仏典総合スレ
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華厳経全訳購入記念。ありそうでなかった仏典スレ。
仏教典籍(仏典)は基本、仏者が読み書きする典籍のことであり、
書き手だけでなく、読み手もまた一人前の出家修行者であることを前提としている。
(ただし、浄土経典などを例外とする)
一般人が仏典を読んで、それで意見を述べたからと言って「仏説」にはならないから、
もちろん仏典のうちにも入らない。おかしな逸話の多い禅僧である一休や良寛の著書が
仏典たり得たとしても、在俗の仏教学者である中村元の著書などは仏典ではあり得ない。
一般人にとって取っ付きづらい書物であるのは当然のことながら、仏典中に文学や思想哲学として極めて
優れたものが多いのも事実であり、漢訳大乗仏典の秀逸さなどは、人類史上でも未曾有のものですらある。
ただの文学としてみても、華厳経典こそは世界最高の文学だし、般若経典こそは世界最大の文学でもある。
中観部の論典こそは世界最高の哲学であるし、唯識部の論典こそは人間にとっての思想の極北でもある。
仮にここで仏典の感想を述べたところで、自分が正式な出家者でない以上は、仏説たり得ないし、
どんなに論及として優れていた所で、仏典の内に新たに組み込まれるようなこともない、ということを
重々承知の上で、何か書きたいことがあった場合に書く程度の、気軽な扱いのスレでよろしく。
仏教典籍(仏典)は基本、仏者が読み書きする典籍のことであり、
書き手だけでなく、読み手もまた一人前の出家修行者であることを前提としている。
(ただし、浄土経典などを例外とする)
一般人が仏典を読んで、それで意見を述べたからと言って「仏説」にはならないから、
もちろん仏典のうちにも入らない。おかしな逸話の多い禅僧である一休や良寛の著書が
仏典たり得たとしても、在俗の仏教学者である中村元の著書などは仏典ではあり得ない。
一般人にとって取っ付きづらい書物であるのは当然のことながら、仏典中に文学や思想哲学として極めて
優れたものが多いのも事実であり、漢訳大乗仏典の秀逸さなどは、人類史上でも未曾有のものですらある。
ただの文学としてみても、華厳経典こそは世界最高の文学だし、般若経典こそは世界最大の文学でもある。
中観部の論典こそは世界最高の哲学であるし、唯識部の論典こそは人間にとっての思想の極北でもある。
仮にここで仏典の感想を述べたところで、自分が正式な出家者でない以上は、仏説たり得ないし、
どんなに論及として優れていた所で、仏典の内に新たに組み込まれるようなこともない、ということを
重々承知の上で、何か書きたいことがあった場合に書く程度の、気軽な扱いのスレでよろしく。
華厳経が伝えているポイントを簡単に要約してくれ
華厳経(大方広仏華厳経)の要約書は仏典中にも万巻とあるようだが、
般若経典の場合の「般若心経」ほどにも、人口に膾炙しているものはないようだな。
>>1の書の解題で訳者(本職の禅僧)がすでに述べているが、法華経が華厳経の「おまけ」なわけ。
法華経ばかりをありがたがっている日蓮信者などもいるが、広大過ぎて掴みどころのない
華厳経の世界を、円熟期の釈迦の方便に載せたのが法華経(妙法蓮華経)なわけで、
法華経こそは、華厳経の最良の要約書であるとも言えなくはないわけだが。
弘法大師も「秘密曼荼羅十住心論」で、華厳こそを顕教中最高の教えとし、
法華をそれに次ぐものとしている。もちろん密教が全ての顕教以上だと大師は言われるが、
密教は強度の実践主義であり、実践によってこそ理解が可能となる密教経典をただ素読することには
大した意味がないとされる。だから、常人が参考として素読する上で最も価値のある経典となれば、
やはり顕教中最高である華厳宗の教義を記した、華厳経だということになる。
俺も、牛乳飲んでチキンカレー食ってたりするわけだから、全く以って仏道へのまい進など
ないままで仏典を読んだりもするわけで、自分で読むことに価値があるのも、せいぜい華厳経止まり。
般若経典の場合の「般若心経」ほどにも、人口に膾炙しているものはないようだな。
>>1の書の解題で訳者(本職の禅僧)がすでに述べているが、法華経が華厳経の「おまけ」なわけ。
法華経ばかりをありがたがっている日蓮信者などもいるが、広大過ぎて掴みどころのない
華厳経の世界を、円熟期の釈迦の方便に載せたのが法華経(妙法蓮華経)なわけで、
法華経こそは、華厳経の最良の要約書であるとも言えなくはないわけだが。
弘法大師も「秘密曼荼羅十住心論」で、華厳こそを顕教中最高の教えとし、
法華をそれに次ぐものとしている。もちろん密教が全ての顕教以上だと大師は言われるが、
密教は強度の実践主義であり、実践によってこそ理解が可能となる密教経典をただ素読することには
大した意味がないとされる。だから、常人が参考として素読する上で最も価値のある経典となれば、
やはり顕教中最高である華厳宗の教義を記した、華厳経だということになる。
俺も、牛乳飲んでチキンカレー食ってたりするわけだから、全く以って仏道へのまい進など
ないままで仏典を読んだりもするわけで、自分で読むことに価値があるのも、せいぜい華厳経止まり。
華厳経の成立時期は今から約1900年前。ちょうど、新約聖書の成立時期とほぼ全く同じ。
般若経典の成立がこれ以前で、般若経を拠り所とするような菩薩行の成果として、華厳思想が結実した。
特に、「中論」や「大智度論」の著者である竜樹菩薩が大乗仏教の主要な代表者とされるが、
竜樹が活躍していた頃にはすでに、華厳経や般若経の文面に相当するものは大方既存していて、
それを竜樹などが、今の経典に相当するような体裁に纏め上げたのだという。
華厳経や般若経の文面の初作者は、結局のところ不明。編纂者の竜樹ですらその経歴に不明な部分が
多いのだから、原作者が不詳なのもうべなることだといえるが、ただ、その歴史的な経緯からいって、
その原作者に相当する人間が、般若経についてはイエスよりもやや年上の人間であり、
華厳経についてはイエスとほぼ同年代の人間だったろうことが予想される。
ヤスパースが「枢軸時代」と呼ぶ、紀元前500年前後の世界的な文化交流の後、
まるでその後始末のように、人類史上最高の宗教書が大乗仏典としてインドに花開き、
逆に、世界を破滅に陥れる史上最悪の宗教書が新約聖書としてイスラエルに発生した。
西暦起源である今から2012年前の前後に、確かに人類社会は究極の転換点を迎えていた。
それは、イエスの生誕などではなく、大乗仏教の興隆にこそ、もっとも顕著なことだった。
その頃に、イスラエルではなくインドでこそ、人類による絶対真理の把捉が完遂されていたのだ。
般若経典の成立がこれ以前で、般若経を拠り所とするような菩薩行の成果として、華厳思想が結実した。
特に、「中論」や「大智度論」の著者である竜樹菩薩が大乗仏教の主要な代表者とされるが、
竜樹が活躍していた頃にはすでに、華厳経や般若経の文面に相当するものは大方既存していて、
それを竜樹などが、今の経典に相当するような体裁に纏め上げたのだという。
華厳経や般若経の文面の初作者は、結局のところ不明。編纂者の竜樹ですらその経歴に不明な部分が
多いのだから、原作者が不詳なのもうべなることだといえるが、ただ、その歴史的な経緯からいって、
その原作者に相当する人間が、般若経についてはイエスよりもやや年上の人間であり、
華厳経についてはイエスとほぼ同年代の人間だったろうことが予想される。
ヤスパースが「枢軸時代」と呼ぶ、紀元前500年前後の世界的な文化交流の後、
まるでその後始末のように、人類史上最高の宗教書が大乗仏典としてインドに花開き、
逆に、世界を破滅に陥れる史上最悪の宗教書が新約聖書としてイスラエルに発生した。
西暦起源である今から2012年前の前後に、確かに人類社会は究極の転換点を迎えていた。
それは、イエスの生誕などではなく、大乗仏教の興隆にこそ、もっとも顕著なことだった。
その頃に、イスラエルではなくインドでこそ、人類による絶対真理の把捉が完遂されていたのだ。
×世界的な文化交流の後
○世界的な文化興隆の後
仏典は、図書館でも今は持ち出し禁止になっている場合が非常に多い。
漢文はまだ、新釈漢文大系などの新版があるから借りて読めもするが、
>>1画の国訳一切経を含め、仏典は一部の主要経典を除いて、
ほとんどが昭和初期までで改版が滞ったままでいるから、
その稀少価値からも、図書館もおいそれとは貸し出してもくれない。
仏典を、本腰を入れて管理できるほど精進してる人間が、
今の日本にはもうほとんどいないってこと。
いちいち図書館に通って大経典を通読するのも難儀だから、
仕方なく高価な旧版の古本を買って読んだりもするが、
もっと気軽に仏典が読めるようになるに越したことはない。
戦国の争乱を平定して後、家康公が封禅の意図も込めて大蔵経を増刷したように、
仏典が人々の身近にあるか否かが、当世が治世か乱世かを判定する普遍基準ともなるのである。
○世界的な文化興隆の後
仏典は、図書館でも今は持ち出し禁止になっている場合が非常に多い。
漢文はまだ、新釈漢文大系などの新版があるから借りて読めもするが、
>>1画の国訳一切経を含め、仏典は一部の主要経典を除いて、
ほとんどが昭和初期までで改版が滞ったままでいるから、
その稀少価値からも、図書館もおいそれとは貸し出してもくれない。
仏典を、本腰を入れて管理できるほど精進してる人間が、
今の日本にはもうほとんどいないってこと。
いちいち図書館に通って大経典を通読するのも難儀だから、
仕方なく高価な旧版の古本を買って読んだりもするが、
もっと気軽に仏典が読めるようになるに越したことはない。
戦国の争乱を平定して後、家康公が封禅の意図も込めて大蔵経を増刷したように、
仏典が人々の身近にあるか否かが、当世が治世か乱世かを判定する普遍基準ともなるのである。
「大方広仏華厳経」八十巻本の国訳を読み始めた。
初っ端の世主妙厳品一の一から、尊格名の雨あられ。
こういう、群像キャラの大進行で話を押しきるような志向は、
戦隊シリーズやガンダムやドラゴンボールみたいな、男子向けのコンテンツでもよく流用されている。
軍隊として大陣形を組む時に、個々の兵士が武装や飾りに様々な工夫を凝らすことへの
憧れみたいなものが、男子には本能的に備わっているのだと思われる。
「可愛楽光明天王(かわいぎょうこうみょうてんのう)」とかの、
頭に「可愛」を冠した尊格が、複数名挙げられている。
「可愛い(かわいい)」は、実は仏語だったのだ。
他にも「我慢」とか「差別」とか「平等」とか、
今の日本語で多用されているような熟語が多数見受けられる。
「論語」級の有名書はともかく、紀元前の漢籍のほうが、今の日本人にとって
馴染みの薄いような熟語(流連荒亡、弁士一曲、釈遠謗近など)が多数出て来るし、
言葉遣いも今の日本人に取っ付き辛いようなものが多い。だから、日本人とっては、
太古の漢籍などよりも漢訳の仏典のほうが、読み下しでも読みやすかったりする。
初っ端の世主妙厳品一の一から、尊格名の雨あられ。
こういう、群像キャラの大進行で話を押しきるような志向は、
戦隊シリーズやガンダムやドラゴンボールみたいな、男子向けのコンテンツでもよく流用されている。
軍隊として大陣形を組む時に、個々の兵士が武装や飾りに様々な工夫を凝らすことへの
憧れみたいなものが、男子には本能的に備わっているのだと思われる。
「可愛楽光明天王(かわいぎょうこうみょうてんのう)」とかの、
頭に「可愛」を冠した尊格が、複数名挙げられている。
「可愛い(かわいい)」は、実は仏語だったのだ。
他にも「我慢」とか「差別」とか「平等」とか、
今の日本語で多用されているような熟語が多数見受けられる。
「論語」級の有名書はともかく、紀元前の漢籍のほうが、今の日本人にとって
馴染みの薄いような熟語(流連荒亡、弁士一曲、釈遠謗近など)が多数出て来るし、
言葉遣いも今の日本人に取っ付き辛いようなものが多い。だから、日本人とっては、
太古の漢籍などよりも漢訳の仏典のほうが、読み下しでも読みやすかったりする。
「汝、愛すべし」
これがすでに、華厳思想の一環。
誰かれ構わず愛しまくって濁愛に溺れるのではなく、愛すべきものを愛す。
だから「愛す可し」であり、愛す可きであるが故に、可愛い。
聖書信仰の「神の愛」のような、濁愛に溺れていた者が失神後に、一転して
嫌悪まみれのニヒリストになったりする。それは濁りから濁りへの振り切れだから、
むしろ、愛すべきものを愛するKAWAIIの精神が、より清廉なものとしてあてがえる。
今の漫画やアニメに限らず、昔の日本の戯画などにも、これ見よがしに可愛いものが
多々あるが、これも華厳思想を代表とする仏教思想に根ざしたものであり、
別に何の拠り所もなかったりするわけではない。
「可愛い」の精神の輸出は、それ自体がいっぱしの仏教思想の輸出にも
なっているわけで、何も漫画やアニメみたいな一部の分野ばかりに限らず、
もっと本格的に輸出されて然るべきものだと言える。
これがすでに、華厳思想の一環。
誰かれ構わず愛しまくって濁愛に溺れるのではなく、愛すべきものを愛す。
だから「愛す可し」であり、愛す可きであるが故に、可愛い。
聖書信仰の「神の愛」のような、濁愛に溺れていた者が失神後に、一転して
嫌悪まみれのニヒリストになったりする。それは濁りから濁りへの振り切れだから、
むしろ、愛すべきものを愛するKAWAIIの精神が、より清廉なものとしてあてがえる。
今の漫画やアニメに限らず、昔の日本の戯画などにも、これ見よがしに可愛いものが
多々あるが、これも華厳思想を代表とする仏教思想に根ざしたものであり、
別に何の拠り所もなかったりするわけではない。
「可愛い」の精神の輸出は、それ自体がいっぱしの仏教思想の輸出にも
なっているわけで、何も漫画やアニメみたいな一部の分野ばかりに限らず、
もっと本格的に輸出されて然るべきものだと言える。
「愛すべきもの」とは?
「愛すべきもの」とそうでないものとの違いは何なのか?
「愛すべきもの」とそうでないものとの違いは何なのか?
愛する対象は、そりゃあ人それぞれに決まってる。
自らの恋人だったり配偶者だったり、親だったり子だったり。
むしろ、愛する対象を「神の愛」だなんだで統制しようとするほうが、下衆なこと。
自ら愛すべきものを探し出し、真摯にそれを愛せという、愛と義務と自主性の合致、
それが本来の意味での「可愛」。愛すべきものを愛すことこそは、悟りにも繋がる。
だから悟りを拓いた瞬間の釈尊の周囲にも、「可愛」を名に冠する尊格が数多侍っていたのだ。
自らの恋人だったり配偶者だったり、親だったり子だったり。
むしろ、愛する対象を「神の愛」だなんだで統制しようとするほうが、下衆なこと。
自ら愛すべきものを探し出し、真摯にそれを愛せという、愛と義務と自主性の合致、
それが本来の意味での「可愛」。愛すべきものを愛すことこそは、悟りにも繋がる。
だから悟りを拓いた瞬間の釈尊の周囲にも、「可愛」を名に冠する尊格が数多侍っていたのだ。
「華厳経」世主妙厳品一の二(八十巻中二巻目)を読了。
さすが自力作善の聖道門の根本聖典なだけあって、如来を取り囲んでいた
数多の梵王や天王、天子らが、実際に衆生を救済し始める姿が描かれている。
他力の信者に対して「これこれこうしなさい、そしたら救ってあげよう」などと呼びかける、
浄土経などにも見られる記述形式ではなく、数多の天王が具体的に衆生を
どういう風に救っていくかということを、ごく能動的に述べている。
天台宗の五時教判では、「華厳経」にあるような悟りを拓いた釈尊が、布教による
衆生救済の菩薩行に臨む過程で、阿含経や般若経や方等経、そして法華経や涅槃経に
あるような教えを広めていったとする。中でも釈尊の円熟期の教えを述べたのが
法華経だから、法華こそは未熟な華厳の教えよりも上位にすらあると天台宗はしている。
しかし、その経典の成立年代からいって般若経→華厳経→法華経であり、般若経が
釈尊成道後の菩薩行に載せた言葉であるとするのは、些か不自然であるように思われる。
まず、般若経典にあるような中観修行があった上で、その後に華厳経典にあるような悟りが拓かれた。
釈尊の悟りを本気で再現しようとした数多の初期大乗仏教の沙門が、まずは般若思想に相当するような
一切皆空の修練に務めた。そしたら「真実不虚(般若心経)」という結論に至り、一斉に悟りを拓いた。
数多の大乗修行者が、釈尊に仮託した出家修行によって得た「真実不虚」の悟り、
その不虚なる真実をありのままに経典化したのが華厳経であり、さらにその文面を収斂したのが
法華経だったりする。(大乗の経典ではない阿含部の経典は、当然この内に入らない)
不虚なる真実のうちに、「愛す可し」もまたあるのであり、実際に世主妙厳品一の二でも、
「可愛」を頭に冠した数多の天王たちが、色々な手立てを尽くした衆生の救済にも臨んでいる。
上座部の出家者以上にも、自分たち自身で釈尊の悟りを再現するための柔軟な手管を尽くしていた、
大乗の修行者たちが導き出した結論として、原始仏典にはない「愛すべし」という教理もまたあった。
さすが自力作善の聖道門の根本聖典なだけあって、如来を取り囲んでいた
数多の梵王や天王、天子らが、実際に衆生を救済し始める姿が描かれている。
他力の信者に対して「これこれこうしなさい、そしたら救ってあげよう」などと呼びかける、
浄土経などにも見られる記述形式ではなく、数多の天王が具体的に衆生を
どういう風に救っていくかということを、ごく能動的に述べている。
天台宗の五時教判では、「華厳経」にあるような悟りを拓いた釈尊が、布教による
衆生救済の菩薩行に臨む過程で、阿含経や般若経や方等経、そして法華経や涅槃経に
あるような教えを広めていったとする。中でも釈尊の円熟期の教えを述べたのが
法華経だから、法華こそは未熟な華厳の教えよりも上位にすらあると天台宗はしている。
しかし、その経典の成立年代からいって般若経→華厳経→法華経であり、般若経が
釈尊成道後の菩薩行に載せた言葉であるとするのは、些か不自然であるように思われる。
まず、般若経典にあるような中観修行があった上で、その後に華厳経典にあるような悟りが拓かれた。
釈尊の悟りを本気で再現しようとした数多の初期大乗仏教の沙門が、まずは般若思想に相当するような
一切皆空の修練に務めた。そしたら「真実不虚(般若心経)」という結論に至り、一斉に悟りを拓いた。
数多の大乗修行者が、釈尊に仮託した出家修行によって得た「真実不虚」の悟り、
その不虚なる真実をありのままに経典化したのが華厳経であり、さらにその文面を収斂したのが
法華経だったりする。(大乗の経典ではない阿含部の経典は、当然この内に入らない)
不虚なる真実のうちに、「愛す可し」もまたあるのであり、実際に世主妙厳品一の二でも、
「可愛」を頭に冠した数多の天王たちが、色々な手立てを尽くした衆生の救済にも臨んでいる。
上座部の出家者以上にも、自分たち自身で釈尊の悟りを再現するための柔軟な手管を尽くしていた、
大乗の修行者たちが導き出した結論として、原始仏典にはない「愛すべし」という教理もまたあった。
一日一品、多くて二、三品。
あんまり根詰めて一気に読み通す気にもなれないな。
華厳経ともなると。
積ん読(つんどく)状態の本もあるにはあるがね、大体が近代以降の著作。
大古典を何度もじっくり読み通すことのほうが面白くて、
なかなか雑書に目を通すことにまでは頭が回らない。
儒学の衰亡と廃仏毀釈によって、近代以降の著作物は、
否応なく小人の書物ばかりと化してしまった。
資料として有益なことを述べている場合はあっても、
近代以降の文筆家の意見にまで感銘を受けるようなことは、
ほとんど皆無といっていいほどない。
むしろ、戦前までの軍人の手記などのほうが、
よっぽど読んで感慨を抱かされることが多い。
あんまり根詰めて一気に読み通す気にもなれないな。
華厳経ともなると。
積ん読(つんどく)状態の本もあるにはあるがね、大体が近代以降の著作。
大古典を何度もじっくり読み通すことのほうが面白くて、
なかなか雑書に目を通すことにまでは頭が回らない。
儒学の衰亡と廃仏毀釈によって、近代以降の著作物は、
否応なく小人の書物ばかりと化してしまった。
資料として有益なことを述べている場合はあっても、
近代以降の文筆家の意見にまで感銘を受けるようなことは、
ほとんど皆無といっていいほどない。
むしろ、戦前までの軍人の手記などのほうが、
よっぽど読んで感慨を抱かされることが多い。
「華厳経」世主妙厳品一の三(八十巻中三巻目)読了。
「妙荘厳鳩槃荼王は一切の衆生の愛欲の海を消竭する解脱門を得」とあり、
やはり大乗仏教でも、愛欲に溺れて正気を見失うことなどはよくないこととされていることが分かる。
一方でやはり、「可愛楽光明摩睺羅伽王」のような、「可愛」を冠した王が衆生の救済者としてこの品にも登場する。
その可愛楽光明摩睺羅伽王を含む複数の摩睺羅伽王が、衆生に善不善、福非福といった不平等に
あえぐ衆生を救済するとある。その方法は、煩悩を除いた清浄の悦楽を衆生に知らしめることであり、
ちょうど「愛欲の海」への惑溺から妙荘厳鳩槃荼王が衆生を救い出すことと符合している。
善悪正邪も、所詮は世俗社会の利害(公益)にまつわる判断基準でしかなく、物質的な利害を超越した
唯心論の観点からすれば、一つの虚妄であるとも見なせる。故に、善悪正邪の判断によって邪悪と
みなされ、故に社会的な福徳に与れないような者もまた、虚空の徳によって救い上げられることはある。
ただし、その過程で物質主義を排するから、金銭への執着なども当然捨て去ることにはなる。
この品に、「群品(ぐんぽん)」という言葉が出てくる。
大正蔵のデータベースで検索してみたら、多くの仏典で用いられている一方、主要な漢籍での初出は「後漢書」であり、
仏教が伝来した後漢の代に、仏典漢訳の際、仏語として「群品」が考案されたのだろうことが予想できる。
この「群品」という言葉、「古事記」の序文に「羣品」と、字を代えて引用されている。
古事記編纂者の太安万侶の存命中には、まだ華厳経も華厳宗も日本に渡来していなかったはずだが、
その安万侶が「群品」という仏語を、日本神道の原点といえる「古事記」の序文に引用している。
日本神道はその最原初の頃から、仏教文化の影響を受けつつ文書化されていったことが分かる。
「妙荘厳鳩槃荼王は一切の衆生の愛欲の海を消竭する解脱門を得」とあり、
やはり大乗仏教でも、愛欲に溺れて正気を見失うことなどはよくないこととされていることが分かる。
一方でやはり、「可愛楽光明摩睺羅伽王」のような、「可愛」を冠した王が衆生の救済者としてこの品にも登場する。
その可愛楽光明摩睺羅伽王を含む複数の摩睺羅伽王が、衆生に善不善、福非福といった不平等に
あえぐ衆生を救済するとある。その方法は、煩悩を除いた清浄の悦楽を衆生に知らしめることであり、
ちょうど「愛欲の海」への惑溺から妙荘厳鳩槃荼王が衆生を救い出すことと符合している。
善悪正邪も、所詮は世俗社会の利害(公益)にまつわる判断基準でしかなく、物質的な利害を超越した
唯心論の観点からすれば、一つの虚妄であるとも見なせる。故に、善悪正邪の判断によって邪悪と
みなされ、故に社会的な福徳に与れないような者もまた、虚空の徳によって救い上げられることはある。
ただし、その過程で物質主義を排するから、金銭への執着なども当然捨て去ることにはなる。
この品に、「群品(ぐんぽん)」という言葉が出てくる。
大正蔵のデータベースで検索してみたら、多くの仏典で用いられている一方、主要な漢籍での初出は「後漢書」であり、
仏教が伝来した後漢の代に、仏典漢訳の際、仏語として「群品」が考案されたのだろうことが予想できる。
この「群品」という言葉、「古事記」の序文に「羣品」と、字を代えて引用されている。
古事記編纂者の太安万侶の存命中には、まだ華厳経も華厳宗も日本に渡来していなかったはずだが、
その安万侶が「群品」という仏語を、日本神道の原点といえる「古事記」の序文に引用している。
日本神道はその最原初の頃から、仏教文化の影響を受けつつ文書化されていったことが分かる。
「華厳経」世主妙厳品一の四(八十巻中四巻目)読了。
ここまでですでに、華厳思想はヴァーストゥ・シャーストラ(インド風水)の影響を色濃く受けていることが分かる。
空神、風神、火神、水神、地神らが、他の数多の尊格と共に釈尊の悟りに共鳴している。
他にも海神や河神や林神や山神、そして金剛神なとが登場する。登場の順番は
空神→風神→火神→水神→海神→河神→林神→山神→地神→金剛神
であり、これは物質としての固着度ないし体積あたりの重力エネルギーの少なさの順番に並べているのだと思われる。
また、上記のような自然的存在ではなく、社会的存在を神格化した尊格までもが数多登場する。その順番は
空神→風神→火神→水神→海神→河神→稼神→薬神→林神→山神→地神→城神→道場神→足行神→身衆神→金剛神
であり、華厳思想が商業(稼)や医業(薬)を、君子業(城)や出家業(道場、足行)よりも下に置き、
それでいて出家業のさらに上に一切衆生の営み(身衆)を、金剛に次ぐものとして置いている事が分かる。
ここで「上下」と呼んだのは、この世主妙厳品の最後(一の五)に、仏を除く最高級の尊格である菩薩が登場するからで、
世主妙厳品一の一とは逆順で登場する一の二〜一の四の尊格たちは、少なくとも中盤から後半にかけては、
最初ほど下であり、最後ほど上であるという格付けで、順序だてて登場しているものと見なされるのである。
ただし、上記の空神の登場以前は
八部衆→昼神→夜神→方神→(空神→・・・)
という順序であり、むしろ尊格の格付けが下がっているようにすら見える。つまり、一端、登場する尊格の格付けが
下がった上で、また格付けが上がりつつ、最後には菩薩が登場するという「下がって上がって」の順列による登場である
と見なすことが妥当である。ちょうどこの内では「風神」が登場順位のど真ん中で、風神あたりが最も格が低い。だから
「平家物語」冒頭でも「たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」と、風にすらなびく塵の儚さが詠われてもいる。
ここまでですでに、華厳思想はヴァーストゥ・シャーストラ(インド風水)の影響を色濃く受けていることが分かる。
空神、風神、火神、水神、地神らが、他の数多の尊格と共に釈尊の悟りに共鳴している。
他にも海神や河神や林神や山神、そして金剛神なとが登場する。登場の順番は
空神→風神→火神→水神→海神→河神→林神→山神→地神→金剛神
であり、これは物質としての固着度ないし体積あたりの重力エネルギーの少なさの順番に並べているのだと思われる。
また、上記のような自然的存在ではなく、社会的存在を神格化した尊格までもが数多登場する。その順番は
空神→風神→火神→水神→海神→河神→稼神→薬神→林神→山神→地神→城神→道場神→足行神→身衆神→金剛神
であり、華厳思想が商業(稼)や医業(薬)を、君子業(城)や出家業(道場、足行)よりも下に置き、
それでいて出家業のさらに上に一切衆生の営み(身衆)を、金剛に次ぐものとして置いている事が分かる。
ここで「上下」と呼んだのは、この世主妙厳品の最後(一の五)に、仏を除く最高級の尊格である菩薩が登場するからで、
世主妙厳品一の一とは逆順で登場する一の二〜一の四の尊格たちは、少なくとも中盤から後半にかけては、
最初ほど下であり、最後ほど上であるという格付けで、順序だてて登場しているものと見なされるのである。
ただし、上記の空神の登場以前は
八部衆→昼神→夜神→方神→(空神→・・・)
という順序であり、むしろ尊格の格付けが下がっているようにすら見える。つまり、一端、登場する尊格の格付けが
下がった上で、また格付けが上がりつつ、最後には菩薩が登場するという「下がって上がって」の順列による登場である
と見なすことが妥当である。ちょうどこの内では「風神」が登場順位のど真ん中で、風神あたりが最も格が低い。だから
「平家物語」冒頭でも「たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」と、風にすらなびく塵の儚さが詠われてもいる。
風の隣りに、空がある。さらにその空の隣りに、「方」がある。
幾何(方)の先にある昼夜をも乗り越えて、仮に稼あたりが八部衆のような、
いかにも世俗での成功者然とした尊格にならんと目指したなら、
まず自分のすぐ隣りの「空」でつまずく。あえてその逆流を
踏み進んだとしても、その過程において必ず自分自身が皆空に帰す。
傍から読んでてもよく分からないだろうけど、そういうことになる。
顕教ではあるにしろ、やはり華厳思想だって、体得しているものがなければ、
ただ読んだだけでは理解できないだけのものを多々包摂している。
というか、ただ読んだだけでは理解できないものの集大成ですらある。
幾何(方)の先にある昼夜をも乗り越えて、仮に稼あたりが八部衆のような、
いかにも世俗での成功者然とした尊格にならんと目指したなら、
まず自分のすぐ隣りの「空」でつまずく。あえてその逆流を
踏み進んだとしても、その過程において必ず自分自身が皆空に帰す。
傍から読んでてもよく分からないだろうけど、そういうことになる。
顕教ではあるにしろ、やはり華厳思想だって、体得しているものがなければ、
ただ読んだだけでは理解できないだけのものを多々包摂している。
というか、ただ読んだだけでは理解できないものの集大成ですらある。
いかつい漢字術語のこけおどしの割に内容薄いなぁ。
いや君の論評じゃなくて、仏教全般が大昔からそういうスタンスで売ってるよね。
ウンタラカンタラ王とか俺ならバカバカしくなるがよく頑張って読めるね。
いや君の論評じゃなくて、仏教全般が大昔からそういうスタンスで売ってるよね。
ウンタラカンタラ王とか俺ならバカバカしくなるがよく頑張って読めるね。
それこそ、仏法こそは「愛すべし」でもある。
勧善懲悪のために容赦なく重罪人を罰していく儒学道徳を、
たとえば重罪人の立場から好きになろうたってそりゃあ無理な話で、
実際に儒書にも「憎んでその善を知れ(礼記)」とあるとおり、
むしろ憎まれるぐらいでこそ、悪逆非道に邁進する最悪の状態よりも薄皮一枚だけ上、
「悪鬼羅刹を踏み潰す明王さまの足の裏」としての冥利にも尽きるのだといえる。
仏弟子を愛するあまり、一緒に出家して比丘尼となった逸話(摩登女経)もあるように、
仏教こそは、愛欲すらも悟りに変えられるだけの度量を持っている。
未だ濁愛にまみれているのだとしても、「愛すべし」という大きな義務感を持って、
その愛を仏道への邁進に振り向けたなら、それこそ並み以上の大成すらもが期待できるというものなのに。
勧善懲悪のために容赦なく重罪人を罰していく儒学道徳を、
たとえば重罪人の立場から好きになろうたってそりゃあ無理な話で、
実際に儒書にも「憎んでその善を知れ(礼記)」とあるとおり、
むしろ憎まれるぐらいでこそ、悪逆非道に邁進する最悪の状態よりも薄皮一枚だけ上、
「悪鬼羅刹を踏み潰す明王さまの足の裏」としての冥利にも尽きるのだといえる。
仏弟子を愛するあまり、一緒に出家して比丘尼となった逸話(摩登女経)もあるように、
仏教こそは、愛欲すらも悟りに変えられるだけの度量を持っている。
未だ濁愛にまみれているのだとしても、「愛すべし」という大きな義務感を持って、
その愛を仏道への邁進に振り向けたなら、それこそ並み以上の大成すらもが期待できるというものなのに。
「華厳経」世主妙厳品一の五(八十巻中五巻目)読了。
八部衆や諸神に次いで、菩薩の登場。
ただ、その登場の仕方や語り口は今までと同じで、理論展開として新たなものは特に見当たらない。
個人的に、ここまで読み進んで来て、思わずニヤニヤと
不審な笑みを思わず浮かべるようになって来てしまった。
読んでて、意味が分かるから。
長年の漢文の読み込みのおかげで、>>17がウンタラカンタラで意味不明だと決め付けている
数多の尊格の名前の意味がスラスラと理解できる。尊格名以外の色々な仏語も、今までに知らなかったものも、
その字面を見るだけで大体意味が分かるから、言葉としてのいかつさなどよりも、術語としての巧みさのほうに興味が置ける。
たとえば「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩は、一念に無尽の成正覚門を現じて不思議の衆生界を教化し成熟する解脱門を得」
とあるとき、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩」という名の尊格が、「一念に……解脱門を得」という目的を実現することが
因果律に適っている。「キリスト(神の子)は死んで蘇った」という文章は、「キリスト(神の子)」という名の下に
「死んで蘇る」という目的が達成されることが全く因果律に適っていないため、文章として読んだ途端に、違和感を抱かされる。
しかし、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩が、一念に……解脱門を得る」という文章は、因果律が完全に満たされているから違和感を抱かせない。
尊格の名の意味も、尊格が為すことの内容も十分に理解できたなら、必ずその全ての記述が因果律にかなっていることが分かる。
無数の尊格が、自らの名の下に目的を実現していくその有り様が、全てことごとく因果律に適いきっているため、
まるで延々と落ち続ける滝の水を見ているときのような爽快感が、どこまでも続くのである。
八部衆や諸神に次いで、菩薩の登場。
ただ、その登場の仕方や語り口は今までと同じで、理論展開として新たなものは特に見当たらない。
個人的に、ここまで読み進んで来て、思わずニヤニヤと
不審な笑みを思わず浮かべるようになって来てしまった。
読んでて、意味が分かるから。
長年の漢文の読み込みのおかげで、>>17がウンタラカンタラで意味不明だと決め付けている
数多の尊格の名前の意味がスラスラと理解できる。尊格名以外の色々な仏語も、今までに知らなかったものも、
その字面を見るだけで大体意味が分かるから、言葉としてのいかつさなどよりも、術語としての巧みさのほうに興味が置ける。
たとえば「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩は、一念に無尽の成正覚門を現じて不思議の衆生界を教化し成熟する解脱門を得」
とあるとき、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩」という名の尊格が、「一念に……解脱門を得」という目的を実現することが
因果律に適っている。「キリスト(神の子)は死んで蘇った」という文章は、「キリスト(神の子)」という名の下に
「死んで蘇る」という目的が達成されることが全く因果律に適っていないため、文章として読んだ途端に、違和感を抱かされる。
しかし、「普得最勝燈光照菩薩摩訶薩が、一念に……解脱門を得る」という文章は、因果律が完全に満たされているから違和感を抱かせない。
尊格の名の意味も、尊格が為すことの内容も十分に理解できたなら、必ずその全ての記述が因果律にかなっていることが分かる。
無数の尊格が、自らの名の下に目的を実現していくその有り様が、全てことごとく因果律に適いきっているため、
まるで延々と落ち続ける滝の水を見ているときのような爽快感が、どこまでも続くのである。
因果律に適った論理構造の文章を読むことが、これほどにも違和感なく、
爽快なものであるのだということを思い知らされるせいで、思わずニヤニヤしてしまう。
これと比べれば、因果律が破綻している文章を読まされることには、
まるで糞詰まりのような精神的苦痛が伴っていることがよく分かる。
在俗の凡夫としての立場から華厳経を読んでいると、ある種の「憧れ」を抱かされる。
それは、ある時は歴戦の将兵に対して少年が抱く憧れのようであるし、またある時は、見目麗しい
美女にこれまた未熟な少年が抱く憧れのようである。自分が決して未熟な少年などではないとしても、
在俗の凡夫であるというのなら、より高度な境地にあることが確かである華厳思想に対して、
まるで未熟な少年が、自分よりも成熟した何ものかに対して抱くような憧れを抱かせるのである。
(おそらくこれが、仏門の出家修行者が自分たちを「坊主〈未熟者〉」と呼びたがる所以でもある)
現存の華厳経のような、現代人にはなかなか読み辛い漢訳仏典を、現代人でも読みやすいように
意訳するなり、要約するなりしたとする。そしたら、歴戦の将兵はまるでぬいぐるみの兵隊人形の
ようになり、美女は面会もできずに延々と匿名掲示板上だけで会話させられるかのようなザマとなる。
いずれも、未熟な少年だろうとも辟易して憧れを失うような代物となるわけで、初めから英雄や女が
そんなものでしかあり得ないと思い込まされた時には、二度と憧れなんかを抱くこともないだろう。
漢語や梵語の高度さこそは、明らかに現代日本語や西洋言語などと比べて別次元なものであり、
それをより低次元な言語表現に落とし込んだ時点で、必ず膨大な分量の意味の欠落を生ずる。
それによって、原文によってなら抱けるような憧れまでもが、始めから抱かれもしなかったり
することにもなるわけで、次元の低さに何もかもを落とし込もうとして、そのせいで不満の塊と
なった挙句にドッカンファビョンなるという悪循環の不実さが、今こそ神妙に汲み取れるのである。
爽快なものであるのだということを思い知らされるせいで、思わずニヤニヤしてしまう。
これと比べれば、因果律が破綻している文章を読まされることには、
まるで糞詰まりのような精神的苦痛が伴っていることがよく分かる。
在俗の凡夫としての立場から華厳経を読んでいると、ある種の「憧れ」を抱かされる。
それは、ある時は歴戦の将兵に対して少年が抱く憧れのようであるし、またある時は、見目麗しい
美女にこれまた未熟な少年が抱く憧れのようである。自分が決して未熟な少年などではないとしても、
在俗の凡夫であるというのなら、より高度な境地にあることが確かである華厳思想に対して、
まるで未熟な少年が、自分よりも成熟した何ものかに対して抱くような憧れを抱かせるのである。
(おそらくこれが、仏門の出家修行者が自分たちを「坊主〈未熟者〉」と呼びたがる所以でもある)
現存の華厳経のような、現代人にはなかなか読み辛い漢訳仏典を、現代人でも読みやすいように
意訳するなり、要約するなりしたとする。そしたら、歴戦の将兵はまるでぬいぐるみの兵隊人形の
ようになり、美女は面会もできずに延々と匿名掲示板上だけで会話させられるかのようなザマとなる。
いずれも、未熟な少年だろうとも辟易して憧れを失うような代物となるわけで、初めから英雄や女が
そんなものでしかあり得ないと思い込まされた時には、二度と憧れなんかを抱くこともないだろう。
漢語や梵語の高度さこそは、明らかに現代日本語や西洋言語などと比べて別次元なものであり、
それをより低次元な言語表現に落とし込んだ時点で、必ず膨大な分量の意味の欠落を生ずる。
それによって、原文によってなら抱けるような憧れまでもが、始めから抱かれもしなかったり
することにもなるわけで、次元の低さに何もかもを落とし込もうとして、そのせいで不満の塊と
なった挙句にドッカンファビョンなるという悪循環の不実さが、今こそ神妙に汲み取れるのである。
一日一品の寸評だけでも、明和のサーバが悲鳴を上げているよ。
意味は分かっていないよ。
分かっていないから、意味と意味との因果応報が
ことごとく成就している滋味深さを味わうこともできないままでいる。
因果律保存の滋味深さを味わえない所でこそ、
糞詰まりの悩乱からなる馬鹿の開き直りまでもが生じるのである。
分かっていないから、意味と意味との因果応報が
ことごとく成就している滋味深さを味わうこともできないままでいる。
因果律保存の滋味深さを味わえない所でこそ、
糞詰まりの悩乱からなる馬鹿の開き直りまでもが生じるのである。
「作者不詳の作り話のおとぎ話」
そりゃ新旧約聖書のほうだ。
大乗経典の作者:
釈迦個人の論弁や教義を杓子定規に受容することばかりに
終始している上座部仏教に反感を抱いた部派仏教の出家修行者
大乗経典の内容:
釈迦の成道以前の修行や布教活動なども参考に、より本格的な出家修行に
努めた大乗の仏者たちが得た悟りの心象などのありのままの表記
これほどにも、大乗経典の作者と内容とは、見るに明らかなものだ。
「マタイ」とか「ルカ」とか署名が明記されているから作者が明らかで、
「キリストは生き返った」と作中で何度も証言されているから
作り話おとぎ話ではないなどという転倒夢想の悩乱状態にあるのなら、
作者名も証言もされていない大乗経典の記述姿勢を以って、
「作者不詳の作り話のおとぎ話」などと決め付け苦しんだりするのかもしれないが。
そりゃ新旧約聖書のほうだ。
大乗経典の作者:
釈迦個人の論弁や教義を杓子定規に受容することばかりに
終始している上座部仏教に反感を抱いた部派仏教の出家修行者
大乗経典の内容:
釈迦の成道以前の修行や布教活動なども参考に、より本格的な出家修行に
努めた大乗の仏者たちが得た悟りの心象などのありのままの表記
これほどにも、大乗経典の作者と内容とは、見るに明らかなものだ。
「マタイ」とか「ルカ」とか署名が明記されているから作者が明らかで、
「キリストは生き返った」と作中で何度も証言されているから
作り話おとぎ話ではないなどという転倒夢想の悩乱状態にあるのなら、
作者名も証言もされていない大乗経典の記述姿勢を以って、
「作者不詳の作り話のおとぎ話」などと決め付け苦しんだりするのかもしれないが。
たとえば、釈尊がチョモランマの初登頂者だとする。
上座部の仏者は、その釈尊の偉業を称えて、初登頂
ならではの感興や、その登頂経路の保全だけに務めている人々。
大乗の仏者は、初登頂者としての釈尊の偉業を称えつつも、
自らもまたチョモランマに登頂することを志し、新たな登頂経路
なども開拓しつつ実際に頂上に登り詰めて、自らの言葉で
その感想を述べたりすることにも務めている人々。
どうあっても、人類として二度と「チョモランマの初登頂者」に
釈尊以外の誰かがなり得ることはないし、初登頂者ならではの、
登頂経路の新造などの労苦を、今さら誰かが繰り返したりする必要もない。
だから、釈尊以降の人間としての立場からすれば、チョモランマ登頂を
より一般化してくれている大乗の教義を受容するほうが、理に適っている。
ほとんど「遺跡保全係」も同然の存在である
上座部のほうに、興味本位の一般人がたかったりするほうが、
上座部の側にとっても迷惑千万なことにすらなり兼ねない。
上座部の仏者は、その釈尊の偉業を称えて、初登頂
ならではの感興や、その登頂経路の保全だけに務めている人々。
大乗の仏者は、初登頂者としての釈尊の偉業を称えつつも、
自らもまたチョモランマに登頂することを志し、新たな登頂経路
なども開拓しつつ実際に頂上に登り詰めて、自らの言葉で
その感想を述べたりすることにも務めている人々。
どうあっても、人類として二度と「チョモランマの初登頂者」に
釈尊以外の誰かがなり得ることはないし、初登頂者ならではの、
登頂経路の新造などの労苦を、今さら誰かが繰り返したりする必要もない。
だから、釈尊以降の人間としての立場からすれば、チョモランマ登頂を
より一般化してくれている大乗の教義を受容するほうが、理に適っている。
ほとんど「遺跡保全係」も同然の存在である
上座部のほうに、興味本位の一般人がたかったりするほうが、
上座部の側にとっても迷惑千万なことにすらなり兼ねない。
「華厳経」如来現相品第二(八十巻中六巻目)読了。
とにかく光、光、光、明、明、明、照、照、照の大プッシュ。
浄土門の阿弥陀仏も「無量光寿仏」の異名を取るけれども、そもそも仏教という宗教自体が、
尽十方をあまねく照らし尽くすことを目的とした「光の宗教」だったことが分かる。
光や闇ってのは、あくまで善徳や罪悪の比喩表現ではあるわけだが、
その光や闇といった象徴表現をそのまま当てはめるなら、
仏教・・・何もかもが光で満たされることを画策する。
悪魔信仰・・・何もかもが闇に蔽われることを画策する。
キリスト信仰・・・何もかもが闇に蔽われる中で、自分たちだけが限られた灯火に与ることを画策する。
であり、仏教が闇黒崇拝の悪魔信仰と相容れないのはもちろんのこと、
暗闇の中のともしびをありがたがる(暗いと不平を言うよりも、 すすんであかりをつけましょう)
キリスト信仰ともまた、根本的に相容れないものであったことが分かる。
仏教と悪魔信仰、仏教とキリスト教が全く相容れず、並存が全くの不能である一方で、
悪魔信仰とキリスト教は相容れるかどうかはともかく、並存が可能である。
尽十方が無辺に光で照らし出されたのでは、尽十方を暗闇で蔽おうと画策する者の立場はないし、
漆黒の暗闇の中でのともしびこそを愛でようとする者もまた、どこにも居場所がなくなることになる。
それとは違って、何もかもを暗闇で蔽い尽くそうとする者と、暗闇の中の限られた灯火を愛でようと
する者となら、志すところは違っていても、同じ場所に並存していることが一応可能となるのである。
光闇、明暗といった象徴表現は確かに、善悪正邪の微妙な相関法則を説明する、巧みな方便ともなっている。
とにかく光、光、光、明、明、明、照、照、照の大プッシュ。
浄土門の阿弥陀仏も「無量光寿仏」の異名を取るけれども、そもそも仏教という宗教自体が、
尽十方をあまねく照らし尽くすことを目的とした「光の宗教」だったことが分かる。
光や闇ってのは、あくまで善徳や罪悪の比喩表現ではあるわけだが、
その光や闇といった象徴表現をそのまま当てはめるなら、
仏教・・・何もかもが光で満たされることを画策する。
悪魔信仰・・・何もかもが闇に蔽われることを画策する。
キリスト信仰・・・何もかもが闇に蔽われる中で、自分たちだけが限られた灯火に与ることを画策する。
であり、仏教が闇黒崇拝の悪魔信仰と相容れないのはもちろんのこと、
暗闇の中のともしびをありがたがる(暗いと不平を言うよりも、 すすんであかりをつけましょう)
キリスト信仰ともまた、根本的に相容れないものであったことが分かる。
仏教と悪魔信仰、仏教とキリスト教が全く相容れず、並存が全くの不能である一方で、
悪魔信仰とキリスト教は相容れるかどうかはともかく、並存が可能である。
尽十方が無辺に光で照らし出されたのでは、尽十方を暗闇で蔽おうと画策する者の立場はないし、
漆黒の暗闇の中でのともしびこそを愛でようとする者もまた、どこにも居場所がなくなることになる。
それとは違って、何もかもを暗闇で蔽い尽くそうとする者と、暗闇の中の限られた灯火を愛でようと
する者となら、志すところは違っていても、同じ場所に並存していることが一応可能となるのである。
光闇、明暗といった象徴表現は確かに、善悪正邪の微妙な相関法則を説明する、巧みな方便ともなっている。
ここまで読んで、阿弥陀仏は別に、西方浄土を司る如来だから、
特定して光寿無量だったりするわけではないということが分かった。
尽十方を照らし尽くす内でも、日没する方角であるが故に暗愚をも想起させる
西方を照らし出すことを任された如来が、特に阿弥陀仏であるというだけのことで、
暗闇や、暗闇の中の灯火を愛でたがるような陰湿な性格の持ち主にまでも
光明の有難みを思い知らせることが、阿弥陀様に課された特有の使命だったのである。
ここに、悪人正機の謎もまた、解明されたといえる。
全ての如来は、諸方を照らし尽くすことを目的としているけれども、その中でも特に、
日没する西方を照らし出すことを担われたのが阿弥陀様だから、世界が暗闇と化すことを好むような、
最悪の悪人までをも救い取ることこそは、特定して阿弥陀様の使命でもあったのである。
だから、阿弥陀様による救済を欲する念仏信仰において、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という仏説もまた、生じたのである。
阿弥陀如来の他にも、一切衆生を救済することを任された如来は多数居らっしゃり、
それぞれに東方を照らしたり、北方を照らしたり、南方を照らしたり、西北方を照らしたりと、
縦横無尽の活躍をされることによって、尽十方の衆生を無量の光明で照らし出して、救い取る。
だから、日没する西方を好き好むような悪人の部類でもないのなら、わざわざ西方浄土を司る
阿弥陀如来ばかりに救いを乞う必要はないのであり、阿弥陀如来による救済についてこそ
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とのたまわれた親鸞聖人の悪人正機を、
善人でも悪人でもあり得る全ての人間に対して普遍的に適用したりするのは、おかしいのである。
悪人正機が、さも仏法上の根本命題として提唱されたかのようにすら思い込まれるきらいがあるのは、
それほどにも今の世界が、日没する西方を好き好む悪人ばかりで満たされているからなだけなのである。
特定して光寿無量だったりするわけではないということが分かった。
尽十方を照らし尽くす内でも、日没する方角であるが故に暗愚をも想起させる
西方を照らし出すことを任された如来が、特に阿弥陀仏であるというだけのことで、
暗闇や、暗闇の中の灯火を愛でたがるような陰湿な性格の持ち主にまでも
光明の有難みを思い知らせることが、阿弥陀様に課された特有の使命だったのである。
ここに、悪人正機の謎もまた、解明されたといえる。
全ての如来は、諸方を照らし尽くすことを目的としているけれども、その中でも特に、
日没する西方を照らし出すことを担われたのが阿弥陀様だから、世界が暗闇と化すことを好むような、
最悪の悪人までをも救い取ることこそは、特定して阿弥陀様の使命でもあったのである。
だから、阿弥陀様による救済を欲する念仏信仰において、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という仏説もまた、生じたのである。
阿弥陀如来の他にも、一切衆生を救済することを任された如来は多数居らっしゃり、
それぞれに東方を照らしたり、北方を照らしたり、南方を照らしたり、西北方を照らしたりと、
縦横無尽の活躍をされることによって、尽十方の衆生を無量の光明で照らし出して、救い取る。
だから、日没する西方を好き好むような悪人の部類でもないのなら、わざわざ西方浄土を司る
阿弥陀如来ばかりに救いを乞う必要はないのであり、阿弥陀如来による救済についてこそ
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とのたまわれた親鸞聖人の悪人正機を、
善人でも悪人でもあり得る全ての人間に対して普遍的に適用したりするのは、おかしいのである。
悪人正機が、さも仏法上の根本命題として提唱されたかのようにすら思い込まれるきらいがあるのは、
それほどにも今の世界が、日没する西方を好き好む悪人ばかりで満たされているからなだけなのである。
神道も光明を貴びはするが、最高神にして光明の源たるアマテラスからして、
スサノオの高天原での乱暴に怯えて岩戸隠れし、世を闇夜にしてしまったりする。
これは実際に毎日昇っては没している天体としての太陽に当てはまる性格だし、
陰陽法則からいっても、光明と闇とが代わる代わる世界を支配することのほうが普遍的ですらある。
しかし、仏教で如来がもたらすとされる無量の光明は、そのような陰陽法則にも根差さない。
昼神や夜神や火神とも別のものとしての、如来の悟りから溢れ出る無量の光明があり、
それが日没する西方を含む尽十方を無限に照らし尽くすというのだから、
もはや如来の光寿は陰陽法則すら守る気のないことが見て取れる。
これは、その地理的な緯度の低さからも、非常に強力な日光に日々さらされている
インドの人々ならではの考えのようで、ここまで陽性一辺倒な志向は西洋人はもちろんのこと、
日本人や中国人などの極東の人間にすらほとんど備わってはいない。
あまりにも光明一辺倒なものだから、
仏教という信教自体が、やはり陰陽法則に根差して世俗から立場を追われることがある。
華厳思想のような聖道門の教理も、武家社会の庶民にまで行き渡るようなことは
ほとんどなかったわけで、本格的な仏教が廃れざるを得ない末世におけるシェルターとして、
浄土門の念仏信仰などが置かれもしたのだった。
スサノオの高天原での乱暴に怯えて岩戸隠れし、世を闇夜にしてしまったりする。
これは実際に毎日昇っては没している天体としての太陽に当てはまる性格だし、
陰陽法則からいっても、光明と闇とが代わる代わる世界を支配することのほうが普遍的ですらある。
しかし、仏教で如来がもたらすとされる無量の光明は、そのような陰陽法則にも根差さない。
昼神や夜神や火神とも別のものとしての、如来の悟りから溢れ出る無量の光明があり、
それが日没する西方を含む尽十方を無限に照らし尽くすというのだから、
もはや如来の光寿は陰陽法則すら守る気のないことが見て取れる。
これは、その地理的な緯度の低さからも、非常に強力な日光に日々さらされている
インドの人々ならではの考えのようで、ここまで陽性一辺倒な志向は西洋人はもちろんのこと、
日本人や中国人などの極東の人間にすらほとんど備わってはいない。
あまりにも光明一辺倒なものだから、
仏教という信教自体が、やはり陰陽法則に根差して世俗から立場を追われることがある。
華厳思想のような聖道門の教理も、武家社会の庶民にまで行き渡るようなことは
ほとんどなかったわけで、本格的な仏教が廃れざるを得ない末世におけるシェルターとして、
浄土門の念仏信仰などが置かれもしたのだった。
如来がもらたす光とか、浄土の存在とか
そういう、諸々の大乗フィクションは、いわゆる方便の一つでしょう?
何百年もかけて発展した物語世界は、とてつもなく広がっていますが
そこを追いかけ、没入するばかりでは、本末が転倒してると思います。
あまり深入りするのは、良いとは思えません。
そういう、諸々の大乗フィクションは、いわゆる方便の一つでしょう?
何百年もかけて発展した物語世界は、とてつもなく広がっていますが
そこを追いかけ、没入するばかりでは、本末が転倒してると思います。
あまり深入りするのは、良いとは思えません。
自分が聖道門を盛り立てて行くことは愚か、
その価値を計り知る程度のことすらも覚束ない、
罪悪深重、煩悩最極重の小凡夫であることの、
頼まれてもいない内からの告白をわざわざどうも。
君ぐらいの程度の人間は、仏法の価値を計り知ることもできない内からの、
浄土教の方便に乗せられての、泣く泣くながらの被摂取不捨に引き続き喘いでいればいいよ。
聖道門の、十方に無尽に広がる法界の荘厳に価値がないというのなら、
少なくとも、それ以上に脆弱な、物質的な富の積み重ねや、
それらの宝飾による飾り立てにも価値はないのだといえる。
マンハッタンや東京の高層ビル群も、所詮は数百年以内の風化による崩壊が免れ得ず、
西洋の王候が好き好んで宝飾に用いていた宝石類なども、もはや価格協定すら解消されれば
いくらでも同等品が人工的に量産できるような時代となっている。
無限に積み重ねられようとする物質的な富もまた、
所詮は虚空に遍満する法界の荘厳以内の以下でしかなく、
普遍性という点では、虚空のほうが物質よりも遥かに上であることもまた確か。
「普遍的なものを追い求めよ」というのなら、
物質的な希求を捨てて、虚空の探求こそを本旨とすべきなのであり、
決して普遍的なものへの希求などではないことをわきまえた上で、
物質的な希求もまた為されるべきなのである。
それでこそ、物質的な欲望もまた程度が保たれて害が無くなるわけだから、
物質的な希求の儚さをわきまえるための手段としてだけでも、
虚空の荘厳を探求していくことには紛れもない価値があるのだといえる。
その価値を計り知る程度のことすらも覚束ない、
罪悪深重、煩悩最極重の小凡夫であることの、
頼まれてもいない内からの告白をわざわざどうも。
君ぐらいの程度の人間は、仏法の価値を計り知ることもできない内からの、
浄土教の方便に乗せられての、泣く泣くながらの被摂取不捨に引き続き喘いでいればいいよ。
聖道門の、十方に無尽に広がる法界の荘厳に価値がないというのなら、
少なくとも、それ以上に脆弱な、物質的な富の積み重ねや、
それらの宝飾による飾り立てにも価値はないのだといえる。
マンハッタンや東京の高層ビル群も、所詮は数百年以内の風化による崩壊が免れ得ず、
西洋の王候が好き好んで宝飾に用いていた宝石類なども、もはや価格協定すら解消されれば
いくらでも同等品が人工的に量産できるような時代となっている。
無限に積み重ねられようとする物質的な富もまた、
所詮は虚空に遍満する法界の荘厳以内の以下でしかなく、
普遍性という点では、虚空のほうが物質よりも遥かに上であることもまた確か。
「普遍的なものを追い求めよ」というのなら、
物質的な希求を捨てて、虚空の探求こそを本旨とすべきなのであり、
決して普遍的なものへの希求などではないことをわきまえた上で、
物質的な希求もまた為されるべきなのである。
それでこそ、物質的な欲望もまた程度が保たれて害が無くなるわけだから、
物質的な希求の儚さをわきまえるための手段としてだけでも、
虚空の荘厳を探求していくことには紛れもない価値があるのだといえる。
「華厳経」普賢三昧品第三(八十巻中七巻目)を読了。
この品は他品と比べて短編で、次の世界成就品第四と併せて七巻目とされる。
普賢菩薩が、十方の仏に頭頂を撫でられるという描写がある。
インド人は、子供でも他人に頭を撫でられることを嫌がるというが、インドでは、
目上の者が目下の者の頭を撫でることがれっきとした儀礼の内に入れられているから、
子供を褒めたりする目的でその頭を不用意に撫でるようなことをしてはいけないのである。
その他にも、密教などで、明王さまが悪鬼羅刹を踏み潰すといった描写が典型化されてもいる。
カーストのような大雑把な社会身分の区分けだけでなく、インドでは太古の文化習俗から、
諸々の事物の序列を執拗に秩序立てていくことが非常に好まれていることが分かる。
序列志向にも、良性のものと悪性のものがあり、良性の序列志向は、弱肉強食による
世相の荒廃を食い止めるための秩序を目的とする一方で、悪性の序列志向は、
弱肉強食の結果としての上下関係をそのまま絶対的な秩序にしてしまおうとする。
インドのカーストは儒学上の士農工商などと同様、商人を含む平民階級(バイシャ)と
士族階級(クシャトリヤ)が分断されているため、政商の横暴による世相の弱肉強食化が
事前に食い止められるようになっている。それだけでなく、祭司階級(バラモン)までもが
平民階級とは区別されるため、宗教利権が商売化して膨れ上がることまでもが禁止されている。
武家時代にすでに奴隷制が廃止されている日本の人間などからすれば、奴隷階級(スードラ)
までをも固定化してしまうインドのカーストを手放しに肯定する気にもなれない所があるが、
政商とその取り巻きだけが絶対的な支配者となり、それ以外の人間はすべて奴隷や家畜も同然の扱いを
受ける資本主義社会の秩序などよりは、まだ積極的な良心をカーストにも認めることができるのである。
この品は他品と比べて短編で、次の世界成就品第四と併せて七巻目とされる。
普賢菩薩が、十方の仏に頭頂を撫でられるという描写がある。
インド人は、子供でも他人に頭を撫でられることを嫌がるというが、インドでは、
目上の者が目下の者の頭を撫でることがれっきとした儀礼の内に入れられているから、
子供を褒めたりする目的でその頭を不用意に撫でるようなことをしてはいけないのである。
その他にも、密教などで、明王さまが悪鬼羅刹を踏み潰すといった描写が典型化されてもいる。
カーストのような大雑把な社会身分の区分けだけでなく、インドでは太古の文化習俗から、
諸々の事物の序列を執拗に秩序立てていくことが非常に好まれていることが分かる。
序列志向にも、良性のものと悪性のものがあり、良性の序列志向は、弱肉強食による
世相の荒廃を食い止めるための秩序を目的とする一方で、悪性の序列志向は、
弱肉強食の結果としての上下関係をそのまま絶対的な秩序にしてしまおうとする。
インドのカーストは儒学上の士農工商などと同様、商人を含む平民階級(バイシャ)と
士族階級(クシャトリヤ)が分断されているため、政商の横暴による世相の弱肉強食化が
事前に食い止められるようになっている。それだけでなく、祭司階級(バラモン)までもが
平民階級とは区別されるため、宗教利権が商売化して膨れ上がることまでもが禁止されている。
武家時代にすでに奴隷制が廃止されている日本の人間などからすれば、奴隷階級(スードラ)
までをも固定化してしまうインドのカーストを手放しに肯定する気にもなれない所があるが、
政商とその取り巻きだけが絶対的な支配者となり、それ以外の人間はすべて奴隷や家畜も同然の扱いを
受ける資本主義社会の秩序などよりは、まだ積極的な良心をカーストにも認めることができるのである。
「華厳経」如来現相品を改めて精察し直してみるに、
浄土三部経中の「無量寿経」などとは明らかに違う部分があった。
それは、「金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、硨磲、碼碯」といったような
物質的な宝物によって仏国土を飾るといった風な、下世話な描写がなかったこと。
尊格名や文中で「寶(宝)」という文字は無数に用いられているのに、世俗社会で
普遍的な価値があるとされるような、カタチある宝物による荘厳の描写がない。
達磨大師がまだインドの小国の王子だった頃、それはそれは見事な宝玉を見せられたことがあった。
兄弟たちは無条件にその美しさを褒め称えたものの、達磨だけは「確かにすばらしい宝玉ですが、
この宝玉も光を受けて輝いているだけに過ぎないのです」と評したという。
他から光を受けてこそ美しい輝きを放つ宝物を好むような俗人に対する方便として、
西方浄土もまた七宝のような実物の宝物によって飾られた国土として描かれたのであり、
そのような俗人に限らず、あらゆる人々を救い取ることを本是とした聖道門の聖典である
「華厳経」においては、「無量の光明によって尽十方を照らし尽くす」というところまでで救済の
表現までもが尽くされるのであり、具体的な宝物によって利益を象徴化することすらしないのである。
浄土三部経中の「無量寿経」などとは明らかに違う部分があった。
それは、「金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、硨磲、碼碯」といったような
物質的な宝物によって仏国土を飾るといった風な、下世話な描写がなかったこと。
尊格名や文中で「寶(宝)」という文字は無数に用いられているのに、世俗社会で
普遍的な価値があるとされるような、カタチある宝物による荘厳の描写がない。
達磨大師がまだインドの小国の王子だった頃、それはそれは見事な宝玉を見せられたことがあった。
兄弟たちは無条件にその美しさを褒め称えたものの、達磨だけは「確かにすばらしい宝玉ですが、
この宝玉も光を受けて輝いているだけに過ぎないのです」と評したという。
他から光を受けてこそ美しい輝きを放つ宝物を好むような俗人に対する方便として、
西方浄土もまた七宝のような実物の宝物によって飾られた国土として描かれたのであり、
そのような俗人に限らず、あらゆる人々を救い取ることを本是とした聖道門の聖典である
「華厳経」においては、「無量の光明によって尽十方を照らし尽くす」というところまでで救済の
表現までもが尽くされるのであり、具体的な宝物によって利益を象徴化することすらしないのである。
仏教が唯物論を外道に相手取った唯心論であることは、
大乗仏教か原始仏教かに依らず共通していること。
それも、「心の持ちよう」なんていう生易しいものではなく、
本当に心象の世界に、マンハッタンや東京の高層ビル群を上回る規模と、
デビアスの所蔵宝石を上回る宝飾とでの荘厳を尽くすのである。
心象の世界に構築される荘厳が、実物の宝物によって表現されたりするのは
まだ方便の内で、「無量の光」や「大海」などとして表現されることすら、本当は比喩の内である。
「心の持ちよう」というだけなら、今でも一般的に言われることだが、
その心の持ちようの体系的な強化によって、乞食並みの物質的貧窮からすら解脱することを
本気で画策していたのが、インドの沙門宗教の王者たる仏教なわけで、
それは確かに、未だ物質的欲望の際限なき貪りが容認されている時代においては
副次的な手段であり、中にはそのストイックさを鼻で笑うような
どぐされ外道もいたりするわけだけれども、封建社会のような、
物質的欲望の貪りが総出を挙げて戒められる社会においては本気で貴ばれるものだし、
世界的な資源不足や財政破綻の危機に見舞われている、これからの社会においても、
その価値が本気で見直されていかなければならないものだといえる。
大乗仏教か原始仏教かに依らず共通していること。
それも、「心の持ちよう」なんていう生易しいものではなく、
本当に心象の世界に、マンハッタンや東京の高層ビル群を上回る規模と、
デビアスの所蔵宝石を上回る宝飾とでの荘厳を尽くすのである。
心象の世界に構築される荘厳が、実物の宝物によって表現されたりするのは
まだ方便の内で、「無量の光」や「大海」などとして表現されることすら、本当は比喩の内である。
「心の持ちよう」というだけなら、今でも一般的に言われることだが、
その心の持ちようの体系的な強化によって、乞食並みの物質的貧窮からすら解脱することを
本気で画策していたのが、インドの沙門宗教の王者たる仏教なわけで、
それは確かに、未だ物質的欲望の際限なき貪りが容認されている時代においては
副次的な手段であり、中にはそのストイックさを鼻で笑うような
どぐされ外道もいたりするわけだけれども、封建社会のような、
物質的欲望の貪りが総出を挙げて戒められる社会においては本気で貴ばれるものだし、
世界的な資源不足や財政破綻の危機に見舞われている、これからの社会においても、
その価値が本気で見直されていかなければならないものだといえる。
「華厳経」世界成就品第四(八十巻中第七巻目)読了。
普賢菩薩が観察した広大な世界海の有り様を流麗な頌歌と共に述べてゆく。
ここでもやはり、即物的な世界の荘厳は極力控えられ、辛うじて「宝樹」とか
「宝冠」とかいったような漠然と物品を表すような言葉が用いられるのみ。
だからこそ、菩薩の境地に至ることで初めて目前に開かれる世界の広大さへの想像力までもが
かき立てられるわけだが、そうして世界観の広大さを間接的にでも思い知らされることが、
思い知らされた人間の脳の記憶情報を最適化する役割までをも果たせるようである。
人間の脳をPCの部位に喩えると、前頭葉が長期記憶を司るハードディスクに当たり、
側頭葉が短期記憶を司るメモリと、情報処理を司るCPUの役割を果たしている。
PCにCPUの性能以上の情報処理を任せると稼働率100%となって、処理が滞るし、
メモリに容量以上の短期記憶を蓄積させようとすると、過剰な記憶情報がハードディスク上の
ページングファイルに回されたりするために、非常に情報の出し入れが遅くなってしまう。
人間の脳でいえば、上記のような状態は「考えが煮詰まる」という状態であり、
煮詰まって悩乱状態となるのを避けるためには、あまりものを考えすぎないようにしたり、
数独のような脳トレを行って、CPUとしての脳の情報処理力や、メモリとしての脳の
短期記憶力を鍛え上げたりすることが、今でも一般的に試みられている。
しかし、仏教は上記のような方法とはまた別の方法によって、人間の脳が考えを煮詰め過ぎないようにする。
華厳経の世界成就品にあるような、広大な世界観を信者なり出家者なりが体得する。
すると、今まで自分の脳内に蓄積されて来た、俗世に関する雑多な知識や考え方がすべて
俯瞰できるようになる。俯瞰することによって、間違った知識や考え方(断片化したファイル)を
整理して、正しい知識や考え方へと再構築する(デフラグする)ことができるようになる。
普賢菩薩が観察した広大な世界海の有り様を流麗な頌歌と共に述べてゆく。
ここでもやはり、即物的な世界の荘厳は極力控えられ、辛うじて「宝樹」とか
「宝冠」とかいったような漠然と物品を表すような言葉が用いられるのみ。
だからこそ、菩薩の境地に至ることで初めて目前に開かれる世界の広大さへの想像力までもが
かき立てられるわけだが、そうして世界観の広大さを間接的にでも思い知らされることが、
思い知らされた人間の脳の記憶情報を最適化する役割までをも果たせるようである。
人間の脳をPCの部位に喩えると、前頭葉が長期記憶を司るハードディスクに当たり、
側頭葉が短期記憶を司るメモリと、情報処理を司るCPUの役割を果たしている。
PCにCPUの性能以上の情報処理を任せると稼働率100%となって、処理が滞るし、
メモリに容量以上の短期記憶を蓄積させようとすると、過剰な記憶情報がハードディスク上の
ページングファイルに回されたりするために、非常に情報の出し入れが遅くなってしまう。
人間の脳でいえば、上記のような状態は「考えが煮詰まる」という状態であり、
煮詰まって悩乱状態となるのを避けるためには、あまりものを考えすぎないようにしたり、
数独のような脳トレを行って、CPUとしての脳の情報処理力や、メモリとしての脳の
短期記憶力を鍛え上げたりすることが、今でも一般的に試みられている。
しかし、仏教は上記のような方法とはまた別の方法によって、人間の脳が考えを煮詰め過ぎないようにする。
華厳経の世界成就品にあるような、広大な世界観を信者なり出家者なりが体得する。
すると、今まで自分の脳内に蓄積されて来た、俗世に関する雑多な知識や考え方がすべて
俯瞰できるようになる。俯瞰することによって、間違った知識や考え方(断片化したファイル)を
整理して、正しい知識や考え方へと再構築する(デフラグする)ことができるようになる。
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