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聖書 Part8
▼ページ最下部
世に「聖書」として扱われている書物が、単なる学術書や文芸書などと決定的に異なっている点は、
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
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たとえば、俺がこうして書いていることの大半は、単なる現実である。
ネット上に投稿して来た原稿用紙数万枚ぶんの文章の、ほぼ大半が現実把握の記録。
だからといって何の意図もないなんてことももちろんなく、記録すべき現実を記録して、
すべきでない現実までは記録しない、「春秋の筆法」と呼ばれているような物書きを心がけている。
その名の通り、この筆法は四書五経中の「春秋経」に由来するもので、源流もその筆者である孔子にあたる。
代表的な継承者には「漢書」の著者である班固などがいて、その「漢書」の記述も現実把握+道義的記録
という姿勢を守っている。何でもかんでもやたらと書きまくっている司馬遷の「史記」などと比べれば
その記述もいかめしく、代表的な権力者の引責自殺などの、書くべきではあってもあまり文芸的には
楽しめないような記事こそが目白押しともなっている。(故に「漢書」は難読書の代表格としても扱われている)
上で、「何でもかんでも」とは言ったものの、司馬遷の「史記」もまた当然、史実把握の記録ではある。ただ、
史実のうちでも書くべきことを書いて書くべきでないことを書かない姿勢を貫いている、「春秋」や「漢書」など
とは違って、「史記」は史実ですらあれば何でもかんでも取り上げている。これは万物斉同の道家思想にこそ
由来する筆法で、楽しみながら歴史を学べるという点では、確かに春秋の筆法をも上回っているといえる。
司馬遷は純粋な史家だったが、孔子は礼学者や政治家だったし、班固も史家であると同時に諸官僚でもあった。
純粋な文筆家に止まるのであれば司馬遷のような文筆姿勢でも構わないが、政治家などとしてやっていくのであれば
司馬遷流の筆法ですら「芸能」に過ぎるといえ、読み方によっては味も素っ気もない「春秋」や「漢書」級の
冷徹な文筆に徹することが賢明だといえる。逆に、それぐらいの文筆であれば、実際の政治や軍政の場でも
役立てられたりもするのであり、しかも文章力を役立てた効用が純粋な「勧善懲悪」でもあり得るのである。
ネット上に投稿して来た原稿用紙数万枚ぶんの文章の、ほぼ大半が現実把握の記録。
だからといって何の意図もないなんてことももちろんなく、記録すべき現実を記録して、
すべきでない現実までは記録しない、「春秋の筆法」と呼ばれているような物書きを心がけている。
その名の通り、この筆法は四書五経中の「春秋経」に由来するもので、源流もその筆者である孔子にあたる。
代表的な継承者には「漢書」の著者である班固などがいて、その「漢書」の記述も現実把握+道義的記録
という姿勢を守っている。何でもかんでもやたらと書きまくっている司馬遷の「史記」などと比べれば
その記述もいかめしく、代表的な権力者の引責自殺などの、書くべきではあってもあまり文芸的には
楽しめないような記事こそが目白押しともなっている。(故に「漢書」は難読書の代表格としても扱われている)
上で、「何でもかんでも」とは言ったものの、司馬遷の「史記」もまた当然、史実把握の記録ではある。ただ、
史実のうちでも書くべきことを書いて書くべきでないことを書かない姿勢を貫いている、「春秋」や「漢書」など
とは違って、「史記」は史実ですらあれば何でもかんでも取り上げている。これは万物斉同の道家思想にこそ
由来する筆法で、楽しみながら歴史を学べるという点では、確かに春秋の筆法をも上回っているといえる。
司馬遷は純粋な史家だったが、孔子は礼学者や政治家だったし、班固も史家であると同時に諸官僚でもあった。
純粋な文筆家に止まるのであれば司馬遷のような文筆姿勢でも構わないが、政治家などとしてやっていくのであれば
司馬遷流の筆法ですら「芸能」に過ぎるといえ、読み方によっては味も素っ気もない「春秋」や「漢書」級の
冷徹な文筆に徹することが賢明だといえる。逆に、それぐらいの文筆であれば、実際の政治や軍政の場でも
役立てられたりもするのであり、しかも文章力を役立てた効用が純粋な「勧善懲悪」でもあり得るのである。
史実に限るとはいえ、何でもかんでも網羅しつくそうとする司馬遷流の筆法は、実地では役立てにくい。
そして、史実に限らずあることないこと書きまくったり、実際にはあり得ないようなことばかりを書きまくったり
喋りまくったりする「詭弁」の能力があったなら、その能力こそは実地での「悪逆非道」にすら結び付くのである。
春秋の筆法に根ざすような文章力の研鑽はぜひすべきことだし、司馬遷流の筆法なども身に付けてはならない
などということまではない。ただ、詭弁や虚言を弄して、それこそを文章化する能力などがあったならば、
これこそはあって余計であり、なくて別に困らないものであるといえ、むしろ身に付けないほうがマシだったりする。
残念ながら、そのような詭弁的文章力のほうが今の世の中では「純文学」などとして持て囃されていて、
司馬遷流の筆法も「ノンフィクション」という狭い枠組みに追い込まれ、春秋の筆法はといえば、
もはや文学的な価値はほとんどないかのようにすら扱われてしまっているのである。
本来は、この序列は逆であるべきなのである。書くべき現実を書いて書くべきでない現実を書かない春秋の筆法が第一、
現実であれば何でもかんでも書いてしまう司馬遷流の筆法が第二、あることないことなんでも書きまくる詭弁的な筆法
が第三で、第一と第二こそは文筆の王道とされ、第三は度し難い外道として十分な警戒下に置かれるべきなのである。
>>124-125に「演劇も無条件に礼賛されたりすべきではない」と書いたのと同じように、文芸も無制限に
持て囃されたりされるのはむしろ避けるべきで、筆法が最低限以上の道義性にかなっている場合に限って
「聖文」として扱い、それ以外を「俗文」や「悪文」として、その受容に一定の歯止めをかけるべきなのである。
卑俗な文芸や演劇に慣れきってしまっている現代人にとっては、酷烈な物言いにも聞こえるかもしれないが、
それもまた書くべきことを書いて書くべきでないことを書かない、春秋の筆法にこそ即した記録であるからだ。
正直、その記述をありのままに実践することが、自分自身すらもが畏れ憚るぐらいのものですらあるのだ。
そして、史実に限らずあることないこと書きまくったり、実際にはあり得ないようなことばかりを書きまくったり
喋りまくったりする「詭弁」の能力があったなら、その能力こそは実地での「悪逆非道」にすら結び付くのである。
春秋の筆法に根ざすような文章力の研鑽はぜひすべきことだし、司馬遷流の筆法なども身に付けてはならない
などということまではない。ただ、詭弁や虚言を弄して、それこそを文章化する能力などがあったならば、
これこそはあって余計であり、なくて別に困らないものであるといえ、むしろ身に付けないほうがマシだったりする。
残念ながら、そのような詭弁的文章力のほうが今の世の中では「純文学」などとして持て囃されていて、
司馬遷流の筆法も「ノンフィクション」という狭い枠組みに追い込まれ、春秋の筆法はといえば、
もはや文学的な価値はほとんどないかのようにすら扱われてしまっているのである。
本来は、この序列は逆であるべきなのである。書くべき現実を書いて書くべきでない現実を書かない春秋の筆法が第一、
現実であれば何でもかんでも書いてしまう司馬遷流の筆法が第二、あることないことなんでも書きまくる詭弁的な筆法
が第三で、第一と第二こそは文筆の王道とされ、第三は度し難い外道として十分な警戒下に置かれるべきなのである。
>>124-125に「演劇も無条件に礼賛されたりすべきではない」と書いたのと同じように、文芸も無制限に
持て囃されたりされるのはむしろ避けるべきで、筆法が最低限以上の道義性にかなっている場合に限って
「聖文」として扱い、それ以外を「俗文」や「悪文」として、その受容に一定の歯止めをかけるべきなのである。
卑俗な文芸や演劇に慣れきってしまっている現代人にとっては、酷烈な物言いにも聞こえるかもしれないが、
それもまた書くべきことを書いて書くべきでないことを書かない、春秋の筆法にこそ即した記録であるからだ。
正直、その記述をありのままに実践することが、自分自身すらもが畏れ憚るぐらいのものですらあるのだ。
「庶頑讒説、若し時しきに在らざれば、侯を以て之れを明らかにし、
撻を以て之れを記し、書を用て識らせんかな。並びに生くるを欲さんかな」
「諸々の頑迷で讒言を触れまわるものの内で、特に不正が明らかであるものなどは、
射侯の儀式によってその悪を明らかにし、鞭打ちなどの実刑によってこれを戒め、
その所業をも克明に書き残して、後世にまで長く伝えて行くこととしよう。
それもこれも、末永く人々と共生していくことを欲すればでこそあるのだよ。
(書いていることをそのまま証拠にするのではなく、証拠を得て書く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・益稷より)
撻を以て之れを記し、書を用て識らせんかな。並びに生くるを欲さんかな」
「諸々の頑迷で讒言を触れまわるものの内で、特に不正が明らかであるものなどは、
射侯の儀式によってその悪を明らかにし、鞭打ちなどの実刑によってこれを戒め、
その所業をも克明に書き残して、後世にまで長く伝えて行くこととしよう。
それもこれも、末永く人々と共生していくことを欲すればでこそあるのだよ。
(書いていることをそのまま証拠にするのではなく、証拠を得て書く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・益稷より)
たとえば、春秋の筆法で書かれた「漢書」の高帝紀において、
著者の班固は「劉家は堯帝の末裔である」という巷説を引き合いに出して、
みずからも「漢は堯帝の命運を継いでいるのだろう」と締めくくっている。
小百姓だった劉家が古えの聖王の末裔だなんてのは全く信憑性のない話で、
それを引き合いに班固も劉家の中華皇帝としての正統性を主張しているものだから、
班固も所詮は虚言家であるかのような物言いが、一部の不勉強な者たちによって為されてもいる。
しかし、そもそも伝承上からして、堯の帝業を本当に継いだのは舜であり、
舜は堯とも全く血のつながりのない、不良な親に悩まされていた小百姓である。
(劉邦も父親に「出来の悪い息子だ」といびられていたことが「史記」などに記録されている)
その舜もまた、自らの帝業を血のつながりのない臣下である禹に譲った。
禹は、自らがカタワになるほどにも中原一帯の治水事業に奔走したとされており、
(劉邦も中原一帯の争乱の平定のために、親族も蔑ろにしての東奔西走の大仕事を果たした)
高祖劉邦はこの舜や禹に極めて類似する功績を挙げたことが間違いないので、その劉邦を
始祖とする漢が堯の帝業を受け継いでいると考えるのも、あながちおかしいことでもないのである。
不勉強なものは、「劉家は堯の末裔である」という俗説を信じていればいいだけのことだし、
ちゃんと勉強するのであれば、劉家が堯の帝業を正統に受け継いでいるのだということを、
末裔論などよりも遥かに着実な根拠の実在に基づいて、計り知ることができるわけである。
春秋の筆法とはこのような、小人が帝位の簒奪を目論むことを最大級に防止するなどの、正当な目的を
込めた筆法のことを言うのであり、その描写姿勢は単なるノンフィクションなどよりも遥かに巧妙である。
ウソも書いているようでいて、やはり書いてはおらず、主観と客観を織り交ぜた巧みな記述によって
読む者に決して不埒な思いなどを抱かせず、ただ善心を養うことだけを促すのである。
著者の班固は「劉家は堯帝の末裔である」という巷説を引き合いに出して、
みずからも「漢は堯帝の命運を継いでいるのだろう」と締めくくっている。
小百姓だった劉家が古えの聖王の末裔だなんてのは全く信憑性のない話で、
それを引き合いに班固も劉家の中華皇帝としての正統性を主張しているものだから、
班固も所詮は虚言家であるかのような物言いが、一部の不勉強な者たちによって為されてもいる。
しかし、そもそも伝承上からして、堯の帝業を本当に継いだのは舜であり、
舜は堯とも全く血のつながりのない、不良な親に悩まされていた小百姓である。
(劉邦も父親に「出来の悪い息子だ」といびられていたことが「史記」などに記録されている)
その舜もまた、自らの帝業を血のつながりのない臣下である禹に譲った。
禹は、自らがカタワになるほどにも中原一帯の治水事業に奔走したとされており、
(劉邦も中原一帯の争乱の平定のために、親族も蔑ろにしての東奔西走の大仕事を果たした)
高祖劉邦はこの舜や禹に極めて類似する功績を挙げたことが間違いないので、その劉邦を
始祖とする漢が堯の帝業を受け継いでいると考えるのも、あながちおかしいことでもないのである。
不勉強なものは、「劉家は堯の末裔である」という俗説を信じていればいいだけのことだし、
ちゃんと勉強するのであれば、劉家が堯の帝業を正統に受け継いでいるのだということを、
末裔論などよりも遥かに着実な根拠の実在に基づいて、計り知ることができるわけである。
春秋の筆法とはこのような、小人が帝位の簒奪を目論むことを最大級に防止するなどの、正当な目的を
込めた筆法のことを言うのであり、その描写姿勢は単なるノンフィクションなどよりも遥かに巧妙である。
ウソも書いているようでいて、やはり書いてはおらず、主観と客観を織り交ぜた巧みな記述によって
読む者に決して不埒な思いなどを抱かせず、ただ善心を養うことだけを促すのである。
その、春秋の筆法で書かれた「漢書」において、班固は王奔のようなならず者が漢の王統を
揺るがすことがないように努める記述に心がけている。小百姓という、本来の劉家の身分の賤しさは
帝位簒奪を目論む格好の理由になりやすく、実際に漢帝国はその初期から群臣の謀反に悩まされていた。
よく勉強してみたなら、劉家が小百姓だったことも帝位の正統性への疑念材料などには全くならない、
のみならず、それこそは舜や禹の化身とするに最も相応しい出自であることまでもが計り知れるわけだが、
そこまでもの勉強が行き届かないが故に、出自の賤しさなどを理由に漢室の淘汰を目論むような連中に
対しては、「劉家は堯の末裔である」などというお粗末な巷説をそのままあてがっておくわけである。
万世一系の天皇家を戴く日本などはともかく、裸一貫の小百姓こそが皇帝にまで上り詰める
という物語構造は、世界的にはむしろ健全なことである。四民制や君子階級の質素倹約などによって、
百姓らに対する万全の保護に努めてきた国や社会なんてのは、世界的には極めて稀有なのだから、慢性的に
虐げられてきた底辺の百姓こそが帝位を得るほうが、カウンターバランスが取れていることにもなる。
実際の国家社会においてこそ、それが健全ともなるのであり、別にルサンチマンのはけ口を信教などに
求めたりする必要もない。信教にはむしろ、不埒なルサンチマンを十全に抑制する効果こそを
期待すべきであり、その期待を満たしてくれる信教も仏教や道教、神道などとして存在する。
いくら底辺の百姓あたりが世界の帝王になるのが道義的に相応しいにしたって、それがしみったれた
ルサンチマンなどを動機として企てられたりするのでは無様である。むしろ自分自身はルサンチマンなど
完全に捨て去って、権力犯罪者としての虚栄に溺れていた連中を「品性上は自分以下の下衆」として
十分に蔑みぬいていることなどを根拠として、帝位にも就くとしたって就くべきである。さすればこそ、
数多の百姓のうちで、誰が世界の帝王となるに相応しいのかも、自然と定まっていくのである。
揺るがすことがないように努める記述に心がけている。小百姓という、本来の劉家の身分の賤しさは
帝位簒奪を目論む格好の理由になりやすく、実際に漢帝国はその初期から群臣の謀反に悩まされていた。
よく勉強してみたなら、劉家が小百姓だったことも帝位の正統性への疑念材料などには全くならない、
のみならず、それこそは舜や禹の化身とするに最も相応しい出自であることまでもが計り知れるわけだが、
そこまでもの勉強が行き届かないが故に、出自の賤しさなどを理由に漢室の淘汰を目論むような連中に
対しては、「劉家は堯の末裔である」などというお粗末な巷説をそのままあてがっておくわけである。
万世一系の天皇家を戴く日本などはともかく、裸一貫の小百姓こそが皇帝にまで上り詰める
という物語構造は、世界的にはむしろ健全なことである。四民制や君子階級の質素倹約などによって、
百姓らに対する万全の保護に努めてきた国や社会なんてのは、世界的には極めて稀有なのだから、慢性的に
虐げられてきた底辺の百姓こそが帝位を得るほうが、カウンターバランスが取れていることにもなる。
実際の国家社会においてこそ、それが健全ともなるのであり、別にルサンチマンのはけ口を信教などに
求めたりする必要もない。信教にはむしろ、不埒なルサンチマンを十全に抑制する効果こそを
期待すべきであり、その期待を満たしてくれる信教も仏教や道教、神道などとして存在する。
いくら底辺の百姓あたりが世界の帝王になるのが道義的に相応しいにしたって、それがしみったれた
ルサンチマンなどを動機として企てられたりするのでは無様である。むしろ自分自身はルサンチマンなど
完全に捨て去って、権力犯罪者としての虚栄に溺れていた連中を「品性上は自分以下の下衆」として
十分に蔑みぬいていることなどを根拠として、帝位にも就くとしたって就くべきである。さすればこそ、
数多の百姓のうちで、誰が世界の帝王となるに相応しいのかも、自然と定まっていくのである。
「上に大澤有れば則ち恵は必ず下に及ぶ。顧るに、上は先に下は後になるのみ。上に積み重なりて、
而こうして下に凍餒の民有るに非ざるなり。是の故に上に大澤有れば、則ち民夫人も下流に待つ。
恵の必ず将に至らんとするを知るなり。餕に由りて之れを見る。故に曰く、以て政を観るべしと」
「(純正な為政者として)上にある者が大いに豊かであるとき、その恵みは必ず下にまで及ぶ。
まず上にある者が恵みを得てから、それが下々の者にも後から至ることでのみ、今までにも
世の中がうまくいってきた。上に十分な蓄財があるにもかかわらず、上凍える民が発生した
ようなことは未だかつてない。そのため、上にある者が十二分に潤っているときには、
民たちも素直に下流に待って不平を抱いたりすることがない。それも、自分たちにまで必ず
恵みが及ぶことを知っているからである。神祇祭祀の際に供える食物の余計如何によってそれが
分かるため、昔から『(祭祀の供えで)政治を判別すればいい』とも言われてきているのである。
(これは当然、政財が癒着して権力者が私的な財を退蔵する民主主義社会での話などではない。
『下にある者から恵む』というイエキリの暴言が『民主主義』という理念の源流ともなっているが、
一部の下が真っ先に恵みを得るような状態では、上下全般への恵みの行き渡りが滞るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭統第二十五より)
而こうして下に凍餒の民有るに非ざるなり。是の故に上に大澤有れば、則ち民夫人も下流に待つ。
恵の必ず将に至らんとするを知るなり。餕に由りて之れを見る。故に曰く、以て政を観るべしと」
「(純正な為政者として)上にある者が大いに豊かであるとき、その恵みは必ず下にまで及ぶ。
まず上にある者が恵みを得てから、それが下々の者にも後から至ることでのみ、今までにも
世の中がうまくいってきた。上に十分な蓄財があるにもかかわらず、上凍える民が発生した
ようなことは未だかつてない。そのため、上にある者が十二分に潤っているときには、
民たちも素直に下流に待って不平を抱いたりすることがない。それも、自分たちにまで必ず
恵みが及ぶことを知っているからである。神祇祭祀の際に供える食物の余計如何によってそれが
分かるため、昔から『(祭祀の供えで)政治を判別すればいい』とも言われてきているのである。
(これは当然、政財が癒着して権力者が私的な財を退蔵する民主主義社会での話などではない。
『下にある者から恵む』というイエキリの暴言が『民主主義』という理念の源流ともなっているが、
一部の下が真っ先に恵みを得るような状態では、上下全般への恵みの行き渡りが滞るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭統第二十五より)
キリスト信仰自体は、旧約信仰などに根ざした悪魔の働きを助長する。
助長して、最大級に活発化させた挙句に、このまま悪魔の働きをのさばらせた
ままでいたなら、一般のキリスト教徒と悪魔役のキリスト教徒やユダヤ教徒と、
その他の異教徒とを合わせた誰しもが破滅を免れ得ない事態にまで至らしめる、
そこまで至った挙句に、キリスト信仰が悪魔ごとこの世から消え去るというのであれば、
キリストもまた、神道でいうところの「形代カタシロ」としての役割を果たすことで、
この世に滞留する害悪を自分ごと祓い清めることに貢献したことになるかもしれない。
「必ずそうなる」とも断言できないのは、キリスト信仰が悪魔の働きを活発化させることで
この世にもたらした豊満な物質文明が、至らない小人の情欲を駆り立てるものであることもまた
確かなことだから。世界中の富を自分たちだけで八割以上も寡占することでこそ成り立っている
キリスト教圏の物質文明の豊満さを、たとえば十分な精神的修養を積んだ聖人や賢人であれば
諦観することができたとしても、そんじょそこらの小人や女子供までもが諦観できるなどとは
とても断言できないわけで、故にこそ、悪魔の働きをキリスト信仰ごとこの世から滅ぼし去る
だけの思い切りが、全世界全人類によって付けられることまでをも期待するのもまた、難しいのだ。
一人当たりの資源占有率で、今ほぼ世界平均と同等の状態にあるインドネシアやフィリピンなどの
世相を鑑みるに、やはり物質的な魅力に長けているなどということはない。特に、今でもスペインや
アメリカによる植民化の禍根が著しいフィリピンについては、イスラム教国化によって社会風紀が
是正されたインドネシアなどと比べても世相の乱れが著しく、売春婦の輸出や人身売買などの
問題がよく取り沙汰されてもいる。民衆の再教育や文化振興も疎かなままに、ただ富の不均衡だけを
是正すれば、欧米キリスト教国なども今のフィリピンのようになるわけで、欧米人たち自身がそれを
望まないだろうことはもちろんのこと、傍目に見てもそれが魅力的なことだなどとはとても思えない。
助長して、最大級に活発化させた挙句に、このまま悪魔の働きをのさばらせた
ままでいたなら、一般のキリスト教徒と悪魔役のキリスト教徒やユダヤ教徒と、
その他の異教徒とを合わせた誰しもが破滅を免れ得ない事態にまで至らしめる、
そこまで至った挙句に、キリスト信仰が悪魔ごとこの世から消え去るというのであれば、
キリストもまた、神道でいうところの「形代カタシロ」としての役割を果たすことで、
この世に滞留する害悪を自分ごと祓い清めることに貢献したことになるかもしれない。
「必ずそうなる」とも断言できないのは、キリスト信仰が悪魔の働きを活発化させることで
この世にもたらした豊満な物質文明が、至らない小人の情欲を駆り立てるものであることもまた
確かなことだから。世界中の富を自分たちだけで八割以上も寡占することでこそ成り立っている
キリスト教圏の物質文明の豊満さを、たとえば十分な精神的修養を積んだ聖人や賢人であれば
諦観することができたとしても、そんじょそこらの小人や女子供までもが諦観できるなどとは
とても断言できないわけで、故にこそ、悪魔の働きをキリスト信仰ごとこの世から滅ぼし去る
だけの思い切りが、全世界全人類によって付けられることまでをも期待するのもまた、難しいのだ。
一人当たりの資源占有率で、今ほぼ世界平均と同等の状態にあるインドネシアやフィリピンなどの
世相を鑑みるに、やはり物質的な魅力に長けているなどということはない。特に、今でもスペインや
アメリカによる植民化の禍根が著しいフィリピンについては、イスラム教国化によって社会風紀が
是正されたインドネシアなどと比べても世相の乱れが著しく、売春婦の輸出や人身売買などの
問題がよく取り沙汰されてもいる。民衆の再教育や文化振興も疎かなままに、ただ富の不均衡だけを
是正すれば、欧米キリスト教国なども今のフィリピンのようになるわけで、欧米人たち自身がそれを
望まないだろうことはもちろんのこと、傍目に見てもそれが魅力的なことだなどとはとても思えない。
たとえば、江戸時代の日本などは鎖国状態で、物資面ではほぼ自給自足で、決して物質的に豊かだった
などということもないわけだが、それでも江戸時代の文化などは、今から見ても魅力的な所がある。
それは、江戸社会が物質的な豊かさ以上にも、文化的な豊かさの養生に務めていた社会だったからで、
そのような条件は、未だキリスト教国であるフィリピンはおろか、ほとんど「対キリスト教用の防壁」
としての役割に専らなイスラムに征服されている、今のインドネシアもまた満たせていることではない。
キリスト信仰が活発化させた悪魔の働きが、キリスト信仰ごとこの世から撃滅されて、
悪魔の働きによって画策されていた富の不均衡も是正されたとして、それだけでそこに残るのは
今のインドネシアやフィリピンレベルの世相だけで、もしもキリスト教が持ち越されたままでいたなら、
特に売春天国でもあるフィリピンのようになる。これこそは、仮にキリストが形代としての役割を果たし
きってこの世から退場したとしても、大した成果が見込めない証拠にもなっているわけで、そこから
さらに、江戸時代や平安時代の日本並みにまで文化振興が行き届いて、二度と悪魔の働きなどによって
高等な文化が毀損されないようにするための反面教師材料として、「かつてのキリスト信仰の成果」
が参考にされ、実際に悪魔が二度と現れなくなったとしたならば、それでこそ、キリスト信仰が
この世にプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらしたことにもなり得るのである。
あまり楽しい話でもないのも確かだが、そもそもキリスト信仰にまつわる事物などに楽しみ(福)を見出そう
などとしたことからして大間違いだったのだから仕方がない。悪魔の働きを始めとする罪悪の助長こそを
本分としている、キリスト信仰などとは無縁な所での文化振興にこそ、楽しみをも見出すべきだったのだから。
などということもないわけだが、それでも江戸時代の文化などは、今から見ても魅力的な所がある。
それは、江戸社会が物質的な豊かさ以上にも、文化的な豊かさの養生に務めていた社会だったからで、
そのような条件は、未だキリスト教国であるフィリピンはおろか、ほとんど「対キリスト教用の防壁」
としての役割に専らなイスラムに征服されている、今のインドネシアもまた満たせていることではない。
キリスト信仰が活発化させた悪魔の働きが、キリスト信仰ごとこの世から撃滅されて、
悪魔の働きによって画策されていた富の不均衡も是正されたとして、それだけでそこに残るのは
今のインドネシアやフィリピンレベルの世相だけで、もしもキリスト教が持ち越されたままでいたなら、
特に売春天国でもあるフィリピンのようになる。これこそは、仮にキリストが形代としての役割を果たし
きってこの世から退場したとしても、大した成果が見込めない証拠にもなっているわけで、そこから
さらに、江戸時代や平安時代の日本並みにまで文化振興が行き届いて、二度と悪魔の働きなどによって
高等な文化が毀損されないようにするための反面教師材料として、「かつてのキリスト信仰の成果」
が参考にされ、実際に悪魔が二度と現れなくなったとしたならば、それでこそ、キリスト信仰が
この世にプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらしたことにもなり得るのである。
あまり楽しい話でもないのも確かだが、そもそもキリスト信仰にまつわる事物などに楽しみ(福)を見出そう
などとしたことからして大間違いだったのだから仕方がない。悪魔の働きを始めとする罪悪の助長こそを
本分としている、キリスト信仰などとは無縁な所での文化振興にこそ、楽しみをも見出すべきだったのだから。
「夫れ物の人を感ずること窮まり無くして、人の好悪節無きときは、則ち是れ物至りて而も人、
物に化せるなり。人の物に化せらるなる者は、天理を滅ぼして而かも人欲を窮むる者なり」
「外物が人に与える感傷に極まりがなく、そのせいで人々が好悪の節操を失ったときには、外物の影響力が
完全に人を支配した状態となってしまう。そしてその外物に支配されてしまったような人間こそは、
天理をも滅ぼして、自分一身の欲望を極めようとすることになるのである。(好悪の節操を
信者に失わせて無限の濁愛に溺れさせようとするキリスト信仰こそは、天理を滅ぼすのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
物に化せるなり。人の物に化せらるなる者は、天理を滅ぼして而かも人欲を窮むる者なり」
「外物が人に与える感傷に極まりがなく、そのせいで人々が好悪の節操を失ったときには、外物の影響力が
完全に人を支配した状態となってしまう。そしてその外物に支配されてしまったような人間こそは、
天理をも滅ぼして、自分一身の欲望を極めようとすることになるのである。(好悪の節操を
信者に失わせて無限の濁愛に溺れさせようとするキリスト信仰こそは、天理を滅ぼすのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
一般に、好みやすく愛しやすいものほど天理に違い、好みにくく愛しにくいものほど天理に適っている場合が多い。
常人が好き好み愛すべきものとして「徳」に優るものはなく、仮に徳を愛せたならば、愛することがそのまま天理に適う。
これこそは「仁」のあり方だともいえるわけで、それが可能ならば愛もふんだんに奨励されて然るべきものだが、
残念ながら徳ほどにも愛し難いものもまた稀有であり、故に仁に処ることもまた生半に可能なことではない。
(孔子も高弟の顔淵が三ヶ月間仁に違わぬ生活を送っていただけでも驚嘆している。雍也第六・七参照)
愛しやすいもの、男にとっての美女だとか女にとっての美男だとか、宝物だとかカネだとかいったものはえてして
愛しすぎることが天理に違うものであり、愛しすぎながら為すことの何もかもが不仁に根ざすことともなりかねない。
一般に、人間は五官へ快感と共に強く訴えかけてくるものほど好みやすいようにできているため、愛しやすいものが
身近にあったならさらに愛しやすくなり、疎遠でしかなかったら愛しにくくもなる。だから、仮に「近隣の者を愛せ」
などとけしかけてくるものがいたとすれば、それはすなわち「愛しやすいもののうちでも特に愛しやすいものを愛せ」
とけしかけていることにもなるわけで、これこそは好悪に対して無条件に専らであることを促す暴言ともなっている。
逆に、愛し難いものが身近にあればさらに嫌いになり、疎遠であればそんなに嫌わずに済むという法則もある。
身長2メートル超で怪物のような形相をしていたとされる孔子や、小太りで気難しかったとされる家康公のような
仁者のそばにいることが厭わしいということはあっても、好き好めるなんてこともそうそうにはあり得ないわけで、
遠近でいえば近隣にあるものを重視する性向の持ち主は、自業自得で仁を遠ざけやすくなる実例ともなっている。
ニーチェのように「遠人を愛せ」というのも荒唐無稽に過ぎるが、愛しやすいものよりは愛しにくいものを愛そうと
心がけたほうが、天理に適って仁に近づける可能性も高い。そうあるためには、まず好悪に専らであろうとする浮ついた
神経をできる限り控えて、そこから愛すべきものを愛し、愛すべきでないものを愛さないように分別していく必要がある。
常人が好き好み愛すべきものとして「徳」に優るものはなく、仮に徳を愛せたならば、愛することがそのまま天理に適う。
これこそは「仁」のあり方だともいえるわけで、それが可能ならば愛もふんだんに奨励されて然るべきものだが、
残念ながら徳ほどにも愛し難いものもまた稀有であり、故に仁に処ることもまた生半に可能なことではない。
(孔子も高弟の顔淵が三ヶ月間仁に違わぬ生活を送っていただけでも驚嘆している。雍也第六・七参照)
愛しやすいもの、男にとっての美女だとか女にとっての美男だとか、宝物だとかカネだとかいったものはえてして
愛しすぎることが天理に違うものであり、愛しすぎながら為すことの何もかもが不仁に根ざすことともなりかねない。
一般に、人間は五官へ快感と共に強く訴えかけてくるものほど好みやすいようにできているため、愛しやすいものが
身近にあったならさらに愛しやすくなり、疎遠でしかなかったら愛しにくくもなる。だから、仮に「近隣の者を愛せ」
などとけしかけてくるものがいたとすれば、それはすなわち「愛しやすいもののうちでも特に愛しやすいものを愛せ」
とけしかけていることにもなるわけで、これこそは好悪に対して無条件に専らであることを促す暴言ともなっている。
逆に、愛し難いものが身近にあればさらに嫌いになり、疎遠であればそんなに嫌わずに済むという法則もある。
身長2メートル超で怪物のような形相をしていたとされる孔子や、小太りで気難しかったとされる家康公のような
仁者のそばにいることが厭わしいということはあっても、好き好めるなんてこともそうそうにはあり得ないわけで、
遠近でいえば近隣にあるものを重視する性向の持ち主は、自業自得で仁を遠ざけやすくなる実例ともなっている。
ニーチェのように「遠人を愛せ」というのも荒唐無稽に過ぎるが、愛しやすいものよりは愛しにくいものを愛そうと
心がけたほうが、天理に適って仁に近づける可能性も高い。そうあるためには、まず好悪に専らであろうとする浮ついた
神経をできる限り控えて、そこから愛すべきものを愛し、愛すべきでないものを愛さないように分別していく必要がある。
無条件の愛に没落しきっているような人間からすれば、上記のような愛にまつわる論及からして理屈に過ぎるものと映り、
そのような論及全般を愛よりも劣後しなければならないという判断が、本能的にはたらいてしまうのに違いない。
愛こそは正義、愛ですらあれば正義なのだから、その愛に制限をかけようとしているようにすら見受けられる物言いには、
それ自体が悪であるという短絡的な評価がはたらいて、自らを正義の味方だと自認する陶酔までもが始まるのに違いない。
そしてその、無条件の愛こそを絶対正義と断ずるものの考え方が、今ありのままに人類の滅亡にすら直結している。
それをこのまま推進していけばこそ人類の滅亡すらもが免れ得ないがために、無条件の愛こそは絶対悪だったことを
実証してしまい、以って無条件の愛こそを正義だと断じていた自分たちこそがバカだったことをも証明してしまっている。
無条件の愛こそを絶対化していたような連中こそは、分別の保たれた愛を嗜むことが人一倍困難な心理状態とも化して
しまっている。分別ある愛を嗜むぐらいなら、愛全般を捨て去ってしまうほうがまだ簡単なことだったりもするわけで、
そういった連中に勧められるのは、仁愛の養生よりはむしろ仏門での出家あたりだといえる。無条件の愛を祭り上げ
すぎたことの弊害は、分別によって愛を善用せしめる選択肢の不能性としても結実してしまっているわけで、これこそは
愛そのものではなく、好悪に無条件に専らであろうとした不埒さこそが、真の問題であった証拠ともなっているる。
無条件の愛は愛しやすいものへの愛に結び付き、分別ある愛は愛すべきものへの愛に結び付く。人間にとってはただ
そうであるばかりのことなのだから、無条件の愛のほうが一般的だとか、分別ある愛が統制的だとかいったような
傍観論が、なんら人間にとって実のない論題であることをもわきまえて、我が身の程にこそ落ち着くべきだといえる。
「人の其の言を易んずるは、責め無きのみ」
「人が言葉を軽んずるのは、自らに責める所(責任感)がないからだ。
(責任感がないから、全ての願いは叶えられるみたいな虚言も放っていた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二二より)
そのような論及全般を愛よりも劣後しなければならないという判断が、本能的にはたらいてしまうのに違いない。
愛こそは正義、愛ですらあれば正義なのだから、その愛に制限をかけようとしているようにすら見受けられる物言いには、
それ自体が悪であるという短絡的な評価がはたらいて、自らを正義の味方だと自認する陶酔までもが始まるのに違いない。
そしてその、無条件の愛こそを絶対正義と断ずるものの考え方が、今ありのままに人類の滅亡にすら直結している。
それをこのまま推進していけばこそ人類の滅亡すらもが免れ得ないがために、無条件の愛こそは絶対悪だったことを
実証してしまい、以って無条件の愛こそを正義だと断じていた自分たちこそがバカだったことをも証明してしまっている。
無条件の愛こそを絶対化していたような連中こそは、分別の保たれた愛を嗜むことが人一倍困難な心理状態とも化して
しまっている。分別ある愛を嗜むぐらいなら、愛全般を捨て去ってしまうほうがまだ簡単なことだったりもするわけで、
そういった連中に勧められるのは、仁愛の養生よりはむしろ仏門での出家あたりだといえる。無条件の愛を祭り上げ
すぎたことの弊害は、分別によって愛を善用せしめる選択肢の不能性としても結実してしまっているわけで、これこそは
愛そのものではなく、好悪に無条件に専らであろうとした不埒さこそが、真の問題であった証拠ともなっているる。
無条件の愛は愛しやすいものへの愛に結び付き、分別ある愛は愛すべきものへの愛に結び付く。人間にとってはただ
そうであるばかりのことなのだから、無条件の愛のほうが一般的だとか、分別ある愛が統制的だとかいったような
傍観論が、なんら人間にとって実のない論題であることをもわきまえて、我が身の程にこそ落ち着くべきだといえる。
「人の其の言を易んずるは、責め無きのみ」
「人が言葉を軽んずるのは、自らに責める所(責任感)がないからだ。
(責任感がないから、全ての願いは叶えられるみたいな虚言も放っていた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二二より)
カネかモノかでいえばモノ、モノか食い物かでいえば食い物のほうが
人間にとって必要不可欠なものであり、さらにこれらの「産業媒体」を
トップダウンに統制する公務が、産業全般よりもさらに重大なものとなる。
産業統制(士)、食い物(農)、モノ(工)、カネ(商)という社会構成の
大略を、封建社会では「士農工商」の四民制として序列化してもいた。
今でも農が商工よりも重大であるという程度の認識はそれなりにあるから、
国家によって農業が保護されたりもしているが、商と工の序列はあいまいで、
かえって商のほうが工よりも上に置かれたりしている。そしてなにより、
「士」が全くの無益な存在とされ、士人階級が産業をトップダウンに統制
したりすることこそは「悪逆非道の極み」みたいな扱いまでもがされている。
士人を殊更に権威の座から引き摺り下ろすことの正当化材料としては
最たるものである民主主義、その民主主義が提唱された西洋はといえば、
始めから金持ちの代表が王侯臣官といった士人階級をも兼任し続けて来ていて、
農工商の三民を総じて公正に統治するような、立派な士人が実在した試しがない。
士人はまず、豪商や地主といった「上流階級」の金持ちのために働き、
ついでに「下層階級」である平民にもたまには恵んでやる程度の存在でしか
なかったわけで、そんな士人がいるよりもいないほうがマシであるのも確かな
ことだから、西洋で民主主義が提唱されたのも必然的なことだったといえる。
では、民主主義によって社会統治の理想が達成されたのかといえば、全くそんなことはない。
選挙制によって為政者が民からの拘束を受ける場合であれ、共産制によって生産者と
為政者が同一とのものとして扱われる場合であれ、為政が産業から独立した一人前の
仕事として認められないような事態が到来することによって、結局、為政者が資産家の
傀儡である場合と同等か、それ以上もの問題が巻き起こるばかりのこととなった。
人間にとって必要不可欠なものであり、さらにこれらの「産業媒体」を
トップダウンに統制する公務が、産業全般よりもさらに重大なものとなる。
産業統制(士)、食い物(農)、モノ(工)、カネ(商)という社会構成の
大略を、封建社会では「士農工商」の四民制として序列化してもいた。
今でも農が商工よりも重大であるという程度の認識はそれなりにあるから、
国家によって農業が保護されたりもしているが、商と工の序列はあいまいで、
かえって商のほうが工よりも上に置かれたりしている。そしてなにより、
「士」が全くの無益な存在とされ、士人階級が産業をトップダウンに統制
したりすることこそは「悪逆非道の極み」みたいな扱いまでもがされている。
士人を殊更に権威の座から引き摺り下ろすことの正当化材料としては
最たるものである民主主義、その民主主義が提唱された西洋はといえば、
始めから金持ちの代表が王侯臣官といった士人階級をも兼任し続けて来ていて、
農工商の三民を総じて公正に統治するような、立派な士人が実在した試しがない。
士人はまず、豪商や地主といった「上流階級」の金持ちのために働き、
ついでに「下層階級」である平民にもたまには恵んでやる程度の存在でしか
なかったわけで、そんな士人がいるよりもいないほうがマシであるのも確かな
ことだから、西洋で民主主義が提唱されたのも必然的なことだったといえる。
では、民主主義によって社会統治の理想が達成されたのかといえば、全くそんなことはない。
選挙制によって為政者が民からの拘束を受ける場合であれ、共産制によって生産者と
為政者が同一とのものとして扱われる場合であれ、為政が産業から独立した一人前の
仕事として認められないような事態が到来することによって、結局、為政者が資産家の
傀儡である場合と同等か、それ以上もの問題が巻き起こるばかりのこととなった。
真に必要なのは、為政者と、資産家を含む全ての産業従事者との間に一線を引いて、
資産家といえども産業階級の一員でしかなく、しかも着実に食い物やモノを自力で作って
くださっている農夫や工業技術者などと比べれば、格下の産業従事者でしかないのだということを
世の中総出を挙げて認識し、資産家こそを最底辺の社会的立場に追い込むことだといえる。
そのために重要となるのが、一つには儒学のような権力道徳学の流布であり、もう一つが、
国家レベルの武力の洗練だといえる。古代ローマ皇帝や現アメリカ大統領なども、軍の統帥権を
保有していることが大権掌握の最もな根拠となっている。しかし、あまりにも過剰な軍備は、
それ自体が資産家などからの援助によってまでの維持に務めなければならないお荷物となってしまう。
結果、皇帝や大統領といえども軍産複合体の言いなりにならざるを得ないようなことにも
なってしまうわけで、そのうような事態を招かないために、軍備はなるべく最低限に止め、
常用の武器も日本刀のような、低コスト高パフォーマンスのものであるように心がけるべきである。
そこまでして士産の分離を心がけたならば、士人こそはあらゆる産業(金融を含む)の上に立つ、
「人の花形」たる存在ともなり得るわけで、また士人が人々の上に立つことにも、「社会保障の要」
という紛れもない根拠が伴うことにもなる。士人が忠節に務めたならば、それがそのまま産業従事者
同士での人間関係の雛形ともなるし、また士人が孝養に努めたならば、それがそのまま年金破綻後の
世の中での生き抜き方の見本ともなっていく。立派な士人による統治を完全にかなぐり捨てた
世の中が最終的にどうなるかという見本としては、現代社会ほどにもうってつけなものはなく、
結果はといえば「このままだと確実に破滅が免れ得ないと」いうものだった。農工商の三民の
序列を重んずるだけでなく、三民の上に士人をおく四民制全体が必要不可欠な役割を担っていた
ことが現代社会の体たらくによってこそ判明してるのだから、現代社会の体質からの一概な脱却
こそを本気で推し進めていったなら、「禍転じて福と為す」こともそんなに難しいことではない。
資産家といえども産業階級の一員でしかなく、しかも着実に食い物やモノを自力で作って
くださっている農夫や工業技術者などと比べれば、格下の産業従事者でしかないのだということを
世の中総出を挙げて認識し、資産家こそを最底辺の社会的立場に追い込むことだといえる。
そのために重要となるのが、一つには儒学のような権力道徳学の流布であり、もう一つが、
国家レベルの武力の洗練だといえる。古代ローマ皇帝や現アメリカ大統領なども、軍の統帥権を
保有していることが大権掌握の最もな根拠となっている。しかし、あまりにも過剰な軍備は、
それ自体が資産家などからの援助によってまでの維持に務めなければならないお荷物となってしまう。
結果、皇帝や大統領といえども軍産複合体の言いなりにならざるを得ないようなことにも
なってしまうわけで、そのうような事態を招かないために、軍備はなるべく最低限に止め、
常用の武器も日本刀のような、低コスト高パフォーマンスのものであるように心がけるべきである。
そこまでして士産の分離を心がけたならば、士人こそはあらゆる産業(金融を含む)の上に立つ、
「人の花形」たる存在ともなり得るわけで、また士人が人々の上に立つことにも、「社会保障の要」
という紛れもない根拠が伴うことにもなる。士人が忠節に務めたならば、それがそのまま産業従事者
同士での人間関係の雛形ともなるし、また士人が孝養に努めたならば、それがそのまま年金破綻後の
世の中での生き抜き方の見本ともなっていく。立派な士人による統治を完全にかなぐり捨てた
世の中が最終的にどうなるかという見本としては、現代社会ほどにもうってつけなものはなく、
結果はといえば「このままだと確実に破滅が免れ得ないと」いうものだった。農工商の三民の
序列を重んずるだけでなく、三民の上に士人をおく四民制全体が必要不可欠な役割を担っていた
ことが現代社会の体たらくによってこそ判明してるのだから、現代社会の体質からの一概な脱却
こそを本気で推し進めていったなら、「禍転じて福と為す」こともそんなに難しいことではない。
「禹は吾れ間然するところ無し。飲食を菲くして孝を鬼神にまで致し、衣服を悪しくして
美を黻冕にまで致す。宮室を卑くして力を溝洫に尽くす。禹は吾れ間然するところ無し」
「夏の禹帝には一点の非の打ち所も無い。自らの飲食を粗末にしながら、孝養は鬼籍の先祖にまで尽くし、
常用の衣服も簡素なものでありながら、位を表す前垂や冠だけは豪華なものとされた。住まいとなる宮室はこれまた
ボロ家でありながら、感慨の水路を立派にすることには力を尽くされた。夏の禹帝には一点の非の打ち所も無い。
(飲食は粗末にしても、位を表す衣装は場合によっては金銀なども用いて飾り付け、序列の徹底を促していた。
全体的に、自分一身の利益よりも天下の公益を禹帝が優先していたことを評する記述となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二一より)
美を黻冕にまで致す。宮室を卑くして力を溝洫に尽くす。禹は吾れ間然するところ無し」
「夏の禹帝には一点の非の打ち所も無い。自らの飲食を粗末にしながら、孝養は鬼籍の先祖にまで尽くし、
常用の衣服も簡素なものでありながら、位を表す前垂や冠だけは豪華なものとされた。住まいとなる宮室はこれまた
ボロ家でありながら、感慨の水路を立派にすることには力を尽くされた。夏の禹帝には一点の非の打ち所も無い。
(飲食は粗末にしても、位を表す衣装は場合によっては金銀なども用いて飾り付け、序列の徹底を促していた。
全体的に、自分一身の利益よりも天下の公益を禹帝が優先していたことを評する記述となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二一より)
愛ばかりに振り切れてバカになることでも、
知識ばかりに振り切れて血も涙もなくなることでもなく、
高度に愛と上知とを両立させていくことが仁の発端ともなる。
幼い我が子が危険に晒されているときに母が抱く恐れなどは、
当然我が子への愛に根ざしているが、かといって愛に溺れきって
蒙昧なままでいたなら、我が子を危険から守ることも叶わない。
だから、健全な母親が幼い我が子などに対して抱く思いは、
えてして愛と知力とをそれなりに両立したものとなる。
世で大業を為す男もまた、そのような愛と知力との両立を以ってことに臨むべきで、
それができたなら自然と言行が仁徳に根ざしたものともなる。それぐらいの男であって
初めて、女が立派な母親である並みの威厳が保たれることにもなるわけで、逆に、
情愛一極や機械的知識一極に振れ切って、ろくに仁徳も養えないというのであれば、
確かにそのような男は、女にすら見下されても仕方のない男止まりであるのだと言える。
(一定数以上の女が立派な母たり得ることで、初めて世の中も成り立っているのだから)
「愛に溺れる以上は知識なんか捨てちまえ、知識に頼る以上は情愛なんか無視しろ、
それでこそTPOをわきまえられた立派な大人だ」なんていう情報洗脳までもが今は潜在的に
まかり通っていたりもするが、これもまた甚だしい転倒夢想の一種で、本当は知と愛を
両立することもできないような人間こそが生粋の未熟者であり、そうあってはならない
見本としてこそ扱うべきなのである。智と愛の両立を仁徳にまで昇華させられていた
士大夫こそが尊ばれていた封建社会においても、情愛一辺倒に陥って獣のごとき情欲を
貪っていた町人などもいなくはなかったわけだけども、だからといって立派な大人扱いなどを
されることもなく、かえって「好色一代男」のような物笑いの種にすらなっていたのである。
知識ばかりに振り切れて血も涙もなくなることでもなく、
高度に愛と上知とを両立させていくことが仁の発端ともなる。
幼い我が子が危険に晒されているときに母が抱く恐れなどは、
当然我が子への愛に根ざしているが、かといって愛に溺れきって
蒙昧なままでいたなら、我が子を危険から守ることも叶わない。
だから、健全な母親が幼い我が子などに対して抱く思いは、
えてして愛と知力とをそれなりに両立したものとなる。
世で大業を為す男もまた、そのような愛と知力との両立を以ってことに臨むべきで、
それができたなら自然と言行が仁徳に根ざしたものともなる。それぐらいの男であって
初めて、女が立派な母親である並みの威厳が保たれることにもなるわけで、逆に、
情愛一極や機械的知識一極に振れ切って、ろくに仁徳も養えないというのであれば、
確かにそのような男は、女にすら見下されても仕方のない男止まりであるのだと言える。
(一定数以上の女が立派な母たり得ることで、初めて世の中も成り立っているのだから)
「愛に溺れる以上は知識なんか捨てちまえ、知識に頼る以上は情愛なんか無視しろ、
それでこそTPOをわきまえられた立派な大人だ」なんていう情報洗脳までもが今は潜在的に
まかり通っていたりもするが、これもまた甚だしい転倒夢想の一種で、本当は知と愛を
両立することもできないような人間こそが生粋の未熟者であり、そうあってはならない
見本としてこそ扱うべきなのである。智と愛の両立を仁徳にまで昇華させられていた
士大夫こそが尊ばれていた封建社会においても、情愛一辺倒に陥って獣のごとき情欲を
貪っていた町人などもいなくはなかったわけだけども、だからといって立派な大人扱いなどを
されることもなく、かえって「好色一代男」のような物笑いの種にすらなっていたのである。
今という時代は、知と愛の両立なんかできない人間、
愛する以上は馬鹿な愛(白痴)に振れ切り、知識に頼る以上は血も涙も無い
頭でっかち(悪霊)に振れ切るような輩ばかりが保護されている時代である。
しかも、そのような未熟者たちが不正に保護されていたことが、昨今の金融界の不正な
金利操作の発覚などと共に露呈してしまってもいる。金融システムを裏から操作できるような
悪知恵の持ち主が、情欲に振り切れてバカと化すようなカモばかりを低金利の融資で保護し、
世界を左右できる規模の巨万の富を、バカか悪知恵の両極端でしかいられない未熟者たちだけで
独占していたことがばらされたわけで、それに連動して、知と愛を高度に両立させられる
仁者こそは、権力の座から強制的に排除されていたことまでもが明かされてしまったのである。
知識ばかりに頼りきって、血も涙もない疑心暗鬼と化すことが批判されることは
これまでにもあったが、情欲に振り切れて白痴状態と化すことは、たとえば辛い仕事を
やらされている人間の気晴らしなどとしては、かえって推奨すらされているのが現状である。
本当はそれもまたよくないことである、のみならず、白痴並みに蒙昧な情欲への陥りこそは、
心ない知識の鬼にとっての生みの親ですらあったことが、キリスト教圏においてこそ
無機質な機械的知識ばかりが大量に蓄積されて来たことからも明らかなのである。
濁愛か悪知恵かの両極端でしかいられない人間が、仁者たる男以下であるのはもちろんのこと、
我が子を必死で守ろうとする、慈愛ある母ほどもの品性すら保てていない存在であることも
上に書いた通りであり、幼い我が子を惜しみ無き愛と、相応の知恵とで慈しむことを、世の
母親たちの誰しもが放棄したりしたならば(少子高齢化などによって)即座に世の中も
ままならなくなるようにして、バカか悪知恵かの両極端でしかいられない未熟者ばかりが
世を治める大権を牛耳り続けたなら、当然それによっても世の中がままならなくなるのである。
愛する以上は馬鹿な愛(白痴)に振れ切り、知識に頼る以上は血も涙も無い
頭でっかち(悪霊)に振れ切るような輩ばかりが保護されている時代である。
しかも、そのような未熟者たちが不正に保護されていたことが、昨今の金融界の不正な
金利操作の発覚などと共に露呈してしまってもいる。金融システムを裏から操作できるような
悪知恵の持ち主が、情欲に振り切れてバカと化すようなカモばかりを低金利の融資で保護し、
世界を左右できる規模の巨万の富を、バカか悪知恵の両極端でしかいられない未熟者たちだけで
独占していたことがばらされたわけで、それに連動して、知と愛を高度に両立させられる
仁者こそは、権力の座から強制的に排除されていたことまでもが明かされてしまったのである。
知識ばかりに頼りきって、血も涙もない疑心暗鬼と化すことが批判されることは
これまでにもあったが、情欲に振り切れて白痴状態と化すことは、たとえば辛い仕事を
やらされている人間の気晴らしなどとしては、かえって推奨すらされているのが現状である。
本当はそれもまたよくないことである、のみならず、白痴並みに蒙昧な情欲への陥りこそは、
心ない知識の鬼にとっての生みの親ですらあったことが、キリスト教圏においてこそ
無機質な機械的知識ばかりが大量に蓄積されて来たことからも明らかなのである。
濁愛か悪知恵かの両極端でしかいられない人間が、仁者たる男以下であるのはもちろんのこと、
我が子を必死で守ろうとする、慈愛ある母ほどもの品性すら保てていない存在であることも
上に書いた通りであり、幼い我が子を惜しみ無き愛と、相応の知恵とで慈しむことを、世の
母親たちの誰しもが放棄したりしたならば(少子高齢化などによって)即座に世の中も
ままならなくなるようにして、バカか悪知恵かの両極端でしかいられない未熟者ばかりが
世を治める大権を牛耳り続けたなら、当然それによっても世の中がままならなくなるのである。
大知はおろか、人並みの知見すら損壊してしまう程の劣情にかられることが、完全に禁止される
とまでいかずとも、決していいものなどとは見なされない程度の扱いは受けて然るべきである。
当然、そのような白痴状態への陥りを「神の降臨」だなどと嘯く病気も去ってしまうべきだ。
「礼の多きを以って貴しと為すは、其の心を外にするを以ってなり。〜
礼の少なきを以って貴しと為すは、其の心を内にするを以ってなり。〜
古えの聖人は之れを内にするを尊しと為し、之れを外にするを楽しみと為す。
之れを少なくするを貴しと為し、之れを多くするを美と為す。是の故に先王の
礼を制するや、多くすべからず、寡なくすべからず、唯だ其れ稱うのみにす」
「礼の実践が多大であることが貴ばれるのは、その内なる敬心が外部に発露するためである。逆に、
礼の実践が寡少であることが貴ばれることもあり、これは内なる敬心の養いに務めている場合である。
昔の聖人は内なる敬心の養いこそをより尊貴とし、それを外部に発露させることはむしろ楽しみとしていた。
敬心の養いに専らなために外的な礼儀が寡少となることをより貴いこととし、ついにはその敬心が発露
されることは善美なこととした。そのため先王の定めた礼制もまた、多すぎることも少なすぎることも
よしとされず、ただ融通に適うように心がけられていた。(他者への情欲によって、自らの思い上がりが
肥大化するのとは逆に、自らの敬心の養いがあってから、それが他者への礼節として発露される。
自意識過剰の思い上がりよりも恭敬のほうが、自らに養う上で自己本位である必要があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
とまでいかずとも、決していいものなどとは見なされない程度の扱いは受けて然るべきである。
当然、そのような白痴状態への陥りを「神の降臨」だなどと嘯く病気も去ってしまうべきだ。
「礼の多きを以って貴しと為すは、其の心を外にするを以ってなり。〜
礼の少なきを以って貴しと為すは、其の心を内にするを以ってなり。〜
古えの聖人は之れを内にするを尊しと為し、之れを外にするを楽しみと為す。
之れを少なくするを貴しと為し、之れを多くするを美と為す。是の故に先王の
礼を制するや、多くすべからず、寡なくすべからず、唯だ其れ稱うのみにす」
「礼の実践が多大であることが貴ばれるのは、その内なる敬心が外部に発露するためである。逆に、
礼の実践が寡少であることが貴ばれることもあり、これは内なる敬心の養いに務めている場合である。
昔の聖人は内なる敬心の養いこそをより尊貴とし、それを外部に発露させることはむしろ楽しみとしていた。
敬心の養いに専らなために外的な礼儀が寡少となることをより貴いこととし、ついにはその敬心が発露
されることは善美なこととした。そのため先王の定めた礼制もまた、多すぎることも少なすぎることも
よしとされず、ただ融通に適うように心がけられていた。(他者への情欲によって、自らの思い上がりが
肥大化するのとは逆に、自らの敬心の養いがあってから、それが他者への礼節として発露される。
自意識過剰の思い上がりよりも恭敬のほうが、自らに養う上で自己本位である必要があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
とにかく働きまくる奴隷状態でも、有閑階級としての悠々自適状態でもなく、
徒労は厭いながらも、着実な成果に結び付く仕事にかけては熱心である
ことが、人が一生を送る上で最も生きがいを感じられる方策ともなる。
人は皆いつかは必ず死ぬ、そのことに対して過度の悲哀を抱いたりするのなら、
それはやはり自分の生き方がどこか不健全であるからで、本当に生きがいの
ある生涯を尽くせたならば、人という生き物は臨終に際して悲哀を抱くどころか、
「十分な役目を果たした」という大きな満足と共にすらいることができるのである。
因果関係でいえば、生きがいのある人生が原因で、満足な死が結果である。
同様に、生きがいのない人生が原因となって、不満だらけの死という結果にも至る。
このうちの、満足な死を「涅槃」として教理の中心にも据えているのが仏教で、
そこから生きがいのある人生の送り方を導き出して、それを実践面の教義ともしている。
逆に、生きがいのない人生、不満だらけの死を大前提においてるのが聖書信仰で、
そのような無様な生死が神の導きによる形而上への昇天によって救われるとしている。
生きがいのある人生を送ることで満足な死を迎えるぐらいのことは、儒学だって
大前提としているが、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん(先進第十一・一二)」
とあるように、生死論にかけて殊更であるようなことから敬遠するようにもしている。
徒労は厭いながらも、着実な成果に結び付く仕事にかけては熱心である
ことが、人が一生を送る上で最も生きがいを感じられる方策ともなる。
人は皆いつかは必ず死ぬ、そのことに対して過度の悲哀を抱いたりするのなら、
それはやはり自分の生き方がどこか不健全であるからで、本当に生きがいの
ある生涯を尽くせたならば、人という生き物は臨終に際して悲哀を抱くどころか、
「十分な役目を果たした」という大きな満足と共にすらいることができるのである。
因果関係でいえば、生きがいのある人生が原因で、満足な死が結果である。
同様に、生きがいのない人生が原因となって、不満だらけの死という結果にも至る。
このうちの、満足な死を「涅槃」として教理の中心にも据えているのが仏教で、
そこから生きがいのある人生の送り方を導き出して、それを実践面の教義ともしている。
逆に、生きがいのない人生、不満だらけの死を大前提においてるのが聖書信仰で、
そのような無様な生死が神の導きによる形而上への昇天によって救われるとしている。
生きがいのある人生を送ることで満足な死を迎えるぐらいのことは、儒学だって
大前提としているが、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん(先進第十一・一二)」
とあるように、生死論にかけて殊更であるようなことから敬遠するようにもしている。
生きがいのない人生と不満だらけの死を大前提としているような不具者からすれば、
世俗での活動の探求ばかりにもっぱらであろうとする儒学の実践者のあり方などは、
特に俗物然として見えるのだろうけども、その活動はといえば、君子としての
仁政の実現に特化されていたりと、それなりの筋が通っている。商人階級だった
古代ユダヤ人はおろか、古代オリエントの諸々の為政者ですらもが君子としての
仁政を心がけていたような試しはほとんどなく、その証拠に、為政者たちが私的に
貯め込んだ財によって無益な土建を繰り返していた痕跡がピラミッドなどとして
遺されてもいるのである。(中国でも、始皇帝陵墓などが近年発掘されているが)
世俗での活動の内に、君子としての仁政などを想定したことすらないような人間が、
そのような活動にかけてこそ熱心であろうとする儒者の「全てを知っている」などと
うそぶく資格は微塵もない。君子としての仁政にまで至れたなら、人は必ず最高に
生きがいのある生と、大満足な死とを享受できるわけだから、そんな因果関係など
始めから露ほどにも知らずに、世俗の活動全般が生きがいのない生と、不満だらけの
死とをもたらすばかりであるなどと決め込むのは、ただのもの知らずだといえる。
俗世においては、儒者の志すようなある種の活動にかけて、生きがいと知足に満ちた
生死を得られることが確かだし、また、超俗においても仏教などにおいて、存命中
の浄行によって「生まれ変わるよりも至上な」涅槃を実現する方策が説かれている。
今生の生死が、生きがいのなさや、不満だらけの死ばかりに見舞われたりしないための
方法は世俗超俗いずれにおいても拓けているのだから、そのような不具な生死を大前提
とした形而上への救いの希求などに拘泥する正当性なども、もはやないのだといえる。
世俗での活動の探求ばかりにもっぱらであろうとする儒学の実践者のあり方などは、
特に俗物然として見えるのだろうけども、その活動はといえば、君子としての
仁政の実現に特化されていたりと、それなりの筋が通っている。商人階級だった
古代ユダヤ人はおろか、古代オリエントの諸々の為政者ですらもが君子としての
仁政を心がけていたような試しはほとんどなく、その証拠に、為政者たちが私的に
貯め込んだ財によって無益な土建を繰り返していた痕跡がピラミッドなどとして
遺されてもいるのである。(中国でも、始皇帝陵墓などが近年発掘されているが)
世俗での活動の内に、君子としての仁政などを想定したことすらないような人間が、
そのような活動にかけてこそ熱心であろうとする儒者の「全てを知っている」などと
うそぶく資格は微塵もない。君子としての仁政にまで至れたなら、人は必ず最高に
生きがいのある生と、大満足な死とを享受できるわけだから、そんな因果関係など
始めから露ほどにも知らずに、世俗の活動全般が生きがいのない生と、不満だらけの
死とをもたらすばかりであるなどと決め込むのは、ただのもの知らずだといえる。
俗世においては、儒者の志すようなある種の活動にかけて、生きがいと知足に満ちた
生死を得られることが確かだし、また、超俗においても仏教などにおいて、存命中
の浄行によって「生まれ変わるよりも至上な」涅槃を実現する方策が説かれている。
今生の生死が、生きがいのなさや、不満だらけの死ばかりに見舞われたりしないための
方法は世俗超俗いずれにおいても拓けているのだから、そのような不具な生死を大前提
とした形而上への救いの希求などに拘泥する正当性なども、もはやないのだといえる。
「化者に比るまで、土を膚に親しむる無きは、人の心に於いて独り恔きこと無からんや」
「親の身体が完全に朽ちてなくなるまで、その皮膚すらも土に近づけないように、
孝養を尽くすことほど、誰一人として快さを抱かない者のない行いがあるだろうか。
(いつかは土に帰る身であればこそ、努力が至上の快さにつながる実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・七より)
「親の身体が完全に朽ちてなくなるまで、その皮膚すらも土に近づけないように、
孝養を尽くすことほど、誰一人として快さを抱かない者のない行いがあるだろうか。
(いつかは土に帰る身であればこそ、努力が至上の快さにつながる実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・七より)
仁徳豊かな君子として自らが世に君臨することが、着実に「生きていないこと」よりも有意義な生を本人にもたらす。
だからこそ、そのような人間が死ぬに際しても、心から生きがいのある人生を送れたと納得もできるのである。
「生きていないこと」よりもさらに意義のない人生もまた確かにあり、そのような人生はすべからく、
君子としての人のあり方に反した人生を送っている。いわゆる「小人」の人生だけども、小人だからといって
必ずしも被支配階級に甘んじているとも限らず、自らの品性は小人であるままに権力だけは手に入れて、
いるよりもいないほうがマシなほどに有害無益な暴政を働く権力犯罪者になってしまうことまでもあるわけで、
その時にこそ「あるよりもないほうがマシな生」もまた極まる。ただ品性が小人止まりなだけでも、
えてして劣等感からなる苦しみなどにあえいだりするものだが、その苦しみを克服するために、「小人のままでの
権力の掌握」という間違った手段に及んだ挙句に、余計に生きていることの苦しみを増大化させてしまうのである。
権力を掌握するかしないかという以前に、まず人が「論語」にあるような意味での「君子」であろうとすることが本来
からの品性の向上につながり、「小人」であってしまうことが本来からの品性の堕落につながってしまう。人としての
本来の品性が君子級に上等であったなら、権力なんか掌握しなくたってそれなりに有意義な生を送れるし、逆に、本来の
品性が小人止まりなのでは、どんなに莫大な権力を掌握してみたところで、相変わらず意義のない生のままであり続ける。
仏門での出家ほどもの、本格的な超俗領域に立ち入るのでもない限りは、このあたりの分別が十分に普遍的な
ものでもあり得る。釈迦もまた、宮女たちの裸踊りに嫌気が差して実家の王家を抜け出して乞食行に邁進したと
いうから、釈迦の実家だった王家からして「仁政家」であったとまでは考えにくいわけで、王家が王家だからといって
酒池肉林の遊興に耽ることが当たり前であるかのような風潮にこそ、釈迦も反発したのだろうことが窺えるのである。
だからこそ、そのような人間が死ぬに際しても、心から生きがいのある人生を送れたと納得もできるのである。
「生きていないこと」よりもさらに意義のない人生もまた確かにあり、そのような人生はすべからく、
君子としての人のあり方に反した人生を送っている。いわゆる「小人」の人生だけども、小人だからといって
必ずしも被支配階級に甘んじているとも限らず、自らの品性は小人であるままに権力だけは手に入れて、
いるよりもいないほうがマシなほどに有害無益な暴政を働く権力犯罪者になってしまうことまでもあるわけで、
その時にこそ「あるよりもないほうがマシな生」もまた極まる。ただ品性が小人止まりなだけでも、
えてして劣等感からなる苦しみなどにあえいだりするものだが、その苦しみを克服するために、「小人のままでの
権力の掌握」という間違った手段に及んだ挙句に、余計に生きていることの苦しみを増大化させてしまうのである。
権力を掌握するかしないかという以前に、まず人が「論語」にあるような意味での「君子」であろうとすることが本来
からの品性の向上につながり、「小人」であってしまうことが本来からの品性の堕落につながってしまう。人としての
本来の品性が君子級に上等であったなら、権力なんか掌握しなくたってそれなりに有意義な生を送れるし、逆に、本来の
品性が小人止まりなのでは、どんなに莫大な権力を掌握してみたところで、相変わらず意義のない生のままであり続ける。
仏門での出家ほどもの、本格的な超俗領域に立ち入るのでもない限りは、このあたりの分別が十分に普遍的な
ものでもあり得る。釈迦もまた、宮女たちの裸踊りに嫌気が差して実家の王家を抜け出して乞食行に邁進したと
いうから、釈迦の実家だった王家からして「仁政家」であったとまでは考えにくいわけで、王家が王家だからといって
酒池肉林の遊興に耽ることが当たり前であるかのような風潮にこそ、釈迦も反発したのだろうことが窺えるのである。
王業全般を卑俗なものとして諦めた釈迦の振る舞いと、王業も清浄であることに務めたなら相当な生きがいに繋がり得る
こととの矛盾は、大乗仏教において止揚され、仏菩薩縁覚声聞の四乗には及ばないものの、俗世での清浄な統治に励む
転輪聖王だとか、半ば超俗に足を踏み入れつつ帝王でもある帝釈天だとか数多の天王だとかいった尊格が提示されている。
「華厳経」でも、自らは世俗での帝業に励むものが、在家信者として仏門に帰依することが、より一層の帝国の繁栄に繋がる
などとも宣伝していて、仏門においても、清浄な君子としての業務にそれなりの価値があることが認められているのである。
世俗での君子としての業務が盛大であるということは、世の中での最大級の善行に励んでいるということでもある。
それを試みた上で未だ飽き足らないというのならまだしも、そもそもそんな試みに及んだことはおろか、
「君子としての王業が最大級の善行となる」という認知すら疎かなままでいる。そのような連中が中東以西の
世界のほぼ全てを占めているわけで、それほどにも知見や経験が未熟なままに「人生など苦しみの塊でしかない」
などとほざくのでは、耳を貸してやるにも足らないほどにも身の程知らずな戯れ言止まりでしかないといえる。
最大級の善行を為してなお飽き足らないというのならまだしも、そもそも善行なんかやったことも、その価値を計り知った
こともないような分際でいて、「生きることに価値が無い」などと決め付けるのは、井の中の蛙の大海への悪口でしかない。
まだ人生も世俗も諦観する資格もないうちから、狭隘な了見だけに基づいて人生や世俗を否定してかかるような連中は、
お坊さんや仙人が偉大であるのとは真逆に、常人以下の品性しか持たない賤人でしかないということが言えるのである。
こととの矛盾は、大乗仏教において止揚され、仏菩薩縁覚声聞の四乗には及ばないものの、俗世での清浄な統治に励む
転輪聖王だとか、半ば超俗に足を踏み入れつつ帝王でもある帝釈天だとか数多の天王だとかいった尊格が提示されている。
「華厳経」でも、自らは世俗での帝業に励むものが、在家信者として仏門に帰依することが、より一層の帝国の繁栄に繋がる
などとも宣伝していて、仏門においても、清浄な君子としての業務にそれなりの価値があることが認められているのである。
世俗での君子としての業務が盛大であるということは、世の中での最大級の善行に励んでいるということでもある。
それを試みた上で未だ飽き足らないというのならまだしも、そもそもそんな試みに及んだことはおろか、
「君子としての王業が最大級の善行となる」という認知すら疎かなままでいる。そのような連中が中東以西の
世界のほぼ全てを占めているわけで、それほどにも知見や経験が未熟なままに「人生など苦しみの塊でしかない」
などとほざくのでは、耳を貸してやるにも足らないほどにも身の程知らずな戯れ言止まりでしかないといえる。
最大級の善行を為してなお飽き足らないというのならまだしも、そもそも善行なんかやったことも、その価値を計り知った
こともないような分際でいて、「生きることに価値が無い」などと決め付けるのは、井の中の蛙の大海への悪口でしかない。
まだ人生も世俗も諦観する資格もないうちから、狭隘な了見だけに基づいて人生や世俗を否定してかかるような連中は、
お坊さんや仙人が偉大であるのとは真逆に、常人以下の品性しか持たない賤人でしかないということが言えるのである。
「小球大球を受け、下国の綴旒と為りて、天の休を何う。
競わず絿らず、剛ならず柔ならず、政を敷くに優優と、百禄も是に遒まる」
「大小諸々の勅命を受け、下位の国々の見本たる本流ともなって、天からの福を受ける。
専らに競おうとも貪ろうともせず、剛に過ぎず柔に過ぎず、悠然として政を敷き、天下の富も皆なここに集まるのである。
(仁徳によって天下を治めるためにこそ、不埒な競争意識などは捨て去る必要があるし、それでこそ天の休命にも適う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
競わず絿らず、剛ならず柔ならず、政を敷くに優優と、百禄も是に遒まる」
「大小諸々の勅命を受け、下位の国々の見本たる本流ともなって、天からの福を受ける。
専らに競おうとも貪ろうともせず、剛に過ぎず柔に過ぎず、悠然として政を敷き、天下の富も皆なここに集まるのである。
(仁徳によって天下を治めるためにこそ、不埒な競争意識などは捨て去る必要があるし、それでこそ天の休命にも適う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・長発より)
自ら進んで冤罪の被害者となって、重罪人バラバの代わりに死刑になった
イエスの暴挙を、判事であったローマ総督のピラトもそのまま放任した。
「飛んで火にいる夏の虫」同然の所業に及んだイエスに対する不当処罰は、
まだ許せるところがあるし、また冤罪ほど事態のこじれる事件も他にないものだから、
「冤罪を誘発した」という罪だけによって、イエスへの磔刑を正当化してもいいぐらいのものである。
問題は、それによって死刑囚だった強盗殺人犯バラバを無罪放免に処したことで、これにより
ローマ帝国は法治機構の信頼性の破綻を招き、カトリックに全土を征服されることともなった。
キリスト教に「権力」を強奪されたローマ圏は一挙に閉塞状態と化し、
俗に言う「暗黒時代」を800年以上に渡り経験することとなった。ローマ帝国による支配を
カトリックが乗っ取ったからといって、そこで法治支配以上に優良な統治が敷かれたなどと
いうこともなく、むしろ誰しもが餓鬼畜生と化した状態をカルト教義によって無理やり治めて
いくという状態に移行してしまったわけだから、「暗黒」と化したのも当然のことだといえる。
キリスト教がローマ帝国を乗っ取れたのは、上記の通り、ローマ総督府が自分たちの法治支配を
イエスの暴挙の容認によって破綻させてしまったからである。ではなぜ、イエスの暴挙によって
法治支配が破綻せざるを得なくなったのかといえば、古代ローマには権力道徳がなかったからだ。
イエスの言行は、孔孟が体系化したような権力道徳にことごとく違背している。すなわち
「権力犯罪」の体系の流布だったわけだから、それをしてイエスを妖言罪などによって処罰し、
バラバのような他の死刑囚も代わりに釈放したりもせずに、粛々と刑を実行すればよかったのである。
しかし、当時のローマやイスラエルには体系化された純正な権力道徳などはなかったから、
総督ピラトも大衆に扇動されて分けも分からないままにイエスを処刑し、代わりにバラバを
放免するという、権力者にあるまじき大いなる過ちを犯した。実定法にまつわる知識はあっても、
仁義道徳にまつわる知識まではなかったから、イエスの妖言に十分に対応しきることもできなかった。
イエスの暴挙を、判事であったローマ総督のピラトもそのまま放任した。
「飛んで火にいる夏の虫」同然の所業に及んだイエスに対する不当処罰は、
まだ許せるところがあるし、また冤罪ほど事態のこじれる事件も他にないものだから、
「冤罪を誘発した」という罪だけによって、イエスへの磔刑を正当化してもいいぐらいのものである。
問題は、それによって死刑囚だった強盗殺人犯バラバを無罪放免に処したことで、これにより
ローマ帝国は法治機構の信頼性の破綻を招き、カトリックに全土を征服されることともなった。
キリスト教に「権力」を強奪されたローマ圏は一挙に閉塞状態と化し、
俗に言う「暗黒時代」を800年以上に渡り経験することとなった。ローマ帝国による支配を
カトリックが乗っ取ったからといって、そこで法治支配以上に優良な統治が敷かれたなどと
いうこともなく、むしろ誰しもが餓鬼畜生と化した状態をカルト教義によって無理やり治めて
いくという状態に移行してしまったわけだから、「暗黒」と化したのも当然のことだといえる。
キリスト教がローマ帝国を乗っ取れたのは、上記の通り、ローマ総督府が自分たちの法治支配を
イエスの暴挙の容認によって破綻させてしまったからである。ではなぜ、イエスの暴挙によって
法治支配が破綻せざるを得なくなったのかといえば、古代ローマには権力道徳がなかったからだ。
イエスの言行は、孔孟が体系化したような権力道徳にことごとく違背している。すなわち
「権力犯罪」の体系の流布だったわけだから、それをしてイエスを妖言罪などによって処罰し、
バラバのような他の死刑囚も代わりに釈放したりもせずに、粛々と刑を実行すればよかったのである。
しかし、当時のローマやイスラエルには体系化された純正な権力道徳などはなかったから、
総督ピラトも大衆に扇動されて分けも分からないままにイエスを処刑し、代わりにバラバを
放免するという、権力者にあるまじき大いなる過ちを犯した。実定法にまつわる知識はあっても、
仁義道徳にまつわる知識まではなかったから、イエスの妖言に十分に対応しきることもできなかった。
これこそは、権力者には法律だけでなく、仁徳の知識や実践もまたなければならない証拠にもなっている。
仁徳なんか全くなくて、法律しか知らないというのであれば、イエス級に不埒なカルト犯罪者を
裁ききることはできない。最悪、そのせいでローマ帝国がカトリックに乗っ取られて、800年以上もの
暗黒時代を到来させたようなことにだってなりかねないわけだから、そのような過ちを二度と
繰り返さないためにも、法律だけでなく、仁徳にまつわる素養までもが権力者たる者には必須だといえる。
「君子にして不仁なる者有らんか。未だ小人にして仁なる者あらざるなり」
「権力を持つ君子であっても不仁なものはいるが、権力を持たない小人でいながら仁者たり得た者はいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
孔子も士大夫としての役儀などに与りつつ仁徳のあり方を体系化していった。一生涯小人階級だったイエス
などが仁者だったはずはないし、総督ピラトらもまた、権力者ではあっても仁者ではなかったようである。
イエスのような人間の言行に権力が征服されることは、原理的に必ず不仁の蔓延につながる。
権力者が仁徳の養いによって不仁に対する防波堤を築き、不仁が権力を乗っ取るようなことがないように
心がけないのであれば、世の中が数百年規模の暗黒に見舞われるぐらいのことはいくらでもあり得る。
そういう時代にも貞正を貫く人間もまたいた所で、大局として人々が楽果に与れる頻度は地に墜ちる。
誰一人として環境からの幸福には与れなくなる、そのような情勢を二度と招かないようにしたいものである。
「権量を謹み、法度を審らかにし、廃官を修めれば、四方の政行われん」
「権力の扱いをよく慎んで、制度もよく整えて、廃官にまで配慮を行き届かせれば、四方の政治もうまく行く。
(権力を手に入れたからといって驕り高ぶって欲しいままでいたりすれば、政治もうまく行かないのである。
不仁な小人だったイエスの驕り高ぶりを引き継いだローマ・カトリックも、ろくな政治は為せなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・二より)
仁徳なんか全くなくて、法律しか知らないというのであれば、イエス級に不埒なカルト犯罪者を
裁ききることはできない。最悪、そのせいでローマ帝国がカトリックに乗っ取られて、800年以上もの
暗黒時代を到来させたようなことにだってなりかねないわけだから、そのような過ちを二度と
繰り返さないためにも、法律だけでなく、仁徳にまつわる素養までもが権力者たる者には必須だといえる。
「君子にして不仁なる者有らんか。未だ小人にして仁なる者あらざるなり」
「権力を持つ君子であっても不仁なものはいるが、権力を持たない小人でいながら仁者たり得た者はいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
孔子も士大夫としての役儀などに与りつつ仁徳のあり方を体系化していった。一生涯小人階級だったイエス
などが仁者だったはずはないし、総督ピラトらもまた、権力者ではあっても仁者ではなかったようである。
イエスのような人間の言行に権力が征服されることは、原理的に必ず不仁の蔓延につながる。
権力者が仁徳の養いによって不仁に対する防波堤を築き、不仁が権力を乗っ取るようなことがないように
心がけないのであれば、世の中が数百年規模の暗黒に見舞われるぐらいのことはいくらでもあり得る。
そういう時代にも貞正を貫く人間もまたいた所で、大局として人々が楽果に与れる頻度は地に墜ちる。
誰一人として環境からの幸福には与れなくなる、そのような情勢を二度と招かないようにしたいものである。
「権量を謹み、法度を審らかにし、廃官を修めれば、四方の政行われん」
「権力の扱いをよく慎んで、制度もよく整えて、廃官にまで配慮を行き届かせれば、四方の政治もうまく行く。
(権力を手に入れたからといって驕り高ぶって欲しいままでいたりすれば、政治もうまく行かないのである。
不仁な小人だったイエスの驕り高ぶりを引き継いだローマ・カトリックも、ろくな政治は為せなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・二より)
陰か陽かでいえば、生が陰で死が陽である。
もっと正確に言えば、生死の流転が陰で、不生不滅が陽である。
生きてるうちに多大なる罪業を重ねて、死後にも地獄餓鬼畜生の三悪趣を永遠にさ迷い続けなければ
ならないようなザマに陥ってしまっている者であれば、死後の世界が光明に満ちた極楽浄土で
あるなんてこともなく、むしろ死後にこそより暗い闇が待ち受けているということにすらなる。
死後に光明が待ち受けているというのならば、それは生死の流転を解脱した涅槃が近いということで、
場合によっては生きてるうちから不生不滅の境地(有余涅槃)に至れることもある。そういう者に
とってこそ確実に生こそは陰で、死の先こそは陽であり、生きてるうちにも、生の暗がりを
いかに光明で照らしていくかということが主要な課題となっていくのである。
「生きる」ということの業を、より深刻なものと化していくような行いは、大体が悪業に繋がる。
悪業だから生死の流転を多重化させ、本来は死後にあるはずの光明をより遠ざけることともなる。
だから、生死の流転を解脱した涅槃に至るために、仏門は出家による抜業因種をも企図する。本格の
仏門ならば妻子を持つことすらをも絶って、この世に出家者が残すカルマを最低限に止め置こうとする。
上述の、二つの選択肢とはまた別の選択肢がもう一つあって、世俗での活動にはやはり邁進して
いくものの、その活動を世のため人のため、国家鎮護や天下平定のためだけに限って、積極的に
自他の悪業を食い止めていこうとするものである。これこそは儒家の選択肢でもあるし、原始仏教と
バラモン教の折衷とでもいうべき大乗仏教などが根幹の理念として据えているものでもある。
原始仏教のように、自らがこの世に残すカルマをできる限り最小限に止めおくことと、儒家や大乗仏教の
ように、天下国家の大局からの悪業の矮小化に務めていくことと、いずれもが「自らが生きる」ということ
ばかりに専らであるのでは務まらない代物となっている。孔子や孟子ですら「天命のためには命をも捨てる」
というようなことをいい、周の放伐革命に抗議して首陽山に餓死した伯夷・叔世兄弟を聖人と見なしてもいる。
もっと正確に言えば、生死の流転が陰で、不生不滅が陽である。
生きてるうちに多大なる罪業を重ねて、死後にも地獄餓鬼畜生の三悪趣を永遠にさ迷い続けなければ
ならないようなザマに陥ってしまっている者であれば、死後の世界が光明に満ちた極楽浄土で
あるなんてこともなく、むしろ死後にこそより暗い闇が待ち受けているということにすらなる。
死後に光明が待ち受けているというのならば、それは生死の流転を解脱した涅槃が近いということで、
場合によっては生きてるうちから不生不滅の境地(有余涅槃)に至れることもある。そういう者に
とってこそ確実に生こそは陰で、死の先こそは陽であり、生きてるうちにも、生の暗がりを
いかに光明で照らしていくかということが主要な課題となっていくのである。
「生きる」ということの業を、より深刻なものと化していくような行いは、大体が悪業に繋がる。
悪業だから生死の流転を多重化させ、本来は死後にあるはずの光明をより遠ざけることともなる。
だから、生死の流転を解脱した涅槃に至るために、仏門は出家による抜業因種をも企図する。本格の
仏門ならば妻子を持つことすらをも絶って、この世に出家者が残すカルマを最低限に止め置こうとする。
上述の、二つの選択肢とはまた別の選択肢がもう一つあって、世俗での活動にはやはり邁進して
いくものの、その活動を世のため人のため、国家鎮護や天下平定のためだけに限って、積極的に
自他の悪業を食い止めていこうとするものである。これこそは儒家の選択肢でもあるし、原始仏教と
バラモン教の折衷とでもいうべき大乗仏教などが根幹の理念として据えているものでもある。
原始仏教のように、自らがこの世に残すカルマをできる限り最小限に止めおくことと、儒家や大乗仏教の
ように、天下国家の大局からの悪業の矮小化に務めていくことと、いずれもが「自らが生きる」ということ
ばかりに専らであるのでは務まらない代物となっている。孔子や孟子ですら「天命のためには命をも捨てる」
というようなことをいい、周の放伐革命に抗議して首陽山に餓死した伯夷・叔世兄弟を聖人と見なしてもいる。
ただ自らが生きることばかりに専らで、天命をも無視しての遊興ばかりに耽るというのであれば、仏門での
出家修行などが覚束ないのはもちろんのこと、儒学を実践する仁政家としてですら大成できたりすることはない。
それでいて、儒学の経典である四書五経などに書かれている教条は、人として嗜むべき最低限の
道徳的なわきまえばかりとなってもいる。してみれば、人間が生きることばかりに専らであるということは、
即座に最低限の人としてのわきまえをも失った、餓鬼畜生の振る舞いに直結してしまうということである。
人は本来、生きることばかりに専らでいたりしてはいけない生き物なのであり、もしも
そのようでいたならば、動物以上の知能や技術力もあいまって、地獄に堕する悪業をも動物以上に
すら深めてしまうことになる。文明社会をも築き上げられる知能や技術の持ち主であればこそ、
人間は生きることばかりに専らであることが「過ぎたるはなお及ばざるが如し」にも直結して
しまうものだから、最低でも儒説程度の生存欲に対する自制は嗜んでおくべきなのだといえる。
人間であればこそ、自分が生きることばかりに専らであることが、暗くて陰鬱な死へとも直結してしまう。
だからこそ、生きることに対して消極的な教条がままある、儒家や仏門に従うぐらいでちょうどいいのである。
「君子に終わると曰い、小人に死と曰う」
「君子が『身を終える』ということを、小人は『死ぬ』という。
(君子は身を終えても名を残すから『死ぬ』とは言わない。『天子がお隠れになる』なども
これに準拠した語法だといえる。そもそも『死』などを強調している時点で小人なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
出家修行などが覚束ないのはもちろんのこと、儒学を実践する仁政家としてですら大成できたりすることはない。
それでいて、儒学の経典である四書五経などに書かれている教条は、人として嗜むべき最低限の
道徳的なわきまえばかりとなってもいる。してみれば、人間が生きることばかりに専らであるということは、
即座に最低限の人としてのわきまえをも失った、餓鬼畜生の振る舞いに直結してしまうということである。
人は本来、生きることばかりに専らでいたりしてはいけない生き物なのであり、もしも
そのようでいたならば、動物以上の知能や技術力もあいまって、地獄に堕する悪業をも動物以上に
すら深めてしまうことになる。文明社会をも築き上げられる知能や技術の持ち主であればこそ、
人間は生きることばかりに専らであることが「過ぎたるはなお及ばざるが如し」にも直結して
しまうものだから、最低でも儒説程度の生存欲に対する自制は嗜んでおくべきなのだといえる。
人間であればこそ、自分が生きることばかりに専らであることが、暗くて陰鬱な死へとも直結してしまう。
だからこそ、生きることに対して消極的な教条がままある、儒家や仏門に従うぐらいでちょうどいいのである。
「君子に終わると曰い、小人に死と曰う」
「君子が『身を終える』ということを、小人は『死ぬ』という。
(君子は身を終えても名を残すから『死ぬ』とは言わない。『天子がお隠れになる』なども
これに準拠した語法だといえる。そもそも『死』などを強調している時点で小人なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
人間という生き物にとって、「自分が生きる」ということばかりに専らではないように
務めるぐらいが実質上ちょうどいいのと同じように、これまた人間にとっては、自己愛だとか
隣人愛だとかいったような、「安易な愛」を偏重しないようにするぐらいがちょうどいい。
仁愛や親愛が、それなりの知見や義務感と共にこそ達成し得る「高度な愛」であるのに対し、
自己愛や隣人愛は何の知識も義務感もなく、好き勝手な中にまんまと陥れる安易な愛でしかない。
たとえば、「遠くの親戚よりも近くの他人」で、近くにいるから便利な隣人ばかりとの
関係を専らにして、遠方の親戚家族などは蔑ろにしてしまうほうが実際、簡単なことである。
自分や隣人ばかりの利益に専らで、天下の公益を我田引水によって損ねてしまうことのほうが
我が欲望のままに行えることで、何らの知見の研鑽の必要もないぶんだけ、より簡単なことだといえる。
生存意欲も自己愛も隣人愛も、完全に捨て去られて然るべきものなのかといえば、そうとも限らない。
この世の中で旺盛に活動していく人間に「生存欲をなくせ」というのは矛盾しているし、墨子のように
あらゆる偏愛を捨て去っての博愛一辺倒でいた所で、八方美人すぎて何の成果も挙げられはしなかったりもする。
生存欲も自己愛も隣人愛もあったとした上で、そんなものを至上のものとして掲げたりはしない。 ┐
天命のためには身命をも呈する心構えや、仁愛や親愛こそを至上のものとして、それと比べれば ├ ①
生存欲だの自己愛だの隣人愛だのが、一貫して劣後される他ない代物であることをわきまえる。 ┘
自分が幾度となく言い重ねてきた諸々の分別のうちでも、これこそは最も推奨するに値する分別だといえる。
それでいて、この分別を恒常的に嗜める人間というのも、そんなに多くないだろうことまでもが予想される。
務めるぐらいが実質上ちょうどいいのと同じように、これまた人間にとっては、自己愛だとか
隣人愛だとかいったような、「安易な愛」を偏重しないようにするぐらいがちょうどいい。
仁愛や親愛が、それなりの知見や義務感と共にこそ達成し得る「高度な愛」であるのに対し、
自己愛や隣人愛は何の知識も義務感もなく、好き勝手な中にまんまと陥れる安易な愛でしかない。
たとえば、「遠くの親戚よりも近くの他人」で、近くにいるから便利な隣人ばかりとの
関係を専らにして、遠方の親戚家族などは蔑ろにしてしまうほうが実際、簡単なことである。
自分や隣人ばかりの利益に専らで、天下の公益を我田引水によって損ねてしまうことのほうが
我が欲望のままに行えることで、何らの知見の研鑽の必要もないぶんだけ、より簡単なことだといえる。
生存意欲も自己愛も隣人愛も、完全に捨て去られて然るべきものなのかといえば、そうとも限らない。
この世の中で旺盛に活動していく人間に「生存欲をなくせ」というのは矛盾しているし、墨子のように
あらゆる偏愛を捨て去っての博愛一辺倒でいた所で、八方美人すぎて何の成果も挙げられはしなかったりもする。
生存欲も自己愛も隣人愛もあったとした上で、そんなものを至上のものとして掲げたりはしない。 ┐
天命のためには身命をも呈する心構えや、仁愛や親愛こそを至上のものとして、それと比べれば ├ ①
生存欲だの自己愛だの隣人愛だのが、一貫して劣後される他ない代物であることをわきまえる。 ┘
自分が幾度となく言い重ねてきた諸々の分別のうちでも、これこそは最も推奨するに値する分別だといえる。
それでいて、この分別を恒常的に嗜める人間というのも、そんなに多くないだろうことまでもが予想される。
世の半分を構成する女は、ほぼ全てがこんなわきまえ①を保つことなど不可能である。
男であっても頑是ない子供や、精神が未熟なままに年だけ重ねた小人男などにも不可能であろう。
結果、上記①のようなわきまえを保てる人間は、どんなに多く見積もっても全世界の半分以下に
止まることになり、多数決であれば上記①のようなわきまえこそが劣後されることになってしまう。
多数決によって、①のような上等なわきまえが天下に通用するということは、原理的にありえない。
男か女でいえば男が上で女が下、君子か小人かでいえば君子が上で小人が下といった適正な差別を実施した上で、
上位のものが下位のものを一方的に教導していくという体制が整えられることで初めて、天下に①のような
わきまえが通用して、以て人類が生存欲や自己愛や隣人愛の過剰からなる滅亡の危機を免れられることともなる。
多数決ですらあれば必ず正しいなんてことも決してない。「船頭多くして船山に登る」ということがあり、
世界の多数派である女子供と小人の意見を優先させた挙句に、人類が滅亡の危機に見舞われることにすらなり得る。
人間が必ずしも愚かだなんてことはないが、多数派については、愚かでいやすいようにもできている。
安易なほう、安易なほうへと堕落し続ける多数派の愚か者を、その命ごと斬り捨てるとまではいかずとも、
全くその言い分を聞いてやらずに、こちらの命令だけを聞き従わせるといったことも、時に必要になるのである。
「仁義礼智は、外由り我れを鑠るには非ざるなり。我固より之れを有するなり。思う弗きのみ。故に求むれば
則ち之れを得、舍つれば則ち之れを失うとも曰えり。相倍蓰而て算無き者あるは、其の才を尽くす能わざればなり」
「仁義礼智は、外的に自らを飾り立てるための道具などではない。誰しもが本より具えてはいるものの、それを
自覚することがないだけのことである。だから『求めれば得られるが、捨てるのなら失うばかり』ともいえる。
得る者と失う者とで極端に隔絶してしまうことがあるのも、自らの才分を尽くしたか否かによるのである。
(仁義礼智の四端を自得するために才分を尽くすことこそは、君子にとっての至上命題だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・六より)
男であっても頑是ない子供や、精神が未熟なままに年だけ重ねた小人男などにも不可能であろう。
結果、上記①のようなわきまえを保てる人間は、どんなに多く見積もっても全世界の半分以下に
止まることになり、多数決であれば上記①のようなわきまえこそが劣後されることになってしまう。
多数決によって、①のような上等なわきまえが天下に通用するということは、原理的にありえない。
男か女でいえば男が上で女が下、君子か小人かでいえば君子が上で小人が下といった適正な差別を実施した上で、
上位のものが下位のものを一方的に教導していくという体制が整えられることで初めて、天下に①のような
わきまえが通用して、以て人類が生存欲や自己愛や隣人愛の過剰からなる滅亡の危機を免れられることともなる。
多数決ですらあれば必ず正しいなんてことも決してない。「船頭多くして船山に登る」ということがあり、
世界の多数派である女子供と小人の意見を優先させた挙句に、人類が滅亡の危機に見舞われることにすらなり得る。
人間が必ずしも愚かだなんてことはないが、多数派については、愚かでいやすいようにもできている。
安易なほう、安易なほうへと堕落し続ける多数派の愚か者を、その命ごと斬り捨てるとまではいかずとも、
全くその言い分を聞いてやらずに、こちらの命令だけを聞き従わせるといったことも、時に必要になるのである。
「仁義礼智は、外由り我れを鑠るには非ざるなり。我固より之れを有するなり。思う弗きのみ。故に求むれば
則ち之れを得、舍つれば則ち之れを失うとも曰えり。相倍蓰而て算無き者あるは、其の才を尽くす能わざればなり」
「仁義礼智は、外的に自らを飾り立てるための道具などではない。誰しもが本より具えてはいるものの、それを
自覚することがないだけのことである。だから『求めれば得られるが、捨てるのなら失うばかり』ともいえる。
得る者と失う者とで極端に隔絶してしまうことがあるのも、自らの才分を尽くしたか否かによるのである。
(仁義礼智の四端を自得するために才分を尽くすことこそは、君子にとっての至上命題だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・六より)
己れに備わる仁義礼智の四端を自覚し、その恒常的な実践に務めて行く、
その過程において善を勧める一方、悪を赦すことなく懲らしたりもする、
それでこそ浩然の気が保たれて、すがすがしい気持ちのままでもいられるからそうするし、
またそうすることで、罪刑の因果関係が保たれた社会的安寧までもが実現されるから。
世俗的に実があるのは、後者の社会的健全性の実現のほうであるけれども、より普遍的
であるのは前者の、「そうすることがすがすがしいから」という理由のほうだといえる。
そうするほうがすがすがしいから、来世でもそのまた来世でも、
形而上の形而上の形而上でもそうであることを志し続けることが確か。
今生限りにおいて健全性が確保されるから、勧善懲悪に臨むというだけならば、
来世や形而上でもそうするかどうかまでは知れないが、勧善懲悪が心の底から普遍的に
すがすがしいのだから、来世だろうが形而上だろうが形而下だろうがそう志し続けることが確か。
大罪をこともなげに許容するようなところでこそ、心の底からのつまらなさにも苛まれる。
心の底からのつまらなさだから、来世でも形而上でも形而下でも、永久につまらない。
実質的な因果律の破綻こそは、三千大千世界の去来今に渡ってつまらないもののままであり続けるし、
逆に因果律の保全に務めることが、絶対普遍のものとしてすがすがしいことのままであり続ける。
結論としては、悪いことをせずさせず、善いことをしてさせるに越したことはないという
ごくありきたりな結論にいたるわけだから、そのありきたりな範囲の論議にしか及ばない儒説だけに
従ったところで効能はさして変わらないわけだが、あえて仏説などに根ざすことで、遠大な形而上
なぞを想定してみたところで、人としてすべきことに大した相違などはないことが分かるのである。
その過程において善を勧める一方、悪を赦すことなく懲らしたりもする、
それでこそ浩然の気が保たれて、すがすがしい気持ちのままでもいられるからそうするし、
またそうすることで、罪刑の因果関係が保たれた社会的安寧までもが実現されるから。
世俗的に実があるのは、後者の社会的健全性の実現のほうであるけれども、より普遍的
であるのは前者の、「そうすることがすがすがしいから」という理由のほうだといえる。
そうするほうがすがすがしいから、来世でもそのまた来世でも、
形而上の形而上の形而上でもそうであることを志し続けることが確か。
今生限りにおいて健全性が確保されるから、勧善懲悪に臨むというだけならば、
来世や形而上でもそうするかどうかまでは知れないが、勧善懲悪が心の底から普遍的に
すがすがしいのだから、来世だろうが形而上だろうが形而下だろうがそう志し続けることが確か。
大罪をこともなげに許容するようなところでこそ、心の底からのつまらなさにも苛まれる。
心の底からのつまらなさだから、来世でも形而上でも形而下でも、永久につまらない。
実質的な因果律の破綻こそは、三千大千世界の去来今に渡ってつまらないもののままであり続けるし、
逆に因果律の保全に務めることが、絶対普遍のものとしてすがすがしいことのままであり続ける。
結論としては、悪いことをせずさせず、善いことをしてさせるに越したことはないという
ごくありきたりな結論にいたるわけだから、そのありきたりな範囲の論議にしか及ばない儒説だけに
従ったところで効能はさして変わらないわけだが、あえて仏説などに根ざすことで、遠大な形而上
なぞを想定してみたところで、人としてすべきことに大した相違などはないことが分かるのである。
例えば、木片を刀剣状に削り上げた木刀は、その鋭利さなどで真剣に匹敵するはずはないが、それを用いて
剣術の練習をすることができるし、真剣では無理があるほどにも大胆な稽古すら繰り返すことができる。
もちろん、木刀での練習に飽き足らなければ、真剣や模造刀での練習にも及べばいいわけだが、結局、
木刀を用いようが真剣を用いようが、自らが剣術の鍛錬によって「剣の理合」を身に付けようとすること
には変わりない。それと同じで、儒学ぐらいに表面的な勉学に務めることと、仏教ほどにも深遠な修練に
務めることでも、いずれもがこの世界、この宇宙やその形而上の形而上の形而上に至るまでの普遍的な
理合こそを探求していることには変わりないわけで、ただ儒学のほうが木刀での鍛錬ほどにも大雑把である
のに対し、仏教のほうは真剣での鍛錬ほどにも精密であったりするという違いがあるばかりのことである。
儒学と仏教の相違は上記のようなものだけども、そもそも道理なり真理なりの「普遍的な理合」を
把捉しようとすらせず、かえって普遍的な理合に違う邪曲こそを追い求めようとする学問なり宗教なりも
あるわけで、それらの教学にはまったく上記のような共通法則などはない。そういう邪教邪学も
この世には残念ながら実在しているわけだから、儒学や仏教のような、普遍的な理合を追い求めている
教学もまた全体的には特殊なものであるといえ、特筆して庇護や推奨の対象にすべきものだといえる。
昔の日本などでは、儒学や仏教こそが特に主要な文化的地位を占めていたから、特定してそれらばかりを
庇護するというようなことからして、あまりなかった。寛政異学の禁などにおいても、洋学と共に
異端派の儒学などが排撃の対象とされていて、儒学の庇護というよりは儒学の洗練という意味合いの
ほうが強かった。儒学全般、仏教全般こそを、普遍的な理合を捉えた正学正教として特筆して見直し、
邪曲の追求に専らな雑学雑教とは別格のものとして扱うなどということは、実際問題、日本人や中国人
ですら未だ十分に実施したこともないのだから、全く新しい試みとしての心構えが必要だといえる。
儒学や仏教こそが、そこまで特別に正しいものだったということが、今にこそ明らかとなったのだから。
剣術の練習をすることができるし、真剣では無理があるほどにも大胆な稽古すら繰り返すことができる。
もちろん、木刀での練習に飽き足らなければ、真剣や模造刀での練習にも及べばいいわけだが、結局、
木刀を用いようが真剣を用いようが、自らが剣術の鍛錬によって「剣の理合」を身に付けようとすること
には変わりない。それと同じで、儒学ぐらいに表面的な勉学に務めることと、仏教ほどにも深遠な修練に
務めることでも、いずれもがこの世界、この宇宙やその形而上の形而上の形而上に至るまでの普遍的な
理合こそを探求していることには変わりないわけで、ただ儒学のほうが木刀での鍛錬ほどにも大雑把である
のに対し、仏教のほうは真剣での鍛錬ほどにも精密であったりするという違いがあるばかりのことである。
儒学と仏教の相違は上記のようなものだけども、そもそも道理なり真理なりの「普遍的な理合」を
把捉しようとすらせず、かえって普遍的な理合に違う邪曲こそを追い求めようとする学問なり宗教なりも
あるわけで、それらの教学にはまったく上記のような共通法則などはない。そういう邪教邪学も
この世には残念ながら実在しているわけだから、儒学や仏教のような、普遍的な理合を追い求めている
教学もまた全体的には特殊なものであるといえ、特筆して庇護や推奨の対象にすべきものだといえる。
昔の日本などでは、儒学や仏教こそが特に主要な文化的地位を占めていたから、特定してそれらばかりを
庇護するというようなことからして、あまりなかった。寛政異学の禁などにおいても、洋学と共に
異端派の儒学などが排撃の対象とされていて、儒学の庇護というよりは儒学の洗練という意味合いの
ほうが強かった。儒学全般、仏教全般こそを、普遍的な理合を捉えた正学正教として特筆して見直し、
邪曲の追求に専らな雑学雑教とは別格のものとして扱うなどということは、実際問題、日本人や中国人
ですら未だ十分に実施したこともないのだから、全く新しい試みとしての心構えが必要だといえる。
儒学や仏教こそが、そこまで特別に正しいものだったということが、今にこそ明らかとなったのだから。
「否を休む。大人は吉なり。其れ亡びなん、其れ亡びなんとて、苞桑に繋ぐ」
「否塞が潰える、大人にとっては格好のとき。それでも『滅びるかもしれない、亡びるかもしれない』
と内心憂慮を保ち、桑の木の根元にものを繋ぎとめておくような、堅固な心持ちのままでいるとよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・九五より)
「否塞が潰える、大人にとっては格好のとき。それでも『滅びるかもしれない、亡びるかもしれない』
と内心憂慮を保ち、桑の木の根元にものを繋ぎとめておくような、堅固な心持ちのままでいるとよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・九五より)
いくら形而上に超越的な観念を思い描いてみたところで、
それが形而下の事物と全く関係がないのでは、不実の至りとしかならない。
陰陽学における太極の法則や、大乗仏教における六道の様態などは、
観念的であったところで、この形而下の世界の法則にも適格に合致している。
形而下の現象に対する鋭い洞察があった上で、その知見を概括的に理念化しているわけで、
理念としては形而上的であっても、形而下との厳密な連絡を保ったままでいる。
そのような、形而下の現象との緊密な連絡を保った理念としての神だとか仏だとかを敬い、
鬼なり悪霊なりを厭うことが現実上の効験にも繋がる一方で、形而下との連絡を全く欠いた
単なる夢想上の神なり霊なりを崇めたり、それに対立する異質の神仏などを貶めたりしたなら、
何の効験も得られないばかりか、その徒労や悪業に見合った制裁すらをも被ることになる。
形而上に思い描く超越的な夢想も、具体的である以上は形而下の事物を流用している。形而下の
事物が刹那的なものであるというのなら、そのような形而上の夢想もまた連動して刹那的である。
そんな夢想よりは、形而下との連絡を保っていても高度に数理的な易の陰陽法則などのほうが
より普遍的であるし、概念的な具体性を徹底して排する仏法などもさらに普遍的ですらある。
陰陽五行や六道輪廻のような、形而下の現象を概括した普遍法則を参考にしたなら、形而下に
おいて自らが為すことや、造り上げるものなどにもそれなりの普遍性を付与することができる。
そのような事物を継承して維持することに務めていけば、それがよき伝統ともなっていくのである。
してみれば、形而上に全く超越的な概念を夢想してみて、その普遍性を愛でようとしたりする
ことからして、さして魅力的なことだとも言えない。そのような夢想も所詮は形而下の事物の
模倣でしかない上に、完全に形而下と隔絶しているものだから、形而下においてよき伝統を
もたらす普遍的な指針となったりもしないわけで、より普遍的である上に、形而下における
開物成務をも健全化させられる陰陽法則や仏法と比べて、何も秀でている所がないと言える。
それが形而下の事物と全く関係がないのでは、不実の至りとしかならない。
陰陽学における太極の法則や、大乗仏教における六道の様態などは、
観念的であったところで、この形而下の世界の法則にも適格に合致している。
形而下の現象に対する鋭い洞察があった上で、その知見を概括的に理念化しているわけで、
理念としては形而上的であっても、形而下との厳密な連絡を保ったままでいる。
そのような、形而下の現象との緊密な連絡を保った理念としての神だとか仏だとかを敬い、
鬼なり悪霊なりを厭うことが現実上の効験にも繋がる一方で、形而下との連絡を全く欠いた
単なる夢想上の神なり霊なりを崇めたり、それに対立する異質の神仏などを貶めたりしたなら、
何の効験も得られないばかりか、その徒労や悪業に見合った制裁すらをも被ることになる。
形而上に思い描く超越的な夢想も、具体的である以上は形而下の事物を流用している。形而下の
事物が刹那的なものであるというのなら、そのような形而上の夢想もまた連動して刹那的である。
そんな夢想よりは、形而下との連絡を保っていても高度に数理的な易の陰陽法則などのほうが
より普遍的であるし、概念的な具体性を徹底して排する仏法などもさらに普遍的ですらある。
陰陽五行や六道輪廻のような、形而下の現象を概括した普遍法則を参考にしたなら、形而下に
おいて自らが為すことや、造り上げるものなどにもそれなりの普遍性を付与することができる。
そのような事物を継承して維持することに務めていけば、それがよき伝統ともなっていくのである。
してみれば、形而上に全く超越的な概念を夢想してみて、その普遍性を愛でようとしたりする
ことからして、さして魅力的なことだとも言えない。そのような夢想も所詮は形而下の事物の
模倣でしかない上に、完全に形而下と隔絶しているものだから、形而下においてよき伝統を
もたらす普遍的な指針となったりもしないわけで、より普遍的である上に、形而下における
開物成務をも健全化させられる陰陽法則や仏法と比べて、何も秀でている所がないと言える。
目に見えるこの世界と全く隔絶した何かを追い求めるよりは、この世界との連絡も保ちつつ
普遍的である何かを追い求めることのほうが魅力的である。必要という以上にも、魅力的であり、
そのうえ害がなくて益がある。近代科学などにもある程度この方向性が備わっているが、理論面では
まだまだ未熟で、概念遊びの介在する余地が多分に残存しているために、権力犯罪や道義なき戦争
などのために悪用されることが多い。陰陽法則や仏法と比べて好き勝手に論じられる自由度が高い、
にもかかわらずではなくだからこそ、探求者や利用者の不埒さをも容認してしまっているのである。
形而下との連絡を全く欠いた観念を玩ぶ信教や思想哲学が排されて、科学もまたそのような
概念の玩びを差し挟む余地がなくなるほどに見識が引き締められたならば、そこには必ず
陰陽法則や仏法や、それに近似するものだけが残されるはずである。それで人類文明が
終わるのではなく、むしろそこからこそ全世界規模での人類文明が初めて始まるのである。
概念遊びに道草を食い過ぎて、文明を進歩させる以上にも退歩させてしまっていたような
派閥が退場させられて、世界規模で文明を着実に前進させていけるようになるのである。
産業革命によって科学が地球人類にもたらした影響も、未だプラスマイナスゼロ以下のままでしかない。
だからこそ極重の苦悩に見舞われた人々が気休めの乱交に及んで、世界人口を爆発させてもいる。
全世界全人類が、不幸ばかりをもたらす不埒な超越的概念の玩びから卒業することでやっと
その傾向が収束する見込みも立つのだから、もはやそうするしかないのでもある。
普遍的である何かを追い求めることのほうが魅力的である。必要という以上にも、魅力的であり、
そのうえ害がなくて益がある。近代科学などにもある程度この方向性が備わっているが、理論面では
まだまだ未熟で、概念遊びの介在する余地が多分に残存しているために、権力犯罪や道義なき戦争
などのために悪用されることが多い。陰陽法則や仏法と比べて好き勝手に論じられる自由度が高い、
にもかかわらずではなくだからこそ、探求者や利用者の不埒さをも容認してしまっているのである。
形而下との連絡を全く欠いた観念を玩ぶ信教や思想哲学が排されて、科学もまたそのような
概念の玩びを差し挟む余地がなくなるほどに見識が引き締められたならば、そこには必ず
陰陽法則や仏法や、それに近似するものだけが残されるはずである。それで人類文明が
終わるのではなく、むしろそこからこそ全世界規模での人類文明が初めて始まるのである。
概念遊びに道草を食い過ぎて、文明を進歩させる以上にも退歩させてしまっていたような
派閥が退場させられて、世界規模で文明を着実に前進させていけるようになるのである。
産業革命によって科学が地球人類にもたらした影響も、未だプラスマイナスゼロ以下のままでしかない。
だからこそ極重の苦悩に見舞われた人々が気休めの乱交に及んで、世界人口を爆発させてもいる。
全世界全人類が、不幸ばかりをもたらす不埒な超越的概念の玩びから卒業することでやっと
その傾向が収束する見込みも立つのだから、もはやそうするしかないのでもある。
「上世、嘗て其の親を葬らざる者あり。其親死すれば則ち挙げて之れを壑に委てたり。他日之れを過ぐるに、狐狸之れを食らい、
蝿蚋之れを姑嘬う。其の顙に汗有りて、睨して視ざる。夫の汗なるは、人の為めに汗なるに非ず、中心より面目に達せるなり。
蓋し帰反して虆梩もて之れを掩えり。之れを掩うは是れを誠にすなり。則ち孝子仁人の其の親を掩えるは、亦た必ず道有らん」
「大昔、自らの親を埋葬しない者がいた。親が死ねばその遺体を人気のない谷底に捨ててそのままにしておいた。他日、
その付近を通り過ぎると、狐や狸がその遺体の肉を食らい、蝿や蚋が食んだ肉を咀嚼しているのを見た。思わず額に
冷や汗が滴り、斜めに視たきりで直視することもできなかった。冷や汗をかいたのは、別に人にいい顔を見せようと
したからではなく、本当に心の底から親に面目がないと思ったからである。その後、すぐに帰宅して鋤ともっこを
持ち出してきて、親の遺体を土で蔽った。土で蔽ったのも誠を立てようと思ったからである。今の孝子や仁人が
親の遺体を埋葬することにも、そういった道義性があるからなのである。(親の遺体が腐乱して禽獣に貪り食われるのが
忍びないからこれを埋葬する。永遠足りえない親の命の儚さにこそ蔽いをする。またそれが孝子仁人のあり方ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・五より)
蝿蚋之れを姑嘬う。其の顙に汗有りて、睨して視ざる。夫の汗なるは、人の為めに汗なるに非ず、中心より面目に達せるなり。
蓋し帰反して虆梩もて之れを掩えり。之れを掩うは是れを誠にすなり。則ち孝子仁人の其の親を掩えるは、亦た必ず道有らん」
「大昔、自らの親を埋葬しない者がいた。親が死ねばその遺体を人気のない谷底に捨ててそのままにしておいた。他日、
その付近を通り過ぎると、狐や狸がその遺体の肉を食らい、蝿や蚋が食んだ肉を咀嚼しているのを見た。思わず額に
冷や汗が滴り、斜めに視たきりで直視することもできなかった。冷や汗をかいたのは、別に人にいい顔を見せようと
したからではなく、本当に心の底から親に面目がないと思ったからである。その後、すぐに帰宅して鋤ともっこを
持ち出してきて、親の遺体を土で蔽った。土で蔽ったのも誠を立てようと思ったからである。今の孝子や仁人が
親の遺体を埋葬することにも、そういった道義性があるからなのである。(親の遺体が腐乱して禽獣に貪り食われるのが
忍びないからこれを埋葬する。永遠足りえない親の命の儚さにこそ蔽いをする。またそれが孝子仁人のあり方ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・五より)
未だ惑いの中にある者であろうとも、それなりに信念を以って行動したり、人生を送ったりすることはある。
「最後の審判の時に全ての信者が復活する」という、永久不変の絶対真理に即した完全誤謬を
信じながら死ぬ場合にも、それなりに毅然としていられたりする。だから、そのような完全誤謬を
信じながら死んでいく欧米のキリスト教徒たちも、まともな信教を剥奪された戦後の大多数の日本人などと
比べれば毅然としていて、醜悪な寝たきり状態での終末期医療などもあえて拒絶して死んでいったりする。
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」という、何らの価値もない完全誤謬信仰と
いえども、それによって心持ちを頑なならしめて、命を賭してことに臨むことだって絶対にできなくもないのである。
ただ、そのような劣悪な信念に即して心持ちを凝り固める人間は、根本的な部分で己れの才覚を尽くしていない。
正しいもの、優良なものを信じていくに値するだけの格物致知を尽くすこともなく、まず何かを信じていようとした。
何でもいいからとりあえず信じようとした怠惰の結果、完全に間違っているものであろうとも信じてしまう、
人として最も劣悪な領域での、狂信への凝り固まりに落ち着いてしまったのである。
孟子の提唱した仁義礼智の四端と、荀子が覇道政治を是認する過程で定立した信とを合わせて五常(仁義礼智信)という。
このうちの信と知(智)は時に、むしろ持たないでいるほうがマシなほどに劣悪な邪信や小知でもあり得る。
それを仁義という理念、礼儀という実践によって統御し、正信や良知に止め置くことが儒学の実践ともなる。
邪信や小知も存在してしまっている状態でこそ、仁義や礼儀によって知や信を統制しなければならなくなるわけだから、
「大道廃れて仁義あり(老子)」ということもまた確かである。大道が十分に通用している世の中であれば、
人々が邪信に凝り固まったり、小知を駆使したりして破滅を呼び込んだりすることもないわけだから、
わざわざ仁義や礼儀で信知を制御しようなどという作為を差し挟んだりする必要もないのである。
「最後の審判の時に全ての信者が復活する」という、永久不変の絶対真理に即した完全誤謬を
信じながら死ぬ場合にも、それなりに毅然としていられたりする。だから、そのような完全誤謬を
信じながら死んでいく欧米のキリスト教徒たちも、まともな信教を剥奪された戦後の大多数の日本人などと
比べれば毅然としていて、醜悪な寝たきり状態での終末期医療などもあえて拒絶して死んでいったりする。
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」という、何らの価値もない完全誤謬信仰と
いえども、それによって心持ちを頑なならしめて、命を賭してことに臨むことだって絶対にできなくもないのである。
ただ、そのような劣悪な信念に即して心持ちを凝り固める人間は、根本的な部分で己れの才覚を尽くしていない。
正しいもの、優良なものを信じていくに値するだけの格物致知を尽くすこともなく、まず何かを信じていようとした。
何でもいいからとりあえず信じようとした怠惰の結果、完全に間違っているものであろうとも信じてしまう、
人として最も劣悪な領域での、狂信への凝り固まりに落ち着いてしまったのである。
孟子の提唱した仁義礼智の四端と、荀子が覇道政治を是認する過程で定立した信とを合わせて五常(仁義礼智信)という。
このうちの信と知(智)は時に、むしろ持たないでいるほうがマシなほどに劣悪な邪信や小知でもあり得る。
それを仁義という理念、礼儀という実践によって統御し、正信や良知に止め置くことが儒学の実践ともなる。
邪信や小知も存在してしまっている状態でこそ、仁義や礼儀によって知や信を統制しなければならなくなるわけだから、
「大道廃れて仁義あり(老子)」ということもまた確かである。大道が十分に通用している世の中であれば、
人々が邪信に凝り固まったり、小知を駆使したりして破滅を呼び込んだりすることもないわけだから、
わざわざ仁義や礼儀で信知を制御しようなどという作為を差し挟んだりする必要もないのである。
邪信や小知に凝り固まって、あるよりもないほうがマシであるような害悪ばかりを募らせている連中がいる。
だからそのぶんだけ五常の理念に即した統制を執り行う。そのあたりのけじめは十分に付けておくべきで、
さもなくば「仁義や礼儀などで世の中の浄化に務めようとしているような奴らがいるから、俺らは邪信や小知を
駆使した悪行に走っていたって大丈夫だろう」などという「甘え」を一部の人間が抱くことにすらなりかねない。
人類史上最悪の邪教であるキリスト教などよりは、儒学のほうが数百年以上早くの内から形成されている。
しかし、その儒学も夏桀殷紂や春秋諸侯のような暴政家が登場して後、乱世と化してしまった古代の中国を修善
していく目的で周公や孔孟らによって体系化されて来ている。小知や邪信に基づく世の乱脈があって後に、あからさまな
聖人君子による仁徳の体系化もまた試みられ始めたわけで、その順序はこれからも大切にしていくべきである。
邪教の信者や暴政家こそが、自業自得で体系的な仁徳による浄化を被る。そうでもしなければ世の中が
立ち行かなくなるほどもの乱脈を自分たちが呼び込んでしまったからこそ、作為的な勧善懲悪にも甘んじなければならない。
「大道廃れて仁義あり」という言葉は、大道を廃らせてしまった悪人たちにとってこその戒めの言葉なのである。
「君子は其の道によって楽を得、小人は其の欲によって楽を得。
道を以って欲を制すれば、則ち楽しみて乱れず。欲を以って道を忘るれば、則ち惑いて楽しまず」
「君子は道義によって楽しみを得ようとし、小人は愛欲によって楽しみを得ようとする。
道義によって愛欲を制すれば、よく楽しめながら乱れることもない。一方で、
愛欲によって道義を忘れれば、惑いに苛まれてろくに楽しむこともできない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
だからそのぶんだけ五常の理念に即した統制を執り行う。そのあたりのけじめは十分に付けておくべきで、
さもなくば「仁義や礼儀などで世の中の浄化に務めようとしているような奴らがいるから、俺らは邪信や小知を
駆使した悪行に走っていたって大丈夫だろう」などという「甘え」を一部の人間が抱くことにすらなりかねない。
人類史上最悪の邪教であるキリスト教などよりは、儒学のほうが数百年以上早くの内から形成されている。
しかし、その儒学も夏桀殷紂や春秋諸侯のような暴政家が登場して後、乱世と化してしまった古代の中国を修善
していく目的で周公や孔孟らによって体系化されて来ている。小知や邪信に基づく世の乱脈があって後に、あからさまな
聖人君子による仁徳の体系化もまた試みられ始めたわけで、その順序はこれからも大切にしていくべきである。
邪教の信者や暴政家こそが、自業自得で体系的な仁徳による浄化を被る。そうでもしなければ世の中が
立ち行かなくなるほどもの乱脈を自分たちが呼び込んでしまったからこそ、作為的な勧善懲悪にも甘んじなければならない。
「大道廃れて仁義あり」という言葉は、大道を廃らせてしまった悪人たちにとってこその戒めの言葉なのである。
「君子は其の道によって楽を得、小人は其の欲によって楽を得。
道を以って欲を制すれば、則ち楽しみて乱れず。欲を以って道を忘るれば、則ち惑いて楽しまず」
「君子は道義によって楽しみを得ようとし、小人は愛欲によって楽しみを得ようとする。
道義によって愛欲を制すれば、よく楽しめながら乱れることもない。一方で、
愛欲によって道義を忘れれば、惑いに苛まれてろくに楽しむこともできない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
「金持ち争わず」という俗諺通り、概ねのところでは、
貧しいから争いが起こり、富裕だから平和でいられるというもの。
未だ資本的、資源的な富裕で突出している欧米聖書圏内での戦争は稀な一方、
貧しいアフリカや中東、東南アジア諸国での内戦や国際紛争は恒常的なものであり続けている。
それらの社会から富を巻き上げて、狭隘な富裕を謳歌しているのが欧米聖書圏でもあるわけだから、
所詮は世界中の紛争の本当の火種も、欧米の不正な富裕者でこそあるのだといえる。
ところで、今でもインドのように、ブラックアフリカ並みの貧困下に置かれながら、
内紛まではほぼ控えられている大国もある。これは、仏教の影響も受けているヒンズー教の
教化などがあって初めて実現し得ていることで、同レベルの生活水準でありながら
ブラックアフリカなどでは内紛が絶えないでいるのも、欧米聖書圏による文化的征服の禍根が
持ち越されたままであるのだからだと言える。のみならず、富裕な欧米聖書圏においてですら、
アイルランドやユーゴスラビアのように紛争を巻き起こす国もあるわけで、聖書信仰こそは貧富の
如何によらず、人々に最大級かつ不必要な闘争本能を植え付けている邪教であることが分かるのである。
人々に不埒な闘争本能を植え付けた挙句に、自分たちだけが大量に富を独占して、「金持ち争わず」
の要領でどうにか隣人間の関係だけを良好に保とうとするあり方からして、原理的に必ず一定以上の
争いをこの世にもたらし続けるものである。聖書信仰がそうである一方で、インドのヒンズー教などは、
最悪級の貧困下においてですら内紛ぐらいは未然に止め置くだけの効験をあらたかにしている。
その手段たるや、カースト制による絶対支配だったりもして、決してもろ手を挙げて称賛できたりする
ような代物でもないが、結果としてヒンズー教が信仰圏に与えている影響は、富裕者同士の争いすら
時に勃発させる聖書信仰がこの世に与えている影響などと比べれば、遥かにマシなものとなっている。
貧しいから争いが起こり、富裕だから平和でいられるというもの。
未だ資本的、資源的な富裕で突出している欧米聖書圏内での戦争は稀な一方、
貧しいアフリカや中東、東南アジア諸国での内戦や国際紛争は恒常的なものであり続けている。
それらの社会から富を巻き上げて、狭隘な富裕を謳歌しているのが欧米聖書圏でもあるわけだから、
所詮は世界中の紛争の本当の火種も、欧米の不正な富裕者でこそあるのだといえる。
ところで、今でもインドのように、ブラックアフリカ並みの貧困下に置かれながら、
内紛まではほぼ控えられている大国もある。これは、仏教の影響も受けているヒンズー教の
教化などがあって初めて実現し得ていることで、同レベルの生活水準でありながら
ブラックアフリカなどでは内紛が絶えないでいるのも、欧米聖書圏による文化的征服の禍根が
持ち越されたままであるのだからだと言える。のみならず、富裕な欧米聖書圏においてですら、
アイルランドやユーゴスラビアのように紛争を巻き起こす国もあるわけで、聖書信仰こそは貧富の
如何によらず、人々に最大級かつ不必要な闘争本能を植え付けている邪教であることが分かるのである。
人々に不埒な闘争本能を植え付けた挙句に、自分たちだけが大量に富を独占して、「金持ち争わず」
の要領でどうにか隣人間の関係だけを良好に保とうとするあり方からして、原理的に必ず一定以上の
争いをこの世にもたらし続けるものである。聖書信仰がそうである一方で、インドのヒンズー教などは、
最悪級の貧困下においてですら内紛ぐらいは未然に止め置くだけの効験をあらたかにしている。
その手段たるや、カースト制による絶対支配だったりもして、決してもろ手を挙げて称賛できたりする
ような代物でもないが、結果としてヒンズー教が信仰圏に与えている影響は、富裕者同士の争いすら
時に勃発させる聖書信仰がこの世に与えている影響などと比べれば、遥かにマシなものとなっている。
やはりその程度にも大きな差異があるが、まず人々に心の豊かさをもたらす信教と、
そうでない信教との両方がある。人々に最悪級の心の貧しさをもたらすのが他でもない聖書信仰で、
だからこそ金持ち同士での争いすら時に巻き起こさせるのに対し、ヒンズー教などは比較的、
信者に心の豊かさをもたらす信教だから、相当な貧困下においても信者を最悪の妄動にまでは至らせない。
当然、人々に心の豊かさをもたらす教学を推進して、心の貧しさをもたらす教学を排していくべきで、
たとえ世界中の貧富の格差を埋め合わせてみたところで、誰しもが聖書信者並みの心の貧しさのままでいたり
したなら、紛争の多発化なども防げない。一方で、誰しもがインド人並みの心の豊かさを身に付けたなら、
誰しもが今のインド並みの貧困下に置かれた所で、紛争級の妄動にまでは至らない。別に誰しもが今の
インド人並みの貧しさに置かれるべきでもないが、最悪そうなったところで、心の豊かさにだけよって
争いを未然に食い止めることだってできなくはないのだという見本に、今のインドなどがなってくれてもいる。
この地球上の資源含有率などからいっても、世界中の誰しもが今の欧米人並みの富裕に与れるなんてことも
あり得ない。ただ資源占有率を均すだけなら、誰しもがインドネシア人やフィリピン人並みの生活を
送らされることにもなるわけで、だからといって誰しもが今のインドネシア人やフィリピン人を
目指すべきだなどということもないとは、すでに>>132-133にも書いた。フィリピンのキリスト教はおろか、
インドネシアのイスラム教ですら、人々に心の豊かさをもたらすことにかけて長けた信教であるなどという
ことはないわけで、心の豊かさについて見習うべきなのはむしろインド人などのほうである。さらに言えば、
今のインド人以上にも、仏教圏だった頃のインド人のあり方などを見習うほうが、よりうってつけでもある。
そうでない信教との両方がある。人々に最悪級の心の貧しさをもたらすのが他でもない聖書信仰で、
だからこそ金持ち同士での争いすら時に巻き起こさせるのに対し、ヒンズー教などは比較的、
信者に心の豊かさをもたらす信教だから、相当な貧困下においても信者を最悪の妄動にまでは至らせない。
当然、人々に心の豊かさをもたらす教学を推進して、心の貧しさをもたらす教学を排していくべきで、
たとえ世界中の貧富の格差を埋め合わせてみたところで、誰しもが聖書信者並みの心の貧しさのままでいたり
したなら、紛争の多発化なども防げない。一方で、誰しもがインド人並みの心の豊かさを身に付けたなら、
誰しもが今のインド並みの貧困下に置かれた所で、紛争級の妄動にまでは至らない。別に誰しもが今の
インド人並みの貧しさに置かれるべきでもないが、最悪そうなったところで、心の豊かさにだけよって
争いを未然に食い止めることだってできなくはないのだという見本に、今のインドなどがなってくれてもいる。
この地球上の資源含有率などからいっても、世界中の誰しもが今の欧米人並みの富裕に与れるなんてことも
あり得ない。ただ資源占有率を均すだけなら、誰しもがインドネシア人やフィリピン人並みの生活を
送らされることにもなるわけで、だからといって誰しもが今のインドネシア人やフィリピン人を
目指すべきだなどということもないとは、すでに>>132-133にも書いた。フィリピンのキリスト教はおろか、
インドネシアのイスラム教ですら、人々に心の豊かさをもたらすことにかけて長けた信教であるなどという
ことはないわけで、心の豊かさについて見習うべきなのはむしろインド人などのほうである。さらに言えば、
今のインド人以上にも、仏教圏だった頃のインド人のあり方などを見習うほうが、よりうってつけでもある。
未だイギリス連合下に置かれ、最悪級の貧困に喘がされているがための非常的な措置として、酷烈なカースト制を
敷いている今のインドなどよりも、古代中国と並んで世界最大級の繁栄を謳歌していた、仏教圏だった頃の
インドのあり方などを見習うほうが、心の豊かさの蓄え方を教わる上では適している。今のインド人もまた、
昔のインド文化を糧としているわけだから、インドの歴史性もまた決して無視されていいものではないといえる。
——真正聖書=四書五経にまつわる論議としては、今日は道はずれ気味になってしまったが、
「より重大なのは物質的貧富以上にも心の貧富である」という認識が、四書五経中でも一貫されている。
ただ、俗世の道徳学たる儒学の聖典であるために、四書五経などでは抽象的な心論は少なく、
心か本で財物が末であるという本末認識を大前提とした、具体的な実践論などのほうが豊富である。
そうであることをよくわきまえた上で四書五経を読めば、その記述内容に納得がいくことも多いのである。
「信を講じ睦を修む、之れを人の利と謂う。争奪相殺す、之れを人の憂いと謂う」
「信実さを養って人々との親睦に務めることが、人としての利益である。争って奪い合い殺し合うのは憂いである。
(平和によってお互いの利益を損なわないことが、ありのままに利益である。物質的な富裕も利益なら、
平和によってお互いの利益を守ることもまた利益なのだから、両者を対立的なものとして捉えたりする必要はない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
敷いている今のインドなどよりも、古代中国と並んで世界最大級の繁栄を謳歌していた、仏教圏だった頃の
インドのあり方などを見習うほうが、心の豊かさの蓄え方を教わる上では適している。今のインド人もまた、
昔のインド文化を糧としているわけだから、インドの歴史性もまた決して無視されていいものではないといえる。
——真正聖書=四書五経にまつわる論議としては、今日は道はずれ気味になってしまったが、
「より重大なのは物質的貧富以上にも心の貧富である」という認識が、四書五経中でも一貫されている。
ただ、俗世の道徳学たる儒学の聖典であるために、四書五経などでは抽象的な心論は少なく、
心か本で財物が末であるという本末認識を大前提とした、具体的な実践論などのほうが豊富である。
そうであることをよくわきまえた上で四書五経を読めば、その記述内容に納得がいくことも多いのである。
「信を講じ睦を修む、之れを人の利と謂う。争奪相殺す、之れを人の憂いと謂う」
「信実さを養って人々との親睦に務めることが、人としての利益である。争って奪い合い殺し合うのは憂いである。
(平和によってお互いの利益を損なわないことが、ありのままに利益である。物質的な富裕も利益なら、
平和によってお互いの利益を守ることもまた利益なのだから、両者を対立的なものとして捉えたりする必要はない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
漢帝国のような徳治制の社会においては、王侯による恩赦の発布が重要な政治行為の一環とされていた。
「漢書」の帝紀における歴代皇帝の詔勅もその多くが恩赦にまつわるもので、罪人の釈放や減刑が、
法定刑を含む規制の緩和、正月祭などを民が自由に催すことの許可などと共に、頻繁に下されていた。
恩赦を発する理由はといえば、「龍が現れた」「鳳が飛んだ」なども含む、今だとオカルトじみて
聞こえるような瑞祥だったりもするが、とにかく適当な理由すら付けて赦令を下していたということ。
一方で、それほどにも恩赦を多発できたのは、当該の国家の朝廷なり幕府なりが積極的な徳治に努めることで、
世の中の福徳の余りある程もの増進を果たしていたからで、そのような努力も行われない法治主義の国家
などで恩赦を乱発したりしたなら、それによる世相不安の深刻化すらもが免れられなくなるのである。
法治国家ですら恩赦の多発化などは警戒せねばならないのだから、人々に権力犯罪や我田引水を
けしかける邪教に支配された社会などで、恩赦などを通用させる余地がないこともまた明らかである。
犯罪行為への恩赦といわず、破産を通じての借金の踏み倒しなどを容認するだけでも、相当に危うい。
今の日本などはまだ、全体に比べての破産者や生活保護者が少数に止まっていて、しかも全国民を挙げての
健全な自活が旺盛なものだから、落伍者を保護してやることだってできなくはない。(それでも保護を
受けることを恥じて自殺する者が多数に上っているが)一方で、全国民を挙げての浪費が甚だしい
アメリカや、公務員による富の食いつぶしが著しいギリシャなどでは、国全体での破綻までもが
危ぶまれる事態と化してしまっている。特に、アメリカの破綻は国を挙げての借金踏み倒しの先に
行き着いたものだといえ、為政者が徳治を心がけているわけでもないのに、民事と刑事両面における
赦免を乱発しすぎた挙句に、国家全体が破綻の様相を呈することとなった典型となっているのである。
「漢書」の帝紀における歴代皇帝の詔勅もその多くが恩赦にまつわるもので、罪人の釈放や減刑が、
法定刑を含む規制の緩和、正月祭などを民が自由に催すことの許可などと共に、頻繁に下されていた。
恩赦を発する理由はといえば、「龍が現れた」「鳳が飛んだ」なども含む、今だとオカルトじみて
聞こえるような瑞祥だったりもするが、とにかく適当な理由すら付けて赦令を下していたということ。
一方で、それほどにも恩赦を多発できたのは、当該の国家の朝廷なり幕府なりが積極的な徳治に努めることで、
世の中の福徳の余りある程もの増進を果たしていたからで、そのような努力も行われない法治主義の国家
などで恩赦を乱発したりしたなら、それによる世相不安の深刻化すらもが免れられなくなるのである。
法治国家ですら恩赦の多発化などは警戒せねばならないのだから、人々に権力犯罪や我田引水を
けしかける邪教に支配された社会などで、恩赦などを通用させる余地がないこともまた明らかである。
犯罪行為への恩赦といわず、破産を通じての借金の踏み倒しなどを容認するだけでも、相当に危うい。
今の日本などはまだ、全体に比べての破産者や生活保護者が少数に止まっていて、しかも全国民を挙げての
健全な自活が旺盛なものだから、落伍者を保護してやることだってできなくはない。(それでも保護を
受けることを恥じて自殺する者が多数に上っているが)一方で、全国民を挙げての浪費が甚だしい
アメリカや、公務員による富の食いつぶしが著しいギリシャなどでは、国全体での破綻までもが
危ぶまれる事態と化してしまっている。特に、アメリカの破綻は国を挙げての借金踏み倒しの先に
行き着いたものだといえ、為政者が徳治を心がけているわけでもないのに、民事と刑事両面における
赦免を乱発しすぎた挙句に、国家全体が破綻の様相を呈することとなった典型となっているのである。
罪を許すということには、当然それなりのリスクが伴う。そのリスクを見越した上で、自ら徳治を心がける
天皇なり皇帝なりが大赦を下すようなこともあるが、それは決して誰しもにできるようなことではない。
ただ能力がなくてできないというばかりでなく、それなりの立場にいるのでなければできない。
カルト宗教の指導者や商売人などは、その立場からして天下国家規模の運営責任を担うものではないから、
世の中に害を与える規模の刑事的、民事的過ちを勝手に許してやったりしていいはずもないのである。
徳治社会でも法官は法官で別にいて、ただの事務処理者として徳治を実施する王侯や高官の下に置かれる。
上司からの命令でもないうちは、法官は民に対する信賞必罰を心がけ、民もまたそれに従う。その頻度が
法治社会と比べて少ないということはあっても、守らせ守らせられる法規というものがやはり一定以上にはある。
誰しもが誰しもと無条件に許し合うなんていうことは、法治社会はおろか、徳治社会でもあり得ないことで、
罪を許されることばかりを欲するような卑しい身分の者ほど、(小人は恵を懐う。里仁第四・一一)
最後まで信賞必罰に則ったままの存在でいることを、徳治社会でも強要され続けるのである。
法で禁止されるべき様な悪行は自律的に行わず、むしろ善行によって世の大利の目方を増しすらするような
君子であって初めて、他人の罪を許してやれるだけの度量すらもが備わるのだから、自分が罪を許されたい
がために、他人の罪を許してやろうとするような考えが通用していい余地などは、どこにもないのだといえる。
「天道は善に福し淫に禍す。〜肆に台れ小子、天命の明威を将し、敢えて赦さず」
「天道は必ず正善なる者に福徳を授け、淫悪にふける者に災禍を下す。だからこそ私もまた、
その天命に根ざした明らかな威徳によって、罪を罰するに際しても、あえて赦そうとしないのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)
天皇なり皇帝なりが大赦を下すようなこともあるが、それは決して誰しもにできるようなことではない。
ただ能力がなくてできないというばかりでなく、それなりの立場にいるのでなければできない。
カルト宗教の指導者や商売人などは、その立場からして天下国家規模の運営責任を担うものではないから、
世の中に害を与える規模の刑事的、民事的過ちを勝手に許してやったりしていいはずもないのである。
徳治社会でも法官は法官で別にいて、ただの事務処理者として徳治を実施する王侯や高官の下に置かれる。
上司からの命令でもないうちは、法官は民に対する信賞必罰を心がけ、民もまたそれに従う。その頻度が
法治社会と比べて少ないということはあっても、守らせ守らせられる法規というものがやはり一定以上にはある。
誰しもが誰しもと無条件に許し合うなんていうことは、法治社会はおろか、徳治社会でもあり得ないことで、
罪を許されることばかりを欲するような卑しい身分の者ほど、(小人は恵を懐う。里仁第四・一一)
最後まで信賞必罰に則ったままの存在でいることを、徳治社会でも強要され続けるのである。
法で禁止されるべき様な悪行は自律的に行わず、むしろ善行によって世の大利の目方を増しすらするような
君子であって初めて、他人の罪を許してやれるだけの度量すらもが備わるのだから、自分が罪を許されたい
がために、他人の罪を許してやろうとするような考えが通用していい余地などは、どこにもないのだといえる。
「天道は善に福し淫に禍す。〜肆に台れ小子、天命の明威を将し、敢えて赦さず」
「天道は必ず正善なる者に福徳を授け、淫悪にふける者に災禍を下す。だからこそ私もまた、
その天命に根ざした明らかな威徳によって、罪を罰するに際しても、あえて赦そうとしないのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)
自分たちでこの世に破滅をもたらしておいて、
自分たちこそは特定して救われようとするようなガン細胞人種こそは、
仮に一切衆生が救われるとした所で、最後まで救われないままでい続けなければならないことが確か。
仮に誰かが救われないことになるのだとすれば、
そのようなガン細胞人種こそが特定して救われないことになるのも確か。
自分たち全員が、ガンが切除されるようにして死滅させられるのだとすれば、ガン細胞人種も
「死なば諸共」で、自分たちごと全人類を滅亡に陥れるヤケクソにすら及びかねない。
下劣ではあるにしろ、小人の心情としてはそれも分からないことはないから、
救済対象を選別するような小乗志向ではなく、一切衆生を救済していくことを旨とする
大乗志向によってこそ救済に取り組んでいくぐらいのことは、救済者も心がけたほうがいいといえる。
それでも実際問題、現世では救われない者がいる。
この世に害悪をもたらして自分たちが救われようとする、ガン細胞人種としての心得を
最後まで捨て去ろうとしないもの、邪教の棄教と引き換えの救済にすら応じようとしないものは、
どんなに大きな災厄からも人々を救い出せるほどもの手腕を持つ救済者によってですら、救われることはない。
救われ得ないから救われないのではなく、自分自身が救われることを拒み通しているから、救われない。
まるで如来か菩薩ほどにも救済能力に長けた者がいたとすれば、大罪を積み重ねて来たキリスト教徒や
ユダヤ教徒を、棄教後に救い取ることですらできなくはないだろう。「華厳経」十回向品第二十五の四にも、
菩薩が冤罪によってこの世に撒き散らされる災厄すらも十分に除滅するとあるから、冤罪信仰である
キリスト教が撒き散らす災厄からすら、菩薩が一切衆生を救い出すことも不可能ではないに違いない。
自分たちこそは特定して救われようとするようなガン細胞人種こそは、
仮に一切衆生が救われるとした所で、最後まで救われないままでい続けなければならないことが確か。
仮に誰かが救われないことになるのだとすれば、
そのようなガン細胞人種こそが特定して救われないことになるのも確か。
自分たち全員が、ガンが切除されるようにして死滅させられるのだとすれば、ガン細胞人種も
「死なば諸共」で、自分たちごと全人類を滅亡に陥れるヤケクソにすら及びかねない。
下劣ではあるにしろ、小人の心情としてはそれも分からないことはないから、
救済対象を選別するような小乗志向ではなく、一切衆生を救済していくことを旨とする
大乗志向によってこそ救済に取り組んでいくぐらいのことは、救済者も心がけたほうがいいといえる。
それでも実際問題、現世では救われない者がいる。
この世に害悪をもたらして自分たちが救われようとする、ガン細胞人種としての心得を
最後まで捨て去ろうとしないもの、邪教の棄教と引き換えの救済にすら応じようとしないものは、
どんなに大きな災厄からも人々を救い出せるほどもの手腕を持つ救済者によってですら、救われることはない。
救われ得ないから救われないのではなく、自分自身が救われることを拒み通しているから、救われない。
まるで如来か菩薩ほどにも救済能力に長けた者がいたとすれば、大罪を積み重ねて来たキリスト教徒や
ユダヤ教徒を、棄教後に救い取ることですらできなくはないだろう。「華厳経」十回向品第二十五の四にも、
菩薩が冤罪によってこの世に撒き散らされる災厄すらも十分に除滅するとあるから、冤罪信仰である
キリスト教が撒き散らす災厄からすら、菩薩が一切衆生を救い出すことも不可能ではないに違いない。
しかし、キリスト教徒やユダヤ教徒が、それらの邪教信仰を続けている限りにおいては、
どんなに有能な菩薩や如来といえども、それらの人々を救い取ることが不可能であり続けるだろう。
キリスト信仰やユダヤ信仰を貫くことによって、仏法のような純正な手法によって救われることを
自分たちが一貫して拒絶し続けているのだから、能力的に十分救えたところで、原理的に救うことができない。
最後まで邪信を貫こうとする者がいれば、その分だけ救われない者の数も増えてしまう。
だから一切衆生の救済能力者が現れたところで、相変わらず救われない者がいる可能性も残る。
そのような不届き者にあらかじめ反省を促して、邪信を完全に捨て去る覚悟を得させてから自分が世に
降臨することもまた救済者の義務であるに違いなく、救済者はただ現れればいいというばかりでもないといえる。
一切衆生を救い取る能力者がいたところで、それ即ち一切衆生救済の機縁となるわけでもない。
救済を受ける者もまた、邪教の完全永久棄教などの用意を整えられた時こそが、真の救済の機縁ともなる。
救済者と衆生の間にすら、八卦が二重に積み重なって六十四卦になるが如き相乗性が、断固として備わっているのである。
「年を薀む毋かれ、利を壅むる毋れ、姦を保つ毋れ、慝を留むる毋れ。災患を救い、禍乱を恤い、
好悪を同じくして王室を獎けよ。或いは茲の命を間さば、司慎司盟、名山名川、群神群祀、先王先公、
七姓十二国の祖、明神も之れを殛し、俾其の民を失い、命を隊し氏を亡ぼし、其の国家を踣さしめん」
「年毎の収穫を退蔵して民に分け与えるのを怠ったりせず、その他の利益についても退蔵したりせず、
姦邪の甚だしい者を保護してやったりもせず、悪い隠し事をそのままにしておいたりもするな。それでいて
災難憂患をよく救い、禍乱が巻き起こることを警戒し、好悪を同じくして玉を助けていくようにせよ。
この命すら守らない国があれば、全世界、ありとあらゆる山川神霊、王侯やその祖霊に至るまでが総力を
挙げての殺戮に臨み、民も失わせてその命なきものとし、国家丸ごとの取り潰しを完遂することだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左子伝・襄公十一年より)
どんなに有能な菩薩や如来といえども、それらの人々を救い取ることが不可能であり続けるだろう。
キリスト信仰やユダヤ信仰を貫くことによって、仏法のような純正な手法によって救われることを
自分たちが一貫して拒絶し続けているのだから、能力的に十分救えたところで、原理的に救うことができない。
最後まで邪信を貫こうとする者がいれば、その分だけ救われない者の数も増えてしまう。
だから一切衆生の救済能力者が現れたところで、相変わらず救われない者がいる可能性も残る。
そのような不届き者にあらかじめ反省を促して、邪信を完全に捨て去る覚悟を得させてから自分が世に
降臨することもまた救済者の義務であるに違いなく、救済者はただ現れればいいというばかりでもないといえる。
一切衆生を救い取る能力者がいたところで、それ即ち一切衆生救済の機縁となるわけでもない。
救済を受ける者もまた、邪教の完全永久棄教などの用意を整えられた時こそが、真の救済の機縁ともなる。
救済者と衆生の間にすら、八卦が二重に積み重なって六十四卦になるが如き相乗性が、断固として備わっているのである。
「年を薀む毋かれ、利を壅むる毋れ、姦を保つ毋れ、慝を留むる毋れ。災患を救い、禍乱を恤い、
好悪を同じくして王室を獎けよ。或いは茲の命を間さば、司慎司盟、名山名川、群神群祀、先王先公、
七姓十二国の祖、明神も之れを殛し、俾其の民を失い、命を隊し氏を亡ぼし、其の国家を踣さしめん」
「年毎の収穫を退蔵して民に分け与えるのを怠ったりせず、その他の利益についても退蔵したりせず、
姦邪の甚だしい者を保護してやったりもせず、悪い隠し事をそのままにしておいたりもするな。それでいて
災難憂患をよく救い、禍乱が巻き起こることを警戒し、好悪を同じくして玉を助けていくようにせよ。
この命すら守らない国があれば、全世界、ありとあらゆる山川神霊、王侯やその祖霊に至るまでが総力を
挙げての殺戮に臨み、民も失わせてその命なきものとし、国家丸ごとの取り潰しを完遂することだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左子伝・襄公十一年より)
ガン細胞が人体に勝つということは、原理的にあり得ない。
寄生する人体に勢力で勝って、人体を殺してしまったなら、自分も死ぬのみ。
だからせいぜい劣勢にある範囲だけで悪さをするのが関の山で、
虚栄を真の繁栄だなどと思い込んでのから騒ぎに終始するのみなのである。
ガン細胞ではなく、寄生虫や、卵を宿主に産み付ける虫などの内に、
宿主を殺してまで養分を吸い尽くす種がいくらかある。寄生菌の
冬虫夏草などもその部類だが、これらの寄生生物は、宿主となる
生物との異質性が十分であり、人間の白人と有色人種ほどにも
近似的な関係にあったりはしない。もしも白人がこのような
寄生生物のマネごとをして、宿主である他の地球人類を滅ぼそう
などとしたりしたなら、自分たちもまた同質の人類であるために、
住環境を失うなどの大きな危害を被り、決してただでは済まなくなる。
欧米の白人キリスト教徒も、せいぜい地球人類にとってのガン細胞止まりで、
宿主を殺してまで自分たちが生き延びられるような生物とまではいかない。
そこが多かれ少なかれ選民志向の持ち主であり続けてきた欧米キリスト教徒にとっての、
大きな見当違いだった部分であり、他者を殺してでも自分たちが生き延びる勢いでの、
異教徒に対する悪逆非道の限りを尽くしてきたことへの決まりも付かない所だともいえる。
人間同士の関係が、人体とガン細胞程度の関係に発展することはある一方で、宿主と、
宿主を殺し尽くす能力のある寄生生物の関係にまで発展することは、原理的にあり得ない。
寄生する人体に勢力で勝って、人体を殺してしまったなら、自分も死ぬのみ。
だからせいぜい劣勢にある範囲だけで悪さをするのが関の山で、
虚栄を真の繁栄だなどと思い込んでのから騒ぎに終始するのみなのである。
ガン細胞ではなく、寄生虫や、卵を宿主に産み付ける虫などの内に、
宿主を殺してまで養分を吸い尽くす種がいくらかある。寄生菌の
冬虫夏草などもその部類だが、これらの寄生生物は、宿主となる
生物との異質性が十分であり、人間の白人と有色人種ほどにも
近似的な関係にあったりはしない。もしも白人がこのような
寄生生物のマネごとをして、宿主である他の地球人類を滅ぼそう
などとしたりしたなら、自分たちもまた同質の人類であるために、
住環境を失うなどの大きな危害を被り、決してただでは済まなくなる。
欧米の白人キリスト教徒も、せいぜい地球人類にとってのガン細胞止まりで、
宿主を殺してまで自分たちが生き延びられるような生物とまではいかない。
そこが多かれ少なかれ選民志向の持ち主であり続けてきた欧米キリスト教徒にとっての、
大きな見当違いだった部分であり、他者を殺してでも自分たちが生き延びる勢いでの、
異教徒に対する悪逆非道の限りを尽くしてきたことへの決まりも付かない所だともいえる。
人間同士の関係が、人体とガン細胞程度の関係に発展することはある一方で、宿主と、
宿主を殺し尽くす能力のある寄生生物の関係にまで発展することは、原理的にあり得ない。
犯罪聖書の信者はおろか、著者や登場人物たち自身もまた、全くそれに気づいていなかった。
その理由はといえば、古代オリエントや古代ローマにおいて、資産家でもある
支配階級と、一方的な搾取対象とされている被支配階級との断絶が極端であり過ぎて、
後者あっての前者という認識すらもが疎かにされていたことが挙げられる。
東洋においても支配被支配の関係は当然あるが、支配者が資産家でもあったりしたなら、
支配者こそは被支配者にとっての寄生体になってしまうという社会の実相をわきまえて、
支配階級と資産家を分断して、資産家を民間人の中でも特に賤しい存在として冷遇することが
四民制やカースト制によって嗜まれていたために、実際には被支配者にとっての寄生体に過ぎない、
資産家兼支配者を、あたかも被支配者の捕食者であるかのように思い違うことまでは避けていたのだった。
古代オリエントの遺跡や、西洋の伝統建築などにも巨大で美麗なものが多々あるが、
そこに住む人々が人間社会の実相を捉えられていたとはいい難い。あまりにも壮大な建築物の
中に引きこもって、外界との直接的な関係を断つのが支配者にとっての恒でもあったから、
支配者と被支配者を総合した世界の実相をわきまえることもできなかった。土建こそは人類文明の
極致みたいな所もあるが、これが土建によって人類社会の実相を見損なうこともある実例となっている。
土建もまた、世のため人のためにあってこそのものだということがいえるのである。
「世の守りなり。身の能く為す所に非ざるなり」
「この地は世世に渡って守り継がれて来たもの。自分一身の身勝手によってどうしていいものでもない。
(過去の為政にまでよく思いを致して、この世に身勝手の通用する余地などないことをわきまえている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
その理由はといえば、古代オリエントや古代ローマにおいて、資産家でもある
支配階級と、一方的な搾取対象とされている被支配階級との断絶が極端であり過ぎて、
後者あっての前者という認識すらもが疎かにされていたことが挙げられる。
東洋においても支配被支配の関係は当然あるが、支配者が資産家でもあったりしたなら、
支配者こそは被支配者にとっての寄生体になってしまうという社会の実相をわきまえて、
支配階級と資産家を分断して、資産家を民間人の中でも特に賤しい存在として冷遇することが
四民制やカースト制によって嗜まれていたために、実際には被支配者にとっての寄生体に過ぎない、
資産家兼支配者を、あたかも被支配者の捕食者であるかのように思い違うことまでは避けていたのだった。
古代オリエントの遺跡や、西洋の伝統建築などにも巨大で美麗なものが多々あるが、
そこに住む人々が人間社会の実相を捉えられていたとはいい難い。あまりにも壮大な建築物の
中に引きこもって、外界との直接的な関係を断つのが支配者にとっての恒でもあったから、
支配者と被支配者を総合した世界の実相をわきまえることもできなかった。土建こそは人類文明の
極致みたいな所もあるが、これが土建によって人類社会の実相を見損なうこともある実例となっている。
土建もまた、世のため人のためにあってこそのものだということがいえるのである。
「世の守りなり。身の能く為す所に非ざるなり」
「この地は世世に渡って守り継がれて来たもの。自分一身の身勝手によってどうしていいものでもない。
(過去の為政にまでよく思いを致して、この世に身勝手の通用する余地などないことをわきまえている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
古代から近現代に至るまで、「ユダヤ人」を称する旧約信者が
生業としてきた政商とか金融ヤクザとか悪徳外交家とかいった職分は、
それを敵に回す国や民族のみならず、味方に付ける国や民族すらをも破滅に陥れる。
だからこそ、古来からユダヤ人を重用してきた欧州諸国なども引っ切り無しの
興亡を続け、1000年前の国体をそのまま保てているような国も一つもないのである。
「ユダヤ人」は民族でも人種でもなく、旧約聖書の信者のことである。
それでいて、国を挙げて旧約を信仰している国などは、近年のイスラエル建国以前には
一つとして存在しなかった。旧約信仰が国家や民族レベルで保たれていたような
事実もなく、主にキリスト教圏において、ゲリラ的にユダヤ人を称する旧約信者が
生じては消え、生じては消えを繰り返してきたのみである。
仮に、旧約の神によって旧約信者が救われるとした所で、そもそも旧約信者という存在自体が、
救われる対象としての実体性を保てていない。キリスト教圏において、無責任な家族計画によって
一般家庭からはじき出された孤児なり私生児なりが旧約信者としての悪行を繰り返しては消え去り、
悪行を繰り返しては消え去りを繰り返しているだけなのだから、未だかつて旧約信者たる
ユダヤ人が救われたことはおろか、ユダヤ人がユダヤ人として、誰かに救われる
対象としての体裁を保てていたことすらないことが確かなのである。
キリスト教も、ユダヤ教における神の救いを敷衍して、自分たちが神に救われるとしている。
そもそも始めから全く救われる体を保てていないユダヤ教徒のようにして、自分たちキリスト教徒
もまた救われるという完全矛盾。救われる救われると豪語しながら、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、
信仰によって救われるということが如何なることであるのかすら、全く見えていないのである。
生業としてきた政商とか金融ヤクザとか悪徳外交家とかいった職分は、
それを敵に回す国や民族のみならず、味方に付ける国や民族すらをも破滅に陥れる。
だからこそ、古来からユダヤ人を重用してきた欧州諸国なども引っ切り無しの
興亡を続け、1000年前の国体をそのまま保てているような国も一つもないのである。
「ユダヤ人」は民族でも人種でもなく、旧約聖書の信者のことである。
それでいて、国を挙げて旧約を信仰している国などは、近年のイスラエル建国以前には
一つとして存在しなかった。旧約信仰が国家や民族レベルで保たれていたような
事実もなく、主にキリスト教圏において、ゲリラ的にユダヤ人を称する旧約信者が
生じては消え、生じては消えを繰り返してきたのみである。
仮に、旧約の神によって旧約信者が救われるとした所で、そもそも旧約信者という存在自体が、
救われる対象としての実体性を保てていない。キリスト教圏において、無責任な家族計画によって
一般家庭からはじき出された孤児なり私生児なりが旧約信者としての悪行を繰り返しては消え去り、
悪行を繰り返しては消え去りを繰り返しているだけなのだから、未だかつて旧約信者たる
ユダヤ人が救われたことはおろか、ユダヤ人がユダヤ人として、誰かに救われる
対象としての体裁を保てていたことすらないことが確かなのである。
キリスト教も、ユダヤ教における神の救いを敷衍して、自分たちが神に救われるとしている。
そもそも始めから全く救われる体を保てていないユダヤ教徒のようにして、自分たちキリスト教徒
もまた救われるという完全矛盾。救われる救われると豪語しながら、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、
信仰によって救われるということが如何なることであるのかすら、全く見えていないのである。
救われた先に何があるか、いかなる条件を以ってして救われたとするか、それすらまともに
考えることもないままに「救い」という救いを求め、かえって事実上の破滅を呼び込んできた。
そもそも自分たちが救済されるビジョンすら明確ではなかったのだから、その先に受刑者や
強制入院患者や禁治産者としての処遇が待ち受けていた所で、別に心外だったりはしないはずだ。
「これは自分の想定していた救済とは違う」なんてこともないのだから、心外であるはずもない。
救われるか救われないか以前に、自分が救われる対象としての体裁を保てているかが問題である。
浄土信者やムスリムは、救われようが救われまいが、救われる対象としての体裁を保てている、
一方で、キリスト教徒やユダヤ教徒は、仮に救うことができたところで、そもそも本人たち自身
からして、誰かに救われる対象としての体裁を保とうとした試しすらないことが確かなのである。
ユダヤ=キリスト両聖書教は、誰にも救われない宗教である以前に、誰からの救いをも拒み通す宗教でこそある。
誰かに救われ得るような体裁をことごとくかなぐり捨てることで、最大級の破滅を自他に招き寄せる
ことばかりを目的としている宗教であり、誰かに救われるなんていう体裁からして、始めから虚構
でしかなかったのである。そして、今になって人類滅亡級の破滅を呼び寄せて、なおかつその
信仰によって誰からの救いをも拒み通そうとしている。救いも拒み通して破滅を呼び込み続ける、
その行いは今までどおり一貫していて、ただ完全に絶体絶命である点だけが特別なところである。
絶体絶命だから、聖書信仰を破棄してでも誰かに救いを求めるしかない。それもまた完全に、
「誰からの救いをも拒み通す信教」としての聖書信仰に対する、今まで通りの扱いだといえる。
考えることもないままに「救い」という救いを求め、かえって事実上の破滅を呼び込んできた。
そもそも自分たちが救済されるビジョンすら明確ではなかったのだから、その先に受刑者や
強制入院患者や禁治産者としての処遇が待ち受けていた所で、別に心外だったりはしないはずだ。
「これは自分の想定していた救済とは違う」なんてこともないのだから、心外であるはずもない。
救われるか救われないか以前に、自分が救われる対象としての体裁を保てているかが問題である。
浄土信者やムスリムは、救われようが救われまいが、救われる対象としての体裁を保てている、
一方で、キリスト教徒やユダヤ教徒は、仮に救うことができたところで、そもそも本人たち自身
からして、誰かに救われる対象としての体裁を保とうとした試しすらないことが確かなのである。
ユダヤ=キリスト両聖書教は、誰にも救われない宗教である以前に、誰からの救いをも拒み通す宗教でこそある。
誰かに救われ得るような体裁をことごとくかなぐり捨てることで、最大級の破滅を自他に招き寄せる
ことばかりを目的としている宗教であり、誰かに救われるなんていう体裁からして、始めから虚構
でしかなかったのである。そして、今になって人類滅亡級の破滅を呼び寄せて、なおかつその
信仰によって誰からの救いをも拒み通そうとしている。救いも拒み通して破滅を呼び込み続ける、
その行いは今までどおり一貫していて、ただ完全に絶体絶命である点だけが特別なところである。
絶体絶命だから、聖書信仰を破棄してでも誰かに救いを求めるしかない。それもまた完全に、
「誰からの救いをも拒み通す信教」としての聖書信仰に対する、今まで通りの扱いだといえる。
「天の方に虐いせるとき、然かるも謔謔とする無かれ。老夫の灌灌とするにも、小子は蹻蹻とす。
我れを匪として耄せると言い、爾が憂い用て謔とせる。将に熇熇多として、救い薬す可からず」
「天がまさに大禍を下せるときにすら、不埒な享楽に耽っていたりすべきではない。それを知る私
のような老人は戦々恐々としているが、小僧っ子どもはといえば未だケラケラと浮かれたままでいる。
私のこの態度こそを老耄として非難し、この憂いをもただの諧謔として歯牙にもかけぬ。将にいま、
禍いの火も方々へと燃え広がりつつあるが、だからといって救ってやるべきだとすらいえない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
自ら破滅を追い求め続けている連中を救ってやったりして、どうしようというのか。
破滅こそを欲している者どもに対する救いなど、ただの有難迷惑にしかならないじゃないか。
我れを匪として耄せると言い、爾が憂い用て謔とせる。将に熇熇多として、救い薬す可からず」
「天がまさに大禍を下せるときにすら、不埒な享楽に耽っていたりすべきではない。それを知る私
のような老人は戦々恐々としているが、小僧っ子どもはといえば未だケラケラと浮かれたままでいる。
私のこの態度こそを老耄として非難し、この憂いをもただの諧謔として歯牙にもかけぬ。将にいま、
禍いの火も方々へと燃え広がりつつあるが、だからといって救ってやるべきだとすらいえない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
自ら破滅を追い求め続けている連中を救ってやったりして、どうしようというのか。
破滅こそを欲している者どもに対する救いなど、ただの有難迷惑にしかならないじゃないか。
イエスの行いは、見習えるものではないし、見習うべきものでもないし、
本人が人々に見習わせるに値するものたろうとしたものですらない。
イエスのマネをしたって、ただ死ぬだけで生き返れるわけでも、昇天できるわけでもない。
現実問題そうだから、カトリックの祖であるアウグスチヌスも、信者がイエスのマネをして
自殺することを公的に禁止した。その論拠はといえば、「神からもらった命を大事にしなさい」
などというもので、これこそ、イエス自身がまったく反故にしたはずの代物である。故に、
カトリックはその原初の頃から、イエスの行いが全く見習えないものであるのみならず、
見習うべきでないものであることすらをもとっくに認めてしまっているのだといえる。
そのカトリックに反目する形で、ドイツで生じたプロテスタントも、イエスの教えは
全く守ることもできないものばかりであることを主張した上での、信仰義認を本是とした。
カトリックにはまだ、イエスの教えの内に何か守るべき有意義なものがあることを
認めようとする傾向があったが、プロテスタントはそれすらをも全否定した。
結局、キリスト教圏の人間は、その最原初のころから、
全人生を挙げて見習うに値するだけの大師を得たことがない。
全ての師弟関係が「一過性の事務」止まりでしかない完全な横並び関係、それをキリスト教徒は
「神の下での平等」とすら嘯いて来たらしいが、なんと空しい人間関係を続けてきたものだろう。
全人生を挙げて師とすべきものを見習い、自分もまた全人生を挙げての師とされるに値する
だけの賢聖となる、そこにこそ人間にとっての、人並み以上の向上もまた存在し得るのであり、
それを欠いたところにはもはや、凡人並みかそれ以下の、衆愚の集いしかあり得ないのである。
本人が人々に見習わせるに値するものたろうとしたものですらない。
イエスのマネをしたって、ただ死ぬだけで生き返れるわけでも、昇天できるわけでもない。
現実問題そうだから、カトリックの祖であるアウグスチヌスも、信者がイエスのマネをして
自殺することを公的に禁止した。その論拠はといえば、「神からもらった命を大事にしなさい」
などというもので、これこそ、イエス自身がまったく反故にしたはずの代物である。故に、
カトリックはその原初の頃から、イエスの行いが全く見習えないものであるのみならず、
見習うべきでないものであることすらをもとっくに認めてしまっているのだといえる。
そのカトリックに反目する形で、ドイツで生じたプロテスタントも、イエスの教えは
全く守ることもできないものばかりであることを主張した上での、信仰義認を本是とした。
カトリックにはまだ、イエスの教えの内に何か守るべき有意義なものがあることを
認めようとする傾向があったが、プロテスタントはそれすらをも全否定した。
結局、キリスト教圏の人間は、その最原初のころから、
全人生を挙げて見習うに値するだけの大師を得たことがない。
全ての師弟関係が「一過性の事務」止まりでしかない完全な横並び関係、それをキリスト教徒は
「神の下での平等」とすら嘯いて来たらしいが、なんと空しい人間関係を続けてきたものだろう。
全人生を挙げて師とすべきものを見習い、自分もまた全人生を挙げての師とされるに値する
だけの賢聖となる、そこにこそ人間にとっての、人並み以上の向上もまた存在し得るのであり、
それを欠いたところにはもはや、凡人並みかそれ以下の、衆愚の集いしかあり得ないのである。
キリスト教圏において蓄積されて来た、洋学にまつわる知見や技術なども、その全てが
一過性の事務止まりな代物で、全人生を挙げて学んだり身に付けたりするに値するものではない。
だからこそ、人生を挙げての修練に取り組んでいく必要がある、儒学や仏道や武道などと
比べて、それを教えてくれる相手が偉大だなどということもない。少なくとも、洋学の知識や
技能の持ち主だからといって、尊敬に値する人間だったりすることはなく、仮に尊敬に値する
人間でもあるのなら、必ず別の側面での、人生を挙げての研鑽に取り組んでいたりするのである。
それにしたって、洋学知識の持ち主が、かりそめの尊敬の対象にされたりすることはある。
西洋医学の知識の持ち主である医師などがその最たる例だが、医者に対する尊敬などは、
キリスト教の牧師や宣教師に対する懺悔などと同レベルの、困った時の依り縋りの体現でしかない。
健全なうちからのより一層の向上などではなく、病気や怪我や悪行などの、負の問題を呈した
後にそれを救っていただこうというまでものでしかないから、医師や牧師や宣教師などを
敬った所で、本人自身が人並み以上の向上を果たせたりすることは永久にないのである。
全人生を挙げて見習うに値する大師への尊敬は、そのような敬いとも全く異なる。
別に自分が追い詰められているわけでもないうちからの、積極的に積み立てられていく尊敬。
その尊敬によってのみ、人もまたより一層の向上があり得るのだから、困った時の神頼み、
困った時の師頼みなどに全ての尊敬を集約させたりしていてもならないことが分かるのである。
「籩豆の事は、則ち有司存せり」
「お祭りのお供えのことなどは、係りの祭司がいるから任せればよい。(君子の本分ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・四より)
一過性の事務止まりな代物で、全人生を挙げて学んだり身に付けたりするに値するものではない。
だからこそ、人生を挙げての修練に取り組んでいく必要がある、儒学や仏道や武道などと
比べて、それを教えてくれる相手が偉大だなどということもない。少なくとも、洋学の知識や
技能の持ち主だからといって、尊敬に値する人間だったりすることはなく、仮に尊敬に値する
人間でもあるのなら、必ず別の側面での、人生を挙げての研鑽に取り組んでいたりするのである。
それにしたって、洋学知識の持ち主が、かりそめの尊敬の対象にされたりすることはある。
西洋医学の知識の持ち主である医師などがその最たる例だが、医者に対する尊敬などは、
キリスト教の牧師や宣教師に対する懺悔などと同レベルの、困った時の依り縋りの体現でしかない。
健全なうちからのより一層の向上などではなく、病気や怪我や悪行などの、負の問題を呈した
後にそれを救っていただこうというまでものでしかないから、医師や牧師や宣教師などを
敬った所で、本人自身が人並み以上の向上を果たせたりすることは永久にないのである。
全人生を挙げて見習うに値する大師への尊敬は、そのような敬いとも全く異なる。
別に自分が追い詰められているわけでもないうちからの、積極的に積み立てられていく尊敬。
その尊敬によってのみ、人もまたより一層の向上があり得るのだから、困った時の神頼み、
困った時の師頼みなどに全ての尊敬を集約させたりしていてもならないことが分かるのである。
「籩豆の事は、則ち有司存せり」
「お祭りのお供えのことなどは、係りの祭司がいるから任せればよい。(君子の本分ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・四より)
人事を尽くした上で天命を待つのなら、寝て待とうが起きて待とうが、いずれでも構いやしない。
着実な善因楽果を期待するのであれば、何も強制捜査を待つような態度でいる必要もない。
自らの為してきた試みが善因楽果に相当するか、悪因苦果に相当するかすら分からないから、
強制捜査を待つようなおどおどした態度でしかいられない。そして、それ程にも不注意であるからには、
悪因苦果に結び付く悪行を為してきた可能性のほうが高いので、それはそれは恐ろしくもあろう。
もちろん、悪逆非道を尽くしておきながら「何とかなるさLet it be」と開き直って平然としている
場合もなきにしもあらずで、だからこそ素直に摘発にも応じられるというのなら、摘発を警戒
している場合よりも神妙だといえる。というわけで、悪因苦果を待ち受ける悪人といえども、
できる限り警戒を捨てて、自然体で処遇に甘んじていくほうがまだマシなのだといえる。
自らの行いに責任を感じているのであれば、善を為したのであれ悪を為したのであれ、
その結果に恐れおののいたりすることもなく、泰然として結果を受け入れるばかりのはずだ。
僥倖であれ災難であれ、自らの行いからすれば心外な結果がもたらされた場合に人は恐れおののき、
行いとの因果関係を説明されて納得するか、もしくはそれでも納得いかなくて不満を抱き続けたりする。
自らの行いとは全く無縁な、他者からの一方的な仕打ちを警戒すべきだということはあるし、
また自分自身が悪因苦果を呼び込むような過ちを犯さないように慎んでいくべきだともいえる。
その上で、自らの責任ある行いに対する報いまでをもいちいち警戒すべきもないということが言える。
警戒すべきものとそうでないものとの分別を付ける、そのあり方が以上のようであるべきだということ。
着実な善因楽果を期待するのであれば、何も強制捜査を待つような態度でいる必要もない。
自らの為してきた試みが善因楽果に相当するか、悪因苦果に相当するかすら分からないから、
強制捜査を待つようなおどおどした態度でしかいられない。そして、それ程にも不注意であるからには、
悪因苦果に結び付く悪行を為してきた可能性のほうが高いので、それはそれは恐ろしくもあろう。
もちろん、悪逆非道を尽くしておきながら「何とかなるさLet it be」と開き直って平然としている
場合もなきにしもあらずで、だからこそ素直に摘発にも応じられるというのなら、摘発を警戒
している場合よりも神妙だといえる。というわけで、悪因苦果を待ち受ける悪人といえども、
できる限り警戒を捨てて、自然体で処遇に甘んじていくほうがまだマシなのだといえる。
自らの行いに責任を感じているのであれば、善を為したのであれ悪を為したのであれ、
その結果に恐れおののいたりすることもなく、泰然として結果を受け入れるばかりのはずだ。
僥倖であれ災難であれ、自らの行いからすれば心外な結果がもたらされた場合に人は恐れおののき、
行いとの因果関係を説明されて納得するか、もしくはそれでも納得いかなくて不満を抱き続けたりする。
自らの行いとは全く無縁な、他者からの一方的な仕打ちを警戒すべきだということはあるし、
また自分自身が悪因苦果を呼び込むような過ちを犯さないように慎んでいくべきだともいえる。
その上で、自らの責任ある行いに対する報いまでをもいちいち警戒すべきもないということが言える。
警戒すべきものとそうでないものとの分別を付ける、そのあり方が以上のようであるべきだということ。
警戒対象に上記のような分別を付けることが、自らの生活全般にとっての適切な緩急ともなる。
たとえば、スポーツ化してしまっている今の剣道や柔道は、選手がこぞって力んでばかりいる
ものだから、長年現役で続けていくことも叶わなくなってしまっているが、古武道や合気道など
であれば、力の緩急からして訓練の対象とされているから、年老いてもなお続けていられたりする。
そのような緩急織り交ぜることによる耐久性を、警戒にまつわる上記のような分別ももたらしてくれる。
残念ながら、近現代の文明社会というのは、上記のような警戒の分別を持たないままでいるような
人間こそを保護してやるために発展してきている所がある。自らの行いに責任を持たないから、
その結果を警戒したりする一方で、他者からの侵害への警戒は警察任せ、自らの行いの修正も法律任せ
という人間のためにばかり今の社会は拵えられていて、そのために不注意極まりない人間ばかりが
溢れ返る社会とも化してしまっている。これが民主主義や法治主義の弊害であるともいえる一方、
不注意と無価値な注意とを人々に植え付ける方向性は、犯罪聖書にすらあらかじめ備わっていた
ようなので、近代以降に極度に問題化してしまっている人間規範の是正は、民主主義のような
近代的理念以前にまで、その問題の根本性を突き詰めていく必要があるようである。
「寝るに尸せず。居るに容せず」
「(孔先生は)寝るときも死体のような無様な寝方はされなかった。一方で、
家などで燕居している時にまで無闇に威儀を正したりはせず、ゆったりとしておられた。
(就寝中には就寝中なりの正し方があるし、覚醒中にも覚醒中なりの休み方がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一八より)
たとえば、スポーツ化してしまっている今の剣道や柔道は、選手がこぞって力んでばかりいる
ものだから、長年現役で続けていくことも叶わなくなってしまっているが、古武道や合気道など
であれば、力の緩急からして訓練の対象とされているから、年老いてもなお続けていられたりする。
そのような緩急織り交ぜることによる耐久性を、警戒にまつわる上記のような分別ももたらしてくれる。
残念ながら、近現代の文明社会というのは、上記のような警戒の分別を持たないままでいるような
人間こそを保護してやるために発展してきている所がある。自らの行いに責任を持たないから、
その結果を警戒したりする一方で、他者からの侵害への警戒は警察任せ、自らの行いの修正も法律任せ
という人間のためにばかり今の社会は拵えられていて、そのために不注意極まりない人間ばかりが
溢れ返る社会とも化してしまっている。これが民主主義や法治主義の弊害であるともいえる一方、
不注意と無価値な注意とを人々に植え付ける方向性は、犯罪聖書にすらあらかじめ備わっていた
ようなので、近代以降に極度に問題化してしまっている人間規範の是正は、民主主義のような
近代的理念以前にまで、その問題の根本性を突き詰めていく必要があるようである。
「寝るに尸せず。居るに容せず」
「(孔先生は)寝るときも死体のような無様な寝方はされなかった。一方で、
家などで燕居している時にまで無闇に威儀を正したりはせず、ゆったりとしておられた。
(就寝中には就寝中なりの正し方があるし、覚醒中にも覚醒中なりの休み方がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一八より)
「親始めて死するときは、〜夫れ悲哀中に在り、故に形外に変わるなり。
痛疾心に在り、故に口は味わいを甘しとせず、身美に安んじざるなり」
「親が始めて死んだともなれば、その悲哀は内より溢れ出て、外貌すらをも
変容させてしまう。痛疾が心に深く止まっているために、口もよくものを
味わうことができず、身も決して美を楽しんだりすることができない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・問喪第三十五より)
痛疾心に在り、故に口は味わいを甘しとせず、身美に安んじざるなり」
「親が始めて死んだともなれば、その悲哀は内より溢れ出て、外貌すらをも
変容させてしまう。痛疾が心に深く止まっているために、口もよくものを
味わうことができず、身も決して美を楽しんだりすることができない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・問喪第三十五より)
昔の儒礼のように、孝子が親の喪に絶食級の悲しみを抱いて、
泣き通して乞食のごとくやせ衰えて、一時的には杖すら突くように
なったとして、当然それをいつしか喜びに換えたりするわけでもない。
親の喪のごとき悲しみは、春夏秋冬のうちの冬のようなもので、
人間生活のうちでは辛い時期でありながらも、春の息吹を
返させるために、原理的に欠くべからざるものともなっている。
親族の喪なども大して重視しない現代社会で、悲しみなんてのは、
ハッピーエンドで終わるドラマの途中経過としてぐらいしか許容されない。
それ以上の悲しみは全て排斥の対象とされて、出来る限り常日ごろから
嬉しがっていられたらそれに越したことはないとされている。
悲しみと楽しみでは、むしろ悲しむことのほうを優先すべきですらある。
常日ごろから満腹状態であいるよりは、多少腹をすかした状態でものを食べるほうが
おいしいく感じられるのとも同じように、悲しむべきことを十分に悲しむ心がけが
あって後に初めて、楽しむべき物事を十分に楽しむこともまたできるようになる。
儒礼では上記のように親の喪に悲しみを尽くすことなどを推奨しているし、
仏法も諸行無常や一切皆苦などという、悲しみの至りでありながらも絶対的である真理を
よくわきまえた先にこそある、泥沼の中のハスの花のごとき悟りを重視しているのである。
泣き通して乞食のごとくやせ衰えて、一時的には杖すら突くように
なったとして、当然それをいつしか喜びに換えたりするわけでもない。
親の喪のごとき悲しみは、春夏秋冬のうちの冬のようなもので、
人間生活のうちでは辛い時期でありながらも、春の息吹を
返させるために、原理的に欠くべからざるものともなっている。
親族の喪なども大して重視しない現代社会で、悲しみなんてのは、
ハッピーエンドで終わるドラマの途中経過としてぐらいしか許容されない。
それ以上の悲しみは全て排斥の対象とされて、出来る限り常日ごろから
嬉しがっていられたらそれに越したことはないとされている。
悲しみと楽しみでは、むしろ悲しむことのほうを優先すべきですらある。
常日ごろから満腹状態であいるよりは、多少腹をすかした状態でものを食べるほうが
おいしいく感じられるのとも同じように、悲しむべきことを十分に悲しむ心がけが
あって後に初めて、楽しむべき物事を十分に楽しむこともまたできるようになる。
儒礼では上記のように親の喪に悲しみを尽くすことなどを推奨しているし、
仏法も諸行無常や一切皆苦などという、悲しみの至りでありながらも絶対的である真理を
よくわきまえた先にこそある、泥沼の中のハスの花のごとき悟りを重視しているのである。
悲しみが楽しみに変わるのではなく、総体として悲しみの多い人生がより楽しみを楽しむ。
もちろん悲しみ通しなどではなく、悲しむべきものを悲しむことで、楽しむべきものをより楽しむ。
たとえば、道義を貫いたがための貧賤などは決して悲しむべきものではないから悲しまない、
一方で、道義を貫くことが貧窮に繋がってしまうような乱れた世情はよく悲しんで、
その世情を自力他力の精進によって改善していけた場合に、自分一身の富貴ばかりを
楽しもうとする小人などが決して与ることのない、無上の楽しみを得たりもする。
悲しむべきを楽しみ、楽しむべきを悲しもうとする転倒夢想はえてして、
総体として悲しむ分量を減らす。この世には実際、悲しむべきもののほうが
楽しむべきものよりも随分と多いから、両者を転倒させれば、楽しむべき
もののほうが悲しむべきものよりも遥かに多いことになってしまう。
悲しむべきものは決して楽しもうともしたりせずに、よく悲しんで、それからいざ
楽しむべきものを目の当たりにしたときに、初めてそこで楽しむようにする分別を付ける。
そしたら人間が生きていく限りにおいて、最も楽しい楽しみを楽しめるようになる。
人間の楽しみは鬼畜の悲しみ、鬼畜の楽しみは人間の悲しみであったりするものなので、
自分が鬼畜ではない人間であるように心がければ、自然と最高の楽しみにも与れるようになる。
もちろん悲しみ通しなどではなく、悲しむべきものを悲しむことで、楽しむべきものをより楽しむ。
たとえば、道義を貫いたがための貧賤などは決して悲しむべきものではないから悲しまない、
一方で、道義を貫くことが貧窮に繋がってしまうような乱れた世情はよく悲しんで、
その世情を自力他力の精進によって改善していけた場合に、自分一身の富貴ばかりを
楽しもうとする小人などが決して与ることのない、無上の楽しみを得たりもする。
悲しむべきを楽しみ、楽しむべきを悲しもうとする転倒夢想はえてして、
総体として悲しむ分量を減らす。この世には実際、悲しむべきもののほうが
楽しむべきものよりも随分と多いから、両者を転倒させれば、楽しむべき
もののほうが悲しむべきものよりも遥かに多いことになってしまう。
悲しむべきものは決して楽しもうともしたりせずに、よく悲しんで、それからいざ
楽しむべきものを目の当たりにしたときに、初めてそこで楽しむようにする分別を付ける。
そしたら人間が生きていく限りにおいて、最も楽しい楽しみを楽しめるようになる。
人間の楽しみは鬼畜の悲しみ、鬼畜の楽しみは人間の悲しみであったりするものなので、
自分が鬼畜ではない人間であるように心がければ、自然と最高の楽しみにも与れるようになる。
「其の労すべきを択びて之れを労す、又た誰をか怨みん」
「自分から労苦すべきものを選んで労苦しているのだから、どうして誰かを怨んだりすることがあろう。
(自分で選んだわけでもない使役に労苦させたりしたなら、怨みを恐れなければならなくもなる。
四書五経には『労苦を厭うな』という意味の金言も多いが、それも自主的な労苦についてのことだからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
「自分から労苦すべきものを選んで労苦しているのだから、どうして誰かを怨んだりすることがあろう。
(自分で選んだわけでもない使役に労苦させたりしたなら、怨みを恐れなければならなくもなる。
四書五経には『労苦を厭うな』という意味の金言も多いが、それも自主的な労苦についてのことだからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
行為能力制限、いわゆる禁治産は、近代になってからイギリスなどで提唱されたものだが、
昔の封建社会の庶民には政治的権限はなく、奴隷には商行為の権限すらなかったわけで、
古来から人類は、禁治産と同等の意味を持つ階級差別を行ってきていることが分かる。
その階級差別が民主主義や自由主義によって撤廃されて、誰でも望みすらすれば
最大級の行為能力を活用できる体裁をあてがわれるようになった。実際には、最大級の
政治的経済的権限を掌握することに対して暗黙裡の制限がかけられていたりもするが、
(各国主要銀行の不正な金利公表値の操作などにも、融資対象を選別する意図があった)
体裁だけでも、誰しもが無制限の行為能力活用の権限を与えられたことによって、
封建制や奴隷制が敷かれていた頃にはなかったような問題を多く来たすようにもなった。
そのような問題のうちでも最大級に当たるのが、人口爆発である。
自分の血統を家系として責任を持って繋いでいく覚悟もないような人間にまで、
無制限に稼いではやりたい放題でいる権限を与えてしまったせいで、総体としての
人口も爆発した。帝王将軍や大名諸侯などの支配者こそが責任ある家系の保ち方を体現して、
行為能力面で士人以下とされた民間人などにもそのあり方を見習わせていったりしたなら、
それなりの人口調節も可能となるが、行為能力の面で、責任能力のある人間もない人間も
横並びにさせられたような状態では、そのような手段に基づく人口調節もできなくなるからだ。
今また、かつての階級差別をそのまま復活させるというのでは、大きな反発も免れられない。
かといって、このまま誰しもの無制限な行為能力活用などを容認し続けていたなら、
人口爆発による世界の破滅までもが免れられなくなる。だから両者の中間を取って、
民事法的な基準に即した禁治産処理を実施していくというのも、一つの手だとはいえる。
昔の封建社会の庶民には政治的権限はなく、奴隷には商行為の権限すらなかったわけで、
古来から人類は、禁治産と同等の意味を持つ階級差別を行ってきていることが分かる。
その階級差別が民主主義や自由主義によって撤廃されて、誰でも望みすらすれば
最大級の行為能力を活用できる体裁をあてがわれるようになった。実際には、最大級の
政治的経済的権限を掌握することに対して暗黙裡の制限がかけられていたりもするが、
(各国主要銀行の不正な金利公表値の操作などにも、融資対象を選別する意図があった)
体裁だけでも、誰しもが無制限の行為能力活用の権限を与えられたことによって、
封建制や奴隷制が敷かれていた頃にはなかったような問題を多く来たすようにもなった。
そのような問題のうちでも最大級に当たるのが、人口爆発である。
自分の血統を家系として責任を持って繋いでいく覚悟もないような人間にまで、
無制限に稼いではやりたい放題でいる権限を与えてしまったせいで、総体としての
人口も爆発した。帝王将軍や大名諸侯などの支配者こそが責任ある家系の保ち方を体現して、
行為能力面で士人以下とされた民間人などにもそのあり方を見習わせていったりしたなら、
それなりの人口調節も可能となるが、行為能力の面で、責任能力のある人間もない人間も
横並びにさせられたような状態では、そのような手段に基づく人口調節もできなくなるからだ。
今また、かつての階級差別をそのまま復活させるというのでは、大きな反発も免れられない。
かといって、このまま誰しもの無制限な行為能力活用などを容認し続けていたなら、
人口爆発による世界の破滅までもが免れられなくなる。だから両者の中間を取って、
民事法的な基準に即した禁治産処理を実施していくというのも、一つの手だとはいえる。
ただ、奴隷制や、政財癒着の甚だしい西洋的封建制はともかく、政財の分離こそを目的と
していた東洋的封建制を特定して復活させることは、反発される程のことでもないだろう。
漢帝国ほどにも潔癖を期した東洋的封建支配であれば、君子階級の処罰や、引責目的での
自殺や下野なども相次ぐため、民間からの人材の抜擢も随時行われていくことになるし、
日本の武家社会でも奴隷制が撤廃されていたように、政財の癒着を徹底して排除した
東洋的封建制によってこそ、奴隷制という最悪の階級差別を撤廃できたりもするのだから。
民間人は全て政治的権限を剥奪され、禁治産全般にかけては民事法的な処置があてがわれる。
一方で、為政者のあり方にはかつての東洋的封建制があてがわれ、徹底して責任ある為政を
執り行っていくことが義務付けられていくようにする。それが、現時点での最善策になるといえる。
政治的権限だけでなく、民間での経済的権限すらをも禁治産によって制限される人間は、
実質上はかつての奴隷階級とも同等の処遇に置かれることになるわけだが、それはあくまで
邪教信仰に基づく心神喪失などの已む無き理由があってのこととされる。それが、ただ
頭ごなしに行為能力を奪われていたかつての奴隷などとは違った部分であるといえる。
破滅の回避のために、上記のような措置が敷かれた後の世において、君子階級として
振る舞えることこそは誉れとなり、禁治産にまで甘んじさせられることこそは恥じになる。
陰惨な絶対差別に基づく上流階級の傲慢や下流階級の卑下などはこれからもないようにするが、
それぞれの処遇を受けることが誉れになったり、恥になったりすることはこれからもある。
恥になるような処遇をできる限り脱却して、誉れとなるような処遇にこそ与っていこうと
誰しもが志して、世の中総出を挙げての向上が嗜まれていくほうが、よりよいからだ。
していた東洋的封建制を特定して復活させることは、反発される程のことでもないだろう。
漢帝国ほどにも潔癖を期した東洋的封建支配であれば、君子階級の処罰や、引責目的での
自殺や下野なども相次ぐため、民間からの人材の抜擢も随時行われていくことになるし、
日本の武家社会でも奴隷制が撤廃されていたように、政財の癒着を徹底して排除した
東洋的封建制によってこそ、奴隷制という最悪の階級差別を撤廃できたりもするのだから。
民間人は全て政治的権限を剥奪され、禁治産全般にかけては民事法的な処置があてがわれる。
一方で、為政者のあり方にはかつての東洋的封建制があてがわれ、徹底して責任ある為政を
執り行っていくことが義務付けられていくようにする。それが、現時点での最善策になるといえる。
政治的権限だけでなく、民間での経済的権限すらをも禁治産によって制限される人間は、
実質上はかつての奴隷階級とも同等の処遇に置かれることになるわけだが、それはあくまで
邪教信仰に基づく心神喪失などの已む無き理由があってのこととされる。それが、ただ
頭ごなしに行為能力を奪われていたかつての奴隷などとは違った部分であるといえる。
破滅の回避のために、上記のような措置が敷かれた後の世において、君子階級として
振る舞えることこそは誉れとなり、禁治産にまで甘んじさせられることこそは恥じになる。
陰惨な絶対差別に基づく上流階級の傲慢や下流階級の卑下などはこれからもないようにするが、
それぞれの処遇を受けることが誉れになったり、恥になったりすることはこれからもある。
恥になるような処遇をできる限り脱却して、誉れとなるような処遇にこそ与っていこうと
誰しもが志して、世の中総出を挙げての向上が嗜まれていくほうが、よりよいからだ。
「言未だ之れに及ばずして言う、之れを躁と謂う。(ここまで既出)
言之れに及びて言わず、之れを隠と謂う。未だ顔色を見ずして言う、之れを瞽と謂う」
「まだ自分が言う番でもないのに勝手にしゃべり出すのは『躁』という過ちである。
自分が言う番になっても何も言おうとしないのは『隠』という過ちである。
相手の顔色も窺わずに一方的にものを言うのは『瞽』という過ちである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・六より)
犯罪聖書(新旧約聖書)の信者以前に、犯罪聖書に登場する神や登場人物、
そして犯罪聖書の著者自身が、四書五経が提示する君子としてのあり方を全く満たせず、
逆に小人としてのあり方ばかりに従っている。信者がダメな人間であるのは聖書信仰も
大いに認めていることであって、それは仏門の浄土信仰などとも同じくする所である。
しかし、聖書信仰はその教祖やクリエーターからして全くダメな人間ばかりで、ダメ人間が
ダメ人間を教導するという、どこにも締まりのない体裁でしかないことが特殊なのである。
四書五経が提示する君子像などを、誰しもが体得できたならそれに越したことはないが、
そこまではなかなか覚束ないから、一部の有志が君子としての修養やそれに基づく仕官に
よって小人止まりな衆生を導いていくというのが、儒学でも現実的な所として認められていて、
漢や唐や江戸幕府などの儒学による統治を成功させた社会も、実際にはその程度のものであった。
誰しもが君子である社会とまでいかずとも、一部の君子が多数の小人を教導していく社会を
画策していく程度で、十分に治世は達成できる。一部の君子を養成していくぐらいなら、
中国みたいな環境的に恵まれているわけでもない国ですら何百年と続けていけるというのに、
あまつさえ、中国と比べれば遥かに異民族からの侵略などのリスクも低い地理条件にある
西洋の人間こそは、小人が小人を支配する宗教的政治的体制しか今まで画策してこなかった。
言之れに及びて言わず、之れを隠と謂う。未だ顔色を見ずして言う、之れを瞽と謂う」
「まだ自分が言う番でもないのに勝手にしゃべり出すのは『躁』という過ちである。
自分が言う番になっても何も言おうとしないのは『隠』という過ちである。
相手の顔色も窺わずに一方的にものを言うのは『瞽』という過ちである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・六より)
犯罪聖書(新旧約聖書)の信者以前に、犯罪聖書に登場する神や登場人物、
そして犯罪聖書の著者自身が、四書五経が提示する君子としてのあり方を全く満たせず、
逆に小人としてのあり方ばかりに従っている。信者がダメな人間であるのは聖書信仰も
大いに認めていることであって、それは仏門の浄土信仰などとも同じくする所である。
しかし、聖書信仰はその教祖やクリエーターからして全くダメな人間ばかりで、ダメ人間が
ダメ人間を教導するという、どこにも締まりのない体裁でしかないことが特殊なのである。
四書五経が提示する君子像などを、誰しもが体得できたならそれに越したことはないが、
そこまではなかなか覚束ないから、一部の有志が君子としての修養やそれに基づく仕官に
よって小人止まりな衆生を導いていくというのが、儒学でも現実的な所として認められていて、
漢や唐や江戸幕府などの儒学による統治を成功させた社会も、実際にはその程度のものであった。
誰しもが君子である社会とまでいかずとも、一部の君子が多数の小人を教導していく社会を
画策していく程度で、十分に治世は達成できる。一部の君子を養成していくぐらいなら、
中国みたいな環境的に恵まれているわけでもない国ですら何百年と続けていけるというのに、
あまつさえ、中国と比べれば遥かに異民族からの侵略などのリスクも低い地理条件にある
西洋の人間こそは、小人が小人を支配する宗教的政治的体制しか今まで画策してこなかった。
小人が小人を支配する体制しか許されて来なかったから、西洋社会も真の治世には
一瞬たりとも与れず、春秋戦国時代の中国の如き争乱を数千年の永きにわたって続けてきた。
その争乱を永続させるペースと、軍事技術などの発展とが相まって、もはや自分たちの
争乱によって地球人類を滅亡させかねない状態にまで至ってしまった。
まさに、「小人始めありて終わりなし(晋書)」をありのままに
体現したような結末で、そのような結末に至らしめた最たる原因もまた、
「小人の小人による小人のための伝道書」である新旧約聖書の右に出るものはなかったといえる。
西洋人が、西洋人だからといって君子による社会統治を絶対にできないとも限らない。
小人統治を絶対化する聖書信仰などを捨てて、潔く君子統治こそを試みていく方向に切り替えたなら、
長年の異民族支配による荒廃も著しい今の中国人などよりも、先に君子統治を実現すらできるかもしれない。
もちろん今すぐに可能となるということもあり得ず、聖書信仰を捨てて、聖書信仰によってこそ
患ってしまった凶状を十分に拭い去って後に、始めて君子統治も可能になると見込まれる。
もちろん、これからも一切皆小人の体制のままでいて、もはや自分たちでは社会運営もままならないために、
東洋人による委任統治を受けたいというのならそれでもいいわけだが、さすがにそうであり続ける
ことにまでは耐え難い屈辱を抱いて、自分たちでも君子統治を実現していけるように
心がけていくほうが、人間性を尊ぶ東洋人としての立場からも好しとできるものだ。
それでこそ、人間が人間を家畜のように支配する陰惨な時代もまた、終焉を迎えるのだから。
一瞬たりとも与れず、春秋戦国時代の中国の如き争乱を数千年の永きにわたって続けてきた。
その争乱を永続させるペースと、軍事技術などの発展とが相まって、もはや自分たちの
争乱によって地球人類を滅亡させかねない状態にまで至ってしまった。
まさに、「小人始めありて終わりなし(晋書)」をありのままに
体現したような結末で、そのような結末に至らしめた最たる原因もまた、
「小人の小人による小人のための伝道書」である新旧約聖書の右に出るものはなかったといえる。
西洋人が、西洋人だからといって君子による社会統治を絶対にできないとも限らない。
小人統治を絶対化する聖書信仰などを捨てて、潔く君子統治こそを試みていく方向に切り替えたなら、
長年の異民族支配による荒廃も著しい今の中国人などよりも、先に君子統治を実現すらできるかもしれない。
もちろん今すぐに可能となるということもあり得ず、聖書信仰を捨てて、聖書信仰によってこそ
患ってしまった凶状を十分に拭い去って後に、始めて君子統治も可能になると見込まれる。
もちろん、これからも一切皆小人の体制のままでいて、もはや自分たちでは社会運営もままならないために、
東洋人による委任統治を受けたいというのならそれでもいいわけだが、さすがにそうであり続ける
ことにまでは耐え難い屈辱を抱いて、自分たちでも君子統治を実現していけるように
心がけていくほうが、人間性を尊ぶ東洋人としての立場からも好しとできるものだ。
それでこそ、人間が人間を家畜のように支配する陰惨な時代もまた、終焉を迎えるのだから。
罪業の無制限な拡大と共なる聖書圏の維持が、人類の滅亡に直結するようになる前には、
聖書信仰こそが信者たちにとっても、本当に「確かな拠り所」であったに違いない。
聖書信仰こそが信者たちにとっても、本当に「確かな拠り所」であったに違いない。
ルネサンス以降、西洋でも聖書信仰の酩酊ばかりに耽っていることは少しずつ目減りし、
産業革命以降はもはや宗教信仰のほうが下火となった。それでも西洋人にとっての
一番の心の拠り所としての聖書信仰は健在であったが、英蘭などによる植民地支配の激化、
米ペリー艦隊の地球の裏側(日本)への到達などで、西洋人の世界的覇権が良くも悪しくも
飽和点に達した。聖書信仰こそを根本的な拠り所としての、覇権の拡大が強制的に終結し、
地球という限られた世界の範囲内での暴慢の拡大という、いつかは破裂する風船の膨張の
如き危険な時代を歩み始めることとなった。それをいち早く察知したのが哲学者のニーチェで、
「神は死んだ」という宣言によってこそ、信仰の酩酊を原動力とした西洋人の無制限な
暴慢の拡大に歯止めをかけようともしたが、麻薬的酩酊を伴う聖書信仰を剥奪されることが
西洋人にとっては麻酔切れの如き苦痛を伴うことだから、結局うまくいくこともなく、
ニーチェ自身もニヒリズムにやられて発狂するなど、新たな問題を来たすばかりのこととなった。
聖書信仰は、信者の「依存症」を深刻化させる。何に対する依存といわず、とにかく何ものかに
依存しておこうとする依存症一般が人一倍深刻なものとなる。そこまで信者や学生の依存症を
深刻化させる宗教や学問も多くはなく、他力信仰の浄土教ですらもが、信者の信仰依存を
抑制させるような働きを持ち合わせている。聖書信仰によって患った強度の信仰依存を
他の宗教や学問で埋め合わせるというのも得策ではないし、薬物による緩和ケアなども
なおさら推奨できるものではないといえる。麻薬中毒患者が一旦は閉鎖病棟などに隔離されて、
薬切れによる極度の苦痛と引き換えの依存症からの脱却を試みる。そのような措置が成功して後に、
元聖書信者に対して低依存性の「確かな拠り所」をまたあてがう。聖書信仰がもはや誰にとっての
「確かな拠り所」でもあり得なくなってしまっている一方で、これからも「確かな拠り所」とするに
値する思想哲学宗教などはいくらでもある。ただ、それらは聖書信仰と比べれば依存性が遥かに低いから、
依存症を克服して後の元聖書信者にこそあてがっていくようにしなければならないのである。
産業革命以降はもはや宗教信仰のほうが下火となった。それでも西洋人にとっての
一番の心の拠り所としての聖書信仰は健在であったが、英蘭などによる植民地支配の激化、
米ペリー艦隊の地球の裏側(日本)への到達などで、西洋人の世界的覇権が良くも悪しくも
飽和点に達した。聖書信仰こそを根本的な拠り所としての、覇権の拡大が強制的に終結し、
地球という限られた世界の範囲内での暴慢の拡大という、いつかは破裂する風船の膨張の
如き危険な時代を歩み始めることとなった。それをいち早く察知したのが哲学者のニーチェで、
「神は死んだ」という宣言によってこそ、信仰の酩酊を原動力とした西洋人の無制限な
暴慢の拡大に歯止めをかけようともしたが、麻薬的酩酊を伴う聖書信仰を剥奪されることが
西洋人にとっては麻酔切れの如き苦痛を伴うことだから、結局うまくいくこともなく、
ニーチェ自身もニヒリズムにやられて発狂するなど、新たな問題を来たすばかりのこととなった。
聖書信仰は、信者の「依存症」を深刻化させる。何に対する依存といわず、とにかく何ものかに
依存しておこうとする依存症一般が人一倍深刻なものとなる。そこまで信者や学生の依存症を
深刻化させる宗教や学問も多くはなく、他力信仰の浄土教ですらもが、信者の信仰依存を
抑制させるような働きを持ち合わせている。聖書信仰によって患った強度の信仰依存を
他の宗教や学問で埋め合わせるというのも得策ではないし、薬物による緩和ケアなども
なおさら推奨できるものではないといえる。麻薬中毒患者が一旦は閉鎖病棟などに隔離されて、
薬切れによる極度の苦痛と引き換えの依存症からの脱却を試みる。そのような措置が成功して後に、
元聖書信者に対して低依存性の「確かな拠り所」をまたあてがう。聖書信仰がもはや誰にとっての
「確かな拠り所」でもあり得なくなってしまっている一方で、これからも「確かな拠り所」とするに
値する思想哲学宗教などはいくらでもある。ただ、それらは聖書信仰と比べれば依存性が遥かに低いから、
依存症を克服して後の元聖書信者にこそあてがっていくようにしなければならないのである。
人間にとって、聖書信仰よりも遥かに磐石な拠り所となるものはいくらでもある。ただ、
それらはほぼ全て聖書信仰よりも依存性が低い。依存性が低いものだから、未だ聖書信仰の
酩酊のさ中にあるような人間には拠り所として脆弱であるようにすら思われる。それは自らの
依存症が深刻であり過ぎるがための自業自得の偏見に過ぎないのであり、依存症すら克服できたなら、
「不退転」ということにかけて紛れもなく聖書信仰以上たり得るものはいくらでもあるのだ。
拠り所を何も持たずにいられるほど強い人間がそんなに多くないことは、純粋な哲理教学
としては世界でも最優等である仏教ですらもが認めている所である。だから仏門にも他力本願の
浄土門があるが、同時にその浄土門までもが、依存症を軽減していく方向性を備えてもいる。
依存を皆無にまではなかなかできないが、なるべく減らしていくようにするというのが、
全ての人間にとっても健全なあり方となるのであり、それでも残存してしまう依存癖を決して
誇ったりもせず、むしろ恥じるぐらいのことが、女子供を含む全ての人類に守られていくように
なるのが適当である。そしてそれは、今という時代にはもはや必須なことともなっている。
「三日斎して、一日之れを用うるも、猶お敬わざるを恐る」
「たった一日の祭事のために三日間の斎戒沐浴を尽くしたとしても、まだ敬いが足りてはいないかと恐れる。
(君子が薄氷を踏むように物事を恐れ慎みながら為す姿の一例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
それらはほぼ全て聖書信仰よりも依存性が低い。依存性が低いものだから、未だ聖書信仰の
酩酊のさ中にあるような人間には拠り所として脆弱であるようにすら思われる。それは自らの
依存症が深刻であり過ぎるがための自業自得の偏見に過ぎないのであり、依存症すら克服できたなら、
「不退転」ということにかけて紛れもなく聖書信仰以上たり得るものはいくらでもあるのだ。
拠り所を何も持たずにいられるほど強い人間がそんなに多くないことは、純粋な哲理教学
としては世界でも最優等である仏教ですらもが認めている所である。だから仏門にも他力本願の
浄土門があるが、同時にその浄土門までもが、依存症を軽減していく方向性を備えてもいる。
依存を皆無にまではなかなかできないが、なるべく減らしていくようにするというのが、
全ての人間にとっても健全なあり方となるのであり、それでも残存してしまう依存癖を決して
誇ったりもせず、むしろ恥じるぐらいのことが、女子供を含む全ての人類に守られていくように
なるのが適当である。そしてそれは、今という時代にはもはや必須なことともなっている。
「三日斎して、一日之れを用うるも、猶お敬わざるを恐る」
「たった一日の祭事のために三日間の斎戒沐浴を尽くしたとしても、まだ敬いが足りてはいないかと恐れる。
(君子が薄氷を踏むように物事を恐れ慎みながら為す姿の一例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
「春秋左氏伝」僖公十九年の、「人間を生贄に用いたりしてはならない」
という意味の発言の引用がこの聖書スレでの初めての真正聖書からの引用だった。
「イエスは人間であると同時に神の子だった。だから生贄にされても構わない」
だとしたら、神の子こそは人間以下の畜生同然の存在でしかなかったことになる。
実際には、イエスの「神の子(キリスト)」という自称は、自らが妾腹の私生児で
あることを開き直っての皮肉的な自称であったわけだが、じゃあ妾腹の私生児であれば
畜生も同然の存在として生贄にされても構いやしないのかといえば、決してそんなこともない。
妾腹の私生児といえども、孔子のような大学者や一休宗純のような名僧、長谷川平蔵のような
花形の武士として大成できる可能性もあるわけだから、ただ妾腹の私生児であるというだけの
理由で、頭ごなしに畜生並みの扱いを受けたりするのであれば、それはそのような処遇を
講じようとする世の中のほうが倫理的に間違っていると見なす他はないのである。
では、自らが妾腹の私生児であることにコンプレックスを抱いて、それを発散するために
自分を神の子だなどと触れ回ったりする、過ちを犯した妾腹の私生児の場合はどうかといえば、
これは確かに、人間以下の畜生並みの存在としてすら扱いたい気持ちにもなりかねない所がある。
しかし、それでも自分の側にまともな神経が備わっているのならば、そのような「かわいそうな人」
を哀れんで、丁重に禁治産などの保護措置を施してやるようにすべきである。もしも自分たちが
それを怠って、畜生並みと断定した妾腹の私生児を、冤罪事件のカモにして社会的動乱を勃発
させるようなことをしたとしたなら、それはそうした人々の側にも大きな罪があるといえる。
という意味の発言の引用がこの聖書スレでの初めての真正聖書からの引用だった。
「イエスは人間であると同時に神の子だった。だから生贄にされても構わない」
だとしたら、神の子こそは人間以下の畜生同然の存在でしかなかったことになる。
実際には、イエスの「神の子(キリスト)」という自称は、自らが妾腹の私生児で
あることを開き直っての皮肉的な自称であったわけだが、じゃあ妾腹の私生児であれば
畜生も同然の存在として生贄にされても構いやしないのかといえば、決してそんなこともない。
妾腹の私生児といえども、孔子のような大学者や一休宗純のような名僧、長谷川平蔵のような
花形の武士として大成できる可能性もあるわけだから、ただ妾腹の私生児であるというだけの
理由で、頭ごなしに畜生並みの扱いを受けたりするのであれば、それはそのような処遇を
講じようとする世の中のほうが倫理的に間違っていると見なす他はないのである。
では、自らが妾腹の私生児であることにコンプレックスを抱いて、それを発散するために
自分を神の子だなどと触れ回ったりする、過ちを犯した妾腹の私生児の場合はどうかといえば、
これは確かに、人間以下の畜生並みの存在としてすら扱いたい気持ちにもなりかねない所がある。
しかし、それでも自分の側にまともな神経が備わっているのならば、そのような「かわいそうな人」
を哀れんで、丁重に禁治産などの保護措置を施してやるようにすべきである。もしも自分たちが
それを怠って、畜生並みと断定した妾腹の私生児を、冤罪事件のカモにして社会的動乱を勃発
させるようなことをしたとしたなら、それはそうした人々の側にも大きな罪があるといえる。
総督ピラトがイエスを磔刑に処すとき、群集もまた「そいつを十字架にかけろ」とこぞって
豪語していた。ピラトもその怒声に圧される形で、罪状も不明確なイエスを磔刑で殺した。
妖言乱行の過ちを犯した、至らない妾腹の私生児を、だからといって畜生並みの存在と断定して、
生贄にするが如き過剰処刑に服させた。イエス本人すらもがそれを欲していたようではあるが、
明らかにイエスだけでなく、当時のイスラエルやローマ全体が、特定の人間を畜生以下の存在と
見なして憚らぬ不徳さで覆い尽くされていたといえ、だからこそ、人間をいけにえとして十字架に
かけるような過ちが犯されながらも、誰一人としてそれを糾弾することすらしないでいたのである。
春秋時代の中国でも、捕虜となった軍人が生贄に用いられるなどの事例が何度かあったようだが、
同時に僖公十九年にそれを適格に糾弾した司馬子魚のように、人間を生贄にすることが不徳の
至りとなることを冷静に見抜いているものもいた。だからイエスのような蒙昧状態の妾腹の
私生児が現れた所で、それを生贄にしようなどとすることが社会的に許されるはずもなかった。
イエスが愚かな妾腹の私生児だからといって、本人を生贄にまで処したのは、当時のイスラエル人
やローマ人の罪でもあったのであり、イエスが心神喪失者であるが故に無罪であるというのなら、
イスラエル人やローマ人全体が代わりにその罪を負って行かねばならないとすら言えるのである。
「唯だ天下の至聖、〜凡そ血気有る者の尊親せざる莫し」
「天下でも飛び切りの聖人こそは、血肉ある人々のうちでも尊び親しまざる者がない。
(むしろ仰ぎ見る人々の側こそが血肉を尽くして、天下の至聖を尊親するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
豪語していた。ピラトもその怒声に圧される形で、罪状も不明確なイエスを磔刑で殺した。
妖言乱行の過ちを犯した、至らない妾腹の私生児を、だからといって畜生並みの存在と断定して、
生贄にするが如き過剰処刑に服させた。イエス本人すらもがそれを欲していたようではあるが、
明らかにイエスだけでなく、当時のイスラエルやローマ全体が、特定の人間を畜生以下の存在と
見なして憚らぬ不徳さで覆い尽くされていたといえ、だからこそ、人間をいけにえとして十字架に
かけるような過ちが犯されながらも、誰一人としてそれを糾弾することすらしないでいたのである。
春秋時代の中国でも、捕虜となった軍人が生贄に用いられるなどの事例が何度かあったようだが、
同時に僖公十九年にそれを適格に糾弾した司馬子魚のように、人間を生贄にすることが不徳の
至りとなることを冷静に見抜いているものもいた。だからイエスのような蒙昧状態の妾腹の
私生児が現れた所で、それを生贄にしようなどとすることが社会的に許されるはずもなかった。
イエスが愚かな妾腹の私生児だからといって、本人を生贄にまで処したのは、当時のイスラエル人
やローマ人の罪でもあったのであり、イエスが心神喪失者であるが故に無罪であるというのなら、
イスラエル人やローマ人全体が代わりにその罪を負って行かねばならないとすら言えるのである。
「唯だ天下の至聖、〜凡そ血気有る者の尊親せざる莫し」
「天下でも飛び切りの聖人こそは、血肉ある人々のうちでも尊び親しまざる者がない。
(むしろ仰ぎ見る人々の側こそが血肉を尽くして、天下の至聖を尊親するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
真っ当な神仏を尊崇する人間は、「立派な人間」という意味での君子になり、
邪まな神にすがろうとする人間は、「つまらない人間」という意味での小人になる。
君子たることを社会的に落とし込めば聖王や賢臣となり、長寿繁栄にも与れる一方で、
小人であることを落とし込めば悪徳商人や死兵となり、短命や破滅にも追い込まれる。
四書五経では、祖霊を祭ることを重んじる人間が君子、軽んじる人間が小人程度の
判別があるだけで、小人が邪神にすがることで己の性向を強化するようなことまでは
提示されていない。当時まだ、世界最悪の邪神信仰である聖書信仰もなかったわけだから、
そんな物事をわざわざあげつらわなかったのも当然のことだが、たとえば殷の紂王が
愛妾妲己に溺れて遊興に耽りすぎて国を滅ぼしたり、周の幽王がこれまた愛妾の褒姒に
心を惑わされて、諸侯からの信頼を失って王権を失ったりといったことはすでにあった。
邪神にすがって己の品性を下落させることも、男が女色に溺れてダメになるのと
似たようなもので、問題なのは、決してただ色を好むようにして邪神を信じる
ことではなく、あまりにも一概すぎて他を忘れ去るほどにも色に溺れるようにして、
邪神への信仰に溺れ去ってしまうことである。孔子も魯国に仕官中、上司の季桓子が
斉国から送られて来た女楽団をただ受け入れただけでは見限らなかったが、季桓子が
その舞楽に溺れて三日間も朝廷に顔を出さなかったことには見限りを付け、魯を去ってもいる。
社会人である以上、酒色遊興を拒み通すなんてのも潔癖すぎることで、軽く嗜む程度なら
時に奨励すらされるものである。ただ、それで済むこともなく、完全に溺れきって身を
滅ぼすようなことにもなりかねないもので、酒色がそうであるようにして、邪神信仰もまた
ちょっとかじるぐらいでは済まずに、どこまでも深みにはまっていきやすいものなのである。
邪まな神にすがろうとする人間は、「つまらない人間」という意味での小人になる。
君子たることを社会的に落とし込めば聖王や賢臣となり、長寿繁栄にも与れる一方で、
小人であることを落とし込めば悪徳商人や死兵となり、短命や破滅にも追い込まれる。
四書五経では、祖霊を祭ることを重んじる人間が君子、軽んじる人間が小人程度の
判別があるだけで、小人が邪神にすがることで己の性向を強化するようなことまでは
提示されていない。当時まだ、世界最悪の邪神信仰である聖書信仰もなかったわけだから、
そんな物事をわざわざあげつらわなかったのも当然のことだが、たとえば殷の紂王が
愛妾妲己に溺れて遊興に耽りすぎて国を滅ぼしたり、周の幽王がこれまた愛妾の褒姒に
心を惑わされて、諸侯からの信頼を失って王権を失ったりといったことはすでにあった。
邪神にすがって己の品性を下落させることも、男が女色に溺れてダメになるのと
似たようなもので、問題なのは、決してただ色を好むようにして邪神を信じる
ことではなく、あまりにも一概すぎて他を忘れ去るほどにも色に溺れるようにして、
邪神への信仰に溺れ去ってしまうことである。孔子も魯国に仕官中、上司の季桓子が
斉国から送られて来た女楽団をただ受け入れただけでは見限らなかったが、季桓子が
その舞楽に溺れて三日間も朝廷に顔を出さなかったことには見限りを付け、魯を去ってもいる。
社会人である以上、酒色遊興を拒み通すなんてのも潔癖すぎることで、軽く嗜む程度なら
時に奨励すらされるものである。ただ、それで済むこともなく、完全に溺れきって身を
滅ぼすようなことにもなりかねないもので、酒色がそうであるようにして、邪神信仰もまた
ちょっとかじるぐらいでは済まずに、どこまでも深みにはまっていきやすいものなのである。
邪神信仰を「ちょっと嗜む」なんてことが果たしてできるのかを考えてみるに、
たとえば密教修行での試練の一環などとしては不可能でもなさそうではある。
しかし、あまりにも危険すぎて万人には勧められないし、修行の失敗者が
カルト宗教家としての悪行に走るようなことにもなりかねないといえる。
ユダヤ=キリスト両聖書教もまた、本来はそのような「失敗した密教」だったと
考えられなくもない。別に古代のユダヤ人らが、正統なタントラ教の修行などに
失敗して邪教を生成し始めたとも限らないが、ユダヤ教やキリスト教の宗教
としての存在性は十分、密教の失敗と見なすに値するものとなっている。
ちょっと嗜むことすら憚られるという点では、邪神信仰は酒色以上だともいえる。
最低でも、妻が夫の浮気を怨む程度以上には、邪教信者であることも怨まれて然るべきだ。
邪教信仰を嗜む危険性よりは、酒色を嗜む危険性のほうが遥かに小さいのだから。
「蔽芾たる甘棠、翦る勿れ敗る勿れ、召伯の憩いし所」
「よく生い茂った甘棠の樹を伐るでない、傷つけるでない。かつて周の賢臣召公も、その木蔭で憩われたのだから。
(『生い茂った甘棠の樹』は召公の威徳の暗喩。その威徳の下で召公自身もまた憩うていた。
邪教の神やそれへの邪信などと違い、君子の威徳はそれがありのままに憩いの場なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・召南・甘棠より)
たとえば密教修行での試練の一環などとしては不可能でもなさそうではある。
しかし、あまりにも危険すぎて万人には勧められないし、修行の失敗者が
カルト宗教家としての悪行に走るようなことにもなりかねないといえる。
ユダヤ=キリスト両聖書教もまた、本来はそのような「失敗した密教」だったと
考えられなくもない。別に古代のユダヤ人らが、正統なタントラ教の修行などに
失敗して邪教を生成し始めたとも限らないが、ユダヤ教やキリスト教の宗教
としての存在性は十分、密教の失敗と見なすに値するものとなっている。
ちょっと嗜むことすら憚られるという点では、邪神信仰は酒色以上だともいえる。
最低でも、妻が夫の浮気を怨む程度以上には、邪教信者であることも怨まれて然るべきだ。
邪教信仰を嗜む危険性よりは、酒色を嗜む危険性のほうが遥かに小さいのだから。
「蔽芾たる甘棠、翦る勿れ敗る勿れ、召伯の憩いし所」
「よく生い茂った甘棠の樹を伐るでない、傷つけるでない。かつて周の賢臣召公も、その木蔭で憩われたのだから。
(『生い茂った甘棠の樹』は召公の威徳の暗喩。その威徳の下で召公自身もまた憩うていた。
邪教の神やそれへの邪信などと違い、君子の威徳はそれがありのままに憩いの場なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・召南・甘棠より)
「子曰く、吾れ嘗て終日食わず、終夜寝ず。以て思う、益無しと。学ぶに如かざるなり(既出)」
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
上記のように孔子は言うけれども、もしも飲まず食わずの修練を孔子が可としたなら、
弟子たちはこぞってそのような修練に励んだに違いない。だから陳で糧食を絶たれる危機に遭った折にも、
孔門の弟子たちの多くは飢えをしのぎながら孔子に付き随い続けたのだし、孔子が提示する理想の君子像の
忠実な実践に務めるあまり、無理がたたって夭折してしまった顔淵のような弟子までもがいたのである。
とはいえ、決して孔子の弟子が揃いも揃って精鋭揃いだったのでもなく、子貢のように孔子が反対する
投機で身銭を稼いでいた弟子もいれば、宰我のように文辞は得意でも実践や情緒の伴わない弟子もいた。
そうでありながらも、できる限り孔子の教えを固く守ろうとする弟子たちが相次いだのは、ひとえに孔子自身
の知見や人格の優秀さがあったからで、もしもそれがなかったら、弟子たちも単なる野次馬止まりな連中
ばかりとなり、「しばらく寝ないでおけ」程度の師からの指示すらも守られることはなかったはずなのである。
当初、孔子の学団はただの私塾でしかなかったわけで、社会的な位階からいえばさほどのものでも
なかったわけだが、それでも当時の孔子と弟子たちのやりとりが「論語」や「礼記」などに詳述されて、
2000年以上にわたって研究の対象とされてきた。それは、孔子とその弟子の関係が「理想の師弟関係」
としてこの上ないものでもあったからで、厳しすぎず優しすぎない中庸の保たれたその教育姿勢が、
近世までの日本や中国における教育体制のあり方としても、参考にされ続けてきたからである。
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
上記のように孔子は言うけれども、もしも飲まず食わずの修練を孔子が可としたなら、
弟子たちはこぞってそのような修練に励んだに違いない。だから陳で糧食を絶たれる危機に遭った折にも、
孔門の弟子たちの多くは飢えをしのぎながら孔子に付き随い続けたのだし、孔子が提示する理想の君子像の
忠実な実践に務めるあまり、無理がたたって夭折してしまった顔淵のような弟子までもがいたのである。
とはいえ、決して孔子の弟子が揃いも揃って精鋭揃いだったのでもなく、子貢のように孔子が反対する
投機で身銭を稼いでいた弟子もいれば、宰我のように文辞は得意でも実践や情緒の伴わない弟子もいた。
そうでありながらも、できる限り孔子の教えを固く守ろうとする弟子たちが相次いだのは、ひとえに孔子自身
の知見や人格の優秀さがあったからで、もしもそれがなかったら、弟子たちも単なる野次馬止まりな連中
ばかりとなり、「しばらく寝ないでおけ」程度の師からの指示すらも守られることはなかったはずなのである。
当初、孔子の学団はただの私塾でしかなかったわけで、社会的な位階からいえばさほどのものでも
なかったわけだが、それでも当時の孔子と弟子たちのやりとりが「論語」や「礼記」などに詳述されて、
2000年以上にわたって研究の対象とされてきた。それは、孔子とその弟子の関係が「理想の師弟関係」
としてこの上ないものでもあったからで、厳しすぎず優しすぎない中庸の保たれたその教育姿勢が、
近世までの日本や中国における教育体制のあり方としても、参考にされ続けてきたからである。
しかるに、今の教育体制はといえば、厳しすぎるか優しすぎるかのいずれかでしかない。
西洋由来のスパルタ教育で徹底的に教え込むか、もしくは生徒のわがままを無条件に受け入れるかの、
アメかムチかの教育でしかあり得ない。孔子とその弟子のような、お互いがどこまでも学究を
研鑽し続けていくもの同士としての、双方向的な教学などはどこにもなく、ただ教師が生徒に対して
一方的に知識を教え込むことだけが全てとされている。生徒が教師に対して口出しできるのは、
せいぜい「その知識は間違っていませんか」程度のところまでで、生徒こそが教師に対して
さらなる知見や人格の向上を促していく余地などは、微塵も存在していないのである。
師弟関係は、「君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友」の天下の達道のうちで下から二番目の優先順位に当たり、
上下関係を伴う人間関係としては最低のものともなっている。そのようなわきまえがあればこそ、教師だから
といってヘタに偉ぶったりもせず、生徒の学知すらをも参考にしつつの教学を発展させて行けたりもする。
それ程にも人として真摯な存在であればこそ、教師としての自分に対して生徒たちが誠心誠意随順して
行こうとすらするようになるのであり、それでこそ師から弟子へと仁智が伝承されて行けるのでもある。
「讒諂の民、比黨して之れを危うくする者有れども、身は危うくす可くも、
志しは奪う可からざるなり。起居危うしと雖も、竟に其の志しを信ぶる有り」
「人を裏切り貶めようとする者が、こぞって儒者を危うからしめようとしたところで、
それによって身を危うからしめる程度のことはできても、志しや願いまで奪い去ることはできない。
起居動作に未だ危うい点があった所で、儒者ならば結局は自らの志願を貫き通してしまう。
(身も危うからしめて、願いも聞き入れられない。儒者にすら及ばないというのなら、そういうこともあるだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
西洋由来のスパルタ教育で徹底的に教え込むか、もしくは生徒のわがままを無条件に受け入れるかの、
アメかムチかの教育でしかあり得ない。孔子とその弟子のような、お互いがどこまでも学究を
研鑽し続けていくもの同士としての、双方向的な教学などはどこにもなく、ただ教師が生徒に対して
一方的に知識を教え込むことだけが全てとされている。生徒が教師に対して口出しできるのは、
せいぜい「その知識は間違っていませんか」程度のところまでで、生徒こそが教師に対して
さらなる知見や人格の向上を促していく余地などは、微塵も存在していないのである。
師弟関係は、「君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友」の天下の達道のうちで下から二番目の優先順位に当たり、
上下関係を伴う人間関係としては最低のものともなっている。そのようなわきまえがあればこそ、教師だから
といってヘタに偉ぶったりもせず、生徒の学知すらをも参考にしつつの教学を発展させて行けたりもする。
それ程にも人として真摯な存在であればこそ、教師としての自分に対して生徒たちが誠心誠意随順して
行こうとすらするようになるのであり、それでこそ師から弟子へと仁智が伝承されて行けるのでもある。
「讒諂の民、比黨して之れを危うくする者有れども、身は危うくす可くも、
志しは奪う可からざるなり。起居危うしと雖も、竟に其の志しを信ぶる有り」
「人を裏切り貶めようとする者が、こぞって儒者を危うからしめようとしたところで、
それによって身を危うからしめる程度のことはできても、志しや願いまで奪い去ることはできない。
起居動作に未だ危うい点があった所で、儒者ならば結局は自らの志願を貫き通してしまう。
(身も危うからしめて、願いも聞き入れられない。儒者にすら及ばないというのなら、そういうこともあるだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
聖書圏における犯罪聖書以外の書物というのは、そのどれもが矮小である。
分量的にも犯罪聖書以下のものがほとんどだし、その内容も一過性の消費物止まりで、
後世にまで伝えていくだけの普遍的な価値を湛えているものなども極めて少ない。
(かろうじて、修辞を養う上で有用なものなどが、古典として残って行ってもいる)
全ての書物は犯罪聖書以下でしかないと思い込み、いつかは犯罪聖書によって全てが
刷新されるために、今生での普遍性の追求などにも大した意味はないとまで思っているから。
犯罪聖書が、質でも量でも古さでも、「最低限度の東洋古典」である四書五経以下なのだから、
その犯罪聖書よりも漏れなく矮小なものとして著された、全ての西洋古典もまた四書五経以下である。
聖書圏は、全般的に「勉学不遇の地」なのである。
犯罪聖書が勉学対象として不適であるだけでなく、その犯罪聖書よりもさらに下等なものとして
書かれた全ての書物までもが、本格的な勉学の対象とするに値しないものであり続けてきたのだから。
聖書圏には、本格的な勉学などが未だかつてあったことはないのである。
正統な道統に即しているわけでもない、我流の学者の我流の知識をかじるぐらいまでが
勉学の全てであって、あたかも儒者が数多の漢籍を体系的に読み込んだり、仏僧が大蔵経を
読み尽くして実践したりするほどもの勉学は、聖書圏においてはあり得たことがないのである。
非聖書圏の東洋人にとっては、洋学知識ばかりを詰め込まされてきたことを反省して、
東洋学などへ回帰することが「勉強のし直し」となるが、聖書圏の西洋人の場合などには
なかなかそうもいかない。東洋学への勉学姿勢を西洋学に落とし込むのは可能な一方で、
西洋学への勉強姿勢を東洋学に落とし込むのは、はなはだ困難なことであるから。
分量的にも犯罪聖書以下のものがほとんどだし、その内容も一過性の消費物止まりで、
後世にまで伝えていくだけの普遍的な価値を湛えているものなども極めて少ない。
(かろうじて、修辞を養う上で有用なものなどが、古典として残って行ってもいる)
全ての書物は犯罪聖書以下でしかないと思い込み、いつかは犯罪聖書によって全てが
刷新されるために、今生での普遍性の追求などにも大した意味はないとまで思っているから。
犯罪聖書が、質でも量でも古さでも、「最低限度の東洋古典」である四書五経以下なのだから、
その犯罪聖書よりも漏れなく矮小なものとして著された、全ての西洋古典もまた四書五経以下である。
聖書圏は、全般的に「勉学不遇の地」なのである。
犯罪聖書が勉学対象として不適であるだけでなく、その犯罪聖書よりもさらに下等なものとして
書かれた全ての書物までもが、本格的な勉学の対象とするに値しないものであり続けてきたのだから。
聖書圏には、本格的な勉学などが未だかつてあったことはないのである。
正統な道統に即しているわけでもない、我流の学者の我流の知識をかじるぐらいまでが
勉学の全てであって、あたかも儒者が数多の漢籍を体系的に読み込んだり、仏僧が大蔵経を
読み尽くして実践したりするほどもの勉学は、聖書圏においてはあり得たことがないのである。
非聖書圏の東洋人にとっては、洋学知識ばかりを詰め込まされてきたことを反省して、
東洋学などへ回帰することが「勉強のし直し」となるが、聖書圏の西洋人の場合などには
なかなかそうもいかない。東洋学への勉学姿勢を西洋学に落とし込むのは可能な一方で、
西洋学への勉強姿勢を東洋学に落とし込むのは、はなはだ困難なことであるから。
聖書信仰は、侵略地に「勉強嫌い」をもたらす。
それも、信仰への酩酊者を増大させると同時に、侵略地に現存する勉学の本格性を
損なわせるからで、本来なら勉学を志せたはずの人間が、環境が聖書信仰下な
ものだから勉学嫌いになってしまったなんてこともいくらでもあったはずである。
孔子の弟子の子路なども蛮勇の徒だったが、その勇気を「智仁勇」の三才として善用できるのが
儒学であればこそ、孔子にも随順できた。もしも子路が聖書圏に生まれていたなら、勇気なんて
野蛮なものでしかないと決め付けるその風潮にも圧されて、きっと勉強嫌いになっていたに違いない。
正当な道統に根ざした本格的な勉学や、その対象となるだけの文書資料などは、聖書圏はおろか、
今の日本でもほとんど巷に出回らないものとなってしまった。東洋古典も抄訳でそのごく一部が
出版されたりするぐらいで、決して体系的な勉学の対象にされるだけの体裁などは整っていない。
聖書信仰を廃絶することは、体系的な学問全般の復興にもつながる。
日本人などにとっては久しぶり、西洋人にとっては初めてとなる、体系的な学問の享受。
勉強嫌いにとっては恐ろしいことのように思われるかもしれないが、決して君が嫌っている
類いの勉学を復興していこうとしているわけではないのだから、安心せられたい。
「天下国家を為むるに〜凡そ事豫めすれば則ち立ち、豫めせざれば則ち廃す。言前に定まれば則ち
跲かず、事前に定まれば則ち困まず、行い前に定まれば則ち疚しからず、道前に定まれば則ち窮せず」
「天下国家を平定するような大業は、かならず前もっての用意が整っている場合にのみ実行に移し、用意が
整っていないようであれば踏み止まる。言うべきことも前もって定まっていればつまずかず、やる事も定まって
いれば苦しむようなこともなく、行いも定まっていれば疚しい所もなく、道筋も定まっていれば窮することもない。
(前もってすべての用意を整えているのだから、始めから苦しんだり疚しがったりすることもないはずである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
それも、信仰への酩酊者を増大させると同時に、侵略地に現存する勉学の本格性を
損なわせるからで、本来なら勉学を志せたはずの人間が、環境が聖書信仰下な
ものだから勉学嫌いになってしまったなんてこともいくらでもあったはずである。
孔子の弟子の子路なども蛮勇の徒だったが、その勇気を「智仁勇」の三才として善用できるのが
儒学であればこそ、孔子にも随順できた。もしも子路が聖書圏に生まれていたなら、勇気なんて
野蛮なものでしかないと決め付けるその風潮にも圧されて、きっと勉強嫌いになっていたに違いない。
正当な道統に根ざした本格的な勉学や、その対象となるだけの文書資料などは、聖書圏はおろか、
今の日本でもほとんど巷に出回らないものとなってしまった。東洋古典も抄訳でそのごく一部が
出版されたりするぐらいで、決して体系的な勉学の対象にされるだけの体裁などは整っていない。
聖書信仰を廃絶することは、体系的な学問全般の復興にもつながる。
日本人などにとっては久しぶり、西洋人にとっては初めてとなる、体系的な学問の享受。
勉強嫌いにとっては恐ろしいことのように思われるかもしれないが、決して君が嫌っている
類いの勉学を復興していこうとしているわけではないのだから、安心せられたい。
「天下国家を為むるに〜凡そ事豫めすれば則ち立ち、豫めせざれば則ち廃す。言前に定まれば則ち
跲かず、事前に定まれば則ち困まず、行い前に定まれば則ち疚しからず、道前に定まれば則ち窮せず」
「天下国家を平定するような大業は、かならず前もっての用意が整っている場合にのみ実行に移し、用意が
整っていないようであれば踏み止まる。言うべきことも前もって定まっていればつまずかず、やる事も定まって
いれば苦しむようなこともなく、行いも定まっていれば疚しい所もなく、道筋も定まっていれば窮することもない。
(前もってすべての用意を整えているのだから、始めから苦しんだり疚しがったりすることもないはずである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
君子道徳が信教とも別物のもの(儒学)として醸成されて来ている極東社会では、
あまり大都市の中心部などに巨大な霊地を拵えたりすることははばかられて来た。
伊勢神宮や出雲大社も田舎である三重や島根に建てられ、比叡山や高野山もその名のとおり、
山岳地帯に造られている。このうちでも、山あいでありながら比較的京都に近い位置にある
比叡山では、昔から僧団の腐敗が重ね重ね問題になって来ていて、宗教施設が大都市の
世俗的権力と癒着することがいかに大きな問題に結びつくかを実証する例ともなっている。
イスラムのように政教一致を完全に開き直るのならまだしも、キリスト教圏は一応、そのほとんどの
国がすでに政教分離を国是として掲げている。にもかかわらず米大統領は聖書に手を置いて宣誓し、
その他の西洋諸国でもキリスト教団勢力を嵩にかかった政治家が政権を得て国家元首となったりしている。
度し難いほどに政教の分離がやりきれないままでいるのも、西洋の社会構造からして、大都市の中心部に
巨大な教会がいくつも林立しているような体たらくだからで、本当に政教を分離させるというのなら、
キリスト教圏の場合は、キリスト教を廃教に追い込むぐらいは必須な実相と化してしまっているからだ。
儒学に相当するような、無宗教的かつ実践的な権力学が西洋にはないものだから、今に至るまで
権力の中枢に宗教勢力がはびこるザマと化してしまっている。近世ごろから相当数の無宗教的な
政治学や社会学を西洋人もこしらえ始めたが、そのほぼ全てが現実性を欠き、共産主義のような高潔な
理想を謳う政治イデオロギーほど、左翼(変革主義)としての節操のなさを来たしてしまってもいる。
だから西洋の場合、保守的な派閥ほど宗教勢力との癒着が甚だしいという事態をも招いているわけで、
保守派こそは儒学のような無宗教的な学問によって為政を取り仕切ることが正当であることからすれば、
まったく事態が転倒しきったままに固着した、複雑骨折の様相を呈してしまっているといえる。
あまり大都市の中心部などに巨大な霊地を拵えたりすることははばかられて来た。
伊勢神宮や出雲大社も田舎である三重や島根に建てられ、比叡山や高野山もその名のとおり、
山岳地帯に造られている。このうちでも、山あいでありながら比較的京都に近い位置にある
比叡山では、昔から僧団の腐敗が重ね重ね問題になって来ていて、宗教施設が大都市の
世俗的権力と癒着することがいかに大きな問題に結びつくかを実証する例ともなっている。
イスラムのように政教一致を完全に開き直るのならまだしも、キリスト教圏は一応、そのほとんどの
国がすでに政教分離を国是として掲げている。にもかかわらず米大統領は聖書に手を置いて宣誓し、
その他の西洋諸国でもキリスト教団勢力を嵩にかかった政治家が政権を得て国家元首となったりしている。
度し難いほどに政教の分離がやりきれないままでいるのも、西洋の社会構造からして、大都市の中心部に
巨大な教会がいくつも林立しているような体たらくだからで、本当に政教を分離させるというのなら、
キリスト教圏の場合は、キリスト教を廃教に追い込むぐらいは必須な実相と化してしまっているからだ。
儒学に相当するような、無宗教的かつ実践的な権力学が西洋にはないものだから、今に至るまで
権力の中枢に宗教勢力がはびこるザマと化してしまっている。近世ごろから相当数の無宗教的な
政治学や社会学を西洋人もこしらえ始めたが、そのほぼ全てが現実性を欠き、共産主義のような高潔な
理想を謳う政治イデオロギーほど、左翼(変革主義)としての節操のなさを来たしてしまってもいる。
だから西洋の場合、保守的な派閥ほど宗教勢力との癒着が甚だしいという事態をも招いているわけで、
保守派こそは儒学のような無宗教的な学問によって為政を取り仕切ることが正当であることからすれば、
まったく事態が転倒しきったままに固着した、複雑骨折の様相を呈してしまっているといえる。
できることなら、西洋諸国の全ての教会を儒学の学校にしてしまう。可能であれば、
それで政教の癒着にかけては万事解決できるといえる。結果、西洋では宗教施設がほぼ皆無になる。
それが心もとないというんだったら、西洋式の神社なりお寺なりを、都市の郊外などに造り直す。
今ある教会を神道や仏教に改宗したからって、それで政教癒着の腐敗が防ぎ止められる
ともいかないのは、上記の比叡山の腐敗例からも分かるとおり。
たとえば、今ある教会が全てモスクにすげ替えられるような、西洋人が最も恐れる形の宗教征服は
なくても済む。一方で、世俗権力から宗教勢力を追っ払うという措置はやはり必要になる。
聖書信仰の酩酊にかられて、世界でも最も劣悪な為政を続けてきた聖書圏にとって、
これからも政教癒着の腐敗を長らえながら存続していけるすべだけはあり得ないのである。
「以て城郭を築き、都邑を建て、竇窖を穿ちて、囷倉を修む可し。
乃ち有司に命じて、民を趣して收斂せしめ、菜を畜うるを務め、積聚を多くせしむ。
乃ち麥を種うるを勧め、或いは時を失うこと毋らしむ。其れ時を失うありては、罪を行うて疑う無かれ」
「城郭を築き、都市を建造して、大穴を穿ってそこを穀倉とするようにする。諸々の役人たちに命じて、
民たちに租税を収めさせ、同時に野菜などの蓄財を多くするように促す。麦類などを植えることも勧めて、
決して命令に違うことがないようにする。命令に従わない場合には有罪であることを疑わぬように。
(都市こそは、封建的な人間の営みの産物なのだから、不埒な幻想の対象としたりすべきでもない)」
(権力道徳聖——通称四書五経——礼記・月令第六より)
それで政教の癒着にかけては万事解決できるといえる。結果、西洋では宗教施設がほぼ皆無になる。
それが心もとないというんだったら、西洋式の神社なりお寺なりを、都市の郊外などに造り直す。
今ある教会を神道や仏教に改宗したからって、それで政教癒着の腐敗が防ぎ止められる
ともいかないのは、上記の比叡山の腐敗例からも分かるとおり。
たとえば、今ある教会が全てモスクにすげ替えられるような、西洋人が最も恐れる形の宗教征服は
なくても済む。一方で、世俗権力から宗教勢力を追っ払うという措置はやはり必要になる。
聖書信仰の酩酊にかられて、世界でも最も劣悪な為政を続けてきた聖書圏にとって、
これからも政教癒着の腐敗を長らえながら存続していけるすべだけはあり得ないのである。
「以て城郭を築き、都邑を建て、竇窖を穿ちて、囷倉を修む可し。
乃ち有司に命じて、民を趣して收斂せしめ、菜を畜うるを務め、積聚を多くせしむ。
乃ち麥を種うるを勧め、或いは時を失うこと毋らしむ。其れ時を失うありては、罪を行うて疑う無かれ」
「城郭を築き、都市を建造して、大穴を穿ってそこを穀倉とするようにする。諸々の役人たちに命じて、
民たちに租税を収めさせ、同時に野菜などの蓄財を多くするように促す。麦類などを植えることも勧めて、
決して命令に違うことがないようにする。命令に従わない場合には有罪であることを疑わぬように。
(都市こそは、封建的な人間の営みの産物なのだから、不埒な幻想の対象としたりすべきでもない)」
(権力道徳聖——通称四書五経——礼記・月令第六より)
仏法を悟った者は、犯罪聖書の神の名の下での救いなどが決してありはしないことをも悟る。
そこまでいかない、仁徳の把捉者でも、犯罪聖書への信仰にすがる界隈が世の中に多大なる害悪を
もたらすという大局的な実情をわきまえて、そんなものにすがらず、すがらせないようにしていく。
真理と道理いずれにおいても、犯罪聖書などにすがらないことを磐石化する名分はいくらでも立てられる。
これはつまり、心の内面と社会性のような外面、両面から聖書信仰の不当性が確立されているということでもある。
心の持ちようのような内面においても、犯罪聖書なんかを信仰するよりはしないほうがマシで、
社会にもたらす害益度のような外面においても、信仰しないほうがマシであることが完全に結論づけられる。
それが可能であるのは、仏教や儒学による真理学や権力道徳学の体系化が蓄えられてきたからで、
仏教や儒学が既存していればこそ、聖書信仰の全くの有害無益さもまた明らかになったのだといえる。
全くの有害無益にもかかわらず、犯罪聖書や聖書信仰がこの世に生じてしまったのは、地球全体としては
極西の小部落社会にあたる、欧米やイスラエルにまで仏法や仁徳の教化が覚束ないでいたからで、
それらの部落社会の人々が聖書圏外の文化としての仏教や儒学を具体的に察知することができるように
なったのも、自分たち自身が大航海時代などを通じて、外界への進出を試みるようになってからだった。
いくら全くの有害無益とはいえ、そうであることを実証してくれる確たる体系にも与れないで
いた限りにおいて、聖書信仰を続けてしまったことは、やはり過失として扱うことができる。
近世に四書五経の一部などが西洋に輸入されて、シノワズリなどの中国文化の流行があって後にも、
まだ四書五経と犯罪聖書の記述の相反性にまでは察知が及ばず、犯罪聖書が四書五経と比べれば
質でも量でも古さでも全ての面において劣る有害無益の書であることが把握できなかったとしたなら、
その時点でもまだ、西洋人が聖書信仰に基づいて悪逆非道を続けることに過失性が伴っていたことになる。
そこまでいかない、仁徳の把捉者でも、犯罪聖書への信仰にすがる界隈が世の中に多大なる害悪を
もたらすという大局的な実情をわきまえて、そんなものにすがらず、すがらせないようにしていく。
真理と道理いずれにおいても、犯罪聖書などにすがらないことを磐石化する名分はいくらでも立てられる。
これはつまり、心の内面と社会性のような外面、両面から聖書信仰の不当性が確立されているということでもある。
心の持ちようのような内面においても、犯罪聖書なんかを信仰するよりはしないほうがマシで、
社会にもたらす害益度のような外面においても、信仰しないほうがマシであることが完全に結論づけられる。
それが可能であるのは、仏教や儒学による真理学や権力道徳学の体系化が蓄えられてきたからで、
仏教や儒学が既存していればこそ、聖書信仰の全くの有害無益さもまた明らかになったのだといえる。
全くの有害無益にもかかわらず、犯罪聖書や聖書信仰がこの世に生じてしまったのは、地球全体としては
極西の小部落社会にあたる、欧米やイスラエルにまで仏法や仁徳の教化が覚束ないでいたからで、
それらの部落社会の人々が聖書圏外の文化としての仏教や儒学を具体的に察知することができるように
なったのも、自分たち自身が大航海時代などを通じて、外界への進出を試みるようになってからだった。
いくら全くの有害無益とはいえ、そうであることを実証してくれる確たる体系にも与れないで
いた限りにおいて、聖書信仰を続けてしまったことは、やはり過失として扱うことができる。
近世に四書五経の一部などが西洋に輸入されて、シノワズリなどの中国文化の流行があって後にも、
まだ四書五経と犯罪聖書の記述の相反性にまでは察知が及ばず、犯罪聖書が四書五経と比べれば
質でも量でも古さでも全ての面において劣る有害無益の書であることが把握できなかったとしたなら、
その時点でもまだ、西洋人が聖書信仰に基づいて悪逆非道を続けることに過失性が伴っていたことになる。
当時すでに、中国も元や金や清といった異民族国家による支配が相次ぎ、中国国内での仁徳統治も
相当に疎かになっていた。いくら四書五経に優れた記述が多いとはいえ、原産地の中国がろくにその
実践も覚束ないでいたというのでは、四書五経の実践可能性が未だ疑われたままでいたとしても仕方がない。
四書五経が実際に世界レベルでの実用も可能であることを実証しているのは、漢代や唐代における
中華帝国の成功であり、それはもはや1000年以上もまえのことである。それでも当時の
儒学統治が類いまれな成功を果たしていたことが分かるのは、漢書や唐書のような正史書における
当時の治世の綿密な記録と、その記録に即した史跡の残存や発掘などがあるからである。
儒学というよりは、武士道による統治という印象が強い日本の江戸時代における泰平統治なども、
実際には武力が行使されたりすることは極めてまれで、概ねは儒学や朱子学を根幹とした文治を
旨としていたことが、すでに倒幕の熱も冷めきった今になってこそ、冷静に見極められつつもある。
今やっと、世界規模での儒学や仏教による統治を復興してく目処が立った。
そうしなければ西洋人までもが、過失ではない確信犯としての罪を負わされることに
なるだけの文化研究上の素地が整ったから。今までの聖書信仰者の罪は過失として扱われる一方で、
これからは決して、聖書信仰に基づく罪業の拡大が許されないようにもなったから。
これが「時宜」というもので、「中庸」二十章でも「義とは(時)宜なり」と、語呂合わせでその道義性を諾っている。
時宜に即せなかったがために大罪を犯し続けて来てしまった聖書信仰者のあり方にも、逆説的な道義性を見るのである。
「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ」
「(訳は不要だろう。権力道徳者にとって、仁徳は目指すだけでなく、依り頼むものですらある)」
(権力道徳性——通称四書五経——論語・述而第七・六より)
相当に疎かになっていた。いくら四書五経に優れた記述が多いとはいえ、原産地の中国がろくにその
実践も覚束ないでいたというのでは、四書五経の実践可能性が未だ疑われたままでいたとしても仕方がない。
四書五経が実際に世界レベルでの実用も可能であることを実証しているのは、漢代や唐代における
中華帝国の成功であり、それはもはや1000年以上もまえのことである。それでも当時の
儒学統治が類いまれな成功を果たしていたことが分かるのは、漢書や唐書のような正史書における
当時の治世の綿密な記録と、その記録に即した史跡の残存や発掘などがあるからである。
儒学というよりは、武士道による統治という印象が強い日本の江戸時代における泰平統治なども、
実際には武力が行使されたりすることは極めてまれで、概ねは儒学や朱子学を根幹とした文治を
旨としていたことが、すでに倒幕の熱も冷めきった今になってこそ、冷静に見極められつつもある。
今やっと、世界規模での儒学や仏教による統治を復興してく目処が立った。
そうしなければ西洋人までもが、過失ではない確信犯としての罪を負わされることに
なるだけの文化研究上の素地が整ったから。今までの聖書信仰者の罪は過失として扱われる一方で、
これからは決して、聖書信仰に基づく罪業の拡大が許されないようにもなったから。
これが「時宜」というもので、「中庸」二十章でも「義とは(時)宜なり」と、語呂合わせでその道義性を諾っている。
時宜に即せなかったがために大罪を犯し続けて来てしまった聖書信仰者のあり方にも、逆説的な道義性を見るのである。
「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ」
「(訳は不要だろう。権力道徳者にとって、仁徳は目指すだけでなく、依り頼むものですらある)」
(権力道徳性——通称四書五経——論語・述而第七・六より)
「今、同室の人に闘う者有れば、之れを救うに被髪纓冠して之れを救うと雖も可なり。
郷鄰に闘う者有れば、被髮纓冠して往きて之れを救うは則ち惑いなり。戸を閉ざすと雖も可なり。(既出)」
「いま仮に、自分と同じ部屋で問題を呈した者がいれば、無冠の乱れ髪のままでこれを救おうとしても構わない。
しかし、自分の住む地域で問題を呈した者がいたとして、これに対してまで無冠の乱れ髪のままで救いの手を
差し伸べに行ったりすれば、それは惑いというものだ。我が家の戸を閉めて、そ知らぬ振りでいても構わない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
ごく近くの隣人であれば、私人として争いに割って入るも可。しかし戸外の他人ともなれば、
衣冠束髪の正式な公人でもない限りは争いに関わるべきでもないという、絶妙な距離感覚。
仁徳者は極端な個人主義でもなければ、天下万人に無限の博愛を注ぐような夢想家でもない。
世の中における人と人との関わりの深さによって、関わり方を自在に調整していく技術家でこそある。
その仁徳者が天下国家に対して好影響を与えるだけの能力を発揮するためにこそ、正式な公人としての
立場が必要になる。上記のとおり、無名の私人の分際で市街の問題にまでおせっかいに関わろうとする
ことは不適切なことだと仁者なら考える。それは個人主義だからではなく、公人による適切な処理を
邪魔しないためであり、むしろ公人こそが市井の問題を完璧に処理することを企図しているからでもある。
殺人すら、正式な兵士や刑吏として適切にこなすのなら、一切の罪障を帯びなくて済んだりもする。
それほどにも公人という立場は、私人とは隔絶した特別性を帯びるものであり、そうである
ことを私人までもがよく尊重したならば、公人も市井の争いなどを完璧に処理して、やむなく
行われる戦闘などの場合にも、余裕を持って正義ある戦いに臨めていけるようにもなるのである。
郷鄰に闘う者有れば、被髮纓冠して往きて之れを救うは則ち惑いなり。戸を閉ざすと雖も可なり。(既出)」
「いま仮に、自分と同じ部屋で問題を呈した者がいれば、無冠の乱れ髪のままでこれを救おうとしても構わない。
しかし、自分の住む地域で問題を呈した者がいたとして、これに対してまで無冠の乱れ髪のままで救いの手を
差し伸べに行ったりすれば、それは惑いというものだ。我が家の戸を閉めて、そ知らぬ振りでいても構わない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
ごく近くの隣人であれば、私人として争いに割って入るも可。しかし戸外の他人ともなれば、
衣冠束髪の正式な公人でもない限りは争いに関わるべきでもないという、絶妙な距離感覚。
仁徳者は極端な個人主義でもなければ、天下万人に無限の博愛を注ぐような夢想家でもない。
世の中における人と人との関わりの深さによって、関わり方を自在に調整していく技術家でこそある。
その仁徳者が天下国家に対して好影響を与えるだけの能力を発揮するためにこそ、正式な公人としての
立場が必要になる。上記のとおり、無名の私人の分際で市街の問題にまでおせっかいに関わろうとする
ことは不適切なことだと仁者なら考える。それは個人主義だからではなく、公人による適切な処理を
邪魔しないためであり、むしろ公人こそが市井の問題を完璧に処理することを企図しているからでもある。
殺人すら、正式な兵士や刑吏として適切にこなすのなら、一切の罪障を帯びなくて済んだりもする。
それほどにも公人という立場は、私人とは隔絶した特別性を帯びるものであり、そうである
ことを私人までもがよく尊重したならば、公人も市井の争いなどを完璧に処理して、やむなく
行われる戦闘などの場合にも、余裕を持って正義ある戦いに臨めていけるようにもなるのである。
公人だけでなく私人までもが仁徳者である、誰しもが仁義を尊ぶ世の中であるに越したことはないが、
だからといって私人である仁者が、公人と全く同じような振る舞いをすべきだなんてことも全くない。
私人と公人とではあまりにも立場が違えばこそ、全く真逆の行いに務めるべきことすらザラにある。
だからこそ、誰しもが公共性を最大級に尊重しようとした場合でも、上記の孟子の言のようなあり方が妥当となる。
個人主義だからではなく、公共性を尊ぶためにこそ、私人は公共レベルの物事にみだりに関わろうとしない。
ただそうであるだけでなく、自分が重度の犯罪被害などに遭った場合にも、その対処を公的機関に
まずは一任し、私的に仕返しをしたり争ったりすることもなるべく控えるようにする。
それでも全く公的機関が処理をしてくれず、同様の怠慢が国中や世界中で蔓延して、いよいよ革命によって
体制を刷新でもしなければならず、しかも自分が新たな体制における権力者になるしかないとしたならば、
仕方なく自分がその立場に立って、自分に危害を加えて来た相手にも対する、公的な処罰を科すことだろう。
だから結局、自分に危害を加えて来た相手とも私的に争ったりすることは、永久にないままである。
仁徳者であるなら、他人に不条理な危害を加える犯罪者などと争ったりすることも徹底的に避けて、
逆にこちらの側が一方的かつ公正な処罰を当人たちに科すことだけに専念し続けるのである。
「醜夷に在りて争わず」
「同等の立場にある者同士として争ったりはしない。
(犯罪に私的な報復を加えたりすれば、自分も犯罪者となる。同じ穴の狢としての争いは避ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
だからといって私人である仁者が、公人と全く同じような振る舞いをすべきだなんてことも全くない。
私人と公人とではあまりにも立場が違えばこそ、全く真逆の行いに務めるべきことすらザラにある。
だからこそ、誰しもが公共性を最大級に尊重しようとした場合でも、上記の孟子の言のようなあり方が妥当となる。
個人主義だからではなく、公共性を尊ぶためにこそ、私人は公共レベルの物事にみだりに関わろうとしない。
ただそうであるだけでなく、自分が重度の犯罪被害などに遭った場合にも、その対処を公的機関に
まずは一任し、私的に仕返しをしたり争ったりすることもなるべく控えるようにする。
それでも全く公的機関が処理をしてくれず、同様の怠慢が国中や世界中で蔓延して、いよいよ革命によって
体制を刷新でもしなければならず、しかも自分が新たな体制における権力者になるしかないとしたならば、
仕方なく自分がその立場に立って、自分に危害を加えて来た相手にも対する、公的な処罰を科すことだろう。
だから結局、自分に危害を加えて来た相手とも私的に争ったりすることは、永久にないままである。
仁徳者であるなら、他人に不条理な危害を加える犯罪者などと争ったりすることも徹底的に避けて、
逆にこちらの側が一方的かつ公正な処罰を当人たちに科すことだけに専念し続けるのである。
「醜夷に在りて争わず」
「同等の立場にある者同士として争ったりはしない。
(犯罪に私的な報復を加えたりすれば、自分も犯罪者となる。同じ穴の狢としての争いは避ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
歴史的人物の言行を逐一伝説化して、何気ないような振る舞いに至るまで
全て記録するような風習は、それこそ孔子や釈迦こそを実質的な原初としている。
釈迦などは、臨終時の横臥が頭北面西だったことまでもが言い継がれている。
生まれた瞬間に七歩歩いて、天地を指差して「天上天下唯我独尊」と唱えたなど、
実際にはあり得ないような逸話までもが釈迦の行業に仮託されていて、
伝説的な人物に日頃の行いから範を取ろうとしていくことはむしろ、
仏教や儒学の盛んな東洋においてこそ最大級の隆盛を果たしていたとすらいえる。
しかるに、西洋では史上最高の伝説的人物とされるイエスからして、
サイコパスの重度精神障害者だった。その言行を真似しようとすればするほど
自分たち自身まで心身を患ってしまうことになるから、正教か旧教か新教かに
関わらず、イエスの言行をそのまま真似することは程々にすべきとされた。
(今の韓国キリスト教あたりは、相当にイエスの真似を試みてもいる)
他人の言行をことさらな範にしたりしない性向が付与された結果、西洋人も
自意識過剰の思い上がりを募らせた個人主義者ばかりとなった。一方で、
イエスの言行が真似ではなく信仰の対象とはされ続けたから、信仰を通じての
内面からの精神障害の伝染はそれなりに来たしていた。そのような、イエスの言行
までは真似しなくとも、信仰を通じてイエス並みの精神障害者と化した西洋人が、
自分たちの言行をフィクションをも踏まえつつ小説化することが「文学」ともされた。
全て記録するような風習は、それこそ孔子や釈迦こそを実質的な原初としている。
釈迦などは、臨終時の横臥が頭北面西だったことまでもが言い継がれている。
生まれた瞬間に七歩歩いて、天地を指差して「天上天下唯我独尊」と唱えたなど、
実際にはあり得ないような逸話までもが釈迦の行業に仮託されていて、
伝説的な人物に日頃の行いから範を取ろうとしていくことはむしろ、
仏教や儒学の盛んな東洋においてこそ最大級の隆盛を果たしていたとすらいえる。
しかるに、西洋では史上最高の伝説的人物とされるイエスからして、
サイコパスの重度精神障害者だった。その言行を真似しようとすればするほど
自分たち自身まで心身を患ってしまうことになるから、正教か旧教か新教かに
関わらず、イエスの言行をそのまま真似することは程々にすべきとされた。
(今の韓国キリスト教あたりは、相当にイエスの真似を試みてもいる)
他人の言行をことさらな範にしたりしない性向が付与された結果、西洋人も
自意識過剰の思い上がりを募らせた個人主義者ばかりとなった。一方で、
イエスの言行が真似ではなく信仰の対象とはされ続けたから、信仰を通じての
内面からの精神障害の伝染はそれなりに来たしていた。そのような、イエスの言行
までは真似しなくとも、信仰を通じてイエス並みの精神障害者と化した西洋人が、
自分たちの言行をフィクションをも踏まえつつ小説化することが「文学」ともされた。
イエスほどものあからさまな奇行にまでは及ばずとも、イエス並みの精神障害を
患った状態で為される西洋人の言行のフィクションを踏まえた記録、当然それは
孔子や釈迦のような史実上の政賢の言行と比べて取るに足らないものである。
のみならず、紂王や蘇秦や趙高のごとき、史実に即して記録された大悪人と比べても
匿名性があるために、糾弾の的にしにくいという一層の度がたさを帯びているといえる。
孔子や釈迦だけでなく、その他の歴史上の「真の偉人」たちの言行を範としたり
することには、やはりそれなりの意義があるから、他者の言行を何もかも見習いの対象と
しないなどという所に振れきるのは決してよくない。ただ、言行を見習ったり信仰の対象と
したりするせいで、かえって何も見習わなければいいほどもの劣悪な言行規範が自らに
植え付けられてしまうような凶人なり、その文学的表現なりもまたいくらでもあるものだから、
純粋な犯罪行為の摘発や防止を目的とした、犯罪心理の参考対象とするのでもなければ、
みだりにそのような凶人の言行を真似することも、信奉したりすることもすべきでない。
西洋の文学者なんて、出版社やパトロンに商略結婚を強いられたせいで、結婚に対する
極度の嫌悪感を抱いていたりするのが常だから、その作品を参考にすればするほど
まともな恋愛や結婚から遠ざかりもする。そういう事情があるのも知らずに、「文学
だから高尚」「読んで自分のためになる」なんて思い込むのも、哀れなことだといえる。
「天と水と違い行くは訟なり。君子以って事を作すに始めを謀る」
「天と水とが食い違った状態になるのは訟(争いごとの卦)である。
君子はそのような事態を招かないために、始めからことを慎重に計画して行く。
(天啓を謳う狂人が水徳に違うことを豪語するとは、まさに争いごとの兆しである。
そのような狂人の言行を持て囃したとすれば、そのような人間全員が少なくとも君子ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・訟・象伝より)
患った状態で為される西洋人の言行のフィクションを踏まえた記録、当然それは
孔子や釈迦のような史実上の政賢の言行と比べて取るに足らないものである。
のみならず、紂王や蘇秦や趙高のごとき、史実に即して記録された大悪人と比べても
匿名性があるために、糾弾の的にしにくいという一層の度がたさを帯びているといえる。
孔子や釈迦だけでなく、その他の歴史上の「真の偉人」たちの言行を範としたり
することには、やはりそれなりの意義があるから、他者の言行を何もかも見習いの対象と
しないなどという所に振れきるのは決してよくない。ただ、言行を見習ったり信仰の対象と
したりするせいで、かえって何も見習わなければいいほどもの劣悪な言行規範が自らに
植え付けられてしまうような凶人なり、その文学的表現なりもまたいくらでもあるものだから、
純粋な犯罪行為の摘発や防止を目的とした、犯罪心理の参考対象とするのでもなければ、
みだりにそのような凶人の言行を真似することも、信奉したりすることもすべきでない。
西洋の文学者なんて、出版社やパトロンに商略結婚を強いられたせいで、結婚に対する
極度の嫌悪感を抱いていたりするのが常だから、その作品を参考にすればするほど
まともな恋愛や結婚から遠ざかりもする。そういう事情があるのも知らずに、「文学
だから高尚」「読んで自分のためになる」なんて思い込むのも、哀れなことだといえる。
「天と水と違い行くは訟なり。君子以って事を作すに始めを謀る」
「天と水とが食い違った状態になるのは訟(争いごとの卦)である。
君子はそのような事態を招かないために、始めからことを慎重に計画して行く。
(天啓を謳う狂人が水徳に違うことを豪語するとは、まさに争いごとの兆しである。
そのような狂人の言行を持て囃したとすれば、そのような人間全員が少なくとも君子ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・訟・象伝より)
そもそも、「神の計画」などはなかった。
古代ユダヤ人であれイエスであれ、その行いは「小人は険を犯して僥倖を求める(中庸・一四)」
であることで一貫していたのであり、その「僥倖」を自分たちの中で「神の計画の成就」に勝手に
すり替えて、無闇に険を犯したがる自分たちの小人さ加減から目を逸らしたがっていただけなのでもある。
形而上の超越神による計画などがなかったのみならず、古代ユダヤ人やイエスが、
「神の物語」に仮託して成就させようとしていた実際的な計画などからして、やはりなかった。
政商として国家に寄生することで法外な富をせしめるユダヤ人の行いや、冤罪事件の画策で
世の中を未曾有の争乱に陥れたイエスの行いなどは、ただ自分たちの富裕欲を満たしたかったり、
妾腹の私生児としての自らの負い目を、間違った方法によってでも晴らしたかったりといった動機によって
試みられたというばかりのものでしかない。そこに「神の物語」としての粉飾を加えて、単なる悪行として
早急に摘発される場合以上もの「存在性の延命」の余地を与えたのも、古代ユダヤ人やイエス自身に、
「人々を末永く争乱や破滅に陥れ続けたい」という、自分一身の生涯をも超えた悪意が備わっていたからだ。
それでいて、自分たちが捏造した「神の計画」がいつかは成就するかのように予言しておいてもいる。
それは、深刻な政商詐欺の被害下に置かれた国家が、いつかは財政破綻によって崩壊してしまうということを、
古代ユダヤ人もまた政商詐欺集団としての身の上から実地に経験していたからに違いなく、たとえ政商詐欺の
社会的容認や拡大を、巧妙なカルト教義によって無理に推進し続けてみたところで、所詮は害悪の塊でしかない
政商詐欺なぞを推進し続けた先にあるのが、国家レベルの破綻であるということをも潜在的に察知していたからだ。
古代ユダヤ人であれイエスであれ、その行いは「小人は険を犯して僥倖を求める(中庸・一四)」
であることで一貫していたのであり、その「僥倖」を自分たちの中で「神の計画の成就」に勝手に
すり替えて、無闇に険を犯したがる自分たちの小人さ加減から目を逸らしたがっていただけなのでもある。
形而上の超越神による計画などがなかったのみならず、古代ユダヤ人やイエスが、
「神の物語」に仮託して成就させようとしていた実際的な計画などからして、やはりなかった。
政商として国家に寄生することで法外な富をせしめるユダヤ人の行いや、冤罪事件の画策で
世の中を未曾有の争乱に陥れたイエスの行いなどは、ただ自分たちの富裕欲を満たしたかったり、
妾腹の私生児としての自らの負い目を、間違った方法によってでも晴らしたかったりといった動機によって
試みられたというばかりのものでしかない。そこに「神の物語」としての粉飾を加えて、単なる悪行として
早急に摘発される場合以上もの「存在性の延命」の余地を与えたのも、古代ユダヤ人やイエス自身に、
「人々を末永く争乱や破滅に陥れ続けたい」という、自分一身の生涯をも超えた悪意が備わっていたからだ。
それでいて、自分たちが捏造した「神の計画」がいつかは成就するかのように予言しておいてもいる。
それは、深刻な政商詐欺の被害下に置かれた国家が、いつかは財政破綻によって崩壊してしまうということを、
古代ユダヤ人もまた政商詐欺集団としての身の上から実地に経験していたからに違いなく、たとえ政商詐欺の
社会的容認や拡大を、巧妙なカルト教義によって無理に推進し続けてみたところで、所詮は害悪の塊でしかない
政商詐欺なぞを推進し続けた先にあるのが、国家レベルの破綻であるということをも潜在的に察知していたからだ。
キリスト教徒やユダヤ教徒は、当然こんなことは認めないだろうし、カルト教義の流布者としての
古代のユダヤ人やイエス自身に「実際はこうなんだろうが」と、上記のような分析を提示してみたところで、
自己と他者とを同時に偽る有能な詐欺師根性に基づいて、頑なに「そんなことはない」と否認するにも違いない。
しかし、「政商カルト詐欺の聖書」通称聖書への信仰が2000年にわたって推進され続けてきた
結果はといえば、紛れもなく上記のような分析こそが百発百中していたがためのものとなっている。
本物の神の計画があったわけでもなければ、神の計画に仮託した何らかの人為的な計画があったわけでもない。
ただ、致命的な社会破綻を来たすまでの、政商詐欺による放辟邪侈を推進していくための悪巧方便が、最終的な
社会破綻までをも「神の計画の成就」などと偽証することであったのみ。聖書信仰の「蜜月」は、あったとした
ところで「最後の審判」以前までのものであり、しかもその蜜月もまた罪業まみれであるがために、常に一定以上
の良心の呵責を孕んできた。確かに「最後の審判」以後に、その潜在的な良心の呵責が晴らされていくことにも
なり得るが、それは自分たちが政商詐欺の支援からなる蜜月を剥奪されて、人並み以上に自分たちの罪を償っていく
ようになるからなのだから、「神の計画の成就」たるや、いかにお粗末なものだったのかが知れたものだといえる。
「大いに為す有らんとするの君は、必ず召さざる所の臣有りて、謀ること有らんと欲すれば、
則ち之れに就く。其の徳を尊び道を楽しむこと是の如くならずんば、与て為す有るに足らざればなり」
「真に大業を為そうとする君には、必ず招き寄せない類いの臣下がいて、計画を企てる場合にも
自分から臣下の居場所に赴いて行った。君自身がそれほどにも徳を尊んで道を楽しむのでなければ、
本当に大いなる計画を成就させることなどはできないからだ。(イエスは神の計画を成就させるために、
自分から神のいる天国へと赴いて行った。計画主謀者である神がイエスのほうへと赴かないからには、
イエスがさほど有能な配下でないか、計画そのものがどうでもいいものだったかのいずれかだったのだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下より)
古代のユダヤ人やイエス自身に「実際はこうなんだろうが」と、上記のような分析を提示してみたところで、
自己と他者とを同時に偽る有能な詐欺師根性に基づいて、頑なに「そんなことはない」と否認するにも違いない。
しかし、「政商カルト詐欺の聖書」通称聖書への信仰が2000年にわたって推進され続けてきた
結果はといえば、紛れもなく上記のような分析こそが百発百中していたがためのものとなっている。
本物の神の計画があったわけでもなければ、神の計画に仮託した何らかの人為的な計画があったわけでもない。
ただ、致命的な社会破綻を来たすまでの、政商詐欺による放辟邪侈を推進していくための悪巧方便が、最終的な
社会破綻までをも「神の計画の成就」などと偽証することであったのみ。聖書信仰の「蜜月」は、あったとした
ところで「最後の審判」以前までのものであり、しかもその蜜月もまた罪業まみれであるがために、常に一定以上
の良心の呵責を孕んできた。確かに「最後の審判」以後に、その潜在的な良心の呵責が晴らされていくことにも
なり得るが、それは自分たちが政商詐欺の支援からなる蜜月を剥奪されて、人並み以上に自分たちの罪を償っていく
ようになるからなのだから、「神の計画の成就」たるや、いかにお粗末なものだったのかが知れたものだといえる。
「大いに為す有らんとするの君は、必ず召さざる所の臣有りて、謀ること有らんと欲すれば、
則ち之れに就く。其の徳を尊び道を楽しむこと是の如くならずんば、与て為す有るに足らざればなり」
「真に大業を為そうとする君には、必ず招き寄せない類いの臣下がいて、計画を企てる場合にも
自分から臣下の居場所に赴いて行った。君自身がそれほどにも徳を尊んで道を楽しむのでなければ、
本当に大いなる計画を成就させることなどはできないからだ。(イエスは神の計画を成就させるために、
自分から神のいる天国へと赴いて行った。計画主謀者である神がイエスのほうへと赴かないからには、
イエスがさほど有能な配下でないか、計画そのものがどうでもいいものだったかのいずれかだったのだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下より)
いくらイエスを慕ったり、十字架上のイエスを侮辱した連中を憎んだりしようとも、
それが俗悪で濁念にまみれた、当時のイスラエルやローマの世情を復元させる温床にしかならない。
たとえば、春秋時代末期から戦国時代にかけての中国(司馬遷は「秦代」と定義する)もまた、
子が親を殺し、臣下が主君を殺す最悪の争乱状態にあった。最悪の乱世は精神衛生上でも極めて有害で、
孔子や孟子のような強靭な精神力の持ち主か、さもなくば老荘列のような世間からの隠退者でもなければ
心の健全さを保てないでもいた。そのような時代性を真っ向から肯定しての、実定法支配や悪徳外交を
体系化した韓非や鬼谷の論説などを為政の参考としたなら、それによって当時の乱れた世相までもが
復元されることとなってしまう。イエス磔刑の記録などを持て囃すこともまた、それと同等の問題を
来たし得るもので、世相全体の「穢れ」を濃縮した代物であることでは、全く共通しているのである。
犯罪聖書の記録にも邪気がこもっているし、書物としての「韓非子」や「鬼谷子」の内容にも邪気が伴っている。
そのような邪気を日本人は「穢れ」として一般的に解釈し、記録や思想に限らず、精神衛生面から穢れを帯びて
しまっているような事物や人物全般を差別下に置いたりもしていた。日本人自身、穢れを「血肉」に類推するなど、
理論性を欠いた判別を拠り所にしてもいたから、今では迷信的なものとして退けられつつあるけれども、
穢れとは要するに邪気のことであり、それはたとえば、春秋戦国時代の中国や、イエス磔刑時の
イスラエルやローマに蔓延していた世相からの邪気などとも同定することができるのである。
春秋戦国時代に、主に秦人たちがもたらしていた醜悪な世相は、あまりにも度し難いことから、
中国でも漢代や唐代に排斥の対象とされ、当時の原型をとどめている系譜というのはもはや中国にもない。
日本でも、中国から渡来してきた秦人の内でも、特に穢れの甚だしい者は被差別部落の構成員となる
などの運命を辿ったが、唯一、僻地の土佐国に落ち延びた長宗我部氏だけは、古代の秦人の系譜を色濃く
残しながら、被差別部落となることまでは免れつつの延命を、幕末に至るまで辛うじて保ち続けていた。
それが俗悪で濁念にまみれた、当時のイスラエルやローマの世情を復元させる温床にしかならない。
たとえば、春秋時代末期から戦国時代にかけての中国(司馬遷は「秦代」と定義する)もまた、
子が親を殺し、臣下が主君を殺す最悪の争乱状態にあった。最悪の乱世は精神衛生上でも極めて有害で、
孔子や孟子のような強靭な精神力の持ち主か、さもなくば老荘列のような世間からの隠退者でもなければ
心の健全さを保てないでもいた。そのような時代性を真っ向から肯定しての、実定法支配や悪徳外交を
体系化した韓非や鬼谷の論説などを為政の参考としたなら、それによって当時の乱れた世相までもが
復元されることとなってしまう。イエス磔刑の記録などを持て囃すこともまた、それと同等の問題を
来たし得るもので、世相全体の「穢れ」を濃縮した代物であることでは、全く共通しているのである。
犯罪聖書の記録にも邪気がこもっているし、書物としての「韓非子」や「鬼谷子」の内容にも邪気が伴っている。
そのような邪気を日本人は「穢れ」として一般的に解釈し、記録や思想に限らず、精神衛生面から穢れを帯びて
しまっているような事物や人物全般を差別下に置いたりもしていた。日本人自身、穢れを「血肉」に類推するなど、
理論性を欠いた判別を拠り所にしてもいたから、今では迷信的なものとして退けられつつあるけれども、
穢れとは要するに邪気のことであり、それはたとえば、春秋戦国時代の中国や、イエス磔刑時の
イスラエルやローマに蔓延していた世相からの邪気などとも同定することができるのである。
春秋戦国時代に、主に秦人たちがもたらしていた醜悪な世相は、あまりにも度し難いことから、
中国でも漢代や唐代に排斥の対象とされ、当時の原型をとどめている系譜というのはもはや中国にもない。
日本でも、中国から渡来してきた秦人の内でも、特に穢れの甚だしい者は被差別部落の構成員となる
などの運命を辿ったが、唯一、僻地の土佐国に落ち延びた長宗我部氏だけは、古代の秦人の系譜を色濃く
残しながら、被差別部落となることまでは免れつつの延命を、幕末に至るまで辛うじて保ち続けていた。
その長宗我部勢が、幕末に坂本龍馬や中岡慎太郎のような悪徳外交家、岩崎弥太郎のような悪徳政商を輩出し、
半ば米英のような外圧の犬ともなりつつの、近現代の日本の国家体制の枠組みを造り上げた。始めのうちは、
その文明開化の奇抜さなどから「悪いものでもない」ような評価を受けてもいたが、段々その、内面の穢れを
物質的な虚飾で取り繕うメッキが剥がれて行き、今ではもはや日本全土が穢れまみれとなったことが如実化
してしまい、意味不明な凶悪事件や、未成年者のいじめなどの問題が多発化するようにもなってしまっている。
日本の世相腐敗の元凶は主に、この古代の秦人の系譜を受け継ぐ邪気ではあるが、だからといって日本人たちが
今の世相を許容しているというのではない。西洋文明の大々的な流入こそが、今の世相を容認せざるを得ない
主な理由だと考えられていて、西洋文明の根幹は未だキリスト教だから、結局のところ、キリスト教を容認する
ことを通じて、秦人の末裔たちがもたらしている今の腐れ切った世相をも黙認させられてしまっているのである。
秦人による支配が日本の世相腐敗の主因なら、キリスト教教義にも基づくその是認もまた腐敗の副因であり、
両者が相まって日本社会の腐敗も磐石なものとなってしまっている。両者が相まえるのも、いずれもが、
昔の日本人が「穢れ」と呼んで忌み嫌っていた所の邪気を帯びているからで、穢れというものは二重にも
三重にも折り重なることで、その甚大さを増すものであることが分かる。あまりにも甚大であるからといって、
その処理をおざなりにすることもなく、一つ一つの穢れの根源から着実に拭い去っていく努力が必要だといえる。
「夫れ人必ず自ら侮りて、然る後に人之れを侮る。
家必ず自ら毀ちて、而る後に人之れを毀つ。国必ず自ら伐ちて、而る後人之れを伐つ」
「人は必ず自らを侮ることがあってから、しかる後に人にも侮られることがある。
自分から家をダメにするようなことがあってから、人に家をだめにされるようなことがある。
自分から国を亡ぼすようなことをするから、他国に亡ぼされるようなこともある。
(これはイエス本人と、イエスを侮辱していた当時のイスラエル人やローマ人全員に言えることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
半ば米英のような外圧の犬ともなりつつの、近現代の日本の国家体制の枠組みを造り上げた。始めのうちは、
その文明開化の奇抜さなどから「悪いものでもない」ような評価を受けてもいたが、段々その、内面の穢れを
物質的な虚飾で取り繕うメッキが剥がれて行き、今ではもはや日本全土が穢れまみれとなったことが如実化
してしまい、意味不明な凶悪事件や、未成年者のいじめなどの問題が多発化するようにもなってしまっている。
日本の世相腐敗の元凶は主に、この古代の秦人の系譜を受け継ぐ邪気ではあるが、だからといって日本人たちが
今の世相を許容しているというのではない。西洋文明の大々的な流入こそが、今の世相を容認せざるを得ない
主な理由だと考えられていて、西洋文明の根幹は未だキリスト教だから、結局のところ、キリスト教を容認する
ことを通じて、秦人の末裔たちがもたらしている今の腐れ切った世相をも黙認させられてしまっているのである。
秦人による支配が日本の世相腐敗の主因なら、キリスト教教義にも基づくその是認もまた腐敗の副因であり、
両者が相まって日本社会の腐敗も磐石なものとなってしまっている。両者が相まえるのも、いずれもが、
昔の日本人が「穢れ」と呼んで忌み嫌っていた所の邪気を帯びているからで、穢れというものは二重にも
三重にも折り重なることで、その甚大さを増すものであることが分かる。あまりにも甚大であるからといって、
その処理をおざなりにすることもなく、一つ一つの穢れの根源から着実に拭い去っていく努力が必要だといえる。
「夫れ人必ず自ら侮りて、然る後に人之れを侮る。
家必ず自ら毀ちて、而る後に人之れを毀つ。国必ず自ら伐ちて、而る後人之れを伐つ」
「人は必ず自らを侮ることがあってから、しかる後に人にも侮られることがある。
自分から家をダメにするようなことがあってから、人に家をだめにされるようなことがある。
自分から国を亡ぼすようなことをするから、他国に亡ぼされるようなこともある。
(これはイエス本人と、イエスを侮辱していた当時のイスラエル人やローマ人全員に言えることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
刑事や政治も「礼楽刑政」の秩序に即して、
ただの事務処理以上にも厳粛なものとして執り行われたほうがよい。
乱世にはなかなかそういうわけにもいかないこともあるにしろ、
恒常的な為政や刑事にかけては、礼楽の潤色を加えたほうが安定することが、
周や漢や唐や平安朝などの治世の成功からも容易に察することができる。
宗教の内でも、神道や密教や道教やバラモン教などは、礼楽統治を補佐する能力を持つ。
バラモンをカーストの最高位に置いているインドが、内政にかけては万年泰平状態を
確立できているのも、バラモンが祭司として実質的な礼楽統治の指導者ともなっているからだ。
礼楽統治の補佐になるわけでもなければ、障害になるわけでもない部類の宗教として
禅仏教や浄土教があり、これらは礼楽統治の覚束ない乱世を治世へと正しかえす
消火栓としての役割に長けているし、また治世が取り戻されて後の、武家階級や庶民階級に
とっての、煩瑣な体系性を省いた簡易的な拠り所としての役割すらをも担っていけるものである。
治世における礼楽統治の補佐役になるわけでもなければ、乱世を治世に引き戻す能力を具えて
いるわけでもない、礼楽統治の覚束ない最悪の乱世こそをもたらして恒常化させようとする
類いの宗教なり、学術なりがある。宗教としてはユダヤ教やキリスト教がそれに当てはまり、
学術としては大半の洋学、中国諸子百家中の法家や縦横家などがそれに当てはまる。
イエスの冤罪磔刑劇のごとき、あられもない醜態を刑事が帯びたりするのであれば、
それにより刑政の秩序も極端に乱れ、礼楽によって統制するどころではない状態が恒常化
してしまうことにもなる。さらに、イエスを神の子(キリスト)として崇め立てて信仰の対象と
したりしたなら、絶対に礼楽統治など不能と化した乱れた為政が、完全に固着化することになる。
ただの事務処理以上にも厳粛なものとして執り行われたほうがよい。
乱世にはなかなかそういうわけにもいかないこともあるにしろ、
恒常的な為政や刑事にかけては、礼楽の潤色を加えたほうが安定することが、
周や漢や唐や平安朝などの治世の成功からも容易に察することができる。
宗教の内でも、神道や密教や道教やバラモン教などは、礼楽統治を補佐する能力を持つ。
バラモンをカーストの最高位に置いているインドが、内政にかけては万年泰平状態を
確立できているのも、バラモンが祭司として実質的な礼楽統治の指導者ともなっているからだ。
礼楽統治の補佐になるわけでもなければ、障害になるわけでもない部類の宗教として
禅仏教や浄土教があり、これらは礼楽統治の覚束ない乱世を治世へと正しかえす
消火栓としての役割に長けているし、また治世が取り戻されて後の、武家階級や庶民階級に
とっての、煩瑣な体系性を省いた簡易的な拠り所としての役割すらをも担っていけるものである。
治世における礼楽統治の補佐役になるわけでもなければ、乱世を治世に引き戻す能力を具えて
いるわけでもない、礼楽統治の覚束ない最悪の乱世こそをもたらして恒常化させようとする
類いの宗教なり、学術なりがある。宗教としてはユダヤ教やキリスト教がそれに当てはまり、
学術としては大半の洋学、中国諸子百家中の法家や縦横家などがそれに当てはまる。
イエスの冤罪磔刑劇のごとき、あられもない醜態を刑事が帯びたりするのであれば、
それにより刑政の秩序も極端に乱れ、礼楽によって統制するどころではない状態が恒常化
してしまうことにもなる。さらに、イエスを神の子(キリスト)として崇め立てて信仰の対象と
したりしたなら、絶対に礼楽統治など不能と化した乱れた為政が、完全に固着化することになる。
礼楽統治の原典中の原典である四書五経の記述と、イエキリを神格化した犯罪聖書の記述が
ことごとく相反しているのみならず、それらの実践と信仰とが決定的に相反してもいる。
四書五経を実践する以上は犯罪聖書への信仰を取りやめねばならず、犯罪聖書への
信仰に固執し続ける以上は、絶対に四書五経を実践することはできない。
ただ政治や刑事をまともなものとする、それだけのために犯罪聖書への信仰を廃絶する
というのでは正直、浅い。ただ刑政を健全化していこうとすることと、犯罪聖書を
信仰することとでは、必ずしも相反した関係になく、両者が並立してしまった結果、
また聖書信仰によって乱れた刑政がもたらされてしまうようなことにもなりかねない。
政治や刑事を礼楽によって潤色する、そこに目標を定めることで初めて、聖書信仰を
この世から否応なく廃絶して行けるようにもなり、礼楽統治との決定的な相反性に即して、
この世から完全に聖書信仰が根絶された結果、刑政の健全性もやっと安定化することになる。
刑政を極度の乱脈に陥れる邪教が、極大級の災禍をすでにもたらした後であればこそ、
礼楽によっての為政の潤色までもが、半ば義務性を帯びるようになってしまったのである。
「楚子、巣車に登りて以て晋軍を望む。子重、大宰伯州犁をして王の後に侍らしむ。王曰く、
〜幕を張れり。曰く、先君に虔卜するなり。幕を徹せり。曰く将に命を發せんとするなり」
「楚の共王が櫓付きの車に登って晋軍を遠望した。大宰相の伯州犁が子重の命で王に近侍した。
王は言った。『あそこで幕を張っているのは何だ』 伯州犁『あれは先君の霊に伺いを立てているのです』
王『あ、幕を外したぞ』 伯州犁『今から伺いによって得られた命令を下そうとしているのです』
(幕が裂けて神異に適うなんて道理はない。特に正式命令絶対のまともな軍人ならそう考える)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十六年より)
ことごとく相反しているのみならず、それらの実践と信仰とが決定的に相反してもいる。
四書五経を実践する以上は犯罪聖書への信仰を取りやめねばならず、犯罪聖書への
信仰に固執し続ける以上は、絶対に四書五経を実践することはできない。
ただ政治や刑事をまともなものとする、それだけのために犯罪聖書への信仰を廃絶する
というのでは正直、浅い。ただ刑政を健全化していこうとすることと、犯罪聖書を
信仰することとでは、必ずしも相反した関係になく、両者が並立してしまった結果、
また聖書信仰によって乱れた刑政がもたらされてしまうようなことにもなりかねない。
政治や刑事を礼楽によって潤色する、そこに目標を定めることで初めて、聖書信仰を
この世から否応なく廃絶して行けるようにもなり、礼楽統治との決定的な相反性に即して、
この世から完全に聖書信仰が根絶された結果、刑政の健全性もやっと安定化することになる。
刑政を極度の乱脈に陥れる邪教が、極大級の災禍をすでにもたらした後であればこそ、
礼楽によっての為政の潤色までもが、半ば義務性を帯びるようになってしまったのである。
「楚子、巣車に登りて以て晋軍を望む。子重、大宰伯州犁をして王の後に侍らしむ。王曰く、
〜幕を張れり。曰く、先君に虔卜するなり。幕を徹せり。曰く将に命を發せんとするなり」
「楚の共王が櫓付きの車に登って晋軍を遠望した。大宰相の伯州犁が子重の命で王に近侍した。
王は言った。『あそこで幕を張っているのは何だ』 伯州犁『あれは先君の霊に伺いを立てているのです』
王『あ、幕を外したぞ』 伯州犁『今から伺いによって得られた命令を下そうとしているのです』
(幕が裂けて神異に適うなんて道理はない。特に正式命令絶対のまともな軍人ならそう考える)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十六年より)
禅書「無門関」第二則:百丈野狐
「百丈和尚が説法していると、一人の老人が『自分は参禅に失敗して五百回
野狐としての生を送らされている修行者の化身です。どうか自分を野狐としての
生から解き放ってください』と言った。百丈和尚が『不味因果』と言うと修行者は
悟りを開いて野狐としての生を脱した。『すでに野狐としての身は裏山にあります』
という修行者の言葉通り、裏山で野狐の死体が見つかり、荼毘に付した。(略省取意)」
上記の公案など、実は老人がただの参禅者で、百丈和尚との禅問答に
臨むために、あらかじめ狐を仕留めておいて一芝居うったのだとも考えられなくはない。
禅仏教が隆盛を極めていた当時の中国でなら、それぐらいする人間もいたかもしれず、
実際芝居だったのだろうが、だからといってこの公案の有難みが揺らぐわけでもない。
新約犯罪聖書におけるイエスの復活劇なども、読み方によっては、ただマリアか誰かが
イエスの遺体を穴蔵から持ち出しただけで、復活後のイエスによる弟子たちに対する
説法なども、単なる弟子たちの脳内妄想でしかなかったと考えられなくはない。しかし、
そんなことを信仰者である以上は疑ってはならないし、もしもそういう風に考えて
しまったならば、新約の記述などには何の有難みもないことになってしまうのである。
釈迦の説法も方便ばかりなら、それに後続する仏者たちの言説も方便だらけ。
それでいて、それらの方便がウソや芝居を踏まえていることが知れたところで、
だからといってその有難味に亀裂が生じるようなことも一切ない。それは、仏者の
根本的な発言姿勢からして、諸法実相のことわりをかたくわきまえたものであり、
形而上の超越神による世界の創造みたいな、全くの嘘偽りを教義の根幹に据えるような
過ちを徹底して排したものであるからで、発言以前、行動以前に仏者が本来在住して
いる「道」というものからして、常人やカルト教徒とは段違いなものなのである。
「百丈和尚が説法していると、一人の老人が『自分は参禅に失敗して五百回
野狐としての生を送らされている修行者の化身です。どうか自分を野狐としての
生から解き放ってください』と言った。百丈和尚が『不味因果』と言うと修行者は
悟りを開いて野狐としての生を脱した。『すでに野狐としての身は裏山にあります』
という修行者の言葉通り、裏山で野狐の死体が見つかり、荼毘に付した。(略省取意)」
上記の公案など、実は老人がただの参禅者で、百丈和尚との禅問答に
臨むために、あらかじめ狐を仕留めておいて一芝居うったのだとも考えられなくはない。
禅仏教が隆盛を極めていた当時の中国でなら、それぐらいする人間もいたかもしれず、
実際芝居だったのだろうが、だからといってこの公案の有難みが揺らぐわけでもない。
新約犯罪聖書におけるイエスの復活劇なども、読み方によっては、ただマリアか誰かが
イエスの遺体を穴蔵から持ち出しただけで、復活後のイエスによる弟子たちに対する
説法なども、単なる弟子たちの脳内妄想でしかなかったと考えられなくはない。しかし、
そんなことを信仰者である以上は疑ってはならないし、もしもそういう風に考えて
しまったならば、新約の記述などには何の有難みもないことになってしまうのである。
釈迦の説法も方便ばかりなら、それに後続する仏者たちの言説も方便だらけ。
それでいて、それらの方便がウソや芝居を踏まえていることが知れたところで、
だからといってその有難味に亀裂が生じるようなことも一切ない。それは、仏者の
根本的な発言姿勢からして、諸法実相のことわりをかたくわきまえたものであり、
形而上の超越神による世界の創造みたいな、全くの嘘偽りを教義の根幹に据えるような
過ちを徹底して排したものであるからで、発言以前、行動以前に仏者が本来在住して
いる「道」というものからして、常人やカルト教徒とは段違いなものなのである。
それ程にも拠って立つ境地が高尚であればこそ、巧みな方便までをも尽くしての説法
までもが許されるというもので、常人以下の品性しか持たないカルト教祖やカルト信者は
もちろんのこと、ごく一般的な常人ですら、方便的な比喩表現を濫用したりすべきではない。
字面通りとはまた別の意味があったり、大した意味もないことを大げさに述べ立てたり
といった寓意的表現は、精進を積んだ仏者の境地などからすれば善用も可能とした所で、
常人やそれ以下の境地においては、ほぼ悪用のためにしか用いられない。本格的な
仏門が軒並み絶やされた状態にある、今の日本で流通している寓意的表現なども、
十中八九、愚民化のためのメディア洗脳のような悪質な目的しか備わっていない。
悪巧方便まみれな今の世の中で、善巧方便こそを駆使した仏説を急激に取り入れてみても、
悪巧方便とくそみそに扱われて、かえってその貫目を下げるようなことにすらなりかねない。
だから、これからの世の中を改善していく指針としては、やはり方便的な表現を極力省いた
儒説などをまずは根幹に据えるべきで、仏門の興隆は「次の次」ぐらいに考えておくべき
だといえる。これも、方便が悪用のために駆使されている現状に即した便宜なのである。
「我が心は石に匪ずんば、転ばす可からざるなり。
我が心は席に匪ずんぱ、巻き込む可からざるなり。威儀は棣棣として、選るべからざるなり」
「我が心はそこいらの石っころでもないのだから、転ばせたりすることもできはしない。
我が心はむしろでもないのだないのだから、巻き込んだりすることもできはしない。
この意義深さまでは、決して譲れはしない。(むしろで巻かれて、墓穴の前に石っころを
転がされた刑死者の遺体が紛失したからといって、そこに心もなければ威儀深さもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・柏舟より)
までもが許されるというもので、常人以下の品性しか持たないカルト教祖やカルト信者は
もちろんのこと、ごく一般的な常人ですら、方便的な比喩表現を濫用したりすべきではない。
字面通りとはまた別の意味があったり、大した意味もないことを大げさに述べ立てたり
といった寓意的表現は、精進を積んだ仏者の境地などからすれば善用も可能とした所で、
常人やそれ以下の境地においては、ほぼ悪用のためにしか用いられない。本格的な
仏門が軒並み絶やされた状態にある、今の日本で流通している寓意的表現なども、
十中八九、愚民化のためのメディア洗脳のような悪質な目的しか備わっていない。
悪巧方便まみれな今の世の中で、善巧方便こそを駆使した仏説を急激に取り入れてみても、
悪巧方便とくそみそに扱われて、かえってその貫目を下げるようなことにすらなりかねない。
だから、これからの世の中を改善していく指針としては、やはり方便的な表現を極力省いた
儒説などをまずは根幹に据えるべきで、仏門の興隆は「次の次」ぐらいに考えておくべき
だといえる。これも、方便が悪用のために駆使されている現状に即した便宜なのである。
「我が心は石に匪ずんば、転ばす可からざるなり。
我が心は席に匪ずんぱ、巻き込む可からざるなり。威儀は棣棣として、選るべからざるなり」
「我が心はそこいらの石っころでもないのだから、転ばせたりすることもできはしない。
我が心はむしろでもないのだないのだから、巻き込んだりすることもできはしない。
この意義深さまでは、決して譲れはしない。(むしろで巻かれて、墓穴の前に石っころを
転がされた刑死者の遺体が紛失したからといって、そこに心もなければ威儀深さもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・柏舟より)
働け、地蔵
自分たちの最たる拠り所である新旧約聖書からして、芝居や妄想の塊でしかない。
だから聖書信者は「人生は芝居だ」という風にも潜在的に考えて、
芝居としての趣向を凝らしたような生き方を目指そうとしてしまう。
匹夫匹婦であるのなら、それでも構わない場合もあるが、
多くの衆生の命運を一手に引き受けるような君子階級の人間が
そのようであるのなら、舞台上と舞台裏を使い分ける姑息さが結局は、
より多くの負担を民に強いるような結果ともなってしまう。
一般に、芝居の得意な者は着実に生きることが苦手だし、逆に着実に生きることに
専念している者は、芝居を演じるようなことを「恥ずかしい」と感じるものである。
大国の社稷宗廟の壇上では盛大に振る舞えた所で、ほんの数人の観衆の前で
芝居がかった行いをさせられることすらをも恥ずかしがるようなこともあるわけで、
着実に生きることの誠実さと、あえて芝居を踏まえようとする浮つきとには、
排他関係が備わっているとすらいえるのである。
芝居ばかりを人生の全てだなどと考えて来た人間が、いざ実地に根ざした振る舞いを
させられるとしても、これまた小っ恥ずかしいものがあるだろうとうかがえる。
社交上やメディア上での振る舞いを、立派な修辞で塗り固めてきた人間ほど、
それを取り払ってまで真剣に生きさせられることが億劫に感じられるものだ。
だから聖書信者は「人生は芝居だ」という風にも潜在的に考えて、
芝居としての趣向を凝らしたような生き方を目指そうとしてしまう。
匹夫匹婦であるのなら、それでも構わない場合もあるが、
多くの衆生の命運を一手に引き受けるような君子階級の人間が
そのようであるのなら、舞台上と舞台裏を使い分ける姑息さが結局は、
より多くの負担を民に強いるような結果ともなってしまう。
一般に、芝居の得意な者は着実に生きることが苦手だし、逆に着実に生きることに
専念している者は、芝居を演じるようなことを「恥ずかしい」と感じるものである。
大国の社稷宗廟の壇上では盛大に振る舞えた所で、ほんの数人の観衆の前で
芝居がかった行いをさせられることすらをも恥ずかしがるようなこともあるわけで、
着実に生きることの誠実さと、あえて芝居を踏まえようとする浮つきとには、
排他関係が備わっているとすらいえるのである。
芝居ばかりを人生の全てだなどと考えて来た人間が、いざ実地に根ざした振る舞いを
させられるとしても、これまた小っ恥ずかしいものがあるだろうとうかがえる。
社交上やメディア上での振る舞いを、立派な修辞で塗り固めてきた人間ほど、
それを取り払ってまで真剣に生きさせられることが億劫に感じられるものだ。
体裁にばかりこだわり過ぎてきたから、いざ実質を直視させられるとなれば、
辛くて辛くて仕方がない。そういう人間が、特に大国の命運を左右するほどもの
場で立ち回るというのも危険極まりないので、やはり引退を勧める他はないといえる。
むしろ、体裁の修辞など苦手だった者のうちで、特に志しあるような者こそが、
体裁の取り繕いばかりに固執しすぎて瓦解してしまった後の旧聖書圏における、
諸国内での後始末役となったりするのにもふさわしいだろう。
修辞にばかりこだわり過ぎて、実質的なことに携われなくなった連中も、
ただ泣き寝入りするんじゃなくて、ピエロ的な存在として場を沸かせるぐらいの
仕事はできなくもないから、それは目指してもいいだろう。もう修辞をカッコ付けの
ために用いたりはせずに、純粋な笑いや楽しみのために用いる。そのためには当然、
芝居がかった修辞に神性を付与するような風潮も絶やしていかねばならない。
芝居でない、実地に根ざした言行の潤色こそは礼儀作法なのであり、
芝居がかった礼儀ほど、礼儀としては贋物としての様相を帯びてしまう。
そういう礼儀作法の特色をわきまえて、もっぱら礼節の修練に務めるものと、
礼制に縛られて堅苦しくなった世の中を罪の無い程度の道化的な芸能によって
楽しませてリラックスさせるものとの両方があったほうが、「礼楽統治」の名にも適う。
本来、四書五経は四書六経だったのであり、六経のうちに含まれていた「楽経」が
すでに絶えて現存していない。楽経の律をありのままに復興して今の世のにあてがうのも
無理があるんで、そこを新たに工夫して創造していくことにも、それなりの意義が
備わるといえる。儒学の実践も、復古主義ばかりでは最善が尽くされもしないのである。
辛くて辛くて仕方がない。そういう人間が、特に大国の命運を左右するほどもの
場で立ち回るというのも危険極まりないので、やはり引退を勧める他はないといえる。
むしろ、体裁の修辞など苦手だった者のうちで、特に志しあるような者こそが、
体裁の取り繕いばかりに固執しすぎて瓦解してしまった後の旧聖書圏における、
諸国内での後始末役となったりするのにもふさわしいだろう。
修辞にばかりこだわり過ぎて、実質的なことに携われなくなった連中も、
ただ泣き寝入りするんじゃなくて、ピエロ的な存在として場を沸かせるぐらいの
仕事はできなくもないから、それは目指してもいいだろう。もう修辞をカッコ付けの
ために用いたりはせずに、純粋な笑いや楽しみのために用いる。そのためには当然、
芝居がかった修辞に神性を付与するような風潮も絶やしていかねばならない。
芝居でない、実地に根ざした言行の潤色こそは礼儀作法なのであり、
芝居がかった礼儀ほど、礼儀としては贋物としての様相を帯びてしまう。
そういう礼儀作法の特色をわきまえて、もっぱら礼節の修練に務めるものと、
礼制に縛られて堅苦しくなった世の中を罪の無い程度の道化的な芸能によって
楽しませてリラックスさせるものとの両方があったほうが、「礼楽統治」の名にも適う。
本来、四書五経は四書六経だったのであり、六経のうちに含まれていた「楽経」が
すでに絶えて現存していない。楽経の律をありのままに復興して今の世のにあてがうのも
無理があるんで、そこを新たに工夫して創造していくことにも、それなりの意義が
備わるといえる。儒学の実践も、復古主義ばかりでは最善が尽くされもしないのである。
今日の引用は有名な「苛政は虎よりも猛なり」の典拠。
ちょっと長いが、よく読みさえすれば、この話に出てくる嬪婦と比べれば、いかにマリアが
貞順でもなければ、世のことわりをろくにわきまえられてもいない匹婦だったのかが分かる。
しかもそれは、イエスが復活したか否かに関わらずの、普遍的な巧拙の差異ともなっている。
「孔子泰山の側を過ぐ。婦人の墓に哭する者有りて哀し。夫子して之れを聴き、子貢を使いして之れに問わしむ。曰く、
子の哭するや、壹に重ねて憂い有る者に似たりと。而ち曰く、然り。昔者吾が舅虎に死し、吾が夫も又た死し、今吾が子も
又た死せりと。夫子曰く、何為れぞ去らざるや。曰く、苛政無ければなり。夫子曰く、小子之れを識せ、苛政は虎よりも猛なりと」
「孔子が泰山の麓を通り過ぎるとき、一人の婦人が墓の前でひどく号泣しているのを見て不憫な気持ちになった。孔子は弟子の
子貢を使わせて質問させた。『あなたの泣く様は尋常なものではありません。何か多難でもあったのでしょうか』 婦人は答えた。
『はい、私の舅はこの地で虎に襲われて死に、夫もまた死に、いままた我が子までもが虎に襲われて死んだのです』 孔子が問うた。
『そこまで多重の災難に遭われながら、なぜこの地を去らないのですか』 婦人。『ここでは苛政が敷かれるようなことが
ないからです』 孔子はこれを聞いて弟子に言った。『記録しておきなさい。苛政の危害は虎の危害よりも甚だしいものだと』
(マリアはおそらく哀しみのあまり幻覚を見て、イエスが復活したかのような妖言を触れ回ってしまったのだろうが、それによって
現聖書圏にもたらされた苛政の甚だしさは、貞順な婦人が舅と夫と我が子とを虎に殺されて二度と生き返らない以上のものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
ちょっと長いが、よく読みさえすれば、この話に出てくる嬪婦と比べれば、いかにマリアが
貞順でもなければ、世のことわりをろくにわきまえられてもいない匹婦だったのかが分かる。
しかもそれは、イエスが復活したか否かに関わらずの、普遍的な巧拙の差異ともなっている。
「孔子泰山の側を過ぐ。婦人の墓に哭する者有りて哀し。夫子して之れを聴き、子貢を使いして之れに問わしむ。曰く、
子の哭するや、壹に重ねて憂い有る者に似たりと。而ち曰く、然り。昔者吾が舅虎に死し、吾が夫も又た死し、今吾が子も
又た死せりと。夫子曰く、何為れぞ去らざるや。曰く、苛政無ければなり。夫子曰く、小子之れを識せ、苛政は虎よりも猛なりと」
「孔子が泰山の麓を通り過ぎるとき、一人の婦人が墓の前でひどく号泣しているのを見て不憫な気持ちになった。孔子は弟子の
子貢を使わせて質問させた。『あなたの泣く様は尋常なものではありません。何か多難でもあったのでしょうか』 婦人は答えた。
『はい、私の舅はこの地で虎に襲われて死に、夫もまた死に、いままた我が子までもが虎に襲われて死んだのです』 孔子が問うた。
『そこまで多重の災難に遭われながら、なぜこの地を去らないのですか』 婦人。『ここでは苛政が敷かれるようなことが
ないからです』 孔子はこれを聞いて弟子に言った。『記録しておきなさい。苛政の危害は虎の危害よりも甚だしいものだと』
(マリアはおそらく哀しみのあまり幻覚を見て、イエスが復活したかのような妖言を触れ回ってしまったのだろうが、それによって
現聖書圏にもたらされた苛政の甚だしさは、貞順な婦人が舅と夫と我が子とを虎に殺されて二度と生き返らない以上のものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
四書五経中では、主に孔子や曾子が、よく孝養を尽くして
親の事業を忠実に受け継ぎ、親のやり方を最低でも三年は
改めないでおくことなどを理想として掲げていたりするけども、
親が重大犯罪者やカルト信者だったりする場合にまで、これらの言説を
そのまま守っていくのもどうかと思われる。孝行が経書にあるような通りに
実践されてしかるべきなのも、「人中の人」たる君子階級の人間でこそあり、
犯罪者やカルト信者はおろか、単なる民間人の子供ですら、儒説のままの
孝行を心がけたりしたなら、色々と齟齬を来すことになりかねない。
そもそも、人類発祥の地であるアフリカから日出ずる東方へのグレート・ジャーニーを試み、
大陸の極東付近に安住したのが中国人や日本人であるわけで、その先祖代々の実績があればこそ、
孝行をも当たり前のこととして重んじているというのもある。人類発祥地のアフリカからさらに
日没する西方や日陰る北方へと、「暗闇への逃避」を先祖代々続けてきた欧米人などからすれば、
潜在面からの親や先祖への尊敬意識が低いということもあり得るわけで、だからこそ、
親子兄弟の殺し合いすらをも促す邪教などを好き好んで信仰できたのだともいえる。
そういった先天的な要素に即して、善行を為しやすかったり為しにくかったり、
悪行を為しやすかったり為しにくかったりすることも確かにあるが、決して「絶対」ではない。
偉人の親から小人の子が、小人の親から偉人の子が生まれるということもあるし、
仮に「蛙の子は蛙」だったとした所で、やはり相応の系譜の改善に勤めていくことができる。
理想的な家系に生まれた子供が、親の事業を忠実に受け継いでいく上でも、孝行の際に
親への絶対服従を固持したりするのではなく、親が過ちを犯した場合には諫言も辞さないぐらいの
自主性を持つべきだと「礼記」などにも記されているわけで、結局、先天的にであれ後天的にであれ、
自分が善行を為す上での肝心要となるのが、自らの自主性であることには変わりない。
親の事業を忠実に受け継ぎ、親のやり方を最低でも三年は
改めないでおくことなどを理想として掲げていたりするけども、
親が重大犯罪者やカルト信者だったりする場合にまで、これらの言説を
そのまま守っていくのもどうかと思われる。孝行が経書にあるような通りに
実践されてしかるべきなのも、「人中の人」たる君子階級の人間でこそあり、
犯罪者やカルト信者はおろか、単なる民間人の子供ですら、儒説のままの
孝行を心がけたりしたなら、色々と齟齬を来すことになりかねない。
そもそも、人類発祥の地であるアフリカから日出ずる東方へのグレート・ジャーニーを試み、
大陸の極東付近に安住したのが中国人や日本人であるわけで、その先祖代々の実績があればこそ、
孝行をも当たり前のこととして重んじているというのもある。人類発祥地のアフリカからさらに
日没する西方や日陰る北方へと、「暗闇への逃避」を先祖代々続けてきた欧米人などからすれば、
潜在面からの親や先祖への尊敬意識が低いということもあり得るわけで、だからこそ、
親子兄弟の殺し合いすらをも促す邪教などを好き好んで信仰できたのだともいえる。
そういった先天的な要素に即して、善行を為しやすかったり為しにくかったり、
悪行を為しやすかったり為しにくかったりすることも確かにあるが、決して「絶対」ではない。
偉人の親から小人の子が、小人の親から偉人の子が生まれるということもあるし、
仮に「蛙の子は蛙」だったとした所で、やはり相応の系譜の改善に勤めていくことができる。
理想的な家系に生まれた子供が、親の事業を忠実に受け継いでいく上でも、孝行の際に
親への絶対服従を固持したりするのではなく、親が過ちを犯した場合には諫言も辞さないぐらいの
自主性を持つべきだと「礼記」などにも記されているわけで、結局、先天的にであれ後天的にであれ、
自分が善行を為す上での肝心要となるのが、自らの自主性であることには変わりない。
自主性を排除して、全くの服従によってことを為したりする所にこそ、悪行がある。
服従的であれば絶対に悪行に結び付くわけでもないが、ある程度以上に劣悪な悪行は
ほぼ必ず卑屈な服従意識と共にある。自らの狂気によって近隣の児童を殺傷した神戸の少年Aも、
己れの狂気を「バモイドオキ神」などという架空神に仮託しての凶行に及んでいたわけで、
ある程度以上に非常識な凶行に走る人間というのは、必ずといっていいほど
そういった倒錯的な服従意識を原動力としているものなのである。
必ずしもではないが、自主性のほうが善行に結び付きやすく、服従性のほうが悪行に結び付きやすい。
特に、何物にも優先して自主性があることが善行に結び付きやすく、逆に何物にも優先して服従性が
あることが悪行に結び付きやすい。自主性によって拠り所を選んだり、服従的である中で自主的な
行いを為したりすることもあるが、何よりもまず優先すべきなのは、自主性のほうだといえる。
犯罪聖書の神への服従を捨てて、他の服従対象を探したりするのではなく、まず服従ありきなものの
考え方から卒業して、常にまず自主性がある生き方というものを、目指していくべきなのだといえる。
「先王の礼楽を制するや、〜将に以って民に好悪を平らかにすることを教え、人道の正しきに反らしんめんとすればなり」
「昔の聖王が礼楽による統制を実施したのは、それによって民たちに好悪の情を平らかにすることを教えて、
正しい人道に引き戻してやろうとしたからだ。(情念の汚濁を鎮めて自分たちの自性に返らせた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
服従的であれば絶対に悪行に結び付くわけでもないが、ある程度以上に劣悪な悪行は
ほぼ必ず卑屈な服従意識と共にある。自らの狂気によって近隣の児童を殺傷した神戸の少年Aも、
己れの狂気を「バモイドオキ神」などという架空神に仮託しての凶行に及んでいたわけで、
ある程度以上に非常識な凶行に走る人間というのは、必ずといっていいほど
そういった倒錯的な服従意識を原動力としているものなのである。
必ずしもではないが、自主性のほうが善行に結び付きやすく、服従性のほうが悪行に結び付きやすい。
特に、何物にも優先して自主性があることが善行に結び付きやすく、逆に何物にも優先して服従性が
あることが悪行に結び付きやすい。自主性によって拠り所を選んだり、服従的である中で自主的な
行いを為したりすることもあるが、何よりもまず優先すべきなのは、自主性のほうだといえる。
犯罪聖書の神への服従を捨てて、他の服従対象を探したりするのではなく、まず服従ありきなものの
考え方から卒業して、常にまず自主性がある生き方というものを、目指していくべきなのだといえる。
「先王の礼楽を制するや、〜将に以って民に好悪を平らかにすることを教え、人道の正しきに反らしんめんとすればなり」
「昔の聖王が礼楽による統制を実施したのは、それによって民たちに好悪の情を平らかにすることを教えて、
正しい人道に引き戻してやろうとしたからだ。(情念の汚濁を鎮めて自分たちの自性に返らせた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
イエスがイスラエルでの妄言妄動に及んでいた頃、すでに中国では漢帝国による
潤沢な礼楽統治が敷かれ、インドでも仏教振興による文化的な隆盛を迎えていた。
漢帝国が2100年前にはすでに、ペルシャやアレクサンドリアなどの国の存在も察知し、
それなりに使節をも向かわせていたことが「史記」などにも記録されている。さすれば、
2000年前に東方社会の隆盛がイスラエルやローマにまで聞き知られていなかったと、完全に
断定することもできない。とはいえ、当時の西方社会の人間の国際レベルでの社交性などは
知れたもので、古代のギリシャ人もシリア以東を「アジア」の一言で片付けるほどもの無知さ加減
だったわけだから、まあ、総体的にはまだまだ世間知らずの田舎者だったろうことが察せられる。
イエスもそのような、極西の部落社会の世間知らずな田舎者の一人だったに違いなく、
世界中を自らの教説によって征服する野望を抱いてみたところで、所詮はローマやその外縁を
征服するぐらいの視野でしかなかったはずである。それだけでイエスの抱いていたような
野望は満たされたことになるわけだが、哀しいかな、井の中の蛙であるイスラエルの部落民が
「全世界」と考えていたような世界なんてのは、本当の全世界のうちではごく一部の
部落社会でしかなかった。だから結局、キリスト教というものが全世界における多数派に
なるようなことは叶わず、大航海時代以降の暴力的な征服によっても、文化面から
キリスト教こそを世界の多数派が支持するものとさせることはついぞ叶わなかった。
存在性の根本からして、キリスト教やユダヤ教はその程度のものでしかあり得ない。
全世界を暴力によって「制覇」するぐらいのことはできた所で、完全な統治下に置いて
自分たちのものとするようなビジョンは始めから存在していない。だから、かつての
モンゴル帝国のように、世界中を暴力で荒らし回った挙句に自滅してしまうのが関の山で、
その先に何ら栄光や名誉などが待ち受けているわけでもないこともまた、原理的なことである。
その程度のものであることで、キリスト教やユダヤ教は始めから完全に満足しきっているのだから。
潤沢な礼楽統治が敷かれ、インドでも仏教振興による文化的な隆盛を迎えていた。
漢帝国が2100年前にはすでに、ペルシャやアレクサンドリアなどの国の存在も察知し、
それなりに使節をも向かわせていたことが「史記」などにも記録されている。さすれば、
2000年前に東方社会の隆盛がイスラエルやローマにまで聞き知られていなかったと、完全に
断定することもできない。とはいえ、当時の西方社会の人間の国際レベルでの社交性などは
知れたもので、古代のギリシャ人もシリア以東を「アジア」の一言で片付けるほどもの無知さ加減
だったわけだから、まあ、総体的にはまだまだ世間知らずの田舎者だったろうことが察せられる。
イエスもそのような、極西の部落社会の世間知らずな田舎者の一人だったに違いなく、
世界中を自らの教説によって征服する野望を抱いてみたところで、所詮はローマやその外縁を
征服するぐらいの視野でしかなかったはずである。それだけでイエスの抱いていたような
野望は満たされたことになるわけだが、哀しいかな、井の中の蛙であるイスラエルの部落民が
「全世界」と考えていたような世界なんてのは、本当の全世界のうちではごく一部の
部落社会でしかなかった。だから結局、キリスト教というものが全世界における多数派に
なるようなことは叶わず、大航海時代以降の暴力的な征服によっても、文化面から
キリスト教こそを世界の多数派が支持するものとさせることはついぞ叶わなかった。
存在性の根本からして、キリスト教やユダヤ教はその程度のものでしかあり得ない。
全世界を暴力によって「制覇」するぐらいのことはできた所で、完全な統治下に置いて
自分たちのものとするようなビジョンは始めから存在していない。だから、かつての
モンゴル帝国のように、世界中を暴力で荒らし回った挙句に自滅してしまうのが関の山で、
その先に何ら栄光や名誉などが待ち受けているわけでもないこともまた、原理的なことである。
その程度のものであることで、キリスト教やユダヤ教は始めから完全に満足しきっているのだから。
イエスが全世界とみなしていたごく一部の部落社会などではなく、本物の全世界においては、
キリスト教によって信じるものが救われ、信じぬものが救われないなどという道理が通らない。
全国全土がキリスト教に支配されたローマ国内において、信仰を拒むものが虐殺されたり
したとしても、全世界でその身勝手さが通用するようなことはあり得ず、無理に通用させよう
として大量破壊兵器による異教徒の殲滅などを試みたなら、自分たちまでもがその煽りを
受けての滅亡がまぬがれ得ない。自分たちよりも異教徒のほうが遥かに多数派なのだから、
異教徒全員を殲滅しようなどと試みたところで、自分たちのほうが先に絶滅して、
異教徒のほうが部分的に生き延びたりする可能性のほうがまだ高い。
キリスト教で、全世界が征服できると思ったことからして、すでに勘違いだった。
教祖イエスの「この教説なら世界が征服できる」という見込みも全くの当て外れなら、
それを信じて、イエスの教説に即した世界征服を試みたキリシタンの見込みもまた全くの当て外れ。
邪教というものは、勘違いや当て外れによってこそ生ずる。その間違いを無理に押し通そうとした
結果、世界中に災禍を振りまき、何らの偉大な成果も挙げられない。それが邪教の全てなのである。
「徳の流行は、置郵して命を伝うるよりも速やかなり」
「徳が世界に流行していく速度は、どんなに便利な手段によって命を宣べ伝えるよりも速い。
(徳が広がっていくときにはそれ程にも速やかなのだから、徳を宣教する必要などはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)
キリスト教によって信じるものが救われ、信じぬものが救われないなどという道理が通らない。
全国全土がキリスト教に支配されたローマ国内において、信仰を拒むものが虐殺されたり
したとしても、全世界でその身勝手さが通用するようなことはあり得ず、無理に通用させよう
として大量破壊兵器による異教徒の殲滅などを試みたなら、自分たちまでもがその煽りを
受けての滅亡がまぬがれ得ない。自分たちよりも異教徒のほうが遥かに多数派なのだから、
異教徒全員を殲滅しようなどと試みたところで、自分たちのほうが先に絶滅して、
異教徒のほうが部分的に生き延びたりする可能性のほうがまだ高い。
キリスト教で、全世界が征服できると思ったことからして、すでに勘違いだった。
教祖イエスの「この教説なら世界が征服できる」という見込みも全くの当て外れなら、
それを信じて、イエスの教説に即した世界征服を試みたキリシタンの見込みもまた全くの当て外れ。
邪教というものは、勘違いや当て外れによってこそ生ずる。その間違いを無理に押し通そうとした
結果、世界中に災禍を振りまき、何らの偉大な成果も挙げられない。それが邪教の全てなのである。
「徳の流行は、置郵して命を伝うるよりも速やかなり」
「徳が世界に流行していく速度は、どんなに便利な手段によって命を宣べ伝えるよりも速い。
(徳が広がっていくときにはそれ程にも速やかなのだから、徳を宣教する必要などはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)
古今東西を問わず、道理や真理は普遍的なもので、本来わざわざ文面におこすまでもない。
それでもあえてそれを文面におこしたなら、それは、四書五経や仏典のようになる。
文面におこそうと思えばおこせるのは、道理や真理にも少なからず「一概」な側面があるからで、
一概さが備わっているからには、その一概さを反転させることができる。たとえば、
道理でも真理でも是とされる理念に「中正(中庸、中道)」があるが、中正の反対には
両極端がある。中正に対して一概であることが理に適うのとは反対に、両極端であることに
対して一概であることが理に反することともなる。そうして道理や真理に反する「悪」が生ずる。
悪は正理の反対を行っているわけだから、意外と正理にも似ていたりする。
天使と悪魔みたいな、聖書圏における正義と悪のパブリックイメージは全くの虚構であり、
本物の道理や真理を基準とするなら、儒学や仏教こそは正義である一方、聖書信仰はそれ自体が
丸ごと悪の塊である。カトリックや正教も含む聖書信仰全体が悪そのものであるとしたならば、
いま人々が考えているような悪のパブリックイメージからはいささかかけ離れていて、それらが悪で
ある一方、儒学や仏教のほうが正義であるという断定には、なかなか納得がいきにくいものと思われる。
聖書信仰全体の中には、それなりに良さげなことも掲げられている。
モーセの十戒のうちにも、父母への尊崇や強盗殺人の禁止などのまともな戒律が一応は含まれているし、
人々に平和をもたらす、繁栄をもたらすといった、本物の正義においても最終目的とされるような
預言までもが存在していたりする。それでいてやはり聖書信仰が丸ごと悪であるのは、それらの
よさげな教義が所詮は虚飾の綺麗事止まりで、その具体的な実践手段にも乏しく、結局全体としての
教義の信仰や実践を心がけた以上は、破滅や滅亡こそが呼び込まれるものでしかないからだ。
聖書教義中の美辞麗句なども、そのような災禍を知らず知らずの内に呼び込ませる偽証としての
役割しか果たしていない。偽証も偽証で悪質なものであり、聖書教義の劣悪さを取り繕うどころか、
その編纂姿勢からの卑劣さを加味しての、より一層の粗悪さを裏付けるものともなっている。
それでもあえてそれを文面におこしたなら、それは、四書五経や仏典のようになる。
文面におこそうと思えばおこせるのは、道理や真理にも少なからず「一概」な側面があるからで、
一概さが備わっているからには、その一概さを反転させることができる。たとえば、
道理でも真理でも是とされる理念に「中正(中庸、中道)」があるが、中正の反対には
両極端がある。中正に対して一概であることが理に適うのとは反対に、両極端であることに
対して一概であることが理に反することともなる。そうして道理や真理に反する「悪」が生ずる。
悪は正理の反対を行っているわけだから、意外と正理にも似ていたりする。
天使と悪魔みたいな、聖書圏における正義と悪のパブリックイメージは全くの虚構であり、
本物の道理や真理を基準とするなら、儒学や仏教こそは正義である一方、聖書信仰はそれ自体が
丸ごと悪の塊である。カトリックや正教も含む聖書信仰全体が悪そのものであるとしたならば、
いま人々が考えているような悪のパブリックイメージからはいささかかけ離れていて、それらが悪で
ある一方、儒学や仏教のほうが正義であるという断定には、なかなか納得がいきにくいものと思われる。
聖書信仰全体の中には、それなりに良さげなことも掲げられている。
モーセの十戒のうちにも、父母への尊崇や強盗殺人の禁止などのまともな戒律が一応は含まれているし、
人々に平和をもたらす、繁栄をもたらすといった、本物の正義においても最終目的とされるような
預言までもが存在していたりする。それでいてやはり聖書信仰が丸ごと悪であるのは、それらの
よさげな教義が所詮は虚飾の綺麗事止まりで、その具体的な実践手段にも乏しく、結局全体としての
教義の信仰や実践を心がけた以上は、破滅や滅亡こそが呼び込まれるものでしかないからだ。
聖書教義中の美辞麗句なども、そのような災禍を知らず知らずの内に呼び込ませる偽証としての
役割しか果たしていない。偽証も偽証で悪質なものであり、聖書教義の劣悪さを取り繕うどころか、
その編纂姿勢からの卑劣さを加味しての、より一層の粗悪さを裏付けるものともなっている。
聖書信仰は、本物の善悪正邪を覆い隠す。そうして人々に悪逆非道を推進させるから、
誰も悪を悪とわきまえながら悪を為すようなことからしてない。だから悪ではないのではなく、
だからこそ真性の悪である。悪を悪だとわきまえながら悪を為すなんてことは人間には
不可能で、未だそのわきまえが疎かである限りにおいて悪行もまた推進されるものなのだから。
聖書信仰が未だ黙認されている現状の世界において、本物の正邪善悪は誰にもわきまえられていない。
正義も悪もいくらでも唱えられているというのに、誰一人として正義や悪の正体を見据えられてはいない。
だからまず、「誰も本物の正邪善悪を知らない」という前提に立ち返った上で、正しい善悪のわきまえを
養っていくべきだといえる。まず善悪を論ずるのではなく、未だ誰も善悪などわきまえられていないことを
思い知ることからやり直す。聖書信仰がもたらした史上最悪の災禍からの脱却も、そこからのみ可能となる。
「夫れ天は、未だ天下を平治するを欲せざるなり。如し天下を平治するを
欲すれば、今の世に当たりて我れを舍きて其れ誰ぞや。吾れ何為れぞ不予ならんや」
「天は未だにこの天下を平安に統治することを望んでおられない。もしも天下を平安に統治することを
望まれたなら、今の世で自分をおいて他に適任な補佐者がいるだろうか。どうしてめげたりする必要があろうか。
(天地懸隔、天道が是とも非ともなる実情をつぶさにわきまえてこそ、不遇にもめげない強さが養われる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一三より)
誰も悪を悪とわきまえながら悪を為すようなことからしてない。だから悪ではないのではなく、
だからこそ真性の悪である。悪を悪だとわきまえながら悪を為すなんてことは人間には
不可能で、未だそのわきまえが疎かである限りにおいて悪行もまた推進されるものなのだから。
聖書信仰が未だ黙認されている現状の世界において、本物の正邪善悪は誰にもわきまえられていない。
正義も悪もいくらでも唱えられているというのに、誰一人として正義や悪の正体を見据えられてはいない。
だからまず、「誰も本物の正邪善悪を知らない」という前提に立ち返った上で、正しい善悪のわきまえを
養っていくべきだといえる。まず善悪を論ずるのではなく、未だ誰も善悪などわきまえられていないことを
思い知ることからやり直す。聖書信仰がもたらした史上最悪の災禍からの脱却も、そこからのみ可能となる。
「夫れ天は、未だ天下を平治するを欲せざるなり。如し天下を平治するを
欲すれば、今の世に当たりて我れを舍きて其れ誰ぞや。吾れ何為れぞ不予ならんや」
「天は未だにこの天下を平安に統治することを望んでおられない。もしも天下を平安に統治することを
望まれたなら、今の世で自分をおいて他に適任な補佐者がいるだろうか。どうしてめげたりする必要があろうか。
(天地懸隔、天道が是とも非ともなる実情をつぶさにわきまえてこそ、不遇にもめげない強さが養われる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一三より)
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