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聖書 Part8
▼ページ最下部
世に「聖書」として扱われている書物が、単なる学術書や文芸書などと決定的に異なっている点は、
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
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福沢諭吉あたりも、明らかに確信犯としてそのような論説を世に広めていたわけだが、説として是か非か
という以前に、上記のような考えは全くの事実誤認でしかない。西洋の諸々の無宗教的学術も、非合理主義
の極みである聖書信仰を原因とした文化的荒廃を埋め合わせる目的で拵えられたものであり、聖書信仰が
西洋文化の根幹である以上は、西洋文化こそが非合理主義の牙城であると見なしたほうが正しいのである。
聖書信仰の極度な非合理主義による荒廃を埋め合わせる目的で、西洋人こそは合理主義の極みである
かのような無宗教的学術を拵えた。「あるかのような」というのは、結局はその手法を傍観的な観察や
大げさ過ぎる帰納法などに限り続けてきたからで、それがいかにも合理主義の極みらしく思われる一方で、
万物斉同の無為自然の先にこそ真理がある、この世界この宇宙の実相法則を合理的に取り扱うことにかけて、
東洋学や日本の古武術程度に有用であったような試しすらないことでも、一貫し続けてきたのである。
東洋の合理主義が健全な合理主義なら、西洋の合理主義はカタワの合理主義であり、その合理主義に
基づく文明構築を志した結果、かえって聖書信者級の非合理主義にまみれた愚人を量産していしまうという
弊害を生じさせてきた。学問の対象がモノやカネばかりに終始して、人間自身を問い学ぶことを全く疎かに
し続けて来たものだから、肝心の人間自身が全く合理主義の実践に与れない事態を持ち越して来たのだった。
西洋学では、未だに「0」という理念を人文学に導入することすら実質上、禁止されている。
だから「悪いことをするぐらいなら何もしないでいたほうがマシ」程度の倫理的判断すら覚束ない。
それもやはり、旧約の律法における労働の義務化などの、旧来の聖書文化の影響を持ち越してしまって
いるからで、洋学者自身、自分たちでも気づかないうちから非合理主義に沿ってしまっていたりもする。
川の上流が濁っていれば、下流も必ず濁るという致命問題に、未だ洋学者も苛まれ続けているのである。
という以前に、上記のような考えは全くの事実誤認でしかない。西洋の諸々の無宗教的学術も、非合理主義
の極みである聖書信仰を原因とした文化的荒廃を埋め合わせる目的で拵えられたものであり、聖書信仰が
西洋文化の根幹である以上は、西洋文化こそが非合理主義の牙城であると見なしたほうが正しいのである。
聖書信仰の極度な非合理主義による荒廃を埋め合わせる目的で、西洋人こそは合理主義の極みである
かのような無宗教的学術を拵えた。「あるかのような」というのは、結局はその手法を傍観的な観察や
大げさ過ぎる帰納法などに限り続けてきたからで、それがいかにも合理主義の極みらしく思われる一方で、
万物斉同の無為自然の先にこそ真理がある、この世界この宇宙の実相法則を合理的に取り扱うことにかけて、
東洋学や日本の古武術程度に有用であったような試しすらないことでも、一貫し続けてきたのである。
東洋の合理主義が健全な合理主義なら、西洋の合理主義はカタワの合理主義であり、その合理主義に
基づく文明構築を志した結果、かえって聖書信者級の非合理主義にまみれた愚人を量産していしまうという
弊害を生じさせてきた。学問の対象がモノやカネばかりに終始して、人間自身を問い学ぶことを全く疎かに
し続けて来たものだから、肝心の人間自身が全く合理主義の実践に与れない事態を持ち越して来たのだった。
西洋学では、未だに「0」という理念を人文学に導入することすら実質上、禁止されている。
だから「悪いことをするぐらいなら何もしないでいたほうがマシ」程度の倫理的判断すら覚束ない。
それもやはり、旧約の律法における労働の義務化などの、旧来の聖書文化の影響を持ち越してしまって
いるからで、洋学者自身、自分たちでも気づかないうちから非合理主義に沿ってしまっていたりもする。
川の上流が濁っていれば、下流も必ず濁るという致命問題に、未だ洋学者も苛まれ続けているのである。
「祈父よ、予れは王の爪牙なり。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、止まり居ること靡からしむ。
祈父よ、予れは王の爪士なり。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、底に止まること靡からしむ。
祈父よ、亶に不聡なる。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、有た之れ尸饔すること母からしむ」
「大将さまよ、わしは王様の近衛兵だ。どうしてこれ程もの身分にありながら、
貧窮の中に転ばされて、ろくに安住もできないようなザマでいさせられるのだ。
大将さまよ、わしは王様の近衛兵だ。どうしてこれ程もの身分にありながら、
貧窮の中に転ばされて、少しも止まってすらいられないようなザマでいさせられるのだ。
大将さまよ、どうしてそれ程にも分からず屋なのだ。我々を貧窮の中に転ばせて、
もはやろくに食べて行けもしないようなザマにすら追い込まれているじゃないか。
(没落時の西周宣王の近衛兵が、自分たちの隊長を怨み謗る歌。軍人といえども心があり、
命令至上主義である軍役といえども、過酷で割りに合わなさ過ぎたりすれば不満が生ずる。
精神論でそのような怨みを抑えようにも、兵隊も必ずしも精神力旺盛な精鋭ばかりとも限らない。
だから将校も兵士を相応に労わるべきであると『六韜』『三略』などにもある。
軍隊ですらそうなのだから、民間人を相手にした為政などであれば尚更のことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・祈父)
祈父よ、予れは王の爪士なり。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、底に止まること靡からしむ。
祈父よ、亶に不聡なる。胡ぞ予れを恤に転ばしめ、有た之れ尸饔すること母からしむ」
「大将さまよ、わしは王様の近衛兵だ。どうしてこれ程もの身分にありながら、
貧窮の中に転ばされて、ろくに安住もできないようなザマでいさせられるのだ。
大将さまよ、わしは王様の近衛兵だ。どうしてこれ程もの身分にありながら、
貧窮の中に転ばされて、少しも止まってすらいられないようなザマでいさせられるのだ。
大将さまよ、どうしてそれ程にも分からず屋なのだ。我々を貧窮の中に転ばせて、
もはやろくに食べて行けもしないようなザマにすら追い込まれているじゃないか。
(没落時の西周宣王の近衛兵が、自分たちの隊長を怨み謗る歌。軍人といえども心があり、
命令至上主義である軍役といえども、過酷で割りに合わなさ過ぎたりすれば不満が生ずる。
精神論でそのような怨みを抑えようにも、兵隊も必ずしも精神力旺盛な精鋭ばかりとも限らない。
だから将校も兵士を相応に労わるべきであると『六韜』『三略』などにもある。
軍隊ですらそうなのだから、民間人を相手にした為政などであれば尚更のことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・祈父)
諸行無常の絶対真理をうべなう所で人は善を為し、不滅の命などを追い求める所で人は悪を為す。
人間同士が社会的な関係性の中で自然と定義をすり合わせて言った所の、善や悪を為す。
「自分はこれが善いと思う」「あれは悪いと思う」などと個人的に主張する所の善悪であれば、
必ずしも上のような条件を満たさず、かえって上のような善悪を転倒させてしまいがちにすらなる。
この世界、この宇宙の全現象からして、諸行無常を原理的な法則とする物理構造によって司られており、
形あるもの全てがいつかは灰塵に帰するほどもの有機性が遍在していればこそ、全てのものが形を成している。
特に、「命」を具えるほどにも有機的な構造体=生命体こそは、この宇宙の原理的な構造に強度に依存
することでこそ生じているため、一定の寿命内での個体の死滅が決して免れられないようになっている。
そのような原理法則に沿おうとした時に人は善を為せる一方、抗おうとした時に人は悪を為してしまう。
ただそうであるだけでなく、そうであることに即した善悪の分別をも人間は一定以上にわきまえて来た。
そうでなければ人間関係を健全化させることもままならないから、規格を統一させた倫理体系というものを
否応なく構築して来た。それをそのまま世俗の言葉に起こしてみたのが、たとえば儒学の学説だったりする。
四書五経に代表される儒説の内容が、あまりにも当たり前なものばかりであり過ぎるせいで、
かえって軽んじられることが多いのも、元からして、人々が社会的な人間関係を育んでいく上で
自然と構築していった、当たり前な倫理体系を学説化したのが儒説でこそあるからで、その内容が
当たり前なものばかりであるのも、儒学が成立した経緯からいっても、これまた当たり前なことなのである。
人間にとってのごく当たり前な倫理体系こそを儒学として学説化した中国に限らずとも、世界中において、
儒説と同等の善悪の分別を具えた倫理体系というのは遍在している。その条件を満たせている限りにおいて、
人間は一定以上に大規模な社会構造を構築し得るのだから、例外である人間社会などもこの世界のどこにもない。
人間同士が社会的な関係性の中で自然と定義をすり合わせて言った所の、善や悪を為す。
「自分はこれが善いと思う」「あれは悪いと思う」などと個人的に主張する所の善悪であれば、
必ずしも上のような条件を満たさず、かえって上のような善悪を転倒させてしまいがちにすらなる。
この世界、この宇宙の全現象からして、諸行無常を原理的な法則とする物理構造によって司られており、
形あるもの全てがいつかは灰塵に帰するほどもの有機性が遍在していればこそ、全てのものが形を成している。
特に、「命」を具えるほどにも有機的な構造体=生命体こそは、この宇宙の原理的な構造に強度に依存
することでこそ生じているため、一定の寿命内での個体の死滅が決して免れられないようになっている。
そのような原理法則に沿おうとした時に人は善を為せる一方、抗おうとした時に人は悪を為してしまう。
ただそうであるだけでなく、そうであることに即した善悪の分別をも人間は一定以上にわきまえて来た。
そうでなければ人間関係を健全化させることもままならないから、規格を統一させた倫理体系というものを
否応なく構築して来た。それをそのまま世俗の言葉に起こしてみたのが、たとえば儒学の学説だったりする。
四書五経に代表される儒説の内容が、あまりにも当たり前なものばかりであり過ぎるせいで、
かえって軽んじられることが多いのも、元からして、人々が社会的な人間関係を育んでいく上で
自然と構築していった、当たり前な倫理体系を学説化したのが儒説でこそあるからで、その内容が
当たり前なものばかりであるのも、儒学が成立した経緯からいっても、これまた当たり前なことなのである。
人間にとってのごく当たり前な倫理体系こそを儒学として学説化した中国に限らずとも、世界中において、
儒説と同等の善悪の分別を具えた倫理体系というのは遍在している。その条件を満たせている限りにおいて、
人間は一定以上に大規模な社会構造を構築し得るのだから、例外である人間社会などもこの世界のどこにもない。
超越神からの救いによる不滅の命の獲得などを謳う、邪教に支配された西洋社会でも、それは同じこと。
違うのは、儒説並みにまともな倫理体系をわきまえている人間が皆、被支配者の側に回されて、一方的に
虐げられる体裁と共にのみ世の中を支えていくことを強要され続けて来た点のみであり、そのあたり、
不老不死を希求していた始皇帝によって支配されていた秦代の中国などとも似通っている。当時の中国でも、
被支配者こそは無責任な支配者の下で、世の中を営んでいく全責任をも負わされていたわけで、だからこそ、
革命によっていち百姓に過ぎなかった劉家が皇帝の座に就き直したことで、世相が安定を獲得しもしたのだった。
西洋でも「民主化」という手続きを通じて、邪教支配下で本当に世の中を支えている民衆たちにこそ
政治的権限を付与しようとする試みがなされたが、初戦は茶番の域に止まり続けた。正式な立場にある
為政者が、十分な責任を負ってこそ世の中も改善されるのに、為政者は相変わらず無責任なままで、自分たちには
また別に仕事のある民衆たちに主権だけは与えようとしたのだから、その片手落ちさ故にうまくいくこともなかった。
特に、人様の命を自由に左右できる程もの大権を掌握した者の内にこそ、不滅の命なぞを求めて悪行を為す
輩が生じてしまいがちなもの。まるで、本当に自分が不滅の命を得られるかのように勘違いしてしまい、
一般人にとっては当たり前であるような善悪の分別すらをも容易く見失ってしまう。だから、そのような
権力者のためにこそ、当たり前な倫理体系をそのまま学術化しただけの学問である儒学や、諸行無常を
帰依者に堅くわきまえさせる仏教などが必要にすらなって来る。社会的権限の絶大化に反比例して、
人としての当たり前なわきまえのほうは失いがちなもので、だからこそ儒学や仏教を舐めているわけにもいかない。
「厥の心疾很、死を畏るることも克わず」
「自らの心が病み患いひねくれきってしまっているために、死を畏れ謹むこともできない。
(これも聖書信者に共通する精神病理である。こんな人間ばかりでは世の中も保てない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥)
違うのは、儒説並みにまともな倫理体系をわきまえている人間が皆、被支配者の側に回されて、一方的に
虐げられる体裁と共にのみ世の中を支えていくことを強要され続けて来た点のみであり、そのあたり、
不老不死を希求していた始皇帝によって支配されていた秦代の中国などとも似通っている。当時の中国でも、
被支配者こそは無責任な支配者の下で、世の中を営んでいく全責任をも負わされていたわけで、だからこそ、
革命によっていち百姓に過ぎなかった劉家が皇帝の座に就き直したことで、世相が安定を獲得しもしたのだった。
西洋でも「民主化」という手続きを通じて、邪教支配下で本当に世の中を支えている民衆たちにこそ
政治的権限を付与しようとする試みがなされたが、初戦は茶番の域に止まり続けた。正式な立場にある
為政者が、十分な責任を負ってこそ世の中も改善されるのに、為政者は相変わらず無責任なままで、自分たちには
また別に仕事のある民衆たちに主権だけは与えようとしたのだから、その片手落ちさ故にうまくいくこともなかった。
特に、人様の命を自由に左右できる程もの大権を掌握した者の内にこそ、不滅の命なぞを求めて悪行を為す
輩が生じてしまいがちなもの。まるで、本当に自分が不滅の命を得られるかのように勘違いしてしまい、
一般人にとっては当たり前であるような善悪の分別すらをも容易く見失ってしまう。だから、そのような
権力者のためにこそ、当たり前な倫理体系をそのまま学術化しただけの学問である儒学や、諸行無常を
帰依者に堅くわきまえさせる仏教などが必要にすらなって来る。社会的権限の絶大化に反比例して、
人としての当たり前なわきまえのほうは失いがちなもので、だからこそ儒学や仏教を舐めているわけにもいかない。
「厥の心疾很、死を畏るることも克わず」
「自らの心が病み患いひねくれきってしまっているために、死を畏れ謹むこともできない。
(これも聖書信者に共通する精神病理である。こんな人間ばかりでは世の中も保てない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥)
情念こそは、口先だけでどうにでもこねくり回せるものである一方、
口先だけでどうにかなるような情念こそは、人間の心の内でも特に本性からかけ離れた要素ともなっている。
だから、口先で自分の心をどうにかしようとすればするほど、人は自らの本性を疎かにもしてしまうのであり、
そのような事態に陥るのを防ぐためには、般若思想のごとき一切皆空の境地に口語情報の全てを帰するのが得策ともなるのである。
人間の本性は臍下三寸の下丹田付近を在処としている一方、情念は脳や口先もある頭部の上丹田付近を在処としている。
この中間の、中丹田付近に相当する心臓が劣情の影響を受けて、動作を過剰化させてしまう(おだつ)ことが、
上丹田と下丹田の連絡を阻害する原因となり、性情が分裂してまでの劣情の独り歩きを促進することとなってしまう。
愚人や悪人はほぼ全員がそのような心理状態に陥ってしまっている一方、聖人や賢人は心臓の暴走による性情の
分裂などを十分に抑えられている。凡人や善人はその中間で、性情の分裂を抑えられていたりいなかったりする程度。
性情が完全に分裂した愚人が蒙昧さを開き直っての蛮行に及べば悪人となる一方、性情をよく一致させた
賢人がより一層の研鑽を尽くせば聖人になるといった程度の差違がある。善人と凡人の違いは、
ただ性情を分裂させないでおこうとする意志が自分自身にあるかないかといった程度のもので、
善人にはその程度の意志はある一方、凡人にはその意志すらない。善人と凡人のいずれも、必ずしも性情を
一致させられていない点では共通するが、自らに性情を一致させていこうとする意志があるぶんだけ、
善人のほうが凡人よりも、愚人や悪人へと豹変してしまったりはしにくいといった程度の違いはある。
口先だけでどうにかなるような情念こそは、人間の心の内でも特に本性からかけ離れた要素ともなっている。
だから、口先で自分の心をどうにかしようとすればするほど、人は自らの本性を疎かにもしてしまうのであり、
そのような事態に陥るのを防ぐためには、般若思想のごとき一切皆空の境地に口語情報の全てを帰するのが得策ともなるのである。
人間の本性は臍下三寸の下丹田付近を在処としている一方、情念は脳や口先もある頭部の上丹田付近を在処としている。
この中間の、中丹田付近に相当する心臓が劣情の影響を受けて、動作を過剰化させてしまう(おだつ)ことが、
上丹田と下丹田の連絡を阻害する原因となり、性情が分裂してまでの劣情の独り歩きを促進することとなってしまう。
愚人や悪人はほぼ全員がそのような心理状態に陥ってしまっている一方、聖人や賢人は心臓の暴走による性情の
分裂などを十分に抑えられている。凡人や善人はその中間で、性情の分裂を抑えられていたりいなかったりする程度。
性情が完全に分裂した愚人が蒙昧さを開き直っての蛮行に及べば悪人となる一方、性情をよく一致させた
賢人がより一層の研鑽を尽くせば聖人になるといった程度の差違がある。善人と凡人の違いは、
ただ性情を分裂させないでおこうとする意志が自分自身にあるかないかといった程度のもので、
善人にはその程度の意志はある一方、凡人にはその意志すらない。善人と凡人のいずれも、必ずしも性情を
一致させられていない点では共通するが、自らに性情を一致させていこうとする意志があるぶんだけ、
善人のほうが凡人よりも、愚人や悪人へと豹変してしまったりはしにくいといった程度の違いはある。
性情の分裂を物理的に抑止する手段としては、「みそぎ」がある。斎戒沐浴などとも言われる冷水浴によって、
心臓の暴走が十分に抑えられて、上丹田と下丹田の性情の連絡を阻害することが防ぎとめられるようになる。
性情の連絡が阻害されるほどにも心臓の暴走が著しい人間ほど、冷水を浴びた瞬間に心臓がバクバクと驚嘆の
鼓動を生ずるのを感ずるはずで、お年寄りや心臓の弱い人間はそのせいでの心臓麻痺などにもなりかねないから、
少しずつ冷水を浴びたり、最初はぬるま湯から少しずつ水温を下げていくようにするなどの便宜を図ったほうがよい。
また、健康な人間といえども、身体全体の冷やしすぎが風邪の原因になったりもしかねないので、やり過ぎは禁物だといえる。
あと、自分がまだ性情の分裂を十分に控えられない人間であるというのなら、せめてでも凡人ではなく
善人であるように務めるだけでも、性情が分裂しきった愚人や悪人と化してしまうことを防止する程度の効果は持ち得る。
念仏が唱名者自身に及ぼす効果も実はそういったもので、さほど熱心に唱えなくても善人でいる程度のことは
容易に叶えられるし、熱心に唱えていれば賢人や聖人にだってなれなくはない。聖人ともなれば、
念仏以外の方法での精進をも志すのが普通だが、親鸞聖人のように念仏での聖化こそを達成した方も実際にいらっしゃる。
残念ながら、性情の分裂こそを信者に促しての妄念妄動をけしかけるカルト宗教も未だ数多いため、
信教全般が性情の分裂を抑止してくれることなどを期待することは全く期待できない。今の日本で宗教が嫌われている
頻度が高いいのも、信者に性情の分裂を促す類いの邪教こそが活動を活発化させている場合が多いからで、古来からの
念仏信仰などにもよってこそ、知らず知らずの内から性情の一致を本是とするようになってしまっている日本人が、意識的に
そのような宗教を嗜む必要性などを感じないのみならず、そのような宗教への嫌悪感すらも抱くようになっているのである。
心臓の暴走が十分に抑えられて、上丹田と下丹田の性情の連絡を阻害することが防ぎとめられるようになる。
性情の連絡が阻害されるほどにも心臓の暴走が著しい人間ほど、冷水を浴びた瞬間に心臓がバクバクと驚嘆の
鼓動を生ずるのを感ずるはずで、お年寄りや心臓の弱い人間はそのせいでの心臓麻痺などにもなりかねないから、
少しずつ冷水を浴びたり、最初はぬるま湯から少しずつ水温を下げていくようにするなどの便宜を図ったほうがよい。
また、健康な人間といえども、身体全体の冷やしすぎが風邪の原因になったりもしかねないので、やり過ぎは禁物だといえる。
あと、自分がまだ性情の分裂を十分に控えられない人間であるというのなら、せめてでも凡人ではなく
善人であるように務めるだけでも、性情が分裂しきった愚人や悪人と化してしまうことを防止する程度の効果は持ち得る。
念仏が唱名者自身に及ぼす効果も実はそういったもので、さほど熱心に唱えなくても善人でいる程度のことは
容易に叶えられるし、熱心に唱えていれば賢人や聖人にだってなれなくはない。聖人ともなれば、
念仏以外の方法での精進をも志すのが普通だが、親鸞聖人のように念仏での聖化こそを達成した方も実際にいらっしゃる。
残念ながら、性情の分裂こそを信者に促しての妄念妄動をけしかけるカルト宗教も未だ数多いため、
信教全般が性情の分裂を抑止してくれることなどを期待することは全く期待できない。今の日本で宗教が嫌われている
頻度が高いいのも、信者に性情の分裂を促す類いの邪教こそが活動を活発化させている場合が多いからで、古来からの
念仏信仰などにもよってこそ、知らず知らずの内から性情の一致を本是とするようになってしまっている日本人が、意識的に
そのような宗教を嗜む必要性などを感じないのみならず、そのような宗教への嫌悪感すらも抱くようになっているのである。
丹田や正中線の扱いを重視する武術などによっても、性情の分裂を抑制する修練を積んでいくことはできる。
性情の分裂を抑制するのは決して信教の特権ではないし、性情の一致や分裂が人々にもたらす影響も決して宗教的領域に
止まるものではない。性情の一致を嗜む人間こそは社会的な積善や不悪を心がけられる一方、性情の分裂に陥っている人間は
本当に犯罪やそれに準ずるような社会的悪行を犯してしまううになる。心と身体、心と社会的行動とは決して可分なものでは
ないのだから、実利面からいっても、性情分裂の抑止という課題に取り組んでいくことが奨励されてしかるべきなのである。
「其の輔頬舌に咸ず。其の輔頬舌に咸ずとは、口説を滕ぐるなり」
「(本人自身の自己性とも無関係に)ただ口舌が外物に感応して勝手に動いているだけ。
誠意もなく、ただ口舌だけで人とも付き合ったりしているのみ。(口舌はどこまでも上辺のものでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・咸・上六‐象伝より)
性情の分裂を抑制するのは決して信教の特権ではないし、性情の一致や分裂が人々にもたらす影響も決して宗教的領域に
止まるものではない。性情の一致を嗜む人間こそは社会的な積善や不悪を心がけられる一方、性情の分裂に陥っている人間は
本当に犯罪やそれに準ずるような社会的悪行を犯してしまううになる。心と身体、心と社会的行動とは決して可分なものでは
ないのだから、実利面からいっても、性情分裂の抑止という課題に取り組んでいくことが奨励されてしかるべきなのである。
「其の輔頬舌に咸ず。其の輔頬舌に咸ずとは、口説を滕ぐるなり」
「(本人自身の自己性とも無関係に)ただ口舌が外物に感応して勝手に動いているだけ。
誠意もなく、ただ口舌だけで人とも付き合ったりしているのみ。(口舌はどこまでも上辺のものでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・咸・上六‐象伝より)
基礎儒学の祖である孔子こそは、「世界でも最も偉大な寡婦(やもめ)の子」
でもあり、母子家庭での自学自習によって編み出したその教義学説の適用によって、
天下国家レベルでの治世が実現された事例も枚挙に暇がない。
漢代中国の人口が最大7000万人強、江戸時代の日本の人口も最大3000万人強であり、
いずれも儒学による治世がよく達成されていた世の中である。もしも近代文明の所産を
儒学の実戦のために専らに活用できたなら、70億人超の現代世界の人々をみな、餓死すら稀な
泰平の世に安んじさせることもできなくはないに違いない。近代文明こそは地球上における
深刻な人口爆発をもたらした原因でもあるのだから、その文明的所産を丸ごと儒学の実践の
ためだけに用いたならば、それで害益をプラスマイナスゼロに帰す贖罪も済むはずで、原理的に
考えてみれば、それで現代世界の争乱にも十分な収拾を付けられることが見込まれるのである。
ただ、近代文明の発展の主導者は西洋人であり、すでに相当に敬虔さを目減りさせているとはいえ、
西洋人は基本、聖書信者である。聖書の教義こそは儒学の学義と決定的に相容れず、キリストや
エホバを信仰しているような人間が少しでもいるうちは、一滴の糞尿でも混ざった浄水がもはや
飲めなくなるようにして、儒学の実践も全く覚束なくなるため、西洋人のせいで文明発展と
聖書信仰が不可分なままにされている現状での、儒学の実践も全くの不能なままにされている。
世界でも最も偉大なやもめの子、孔子が自らの逆境を乗り越えるための自学自習にもよって
打ち立てた権力道徳学たる儒学の復興を、イエス・キリストこそは決して許すことがない。
いま儒学の復興を許さないのみならず、世界侵略の拡大によって日本や中国からすらねんごろな
儒学の実践という選択肢を奪い去ったのも、他でもない、欧米キリスト教圏である。世界中から、
世界で最も偉大なやもめの子の学説の実践を滅ぼし尽くして、決して蘇らせることもできない
ようにさせてしまっているのがイエス・キリストでこそあるのだから、キリストの完全かつ
永久なるこの世からの死滅によってでしか、その罪責を履行することもあたわないのである。
でもあり、母子家庭での自学自習によって編み出したその教義学説の適用によって、
天下国家レベルでの治世が実現された事例も枚挙に暇がない。
漢代中国の人口が最大7000万人強、江戸時代の日本の人口も最大3000万人強であり、
いずれも儒学による治世がよく達成されていた世の中である。もしも近代文明の所産を
儒学の実戦のために専らに活用できたなら、70億人超の現代世界の人々をみな、餓死すら稀な
泰平の世に安んじさせることもできなくはないに違いない。近代文明こそは地球上における
深刻な人口爆発をもたらした原因でもあるのだから、その文明的所産を丸ごと儒学の実践の
ためだけに用いたならば、それで害益をプラスマイナスゼロに帰す贖罪も済むはずで、原理的に
考えてみれば、それで現代世界の争乱にも十分な収拾を付けられることが見込まれるのである。
ただ、近代文明の発展の主導者は西洋人であり、すでに相当に敬虔さを目減りさせているとはいえ、
西洋人は基本、聖書信者である。聖書の教義こそは儒学の学義と決定的に相容れず、キリストや
エホバを信仰しているような人間が少しでもいるうちは、一滴の糞尿でも混ざった浄水がもはや
飲めなくなるようにして、儒学の実践も全く覚束なくなるため、西洋人のせいで文明発展と
聖書信仰が不可分なままにされている現状での、儒学の実践も全くの不能なままにされている。
世界でも最も偉大なやもめの子、孔子が自らの逆境を乗り越えるための自学自習にもよって
打ち立てた権力道徳学たる儒学の復興を、イエス・キリストこそは決して許すことがない。
いま儒学の復興を許さないのみならず、世界侵略の拡大によって日本や中国からすらねんごろな
儒学の実践という選択肢を奪い去ったのも、他でもない、欧米キリスト教圏である。世界中から、
世界で最も偉大なやもめの子の学説の実践を滅ぼし尽くして、決して蘇らせることもできない
ようにさせてしまっているのがイエス・キリストでこそあるのだから、キリストの完全かつ
永久なるこの世からの死滅によってでしか、その罪責を履行することもあたわないのである。
無論、実際の所、神の子を騙る邪教の流布を通じて十字架にかけられ、二度と生き返ることもない
憤死に見舞われただけなのだから、イエスという人間自身の死滅を今さら追求するのも、少し違う。
命題は、イエスが聖書中の記述のような所業によって天国に召されたという、物語構造自体に付与
されている権威を死滅させていく所にこそあり、それが達成されれば自然と、儒学の復興をも妨げる
社会的な邪念の蔓延までもが雲散霧消する。便利のために必要なのは、そういった意味でのキリストの
死滅であり、科学的にイエスの復活を否定するとかいったこととは相当に意味が異なっているといえる。
無論、科学的にも聖書の記述の誤謬性が立証されるに越したことはなく、それに基づき
キリスト神話の権威が死滅していくというのなら、それも一つの手段であるには違いないが、
それ以前に、聖書の記述が純粋な倫理的観点から見て欺瞞の塊であり、決して権威を付与するに
値しない代物であるということを直観的に理解できるようになることのほうがより重要だといえる。
そのためには、純正な倫理学でもある儒学のほうをよく勉強して、聖書信仰の倫理的な不正さを直観的な
段階から見抜けるようになっていかなければならない。西洋人が主導的に拵えてきた近代科学によって
聖書の権威が否定されたからといって、西洋人並みの精神薄弱が必ずしも改善されていくとは限らないのだから、
むしろ儒学によって聖書信仰の不埒さを即座に見抜けるようになることのほうが、重要なことともなるである。
憤死に見舞われただけなのだから、イエスという人間自身の死滅を今さら追求するのも、少し違う。
命題は、イエスが聖書中の記述のような所業によって天国に召されたという、物語構造自体に付与
されている権威を死滅させていく所にこそあり、それが達成されれば自然と、儒学の復興をも妨げる
社会的な邪念の蔓延までもが雲散霧消する。便利のために必要なのは、そういった意味でのキリストの
死滅であり、科学的にイエスの復活を否定するとかいったこととは相当に意味が異なっているといえる。
無論、科学的にも聖書の記述の誤謬性が立証されるに越したことはなく、それに基づき
キリスト神話の権威が死滅していくというのなら、それも一つの手段であるには違いないが、
それ以前に、聖書の記述が純粋な倫理的観点から見て欺瞞の塊であり、決して権威を付与するに
値しない代物であるということを直観的に理解できるようになることのほうがより重要だといえる。
そのためには、純正な倫理学でもある儒学のほうをよく勉強して、聖書信仰の倫理的な不正さを直観的な
段階から見抜けるようになっていかなければならない。西洋人が主導的に拵えてきた近代科学によって
聖書の権威が否定されたからといって、西洋人並みの精神薄弱が必ずしも改善されていくとは限らないのだから、
むしろ儒学によって聖書信仰の不埒さを即座に見抜けるようになることのほうが、重要なことともなるである。
「老いて妻無きを鰥と曰い。老いて夫無きを寡と曰い。老いて子無きを独と曰い。
幼なくして父無きを孤と曰う。此の四者は天下の窮民にして告ぐる無き者なり。文王の政を発し
仁を施すに、必ず斯の四者を先にす。(故に詩に)云く、擥いかな富める人、此の煢独を哀れむと」
「老いて妻がない男を鰥夫といい、老いて夫がいない女を寡婦といい、老いて子がない者を独り者といい、
幼くして親がない子供を孤児という。この四者は、世の中で最も困窮している寄る辺なき人々である。
そのため周の文王は政治を興し仁を施す際に、この四者の救済を真っ先に心がけた。故に詩経
(小雅・正月)にも『素晴らしいかな、かの富める人(文王)は、鰥寡孤独をも哀れみ賜う』とある。
(鰥寡孤独の救済も正規の仁政によって執り行われるべきことであり、私人が妄りにその領分を
侵すべきでないし、カルト教義によって気休めの救済ばかりを施したりするのも以ての外である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・五より)
幼なくして父無きを孤と曰う。此の四者は天下の窮民にして告ぐる無き者なり。文王の政を発し
仁を施すに、必ず斯の四者を先にす。(故に詩に)云く、擥いかな富める人、此の煢独を哀れむと」
「老いて妻がない男を鰥夫といい、老いて夫がいない女を寡婦といい、老いて子がない者を独り者といい、
幼くして親がない子供を孤児という。この四者は、世の中で最も困窮している寄る辺なき人々である。
そのため周の文王は政治を興し仁を施す際に、この四者の救済を真っ先に心がけた。故に詩経
(小雅・正月)にも『素晴らしいかな、かの富める人(文王)は、鰥寡孤独をも哀れみ賜う』とある。
(鰥寡孤独の救済も正規の仁政によって執り行われるべきことであり、私人が妄りにその領分を
侵すべきでないし、カルト教義によって気休めの救済ばかりを施したりするのも以ての外である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・五より)
色々な行事を催したりすることにかけての、最適な時節などを精密に見計らうためにこそ、
人はこの世界この宇宙に遍在している不確定要素までをも考慮の内に入れなければならない。
全てを決定性によって支配し、一切の融通を利かせようともしないというのでは、風流を欠く。
それで人間自身を雁字搦めにすることができたとしても、全宇宙の物理法則までをも
包摂しきれたりすることは永遠にないのだから、自然法則と乖離し過ぎたがための
人間社会の側の破綻というものを、いつかは来たさざるを得なくなる。
自然法則にも当然、決定的な部分と不確定的な部分とがあり、日月星辰の法則的な運行などの
決定的な部分にかけては、人間ごときが作為的に作りこむ決定性などよりも遥かに揺るぎがない。
だから不確定性を考慮に入れることは愚か、決定性を精査したり工作したりすることにかけても
自然の法則こそを第一とせねばならず、それでこそ人間自身が策定した決定性までもが最大級の
普遍性を帯びることともなるのである。(日本の神事などはまさにこのあり方を第一としている)
この世界この宇宙に遍在する不確定要素を考慮に入れることもなければ、決定性にかけて
自然法則を人為以上に優先しようと心がけることもない、何もかもを専らな人為による決定性に
よって塗り固めてしまおうとする試みほど愚かなこともなく、これこそは破滅の元凶ともなる。
結局、聖書信仰が信者にけしかけて来たのも、そういった何ものにも優先される人為による、
何もかもの塗り固めでしかなかった。自然現象に不確定的な要素が実際あればこそ、自然は人間に
とっての敵と見なされ、一方的な開発の対象としてのみ扱われた。儒学や神道によっても自然の
開発が振興されることはあるが、それらはあくまで自然の普遍法則に準拠しようとするものである。
人はこの世界この宇宙に遍在している不確定要素までをも考慮の内に入れなければならない。
全てを決定性によって支配し、一切の融通を利かせようともしないというのでは、風流を欠く。
それで人間自身を雁字搦めにすることができたとしても、全宇宙の物理法則までをも
包摂しきれたりすることは永遠にないのだから、自然法則と乖離し過ぎたがための
人間社会の側の破綻というものを、いつかは来たさざるを得なくなる。
自然法則にも当然、決定的な部分と不確定的な部分とがあり、日月星辰の法則的な運行などの
決定的な部分にかけては、人間ごときが作為的に作りこむ決定性などよりも遥かに揺るぎがない。
だから不確定性を考慮に入れることは愚か、決定性を精査したり工作したりすることにかけても
自然の法則こそを第一とせねばならず、それでこそ人間自身が策定した決定性までもが最大級の
普遍性を帯びることともなるのである。(日本の神事などはまさにこのあり方を第一としている)
この世界この宇宙に遍在する不確定要素を考慮に入れることもなければ、決定性にかけて
自然法則を人為以上に優先しようと心がけることもない、何もかもを専らな人為による決定性に
よって塗り固めてしまおうとする試みほど愚かなこともなく、これこそは破滅の元凶ともなる。
結局、聖書信仰が信者にけしかけて来たのも、そういった何ものにも優先される人為による、
何もかもの塗り固めでしかなかった。自然現象に不確定的な要素が実際あればこそ、自然は人間に
とっての敵と見なされ、一方的な開発の対象としてのみ扱われた。儒学や神道によっても自然の
開発が振興されることはあるが、それらはあくまで自然の普遍法則に準拠しようとするものである。
一方、聖書信仰に基づく自然の開発はただ作為的であるだけでなく、自然法則に内在する絶対性まで
をも無視しての、完全な恣意に基づこうとするものであったため、自然を一方的な破壊の対象として、
それから文明構造を更地に積み上げていくといったものばかりだった。だからこそ西洋文明が
無機性にかけていかにも突出していて、それにより「文明の規範」みたいにまで扱われもしたが、
それは本当は、文明開発のあり方としてはヘタクソなものだったのであり、自然の絶対性までをも無視
しての身勝手な人為的開発ばかりに専らであり過ぎたからこそ、早急の崩壊すらもが免れ得ないのである。
物理的に、最も絶対的かつ普遍的なのは自然の絶対法則であり、人間自身が策定する法則などではない。
いくら脳内の概念として自明に絶対的であろうとも、実物の文明構造としてそれがおこされた時には
少なからず脆弱さを帯びる。その脆弱さを抑制するためには、構造物を自然法則の絶対性にこそ近似
させていく必要があるわけで、そこはイデア論が一歩も二歩も道を譲らなければならない部分である。
あまりいい譬えではないが、染色体の損傷によって奇形と化してしまったような生物と同等の、
奇形的な文明構造というものが、人間本位の文明構築によって生じてしまうことになる。
生物自身も染色体が健常であってこそ健全に育つように、文明構造も先天的な自然法則に
即して無理のないように構築していくことでこそ最大級の健全性を帯びる。健全だから
安定的となり、不健全な文明構造と比べれば牽強さ、寿命の長さなどの点でも秀でることになる。
自然の絶対法則を尊重しつつ人為的な開発を進めるのはこれからもありだが、自然法則を無視してまで
人為的な開発をごり押ししようとすることは、いい加減やめねばならない。それこそ、人間自身という
恣意の悪魔が、清浄なる自然界を汚損していく所業だともいえるわけで、そんな醜い人間のあり方などを、
虚構の神の所業に付託して推し進めたりすることも、これからはもってのほか扱いとしていかねばならない。
をも無視しての、完全な恣意に基づこうとするものであったため、自然を一方的な破壊の対象として、
それから文明構造を更地に積み上げていくといったものばかりだった。だからこそ西洋文明が
無機性にかけていかにも突出していて、それにより「文明の規範」みたいにまで扱われもしたが、
それは本当は、文明開発のあり方としてはヘタクソなものだったのであり、自然の絶対性までをも無視
しての身勝手な人為的開発ばかりに専らであり過ぎたからこそ、早急の崩壊すらもが免れ得ないのである。
物理的に、最も絶対的かつ普遍的なのは自然の絶対法則であり、人間自身が策定する法則などではない。
いくら脳内の概念として自明に絶対的であろうとも、実物の文明構造としてそれがおこされた時には
少なからず脆弱さを帯びる。その脆弱さを抑制するためには、構造物を自然法則の絶対性にこそ近似
させていく必要があるわけで、そこはイデア論が一歩も二歩も道を譲らなければならない部分である。
あまりいい譬えではないが、染色体の損傷によって奇形と化してしまったような生物と同等の、
奇形的な文明構造というものが、人間本位の文明構築によって生じてしまうことになる。
生物自身も染色体が健常であってこそ健全に育つように、文明構造も先天的な自然法則に
即して無理のないように構築していくことでこそ最大級の健全性を帯びる。健全だから
安定的となり、不健全な文明構造と比べれば牽強さ、寿命の長さなどの点でも秀でることになる。
自然の絶対法則を尊重しつつ人為的な開発を進めるのはこれからもありだが、自然法則を無視してまで
人為的な開発をごり押ししようとすることは、いい加減やめねばならない。それこそ、人間自身という
恣意の悪魔が、清浄なる自然界を汚損していく所業だともいえるわけで、そんな醜い人間のあり方などを、
虚構の神の所業に付託して推し進めたりすることも、これからはもってのほか扱いとしていかねばならない。
「王者の作らざる、未だ此の時より疏きは有らず。民の虐政に憔悴せる、未だ此の時より甚だしきは有らず」
「天命を得た王者が現れなくなってから、これ程にも久しい時も未だかつてない。人々が暴君の虐政に喘ぐ
ことにかけても、これ程にも甚だしかった時も未だかつてない。(時節論はこのような最悪の時をも
包含せねばならないのだから、そこに勧善懲悪を試みるのでもなければ、無為自然に甘んじるしかない。
そのいずれをも拒んだなら自らが悪逆非道に走ることにもなるわけで、労働を義務化している旧約の記述などに
基づくなら、時宜論に即してこそ悪逆非道すらをも義務的に行わなければならなくなってしまうのだから、しょうもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫中章句下・一より)
「天命を得た王者が現れなくなってから、これ程にも久しい時も未だかつてない。人々が暴君の虐政に喘ぐ
ことにかけても、これ程にも甚だしかった時も未だかつてない。(時節論はこのような最悪の時をも
包含せねばならないのだから、そこに勧善懲悪を試みるのでもなければ、無為自然に甘んじるしかない。
そのいずれをも拒んだなら自らが悪逆非道に走ることにもなるわけで、労働を義務化している旧約の記述などに
基づくなら、時宜論に即してこそ悪逆非道すらをも義務的に行わなければならなくなってしまうのだから、しょうもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫中章句下・一より)
http://bbs0.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/toriaezu/13492733...
ここで論じていることにも関連するが、人は、必ずしも物事を決め付けてかからなくても済む
ぐらいの心の余裕があってから、便宜的に物事を断定するようなこともあったりしたほうがよい。
「AでもなければBでもない」「Aでもなければ非Aでもない」といった般若経的な中観の境地に
よく心を落ち着けて後に、便宜的に物事を断定したり、物事に挺身して行ったりしたほうが、
何事も余裕を持ってうまくなせるのだから、できるならそうするに越したことはない。
世の中の誰しもがそれぐらいの余裕を持てたなら、争いごとなども起こった所で控えめなものに
止められるし、そもそも争いごとなどの問題を始めから引き起こさないための最善の配慮が
尽くされることともなるだろう。物事を頭ごなしに決め付けてかかる人間ほど思考が億劫にも
なるもので、一旦決め付けたことを改めたりするのもなかなか困難なこととなってしまうが、
是もなければ非もない中観を大前提として物事を考える人間であれば、物事を断定したり
することもあくまで便宜として軽快に扱うから、思考を永続させ続けたり、一旦こうと断じた
ことを改め直したりすることも全くのお茶の子さいさいなままでい続けていられる。だからこそ
思考を永続させて、間違いは随時改めていく、人間の思考としては最善のあり方となる態度姿勢を
堅持していくことを通じて、世の中の安寧や繁栄にも最大級に貢献していけるようになるのである。
中観をよく育むということ自体、確かに高度なことで、誰しもが必ずしも達成できるものでもない。
ただ、自らが白か黒か、是か非かの両極ばかりに振り切れてしかいられない人間であったとした所で、
そうであることを「愚昧なことだ」とよく恥じ入った上での、最低限の精進などを目指すこともできる。
ここで論じていることにも関連するが、人は、必ずしも物事を決め付けてかからなくても済む
ぐらいの心の余裕があってから、便宜的に物事を断定するようなこともあったりしたほうがよい。
「AでもなければBでもない」「Aでもなければ非Aでもない」といった般若経的な中観の境地に
よく心を落ち着けて後に、便宜的に物事を断定したり、物事に挺身して行ったりしたほうが、
何事も余裕を持ってうまくなせるのだから、できるならそうするに越したことはない。
世の中の誰しもがそれぐらいの余裕を持てたなら、争いごとなども起こった所で控えめなものに
止められるし、そもそも争いごとなどの問題を始めから引き起こさないための最善の配慮が
尽くされることともなるだろう。物事を頭ごなしに決め付けてかかる人間ほど思考が億劫にも
なるもので、一旦決め付けたことを改めたりするのもなかなか困難なこととなってしまうが、
是もなければ非もない中観を大前提として物事を考える人間であれば、物事を断定したり
することもあくまで便宜として軽快に扱うから、思考を永続させ続けたり、一旦こうと断じた
ことを改め直したりすることも全くのお茶の子さいさいなままでい続けていられる。だからこそ
思考を永続させて、間違いは随時改めていく、人間の思考としては最善のあり方となる態度姿勢を
堅持していくことを通じて、世の中の安寧や繁栄にも最大級に貢献していけるようになるのである。
中観をよく育むということ自体、確かに高度なことで、誰しもが必ずしも達成できるものでもない。
ただ、自らが白か黒か、是か非かの両極ばかりに振り切れてしかいられない人間であったとした所で、
そうであることを「愚昧なことだ」とよく恥じ入った上での、最低限の精進などを目指すこともできる。
念仏行などもそのための手段として格好のものだが、念仏行といえども、自らの両極志向を開き直っての
驕り高ぶりなどと共にまで嗜めるものではなく、最低でもそのような身の程を恥じ入るぐらいの恭しさは
必要となる。自らの両極志向を恥じ入る恭しさすらないような人間でも帰依できるような信教は、それこそ
聖書信仰のようなカルト信教に限られるわけで、これこそは「病人に毒を盛る」代物とすらなってしまう。
自力作善による中観の養生が健康の増進なら、他力本願での最低限の中観の堅持は不養生に対する薬の処方、
中観の完全なる喪失を促す他力本願は、不養生に不養生を重ねさせてさらにそこに毒を盛るとでも言った所。
中観の存在意義を、それだけを見て計り知るのはなかなか難しいことだが、中観を欠いての悪逆非道に
一辺倒であり続けて来た連中の惨憺たる所業の数々を見てみればこそ、人が中観を養うことがいかに
重要なことであるのかまでもが明瞭となる。平安時代や江戸時代の日本社会だけを見れば、特にこれと
いった問題もないのほほんとした時代だったという程度の感想しか抱けなくとも、同時期の欧米社会の
引っ切り無しな戦乱状態などと見比べてみたなら、いかに当時の日本が泰平の維持にかけて優秀な実績を
挙げていたのかがよく分かるというもの。これまた当時の日本人には中観の養いが磐石であった一方、
欧米人のほうはカルト信仰にも基づく中観の喪失が著しかったからこそ、生じてしまった差違でもある。
「力を陳べて列に就き、能わざれば止む」
「力を尽くして職務に邁進し、至らないようであれば踏み止まる。
(出処進退自由自在、突進一辺倒などに決して陥らないのが聖賢の習い始めだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一より)
驕り高ぶりなどと共にまで嗜めるものではなく、最低でもそのような身の程を恥じ入るぐらいの恭しさは
必要となる。自らの両極志向を恥じ入る恭しさすらないような人間でも帰依できるような信教は、それこそ
聖書信仰のようなカルト信教に限られるわけで、これこそは「病人に毒を盛る」代物とすらなってしまう。
自力作善による中観の養生が健康の増進なら、他力本願での最低限の中観の堅持は不養生に対する薬の処方、
中観の完全なる喪失を促す他力本願は、不養生に不養生を重ねさせてさらにそこに毒を盛るとでも言った所。
中観の存在意義を、それだけを見て計り知るのはなかなか難しいことだが、中観を欠いての悪逆非道に
一辺倒であり続けて来た連中の惨憺たる所業の数々を見てみればこそ、人が中観を養うことがいかに
重要なことであるのかまでもが明瞭となる。平安時代や江戸時代の日本社会だけを見れば、特にこれと
いった問題もないのほほんとした時代だったという程度の感想しか抱けなくとも、同時期の欧米社会の
引っ切り無しな戦乱状態などと見比べてみたなら、いかに当時の日本が泰平の維持にかけて優秀な実績を
挙げていたのかがよく分かるというもの。これまた当時の日本人には中観の養いが磐石であった一方、
欧米人のほうはカルト信仰にも基づく中観の喪失が著しかったからこそ、生じてしまった差違でもある。
「力を陳べて列に就き、能わざれば止む」
「力を尽くして職務に邁進し、至らないようであれば踏み止まる。
(出処進退自由自在、突進一辺倒などに決して陥らないのが聖賢の習い始めだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一より)
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おいおい、あらすなよ
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