古来から、権力犯罪者の最終的な処断方法の第一は「自殺」と決まっている。
周の武王に追い詰められて自ら首を斬った殷の紂王、閻楽に自殺か殺されるかを選ばされ自殺した統一秦帝国二世皇帝胡亥、
明智光秀の謀反を受けて、もはやこれまでと観念し、寵童森蘭丸の介錯を受けて割腹自殺した織田信長など、
未だ大権を牛耳っていた余韻を受けて、まともな法的処分の適用が見込めないが故に、自殺しか選択肢がなくなってしまう。
権力犯罪というのは、その社会の法律や倫理的方向性までをも左右できる最高権力者によって行われるものであるため、
もはや法律や仮初めの倫理学などに基づいて処分する見込みが立たない。それでもやはり、普遍的な道徳と犯罪の区分けを
規定する道理があり、その道理をさらに普遍的な基準に基づいて是認する真理もある。人間如きの恣意ではどうしようもない
普遍的な道理や真理に抗い続けた挙句、どうしようもなくなる、かといってもはや法律や倫理学をも私物と化してしまっている
最高権力者には、法律などに基づいて自己処分を行う目処が立たない。だから自殺するしか余地がなくなってしまう。
あくまで法的処分を超えた領域での話なので、自殺教唆か否かを法的な問題として法律家が提起する資格もない。
キリスト教では自殺が禁止されていることになっているが、これはアウグスチヌスによる上座部仏教からの剽窃なので、
キリスト教徒であるのなら守る必要はない。儒学は権力犯罪を抑制防止する権力道徳の学問だし、仏教は道徳か犯罪かに拠らず
権力意志全般を否定する超俗型宗教。儒学や仏教の実践に努めている人間が、権力犯罪の責任をとって自殺したりすることもない。
「古訓に由らずんば、何に于てか其れ訓えん」
「古えからの教訓に拠らないのでは、何を学ぶことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
返信する