただ、極端に穿った見方をするなら、
孟子や朱子の直観的な論説を踏まえてもなお、「性には善も悪もない」という断定までに止めたほうが
普遍的があるかのように考えられなくもない。それでも、性善説や性即理説にもそれなりの存在価値があると
やはり考えられるのは、「性善」とか「性即理」とかいった主張を試みること自体が、人々の善性や理性への
引き止めに寄与する方便的な効果を伴い得るからで、孔子と比べれば二番煎じ三番煎じ的な立場に甘んじる儒者で
ある孟子や朱子が、自分たちの立場の低さを埋め合わせる目的で、あえてこのような主張を行ったのだとも考えられる。
荀子の性悪説などは、この逆の効果を持ち合わせてしまうわけだから、性善説や性即理説と比べれば
推奨の対象とはしにくい。性善説など全く通用しない春秋戦国時代末期に、学生たちの活躍を促す
目的でも荀子はこのような言説に及んでいたに違いなく、実際に荀子の門下からは韓非のような
大学者や、李斯のような秦帝国の重臣が輩出されもしたわけだが、いずれも非業の運命を辿っており、
性悪説に準じようとしたが故の悪因苦果に見舞われたのだとも考えざるを得ない所があるのである。
「人の性分というのは、本来は似通っているものだが、
色々な学習によって成長していくに連れて、お互いの性分が遠ざかるようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・二より)
人の本性には善も悪もない、成長によって後々に善悪の開きが出てくるというのが、
あまり形而上的な性情論を語りたがらなかった孔子の言い分である。その上で、成長過程における
学習の如何によって「上知と下愚は移らず(陽貨第十七・三)」という程もの格差が生じるとも言っている。
ここに、多少の形而上学的な解釈を加えたのが、孟子の性善説や朱子の性即理説であり、
これらも結局は、孔子の性情論を掘り下げた結果としてこのような結論に至ったものだといえる。
だからこそ、人間の本性が善であり理に適っているとしながらも、後天的な濁念からの侵害によって
人が悪や不条理に染まることがあることをも諾っているのである。ただ、極端に穿った見方をするなら、
孟子や朱子の直観的な論説を踏まえてもなお、「性には善も悪もない」という断定までに止めたほうが
普遍的があるかのように考えられなくもない。それでも、性善説や性即理説にもそれなりの存在価値があると
やはり考えられるのは、「性善」とか「性即理」とかいった主張を試みること自体が、人々の善性や理性への
引き止めに寄与する方便的な効果を伴い得るからで、孔子と比べれば二番煎じ三番煎じ的な立場に甘んじる儒者で
ある孟子や朱子が、自分たちの立場の低さを埋め合わせる目的で、あえてこのような主張を行ったのだとも考えられる。
荀子の性悪説などは、この逆の効果を持ち合わせてしまうわけだから、性善説や性即理説と比べれば
推奨の対象とはしにくい。性善説など全く通用しない春秋戦国時代末期に、学生たちの活躍を促す
目的でも荀子はこのような言説に及んでいたに違いなく、実際に荀子の門下からは韓非のような
大学者や、李斯のような秦帝国の重臣が輩出されもしたわけだが、いずれも非業の運命を辿っており、
性悪説に準じようとしたが故の悪因苦果に見舞われたのだとも考えざるを得ない所があるのである。
孟子や朱子だけでなく、荀子もまた孔門の徒であり、「人の本性は似通っている」という孔子の言説を基本と
していたことには変わりない。拝火教やアブラハム教のように、「人の本性自体が始めから決定的に断絶している」
などという二元論的な発想は元から排しているわけで、そこは「純人道」たる儒道ならではの特殊要素だといえる。
儒学の性情論は一元論的二言論であり、本性の部分がみな同一であるとする点、道家の万物斉同論にも近似している。
一方で、儒家でも道家でも「男女の別」が先天的後天的に普遍視されているわけで、人類の半々である男と女が
決定的に別物であるというのに、男同士までもが善人や悪人に分裂してしまうような事態を根本的に忌んでいる。
だから儒家は勧善懲悪の一方的な推進を志す一方、道家は善悪の分裂や対立全般を不毛なものとして諦めている。
善悪二元の分裂の存在を認めながらも、決してそれを良しとしない大前提が儒家や道家にはあるわけで、
だからこそ儒学や玄学(道家の学)があまり宗教としては発展しなかった一方、結局はそれでよかったことが
今になってこそ判明してもいる。人の先天的な本性からの分裂を論拠とした恒久的な争いを促したことが、
狂信型の宗教の発端でもあったのだから、宗教という文化形態全般への反省と共に、二元的対立全般を
下賤なものとしてしか扱わない、シラフ文化の存在価値を見直していくことが勧められるべきだといえる。
「慎みて乃の僚を簡び、巧言令色、便辟側媚を以ってする無かれ、其れ吉士を惟れとせよ」
「よく慎んで汝の部下を選び、上辺の言葉や見てくれだけで飾ったり、媚び諂って機嫌を
取ろうとしたりする者を決して取り立てぬように。よくできた人間だけを取り上げるように。
(『巧言令色』は虞書・皋陶謨に初出。4000年前から口先だけを磨こうとする愚人はいた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・冏命より)
していたことには変わりない。拝火教やアブラハム教のように、「人の本性自体が始めから決定的に断絶している」
などという二元論的な発想は元から排しているわけで、そこは「純人道」たる儒道ならではの特殊要素だといえる。
儒学の性情論は一元論的二言論であり、本性の部分がみな同一であるとする点、道家の万物斉同論にも近似している。
一方で、儒家でも道家でも「男女の別」が先天的後天的に普遍視されているわけで、人類の半々である男と女が
決定的に別物であるというのに、男同士までもが善人や悪人に分裂してしまうような事態を根本的に忌んでいる。
だから儒家は勧善懲悪の一方的な推進を志す一方、道家は善悪の分裂や対立全般を不毛なものとして諦めている。
善悪二元の分裂の存在を認めながらも、決してそれを良しとしない大前提が儒家や道家にはあるわけで、
だからこそ儒学や玄学(道家の学)があまり宗教としては発展しなかった一方、結局はそれでよかったことが
今になってこそ判明してもいる。人の先天的な本性からの分裂を論拠とした恒久的な争いを促したことが、
狂信型の宗教の発端でもあったのだから、宗教という文化形態全般への反省と共に、二元的対立全般を
下賤なものとしてしか扱わない、シラフ文化の存在価値を見直していくことが勧められるべきだといえる。
「慎みて乃の僚を簡び、巧言令色、便辟側媚を以ってする無かれ、其れ吉士を惟れとせよ」
「よく慎んで汝の部下を選び、上辺の言葉や見てくれだけで飾ったり、媚び諂って機嫌を
取ろうとしたりする者を決して取り立てぬように。よくできた人間だけを取り上げるように。
(『巧言令色』は虞書・皋陶謨に初出。4000年前から口先だけを磨こうとする愚人はいた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・冏命より)
性別上の女はみんな「今が全て」だし、匹夫小人の男も大概は「今が全て」である。
過去に対する十分な反省も、未来に向けての十分な計画も疎かなままに、ただ今を生きる。
それだけで済むならそれに越したことはないが、残念ながら、そればかりでは済まない。
誰も彼もが「今が全て」の刹那主義に走った挙句に、船頭多くして船山に登る要領で
世の中全体が経済破綻などの破滅に陥ってしまう。だから去来今を等分に俯瞰できる
聖人君子の教導による救いが必要となってしまうわけだけども、民主主義の悪影響よろしく、
今のことしか頭にない自分たち一般人こそは偉いみたいな思い込みを持ち越したままでいたなら、
決してうまく救えることもない。今のことしか念頭に置けないような自分たちのあり方が、
甚だしい愚か者のそれでしかないことを十分に思い知って、自分自身が聖賢になれなくとも、
聖賢に素直に随順していくぐらいの心持ちは得るのでなければ、決してどうにもなりはしない。
当然、「今が全て」の心境を信者に強制的に植え付ける宗教や、そのような人間こそは貴いみたいな
思い込みを人々に植え付ける教義論説などにも、決して権威を与えてやったりしてはならない。
実際、民間人こそは、今のことしか頭に置けないような生活習慣を強いられることが多く、
それが重労働のせいであったりする場合もあることから、「今が全て」という感覚を美化
することもそう難しいことではないわけだが、その「今が全て」の過剰な蔓延によってこそ
世界が破滅に陥りすらしかねないのも上に書いた通りだし、そもそも民間人だからといって今を
追われるような重労働ばかりに従事させられていることからして為政者の不手際でしかないのである。
だからこそ、「今が全て」という感覚をどんな形で称賛していていいようなこともないのである。
過去に対する十分な反省も、未来に向けての十分な計画も疎かなままに、ただ今を生きる。
それだけで済むならそれに越したことはないが、残念ながら、そればかりでは済まない。
誰も彼もが「今が全て」の刹那主義に走った挙句に、船頭多くして船山に登る要領で
世の中全体が経済破綻などの破滅に陥ってしまう。だから去来今を等分に俯瞰できる
聖人君子の教導による救いが必要となってしまうわけだけども、民主主義の悪影響よろしく、
今のことしか頭にない自分たち一般人こそは偉いみたいな思い込みを持ち越したままでいたなら、
決してうまく救えることもない。今のことしか念頭に置けないような自分たちのあり方が、
甚だしい愚か者のそれでしかないことを十分に思い知って、自分自身が聖賢になれなくとも、
聖賢に素直に随順していくぐらいの心持ちは得るのでなければ、決してどうにもなりはしない。
当然、「今が全て」の心境を信者に強制的に植え付ける宗教や、そのような人間こそは貴いみたいな
思い込みを人々に植え付ける教義論説などにも、決して権威を与えてやったりしてはならない。
実際、民間人こそは、今のことしか頭に置けないような生活習慣を強いられることが多く、
それが重労働のせいであったりする場合もあることから、「今が全て」という感覚を美化
することもそう難しいことではないわけだが、その「今が全て」の過剰な蔓延によってこそ
世界が破滅に陥りすらしかねないのも上に書いた通りだし、そもそも民間人だからといって今を
追われるような重労働ばかりに従事させられていることからして為政者の不手際でしかないのである。
だからこそ、「今が全て」という感覚をどんな形で称賛していていいようなこともないのである。
際限のない快楽を貪り続けることに専らであるような人間の心境も、まさに「今が全て」だといえる。
これはもう、今さら新たに咎めるまでもなく、麻薬取締りや風俗規制などの実力行使によっても
すでに制限がかけられているものである。ただ、欧米産の俗悪文化の中には、快楽への惑溺こそを
高度に美化しようとするようなものが多く含まれているため、その手の文化に対する警戒も必要である。
とはいえ、快楽文化を完全に否定したりするのも世の中にとって現実的なことではないので、
極度の美化が伴わない範囲での快楽文化を容認したりするのが、江戸時代の日本人の知恵でもあった。
井原西鶴の好色もの小説なども、快楽の貪りが甚だしいにも程があるが、決してそこに美化などは
伴っていないから、単なる笑い者扱いとして好色を諦観できて、「今が全て」のような感覚を
戒める一方、去来今をよく俯瞰する気の長さを貴ぶことを侵害までするようなことは決してなかった。
去来今を諦観することにかけて白眉であるのも、やはり仏教だが、儒学もまた、古えの
聖賢の言葉や聖王賢臣の事績を参考に今後の世の中を切り開いていく、温故知新を勉学上の
最重要理念に掲げている。旧来の学説など淘汰してナンボであると考えられている洋学の感覚
などからすれば、儒者のあり方が古臭くて依存的に過ぎるように思われたりもするわけだけども、
儒学が勃興した春秋戦国時代にも、新規奇抜な学説で人々の奇を衒おうとしていたような学者は
名家などに多数いたわけで、儒学もそんな連中を横目にして構築されていったものでこそある。
そして名家の言説が世のため人のために寄与したような事実はほとんどない一方で、儒学が
東洋史上において与えてきた好影響は枚挙に暇がない。結局は去来今の三世をよく俯瞰できる
者こそが善美でいられるのが、この世界の実相法則でもあるのだから、温故知新を旨とする
儒者のあり方などを、洋学者風情があざ笑っていたりしていいようなはずもないのである。
これはもう、今さら新たに咎めるまでもなく、麻薬取締りや風俗規制などの実力行使によっても
すでに制限がかけられているものである。ただ、欧米産の俗悪文化の中には、快楽への惑溺こそを
高度に美化しようとするようなものが多く含まれているため、その手の文化に対する警戒も必要である。
とはいえ、快楽文化を完全に否定したりするのも世の中にとって現実的なことではないので、
極度の美化が伴わない範囲での快楽文化を容認したりするのが、江戸時代の日本人の知恵でもあった。
井原西鶴の好色もの小説なども、快楽の貪りが甚だしいにも程があるが、決してそこに美化などは
伴っていないから、単なる笑い者扱いとして好色を諦観できて、「今が全て」のような感覚を
戒める一方、去来今をよく俯瞰する気の長さを貴ぶことを侵害までするようなことは決してなかった。
去来今を諦観することにかけて白眉であるのも、やはり仏教だが、儒学もまた、古えの
聖賢の言葉や聖王賢臣の事績を参考に今後の世の中を切り開いていく、温故知新を勉学上の
最重要理念に掲げている。旧来の学説など淘汰してナンボであると考えられている洋学の感覚
などからすれば、儒者のあり方が古臭くて依存的に過ぎるように思われたりもするわけだけども、
儒学が勃興した春秋戦国時代にも、新規奇抜な学説で人々の奇を衒おうとしていたような学者は
名家などに多数いたわけで、儒学もそんな連中を横目にして構築されていったものでこそある。
そして名家の言説が世のため人のために寄与したような事実はほとんどない一方で、儒学が
東洋史上において与えてきた好影響は枚挙に暇がない。結局は去来今の三世をよく俯瞰できる
者こそが善美でいられるのが、この世界の実相法則でもあるのだから、温故知新を旨とする
儒者のあり方などを、洋学者風情があざ笑っていたりしていいようなはずもないのである。
「蟋蟀堂に在り、歳も聿に其れ莫れんとす。
今我れら楽しず、日月も其れ除らんとす。
大いには康しむ無かれ、職に其の居を思え。
楽しみを好みて荒む無かれ、良士は瞿瞿たり。
蟋蟀堂に在り、歳も聿に其れ逝かんとす。
今我れら楽しまず、日月も其れ邁かんとす。
大いには康しむ無かれ、職に其の外を思え。
楽しみを好みて荒む無かれ、良士は蹶蹶たり。
蟋蟀堂に在り、役車も其れ休らげり。
今我れ楽しまず、日月も其れ慆ぎんとす。
大いには康しむ無かれ、職に其の憂いを思え。
楽しみを好みて荒む無かれ、良士は休休たり」
「コオロギが家に入り込んでくるような季節、今年ももう暮れようとしている。
日月の早々と暮れ行く様を見て、私も今ばかりを楽しもうとすることを戒める。
無闇にうかれたりはせずに、家業の重要さをよくわきまえねばならない。
楽しみばかりに耽って惑乱するな、良き士こそは常日ごろから畏れ慎んでいる。
コオロギが家に入り込んでくるような季節、今年ももう過ぎようとしている。
日月の早々と過ぎ行く様を見て、私も今ばかりを楽しもうとすることを戒める。
無闇にうかれたりはせずに、家の周りのことにまでよく気を遣わねばならない。
楽しみばかりに耽って惑乱するな、良き士こそは常日ごろからこまめでいる。
コオロギが家に入り込んでくるような季節、仕事用の運送車も休める頃。
日月の早々と過ぎ去る様を見て、私も今ばかりを楽しもうとすることを戒める。
無闇にうかれたりはせずに、むしろよく憂患を尽くすぐらいでないといけない。
楽しみばかりに耽って惑乱するな、良き士こそは常日ごろから引き締まっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・蟋蟀より)
今我れら楽しず、日月も其れ除らんとす。
大いには康しむ無かれ、職に其の居を思え。
楽しみを好みて荒む無かれ、良士は瞿瞿たり。
蟋蟀堂に在り、歳も聿に其れ逝かんとす。
今我れら楽しまず、日月も其れ邁かんとす。
大いには康しむ無かれ、職に其の外を思え。
楽しみを好みて荒む無かれ、良士は蹶蹶たり。
蟋蟀堂に在り、役車も其れ休らげり。
今我れ楽しまず、日月も其れ慆ぎんとす。
大いには康しむ無かれ、職に其の憂いを思え。
楽しみを好みて荒む無かれ、良士は休休たり」
「コオロギが家に入り込んでくるような季節、今年ももう暮れようとしている。
日月の早々と暮れ行く様を見て、私も今ばかりを楽しもうとすることを戒める。
無闇にうかれたりはせずに、家業の重要さをよくわきまえねばならない。
楽しみばかりに耽って惑乱するな、良き士こそは常日ごろから畏れ慎んでいる。
コオロギが家に入り込んでくるような季節、今年ももう過ぎようとしている。
日月の早々と過ぎ行く様を見て、私も今ばかりを楽しもうとすることを戒める。
無闇にうかれたりはせずに、家の周りのことにまでよく気を遣わねばならない。
楽しみばかりに耽って惑乱するな、良き士こそは常日ごろからこまめでいる。
コオロギが家に入り込んでくるような季節、仕事用の運送車も休める頃。
日月の早々と過ぎ去る様を見て、私も今ばかりを楽しもうとすることを戒める。
無闇にうかれたりはせずに、むしろよく憂患を尽くすぐらいでないといけない。
楽しみばかりに耽って惑乱するな、良き士こそは常日ごろから引き締まっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・蟋蟀より)
日本の武道なども、非合理なほどもの努力主義が是とされるようになったのは、
明治や戦後以降のこと。いま各種古流剣術や、合気道や大東流柔術などに継承
されているような古武術技法も、合理的な身体の動きや刀捌きこそを洗練させて
いったもので、非合理な力技をごり押しするようなことはかえって戒めている。
それが明治以降、武術ではなくグラバーらから購入した重火器によって薩軍が倒幕をやらかし、
軍隊から警察に至るまでの武力利権を鹿児島人が自分たちばかりで牛耳るようになって、本来は
当地の田舎剣法に過ぎなかった猪突猛進主義の剣法である示現流が、剣道の基本技法に据えられるなど
したために、江戸時代までにこそなかったほどもの突進志向を武道が帯びていくようになってしまった。
それでも戦前までは、武道全般が大いに奨励されていたものだから、古流の剣術や柔術を武道の場において
参考にすることが大いにあったわけだが、武道禁止令が一時的に出された戦後にはそのような試みも
大幅な制限を受けるようになり、古武術の技法を応用した武道などは村八分扱いを受けるようになった。
そして、いま武道の主流とされている剣道や柔道こそは、技術研鑽なんかごく簡素なものに止めて、
ただひたすら力と気合いとで相手を押しまくることを全てとするスポーツ武道と化してしまっている。
幕末から明治、大正、昭和と時代を下るに連れて、武道はかえって徒労も辞さないような努力主義
一辺倒に陥っていった。それにもかかわらず、今の武道こそを鑑みて、「武道ばかりやってた昔の
人たちは非合理に過ぎるような人たちばかりだった」などと勝手に思い込んでしまっていたりもする。
本来武道こそは、人間工学も顔負けの合理的な身体躁法を突き止めたものであったのに、スポーツを含む
西洋文化が国内に大量流入して来たことの煽りを受けて、かえって部分的にはそうでなくなってしまった。
科学やその他の無宗教的学術が西洋から大量に輸入されたせいで、西洋こそは合理主義の牙城であり、
日本を含む東洋こそは非合理主義の吹き溜まりであったかのような勘違いが、未だに広く蔓延している。
明治や戦後以降のこと。いま各種古流剣術や、合気道や大東流柔術などに継承
されているような古武術技法も、合理的な身体の動きや刀捌きこそを洗練させて
いったもので、非合理な力技をごり押しするようなことはかえって戒めている。
それが明治以降、武術ではなくグラバーらから購入した重火器によって薩軍が倒幕をやらかし、
軍隊から警察に至るまでの武力利権を鹿児島人が自分たちばかりで牛耳るようになって、本来は
当地の田舎剣法に過ぎなかった猪突猛進主義の剣法である示現流が、剣道の基本技法に据えられるなど
したために、江戸時代までにこそなかったほどもの突進志向を武道が帯びていくようになってしまった。
それでも戦前までは、武道全般が大いに奨励されていたものだから、古流の剣術や柔術を武道の場において
参考にすることが大いにあったわけだが、武道禁止令が一時的に出された戦後にはそのような試みも
大幅な制限を受けるようになり、古武術の技法を応用した武道などは村八分扱いを受けるようになった。
そして、いま武道の主流とされている剣道や柔道こそは、技術研鑽なんかごく簡素なものに止めて、
ただひたすら力と気合いとで相手を押しまくることを全てとするスポーツ武道と化してしまっている。
幕末から明治、大正、昭和と時代を下るに連れて、武道はかえって徒労も辞さないような努力主義
一辺倒に陥っていった。それにもかかわらず、今の武道こそを鑑みて、「武道ばかりやってた昔の
人たちは非合理に過ぎるような人たちばかりだった」などと勝手に思い込んでしまっていたりもする。
本来武道こそは、人間工学も顔負けの合理的な身体躁法を突き止めたものであったのに、スポーツを含む
西洋文化が国内に大量流入して来たことの煽りを受けて、かえって部分的にはそうでなくなってしまった。
科学やその他の無宗教的学術が西洋から大量に輸入されたせいで、西洋こそは合理主義の牙城であり、
日本を含む東洋こそは非合理主義の吹き溜まりであったかのような勘違いが、未だに広く蔓延している。
福沢諭吉あたりも、明らかに確信犯としてそのような論説を世に広めていたわけだが、説として是か非か
という以前に、上記のような考えは全くの事実誤認でしかない。西洋の諸々の無宗教的学術も、非合理主義
の極みである聖書信仰を原因とした文化的荒廃を埋め合わせる目的で拵えられたものであり、聖書信仰が
西洋文化の根幹である以上は、西洋文化こそが非合理主義の牙城であると見なしたほうが正しいのである。
聖書信仰の極度な非合理主義による荒廃を埋め合わせる目的で、西洋人こそは合理主義の極みである
かのような無宗教的学術を拵えた。「あるかのような」というのは、結局はその手法を傍観的な観察や
大げさ過ぎる帰納法などに限り続けてきたからで、それがいかにも合理主義の極みらしく思われる一方で、
万物斉同の無為自然の先にこそ真理がある、この世界この宇宙の実相法則を合理的に取り扱うことにかけて、
東洋学や日本の古武術程度に有用であったような試しすらないことでも、一貫し続けてきたのである。
東洋の合理主義が健全な合理主義なら、西洋の合理主義はカタワの合理主義であり、その合理主義に
基づく文明構築を志した結果、かえって聖書信者級の非合理主義にまみれた愚人を量産していしまうという
弊害を生じさせてきた。学問の対象がモノやカネばかりに終始して、人間自身を問い学ぶことを全く疎かに
し続けて来たものだから、肝心の人間自身が全く合理主義の実践に与れない事態を持ち越して来たのだった。
西洋学では、未だに「0」という理念を人文学に導入することすら実質上、禁止されている。
だから「悪いことをするぐらいなら何もしないでいたほうがマシ」程度の倫理的判断すら覚束ない。
それもやはり、旧約の律法における労働の義務化などの、旧来の聖書文化の影響を持ち越してしまって
いるからで、洋学者自身、自分たちでも気づかないうちから非合理主義に沿ってしまっていたりもする。
川の上流が濁っていれば、下流も必ず濁るという致命問題に、未だ洋学者も苛まれ続けているのである。
という以前に、上記のような考えは全くの事実誤認でしかない。西洋の諸々の無宗教的学術も、非合理主義
の極みである聖書信仰を原因とした文化的荒廃を埋め合わせる目的で拵えられたものであり、聖書信仰が
西洋文化の根幹である以上は、西洋文化こそが非合理主義の牙城であると見なしたほうが正しいのである。
聖書信仰の極度な非合理主義による荒廃を埋め合わせる目的で、西洋人こそは合理主義の極みである
かのような無宗教的学術を拵えた。「あるかのような」というのは、結局はその手法を傍観的な観察や
大げさ過ぎる帰納法などに限り続けてきたからで、それがいかにも合理主義の極みらしく思われる一方で、
万物斉同の無為自然の先にこそ真理がある、この世界この宇宙の実相法則を合理的に取り扱うことにかけて、
東洋学や日本の古武術程度に有用であったような試しすらないことでも、一貫し続けてきたのである。
東洋の合理主義が健全な合理主義なら、西洋の合理主義はカタワの合理主義であり、その合理主義に
基づく文明構築を志した結果、かえって聖書信者級の非合理主義にまみれた愚人を量産していしまうという
弊害を生じさせてきた。学問の対象がモノやカネばかりに終始して、人間自身を問い学ぶことを全く疎かに
し続けて来たものだから、肝心の人間自身が全く合理主義の実践に与れない事態を持ち越して来たのだった。
西洋学では、未だに「0」という理念を人文学に導入することすら実質上、禁止されている。
だから「悪いことをするぐらいなら何もしないでいたほうがマシ」程度の倫理的判断すら覚束ない。
それもやはり、旧約の律法における労働の義務化などの、旧来の聖書文化の影響を持ち越してしまって
いるからで、洋学者自身、自分たちでも気づかないうちから非合理主義に沿ってしまっていたりもする。
川の上流が濁っていれば、下流も必ず濁るという致命問題に、未だ洋学者も苛まれ続けているのである。
「祈父よ、予れは王の爪牙なり。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、止まり居ること靡からしむ。
祈父よ、予れは王の爪士なり。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、底に止まること靡からしむ。
祈父よ、亶に不聡なる。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、有た之れ尸饔すること母からしむ」
「大将さまよ、わしは王様の近衛兵だ。どうしてこれ程もの身分にありながら、
貧窮の中に転ばされて、ろくに安住もできないようなザマでいさせられるのだ。
大将さまよ、わしは王様の近衛兵だ。どうしてこれ程もの身分にありながら、
貧窮の中に転ばされて、少しも止まってすらいられないようなザマでいさせられるのだ。
大将さまよ、どうしてそれ程にも分からず屋なのだ。我々を貧窮の中に転ばせて、
もはやろくに食べて行けもしないようなザマにすら追い込まれているじゃないか。
(没落時の西周宣王の近衛兵が、自分たちの隊長を怨み謗る歌。軍人といえども心があり、
命令至上主義である軍役といえども、過酷で割りに合わなさ過ぎたりすれば不満が生ずる。
精神論でそのような怨みを抑えようにも、兵隊も必ずしも精神力旺盛な精鋭ばかりとも限らない。
だから将校も兵士を相応に労わるべきであると『六韜』『三略』などにもある。
軍隊ですらそうなのだから、民間人を相手にした為政などであれば尚更のことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・祈父)
祈父よ、予れは王の爪士なり。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、底に止まること靡からしむ。
祈父よ、亶に不聡なる。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、有た之れ尸饔すること母からしむ」
「大将さまよ、わしは王様の近衛兵だ。どうしてこれ程もの身分にありながら、
貧窮の中に転ばされて、ろくに安住もできないようなザマでいさせられるのだ。
大将さまよ、わしは王様の近衛兵だ。どうしてこれ程もの身分にありながら、
貧窮の中に転ばされて、少しも止まってすらいられないようなザマでいさせられるのだ。
大将さまよ、どうしてそれ程にも分からず屋なのだ。我々を貧窮の中に転ばせて、
もはやろくに食べて行けもしないようなザマにすら追い込まれているじゃないか。
(没落時の西周宣王の近衛兵が、自分たちの隊長を怨み謗る歌。軍人といえども心があり、
命令至上主義である軍役といえども、過酷で割りに合わなさ過ぎたりすれば不満が生ずる。
精神論でそのような怨みを抑えようにも、兵隊も必ずしも精神力旺盛な精鋭ばかりとも限らない。
だから将校も兵士を相応に労わるべきであると『六韜』『三略』などにもある。
軍隊ですらそうなのだから、民間人を相手にした為政などであれば尚更のことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・祈父)
諸行無常の絶対真理をうべなう所で人は善を為し、不滅の命などを追い求める所で人は悪を為す。
人間同士が社会的な関係性の中で自然と定義をすり合わせて言った所の、善や悪を為す。
「自分はこれが善いと思う」「あれは悪いと思う」などと個人的に主張する所の善悪であれば、
必ずしも上のような条件を満たさず、かえって上のような善悪を転倒させてしまいがちにすらなる。
この世界、この宇宙の全現象からして、諸行無常を原理的な法則とする物理構造によって司られており、
形あるもの全てがいつかは灰塵に帰するほどもの有機性が遍在していればこそ、全てのものが形を成している。
特に、「命」を具えるほどにも有機的な構造体=生命体こそは、この宇宙の原理的な構造に強度に依存
することでこそ生じているため、一定の寿命内での個体の死滅が決して免れられないようになっている。
そのような原理法則に沿おうとした時に人は善を為せる一方、抗おうとした時に人は悪を為してしまう。
ただそうであるだけでなく、そうであることに即した善悪の分別をも人間は一定以上にわきまえて来た。
そうでなければ人間関係を健全化させることもままならないから、規格を統一させた倫理体系というものを
否応なく構築して来た。それをそのまま世俗の言葉に起こしてみたのが、たとえば儒学の学説だったりする。
四書五経に代表される儒説の内容が、あまりにも当たり前なものばかりであり過ぎるせいで、
かえって軽んじられることが多いのも、元からして、人々が社会的な人間関係を育んでいく上で
自然と構築していった、当たり前な倫理体系を学説化したのが儒説でこそあるからで、その内容が
当たり前なものばかりであるのも、儒学が成立した経緯からいっても、これまた当たり前なことなのである。
人間にとってのごく当たり前な倫理体系こそを儒学として学説化した中国に限らずとも、世界中において、
儒説と同等の善悪の分別を具えた倫理体系というのは遍在している。その条件を満たせている限りにおいて、
人間は一定以上に大規模な社会構造を構築し得るのだから、例外である人間社会などもこの世界のどこにもない。
人間同士が社会的な関係性の中で自然と定義をすり合わせて言った所の、善や悪を為す。
「自分はこれが善いと思う」「あれは悪いと思う」などと個人的に主張する所の善悪であれば、
必ずしも上のような条件を満たさず、かえって上のような善悪を転倒させてしまいがちにすらなる。
この世界、この宇宙の全現象からして、諸行無常を原理的な法則とする物理構造によって司られており、
形あるもの全てがいつかは灰塵に帰するほどもの有機性が遍在していればこそ、全てのものが形を成している。
特に、「命」を具えるほどにも有機的な構造体=生命体こそは、この宇宙の原理的な構造に強度に依存
することでこそ生じているため、一定の寿命内での個体の死滅が決して免れられないようになっている。
そのような原理法則に沿おうとした時に人は善を為せる一方、抗おうとした時に人は悪を為してしまう。
ただそうであるだけでなく、そうであることに即した善悪の分別をも人間は一定以上にわきまえて来た。
そうでなければ人間関係を健全化させることもままならないから、規格を統一させた倫理体系というものを
否応なく構築して来た。それをそのまま世俗の言葉に起こしてみたのが、たとえば儒学の学説だったりする。
四書五経に代表される儒説の内容が、あまりにも当たり前なものばかりであり過ぎるせいで、
かえって軽んじられることが多いのも、元からして、人々が社会的な人間関係を育んでいく上で
自然と構築していった、当たり前な倫理体系を学説化したのが儒説でこそあるからで、その内容が
当たり前なものばかりであるのも、儒学が成立した経緯からいっても、これまた当たり前なことなのである。
人間にとってのごく当たり前な倫理体系こそを儒学として学説化した中国に限らずとも、世界中において、
儒説と同等の善悪の分別を具えた倫理体系というのは遍在している。その条件を満たせている限りにおいて、
人間は一定以上に大規模な社会構造を構築し得るのだから、例外である人間社会などもこの世界のどこにもない。
超越神からの救いによる不滅の命の獲得などを謳う、邪教に支配された西洋社会でも、それは同じこと。
違うのは、儒説並みにまともな倫理体系をわきまえている人間が皆、被支配者の側に回されて、一方的に
虐げられる体裁と共にのみ世の中を支えていくことを強要され続けて来た点のみであり、そのあたり、
不老不死を希求していた始皇帝によって支配されていた秦代の中国などとも似通っている。当時の中国でも、
被支配者こそは無責任な支配者の下で、世の中を営んでいく全責任をも負わされていたわけで、だからこそ、
革命によっていち百姓に過ぎなかった劉家が皇帝の座に就き直したことで、世相が安定を獲得しもしたのだった。
西洋でも「民主化」という手続きを通じて、邪教支配下で本当に世の中を支えている民衆たちにこそ
政治的権限を付与しようとする試みがなされたが、初戦は茶番の域に止まり続けた。正式な立場にある
為政者が、十分な責任を負ってこそ世の中も改善されるのに、為政者は相変わらず無責任なままで、自分たちには
また別に仕事のある民衆たちに主権だけは与えようとしたのだから、その片手落ちさ故にうまくいくこともなかった。
特に、人様の命を自由に左右できる程もの大権を掌握した者の内にこそ、不滅の命なぞを求めて悪行を為す
輩が生じてしまいがちなもの。まるで、本当に自分が不滅の命を得られるかのように勘違いしてしまい、
一般人にとっては当たり前であるような善悪の分別すらをも容易く見失ってしまう。だから、そのような
権力者のためにこそ、当たり前な倫理体系をそのまま学術化しただけの学問である儒学や、諸行無常を
帰依者に堅くわきまえさせる仏教などが必要にすらなって来る。社会的権限の絶大化に反比例して、
人としての当たり前なわきまえのほうは失いがちなもので、だからこそ儒学や仏教を舐めているわけにもいかない。
「厥の心疾很、死を畏るることも克わず」
「自らの心が病み患いひねくれきってしまっているために、死を畏れ謹むこともできない。
(これも聖書信者に共通する精神病理である。こんな人間ばかりでは世の中も保てない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥)
違うのは、儒説並みにまともな倫理体系をわきまえている人間が皆、被支配者の側に回されて、一方的に
虐げられる体裁と共にのみ世の中を支えていくことを強要され続けて来た点のみであり、そのあたり、
不老不死を希求していた始皇帝によって支配されていた秦代の中国などとも似通っている。当時の中国でも、
被支配者こそは無責任な支配者の下で、世の中を営んでいく全責任をも負わされていたわけで、だからこそ、
革命によっていち百姓に過ぎなかった劉家が皇帝の座に就き直したことで、世相が安定を獲得しもしたのだった。
西洋でも「民主化」という手続きを通じて、邪教支配下で本当に世の中を支えている民衆たちにこそ
政治的権限を付与しようとする試みがなされたが、初戦は茶番の域に止まり続けた。正式な立場にある
為政者が、十分な責任を負ってこそ世の中も改善されるのに、為政者は相変わらず無責任なままで、自分たちには
また別に仕事のある民衆たちに主権だけは与えようとしたのだから、その片手落ちさ故にうまくいくこともなかった。
特に、人様の命を自由に左右できる程もの大権を掌握した者の内にこそ、不滅の命なぞを求めて悪行を為す
輩が生じてしまいがちなもの。まるで、本当に自分が不滅の命を得られるかのように勘違いしてしまい、
一般人にとっては当たり前であるような善悪の分別すらをも容易く見失ってしまう。だから、そのような
権力者のためにこそ、当たり前な倫理体系をそのまま学術化しただけの学問である儒学や、諸行無常を
帰依者に堅くわきまえさせる仏教などが必要にすらなって来る。社会的権限の絶大化に反比例して、
人としての当たり前なわきまえのほうは失いがちなもので、だからこそ儒学や仏教を舐めているわけにもいかない。
「厥の心疾很、死を畏るることも克わず」
「自らの心が病み患いひねくれきってしまっているために、死を畏れ謹むこともできない。
(これも聖書信者に共通する精神病理である。こんな人間ばかりでは世の中も保てない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥)
情念こそは、口先だけでどうにでもこねくり回せるものである一方、
口先だけでどうにかなるような情念こそは、人間の心の内でも特に本性からかけ離れた要素ともなっている。
だから、口先で自分の心をどうにかしようとすればするほど、人は自らの本性を疎かにもしてしまうのであり、
そのような事態に陥るのを防ぐためには、般若思想のごとき一切皆空の境地に口語情報の全てを帰するのが得策ともなるのである。
人間の本性は臍下三寸の下丹田付近を在処としている一方、情念は脳や口先もある頭部の上丹田付近を在処としている。
この中間の、中丹田付近に相当する心臓が劣情の影響を受けて、動作を過剰化させてしまう(おだつ)ことが、
上丹田と下丹田の連絡を阻害する原因となり、性情が分裂してまでの劣情の独り歩きを促進することとなってしまう。
愚人や悪人はほぼ全員がそのような心理状態に陥ってしまっている一方、聖人や賢人は心臓の暴走による性情の
分裂などを十分に抑えられている。凡人や善人はその中間で、性情の分裂を抑えられていたりいなかったりする程度。
性情が完全に分裂した愚人が蒙昧さを開き直っての蛮行に及べば悪人となる一方、性情をよく一致させた
賢人がより一層の研鑽を尽くせば聖人になるといった程度の差違がある。善人と凡人の違いは、
ただ性情を分裂させないでおこうとする意志が自分自身にあるかないかといった程度のもので、
善人にはその程度の意志はある一方、凡人にはその意志すらない。善人と凡人のいずれも、必ずしも性情を
一致させられていない点では共通するが、自らに性情を一致させていこうとする意志があるぶんだけ、
善人のほうが凡人よりも、愚人や悪人へと豹変してしまったりはしにくいといった程度の違いはある。
口先だけでどうにかなるような情念こそは、人間の心の内でも特に本性からかけ離れた要素ともなっている。
だから、口先で自分の心をどうにかしようとすればするほど、人は自らの本性を疎かにもしてしまうのであり、
そのような事態に陥るのを防ぐためには、般若思想のごとき一切皆空の境地に口語情報の全てを帰するのが得策ともなるのである。
人間の本性は臍下三寸の下丹田付近を在処としている一方、情念は脳や口先もある頭部の上丹田付近を在処としている。
この中間の、中丹田付近に相当する心臓が劣情の影響を受けて、動作を過剰化させてしまう(おだつ)ことが、
上丹田と下丹田の連絡を阻害する原因となり、性情が分裂してまでの劣情の独り歩きを促進することとなってしまう。
愚人や悪人はほぼ全員がそのような心理状態に陥ってしまっている一方、聖人や賢人は心臓の暴走による性情の
分裂などを十分に抑えられている。凡人や善人はその中間で、性情の分裂を抑えられていたりいなかったりする程度。
性情が完全に分裂した愚人が蒙昧さを開き直っての蛮行に及べば悪人となる一方、性情をよく一致させた
賢人がより一層の研鑽を尽くせば聖人になるといった程度の差違がある。善人と凡人の違いは、
ただ性情を分裂させないでおこうとする意志が自分自身にあるかないかといった程度のもので、
善人にはその程度の意志はある一方、凡人にはその意志すらない。善人と凡人のいずれも、必ずしも性情を
一致させられていない点では共通するが、自らに性情を一致させていこうとする意志があるぶんだけ、
善人のほうが凡人よりも、愚人や悪人へと豹変してしまったりはしにくいといった程度の違いはある。
性情の分裂を物理的に抑止する手段としては、「みそぎ」がある。斎戒沐浴などとも言われる冷水浴によって、
心臓の暴走が十分に抑えられて、上丹田と下丹田の性情の連絡を阻害することが防ぎとめられるようになる。
性情の連絡が阻害されるほどにも心臓の暴走が著しい人間ほど、冷水を浴びた瞬間に心臓がバクバクと驚嘆の
鼓動を生ずるのを感ずるはずで、お年寄りや心臓の弱い人間はそのせいでの心臓麻痺などにもなりかねないから、
少しずつ冷水を浴びたり、最初はぬるま湯から少しずつ水温を下げていくようにするなどの便宜を図ったほうがよい。
また、健康な人間といえども、身体全体の冷やしすぎが風邪の原因になったりもしかねないので、やり過ぎは禁物だといえる。
あと、自分がまだ性情の分裂を十分に控えられない人間であるというのなら、せめてでも凡人ではなく
善人であるように務めるだけでも、性情が分裂しきった愚人や悪人と化してしまうことを防止する程度の効果は持ち得る。
念仏が唱名者自身に及ぼす効果も実はそういったもので、さほど熱心に唱えなくても善人でいる程度のことは
容易に叶えられるし、熱心に唱えていれば賢人や聖人にだってなれなくはない。聖人ともなれば、
念仏以外の方法での精進をも志すのが普通だが、親鸞聖人のように念仏での聖化こそを達成した方も実際にいらっしゃる。
残念ながら、性情の分裂こそを信者に促しての妄念妄動をけしかけるカルト宗教も未だ数多いため、
信教全般が性情の分裂を抑止してくれることなどを期待することは全く期待できない。今の日本で宗教が嫌われている
頻度が高いいのも、信者に性情の分裂を促す類いの邪教こそが活動を活発化させている場合が多いからで、古来からの
念仏信仰などにもよってこそ、知らず知らずの内から性情の一致を本是とするようになってしまっている日本人が、意識的に
そのような宗教を嗜む必要性などを感じないのみならず、そのような宗教への嫌悪感すらも抱くようになっているのである。
心臓の暴走が十分に抑えられて、上丹田と下丹田の性情の連絡を阻害することが防ぎとめられるようになる。
性情の連絡が阻害されるほどにも心臓の暴走が著しい人間ほど、冷水を浴びた瞬間に心臓がバクバクと驚嘆の
鼓動を生ずるのを感ずるはずで、お年寄りや心臓の弱い人間はそのせいでの心臓麻痺などにもなりかねないから、
少しずつ冷水を浴びたり、最初はぬるま湯から少しずつ水温を下げていくようにするなどの便宜を図ったほうがよい。
また、健康な人間といえども、身体全体の冷やしすぎが風邪の原因になったりもしかねないので、やり過ぎは禁物だといえる。
あと、自分がまだ性情の分裂を十分に控えられない人間であるというのなら、せめてでも凡人ではなく
善人であるように務めるだけでも、性情が分裂しきった愚人や悪人と化してしまうことを防止する程度の効果は持ち得る。
念仏が唱名者自身に及ぼす効果も実はそういったもので、さほど熱心に唱えなくても善人でいる程度のことは
容易に叶えられるし、熱心に唱えていれば賢人や聖人にだってなれなくはない。聖人ともなれば、
念仏以外の方法での精進をも志すのが普通だが、親鸞聖人のように念仏での聖化こそを達成した方も実際にいらっしゃる。
残念ながら、性情の分裂こそを信者に促しての妄念妄動をけしかけるカルト宗教も未だ数多いため、
信教全般が性情の分裂を抑止してくれることなどを期待することは全く期待できない。今の日本で宗教が嫌われている
頻度が高いいのも、信者に性情の分裂を促す類いの邪教こそが活動を活発化させている場合が多いからで、古来からの
念仏信仰などにもよってこそ、知らず知らずの内から性情の一致を本是とするようになってしまっている日本人が、意識的に
そのような宗教を嗜む必要性などを感じないのみならず、そのような宗教への嫌悪感すらも抱くようになっているのである。
丹田や正中線の扱いを重視する武術などによっても、性情の分裂を抑制する修練を積んでいくことはできる。
性情の分裂を抑制するのは決して信教の特権ではないし、性情の一致や分裂が人々にもたらす影響も決して宗教的領域に
止まるものではない。性情の一致を嗜む人間こそは社会的な積善や不悪を心がけられる一方、性情の分裂に陥っている人間は
本当に犯罪やそれに準ずるような社会的悪行を犯してしまううになる。心と身体、心と社会的行動とは決して可分なものでは
ないのだから、実利面からいっても、性情分裂の抑止という課題に取り組んでいくことが奨励されてしかるべきなのである。
「其の輔頬舌に咸ず。其の輔頬舌に咸ずとは、口説を滕ぐるなり」
「(本人自身の自己性とも無関係に)ただ口舌が外物に感応して勝手に動いているだけ。
誠意もなく、ただ口舌だけで人とも付き合ったりしているのみ。(口舌はどこまでも上辺のものでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・咸・上六‐象伝より)
性情の分裂を抑制するのは決して信教の特権ではないし、性情の一致や分裂が人々にもたらす影響も決して宗教的領域に
止まるものではない。性情の一致を嗜む人間こそは社会的な積善や不悪を心がけられる一方、性情の分裂に陥っている人間は
本当に犯罪やそれに準ずるような社会的悪行を犯してしまううになる。心と身体、心と社会的行動とは決して可分なものでは
ないのだから、実利面からいっても、性情分裂の抑止という課題に取り組んでいくことが奨励されてしかるべきなのである。
「其の輔頬舌に咸ず。其の輔頬舌に咸ずとは、口説を滕ぐるなり」
「(本人自身の自己性とも無関係に)ただ口舌が外物に感応して勝手に動いているだけ。
誠意もなく、ただ口舌だけで人とも付き合ったりしているのみ。(口舌はどこまでも上辺のものでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・咸・上六‐象伝より)
基礎儒学の祖である孔子こそは、「世界でも最も偉大な寡婦(やもめ)の子」
でもあり、母子家庭での自学自習によって編み出したその教義学説の適用によって、
天下国家レベルでの治世が実現された事例も枚挙に暇がない。
漢代中国の人口が最大7000万人強、江戸時代の日本の人口も最大3000万人強であり、
いずれも儒学による治世がよく達成されていた世の中である。もしも近代文明の所産を
儒学の実戦のために専らに活用できたなら、70億人超の現代世界の人々をみな、餓死すら稀な
泰平の世に安んじさせることもできなくはないに違いない。近代文明こそは地球上における
深刻な人口爆発をもたらした原因でもあるのだから、その文明的所産を丸ごと儒学の実践の
ためだけに用いたならば、それで害益をプラスマイナスゼロに帰す贖罪も済むはずで、原理的に
考えてみれば、それで現代世界の争乱にも十分な収拾を付けられることが見込まれるのである。
ただ、近代文明の発展の主導者は西洋人であり、すでに相当に敬虔さを目減りさせているとはいえ、
西洋人は基本、聖書信者である。聖書の教義こそは儒学の学義と決定的に相容れず、キリストや
エホバを信仰しているような人間が少しでもいるうちは、一滴の糞尿でも混ざった浄水がもはや
飲めなくなるようにして、儒学の実践も全く覚束なくなるため、西洋人のせいで文明発展と
聖書信仰が不可分なままにされている現状での、儒学の実践も全くの不能なままにされている。
世界でも最も偉大なやもめの子、孔子が自らの逆境を乗り越えるための自学自習にもよって
打ち立てた権力道徳学たる儒学の復興を、イエス・キリストこそは決して許すことがない。
いま儒学の復興を許さないのみならず、世界侵略の拡大によって日本や中国からすらねんごろな
儒学の実践という選択肢を奪い去ったのも、他でもない、欧米キリスト教圏である。世界中から、
世界で最も偉大なやもめの子の学説の実践を滅ぼし尽くして、決して蘇らせることもできない
ようにさせてしまっているのがイエス・キリストでこそあるのだから、キリストの完全かつ
永久なるこの世からの死滅によってでしか、その罪責を履行することもあたわないのである。
でもあり、母子家庭での自学自習によって編み出したその教義学説の適用によって、
天下国家レベルでの治世が実現された事例も枚挙に暇がない。
漢代中国の人口が最大7000万人強、江戸時代の日本の人口も最大3000万人強であり、
いずれも儒学による治世がよく達成されていた世の中である。もしも近代文明の所産を
儒学の実戦のために専らに活用できたなら、70億人超の現代世界の人々をみな、餓死すら稀な
泰平の世に安んじさせることもできなくはないに違いない。近代文明こそは地球上における
深刻な人口爆発をもたらした原因でもあるのだから、その文明的所産を丸ごと儒学の実践の
ためだけに用いたならば、それで害益をプラスマイナスゼロに帰す贖罪も済むはずで、原理的に
考えてみれば、それで現代世界の争乱にも十分な収拾を付けられることが見込まれるのである。
ただ、近代文明の発展の主導者は西洋人であり、すでに相当に敬虔さを目減りさせているとはいえ、
西洋人は基本、聖書信者である。聖書の教義こそは儒学の学義と決定的に相容れず、キリストや
エホバを信仰しているような人間が少しでもいるうちは、一滴の糞尿でも混ざった浄水がもはや
飲めなくなるようにして、儒学の実践も全く覚束なくなるため、西洋人のせいで文明発展と
聖書信仰が不可分なままにされている現状での、儒学の実践も全くの不能なままにされている。
世界でも最も偉大なやもめの子、孔子が自らの逆境を乗り越えるための自学自習にもよって
打ち立てた権力道徳学たる儒学の復興を、イエス・キリストこそは決して許すことがない。
いま儒学の復興を許さないのみならず、世界侵略の拡大によって日本や中国からすらねんごろな
儒学の実践という選択肢を奪い去ったのも、他でもない、欧米キリスト教圏である。世界中から、
世界で最も偉大なやもめの子の学説の実践を滅ぼし尽くして、決して蘇らせることもできない
ようにさせてしまっているのがイエス・キリストでこそあるのだから、キリストの完全かつ
永久なるこの世からの死滅によってでしか、その罪責を履行することもあたわないのである。
無論、実際の所、神の子を騙る邪教の流布を通じて十字架にかけられ、二度と生き返ることもない
憤死に見舞われただけなのだから、イエスという人間自身の死滅を今さら追求するのも、少し違う。
命題は、イエスが聖書中の記述のような所業によって天国に召されたという、物語構造自体に付与
されている権威を死滅させていく所にこそあり、それが達成されれば自然と、儒学の復興をも妨げる
社会的な邪念の蔓延までもが雲散霧消する。便利のために必要なのは、そういった意味でのキリストの
死滅であり、科学的にイエスの復活を否定するとかいったこととは相当に意味が異なっているといえる。
無論、科学的にも聖書の記述の誤謬性が立証されるに越したことはなく、それに基づき
キリスト神話の権威が死滅していくというのなら、それも一つの手段であるには違いないが、
それ以前に、聖書の記述が純粋な倫理的観点から見て欺瞞の塊であり、決して権威を付与するに
値しない代物であるということを直観的に理解できるようになることのほうがより重要だといえる。
そのためには、純正な倫理学でもある儒学のほうをよく勉強して、聖書信仰の倫理的な不正さを直観的な
段階から見抜けるようになっていかなければならない。西洋人が主導的に拵えてきた近代科学によって
聖書の権威が否定されたからといって、西洋人並みの精神薄弱が必ずしも改善されていくとは限らないのだから、
むしろ儒学によって聖書信仰の不埒さを即座に見抜けるようになることのほうが、重要なことともなるである。
憤死に見舞われただけなのだから、イエスという人間自身の死滅を今さら追求するのも、少し違う。
命題は、イエスが聖書中の記述のような所業によって天国に召されたという、物語構造自体に付与
されている権威を死滅させていく所にこそあり、それが達成されれば自然と、儒学の復興をも妨げる
社会的な邪念の蔓延までもが雲散霧消する。便利のために必要なのは、そういった意味でのキリストの
死滅であり、科学的にイエスの復活を否定するとかいったこととは相当に意味が異なっているといえる。
無論、科学的にも聖書の記述の誤謬性が立証されるに越したことはなく、それに基づき
キリスト神話の権威が死滅していくというのなら、それも一つの手段であるには違いないが、
それ以前に、聖書の記述が純粋な倫理的観点から見て欺瞞の塊であり、決して権威を付与するに
値しない代物であるということを直観的に理解できるようになることのほうがより重要だといえる。
そのためには、純正な倫理学でもある儒学のほうをよく勉強して、聖書信仰の倫理的な不正さを直観的な
段階から見抜けるようになっていかなければならない。西洋人が主導的に拵えてきた近代科学によって
聖書の権威が否定されたからといって、西洋人並みの精神薄弱が必ずしも改善されていくとは限らないのだから、
むしろ儒学によって聖書信仰の不埒さを即座に見抜けるようになることのほうが、重要なことともなるである。
「老いて妻無きを鰥と曰い。老いて夫無きを寡と曰い。老いて子無きを独と曰い。
幼なくして父無きを孤と曰う。此の四者は天下の窮民にして告ぐる無き者なり。文王の政を発し
仁を施すに、必ず斯の四者を先にす。(故に詩に)云く、擥いかな富める人、此の煢独を哀れむと」
「老いて妻がない男を鰥夫といい、老いて夫がいない女を寡婦といい、老いて子がない者を独り者といい、
幼くして親がない子供を孤児という。この四者は、世の中で最も困窮している寄る辺なき人々である。
そのため周の文王は政治を興し仁を施す際に、この四者の救済を真っ先に心がけた。故に詩経
(小雅・正月)にも『素晴らしいかな、かの富める人(文王)は、鰥寡孤独をも哀れみ賜う』とある。
(鰥寡孤独の救済も正規の仁政によって執り行われるべきことであり、私人が妄りにその領分を
侵すべきでないし、カルト教義によって気休めの救済ばかりを施したりするのも以ての外である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・五より)
幼なくして父無きを孤と曰う。此の四者は天下の窮民にして告ぐる無き者なり。文王の政を発し
仁を施すに、必ず斯の四者を先にす。(故に詩に)云く、擥いかな富める人、此の煢独を哀れむと」
「老いて妻がない男を鰥夫といい、老いて夫がいない女を寡婦といい、老いて子がない者を独り者といい、
幼くして親がない子供を孤児という。この四者は、世の中で最も困窮している寄る辺なき人々である。
そのため周の文王は政治を興し仁を施す際に、この四者の救済を真っ先に心がけた。故に詩経
(小雅・正月)にも『素晴らしいかな、かの富める人(文王)は、鰥寡孤独をも哀れみ賜う』とある。
(鰥寡孤独の救済も正規の仁政によって執り行われるべきことであり、私人が妄りにその領分を
侵すべきでないし、カルト教義によって気休めの救済ばかりを施したりするのも以ての外である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・五より)
色々な行事を催したりすることにかけての、最適な時節などを精密に見計らうためにこそ、
人はこの世界この宇宙に遍在している不確定要素までをも考慮の内に入れなければならない。
全てを決定性によって支配し、一切の融通を利かせようともしないというのでは、風流を欠く。
それで人間自身を雁字搦めにすることができたとしても、全宇宙の物理法則までをも
包摂しきれたりすることは永遠にないのだから、自然法則と乖離し過ぎたがための
人間社会の側の破綻というものを、いつかは来たさざるを得なくなる。
自然法則にも当然、決定的な部分と不確定的な部分とがあり、日月星辰の法則的な運行などの
決定的な部分にかけては、人間ごときが作為的に作りこむ決定性などよりも遥かに揺るぎがない。
だから不確定性を考慮に入れることは愚か、決定性を精査したり工作したりすることにかけても
自然の法則こそを第一とせねばならず、それでこそ人間自身が策定した決定性までもが最大級の
普遍性を帯びることともなるのである。(日本の神事などはまさにこのあり方を第一としている)
この世界この宇宙に遍在する不確定要素を考慮に入れることもなければ、決定性にかけて
自然法則を人為以上に優先しようと心がけることもない、何もかもを専らな人為による決定性に
よって塗り固めてしまおうとする試みほど愚かなこともなく、これこそは破滅の元凶ともなる。
結局、聖書信仰が信者にけしかけて来たのも、そういった何ものにも優先される人為による、
何もかもの塗り固めでしかなかった。自然現象に不確定的な要素が実際あればこそ、自然は人間に
とっての敵と見なされ、一方的な開発の対象としてのみ扱われた。儒学や神道によっても自然の
開発が振興されることはあるが、それらはあくまで自然の普遍法則に準拠しようとするものである。
人はこの世界この宇宙に遍在している不確定要素までをも考慮の内に入れなければならない。
全てを決定性によって支配し、一切の融通を利かせようともしないというのでは、風流を欠く。
それで人間自身を雁字搦めにすることができたとしても、全宇宙の物理法則までをも
包摂しきれたりすることは永遠にないのだから、自然法則と乖離し過ぎたがための
人間社会の側の破綻というものを、いつかは来たさざるを得なくなる。
自然法則にも当然、決定的な部分と不確定的な部分とがあり、日月星辰の法則的な運行などの
決定的な部分にかけては、人間ごときが作為的に作りこむ決定性などよりも遥かに揺るぎがない。
だから不確定性を考慮に入れることは愚か、決定性を精査したり工作したりすることにかけても
自然の法則こそを第一とせねばならず、それでこそ人間自身が策定した決定性までもが最大級の
普遍性を帯びることともなるのである。(日本の神事などはまさにこのあり方を第一としている)
この世界この宇宙に遍在する不確定要素を考慮に入れることもなければ、決定性にかけて
自然法則を人為以上に優先しようと心がけることもない、何もかもを専らな人為による決定性に
よって塗り固めてしまおうとする試みほど愚かなこともなく、これこそは破滅の元凶ともなる。
結局、聖書信仰が信者にけしかけて来たのも、そういった何ものにも優先される人為による、
何もかもの塗り固めでしかなかった。自然現象に不確定的な要素が実際あればこそ、自然は人間に
とっての敵と見なされ、一方的な開発の対象としてのみ扱われた。儒学や神道によっても自然の
開発が振興されることはあるが、それらはあくまで自然の普遍法則に準拠しようとするものである。
一方、聖書信仰に基づく自然の開発はただ作為的であるだけでなく、自然法則に内在する絶対性まで
をも無視しての、完全な恣意に基づこうとするものであったため、自然を一方的な破壊の対象として、
それから文明構造を更地に積み上げていくといったものばかりだった。だからこそ西洋文明が
無機性にかけていかにも突出していて、それにより「文明の規範」みたいにまで扱われもしたが、
それは本当は、文明開発のあり方としてはヘタクソなものだったのであり、自然の絶対性までをも無視
しての身勝手な人為的開発ばかりに専らであり過ぎたからこそ、早急の崩壊すらもが免れ得ないのである。
物理的に、最も絶対的かつ普遍的なのは自然の絶対法則であり、人間自身が策定する法則などではない。
いくら脳内の概念として自明に絶対的であろうとも、実物の文明構造としてそれがおこされた時には
少なからず脆弱さを帯びる。その脆弱さを抑制するためには、構造物を自然法則の絶対性にこそ近似
させていく必要があるわけで、そこはイデア論が一歩も二歩も道を譲らなければならない部分である。
あまりいい譬えではないが、染色体の損傷によって奇形と化してしまったような生物と同等の、
奇形的な文明構造というものが、人間本位の文明構築によって生じてしまうことになる。
生物自身も染色体が健常であってこそ健全に育つように、文明構造も先天的な自然法則に
即して無理のないように構築していくことでこそ最大級の健全性を帯びる。健全だから
安定的となり、不健全な文明構造と比べれば牽強さ、寿命の長さなどの点でも秀でることになる。
自然の絶対法則を尊重しつつ人為的な開発を進めるのはこれからもありだが、自然法則を無視してまで
人為的な開発をごり押ししようとすることは、いい加減やめねばならない。それこそ、人間自身という
恣意の悪魔が、清浄なる自然界を汚損していく所業だともいえるわけで、そんな醜い人間のあり方などを、
虚構の神の所業に付託して推し進めたりすることも、これからはもってのほか扱いとしていかねばならない。
をも無視しての、完全な恣意に基づこうとするものであったため、自然を一方的な破壊の対象として、
それから文明構造を更地に積み上げていくといったものばかりだった。だからこそ西洋文明が
無機性にかけていかにも突出していて、それにより「文明の規範」みたいにまで扱われもしたが、
それは本当は、文明開発のあり方としてはヘタクソなものだったのであり、自然の絶対性までをも無視
しての身勝手な人為的開発ばかりに専らであり過ぎたからこそ、早急の崩壊すらもが免れ得ないのである。
物理的に、最も絶対的かつ普遍的なのは自然の絶対法則であり、人間自身が策定する法則などではない。
いくら脳内の概念として自明に絶対的であろうとも、実物の文明構造としてそれがおこされた時には
少なからず脆弱さを帯びる。その脆弱さを抑制するためには、構造物を自然法則の絶対性にこそ近似
させていく必要があるわけで、そこはイデア論が一歩も二歩も道を譲らなければならない部分である。
あまりいい譬えではないが、染色体の損傷によって奇形と化してしまったような生物と同等の、
奇形的な文明構造というものが、人間本位の文明構築によって生じてしまうことになる。
生物自身も染色体が健常であってこそ健全に育つように、文明構造も先天的な自然法則に
即して無理のないように構築していくことでこそ最大級の健全性を帯びる。健全だから
安定的となり、不健全な文明構造と比べれば牽強さ、寿命の長さなどの点でも秀でることになる。
自然の絶対法則を尊重しつつ人為的な開発を進めるのはこれからもありだが、自然法則を無視してまで
人為的な開発をごり押ししようとすることは、いい加減やめねばならない。それこそ、人間自身という
恣意の悪魔が、清浄なる自然界を汚損していく所業だともいえるわけで、そんな醜い人間のあり方などを、
虚構の神の所業に付託して推し進めたりすることも、これからはもってのほか扱いとしていかねばならない。
「王者の作らざる、未だ此の時より疏きは有らず。民の虐政に憔悴せる、未だ此の時より甚だしきは有らず」
「天命を得た王者が現れなくなってから、これ程にも久しい時も未だかつてない。人々が暴君の虐政に喘ぐ
ことにかけても、これ程にも甚だしかった時も未だかつてない。(時節論はこのような最悪の時をも
包含せねばならないのだから、そこに勧善懲悪を試みるのでもなければ、無為自然に甘んじるしかない。
そのいずれをも拒んだなら自らが悪逆非道に走ることにもなるわけで、労働を義務化している旧約の記述などに
基づくなら、時宜論に即してこそ悪逆非道すらをも義務的に行わなければならなくなってしまうのだから、しょうもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫中章句下・一より)
「天命を得た王者が現れなくなってから、これ程にも久しい時も未だかつてない。人々が暴君の虐政に喘ぐ
ことにかけても、これ程にも甚だしかった時も未だかつてない。(時節論はこのような最悪の時をも
包含せねばならないのだから、そこに勧善懲悪を試みるのでもなければ、無為自然に甘んじるしかない。
そのいずれをも拒んだなら自らが悪逆非道に走ることにもなるわけで、労働を義務化している旧約の記述などに
基づくなら、時宜論に即してこそ悪逆非道すらをも義務的に行わなければならなくなってしまうのだから、しょうもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫中章句下・一より)
http://bbs0.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/toriaezu/13492733...
ここで論じていることにも関連するが、人は、必ずしも物事を決め付けてかからなくても済む
ぐらいの心の余裕があってから、便宜的に物事を断定するようなこともあったりしたほうがよい。
「AでもなければBでもない」「Aでもなければ非Aでもない」といった般若経的な中観の境地に
よく心を落ち着けて後に、便宜的に物事を断定したり、物事に挺身して行ったりしたほうが、
何事も余裕を持ってうまくなせるのだから、できるならそうするに越したことはない。
世の中の誰しもがそれぐらいの余裕を持てたなら、争いごとなども起こった所で控えめなものに
止められるし、そもそも争いごとなどの問題を始めから引き起こさないための最善の配慮が
尽くされることともなるだろう。物事を頭ごなしに決め付けてかかる人間ほど思考が億劫にも
なるもので、一旦決め付けたことを改めたりするのもなかなか困難なこととなってしまうが、
是もなければ非もない中観を大前提として物事を考える人間であれば、物事を断定したり
することもあくまで便宜として軽快に扱うから、思考を永続させ続けたり、一旦こうと断じた
ことを改め直したりすることも全くのお茶の子さいさいなままでい続けていられる。だからこそ
思考を永続させて、間違いは随時改めていく、人間の思考としては最善のあり方となる態度姿勢を
堅持していくことを通じて、世の中の安寧や繁栄にも最大級に貢献していけるようになるのである。
中観をよく育むということ自体、確かに高度なことで、誰しもが必ずしも達成できるものでもない。
ただ、自らが白か黒か、是か非かの両極ばかりに振り切れてしかいられない人間であったとした所で、
そうであることを「愚昧なことだ」とよく恥じ入った上での、最低限の精進などを目指すこともできる。
ここで論じていることにも関連するが、人は、必ずしも物事を決め付けてかからなくても済む
ぐらいの心の余裕があってから、便宜的に物事を断定するようなこともあったりしたほうがよい。
「AでもなければBでもない」「Aでもなければ非Aでもない」といった般若経的な中観の境地に
よく心を落ち着けて後に、便宜的に物事を断定したり、物事に挺身して行ったりしたほうが、
何事も余裕を持ってうまくなせるのだから、できるならそうするに越したことはない。
世の中の誰しもがそれぐらいの余裕を持てたなら、争いごとなども起こった所で控えめなものに
止められるし、そもそも争いごとなどの問題を始めから引き起こさないための最善の配慮が
尽くされることともなるだろう。物事を頭ごなしに決め付けてかかる人間ほど思考が億劫にも
なるもので、一旦決め付けたことを改めたりするのもなかなか困難なこととなってしまうが、
是もなければ非もない中観を大前提として物事を考える人間であれば、物事を断定したり
することもあくまで便宜として軽快に扱うから、思考を永続させ続けたり、一旦こうと断じた
ことを改め直したりすることも全くのお茶の子さいさいなままでい続けていられる。だからこそ
思考を永続させて、間違いは随時改めていく、人間の思考としては最善のあり方となる態度姿勢を
堅持していくことを通じて、世の中の安寧や繁栄にも最大級に貢献していけるようになるのである。
中観をよく育むということ自体、確かに高度なことで、誰しもが必ずしも達成できるものでもない。
ただ、自らが白か黒か、是か非かの両極ばかりに振り切れてしかいられない人間であったとした所で、
そうであることを「愚昧なことだ」とよく恥じ入った上での、最低限の精進などを目指すこともできる。
念仏行などもそのための手段として格好のものだが、念仏行といえども、自らの両極志向を開き直っての
驕り高ぶりなどと共にまで嗜めるものではなく、最低でもそのような身の程を恥じ入るぐらいの恭しさは
必要となる。自らの両極志向を恥じ入る恭しさすらないような人間でも帰依できるような信教は、それこそ
聖書信仰のようなカルト信教に限られるわけで、これこそは「病人に毒を盛る」代物とすらなってしまう。
自力作善による中観の養生が健康の増進なら、他力本願での最低限の中観の堅持は不養生に対する薬の処方、
中観の完全なる喪失を促す他力本願は、不養生に不養生を重ねさせてさらにそこに毒を盛るとでも言った所。
中観の存在意義を、それだけを見て計り知るのはなかなか難しいことだが、中観を欠いての悪逆非道に
一辺倒であり続けて来た連中の惨憺たる所業の数々を見てみればこそ、人が中観を養うことがいかに
重要なことであるのかまでもが明瞭となる。平安時代や江戸時代の日本社会だけを見れば、特にこれと
いった問題もないのほほんとした時代だったという程度の感想しか抱けなくとも、同時期の欧米社会の
引っ切り無しな戦乱状態などと見比べてみたなら、いかに当時の日本が泰平の維持にかけて優秀な実績を
挙げていたのかがよく分かるというもの。これまた当時の日本人には中観の養いが磐石であった一方、
欧米人のほうはカルト信仰にも基づく中観の喪失が著しかったからこそ、生じてしまった差違でもある。
「力を陳べて列に就き、能わざれば止む」
「力を尽くして職務に邁進し、至らないようであれば踏み止まる。
(出処進退自由自在、突進一辺倒などに決して陥らないのが聖賢の習い始めだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一より)
驕り高ぶりなどと共にまで嗜めるものではなく、最低でもそのような身の程を恥じ入るぐらいの恭しさは
必要となる。自らの両極志向を恥じ入る恭しさすらないような人間でも帰依できるような信教は、それこそ
聖書信仰のようなカルト信教に限られるわけで、これこそは「病人に毒を盛る」代物とすらなってしまう。
自力作善による中観の養生が健康の増進なら、他力本願での最低限の中観の堅持は不養生に対する薬の処方、
中観の完全なる喪失を促す他力本願は、不養生に不養生を重ねさせてさらにそこに毒を盛るとでも言った所。
中観の存在意義を、それだけを見て計り知るのはなかなか難しいことだが、中観を欠いての悪逆非道に
一辺倒であり続けて来た連中の惨憺たる所業の数々を見てみればこそ、人が中観を養うことがいかに
重要なことであるのかまでもが明瞭となる。平安時代や江戸時代の日本社会だけを見れば、特にこれと
いった問題もないのほほんとした時代だったという程度の感想しか抱けなくとも、同時期の欧米社会の
引っ切り無しな戦乱状態などと見比べてみたなら、いかに当時の日本が泰平の維持にかけて優秀な実績を
挙げていたのかがよく分かるというもの。これまた当時の日本人には中観の養いが磐石であった一方、
欧米人のほうはカルト信仰にも基づく中観の喪失が著しかったからこそ、生じてしまった差違でもある。
「力を陳べて列に就き、能わざれば止む」
「力を尽くして職務に邁進し、至らないようであれば踏み止まる。
(出処進退自由自在、突進一辺倒などに決して陥らないのが聖賢の習い始めだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一より)
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おいおい、あらすなよ
もう、かけなくなるのかよ
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