何かにかけて一心不乱であることを、聖書圏の人間が「アスペルガー症候群」だの「モノマニア」だのと
いった言葉で病的に扱おうとすることがあるが、これもカルト洗脳の一環であると断ずるほかはない。
百姓も農作業に、工人も工作作業に一心不乱であってこそ自らの仕事を達成するのだから、何かにかけて
一心不乱であることこそは、人間にとっての欠くべからざる要素ですらあるといえる。にもかかわらず
その性向こそを病気扱いして、市場を傍観しての投機に走る悪徳商人あたりこそが必要とする能力でもある、
注意欠陥気味のなんでもし放題な心理こそを健康と見なしたりするのだから、これこそは完全なる顛倒だといえる。
百姓や工人が自らの正業に一心不乱であることによって仕事を成すのと同じように、士人もまた
模範的な者ほど仁徳に根ざした自らの仕事に専らであろうとする。「文明社会の原罪」たる商売を
専業とする者といえども、「売り手良し、買い手良し、世間良し」の三方よしを心がけるような
最低限の節度を保つのであれば、やはりそのために「ここまで」と押し止まる一線を持つはずなのである。
日本刀の刃ほどにも、鋭利かつ一直線なところに一筋であることこそは、人間にとっての実質的な「糧」となる。
そうであることによってこそ人は生きられる一方、そこから外れた所で人は無益な不善を為すしかなくなる。
然れば、何かに一心不乱である所にのみ正義もまたあるのだから、何もかもを為してしまおうとする不埒さを
非難することが許されようとも、正行に一心不乱であろうとする熱心さを非難していいなどということはない。
「仲尼は己甚だしきを為さざる者なり」
「孔先生は決して甚だしいことを企てたりはしない人だった。
(できるできない以前に、君子は甚だしいことなどやらないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一〇より)
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