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聖書 Part9
▼ページ最下部
地球人類社会において、四書五経こそは、ここ2500年の長きにわたって、わざわざ
特筆するまでもないほどに標準的な聖書としての、その地位を守り続けてきている。
その理由は、四書五経が「社会統治の聖書」であるからで、その他の用途に
用いられる諸々の聖書一般と比べれば、書物活用の場でもある世の中全体を司る
聖書である点において、やはり別格級の存在意義を持っているからでこそある。
夏・殷・周の三代に渡る古代中国の治世のあり方を、春秋時代に孔子が五経として体系化し、
その孔子自身や弟子や亦弟子(孟子含む)の言説を取りまとめた四書がさらに朱子に
よって権威化された。両者を合わせて「四書五経」というが、四書五経は宋代に定型化された
儒学正典の代表書というまでのことで、これに漏れた「孝経」「周礼」「儀礼」「大載礼記」「国語」
などの儒書も、四書五経に勝るとも劣らない聖書として扱ってもまったく差し支えないもの
となっており、四書五経を含むこれら全ての聖書が、実際に天下国家全土における治世を
実現していく上でのマニュアルとなるに相応しいだけの、十分な度量を備えている。
実際に、当時世界最大規模の国力を誇った漢帝国や唐帝国や宋帝国、
死刑一つない治世を実験した平安朝や、識字率世界最高を誇った江戸の日本
などにおいて、四書五経に代表される儒学の聖書こそは、権力者から庶民に
至るまでの、「必須の教養」としての扱いを受け続けていたのだった。
四書五経の記述に基づくような治世が実現されて後に初めて興隆する、儒学以外の高度な文化
というものもまた別に多くあり、むしろそちらのほうが治世実現後の世の中における「花形」
としての扱いを受けたりもする。唐代における詩文芸の興隆や、宋代における禅仏教の興隆、
平安時代における密教文化や女流文芸の興隆、江戸時代における武芸文化や演劇文化の興隆などが
その好例であり、そのような人々を楽しませることにかけてより秀でている文化の興隆を実現する
「縁の下の力持ち」としての役割をも儒学は担って来たから、必ずしも目立つ存在ではなかった
せいで、あまり人々にその偉大さを意識されることすらないままでいることが多かったのだ。
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特筆するまでもないほどに標準的な聖書としての、その地位を守り続けてきている。
その理由は、四書五経が「社会統治の聖書」であるからで、その他の用途に
用いられる諸々の聖書一般と比べれば、書物活用の場でもある世の中全体を司る
聖書である点において、やはり別格級の存在意義を持っているからでこそある。
夏・殷・周の三代に渡る古代中国の治世のあり方を、春秋時代に孔子が五経として体系化し、
その孔子自身や弟子や亦弟子(孟子含む)の言説を取りまとめた四書がさらに朱子に
よって権威化された。両者を合わせて「四書五経」というが、四書五経は宋代に定型化された
儒学正典の代表書というまでのことで、これに漏れた「孝経」「周礼」「儀礼」「大載礼記」「国語」
などの儒書も、四書五経に勝るとも劣らない聖書として扱ってもまったく差し支えないもの
となっており、四書五経を含むこれら全ての聖書が、実際に天下国家全土における治世を
実現していく上でのマニュアルとなるに相応しいだけの、十分な度量を備えている。
実際に、当時世界最大規模の国力を誇った漢帝国や唐帝国や宋帝国、
死刑一つない治世を実験した平安朝や、識字率世界最高を誇った江戸の日本
などにおいて、四書五経に代表される儒学の聖書こそは、権力者から庶民に
至るまでの、「必須の教養」としての扱いを受け続けていたのだった。
四書五経の記述に基づくような治世が実現されて後に初めて興隆する、儒学以外の高度な文化
というものもまた別に多くあり、むしろそちらのほうが治世実現後の世の中における「花形」
としての扱いを受けたりもする。唐代における詩文芸の興隆や、宋代における禅仏教の興隆、
平安時代における密教文化や女流文芸の興隆、江戸時代における武芸文化や演劇文化の興隆などが
その好例であり、そのような人々を楽しませることにかけてより秀でている文化の興隆を実現する
「縁の下の力持ち」としての役割をも儒学は担って来たから、必ずしも目立つ存在ではなかった
せいで、あまり人々にその偉大さを意識されることすらないままでいることが多かったのだ。
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※省略されてます すべて表示...
人類社会において、一人前の社会人としてやっていける程度の十分な精神力があるならば、
「一般的社会人は安楽に思うものを『善』、苦痛に思うものを『悪』と定義付けている」という
言語構造上の根本原理に即して、善であるものに対する安楽と、悪であるものに対する苦痛とを感じる。
「十分な精神力がある」ということは、自分が社会一般の大局構造に即してものを考えられる程度の
精神力があるということであり、この条件に満たない程度の精神力しか持たない人間の場合は、
社会一般が善と楽、悪と苦を等価なものとして扱っていることにまでは察知が及びもしないから、
己の精神性の矮小さからなる倒錯によって、善であるものを苦、悪であるものを楽であるかのように
思い込んでしまうようになったりもする。とはいえ、「善」とか「悪」とかいった倫理判断自体が
「人間社会」における是非の判断でしかないわけだから、世の中にとって最も普遍的な善悪である
「善≡楽」「悪≡苦」といった善悪が絶対的に普遍的な善悪ともなる一方、精神薄弱な個人などが
勝手に定義した「善≡苦」「悪≡楽」といった善悪は、絶対的な誤謬性を帯びた善悪ともなる。
一般的な人間が善と楽、悪と苦を等価なものとして扱おうとしたのは、それによって致命的な災いを
精神的苦痛として未然に察知し、なるべく災禍を避けて福徳に与っていこうとしたからである。
人間の身体に痛覚があるのも、それによって身の危険を察知することを目的としているからで、
四肢切断級やそれ以上の致命傷を負った場合などには、もはや感覚が麻痺して痛みを感じないように
もなっている。それと全く同じように、人間の心もまた本来は禍いとなるものを苦痛だと感じていて、
故にそれを「悪いもの」と言語的に定義付けたりしていたわけだけれども、たとえば「磔での死刑」
級の禍いというのは、人間にとって、自業自得という点でも決定的に致命的なものだから、これを
観想することによって精神が致命傷を負い、ろくに禍いを精神的な苦痛であると感じられないように
なったりもする。身体の致命傷がまさに致命的であるのと同じように、精神の致命傷もまた致命的な
ものであり、そのような深手を負った人間の自存能力もまた、著しく損なわれていることが間違いない。
「一般的社会人は安楽に思うものを『善』、苦痛に思うものを『悪』と定義付けている」という
言語構造上の根本原理に即して、善であるものに対する安楽と、悪であるものに対する苦痛とを感じる。
「十分な精神力がある」ということは、自分が社会一般の大局構造に即してものを考えられる程度の
精神力があるということであり、この条件に満たない程度の精神力しか持たない人間の場合は、
社会一般が善と楽、悪と苦を等価なものとして扱っていることにまでは察知が及びもしないから、
己の精神性の矮小さからなる倒錯によって、善であるものを苦、悪であるものを楽であるかのように
思い込んでしまうようになったりもする。とはいえ、「善」とか「悪」とかいった倫理判断自体が
「人間社会」における是非の判断でしかないわけだから、世の中にとって最も普遍的な善悪である
「善≡楽」「悪≡苦」といった善悪が絶対的に普遍的な善悪ともなる一方、精神薄弱な個人などが
勝手に定義した「善≡苦」「悪≡楽」といった善悪は、絶対的な誤謬性を帯びた善悪ともなる。
一般的な人間が善と楽、悪と苦を等価なものとして扱おうとしたのは、それによって致命的な災いを
精神的苦痛として未然に察知し、なるべく災禍を避けて福徳に与っていこうとしたからである。
人間の身体に痛覚があるのも、それによって身の危険を察知することを目的としているからで、
四肢切断級やそれ以上の致命傷を負った場合などには、もはや感覚が麻痺して痛みを感じないように
もなっている。それと全く同じように、人間の心もまた本来は禍いとなるものを苦痛だと感じていて、
故にそれを「悪いもの」と言語的に定義付けたりしていたわけだけれども、たとえば「磔での死刑」
級の禍いというのは、人間にとって、自業自得という点でも決定的に致命的なものだから、これを
観想することによって精神が致命傷を負い、ろくに禍いを精神的な苦痛であると感じられないように
なったりもする。身体の致命傷がまさに致命的であるのと同じように、精神の致命傷もまた致命的な
ものであり、そのような深手を負った人間の自存能力もまた、著しく損なわれていることが間違いない。
人間級に高等な生物が痛覚を持つのは健常なことで、痛覚を持たないほうが異常ないし障害である。
健常であってこそ人も最大級に生活を営める一方、異常者や障害者は生活に支障を来たさざるを得ない。
どちらのほうが生に近いかといえばそれは健常者であり、死に近いのは異常者や障害者のほうである。
人間は万物の霊長であるほどにも高等な生物であればこそ、自然淘汰などをそのまま引き継ぐ必要もなく、
仁政によって健常者が異常者や障害者を労わって行くことだってできるわけだけども、それにしたって、
最大級の生命力を持つのは健常者である一方、比較的生命力に欠けるのが異常者や障害者だといえる。
故に、精神面にかけても、善と楽、悪と苦が等価なものであることを実感的にわきまえられて、罪悪
であるものに対する苦痛を健全に感じられる者こそは、より大きな生命力の持ち主であるといえる一方、
磔刑の観想などによって精神が致命傷を負ってしまったせいで、罪悪を苦痛であるとも感じられなく
なってしまっているような人間こそは比較的、生命力にも劣るといえる。極言すれば「すでに死んでいる
も同然の人間」であるといえ、罪悪に対する苦痛などを実感できるような所にまで立ち戻った時にこそ、
またそれなりの生命力を取り戻せるのだといえる。このあたりの生死を取り違えてしまっている人間も
邪信耽溺者などには非常に多いから、それもまた全くの誤解であることをここに実証的に断言しておく。
「之れ子の于に征き、野に劬労したまう。爰に矜人と、此の鰥寡を哀れむ」
「我が君は(治水などの)土木作業に従事する人夫の所に行かれて、野の果てで共に苦労をされている。
ああして困窮している人たちと、病人や孤独のものたちをも憐れんでくださっているのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・鴻雁より)
「哀れなるは我が填寡のもの、宜いは岸に宜いは獄に。粟を握みて出でて卜くれども、自て何ぞ能く穀せん」
「それにしても憐れなのはわが国の窮苦孤独の者たちよ。その行き場はといえば仮屋か獄舎かといったざま。
一掴み程度の粟を授けてやったりしたところで、どうしてそれだけで食い繋いでいくこともできようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小宛より)
健常であってこそ人も最大級に生活を営める一方、異常者や障害者は生活に支障を来たさざるを得ない。
どちらのほうが生に近いかといえばそれは健常者であり、死に近いのは異常者や障害者のほうである。
人間は万物の霊長であるほどにも高等な生物であればこそ、自然淘汰などをそのまま引き継ぐ必要もなく、
仁政によって健常者が異常者や障害者を労わって行くことだってできるわけだけども、それにしたって、
最大級の生命力を持つのは健常者である一方、比較的生命力に欠けるのが異常者や障害者だといえる。
故に、精神面にかけても、善と楽、悪と苦が等価なものであることを実感的にわきまえられて、罪悪
であるものに対する苦痛を健全に感じられる者こそは、より大きな生命力の持ち主であるといえる一方、
磔刑の観想などによって精神が致命傷を負ってしまったせいで、罪悪を苦痛であるとも感じられなく
なってしまっているような人間こそは比較的、生命力にも劣るといえる。極言すれば「すでに死んでいる
も同然の人間」であるといえ、罪悪に対する苦痛などを実感できるような所にまで立ち戻った時にこそ、
またそれなりの生命力を取り戻せるのだといえる。このあたりの生死を取り違えてしまっている人間も
邪信耽溺者などには非常に多いから、それもまた全くの誤解であることをここに実証的に断言しておく。
「之れ子の于に征き、野に劬労したまう。爰に矜人と、此の鰥寡を哀れむ」
「我が君は(治水などの)土木作業に従事する人夫の所に行かれて、野の果てで共に苦労をされている。
ああして困窮している人たちと、病人や孤独のものたちをも憐れんでくださっているのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・鴻雁より)
「哀れなるは我が填寡のもの、宜いは岸に宜いは獄に。粟を握みて出でて卜くれども、自て何ぞ能く穀せん」
「それにしても憐れなのはわが国の窮苦孤独の者たちよ。その行き場はといえば仮屋か獄舎かといったざま。
一掴み程度の粟を授けてやったりしたところで、どうしてそれだけで食い繋いでいくこともできようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小宛より)
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