レス数が 500 を超えています。残念ながら全部は表示しません。

聖書 Part4


▼ページ最下部
001 2010/07/09(金) 12:21:45 ID:cniUDIcNaM
代表的な聖書:

四書五経・・・儒学(主に朱子学)の聖書。「聖人が書いた書物」という意味を持つ「聖書」の語源ともなっている、聖書中の聖書。
「論語」「大学」「中庸」「孟子」の四書、「易経」「詩経」「書経」「礼記」「春秋経(とその注釈書である左氏伝)」の五経を指す。
日本では儒学の聖書を指す固有名詞として広く用いられているが、本国中国では、朱子学上の経書分類である「四書五経」に
「孝経」「周礼」「儀礼」「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」「爾雅」を併せ、朱子が「礼記」から抜き出した「大学」と「中庸」を元に戻して
「十三経」という呼び方もなされる。これら全てに細密な注疏を加えた「十三経注疏」もあり、注釈書を含めた勉強の範囲は、
ほとんど一人の人間が一生のうちに学び尽くせないほどにも広範囲に渡っている。ちなみに人類史上最大のベストセラーでもある。

新旧約聖書・・・ユダヤ=キリスト両イスラエル教の聖書。権力犯罪加害を寓意的に正当化した旧約聖書と、権力犯罪被害を
イエスの磔刑で美化した新約聖書の二つがあり、ユダヤ教は旧約聖書のみを、キリスト教は新旧約聖書両方を信仰対象とする。
目的語抜きの「聖書」として、あたかも聖書の代表格のように扱われることがあるが、これは儒学用語である「聖書」の
剽窃であり、他にも「義」とか「(洗)礼」とかいった儒学用語の剽窃とその悪用が、日本語訳の聖書などには多々見られる。
同じ「義」や「礼」といった言葉を用いてはいても、その意味は四書五経とは全く異なっており、四書五経が権力道徳の堅持を
目的として「義」や「礼」といった言葉を用いるのに対し、新旧約聖書は権力犯罪の正当化や美化のために用いている。

他にもヒンズー教の「ヴェーダ」や「ウパニシャッド」、拝火教の「アヴェスター」などが代表的な聖書として挙げられる。
仏典も聖書でないとはいえないが、その分量が桁外れに膨大である上、仏教は文章信仰を否定する教義を持ち、あまり適切でない。
ここでは主に「聖書」の語源でもある四書五経について語り、不必要かつ有害無益な存在でありつつも、未だその災禍が収拾
しきらない新旧約聖書についても「反面教師」としては語るかもしれない。本当は、新旧約聖書は語らずにも済むのがなにより。

返信する

002 2010/07/09(金) 15:36:12 ID:dtbiES/pDQ:au
聖書よりも、道徳教育の教科書を読みなさい

返信する

003 2010/07/09(金) 17:01:27 ID:cniUDIcNaM
四書五経こそは、まじりっけなし純度100%の、道徳の教科書。
これと比べれば、今の学校向けの道徳や倫理の教科書のほうが不純物だらけ。
そっちのほうを読んで、「道徳や倫理なんてどうでもいい」と思ってしまってたとしても仕方がない。

道徳学こそは勉学の王道であった頃には、それ相応の教育材料があり、中でも代表的だったのが四書五経。
道徳が個人の内面問題に止まらず、社会を形成していく上での要項としても重視され、三綱や五常といった
具体的な理念に基づいて、犯罪行為や不当行為を未然に防止していく「権力道徳」にまで昇華されている。
そしてそれこそは本物の道徳であり、個人の内面問題に押し込められた道徳などのほうが紛い物。

社会だって人間によって形成され、人間が形成する以上は性情を持つ。その性情を道徳によって正していけば
世の中は平穏無事となるが、放辟邪侈freedomを煽って犯罪を推進すれば乱れに乱れ、多くの犠牲者をも生む。
今の道徳倫理教育などは、そのような社会性への具体的な連絡を欠いており、宗教の自由などを無条件に
認めることで、結局は世の中を権力犯罪の渦に巻き込むことも黙認してしまっている。そんな紛い物の
道徳倫理教育などではなく、社会全体が一丸となって道徳の堅持に取り組む、権力道徳からの教育こそが
いま必要とされている。権力犯罪を打ち滅ぼすだけの具体的な権力道徳は、既存のものとして実在している。

返信する

004 2010/07/09(金) 18:23:39 ID:G6Xjo7G5O6:SoftBank
こういう奴が通り魔犯罪犯したりするんだろうな。
「犯人はわけのわからないことを繰り返しており・・・」
「余りにも幼稚な自己正当化」
て言われそう

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:381 KB 有効レス数:501 削除レス数:0





思想・哲学掲示板に戻る 全部 次100 最新50

スレッドタイトル:聖書 Part4

レス投稿