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聖書 Part11


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001 2013/06/16(日) 15:37:27 ID:voWxfHmpxE
人間社会を司る体系化された思想信条の聖書として、
全世界においてその立場を揺るぎないものとしている権力道徳聖書、通称四書五経。

今となっては、その主要な編纂者や登場人物である孔子や孟子が至上の学聖として
崇められてもいるが、決して本人たち自身は恵まれた人生ばかりを送ったわけでもない。
すでに徳治の実践自体が疎かにされていた春秋戦国時代の中国で、せめてでも古来からの
権力道徳を保全しておこうとする目的で、儒者(学究者)という身分に即した学問の興隆
を試みていた。その結果として、周代までは専ら王侯の嗜むものであった権力道徳学が
市井に到るまで広く受容されることとなり、儒学道徳が「権力のための道徳」に止まらない、
「人間のための道徳」としてまで人口に膾炙されることとなったわけだから、孔子や孟子が
在野の学者として儒学を温めてくれたことも、人類にとっては「怪我の功名」になったのだといえる。

とはいえ本来は、儒学が考究対象とする道徳学もまた、国家権力を司ることこそを第一の
目的とした帝王学でこそあるわけだから、ただの学者や庶民としての受容に止まるよりは、
天下国家に名を馳せる大権力者として儒学を受容することこそが本望ともなるのである。

だから、孔子や孟子を儒学の大成者として尊ぶべきであるとはいえ、在野の学者に甘んじさせられた
その境遇までをもわざわざあえて見習ったりする必要はない。特に、孔子は妾腹の私生児という
それはそれは恵まれない境遇に生れ落ちながら、その逆境をばねにしての自学自習によって儒学の
始祖ともなったわけだから、その努力的な姿勢にあやかるべきである一方で、妾腹の私生児のような
立場であることを自ら恥としたその奥ゆかしさをも見習うべきなのである。故に、孔子がそのような立場
だからといって、妾腹の私生児のような立場自体を崇めたりするようなことがあってもならないのである。

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270 2013/08/07(水) 12:55:59 ID:8dmXOkEeos
士人が平民に謙らないとした所で、士人は士人で大夫に謙る、大夫もまた卿に、
卿もまた王侯にといった風に、結局自分たちには自分たちで謙る相手がいるわけだから、
自分より格下の相手に謙らないことも、なだらかな封建制に即すれば「己れの欲せざる
所を人に施すことなかれ」という徳目には反さないことになる。その上に、天下万人の
頂点に立つ皇帝や天皇すらもが神仙や仏菩薩への敬虔な帰依を心がけたりしたなら、
もはやこの世に謙らないでいていい人間なども一人もいなくなるわけだから、
それでこそ、人間道徳を完璧に達成した世の中が確立されるのだといえる。

自分は他人に謙らせるが、自分が他人に謙ったりすることは一切ない、そのような不誠実
極まりないあり方もやはり、犯罪聖書の超越神こそが帯びているわけで、それを雛形とした
粗悪な社会体制こそが西洋では講じられ続けて来た。金持ちと貧乏人の間にこそ絶対的な
一線を引いて、後者の前者への絶対服従を強いた一方で、金持ち同士とあらば王族と商人
すらもが全く謙ったりしないフレンドリーな関係でいたりした、西洋の伝統的な封建制も
そうだし、逆に一般民衆に対して誰にも謙らないでいいような待遇を実現しようとした
民主主義の推進もまたそうだったといえる。とにかく、犯罪聖書の神のような、誰にも
謙らないでいられるような人間関係というものばかりを目指し続けて来た、それはそれで、
一国や二国程度でなら実現も不可能なものではなかったが、全世界規模では到底不可能な
ことだった上、かえって戦乱や貧窮を増してしまうこととあいなった。本当に必要だった
のは、誰しもが誰かに謙る機会のあるような世の中のほうだったのであり、それは、
犯罪聖書の神などを模範とすることでは決して実現もできないものだったのである。

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271 2013/08/07(水) 12:57:42 ID:e71clQHkRE:au
旧約の作文者である古代ユダヤ人も「政商」という、ろくに王侯にすら謙らなくても
いい程に莫大な金券を擁した商売人であった。そのような連中の、誰にも謙りたくない
願望を無制限に叶え尽くしてやろうとしたのが他でもない聖書信仰であり、その結果として、
金持ちなら王侯にすら謙らなくて済む奇形的な封建制が築かれたり、逆に、商売人を
含む民間人全体が公人に謙らなくて済む民主制などが推進されたりした。結局いずれも、
政商などという極悪人ならではの度し難い性向を公権力者や民間人にまで伝染させて
やろうとした試みに過ぎなかったわけで、その根底の所にあった醜悪な意図を見破り
ながら、人々もまた聖書信仰に即した世の中の破壊実験を終了させて行くべきだといえる。

「恭敬は幣の未だ將げざる者なり」
「本物の恭しさや敬いというのは、未だ贈り物すら捧げられないような所にこそ生ずる。
(恵みを与えたからといって自分を敬い誇れなどという物言いからして全くの不実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・三七より)

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