ある程度以上に大規模な社会であれば、古今東西を問わず法制による社会管理というものが
多少は必要となるものである。とはいえ当該の社会が徳治社会であるのならば、法文による
善悪の規定などよりも、人間自身が自然と合致させる普遍的善悪のほうをより尊重する。
それすらなくなるのが法治社会であり、何も大社会だからといって必ずしも法治社会で
なければならないわけではなく、法治社会には必ず徳治を上乗せすることができる。
人間自身の自然な取り決めから乖離した所に作為的な善悪を置く、それを根絶すべきだ
などとまでは言わないが、少なくともそんな行いを良質なものだなどと見なすべきではない。
「神が即した法規に即して善を為し、神の計らいによって楽果を受ける」というような
虚構の因果応報の流布も大概にすべきであり、そんな所に真の善因楽果などあり得ない
とすら考えてしかるべきだ。そんな所に全てを還元するというのなら、かえって
それによる甚大な悪因苦果の最終的なぶり返しこそが危ぶまれるというものだ。
「仁は天下の表なり、義は天下の制なり、報は天下の利なり」
「仁は天下に遍くその正大さを表すものであり、義はその正大さに即して天下を制するものである。
そしてその仁義の報いが天下の大利となる。(大乗仏教の唯識思想などが構築される500年以上前から、
善因楽果の因果応報が自明なものとして把捉されている。仁徳に超越者の介在の余地などはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
返信する