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聖書 Part11


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001 2013/06/16(日) 15:37:27 ID:voWxfHmpxE
人間社会を司る体系化された思想信条の聖書として、
全世界においてその立場を揺るぎないものとしている権力道徳聖書、通称四書五経。

今となっては、その主要な編纂者や登場人物である孔子や孟子が至上の学聖として
崇められてもいるが、決して本人たち自身は恵まれた人生ばかりを送ったわけでもない。
すでに徳治の実践自体が疎かにされていた春秋戦国時代の中国で、せめてでも古来からの
権力道徳を保全しておこうとする目的で、儒者(学究者)という身分に即した学問の興隆
を試みていた。その結果として、周代までは専ら王侯の嗜むものであった権力道徳学が
市井に到るまで広く受容されることとなり、儒学道徳が「権力のための道徳」に止まらない、
「人間のための道徳」としてまで人口に膾炙されることとなったわけだから、孔子や孟子が
在野の学者として儒学を温めてくれたことも、人類にとっては「怪我の功名」になったのだといえる。

とはいえ本来は、儒学が考究対象とする道徳学もまた、国家権力を司ることこそを第一の
目的とした帝王学でこそあるわけだから、ただの学者や庶民としての受容に止まるよりは、
天下国家に名を馳せる大権力者として儒学を受容することこそが本望ともなるのである。

だから、孔子や孟子を儒学の大成者として尊ぶべきであるとはいえ、在野の学者に甘んじさせられた
その境遇までをもわざわざあえて見習ったりする必要はない。特に、孔子は妾腹の私生児という
それはそれは恵まれない境遇に生れ落ちながら、その逆境をばねにしての自学自習によって儒学の
始祖ともなったわけだから、その努力的な姿勢にあやかるべきである一方で、妾腹の私生児のような
立場であることを自ら恥としたその奥ゆかしさをも見習うべきなのである。故に、孔子がそのような立場
だからといって、妾腹の私生児のような立場自体を崇めたりするようなことがあってもならないのである。

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271 2013/08/07(水) 12:57:42 ID:e71clQHkRE:au
旧約の作文者である古代ユダヤ人も「政商」という、ろくに王侯にすら謙らなくても
いい程に莫大な金券を擁した商売人であった。そのような連中の、誰にも謙りたくない
願望を無制限に叶え尽くしてやろうとしたのが他でもない聖書信仰であり、その結果として、
金持ちなら王侯にすら謙らなくて済む奇形的な封建制が築かれたり、逆に、商売人を
含む民間人全体が公人に謙らなくて済む民主制などが推進されたりした。結局いずれも、
政商などという極悪人ならではの度し難い性向を公権力者や民間人にまで伝染させて
やろうとした試みに過ぎなかったわけで、その根底の所にあった醜悪な意図を見破り
ながら、人々もまた聖書信仰に即した世の中の破壊実験を終了させて行くべきだといえる。

「恭敬は幣の未だ將げざる者なり」
「本物の恭しさや敬いというのは、未だ贈り物すら捧げられないような所にこそ生ずる。
(恵みを与えたからといって自分を敬い誇れなどという物言いからして全くの不実である)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――孟子・尽心章句上・三七より)

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272 2013/08/07(水) 13:17:23 ID:pZdEcVrBag
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273 2013/08/07(水) 13:19:24 ID:8XCiuGis8c
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274 2013/08/07(水) 15:43:11 ID:xEe.IBtGnI
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275 2013/08/07(水) 15:44:17 ID:8XCiuGis8c
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276 2013/08/08(木) 14:09:26 ID:1kyDoV/ymA
人間の脳内には、現実よりも清浄な理念を思い描くこともできれば、
現実よりも汚濁まみれな妄念を思い描くこともできる。

日本の伝統文化である「穢れ」の風習などは前者であり、法律で罪と規定されている
わけでもないようなちょっとした悪行すらをも穢れとして忌み避けたりすることが、
本当に厳罰にも処さねばならなくなるような犯罪行為すらをも予防する効能を持ち得たりする。

自分の脳内だけで「罪は赦された」などと思い込んで、殺人や強盗の如き明らかな
重罪すらをも開き直ったりすることがあるとすれば、そのような開き直りの原動力と
なっているような思考こそは、現実よりも汚濁まみれな妄念であるといえる。

前者のような理念はむしろ抱いていたほうがいいぐらいである一方、後者のような妄念は
むしろ抱かないでいたほうがよい。実質的には許容範囲内であるような些細な悪行すらをも
穢れとして忌み避けるのは推奨される一方、現実的にも赦し得ないような悪行までをも
開き直ろうとするような妄念を抱いたりすることは、できる限り控えられねばならない。

そして、前者のような心意気の持ち主こそは社会的にも優遇されて、立派な所帯も持てたりする
ようにしてやるべきである一方、後者のような心持ちに陥ってしまうような人間は、社会的な
信用を失って、場合によっては禁治産のような措置すらをも被るようにすべきだと言える。

現実よりも清浄な理念と共に生きて行こうとする所にも、すがすがしい感慨が得られるし、
現実よりも汚濁まみれな妄念と共に生きて行こうとする所にも、独特の陶酔が伴う。
単なる快感の度合いでは、前者よりもむしろ後者のほうが上であり、それこそ、麻薬中毒
もいいとこな酩酊に見舞われるものである。快楽をどこまでも貪り尽くそうなどとする
ような不埒さと共にあるのならば、当たり前のようにして濁念を抱きがちなものであり、
まずそのような不埒さから脱却して行くのでなければ、濁念の誘惑に打ち克つことも覚束ない。

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277 2013/08/08(木) 14:12:46 ID:1kyDoV/ymA
箕子による東夷での為政の名残りをも持ち越していた古代の日本においては、ちょっとした
軽罪を犯しただけでも「妻子」と共に罰せられ、所帯持ちとしての威厳を損なわれていたと
「魏志倭人伝」にもある。親族連帯刑などは、人権ばかりが重要視されている現代などには
そうそうには復活できるものではないが、罪を犯すようなものからこそは、所帯を持つ権限をも
失わせるようなかつての東夷の風習(「漢書」東夷伝を参照)ぐらいは復活させてもいいだろう。

罪を犯すということ全般が「穢れ」と見なされて、もはや罰によって罪を償った後にすら、
「穢れ持ち」としての忌み嫌われによって、嫁をもらうこともできなくなったりしたならば、
誰も始めから罪を犯したりしないようになり、年がら年中家の門戸を開け放しにしておいても、
誰も夜盗や強盗を働こうとすらしなくなる。それこそ、実際以上にも清浄な心持ちによって、
現実社会すらもがより清浄なものへと引き上げられる実例となるわけで、そういったことは、
実際に殷代の中国や、箕子が治めていた頃の東夷諸国などでも実現されていたことなのである。

むしろ、清浄な心持ちの持ち主にこそ妻と睦み合う権利をも与えてやる一方で、
汚濁まみれな心持ちの持ち主には、ろくに人と愛し合うような権利も与えてやらない。
浄心を極める上に妻帯も禁じられる出家行など以前のものとして、世俗社会の範囲に
おいてもそのような風習を推し進めて行くようにする。場合によっては、親族連帯刑
のような厳罰すらをも講じながら。それでこそ罰を科さねばならないような犯罪行為
からして減って行くのだから、これこそはまさに、人を活かすための刀であるといえる。

「凡そ厥の庶民、猷有り為有り守有らば、汝じ則ち之れを念え。
極に協らざるも、咎に罹らざれば、皇いに則ち之れを受けよ」
「およその諸々の民たちのうちでも、思慮や手腕や節操のある者がいれば、これを重視せよ。
その行いが完璧とまでは行かずとも、最低の悪行を犯しているのでもなければ、大いに受け入れてやれ。
(結局、最悪の悪行にまで及んでいるのなら、態度姿勢がどうであれ赦されることはない)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――書経・周書・洪範より)

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278 2013/08/09(金) 13:44:37 ID:RNXEJYpnMQ
この世界において実現できる、「行為能力の自由」の総量は限られている。
巨万の富を手にすることなどで、個人や小集団が膨大な分量の自由をせしめ
られたりすることも時にあるが、あくまで自由の全体量は限られているものだから、
どこかで必ず今まで以上の不自由に見舞われる人間が生じてしまうこととなる。

戦後は日本も際限のない物質的自由を追い求める資本主義国の側に完全に取り入れられて、
アメリカに愚民化された民たちが、よかれと思い込んでの無制限な経済競争に没入して
行くこととなった。それでどうなったかといえば、人口爆発によって破滅寸前と化した今の
世界の罪責を、米英や欧州といった主だった加害国と共に償わねばならない共犯格と化して
しまったまでのことで、未だに日本が経済競争で世界の上位に上り詰めたことに浮かれて
いるような日本人こそは、その勘違いからなる罪責を償わねばならないものともなっている。

際限のない自由によって、実際に、愚人がありありと思い浮かべるような「よき人生」と
いうものが得られたりする。酒池肉林の放辟邪侈などは、あからさまの極致であるわけで、
もう少し節度を保たせたような見てくれでの自由の謳歌というものをも嗜むことができる。
資本主義国の富裕者が膨大な富を寡占しながら、ダイエットで痩身だけは保っていようと
したりするのがその実例であり、その有り様がブクブクと膨れ上がった資本主義後進国の
富豪などと比べればまだ見れたものだから、それを言い訳として、非常識な規模の富の
寡占を開き直ったりする。実際のところ、お粗末にも程がある気休めであるわけだが、
その程度の取り繕いだけで愚人はコロッと騙されて、自分たちの貧窮の元凶ともなって
いるような富裕者を、かえって羨みの対象にすらしてしまうようになるのである。

世界中の人間が、資本主義国の中流層(それも近ごろは減ってきているが)程度の
生活水準を保てた上で、さらにそこから億万長者が生まれたりするのなら、何の問題もない。
誰しもがそのあり方を羨望の対象ともすればいいわけだが、実際にはそんなことはあり得ない。

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279 2013/08/09(金) 13:46:40 ID:RNXEJYpnMQ
富める者あれば飢える者ありで、素封家の億万長者などが生じてしまった時点で必ず、
どこかに平均以下の生活にしか与れないような人々が生じてしまう。だからこそ、
「貧窮とも表裏一体の存在」としての富裕などを、羨んだりしていてもいけないのである。

ただ一つ、天下万人の生活の安定と共に富裕を謳歌できる可能性のある手段というものがある。
それが、「仁徳ある国君」としての成功であり、そこで富裕が得られるというのなら、
もはや申し分のないものである。ただ、これもなかなか難しいことであり、成功した所で
素封家の億万長者ほどもの物質的栄華が期待できるわけでもなかったりする。国君でありながら
過度の富裕にも与れているようだと思えば、実は民を痛め付けて暴利を巻き上げる政商犯を暗に
近づけてしまっていたりもするわけで、ただただ富みたいがために国君となることを志したり
したならば、そんないるよりもいないほうがマシな暴君と化してしまうのが関の山となっている。

しかも、仁徳ある国君として富もうなどと思うのであれば、個人的な自由などが何も期待
できなくなる。常に万民の福利に気を遣いながら国富をも増大させて行こうなどとするのだから、
昔なら農繁期を避けての人夫の徴用による公共事業の実施などの気遣いをする必要もあった。
さような細心の注意を払った為政に取り組むのであれば、自らが遊び呆けているような暇も得られ
はしなくなるものだから、家康公のように、巨万の富を晩年まで死蔵してしまうことにもなる。

ただ、そうやって仁政に取り組んでいくことは、浄心の持ち主であれば、ただそれだけでも
楽しいことであるに違いない。自由もなければ、得られた富を私的に浪費する余地もない、それで
いながら、世の中をより良くして行くことに専念することで、放辟邪侈などよりも遥かに健全かつ
盛大な楽しみをも得られることだろう。それで自らの死後にまで山積みにされたままで持ち越された
遺産が、これまた天下を安らげる糧ともなるのだから、これぞ神君の所業というものだといえる。

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280 2013/08/09(金) 13:49:03 ID:.y6csg1D4I:au
「苟くも恒心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ」
「自らに揺るぎのない道義心がないのであれば、我侭でも偏頗でも邪までも奢侈でも、
何でもしようとするようになる。(心神喪失者故に、際限のない自由などを追い求めたがる)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――孟子・滕文公章句上・三より)

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281 2013/08/09(金) 15:20:02 ID:BUkD4aAI9o
人間の脳内には、現実よりも清浄な理念を思い描くこともできれば、
現実よりも汚濁まみれな妄念を思い描くこともできる。

日本の伝統文化である「穢れ」の風習などは前者であり、法律で罪と規定されている
わけでもないようなちょっとした悪行すらをも穢れとして忌み避けたりすることが、
本当に厳罰にも処さねばならなくなるような犯罪行為すらをも予防する効能を持ち得たりする。

自分の脳内だけで「罪は赦された」などと思い込んで、殺人や強盗の如き明らかな
重罪すらをも開き直ったりすることがあるとすれば、そのような開き直りの原動力と
なっているような思考こそは、現実よりも汚濁まみれな妄念であるといえる。

前者のような理念はむしろ抱いていたほうがいいぐらいである一方、後者のような妄念は
むしろ抱かないでいたほうがよい。実質的には許容範囲内であるような些細な悪行すらをも
穢れとして忌み避けるのは推奨される一方、現実的にも赦し得ないような悪行までをも
開き直ろうとするような妄念を抱いたりすることは、できる限り控えられねばならない。

そして、前者のような心意気の持ち主こそは社会的にも優遇されて、立派な所帯も持てたりする
ようにしてやるべきである一方、後者のような心持ちに陥ってしまうような人間は、社会的な
信用を失って、場合によっては禁治産のような措置すらをも被るようにすべきだと言える。

現実よりも清浄な理念と共に生きて行こうとする所にも、すがすがしい感慨が得られるし、
現実よりも汚濁まみれな妄念と共に生きて行こうとする所にも、独特の陶酔が伴う。
単なる快感の度合いでは、前者よりもむしろ後者のほうが上であり、それこそ、麻薬中毒
もいいとこな酩酊に見舞われるものである。快楽をどこまでも貪り尽くそうなどとする
ような不埒さと共にあるのならば、当たり前のようにして濁念を抱きがちなものであり、
まずそのような不埒さから脱却して行くのでなければ、濁念の誘惑に打ち克つことも覚束ない。

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282 2013/08/09(金) 15:22:24 ID:0Z3NwbBVWQ
この世界において実現できる、「行為能力の自由」の総量は限られている。
巨万の富を手にすることなどで、個人や小集団が膨大な分量の自由をせしめ
られたりすることも時にあるが、あくまで自由の全体量は限られているものだから、
どこかで必ず今まで以上の不自由に見舞われる人間が生じてしまうこととなる。

戦後は日本も際限のない物質的自由を追い求める資本主義国の側に完全に取り入れられて、
アメリカに愚民化された民たちが、よかれと思い込んでの無制限な経済競争に没入して
行くこととなった。それでどうなったかといえば、人口爆発によって破滅寸前と化した今の
世界の罪責を、米英や欧州といった主だった加害国と共に償わねばならない共犯格と化して
しまったまでのことで、未だに日本が経済競争で世界の上位に上り詰めたことに浮かれて
いるような日本人こそは、その勘違いからなる罪責を償わねばならないものともなっている。

際限のない自由によって、実際に、愚人がありありと思い浮かべるような「よき人生」と
いうものが得られたりする。酒池肉林の放辟邪侈などは、あからさまの極致であるわけで、
もう少し節度を保たせたような見てくれでの自由の謳歌というものをも嗜むことができる。
資本主義国の富裕者が膨大な富を寡占しながら、ダイエットで痩身だけは保っていようと
したりするのがその実例であり、その有り様がブクブクと膨れ上がった資本主義後進国の
富豪などと比べればまだ見れたものだから、それを言い訳として、非常識な規模の富の
寡占を開き直ったりする。実際のところ、お粗末にも程がある気休めであるわけだが、
その程度の取り繕いだけで愚人はコロッと騙されて、自分たちの貧窮の元凶ともなって
いるような富裕者を、かえって羨みの対象にすらしてしまうようになるのである。

世界中の人間が、資本主義国の中流層(それも近ごろは減ってきているが)程度の
生活水準を保てた上で、さらにそこから億万長者が生まれたりするのなら、何の問題もない。
誰しもがそのあり方を羨望の対象ともすればいいわけだが、実際にはそんなことはあり得ない。

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283 2013/08/09(金) 16:08:14 ID:BUkD4aAI9o
人間社会を司る体系化された思想信条の聖書として、
全世界においてその立場を揺るぎないものとしている権力道徳聖書、通称四書五経。

今となっては、その主要な編纂者や登場人物である孔子や孟子が至上の学聖として
崇められてもいるが、決して本人たち自身は恵まれた人生ばかりを送ったわけでもない。
すでに徳治の実践自体が疎かにされていた春秋戦国時代の中国で、せめてでも古来からの
権力道徳を保全しておこうとする目的で、儒者(学究者)という身分に即した学問の興隆
を試みていた。その結果として、周代までは専ら王侯の嗜むものであった権力道徳学が
市井に到るまで広く受容されることとなり、儒学道徳が「権力のための道徳」に止まらない、
「人間のための道徳」としてまで人口に膾炙されることとなったわけだから、孔子や孟子が
在野の学者として儒学を温めてくれたことも、人類にとっては「怪我の功名」になったのだといえる。

とはいえ本来は、儒学が考究対象とする道徳学もまた、国家権力を司ることこそを第一の
目的とした帝王学でこそあるわけだから、ただの学者や庶民としての受容に止まるよりは、
天下国家に名を馳せる大権力者として儒学を受容することこそが本望ともなるのである。

だから、孔子や孟子を儒学の大成者として尊ぶべきであるとはいえ、在野の学者に甘んじさせられた
その境遇までをもわざわざあえて見習ったりする必要はない。特に、孔子は妾腹の私生児という
それはそれは恵まれない境遇に生れ落ちながら、その逆境をばねにしての自学自習によって儒学の
始祖ともなったわけだから、その努力的な姿勢にあやかるべきである一方で、妾腹の私生児のような
立場であることを自ら恥としたその奥ゆかしさをも見習うべきなのである。故に、孔子がそのような立場
だからといって、妾腹の私生児のような立場自体を崇めたりするようなことがあってもならないのである。

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284 2013/08/09(金) 19:49:50 ID:XQCMbNeFs.
そのような、根っからの陰陽不全を来していた西洋社会において提唱されたのが、民主主義や共産主義
といったイデオロギーであり、これはこれで、人道と餓鬼道が深刻に癒着してしまった結果として
ぶち上げられたものだといえる。仁徳ある主君が、金持ちなどよりも平民のほうをより慈しんでの
堅実な経世済民を心がけたなら、封建制もないよりあるほうがいいものとすらなるのに、
西洋の王族たるや、そんなことを一度たりとも心がけたことすらないものだから、封建制全般を完全に
否定する口実をルソーやマルクスのような思想家に与えてしまった。君主など全くいないに越した
ことはないという極論の下で、民衆の欲望を無制限に叶え尽くすような暴論をこしらえた連中の所業は、
これまた節度をわきまえぬ餓鬼のそれであったと言え、人権のような人道的概念をも持ち出しつつ
それらを正当化していったからには、人道と餓鬼道の癒着でもあったといえる。

そして、極めつけが修羅道と地獄道の癒着である。
自分では道義ある戦闘を心がけているつもりでいながら、全く道義性に欠けているような戦乱行為、
古くは、アレクサンドロスの東征あたりにすらその傾向が見られるし、それ以降にも十字軍遠征や
大航海時代の外界侵略、そして今の中東諸国に対する不実な攻撃といった風に、これまた西洋諸国こそは、
戦闘行為と犯罪行為の区別もないような残虐行為を二千年以上の長きに渡って繰り返し続けて来ている。
無論、東洋においても蒙古の世界征服のような道義性に欠ける侵略行為をやらかした連中がいるわけだが、
それとも共通しているのが、自分たちが暮らして来た世の中(西洋やモンゴル)というのが、
平時と有事の区別も付かない程に戦乱まみれであり続けて来たという点である。それもやはり、
天道と畜生道、人道と餓鬼道の区別すらよく付けられもしない陰陽不全の世相のままであり続けて来たから
なのであり、修羅道と地獄道の癒着もまた、上二つの癒着と不可分な存在性を帯びているのだと言える。

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285 2013/08/10(土) 07:05:21 ID:jkjXiVpUbI
コピペ馬鹿。お前邪魔以外の行動と取れんのかカス。名エッセーを汚すんじゃねーヨ。

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286 2013/08/10(土) 13:15:43 ID:G12zPkv892
女子供はともかく、大人の男にとってまで「常日ごろから絶対的な拠り所とすべきもの」などは何もない。
実際問題、主君や親のような拠り所とすべき対象もあるし、困った時の神頼み仏頼みということもある。しかし、
一人前の成人男性ともなれば、自主的な精進作善こそを第一として、その成果を人間関係に回向するためにこそ、
君臣父子夫婦その他の上下関係や、確かな根拠に根ざした神仏への崇敬などをも副次的に嗜むべきなのである。

武士が自家や君主の家紋を掲げて役儀をこなしたり、軍人や役人が自国の旗を掲げて任務に就いたりするのも、
あくまで見る者に自らの身分を示すためであるのが基本であって、自分自身が依存心を高めるのが本義ではない。
昔の家紋はともかく、国旗については、自分たち自身の国家主義を扇情するために掲げたりする場合も非常に多く、
中には「国旗侮辱罪」なんていう罪を法定している馬鹿な国までもがあるが、身分の識別という本来の用途を
重視すれば、国旗によって誇りを育てる、国旗への侮辱によって誇りを傷つけられるなんてこと自体が本末転倒の
事態であることが分かる。どちらかといえば、国旗を侮辱されたりすることよりも、身分証明以外の目的で妄りに
濫用されたりすることのほうを取り締まるべきなのに、よりにもよって、国旗侮辱罪などを制定しているような
国こそは、自国の国旗が好き勝手に利用されることを奨励していたりもするのだから、おかしなものだといえる。

戦前の日本の下級兵などが、「天皇陛下万歳」などと叫びながら玉砕していったのも、キリスト信仰並みに依存心
を高める国家神道に服していたからで、これも哀れみの対象にこそすれど、称賛の対象とまですべきものではない。
「皇帝陛下万歳」は本来「無門関」の表文などにもある禅語であり、自主性を重んずる日本人にも多少は馴染みのある
言葉なのだが、戦前の軍部がそんな意味で「天皇陛下万歳」を用いていたわけでもなく、ただ下級兵たちに自分たちの
激情を煽る言葉として用いさせていたまでで、その点「アーメン」や「アラーアクバル」とも何ら相違はなかったのである。
(だからこそ、臨済宗妙心寺派管長の山本玄峰老師も、太平洋戦争の早期終結を天皇陛下に進言したのだった)

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287 2013/08/10(土) 13:17:43 ID:1SHKSq5jxU
税吏、酷吏、関所役人、このあたりは特に民衆から嫌われやすい官吏の典型だといえるが、さりとて
「賤業」にまでは当たらず、いっぱしの士人として扱われるべき役職でであることには違いない。

赤穂四十七士筆頭、大石内蔵助の息子の通称「主税(ちから)」なども、士人が
年貢などの民からの税によって力を得ていることをあからさまに示したものとなっている。
>>270-271でも述べた通り、ある程度以上に大規模な都市社会には形而上的な権限を持つ統制者
というものが少なからず必要になるもので、全くの無統制状態ではソマリア級の争乱すら避けられない。
どうしたって強大な統制者が必要である以上は、人々からの正式な信認を受けた政府がその立場を
担うべきで、正式な政府は当然、民からの納税によってその運営が保全される。人々を形而上的な
権限によって統制することも生半なことではないから、自分たち自身で耕し織りながら為政にも
携わるなんてことも無理なので、確信的に租税を食い物として人々の統制に臨むのである。

それが結局、世の中を統治する手法として最善であり、それと比べれば民間の政商による裏からの
支配などは、どうしたって大局社会の脆弱化や破綻を招いてしまうものだから、最善とは言えない。
所詮は租税を食い物とするものこそが専門的に人々の統治に取り組んでこそ最善となるのだから、
決して税制の存在自体を非難したりしてはならず、為政者の放辟邪侈のために民間人が重税を
強いられるような不正がある場合に限って、その問題のみを特定して非難するようにせねばならない。

税制を伴う正規の政府の価値を認めない、あるとした所でその存在を卑賤視する、
これこそは「最善を否定する」姿勢であり、劣悪か最悪かのいずれかでしかあり得ない態度となる。
特に度し難いのは、正規の政府を認めないこと以上にも、その存在価値を卑しむことのほうだといえる。
完全な無政府状態では現ソマリア級の争乱すらまぬがれ得ないから、完全な無政府主義なんてのも
そんなに勢力を保てるものじゃない。正規の政府の存在価値を卑しむことのほうが、キリスト教団の
ような形での勢力の拡大や維持に加担しやすいため、実質的にはこちらをより警戒すべきだといえる。

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288 2013/08/10(土) 13:32:55 ID:SiimvpJskM
民間の小人階級などは、むしろ宵越しの金は持たないぐらいに身軽なままで
いてくれたほうがよい。それでいて、重荷を背負う君子たちの厳粛な
徳治によって世の中全体の民度が底上げされて、身軽な民たち同士が
お互いに助け合って、多少の貧しさと共にであっても豊かに暮らせる
ようになるのが、考え得る限りでも最も"性能の高い"世相であるといえる。

江戸時代の日本などがまさにそうであり、当時の日本を視察した外国人などもみな、
「生活は貧しいがみな幸せそうだった」「われわれがこの国を今以上に向上させられる余地
などはどこにもない。ただ今以上の俗悪を持ち込むことしかできない」と慨嘆していたという。
それで実際に「俗悪」が持ち込まれて、日本も物質的には相当に豊かになった。食糧事情が
改善されて人々の寿命も伸び、体格もよくなった。その上に、昔ながらの効率の高い社会規範や
生活規範もそれなりに保全されて来たものだから、経済状態も世界で突出するほどよくなった。
世界中の国が取り返しようのない借金に喘いでいる中で、今でも日本の国民貯蓄と対外純資産
から日本政府の借金を引いた純資産は700兆円を上回る規模となっている。収入以内の支出を
心がけるという、>>171の「大学」の「財を売る大道」にありのままに即した経済観念を
誰しもが持ち合わせているものだから、そこに資本主義ならではのジャブジャブな金権が
織り交ぜられることで、莫大な財を築き上げることすらをも可能としたのだった。

ただ、それこそ「俗悪が持ち込まれた」というばかりのことで、貧しい中にも洗練された
暮らしを営んでいた昔の日本と比べて、日本人の潜在的な能力の高さが少しだって向上した
などということはない。むしろ生活習慣の欧米化や七曜制の奴隷型労働の強制などによって、
日本人自身の潜在的な能力は目減りしてしまった。それでもなお残存している「昔取った杵柄」
が、どうにか今でも機能しているというまでのことで、ただそれだけでも日本を世界一健全な
財政状況へと持ち込んでくれているのだから、その底力たるや超人的なものだったといえる。

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289 2013/08/10(土) 13:37:08 ID:SiimvpJskM
君子階級こそが、代々の家の名誉も保ちつつの重荷を背負った統治を心がける一方で、
小人階級はむしろ、清貧な中での助け合いによって生きて行くぐらいでいるほうが、
世の中全体の底力が育まれる。小人が商売などによって巨万の富を抱え込むような
重荷を背負ったりするようなら、そのせいでかえって世の中全体の底力は目減りするし、
(住友屋などの豪商のいた大坂堺近辺は今でも、日本社会の内でも突出して民度が低い)
世の中総出で巨万の富を得たりしたとしても、今の資本主義国のように、少子高齢化
のような問題を来してしまうことともなる。別に、小人階級が貧しいままでいることを
わざわざあえて企図するなどということもすべきではないが、貧窮に駆られての世界人口の
爆発が抑制される程度に今の世界規模の富の偏在を是正したならば、世界平均の何倍もの
富を囲っているような資本主義国の民間人は自然と今よりも貧しくなる。それが悪いこと
でしかないのかといえば、決してそんなこともない。そこでこそ君子階級による厳重な
徳治が心がけられて、人々の民度が高められ、貧しい中での助け合いによる生活を営んで
行ったならば、それでこそ、今以上に当該国の底力もまた育まれて行くこととなる。

無職やニートまで行かずとも、フリーターや派遣社員程度の身分であっても「下層」として
卑しまれる昨今。実際、その程度の身分ではろくに妻子を養って行くことも覚束ないわけで、
民間業ごときに格差を設けたりすることの愚かしさが実際的な悪影響をもたらした実例と
なっている。むしろ、民間業などどこまで行ってもその程度の代物でしかないと扱われて、
今でいうフリーター程度の立場の人間が民間社会を主導的に築き上げて行くようになればいい。
民間業などに栄達の望みが抱けなくなった埋め合わせは、君子階級としての栄達の奨励に
よって埋め合わせて行けばよく、それでこそ成功に相応の責任性が伴うもなる。

「大車を将むる無かれ、維れ塵の雝がらん。」
「積もる塵を払いきれもしないような重荷を載せた大車を進めようとするな。
(分不相応な重荷を背負おうとするな。大金を死蔵する資本家などにも言える)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――詩経・小雅・北山之什・無将大車より)

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290 2013/08/10(土) 15:59:15 ID:1SHKSq5jxU
悲しむべき所を楽しんだり、楽しむべき所を悲しんだりする喜怒哀楽の転倒は、
本人の立場が、大社会から暴利を巻き上げて自分たちだけでの虚栄を謳歌するような
「ガン細胞人種」である場合などに生ずる。春秋戦国時代末期から秦代にかけての、
王侯たちの権力犯罪まみれな有り様もまさにそのようであったから、荀子もそのような
ガン細胞人種としての喜怒哀楽の転倒に耽る者どもを「狂生の者」と呼んで揶揄していた。

物事には悲しむべきところ、楽しむべきところが実際にある。
大まかな所では、天下国家の興亡や盛衰に自らの楽しみや悲しみを連動させることが、
人としてそうあるべき姿だといえる。国や天下が繁栄に与れていれば自分もそれと共に楽しみ、
困窮や諸国の衰亡が著しいようなら、それに伴って自分も悲しむべきである。
それが正順である一方で、天下国家の繁栄を妬んだり、衰亡を楽しんだりするのが
逆順であり、これこそは「狂生」の最たるものでもあるといえる。そう断じられるのは、
天下国家の興隆が引いては自らの福徳にも結びつく一方、その衰亡が自らへの災禍にも
結びつくことが絶対的だからで、いつまでも天下国家の興亡と自らの喜怒哀楽を
転倒させ続けていることのほうが絶対に不可能なことであるからに他ならない。

そして、天下国家の興亡と自らの非楽を正順に連動させた時にこそ、最大級の楽しみや悲しみにも与る。
それこそは、もう二度と非楽を転倒させることもできないほどにも完全な楽しみや悲しみであり、
概念夢想による感情の不埒な操作からも永久に卒業してしまうほどもの絶対的な楽しみや悲しみである。
実相と概念の内で、人間の苦楽を絶対的に決定づけるのは実相のほうであり、人間にとっての
最大級の実相の大局はあくまで天下国家だから、そこでこそ、最大級かつ絶対的な非楽にも与るのである。

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291 2013/08/10(土) 16:00:03 ID:dNMhh2jnG6
際限のない快楽を貪り続けることに専らであるような人間の心境も、まさに「今が全て」だといえる。
これはもう、今さら新たに咎めるまでもなく、麻薬取締りや風俗規制などの実力行使によっても
すでに制限がかけられているものである。ただ、欧米産の俗悪文化の中には、快楽への惑溺こそを
高度に美化しようとするようなものが多く含まれているため、その手の文化に対する警戒も必要である。
とはいえ、快楽文化を完全に否定したりするのも世の中にとって現実的なことではないので、
極度の美化が伴わない範囲での快楽文化を容認したりするのが、江戸時代の日本人の知恵でもあった。
井原西鶴の好色もの小説なども、快楽の貪りが甚だしいにも程があるが、決してそこに美化などは
伴っていないから、単なる笑い者扱いとして好色を諦観できて、「今が全て」のような感覚を
戒める一方、去来今をよく俯瞰する気の長さを貴ぶことを侵害までするようなことは決してなかった。

去来今を諦観することにかけて白眉であるのも、やはり仏教だが、儒学もまた、古えの
聖賢の言葉や聖王賢臣の事績を参考に今後の世の中を切り開いていく、温故知新を勉学上の
最重要理念に掲げている。旧来の学説など淘汰してナンボであると考えられている洋学の感覚
などからすれば、儒者のあり方が古臭くて依存的に過ぎるように思われたりもするわけだけども、
儒学が勃興した春秋戦国時代にも、新規奇抜な学説で人々の奇を衒おうとしていたような学者は
名家などに多数いたわけで、儒学もそんな連中を横目にして構築されていったものでこそある。
そして名家の言説が世のため人のために寄与したような事実はほとんどない一方で、儒学が
東洋史上において与えてきた好影響は枚挙に暇がない。結局は去来今の三世をよく俯瞰できる
者こそが善美でいられるのが、この世界の実相法則でもあるのだから、温故知新を旨とする
儒者のあり方などを、洋学者風情があざ笑っていたりしていいようなはずもないのである。

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292 2013/08/10(土) 19:48:54 ID:G12zPkv892
性情の分裂を物理的に抑止する手段としては、「みそぎ」がある。斎戒沐浴などとも言われる冷水浴によって、
心臓の暴走が十分に抑えられて、上丹田と下丹田の性情の連絡を阻害することが防ぎとめられるようになる。
性情の連絡が阻害されるほどにも心臓の暴走が著しい人間ほど、冷水を浴びた瞬間に心臓がバクバクと驚嘆の
鼓動を生ずるのを感ずるはずで、お年寄りや心臓の弱い人間はそのせいでの心臓麻痺などにもなりかねないから、
少しずつ冷水を浴びたり、最初はぬるま湯から少しずつ水温を下げていくようにするなどの便宜を図ったほうがよい。
また、健康な人間といえども、身体全体の冷やしすぎが風邪の原因になったりもしかねないので、やり過ぎは禁物だといえる。

あと、自分がまだ性情の分裂を十分に控えられない人間であるというのなら、せめてでも凡人ではなく
善人であるように務めるだけでも、性情が分裂しきった愚人や悪人と化してしまうことを防止する程度の効果は持ち得る。
念仏が唱名者自身に及ぼす効果も実はそういったもので、さほど熱心に唱えなくても善人でいる程度のことは
容易に叶えられるし、熱心に唱えていれば賢人や聖人にだってなれなくはない。聖人ともなれば、
念仏以外の方法での精進をも志すのが普通だが、親鸞聖人のように念仏での聖化こそを達成した方も実際にいらっしゃる。

残念ながら、性情の分裂こそを信者に促しての妄念妄動をけしかけるカルト宗教も未だ数多いため、
信教全般が性情の分裂を抑止してくれることなどを期待することは全く期待できない。今の日本で宗教が嫌われている
頻度が高いいのも、信者に性情の分裂を促す類いの邪教こそが活動を活発化させている場合が多いからで、古来からの
念仏信仰などにもよってこそ、知らず知らずの内から性情の一致を本是とするようになってしまっている日本人が、意識的に
そのような宗教を嗜む必要性などを感じないのみならず、そのような宗教への嫌悪感すらも抱くようになっているのである。

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293 2013/08/10(土) 19:52:03 ID:1SHKSq5jxU
成り行きでニートになってんけど
だって、どうなったってええねんもんw
どうなりたいなんてや、自分の人生がよ
そんなんどうなったってええやん、棒にふってもうたらええねん
この世にそんな大したことってないねん、わいにしてみたらな
大したことなんてなかってん
棒にふるのがもったいないなんて風には思わんよ
みんなは何か変な本読んだりして、デタラメ言うてる奴のことでも気にしてるんか
そんなもん自分で気付いたこと以外はどうでもええことやんw
わいは本も読まんし、生きてて人に教えてもらう事はないわ
だって大した差ないねんもんw同じやん
蟻が蟻になんか教えてるって変やろ
お前が知ってることくらいはわいも知っとるよって
こんくらいやろ、些細なことやん人間なんてな
人間やでみんなな、わいは誰かに何か教えたろうと思わんし
教えられるとはぜったいに思わん
ただ、お互いに気付くことだけはあるんよ
わいは気づいたんやけど、多くの人間は
こうでないとあかん!ってことがあるっていう幻想を抱いてるんや
みんなそう思って楽したいんや
そう思ったほうが、みんなして共通で思ったほうが楽やもんな
まあそれはそれでええよ、楽をとればええやん
そのかわりやで、楽しみは減るねんで
勉強してええ大学に入るのなんてことも楽なことやねん
東大入って官僚にでもなってな、楽やなと思うよ
けどわいはそれは選ばんかった、あんまり楽しそうとは思わんかったし
ニートの方が楽しそうやwそのほうが目的に達成してる感じしたから
おかげで毎日バリ楽しいねん
うおぉぉぉぉ!目的達成してるやん!わいの夢叶ったやん!!!!

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294 2013/08/11(日) 13:45:29 ID:FvZknD0t3E
「闕党の童子、命を将なう。或るひと之れを問うて曰く、
益者かと。 子曰く、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と
並び行くを見る。益者に非ざるなり、速やかに成らんと欲する者なりと(既出)」
「闕という村の少年が客の取次ぎをしていた。ある人がその姿を見て問うた。
『あれは進歩を目指しているものでしょうか』 孔先生は答えた。『私はあれが大人同士
の席で真ん中に座っているのを見ましたし、先生先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。
着実な進歩を目指しているのではなく、ただ早く大人になりたいというだけの者です』」
(権力道徳聖書――通称四書五経――論語・憲問第十四・四六より)

小さな猫や猿こそは高い所に登りたがり、世界最大の動物である鯨こそは深海へと深く潜る。
人間もまた、むしろ頑是ない子供のほうが不埒な思い上がりを抱き、壮年期の
孔子のような大人タイジンこそは、率先して人に謙ろうとするものである。

何事も極めればそこから折り返さざるを得ない「円転の理」にこの世界この宇宙の現象が
司られているが故に、むしろ大きなものこそは並み以上に謙りたがり、小さなものこそは
並み以上に偉ぶりたがるという法則もまた一定以上に普遍的なものであり続ける。

先天的には概ねそうであり、後天的には例外もまた生ずる。あえて人工的に思い上がった
子供のような態度に倣おうとした結果、いい年した大人になってもそのようなままでいて
しまったりするし、逆に子供までもが立派な大人のあり方に倣おうとして、真摯に年上や
目上の相手への尊敬や謙譲に務めるようなこともある。後者は「童僕の貞」として「易経」
旅・六二などでも咎なきこととして評価されているが、それこそ、「子供の人権」を偏重
したがるような人間からは、大人に抑圧されたあり方だなどとして批判されたりもする。
そうして、子供も立派な大人に倣うことがなく、むしろ大人のほうが若年者たちの自意識過剰
を見習って、どこにも精神的成長の見られない世の中が形成されて行くこととなるのである。

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295 2013/08/11(日) 13:48:41 ID:FvZknD0t3E
子供は、思い上がっていた所で、その無知さゆえに無邪気であるということがある。
大人が子供のような不埒な態度を倣えば、それプラス濁りきった邪念という、もっとも
救いようのない人格が形成されて行くこととなるわけである。そしたらもう、大人のほうが
子供にコンプレックスを抱かされてばかりの、長幼の序列が完全に転倒した状態にすらなって
しまう。「子供こそは先天的な貞淑さの持ち主だ」などという間違った知識の持ち主であれば
こそ邪念を抱きながら、子供の思い上がった態度に倣おうとすらしてしまうわけで、それは
邪念とその実践による悪循環でこそあるといえる。小知を退けて大知を学び修め、大人で
ありながら邪念に塗れたりもしないでいる。もちろん、勘違いに即して子供の童蒙さなどに
倣おうとなどもせず、成長した大人ならではの謙りこそを養って行く。そうして行けば、想念も
子供並みに無邪気で、なおかつ最高級の謙りをも称えた、申し分のない人格ができあがるわけである。

間違った思い込みで子供へのコンプレックスを抱いたりすることもなく、上知によって大人
ならではの恭敬を育んで行く者こそは、子供並みに無邪気でもいられる。子供に倣うことではなく、
清濁併せ呑む大人ならではの事情に即した勉学精進に励むことでこそ、子供並みの無邪気さとも
共にいられるという、これまた微妙な法則の普遍性こそをわきまえて行くべきだといえる。

「童観す、小人は咎无し、君子は吝あり。童観は、小人の道なり」
「子供のように浅はかで思い上がったものの見方をするのは、
被支配階級の小人なら問題ないが、支配階級の君子であれば問題がある。
子供のように浅はかで思い上がったものの見方のままでいるのは、小人の道である」
(権力道徳聖書――通称四書五経――易経・観・初六‐象伝)

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296 2013/08/12(月) 09:26:39 ID:v5yKU6tHog
世の中の陰陽調和が健全であれば、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣と、修羅・人・天の三善趣もまた
明確に切り離されて、三悪趣の根絶と三善趣の振興が意図的にすら推進されて行くようになる。一方、
陰陽調和が不健全であれば、まるで月が太陽の光を遮る日食のようにして、三善趣と三悪趣が深刻な
癒着を来たす。 天道は畜生道と、人道は餓鬼道と、修羅道は地獄道との癒着を来して、それぞれの
区別が全くと言っていいほど付かないようになり、三善趣と三悪趣の区別が明確に付けられていた
世の中などとは甚大な世相の乖離を来してしまうようになる。

天道と畜生道の癒着は、明治以降の日本の国家神道の捏造などがその顕著な事例であるといえる。
本来は先祖崇拝や家庭円満の補助的な役割を果たしていた日本神道に、キリスト教の一神教信仰的な
要素を無理に合体させて、全国民を天皇一人のみに帰依する家畜か奴隷も同然の存在と化してしまった。

満州帝国創立に際して、先祖崇拝を捨ててまでの国家神道への帰依を強制された清朝末帝の溥儀も、
そのせいで精神を病み、午前十一時より前には起床できなくなったり、小間使いをいじめ殺したり
といった異常行動を来してしまったのだという(ラストエンペラー自伝「我が半生」を参照)。

ただ、上記の国家神道の事例などは、元来畜生道と明確に切り離されていた天道が、新たに畜生道と
癒着してしまった実例としてこそ分かりやすいものであり、キリスト信仰の下での王権神授説による
権威の正当化によって、西洋の王族が地主や豪商といった富裕者の親分格として放辟邪侈の限りを
極めていた事例などは、始めから完全に天道と畜生道が同一化してしまっていた実例であるといえる。

返信する

297 2013/08/12(月) 09:27:24 ID:oIXQFV5xJg
何も、キリスト信仰に限らずとも、人が精神薄弱状態を増悪させるための手段
というものは他にいくらでもある。中でも、物質的欲望を際限なく叶え続けよう
とすることによる精神薄弱の深刻化は著しいものであり、古代のユダヤ教徒も
政商としての利権の貪りを信仰によって正当化する過程において、キリスト
信仰の雛形ともなるような精神薄弱の増悪化体系を構築していったのである。

ただ、純粋な利欲の貪りの分量にかけては、春秋戦国時代の中国人などのほうが、
同時期のユダヤ教徒よりも突出していた。というのは、中国では夏の禹王の時代から、
治水や灌漑による農業の振興が盛んで、人間社会の地の部分からの底上げとしての
民力の養いが積み重ねられて来ているものだから、そのマンパワーを駆使しての
権勢の構築というものが、同時期のオリエント社会や西洋社会よりも長けていたのだ。
そのため、実質的にはそれらの民力を消費するだけの存在に過ぎなかったような
春秋戦国時代の諸侯が、当時としては世界最大級の権勢をも手に入れたのだった。

その頃からの本質的なマンパワーの格差というものが、今に到るまで、極東社会と
西洋社会の本質的な底力の格差となって派生して来てもいる。いくら世界征服の
先手打ちで、悪辣な手法によって欧米諸国のほうが莫大な既得権益を囲い込んだ所で、
そもそも自分たち自身の底力が貧弱なものでしかないから、人口攻勢などで中国に
敵うことがない。たとえ中国を経済的に崩壊させた所で「国破れて山河あり」で、
古来からの土木事業によって高度に機能化されている中国大陸での、人民たちの
たくましい生き延びは続けられて行くだろうし、崩壊にことかけての難民流出
によって、否応なく外界の権益にまで魔の手を広げて行くこととなるだろう。
それほどもの「憎まれてでも世にはばかる底力」を、良くも悪しくも古来
からの歴史の積み重ねが、中国という国ないし諸国に付与して来ている。

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298 2013/08/12(月) 14:15:14 ID:bwWt9fa0UM
末期ガンで死も間近な重病人などが、緩和ケア目的で合法的に麻薬を投与されて、
脳内お花畑状態であの世へと旅立つようなあり方すら、悲惨なものである。
聖道門の僧侶か、あるいはインディアンの首長のように、自らの死期をこれと
決めて、絶食などによって毅然と世を去る姿のほうが、いかにも潔い上に、人々に
生への貪りの浅はかさを自覚させるほどの意義をも兼ね備えているものだといえる。

晩年に已む無く緩和ケア目的の麻薬投与でヘロヘロ状態となる末期がん患者など
ですら悲惨なものなのだから、まだ将来もあるような若者や、壮年者の内から
麻薬的陶酔によってお花畑状態と化してしまっているような人間の悲惨さたるや、
それ以上のものだといえる。実際の麻薬中毒も悲惨なものだし、そこまで行かずとも、
アル中程度の状態でいることだって、相当な悲哀を抱かされるものである。そして、
カルト教義によって脳内お花畑状態と化せられてしまっているような人間の悲惨さ
こそは、麻薬中毒並みかそれ以上のものである。酒飲み程度はそれなりに許容している
日本人といえども、カルト信仰中毒だけは徹底して忌み嫌い遠ざけていようとする。
むしろ、ヤク中やアル中以上にも、劣化した思考能力と共なる積極的な愚行にも
及びかねないものだからこそ、その害他的な危険性を見越して警戒されるのである。

近ごろでは「ハイになる」などとも言われる、躁鬱の躁に相当してしまうような高揚
状態というものが、かえって人をダメにしたり、奴隷としてうまくこき使うためのエサに
されてしまったりする。それどころか、過度の高揚はほぼ必ず有害無益な目的のために
ばかり利用されてしまうものであるため、孔子も当時流行していた鄭の音楽の淫靡さが
人々に過度の高揚を来たさせるものであることをあからさまに憎んでいたのだった。

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299 2013/08/12(月) 14:17:21 ID:bwWt9fa0UM
ただ、過度と呼べるほどの高揚もまた、生殖目的の性交時の女などにはそれなりに
必要なものとなっている。全く性交で感ずることもできないままに妊娠だけすれば、
女児ばかりが産まれて男児が産まれなくなるなどの問題を来たすこととなる。そのため、
女が性交で感じることあたりは、悪であるとした所で明らかな必要悪であるといえ、
必要悪であるといえども悪性を抱えている女という生き物を、社会の代表者などとして
扱って、その性悪さに世の中の側が引きずられるようなことがないようにしなければならない。

「過度の高揚こそは戒められるべきである」
「過度の高揚に見舞われるような者こそは日陰者でいなければならない」
これまた、何事も極まれば折り返さざるを得ない円転の理にこの世界この宇宙が
司られているが故に普遍的な社会的要求ともなっていることだといえる。これとは逆に、
苦労続きの縁の下仕事を積み重ねて来た君子だとか、陰鬱な精進修行に打ち込んで来た
出家者だとかが大いに尊ばれねばならないということもある。これまた、暗中模索を
極めた所にこそ大いなる栄達が拓かれるという普遍法則がこの世にあるからでもある。

昔ながらの庶民のための盆踊りだとか、近ごろのダンスだとかよさこい踊りだとかも、
チャッチャチャッチャと調子を取って踊り手も楽しみ、衆目をも楽しませたりする。
しかし、その調子取りが、武家の嗜むような剣術や柔術にとっては、かえって
命取りともなる。調子を取って剣を構えたり振ったりすれば、そのせいで相手に
自分の動きを読まれてしまうことともなるわけだから、それこそは禁忌ともされる。
それでいて、そのような武術を嗜む武士こそはかつて「人の花形」ともされていた。
調子を取るほうが楽しいけれども、あえてそれを自分たちでは禁忌とする者こそが、
調子取りの踊りで浮かれているような庶民の上に立つような存在ともされていいた。
そういった、円転の理に司られた習俗の意義深さというものを、見直して行くべきだといえる。

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300 2013/08/12(月) 14:18:04 ID:qniWMaaEvw:au
「威儀は抑抑と、徳音は秩秩と。怨まれず悪まれず、
群匹に率由す。福を受くること無疆にして、四方の綱となる」
「威儀深さは抑抑と、威徳の響き渡るさまは秩秩と。万人の意向になるべく則り、
怨まれたり憎まれたりすることがないようにする。それにより天壌無窮の福徳を受け、
なおかつ人々の模範ともなる。(我田引水で自分たちの福禄ばかりを増している聖書信者
などが人々に怨まれずに済むこともないし、万人の模範となることも決してできはしない)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――詩経・大雅・生民之什・仮楽より)

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301 2013/08/12(月) 15:20:34 ID:v5yKU6tHog
人に対しては「自分を誇るな」云々と口うるさく命じておきながら、
「誇るなら私を誇れ」などとうそぶく犯罪聖書の神の偉ぶりようこそは、「己れの
欲せざる所を人に施すことなかれ」という自明な人間道徳にも決定的に反している。
だからこそ、「誇る」ということにかけて聖書信者が自分たち自身を誇ることは
ないとしても、己れの欲せざる所を人に施すような度し難い性向一般が聖書信者に
植えつけられてしまうことには変わりない。さんざん異教徒を迫害しておきながら、
いざ自分たちが真珠湾や911のような攻撃の対象となれば、まるでそれが世界の
終わりであるかのような悲劇性を伴って嘆き散らす所などが、まさにその実例だといえる。

己れの欲せざる所を人に施すかどうかは一度置いておいて、一方がもう一方に対して
一方的な態度であらねばならないということはある。君臣父子夫婦長幼といった序列に即する
非可換な関係性というものが儒学でも奨励されているわけで、平民が士人に対して謙らねば
ならない一方で、士人が平民に対してそんな真似をさせられたりすればそれが無礼となる。
それこそ、己れの欲せざる所を人に施している事例にすらなるわけだが、そこは陰陽関係
で言った場合の「陽唱陰和」であるからこそ、許容されねばならないこととなる。

主君は臣下よりも、親は子よりも、夫は妻よりも表側に位置する、日に当たる存在である。
少なくともそうあるべき存在であり、臣下や妻子などは日陰に甘んじるべき存在である。
そのような関係にあるもの同士が、陽唱陰和を成立させるために一方的な関係性を持つ
ということはむしろ推奨される。然るに、犯罪聖書の神などは、全く得体も知れない全く
の影ながらの存在であり、自分からも「信者を後援する」みたいなことを散々言っている。
にもかかわらず自分ばかりを主として崇め、自分に追従して来ることを信者に要求する。
これこそは「陰唱陽和」の極致ともなっているわけで、あらゆるものの内でも最も随順の
対象とするに値しないものに対する服従を強要する、凶事の極みともなっている。

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302 2013/08/12(月) 15:21:46 ID:oIXQFV5xJg
ヤマタノオロチも、出雲国の村の娘を次々に襲っては食らうような惨暴を働いていた
ものだから、それを一方的に退治したスサノオのあり方も勧善懲悪に適っていた。
それほどもの暴慢にまみれた相手であればこそ、一時的な利敵の計を通じての、
反則じみた退治法までもが正義に適うこととなった。そのような物語構造全般を
尊重の対象ともしていかねばならないから、ただただ戦いのための戦いを貪る
修羅道に耽っていたりするのでもいけない。敵が死んでいなくなるのがイヤだから、
延命のために物資や武器を提供してやるなどというような、偽善とのくそみそを許容
したりするのでは、スサノオのごとき勧善懲悪を実践することもまた覚束なくなる。

徳川幕府がキリシタンを廃絶したのは、主に忠孝を否定してまでの神への帰依を
促す類いの教義を否定してだったが、「汝の敵を愛せ」という修羅道に過ぎる教義をも
それで同時に廃絶することができたからこそ、幕府も純粋にスサノオのあり方にのみ
何百年も倣い続けることができたのである。江戸初期の、島原の乱の頃までの幕府の
人間の吟味能力の高さにも舌を巻かされる思いだし、その頃の取り決めを250年にも
渡って守り通していた江戸時代のほとんどの日本人たちの手堅さにも頭を下げる他は
ないといえる。高禄や、参勤交代での銭のばら撒きなどの優遇で、終始ウハウハで
いた外様の大名や庄屋や豪商などについては、その限りでもないにしろ。

「勇敢強有力の者は、天下に事無ければ則ち之れを礼義に用い、天下に事有れば則ち
之れを戦勝に用う。之れを戦勝に用いれば則ち敵無く、之れを礼義に用いれば則ち順治なり」
「本当に勇敢で強い力の持ち主は、天下が平和であればその勇力を礼儀礼節の実践に用い、
天下が有事であればその力を圧倒的な戦での勝利に用いる。戦での勝利のために力を
用いればあっという間に敵はいなくなり、礼儀礼節の実践のために用いれば治世も磐石となる。
(ダラダラと利敵込みでの戦闘状態を続けたりするのは、勇敢でも本当に強くもないからだ)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――礼記・聘義第四十八より)

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303 2013/08/12(月) 15:33:36 ID:oIXQFV5xJg
成り行きでニートになってんけど
だって、どうなったってええねんもんw
どうなりたいなんてや、自分の人生がよ
そんなんどうなったってええやん、棒にふってもうたらええねん
この世にそんな大したことってないねん、わいにしてみたらな
大したことなんてなかってん
棒にふるのがもったいないなんて風には思わんよ
みんなは何か変な本読んだりして、デタラメ言うてる奴のことでも気にしてるんか
そんなもん自分で気付いたこと以外はどうでもええことやんw
わいは本も読まんし、生きてて人に教えてもらう事はないわ
だって大した差ないねんもんw同じやん
蟻が蟻になんか教えてるって変やろ
お前が知ってることくらいはわいも知っとるよって
こんくらいやろ、些細なことやん人間なんてな
人間やでみんなな、わいは誰かに何か教えたろうと思わんし
教えられるとはぜったいに思わん
ただ、お互いに気付くことだけはあるんよ
わいは気づいたんやけど、多くの人間は
こうでないとあかん!ってことがあるっていう幻想を抱いてるんや
みんなそう思って楽したいんや
そう思ったほうが、みんなして共通で思ったほうが楽やもんな
まあそれはそれでええよ、楽をとればええやん
そのかわりやで、楽しみは減るねんで
勉強してええ大学に入るのなんてことも楽なことやねん
東大入って官僚にでもなってな、楽やなと思うよ
けどわいはそれは選ばんかった、あんまり楽しそうとは思わんかったし
ニートの方が楽しそうやwそのほうが目的に達成してる感じしたから
おかげで毎日バリ楽しいねん
うおぉぉぉぉ!目的達成してるやん!わいの夢叶ったやん!!!!

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304 2013/08/13(火) 13:23:42 ID:EeOKly4VGw
「国」という社会的枠組みは、全く以って自明な存在性を帯びている。一定の
国土内における万人の安全保障と社会福祉とを一手に引き受ける機構であり、
その役割を果たすために、国内の人間から年貢や税金を徴収したりもする。
そこには何らの神秘性を付与するまでもない、自己完結した存在価値が伴って
いるのだから、そこに疑問やら疎んじやらを抱いたりするほうがおかしい。

我田引水で私富を築き上げることが生きがいである商売人などが、納税で
多額の収入を持っていかれることに腹を立てて、徴税人を犯罪者扱いしたりする、
そのようなプロパガンダ宣伝が世の中に行き渡った結果、国もおいそれと増税に
手を出すことができなくなって、仕方なく軍備や社会福祉関連の予算のほうを
削減したりする。それこそ、国という社会的枠組みの存在意義を軽んじ通した
挙げ句に、自国を傾けてしまう所業とすらなっているわけで、それほどにも
社会的な責任意識の薄い人間がどこの国に行ったって、また同じような
傾国や亡国の過ちを繰り返してしまうことが間違いないわけである。

膨大な私財を築き上げておきながら、それに見合うだけの社会的責務を負って
いないような小人が、時に傾国や亡国の元凶となるのみならず、世界規模の
破滅すらをも招くことがある。米英のユダヤ人を名乗るような政商犯なども、
根拠地である自国のステータスを保つことにはそれなりに気を遣っているが、
世界規模で見てみれば、世界中に貧窮や飢餓や紛争の種を撒き散らすばかりで、
まさに乱天下の様相を招いている。それでいて、自分たちのテリトリーの範囲内
にある資本主義諸国を、破滅から救われる天国か何かのように取り扱おうなどと
もするが、それこそ、天国兼「世界のガン細胞国」であるわけで、そのような
ガン細胞然とした存在性と化してしまったような国が総出で、世界の破滅の全責任
を負わねばならないような事態を招いてしまうばかりのこととなったのであった。

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305 2013/08/13(火) 13:25:53 ID:EeOKly4VGw
執拗かつ無責任な我田引水で、自国を破滅に陥れる場合であれ、他国を破滅
に陥れる場合であれ、「国」という社会的枠組みをひどく軽んじていること
には変わりない。自国を軽んじる場合だけでなく、他国を軽んじる場合もまた、
世界規模の破滅によって自国にまで危害を及ぼすようなことに帰結してしまう
わけだから、これまた国という枠組み全般を蔑ろにした所業であるといえる。

本当に国という枠組みを尊ぶのであれば、覇権主義諸国の乱戦状態などというもの
からして忌まわしい事態であると見なすべきである。儒家が王道を覇道の上に置く
のも、国家という枠組みの重要さを透徹して重んじていればこそのことなのであり、
それと比べれば、覇権主義への邁進によって富国強兵を企てようとするような
連中すらもが、その危うさ故に国すらをも傾けかねない危険集団であると見なせる。

「国」という枠組みを本当に重んずるためには、その存在性の自明さを尊べる
だけの心意気こそが必要になる。神託を受けた国だからとか何だとかの、自明とも
言えないような理由によって自国を守ろうとするぐらいでは、まだ不足である。
万民の安全保障や社会福祉を司る最後の砦としての国という枠組みの重要性を、
そのありのままの姿に即して尊べるようになるためには、諸法実相という仏法
への尊重もまたそれなりの効能を帯びてくることとなる。国というものをその
自明な存在性に即して尊べる者こそは、その国の神すらをも守る礎となるのである。

「仁賢を信ぜざれば則ち国空虚なり。礼義無ければ則ち上下乱る。政事無くば則ち財用足らず」
「仁賢を信じて尊ぶのでなければ、国などあったところでカラッポなままだ。
礼制がなければ上下の秩序も乱れ、政治が疎かならいつかは財政も行き詰まる。
(こういった堅実な視点を欠いた『天国』への夢想なども、有害無益なばかりのものとなる)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――孟子・尽心章句下・一二より)

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306 2013/08/14(水) 14:16:43 ID:xHUmWMMtxw
「修する所の一切諸の功徳は、自己及び他人の為にせず、
恒に最上の信解心を以って、衆生を利益せんが故に回向す」
(「華厳経」十回向品第二十五の九より)

仏教は本来、出家者のみならず、在家信者にまで質素倹約の精進を促すものである。
金銀財宝で埋め尽くされた極楽浄土を欣求する浄土信仰などは、後々に仏教が
拝火教と習合されるなどして生じたものであり、仏門の王道に当たるのはあくまで、
禅僧の如き清貧の生活を誰しもが興じて行く所にこそある。

しかし、それでこそむしろ天下に遍在する富の分量もその目方を増して、人々が
潜在面からの豊かさを享受できるようにもなる。ちょうど、万人が倹約を心がけた
結果として、誰のものと言うわけでもない「虚空」に巨万の富が蓄積されて行くような
こととなるわけで、それでこそ天下の富が最大級たり得るのは、誰しもが倹約や仏教
帰依に傾倒していた江戸時代の日本こそが、貴金属貿易でアメリカを世界一の大国
にしてしまうほどもの潜在的な富に満たされていたことからも分かることだといえる。

「誰某が、誰某に、こういったものを差し上げる」などという、個人対個人の取引が
できる限り控えられることでこそ、万人が享受できる富というものの分量も増す。
ということはつまり、商売人の活動などが最低限であればあるほど、万人が
享受できる富の分量が増すということである。実際、商売人もただただ他人に
商品を贈呈するのではなく、そこでいくらかの中間マージンを得ることで生業と
しているわけだから、そんな人間を介在させてまで個人的な商取引を活性化させたり
することが、天下の公益を目減りさせることになるのも、自明なことだといえる。

世の中における末業(商売)への従事者の活動をなるべく控えさせたりするのは
もちろんのこと、そもそも個人対個人の取引などというもの全般をなるべく
面白がらないようにすることもまた奨励されて然るべきことだと言える。上の
「華厳経」からの引用がまさにそのような心持ちを「作持戒(積極的に為すべきこと)」

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307 2013/08/14(水) 14:21:01 ID:xHUmWMMtxw
として提示してくれているが、なかなかそのようなあり方が分かりにくいというのなら、
逆に、神の信者に対する特定的な恵みばかりを標榜している犯罪聖書の記述などを
「止持戒(そうであってはならないこと)」として重んずるようにしてもいいだろう。

誰しもが質素倹約を重んずる世の中といえども、消費されるものは消費される。ただ、
あくまで倹約のほうが美徳とされて、消費は過剰な場合などには恥とすらされるように
なるから、消費という行為自体はむしろ日陰で為されるべき行いとされるようになる。
豪邸に住み、運転手付きの高級車に乗って、美食美酒美女に酔いしれる富豪のありさま
などが、主に米英文化のひけらかしとして諸国にまで魅力的に触れ回られて来ているが、
そんなものはもう、少なくとも美談などとして扱われるようなことがあってはならない。

消費が快楽であるのは誰でも同じことであり、ただ、それが開き直られて羨望の
対象にまでされれば、人間社会の価値観の位相が狂って、かえって天下に遍在する
富の分量が目減りしてしまうようなことになる。だからいくら快楽であるとはいえ、
消費を良いこととして扱うようなことまではないようにする。「完全に消費を絶て」
などという極論とは似て非なる問題提起であることを誤解しないでもらいたいものだ。

「誠なるは天の道なり、之れを誠にするは人の道なり。
誠なれば勉めずして中り、思わずして得、従容として道に中る、聖人なり」
「誠であるのが天の道である一方、これを実際に誠ならしめるのが人の道である。
誠であればもはや作為的に務めずとも何事もうまくいくようになり、わざわざ考えたりせず
とも自然と会得するものがあり、自然と道に適うようになる。それこそは聖人の姿だといえる。
(天の道は神の働きによってどうにかなるものではないし、知ったからどうというものでもない)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――大学・二〇より)

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308 2013/08/15(木) 12:04:01 ID:Uno7Ezq3yE
「書経」に見られる堯舜(虞)および夏殷周三代の為政を鑑みるに、
殷(商)の時代における為政者の民たちへの接し方が、最も手厳しい。
商書・太甲中では「民は主君がいなければお互いを正しあうこともできない」と明言され、
盤庚では天への尊崇を失った民衆たちに対する痛烈な程もの叱咤が繰り返されている。
(ただし盤庚自身も「自らにも非がある」ということを述べて、修己治人を心がけてもいる)

それは、ただの法家的な信賞必罰主義に則った厳粛志向であったりするわけではない。
人々のあり方を天意に適わせるという目的があっての手段でこそあったのであり、
その目的が達成された結果、特に高宗武丁の代などには祭政一致の為政が隆盛し、
今の漢字文化の元にもなるような甲骨文や亀策の文化が花開いたのでもある。

殷代中国の厳粛な為政が、ただの法家支配などと決定的に違っていた点は他にもある。
それは、殷の法制は「寡法厳罰」が基本でもあったらしいという点である。殷の遺臣の
箕子一族が治めていた3100〜2200年前の朝鮮では、せいぜい禁制は八つ程度のものとされ、
その八つの罪を犯した場合の厳罰のみが徹底されていたという。ただその結果、人々が
犯罪という行為全般を「恥」であると見なすようになり、その恥の意識によってあらかじめ
罪が犯されないようになったという。それは、多法厳罰や多法軽罰だったりする法治主義
社会ではかえって実現し得ないことであり、法律遵守以上に大切な何かがあるとする
常識の通用する世の中(徳治社会も含む)でのみ実現されて行くことなのだといえる。

殷代中国や箕子朝鮮、さらにそれらの遺風を最も色濃く受け継いでいた近世までの日本に
おいて実施されていた高潔な為政の本質的な部分を鑑みるに、それは「罪が犯されない所に
ある清浄さを尊ぶ」というところが共通していたといえる。罪穢れなき所の清浄さを尊ぶ
からこそ、いざ罪が犯されたときにはそれを恥ともする。たとえ罰を受けようとも、罪を
恥とする意識までは払拭されないために、一生負い目を抱いた人生を送らされることとなる。

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309 2013/08/15(木) 12:06:52 ID:Uno7Ezq3yE
夏殷周および箕子の為政において基本中の基本理念とされていた「洪範九疇」では、
占い(亀策と筮)をも参考とした為政が推奨されているが、占いなど、今の為政で参考に
したところで何の意義も生じない。春秋戦国時代の中国でもそうだったというし、さらに
古くの周代の頃から「天意は明らかにし難い(周書・君奭)」とも言われていた。覇道が
横行して人々も罪を恥とするような気持ちでいられなくなってからではもはや、占いも
参考にするような祭政一致の為政も有効性を保てなくなる。ただ、だからといって
洪範九疇の政治規範としての有効性を全く無視してしまうのも過剰反応というものである。

同規範中の「三徳」における「彊にして友ならざれば剛克、〜沈潜なれば剛克」という下り、
特に「沈潜でも剛克する」という箇所など、多少乱れているだけの世の中すら武家政治
の如き厳酷な措置によって治めて行く上での根拠となる。それは確かに、乱世のドサクサに
紛れて甘い汁を吸おうとするようなならず者などにとっては都合の悪い政治規範ともなる
わけだけれども、罪を恥として予め犯さないようにするような清浄な為政の通用する
世の中に至る上での、着実な道程となって行くこともまた間違いないのである。

殷とまで言わず、周の頃の中国の治世程度に今の世界が反正されるだけでも、相当によく
なるに違いない。ただ、諸国との盟約によって殷を打ち破った周武王の所業は、後々に諸侯の
覇権主義を招くという問題を来たしたものである上、上に書いたとおり、亀策による天啓など
は周代にはもはや実効性を失い始めていたことが明らかであるわけだから、理想を目指すのなら、
周以上にも殷の治世を目指したほうがよい。ただ、殷にも殷で、礼楽刑政が厳粛であり過ぎた
ために、殷の紂王のごときはねっ返りによる放辟邪侈を来たしてしまったという実例もあるわけ
だから、これまた清浄を尽くした為政の問題点として、固く戒めて行くようにしなければならない。

「穢を起こして以って自ら臭るること無かれ」
「罪穢れを自ら引き起こして、自らを腐らせるようなことがあってくれるな」
(権力道徳聖書――通称四書五経――書経・商書・盤庚中より)

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310 2013/08/16(金) 14:42:53 ID:QahwJnf7bo
人間の肉体は実際、「神の住まい」と呼べる程にも精巧なものである。しかし、そうであることを自覚したり、
有効に活用したりするために必要なのは、むしろ聖書信者が忌み嫌うような内省的な修養なのであり、
外的な他者への希求や、他者からの侵襲によってはかえって疎かにされかねないものである。

肉体の神秘を最も如実に計り知れる類いの修養法としては、ヨガや合気道や座禅などが挙げられるが、
いずれも「力任せ」のやり込めなどを禁忌とするものであるし、やたらめったらな「前進」をよしとするものでもない。
一ところにしっかりと止まって、丹田や正中線をも大切にしつつの修養を心がけることでこそ、その秘奥にも
至れるものである。そしてそのような志向性こそは、聖書信仰が最も疎かにして来たものである。

神の力任せこそを信仰し、信仰に即するとなればどこまでも邁進する、それこそ、我を見失っての陶酔を
来しかねないものであり、肉体の神秘への理解などからもかえって遠ざかってしまうものである。西洋式の体術である
スポーツもほとんどがそのような我の見失いを助長してしまうものであり、スポーツ選手自身の内省的な修養による
人格の向上などを約束するものでは決してない。かつては合気道やその他の古流柔術並みの含蓄を備えていた
日本の柔道も、オリンピック競技などとしてスポーツ化されて行くことを通じてその精神性を失い、力任せで技を
かけ合って怪我人や死人を出しまくり、試合で勝てばガッツポーズで大喜びなどという無惨な様相を呈してしまっている。

しかし、そのようなスポーツ化こそが、「体育」としての振興に有効であるとして、あえて推進もされて来た。
本来貧弱であった日本人の体格の向上のためにスポーツ全般が振興され、柔道や剣道もその波に乗ってしまった。
だからこそ、合気道などと違って筋力や肺活量を強大化させられたりするようにもなったわけだが、それは、
一人あたりの食い扶持が石高制で厳しく管理されていた江戸時代などには、かえって推奨されないことであった。

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311 2013/08/16(金) 14:46:28 ID:QahwJnf7bo
好きなだけ食らい、好きなだけ身体を鍛えられるのは相撲取りのような限られた立場の人間のみで、
一般人はむしろ合理的な身体の動きによって体力のなさを補うことにこそ務めていた。だからこそ、
古来からの伝統に即する武術などには筋力トレーニングや体操などもほとんどないし、腕力に頼りきることを
禁忌としているものが多い。そしてそこでこそ、人体の神秘を突き止めるような深淵な術理が編み出されて
も来たわけだから、肉体の神秘の探求と力任せとは、まさに相反する関係にすらあるのだといえる。

肉体の神秘を探求するような洗練された体術などよりも、スポーツ的な力任せのほうがかえって、
乱戦状態の戦争においては有効な場合もある。サッカーやラグビーのような集団戦のスポーツはまさに戦争を模した
ものであるし、野球に至っては、武田騎馬軍を敗走させた信長の連射戦法の如きローテーション技巧を帯びてもいる。
時に捨て駒ともされるような末端の兵士あたりが、体力作りや気晴らし目的のために興じる上では、古流の武術などよりも
スポーツのほうが適切なぐらいであるが、ただ、その末端の兵士こそは、普段は別の職業に就いているような
徴用兵だったりもする。そのような人間にまで体力作り込みの戦闘への邁進を促したりするようではもはや
国のほうが経済的に持たなくなるし、スポーツに没頭すること自体が本人の生業への専念を疎かにもさせかねない。

末端の兵士などよりは、上級の将校が護身目的で嗜んだりするのに打ってつけなものであればこそ、
古流の武術こそは社会的な経済性に即しても奨励できるものとなっている。肉体の神秘の探求ともなるような
高遠な体術こそは、経済的な合理性にも適っているものだから、一切のルールを無視した完全なる総力戦において、
スポーツで兵士を鍛え上げているような軍隊などを相手にしても最終的には勝てるのである。

人間を牛馬か奴隷の如き力任せの徒と化してしまうことの「弱さ」というものを知るべきだといえる。

「樊遲仁を問う。子曰く、居処は恭に、」
「樊遲が仁を問うた。孔先生は言われた。『住居にあるときも恭しく』
(自分が神の住処だからといって思い上がったりするのは、そのような神が邪神でもあるからに違いない)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――論語・子路第十三・九より)

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312 2013/08/17(土) 12:28:06 ID:hzOey.ET/6
邪信に溺れている人間が、信仰のおかげで自らが清浄になれたなどと
思い込むのはあたかも、化学物質で汚染された川の水が鮮やかな七色に
染まっているのを見て、それを「清浄だ」などと思い込むようなものである。

一方で、二酸化炭素の排出過剰による地球温暖化で拡大している各地の
砂漠化などもまた、一種の深刻な環境汚染である。河川や土質の化学汚染が
邪信への狂信に基づく精神汚染に比肩される一方で、砂漠化は、独裁主義や
共産主義をイデオロギーとするニヒリズムへの陥りに等しいといえる。

元来聖書信仰も、砂漠地帯での生への渇望からでっち上げられた邪信であり、
化学汚染と温暖化や砂漠化が同時進行して行くようにして、邪信による精神
汚染とニヒリズムもまた、表裏一体のものとして深刻化していったのである。

河川や土質の汚染も、大気汚染による温暖化や砂漠化も、元はといえば過度の
工業発展が元凶となっている。資本主義先進国などでは、環境に配慮された
工場経営や自動車開発などが試みられているが、安かろう悪かろうの大量生産
大量消費もまた中国などで旺盛に続けられている。しかも結局はそのような
質より量の生産ばかりに頼って、先進国内での生産などはお飾り状態と化して
しまっていたりする。そこまでして、環境破壊込みの大量生産ばかりを
目指したがるのは、資本主義主体、商業主体の産業発展を未だに
続けて行こうとする勢力が猛威を奮っているからである。

そしてその、産業発展を資本主義によって無制限に推進して行こうとする性向もまた、
聖書信仰こそが司って来たものである。旧約における際限のない祭壇構築だとか
バベルの塔の建築だとかが、まさに近代以降の際限なき産業発展の精神的な拠り所
ともなっている。それが、「易経」における「開物成務」の理念などとも決定的に
違っているのは、開物成務はあくまで正規の位を持つ君子が主導して行くもので
あるのに対し、旧約の記述に基づく産業発展は、超越神エホバという不審な存在が
発展を主導して行くという点にある。エホバという存在が不審なものであればこそ、
政商犯のような危うい立場の人間が発展を主導して行く上での理念ともしやすい。

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313 2013/08/17(土) 12:36:38 ID:hzOey.ET/6
そしてその政商こそは、やろうと思えば正規の為政者以上にも甚大な物質的構築を
実現して行くことができる。政治家並みの権力を持ち、商売人並みの不仁者でも
いられる政商という立場に即すれば、正規の為政者としては許されないような
我田引水によって法外な富を蓄積し、ただの商売人には得られないような甚大な
権限で以って、企業などの体裁に基づく産業発展を企てることができる。ただし、
そのような不正な手段による産業発展は必ずどこかで大破綻を来たすことが免れ
得ないから、バベルの塔もいつかは倒壊させられると旧約でも予言されている。

ただ、旧約の記述が不埒なのは、バベルの塔は超越神であるエホバの怒りに
よって倒壊させられるとし、エホバを敬虔に信仰していたものはその災禍からも
免れられるとしている点である。エホバこそは、政商犯によるバベルの塔の如き
不正かつ過剰な産業発展の構築をけしかけた元凶であるのだから、エホバこそは
懲罰を被らねばならない存在であることが明らかだし、エホバなぞを信仰していた
ような連中こそは率先して重罰を被らねばならないこともまた明らかなのである。

結局、エホバとは、現実的にはただの政商犯であり、エホバへの信仰なぞも、
キリスト教圏で政商犯の役目を負わされたユダヤ教徒が、自分たちの行いを
正当化するためと、最終的な経済破綻に際しても自分たちだけは災禍を免れ
られるようにするための言い訳材料として捏造しただけのものなのだから、その
お粗末さたるや、磔刑への恐怖による知能の低下を昇天に見立てたキリスト信仰
などと比べても遜色のないものであるし、自分たちこそを超越神として正当化すら
しようとするユダヤ教徒が、誰しもから憎み嫌われるような思い上がりにまみれて
しまうこともまたむべなることだといえる。ユダヤ信仰といいキリスト信仰といい、
その教義のお粗末さこそが信者に致命的な思い上がりを抱かせもしたのだから、
宗教一般ではなく、稚拙な宗教の有害さこそを問題視する必要があるといえる。

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314 2013/08/17(土) 13:24:58 ID:orIXx/Y2k2:au
「孝子の祭るや、其の愨を尽くして愨に、其の信を尽くして信に、其の敬を尽くして敬し、
其の礼を尽くして過失なく。進退必ず敬み、親に命を聴きて則ち之れに使いする或るが如くすなり」
「孝子が祭儀を執り行う時には、慇懃に慇懃を尽くし、信に信を尽くし、敬いに敬いを尽くし、
礼を尽くして過失をなさず、進退にも必ず節度を持たせ、まるで親からの命に聴き従っているかのようにする」
(権力道徳聖書――通称四書五経――礼記・祭義第二十四より)

もうスレ容量超過寸前か。
自分一人で満杯にしたわけでもないから、大して感慨も湧かないが。

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315 2013/08/17(土) 15:30:47 ID:6t5Z6D4/5I
四書五経に明記されている倫理基準そのものは、決して体系的ではない。
孔子や孟子の提示する倫理判断も直観的で散逸的なものばかりで、
その一つ一つの言葉の絶対性に固執することが、儒学の粗雑な
宗教化(儒教化)を招く危険性をも孕んでいる。

一方で、四書五経を学ぶことで本人自身が体得する体系的な倫理基準というものは実在する。
特に、易詩書礼春秋の五経を的確に学ぶことで、自らに普遍的かつ体系的な倫理的判断力が
身に付くようになっていて、そこから派生する言行こそは確かに、孔孟のそれにも近似する。
特に基幹となるのは、易の陰陽法則を体得レベルで理解することで、それが経書の勉学の内
でも最難関となる一方、体得すらできたなら孔孟級の聖賢にすら決してなれなくはない。

四書五経を学ぶことによって体得する倫理体系そのものはあまりにも膨大すぎて、
完全に文面化しようとしても永遠にとりとめのないものとなってしまう。それは、
易の陰陽法則から有機的に派生する倫理体系が無尽蔵であると共に、それを勉学の対象
とした者自身が、全身全霊によって当該の無尽蔵な倫理体系を受け止めてもいるからだ。

脳の記憶容量は10テラバイト(5兆文字)以上といい、しかもその記憶構造が本人自身の人体構造や生活とも
密接に関係し合っている。易の陰陽法則もまた、そのような心身全体によって体得されるものであるため、
他人がちょっと聞きかじってみたりした所で、その全容は愚か、片鱗すら掴みようもない場合がほとんど。
しかし、それ程もの膨大さを湛えていればこそ、その倫理体系が実社会でも健全に機能できるのである。

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316 2013/08/18(日) 14:50:05 ID:MVn.vCskwY
政商は、公権力にすらものを言わせられる商売人としての権能を駆使することで、国中や世界中から法外な富を
巻き上げて我が手元に置き、その富を元手に諸々の事業を催すことに専らでいるわけだから、ことに、
世界中や国中の人々を満遍なく豊かにするということだけは絶対にできない。

モナコやルクセンブルグ程度の極小国であればともかく、アメリカやイギリス程度の規模の国ともなれば、
世界最凶級の政商がそこを根城とした結果としても、国内に一定数以上の貧困層が生じてしまうこととなる。
政商がこの世にもたらし得る公益というものは、それ程にも挟隘な範囲に限られるのであり、だからこそ、
政商活動の猛威を超越神エホバの業に見立てた旧約教義においても、神の救いを得られるとされる人間が
ごくごく限られた範囲ばかりに止まってしまっているのでもある。

常日頃から自衛隊を批判しているような左翼活動家なども、いざ日本国内で大災害に見舞われたりすれば、
本人が絶対拒否でもしない限りは、自衛隊員が救助や復興支援をしてくれることとなる。そりゃあ当然、
自衛隊が国家の統制下にある公務組織であるからで、三菱などの政商を兼ねる大企業の飼い犬であるからではない。

兵装の開発や生産を軍需企業に頼ることがあっても、そのための資金は税金によってまかなわれる。
日本の場合は、兵器産業がまだ自国の自衛用途のために限られているから、軍産複合体の肥大化なども
抑制されていて、軍事面で政商の横暴を許すようなこともない。だからこそ、自衛隊の活動なども節度が
保たれて、純粋に「世のため人のため」であることが守られているわけだけれども、果たして、敵国侵略能力を
擁する規模の軍事力を手に入れた場合にもそれが保守されるかどうかは、甚だ疑問である。何かにかけて
因縁を付けては中東諸国を侵略している米軍やNATO軍のようにすらなりかねず、そこにはもはや正義も存在しない。
それでいてそのような極大級の腕力を手に入れた軍隊こそは、軍産複合体という体裁を帯びた政商の忠実な飼い犬となる。
軍事組織も、純粋な国の統制下にあれば純良なものでいられるが、いざ政商の飼い犬と化してしまえば、
もはやろくな道義性も保てなくなる実例が、現状の自衛隊と、米軍やNATO軍とであるといえる。

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317 2013/08/18(日) 14:55:25 ID:MVn.vCskwY
政商自体、国や天下の貧窮と引き換えに甚大な権能を手にするものであるし、軍隊もまた、軍産複合体の如き
政商の配下に下ることで、侵略能力を伴うような絶大な軍事力を手にするに至る。そのような構図はすでに、
2000年以上前の中国などでも確立されていたことであり、実際に、政商兼秦国の宰相だった呂不韋のように、
政商としての手腕によって武力による中国統一の貢献者となった事例すらもがある。ただ、政商ありきの
ペースで中国を統一した秦帝国は、その政商活動を保たせてやるための甚大な土建事業などによって
人々を酷使し続けて困窮に陥れたために、天下全土の人々から「まだないほうがマシなもの」としての
扱いを受けて、全国規模の反乱によってたった15年で崩壊させられることとなってしまった。

いま、アメリカやイギリスがその秦帝国とほぼ同じような末路を辿りつつあるが、結局、世界中の
人々を富ませてやることができないだけでなく、自分たちが根城とする国すらをもろくに保たせて
やれないのが政商という存在であるわけだから、これ程にも「できなければ困ること」が
ピンポイントにできない不具的存在もまた、他にないといえる。

ぶっちゃけ、国や政府というものは、商売人を統制することを第一の任務とするものである。
人々にとっての本業である農業や必需工業を奨励し、末業である商業やガラクタ工業を控えさせることでこそ、
国というものもまた長期の泰平や繁栄を獲得することができるものなのだから、政商の介在を許して
しまうことなどは、まさに本末転倒の所業以外の何物でもないということが言えるのである。

国が政商を容認したりすることが、国にとっての本末転倒の所業となるからこそ、それによって
国も貧しくなり、挙げ句には傾いて滅ぶこととすらなってしまう。唐代の中国や江戸幕府のような、
隆盛期には極めて良質な治世を築き上げた政権すらもが、末期には塩の闇商人や大坂豪商の組織的暗躍を
許すことで崩壊に見舞われてしまったわけだから、何も秦や北宋や織豊政権の如き。政商を真っ向から
容認していたような政権ばかりが、政商的存在によって滅びているわけでもないということまでもが言える。

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318 2013/08/18(日) 14:58:40 ID:v294Zn3FEQ:au
この世に極大級の不具をもたらす政商という存在を、その有能さではなく不能さによってこそ
取り締まっていかねばならぬ。そのためには、政商がもたらす利益以上の害というものを、
上記のような大局的考察に即して十分に計り知っておく必要があるのである。

「指人に若かざるときは、則ち之を悪むことを知るも、
心人に若かざるときは、則ち悪むことを知らず。此れ類を知らずと謂うなり」
「自分の指が人並みに動かせないとなれば、大いにこれを嫌悪する一方で、
自分の心が人並みの品性すら保てないことなどは、一向に嫌悪しようともしない。
これこそは、物事の軽重を知らないあり方だといえる。(指一本自由に動かせない
程度の能力的な不能よりも、心の不能のほうがよっぽど恥ずべきことである)」
(権力道徳聖書――通称四書五経――孟子・告子章句上・一二より)

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319 2013/08/19(月) 14:16:48 ID:RZnT1J/MIE:au
容量超過寸前につき次スレ:

聖書 Part12
http://bbs77.meiwasuisan.com/bin/read/thought/1376885948...

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