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聖書 Part11


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001 2013/06/16(日) 15:37:27 ID:voWxfHmpxE
人間社会を司る体系化された思想信条の聖書として、
全世界においてその立場を揺るぎないものとしている権力道徳聖書、通称四書五経。

今となっては、その主要な編纂者や登場人物である孔子や孟子が至上の学聖として
崇められてもいるが、決して本人たち自身は恵まれた人生ばかりを送ったわけでもない。
すでに徳治の実践自体が疎かにされていた春秋戦国時代の中国で、せめてでも古来からの
権力道徳を保全しておこうとする目的で、儒者(学究者)という身分に即した学問の興隆
を試みていた。その結果として、周代までは専ら王侯の嗜むものであった権力道徳学が
市井に到るまで広く受容されることとなり、儒学道徳が「権力のための道徳」に止まらない、
「人間のための道徳」としてまで人口に膾炙されることとなったわけだから、孔子や孟子が
在野の学者として儒学を温めてくれたことも、人類にとっては「怪我の功名」になったのだといえる。

とはいえ本来は、儒学が考究対象とする道徳学もまた、国家権力を司ることこそを第一の
目的とした帝王学でこそあるわけだから、ただの学者や庶民としての受容に止まるよりは、
天下国家に名を馳せる大権力者として儒学を受容することこそが本望ともなるのである。

だから、孔子や孟子を儒学の大成者として尊ぶべきであるとはいえ、在野の学者に甘んじさせられた
その境遇までをもわざわざあえて見習ったりする必要はない。特に、孔子は妾腹の私生児という
それはそれは恵まれない境遇に生れ落ちながら、その逆境をばねにしての自学自習によって儒学の
始祖ともなったわけだから、その努力的な姿勢にあやかるべきである一方で、妾腹の私生児のような
立場であることを自ら恥としたその奥ゆかしさをも見習うべきなのである。故に、孔子がそのような立場
だからといって、妾腹の私生児のような立場自体を崇めたりするようなことがあってもならないのである。

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301 2013/08/12(月) 15:20:34 ID:v5yKU6tHog
人に対しては「自分を誇るな」云々と口うるさく命じておきながら、
「誇るなら私を誇れ」などとうそぶく犯罪聖書の神の偉ぶりようこそは、「己れの
欲せざる所を人に施すことなかれ」という自明な人間道徳にも決定的に反している。
だからこそ、「誇る」ということにかけて聖書信者が自分たち自身を誇ることは
ないとしても、己れの欲せざる所を人に施すような度し難い性向一般が聖書信者に
植えつけられてしまうことには変わりない。さんざん異教徒を迫害しておきながら、
いざ自分たちが真珠湾や911のような攻撃の対象となれば、まるでそれが世界の
終わりであるかのような悲劇性を伴って嘆き散らす所などが、まさにその実例だといえる。

己れの欲せざる所を人に施すかどうかは一度置いておいて、一方がもう一方に対して
一方的な態度であらねばならないということはある。君臣父子夫婦長幼といった序列に即する
非可換な関係性というものが儒学でも奨励されているわけで、平民が士人に対して謙らねば
ならない一方で、士人が平民に対してそんな真似をさせられたりすればそれが無礼となる。
それこそ、己れの欲せざる所を人に施している事例にすらなるわけだが、そこは陰陽関係
で言った場合の「陽唱陰和」であるからこそ、許容されねばならないこととなる。

主君は臣下よりも、親は子よりも、夫は妻よりも表側に位置する、日に当たる存在である。
少なくともそうあるべき存在であり、臣下や妻子などは日陰に甘んじるべき存在である。
そのような関係にあるもの同士が、陽唱陰和を成立させるために一方的な関係性を持つ
ということはむしろ推奨される。然るに、犯罪聖書の神などは、全く得体も知れない全く
の影ながらの存在であり、自分からも「信者を後援する」みたいなことを散々言っている。
にもかかわらず自分ばかりを主として崇め、自分に追従して来ることを信者に要求する。
これこそは「陰唱陽和」の極致ともなっているわけで、あらゆるものの内でも最も随順の
対象とするに値しないものに対する服従を強要する、凶事の極みともなっている。

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302 2013/08/12(月) 15:21:46 ID:oIXQFV5xJg
ヤマタノオロチも、出雲国の村の娘を次々に襲っては食らうような惨暴を働いていた
ものだから、それを一方的に退治したスサノオのあり方も勧善懲悪に適っていた。
それほどもの暴慢にまみれた相手であればこそ、一時的な利敵の計を通じての、
反則じみた退治法までもが正義に適うこととなった。そのような物語構造全般を
尊重の対象ともしていかねばならないから、ただただ戦いのための戦いを貪る
修羅道に耽っていたりするのでもいけない。敵が死んでいなくなるのがイヤだから、
延命のために物資や武器を提供してやるなどというような、偽善とのくそみそを許容
したりするのでは、スサノオのごとき勧善懲悪を実践することもまた覚束なくなる。

徳川幕府がキリシタンを廃絶したのは、主に忠孝を否定してまでの神への帰依を
促す類いの教義を否定してだったが、「汝の敵を愛せ」という修羅道に過ぎる教義をも
それで同時に廃絶することができたからこそ、幕府も純粋にスサノオのあり方にのみ
何百年も倣い続けることができたのである。江戸初期の、島原の乱の頃までの幕府の
人間の吟味能力の高さにも舌を巻かされる思いだし、その頃の取り決めを250年にも
渡って守り通していた江戸時代のほとんどの日本人たちの手堅さにも頭を下げる他は
ないといえる。高禄や、参勤交代での銭のばら撒きなどの優遇で、終始ウハウハで
いた外様の大名や庄屋や豪商などについては、その限りでもないにしろ。

「勇敢強有力の者は、天下に事無ければ則ち之れを礼義に用い、天下に事有れば則ち
之れを戦勝に用う。之れを戦勝に用いれば則ち敵無く、之れを礼義に用いれば則ち順治なり」
「本当に勇敢で強い力の持ち主は、天下が平和であればその勇力を礼儀礼節の実践に用い、
天下が有事であればその力を圧倒的な戦での勝利に用いる。戦での勝利のために力を
用いればあっという間に敵はいなくなり、礼儀礼節の実践のために用いれば治世も磐石となる。
(ダラダラと利敵込みでの戦闘状態を続けたりするのは、勇敢でも本当に強くもないからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・聘義第四十八より)

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303 2013/08/12(月) 15:33:36 ID:oIXQFV5xJg
成り行きでニートになってんけど
だって、どうなったってええねんもんw
どうなりたいなんてや、自分の人生がよ
そんなんどうなったってええやん、棒にふってもうたらええねん
この世にそんな大したことってないねん、わいにしてみたらな
大したことなんてなかってん
棒にふるのがもったいないなんて風には思わんよ
みんなは何か変な本読んだりして、デタラメ言うてる奴のことでも気にしてるんか
そんなもん自分で気付いたこと以外はどうでもええことやんw
わいは本も読まんし、生きてて人に教えてもらう事はないわ
だって大した差ないねんもんw同じやん
蟻が蟻になんか教えてるって変やろ
お前が知ってることくらいはわいも知っとるよって
こんくらいやろ、些細なことやん人間なんてな
人間やでみんなな、わいは誰かに何か教えたろうと思わんし
教えられるとはぜったいに思わん
ただ、お互いに気付くことだけはあるんよ
わいは気づいたんやけど、多くの人間は
こうでないとあかん!ってことがあるっていう幻想を抱いてるんや
みんなそう思って楽したいんや
そう思ったほうが、みんなして共通で思ったほうが楽やもんな
まあそれはそれでええよ、楽をとればええやん
そのかわりやで、楽しみは減るねんで
勉強してええ大学に入るのなんてことも楽なことやねん
東大入って官僚にでもなってな、楽やなと思うよ
けどわいはそれは選ばんかった、あんまり楽しそうとは思わんかったし
ニートの方が楽しそうやwそのほうが目的に達成してる感じしたから
おかげで毎日バリ楽しいねん
うおぉぉぉぉ!目的達成してるやん!わいの夢叶ったやん!!!!

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304 2013/08/13(火) 13:23:42 ID:EeOKly4VGw
「国」という社会的枠組みは、全く以って自明な存在性を帯びている。一定の
国土内における万人の安全保障と社会福祉とを一手に引き受ける機構であり、
その役割を果たすために、国内の人間から年貢や税金を徴収したりもする。
そこには何らの神秘性を付与するまでもない、自己完結した存在価値が伴って
いるのだから、そこに疑問やら疎んじやらを抱いたりするほうがおかしい。

我田引水で私富を築き上げることが生きがいである商売人などが、納税で
多額の収入を持っていかれることに腹を立てて、徴税人を犯罪者扱いしたりする、
そのようなプロパガンダ宣伝が世の中に行き渡った結果、国もおいそれと増税に
手を出すことができなくなって、仕方なく軍備や社会福祉関連の予算のほうを
削減したりする。それこそ、国という社会的枠組みの存在意義を軽んじ通した
挙げ句に、自国を傾けてしまう所業とすらなっているわけで、それほどにも
社会的な責任意識の薄い人間がどこの国に行ったって、また同じような
傾国や亡国の過ちを繰り返してしまうことが間違いないわけである。

膨大な私財を築き上げておきながら、それに見合うだけの社会的責務を負って
いないような小人が、時に傾国や亡国の元凶となるのみならず、世界規模の
破滅すらをも招くことがある。米英のユダヤ人を名乗るような政商犯なども、
根拠地である自国のステータスを保つことにはそれなりに気を遣っているが、
世界規模で見てみれば、世界中に貧窮や飢餓や紛争の種を撒き散らすばかりで、
まさに乱天下の様相を招いている。それでいて、自分たちのテリトリーの範囲内
にある資本主義諸国を、破滅から救われる天国か何かのように取り扱おうなどと
もするが、それこそ、天国兼「世界のガン細胞国」であるわけで、そのような
ガン細胞然とした存在性と化してしまったような国が総出で、世界の破滅の全責任
を負わねばならないような事態を招いてしまうばかりのこととなったのであった。

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305 2013/08/13(火) 13:25:53 ID:EeOKly4VGw
執拗かつ無責任な我田引水で、自国を破滅に陥れる場合であれ、他国を破滅
に陥れる場合であれ、「国」という社会的枠組みをひどく軽んじていること
には変わりない。自国を軽んじる場合だけでなく、他国を軽んじる場合もまた、
世界規模の破滅によって自国にまで危害を及ぼすようなことに帰結してしまう
わけだから、これまた国という枠組み全般を蔑ろにした所業であるといえる。

本当に国という枠組みを尊ぶのであれば、覇権主義諸国の乱戦状態などというもの
からして忌まわしい事態であると見なすべきである。儒家が王道を覇道の上に置く
のも、国家という枠組みの重要さを透徹して重んじていればこそのことなのであり、
それと比べれば、覇権主義への邁進によって富国強兵を企てようとするような
連中すらもが、その危うさ故に国すらをも傾けかねない危険集団であると見なせる。

「国」という枠組みを本当に重んずるためには、その存在性の自明さを尊べる
だけの心意気こそが必要になる。神託を受けた国だからとか何だとかの、自明とも
言えないような理由によって自国を守ろうとするぐらいでは、まだ不足である。
万民の安全保障や社会福祉を司る最後の砦としての国という枠組みの重要性を、
そのありのままの姿に即して尊べるようになるためには、諸法実相という仏法
への尊重もまたそれなりの効能を帯びてくることとなる。国というものをその
自明な存在性に即して尊べる者こそは、その国の神すらをも守る礎となるのである。

「仁賢を信ぜざれば則ち国空虚なり。礼義無ければ則ち上下乱る。政事無くば則ち財用足らず」
「仁賢を信じて尊ぶのでなければ、国などあったところでカラッポなままだ。
礼制がなければ上下の秩序も乱れ、政治が疎かならいつかは財政も行き詰まる。
(こういった堅実な視点を欠いた『天国』への夢想なども、有害無益なばかりのものとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一二より)

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306 2013/08/14(水) 14:16:43 ID:xHUmWMMtxw
「修する所の一切諸の功徳は、自己及び他人の為にせず、
恒に最上の信解心を以って、衆生を利益せんが故に回向す」
(「華厳経」十回向品第二十五の九より)

仏教は本来、出家者のみならず、在家信者にまで質素倹約の精進を促すものである。
金銀財宝で埋め尽くされた極楽浄土を欣求する浄土信仰などは、後々に仏教が
拝火教と習合されるなどして生じたものであり、仏門の王道に当たるのはあくまで、
禅僧の如き清貧の生活を誰しもが興じて行く所にこそある。

しかし、それでこそむしろ天下に遍在する富の分量もその目方を増して、人々が
潜在面からの豊かさを享受できるようにもなる。ちょうど、万人が倹約を心がけた
結果として、誰のものと言うわけでもない「虚空」に巨万の富が蓄積されて行くような
こととなるわけで、それでこそ天下の富が最大級たり得るのは、誰しもが倹約や仏教
帰依に傾倒していた江戸時代の日本こそが、貴金属貿易でアメリカを世界一の大国
にしてしまうほどもの潜在的な富に満たされていたことからも分かることだといえる。

「誰某が、誰某に、こういったものを差し上げる」などという、個人対個人の取引が
できる限り控えられることでこそ、万人が享受できる富というものの分量も増す。
ということはつまり、商売人の活動などが最低限であればあるほど、万人が
享受できる富の分量が増すということである。実際、商売人もただただ他人に
商品を贈呈するのではなく、そこでいくらかの中間マージンを得ることで生業と
しているわけだから、そんな人間を介在させてまで個人的な商取引を活性化させたり
することが、天下の公益を目減りさせることになるのも、自明なことだといえる。

世の中における末業(商売)への従事者の活動をなるべく控えさせたりするのは
もちろんのこと、そもそも個人対個人の取引などというもの全般をなるべく
面白がらないようにすることもまた奨励されて然るべきことだと言える。上の
「華厳経」からの引用がまさにそのような心持ちを「作持戒(積極的に為すべきこと)」

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307 2013/08/14(水) 14:21:01 ID:xHUmWMMtxw
として提示してくれているが、なかなかそのようなあり方が分かりにくいというのなら、
逆に、神の信者に対する特定的な恵みばかりを標榜している犯罪聖書の記述などを
「止持戒(そうであってはならないこと)」として重んずるようにしてもいいだろう。

誰しもが質素倹約を重んずる世の中といえども、消費されるものは消費される。ただ、
あくまで倹約のほうが美徳とされて、消費は過剰な場合などには恥とすらされるように
なるから、消費という行為自体はむしろ日陰で為されるべき行いとされるようになる。
豪邸に住み、運転手付きの高級車に乗って、美食美酒美女に酔いしれる富豪のありさま
などが、主に米英文化のひけらかしとして諸国にまで魅力的に触れ回られて来ているが、
そんなものはもう、少なくとも美談などとして扱われるようなことがあってはならない。

消費が快楽であるのは誰でも同じことであり、ただ、それが開き直られて羨望の
対象にまでされれば、人間社会の価値観の位相が狂って、かえって天下に遍在する
富の分量が目減りしてしまうようなことになる。だからいくら快楽であるとはいえ、
消費を良いこととして扱うようなことまではないようにする。「完全に消費を絶て」
などという極論とは似て非なる問題提起であることを誤解しないでもらいたいものだ。

「誠なるは天の道なり、之れを誠にするは人の道なり。
誠なれば勉めずして中り、思わずして得、従容として道に中る、聖人なり」
「誠であるのが天の道である一方、これを実際に誠ならしめるのが人の道である。
誠であればもはや作為的に務めずとも何事もうまくいくようになり、わざわざ考えたりせず
とも自然と会得するものがあり、自然と道に適うようになる。それこそは聖人の姿だといえる。
(天の道は神の働きによってどうにかなるものではないし、知ったからどうというものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・二〇より)

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308 2013/08/15(木) 12:04:01 ID:Uno7Ezq3yE
「書経」に見られる堯舜(虞)および夏殷周三代の為政を鑑みるに、
殷(商)の時代における為政者の民たちへの接し方が、最も手厳しい。
商書・太甲中では「民は主君がいなければお互いを正しあうこともできない」と明言され、
盤庚では天への尊崇を失った民衆たちに対する痛烈な程もの叱咤が繰り返されている。
(ただし盤庚自身も「自らにも非がある」ということを述べて、修己治人を心がけてもいる)

それは、ただの法家的な信賞必罰主義に則った厳粛志向であったりするわけではない。
人々のあり方を天意に適わせるという目的があっての手段でこそあったのであり、
その目的が達成された結果、特に高宗武丁の代などには祭政一致の為政が隆盛し、
今の漢字文化の元にもなるような甲骨文や亀策の文化が花開いたのでもある。

殷代中国の厳粛な為政が、ただの法家支配などと決定的に違っていた点は他にもある。
それは、殷の法制は「寡法厳罰」が基本でもあったらしいという点である。殷の遺臣の
箕子一族が治めていた3100〜2200年前の朝鮮では、せいぜい禁制は八つ程度のものとされ、
その八つの罪を犯した場合の厳罰のみが徹底されていたという。ただその結果、人々が
犯罪という行為全般を「恥」であると見なすようになり、その恥の意識によってあらかじめ
罪が犯されないようになったという。それは、多法厳罰や多法軽罰だったりする法治主義
社会ではかえって実現し得ないことであり、法律遵守以上に大切な何かがあるとする
常識の通用する世の中(徳治社会も含む)でのみ実現されて行くことなのだといえる。

殷代中国や箕子朝鮮、さらにそれらの遺風を最も色濃く受け継いでいた近世までの日本に
おいて実施されていた高潔な為政の本質的な部分を鑑みるに、それは「罪が犯されない所に
ある清浄さを尊ぶ」というところが共通していたといえる。罪穢れなき所の清浄さを尊ぶ
からこそ、いざ罪が犯されたときにはそれを恥ともする。たとえ罰を受けようとも、罪を
恥とする意識までは払拭されないために、一生負い目を抱いた人生を送らされることとなる。

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309 2013/08/15(木) 12:06:52 ID:Uno7Ezq3yE
夏殷周および箕子の為政において基本中の基本理念とされていた「洪範九疇」では、
占い(亀策と筮)をも参考とした為政が推奨されているが、占いなど、今の為政で参考に
したところで何の意義も生じない。春秋戦国時代の中国でもそうだったというし、さらに
古くの周代の頃から「天意は明らかにし難い(周書・君奭)」とも言われていた。覇道が
横行して人々も罪を恥とするような気持ちでいられなくなってからではもはや、占いも
参考にするような祭政一致の為政も有効性を保てなくなる。ただ、だからといって
洪範九疇の政治規範としての有効性を全く無視してしまうのも過剰反応というものである。

同規範中の「三徳」における「彊にして友ならざれば剛克、〜沈潜なれば剛克」という下り、
特に「沈潜でも剛克する」という箇所など、多少乱れているだけの世の中すら武家政治
の如き厳酷な措置によって治めて行く上での根拠となる。それは確かに、乱世のドサクサに
紛れて甘い汁を吸おうとするようなならず者などにとっては都合の悪い政治規範ともなる
わけだけれども、罪を恥として予め犯さないようにするような清浄な為政の通用する
世の中に至る上での、着実な道程となって行くこともまた間違いないのである。

殷とまで言わず、周の頃の中国の治世程度に今の世界が反正されるだけでも、相当によく
なるに違いない。ただ、諸国との盟約によって殷を打ち破った周武王の所業は、後々に諸侯の
覇権主義を招くという問題を来たしたものである上、上に書いたとおり、亀策による天啓など
は周代にはもはや実効性を失い始めていたことが明らかであるわけだから、理想を目指すのなら、
周以上にも殷の治世を目指したほうがよい。ただ、殷にも殷で、礼楽刑政が厳粛であり過ぎた
ために、殷の紂王のごときはねっ返りによる放辟邪侈を来たしてしまったという実例もあるわけ
だから、これまた清浄を尽くした為政の問題点として、固く戒めて行くようにしなければならない。

「穢を起こして以って自ら臭るること無かれ」
「罪穢れを自ら引き起こして、自らを腐らせるようなことがあってくれるな」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)

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310 2013/08/16(金) 14:42:53 ID:QahwJnf7bo
人間の肉体は実際、「神の住まい」と呼べる程にも精巧なものである。しかし、そうであることを自覚したり、
有効に活用したりするために必要なのは、むしろ聖書信者が忌み嫌うような内省的な修養なのであり、
外的な他者への希求や、他者からの侵襲によってはかえって疎かにされかねないものである。

肉体の神秘を最も如実に計り知れる類いの修養法としては、ヨガや合気道や座禅などが挙げられるが、
いずれも「力任せ」のやり込めなどを禁忌とするものであるし、やたらめったらな「前進」をよしとするものでもない。
一ところにしっかりと止まって、丹田や正中線をも大切にしつつの修養を心がけることでこそ、その秘奥にも
至れるものである。そしてそのような志向性こそは、聖書信仰が最も疎かにして来たものである。

神の力任せこそを信仰し、信仰に即するとなればどこまでも邁進する、それこそ、我を見失っての陶酔を
来しかねないものであり、肉体の神秘への理解などからもかえって遠ざかってしまうものである。西洋式の体術である
スポーツもほとんどがそのような我の見失いを助長してしまうものであり、スポーツ選手自身の内省的な修養による
人格の向上などを約束するものでは決してない。かつては合気道やその他の古流柔術並みの含蓄を備えていた
日本の柔道も、オリンピック競技などとしてスポーツ化されて行くことを通じてその精神性を失い、力任せで技を
かけ合って怪我人や死人を出しまくり、試合で勝てばガッツポーズで大喜びなどという無惨な様相を呈してしまっている。

しかし、そのようなスポーツ化こそが、「体育」としての振興に有効であるとして、あえて推進もされて来た。
本来貧弱であった日本人の体格の向上のためにスポーツ全般が振興され、柔道や剣道もその波に乗ってしまった。
だからこそ、合気道などと違って筋力や肺活量を強大化させられたりするようにもなったわけだが、それは、
一人あたりの食い扶持が石高制で厳しく管理されていた江戸時代などには、かえって推奨されないことであった。

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311 2013/08/16(金) 14:46:28 ID:QahwJnf7bo
好きなだけ食らい、好きなだけ身体を鍛えられるのは相撲取りのような限られた立場の人間のみで、
一般人はむしろ合理的な身体の動きによって体力のなさを補うことにこそ務めていた。だからこそ、
古来からの伝統に即する武術などには筋力トレーニングや体操などもほとんどないし、腕力に頼りきることを
禁忌としているものが多い。そしてそこでこそ、人体の神秘を突き止めるような深淵な術理が編み出されて
も来たわけだから、肉体の神秘の探求と力任せとは、まさに相反する関係にすらあるのだといえる。

肉体の神秘を探求するような洗練された体術などよりも、スポーツ的な力任せのほうがかえって、
乱戦状態の戦争においては有効な場合もある。サッカーやラグビーのような集団戦のスポーツはまさに戦争を模した
ものであるし、野球に至っては、武田騎馬軍を敗走させた信長の連射戦法の如きローテーション技巧を帯びてもいる。
時に捨て駒ともされるような末端の兵士あたりが、体力作りや気晴らし目的のために興じる上では、古流の武術などよりも
スポーツのほうが適切なぐらいであるが、ただ、その末端の兵士こそは、普段は別の職業に就いているような
徴用兵だったりもする。そのような人間にまで体力作り込みの戦闘への邁進を促したりするようではもはや
国のほうが経済的に持たなくなるし、スポーツに没頭すること自体が本人の生業への専念を疎かにもさせかねない。

末端の兵士などよりは、上級の将校が護身目的で嗜んだりするのに打ってつけなものであればこそ、
古流の武術こそは社会的な経済性に即しても奨励できるものとなっている。肉体の神秘の探求ともなるような
高遠な体術こそは、経済的な合理性にも適っているものだから、一切のルールを無視した完全なる総力戦において、
スポーツで兵士を鍛え上げているような軍隊などを相手にしても最終的には勝てるのである。

人間を牛馬か奴隷の如き力任せの徒と化してしまうことの「弱さ」というものを知るべきだといえる。

「樊遲仁を問う。子曰く、居処は恭に、」
「樊遲が仁を問うた。孔先生は言われた。『住居にあるときも恭しく』
(自分が神の住処だからといって思い上がったりするのは、そのような神が邪神でもあるからに違いない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・九より)

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312 2013/08/17(土) 12:28:06 ID:hzOey.ET/6
邪信に溺れている人間が、信仰のおかげで自らが清浄になれたなどと
思い込むのはあたかも、化学物質で汚染された川の水が鮮やかな七色に
染まっているのを見て、それを「清浄だ」などと思い込むようなものである。

一方で、二酸化炭素の排出過剰による地球温暖化で拡大している各地の
砂漠化などもまた、一種の深刻な環境汚染である。河川や土質の化学汚染が
邪信への狂信に基づく精神汚染に比肩される一方で、砂漠化は、独裁主義や
共産主義をイデオロギーとするニヒリズムへの陥りに等しいといえる。

元来聖書信仰も、砂漠地帯での生への渇望からでっち上げられた邪信であり、
化学汚染と温暖化や砂漠化が同時進行して行くようにして、邪信による精神
汚染とニヒリズムもまた、表裏一体のものとして深刻化していったのである。

河川や土質の汚染も、大気汚染による温暖化や砂漠化も、元はといえば過度の
工業発展が元凶となっている。資本主義先進国などでは、環境に配慮された
工場経営や自動車開発などが試みられているが、安かろう悪かろうの大量生産
大量消費もまた中国などで旺盛に続けられている。しかも結局はそのような
質より量の生産ばかりに頼って、先進国内での生産などはお飾り状態と化して
しまっていたりする。そこまでして、環境破壊込みの大量生産ばかりを
目指したがるのは、資本主義主体、商業主体の産業発展を未だに
続けて行こうとする勢力が猛威を奮っているからである。

そしてその、産業発展を資本主義によって無制限に推進して行こうとする性向もまた、
聖書信仰こそが司って来たものである。旧約における際限のない祭壇構築だとか
バベルの塔の建築だとかが、まさに近代以降の際限なき産業発展の精神的な拠り所
ともなっている。それが、「易経」における「開物成務」の理念などとも決定的に
違っているのは、開物成務はあくまで正規の位を持つ君子が主導して行くもので
あるのに対し、旧約の記述に基づく産業発展は、超越神エホバという不審な存在が
発展を主導して行くという点にある。エホバという存在が不審なものであればこそ、
政商犯のような危うい立場の人間が発展を主導して行く上での理念ともしやすい。

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313 2013/08/17(土) 12:36:38 ID:hzOey.ET/6
そしてその政商こそは、やろうと思えば正規の為政者以上にも甚大な物質的構築を
実現して行くことができる。政治家並みの権力を持ち、商売人並みの不仁者でも
いられる政商という立場に即すれば、正規の為政者としては許されないような
我田引水によって法外な富を蓄積し、ただの商売人には得られないような甚大な
権限で以って、企業などの体裁に基づく産業発展を企てることができる。ただし、
そのような不正な手段による産業発展は必ずどこかで大破綻を来たすことが免れ
得ないから、バベルの塔もいつかは倒壊させられると旧約でも予言されている。

ただ、旧約の記述が不埒なのは、バベルの塔は超越神であるエホバの怒りに
よって倒壊させられるとし、エホバを敬虔に信仰していたものはその災禍からも
免れられるとしている点である。エホバこそは、政商犯によるバベルの塔の如き
不正かつ過剰な産業発展の構築をけしかけた元凶であるのだから、エホバこそは
懲罰を被らねばならない存在であることが明らかだし、エホバなぞを信仰していた
ような連中こそは率先して重罰を被らねばならないこともまた明らかなのである。

結局、エホバとは、現実的にはただの政商犯であり、エホバへの信仰なぞも、
キリスト教圏で政商犯の役目を負わされたユダヤ教徒が、自分たちの行いを
正当化するためと、最終的な経済破綻に際しても自分たちだけは災禍を免れ
られるようにするための言い訳材料として捏造しただけのものなのだから、その
お粗末さたるや、磔刑への恐怖による知能の低下を昇天に見立てたキリスト信仰
などと比べても遜色のないものであるし、自分たちこそを超越神として正当化すら
しようとするユダヤ教徒が、誰しもから憎み嫌われるような思い上がりにまみれて
しまうこともまたむべなることだといえる。ユダヤ信仰といいキリスト信仰といい、
その教義のお粗末さこそが信者に致命的な思い上がりを抱かせもしたのだから、
宗教一般ではなく、稚拙な宗教の有害さこそを問題視する必要があるといえる。

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314 2013/08/17(土) 13:24:58 ID:orIXx/Y2k2:au
「孝子の祭るや、其の愨を尽くして愨に、其の信を尽くして信に、其の敬を尽くして敬し、
其の礼を尽くして過失なく。進退必ず敬み、親に命を聴きて則ち之れに使いする或るが如くすなり」
「孝子が祭儀を執り行う時には、慇懃に慇懃を尽くし、信に信を尽くし、敬いに敬いを尽くし、
礼を尽くして過失をなさず、進退にも必ず節度を持たせ、まるで親からの命に聴き従っているかのようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

もうスレ容量超過寸前か。
自分一人で満杯にしたわけでもないから、大して感慨も湧かないが。

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315 2013/08/17(土) 15:30:47 ID:6t5Z6D4/5I
四書五経に明記されている倫理基準そのものは、決して体系的ではない。
孔子や孟子の提示する倫理判断も直観的で散逸的なものばかりで、
その一つ一つの言葉の絶対性に固執することが、儒学の粗雑な
宗教化(儒教化)を招く危険性をも孕んでいる。

一方で、四書五経を学ぶことで本人自身が体得する体系的な倫理基準というものは実在する。
特に、易詩書礼春秋の五経を的確に学ぶことで、自らに普遍的かつ体系的な倫理的判断力が
身に付くようになっていて、そこから派生する言行こそは確かに、孔孟のそれにも近似する。
特に基幹となるのは、易の陰陽法則を体得レベルで理解することで、それが経書の勉学の内
でも最難関となる一方、体得すらできたなら孔孟級の聖賢にすら決してなれなくはない。

四書五経を学ぶことによって体得する倫理体系そのものはあまりにも膨大すぎて、
完全に文面化しようとしても永遠にとりとめのないものとなってしまう。それは、
易の陰陽法則から有機的に派生する倫理体系が無尽蔵であると共に、それを勉学の対象
とした者自身が、全身全霊によって当該の無尽蔵な倫理体系を受け止めてもいるからだ。

脳の記憶容量は10テラバイト(5兆文字)以上といい、しかもその記憶構造が本人自身の人体構造や生活とも
密接に関係し合っている。易の陰陽法則もまた、そのような心身全体によって体得されるものであるため、
他人がちょっと聞きかじってみたりした所で、その全容は愚か、片鱗すら掴みようもない場合がほとんど。
しかし、それ程もの膨大さを湛えていればこそ、その倫理体系が実社会でも健全に機能できるのである。

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316 2013/08/18(日) 14:50:05 ID:MVn.vCskwY
政商は、公権力にすらものを言わせられる商売人としての権能を駆使することで、国中や世界中から法外な富を
巻き上げて我が手元に置き、その富を元手に諸々の事業を催すことに専らでいるわけだから、ことに、
世界中や国中の人々を満遍なく豊かにするということだけは絶対にできない。

モナコやルクセンブルグ程度の極小国であればともかく、アメリカやイギリス程度の規模の国ともなれば、
世界最凶級の政商がそこを根城とした結果としても、国内に一定数以上の貧困層が生じてしまうこととなる。
政商がこの世にもたらし得る公益というものは、それ程にも挟隘な範囲に限られるのであり、だからこそ、
政商活動の猛威を超越神エホバの業に見立てた旧約教義においても、神の救いを得られるとされる人間が
ごくごく限られた範囲ばかりに止まってしまっているのでもある。

常日頃から自衛隊を批判しているような左翼活動家なども、いざ日本国内で大災害に見舞われたりすれば、
本人が絶対拒否でもしない限りは、自衛隊員が救助や復興支援をしてくれることとなる。そりゃあ当然、
自衛隊が国家の統制下にある公務組織であるからで、三菱などの政商を兼ねる大企業の飼い犬であるからではない。

兵装の開発や生産を軍需企業に頼ることがあっても、そのための資金は税金によってまかなわれる。
日本の場合は、兵器産業がまだ自国の自衛用途のために限られているから、軍産複合体の肥大化なども
抑制されていて、軍事面で政商の横暴を許すようなこともない。だからこそ、自衛隊の活動なども節度が
保たれて、純粋に「世のため人のため」であることが守られているわけだけれども、果たして、敵国侵略能力を
擁する規模の軍事力を手に入れた場合にもそれが保守されるかどうかは、甚だ疑問である。何かにかけて
因縁を付けては中東諸国を侵略している米軍やNATO軍のようにすらなりかねず、そこにはもはや正義も存在しない。
それでいてそのような極大級の腕力を手に入れた軍隊こそは、軍産複合体という体裁を帯びた政商の忠実な飼い犬となる。
軍事組織も、純粋な国の統制下にあれば純良なものでいられるが、いざ政商の飼い犬と化してしまえば、
もはやろくな道義性も保てなくなる実例が、現状の自衛隊と、米軍やNATO軍とであるといえる。

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317 2013/08/18(日) 14:55:25 ID:MVn.vCskwY
政商自体、国や天下の貧窮と引き換えに甚大な権能を手にするものであるし、軍隊もまた、軍産複合体の如き
政商の配下に下ることで、侵略能力を伴うような絶大な軍事力を手にするに至る。そのような構図はすでに、
2000年以上前の中国などでも確立されていたことであり、実際に、政商兼秦国の宰相だった呂不韋のように、
政商としての手腕によって武力による中国統一の貢献者となった事例すらもがある。ただ、政商ありきの
ペースで中国を統一した秦帝国は、その政商活動を保たせてやるための甚大な土建事業などによって
人々を酷使し続けて困窮に陥れたために、天下全土の人々から「まだないほうがマシなもの」としての
扱いを受けて、全国規模の反乱によってたった15年で崩壊させられることとなってしまった。

いま、アメリカやイギリスがその秦帝国とほぼ同じような末路を辿りつつあるが、結局、世界中の
人々を富ませてやることができないだけでなく、自分たちが根城とする国すらをもろくに保たせて
やれないのが政商という存在であるわけだから、これ程にも「できなければ困ること」が
ピンポイントにできない不具的存在もまた、他にないといえる。

ぶっちゃけ、国や政府というものは、商売人を統制することを第一の任務とするものである。
人々にとっての本業である農業や必需工業を奨励し、末業である商業やガラクタ工業を控えさせることでこそ、
国というものもまた長期の泰平や繁栄を獲得することができるものなのだから、政商の介在を許して
しまうことなどは、まさに本末転倒の所業以外の何物でもないということが言えるのである。

国が政商を容認したりすることが、国にとっての本末転倒の所業となるからこそ、それによって
国も貧しくなり、挙げ句には傾いて滅ぶこととすらなってしまう。唐代の中国や江戸幕府のような、
隆盛期には極めて良質な治世を築き上げた政権すらもが、末期には塩の闇商人や大坂豪商の組織的暗躍を
許すことで崩壊に見舞われてしまったわけだから、何も秦や北宋や織豊政権の如き。政商を真っ向から
容認していたような政権ばかりが、政商的存在によって滅びているわけでもないということまでもが言える。

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318 2013/08/18(日) 14:58:40 ID:v294Zn3FEQ:au
この世に極大級の不具をもたらす政商という存在を、その有能さではなく不能さによってこそ
取り締まっていかねばならぬ。そのためには、政商がもたらす利益以上の害というものを、
上記のような大局的考察に即して十分に計り知っておく必要があるのである。

「指人に若かざるときは、則ち之を悪むことを知るも、
心人に若かざるときは、則ち悪むことを知らず。此れ類を知らずと謂うなり」
「自分の指が人並みに動かせないとなれば、大いにこれを嫌悪する一方で、
自分の心が人並みの品性すら保てないことなどは、一向に嫌悪しようともしない。
これこそは、物事の軽重を知らないあり方だといえる。(指一本自由に動かせない
程度の能力的な不能よりも、心の不能のほうがよっぽど恥ずべきことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一二より)

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319 2013/08/19(月) 14:16:48 ID:RZnT1J/MIE:au
容量超過寸前につき次スレ:

聖書 Part12
http://bbs77.meiwasuisan.com/bin/read/thought/1376885948...

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