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聖書 Part9
▼ページ最下部
地球人類社会において、四書五経こそは、ここ2500年の長きにわたって、わざわざ
特筆するまでもないほどに標準的な聖書としての、その地位を守り続けてきている。
その理由は、四書五経が「社会統治の聖書」であるからで、その他の用途に
用いられる諸々の聖書一般と比べれば、書物活用の場でもある世の中全体を司る
聖書である点において、やはり別格級の存在意義を持っているからでこそある。
夏・殷・周の三代に渡る古代中国の治世のあり方を、春秋時代に孔子が五経として体系化し、
その孔子自身や弟子や亦弟子(孟子含む)の言説を取りまとめた四書がさらに朱子に
よって権威化された。両者を合わせて「四書五経」というが、四書五経は宋代に定型化された
儒学正典の代表書というまでのことで、これに漏れた「孝経」「周礼」「儀礼」「大載礼記」「国語」
などの儒書も、四書五経に勝るとも劣らない聖書として扱ってもまったく差し支えないもの
となっており、四書五経を含むこれら全ての聖書が、実際に天下国家全土における治世を
実現していく上でのマニュアルとなるに相応しいだけの、十分な度量を備えている。
実際に、当時世界最大規模の国力を誇った漢帝国や唐帝国や宋帝国、
死刑一つない治世を実験した平安朝や、識字率世界最高を誇った江戸の日本
などにおいて、四書五経に代表される儒学の聖書こそは、権力者から庶民に
至るまでの、「必須の教養」としての扱いを受け続けていたのだった。
四書五経の記述に基づくような治世が実現されて後に初めて興隆する、儒学以外の高度な文化
というものもまた別に多くあり、むしろそちらのほうが治世実現後の世の中における「花形」
としての扱いを受けたりもする。唐代における詩文芸の興隆や、宋代における禅仏教の興隆、
平安時代における密教文化や女流文芸の興隆、江戸時代における武芸文化や演劇文化の興隆などが
その好例であり、そのような人々を楽しませることにかけてより秀でている文化の興隆を実現する
「縁の下の力持ち」としての役割をも儒学は担って来たから、必ずしも目立つ存在ではなかった
せいで、あまり人々にその偉大さを意識されることすらないままでいることが多かったのだ。
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特筆するまでもないほどに標準的な聖書としての、その地位を守り続けてきている。
その理由は、四書五経が「社会統治の聖書」であるからで、その他の用途に
用いられる諸々の聖書一般と比べれば、書物活用の場でもある世の中全体を司る
聖書である点において、やはり別格級の存在意義を持っているからでこそある。
夏・殷・周の三代に渡る古代中国の治世のあり方を、春秋時代に孔子が五経として体系化し、
その孔子自身や弟子や亦弟子(孟子含む)の言説を取りまとめた四書がさらに朱子に
よって権威化された。両者を合わせて「四書五経」というが、四書五経は宋代に定型化された
儒学正典の代表書というまでのことで、これに漏れた「孝経」「周礼」「儀礼」「大載礼記」「国語」
などの儒書も、四書五経に勝るとも劣らない聖書として扱ってもまったく差し支えないもの
となっており、四書五経を含むこれら全ての聖書が、実際に天下国家全土における治世を
実現していく上でのマニュアルとなるに相応しいだけの、十分な度量を備えている。
実際に、当時世界最大規模の国力を誇った漢帝国や唐帝国や宋帝国、
死刑一つない治世を実験した平安朝や、識字率世界最高を誇った江戸の日本
などにおいて、四書五経に代表される儒学の聖書こそは、権力者から庶民に
至るまでの、「必須の教養」としての扱いを受け続けていたのだった。
四書五経の記述に基づくような治世が実現されて後に初めて興隆する、儒学以外の高度な文化
というものもまた別に多くあり、むしろそちらのほうが治世実現後の世の中における「花形」
としての扱いを受けたりもする。唐代における詩文芸の興隆や、宋代における禅仏教の興隆、
平安時代における密教文化や女流文芸の興隆、江戸時代における武芸文化や演劇文化の興隆などが
その好例であり、そのような人々を楽しませることにかけてより秀でている文化の興隆を実現する
「縁の下の力持ち」としての役割をも儒学は担って来たから、必ずしも目立つ存在ではなかった
せいで、あまり人々にその偉大さを意識されることすらないままでいることが多かったのだ。
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実際に、全世界を穏便に統治できる程もの度量があればこそ、儒学は治世実現後の世の中においてまで
そんなに自己主張に専らであったりしない。キリスト教なんざは、ただ世界征服を目指すだけで、
征服後の世の中はかえって最悪の争乱や破滅に陥れてばかりだから、そんな度量は一切持てず、
「征服したことに意義があった」みたいながなり立てを行うことで、自分たちの有害無益さ
に対する文句を騒音によって打ち消すことを、延々と試み続けていかなければならない。
儒学は決してそんなことはなく、その教学の優良さによって、着実に世の中をマシ以上な
治世へと導いて行くから、治世実現後には殊更な自己主張も控えて、乱世再来を防ぎ止める
ための義務的な儒学の勉強を人々に促す程度の粛々とした態度でいるようになるのである。
自分たちが縁の下からクリエートする世の中こそは最大級の治世をも獲得できるのだから、
儒者が自分たちから理念面での社会統治者としての立場を譲ったりすることを是とするわけもない。
法家心酔者の始皇帝に生き埋めにされた儒者や、乱世の荒波に飲まれて打ち首にされた吉田松陰などが、
儒学による社会統治の譲渡などを進んで容認していたような事実も当然ないわけで、儒学に基づく
統治が叶わない世の中において、仕方なく外野に甘んじるということはあっても、決して好き好んで
治世の企画者としての自分たちの立場が追われることなどを欲していたりはしないのである。
「滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙げれば、天下の民、心を帰せん」
「すでに滅びたような国も興し、絶えた家も受け継がせて、世捨て人も取り上げるようにすれば、
天下の人々もみな心から帰服するだろう。(乱世の支配者としての立場を受け継いだりするよりは、
乱世のせいで絶えてしまったような家を受け継いで復興させていくほうが、遥かに重要であろう。
ちなみにこれは周代の言葉であり、この直前に乱世をもたらしてしまった殷朝が滅亡している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・二より)
そんなに自己主張に専らであったりしない。キリスト教なんざは、ただ世界征服を目指すだけで、
征服後の世の中はかえって最悪の争乱や破滅に陥れてばかりだから、そんな度量は一切持てず、
「征服したことに意義があった」みたいながなり立てを行うことで、自分たちの有害無益さ
に対する文句を騒音によって打ち消すことを、延々と試み続けていかなければならない。
儒学は決してそんなことはなく、その教学の優良さによって、着実に世の中をマシ以上な
治世へと導いて行くから、治世実現後には殊更な自己主張も控えて、乱世再来を防ぎ止める
ための義務的な儒学の勉強を人々に促す程度の粛々とした態度でいるようになるのである。
自分たちが縁の下からクリエートする世の中こそは最大級の治世をも獲得できるのだから、
儒者が自分たちから理念面での社会統治者としての立場を譲ったりすることを是とするわけもない。
法家心酔者の始皇帝に生き埋めにされた儒者や、乱世の荒波に飲まれて打ち首にされた吉田松陰などが、
儒学による社会統治の譲渡などを進んで容認していたような事実も当然ないわけで、儒学に基づく
統治が叶わない世の中において、仕方なく外野に甘んじるということはあっても、決して好き好んで
治世の企画者としての自分たちの立場が追われることなどを欲していたりはしないのである。
「滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙げれば、天下の民、心を帰せん」
「すでに滅びたような国も興し、絶えた家も受け継がせて、世捨て人も取り上げるようにすれば、
天下の人々もみな心から帰服するだろう。(乱世の支配者としての立場を受け継いだりするよりは、
乱世のせいで絶えてしまったような家を受け継いで復興させていくほうが、遥かに重要であろう。
ちなみにこれは周代の言葉であり、この直前に乱世をもたらしてしまった殷朝が滅亡している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・二より)
えらく高評価だけど、本家である中国がなぜこの体たらく?
ヴァカにかまうと。。。><
「体たらく」も何も、完全に実力で世界を席巻しにかかってんじゃねえか。
ただ、そのあり方が今の日本などにとっては好ましくないだけで。
「国際協調」なんてものが単なる偽善に過ぎないことも、
中国人は長年の実地経験から知り抜いている。
諸国を統べる帝王を立てないことには、国同士での仲良しや仲違いが、
政商や縦横家にとっての格好の餌食になるだけでしかないとも知っている。
そうとも知らず、日米安保なんかに頼りきりでいる今の日本のほうが、
現実の外交セオリーを全く解さない愚か者の集まりとなっている。
ただ、そのあり方が今の日本などにとっては好ましくないだけで。
「国際協調」なんてものが単なる偽善に過ぎないことも、
中国人は長年の実地経験から知り抜いている。
諸国を統べる帝王を立てないことには、国同士での仲良しや仲違いが、
政商や縦横家にとっての格好の餌食になるだけでしかないとも知っている。
そうとも知らず、日米安保なんかに頼りきりでいる今の日本のほうが、
現実の外交セオリーを全く解さない愚か者の集まりとなっている。
職種別の社会的な害益の度合いでいえば、
君子士人(権力道徳者)>農業従事者≧必需工業従事者>無職≒0>ガラクタ工業従事者≧商業従事者>犯罪者>権力犯罪者
(0以上は世の中にとって有益無害、0以下は世の中にとって有害無益)
で、人としての貴さについても、この不等号に基づく順列が当てはまる。
社会的な常駐が倫理的に許されないのは犯罪者と権力犯罪者で、これらは一方的な撲滅の対象となる。
常駐が禁止まではされないが、色々と社会的な制限を受けなければならないのがガラクタ工業従事者と商業従事者で、
これらも放任が過ぎると犯罪者並みの害悪をもたらす場合がある(特に商売人が政商として権力犯罪に走る場合が多い)。
社会的な制限どころか、保護すらされて然るべきなのが農業従事者や必需工業従事者で、国を挙げてのそれらの
事業の振興が、着実な国力の発達にも結び付く。古来から重農主義であり続けてきた日本や中国などの東洋諸国が、
重商主義であり続けてきた西洋との経済競争で優位に立てたのも、そのような根本からの国力の養生があったればこそ。
君子士人は、上記のような措置を講ずる世の中の統治者たち自身のことであり、その働きが見事で
あったからには、それこそ神さま仏さまに準ずるほどもの畏敬の対象とされていかなければならない。
社会的に言って、有益無害の極致と有害無益の極致に該当するのが、権力道徳者(君子士人)と権力犯罪者であり、
片や神仏にも準ずる尊重の対象とされるべきである一方、片や最底辺の下流(子張第十九・二〇)として賤しむべき存在である。
全くの即物的な概算に基づいて生ずる貴賤の隔絶なのだから、これを迷信的な判断などとして退ける余地も、どこにもないといえる。
君子士人(権力道徳者)>農業従事者≧必需工業従事者>無職≒0>ガラクタ工業従事者≧商業従事者>犯罪者>権力犯罪者
(0以上は世の中にとって有益無害、0以下は世の中にとって有害無益)
で、人としての貴さについても、この不等号に基づく順列が当てはまる。
社会的な常駐が倫理的に許されないのは犯罪者と権力犯罪者で、これらは一方的な撲滅の対象となる。
常駐が禁止まではされないが、色々と社会的な制限を受けなければならないのがガラクタ工業従事者と商業従事者で、
これらも放任が過ぎると犯罪者並みの害悪をもたらす場合がある(特に商売人が政商として権力犯罪に走る場合が多い)。
社会的な制限どころか、保護すらされて然るべきなのが農業従事者や必需工業従事者で、国を挙げてのそれらの
事業の振興が、着実な国力の発達にも結び付く。古来から重農主義であり続けてきた日本や中国などの東洋諸国が、
重商主義であり続けてきた西洋との経済競争で優位に立てたのも、そのような根本からの国力の養生があったればこそ。
君子士人は、上記のような措置を講ずる世の中の統治者たち自身のことであり、その働きが見事で
あったからには、それこそ神さま仏さまに準ずるほどもの畏敬の対象とされていかなければならない。
社会的に言って、有益無害の極致と有害無益の極致に該当するのが、権力道徳者(君子士人)と権力犯罪者であり、
片や神仏にも準ずる尊重の対象とされるべきである一方、片や最底辺の下流(子張第十九・二〇)として賤しむべき存在である。
全くの即物的な概算に基づいて生ずる貴賤の隔絶なのだから、これを迷信的な判断などとして退ける余地も、どこにもないといえる。
聖書信仰はこの、即物的な観点に即して最悪級の賤しさを帯びる「権力犯罪」という所業の推進を企図したもので、
それにより「ただの犯罪者は救われないが、自分たちに限っては救われる」という事態の実現を目指した。
権力犯罪を推し進めることでこそ、ただの犯罪者のような断罪の対象にはさせないという暴挙の押し通し、
それも確かに多少は通じることもあったが、最終的には絶対に通じなくなる。そして本当に通じなくなったのが、今。
この頃まで権力道徳の認知も覚束ないでいた極西の部落社会で、権力道徳の対極であるが故に劣悪な所業の極みでもあることが
明らかとなる、権力犯罪の存在性もまた即物的には察知されることがなかった。その故に、そこに宗教的な幻想までをも抱いて、
権力犯罪を推進すればこそ、ただの犯罪者は罪になっても、自分たちは罪を免れられるかのような妄想にも陥ってしまった。
そのような連中によってこそ捏造されたのが新旧約聖書で、即物的な観点に基づけば、それは「権力犯罪聖書」だとも言える。
民間犯罪以上にも害悪度の極まる権力犯罪を推進するための聖書だったのだから、当然それが免罪の対象となるわけもない。
そうだと知ってて信仰や実践したのなら極刑の対象にすらなるし、そうとも知らず信仰や実践をしてしまったのだとしても、
十分な反省や活動自粛などが必須となる。幻想を晴らして即物性に帰ればこそ、そうせざるを得ないと断じるほかはない。
「即物性に過ぎる宗教こそはカルト」みたいな物言いがされることもあるが、むしろ即物的な観点に即して不正である
宗教こそが特筆してカルトであり、即物的に見て問題がない宗教こそは正統である。宗教と即物性を乖離させようとするのも
カルトの策謀であり、むしろ正統な宗教こそは、カネやモノへの取り扱いに対する監査を恐れたりする必要もないのである。
それにより「ただの犯罪者は救われないが、自分たちに限っては救われる」という事態の実現を目指した。
権力犯罪を推し進めることでこそ、ただの犯罪者のような断罪の対象にはさせないという暴挙の押し通し、
それも確かに多少は通じることもあったが、最終的には絶対に通じなくなる。そして本当に通じなくなったのが、今。
この頃まで権力道徳の認知も覚束ないでいた極西の部落社会で、権力道徳の対極であるが故に劣悪な所業の極みでもあることが
明らかとなる、権力犯罪の存在性もまた即物的には察知されることがなかった。その故に、そこに宗教的な幻想までをも抱いて、
権力犯罪を推進すればこそ、ただの犯罪者は罪になっても、自分たちは罪を免れられるかのような妄想にも陥ってしまった。
そのような連中によってこそ捏造されたのが新旧約聖書で、即物的な観点に基づけば、それは「権力犯罪聖書」だとも言える。
民間犯罪以上にも害悪度の極まる権力犯罪を推進するための聖書だったのだから、当然それが免罪の対象となるわけもない。
そうだと知ってて信仰や実践したのなら極刑の対象にすらなるし、そうとも知らず信仰や実践をしてしまったのだとしても、
十分な反省や活動自粛などが必須となる。幻想を晴らして即物性に帰ればこそ、そうせざるを得ないと断じるほかはない。
「即物性に過ぎる宗教こそはカルト」みたいな物言いがされることもあるが、むしろ即物的な観点に即して不正である
宗教こそが特筆してカルトであり、即物的に見て問題がない宗教こそは正統である。宗教と即物性を乖離させようとするのも
カルトの策謀であり、むしろ正統な宗教こそは、カネやモノへの取り扱いに対する監査を恐れたりする必要もないのである。
「殷民に辟在りて、予れを辟せよと曰うも、爾じ惟れを辟する勿れ。予れを宥せと曰うも、爾じ惟れを宥す勿れ、
惟れ厥の中をせよ。汝の政に若わず、汝の訓えに化せざること有らば、辟して以て止めよ。辟あらば乃ち辟せよ」
「民の内に罪を犯した者が有った場合、本人が有罪を認めたからといって重罰を科すのでも、無罪を主張するから
といって罰を科さないのでもいけない。常に中正を心がけ、おまえ自身の為政に従わず、教化に服さないことが
あれば、それこそを罰して過ちを未然に食い止めよ。それでも罪を犯した者がいれば、厳酷な罰を科すがいい。
(罪の有無や科刑の軽重は正式な為政者こそが自主性を以って判断すべきことであり、干渉の余地はどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
惟れ厥の中をせよ。汝の政に若わず、汝の訓えに化せざること有らば、辟して以て止めよ。辟あらば乃ち辟せよ」
「民の内に罪を犯した者が有った場合、本人が有罪を認めたからといって重罰を科すのでも、無罪を主張するから
といって罰を科さないのでもいけない。常に中正を心がけ、おまえ自身の為政に従わず、教化に服さないことが
あれば、それこそを罰して過ちを未然に食い止めよ。それでも罪を犯した者がいれば、厳酷な罰を科すがいい。
(罪の有無や科刑の軽重は正式な為政者こそが自主性を以って判断すべきことであり、干渉の余地はどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
男女関係でいえば、夫唱婦随であるほうが子宝にも恵まれて家庭円満でもいられたりする一方、
カカア天下のほうは女が多産を嫌がったり、家族関係が険悪化したりと色々な問題を生じさせてしまう。
それは、本質的な自律者である男が、依存者である女を十分な主導下に置くことが本末の正立となる一方、
依存者である女が主導的となることが本末の転倒になってしまうからで、それ以上に不思議な理由などはない。
車にしろ船にしろ、一方向に前進しやすいように作られるのが基本で、バックも一応はできるにしても、
一時的な後退だけを念頭に置いていて、常にバック走行し続けることなどを念頭においてはいない。
特殊な構造でもない自転車やバイクなどは、足をつかなければバックはできないようになっているし、
飛行機にいたっては飛行中のバックからして不可能で、エンジンの逆回転なども着陸時のブレーキなどと
してのみ用いられる。そして、こんな乗り物の例などを挙げるまでもなく、人間自身の身体構造からして
眼前に向かって前進していくことが歩行の基本となるようにできている。身体構造がクラゲやウニのような
全方向的な構造にはなっていないから、その人間が乗用することを目的とした乗り物なども自然と、
一方向に向かって進むことが便利となるように設計されていくようになっている。
夫唱婦随が人間自身や乗り物の前進であるなら、カカア天下は後退であるといえ、飛行機でもない限りは
後退だってできなくはないが、常に後退し続ける状態でいたのでは、人間や車や船といえども無理を来たすもの。
男女関係に限らずとも、一方が自律者でもう一方が依存者であるような関係が本末正立的であったり本末転倒的で
あったりすることは、人間や乗り物の前進や後退に譬えられるもので、後退が絶対に不可能なことでまであるとは
限らないにしても、常に後退をし続けるのでは無理を来たすという法則もまた、そのまま当てはまるのである。
カカア天下のほうは女が多産を嫌がったり、家族関係が険悪化したりと色々な問題を生じさせてしまう。
それは、本質的な自律者である男が、依存者である女を十分な主導下に置くことが本末の正立となる一方、
依存者である女が主導的となることが本末の転倒になってしまうからで、それ以上に不思議な理由などはない。
車にしろ船にしろ、一方向に前進しやすいように作られるのが基本で、バックも一応はできるにしても、
一時的な後退だけを念頭に置いていて、常にバック走行し続けることなどを念頭においてはいない。
特殊な構造でもない自転車やバイクなどは、足をつかなければバックはできないようになっているし、
飛行機にいたっては飛行中のバックからして不可能で、エンジンの逆回転なども着陸時のブレーキなどと
してのみ用いられる。そして、こんな乗り物の例などを挙げるまでもなく、人間自身の身体構造からして
眼前に向かって前進していくことが歩行の基本となるようにできている。身体構造がクラゲやウニのような
全方向的な構造にはなっていないから、その人間が乗用することを目的とした乗り物なども自然と、
一方向に向かって進むことが便利となるように設計されていくようになっている。
夫唱婦随が人間自身や乗り物の前進であるなら、カカア天下は後退であるといえ、飛行機でもない限りは
後退だってできなくはないが、常に後退し続ける状態でいたのでは、人間や車や船といえども無理を来たすもの。
男女関係に限らずとも、一方が自律者でもう一方が依存者であるような関係が本末正立的であったり本末転倒的で
あったりすることは、人間や乗り物の前進や後退に譬えられるもので、後退が絶対に不可能なことでまであるとは
限らないにしても、常に後退をし続けるのでは無理を来たすという法則もまた、そのまま当てはまるのである。
自律的な者と依存的な者との関係を、夫唱婦随のような良好な関係とするための道具となるのが上下の序列で、
上位に置かれた自律者が下位に置かれた依存者を一方的な統制の対象とする上での、増強剤的な役割を果たす。
別に、車をバックで走行させ続けるようなほどものカカア天下的な悪癖が根付いてしまっている
のでもない限りは、上下関係のあてがいによる夫唱婦随への矯正までをも必要とはしないわけで、
むしろ依存者こそが自意識過剰によってわがままを甚大化させてしまっているような所でこそ、
自律者と依存者との間に上下関係をあてがうことまでもが必要となってしまうのである。
無闇に上下関係をあてがったりするよりも、「自律者と依存者の関係は夫唱婦随が正則、カカア天下が逆則」
という認識を広めていくことのほうがあって然るべきで、それにより、車を前進させること程にも夫唱婦随を
当たり前なこととして受け止め、延々とバックさせ続けること程にもカカア天下を異常なこととして受け止める
ようになれば、わざわざ上下関係を徹底してまで夫唱婦随を強制したりする必要もなくなるのである。
「自律者と依存者の関係は夫唱婦随が正則、カカア天下が逆則」
これは、ただそうであるというまでのことで、そこにまで疑問を唱えたとしても仕方のないこと。
それはあたかも、「なぜ車はバックし続けるように作られていないのか」という疑問を抱くことに
大した意味がないのと同じようなもので、夫唱婦随であるべき人間関係も、丸ごと一つの車であるようなもの。
男女関係も一つの車、父子関係や君臣関係、官民関係なども一つの車。そこに主従の転倒をあてがったりするのは、
前進する目的で作られている車にバックを強要し続けるような暴挙になってしまうと考えたならば、
いかにそのような試みが不毛なものでしかないことかもまた、明らかになるだろう。
「所謂西伯善く老を養うとは、其の田里を制して之れに樹畜を教え、其の妻子を導きて其の老を養わしむればなり」
「『文王はよく老人を養った』とあるが、これは文王が田地を整理して人々に植樹や牧畜の行い方まで教え、
それぞれの妻子までをも老人への養護に務めるように導いたからである。(本人の優遇ではなく、善行へと導いた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二二より)
上位に置かれた自律者が下位に置かれた依存者を一方的な統制の対象とする上での、増強剤的な役割を果たす。
別に、車をバックで走行させ続けるようなほどものカカア天下的な悪癖が根付いてしまっている
のでもない限りは、上下関係のあてがいによる夫唱婦随への矯正までをも必要とはしないわけで、
むしろ依存者こそが自意識過剰によってわがままを甚大化させてしまっているような所でこそ、
自律者と依存者との間に上下関係をあてがうことまでもが必要となってしまうのである。
無闇に上下関係をあてがったりするよりも、「自律者と依存者の関係は夫唱婦随が正則、カカア天下が逆則」
という認識を広めていくことのほうがあって然るべきで、それにより、車を前進させること程にも夫唱婦随を
当たり前なこととして受け止め、延々とバックさせ続けること程にもカカア天下を異常なこととして受け止める
ようになれば、わざわざ上下関係を徹底してまで夫唱婦随を強制したりする必要もなくなるのである。
「自律者と依存者の関係は夫唱婦随が正則、カカア天下が逆則」
これは、ただそうであるというまでのことで、そこにまで疑問を唱えたとしても仕方のないこと。
それはあたかも、「なぜ車はバックし続けるように作られていないのか」という疑問を抱くことに
大した意味がないのと同じようなもので、夫唱婦随であるべき人間関係も、丸ごと一つの車であるようなもの。
男女関係も一つの車、父子関係や君臣関係、官民関係なども一つの車。そこに主従の転倒をあてがったりするのは、
前進する目的で作られている車にバックを強要し続けるような暴挙になってしまうと考えたならば、
いかにそのような試みが不毛なものでしかないことかもまた、明らかになるだろう。
「所謂西伯善く老を養うとは、其の田里を制して之れに樹畜を教え、其の妻子を導きて其の老を養わしむればなり」
「『文王はよく老人を養った』とあるが、これは文王が田地を整理して人々に植樹や牧畜の行い方まで教え、
それぞれの妻子までをも老人への養護に務めるように導いたからである。(本人の優遇ではなく、善行へと導いた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二二より)
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你じに拄杖子無くんば、我れ你じの拄杖子を奪わん」
「おまえが参禅修行者用の杖を持っているようならば、俺もおまえに杖を与えよう。
おまえ自身が杖を持っていないようならば、俺はおまえから杖を奪ってやろう」
(「無門関」第四十五則・芭蕉拄杖より)
上の禅書からの引用は、これ自体はスレの主旨に違うことも承知の上で、あえて持ち出してみたもの。
というのも、禅仏教こそは自力作善の聖道門の正統もいいとこで、庶民が生半な覚悟でかじったり
すべきでないものの最たるものでもあるから。だから芭蕉和尚も、参禅の資質のある者とない者とを
これ程にも冷厳に篩い分けたのだという一つの実例を、まず挙げておきたかったというまでのこと。
自力作善の仏門が上記ほどもの徹底した差別志向を敷いていればこそ、他力本願の浄土門は
徹底的な平等志向で、親殺しや仏門毀損にすら及ばなければ、誰でも念仏によって救われるとしている。
救われた先にあるとされる「無量寿経」中の極楽浄土なども、金銀財宝が散りばめられた豪華絢爛たるもので、
かえって聖道門の経典である「華厳経」おける仏国土の描写などよりも、即物的な豪華さに満ちたものとなっている。
(華厳経の仏国土にも即物的な描写はあるが、尽十方にかけてそのような描写が為されている頻度はかえって少ない)
参画者を極度に制限する禅門の寺こそは質素素朴である一方、百姓町人から屠殺人まで誰でも入信可である
浄土門の寺こそは、キンキラキンの宝飾が尽くされてもいる。仏門はかくの如き差別志向や平等志向それぞれの
善用によって、出家者たち自身が政治に直接携わらないうちからの、社会風紀の健全化に務めていく。
儒者の政治参画に基づく社会統治も、決してこの傾向を否定するものではない。仁徳に適うのなら粗末な衣食住も
楽しみに変わるという一方(述而第七・一五)、殷帝国の帝王として放辟邪侈の限りを尽くしていた紂王こそを
「下流(子張第十九・二〇)」とも断じている。富が吹き黙りやすい権力者の界隈こそは清貧を旨とするべきであり、
自分たちもそのような道徳的な権力者となることを目指しているわけで、仏者とはその手段が異なるにしても、
全体社会における富の偏在を、全身全霊を挙げて是正していこうとしている点では、全く共通しているといえる。
差別を>>6に挙げたような純正な職業別の害益度に即して徹底し、権力者といえども徳治者であり得た場合にのみ貴ばれ、
一躍権力犯罪者と化した場合には、即刻の自決も辞されなかった。武士が主な在俗信者であった禅門でも、できの悪すぎる
出家者を穴埋めや簀巻きの川流しにするなどして、武士が自らの勤めに励む上での鑑となるようにも振る舞っていた。
儒学自体からは多少話しが逸れたが、仏門が貧富ではなく精進修行の資質の有無にかけての差別を徹底することで、
社会全体における富の偏在を是正する役割を果たしていた事例を挙げてみた。それは、儒学統治とは志しが
一致するものだから、儒学を統治理念とする君子士人による世俗支配に協力する役割をも果たせていた。
一方で、富める者と富まざる者との格差を大いに開かせて已まない資本主義的な統治と、仏門の活動とは
決して相容れないものだから、資本主義が流入して来た明治以降の日本で仏門は徹底して弾圧され、
為政者の精神的な拠り所や、標準的な学問教育の主導者としての役割などは、ほぼ奪い去られることとなった。
多少「取材」の対象にできるぐらいのことはあったとしても、今の世の中の統治者は、仏門の活動をうまく
自分たちの為政の助けにしていくこともできやない。無理に参禅などを志してみたところで、自分たち自身のやってる
ことが金満政治以外の何物でもないから、多少経歴に箔を付けるための「ごっこ遊び」程度の意味合いしか持ち得ない。
仏門が儒学統治の味方たり得ても、金満政治の味方たり得たりまではしない。これもまた一つの正しい差別だといえる。
楽しみに変わるという一方(述而第七・一五)、殷帝国の帝王として放辟邪侈の限りを尽くしていた紂王こそを
「下流(子張第十九・二〇)」とも断じている。富が吹き黙りやすい権力者の界隈こそは清貧を旨とするべきであり、
自分たちもそのような道徳的な権力者となることを目指しているわけで、仏者とはその手段が異なるにしても、
全体社会における富の偏在を、全身全霊を挙げて是正していこうとしている点では、全く共通しているといえる。
差別を>>6に挙げたような純正な職業別の害益度に即して徹底し、権力者といえども徳治者であり得た場合にのみ貴ばれ、
一躍権力犯罪者と化した場合には、即刻の自決も辞されなかった。武士が主な在俗信者であった禅門でも、できの悪すぎる
出家者を穴埋めや簀巻きの川流しにするなどして、武士が自らの勤めに励む上での鑑となるようにも振る舞っていた。
儒学自体からは多少話しが逸れたが、仏門が貧富ではなく精進修行の資質の有無にかけての差別を徹底することで、
社会全体における富の偏在を是正する役割を果たしていた事例を挙げてみた。それは、儒学統治とは志しが
一致するものだから、儒学を統治理念とする君子士人による世俗支配に協力する役割をも果たせていた。
一方で、富める者と富まざる者との格差を大いに開かせて已まない資本主義的な統治と、仏門の活動とは
決して相容れないものだから、資本主義が流入して来た明治以降の日本で仏門は徹底して弾圧され、
為政者の精神的な拠り所や、標準的な学問教育の主導者としての役割などは、ほぼ奪い去られることとなった。
多少「取材」の対象にできるぐらいのことはあったとしても、今の世の中の統治者は、仏門の活動をうまく
自分たちの為政の助けにしていくこともできやない。無理に参禅などを志してみたところで、自分たち自身のやってる
ことが金満政治以外の何物でもないから、多少経歴に箔を付けるための「ごっこ遊び」程度の意味合いしか持ち得ない。
仏門が儒学統治の味方たり得ても、金満政治の味方たり得たりまではしない。これもまた一つの正しい差別だといえる。
「夏の暑く雨ふるに、小民惟れを曰いて怨み咨く。冬の祁いに寒きに、小民亦た惟れを曰いて怨み咨く。
厥れ惟れ艱いかな。其の艱きを思いて、以て其の易きを図れば、民乃ち寧し。嗚呼、丕いに顕らかなる
かな文王の謨。丕いに承けんかな武王の烈。我が後人を啓き佑けて、咸な正しきを以て欠くること罔し」
「夏は暑くて多雨だと決まっているのに、庶民はそれにすら怨み嘆こうとする。冬がひどく寒いのも
分かりきっていることなのに、これまた庶民はいちいちそんなことに嘆く。なかなか察し難いところだが、
その察し難い所までよく察して、(日々の生活に追われている庶民たち自身はなかなか気づかない)飢寒
の害のような本当のところの困窮までをも衣食の充実などによって補ってやったならば、民たちも安んじる。
(これも文王の代からの政治的手法なわけだが、)ああ、なんと文王のお考えはあきらかなることだろう。
武王もまたそのような偉業を見事に受け継ぎ、我々のような後代の者までをも啓蒙し助けて、正しく
ないところがないようにしてくれる。(この文王が編み出した政治的手法は聞くにあきらかではあるが、
愚昧な庶民たち自身があきらかに気づけないような部分に至るまでの配慮に基づく。生活ある民衆たち
自身こそを啓蒙して政治的な主導者の立場に置こうとする、民主主義の不能性をも示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君牙より)
厥れ惟れ艱いかな。其の艱きを思いて、以て其の易きを図れば、民乃ち寧し。嗚呼、丕いに顕らかなる
かな文王の謨。丕いに承けんかな武王の烈。我が後人を啓き佑けて、咸な正しきを以て欠くること罔し」
「夏は暑くて多雨だと決まっているのに、庶民はそれにすら怨み嘆こうとする。冬がひどく寒いのも
分かりきっていることなのに、これまた庶民はいちいちそんなことに嘆く。なかなか察し難いところだが、
その察し難い所までよく察して、(日々の生活に追われている庶民たち自身はなかなか気づかない)飢寒
の害のような本当のところの困窮までをも衣食の充実などによって補ってやったならば、民たちも安んじる。
(これも文王の代からの政治的手法なわけだが、)ああ、なんと文王のお考えはあきらかなることだろう。
武王もまたそのような偉業を見事に受け継ぎ、我々のような後代の者までをも啓蒙し助けて、正しく
ないところがないようにしてくれる。(この文王が編み出した政治的手法は聞くにあきらかではあるが、
愚昧な庶民たち自身があきらかに気づけないような部分に至るまでの配慮に基づく。生活ある民衆たち
自身こそを啓蒙して政治的な主導者の立場に置こうとする、民主主義の不能性をも示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君牙より)
何事も言えばその通りになる、富士山も相模湾に「飛び込め」と言えばそうなるという考えは。
いわゆる「馬鹿」の考えだ。鹿も「馬だ」と言い張れば馬になるとする、馬鹿の考え。
馬鹿の考えも、絶対に実現が不能だとは限らない。人間が空を飛ぶなんてのも200年前には馬鹿の
考えることだったが、今や飛行機が飛べることに疑念を呈している人間のほうが恐怖症扱いである。
「馬鹿と天才は紙一重」というが、発想の実現が可能なのが天才な馬鹿で、
実現は不能だが発想だけが奇天烈なのが単なる馬鹿だといえる。こんな、
あまり天才にとっても好ましくないような言い方をするのも、天才だからといって
世の中に好影響を及ぼすとも限らないから。馬鹿みたいな発想を実際に発明や研究などによって
実現した結果、機関銃や核兵器みたいな大量殺戮兵器までもが編み出されたわけだから、
決して天才だからといって手放しに褒め上げていればいいなんてこともないのである。
天才や馬鹿である以前に、人としてわきまえておかなければならない諸法実相の絶対法則というものがある。
そこを疎かにしてまでの発想の実現の試みは、馬鹿だけでなく、天才のそれまでもが有害な影響をもたらす。
だからそもそも、奇抜な発想によって常識を覆してしまおうとするような試み全般に一定の歯止めをかける
べきなのであり、それでも有益無害ゆえに実現していける発想だけを温存するようにすべきなのである。
いわゆる「馬鹿」の考えだ。鹿も「馬だ」と言い張れば馬になるとする、馬鹿の考え。
馬鹿の考えも、絶対に実現が不能だとは限らない。人間が空を飛ぶなんてのも200年前には馬鹿の
考えることだったが、今や飛行機が飛べることに疑念を呈している人間のほうが恐怖症扱いである。
「馬鹿と天才は紙一重」というが、発想の実現が可能なのが天才な馬鹿で、
実現は不能だが発想だけが奇天烈なのが単なる馬鹿だといえる。こんな、
あまり天才にとっても好ましくないような言い方をするのも、天才だからといって
世の中に好影響を及ぼすとも限らないから。馬鹿みたいな発想を実際に発明や研究などによって
実現した結果、機関銃や核兵器みたいな大量殺戮兵器までもが編み出されたわけだから、
決して天才だからといって手放しに褒め上げていればいいなんてこともないのである。
天才や馬鹿である以前に、人としてわきまえておかなければならない諸法実相の絶対法則というものがある。
そこを疎かにしてまでの発想の実現の試みは、馬鹿だけでなく、天才のそれまでもが有害な影響をもたらす。
だからそもそも、奇抜な発想によって常識を覆してしまおうとするような試み全般に一定の歯止めをかける
べきなのであり、それでも有益無害ゆえに実現していける発想だけを温存するようにすべきなのである。
馬鹿と天才は全くの別種なのではなく、発想が奇抜であるという点では全くその本質を同じくする。
ただ発想が奇抜なだけの「大多数の馬鹿」という負け組の中に、奇抜な発想を現実化する能力や資金を得た
「一部の天才」という勝ち組がいるのがキリスト教社会で、大半の一般人が地獄を天国だとも勘違いする最悪の
蒙昧に陥れられていればこそ、そこからの脱却を希望する若干名の人間が天才としての成功をも企てようとする。
誰しもがキリスト教徒級の蒙昧に踊らされている世の中でもないのなら、そもそも誰しもが諸法実相の了解
からなる一定の安楽にも与れていられるものだから、わざわざ天才や秀才としての成功などを企てようとする
ようなもの自体がそんなに生じない。仮に天才が生じたところで、関孝和や平賀源内のように適当な範囲の
成功に止めて、天才として世の中を席巻するような不埒な企てにまで及んだりすることはないのである。
馬鹿の妄動に一定の歯止めをかけるべきなのはもちろんだが、天才を天才だからといって無条件に
褒め称えるような風潮にもいい加減、幕を引かなければならない。天才であってもサイコパスであるような
人間に世界を支配されるよりは、凡才でも純朴で分別の利く人間が世の中を統治していくほうが、まだ
全体社会においてもたらされる損害以上の利益の度合いも高まるというもので、少なくとも、天才か凡才か
などという査定基準を、善人か悪人かという基準以上にも優先していいようなことは、もう決してないのである。
ただの小百姓の末子でいながら「皇帝になる」という大志を抱き、ほとんど文盲なままに帝位を目指し、
実際に皇帝となってみたなら、官職者や富豪には厳しくとも庶民には優しい、理想上の主君となった
漢の高祖劉邦のように、むしろ無知で純朴な中にこそ陰徳を養っていたような人間も実際にいるわけだから、
天才だからといって称えるのと同時に、無知や凡才だからといって侮るようなことも控えられていかなければならない。
ただ発想が奇抜なだけの「大多数の馬鹿」という負け組の中に、奇抜な発想を現実化する能力や資金を得た
「一部の天才」という勝ち組がいるのがキリスト教社会で、大半の一般人が地獄を天国だとも勘違いする最悪の
蒙昧に陥れられていればこそ、そこからの脱却を希望する若干名の人間が天才としての成功をも企てようとする。
誰しもがキリスト教徒級の蒙昧に踊らされている世の中でもないのなら、そもそも誰しもが諸法実相の了解
からなる一定の安楽にも与れていられるものだから、わざわざ天才や秀才としての成功などを企てようとする
ようなもの自体がそんなに生じない。仮に天才が生じたところで、関孝和や平賀源内のように適当な範囲の
成功に止めて、天才として世の中を席巻するような不埒な企てにまで及んだりすることはないのである。
馬鹿の妄動に一定の歯止めをかけるべきなのはもちろんだが、天才を天才だからといって無条件に
褒め称えるような風潮にもいい加減、幕を引かなければならない。天才であってもサイコパスであるような
人間に世界を支配されるよりは、凡才でも純朴で分別の利く人間が世の中を統治していくほうが、まだ
全体社会においてもたらされる損害以上の利益の度合いも高まるというもので、少なくとも、天才か凡才か
などという査定基準を、善人か悪人かという基準以上にも優先していいようなことは、もう決してないのである。
ただの小百姓の末子でいながら「皇帝になる」という大志を抱き、ほとんど文盲なままに帝位を目指し、
実際に皇帝となってみたなら、官職者や富豪には厳しくとも庶民には優しい、理想上の主君となった
漢の高祖劉邦のように、むしろ無知で純朴な中にこそ陰徳を養っていたような人間も実際にいるわけだから、
天才だからといって称えるのと同時に、無知や凡才だからといって侮るようなことも控えられていかなければならない。
「孔子衛に在りて、葬を送る者有り。夫子之れを観て曰く、善きかな喪を為すや、以て法と為すに足れり、小子之れ
を識せと。子貢曰く、夫子何ぞ善みすること爾かるやと。曰く、其の往くや慕うが如くし、其の反るや疑がうが如しと。
子貢曰く、豈に速やかに反りて虞するに若かんやと。子曰く、小子之れを識せ、我れ未だ之れを行う能わざるなりと」
「孔先生が衛国に滞在しているとき、葬送に参列する者がいた。先生はこれを見て言われた。『見事な服喪の仕方だ。
規範とするに足るものだから、よくそのあり方を記録しておきなさい』 弟子の子貢は問うた。『どこがそんなに
模範的なのでしょうか』 先生『葬儀に参列する時には未だ故人を慕っているようでいて、退くときにもまだ故人が
亡くなったことが信じられないような疑わしい態度でいるところがだ』 子貢『どうして速やかに退いて、斎宮でその
霊魂を祭ることがより模範的ではないのでしょうか』 先生『これも記録しておきなさい。私には到底できやしないが』
(生きていようが死んでいようが、人間の霊魂と身体とを妄りに分裂させて捉える気になれないのがまともな人情と
いうもの。そのような人情に欠ける子貢の意見も孔子は全くの非とはしなかったが、自分には到底できないともいった。
そして今の日本でも、没後四十九日目に法要によって死者の霊を送り出すなど、人情に適った葬礼が行われている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
を識せと。子貢曰く、夫子何ぞ善みすること爾かるやと。曰く、其の往くや慕うが如くし、其の反るや疑がうが如しと。
子貢曰く、豈に速やかに反りて虞するに若かんやと。子曰く、小子之れを識せ、我れ未だ之れを行う能わざるなりと」
「孔先生が衛国に滞在しているとき、葬送に参列する者がいた。先生はこれを見て言われた。『見事な服喪の仕方だ。
規範とするに足るものだから、よくそのあり方を記録しておきなさい』 弟子の子貢は問うた。『どこがそんなに
模範的なのでしょうか』 先生『葬儀に参列する時には未だ故人を慕っているようでいて、退くときにもまだ故人が
亡くなったことが信じられないような疑わしい態度でいるところがだ』 子貢『どうして速やかに退いて、斎宮でその
霊魂を祭ることがより模範的ではないのでしょうか』 先生『これも記録しておきなさい。私には到底できやしないが』
(生きていようが死んでいようが、人間の霊魂と身体とを妄りに分裂させて捉える気になれないのがまともな人情と
いうもの。そのような人情に欠ける子貢の意見も孔子は全くの非とはしなかったが、自分には到底できないともいった。
そして今の日本でも、没後四十九日目に法要によって死者の霊を送り出すなど、人情に適った葬礼が行われている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
徒善や徒法を自分たちで捏造することによって、それに反する小罪や偽悪を働くものを
徹底して糾弾し、それによって自分たちが企てる本物の大悪から衆目を逸らさせる
というのが、古来からの権力犯罪者やカルト犯罪者の罪悪推進上の常套手段となっている。
ユダヤ教の、割礼(包茎手術)を行わない者を神の意向に違う罪人として糾弾し、
「聖絶」の対象にすらしようとも憚らぬ姿勢などもその最たるものであり、徒善や徒法が
「神の啓示」などとして祭り上げられた場合の度し難さを示した極例ともなっている。
一方で、イスラム教における豚肉食や飲酒の禁止もまた、神託の名目で実定されている
傍目には徒法にすら思えかねない戒律である。実際、飲酒が厳禁されているためにこそ、
日本など以上にも喫煙や麻薬の服用が許容されていたりするといった問題も呈しているわけだが、
ただ、これらの戒律は異教徒に危害を加えることを正当化する言い分に用いられることまでは
少ないことからも、割礼や同性愛の禁止といった戒律を守らない異教徒を迫害の対象にすらする
ユダヤ教やキリスト教のあり方よりは、随分とマシな範疇に止まっているといえる。
アブラハム教圏には、善因楽果悪因苦果の自覚的な把捉に即した、自明な善悪の分別というものがない。
全ての規範は超越神が定めるものであり、自分はそれに服従するだけの存在でしかないと考えて
いる点では、ユダヤもキリシタンもイスラムも全くその様相を同じくする。その上で、神からの
啓示であるとされる善悪の分別や法定が、自明な分別から大幅に乖離してしまっているのが
ユダヤ教やキリスト教であるのに対し、「当たらずといえども遠からず」という
程度の範囲に止まっているのがイスラム教であるといった程度の違いがある。
徹底して糾弾し、それによって自分たちが企てる本物の大悪から衆目を逸らさせる
というのが、古来からの権力犯罪者やカルト犯罪者の罪悪推進上の常套手段となっている。
ユダヤ教の、割礼(包茎手術)を行わない者を神の意向に違う罪人として糾弾し、
「聖絶」の対象にすらしようとも憚らぬ姿勢などもその最たるものであり、徒善や徒法が
「神の啓示」などとして祭り上げられた場合の度し難さを示した極例ともなっている。
一方で、イスラム教における豚肉食や飲酒の禁止もまた、神託の名目で実定されている
傍目には徒法にすら思えかねない戒律である。実際、飲酒が厳禁されているためにこそ、
日本など以上にも喫煙や麻薬の服用が許容されていたりするといった問題も呈しているわけだが、
ただ、これらの戒律は異教徒に危害を加えることを正当化する言い分に用いられることまでは
少ないことからも、割礼や同性愛の禁止といった戒律を守らない異教徒を迫害の対象にすらする
ユダヤ教やキリスト教のあり方よりは、随分とマシな範疇に止まっているといえる。
アブラハム教圏には、善因楽果悪因苦果の自覚的な把捉に即した、自明な善悪の分別というものがない。
全ての規範は超越神が定めるものであり、自分はそれに服従するだけの存在でしかないと考えて
いる点では、ユダヤもキリシタンもイスラムも全くその様相を同じくする。その上で、神からの
啓示であるとされる善悪の分別や法定が、自明な分別から大幅に乖離してしまっているのが
ユダヤ教やキリスト教であるのに対し、「当たらずといえども遠からず」という
程度の範囲に止まっているのがイスラム教であるといった程度の違いがある。
イスラム圏における豚肉食の禁止は、間接的に女色の貪りの抑制にも寄与した。そのような
慣習の一切ないキリスト教圏では、同性愛への蔑視を横目にした男女の交わりの過激な推進すらもが
半ば横行し、いい女を抱くためにこそ男が無闇やたらに富を貪るようなことまでもが常態化してしまった。
それと比べれば、女色の貪りに一定の制限がかけられている一方、別に同性愛の禁止などがあるわけでもない
イスラム圏における大半の男たちの経済感覚のほうが至ってまともなもので(石油メジャーの手下と化した一部の
富豪などを除く)、自分たちが外界に強いている経済的疲弊なども、こちらは皆無にも等しいものとなっている。
神からの啓示名義の実定法などに依存したりするよりは、罪福の承諾に基づく自明な善悪の分別を
利かせていくに越したことはないが、残念ながらそれが叶わない範囲においても、比較的道義に
適った実定法によって人々が吉方へと導かれたり、著しく道義に悖った悪法によって人々が破滅に
陥れられたりするようなことがある。聖書信仰とイスラムの隔絶などもまさにその実例で、これから
致命的な破滅に陥る欧米聖書圏と比べての、ムスリムたちの「幸い」さが明らかなものとなっている。
むろん、「不幸中の幸い」という意味の「幸い」であって、超越神への信仰依存を本旨とするアブラハム教
全体としては、利益以上の損害をもたらしてしまったと断ずる他ないわけだから、老若男女官民の誰しもが
他社への依存によって生きていこうとすることなどが、決して善いことなどではなかったとも断ずるしかない。
慣習の一切ないキリスト教圏では、同性愛への蔑視を横目にした男女の交わりの過激な推進すらもが
半ば横行し、いい女を抱くためにこそ男が無闇やたらに富を貪るようなことまでもが常態化してしまった。
それと比べれば、女色の貪りに一定の制限がかけられている一方、別に同性愛の禁止などがあるわけでもない
イスラム圏における大半の男たちの経済感覚のほうが至ってまともなもので(石油メジャーの手下と化した一部の
富豪などを除く)、自分たちが外界に強いている経済的疲弊なども、こちらは皆無にも等しいものとなっている。
神からの啓示名義の実定法などに依存したりするよりは、罪福の承諾に基づく自明な善悪の分別を
利かせていくに越したことはないが、残念ながらそれが叶わない範囲においても、比較的道義に
適った実定法によって人々が吉方へと導かれたり、著しく道義に悖った悪法によって人々が破滅に
陥れられたりするようなことがある。聖書信仰とイスラムの隔絶などもまさにその実例で、これから
致命的な破滅に陥る欧米聖書圏と比べての、ムスリムたちの「幸い」さが明らかなものとなっている。
むろん、「不幸中の幸い」という意味の「幸い」であって、超越神への信仰依存を本旨とするアブラハム教
全体としては、利益以上の損害をもたらしてしまったと断ずる他ないわけだから、老若男女官民の誰しもが
他社への依存によって生きていこうとすることなどが、決して善いことなどではなかったとも断ずるしかない。
「天下の礼は、始めに反るを致すなり、鬼神を致すなり、和用を致すなり、義を致すなり、讓を致すなり。
〜此の五者を合わせて、以て天下の礼を治むるや、奇邪にして治まらざる者有ると雖も、則ち微かなる」
「天下に通用する礼節としては、物事の根本をよく見据えること、先祖の神をよく祭ること、万民の和合と
財の充実を図ること、道義を尽くすこと、謙譲を尽くすことの五つがある。この五つの礼節を天下全土に
向けて敷けたなら、奇行や邪侈に走って収拾の付かない者がまだいたとしても、あくまで少数派にとどまる。
(こういう大切なことのみを記録して、放辟邪侈の推進などを元から記録しない姿勢からして優良なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
〜此の五者を合わせて、以て天下の礼を治むるや、奇邪にして治まらざる者有ると雖も、則ち微かなる」
「天下に通用する礼節としては、物事の根本をよく見据えること、先祖の神をよく祭ること、万民の和合と
財の充実を図ること、道義を尽くすこと、謙譲を尽くすことの五つがある。この五つの礼節を天下全土に
向けて敷けたなら、奇行や邪侈に走って収拾の付かない者がまだいたとしても、あくまで少数派にとどまる。
(こういう大切なことのみを記録して、放辟邪侈の推進などを元から記録しない姿勢からして優良なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
「醜夷に在りて争わず(既出)」「同等の立場にある者同士では争わない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
罪を犯しているものに対して、同様の罪を犯しているものが裁きを講ずるというのでは、話にならない。
だから古来から儒学でも「修己治人」ということが言われてきたし、己れの無為自然によってこそ、
蛮行争乱に走るものを安静に連れ込む道家のあり方なども、一種の修己治人の提唱となっている。
修己治人であればこそ、容易かつ爽快に相手を降伏させられるといった法則もまた存在する。
合気柔術は、他の格闘技などとちがって自分から攻撃を仕掛けない。自分自身は平和主義を守り通す一方、
自分に攻撃を仕掛けてきた相手の攻撃力をうまく絡め取り、相手を捕縛や転倒などの状態に追い込む
ことを旨とする。自分から相手に攻撃を仕掛ず、また相手が本気で攻撃を仕掛けてきた場合にのみ、
合気技は見事にかかる。かける側に十分な技量があって、なおかつ上記のような条件すら整っていれば、
相手が雲を突くような大男で、自分が婦女子ほどの体格の持ち主でしかなくとも、確実に技がかかる。
「修己治人+相手にのみ決定的な落ち度」という条件すら整っていれば、何も柔術技巧に限らずとも、
様々なシチュエーションにおける合気技の法則の適用が可能となる。自分自身が権力犯罪を行わないことに
かけての徹底的な修身に勤め、逆に相手が重権力犯罪まみれの大悪人だったりするのなら、たとえ自分が
乞食も同様の分際でいて、相手が大軍を擁する大帝国の長であろうとも、まるで合気技が極まるかのごとく、
完璧かつ爽快に相手をねじ伏せることができる。これは孟子が梁恵王章句上・五でもすでに述べていることで、
ここではその発言が合気の法則に叶っているが故に、爽快な実現までもが可能であることを指摘したまでのことである。
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
罪を犯しているものに対して、同様の罪を犯しているものが裁きを講ずるというのでは、話にならない。
だから古来から儒学でも「修己治人」ということが言われてきたし、己れの無為自然によってこそ、
蛮行争乱に走るものを安静に連れ込む道家のあり方なども、一種の修己治人の提唱となっている。
修己治人であればこそ、容易かつ爽快に相手を降伏させられるといった法則もまた存在する。
合気柔術は、他の格闘技などとちがって自分から攻撃を仕掛けない。自分自身は平和主義を守り通す一方、
自分に攻撃を仕掛けてきた相手の攻撃力をうまく絡め取り、相手を捕縛や転倒などの状態に追い込む
ことを旨とする。自分から相手に攻撃を仕掛ず、また相手が本気で攻撃を仕掛けてきた場合にのみ、
合気技は見事にかかる。かける側に十分な技量があって、なおかつ上記のような条件すら整っていれば、
相手が雲を突くような大男で、自分が婦女子ほどの体格の持ち主でしかなくとも、確実に技がかかる。
「修己治人+相手にのみ決定的な落ち度」という条件すら整っていれば、何も柔術技巧に限らずとも、
様々なシチュエーションにおける合気技の法則の適用が可能となる。自分自身が権力犯罪を行わないことに
かけての徹底的な修身に勤め、逆に相手が重権力犯罪まみれの大悪人だったりするのなら、たとえ自分が
乞食も同様の分際でいて、相手が大軍を擁する大帝国の長であろうとも、まるで合気技が極まるかのごとく、
完璧かつ爽快に相手をねじ伏せることができる。これは孟子が梁恵王章句上・五でもすでに述べていることで、
ここではその発言が合気の法則に叶っているが故に、爽快な実現までもが可能であることを指摘したまでのことである。
ただ合気法則に即して大帝国全体を屈伏させるともなれば、ただ「何もしない」ばかりでもいけない所がある。
重権力犯罪まみれによってこそ成り立っていた、秦帝国や米英帝国などの後を継いで、跡地を有効に
実効支配していくからには、それに見合っただけの自分自身の政治的素養が必要となる。なおかつ
その政治能力が権力犯罪をやらかすことではなく、権力道徳を実践していくことにかけて有効でないのなら、
自分自身までもが秦楚や米英の二の舞三の舞に陥ってしまうことになるから、それでもいけない。
結局、老荘並みの無為自然志向と、孔孟並みの徳治の素養、さらには孫呉並みの兵法の素養があることでやっと、
秦や米英が崩壊した後の天下を十分に統治していくことが可能となる。それは決して、一人の人間にばかり
全てを要求すべきような代物ではないので、道術に長けていた高祖劉邦が、兵法にかけては張良や韓信を
頼りとしたり、礼楽にかけては陸賈や叔孫通を頼りにしたりしたような分業がある程度可能であってこそ、
万億の民を湛える大帝国の長期に渡る泰平統治が可能ともなっていくものなのでもある。
修己治人に即して悪逆非道を討つ、それは実際可能なことだし、実現できたならこれ程にも爽快なことはない。
できた所で面倒くさそうだ、今より悪い世の中になりそうだなんて不安が、現代社会にドップリ浸かって
しまっている人間には生じてしまうのかもしれないが、まず、修己治人に基づく勧善懲悪は楽しい、楽しい上に、
確実に今よりもマシ以上な世の中の到来が見込める。そこに魅力を感じることができて初めて、誰も彼もが
罪悪まみれで収拾も付かない時代のつまらなさにも気づき、よって収拾の目処が立っていくのでもある。
「吾れ未だ己れを枉げて人を正す者を聞かざるなり。況んや、己れを辱めて以て天下を正す者をや」
「私も、自分が邪曲でいながら他人を正せた者などを未だ一人も知らない。ましてや、自分を辱しめることで
世の中を正せた者ともなれば、なおさら聞いたこともない。(不正まみれで誰しもがお互いを正し合うことも
覚束なくなっているからといって、イエスのような辱めを受けることでどうにかなるなんて道理もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
重権力犯罪まみれによってこそ成り立っていた、秦帝国や米英帝国などの後を継いで、跡地を有効に
実効支配していくからには、それに見合っただけの自分自身の政治的素養が必要となる。なおかつ
その政治能力が権力犯罪をやらかすことではなく、権力道徳を実践していくことにかけて有効でないのなら、
自分自身までもが秦楚や米英の二の舞三の舞に陥ってしまうことになるから、それでもいけない。
結局、老荘並みの無為自然志向と、孔孟並みの徳治の素養、さらには孫呉並みの兵法の素養があることでやっと、
秦や米英が崩壊した後の天下を十分に統治していくことが可能となる。それは決して、一人の人間にばかり
全てを要求すべきような代物ではないので、道術に長けていた高祖劉邦が、兵法にかけては張良や韓信を
頼りとしたり、礼楽にかけては陸賈や叔孫通を頼りにしたりしたような分業がある程度可能であってこそ、
万億の民を湛える大帝国の長期に渡る泰平統治が可能ともなっていくものなのでもある。
修己治人に即して悪逆非道を討つ、それは実際可能なことだし、実現できたならこれ程にも爽快なことはない。
できた所で面倒くさそうだ、今より悪い世の中になりそうだなんて不安が、現代社会にドップリ浸かって
しまっている人間には生じてしまうのかもしれないが、まず、修己治人に基づく勧善懲悪は楽しい、楽しい上に、
確実に今よりもマシ以上な世の中の到来が見込める。そこに魅力を感じることができて初めて、誰も彼もが
罪悪まみれで収拾も付かない時代のつまらなさにも気づき、よって収拾の目処が立っていくのでもある。
「吾れ未だ己れを枉げて人を正す者を聞かざるなり。況んや、己れを辱めて以て天下を正す者をや」
「私も、自分が邪曲でいながら他人を正せた者などを未だ一人も知らない。ましてや、自分を辱しめることで
世の中を正せた者ともなれば、なおさら聞いたこともない。(不正まみれで誰しもがお互いを正し合うことも
覚束なくなっているからといって、イエスのような辱めを受けることでどうにかなるなんて道理もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
民主化や廃仏毀釈によって、君子士人としての活動や、本格的な仏門帰依の余地がすでに
絶やされてしまっている現今の日本社会においても、それらが実際に可能であった江戸時代以前の
世の中を慕う者がいて、それらの人々こそは今という時代を嘆かわしい時代だとも受け止めている。
それは確かに、多少の倫理意識によってそう思うという程度でしかない場合もあり、本当に当時の世の中に
回帰するとなれば躊躇すらしてしまうようなものだったりもする。一方で、本当にかつての世の中こそを
心から楽しかったもの、つまらなくなかったものとしてその本質から憧憬し、まるで美女や美食を欲する
ようにして、当時の世の中への回帰こそを自然に選択してしまうほどもの心持ちでいるものもいる。
「高高として上に在りと曰うなかれ、厥れ士の上に渉降したまい、日に監みて玆に在り」
「高々としてとても自分たちが手の届かないところにばかりあるなどと思うな。日々
神霊たちは天と人との間を昇降して、監査を加えつつここにすらあるものだと思え」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・敬之より)
上のような心持ちで、150年以上前の世の中にすら生気がかった思いを馳せてみれば、確かに
実感からの正しき世の心地よさに与ることができる。深く歴史や礼制を学びすらすれば、誰にでもそれは
可能なことだし、自らの先祖が当時の世の中で重職を担っていたりしたのなら、なおさら実感も容易となる。
そしてその心地よさの実感に即して、実際に己と人と世とを律して行ったならば、たとえ君子階級や聖道門が
絶やされた世の中といえども、何度でも仁徳に満ちた聖賢の統治する世の中へと立ち戻らせていくことができる。
さんざん言っている通り、それはあくまで「楽しいからこそ」実施されていくに越したことはないのであり、
いい加減世の中が破滅に陥れられてどうにもならないから嫌々反正していくというのでは、望みが低すぎる。
絶やされてしまっている現今の日本社会においても、それらが実際に可能であった江戸時代以前の
世の中を慕う者がいて、それらの人々こそは今という時代を嘆かわしい時代だとも受け止めている。
それは確かに、多少の倫理意識によってそう思うという程度でしかない場合もあり、本当に当時の世の中に
回帰するとなれば躊躇すらしてしまうようなものだったりもする。一方で、本当にかつての世の中こそを
心から楽しかったもの、つまらなくなかったものとしてその本質から憧憬し、まるで美女や美食を欲する
ようにして、当時の世の中への回帰こそを自然に選択してしまうほどもの心持ちでいるものもいる。
「高高として上に在りと曰うなかれ、厥れ士の上に渉降したまい、日に監みて玆に在り」
「高々としてとても自分たちが手の届かないところにばかりあるなどと思うな。日々
神霊たちは天と人との間を昇降して、監査を加えつつここにすらあるものだと思え」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・敬之より)
上のような心持ちで、150年以上前の世の中にすら生気がかった思いを馳せてみれば、確かに
実感からの正しき世の心地よさに与ることができる。深く歴史や礼制を学びすらすれば、誰にでもそれは
可能なことだし、自らの先祖が当時の世の中で重職を担っていたりしたのなら、なおさら実感も容易となる。
そしてその心地よさの実感に即して、実際に己と人と世とを律して行ったならば、たとえ君子階級や聖道門が
絶やされた世の中といえども、何度でも仁徳に満ちた聖賢の統治する世の中へと立ち戻らせていくことができる。
さんざん言っている通り、それはあくまで「楽しいからこそ」実施されていくに越したことはないのであり、
いい加減世の中が破滅に陥れられてどうにもならないから嫌々反正していくというのでは、望みが低すぎる。
いま現在、本当に世界を破滅に陥れてしまっているユダヤ系やキリシタン系の権力犯罪者たち自身は確かに、
窮地に追い詰められて仕方なく反正するということを主体とするしかないだろう。ただ、それらの人間は
反正の主導者ではなく、反正の取っ掛かりを作るものとなるに過ぎないのでもあり、撥乱反正と事後の
泰平統治を主導していく者であるなら、それを心から楽しんでいけるぐらいの心意気がなければならない。
古えからの知恵にも適った正善を、自他に向けて推進していくことにかけて大きな楽しみを抱けるぐらいで
あって初めて、本当に世界史上にも名高い聖王にも肩を並べるほどもの帝業すらをも成すことができる。
というのも、確かに歴史上の聖王こそは、善政を尽くすことを心から楽しんでいたようでもあるから。
自らが善政を行うための口実としての瑞祥を求めて、方々での祭祀に明け暮れた前漢の武帝なども、
「これによって龍が現れて自分を天上へと連れて行ってくれるのなら、妻子など履物を脱ぎ捨てるように
捨て去ってもいいのに」と言ったという(「漢書」郊祀志参照)。ここには、本当に龍が現れることへの渇望
以上にも、祭祀事業そのものを心から楽しんでいたことからなる余裕が垣間見られる。家庭を捨てて寺に入る
仏者のあり方なども、俗世での楽しみこそが全てである現代の人間からすればやせ我慢じみたものにすら
思われかねないが、むしろそこにこそ常楽我浄があるものだから、出家を志す者もかつては多かったのだ。
正善ゆえ、浄業ゆえの楽しみこそはまた別にあるのだと確信し、そこに邁進していける者こそが、
本当にそこに到達できるのであり、嫌々ながら仕方なくなどという者は始めからお呼びでない。
やる気もないような奴は修行用の杖を持っていない内からその杖を奪ってしまおうとは>>11にもある通りだ。
窮地に追い詰められて仕方なく反正するということを主体とするしかないだろう。ただ、それらの人間は
反正の主導者ではなく、反正の取っ掛かりを作るものとなるに過ぎないのでもあり、撥乱反正と事後の
泰平統治を主導していく者であるなら、それを心から楽しんでいけるぐらいの心意気がなければならない。
古えからの知恵にも適った正善を、自他に向けて推進していくことにかけて大きな楽しみを抱けるぐらいで
あって初めて、本当に世界史上にも名高い聖王にも肩を並べるほどもの帝業すらをも成すことができる。
というのも、確かに歴史上の聖王こそは、善政を尽くすことを心から楽しんでいたようでもあるから。
自らが善政を行うための口実としての瑞祥を求めて、方々での祭祀に明け暮れた前漢の武帝なども、
「これによって龍が現れて自分を天上へと連れて行ってくれるのなら、妻子など履物を脱ぎ捨てるように
捨て去ってもいいのに」と言ったという(「漢書」郊祀志参照)。ここには、本当に龍が現れることへの渇望
以上にも、祭祀事業そのものを心から楽しんでいたことからなる余裕が垣間見られる。家庭を捨てて寺に入る
仏者のあり方なども、俗世での楽しみこそが全てである現代の人間からすればやせ我慢じみたものにすら
思われかねないが、むしろそこにこそ常楽我浄があるものだから、出家を志す者もかつては多かったのだ。
正善ゆえ、浄業ゆえの楽しみこそはまた別にあるのだと確信し、そこに邁進していける者こそが、
本当にそこに到達できるのであり、嫌々ながら仕方なくなどという者は始めからお呼びでない。
やる気もないような奴は修行用の杖を持っていない内からその杖を奪ってしまおうとは>>11にもある通りだ。
夏殷周の三代にわたる最古層の中国文化を春秋時代に孔子が易詩書礼楽春秋の六経として編纂し、
孔子やその後継者である儒者たちも、その忠実な継承に務めていた。秦始皇帝の犯した焚書坑儒によって
「楽経」の全てと「書経」の大半が焼失し、今では五経にまで目減りしてしまっているが、やはり
できる限り古代文化の忠実な継承に儒者たちが務め続けようとして来たことには変わりない。
古代文化そのものは忠実に継承した上で、その実用に応用を利かせるというぐらいのことは当然あった。
秦帝国の覇業を継ぐ形で王業を打ち立てた漢帝国においても、天神を祭るための檀などの装飾に浮ついて
華美なものがあったために、それを廃止したと「漢書」郊祀志下にある。しかもそれが古代の礼制に適って
いないからではなく、すでに遺失している礼制を近代人が我流で焼き直したものだからというわけで、
これはかえって、古代文化の偉大さを尊重するがためにヘタな真似を控えようとした事例にあたるといえる。
日本でも、中国とは違った気候風土に合わせて、供儀に獣肉ではなく魚介類を用いるなどの応用が利かせられた。
これも「東鄰の牛を殺すは、西鄰の禴祭(質素な祭)に如かず」という「易経」既済・九五の記述にも即していて、
中国古来の礼制に即しているわけではないにも関わらず、かえって中国文化の根幹たる易には即したものとなっている。
必ずしも、古代の中国文化そのものをそのまま復古するというのでもなく、それなりの応用は利かせる、
それでこそ単なる復元志向以上にも、温故知新を本旨とする儒学の理念にも叶った実績を上げられたりもする。ただ、
それが決して基本的なあり方なのではなく、できる限り古来のあり方に倣って、あきらかに新規な措置を講じたほうが
最善となる場合に限ってそちらを選択するというのが基本なわけで、「五経の記録に一切従わないことが最善となる」
なんてことは当然あり得ない。そこまで五経が劣悪極まりない反面教師カルトの鑑だったりすることもないのだから。
孔子やその後継者である儒者たちも、その忠実な継承に務めていた。秦始皇帝の犯した焚書坑儒によって
「楽経」の全てと「書経」の大半が焼失し、今では五経にまで目減りしてしまっているが、やはり
できる限り古代文化の忠実な継承に儒者たちが務め続けようとして来たことには変わりない。
古代文化そのものは忠実に継承した上で、その実用に応用を利かせるというぐらいのことは当然あった。
秦帝国の覇業を継ぐ形で王業を打ち立てた漢帝国においても、天神を祭るための檀などの装飾に浮ついて
華美なものがあったために、それを廃止したと「漢書」郊祀志下にある。しかもそれが古代の礼制に適って
いないからではなく、すでに遺失している礼制を近代人が我流で焼き直したものだからというわけで、
これはかえって、古代文化の偉大さを尊重するがためにヘタな真似を控えようとした事例にあたるといえる。
日本でも、中国とは違った気候風土に合わせて、供儀に獣肉ではなく魚介類を用いるなどの応用が利かせられた。
これも「東鄰の牛を殺すは、西鄰の禴祭(質素な祭)に如かず」という「易経」既済・九五の記述にも即していて、
中国古来の礼制に即しているわけではないにも関わらず、かえって中国文化の根幹たる易には即したものとなっている。
必ずしも、古代の中国文化そのものをそのまま復古するというのでもなく、それなりの応用は利かせる、
それでこそ単なる復元志向以上にも、温故知新を本旨とする儒学の理念にも叶った実績を上げられたりもする。ただ、
それが決して基本的なあり方なのではなく、できる限り古来のあり方に倣って、あきらかに新規な措置を講じたほうが
最善となる場合に限ってそちらを選択するというのが基本なわけで、「五経の記録に一切従わないことが最善となる」
なんてことは当然あり得ない。そこまで五経が劣悪極まりない反面教師カルトの鑑だったりすることもないのだから。
その記述に一切従わないでいてこそ最善となるような反面教師カルトの聖典があったとして、しかもそれが何十万文字
という大部に上っていたとする。そんなもの無視するに越したことはないが、残念ながら押し付けられたりもする形で
その内容を知らされてしまったとする。それでいて一切その記述に従わないためには、ただ「こんなものはダメだ」
という反発意識を持つぐらいではどうにもならない。その記述にいかに従わないでおくかに関する体系的な知識こそが
必要ともなるが、その知識が五経や四書の中にはあるとした所で、新約聖書の中にあるようなことも決してない。
新約の教義が、「旧約の教義は一切従わないでいてこそ最善となる反面教師カルトの教義である」という正しい
認識を前提に提唱されたものなどでは決してないから、新約が旧約の毒性を中和できているようなことも全くない。
あたかも四書が五経の注釈書として編纂されたようにして、新約もまた旧約の応用書として作られたものであり、
五経と違って、旧約のほうは改善の余地もないほどに極悪非道の教義の塊でしかないものだから、それを多少いじる
ぐらいのつもりで捏造された新約の教義もまた、旧約に尾ひれをつけた程度のものとしかなり得なかったのだった。
最初の誤りは、新約ではなく旧約にある。旧約が五経ぐらいにマシな教学を湛えていたなら、そこに付け足される形で
作られた新約もまた、四書並みにマシな内容になっていただろう。五経の自学自習によって聖人君子へと大成した
孔子ほどまでは行かずとも、イエスもまたもうちょっとマシな人間ぐらいではいられたことだろう。人間の運命は
必ずしも環境によって決まるものではないにしろ、環境がある程度その運命を左右してしまうのも確かなことだ。
「男女の別有りて、而る後に夫婦義有り。夫婦義有りて、而る後に父子親有り。
父子親有りて、而る後に君臣正有り。故に曰く、昏礼は、礼の本なりと」
「男女の差別があって後に初めて、夫婦の関係に義が生ずる。夫婦の関係に義があって後に初めて、父子の関係に親しみ
が生ずる。父子の関係に親しみがあって初めて、君臣関係も正しくなる。故に結婚こそはあらゆる礼節の根本ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・昏義第四十四より)
という大部に上っていたとする。そんなもの無視するに越したことはないが、残念ながら押し付けられたりもする形で
その内容を知らされてしまったとする。それでいて一切その記述に従わないためには、ただ「こんなものはダメだ」
という反発意識を持つぐらいではどうにもならない。その記述にいかに従わないでおくかに関する体系的な知識こそが
必要ともなるが、その知識が五経や四書の中にはあるとした所で、新約聖書の中にあるようなことも決してない。
新約の教義が、「旧約の教義は一切従わないでいてこそ最善となる反面教師カルトの教義である」という正しい
認識を前提に提唱されたものなどでは決してないから、新約が旧約の毒性を中和できているようなことも全くない。
あたかも四書が五経の注釈書として編纂されたようにして、新約もまた旧約の応用書として作られたものであり、
五経と違って、旧約のほうは改善の余地もないほどに極悪非道の教義の塊でしかないものだから、それを多少いじる
ぐらいのつもりで捏造された新約の教義もまた、旧約に尾ひれをつけた程度のものとしかなり得なかったのだった。
最初の誤りは、新約ではなく旧約にある。旧約が五経ぐらいにマシな教学を湛えていたなら、そこに付け足される形で
作られた新約もまた、四書並みにマシな内容になっていただろう。五経の自学自習によって聖人君子へと大成した
孔子ほどまでは行かずとも、イエスもまたもうちょっとマシな人間ぐらいではいられたことだろう。人間の運命は
必ずしも環境によって決まるものではないにしろ、環境がある程度その運命を左右してしまうのも確かなことだ。
「男女の別有りて、而る後に夫婦義有り。夫婦義有りて、而る後に父子親有り。
父子親有りて、而る後に君臣正有り。故に曰く、昏礼は、礼の本なりと」
「男女の差別があって後に初めて、夫婦の関係に義が生ずる。夫婦の関係に義があって後に初めて、父子の関係に親しみ
が生ずる。父子の関係に親しみがあって初めて、君臣関係も正しくなる。故に結婚こそはあらゆる礼節の根本ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・昏義第四十四より)
悪を為さず、罪を犯さない所にこそ「浩然の気」とか「常楽我浄」とかいった風に呼ばれもする
根本からの安楽があり、罪悪を積み重ねれば積み重ねるほどその安楽からは遠ざかる。
最悪、まるで全身に激痛の走る大やけどを負いながら生きさせられるほどにも、
心底からの精神的苦痛と共にしか生きられないようなザマにすら陥ってしまう。
だから悪人や罪人ほど、その表情や言行にも、どこか歪んだものが垣間見られもする。
浩然の気や浄楽我浄のような根本からの精神的安楽に与れている人間はといえば、
心持ちから仏像や菩薩像のような穏やかな表情でいられるもので、生きることに何の無理もない。
無理がないからと言って死に絶えるのでもなく、寿命や運命の限りにおいて命を保ちもする。
個体としての生死以上にも、善因楽果や悪因苦果の因果応報こそは普遍的なものであり、
命を失う前から悪業輪廻を脱するということも結構、できなくもないことである。
ただ、誰しもが悪因苦果を生前から抜け出した有余涅槃の境地にいるよう世の中というのも、
やはり稀有なことで、悪因苦果の苦しみを罪悪の積み重ねに付随する快楽の貪りで
紛らわそうとする悪循環に陥ってしまった悪人などが多少は生じてしまったりもするのが、
大規模な都市社会における常であるといえる。そこで、誰しもが抜業因種の常楽我浄
などには与れないうちから、道徳統治によってそのような人種を減らしていく措置が講じられる。
それが常々ここで私論なり引用なりを書いている儒学に基づく統治でもあり、儒学統治によって
誰しもが有余涅槃の常楽我浄に与れるとまでは決して言えず、せいぜい徳治を心がける為政者
の中に、孟子のような浩然の気を自覚する人間が多少生ずる程度のことが期待できるだけである。
誰しもの有余涅槃すらをも実現しようとした仏教という教学自体、すでに野心的なものだった。
人間は欲望や悪念に流れてしまいやすい生き物で、それ故の悪因苦果への陥りもむしろ常態的なもの。
そこに出家修行までをも導入しての悪業輪廻からの解脱を促そうとしたのは、相当に野心的な思いが
あったからで、故に「仏教ぐらいは誰でも帰依してて当然」なんてことまでが言えるわけでもない。
根本からの安楽があり、罪悪を積み重ねれば積み重ねるほどその安楽からは遠ざかる。
最悪、まるで全身に激痛の走る大やけどを負いながら生きさせられるほどにも、
心底からの精神的苦痛と共にしか生きられないようなザマにすら陥ってしまう。
だから悪人や罪人ほど、その表情や言行にも、どこか歪んだものが垣間見られもする。
浩然の気や浄楽我浄のような根本からの精神的安楽に与れている人間はといえば、
心持ちから仏像や菩薩像のような穏やかな表情でいられるもので、生きることに何の無理もない。
無理がないからと言って死に絶えるのでもなく、寿命や運命の限りにおいて命を保ちもする。
個体としての生死以上にも、善因楽果や悪因苦果の因果応報こそは普遍的なものであり、
命を失う前から悪業輪廻を脱するということも結構、できなくもないことである。
ただ、誰しもが悪因苦果を生前から抜け出した有余涅槃の境地にいるよう世の中というのも、
やはり稀有なことで、悪因苦果の苦しみを罪悪の積み重ねに付随する快楽の貪りで
紛らわそうとする悪循環に陥ってしまった悪人などが多少は生じてしまったりもするのが、
大規模な都市社会における常であるといえる。そこで、誰しもが抜業因種の常楽我浄
などには与れないうちから、道徳統治によってそのような人種を減らしていく措置が講じられる。
それが常々ここで私論なり引用なりを書いている儒学に基づく統治でもあり、儒学統治によって
誰しもが有余涅槃の常楽我浄に与れるとまでは決して言えず、せいぜい徳治を心がける為政者
の中に、孟子のような浩然の気を自覚する人間が多少生ずる程度のことが期待できるだけである。
誰しもの有余涅槃すらをも実現しようとした仏教という教学自体、すでに野心的なものだった。
人間は欲望や悪念に流れてしまいやすい生き物で、それ故の悪因苦果への陥りもむしろ常態的なもの。
そこに出家修行までをも導入しての悪業輪廻からの解脱を促そうとしたのは、相当に野心的な思いが
あったからで、故に「仏教ぐらいは誰でも帰依してて当然」なんてことまでが言えるわけでもない。
あたかも大火事を大水で消し止めたり、大水を湛えた消火栓を常備しておいたりするようにして
仏教もまた嗜まれるものであり、最低限の火消しに務める儒学などと比べれば、その受容が相当に
おおがかりなものともなる。正式な権力機構でもない寺などに布施や寄進をしたりすることからして
自然ではないことであり、それよりは年貢や税金を納めることのほうがごく当たり前なことだともいえる。
あたかも、悪因苦果をカルト信仰によって増長させることと同じぐらいに、信教の形式によって
悪因苦果を断滅しようとした、仏教もまた極度に人口的な代物であり、そこは無宗教的な考え方が
浸透している現代人などからすれば異質に思われても仕方のない部分だといえる。ただ、その異質な
ほどもの人工性が断悪修善にかけて専らである点は、悪逆非道にかけて専らであったりするよりも
確実にマシなことであるといえ、そこはカルト宗教などと同等に扱ってはならない部分だといえる。
人の心理面からの断悪修善や悪逆非道を促すことで、実際に国家社会レベルでの慶福や災禍を
もたらし得るのが宗教というものであり、「宗教なんか何の価値も無い」というのは誤った認識である。
ただ、宗教には正の価値がある場合と負の価値がある場合があって、悪因苦果こそを増長する
カルト宗教などが有害無益極まりないものであることもまた間違いないので、宗教だからといって
何でも手放しに容認していてもいいなんてこともないのもまた、間違いのないことなのである。
「人小罪有りて眚に非ず、乃ち惟れを終えて自ら不典を作し、
式て爾じをせば、厥の罪小なること有るとも、乃ち殺さざる可からず」
「人が過失でない罪を犯して、なおのこと不法を為す意欲が旺盛であるようならば、たとえ軽罪と
いえども処刑しないわけにはいかない。(罪そのもの以上にも、罪を犯して已まぬ心の不埒さを罰する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・康誥より)
仏教もまた嗜まれるものであり、最低限の火消しに務める儒学などと比べれば、その受容が相当に
おおがかりなものともなる。正式な権力機構でもない寺などに布施や寄進をしたりすることからして
自然ではないことであり、それよりは年貢や税金を納めることのほうがごく当たり前なことだともいえる。
あたかも、悪因苦果をカルト信仰によって増長させることと同じぐらいに、信教の形式によって
悪因苦果を断滅しようとした、仏教もまた極度に人口的な代物であり、そこは無宗教的な考え方が
浸透している現代人などからすれば異質に思われても仕方のない部分だといえる。ただ、その異質な
ほどもの人工性が断悪修善にかけて専らである点は、悪逆非道にかけて専らであったりするよりも
確実にマシなことであるといえ、そこはカルト宗教などと同等に扱ってはならない部分だといえる。
人の心理面からの断悪修善や悪逆非道を促すことで、実際に国家社会レベルでの慶福や災禍を
もたらし得るのが宗教というものであり、「宗教なんか何の価値も無い」というのは誤った認識である。
ただ、宗教には正の価値がある場合と負の価値がある場合があって、悪因苦果こそを増長する
カルト宗教などが有害無益極まりないものであることもまた間違いないので、宗教だからといって
何でも手放しに容認していてもいいなんてこともないのもまた、間違いのないことなのである。
「人小罪有りて眚に非ず、乃ち惟れを終えて自ら不典を作し、
式て爾じをせば、厥の罪小なること有るとも、乃ち殺さざる可からず」
「人が過失でない罪を犯して、なおのこと不法を為す意欲が旺盛であるようならば、たとえ軽罪と
いえども処刑しないわけにはいかない。(罪そのもの以上にも、罪を犯して已まぬ心の不埒さを罰する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・康誥より)
罪を罪と見定めることができず、まるで息をするようにして罪を犯すように
なってしまった人間ほど不幸なものも他にない。そこに浩然の気や常楽我浄がない
のはもちろんのこと、知らず知らずの内からの多大なる精神的苦痛をわずらい続ける。
潜在的な苦痛からなる自暴自棄によって、まるで当たり前のことのように悪念を抱き、
自分がそのようなものだから、誰しもが悪念の塊であるかのように思い込み、以って、
世の中全体を悪にまみれた暗黒の世であるかのようにも勝手に思い込むようになる。
すると、もはや自分並みに不幸であるのが世人のデフォルトであるかのようにすら考える
ようになり、自分自身が特定して不幸者であることに気づく余地すらをも取り去ってしまう。
この当たりに、致命的な道理の見失いがあり、地獄餓鬼畜生の三悪趣に自らが堕する
機縁までもが生じてもいる。もはや仏の声も聞こえず、聞こえた所で何を言ってるのかも
分からない、それ程にも、自分自身の思考回路の歯車が不正な方向へと一律して回転するように
なってしまっているものだから、そこからの脱却ももはや不可能に等しいものとなってしまっている。
そこから立ち直っていくために、長い長い道のりを必要とすることは、もう何度も書いた。
そこに多大なる試練が待ち受けていることも、最悪の場合こそを想定しつつ書いてきた。
ただそれは、思考の歯車が不正な方向へと最高速度で回転し続けているうちから始まるものではない。
不正な方向への歯車の回転が止まるとまで行かずとも、減速し始めるぐらいのことがあってから
始まるものであり、もうそれぐらいの所にいる人間は聖書圏の内にも多いだろうが、
未だ最高速度での不正回転を続けている人間もまた、やはり多いはずである。
なってしまった人間ほど不幸なものも他にない。そこに浩然の気や常楽我浄がない
のはもちろんのこと、知らず知らずの内からの多大なる精神的苦痛をわずらい続ける。
潜在的な苦痛からなる自暴自棄によって、まるで当たり前のことのように悪念を抱き、
自分がそのようなものだから、誰しもが悪念の塊であるかのように思い込み、以って、
世の中全体を悪にまみれた暗黒の世であるかのようにも勝手に思い込むようになる。
すると、もはや自分並みに不幸であるのが世人のデフォルトであるかのようにすら考える
ようになり、自分自身が特定して不幸者であることに気づく余地すらをも取り去ってしまう。
この当たりに、致命的な道理の見失いがあり、地獄餓鬼畜生の三悪趣に自らが堕する
機縁までもが生じてもいる。もはや仏の声も聞こえず、聞こえた所で何を言ってるのかも
分からない、それ程にも、自分自身の思考回路の歯車が不正な方向へと一律して回転するように
なってしまっているものだから、そこからの脱却ももはや不可能に等しいものとなってしまっている。
そこから立ち直っていくために、長い長い道のりを必要とすることは、もう何度も書いた。
そこに多大なる試練が待ち受けていることも、最悪の場合こそを想定しつつ書いてきた。
ただそれは、思考の歯車が不正な方向へと最高速度で回転し続けているうちから始まるものではない。
不正な方向への歯車の回転が止まるとまで行かずとも、減速し始めるぐらいのことがあってから
始まるものであり、もうそれぐらいの所にいる人間は聖書圏の内にも多いだろうが、
未だ最高速度での不正回転を続けている人間もまた、やはり多いはずである。
多少そういった、未だ救いの見込みも立たないような人間のいる内から、社会規模での改悛を始めて
いったとしても、決して見切り発車などということにはならない。キリスト教支配下にあるような
世の中だけでなく、儒学統治下にある世の中であったって、多少の奇邪が蔓延る可能性があることは
>>19の礼記からの引用などからも知れたことである。せいぜい、最悪級のカルト犯罪が権力機構から
完全に払拭されるなどすらすれば、世の中全体での改悛を始めていく下地としては十分であり、場末で
怪力乱神への妄想を膨らませるものがあるぐらいのことは、まだあっても仕方のないことだといえる。
漢代初期の郊祀対象にも、冤罪の神(族纍)を祭るなどということがあったようで、
多少はキリスト信仰にも似ていなくはない。後世、先祖への祭祀などは強化されていった一方で、
あまりにも奇異に過ぎるような怪神邪神への郊祀は徐々に撤廃されていったようで、文化の
有機性というものを貴ぶからには、多少奇異なものも寛容の対象としていくべきなのである。
それにしたって、聖書信仰はもはや根絶せざるを得ない。それは、聖書信仰があまりにも政治権力と
癒着しての悪逆非道に走りすぎたからで、ただ文化的に異様であるからというばかりのことではない。
ただ異様であるというだけなら、前漢で族纍が祭られたようにして、聖書の神ですら未だ祭られる
余地もあったわけだが、世俗権力を侵しすぎたがためにこそ、その権利ももはやなくなってしまった。
根絶の対象としていかざるを得ないが、未だ聖書信仰に基づく不正な思考の高速回転を減速させる
ことすらできないでいるものも未だ数多い、という現状で社会規模での改悛を始めていく。聖書信仰
自体は根絶の対象としていかざるを得ないにしろ、未だ聖書中毒に陥ったままでいてしまっている人々
をも決して無下には扱わず、きっといつかは立ち直れるものとして長い目で見てあげなければならない。
根絶はやはり不可避であるにしても、こちらで勝手に、そこに亡びの美学すら見出してやればいいのだ。
いったとしても、決して見切り発車などということにはならない。キリスト教支配下にあるような
世の中だけでなく、儒学統治下にある世の中であったって、多少の奇邪が蔓延る可能性があることは
>>19の礼記からの引用などからも知れたことである。せいぜい、最悪級のカルト犯罪が権力機構から
完全に払拭されるなどすらすれば、世の中全体での改悛を始めていく下地としては十分であり、場末で
怪力乱神への妄想を膨らませるものがあるぐらいのことは、まだあっても仕方のないことだといえる。
漢代初期の郊祀対象にも、冤罪の神(族纍)を祭るなどということがあったようで、
多少はキリスト信仰にも似ていなくはない。後世、先祖への祭祀などは強化されていった一方で、
あまりにも奇異に過ぎるような怪神邪神への郊祀は徐々に撤廃されていったようで、文化の
有機性というものを貴ぶからには、多少奇異なものも寛容の対象としていくべきなのである。
それにしたって、聖書信仰はもはや根絶せざるを得ない。それは、聖書信仰があまりにも政治権力と
癒着しての悪逆非道に走りすぎたからで、ただ文化的に異様であるからというばかりのことではない。
ただ異様であるというだけなら、前漢で族纍が祭られたようにして、聖書の神ですら未だ祭られる
余地もあったわけだが、世俗権力を侵しすぎたがためにこそ、その権利ももはやなくなってしまった。
根絶の対象としていかざるを得ないが、未だ聖書信仰に基づく不正な思考の高速回転を減速させる
ことすらできないでいるものも未だ数多い、という現状で社会規模での改悛を始めていく。聖書信仰
自体は根絶の対象としていかざるを得ないにしろ、未だ聖書中毒に陥ったままでいてしまっている人々
をも決して無下には扱わず、きっといつかは立ち直れるものとして長い目で見てあげなければならない。
根絶はやはり不可避であるにしても、こちらで勝手に、そこに亡びの美学すら見出してやればいいのだ。
「囚を要して多罪を殄戮し、亦た克く用て勧む。無辜を開釈して、亦た克く用て勧む」
「囚人の罪状をよく調べて、罪ある者は厳格に処刑したために、人々も善を勧めるようになった。
もちろん罪なき者は即座に放免もしたために、これまた人々が善を勧めるようにもなった。
(犯罪聖書には『誰も善を為せない』という類いの記述が多々見られるが、これも無罪放免の
重罪人が方々に蔓延ってしまっていたからでこそある。罪を犯しても無罪であるようなら
人々は勧善を滞らせ、冤罪者を平気で罰するようであっても、やはり勧善を渋るものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・多方より)
「囚人の罪状をよく調べて、罪ある者は厳格に処刑したために、人々も善を勧めるようになった。
もちろん罪なき者は即座に放免もしたために、これまた人々が善を勧めるようにもなった。
(犯罪聖書には『誰も善を為せない』という類いの記述が多々見られるが、これも無罪放免の
重罪人が方々に蔓延ってしまっていたからでこそある。罪を犯しても無罪であるようなら
人々は勧善を滞らせ、冤罪者を平気で罰するようであっても、やはり勧善を渋るものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・多方より)
この世には世襲であったほうがいい職業と、そうでない職業との両方がある。
世の中を営んでいく上で最も根幹的なものにあたる職業ほど世襲であったほうがよく、
あってもなくてもどちらでも構わないような瑣末な職業ほど世襲である必要がない。
世襲を基本とすべき職業であっても、倅が極度の出来損ないであったりした場合には
他人に業務を引き継がせるようにすべきこともある。堯や舜が自らの子息に帝業を
継がせなかったり、豊臣の天下を徳川が放伐したりしたことなどもその例だといえる。
というような例外もあった上で、やはり人間社会というのは、総体的には
世襲を基本としていくべきものだともいえる。それはこの「礼記」からの引用
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/133655801...
などを読んでみても窺えることで、社会的な活動が世襲に即することこそは、
日月星辰の運行にすら人間の営みを合致させる程にも、普遍的なものとなるのである。
世の中が総体的に、世襲に基づく社会運営を貴べなくなってしまっているようなら、
そのような世の中は必然的に乱世ともなっている。堯→舜→禹と禅譲が行われた頃の
中国も伝承上からして乱れていたとされているし、信長→秀吉→家康という天下取りの
継承によって戦国時代の争乱が収拾されたこともまた、未だ記憶に新しいところである。
ただ乱世に世襲などには構っていられなくなるだけでなく、世襲すら一旦は打ち棄てて
までの個々人の実力勝負によってこそ、乱世自体の決着が付けられたりもするのである。
世襲による事業の継承と、個人による実力の発揮とは、ちょうど陰と陽の関係にあり、
どちらが完全に欠けても世の中が成り立つようなことはない。総体社会における
世襲制の普遍性を諾う者といえども、個人としての実力の研鑽を怠ることまでをも
良しとしたりしてはならず、血筋上で恵まれた立場にあるか否かにかかわらず、
それぞれの領分に即した実力の研鑽に励んでいくべきであることには変わりない。
世の中を営んでいく上で最も根幹的なものにあたる職業ほど世襲であったほうがよく、
あってもなくてもどちらでも構わないような瑣末な職業ほど世襲である必要がない。
世襲を基本とすべき職業であっても、倅が極度の出来損ないであったりした場合には
他人に業務を引き継がせるようにすべきこともある。堯や舜が自らの子息に帝業を
継がせなかったり、豊臣の天下を徳川が放伐したりしたことなどもその例だといえる。
というような例外もあった上で、やはり人間社会というのは、総体的には
世襲を基本としていくべきものだともいえる。それはこの「礼記」からの引用
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/133655801...
などを読んでみても窺えることで、社会的な活動が世襲に即することこそは、
日月星辰の運行にすら人間の営みを合致させる程にも、普遍的なものとなるのである。
世の中が総体的に、世襲に基づく社会運営を貴べなくなってしまっているようなら、
そのような世の中は必然的に乱世ともなっている。堯→舜→禹と禅譲が行われた頃の
中国も伝承上からして乱れていたとされているし、信長→秀吉→家康という天下取りの
継承によって戦国時代の争乱が収拾されたこともまた、未だ記憶に新しいところである。
ただ乱世に世襲などには構っていられなくなるだけでなく、世襲すら一旦は打ち棄てて
までの個々人の実力勝負によってこそ、乱世自体の決着が付けられたりもするのである。
世襲による事業の継承と、個人による実力の発揮とは、ちょうど陰と陽の関係にあり、
どちらが完全に欠けても世の中が成り立つようなことはない。総体社会における
世襲制の普遍性を諾う者といえども、個人としての実力の研鑽を怠ることまでをも
良しとしたりしてはならず、血筋上で恵まれた立場にあるか否かにかかわらず、
それぞれの領分に即した実力の研鑽に励んでいくべきであることには変わりない。
世襲制の肯定の仕方としては、上記のようなあり方が理想で、世の中のあり方一般の
理想形としても申し分がない。世襲制も実力主義もあるべきだとした上で、若干だけ
世襲のほうが実力よりも優先されるべきだという程度に考えるのが最も正しい。両方
ありとしたところで、実力主義を極端に世襲よりも優先させようとしたりするのでは
いけないし、世襲を全否定して完全な実力主義でいたりするのもなおさら不可である。
このあたり、相当に高度な中正論でもあり、極端から極端に走るたわけ者には
なかなか理解し難い話であるにも違いない。要は、「世襲を完全否定してまでの
実力主義一辺倒に走ったりはするべきでない」と言っているわけだが、「じゃあ
実力主義全否定で世襲を全てにするんですか?」などと天邪鬼の極論主義者は返して
来たがるに違いない。そんなこと一言も言ってないのは、上を読んで理解すれば
分かる通りで、極論主義者だから読んでみたって意味が分からないというのなら、
もはやそちらが上知と交わらぬ下愚であると断ずる他ない。別にこちらが説明を
渋っているわけではなく、そちらがあまりにも愚かであるが故に、最善の説明すら
理解できないというまでのことなのだから、こちらが怨まれる筋合いもないというものだ。
「少くして父無き者を之れ孤と謂う。老いて子無き者を之れ独と謂う。老いて妻無き者を之れ矜と謂う。
老いて夫無き者を之れ寡と謂う。此の四者は、天民の窮して告ぐる無き者なり。皆な常餼有らしむ」
「年少でありながら親のない者を弧といい、老いて子のない者を独といい、老いて妻のない者を矜といい、
老いて夫のない者を寡という。この四者は天に仕える民の内では特に困窮して寄る辺もないものなので、
食糧などの支援を行う。(天民なら、老いて子がない運命にも素直に従って、王制による支援を受ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
理想形としても申し分がない。世襲制も実力主義もあるべきだとした上で、若干だけ
世襲のほうが実力よりも優先されるべきだという程度に考えるのが最も正しい。両方
ありとしたところで、実力主義を極端に世襲よりも優先させようとしたりするのでは
いけないし、世襲を全否定して完全な実力主義でいたりするのもなおさら不可である。
このあたり、相当に高度な中正論でもあり、極端から極端に走るたわけ者には
なかなか理解し難い話であるにも違いない。要は、「世襲を完全否定してまでの
実力主義一辺倒に走ったりはするべきでない」と言っているわけだが、「じゃあ
実力主義全否定で世襲を全てにするんですか?」などと天邪鬼の極論主義者は返して
来たがるに違いない。そんなこと一言も言ってないのは、上を読んで理解すれば
分かる通りで、極論主義者だから読んでみたって意味が分からないというのなら、
もはやそちらが上知と交わらぬ下愚であると断ずる他ない。別にこちらが説明を
渋っているわけではなく、そちらがあまりにも愚かであるが故に、最善の説明すら
理解できないというまでのことなのだから、こちらが怨まれる筋合いもないというものだ。
「少くして父無き者を之れ孤と謂う。老いて子無き者を之れ独と謂う。老いて妻無き者を之れ矜と謂う。
老いて夫無き者を之れ寡と謂う。此の四者は、天民の窮して告ぐる無き者なり。皆な常餼有らしむ」
「年少でありながら親のない者を弧といい、老いて子のない者を独といい、老いて妻のない者を矜といい、
老いて夫のない者を寡という。この四者は天に仕える民の内では特に困窮して寄る辺もないものなので、
食糧などの支援を行う。(天民なら、老いて子がない運命にも素直に従って、王制による支援を受ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
何でもかんでも人の言うこと為すことの反対を行こうとするのは「天邪鬼」で、
そんなんじゃ社会生活もままならないから、ほとんどの人間が子供の内に
天邪鬼ばかりでいることは卒業して、大人へと成長していく。
ただ、大人になっても人の言うことを素直には聞かないぐらいのことは当然あって、
普通それは「頑固」と呼ばれ、行き過ぎると「頑迷」と呼ばれ、共感を得られる範囲だと
「反骨」と呼ばれたりする。世の中に反骨が受け入れられる場合もあるのは、実際に
反骨者の言い分のほうがどう聞いてみても筋が通っているぐらいに、世の中の側の常識や
風潮のほうが総出で歪んでしまっていたりすることがあるからで、ちょうどこの「反骨」
という言葉も、ある種の形而上的な革命論に即して提唱された言葉ともなっている。
歪んだ世の中で、自分が正論に即しようとするから反骨にもなり得るのであって、世の中
のほうが正しいのにもかかわらず、自分が間違いに拘泥して反抗的であったりするのなら、
これはただの反社会主義者である。そのような人間が生じてしまうのを未然に防ぐのが
正規教育の使命でもあり、天邪鬼が至当な反骨に結び付くこともあるのを考えてみるなら、
天邪鬼一般以上にも、上記のような反社会主義こそが優先的に矯正されるべきものだといえる。
それなりに正善さを保っている世の中であれば、過ちに拘泥しての反抗主義などを
未然に防ぎ止めていこうとする自浄作用が働くものだが、世の中が総出を挙げて
濁悪にまみれきってしまっているようならばそうも行かず、世人が世人であるにも
関わらず、適当な理由で世の中に反目することを競い合うようなザマにすら陥ってしまう。
イエスが生存していた頃のイスラエルやローマ帝国もそのような極度の濁世だったから、
イエスの他にもヨハネのようなカルト教義を触れ回るならず者が併存していたのである。
そんなんじゃ社会生活もままならないから、ほとんどの人間が子供の内に
天邪鬼ばかりでいることは卒業して、大人へと成長していく。
ただ、大人になっても人の言うことを素直には聞かないぐらいのことは当然あって、
普通それは「頑固」と呼ばれ、行き過ぎると「頑迷」と呼ばれ、共感を得られる範囲だと
「反骨」と呼ばれたりする。世の中に反骨が受け入れられる場合もあるのは、実際に
反骨者の言い分のほうがどう聞いてみても筋が通っているぐらいに、世の中の側の常識や
風潮のほうが総出で歪んでしまっていたりすることがあるからで、ちょうどこの「反骨」
という言葉も、ある種の形而上的な革命論に即して提唱された言葉ともなっている。
歪んだ世の中で、自分が正論に即しようとするから反骨にもなり得るのであって、世の中
のほうが正しいのにもかかわらず、自分が間違いに拘泥して反抗的であったりするのなら、
これはただの反社会主義者である。そのような人間が生じてしまうのを未然に防ぐのが
正規教育の使命でもあり、天邪鬼が至当な反骨に結び付くこともあるのを考えてみるなら、
天邪鬼一般以上にも、上記のような反社会主義こそが優先的に矯正されるべきものだといえる。
それなりに正善さを保っている世の中であれば、過ちに拘泥しての反抗主義などを
未然に防ぎ止めていこうとする自浄作用が働くものだが、世の中が総出を挙げて
濁悪にまみれきってしまっているようならばそうも行かず、世人が世人であるにも
関わらず、適当な理由で世の中に反目することを競い合うようなザマにすら陥ってしまう。
イエスが生存していた頃のイスラエルやローマ帝国もそのような極度の濁世だったから、
イエスの他にもヨハネのようなカルト教義を触れ回るならず者が併存していたのである。
孔子や孟子が活動していた春秋戦国時代の中国も相当な濁世で、権力者がお互いに
私利私欲のための覇権ばかりを競い合っていたのみならず、その権力者に追従しての
邪説異学を捏造する名家や縦横家、法家などの異端の思想家が数多跋扈してもいた。
そんな中で、古来からの正統な礼学を継承し復興しようとしていた、孔孟に
代表される古代の儒者は、当時の世相からいえば反骨者の部類だったとも言え、
そこにもやはり、ある種の天邪鬼的な要素が備わっていたのだとも推測できる。
孔子も、再三述べている通り、母子家庭育ちの妾腹の私生児という不遇に生まれているし、
孟子も、母親の賢母としての逸話は残っているのに、父親の経歴はほとんど不詳といった
いびつな家系に生まれ育っている。そのような複雑な境遇が本人たちに儒者としての大成を
志させた可能性がなくもないと言えるが、その選択は決して間違ったものではなかったから、
天邪鬼志向も反骨者としての体裁に止まり、大学者としての立場を揺ぎ無くさせられもした。
そういった好例もあるからには、「天邪鬼そのものを全否定すればいいというものでもない、
天邪鬼すら反骨として善用できる場合があるのだから、天邪鬼が度し難い反社会主義に
発展してしまう場合に限って駆逐の対象にすべきだ」ということが結論付けられもする。
天邪鬼の全否定に基づく、反骨志向までものひとしなみな駆逐が、市井での横議すら許さぬ
恐怖政治にすら発展しかねないものだから、この当たりのさじ加減は慎重でなければならない。
「鄙夫は与に君に事う可けんや。其れ未だ之れを得ざるや、之れを得んことを患え、既に之れ
を得れば、之れを失わんことを患える。苟くも之れを失わんことを患えば、至らざる所無し」
「つまらない性根の人間とは共に主君にお仕えすることもできない。何かまだ得られない
ものがあればどうやってそれを得ようかと腐心し、一旦ものを得れば今度はそれを失わない
ことにばかりを腐心する。得たものを失わないことにばかり腐心するあまり、なりふりすら
構わなくなるのだから。(利害得失第一な者は君子たるには値しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一五より)
私利私欲のための覇権ばかりを競い合っていたのみならず、その権力者に追従しての
邪説異学を捏造する名家や縦横家、法家などの異端の思想家が数多跋扈してもいた。
そんな中で、古来からの正統な礼学を継承し復興しようとしていた、孔孟に
代表される古代の儒者は、当時の世相からいえば反骨者の部類だったとも言え、
そこにもやはり、ある種の天邪鬼的な要素が備わっていたのだとも推測できる。
孔子も、再三述べている通り、母子家庭育ちの妾腹の私生児という不遇に生まれているし、
孟子も、母親の賢母としての逸話は残っているのに、父親の経歴はほとんど不詳といった
いびつな家系に生まれ育っている。そのような複雑な境遇が本人たちに儒者としての大成を
志させた可能性がなくもないと言えるが、その選択は決して間違ったものではなかったから、
天邪鬼志向も反骨者としての体裁に止まり、大学者としての立場を揺ぎ無くさせられもした。
そういった好例もあるからには、「天邪鬼そのものを全否定すればいいというものでもない、
天邪鬼すら反骨として善用できる場合があるのだから、天邪鬼が度し難い反社会主義に
発展してしまう場合に限って駆逐の対象にすべきだ」ということが結論付けられもする。
天邪鬼の全否定に基づく、反骨志向までものひとしなみな駆逐が、市井での横議すら許さぬ
恐怖政治にすら発展しかねないものだから、この当たりのさじ加減は慎重でなければならない。
「鄙夫は与に君に事う可けんや。其れ未だ之れを得ざるや、之れを得んことを患え、既に之れ
を得れば、之れを失わんことを患える。苟くも之れを失わんことを患えば、至らざる所無し」
「つまらない性根の人間とは共に主君にお仕えすることもできない。何かまだ得られない
ものがあればどうやってそれを得ようかと腐心し、一旦ものを得れば今度はそれを失わない
ことにばかりを腐心する。得たものを失わないことにばかり腐心するあまり、なりふりすら
構わなくなるのだから。(利害得失第一な者は君子たるには値しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一五より)
「其の相い侵奪する者有れば、之れを罪して赦さず」
「お互いの財物を侵奪し合っているような乱れた界隈があれば、それら全体を有罪と見なして赦さないようにする。
(お互いに許し合っているとしたところで、そのような界隈の存在自体が社会全体の風紀を乱すことになるから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第六より)
何でもかんでも自分たち同士でだけは許容しまくり、寛容や和解しまくりの
なあなあでやって来た、キリスト教圏だとか日本の財界だとか警察だとかいった
集団全体が、最終的に「世界で最も許されざる集団」とも化してしまった。
個人や小集団としての自由率と、全体社会における自分たち自身の責任履行率というのは反比例的な
関係にあり、両者の釣り合いを取っていくのが仁者である一方、個人や小集団としての自由を捨て去って
までの利他に励むのが真っ当な出家修行者である。この二つは決して敵対的な関係にはなく、かつての
日本社会における公家や武家と仏門のように、全く共存が可能なものとなっている。一方、この二つと
決定的な敵対関係にあるか、もしくはより劣位なものとして扱われざるを得ないものとして、社会的責任を
放棄してまでの身勝手な自由を求める個人や小集団といったものがあり、これを無制限に自分たちの内
でだけは許容し続けてきたのが欧米キリスト教圏であったり、今の日本の財界や警察界であったりする。
キリスト教圏や日本の腐敗権力とは逆に、個人の自由を徹底的な制限下に置いている社会として、
今の中国社会などがある。あくまで庶民が徹底的な制限下に置かれているだけで、制限する側に
回っている共産党員などは相当な好き勝手が許されているようでもあるから、決して中国の全部を
褒められたりしたもんではないが、公的責任を蔑ろにしてまでの個人の好き勝手を自分たちが無制限に
許容し続けてきた結果、世界中に飢餓や戦乱といった陰惨なしわ寄せを及ぼしてしまっている
資本主義社会などと比べれば、中国も世界に及ぼす悪影響を相当に抑えられたほうともなっている。
「お互いの財物を侵奪し合っているような乱れた界隈があれば、それら全体を有罪と見なして赦さないようにする。
(お互いに許し合っているとしたところで、そのような界隈の存在自体が社会全体の風紀を乱すことになるから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第六より)
何でもかんでも自分たち同士でだけは許容しまくり、寛容や和解しまくりの
なあなあでやって来た、キリスト教圏だとか日本の財界だとか警察だとかいった
集団全体が、最終的に「世界で最も許されざる集団」とも化してしまった。
個人や小集団としての自由率と、全体社会における自分たち自身の責任履行率というのは反比例的な
関係にあり、両者の釣り合いを取っていくのが仁者である一方、個人や小集団としての自由を捨て去って
までの利他に励むのが真っ当な出家修行者である。この二つは決して敵対的な関係にはなく、かつての
日本社会における公家や武家と仏門のように、全く共存が可能なものとなっている。一方、この二つと
決定的な敵対関係にあるか、もしくはより劣位なものとして扱われざるを得ないものとして、社会的責任を
放棄してまでの身勝手な自由を求める個人や小集団といったものがあり、これを無制限に自分たちの内
でだけは許容し続けてきたのが欧米キリスト教圏であったり、今の日本の財界や警察界であったりする。
キリスト教圏や日本の腐敗権力とは逆に、個人の自由を徹底的な制限下に置いている社会として、
今の中国社会などがある。あくまで庶民が徹底的な制限下に置かれているだけで、制限する側に
回っている共産党員などは相当な好き勝手が許されているようでもあるから、決して中国の全部を
褒められたりしたもんではないが、公的責任を蔑ろにしてまでの個人の好き勝手を自分たちが無制限に
許容し続けてきた結果、世界中に飢餓や戦乱といった陰惨なしわ寄せを及ぼしてしまっている
資本主義社会などと比べれば、中国も世界に及ぼす悪影響を相当に抑えられたほうともなっている。
結局のところ、どちらも両極端であることには変わりなく、キリスト教圏や日本の腐敗権力ほどにも
個人や小集団の身勝手を無制限に許容し続けるのも許されざることだし、逆に今の中国社会ほどにも個人の
自由が徹底的な制限下に置かれているのも由々しきことである。ちょうど両者はコインの裏表のようなもので、
個人や小集団の身勝手を無制限に許容するような派閥があればこそ、個人の自由を一律して徹底制限するような
派閥も呼応的に発生してしまっている。今の中国だけでなく、イスラム圏もその原初から、キリスト教圏の
身勝手さに反発する形で生じて来たものであり、一日五回の礼拝や執拗なほどもの女性差別、飲酒や豚食の
厳禁といったその規律の厳しさも、あくまでキリスト教やユダヤ教に反発して生じて来たものでこそある。
キリスト教圏級の個人や小集団の身勝手の許容とは一切無縁だった、かつての東洋社会の様相などを鑑みるに、
確かに個人や小集団の自由が無制限だったりはしなかった一方で、イスラム圏や今の中国ほどにも、個人の自由が
徹底して制限されていたようなこともない。漢代や唐代の中国だとか、江戸時代の日本だとかでも、個人利益の
収集を生業とする商業が徹底して統制されていたようなこともないし、性風俗の取り締りが極端に厳しかったり
したこともない、ただ、一部の有志が出家修行者としての浄行に励むことで、修己治人の強化版となる形で世相の
防腐にも一役買っていたりしたこともあり、ただ取り締まりが緩かったというばかりのことではないともいえる。
目指すべくはそのような、個人的自由と公共福祉の釣り合いが絶妙に取られている世の中でこそあり、
個人や小集団の自由ばかりを無制限に許容する世の中でもなければ、それらを徹底的に制限する世の中でもない。
自由と公益の釣り合いの取れた世の中の実現を画策していく人間にとって、無制限な自由の許容を求めるものと、
徹底的な自由の制限を強いるものと、いずれもが味方とはならない。そのような人間ばかりが多数群がって
しまっている現代社会において、即座に自分の味方となってくれるような人間もそう多くはないということを
わきまえた上で、なおのこと志しの実現を目指していかなければならないのだから、まさに前途多難だといえる。
個人や小集団の身勝手を無制限に許容し続けるのも許されざることだし、逆に今の中国社会ほどにも個人の
自由が徹底的な制限下に置かれているのも由々しきことである。ちょうど両者はコインの裏表のようなもので、
個人や小集団の身勝手を無制限に許容するような派閥があればこそ、個人の自由を一律して徹底制限するような
派閥も呼応的に発生してしまっている。今の中国だけでなく、イスラム圏もその原初から、キリスト教圏の
身勝手さに反発する形で生じて来たものであり、一日五回の礼拝や執拗なほどもの女性差別、飲酒や豚食の
厳禁といったその規律の厳しさも、あくまでキリスト教やユダヤ教に反発して生じて来たものでこそある。
キリスト教圏級の個人や小集団の身勝手の許容とは一切無縁だった、かつての東洋社会の様相などを鑑みるに、
確かに個人や小集団の自由が無制限だったりはしなかった一方で、イスラム圏や今の中国ほどにも、個人の自由が
徹底して制限されていたようなこともない。漢代や唐代の中国だとか、江戸時代の日本だとかでも、個人利益の
収集を生業とする商業が徹底して統制されていたようなこともないし、性風俗の取り締りが極端に厳しかったり
したこともない、ただ、一部の有志が出家修行者としての浄行に励むことで、修己治人の強化版となる形で世相の
防腐にも一役買っていたりしたこともあり、ただ取り締まりが緩かったというばかりのことではないともいえる。
目指すべくはそのような、個人的自由と公共福祉の釣り合いが絶妙に取られている世の中でこそあり、
個人や小集団の自由ばかりを無制限に許容する世の中でもなければ、それらを徹底的に制限する世の中でもない。
自由と公益の釣り合いの取れた世の中の実現を画策していく人間にとって、無制限な自由の許容を求めるものと、
徹底的な自由の制限を強いるものと、いずれもが味方とはならない。そのような人間ばかりが多数群がって
しまっている現代社会において、即座に自分の味方となってくれるような人間もそう多くはないということを
わきまえた上で、なおのこと志しの実現を目指していかなければならないのだから、まさに前途多難だといえる。
「曾子曰く、上其の道を失いて民散ずること久し。如し其の情を得ば、則ち哀矜して喜ぶこと勿かれ(既出)」
「曾子の言葉。『世の中の支配者までもが道理を見失って、民たちも気が緩むようになってからすでに久しい。
もし犯罪の実情をつかんだりした時には、ただ哀れむばかりで、決して喜んだりしてはならない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一九より)
上の曾子の言葉など、個人犯罪の責任をお上に転嫁したものにすらなっていて、今の世の中などでは
決して聞き入れられるようなものじゃない。いやなことを「世の中のせい」にすることほど不毛なことも
他にないとされ、何もかもを本人自身の責任とするのが潔いこととして無制限に推奨されている現代。それは、
お上が完全に世の中の統治責任を放棄しているがための、プロパガンダすらをもかませられているが故の世論
なのでもあり、本来は上記ほどにも、被支配者の責任すら支配者が負うようであってしかるべきなのである。
被支配者たる庶民が、為政者と自分たちの関係を「親と子」の関係のように捉えて、まるで親に保護された
子供のようでいるようなことがあったって、別に構わないのである。確かにそれ以上にも、為政者などあってなき
もののように民たちが思っていられながら、それなりに世相も治められているような無為自然の統治がより優良なもの
であるには違いないが、お上から下民に至るまで誰しもが勝手気ままのやりたい放題でいるせいで、世の中が破滅に
見舞われるぐらいなら、まだ責任あるお上が民たちを子供のような保護下に置く統治のほうがマシであるといえる。
無為自然のうちから民たちを善導する無為自然の統治は、まだまだ今の世の中で実現していくのも難しいものだ。
それほどにも官民上下の分け隔てない放辟邪侈が蔓延してしまっている世の中だから、一時の強権支配すらかませない
ことには世相を十分に穏健化させることもできそうにない。ただ、そんなものは当然すぐに取り払われるべきで、
その後に官民が親子のような関係となる作為的統治が敷かれ、それに基づく民度の底上げに連動して、徐々に
無為自然の統治へと移行していくというのが、乱世を治世へと反正する手順としてはごく無難な定石になるといえる。
「曾子の言葉。『世の中の支配者までもが道理を見失って、民たちも気が緩むようになってからすでに久しい。
もし犯罪の実情をつかんだりした時には、ただ哀れむばかりで、決して喜んだりしてはならない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一九より)
上の曾子の言葉など、個人犯罪の責任をお上に転嫁したものにすらなっていて、今の世の中などでは
決して聞き入れられるようなものじゃない。いやなことを「世の中のせい」にすることほど不毛なことも
他にないとされ、何もかもを本人自身の責任とするのが潔いこととして無制限に推奨されている現代。それは、
お上が完全に世の中の統治責任を放棄しているがための、プロパガンダすらをもかませられているが故の世論
なのでもあり、本来は上記ほどにも、被支配者の責任すら支配者が負うようであってしかるべきなのである。
被支配者たる庶民が、為政者と自分たちの関係を「親と子」の関係のように捉えて、まるで親に保護された
子供のようでいるようなことがあったって、別に構わないのである。確かにそれ以上にも、為政者などあってなき
もののように民たちが思っていられながら、それなりに世相も治められているような無為自然の統治がより優良なもの
であるには違いないが、お上から下民に至るまで誰しもが勝手気ままのやりたい放題でいるせいで、世の中が破滅に
見舞われるぐらいなら、まだ責任あるお上が民たちを子供のような保護下に置く統治のほうがマシであるといえる。
無為自然のうちから民たちを善導する無為自然の統治は、まだまだ今の世の中で実現していくのも難しいものだ。
それほどにも官民上下の分け隔てない放辟邪侈が蔓延してしまっている世の中だから、一時の強権支配すらかませない
ことには世相を十分に穏健化させることもできそうにない。ただ、そんなものは当然すぐに取り払われるべきで、
その後に官民が親子のような関係となる作為的統治が敷かれ、それに基づく民度の底上げに連動して、徐々に
無為自然の統治へと移行していくというのが、乱世を治世へと反正する手順としてはごく無難な定石になるといえる。
良くも悪しくも、今という時代は官民が親子のような関係として受け止められているような時代じゃない。官なんて
民の使いっパシリぐらいにしか思われていない今という時代に、さも自分をみなしごか迷える子羊のように考える
者がいたとして、さらにそのような人間が架空の邪神などへの帰依にこそ親子に比肩する関係を認めたりしたとする。
そしたらそれが、官民こそを親子の関係に比肩させようとする撥乱反正の試みを妨げる大きな障壁ともなってしまう。
官民を親子のような関係にして行くこと自体、過渡的な措置ではあるが、それすらをも不能と化してしまっているが
故に、後々に講じられる無為自然の善導統治への移行すらもがまったく滞ったままにさせられてしまうのである。
親子関係というのは、世俗の内側の家庭関係である。それに比肩させられる崇敬対象となる神仏としては、
第一に先祖の祖霊があり、その他では主君の先祖などが挙げられる。そうでもないような神仏一般というのは、
あくまで超俗の帰依対象とすべきもので、それらを決して親子の関係などに比肩させたりすべきではない。
どこの馬の骨とも知れないような不審な神と、自分との関係を親子関係に見立てたりされたのでは、
官民上下の関係を親子に見立てることを妨害することにすらなってしまうためよろしくない。だからこそ、
基本としては超俗的な神仏を祭る宗教のみが、応用的な宗教としても公認されてしかるべきなのである。
「学は及ばざるが如くするも、猶お之れをを失わんことを恐る」
「学問は(昔の聖賢や優れた先生先輩などに)なかなか追いつくこともできないぐらいの心持ちでいながら、
なおかつ今までに学んで来たことを失ってしまわないかと恐れるぐらいの慎重な心持ちで為すべきである。
(安易に他者にあやかってそれで終わりみたいな邪義を触れ回られては、正学にとっての迷惑ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一七より)
民の使いっパシリぐらいにしか思われていない今という時代に、さも自分をみなしごか迷える子羊のように考える
者がいたとして、さらにそのような人間が架空の邪神などへの帰依にこそ親子に比肩する関係を認めたりしたとする。
そしたらそれが、官民こそを親子の関係に比肩させようとする撥乱反正の試みを妨げる大きな障壁ともなってしまう。
官民を親子のような関係にして行くこと自体、過渡的な措置ではあるが、それすらをも不能と化してしまっているが
故に、後々に講じられる無為自然の善導統治への移行すらもがまったく滞ったままにさせられてしまうのである。
親子関係というのは、世俗の内側の家庭関係である。それに比肩させられる崇敬対象となる神仏としては、
第一に先祖の祖霊があり、その他では主君の先祖などが挙げられる。そうでもないような神仏一般というのは、
あくまで超俗の帰依対象とすべきもので、それらを決して親子の関係などに比肩させたりすべきではない。
どこの馬の骨とも知れないような不審な神と、自分との関係を親子関係に見立てたりされたのでは、
官民上下の関係を親子に見立てることを妨害することにすらなってしまうためよろしくない。だからこそ、
基本としては超俗的な神仏を祭る宗教のみが、応用的な宗教としても公認されてしかるべきなのである。
「学は及ばざるが如くするも、猶お之れをを失わんことを恐る」
「学問は(昔の聖賢や優れた先生先輩などに)なかなか追いつくこともできないぐらいの心持ちでいながら、
なおかつ今までに学んで来たことを失ってしまわないかと恐れるぐらいの慎重な心持ちで為すべきである。
(安易に他者にあやかってそれで終わりみたいな邪義を触れ回られては、正学にとっての迷惑ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一七より)
極刑級の大罪を犯しておきながらまんまと逃げおおせているような人間こそは、まさに
「死んでいるも同然の人間」であるといえる。捕まって処分されようがされるまいが
善を為す生の楽しみ>死の無苦楽>悪を為す生の苦しみ
であり、あまりにも大悪を為しすぎたがために一生善楽に与る見込みも立たなく
なってしまっている人間ともなれば、さっさと死んで「己れの生存という悪業」
を絶つに越したこともないことにすらなってしまっているのである。
では、悪を為すわけでもなければ善を為すわけでもない無為の状態にある人間は
どうなのかって、別に無為だからといって死並みに無苦楽であるとも限らないのである。
世の中がどこもかしこも罪悪にまみれて、「行動即犯罪」という程にも作為に罪業が
必ず伴ってしまっているのであれば、自分が無為であることそれ自体が善行にすらなる。
だから、何もしないでいるだけで善を為す楽しみにも与れたりする。一方で、世の中の乱れが
相応に抑制されて、善を為すことだってそれなりに出来なくもないようになってから未だ
何も為さないでいるともなれば、今度は無為であることそれ自体が悪行にもなってしまう。
故に、何もしないでいることに後ろめたさなどからなる苦しみが付きまとうようにもなる。
何をしていようが何もしていまいが、人間は生きている以上は生きている。
何もしないでいることすらもが世の中との関係によって善行扱いとなったり、
悪行扱いとなったりもする。ただ生きているというだけですでに多少の活動であり、
それを死と同等のものなどと考えるのも、大雑把に過ぎることだといえる。
「死んでいるも同然の人間」であるといえる。捕まって処分されようがされるまいが
善を為す生の楽しみ>死の無苦楽>悪を為す生の苦しみ
であり、あまりにも大悪を為しすぎたがために一生善楽に与る見込みも立たなく
なってしまっている人間ともなれば、さっさと死んで「己れの生存という悪業」
を絶つに越したこともないことにすらなってしまっているのである。
では、悪を為すわけでもなければ善を為すわけでもない無為の状態にある人間は
どうなのかって、別に無為だからといって死並みに無苦楽であるとも限らないのである。
世の中がどこもかしこも罪悪にまみれて、「行動即犯罪」という程にも作為に罪業が
必ず伴ってしまっているのであれば、自分が無為であることそれ自体が善行にすらなる。
だから、何もしないでいるだけで善を為す楽しみにも与れたりする。一方で、世の中の乱れが
相応に抑制されて、善を為すことだってそれなりに出来なくもないようになってから未だ
何も為さないでいるともなれば、今度は無為であることそれ自体が悪行にもなってしまう。
故に、何もしないでいることに後ろめたさなどからなる苦しみが付きまとうようにもなる。
何をしていようが何もしていまいが、人間は生きている以上は生きている。
何もしないでいることすらもが世の中との関係によって善行扱いとなったり、
悪行扱いとなったりもする。ただ生きているというだけですでに多少の活動であり、
それを死と同等のものなどと考えるのも、大雑把に過ぎることだといえる。
西洋と違って、東洋では人文学的な考察にすら数理的な体系を盛り込む。数学で0が
一つの数字として見なされるのと全く同じようにして、無為すらをも一つの活動として捉える。
それに基づいて無為自然を尊ぶ道家思想や、不動を至尊のものとする仏教が提唱されたのでもある。
無為を尊ぶ道家や出家隠遁を決め込む小乗仏教だけでなく、世俗での善行を旨とする儒家や
大乗仏教においても、無為を一つの人間のあり方として尊重する大前提がやはり備わっていて、
故に「悪いことをするぐらいなら何もしないでいる」ぐらいの分別は付くようにもなってる。
権力腐敗きわまって善行など全く覚束なくなっていた戦国時代の中国で、道家も無為自然を尊ぶ
ことを提唱していたし、仏教が興隆して文化的にも最盛期を迎えていた頃のインドにおいてこそ、
未だ積極的な善行に励もうともしない上座部に反発して大乗仏教が興隆されたりもしたように、
そこでは無為そのものを「活きたもの」として、時宜に即して臨機応変に捉えていたことが窺える。
要は、人文学と数理学を融合させて常にものを考えてきたというぐらいのことなわけで、それすら
をも怠ってきたような界隈が存在していることのほうが、むしろ間抜けに過ぎていたのだといえる。
「于嗟、闊れるに、我と活きず。于嗟、洵かれる、我と信ぜず」
「ああ、かつては固く誓い合ったのに、もはや共に生きることもできない。
ああ、もはや遠ざかってしまった、もはや信じることもできない。
(『信』という作為に生きた心地を得るということがある。それは必ずしも悪いことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・撃鼓より)
一つの数字として見なされるのと全く同じようにして、無為すらをも一つの活動として捉える。
それに基づいて無為自然を尊ぶ道家思想や、不動を至尊のものとする仏教が提唱されたのでもある。
無為を尊ぶ道家や出家隠遁を決め込む小乗仏教だけでなく、世俗での善行を旨とする儒家や
大乗仏教においても、無為を一つの人間のあり方として尊重する大前提がやはり備わっていて、
故に「悪いことをするぐらいなら何もしないでいる」ぐらいの分別は付くようにもなってる。
権力腐敗きわまって善行など全く覚束なくなっていた戦国時代の中国で、道家も無為自然を尊ぶ
ことを提唱していたし、仏教が興隆して文化的にも最盛期を迎えていた頃のインドにおいてこそ、
未だ積極的な善行に励もうともしない上座部に反発して大乗仏教が興隆されたりもしたように、
そこでは無為そのものを「活きたもの」として、時宜に即して臨機応変に捉えていたことが窺える。
要は、人文学と数理学を融合させて常にものを考えてきたというぐらいのことなわけで、それすら
をも怠ってきたような界隈が存在していることのほうが、むしろ間抜けに過ぎていたのだといえる。
「于嗟、闊れるに、我と活きず。于嗟、洵かれる、我と信ぜず」
「ああ、かつては固く誓い合ったのに、もはや共に生きることもできない。
ああ、もはや遠ざかってしまった、もはや信じることもできない。
(『信』という作為に生きた心地を得るということがある。それは必ずしも悪いことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・撃鼓より)
「君子にして不仁なる者有らんか。未だ小人にして仁なる者あらざるなり(既出)」
「君子であっても不仁な者はいるが、小人でいながら仁者たり得た者はいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
未だ自分が仁ならざる小人や君子だろうとも、仁を目指すぐらいのことはできる。
ただ当然、仁を目指すぐらいであるのなら、自分が未だ小人止まりであるのを恥じたり、
未だ仁ならざる君子止まりでしかないことに憤ったりするものである。決して自分が不仁者止まりで
あることに安んじきったりはせず、いかにして不仁者としての自己を超克していくかを企て続けて行く。
もちろん、そんなことを一切目指さないというのも、一つのあり方である。
戦国時代のような寸分の徳行も為し得ない時代に、未だ孟子のような徒労同然の仁政の試みを続けるよりは、
もはや荘子や列子のような放り投げを決め込んでの自重に務めておくのも一つの手だと言える。
ただ、この場合には自分自身が何らかの社会的優遇を受けたりするようなことも全く欲したりはせず、
腐敗まみれな権力機構との関わりなども一切絶って、権力犯罪者たちの自滅をもただ静観するばかり。
儒家などにも特有の権力への野望に対して批判的であるからには、それぐらいの潔さでもいるのである。
上記二つのあり方ならいいわけだが、自分が小人でありながら富貴栄達を目指すとなれば、
それこそ眉をひそめざるを得ないような試みと見なす他なくなる。近来の民主主義社会ではそればかりが
礼賛や推進の対象となって来たわけだが、その結果は「人類滅亡寸前」という現状を見ての通りである。
「君子であっても不仁な者はいるが、小人でいながら仁者たり得た者はいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
未だ自分が仁ならざる小人や君子だろうとも、仁を目指すぐらいのことはできる。
ただ当然、仁を目指すぐらいであるのなら、自分が未だ小人止まりであるのを恥じたり、
未だ仁ならざる君子止まりでしかないことに憤ったりするものである。決して自分が不仁者止まりで
あることに安んじきったりはせず、いかにして不仁者としての自己を超克していくかを企て続けて行く。
もちろん、そんなことを一切目指さないというのも、一つのあり方である。
戦国時代のような寸分の徳行も為し得ない時代に、未だ孟子のような徒労同然の仁政の試みを続けるよりは、
もはや荘子や列子のような放り投げを決め込んでの自重に務めておくのも一つの手だと言える。
ただ、この場合には自分自身が何らかの社会的優遇を受けたりするようなことも全く欲したりはせず、
腐敗まみれな権力機構との関わりなども一切絶って、権力犯罪者たちの自滅をもただ静観するばかり。
儒家などにも特有の権力への野望に対して批判的であるからには、それぐらいの潔さでもいるのである。
上記二つのあり方ならいいわけだが、自分が小人でありながら富貴栄達を目指すとなれば、
それこそ眉をひそめざるを得ないような試みと見なす他なくなる。近来の民主主義社会ではそればかりが
礼賛や推進の対象となって来たわけだが、その結果は「人類滅亡寸前」という現状を見ての通りである。
最低最悪の選択肢に対する代案というのは、ほぼ必ず二つ以上は挙げられるものだ。最低最悪
よりも多少マシである代案と、そのマシよりもさらに向上的である代案との二つ、あるいはそれ以外。
実物の代替として儒家や道家や仏教などの理念を掲げてみたりもするが、どれを抽出する場合にも、
「こうであればまだマシ」「こうであればもっといい」というような評価と共に提示されていくもの。
ただ一つの代替だけを提示してくれたほうが分かりやすいということもあるかもしれないが、
極端から極端に走る性向を持ち越したままでは、また最低最悪に落ち込む危険性も高いままだから、
代替を一点ばかりに絞ることもあまりしようとはしないのである。最低最悪を抜け出した先に
あるものがまた一極的であったりはせず、多様的であることにこそ慣れていくべきなのだから。
孔子や釈迦が、東洋思想宗教史上でも至尊の聖賢だったことは間違いないが、さりとて孔子が
歴史上に唯一無二の儒者であるわけでもなければ、釈迦が唯一無二の仏者であるわけでもない。
その功績が天地万物に恒久普遍の道理や真理の把捉であればこそ、その後光に与っての後続の
儒者や仏者として大成したものが、孟子や朱子や竜樹や空海のようにいくらでもいるわけで、
アブラハム教などに特有の「唯一絶対」という志向はそこでは通用しないのである。思想哲学や
宗教の内から「英雄たちの群雄割拠」とでもいったような様相を呈しているのが、最低最悪から
一段も二段も上った先にある領域なわけだから、それを解せるだけの男らしさもまた必要になるのである。
「邦君の妻、君之れを称して夫人と曰う。夫人自ら称して小童と曰う」
「国君の妻は、主君が呼ぶ場合には『夫人』という。夫人本人は自称で『こわっぱ』という。
(夫人の謙りとしては『こわっぱ』という自称もありである。大丈夫の謙り方ではないが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一四より)
よりも多少マシである代案と、そのマシよりもさらに向上的である代案との二つ、あるいはそれ以外。
実物の代替として儒家や道家や仏教などの理念を掲げてみたりもするが、どれを抽出する場合にも、
「こうであればまだマシ」「こうであればもっといい」というような評価と共に提示されていくもの。
ただ一つの代替だけを提示してくれたほうが分かりやすいということもあるかもしれないが、
極端から極端に走る性向を持ち越したままでは、また最低最悪に落ち込む危険性も高いままだから、
代替を一点ばかりに絞ることもあまりしようとはしないのである。最低最悪を抜け出した先に
あるものがまた一極的であったりはせず、多様的であることにこそ慣れていくべきなのだから。
孔子や釈迦が、東洋思想宗教史上でも至尊の聖賢だったことは間違いないが、さりとて孔子が
歴史上に唯一無二の儒者であるわけでもなければ、釈迦が唯一無二の仏者であるわけでもない。
その功績が天地万物に恒久普遍の道理や真理の把捉であればこそ、その後光に与っての後続の
儒者や仏者として大成したものが、孟子や朱子や竜樹や空海のようにいくらでもいるわけで、
アブラハム教などに特有の「唯一絶対」という志向はそこでは通用しないのである。思想哲学や
宗教の内から「英雄たちの群雄割拠」とでもいったような様相を呈しているのが、最低最悪から
一段も二段も上った先にある領域なわけだから、それを解せるだけの男らしさもまた必要になるのである。
「邦君の妻、君之れを称して夫人と曰う。夫人自ら称して小童と曰う」
「国君の妻は、主君が呼ぶ場合には『夫人』という。夫人本人は自称で『こわっぱ』という。
(夫人の謙りとしては『こわっぱ』という自称もありである。大丈夫の謙り方ではないが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一四より)
詭弁や概念に人間の社会規範を司らせることも、仏説上の方便などとしてであれば害に
なるとも限らない。諸行無常や諸法実相や因果応報といった原則上の絶対真理に即して
提唱される方便であれば、悪人正機並みに詭弁的なものであろうとも、確かな回向となる。
上記のような仏法上の絶対真理であるとか、人間道徳とかに決定的に反したりしない限りでの
詭弁なら方便や冗談の域に止まるけれども、そこを逸脱した詭弁になると、途端に甚大な害悪を帯びる。
そしてそのような逸脱的な詭弁の流布すらをも承認するのが「宗教」という枠組みでもあるから、仏教なども
宗教の内ではあるにしろ、宗教という枠組みをもうこれ以上無制限に容認してやってていようなこともない。
「宗教」とか「思想」とか「哲学」とか、教学一般を指す言葉の下に何もかもを容認することからして
「雑家」という異端思想に基づくのであり、今ではそれが「自由主義」の名の下に奨励されてもいる。
雑家の著名人としては、秦帝国の宰相であり始皇帝の実父でもあった呂不韋がいるが、その呂不韋の
学術姿勢たるや、儒家といわず道家といわず法家といわず名家といわず墨家といわず、当時の代表的な学派を
適当に寄せ集めてごちゃ混ぜにしたというばかりのもので、その集大成の書とされる「呂覧(呂氏春秋)」も、
歴史資料としての価値は多少あったところで、思想哲学書としての価値には全く乏しいものとなっている。
日本仏教の宗派としては雑家的な側面の色濃い天台宗も、その創始の頃から真言密教には一目置かされて、
平安末期ごろからの僧団腐敗も著しいものとなり、総本山である比叡山を下りての独立的な布教に務めた
法然や親鸞や栄西や道元といった名僧こそは、浄土門や禅門などの専門流派を興隆させもしたのだった。
雑家は雑家で一つの学派ないし教派であり、そこに学者や宗教家のあり方の全てを還元するようでは、
かえって学問や信教全体がのっぺりとした味気のないものと化してしまう。学術であれば、宗教ですら
あれば即座に保護するというような姿勢で以って、みそもくそも一緒くたに教学全体を奨励した挙句に、
数多の宗教嫌いや学者嫌いを発生させての、教学文化全体の衰退を招いてしまうことともなる。
なるとも限らない。諸行無常や諸法実相や因果応報といった原則上の絶対真理に即して
提唱される方便であれば、悪人正機並みに詭弁的なものであろうとも、確かな回向となる。
上記のような仏法上の絶対真理であるとか、人間道徳とかに決定的に反したりしない限りでの
詭弁なら方便や冗談の域に止まるけれども、そこを逸脱した詭弁になると、途端に甚大な害悪を帯びる。
そしてそのような逸脱的な詭弁の流布すらをも承認するのが「宗教」という枠組みでもあるから、仏教なども
宗教の内ではあるにしろ、宗教という枠組みをもうこれ以上無制限に容認してやってていようなこともない。
「宗教」とか「思想」とか「哲学」とか、教学一般を指す言葉の下に何もかもを容認することからして
「雑家」という異端思想に基づくのであり、今ではそれが「自由主義」の名の下に奨励されてもいる。
雑家の著名人としては、秦帝国の宰相であり始皇帝の実父でもあった呂不韋がいるが、その呂不韋の
学術姿勢たるや、儒家といわず道家といわず法家といわず名家といわず墨家といわず、当時の代表的な学派を
適当に寄せ集めてごちゃ混ぜにしたというばかりのもので、その集大成の書とされる「呂覧(呂氏春秋)」も、
歴史資料としての価値は多少あったところで、思想哲学書としての価値には全く乏しいものとなっている。
日本仏教の宗派としては雑家的な側面の色濃い天台宗も、その創始の頃から真言密教には一目置かされて、
平安末期ごろからの僧団腐敗も著しいものとなり、総本山である比叡山を下りての独立的な布教に務めた
法然や親鸞や栄西や道元といった名僧こそは、浄土門や禅門などの専門流派を興隆させもしたのだった。
雑家は雑家で一つの学派ないし教派であり、そこに学者や宗教家のあり方の全てを還元するようでは、
かえって学問や信教全体がのっぺりとした味気のないものと化してしまう。学術であれば、宗教ですら
あれば即座に保護するというような姿勢で以って、みそもくそも一緒くたに教学全体を奨励した挙句に、
数多の宗教嫌いや学者嫌いを発生させての、教学文化全体の衰退を招いてしまうことともなる。
この世界、この宇宙の物事というのは、一元的よりは二元的であるもののほうがほとんどである。
太陽が地上に熱エネルギーをもたらすと共に、月が斥力によって波浪を起こすなどすることで、
地球の生態系も初めて成立している。人間も男と女に性が分かれているのが健全な状態で、
両性具有や性的不具こそは奇形ともなっている。にもかかわらず学問や信教に限って、それそのものが
一元的なものとしてこそ尊ばれたり、その内部破損が無制限に容認されたりすることのほうが
異常なのであり、その内側においてある種の差別が生じたりするほうがかえって自然なのである。
要は、学問や宗教のうちでも、特に正統なものが尊ばれて異端なものが賤しまれるといった程度の
篩い分けがあってしかるべきだということで、学問全般、宗教全般を無制限に奨励する雑家的なあり方を
もう少し控えていくようにすべきだというわけだけども、そのためには、「自由主義」もまた「雑家の美化」
でしかないという認識をもう少し広めていくようにしなければならない。「学問の自由、信教の自由が
閉ざされる」といえば後退的に聞こえるけども、「雑家の独り勝ちが控えられる」といえばむしろ前進的に
聞こえるわけで、そう捉えることで、後退志向までもが深刻化するようなことがないようにすべきなのだ。
「昊天の孔だ昭らけきに、我れ生を楽しむ靡し。爾を視るに夢夢たれば、我が心は惨惨たる」
「晴れ渡る空の下でも、私は少しも生きてることが楽しくない。主上の心が晴れやらぬようなら、
我が心も惨め極まりないものでしかない。(自分が死ぬからではなく、主君を喜ばせられないからこそ、
生きてることが全く楽しくないほどに惨め。この自己中を排した性根からの高潔さを見習うべきだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)
太陽が地上に熱エネルギーをもたらすと共に、月が斥力によって波浪を起こすなどすることで、
地球の生態系も初めて成立している。人間も男と女に性が分かれているのが健全な状態で、
両性具有や性的不具こそは奇形ともなっている。にもかかわらず学問や信教に限って、それそのものが
一元的なものとしてこそ尊ばれたり、その内部破損が無制限に容認されたりすることのほうが
異常なのであり、その内側においてある種の差別が生じたりするほうがかえって自然なのである。
要は、学問や宗教のうちでも、特に正統なものが尊ばれて異端なものが賤しまれるといった程度の
篩い分けがあってしかるべきだということで、学問全般、宗教全般を無制限に奨励する雑家的なあり方を
もう少し控えていくようにすべきだというわけだけども、そのためには、「自由主義」もまた「雑家の美化」
でしかないという認識をもう少し広めていくようにしなければならない。「学問の自由、信教の自由が
閉ざされる」といえば後退的に聞こえるけども、「雑家の独り勝ちが控えられる」といえばむしろ前進的に
聞こえるわけで、そう捉えることで、後退志向までもが深刻化するようなことがないようにすべきなのだ。
「昊天の孔だ昭らけきに、我れ生を楽しむ靡し。爾を視るに夢夢たれば、我が心は惨惨たる」
「晴れ渡る空の下でも、私は少しも生きてることが楽しくない。主上の心が晴れやらぬようなら、
我が心も惨め極まりないものでしかない。(自分が死ぬからではなく、主君を喜ばせられないからこそ、
生きてることが全く楽しくないほどに惨め。この自己中を排した性根からの高潔さを見習うべきだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)
己れの悪行からなる自業自得の悪因苦果は、まず本人自身の内面からの苦しみとして結実する。
その苦しみを解消していくために必要となるのが死刑を含む懲罰なわけだから、たとえ
世界中を権力犯罪まみれにして、犯罪者に対する十分な処罰が行き届かなくなるような
状態を拵えてみた所で、それで「悪因苦果」という因果応報が全く揺らぐわけでもない。
それでは、悪因苦果の苦しみを麻薬中毒なりカルト洗脳なりの陶酔によって紛らわしてみれば
どうかといって、それにより自分自身の身体や身辺や世の中の側の破綻を招くことになるわけで、
内面からの苦しみを紛らわそうとしたぶんだけ、それが外面からの破綻による苦しみと
なって蓄積されるという、因果応報の保存律が完全に確立されたままであり続ける。
大乗小乗にかかわらず、仏教は唯心主義であり、まず心が如何にあるかを問題とするけれども、
それは心が川の源流であるのに対し、モノが末流であるような関係に両者があるからで、心すら
しっかりと修め抜いたなら、それによって全てのモノすらもが統御されることをも見越しているからだ。
その慧眼が実際に真実にも即しているから、悪因苦果の苦しみも適切な処罰を介さない限りにおいて、
心の内面から外的な物質に至るまでの全ての領域において、必ず保存されたままであり続けるのである。
————
仏教や道家の提示するものは、体裁上からして「真理」だった。
「これが真理です」として提示したものを、信仰対象や定立対象とする門派であった。
ただ、その手法が科学的分析に即しておらず、どこまでも直観的なものでしかなかったから、
科学至上主義の裏側で肥大化してしまっている極度の懐疑主義に基づいて、現代人などには仏教や道家が
真理として提示するものも「過渡的な真理」か何かのようにすら思い込まれるようになってしまっている。
しかし、真理はどこまでいっても真理である。仏者や仙人による最原初の把捉方法が直観的なもので
しかなかったにしろ、真理であるものは真理だったのであり、真理ゆえに抗うこともできないのだ。
その苦しみを解消していくために必要となるのが死刑を含む懲罰なわけだから、たとえ
世界中を権力犯罪まみれにして、犯罪者に対する十分な処罰が行き届かなくなるような
状態を拵えてみた所で、それで「悪因苦果」という因果応報が全く揺らぐわけでもない。
それでは、悪因苦果の苦しみを麻薬中毒なりカルト洗脳なりの陶酔によって紛らわしてみれば
どうかといって、それにより自分自身の身体や身辺や世の中の側の破綻を招くことになるわけで、
内面からの苦しみを紛らわそうとしたぶんだけ、それが外面からの破綻による苦しみと
なって蓄積されるという、因果応報の保存律が完全に確立されたままであり続ける。
大乗小乗にかかわらず、仏教は唯心主義であり、まず心が如何にあるかを問題とするけれども、
それは心が川の源流であるのに対し、モノが末流であるような関係に両者があるからで、心すら
しっかりと修め抜いたなら、それによって全てのモノすらもが統御されることをも見越しているからだ。
その慧眼が実際に真実にも即しているから、悪因苦果の苦しみも適切な処罰を介さない限りにおいて、
心の内面から外的な物質に至るまでの全ての領域において、必ず保存されたままであり続けるのである。
————
仏教や道家の提示するものは、体裁上からして「真理」だった。
「これが真理です」として提示したものを、信仰対象や定立対象とする門派であった。
ただ、その手法が科学的分析に即しておらず、どこまでも直観的なものでしかなかったから、
科学至上主義の裏側で肥大化してしまっている極度の懐疑主義に基づいて、現代人などには仏教や道家が
真理として提示するものも「過渡的な真理」か何かのようにすら思い込まれるようになってしまっている。
しかし、真理はどこまでいっても真理である。仏者や仙人による最原初の把捉方法が直観的なもので
しかなかったにしろ、真理であるものは真理だったのであり、真理ゆえに抗うこともできないのだ。
重大なのは、本当に真理か道理か、はたまた無理であるのかということで、その捉え方や
流布の仕方が分析的か直観的かなどということではない。扱い方が直観的であっても真理は真理だし、
道理も道理であり、直観的であればこその汎用性も加味されて、分析的に取り扱う場合以上もの
有用性すらをも帯びていたりする。易学などもその典型例であり、決してその論及姿勢が科学的に
厳密だったりすることはないが、だからこそ権力道徳の実践などにも即座に応用できるようになっている。
科学的、分析的な手法にも存在意義があるとするなら、それは、自分たちの手法が非科学的であるに
ことかけて、真理や道理に違う誤謬を、あたかも真理や道理であるかのごとく触れ回る邪教邪学の虚偽を
厳密に暴き尽くすことだといえる。それにより、探求姿勢は直観的だったのであっても、本物の真理や道理を
取り扱っていた教学の信用性をも取り戻させることである。それは結局、科学的手法の現時点における大家でも
ある西洋社会が、自分たちの文化的源流である聖書信仰の虚偽性を暴き尽くすことに尽きるわけで、それにより、
自分たちの危害によってくそみそに信用性を貶められてしまった仏教や道家や儒家のごとき優良教学の権威をも
元通りに復元するのである。つまり、自分たちのもたらした迷惑を自分たちで回収するというまでのことだ。
「罪、死にも容れられず」
「罪が刑死によって寛容することすらできない程にも極大化してしまっている。
(『万死に値する』という、一身の生死をも超えた罪の受け止め方。東洋にはあるが西洋にはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一四より)
流布の仕方が分析的か直観的かなどということではない。扱い方が直観的であっても真理は真理だし、
道理も道理であり、直観的であればこその汎用性も加味されて、分析的に取り扱う場合以上もの
有用性すらをも帯びていたりする。易学などもその典型例であり、決してその論及姿勢が科学的に
厳密だったりすることはないが、だからこそ権力道徳の実践などにも即座に応用できるようになっている。
科学的、分析的な手法にも存在意義があるとするなら、それは、自分たちの手法が非科学的であるに
ことかけて、真理や道理に違う誤謬を、あたかも真理や道理であるかのごとく触れ回る邪教邪学の虚偽を
厳密に暴き尽くすことだといえる。それにより、探求姿勢は直観的だったのであっても、本物の真理や道理を
取り扱っていた教学の信用性をも取り戻させることである。それは結局、科学的手法の現時点における大家でも
ある西洋社会が、自分たちの文化的源流である聖書信仰の虚偽性を暴き尽くすことに尽きるわけで、それにより、
自分たちの危害によってくそみそに信用性を貶められてしまった仏教や道家や儒家のごとき優良教学の権威をも
元通りに復元するのである。つまり、自分たちのもたらした迷惑を自分たちで回収するというまでのことだ。
「罪、死にも容れられず」
「罪が刑死によって寛容することすらできない程にも極大化してしまっている。
(『万死に値する』という、一身の生死をも超えた罪の受け止め方。東洋にはあるが西洋にはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一四より)
「小人は壯を用い、君子は罔を用う。貞なれどもあやうし。羝羊藩に触れて其の角を羸しましむ(この一文既出)。
〜貞しければ吉にして悔い亡ぶ。藩決けて羸しまず。大輿の輹も壯なり。藩決けて羸しまざるは、往くを尚べばなり」
「小人は君子が避けるような猪突猛進を好む。そのような状態では目的が正しくても危うい。あたかも牡羊が垣根に
自らの角を引っ掛けて苦しむようなザマに陥る。しかし、あくまで目的が正しいようであればそれも吉祥なことなので、
悔いの残らないような結果に至る。まるで作りの立派な走り出すように進撃する。それもよいことなので、牡羊を苦しめ
ていた垣根も取り払われる。(親鸞聖人も一時易学に傾倒していたようだが、ここから悪人正機説をも編み出したのだろう。
異生羝羊心級の蒙昧な猪突猛進さも、一向専修念仏などに転用することでの善果への結実が可能となる。一方で、
一向一揆への制裁で本願寺が江戸幕府に冷遇されたことなども、九三の『最初は苦しまされる』という記述に一致
している。大きな苦難の後に道が開けるということも実際になくはないことで、それは正当な目的と共にこそ実現される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大壯・九三‐九四、象伝より)
〜貞しければ吉にして悔い亡ぶ。藩決けて羸しまず。大輿の輹も壯なり。藩決けて羸しまざるは、往くを尚べばなり」
「小人は君子が避けるような猪突猛進を好む。そのような状態では目的が正しくても危うい。あたかも牡羊が垣根に
自らの角を引っ掛けて苦しむようなザマに陥る。しかし、あくまで目的が正しいようであればそれも吉祥なことなので、
悔いの残らないような結果に至る。まるで作りの立派な走り出すように進撃する。それもよいことなので、牡羊を苦しめ
ていた垣根も取り払われる。(親鸞聖人も一時易学に傾倒していたようだが、ここから悪人正機説をも編み出したのだろう。
異生羝羊心級の蒙昧な猪突猛進さも、一向専修念仏などに転用することでの善果への結実が可能となる。一方で、
一向一揆への制裁で本願寺が江戸幕府に冷遇されたことなども、九三の『最初は苦しまされる』という記述に一致
している。大きな苦難の後に道が開けるということも実際になくはないことで、それは正当な目的と共にこそ実現される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大壯・九三‐九四、象伝より)
この世界この宇宙というのは、不条理とも思えるような一定の非可換性に司られている。
その非可換性に即して生きとし生けるものの全てがいつかは死に、それぞれの人間も男と女、
親と子、官と民といったような身分の違いを生じさせもする。それは確かに自由度の低い部分だが、
その自由度の低さすらないのなら、そもそもこの世界や人間のような高度な構築物からして成立し得ない。
関節の曲がる方向なども限られていればこそ、人間はアメーバやタコなどよりも遥かに高度な生物でもある。
アメーバ並みに原始的な生物であれば半永久的な生存すら不可能ではないが、同時に人間のような高度な知能や
意識を持ち得ることもない。寿命も80年程度、性別は男女に分かれ、大社会を築き上げる以上は官民の身分の
差別を設ける必要があったりする、その限定度こそが「万物の霊長」たる人間を成立させてもいるのである。
人間同士が形作る世俗社会において善徳や罪悪が実在し、善徳を積み重ねるものは普遍的な安楽に与れる一方、
罪悪を積み重ねるものは普遍的な辛苦に見舞われるという罪福異熟の道理もまた、上記のような限定性の内である。
万億の人々が集い来たる都市社会において、万人を利して我が利ともする仁徳に根ざした行業に励むことが善徳と
なる一方で、多くの人々から富を収奪しての狭隘な栄華を誇ろうとすることが罪悪となり、それが善因楽果悪因苦果の
罪福異熟を不可避に招く。それはどこまでも一方的な因果応報となるばかりで、悪行に相応の苦しみに見舞われた
からといって、その後に見返りとしての楽果が期待できたりするわけもないのがその実例だといえる。
その非可換性に即して生きとし生けるものの全てがいつかは死に、それぞれの人間も男と女、
親と子、官と民といったような身分の違いを生じさせもする。それは確かに自由度の低い部分だが、
その自由度の低さすらないのなら、そもそもこの世界や人間のような高度な構築物からして成立し得ない。
関節の曲がる方向なども限られていればこそ、人間はアメーバやタコなどよりも遥かに高度な生物でもある。
アメーバ並みに原始的な生物であれば半永久的な生存すら不可能ではないが、同時に人間のような高度な知能や
意識を持ち得ることもない。寿命も80年程度、性別は男女に分かれ、大社会を築き上げる以上は官民の身分の
差別を設ける必要があったりする、その限定度こそが「万物の霊長」たる人間を成立させてもいるのである。
人間同士が形作る世俗社会において善徳や罪悪が実在し、善徳を積み重ねるものは普遍的な安楽に与れる一方、
罪悪を積み重ねるものは普遍的な辛苦に見舞われるという罪福異熟の道理もまた、上記のような限定性の内である。
万億の人々が集い来たる都市社会において、万人を利して我が利ともする仁徳に根ざした行業に励むことが善徳と
なる一方で、多くの人々から富を収奪しての狭隘な栄華を誇ろうとすることが罪悪となり、それが善因楽果悪因苦果の
罪福異熟を不可避に招く。それはどこまでも一方的な因果応報となるばかりで、悪行に相応の苦しみに見舞われた
からといって、その後に見返りとしての楽果が期待できたりするわけもないのがその実例だといえる。
「どんな質問にも指一本を立てるだけで応える倶胝という和尚がいた。
あるとき門弟の童子が問答で倶胝和尚の真似をして指を立てた。
それを視るや、和尚は童子の指を刃物で寸断してしまった。
泣き叫んで逃げようとする童子を和尚は『待て小僧』と引止めた。
童子が振り向くと和尚は一本指を立てて見せた。途端に童子は悟りを啓いた」
(「無門関」第三則・倶胝竪指より)
大した修行も積んでない未熟者の小僧が、すでに悟りを啓いている達人の真似をしたからといって同じ境地に
至れるわけではないが、もしも自分がとうてい達人にはまだまだ及ばない未熟者であることを具さに
わきまえられたなら、それが自分自身の身の程に適った悟りを啓く帰依にはなり得る。それと同じように、
悪逆非道を積み重ねて来た愚人が、断悪修善を積み重ねて来た聖賢の境地にすぐに至れたりする
わけもないが、自分がその程度の身の程でしかないということを思い知ったなら、それが自分自身の
悪逆非道を狭めていく機縁になり、もって最悪の辛苦から脱していく機縁ともなったりする。
だからといって、そこからすぐに聖賢の境地に至れるわけでもなく、凡人や善人の域にまで立ち戻るためだけでも、
長い服役や療養生活を必要としたりもする。それでももう、最悪の苦しみから脱していく機縁には与れているわけで、
それが罪福異熟のような普遍道理に司られることで初めて成立してもいる、この社会において許容できる最善の
立ち直り方ともなる。これ以上に甘ったるい許容は社会の側の破綻を招き、許しを得た者すらをも無事では済まさない。
原理的な構造上そうでしかあり得ないという事態に対して、形而上の超越神ですらもがどうにかできることはない。
あるとき門弟の童子が問答で倶胝和尚の真似をして指を立てた。
それを視るや、和尚は童子の指を刃物で寸断してしまった。
泣き叫んで逃げようとする童子を和尚は『待て小僧』と引止めた。
童子が振り向くと和尚は一本指を立てて見せた。途端に童子は悟りを啓いた」
(「無門関」第三則・倶胝竪指より)
大した修行も積んでない未熟者の小僧が、すでに悟りを啓いている達人の真似をしたからといって同じ境地に
至れるわけではないが、もしも自分がとうてい達人にはまだまだ及ばない未熟者であることを具さに
わきまえられたなら、それが自分自身の身の程に適った悟りを啓く帰依にはなり得る。それと同じように、
悪逆非道を積み重ねて来た愚人が、断悪修善を積み重ねて来た聖賢の境地にすぐに至れたりする
わけもないが、自分がその程度の身の程でしかないということを思い知ったなら、それが自分自身の
悪逆非道を狭めていく機縁になり、もって最悪の辛苦から脱していく機縁ともなったりする。
だからといって、そこからすぐに聖賢の境地に至れるわけでもなく、凡人や善人の域にまで立ち戻るためだけでも、
長い服役や療養生活を必要としたりもする。それでももう、最悪の苦しみから脱していく機縁には与れているわけで、
それが罪福異熟のような普遍道理に司られることで初めて成立してもいる、この社会において許容できる最善の
立ち直り方ともなる。これ以上に甘ったるい許容は社会の側の破綻を招き、許しを得た者すらをも無事では済まさない。
原理的な構造上そうでしかあり得ないという事態に対して、形而上の超越神ですらもがどうにかできることはない。
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ただただ発奮するばかりの牡羊であっても、根本的に正しければ最終的には吉ともなると。
それすら期待できないのは、拠り所を間違えている牡羊だけであり、
何も異生羝羊レベルの下品さすなわち破滅への片道切符だとも限らないのである。
羊牛レベルの蒙昧さであるからには、さすがに苦難が付きまとうことは避けられない。
それは正しいものを拠り所としている場合でも同じで、一向一揆が信長らによって制圧され、
天下平定後にも江戸幕府によって本願寺を東西に分割されて勢力を分散化させられたように、
活動が猪突猛進すぎること自体への警戒からなる冷遇というものが、ある程度は避けられぬものとなる。
ただ、拠り所が正しければそれだけで済む一方、拠り所すら間違っていたのなら、それですら済まない。
浄土真宗こと一向宗は上記のような処分に止め置かれた一方で、キリシタンは寺社打ち壊しや奴隷売買などの
大罪を理由として根絶の対象とされ、実際に表社会から聖書信仰が絶やされた江戸期の日本においてこそ、
当時の地球上のどこの世界にも勝るほどの文化的文明的な繁栄が実現されもしたのだった。これなど確かに、
羊牛レベルの蒙昧さと致命的な過ちの相乗が世のため人のためとなる完全破綻を呼び込んだ実例であるといえる。
これもまた、蒙昧状態にまつわる一つの非可換性であり、この世界この宇宙のあらゆる現象が非可換性
によって司られているという法則に漏れるものではない。蒙昧状態にある人間自身がそれを察せないとした所で、
やはりそういう法則が遍在していることにも変わりはなく、その結果として、同じ蒙昧さでありながら
救われ得るような人間とそうでない人間とに分かれるという結果が生じてしまうのである。
「趙州和尚がある庵主の僧に『元気かい』と声をかけた。庵主は拳を上げて返事をした。
趙州は『こんな浅いところに船を止めておくわけにはいかない』と言ってすたこら
さっさと行き去った。また別の庵主の僧に『元気かい』と声をかけた。そこの庵主もまた
拳を上げて返事をした。趙州は『従奪活殺、自由自在でございますな』と言って、
その庵主に拝礼した。〜人を殺す刀が、人を活かす剣ともなる」
(「無門関」第十一則・州勘庵主より)
上の文面だけじゃ、二人の庵主にどのような違いがあったのかは全く分からない。分からないとした上で、
そこに差別がある。蒙昧者が救われたり救われなかったりすることも、これ程にも不可思議な差別であったりする。
特に、何が正しくて何が間違っているかも分からない蒙昧者であればこそ、自分からは不条理にしか
思えないようなところで、救われるものと救われないものとが分かたれる。それはもう、
蒙昧者であればこそ完全に承諾せねばならないことである。
親鸞聖人も、自らが念仏に帰命する根拠を法然上人の学識とし、「法然さまに騙されるのなら、
それでも結構でございます」という心持ちでいたというのだから、正しきを拠り所とする蒙昧者こそは、
むしろ「正しくても間違っててもいい」という程もの心意気で拠り所となるものを信ずることが分かる。
その思い切りが足りていなかったものこそは、過ちを拠り所として致命的な破滅にも至ったのである。
「十月には場を滌め、朋と酒を斯こに饗し、曰に羔羊を殺す。彼の公堂に躋り、彼の兕觥を稱げ、万寿無疆たらしむ」
「十月には屠場を清めて、友たちと友に酒宴を挙げつつ、子羊を殺す。その肉と酒を公堂に捧げ、万寿長命を祈る。
(四書五経中にも羊牛その他の牧獣の描写は多いが、あくまで人間第一で、牧獣と人間を同一視するような真似もしない。
人と動物の命の軽重にも厳然たる差別を講じ、人間自身の福徳こそを真摯に希う、)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
趙州は『こんな浅いところに船を止めておくわけにはいかない』と言ってすたこら
さっさと行き去った。また別の庵主の僧に『元気かい』と声をかけた。そこの庵主もまた
拳を上げて返事をした。趙州は『従奪活殺、自由自在でございますな』と言って、
その庵主に拝礼した。〜人を殺す刀が、人を活かす剣ともなる」
(「無門関」第十一則・州勘庵主より)
上の文面だけじゃ、二人の庵主にどのような違いがあったのかは全く分からない。分からないとした上で、
そこに差別がある。蒙昧者が救われたり救われなかったりすることも、これ程にも不可思議な差別であったりする。
特に、何が正しくて何が間違っているかも分からない蒙昧者であればこそ、自分からは不条理にしか
思えないようなところで、救われるものと救われないものとが分かたれる。それはもう、
蒙昧者であればこそ完全に承諾せねばならないことである。
親鸞聖人も、自らが念仏に帰命する根拠を法然上人の学識とし、「法然さまに騙されるのなら、
それでも結構でございます」という心持ちでいたというのだから、正しきを拠り所とする蒙昧者こそは、
むしろ「正しくても間違っててもいい」という程もの心意気で拠り所となるものを信ずることが分かる。
その思い切りが足りていなかったものこそは、過ちを拠り所として致命的な破滅にも至ったのである。
「十月には場を滌め、朋と酒を斯こに饗し、曰に羔羊を殺す。彼の公堂に躋り、彼の兕觥を稱げ、万寿無疆たらしむ」
「十月には屠場を清めて、友たちと友に酒宴を挙げつつ、子羊を殺す。その肉と酒を公堂に捧げ、万寿長命を祈る。
(四書五経中にも羊牛その他の牧獣の描写は多いが、あくまで人間第一で、牧獣と人間を同一視するような真似もしない。
人と動物の命の軽重にも厳然たる差別を講じ、人間自身の福徳こそを真摯に希う、)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
長年の聖書信仰の金科玉条化によって、聖書圏では世の中のうちでも
特に悪い者、善くない者こそが権力を握る方向性が固着化してしまった。
そのせいで「権力を持つ者=悪人」というような固定観念すらもが根付いてしまっているが、
権力者が特定して悪人となるのは「内小人にして外君子」という否卦の法則にばかり
該当する現象であり、六十四卦への千変万化によってこそ健全な流動性をも保てる
この世界の普遍法則に基づけば、どこまでも不自然極まりないものなのである。
たとえば、「内君子にして外小人」という泰卦の法則に基づくなら、
むしろ権力者こそは善人でなければならず、無権力の庶民こそは悪人であってもいいことになる。
そのような状況の世の中での権力道徳者を目指すための学問が儒学であるし、
またそのような世の中での愚昧な庶民として適当であろうとするための信教が浄土教でもある。
これらの教学は、愚昧な悪人こそが権力者であることを徹底する聖書信仰の範疇からすれば
非常識極まりないものであり、善良な権力者たろうとする儒学の意図も意味不明なら、
無権力の悪人であることを開き直る浄土教も意味不明として扱う他はないものである。
しかし、そのような教学が本当に実在していて、まともな世の中を築き上げることにかけては、
聖書信仰なぞよりも遥かに絶大かつ優良な実績を挙げて来てもいるのである。
儒学や浄土教が泰卦の法則に根ざすような優良な世の中での統治に貢献しようとする一方で、
聖書信仰や洋学は否卦の法則に根ざすような劣悪な世の中での支配に加担しようとする。
統治支配に携わろうとしている環境こそが全くの別物だから、両者の言い分や教義も悉く相反している。
特に悪い者、善くない者こそが権力を握る方向性が固着化してしまった。
そのせいで「権力を持つ者=悪人」というような固定観念すらもが根付いてしまっているが、
権力者が特定して悪人となるのは「内小人にして外君子」という否卦の法則にばかり
該当する現象であり、六十四卦への千変万化によってこそ健全な流動性をも保てる
この世界の普遍法則に基づけば、どこまでも不自然極まりないものなのである。
たとえば、「内君子にして外小人」という泰卦の法則に基づくなら、
むしろ権力者こそは善人でなければならず、無権力の庶民こそは悪人であってもいいことになる。
そのような状況の世の中での権力道徳者を目指すための学問が儒学であるし、
またそのような世の中での愚昧な庶民として適当であろうとするための信教が浄土教でもある。
これらの教学は、愚昧な悪人こそが権力者であることを徹底する聖書信仰の範疇からすれば
非常識極まりないものであり、善良な権力者たろうとする儒学の意図も意味不明なら、
無権力の悪人であることを開き直る浄土教も意味不明として扱う他はないものである。
しかし、そのような教学が本当に実在していて、まともな世の中を築き上げることにかけては、
聖書信仰なぞよりも遥かに絶大かつ優良な実績を挙げて来てもいるのである。
儒学や浄土教が泰卦の法則に根ざすような優良な世の中での統治に貢献しようとする一方で、
聖書信仰や洋学は否卦の法則に根ざすような劣悪な世の中での支配に加担しようとする。
統治支配に携わろうとしている環境こそが全くの別物だから、両者の言い分や教義も悉く相反している。
儒学や浄土教が泰卦のような環境下での統治に貢献しようとしているのは、易の法則を察した上での
確信的な試みであり、真宗開祖の親鸞聖人なども易学を参考にして悪人正機説を打ち出している。
あくまで、易の法則は流動的なものであり、いつでも必ず泰卦のような良環境が遍在することを期待
できたりするわけではないが、易の法則を察するものとしては、あくまで泰卦のような優良な環境の
呼び込みを目指したり、そこでの統治に貢献したりしようとすることが最善となるために、個人的な
志しとしてはどこまでもそれを目指し、否卦のような劣悪環境の呼び込みをも避けるようにするのである。
聖書信仰や洋学が否卦のような劣悪環境下での支配に加担しようとするのは、別に聖書信仰や洋学の
関係者が易の法則を察したり諾ったりしているからではない。易の法則などを一切把握も承諾も
しない上に、この世界この宇宙の法則を超越する絶対神的なものをでっち上げての教学を構築して
来たものだから、易でいえば否卦に相当するような劣悪な環境を企図するものともなってしまった。
(イスラムの超越神アラーなどは汎神的な存在であったため、このような結果には至らなかった)
形而下の法則を完全に超越する絶対神など実在しない、存在したところでこの世界やこの宇宙とは
何の関係もないということは今しがた知れたことで、故に、易の法則こそが全世界において絶対的で
あることもまたほんのこのごろ認知が確定したことだといえる。別に易の法則を把握や承諾した上で、
なおのこと否卦のような劣悪環境の呼び込みを目指していた悪魔などが居たわけではないのだから、
「魔が差す」ということも、どこまでも過失の域内でしかなかったことまでもが確かなのである。
「夫れ人豈に勝えざるを以て患いと為さんや、為す弗きのみ」
「どうして自分に力が足らないことなどを憂う必要があるだろう。
ただ(小さな善すら)為そうとしないことを憂うばかりだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
確信的な試みであり、真宗開祖の親鸞聖人なども易学を参考にして悪人正機説を打ち出している。
あくまで、易の法則は流動的なものであり、いつでも必ず泰卦のような良環境が遍在することを期待
できたりするわけではないが、易の法則を察するものとしては、あくまで泰卦のような優良な環境の
呼び込みを目指したり、そこでの統治に貢献したりしようとすることが最善となるために、個人的な
志しとしてはどこまでもそれを目指し、否卦のような劣悪環境の呼び込みをも避けるようにするのである。
聖書信仰や洋学が否卦のような劣悪環境下での支配に加担しようとするのは、別に聖書信仰や洋学の
関係者が易の法則を察したり諾ったりしているからではない。易の法則などを一切把握も承諾も
しない上に、この世界この宇宙の法則を超越する絶対神的なものをでっち上げての教学を構築して
来たものだから、易でいえば否卦に相当するような劣悪な環境を企図するものともなってしまった。
(イスラムの超越神アラーなどは汎神的な存在であったため、このような結果には至らなかった)
形而下の法則を完全に超越する絶対神など実在しない、存在したところでこの世界やこの宇宙とは
何の関係もないということは今しがた知れたことで、故に、易の法則こそが全世界において絶対的で
あることもまたほんのこのごろ認知が確定したことだといえる。別に易の法則を把握や承諾した上で、
なおのこと否卦のような劣悪環境の呼び込みを目指していた悪魔などが居たわけではないのだから、
「魔が差す」ということも、どこまでも過失の域内でしかなかったことまでもが確かなのである。
「夫れ人豈に勝えざるを以て患いと為さんや、為す弗きのみ」
「どうして自分に力が足らないことなどを憂う必要があるだろう。
ただ(小さな善すら)為そうとしないことを憂うばかりだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
[YouTubeで再生]
自分以外の誰かや、災害や害獣などから身を守ったりすることよりも、
まず自分自身が自殺行為によって己れを損なってしまうことこそを最大級に警戒する。
そしたら自然と外的な危害に対する警戒意識も最適化されて、全く警戒を欠くということもなければ、
外的警戒ばかりを募らせ過ぎての自業自得での自滅を招くというようなこともなくなる。
どんな保護者や観察者も、自業自得で自滅するものだけは救うことができない。
そこにこそ生物としての危うさの極みがあり、保護の対象となる資格ももはやそこにはない。
忠義のためだか孝行のためだとかの已む無い理由があって我が身を危うからしめるのならともかく、
全くの酔狂によって必要もなく危難を呼び込んだりするのなら、もはや同情のしようもない。
薄情者や鬼畜とわず、人情豊かな真人間であろうとも、そんな相手に同情したりするもんじゃない。
ナザレのイエスによる邪教の触れ回りや、進んでの投降に基づく磔刑などは、一見、
同情のしようがあるようにすら思われかねないものだった。妾腹の私生児として娼婦マリアから
産まれたイエスが、その不遇からなる自暴自棄によって邪説を触れ回った挙句に冤罪で処刑された
ということが、「刑死後に蘇って昇天した」というハッピーエンドの迷信によって取り繕って
あげたくなるほどにも、当時のローマ人などにとっては同情したくなるものだったのである。
しかし、イエスよりもさらに不遇な「母子家庭の妾腹の私生児」という
境遇に生まれ育ちながら、決して自暴自棄に走ったりすることもなく、粛々と
礼学者や権力道徳者としての役儀をこなした孔子のような偉人の実例も見てみれば、
イエスの自殺行為による自滅なども、決して同情するに値するものなどではなかったことが分かる。
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まず自分自身が自殺行為によって己れを損なってしまうことこそを最大級に警戒する。
そしたら自然と外的な危害に対する警戒意識も最適化されて、全く警戒を欠くということもなければ、
外的警戒ばかりを募らせ過ぎての自業自得での自滅を招くというようなこともなくなる。
どんな保護者や観察者も、自業自得で自滅するものだけは救うことができない。
そこにこそ生物としての危うさの極みがあり、保護の対象となる資格ももはやそこにはない。
忠義のためだか孝行のためだとかの已む無い理由があって我が身を危うからしめるのならともかく、
全くの酔狂によって必要もなく危難を呼び込んだりするのなら、もはや同情のしようもない。
薄情者や鬼畜とわず、人情豊かな真人間であろうとも、そんな相手に同情したりするもんじゃない。
ナザレのイエスによる邪教の触れ回りや、進んでの投降に基づく磔刑などは、一見、
同情のしようがあるようにすら思われかねないものだった。妾腹の私生児として娼婦マリアから
産まれたイエスが、その不遇からなる自暴自棄によって邪説を触れ回った挙句に冤罪で処刑された
ということが、「刑死後に蘇って昇天した」というハッピーエンドの迷信によって取り繕って
あげたくなるほどにも、当時のローマ人などにとっては同情したくなるものだったのである。
しかし、イエスよりもさらに不遇な「母子家庭の妾腹の私生児」という
境遇に生まれ育ちながら、決して自暴自棄に走ったりすることもなく、粛々と
礼学者や権力道徳者としての役儀をこなした孔子のような偉人の実例も見てみれば、
イエスの自殺行為による自滅なども、決して同情するに値するものなどではなかったことが分かる。
その孔子も、たとえば濁悪にまみれ過ぎた諸侯への仕官を蹴っての青い鳥状態でいるあまり、
支援者を失っての放浪状態に追い込まれたり、魯の将軍に政敵と見間違われて殺されかけるなどの
危難に見舞われたことがあった。それはたとえば、完全なる隠遁や安静を決め込む胴か小乗仏教の見地
からすれば決して安全第一なものではなかったわけだが、それでも孔子には「衰退した我が家を盛り立てる」
や「古えの礼楽文化を今の時代に復興する」といったまともな目的が備わっていたわけだから、
決して全くの酔狂扱いとして、その苦難の旅路を鼻であしらったりしてはならないようになっている。
正当な目的があって苦難にすら臨むのと、全くの酔狂で苦難に乗ずるのとでは、決定的な
実行価値の開きを生ずる。片やそうしたほうが善い一方で、片やしないでいるほうがマシである。
それを行うことによって片や自らを英傑とならしめる一方、片やクズ同然の存在とならしめる。
危難に臨むからといって必ずしもクズ扱いにすべきでもないのだから、勇気の持ち主=人間のクズ
なんていうプラトンレベルの惰弱主義的な結論に陥ってしまってもならないといえる。
「陰陽に堪えず、蛇龍に乗る」
「陽唱陰和が破綻して、あたかも弱小な蛇が強大な龍に乗っかっているようなザマとなってしまっている。
(龍のように偉大な聖王賢臣と比べれば、権力犯罪者たちは自分たち自身がヘビのような存在と
化してしまっていることを思い知るべきである。自分たちが虚栄を謳歌している状態も、
あたかもヘビが龍に乗っかっているも同然の状態であるとわきまえるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十八年より)
支援者を失っての放浪状態に追い込まれたり、魯の将軍に政敵と見間違われて殺されかけるなどの
危難に見舞われたことがあった。それはたとえば、完全なる隠遁や安静を決め込む胴か小乗仏教の見地
からすれば決して安全第一なものではなかったわけだが、それでも孔子には「衰退した我が家を盛り立てる」
や「古えの礼楽文化を今の時代に復興する」といったまともな目的が備わっていたわけだから、
決して全くの酔狂扱いとして、その苦難の旅路を鼻であしらったりしてはならないようになっている。
正当な目的があって苦難にすら臨むのと、全くの酔狂で苦難に乗ずるのとでは、決定的な
実行価値の開きを生ずる。片やそうしたほうが善い一方で、片やしないでいるほうがマシである。
それを行うことによって片や自らを英傑とならしめる一方、片やクズ同然の存在とならしめる。
危難に臨むからといって必ずしもクズ扱いにすべきでもないのだから、勇気の持ち主=人間のクズ
なんていうプラトンレベルの惰弱主義的な結論に陥ってしまってもならないといえる。
「陰陽に堪えず、蛇龍に乗る」
「陽唱陰和が破綻して、あたかも弱小な蛇が強大な龍に乗っかっているようなザマとなってしまっている。
(龍のように偉大な聖王賢臣と比べれば、権力犯罪者たちは自分たち自身がヘビのような存在と
化してしまっていることを思い知るべきである。自分たちが虚栄を謳歌している状態も、
あたかもヘビが龍に乗っかっているも同然の状態であるとわきまえるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十八年より)
浄土経に記述されているような教義に即して「南無阿弥陀仏」と唱名すれば救われるとされ、
弘法大師の積んだ諸々の功徳に即して「南無遍照金剛」と唱えれば相応の利益に与れるともされる。
そこにはそれなりの後ろ盾があるのであって、たとえ唱名するもの自身がその後ろ盾をよく理解
できていないのであっも、潜在面からの後ろ盾の機能によってこそ利益があったりもするのである。
聖書信仰もまたそのような、潜在面からの教義的な後ろ盾の機能によって、信者を致命的な
破滅に陥れるのである。信者自身が新旧約聖書なんかまともに読んでなくたって、ただ自分が
キリストやエホバに帰依すると決断しているだけで、自動的に破滅を呼び込むものである。
他力本願系の信教というのは大体、そういったブラックボックス的要素を帯びているもので、
「教義も知らずにただ信じていただけなのにどうして破滅に陥らなければならないんだ」という
不平を抱いてしまう人間もまた多々生じてしまうのである。全ての他力信教がそうなるのではないにしろ、
そのような人間すらをも生じさせてしまう点が、他力系の信教一般の決定的な問題点だとはいえる。
ただ、教義なんかろくに知らなくても、キリスト教徒である以上は、教会に行って祈りを捧げるぐらい
のことはしたことがあるはずだ。そこで教会建築の独特の美々しさなどにも魅了されたことがあるはずで、
もしもそこで嫌悪感を抱いていたなら、率先して教会に行くことなどももう避けたはずである。
そのような、信者が魅了されたこともあるだろう教会建築の様式などからして、すでに偽善志向の
集成であり、信者もそれに魅了されたからには、偽善を好む性向が自分に潜在していたに違いないのだ。
弘法大師の積んだ諸々の功徳に即して「南無遍照金剛」と唱えれば相応の利益に与れるともされる。
そこにはそれなりの後ろ盾があるのであって、たとえ唱名するもの自身がその後ろ盾をよく理解
できていないのであっも、潜在面からの後ろ盾の機能によってこそ利益があったりもするのである。
聖書信仰もまたそのような、潜在面からの教義的な後ろ盾の機能によって、信者を致命的な
破滅に陥れるのである。信者自身が新旧約聖書なんかまともに読んでなくたって、ただ自分が
キリストやエホバに帰依すると決断しているだけで、自動的に破滅を呼び込むものである。
他力本願系の信教というのは大体、そういったブラックボックス的要素を帯びているもので、
「教義も知らずにただ信じていただけなのにどうして破滅に陥らなければならないんだ」という
不平を抱いてしまう人間もまた多々生じてしまうのである。全ての他力信教がそうなるのではないにしろ、
そのような人間すらをも生じさせてしまう点が、他力系の信教一般の決定的な問題点だとはいえる。
ただ、教義なんかろくに知らなくても、キリスト教徒である以上は、教会に行って祈りを捧げるぐらい
のことはしたことがあるはずだ。そこで教会建築の独特の美々しさなどにも魅了されたことがあるはずで、
もしもそこで嫌悪感を抱いていたなら、率先して教会に行くことなどももう避けたはずである。
そのような、信者が魅了されたこともあるだろう教会建築の様式などからして、すでに偽善志向の
集成であり、信者もそれに魅了されたからには、偽善を好む性向が自分に潜在していたに違いないのだ。
浄土真宗の寺の本堂内部の過剰な飾り立てなどは、どこにも偽善臭などない、完全なる悪の開き直り
の荘厳となっている。むしろ己れの劣悪さを開き直るぐらいの度量と共にこそ、悪人正機説に基づく
善導などもまた実現されていくのだから、あえてそのようなどぎつい飾り立てを施している。
それに魅了されたり、そこまでいかずとも受け入れられたりする人間なら、念仏信仰にも向いている
一方、そんなものにはかえって拒絶感を抱かされる、自分は教会建築などのアート的な様式のほうを
好むというのなら、そういう人間も潜在面からして念仏信仰には向いていなかったことになるのである。
浄土経を学んだこともなければ、聖書を読んだこともないというような内からでもそのような、
寺や教会の建築様式に対する感傷などの形で、人々も潜在面から信仰対象を選別していったのである。
真宗の僧侶は必ずしも剃髪しないが、それ以外の仏門では出家者は必ず剃髪するから、在家信者に
対しても、つるっぱげをあえて敬うような度量の広さが要求されている。その関門を乗り越えて
人々もまた、在家のうちからの聖道門帰依に励むわけだから、そこでもやはりすでに、
在家のうちからの信者の自己責任に基づく選別が働いているのだといえる。
あまり熱心でもないような在家の信者のうちからでも、他力系の信教を選択的に帰依した所にすら、多少の
自己責任が伴っている。教義を完全に計り知った上でなおのこと邪教に帰依していたりする場合と比べれば
その罪は軽いといえるが、適当な姿勢で邪教に帰依していたことにも全く罪がないとまでは言えないのである。
「其の名を称するや雑にして越えず。〜其の名を称するや小にして、その類を取るや大なり」
「(易の)名の称えられ方は雑多であるけれども、易の法則を表現するものとしての分を越えていない。
名の称えられ方は卑小であるけれども、それによって包含される事象の部類はとてつもなく多大である。
(『主』とか『キリスト』とかいった名称は、それ自体が単一的でひどく尊大なものだが、そのせいでかえって、
この世界この宇宙を司る易の法則などからも乖離してしまっている。重点を置くべきでない所に置いている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
の荘厳となっている。むしろ己れの劣悪さを開き直るぐらいの度量と共にこそ、悪人正機説に基づく
善導などもまた実現されていくのだから、あえてそのようなどぎつい飾り立てを施している。
それに魅了されたり、そこまでいかずとも受け入れられたりする人間なら、念仏信仰にも向いている
一方、そんなものにはかえって拒絶感を抱かされる、自分は教会建築などのアート的な様式のほうを
好むというのなら、そういう人間も潜在面からして念仏信仰には向いていなかったことになるのである。
浄土経を学んだこともなければ、聖書を読んだこともないというような内からでもそのような、
寺や教会の建築様式に対する感傷などの形で、人々も潜在面から信仰対象を選別していったのである。
真宗の僧侶は必ずしも剃髪しないが、それ以外の仏門では出家者は必ず剃髪するから、在家信者に
対しても、つるっぱげをあえて敬うような度量の広さが要求されている。その関門を乗り越えて
人々もまた、在家のうちからの聖道門帰依に励むわけだから、そこでもやはりすでに、
在家のうちからの信者の自己責任に基づく選別が働いているのだといえる。
あまり熱心でもないような在家の信者のうちからでも、他力系の信教を選択的に帰依した所にすら、多少の
自己責任が伴っている。教義を完全に計り知った上でなおのこと邪教に帰依していたりする場合と比べれば
その罪は軽いといえるが、適当な姿勢で邪教に帰依していたことにも全く罪がないとまでは言えないのである。
「其の名を称するや雑にして越えず。〜其の名を称するや小にして、その類を取るや大なり」
「(易の)名の称えられ方は雑多であるけれども、易の法則を表現するものとしての分を越えていない。
名の称えられ方は卑小であるけれども、それによって包含される事象の部類はとてつもなく多大である。
(『主』とか『キリスト』とかいった名称は、それ自体が単一的でひどく尊大なものだが、そのせいでかえって、
この世界この宇宙を司る易の法則などからも乖離してしまっている。重点を置くべきでない所に置いている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
己れの身を危うからしめることで着実な道義的成果が挙げられるというのなら、それも
アリだが、そうではあり得ない範囲での蛮行などに及ぶのでは、それこそ道義が立たない。
両者は厳密に分別して取り扱うべきものであり、これらをみそくそに扱った結果、
道義に根ざした死すらをも卑しむようになってしまうようなことがあってはならない。
日本史上や古代中国史上などに、道義のために命をも呈した英傑の事例は数多い。
道徳的、史学的にもその道義性が確かなものであるために、ひどい惨死に見舞われていたりしながらも
純粋な賞賛の対象ともなっていたりする。それを、酔狂での徒労死などともくそみそに扱って、
「野蛮な土人の凶行」か何かのように見なしたりするのも完全なる誤謬であり、道徳文化の確立を諾う
こともできないでいる自分のほうがむしろ、文化的未開状態にある土人であるのだとわきまえねばならない。
どうでもいいようなこと、むしろ避けたほうがいいようなことによって身を危うくすることと、
明白な道義に即して危難に臨むこととを厳重に差別した上で、後者のみを特筆して賞賛の対象とする、
それができるようになったならば、そのような世の中は今以上の文化的発展を実現させたのだといえる。
それを実現させるためには、むしろ酔狂によって身を危くすることに対する卑しみが強化される必要がある。
別に人命第一、保身第一だからそのような奇行を卑しむのではなく、道義に根ざした挺身を素直に賞賛
できるようになるためにこそ、なんでもかんでもの挺身一般を持て囃したりはしないようにすべきなのである。
地球上での社会情勢の自己完結化が一段落し、万人を利して我が利ともする仁義の理念もまた、
いつまでもヤクザの私物などにしていてはならないほどもの有益さをまた帯びるようになり始めている。
なればこそ、仁徳に即して道義のために身命をも賭することの価値までもが見直される必要が出て来ている。
アリだが、そうではあり得ない範囲での蛮行などに及ぶのでは、それこそ道義が立たない。
両者は厳密に分別して取り扱うべきものであり、これらをみそくそに扱った結果、
道義に根ざした死すらをも卑しむようになってしまうようなことがあってはならない。
日本史上や古代中国史上などに、道義のために命をも呈した英傑の事例は数多い。
道徳的、史学的にもその道義性が確かなものであるために、ひどい惨死に見舞われていたりしながらも
純粋な賞賛の対象ともなっていたりする。それを、酔狂での徒労死などともくそみそに扱って、
「野蛮な土人の凶行」か何かのように見なしたりするのも完全なる誤謬であり、道徳文化の確立を諾う
こともできないでいる自分のほうがむしろ、文化的未開状態にある土人であるのだとわきまえねばならない。
どうでもいいようなこと、むしろ避けたほうがいいようなことによって身を危うくすることと、
明白な道義に即して危難に臨むこととを厳重に差別した上で、後者のみを特筆して賞賛の対象とする、
それができるようになったならば、そのような世の中は今以上の文化的発展を実現させたのだといえる。
それを実現させるためには、むしろ酔狂によって身を危くすることに対する卑しみが強化される必要がある。
別に人命第一、保身第一だからそのような奇行を卑しむのではなく、道義に根ざした挺身を素直に賞賛
できるようになるためにこそ、なんでもかんでもの挺身一般を持て囃したりはしないようにすべきなのである。
地球上での社会情勢の自己完結化が一段落し、万人を利して我が利ともする仁義の理念もまた、
いつまでもヤクザの私物などにしていてはならないほどもの有益さをまた帯びるようになり始めている。
なればこそ、仁徳に即して道義のために身命をも賭することの価値までもが見直される必要が出て来ている。
道義のための挺身を評価することに有益さが生じ始めているからこそ、命知らずの暴虎馮河全般を
面白がるようなことが有害ともなり始めている。正当な勇進の評価のために、蛮勇の卑しみは
却って必要となり、定常的にはむしろ人々が穏健な自重を尽くすようになっていく必要がある。
命を軽んじ、身を危からしめることが潜在的にはむしろ羨望されているのが今という世の中である。
資本主義先進国における福祉政策の充実などからも、不用意に人が死ぬことが外的には抑制されている
ものの、そのせいでかえって個人個人が自主的な自重に努めることは萎縮してしまい、内面ではむしろ、
殺傷の狂気をヘタに面白がるような、不恰好な猟奇性が肥大化してしまったりもしているのである。
そこを転換して、むしろ個々人の内面からこそ自重が尊重されるようになっていく一方、
それに即して、道義に根ざした挺身のみを特筆して評価するようにもなっていけばいいのである。
むしろ今以上にも、自重の価値が本格的に重んじられるようになってこそ、そうなって行けるのである。
「王有廟に仮る。大人を見るに利ろし。亨る。貞しきに利ろし。大牲を用いて吉なり。往く攸有るに利ろし」
「王者は先祖の神を祀る霊廟に向かう。不世出の大人に邂逅し、何でもうまくいく。正しさを貫いた上で、
大物の犠牲を用いても吉祥となる。大きな事業を推し進めていくのにも格好の時である。(祖神や大人や
大事業のために大物の犠牲を用いるというのが、正統な供儀のあり方である。虚構の超越神や小人や
自分一人の栄華のために人間自身を犠牲にしたりするのとは、まさに対極の関係にあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・萃より)
面白がるようなことが有害ともなり始めている。正当な勇進の評価のために、蛮勇の卑しみは
却って必要となり、定常的にはむしろ人々が穏健な自重を尽くすようになっていく必要がある。
命を軽んじ、身を危からしめることが潜在的にはむしろ羨望されているのが今という世の中である。
資本主義先進国における福祉政策の充実などからも、不用意に人が死ぬことが外的には抑制されている
ものの、そのせいでかえって個人個人が自主的な自重に努めることは萎縮してしまい、内面ではむしろ、
殺傷の狂気をヘタに面白がるような、不恰好な猟奇性が肥大化してしまったりもしているのである。
そこを転換して、むしろ個々人の内面からこそ自重が尊重されるようになっていく一方、
それに即して、道義に根ざした挺身のみを特筆して評価するようにもなっていけばいいのである。
むしろ今以上にも、自重の価値が本格的に重んじられるようになってこそ、そうなって行けるのである。
「王有廟に仮る。大人を見るに利ろし。亨る。貞しきに利ろし。大牲を用いて吉なり。往く攸有るに利ろし」
「王者は先祖の神を祀る霊廟に向かう。不世出の大人に邂逅し、何でもうまくいく。正しさを貫いた上で、
大物の犠牲を用いても吉祥となる。大きな事業を推し進めていくのにも格好の時である。(祖神や大人や
大事業のために大物の犠牲を用いるというのが、正統な供儀のあり方である。虚構の超越神や小人や
自分一人の栄華のために人間自身を犠牲にしたりするのとは、まさに対極の関係にあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・萃より)
他力信仰も奨励できるものとできないものとがあるように、
一心不乱であるべき対象とそうでない対象というものもまたある。
仁徳に適った善行であるとか、正統な宗門における精進修行だとかは、
一心不乱であるに越したことのないものである一方、自分個人や隣人だけの
ための我田引水などに一心不乱であったりしていいことなどは何もない。
一心不乱であるべきことに一心不乱であったからといって、別に"淫"したりはしない
一方、そうあるべきでないものに一心不乱となると、必ず淫する。一心不乱な心境に
淫蕩さが加味されて、エサを食らう畜生ほどもの蒙昧さに陥ってしまうことになる。
一心不乱であるべきでないものに一心不乱であろうとするほど淫しやすいのは、
そこに最低限の技巧的知識すらもが伴っていないから。仁徳に根ざした善行に努める際には、
「万人を利して我が利ともする」という技巧的な知識の定常的なわきまえが必要となる一方、
我田引水なんざにはそんなわきまえは必要ない。別に「他人の利益を侵害してまで自分の利益を貪る」
なんていうわきまえすらも必要はなく、ただ専らに私益を貪り尽くすだけでそれは実現されて行くものだから、
それこそ畜生レベルの蒙昧さに陥っていたほうが、かえって罪悪感なども抱かなくて済むから都合がいいのである。
たとえば、古武術の初歩的な技巧が完全に身に付いて、わざわざ「ここはこうする」なんて考えなくても
自然と技が繰り出せるようになったとする。そしたら当該の技にまつわる技巧的知識などももはや
必要がなくなるわけだけども、そこから先にはまた、より高度な技にまつわる鍛錬の境地が開けいく。
さすれば、初歩的な技を身に付ける際に嗜んだような技巧的知識のわきまえというのは、知識そのものが
どんどん高度化していくのであっても、ずっと必要であり続けていくものなのだといえる。
一心不乱であるべき対象とそうでない対象というものもまたある。
仁徳に適った善行であるとか、正統な宗門における精進修行だとかは、
一心不乱であるに越したことのないものである一方、自分個人や隣人だけの
ための我田引水などに一心不乱であったりしていいことなどは何もない。
一心不乱であるべきことに一心不乱であったからといって、別に"淫"したりはしない
一方、そうあるべきでないものに一心不乱となると、必ず淫する。一心不乱な心境に
淫蕩さが加味されて、エサを食らう畜生ほどもの蒙昧さに陥ってしまうことになる。
一心不乱であるべきでないものに一心不乱であろうとするほど淫しやすいのは、
そこに最低限の技巧的知識すらもが伴っていないから。仁徳に根ざした善行に努める際には、
「万人を利して我が利ともする」という技巧的な知識の定常的なわきまえが必要となる一方、
我田引水なんざにはそんなわきまえは必要ない。別に「他人の利益を侵害してまで自分の利益を貪る」
なんていうわきまえすらも必要はなく、ただ専らに私益を貪り尽くすだけでそれは実現されて行くものだから、
それこそ畜生レベルの蒙昧さに陥っていたほうが、かえって罪悪感なども抱かなくて済むから都合がいいのである。
たとえば、古武術の初歩的な技巧が完全に身に付いて、わざわざ「ここはこうする」なんて考えなくても
自然と技が繰り出せるようになったとする。そしたら当該の技にまつわる技巧的知識などももはや
必要がなくなるわけだけども、そこから先にはまた、より高度な技にまつわる鍛錬の境地が開けいく。
さすれば、初歩的な技を身に付ける際に嗜んだような技巧的知識のわきまえというのは、知識そのものが
どんどん高度化していくのであっても、ずっと必要であり続けていくものなのだといえる。
それと同じように、仁徳の修練などもまた、どこまでも向上が目指していけるものであり、
仮に一定の上達が成し得たからといって、そこで停滞しきってあぐらをかいてしまうようならば、
それにより、技巧的知識のわきまえももはや必要でなくなったがための、淫蕩に耽ることはできても、
それと引き換えに今以上の向上というものが全く期待できなくもなるのである。そしてその時、
その人間はもはや仁徳の修練にかけて一心不乱であることを放棄してしまってもいる。何らの分別も
必要としない悪行こそは一心不乱な没頭によって淫することができる一方、仁徳にかなった善行のほうは、
一心不乱であることを放棄することで初めて多少の淫蕩に耽ることができる。しからば、人間というもの、
淫蕩さと無縁なところでこそ善行を推し進められる一方、淫蕩にかられた所で善の推進を滞らせたり、
悪行にふけってしまったりするわけだから、淫蕩に駆られるか否かを一つの善悪の分別のバロメーター
にしていくこともまたできるのである。何も、淫蕩に駆られることがあるという人間の性分そのものが
いけないものなのではない。それはちょうど、神経系に具わっている痛覚などと同じものなのである。
「子曰く、参よ吾が道は一を以て之れを貫けり。曾子曰く、唯。
子出ずる。門人問うて曰く、何の謂いぞや。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ」
「孔先生が言われた。『参(曾子)よ、わが道はただ一つのことを貫くというばかりのことだよ』
曾先生。『確かにその通りです』 孔先生が立ち去られた後、ある門弟が曾子に『どういう意味でしょうか』
と問うた。曾先生は言われた。『大師(孔子)の道は、ただ忠恕の真心を尽くすというばかりのことなのだよ』
(孔子は存命中に多種多様な活動を為していたため、『一を以って之を貫くばかり』という孔子の言葉を
横で聞いていた門弟にはその意味が判然としなかった。何をやるかという以前に、内面からの心がけの所に
一を以って貫く忠恕がある。これこそは仁徳にまつわる技巧的智識の常日ごろからのわきまえに基づいている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一五)
仮に一定の上達が成し得たからといって、そこで停滞しきってあぐらをかいてしまうようならば、
それにより、技巧的知識のわきまえももはや必要でなくなったがための、淫蕩に耽ることはできても、
それと引き換えに今以上の向上というものが全く期待できなくもなるのである。そしてその時、
その人間はもはや仁徳の修練にかけて一心不乱であることを放棄してしまってもいる。何らの分別も
必要としない悪行こそは一心不乱な没頭によって淫することができる一方、仁徳にかなった善行のほうは、
一心不乱であることを放棄することで初めて多少の淫蕩に耽ることができる。しからば、人間というもの、
淫蕩さと無縁なところでこそ善行を推し進められる一方、淫蕩にかられた所で善の推進を滞らせたり、
悪行にふけってしまったりするわけだから、淫蕩に駆られるか否かを一つの善悪の分別のバロメーター
にしていくこともまたできるのである。何も、淫蕩に駆られることがあるという人間の性分そのものが
いけないものなのではない。それはちょうど、神経系に具わっている痛覚などと同じものなのである。
「子曰く、参よ吾が道は一を以て之れを貫けり。曾子曰く、唯。
子出ずる。門人問うて曰く、何の謂いぞや。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ」
「孔先生が言われた。『参(曾子)よ、わが道はただ一つのことを貫くというばかりのことだよ』
曾先生。『確かにその通りです』 孔先生が立ち去られた後、ある門弟が曾子に『どういう意味でしょうか』
と問うた。曾先生は言われた。『大師(孔子)の道は、ただ忠恕の真心を尽くすというばかりのことなのだよ』
(孔子は存命中に多種多様な活動を為していたため、『一を以って之を貫くばかり』という孔子の言葉を
横で聞いていた門弟にはその意味が判然としなかった。何をやるかという以前に、内面からの心がけの所に
一を以って貫く忠恕がある。これこそは仁徳にまつわる技巧的智識の常日ごろからのわきまえに基づいている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一五)
自分が煩悩愚縛の凡夫であることをありのままに開き直るのと、
そうであることを正当化して権威化しようとするのとでは、小さいようで大きな開きがある。
前者は浄土教信者などの心境である一方、後者はキリスト信者やエホバ信者の心境であり、
両者の心境に根本的な開きがあるからこそ、信仰の対象となるものも決定的に相違するのである。
心境も違えば、帰依の対象も違うから、それぞれの人間の外面的なあり方も全く変わってくる。
念仏信者にはどこにも気負ったようなところはなく、そんなに自分自身を威厳的に見せよう
だなんていう傾向も見られない一方で、キリスト教の信者たるや、いかにも「修辞の塊」のような
見てくれで、自らを威厳的、美的に飾り立てることにかけては、どこにも隙がないように見える。
「論語」における礼節に適った孔子の立ち居振る舞いや、「礼記」に記されている様々な礼法を鑑みるに、
正統な礼法に根ざした修辞というものもありはするものの、そこに数多の辞譲が織り交ぜられていることが分かる。
周公の大廟での祭祀に出席した際、孔子はことあるごとに人に質問ばかりしていた。そのせいで無知扱い
されそうにもなったが、孔子も「大廟ではこうするのが礼儀なのだ」と弁解している。(八佾第三・一五)
これなど、かえって自分を愚かしく見せる謙譲の礼であり、かえってキリスト教徒などにとってこそは
受け入れがたい修辞ともなっているわけだけども、むしろ、本物の礼制に根ざした普遍的な威厳を
帯びるためにこそ、このような偉ぶりとも対極にあるような修辞が必要ともなってくるのである。
そうであることを正当化して権威化しようとするのとでは、小さいようで大きな開きがある。
前者は浄土教信者などの心境である一方、後者はキリスト信者やエホバ信者の心境であり、
両者の心境に根本的な開きがあるからこそ、信仰の対象となるものも決定的に相違するのである。
心境も違えば、帰依の対象も違うから、それぞれの人間の外面的なあり方も全く変わってくる。
念仏信者にはどこにも気負ったようなところはなく、そんなに自分自身を威厳的に見せよう
だなんていう傾向も見られない一方で、キリスト教の信者たるや、いかにも「修辞の塊」のような
見てくれで、自らを威厳的、美的に飾り立てることにかけては、どこにも隙がないように見える。
「論語」における礼節に適った孔子の立ち居振る舞いや、「礼記」に記されている様々な礼法を鑑みるに、
正統な礼法に根ざした修辞というものもありはするものの、そこに数多の辞譲が織り交ぜられていることが分かる。
周公の大廟での祭祀に出席した際、孔子はことあるごとに人に質問ばかりしていた。そのせいで無知扱い
されそうにもなったが、孔子も「大廟ではこうするのが礼儀なのだ」と弁解している。(八佾第三・一五)
これなど、かえって自分を愚かしく見せる謙譲の礼であり、かえってキリスト教徒などにとってこそは
受け入れがたい修辞ともなっているわけだけども、むしろ、本物の礼制に根ざした普遍的な威厳を
帯びるためにこそ、このような偉ぶりとも対極にあるような修辞が必要ともなってくるのである。
下賤をありのままに開き直ることではなく、下賤からの自分たちの美化を試みたところでこそ、
正統な礼節にすら見られることのない、ただただ美々しく大袈裟な修辞というものが生じた。今では、
どこの世界に行っても、欧米的な美化一辺倒の修辞こそが「修辞の標準」であるかのようにすら考えられて、
東洋の礼法に基づく修辞などは自己の卑下に過ぎるものとして異端扱いされるようにすらなってしまっている。
聖書圏で構築されて来たレベルの、ただただ自分を美々しく見せるばかりの修辞こそは、それを修める者に
無根拠なプライドを植え付けてしまってもいるわけだから、それもやはり、控えられて然るべきものとなる。
下賤を開き直る以上は念仏信者ほどにも完全であり、修辞を志す以上は正統な礼法に即して辞譲すらをも学ばせる
ようにする。それにより、人々が無根拠なプライドからなる思い上がりを募らせることをも控えさせるのである。
「枯楊稊を生じ、老夫其の女妻を得。利ろしからざる无し。老夫に女妻は、過ぎて以て相い与するなり。〜枯楊華を生じ、
老婦士夫を得。咎も无く誉れも无し。枯楊華を生ずるは、何ぞ久しかる可けんや。老婦に士夫も、亦た醜づ可きなり」
「枯れかかった楊柳から芽が生ずるようにして、老いた男が若い妻を娶る。これは特に問題ない。老いた男が若い妻を
娶った所で、多少異常ではあるにしたって調和は保たれるものだから。枯れかかった楊柳が花を生ずるようにして、
老いた女が若い男を得る。絶対にいけないということはないが、何の名誉にもならない。枯れかかった楊柳に花が
咲いたところで、どうしてそう持つことがあろう。老いた女に若い男は、かえって恥ずべきことですらある。
(聖書信者のように女々しく依存的な態度でいて、しかも自分が枯れ木のように老いさらばえていることを
標榜する。そこに愛の手を差し伸べたりするのは、差し伸べる側にとっても不名誉となり、恥となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大過・九二、九五、象伝より)
正統な礼節にすら見られることのない、ただただ美々しく大袈裟な修辞というものが生じた。今では、
どこの世界に行っても、欧米的な美化一辺倒の修辞こそが「修辞の標準」であるかのようにすら考えられて、
東洋の礼法に基づく修辞などは自己の卑下に過ぎるものとして異端扱いされるようにすらなってしまっている。
聖書圏で構築されて来たレベルの、ただただ自分を美々しく見せるばかりの修辞こそは、それを修める者に
無根拠なプライドを植え付けてしまってもいるわけだから、それもやはり、控えられて然るべきものとなる。
下賤を開き直る以上は念仏信者ほどにも完全であり、修辞を志す以上は正統な礼法に即して辞譲すらをも学ばせる
ようにする。それにより、人々が無根拠なプライドからなる思い上がりを募らせることをも控えさせるのである。
「枯楊稊を生じ、老夫其の女妻を得。利ろしからざる无し。老夫に女妻は、過ぎて以て相い与するなり。〜枯楊華を生じ、
老婦士夫を得。咎も无く誉れも无し。枯楊華を生ずるは、何ぞ久しかる可けんや。老婦に士夫も、亦た醜づ可きなり」
「枯れかかった楊柳から芽が生ずるようにして、老いた男が若い妻を娶る。これは特に問題ない。老いた男が若い妻を
娶った所で、多少異常ではあるにしたって調和は保たれるものだから。枯れかかった楊柳が花を生ずるようにして、
老いた女が若い男を得る。絶対にいけないということはないが、何の名誉にもならない。枯れかかった楊柳に花が
咲いたところで、どうしてそう持つことがあろう。老いた女に若い男は、かえって恥ずべきことですらある。
(聖書信者のように女々しく依存的な態度でいて、しかも自分が枯れ木のように老いさらばえていることを
標榜する。そこに愛の手を差し伸べたりするのは、差し伸べる側にとっても不名誉となり、恥となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大過・九二、九五、象伝より)
言葉や知識といった情報への対峙の仕方としては、
儒家のようにどこまでも学びて倦まざる心持ちでいるか、道家のように
情報全般の価値を否定しての「絶学無憂(老子)」の境地でいるかが適当だ。
あるいは、色声香味触法といった具体情報の価値全般の否定を体系的な
修行によって企てて行く、仏門のような姿勢でいるのでも構わない。
ある一定限度のドグマ情報に執着して、そこから抜け出すこともできなくなるという状態が、
人間にとって特に問題的となる状況で、それこそこれが世界中の社会問題の元凶ともなっている。
儒学にも四書五経を始めとする根幹的な学説があるし、仏門にも万巻の大蔵経に記録された教義学説がある。
絶学無憂を謳う道家ですら、老荘列のような最低限の意見書を後世にまで伝え遺している。(相当に素朴な著述ではあるが)
ただ、そのような教義学説があるからといって、儒仏道家が自分たちの教学ばかりで享受者をがんじがらめに
したりすることはなく、享受者がどこまでも融通無碍であり続けられるような体裁をも整えている。
(朝鮮儒教や日蓮カルトなどの異端派に、その条件を満たしていないものもいくらかはあるが)
この世界この宇宙を司る物理法則が全く線形的なものであるのなら、ある一定の情報によって全ての現象すらもが
理解しきれるようになるから、そのような情報を確保することにも意義が具わると言える。しかし実際のところ、
この世界この宇宙を司る物理法則からして非線形的なものであり、一定の情報だけで全ての現象を理解し尽くせる
などということもないから、一定の情報ばかりにこだわることがかえって不健全な事態をも招くようになっている。
儒家のようにどこまでも学びて倦まざる心持ちでいるか、道家のように
情報全般の価値を否定しての「絶学無憂(老子)」の境地でいるかが適当だ。
あるいは、色声香味触法といった具体情報の価値全般の否定を体系的な
修行によって企てて行く、仏門のような姿勢でいるのでも構わない。
ある一定限度のドグマ情報に執着して、そこから抜け出すこともできなくなるという状態が、
人間にとって特に問題的となる状況で、それこそこれが世界中の社会問題の元凶ともなっている。
儒学にも四書五経を始めとする根幹的な学説があるし、仏門にも万巻の大蔵経に記録された教義学説がある。
絶学無憂を謳う道家ですら、老荘列のような最低限の意見書を後世にまで伝え遺している。(相当に素朴な著述ではあるが)
ただ、そのような教義学説があるからといって、儒仏道家が自分たちの教学ばかりで享受者をがんじがらめに
したりすることはなく、享受者がどこまでも融通無碍であり続けられるような体裁をも整えている。
(朝鮮儒教や日蓮カルトなどの異端派に、その条件を満たしていないものもいくらかはあるが)
この世界この宇宙を司る物理法則が全く線形的なものであるのなら、ある一定の情報によって全ての現象すらもが
理解しきれるようになるから、そのような情報を確保することにも意義が具わると言える。しかし実際のところ、
この世界この宇宙を司る物理法則からして非線形的なものであり、一定の情報だけで全ての現象を理解し尽くせる
などということもないから、一定の情報ばかりにこだわることがかえって不健全な事態をも招くようになっている。
一定情報に固執しない姿勢こそが健全となるこの世界この宇宙こそは、人間ほどにも高度な生命を現出させた。
しからば、人間ほどにも高度に文化的な生物があるべき姿としては、一定のドグマ情報などに固執しない
あり方こそが自明に適切なものであるといえ、人間ほどにも高度に文化的な存在でありながら、ドグマ情報
ばかりに固執することが健全となるような理コトワリは、原理面からいってどこにもないと断定することができるのである。
限られた記憶容量の中でだけ構築されるコンピュータープログラム上のキャラクターなり世界なりは、
それこそ一定のプログラミング情報によってのみ司られているわけだから、一定の情報に固執するようなあり方で
司られているものだといえる。一方で、そのレベルで構築されている仮想空間上のキャラクターなどに「命」はなく、
どこまでもハリボテの模型止まりでしかあり得ない。もしもそれと同じように、この世界やこの宇宙もまた一定の限られた
情報によって司られていたりしたなら、人間のような生物もまた被造され得たところで、命や自我を持ちはしなかったはずである。
命が、死文に固執することを許さない。大昔から伝承されている古言なども、それが温故知新を促す活きた
言葉であるというのならいいが、そこで完結しきって何らの応用性も見られない死文となってしまっているというのなら、
それを理由としてそのような言葉は、もう考古学資料として以上の価値などを付与してやるべきではない。それが数百年〜
数千年にもわたって固執されてきたにも関わらず、何らの善果も得られなかった言葉だというのなら、なおさらのことだといえる。
「苟くも礼義忠信誠愨の心無くして以て之れに蒞めば、固く之れに結ぶと雖も、民其れ解けざらんや」
「礼儀忠信誠実の心なくして臨むというのなら、どんなに固く(束縛の縄などを)結んだとしても、いつかは解けて民たちも離反する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
しからば、人間ほどにも高度に文化的な生物があるべき姿としては、一定のドグマ情報などに固執しない
あり方こそが自明に適切なものであるといえ、人間ほどにも高度に文化的な存在でありながら、ドグマ情報
ばかりに固執することが健全となるような理コトワリは、原理面からいってどこにもないと断定することができるのである。
限られた記憶容量の中でだけ構築されるコンピュータープログラム上のキャラクターなり世界なりは、
それこそ一定のプログラミング情報によってのみ司られているわけだから、一定の情報に固執するようなあり方で
司られているものだといえる。一方で、そのレベルで構築されている仮想空間上のキャラクターなどに「命」はなく、
どこまでもハリボテの模型止まりでしかあり得ない。もしもそれと同じように、この世界やこの宇宙もまた一定の限られた
情報によって司られていたりしたなら、人間のような生物もまた被造され得たところで、命や自我を持ちはしなかったはずである。
命が、死文に固執することを許さない。大昔から伝承されている古言なども、それが温故知新を促す活きた
言葉であるというのならいいが、そこで完結しきって何らの応用性も見られない死文となってしまっているというのなら、
それを理由としてそのような言葉は、もう考古学資料として以上の価値などを付与してやるべきではない。それが数百年〜
数千年にもわたって固執されてきたにも関わらず、何らの善果も得られなかった言葉だというのなら、なおさらのことだといえる。
「苟くも礼義忠信誠愨の心無くして以て之れに蒞めば、固く之れに結ぶと雖も、民其れ解けざらんや」
「礼儀忠信誠実の心なくして臨むというのなら、どんなに固く(束縛の縄などを)結んだとしても、いつかは解けて民たちも離反する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
妊娠出産が女の身体そのものにとって有益だなんてことは少しもありゃしない。
「腹を痛める」という出産の歪曲表現通り、母体にとってはただだ損壊一辺倒であるばかりのもの。
ただ、それと引き換えに新たな命を宿し、家の跡取りともなる子を授かったりすることのほうが
めでたいのであって、差し引きでプラスマイナスゼロやそれ以上であることこそが名誉ともなるのだ。
母が腹を痛めて産んだ子であるにもかかわらず、その子が存在として有害無益であったりするのなら、それこそ
プラスマイナスゼロ以下の事態となるわけで、母たる女にとっては自らの出産が不名誉だったことにすらなる。
会津藩家老の子孫である田中清玄が、若き日に武装共産党の一員として乱暴を企てていたことに実母が
失望を抱き、自らの自殺によって我が子に反省を促したことなども、そのような名誉意識に基づいて
いたのであり、人の親たる女、母としての名誉というものもまた実在している確たる証拠ともなっている。
我が子が、産まないよりも産んでよかったと思えるほどにも偉大な人物となる所に、母としての名誉がある。そうで
なくたって、母には母性愛というものがあるから、出来損ないの我が子すらをも慈しむということはあるのだけれども、
そこに母としての名誉までもが具わっているわけではなく、ただただ情愛に溺れているというばかりのことであるのみ。
出来損ないの子供を母が慈しみたがる心持ちこそは、「腹を痛める」という自らの妊娠出産の不名誉と、
出来損ないな我が子の成長という不名誉の掛け合わせによって増長している。妊娠出産も不名誉であればこそ愛の源となり、
我が子の出来の悪さも不名誉であればこそ愛の源となる。社会的にいえば、母たる女がそのような濁愛の掛け合わせに
溺れきることは決して好ましいことではなく、妊娠出産の不名誉を出来の良い子の成長という名誉によって埋め合わせる
ことで、母たる女でありながら濁愛に溺れたりしないぐらいに毅然としていたほうがよい。それでこそ、田中清玄の
実母などほどにも毅然とした母であるが故に、君子士人の妻や母たるにも相応しいだけの資格が備わるのだといえる。
「腹を痛める」という出産の歪曲表現通り、母体にとってはただだ損壊一辺倒であるばかりのもの。
ただ、それと引き換えに新たな命を宿し、家の跡取りともなる子を授かったりすることのほうが
めでたいのであって、差し引きでプラスマイナスゼロやそれ以上であることこそが名誉ともなるのだ。
母が腹を痛めて産んだ子であるにもかかわらず、その子が存在として有害無益であったりするのなら、それこそ
プラスマイナスゼロ以下の事態となるわけで、母たる女にとっては自らの出産が不名誉だったことにすらなる。
会津藩家老の子孫である田中清玄が、若き日に武装共産党の一員として乱暴を企てていたことに実母が
失望を抱き、自らの自殺によって我が子に反省を促したことなども、そのような名誉意識に基づいて
いたのであり、人の親たる女、母としての名誉というものもまた実在している確たる証拠ともなっている。
我が子が、産まないよりも産んでよかったと思えるほどにも偉大な人物となる所に、母としての名誉がある。そうで
なくたって、母には母性愛というものがあるから、出来損ないの我が子すらをも慈しむということはあるのだけれども、
そこに母としての名誉までもが具わっているわけではなく、ただただ情愛に溺れているというばかりのことであるのみ。
出来損ないの子供を母が慈しみたがる心持ちこそは、「腹を痛める」という自らの妊娠出産の不名誉と、
出来損ないな我が子の成長という不名誉の掛け合わせによって増長している。妊娠出産も不名誉であればこそ愛の源となり、
我が子の出来の悪さも不名誉であればこそ愛の源となる。社会的にいえば、母たる女がそのような濁愛の掛け合わせに
溺れきることは決して好ましいことではなく、妊娠出産の不名誉を出来の良い子の成長という名誉によって埋め合わせる
ことで、母たる女でありながら濁愛に溺れたりしないぐらいに毅然としていたほうがよい。それでこそ、田中清玄の
実母などほどにも毅然とした母であるが故に、君子士人の妻や母たるにも相応しいだけの資格が備わるのだといえる。
子供にとっては、父が偉大であるかどうかよりも、母に名誉意識があるかどうかのほうが、自分自身が大成する
上での重大な材料となる。母が出来損ないの我が子への慈愛に溺れたりもせず、まず我が子が「産んでよかった」
と思えるだけの人物たり得ることのほうを重んずるようであれば、それに即して子供も着実に大成していく一方、
父があまりにも偉大過ぎたりしたなら、かえってコンプレックスを抱いて成長を滞らせたりしてしまうものだから。
母にそれなりの名誉意識があって、その意識に即して子供が成長したなら、その子供は確実に大成する。一方、
我が子への濁愛まみれの母の下で育った子供などは、それに即する以上は、ダメな子供になることが避けられない。
名誉ある母親として我が子を大成させたいのなら、妊娠出産そのものはむしろ不名誉なことだったと認識しておく
べきであり、そうともせず、妊娠出産そのものを「聖なること」などとして正当化してしまい、その心持ちに
即して我が子を育て上げたりしたなら、その影響下にあった分だけ、子供もろくでもない育ち方をすることになる。
(もちろん子ども自身の自助努力に基づく不遇の克服のような例外もあり得る)
良家の跡取りを産んだりしたなら、それだけでめでたいこととされたりすることもまたあるけれども、
別に妊娠一般、出産一般が女にとって必ずしも名誉になったりするわけでは決してない。ろくでもない男との
間に子を作ることが名誉にならなかったりするだけでなく、本人自身が我が子への濁愛に溺れてろくでもない子供を
育て上げ、自業自得の不名誉を招くようなことすらある。それこそ、自刃ものの不名誉だったりもするのである。
「晋如たり、愁如たり、貞しければ吉なり。玆の介いなる福いを、
其の王母に受く。玆の介いなる福を受けるは、中正を以ってなり」
「中正を以って進もうとしても、憂いを感じさせられるほどにうまくいかない。それでも正しきを貫けば吉祥であり、
大いなる慶福を自らの祖母や母から受けるようになる。(中正な行いは母系にまで着実な福を賜うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・晋・六二‐象伝)
上での重大な材料となる。母が出来損ないの我が子への慈愛に溺れたりもせず、まず我が子が「産んでよかった」
と思えるだけの人物たり得ることのほうを重んずるようであれば、それに即して子供も着実に大成していく一方、
父があまりにも偉大過ぎたりしたなら、かえってコンプレックスを抱いて成長を滞らせたりしてしまうものだから。
母にそれなりの名誉意識があって、その意識に即して子供が成長したなら、その子供は確実に大成する。一方、
我が子への濁愛まみれの母の下で育った子供などは、それに即する以上は、ダメな子供になることが避けられない。
名誉ある母親として我が子を大成させたいのなら、妊娠出産そのものはむしろ不名誉なことだったと認識しておく
べきであり、そうともせず、妊娠出産そのものを「聖なること」などとして正当化してしまい、その心持ちに
即して我が子を育て上げたりしたなら、その影響下にあった分だけ、子供もろくでもない育ち方をすることになる。
(もちろん子ども自身の自助努力に基づく不遇の克服のような例外もあり得る)
良家の跡取りを産んだりしたなら、それだけでめでたいこととされたりすることもまたあるけれども、
別に妊娠一般、出産一般が女にとって必ずしも名誉になったりするわけでは決してない。ろくでもない男との
間に子を作ることが名誉にならなかったりするだけでなく、本人自身が我が子への濁愛に溺れてろくでもない子供を
育て上げ、自業自得の不名誉を招くようなことすらある。それこそ、自刃ものの不名誉だったりもするのである。
「晋如たり、愁如たり、貞しければ吉なり。玆の介いなる福いを、
其の王母に受く。玆の介いなる福を受けるは、中正を以ってなり」
「中正を以って進もうとしても、憂いを感じさせられるほどにうまくいかない。それでも正しきを貫けば吉祥であり、
大いなる慶福を自らの祖母や母から受けるようになる。(中正な行いは母系にまで着実な福を賜うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・晋・六二‐象伝)
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その自由度の限定性があればこそ、人間ほどにも高度な生命体が成立してもいる。(>>48>>65なども参照)
本当に何でもできるというのなら、摩擦現象すら消滅させられもするだろうが、
人体や社会規模の物理構造も摩擦によってこそ成り立っている部分が多いから、
それでは人間や社会といった構造からして崩落して灰燼に帰してしまうことにもなる。
摩擦や空気抵抗を消滅させられてこそ永久機関が成立し、永遠の命などを得る原理的な手立てと
なることも期待できるわけだが、それでは摩擦をも介することでこそ成り立っている人間や社会が
成り立たなくもなってしまう。かくなる二律背反のジレンマを克服できる術こそは、どこにもありはしない。
相反性だとか因果応報の理コトワリだとか、万能性によってですら原理的にどうしようもない部分はさっさと諦観して、
一定限度の自由の範囲内での最善を尽くしたなら、それが本当に出来る限りのことをやったことにもなる。
日本の伝統文化など、上記の摩擦現象を巧みに利用したものが非常に多いという点で特筆に価する。
和服や注連縄や日本刀の拵など、縄紐を巧みに編み結ぶことで仕立てる物品というものが数多く、
その編み結び方にも巧みな工夫が凝らされていて、その技能を身に付けるためには一定の熟練を
必要とする場合もある。実際、それらの技巧を数学上の結び目理論などに置き換えてみると、
それはそれは複雑怪奇な位相幾何学と化すわけで、それほどにも理論的に難解となってしまう技巧を
直観で練り抜いてきたからこそ、日本人も世界で他に類を見ない程もの器用さを見につけたのでもある。
何でも出来ることではなく、一定限度の自由度の理コトワリの範囲内で最善を尽くす所にこそ、
人が感じられる最高級の面白みもまたある。単純に、結び目理論並みの高度な位相幾何学構造を練り込むことが
折り紙や綾取りのような遊戯でも行われるし、それぐらいに高度な思索からの練り込みこそが色々な「見事」さを
創出しもする。ただ新規なもの、奇抜なものを創作するだけなら見事だとも限らないが、高度な思索からの
練り込みに即するなら、そんなに新規でもないような工芸細工などの中にすら見事さを組み込むことが出来る。
そういった見事さを味わうことが人間にとっての最高級の楽しみともなるわけで、そうでない、ただただ
奇を衒うばかりの創作などには飽きてしまったような人間ですら、それを楽しむことができたりするのである。
その、人間にとっての最高級の楽しみを知らないから、万年欲求不満状態でいて、とにかく何でもやることで
快楽を得ようとするようにもなる。これは精神的未開というよりは、知能的未開に基づく悪循環であり、
いくら全能を実現する試みにかけての開発が進んでいるのであっても、根本的な部分で知能自体の
最高級の練り込みが足りていないままであり続けていたには違いないのである。そういった人間は
もはや、西洋文明にドップリ浸かりきってしまっている日本人などの内にも多いようではあるが。
「宰我、子貢は善く説辞を為し、冉牛、閔子、顔淵は善く徳行を言う。
孔子は之れを兼ねるも、曰うに、我れ辞命に於いては則ち能わざるなりと」
「(孔子の門弟の内でも)宰我や子貢は言辞能力が極めて優れ、冉牛や閔子や顔淵は徳行の実践が優れていた。
孔子は師匠なだけあって、言辞と徳行いずれにかけても優れていたが、自分では『ものを言うのが苦手だ』とも
言っていた。(巧言令色を卑劣なものと見なすなどの理由で、あえて万能をひけらかすことなどは避けた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
人が感じられる最高級の面白みもまたある。単純に、結び目理論並みの高度な位相幾何学構造を練り込むことが
折り紙や綾取りのような遊戯でも行われるし、それぐらいに高度な思索からの練り込みこそが色々な「見事」さを
創出しもする。ただ新規なもの、奇抜なものを創作するだけなら見事だとも限らないが、高度な思索からの
練り込みに即するなら、そんなに新規でもないような工芸細工などの中にすら見事さを組み込むことが出来る。
そういった見事さを味わうことが人間にとっての最高級の楽しみともなるわけで、そうでない、ただただ
奇を衒うばかりの創作などには飽きてしまったような人間ですら、それを楽しむことができたりするのである。
その、人間にとっての最高級の楽しみを知らないから、万年欲求不満状態でいて、とにかく何でもやることで
快楽を得ようとするようにもなる。これは精神的未開というよりは、知能的未開に基づく悪循環であり、
いくら全能を実現する試みにかけての開発が進んでいるのであっても、根本的な部分で知能自体の
最高級の練り込みが足りていないままであり続けていたには違いないのである。そういった人間は
もはや、西洋文明にドップリ浸かりきってしまっている日本人などの内にも多いようではあるが。
「宰我、子貢は善く説辞を為し、冉牛、閔子、顔淵は善く徳行を言う。
孔子は之れを兼ねるも、曰うに、我れ辞命に於いては則ち能わざるなりと」
「(孔子の門弟の内でも)宰我や子貢は言辞能力が極めて優れ、冉牛や閔子や顔淵は徳行の実践が優れていた。
孔子は師匠なだけあって、言辞と徳行いずれにかけても優れていたが、自分では『ものを言うのが苦手だ』とも
言っていた。(巧言令色を卑劣なものと見なすなどの理由で、あえて万能をひけらかすことなどは避けた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
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聖徳太子だとか藤原道長だとか源頼朝だとか足利尊氏だとか徳川家康だとかいった風に、
日本国の最高位たる天皇本人であるようなことがほとんどない。みな天皇の臣下であり、
また親戚だったりもするものの、ほとんどあえて天子の座からは距離を置こうとしてもいる。
それは、天子の座にある者が俗世で実力を行使することの汚らわしさを忌んでいるからで、
それが汚らわしいものとなってしまうのは、天皇こそがまさに「天人」そのものでもあるからだ。
天人そのものであるが故に、天皇こそは太陽そのものであるとすらいえる。
太陽そのもののように光り輝く存在であり、臣下はその光を受けて受動的に輝くもの。
俗世で活躍するに相応しいのはむしろ臣下のほうであり、自分自身が「光源」ではないが故に、
濁世のしがらみに苛まれることをさして問題にしたりする必要もなくて済む。
これこそは、身の程のわきまえによって、かえって最大級の実力を発揮できる実例であり、
そうともせず、誰も彼もが天人のように光源そのものでいて、しかも実力すら持とうなどとしたなら、
そのせいでの陰陽不全が深刻化し、誰しもが能力を発揮できないようなことにすらなってしまう。
このあたりの繊細な陰陽法則のわきまえは、秦帝国によって古代の中国文化の多くが損失させられた
以降の中国においてすら、疎かにされて来た所がある。だから、皇帝が皇帝として突出した世俗での
業績を挙げたり、重臣や将軍が帝位を簒奪することによる帝国の崩壊などの問題をも来たしてきた。
日本の神道文化に基づく体制構造は、秦帝国による文化破壊以前の中国の古代文化をも受け継いでいる
ものであり、日本が中国と比べれば小国であることからも、その価値を十分に発揮させることができた。
元々が「点と線」の統治止まりだった夏殷周時代の中国の文化であったものだから、国土全面規模での強権
支配を企てる大諸侯がのさばり始めた春秋戦国時代に、中国では伝統文化が衰亡せざるを得なかったわけだが、
細く長くて亡国級の争いも起こりにくい日本だと、国土全体を古代の秀逸文化によって覆い尽くすことができた。
いまたとえば、日本の伝統文化が古代の中国文化をも継承していることを標榜しつつ、それを中国大陸
などに移植することを考えてみたとしても、濁りきった新造文化に慣れきってしまっている今の中国人らの
好評を得られるとも限らない。特に魚食文化などは、内陸国である中国にそのまま適用するわけにも
いかないようなものだから、日本の風土に適用させた部分を中版用に改定し直すなどの必要が出てくる。
そも「覆水盆に返らず」であって、いくら昔の文化が秀逸であっても、色々と世相の転変してしまっている
現代にそのまま適用するわけにはいかないということがいくらでもある。それも重々踏まえた上で、
復古する価値のあるものは復古して、その手法にも現代に適った工夫を凝らすようにすればいい。
それこそ、道理に反する完全誤謬の集成であることが確証された、新旧約聖書の教義を完全な
反面教師としての参考にしていくことすら、時宜に適った工夫となるに違いないのである。
「剛健篤実にして輝光あり、日び其の徳を新たにす」
「剛健篤実で、日々徳を新たにして行くが故に、まるで自分自身が光り輝いているようである。
(『自らが光り輝いている』という表現は、自力作善の徳行が豊かである相手にこそ用いるべきもの。
日本史上でそれなりに功績を挙げたような人間ですら徳輝で天子には及ばないとしているのだから、
全くの他力本願である人間が自らを光輝に満ちているなどと考えるのは、もっての外だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大畜・彖伝より)
支配を企てる大諸侯がのさばり始めた春秋戦国時代に、中国では伝統文化が衰亡せざるを得なかったわけだが、
細く長くて亡国級の争いも起こりにくい日本だと、国土全体を古代の秀逸文化によって覆い尽くすことができた。
いまたとえば、日本の伝統文化が古代の中国文化をも継承していることを標榜しつつ、それを中国大陸
などに移植することを考えてみたとしても、濁りきった新造文化に慣れきってしまっている今の中国人らの
好評を得られるとも限らない。特に魚食文化などは、内陸国である中国にそのまま適用するわけにも
いかないようなものだから、日本の風土に適用させた部分を中版用に改定し直すなどの必要が出てくる。
そも「覆水盆に返らず」であって、いくら昔の文化が秀逸であっても、色々と世相の転変してしまっている
現代にそのまま適用するわけにはいかないということがいくらでもある。それも重々踏まえた上で、
復古する価値のあるものは復古して、その手法にも現代に適った工夫を凝らすようにすればいい。
それこそ、道理に反する完全誤謬の集成であることが確証された、新旧約聖書の教義を完全な
反面教師としての参考にしていくことすら、時宜に適った工夫となるに違いないのである。
「剛健篤実にして輝光あり、日び其の徳を新たにす」
「剛健篤実で、日々徳を新たにして行くが故に、まるで自分自身が光り輝いているようである。
(『自らが光り輝いている』という表現は、自力作善の徳行が豊かである相手にこそ用いるべきもの。
日本史上でそれなりに功績を挙げたような人間ですら徳輝で天子には及ばないとしているのだから、
全くの他力本願である人間が自らを光輝に満ちているなどと考えるのは、もっての外だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大畜・彖伝より)
自分個人としては、内面からの善意修身によって善行や善言をも派生させていくのが基本だが、
社会的存在としての人間にとっての罪の重さは、悪行>悪言>悪意の順番である。
いくら内心で悪いことを考えていたりした所で、行いにそれが反映されていないのなら、
善意を心がけながらも行いは罪悪にまみれている人間などと比べれば、その罪も皆無に等しい。
ただ、本当に最善の善意や善思を心がけているのなら、そこから積極的な悪行などが派生するはずもない。
善意を心がけながらも行いが罪悪にまみれているというのなら、それは自分自身の意思配慮のどこかに
片手落ちな部分が残存しているからで、そのような片手落ちな善意による行いこそは偽善の行いともなる。
内心にいくらかもの悪意が残存しているというのなら、そこから積極的な行いが為された場合、
必ず悪行となる。ただ、必ずしも行いに移されるとも限らないから、悪意が必ずしも悪行になるともいえない。
実践にかけての配慮が足りない場合などがあるから、善意も必ずしも善行に結び付くとは限らないし、
そもそも実践に移さない場合があるから、悪意も必ずしも悪行に結び付くとは限らない。その上で、
世俗上での罪の重さは悪行>悪言>悪意だから、善意の持ち主や悪意の持ち主の罪の重さも
悪行を為す悪意の持ち主>悪行を為す善意の持ち主>悪行を為さない悪意の持ち主>悪行を為さない善意の持ち主
の順位となる。世俗上での罪の重さで言えば、悪行を為す善意の持ち主よりも、悪行を為さない善意の持ち主の
ほうがまだマシであり、これに即して、前者こそは後者以上もの重罪人として相応の処罰をも受けなければならない。
社会的存在としての人間にとっての罪の重さは、悪行>悪言>悪意の順番である。
いくら内心で悪いことを考えていたりした所で、行いにそれが反映されていないのなら、
善意を心がけながらも行いは罪悪にまみれている人間などと比べれば、その罪も皆無に等しい。
ただ、本当に最善の善意や善思を心がけているのなら、そこから積極的な悪行などが派生するはずもない。
善意を心がけながらも行いが罪悪にまみれているというのなら、それは自分自身の意思配慮のどこかに
片手落ちな部分が残存しているからで、そのような片手落ちな善意による行いこそは偽善の行いともなる。
内心にいくらかもの悪意が残存しているというのなら、そこから積極的な行いが為された場合、
必ず悪行となる。ただ、必ずしも行いに移されるとも限らないから、悪意が必ずしも悪行になるともいえない。
実践にかけての配慮が足りない場合などがあるから、善意も必ずしも善行に結び付くとは限らないし、
そもそも実践に移さない場合があるから、悪意も必ずしも悪行に結び付くとは限らない。その上で、
世俗上での罪の重さは悪行>悪言>悪意だから、善意の持ち主や悪意の持ち主の罪の重さも
悪行を為す悪意の持ち主>悪行を為す善意の持ち主>悪行を為さない悪意の持ち主>悪行を為さない善意の持ち主
の順位となる。世俗上での罪の重さで言えば、悪行を為す善意の持ち主よりも、悪行を為さない善意の持ち主の
ほうがまだマシであり、これに即して、前者こそは後者以上もの重罪人として相応の処罰をも受けなければならない。
ただ善意や悪意を持つというのなら、もちろん悪意を持たずに善意を持つことのほうがいいに決まっている。ただ、
いくら純然たる善意を抱いているのであっても、それを行動に移すのならば、そこに必ず最大級の配慮が尽くされて
いなければならない。配慮を欠いているが故に片手落ちである善行を為したりしたならば、たとえば一億円の寄付を
するために十億円の不正利得をせしめたりするようにして、結果としては善行以上の悪行となってしまったりする。
そうなればもはや、内心は悪意の塊だが何もしないでいる匹夫にすら及ばないザマと化してしまうのである。
内面からの断悪修善もするに越したことはないが、同時に、行動の有無や積極消極の選別をも尽くしていくべきである。
「善意と配慮が尽くされているので積極的に行動する」「善意はあっても配慮が足りないので行動は控える」
「悪意の塊なのでできる限りなにもしないでいる」「善意がなくてむしろ悪意があるが、機械的に善行を為す術は
熟知しているので、その知恵に即して善行に限って積極的に行動する」これらの行動規範なら全く問題がない一方、
「善意はあっても配慮はないままに積極的に行動する」「善意もなくて善行を為す知恵もないのに積極的に行動する」
というのでは問題大アリであり、そのような行動規範に凝り固まってしまっている人間にはただひたすらの謹慎を促す次第である。
「我れも亦た人心を正し、邪説を息め、詖行を距ぎ、淫辞を放ち、以て三聖者を承がんと欲す」
「私(孟子)もまた人々の内心を正し、間違った教義学説を排し、偏った行いを防ぎ止め、淫らな言論を追放して、
三人の大聖人(禹、周公、孔子)の業を受け継ぎたいと欲しているのだ。(『格物致知誠意正心修身斉家治国平天下』
という順番の通り、やはり内心からの乱れが邪説暴行を蔓延させる原因ともなってしまうのである。悪意悪言悪行の
開き直りを促したイエスの邪説暴行からして、当時のパリサイ人らの偽善志向がもたらしたものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・九より)
いくら純然たる善意を抱いているのであっても、それを行動に移すのならば、そこに必ず最大級の配慮が尽くされて
いなければならない。配慮を欠いているが故に片手落ちである善行を為したりしたならば、たとえば一億円の寄付を
するために十億円の不正利得をせしめたりするようにして、結果としては善行以上の悪行となってしまったりする。
そうなればもはや、内心は悪意の塊だが何もしないでいる匹夫にすら及ばないザマと化してしまうのである。
内面からの断悪修善もするに越したことはないが、同時に、行動の有無や積極消極の選別をも尽くしていくべきである。
「善意と配慮が尽くされているので積極的に行動する」「善意はあっても配慮が足りないので行動は控える」
「悪意の塊なのでできる限りなにもしないでいる」「善意がなくてむしろ悪意があるが、機械的に善行を為す術は
熟知しているので、その知恵に即して善行に限って積極的に行動する」これらの行動規範なら全く問題がない一方、
「善意はあっても配慮はないままに積極的に行動する」「善意もなくて善行を為す知恵もないのに積極的に行動する」
というのでは問題大アリであり、そのような行動規範に凝り固まってしまっている人間にはただひたすらの謹慎を促す次第である。
「我れも亦た人心を正し、邪説を息め、詖行を距ぎ、淫辞を放ち、以て三聖者を承がんと欲す」
「私(孟子)もまた人々の内心を正し、間違った教義学説を排し、偏った行いを防ぎ止め、淫らな言論を追放して、
三人の大聖人(禹、周公、孔子)の業を受け継ぎたいと欲しているのだ。(『格物致知誠意正心修身斉家治国平天下』
という順番の通り、やはり内心からの乱れが邪説暴行を蔓延させる原因ともなってしまうのである。悪意悪言悪行の
開き直りを促したイエスの邪説暴行からして、当時のパリサイ人らの偽善志向がもたらしたものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・九より)
善も偽善も、善である部分自体に大差はない。
まともな勤労で得た収益の内から一億円を寄付しようが、強盗殺人で得た金の内から一億円を寄付しようが、
一億円の寄付は一億円の寄付であり、それだけを見て善行のように思えたとしても別におかしいことではない。
それでも前者が善となり、後者が悪となるのは、本人たちの総合的な素行がプラスマイナスゼロ以上の
善行となっていたり、プラマイゼロ以下の悪行となっていたりするからだ。
内心の善意悪意如何によって行いの善悪までもが決するのではなく、総合的な素行の如何によってこそ
行いの善悪が決する。>>75の「善意がなくてむしろ悪意があるが、機械的に善行を為す術は熟知しているので、
その知恵に即して善行に限って積極的に行動する」という行動規範に即して行われる善行も、決して偽善とはならない。
この場合でも悪を為さずに善を為すから、総合的な素行もまた善行となって、偽善のそしりを免れることができる。
上では「一億円の寄付」という例を挙げたけれども、私人による大金の寄付などが偽善でなくて済むようなことは
ほとんどない。「富めば仁ならず、仁なれば富まず(孟子)」で、寄付をできるほどもの大金をせしめているからには
何か後ろめたい裏があると考えるほうが、世の常のあり方にも即している。だから世界でも突出して堅実志向である
日本人などは、個人での寄付などをあまり自他共に推奨しないし、海外でもチップの慣習をうざったく感じたりする。
着実に偽善でない善を実行できる手段こそは、為政者としての仁徳にかなった善政でこそある。
民間人としての副業なども行わない公人であるならば、自分やその家族は民の納める年貢や税金によって食い扶持を繋ぐ
ことともなるから、善政によって人々を豊かにすれば、それによって自分たちもまた連動的に豊かになれる一方で、苛政に
よって人々を苦しめたなら、それによって世の中全体の荒廃をもたらして、挙句には自分たちごとの破滅を招くことになる。
そのような自明な法則に即していればこそ、善政によって人々を安楽ならしめることこそは、純然たる善行でしかあり得ない。
まともな勤労で得た収益の内から一億円を寄付しようが、強盗殺人で得た金の内から一億円を寄付しようが、
一億円の寄付は一億円の寄付であり、それだけを見て善行のように思えたとしても別におかしいことではない。
それでも前者が善となり、後者が悪となるのは、本人たちの総合的な素行がプラスマイナスゼロ以上の
善行となっていたり、プラマイゼロ以下の悪行となっていたりするからだ。
内心の善意悪意如何によって行いの善悪までもが決するのではなく、総合的な素行の如何によってこそ
行いの善悪が決する。>>75の「善意がなくてむしろ悪意があるが、機械的に善行を為す術は熟知しているので、
その知恵に即して善行に限って積極的に行動する」という行動規範に即して行われる善行も、決して偽善とはならない。
この場合でも悪を為さずに善を為すから、総合的な素行もまた善行となって、偽善のそしりを免れることができる。
上では「一億円の寄付」という例を挙げたけれども、私人による大金の寄付などが偽善でなくて済むようなことは
ほとんどない。「富めば仁ならず、仁なれば富まず(孟子)」で、寄付をできるほどもの大金をせしめているからには
何か後ろめたい裏があると考えるほうが、世の常のあり方にも即している。だから世界でも突出して堅実志向である
日本人などは、個人での寄付などをあまり自他共に推奨しないし、海外でもチップの慣習をうざったく感じたりする。
着実に偽善でない善を実行できる手段こそは、為政者としての仁徳にかなった善政でこそある。
民間人としての副業なども行わない公人であるならば、自分やその家族は民の納める年貢や税金によって食い扶持を繋ぐ
ことともなるから、善政によって人々を豊かにすれば、それによって自分たちもまた連動的に豊かになれる一方で、苛政に
よって人々を苦しめたなら、それによって世の中全体の荒廃をもたらして、挙句には自分たちごとの破滅を招くことになる。
そのような自明な法則に即していればこそ、善政によって人々を安楽ならしめることこそは、純然たる善行でしかあり得ない。
こうして見てみると、道理に適った善と偽善の分別というのは、いま人々が考えているような善偽善の区別とは
大幅に食い違っていることが分かる。裏事情なんか無視して、寄付こそは善行の最たるものであるかのように扱われ、
それでも内面に下心や悪意があったりするようなら、それだけで偽善だなどと決め付けられもする。端的に言って、
大衆の善と偽善の区別が極度に稚拙化してしまっており、そのせいで、道理に即して偽善や悪と断じられる素行を
「偽善でない善行」のように見せかける情報工作などにも、まんまと乗せられるようになってしまっている。
そのような、洗脳工作の餌食ともなってしまう稚拙な善偽善の区別基準を広く世に流布した代表者もまた
イエスキリストであり、これは全く「郷原(田舎者の偽善者)」としてのイエス本人の愚かさに基づくものだった。
自分たちではまともに国政を担うこともできないでいた商業民族古代ユダヤ人の内で、さらに妾腹の私生児として生まれ
育った、あまりにも「井の中の蛙」然としたその境遇によって、稚拙極まりない善偽善の区別基準をも捏造したのだった。
あまりにも稚拙で的外れな善偽善の区別基準が広く認知されてしまっているからこそ、まずは善悪も偽善も全く
判別できていないということを今の人々には深くわきまえさせなければならない。その上で本物の道理に即した
善悪や善偽善の分別を学ばせていくのでなければ、思考回路がこんがらがって全く修正も覚束なくなってしまう。
最低限の倫理的分別ぐらいできていると思っていた連中が、一旦は畜生も同然の蒙昧さを重々自覚させられなければ
ならなくなるわけだから、相当の赤っ恥になるに違いなく、その辱めを乗り越えていくことが大きな障壁ともなっていく。
「怨むのならイエスを怨め」という他はないが、イエスをその罪状に即して怨むことができるように
なった頃には、もうすでに最低限の善悪や善偽善の分別ぐらいは付くようにもなっているだろうから、
まずは「イエスを怨めるようになれ」という所から目標にもしていかなければならないのだろう。
大幅に食い違っていることが分かる。裏事情なんか無視して、寄付こそは善行の最たるものであるかのように扱われ、
それでも内面に下心や悪意があったりするようなら、それだけで偽善だなどと決め付けられもする。端的に言って、
大衆の善と偽善の区別が極度に稚拙化してしまっており、そのせいで、道理に即して偽善や悪と断じられる素行を
「偽善でない善行」のように見せかける情報工作などにも、まんまと乗せられるようになってしまっている。
そのような、洗脳工作の餌食ともなってしまう稚拙な善偽善の区別基準を広く世に流布した代表者もまた
イエスキリストであり、これは全く「郷原(田舎者の偽善者)」としてのイエス本人の愚かさに基づくものだった。
自分たちではまともに国政を担うこともできないでいた商業民族古代ユダヤ人の内で、さらに妾腹の私生児として生まれ
育った、あまりにも「井の中の蛙」然としたその境遇によって、稚拙極まりない善偽善の区別基準をも捏造したのだった。
あまりにも稚拙で的外れな善偽善の区別基準が広く認知されてしまっているからこそ、まずは善悪も偽善も全く
判別できていないということを今の人々には深くわきまえさせなければならない。その上で本物の道理に即した
善悪や善偽善の分別を学ばせていくのでなければ、思考回路がこんがらがって全く修正も覚束なくなってしまう。
最低限の倫理的分別ぐらいできていると思っていた連中が、一旦は畜生も同然の蒙昧さを重々自覚させられなければ
ならなくなるわけだから、相当の赤っ恥になるに違いなく、その辱めを乗り越えていくことが大きな障壁ともなっていく。
「怨むのならイエスを怨め」という他はないが、イエスをその罪状に即して怨むことができるように
なった頃には、もうすでに最低限の善悪や善偽善の分別ぐらいは付くようにもなっているだろうから、
まずは「イエスを怨めるようになれ」という所から目標にもしていかなければならないのだろう。
「許子の道に従わば、則ち市は賈いに弐なく、国中に偽り無く、五尺の童をして市に適かしむと雖も、之れを欺く或無し。
布帛の長短同じければ、則ち賈相い若しく、麻縷絲絮の軽重同じければ、則ち賈相い若しく、五穀の多寡同じければ、
則ち賈相い若しく、屨の大小同じければ、則ち賈相い若し。曰く、夫れ物の斉しからざるは、物の情なり。或いは相い倍蓰し、
或いは相い什伯し、或いは相い千万す。子比べて之れを同じうせんとするは、是れ天下を乱すなり。巨屨と小屨の賈
同じうせば、人豈に之れを為らんや。許子の道に従うは、相い率いて偽りを為す者なり。悪んぞ能く国家を治めんか」
布帛の長短同じければ、則ち賈相い若しく、麻縷絲絮の軽重同じければ、則ち賈相い若しく、五穀の多寡同じければ、
則ち賈相い若しく、屨の大小同じければ、則ち賈相い若し。曰く、夫れ物の斉しからざるは、物の情なり。或いは相い倍蓰し、
或いは相い什伯し、或いは相い千万す。子比べて之れを同じうせんとするは、是れ天下を乱すなり。巨屨と小屨の賈
同じうせば、人豈に之れを為らんや。許子の道に従うは、相い率いて偽りを為す者なり。悪んぞ能く国家を治めんか」
「陳相『(農業版の墨家とでも言うべき農家思想の実践者である)許子のやり方に従うのであれば、あらゆる物品の値段に
掛け値が付けられることがなくなり、国中で偽りを働くものがなくなり、小さな子供を市に買い物に行かせても誰も
値段をごまかして高く売ったりすることがなくなります。布や錦も長さが同じなら同じ値段、麻糸生糸真綿も分量が同じなら
同じ値段、五穀も目方が同じなら同じ値段、靴も同じ大きさなら同じ値段となるのです』 孟子『諸々の物品に品質の
ばらつきがあって、決してその価値が一定的でないのが物の理コトワリというもの。時には倍程もの値段の開きが、また時には
十倍百倍、千倍万倍の開きすらもが生じてしまうもの。もしもそれを全く一定にしてしまうとすれば、これは天下を乱す
原因となってしまう。上等な靴と粗末な靴の値段も同じにしてしまうのであれば、もはや誰も上等な靴などを拵えようと
したりはしなくなる。許子のやり方に従えば偽りがなくなるのではなく、誰しもに偽りをけしかけることにすらなってしまう。
それでどうして国家を治めたりすることができるだろうか』(驚異の、2300年前の共産主義批判。孟子は性善論者である
にもかかわらず、玩物喪志が生業となる商売人が偽善詐悪に及ぶことは全くの折込済みとしている。別にそれを悲嘆したりは
せずに、自分たちが君子士人として農工商三民の営みを適正に制御していくことのほうにこそ前向きでいる。商売人なんて
いつの時代も世界の少数派でしかいられないのだから、そんな連中の偽善さ加減に憤ったりしてるほうが井中の蛙だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
掛け値が付けられることがなくなり、国中で偽りを働くものがなくなり、小さな子供を市に買い物に行かせても誰も
値段をごまかして高く売ったりすることがなくなります。布や錦も長さが同じなら同じ値段、麻糸生糸真綿も分量が同じなら
同じ値段、五穀も目方が同じなら同じ値段、靴も同じ大きさなら同じ値段となるのです』 孟子『諸々の物品に品質の
ばらつきがあって、決してその価値が一定的でないのが物の理コトワリというもの。時には倍程もの値段の開きが、また時には
十倍百倍、千倍万倍の開きすらもが生じてしまうもの。もしもそれを全く一定にしてしまうとすれば、これは天下を乱す
原因となってしまう。上等な靴と粗末な靴の値段も同じにしてしまうのであれば、もはや誰も上等な靴などを拵えようと
したりはしなくなる。許子のやり方に従えば偽りがなくなるのではなく、誰しもに偽りをけしかけることにすらなってしまう。
それでどうして国家を治めたりすることができるだろうか』(驚異の、2300年前の共産主義批判。孟子は性善論者である
にもかかわらず、玩物喪志が生業となる商売人が偽善詐悪に及ぶことは全くの折込済みとしている。別にそれを悲嘆したりは
せずに、自分たちが君子士人として農工商三民の営みを適正に制御していくことのほうにこそ前向きでいる。商売人なんて
いつの時代も世界の少数派でしかいられないのだから、そんな連中の偽善さ加減に憤ったりしてるほうが井中の蛙だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
許されないことは許されないというのが常道であり、それすら時に為すというのが非常である。
非常は非常で一応あることであり、「六韜」「三略」にあるような兵法もまたその内に入る。
賄賂で敵を籠絡したり、近隣同士で利権を守り合って遠方を蔑ろにしたり※といったことも、
戦闘状態のような非常時であれば必ずしも許されないとも限らないが、それが常道化してしまえば
もはや倫理的制御が振り切れて、自業自得の自滅を招く原因ともなる。だから六韜三略なども、
前置きで正義に根ざした英雄としての心構えやその実践を促しているわけだが、新約の登場人物の
イエスなんざは、三略が非常時の手段としてのみ提示している「釈遠謀近(※に相当)」を「隣人愛」
として常道化してしまうことすらをも促しているわけで、これは「非常時に限って許されることを
常道化してしまう」という禁忌を犯している所こそが決定的な落ち度となっているのだといえる。
非常時に限って許されることを含めれば、この世に許されないことなんて無いとすら言っていい。
儒学で絶対の禁忌とされている父殺しですら、源義朝が勅命によってさせられている。その父の恥辱を晴らす
形で源頼朝も怨敵平氏を討伐して武家政権を立ち上げるという功績を挙げたわけで、これも非常を常道に
戻すという落とし前が済まされているからこそ、倫理的な問題として扱われたりする必要がなくなっている。
非常時に限って許されることを常道化しようとすることが、倫理的にも決定的な禁忌となる。
平時にわけもなく親を殺したりすれば、それこそ本人を処刑して家の跡地を堀池にしてしまうぐらいの
厳罰が妥当ともなる(「礼記」参照)。それを許してしまったりすることことそは決定的な禁忌であり、
その禁忌すら犯してしまったりした所でこそ、人は悪逆非道の自業自得に基づく自滅が免れられなくもなる。
非常は非常で一応あることであり、「六韜」「三略」にあるような兵法もまたその内に入る。
賄賂で敵を籠絡したり、近隣同士で利権を守り合って遠方を蔑ろにしたり※といったことも、
戦闘状態のような非常時であれば必ずしも許されないとも限らないが、それが常道化してしまえば
もはや倫理的制御が振り切れて、自業自得の自滅を招く原因ともなる。だから六韜三略なども、
前置きで正義に根ざした英雄としての心構えやその実践を促しているわけだが、新約の登場人物の
イエスなんざは、三略が非常時の手段としてのみ提示している「釈遠謀近(※に相当)」を「隣人愛」
として常道化してしまうことすらをも促しているわけで、これは「非常時に限って許されることを
常道化してしまう」という禁忌を犯している所こそが決定的な落ち度となっているのだといえる。
非常時に限って許されることを含めれば、この世に許されないことなんて無いとすら言っていい。
儒学で絶対の禁忌とされている父殺しですら、源義朝が勅命によってさせられている。その父の恥辱を晴らす
形で源頼朝も怨敵平氏を討伐して武家政権を立ち上げるという功績を挙げたわけで、これも非常を常道に
戻すという落とし前が済まされているからこそ、倫理的な問題として扱われたりする必要がなくなっている。
非常時に限って許されることを常道化しようとすることが、倫理的にも決定的な禁忌となる。
平時にわけもなく親を殺したりすれば、それこそ本人を処刑して家の跡地を堀池にしてしまうぐらいの
厳罰が妥当ともなる(「礼記」参照)。それを許してしまったりすることことそは決定的な禁忌であり、
その禁忌すら犯してしまったりした所でこそ、人は悪逆非道の自業自得に基づく自滅が免れられなくもなる。
六韜三略を始めとする優良な兵法書に書かれてあることの多くが「非常時に限って許される手段」
である一方、四書五経に書かれてるあることは「平時に守るべき常道」である。両者を合わせれば、
結局何も許されないことなどないわけで、ただ平時と非常時の分別が必要とされているというだけの
ことであることが分かる。「義とは時宜に即することである(中庸)」という通り、平時には平時の、
非常時には非常時のあり方に即することが結局は、仁義道徳の実践のためにも至上となるのである。
絶対的な禁忌は、純粋な位相上の領域にある。平時と非常時の分別すら付けたなら、人間に許されない
ことなど何もないが、その分別を欠いて、非常時にのみ許されることを平時に為そうものなら、それが
致命的な落ち度となって、不可避な破綻を招くことともなる。具体的に何が許されて何が許されない
などということとはまた別に、そこにこそ人類の存亡をも左右する禁忌があったのだから、いま人類が
滅亡の危機に瀕している原因となっているのも、物事の位相を把握する能力の欠如でこそあるのだといえる。
非常時に限って許される手法を常道化しようとした邪義の集成が新旧約聖書であり、そうであること
こそが人類滅亡の危機の元凶ともなった。記述が悪逆非道であることにかけては、兵法書の戦略部分など
も勝るとも劣らないが、兵法書にはそれを非常手段とする分別がある一方、新旧約聖書にはそれがない。
違うのは位相の把握の有無というばかりのことで、六三のごとき兵法書の記録が時宜の分別を欠けば、
それだけで新旧約聖書のような奇天烈なカルト文書と化してしまう。炊きたてのご飯は真っ白でも、
何日も置いとけばご飯も腐ってカビだらけの七色変化を始めるようなもので、この場合のご飯に
相当する記録材料自体は、四書五経や兵法書と新旧約聖書とで、何も代わるところはないのである。
(むしろ、四書五経や七書よりも新旧約聖書のほうが記録材料としているものは些少だといえる。)
である一方、四書五経に書かれてるあることは「平時に守るべき常道」である。両者を合わせれば、
結局何も許されないことなどないわけで、ただ平時と非常時の分別が必要とされているというだけの
ことであることが分かる。「義とは時宜に即することである(中庸)」という通り、平時には平時の、
非常時には非常時のあり方に即することが結局は、仁義道徳の実践のためにも至上となるのである。
絶対的な禁忌は、純粋な位相上の領域にある。平時と非常時の分別すら付けたなら、人間に許されない
ことなど何もないが、その分別を欠いて、非常時にのみ許されることを平時に為そうものなら、それが
致命的な落ち度となって、不可避な破綻を招くことともなる。具体的に何が許されて何が許されない
などということとはまた別に、そこにこそ人類の存亡をも左右する禁忌があったのだから、いま人類が
滅亡の危機に瀕している原因となっているのも、物事の位相を把握する能力の欠如でこそあるのだといえる。
非常時に限って許される手法を常道化しようとした邪義の集成が新旧約聖書であり、そうであること
こそが人類滅亡の危機の元凶ともなった。記述が悪逆非道であることにかけては、兵法書の戦略部分など
も勝るとも劣らないが、兵法書にはそれを非常手段とする分別がある一方、新旧約聖書にはそれがない。
違うのは位相の把握の有無というばかりのことで、六三のごとき兵法書の記録が時宜の分別を欠けば、
それだけで新旧約聖書のような奇天烈なカルト文書と化してしまう。炊きたてのご飯は真っ白でも、
何日も置いとけばご飯も腐ってカビだらけの七色変化を始めるようなもので、この場合のご飯に
相当する記録材料自体は、四書五経や兵法書と新旧約聖書とで、何も代わるところはないのである。
(むしろ、四書五経や七書よりも新旧約聖書のほうが記録材料としているものは些少だといえる。)
「時に先んずる者は殺して赦さず。時に及ばざる者も殺して赦さず」
「時宜に反して先んじようとする者は許さず死刑に、遅れてくるものも許さず死刑に。
(時宜をわきまえぬ位相感覚の欠如の致命的な問題性を鋭く見抜いた格言。
これこそが、自他の不可避なる破滅を招く決定的な要因となるのであり、
そこに厳格な刑罰を加えるのは、支配というよりは運命への準拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)
「時宜に反して先んじようとする者は許さず死刑に、遅れてくるものも許さず死刑に。
(時宜をわきまえぬ位相感覚の欠如の致命的な問題性を鋭く見抜いた格言。
これこそが、自他の不可避なる破滅を招く決定的な要因となるのであり、
そこに厳格な刑罰を加えるのは、支配というよりは運命への準拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)
君子はまず徳を懐うにしても、やはりいつの時代も小人のほうは土を懐うもので(里仁第四・一一)、
民間の匹夫による身勝手な縄張り争いを防止する目的でも、士大夫を統べる徳治社会の王侯大名は
封土を頂き、領土単位での責任ある統治を執り行う。それは決して地権への執着などによって
行われるべきものではないために、諸国を統べる帝王だとか大将軍だとかがトップダウンに
それぞれの国を治める王侯大名を指名するのが基本ともなっている。江戸幕府では参勤交代に
よって諸大名の封土への根付ききりを人工的に抑制することまでもが実施され、徹底して
土地利権そのものと諸大名が癒着しきることを牽制する施策が敷かれてもいた。
(土佐藩や薩摩藩など、検地の不備からこれが行き届かなかった例もあった)
民間人が私的に恵まれた土地を囲い込んで有効利用することによる収益たるや半端なものではなく、
山形の酒田一帯を私有していた本間氏のように、徳治社会ですら大名諸侯も顔負けの富裕を手に入れる
場合すらある。徳治社会でない、西洋型の封建社会などでの地権に基づく富裕はさらにそれ以上で、
ちゃんと封土を区切っての責任ある統治を心がけたりすることもなかいから、徳治社会では被支配階級と
される地主身分の人間がそのまま王侯としての権限を掌握したりする。その最大例がハプスブルグ家や
ロマノフ家だったりもするが、封土の責任ある統治ではなく、地主兼陣取り合戦の覇者であることこそを
生業としていたことから、家としての富裕は徳治社会の王侯家のそれをも上回るほどのものとなっていた。
民間の匹夫による身勝手な縄張り争いを防止する目的でも、士大夫を統べる徳治社会の王侯大名は
封土を頂き、領土単位での責任ある統治を執り行う。それは決して地権への執着などによって
行われるべきものではないために、諸国を統べる帝王だとか大将軍だとかがトップダウンに
それぞれの国を治める王侯大名を指名するのが基本ともなっている。江戸幕府では参勤交代に
よって諸大名の封土への根付ききりを人工的に抑制することまでもが実施され、徹底して
土地利権そのものと諸大名が癒着しきることを牽制する施策が敷かれてもいた。
(土佐藩や薩摩藩など、検地の不備からこれが行き届かなかった例もあった)
民間人が私的に恵まれた土地を囲い込んで有効利用することによる収益たるや半端なものではなく、
山形の酒田一帯を私有していた本間氏のように、徳治社会ですら大名諸侯も顔負けの富裕を手に入れる
場合すらある。徳治社会でない、西洋型の封建社会などでの地権に基づく富裕はさらにそれ以上で、
ちゃんと封土を区切っての責任ある統治を心がけたりすることもなかいから、徳治社会では被支配階級と
される地主身分の人間がそのまま王侯としての権限を掌握したりする。その最大例がハプスブルグ家や
ロマノフ家だったりもするが、封土の責任ある統治ではなく、地主兼陣取り合戦の覇者であることこそを
生業としていたことから、家としての富裕は徳治社会の王侯家のそれをも上回るほどのものとなっていた。
春秋戦国時代の中国の大諸侯だとか、日本の戦国大名だとかも、陣取り合戦に勝利するようなことが
あればこそ、泰平社会の大名諸侯などにはありえない程もの巨万の富に与れることが多々あった。
権力者が責任ある封土の統治をも無視して、ただひたすら土地利権の収奪を目指したところでこそ
人として最大級の富裕が手に入れられるとすら言え、20世紀におけるアメリカの富豪の栄華なぞも、
「北米大陸中部」という土地の利を寡占することによってこそ成し得たものだといえるわけだが、
それは同時に、土地を収益対象ではなく堅実な生活の場としている庶民たちに極度の疲弊を強いるという
弊害をも招いてしまうことなわけで、それを常なることとするのではやはり致命的な破滅を招くことになる。
王侯大名も当然領土を所有するが、それは完全に領土の保全を目的としたものであるべきで、
地の利を自分たち自身が私有しての富裕に与るためなどであってはならない。地の利は純粋に民間人の
消費物としてやるべきで、その代わりに民間人のトップダウンな統制を徹底するようにもする。
それが実現されるのが泰平統治の常道というもので、公権力者までもが地の利への野望などを抱いたり
するのは非常である。これもまた一つの位相のわきまえであり、乱世に武王や劉邦や信長や秀吉や家康の
ごとき天下取りが、国土の一掃的な征服を期したことまでもが、このような位相のわきまえによって
全否定されたりすることはない。これも「位相すらよくわきまえたなら、許されないこと、できないこと
など何もない」という法則に根ざしており、やはり最大の問題は位相感覚の欠如に集約されるのだといえる。
「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の浜、王臣に非ざるは莫し」
「天下全土全てに至るまで、王の土地でない土地はなく、偏狭の土地の民に至るまで、
王の臣下でないものはない。(王道の基本理念。覇道や選民志向はこれに反することで地の利を慕う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
あればこそ、泰平社会の大名諸侯などにはありえない程もの巨万の富に与れることが多々あった。
権力者が責任ある封土の統治をも無視して、ただひたすら土地利権の収奪を目指したところでこそ
人として最大級の富裕が手に入れられるとすら言え、20世紀におけるアメリカの富豪の栄華なぞも、
「北米大陸中部」という土地の利を寡占することによってこそ成し得たものだといえるわけだが、
それは同時に、土地を収益対象ではなく堅実な生活の場としている庶民たちに極度の疲弊を強いるという
弊害をも招いてしまうことなわけで、それを常なることとするのではやはり致命的な破滅を招くことになる。
王侯大名も当然領土を所有するが、それは完全に領土の保全を目的としたものであるべきで、
地の利を自分たち自身が私有しての富裕に与るためなどであってはならない。地の利は純粋に民間人の
消費物としてやるべきで、その代わりに民間人のトップダウンな統制を徹底するようにもする。
それが実現されるのが泰平統治の常道というもので、公権力者までもが地の利への野望などを抱いたり
するのは非常である。これもまた一つの位相のわきまえであり、乱世に武王や劉邦や信長や秀吉や家康の
ごとき天下取りが、国土の一掃的な征服を期したことまでもが、このような位相のわきまえによって
全否定されたりすることはない。これも「位相すらよくわきまえたなら、許されないこと、できないこと
など何もない」という法則に根ざしており、やはり最大の問題は位相感覚の欠如に集約されるのだといえる。
「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の浜、王臣に非ざるは莫し」
「天下全土全てに至るまで、王の土地でない土地はなく、偏狭の土地の民に至るまで、
王の臣下でないものはない。(王道の基本理念。覇道や選民志向はこれに反することで地の利を慕う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
「三十年の通を以ってすれば、凶旱水溢有ると雖も、民に菜色無し。
然る後に天子の食するときは、日に挙ぐるに楽を以ってする(既出)」
「三十年分の国の収支を通算して毎年の予算をも決めるのであれば、たとえ旱魃や洪水が起ころうとも
民が飢え渇くことはない。それほどにも治世が成功して後には、天子も日々の宴食に舞楽を呼びもする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
国家や帝国が全国全土の公益を期して長期計画的な仁政を執り行う場合と、
個人や私企業などが長期的な私益の管理に務めて行く場合とでも、位相の食い違いが生ずる。
前者は真に人々にとっての最大級の福利厚生を実現する試みとなる一方、
後者はむしろ天下の回り物であるべき富を滞留させることによる困窮を招くこととなる。
利益を貯め込んでいる個人や企業以外の人間が平常以上の困窮に見舞われるのはもちろんのこと、
富を退蔵している私人たち自身の、世の中全体の破滅に巻き込まれての困窮までもが避けられなくなる。
神祇祭祀を奉っての加護を請うたところでこの法則が逆転するようなことは決してなく、
天下国家の公益のための仁政に神護を乞うたなら、その経験さによって福利厚生のより一層の増進にも
与れたりする一方、私人による富の退蔵への神護などを乞うた所で、破綻に至る道程をさらに惨劇化
させてしまうようなことにしかならない。何よりもわきまえるべきなのは、この公益の普遍性と私益の
脆弱性でこそあり、神の加護を乞いすらすればどんな利益でも守られる一方、神の加護に与れなければ
微塵の利益も守られないなどといったようなカルトの教条であったりすることは当然ないのである。
ということはつまり、天下国家の公益の普遍性をも上回る普遍性を具えた神などは、いないということである。
言い方を変えれば、天下国家級の公益を司る日月星辰のごとき大局的な宇宙法則をありのままに模した
神こそは、最も普遍的な存在性を持つ神であるともいえ、中でも、人間社会を含む地球界に対して最大級の
物理的影響をもたらしているのが太陽だから、太陽神こそは人間にとって最も普遍的な神であるともいえる。
然る後に天子の食するときは、日に挙ぐるに楽を以ってする(既出)」
「三十年分の国の収支を通算して毎年の予算をも決めるのであれば、たとえ旱魃や洪水が起ころうとも
民が飢え渇くことはない。それほどにも治世が成功して後には、天子も日々の宴食に舞楽を呼びもする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
国家や帝国が全国全土の公益を期して長期計画的な仁政を執り行う場合と、
個人や私企業などが長期的な私益の管理に務めて行く場合とでも、位相の食い違いが生ずる。
前者は真に人々にとっての最大級の福利厚生を実現する試みとなる一方、
後者はむしろ天下の回り物であるべき富を滞留させることによる困窮を招くこととなる。
利益を貯め込んでいる個人や企業以外の人間が平常以上の困窮に見舞われるのはもちろんのこと、
富を退蔵している私人たち自身の、世の中全体の破滅に巻き込まれての困窮までもが避けられなくなる。
神祇祭祀を奉っての加護を請うたところでこの法則が逆転するようなことは決してなく、
天下国家の公益のための仁政に神護を乞うたなら、その経験さによって福利厚生のより一層の増進にも
与れたりする一方、私人による富の退蔵への神護などを乞うた所で、破綻に至る道程をさらに惨劇化
させてしまうようなことにしかならない。何よりもわきまえるべきなのは、この公益の普遍性と私益の
脆弱性でこそあり、神の加護を乞いすらすればどんな利益でも守られる一方、神の加護に与れなければ
微塵の利益も守られないなどといったようなカルトの教条であったりすることは当然ないのである。
ということはつまり、天下国家の公益の普遍性をも上回る普遍性を具えた神などは、いないということである。
言い方を変えれば、天下国家級の公益を司る日月星辰のごとき大局的な宇宙法則をありのままに模した
神こそは、最も普遍的な存在性を持つ神であるともいえ、中でも、人間社会を含む地球界に対して最大級の
物理的影響をもたらしているのが太陽だから、太陽神こそは人間にとって最も普遍的な神であるともいえる。
太陽神以上に超越的な神というものを想定してみたところで、それが人間にとって最大級の普遍性を持つ
ということもない。太陽よりも大きな恒星なども太陽系外にはいくらでもあるが、それらの恒星を神に
見立てて崇め立たりしてみたところで、太陽系第三惑星であるこの地球に与えている物理的な影響などは
微々たるものだから、それを崇め立てることによって外的な利益などがもたらされることなどを期待
できないのはもちろんのこと、神を崇める自らの真摯さが養われて、諸々の事業を真剣に務めて行く
ようになることすら期待は出来ない。だから、敬神からなる修己大成ということもまた期待出来はしない。
それと同じように、この世界この宇宙を全く超越する形而上神などを想定して崇めたりしてみた所で、
そのような神がこの世界に与えている影響などは皆無だから、実際的な神からの加護なども期待できないし、
神を敬うことによる修身やそれに基づく健全な成功などを期待することも出来ない。このあたりに、
神を信じて敬うということを大概にすべき領域というものがあり、そのような無益な領域での信仰に
溺れるぐらいなら、信教などとは無縁な所での自助努力に努めていたほうがまだよい。せいぜい、太陽神
程度には実相に根ざしている神への崇敬によって事業の成功などを願い、自らも真摯であるように努める
ところまでが、神格信仰というものがプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらせる限度になっている。
「盛徳大業至れるかな。富有之れを大業と謂い、日新之れを盛徳と謂う。(略)法象は天地より大なるは莫く、
変通は四時よりも大なるは莫く、縣象の著明なるは日月より大なるは莫く、崇高は富貴よりも大なるは莫し」
「道理こそは、徳の盛んにして業の大いなる最たるものである。道理に根ざせば自然と大いなる富に与れる、
これこそは最も大いなる業である。そして日々何もかもが新たに成長して行く、これが得の盛んなる姿である。
人間の与る法則で天地よりも大いなるものはなく、現象の転変について四季よりも大いなるものはなく、甚だ
明らかなものとして日月に優るものはなく、崇高であるものとして天子が富貴であることに優るものはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
ということもない。太陽よりも大きな恒星なども太陽系外にはいくらでもあるが、それらの恒星を神に
見立てて崇め立たりしてみたところで、太陽系第三惑星であるこの地球に与えている物理的な影響などは
微々たるものだから、それを崇め立てることによって外的な利益などがもたらされることなどを期待
できないのはもちろんのこと、神を崇める自らの真摯さが養われて、諸々の事業を真剣に務めて行く
ようになることすら期待は出来ない。だから、敬神からなる修己大成ということもまた期待出来はしない。
それと同じように、この世界この宇宙を全く超越する形而上神などを想定して崇めたりしてみた所で、
そのような神がこの世界に与えている影響などは皆無だから、実際的な神からの加護なども期待できないし、
神を敬うことによる修身やそれに基づく健全な成功などを期待することも出来ない。このあたりに、
神を信じて敬うということを大概にすべき領域というものがあり、そのような無益な領域での信仰に
溺れるぐらいなら、信教などとは無縁な所での自助努力に努めていたほうがまだよい。せいぜい、太陽神
程度には実相に根ざしている神への崇敬によって事業の成功などを願い、自らも真摯であるように努める
ところまでが、神格信仰というものがプラスマイナスゼロ以上の好影響をもたらせる限度になっている。
「盛徳大業至れるかな。富有之れを大業と謂い、日新之れを盛徳と謂う。(略)法象は天地より大なるは莫く、
変通は四時よりも大なるは莫く、縣象の著明なるは日月より大なるは莫く、崇高は富貴よりも大なるは莫し」
「道理こそは、徳の盛んにして業の大いなる最たるものである。道理に根ざせば自然と大いなる富に与れる、
これこそは最も大いなる業である。そして日々何もかもが新たに成長して行く、これが得の盛んなる姿である。
人間の与る法則で天地よりも大いなるものはなく、現象の転変について四季よりも大いなるものはなく、甚だ
明らかなものとして日月に優るものはなく、崇高であるものとして天子が富貴であることに優るものはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
天下において、人々が際限のない富の奪い合いに興じているような状態であるのなら、
人間関係において「利害反するあり(韓非子)」という状態が常套化してしまうことともなる。
他人の富をくすねて自分が裕福になるということがあるのだから、これは当然のことである。
そしてそのような事態が深刻化すれば、富めるものと富まざるものとの格差もまた激化してしまい、
最悪の場合には富まざるものの側に餓死するようなものすらもが頻発するようになる。
そのような状態での勝ちや負けにこだわり続けるのならば、一時は富裕を謳歌していたものが
一転してジリ貧に見舞われたり、その逆となったりといった逆転現象もまた生じたりするものだ。
だからといって貧困者の側に回されていたものが、逆転勝利によって膨大な富をせしめることでの
名誉挽回を目指したりするのでは、結局の所、品性の部分ではかつての怨敵とも同じ穴の狢となってしまう。
だから、奪い合いが常套化してしまっているような世相での勝利などではなく、そもそも奪い合い
などが常套化していない世相の呼び込みこそを企図したとする。したらば、富めるものがそんなに
極端に富むようなこともなくなる代わりに、極端に困窮したり飢餓に見舞われたりする人間もいなくなる。
奪い合いによって不正に取り回されていたことからなる富の目減りが抑制されることともなるために、
天下万人が所有する富の平均値は、奪い合いが常套化している状態の平均値よりも相当に増加することともなる。
だからたとえば、今の地球社会における極端な富の偏在を是正したからといって、天下万人の資産の
平均値が、いま世界平均とほぼ同等の状態にあるインドネシアやフィリピンの平均値並みになるなんて
こともなく、それよりはずっと多くの富を天下全土の誰しもが所有できるようにもなるはずなのである。
これは季氏第十六・一にも「(富の)寡なきを患えずして均しからざるを患う。〜均しければ貧しきこと無し」
という風に確言されていることであり、別に共産主義者などが言いだしっぺの幻想だったりするわけでもない。
人間関係において「利害反するあり(韓非子)」という状態が常套化してしまうことともなる。
他人の富をくすねて自分が裕福になるということがあるのだから、これは当然のことである。
そしてそのような事態が深刻化すれば、富めるものと富まざるものとの格差もまた激化してしまい、
最悪の場合には富まざるものの側に餓死するようなものすらもが頻発するようになる。
そのような状態での勝ちや負けにこだわり続けるのならば、一時は富裕を謳歌していたものが
一転してジリ貧に見舞われたり、その逆となったりといった逆転現象もまた生じたりするものだ。
だからといって貧困者の側に回されていたものが、逆転勝利によって膨大な富をせしめることでの
名誉挽回を目指したりするのでは、結局の所、品性の部分ではかつての怨敵とも同じ穴の狢となってしまう。
だから、奪い合いが常套化してしまっているような世相での勝利などではなく、そもそも奪い合い
などが常套化していない世相の呼び込みこそを企図したとする。したらば、富めるものがそんなに
極端に富むようなこともなくなる代わりに、極端に困窮したり飢餓に見舞われたりする人間もいなくなる。
奪い合いによって不正に取り回されていたことからなる富の目減りが抑制されることともなるために、
天下万人が所有する富の平均値は、奪い合いが常套化している状態の平均値よりも相当に増加することともなる。
だからたとえば、今の地球社会における極端な富の偏在を是正したからといって、天下万人の資産の
平均値が、いま世界平均とほぼ同等の状態にあるインドネシアやフィリピンの平均値並みになるなんて
こともなく、それよりはずっと多くの富を天下全土の誰しもが所有できるようにもなるはずなのである。
これは季氏第十六・一にも「(富の)寡なきを患えずして均しからざるを患う。〜均しければ貧しきこと無し」
という風に確言されていることであり、別に共産主義者などが言いだしっぺの幻想だったりするわけでもない。
徳治によって富の遍在を是正することと、共産化によって富の偏在を是正することとでは、その手法が
決定的に異なる。徳治では士農工商その他の生業の格付けを正すことで、商人階級による富の貪りを
厳重な差別下に置く一方、共産化では逆に産業階級が国を乗っ取って直接政治を執り行うことが企図される。
物価の変動なども完全に固定化して、世に出回る物品全てを半公有物ともしてしまう、
実際にそれを実施した共産圏はといえば、>>78-79で孟子が予言した通りの産業の停滞を招き、
製品の品質はがた落ちして、人々も勤労意欲を損なわせ、自他の所有物にろくな
区別も付けられなくなる、著しい公共マナーの欠如という問題をも来たした。
一方で、武士によるトップダウンな民衆の統制によって、富の偏在にも適度な抑制をかけていた
江戸時代の日本はといえば、だからといって人々の勤労意欲が損なわれるようなこともなく、
武士の勤勉さを見習っての人々の民度の向上までもが実現され、商人階級や地主階級も服装や生活規範などの
制限を受けながらも、それなりの商業活動によって、庶民を痛め付けない程度の富裕に与ることができていた。
道徳統治と共産化とで、目指すところ(富の偏在の是正)は似ているけれども、それぞれを実施しようとする
人間の世の中の捉え方や倫理観からして位相がひっくり返っており、故にこそ目的のための手段もまた相違している。
徳治主義には修己治人のわきまえがある一方で、共産主義には全くそれがない。徳治主義は士人階級と資本家階級を
別物として捉えている一方、共産主義は両者を同一不可分のものとして捉えている。総合的に、徳治主義のほうが
共産主義よりも世の中の捉え方や倫理観が秀逸であり、故にこそ、それによって実現される世の中もまた、共産主義が
実現する世の中において来たしてしまうような諸々の問題を来たさない。徳治主義のほうが共産主義よりも遥かにその
発祥が古いから、旧態依然としたものとして捉えてしまいがちにもなるが、ここは、若造のほうが青すぎた事案だといえる
決定的に異なる。徳治では士農工商その他の生業の格付けを正すことで、商人階級による富の貪りを
厳重な差別下に置く一方、共産化では逆に産業階級が国を乗っ取って直接政治を執り行うことが企図される。
物価の変動なども完全に固定化して、世に出回る物品全てを半公有物ともしてしまう、
実際にそれを実施した共産圏はといえば、>>78-79で孟子が予言した通りの産業の停滞を招き、
製品の品質はがた落ちして、人々も勤労意欲を損なわせ、自他の所有物にろくな
区別も付けられなくなる、著しい公共マナーの欠如という問題をも来たした。
一方で、武士によるトップダウンな民衆の統制によって、富の偏在にも適度な抑制をかけていた
江戸時代の日本はといえば、だからといって人々の勤労意欲が損なわれるようなこともなく、
武士の勤勉さを見習っての人々の民度の向上までもが実現され、商人階級や地主階級も服装や生活規範などの
制限を受けながらも、それなりの商業活動によって、庶民を痛め付けない程度の富裕に与ることができていた。
道徳統治と共産化とで、目指すところ(富の偏在の是正)は似ているけれども、それぞれを実施しようとする
人間の世の中の捉え方や倫理観からして位相がひっくり返っており、故にこそ目的のための手段もまた相違している。
徳治主義には修己治人のわきまえがある一方で、共産主義には全くそれがない。徳治主義は士人階級と資本家階級を
別物として捉えている一方、共産主義は両者を同一不可分のものとして捉えている。総合的に、徳治主義のほうが
共産主義よりも世の中の捉え方や倫理観が秀逸であり、故にこそ、それによって実現される世の中もまた、共産主義が
実現する世の中において来たしてしまうような諸々の問題を来たさない。徳治主義のほうが共産主義よりも遥かにその
発祥が古いから、旧態依然としたものとして捉えてしまいがちにもなるが、ここは、若造のほうが青すぎた事案だといえる
「孚有りて攣如たり、富其の隣りと以にす。孚有りて攣如たりとは、独り富まんとせざるなり」
「誠意と共に協力的であり、富も誰しもと分け合おうという心持ちでいる。誠意があって協力的だから、
自分独りで富もうなどという気持ちもない。(誠意があるのなら、始めから富を独占しようなどという気は
起こらない。してみれば、私利の追求が生業である商売人は必ず、内面に不誠実を抱えているのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・小畜・九五‐象伝)
「誠意と共に協力的であり、富も誰しもと分け合おうという心持ちでいる。誠意があって協力的だから、
自分独りで富もうなどという気持ちもない。(誠意があるのなら、始めから富を独占しようなどという気は
起こらない。してみれば、私利の追求が生業である商売人は必ず、内面に不誠実を抱えているのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・小畜・九五‐象伝)
何かを信じきって全く疑わないというのは、それ自体は愚かなことである。
愚かであると諾いつつ阿弥陀仏に帰依する念仏信仰などは、それはそれで相が狂ってはいない。
何ものかを信じて疑わないということそれ自体が「神聖なこと」のように見なされて、
信じて疑わないものがあるが故に、そのような拠り所を持たない相手よりも自分のほうが
偉いなどと考えるようになるのでは、それ自体が凶相となり、何も信じないでいることは愚か、
愚かなことと知りつつ信仰に没頭する場合以上にも劣悪なザマとなる。
何か信じてやまぬ拠り所があればこそ、そんなものを持たない人間よりも偉いというような
間違った思い込みが方々で通用してしまっているからこそ、「宗教」という枠組みがそれなりの
権威性を以って取り扱われてしまってもいる。公けに「カルト」と指定されている新興宗教などの
扱いはそれなりに眉唾物扱いだったりもするが、「なによりもまず、信教は信教であるだけで貴い」
というような通念が未だに一般的であるために、日本国憲法にも明記されている「信教の自由」
などといった理念が、イヤイヤながらであっても黙認されてしまっていたりするのだ。
今でこそ仏門も「仏教」としての扱いが定着しているけれども、天台真言律禅のごとき自力作善の聖道門は
本来「学門」としての立場を持ち合わせていたわけで、昔の日本などでも、仏門での学門修養が行き届いて
いればこそ、中国などのように科挙試験の合格を目指してのガリ勉競争を激化させたりする必要もなかった。
その日本が廃仏毀釈によって仏門での学門修養を絶ち、大学での勉強が主要教育ともされるようになって後は、
中国などと同じ拙いガリ勉競争の様相を呈し始めることともなった。座禅や托鉢行脚などの実践的な修養が伴わない
から、勉強にかけてばかりガリガリでいるしかない。そのせいで学問自体が「過ぎたるはなお及ばざるが如し」
の様相を呈してしまい、複雑怪奇で晦渋であるばかりでろくな実用性もないという事態に陥ってもしまった。
愚かであると諾いつつ阿弥陀仏に帰依する念仏信仰などは、それはそれで相が狂ってはいない。
何ものかを信じて疑わないということそれ自体が「神聖なこと」のように見なされて、
信じて疑わないものがあるが故に、そのような拠り所を持たない相手よりも自分のほうが
偉いなどと考えるようになるのでは、それ自体が凶相となり、何も信じないでいることは愚か、
愚かなことと知りつつ信仰に没頭する場合以上にも劣悪なザマとなる。
何か信じてやまぬ拠り所があればこそ、そんなものを持たない人間よりも偉いというような
間違った思い込みが方々で通用してしまっているからこそ、「宗教」という枠組みがそれなりの
権威性を以って取り扱われてしまってもいる。公けに「カルト」と指定されている新興宗教などの
扱いはそれなりに眉唾物扱いだったりもするが、「なによりもまず、信教は信教であるだけで貴い」
というような通念が未だに一般的であるために、日本国憲法にも明記されている「信教の自由」
などといった理念が、イヤイヤながらであっても黙認されてしまっていたりするのだ。
今でこそ仏門も「仏教」としての扱いが定着しているけれども、天台真言律禅のごとき自力作善の聖道門は
本来「学門」としての立場を持ち合わせていたわけで、昔の日本などでも、仏門での学門修養が行き届いて
いればこそ、中国などのように科挙試験の合格を目指してのガリ勉競争を激化させたりする必要もなかった。
その日本が廃仏毀釈によって仏門での学門修養を絶ち、大学での勉強が主要教育ともされるようになって後は、
中国などと同じ拙いガリ勉競争の様相を呈し始めることともなった。座禅や托鉢行脚などの実践的な修養が伴わない
から、勉強にかけてばかりガリガリでいるしかない。そのせいで学問自体が「過ぎたるはなお及ばざるが如し」
の様相を呈してしまい、複雑怪奇で晦渋であるばかりでろくな実用性もないという事態に陥ってもしまった。
それなりの実践修行が伴う仏門における学問こそは、そのような問題をも呈さなかったわけで、むしろ
仏門における学問こそは、今の大学などでの学問以上にも「最適」でいられるところがあったのだった。
(ちょうど実践修行が、情報処理を行うコンピュータにとってのデフラグのような役割を果たしていた)
宗教的には、日本も「仏教圏」とされるけれども、実情をいえば、日本の仏門は今の大学並みかそれ以上にも
「権威ある学門」としての立場を担っていた。宗教としての信仰に専らでいたのは浄土門などの一部の宗派
のみであり、むしろ寺といえば学門道場としての役割のほうが大きかった。仏門が信仰の場以上にも学門の場
として重要な役割を担っていた以上、日本は昔から信仰以上にも学問を重んずる国でもあったと言え、信仰一辺倒の
激化などは、僧兵や一向一揆や日蓮カルトなどへの制圧が試みられていたことからも、忌避されていたことがわかる。
そういった、日本の伝統的な教学のあり方こそは見習うべきものでもある。信教を信教だからといって
保護するようなことはしない一方で、学問振興のための絶妙なエッセンスとして信教を用いもする。
これが信教一辺倒なアブラハム教圏のあり方などよりはもちろんのこと、信教に対する冷遇や弾圧の過ぎる
中国などよりも優れている。今の日本ではなく、昔からの日本の教学に対する姿勢こそが模範的なのであり、
それは今の日本人自身もまた復興を心がけていくことによってのみ、また取り戻せることがあるものである。
「疑を稽する。択んで卜筮の人を建立する」
「疑わしきことにまでよく配慮を利かして精査する。そのためには卜筮者を厳選して擁立しもする。
(オッカムの剃刀的な配慮の怠惰を非としていたから、占筮にまで頼る所があったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
仏門における学問こそは、今の大学などでの学問以上にも「最適」でいられるところがあったのだった。
(ちょうど実践修行が、情報処理を行うコンピュータにとってのデフラグのような役割を果たしていた)
宗教的には、日本も「仏教圏」とされるけれども、実情をいえば、日本の仏門は今の大学並みかそれ以上にも
「権威ある学門」としての立場を担っていた。宗教としての信仰に専らでいたのは浄土門などの一部の宗派
のみであり、むしろ寺といえば学門道場としての役割のほうが大きかった。仏門が信仰の場以上にも学門の場
として重要な役割を担っていた以上、日本は昔から信仰以上にも学問を重んずる国でもあったと言え、信仰一辺倒の
激化などは、僧兵や一向一揆や日蓮カルトなどへの制圧が試みられていたことからも、忌避されていたことがわかる。
そういった、日本の伝統的な教学のあり方こそは見習うべきものでもある。信教を信教だからといって
保護するようなことはしない一方で、学問振興のための絶妙なエッセンスとして信教を用いもする。
これが信教一辺倒なアブラハム教圏のあり方などよりはもちろんのこと、信教に対する冷遇や弾圧の過ぎる
中国などよりも優れている。今の日本ではなく、昔からの日本の教学に対する姿勢こそが模範的なのであり、
それは今の日本人自身もまた復興を心がけていくことによってのみ、また取り戻せることがあるものである。
「疑を稽する。択んで卜筮の人を建立する」
「疑わしきことにまでよく配慮を利かして精査する。そのためには卜筮者を厳選して擁立しもする。
(オッカムの剃刀的な配慮の怠惰を非としていたから、占筮にまで頼る所があったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
「室を労とする靡く、夙に興きて夜に寐ぬるに、朝有る靡し」
「家庭での仕事の苦労を苦労ともせず、朝から晩まで家事仕事を欠かしたこともない。
(人の苦労を全否定するようなら、家族関係一つうまく行くこともありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
「家庭での仕事の苦労を苦労ともせず、朝から晩まで家事仕事を欠かしたこともない。
(人の苦労を全否定するようなら、家族関係一つうまく行くこともありはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
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そしてその僥倖抜きの福徳こそは、真に普遍的な福徳である。
「棚からぼた餅」的な僥倖に基づく慶福こそは脆弱なものであり、
そんなものを期待し過ぎずに、着実な自助努力に基づく慶福を
得ようとすることこそが、人として最善を尽くすあり方ともなる。
ただ、人々を惑わせやすいのが、「僥倖を得るための努力」というものだ。
西洋文化文明に基づく発明だとか学術的発見だとかいったものが概ねその部類で、
古くはピタゴラスによる三平方の定理の発見から、エジソンによる電球の発明や
ライト兄弟による飛行機の発明、そして複数の計算機学者によるコンピュータの発明など、
それなりに研究開発の努力を積んだ結果として、発明や発見に至ったものとなっている。
僥倖を得るための努力もまた、決して絶対に報われないわけでもない。
報われたときには、着実な福徳を企図している場合以上もの「一発当ててウハウハ」
すらもが実現できたりもするわけだが、残念ながら、僥倖を得るための努力が報われる
確率はきわめて低く、その低率な成功を得るためにも莫大な資本投入を必要とする。
19世紀後半から20世紀中盤にかけて、アメリカ人たちが膨大な数の文明の利器を発明することが
できたのも、当時のアメリカが資本主義国として未曾有の規模にまで発展していたからで、
その代償は資本主義後進国の極度の貧窮や二度の世界大戦、そして現代に至っての
リバウンド状態の経済破綻などの形で確実に業報されて来ているのである。
「小道といえども必ず観るべきものあり。遠きを致すには恐らくは泥まん(子張第十九・四)」
「君子の道は闇然として日に章らかに、小人の道は的然として日に亡ぶ(中庸・三十三)」
小道といえども見るべきところが全くないわけではない、僥倖を求めての尽力も多少は報われる
ことがあるが、やっぱり総合的に授かれる福徳の度合いで、着実な常道の邁進に優ることはない。
着実な常道の邁進によって得られる福徳こそは禍い以上の福ともなる一方で、僥倖に与ろうと
した結果としての福にはむしろ、それ以上に甚大な禍いが付き物となるようにもなっている。
僥倖を得るに際して、福以上の禍いをもたらしてしまったからこそ、小道での尽力者が深く
感謝されたりすることもない。漢帝国も、秦帝国が築き上げた文明インフラを引き継ぐ形で
尊敬に値する長期の泰平統治を実現したわけだが、秦帝国の権力者たちはといえば、自分
たちが放辟邪侈によって人々を痛め付ける過程で文明インフラを新造して行ったわけだから、
全く感謝や尊敬の対象にされることもなく、後々に迫害や差別の対象となるばかりとなった。
これも一つの文明社会の宿命であるといえ、漢帝国成立後にも項羽の親戚家は生きながらえた
ものの始皇帝の家は中国で滅ぼされたり(日本に残党が逃げ込んだりはしていた)、徳川幕府
成立後に織田信長の子孫は生きながらえたものの、豊臣秀吉の子孫は滅ぼされたりといった風に、
文明社会の黎明期の立役者となった連中同士でもまた、多少の運命の枝分かれが生ずることとなる。
全てが全て滅ぼしつくされたりまではしないのは、小道ながらに見るべきところも多少はあったからだ。
「君子の道は闇然として日に章らかに、小人の道は的然として日に亡ぶ(中庸・三十三)」
小道といえども見るべきところが全くないわけではない、僥倖を求めての尽力も多少は報われる
ことがあるが、やっぱり総合的に授かれる福徳の度合いで、着実な常道の邁進に優ることはない。
着実な常道の邁進によって得られる福徳こそは禍い以上の福ともなる一方で、僥倖に与ろうと
した結果としての福にはむしろ、それ以上に甚大な禍いが付き物となるようにもなっている。
僥倖を得るに際して、福以上の禍いをもたらしてしまったからこそ、小道での尽力者が深く
感謝されたりすることもない。漢帝国も、秦帝国が築き上げた文明インフラを引き継ぐ形で
尊敬に値する長期の泰平統治を実現したわけだが、秦帝国の権力者たちはといえば、自分
たちが放辟邪侈によって人々を痛め付ける過程で文明インフラを新造して行ったわけだから、
全く感謝や尊敬の対象にされることもなく、後々に迫害や差別の対象となるばかりとなった。
これも一つの文明社会の宿命であるといえ、漢帝国成立後にも項羽の親戚家は生きながらえた
ものの始皇帝の家は中国で滅ぼされたり(日本に残党が逃げ込んだりはしていた)、徳川幕府
成立後に織田信長の子孫は生きながらえたものの、豊臣秀吉の子孫は滅ぼされたりといった風に、
文明社会の黎明期の立役者となった連中同士でもまた、多少の運命の枝分かれが生ずることとなる。
全てが全て滅ぼしつくされたりまではしないのは、小道ながらに見るべきところも多少はあったからだ。
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胃腸が弱り、唾液の量も減って、そんなに穀類を大量に食べたりもできないようになる。
代わりに甘いものや高級魚や肉などの、高カロリーなものを少量採って栄養を補給するなど
すればよく、そのために食費がかさむぐらいのことは大目に見てやるべきだともいえる。
しかし特に、肉や魚はその生産量が限られており、万人が好きなだけ食したりしているようではあっという間に
枯渇してしまうことにもなる。(それを無理に克服しようとしてもBSEや鳥獣インフルエンザなどの問題が生ずる)
そのため、穀類で十分な栄養が採れる若者の内はなるべく穀類で栄養を採るようにし、年を取ってなかなか穀類が
食べにくくなってからは肉や魚を旺盛に食べるようにするなどの、世代による食の住み分けを講ずるべきだといえる。
しかれば、老若男女にかかわらず誰しもが食べたいものを食べて食べさせるだなんていう、
「共食」の論理などを決して通用させるべきではないわけで、世の中における食習慣一つとっても、
立場や身分の違いに基づく差別を講じることのほうがより適切であることが分かるのである。
食い物に限らず、「自分もやりたいことばかりやって、人にもやりたいことばかりさせる」という、やりたい放題の
論理が通用しないことはいくらでもある。そりゃあ、それでも通用するなら、それが一番嬉しいにも違いないが、
世の中の大局構造というのは、誰しもの欲望を無制限に叶え続けていられるようには決してできていないから、
どこかで譲り合いを講ずるようにもしていかなければ、必ず世の中のほうが立ち行かなくなってしまうのである。
世の中の大局構造というものを実感的に把握することができないから、女子供や小人男はできる限りやりたい放題で
いようとする。大局を実感的に把握できる君子の大丈夫であろうとも、出家者でもない限りはあらゆる欲望を抑制し
尽くすなんていうことまではしないが、「欲はほしいままにすべからず」ということを常日ごろからのわきまえとし、
何もかもを欲望のあるがままにさせようなどとするような最悪の放逸心にだけは決して溺れないでいようとはする。
そのために、君子の大丈夫は「世の中を平穏に取り仕切る」という大欲こそを、他の如何なる欲望よりも優先させる。
それは別に欲しやすいものではないが、欲そうと思えば欲することもできないといった程度のものであり、
それを欲することこそを他のあらゆる欲望よりも優先させていくこと自体が、一種の精進ともなるものである。
そして、その「世の中を平穏に取り仕切る」という欲望対象もまた、女子供や小人男にまで欲することを強制
できるもんじゃない。世の中の大局構造を実感的に把握することもできない身の程である以上は、そんなことを
心の底から欲することも決して期待できたもんじゃないから、天下の泰平統治への邁進も、あくまで自分たち
大丈夫にとっての領分であるとして、女子供や小人男にまでそれに対する共感などを強制したりすべきでもない。
それで結局、上記のような諸々の社会規範上の住み分けを講ずるためには、君臣父子夫婦官民長幼といった
立場の違いに基づく序列を徹底していくべきだということにもなる。元より、古来からの儒学道徳に基づく
封建制での秩序序列というのは、上記のような住み分けこそを企図して講じられていたものなのであり、その
内実にまで立ち入って見るなら、封建制も極めて切実で罪のない正当性に即していたことが分かるのである。
(士産階級の分離も疎かだった西洋の封建制などにまでこの分析が当てはまるわけでは決してないが)
「嗚呼、惟れ天、民を生じて欲有り。主無ければ乃ち乱る」
「ああ、天は民たちを欲望の塊として生み出された。そのせいで、
主君を立てないことには必ず乱れるようになってしまってもいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
それは別に欲しやすいものではないが、欲そうと思えば欲することもできないといった程度のものであり、
それを欲することこそを他のあらゆる欲望よりも優先させていくこと自体が、一種の精進ともなるものである。
そして、その「世の中を平穏に取り仕切る」という欲望対象もまた、女子供や小人男にまで欲することを強制
できるもんじゃない。世の中の大局構造を実感的に把握することもできない身の程である以上は、そんなことを
心の底から欲することも決して期待できたもんじゃないから、天下の泰平統治への邁進も、あくまで自分たち
大丈夫にとっての領分であるとして、女子供や小人男にまでそれに対する共感などを強制したりすべきでもない。
それで結局、上記のような諸々の社会規範上の住み分けを講ずるためには、君臣父子夫婦官民長幼といった
立場の違いに基づく序列を徹底していくべきだということにもなる。元より、古来からの儒学道徳に基づく
封建制での秩序序列というのは、上記のような住み分けこそを企図して講じられていたものなのであり、その
内実にまで立ち入って見るなら、封建制も極めて切実で罪のない正当性に即していたことが分かるのである。
(士産階級の分離も疎かだった西洋の封建制などにまでこの分析が当てはまるわけでは決してないが)
「嗚呼、惟れ天、民を生じて欲有り。主無ければ乃ち乱る」
「ああ、天は民たちを欲望の塊として生み出された。そのせいで、
主君を立てないことには必ず乱れるようになってしまってもいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
儒説というものにも、ある程度は密教的な部分がある。
現代に至るまでの内で最も整備された儒学である朱子学などにおいて、
孔孟や荀子の教えを体系化したものとしての三綱五常の教えが尊ばれている。
君臣父子夫婦の序列を尊ぶという三綱の教えにも実は裏があり、「易経」の序卦伝などには
「天地ありて然る後に万物あり、万物ありて然る後に男女あり、
男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀おくところあり」
などとある。時系列においてはむしろ男女や夫婦のほうが先に生じているわけだから、
君臣や父子の関係よりも男女や夫婦の関係のほうを尊重すべきであるかのように考えられなくもない。
実際、冒頭の創世記にアダムとイヴというツガイの原人類の物語を置いている旧約などはその考え方に
即しているわけだが、易においては、そもそも天地万物が生じた最原初の頃には上下関係など存在しない、
都市社会において君臣父子の関係などが重んじられるようになってから初めて上下関係が生じ、
その上下関係に即して礼儀礼節をわきまえる必要性もまた生じたわけだから、礼節をわきまえる
上下関係も「君臣父子夫婦」の序列であることこそが正しいとされているのである。
——以上のような論説は、表向きの儒学においてはわざわざ深く立ち入られもしないことであり、
むしろ出来上がった教説としての三綱五常のわきまえや、その実践こそがより重んじられていくものである。
上のような密教的な部分も、儒学をより深く理解する上では有用であっても、そればかりに囚われて
積極的な実践を蔑ろにしたりするのでは、世俗の学問としての儒学のあり方にも悖ることとなるから、
「高きに上らず、深きに臨まず(礼記)」で、基本は出来上がった教説の受容のほうを優先させるのである。
現代に至るまでの内で最も整備された儒学である朱子学などにおいて、
孔孟や荀子の教えを体系化したものとしての三綱五常の教えが尊ばれている。
君臣父子夫婦の序列を尊ぶという三綱の教えにも実は裏があり、「易経」の序卦伝などには
「天地ありて然る後に万物あり、万物ありて然る後に男女あり、
男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀おくところあり」
などとある。時系列においてはむしろ男女や夫婦のほうが先に生じているわけだから、
君臣や父子の関係よりも男女や夫婦の関係のほうを尊重すべきであるかのように考えられなくもない。
実際、冒頭の創世記にアダムとイヴというツガイの原人類の物語を置いている旧約などはその考え方に
即しているわけだが、易においては、そもそも天地万物が生じた最原初の頃には上下関係など存在しない、
都市社会において君臣父子の関係などが重んじられるようになってから初めて上下関係が生じ、
その上下関係に即して礼儀礼節をわきまえる必要性もまた生じたわけだから、礼節をわきまえる
上下関係も「君臣父子夫婦」の序列であることこそが正しいとされているのである。
——以上のような論説は、表向きの儒学においてはわざわざ深く立ち入られもしないことであり、
むしろ出来上がった教説としての三綱五常のわきまえや、その実践こそがより重んじられていくものである。
上のような密教的な部分も、儒学をより深く理解する上では有用であっても、そればかりに囚われて
積極的な実践を蔑ろにしたりするのでは、世俗の学問としての儒学のあり方にも悖ることとなるから、
「高きに上らず、深きに臨まず(礼記)」で、基本は出来上がった教説の受容のほうを優先させるのである。
という風に、儒学の学理教説の内にすら、優先すべきものとそうでないものとがある。
必要なのは何もかもを知り尽くすこと以上にも、優先すべき学知とそうでない学知とをよく分別して、
優先すべき学知の積極的な受容に取り組んでいったり、そうでない学知の適切な扱いを守ったりすることである。
それを怠るのであれば、知識なんてものは享受する以上にもしないほうがマシなほどにも無益極まりないものに
すらなりかねない。異端の小知ばかりを貪り続けた挙句に、自業自得の破滅に陥るようなことにもなりかねない。
ここではかなり、実践に移す上では深入りに過ぎるような、密教的な儒説も取り扱っている。それも、
儒学の実践が全く不能と化してしまっている今という時代の現状に合わせたものであり、もしもこれから
儒学の実践ぐらいは可能になって行くというのであれば、深く分析するまでもない、四書五経の文面ありのままの
教説の実践などに取り組んでいくようにすべきなのである。分析主義的な西洋文化の国内への大量流入などによって、
表向きの儒説だけではその正当性の根拠が脆弱だという文句が多々付けられてもいるものだから、密教的な儒説と、
洋学の学説や聖書教義なども照らし合わせつつ、表向きの儒学の正当性までをも厳密に実証し続けて来たのである。
そればかりであっていいわけでもないが、時宜に即して、そういうことがたまたま必要ともされたのである。
「聖謨洋洋として、嘉言孔だ彰かなり。」
「聖人の定められた則はまことに輝かしいものであり、その優れた言葉も甚だ明らかなものである。
(むしろ明らかに正善であればこそ、邪神邪人はそれを隠蔽したり無視したりしようともする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
必要なのは何もかもを知り尽くすこと以上にも、優先すべき学知とそうでない学知とをよく分別して、
優先すべき学知の積極的な受容に取り組んでいったり、そうでない学知の適切な扱いを守ったりすることである。
それを怠るのであれば、知識なんてものは享受する以上にもしないほうがマシなほどにも無益極まりないものに
すらなりかねない。異端の小知ばかりを貪り続けた挙句に、自業自得の破滅に陥るようなことにもなりかねない。
ここではかなり、実践に移す上では深入りに過ぎるような、密教的な儒説も取り扱っている。それも、
儒学の実践が全く不能と化してしまっている今という時代の現状に合わせたものであり、もしもこれから
儒学の実践ぐらいは可能になって行くというのであれば、深く分析するまでもない、四書五経の文面ありのままの
教説の実践などに取り組んでいくようにすべきなのである。分析主義的な西洋文化の国内への大量流入などによって、
表向きの儒説だけではその正当性の根拠が脆弱だという文句が多々付けられてもいるものだから、密教的な儒説と、
洋学の学説や聖書教義なども照らし合わせつつ、表向きの儒学の正当性までをも厳密に実証し続けて来たのである。
そればかりであっていいわけでもないが、時宜に即して、そういうことがたまたま必要ともされたのである。
「聖謨洋洋として、嘉言孔だ彰かなり。」
「聖人の定められた則はまことに輝かしいものであり、その優れた言葉も甚だ明らかなものである。
(むしろ明らかに正善であればこそ、邪神邪人はそれを隠蔽したり無視したりしようともする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
自力作善が本旨である密教や禅などでも、不動明王なり遍照金剛(弘法大師)なり
釈迦牟尼仏なりの尊格を補助的な信仰の対象とし、それによって精進修行の大成を図ることがある。
そもそも信教を本職としない為政者なども、祖神への崇敬などによって自らが善政を心がけることができる。
そういった信仰や崇敬の用い方のほうが優良であり、信仰一辺倒の他力本願となるのは劣悪である。
浄土門などはそれを知った上での他力本願でいるから、信者たちが思い上がりを募らせたりすることはないが、
日蓮宗とか聖書教とかは、信仰一辺倒であることこそが優良であるとすら考えているところがあるから、
信者たちが思い上がりを募らせての悪逆非道に走ったりもする、これこそは「信仰の暗黒面」だといえる。
江戸時代までの日本には、「信仰することそれ自体が尊いことである」などという認識が、
一部の日蓮教徒間などを除いて一切通用していなかったから、宗教という概念もまた意味を持たないために
始めから整備して定義されることもなかった。浄土信者なども、死への恐怖を緩和するための気休め程度に
念仏を嗜んでいたわけで、そこには悪人正機説などに基づく着実な心理的効果もあったから、
わざわざ捨て去るまでもないものとしての信仰が続けられてきたのだった。
念仏信仰が信者に付与する心理的効果は優良なものであり、純粋に死への恐怖からの解脱を促してくれる。
一方で、聖書信仰が信者に与える心理個的効果は劣悪なものであり、むしろ死への恐怖を最大級に
増幅させた挙句に、心神喪失状態に陥らせることをその正体としている。そのために、一旦聖書信仰に
耽溺してしまったような人間が信仰を取り止めると、並みの人間以上もの極度な死への恐怖に見舞われる
ことともなる。そして長年、世の中総出を挙げての聖書信仰を続けてきた西洋のような社会においては、
「信仰を取り止めれば極度の死への恐怖に見舞われる」ということがデフォルト扱いすらされることになって
しまうために、それと比べて信仰に基づく心神喪失状態がより良いもののように思えてしまったりもする。
釈迦牟尼仏なりの尊格を補助的な信仰の対象とし、それによって精進修行の大成を図ることがある。
そもそも信教を本職としない為政者なども、祖神への崇敬などによって自らが善政を心がけることができる。
そういった信仰や崇敬の用い方のほうが優良であり、信仰一辺倒の他力本願となるのは劣悪である。
浄土門などはそれを知った上での他力本願でいるから、信者たちが思い上がりを募らせたりすることはないが、
日蓮宗とか聖書教とかは、信仰一辺倒であることこそが優良であるとすら考えているところがあるから、
信者たちが思い上がりを募らせての悪逆非道に走ったりもする、これこそは「信仰の暗黒面」だといえる。
江戸時代までの日本には、「信仰することそれ自体が尊いことである」などという認識が、
一部の日蓮教徒間などを除いて一切通用していなかったから、宗教という概念もまた意味を持たないために
始めから整備して定義されることもなかった。浄土信者なども、死への恐怖を緩和するための気休め程度に
念仏を嗜んでいたわけで、そこには悪人正機説などに基づく着実な心理的効果もあったから、
わざわざ捨て去るまでもないものとしての信仰が続けられてきたのだった。
念仏信仰が信者に付与する心理的効果は優良なものであり、純粋に死への恐怖からの解脱を促してくれる。
一方で、聖書信仰が信者に与える心理個的効果は劣悪なものであり、むしろ死への恐怖を最大級に
増幅させた挙句に、心神喪失状態に陥らせることをその正体としている。そのために、一旦聖書信仰に
耽溺してしまったような人間が信仰を取り止めると、並みの人間以上もの極度な死への恐怖に見舞われる
ことともなる。そして長年、世の中総出を挙げての聖書信仰を続けてきた西洋のような社会においては、
「信仰を取り止めれば極度の死への恐怖に見舞われる」ということがデフォルト扱いすらされることになって
しまうために、それと比べて信仰に基づく心神喪失状態がより良いもののように思えてしまったりもする。
というような事情もあるために、聖書信仰のような信者に心理的な悪影響を及ぼす信仰を長年享受してきた
世の中においては、「信仰を持つことは尊い」「信仰を持たないことは卑しい」などという風にすら
思い込まれてしまうようにもなる。死への恐怖を自力作善によって克服することも、他力本願によって健全に
克服することもできなくはないのに、そもそも劣悪な信仰によって人々の死への恐怖を最大級に増幅させる
ことを定常状態としてしまっているから、世の風潮からして信仰ありきでしかあり得なくなってしまっている。
自学作善>善い信仰>無学無信>悪い信仰①というのが真如の実相だが、悪い信仰には無信仰状態を苦痛とさせる
「誘引効果」があるために、その信仰に陥ってしまったような人間に対して信仰一般>無信仰②であるような
思い違いを抱かせもする。真実である①と、思い違いである②とでは決定的に相容れないところがあるから、
悪い信仰に陥ったせいで②が真実だと思い込んでしまった人間は、致命的に真実が見えなくなってもしまう。
信仰内容の劣悪さ以前に、悪い信仰にはそういった問題点が付き物でもあるわけだから、そのような信仰の
代表格である聖書信仰の特殊な教義に立ち入るまでもなく、悪い信仰一般を控えるべきだということが言える。
とはいえやはり、聖書信仰の教条こそは、「信者を極度の恐怖に見舞わせた挙句に心神喪失状態に陥れる」という
悪い信仰の黄金比を如実に体現していることも間違いがない。聖書の教義に根ざさなくとも、同様の心理的効果を
他の邪教が信者にもたらすことはいくらでもあり得るが、結局のところは五十歩百歩であり、その効果が甚大で
あるような邪教ほど、聖書信仰の教義に近似していくことにもなるだろう。いかにも「宗教らしい宗教」ほどそうで
あるらしい場合が多いから、宗教という枠組み自体、邪教こそを保護してやるためのものだったのだとも考えられる。
邪教ではないような宗教ほど、実は「宗教」という枠組み自体を必要としていたりするようなことがないのである。
世の中においては、「信仰を持つことは尊い」「信仰を持たないことは卑しい」などという風にすら
思い込まれてしまうようにもなる。死への恐怖を自力作善によって克服することも、他力本願によって健全に
克服することもできなくはないのに、そもそも劣悪な信仰によって人々の死への恐怖を最大級に増幅させる
ことを定常状態としてしまっているから、世の風潮からして信仰ありきでしかあり得なくなってしまっている。
自学作善>善い信仰>無学無信>悪い信仰①というのが真如の実相だが、悪い信仰には無信仰状態を苦痛とさせる
「誘引効果」があるために、その信仰に陥ってしまったような人間に対して信仰一般>無信仰②であるような
思い違いを抱かせもする。真実である①と、思い違いである②とでは決定的に相容れないところがあるから、
悪い信仰に陥ったせいで②が真実だと思い込んでしまった人間は、致命的に真実が見えなくなってもしまう。
信仰内容の劣悪さ以前に、悪い信仰にはそういった問題点が付き物でもあるわけだから、そのような信仰の
代表格である聖書信仰の特殊な教義に立ち入るまでもなく、悪い信仰一般を控えるべきだということが言える。
とはいえやはり、聖書信仰の教条こそは、「信者を極度の恐怖に見舞わせた挙句に心神喪失状態に陥れる」という
悪い信仰の黄金比を如実に体現していることも間違いがない。聖書の教義に根ざさなくとも、同様の心理的効果を
他の邪教が信者にもたらすことはいくらでもあり得るが、結局のところは五十歩百歩であり、その効果が甚大で
あるような邪教ほど、聖書信仰の教義に近似していくことにもなるだろう。いかにも「宗教らしい宗教」ほどそうで
あるらしい場合が多いから、宗教という枠組み自体、邪教こそを保護してやるためのものだったのだとも考えられる。
邪教ではないような宗教ほど、実は「宗教」という枠組み自体を必要としていたりするようなことがないのである。
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