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聖書 Part9
▼ページ最下部
地球人類社会において、四書五経こそは、ここ2500年の長きにわたって、わざわざ
特筆するまでもないほどに標準的な聖書としての、その地位を守り続けてきている。
その理由は、四書五経が「社会統治の聖書」であるからで、その他の用途に
用いられる諸々の聖書一般と比べれば、書物活用の場でもある世の中全体を司る
聖書である点において、やはり別格級の存在意義を持っているからでこそある。
夏・殷・周の三代に渡る古代中国の治世のあり方を、春秋時代に孔子が五経として体系化し、
その孔子自身や弟子や亦弟子(孟子含む)の言説を取りまとめた四書がさらに朱子に
よって権威化された。両者を合わせて「四書五経」というが、四書五経は宋代に定型化された
儒学正典の代表書というまでのことで、これに漏れた「孝経」「周礼」「儀礼」「大載礼記」「国語」
などの儒書も、四書五経に勝るとも劣らない聖書として扱ってもまったく差し支えないもの
となっており、四書五経を含むこれら全ての聖書が、実際に天下国家全土における治世を
実現していく上でのマニュアルとなるに相応しいだけの、十分な度量を備えている。
実際に、当時世界最大規模の国力を誇った漢帝国や唐帝国や宋帝国、
死刑一つない治世を実験した平安朝や、識字率世界最高を誇った江戸の日本
などにおいて、四書五経に代表される儒学の聖書こそは、権力者から庶民に
至るまでの、「必須の教養」としての扱いを受け続けていたのだった。
四書五経の記述に基づくような治世が実現されて後に初めて興隆する、儒学以外の高度な文化
というものもまた別に多くあり、むしろそちらのほうが治世実現後の世の中における「花形」
としての扱いを受けたりもする。唐代における詩文芸の興隆や、宋代における禅仏教の興隆、
平安時代における密教文化や女流文芸の興隆、江戸時代における武芸文化や演劇文化の興隆などが
その好例であり、そのような人々を楽しませることにかけてより秀でている文化の興隆を実現する
「縁の下の力持ち」としての役割をも儒学は担って来たから、必ずしも目立つ存在ではなかった
せいで、あまり人々にその偉大さを意識されることすらないままでいることが多かったのだ。
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特筆するまでもないほどに標準的な聖書としての、その地位を守り続けてきている。
その理由は、四書五経が「社会統治の聖書」であるからで、その他の用途に
用いられる諸々の聖書一般と比べれば、書物活用の場でもある世の中全体を司る
聖書である点において、やはり別格級の存在意義を持っているからでこそある。
夏・殷・周の三代に渡る古代中国の治世のあり方を、春秋時代に孔子が五経として体系化し、
その孔子自身や弟子や亦弟子(孟子含む)の言説を取りまとめた四書がさらに朱子に
よって権威化された。両者を合わせて「四書五経」というが、四書五経は宋代に定型化された
儒学正典の代表書というまでのことで、これに漏れた「孝経」「周礼」「儀礼」「大載礼記」「国語」
などの儒書も、四書五経に勝るとも劣らない聖書として扱ってもまったく差し支えないもの
となっており、四書五経を含むこれら全ての聖書が、実際に天下国家全土における治世を
実現していく上でのマニュアルとなるに相応しいだけの、十分な度量を備えている。
実際に、当時世界最大規模の国力を誇った漢帝国や唐帝国や宋帝国、
死刑一つない治世を実験した平安朝や、識字率世界最高を誇った江戸の日本
などにおいて、四書五経に代表される儒学の聖書こそは、権力者から庶民に
至るまでの、「必須の教養」としての扱いを受け続けていたのだった。
四書五経の記述に基づくような治世が実現されて後に初めて興隆する、儒学以外の高度な文化
というものもまた別に多くあり、むしろそちらのほうが治世実現後の世の中における「花形」
としての扱いを受けたりもする。唐代における詩文芸の興隆や、宋代における禅仏教の興隆、
平安時代における密教文化や女流文芸の興隆、江戸時代における武芸文化や演劇文化の興隆などが
その好例であり、そのような人々を楽しませることにかけてより秀でている文化の興隆を実現する
「縁の下の力持ち」としての役割をも儒学は担って来たから、必ずしも目立つ存在ではなかった
せいで、あまり人々にその偉大さを意識されることすらないままでいることが多かったのだ。
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自分個人としては、内面からの善意修身によって善行や善言をも派生させていくのが基本だが、
社会的存在としての人間にとっての罪の重さは、悪行>悪言>悪意の順番である。
いくら内心で悪いことを考えていたりした所で、行いにそれが反映されていないのなら、
善意を心がけながらも行いは罪悪にまみれている人間などと比べれば、その罪も皆無に等しい。
ただ、本当に最善の善意や善思を心がけているのなら、そこから積極的な悪行などが派生するはずもない。
善意を心がけながらも行いが罪悪にまみれているというのなら、それは自分自身の意思配慮のどこかに
片手落ちな部分が残存しているからで、そのような片手落ちな善意による行いこそは偽善の行いともなる。
内心にいくらかもの悪意が残存しているというのなら、そこから積極的な行いが為された場合、
必ず悪行となる。ただ、必ずしも行いに移されるとも限らないから、悪意が必ずしも悪行になるともいえない。
実践にかけての配慮が足りない場合などがあるから、善意も必ずしも善行に結び付くとは限らないし、
そもそも実践に移さない場合があるから、悪意も必ずしも悪行に結び付くとは限らない。その上で、
世俗上での罪の重さは悪行>悪言>悪意だから、善意の持ち主や悪意の持ち主の罪の重さも
悪行を為す悪意の持ち主>悪行を為す善意の持ち主>悪行を為さない悪意の持ち主>悪行を為さない善意の持ち主
の順位となる。世俗上での罪の重さで言えば、悪行を為す善意の持ち主よりも、悪行を為さない善意の持ち主の
ほうがまだマシであり、これに即して、前者こそは後者以上もの重罪人として相応の処罰をも受けなければならない。
社会的存在としての人間にとっての罪の重さは、悪行>悪言>悪意の順番である。
いくら内心で悪いことを考えていたりした所で、行いにそれが反映されていないのなら、
善意を心がけながらも行いは罪悪にまみれている人間などと比べれば、その罪も皆無に等しい。
ただ、本当に最善の善意や善思を心がけているのなら、そこから積極的な悪行などが派生するはずもない。
善意を心がけながらも行いが罪悪にまみれているというのなら、それは自分自身の意思配慮のどこかに
片手落ちな部分が残存しているからで、そのような片手落ちな善意による行いこそは偽善の行いともなる。
内心にいくらかもの悪意が残存しているというのなら、そこから積極的な行いが為された場合、
必ず悪行となる。ただ、必ずしも行いに移されるとも限らないから、悪意が必ずしも悪行になるともいえない。
実践にかけての配慮が足りない場合などがあるから、善意も必ずしも善行に結び付くとは限らないし、
そもそも実践に移さない場合があるから、悪意も必ずしも悪行に結び付くとは限らない。その上で、
世俗上での罪の重さは悪行>悪言>悪意だから、善意の持ち主や悪意の持ち主の罪の重さも
悪行を為す悪意の持ち主>悪行を為す善意の持ち主>悪行を為さない悪意の持ち主>悪行を為さない善意の持ち主
の順位となる。世俗上での罪の重さで言えば、悪行を為す善意の持ち主よりも、悪行を為さない善意の持ち主の
ほうがまだマシであり、これに即して、前者こそは後者以上もの重罪人として相応の処罰をも受けなければならない。
ただ善意や悪意を持つというのなら、もちろん悪意を持たずに善意を持つことのほうがいいに決まっている。ただ、
いくら純然たる善意を抱いているのであっても、それを行動に移すのならば、そこに必ず最大級の配慮が尽くされて
いなければならない。配慮を欠いているが故に片手落ちである善行を為したりしたならば、たとえば一億円の寄付を
するために十億円の不正利得をせしめたりするようにして、結果としては善行以上の悪行となってしまったりする。
そうなればもはや、内心は悪意の塊だが何もしないでいる匹夫にすら及ばないザマと化してしまうのである。
内面からの断悪修善もするに越したことはないが、同時に、行動の有無や積極消極の選別をも尽くしていくべきである。
「善意と配慮が尽くされているので積極的に行動する」「善意はあっても配慮が足りないので行動は控える」
「悪意の塊なのでできる限りなにもしないでいる」「善意がなくてむしろ悪意があるが、機械的に善行を為す術は
熟知しているので、その知恵に即して善行に限って積極的に行動する」これらの行動規範なら全く問題がない一方、
「善意はあっても配慮はないままに積極的に行動する」「善意もなくて善行を為す知恵もないのに積極的に行動する」
というのでは問題大アリであり、そのような行動規範に凝り固まってしまっている人間にはただひたすらの謹慎を促す次第である。
「我れも亦た人心を正し、邪説を息め、詖行を距ぎ、淫辞を放ち、以て三聖者を承がんと欲す」
「私(孟子)もまた人々の内心を正し、間違った教義学説を排し、偏った行いを防ぎ止め、淫らな言論を追放して、
三人の大聖人(禹、周公、孔子)の業を受け継ぎたいと欲しているのだ。(『格物致知誠意正心修身斉家治国平天下』
という順番の通り、やはり内心からの乱れが邪説暴行を蔓延させる原因ともなってしまうのである。悪意悪言悪行の
開き直りを促したイエスの邪説暴行からして、当時のパリサイ人らの偽善志向がもたらしたものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・九より)
いくら純然たる善意を抱いているのであっても、それを行動に移すのならば、そこに必ず最大級の配慮が尽くされて
いなければならない。配慮を欠いているが故に片手落ちである善行を為したりしたならば、たとえば一億円の寄付を
するために十億円の不正利得をせしめたりするようにして、結果としては善行以上の悪行となってしまったりする。
そうなればもはや、内心は悪意の塊だが何もしないでいる匹夫にすら及ばないザマと化してしまうのである。
内面からの断悪修善もするに越したことはないが、同時に、行動の有無や積極消極の選別をも尽くしていくべきである。
「善意と配慮が尽くされているので積極的に行動する」「善意はあっても配慮が足りないので行動は控える」
「悪意の塊なのでできる限りなにもしないでいる」「善意がなくてむしろ悪意があるが、機械的に善行を為す術は
熟知しているので、その知恵に即して善行に限って積極的に行動する」これらの行動規範なら全く問題がない一方、
「善意はあっても配慮はないままに積極的に行動する」「善意もなくて善行を為す知恵もないのに積極的に行動する」
というのでは問題大アリであり、そのような行動規範に凝り固まってしまっている人間にはただひたすらの謹慎を促す次第である。
「我れも亦た人心を正し、邪説を息め、詖行を距ぎ、淫辞を放ち、以て三聖者を承がんと欲す」
「私(孟子)もまた人々の内心を正し、間違った教義学説を排し、偏った行いを防ぎ止め、淫らな言論を追放して、
三人の大聖人(禹、周公、孔子)の業を受け継ぎたいと欲しているのだ。(『格物致知誠意正心修身斉家治国平天下』
という順番の通り、やはり内心からの乱れが邪説暴行を蔓延させる原因ともなってしまうのである。悪意悪言悪行の
開き直りを促したイエスの邪説暴行からして、当時のパリサイ人らの偽善志向がもたらしたものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・九より)
善も偽善も、善である部分自体に大差はない。
まともな勤労で得た収益の内から一億円を寄付しようが、強盗殺人で得た金の内から一億円を寄付しようが、
一億円の寄付は一億円の寄付であり、それだけを見て善行のように思えたとしても別におかしいことではない。
それでも前者が善となり、後者が悪となるのは、本人たちの総合的な素行がプラスマイナスゼロ以上の
善行となっていたり、プラマイゼロ以下の悪行となっていたりするからだ。
内心の善意悪意如何によって行いの善悪までもが決するのではなく、総合的な素行の如何によってこそ
行いの善悪が決する。>>75の「善意がなくてむしろ悪意があるが、機械的に善行を為す術は熟知しているので、
その知恵に即して善行に限って積極的に行動する」という行動規範に即して行われる善行も、決して偽善とはならない。
この場合でも悪を為さずに善を為すから、総合的な素行もまた善行となって、偽善のそしりを免れることができる。
上では「一億円の寄付」という例を挙げたけれども、私人による大金の寄付などが偽善でなくて済むようなことは
ほとんどない。「富めば仁ならず、仁なれば富まず(孟子)」で、寄付をできるほどもの大金をせしめているからには
何か後ろめたい裏があると考えるほうが、世の常のあり方にも即している。だから世界でも突出して堅実志向である
日本人などは、個人での寄付などをあまり自他共に推奨しないし、海外でもチップの慣習をうざったく感じたりする。
着実に偽善でない善を実行できる手段こそは、為政者としての仁徳にかなった善政でこそある。
民間人としての副業なども行わない公人であるならば、自分やその家族は民の納める年貢や税金によって食い扶持を繋ぐ
ことともなるから、善政によって人々を豊かにすれば、それによって自分たちもまた連動的に豊かになれる一方で、苛政に
よって人々を苦しめたなら、それによって世の中全体の荒廃をもたらして、挙句には自分たちごとの破滅を招くことになる。
そのような自明な法則に即していればこそ、善政によって人々を安楽ならしめることこそは、純然たる善行でしかあり得ない。
まともな勤労で得た収益の内から一億円を寄付しようが、強盗殺人で得た金の内から一億円を寄付しようが、
一億円の寄付は一億円の寄付であり、それだけを見て善行のように思えたとしても別におかしいことではない。
それでも前者が善となり、後者が悪となるのは、本人たちの総合的な素行がプラスマイナスゼロ以上の
善行となっていたり、プラマイゼロ以下の悪行となっていたりするからだ。
内心の善意悪意如何によって行いの善悪までもが決するのではなく、総合的な素行の如何によってこそ
行いの善悪が決する。>>75の「善意がなくてむしろ悪意があるが、機械的に善行を為す術は熟知しているので、
その知恵に即して善行に限って積極的に行動する」という行動規範に即して行われる善行も、決して偽善とはならない。
この場合でも悪を為さずに善を為すから、総合的な素行もまた善行となって、偽善のそしりを免れることができる。
上では「一億円の寄付」という例を挙げたけれども、私人による大金の寄付などが偽善でなくて済むようなことは
ほとんどない。「富めば仁ならず、仁なれば富まず(孟子)」で、寄付をできるほどもの大金をせしめているからには
何か後ろめたい裏があると考えるほうが、世の常のあり方にも即している。だから世界でも突出して堅実志向である
日本人などは、個人での寄付などをあまり自他共に推奨しないし、海外でもチップの慣習をうざったく感じたりする。
着実に偽善でない善を実行できる手段こそは、為政者としての仁徳にかなった善政でこそある。
民間人としての副業なども行わない公人であるならば、自分やその家族は民の納める年貢や税金によって食い扶持を繋ぐ
ことともなるから、善政によって人々を豊かにすれば、それによって自分たちもまた連動的に豊かになれる一方で、苛政に
よって人々を苦しめたなら、それによって世の中全体の荒廃をもたらして、挙句には自分たちごとの破滅を招くことになる。
そのような自明な法則に即していればこそ、善政によって人々を安楽ならしめることこそは、純然たる善行でしかあり得ない。
こうして見てみると、道理に適った善と偽善の分別というのは、いま人々が考えているような善偽善の区別とは
大幅に食い違っていることが分かる。裏事情なんか無視して、寄付こそは善行の最たるものであるかのように扱われ、
それでも内面に下心や悪意があったりするようなら、それだけで偽善だなどと決め付けられもする。端的に言って、
大衆の善と偽善の区別が極度に稚拙化してしまっており、そのせいで、道理に即して偽善や悪と断じられる素行を
「偽善でない善行」のように見せかける情報工作などにも、まんまと乗せられるようになってしまっている。
そのような、洗脳工作の餌食ともなってしまう稚拙な善偽善の区別基準を広く世に流布した代表者もまた
イエスキリストであり、これは全く「郷原(田舎者の偽善者)」としてのイエス本人の愚かさに基づくものだった。
自分たちではまともに国政を担うこともできないでいた商業民族古代ユダヤ人の内で、さらに妾腹の私生児として生まれ
育った、あまりにも「井の中の蛙」然としたその境遇によって、稚拙極まりない善偽善の区別基準をも捏造したのだった。
あまりにも稚拙で的外れな善偽善の区別基準が広く認知されてしまっているからこそ、まずは善悪も偽善も全く
判別できていないということを今の人々には深くわきまえさせなければならない。その上で本物の道理に即した
善悪や善偽善の分別を学ばせていくのでなければ、思考回路がこんがらがって全く修正も覚束なくなってしまう。
最低限の倫理的分別ぐらいできていると思っていた連中が、一旦は畜生も同然の蒙昧さを重々自覚させられなければ
ならなくなるわけだから、相当の赤っ恥になるに違いなく、その辱めを乗り越えていくことが大きな障壁ともなっていく。
「怨むのならイエスを怨め」という他はないが、イエスをその罪状に即して怨むことができるように
なった頃には、もうすでに最低限の善悪や善偽善の分別ぐらいは付くようにもなっているだろうから、
まずは「イエスを怨めるようになれ」という所から目標にもしていかなければならないのだろう。
大幅に食い違っていることが分かる。裏事情なんか無視して、寄付こそは善行の最たるものであるかのように扱われ、
それでも内面に下心や悪意があったりするようなら、それだけで偽善だなどと決め付けられもする。端的に言って、
大衆の善と偽善の区別が極度に稚拙化してしまっており、そのせいで、道理に即して偽善や悪と断じられる素行を
「偽善でない善行」のように見せかける情報工作などにも、まんまと乗せられるようになってしまっている。
そのような、洗脳工作の餌食ともなってしまう稚拙な善偽善の区別基準を広く世に流布した代表者もまた
イエスキリストであり、これは全く「郷原(田舎者の偽善者)」としてのイエス本人の愚かさに基づくものだった。
自分たちではまともに国政を担うこともできないでいた商業民族古代ユダヤ人の内で、さらに妾腹の私生児として生まれ
育った、あまりにも「井の中の蛙」然としたその境遇によって、稚拙極まりない善偽善の区別基準をも捏造したのだった。
あまりにも稚拙で的外れな善偽善の区別基準が広く認知されてしまっているからこそ、まずは善悪も偽善も全く
判別できていないということを今の人々には深くわきまえさせなければならない。その上で本物の道理に即した
善悪や善偽善の分別を学ばせていくのでなければ、思考回路がこんがらがって全く修正も覚束なくなってしまう。
最低限の倫理的分別ぐらいできていると思っていた連中が、一旦は畜生も同然の蒙昧さを重々自覚させられなければ
ならなくなるわけだから、相当の赤っ恥になるに違いなく、その辱めを乗り越えていくことが大きな障壁ともなっていく。
「怨むのならイエスを怨め」という他はないが、イエスをその罪状に即して怨むことができるように
なった頃には、もうすでに最低限の善悪や善偽善の分別ぐらいは付くようにもなっているだろうから、
まずは「イエスを怨めるようになれ」という所から目標にもしていかなければならないのだろう。
「許子の道に従わば、則ち市は賈いに弐なく、国中に偽り無く、五尺の童をして市に適かしむと雖も、之れを欺く或無し。
布帛の長短同じければ、則ち賈相い若しく、麻縷絲絮の軽重同じければ、則ち賈相い若しく、五穀の多寡同じければ、
則ち賈相い若しく、屨の大小同じければ、則ち賈相い若し。曰く、夫れ物の斉しからざるは、物の情なり。或いは相い倍蓰し、
或いは相い什伯し、或いは相い千万す。子比べて之れを同じうせんとするは、是れ天下を乱すなり。巨屨と小屨の賈
同じうせば、人豈に之れを為らんや。許子の道に従うは、相い率いて偽りを為す者なり。悪んぞ能く国家を治めんか」
布帛の長短同じければ、則ち賈相い若しく、麻縷絲絮の軽重同じければ、則ち賈相い若しく、五穀の多寡同じければ、
則ち賈相い若しく、屨の大小同じければ、則ち賈相い若し。曰く、夫れ物の斉しからざるは、物の情なり。或いは相い倍蓰し、
或いは相い什伯し、或いは相い千万す。子比べて之れを同じうせんとするは、是れ天下を乱すなり。巨屨と小屨の賈
同じうせば、人豈に之れを為らんや。許子の道に従うは、相い率いて偽りを為す者なり。悪んぞ能く国家を治めんか」
「陳相『(農業版の墨家とでも言うべき農家思想の実践者である)許子のやり方に従うのであれば、あらゆる物品の値段に
掛け値が付けられることがなくなり、国中で偽りを働くものがなくなり、小さな子供を市に買い物に行かせても誰も
値段をごまかして高く売ったりすることがなくなります。布や錦も長さが同じなら同じ値段、麻糸生糸真綿も分量が同じなら
同じ値段、五穀も目方が同じなら同じ値段、靴も同じ大きさなら同じ値段となるのです』 孟子『諸々の物品に品質の
ばらつきがあって、決してその価値が一定的でないのが物の理コトワリというもの。時には倍程もの値段の開きが、また時には
十倍百倍、千倍万倍の開きすらもが生じてしまうもの。もしもそれを全く一定にしてしまうとすれば、これは天下を乱す
原因となってしまう。上等な靴と粗末な靴の値段も同じにしてしまうのであれば、もはや誰も上等な靴などを拵えようと
したりはしなくなる。許子のやり方に従えば偽りがなくなるのではなく、誰しもに偽りをけしかけることにすらなってしまう。
それでどうして国家を治めたりすることができるだろうか』(驚異の、2300年前の共産主義批判。孟子は性善論者である
にもかかわらず、玩物喪志が生業となる商売人が偽善詐悪に及ぶことは全くの折込済みとしている。別にそれを悲嘆したりは
せずに、自分たちが君子士人として農工商三民の営みを適正に制御していくことのほうにこそ前向きでいる。商売人なんて
いつの時代も世界の少数派でしかいられないのだから、そんな連中の偽善さ加減に憤ったりしてるほうが井中の蛙だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
掛け値が付けられることがなくなり、国中で偽りを働くものがなくなり、小さな子供を市に買い物に行かせても誰も
値段をごまかして高く売ったりすることがなくなります。布や錦も長さが同じなら同じ値段、麻糸生糸真綿も分量が同じなら
同じ値段、五穀も目方が同じなら同じ値段、靴も同じ大きさなら同じ値段となるのです』 孟子『諸々の物品に品質の
ばらつきがあって、決してその価値が一定的でないのが物の理コトワリというもの。時には倍程もの値段の開きが、また時には
十倍百倍、千倍万倍の開きすらもが生じてしまうもの。もしもそれを全く一定にしてしまうとすれば、これは天下を乱す
原因となってしまう。上等な靴と粗末な靴の値段も同じにしてしまうのであれば、もはや誰も上等な靴などを拵えようと
したりはしなくなる。許子のやり方に従えば偽りがなくなるのではなく、誰しもに偽りをけしかけることにすらなってしまう。
それでどうして国家を治めたりすることができるだろうか』(驚異の、2300年前の共産主義批判。孟子は性善論者である
にもかかわらず、玩物喪志が生業となる商売人が偽善詐悪に及ぶことは全くの折込済みとしている。別にそれを悲嘆したりは
せずに、自分たちが君子士人として農工商三民の営みを適正に制御していくことのほうにこそ前向きでいる。商売人なんて
いつの時代も世界の少数派でしかいられないのだから、そんな連中の偽善さ加減に憤ったりしてるほうが井中の蛙だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
許されないことは許されないというのが常道であり、それすら時に為すというのが非常である。
非常は非常で一応あることであり、「六韜」「三略」にあるような兵法もまたその内に入る。
賄賂で敵を籠絡したり、近隣同士で利権を守り合って遠方を蔑ろにしたり※といったことも、
戦闘状態のような非常時であれば必ずしも許されないとも限らないが、それが常道化してしまえば
もはや倫理的制御が振り切れて、自業自得の自滅を招く原因ともなる。だから六韜三略なども、
前置きで正義に根ざした英雄としての心構えやその実践を促しているわけだが、新約の登場人物の
イエスなんざは、三略が非常時の手段としてのみ提示している「釈遠謀近(※に相当)」を「隣人愛」
として常道化してしまうことすらをも促しているわけで、これは「非常時に限って許されることを
常道化してしまう」という禁忌を犯している所こそが決定的な落ち度となっているのだといえる。
非常時に限って許されることを含めれば、この世に許されないことなんて無いとすら言っていい。
儒学で絶対の禁忌とされている父殺しですら、源義朝が勅命によってさせられている。その父の恥辱を晴らす
形で源頼朝も怨敵平氏を討伐して武家政権を立ち上げるという功績を挙げたわけで、これも非常を常道に
戻すという落とし前が済まされているからこそ、倫理的な問題として扱われたりする必要がなくなっている。
非常時に限って許されることを常道化しようとすることが、倫理的にも決定的な禁忌となる。
平時にわけもなく親を殺したりすれば、それこそ本人を処刑して家の跡地を堀池にしてしまうぐらいの
厳罰が妥当ともなる(「礼記」参照)。それを許してしまったりすることことそは決定的な禁忌であり、
その禁忌すら犯してしまったりした所でこそ、人は悪逆非道の自業自得に基づく自滅が免れられなくもなる。
非常は非常で一応あることであり、「六韜」「三略」にあるような兵法もまたその内に入る。
賄賂で敵を籠絡したり、近隣同士で利権を守り合って遠方を蔑ろにしたり※といったことも、
戦闘状態のような非常時であれば必ずしも許されないとも限らないが、それが常道化してしまえば
もはや倫理的制御が振り切れて、自業自得の自滅を招く原因ともなる。だから六韜三略なども、
前置きで正義に根ざした英雄としての心構えやその実践を促しているわけだが、新約の登場人物の
イエスなんざは、三略が非常時の手段としてのみ提示している「釈遠謀近(※に相当)」を「隣人愛」
として常道化してしまうことすらをも促しているわけで、これは「非常時に限って許されることを
常道化してしまう」という禁忌を犯している所こそが決定的な落ち度となっているのだといえる。
非常時に限って許されることを含めれば、この世に許されないことなんて無いとすら言っていい。
儒学で絶対の禁忌とされている父殺しですら、源義朝が勅命によってさせられている。その父の恥辱を晴らす
形で源頼朝も怨敵平氏を討伐して武家政権を立ち上げるという功績を挙げたわけで、これも非常を常道に
戻すという落とし前が済まされているからこそ、倫理的な問題として扱われたりする必要がなくなっている。
非常時に限って許されることを常道化しようとすることが、倫理的にも決定的な禁忌となる。
平時にわけもなく親を殺したりすれば、それこそ本人を処刑して家の跡地を堀池にしてしまうぐらいの
厳罰が妥当ともなる(「礼記」参照)。それを許してしまったりすることことそは決定的な禁忌であり、
その禁忌すら犯してしまったりした所でこそ、人は悪逆非道の自業自得に基づく自滅が免れられなくもなる。
六韜三略を始めとする優良な兵法書に書かれてあることの多くが「非常時に限って許される手段」
である一方、四書五経に書かれてるあることは「平時に守るべき常道」である。両者を合わせれば、
結局何も許されないことなどないわけで、ただ平時と非常時の分別が必要とされているというだけの
ことであることが分かる。「義とは時宜に即することである(中庸)」という通り、平時には平時の、
非常時には非常時のあり方に即することが結局は、仁義道徳の実践のためにも至上となるのである。
絶対的な禁忌は、純粋な位相上の領域にある。平時と非常時の分別すら付けたなら、人間に許されない
ことなど何もないが、その分別を欠いて、非常時にのみ許されることを平時に為そうものなら、それが
致命的な落ち度となって、不可避な破綻を招くことともなる。具体的に何が許されて何が許されない
などということとはまた別に、そこにこそ人類の存亡をも左右する禁忌があったのだから、いま人類が
滅亡の危機に瀕している原因となっているのも、物事の位相を把握する能力の欠如でこそあるのだといえる。
非常時に限って許される手法を常道化しようとした邪義の集成が新旧約聖書であり、そうであること
こそが人類滅亡の危機の元凶ともなった。記述が悪逆非道であることにかけては、兵法書の戦略部分など
も勝るとも劣らないが、兵法書にはそれを非常手段とする分別がある一方、新旧約聖書にはそれがない。
違うのは位相の把握の有無というばかりのことで、六三のごとき兵法書の記録が時宜の分別を欠けば、
それだけで新旧約聖書のような奇天烈なカルト文書と化してしまう。炊きたてのご飯は真っ白でも、
何日も置いとけばご飯も腐ってカビだらけの七色変化を始めるようなもので、この場合のご飯に
相当する記録材料自体は、四書五経や兵法書と新旧約聖書とで、何も代わるところはないのである。
(むしろ、四書五経や七書よりも新旧約聖書のほうが記録材料としているものは些少だといえる。)
である一方、四書五経に書かれてるあることは「平時に守るべき常道」である。両者を合わせれば、
結局何も許されないことなどないわけで、ただ平時と非常時の分別が必要とされているというだけの
ことであることが分かる。「義とは時宜に即することである(中庸)」という通り、平時には平時の、
非常時には非常時のあり方に即することが結局は、仁義道徳の実践のためにも至上となるのである。
絶対的な禁忌は、純粋な位相上の領域にある。平時と非常時の分別すら付けたなら、人間に許されない
ことなど何もないが、その分別を欠いて、非常時にのみ許されることを平時に為そうものなら、それが
致命的な落ち度となって、不可避な破綻を招くことともなる。具体的に何が許されて何が許されない
などということとはまた別に、そこにこそ人類の存亡をも左右する禁忌があったのだから、いま人類が
滅亡の危機に瀕している原因となっているのも、物事の位相を把握する能力の欠如でこそあるのだといえる。
非常時に限って許される手法を常道化しようとした邪義の集成が新旧約聖書であり、そうであること
こそが人類滅亡の危機の元凶ともなった。記述が悪逆非道であることにかけては、兵法書の戦略部分など
も勝るとも劣らないが、兵法書にはそれを非常手段とする分別がある一方、新旧約聖書にはそれがない。
違うのは位相の把握の有無というばかりのことで、六三のごとき兵法書の記録が時宜の分別を欠けば、
それだけで新旧約聖書のような奇天烈なカルト文書と化してしまう。炊きたてのご飯は真っ白でも、
何日も置いとけばご飯も腐ってカビだらけの七色変化を始めるようなもので、この場合のご飯に
相当する記録材料自体は、四書五経や兵法書と新旧約聖書とで、何も代わるところはないのである。
(むしろ、四書五経や七書よりも新旧約聖書のほうが記録材料としているものは些少だといえる。)
「時に先んずる者は殺して赦さず。時に及ばざる者も殺して赦さず」
「時宜に反して先んじようとする者は許さず死刑に、遅れてくるものも許さず死刑に。
(時宜をわきまえぬ位相感覚の欠如の致命的な問題性を鋭く見抜いた格言。
これこそが、自他の不可避なる破滅を招く決定的な要因となるのであり、
そこに厳格な刑罰を加えるのは、支配というよりは運命への準拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)
「時宜に反して先んじようとする者は許さず死刑に、遅れてくるものも許さず死刑に。
(時宜をわきまえぬ位相感覚の欠如の致命的な問題性を鋭く見抜いた格言。
これこそが、自他の不可避なる破滅を招く決定的な要因となるのであり、
そこに厳格な刑罰を加えるのは、支配というよりは運命への準拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)
君子はまず徳を懐うにしても、やはりいつの時代も小人のほうは土を懐うもので(里仁第四・一一)、
民間の匹夫による身勝手な縄張り争いを防止する目的でも、士大夫を統べる徳治社会の王侯大名は
封土を頂き、領土単位での責任ある統治を執り行う。それは決して地権への執着などによって
行われるべきものではないために、諸国を統べる帝王だとか大将軍だとかがトップダウンに
それぞれの国を治める王侯大名を指名するのが基本ともなっている。江戸幕府では参勤交代に
よって諸大名の封土への根付ききりを人工的に抑制することまでもが実施され、徹底して
土地利権そのものと諸大名が癒着しきることを牽制する施策が敷かれてもいた。
(土佐藩や薩摩藩など、検地の不備からこれが行き届かなかった例もあった)
民間人が私的に恵まれた土地を囲い込んで有効利用することによる収益たるや半端なものではなく、
山形の酒田一帯を私有していた本間氏のように、徳治社会ですら大名諸侯も顔負けの富裕を手に入れる
場合すらある。徳治社会でない、西洋型の封建社会などでの地権に基づく富裕はさらにそれ以上で、
ちゃんと封土を区切っての責任ある統治を心がけたりすることもなかいから、徳治社会では被支配階級と
される地主身分の人間がそのまま王侯としての権限を掌握したりする。その最大例がハプスブルグ家や
ロマノフ家だったりもするが、封土の責任ある統治ではなく、地主兼陣取り合戦の覇者であることこそを
生業としていたことから、家としての富裕は徳治社会の王侯家のそれをも上回るほどのものとなっていた。
民間の匹夫による身勝手な縄張り争いを防止する目的でも、士大夫を統べる徳治社会の王侯大名は
封土を頂き、領土単位での責任ある統治を執り行う。それは決して地権への執着などによって
行われるべきものではないために、諸国を統べる帝王だとか大将軍だとかがトップダウンに
それぞれの国を治める王侯大名を指名するのが基本ともなっている。江戸幕府では参勤交代に
よって諸大名の封土への根付ききりを人工的に抑制することまでもが実施され、徹底して
土地利権そのものと諸大名が癒着しきることを牽制する施策が敷かれてもいた。
(土佐藩や薩摩藩など、検地の不備からこれが行き届かなかった例もあった)
民間人が私的に恵まれた土地を囲い込んで有効利用することによる収益たるや半端なものではなく、
山形の酒田一帯を私有していた本間氏のように、徳治社会ですら大名諸侯も顔負けの富裕を手に入れる
場合すらある。徳治社会でない、西洋型の封建社会などでの地権に基づく富裕はさらにそれ以上で、
ちゃんと封土を区切っての責任ある統治を心がけたりすることもなかいから、徳治社会では被支配階級と
される地主身分の人間がそのまま王侯としての権限を掌握したりする。その最大例がハプスブルグ家や
ロマノフ家だったりもするが、封土の責任ある統治ではなく、地主兼陣取り合戦の覇者であることこそを
生業としていたことから、家としての富裕は徳治社会の王侯家のそれをも上回るほどのものとなっていた。
春秋戦国時代の中国の大諸侯だとか、日本の戦国大名だとかも、陣取り合戦に勝利するようなことが
あればこそ、泰平社会の大名諸侯などにはありえない程もの巨万の富に与れることが多々あった。
権力者が責任ある封土の統治をも無視して、ただひたすら土地利権の収奪を目指したところでこそ
人として最大級の富裕が手に入れられるとすら言え、20世紀におけるアメリカの富豪の栄華なぞも、
「北米大陸中部」という土地の利を寡占することによってこそ成し得たものだといえるわけだが、
それは同時に、土地を収益対象ではなく堅実な生活の場としている庶民たちに極度の疲弊を強いるという
弊害をも招いてしまうことなわけで、それを常なることとするのではやはり致命的な破滅を招くことになる。
王侯大名も当然領土を所有するが、それは完全に領土の保全を目的としたものであるべきで、
地の利を自分たち自身が私有しての富裕に与るためなどであってはならない。地の利は純粋に民間人の
消費物としてやるべきで、その代わりに民間人のトップダウンな統制を徹底するようにもする。
それが実現されるのが泰平統治の常道というもので、公権力者までもが地の利への野望などを抱いたり
するのは非常である。これもまた一つの位相のわきまえであり、乱世に武王や劉邦や信長や秀吉や家康の
ごとき天下取りが、国土の一掃的な征服を期したことまでもが、このような位相のわきまえによって
全否定されたりすることはない。これも「位相すらよくわきまえたなら、許されないこと、できないこと
など何もない」という法則に根ざしており、やはり最大の問題は位相感覚の欠如に集約されるのだといえる。
「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の浜、王臣に非ざるは莫し」
「天下全土全てに至るまで、王の土地でない土地はなく、偏狭の土地の民に至るまで、
王の臣下でないものはない。(王道の基本理念。覇道や選民志向はこれに反することで地の利を慕う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
あればこそ、泰平社会の大名諸侯などにはありえない程もの巨万の富に与れることが多々あった。
権力者が責任ある封土の統治をも無視して、ただひたすら土地利権の収奪を目指したところでこそ
人として最大級の富裕が手に入れられるとすら言え、20世紀におけるアメリカの富豪の栄華なぞも、
「北米大陸中部」という土地の利を寡占することによってこそ成し得たものだといえるわけだが、
それは同時に、土地を収益対象ではなく堅実な生活の場としている庶民たちに極度の疲弊を強いるという
弊害をも招いてしまうことなわけで、それを常なることとするのではやはり致命的な破滅を招くことになる。
王侯大名も当然領土を所有するが、それは完全に領土の保全を目的としたものであるべきで、
地の利を自分たち自身が私有しての富裕に与るためなどであってはならない。地の利は純粋に民間人の
消費物としてやるべきで、その代わりに民間人のトップダウンな統制を徹底するようにもする。
それが実現されるのが泰平統治の常道というもので、公権力者までもが地の利への野望などを抱いたり
するのは非常である。これもまた一つの位相のわきまえであり、乱世に武王や劉邦や信長や秀吉や家康の
ごとき天下取りが、国土の一掃的な征服を期したことまでもが、このような位相のわきまえによって
全否定されたりすることはない。これも「位相すらよくわきまえたなら、許されないこと、できないこと
など何もない」という法則に根ざしており、やはり最大の問題は位相感覚の欠如に集約されるのだといえる。
「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の浜、王臣に非ざるは莫し」
「天下全土全てに至るまで、王の土地でない土地はなく、偏狭の土地の民に至るまで、
王の臣下でないものはない。(王道の基本理念。覇道や選民志向はこれに反することで地の利を慕う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
「三十年の通を以ってすれば、凶旱水溢有ると雖も、民に菜色無し。
然る後に天子の食するときは、日に挙ぐるに楽を以ってする(既出)」
「三十年分の国の収支を通算して毎年の予算をも決めるのであれば、たとえ旱魃や洪水が起ころうとも
民が飢え渇くことはない。それほどにも治世が成功して後には、天子も日々の宴食に舞楽を呼びもする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
国家や帝国が全国全土の公益を期して長期計画的な仁政を執り行う場合と、
個人や私企業などが長期的な私益の管理に務めて行く場合とでも、位相の食い違いが生ずる。
前者は真に人々にとっての最大級の福利厚生を実現する試みとなる一方、
後者はむしろ天下の回り物であるべき富を滞留させることによる困窮を招くこととなる。
利益を貯め込んでいる個人や企業以外の人間が平常以上の困窮に見舞われるのはもちろんのこと、
富を退蔵している私人たち自身の、世の中全体の破滅に巻き込まれての困窮までもが避けられなくなる。
神祇祭祀を奉っての加護を請うたところでこの法則が逆転するようなことは決してなく、
天下国家の公益のための仁政に神護を乞うたなら、その経験さによって福利厚生のより一層の増進にも
与れたりする一方、私人による富の退蔵への神護などを乞うた所で、破綻に至る道程をさらに惨劇化
させてしまうようなことにしかならない。何よりもわきまえるべきなのは、この公益の普遍性と私益の
脆弱性でこそあり、神の加護を乞いすらすればどんな利益でも守られる一方、神の加護に与れなければ
微塵の利益も守られないなどといったようなカルトの教条であったりすることは当然ないのである。
ということはつまり、天下国家の公益の普遍性をも上回る普遍性を具えた神などは、いないということである。
言い方を変えれば、天下国家級の公益を司る日月星辰のごとき大局的な宇宙法則をありのままに模した
神こそは、最も普遍的な存在性を持つ神であるともいえ、中でも、人間社会を含む地球界に対して最大級の
物理的影響をもたらしているのが太陽だから、太陽神こそは人間にとって最も普遍的な神であるともいえる。
然る後に天子の食するときは、日に挙ぐるに楽を以ってする(既出)」
「三十年分の国の収支を通算して毎年の予算をも決めるのであれば、たとえ旱魃や洪水が起ころうとも
民が飢え渇くことはない。それほどにも治世が成功して後には、天子も日々の宴食に舞楽を呼びもする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
国家や帝国が全国全土の公益を期して長期計画的な仁政を執り行う場合と、
個人や私企業などが長期的な私益の管理に務めて行く場合とでも、位相の食い違いが生ずる。
前者は真に人々にとっての最大級の福利厚生を実現する試みとなる一方、
後者はむしろ天下の回り物であるべき富を滞留させることによる困窮を招くこととなる。
利益を貯め込んでいる個人や企業以外の人間が平常以上の困窮に見舞われるのはもちろんのこと、
富を退蔵している私人たち自身の、世の中全体の破滅に巻き込まれての困窮までもが避けられなくなる。
神祇祭祀を奉っての加護を請うたところでこの法則が逆転するようなことは決してなく、
天下国家の公益のための仁政に神護を乞うたなら、その経験さによって福利厚生のより一層の増進にも
与れたりする一方、私人による富の退蔵への神護などを乞うた所で、破綻に至る道程をさらに惨劇化
させてしまうようなことにしかならない。何よりもわきまえるべきなのは、この公益の普遍性と私益の
脆弱性でこそあり、神の加護を乞いすらすればどんな利益でも守られる一方、神の加護に与れなければ
微塵の利益も守られないなどといったようなカルトの教条であったりすることは当然ないのである。
ということはつまり、天下国家の公益の普遍性をも上回る普遍性を具えた神などは、いないということである。
言い方を変えれば、天下国家級の公益を司る日月星辰のごとき大局的な宇宙法則をありのままに模した
神こそは、最も普遍的な存在性を持つ神であるともいえ、中でも、人間社会を含む地球界に対して最大級の
物理的影響をもたらしているのが太陽だから、太陽神こそは人間にとって最も普遍的な神であるともいえる。
太陽神以上に超越的な神というものを想定してみたところで、それが人間にとって最大級の普遍性を持つ
ということもない。太陽よりも大きな恒星なども太陽系外にはいくらでもあるが、それらの恒星を神に
見立てて崇め立たりしてみたところで、太陽系第三惑星であるこの地球に与えている物理的な影響などは
微々たるものだから、それを崇め立てることによって外的な利益などがもたらされることなどを期待
できないのはもちろんのこと、神を崇める自らの真摯さが養われて、諸々の事業を真剣に務めて行く
ようになることすら期待は出来ない。だから、敬神からなる修己大成ということもまた期待出来はしない。
それと同じように、この世界この宇宙を全く超越する形而上神などを想定して崇めたりしてみた所で、
そのような神がこの世界に与えている影響などは皆無だから、実際的な神からの加護なども期待できないし、
神を敬うことによる修身やそれに基づく健全な成功などを期待することも出来ない。このあたりに、
神を信じて敬うということを大概にすべき領域というものがあり、そのような無益な領域での信仰に
溺れるぐらいなら、信教などとは無縁な所での自助努力に努めていたほうがまだよい。せいぜい、太陽神
程度には実相に根ざしている神への崇敬によって事業の成功などを願い、自らも真摯であるように努める
ところまでが、神格信仰というものがプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらせる限度になっている。
「盛徳大業至れるかな。富有之れを大業と謂い、日新之れを盛徳と謂う。(略)法象は天地より大なるは莫く、
変通は四時よりも大なるは莫く、縣象の著明なるは日月より大なるは莫く、崇高は富貴よりも大なるは莫し」
「道理こそは、徳の盛んにして業の大いなる最たるものである。道理に根ざせば自然と大いなる富に与れる、
これこそは最も大いなる業である。そして日々何もかもが新たに成長して行く、これが得の盛んなる姿である。
人間の与る法則で天地よりも大いなるものはなく、現象の転変について四季よりも大いなるものはなく、甚だ
明らかなものとして日月に優るものはなく、崇高であるものとして天子が富貴であることに優るものはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
ということもない。太陽よりも大きな恒星なども太陽系外にはいくらでもあるが、それらの恒星を神に
見立てて崇め立たりしてみたところで、太陽系第三惑星であるこの地球に与えている物理的な影響などは
微々たるものだから、それを崇め立てることによって外的な利益などがもたらされることなどを期待
できないのはもちろんのこと、神を崇める自らの真摯さが養われて、諸々の事業を真剣に務めて行く
ようになることすら期待は出来ない。だから、敬神からなる修己大成ということもまた期待出来はしない。
それと同じように、この世界この宇宙を全く超越する形而上神などを想定して崇めたりしてみた所で、
そのような神がこの世界に与えている影響などは皆無だから、実際的な神からの加護なども期待できないし、
神を敬うことによる修身やそれに基づく健全な成功などを期待することも出来ない。このあたりに、
神を信じて敬うということを大概にすべき領域というものがあり、そのような無益な領域での信仰に
溺れるぐらいなら、信教などとは無縁な所での自助努力に努めていたほうがまだよい。せいぜい、太陽神
程度には実相に根ざしている神への崇敬によって事業の成功などを願い、自らも真摯であるように努める
ところまでが、神格信仰というものがプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらせる限度になっている。
「盛徳大業至れるかな。富有之れを大業と謂い、日新之れを盛徳と謂う。(略)法象は天地より大なるは莫く、
変通は四時よりも大なるは莫く、縣象の著明なるは日月より大なるは莫く、崇高は富貴よりも大なるは莫し」
「道理こそは、徳の盛んにして業の大いなる最たるものである。道理に根ざせば自然と大いなる富に与れる、
これこそは最も大いなる業である。そして日々何もかもが新たに成長して行く、これが得の盛んなる姿である。
人間の与る法則で天地よりも大いなるものはなく、現象の転変について四季よりも大いなるものはなく、甚だ
明らかなものとして日月に優るものはなく、崇高であるものとして天子が富貴であることに優るものはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
天下において、人々が際限のない富の奪い合いに興じているような状態であるのなら、
人間関係において「利害反するあり(韓非子)」という状態が常套化してしまうことともなる。
他人の富をくすねて自分が裕福になるということがあるのだから、これは当然のことである。
そしてそのような事態が深刻化すれば、富めるものと富まざるものとの格差もまた激化してしまい、
最悪の場合には富まざるものの側に餓死するようなものすらもが頻発するようになる。
そのような状態での勝ちや負けにこだわり続けるのならば、一時は富裕を謳歌していたものが
一転してジリ貧に見舞われたり、その逆となったりといった逆転現象もまた生じたりするものだ。
だからといって貧困者の側に回されていたものが、逆転勝利によって膨大な富をせしめることでの
名誉挽回を目指したりするのでは、結局の所、品性の部分ではかつての怨敵とも同じ穴の狢となってしまう。
だから、奪い合いが常套化してしまっているような世相での勝利などではなく、そもそも奪い合い
などが常套化していない世相の呼び込みこそを企図したとする。したらば、富めるものがそんなに
極端に富むようなこともなくなる代わりに、極端に困窮したり飢餓に見舞われたりする人間もいなくなる。
奪い合いによって不正に取り回されていたことからなる富の目減りが抑制されることともなるために、
天下万人が所有する富の平均値は、奪い合いが常套化している状態の平均値よりも相当に増加することともなる。
だからたとえば、今の地球社会における極端な富の偏在を是正したからといって、天下万人の資産の
平均値が、いま世界平均とほぼ同等の状態にあるインドネシアやフィリピンの平均値並みになるなんて
こともなく、それよりはずっと多くの富を天下全土の誰しもが所有できるようにもなるはずなのである。
これは季氏第十六・一にも「(富の)寡なきを患えずして均しからざるを患う。〜均しければ貧しきこと無し」
という風に確言されていることであり、別に共産主義者などが言いだしっぺの幻想だったりするわけでもない。
人間関係において「利害反するあり(韓非子)」という状態が常套化してしまうことともなる。
他人の富をくすねて自分が裕福になるということがあるのだから、これは当然のことである。
そしてそのような事態が深刻化すれば、富めるものと富まざるものとの格差もまた激化してしまい、
最悪の場合には富まざるものの側に餓死するようなものすらもが頻発するようになる。
そのような状態での勝ちや負けにこだわり続けるのならば、一時は富裕を謳歌していたものが
一転してジリ貧に見舞われたり、その逆となったりといった逆転現象もまた生じたりするものだ。
だからといって貧困者の側に回されていたものが、逆転勝利によって膨大な富をせしめることでの
名誉挽回を目指したりするのでは、結局の所、品性の部分ではかつての怨敵とも同じ穴の狢となってしまう。
だから、奪い合いが常套化してしまっているような世相での勝利などではなく、そもそも奪い合い
などが常套化していない世相の呼び込みこそを企図したとする。したらば、富めるものがそんなに
極端に富むようなこともなくなる代わりに、極端に困窮したり飢餓に見舞われたりする人間もいなくなる。
奪い合いによって不正に取り回されていたことからなる富の目減りが抑制されることともなるために、
天下万人が所有する富の平均値は、奪い合いが常套化している状態の平均値よりも相当に増加することともなる。
だからたとえば、今の地球社会における極端な富の偏在を是正したからといって、天下万人の資産の
平均値が、いま世界平均とほぼ同等の状態にあるインドネシアやフィリピンの平均値並みになるなんて
こともなく、それよりはずっと多くの富を天下全土の誰しもが所有できるようにもなるはずなのである。
これは季氏第十六・一にも「(富の)寡なきを患えずして均しからざるを患う。〜均しければ貧しきこと無し」
という風に確言されていることであり、別に共産主義者などが言いだしっぺの幻想だったりするわけでもない。
徳治によって富の遍在を是正することと、共産化によって富の偏在を是正することとでは、その手法が
決定的に異なる。徳治では士農工商その他の生業の格付けを正すことで、商人階級による富の貪りを
厳重な差別下に置く一方、共産化では逆に産業階級が国を乗っ取って直接政治を執り行うことが企図される。
物価の変動なども完全に固定化して、世に出回る物品全てを半公有物ともしてしまう、
実際にそれを実施した共産圏はといえば、>>78-79で孟子が予言した通りの産業の停滞を招き、
製品の品質はがた落ちして、人々も勤労意欲を損なわせ、自他の所有物にろくな
区別も付けられなくなる、著しい公共マナーの欠如という問題をも来たした。
一方で、武士によるトップダウンな民衆の統制によって、富の偏在にも適度な抑制をかけていた
江戸時代の日本はといえば、だからといって人々の勤労意欲が損なわれるようなこともなく、
武士の勤勉さを見習っての人々の民度の向上までもが実現され、商人階級や地主階級も服装や生活規範などの
制限を受けながらも、それなりの商業活動によって、庶民を痛め付けない程度の富裕に与ることができていた。
道徳統治と共産化とで、目指すところ(富の偏在の是正)は似ているけれども、それぞれを実施しようとする
人間の世の中の捉え方や倫理観からして位相がひっくり返っており、故にこそ目的のための手段もまた相違している。
徳治主義には修己治人のわきまえがある一方で、共産主義には全くそれがない。徳治主義は士人階級と資本家階級を
別物として捉えている一方、共産主義は両者を同一不可分のものとして捉えている。総合的に、徳治主義のほうが
共産主義よりも世の中の捉え方や倫理観が秀逸であり、故にこそ、それによって実現される世の中もまた、共産主義が
実現する世の中において来たしてしまうような諸々の問題を来たさない。徳治主義のほうが共産主義よりも遥かにその
発祥が古いから、旧態依然としたものとして捉えてしまいがちにもなるが、ここは、若造のほうが青すぎた事案だといえる
決定的に異なる。徳治では士農工商その他の生業の格付けを正すことで、商人階級による富の貪りを
厳重な差別下に置く一方、共産化では逆に産業階級が国を乗っ取って直接政治を執り行うことが企図される。
物価の変動なども完全に固定化して、世に出回る物品全てを半公有物ともしてしまう、
実際にそれを実施した共産圏はといえば、>>78-79で孟子が予言した通りの産業の停滞を招き、
製品の品質はがた落ちして、人々も勤労意欲を損なわせ、自他の所有物にろくな
区別も付けられなくなる、著しい公共マナーの欠如という問題をも来たした。
一方で、武士によるトップダウンな民衆の統制によって、富の偏在にも適度な抑制をかけていた
江戸時代の日本はといえば、だからといって人々の勤労意欲が損なわれるようなこともなく、
武士の勤勉さを見習っての人々の民度の向上までもが実現され、商人階級や地主階級も服装や生活規範などの
制限を受けながらも、それなりの商業活動によって、庶民を痛め付けない程度の富裕に与ることができていた。
道徳統治と共産化とで、目指すところ(富の偏在の是正)は似ているけれども、それぞれを実施しようとする
人間の世の中の捉え方や倫理観からして位相がひっくり返っており、故にこそ目的のための手段もまた相違している。
徳治主義には修己治人のわきまえがある一方で、共産主義には全くそれがない。徳治主義は士人階級と資本家階級を
別物として捉えている一方、共産主義は両者を同一不可分のものとして捉えている。総合的に、徳治主義のほうが
共産主義よりも世の中の捉え方や倫理観が秀逸であり、故にこそ、それによって実現される世の中もまた、共産主義が
実現する世の中において来たしてしまうような諸々の問題を来たさない。徳治主義のほうが共産主義よりも遥かにその
発祥が古いから、旧態依然としたものとして捉えてしまいがちにもなるが、ここは、若造のほうが青すぎた事案だといえる
「孚有りて攣如たり、富其の隣りと以にす。孚有りて攣如たりとは、独り富まんとせざるなり」
「誠意と共に協力的であり、富も誰しもと分け合おうという心持ちでいる。誠意があって協力的だから、
自分独りで富もうなどという気持ちもない。(誠意があるのなら、始めから富を独占しようなどという気は
起こらない。してみれば、私利の追求が生業である商売人は必ず、内面に不誠実を抱えているのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・小畜・九五‐象伝)
「誠意と共に協力的であり、富も誰しもと分け合おうという心持ちでいる。誠意があって協力的だから、
自分独りで富もうなどという気持ちもない。(誠意があるのなら、始めから富を独占しようなどという気は
起こらない。してみれば、私利の追求が生業である商売人は必ず、内面に不誠実を抱えているのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・小畜・九五‐象伝)
何かを信じきって全く疑わないというのは、それ自体は愚かなことである。
愚かであると諾いつつ阿弥陀仏に帰依する念仏信仰などは、それはそれで相が狂ってはいない。
何ものかを信じて疑わないということそれ自体が「神聖なこと」のように見なされて、
信じて疑わないものがあるが故に、そのような拠り所を持たない相手よりも自分のほうが
偉いなどと考えるようになるのでは、それ自体が凶相となり、何も信じないでいることは愚か、
愚かなことと知りつつ信仰に没頭する場合以上にも劣悪なザマとなる。
何か信じてやまぬ拠り所があればこそ、そんなものを持たない人間よりも偉いというような
間違った思い込みが方々で通用してしまっているからこそ、「宗教」という枠組みがそれなりの
権威性を以って取り扱われてしまってもいる。公けに「カルト」と指定されている新興宗教などの
扱いはそれなりに眉唾物扱いだったりもするが、「なによりもまず、信教は信教であるだけで貴い」
というような通念が未だに一般的であるために、日本国憲法にも明記されている「信教の自由」
などといった理念が、イヤイヤながらであっても黙認されてしまっていたりするのだ。
今でこそ仏門も「仏教」としての扱いが定着しているけれども、天台真言律禅のごとき自力作善の聖道門は
本来「学門」としての立場を持ち合わせていたわけで、昔の日本などでも、仏門での学門修養が行き届いて
いればこそ、中国などのように科挙試験の合格を目指してのガリ勉競争を激化させたりする必要もなかった。
その日本が廃仏毀釈によって仏門での学門修養を絶ち、大学での勉強が主要教育ともされるようになって後は、
中国などと同じ拙いガリ勉競争の様相を呈し始めることともなった。座禅や托鉢行脚などの実践的な修養が伴わない
から、勉強にかけてばかりガリガリでいるしかない。そのせいで学問自体が「過ぎたるはなお及ばざるが如し」
の様相を呈してしまい、複雑怪奇で晦渋であるばかりでろくな実用性もないという事態に陥ってもしまった。
愚かであると諾いつつ阿弥陀仏に帰依する念仏信仰などは、それはそれで相が狂ってはいない。
何ものかを信じて疑わないということそれ自体が「神聖なこと」のように見なされて、
信じて疑わないものがあるが故に、そのような拠り所を持たない相手よりも自分のほうが
偉いなどと考えるようになるのでは、それ自体が凶相となり、何も信じないでいることは愚か、
愚かなことと知りつつ信仰に没頭する場合以上にも劣悪なザマとなる。
何か信じてやまぬ拠り所があればこそ、そんなものを持たない人間よりも偉いというような
間違った思い込みが方々で通用してしまっているからこそ、「宗教」という枠組みがそれなりの
権威性を以って取り扱われてしまってもいる。公けに「カルト」と指定されている新興宗教などの
扱いはそれなりに眉唾物扱いだったりもするが、「なによりもまず、信教は信教であるだけで貴い」
というような通念が未だに一般的であるために、日本国憲法にも明記されている「信教の自由」
などといった理念が、イヤイヤながらであっても黙認されてしまっていたりするのだ。
今でこそ仏門も「仏教」としての扱いが定着しているけれども、天台真言律禅のごとき自力作善の聖道門は
本来「学門」としての立場を持ち合わせていたわけで、昔の日本などでも、仏門での学門修養が行き届いて
いればこそ、中国などのように科挙試験の合格を目指してのガリ勉競争を激化させたりする必要もなかった。
その日本が廃仏毀釈によって仏門での学門修養を絶ち、大学での勉強が主要教育ともされるようになって後は、
中国などと同じ拙いガリ勉競争の様相を呈し始めることともなった。座禅や托鉢行脚などの実践的な修養が伴わない
から、勉強にかけてばかりガリガリでいるしかない。そのせいで学問自体が「過ぎたるはなお及ばざるが如し」
の様相を呈してしまい、複雑怪奇で晦渋であるばかりでろくな実用性もないという事態に陥ってもしまった。
それなりの実践修行が伴う仏門における学問こそは、そのような問題をも呈さなかったわけで、むしろ
仏門における学問こそは、今の大学などでの学問以上にも「最適」でいられるところがあったのだった。
(ちょうど実践修行が、情報処理を行うコンピュータにとってのデフラグのような役割を果たしていた)
宗教的には、日本も「仏教圏」とされるけれども、実情をいえば、日本の仏門は今の大学並みかそれ以上にも
「権威ある学門」としての立場を担っていた。宗教としての信仰に専らでいたのは浄土門などの一部の宗派
のみであり、むしろ寺といえば学門道場としての役割のほうが大きかった。仏門が信仰の場以上にも学門の場
として重要な役割を担っていた以上、日本は昔から信仰以上にも学問を重んずる国でもあったと言え、信仰一辺倒の
激化などは、僧兵や一向一揆や日蓮カルトなどへの制圧が試みられていたことからも、忌避されていたことがわかる。
そういった、日本の伝統的な教学のあり方こそは見習うべきものでもある。信教を信教だからといって
保護するようなことはしない一方で、学問振興のための絶妙なエッセンスとして信教を用いもする。
これが信教一辺倒なアブラハム教圏のあり方などよりはもちろんのこと、信教に対する冷遇や弾圧の過ぎる
中国などよりも優れている。今の日本ではなく、昔からの日本の教学に対する姿勢こそが模範的なのであり、
それは今の日本人自身もまた復興を心がけていくことによってのみ、また取り戻せることがあるものである。
「疑を稽する。択んで卜筮の人を建立する」
「疑わしきことにまでよく配慮を利かして精査する。そのためには卜筮者を厳選して擁立しもする。
(オッカムの剃刀的な配慮の怠惰を非としていたから、占筮にまで頼る所があったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
仏門における学問こそは、今の大学などでの学問以上にも「最適」でいられるところがあったのだった。
(ちょうど実践修行が、情報処理を行うコンピュータにとってのデフラグのような役割を果たしていた)
宗教的には、日本も「仏教圏」とされるけれども、実情をいえば、日本の仏門は今の大学並みかそれ以上にも
「権威ある学門」としての立場を担っていた。宗教としての信仰に専らでいたのは浄土門などの一部の宗派
のみであり、むしろ寺といえば学門道場としての役割のほうが大きかった。仏門が信仰の場以上にも学門の場
として重要な役割を担っていた以上、日本は昔から信仰以上にも学問を重んずる国でもあったと言え、信仰一辺倒の
激化などは、僧兵や一向一揆や日蓮カルトなどへの制圧が試みられていたことからも、忌避されていたことがわかる。
そういった、日本の伝統的な教学のあり方こそは見習うべきものでもある。信教を信教だからといって
保護するようなことはしない一方で、学問振興のための絶妙なエッセンスとして信教を用いもする。
これが信教一辺倒なアブラハム教圏のあり方などよりはもちろんのこと、信教に対する冷遇や弾圧の過ぎる
中国などよりも優れている。今の日本ではなく、昔からの日本の教学に対する姿勢こそが模範的なのであり、
それは今の日本人自身もまた復興を心がけていくことによってのみ、また取り戻せることがあるものである。
「疑を稽する。択んで卜筮の人を建立する」
「疑わしきことにまでよく配慮を利かして精査する。そのためには卜筮者を厳選して擁立しもする。
(オッカムの剃刀的な配慮の怠惰を非としていたから、占筮にまで頼る所があったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
「室を労とする靡く、夙に興きて夜に寐ぬるに、朝有る靡し」
「家庭での仕事の苦労を苦労ともせず、朝から晩まで家事仕事を欠かしたこともない。
(人の苦労を全否定するようなら、家族関係一つうまく行くこともありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
「家庭での仕事の苦労を苦労ともせず、朝から晩まで家事仕事を欠かしたこともない。
(人の苦労を全否定するようなら、家族関係一つうまく行くこともありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
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そしてその僥倖抜きの福徳こそは、真に普遍的な福徳である。
「棚からぼた餅」的な僥倖に基づく慶福こそは脆弱なものであり、
そんなものを期待し過ぎずに、着実な自助努力に基づく慶福を
得ようとすることこそが、人として最善を尽くすあり方ともなる。
ただ、人々を惑わせやすいのが、「僥倖を得るための努力」というものだ。
西洋文化文明に基づく発明だとか学術的発見だとかいったものが概ねその部類で、
古くはピタゴラスによる三平方の定理の発見から、エジソンによる電球の発明や
ライト兄弟による飛行機の発明、そして複数の計算機学者によるコンピュータの発明など、
それなりに研究開発の努力を積んだ結果として、発明や発見に至ったものとなっている。
僥倖を得るための努力もまた、決して絶対に報われないわけでもない。
報われたときには、着実な福徳を企図している場合以上もの「一発当ててウハウハ」
すらもが実現できたりもするわけだが、残念ながら、僥倖を得るための努力が報われる
確率はきわめて低く、その低率な成功を得るためにも莫大な資本投入を必要とする。
19世紀後半から20世紀中盤にかけて、アメリカ人たちが膨大な数の文明の利器を発明することが
できたのも、当時のアメリカが資本主義国として未曾有の規模にまで発展していたからで、
その代償は資本主義後進国の極度の貧窮や二度の世界大戦、そして現代に至っての
リバウンド状態の経済破綻などの形で確実に業報されて来ているのである。
「小道といえども必ず観るべきものあり。遠きを致すには恐らくは泥まん(子張第十九・四)」
「君子の道は闇然として日に章らかに、小人の道は的然として日に亡ぶ(中庸・三十三)」
小道といえども見るべきところが全くないわけではない、僥倖を求めての尽力も多少は報われる
ことがあるが、やっぱり総合的に授かれる福徳の度合いで、着実な常道の邁進に優ることはない。
着実な常道の邁進によって得られる福徳こそは禍い以上の福ともなる一方で、僥倖に与ろうと
した結果としての福にはむしろ、それ以上に甚大な禍いが付き物となるようにもなっている。
僥倖を得るに際して、福以上の禍いをもたらしてしまったからこそ、小道での尽力者が深く
感謝されたりすることもない。漢帝国も、秦帝国が築き上げた文明インフラを引き継ぐ形で
尊敬に値する長期の泰平統治を実現したわけだが、秦帝国の権力者たちはといえば、自分
たちが放辟邪侈によって人々を痛め付ける過程で文明インフラを新造して行ったわけだから、
全く感謝や尊敬の対象にされることもなく、後々に迫害や差別の対象となるばかりとなった。
これも一つの文明社会の宿命であるといえ、漢帝国成立後にも項羽の親戚家は生きながらえた
ものの始皇帝の家は中国で滅ぼされたり(日本に残党が逃げ込んだりはしていた)、徳川幕府
成立後に織田信長の子孫は生きながらえたものの、豊臣秀吉の子孫は滅ぼされたりといった風に、
文明社会の黎明期の立役者となった連中同士でもまた、多少の運命の枝分かれが生ずることとなる。
全てが全て滅ぼしつくされたりまではしないのは、小道ながらに見るべきところも多少はあったからだ。
「君子の道は闇然として日に章らかに、小人の道は的然として日に亡ぶ(中庸・三十三)」
小道といえども見るべきところが全くないわけではない、僥倖を求めての尽力も多少は報われる
ことがあるが、やっぱり総合的に授かれる福徳の度合いで、着実な常道の邁進に優ることはない。
着実な常道の邁進によって得られる福徳こそは禍い以上の福ともなる一方で、僥倖に与ろうと
した結果としての福にはむしろ、それ以上に甚大な禍いが付き物となるようにもなっている。
僥倖を得るに際して、福以上の禍いをもたらしてしまったからこそ、小道での尽力者が深く
感謝されたりすることもない。漢帝国も、秦帝国が築き上げた文明インフラを引き継ぐ形で
尊敬に値する長期の泰平統治を実現したわけだが、秦帝国の権力者たちはといえば、自分
たちが放辟邪侈によって人々を痛め付ける過程で文明インフラを新造して行ったわけだから、
全く感謝や尊敬の対象にされることもなく、後々に迫害や差別の対象となるばかりとなった。
これも一つの文明社会の宿命であるといえ、漢帝国成立後にも項羽の親戚家は生きながらえた
ものの始皇帝の家は中国で滅ぼされたり(日本に残党が逃げ込んだりはしていた)、徳川幕府
成立後に織田信長の子孫は生きながらえたものの、豊臣秀吉の子孫は滅ぼされたりといった風に、
文明社会の黎明期の立役者となった連中同士でもまた、多少の運命の枝分かれが生ずることとなる。
全てが全て滅ぼしつくされたりまではしないのは、小道ながらに見るべきところも多少はあったからだ。
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胃腸が弱り、唾液の量も減って、そんなに穀類を大量に食べたりもできないようになる。
代わりに甘いものや高級魚や肉などの、高カロリーなものを少量採って栄養を補給するなど
すればよく、そのために食費がかさむぐらいのことは大目に見てやるべきだともいえる。
しかし特に、肉や魚はその生産量が限られており、万人が好きなだけ食したりしているようではあっという間に
枯渇してしまうことにもなる。(それを無理に克服しようとしてもBSEや鳥獣インフルエンザなどの問題が生ずる)
そのため、穀類で十分な栄養が採れる若者の内はなるべく穀類で栄養を採るようにし、年を取ってなかなか穀類が
食べにくくなってからは肉や魚を旺盛に食べるようにするなどの、世代による食の住み分けを講ずるべきだといえる。
しかれば、老若男女にかかわらず誰しもが食べたいものを食べて食べさせるだなんていう、
「共食」の論理などを決して通用させるべきではないわけで、世の中における食習慣一つとっても、
立場や身分の違いに基づく差別を講じることのほうがより適切であることが分かるのである。
食い物に限らず、「自分もやりたいことばかりやって、人にもやりたいことばかりさせる」という、やりたい放題の
論理が通用しないことはいくらでもある。そりゃあ、それでも通用するなら、それが一番嬉しいにも違いないが、
世の中の大局構造というのは、誰しもの欲望を無制限に叶え続けていられるようには決してできていないから、
どこかで譲り合いを講ずるようにもしていかなければ、必ず世の中のほうが立ち行かなくなってしまうのである。
世の中の大局構造というものを実感的に把握することができないから、女子供や小人男はできる限りやりたい放題で
いようとする。大局を実感的に把握できる君子の大丈夫であろうとも、出家者でもない限りはあらゆる欲望を抑制し
尽くすなんていうことまではしないが、「欲はほしいままにすべからず」ということを常日ごろからのわきまえとし、
何もかもを欲望のあるがままにさせようなどとするような最悪の放逸心にだけは決して溺れないでいようとはする。
そのために、君子の大丈夫は「世の中を平穏に取り仕切る」という大欲こそを、他の如何なる欲望よりも優先させる。
それは別に欲しやすいものではないが、欲そうと思えば欲することもできないといった程度のものであり、
それを欲することこそを他のあらゆる欲望よりも優先させていくこと自体が、一種の精進ともなるものである。
そして、その「世の中を平穏に取り仕切る」という欲望対象もまた、女子供や小人男にまで欲することを強制
できるもんじゃない。世の中の大局構造を実感的に把握することもできない身の程である以上は、そんなことを
心の底から欲することも決して期待できたもんじゃないから、天下の泰平統治への邁進も、あくまで自分たち
大丈夫にとっての領分であるとして、女子供や小人男にまでそれに対する共感などを強制したりすべきでもない。
それで結局、上記のような諸々の社会規範上の住み分けを講ずるためには、君臣父子夫婦官民長幼といった
立場の違いに基づく序列を徹底していくべきだということにもなる。元より、古来からの儒学道徳に基づく
封建制での秩序序列というのは、上記のような住み分けこそを企図して講じられていたものなのであり、その
内実にまで立ち入って見るなら、封建制も極めて切実で罪のない正当性に即していたことが分かるのである。
(士産階級の分離も疎かだった西洋の封建制などにまでこの分析が当てはまるわけでは決してないが)
「嗚呼、惟れ天、民を生じて欲有り。主無ければ乃ち乱る」
「ああ、天は民たちを欲望の塊として生み出された。そのせいで、
主君を立てないことには必ず乱れるようになってしまってもいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
それは別に欲しやすいものではないが、欲そうと思えば欲することもできないといった程度のものであり、
それを欲することこそを他のあらゆる欲望よりも優先させていくこと自体が、一種の精進ともなるものである。
そして、その「世の中を平穏に取り仕切る」という欲望対象もまた、女子供や小人男にまで欲することを強制
できるもんじゃない。世の中の大局構造を実感的に把握することもできない身の程である以上は、そんなことを
心の底から欲することも決して期待できたもんじゃないから、天下の泰平統治への邁進も、あくまで自分たち
大丈夫にとっての領分であるとして、女子供や小人男にまでそれに対する共感などを強制したりすべきでもない。
それで結局、上記のような諸々の社会規範上の住み分けを講ずるためには、君臣父子夫婦官民長幼といった
立場の違いに基づく序列を徹底していくべきだということにもなる。元より、古来からの儒学道徳に基づく
封建制での秩序序列というのは、上記のような住み分けこそを企図して講じられていたものなのであり、その
内実にまで立ち入って見るなら、封建制も極めて切実で罪のない正当性に即していたことが分かるのである。
(士産階級の分離も疎かだった西洋の封建制などにまでこの分析が当てはまるわけでは決してないが)
「嗚呼、惟れ天、民を生じて欲有り。主無ければ乃ち乱る」
「ああ、天は民たちを欲望の塊として生み出された。そのせいで、
主君を立てないことには必ず乱れるようになってしまってもいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
儒説というものにも、ある程度は密教的な部分がある。
現代に至るまでの内で最も整備された儒学である朱子学などにおいて、
孔孟や荀子の教えを体系化したものとしての三綱五常の教えが尊ばれている。
君臣父子夫婦の序列を尊ぶという三綱の教えにも実は裏があり、「易経」の序卦伝などには
「天地ありて然る後に万物あり、万物ありて然る後に男女あり、
男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀おくところあり」
などとある。時系列においてはむしろ男女や夫婦のほうが先に生じているわけだから、
君臣や父子の関係よりも男女や夫婦の関係のほうを尊重すべきであるかのように考えられなくもない。
実際、冒頭の創世記にアダムとイヴというツガイの原人類の物語を置いている旧約などはその考え方に
即しているわけだが、易においては、そもそも天地万物が生じた最原初の頃には上下関係など存在しない、
都市社会において君臣父子の関係などが重んじられるようになってから初めて上下関係が生じ、
その上下関係に即して礼儀礼節をわきまえる必要性もまた生じたわけだから、礼節をわきまえる
上下関係も「君臣父子夫婦」の序列であることこそが正しいとされているのである。
——以上のような論説は、表向きの儒学においてはわざわざ深く立ち入られもしないことであり、
むしろ出来上がった教説としての三綱五常のわきまえや、その実践こそがより重んじられていくものである。
上のような密教的な部分も、儒学をより深く理解する上では有用であっても、そればかりに囚われて
積極的な実践を蔑ろにしたりするのでは、世俗の学問としての儒学のあり方にも悖ることとなるから、
「高きに上らず、深きに臨まず(礼記)」で、基本は出来上がった教説の受容のほうを優先させるのである。
現代に至るまでの内で最も整備された儒学である朱子学などにおいて、
孔孟や荀子の教えを体系化したものとしての三綱五常の教えが尊ばれている。
君臣父子夫婦の序列を尊ぶという三綱の教えにも実は裏があり、「易経」の序卦伝などには
「天地ありて然る後に万物あり、万物ありて然る後に男女あり、
男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀おくところあり」
などとある。時系列においてはむしろ男女や夫婦のほうが先に生じているわけだから、
君臣や父子の関係よりも男女や夫婦の関係のほうを尊重すべきであるかのように考えられなくもない。
実際、冒頭の創世記にアダムとイヴというツガイの原人類の物語を置いている旧約などはその考え方に
即しているわけだが、易においては、そもそも天地万物が生じた最原初の頃には上下関係など存在しない、
都市社会において君臣父子の関係などが重んじられるようになってから初めて上下関係が生じ、
その上下関係に即して礼儀礼節をわきまえる必要性もまた生じたわけだから、礼節をわきまえる
上下関係も「君臣父子夫婦」の序列であることこそが正しいとされているのである。
——以上のような論説は、表向きの儒学においてはわざわざ深く立ち入られもしないことであり、
むしろ出来上がった教説としての三綱五常のわきまえや、その実践こそがより重んじられていくものである。
上のような密教的な部分も、儒学をより深く理解する上では有用であっても、そればかりに囚われて
積極的な実践を蔑ろにしたりするのでは、世俗の学問としての儒学のあり方にも悖ることとなるから、
「高きに上らず、深きに臨まず(礼記)」で、基本は出来上がった教説の受容のほうを優先させるのである。
という風に、儒学の学理教説の内にすら、優先すべきものとそうでないものとがある。
必要なのは何もかもを知り尽くすこと以上にも、優先すべき学知とそうでない学知とをよく分別して、
優先すべき学知の積極的な受容に取り組んでいったり、そうでない学知の適切な扱いを守ったりすることである。
それを怠るのであれば、知識なんてものは享受する以上にもしないほうがマシなほどにも無益極まりないものに
すらなりかねない。異端の小知ばかりを貪り続けた挙句に、自業自得の破滅に陥るようなことにもなりかねない。
ここではかなり、実践に移す上では深入りに過ぎるような、密教的な儒説も取り扱っている。それも、
儒学の実践が全く不能と化してしまっている今という時代の現状に合わせたものであり、もしもこれから
儒学の実践ぐらいは可能になって行くというのであれば、深く分析するまでもない、四書五経の文面ありのままの
教説の実践などに取り組んでいくようにすべきなのである。分析主義的な西洋文化の国内への大量流入などによって、
表向きの儒説だけではその正当性の根拠が脆弱だという文句が多々付けられてもいるものだから、密教的な儒説と、
洋学の学説や聖書教義なども照らし合わせつつ、表向きの儒学の正当性までをも厳密に実証し続けて来たのである。
そればかりであっていいわけでもないが、時宜に即して、そういうことがたまたま必要ともされたのである。
「聖謨洋洋として、嘉言孔だ彰かなり。」
「聖人の定められた則はまことに輝かしいものであり、その優れた言葉も甚だ明らかなものである。
(むしろ明らかに正善であればこそ、邪神邪人はそれを隠蔽したり無視したりしようともする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
必要なのは何もかもを知り尽くすこと以上にも、優先すべき学知とそうでない学知とをよく分別して、
優先すべき学知の積極的な受容に取り組んでいったり、そうでない学知の適切な扱いを守ったりすることである。
それを怠るのであれば、知識なんてものは享受する以上にもしないほうがマシなほどにも無益極まりないものに
すらなりかねない。異端の小知ばかりを貪り続けた挙句に、自業自得の破滅に陥るようなことにもなりかねない。
ここではかなり、実践に移す上では深入りに過ぎるような、密教的な儒説も取り扱っている。それも、
儒学の実践が全く不能と化してしまっている今という時代の現状に合わせたものであり、もしもこれから
儒学の実践ぐらいは可能になって行くというのであれば、深く分析するまでもない、四書五経の文面ありのままの
教説の実践などに取り組んでいくようにすべきなのである。分析主義的な西洋文化の国内への大量流入などによって、
表向きの儒説だけではその正当性の根拠が脆弱だという文句が多々付けられてもいるものだから、密教的な儒説と、
洋学の学説や聖書教義なども照らし合わせつつ、表向きの儒学の正当性までをも厳密に実証し続けて来たのである。
そればかりであっていいわけでもないが、時宜に即して、そういうことがたまたま必要ともされたのである。
「聖謨洋洋として、嘉言孔だ彰かなり。」
「聖人の定められた則はまことに輝かしいものであり、その優れた言葉も甚だ明らかなものである。
(むしろ明らかに正善であればこそ、邪神邪人はそれを隠蔽したり無視したりしようともする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
自力作善が本旨である密教や禅などでも、不動明王なり遍照金剛(弘法大師)なり
釈迦牟尼仏なりの尊格を補助的な信仰の対象とし、それによって精進修行の大成を図ることがある。
そもそも信教を本職としない為政者なども、祖神への崇敬などによって自らが善政を心がけることができる。
そういった信仰や崇敬の用い方のほうが優良であり、信仰一辺倒の他力本願となるのは劣悪である。
浄土門などはそれを知った上での他力本願でいるから、信者たちが思い上がりを募らせたりすることはないが、
日蓮宗とか聖書教とかは、信仰一辺倒であることこそが優良であるとすら考えているところがあるから、
信者たちが思い上がりを募らせての悪逆非道に走ったりもする、これこそは「信仰の暗黒面」だといえる。
江戸時代までの日本には、「信仰することそれ自体が尊いことである」などという認識が、
一部の日蓮教徒間などを除いて一切通用していなかったから、宗教という概念もまた意味を持たないために
始めから整備して定義されることもなかった。浄土信者なども、死への恐怖を緩和するための気休め程度に
念仏を嗜んでいたわけで、そこには悪人正機説などに基づく着実な心理的効果もあったから、
わざわざ捨て去るまでもないものとしての信仰が続けられてきたのだった。
念仏信仰が信者に付与する心理的効果は優良なものであり、純粋に死への恐怖からの解脱を促してくれる。
一方で、聖書信仰が信者に与える心理個的効果は劣悪なものであり、むしろ死への恐怖を最大級に
増幅させた挙句に、心神喪失状態に陥らせることをその正体としている。そのために、一旦聖書信仰に
耽溺してしまったような人間が信仰を取り止めると、並みの人間以上もの極度な死への恐怖に見舞われる
ことともなる。そして長年、世の中総出を挙げての聖書信仰を続けてきた西洋のような社会においては、
「信仰を取り止めれば極度の死への恐怖に見舞われる」ということがデフォルト扱いすらされることになって
しまうために、それと比べて信仰に基づく心神喪失状態がより良いもののように思えてしまったりもする。
釈迦牟尼仏なりの尊格を補助的な信仰の対象とし、それによって精進修行の大成を図ることがある。
そもそも信教を本職としない為政者なども、祖神への崇敬などによって自らが善政を心がけることができる。
そういった信仰や崇敬の用い方のほうが優良であり、信仰一辺倒の他力本願となるのは劣悪である。
浄土門などはそれを知った上での他力本願でいるから、信者たちが思い上がりを募らせたりすることはないが、
日蓮宗とか聖書教とかは、信仰一辺倒であることこそが優良であるとすら考えているところがあるから、
信者たちが思い上がりを募らせての悪逆非道に走ったりもする、これこそは「信仰の暗黒面」だといえる。
江戸時代までの日本には、「信仰することそれ自体が尊いことである」などという認識が、
一部の日蓮教徒間などを除いて一切通用していなかったから、宗教という概念もまた意味を持たないために
始めから整備して定義されることもなかった。浄土信者なども、死への恐怖を緩和するための気休め程度に
念仏を嗜んでいたわけで、そこには悪人正機説などに基づく着実な心理的効果もあったから、
わざわざ捨て去るまでもないものとしての信仰が続けられてきたのだった。
念仏信仰が信者に付与する心理的効果は優良なものであり、純粋に死への恐怖からの解脱を促してくれる。
一方で、聖書信仰が信者に与える心理個的効果は劣悪なものであり、むしろ死への恐怖を最大級に
増幅させた挙句に、心神喪失状態に陥らせることをその正体としている。そのために、一旦聖書信仰に
耽溺してしまったような人間が信仰を取り止めると、並みの人間以上もの極度な死への恐怖に見舞われる
ことともなる。そして長年、世の中総出を挙げての聖書信仰を続けてきた西洋のような社会においては、
「信仰を取り止めれば極度の死への恐怖に見舞われる」ということがデフォルト扱いすらされることになって
しまうために、それと比べて信仰に基づく心神喪失状態がより良いもののように思えてしまったりもする。
というような事情もあるために、聖書信仰のような信者に心理的な悪影響を及ぼす信仰を長年享受してきた
世の中においては、「信仰を持つことは尊い」「信仰を持たないことは卑しい」などという風にすら
思い込まれてしまうようにもなる。死への恐怖を自力作善によって克服することも、他力本願によって健全に
克服することもできなくはないのに、そもそも劣悪な信仰によって人々の死への恐怖を最大級に増幅させる
ことを定常状態としてしまっているから、世の風潮からして信仰ありきでしかあり得なくなってしまっている。
自学作善>善い信仰>無学無信>悪い信仰①というのが真如の実相だが、悪い信仰には無信仰状態を苦痛とさせる
「誘引効果」があるために、その信仰に陥ってしまったような人間に対して信仰一般>無信仰②であるような
思い違いを抱かせもする。真実である①と、思い違いである②とでは決定的に相容れないところがあるから、
悪い信仰に陥ったせいで②が真実だと思い込んでしまった人間は、致命的に真実が見えなくなってもしまう。
信仰内容の劣悪さ以前に、悪い信仰にはそういった問題点が付き物でもあるわけだから、そのような信仰の
代表格である聖書信仰の特殊な教義に立ち入るまでもなく、悪い信仰一般を控えるべきだということが言える。
とはいえやはり、聖書信仰の教条こそは、「信者を極度の恐怖に見舞わせた挙句に心神喪失状態に陥れる」という
悪い信仰の黄金比を如実に体現していることも間違いがない。聖書の教義に根ざさなくとも、同様の心理的効果を
他の邪教が信者にもたらすことはいくらでもあり得るが、結局のところは五十歩百歩であり、その効果が甚大で
あるような邪教ほど、聖書信仰の教義に近似していくことにもなるだろう。いかにも「宗教らしい宗教」ほどそうで
あるらしい場合が多いから、宗教という枠組み自体、邪教こそを保護してやるためのものだったのだとも考えられる。
邪教ではないような宗教ほど、実は「宗教」という枠組み自体を必要としていたりするようなことがないのである。
世の中においては、「信仰を持つことは尊い」「信仰を持たないことは卑しい」などという風にすら
思い込まれてしまうようにもなる。死への恐怖を自力作善によって克服することも、他力本願によって健全に
克服することもできなくはないのに、そもそも劣悪な信仰によって人々の死への恐怖を最大級に増幅させる
ことを定常状態としてしまっているから、世の風潮からして信仰ありきでしかあり得なくなってしまっている。
自学作善>善い信仰>無学無信>悪い信仰①というのが真如の実相だが、悪い信仰には無信仰状態を苦痛とさせる
「誘引効果」があるために、その信仰に陥ってしまったような人間に対して信仰一般>無信仰②であるような
思い違いを抱かせもする。真実である①と、思い違いである②とでは決定的に相容れないところがあるから、
悪い信仰に陥ったせいで②が真実だと思い込んでしまった人間は、致命的に真実が見えなくなってもしまう。
信仰内容の劣悪さ以前に、悪い信仰にはそういった問題点が付き物でもあるわけだから、そのような信仰の
代表格である聖書信仰の特殊な教義に立ち入るまでもなく、悪い信仰一般を控えるべきだということが言える。
とはいえやはり、聖書信仰の教条こそは、「信者を極度の恐怖に見舞わせた挙句に心神喪失状態に陥れる」という
悪い信仰の黄金比を如実に体現していることも間違いがない。聖書の教義に根ざさなくとも、同様の心理的効果を
他の邪教が信者にもたらすことはいくらでもあり得るが、結局のところは五十歩百歩であり、その効果が甚大で
あるような邪教ほど、聖書信仰の教義に近似していくことにもなるだろう。いかにも「宗教らしい宗教」ほどそうで
あるらしい場合が多いから、宗教という枠組み自体、邪教こそを保護してやるためのものだったのだとも考えられる。
邪教ではないような宗教ほど、実は「宗教」という枠組み自体を必要としていたりするようなことがないのである。
「功臣を枚卜し、惟れ吉なれば之れ従わん」
「功績のあった臣下を一人一人占ってみて、吉と出ればそれに従ってその者を跡継ぎの王としよう。
(重大な決断に易占を用いた実例。占いのような不確定的な手法に従えばこそ角も立たない。
何ものかに服従しきることを全てとしたりするのでは、このような方法による和楽も期待できない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
「功績のあった臣下を一人一人占ってみて、吉と出ればそれに従ってその者を跡継ぎの王としよう。
(重大な決断に易占を用いた実例。占いのような不確定的な手法に従えばこそ角も立たない。
何ものかに服従しきることを全てとしたりするのでは、このような方法による和楽も期待できない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
日本神話上の最高神であり、皇祖神であり、家内安全を司る神でもある
天照大神が、記紀神話上で高度な知見や技能を働かせたような逸話こそはない。
荒神のスサノオが高天原にやって来るに際して、過剰な程もの軍備を敷いたなどの
話はあるが、それも結局は用いられず、スサノオに高天原を荒らし回られて天岩戸に
引きこもり、世界を暗闇に陥れて穀物の実りなども滞らせる。高天原の諸神の企図によって
何とか天岩戸から連れ出されて後、スサノオが平定した出雲国を継いだオオクニヌシに
国譲りを促すため自らの子孫を天下りさせて遣わすが、その子孫をアマテラスが
どのように育て上げたかなどといったことが記紀神話上に記されているわけでもない。
一国統治の有能さにかけては、むしろスサノオやオオクニヌシの有能さのほうが
際立っていて、天下りした天孫自身がそんなに有能であるような描写があるわけでもない。
それでいて、天照大神を祖神とする天皇家こそは、125代に渡る系譜を繋いで来てもいる。
有能さで突出していたスサノオやオオクニヌシではなく、特に有能であるという
逸話もないアマテラスの子孫こそが、日本国の首長たる天子の座を守り続けている。
——中国の道家では、男性女性に関わらず「無能の能」というものが尊ばれ、
帝王たる男自身が無為自然の道術を嗜むことまでもが試みられていた。日本は
それとは違って、妻であり母たる女こそが「無能の能」を最大級に発揮していくことが、
日本神話におけるアマテラス崇拝などにも即して、特筆して推進されて来てもいる。
昔ながらの日本女性が、世界的に見て特に有能であるというわけでもない。
紫式部のような才女もいることはいるが、やはり女文字であるかな文字を用いての
宮中文学という、女性ならではの文化的功績を挙げたわけで、別に社会的人間たるべき
男の領分を侵してまでの、純粋に社会的な有能さなどを発揮したわけではない。
天照大神が、記紀神話上で高度な知見や技能を働かせたような逸話こそはない。
荒神のスサノオが高天原にやって来るに際して、過剰な程もの軍備を敷いたなどの
話はあるが、それも結局は用いられず、スサノオに高天原を荒らし回られて天岩戸に
引きこもり、世界を暗闇に陥れて穀物の実りなども滞らせる。高天原の諸神の企図によって
何とか天岩戸から連れ出されて後、スサノオが平定した出雲国を継いだオオクニヌシに
国譲りを促すため自らの子孫を天下りさせて遣わすが、その子孫をアマテラスが
どのように育て上げたかなどといったことが記紀神話上に記されているわけでもない。
一国統治の有能さにかけては、むしろスサノオやオオクニヌシの有能さのほうが
際立っていて、天下りした天孫自身がそんなに有能であるような描写があるわけでもない。
それでいて、天照大神を祖神とする天皇家こそは、125代に渡る系譜を繋いで来てもいる。
有能さで突出していたスサノオやオオクニヌシではなく、特に有能であるという
逸話もないアマテラスの子孫こそが、日本国の首長たる天子の座を守り続けている。
——中国の道家では、男性女性に関わらず「無能の能」というものが尊ばれ、
帝王たる男自身が無為自然の道術を嗜むことまでもが試みられていた。日本は
それとは違って、妻であり母たる女こそが「無能の能」を最大級に発揮していくことが、
日本神話におけるアマテラス崇拝などにも即して、特筆して推進されて来てもいる。
昔ながらの日本女性が、世界的に見て特に有能であるというわけでもない。
紫式部のような才女もいることはいるが、やはり女文字であるかな文字を用いての
宮中文学という、女性ならではの文化的功績を挙げたわけで、別に社会的人間たるべき
男の領分を侵してまでの、純粋に社会的な有能さなどを発揮したわけではない。
「たらちね(母親)の 庭の教えは 狭けれど 広き世に立つ基とはなれ」
(明治天皇御製)
言葉も分からず、二足歩行すらままならない赤ん坊の内から母たる女が我が子に教えて
やっていくことこそは、特に突出したところがあるわけでもないにもかかわらず、最重要である。
言葉ぐらい分かるようになってからの教育はもう他人に任せたっていいわけで、それこそ、
言葉では表しようもないような最原初の、幼き我が子に母が注ぐ愛情こそが、子の成長を
最大級かつ決定的に左右もする。それが決定するのが大体三歳ごろだから、「三つ子の魂百まで」
とも言えるわけで、言葉だ知識だ技能だでは太刀打ちも出来ない密教がそこにこそあるのである。
それは、女がただ女であることによってのみ先天的に授かっている密教であり、
後天的な能力などによってはどうすることもできないものである。男はもちろんのこと、
女自身にも、それを好き勝手に捨てたり拾ったり増進したりすることはできない。
月経などもその先天性に派生しているものであり、むしろ女を悩ませ、男並みの社会的な勇躍を
決定的に阻んでいるものですらある。我が子を最原初のうちから立派に育て上げていくための
女の天分こそは、真の社会的な有能さなどとはむしろ相容れないものであり、故にこそ、
天上において祀られるのが適切ともなるのである。悪い意味だけでなく善い意味でも、
女が女としての身の程をわきまえるべき要素が、そこにあるのだといえる。
「牝雞は晨すること無し、牝雞の晨するは、惟れ家の索くるなり」
「雌鳥は時を告げて鳴いたりせぬもの。雌鳥が鳴いたりするようであれば、その家はもうおしまいだ。
(女が小ざかしく知恵を持ったり出しゃばってものを言ったりすることこそは、家や国を傾ける元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・牧誓より)
(明治天皇御製)
言葉も分からず、二足歩行すらままならない赤ん坊の内から母たる女が我が子に教えて
やっていくことこそは、特に突出したところがあるわけでもないにもかかわらず、最重要である。
言葉ぐらい分かるようになってからの教育はもう他人に任せたっていいわけで、それこそ、
言葉では表しようもないような最原初の、幼き我が子に母が注ぐ愛情こそが、子の成長を
最大級かつ決定的に左右もする。それが決定するのが大体三歳ごろだから、「三つ子の魂百まで」
とも言えるわけで、言葉だ知識だ技能だでは太刀打ちも出来ない密教がそこにこそあるのである。
それは、女がただ女であることによってのみ先天的に授かっている密教であり、
後天的な能力などによってはどうすることもできないものである。男はもちろんのこと、
女自身にも、それを好き勝手に捨てたり拾ったり増進したりすることはできない。
月経などもその先天性に派生しているものであり、むしろ女を悩ませ、男並みの社会的な勇躍を
決定的に阻んでいるものですらある。我が子を最原初のうちから立派に育て上げていくための
女の天分こそは、真の社会的な有能さなどとはむしろ相容れないものであり、故にこそ、
天上において祀られるのが適切ともなるのである。悪い意味だけでなく善い意味でも、
女が女としての身の程をわきまえるべき要素が、そこにあるのだといえる。
「牝雞は晨すること無し、牝雞の晨するは、惟れ家の索くるなり」
「雌鳥は時を告げて鳴いたりせぬもの。雌鳥が鳴いたりするようであれば、その家はもうおしまいだ。
(女が小ざかしく知恵を持ったり出しゃばってものを言ったりすることこそは、家や国を傾ける元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・牧誓より)
信仰自体は、多動か不動かでいえば、むしろ不動のためにあるべきもので、
行いそのものはむしろ「稽疑>>91」をも尽くした自力作善でこそあるべきである。
他力本願の浄土門において、行不退以上に信不退を優先すると断言し、法然上人からの同意も
取り付けた親鸞和尚はといえば、衆生の安堵のために浄土門の根本聖典である「無量寿経」の
何百回にもわたる読経を志したものの、途中で投げ出したともいう。専門の宗教家の宗教行為すら、
それが他力本願の信仰第一な系統であるというのなら、むしろ消極的であるべきで、信仰について
積極的であるのと引き換えに行いが消極的である姿こそを、在家の信者にも見習わせるべきなのである。
信仰によって行いを積極化すると、否応なく「オッカムの剃刀(考究から不可思議要素をできる限り排す)」
的な論理の発動に基づく不注意が生ずる。そのような不注意と共に大きな事業を為せば為すほど大きな過ちに
結び付きかねないために、「国家規模の大事業は徹底して危険要素を排してから行う(中庸)」という道徳倫理に
それだけでも悖ることになる。だから儒学道徳が広く通用していた江戸時代までの日本において、信仰による
妄動の推進を促すキリシタンは絶やされて、日蓮宗も差別下に置かれた商工階級などが主に信ずるものとなった。
酒も動き回りながら飲んだほうが酔いがよく回るが、信仰も積極的な行いと共にあってこそ酔えるものだ。
行いに信仰を伴わせず、不動の中に信仰を嗜むのであればシラフでいられる一方、むしろ無信仰状態の不動に
焦燥感を抱き、行いこそを信仰によって積極化させようなどとしたならば、そのせいで信仰中毒ともなってしまう。
これも純粋な位相の問題であり、絶対に信仰しろするな、行動するなしろなどという一辺倒な極論ではない。
行動する以上は信仰も捨てろ、信仰したければ行動を積極化するなという「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」
レベルの場合分け論であり、よい信仰、よい行動を心がけるためには「分別」が必要であるというまでのことである。
行いそのものはむしろ「稽疑>>91」をも尽くした自力作善でこそあるべきである。
他力本願の浄土門において、行不退以上に信不退を優先すると断言し、法然上人からの同意も
取り付けた親鸞和尚はといえば、衆生の安堵のために浄土門の根本聖典である「無量寿経」の
何百回にもわたる読経を志したものの、途中で投げ出したともいう。専門の宗教家の宗教行為すら、
それが他力本願の信仰第一な系統であるというのなら、むしろ消極的であるべきで、信仰について
積極的であるのと引き換えに行いが消極的である姿こそを、在家の信者にも見習わせるべきなのである。
信仰によって行いを積極化すると、否応なく「オッカムの剃刀(考究から不可思議要素をできる限り排す)」
的な論理の発動に基づく不注意が生ずる。そのような不注意と共に大きな事業を為せば為すほど大きな過ちに
結び付きかねないために、「国家規模の大事業は徹底して危険要素を排してから行う(中庸)」という道徳倫理に
それだけでも悖ることになる。だから儒学道徳が広く通用していた江戸時代までの日本において、信仰による
妄動の推進を促すキリシタンは絶やされて、日蓮宗も差別下に置かれた商工階級などが主に信ずるものとなった。
酒も動き回りながら飲んだほうが酔いがよく回るが、信仰も積極的な行いと共にあってこそ酔えるものだ。
行いに信仰を伴わせず、不動の中に信仰を嗜むのであればシラフでいられる一方、むしろ無信仰状態の不動に
焦燥感を抱き、行いこそを信仰によって積極化させようなどとしたならば、そのせいで信仰中毒ともなってしまう。
これも純粋な位相の問題であり、絶対に信仰しろするな、行動するなしろなどという一辺倒な極論ではない。
行動する以上は信仰も捨てろ、信仰したければ行動を積極化するなという「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」
レベルの場合分け論であり、よい信仰、よい行動を心がけるためには「分別」が必要であるというまでのことである。
むろん、信仰によって行動を積極化することを促す邪教というものがあるわけで、そのような教義を持つ信教を
行動の消極化のために転用するのもほぼ不可能である。ルターの信仰義認説に即して信行一致を放棄した
プロテスタントの信者も、信仰に基づくわけでもないのに、行動は悪逆非道でしかいられなかった。結局、
キリスト信仰というものが信行一致如何に関わらず、信者に悪逆非道をけしかける代物であることには
変わりなかったわけで、それはキリスト信仰が絶対的に「行動のための信仰」でしかあり得なかったからだ。
不動のための信仰として代表的なのはやはり仏教信仰だし、神道も>>102-103のような文化的意義に即して、
妻母となる女に自重を尽くした良妻賢母となることを促すものである。近ごろでは中国でも下火なようだが、
道家思想を宗教化した道教も、信仰としては不動のための信仰の部類である。歴史的にも人口的にも、信仰を
不動のために善用してきた人間のほうが遥かに多く、故に、信仰によって悪逆非道を犯して来た人間も少数派でいる。
儒学は、純粋な学問として用いられた場合には良好な大業績ばかりを挙げてきたものの、信教である「儒教」として
用いられた場合には、明代の中国や李氏朝鮮のように権力腐敗を来たす温床ともなってしまった。それは、儒学が
どちらかといえば積極的な善行を促すことを本旨とした教学であるからで、これも「行動のための信仰は危険である」
という上記の諸々の論説に漏れないものとなっている。儒学すらそうなのだから、産業学術である洋学も同様である。
洋学の場合、自分がそれを信仰してしまっていることに気づいてすらいない人間が未だ多いのが厄介なことだが。
「王其れ徳を之れ用い、天の永命を祈れ」
「王たるもの、己れの仁徳をよく振るい用いて、永遠の天命に授かることを祈らねばならない。
(『人事を尽くして天命を待つ』で、むしろ自力作善に基づく活動生活の結果としての慶福こそを祈らねばならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・召誥より)
行動の消極化のために転用するのもほぼ不可能である。ルターの信仰義認説に即して信行一致を放棄した
プロテスタントの信者も、信仰に基づくわけでもないのに、行動は悪逆非道でしかいられなかった。結局、
キリスト信仰というものが信行一致如何に関わらず、信者に悪逆非道をけしかける代物であることには
変わりなかったわけで、それはキリスト信仰が絶対的に「行動のための信仰」でしかあり得なかったからだ。
不動のための信仰として代表的なのはやはり仏教信仰だし、神道も>>102-103のような文化的意義に即して、
妻母となる女に自重を尽くした良妻賢母となることを促すものである。近ごろでは中国でも下火なようだが、
道家思想を宗教化した道教も、信仰としては不動のための信仰の部類である。歴史的にも人口的にも、信仰を
不動のために善用してきた人間のほうが遥かに多く、故に、信仰によって悪逆非道を犯して来た人間も少数派でいる。
儒学は、純粋な学問として用いられた場合には良好な大業績ばかりを挙げてきたものの、信教である「儒教」として
用いられた場合には、明代の中国や李氏朝鮮のように権力腐敗を来たす温床ともなってしまった。それは、儒学が
どちらかといえば積極的な善行を促すことを本旨とした教学であるからで、これも「行動のための信仰は危険である」
という上記の諸々の論説に漏れないものとなっている。儒学すらそうなのだから、産業学術である洋学も同様である。
洋学の場合、自分がそれを信仰してしまっていることに気づいてすらいない人間が未だ多いのが厄介なことだが。
「王其れ徳を之れ用い、天の永命を祈れ」
「王たるもの、己れの仁徳をよく振るい用いて、永遠の天命に授かることを祈らねばならない。
(『人事を尽くして天命を待つ』で、むしろ自力作善に基づく活動生活の結果としての慶福こそを祈らねばならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・召誥より)
ただの実情と、ただの概念と、実情を何らかの方向へと導く実質的な理念というものがある。
実情を教導する理念の内にも優良なものと劣悪なものがあり、優良な理念は世の中を
泰平や繁栄へと導く一方、劣悪な理念は世の中を困窮や破滅へと導く効能を伴っている。
ただの実情の尊重を促したのが老荘列に代表される道家思想である一方、
概念一般の偏重を促したのがソクラテス=プラトンのイデア思想である。
実情を吉方へと導く優良な理念を打ち出したのが儒学や仏教である一方、
実情を破滅へと陥れる劣悪な理念を打ち出したのが聖書信仰や洋学である。
儒学が実質的な世の中を吉方へと導く最たる理念としているのが四書五経の、中でも易学であり、
易学上の陰陽五行思想は数理科学的にもこの世界、この宇宙の普遍法則こそをよく抽出して純化させている。
また、古代の黎明期から宋儒の活躍した中興期やその後に至るまで、儒者は道家思想をも兼学することが
奨励されて来ている。この世界の法則こそを抽出した理念である易学と、実情一般の尊重を促す道家思想とを
儒家は是としているわけで、儒学は概念一般以上にも実情一般のほうをより重んずる教学であるのだと位置づけられる。
死海文書におけるグノーシズムにまつわる記録などからも、聖書信仰の、特に新約信仰が
プラトンのイデア思想の影響を深く受けていたことが明らかとなっている。ただでさえ新旧約聖書には
自然などにまつわる具体的な描写が乏しく、得体の知れない超越神との対話だ関係だばかりが延々と
書き連ねられているわけで、新旧約聖書やそれに対する信仰が概念一般を偏重するものでこそあれ、
実情を尊ぶようなものでは決してないことが、見るに明らかともなっている。
実情を教導する理念の内にも優良なものと劣悪なものがあり、優良な理念は世の中を
泰平や繁栄へと導く一方、劣悪な理念は世の中を困窮や破滅へと導く効能を伴っている。
ただの実情の尊重を促したのが老荘列に代表される道家思想である一方、
概念一般の偏重を促したのがソクラテス=プラトンのイデア思想である。
実情を吉方へと導く優良な理念を打ち出したのが儒学や仏教である一方、
実情を破滅へと陥れる劣悪な理念を打ち出したのが聖書信仰や洋学である。
儒学が実質的な世の中を吉方へと導く最たる理念としているのが四書五経の、中でも易学であり、
易学上の陰陽五行思想は数理科学的にもこの世界、この宇宙の普遍法則こそをよく抽出して純化させている。
また、古代の黎明期から宋儒の活躍した中興期やその後に至るまで、儒者は道家思想をも兼学することが
奨励されて来ている。この世界の法則こそを抽出した理念である易学と、実情一般の尊重を促す道家思想とを
儒家は是としているわけで、儒学は概念一般以上にも実情一般のほうをより重んずる教学であるのだと位置づけられる。
死海文書におけるグノーシズムにまつわる記録などからも、聖書信仰の、特に新約信仰が
プラトンのイデア思想の影響を深く受けていたことが明らかとなっている。ただでさえ新旧約聖書には
自然などにまつわる具体的な描写が乏しく、得体の知れない超越神との対話だ関係だばかりが延々と
書き連ねられているわけで、新旧約聖書やそれに対する信仰が概念一般を偏重するものでこそあれ、
実情を尊ぶようなものでは決してないことが、見るに明らかともなっている。
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それをイデア論に基づいて濫用したりせずに、実情を適格に捉えるための道具として用いたなら、
易の陰陽五行思想やインドの五大思想のようなものが見極められたのである。一方で、プラトンの
イデア論なども参考に、概念夢想を最大級に働かせ尽くした結果として編み出されたのが新約の教義
だったりするわけで、その教義内容はといえば、易の法則などに即すれば「最悪の凶相」を帯びているという
他はないものとなっている。概念を偏重しまくりながら、実情を何らかの方向へと導こうとした結果として、
聖書信仰は易の評価に基づけば最低最悪である、世の中を破滅や滅亡へと陥れる教相を帯びることとなった。
ということはつまり、世の中を吉方へと導くためには、概念以上にも実情こそを尊びつつ
理念をも編み出していくべきである一方で、世の中を破滅へと陥れたいというのなら、
実情以上にも概念を偏重しつつ諸々の理念を編み出していけばいいということである。
イデア論なんかなくたって、概念は概念で有る。だからといって概念思考の喪失を恐れたりする必要は全くなく、
ただ実情と概念とであれば、より実情のほうが尊ばれて行くべきだということである。複雑怪奇な数式などを
多用する洋学と比べて、儒学上の説話も実情に根ざしたありきたりな言葉だったりすることが多いが、それも
そうあるべきだからこそそうしているまでのことで、別に東洋人に概念思考の素養が欠けていたからなわけでも
ないのは、昨今の東洋人の数理科学やコンピュータ開発などにかけての突出的な活躍からも窺えることである。
やればできるが、むしろ本当はそうでないほうがよい。四書五経の言葉ほどにも自明であったほうがいいのである。
「静女の其れ姝き、我れを城隅に俟つ。愛して見せず、首を掻きて踟躕す」
「しとやかで器量よしなあの娘が、自分を城郭の片隅で待っている。
わざと自分を隠して見せようとせず、うなじをかきながらぐずぐずしている。
(婦女子のもったいぶりあたりとしては、隠して見せないのも可愛いもんだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・静女より)
川に譬えるなら、無為自然が源流を司り、道徳が中流を司り、法律が下流を司るというのが
社会統治の実相であるといえる。源流ではわずかな流れだった川が下に行くに連れて
段々と大きくなる。大きくなると共に濁り始めるのを、中流からの道徳統治で
十分に抑制できたなら、下流における汚濁の程度も低くなり、わざわざ法律によってまで
大々的な浄化を講じていく必要などはなくなる。一方、中流からの汚濁防止を怠って
下流を汚濁まみれにしたなら、法律による熾烈な浄化措置が必要となり、最悪の場合
浄化が追いつかなくなって、そのような国からの傾国や亡国などの末路を辿ることともなる。
中流からの道徳統治を完全に怠って、下流での汚濁まみれを法律によって浄化することばかりに
頼りきりでいる世の中というのは、100年と持たない。権力道徳が皆無である西洋社会もそうだし、
東洋でもそのような法治支配を講じた秦始皇帝などが、数十年と治世を保つことができなかった。
一方で、権力道徳による中流からの汚濁防止に努める世の中というのは、数百年程度は治世を
保つことができる。その実例も今までに挙げたとおり枚挙に暇がなく、徳治による汚濁の防止が
実施された世の中こそは、人類史上でも花形中の花形の時代ともなっている。
宗教は、権力道徳による世相の汚濁防止を助成したり、阻んだりする。
仏教や神道や道教やヒンズー教には、道徳統治を補助する効能があるし、
拝火教やイスラム教も、修羅道に没頭し過ぎる面もあるにしろ、そういった効果が多少はある。
キリスト教やユダヤ教はかえって道徳統治による汚濁防止を阻む効果があるため、乱世か、
さもなくば法律による雁字搦めの締め付けのいずれかしか許されないようにもさせてしまう。
社会統治の実相であるといえる。源流ではわずかな流れだった川が下に行くに連れて
段々と大きくなる。大きくなると共に濁り始めるのを、中流からの道徳統治で
十分に抑制できたなら、下流における汚濁の程度も低くなり、わざわざ法律によってまで
大々的な浄化を講じていく必要などはなくなる。一方、中流からの汚濁防止を怠って
下流を汚濁まみれにしたなら、法律による熾烈な浄化措置が必要となり、最悪の場合
浄化が追いつかなくなって、そのような国からの傾国や亡国などの末路を辿ることともなる。
中流からの道徳統治を完全に怠って、下流での汚濁まみれを法律によって浄化することばかりに
頼りきりでいる世の中というのは、100年と持たない。権力道徳が皆無である西洋社会もそうだし、
東洋でもそのような法治支配を講じた秦始皇帝などが、数十年と治世を保つことができなかった。
一方で、権力道徳による中流からの汚濁防止に努める世の中というのは、数百年程度は治世を
保つことができる。その実例も今までに挙げたとおり枚挙に暇がなく、徳治による汚濁の防止が
実施された世の中こそは、人類史上でも花形中の花形の時代ともなっている。
宗教は、権力道徳による世相の汚濁防止を助成したり、阻んだりする。
仏教や神道や道教やヒンズー教には、道徳統治を補助する効能があるし、
拝火教やイスラム教も、修羅道に没頭し過ぎる面もあるにしろ、そういった効果が多少はある。
キリスト教やユダヤ教はかえって道徳統治による汚濁防止を阻む効果があるため、乱世か、
さもなくば法律による雁字搦めの締め付けのいずれかしか許されないようにもさせてしまう。
道徳皆無の西洋諸国に限らず、日本や中国も今は法治主義であり、かつての道徳統治の面影すら
ほとんど見られなくなっている。そうなってしまってからの日本の支配層や中国社会の腐敗
も凄まじいもので、西洋社会などと違って、徳治による汚濁防止が敷かれたこともかつては
あったからこそ、法治主義に基づく世相のド腐れ加減が如実なものともなっている。
今では西洋社会すらもが宗教信仰は下火気味となっているが、法律や科学などによって
世相の乱脈を無理やり押さえつて行かなければいられないままでいるのは、やはり、
キリスト信仰やユダヤ信仰の禍根であると言える。そのとばっちりは伝統的に、聖書圏でない
日本や中国やその他の地球社会にまで及んでしまっており、まるで法律や科学がないことには
人間社会は原始的な土人社会でしかあり得ないかのような思い込みまでもが通用してしまってもいる。
まず、今の人類社会は、聖書信仰からの深刻な悪影響で、道徳統治による汚濁防止が不能と化して
しまったままでいる「特殊な社会」であるということをわきまえ直す必要がある。その上で、
意識的に聖書信仰を改めて排除して行くことで、わざわざ法律による締め付けや科学による
取り繕いばかりを講じなくても済むぐらいに、世相が清浄でいられるように道徳統治を実施して行く。
そのためには、道徳統治を助成してくれるような良好な信教の手を借りることもありだといえる。
もちろん、だからといって「信教の自由」などというものを無制限に認めたのでは、また聖書教
みたいな邪教の流布すらもが企てられかねないから、信教を精査して行く必要は当然あるといえる。
「徳を度らず、力を量らず、親に親しまず、辞を徴わさず、罪有るを察せず」
「他人の徳を推し量らず、その力を見くびり、肉親に親しもうともせず、語弊を正さず、己れに罪が
あるのを察しもしない。(息侯の五犯。イエスやその隣人もこのような道徳違反の罪を犯してはいた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公十一年より)
ほとんど見られなくなっている。そうなってしまってからの日本の支配層や中国社会の腐敗
も凄まじいもので、西洋社会などと違って、徳治による汚濁防止が敷かれたこともかつては
あったからこそ、法治主義に基づく世相のド腐れ加減が如実なものともなっている。
今では西洋社会すらもが宗教信仰は下火気味となっているが、法律や科学などによって
世相の乱脈を無理やり押さえつて行かなければいられないままでいるのは、やはり、
キリスト信仰やユダヤ信仰の禍根であると言える。そのとばっちりは伝統的に、聖書圏でない
日本や中国やその他の地球社会にまで及んでしまっており、まるで法律や科学がないことには
人間社会は原始的な土人社会でしかあり得ないかのような思い込みまでもが通用してしまってもいる。
まず、今の人類社会は、聖書信仰からの深刻な悪影響で、道徳統治による汚濁防止が不能と化して
しまったままでいる「特殊な社会」であるということをわきまえ直す必要がある。その上で、
意識的に聖書信仰を改めて排除して行くことで、わざわざ法律による締め付けや科学による
取り繕いばかりを講じなくても済むぐらいに、世相が清浄でいられるように道徳統治を実施して行く。
そのためには、道徳統治を助成してくれるような良好な信教の手を借りることもありだといえる。
もちろん、だからといって「信教の自由」などというものを無制限に認めたのでは、また聖書教
みたいな邪教の流布すらもが企てられかねないから、信教を精査して行く必要は当然あるといえる。
「徳を度らず、力を量らず、親に親しまず、辞を徴わさず、罪有るを察せず」
「他人の徳を推し量らず、その力を見くびり、肉親に親しもうともせず、語弊を正さず、己れに罪が
あるのを察しもしない。(息侯の五犯。イエスやその隣人もこのような道徳違反の罪を犯してはいた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公十一年より)
[YouTubeで再生]
>「地蔵氏ね」とか適当な短文レスしてくれててもいいよ。←>>73
そのレスの相手>>70ではありませんが。
『Losing My Religion』(直訳すると“私の宗教を失う”だが……)
歌いだし)〜人生はずっと、大きいもんなんだ キミなんかより ずっと大きいんだ
和訳参考サイト:http://i-love-xtc.seesaa.net/article/216282359.htm...

そのレスの相手>>70ではありませんが。
『Losing My Religion』(直訳すると“私の宗教を失う”だが……)
歌いだし)〜人生はずっと、大きいもんなんだ キミなんかより ずっと大きいんだ
和訳参考サイト:http://i-love-xtc.seesaa.net/article/216282359.htm...
「言葉でこういったからこうだ」などという所に全ての信用を
還元してしまうことからして、精神的な怠惰にまみれている。
家康公のように、信用ある行いを何十年にも渡って積み重ねておきながら、
老耄した秀吉との口約束などは反故にしてしまった場合など、だからといって信用を失うなどということはない。
むしろ、人の発言などよりも行いのほうに信用性の重点を置く真摯さに即してこそ、信用を置き続けることができる。
始めからそういった真摯な態度で自分自身が居たならば、舌先三寸の確約ばかりに全ての信用を
還元しようとする聖書信仰などにも溺れたりするはずがない。そんなものに溺れてしまっている時点で、
本人自身が人並み以上の精神的な怠惰に陥ってしまっているのだから、明らかに自らにも落ち度があるのである。
真摯な行いから派生する言葉こそはむしろ素朴であり、行いの伴わない虚飾の言葉こそはむしろ美麗である。
言行一致の聖王賢臣や儒者の言葉をありのままに記録した四書五経の言葉(「詩経」の庶民の唄などは除く)が
特筆して美麗だなどということもなく、その背景に真摯な行いへの心がけが具わっていることを見越すことで
初めてその意義を味わえるような言葉ばかりとなっている。一方、口先ばかりで一切実質の伴わない犯罪聖書
の言葉はといえば、一つ一つの物言いからしていかにも思わせぶりで、匹夫小人の想像力をかき立てたがる
ような誘惑性に満ちている。そいうものを愛でたい人間には愛でやすいものであっても、言葉の背景にある
行いにまで配慮を利かせる人間からすれば、上ずってばかりで信実さにかける言葉のようにしか思われないのである。
これも一つの位相上の問題であり、行動が全て、言葉などに大した価値はないなどという極論なわけでも決してない。
「実質主義ばかりで文飾が一切伴わないようなら野蛮だし、文飾ばかりで実質が一切伴わないようなら文書係止まりである。
質と文両方が相まってこそ君子である(雍也第六・一八)」であり、立派な行いにそれ相応の言葉を付帯させるのは、
特に世俗での善行を心がける君子士人にはあって然るべきことともなっている。その上で、言葉か行いかでいえば
還元してしまうことからして、精神的な怠惰にまみれている。
家康公のように、信用ある行いを何十年にも渡って積み重ねておきながら、
老耄した秀吉との口約束などは反故にしてしまった場合など、だからといって信用を失うなどということはない。
むしろ、人の発言などよりも行いのほうに信用性の重点を置く真摯さに即してこそ、信用を置き続けることができる。
始めからそういった真摯な態度で自分自身が居たならば、舌先三寸の確約ばかりに全ての信用を
還元しようとする聖書信仰などにも溺れたりするはずがない。そんなものに溺れてしまっている時点で、
本人自身が人並み以上の精神的な怠惰に陥ってしまっているのだから、明らかに自らにも落ち度があるのである。
真摯な行いから派生する言葉こそはむしろ素朴であり、行いの伴わない虚飾の言葉こそはむしろ美麗である。
言行一致の聖王賢臣や儒者の言葉をありのままに記録した四書五経の言葉(「詩経」の庶民の唄などは除く)が
特筆して美麗だなどということもなく、その背景に真摯な行いへの心がけが具わっていることを見越すことで
初めてその意義を味わえるような言葉ばかりとなっている。一方、口先ばかりで一切実質の伴わない犯罪聖書
の言葉はといえば、一つ一つの物言いからしていかにも思わせぶりで、匹夫小人の想像力をかき立てたがる
ような誘惑性に満ちている。そいうものを愛でたい人間には愛でやすいものであっても、言葉の背景にある
行いにまで配慮を利かせる人間からすれば、上ずってばかりで信実さにかける言葉のようにしか思われないのである。
これも一つの位相上の問題であり、行動が全て、言葉などに大した価値はないなどという極論なわけでも決してない。
「実質主義ばかりで文飾が一切伴わないようなら野蛮だし、文飾ばかりで実質が一切伴わないようなら文書係止まりである。
質と文両方が相まってこそ君子である(雍也第六・一八)」であり、立派な行いにそれ相応の言葉を付帯させるのは、
特に世俗での善行を心がける君子士人にはあって然るべきことともなっている。その上で、言葉か行いかでいえば
より行いの如何のほうが重要なことであるとするのが可である一方、行いよりも言葉の如何ばかりを重視するのが
不可であるということである。前者のような姿勢に基づいて著されているのが四書五経などである一方、後者のような
姿勢に基づいて著されているのが犯罪聖書だから、前者を読み倣って後者を倣わないようにもすべきなのである。
>>110
「信仰第一」という姿勢自体、「言葉第一行動第二」という精神的怠惰に即している。
日本における代表的な他力本願系の信教である浄土教の信者も、大半が百姓であり、信仰などよりも
まず毎日の田畑の耕作のほうが第一義であるような人々によってこそ、副次的に信仰もまた嗜まれていた。
他力本願でない他の仏教宗派なども当然より自己本位であり、出家者も在俗信者もまず己れがいかにあるかということを
第一として、副次的に信教という体裁をも採っている。禅や密教の坊主は命の保証もないような修行に取り組み、
それに在俗から帰依する武家や公家なども、儒学や武士道の理念に即した道徳統治を第一義としていた。
故に、日本に「信仰第一」などという人間がいたことなどもほとんどないのであり、信仰を保つか失うか
などということが、自らの全ての命運を左右する程もの一大事としてまで取り扱われたりすることもないのである。
一人一人の人間の人生が、その全てを信教に拘束されなければならないほど矮小であるなどということはない。少なくとも、
必ずしもそこまで卑小でなければならないことわりなどはどこにもない。あるとすればそんなものからして偽証である。
そのような偽証を信じ込む所から是正していくべきであり、結局は己れの奴隷根性を払拭していくことこそが要となる。
「翩翩として富もうとせず、其の隣りと以にす。戒めずして以て孚あり。〜戒めずして以て孚あるは、中心より願えばなり」
「多くの鳥が羽を揃えて飛ぶように、自分ばかりが富もうとはせず、富をみんなで分け合おうとする。わざわざ戒めずとも
誠実さに満ちている。誠実さに道いてるのは、人としての本願に即しているからだ。(我田引水や富の寡占は本願ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・泰・六四‐象伝より)
不可であるということである。前者のような姿勢に基づいて著されているのが四書五経などである一方、後者のような
姿勢に基づいて著されているのが犯罪聖書だから、前者を読み倣って後者を倣わないようにもすべきなのである。
>>110
「信仰第一」という姿勢自体、「言葉第一行動第二」という精神的怠惰に即している。
日本における代表的な他力本願系の信教である浄土教の信者も、大半が百姓であり、信仰などよりも
まず毎日の田畑の耕作のほうが第一義であるような人々によってこそ、副次的に信仰もまた嗜まれていた。
他力本願でない他の仏教宗派なども当然より自己本位であり、出家者も在俗信者もまず己れがいかにあるかということを
第一として、副次的に信教という体裁をも採っている。禅や密教の坊主は命の保証もないような修行に取り組み、
それに在俗から帰依する武家や公家なども、儒学や武士道の理念に即した道徳統治を第一義としていた。
故に、日本に「信仰第一」などという人間がいたことなどもほとんどないのであり、信仰を保つか失うか
などということが、自らの全ての命運を左右する程もの一大事としてまで取り扱われたりすることもないのである。
一人一人の人間の人生が、その全てを信教に拘束されなければならないほど矮小であるなどということはない。少なくとも、
必ずしもそこまで卑小でなければならないことわりなどはどこにもない。あるとすればそんなものからして偽証である。
そのような偽証を信じ込む所から是正していくべきであり、結局は己れの奴隷根性を払拭していくことこそが要となる。
「翩翩として富もうとせず、其の隣りと以にす。戒めずして以て孚あり。〜戒めずして以て孚あるは、中心より願えばなり」
「多くの鳥が羽を揃えて飛ぶように、自分ばかりが富もうとはせず、富をみんなで分け合おうとする。わざわざ戒めずとも
誠実さに満ちている。誠実さに道いてるのは、人としての本願に即しているからだ。(我田引水や富の寡占は本願ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・泰・六四‐象伝より)
たとえば、易の六十四卦中でも「環境最悪」の卦である否卦のような状況において、
在野に放逐された孔孟のような君子が、仁徳を湛える気高さを糧に朗らかでいたりするのは、
これは良好なことだといえる。一方、「環境最良」の卦である泰卦のような状況において、
逆に小人が世の中の中枢から追いやられて辛酸をなめさせられるようになった時に、
新旧約の教義のような邪義を慰み物にしたとすれば、これは良くないことだといえる。
易の法則上、泰卦のような状況も否卦のような状況も、春夏秋冬の移り巡りのように
いつかはやって来ることを予期しておくべきものである。ただそれにしたって、泰卦のような
良好な状況を追い求め、そこに至るやその堅持にも務めて行くのが、人間の側にとっての
最善の姿勢となる一方、否卦のような陰惨な状況をあえて追い求め、そこに世相を凝り固まらせ
ようとしたりしたなら、それは人間の側にとってのそうあるべきでない劣悪な姿勢となる。
孔孟のごとき聖人君子が、否卦のような劣悪な環境下(春秋戦国時代の中国)において、
本望である徳治が実現できない代替として編纂したのが権力道徳聖書——通称四書五経である一方、
政商として放辟邪侈の限りを尽くしていた古代ユダヤ人が、バビロニアで拘留された際に、
自分たちの鬱憤を晴らす目的で書き始めたのが権力犯罪聖書——通称聖書である。いずれも、
ある種の人間が、自分たちにとっての不遇に置かれて、本望が達せないがための代替として
執筆編纂されたものであることでは共通している。ただ、片や権力道徳者であり、片や
権力犯罪者であったから、その産物も権力道徳聖書や権力犯罪聖書となったのである。
在野に放逐された孔孟のような君子が、仁徳を湛える気高さを糧に朗らかでいたりするのは、
これは良好なことだといえる。一方、「環境最良」の卦である泰卦のような状況において、
逆に小人が世の中の中枢から追いやられて辛酸をなめさせられるようになった時に、
新旧約の教義のような邪義を慰み物にしたとすれば、これは良くないことだといえる。
易の法則上、泰卦のような状況も否卦のような状況も、春夏秋冬の移り巡りのように
いつかはやって来ることを予期しておくべきものである。ただそれにしたって、泰卦のような
良好な状況を追い求め、そこに至るやその堅持にも務めて行くのが、人間の側にとっての
最善の姿勢となる一方、否卦のような陰惨な状況をあえて追い求め、そこに世相を凝り固まらせ
ようとしたりしたなら、それは人間の側にとってのそうあるべきでない劣悪な姿勢となる。
孔孟のごとき聖人君子が、否卦のような劣悪な環境下(春秋戦国時代の中国)において、
本望である徳治が実現できない代替として編纂したのが権力道徳聖書——通称四書五経である一方、
政商として放辟邪侈の限りを尽くしていた古代ユダヤ人が、バビロニアで拘留された際に、
自分たちの鬱憤を晴らす目的で書き始めたのが権力犯罪聖書——通称聖書である。いずれも、
ある種の人間が、自分たちにとっての不遇に置かれて、本望が達せないがための代替として
執筆編纂されたものであることでは共通している。ただ、片や権力道徳者であり、片や
権力犯罪者であったから、その産物も権力道徳聖書や権力犯罪聖書となったのである。
確かに「大道廃れて仁義あり(老子)」であり、仁義道徳を謳う四書五経のような権力道徳聖書もまた、
聖人君子がその実力を発揮できない不遇な時代にこそ生み出されたのである。一方、極東社会のように、
士人階級と産業階級の癒着が倫理的に問題視されることもなかったからこそ、古代の中東や西洋では、
政商集団がユダヤ人のような民族宗教団体までをも形成するに至ったわけだから、それ自体がより
劣悪なことだといえる。そのユダヤ人が、悪逆非道の積み重ねによって肥大化させた自意識過剰の
思い上がりを文書として書きなぐったのが犯罪聖書だったりするわけだから、これも当然濁世の
産物であることには変わりない。良いことが記録されるか、悪いことが記録されるかに関わらず、
駄目な環境こそは、一大事を文書としてしたためる機会をもたらすものなのである。
それでいてやはり、優良なことを書いている聖書と、劣悪なことばかりを書き連ねている聖書とでは、
前者を採って後者を棄てるようにしたほうがよい。それが書物を享受する人間の側にとっての最善の
姿勢となるわけだから、両者が並存しているにもかかわらず、あえて劣悪な聖書のほうを採ったり
するようなら、そうした本人自身の責任問題が問われることになっても全く仕方がないといえる。
環境が良かったり悪かったりするのは世の常である。ただそんな中にも最善を尽くしていく術という
のは必ずあるものだから、それ以外の選択肢に溺れていてそれでよしなんてことはないのである。
聖人君子がその実力を発揮できない不遇な時代にこそ生み出されたのである。一方、極東社会のように、
士人階級と産業階級の癒着が倫理的に問題視されることもなかったからこそ、古代の中東や西洋では、
政商集団がユダヤ人のような民族宗教団体までをも形成するに至ったわけだから、それ自体がより
劣悪なことだといえる。そのユダヤ人が、悪逆非道の積み重ねによって肥大化させた自意識過剰の
思い上がりを文書として書きなぐったのが犯罪聖書だったりするわけだから、これも当然濁世の
産物であることには変わりない。良いことが記録されるか、悪いことが記録されるかに関わらず、
駄目な環境こそは、一大事を文書としてしたためる機会をもたらすものなのである。
それでいてやはり、優良なことを書いている聖書と、劣悪なことばかりを書き連ねている聖書とでは、
前者を採って後者を棄てるようにしたほうがよい。それが書物を享受する人間の側にとっての最善の
姿勢となるわけだから、両者が並存しているにもかかわらず、あえて劣悪な聖書のほうを採ったり
するようなら、そうした本人自身の責任問題が問われることになっても全く仕方がないといえる。
環境が良かったり悪かったりするのは世の常である。ただそんな中にも最善を尽くしていく術という
のは必ずあるものだから、それ以外の選択肢に溺れていてそれでよしなんてことはないのである。
「宋の皇国父、大宰と為る。平公の為に臺を築き、農収を妨ぐ。子罕、農功の畢わるを俟たんと請う。
公、許さず。築く者謳いて曰く、沢門の皙、実に我が役を興し、邑中の黔、実に我が心を慰めり、と。
子罕之を聞き、親ら扑を執りて、以て築く者に行きて、其の勉めざる者を抶ちて曰く、吾が儕小人も、
皆闔廬有りて、以て燥濕寒暑を辟く。今君一臺を為して速やかに成さずんば、何を以て役と為さん、と。
謳う者乃ち止む。或ひと其の故を問う。子罕曰く、宋国は区区たり。而るに詛有り祝有るは、禍の本なり」
「宋の皇国父は大宰相となり、平公のために高台の御殿を築くことを計画した。ちょうどその頃農繁期に
当たり、農夫を徴集すれば収穫を妨げることになるため、まだ小役人だった子罕が皇国父に農繁期が
過ぎるまで待つように諫言した。しかしその言葉は聞き入れられず、御殿築造の工事は速やかに始められた。
徴集され工事に従事させられている農夫たちは『東城の門の所に居る色白の男(皇国父)がこんな仕事を
させ始めやがった。村の中に居る色黒の男(子罕)が俺たちを慰めてくれる』と歌い始めた。これを聞くと
子罕は杖を持って農夫たちの所に行き、工事をサボっている者を厳しく打ち据えた。『俺たち身分の低い者
でもそれ相応の家を構えて乾燥や雨露や寒暑を防げているのだ。主君一人のために御殿を建てることぐらい
一体どうだというのだ』と、多少こじつけ気味な言葉によって農夫たちを叱責もした。すると農夫たちも
以前のような歌を唄うことをしなくなった。ある人が子罕にどうしてそんなことをしたのかを問うた。
子罕は答えた。『宋のような小国である役人をが呪われたり、別の役人が誉められたりしていたのでは
国が持たないから』(公益のために、自らの慰めを農夫たちが褒め上げることすらをも蹴った例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公十七年より)
公、許さず。築く者謳いて曰く、沢門の皙、実に我が役を興し、邑中の黔、実に我が心を慰めり、と。
子罕之を聞き、親ら扑を執りて、以て築く者に行きて、其の勉めざる者を抶ちて曰く、吾が儕小人も、
皆闔廬有りて、以て燥濕寒暑を辟く。今君一臺を為して速やかに成さずんば、何を以て役と為さん、と。
謳う者乃ち止む。或ひと其の故を問う。子罕曰く、宋国は区区たり。而るに詛有り祝有るは、禍の本なり」
「宋の皇国父は大宰相となり、平公のために高台の御殿を築くことを計画した。ちょうどその頃農繁期に
当たり、農夫を徴集すれば収穫を妨げることになるため、まだ小役人だった子罕が皇国父に農繁期が
過ぎるまで待つように諫言した。しかしその言葉は聞き入れられず、御殿築造の工事は速やかに始められた。
徴集され工事に従事させられている農夫たちは『東城の門の所に居る色白の男(皇国父)がこんな仕事を
させ始めやがった。村の中に居る色黒の男(子罕)が俺たちを慰めてくれる』と歌い始めた。これを聞くと
子罕は杖を持って農夫たちの所に行き、工事をサボっている者を厳しく打ち据えた。『俺たち身分の低い者
でもそれ相応の家を構えて乾燥や雨露や寒暑を防げているのだ。主君一人のために御殿を建てることぐらい
一体どうだというのだ』と、多少こじつけ気味な言葉によって農夫たちを叱責もした。すると農夫たちも
以前のような歌を唄うことをしなくなった。ある人が子罕にどうしてそんなことをしたのかを問うた。
子罕は答えた。『宋のような小国である役人をが呪われたり、別の役人が誉められたりしていたのでは
国が持たないから』(公益のために、自らの慰めを農夫たちが褒め上げることすらをも蹴った例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公十七年より)
罪悪不法を開き直るような邪教邪学というのは、善の楽しみを知りもしない
ような世の中でしか生じ得ないし、また通用することもないものである。
人々の食い扶持のために作物を育てたり、悪人の乱暴を取り締まるための警備を行ったり
といった善行が、大規模な世の中にはどうしたって必要となる。ただ、必要だから仕方なく
やっている場合と、それこそが楽しみだからやっている場合とがあり、古代オリエント社会や
西洋社会は前者だった一方、古代の中国社会や日本社会は後者だった。だから前二つの社会では
不法を開き直ってよしとする聖書信仰みたいな邪教が生じてしまった一方、後二つの社会では
それに相当する程もの邪教は生じず、代わりに勧善懲悪の楽しみを促す儒学のような正学こそが生じた。
儒学が体系化された春秋戦国時代の中国にも、決して勧善懲悪志向などではない異学異見が
多数生じてもいたが、対抗馬としての儒学のような学問もまたあって、人々と共に善行を楽しんでいた
舜帝の伝説なども引き合いに出しつつ人々を教化していたから、「悪行こそは楽しい」なんていう
物言いまでもがまかり通りはしなかった。法家だ名家だ縦横家だとか、異端の儒学である荀子学派
だとかも、残念ながら陥ってしまっているものとしての罪悪まみれを擁護したりしていたわけで、
悪逆非道こそを完全に開き直って権威化までしてしまうような所までは行けなかったのである。
ような世の中でしか生じ得ないし、また通用することもないものである。
人々の食い扶持のために作物を育てたり、悪人の乱暴を取り締まるための警備を行ったり
といった善行が、大規模な世の中にはどうしたって必要となる。ただ、必要だから仕方なく
やっている場合と、それこそが楽しみだからやっている場合とがあり、古代オリエント社会や
西洋社会は前者だった一方、古代の中国社会や日本社会は後者だった。だから前二つの社会では
不法を開き直ってよしとする聖書信仰みたいな邪教が生じてしまった一方、後二つの社会では
それに相当する程もの邪教は生じず、代わりに勧善懲悪の楽しみを促す儒学のような正学こそが生じた。
儒学が体系化された春秋戦国時代の中国にも、決して勧善懲悪志向などではない異学異見が
多数生じてもいたが、対抗馬としての儒学のような学問もまたあって、人々と共に善行を楽しんでいた
舜帝の伝説なども引き合いに出しつつ人々を教化していたから、「悪行こそは楽しい」なんていう
物言いまでもがまかり通りはしなかった。法家だ名家だ縦横家だとか、異端の儒学である荀子学派
だとかも、残念ながら陥ってしまっているものとしての罪悪まみれを擁護したりしていたわけで、
悪逆非道こそを完全に開き直って権威化までしてしまうような所までは行けなかったのである。
古代オリエント社会や西洋社会では、勧善懲悪の楽しみを味わうものも、その楽しみこそを
体系的に推進して行こうとするものもいなかったから、悪の楽しみこそを開き直って、
それこそを権威化してしまうようなことまでもが聖書信仰として生じてしまいもした。
いわゆる「鳥なき里のコウモリ」というやつで、もしも儒学のような勧善懲悪の楽しみを
推進する教学があったなら、決してでかい顔もできないでいたものである。実際に、
アブラハム教にしては勧善懲悪的な傾向のあるイスラムがムハンマドによって創始された
後には、古代オリエントに相当する中東社会からは聖書信仰もその地位を追われたのである。
勧善懲悪の楽しみの権威化と、悪逆非道の楽しみの権威化とは排他的な関係にあり、
なおかつ勧善懲悪の楽しみの権威化のほうが「優性」であり、悪逆非道の楽しみの権威化のほうが
「劣性」である。両者が並存している以上は、必ず勧善懲悪の楽しみの権威化のほうが勝ち、
悪逆非道の楽しみの権威化のほうが負ける。それは、勧善懲悪の楽しみの体系化である
四書五経の言葉が、悪逆非道の楽しみの体系化である犯罪聖書の言葉と比べて見るからに正しい
ということからも言えるし、善因楽果悪因苦果の罪福異熟の真理に即して、勧善懲悪の楽しみの
ほうが悪逆非道の楽しみよりも絶対的かつ普遍的により楽しいという事実からも言えるのである。
両者の優劣を理屈で計り知りたいものは、四書五経と犯罪聖書を比較査読すればいいし、
理屈ではなく感覚で悟りたいというのなら、ただより楽しいものが何なのかを見極めればよい。
それらの努力を尽くしたならば、誰しもが勧善懲悪の楽しみを採り、悪逆非道の楽しみを
棄てるであろう。楽しみを尽くそうともしないような所でこそ、そうでないこともあるだろう。
体系的に推進して行こうとするものもいなかったから、悪の楽しみこそを開き直って、
それこそを権威化してしまうようなことまでもが聖書信仰として生じてしまいもした。
いわゆる「鳥なき里のコウモリ」というやつで、もしも儒学のような勧善懲悪の楽しみを
推進する教学があったなら、決してでかい顔もできないでいたものである。実際に、
アブラハム教にしては勧善懲悪的な傾向のあるイスラムがムハンマドによって創始された
後には、古代オリエントに相当する中東社会からは聖書信仰もその地位を追われたのである。
勧善懲悪の楽しみの権威化と、悪逆非道の楽しみの権威化とは排他的な関係にあり、
なおかつ勧善懲悪の楽しみの権威化のほうが「優性」であり、悪逆非道の楽しみの権威化のほうが
「劣性」である。両者が並存している以上は、必ず勧善懲悪の楽しみの権威化のほうが勝ち、
悪逆非道の楽しみの権威化のほうが負ける。それは、勧善懲悪の楽しみの体系化である
四書五経の言葉が、悪逆非道の楽しみの体系化である犯罪聖書の言葉と比べて見るからに正しい
ということからも言えるし、善因楽果悪因苦果の罪福異熟の真理に即して、勧善懲悪の楽しみの
ほうが悪逆非道の楽しみよりも絶対的かつ普遍的により楽しいという事実からも言えるのである。
両者の優劣を理屈で計り知りたいものは、四書五経と犯罪聖書を比較査読すればいいし、
理屈ではなく感覚で悟りたいというのなら、ただより楽しいものが何なのかを見極めればよい。
それらの努力を尽くしたならば、誰しもが勧善懲悪の楽しみを採り、悪逆非道の楽しみを
棄てるであろう。楽しみを尽くそうともしないような所でこそ、そうでないこともあるだろう。
「先君周公の周礼を制して曰うに、則を以て徳を観、徳を以て事を処し、事を以て功を度り、
功を以て民を食せしむと。誓命を作りてく、則を毀つを賊と為し、族を掩うを蔵と為し、賄を竊むを盗と為し、
器を盗むを姦と為す、蔵を主として之れに名し、姦を頼みて之れを用いるを大凶徳と為す、常有りて赦す無しと」
「先君の周公は周礼を制定し、法をよく守るかどうかによって徳の厚薄をも見極められた。徳の厚薄によって
人事も処理し、その功績如何によって臣下を大小の国へと振り分けて封じもした。誓命を作り、『不法を為すのを
賊罪とし、賊を匿うのを蔵罪とし、金品を盗むことを盗罪とし、国宝を盗むことを姦罪とする。賊をかくまってこれに
悪名を付与し、国宝を盗んで私財とすることを最悪の大凶徳とする。常法に照らして処刑し、赦すこともない』ともした。
(不法を赦さぬだけでなく、模範的な遵法者に褒賞を与えてもいた。法治支配にも徳政を付与する
程にも旺盛な積善志向があればこそ、不法を赦さぬことにかけても毅然としていられたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・文公十八年より)
功を以て民を食せしむと。誓命を作りてく、則を毀つを賊と為し、族を掩うを蔵と為し、賄を竊むを盗と為し、
器を盗むを姦と為す、蔵を主として之れに名し、姦を頼みて之れを用いるを大凶徳と為す、常有りて赦す無しと」
「先君の周公は周礼を制定し、法をよく守るかどうかによって徳の厚薄をも見極められた。徳の厚薄によって
人事も処理し、その功績如何によって臣下を大小の国へと振り分けて封じもした。誓命を作り、『不法を為すのを
賊罪とし、賊を匿うのを蔵罪とし、金品を盗むことを盗罪とし、国宝を盗むことを姦罪とする。賊をかくまってこれに
悪名を付与し、国宝を盗んで私財とすることを最悪の大凶徳とする。常法に照らして処刑し、赦すこともない』ともした。
(不法を赦さぬだけでなく、模範的な遵法者に褒賞を与えてもいた。法治支配にも徳政を付与する
程にも旺盛な積善志向があればこそ、不法を赦さぬことにかけても毅然としていられたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・文公十八年より)
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ある程度以上に成熟した社会的な人間であるなら、安寧を求めることの大切さも知っている。
世界でも最も好戦的な部類に当たるイスラム教徒ですら、「アッサラーム・アレイクム(神の下での平和を)」
を一つの合言葉としている。ただ、その安寧の求め方が民族や宗教圏などによって様々であり、
イスラム圏は「神の下での平和」というとおり、イスラム教圏内に限っての平和の確立を第一とする。
ヒンズー教や小乗仏教が安寧を企図するのも自分たちの教義に帰依する宗教圏であり、それは
超国家規模となることもあれば、国家の一部に限られることもある。必ずしも国家という体裁に
はまることなく人々を安寧に導こうとするのがこれらの信教である一方、「国家鎮護」を一大教義に
据える大乗仏教などは、一国家全体の安寧を企図しようとする側面がある。密教僧も国家の安寧のために
護摩を焚き、禅僧も「皇帝(天皇)陛下万歳」と謳って重大な為政の外的な顧問となったりする。
そのため、儒学を正式な政治学に据える昔の中国や日本などでも大乗仏教は重宝された。そして
儒学が国家の徳治を専門とする教学であることは、君臣の義を重んずるその学理体系からも明らかなことである。
国家規模の安寧を企図するのであれ、宗教帰依者の安寧を企図するのであれ、大抵の教学には
社会的な安寧を実現していく上での体系性というものが備わっている。それがほとんどないか、
あってもかりそめで稚拙なもの止まりでしかなかったのがユダヤ=キリスト両聖書信仰であり、
純粋な聖書教義のみに基づくのであれば、「私は剣をもたらしに来た」というイエスの暴言などに従って
延々と戦乱状態に没入しているしかない。しかし、そもそも聖書の教義(特に新約の教義)には
実践不能な部分が多々あり、イエスの行いに倣って自殺行為で死んでみたところで、聖書の記述どおりに
復活して天国に召されるなどということも決してないわけだから、最原初の頃からアウグスチヌスが
聖書の教義とは無縁な自殺の禁止をキリスト教徒に強いるなど、実践面での乖離を来たし始めていたのである。
その結果、信者たちはそれぞれに我流での安寧を勝手に追い求めるようになり、
儒学のような権力道徳はおろか、他の宗教教義に基づいて体系的な安寧を得る場合以上にも、
稚拙な安寧ばかりを追い求めては失敗を繰り返すザマと化してしまったのである。
その伝統的な稚拙さが今でも色濃く残っているのがイギリスであり、世界中に侵略の魔の手を広げての
覇権を追い求めながら、当のイギリス自体がイングランドやスコットランドやアイルランドに分裂したままでいる。
国内での階級格差も絶対的であるのみならず、格差が富の占有率に完全に比例してしまっており、
他国人と比べても貴族階級が非常識な規模の不労所得に与れている一方、労働者階級はこれまた
一般的な資本主義国の人間並み以上の貧しさに置かれ続けている。それもこれも、イギリス人が狂った
世相を追い求めていたがためではなく、イギリス人が個々人で身勝手な安寧ばかりを追い求め続けて
来たがための所産であり、イギリス人といえどもそれぞに安寧を欲していたことには変わりない。
イギリスからの移民が主な支配層を占めている今のアメリカも、やはり国家として奇形的な体裁を多々持っており、
対外的には連邦政府の長たる大統領がいかにも「アメリカの顔」的な立場を見せ付けているが、国内で多くの
実権を保持しているのは州政府であり、日本などでは国そのものが付与する弁護士や税理士などの資格も
各州政府が付与している。オバマ大統領がいくら「American people(アメリカ国民)」という言葉を多様しようとも、
アメリカ人たち自身は自分たちを「citizen(市民)」と呼び、国そのものに対する帰服からは一歩も二歩も
距離を置いている。国民としての自覚意識が希薄であるのは米英人ともに共通しており、故にこそ米大統領や
英女王といった個人のみを熱狂的な支持対象ともする。それは国に対しても、信教に対しても安寧の求め所を
人々が定めきれなかったがための苦肉の姿なのであり、国家や信教の下で磐石の安寧に与れた人々と比べれば、
英米人を始めとする欧米キリスト教徒は、安寧を求めることにかけて根本から不遇であり続けてきたのである。
儒学のような権力道徳はおろか、他の宗教教義に基づいて体系的な安寧を得る場合以上にも、
稚拙な安寧ばかりを追い求めては失敗を繰り返すザマと化してしまったのである。
その伝統的な稚拙さが今でも色濃く残っているのがイギリスであり、世界中に侵略の魔の手を広げての
覇権を追い求めながら、当のイギリス自体がイングランドやスコットランドやアイルランドに分裂したままでいる。
国内での階級格差も絶対的であるのみならず、格差が富の占有率に完全に比例してしまっており、
他国人と比べても貴族階級が非常識な規模の不労所得に与れている一方、労働者階級はこれまた
一般的な資本主義国の人間並み以上の貧しさに置かれ続けている。それもこれも、イギリス人が狂った
世相を追い求めていたがためではなく、イギリス人が個々人で身勝手な安寧ばかりを追い求め続けて
来たがための所産であり、イギリス人といえどもそれぞに安寧を欲していたことには変わりない。
イギリスからの移民が主な支配層を占めている今のアメリカも、やはり国家として奇形的な体裁を多々持っており、
対外的には連邦政府の長たる大統領がいかにも「アメリカの顔」的な立場を見せ付けているが、国内で多くの
実権を保持しているのは州政府であり、日本などでは国そのものが付与する弁護士や税理士などの資格も
各州政府が付与している。オバマ大統領がいくら「American people(アメリカ国民)」という言葉を多様しようとも、
アメリカ人たち自身は自分たちを「citizen(市民)」と呼び、国そのものに対する帰服からは一歩も二歩も
距離を置いている。国民としての自覚意識が希薄であるのは米英人ともに共通しており、故にこそ米大統領や
英女王といった個人のみを熱狂的な支持対象ともする。それは国に対しても、信教に対しても安寧の求め所を
人々が定めきれなかったがための苦肉の姿なのであり、国家や信教の下で磐石の安寧に与れた人々と比べれば、
英米人を始めとする欧米キリスト教徒は、安寧を求めることにかけて根本から不遇であり続けてきたのである。
安寧の拠り所を国家に求めるべきか、信教に求めるべきかは、それぞれの地域社会によって適性が異なる。
日本などはちょうどいい大きさの島国であるため、学問と信教と祭祀との全てが国家を基調として規律されている。
東南アジアなどはまちまちであり、仏教国だったりイスラム国だったり、多宗教の混在する国だったりする。
ただ、人間にとっての安寧の拠り所として最適なのは国家か信教かのいずれかであり、個々人の身勝手でそれぞれに
安寧を求めたりするのでは、結果として社会規模での安寧が余計に損なわれたりするのだとも知らねばならない。
そして聖書信仰はそもそも、人々に安寧を付与する信教ではなかったのだとも了承するのである。
「君子は其の位に素して行い、其の外を願わず。〜患難に素しては患難に行う」
「君子はそれぞれの状況において相応の行いを心がけ、不相応な願いなどにはかられない。
患難に際しては、患難に対するに相応の行いを心がける。(患難に対するに相応の行いとは、たとえば
慎重さに万全を期することなどであろう。来世昇天などの不相応な願いがあれば、蛮勇を帯びたりもする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
日本などはちょうどいい大きさの島国であるため、学問と信教と祭祀との全てが国家を基調として規律されている。
東南アジアなどはまちまちであり、仏教国だったりイスラム国だったり、多宗教の混在する国だったりする。
ただ、人間にとっての安寧の拠り所として最適なのは国家か信教かのいずれかであり、個々人の身勝手でそれぞれに
安寧を求めたりするのでは、結果として社会規模での安寧が余計に損なわれたりするのだとも知らねばならない。
そして聖書信仰はそもそも、人々に安寧を付与する信教ではなかったのだとも了承するのである。
「君子は其の位に素して行い、其の外を願わず。〜患難に素しては患難に行う」
「君子はそれぞれの状況において相応の行いを心がけ、不相応な願いなどにはかられない。
患難に際しては、患難に対するに相応の行いを心がける。(患難に対するに相応の行いとは、たとえば
慎重さに万全を期することなどであろう。来世昇天などの不相応な願いがあれば、蛮勇を帯びたりもする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
夢を見る就寝状態はレム睡眠で眠りが浅く、夢を見ない就寝状態はノンレム睡眠で眠りが深い。
熟睡状態のほうが十分に脳までもが休みを取れて、次の日などに疲れを持ち越すこともない。
実際には一夜の就寝中に人間はレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返している場合がほとんどだから、
熟睡状態であるノンレム睡眠をいかに効率的に行うかが、人間の健康にとっての鍵ともなる。
おもいっきり運動や仕事をしまくって寝付いたりしたなら、簡単に熟睡状態に入れる。
それは難しいことじゃないが、むやみやたらに自分の身体を疲れさせた反動でしかないわけだから、
それで健康が増進されるというわけでもない。そもそも運動や仕事をしまくったから熟睡できる、
そういうわけでもないから熟睡できないというのなら、人間は活動が消極的である中に、
健全な睡眠を阻害する悪質な要素ばかりを湛えているということにもなってしまう。
実際には、そうであることもあれば、そうでないこともある。
日々、洋学知識や聖書教義などにも即した粗悪で卑俗な思考や一般生活ばかりを営んでいたなら、
特に大きな活動を為すわけでもない消極的なあり方というものが、それだけでも精神的不衛生に
まみれたものとなるわけで、そのせいでなかなか寝付けなかったり、寝付いても眠りが浅かったり
といった問題に悩まされることともなる。一方で、禅僧あたりが営んでいるようなごくごく健全な
無念無想の清貧生活を続けたなら、それこそ「座睡」でも十分な睡眠が取れるようになるという。
「人間は睡眠中に生気を養い、覚醒中にそれを用いる、ただその用い方が粗暴であるようなら、
だんだん生気が覆われて本来の善性を見失ってしまう」というのが孟子の睡眠論(告子章句上・八)
であるが、これはむしろ基本的な「境界例」の話であり、覚醒中の粗暴さを極度化させてしまった
人間はもはや睡眠中に生気を養うことすら疎かになってしまうし、逆に覚醒中の安静にも務めたなら、
今度は睡眠すら座睡で済ませられるぐらいに、就寝中の生気の養いが十二分なものとなる。
熟睡状態のほうが十分に脳までもが休みを取れて、次の日などに疲れを持ち越すこともない。
実際には一夜の就寝中に人間はレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返している場合がほとんどだから、
熟睡状態であるノンレム睡眠をいかに効率的に行うかが、人間の健康にとっての鍵ともなる。
おもいっきり運動や仕事をしまくって寝付いたりしたなら、簡単に熟睡状態に入れる。
それは難しいことじゃないが、むやみやたらに自分の身体を疲れさせた反動でしかないわけだから、
それで健康が増進されるというわけでもない。そもそも運動や仕事をしまくったから熟睡できる、
そういうわけでもないから熟睡できないというのなら、人間は活動が消極的である中に、
健全な睡眠を阻害する悪質な要素ばかりを湛えているということにもなってしまう。
実際には、そうであることもあれば、そうでないこともある。
日々、洋学知識や聖書教義などにも即した粗悪で卑俗な思考や一般生活ばかりを営んでいたなら、
特に大きな活動を為すわけでもない消極的なあり方というものが、それだけでも精神的不衛生に
まみれたものとなるわけで、そのせいでなかなか寝付けなかったり、寝付いても眠りが浅かったり
といった問題に悩まされることともなる。一方で、禅僧あたりが営んでいるようなごくごく健全な
無念無想の清貧生活を続けたなら、それこそ「座睡」でも十分な睡眠が取れるようになるという。
「人間は睡眠中に生気を養い、覚醒中にそれを用いる、ただその用い方が粗暴であるようなら、
だんだん生気が覆われて本来の善性を見失ってしまう」というのが孟子の睡眠論(告子章句上・八)
であるが、これはむしろ基本的な「境界例」の話であり、覚醒中の粗暴さを極度化させてしまった
人間はもはや睡眠中に生気を養うことすら疎かになってしまうし、逆に覚醒中の安静にも務めたなら、
今度は睡眠すら座睡で済ませられるぐらいに、就寝中の生気の養いが十二分なものとなる。
一般的な社会人としては、睡眠で養った生気を健全な社会活動のために消費するのが最善である。
就寝中の生気の養いすら阻害するほどにも粗悪な社会活動に及ぶぐらいなら何もしないでいる、
何もしないでいる中にも禅寺での生活のような清廉さを保つことで、精神的不衛生を省いていく。
睡眠中の生気の養いを阻害する程にも、粗暴な活動に及ぶものこそは、やったらめったらな活動に
よってひどく肉体を酷使し、極度の身体の疲労からなる強制的な熟睡を追い求めるようにもなる。
これこそは「活動的な馬鹿」の悪循環であり、その行いもまた「極度に旺盛な悪逆非道」という
目も当てられないような代物となる。ここに、人間が旺盛な悪行を持続的に為してしまう原理も
また存在するのであり、このような問題を生じさせないためには、粗暴な活動を控えさせることと、
粗暴な活動や生活を控えた所にこそ、極度の肉体的疲労からなる熟睡などを追い求めるまでも
ないような、充実した睡眠生活が実在していることを認知させていくこととの両方が必要となる。
そのために最も有効となるのは、禅仏教の興隆だったりもする。禅門自体は社会的な勧善懲悪を
推進していく主体とはならないが、生気を養うことよりは、勧善懲悪のために消費していく
ことを旨とする儒学の社会的な実践者などが、生気を養うことにかけての模範となるとも限らない。
弟子の楽世子が魯国の宰相となったことが嬉しいあまり寝付けなくなったという孟子の逸話なども、
微笑ましい話ではあるが、生気を養う模範としてはやはり孟子が「亜聖」止まりであった証拠と
なる逸話ともなっている。権力への直接介入を断つ禅僧ぐらいの境地から初めて、安静な生活と
適切な睡眠によって生気を養う純粋な模範とするに相応しい存在となっていくのである。
「寝ぬるに言わず」
「就寝中は話をしない。(貝原益軒『養生訓』にも『就寝時はなるべく目を閉じておく』とある。
就寝中にまで活動を差し挟むのは、礼節や陰陽法則に即しても吉祥であるとはいえない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・八より)
就寝中の生気の養いすら阻害するほどにも粗悪な社会活動に及ぶぐらいなら何もしないでいる、
何もしないでいる中にも禅寺での生活のような清廉さを保つことで、精神的不衛生を省いていく。
睡眠中の生気の養いを阻害する程にも、粗暴な活動に及ぶものこそは、やったらめったらな活動に
よってひどく肉体を酷使し、極度の身体の疲労からなる強制的な熟睡を追い求めるようにもなる。
これこそは「活動的な馬鹿」の悪循環であり、その行いもまた「極度に旺盛な悪逆非道」という
目も当てられないような代物となる。ここに、人間が旺盛な悪行を持続的に為してしまう原理も
また存在するのであり、このような問題を生じさせないためには、粗暴な活動を控えさせることと、
粗暴な活動や生活を控えた所にこそ、極度の肉体的疲労からなる熟睡などを追い求めるまでも
ないような、充実した睡眠生活が実在していることを認知させていくこととの両方が必要となる。
そのために最も有効となるのは、禅仏教の興隆だったりもする。禅門自体は社会的な勧善懲悪を
推進していく主体とはならないが、生気を養うことよりは、勧善懲悪のために消費していく
ことを旨とする儒学の社会的な実践者などが、生気を養うことにかけての模範となるとも限らない。
弟子の楽世子が魯国の宰相となったことが嬉しいあまり寝付けなくなったという孟子の逸話なども、
微笑ましい話ではあるが、生気を養う模範としてはやはり孟子が「亜聖」止まりであった証拠と
なる逸話ともなっている。権力への直接介入を断つ禅僧ぐらいの境地から初めて、安静な生活と
適切な睡眠によって生気を養う純粋な模範とするに相応しい存在となっていくのである。
「寝ぬるに言わず」
「就寝中は話をしない。(貝原益軒『養生訓』にも『就寝時はなるべく目を閉じておく』とある。
就寝中にまで活動を差し挟むのは、礼節や陰陽法則に即しても吉祥であるとはいえない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・八より)
人間は、道具をうまく取り扱って行くことを通じて、サルからヒトへと進化した。
人間の男のヒゲはほっとけばどこまでも伸び続けるが、サルのオスの顔の毛がどこまでも
伸び続けることはない。これは、人間の先祖である猿人のオスが、研ぎあげた石や貝殻などの
刃物で口元の毛を整えることを志し始めたことの名残りであり、そのように刃物などの
高度な扱いを研鑽していくことを通じて、人間も今に至るまでの進化を遂げてきたのである。
ヒゲか伸びるのは人間では基本男だけで、女はヒゲが生えもしない。
これは、人間のうちでは女ではなく男こそが道具の扱いを研鑽していく主体であり続けて来た
証拠となっている。個人差はあるものの、男と女では男のほうが道具にこだわりを持つ一方、
女はさほど道具などにこだわらない場合が多い。女が高度な行員作業に携わることも
なくはないが、最大級に道具を有用に扱うことにかけてはやはり男のほうが優れている。
易学に即しても、道具を持つということが陽剛であり、道具を持たないということが陰柔であるとされる。
だから刀剣を持って闘う剣術が「陽の武術」とされる一方、徒手空拳が基本である柔術は「陰の武術」ともされる。
陰陽でいえば陽にあたる男のほうが道具にこだわりたがる一方、陰にあたる女はあまり道具にこだわろうともしない。
武家社会でも、陽剛な君子階級の男こそは大小二本の刀を持つ一方、陰柔な女子供と平民の男は基本丸腰でもいた。
敗戦後の武装解除の後、GHQらの画策によって空手やプロレスなどの非武道の格闘技が日本で
大いに持て囃されてブームともなったりしたため、まるで「丸腰こそは男らしさの証し」のように
思い込まれるようにもなってしまったが、本来、丸腰は陰陽でいえば陰、男か女かでいえば女の領分である。
実際に、どんな格闘技で鍛えぬいた猛者といえども、重火器で武装した軍人などに力で敵うわけじゃない。
本当に現実から最強であることによって女子供を守りもするのが男の使命なのだから、そのための手段を丸腰
ばかりに頼るのは片手落ちとしかならない。最強であるために道具をも用いてこその「真の男」なのだといえる。
人間の男のヒゲはほっとけばどこまでも伸び続けるが、サルのオスの顔の毛がどこまでも
伸び続けることはない。これは、人間の先祖である猿人のオスが、研ぎあげた石や貝殻などの
刃物で口元の毛を整えることを志し始めたことの名残りであり、そのように刃物などの
高度な扱いを研鑽していくことを通じて、人間も今に至るまでの進化を遂げてきたのである。
ヒゲか伸びるのは人間では基本男だけで、女はヒゲが生えもしない。
これは、人間のうちでは女ではなく男こそが道具の扱いを研鑽していく主体であり続けて来た
証拠となっている。個人差はあるものの、男と女では男のほうが道具にこだわりを持つ一方、
女はさほど道具などにこだわらない場合が多い。女が高度な行員作業に携わることも
なくはないが、最大級に道具を有用に扱うことにかけてはやはり男のほうが優れている。
易学に即しても、道具を持つということが陽剛であり、道具を持たないということが陰柔であるとされる。
だから刀剣を持って闘う剣術が「陽の武術」とされる一方、徒手空拳が基本である柔術は「陰の武術」ともされる。
陰陽でいえば陽にあたる男のほうが道具にこだわりたがる一方、陰にあたる女はあまり道具にこだわろうともしない。
武家社会でも、陽剛な君子階級の男こそは大小二本の刀を持つ一方、陰柔な女子供と平民の男は基本丸腰でもいた。
敗戦後の武装解除の後、GHQらの画策によって空手やプロレスなどの非武道の格闘技が日本で
大いに持て囃されてブームともなったりしたため、まるで「丸腰こそは男らしさの証し」のように
思い込まれるようにもなってしまったが、本来、丸腰は陰陽でいえば陰、男か女かでいえば女の領分である。
実際に、どんな格闘技で鍛えぬいた猛者といえども、重火器で武装した軍人などに力で敵うわけじゃない。
本当に現実から最強であることによって女子供を守りもするのが男の使命なのだから、そのための手段を丸腰
ばかりに頼るのは片手落ちとしかならない。最強であるために道具をも用いてこその「真の男」なのだといえる。
道具というのは、富よりもさらに以前にあるものである。
食物を貯蔵するための壷などの容器が作製されたことで、初めて富というものもまたその具体性を持ち始めた。
道具の扱いが十分に手堅ければ、自然と富の扱いも真っ当なものとなる一方、道具の扱いが疎かであるようなら、
富の扱いも粗雑になる。縄文時代の頃から注連縄信仰などを通じて「縄」の扱いを貴んできた日本では、
世界でもぶっちぎりに早くの内から奴隷拘束などの悪習が絶やされてきた一方、そんな慣習のない海外では、
ほんの前世紀まで奴隷の手足を縄で縛って売り買いするようなことが平気で横行してもいた。
物品から人材に至るまで、あらゆる富の扱いを正しからしめるためにも、道具の扱いから人はよく
貴んでいく必要があり、それが十分であれば富を無闇に貪ることも、富を完全に捨て去ったりすることも、
どちらの必要もなくなるのである。それは持ち物、具足全般を透徹して大事に扱うということにもなるのであり、
人々が最大級に充実した文明生活を営むために最適となる姿勢でもある。富も名誉も捨て去るなんていう以前に、
そこにこそ文明人としてのごく健全なあり方が存在しているのである。
「孔子は先ず簿して祭器を正し、四方の食を以って簿正に供せしめざらしむ」
「孔先生は古えの礼法に則って神前の祭器を正し、乱獲した方々の供物などを祭祀に用いられないようにした。
(祭祀への供物を廃止するのではなく、祭器を正すことでその限度を厳しく規定し、乱獲などの悪習を止めた。
トーラーの祭壇描写なども無闇に豪勢だが、このような中庸に適った神に対する振る舞いは、
当時のパリサイ人にもイエスにも、両方共に全く欠けていたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四)
食物を貯蔵するための壷などの容器が作製されたことで、初めて富というものもまたその具体性を持ち始めた。
道具の扱いが十分に手堅ければ、自然と富の扱いも真っ当なものとなる一方、道具の扱いが疎かであるようなら、
富の扱いも粗雑になる。縄文時代の頃から注連縄信仰などを通じて「縄」の扱いを貴んできた日本では、
世界でもぶっちぎりに早くの内から奴隷拘束などの悪習が絶やされてきた一方、そんな慣習のない海外では、
ほんの前世紀まで奴隷の手足を縄で縛って売り買いするようなことが平気で横行してもいた。
物品から人材に至るまで、あらゆる富の扱いを正しからしめるためにも、道具の扱いから人はよく
貴んでいく必要があり、それが十分であれば富を無闇に貪ることも、富を完全に捨て去ったりすることも、
どちらの必要もなくなるのである。それは持ち物、具足全般を透徹して大事に扱うということにもなるのであり、
人々が最大級に充実した文明生活を営むために最適となる姿勢でもある。富も名誉も捨て去るなんていう以前に、
そこにこそ文明人としてのごく健全なあり方が存在しているのである。
「孔子は先ず簿して祭器を正し、四方の食を以って簿正に供せしめざらしむ」
「孔先生は古えの礼法に則って神前の祭器を正し、乱獲した方々の供物などを祭祀に用いられないようにした。
(祭祀への供物を廃止するのではなく、祭器を正すことでその限度を厳しく規定し、乱獲などの悪習を止めた。
トーラーの祭壇描写なども無闇に豪勢だが、このような中庸に適った神に対する振る舞いは、
当時のパリサイ人にもイエスにも、両方共に全く欠けていたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四)
神が契約を反故にしたのではなく、そもそも聖書の神などは実在しなかった。
新旧約聖書なんてものからして、拘束下に置かれた政商や、自暴自棄と化した妾腹の私生児の
怨みつらみの吐露の寄せ集めでしかなかった。そうであることが判明したのは昨今のことだが、
実際そうであればこそ、聖書圏の人間は昔からひどくルサンチマンを帯びてもいた。
自分たちの信仰対象が新旧約であるものだから、本当のところ怨みつらみの塊でしかない
新旧約の記述に即して、自分たちまでもが旺盛な嫉妬心を湛えることになってしまったのだった。
コーランやハディースの教えを啓示したとされるムハンマドは、「文盲」だったという。
だから文化的な有機性というものをあまり解さなかった一方、「文弱」でもあり得なかった。
そういった傾向はイスラム教徒たちにも落とし込まれていて、ムスリムも正直、粗暴である
ように見受けられることはあるが、同時に聖書信者が帯びているようなルサンチマンなどはほとんど
見られない場合が多い。嫉妬心などというものは文弱なものこそが抱くものだから、文盲としての
ムハンマドの良い面が落とし込まれた結果として、ムスリムも嫉妬的ではなくなったのだといえる。
アブラハム教徒の内だけを見ても、キリスト教徒やユダヤ教徒はひどく嫉妬的である一方、
イスラム教徒はそんなに嫉妬的だったりすることもない。この点について、世界標準に近いと
いえるのはイスラム教徒のほうであるといえ、インド人や東南アジア人や中国人や日本人なども、
それぞれに性格の違いはあるにしても、聖書信者ほどにも嫉妬心まみれでいたりすることは少ない。
結局、聖書こそが今の世界中の主な嫉妬心の源流ともなっている。韓国人などもキリスト信仰に
即して自分たちの嫉妬心を倍化させ、朝鮮戦争で米露人に国土を荒廃化させられた怨みを戦前の
日本人に転嫁して、あてはずれな謝罪や賠償を日本に要求し続けている。そんな厚顔無恥な振る舞いを
今の韓国人がしていられるのも、自分たちが聖書信者であればこそであり、聖書信仰が人間の嫉妬心を
異常なほどにまで増幅させて、冤罪すらよしとさせてしまうことを実証する材料ともなっているのである。
新旧約聖書なんてものからして、拘束下に置かれた政商や、自暴自棄と化した妾腹の私生児の
怨みつらみの吐露の寄せ集めでしかなかった。そうであることが判明したのは昨今のことだが、
実際そうであればこそ、聖書圏の人間は昔からひどくルサンチマンを帯びてもいた。
自分たちの信仰対象が新旧約であるものだから、本当のところ怨みつらみの塊でしかない
新旧約の記述に即して、自分たちまでもが旺盛な嫉妬心を湛えることになってしまったのだった。
コーランやハディースの教えを啓示したとされるムハンマドは、「文盲」だったという。
だから文化的な有機性というものをあまり解さなかった一方、「文弱」でもあり得なかった。
そういった傾向はイスラム教徒たちにも落とし込まれていて、ムスリムも正直、粗暴である
ように見受けられることはあるが、同時に聖書信者が帯びているようなルサンチマンなどはほとんど
見られない場合が多い。嫉妬心などというものは文弱なものこそが抱くものだから、文盲としての
ムハンマドの良い面が落とし込まれた結果として、ムスリムも嫉妬的ではなくなったのだといえる。
アブラハム教徒の内だけを見ても、キリスト教徒やユダヤ教徒はひどく嫉妬的である一方、
イスラム教徒はそんなに嫉妬的だったりすることもない。この点について、世界標準に近いと
いえるのはイスラム教徒のほうであるといえ、インド人や東南アジア人や中国人や日本人なども、
それぞれに性格の違いはあるにしても、聖書信者ほどにも嫉妬心まみれでいたりすることは少ない。
結局、聖書こそが今の世界中の主な嫉妬心の源流ともなっている。韓国人などもキリスト信仰に
即して自分たちの嫉妬心を倍化させ、朝鮮戦争で米露人に国土を荒廃化させられた怨みを戦前の
日本人に転嫁して、あてはずれな謝罪や賠償を日本に要求し続けている。そんな厚顔無恥な振る舞いを
今の韓国人がしていられるのも、自分たちが聖書信者であればこそであり、聖書信仰が人間の嫉妬心を
異常なほどにまで増幅させて、冤罪すらよしとさせてしまうことを実証する材料ともなっているのである。
一般人が聖書信者と対面させられた時に違和感を抱かされるのが、何もかもにかけて、
旺盛な嫉妬心ばかりを大前提として、ものを考えたり、言ったりやったりしようとする所である。
そんな嫉妬心が自分たちにはないものだから、「どうしてそこまで下衆な態度でしかいられないのだろう」
という疑問を抱かされるほかはないわけだが、それもやはり、聖書の記述に即して自然と帯びてしまった
態度なのである。健全な精神の持ち主からすれば、そのような態度は不快なものだし、本人たち自身
からして自業自得の不快さにまみれているだろうと考えるほかはないわけだが、ちょうどマゾヒスト
のような性向に根ざして、聖書信者も自らの態度の不快さを快楽だと倒錯してしまっているのである。
とはいえ、そんな倒錯は普遍的に通用するものではなく、実際のところ聖書信者たち自身もやはり、
自分たちの下衆な態度からなる自業自得の不快さを相当に苦しんでもいる、苦しんでいるからこそ、
その苦しみを紛らわすはけ口を外界侵略や異教徒迫害などの悪逆非道に求めざるを得なかったのである。
新旧約の神などが実在しない、聖書など古代ユダヤ人の怨みつらみの殴り書きでしかないということが
判明したのは、一般人だけでなく、聖書信者たちにとってもめでたいことである。今までは神を信じる
ために聖書を信じていた、その結果として否応なくルサンチマンをも抱いてしまったという言い訳が
立てられたわけだが、これからはそんな言い訳も通用しない。だからこそ、信者に深刻なルサンチマンを
植え付けるだけの代物でしかない聖書への信仰なぞを、惜しみなく捨て去れるようにもなったのだから。
これで現聖書信者たちも、嫉妬心からなる自業自得の不快さから解放されて、万々歳というものである。
「明らかならずして晦し、初め天に登り、後に地に入る。
初め天に登るは、四国を照らすなり。後地に入るは、則を失えばなり」
「徳に明らかでない暗愚の支配者が世界中を罪悪まみれの支配下に置く。
始めは天にも昇るようであるが、後には規則性を失って地獄に堕ちることになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・明夷・上六‐彖伝より )
旺盛な嫉妬心ばかりを大前提として、ものを考えたり、言ったりやったりしようとする所である。
そんな嫉妬心が自分たちにはないものだから、「どうしてそこまで下衆な態度でしかいられないのだろう」
という疑問を抱かされるほかはないわけだが、それもやはり、聖書の記述に即して自然と帯びてしまった
態度なのである。健全な精神の持ち主からすれば、そのような態度は不快なものだし、本人たち自身
からして自業自得の不快さにまみれているだろうと考えるほかはないわけだが、ちょうどマゾヒスト
のような性向に根ざして、聖書信者も自らの態度の不快さを快楽だと倒錯してしまっているのである。
とはいえ、そんな倒錯は普遍的に通用するものではなく、実際のところ聖書信者たち自身もやはり、
自分たちの下衆な態度からなる自業自得の不快さを相当に苦しんでもいる、苦しんでいるからこそ、
その苦しみを紛らわすはけ口を外界侵略や異教徒迫害などの悪逆非道に求めざるを得なかったのである。
新旧約の神などが実在しない、聖書など古代ユダヤ人の怨みつらみの殴り書きでしかないということが
判明したのは、一般人だけでなく、聖書信者たちにとってもめでたいことである。今までは神を信じる
ために聖書を信じていた、その結果として否応なくルサンチマンをも抱いてしまったという言い訳が
立てられたわけだが、これからはそんな言い訳も通用しない。だからこそ、信者に深刻なルサンチマンを
植え付けるだけの代物でしかない聖書への信仰なぞを、惜しみなく捨て去れるようにもなったのだから。
これで現聖書信者たちも、嫉妬心からなる自業自得の不快さから解放されて、万々歳というものである。
「明らかならずして晦し、初め天に登り、後に地に入る。
初め天に登るは、四国を照らすなり。後地に入るは、則を失えばなり」
「徳に明らかでない暗愚の支配者が世界中を罪悪まみれの支配下に置く。
始めは天にも昇るようであるが、後には規則性を失って地獄に堕ちることになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・明夷・上六‐彖伝より )
ある社会における人々に対する課税の種類や税率を制定するのは、国や自治体などの為政者の仕事である。
徴税人はその税制に即した税を徴収するだけの役割を持ち、自分で税制をどうにかできるわけではない。
もしも為政者が社会の情勢に合致した適正な税制の執行を徴税人に請け負わせたなら、徴税人もまた
徳治の一翼を担う立派な役割になるといえる。一方、為政者が時世に添わないおかしな税制の執行を
徴税人に請け負わせたりしたなら、今度は徴税人までもが権力犯罪の従犯ということになってしまう。
税が重すぎても権力犯罪になるし、軽すぎても権力犯罪になる。重税で民を痛め付けることが、
民の側から見ていかにも犯罪的なものとして取り扱われることが多いのは世の常であるが、
逆に政府などが民(特に素封家など)に対して最低限課して行くべき税すらをもおろそかにした結果、
貧富の格差を極度に広げてしまい、その挙句の国家社会の経済破綻を招いてしまったりすることもある。
これも権力者にとっての道義的な犯罪であるといえ、税制はただ優しいばかりでもいけない理由になっている。
民から徴集した税を糧として、士人階級の人間がトップダウンに世の中を取り仕切っていくのでなければ、
実際問題世の中も持たない、だから税制も必要だし、税制を執行する徴税人も世の中にとって必須な存在である。
上記のようなやむない理由で、徴税人が「権力犯罪者の従犯」という罪を帯びてしまうことも無くは
ないにしろ、徴税という仕事自体はむしろ世のため人のために存在するものなのだから、決して「賤業」
などとして取り扱うべきではないし、ましてや、罪人と同等に扱ったりするのはもってのほかだと言える。
仮に百人の人間がいたとして、救われる価値のある者から順々に救われていくとした場合、
徴税人は五十番目前後ぐらいに当てはまるだろうことが予想される。適正な税制を執行していれば
五十番目以内に入るだろうし、不正な税制を執行していれば五十番目以下となるだろう。いずれにしろ、
徴税人自身が税制を取り決められているわけではないのだから、そんなに順位が高下することもない。
百人いれば一番最後の百番目に救われるか、もしくは救われないかといったところである
本物の犯罪者などと比べれば、徴税人も随分と高いほうの順位にあるといえる。
徴税人はその税制に即した税を徴収するだけの役割を持ち、自分で税制をどうにかできるわけではない。
もしも為政者が社会の情勢に合致した適正な税制の執行を徴税人に請け負わせたなら、徴税人もまた
徳治の一翼を担う立派な役割になるといえる。一方、為政者が時世に添わないおかしな税制の執行を
徴税人に請け負わせたりしたなら、今度は徴税人までもが権力犯罪の従犯ということになってしまう。
税が重すぎても権力犯罪になるし、軽すぎても権力犯罪になる。重税で民を痛め付けることが、
民の側から見ていかにも犯罪的なものとして取り扱われることが多いのは世の常であるが、
逆に政府などが民(特に素封家など)に対して最低限課して行くべき税すらをもおろそかにした結果、
貧富の格差を極度に広げてしまい、その挙句の国家社会の経済破綻を招いてしまったりすることもある。
これも権力者にとっての道義的な犯罪であるといえ、税制はただ優しいばかりでもいけない理由になっている。
民から徴集した税を糧として、士人階級の人間がトップダウンに世の中を取り仕切っていくのでなければ、
実際問題世の中も持たない、だから税制も必要だし、税制を執行する徴税人も世の中にとって必須な存在である。
上記のようなやむない理由で、徴税人が「権力犯罪者の従犯」という罪を帯びてしまうことも無くは
ないにしろ、徴税という仕事自体はむしろ世のため人のために存在するものなのだから、決して「賤業」
などとして取り扱うべきではないし、ましてや、罪人と同等に扱ったりするのはもってのほかだと言える。
仮に百人の人間がいたとして、救われる価値のある者から順々に救われていくとした場合、
徴税人は五十番目前後ぐらいに当てはまるだろうことが予想される。適正な税制を執行していれば
五十番目以内に入るだろうし、不正な税制を執行していれば五十番目以下となるだろう。いずれにしろ、
徴税人自身が税制を取り決められているわけではないのだから、そんなに順位が高下することもない。
百人いれば一番最後の百番目に救われるか、もしくは救われないかといったところである
本物の犯罪者などと比べれば、徴税人も随分と高いほうの順位にあるといえる。
徴税人が権力犯罪の従犯でしかあり得ないほどにも、世の中が総出を挙げて乱れきっていたとする。
そしたらもうそんな世の中には、上記の「百人の人間」のうちの五十番目から百番目あたりまでの
「下半分」の人間しか存在していないことにもなる。公人としては最低位の部類である徴税人すらをも
従犯と化すような権力機構は丸ごと徴税人ほどにも救われない人間の集まりである。そんな連中に
支配されている国や自治体の民たちもやはり救われようがない。特に、不正な重税が課されている場合以上にも、
富豪などに対する不正な税制緩和が敷かれている場合のほうがより救いようがなく、この場合、
もはや「労働者すなわち道義的犯罪者」ということにすらなってしまう。自由主義や資本主義が
目指して来たのもまさにこのような状況であり、暴君が民に重税を課しまくる場合並みか
それ以上にも、致命的な罪悪を国中や世界中に撒き散らしたことともなっているのである。
税制が適正であるが故に徴税人に罪を負わせたりしなくて済む世の中であれば、まずあらゆる
公人は「士農工商」の位階などに即して、民の上に立つ貴人として振る舞うことすら許されることになる。
それほどにも尊貴な公人の下で社会生活を営む民もまた、働いたからと言って罪になるようなこともない。
世の営みに無駄な罪障を帯びさせないためのバロメーターともなるのが税制の適正如何であり、
当然適正であるに越したことはないし、災害などで一時的に重税が敷かれるようなことがあったとしても、
決して「徴税人=罪人」などという思い込みまでもがまかり通るようなことはないようにしなければならない。
徴税人を立派な公人として尊重できるぐらいのあたりから、徳治の素地も固まっていくのだから。
そしたらもうそんな世の中には、上記の「百人の人間」のうちの五十番目から百番目あたりまでの
「下半分」の人間しか存在していないことにもなる。公人としては最低位の部類である徴税人すらをも
従犯と化すような権力機構は丸ごと徴税人ほどにも救われない人間の集まりである。そんな連中に
支配されている国や自治体の民たちもやはり救われようがない。特に、不正な重税が課されている場合以上にも、
富豪などに対する不正な税制緩和が敷かれている場合のほうがより救いようがなく、この場合、
もはや「労働者すなわち道義的犯罪者」ということにすらなってしまう。自由主義や資本主義が
目指して来たのもまさにこのような状況であり、暴君が民に重税を課しまくる場合並みか
それ以上にも、致命的な罪悪を国中や世界中に撒き散らしたことともなっているのである。
税制が適正であるが故に徴税人に罪を負わせたりしなくて済む世の中であれば、まずあらゆる
公人は「士農工商」の位階などに即して、民の上に立つ貴人として振る舞うことすら許されることになる。
それほどにも尊貴な公人の下で社会生活を営む民もまた、働いたからと言って罪になるようなこともない。
世の営みに無駄な罪障を帯びさせないためのバロメーターともなるのが税制の適正如何であり、
当然適正であるに越したことはないし、災害などで一時的に重税が敷かれるようなことがあったとしても、
決して「徴税人=罪人」などという思い込みまでもがまかり通るようなことはないようにしなければならない。
徴税人を立派な公人として尊重できるぐらいのあたりから、徳治の素地も固まっていくのだから。
「諸侯を合わせ百県を制し、来歳の為めの朔日と、諸侯の民に税する所の軽重の法と、貢職の数とを
受けしむ。土地の遠近の宜しき所を以って度を為す。郊廟の事を以って給し、私する所有る無し」
「諸侯を呼び寄せて、全国を統制するために、来年の暦と、税制のための軽重の法と、貢物の必要数とを受理させる。
都から諸国までの遠近なども推し量って負担を加減する。全ては公益のためとし、利益を私するようなことは許さない。
(これ程にも清廉で巧みな為政のための徴税は、困窮に駆られた貧国での犯罪の横行などをも防止するであろう。
万人のうちでも特に救われないような罪人の発生などを、税制の適正化にもよって未然に防いで行くことこそは重要である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
受けしむ。土地の遠近の宜しき所を以って度を為す。郊廟の事を以って給し、私する所有る無し」
「諸侯を呼び寄せて、全国を統制するために、来年の暦と、税制のための軽重の法と、貢物の必要数とを受理させる。
都から諸国までの遠近なども推し量って負担を加減する。全ては公益のためとし、利益を私するようなことは許さない。
(これ程にも清廉で巧みな為政のための徴税は、困窮に駆られた貧国での犯罪の横行などをも防止するであろう。
万人のうちでも特に救われないような罪人の発生などを、税制の適正化にもよって未然に防いで行くことこそは重要である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
たとえば、キリスト教圏でも特に他力本願的な教義を持つプロテスタント圏こそは、特にメシがまずい。
メシの美味さではフランス・イタリア(カトリック)≧ドイツ(カトリックとプロテスタント半々)≫アメリカ・イギリス(プロテスタント)
あたりが典型的な評価で、聖書教義に仏教教義を織り交ぜてまで何とか自力作善的な傾向を持たせていたカトリック圏に
おいてこそ、それなりに料理を心がける者も生じた一方、プロテスタント圏には始めからそんな人間が生じもしなかった。
いくら脳内の超越神なんかに祈ったって、うまい料理がどこからかわいて出てくるようなことがあるはずもないわけで、
当地の料理文化が盛んか否かで、その地における根本的な自力作善の頻度までをも計り知ることができるのだといえる。
日本でも、他力本願を謳う浄土門こそは肉食を伝統的に可としている。肉料理ほど、手っ取り早くそれなりの味を出せる
料理も他にないわけで、いかにも易行道の仏門のあり方らしい。難行道である禅門などは今でも寺中での肉食などは基本禁止で、
(托鉢時の布施に肉料理が含まれることは許されている)代わりに菜食などが主体の精進料理に非常な精魂を込めている。
今でこそベジタリアンの風習なども盛んだが、ただサラダなどの菜食で食事を済ますというばかりのことで、そこでこそ
精進料理のような料理文化を発達させようという所まで行っているわけではない。菜食を本当に料理として味わえるものに
仕立て上げるということこそは本当に難儀なことであり、聖道門の僧侶か本格の主婦でもなければやりきれないことなのである。
メシの美味さではフランス・イタリア(カトリック)≧ドイツ(カトリックとプロテスタント半々)≫アメリカ・イギリス(プロテスタント)
あたりが典型的な評価で、聖書教義に仏教教義を織り交ぜてまで何とか自力作善的な傾向を持たせていたカトリック圏に
おいてこそ、それなりに料理を心がける者も生じた一方、プロテスタント圏には始めからそんな人間が生じもしなかった。
いくら脳内の超越神なんかに祈ったって、うまい料理がどこからかわいて出てくるようなことがあるはずもないわけで、
当地の料理文化が盛んか否かで、その地における根本的な自力作善の頻度までをも計り知ることができるのだといえる。
日本でも、他力本願を謳う浄土門こそは肉食を伝統的に可としている。肉料理ほど、手っ取り早くそれなりの味を出せる
料理も他にないわけで、いかにも易行道の仏門のあり方らしい。難行道である禅門などは今でも寺中での肉食などは基本禁止で、
(托鉢時の布施に肉料理が含まれることは許されている)代わりに菜食などが主体の精進料理に非常な精魂を込めている。
今でこそベジタリアンの風習なども盛んだが、ただサラダなどの菜食で食事を済ますというばかりのことで、そこでこそ
精進料理のような料理文化を発達させようという所まで行っているわけではない。菜食を本当に料理として味わえるものに
仕立て上げるということこそは本当に難儀なことであり、聖道門の僧侶か本格の主婦でもなければやりきれないことなのである。
実際問題、自力作善に積極的であったほうが、他力本願ばかりに専らであるよりも、うまいのである。うまいし、痛くない。
全くいい姿勢なども心がけずに、フカフカのソファの上でふんぞり返ってばかりいれば、そのせいで腰痛やリューマチにもなる。
ヨガや古武術の身体躁法にも根ざしたいい姿勢でのキビキビとした生活を心がけていれば、そんな問題にも悩まされずに、
常日ごろからすがすがしい気持ちでもいられる。何事にかけても自力作善然とした積極的なあり方であったほうが、自分自身に
とっても良い結果を招く一方、他力本願然とした消極的なあり方でいたなら、そのせいでの自業自得で、自分にとっても
悪い結果を招くこととなる。それが普遍的な真理に根ざした法則であり、超越神と雖も決して覆せるものではないからだ。
本当に自力作善を心がけるのなら、行いに相応の対価すら必ずしも期待しないほどに旺盛な積極性主義あるべきである。
いくら積極的であっても、そこに執拗な打算が付きまとっていたりするようなら、そのせいで自力作善とまではいかなくなる。
仮に、行いに相応以上の対価ばかりを追い求めて積極的でいるようなら、この場合には「自力作悪」とすらなってしまい、
諸々の行いにかけて消極的であるような場合以上にも問題的な結果を招くことにすらなりかねない。エントロピー増大則
とも相まって、行いに相応の対価のみを企図する場合でも、相応以上の対価を期待する場合のような問題を多少は生じさせ
かねないので、行いに相応の対価すら期待しないぐらいの心がけに基づく場合にのみ、そのような問題をも退けることができる。
全くいい姿勢なども心がけずに、フカフカのソファの上でふんぞり返ってばかりいれば、そのせいで腰痛やリューマチにもなる。
ヨガや古武術の身体躁法にも根ざしたいい姿勢でのキビキビとした生活を心がけていれば、そんな問題にも悩まされずに、
常日ごろからすがすがしい気持ちでもいられる。何事にかけても自力作善然とした積極的なあり方であったほうが、自分自身に
とっても良い結果を招く一方、他力本願然とした消極的なあり方でいたなら、そのせいでの自業自得で、自分にとっても
悪い結果を招くこととなる。それが普遍的な真理に根ざした法則であり、超越神と雖も決して覆せるものではないからだ。
本当に自力作善を心がけるのなら、行いに相応の対価すら必ずしも期待しないほどに旺盛な積極性主義あるべきである。
いくら積極的であっても、そこに執拗な打算が付きまとっていたりするようなら、そのせいで自力作善とまではいかなくなる。
仮に、行いに相応以上の対価ばかりを追い求めて積極的でいるようなら、この場合には「自力作悪」とすらなってしまい、
諸々の行いにかけて消極的であるような場合以上にも問題的な結果を招くことにすらなりかねない。エントロピー増大則
とも相まって、行いに相応の対価のみを企図する場合でも、相応以上の対価を期待する場合のような問題を多少は生じさせ
かねないので、行いに相応の対価すら期待しないぐらいの心がけに基づく場合にのみ、そのような問題をも退けることができる。
資本主義は行いに相応以上の対価を追い求める活動を是とし、共産主義は行いに相応の対価のみを追い求める活動を是とした。
いずれも経済破綻や労役怠惰などの致命的な問題を来たすことには変わりなかったわけで、君子士人を模範とする天下万民の
誰しもが、行いに相応の対価すら期待しない程もの心がけによって自力作善を推し進めていくことを是とした徳治主義こそは、
乱世を反正した世の中を相当な治世や繁栄へと持ち込むことをも可能としている。そのような中で一部分、肉食によって
手っ取り早く美味に与ろうとするような他力本願者が生じてしまったところで、それでもそれなりにうまく行くぐらいに、
徳治社会こそは人々の十二分な努力によって、世の中に遍在する公益をも十二分なものとして行くことができるのである。
「民其の力を三として、二を公に入れ、其の一を衣食とす。公聚は朽蠹して、三老は凍餒す。国の諸市、屨は賤しく踊は貴し」
「(今斉で)民は自分たちの労役によって得た収益の三分の二を公室に納め、残りの三分の一で自分たちの衣食を賄っている。
公室の貯蔵庫の穀物は消費されることもなく腐れ果てているというのに、民間では高名な長老までもが飢えて凍え死んでいる。
(困窮にかられて罪を働き足きりの刑になるものが多いから)国の諸市で一般の履物は売れず、片足用の靴ばかりが売れる始末。
(徴税人を罪人扱いするイエスの暴言然り、古代ユダヤ人は『権力者こそは民から富を徴集する側の立場である』という基本的な
社会構造すらをもわきまえてはいない。だから支配者たる神こそが衣食や富を恵んでくれるような稚拙な倒錯をもしたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公三年より)
いずれも経済破綻や労役怠惰などの致命的な問題を来たすことには変わりなかったわけで、君子士人を模範とする天下万民の
誰しもが、行いに相応の対価すら期待しない程もの心がけによって自力作善を推し進めていくことを是とした徳治主義こそは、
乱世を反正した世の中を相当な治世や繁栄へと持ち込むことをも可能としている。そのような中で一部分、肉食によって
手っ取り早く美味に与ろうとするような他力本願者が生じてしまったところで、それでもそれなりにうまく行くぐらいに、
徳治社会こそは人々の十二分な努力によって、世の中に遍在する公益をも十二分なものとして行くことができるのである。
「民其の力を三として、二を公に入れ、其の一を衣食とす。公聚は朽蠹して、三老は凍餒す。国の諸市、屨は賤しく踊は貴し」
「(今斉で)民は自分たちの労役によって得た収益の三分の二を公室に納め、残りの三分の一で自分たちの衣食を賄っている。
公室の貯蔵庫の穀物は消費されることもなく腐れ果てているというのに、民間では高名な長老までもが飢えて凍え死んでいる。
(困窮にかられて罪を働き足きりの刑になるものが多いから)国の諸市で一般の履物は売れず、片足用の靴ばかりが売れる始末。
(徴税人を罪人扱いするイエスの暴言然り、古代ユダヤ人は『権力者こそは民から富を徴集する側の立場である』という基本的な
社会構造すらをもわきまえてはいない。だから支配者たる神こそが衣食や富を恵んでくれるような稚拙な倒錯をもしたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公三年より)
温故知新が、全く創造をもたらさないなんてことはない。
古代の儒学と比べれば、朱子学や日本の律令制や武家制度も温故知新の一種だといえる。
特に律令制や武家制は、その概ねの統治規範を儒家教学に採りながらも、
神道文化や武道精神といった別個の文化的理念を大いに取り入れているものだから、
その根本的な様相が「儒家統治」であることを忘れ去られがちなほどのものとなっている。
全くの我流な創造と比べれば、温故知新に基づく創造は、遥かにその頻度が低い。
朱子学や武家制度級の大規模な創造は、それこそ1000年に一度あるかないか程度のもので、
しかも一度創造されるや、何百年もかけての同じ道の研鑽が繰り返されて行く。
武士道も、最初期の平安末期から鎌倉期頃には「朝廷の警護者」に過ぎなかった武家としての
身分に即して、ただ命知らずの血みどろであるばかりだったのが、室町期には禅宗を始めとする
仏教文化との融合が顕著なものとなり、戦国期には方々の大名が王侯並みの政治的な
実力を付けて割拠し、江戸期には公家も同然な程の厳正な礼節統治が敷かれるようになった。
平安末期から江戸期に至るまで、一度創造された武士道という理念が800年に以上にも
わたってその練り込みを続けてきたわけで、なればこそ、温故知新に基づく創造というのは、
短期的に乱造されまくったりしてる"余裕"もないものであることが分かるのである。
最大の価値を、悠久の歴史の流れではなく個々人に置く個人主義者からすれば、
温故知新に基づく創造はあまりにも悠長すぎるように思われるに違いない。たとえ自分が
武士道を好むのであっても、たまたま自分が鎌倉期の武士に生まれたなら、嫡子でもない限りは
全員が捨て身の乱戦に没入して行かなければならなくなる一方、仮に自分が江戸期の武士に
生まれたとしたなら、今度は小笠原流礼法などの「今どき」な礼法に即する規律ばかりを徹底して
いかなければならなかったことになる。しかもそのような時代が100年200年と続いていた
わけで、個人の趣向が時代時代によって極度に束縛されていたと考えざるを得ないわけである。
古代の儒学と比べれば、朱子学や日本の律令制や武家制度も温故知新の一種だといえる。
特に律令制や武家制は、その概ねの統治規範を儒家教学に採りながらも、
神道文化や武道精神といった別個の文化的理念を大いに取り入れているものだから、
その根本的な様相が「儒家統治」であることを忘れ去られがちなほどのものとなっている。
全くの我流な創造と比べれば、温故知新に基づく創造は、遥かにその頻度が低い。
朱子学や武家制度級の大規模な創造は、それこそ1000年に一度あるかないか程度のもので、
しかも一度創造されるや、何百年もかけての同じ道の研鑽が繰り返されて行く。
武士道も、最初期の平安末期から鎌倉期頃には「朝廷の警護者」に過ぎなかった武家としての
身分に即して、ただ命知らずの血みどろであるばかりだったのが、室町期には禅宗を始めとする
仏教文化との融合が顕著なものとなり、戦国期には方々の大名が王侯並みの政治的な
実力を付けて割拠し、江戸期には公家も同然な程の厳正な礼節統治が敷かれるようになった。
平安末期から江戸期に至るまで、一度創造された武士道という理念が800年に以上にも
わたってその練り込みを続けてきたわけで、なればこそ、温故知新に基づく創造というのは、
短期的に乱造されまくったりしてる"余裕"もないものであることが分かるのである。
最大の価値を、悠久の歴史の流れではなく個々人に置く個人主義者からすれば、
温故知新に基づく創造はあまりにも悠長すぎるように思われるに違いない。たとえ自分が
武士道を好むのであっても、たまたま自分が鎌倉期の武士に生まれたなら、嫡子でもない限りは
全員が捨て身の乱戦に没入して行かなければならなくなる一方、仮に自分が江戸期の武士に
生まれたとしたなら、今度は小笠原流礼法などの「今どき」な礼法に即する規律ばかりを徹底して
いかなければならなかったことになる。しかもそのような時代が100年200年と続いていた
わけで、個人の趣向が時代時代によって極度に束縛されていたと考えざるを得ないわけである。
ただ、中世から近世にかけての欧米文化なども、今から見ればノッペリとした単調なものに
見えるし、近代もやはりそこそこの単一性があるように思われる。現代こそは、何でもアリな
創造しまくりの世の中のように思えたりもするが、それも自分が今という時代に生きているから
なだけであって、その服装もスーツから作業着からカジュアルまで、それなりに定型的なもの
となっている。昔なら奴隷こそが着用するものだった半そでのTシャツやタンクトップなどの
形状の服装が公に認められていたりもするあたり、「極度に服装にだらしなかった時代」として、
後世の人々にまで白眼視され続けたりするようになる可能性があるぐらいのものである。
実は、我流によるやたらめったらな創造というのは、温故知新に基づく創造と比べれば、
さほど決定的な創造でもないのである。水面に一石を投ずる程度の、さほど決定的でもない
変化を世の中にもたらすばかりで、水面の波が収まればそれっきりなのである。それと比べれば、
温故知新に基づく創造などは、水面を形作っている池や湖の形状から変えてしまうような
決定的な変化を世の中にもたらすわけで、それがまた新たに別の変化を被ったりすることは
あるにしても、変化の影響は恒久的なものである。故にこそ、真に決定的な創造的変化を
もたらそうと思うものこそは、温故知新をも志すべきなのであり、温故知新すなわち旧態依然
だなんていう固定観念にも、決して囚われたままでいたりしてはいけないのだといえる。
「干禄百福、子孫千億。穆穆皇皇として、君に宜しく王に宜しき。愆たず忘れず、旧章に率いて由る」
「福禄も百千、その子孫の数も千億。明らかに雄大にして、主君も満足、王侯たちも満足。
決して誤らぬよう忘れぬよう、古えの則に慎重に準拠して来たからである。(万民と帝王の福寿を
第一に願えばこそ、述べて作らず信じて古えを好むのである。最も、旧約のトーラーなどは
『古えの良き則』としての条件すら満たせていない、政商集団の悪知恵集だったりするわけだが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・仮楽より)
見えるし、近代もやはりそこそこの単一性があるように思われる。現代こそは、何でもアリな
創造しまくりの世の中のように思えたりもするが、それも自分が今という時代に生きているから
なだけであって、その服装もスーツから作業着からカジュアルまで、それなりに定型的なもの
となっている。昔なら奴隷こそが着用するものだった半そでのTシャツやタンクトップなどの
形状の服装が公に認められていたりもするあたり、「極度に服装にだらしなかった時代」として、
後世の人々にまで白眼視され続けたりするようになる可能性があるぐらいのものである。
実は、我流によるやたらめったらな創造というのは、温故知新に基づく創造と比べれば、
さほど決定的な創造でもないのである。水面に一石を投ずる程度の、さほど決定的でもない
変化を世の中にもたらすばかりで、水面の波が収まればそれっきりなのである。それと比べれば、
温故知新に基づく創造などは、水面を形作っている池や湖の形状から変えてしまうような
決定的な変化を世の中にもたらすわけで、それがまた新たに別の変化を被ったりすることは
あるにしても、変化の影響は恒久的なものである。故にこそ、真に決定的な創造的変化を
もたらそうと思うものこそは、温故知新をも志すべきなのであり、温故知新すなわち旧態依然
だなんていう固定観念にも、決して囚われたままでいたりしてはいけないのだといえる。
「干禄百福、子孫千億。穆穆皇皇として、君に宜しく王に宜しき。愆たず忘れず、旧章に率いて由る」
「福禄も百千、その子孫の数も千億。明らかに雄大にして、主君も満足、王侯たちも満足。
決して誤らぬよう忘れぬよう、古えの則に慎重に準拠して来たからである。(万民と帝王の福寿を
第一に願えばこそ、述べて作らず信じて古えを好むのである。最も、旧約のトーラーなどは
『古えの良き則』としての条件すら満たせていない、政商集団の悪知恵集だったりするわけだが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・仮楽より)
この世界の全様相を鑑みるに、世界を滅亡級の危機に陥れる程もの
壮絶な劣悪さを帯びた統治理念というのも、そんなに多くは見られない。
儒学や仏教が社会統治の理念として申し分ないのはもちろんのこと、
玄学(老荘の学)やヒンズー教もまた、民度の低下や酷烈な階級差別などの問題的要素が
ありはするものの、世の中を最悪の戦乱から引き上げさせる程度の効能は伴っている。
イスラムも傍から見れば奇異な戒律の厳守や原理主義者の好戦志向などの異常点があるにしても、
自分たちから世界を滅亡に陥れるほどもの破滅志向までを帯びているわけではない。
教理の異同や、傍から見た場合の好みの差などもありはするにしても、全世界を破滅に陥れる程にも
極限級に粗悪な要素を持つ学問宗教などは稀有だし、あったとしても、その受容者が世の中の多数派となって、
一国や一世界を統治支配しきるほどもの勢力を手に入れたようなことともなれば、東洋などでは皆無に等しい。
(強いて言えば、始皇帝が法家支配を敷いた秦帝国などがそれに当たるが、わずか15年しか持たなかった)
異端の中国諸子百家だとかインドの外道教派だとかが、そんなに大きな勢力を持てなかったり、
持てても短命に終わったりしていたのは、儒学や仏教の如き優良な教学が「王道」として君臨していたがための
冷遇に依るのはすでに述べたことである。儒学が正学としての地位を獲得して後の、道家や兵家以外の諸子百家の
扱いはといえば、その正典(墨子、公孫龍子)からしてその一部が欠落したり、あるいは全文が遺失したり
といった程にも冷ややかなもので、そこに中国人の冷酷なほどもの合理主義すらうかがうことができる。
インドの外道教派はもう少しマシな扱いで、マハーヴィーラの興したジャイナ教なども一応は今に至るまで
存続している。教義的には聖書信仰並みの粗悪さを持つといえる害為正法外道ですら、「泥棒階級のカースト」
などに形を変えて一応は存在しているという。(ただし泥棒が公認されているわけではなく、捕まれば罰を受ける)
壮絶な劣悪さを帯びた統治理念というのも、そんなに多くは見られない。
儒学や仏教が社会統治の理念として申し分ないのはもちろんのこと、
玄学(老荘の学)やヒンズー教もまた、民度の低下や酷烈な階級差別などの問題的要素が
ありはするものの、世の中を最悪の戦乱から引き上げさせる程度の効能は伴っている。
イスラムも傍から見れば奇異な戒律の厳守や原理主義者の好戦志向などの異常点があるにしても、
自分たちから世界を滅亡に陥れるほどもの破滅志向までを帯びているわけではない。
教理の異同や、傍から見た場合の好みの差などもありはするにしても、全世界を破滅に陥れる程にも
極限級に粗悪な要素を持つ学問宗教などは稀有だし、あったとしても、その受容者が世の中の多数派となって、
一国や一世界を統治支配しきるほどもの勢力を手に入れたようなことともなれば、東洋などでは皆無に等しい。
(強いて言えば、始皇帝が法家支配を敷いた秦帝国などがそれに当たるが、わずか15年しか持たなかった)
異端の中国諸子百家だとかインドの外道教派だとかが、そんなに大きな勢力を持てなかったり、
持てても短命に終わったりしていたのは、儒学や仏教の如き優良な教学が「王道」として君臨していたがための
冷遇に依るのはすでに述べたことである。儒学が正学としての地位を獲得して後の、道家や兵家以外の諸子百家の
扱いはといえば、その正典(墨子、公孫龍子)からしてその一部が欠落したり、あるいは全文が遺失したり
といった程にも冷ややかなもので、そこに中国人の冷酷なほどもの合理主義すらうかがうことができる。
インドの外道教派はもう少しマシな扱いで、マハーヴィーラの興したジャイナ教なども一応は今に至るまで
存続している。教義的には聖書信仰並みの粗悪さを持つといえる害為正法外道ですら、「泥棒階級のカースト」
などに形を変えて一応は存在しているという。(ただし泥棒が公認されているわけではなく、捕まれば罰を受ける)
中国のように辛うじてその正典の一部が現存したりする場合にしろ、インドのように厳密な冷遇下に置かれた
うえで教派が存続している場合にしろ、異端外道の統治理念というものが破滅級の危害までは帯びることなく
残存していった例であるといえ、その点、異教を完全に絶やし尽くしたイスラムなどよりはまだ参考になる。
もちろん参考になるにしても、やはり今のキリスト教やユダヤ教並みの厚遇などが許されるわけもなく、
そんなものを好むものが人並みの扱いすら受けられないようになることには違いないのである。
今は天にも昇らんとする程もの勢力を手に入れているのだとしても、そのような教派が人類滅亡級の
危害を帯びていたりするからには、中国やインドの異端外道並みの扱いにまで引き戻されなければならない。
人並み以上どころか、人並みの扱いすら保証されないような扱いにこそ甘んじていくのでなければ、
ただでは済まない。つまり、「これ程にも悪逆非道を尽くしていたにもかかわらず、許される」
という程度の「不幸中の幸い」すらをも、決して期待してはならないのである。
少なくとも、自らがそのような邪教信仰を興じていた本人である以上は、不幸中の幸いすら期待してはならない。
そんなものを期待するようなら、まだ自分たちが邪信に溺れたままでいるのだと思われたとしても仕方がない。
邪教への信奉を払拭したシラフの境地でいたなら、邪信に溺れていたものなど人並み以下の冷遇に見舞われるのが
当然だと考えるものなのであり、それはちょうど、罪を犯した者が罰を受けることとも全く様相を同じくする。
犯罪者が相応の処罰を受けるのと全く同じように、邪教信者なども邪信に相応の処分を受けなければならないと
心からわきまえて、その通りの服罪に臨んで行こうとする場合にのみ、その神妙さが買われて、断罪にかけての
手心が加えられるようなこともあるだろう。それもあくまで、邪信の範疇を脱し切れていればこそのことである。
うえで教派が存続している場合にしろ、異端外道の統治理念というものが破滅級の危害までは帯びることなく
残存していった例であるといえ、その点、異教を完全に絶やし尽くしたイスラムなどよりはまだ参考になる。
もちろん参考になるにしても、やはり今のキリスト教やユダヤ教並みの厚遇などが許されるわけもなく、
そんなものを好むものが人並みの扱いすら受けられないようになることには違いないのである。
今は天にも昇らんとする程もの勢力を手に入れているのだとしても、そのような教派が人類滅亡級の
危害を帯びていたりするからには、中国やインドの異端外道並みの扱いにまで引き戻されなければならない。
人並み以上どころか、人並みの扱いすら保証されないような扱いにこそ甘んじていくのでなければ、
ただでは済まない。つまり、「これ程にも悪逆非道を尽くしていたにもかかわらず、許される」
という程度の「不幸中の幸い」すらをも、決して期待してはならないのである。
少なくとも、自らがそのような邪教信仰を興じていた本人である以上は、不幸中の幸いすら期待してはならない。
そんなものを期待するようなら、まだ自分たちが邪信に溺れたままでいるのだと思われたとしても仕方がない。
邪教への信奉を払拭したシラフの境地でいたなら、邪信に溺れていたものなど人並み以下の冷遇に見舞われるのが
当然だと考えるものなのであり、それはちょうど、罪を犯した者が罰を受けることとも全く様相を同じくする。
犯罪者が相応の処罰を受けるのと全く同じように、邪教信者なども邪信に相応の処分を受けなければならないと
心からわきまえて、その通りの服罪に臨んで行こうとする場合にのみ、その神妙さが買われて、断罪にかけての
手心が加えられるようなこともあるだろう。それもあくまで、邪信の範疇を脱し切れていればこそのことである。
インドの被差別カーストの現況など、確かに目も当てられないほどに悲惨なものがある。
ただしそれは、今のインドがカースト社会であるからのみならず、イギリスなどからの
激烈な侵略や植民地支配によって全社会規模での貧困に見舞われ続けているからで、
最底辺のカーストが極度の被虐下にあるのも、所詮は聖書信仰のせいでしかないといえる。
インド全体がそれなりに富裕であった約2000年前ごろに仏教も隆盛し、
カーストによっては下位に置かれているような人々までもの出家者による救済などが
旺盛に講じられていた。そのような時代には、下位のカーストだからといって今ほどにも
激烈な被虐下に置かれていたようなこともなかったわけで、今のハリジャン(不可触賤民)や
シュードラ(奴隷階級)ほどもの差別下に置かれることを恐れるようなことがあるとすれば、
それは今のインド全体を極度の困窮に陥れている者たち自身にとっての自業自得だといえる。
全世界が仏教のような優良な教学によって統治されたなら、そこで底辺のカースト並みの
地位に置かれた者の扱いもさほどひどくはならない一方、今のように全世界が最悪の邪教に
支配されたままでいるなら、底辺のカーストなども、それはそれは陰惨な扱いを受けることになる。
なればこそ、底辺のカーストのような扱いに甘んじていかなければならない者たちにとっても、
世界の王権をそれなりにできた統治理念の持ち主へと明け渡して行くことが求められるのである。
ただしそれは、今のインドがカースト社会であるからのみならず、イギリスなどからの
激烈な侵略や植民地支配によって全社会規模での貧困に見舞われ続けているからで、
最底辺のカーストが極度の被虐下にあるのも、所詮は聖書信仰のせいでしかないといえる。
インド全体がそれなりに富裕であった約2000年前ごろに仏教も隆盛し、
カーストによっては下位に置かれているような人々までもの出家者による救済などが
旺盛に講じられていた。そのような時代には、下位のカーストだからといって今ほどにも
激烈な被虐下に置かれていたようなこともなかったわけで、今のハリジャン(不可触賤民)や
シュードラ(奴隷階級)ほどもの差別下に置かれることを恐れるようなことがあるとすれば、
それは今のインド全体を極度の困窮に陥れている者たち自身にとっての自業自得だといえる。
全世界が仏教のような優良な教学によって統治されたなら、そこで底辺のカースト並みの
地位に置かれた者の扱いもさほどひどくはならない一方、今のように全世界が最悪の邪教に
支配されたままでいるなら、底辺のカーストなども、それはそれは陰惨な扱いを受けることになる。
なればこそ、底辺のカーストのような扱いに甘んじていかなければならない者たちにとっても、
世界の王権をそれなりにできた統治理念の持ち主へと明け渡して行くことが求められるのである。
「秋、宋に大水あり。公弔を使わしめて曰く、天淫雨を作し、粢盛を害す、若し之れを何ぞ弔せざらん。
対えて曰く、孤実に不敬なりて、天之れに災いを降せり。又た以て君の憂いを為せり。拝命して之れを辱む。
臧文仲曰く、宋は其れ興らんか。禹湯も己れを罪し、其の興るや悖焉たり。桀紂は人を罪し、其の亡ぶや
忽焉たり。且つ列国に凶有りて、孤と呼するは礼なり。言懼れて名礼たり、其れ庶からんかな。既に而て
之れを聞きて曰く、公子御説の辞なりと。臧孫達曰く、是れ宜しき君と為せり、民の心を恤える有り」
「秋、宋国で大洪水の被害があった。荘公が見舞いの使者を遣わして言った。『天は長雨を降らして、
貴国の祭祀用の穀物にまで被害をもたらしたといいます。どうしてこれを見舞わずにいられましょうか』
宋公は答えていった。『真に弧人の不敬の至りでありまして、天もそこに災いを下されたのであります。
そして今また君にもご心配をおかけしました。そのお言葉を拝しつつ、我が辱めとさせていただきます』
臧文仲がこの返答を聞いて言った。『宋国はきっと興隆するに違いない。禹王や湯王もあえて自らに罪あり
という姿勢でいたが、それによりみるみると国を勃興させていった。桀王や紂王のごときは全ての罪を
他者に押し付けて自分たちの栄華ばかりを追い求めていたが、その滅び去るさまも速やかなものであった。
しかも宋公は列国に心配をかけたことを恥じて自らを〈弧(当時の王侯の謙譲的一人称である《寡人》
よりもさらに自らを卑しめている)〉と自称している。これも礼に適ったものである。文章も恐れ慎み、
言葉も礼儀に適っている、きっと国を安定させられることだろう』 宋公はこの評判を聞いて言った。
『あの文章は自分ではなく公子の御説が作ったものです』 臧文仲はまたこれを評して言った。
『実に賢明な主君なことだ。真に民を憂える真心があればこそ、このようでいられるのだ。』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公十一年より)
対えて曰く、孤実に不敬なりて、天之れに災いを降せり。又た以て君の憂いを為せり。拝命して之れを辱む。
臧文仲曰く、宋は其れ興らんか。禹湯も己れを罪し、其の興るや悖焉たり。桀紂は人を罪し、其の亡ぶや
忽焉たり。且つ列国に凶有りて、孤と呼するは礼なり。言懼れて名礼たり、其れ庶からんかな。既に而て
之れを聞きて曰く、公子御説の辞なりと。臧孫達曰く、是れ宜しき君と為せり、民の心を恤える有り」
「秋、宋国で大洪水の被害があった。荘公が見舞いの使者を遣わして言った。『天は長雨を降らして、
貴国の祭祀用の穀物にまで被害をもたらしたといいます。どうしてこれを見舞わずにいられましょうか』
宋公は答えていった。『真に弧人の不敬の至りでありまして、天もそこに災いを下されたのであります。
そして今また君にもご心配をおかけしました。そのお言葉を拝しつつ、我が辱めとさせていただきます』
臧文仲がこの返答を聞いて言った。『宋国はきっと興隆するに違いない。禹王や湯王もあえて自らに罪あり
という姿勢でいたが、それによりみるみると国を勃興させていった。桀王や紂王のごときは全ての罪を
他者に押し付けて自分たちの栄華ばかりを追い求めていたが、その滅び去るさまも速やかなものであった。
しかも宋公は列国に心配をかけたことを恥じて自らを〈弧(当時の王侯の謙譲的一人称である《寡人》
よりもさらに自らを卑しめている)〉と自称している。これも礼に適ったものである。文章も恐れ慎み、
言葉も礼儀に適っている、きっと国を安定させられることだろう』 宋公はこの評判を聞いて言った。
『あの文章は自分ではなく公子の御説が作ったものです』 臧文仲はまたこれを評して言った。
『実に賢明な主君なことだ。真に民を憂える真心があればこそ、このようでいられるのだ。』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公十一年より)
人類社会において、一人前の社会人としてやっていける程度の十分な精神力があるならば、
「一般的社会人は安楽に思うものを『善』、苦痛に思うものを『悪』と定義付けている」という
言語構造上の根本原理に即して、善であるものに対する安楽と、悪であるものに対する苦痛とを感じる。
「十分な精神力がある」ということは、自分が社会一般の大局構造に即してものを考えられる程度の
精神力があるということであり、この条件に満たない程度の精神力しか持たない人間の場合は、
社会一般が善と楽、悪と苦を等価なものとして扱っていることにまでは察知が及びもしないから、
己の精神性の矮小さからなる倒錯によって、善であるものを苦、悪であるものを楽であるかのように
思い込んでしまうようになったりもする。とはいえ、「善」とか「悪」とかいった倫理判断自体が
「人間社会」における是非の判断でしかないわけだから、世の中にとって最も普遍的な善悪である
「善≡楽」「悪≡苦」といった善悪が絶対的に普遍的な善悪ともなる一方、精神薄弱な個人などが
勝手に定義した「善≡苦」「悪≡楽」といった善悪は、絶対的な誤謬性を帯びた善悪ともなる。
一般的な人間が善と楽、悪と苦を等価なものとして扱おうとしたのは、それによって致命的な災いを
精神的苦痛として未然に察知し、なるべく災禍を避けて福徳に与っていこうとしたからである。
人間の身体に痛覚があるのも、それによって身の危険を察知することを目的としているからで、
四肢切断級やそれ以上の致命傷を負った場合などには、もはや感覚が麻痺して痛みを感じないように
もなっている。それと全く同じように、人間の心もまた本来は禍いとなるものを苦痛だと感じていて、
故にそれを「悪いもの」と言語的に定義付けたりしていたわけだけれども、たとえば「磔での死刑」
級の禍いというのは、人間にとって、自業自得という点でも決定的に致命的なものだから、これを
観想することによって精神が致命傷を負い、ろくに禍いを精神的な苦痛であると感じられないように
なったりもする。身体の致命傷がまさに致命的であるのと同じように、精神の致命傷もまた致命的な
ものであり、そのような深手を負った人間の自存能力もまた、著しく損なわれていることが間違いない。
「一般的社会人は安楽に思うものを『善』、苦痛に思うものを『悪』と定義付けている」という
言語構造上の根本原理に即して、善であるものに対する安楽と、悪であるものに対する苦痛とを感じる。
「十分な精神力がある」ということは、自分が社会一般の大局構造に即してものを考えられる程度の
精神力があるということであり、この条件に満たない程度の精神力しか持たない人間の場合は、
社会一般が善と楽、悪と苦を等価なものとして扱っていることにまでは察知が及びもしないから、
己の精神性の矮小さからなる倒錯によって、善であるものを苦、悪であるものを楽であるかのように
思い込んでしまうようになったりもする。とはいえ、「善」とか「悪」とかいった倫理判断自体が
「人間社会」における是非の判断でしかないわけだから、世の中にとって最も普遍的な善悪である
「善≡楽」「悪≡苦」といった善悪が絶対的に普遍的な善悪ともなる一方、精神薄弱な個人などが
勝手に定義した「善≡苦」「悪≡楽」といった善悪は、絶対的な誤謬性を帯びた善悪ともなる。
一般的な人間が善と楽、悪と苦を等価なものとして扱おうとしたのは、それによって致命的な災いを
精神的苦痛として未然に察知し、なるべく災禍を避けて福徳に与っていこうとしたからである。
人間の身体に痛覚があるのも、それによって身の危険を察知することを目的としているからで、
四肢切断級やそれ以上の致命傷を負った場合などには、もはや感覚が麻痺して痛みを感じないように
もなっている。それと全く同じように、人間の心もまた本来は禍いとなるものを苦痛だと感じていて、
故にそれを「悪いもの」と言語的に定義付けたりしていたわけだけれども、たとえば「磔での死刑」
級の禍いというのは、人間にとって、自業自得という点でも決定的に致命的なものだから、これを
観想することによって精神が致命傷を負い、ろくに禍いを精神的な苦痛であると感じられないように
なったりもする。身体の致命傷がまさに致命的であるのと同じように、精神の致命傷もまた致命的な
ものであり、そのような深手を負った人間の自存能力もまた、著しく損なわれていることが間違いない。
人間級に高等な生物が痛覚を持つのは健常なことで、痛覚を持たないほうが異常ないし障害である。
健常であってこそ人も最大級に生活を営める一方、異常者や障害者は生活に支障を来たさざるを得ない。
どちらのほうが生に近いかといえばそれは健常者であり、死に近いのは異常者や障害者のほうである。
人間は万物の霊長であるほどにも高等な生物であればこそ、自然淘汰などをそのまま引き継ぐ必要もなく、
仁政によって健常者が異常者や障害者を労わって行くことだってできるわけだけども、それにしたって、
最大級の生命力を持つのは健常者である一方、比較的生命力に欠けるのが異常者や障害者だといえる。
故に、精神面にかけても、善と楽、悪と苦が等価なものであることを実感的にわきまえられて、罪悪
であるものに対する苦痛を健全に感じられる者こそは、より大きな生命力の持ち主であるといえる一方、
磔刑の観想などによって精神が致命傷を負ってしまったせいで、罪悪を苦痛であるとも感じられなく
なってしまっているような人間こそは比較的、生命力にも劣るといえる。極言すれば「すでに死んでいる
も同然の人間」であるといえ、罪悪に対する苦痛などを実感できるような所にまで立ち戻った時にこそ、
またそれなりの生命力を取り戻せるのだといえる。このあたりの生死を取り違えてしまっている人間も
邪信耽溺者などには非常に多いから、それもまた全くの誤解であることをここに実証的に断言しておく。
「之れ子の于に征き、野に劬労したまう。爰に矜人と、此の鰥寡を哀れむ」
「我が君は(治水などの)土木作業に従事する人夫の所に行かれて、野の果てで共に苦労をされている。
ああして困窮している人たちと、病人や孤独のものたちをも憐れんでくださっているのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・鴻雁より)
「哀れなるは我が填寡のもの、宜いは岸に宜いは獄に。粟を握みて出でて卜くれども、自て何ぞ能く穀せん」
「それにしても憐れなのはわが国の窮苦孤独の者たちよ。その行き場はといえば仮屋か獄舎かといったざま。
一掴み程度の粟を授けてやったりしたところで、どうしてそれだけで食い繋いでいくこともできようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小宛より)
健常であってこそ人も最大級に生活を営める一方、異常者や障害者は生活に支障を来たさざるを得ない。
どちらのほうが生に近いかといえばそれは健常者であり、死に近いのは異常者や障害者のほうである。
人間は万物の霊長であるほどにも高等な生物であればこそ、自然淘汰などをそのまま引き継ぐ必要もなく、
仁政によって健常者が異常者や障害者を労わって行くことだってできるわけだけども、それにしたって、
最大級の生命力を持つのは健常者である一方、比較的生命力に欠けるのが異常者や障害者だといえる。
故に、精神面にかけても、善と楽、悪と苦が等価なものであることを実感的にわきまえられて、罪悪
であるものに対する苦痛を健全に感じられる者こそは、より大きな生命力の持ち主であるといえる一方、
磔刑の観想などによって精神が致命傷を負ってしまったせいで、罪悪を苦痛であるとも感じられなく
なってしまっているような人間こそは比較的、生命力にも劣るといえる。極言すれば「すでに死んでいる
も同然の人間」であるといえ、罪悪に対する苦痛などを実感できるような所にまで立ち戻った時にこそ、
またそれなりの生命力を取り戻せるのだといえる。このあたりの生死を取り違えてしまっている人間も
邪信耽溺者などには非常に多いから、それもまた全くの誤解であることをここに実証的に断言しておく。
「之れ子の于に征き、野に劬労したまう。爰に矜人と、此の鰥寡を哀れむ」
「我が君は(治水などの)土木作業に従事する人夫の所に行かれて、野の果てで共に苦労をされている。
ああして困窮している人たちと、病人や孤独のものたちをも憐れんでくださっているのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・鴻雁より)
「哀れなるは我が填寡のもの、宜いは岸に宜いは獄に。粟を握みて出でて卜くれども、自て何ぞ能く穀せん」
「それにしても憐れなのはわが国の窮苦孤独の者たちよ。その行き場はといえば仮屋か獄舎かといったざま。
一掴み程度の粟を授けてやったりしたところで、どうしてそれだけで食い繋いでいくこともできようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小宛より)
正統な仏者が「善悪も本質的には空である」と言うのと、ニヒリストやニューエイジ信奉者
などが「善悪など虚妄だ」と言うのとでは、結論は似ていても、その内実が決定的に異なる。
仏者は、善悪の分別もまた罪福異熟のような絶対真理に合致している場合がある。しかし、
そうであっても>>140-141で述べたような真相に基づく、言語構造上の単なる真理であるわけだから、
善悪もまた「神による定義」みたいな神秘的要素もない、完全なる「空の真理」であるというのである。
ニヒリストやニューエイジ信奉者が「善悪など虚妄だ」と断ずるのは、
人間には普遍的な善悪の分別など不可能であり、個々人が思い思いのままに勝手な
善悪を定義付けているだけだから、善悪なんてものは虚妄だと断定しているのである。
ニヒリズムもニューエイジも西洋社会の産物であり、西洋社会の文化的基幹は相も変わらず
聖書信仰である。聖書教義に基づく善悪の分別なんてものは確かに虚妄であり、仏者の言う「空の真理」
に即した善悪ですらない。そんな聖書教義を文化的な取っ掛かりとする以上は、あらゆる善悪もまた
虚妄でしかあり得ないわけだから、確かにそんな社会において、あらゆる善悪の分別が
個々人の身勝手な虚妄にしか基づいていないと結論付けるのは正しいといえる。
しかし、全世界的に見れば実際の所、仏法上の空の真理や、>>140-141で述べたような自然科学的根拠
に基づく「普遍的な善悪の分別」というものをわきまえている人間のほうが多数派に上っていて、
知識面と潜在意識面の両面から、普遍的な善悪と虚妄の善悪を分けて考えるようにもなっている。
などが「善悪など虚妄だ」と言うのとでは、結論は似ていても、その内実が決定的に異なる。
仏者は、善悪の分別もまた罪福異熟のような絶対真理に合致している場合がある。しかし、
そうであっても>>140-141で述べたような真相に基づく、言語構造上の単なる真理であるわけだから、
善悪もまた「神による定義」みたいな神秘的要素もない、完全なる「空の真理」であるというのである。
ニヒリストやニューエイジ信奉者が「善悪など虚妄だ」と断ずるのは、
人間には普遍的な善悪の分別など不可能であり、個々人が思い思いのままに勝手な
善悪を定義付けているだけだから、善悪なんてものは虚妄だと断定しているのである。
ニヒリズムもニューエイジも西洋社会の産物であり、西洋社会の文化的基幹は相も変わらず
聖書信仰である。聖書教義に基づく善悪の分別なんてものは確かに虚妄であり、仏者の言う「空の真理」
に即した善悪ですらない。そんな聖書教義を文化的な取っ掛かりとする以上は、あらゆる善悪もまた
虚妄でしかあり得ないわけだから、確かにそんな社会において、あらゆる善悪の分別が
個々人の身勝手な虚妄にしか基づいていないと結論付けるのは正しいといえる。
しかし、全世界的に見れば実際の所、仏法上の空の真理や、>>140-141で述べたような自然科学的根拠
に基づく「普遍的な善悪の分別」というものをわきまえている人間のほうが多数派に上っていて、
知識面と潜在意識面の両面から、普遍的な善悪と虚妄の善悪を分けて考えるようにもなっている。
「金が全て」などの洗脳操作に基づく情報汚染が蔓延してしまっている今の日本においてですら、
投機によって大金を稼ぎ上げようなどとする人間は稀であり、せいぜい当選者が限られていることが
予め分かっている宝くじだとか、必ず店の側のほうがより勝つようになっているパチンコだとかに
手を出す人間がそこそこいる程度である。それは、江戸時代までの長年の道徳統治や道徳教育、
さらには仏法の流布にまで基づく、普遍的な善悪の分別の徹底が今でも深く根ざしているからで、
そんな分別のない西洋社会などと比べれば、今でも「金を稼ぐばかりではない、実のある労働」
を心がけようとする潜在意識が少なからず日本人にも具わり続けているのである。
資本主義経済に参加しながら、ある程度そのようなわきまえを保っているのが日本人なわけだが、
そもそも資本主義経済に参画することから忌んでいるような人間こそが未だ世界の多数派にも
上っている。全世界が完全に資本主義化したりすれば、それこそ誰もろくに実のある労働を
心がけなくなって、あっという間に世界が破綻することになるわけで(今も半分そうだが)、
資本主義者が世界の少数派に止め置かれるのも不可避なることであるとはいえるが、実際、
世界人類は全体規模で資本主義に没頭することを拒絶している。これこそは、金満主義に
よる自滅のような悪因苦果を地球人類が本能的に避けた実例であるといえ、人類全体には、
本能的に普遍的な善悪を分別する能力が備わっていた証拠ともなっているといえる。
投機によって大金を稼ぎ上げようなどとする人間は稀であり、せいぜい当選者が限られていることが
予め分かっている宝くじだとか、必ず店の側のほうがより勝つようになっているパチンコだとかに
手を出す人間がそこそこいる程度である。それは、江戸時代までの長年の道徳統治や道徳教育、
さらには仏法の流布にまで基づく、普遍的な善悪の分別の徹底が今でも深く根ざしているからで、
そんな分別のない西洋社会などと比べれば、今でも「金を稼ぐばかりではない、実のある労働」
を心がけようとする潜在意識が少なからず日本人にも具わり続けているのである。
資本主義経済に参加しながら、ある程度そのようなわきまえを保っているのが日本人なわけだが、
そもそも資本主義経済に参画することから忌んでいるような人間こそが未だ世界の多数派にも
上っている。全世界が完全に資本主義化したりすれば、それこそ誰もろくに実のある労働を
心がけなくなって、あっという間に世界が破綻することになるわけで(今も半分そうだが)、
資本主義者が世界の少数派に止め置かれるのも不可避なることであるとはいえるが、実際、
世界人類は全体規模で資本主義に没頭することを拒絶している。これこそは、金満主義に
よる自滅のような悪因苦果を地球人類が本能的に避けた実例であるといえ、人類全体には、
本能的に普遍的な善悪を分別する能力が備わっていた証拠ともなっているといえる。
世界の資本主義者の大多数は聖書信仰者であり、逆に非聖書圏においてこそ資本主義への参画が
滞っている場合が多い。欧米聖書圏で資本主義が提唱されたのだから当たり前といえば当たり前だが、
世の中を挙げて金満主義の悪逆非道を推し進めていったのは主に聖書圏であった一方、非聖書圏は
比較的それを避けようとした。ここからも、聖書教義こそは虚妄に即した間違った善悪の分別を
人々にけしかけるか許容する代物である一方、非聖書教義はそのようなことがないということが
推断される。普遍的な善悪は普遍的な善悪である一方、虚妄の善悪もまた虚妄の善悪で別にあり、
それは主に聖書圏における善悪や、聖書教義に基づく善悪であるといえる。普遍的な善悪の側の
信頼性の確保のためにも、このような虚妄の善悪の特筆的な誤謬性こそをよく認知すべきであり、
それにより「世界中の全ての善悪は虚妄である」などという思い込みを駆逐して行くべきだといえる。
「善を挙げて不能を教うれば則ち勧む」
「まず善人を引き立てて、(善業にかけて)不能なものを教導するようにさせれば、それなりに捗る。
(罪業まみれの善業不能者などが目指すべきなのは、まずは善人からの教導に服することだといえる。
善業不能者自身が王座に就いたりするような『第一の存在』などで決してあるべきではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二〇より)
滞っている場合が多い。欧米聖書圏で資本主義が提唱されたのだから当たり前といえば当たり前だが、
世の中を挙げて金満主義の悪逆非道を推し進めていったのは主に聖書圏であった一方、非聖書圏は
比較的それを避けようとした。ここからも、聖書教義こそは虚妄に即した間違った善悪の分別を
人々にけしかけるか許容する代物である一方、非聖書教義はそのようなことがないということが
推断される。普遍的な善悪は普遍的な善悪である一方、虚妄の善悪もまた虚妄の善悪で別にあり、
それは主に聖書圏における善悪や、聖書教義に基づく善悪であるといえる。普遍的な善悪の側の
信頼性の確保のためにも、このような虚妄の善悪の特筆的な誤謬性こそをよく認知すべきであり、
それにより「世界中の全ての善悪は虚妄である」などという思い込みを駆逐して行くべきだといえる。
「善を挙げて不能を教うれば則ち勧む」
「まず善人を引き立てて、(善業にかけて)不能なものを教導するようにさせれば、それなりに捗る。
(罪業まみれの善業不能者などが目指すべきなのは、まずは善人からの教導に服することだといえる。
善業不能者自身が王座に就いたりするような『第一の存在』などで決してあるべきではないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二〇より)
「悔い改める」とは、本来的には「悔いて行いを改める」という意味で用いられるが、
キリスト教徒なぞは「心の中だけで悔い改める」という意味で用い、行いを改めることには用いない。
多くの非キリスト教徒は、前者のような意味に即してキリスト教徒が散々悔い改めていると
思い込んでいるものだから「クリスチャンとはなんと真摯な人々なのだろう」などとすら
勘違いしてしまっているわけだが、実際には改めるフリをしてるだけで、過ちを行いから改めたり
することは一切しないわけだから、不誠実極まりないものである。「悔い改める」という言葉を
不正に用いることで人々からの偽りの好感を得たりしているのも、これまた不誠実の上塗りだといえる。
これこそは、孔子が「自分が政治を任されたなら、まずは名辞の乱れから正していこう(子路第十三・三)」
と述べたところの「名辞の乱れ」であるといえる。「悔い改める」という言葉に、「悔いて行いを改める」
の他に「心の中だけで悔い改める」という意味までもが付帯してしまっていたりすること、これこそは
名辞の乱れの典型例であるといえ、この場合に名辞を正していくならば、「悔い改める」という言葉には
「悔いて行いを改める」という意味だけが存在することを公認し、「心の中だけで悔い改める」という
意味が他にあったりすることは公認しないといった措置を講じていく必要がある。
「悔いて行いを改める」だけが「悔い改める」という言葉の意味であるにも関わらず、性懲りもなく
「心の中だけで悔い改める」という意味で「悔い改める」という言葉を濫用する人間がいたりしたなら、
これはもう言語障害者に認定して、それ相応の社会的制限などを課していくようにしなければならない。
特に、そのような言語の不正利用を目論む人間が重職に就いたり、権威として扱われたりすることは
もってのほかで、そのせいで過ちを改めもしない性向が下位の人間にまで落とし込まれるようなことに
すらかねないから、世の中の最底辺にのみ、その居場所を追い込んでいくようにしなければならない。
キリスト教徒なぞは「心の中だけで悔い改める」という意味で用い、行いを改めることには用いない。
多くの非キリスト教徒は、前者のような意味に即してキリスト教徒が散々悔い改めていると
思い込んでいるものだから「クリスチャンとはなんと真摯な人々なのだろう」などとすら
勘違いしてしまっているわけだが、実際には改めるフリをしてるだけで、過ちを行いから改めたり
することは一切しないわけだから、不誠実極まりないものである。「悔い改める」という言葉を
不正に用いることで人々からの偽りの好感を得たりしているのも、これまた不誠実の上塗りだといえる。
これこそは、孔子が「自分が政治を任されたなら、まずは名辞の乱れから正していこう(子路第十三・三)」
と述べたところの「名辞の乱れ」であるといえる。「悔い改める」という言葉に、「悔いて行いを改める」
の他に「心の中だけで悔い改める」という意味までもが付帯してしまっていたりすること、これこそは
名辞の乱れの典型例であるといえ、この場合に名辞を正していくならば、「悔い改める」という言葉には
「悔いて行いを改める」という意味だけが存在することを公認し、「心の中だけで悔い改める」という
意味が他にあったりすることは公認しないといった措置を講じていく必要がある。
「悔いて行いを改める」だけが「悔い改める」という言葉の意味であるにも関わらず、性懲りもなく
「心の中だけで悔い改める」という意味で「悔い改める」という言葉を濫用する人間がいたりしたなら、
これはもう言語障害者に認定して、それ相応の社会的制限などを課していくようにしなければならない。
特に、そのような言語の不正利用を目論む人間が重職に就いたり、権威として扱われたりすることは
もってのほかで、そのせいで過ちを改めもしない性向が下位の人間にまで落とし込まれるようなことに
すらかねないから、世の中の最底辺にのみ、その居場所を追い込んでいくようにしなければならない。
名辞の乱れた言葉を濫用することは、確かに多くの精神障害の発端ともなっている。
古くは秦帝国の宦官趙高が、臣下たちに無理やり鹿を馬と言い張らせた「馬鹿」の逸話などがあるが、
それこそ、名辞の乱れはバカの発端でもあり、バカが酷すぎて自己修正も不能な状態ともなれば、
そこで人は分裂病などの精神疾患を患う。ある時は鹿を鹿と言い、ある時は鹿を馬と言う、
またある時は「悔い改める」を「悔いて行いを改める」という意味で用い、ある時は「心の中だけで
悔い改める」という意味で用いたりする。そういった、同一の言葉の全く食い違った意味での
多用が知識構造の深刻な分裂を生じ、矛盾する諸々の知識を統制する精神の薄弱化をも促すのである。
逆に言えば、そういった知識構造の深刻な分裂こそは「典型的な精神疾患」として取り扱うべきなのであり、
それ以外の別に害もないような風狂なぞを、矯正治療や社会的制限までをも必要とするような障害
などとしてまで取り扱ったりする必要はないのである。臣下たちに鹿を馬と言い張らせた趙高こそは
秦帝国崩壊の元凶ともなったように、名辞の乱れを濫用するものこそは傾国や亡国の元凶とすら
なるわけだから、本人たち自身に病識がなくとも、そのような人間こそは「社会的要求」に即して
矯正治療や社会的制限の対象とされねばならない。孔子が「政治を任されたならまずは名辞の乱れから
正していく」というほどにも、名辞の乱れを問題視していたのにも、それなりの理由があったのだから。
「口は費して煩し、出だし易くして悔い難し、以て人を溺らし易し」
「口先というのは、そこに労力を費やせば費やすほど当人を煩わせるものである。言葉を発するのは
簡単だがそれによって心から悔いたりすることは難しい。そのため人を濁念にも溺れさせやすいのである。
(口先だけでの『悔い改めた』などという発言によって、かえって罪過への心からの悔いも損なうのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)
古くは秦帝国の宦官趙高が、臣下たちに無理やり鹿を馬と言い張らせた「馬鹿」の逸話などがあるが、
それこそ、名辞の乱れはバカの発端でもあり、バカが酷すぎて自己修正も不能な状態ともなれば、
そこで人は分裂病などの精神疾患を患う。ある時は鹿を鹿と言い、ある時は鹿を馬と言う、
またある時は「悔い改める」を「悔いて行いを改める」という意味で用い、ある時は「心の中だけで
悔い改める」という意味で用いたりする。そういった、同一の言葉の全く食い違った意味での
多用が知識構造の深刻な分裂を生じ、矛盾する諸々の知識を統制する精神の薄弱化をも促すのである。
逆に言えば、そういった知識構造の深刻な分裂こそは「典型的な精神疾患」として取り扱うべきなのであり、
それ以外の別に害もないような風狂なぞを、矯正治療や社会的制限までをも必要とするような障害
などとしてまで取り扱ったりする必要はないのである。臣下たちに鹿を馬と言い張らせた趙高こそは
秦帝国崩壊の元凶ともなったように、名辞の乱れを濫用するものこそは傾国や亡国の元凶とすら
なるわけだから、本人たち自身に病識がなくとも、そのような人間こそは「社会的要求」に即して
矯正治療や社会的制限の対象とされねばならない。孔子が「政治を任されたならまずは名辞の乱れから
正していく」というほどにも、名辞の乱れを問題視していたのにも、それなりの理由があったのだから。
「口は費して煩し、出だし易くして悔い難し、以て人を溺らし易し」
「口先というのは、そこに労力を費やせば費やすほど当人を煩わせるものである。言葉を発するのは
簡単だがそれによって心から悔いたりすることは難しい。そのため人を濁念にも溺れさせやすいのである。
(口先だけでの『悔い改めた』などという発言によって、かえって罪過への心からの悔いも損なうのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)
「鬼神を敬して之れを遠ざく」「怪力乱神を語らず」(論語)
儒家における妖神敬遠志向は、四書五経を始めとする儒書中における
ごくありきたりな言葉での教理の説明としても現れている。別にそれが、
儒者の頭が悪いからなわけでもないのは、「易経」繋辞伝における孔子の
精密極まりない哲学的論及などからも知れるわけだが、そのような論及はあくまで
例外的なものであり、基本は誰にでも分かるような簡単な言葉での教示が心がけられている。
(そのため、そのような熟語を達筆で清書する文化などが興隆もしたのだった)
妖艶な神異などを、仮に言葉でありのままに表そうとしたなら、それこそ真言や呪文のような
不可解なものとなる。もちろんそこには確かな意味が込められているともされるわけだが、
一般人に理解不能であるからにはインチキの材料などにもされやすく、真言密教なども
異端派がインチキも同然な所業に及ぶなどの問題が歴史的に頻発してもいる。
西洋の哲学や科学にまつわる難解な論及なども、元はといえば呪術信仰などを発祥源と
するものである。そこに錬金術などの打算的な志向が加味された結果、実物の物理現象や
行為能力に訴えかける形而上的論及の体系としての近代科学や西洋哲学が生じたのである。
原始的な呪術の領域か、科学的、哲学的な領域かに関わらず、儒者であれば極端に晦渋な
論及などはなるべく避ける。それは、そこにのめりこむのでもない限りは理解できないような
難解な論及体系というものが一切合切「死文」と見なす他ないものであるからで、そんなものを
世の中での実践に適用したりした場合には、諸々の文化的停滞が避けられなくもなるからだ。
死文に基づく文化的停滞とは、たとえば「それにのめり込むものの怠慢化」「それの理解に
参加しなかったものの愚民化」などで、理解するにしろしないにしろ、難解すぎて躍動に欠ける
言葉などを、世の中で活動する人々などが自力で享受して良い効能があるようなことはない。
儒家における妖神敬遠志向は、四書五経を始めとする儒書中における
ごくありきたりな言葉での教理の説明としても現れている。別にそれが、
儒者の頭が悪いからなわけでもないのは、「易経」繋辞伝における孔子の
精密極まりない哲学的論及などからも知れるわけだが、そのような論及はあくまで
例外的なものであり、基本は誰にでも分かるような簡単な言葉での教示が心がけられている。
(そのため、そのような熟語を達筆で清書する文化などが興隆もしたのだった)
妖艶な神異などを、仮に言葉でありのままに表そうとしたなら、それこそ真言や呪文のような
不可解なものとなる。もちろんそこには確かな意味が込められているともされるわけだが、
一般人に理解不能であるからにはインチキの材料などにもされやすく、真言密教なども
異端派がインチキも同然な所業に及ぶなどの問題が歴史的に頻発してもいる。
西洋の哲学や科学にまつわる難解な論及なども、元はといえば呪術信仰などを発祥源と
するものである。そこに錬金術などの打算的な志向が加味された結果、実物の物理現象や
行為能力に訴えかける形而上的論及の体系としての近代科学や西洋哲学が生じたのである。
原始的な呪術の領域か、科学的、哲学的な領域かに関わらず、儒者であれば極端に晦渋な
論及などはなるべく避ける。それは、そこにのめりこむのでもない限りは理解できないような
難解な論及体系というものが一切合切「死文」と見なす他ないものであるからで、そんなものを
世の中での実践に適用したりした場合には、諸々の文化的停滞が避けられなくもなるからだ。
死文に基づく文化的停滞とは、たとえば「それにのめり込むものの怠慢化」「それの理解に
参加しなかったものの愚民化」などで、理解するにしろしないにしろ、難解すぎて躍動に欠ける
言葉などを、世の中で活動する人々などが自力で享受して良い効能があるようなことはない。
もちろん難解すぎるような哲学的論及の中にも、人々の悟りを促すようなよき説話もあるわけで、
そのような教説は、出家して世の中での旺盛な活動から身を引いている人間などがその勉強や
布教に務めることで、人々に良い影響を与えるようなことがあり得る。もちろんそのような人間は、
世俗での善行に専らである儒者などとは全く別物の領分の持ち主なわけで、そこまで身の程を
割り切るのなら、別に儒家の神仏に対する敬遠志向までをも倣ったりする必要はないのである。
世俗での旺盛な活動は簡単な言葉と共にあるぐらいで。難しい言葉は出家や隠遁と共に。
世俗での活動こそは「人間の生きた姿」であるというのなら、そのような活動を健全に
司れるのは簡単な言葉のほうであり、不健全な司り方しかできないのが難解な言葉なわけだから、
簡単な言葉こそは生きた言葉であり得る一方、難解な言葉こそは死んだ言葉であるといえる。
神仏を敬遠する素っ気ない言葉こそは生きた言葉である一方、怪力乱神をもてあそぶような
妖しげで不可解な言葉こそは死んだ言葉である。別にそれが人間の唯一のあり方などであるわけ
ではないが、最大級に人としての生を謳歌しようと思うなら、死文も避けるようにすべきなのである。
「君子は其の子を遠ざく」
「君子は我が子をなるべく遠ざける。(甘やかさないため、劣等感を抱かせないためなど、
理由は色々ある。犯罪聖書における『父なる神』などはあくまで架空の父であって本物の父では
ないわけだが、架空の親であるにしても、自由に子を近づけるというのは道義に悖っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一三より)
そのような教説は、出家して世の中での旺盛な活動から身を引いている人間などがその勉強や
布教に務めることで、人々に良い影響を与えるようなことがあり得る。もちろんそのような人間は、
世俗での善行に専らである儒者などとは全く別物の領分の持ち主なわけで、そこまで身の程を
割り切るのなら、別に儒家の神仏に対する敬遠志向までをも倣ったりする必要はないのである。
世俗での旺盛な活動は簡単な言葉と共にあるぐらいで。難しい言葉は出家や隠遁と共に。
世俗での活動こそは「人間の生きた姿」であるというのなら、そのような活動を健全に
司れるのは簡単な言葉のほうであり、不健全な司り方しかできないのが難解な言葉なわけだから、
簡単な言葉こそは生きた言葉であり得る一方、難解な言葉こそは死んだ言葉であるといえる。
神仏を敬遠する素っ気ない言葉こそは生きた言葉である一方、怪力乱神をもてあそぶような
妖しげで不可解な言葉こそは死んだ言葉である。別にそれが人間の唯一のあり方などであるわけ
ではないが、最大級に人としての生を謳歌しようと思うなら、死文も避けるようにすべきなのである。
「君子は其の子を遠ざく」
「君子は我が子をなるべく遠ざける。(甘やかさないため、劣等感を抱かせないためなど、
理由は色々ある。犯罪聖書における『父なる神』などはあくまで架空の父であって本物の父では
ないわけだが、架空の親であるにしても、自由に子を近づけるというのは道義に悖っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一三より)
他者の利益を害してでも自らが富み栄えようとする我田引水の横行の防止、
世の中における「利害反するあり(韓非子)」という事態のできる限りの抑制こそは
仁政の要である。特に、我田引水が激化し過ぎたあまり餓死者までもが多発して
しまうような状態だけは徹底して避けねばならず、全くの天災外の人災としてそのような
事態が生じてしまったとしたなら、もはや仁政など完全に失敗してしまったともいえる。
餓死者が発生してしまうほどにも極度の我田引水が横行してしまっているような世の中では、
十中八九、もはや仁政などというものは試みられてもいない。人間が自力の仁政によって
この世から餓死者を絶やすなどということは、もはや夢物語か何かのように扱われて、
全く「仕方のない現実」としての、人災による餓死まみれな世の中を許容しようとすらする。
そういった人間に対してこそ、これまた「仕方のない現実」としての、自分たちのこの世からの
強制退場という否応のない運命がやって来る。不良経済からなる人災としての戦乱や餓死が
横行し過ぎた余り、もはや国家規模や社会規模、世界規模での完全破綻が免れられなくなる、
その時に、相も変わらず「仕方のない現実」としての濁世を営み続けようとしているような
連中こそは、仕方なくないものを仕方ないものとして片付けてきた罪業のはね返りを被って、
本当に仕方のないこととして、濁世の全ての責任を負わされての自滅に見舞われることとなる。
こんなことは、この世界、この宇宙の外側に実在する超越神を想定でもしない限りは、
全く自明なことである。「限られた領域内において一部の人間が多人数の利益を収奪して、
そのほとんどを退蔵下に置いたりしたなら、そのせいで当該領域全体が破綻に見舞われる、
領域内の破綻の元凶となったのは紛れもなく一部の利益の独占者だから、破綻の責任も
独占者こそが第一に追わねばならない」、こんなことは、自己完結した思考実験の範囲内で
自明に導き出せることであり、その実験結果を別物に挿げ替えるためには、「領域外からの
超越者による救い」なんていう都合の良すぎるような条件でも付加するしかないのである。
世の中における「利害反するあり(韓非子)」という事態のできる限りの抑制こそは
仁政の要である。特に、我田引水が激化し過ぎたあまり餓死者までもが多発して
しまうような状態だけは徹底して避けねばならず、全くの天災外の人災としてそのような
事態が生じてしまったとしたなら、もはや仁政など完全に失敗してしまったともいえる。
餓死者が発生してしまうほどにも極度の我田引水が横行してしまっているような世の中では、
十中八九、もはや仁政などというものは試みられてもいない。人間が自力の仁政によって
この世から餓死者を絶やすなどということは、もはや夢物語か何かのように扱われて、
全く「仕方のない現実」としての、人災による餓死まみれな世の中を許容しようとすらする。
そういった人間に対してこそ、これまた「仕方のない現実」としての、自分たちのこの世からの
強制退場という否応のない運命がやって来る。不良経済からなる人災としての戦乱や餓死が
横行し過ぎた余り、もはや国家規模や社会規模、世界規模での完全破綻が免れられなくなる、
その時に、相も変わらず「仕方のない現実」としての濁世を営み続けようとしているような
連中こそは、仕方なくないものを仕方ないものとして片付けてきた罪業のはね返りを被って、
本当に仕方のないこととして、濁世の全ての責任を負わされての自滅に見舞われることとなる。
こんなことは、この世界、この宇宙の外側に実在する超越神を想定でもしない限りは、
全く自明なことである。「限られた領域内において一部の人間が多人数の利益を収奪して、
そのほとんどを退蔵下に置いたりしたなら、そのせいで当該領域全体が破綻に見舞われる、
領域内の破綻の元凶となったのは紛れもなく一部の利益の独占者だから、破綻の責任も
独占者こそが第一に追わねばならない」、こんなことは、自己完結した思考実験の範囲内で
自明に導き出せることであり、その実験結果を別物に挿げ替えるためには、「領域外からの
超越者による救い」なんていう都合の良すぎるような条件でも付加するしかないのである。
仮に、上記のような思考実験に「領域外からの超越者による救い」などという条件を加味
してみたところで、そんなものにばかり頼って、一定領域内での我田引水ばかりを激化させ
ようとしたりすること自体が不誠実の至りであり、人間としての不幸の積み重ねでしかない。
「利害反するあり」という状態をできる限り排して、人災による餓死者なども根絶できた
ような世の中における人々のほうが、我田引水餓死まみれの世の中における最大級の利益的
成功者などよりもさらに恒常的に幸せであるのだから、濁世の権力犯罪者にすら救いの余地を
与えようとするような超越者の存在からして、人々の不幸を助長するものでしかないといえる。
そしてそのような、人々にとっての甚大なる不幸の元凶となる超越者の存在などを絶対に想定
できなくなったのが、今というこの時代この瞬間である。かつてのヨーロッパの小国ぐらいで
あれば、まだ自国の破綻のツケを外界に回すことなども容易だった。欧英から数多の侵略者が外界
へと進出し始めた大航海時代にも、まだキリスト教圏の破綻のツケを外界に押し付けることができた。
世界中のほぼ全ての国土を可能な限りの征服下に置き、これ以上自分たちキリスト教徒の放辟邪侈
のツケを押し付けるような「外界」がどこにもなくなってしまった今、ついに、欧米キリスト教徒
たち自身こそは、自分たちの全ての過ちの責任を自分たちで負わなければならなくなった。
「外界侵略による利益の収奪」を「領域外からの超越者による救い」に摩り替えて、自分たちの
救いを邪教信仰に追い求め続けて来たツケが今、否応なく全てはね返ってくることとなった。
それは、この世界、この宇宙の大局構造に即して原理的に免れられないことであるのと同時に、
倫理的にはむしろ好ましいことである。国家規模、社会規模の破綻を頻繁に繰り返さねばならない
ほどにも我田引水が蔓延してしまっているような世の中こそは、恒常的に不幸まみれの世の中であり、
そのような世の中の存続を無理やりにでも助長して来たような理念上の超越神からして、人間にとって
は不幸の元凶となる邪神でしかなかったわけだから、そのような邪神が全く以って実在しないことが
証明され、そのような邪神に仮託した外界侵略を企てる余地が絶やされたのも、好ましいことである。
してみたところで、そんなものにばかり頼って、一定領域内での我田引水ばかりを激化させ
ようとしたりすること自体が不誠実の至りであり、人間としての不幸の積み重ねでしかない。
「利害反するあり」という状態をできる限り排して、人災による餓死者なども根絶できた
ような世の中における人々のほうが、我田引水餓死まみれの世の中における最大級の利益的
成功者などよりもさらに恒常的に幸せであるのだから、濁世の権力犯罪者にすら救いの余地を
与えようとするような超越者の存在からして、人々の不幸を助長するものでしかないといえる。
そしてそのような、人々にとっての甚大なる不幸の元凶となる超越者の存在などを絶対に想定
できなくなったのが、今というこの時代この瞬間である。かつてのヨーロッパの小国ぐらいで
あれば、まだ自国の破綻のツケを外界に回すことなども容易だった。欧英から数多の侵略者が外界
へと進出し始めた大航海時代にも、まだキリスト教圏の破綻のツケを外界に押し付けることができた。
世界中のほぼ全ての国土を可能な限りの征服下に置き、これ以上自分たちキリスト教徒の放辟邪侈
のツケを押し付けるような「外界」がどこにもなくなってしまった今、ついに、欧米キリスト教徒
たち自身こそは、自分たちの全ての過ちの責任を自分たちで負わなければならなくなった。
「外界侵略による利益の収奪」を「領域外からの超越者による救い」に摩り替えて、自分たちの
救いを邪教信仰に追い求め続けて来たツケが今、否応なく全てはね返ってくることとなった。
それは、この世界、この宇宙の大局構造に即して原理的に免れられないことであるのと同時に、
倫理的にはむしろ好ましいことである。国家規模、社会規模の破綻を頻繁に繰り返さねばならない
ほどにも我田引水が蔓延してしまっているような世の中こそは、恒常的に不幸まみれの世の中であり、
そのような世の中の存続を無理やりにでも助長して来たような理念上の超越神からして、人間にとって
は不幸の元凶となる邪神でしかなかったわけだから、そのような邪神が全く以って実在しないことが
証明され、そのような邪神に仮託した外界侵略を企てる余地が絶やされたのも、好ましいことである。
人類にとって、「一度は不幸を極める」ということも、もしかしたら必要なことだったのかもしれない。
宋代以降や明治以降、中国や日本が甚大な文化的文明的な侵略を被って来たことも、それ以前に
栄光の歴史ばかりを歩み続けていたことに対するカウンターバランスの補完として役立ったとは
いえるぐらいに、この世界に人々の不幸ばかりを助長する邪教が振興して、一時は全世界をも
不幸の渦に巻き込んだことも、地球人類にとってのショック療法的なクスリになったのかもしれない。
今ここで、かの邪教集団が完全なる棄教を決断して、「信仰存続による人類滅亡か、棄教による人類存続か」
という危機を乗り越えて人類の存続に寄与し、実際に今後も人類が存続や繁栄を遂げていくことができたと
したなら、いつかは上のような評価を受けるようなことがあるかもしれない。スポーツ選手などにとっては
怪我や病気が損失になるばかりだが、武道修練者などにとっては、技の修練に際して負った腰痛や筋違い
などの支障が、かえって技を修正するいい機縁になったりする。人類がこれからスポーツ選手ではなく
武道修練者のような心がけで世の中を営んでいくのなら、邪教の蔓延に基づく今の世の中の腐敗すら、
何らかの向上のための材料として、転用していけるようなことがあるかもしれないのである。
「三代の天下を得るや仁を以ってし、其の天下を失うや不仁を以ってせり。国の以って廃興存亡する所の者も
亦た然り。天子不仁なれば四海は保んぜず、諸侯不仁なれば社稷は保んぜず、卿大夫不仁なれば宗廟は保んぜず、
士庶人不仁なれば四体も保んぜず。今死亡を悪みて不仁を楽しむは、是れ猶お醉いを悪みて酒を強うるが如し」
「夏殷周三代の大国が興ったのは仁に依り、その天下を失ったのは不仁に依る。その他の国々が存亡興廃したりする
のも全くこれと同じ理由に依る。天子が不仁であれば諸国が保たれず、諸国の王侯が不仁であれば社稷が保たれず、
卿大夫が不仁であれば宋廟が保たれず、下士庶民が不仁であればその四体もろくに保たれない。自分個人の死を憎み
嫌いながら不仁を楽しんだりするのは、まるで酔うのを嫌いながら酒を強いるようなもので、全く理に適っていない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・三より)
宋代以降や明治以降、中国や日本が甚大な文化的文明的な侵略を被って来たことも、それ以前に
栄光の歴史ばかりを歩み続けていたことに対するカウンターバランスの補完として役立ったとは
いえるぐらいに、この世界に人々の不幸ばかりを助長する邪教が振興して、一時は全世界をも
不幸の渦に巻き込んだことも、地球人類にとってのショック療法的なクスリになったのかもしれない。
今ここで、かの邪教集団が完全なる棄教を決断して、「信仰存続による人類滅亡か、棄教による人類存続か」
という危機を乗り越えて人類の存続に寄与し、実際に今後も人類が存続や繁栄を遂げていくことができたと
したなら、いつかは上のような評価を受けるようなことがあるかもしれない。スポーツ選手などにとっては
怪我や病気が損失になるばかりだが、武道修練者などにとっては、技の修練に際して負った腰痛や筋違い
などの支障が、かえって技を修正するいい機縁になったりする。人類がこれからスポーツ選手ではなく
武道修練者のような心がけで世の中を営んでいくのなら、邪教の蔓延に基づく今の世の中の腐敗すら、
何らかの向上のための材料として、転用していけるようなことがあるかもしれないのである。
「三代の天下を得るや仁を以ってし、其の天下を失うや不仁を以ってせり。国の以って廃興存亡する所の者も
亦た然り。天子不仁なれば四海は保んぜず、諸侯不仁なれば社稷は保んぜず、卿大夫不仁なれば宗廟は保んぜず、
士庶人不仁なれば四体も保んぜず。今死亡を悪みて不仁を楽しむは、是れ猶お醉いを悪みて酒を強うるが如し」
「夏殷周三代の大国が興ったのは仁に依り、その天下を失ったのは不仁に依る。その他の国々が存亡興廃したりする
のも全くこれと同じ理由に依る。天子が不仁であれば諸国が保たれず、諸国の王侯が不仁であれば社稷が保たれず、
卿大夫が不仁であれば宋廟が保たれず、下士庶民が不仁であればその四体もろくに保たれない。自分個人の死を憎み
嫌いながら不仁を楽しんだりするのは、まるで酔うのを嫌いながら酒を強いるようなもので、全く理に適っていない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・三より)
犯罪聖書スレの常駐員に聞け。
「浸潤の譖り、膚受の愬え、行われざるは、明と謂う可きなるのみ。
浸潤の譖り、膚受の愬え、行われざるは、遠きと謂う可きなるのみ」
「心にじわじわと染み込んで来るような陰湿な悪口や、肌身に突き刺さってくるような痛烈な訴えといえども
通用させないようであれば、聡明であるといえるだろう。心にじわじわと染み込んで来るような陰湿な悪口や、
肌身に突き刺さってくるような痛烈な訴えといえども通用させないようであれば、遠慮が効いているといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・六より)
四書五経中にも、「孔子が妾腹の私生児だった」ということが明記されているわけではない。
孔子自身、「若い頃自分は卑しかった(子罕第九・六)」と言っているし、孟子も「孤立した臣下や妾腹の子は
注意力を高めて上達する場合がある(尽心章句上・一八)」と言っているなど、暗に孔子が妾腹の私生児で
あったことを示唆するような記述はいくらかある。そうであったことが明記されているのは「史記」孔子世家などであり、
何でもかんでも根掘り葉掘り書き立てている「史記」の記録姿勢も、必ずしも儒者に手放しに評価されているわけではない。
特に孔子自身の「若い頃自分は卑しかった」という独白は、自分が妾腹の私生児の如き境遇に生まれ育ったことを
卑下した言葉として特筆に価する。本人自身がこう言うからには、周囲の人間も不遇な生まれつきに対する同情などを
抱く必要もない。もしも妾腹の私生児という生まれ付きを「神の子」だなどと自称したなら、それによってある者からは
同情を買い、またある者からは顰蹙を買うといったような、不埒な扇情を催したに違いないわけだが、孔子はそのような
選択肢をキッパリと斬り捨てて、無闇に人からの同情を買ったりすることの不適切さを上記のような言葉で戒めもしたのである。
浸潤の譖り、膚受の愬え、行われざるは、遠きと謂う可きなるのみ」
「心にじわじわと染み込んで来るような陰湿な悪口や、肌身に突き刺さってくるような痛烈な訴えといえども
通用させないようであれば、聡明であるといえるだろう。心にじわじわと染み込んで来るような陰湿な悪口や、
肌身に突き刺さってくるような痛烈な訴えといえども通用させないようであれば、遠慮が効いているといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・六より)
四書五経中にも、「孔子が妾腹の私生児だった」ということが明記されているわけではない。
孔子自身、「若い頃自分は卑しかった(子罕第九・六)」と言っているし、孟子も「孤立した臣下や妾腹の子は
注意力を高めて上達する場合がある(尽心章句上・一八)」と言っているなど、暗に孔子が妾腹の私生児で
あったことを示唆するような記述はいくらかある。そうであったことが明記されているのは「史記」孔子世家などであり、
何でもかんでも根掘り葉掘り書き立てている「史記」の記録姿勢も、必ずしも儒者に手放しに評価されているわけではない。
特に孔子自身の「若い頃自分は卑しかった」という独白は、自分が妾腹の私生児の如き境遇に生まれ育ったことを
卑下した言葉として特筆に価する。本人自身がこう言うからには、周囲の人間も不遇な生まれつきに対する同情などを
抱く必要もない。もしも妾腹の私生児という生まれ付きを「神の子」だなどと自称したなら、それによってある者からは
同情を買い、またある者からは顰蹙を買うといったような、不埒な扇情を催したに違いないわけだが、孔子はそのような
選択肢をキッパリと斬り捨てて、無闇に人からの同情を買ったりすることの不適切さを上記のような言葉で戒めもしたのである。
実際、妾腹の子だとか私生児だとか、寡婦だとか鰥夫だとかいった境遇は、無いに越したことのないものであるには違いない。
孟子の言うとおり、孔子が妾腹の私生児としての不遇をバネにして礼学者として大成したのも確かなことである。しかし、
妾腹の私生児が不遇をバネにしてまで、仁義礼楽を体系化しなければならなかったのは、春秋時代末期という当時の世相が、
今にも正統な礼楽刑政の風習が途絶えようとしていた濁世であったからで、実際、春秋時代と共に周朝は滅亡し、
中国史上でも最悪級の乱世である戦国時代へと、中国全土が突入していくことともなったのである。
そこからまた時代が移り変わって、漢代に撥乱反正の治世が中原に広められた頃、今度は、別に生まれ育ちが特段不遇だったり
するわけでもないような数多の儒者たちが治世の確立に貢献もしたのだった。それは当時の中国が、妾腹の私生児までもが
超人的な能力を発揮して礼楽の保護に努めなければならないほど、荒んだ時代でもなかったからだ、孔子が興した儒学と
いえども、その本領が発揮されたのはそのような、むしろ孔子級の働きまでは必要とされなかった時代だったのである。
なればこそ、いつの時代といえども、己れの不遇を嵩にかかっての同情売りなどは、控えて然るべきものなのだといえる。
不遇をバネにした大成こそがものを言うような乱世においても、むしろそのような能力に基づく実物の業績を挙げることに
専らであるべきだし、そんな能力の発揮がものを言うわけでもない治世においては、もはや不遇にある人間こそがその
存在価値を買われるべきなどということもないわけだから、これまたそんな人間が出しゃばる余地は無いのだといえる。
故に、「痛烈な同情売りなど通用させないでこそ聡明である」という孔子の発言もまた普遍的であることが分かるのである。
孟子の言うとおり、孔子が妾腹の私生児としての不遇をバネにして礼学者として大成したのも確かなことである。しかし、
妾腹の私生児が不遇をバネにしてまで、仁義礼楽を体系化しなければならなかったのは、春秋時代末期という当時の世相が、
今にも正統な礼楽刑政の風習が途絶えようとしていた濁世であったからで、実際、春秋時代と共に周朝は滅亡し、
中国史上でも最悪級の乱世である戦国時代へと、中国全土が突入していくことともなったのである。
そこからまた時代が移り変わって、漢代に撥乱反正の治世が中原に広められた頃、今度は、別に生まれ育ちが特段不遇だったり
するわけでもないような数多の儒者たちが治世の確立に貢献もしたのだった。それは当時の中国が、妾腹の私生児までもが
超人的な能力を発揮して礼楽の保護に努めなければならないほど、荒んだ時代でもなかったからだ、孔子が興した儒学と
いえども、その本領が発揮されたのはそのような、むしろ孔子級の働きまでは必要とされなかった時代だったのである。
なればこそ、いつの時代といえども、己れの不遇を嵩にかかっての同情売りなどは、控えて然るべきものなのだといえる。
不遇をバネにした大成こそがものを言うような乱世においても、むしろそのような能力に基づく実物の業績を挙げることに
専らであるべきだし、そんな能力の発揮がものを言うわけでもない治世においては、もはや不遇にある人間こそがその
存在価値を買われるべきなどということもないわけだから、これまたそんな人間が出しゃばる余地は無いのだといえる。
故に、「痛烈な同情売りなど通用させないでこそ聡明である」という孔子の発言もまた普遍的であることが分かるのである。
人間は救われるためではなく、救われなければならないような破滅的事態に
自らが遭遇したりしないためにこそ、断悪修善や勧善懲悪をこころがけるものである。
それにより悪因苦果を避けて善因楽果にも与り、人として最大級の福利厚生をも得るのである。
たとえ救われるとしたって、救われなければならないような事態に陥ってしまっていること
自体がすでに比較的不幸なことであり、救われない場合と比べてもさして変わらないほどに、
本人たち自身の心性が悪因苦果にまみれてしまっていることに変わりはない。
全世界が破滅的な事態に見舞われて、誰一人として「救われるか救われないか」という二者択一
から逃れられないような状態になってしまっているとすれば、これはもう、どこにも断悪修善や
勧善懲悪を実行できる余地がなくなってしまっているに違いなく、多少善行を為しているらしい
ような人間がいたところで、所詮は悪行以内の偽善行しか為せていないに違いないのである。
誰も本当の善悪の分別が付かなくなってしまっているような状況では、誰も本当の善行が
できなくなる。善行というのは、遠方の的に矢を命中させるようなもので、メクラ滅法に
矢を放ったからといって命中したりはしないのと同じように、善悪の分別もないままに
一概な善行を為せたりすることもありはしない。だから、いっさい善悪の分別が付けられなく
なってしまっているような世の中において、善行を為して行ける人間もまたあり得はしない。
しかし、実際問題、絶対真理にも即した普遍的な善悪の分別というものは実在していて、
誰か一人でもそれに気づいた途端に、全世界が「救われるまでもなくて済む世の中」となる。
救われるか救われないかなんていう所に全てを還元すること自体がひどく低レベルなこととなり、
そんな所に話を集約させようとする連中全員が大恥をかかせられるようなことにもなる。
自らが遭遇したりしないためにこそ、断悪修善や勧善懲悪をこころがけるものである。
それにより悪因苦果を避けて善因楽果にも与り、人として最大級の福利厚生をも得るのである。
たとえ救われるとしたって、救われなければならないような事態に陥ってしまっていること
自体がすでに比較的不幸なことであり、救われない場合と比べてもさして変わらないほどに、
本人たち自身の心性が悪因苦果にまみれてしまっていることに変わりはない。
全世界が破滅的な事態に見舞われて、誰一人として「救われるか救われないか」という二者択一
から逃れられないような状態になってしまっているとすれば、これはもう、どこにも断悪修善や
勧善懲悪を実行できる余地がなくなってしまっているに違いなく、多少善行を為しているらしい
ような人間がいたところで、所詮は悪行以内の偽善行しか為せていないに違いないのである。
誰も本当の善悪の分別が付かなくなってしまっているような状況では、誰も本当の善行が
できなくなる。善行というのは、遠方の的に矢を命中させるようなもので、メクラ滅法に
矢を放ったからといって命中したりはしないのと同じように、善悪の分別もないままに
一概な善行を為せたりすることもありはしない。だから、いっさい善悪の分別が付けられなく
なってしまっているような世の中において、善行を為して行ける人間もまたあり得はしない。
しかし、実際問題、絶対真理にも即した普遍的な善悪の分別というものは実在していて、
誰か一人でもそれに気づいた途端に、全世界が「救われるまでもなくて済む世の中」となる。
救われるか救われないかなんていう所に全てを還元すること自体がひどく低レベルなこととなり、
そんな所に話を集約させようとする連中全員が大恥をかかせられるようなことにもなる。
全世界が「救われるまでもなくて済む世の中」であるからには、
救われるか救われないかで言えば、みんな救われるのである。
阿弥陀如来が普遍的な善悪の分別に即した自力作善によって
救済を尽くしたなら、全世界の誰しもが救われる。自ら救済を拒むほどもの
愚人でもない限りは誰でも救われ得るから、万人救済を当たり前の大前提として、
親鸞聖人も「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と述べられたのである。
「救われるか救われないか」ばかりに全てを集約させてものを考えているうちは、
そんなことは思いもよらない。そういう風にしかものを考えられないのは、
自分自身がまともに善悪の分別も付けられないままでいるからだ。正しい倫理的判断に
即するなら、立派な公職であると見なさねばならない徴税者を「罪人」扱いしたりする
ほどにも、自分自身が善悪の分別など思いもよらない愚人となってしまっているからだ。
卒業すべきは、その蒙昧である。
「救われるか救われないか」の範囲でしか何も考えることができない、
末期状態のギャンブラー並みに危うい心理状態からこそ、もう脱却して行かなければならない。
その危うさこそが、本来はあり得もしないような危難すらをもわざわざ呼び込んでいるのだから、
そのような自業自得の危難から人々を救ってやろうとするような神もまた、邪神であることが
確かである。人々を救済する神というのは表向きだけで、実際には、人々の自業自得の苦難を
増長させる禍いの神でこそあるのだから、もうそんな神を意識すらすべきでないのである。
「天、有徳を命ず、五服五章なる哉。天、有罪を討つ、五刑五用なる哉。政事懋まん哉、懋まん哉」
「天は有徳者を高位に命じることを望んでおられるようですので、五段階の等級を分けて命じましょう。
天は有罪者を討伐することを望んでおられるようですので、これも五段階の等級を分けて罰しましょう。
さあ、政事に励みましょうや、励みましょうや。(罪と別のものとして徳を見定め、そこに罪状並みの
等級分けすら行っている。漢字で『徳』と表記する東洋的、積極的徳の原形であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)
救われるか救われないかで言えば、みんな救われるのである。
阿弥陀如来が普遍的な善悪の分別に即した自力作善によって
救済を尽くしたなら、全世界の誰しもが救われる。自ら救済を拒むほどもの
愚人でもない限りは誰でも救われ得るから、万人救済を当たり前の大前提として、
親鸞聖人も「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と述べられたのである。
「救われるか救われないか」ばかりに全てを集約させてものを考えているうちは、
そんなことは思いもよらない。そういう風にしかものを考えられないのは、
自分自身がまともに善悪の分別も付けられないままでいるからだ。正しい倫理的判断に
即するなら、立派な公職であると見なさねばならない徴税者を「罪人」扱いしたりする
ほどにも、自分自身が善悪の分別など思いもよらない愚人となってしまっているからだ。
卒業すべきは、その蒙昧である。
「救われるか救われないか」の範囲でしか何も考えることができない、
末期状態のギャンブラー並みに危うい心理状態からこそ、もう脱却して行かなければならない。
その危うさこそが、本来はあり得もしないような危難すらをもわざわざ呼び込んでいるのだから、
そのような自業自得の危難から人々を救ってやろうとするような神もまた、邪神であることが
確かである。人々を救済する神というのは表向きだけで、実際には、人々の自業自得の苦難を
増長させる禍いの神でこそあるのだから、もうそんな神を意識すらすべきでないのである。
「天、有徳を命ず、五服五章なる哉。天、有罪を討つ、五刑五用なる哉。政事懋まん哉、懋まん哉」
「天は有徳者を高位に命じることを望んでおられるようですので、五段階の等級を分けて命じましょう。
天は有罪者を討伐することを望んでおられるようですので、これも五段階の等級を分けて罰しましょう。
さあ、政事に励みましょうや、励みましょうや。(罪と別のものとして徳を見定め、そこに罪状並みの
等級分けすら行っている。漢字で『徳』と表記する東洋的、積極的徳の原形であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)
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細胞が燃えて焼け死ねば、その時に炎が光を発するし、腐乱した遺体から抜け出た
リンが化学反応を起こして光ることもある。(これが人魂伝説の正体ともされる)
むしろ死してこそ人は光を発する一方、存命中に自らが光り輝くようなことはないのだから、
実相に即して考えてみるならば、「永遠の命」などを光に見立てるのは倒錯だといえる一方、
「不生不滅」の悟りの境地を光に見立てたりするのは、別に間違ったことでもないといえる。
夜光生物なら命を光に見立てていいのかといえば、それもそんなに適切なことではない。
ホタルやホタルイカなどの発光部位も、心臓などの命を司る部位であるわけではないわけで、
命というものそれ自体が光と等価である実例にまでなっているわけではない。
命は、光でもなければ闇でもない、この世界で最も有機的な物体である。物体だから完全に
唯物的に扱っていいというわけでもなく、物体でありながら光や闇に強く感化される所がある。
人体が植物の葉緑体のように光合成を行うわけではないが、目に光を見て何かを感じ、
肌に光を浴びて温もりを感じるようなことがある。そういった光の享受の仕方や、逆に
光を避けることでの闇の享受の仕方が、人々の生き方にまで多大なる影響を及ぼしている。
達磨大師が、若い頃に見事な宝玉を見て「確かに美しいですが、この宝玉そのものが輝いて
いるわけではありません。もっと大切なものが他にあるはずです」と述べたという伝説など、
光に対する実相的な把握が秀逸だった好例となっている。上に述べたとおり、命というものもまた、
基本は光り輝くものではない。むしろドロドロジメジメとした陰湿な血肉の塊であり、それが
美女などの形で美しく見えることがあったとしても、あくまで外部から光を受けてこそのことである。
食物を摂ることで熱エネルギーが命に換わるが、その食物が実り育つ上での最大級の熱源となっている
のも太陽であり、人は光り輝く太陽に依存しきることで、辛うじて陰湿な命を繋いでいるのだといえる。
光というものを根源的なもの、本質的なものと捉えるのは、間違ったことではない。ただ、その光が
実際上どこを根源としているのかを見極めるか、見損なうかで、人の品性も極端に遠ざかってしまう。
太陽のような本物の光源を見極められている者こそは、達磨のように品性を磨き上げられもする一方、
本物の光源というものが見極められず、こじ付けで自分自身の命などを光源として扱ってしまったり
したなら、そのせいで不健全な自意識過剰を募らせて、かえって品性を下落させてしまったりもする。
命は光そのものではなく、外部から光を受けて生かされているものであるということをわきまえられてこそ、
命というものを本当に適切に扱えるようにもなる。無闇に偏重も軽んじもせず、時宜に即して至極適正に
扱えるようになる。そしたら、一方では巨万の富を退蔵しての放辟邪侈、一方ではなけなしの食糧にすら
与れなくての大量餓死なんていうような、狂いきった世相を根本から是正していけるようにもなったりする。
命が光そのものなのではなく、外部からの光を反射して輝くようなことがあるのみであるという
事実関係を諾うことができればこそ、人は本物の光をも知るのである。崇めるに値する本物の
光源を知り、そこに崇敬の念を注ぐことで、偽りのない誇りや、心からの安楽をも得るのである。
諸々の動物ですら、日向ぼっこをするぐらいのことはある。本物の光源を取り違えたりしない度合いでは、
人間よりも動物のほうが上ですらある。動物よりも知能で優れているはずの人間のほうが、知能面で事実誤認の
過ちを犯すことがあるわけで、それぐらいは克服できてこそ、人間も万物の霊長と見なすに値するといえる。
のも太陽であり、人は光り輝く太陽に依存しきることで、辛うじて陰湿な命を繋いでいるのだといえる。
光というものを根源的なもの、本質的なものと捉えるのは、間違ったことではない。ただ、その光が
実際上どこを根源としているのかを見極めるか、見損なうかで、人の品性も極端に遠ざかってしまう。
太陽のような本物の光源を見極められている者こそは、達磨のように品性を磨き上げられもする一方、
本物の光源というものが見極められず、こじ付けで自分自身の命などを光源として扱ってしまったり
したなら、そのせいで不健全な自意識過剰を募らせて、かえって品性を下落させてしまったりもする。
命は光そのものではなく、外部から光を受けて生かされているものであるということをわきまえられてこそ、
命というものを本当に適切に扱えるようにもなる。無闇に偏重も軽んじもせず、時宜に即して至極適正に
扱えるようになる。そしたら、一方では巨万の富を退蔵しての放辟邪侈、一方ではなけなしの食糧にすら
与れなくての大量餓死なんていうような、狂いきった世相を根本から是正していけるようにもなったりする。
命が光そのものなのではなく、外部からの光を反射して輝くようなことがあるのみであるという
事実関係を諾うことができればこそ、人は本物の光をも知るのである。崇めるに値する本物の
光源を知り、そこに崇敬の念を注ぐことで、偽りのない誇りや、心からの安楽をも得るのである。
諸々の動物ですら、日向ぼっこをするぐらいのことはある。本物の光源を取り違えたりしない度合いでは、
人間よりも動物のほうが上ですらある。動物よりも知能で優れているはずの人間のほうが、知能面で事実誤認の
過ちを犯すことがあるわけで、それぐらいは克服できてこそ、人間も万物の霊長と見なすに値するといえる。
「先君の令徳を光昭けくせんこと、務めざる可けんや。吾が子、其れ先君の功を廃つること無かれ」
「先君から引き継いだこの令徳を、光の如く明らかにすることにどうして務めないでおれようか。
我が子たちよ、おまえたちも決して先君の功業を打ち捨てて勝手を働いたりすることがないように。
(先祖の威徳を『光』に譬えているが、やはり自分一身の命などは超えた所にあるとされる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公三年より)
「先君から引き継いだこの令徳を、光の如く明らかにすることにどうして務めないでおれようか。
我が子たちよ、おまえたちも決して先君の功業を打ち捨てて勝手を働いたりすることがないように。
(先祖の威徳を『光』に譬えているが、やはり自分一身の命などは超えた所にあるとされる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公三年より)
「目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)」が復讐なら、
「直きを以って怨みに報う(憲問第十四・三六)」もまた一種の復讐である。
違うのは、前者が完全なる同態復讐である一方で、後者はそうとも限らない復讐であるという点である。
「直きを以って怨みに報う」といえども、ほぼ同態復讐となる場合があり得る。
親を殺された場合の仇討ちが果たされて、犯人が殺された上に、その犯人に子供がいたならば、その
子供にとっては「親殺しの復讐で自分の親が殺された」ということになる。「父母の仇とは天下を共にせず」
と「礼記」檀弓上第三にもあるとおり、純正な人間道徳に基づいても、親殺しに対する復讐は相手の殺害
ですらあるべきもので、これこそは「直きを以って怨みに報う」が同態復讐に近似する特例ともなっている。
一方で、「直きを以って怨みに報う」は、同態復讐よりは道義的である場合がほとんどである。
強盗をされたからといって自分が強盗をやり返したりするのではなく、犯人を裁きにかけて、
強奪物を返品させたり、相応の処罰を科したりする。犯罪に対する復讐に道義性を帯びさせたのが
正式な刑罰であり、それが「目には目を、歯には歯を」そのものであるとも限らない。
江戸時代の日本のように、五十両(約三百万円)の金を盗めば死罪となることもあった。
これは同態復讐以上にも過酷な刑罰だったように思われるかもしれないが、当時、
食い扶持に困った女子が身売りをする場合の相場が約五十両だったとされ、人の生き死にを
左右する最低限の金額が五十両だったわけである。故に、五十両を盗むものは殺人同然の
罪を犯したものとされ、同態復讐と同等の裁量に即して死罪に処されたのである。
親殺しを以って親殺しに報う程の場合か、それよりはより法的な手続きを踏む場合かに関わらず、
「直きを以って怨みに報う」に基づく報復も、同態復讐並みに厳酷である場合がほとんどである。
ただ、同態復讐と決定的に違うのは、過剰報復を一貫して避けるという点である。
「直きを以って怨みに報う(憲問第十四・三六)」もまた一種の復讐である。
違うのは、前者が完全なる同態復讐である一方で、後者はそうとも限らない復讐であるという点である。
「直きを以って怨みに報う」といえども、ほぼ同態復讐となる場合があり得る。
親を殺された場合の仇討ちが果たされて、犯人が殺された上に、その犯人に子供がいたならば、その
子供にとっては「親殺しの復讐で自分の親が殺された」ということになる。「父母の仇とは天下を共にせず」
と「礼記」檀弓上第三にもあるとおり、純正な人間道徳に基づいても、親殺しに対する復讐は相手の殺害
ですらあるべきもので、これこそは「直きを以って怨みに報う」が同態復讐に近似する特例ともなっている。
一方で、「直きを以って怨みに報う」は、同態復讐よりは道義的である場合がほとんどである。
強盗をされたからといって自分が強盗をやり返したりするのではなく、犯人を裁きにかけて、
強奪物を返品させたり、相応の処罰を科したりする。犯罪に対する復讐に道義性を帯びさせたのが
正式な刑罰であり、それが「目には目を、歯には歯を」そのものであるとも限らない。
江戸時代の日本のように、五十両(約三百万円)の金を盗めば死罪となることもあった。
これは同態復讐以上にも過酷な刑罰だったように思われるかもしれないが、当時、
食い扶持に困った女子が身売りをする場合の相場が約五十両だったとされ、人の生き死にを
左右する最低限の金額が五十両だったわけである。故に、五十両を盗むものは殺人同然の
罪を犯したものとされ、同態復讐と同等の裁量に即して死罪に処されたのである。
親殺しを以って親殺しに報う程の場合か、それよりはより法的な手続きを踏む場合かに関わらず、
「直きを以って怨みに報う」に基づく報復も、同態復讐並みに厳酷である場合がほとんどである。
ただ、同態復讐と決定的に違うのは、過剰報復を一貫して避けるという点である。
たとえばの話、自分が強盗に全財産を奪われたとする。だからといって自分も相手の全財産を
奪い返したとしたなら、かえって自分の財産が増える場合もある。奪われた財産と、強盗自身の財産とを
合わせてより財産が増したりすることになるわけだが、これは「全財産収奪には全財産収奪を」という
同態復讐にはなっている。「直きを以って怨みに報う」んなら、決してこんなことはあってはならない。
「他者の犯罪行為をさらなる利殖の手がかりとする」などということは絶対にないようにしなければならない。
イラクが外国を侵略したからといって、なぜかアメリカがイラクの石油利権を奪取し、
エジプトやリビアで体制革命があったからといって、なぜかEU主体のNATO軍が軍産利権をせしめる。
「直きを以って怨みに報う」のなら、決してそんなことはあり得ないことのはずで、
所詮、「目には目を、歯には歯を」や「右の頬を打たれれば左の頬も差し出せ」レベルの
低劣な倫理観しか持ち合わせていないままでいるような未開領域での恥辱沙汰だったのだといえる。
「直きを以って怨みに報う」という倫理観こそが、「目には目を、歯に歯を」という倫理観の欠陥性を
白日の下にさらけ出している。後者の同態復讐も、それだけを聞けば最もな教条のように思われたりもするが、
所詮は上記のような問題を来たしてしまうことがあるわけだから、同態復讐ばかりを凶事処理の原則などに
していてはならないことが分かる。当然、だからといって「右の頬を打たれれば左の頬も差し出せ」でいい
わけもない。「直きを以って怨みに報う」か、さもなくば「徳を以って怨みに報う」か。己れの徳によって
怨み沙汰を立ち消えにさせられるほどでもないのなら、正直を第一として凶事を処するに越したことはないのである。
奪い返したとしたなら、かえって自分の財産が増える場合もある。奪われた財産と、強盗自身の財産とを
合わせてより財産が増したりすることになるわけだが、これは「全財産収奪には全財産収奪を」という
同態復讐にはなっている。「直きを以って怨みに報う」んなら、決してこんなことはあってはならない。
「他者の犯罪行為をさらなる利殖の手がかりとする」などということは絶対にないようにしなければならない。
イラクが外国を侵略したからといって、なぜかアメリカがイラクの石油利権を奪取し、
エジプトやリビアで体制革命があったからといって、なぜかEU主体のNATO軍が軍産利権をせしめる。
「直きを以って怨みに報う」のなら、決してそんなことはあり得ないことのはずで、
所詮、「目には目を、歯には歯を」や「右の頬を打たれれば左の頬も差し出せ」レベルの
低劣な倫理観しか持ち合わせていないままでいるような未開領域での恥辱沙汰だったのだといえる。
「直きを以って怨みに報う」という倫理観こそが、「目には目を、歯に歯を」という倫理観の欠陥性を
白日の下にさらけ出している。後者の同態復讐も、それだけを聞けば最もな教条のように思われたりもするが、
所詮は上記のような問題を来たしてしまうことがあるわけだから、同態復讐ばかりを凶事処理の原則などに
していてはならないことが分かる。当然、だからといって「右の頬を打たれれば左の頬も差し出せ」でいい
わけもない。「直きを以って怨みに報う」か、さもなくば「徳を以って怨みに報う」か。己れの徳によって
怨み沙汰を立ち消えにさせられるほどでもないのなら、正直を第一として凶事を処するに越したことはないのである。
「独夫受、洪いに惟れ威を作す、乃ち汝じの世仇なり。徳を樹つるには滋を務め、
悪を除くには本を務む。肆に予れ小子、誕いに爾じら衆士を以って、乃じの仇を殄殲せん」
「あの、天から見放された哀れな男(紂王)は、無益に粗暴な威を振るい、諸君たちにとっての先祖代々の
仇となって来た。徳を育てるにはじっくりと根気よく努めねばならず、悪を除くにはその根本から根こそぎで
なければならぬ。故に私は、諸君らのごとき壮士を引き連れて、諸君らの仇を討ち果たすのである。
(あらゆる復讐の内でも、権力犯罪者の如き巨悪に対する復習こそは『根こそぎ』でなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
悪を除くには本を務む。肆に予れ小子、誕いに爾じら衆士を以って、乃じの仇を殄殲せん」
「あの、天から見放された哀れな男(紂王)は、無益に粗暴な威を振るい、諸君たちにとっての先祖代々の
仇となって来た。徳を育てるにはじっくりと根気よく努めねばならず、悪を除くにはその根本から根こそぎで
なければならぬ。故に私は、諸君らのごとき壮士を引き連れて、諸君らの仇を討ち果たすのである。
(あらゆる復讐の内でも、権力犯罪者の如き巨悪に対する復習こそは『根こそぎ』でなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
自分が加害者となるのであれ被害者となるのであれ、「害為」を是として
それを信仰対象とすらするのであれば、それは「害為正法外道」である。
この名で呼べば、大抵の人間は「そんなものが許されていいはずがない」と
考えるに違いないわけだが、「自分が他者に迫害されることを是とする」と聞けば、
それも害為正法外道であるにもかかわらず、あまり悪く思えなかったりするのである。
兵事だ武事だも、害為正法外道的な理念に即して執り行われる場合もあれば、
あくまで平和主義に即して執り行われる場合もある。前者は覇道となる一方、
後者は王道となり、人倫に即するなら覇道よりも王道のほうが優位なものとされる。
ただ、人倫に即して王道のほうが優位だからといって、必ずしも王道のほうが
覇道よりも強いとは限らない。徹底した平和主義でいた周文王を殷の紂王は
幽閉などの迫害下に置き、>>163にあるような暴威をふるってもいた。それでも
文王自身は紂王との反目などを徹底して避け、幽閉された中での易占によって
「明夷は艱貞に利あり(不当な迫害下においては正しきを貫くものに天が利する)」
という結果をも得た。そのまま文王は紂王への臣従を貫いたままで死するも、
文王の徳を慕って天下全土の諸国が周の味方に付き、文王の息子の武王を立てて
殷を放伐し、中国史上最長の王朝である周朝を創建させもしたのだった。このような
事実から考えるに、確かに王道は覇道よりも弱小である場合もあり得るが、だからと
いって覇道が王道を迫害下に置いたりするようなら、それにより王道のほうが力を付けて、
最終的に王道のほうが強大さでも覇道を上回り、覇道に勝つことになるのだといえる。
一時的に覇道の強大さが王道を上回ることがあっても、最終的には王道が勝つということは、
害為正法外道的な理念に基づく武威の振りかざしもまた、一時的に害為否定者のそれを
上回るようなことがあったとした所で、いつかは敗れ去ってしまうということである。
それを信仰対象とすらするのであれば、それは「害為正法外道」である。
この名で呼べば、大抵の人間は「そんなものが許されていいはずがない」と
考えるに違いないわけだが、「自分が他者に迫害されることを是とする」と聞けば、
それも害為正法外道であるにもかかわらず、あまり悪く思えなかったりするのである。
兵事だ武事だも、害為正法外道的な理念に即して執り行われる場合もあれば、
あくまで平和主義に即して執り行われる場合もある。前者は覇道となる一方、
後者は王道となり、人倫に即するなら覇道よりも王道のほうが優位なものとされる。
ただ、人倫に即して王道のほうが優位だからといって、必ずしも王道のほうが
覇道よりも強いとは限らない。徹底した平和主義でいた周文王を殷の紂王は
幽閉などの迫害下に置き、>>163にあるような暴威をふるってもいた。それでも
文王自身は紂王との反目などを徹底して避け、幽閉された中での易占によって
「明夷は艱貞に利あり(不当な迫害下においては正しきを貫くものに天が利する)」
という結果をも得た。そのまま文王は紂王への臣従を貫いたままで死するも、
文王の徳を慕って天下全土の諸国が周の味方に付き、文王の息子の武王を立てて
殷を放伐し、中国史上最長の王朝である周朝を創建させもしたのだった。このような
事実から考えるに、確かに王道は覇道よりも弱小である場合もあり得るが、だからと
いって覇道が王道を迫害下に置いたりするようなら、それにより王道のほうが力を付けて、
最終的に王道のほうが強大さでも覇道を上回り、覇道に勝つことになるのだといえる。
一時的に覇道の強大さが王道を上回ることがあっても、最終的には王道が勝つということは、
害為正法外道的な理念に基づく武威の振りかざしもまた、一時的に害為否定者のそれを
上回るようなことがあったとした所で、いつかは敗れ去ってしまうということである。
他者を迫害するものが、自らへの危害を可とするものに敗れるのではなく、害為全般を
本是とするものが、そんなものを是としないものに敗れるのである。武威自体は害為
でもあるわけだが、だからといって害為を大肯定するようならば、害為を劣後する
ものに力でも敗れることとなる。微妙ではあるが、これが普遍的な位相上の法則である。
王道を貴ぶものは、覇道を好むものから「女々しい」ものとして揶揄されるような場合がままある。
孔子も諸侯から「優柔不断」との謗りを受けていたと「左伝」にあるし、比較的平和主義的な剣術
である柳生流なども、一刀流や示現流などの好戦的な剣術の嗜好者から冷やかされることがある。
しかし、王道こそは必ず最終的に覇道に勝つのであり、勝って家族や人々を守ることこそは
益荒男としての務めなのだから、本質的には王道のほうがより男らしいといえる一方、
欲望に取り込まれての好戦主義となる覇道のほうがより女々しいものなのだといえる。
覇道が伏せられて王道が復権する世の中こそは、より男らしい世の中である。
欲望まみれ故の迫害まみれや掠奪まみれも駆逐されて、「武士はくわねど高楊枝」がいっぱしの
美徳として通用するようにもなる。そこでこそ活躍するような男こそは真に男らしい男である一方、
そうなった途端に卑しい小人身分と化してしまうような男こそは、まさに女の腐ったようなもん
だといえる。乱世に暴威をふるっていたような覇者こそは、かえってそのような女々しい境遇に
置かれざるを得なくなるわけで、乱世とは、女々しい男を立てる女々しい世の中でこそあったのである。
「百姓睦を以って相い守るは、天下の肥えたるなり。是れを大順と謂う。
〜連らなりて相い及ばず、動きて相い害わざるは、此れ順の至りなり」
「天下万人が親睦によってお互いを守りあおうとするところでこそ、天下もよく肥沃となっている。
これを大順という。一緒にいても利益を侵害し合ったりせず、共に行っても迫害し合ったりしない
ようであってこそ、貞順も完全であるといえる。(天下万人がこのように完全とならなければならぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
本是とするものが、そんなものを是としないものに敗れるのである。武威自体は害為
でもあるわけだが、だからといって害為を大肯定するようならば、害為を劣後する
ものに力でも敗れることとなる。微妙ではあるが、これが普遍的な位相上の法則である。
王道を貴ぶものは、覇道を好むものから「女々しい」ものとして揶揄されるような場合がままある。
孔子も諸侯から「優柔不断」との謗りを受けていたと「左伝」にあるし、比較的平和主義的な剣術
である柳生流なども、一刀流や示現流などの好戦的な剣術の嗜好者から冷やかされることがある。
しかし、王道こそは必ず最終的に覇道に勝つのであり、勝って家族や人々を守ることこそは
益荒男としての務めなのだから、本質的には王道のほうがより男らしいといえる一方、
欲望に取り込まれての好戦主義となる覇道のほうがより女々しいものなのだといえる。
覇道が伏せられて王道が復権する世の中こそは、より男らしい世の中である。
欲望まみれ故の迫害まみれや掠奪まみれも駆逐されて、「武士はくわねど高楊枝」がいっぱしの
美徳として通用するようにもなる。そこでこそ活躍するような男こそは真に男らしい男である一方、
そうなった途端に卑しい小人身分と化してしまうような男こそは、まさに女の腐ったようなもん
だといえる。乱世に暴威をふるっていたような覇者こそは、かえってそのような女々しい境遇に
置かれざるを得なくなるわけで、乱世とは、女々しい男を立てる女々しい世の中でこそあったのである。
「百姓睦を以って相い守るは、天下の肥えたるなり。是れを大順と謂う。
〜連らなりて相い及ばず、動きて相い害わざるは、此れ順の至りなり」
「天下万人が親睦によってお互いを守りあおうとするところでこそ、天下もよく肥沃となっている。
これを大順という。一緒にいても利益を侵害し合ったりせず、共に行っても迫害し合ったりしない
ようであってこそ、貞順も完全であるといえる。(天下万人がこのように完全とならなければならぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
面白いですね。王道を治国までの考え、治国における宗教の象徴
そんな感じに想像しますが覇道よりはるかに上、かもしれないなーなんて感慨深いです。
そんな感じに想像しますが覇道よりはるかに上、かもしれないなーなんて感慨深いです。
近ごろは家事手伝いやらが忙しくて、四書五経以外はろくに読んでないよ。
最低限の情報収集のための蔵書集め(骨董趣味とは違う)やその通読も
大体済んだから、いい加減知識を実践に移すべき時のようにも思う。
しかし、それでも己れの知見に不安を抱き続けるべきなのが儒者である。
「学は及ばざるが如くし、なおこれを失わんことを恐る(泰伯第八・一七)」
という通り、学問にかけての精神的死亡を許してはならないのである。
最低限の情報収集のための蔵書集め(骨董趣味とは違う)やその通読も
大体済んだから、いい加減知識を実践に移すべき時のようにも思う。
しかし、それでも己れの知見に不安を抱き続けるべきなのが儒者である。
「学は及ばざるが如くし、なおこれを失わんことを恐る(泰伯第八・一七)」
という通り、学問にかけての精神的死亡を許してはならないのである。
あらゆる学知の上に「信じる」ということを置く、「信>智」の序列を強制するのが「信仰」である。
単なる信条や信義程度なら「智>信」でもあり得るが、信仰者である以上は必ず「信>智」である。
信じる対象が必ずあらゆる知識の上にあり、どのような知識に即しても、信じる対象のみは無謬とされる。
のみならず、信じる対象の都合によっていくらでも他の知識が捻じ曲げられ、最悪の場合、「1+1=3」
や「鹿は馬である」といったレベルの無理な判断までもが、信仰対象の下で押し通されることになる。
儒学(×儒教)は、それこそを禁止する学問なのである。
「仁義礼智信」の序列の下で、あらゆる頑なな信義信条を学知の目下に置き、「健全な学知の永久的な成長」を
促すのが本来の儒学である。明代以降の中国や朝鮮などにおいては、本来のこのような儒学のあり方が損なわれて
「儒教」と化してしまったものだから、儒者たちの学問的な成長なども滞ってしまったわけだが、日本においては、
江戸期に至るまで純正な儒学のみが嗜まれていたから、それによって養われた学問に対する意欲を洋学にも
転用して、良くも悪しくも西洋文化ペースでの文明発展を早急に推し進めていくことができたのである。
(国民総出の学識水準では、一部のエリートだけが突出している欧米などをも即座に上回ったのだった)
儒学は「智>信」を徹底する学問である一方、洋学は「信教の自由」の名の下に「信>智」を容認する学である。
仏教も聖道門では「智>信」だし、他力本願の浄土門もまた「信>智でしかあり得ない我ら信者は愚か者」という
姿勢を健気に守っているものだから、儒学と仏教は並存することができた。しかし、聖書信仰は「信>智である
ことこそは偉い」とする信教であるし、洋学もまたそのレベルの信教を自由の名の下に容認する学術であるから、
聖書信仰や洋学と儒学が並存することはできず、それらが解禁された明治以降には儒学も実質途絶えたのである。
単なる信条や信義程度なら「智>信」でもあり得るが、信仰者である以上は必ず「信>智」である。
信じる対象が必ずあらゆる知識の上にあり、どのような知識に即しても、信じる対象のみは無謬とされる。
のみならず、信じる対象の都合によっていくらでも他の知識が捻じ曲げられ、最悪の場合、「1+1=3」
や「鹿は馬である」といったレベルの無理な判断までもが、信仰対象の下で押し通されることになる。
儒学(×儒教)は、それこそを禁止する学問なのである。
「仁義礼智信」の序列の下で、あらゆる頑なな信義信条を学知の目下に置き、「健全な学知の永久的な成長」を
促すのが本来の儒学である。明代以降の中国や朝鮮などにおいては、本来のこのような儒学のあり方が損なわれて
「儒教」と化してしまったものだから、儒者たちの学問的な成長なども滞ってしまったわけだが、日本においては、
江戸期に至るまで純正な儒学のみが嗜まれていたから、それによって養われた学問に対する意欲を洋学にも
転用して、良くも悪しくも西洋文化ペースでの文明発展を早急に推し進めていくことができたのである。
(国民総出の学識水準では、一部のエリートだけが突出している欧米などをも即座に上回ったのだった)
儒学は「智>信」を徹底する学問である一方、洋学は「信教の自由」の名の下に「信>智」を容認する学である。
仏教も聖道門では「智>信」だし、他力本願の浄土門もまた「信>智でしかあり得ない我ら信者は愚か者」という
姿勢を健気に守っているものだから、儒学と仏教は並存することができた。しかし、聖書信仰は「信>智である
ことこそは偉い」とする信教であるし、洋学もまたそのレベルの信教を自由の名の下に容認する学術であるから、
聖書信仰や洋学と儒学が並存することはできず、それらが解禁された明治以降には儒学も実質途絶えたのである。
宗教圏としては、仏教圏と儒教圏は被っている場合が多い。しかも日本などでは一貫して非信仰的な儒学で
あり続けて来たわけだから、宗教第一の固定観念に即して「儒教(儒学)などマイナーなものでしかない」などと
決め付けられることがある。そう決め付けてしまうような人間は、まず宗教第一なものの考え方から脱却するので
なければ、決して儒学の真髄を計り知ることはできない。そもそも宗教第一、「信>智こそは偉い」なんていう
ものの考え方から禁止していくのが儒学の本分なのだから、宗教が云々、宗教圏云々といったものの考え方から
卒業していくのでなければ、本物の儒学が眼中に入るところにまで近寄って来てくれることすらないのである。
洋学以上にも、「智>信」の序列を徹底するのが儒学なのだから、「信教的である度合い」でも
諸宗教>洋学>儒学である。儒学こそは、洋学以上にも信仰性を排した純度100%の学問なのであり、
「洋学よりも儒学のほうが信教的だ」などと思い込んだ時点で、すでに儒学は分からなくなるのである。
信仰第一学知第二なものの考え方で、あらゆる知識を身勝手な捻じ曲げの対象とするようなことこそを
儒学は厳禁している一方、洋学は別に全面禁止にしてはいない。科学系統における信仰の否定は顕著だし、
精密に分析的である度合いでも洋学>儒学だったりするが、人文的な思索を講ずる場合に、「信>智」
という程もの無謬強制的な論及を行うことが洋学では相当に許されている。故にこそ、洋学こそは数多の
事実誤認を持ち越したままでいてしまってもいるのであり、科学的、分析的であること以上にも、「智>信」
であることこそは学問にとって最も重要なことであったのだということを裏付ける事例ともなっているのである。
あり続けて来たわけだから、宗教第一の固定観念に即して「儒教(儒学)などマイナーなものでしかない」などと
決め付けられることがある。そう決め付けてしまうような人間は、まず宗教第一なものの考え方から脱却するので
なければ、決して儒学の真髄を計り知ることはできない。そもそも宗教第一、「信>智こそは偉い」なんていう
ものの考え方から禁止していくのが儒学の本分なのだから、宗教が云々、宗教圏云々といったものの考え方から
卒業していくのでなければ、本物の儒学が眼中に入るところにまで近寄って来てくれることすらないのである。
洋学以上にも、「智>信」の序列を徹底するのが儒学なのだから、「信教的である度合い」でも
諸宗教>洋学>儒学である。儒学こそは、洋学以上にも信仰性を排した純度100%の学問なのであり、
「洋学よりも儒学のほうが信教的だ」などと思い込んだ時点で、すでに儒学は分からなくなるのである。
信仰第一学知第二なものの考え方で、あらゆる知識を身勝手な捻じ曲げの対象とするようなことこそを
儒学は厳禁している一方、洋学は別に全面禁止にしてはいない。科学系統における信仰の否定は顕著だし、
精密に分析的である度合いでも洋学>儒学だったりするが、人文的な思索を講ずる場合に、「信>智」
という程もの無謬強制的な論及を行うことが洋学では相当に許されている。故にこそ、洋学こそは数多の
事実誤認を持ち越したままでいてしまってもいるのであり、科学的、分析的であること以上にも、「智>信」
であることこそは学問にとって最も重要なことであったのだということを裏付ける事例ともなっているのである。
「信>智であることこそは偉い」という程にも、信仰絶対主義であるような宗教すらをも容認する「信教の自由」
を世の中から撤廃するのでなければ、儒学の復興も決して覚束ない。仮に信仰主義の根絶が悲痛に思われた所で、
そうである以上は儒学のほうの復興が不能と化してしまうことにも違いはないわけで、むしろそのせいで儒学の
ような健全な学問が途絶させられてしまっていることこそを遺憾に思うべきである。信仰ばかりを保護して、
純正な学知を全くの反故にする、そんな現状に安住してしまっている恥こそを知るべきである。
「学ぶ者に四失有り、教うる者は必ず之れを知れ。人の学ぶや、或いは則ち多きに失い、或いは則ち
寡なきに失い、或いは則ち易きに失い、或いは則ち止どむるに失う。此の四者は、心の莫きに同じなり」
「人がものを学ぶときには凡そ四つの過失に陥りやすい。人にものを教える時にも必ずそうならぬよう注意
せねばならない。人がものを学ぶとき、あるいはただ多くを学んで要点を欠くことになり、あるいは少しの
ことばかりを学んで融通が利かなくなったり、あるいは簡単でありながら重要なことを軽んじてしまったり、
あるいは学ぶことを途絶して成長が止まってしまったりする。これら四つの過失を犯してしまうようならば、
人は何も学ばないのと全く同等の心の成長しか得られない。(信仰もこのような学問にかけての過失を誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
を世の中から撤廃するのでなければ、儒学の復興も決して覚束ない。仮に信仰主義の根絶が悲痛に思われた所で、
そうである以上は儒学のほうの復興が不能と化してしまうことにも違いはないわけで、むしろそのせいで儒学の
ような健全な学問が途絶させられてしまっていることこそを遺憾に思うべきである。信仰ばかりを保護して、
純正な学知を全くの反故にする、そんな現状に安住してしまっている恥こそを知るべきである。
「学ぶ者に四失有り、教うる者は必ず之れを知れ。人の学ぶや、或いは則ち多きに失い、或いは則ち
寡なきに失い、或いは則ち易きに失い、或いは則ち止どむるに失う。此の四者は、心の莫きに同じなり」
「人がものを学ぶときには凡そ四つの過失に陥りやすい。人にものを教える時にも必ずそうならぬよう注意
せねばならない。人がものを学ぶとき、あるいはただ多くを学んで要点を欠くことになり、あるいは少しの
ことばかりを学んで融通が利かなくなったり、あるいは簡単でありながら重要なことを軽んじてしまったり、
あるいは学ぶことを途絶して成長が止まってしまったりする。これら四つの過失を犯してしまうようならば、
人は何も学ばないのと全く同等の心の成長しか得られない。(信仰もこのような学問にかけての過失を誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
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統治者もまた自らよりも上位の官職者に臣従し、臣従先としての頂点は天子に極まる。
それが封建制のあり方だけれども、結局のところ、それが健全に実現されてこそ、
人間社会が最高級の治世に与れもする。一方で、君臣官民の主従関係が疎かと化して
しまっているような世の中こそは、程度の差こそあれど乱世となる。それは、世の中が
カルト宗教に乗っ取られた場合であれ、民主主義のような無宗教のイデオロギーによって
「民こそは王」のような思い込みが確信的に流布された場合であれ、同じことである。
人々が自らよりも高位の人間以外の何ものかを副次的な拠り所とすることは、別に禁止さるべきことでもない。
世界史上でも屈指の治世が敷かれた平安時代の日本などにおいても、当時絶大な権限を持ち合わせていた
藤原氏が、平等院や中尊寺の如き他力本願の浄土系の寺院を建立して、敬虔な帰依の対象ともしていた。
もちろん最大の従属対象は天子だったわけだれども、自らの恭敬意識を育むための対象として仏神が
副次的な機能を果たしてくれることもあるわけで、これこそは神仏帰依の純正なあり方だともいえる。
神だ教祖だが、正式な王侯以上の立場に立とうとしたなら、それにより王侯やその他の為政者が
無責任でいる余地を与えることとなってしまう。王権神授説を正統性の根拠としていた西洋の主君こそは、
政商や地主とつるんでの我田引水による富裕三昧でもいた。暴政に対する怨み極まる庶民をごまかす
気休めとして「ノブレス・オブリージュ(高貴なものの義務)」などを掲げたりもしていたものの、
そこで果たされる義務はといえば、戦地での敵兵殺しに直接参加するとかいった程度のもので、
それによりかえって西洋の庶民たちは、王侯や貴族に対する恐怖感を募らせてすらいたのである。
王侯をも上回る程もの信奉対象に神仏がなるべきではない一方で、あらゆる神仏を排して実在の王侯にのみ
服従すべきだというのでもない。共産主義時代のソ連や文化大革命後の中国など、あらゆる神仏帰依を
否定して共産党に対する絶対服従を万民に強いたりしていたわけだけれども、それによる人々の
精神的堕落や公共意識の欠損は甚だしく、赤化が終焉したり形骸化したりしている現代においても、
未だ共産制時代の悪癖(労働者の怠惰や物品の粗末な扱いなど)を克服しきれないままでいる。
世の中における神仏帰依のあり方も「中正」であるべきなのであり、それを実現するためにもやはり、
「鬼神を敬して之れを遠ざく(雍也第六・二二)」などの中庸を保った神仏との接し方を推奨する儒学こそを
一般社会に通用させる必要がある。あくまで儒学であって、「儒教」ではない。儒教が完全な国教とされて
しまっていた時代の中国や朝鮮などにおいては、ライバルとしての仏教や道教を迫害下に置いたりすることが
しばしばあったわけだから、あくまで儒学自体は純粋な学問として、諸宗教との間に一線を引くべきである。
とはいえやはり、儒学を通用させるためにこそ、廃絶されなければならない宗教というものがある。
それこそは他でもない、神仏を実物の権力機構の上にすら置こうとするような信教である。創価のような
異端のカルトでもない限りは、仏教がそんな条件を満たすことはない。道教も隠退主義を是とする
老荘思想を拠り所としているため、基本は権力機構の権威を侵害しない。神道やヒンズー教やイスラム教は
権力機構のためにこそ拵えられた政教一致専門の信教であるため、権力の権威を侵害したりすることは当然ない。
これらの宗教は純粋な学問としての儒学の一般への通用を侵害しない一方、残念ながら、純学としての
儒学の流布すらをも上記のような理由によって妨げる類いの宗教というものもまた、実在している。
服従すべきだというのでもない。共産主義時代のソ連や文化大革命後の中国など、あらゆる神仏帰依を
否定して共産党に対する絶対服従を万民に強いたりしていたわけだけれども、それによる人々の
精神的堕落や公共意識の欠損は甚だしく、赤化が終焉したり形骸化したりしている現代においても、
未だ共産制時代の悪癖(労働者の怠惰や物品の粗末な扱いなど)を克服しきれないままでいる。
世の中における神仏帰依のあり方も「中正」であるべきなのであり、それを実現するためにもやはり、
「鬼神を敬して之れを遠ざく(雍也第六・二二)」などの中庸を保った神仏との接し方を推奨する儒学こそを
一般社会に通用させる必要がある。あくまで儒学であって、「儒教」ではない。儒教が完全な国教とされて
しまっていた時代の中国や朝鮮などにおいては、ライバルとしての仏教や道教を迫害下に置いたりすることが
しばしばあったわけだから、あくまで儒学自体は純粋な学問として、諸宗教との間に一線を引くべきである。
とはいえやはり、儒学を通用させるためにこそ、廃絶されなければならない宗教というものがある。
それこそは他でもない、神仏を実物の権力機構の上にすら置こうとするような信教である。創価のような
異端のカルトでもない限りは、仏教がそんな条件を満たすことはない。道教も隠退主義を是とする
老荘思想を拠り所としているため、基本は権力機構の権威を侵害しない。神道やヒンズー教やイスラム教は
権力機構のためにこそ拵えられた政教一致専門の信教であるため、権力の権威を侵害したりすることは当然ない。
これらの宗教は純粋な学問としての儒学の一般への通用を侵害しない一方、残念ながら、純学としての
儒学の流布すらをも上記のような理由によって妨げる類いの宗教というものもまた、実在している。
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