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聖書 Part8
▼ページ最下部
世に「聖書」として扱われている書物が、単なる学術書や文芸書などと決定的に異なっている点は、
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
メモ書きの用途もあるから、長いのは我慢品。
※ スレ画は「世界標準の聖書」四書五経の代表的な推薦者、文公朱熹先生の肖像。
権力犯罪聖書(新旧約聖書)で「神の愛」とされるものは、結局のところ「自己愛」である。
心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして主なる神を愛せば愛すほど、自己愛が高まる。
究極的には、それは「自己愛性人格障害」ともなり、理想の自己と現実の自己の乖離からなる
自殺衝動の因子ともなる。「神の愛」だけが信条となる旧約信者=ユダヤ教徒などには確かに、
自己愛性人格障害や自殺衝動に悩まされる人間が多い。(ウィトゲンシュタインやその家族など)
一方で、新旧約両方の犯罪聖書を信仰対象とするキリスト教徒の場合は、神の愛を騙る自己愛と共に、
近隣の人間ばかりに対する偏愛を美化した「隣人愛」が信条とされる。それにより、自己愛の独走
からなる自殺衝動も緩和され、見た目にもそれほどナルシシズムに塗れているようには見えなくなる。
ただ、キリスト教徒の隣人愛もまた、自己愛性人格障害にすらなり兼ねないほどもの自己愛を糧と
しているため、ただ「隣人を愛する」というばかりの志向性などにはない、多大なる濁念を伴っている。
武経七書「三略」で、有効な戦略の一つとして挙げられている「釈遠謀近(遠きを捨てて近きを謀る)」は、
隣人愛に相当するものを活用することで、仁愛の通用しない乱世を切り抜ける手段ともなっている。
ただ、そこには自己愛を隣人にも振り向けるような濁念は伴っていないし、当該の釈遠謀近を含む
兵法全般が、仁政のような正当な目的を達成するための手段と見なされているために、
決して「釈遠謀近であり続ける」ことなどが推奨されてはいないのである。
権力犯罪聖書(新旧約聖書)で「神の愛」とされるものは、結局のところ「自己愛」である。
心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして主なる神を愛せば愛すほど、自己愛が高まる。
究極的には、それは「自己愛性人格障害」ともなり、理想の自己と現実の自己の乖離からなる
自殺衝動の因子ともなる。「神の愛」だけが信条となる旧約信者=ユダヤ教徒などには確かに、
自己愛性人格障害や自殺衝動に悩まされる人間が多い。(ウィトゲンシュタインやその家族など)
一方で、新旧約両方の犯罪聖書を信仰対象とするキリスト教徒の場合は、神の愛を騙る自己愛と共に、
近隣の人間ばかりに対する偏愛を美化した「隣人愛」が信条とされる。それにより、自己愛の独走
からなる自殺衝動も緩和され、見た目にもそれほどナルシシズムに塗れているようには見えなくなる。
ただ、キリスト教徒の隣人愛もまた、自己愛性人格障害にすらなり兼ねないほどもの自己愛を糧と
しているため、ただ「隣人を愛する」というばかりの志向性などにはない、多大なる濁念を伴っている。
武経七書「三略」で、有効な戦略の一つとして挙げられている「釈遠謀近(遠きを捨てて近きを謀る)」は、
隣人愛に相当するものを活用することで、仁愛の通用しない乱世を切り抜ける手段ともなっている。
ただ、そこには自己愛を隣人にも振り向けるような濁念は伴っていないし、当該の釈遠謀近を含む
兵法全般が、仁政のような正当な目的を達成するための手段と見なされているために、
決して「釈遠謀近であり続ける」ことなどが推奨されてはいないのである。
然るに、キリスト教の隣人愛などは、信者が常日ごろから必ず釈遠謀近であり続けることを強要する。
人格障害級の自己愛を転化した隣人愛でもあるものだから、兵法として釈遠謀近を用いる場合などと
違って、自由に隣人愛を保ったり捨てたりすることもできない。すでに万人を利して我が利ともする
仁政が実現できる段になっても、隣人愛によって薄汚い利権の吹き溜まりを保ち続けていたりもしかねない
ものだから、そこに「単なる兵法」として釈遠謀近を用いる場合のような、道義性が備わらないのである。
兵法は、六道十界論でいえば「修羅道」に相当するが、修羅道は人道や天道のために善用される場合と、
餓鬼道や畜生道が到来する過程で否応なく共にもたらされる場合とがある。軍師や武士が、天子良民のために
兵法や武術を駆使することは前者に当たる一方、カルト信者が自己愛や隣人愛を必要もなく嗜好することで、
万人の万人に対する闘争状態を共にもたらしてしまったりすることは後者に当たる。だから修羅道は人道や
天道と共に「三善趣」と呼ばれたり、地獄道や餓鬼道や畜生道と共に「四悪趣」と呼ばれたりもする。
「釈遠謀近」を含む兵法全般が、善悪の彼岸を司る諸刃の剣であり、仁政などのために善用される場合と、
自己愛や隣人愛と共に悪用される場合とがあるので、そこに断悪修善を付与することもまた重要なことだといえる。
「仁と智とは、周公も未だ之れを尽くさざりき」
「仁(万人を労わる心)とそのための良知とは、
(周朝の名臣の)周公ですら完全に尽くせたなどということはない。
(自分個人や隣人のためだけに心や知力を尽くすことには限りがある。そのため
『やり尽くしてしまったこと』からなる虚無感によっての自殺衝動にかられたりもするが、
万人を労わる仁政のために心や知力を尽くすことには、全く限りがない。そのためどこまで尽くそうとしても、
やり尽くしてしまったが故の虚無感などにはかられず、どこまでも心身の壮健さを増していくことができる)」
(世界標準の聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・九より)
人格障害級の自己愛を転化した隣人愛でもあるものだから、兵法として釈遠謀近を用いる場合などと
違って、自由に隣人愛を保ったり捨てたりすることもできない。すでに万人を利して我が利ともする
仁政が実現できる段になっても、隣人愛によって薄汚い利権の吹き溜まりを保ち続けていたりもしかねない
ものだから、そこに「単なる兵法」として釈遠謀近を用いる場合のような、道義性が備わらないのである。
兵法は、六道十界論でいえば「修羅道」に相当するが、修羅道は人道や天道のために善用される場合と、
餓鬼道や畜生道が到来する過程で否応なく共にもたらされる場合とがある。軍師や武士が、天子良民のために
兵法や武術を駆使することは前者に当たる一方、カルト信者が自己愛や隣人愛を必要もなく嗜好することで、
万人の万人に対する闘争状態を共にもたらしてしまったりすることは後者に当たる。だから修羅道は人道や
天道と共に「三善趣」と呼ばれたり、地獄道や餓鬼道や畜生道と共に「四悪趣」と呼ばれたりもする。
「釈遠謀近」を含む兵法全般が、善悪の彼岸を司る諸刃の剣であり、仁政などのために善用される場合と、
自己愛や隣人愛と共に悪用される場合とがあるので、そこに断悪修善を付与することもまた重要なことだといえる。
「仁と智とは、周公も未だ之れを尽くさざりき」
「仁(万人を労わる心)とそのための良知とは、
(周朝の名臣の)周公ですら完全に尽くせたなどということはない。
(自分個人や隣人のためだけに心や知力を尽くすことには限りがある。そのため
『やり尽くしてしまったこと』からなる虚無感によっての自殺衝動にかられたりもするが、
万人を労わる仁政のために心や知力を尽くすことには、全く限りがない。そのためどこまで尽くそうとしても、
やり尽くしてしまったが故の虚無感などにはかられず、どこまでも心身の壮健さを増していくことができる)」
(世界標準の聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・九より)
結局、「世界最劣等の聖書」新旧約聖書の問題点をあげつらって、
そこに「世界標準の聖書」四書五経からの模範的な回答を提出することが主要題材となっている。
そしてそれは、「聖書」という存在を論ずる上での、
最も標準的な議論ともなっている。これと比べれば、
仏典やコーランを引き合いにすることすら、付録的な議論だといえる。
そこに「世界標準の聖書」四書五経からの模範的な回答を提出することが主要題材となっている。
そしてそれは、「聖書」という存在を論ずる上での、
最も標準的な議論ともなっている。これと比べれば、
仏典やコーランを引き合いにすることすら、付録的な議論だといえる。
たとえば、今の米軍などは、ちっとも怖くない。
世界最強かつ最大の軍備を誇り、人類を数十回滅亡させることが可能なほどもの
核兵器を保有している米軍といえども、その活動に何らの正当性が見られず、
蒙昧な文民の権力者に振り回されての無軌道な侵略行為や、その侵略先での
自暴自棄な虐殺行為や、捕虜の虐待や少女暴行などにばかり及んでいる以上は、
まさに「刃物を持ったキ○○イ」もいいところで、キ○○イとしての警戒対象に
なることはあっても、偉大な存在として畏怖されるに値するようなことは全くない。
軍兵が畏怖されるに値する存在となる条件は、ただただ強大な威力を蓄えたり
することではなく、その武力の活用に道義的な正当性が伴っていることでこそある。
徒法で人々を振り回す旧約邪神エホバなどを「万軍の主」扱いなどとして、
その存在性を至上とした活動に及んだりしたなら、どんなに屈強な大軍といえども、
一切畏敬されるに値する存在などではなくなる。一方で、社会を乱世から泰平
へと着実に導いていく、仁徳と兵法の文武両道などを活動理念としたならば、
これはもう、ただの一人や二人程度の兵隊さんといえども、怖れ畏まる他はない。
洋学上の政治学で、政治体制としての軍事独裁制が問題視され、そのような事態を招く
ことを防止するための理念としての「文民統制(シビリアン・コントロール)」が謳われて
来てもいるが、当然そこには、「文武両道」という理念に対する配慮が全く抜け落ちている。
全く文化的な理念を持たない暴力主義者が、軍事力によって国の政権までをも掌握するような
事態が起きたとすれば、まさにお先真っ暗となる。ならずとも、共産主義や独裁主義のような粗悪な
理念しか持たないままに、軍事力によって政権が奪取されることもまた、由々しき事態となる。
世界最強かつ最大の軍備を誇り、人類を数十回滅亡させることが可能なほどもの
核兵器を保有している米軍といえども、その活動に何らの正当性が見られず、
蒙昧な文民の権力者に振り回されての無軌道な侵略行為や、その侵略先での
自暴自棄な虐殺行為や、捕虜の虐待や少女暴行などにばかり及んでいる以上は、
まさに「刃物を持ったキ○○イ」もいいところで、キ○○イとしての警戒対象に
なることはあっても、偉大な存在として畏怖されるに値するようなことは全くない。
軍兵が畏怖されるに値する存在となる条件は、ただただ強大な威力を蓄えたり
することではなく、その武力の活用に道義的な正当性が伴っていることでこそある。
徒法で人々を振り回す旧約邪神エホバなどを「万軍の主」扱いなどとして、
その存在性を至上とした活動に及んだりしたなら、どんなに屈強な大軍といえども、
一切畏敬されるに値する存在などではなくなる。一方で、社会を乱世から泰平
へと着実に導いていく、仁徳と兵法の文武両道などを活動理念としたならば、
これはもう、ただの一人や二人程度の兵隊さんといえども、怖れ畏まる他はない。
洋学上の政治学で、政治体制としての軍事独裁制が問題視され、そのような事態を招く
ことを防止するための理念としての「文民統制(シビリアン・コントロール)」が謳われて
来てもいるが、当然そこには、「文武両道」という理念に対する配慮が全く抜け落ちている。
全く文化的な理念を持たない暴力主義者が、軍事力によって国の政権までをも掌握するような
事態が起きたとすれば、まさにお先真っ暗となる。ならずとも、共産主義や独裁主義のような粗悪な
理念しか持たないままに、軍事力によって政権が奪取されることもまた、由々しき事態となる。
だから、文民統制が消去法的に選択されるしかないというのが洋学上の政治学の大体の結論だが、
もちろん儒学道徳や仏法のような優良な理念によって世の中を司ることは、そこでは全く
念頭におかれていない。仁徳や仏法によって世の中を司るのであれば、たとえ軍事力によって
政権を奪取するのであろうとも、秦帝国の法家支配みたいな腐敗まみれの文民統治よりは
よっぽどマシな治世が期待されるというものである。しかし、洋学における文化上の最高理念は
どこまでも聖書信仰であり、その聖書信仰が仁徳や仏法に決定的に反する完全誤謬の塊である
ものだかから、仁徳や仏法を統治理念とすることなどは、始めから前提に入れようがないのである。
最高理念がどこまでも聖書信仰や洋学でしかあり得ない範囲で、軍事政権が立ち上げられるのは
確かにどうしようもないことで、それならまだ文民統制が敷かれたほうがマシだともいえる。
しかし、儒学や仏教までをも動員した、高等文化との文武両道による武家政権が樹立されたなら、
それこそ、粗悪な文化的理念しか持たない文民による統制などよりも、遥かに優れたものとなる。
そして、平安時代の公家統治のように、高等な文化に基づく文治が実現された時に、治世の優良さも
極まるが、乱世の熱狂も未だ冷め遣らぬ昨今、まだそこまでもの期待をするのは総計に過ぎるといえる。
「子、衛の霊公の無道なるを言う。康子曰く、夫れ是くの是くに、奚に而て喪わざる。孔子曰く、
仲叔圉は賓客を治め、祝鮀は宗廟を治め、王孫賈は軍旅を治む。夫れ是くの如くにして、奚に其れ喪わざる」
「先生は衛の霊公の政治が悪逆無道であることを指摘された。魯の家老の季康子は『どうしてそれで位を
失わずに済んだのでしょうか』と聞いた。孔先生は言われた。『仲叔圉のような名臣が外交を行い、祝鮀のような
名官が内務を取り仕切り、王孫賈のような名将が軍兵を統率していたから、位を追われることもなかったのです』
(無道な王君がどうにか軍力に助けられて体制を保つ例。万軍の主エホバも実情はこのようなものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二〇)
もちろん儒学道徳や仏法のような優良な理念によって世の中を司ることは、そこでは全く
念頭におかれていない。仁徳や仏法によって世の中を司るのであれば、たとえ軍事力によって
政権を奪取するのであろうとも、秦帝国の法家支配みたいな腐敗まみれの文民統治よりは
よっぽどマシな治世が期待されるというものである。しかし、洋学における文化上の最高理念は
どこまでも聖書信仰であり、その聖書信仰が仁徳や仏法に決定的に反する完全誤謬の塊である
ものだかから、仁徳や仏法を統治理念とすることなどは、始めから前提に入れようがないのである。
最高理念がどこまでも聖書信仰や洋学でしかあり得ない範囲で、軍事政権が立ち上げられるのは
確かにどうしようもないことで、それならまだ文民統制が敷かれたほうがマシだともいえる。
しかし、儒学や仏教までをも動員した、高等文化との文武両道による武家政権が樹立されたなら、
それこそ、粗悪な文化的理念しか持たない文民による統制などよりも、遥かに優れたものとなる。
そして、平安時代の公家統治のように、高等な文化に基づく文治が実現された時に、治世の優良さも
極まるが、乱世の熱狂も未だ冷め遣らぬ昨今、まだそこまでもの期待をするのは総計に過ぎるといえる。
「子、衛の霊公の無道なるを言う。康子曰く、夫れ是くの是くに、奚に而て喪わざる。孔子曰く、
仲叔圉は賓客を治め、祝鮀は宗廟を治め、王孫賈は軍旅を治む。夫れ是くの如くにして、奚に其れ喪わざる」
「先生は衛の霊公の政治が悪逆無道であることを指摘された。魯の家老の季康子は『どうしてそれで位を
失わずに済んだのでしょうか』と聞いた。孔先生は言われた。『仲叔圉のような名臣が外交を行い、祝鮀のような
名官が内務を取り仕切り、王孫賈のような名将が軍兵を統率していたから、位を追われることもなかったのです』
(無道な王君がどうにか軍力に助けられて体制を保つ例。万軍の主エホバも実情はこのようなものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二〇)
勧善懲悪、断悪修善にかけて自由自在である者が、
「できないことは何もない」万能感に浸っているなどということは、まずない。
むしろ、自分には出来ないこと、善行にかけて決してやってはならないことのほうを
よく熟知して、入念な鍛造によって不純物を取り除き、鋭利に研ぎ澄ました名刀の刃先一筋
ほどにも「他に選択肢のない」一直線の範囲内だけでの、勧善懲悪や断悪修善をやり込めていく。
その能力に長ける者こそは、勧善懲悪や断悪修善にかけて自由自在でもあるのだから、とにかくできない
ことは何もなく、実際に何でもやってしまう自由自在などとは、決して相容れないものであることが分かる。
戦国時代、総合的には世界最大級の軍備を擁していた日本が、秀吉の野望からなる朝鮮出兵を
中途で取り止めにして後は、徳川幕府の下で外征を断絶し、260年にわたる内政の養生に徹した。
一方で、キリスト教圏ではカトリックだけでなく、プロテスタントまでもが力を付け始め、
スペインやポルトガルがすでに行っていた以上の世界侵略をも、イギリスやオランダなどが
試み始め、19世紀中盤にはほぼ全世界の主要地域を自分たちの征服下に置くまでに至った。
幕末の時点で、明らかに日本は欧米列強などと比べて、勢力の面で劣勢に立たされていた。
かつては世界最強の軍備すらをも誇っていたのが、自分たちからのあえての軍縮によって
その威力を大幅に萎縮させ、逆に世界を征服し尽くすほどもの威力を蓄えて来た欧米諸国と、
ほとんど無防備も同然の状態で、幕末には対峙することとなったのだった。
「できないことは何もない」万能感に浸っているなどということは、まずない。
むしろ、自分には出来ないこと、善行にかけて決してやってはならないことのほうを
よく熟知して、入念な鍛造によって不純物を取り除き、鋭利に研ぎ澄ました名刀の刃先一筋
ほどにも「他に選択肢のない」一直線の範囲内だけでの、勧善懲悪や断悪修善をやり込めていく。
その能力に長ける者こそは、勧善懲悪や断悪修善にかけて自由自在でもあるのだから、とにかくできない
ことは何もなく、実際に何でもやってしまう自由自在などとは、決して相容れないものであることが分かる。
戦国時代、総合的には世界最大級の軍備を擁していた日本が、秀吉の野望からなる朝鮮出兵を
中途で取り止めにして後は、徳川幕府の下で外征を断絶し、260年にわたる内政の養生に徹した。
一方で、キリスト教圏ではカトリックだけでなく、プロテスタントまでもが力を付け始め、
スペインやポルトガルがすでに行っていた以上の世界侵略をも、イギリスやオランダなどが
試み始め、19世紀中盤にはほぼ全世界の主要地域を自分たちの征服下に置くまでに至った。
幕末の時点で、明らかに日本は欧米列強などと比べて、勢力の面で劣勢に立たされていた。
かつては世界最強の軍備すらをも誇っていたのが、自分たちからのあえての軍縮によって
その威力を大幅に萎縮させ、逆に世界を征服し尽くすほどもの威力を蓄えて来た欧米諸国と、
ほとんど無防備も同然の状態で、幕末には対峙することとなったのだった。
それでも当時まだ、日本にはほぼ完璧といっていいほどの「正義」があった。朝鮮出兵の罪を犯した
豊臣家も滅ぼされて、徳川による鎖国政策が敷かれ、外界侵略による権力犯罪の咎を皆無にまで押し止めていた。
一方で、ルネサンスの頃までは、アレクサンドロス東征や十字軍遠征などの部分的な侵略行為に
止まっていた西洋社会が、ルネサンス、大航海時代以降には、まさに全世界にまで侵略の魔の手を
広げ尽くし、世界中を「あるよりもないほうがマシ」なほどの荒廃した文化文明に晒させて、
人類滅亡級の環境破壊の温床をももたらすこととなった。そうなったことで、西洋社会は「正義」を
完全に失った。瑣末な腕力、何でもアリの自由自在を求めつくした挙句に、自分たち自身が
真の勧善懲悪や断悪修善を一定以上に自由に行使する術を、完全に失ってしまったのである。
開国維新後には、日本も欧米のマネをして、大日本帝国としての覇権の奪取なども試みたから、相当に
自分たちの正義にも綻びが生じてしまったものの、江戸260年にわたる正義の堅持という実績は、未だに名誉な
ものであり、もしも維新後の乱心をことごとく反省し尽くして、江戸時代から完全にやり直すというのであれば、
腕力ばかりの貪りと引き換えに、正義を失い尽くした欧米諸国にも代わって、世界の先導者となるだけの
資格が、日本人には潜在的に備わっているといえる。今でも「明治時代あたりまでの日本人は偉かった」
というような認識が日本人の間でも通用しているが、当時すでに日本の政財界なども、裏では
欧米の金融資本勢力などとの結託をし始めていたので、そこにまで大義を認めることはできない。
明治という時代の闇とも真摯に向き合って、反省すべきものを反省してからの再起に臨むのであれば、
「何でもアリ」の自由自在と引き換えに、正義にかけての自由自在こそを蓄え続けてきた、江戸時代までの
日本人としての素養によって、正義の自由を失ってしまった欧米聖書圏をも、配下に置くことができるのである。
豊臣家も滅ぼされて、徳川による鎖国政策が敷かれ、外界侵略による権力犯罪の咎を皆無にまで押し止めていた。
一方で、ルネサンスの頃までは、アレクサンドロス東征や十字軍遠征などの部分的な侵略行為に
止まっていた西洋社会が、ルネサンス、大航海時代以降には、まさに全世界にまで侵略の魔の手を
広げ尽くし、世界中を「あるよりもないほうがマシ」なほどの荒廃した文化文明に晒させて、
人類滅亡級の環境破壊の温床をももたらすこととなった。そうなったことで、西洋社会は「正義」を
完全に失った。瑣末な腕力、何でもアリの自由自在を求めつくした挙句に、自分たち自身が
真の勧善懲悪や断悪修善を一定以上に自由に行使する術を、完全に失ってしまったのである。
開国維新後には、日本も欧米のマネをして、大日本帝国としての覇権の奪取なども試みたから、相当に
自分たちの正義にも綻びが生じてしまったものの、江戸260年にわたる正義の堅持という実績は、未だに名誉な
ものであり、もしも維新後の乱心をことごとく反省し尽くして、江戸時代から完全にやり直すというのであれば、
腕力ばかりの貪りと引き換えに、正義を失い尽くした欧米諸国にも代わって、世界の先導者となるだけの
資格が、日本人には潜在的に備わっているといえる。今でも「明治時代あたりまでの日本人は偉かった」
というような認識が日本人の間でも通用しているが、当時すでに日本の政財界なども、裏では
欧米の金融資本勢力などとの結託をし始めていたので、そこにまで大義を認めることはできない。
明治という時代の闇とも真摯に向き合って、反省すべきものを反省してからの再起に臨むのであれば、
「何でもアリ」の自由自在と引き換えに、正義にかけての自由自在こそを蓄え続けてきた、江戸時代までの
日本人としての素養によって、正義の自由を失ってしまった欧米聖書圏をも、配下に置くことができるのである。
「滕の文公問うて曰く、滕は小国なり。斉と楚のはざ間に於いて、斉に事えんか、楚に事えんか。
孟子対えて曰、是の謀は吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已む無くんば、則ち一有り。斯の池を鑿ち、
斯の城を築き、民と与に之れを守り、死すとも民去らずんば、則と是れ可と為すなり」
「滕の文公が問うた。『我が滕は小国で、しかも斉と楚という大国に挟まれているのだが、
いったい斉に仕えればいいだろうか、楚に仕えたほうがいいだろうか』孟先生は答えられた。
『このはかりごとは私が答えられるものではありません。ただ、どうしてもと言われるのでしたら、
一計を案じてはおきましょう。この城の堀を広げ、城郭を増築し、民と共にこれを守るのです。
たとえ殺されようとも民が去らなければ、まあよいとした所でしょう』(道徳学の専門家である自分に対して、
合従連衡を是とする縦横家主義的な質問をしてきたため、孟子も『私が答えられる質問ではありません』と
明言し、滕文公に自らの徳性を磨くよう促すような返答だけをした。君子が『不可能は不可能』と断じた例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一三)
孟子対えて曰、是の謀は吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已む無くんば、則ち一有り。斯の池を鑿ち、
斯の城を築き、民と与に之れを守り、死すとも民去らずんば、則と是れ可と為すなり」
「滕の文公が問うた。『我が滕は小国で、しかも斉と楚という大国に挟まれているのだが、
いったい斉に仕えればいいだろうか、楚に仕えたほうがいいだろうか』孟先生は答えられた。
『このはかりごとは私が答えられるものではありません。ただ、どうしてもと言われるのでしたら、
一計を案じてはおきましょう。この城の堀を広げ、城郭を増築し、民と共にこれを守るのです。
たとえ殺されようとも民が去らなければ、まあよいとした所でしょう』(道徳学の専門家である自分に対して、
合従連衡を是とする縦横家主義的な質問をしてきたため、孟子も『私が答えられる質問ではありません』と
明言し、滕文公に自らの徳性を磨くよう促すような返答だけをした。君子が『不可能は不可能』と断じた例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一三)
「強さ」というものが、すでにこの人間社会においては飽和状態にある。
何らの軌道性も持たない単なる力の強さは、核兵器による国際間の相互確証破壊体制の
確立によって完全な飽和状態に達した。たとえ北朝鮮のような小国といえども、
核爆弾と弾道ミサイルの保有が明らかである以上は、軍備にかけて世界最強である
アメリカといえども下手に手出しはできない。今の北朝鮮の核軍備にしろ、中国の空母にしろ、
何世代も昔の技術によって造られた粗末な代物ではあるにしろ、それでも最悪、人力での
「核特攻」にすら及んだなら、アメリカなどにも確実に甚大な被害をもたらせるわけで、
旧東側社会における命の扱いの粗末さも、それを妨げるどころか、後押しするものですらある。
核特攻なども含む、あらゆる事態を想定してみるならば、何らの道義性も伴わない、単なる
暴力の強大さによって人々が競い合う余地というのは、確かに完全に途絶えてしまったのである。
「強ければ上、弱ければ下」という判断基準が完全に無効化された現代において、
なお競争の基準にできるものがあるとすれば、それこそは「徳性の有無」であるといえる。
人々に仁政をも施せるほどの徳性の高さの持ち主ほど偉大で、かえって人々に危害をもたらす
ほどにも徳性の低い輩ほど賤しいという競争基準であれば、単なる腕力の強大さなどで
競い合う余地が絶たれたこれからの世の中においても、それなりに掲げていくことができる。
強さによる競争の余地が絶たれたから、さも人間は成長の余地が絶えたかのようにも言われる。
そのせいで、人々がある種の鬱屈に見舞われていたりもするが、これは、ただただ強さばかりを
貪ろうとする旧来の価値基準が未だ世の中に強要され続けているがために、「徳性の有無」という、
これからも競争の基準にして行ける判断基準のほうが、完全にひた隠されてしまっているからである。
何らの軌道性も持たない単なる力の強さは、核兵器による国際間の相互確証破壊体制の
確立によって完全な飽和状態に達した。たとえ北朝鮮のような小国といえども、
核爆弾と弾道ミサイルの保有が明らかである以上は、軍備にかけて世界最強である
アメリカといえども下手に手出しはできない。今の北朝鮮の核軍備にしろ、中国の空母にしろ、
何世代も昔の技術によって造られた粗末な代物ではあるにしろ、それでも最悪、人力での
「核特攻」にすら及んだなら、アメリカなどにも確実に甚大な被害をもたらせるわけで、
旧東側社会における命の扱いの粗末さも、それを妨げるどころか、後押しするものですらある。
核特攻なども含む、あらゆる事態を想定してみるならば、何らの道義性も伴わない、単なる
暴力の強大さによって人々が競い合う余地というのは、確かに完全に途絶えてしまったのである。
「強ければ上、弱ければ下」という判断基準が完全に無効化された現代において、
なお競争の基準にできるものがあるとすれば、それこそは「徳性の有無」であるといえる。
人々に仁政をも施せるほどの徳性の高さの持ち主ほど偉大で、かえって人々に危害をもたらす
ほどにも徳性の低い輩ほど賤しいという競争基準であれば、単なる腕力の強大さなどで
競い合う余地が絶たれたこれからの世の中においても、それなりに掲げていくことができる。
強さによる競争の余地が絶たれたから、さも人間は成長の余地が絶えたかのようにも言われる。
そのせいで、人々がある種の鬱屈に見舞われていたりもするが、これは、ただただ強さばかりを
貪ろうとする旧来の価値基準が未だ世の中に強要され続けているがために、「徳性の有無」という、
これからも競争の基準にして行ける判断基準のほうが、完全にひた隠されてしまっているからである。
高い徳性の持ち主が、より多くの人々からの支持を取り付けて、全面戦争とまでは行かない
平時の範囲内で、悪逆非道に走ろうとする連中を懲罰の対象とする、そういうところにまだ、
勇猛果敢な荒行の余地も残されている。ただ、そういうところでものを言う戦力はといえば、
ミサイルや戦車や戦闘機みたいな、最大級の兵器戦力よりもむしろ、悪人としての相手を
有効に懲罰することが可能となる、対人武器であるといえる。その理想形と呼べるのが、まさに
日本刀であり、日本刀と比べれば、槍や薙刀や弓矢ですら、平時の対人武器としては強大すぎる。
十分に強大さを控えた武器や武力と、それを相手に用いることに万全の道義性が備わることとが
相まって、言ってみれば、これからの時代における「強さ」になる。それは、ただただ腕力の
強大さを貪ってきたこれまでの時代の強さとは全く別個のものであり、今までの基準で蓄えてきた
強さが甚大であることなどが、これからの強さにそのまま応用できるなどということも決してない。
腕力の強大さと引き換えに道義性を失ってきたような連中は、かえって武装放棄して平民階級に
甘んじるなどしなければならなくなる。強さにそういったクリティカルな動向が伴い得ることを
あらかじめ見越していたのが東洋兵法でもあり、江戸幕府が全国に軍縮を敷いたことなどは、
完全に先の先の将来までをも見越した、確信的な兵術の一環であったことが確かである。
「強は此れ(孝)を強める者なり」
「親孝行に努める者こそは強くなる。(与えられる強さなどではなく、自ら培う強さである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
平時の範囲内で、悪逆非道に走ろうとする連中を懲罰の対象とする、そういうところにまだ、
勇猛果敢な荒行の余地も残されている。ただ、そういうところでものを言う戦力はといえば、
ミサイルや戦車や戦闘機みたいな、最大級の兵器戦力よりもむしろ、悪人としての相手を
有効に懲罰することが可能となる、対人武器であるといえる。その理想形と呼べるのが、まさに
日本刀であり、日本刀と比べれば、槍や薙刀や弓矢ですら、平時の対人武器としては強大すぎる。
十分に強大さを控えた武器や武力と、それを相手に用いることに万全の道義性が備わることとが
相まって、言ってみれば、これからの時代における「強さ」になる。それは、ただただ腕力の
強大さを貪ってきたこれまでの時代の強さとは全く別個のものであり、今までの基準で蓄えてきた
強さが甚大であることなどが、これからの強さにそのまま応用できるなどということも決してない。
腕力の強大さと引き換えに道義性を失ってきたような連中は、かえって武装放棄して平民階級に
甘んじるなどしなければならなくなる。強さにそういったクリティカルな動向が伴い得ることを
あらかじめ見越していたのが東洋兵法でもあり、江戸幕府が全国に軍縮を敷いたことなどは、
完全に先の先の将来までをも見越した、確信的な兵術の一環であったことが確かである。
「強は此れ(孝)を強める者なり」
「親孝行に努める者こそは強くなる。(与えられる強さなどではなく、自ら培う強さである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
聖書信仰級の邪信に取り込まれた時点で、人は「真の実」に対する尊重を失う。
真の実とは、端的に言えば五穀の実りであったり、子宝の実りであったりという、
人間にとって本当に「実」になる事物のことである。そしてそのような
真の実を尊重する教学である、儒学や神道などが「真実の教学」であるといえ、
また確信的に虚空の荘厳を凝らすことで、逆説的に真実の不虚さを
如実ならしめる、仏教などは「虚実自在の教学」であるといえる。
聖書信仰は、儒学や神道のような「真実の教学」でないのはもちろんのこと、
仏教のような「虚実自在の教学」でもない、「虚実転倒の邪教」である。
五穀や子宝の実りのような真の実は虚とし、金銭や財宝のような虚構を実とする。
人間にとってより実であるものを虚とし、どちらかといえば虚であるものを実とする、
虚実の転倒夢想を信者にけしかけるのが聖書信仰であり、それにより、家庭や農産を
ないがしろにしてまでの、個人的な富裕の貪りなどの実践をけしかけるのである。
確かに、実と虚というのは相反的な関係にあり、家庭円満や五穀豊穣に意義を
見出せる人間というのは、財物への貪りなどをあまり肥大化させたりもしない一方、
家庭や食に対して価値を見出せない者こそは、個人的に財物を貪ることにかけて
猛烈となったりもする。聖書信仰によって人工的に家庭や食に対する嫌悪を募らせて、
その反動によってこそ金銭欲などを増大させたユダヤ教徒やキリスト教徒の貪欲さたるや、
確かに異教徒などには決して見られないものであり、聖書信仰が絶やされたなら、
今の聖書信者ほどにも貪欲さを募らせたりする人間も、ほぼ皆無にまで立ち戻ることだろう。
真の実とは、端的に言えば五穀の実りであったり、子宝の実りであったりという、
人間にとって本当に「実」になる事物のことである。そしてそのような
真の実を尊重する教学である、儒学や神道などが「真実の教学」であるといえ、
また確信的に虚空の荘厳を凝らすことで、逆説的に真実の不虚さを
如実ならしめる、仏教などは「虚実自在の教学」であるといえる。
聖書信仰は、儒学や神道のような「真実の教学」でないのはもちろんのこと、
仏教のような「虚実自在の教学」でもない、「虚実転倒の邪教」である。
五穀や子宝の実りのような真の実は虚とし、金銭や財宝のような虚構を実とする。
人間にとってより実であるものを虚とし、どちらかといえば虚であるものを実とする、
虚実の転倒夢想を信者にけしかけるのが聖書信仰であり、それにより、家庭や農産を
ないがしろにしてまでの、個人的な富裕の貪りなどの実践をけしかけるのである。
確かに、実と虚というのは相反的な関係にあり、家庭円満や五穀豊穣に意義を
見出せる人間というのは、財物への貪りなどをあまり肥大化させたりもしない一方、
家庭や食に対して価値を見出せない者こそは、個人的に財物を貪ることにかけて
猛烈となったりもする。聖書信仰によって人工的に家庭や食に対する嫌悪を募らせて、
その反動によってこそ金銭欲などを増大させたユダヤ教徒やキリスト教徒の貪欲さたるや、
確かに異教徒などには決して見られないものであり、聖書信仰が絶やされたなら、
今の聖書信者ほどにも貪欲さを募らせたりする人間も、ほぼ皆無にまで立ち戻ることだろう。
聖書信仰ほどにも信者の金銭的、物質的欲望を募らせる信教も他にない一方で、
聖書信仰ほどにも家族や食物といった、人間にとって最も実のある事物に対する
尊重を損なわせる信教も、他にないのである。ただ親族に対する親愛を損ねたり、
食物に対する尊重を持たなかったりすることは、無宗教であってもいくらでも
あり得ることだが、教祖イエスの「おまえらに親族兄弟での殺し合いをさせる」
「パンの種こそは重要だ」などというような物言いを大真面目に信じ込ませて、
家族や食の栄養に対する尊重を体系的に損なわせたりまでするのは稀有なことで、
それにより、一定以上の家庭や食物に対する軽蔑を保ち続けるなどというのが、
聖書信仰でもなければあり得ないことで、そこまで珍妙な画策をわざわざ
試みるものなどがさすがに他にないから、聖書信者ほどにも異常なレベルの
貪欲さを備わらせた人間もまた、異教徒などには皆無なのである。
ただ貪欲であるというだけならまだしも、その裏に、人工的に形成された、
家族や食物に対する軽蔑意識がある。その軽蔑意識こそを糧に、聖書信者もまた
異教徒にはないほどの貪欲さを募らせているのだから、決してよろしきことなどではない。
貪欲の内に、必ず家庭崩壊や飢饉の種子を抱えているのだから、少しも進歩的なことだとは言えない。
「其の桐に其の椅に、其の実の離離たる。豈弟の君子は、令儀あらざる莫し」
「桐やイイギリの木にフサフサと実がなるようにして、楽しめる君子の、その姿も威儀深い。
(農工商の三民の事業を統制する君子としての仕事が、楽しめるほどに成功していることこそは
真の結実ともなっている。聖書信仰によって君子がそこまで豈弟でいられることも絶対にない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・湛露)
聖書信仰ほどにも家族や食物といった、人間にとって最も実のある事物に対する
尊重を損なわせる信教も、他にないのである。ただ親族に対する親愛を損ねたり、
食物に対する尊重を持たなかったりすることは、無宗教であってもいくらでも
あり得ることだが、教祖イエスの「おまえらに親族兄弟での殺し合いをさせる」
「パンの種こそは重要だ」などというような物言いを大真面目に信じ込ませて、
家族や食の栄養に対する尊重を体系的に損なわせたりまでするのは稀有なことで、
それにより、一定以上の家庭や食物に対する軽蔑を保ち続けるなどというのが、
聖書信仰でもなければあり得ないことで、そこまで珍妙な画策をわざわざ
試みるものなどがさすがに他にないから、聖書信者ほどにも異常なレベルの
貪欲さを備わらせた人間もまた、異教徒などには皆無なのである。
ただ貪欲であるというだけならまだしも、その裏に、人工的に形成された、
家族や食物に対する軽蔑意識がある。その軽蔑意識こそを糧に、聖書信者もまた
異教徒にはないほどの貪欲さを募らせているのだから、決してよろしきことなどではない。
貪欲の内に、必ず家庭崩壊や飢饉の種子を抱えているのだから、少しも進歩的なことだとは言えない。
「其の桐に其の椅に、其の実の離離たる。豈弟の君子は、令儀あらざる莫し」
「桐やイイギリの木にフサフサと実がなるようにして、楽しめる君子の、その姿も威儀深い。
(農工商の三民の事業を統制する君子としての仕事が、楽しめるほどに成功していることこそは
真の結実ともなっている。聖書信仰によって君子がそこまで豈弟でいられることも絶対にない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・湛露)
「たとひ七歳なりとも、われよりも勝ならば、われ彼に問うべし。
たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われかれを教ふべし」
(「正法眼蔵」禮拜得髓より)
相手が自分よりも優れているか、劣っているかということは、実相に根ざしてどちらもあり得ることであり、
ただひたすら相手を自分よりも優れたものと見なしたり、逆に悉く劣ったものと見なしたりするのでは
とうてい現実にそぐわず、以って、自分よりも本当に優れた相手に習うことでの成長を妨げることにもなる。
すでに本格的な礼楽の廃れていた春秋時代中期に、孔子は誰を特定の師にするわけでもなく、
方々の人々やその風習などをありのままに参考の対象ともしたという。(「史記」孔子世家などを参照)
だから「私は人が三人いればそこに師を見つける(述而第七・二二)」ともいい、
自らの勉学にかけての雑食さを別段、隠そうともしていない。
たとえば、古流武術の流れを汲む合気道の修練者には、あまり身体能力的にも優れていない虚弱者も多い。
開祖の植芝盛平からして、虚弱体質のために兵役を免除されている程だが、だからこそ、体力の強さなどに
頼らない超絶技巧の柔術をも修得して、旧軍部の上級将校にも柔術を指南する程もの名武術家となれたわけで、
むしろ部分的に人よりも劣っている部分があればこそ、他の面で突出する場合があるという手本になっているといえる。
相手が部分的に自分よりも劣っていた所で、他の面で自分よりも優れているなどということが
いくらでもあるわけだから、一概に他人が自分よりも優れているなどとも、劣っているなどとも言い切れず、
優れている面についてそれを習い、劣っている面についてはむしろ教えてやるという分別があるべきなのである。
たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われかれを教ふべし」
(「正法眼蔵」禮拜得髓より)
相手が自分よりも優れているか、劣っているかということは、実相に根ざしてどちらもあり得ることであり、
ただひたすら相手を自分よりも優れたものと見なしたり、逆に悉く劣ったものと見なしたりするのでは
とうてい現実にそぐわず、以って、自分よりも本当に優れた相手に習うことでの成長を妨げることにもなる。
すでに本格的な礼楽の廃れていた春秋時代中期に、孔子は誰を特定の師にするわけでもなく、
方々の人々やその風習などをありのままに参考の対象ともしたという。(「史記」孔子世家などを参照)
だから「私は人が三人いればそこに師を見つける(述而第七・二二)」ともいい、
自らの勉学にかけての雑食さを別段、隠そうともしていない。
たとえば、古流武術の流れを汲む合気道の修練者には、あまり身体能力的にも優れていない虚弱者も多い。
開祖の植芝盛平からして、虚弱体質のために兵役を免除されている程だが、だからこそ、体力の強さなどに
頼らない超絶技巧の柔術をも修得して、旧軍部の上級将校にも柔術を指南する程もの名武術家となれたわけで、
むしろ部分的に人よりも劣っている部分があればこそ、他の面で突出する場合があるという手本になっているといえる。
相手が部分的に自分よりも劣っていた所で、他の面で自分よりも優れているなどということが
いくらでもあるわけだから、一概に他人が自分よりも優れているなどとも、劣っているなどとも言い切れず、
優れている面についてそれを習い、劣っている面についてはむしろ教えてやるという分別があるべきなのである。
また、自らの親や主君などは、自分よりも優れているか否かなどに関わらず、謙りの対象とせねばならない。
すでに自分が壮健な成人ともなっていれば、体力でも知能でも年老いた親を上回り、何かにかけて自分のほうが
優れた仕事をこなせるようになりもする。それでもやはり自分の親である以上は敬わねばならないし、また自らが
何かにかけて多能であればこそ、多能な者を統制することこそが本務である主君を敬わねばならないこともある。
特に絶対的な上下関係を伴わない範囲においては、他人の優れた面を習って劣った面を習わない分別が
あるべきだし、また君臣父子のような上下関係を伴う範囲においては、能力の優劣などにかかわらず
目上にへりくだるようにしなければならない。だから、「優れた者に謙り、劣った者に謙らない」と、
「上下関係が前提としてある以上は、優劣の如何にかかわらず目上に謙る」という教条が正当となるのに対し、
「誰に対しても手当たり次第に、自分よりも優れた相手であるようにして謙る」という教条が不当となる。
「誰に対しても手当たり次第に、自分よりも優れた相手であるようにして謙る」という教条だけを聞けば、
決して耳障りにも聞こえないが、より正当な謙譲のあり方を他から参照してみればこそ、そこに潜在して
いる不当さが如実となる。犯罪聖書の記述というのは、軒並みこのようなものばかりであり、まさに
「井の中の蛙」の独り善がりからなる、世間知らずなままでの、手前勝手な物言いの宝庫なのである。
「孟公綽、趙魏の老を為すに則ち優る、以て滕薛の大夫を為す可からず」
「(魯の大夫の)孟公綽は、趙や魏のような大国でも、家老を任せる上では十分に優れている。
しかし、滕や薛のような小国といえども、大夫を任せるには至らな過ぎる。(魯の大夫はなおさら)
(何にかけては優れている、何にかけては劣っているという分別の提示例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・一二より)
すでに自分が壮健な成人ともなっていれば、体力でも知能でも年老いた親を上回り、何かにかけて自分のほうが
優れた仕事をこなせるようになりもする。それでもやはり自分の親である以上は敬わねばならないし、また自らが
何かにかけて多能であればこそ、多能な者を統制することこそが本務である主君を敬わねばならないこともある。
特に絶対的な上下関係を伴わない範囲においては、他人の優れた面を習って劣った面を習わない分別が
あるべきだし、また君臣父子のような上下関係を伴う範囲においては、能力の優劣などにかかわらず
目上にへりくだるようにしなければならない。だから、「優れた者に謙り、劣った者に謙らない」と、
「上下関係が前提としてある以上は、優劣の如何にかかわらず目上に謙る」という教条が正当となるのに対し、
「誰に対しても手当たり次第に、自分よりも優れた相手であるようにして謙る」という教条が不当となる。
「誰に対しても手当たり次第に、自分よりも優れた相手であるようにして謙る」という教条だけを聞けば、
決して耳障りにも聞こえないが、より正当な謙譲のあり方を他から参照してみればこそ、そこに潜在して
いる不当さが如実となる。犯罪聖書の記述というのは、軒並みこのようなものばかりであり、まさに
「井の中の蛙」の独り善がりからなる、世間知らずなままでの、手前勝手な物言いの宝庫なのである。
「孟公綽、趙魏の老を為すに則ち優る、以て滕薛の大夫を為す可からず」
「(魯の大夫の)孟公綽は、趙や魏のような大国でも、家老を任せる上では十分に優れている。
しかし、滕や薛のような小国といえども、大夫を任せるには至らな過ぎる。(魯の大夫はなおさら)
(何にかけては優れている、何にかけては劣っているという分別の提示例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・一二より)
「水」は人間にとっての「へりくだり」の象徴となると共に、確かな実物の「恵み」ともなる。
人間に欠くべからざる飲料として、また農産の豊穣をもたらす必須要素としての水。
その水がたとえば、治水事業のような泥臭い重労働によって保全されることはあっても、
一発当ててウハウハとなる博打稼業などによって増すことができたりすることはない。
「へりくだり」と「へつらい」の何が違うかといって、へりくだりは、治水事業のような重労働にすら
自分自身が挺身して、世の中に確かな恵みをもたらしていこうとするだけの心意気があるのに対し、
へつらいのほうにはそこまでの心意気はなく、見た目には相手にへりくだっているようであっても、
それにより自分が利益のおこぼれに与ってウハウハになるぐらいまでの見通ししか備わっていない点
だといえる。当然そのへつらいによって人々がより豊かな恵みに与れるなどということもなく、むしろ
へつらい者が自利を掠め取ったぶんだけ、全体としての恵みは目減りすらしてしまっているのである。
どこまでもへりくだる水の特性をありのままに讃える儒学や、神前に塩や米と共に水を供え、
地鎮祭などを通じて土木事業の安全無事を祈ったりもする神道などには、確かに水の特性と真摯に
向き合って、水の如き実物の恵みを着実にもたらしていこうとする理念が備わっている。のに対し、
水よりも聖霊(カネ)を上位の理念とし、聖霊の貪りを通じてついでに水のような実物の恵みも
もたらそうとする聖書信仰には、「へりくだり」という水の特性とも真摯に向き合っていこうとする
心意気などは全く欠けており、一発稼いでウハウハが本心の「へつらい」止まりな代物だといえる。
人間に欠くべからざる飲料として、また農産の豊穣をもたらす必須要素としての水。
その水がたとえば、治水事業のような泥臭い重労働によって保全されることはあっても、
一発当ててウハウハとなる博打稼業などによって増すことができたりすることはない。
「へりくだり」と「へつらい」の何が違うかといって、へりくだりは、治水事業のような重労働にすら
自分自身が挺身して、世の中に確かな恵みをもたらしていこうとするだけの心意気があるのに対し、
へつらいのほうにはそこまでの心意気はなく、見た目には相手にへりくだっているようであっても、
それにより自分が利益のおこぼれに与ってウハウハになるぐらいまでの見通ししか備わっていない点
だといえる。当然そのへつらいによって人々がより豊かな恵みに与れるなどということもなく、むしろ
へつらい者が自利を掠め取ったぶんだけ、全体としての恵みは目減りすらしてしまっているのである。
どこまでもへりくだる水の特性をありのままに讃える儒学や、神前に塩や米と共に水を供え、
地鎮祭などを通じて土木事業の安全無事を祈ったりもする神道などには、確かに水の特性と真摯に
向き合って、水の如き実物の恵みを着実にもたらしていこうとする理念が備わっている。のに対し、
水よりも聖霊(カネ)を上位の理念とし、聖霊の貪りを通じてついでに水のような実物の恵みも
もたらそうとする聖書信仰には、「へりくだり」という水の特性とも真摯に向き合っていこうとする
心意気などは全く欠けており、一発稼いでウハウハが本心の「へつらい」止まりな代物だといえる。
「士農工商」の四民制に基づくなら、治水事業を含む「工」も、金融業を含む「商」の上に置かれる。
それにより間接的に、水をカネよりも重要な実物であるとも見なしているわけで、カネよりも水を
より重要なものであると見なすことで、その特性、その恵み豊かさとも真摯に向き合っていくのである。
ただ水を自分たちにとっての恵みであるとばかり見なすのなら、我田引水もよかれということになるが、
水のどこまでもへりくだる特性を見習って、自利以上の利他からなる恵みの増大にすら挺身していく
ことをも目指していくのであれば、金権で水を独占しようとするような策動の価値などは否定される。
ただ水が欲しいなどと渇望するのではなく、自ら水のへりくだる特性に倣おうとすらしていく所にこそ、
より大きな恵みもまた確かに生ずるのだから、志しの高さがそのままより大きな豊かさに直結する好例だといえる。
「三十年の通を以ってすれば、凶旱水溢有ると雖も、民に菜色無し。
然る後に天子食するときは、日に挙ぐるに楽を以ってする」
「三十年分の国の収支を通算して毎年の予算をも決めるのであれば、たとえ旱魃や洪水が起ころうとも
民が飢え渇くことはない。それほどにも治世が成功して後には、天子も日々の宴食に舞楽を呼びもする。
(天下国家全土の民を飢えや渇きから解放する具体的な見通し。それは正式な帝業によってこそ実現される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
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戦力の強さが必ずしも戦闘上の優越や、政治的な全能に結び付くわけでもないことは、
大昔から東洋兵法によってわきまえられて来たことであり、なおかついま米軍が
中東諸国などにおいて強いられている苦戦によって実証されていることでもある。
宮本武蔵の「五輪書」水之巻には、多勢に無勢の場合に相手の隊列を故意に乱れさせて、
単身の利によって相手を総崩れにさせる「多敵のくらい」の兵法が詳しく述べられてもいる。
両手にそれぞれ持ち合わせた大小の両刀を巧みに操ることで初めて可能となる超人的な技法
ではあるが、多勢の強大さを逆手に取って、相手を総崩れにさせる実例には一応なっている。
単身で死角に潜む中東のテロリストなどが、複数の乗員や兵員の乗車する戦車や装甲車に
RPG-7を打ち込んで破壊すれば、死者数の面でも軍備コストの面でも甚大な被害になる。
一方で、戦車や装甲車による重装備をした米軍が総攻撃を行ってみたところで、方々に単身で
散らばり、格安の装備ばかりで済ましているテロリストたちに大きな被害を与えることは難しい。
軍隊レベルの戦力の強さが、対テロリスト戦などにおいては害ばかりあって大した
益にもならないことが、今でもアフガニスタンなどの紛争地域で実証され続けている。
そして、やたらな軍備の増強は本国アメリカにも甚大な経済的負担を強い、
対外債務も今では13兆ドルを超えるまでになっている。(日本は約2兆ドル)
ステロイドを服用し過ぎたマッチョマンが中毒や精神疾患を患って惨死するようにして、
アメリカも強大さをむさぼり過ぎたあまりに自滅する。しかもただ自滅するだけでなく、
その強大さを実際にアフガンやイラクなどの侵略のために実用して、テロリストとの
ゲリラ戦ではは必ずしも強大さなどが通用しないことを思い知った上で自滅するという、
なんとも無様極まりない終焉を迎えることとなったのである。
戦力の強さが必ずしも戦闘上の優越や、政治的な全能に結び付くわけでもないことは、
大昔から東洋兵法によってわきまえられて来たことであり、なおかついま米軍が
中東諸国などにおいて強いられている苦戦によって実証されていることでもある。
宮本武蔵の「五輪書」水之巻には、多勢に無勢の場合に相手の隊列を故意に乱れさせて、
単身の利によって相手を総崩れにさせる「多敵のくらい」の兵法が詳しく述べられてもいる。
両手にそれぞれ持ち合わせた大小の両刀を巧みに操ることで初めて可能となる超人的な技法
ではあるが、多勢の強大さを逆手に取って、相手を総崩れにさせる実例には一応なっている。
単身で死角に潜む中東のテロリストなどが、複数の乗員や兵員の乗車する戦車や装甲車に
RPG-7を打ち込んで破壊すれば、死者数の面でも軍備コストの面でも甚大な被害になる。
一方で、戦車や装甲車による重装備をした米軍が総攻撃を行ってみたところで、方々に単身で
散らばり、格安の装備ばかりで済ましているテロリストたちに大きな被害を与えることは難しい。
軍隊レベルの戦力の強さが、対テロリスト戦などにおいては害ばかりあって大した
益にもならないことが、今でもアフガニスタンなどの紛争地域で実証され続けている。
そして、やたらな軍備の増強は本国アメリカにも甚大な経済的負担を強い、
対外債務も今では13兆ドルを超えるまでになっている。(日本は約2兆ドル)
ステロイドを服用し過ぎたマッチョマンが中毒や精神疾患を患って惨死するようにして、
アメリカも強大さをむさぼり過ぎたあまりに自滅する。しかもただ自滅するだけでなく、
その強大さを実際にアフガンやイラクなどの侵略のために実用して、テロリストとの
ゲリラ戦ではは必ずしも強大さなどが通用しないことを思い知った上で自滅するという、
なんとも無様極まりない終焉を迎えることとなったのである。
戦って勝つためにこそ、「単なる強大さ」ばかりをあてにしていてはならない。
個々の戦闘技術を磨き上げることももちろん必要だし、何よりも、戦うべき場合に
おいて戦い、戦うべきでない場合においては戦わない分別こそが、勝利を導く鍵ともなる。
「百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」
(「孫子」謀攻篇第三より)
と孫子が言ったとき、「善の善」とは単なる倫理的な「善」を言っているのではなく、
それでこそ最勝になれるという、兵法上の意義を込めた「善」を指し示しているのである。
また、倫理的な「善」とも合致しているからこそ、その「善」によって最勝ともなる。
軍事的に強大である、にもかかわらず戦うわけにもいかない場合があることをもわきまえる、
それでこそ最勝ともなりうるのだから、最勝故に最強であることと、全能故に何でもして
いいなどと思い込むこととは、とうてい両立し得ない事項であることが分かる。
「強は弱を犯さず、衆は寡を暴さず、而して弟、州巷に達す」
「強いからといって弱い者を犯さず、多勢だからといって無勢を攻め荒らすような
ことがなくなってから初めて、忠道に励もうとする者が五州の巷にまで及ぶことになる。
(アメリカのような強さにかまけての乱暴を行えば、決して人々からの忠誠は得られない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
個々の戦闘技術を磨き上げることももちろん必要だし、何よりも、戦うべき場合に
おいて戦い、戦うべきでない場合においては戦わない分別こそが、勝利を導く鍵ともなる。
「百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」
(「孫子」謀攻篇第三より)
と孫子が言ったとき、「善の善」とは単なる倫理的な「善」を言っているのではなく、
それでこそ最勝になれるという、兵法上の意義を込めた「善」を指し示しているのである。
また、倫理的な「善」とも合致しているからこそ、その「善」によって最勝ともなる。
軍事的に強大である、にもかかわらず戦うわけにもいかない場合があることをもわきまえる、
それでこそ最勝ともなりうるのだから、最勝故に最強であることと、全能故に何でもして
いいなどと思い込むこととは、とうてい両立し得ない事項であることが分かる。
「強は弱を犯さず、衆は寡を暴さず、而して弟、州巷に達す」
「強いからといって弱い者を犯さず、多勢だからといって無勢を攻め荒らすような
ことがなくなってから初めて、忠道に励もうとする者が五州の巷にまで及ぶことになる。
(アメリカのような強さにかまけての乱暴を行えば、決して人々からの忠誠は得られない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
正しいから肯定Yes好み、間違っているから否定No好みなどということはない。
真理は是もなければ非もない虚空にこそあり、真理に根ざした理想も非想非非想処の先にこそある。
是もなければ非もないとする論理志向は実際にNAND回路として、あらゆる論理回路を形成することが可能な
最高度の自由を持ち、便宜的に是とすべきものを是とし、非とすべきものを非とすることも自在となる。
何かにかけて是としようとすることも、何かにかけて非としようとすることも、
いずれもが是非の入り混じる実相世界に当てはめられた時点で、いつかは破綻を招く。
是とすべきものを是とし非とすべきものを非とすることが自在なNAND論理のような自由度が
是一辺倒や非一辺倒にはないから、無理な論理的構築を凝らしたところで、いつかは破綻するのである。
NAND論理に根ざした虚空の境地とまでいかずとも、ただ直観的に是とすべきものを是とし、
非とすべきものを非とするのが善で、それに違う是非を凝らすことが悪ともなる。
(もちろん直観に根ざした是非の判断が至当となるためにもそれなりの鍛錬を要する)
何でもかんでも是としてしまうことに付随する快感や、何でもかんでも非としようとすることに
付随する不快感を以ってして、是一辺倒を善とし、非一辺倒を悪として来たのが西洋社会ではあるが、
だからこそ西洋には始めから本物の善などはなかったのである。直観によって是非善悪を分別する
儒家のような思想も、是もなく非もない虚空の真理の先に正当な是非善悪を見出す仏教のような哲学もなく、
始めから一方的に是を積み立てたり、一方的に非を当て込んだりすることしか思想哲学上の指針として
なかったから、至当な是非からなる本物の善などは始めから見定めようもなかったのである。
真理は是もなければ非もない虚空にこそあり、真理に根ざした理想も非想非非想処の先にこそある。
是もなければ非もないとする論理志向は実際にNAND回路として、あらゆる論理回路を形成することが可能な
最高度の自由を持ち、便宜的に是とすべきものを是とし、非とすべきものを非とすることも自在となる。
何かにかけて是としようとすることも、何かにかけて非としようとすることも、
いずれもが是非の入り混じる実相世界に当てはめられた時点で、いつかは破綻を招く。
是とすべきものを是とし非とすべきものを非とすることが自在なNAND論理のような自由度が
是一辺倒や非一辺倒にはないから、無理な論理的構築を凝らしたところで、いつかは破綻するのである。
NAND論理に根ざした虚空の境地とまでいかずとも、ただ直観的に是とすべきものを是とし、
非とすべきものを非とするのが善で、それに違う是非を凝らすことが悪ともなる。
(もちろん直観に根ざした是非の判断が至当となるためにもそれなりの鍛錬を要する)
何でもかんでも是としてしまうことに付随する快感や、何でもかんでも非としようとすることに
付随する不快感を以ってして、是一辺倒を善とし、非一辺倒を悪として来たのが西洋社会ではあるが、
だからこそ西洋には始めから本物の善などはなかったのである。直観によって是非善悪を分別する
儒家のような思想も、是もなく非もない虚空の真理の先に正当な是非善悪を見出す仏教のような哲学もなく、
始めから一方的に是を積み立てたり、一方的に非を当て込んだりすることしか思想哲学上の指針として
なかったから、至当な是非からなる本物の善などは始めから見定めようもなかったのである。
善がなかったから、悪しかなかった。文明構築の指針としての善を寸分たりとも知らなかったから、
悪逆非道である試みしか為せなかった。それは確かに「過失」であり、本物の善も悪も知った上で
あえて悪を選び、必要もなくわざわざ好き好んで悪逆非道に邁進した場合のような、
「故意」故の許しがたさなどは決して伴っていない。
今まではそうだった。これからはそうではない。
これまでは過失だったが、これからは故意になる。
これまでは許しようがあったが、これからはもう許しようがない。
厳重な論理的導出にも根ざして、これからはもう摂取不捨である。
「百姓親しまず、五品に不遜なる」
「仁義礼智信の五常に対して不遜なため、百姓たちも親しみ合うことがない。
(仁徳に決定的に反する旧約教義のような邪説が流布されればこそ、民たちもまた不遜になる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
悪逆非道である試みしか為せなかった。それは確かに「過失」であり、本物の善も悪も知った上で
あえて悪を選び、必要もなくわざわざ好き好んで悪逆非道に邁進した場合のような、
「故意」故の許しがたさなどは決して伴っていない。
今まではそうだった。これからはそうではない。
これまでは過失だったが、これからは故意になる。
これまでは許しようがあったが、これからはもう許しようがない。
厳重な論理的導出にも根ざして、これからはもう摂取不捨である。
「百姓親しまず、五品に不遜なる」
「仁義礼智信の五常に対して不遜なため、百姓たちも親しみ合うことがない。
(仁徳に決定的に反する旧約教義のような邪説が流布されればこそ、民たちもまた不遜になる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
病気や犯罪をまず来たさないことが最善で、
来たしてしまった後、医療や刑罰で癒すのがその次である。
大病や大罪を来たしながら、巧みな医療や刑罰で凌ぐのがさらにその次で、
どんなに甚だしい大病や大罪を来たそうとも、医療や刑罰一つ施されないのが最悪だといえる。
上記の善悪の分別は、エントロピー保存則が守られる限りにおいて通用する。
病気や怪我によって自らの身心を傷めたり、犯罪によって他者の身命や財物を損ねたりしたなら、
それは必ずプラスマイナスゼロ以下の一方的な損壊となり、ゼロ以上の構築などには結び付かない。
それは、どんなに医学や法学が発達したところで同じことで、
医療や刑罰によってすでに起きてしまった病気や犯罪を癒すことは、あらかじめ
病気や犯罪を来たさないようにしていく努力以上の成果を挙げることが決してあり得ない。
だから、上記のような病気や犯罪にまつわる善悪の分別が当てはまるといえるが、
もちろん全ては、エントロピー保存則が普遍的である場合に限っての話で、一般論としては、
この世界においては物理法則としてのエントロピー保存則が普遍的であるから、便宜的に、
上記のような善悪の分別もまた、この世界において普遍的に通用すると断ずることができる。
昔の東洋人が、エントロピーの保存則を熱力学的に証明していたなどということはない。
それでも「覆水収むべからず(後漢書・竇何列伝より)」のような直観的な把握によって、
エントロピー保存則の普遍性をも常識的に了承していたのであって、むしろこのような概括的な
普遍法則の承諾から、体系的な善悪の分別のほうを積極的に推し進めてきた東洋人のあり方こそは、
エントロピー保存則の証明みたいな、稚拙な段階ばかりに拘泥し続けて来た
西洋人のあり方よりも誠実であるといえる。
来たしてしまった後、医療や刑罰で癒すのがその次である。
大病や大罪を来たしながら、巧みな医療や刑罰で凌ぐのがさらにその次で、
どんなに甚だしい大病や大罪を来たそうとも、医療や刑罰一つ施されないのが最悪だといえる。
上記の善悪の分別は、エントロピー保存則が守られる限りにおいて通用する。
病気や怪我によって自らの身心を傷めたり、犯罪によって他者の身命や財物を損ねたりしたなら、
それは必ずプラスマイナスゼロ以下の一方的な損壊となり、ゼロ以上の構築などには結び付かない。
それは、どんなに医学や法学が発達したところで同じことで、
医療や刑罰によってすでに起きてしまった病気や犯罪を癒すことは、あらかじめ
病気や犯罪を来たさないようにしていく努力以上の成果を挙げることが決してあり得ない。
だから、上記のような病気や犯罪にまつわる善悪の分別が当てはまるといえるが、
もちろん全ては、エントロピー保存則が普遍的である場合に限っての話で、一般論としては、
この世界においては物理法則としてのエントロピー保存則が普遍的であるから、便宜的に、
上記のような善悪の分別もまた、この世界において普遍的に通用すると断ずることができる。
昔の東洋人が、エントロピーの保存則を熱力学的に証明していたなどということはない。
それでも「覆水収むべからず(後漢書・竇何列伝より)」のような直観的な把握によって、
エントロピー保存則の普遍性をも常識的に了承していたのであって、むしろこのような概括的な
普遍法則の承諾から、体系的な善悪の分別のほうを積極的に推し進めてきた東洋人のあり方こそは、
エントロピー保存則の証明みたいな、稚拙な段階ばかりに拘泥し続けて来た
西洋人のあり方よりも誠実であるといえる。
エントロピー保存則の普遍性「覆水不可収」に根ざして、善悪を上記のように分別するのは、
善と見なせるものを推し進めた場合に着実な福徳の構築が見込まれ、悪と見なせるものを
推し進めた場合に着実な福徳の損壊と、最終的な破滅が見込まれるからである。そして、
覆水不可収が物理的に普遍的である以上は、上記の見込みもまた普遍的なものとなる。
以上で、上記のような善悪の分別の、物理的な普遍性もまた連動的に導き出されたわけである。
民の王化などによって、罪悪の増長を未然に防いで行こうとする儒学などのあり方がより善で、
罪を犯させた上で救ってやろうなどとするようなキリスト教などのあり方がより悪である。
より善だから、儒学などを実践すれば福徳の増進が見込まれる一方、より悪だから、
キリスト教などを実践すれば、福徳の損壊と最終的な破滅に見舞われる。これは、
西洋人こそが拘泥して来た挙句に証明してしまった、熱力学のエントロピー保存則の
普遍性によってこそ確証されたことである。自分たち西洋人が帰依して来たキリスト教こそは、
儒学などと比べればその実践が奨励されるに値しない、邪悪の信教ありのままの姿であることを
西洋人こそが物理的に証明してしまったのである。怨むんなら、そうである自分たちを怨むべきだ。
「子曰く、南人の言えること有り。曰く、人に而て恒無くんば、以て巫医も作す可からず、と。
善いかな。其の徳を恒にせざれば、或いは之れに羞じを承く。子曰く、占わざるのみ」
「先生は言われた。『南方の人々の言葉で、〈人として一定の庸徳が備わっているのでなければ、
占いや医療すら受けるべきではない〉というのがあるが、これはいい言葉だね。庸徳すら備わって
いないというのなら、その行いも恥ずべきことばかり。そんな人間は占いや医療を受ける価値も無い』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二二より)
善と見なせるものを推し進めた場合に着実な福徳の構築が見込まれ、悪と見なせるものを
推し進めた場合に着実な福徳の損壊と、最終的な破滅が見込まれるからである。そして、
覆水不可収が物理的に普遍的である以上は、上記の見込みもまた普遍的なものとなる。
以上で、上記のような善悪の分別の、物理的な普遍性もまた連動的に導き出されたわけである。
民の王化などによって、罪悪の増長を未然に防いで行こうとする儒学などのあり方がより善で、
罪を犯させた上で救ってやろうなどとするようなキリスト教などのあり方がより悪である。
より善だから、儒学などを実践すれば福徳の増進が見込まれる一方、より悪だから、
キリスト教などを実践すれば、福徳の損壊と最終的な破滅に見舞われる。これは、
西洋人こそが拘泥して来た挙句に証明してしまった、熱力学のエントロピー保存則の
普遍性によってこそ確証されたことである。自分たち西洋人が帰依して来たキリスト教こそは、
儒学などと比べればその実践が奨励されるに値しない、邪悪の信教ありのままの姿であることを
西洋人こそが物理的に証明してしまったのである。怨むんなら、そうである自分たちを怨むべきだ。
「子曰く、南人の言えること有り。曰く、人に而て恒無くんば、以て巫医も作す可からず、と。
善いかな。其の徳を恒にせざれば、或いは之れに羞じを承く。子曰く、占わざるのみ」
「先生は言われた。『南方の人々の言葉で、〈人として一定の庸徳が備わっているのでなければ、
占いや医療すら受けるべきではない〉というのがあるが、これはいい言葉だね。庸徳すら備わって
いないというのなら、その行いも恥ずべきことばかり。そんな人間は占いや医療を受ける価値も無い』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二二より)
死だ、死だ、と頻繁に口にはするものの、結局聖書信者は、
本物の個体の死と真剣に向き合うことには、一貫して拒絶を決め込んでいる。
仏教や神道の観点から言っても、個体の死によって脳の思考も完全に失われるとされる。
脳機能の働きの一種だった祖先崇拝や念仏信仰なども死ねば途絶えるが、それでも
先祖代々受け継がれていく魂や虚空の徳は不滅であり、存命中にそのような不滅なるものと
自己とを繋ぎとめておくための手段として、先祖供養や念仏などが嗜まれるのでもある。
結局、十字架信仰などはそういった意味での、不滅なるものと生存者との連繋を確立するもの
などでは決してないのである。全ては脳機能が健在であり続けることを前提とした箱庭劇の
範囲内であり、脳機能が死滅した後の世界などにまで、全く配慮は及んでいないのである。
脳機能が完全に死滅する、本物の死からは一貫して目を背け続けているから、
あたかも信仰が死後にまで持っていけるかのような物言いまでする。死して棺に納められ、
墓場に埋葬されてなお信仰を保っているとされるから、最後の審判の日には墓場から
復活するともされるが、これら全て、実相から乖離したお遊戯でしかなかったのである。
本物の個体の死と真剣に向き合うことには、一貫して拒絶を決め込んでいる。
仏教や神道の観点から言っても、個体の死によって脳の思考も完全に失われるとされる。
脳機能の働きの一種だった祖先崇拝や念仏信仰なども死ねば途絶えるが、それでも
先祖代々受け継がれていく魂や虚空の徳は不滅であり、存命中にそのような不滅なるものと
自己とを繋ぎとめておくための手段として、先祖供養や念仏などが嗜まれるのでもある。
結局、十字架信仰などはそういった意味での、不滅なるものと生存者との連繋を確立するもの
などでは決してないのである。全ては脳機能が健在であり続けることを前提とした箱庭劇の
範囲内であり、脳機能が死滅した後の世界などにまで、全く配慮は及んでいないのである。
脳機能が完全に死滅する、本物の死からは一貫して目を背け続けているから、
あたかも信仰が死後にまで持っていけるかのような物言いまでする。死して棺に納められ、
墓場に埋葬されてなお信仰を保っているとされるから、最後の審判の日には墓場から
復活するともされるが、これら全て、実相から乖離したお遊戯でしかなかったのである。
脳機能の死滅を伴う、本物の死と真摯に向き合っていくことを完全に拒絶してきたから、
聖書信仰だけは、明らかに他の教学とも段違いなレベルの不誠実さを信者に植えつけて来た。
生命の死と真摯に向き合うことにかけて、あらゆる教学の中でも白眉なのはやはり仏教で、
だからこそ仏教に真摯に帰依する者ほど誠実な人間も他にはない。それとは逆に、
本物の死から完全に目を背けることにかけて、聖書信仰の右に出るものもないからこそ、
聖書を狂信するものほど不誠実な人間も他にない。仏教と聖書教以外の信教帰依者や、
無信仰者などは、えてしてこの間のうちのどこかに位置し、誠実さにかけて敬虔な
仏教信者以上だったり、不誠実さにかけて聖書信者以上だったりすることはまずない。
(もちろん敬虔でない仏教信者や聖書信者が比較対象であれば、この限りでもない)
本物の死と真摯に向き合っていくことこそは、誠実であるが故に快い生を過ごす上での
秘訣ともなる。本物の死から目を背けて、脳機能も健在な生の範疇の限りでしか
何も考えられない所でこそ自意識過剰の思い上がりも増大し、不誠実さも極まり、
以って終始、不快きわまりない人生を送り続けるしかなくなるである。
「鮮民の生くるは、死して之れ久しきにも如かず」
「(肉親との縁も絶たれた)弧寡の民として生きることは、完全に死に絶えることにも及ばない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
聖書信仰だけは、明らかに他の教学とも段違いなレベルの不誠実さを信者に植えつけて来た。
生命の死と真摯に向き合うことにかけて、あらゆる教学の中でも白眉なのはやはり仏教で、
だからこそ仏教に真摯に帰依する者ほど誠実な人間も他にはない。それとは逆に、
本物の死から完全に目を背けることにかけて、聖書信仰の右に出るものもないからこそ、
聖書を狂信するものほど不誠実な人間も他にない。仏教と聖書教以外の信教帰依者や、
無信仰者などは、えてしてこの間のうちのどこかに位置し、誠実さにかけて敬虔な
仏教信者以上だったり、不誠実さにかけて聖書信者以上だったりすることはまずない。
(もちろん敬虔でない仏教信者や聖書信者が比較対象であれば、この限りでもない)
本物の死と真摯に向き合っていくことこそは、誠実であるが故に快い生を過ごす上での
秘訣ともなる。本物の死から目を背けて、脳機能も健在な生の範疇の限りでしか
何も考えられない所でこそ自意識過剰の思い上がりも増大し、不誠実さも極まり、
以って終始、不快きわまりない人生を送り続けるしかなくなるである。
「鮮民の生くるは、死して之れ久しきにも如かず」
「(肉親との縁も絶たれた)弧寡の民として生きることは、完全に死に絶えることにも及ばない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
「豊とは大なり。大を窮むる者は必ずその居を失う」
「『豊か』とは大いなることだが、大きいことを極めてしまっても、自分の居場所を失う」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)
実物の農地における豊作などは、それはそれは多大な努力を必要とするもので、
しかも一定の努力すらすれば、それっきりで済むなどというものではなく、
耕作などを蔑ろにすれば途端に凶作に見舞われるし、そうでなくたって旱魃などの災害によって
一挙に実りを奪われたりするもの。実物の農産物の豊作を画策したりする所にこそ
「豊大さを窮める」などということがなく、どこまでも豊作のための努力をし続けていく必要がある。
一方、心境をお笑いやカルト信仰からなるウレシがりによって豊かにさせるということは、
気難しい相手などであればなかなか難しいということはあっても、必ず一定の所で極まってしまう。
無闇やたらとゲハゲハニタニタ笑い飛ばす所に心境が行き着いてしまえば、それまでなのであり、
それ以上にウレシさの質を増していくなんてことも、もはやないのである。
心境がウレシがりの豊満に満たされ尽くして、もはや膠着しきってしまっている状態ともなれば、
自己の内面における自らの立ち位置を見失って、客観的に自己を把握することも覚束なくなる。
これが他でもない「身の程知らず」の状態であり、身の程知らずな状態の人間が、
えてしてヘラヘラと不敵な笑みを浮かべていたりするのも、このためである。
「『豊か』とは大いなることだが、大きいことを極めてしまっても、自分の居場所を失う」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)
実物の農地における豊作などは、それはそれは多大な努力を必要とするもので、
しかも一定の努力すらすれば、それっきりで済むなどというものではなく、
耕作などを蔑ろにすれば途端に凶作に見舞われるし、そうでなくたって旱魃などの災害によって
一挙に実りを奪われたりするもの。実物の農産物の豊作を画策したりする所にこそ
「豊大さを窮める」などということがなく、どこまでも豊作のための努力をし続けていく必要がある。
一方、心境をお笑いやカルト信仰からなるウレシがりによって豊かにさせるということは、
気難しい相手などであればなかなか難しいということはあっても、必ず一定の所で極まってしまう。
無闇やたらとゲハゲハニタニタ笑い飛ばす所に心境が行き着いてしまえば、それまでなのであり、
それ以上にウレシさの質を増していくなんてことも、もはやないのである。
心境がウレシがりの豊満に満たされ尽くして、もはや膠着しきってしまっている状態ともなれば、
自己の内面における自らの立ち位置を見失って、客観的に自己を把握することも覚束なくなる。
これが他でもない「身の程知らず」の状態であり、身の程知らずな状態の人間が、
えてしてヘラヘラと不敵な笑みを浮かべていたりするのも、このためである。
このような身の程知らずと化してしまった人間の心象を、「易経」豊卦・上六では
「其の屋を豊かにし、其の家に蔀す。其の戸を闚うに、闃として其れ人无し。三歳まで覿ず。凶なり」
という風に表現している。自己の家屋、すなわち自分自身の内心ばかりを豊かにしようとして、
自意識過剰の思い上がりを募らせ、内心と外界の間にも、丈夫な格子戸を付けてしまう。
外から格子戸の中を覗いてみても、三年経っても人の気配が全く窺えない状態。それほどにも気配が
うかがえないのは、家屋ばかりを豪華にしすぎたために、家主が自己を見失ってしまっているからで、
ウレシがりの豊満によって内心を満杯にし尽くしてしまっているような人間に、確たる自己などはないのである。
だから、己ればかりを殊更に満たし尽くしているような人間は、自己を見失った身の程知らずとなってしまう。
自分がしっかりと身の程をわきまえるためには、かえって己れを虚しく
することのほうが必要で、豊かさの追求はむしろ農産などの、なかなか豊穣が実現し難くて、
極めるなんてことも決してあり得ないような分野にこそ振り向けるようにすべきなのである。
己れを豊満たらしめることは安易である一方、己れの虚しさと実物の豊穣とを追求していくことは、困難である。
社会的な栄華などと共に虚心を保つことは特に困難で、それこそ虚空の徳を尊ぶ仏門への帰依などにまで
頼らなければならなくなったりもしかねないわけだが、それ以前にまず、己れの個人的な豊満ばかりを
ことさらに追い求めて行こうとうする悪癖から、卒業することが必要だといえる。
「其の屋を豊かにし、其の家に蔀す。其の戸を闚うに、闃として其れ人无し。三歳まで覿ず。凶なり」
という風に表現している。自己の家屋、すなわち自分自身の内心ばかりを豊かにしようとして、
自意識過剰の思い上がりを募らせ、内心と外界の間にも、丈夫な格子戸を付けてしまう。
外から格子戸の中を覗いてみても、三年経っても人の気配が全く窺えない状態。それほどにも気配が
うかがえないのは、家屋ばかりを豪華にしすぎたために、家主が自己を見失ってしまっているからで、
ウレシがりの豊満によって内心を満杯にし尽くしてしまっているような人間に、確たる自己などはないのである。
だから、己ればかりを殊更に満たし尽くしているような人間は、自己を見失った身の程知らずとなってしまう。
自分がしっかりと身の程をわきまえるためには、かえって己れを虚しく
することのほうが必要で、豊かさの追求はむしろ農産などの、なかなか豊穣が実現し難くて、
極めるなんてことも決してあり得ないような分野にこそ振り向けるようにすべきなのである。
己れを豊満たらしめることは安易である一方、己れの虚しさと実物の豊穣とを追求していくことは、困難である。
社会的な栄華などと共に虚心を保つことは特に困難で、それこそ虚空の徳を尊ぶ仏門への帰依などにまで
頼らなければならなくなったりもしかねないわけだが、それ以前にまず、己れの個人的な豊満ばかりを
ことさらに追い求めて行こうとうする悪癖から、卒業することが必要だといえる。
出家修行のような着実な手段にも依らず、
むしろ人並み以上の罪業の積み重ねに邁進しながら、
「自分たちは清められた」とキリシタンがうそぶくのは、
自分たちが汚穢を眼前にした時には、十字架信仰の自己洗脳によって
IQ20〜35程度の重度知能障害状態に自分たちの脳みそを追いやっているからで、
それほどもの知能障害状態で罪業とも対峙するから、その汚らわしさを解することもない。
罪業の汚穢から「目を背ける」というのでは少し語弊があり、
キリシタンは、場合によっては罪業に目を向けもするし、正気を保っているように
見える状態のままで、強盗殺人や寺社打ち壊しのような大罪をも犯すのである。
ただ、そのような事態において、キリシタンは内心、自己洗脳によって自分たちを
重度知能障害級の白痴状態へと追いやっているのであり、その見た目が常人らしく
見えたところで、その脳内は完全に真性の蒙昧に侵されているのである。
罪も穢れも見ていたところで、所詮は見ている者自身の脳みそが、重度知的障害者などとも
同等の倫理理解度と化してしまっていて、まともな倫理的判断を行うこともできない。
倫理的理解度が重度知的障害者並みだから、善の楽しさ、悪の苦しさを感じ取ることも
できないわけで、この内の「悪の苦しみに対する不感症状態」を以ってして、
キリシタンは「自分たちが汚れから清められた」ともほざくのである。
自分たちにとって辛く苦しいこと=汚れ
辛くも苦しくもなく、ただひたすら楽しいこと=聖
という、それはそれは薄ら馬鹿げた思い込みまでもが、キリシタンの潜在意識にはあるわけで、
苦しくたって清浄さのために受け入れねばならないことや、度を越した快楽の汚らわしさの
存在などを全く想定にすら入れていないのは、キリシタンとなるような人間が始めから、
常人よりも遥かに度し難い、自意識過剰の思い上がりを患っていた人間であるからだ。
むしろ人並み以上の罪業の積み重ねに邁進しながら、
「自分たちは清められた」とキリシタンがうそぶくのは、
自分たちが汚穢を眼前にした時には、十字架信仰の自己洗脳によって
IQ20〜35程度の重度知能障害状態に自分たちの脳みそを追いやっているからで、
それほどもの知能障害状態で罪業とも対峙するから、その汚らわしさを解することもない。
罪業の汚穢から「目を背ける」というのでは少し語弊があり、
キリシタンは、場合によっては罪業に目を向けもするし、正気を保っているように
見える状態のままで、強盗殺人や寺社打ち壊しのような大罪をも犯すのである。
ただ、そのような事態において、キリシタンは内心、自己洗脳によって自分たちを
重度知能障害級の白痴状態へと追いやっているのであり、その見た目が常人らしく
見えたところで、その脳内は完全に真性の蒙昧に侵されているのである。
罪も穢れも見ていたところで、所詮は見ている者自身の脳みそが、重度知的障害者などとも
同等の倫理理解度と化してしまっていて、まともな倫理的判断を行うこともできない。
倫理的理解度が重度知的障害者並みだから、善の楽しさ、悪の苦しさを感じ取ることも
できないわけで、この内の「悪の苦しみに対する不感症状態」を以ってして、
キリシタンは「自分たちが汚れから清められた」ともほざくのである。
自分たちにとって辛く苦しいこと=汚れ
辛くも苦しくもなく、ただひたすら楽しいこと=聖
という、それはそれは薄ら馬鹿げた思い込みまでもが、キリシタンの潜在意識にはあるわけで、
苦しくたって清浄さのために受け入れねばならないことや、度を越した快楽の汚らわしさの
存在などを全く想定にすら入れていないのは、キリシタンとなるような人間が始めから、
常人よりも遥かに度し難い、自意識過剰の思い上がりを患っていた人間であるからだ。
十字架信仰は、信者の自意識過剰の思い上がりを控えさせたりしないのみならず、
自意識過剰の思い上がりありきのものの考え方を固着化させて、深刻化させていく。
挙句には、自意識過剰の思い上がりを抱いていない状態などが想像も付かないほどにも
芯から腐れ果てた心象を信者に植え付けさせて、矯正不能な状態にまでしてしまうのである。
キリシタン災禍というのは、この世界に現出している並みかそれ以上にも、
個々の信者の内面においてこそ根深いものとなっていて、それに対しての十分な対処を
施さないことには、現出しているキリシタン災禍の収拾も覚束ない。見えている部分以上にも、
目には見えてはいない部分にこそ、最も根深いキリシタン災禍もまた巣食っているのだといえる。
「子思曰く、昔、我が先君子は道を失う所無し。
道隆なれば則ち従って隆にし、道汚なれば則ち従って汚にす。汲には則ち安んぞ能くせん」
「(孔子の孫の)子思は言った。『昔、我が父(孔子の子の伯魚)は、少しも道を踏み外すことが
なかった。道が隆盛すればその道に従って隆となり、道が汚れてもその道に従って汚れられた。
私ごときにはとうてい真似のできることではない』(『汚れた道に従って汚れる』とは、たとえば
『論語』公冶長第五・二一の、乱世を愚人のフリをしてやり過ごした寧武子の姿などが当てはまる。
清廉な治世も汚れた乱世もよく見極めての倫理的判断が可能であればこその偉業だといえる。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
自意識過剰の思い上がりありきのものの考え方を固着化させて、深刻化させていく。
挙句には、自意識過剰の思い上がりを抱いていない状態などが想像も付かないほどにも
芯から腐れ果てた心象を信者に植え付けさせて、矯正不能な状態にまでしてしまうのである。
キリシタン災禍というのは、この世界に現出している並みかそれ以上にも、
個々の信者の内面においてこそ根深いものとなっていて、それに対しての十分な対処を
施さないことには、現出しているキリシタン災禍の収拾も覚束ない。見えている部分以上にも、
目には見えてはいない部分にこそ、最も根深いキリシタン災禍もまた巣食っているのだといえる。
「子思曰く、昔、我が先君子は道を失う所無し。
道隆なれば則ち従って隆にし、道汚なれば則ち従って汚にす。汲には則ち安んぞ能くせん」
「(孔子の孫の)子思は言った。『昔、我が父(孔子の子の伯魚)は、少しも道を踏み外すことが
なかった。道が隆盛すればその道に従って隆となり、道が汚れてもその道に従って汚れられた。
私ごときにはとうてい真似のできることではない』(『汚れた道に従って汚れる』とは、たとえば
『論語』公冶長第五・二一の、乱世を愚人のフリをしてやり過ごした寧武子の姿などが当てはまる。
清廉な治世も汚れた乱世もよく見極めての倫理的判断が可能であればこその偉業だといえる。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
完全誤謬の化身であるキリストの降臨によって、
この世に甚大な禍いがもたらされる。その際に異教徒などとは違って
自分たちが救済の対象になるとされるのが、キリスト信仰の正体である。
そもそもキリストなどがこの世に降臨しなければ、
この世に禍いがもたらされることもないのだから、
キリスト信者を含む誰しもが禍いなどに見舞われずに済む。
にもかかわらず、キリスト教徒はキリストの降臨によってこの世に
甚大な禍いがもたらされる中で、自分たちが特定して救われることを信じようとする。
救われることを企図することが信仰である一方で、この世に禍いがもたらされるのは
もはやほとんど信仰ですらない、キリスト教徒にとっての大前提である。
この世に大前提としての禍いがもたらされる根拠は、旧約の記述である。
バベルの塔は崩壊し、世界中を飲み込むほどの大洪水が起こる中で、
ユダヤ教徒がノアの箱舟に乗ることで救いを免れるという旧約の記述を、
「十字架信仰によって救われる」という風に置き換えているわけで、
十字架信仰こそは本義とされるキリスト教徒にとって、この世に大いなる
禍いがもたらされるという旧約の記録自体は、全く信仰対象でもないとまでは
いかないにしても、第二第三の信仰対象とされる。そのため、この世に積極的に
禍いをもたらしていくことこそが本義とされる旧約信仰(ユダヤ)などと比べれば、
「救済」という部分こそが第一義であるとされるぶんだけ、キリスト信仰のほうが
「粗悪さ」にかけてマシであるような印象を抱かせもするのである。
この世に甚大な禍いがもたらされる。その際に異教徒などとは違って
自分たちが救済の対象になるとされるのが、キリスト信仰の正体である。
そもそもキリストなどがこの世に降臨しなければ、
この世に禍いがもたらされることもないのだから、
キリスト信者を含む誰しもが禍いなどに見舞われずに済む。
にもかかわらず、キリスト教徒はキリストの降臨によってこの世に
甚大な禍いがもたらされる中で、自分たちが特定して救われることを信じようとする。
救われることを企図することが信仰である一方で、この世に禍いがもたらされるのは
もはやほとんど信仰ですらない、キリスト教徒にとっての大前提である。
この世に大前提としての禍いがもたらされる根拠は、旧約の記述である。
バベルの塔は崩壊し、世界中を飲み込むほどの大洪水が起こる中で、
ユダヤ教徒がノアの箱舟に乗ることで救いを免れるという旧約の記述を、
「十字架信仰によって救われる」という風に置き換えているわけで、
十字架信仰こそは本義とされるキリスト教徒にとって、この世に大いなる
禍いがもたらされるという旧約の記録自体は、全く信仰対象でもないとまでは
いかないにしても、第二第三の信仰対象とされる。そのため、この世に積極的に
禍いをもたらしていくことこそが本義とされる旧約信仰(ユダヤ)などと比べれば、
「救済」という部分こそが第一義であるとされるぶんだけ、キリスト信仰のほうが
「粗悪さ」にかけてマシであるような印象を抱かせもするのである。
上記のようなキリスト信仰の内実を鑑みてみるに、キリスト教徒は、
自分たちから率先して信仰を途絶していくことは、まずできないことが分かる。
新約のイエキリにまつわる記録を信じるという以前に、旧約の記録に基づいてこの世に
甚大な災禍がもたらされるという思い込みが大前提としてある。だからこそ無理にでも
キリスト信仰によって救われようとするのだから、まずは、旧約の記録が全くの虚構であり、
人々が「文化的前提」として扱うにも値しない無意味な書であることを公表する必要がある。
新約にしろ旧約にしろ、イスラエル聖書はその全てが信用に値しない虚偽虚言の集成で
あることには違いない。ただ、あくまで新約の記録のほうが旧約に依存しているのであり、
旧約の信憑性があってこその、新約の信憑性でみあるのだから、まずは旧約の記録の
「カルト詐欺指南」としての内実を明らかにし、そのカルト詐欺がもたらすマッチポンプの
「ポンプ」として新約教義が捏造されたことをも、順を追って説明する。カルト詐欺の
手管としての、旧約教義の実践が絶やされたからには、旧約教義がもたらすとされる
大災禍から救われようとするための新約信仰も、もはや必要がなくなる、だからもう
十字架などを信じる必要もないのだと説明して、全てのキリスト教徒にも棄教を促す。
十字架を信じたからと言って、別に旧約信仰の災禍から免れられるわけでもないが、旧約と新約、
両方の教義を通じて、邪信を二重三重にこじらせてしまっているキリスト教徒を、狂信の悪循環から
脱出させるためには、やはり「最初の邪信」たる旧約進行から絶やされていかなければならない。
自分たちから率先して信仰を途絶していくことは、まずできないことが分かる。
新約のイエキリにまつわる記録を信じるという以前に、旧約の記録に基づいてこの世に
甚大な災禍がもたらされるという思い込みが大前提としてある。だからこそ無理にでも
キリスト信仰によって救われようとするのだから、まずは、旧約の記録が全くの虚構であり、
人々が「文化的前提」として扱うにも値しない無意味な書であることを公表する必要がある。
新約にしろ旧約にしろ、イスラエル聖書はその全てが信用に値しない虚偽虚言の集成で
あることには違いない。ただ、あくまで新約の記録のほうが旧約に依存しているのであり、
旧約の信憑性があってこその、新約の信憑性でみあるのだから、まずは旧約の記録の
「カルト詐欺指南」としての内実を明らかにし、そのカルト詐欺がもたらすマッチポンプの
「ポンプ」として新約教義が捏造されたことをも、順を追って説明する。カルト詐欺の
手管としての、旧約教義の実践が絶やされたからには、旧約教義がもたらすとされる
大災禍から救われようとするための新約信仰も、もはや必要がなくなる、だからもう
十字架などを信じる必要もないのだと説明して、全てのキリスト教徒にも棄教を促す。
十字架を信じたからと言って、別に旧約信仰の災禍から免れられるわけでもないが、旧約と新約、
両方の教義を通じて、邪信を二重三重にこじらせてしまっているキリスト教徒を、狂信の悪循環から
脱出させるためには、やはり「最初の邪信」たる旧約進行から絶やされていかなければならない。
「事うるに孰れをか大と為す、事うるに親を大と為す。守るに孰れをか大と為す、
守るに身を大と為す。其の身を失わずして能く其の親に事うる者は、吾れ之れを聞くも、
其の身を失いて能く其の親に事うる者は、吾れ未だ之れ聞かざるなり。孰れをか事うると為らざらん。
親に事うるは事うるの本なり。孰れをか守ると為らざらん。身を守るは、守るの本なり」
「誰に仕えることが最も重大なことであろうか、親に仕えることこそは最も重大なことであろう。
何を守ることが最も重大なことであろうか、わが身を守ることこそは最も重大なことであろう。
わが身を守りつつ親に仕えることが出来たものは私も聞いたことがあるが、
わが身を失いながら親に仕えることが出来たものなどは、私は聞いたことがない。
人に仕えるということにも色々あるが、親に仕えることこそは仕えることの根本であるといえる。
守るものにも色々とあるが、わが身を守ることこそは守るということの根本であるといえる。
(親に仕えることを棄てて脳内超越神に仕え、わが身を失って天に召され、救われ守られるという
キリスト信仰の構造とは真逆の内容となっている。それでいてこれが仕えたり、守ったりすることの本来のあり方である)」
(権力道徳聖——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一九より)
守るに身を大と為す。其の身を失わずして能く其の親に事うる者は、吾れ之れを聞くも、
其の身を失いて能く其の親に事うる者は、吾れ未だ之れ聞かざるなり。孰れをか事うると為らざらん。
親に事うるは事うるの本なり。孰れをか守ると為らざらん。身を守るは、守るの本なり」
「誰に仕えることが最も重大なことであろうか、親に仕えることこそは最も重大なことであろう。
何を守ることが最も重大なことであろうか、わが身を守ることこそは最も重大なことであろう。
わが身を守りつつ親に仕えることが出来たものは私も聞いたことがあるが、
わが身を失いながら親に仕えることが出来たものなどは、私は聞いたことがない。
人に仕えるということにも色々あるが、親に仕えることこそは仕えることの根本であるといえる。
守るものにも色々とあるが、わが身を守ることこそは守るということの根本であるといえる。
(親に仕えることを棄てて脳内超越神に仕え、わが身を失って天に召され、救われ守られるという
キリスト信仰の構造とは真逆の内容となっている。それでいてこれが仕えたり、守ったりすることの本来のあり方である)」
(権力道徳聖——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一九より)
正しい言葉に正しい行いが伴うとも、間違った言葉に間違った行いが伴うとも限らない。
行いの過ちを取り繕うために正しげな言葉を駆使してみたり、逆に行いの正しさに
万全の守りがあるから、多少は戯れの放言をしてみたりすることもある。
行いによって殺人や窃盗のような実罪が犯されることもあれば、言葉によって
詐欺や偽証のような実罪が犯されることもある。ただ、言葉によって犯される罪にも、
必ず行為能力(財力や法権など)の取り扱いが伴っていて、その行為能力が人々の生活や
活動を大きく左右するものであればこそ、行為能力を不正に取り扱おうとすることを
目的とした詐欺なり偽証なりが、言葉によって犯される実罪ともなるのである。
故に、実罪は必ず行いと共にある一方で、言葉と共にはあったりなかったりするといえる。
行いが完全に行為能力の扱いを放棄しているというのなら、発言が相当に口汚くたって、
その発言が実罪につながることはほとんどない。社会的にどうといった効果があるわけ
でもないのに、口先だけは威勢がいい、その有り様は冷笑にすら値するものとなる。
実罪の罪障にかけては、行いが本であり、言葉は末だったり、末ですらなかったりする。
だから社会道徳の大家である儒家では行いの正しさを第一とし、発言の正しさは第二とする。
もちろん言葉も正しいに越したことはないが、過ちを取り繕うための巧言令色などもあるから、
言葉の正しさ美しさなどを決して信用はしない。記録として残されている言辞の秀逸さでは
孔子<孟子<荀子だが、儒者としての評価はむしろ孔子>孟子>荀子だったりもするように、
口先ばかりの美辞麗句を、かえって徳行にかけての減点対象にすらしたりもするのである。
行いの過ちを取り繕うために正しげな言葉を駆使してみたり、逆に行いの正しさに
万全の守りがあるから、多少は戯れの放言をしてみたりすることもある。
行いによって殺人や窃盗のような実罪が犯されることもあれば、言葉によって
詐欺や偽証のような実罪が犯されることもある。ただ、言葉によって犯される罪にも、
必ず行為能力(財力や法権など)の取り扱いが伴っていて、その行為能力が人々の生活や
活動を大きく左右するものであればこそ、行為能力を不正に取り扱おうとすることを
目的とした詐欺なり偽証なりが、言葉によって犯される実罪ともなるのである。
故に、実罪は必ず行いと共にある一方で、言葉と共にはあったりなかったりするといえる。
行いが完全に行為能力の扱いを放棄しているというのなら、発言が相当に口汚くたって、
その発言が実罪につながることはほとんどない。社会的にどうといった効果があるわけ
でもないのに、口先だけは威勢がいい、その有り様は冷笑にすら値するものとなる。
実罪の罪障にかけては、行いが本であり、言葉は末だったり、末ですらなかったりする。
だから社会道徳の大家である儒家では行いの正しさを第一とし、発言の正しさは第二とする。
もちろん言葉も正しいに越したことはないが、過ちを取り繕うための巧言令色などもあるから、
言葉の正しさ美しさなどを決して信用はしない。記録として残されている言辞の秀逸さでは
孔子<孟子<荀子だが、儒者としての評価はむしろ孔子>孟子>荀子だったりもするように、
口先ばかりの美辞麗句を、かえって徳行にかけての減点対象にすらしたりもするのである。
言葉による罪が、特に多く犯されるようになるのが法治主義社会、契約主義社会である。
拳一つ、小刀一つ用いられない完全な文治下において、契約書や権利書一枚によって、
本当に人間の命までもが左右される。そんな中で、確かに言葉による実罪もまた
多量に犯されることになるわけで、言葉による罪を全く裁かないというのであれば、
大量の殺人罪級の詐欺師や嘘吐きが野に放られたままで居続けることになる。
契約主義の精神的怠惰が未だ抜けきらない限りにおいて、「妖言」の罪を精査して取締りの
対象とすることも、それなりに欠かせないのも確かだが、さりとて、「口汚さすなわち罪」として
扱われたりまでするのも考えもので、言行にまつわる罪の何たるかを人々がよく自主判断できるように
なったなら、高祖以来の法制緩和策で人々の自主的な善悪の分別が養われるようになった前漢初期、
呂后の代に妖言罪が撤廃されたようにして、口先の自由はかえって守られていくようにすらなる。
罪はあくまで罪として裁かれる一方で、罪でないものに対する解放もまた推進されていくことになる。
「夏の道は未だ辞を涜せず、備わるを求めず、大いに民に望まず、民未だ其れ親しむを厭わず。
殷人は未だ礼を涜せず、備わるを民に求む。周人は民を強いて、未だ神を涜せず、而して賞爵刑罰窮む」
「虞夏の頃にはまだ朝廷の辞令が冒涜されたような試しもなかったので、人々に善悪の分別が
備わることを求めることすらなく、そのため民も大いに君に親しんだ。殷の頃には朝廷の辞令を謗るような
ものはいても、作為された礼楽を冒涜するような者まではいなかったので、人々に分別を求めることができた。
周代には辞令や礼楽を謗る者も多くなったため、これらを強いるようになり、辛うじて神を
冒涜までする者はいないという状態だった。これに至って賞罰の作為も極まることとなった。
(言葉による冒涜という意味であれば、朝廷の辞令や礼楽への冒涜が行われないことのほうが程度が高い。
神に対する冒涜云々が取り沙汰されている時点で、もはや人々には自主的な分別すらないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
拳一つ、小刀一つ用いられない完全な文治下において、契約書や権利書一枚によって、
本当に人間の命までもが左右される。そんな中で、確かに言葉による実罪もまた
多量に犯されることになるわけで、言葉による罪を全く裁かないというのであれば、
大量の殺人罪級の詐欺師や嘘吐きが野に放られたままで居続けることになる。
契約主義の精神的怠惰が未だ抜けきらない限りにおいて、「妖言」の罪を精査して取締りの
対象とすることも、それなりに欠かせないのも確かだが、さりとて、「口汚さすなわち罪」として
扱われたりまでするのも考えもので、言行にまつわる罪の何たるかを人々がよく自主判断できるように
なったなら、高祖以来の法制緩和策で人々の自主的な善悪の分別が養われるようになった前漢初期、
呂后の代に妖言罪が撤廃されたようにして、口先の自由はかえって守られていくようにすらなる。
罪はあくまで罪として裁かれる一方で、罪でないものに対する解放もまた推進されていくことになる。
「夏の道は未だ辞を涜せず、備わるを求めず、大いに民に望まず、民未だ其れ親しむを厭わず。
殷人は未だ礼を涜せず、備わるを民に求む。周人は民を強いて、未だ神を涜せず、而して賞爵刑罰窮む」
「虞夏の頃にはまだ朝廷の辞令が冒涜されたような試しもなかったので、人々に善悪の分別が
備わることを求めることすらなく、そのため民も大いに君に親しんだ。殷の頃には朝廷の辞令を謗るような
ものはいても、作為された礼楽を冒涜するような者まではいなかったので、人々に分別を求めることができた。
周代には辞令や礼楽を謗る者も多くなったため、これらを強いるようになり、辛うじて神を
冒涜までする者はいないという状態だった。これに至って賞罰の作為も極まることとなった。
(言葉による冒涜という意味であれば、朝廷の辞令や礼楽への冒涜が行われないことのほうが程度が高い。
神に対する冒涜云々が取り沙汰されている時点で、もはや人々には自主的な分別すらないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
実の親兄弟との関係すら蔑ろにする者が、
真の朋友関係を築き上げられるようなこともありはしない。
それは、妾腹の私生児ほどにも親を親しみにくい立場に生まれた人間といえども同じことで、
当該の境遇に生まれ育ちながらも、母を慈しみ、自らも先祖供養を果たした孔子の場合は、
顔淵や子路のような門弟との交遊の記録にも一定の親密さが垣間見られるのに対し、
先祖供養も孝養もほったらかして「親族兄弟での殺し合いをさせる」とまで予言した
イエスのほうはといえば、実質門弟である「使徒」とされる取り巻きとの
交わりもどこか他人行儀で、確かに「人間同士の関係」という印象に乏しい。
それは別に、イエスが「神の子」だったからではなく、
一番身近な人間関係である親族兄弟との親しみすらをも放棄した孤独者だったからで、
親族との親しみすら放棄した結果として、赤の他人である使徒や信者などの取り巻きとも
他人行儀な付き合いしかできなかったという以上の、何事でもあり得なかったのである。
脳内超越神への帰依という妄想と引き換えに、天下万人誰しもとの他人行儀な付き合いを頑ななものと
ならしめるイエス流の精神病理は、確かに全てのキリスト教徒らに対しても強固に植え付けられて、
誰しもが他人同然な存在であることを前提とした、巧みな修辞などをも発展させたのだった。
真の朋友関係を築き上げられるようなこともありはしない。
それは、妾腹の私生児ほどにも親を親しみにくい立場に生まれた人間といえども同じことで、
当該の境遇に生まれ育ちながらも、母を慈しみ、自らも先祖供養を果たした孔子の場合は、
顔淵や子路のような門弟との交遊の記録にも一定の親密さが垣間見られるのに対し、
先祖供養も孝養もほったらかして「親族兄弟での殺し合いをさせる」とまで予言した
イエスのほうはといえば、実質門弟である「使徒」とされる取り巻きとの
交わりもどこか他人行儀で、確かに「人間同士の関係」という印象に乏しい。
それは別に、イエスが「神の子」だったからではなく、
一番身近な人間関係である親族兄弟との親しみすらをも放棄した孤独者だったからで、
親族との親しみすら放棄した結果として、赤の他人である使徒や信者などの取り巻きとも
他人行儀な付き合いしかできなかったという以上の、何事でもあり得なかったのである。
脳内超越神への帰依という妄想と引き換えに、天下万人誰しもとの他人行儀な付き合いを頑ななものと
ならしめるイエス流の精神病理は、確かに全てのキリスト教徒らに対しても強固に植え付けられて、
誰しもが他人同然な存在であることを前提とした、巧みな修辞などをも発展させたのだった。
聖書教徒と聖書教徒、あるいは聖書教徒と非聖書教徒との関係は必ず、非聖書教徒同士の
関係よりも他人行儀なものであり、聖書教徒同士での最も親密な人間関係ですら、
非聖書教徒同士での最も疎遠な交友関係ほどにも親密なものではない。
聖書教徒同士での交友関係などというものも、非聖書教徒の立場からすれば必ず一定以上に
浅はかなもので、だからこそ利権の共有関係をありのままに「友愛」などと呼びもする。
利権の共有関係なんてただの商業関係でしかなく、アカの他人同士であってもいくらでも
持ち得る関係なわけだが、聖書教徒にとっての交友なんてのは、利権が絡もうが絡むまいが
他人同士も同然のものでしかないから、利権絡みの関係すら平気で友愛などとして扱ってしまうのである。
普遍的かつ全般的に、聖書教徒の人間関係は疎遠なものであり、決定的に「和」が欠けた
代物だといえる。非聖書教徒でも、一部の郷原(世間知らずの偽善者)が聖書教徒並みに
疎遠な人間関係しか築けないことがあるが、聖書信仰の源流である古代ユダヤ教からして、
中東の郷原(聖書詐欺師)によって拵えられたものであり、その正体は一にしているといえる。
「宗公に恵いて、神も時に怨む罔く、神も時に恫む罔き。寡妻を刑して兄弟に至り、以て家邦をも御む」
「(実際の主君の)皇祖に従って、(正統な)神々もまた怨んだり痛ましがったりすることがない。
(孔子の母のような)寡婦をも慈しんで自らの兄弟にまで至り、以って万邦を治め尽くすまでに至る。
(正統な神仏が怨み痛ましんだりすることがないのは、まず実の母兄弟への慈しみに尽くすことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思斉より)
関係よりも他人行儀なものであり、聖書教徒同士での最も親密な人間関係ですら、
非聖書教徒同士での最も疎遠な交友関係ほどにも親密なものではない。
聖書教徒同士での交友関係などというものも、非聖書教徒の立場からすれば必ず一定以上に
浅はかなもので、だからこそ利権の共有関係をありのままに「友愛」などと呼びもする。
利権の共有関係なんてただの商業関係でしかなく、アカの他人同士であってもいくらでも
持ち得る関係なわけだが、聖書教徒にとっての交友なんてのは、利権が絡もうが絡むまいが
他人同士も同然のものでしかないから、利権絡みの関係すら平気で友愛などとして扱ってしまうのである。
普遍的かつ全般的に、聖書教徒の人間関係は疎遠なものであり、決定的に「和」が欠けた
代物だといえる。非聖書教徒でも、一部の郷原(世間知らずの偽善者)が聖書教徒並みに
疎遠な人間関係しか築けないことがあるが、聖書信仰の源流である古代ユダヤ教からして、
中東の郷原(聖書詐欺師)によって拵えられたものであり、その正体は一にしているといえる。
「宗公に恵いて、神も時に怨む罔く、神も時に恫む罔き。寡妻を刑して兄弟に至り、以て家邦をも御む」
「(実際の主君の)皇祖に従って、(正統な)神々もまた怨んだり痛ましがったりすることがない。
(孔子の母のような)寡婦をも慈しんで自らの兄弟にまで至り、以って万邦を治め尽くすまでに至る。
(正統な神仏が怨み痛ましんだりすることがないのは、まず実の母兄弟への慈しみに尽くすことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思斉より)
悪行に伴う良心の呵責は、人が怪我をした場合に感ずる痛みなどと同じで、
健全な心身機能の発露の一種だといえる。無痛症のごとく自らの悪行に
呵責を抱くこともないのなら、絶体絶命の自滅の窮地にまでまっしぐらとも
なりかねないから、むしろ良心の呵責を抱けることは大事にすべきで、
そもそも呵責を抱かなくて済むぐらいに、浄行に徹することを重んずるべきだといえる。
良心の呵責がどういった原理に基づいて起こるのかは、大乗仏教の唯識思想によって
基本から体系化され、他の大乗仏教思想においても大命題の一つとされている。
仏教は唯心論だから、苦とか楽とかいった心性を本に据えて、世俗の現象などを
末に置くが、両者は決して別個のものではなく、善因楽果は確かに世俗的な福徳に
結び付き、悪因苦果は現実の災禍に結び付くもの。善悪にまつわる心性の苦楽は、
禍福を察知するアンテナの反応とでもいったところで、反応が正常である限りにおいて
確かに楽と福は一致し、苦と禍も一致するが、反応が異常であれば楽が禍に結び付いたり
苦が福に結び付いたり、そもそも苦楽と禍福が全く連動的な関係を持たなかったりする。
唯識思想を初歩中の初歩とする大乗仏教は、結局、苦楽と禍福の連動を正常ならしめて、
楽に基づいて福を得、苦に基づいて禍を除けることを推進するので、災禍が甚大化したり
する前からその種子を苦痛として感じ取り、その種子を摘み取ることによる安寧をも実現する。
健全な心身機能の発露の一種だといえる。無痛症のごとく自らの悪行に
呵責を抱くこともないのなら、絶体絶命の自滅の窮地にまでまっしぐらとも
なりかねないから、むしろ良心の呵責を抱けることは大事にすべきで、
そもそも呵責を抱かなくて済むぐらいに、浄行に徹することを重んずるべきだといえる。
良心の呵責がどういった原理に基づいて起こるのかは、大乗仏教の唯識思想によって
基本から体系化され、他の大乗仏教思想においても大命題の一つとされている。
仏教は唯心論だから、苦とか楽とかいった心性を本に据えて、世俗の現象などを
末に置くが、両者は決して別個のものではなく、善因楽果は確かに世俗的な福徳に
結び付き、悪因苦果は現実の災禍に結び付くもの。善悪にまつわる心性の苦楽は、
禍福を察知するアンテナの反応とでもいったところで、反応が正常である限りにおいて
確かに楽と福は一致し、苦と禍も一致するが、反応が異常であれば楽が禍に結び付いたり
苦が福に結び付いたり、そもそも苦楽と禍福が全く連動的な関係を持たなかったりする。
唯識思想を初歩中の初歩とする大乗仏教は、結局、苦楽と禍福の連動を正常ならしめて、
楽に基づいて福を得、苦に基づいて禍を除けることを推進するので、災禍が甚大化したり
する前からその種子を苦痛として感じ取り、その種子を摘み取ることによる安寧をも実現する。
儒学の場合はそんな超絶技巧な哲学探求は抜きにして、着実に福徳に結び付くことが
保証される行いと、災禍に見舞われることが紛れもない行いとを大まかに取り上げて、
後者を避けて前者を進取することによる勧善懲悪に務める。結果、「浩然の気」の
ようなすがすがしさをも得られると孟子なども言ってはいるが、儒学は別に唯心論では
ないから、内面の心性にまで遡ってああだこうだと論ずることは二の次とされている。
それにしたって、結局儒学の実践者も、結局は悪因苦果をもたらす行いを避けて、
善因楽果をもたらす行いを進取しているから、大乗仏教の唯心的な分析も、非常な
共感を以って理解することができる。聖書信者などであればそんなことはないはずで、
たとえ文面として唯識思想の内容が理解できたところで、そこに感情にまで根ざした
同意などはできないはずだ。善悪にかけて苦楽を感ずるアンテナからして狂ってしまって
いるから、別に無理に正そうとしていなくとも、それなりに正されたアンテナを持ち
合わせている儒者などが唯識論に抱けるような共感は、微塵たりとも抱けないはずである。
善因楽果、悪因苦果は、正常な感性を持ち合わせている人間にとっての普遍法則であり、
感性が狂えばいくらでもその因果関係は破綻する。しかし、感性が狂うこと自体が後々により
大きな禍いを招く因子ともなるため、結局の所、総合的な因果関係は満たされる。だから結局、
唯識のわきまえや儒行などに根ざして、正常な感性を保っておくにも越したことはないのである。
「哀楽時を失えば、殃咎必ず至る」
「哀楽が時宜に適っていなければ、後々に必ずその報いが禍と咎となってやってくる。
(悪逆非道の中に良心の呵責を抱かないでいたりするのも、哀楽の失時であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公二十年より)
保証される行いと、災禍に見舞われることが紛れもない行いとを大まかに取り上げて、
後者を避けて前者を進取することによる勧善懲悪に務める。結果、「浩然の気」の
ようなすがすがしさをも得られると孟子なども言ってはいるが、儒学は別に唯心論では
ないから、内面の心性にまで遡ってああだこうだと論ずることは二の次とされている。
それにしたって、結局儒学の実践者も、結局は悪因苦果をもたらす行いを避けて、
善因楽果をもたらす行いを進取しているから、大乗仏教の唯心的な分析も、非常な
共感を以って理解することができる。聖書信者などであればそんなことはないはずで、
たとえ文面として唯識思想の内容が理解できたところで、そこに感情にまで根ざした
同意などはできないはずだ。善悪にかけて苦楽を感ずるアンテナからして狂ってしまって
いるから、別に無理に正そうとしていなくとも、それなりに正されたアンテナを持ち
合わせている儒者などが唯識論に抱けるような共感は、微塵たりとも抱けないはずである。
善因楽果、悪因苦果は、正常な感性を持ち合わせている人間にとっての普遍法則であり、
感性が狂えばいくらでもその因果関係は破綻する。しかし、感性が狂うこと自体が後々により
大きな禍いを招く因子ともなるため、結局の所、総合的な因果関係は満たされる。だから結局、
唯識のわきまえや儒行などに根ざして、正常な感性を保っておくにも越したことはないのである。
「哀楽時を失えば、殃咎必ず至る」
「哀楽が時宜に適っていなければ、後々に必ずその報いが禍と咎となってやってくる。
(悪逆非道の中に良心の呵責を抱かないでいたりするのも、哀楽の失時であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公二十年より)
家の内に落ち着いてよく家内を静め、夫に万全の信頼を
置いている女ともなれば、これは良妻賢母そのものだといえる。
ソクラテスの「洞窟の比喩」のように、暗い穴蔵の奥底から外界を
観察するあり方なども、嫁いだ女があまり無闇に視野を広げたりしないで
いようとする貞順さの現れとしては良好であると、「易経」帰妹・九二にもある。
それは、夫に従順である、妻たる女のあり方としてこそ吉祥な姿なのであり、
社会に打って出る男までもがそのようなあり方であるのは、むしろ不吉なのである。
(「易経」履卦・六三でも、「洞窟の比喩」に基づくような為政が
「無知な軍政」に譬えられた上で、「凶である」と断じられている)
春秋戦国時代、極度の争乱下にあった中国において、男までもが社会への積極的な
参画を自重して、家で静かにしていることを促す学派としての「道家」があった。
それは、社会参画すなわち争乱への参画というほどにも、当時の中国が極度の乱世に
陥っていたからこそ有効たり得た言い分であり、道家の奨励するような極度の隠退志向が
婦女子や老人だけでなく、壮年の男などにまで適用されたりする状況は、やはり異常なのである。
置いている女ともなれば、これは良妻賢母そのものだといえる。
ソクラテスの「洞窟の比喩」のように、暗い穴蔵の奥底から外界を
観察するあり方なども、嫁いだ女があまり無闇に視野を広げたりしないで
いようとする貞順さの現れとしては良好であると、「易経」帰妹・九二にもある。
それは、夫に従順である、妻たる女のあり方としてこそ吉祥な姿なのであり、
社会に打って出る男までもがそのようなあり方であるのは、むしろ不吉なのである。
(「易経」履卦・六三でも、「洞窟の比喩」に基づくような為政が
「無知な軍政」に譬えられた上で、「凶である」と断じられている)
春秋戦国時代、極度の争乱下にあった中国において、男までもが社会への積極的な
参画を自重して、家で静かにしていることを促す学派としての「道家」があった。
それは、社会参画すなわち争乱への参画というほどにも、当時の中国が極度の乱世に
陥っていたからこそ有効たり得た言い分であり、道家の奨励するような極度の隠退志向が
婦女子や老人だけでなく、壮年の男などにまで適用されたりする状況は、やはり異常なのである。
春秋戦国時代における中国の争乱から避難して、日本に移住して来た弥生系の渡来人たちも、
大人の男までもが隠退を是としてしまうような事態の劣悪さを忌んで、主婦の神たる
アマテラスを日本神話上の最高神へと擁立もした。(もちろん唯一無二というわけでもない)
スサノオのような荒くれ者の男神の乱暴を忌んで岩戸に隠れ、岩戸の内から外を眺めるに
際しても、あくまで「コッソリ」と眇めに見るようなその姿は、妻や母たる女としてこそ
理想の姿なのであり、これと同じようなあり方を男が実践したなら、それこそ女々しいだけである。
そして、アマテラスこそは、人が全幅の信頼を置くべき神としても、至高であるといえる。
実物の妻や母ではなく、妻や母たる女のあるべき姿としての理想系であるアマテラスに最大の
信頼を置いて、女こそは実際にそうあり、社会に打って出る男も、アマテラスのようであろうと
する女のその姿勢にこそ信頼を置いて、自分はむしろスサノオのようであればいいのである。
スサノオはといえば、その髪の内にムカデを飼っていたりもするほどもの豪傑の神であり、姉弟神
としてアマテラスとの対極的な関係にもあればこそ、道家的な静寂さともスサノオこそは無縁である。
妻たる女が家でアマテラスのようであればこそ、夫たる男もまた世間でスサノオのようですら居られる。
そこに夫唱婦随の理想形もまたあるのであり、夫婦がそのようで居られる世の中こそは、吉祥でもある。
「事は静かなることを欲し、以て陰陽の定まる所を待つ」
「万事が静かなることを欲し、それにより陰陽雌雄が定まるのを待つ。
(自分一身の静寂などではなく、天地万物の静寂にまで志しは及ぶ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
大人の男までもが隠退を是としてしまうような事態の劣悪さを忌んで、主婦の神たる
アマテラスを日本神話上の最高神へと擁立もした。(もちろん唯一無二というわけでもない)
スサノオのような荒くれ者の男神の乱暴を忌んで岩戸に隠れ、岩戸の内から外を眺めるに
際しても、あくまで「コッソリ」と眇めに見るようなその姿は、妻や母たる女としてこそ
理想の姿なのであり、これと同じようなあり方を男が実践したなら、それこそ女々しいだけである。
そして、アマテラスこそは、人が全幅の信頼を置くべき神としても、至高であるといえる。
実物の妻や母ではなく、妻や母たる女のあるべき姿としての理想系であるアマテラスに最大の
信頼を置いて、女こそは実際にそうあり、社会に打って出る男も、アマテラスのようであろうと
する女のその姿勢にこそ信頼を置いて、自分はむしろスサノオのようであればいいのである。
スサノオはといえば、その髪の内にムカデを飼っていたりもするほどもの豪傑の神であり、姉弟神
としてアマテラスとの対極的な関係にもあればこそ、道家的な静寂さともスサノオこそは無縁である。
妻たる女が家でアマテラスのようであればこそ、夫たる男もまた世間でスサノオのようですら居られる。
そこに夫唱婦随の理想形もまたあるのであり、夫婦がそのようで居られる世の中こそは、吉祥でもある。
「事は静かなることを欲し、以て陰陽の定まる所を待つ」
「万事が静かなることを欲し、それにより陰陽雌雄が定まるのを待つ。
(自分一身の静寂などではなく、天地万物の静寂にまで志しは及ぶ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
テレビあたりが、
男にとっては狭すぎる視野を、
女にとっては広すぎる視野を
人々に植え付ける。
男なら、テレビよりも広い視野を持つべきだし、
女なら、テレビすら視野としては広すぎると言える。
電通のステマに踊らされるぐらいなら、
自分で服装や手料理を研究してるほうが、
実際、男の目から見ても魅力的だといえる。
男にとっては狭すぎる視野を、
女にとっては広すぎる視野を
人々に植え付ける。
男なら、テレビよりも広い視野を持つべきだし、
女なら、テレビすら視野としては広すぎると言える。
電通のステマに踊らされるぐらいなら、
自分で服装や手料理を研究してるほうが、
実際、男の目から見ても魅力的だといえる。
実物の農産が土地の良し悪しによって何十倍、百倍なんて豊作に結び付くなんてことも、もちろんない。
平均を100とした場合の作況指数は、どんなに豊作でも110越えあたりがいいとこで、十倍に当たる
1000はおろか、200や300すら非常識すぎて想定もされないような数値となっている。
まるでわらしべ長者のようにして、わずかな元手を頼りに何十倍、何百倍の収益を上げるという望みは、
商売や博打に限って可能となることで、農漁業はおろか、純粋な工業生産によってですら、
そこまでもの、投資ををはるかに上回る爆発的な収益などが期待できるものではない。
この世界の富は、全体的には限られたものであり、特に生産するそばから消費されていく食資源については、
生産努力の怠りが即座に飢饉などの大問題へとも発展する。だから商売人やばくち打ちのような、わずかな
努力で膨大な富を得ようとする神経で、国政までをも取り仕切るのではいい加減立ち行かなくなるのであり、
なればこそ、商人気質の人間が大権を掌握することには、必ず大きな過ちが伴うことが避けられないのである。
政商から、秦国の宰相に躍り出た呂不韋の私生児として、秦国の王統を乗っ取った贏政は、秦王として
一国だけに君臨し、諸国との競争に乗じる限りにおいては、それはそれは強大な辣腕を振るい、長平の戦い
では40万の趙兵を生き埋めにするなどの暴虐にも及び、ほぼ腕力一つで中国全土を統一するに至った。
しかし、統一秦帝国の始皇帝となって後は、努力に相応の対価を得る堅実さを解さない自らの商人気質が、
自己完結的な帝国を治めるに際しては裏目に出てしまい、商売と比べれば、そんなに爆発的な収益が
期待できるわけでもない農工業などにまで、商業や博打レベルの増産を強いた結果、あまりにも不条理な
重労働を押し付けられたことからなる民の怒りを買い、わずかな期間での帝国の自壊をも招いたのだった。
平均を100とした場合の作況指数は、どんなに豊作でも110越えあたりがいいとこで、十倍に当たる
1000はおろか、200や300すら非常識すぎて想定もされないような数値となっている。
まるでわらしべ長者のようにして、わずかな元手を頼りに何十倍、何百倍の収益を上げるという望みは、
商売や博打に限って可能となることで、農漁業はおろか、純粋な工業生産によってですら、
そこまでもの、投資ををはるかに上回る爆発的な収益などが期待できるものではない。
この世界の富は、全体的には限られたものであり、特に生産するそばから消費されていく食資源については、
生産努力の怠りが即座に飢饉などの大問題へとも発展する。だから商売人やばくち打ちのような、わずかな
努力で膨大な富を得ようとする神経で、国政までをも取り仕切るのではいい加減立ち行かなくなるのであり、
なればこそ、商人気質の人間が大権を掌握することには、必ず大きな過ちが伴うことが避けられないのである。
政商から、秦国の宰相に躍り出た呂不韋の私生児として、秦国の王統を乗っ取った贏政は、秦王として
一国だけに君臨し、諸国との競争に乗じる限りにおいては、それはそれは強大な辣腕を振るい、長平の戦い
では40万の趙兵を生き埋めにするなどの暴虐にも及び、ほぼ腕力一つで中国全土を統一するに至った。
しかし、統一秦帝国の始皇帝となって後は、努力に相応の対価を得る堅実さを解さない自らの商人気質が、
自己完結的な帝国を治めるに際しては裏目に出てしまい、商売と比べれば、そんなに爆発的な収益が
期待できるわけでもない農工業などにまで、商業や博打レベルの増産を強いた結果、あまりにも不条理な
重労働を押し付けられたことからなる民の怒りを買い、わずかな期間での帝国の自壊をも招いたのだった。
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秦帝国崩壊後、短期間の戦乱の後に統一漢帝国の初代皇帝となった劉邦は、万里の長城や阿房宮、
始皇帝陵墓の建設といった非常識な規模の土木事業によっても民を圧迫していた秦朝を反面教師として、
なるべく民への法的な締め付けなどを緩和していく政策を敷いた。あまりにも放任主義であり過ぎた
ために、王宮でのチャンバラごっこなどの乱暴すらもがまかり通ったままでいたため、劉邦も儒者の
叔孫通らに、礼楽による作為的な規律化を依頼したと「史記」などにもあるが、それも、「法権」という
強権によって民を締め付けることを劉邦が極力避けていたからであり、むしろ秦帝国が民に強いていた
ような法規による強権支配が存在しなければこそ、礼楽による規律化が実施された実例ともなっている。
劉邦は、政商の私生児だった贏政などとは違い、田舎の無名の百姓の末っ子だった。
その、若い頃の素行も決して誉められたようなものではなく、いてもいなくてもいいような末子としての
立場にかまけて、家の仕事の手伝いもほっぽらかして街をほっつき歩いていたという逸話までもがある。
しかし、それほどにもいい加減な生まれ育ちでありながら、商人気質によって帝国全土を支配しようとした
秦朝などとは違って、劉邦の興した漢朝は前後あわせて400年以上もの治世を実現するに至った。それは、
いくらゴロツキ同然の出自とはいえど、農家の血筋からなる劉邦の気質が、わずかな努力で膨大な富を
せしめるような博打志向を由としてはいなかったからで、国政に際しては必ず重要となる食資源の確保
などについても、子々孫々の代々に至るまで堅実な見通しを立てていくことができるものだったからだ。
始皇帝陵墓の建設といった非常識な規模の土木事業によっても民を圧迫していた秦朝を反面教師として、
なるべく民への法的な締め付けなどを緩和していく政策を敷いた。あまりにも放任主義であり過ぎた
ために、王宮でのチャンバラごっこなどの乱暴すらもがまかり通ったままでいたため、劉邦も儒者の
叔孫通らに、礼楽による作為的な規律化を依頼したと「史記」などにもあるが、それも、「法権」という
強権によって民を締め付けることを劉邦が極力避けていたからであり、むしろ秦帝国が民に強いていた
ような法規による強権支配が存在しなければこそ、礼楽による規律化が実施された実例ともなっている。
劉邦は、政商の私生児だった贏政などとは違い、田舎の無名の百姓の末っ子だった。
その、若い頃の素行も決して誉められたようなものではなく、いてもいなくてもいいような末子としての
立場にかまけて、家の仕事の手伝いもほっぽらかして街をほっつき歩いていたという逸話までもがある。
しかし、それほどにもいい加減な生まれ育ちでありながら、商人気質によって帝国全土を支配しようとした
秦朝などとは違って、劉邦の興した漢朝は前後あわせて400年以上もの治世を実現するに至った。それは、
いくらゴロツキ同然の出自とはいえど、農家の血筋からなる劉邦の気質が、わずかな努力で膨大な富を
せしめるような博打志向を由としてはいなかったからで、国政に際しては必ず重要となる食資源の確保
などについても、子々孫々の代々に至るまで堅実な見通しを立てていくことができるものだったからだ。
専門的な能力のある君子士人が未だ健在である時代ならまだしも、もはやそんな人材は絶えてしまった
春秋戦国時代末期の中国や、今の日本などにおいて、仮に国政を任せるに際して最善に相当する人物が
存在するとすれば、それは劉邦のような、努力に相応の対価を得ようとする百姓気質の持ち主のはずであり、
わらしべ長者ばかりを期待する贏政のような商人気質の持ち主などではないはずである。むろん、今の
時代は商人気質の持ち主ばかりが権力に食い入っている時代なので、権力機構全般を刷新していくので
ないと、劉邦のような堅実志向の持ち主が権力の座に就くことも、とうてい叶わないわけではあるが。
「先王能く礼を修めて以って義に達し、信を体して以って順に達す。故に此れ順の実なり」
「昔の偉大な王君たちは、自らが礼儀を修めることで道義の通用する所に達し、信用に値する
あり方を体現することで民からの従順をも得た。そこにこそ、従順さという実りがあったのである。
(口先だけの実る実る詐欺などを信条としているから、聖書信者に従順さは実らないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
春秋戦国時代末期の中国や、今の日本などにおいて、仮に国政を任せるに際して最善に相当する人物が
存在するとすれば、それは劉邦のような、努力に相応の対価を得ようとする百姓気質の持ち主のはずであり、
わらしべ長者ばかりを期待する贏政のような商人気質の持ち主などではないはずである。むろん、今の
時代は商人気質の持ち主ばかりが権力に食い入っている時代なので、権力機構全般を刷新していくので
ないと、劉邦のような堅実志向の持ち主が権力の座に就くことも、とうてい叶わないわけではあるが。
「先王能く礼を修めて以って義に達し、信を体して以って順に達す。故に此れ順の実なり」
「昔の偉大な王君たちは、自らが礼儀を修めることで道義の通用する所に達し、信用に値する
あり方を体現することで民からの従順をも得た。そこにこそ、従順さという実りがあったのである。
(口先だけの実る実る詐欺などを信条としているから、聖書信者に従順さは実らないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
心の貧しさが、人間を異生羝羊心に繋ぎとめる。
貧しさから脱却していこうとする時に愚童持斎心に目覚め、嬰童無畏心に至って
概ね満足した心となる。唯蘊無我心以上からが積極的な心の豊かさの追求となり、
他縁大乗心以上が心の豊かさの衆生への回向をも兼ねる境地となる。
心が貧しいから、物質的な虚栄に固執する。
傍から見れば明らかに過剰に見える物質的、金銭的な貪りを
完全に当たり前なこととして嗜み、それを全く恥とも思わない。
されば、心が豊かでありさえすれば、全く物質的な豊かさを追い求めないのかといえば、
必ずしもそんなこともない。むしろ、余裕を以ってモノやカネを扱えるようになることから、
物質的、金銭的な豊かさの追い求め方が洗練される。人は誰しもいつかは死ぬのであれ、
それまではモノやカネにも頼りつつ生きていくのだから、その生き方を心の豊かさと
共に充実させていく上で、洗練されたカネやモノの扱い方をも追求していくのである。
貧しさから脱却していこうとする時に愚童持斎心に目覚め、嬰童無畏心に至って
概ね満足した心となる。唯蘊無我心以上からが積極的な心の豊かさの追求となり、
他縁大乗心以上が心の豊かさの衆生への回向をも兼ねる境地となる。
心が貧しいから、物質的な虚栄に固執する。
傍から見れば明らかに過剰に見える物質的、金銭的な貪りを
完全に当たり前なこととして嗜み、それを全く恥とも思わない。
されば、心が豊かでありさえすれば、全く物質的な豊かさを追い求めないのかといえば、
必ずしもそんなこともない。むしろ、余裕を以ってモノやカネを扱えるようになることから、
物質的、金銭的な豊かさの追い求め方が洗練される。人は誰しもいつかは死ぬのであれ、
それまではモノやカネにも頼りつつ生きていくのだから、その生き方を心の豊かさと
共に充実させていく上で、洗練されたカネやモノの扱い方をも追求していくのである。
事実上の日本の首都でもある、世界最大の都市圏東京の都市構造などと比べて、
古都京都や奈良、鎌倉などの伝統的な街並み、その他諸々の古寺名刹などの伝統的建造物は、
明らかに小規模なものではあるが、その造型や様式は決して、東京のそれに勝るとも劣らないものばかりである。
のみならず、法隆寺のように1000年経っても壊れない程もの秀逸な建築技術までもが導入されても居て、
せいぜい耐用年数が100年やそこらである、現代の高層ビルなどの土建物には見られない、
子々孫々の代々に至るまでの、末永い需用の見通しまでもが立てられていることが分かる。
そこにこそ、自分一身、一代限りの栄華ですらあればそれでいいなどという、
仮初めに終始したりすることのない、より洗練された、物質的な豊かさの希求までもがある。
先々までの見通しも立てられない、異生羝羊心止まりの心では、ただ心そのものが貧しいだけでなく、心の貧しさの
反動としての物質的な貪りまでもが行き当たりばったりなものばかりと化してしまって、見るに堪えないものとなる。
だから、物質的な豊かさを追い求める上でも、我が心が貧しいよりも豊かであるほうがいいのであり、何も、
出家修業者のように物質的豊かさを捨て去ることと共にばかり、心の豊かさを追い求めるのが能でもないのである。
「君子は利を尽くさず、以って民に遺す。〜大夫は羊に座せず」
「君子は自らの一身のために利得を尽くしたりはしない。例えば、大夫は羊を殺してその肉を
食うようなことがあったとしても、その毛皮までをも独り占めにして絨毯代わりにしたりはしないように。
(羊に相当するような人物が独り占めにしていたような利得も、君子は独り占めにはしないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
古都京都や奈良、鎌倉などの伝統的な街並み、その他諸々の古寺名刹などの伝統的建造物は、
明らかに小規模なものではあるが、その造型や様式は決して、東京のそれに勝るとも劣らないものばかりである。
のみならず、法隆寺のように1000年経っても壊れない程もの秀逸な建築技術までもが導入されても居て、
せいぜい耐用年数が100年やそこらである、現代の高層ビルなどの土建物には見られない、
子々孫々の代々に至るまでの、末永い需用の見通しまでもが立てられていることが分かる。
そこにこそ、自分一身、一代限りの栄華ですらあればそれでいいなどという、
仮初めに終始したりすることのない、より洗練された、物質的な豊かさの希求までもがある。
先々までの見通しも立てられない、異生羝羊心止まりの心では、ただ心そのものが貧しいだけでなく、心の貧しさの
反動としての物質的な貪りまでもが行き当たりばったりなものばかりと化してしまって、見るに堪えないものとなる。
だから、物質的な豊かさを追い求める上でも、我が心が貧しいよりも豊かであるほうがいいのであり、何も、
出家修業者のように物質的豊かさを捨て去ることと共にばかり、心の豊かさを追い求めるのが能でもないのである。
「君子は利を尽くさず、以って民に遺す。〜大夫は羊に座せず」
「君子は自らの一身のために利得を尽くしたりはしない。例えば、大夫は羊を殺してその肉を
食うようなことがあったとしても、その毛皮までをも独り占めにして絨毯代わりにしたりはしないように。
(羊に相当するような人物が独り占めにしていたような利得も、君子は独り占めにはしないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
口先だけでのいい腐し予言宗教の系譜としては、
確かにイエキリが最終にして最悪の預言者だったに違いない。
それと比べればムハンマドなども、文盲としての純朴さや
軍人としての豊富な経験などから、非常に堅実な預言を果たしたといえ、
その堅実さこそが、イエキリの思い上がりまみれな物言いをありがたがる
新約信者などからすれば、「余計なもの」としても映るのである。
中国史でいえば、ムハンマドの性格は漢の高祖劉邦あたりにも近似している一方、
イエキリの性格は、秦帝国の宦官趙高あたりに似ている。言辞よりも実地経験を
重んずる傾向が、成人に至るまでの文盲と豊富な軍事経験という、共通した
境遇によって劉邦やムハンマドには具わったのに対し、宦官や妾腹の私生児
のような、人間扱いすらなかなかされにくい立場から、口先だけでのいい加減な
虚言癖を募らせていった点が、趙高とイエキリとでは共通しているといえる。
(むろん、妾腹の私生児や宦官の中にも、孔子や司馬遷のように、自助努力に
よって偉業を成した聖人もいるのだから、決して不可避なことなどでもなかった)
旧約から新約に至る諸々のユダヤ人の不実まみれな預言も、
全く実地性に根ざしていないのではなく、当時から政商詐欺集団として
中東やローマで悪行を働いていた、その経験の豊かさに確かに根ざしている。
しかし、中東やローマではユダヤ人の聖書詐欺師としての実情は記録されず、
政商詐欺を高度にカルト教義化した記録だけが新旧約聖書として遺された。
一方で、同時期の中国では「春秋」や「史記」のように、権力道徳を失った
春秋戦国時代の為政者たちの、政商や食客や縦横家をも駆使しての権力犯罪
こそが詳密に記録され、権力犯罪を正当化する寓意の構築を試みた公孫竜などの
名家(詭弁家)のほうが弾圧されるなり、批判の対象とされるなりしている。
確かにイエキリが最終にして最悪の預言者だったに違いない。
それと比べればムハンマドなども、文盲としての純朴さや
軍人としての豊富な経験などから、非常に堅実な預言を果たしたといえ、
その堅実さこそが、イエキリの思い上がりまみれな物言いをありがたがる
新約信者などからすれば、「余計なもの」としても映るのである。
中国史でいえば、ムハンマドの性格は漢の高祖劉邦あたりにも近似している一方、
イエキリの性格は、秦帝国の宦官趙高あたりに似ている。言辞よりも実地経験を
重んずる傾向が、成人に至るまでの文盲と豊富な軍事経験という、共通した
境遇によって劉邦やムハンマドには具わったのに対し、宦官や妾腹の私生児
のような、人間扱いすらなかなかされにくい立場から、口先だけでのいい加減な
虚言癖を募らせていった点が、趙高とイエキリとでは共通しているといえる。
(むろん、妾腹の私生児や宦官の中にも、孔子や司馬遷のように、自助努力に
よって偉業を成した聖人もいるのだから、決して不可避なことなどでもなかった)
旧約から新約に至る諸々のユダヤ人の不実まみれな預言も、
全く実地性に根ざしていないのではなく、当時から政商詐欺集団として
中東やローマで悪行を働いていた、その経験の豊かさに確かに根ざしている。
しかし、中東やローマではユダヤ人の聖書詐欺師としての実情は記録されず、
政商詐欺を高度にカルト教義化した記録だけが新旧約聖書として遺された。
一方で、同時期の中国では「春秋」や「史記」のように、権力道徳を失った
春秋戦国時代の為政者たちの、政商や食客や縦横家をも駆使しての権力犯罪
こそが詳密に記録され、権力犯罪を正当化する寓意の構築を試みた公孫竜などの
名家(詭弁家)のほうが弾圧されるなり、批判の対象とされるなりしている。
これは、中国には孔子や司馬遷のような偉大な文人、そして高祖劉邦のような
本物の権力道徳を持ち直させるだけの器量を持つ名君が存在していた一方で、
西洋やイスラエルにはそのような偉人が存在せず、むしろ権力犯罪を寓意に
よって正当化する詭弁や虚言などのほうが持て囃されていたことを原因としている。
結局、孔子や劉邦や司馬遷のような偉人が中国に存在し得たのは、中国が
世界的に見れば日出ずる東方に位置する世界だったからで、日光を追い求めよう
とする陽性志向が当時の多くの中国人にも豊富だったから、その中から
孔子や劉邦や司馬遷のような偉人が、選抜的に生まれ得たのだといえる。
その逆に、日没する西方にはそれだけの陽性志向が量として存在しなかったから、
むしろ権力犯罪をカルト化した後の製品(新旧約)をあり難がることのほうが
優先されて、仮に孔子や劉邦や司馬遷のような志しの持ち主がいたとしても、
大多数の権勢に圧されて十分な能力を発揮することもできなかったのである。
地球の丸さがすでに全人類に把握されている今なら、中国人や日本人だからといって
陽性志向を蓄えるとも限らないし、西洋人だからといって陽性志向を損なうとも
限らない。しかし、昔は洋の東西に伴う陰陽志向の分岐が遍在していたのであり、
昔についてはやはりその異質性を踏まえつつ論考の対象とすべきなのである。
いま東洋人も西洋人も平等であるとした所で、過去には確かな差異があったのである。
「行いて著らかならず、習いて察らかならず、終身之れに由るも其の道を知らざる者は衆し」
「何をやってもその意味が明らかでなく、何を習っても詳らかに知ることはなく、終身
頼りにしながらも、最後までその本道を知らない者は結構多い。(四書五経の記述の逆の
実践を促しているだけでしかないのが新旧約聖書の記述なわけだが、巧みな寓意による
カルト教義化が仕組まれていることもあって、最後まで誰もそれに気づこうとしない。
最初から最後まで、新旧約の受容や実践は、孟子のこの言葉通りであることで一貫している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・五より)
本物の権力道徳を持ち直させるだけの器量を持つ名君が存在していた一方で、
西洋やイスラエルにはそのような偉人が存在せず、むしろ権力犯罪を寓意に
よって正当化する詭弁や虚言などのほうが持て囃されていたことを原因としている。
結局、孔子や劉邦や司馬遷のような偉人が中国に存在し得たのは、中国が
世界的に見れば日出ずる東方に位置する世界だったからで、日光を追い求めよう
とする陽性志向が当時の多くの中国人にも豊富だったから、その中から
孔子や劉邦や司馬遷のような偉人が、選抜的に生まれ得たのだといえる。
その逆に、日没する西方にはそれだけの陽性志向が量として存在しなかったから、
むしろ権力犯罪をカルト化した後の製品(新旧約)をあり難がることのほうが
優先されて、仮に孔子や劉邦や司馬遷のような志しの持ち主がいたとしても、
大多数の権勢に圧されて十分な能力を発揮することもできなかったのである。
地球の丸さがすでに全人類に把握されている今なら、中国人や日本人だからといって
陽性志向を蓄えるとも限らないし、西洋人だからといって陽性志向を損なうとも
限らない。しかし、昔は洋の東西に伴う陰陽志向の分岐が遍在していたのであり、
昔についてはやはりその異質性を踏まえつつ論考の対象とすべきなのである。
いま東洋人も西洋人も平等であるとした所で、過去には確かな差異があったのである。
「行いて著らかならず、習いて察らかならず、終身之れに由るも其の道を知らざる者は衆し」
「何をやってもその意味が明らかでなく、何を習っても詳らかに知ることはなく、終身
頼りにしながらも、最後までその本道を知らない者は結構多い。(四書五経の記述の逆の
実践を促しているだけでしかないのが新旧約聖書の記述なわけだが、巧みな寓意による
カルト教義化が仕組まれていることもあって、最後まで誰もそれに気づこうとしない。
最初から最後まで、新旧約の受容や実践は、孟子のこの言葉通りであることで一貫している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・五より)
自らの家族を尊重しようともしない妾腹の私生児、
イエスキリストあたりを信奉しているようなものこそは、
まったく自分のことしか考えていないのでもある。
母子家庭育ちの妾腹の私生児という、義父持ちのイエキリ以上にも
不遇な環境で生まれ育ちながら、自ら進んで先祖供養をも尽くして、
正式に孔家の跡取りともなった孔子こそは、自分のため以上にも、
一家のために生きようとする誠実さがあった。イエキリにはそんな
誠実さはなく、ただ自分のことしか頭になかったから、本当の父親
の身元も確かめず、義父の家督を継ぐでもなく、自らを「神の子」
などと呼ばわった。ここにこそ最悪級の自意識過剰があるといえる。
神仏への帰依などを待つまでもなく、人は人である以上は、まず家族のために
生きねばならない宿命を持つ。問題は、そうであることを尊重できるか否かであって、
孔子は尊重していたから先祖供養や家督の継承にも努めた一方、イエキリは全く尊重など
していなかったから、実父も養父も蔑ろにした「神の子」邪教をでっち上げたのである。
人にとって最も不可避である、家族の関係すら蔑ろにする所に、自意識過剰の発端がある。
それをいくら後付けで「超越神への帰依」などによって埋め合わせようとしてみた所で、
始めから家族をも尊重していようとする場合ほどもの自己の虚心さは、決して備わらない。
イエスキリストあたりを信奉しているようなものこそは、
まったく自分のことしか考えていないのでもある。
母子家庭育ちの妾腹の私生児という、義父持ちのイエキリ以上にも
不遇な環境で生まれ育ちながら、自ら進んで先祖供養をも尽くして、
正式に孔家の跡取りともなった孔子こそは、自分のため以上にも、
一家のために生きようとする誠実さがあった。イエキリにはそんな
誠実さはなく、ただ自分のことしか頭になかったから、本当の父親
の身元も確かめず、義父の家督を継ぐでもなく、自らを「神の子」
などと呼ばわった。ここにこそ最悪級の自意識過剰があるといえる。
神仏への帰依などを待つまでもなく、人は人である以上は、まず家族のために
生きねばならない宿命を持つ。問題は、そうであることを尊重できるか否かであって、
孔子は尊重していたから先祖供養や家督の継承にも努めた一方、イエキリは全く尊重など
していなかったから、実父も養父も蔑ろにした「神の子」邪教をでっち上げたのである。
人にとって最も不可避である、家族の関係すら蔑ろにする所に、自意識過剰の発端がある。
それをいくら後付けで「超越神への帰依」などによって埋め合わせようとしてみた所で、
始めから家族をも尊重していようとする場合ほどもの自己の虚心さは、決して備わらない。
もしも、出家して家族との縁を断つというのなら、その時には自己を徹底して否定し尽くす
酷烈な精進修行にでも励めばいいのであり、それにより自我を完全に捨て去れた時にまた
初めて、家族のために生きようとする場合ていどの虚心さが備わるというものだ。
自分が無駄メシぐらいの次男坊や三男坊だったりした場合、あるいは親が世間に顔向けもできない
ほどもの重大犯罪をやらかした場合などに、出家修行という手段によって虚心さを得ようとするのも
一つの手ではあるが、基本はまず家族のために生きることで、自らの虚心さを養うのが人の常である。
家族のために生きること、さらにはそれを尊重することで、自意識過剰の思い上がりをも抑止する。
信仰者が神のために、商売人が顧客のために生きようとしたりすることも、人が家族のために
生きようとする場合ほどもの虚心さを保障するものでは決してないので、それらの奉仕意識が却って
家族の尊重を蔑ろにしたりすることがあるのなら、自意識過剰の悪化もまた避けられるものではない。
社会的な職務や神への帰依なども、家族の尊重に上乗せできるだけの代物であって初めて、自意識過剰の
抑止を妨げることなく推進するものともなるので、そういう職業や信教を精査することも重要だといえる。
「古えの学者は己れの為めにし、今の学者は人の為めにす」
「昔の学者は自分のために勉強したが、今の学者は他人のためにばかり勉強している。
(自分のことを第一としたほうがいい実例。聖書圏には自己修養の学が決定的に欠けてもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——憲問第十四・二五より)
酷烈な精進修行にでも励めばいいのであり、それにより自我を完全に捨て去れた時にまた
初めて、家族のために生きようとする場合ていどの虚心さが備わるというものだ。
自分が無駄メシぐらいの次男坊や三男坊だったりした場合、あるいは親が世間に顔向けもできない
ほどもの重大犯罪をやらかした場合などに、出家修行という手段によって虚心さを得ようとするのも
一つの手ではあるが、基本はまず家族のために生きることで、自らの虚心さを養うのが人の常である。
家族のために生きること、さらにはそれを尊重することで、自意識過剰の思い上がりをも抑止する。
信仰者が神のために、商売人が顧客のために生きようとしたりすることも、人が家族のために
生きようとする場合ほどもの虚心さを保障するものでは決してないので、それらの奉仕意識が却って
家族の尊重を蔑ろにしたりすることがあるのなら、自意識過剰の悪化もまた避けられるものではない。
社会的な職務や神への帰依なども、家族の尊重に上乗せできるだけの代物であって初めて、自意識過剰の
抑止を妨げることなく推進するものともなるので、そういう職業や信教を精査することも重要だといえる。
「古えの学者は己れの為めにし、今の学者は人の為めにす」
「昔の学者は自分のために勉強したが、今の学者は他人のためにばかり勉強している。
(自分のことを第一としたほうがいい実例。聖書圏には自己修養の学が決定的に欠けてもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——憲問第十四・二五より)
いま、世界で安寧に与れている人間というのは、一人もいない。
自己修練によって「心頭滅却すれば火もまた涼し」的なやせ我慢気味の安楽を
自得している人間がいたとしたところで、それは別に「誰かから授かった安楽」
などであるわけではない。そうではなく、外的な境遇に即して安らぎに
与れている人間がいるのかといえば、今は一人もいないのである。
歴史的基準に即しても、特に安楽な人間がいない時代であるし、人間の心性の
普遍的基準に根ざしても、安楽として扱えるほどにも安楽な人間がいない時代である。
その中で「比較的安楽っぽい人間」がいたとすれば、それは
「比較的苦悩が少ない人間」であるというばかりのことである。
積極的に安楽が多いというのではなく、ただ苦悩の程がマシであるというだけのこと。
中には、苦悩が少なめであることを「安楽だ」などと勘違いしている人間もいるが、
それは真の安楽も、その実現の可能さも知らない狭劣見の持ち主だからこそのこと。
真の安楽はどこにもなく、ただ苦悩の程がより酷いか、マシなほうかという違いだけが存在
する現状において、じゃあ世界で「勝ち組」扱いされているような人間のほうが苦悩が少なく、
「負け組」扱いされているような人間のほうが苦悩が多いかといえば、そういうわけでもない。
「行動即犯罪」という程にも罪障まみれと化してしまっている今の世界において、活動に
積極的であろうとする者ほど苦悩が多くなり、消極的でいようとする者ほど苦悩が少なくて済む。
実質問題、勝ち組であろうとしている人間こそは一定以上に積極的に活動しても
いるので、一定以上に苦悩も多く、負け組に甘んじている人間のほうはといえば、
これまた牛馬のような隷従活動に没頭させられている場合などには、苦悩が多い一方、
そんなに活動に積極的でもないという場合もあるので、その場合には苦悩も少ない。
自己修練によって「心頭滅却すれば火もまた涼し」的なやせ我慢気味の安楽を
自得している人間がいたとしたところで、それは別に「誰かから授かった安楽」
などであるわけではない。そうではなく、外的な境遇に即して安らぎに
与れている人間がいるのかといえば、今は一人もいないのである。
歴史的基準に即しても、特に安楽な人間がいない時代であるし、人間の心性の
普遍的基準に根ざしても、安楽として扱えるほどにも安楽な人間がいない時代である。
その中で「比較的安楽っぽい人間」がいたとすれば、それは
「比較的苦悩が少ない人間」であるというばかりのことである。
積極的に安楽が多いというのではなく、ただ苦悩の程がマシであるというだけのこと。
中には、苦悩が少なめであることを「安楽だ」などと勘違いしている人間もいるが、
それは真の安楽も、その実現の可能さも知らない狭劣見の持ち主だからこそのこと。
真の安楽はどこにもなく、ただ苦悩の程がより酷いか、マシなほうかという違いだけが存在
する現状において、じゃあ世界で「勝ち組」扱いされているような人間のほうが苦悩が少なく、
「負け組」扱いされているような人間のほうが苦悩が多いかといえば、そういうわけでもない。
「行動即犯罪」という程にも罪障まみれと化してしまっている今の世界において、活動に
積極的であろうとする者ほど苦悩が多くなり、消極的でいようとする者ほど苦悩が少なくて済む。
実質問題、勝ち組であろうとしている人間こそは一定以上に積極的に活動しても
いるので、一定以上に苦悩も多く、負け組に甘んじている人間のほうはといえば、
これまた牛馬のような隷従活動に没頭させられている場合などには、苦悩が多い一方、
そんなに活動に積極的でもないという場合もあるので、その場合には苦悩も少ない。
勝ち組であれば必ず一定以上に苦悩が多く、負け組は個々によって勝ち組並みに
苦悩が多かったり、意外と少なかったりする。だから、苦悩の多少は必ずしも勝ち組か
負け組かには依らないが、負け組であることと引き換えに活動に消極的である者こそは、
特筆して今の世の中でも苦悩が少ないほうであるということだけはいえる。
苦悩をできる限り少なくするために、活動に消極的でばかりあろうとするのも、確かに
異常なことである。何をやっても強盗殺人やその従犯にしかなり得ない、総員犯罪者状態の
世の中である場合に限って正当性を帯びる活動規範であり、少なからず積極的な活動が
徳行に結び付くようになったならば、すぐにでも改めなければならない規範でもあるといえる。
多大なる苦悩が積極的な悪行によってもたらされるのと同じように、重畳なる安楽もまた、
積極的な善行によってこそもたらされる。単なる不動は善因楽果悪因苦果の断滅というばかりで、
本格の出家修行者でもない限りは、そればかりに没頭し続けていればいいものでもない。
というよりも、一般人すら不動こそが最善となってしまうような世の中自体が、そう長く持つ
ものでもないので、いつまでも不動ばかりに甘んじていることなどを思い煩う必要もないといえる。
「嗟あ爾じ君子よ、恒には安処すること無かれ。
爾じの位を靖共し、正直に是れ与せよ。神も之れを聴きて、以て女じを穀せん。
(ここから既出)嗟あ爾じ君子よ、恒には安息すること無かれ。
爾じの位を靖共し、是れ正直を好め。神も之れを聴きて、爾じに景福を介わらん」
「ああ、君子たるものよ、いつまでも安処していたりはするな。そなたの勤めを謹んで果たし、
正しい人々の味方であれ。さすれば神もそなたを聞こし召したまいて、そなたを加護するであろう。
ああ、君子たるものよ、いつまでも安息していたりはするな。そなたの勤めを謹んで果たし、
正しい人々こそを好んで居よ。さすれば神もそなたを聞こし召して、そなたに慶福を賜うであろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・小明より)
苦悩が多かったり、意外と少なかったりする。だから、苦悩の多少は必ずしも勝ち組か
負け組かには依らないが、負け組であることと引き換えに活動に消極的である者こそは、
特筆して今の世の中でも苦悩が少ないほうであるということだけはいえる。
苦悩をできる限り少なくするために、活動に消極的でばかりあろうとするのも、確かに
異常なことである。何をやっても強盗殺人やその従犯にしかなり得ない、総員犯罪者状態の
世の中である場合に限って正当性を帯びる活動規範であり、少なからず積極的な活動が
徳行に結び付くようになったならば、すぐにでも改めなければならない規範でもあるといえる。
多大なる苦悩が積極的な悪行によってもたらされるのと同じように、重畳なる安楽もまた、
積極的な善行によってこそもたらされる。単なる不動は善因楽果悪因苦果の断滅というばかりで、
本格の出家修行者でもない限りは、そればかりに没頭し続けていればいいものでもない。
というよりも、一般人すら不動こそが最善となってしまうような世の中自体が、そう長く持つ
ものでもないので、いつまでも不動ばかりに甘んじていることなどを思い煩う必要もないといえる。
「嗟あ爾じ君子よ、恒には安処すること無かれ。
爾じの位を靖共し、正直に是れ与せよ。神も之れを聴きて、以て女じを穀せん。
(ここから既出)嗟あ爾じ君子よ、恒には安息すること無かれ。
爾じの位を靖共し、是れ正直を好め。神も之れを聴きて、爾じに景福を介わらん」
「ああ、君子たるものよ、いつまでも安処していたりはするな。そなたの勤めを謹んで果たし、
正しい人々の味方であれ。さすれば神もそなたを聞こし召したまいて、そなたを加護するであろう。
ああ、君子たるものよ、いつまでも安息していたりはするな。そなたの勤めを謹んで果たし、
正しい人々こそを好んで居よ。さすれば神もそなたを聞こし召して、そなたに慶福を賜うであろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・小明より)
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」という
完全誤謬信仰の論理が脳内で確立されることが、聖書信仰に敬虔であることとも同義である。
完全に間違っていること、たとえば「1+1=3」という誤算を正答と断定すること、
それは別に、必ずしも完全誤謬信仰に依らずとも、ただ「馬鹿」であるというだけでもできる。
帝国海軍の東郷平八郎も、1+1を3にも4にもする気勢で日露戦争に臨んだというし、論理性を
逸脱した感情的な奮起が馬鹿となって、1+1を3や4と断ずることもまたできるのである。
単なる馬鹿と完全誤謬信仰の違いは、馬鹿は何に対しても適用ができる一方、
完全誤謬信仰は信仰対象にだけ適用される点にある。常日ごろからの異様な奮起や、
酒の酔いにかられての勢いなどで、馬鹿は何に対しても「1+1=3」のごとき無理をあてこすれる。
一方、完全誤謬信仰者は、信仰対象以外にまで妄りに「1+1=3」のような無理をあてこすらず、
(十字架のような)信仰対象に依拠する限りにおいてのみ、「1+1=3」をもYesとするのである。
だから、信教の価値が保証されている限りにおいて、完全誤謬信仰者の人格などが疑われる
こともないのに対し、馬鹿は始めから人格を疑われ続け、蔑みや嘲笑の対象ともなり続ける。
完全誤謬信仰の論理が脳内で確立されることが、聖書信仰に敬虔であることとも同義である。
完全に間違っていること、たとえば「1+1=3」という誤算を正答と断定すること、
それは別に、必ずしも完全誤謬信仰に依らずとも、ただ「馬鹿」であるというだけでもできる。
帝国海軍の東郷平八郎も、1+1を3にも4にもする気勢で日露戦争に臨んだというし、論理性を
逸脱した感情的な奮起が馬鹿となって、1+1を3や4と断ずることもまたできるのである。
単なる馬鹿と完全誤謬信仰の違いは、馬鹿は何に対しても適用ができる一方、
完全誤謬信仰は信仰対象にだけ適用される点にある。常日ごろからの異様な奮起や、
酒の酔いにかられての勢いなどで、馬鹿は何に対しても「1+1=3」のごとき無理をあてこすれる。
一方、完全誤謬信仰者は、信仰対象以外にまで妄りに「1+1=3」のような無理をあてこすらず、
(十字架のような)信仰対象に依拠する限りにおいてのみ、「1+1=3」をもYesとするのである。
だから、信教の価値が保証されている限りにおいて、完全誤謬信仰者の人格などが疑われる
こともないのに対し、馬鹿は始めから人格を疑われ続け、蔑みや嘲笑の対象ともなり続ける。
仮に、信教の価値の絶対性などが認められなくなれば、完全誤謬信仰者も即座に単なる馬鹿並みの
扱いを受けるようになる。今という時代はまだ、信教の保護を通じて完全誤謬信仰が保護されて
いる時代だからこそ、馬鹿までもが連動的に社会的な市民権を得てしまっているところもあるが、
完全誤謬信仰への保護が取り払われることを通じて、馬鹿もろともに市民権を失うこととなる。
むろん、全ての信教が完全誤謬信仰なのではなく、仏教のように誤謬を排した真実真理のみを
信仰対象とする信教もあるので、全ての信教の価値保証を解消するのではなく、あらゆるカルト
の源泉でもある完全誤謬信仰に限って、信教としての保護対象から外すようにせねばならない。
信教全般を禁止するわけではないが、完全誤謬信仰を奨励する信教だけは「邪教」として
取り締りの対象とする。これが邪教取締りの指針としてもうってつけとなり、邪教の蔓延
によってお株を奪われていた諸々の正統な信教の息を吹き返させる機縁ともなるのである。
「水は流れて而かも盈たず、険を行きて而かも其の信を失わざる」
「水が低いところ、低いところへと流れ落ちてひと所に止まっていないようにして、
険難に臨むことがあったとしても、決して信じる所のものを失わない。(これが正信の
不壊なる原理であり、一ところの言葉に束縛されるといようなことではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坎・彖伝より)
扱いを受けるようになる。今という時代はまだ、信教の保護を通じて完全誤謬信仰が保護されて
いる時代だからこそ、馬鹿までもが連動的に社会的な市民権を得てしまっているところもあるが、
完全誤謬信仰への保護が取り払われることを通じて、馬鹿もろともに市民権を失うこととなる。
むろん、全ての信教が完全誤謬信仰なのではなく、仏教のように誤謬を排した真実真理のみを
信仰対象とする信教もあるので、全ての信教の価値保証を解消するのではなく、あらゆるカルト
の源泉でもある完全誤謬信仰に限って、信教としての保護対象から外すようにせねばならない。
信教全般を禁止するわけではないが、完全誤謬信仰を奨励する信教だけは「邪教」として
取り締りの対象とする。これが邪教取締りの指針としてもうってつけとなり、邪教の蔓延
によってお株を奪われていた諸々の正統な信教の息を吹き返させる機縁ともなるのである。
「水は流れて而かも盈たず、険を行きて而かも其の信を失わざる」
「水が低いところ、低いところへと流れ落ちてひと所に止まっていないようにして、
険難に臨むことがあったとしても、決して信じる所のものを失わない。(これが正信の
不壊なる原理であり、一ところの言葉に束縛されるといようなことではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坎・彖伝より)
「其の進むこと鋭き者は、其の退くことも速やかなり」
「鋭く進取するものほど、撤退するときも速やかである。
(『儒者は進取を共にするは難くも、守成を共にするは可なり』と『史記』叔孫通列伝にもある。
始皇帝や項羽のように利得を鋭く先取りしようとするものほど、失う時もあっという間なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・四四より)
「鋭く進取するものほど、撤退するときも速やかである。
(『儒者は進取を共にするは難くも、守成を共にするは可なり』と『史記』叔孫通列伝にもある。
始皇帝や項羽のように利得を鋭く先取りしようとするものほど、失う時もあっという間なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・四四より)
諸刃の剣は、善悪の彼岸。
実際に、善悪を超越するということは、生身の人間にとっては
そうそうに付き合いきれもしないもので、多少は立ち会うことが
あったとしても、世間全般としては敬遠されることが通例となっている。
安直に言って、諸刃の剣は危険である。
切れ味がどうというよりも、形状として自他を共に傷つけがちなもの。
諸刃では技巧的な技なども自傷に繋がりやすいから、自傷を不孝の一つと見なす
儒学の思想にも根ざして、日本などでも片刃の剣技のほうが発達してきた。
一方で、日本で片刃の剣技が発達したのは、そこに「勧善懲悪」の意図までもがあったから、
十七条憲法で、勧善懲悪を「古えの良き典」として賛じていた聖徳太子が、七星剣という
片刃の鉄剣をも佩いていたように、四書五経や十七条憲法にあるような勧善懲悪の則を
実践していくためにこそ、片刃の長剣をも用いての剣技を発達させていったのである。
聖書圏に、特定して片刃の剣技を発展させていたような事実はないが、
日本人が諸刃ではなく片刃の剣技を発展させたようにして、聖書信者もまた、
諸刃以上に技巧的な片刃の剣技のような感覚に即して、聖書信仰を実践してきたのである。
本人たちとしては、それが「勧善懲悪」の実践のつもりでもあったのだろうが、
実際には勧善懲悪の逆、悪逆非道の、片刃の剣技的な実践に務めてきたのである。
実際に、善悪を超越するということは、生身の人間にとっては
そうそうに付き合いきれもしないもので、多少は立ち会うことが
あったとしても、世間全般としては敬遠されることが通例となっている。
安直に言って、諸刃の剣は危険である。
切れ味がどうというよりも、形状として自他を共に傷つけがちなもの。
諸刃では技巧的な技なども自傷に繋がりやすいから、自傷を不孝の一つと見なす
儒学の思想にも根ざして、日本などでも片刃の剣技のほうが発達してきた。
一方で、日本で片刃の剣技が発達したのは、そこに「勧善懲悪」の意図までもがあったから、
十七条憲法で、勧善懲悪を「古えの良き典」として賛じていた聖徳太子が、七星剣という
片刃の鉄剣をも佩いていたように、四書五経や十七条憲法にあるような勧善懲悪の則を
実践していくためにこそ、片刃の長剣をも用いての剣技を発達させていったのである。
聖書圏に、特定して片刃の剣技を発展させていたような事実はないが、
日本人が諸刃ではなく片刃の剣技を発展させたようにして、聖書信者もまた、
諸刃以上に技巧的な片刃の剣技のような感覚に即して、聖書信仰を実践してきたのである。
本人たちとしては、それが「勧善懲悪」の実践のつもりでもあったのだろうが、
実際には勧善懲悪の逆、悪逆非道の、片刃の剣技的な実践に務めてきたのである。
悪逆非道の片刃の剣技の能力が、勧善懲悪の能力に即座に転用できるかといえば、
けっしてそんなこともない。それどころか、悪逆非道の技巧的な実践にばかり
及んできたことが、かえって勧善懲悪の技巧的な実践にかけてのハンデにすらなる。
悪逆非道の片刃は捨て去って、まったく使い勝手の違う勧善懲悪の片刃に持ち替えたとしても、
「一からやり直し」というほどにも大きな試練が伴うことになるわけで、それだったらもう
刀なんか持たない、帯刀身分ではない百姓に甘んずるとしたとしても、仕方のないことである。
実際にやってみれば分かるが、片刃の剣術というのは非常に作為的なもので、
人体に非常に人工的な動きを強いる。徒手空拳の柔術などが人体の構造に根ざした
合理的な動きを突き止めているのに対し、剣術の動きには不自然な動きも多々見られる。
それは実際、身体にいいものでもなく、昔の武士も剣術と共に柔術をこなすことで、
剣術によって患った身体の凝りをほぐしてもいたのである。
勧善懲悪は、確かに人から尊ばれる偉業ともなる一方で、やはり全く自分に負担をかけない
なんてこともない。できる限り無益な自傷を避けながらも、負担の多い挺身にも臨んでいく
というのが勧善懲悪の実践ともなるので、そこはただひたすら我田引水に専らであり続ける
悪逆非道の実践にもない要素である。まるで悪逆非道に専らであるようにして、
勧善懲悪にも専らでいられるなどということもないのだから、悪逆非道にこそ
期待できたものを、勧善懲悪に期待したりするのも筋違いとなるのである。
けっしてそんなこともない。それどころか、悪逆非道の技巧的な実践にばかり
及んできたことが、かえって勧善懲悪の技巧的な実践にかけてのハンデにすらなる。
悪逆非道の片刃は捨て去って、まったく使い勝手の違う勧善懲悪の片刃に持ち替えたとしても、
「一からやり直し」というほどにも大きな試練が伴うことになるわけで、それだったらもう
刀なんか持たない、帯刀身分ではない百姓に甘んずるとしたとしても、仕方のないことである。
実際にやってみれば分かるが、片刃の剣術というのは非常に作為的なもので、
人体に非常に人工的な動きを強いる。徒手空拳の柔術などが人体の構造に根ざした
合理的な動きを突き止めているのに対し、剣術の動きには不自然な動きも多々見られる。
それは実際、身体にいいものでもなく、昔の武士も剣術と共に柔術をこなすことで、
剣術によって患った身体の凝りをほぐしてもいたのである。
勧善懲悪は、確かに人から尊ばれる偉業ともなる一方で、やはり全く自分に負担をかけない
なんてこともない。できる限り無益な自傷を避けながらも、負担の多い挺身にも臨んでいく
というのが勧善懲悪の実践ともなるので、そこはただひたすら我田引水に専らであり続ける
悪逆非道の実践にもない要素である。まるで悪逆非道に専らであるようにして、
勧善懲悪にも専らでいられるなどということもないのだから、悪逆非道にこそ
期待できたものを、勧善懲悪に期待したりするのも筋違いとなるのである。
世界中を飢餓や貧困に陥れるほどにも自分たちだけで富を占有している
欧米聖書圏の人間が、その富によって過剰な軍備をも敷く。
誰から自分たちを守るのかって、欧米による富の収奪によってこそ
困窮に陥れられた結果、戦乱すら避けられなくなっている異界の人々から。
始めから富の収奪などに及ばなければ、異界の人々も、戦乱を来たす
ほどもの困窮にかられたりすることもないわけだから、聖書信者が
それらの人々の攻撃から身を守るための、軍備などに及ぶ必要もない。
(もちろん、始めから軍備を敷けるだけの富を蓄えてもいないことになるが)
あくまで仮のこととして、欧米の聖書信仰者が自分たちの甚大な
軍力によって異教徒たちを殲滅し、完全に滅ぼし尽くしたとする。
その場合、富の収奪先がなくなって、軍備はおろか、自分たちの
物質的栄華を今までのように保ち続けることすらできなくなる。
ABC兵器などによる大量虐殺は致命的な地球環境の破壊をももたらし、
虐殺完遂後の地球上で聖書信仰者がまともな生活を送ることも叶わなくなる。
だから結局のところ、聖書信者が異教徒を滅ぼし尽くすという選択は
あくまで非現実的なものであり続けるわけだが、かといって、自分たち
聖書信者が極度の困窮に陥れた人々の、苦悩にかられた乱交からなる人口爆発
が止まることもなく、それによる世界の破滅もまた避けられるものではない。
欧米聖書圏の人間が、その富によって過剰な軍備をも敷く。
誰から自分たちを守るのかって、欧米による富の収奪によってこそ
困窮に陥れられた結果、戦乱すら避けられなくなっている異界の人々から。
始めから富の収奪などに及ばなければ、異界の人々も、戦乱を来たす
ほどもの困窮にかられたりすることもないわけだから、聖書信者が
それらの人々の攻撃から身を守るための、軍備などに及ぶ必要もない。
(もちろん、始めから軍備を敷けるだけの富を蓄えてもいないことになるが)
あくまで仮のこととして、欧米の聖書信仰者が自分たちの甚大な
軍力によって異教徒たちを殲滅し、完全に滅ぼし尽くしたとする。
その場合、富の収奪先がなくなって、軍備はおろか、自分たちの
物質的栄華を今までのように保ち続けることすらできなくなる。
ABC兵器などによる大量虐殺は致命的な地球環境の破壊をももたらし、
虐殺完遂後の地球上で聖書信仰者がまともな生活を送ることも叶わなくなる。
だから結局のところ、聖書信者が異教徒を滅ぼし尽くすという選択は
あくまで非現実的なものであり続けるわけだが、かといって、自分たち
聖書信者が極度の困窮に陥れた人々の、苦悩にかられた乱交からなる人口爆発
が止まることもなく、それによる世界の破滅もまた避けられるものではない。
紛れもなく、聖書の論理がこの世界に最大限に適用されたからこそ、
聖書信者たちにとっての絶体絶命の危機が到来することとなった。
それを選択したのも、推進したのも欧米の聖書信者たち自身であり、
その責任を取らねばならないのも、取ることができるのも、欧米人のみである。
責任を取る発端となるのは、まず聖書信者たちが自分たちの愚かさを自覚すること。
聖書によって自分たちの愚かさを埋め合わせたようなこともなく、
ただ自分たちの愚かさを聖書によって正当化して推進ばかりして来た。何よりもまず、
「聖書を信仰する」という選択を自分たちが行ったことこそは愚行の極みだったと知り、
聖書によって自分たちの罪が清められるなどという幻想も払拭して、聖書の信仰を
選択したことこそが、自分たちにとっての最大級の罪であったことをも諾うのである。
権力犯罪聖書——通称聖書の存在性が少しでも肯定されるような風潮が、
この世から完全に絶やされたときに、初めて聖書信者たちが招いている全人類に
とっての絶体絶命の危機も、回避され始めることになる。当然、それはまだである。
「遠人服せずして来たすこと能わず、邦分崩離析して守ること能わず。而して干戈を邦内に
動かさんことを謀る。吾れ恐る、季孫の憂いは顓臾に在らず、蕭牆の内に在らんことを」
「(今の魯国は)遠方の人間を従わせることはおろか、招きよせることも出来ず、諸国が分裂して
争乱を来たしているのにろくに守ることもできず、それでいて国内にすら軍備をうごめかせる。
私は恐れる、(魯の家老の)季孫が憂いとすべき患いは(隣国の)顓臾などではなく、国内にこそあることを。
(魯国が不徳なままに軍備ばかりを増強していることを愚行と断じている。聖書の神の所業もこれに等しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一より)
聖書信者たちにとっての絶体絶命の危機が到来することとなった。
それを選択したのも、推進したのも欧米の聖書信者たち自身であり、
その責任を取らねばならないのも、取ることができるのも、欧米人のみである。
責任を取る発端となるのは、まず聖書信者たちが自分たちの愚かさを自覚すること。
聖書によって自分たちの愚かさを埋め合わせたようなこともなく、
ただ自分たちの愚かさを聖書によって正当化して推進ばかりして来た。何よりもまず、
「聖書を信仰する」という選択を自分たちが行ったことこそは愚行の極みだったと知り、
聖書によって自分たちの罪が清められるなどという幻想も払拭して、聖書の信仰を
選択したことこそが、自分たちにとっての最大級の罪であったことをも諾うのである。
権力犯罪聖書——通称聖書の存在性が少しでも肯定されるような風潮が、
この世から完全に絶やされたときに、初めて聖書信者たちが招いている全人類に
とっての絶体絶命の危機も、回避され始めることになる。当然、それはまだである。
「遠人服せずして来たすこと能わず、邦分崩離析して守ること能わず。而して干戈を邦内に
動かさんことを謀る。吾れ恐る、季孫の憂いは顓臾に在らず、蕭牆の内に在らんことを」
「(今の魯国は)遠方の人間を従わせることはおろか、招きよせることも出来ず、諸国が分裂して
争乱を来たしているのにろくに守ることもできず、それでいて国内にすら軍備をうごめかせる。
私は恐れる、(魯の家老の)季孫が憂いとすべき患いは(隣国の)顓臾などではなく、国内にこそあることを。
(魯国が不徳なままに軍備ばかりを増強していることを愚行と断じている。聖書の神の所業もこれに等しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一より)
完全誤謬信仰の肝要は、あくまで
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
というほどもの勢いで対象を狂信することにある。
しかし、それほどもの狂信に至るための方便もまた様々であり、決して
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」という
あからさまな教条ばかりに基づいて、完全誤謬信仰に陥ったりするわけでもない。
聖書教義もまた、信者を完全誤謬信仰に陥らせるための悪巧方便の一つであり、
完全誤謬信仰に陥ることができる確度では、あらゆる邪教教義の中でも突出している。
無論、まともな精神力の持ち主であれば始めから聖書教義を信仰したりはしないし、
また信仰しようたってできやしない。ただ、もしも聖書教義を信仰すらできたなら、その人間は
確実に完全誤謬信仰に没入することができる。非常に効能の確かな悪巧方便の一つであるといえる。
完全誤謬信仰に基づく、脳内の論理回路のショートが信者に与える酩酊は、
信者たちが実社会において犯した悪行に基づく、良心の呵責からなる苦しみをも覆い隠す。
これが、キリスト教徒などが聖書信仰によって「救われた」とする根拠であり、
それを以って「救われた」とするのなら、確かに、キリスト教徒は完全に救われたのである。
悪逆非道の悪因苦果は、それはそれで普遍的なものであり、誰しもが本当の所、苦痛に見舞われるもの。
ただ、無信仰の快楽犯などは、あらかじめ完全誤謬信仰の服用と同等の論理思考の破綻を脳内で蓄えて、
まるで始めから良心の呵責などないかのような態度で、罪を犯したりする。キリスト教徒の場合は
それとは微妙に違って、悪いことをすれば良心の呵責によって、自分もまた苦悩に見舞われるということ
までは分かっている。だからキリスト教教義に基づく完全誤謬信仰への没入によって、良心の呵責から
なる苦悩が覆い隠されたことを以ってして「救われた」ともうそぶくわけで、良心の呵責など始めから
抱いていないかのように振る舞う快楽犯などと比べれば、そこが誠実げに見えたりもするのである。
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
というほどもの勢いで対象を狂信することにある。
しかし、それほどもの狂信に至るための方便もまた様々であり、決して
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」という
あからさまな教条ばかりに基づいて、完全誤謬信仰に陥ったりするわけでもない。
聖書教義もまた、信者を完全誤謬信仰に陥らせるための悪巧方便の一つであり、
完全誤謬信仰に陥ることができる確度では、あらゆる邪教教義の中でも突出している。
無論、まともな精神力の持ち主であれば始めから聖書教義を信仰したりはしないし、
また信仰しようたってできやしない。ただ、もしも聖書教義を信仰すらできたなら、その人間は
確実に完全誤謬信仰に没入することができる。非常に効能の確かな悪巧方便の一つであるといえる。
完全誤謬信仰に基づく、脳内の論理回路のショートが信者に与える酩酊は、
信者たちが実社会において犯した悪行に基づく、良心の呵責からなる苦しみをも覆い隠す。
これが、キリスト教徒などが聖書信仰によって「救われた」とする根拠であり、
それを以って「救われた」とするのなら、確かに、キリスト教徒は完全に救われたのである。
悪逆非道の悪因苦果は、それはそれで普遍的なものであり、誰しもが本当の所、苦痛に見舞われるもの。
ただ、無信仰の快楽犯などは、あらかじめ完全誤謬信仰の服用と同等の論理思考の破綻を脳内で蓄えて、
まるで始めから良心の呵責などないかのような態度で、罪を犯したりする。キリスト教徒の場合は
それとは微妙に違って、悪いことをすれば良心の呵責によって、自分もまた苦悩に見舞われるということ
までは分かっている。だからキリスト教教義に基づく完全誤謬信仰への没入によって、良心の呵責から
なる苦悩が覆い隠されたことを以ってして「救われた」ともうそぶくわけで、良心の呵責など始めから
抱いていないかのように振る舞う快楽犯などと比べれば、そこが誠実げに見えたりもするのである。
とはいえ、良心の呵責を自覚した後の後付けによってでも、完全誤謬信仰への没入によって苦悩から
解き放たれようとすること自体が、罪の償い方として不正なものであり、現実の罪悪のほうが相応の処罰
にもよらずに野放しにされて来たことは着実に破綻の温床となり、今日に至って絶体絶命の危機をも招いた。
キリスト教徒同士の間では、悪因苦果の苦しみを多少なりとも自覚した後に救われようとして来たことが、
自分たちの誠実さの証しであるかのようにも認識されて来たわけだが、非聖書圏の人間の感覚からすれば、
それもまた十分に不誠実な所業の範疇であり、何ら情状酌量の事由とするに足らないものだとする他はない。
酌量の余地があるとすれば、それは聖書教義が、信者を完全誤謬信仰に没入させる悪巧方便として、
あまりにもその性能が高かったことであり、故にこそ、信者が罪悪の苦しみを実感したかのような
体裁を取った上で、完全誤謬信仰の酩酊に没入することすらをも実現させて来てやったことだといえる。
それにより、信者たちに快楽犯などにはないような偽善を行使する余地を与えてやったことが、
聖書教義に特有の罪であるといえ、快楽犯よりはまだ聖書信者たちのほうが、「察しようのある
気休め」のさ中にありながら罪悪を積み重ねてきたということが、言えなくもないわけである。
「子、衛の公子荊を謂えり。「善く室に居る。始め有るに、曰く、苟くも合えりと。
少しく有あるに、曰く、苟くも完きなりと。富みて有るに、曰く、苟くも美なりと」
「先生が衛国の公子の荊を評して言われた。『家内の治め方が非常に優れている。財産が最低限足りている時に〈まあまあだ〉
といい、多少余りがある時に〈やっと完全といった所だ〉といい、非常に富んでいるときに〈立派なことだ〉といっている』
(これは、天下と利害を共にする純正な公族であればこそ評価に値する逸話であり、政商とつるんで私利私欲を貪る暴君など
であれば評するに値しないことだが、純正な公族としては、完全な仁政の達成すら志しとしては低いものとされる。
志しが『完全』止まりなカルト信仰の神経は、仁政に転用するにも値しないものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・八より)
解き放たれようとすること自体が、罪の償い方として不正なものであり、現実の罪悪のほうが相応の処罰
にもよらずに野放しにされて来たことは着実に破綻の温床となり、今日に至って絶体絶命の危機をも招いた。
キリスト教徒同士の間では、悪因苦果の苦しみを多少なりとも自覚した後に救われようとして来たことが、
自分たちの誠実さの証しであるかのようにも認識されて来たわけだが、非聖書圏の人間の感覚からすれば、
それもまた十分に不誠実な所業の範疇であり、何ら情状酌量の事由とするに足らないものだとする他はない。
酌量の余地があるとすれば、それは聖書教義が、信者を完全誤謬信仰に没入させる悪巧方便として、
あまりにもその性能が高かったことであり、故にこそ、信者が罪悪の苦しみを実感したかのような
体裁を取った上で、完全誤謬信仰の酩酊に没入することすらをも実現させて来てやったことだといえる。
それにより、信者たちに快楽犯などにはないような偽善を行使する余地を与えてやったことが、
聖書教義に特有の罪であるといえ、快楽犯よりはまだ聖書信者たちのほうが、「察しようのある
気休め」のさ中にありながら罪悪を積み重ねてきたということが、言えなくもないわけである。
「子、衛の公子荊を謂えり。「善く室に居る。始め有るに、曰く、苟くも合えりと。
少しく有あるに、曰く、苟くも完きなりと。富みて有るに、曰く、苟くも美なりと」
「先生が衛国の公子の荊を評して言われた。『家内の治め方が非常に優れている。財産が最低限足りている時に〈まあまあだ〉
といい、多少余りがある時に〈やっと完全といった所だ〉といい、非常に富んでいるときに〈立派なことだ〉といっている』
(これは、天下と利害を共にする純正な公族であればこそ評価に値する逸話であり、政商とつるんで私利私欲を貪る暴君など
であれば評するに値しないことだが、純正な公族としては、完全な仁政の達成すら志しとしては低いものとされる。
志しが『完全』止まりなカルト信仰の神経は、仁政に転用するにも値しないものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・八より)
>>65に書いたことをもう少し詳述すると、
キリスト教徒が、良心の呵責を抱いたかのような体裁の後に、
完全誤謬信仰への没入によって「救われた」とうそぶいて来たこと、
それはやはり不誠実なことであるため、その「誠実さ」などを以って
酌量事由にすることはできないが、聖書教義が、信者を完全誤謬信仰
に陥れるための悪巧方便としてあまりにも高性能であったために、
キリスト教徒たちが良心の呵責を感じているかのような偽善ごっこを
通じて気を紛らわしつつ悪行を重ねて来たことが、「察しよう」がある。
ということ。
「誠実だから」ではなく、「精神薄弱者の所業としては察しようがあるから」、
常人を対象とした刑事処分を、心神喪失者を対象とした民事処分などに
変更してやるぐらいの酌量の余地はあるということ。常人並みの誠実さを
期待できるほど、キリスト教徒が立派な人間でないことでは一貫している。
キリスト教徒が、良心の呵責を抱いたかのような体裁の後に、
完全誤謬信仰への没入によって「救われた」とうそぶいて来たこと、
それはやはり不誠実なことであるため、その「誠実さ」などを以って
酌量事由にすることはできないが、聖書教義が、信者を完全誤謬信仰
に陥れるための悪巧方便としてあまりにも高性能であったために、
キリスト教徒たちが良心の呵責を感じているかのような偽善ごっこを
通じて気を紛らわしつつ悪行を重ねて来たことが、「察しよう」がある。
ということ。
「誠実だから」ではなく、「精神薄弱者の所業としては察しようがあるから」、
常人を対象とした刑事処分を、心神喪失者を対象とした民事処分などに
変更してやるぐらいの酌量の余地はあるということ。常人並みの誠実さを
期待できるほど、キリスト教徒が立派な人間でないことでは一貫している。
孔子も幼少期、礼楽に用いる祭器を用いて遊んでいたというし(「史記」孔子世家)、
弟子の子貢も「孔先生は決まった相手から学ばず、なおかつ誰しもから
学ばれていた」との証言を遺している。(子張第十九・二二)
孔子もまた、その成長過程において、家族以外に学んだりすることが多かった。
父なしの妾腹の私生児という境遇上、親を敬えども、模範にしたりすることまでは
なかなか困難だったのにも違いなく、その点、賢母として知られる母を持つ
孟子などのほうが、遥かに恵まれた立場にもあっただろうことがうかがえる。
それでいて、天地万物万人を学ぶべき師とし、特に易学の形而上学的な法則に、森羅万象にも
通ずる普遍法則を見出して、綴じ糸が三たびも擦り切れるほどにも「易経」を読み込むなどして、
天地万物に永久普遍の道理までをも見出した。その道理が「論語」などにもある道徳論であり、
その中には「父父たり、子子たり」などという序列論もあるものだから、孔子自身、一度も
会ったことのない父親の墓にまで詣でて、孔家の跡取りとしての自らの立場をも固めたのである。
その郷里での態度なども、過度なほどに恭しく、イエキリのように、師らしいものとして
振る舞おうとした素振りすら見られない(郷党第十・一)。それでいて孔子は「郷原は徳の賊なり」
ともいい、親を尊ぶべき郷里ですら人気を取ろうとする者の浅はかさに、苦言を呈してもいる。
始めから郷里での人気取りなど試みようともしなかったのと、試みはしたものの見くびられて
挫折したのとが、孔子とイエキリとでの相違点であり、一応郷里での人気取りを試みるだけは
していたあたりが、イエキリが郷原止まりな知見の持ち主だった証拠にもなっている。
弟子の子貢も「孔先生は決まった相手から学ばず、なおかつ誰しもから
学ばれていた」との証言を遺している。(子張第十九・二二)
孔子もまた、その成長過程において、家族以外に学んだりすることが多かった。
父なしの妾腹の私生児という境遇上、親を敬えども、模範にしたりすることまでは
なかなか困難だったのにも違いなく、その点、賢母として知られる母を持つ
孟子などのほうが、遥かに恵まれた立場にもあっただろうことがうかがえる。
それでいて、天地万物万人を学ぶべき師とし、特に易学の形而上学的な法則に、森羅万象にも
通ずる普遍法則を見出して、綴じ糸が三たびも擦り切れるほどにも「易経」を読み込むなどして、
天地万物に永久普遍の道理までをも見出した。その道理が「論語」などにもある道徳論であり、
その中には「父父たり、子子たり」などという序列論もあるものだから、孔子自身、一度も
会ったことのない父親の墓にまで詣でて、孔家の跡取りとしての自らの立場をも固めたのである。
その郷里での態度なども、過度なほどに恭しく、イエキリのように、師らしいものとして
振る舞おうとした素振りすら見られない(郷党第十・一)。それでいて孔子は「郷原は徳の賊なり」
ともいい、親を尊ぶべき郷里ですら人気を取ろうとする者の浅はかさに、苦言を呈してもいる。
始めから郷里での人気取りなど試みようともしなかったのと、試みはしたものの見くびられて
挫折したのとが、孔子とイエキリとでの相違点であり、一応郷里での人気取りを試みるだけは
していたあたりが、イエキリが郷原止まりな知見の持ち主だった証拠にもなっている。
親や家族が大学者や帝王だったりするのであるならまだしも、ただの人であるのなら、
本人の大成が親族以外の誰かを頼りにすることだって当然あることだ。それが実際にあったのが
孔子である一方、それすらもなかったのがイエキリである。親兄弟を模範とせず、のみならず、
誰しもに何も学ぼうとはせず、完全なる我流の思い付きを「神からの啓示」などとして触れ回った。
だからこそ、誰しもから学ぼうとした孔子とは真逆の言行ばかりに走り、郷里においても、仁徳に
違う郷原としての振る舞いに及んで、気分のいい結果が得られなかったことにケチを付けたのである。
誰しもに学ぶことを通じて、父なしでありながら父子の親の大切さをも知り、親愛を損ねる郷里での
人気取りなども始めから控えていた孔子と、誰にも学ばないでいようとした結果、義父がいるにも
関わらず父子の親を疎かにしたままでいて、郷里での人気取りのような愚行にも及んだイエキリと、
行いの結果以前の、本人たち自身の行動規範こそが、根本からの品性の優劣を見せしめている。
どうして、人としてのあり方の規範を孔子に求めず、イエキリ風情に求めたりする道理が通るものか。
「郷党では歯に如くは莫し」
「郷里程度の小さな仲間内では、年齢の長幼以上に普遍的な拠り所となる基準はない。
(都市社会ならば、年齢の長幼以上にも仁徳の有無や官位の上下のほうが普遍的な基準となるが、
郷里程度ならせいぜい長幼が普遍基準止まりとなる。それも解さずに、郷里での人気取りなどを
試みようとすること自体が世間知らずな証しであり、郷原が徳の賊止まりとなる理由でもあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
本人の大成が親族以外の誰かを頼りにすることだって当然あることだ。それが実際にあったのが
孔子である一方、それすらもなかったのがイエキリである。親兄弟を模範とせず、のみならず、
誰しもに何も学ぼうとはせず、完全なる我流の思い付きを「神からの啓示」などとして触れ回った。
だからこそ、誰しもから学ぼうとした孔子とは真逆の言行ばかりに走り、郷里においても、仁徳に
違う郷原としての振る舞いに及んで、気分のいい結果が得られなかったことにケチを付けたのである。
誰しもに学ぶことを通じて、父なしでありながら父子の親の大切さをも知り、親愛を損ねる郷里での
人気取りなども始めから控えていた孔子と、誰にも学ばないでいようとした結果、義父がいるにも
関わらず父子の親を疎かにしたままでいて、郷里での人気取りのような愚行にも及んだイエキリと、
行いの結果以前の、本人たち自身の行動規範こそが、根本からの品性の優劣を見せしめている。
どうして、人としてのあり方の規範を孔子に求めず、イエキリ風情に求めたりする道理が通るものか。
「郷党では歯に如くは莫し」
「郷里程度の小さな仲間内では、年齢の長幼以上に普遍的な拠り所となる基準はない。
(都市社会ならば、年齢の長幼以上にも仁徳の有無や官位の上下のほうが普遍的な基準となるが、
郷里程度ならせいぜい長幼が普遍基準止まりとなる。それも解さずに、郷里での人気取りなどを
試みようとすること自体が世間知らずな証しであり、郷原が徳の賊止まりとなる理由でもあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
という論理の脳内でのごり押しが、あらゆる正誤善悪の切実な判断を見失ったがための酩酊を呼び込む。
それが完全誤謬信仰のメカニズムであり、キリストを信仰することで救われた気になる理由もこの限りである。
別にアルコールやニコチンを経口で摂取するでも、薬物を注射器で投与するでもなく、ただ
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
という意味合いの情念を脳内でごり押しするだけで酩酊に没入できるわけだから、
キリスト信仰を始めとする完全誤謬信仰は、極めて携帯性にも富むものだといえる。
週に一度程度、教会などでキリストへの帰依の意志を新たにするだけでも、
キリスト教徒は恒常的に完全誤謬信仰の酩酊に没入していられるようなので、
キリスト教への入信の儀式(洗礼)なども一人につき一度だけ行われ、何度もは行われない。
なればこそ、キリスト教徒がキリスト教徒である限りにおいて犯した罪が、
完全誤謬信仰の酩酊の範囲外で犯されたようなこともない。
飲酒運転が、一定量以上のアルコール摂取と共に成立するようにして、
キリスト教徒の犯す罪もまた、必ず一定以上の完全誤謬信仰からなる酩酊と共に犯されている。
だから許容の対象になるのかどうかを、飲酒運転などに当てはめて考えてみるなら、全くないことになる。
それどころか、好き好んで酩酊に耽りつつ大罪を犯したことが、人としての信用のなさを確証することにすらなるといえる。
飲酒運転犯や飲酒運転事故犯が、免許を取り消されたり重罰を受けたりすることが妥当であるというのなら、
キリスト教徒として罪を犯した者もまた、社会的な行為能力制限や惜しみない重罰を受けることが妥当だということになる。
(日本の現行法では、ただのひき逃げの最高刑が懲役10年、飲酒運転のひき逃げに対する最高刑が懲役15年ともなっている)
という論理の脳内でのごり押しが、あらゆる正誤善悪の切実な判断を見失ったがための酩酊を呼び込む。
それが完全誤謬信仰のメカニズムであり、キリストを信仰することで救われた気になる理由もこの限りである。
別にアルコールやニコチンを経口で摂取するでも、薬物を注射器で投与するでもなく、ただ
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
という意味合いの情念を脳内でごり押しするだけで酩酊に没入できるわけだから、
キリスト信仰を始めとする完全誤謬信仰は、極めて携帯性にも富むものだといえる。
週に一度程度、教会などでキリストへの帰依の意志を新たにするだけでも、
キリスト教徒は恒常的に完全誤謬信仰の酩酊に没入していられるようなので、
キリスト教への入信の儀式(洗礼)なども一人につき一度だけ行われ、何度もは行われない。
なればこそ、キリスト教徒がキリスト教徒である限りにおいて犯した罪が、
完全誤謬信仰の酩酊の範囲外で犯されたようなこともない。
飲酒運転が、一定量以上のアルコール摂取と共に成立するようにして、
キリスト教徒の犯す罪もまた、必ず一定以上の完全誤謬信仰からなる酩酊と共に犯されている。
だから許容の対象になるのかどうかを、飲酒運転などに当てはめて考えてみるなら、全くないことになる。
それどころか、好き好んで酩酊に耽りつつ大罪を犯したことが、人としての信用のなさを確証することにすらなるといえる。
飲酒運転犯や飲酒運転事故犯が、免許を取り消されたり重罰を受けたりすることが妥当であるというのなら、
キリスト教徒として罪を犯した者もまた、社会的な行為能力制限や惜しみない重罰を受けることが妥当だということになる。
(日本の現行法では、ただのひき逃げの最高刑が懲役10年、飲酒運転のひき逃げに対する最高刑が懲役15年ともなっている)
無論、飲酒運転それだけなら誰にも迷惑をかけないようにして、
ただキリストを信仰しているだけというのなら、誰にも迷惑はかからない。
飲酒運転が事故につながることで初めて人に迷惑がかかるように、
キリスト信仰の酩酊が犯罪行為に繋がった時に初めて、人様にも迷惑がかかる。
だから、ただ飲酒運転をしただけ、キリストを信仰しただけで刑事罰までをも被るというのは
やり過ぎになるともいえ、免許取り消しや社会的不具者指定程度の処分で済ますべきだともいえる。
飲酒運転とキリスト信仰と、事故や権力犯罪などの迷惑行為に発展する頻度では、どっこいどっこいだといえる。
ただ、飲酒運転はすでに社会的な禁忌としての扱いが定着しているから、容認の過剰からなる事故への発展なども
未然に控えられているのに対し、キリスト信仰は禁忌としての扱いすら取り払われたままだから、
完全誤謬信仰の酩酊にことかけての権力犯罪行為などが野放しになったままでもいる。
警察が厳重な取り締まりの対象などにしなくとも、そもそも世間一般から、
飲酒運転の危険性は認知されていて、一定以上に忌避の対象ともなっている。
キリスト信仰も、何よりもまずそういった「忌避対象」としての認識が世間一般に広く定着する必要があるのであり、
頭ごなしな取り締まりの対象にしたりすることは、あくまで二の次なのである。
「孝以て君に事え、弟以て長に事う。民に貳せざるを示すためなり」
「父に仕える心がけを推して主君に仕え、兄に仕える心がけを推して年長者に仕える。
民に二番煎じの不誠実さを排した姿を示すためである。(先天的な父子兄弟の関係を反故にして他に
仕えるのであれば、それが一度きりであるとした所ですでに二番煎じだから、不誠実の至りだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
ただキリストを信仰しているだけというのなら、誰にも迷惑はかからない。
飲酒運転が事故につながることで初めて人に迷惑がかかるように、
キリスト信仰の酩酊が犯罪行為に繋がった時に初めて、人様にも迷惑がかかる。
だから、ただ飲酒運転をしただけ、キリストを信仰しただけで刑事罰までをも被るというのは
やり過ぎになるともいえ、免許取り消しや社会的不具者指定程度の処分で済ますべきだともいえる。
飲酒運転とキリスト信仰と、事故や権力犯罪などの迷惑行為に発展する頻度では、どっこいどっこいだといえる。
ただ、飲酒運転はすでに社会的な禁忌としての扱いが定着しているから、容認の過剰からなる事故への発展なども
未然に控えられているのに対し、キリスト信仰は禁忌としての扱いすら取り払われたままだから、
完全誤謬信仰の酩酊にことかけての権力犯罪行為などが野放しになったままでもいる。
警察が厳重な取り締まりの対象などにしなくとも、そもそも世間一般から、
飲酒運転の危険性は認知されていて、一定以上に忌避の対象ともなっている。
キリスト信仰も、何よりもまずそういった「忌避対象」としての認識が世間一般に広く定着する必要があるのであり、
頭ごなしな取り締まりの対象にしたりすることは、あくまで二の次なのである。
「孝以て君に事え、弟以て長に事う。民に貳せざるを示すためなり」
「父に仕える心がけを推して主君に仕え、兄に仕える心がけを推して年長者に仕える。
民に二番煎じの不誠実さを排した姿を示すためである。(先天的な父子兄弟の関係を反故にして他に
仕えるのであれば、それが一度きりであるとした所ですでに二番煎じだから、不誠実の至りだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
精子 Part8wwww
悪因苦果の苦しみとはまた別に、善因楽果を得るための過渡的な労苦というものもまたある。
しかし、それは決して良心の呵責などを誘うものではなく、「善行を為している」という
自覚に根ざした、浩然の気のすがすがしさと共にこそある、身心の健全な疲労でのみある。
「肩をそびやかしてへつらい笑うことは、真夏の炎天下に田畑を耕すよりも疲れる」
(「孟子」滕文公章句下・七より)
という曾子の言葉が、まさに悪因苦果の苦しみと、善行にかけての過渡的な苦しみとの相違を如実に
示してもいる。相手から私益を貪らんがために、商人らが肩をそびやかしてへつらい笑うときの
心痛は悪因苦果だから、公益のためにも田畑を耕す農民の重度の疲労などよりも、不健全に苦しい。
善行にかけての労苦ならば、善因楽果に基づく浩然の気による相殺が期待できるが、悪因苦果の
苦しみにはそれが期待できない。だから麻薬や邪淫や完全誤謬信仰のような、救いになるどころか、
かえって副作用すらをももたらす不健全な手段に基づいた、苦痛の相殺を試みるしかなくなる。
善行の労苦を、善因楽果である浩然の気によって相殺するという場合にこそ、実益面での加増すらもが
期待できる一方、悪行からなる悪因苦果の苦しみを、完全誤謬信仰や麻薬のような不適切な手段で
相殺しようとする場合にこそ、実益面にかけての大きな損失すらもが最終的に見込まれるのである。
労苦は労苦で、確かにしたほうがいい場合がある。しかもそのような労苦のほうが、真夏の炎天下
での耕作のような重労働でもあったりする一方、避けたほうがマシな悪行のための労苦こそは、
顧客の前で肩をそびやかしてへつらい笑うような、比較的な軽作業であったりもするのである。
しかし、それは決して良心の呵責などを誘うものではなく、「善行を為している」という
自覚に根ざした、浩然の気のすがすがしさと共にこそある、身心の健全な疲労でのみある。
「肩をそびやかしてへつらい笑うことは、真夏の炎天下に田畑を耕すよりも疲れる」
(「孟子」滕文公章句下・七より)
という曾子の言葉が、まさに悪因苦果の苦しみと、善行にかけての過渡的な苦しみとの相違を如実に
示してもいる。相手から私益を貪らんがために、商人らが肩をそびやかしてへつらい笑うときの
心痛は悪因苦果だから、公益のためにも田畑を耕す農民の重度の疲労などよりも、不健全に苦しい。
善行にかけての労苦ならば、善因楽果に基づく浩然の気による相殺が期待できるが、悪因苦果の
苦しみにはそれが期待できない。だから麻薬や邪淫や完全誤謬信仰のような、救いになるどころか、
かえって副作用すらをももたらす不健全な手段に基づいた、苦痛の相殺を試みるしかなくなる。
善行の労苦を、善因楽果である浩然の気によって相殺するという場合にこそ、実益面での加増すらもが
期待できる一方、悪行からなる悪因苦果の苦しみを、完全誤謬信仰や麻薬のような不適切な手段で
相殺しようとする場合にこそ、実益面にかけての大きな損失すらもが最終的に見込まれるのである。
労苦は労苦で、確かにしたほうがいい場合がある。しかもそのような労苦のほうが、真夏の炎天下
での耕作のような重労働でもあったりする一方、避けたほうがマシな悪行のための労苦こそは、
顧客の前で肩をそびやかしてへつらい笑うような、比較的な軽作業であったりもするのである。
完全誤謬信仰に基づくのでもなければ相殺できなかった労苦こそは、紛れもなく悪行の労苦である。
悪行の労苦だから浩然の気による相殺も叶わず、なおかつ後々にプラマイゼロ以下の損失までもが
見込まれる。労苦が決して報われないのではなく、完全誤謬信仰級の酩酊によってこそ相殺して
きたような悪行の労苦こそは、特定して報われることがなく、かえって破滅の温床にすらなる。
「こんなに苦労をして来たのに」などという不満を吐く余地が、悪行の苦しみを完全誤謬信仰に
よってでも相殺しようとしてきた場合にこそ、特定して存在しない。全ては紛れもなく徒労であった
と断じられる他はなく、せいぜい、妄信からなる悪行によって破滅の種を撒き散らしてきたことが、
過失としての認定によって、なるべく減刑の対象となることを期待するぐらいのことしかできない。
それは、どこまでも特殊例であって、労苦一般に対する普遍的な報いなどではない。むしろ、
健全な労苦によって相応の成果を挙げることのほうが世の常なのだから、当り散らしも禁物だ。
「顔子は乱世に当たりて、陋巷に居り、一箪の食、一瓢の飲。
人は其の憂いに堪えざるも、顔子は其の楽しみを改めず。孔子も之れを賢とせり」
「顔先生(孔子の弟子の顔淵。孔子の亦弟子である孟子にとって、顔淵は先生格でもある)は
春秋時代の乱世において、薄汚く狭い路地に住み、一膳一杯の飲食という質素な生活を貫かれた。
常人ならその憂いを耐え忍ぶこともできないが、顔先生はその楽しみを改めようともしなかった。
孔先生もそのあり方を賢明だと認めていた。(顔淵は清貧の善因楽果である浩然の気を楽しんでいた。
その楽しみを感じ取る感性に欠けていたりするものだから、貧窮の憂いを耐え忍ぶこともできなくて、
悪因苦果まみれの悪逆非道による虚栄を求めてしまったりもするのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
悪行の労苦だから浩然の気による相殺も叶わず、なおかつ後々にプラマイゼロ以下の損失までもが
見込まれる。労苦が決して報われないのではなく、完全誤謬信仰級の酩酊によってこそ相殺して
きたような悪行の労苦こそは、特定して報われることがなく、かえって破滅の温床にすらなる。
「こんなに苦労をして来たのに」などという不満を吐く余地が、悪行の苦しみを完全誤謬信仰に
よってでも相殺しようとしてきた場合にこそ、特定して存在しない。全ては紛れもなく徒労であった
と断じられる他はなく、せいぜい、妄信からなる悪行によって破滅の種を撒き散らしてきたことが、
過失としての認定によって、なるべく減刑の対象となることを期待するぐらいのことしかできない。
それは、どこまでも特殊例であって、労苦一般に対する普遍的な報いなどではない。むしろ、
健全な労苦によって相応の成果を挙げることのほうが世の常なのだから、当り散らしも禁物だ。
「顔子は乱世に当たりて、陋巷に居り、一箪の食、一瓢の飲。
人は其の憂いに堪えざるも、顔子は其の楽しみを改めず。孔子も之れを賢とせり」
「顔先生(孔子の弟子の顔淵。孔子の亦弟子である孟子にとって、顔淵は先生格でもある)は
春秋時代の乱世において、薄汚く狭い路地に住み、一膳一杯の飲食という質素な生活を貫かれた。
常人ならその憂いを耐え忍ぶこともできないが、顔先生はその楽しみを改めようともしなかった。
孔先生もそのあり方を賢明だと認めていた。(顔淵は清貧の善因楽果である浩然の気を楽しんでいた。
その楽しみを感じ取る感性に欠けていたりするものだから、貧窮の憂いを耐え忍ぶこともできなくて、
悪因苦果まみれの悪逆非道による虚栄を求めてしまったりもするのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
「信仰は無条件に善いこと」などということからして、決してなかった。
何に対する信仰とも、どのような信仰とも限らない、信仰一般の中には
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
という完全誤謬信仰までもが自動的に含まれている。それは、奴隷が主人に対して
絶対服従であろうとする姿勢も同然であり、仮に未だ奴隷制が完全に解消されていない
ような世の中においてですら、善いか悪いかでいえば悪いものとされるものなのである。
奴隷制は日本でも鎌倉時代まで、中国でも「苦力」という形で中共建国前まで
存続していたが、それが決して倫理的な存在などであるからではなく、ただ
権力者などにとって都合のいい人材要員であるから容認されて来たまでのことだ。
遥か昔、楚漢戦争後に楚軍の落ち武者となった季布が、剃髪に首枷という奴隷装束にまで
身をやつして逃亡していたことが、「それ程もの屈辱を呑んでいた」という理由で
高祖劉邦の感銘を買い、その罪を許されて郎中や太守としての復帰をも許されている。
奴隷制が存在しようが存在するまいが、奴隷などという身分、奴隷である者のあり方などが
評価の対象などになることは、太古の昔から東洋ではなかった。むしろ、奴隷こそは透徹
して屈辱的な存在であると見なされていたからこそ、奴隷身分の伝統的な装束である剃髪が、
仏門における出家修行者のための「忍辱行」を兼ねる装束としても流用されたのだった。
何に対する信仰とも、どのような信仰とも限らない、信仰一般の中には
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
という完全誤謬信仰までもが自動的に含まれている。それは、奴隷が主人に対して
絶対服従であろうとする姿勢も同然であり、仮に未だ奴隷制が完全に解消されていない
ような世の中においてですら、善いか悪いかでいえば悪いものとされるものなのである。
奴隷制は日本でも鎌倉時代まで、中国でも「苦力」という形で中共建国前まで
存続していたが、それが決して倫理的な存在などであるからではなく、ただ
権力者などにとって都合のいい人材要員であるから容認されて来たまでのことだ。
遥か昔、楚漢戦争後に楚軍の落ち武者となった季布が、剃髪に首枷という奴隷装束にまで
身をやつして逃亡していたことが、「それ程もの屈辱を呑んでいた」という理由で
高祖劉邦の感銘を買い、その罪を許されて郎中や太守としての復帰をも許されている。
奴隷制が存在しようが存在するまいが、奴隷などという身分、奴隷である者のあり方などが
評価の対象などになることは、太古の昔から東洋ではなかった。むしろ、奴隷こそは透徹
して屈辱的な存在であると見なされていたからこそ、奴隷身分の伝統的な装束である剃髪が、
仏門における出家修行者のための「忍辱行」を兼ねる装束としても流用されたのだった。
透徹して卑しい存在、賤しい人のあり方と見なされるべき奴隷の、主人に対する服従姿勢も
同然の信仰としての完全誤謬信仰。仮に信仰が絶対化されるのであれば、完全誤謬信仰すら
もが絶対無謬のものとして扱われることとなってしまう。それは自明にダメなことなので、
信を無条件に絶対化することなども、決して誉められたものではないということが言える。
そのような、無条件に絶対的な信を誉めそやす神なども、ダメな神であることが間違いない。
何らかの方向性が指し示されていて、それを「一心不乱に信じよ」というのならまだしも、
全く以って、ただ信じることはそれだけで素晴らしいなどというのなら、原理的にダメだ。
原理的に、そこには必ず完全誤謬信仰の是認すらもが含まれているから、原理的にダメだ。
罪の奴隷の解放を謳って、ただ信仰の奴隷になることを促すだけの邪神などは、去れ。
「言語必ず信なるは、以って行いを正すがために非ざるなり」
「必ずと言っていいほど信じるに値する言葉があったとしても、それによって行いを正して
行こうとする目的があるから発せられるのではない。(まず正しい行いがあってから、次に正しい
言葉が発せられる。それこそは信じるにも値するのだから、優先順位も行>言>信だといえる。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
同然の信仰としての完全誤謬信仰。仮に信仰が絶対化されるのであれば、完全誤謬信仰すら
もが絶対無謬のものとして扱われることとなってしまう。それは自明にダメなことなので、
信を無条件に絶対化することなども、決して誉められたものではないということが言える。
そのような、無条件に絶対的な信を誉めそやす神なども、ダメな神であることが間違いない。
何らかの方向性が指し示されていて、それを「一心不乱に信じよ」というのならまだしも、
全く以って、ただ信じることはそれだけで素晴らしいなどというのなら、原理的にダメだ。
原理的に、そこには必ず完全誤謬信仰の是認すらもが含まれているから、原理的にダメだ。
罪の奴隷の解放を謳って、ただ信仰の奴隷になることを促すだけの邪神などは、去れ。
「言語必ず信なるは、以って行いを正すがために非ざるなり」
「必ずと言っていいほど信じるに値する言葉があったとしても、それによって行いを正して
行こうとする目的があるから発せられるのではない。(まず正しい行いがあってから、次に正しい
言葉が発せられる。それこそは信じるにも値するのだから、優先順位も行>言>信だといえる。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
親鸞聖人が法然上人の門下において、他の弟子たちと
「信不退(信仰を止めない)」と「行不退(実践を止めない)」の
いずれを優先するかという論議を行ったとき、他の弟子たちはみんな
行不退を選んだのに対し、親鸞聖人だけは信不退を選んだ。論議の後、
法然上人にいずれかを問えば、「わしも親鸞と同じく信不退に賛成する」と答えた。
他力本願の浄土信仰者としては、どんな行い以上にも信仰を守る他はないと。
それは裏返してみるならば、他力本願である以上は信仰に十分な行いが伴い得ないことを
認めるべきだということなのであり、何ら正しい行いを為せているわけでもない自らが望むような
こともまた、信仰に見合うほど高潔なものではないことをも認めるべきであるということだ。
他力本願の信者であるなら、仏法の内実すら理解できなくて当然である。
華厳経や弘法大師の言葉などに、善人正機(悪人ですら救われるのだから、善人が救われるのも当然である)
に相当するような言葉も見受けられるとした所で、それは仏法を理解できた者に対する言葉でこそある。
他力本願の信者は仏法も解さないから、仏法で非とされる妄念妄動にもまみれたままでいる。
だから、その妄念に仏法を掛け合わせるなら、「善人ですら救われるのだから、悪人が救われるのも当然である」
という自利作善の場合とは真逆の教条をあてがうほうが適切ともなる。何を望むべきなのかも分かっていないし、
見えてない所にあるものが何なのかも全然分かっていないから、教条もひっくり返してしまったほうが適切なのである。
「信不退(信仰を止めない)」と「行不退(実践を止めない)」の
いずれを優先するかという論議を行ったとき、他の弟子たちはみんな
行不退を選んだのに対し、親鸞聖人だけは信不退を選んだ。論議の後、
法然上人にいずれかを問えば、「わしも親鸞と同じく信不退に賛成する」と答えた。
他力本願の浄土信仰者としては、どんな行い以上にも信仰を守る他はないと。
それは裏返してみるならば、他力本願である以上は信仰に十分な行いが伴い得ないことを
認めるべきだということなのであり、何ら正しい行いを為せているわけでもない自らが望むような
こともまた、信仰に見合うほど高潔なものではないことをも認めるべきであるということだ。
他力本願の信者であるなら、仏法の内実すら理解できなくて当然である。
華厳経や弘法大師の言葉などに、善人正機(悪人ですら救われるのだから、善人が救われるのも当然である)
に相当するような言葉も見受けられるとした所で、それは仏法を理解できた者に対する言葉でこそある。
他力本願の信者は仏法も解さないから、仏法で非とされる妄念妄動にもまみれたままでいる。
だから、その妄念に仏法を掛け合わせるなら、「善人ですら救われるのだから、悪人が救われるのも当然である」
という自利作善の場合とは真逆の教条をあてがうほうが適切ともなる。何を望むべきなのかも分かっていないし、
見えてない所にあるものが何なのかも全然分かっていないから、教条もひっくり返してしまったほうが適切なのである。
行いも言葉も、思考すらもが正しくあり得ないというような状況において、自主的に望まれることもまた
正しいわけがない。>>75の孟子の言葉の通り、正しい行を為せる程に思考もまた正しい時にこそ、真に正しい
言葉もまた発せられて、その言葉こそは真に信ずるに値する言葉ともなるが、妄念まみれであるために妄動しか
来たせないような愚人が、どんなに聞こえのいい言葉を吐いてみた所で、その言葉も所詮は妄念から発されたもの。
だからこそ同レベルの愚人からの共感を得られ、愚人が妄念によって望むことをありのままに叶えようともするが、
そこで指し示される望みの成就は、聖人が正念に基づいて発する言葉のうちの望みの成就とは、反転すらしてしまう。
愚人こそは、「善人こそは救われる」という状況を忌み嫌い、「悪人こそは救われる」という状況の到来を
心底望んでいる。望んでいるということは、今はまだ十分にその望みが叶えられていないとも考えているのである。
一方で聖人こそは、「悪人こそは救われる」という状況を忌み嫌い、「善人こそは救われる」という状況の到来こそを
望んでいる。聖人の考えからいえば、他力本願によってでしか救われ得ないような事態は、もう十分すでに、悪人
こそは救われている状況だから、それを大前提とした上での、善人こそは救われる浄土への往生を望むのである。
今が「善人こそは救われる世の中」であるか「悪人こそは救われる世の中」であるかに関わらず、
愚人は「善人こそは救われる世の中」が「悪人こそは救われる世の中」になることを望み、
聖人は「悪人こそは救われる世の中」が「善人こそは救われる世の中」になることを望む。
聖人か愚人かで望みすらもが反転するのだから、愚人は、信仰に自らの希望を託しすらしてはならないのである。
「利口を悪むは其の信を乱るを恐るればなり」
「信ずるべきものを信ずることを乱すのを恐れるために、上辺だけの口達者をも憎むのである。
(イエスのような虚言癖の口達者こそは、信仰に託すべき望み、信仰の先にあるものをも撹乱するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三七より)
正しいわけがない。>>75の孟子の言葉の通り、正しい行を為せる程に思考もまた正しい時にこそ、真に正しい
言葉もまた発せられて、その言葉こそは真に信ずるに値する言葉ともなるが、妄念まみれであるために妄動しか
来たせないような愚人が、どんなに聞こえのいい言葉を吐いてみた所で、その言葉も所詮は妄念から発されたもの。
だからこそ同レベルの愚人からの共感を得られ、愚人が妄念によって望むことをありのままに叶えようともするが、
そこで指し示される望みの成就は、聖人が正念に基づいて発する言葉のうちの望みの成就とは、反転すらしてしまう。
愚人こそは、「善人こそは救われる」という状況を忌み嫌い、「悪人こそは救われる」という状況の到来を
心底望んでいる。望んでいるということは、今はまだ十分にその望みが叶えられていないとも考えているのである。
一方で聖人こそは、「悪人こそは救われる」という状況を忌み嫌い、「善人こそは救われる」という状況の到来こそを
望んでいる。聖人の考えからいえば、他力本願によってでしか救われ得ないような事態は、もう十分すでに、悪人
こそは救われている状況だから、それを大前提とした上での、善人こそは救われる浄土への往生を望むのである。
今が「善人こそは救われる世の中」であるか「悪人こそは救われる世の中」であるかに関わらず、
愚人は「善人こそは救われる世の中」が「悪人こそは救われる世の中」になることを望み、
聖人は「悪人こそは救われる世の中」が「善人こそは救われる世の中」になることを望む。
聖人か愚人かで望みすらもが反転するのだから、愚人は、信仰に自らの希望を託しすらしてはならないのである。
「利口を悪むは其の信を乱るを恐るればなり」
「信ずるべきものを信ずることを乱すのを恐れるために、上辺だけの口達者をも憎むのである。
(イエスのような虚言癖の口達者こそは、信仰に託すべき望み、信仰の先にあるものをも撹乱するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三七より)
自性は虚空であるが故に、あるいは絶対真理たる梵と一如であるが故に、清浄なものである。
しかし、人間の心身が必ずしも純粋な自性ばかりに律されているとも限らず、色声香味触法
といった外部からの受容によって大きな影響を被ることもある。それが時に人間自身の悪念や
悪思、悪言や悪行といった悪果として結実してしまうことがあるわけで、そこに道徳律(俗諦)
に根ざして紛れもなく「悪」と規定できる諸事物が生ずることもまた、確かな事実なのである。
過度に色欲をそそる異性、無制限な食欲を駆り立てる食物などは、それ自体が悪でなくても、
それを得ようとする側の人間の感情の焼け付きを生じさせて、以って妄念や妄言や妄動、
悪念や悪言や悪行へと走らせる原因になってしまう場合がある。もしも受容する人間の
側に十分な自制心があったり、「色声香味触法の一切は空である」といったような悟りが
あったならば、同様の受容によって妄念や妄動を生じさせるとも限らないわけで、そうである
限りにおいて、どこにも「悪」に相当する現象は生じていないことにもなるわけである。
権力犯罪聖書——通称聖書もまた、そのような「受容者に妄念妄動をけしかける種子(:=悪種)」の
一つだといえるが、犯罪聖書が他の悪種と違う点は、眼耳鼻舌身の五根に訴える五感(色声香味触)
の悪種ではなく、総合的な理念意志としてこそ受容される「法」の悪種、悪法である点だといえる。
悪法であるが故にこそ、五感に訴えかける即物的な悪種よりもその悪質さが捉えにくく、
過度に肉欲をそそる性風俗だとか、健康を損ねるほどに食欲を駆り立てるジャクフードだとかいった
ような、分かりやすい悪種に対すると同様な受容取り締まりの対象にしていくことはなかなか難しい。
ただ難しいだけでなく、悪法が世の中にもたらす害悪こそは突出して致命的なものでもあるために、
性風俗やジャンクフードを取り締まる程度の、生半な姿勢で取り締まれるものではないとも言える。
しかし、人間の心身が必ずしも純粋な自性ばかりに律されているとも限らず、色声香味触法
といった外部からの受容によって大きな影響を被ることもある。それが時に人間自身の悪念や
悪思、悪言や悪行といった悪果として結実してしまうことがあるわけで、そこに道徳律(俗諦)
に根ざして紛れもなく「悪」と規定できる諸事物が生ずることもまた、確かな事実なのである。
過度に色欲をそそる異性、無制限な食欲を駆り立てる食物などは、それ自体が悪でなくても、
それを得ようとする側の人間の感情の焼け付きを生じさせて、以って妄念や妄言や妄動、
悪念や悪言や悪行へと走らせる原因になってしまう場合がある。もしも受容する人間の
側に十分な自制心があったり、「色声香味触法の一切は空である」といったような悟りが
あったならば、同様の受容によって妄念や妄動を生じさせるとも限らないわけで、そうである
限りにおいて、どこにも「悪」に相当する現象は生じていないことにもなるわけである。
権力犯罪聖書——通称聖書もまた、そのような「受容者に妄念妄動をけしかける種子(:=悪種)」の
一つだといえるが、犯罪聖書が他の悪種と違う点は、眼耳鼻舌身の五根に訴える五感(色声香味触)
の悪種ではなく、総合的な理念意志としてこそ受容される「法」の悪種、悪法である点だといえる。
悪法であるが故にこそ、五感に訴えかける即物的な悪種よりもその悪質さが捉えにくく、
過度に肉欲をそそる性風俗だとか、健康を損ねるほどに食欲を駆り立てるジャクフードだとかいった
ような、分かりやすい悪種に対すると同様な受容取り締まりの対象にしていくことはなかなか難しい。
ただ難しいだけでなく、悪法が世の中にもたらす害悪こそは突出して致命的なものでもあるために、
性風俗やジャンクフードを取り締まる程度の、生半な姿勢で取り締まれるものではないとも言える。
権力犯罪聖書——通称聖書とは逆に、人々に善思善言善行を促す善法としての存在意義を持つのが、
他でもない権力道徳聖書——通称四書五経の記述なわけで、善法であるが故に悪法たる犯罪聖書とは
その記述内容がことごとく相反し、善法たる四書五経の実践に務める以上は、自動的に悪法たる
犯罪聖書の実践が滞り、以って悪思悪言悪行に及ぶこともできなくなるようになっている。
しかし、四書五経に記録されている道徳律もまた、善法とはいえ、「法」の内に入るものである。
実定法文至上主義は、それはそれで四書五経中の「左伝」昭公六年などで批判的に取り上げられている
ものだが、孔子や孟子がその主な把捉者として立ち回っている権力道徳律もまた、易学にも根ざした
普遍的な法則でもあるにしたって、一般的な観点から見た場合の「法」であるにも違いないのである。
「法治主義」というものは、どんな形を取るのであれ、作為の極みとなる。善法であれ悪法であれ
実定法であれ、法による統治支配を絶対化しようとしたならば、その作為の過剰さこそが破綻を招く
原因ともなる。悪法を排し、実定法を緩和し、善法を推進していくことが「最も優良な法の受容法」
ともなるが、さりとて法の受容が過剰すぎれば、それがどうしたって瓦解の原因ともなってしまうのである。
だから、色声香味触の五根だけでなく、第六根の法もまた、善悪実定の如何に関わらず、「その一切が
空である」というほどもの諦観を抱いて、法全般の受容に取り組むこともまた国家鎮護、天下平定の
ための重要な指針となる。それがまた、法の受容が悪果に結び付かないための叡知ともなるなのである。
「天の烝民を生める、物有りて則有り。民は之の彝に秉い、是の懿鄹を好めり」
「天がこの世に諸々の民を生じさせ、その物としての性質に即して規則をも生じさせた。
民はその本性に根ざして、純正な規則を守ることの威徳を好んだ。(『孟子』告子章句上・六で性善論の
論拠ともしている句。仁徳を人々は本性から好んでいるから、その実践が善因楽果をももたらすのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・烝民より)
他でもない権力道徳聖書——通称四書五経の記述なわけで、善法であるが故に悪法たる犯罪聖書とは
その記述内容がことごとく相反し、善法たる四書五経の実践に務める以上は、自動的に悪法たる
犯罪聖書の実践が滞り、以って悪思悪言悪行に及ぶこともできなくなるようになっている。
しかし、四書五経に記録されている道徳律もまた、善法とはいえ、「法」の内に入るものである。
実定法文至上主義は、それはそれで四書五経中の「左伝」昭公六年などで批判的に取り上げられている
ものだが、孔子や孟子がその主な把捉者として立ち回っている権力道徳律もまた、易学にも根ざした
普遍的な法則でもあるにしたって、一般的な観点から見た場合の「法」であるにも違いないのである。
「法治主義」というものは、どんな形を取るのであれ、作為の極みとなる。善法であれ悪法であれ
実定法であれ、法による統治支配を絶対化しようとしたならば、その作為の過剰さこそが破綻を招く
原因ともなる。悪法を排し、実定法を緩和し、善法を推進していくことが「最も優良な法の受容法」
ともなるが、さりとて法の受容が過剰すぎれば、それがどうしたって瓦解の原因ともなってしまうのである。
だから、色声香味触の五根だけでなく、第六根の法もまた、善悪実定の如何に関わらず、「その一切が
空である」というほどもの諦観を抱いて、法全般の受容に取り組むこともまた国家鎮護、天下平定の
ための重要な指針となる。それがまた、法の受容が悪果に結び付かないための叡知ともなるなのである。
「天の烝民を生める、物有りて則有り。民は之の彝に秉い、是の懿鄹を好めり」
「天がこの世に諸々の民を生じさせ、その物としての性質に即して規則をも生じさせた。
民はその本性に根ざして、純正な規則を守ることの威徳を好んだ。(『孟子』告子章句上・六で性善論の
論拠ともしている句。仁徳を人々は本性から好んでいるから、その実践が善因楽果をももたらすのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・烝民より)
随順するものが、主導するものの安全保障にかまけて驕り高ぶる状態というのは、
言ってみれば「カカア天下」であり、随順者である以上はしおらしく主導者の後を
追っていく「夫唱婦随」の状態と比べて、まことに不健全なものであるといえる。
随順者が驕り高ぶってまでいながら、主導者が無制限にその安全をも保障し続けて
やろうとする所に、大きなロスが生ずる。その端緒が欧米聖書圏における軍備過剰や、
綱渡り状態の経済政策だったりもするわけで、始めから夫唱婦随が確立されたままで、
女子供や小人がやりたい放題することなく君子の後を追うように努めていたならば、
そこまで経済や軍事を自壊級にまで煩雑化させる必要などもなかったのである。
陰陽不全のカカア天下状態、女子供や小人こそはやりたい放題できる状態——
それを今では「民主制」とも呼ぶ——を推進した挙句に、経済や軍事の規模が過剰に
肥大化した、のみならず、父権への甚だしい軽蔑が少子高齢化にも結び付き、国全体
としては男尊女卑の風潮を保っている中国やインドや中東諸国などに、人口面やその
内部構成の健全度などの面において、大きく水を開けられることともなってしまった。
女々しい信者の立場に立った、軽薄な記述ばかりが目立つ犯罪聖書などと違い、
四書五経の記述はどこまでも君子本位であり、女子供はおろか、小人(被支配階級)
の男の立場に立った記述すらもが、ほぼ皆無に等しい。その記述姿勢からしてすでに、
夫唱婦随を実現していくことを目的としているのであり、君子本位の記述だからと
いって、女子供や小人を全くの度外視にしていたりするわけでもないのである。
言ってみれば「カカア天下」であり、随順者である以上はしおらしく主導者の後を
追っていく「夫唱婦随」の状態と比べて、まことに不健全なものであるといえる。
随順者が驕り高ぶってまでいながら、主導者が無制限にその安全をも保障し続けて
やろうとする所に、大きなロスが生ずる。その端緒が欧米聖書圏における軍備過剰や、
綱渡り状態の経済政策だったりもするわけで、始めから夫唱婦随が確立されたままで、
女子供や小人がやりたい放題することなく君子の後を追うように努めていたならば、
そこまで経済や軍事を自壊級にまで煩雑化させる必要などもなかったのである。
陰陽不全のカカア天下状態、女子供や小人こそはやりたい放題できる状態——
それを今では「民主制」とも呼ぶ——を推進した挙句に、経済や軍事の規模が過剰に
肥大化した、のみならず、父権への甚だしい軽蔑が少子高齢化にも結び付き、国全体
としては男尊女卑の風潮を保っている中国やインドや中東諸国などに、人口面やその
内部構成の健全度などの面において、大きく水を開けられることともなってしまった。
女々しい信者の立場に立った、軽薄な記述ばかりが目立つ犯罪聖書などと違い、
四書五経の記述はどこまでも君子本位であり、女子供はおろか、小人(被支配階級)
の男の立場に立った記述すらもが、ほぼ皆無に等しい。その記述姿勢からしてすでに、
夫唱婦随を実現していくことを目的としているのであり、君子本位の記述だからと
いって、女子供や小人を全くの度外視にしていたりするわけでもないのである。
四書五経やその他諸々の漢籍(一部文学書などを除く)の、君子本位を貫く
記述姿勢こそはありのままに、社会規模での夫唱婦随の実現を企図したものである。
文学小説や諸々の洋学書のように、女子供や小人階級こそを主な読者層とし、
実際に女子供や小人こそを主人公としたような著述を心がけること自体がすでに、
世の中総出でのカカア天下状態の実現を企図したものであるということもまた言える。
女子供や小人を本位とする、よさげにいえば民主主義的、直言すれば
カカア天下的な書物の著述姿勢に権威を付与している最大級の存在こそは、
他でもない犯罪聖書であり、ギリシャ古典あたりがそれに次ぐ存在となっている。
多くの漢籍だけでなく、ヴェーダやウパニシャッドや仏典といったインド古典もまた、
バラモン階級や沙門階級が自分たちのために編み出したものであるため、上記のような
条件は満たしていない。イスラムのコーランやハディースもまた、一人前の軍政家でもあった
ムハンマドの口承記録やその敷衍であり、やはり為政本位の著述であることには変わりない。
世の中で最大級の実力を持つ君子を本位とした著述文化は、やはり中国古典に極まる。
一方、小人や女子供を本位とした著述文化は、やはりイスラエル以西の西洋に多い。
中国よりもさらに東方の日本では、もはや男が長々とした文章を書き溜めるまでもなく
速攻の実践に臨むことが主眼とされたため、君子本位の古典文学が別に多いということもないが、
著述に臨む以上はなるべく君子本位であろうとし、小人や女子供本位ではないほうがよい。
世界最高の女流作家である紫式部もまた、「史記」や「漢書」のような君子の事跡を主に記録した
大説を好んだというのだから、女子供だからといって君子本位の著述を遠ざけるべきでもない。
記述姿勢こそはありのままに、社会規模での夫唱婦随の実現を企図したものである。
文学小説や諸々の洋学書のように、女子供や小人階級こそを主な読者層とし、
実際に女子供や小人こそを主人公としたような著述を心がけること自体がすでに、
世の中総出でのカカア天下状態の実現を企図したものであるということもまた言える。
女子供や小人を本位とする、よさげにいえば民主主義的、直言すれば
カカア天下的な書物の著述姿勢に権威を付与している最大級の存在こそは、
他でもない犯罪聖書であり、ギリシャ古典あたりがそれに次ぐ存在となっている。
多くの漢籍だけでなく、ヴェーダやウパニシャッドや仏典といったインド古典もまた、
バラモン階級や沙門階級が自分たちのために編み出したものであるため、上記のような
条件は満たしていない。イスラムのコーランやハディースもまた、一人前の軍政家でもあった
ムハンマドの口承記録やその敷衍であり、やはり為政本位の著述であることには変わりない。
世の中で最大級の実力を持つ君子を本位とした著述文化は、やはり中国古典に極まる。
一方、小人や女子供を本位とした著述文化は、やはりイスラエル以西の西洋に多い。
中国よりもさらに東方の日本では、もはや男が長々とした文章を書き溜めるまでもなく
速攻の実践に臨むことが主眼とされたため、君子本位の古典文学が別に多いということもないが、
著述に臨む以上はなるべく君子本位であろうとし、小人や女子供本位ではないほうがよい。
世界最高の女流作家である紫式部もまた、「史記」や「漢書」のような君子の事跡を主に記録した
大説を好んだというのだから、女子供だからといって君子本位の著述を遠ざけるべきでもない。
「孔子曰く、似て非なる者を悪む。莠を悪むは其の苗を乱るを恐れればなり。佞を悪むは、其の義を乱るを恐れればなり。利口を
悪むは、其の信を乱るを恐れればなり鄭声を悪むは、其の楽を乱るを恐れればなり。紫を悪むは、其の朱を乱るを恐れればなり。
郷原を悪むは、其の徳を乱るを恐れればなり。君子は経に反るのみ。経を正せば則ち庶民興り、庶民興るれば斯ち邪慝なし」
「孔先生は言われた。『似て非なる類いのものをよく思わぬ。苗に似た雑草をよく思わないのは、穀類の苗を紛らわすことを
恐れるから。阿りの徒をよく思わないのは、道義を紛らわすのを恐れるから。口達者をよく思わないのは、信頼性を紛らわす
のを恐れるから。紫のような間色をよく思わないのは、赤のような原色を紛らわすのを恐れるから。世間知らずの偽善者を
よく思わないのは、仁徳を紛らわすのを恐れるから』 君子はこのように危うきをよく恐れて、本来の道に立ち返るのみである。
道が正されれば庶民までもがそれに倣って道徳を振興し、庶民までもが道徳を振興するぐらいだから、詐悪も起こらなくなる。
(君子がよく詐悪の害を恐れ憎むようにして、庶民もまたその姿を倣い、以って天下全土における詐悪の害もまた鎮まるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三七より)
悪むは、其の信を乱るを恐れればなり鄭声を悪むは、其の楽を乱るを恐れればなり。紫を悪むは、其の朱を乱るを恐れればなり。
郷原を悪むは、其の徳を乱るを恐れればなり。君子は経に反るのみ。経を正せば則ち庶民興り、庶民興るれば斯ち邪慝なし」
「孔先生は言われた。『似て非なる類いのものをよく思わぬ。苗に似た雑草をよく思わないのは、穀類の苗を紛らわすことを
恐れるから。阿りの徒をよく思わないのは、道義を紛らわすのを恐れるから。口達者をよく思わないのは、信頼性を紛らわす
のを恐れるから。紫のような間色をよく思わないのは、赤のような原色を紛らわすのを恐れるから。世間知らずの偽善者を
よく思わないのは、仁徳を紛らわすのを恐れるから』 君子はこのように危うきをよく恐れて、本来の道に立ち返るのみである。
道が正されれば庶民までもがそれに倣って道徳を振興し、庶民までもが道徳を振興するぐらいだから、詐悪も起こらなくなる。
(君子がよく詐悪の害を恐れ憎むようにして、庶民もまたその姿を倣い、以って天下全土における詐悪の害もまた鎮まるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三七より)
何かを敬う以上は、神仏よりも主君よりも、まず先に敬いの対象とすべき相手として、実の親がある。
(鬼籍の先祖を神仏とする場合にのみ、親への崇敬と神仏崇拝もまた一如となる)
その親に対する敬いを他者に対しても振り向けていく場合に、その敬いが最も着実な敬いとなる一方、
親や先祖への敬いを蔑ろにした所から試みられる敬いは、いかなるものであろうとも、虚構止まりとなる。
聖書圏において、神への信仰や敬いを欠くもの、それ即ちニヒリスト(虚無主義者)であり、
誰に対する崇敬も持たない無頼者の代名詞ともされている。これこそは、聖書信者が親や先祖への
敬いを蔑ろにしているのみならず、親や先祖への敬いなどは「始めから存在しないもの」
であるなどと、完全に思い込み尽くしてしまっている証拠であるといえる。
紀元前の西洋文化や、犯罪聖書におけるイエスらの暴言暴行を鑑みるに、キリスト信仰が蔓延する
以前の西洋において、それなりに親族先祖への崇敬を嗜む文化もまたあったように見受けられる。その上で、
実父の素性が定かでないイエスを「神の子」として祭り上げたり、キリスト信仰によって他の神仏への崇拝を
破壊するなどして、聖書信仰が親や先祖に対する崇敬の文化を人工的に破壊していった形跡が多々見られる。
ただ、それはもう2000年近くも前の話で、現今の聖書信者にとっては、自分たちの先祖が人工的に
親や先祖への崇敬を破棄して、あえて好き好んで聖書信仰だけに惑溺していったという史実に対する認識
すらもがもはや疎かとなっているから、「敬いといえば神への敬いが第一」「神への敬いを欠いた所にあるのは
ニヒリズムのみ」などというような、完全に間違った思い込みに凝り固まるまでに至ってしまっているのである。
(鬼籍の先祖を神仏とする場合にのみ、親への崇敬と神仏崇拝もまた一如となる)
その親に対する敬いを他者に対しても振り向けていく場合に、その敬いが最も着実な敬いとなる一方、
親や先祖への敬いを蔑ろにした所から試みられる敬いは、いかなるものであろうとも、虚構止まりとなる。
聖書圏において、神への信仰や敬いを欠くもの、それ即ちニヒリスト(虚無主義者)であり、
誰に対する崇敬も持たない無頼者の代名詞ともされている。これこそは、聖書信者が親や先祖への
敬いを蔑ろにしているのみならず、親や先祖への敬いなどは「始めから存在しないもの」
であるなどと、完全に思い込み尽くしてしまっている証拠であるといえる。
紀元前の西洋文化や、犯罪聖書におけるイエスらの暴言暴行を鑑みるに、キリスト信仰が蔓延する
以前の西洋において、それなりに親族先祖への崇敬を嗜む文化もまたあったように見受けられる。その上で、
実父の素性が定かでないイエスを「神の子」として祭り上げたり、キリスト信仰によって他の神仏への崇拝を
破壊するなどして、聖書信仰が親や先祖に対する崇敬の文化を人工的に破壊していった形跡が多々見られる。
ただ、それはもう2000年近くも前の話で、現今の聖書信者にとっては、自分たちの先祖が人工的に
親や先祖への崇敬を破棄して、あえて好き好んで聖書信仰だけに惑溺していったという史実に対する認識
すらもがもはや疎かとなっているから、「敬いといえば神への敬いが第一」「神への敬いを欠いた所にあるのは
ニヒリズムのみ」などというような、完全に間違った思い込みに凝り固まるまでに至ってしまっているのである。
聖書の神のような、我が家の祖霊でもない雑神は、仮りに敬うに値する神である
としたところで、優先順位でいえば「四番目以降」に敬うべき神であるといえる。
まず一番目に敬うべきなのが、上にも書いたとおり実際の親である。
また、祖霊を祀った神仏に限って親とも順位が等しく、同率一位であるといえる。
親と祖霊の次、三番目に敬うべきなのが、自国の主君である。
これまた敬うべき度合いでは親並みであるといえるが、親族に対する親密さを帯びた敬意こそを主君にも援用して
振り向けるべきであるから、親や祖霊を敬ってから、その敬意こそを主君にも振り向けるようにすべきだといえる。
親と、祖霊と、主君の次に敬うべきなのが、上天名山大川神仙その他、諸々の雑多な神仏であり、
聖書の神も入れるとするならここに入る(無論、邪神だからここにすら入れてはならないともいえる)。
これらの神仏は崇敬対象としての優先順位が低いのみならず、場合によっては「まだ敬ってはいけない」という場合
すらある。始皇帝のように中国一帯での暴政を繰り返しながら、中国一の名山である泰山の神を我流の礼法で祭ろう
としたら、暴風雨が吹き荒れて台無しになったという逸話もあるように(「史記」封禅書)、自分にそれらの神仏を
祭るだけの身分なり資格なりが整ってからでないと、まだ崇敬の対象にしてはいけないという場合すらもがある。
聖書の神が邪神であるのは、優先順位がより高い親や祖霊や主君への敬いをも蔑ろにした、
虚構の敬いこそを信者に強要するからである。その信仰を欠いた所に、元信者が人工的なニヒリズムを
患うのみならず、その信仰に基づく神への敬い自体が、ありのままに虚構の敬いでしかなくもある。
「虚構だ」と断じられるのも、本当に大切なものへの敬いを蔑ろにしてから講じられる聖書信者の敬いが、
本当に大切なものへの敬いと比べて、どこまでも薄っぺらいもの止まりでしかないからである。
としたところで、優先順位でいえば「四番目以降」に敬うべき神であるといえる。
まず一番目に敬うべきなのが、上にも書いたとおり実際の親である。
また、祖霊を祀った神仏に限って親とも順位が等しく、同率一位であるといえる。
親と祖霊の次、三番目に敬うべきなのが、自国の主君である。
これまた敬うべき度合いでは親並みであるといえるが、親族に対する親密さを帯びた敬意こそを主君にも援用して
振り向けるべきであるから、親や祖霊を敬ってから、その敬意こそを主君にも振り向けるようにすべきだといえる。
親と、祖霊と、主君の次に敬うべきなのが、上天名山大川神仙その他、諸々の雑多な神仏であり、
聖書の神も入れるとするならここに入る(無論、邪神だからここにすら入れてはならないともいえる)。
これらの神仏は崇敬対象としての優先順位が低いのみならず、場合によっては「まだ敬ってはいけない」という場合
すらある。始皇帝のように中国一帯での暴政を繰り返しながら、中国一の名山である泰山の神を我流の礼法で祭ろう
としたら、暴風雨が吹き荒れて台無しになったという逸話もあるように(「史記」封禅書)、自分にそれらの神仏を
祭るだけの身分なり資格なりが整ってからでないと、まだ崇敬の対象にしてはいけないという場合すらもがある。
聖書の神が邪神であるのは、優先順位がより高い親や祖霊や主君への敬いをも蔑ろにした、
虚構の敬いこそを信者に強要するからである。その信仰を欠いた所に、元信者が人工的なニヒリズムを
患うのみならず、その信仰に基づく神への敬い自体が、ありのままに虚構の敬いでしかなくもある。
「虚構だ」と断じられるのも、本当に大切なものへの敬いを蔑ろにしてから講じられる聖書信者の敬いが、
本当に大切なものへの敬いと比べて、どこまでも薄っぺらいもの止まりでしかないからである。
「君に事えては、其の事うるを敬して其の食を後にす」
「主君に仕える場合には、仕える以上はまず敬うことに務め、褒美を頂くことなどは後回しにする。
(君父の尊位に根ざした仕官にかけての敬いこそは、まず褒美ありきな聖書信仰の敬いなどよりも確実に誠実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三八より)
「主君に仕える場合には、仕える以上はまず敬うことに務め、褒美を頂くことなどは後回しにする。
(君父の尊位に根ざした仕官にかけての敬いこそは、まず褒美ありきな聖書信仰の敬いなどよりも確実に誠実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三八より)
聞いても聡からず、言っても実に欠けるばかりなら、
そんな耳や口は始めから機能していないほうがマシですらある。
母子家庭育ちの妾腹の私生児としての、自らの賤しさを心底恥じていたから、
孔子は郷里では唖オシも同然の拙い物言いしかしなかったという。それでいて、
逆境を乗り越えるための猛勉強によって培われた言行の丹精豊かさが、朝廷
等の公けの場では大いに発揮され、その姿があまりにも悠然としていたために、
諸侯が孔子と同席するのを躊躇ったほどであったという。(「韓非子」より)
人の言うことを聞いてよく学ぶ従順な耳を持ち、時と場合とを選んで
発すべき言葉を適格に発する口とが備わるのなら、それに越したことはない。
逆に、聞いても何も学ぶことがなく、いくらでも聞いたことを捻じ曲げてしまう
勝手な耳を持ち、人を欺くような虚言ばかりを発する口を得るぐらいなら、
そんな耳や口はないほうがマシである。もしもそうであったりするのなら、
郷里で唖のように振る舞っていた孔子のあり方こそを見習うべきだといえる。
ただ聴力がある、話術に長けるというだけでは、善いとも悪いとも言えない。
聞き分けの悪い耳や虚言癖持ちの口が、かえって度し難いということもあるし、
実際に盗聴や虚偽のような犯罪行為にすら発展し得るもの。それは聴力も話術も
持たなければ犯しえない罪なわけだから、聴力や話術があればこその宿命だといえる。
そんな耳や口は始めから機能していないほうがマシですらある。
母子家庭育ちの妾腹の私生児としての、自らの賤しさを心底恥じていたから、
孔子は郷里では唖オシも同然の拙い物言いしかしなかったという。それでいて、
逆境を乗り越えるための猛勉強によって培われた言行の丹精豊かさが、朝廷
等の公けの場では大いに発揮され、その姿があまりにも悠然としていたために、
諸侯が孔子と同席するのを躊躇ったほどであったという。(「韓非子」より)
人の言うことを聞いてよく学ぶ従順な耳を持ち、時と場合とを選んで
発すべき言葉を適格に発する口とが備わるのなら、それに越したことはない。
逆に、聞いても何も学ぶことがなく、いくらでも聞いたことを捻じ曲げてしまう
勝手な耳を持ち、人を欺くような虚言ばかりを発する口を得るぐらいなら、
そんな耳や口はないほうがマシである。もしもそうであったりするのなら、
郷里で唖のように振る舞っていた孔子のあり方こそを見習うべきだといえる。
ただ聴力がある、話術に長けるというだけでは、善いとも悪いとも言えない。
聞き分けの悪い耳や虚言癖持ちの口が、かえって度し難いということもあるし、
実際に盗聴や虚偽のような犯罪行為にすら発展し得るもの。それは聴力も話術も
持たなければ犯しえない罪なわけだから、聴力や話術があればこその宿命だといえる。
あらゆる道徳上の教条のうちでも、
「礼にあらざれば聴くことなかれ。礼にあらざれば言うことなかれ(顔淵第十二・一)」
という教条ほどにも、現代社会において著しく蔑ろにされている教条も他に無い。
ただ蔑ろにされているのみならず、蔑ろにすることが少しも悪いことだとすら捉えられておらず、
むしろとにかく何でも聞いて、何でも言うことこそは正義であるとすら見なされている感がある。
聞くべきでないことを聞かなかった、言うべきでないことを言わなかったがための
好影響というのは、色々と聞いたり言ったりした場合の影響ほどには、分かりやすくない。
水面に石を投げて波紋を立てるよりも、始めから石を投げないでいることのほうが、
その結果どうなったかが分かりにくいのも当然なことで、なおのこと、その先にある
平穏無事の好影響を察せるか否かに、石投げを踏み止まる決断もまた左右されるのである。
好影響は、確かにあるのである。未だ無闇に耳聡く、歯に衣着せないでいる内からそれを
察するのは難しくても、耳と口との悪用を取りやめることの功徳は、確かな結果となって現れる。
せいぜいその瞬間まで、自分たちが耳口の悪用を踏み止まったことを、よく自覚しておくことだ。
「礼にあらざれば聴くことなかれ。礼にあらざれば言うことなかれ(顔淵第十二・一)」
という教条ほどにも、現代社会において著しく蔑ろにされている教条も他に無い。
ただ蔑ろにされているのみならず、蔑ろにすることが少しも悪いことだとすら捉えられておらず、
むしろとにかく何でも聞いて、何でも言うことこそは正義であるとすら見なされている感がある。
聞くべきでないことを聞かなかった、言うべきでないことを言わなかったがための
好影響というのは、色々と聞いたり言ったりした場合の影響ほどには、分かりやすくない。
水面に石を投げて波紋を立てるよりも、始めから石を投げないでいることのほうが、
その結果どうなったかが分かりにくいのも当然なことで、なおのこと、その先にある
平穏無事の好影響を察せるか否かに、石投げを踏み止まる決断もまた左右されるのである。
好影響は、確かにあるのである。未だ無闇に耳聡く、歯に衣着せないでいる内からそれを
察するのは難しくても、耳と口との悪用を取りやめることの功徳は、確かな結果となって現れる。
せいぜいその瞬間まで、自分たちが耳口の悪用を踏み止まったことを、よく自覚しておくことだ。
「戎を成すとも退けず、飢えを成すとも遂んぜられず。
曾ち我が蟄御も、僭僭として日びに瘁める。凡百の君子も、
肯て用て訊める莫し。聴言には則ち答え、譖言には則ち退く。(ここから既出)
哀しきかな言るに能わず、匪れ舌より是れ出ずれば、維ち躬に是れ瘁しむ。
しかも能言のやからの、巧言の流るるが如きは、躬を俾て休きに處らしむ」
「戦乱が起これば平定することもできず、飢饉が起きれば安んずることもできず。
朝廷の内臣たちも暴慢にかられて頭をおかしくしているばかり。中位の官吏たちも
上司の腐敗をよく諌めることができないのは、おもねる言葉は聞き入れられても、
耳に痛い忠言は即座に退けられるから。哀しきかな、正しい言葉を口にするほど
わが身を貶める結果となってしまう現状は。それでいて、能弁に長ける連中どもが
有害無益な巧言によって上に取り入ることで、甘い汁を吸っているとまで来ている。
(聴力や話術の悪用が、戦乱や飢餓の放置に直結していることをよく明示している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
曾ち我が蟄御も、僭僭として日びに瘁める。凡百の君子も、
肯て用て訊める莫し。聴言には則ち答え、譖言には則ち退く。(ここから既出)
哀しきかな言るに能わず、匪れ舌より是れ出ずれば、維ち躬に是れ瘁しむ。
しかも能言のやからの、巧言の流るるが如きは、躬を俾て休きに處らしむ」
「戦乱が起これば平定することもできず、飢饉が起きれば安んずることもできず。
朝廷の内臣たちも暴慢にかられて頭をおかしくしているばかり。中位の官吏たちも
上司の腐敗をよく諌めることができないのは、おもねる言葉は聞き入れられても、
耳に痛い忠言は即座に退けられるから。哀しきかな、正しい言葉を口にするほど
わが身を貶める結果となってしまう現状は。それでいて、能弁に長ける連中どもが
有害無益な巧言によって上に取り入ることで、甘い汁を吸っているとまで来ている。
(聴力や話術の悪用が、戦乱や飢餓の放置に直結していることをよく明示している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
善行の規範としての権力道徳聖書——通称四書五経の記述が完璧に磐石だから、
その四書五経と真逆の記述を寄せ集めているだけでしかない
権力犯罪聖書——通称聖書もまた、悪行の規範としては完璧に磐石なものである。
天人修羅の三善趣と共に、地獄餓鬼畜生の三悪趣が六道の内に包含されているように、
人が善行に反する悪行によって、一定の生活規範を保てることもまた一つの真理である。
天道や人道に即して磐石な人生を送れるほどにも、餓鬼道や畜生道に即して磐石な
人生を送ることが実際、人間には可能である。ただ、三善趣(特に人天の二道)と
三悪趣が一ところで共存や共栄することだけは真理に即して不可能なことであり、
どちらかが威勢を蓄えたぶんだけ、もう一方の威勢は必ず衰えることになる。
実際、聖書信仰によって世界中が悪逆非道の渦中に巻き込まれた結果、
既存の教学文化のうちでも、善行を旨とするものであればあるほど、表社会からの
雲隠れを決め込むこととなってしまった。儒学や大乗仏教の実践はほぼ完璧に廃れ、
神道や道教やヒンズー教も、その品質を大幅に低下させてしまっている。修羅道に
勧善懲悪の情緒を加味した日本の武道も、権威を失墜させてその多くが形骸化し、
スポーツ化で高尚な精神性を失った流派ほど幅を利かせるようにもなっている。
(そういう形骸的な武道ほど、実際、勧善懲悪のために善用することも困難なのである)
ただ衰退しているというばかりでなく、確信的に隠退を決め込んでいる流派もまた
いくらかはあるはずで、そこには右往左往するような優柔不断さも全くない。ただ、
悪逆非道によって世界を侵略し尽くそうとする不埒者などには決して教授してやる
こともない、独自の秘伝や密法をひたすら温存していくことにのみ徹しているのである。
その四書五経と真逆の記述を寄せ集めているだけでしかない
権力犯罪聖書——通称聖書もまた、悪行の規範としては完璧に磐石なものである。
天人修羅の三善趣と共に、地獄餓鬼畜生の三悪趣が六道の内に包含されているように、
人が善行に反する悪行によって、一定の生活規範を保てることもまた一つの真理である。
天道や人道に即して磐石な人生を送れるほどにも、餓鬼道や畜生道に即して磐石な
人生を送ることが実際、人間には可能である。ただ、三善趣(特に人天の二道)と
三悪趣が一ところで共存や共栄することだけは真理に即して不可能なことであり、
どちらかが威勢を蓄えたぶんだけ、もう一方の威勢は必ず衰えることになる。
実際、聖書信仰によって世界中が悪逆非道の渦中に巻き込まれた結果、
既存の教学文化のうちでも、善行を旨とするものであればあるほど、表社会からの
雲隠れを決め込むこととなってしまった。儒学や大乗仏教の実践はほぼ完璧に廃れ、
神道や道教やヒンズー教も、その品質を大幅に低下させてしまっている。修羅道に
勧善懲悪の情緒を加味した日本の武道も、権威を失墜させてその多くが形骸化し、
スポーツ化で高尚な精神性を失った流派ほど幅を利かせるようにもなっている。
(そういう形骸的な武道ほど、実際、勧善懲悪のために善用することも困難なのである)
ただ衰退しているというばかりでなく、確信的に隠退を決め込んでいる流派もまた
いくらかはあるはずで、そこには右往左往するような優柔不断さも全くない。ただ、
悪逆非道によって世界を侵略し尽くそうとする不埒者などには決して教授してやる
こともない、独自の秘伝や密法をひたすら温存していくことにのみ徹しているのである。
人天こそは勇躍の機会を得る、浄土が仏の加護を得ることはあっても、鬼畜の天下たる
穢土が仏や本物の神の加護を得ることもないので、悪逆非道にまみれた穢土こそは、
いつかは必ず自業自得で潰える運命にある。穢土が潰え去り、鬼畜が滅び尽くした後に
また善趣の文化が息を吹き返し、穢土では隠し通されていた諸々の秘法までもが開陳
されていくこととなる。その神々しき文化興隆に一切協賛することができないことが、
穢土こそを我が世としていた鬼畜どもに対する、最大級の罰ともなるのである。
むしろ知らないでいたほうがマシだったような、浅知恵悪知恵ばかりを貪った挙句に
自業自得で滅亡し、真に価値ある知恵や、それに根ざした文化が花開くときには
もはや自分たち自身がこの世にいない。これ程もの不幸が、他にあるだろうか?
「孟子斉を去りて、休に居る。公孫丑問うて曰く、仕えて而も禄を受けざるは、古えの道か。曰く、
非なり。崇に於いて吾れ王に見えるを得るも、退きて去るの志し有り。変るを欲せず、故に受けざるなり」
「孟先生はしばらく滞在していた斉国を去って、休という場所に居た。門弟の公孫丑が『先生は斉国で
客卿としての待遇に与りましたのに、俸禄も受けずに立ち去ってしまいました。これは古の道でしょうか』
先生『そうではない。私は斉国の崇という地で初めて王に謁見したが、それ以来私は色々な献言を尽くしてきた。
しかしその言葉はどれも聞き入れられなかったので、私も退役する志しを固めた。まるで仕事を果たしたかの
ように自他を偽りたくなかったので、俸禄も受けなかったのだ』(孟子が、俸禄を得たからには死兵
とすらなって働く食客風情などとは、明らかに一線を引いていたことがうかがえる逸話にあたる。
恵みを得られる得られないなどという打算にすら動かされない、確かな信念があったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一四より)
穢土が仏や本物の神の加護を得ることもないので、悪逆非道にまみれた穢土こそは、
いつかは必ず自業自得で潰える運命にある。穢土が潰え去り、鬼畜が滅び尽くした後に
また善趣の文化が息を吹き返し、穢土では隠し通されていた諸々の秘法までもが開陳
されていくこととなる。その神々しき文化興隆に一切協賛することができないことが、
穢土こそを我が世としていた鬼畜どもに対する、最大級の罰ともなるのである。
むしろ知らないでいたほうがマシだったような、浅知恵悪知恵ばかりを貪った挙句に
自業自得で滅亡し、真に価値ある知恵や、それに根ざした文化が花開くときには
もはや自分たち自身がこの世にいない。これ程もの不幸が、他にあるだろうか?
「孟子斉を去りて、休に居る。公孫丑問うて曰く、仕えて而も禄を受けざるは、古えの道か。曰く、
非なり。崇に於いて吾れ王に見えるを得るも、退きて去るの志し有り。変るを欲せず、故に受けざるなり」
「孟先生はしばらく滞在していた斉国を去って、休という場所に居た。門弟の公孫丑が『先生は斉国で
客卿としての待遇に与りましたのに、俸禄も受けずに立ち去ってしまいました。これは古の道でしょうか』
先生『そうではない。私は斉国の崇という地で初めて王に謁見したが、それ以来私は色々な献言を尽くしてきた。
しかしその言葉はどれも聞き入れられなかったので、私も退役する志しを固めた。まるで仕事を果たしたかの
ように自他を偽りたくなかったので、俸禄も受けなかったのだ』(孟子が、俸禄を得たからには死兵
とすらなって働く食客風情などとは、明らかに一線を引いていたことがうかがえる逸話にあたる。
恵みを得られる得られないなどという打算にすら動かされない、確かな信念があったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一四より)
罪障は、それを脳が把捉しているといないとに関わらず、
相応の贖罪に基づくのでなければ、消えることも減ることもない。
カルト信仰の酩酊によって罪障の把捉を完全に疎かにしたままでいられた所で、
最悪、人類滅亡級の悪因苦果にまで結実する罪障のほうは、着実に肥大化していくのみである。
罪を犯した以上は、自らがその罪を相応の罰によって償うのみである。
宗教信仰やその実践などは、罪障を十分に抑制できてから初めて嗜むべきもので、まだ自分が
罪障まみれの内から、逃避目的の宗教信仰などに走ることは、どこまでも卑劣なことでしかない。
卑劣なことだから、罪障の肥大化からなる致命的な規模の悪因苦果もまた避けられるものではない。
大きな罪を犯したままでいるというのなら、どんな宗教信仰やその実践に務めること以上にも、
社会的に公正な手続きに即して罪を償うことを優先すべきである。「罪を犯す」という
行為自体が最強度に俗物の所業であり、高尚な理念など共にある資格のないものであればこそ、
社会的な処罰というしごく卑俗な手段によって対処するのでなければ、誠実さを保てない。
犯罪風情を神なり高尚な理念なりによってどうにかしようとすること自体が、不誠実の至りである。
相応の贖罪に基づくのでなければ、消えることも減ることもない。
カルト信仰の酩酊によって罪障の把捉を完全に疎かにしたままでいられた所で、
最悪、人類滅亡級の悪因苦果にまで結実する罪障のほうは、着実に肥大化していくのみである。
罪を犯した以上は、自らがその罪を相応の罰によって償うのみである。
宗教信仰やその実践などは、罪障を十分に抑制できてから初めて嗜むべきもので、まだ自分が
罪障まみれの内から、逃避目的の宗教信仰などに走ることは、どこまでも卑劣なことでしかない。
卑劣なことだから、罪障の肥大化からなる致命的な規模の悪因苦果もまた避けられるものではない。
大きな罪を犯したままでいるというのなら、どんな宗教信仰やその実践に務めること以上にも、
社会的に公正な手続きに即して罪を償うことを優先すべきである。「罪を犯す」という
行為自体が最強度に俗物の所業であり、高尚な理念など共にある資格のないものであればこそ、
社会的な処罰というしごく卑俗な手段によって対処するのでなければ、誠実さを保てない。
犯罪風情を神なり高尚な理念なりによってどうにかしようとすること自体が、不誠実の至りである。
罪を犯しました、じゃあ刑罰を受けましょう、それら全てが卑俗の極みに当たる現象であり、
特定して「神聖さ」などを一貫して付与してはならない事象にあたる。非俗であることがイヤだ
ってんなら、始めから罪を犯したりもしないでいればいいだけの話なのであり、犯罪という卑俗の
極みのような所業に及んでおいて、その先に自分自身への刑罰以外の、神聖な何ものかを期待しよう
とすること自体、筋が通っていない。聖と俗のけじめを付けていない、みそくそな態度だといえる。
だから、罪を犯したものが十分な贖罪も果たさずに、罪障から眼を背けるための信仰やその実践を
促すような信教の正当性は認められないのであり、仮にあったとした所で、邪教と見なす他はない。
そういう教義を持つ信教である以上は、千年以上の歴史を持つ教派であろうとも、認められはしない。
世界規模での宗教信仰の是正を図るとするならば、必ずそう結論付けられる以外に余地はない。
「言れ師氏に告げらる、言れ帰せよと告げらる。いざ我が私を汚せん、
いざ我が衣を澣がん。害れか澣ぎ害れか否とし、帰して父母を寧んぜん」
「教育係の女官に、『もう嫁いでよい』と告げられた。心身の汚れを洗い落とし、
衣服もすすぎ洗いして奇麗にする。汚濁を漱いで二度とまとわり付かないようにし、
嫁いで従順な妻となり、故郷の父母たちをも安心させたい。(行為能力も子供並みに
制限されている封建時代の女が、嫁いで従順な妻となるための用意として浄心があった。
莫大な行為能力を掌握する大人の男が、浄心ばかりで全てを済ませられるはずもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・周南・葛覃より)
特定して「神聖さ」などを一貫して付与してはならない事象にあたる。非俗であることがイヤだ
ってんなら、始めから罪を犯したりもしないでいればいいだけの話なのであり、犯罪という卑俗の
極みのような所業に及んでおいて、その先に自分自身への刑罰以外の、神聖な何ものかを期待しよう
とすること自体、筋が通っていない。聖と俗のけじめを付けていない、みそくそな態度だといえる。
だから、罪を犯したものが十分な贖罪も果たさずに、罪障から眼を背けるための信仰やその実践を
促すような信教の正当性は認められないのであり、仮にあったとした所で、邪教と見なす他はない。
そういう教義を持つ信教である以上は、千年以上の歴史を持つ教派であろうとも、認められはしない。
世界規模での宗教信仰の是正を図るとするならば、必ずそう結論付けられる以外に余地はない。
「言れ師氏に告げらる、言れ帰せよと告げらる。いざ我が私を汚せん、
いざ我が衣を澣がん。害れか澣ぎ害れか否とし、帰して父母を寧んぜん」
「教育係の女官に、『もう嫁いでよい』と告げられた。心身の汚れを洗い落とし、
衣服もすすぎ洗いして奇麗にする。汚濁を漱いで二度とまとわり付かないようにし、
嫁いで従順な妻となり、故郷の父母たちをも安心させたい。(行為能力も子供並みに
制限されている封建時代の女が、嫁いで従順な妻となるための用意として浄心があった。
莫大な行為能力を掌握する大人の男が、浄心ばかりで全てを済ませられるはずもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・周南・葛覃より)
「上に好む者あれば、下に必ず焉れより甚だしき者あり。
君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草は之れに風を加うれば、必ず偃す」
「上に立つ者が好むものは、必ず下の者もまたそれ以上に好むものである。
たとえば支配者が好む徳が風であるとすれば、被支配者が好む徳は草とでも
言ったようなもので、草はこれに風を加えれば、必ず伏せるのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・二より)
カルト信仰なり、「天は人の上に人を作らず」云々の民権思想なりによって
「草に吹く風」としての支配者の存在性が名目上は覆い隠されるということがある。
それでもやはり、一定以上に大規模な社会における支配構造というのは改変できないもので、
必ずどこかに、庶民の生殺与奪の権限をも一身に背負った支配者が生ずるものである。
その支配者が表向きには姿を隠して、自らの動向をいちいち衆目によって審査されずにも
済むままでいたならば、それこそ真の支配者が表に出る場合以上もの腐敗を招くわけで、
誰からの目付けも受けることがないにことかけての放辟邪侈にも及ぶのである。
そして、いくら自分たちが支配者であることを隠し通そうとも、実質支配者である者が
好き好む性向はその支配対象にも落とし込まれ、支配者が執拗に財を好むようであれば、
被支配者もまた執拗に財を好むようになる。他者から利益を強奪してでも自分たちだけが
私利私欲を満たそうと支配者がしたならば、その性向もまた一般庶民にまで落とし込まれて、
誰といわず財物を奪い合うことが常套と化した乱世をも招いてしまうことになるのである。
君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草は之れに風を加うれば、必ず偃す」
「上に立つ者が好むものは、必ず下の者もまたそれ以上に好むものである。
たとえば支配者が好む徳が風であるとすれば、被支配者が好む徳は草とでも
言ったようなもので、草はこれに風を加えれば、必ず伏せるのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・二より)
カルト信仰なり、「天は人の上に人を作らず」云々の民権思想なりによって
「草に吹く風」としての支配者の存在性が名目上は覆い隠されるということがある。
それでもやはり、一定以上に大規模な社会における支配構造というのは改変できないもので、
必ずどこかに、庶民の生殺与奪の権限をも一身に背負った支配者が生ずるものである。
その支配者が表向きには姿を隠して、自らの動向をいちいち衆目によって審査されずにも
済むままでいたならば、それこそ真の支配者が表に出る場合以上もの腐敗を招くわけで、
誰からの目付けも受けることがないにことかけての放辟邪侈にも及ぶのである。
そして、いくら自分たちが支配者であることを隠し通そうとも、実質支配者である者が
好き好む性向はその支配対象にも落とし込まれ、支配者が執拗に財を好むようであれば、
被支配者もまた執拗に財を好むようになる。他者から利益を強奪してでも自分たちだけが
私利私欲を満たそうと支配者がしたならば、その性向もまた一般庶民にまで落とし込まれて、
誰といわず財物を奪い合うことが常套と化した乱世をも招いてしまうことになるのである。
実際の所、風は覆い隠された所で、やはり吹いている。支配者が放辟邪侈を好めば、
被支配者もそれに倣って放辟邪侈を好もうとする。名目上は「草の上に吹く風」が
隠されているものだから、被支配者は自分たちの意思で放辟邪侈を好き好んで
いるかのようにすら思い込んでしまっているが、実際には支配者の悪癖を無意識に
見習った結果として、自分たちまでもが無制限に放辟邪侈をも好むようになっている。
まず、「それが自分たちの自由意思によって選択したことだ」などという思い込みを
衆生から引き剥がすために、衆目からはひた隠された状態のままでいる真の支配者の
存在をも公けにして、民衆の悪癖好みも所詮は支配者に倣ったものでしかなかったのだ
ということを思い知らせる。それによって民衆たち自身の罪は相当に軽減されると共に、
所詮は風になびく草でしかあり得ない、被支配者としての自分たちの矮小までもが思い
知らされる。その上で、素性を公けにしながら浄行を心がけていく支配者の姿を衆生にも
見習わせていくようにして、自分たちまでもが積極的な浄行に励んでいくように促すのである。
支配者の素性を公開することが恐ろしいのも、到底人々にその行いを見習わせるにも値しない
暴君然とした支配者である場合に限ってのことであり、それこそ本人たち自身の死後にでも
公開するしかなかったりすらし兼ねない。自らの行いを広く衆生に見せ付けても恐れる所が
ないぐらいに浄行に努めている支配者であればこそ、確信的に自らの徳によって、草である
衆生たちをなびかせることもできる。所詮は、いつでも草の上に風は吹いているのであるにしろ。
「迅雷風烈には、必ず変ず」
「(孔先生は)ひどい雷や暴風が巻き起これば、必ず態度を変じて居住まいを正された。
(雷や暴風雨に巻き込まれての無駄な危害を被らないため。
またこのような落ち着いた姿こそを人々に見習わせるため)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・二一より)
被支配者もそれに倣って放辟邪侈を好もうとする。名目上は「草の上に吹く風」が
隠されているものだから、被支配者は自分たちの意思で放辟邪侈を好き好んで
いるかのようにすら思い込んでしまっているが、実際には支配者の悪癖を無意識に
見習った結果として、自分たちまでもが無制限に放辟邪侈をも好むようになっている。
まず、「それが自分たちの自由意思によって選択したことだ」などという思い込みを
衆生から引き剥がすために、衆目からはひた隠された状態のままでいる真の支配者の
存在をも公けにして、民衆の悪癖好みも所詮は支配者に倣ったものでしかなかったのだ
ということを思い知らせる。それによって民衆たち自身の罪は相当に軽減されると共に、
所詮は風になびく草でしかあり得ない、被支配者としての自分たちの矮小までもが思い
知らされる。その上で、素性を公けにしながら浄行を心がけていく支配者の姿を衆生にも
見習わせていくようにして、自分たちまでもが積極的な浄行に励んでいくように促すのである。
支配者の素性を公開することが恐ろしいのも、到底人々にその行いを見習わせるにも値しない
暴君然とした支配者である場合に限ってのことであり、それこそ本人たち自身の死後にでも
公開するしかなかったりすらし兼ねない。自らの行いを広く衆生に見せ付けても恐れる所が
ないぐらいに浄行に努めている支配者であればこそ、確信的に自らの徳によって、草である
衆生たちをなびかせることもできる。所詮は、いつでも草の上に風は吹いているのであるにしろ。
「迅雷風烈には、必ず変ず」
「(孔先生は)ひどい雷や暴風が巻き起これば、必ず態度を変じて居住まいを正された。
(雷や暴風雨に巻き込まれての無駄な危害を被らないため。
またこのような落ち着いた姿こそを人々に見習わせるため)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・二一より)
「仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る(既出)」
「仁は得がたいものだろうか。もし自分から仁を欲したなら、仁はすぐに得られるだろうさ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二九より)
カルト信仰が、虚言癖や奇行癖を伴うような著しい精神異常を原動力として嗜まれるのに対し、
仁徳はむしろ、そのような精神異常を徹底して排除した所にある、まっさらな正気によって自得される。
精神異常を来たした状態で仁徳は会得できないし、正気によってはカルト信仰に没入することもない。
故に、仁徳の会得とカルト信仰への没入は互いに相容れず、両者を兼修することも絶対にできない。
仁徳を会得した状態と、カルト信仰に没入した状態と、いずれも住心が磐石である点では共通する。
片や浩然の気に根ざして愚童持斎心に安住し、片や誤謬信仰の酩酊に根ざして異生羝羊心に安住する。
そこに安住することに健全なすがすがしさや、無制限な快楽が伴うからこそ永く安住することが出来る。
今まで安住していたカルト信仰状態を卒業するのであっても、自力他力のいずれによるのであれ、
仁徳の会得と共に生きるのであれば、今まで並みかそれ以上の心の安楽と共に生きられる。ただ、
まるでカルト信仰に没入していくようにして、仁徳を会得することが不可能であるのは、上記の通り。
カルト信仰に陥る原因となった精神異常はむしろ払拭して、正気を取り戻したところでこそ仁徳は
得られるものであり、仁徳を得たからこその安楽もまた、正気と共にこそ得られるものなのである。
「仁は得がたいものだろうか。もし自分から仁を欲したなら、仁はすぐに得られるだろうさ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二九より)
カルト信仰が、虚言癖や奇行癖を伴うような著しい精神異常を原動力として嗜まれるのに対し、
仁徳はむしろ、そのような精神異常を徹底して排除した所にある、まっさらな正気によって自得される。
精神異常を来たした状態で仁徳は会得できないし、正気によってはカルト信仰に没入することもない。
故に、仁徳の会得とカルト信仰への没入は互いに相容れず、両者を兼修することも絶対にできない。
仁徳を会得した状態と、カルト信仰に没入した状態と、いずれも住心が磐石である点では共通する。
片や浩然の気に根ざして愚童持斎心に安住し、片や誤謬信仰の酩酊に根ざして異生羝羊心に安住する。
そこに安住することに健全なすがすがしさや、無制限な快楽が伴うからこそ永く安住することが出来る。
今まで安住していたカルト信仰状態を卒業するのであっても、自力他力のいずれによるのであれ、
仁徳の会得と共に生きるのであれば、今まで並みかそれ以上の心の安楽と共に生きられる。ただ、
まるでカルト信仰に没入していくようにして、仁徳を会得することが不可能であるのは、上記の通り。
カルト信仰に陥る原因となった精神異常はむしろ払拭して、正気を取り戻したところでこそ仁徳は
得られるものであり、仁徳を得たからこその安楽もまた、正気と共にこそ得られるものなのである。
誰かに導かれてではなく、自ら進んで欲することでこそ、仁徳は得られる。
欲する際に外的影響などを介していないほうが、仁徳の会得にかけては確実性が高い。
まず自主的に仁徳を得て、それから忠臣孝養、睦友子愛に神仏への崇敬といった、他者との関わり
も兼ねた仁行に努めていく。仁行徳行のほとんど全てが「世のため人のため」でもあればこそ、
仁徳を会得すること自体は徹底して純粋な自己選択に依るべきである。それでこそ、
自らが何に対しても絶対服従である奴隷的存在となることなどとも一線が引けるのだから。
根本の信仰の部分に、確固たる自己や自己選択が存在しないから、その反動で聖書圏の人間も
極端な個人主義に走ってしまった。信仰すら、そもそも精神異常によって否応なく陥ったものであり、
何一つとして自主性によることなく右往左往させられ続けることこそが信仰によって徹底されたから、
信教を一定以上に劣後する風潮が盛り上がり始めた近世以降には、極端な個人主義にも触れきった。
だからこそ、「世のため人のため」を旨とする仁徳などに帰服することも恐ろしかろうて、
そもそも仁徳は帰服するものではなく自得するものであり、しかも自らの完全なる自主性によって
欲した結果、至るものである。だからこそ心置きなく「世のため人のため」を標榜もできるのだから、
仁徳こそは、その根本の部分に至上にして健全なる個人主義を備えているのだとすら言える。
「行くも之れを使むる或り、止まるも之れを尼むる或り。行くも止まるも、人の能くする所に非ざるなり」
「行くこともそれなりの命運に基づくし、止まることもそれなりの命運に即している。
行くことも止まることも、誰かが作為でどうにかできることではない。(全ての選択は
天命に基づくといえなくもないが、その場合にも、誰かの作為の普遍性などは認められない。
孟子が、天命論に限っては無為自然論者でもあることを示唆した記録ともなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一六より)
欲する際に外的影響などを介していないほうが、仁徳の会得にかけては確実性が高い。
まず自主的に仁徳を得て、それから忠臣孝養、睦友子愛に神仏への崇敬といった、他者との関わり
も兼ねた仁行に努めていく。仁行徳行のほとんど全てが「世のため人のため」でもあればこそ、
仁徳を会得すること自体は徹底して純粋な自己選択に依るべきである。それでこそ、
自らが何に対しても絶対服従である奴隷的存在となることなどとも一線が引けるのだから。
根本の信仰の部分に、確固たる自己や自己選択が存在しないから、その反動で聖書圏の人間も
極端な個人主義に走ってしまった。信仰すら、そもそも精神異常によって否応なく陥ったものであり、
何一つとして自主性によることなく右往左往させられ続けることこそが信仰によって徹底されたから、
信教を一定以上に劣後する風潮が盛り上がり始めた近世以降には、極端な個人主義にも触れきった。
だからこそ、「世のため人のため」を旨とする仁徳などに帰服することも恐ろしかろうて、
そもそも仁徳は帰服するものではなく自得するものであり、しかも自らの完全なる自主性によって
欲した結果、至るものである。だからこそ心置きなく「世のため人のため」を標榜もできるのだから、
仁徳こそは、その根本の部分に至上にして健全なる個人主義を備えているのだとすら言える。
「行くも之れを使むる或り、止まるも之れを尼むる或り。行くも止まるも、人の能くする所に非ざるなり」
「行くこともそれなりの命運に基づくし、止まることもそれなりの命運に即している。
行くことも止まることも、誰かが作為でどうにかできることではない。(全ての選択は
天命に基づくといえなくもないが、その場合にも、誰かの作為の普遍性などは認められない。
孟子が、天命論に限っては無為自然論者でもあることを示唆した記録ともなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一六より)
永遠の[アガペー]愛がないなら・・・ 動機が不純なら・・・ お勉強なんて……毒かもね
「舌は刃となってこの世を切り裂く」というのが、春秋戦国時代の悪徳外交家、
通称「縦横家」にとっての決まり文句でもあったらしい。代表的な思想家には
鬼谷子などがいて、その門下で外交戦術を教わった蘇秦や張儀らが、中国全土を
合従連衡や大分裂の波乱に陥れていたことは、「史記」などにも詳しく述べられている。
その、縦横家たちが国際紛争を煽る悪逆非道を繰り返しているさ中に、あまりもの濁世に
愛想を尽かして楚国の重職を退官して後、放浪のさ中に数多の詩歌を唄い、最後には
入水自殺を果たした屈原という詩人がいる。その詩集は「楚辞」として後世にまで受け継がれ、
風流な詩文芸には乏しかった戦国時代の中国文化の中では、異色を放つ存在ともなっている。
「宝玉が欠けようとも磨いて修復することができるが、配慮に欠けた言葉は取り繕いようもない」
とは「詩経」大雅・抑にあり、「言うべきでないことは言うな。理由なきことはわざわざ口にするな」
とも、同じく「詩経」小雅・賓之初筵にある。それでいて「詩経」全体が風流な自然描写や叙情で
埋め尽くされており、配慮に満ちた言うべきこと、由縁あることを述べる文芸の精髄となっている。
唐詩や宋詩、日本の短詩文芸などにおいても、特に自然現象の丹念な描写が秀逸となっている。
和語で歌われる五七五の定型詩は、季語のある詩だけが「俳句」として、季語を持たない「川柳」
とも区別されているほどで、自然現象の季節による移り変わりの描写が特筆して重視されてもいる。
それもやはり、配慮に満ちた理由ある物事を述べる上でも、自然描写がうってつけだからで、
縦横家やカルト教祖が口走るような、根も葉もない虚言とも一線を画せるからなのである。
通称「縦横家」にとっての決まり文句でもあったらしい。代表的な思想家には
鬼谷子などがいて、その門下で外交戦術を教わった蘇秦や張儀らが、中国全土を
合従連衡や大分裂の波乱に陥れていたことは、「史記」などにも詳しく述べられている。
その、縦横家たちが国際紛争を煽る悪逆非道を繰り返しているさ中に、あまりもの濁世に
愛想を尽かして楚国の重職を退官して後、放浪のさ中に数多の詩歌を唄い、最後には
入水自殺を果たした屈原という詩人がいる。その詩集は「楚辞」として後世にまで受け継がれ、
風流な詩文芸には乏しかった戦国時代の中国文化の中では、異色を放つ存在ともなっている。
「宝玉が欠けようとも磨いて修復することができるが、配慮に欠けた言葉は取り繕いようもない」
とは「詩経」大雅・抑にあり、「言うべきでないことは言うな。理由なきことはわざわざ口にするな」
とも、同じく「詩経」小雅・賓之初筵にある。それでいて「詩経」全体が風流な自然描写や叙情で
埋め尽くされており、配慮に満ちた言うべきこと、由縁あることを述べる文芸の精髄となっている。
唐詩や宋詩、日本の短詩文芸などにおいても、特に自然現象の丹念な描写が秀逸となっている。
和語で歌われる五七五の定型詩は、季語のある詩だけが「俳句」として、季語を持たない「川柳」
とも区別されているほどで、自然現象の季節による移り変わりの描写が特筆して重視されてもいる。
それもやはり、配慮に満ちた理由ある物事を述べる上でも、自然描写がうってつけだからで、
縦横家やカルト教祖が口走るような、根も葉もない虚言とも一線を画せるからなのである。
配慮と由縁に満ちた善美なる口舌文化は、自然描写の豊かな詩文芸あたりに極まるが、
そこまでいかずも、詩文芸の風流さを参考にしたような節度ある言行をたしなめもする。別に、
孔子や孟子の創作した詩歌が後世に残されているわけでもないが、記録に残されているその言行は、
確かに詩学を学んだものならではの節度や品位が保たれたものとなっている。それと比べれば、
春秋戦国時代に世をかき乱していた政商や食客、そして縦横家らの言行には何らの節操もなく、
ただひたすら権力の濫用ばかりに明け暮れていたその姿が、無様極まりないものともなっている。
確かに、詩文芸ばかりに耽っていられるほど平和な時代も恒常的ではなく、乱世に無理にでも
詩文芸の清浄さに与ろうとしたなら、屈原のように自殺せねばならなくなったり、鎌倉幕府三代将軍の
源実朝のように、和歌をうつつを抜かした挙句に首をはねられて暗殺されることになったりもする。
そのような事情があるから、あえて乱世に自ら自身は詩文芸を嗜まなかった孔孟や徳川家康のような人物も
いるわけで、それはそれで時と場合とに柔軟に対応したあり方だといえる。ただ、そうであっても、詩文芸の
善美さを遠ざけつつも尊重の対象とし、極度にその善美さからかけ離れるような、根も葉もない虚言や奇行に
及ぶことは極力避けるという程度の心がけはすべきなのであり、それすらも心がけようとしない時にこそ、
政商や食客や縦横家やカルト信者などとしての、悪口虚言を駆使した罪悪の重畳にも及んでしまうのである。
口舌もまた、善用と悪用の両極に振り切れられるものである。どちらかといえば善用を心がけ、
専らな善用が不可能な場合にも、できる限り悪用を避ける心がけができてこそ、一人前だといえる。
「晋人、文子を人を知ると謂えり。文子は其の中退然として衣に
勝たざるが如くし、其の言吶吶然として諸を其の口から出さざるが如くす」
「晋の人々は、上将軍の趙文子を『他人への配慮がよく利いている』と評していた。
その身は恭しくて、まるで衣服の豪壮さに不相応であるかの如くし、その言葉もどこまでも
朴訥としていて、まるで口から出すことも出来ないでいるかのようだったからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
そこまでいかずも、詩文芸の風流さを参考にしたような節度ある言行をたしなめもする。別に、
孔子や孟子の創作した詩歌が後世に残されているわけでもないが、記録に残されているその言行は、
確かに詩学を学んだものならではの節度や品位が保たれたものとなっている。それと比べれば、
春秋戦国時代に世をかき乱していた政商や食客、そして縦横家らの言行には何らの節操もなく、
ただひたすら権力の濫用ばかりに明け暮れていたその姿が、無様極まりないものともなっている。
確かに、詩文芸ばかりに耽っていられるほど平和な時代も恒常的ではなく、乱世に無理にでも
詩文芸の清浄さに与ろうとしたなら、屈原のように自殺せねばならなくなったり、鎌倉幕府三代将軍の
源実朝のように、和歌をうつつを抜かした挙句に首をはねられて暗殺されることになったりもする。
そのような事情があるから、あえて乱世に自ら自身は詩文芸を嗜まなかった孔孟や徳川家康のような人物も
いるわけで、それはそれで時と場合とに柔軟に対応したあり方だといえる。ただ、そうであっても、詩文芸の
善美さを遠ざけつつも尊重の対象とし、極度にその善美さからかけ離れるような、根も葉もない虚言や奇行に
及ぶことは極力避けるという程度の心がけはすべきなのであり、それすらも心がけようとしない時にこそ、
政商や食客や縦横家やカルト信者などとしての、悪口虚言を駆使した罪悪の重畳にも及んでしまうのである。
口舌もまた、善用と悪用の両極に振り切れられるものである。どちらかといえば善用を心がけ、
専らな善用が不可能な場合にも、できる限り悪用を避ける心がけができてこそ、一人前だといえる。
「晋人、文子を人を知ると謂えり。文子は其の中退然として衣に
勝たざるが如くし、其の言吶吶然として諸を其の口から出さざるが如くす」
「晋の人々は、上将軍の趙文子を『他人への配慮がよく利いている』と評していた。
その身は恭しくて、まるで衣服の豪壮さに不相応であるかの如くし、その言葉もどこまでも
朴訥としていて、まるで口から出すことも出来ないでいるかのようだったからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
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スレッドタイトル:聖書 Part8