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聖書 Part8


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263 2012/09/13(木) 15:08:28 ID:swwcOqdp.k
悟りをひらいた者こそは、悲観を捨てて楽観(常楽我浄)に入るのでも
あるからこそ、西洋人などなら「ニヒリズムだ」などとも決め付けかねない
ような教義的特徴をも持つ仏教が、東洋では真摯に貴ばれて来てもいる。

厳格すぎて気が狂う者も昔はよく居たという、座禅修行などを通じて悟りをひらくことで、
かえって「蠢動含霊のウジ虫に至るまで価値があることに気づく(山本玄峰)」という。

禅仏教こそは特定の神を尊崇したりすることもない、ニヒリズムにも最も近しい教義を持つが、
ニーチェやヒトラーの如き西洋のニヒリストと違って、禅僧は無宗教的な愛執に至るまで
全ての情念を捨離しきって、無念無想の極みの先にこそ悟りをひらく。そしてその悟りこそは
無闇に事物を軽視したり嫌悪したりすることもない、歓喜と恭敬とを兼ね備えてもいるのである。

それは、ニヒリズムを抱いた人間が必ずしも到れるような境地ではなく、適切な精進修行も介さない
限りにおいては到底、到れるものでもない。特に、無宗教的な愛執に至るまでの全ての情念を俗世で
振り切ることが極めて困難で、それに失敗してしまうからこそ、単なるニヒリストというのは概ね、
悲観にまみれた情念に囚われて、万事万物に対する軽蔑や嫌悪を抱くようになってしまうのである。

その悲観的な情念を楽観的な情念に転換するために、ニヒリストから神格信仰者へと転向するとする、
それが先祖崇拝程度に止まるのなら決して悪くはないし、架空の神仏を信仰対象とするのであっても、
当該の神仏の品質がそれなりに上等であれば、情念そのものの制御が効いて問題を来すことがない。

しかし、信仰の対象が全知全能の絶対超越神などであるために、まるで何でも買ってくれる
売春相手を溺愛する娼婦か何かのような心境に自らが陥ったとする。そしたらそのような対象を
信仰してしまったせいでどこまでも情念が激化することになり、その情念が「失神」によって楽観から
悲観に転じたりしたならば、自殺級の悪念に自らが見舞われるようなことにすらなってしまうのである。

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