士人が平民に謙らないとした所で、士人は士人で大夫に謙る、大夫もまた卿に、
卿もまた王侯にといった風に、結局自分たちには自分たちで謙る相手がいるわけだから、
自分より格下の相手に謙らないことも、なだらかな封建制に即すれば「己れの欲せざる
所を人に施すことなかれ」という徳目には反さないことになる。その上に、天下万人の
頂点に立つ皇帝や天皇すらもが神仙や仏菩薩への敬虔な帰依を心がけたりしたなら、
もはやこの世に謙らないでいていい人間なども一人もいなくなるわけだから、
それでこそ、人間道徳を完璧に達成した世の中が確立されるのだといえる。
自分は他人に謙らせるが、自分が他人に謙ったりすることは一切ない、そのような不誠実
極まりないあり方もやはり、犯罪聖書の超越神こそが帯びているわけで、それを雛形とした
粗悪な社会体制こそが西洋では講じられ続けて来た。金持ちと貧乏人の間にこそ絶対的な
一線を引いて、後者の前者への絶対服従を強いた一方で、金持ち同士とあらば王族と商人
すらもが全く謙ったりしないフレンドリーな関係でいたりした、西洋の伝統的な封建制も
そうだし、逆に一般民衆に対して誰にも謙らないでいいような待遇を実現しようとした
民主主義の推進もまたそうだったといえる。とにかく、犯罪聖書の神のような、誰にも
謙らないでいられるような人間関係というものばかりを目指し続けて来た、それはそれで、
一国や二国程度でなら実現も不可能なものではなかったが、全世界規模では到底不可能な
ことだった上、かえって戦乱や貧窮を増してしまうこととあいなった。本当に必要だった
のは、誰しもが誰かに謙る機会のあるような世の中のほうだったのであり、それは、
犯罪聖書の神などを模範とすることでは決して実現もできないものだったのである。
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