一定情報に固執しない姿勢こそが健全となるこの世界この宇宙こそは、人間ほどにも高度な生命を現出させた。
しからば、人間ほどにも高度に文化的な生物があるべき姿としては、一定のドグマ情報などに固執しない
あり方こそが自明に適切なものであるといえ、人間ほどにも高度に文化的な存在でありながら、ドグマ情報
ばかりに固執することが健全となるような理コトワリは、原理面からいってどこにもないと断定することができるのである。
限られた記憶容量の中でだけ構築されるコンピュータープログラム上のキャラクターなり世界なりは、
それこそ一定のプログラミング情報によってのみ司られているわけだから、一定の情報に固執するようなあり方で
司られているものだといえる。一方で、そのレベルで構築されている仮想空間上のキャラクターなどに「命」はなく、
どこまでもハリボテの模型止まりでしかあり得ない。もしもそれと同じように、この世界やこの宇宙もまた一定の限られた
情報によって司られていたりしたなら、人間のような生物もまた被造され得たところで、命や自我を持ちはしなかったはずである。
命が、死文に固執することを許さない。大昔から伝承されている古言なども、それが温故知新を促す活きた
言葉であるというのならいいが、そこで完結しきって何らの応用性も見られない死文となってしまっているというのなら、
それを理由としてそのような言葉は、もう考古学資料として以上の価値などを付与してやるべきではない。それが数百年〜
数千年にもわたって固執されてきたにも関わらず、何らの善果も得られなかった言葉だというのなら、なおさらのことだといえる。
「苟くも礼義忠信誠愨の心無くして以て之れに蒞めば、固く之れに結ぶと雖も、民其れ解けざらんや」
「礼儀忠信誠実の心なくして臨むというのなら、どんなに固く(束縛の縄などを)結んだとしても、いつかは解けて民たちも離反する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
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