透徹して卑しい存在、賤しい人のあり方と見なされるべき奴隷の、主人に対する服従姿勢も
同然の信仰としての完全誤謬信仰。仮に信仰が絶対化されるのであれば、完全誤謬信仰すら
もが絶対無謬のものとして扱われることとなってしまう。それは自明にダメなことなので、
信を無条件に絶対化することなども、決して誉められたものではないということが言える。
そのような、無条件に絶対的な信を誉めそやす神なども、ダメな神であることが間違いない。
何らかの方向性が指し示されていて、それを「一心不乱に信じよ」というのならまだしも、
全く以って、ただ信じることはそれだけで素晴らしいなどというのなら、原理的にダメだ。
原理的に、そこには必ず完全誤謬信仰の是認すらもが含まれているから、原理的にダメだ。
罪の奴隷の解放を謳って、ただ信仰の奴隷になることを促すだけの邪神などは、去れ。
「言語必ず信なるは、以って行いを正すがために非ざるなり」
「必ずと言っていいほど信じるに値する言葉があったとしても、それによって行いを正して
行こうとする目的があるから発せられるのではない。(まず正しい行いがあってから、次に正しい
言葉が発せられる。それこそは信じるにも値するのだから、優先順位も行>言>信だといえる。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
返信する