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聖書 Part13


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001 2013/12/04(水) 18:43:51 ID:PSVDGrHlv6
全世界、全人類にとっての最も模範的な聖書たる儒学の聖書=四書五経こそは、あまりにも
程度が高過ぎるために、人類一般が模範とするのは無理があるようなより高尚な教学や、
その手の教学の聖書を理解して体得して行く上での架け橋的な役割すらをも担えるものである。

道家の老荘列思想やヒンズー教の教え、日本神道の精髄などを理解する上での架け橋ともなるし、
世界でも最優等の教理を有する仏門の教えを学んで行く上での素地ともなるものである。
(そのため、弘法大師も最初期の著書である「三教指帰」から教理大成の書である「十住心論」
に至るまで、四書五経を含む儒学の教えを縦横無尽に引き合いに出したりもしている)

それらのより優等な教学と、「低くて親しみやすい」儒学の教理とが必ずしも
相容れているとは限らない。特に、儒学における忠孝の理念と、仏門の出家主義志向
などが決して相容れるものではなく、そのため宋儒の朱子らが一時は禅門に傾倒
しながらも、最終的には仏門を異端排撃の対象とするなどしてしまったのだった。

中国発祥の儒学とインド発祥の仏教とは、いずれにとっても遠征地となるこの日本においてこそ、
ほぼ全く矛盾を来さない形での融和を果たした。儒学は朝廷や幕府や、一家の後取りとなる
長男らがより重んじた一方で、仏門は養子先もないような次男三男や嫁ぎ先のない女子などが
出家先とした。それにより、個々の家門が厳重に尊ばれながらも、人口管理もまたそれなりに
行き届くといった、非常にバランスの取れた社会体制が実現されたのだった。(明治期
の廃仏毀釈や儒学の簡素化以降はこの均衡が破れたために、国土に不相応な人口爆発や、
その副作用としての食糧自給率の低下や少子高齢化といった大問題を招くこととなった)

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002 2013/12/04(水) 18:47:34 ID:PSVDGrHlv6
「一家から出家者が出れば三代は家も安泰(玄峰老師の無門関提唱)」といい、
「華厳経」などにおいても総出で仏門に帰依する国や王家の繁栄が約束されている通り、
仏門もまた、人口過剰などの問題を解消するバランサーとして、家や国の繁栄を貢献することを
始めから企図しているものであることには変わりないのである。家を尊び、嫡子の父母への
孝養を尊ぶ健全な世の中がより一層の泰平や繁栄を実現して行くためにこそ仏門もまた
尊ばれて行くべきものなのだから、ごく客観的に見れば、仏門の出家主義が忠孝の理念
などに反することを理由に仏門を排撃したりする必要もないことが分かるのである。

絶対に許されてはならないのは、世の中総出を挙げての忠孝の毀損を促すような邪教蛇学
までもが容認されてしまったりすることであり、これこそは世の中の破滅すらをも招く
こととなる紛れもない害悪の元凶たるものである。残念ながら、今などはそのような
粗悪な邪教が儒学や仏教以上に持て囃されてしまっている時代であり、だからこそ、
世界規模での人口爆発による人類滅亡の危機にすら見舞われてしまっているのでもある。

忠孝そのものによるのであれ、嫡子の忠孝を助成するための出家によるのであれ、
世の中が忠孝を主とした営みを保てばこそ、世の中もまた破滅に陥ったりしなくて済む
一方で、世の中が総出で忠孝を蔑ろにするようなことがある分だけ、世の中も致命的な
破滅に見舞われることとなる。それは、現代を含む人類の歴史が漏れなくそうである
ことを実証し続けていることでもあるし、ある程度以上に世の中の仕組みというものを
計り知ったならば、そうでしかあり得ないことが自明に察せられることでもある。

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003 2013/12/04(水) 18:48:15 ID:KIpJYY2GZY:au
万物斉同の諸法実相が真理であるために、究極的にもそんなことは通用しないないわけだが、
仮に個々の世の中の内の一つ、ヨーロッパの一国だとかヨーロッパ全土だとかが忠孝を蔑ろにする
邪教の蔓延などによって破滅に見舞われたとする。仕方ないので外界に新天地を求め、実際に
アメリカ大陸のような格好の場所を見つけて再スタートを切ったとする。だとした所で、そこでまた
忠孝を蔑ろにするような粗悪な社会運営に及んだならば、またそこで致命的な破滅に見舞われる
のみである。最終的には逃げ延びるに値するような新天地もなくなって、忠孝を蔑ろにするような
風潮や、それを正当化するような邪教を廃絶するのでもない限りは、自分たち自身が逃れようのない
絶滅に見舞われるしかなくなる。その時の無様さたるや見る影もなくなるわけだから、始めから
忠孝を蔑ろにするような真似に及ばないでいたほうがよかったということになるわけである。

「不孝は誅せ」
「不孝者は必ず誅戮せよ。
(春秋五覇の盟約の第一。この頃が古代中国の乱世の幕開けの時期であり、親を捨てるような
不孝者までもが現れ始めたために、このような盟約すらしなければならなくなった。こんな
取り決めが為されなければならないような乱世を招かないことから儒者の本分であるわけ
だけれども、招かれている以上はこれをも遵守しなければならない。儒学を志す者が親を
捨てることを本分とする聖書信者の横行などを絶対に許してはならない論拠となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・七より)

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004 2013/12/05(木) 14:39:02 ID:jkMRbzGVZU
朝早くから晩遅くまで懸命に働き、夜はその疲れも
あってぐっすり熟睡し、夢の一つも見させられることがない。
そんな生活こそは、人として最も恵まれた部類の生活だといえる。

満州帝国皇帝に就任した元宣統帝の溥儀も、先祖への公的な祭祀を禁じられて
国家神道への帰依を強要され、傀儡皇帝としての形骸的な公務を細々とやらされる
ような生活に追い込まれたからこそ、夜は午前二時頃まで寝られず、朝も十一時ごろ
までは起きられず、私的に構えた仏式の祭壇の前で先祖の霊が降りてきたかのような
幻覚に見舞われたりしていたという(「わが半生」参照)。傀儡とはいえ皇帝だから、
物質的にはかなり恵まれたほうの生活を送れていたにも違いないわけだが、だとした
ところで、ろくな仕事にも与れず、先祖崇拝すらをもろくにできないような状況に
追い込まれたことが本人に多大なる精神的負担を強いたことにも違いがなかった
ものだから、そんな不健全な生活習慣にも追い込まれざるを得なかったのである。

「熟睡状態こそは梵我一如の境地である」とはウパニシャッド哲学にある教説だが、
もう少し現代人でも納得の行きやすいような言い方をすれば、夢も見ないような熟睡状態
こそは。自分が生まれる前や、死んだ後における意識状態と同等のものであるといえる。

死ぬ瞬間には「走馬灯」などと呼ばれる幻覚を見たりすることが臨死体験などからも
知られているから、それには当たらない。完全に死んだ後の、脳の活動が完全に停止
した後の状態こそは熟睡状態に近似するわけで、熟睡状態を生きている内から多分に
経験して特段恐怖にも思わないでいられる者こそは、死んだ後の状態などを恐れたり
する必要もない。しかれば、そうであるような人間、そうでいられるような生活環境に
与れているような人間こそは、心理的にもより恵まれた人間であるとも言えるのである。

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005 2013/12/05(木) 14:42:34 ID:jkMRbzGVZU
旺盛に働いたりすることだけでなく、一日中座禅していたりすることもかなりの
疲労を本人に課すものだから、そのおかげで熟睡状態が得られたりもする。どんな
手法に頼るのであれ、覚醒中に多大な疲労に見舞われることでこそ、死への恐怖を
克服する糧となる熟睡状態が得られるわけだから、むしろそのような機会に与れている
ような人間こそは、限りある命の持ち主である人としてより恵まれているのだといえる。

夢を見ることも、それはそれで有益だったりもするから人間に備えられた機能なのではある。
ただ、それは怪我をすれば患部が痛んだりするのと同じ、ある種の警告機能でこそある
のだといえる。良い夢にしろ悪い夢にしろ、基本は全てまやかしであり、そこから自らの
問題点を察知して、その改善に努めて行くための材料とすべきものでこそある。たとえば、
中年以降になっても若かった頃の思い出の夢ばかりを見たりするようならば、それが楽しげ
であるとした所で、つまらない現状から逃避しようとするような願望を自らが本能的に
帯びているからそんな夢を見てしまったりするわけだから、そんな夢を見なくて済む
ようになるような現状の打開こそを企図すべきだといえる。(それがなかなか無理
なものだから、夢の中で楽しかった思い出を想起してしまったりもするわけだが)

本当は一種の警告であるにもかかわらず、楽しいものだから、ある種の夢に耽ってしまう
ようなことがある。それこそ、「夢を見る」という機能に惑わされた状態であるわけで、
そのような夢を楽しむことよりも、それが現実の自分に対する如何なる警告であるのかを
探り当てることに専念して行くようにしなければならない。その原因を察知して、着実な
改善に努めた結果として夢を見なくなれば、その時にこそ、現実の自分が以前以上の
健全な向上と充実とに与れるようになれているに違いないのだから。

「朝に奠するは日出ずるよりし、夕に奠するは日に逮ぶ」
「神に供物を捧げることも、日の出から日没の間までとする。
(朝から晩まで働くものこそを見守ってくれる神もまたあり、それこそは正神でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三)

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006 2013/12/06(金) 13:15:36 ID:8uActplxNM
人間にとって、人道を尊ぶことが、天道や仏道に至る上での第一歩ともなる。
とはいえもちろん、人道にも尊び方というものがあるわけで、墨家の提示した
兼愛薄葬だの、共産制の導入だのは、人道の尊び方としては甚だ不適なものである。

君臣父子夫婦の三綱を機軸とした封建的社会秩序の確立こそが、分家や末子を宮司家や
出家者に充てるなどの形で、実質面からの神仏帰依の興隆にも貢献して行くこととなる。
封建制による世の中の保全と、寺社の保全とが厳密に連動すればこそ、富裕者からの寄進
などによって教団が保たれて行く場合などと比べても遥かに安定的に寺社が保全されて
行くこととなるし、また公権力の側の腐敗がそのまま神仏文化の衰退にも直結するもの
だから、神仏文化の興隆こそが公権力の腐敗予防という効果をもたらしもするのである。

ひるがえって、人道をかなぐり捨てての某神への帰依を促す例の邪教たるや、
比較的実践主義的とされているような教派であっても、司祭が失恋のショックを
気概にして出家していたりする始末である。そんな脆弱な理由で司祭になったような
連中が教団を形成していたりするものだから、教団の利害が天下国家と必ずしも一致
しないのみならず、世の中から一方的に利益を巻き上げて、人々を困窮に陥れるのと
引き換えに自分たちの富裕を貪ったりするような真似にまで及んでいるのである。

天下国家と厳重に利害を共にして行くものだから、人道と共なる神仏帰依こそはより
安定的である一方で、そのような条件をかなぐり捨てているからこそ、人道を蔑ろに
した邪神への帰依こそは世界の破滅を招き、以って自分たちが生き延びるためにこそ、
そのような邪教への帰依を破棄しなければならなくなってしまう。より普遍的だから
安定的であり、より危ういから普遍的ではないというのは、もはやトートロジーの域で
すらあるわけで、「天」とか「神」とかいった言葉にも「普遍的なもの」という含意が付与
されていればこそ、どちらがより神や天の域に近いのかまでもが自明に判明するわけである。

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007 2013/12/06(金) 13:22:24 ID:8uActplxNM
どこの文明社会にも、一時ぐらいは封建制が存在していた。しかし、封建制やそれに
基づく宗教帰依が必ずしも天下国家の公益への寄与や、より安定的な社会統治に結び
付いていたとも限らない。それは、封建制が君臣父子夫婦の三綱全体を重んずる形で
確立されていたか否かによって、大きく左右されていた面だといえる。三綱全体が
重んじられていた封建制であれば、それが個々の家門の尊重に直結して、士農工商万民
の家に渡るまでの隙のない利害の統制が実現されて行く一方で、せいぜい君臣長幼の
関係ぐらいまでしか重んじられていない封建制となれば、公権力者が一部の富裕者などと
結託して暴利を貪り、その金で宗教に帰依したりすることまでもが容認されてしまう
ものだから、封建化がかえって世の中の困窮や破滅にすら結び付いてしまうのである。
(そのような封建下で帰依される宗教こそは、司祭が失恋のショックで出家してたりする)

封建制を三綱五常の堅持と共に営んで行くということは、儒学の重んじられていた一部
の東洋社会でのみ実践されていたことだし、それとて必ずしも成功してはいなかった。
三綱は三綱で尊ぶとしても、それ以上に世の中での職制による階級差別のほうが偏重
されてしまい、三綱の尊重が万民への公益寄与にまでは結び付きもしなかったのだ。
(明清代の中国や、李氏朝鮮などがそのような様相を呈してしまっていたようである)

ただ封建制を確立するだけなく、そこに階級差別以上に重んじられる三綱五常という
「徳治の核」が埋め込まれるのでなければならない。三綱五常を抜かした封建制などは、
魂を入れぬ仏もいい所で、そんなものをいつまでも持て囃したりしたせいでの仏罰に
すら見舞われかねないから、その時にはまた易姓革命で政権を再建するぐらいしなければ
ならない。家門の尊重が恒常的に階級制以上のものであり続けて来たからこそ、日本の
君主制が有史以来完全に途絶えたこともないわけで、ただただ平和だったから保たれて
来たわけでもないのは、武家時代以降における数多の戦乱を見ても分かる通りである。

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008 2013/12/06(金) 13:37:34 ID:GPnXT1iJUU:au
「一人慶有れば、兆民之れを頼りて、其れ惟れ永く寧んぜん」
「世の中の内のただ一人にでも善良さがあれば、億兆の民たちが
彼に頼ったとしても、それで末永く世の中も安んじられることだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)

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009 2013/12/07(土) 15:42:41 ID:q5VMT4KicM
帰依者が信仰過程において相当な迫害下に置かれるようなことを、「法華経」なども予言している。
これが、熱心な法華帰依者だった鎌倉幕府初代将軍源頼朝にとっての、伊豆流刑時の心の支えに
なったりもした一方で、日蓮宗不施不受施派や今の創価学会などが閉鎖的な教団派閥を形成して、
異教徒との敵対関係を激化させて行く上での自己正当化材料ともなってしまったのだった。

法華経の場合、頼朝公や道元禅師や白隠和尚や本阿弥光悦などのように、個人で深くその教理に傾倒して
行く場合にはそれなりの功を奏する一方で、比叡山や各種日蓮教団などのように、徒党派閥を組んでの
帰依対象とした場合には、利権の吹きだまりと化してしまうなどの問題を来すことが通例となっている。

これは、信者に試練を科す類いの教理を持つ法華思想が、さらに個人に集約される試練として
透徹するか、あるいは集団に科される試練として緩慢化するかによって大きく食い違ってしまった
部分であるといえ、前者が功を奏して後者が問題を来したからには、法華思想を含む試練予言型
の思想信条は、団体ではなく個人で受け止めて行くことこそが適切であるのだと言える。

極論すれば、法華思想ほど個人で帰依するのに相応しい仏教思想もない一方で、
法華思想ほど集団で帰依することが危うい仏教思想も他にないのだとすら言える。

仏教においてですらそのような、集団帰依が問題性を帯びる類いの教理が一部あるのだから、
他の教学であればなおさらのことだといえる。人との和を尊ぶ儒学といえども、みんなで一緒に学んでばかり
いるのではなく、自分こそが独力で率先して学んで行こうとすらする場合にこそ、深い理解が得られたりする。
元より孔子や孟子自身、当時の儒学者の中でも白眉中の白眉な存在だったわけで、ただみんなで仲よく
お勉強してたばかりの存在ではなかったわけだから、そのような姿勢ばかりでいれば孔孟はおろか、
孔孟がそれなりに評価していた子路や楽正子といった弟子程度の上達者にもなれはするまい。

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010 2013/12/07(土) 16:10:24 ID:q5VMT4KicM
個人で諸々の苦難を受け止めて行くのと、集団で苦難を受け止めるのとでは、「苦難を受け止める」
という点は同じでも、根本的に本人たち自身の心象の位相から食い違ってくる。片や自力作善の心持ち、
片や他力本願の心持ちとなるわけで、自力作善の心持ちと共に苦難を受け止めるのは至当となる一方、
他力本願の心持ちでいながら苦難を受け止めたりするのは本質的に不健全なこととなってしまう。

孟子も「仁者こそは大成のために心志を苦しめられる」と予言しているわけで、この世に
仁政を敷こうとするような自力作善の者が苦難を受け止めるのはそれなりに理にかなったこと
だといえるが、そんな志しもない他力本願の徒が同様な試練を課されたりすることには、なんら
そのような目的性が見込まれないのだから、進んで苦難を受け止めようとしたりするだけ無駄だといえる。

逆に、集団で苦難に遭うことがお互いの精神的な苦しみを折半してしまうが故に、大して苦しんで
いないにもかかわらず、多大な苦難を受け止めていられる自分たち同士での思い上がりを募らせる
ようなことにすらなってしまうわけだから、より大概にすべきことであるとすら言える。

他力本願の徒だろうが何だろうが、進んで苦難を被ろうなどとすらしない内から、
先天的に課されるような労苦がいくらでもあり得る。そのような、義務性を帯びた労苦のほうを
ちゃんとこなして行くことのほうに他力本願者であれば専念すべきなのであり、それすらをも
蔑ろにしての、分不相応な苦難の受け止めなどを希求していたりしたなら、苦難などできる
限り避けようとして来た場合以上にも悲惨な顛末すらもが待ち受けることとなるであろう。

「天の方に難ぜるとき、憲憲と然る無かれ。天の方に蹶せるとき、泄泄と然る無かれ」
「天が苦難を課そうなどというときに、偉そうにものを言うな。天が物事を覆そうというときに、
傍観者然とした多弁であるな。(上天は声もなく臭いもなし。天や神を騙って偉そうにすべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大雅・生民之什・板より)

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011 2013/12/08(日) 13:20:47 ID:3Pj1ImtSJ2
ある程度以上に自意識過剰の思い上がりが肥大化してしまった人間は、
自分を認めてくれる相手は善い人間、正しい人間であり、認めてくれない
相手は悪い人間、間違った人間だなどと平気で決め付けるようになる。

本当は、正しい自分を認めてくれる相手や、間違った自分を認めてくれない
相手こそは善人であり、その逆であるような相手が悪人であるわけだが、
思い上がり屋にはそのような分別もなく、ただ自分を認めてくれる相手を
是として近づけて、認めてくれない相手を否として遠ざけてばかりいよう
とする。結果、そのような人間関係ばかりを構築していったことがかえって
自らの過ちを助長して、改善不能な状況へと陥れてしまったりするのである。

それこそ、一切合財が善人を寄せ付けない悪人の群れ、小人の群れと化して
しまっているわけで、そのような集団が国家規模の権力すらをも乗っ取ったり
した場合にこそ、亡国や大戦級の災厄がもたらされることともなってしまう。

漢帝国の帝室のように、過ちをズケズケと指摘する直言の士(袁盎など)を
あえて重用したりするだけの度量の深さを、君子こそは持ち得るものだから、
そのような人間すらをも近づけるか否かが、当人が君子であるか小人である
かを計り知るうえでの格好の判断材料の一つともなる。そのような人間を
あえて近づけすらすべきなのは君子階級の公職などであって、小人同士の
職場関係や友人関係などではそんな義務性までもが伴うわけでもないから、
まず公職者がそのような直言者を近づけるか否かを見るべきである。近づ
けるようならば、当該の公職が君子によって占められている可能性が高く、
遠ざけるようならば、小人によって占められてしまっている可能性が高い。
(君子は君子と、小人は小人と群れたがる上記のような法則があるため)

自分を認めてくれる相手を無制限に是とし、認めてくれない相手を無制限に
非とするような人種が君主制の下で権力を乗っ取った場合にこそ、「暴君」
が生じもする。政商呂不韋が数多の食客などと共に秦王国を乗っ取って、
悪逆非道の限りを尽くして統一中華帝国を創立した結果として、中国史上
でも最悪級の暴君である始皇帝が誕生もしてしまった。ただただお互いを

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012 2013/12/08(日) 13:24:57 ID:3Pj1ImtSJ2
認め合ってばかりの集団なわけだから、直言の士すらをも受け入れるような
君子同士の集団などよりも、個別の集団としては磐石な一枚岩を形成する。
その結束力によってこそ、中国統一級の大業が成し遂げられるにも違いない
わけだが、それは同時に致命的な権力腐敗の温床ともなってしまうものだから、
案の定、秦帝国もたった十五年しか政権を保つことができなかったのだった。

君主制ではなく、民主制の下で上記のような思い上がり屋どもが政権を
乗っ取った場合には、あからさまな暴君というのが表には現れて来ない。
大統領や首相もあくまで民意の代行者以上の存在ではないとされるから、
そこで暴君然としていられるはずもなく、もし内心そうであるとした所で、
表向きにはできる限り面従状態の媚びへつらいを貫いておこうとする。

だからといって、民主制といえども、思い上がり屋が政権を乗っ取ってしまっ
たが故の因果応報としての危難を免れられるものではない。あからさまな
暴君を表向きに立てたりしなかった分だけ、「麻酔漬け状態でのガンの進行」
的な問題を深刻化させることとなり、同様の問題を帯びた君主制が崩壊する
場合以上にも深刻な問題を宿した大崩壊を招くことにすらなりかねない。

権力機構が思い上がり屋の小人ばかりで占められたりしなければ、体制が
君主制だろうが民主制だろうがいずれでも構わないわけだが、残念ながら、
民主制は始めから小人が政権や主権を掌握することを目的としたイデオロギー
であるため、そのような条件を満たすことが永久にできないようになっている。

君主制とて、必ずしも君子に政権を握らせられるとは限らないわけだが、
その可能性が多少なりともあるというだけでも、民主制よりはまだ見込み
があるわけで、君主制によって君子こそが政権を握れるように企図して行く
ことこそは、政治にかけての万人にとっての最善となるに違いないのである。

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013 2013/12/08(日) 13:43:45 ID:26M52K.vZM:au
「此こに人有り、其の我れを待つに横逆を以ってす。則ち君子は必ず自ら反りみるなり、
我れ必ず不仁ならんや、必ず無礼ならんや、此の物奚宜ぞ至るべけんやと。其れ自ら反りみて仁なりて、
自ら反りみて礼有るも、其の横逆由お是くのごとくなれば、君子は必ず自らを反りみるなり、
我れ必ず不忠ならんやと。自ら反りみて忠なるも、其の横逆由お是くのごとくなれば、君子も曰えり、
此た亦れ妄人なるのみ、此くの如くは則ち禽と奚ぞ択ばん、禽獣に於いて又た何をか難とせんと」
「ここにひとり人間がいたとして、その人間が自分に対して横柄で逆らうような態度で臨んで来たとする。
すると君子はまず自らを反省してみる。自分に不仁な所はなかったか、無礼な所はなかったか、
どうしてこのようなものを相手にしなければならないのかと。十分に自省してみても自らが不仁でも
無礼でもないのだと確認できたのに、なおのこと相手が横柄で逆らうような態度のままでいたとすれば、
また君子は自らを反省してみる。自分に不忠なところがなかったかと。十分に反省してみてもやはり
不忠などではなかったが、それでもやはり相手が横柄で逆らうような態度でいたとすれば、その時にこそ
ついに君子も諦めてこう言うのである。『こいつはもうただの禽獣も同然の存在ではないか。禽獣を
相手に何を問題とする必要があるだろうか』と。(逆らうような相手も、君子は二度まで自省の材料にする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二九より)

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014 2013/12/09(月) 14:36:43 ID:xZyuCDQ8jk
仏に特有の身体的特徴とされる三十二相八十種好のうちに「肉髻」というのがある。
仏像好きであれば誰でも知っている頭頂部の盛り上がりであり、そこにどんな意味が
あるのかはともかくとして、古来から仏像製作上での重要な取り決めの一つとなっている。

一方で、儒学の祖である孔子は、頭頂部がへこんでいたという伝説がある。
人間は生まれた直後には頭蓋骨に隙間があり、特に頭頂部の間隙が大きい。
それが成長と共に塞がれて行くわけだが、孔子の場合、あまりにも頭脳の発達
が著しかったために、脳の発達に頭蓋骨の成長が追いつかなくて、頭頂部が
へこんだような形で頭蓋が形成されてしまったなどの原因があったかも知れない。

頭頂部が膨らむ仏の身体的特徴と、頭頂部がへこんでいたという孔子の身体的特徴とは
半ば相反するものであり、超俗の聖賢と世俗の聖賢が根本的に別物であることを
暗に示唆する説話となっている。そして、超俗の聖賢たる仏や菩薩こそは人間の
生死をも超えた真理を追求する一方で、孔子や孟子に代表される儒者こそは
「生を養い死を喪して憾みなく(梁恵王章句上・三)」という、人間たち自身の
福利厚生にかけての最善を尽くすという、実践面からの枝分かれをきたしてもいる。

生死を超えたところに有る絶対真理を探究するのも、真理からは大分かけ離れた所にある
人間たち自身の福利厚生を追い求めて行くのも、いずれもが尊ばれるに値する偉業と
なるに違いないわけだが、これらを一人の人間が両立させて行くことは甚だ困難なこと
となるし、そもそもこの二つの道が根本的に別物であり続けることには変わりがない。

大乗の仏者として真理の悟りを追い求めながら、土木事業のような社会事業に参画して
行く場合もあるが、そのような仏者ほど己れの身命をかなぐり捨てての荒行に臨むわけで
(61歳で自ら即身仏となった弘法大師などがその典型例)、自らの命や家の保守と共に
君子階級としての仁政を志して行く儒学の実践者などとは大いにその様相を異にしている。

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015 2013/12/09(月) 14:52:07 ID:xZyuCDQ8jk
儒者こそは「未だ人を知らず、焉んぞ真理を知らん(先進第十一・一二の趣意)」
といった姿勢であり、真理を追い求めるような出すぎた真似に及ぶことなく、
忠孝や仁政に励んでいこうとする。しかもそれでこそ、大乗の仏者など以上にも、
世の中を親身になって利そうとする仁者としての主役的立場を担って行くこととなる。

日本史上などにも名僧の数は多いが、それらの僧たちも客分的な立場から世の中を
利して行くことに特化していたわけで(徳川家康のブレーンとして暗躍した天海などが
その最たる例)、世の中での善行に取り組む主人公中の主人公といえば、それはやはり
天皇公家や将軍大名やその群臣たちといった、世俗の公権力者たちでこそあった。
そしてそのような公権力者たちこそは儒学の実践を本分とし、仏門への帰依などは
あくまで世俗からの副次的な嗜みにとどめ続けて来た。真理も尊びはするが、それは
あくまで超俗の出家者たちの本懐とするところとし、自分たち自身は家を保つことや、
家の名誉にかけての仁政徳行に励んだりすることのほうを本分とし続けて来たのだった。

主君や親への忠孝に励んだり、それに基づく泥臭い善行に励んだりすることが、
決して真理に直接的に親しむような効用を持ち合わせているわけでもないが、
それでこそ自分が最大級に厚い生を享受することとなるし、自分以外の誰かに真理
探求の役割を担わせて行くための仏門興隆に資することすらもが可能となるのである。

人間自身の福利厚生と、絶対真理とは、根本的に相容れない部分がある。両者を
本格的に追求して行くためには、最低でも二人以上の人間が分業を心がける必要がある。
そうであることを諦められる物こそは、何もかもを自分一人で貪り食らってしまおう
とするような思い上がりまみれの渇欲を自制することができるようにもなるわけで、その
自制心こそが、人間たち自身の福利厚生を追求して行く場合と、絶対真理を追い求めて
いく場合とのいずれにもおける適格者としての基本的な素養となるに違いないのである。

返信する

016 2013/12/09(月) 14:53:49 ID:8QI4mH/gH2:au
「礼儀なるものは〜生を養い死を送りて鬼神に事える
所以の大端なり。天道に達して人情に順う所以の大宝なり」
「礼儀こそは、人が自他の生を養い死を喪する上での大端であり、天の真理に達して普遍的な
人情にしたがっていく上での大宝である。(礼儀には生を養うことだけでなく死を喪すること
も含まれるし、孟子などはむしろ死を喪することのほうが大事だとすら述べているわけだが
〈離婁章句下・一三参照〉、それこそが真理に達するための手段として最適ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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017 2013/12/10(火) 11:24:08 ID:JnxHKZsO52
東西を絶海によって隔てられた絶好の地勢と、世界最強の軍備とで、
外界からの侵略を全く寄せ付けないままでいられているアメリカといえども、
自国民の浪費が原因での経済破綻までをも防ぎとめることはできない。
かつての秦帝国の権力腐敗による自壊などと同じで、外的な腕力の強大さ
ばかりに駆られて内実を疎かにした結果、全くの自業自得の自壊を招く
ということがあるわけで、これこそは、外界からの侵略などによる
場合と比べても絶対に免れようのない破滅となってしまうわけだから、
外的な腕力以上にも、自分たち自身の自己修養こそは、致命的な
破滅を免れるための決定打となることが確かだといえる。

一部、比叡山の僧兵などの軍事勢力化してしまった事例を除いて、
仏僧のほとんども徒手空拳で他者への危害なども徹底して禁じられて
来ているわけだけれども、かえってそれによってこそ、外的な守りに
入ったりする余地を断ったことによる本格的な自己修養をこなすことができた。
それが自分たち自身だけでなく、助言を講じてやる在家の公権力者などに
とっての自己修養の助けともなるから、仏門を囲い込むことが国家鎮護の礎に
なるとすら認められて、国を挙げて仏教が尊ばれるなどして来たのである。

それがたとえば、蒙古襲来時における鎌倉武士の健闘などにも生かされた。
日本にないような新兵器や新戦法をも駆使した蒙古軍を相手取った幕府の執権
北条時宗に対し、禅僧の無学祖元は「驀直去(迷わずまっすぐ進め)」と助言した。
案の定、世の中に敵船に乗り入っての切り込みなどの積極的な戦法に出れば、
個々人は中国や朝鮮から徴発された練度の低い雑兵だったりすることの多かった
蒙古軍は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。座禅を本務とする禅僧であればこそ、
無制限に戦線を拡大していた蒙古軍の内情の脆弱さすらをも本質的に見抜けていた
可能性があるわけで、禅の嗜みが一流の兵法にすら達する場合があることの示唆となっている。

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018 2013/12/10(火) 11:54:05 ID:JnxHKZsO52
その、鎌倉武士の健闘などを参考にして、旧日本軍も米欧列強を相手にした奮戦
を繰り広げたわけだけれども、こちらは鎌倉時代の日本人と違って、仏門を尊ぶ
ほどもの自己修養などは全く疎かにした上での猿真似に過ぎなかったものだから、
最終的な敗北を喫した。自己修養ということであれば、真珠湾攻撃の瞬間まで保守的
な中立志向を貫いて、自国の工業力の養生に専念していたアメリカあたりのほうが
まだ上であるぐらいだった。もちろん真珠湾攻撃に至らせるための日本に対する
経済包囲網などの策謀をアメリカのほうが企てもしたわけだから、太平洋戦争の
全責任が日本にあるなどとするのも言いがかりとなるわけだが、国力の養生などが
未だ疎かなままであることを半ば自覚しながら無謀な対アメリカ戦争に及んだ当時の
日本人のほうが無謀であったことにも違いなく、そもそもが当時の日本人からして、
鎌倉武士ほどもの自己修養を積める機会などが始めからなかったのだといえる。

それはもう、イギリス商人との結託によって倒幕をやらかしたような国賊たちが
実権を握った明治以降の日本にとって、到底避けられぬことでもあった。「始めに
毛筋ほどもの過ちを犯していれば、後々に千里の過ちとなる(易緯)」というが、
この場合、始めから千里の過ちを犯していたようなものなのだから、その末路たるや、
言わずもがなである。日本の軍事技術と、アメリカの金融システムの両方をイギリス
が掌握しているような状態で、ただ日米ともども出来レースに加担させられたと
いうばかりのことなのだから、お互いに多大なる損害をもたらしてしまった分だけ、
両者共倒れの様相だったといえる。どこにも十分な自己修養の持ち主がいな
ければこそ、そのような卑劣な乱戦状態がもたらされてしまったわけだから、
これはもう、当時の世界全体の悪逆非道に対する敗北だったとすらいえる。

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019 2013/12/10(火) 13:07:55 ID:QtfS80evA2:au
そして未だ、人々の自己修養が非道な暴力主義を淘汰できていない現状において、
世界も破滅への一本道を邁進し続けている。核抑止力によって大戦級の戦争災禍は
今のところ防ぎ止められているが、だからこそ、世界総出での経済的壊滅状態の
様相を呈しつつもある。これこそは、人類という種族にとっての最大級の敵が、自分
たちの外ではなく内にこそ潜在していることを実証している何よりの証拠だといえる。

「若し其の身を艱難し、以て大人を危険からしめて、
名の章らかに徹る有らば、攻難の士、将に之れに奔走せん」
「もし自らが艱難に遭い、そのせいで目上の人間すらをも危難に陥れて、
それで自らが名を馳せられたりするようなら、聞き分けのない人間がそのような
愚行に奔走し始めることだろう。(『攻難』で『聞き分けがない』を意味する。
擬似的な精神障害によってまで聞き分け能力を損なうカルト信者も攻難だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公三十一年より)

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020 2013/12/11(水) 15:23:22 ID:1YmfQd9Jlw
本物の忍耐は、自らの名誉を守るところなどではなく、名誉すらをもかなぐり
捨てての不遇に甘んずるようなところにこそ存在する。そしてそうであることに
気づけるか否かが、己れの品性を君子か小人へと決定的に分かつ機縁ともなる。

小人は、ただ名誉のないところ、ただただ不遇であるという状態を、そもそも
耐えようとすらしない。自らにそれに耐えられるだけの忍耐力があるか否かに
関わらず、「そこは耐えていたりしてはならない部分だ」などと勝手に思い込む。
そこから蘇秦や李斯のような、手段も選ばない妄動による成功を追い求めて行く。
不正な金儲けや鉄砲玉働きや外交犯罪の請け負いなどによってでも、とにかく
自分自身が富と名声を手に入れての人生の謳歌に与ろうとする。そしてそのような
人種の跋扈こそが世を破滅にすら陥れるわけで、ただ全くの不遇状態に耐えようと
しなかっただけのことがそれほどもの災厄をこの世にもたらすことこそはまさに、
「始めに毛筋ほどもの過ちを犯していれば、後々に千里の過ちとなる(易緯)」
という罪過の雪だるま式の増幅法則に寸分たがわず合致した有り様となっている。

道家の隠遁志向や仏門の出家志向などとはまた別に、儒家にもまた「乱世に限って
の遁世」を促す教理が多少なりとも備わっている。それは、そこでこそ乱世の汚濁
に溺れることなく君子としての素養を磨き上げられるからであるわけだけれども、
それこそ、小人にとってはただ耐えられないだけでなく、そもそも耐えるべきで
ないとすら思えるような境遇にあえて甘んじる出処ともなるわけである。それでも
あえてそうすることの価値を計り知り、実際に鳴かず飛ばずの無名者で居させ
られる忍耐を心がけられるのは、まさに自らが君子であるからでこそあり、そこは
小人がどうしたって越えられない壁の向こう側にある境地だといえるのである。

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021 2013/12/11(水) 15:26:25 ID:1YmfQd9Jlw
「舜は畎畝の中より発せられ、傅説は版築の間より挙げられ、膠鬲は魚鹽の中より
挙げられ、管夷吾は士より挙げられ、孫叔敖は海より挙げられ、百里奚は市より挙げらる。
(以下既出)故に天の将に大任 を降さんとするや、必ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を
労せしめ、其の体膚を餓せしめ、其の身行を空乏せしめ、其の為さんとする所を
拂乱せしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむる所以なり」
「舜は田圃の中から起こり、傅説は土方から挙げられ、膠鬲は魚塩の商人から挙げられ、
管仲は囚人の中から挙げられ、孫叔敖は海辺の部落から挙げられ、百里奚は市場から
挙げられて功を成した。これらの事情からも分かるとおり、天がある者に重大な任務を
与えようとする時には、必ずその心情や志しを苦しめ、筋骨を労せしめ、身体髪膚を疲弊させ、
身の行ないを失敗ばかりに導き、為そうとする所をことごとく食い違わせる。心の機微を
研ぎ澄まし性情を忍ばせて、誰にもできなかったことをできるようにさせるためである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一五より)

上の著名な記述を見ても分かるとおり、孟子は小人が「耐えていてはならない」とすら
考えるような全くの無名状態こそを「耐え忍ぶべき試練」として例示しているわけで、
そここそを耐え忍ぶべき所と見立てて修養の場とする者こそは、君子としての素養を
身に付けて行くものとすら考えているわけである。(一部管仲など、徳性よりはむしろ
覇道政治の能力で名を成した人物例も挙げているため、全てが全てそうでもないが)

それなりの地位や名誉を保ったところでの忍耐による修養などは、たかが知れてる、
徹底的に地位や名誉を失い尽くした所での忍耐にこそ、次なる道を切り開いて行く
本格的な修錬が伴いもし得る。それは、陰極まれば陽に転ずる易の法則にも合致して
いる法則であり、故にこの世界この宇宙を万遍なく包摂し尽している法則でもある。

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022 2013/12/11(水) 15:29:31 ID:GOYraogAns:au
だからこそ君子は、小人が耐えようともしないような最低度の不遇をも修錬の場とし、
そこでこそ君子としての素養をより磨き上げて行こうともする。仏者も最悪の不名誉
すらをも耐え忍ぶ「忍辱行」を修行の一環として重んじていたりするとおり、むしろ
より高い品性の持ち主こそは最悪の不名誉にすら甘んじて行くというわけである。

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023 2013/12/12(木) 14:21:25 ID:GBocE32mbw
世界でも、日本列島ほど、単なる居住地として恵まれない環境と、
その環境的不遇をバネにした聖賢の練達に適した条件とを
高度に両立させている土地も他にないといえる。

ただそこに安住したいというだけならば、可住地域の狭さや、夏場の
高温多湿さや、冬場の乾燥や豪雪や、地震や津波や台風や火山噴火といった
数多の障害が待ち受けている、それはそれは条件の悪い土地であることが
明らかである。ただ、そのような条件の悪さを逆手にとって、狭い土地での
人々の和睦に努めたり、急峻な山間地域での修行に励んだり、豪雪地帯での
農産に務めたり、大水や渇水を手玉に取る土木事業に励んだりすれば、
それが自分たちにとっての修養となる。そうして実際に多くの日本人たちが、
世界でも突出する程もの精神的、技能的な練達度を磨き上げてきているのである。

弘法大師空海が四国山中などでの長年の修験道修行に取り組んだ後に、唐に
乗り込んで密教寺の門を叩くや、そこでも他に類を見ないほどの才覚を発揮した。
密教の中でも最高度の完成度を誇る後期密教を継承していた青龍寺の恵果和尚は、
その空海の才覚を見込んで即座に密教の奥義を伝授し、当初の留学予定期間である
20年を遥かに下回る2年という短期間で空海を祖国である日本へと帰国させた。
(そのせいで空海は違約の咎を被って一時大宰府に滞留させられることともなった)
恵果和尚がそれ程にも空海を厚遇したのも、何も空海一人の才覚の突出度ばかりを
見込んだからではあるまい。儒教の本拠地でもあるために、教義の一部が倫理違反
として排撃の対象にすらなっていた中国などと違って、日本が密教の修得や温存に
うってつけの土地柄や国柄であることを、自国での修錬によって密教修得の素質を
磨き上げていた空海の才覚を通じて間接的に見取っていたからこそ、極東の島国
からの渡来者などにあえて密教の奥義すらをも早急に伝承したに違いないのである。

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024 2013/12/12(木) 14:27:09 ID:GBocE32mbw
近代以降に日本で工業技術が急激に発達したのも、日本刀などに代表される高度な
伝統工芸技術が昔から培われて来たからでもある。たとえば、その日本刀の原料
となる玉鋼の生産のためにも膨大な木炭が必要とされる。その木炭の産出地として
最適であったのが今の岡山県にあたる備前一帯であったものだから、そのあたりで
長船一派に代表される刀工たちが数多の名刀を作製して来てもいるのである。
しかし、豊富な木炭を生産できるからには、備前一帯は昔から森林を急激に成長
させる程もの豪雨地帯でもあったわけで、そのせいで洪水が絶えることもなく、
天正18年の大洪水によってついには長船一派の道統も一度は完全に絶えることと
なってしまったのである。これもやはり、住むには適さないような過酷な環境が
ある種の高度な技能を発展させた一例であるといえ、人間たるもの、真に偉大な功績
を挙げるためには、時には本当に洪水に呑み込まれる程もの身の挺しようでなければ
ならないことがあるということの、まさに身を挺した見本ともなっているのである。

自分一身の安楽などよりも、自らが身を挺してまでの大業のほうを自らが
追い求めて行くことができるのは、これもやはり大人の男だけである。女や子供は
そんな試みに及んでみた所でさしたる業績も挙げられない程度の社会的能力しか
持ち合わせていないのだから、そんな志しを抱けないのも仕方の無いことだといえる。
だからこそ、男の大業によって世の中がより一層の繁栄に与るためには、わが身を
挺してまでの大業に取り組もうとする男の性向が、男たち自身によっても、女子供
によっても、誰しもから優先的なものとして尊ばれて行く必要があるのでもある。

「上は下を厚うして、以って宅を安んず」
「君子は社会的上位者として下位者の福利厚生を企図することで、
自分たち自身の居住まいをも安んずる。(社会的な上下関係はあっても、
両者の関係はギブアンドテイクなものであり、どちらかがもう一方の衣食住を
一方的に安んじてやったりするものではない。そうであることをよく重んじ
ればこそ、人間社会における最大級の安寧が獲得され得もするのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・剝・象伝より)

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025 2013/12/13(金) 14:56:35 ID:XzSeBMOnx.
「吾が道は一を以て之れを貫く」
(里仁第四・一五)

妾腹の私生児という恵まれない境遇に産まれた孔子が、その不遇をバネにした
自学自修に励んで学者として大成したのも、ただ首尾一貫を心がけたからでこそあった。
生まれつきの境遇自体は恥ずべきものであると自覚し、それに相応の努力を心がけた。
疎かなままとなっていた家族関係も整理して、亡き母を父の墓に合葬し、孔家の
正式な跡取りともなった。それら全ての振る舞いが、どこまでも不遇を乗り越える
上での正攻法であったがために、孔子も着実に卑しさを乗り越えることができたのである。

同じ妾腹の私生児として生まれたにしろ、イエスなぞはそうすることができなかった。
恵まれない境遇に取り込まれて自暴自棄となり、父親の身元が知れないのをいいことに
自らを神の子(キリスト)だなどとまでうそぶいた。それは、孔子の場合などとは逆に、
自己を偽ることでの現実逃避をやり込めた有り様であったといえるわけで、故にこそ、
それがカルト教義による深刻な自己洗脳の雛形としての模範にされてしまったのだった。

心持ちとして、自己を偽ったりすることなく、幼児の頃からの初心を貫徹するということ、
それは、妾腹の私生児ほどにも恵まれない環境に生まれた人間であろうともそうすべきで
あることなのだから、それ以上に恵まれた環境に生まれ育った人間であればなおのこと
であるといえる。人間にとって、生まれ付きの最原初から備わっている本性こそは善であり、
その善性にこそ従っていくことこそが先天後天両面における人としての徳行ともなって行くの
だから、特にそれへの障害がなければ恙無くそうして行くべきだし、生まれの不遇さのような
障害があったとしても、着実な自助努力によってその障害を乗り越えて行くべきだといえる。

人それぞれ生まれた境遇は異なるのだから、そこから徳行を積み重ねて行く上での手段も
さまざまとなる。ただ、それはあくまで個人差を埋め合わせるだけの差異であるわけで、
差分を差分で埋め合わせた上で徳行によって積み重ねられる徳というものは同一である。故に、

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026 2013/12/13(金) 15:01:48 ID:XzSeBMOnx.
「夫れ道は一なるのみ」
「(徳を積んで行く)道は本質的に全て同じものであり、首尾一貫している」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・一より)

というのであり、当該の一本道を歩むことを奨励する教学こそは正学正教となる一方、
その道に外れた邪道を歩むことを促す教学こそは邪教邪学ともなってしまうのである。

人が徳行のために邁進すべき道は本質的に首尾一貫している上に、人間の本性に即して
言うならば、それは「初志貫徹」すべきものでもある。小さい頃から本性を見失って、
性悪状態を自らのデフォルトだなどと思い込んでいる人間もいたりするから、必ずしも
「自らの心に素直に」などということも言えないが、本当に自己の本性を自覚している
人間ともなれば、その本性に素直であることを一生貫いて行きすらすればいいのである。

人間としての本性に根ざした初心を貫徹して行くのならば、そこに何らの浮ついた要素
も伴うはずがない。始めから初心を貫く場合であれ、一度見失ってしまった初心をまた
見つけ直して行く場合であれ、極端に珍奇なことにかかずらわされるような心持ちは
一切排されて、親子兄弟水入らずの時のような自然体の心持ちでいられるはずである。
そうでいられないというのなら、何かがおかしい。あからさまにカルト宗教に帰依して
自己洗脳状態と化してしまったりしているのでなくとも、何か己れの本性から遠ざかって
しまうような不自然な情報的要素を心象に差し挟まれてしまっている可能性が高い。

それは、誰でも分かるようなあからさまなものから、専門家が精査してみることで
やっと判明するぐらいに巧妙なものまで様ざまであるため、常人が自力でその全てを
退けるなどということはほとんど不可能である。孔子級に有能な聖賢が、世の中の
言語情報の名辞から矯正して行くぐらいの措置を採らなければその十分な撃退も困難で
あるため、ただ誰しもが初心を貫徹すらしていればそれで道徳の一本道を歩めるような
時代が到来するためには、まだそれなりの期間を必要とすることともなるだろう。

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027 2013/12/14(土) 14:46:58 ID:lXvreg6Qos
世の中における部分の平和と、全体の平和とは、半ば相反するものですらある。
全体の二割にも満たないような部分的派閥が自分たちだけの安寧を貪って、過剰な
我田引水によって世界中の富を巻き上げて、その富を元手に強大な軍備を整えて
外界への威嚇に用いたりすれば、それで派閥内だけでの平和は維持されるが、全体の
八割以上に相当するような大半の世界が荒廃と戦乱とに見舞われることとなってしまう。

あえて「二割」という派閥規模を例示したのは、部分的派閥が全体からの富の収奪に
よって自分たちだけの平和や繁栄を企図することのできる限界が、自分たちの派閥規模
が全体の二割程度までである場合であるからで、それ以上に自分たちの相対的な派閥
規模が増大してしまえば、もはや我田引水が富の豊満にも結び付かなくなってしまう。

そのため、そのような我田引水による自分たちだけの平和や繁栄を企図するものは、
自然と全体の二割程度の派閥規模でいるようになってしまう。今の世界における資本主義
勢力の人口規模も、世界人口の二割程度に止まっていて、それ以上に勢力を拡大しようと
して巨大人口を擁する中国などへの進出を試みたなら、かえって自分たちの経済的停滞や、
中国での公害による致命的な環境破壊などの大問題を来たしてしまうこととなった。

全体の二割程度の派閥規模というのが、我田引水目的の派閥が部分としての栄華に
与れる最大限の比率となると共に、そのような派閥が当該比率での横暴を続けた場合に
世界規模での致命的な経済的破綻を招く原因となる条件を満たす比率ともなっている。
派閥規模が二割よりも十分に小さければ、自分たちの我田引水のせいで世界がそこそこ
貧しくなるとはいえ、致命的な破綻を招く所まではいかない。自分たちは自分たちで
全体の二割程度の勢力は擁したいと考えて、実際にそれを実行に移した場合に、
ついには世界全体を破滅に陥れるほどもの大災厄を招くこととなってしまう。

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028 2013/12/14(土) 14:53:02 ID:lXvreg6Qos
今の欧米聖書圏を主導者とする資本主義勢力などは、ただ自分たちが我田引水
本位のガン細胞的派閥となるのみならず、その勢力規模を世界の二割程度にまで
拡大する暴挙すらをも共に犯してしまっている。それは、ただ自分たちが他者を
不幸に陥れてまでもの狭隘な栄華に与りたかったからのみならず、そのような
不正な手段によってであっても、あたかも自分たちが世界の支配者や代表者で
あるかのような振る舞いにすら及びたかったから、あえてそうしたのである。

どんな世の中でも、商売人は我田引水で身銭を稼ぎ上げる。その商売人がいればこそ
人類文明も発展して来たところがあるわけだから、文明を全否定するのでもない限りは、
我田引水を仕事とするような人間の存在も全否定まですべきではない。しかし、その
ような人様からの一方的な富の巻上げによって食い繋いでいるような連中が、世界の
支配者すらをも気取り始めたりしたならば、それは身の程知らずにも程がある所業と
なってしまうわけで、実際に今の資本主義勢力もそのような真似に及んだものだから、
自分たちの過ちが原因での自他共なる決定的な破滅を招いてしまったのである。

我田引水で食い繋いでいるような連中などが、着実な自分たちの生産的活動によって
富を得ているような人々よりも上に置かれるようなことがあってはならないとは、
常識的に考えてみればごく当たり前のこととして認められることである。もしも
人間同士の上下関係を規定するというのなら、むしろ前者が後者の下にすら置かれて
然るべきだとすら考えられるのに、あえて我田引水野郎の分際で人様の上にすら
立とうなどとしたのは、まさに過ちを過ちで塗り固める狂人の所業だったといえる。
虚構の超越神による権威性の付与によってでもなければ正当化もおぼつかないような
その手の暴挙の末路が致命的な大破滅であることもむべなることであるといえるわけで、
過ちをあえて積み重ねる程もの思い上がりに相応の、反省の時がやって来るわけである。

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029 2013/12/14(土) 15:17:28 ID:5pk9NB3k26:au
「是の月や、以て官の事無きものを罷め、器の用無き者を去る可し。
闕廷門閭を塗り、囹圄を築き、此れ以て天地の閉蔵する所を助くるなり」
「この月には、朝廷に仕える百官の内で特に仕事のないものを辞めさせ、
必要のない祭器を取り去るようにすべきである。街中の人の出入りの多い場所や、
門の内外の空き地や、民家や郷里や港の門などを修繕装飾して、天地が人知れず
閉蔵している者に対するまでの助成を行き渡らせるようにする。(朝廷はただ
仕えればいいというものではないし、祭器もただ多ければいいというものではない。
一方で、別にいま主君への忠誠を誓っているわけでもないようなどこぞやの誰かに
対するまでの配慮を欠かさぬようにする、それでこそ仁君に相応しいあり方だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)

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030 2013/12/15(日) 13:25:56 ID:KAbJPZYarI
世界中にゴマンと存在する求道手段の内で、三つか四つ程度の手段だけでも
冷静な比較対象と出来たならば、二度と聖書信仰などを自らの求道手段に
据えようとはしないだろう。それほどにも、正道を外れての不実な邪道を
邁進する手段として、聖書信仰が極端な実例であることが間違いないのだから。

自力仏教のような、あまりにも高尚すぎる求道手段を、急激かつ単一な
聖書信仰との比較対象としたりしたならば、あまりにも両者の次元が違い
過ぎて冷静な比較ができなくなり、そのため、自分自身が聖書信仰のほうに
信奉心を抱いてしまっていたりする場合には、よく分かりもしない内から
無理に聖書信仰のほうを是としてしまったりもするかもしれない。

ただ、自らに数多の求道手段を冷静に比較できるだけの十分な能力が備わ
っているのならば、聖書信仰などを自らの求道手段とすることも、他者が
聖書信仰を求道手段とすることを認めたりすることも絶対にない。ただ偏に、
自らが数多の求道手段を冷静に俯瞰できるだけの能力も持ち合わせていない
ような未熟な見識の持ち主である場合にのみ、聖書信仰が多少なりとも、
自他にとっての求道手段として適格であるような気がしたりするのみである。

他人に全ての罪を押し付けての悪逆非道に邁進することなどを、自らが
是とすることができるとするなら、それは、自らがよっぽどの無知であるか、
もしくは、ろくな判断能力がないにもかかわらず無闇に多くの知識を取り
入れ過ぎたせいで個別の知識の価値の優劣の見分けが付かなくなり、それが
原因での自暴自棄に陥ったせいでの罪悪の開き直りに陥ってしまっているか
のいずれかであることが間違いない。自らにそれなりの知識があって、尚且つ
それらの知識を整理して価値を査定することもできたならば、そのような
邪道の極致などを決して、人が歩むべき道として認めたりすることはない。

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031 2013/12/15(日) 13:28:41 ID:KAbJPZYarI
すでに、聖書信仰を多少なりとも是認させられてしまっているような人間は、
そもそもが、数多の教学を聖書信仰と同等なものとして比較することすら
すでに不可能と化してしまっている。仏教もあれば儒学もある、神道も、
道教も、ヒンズー教も拝火教もイスラム教もそれなりにあるとした所で、
聖書信仰だけはそれらと全く別格の聖教であり、おいそれと対等な比較の
対象にしてはならないとするような心理状態を潜在的に帯びてしまっている。

それは何も、完全な聖書信者ばかりには止まらない。自分たち自身が聖書
信者ではない日本人などまでもが、そのような思い込みに苛まれたままで
いてしまっているものだから、古くから自分たちが親しんできた儒学や仏教
のほうをかえって下に見てしまうような状態ともなってしまっている。現状、
日本を軍事的経済的な征服下に置いているのがアメリカやイギリスであり、
そのアメリカやイギリスがキリスト教を実質的な国教としているものだから、
自ずと聖書信仰にまで頭が上がらないようなザマと化してしまっている。

そのような状態でもなければ、日本人並みに優等な教学ばかりに伝統的に与っ
て来た人々が少しでも聖書信仰を認めてくれたりすることもあり得ないわけ
だから、アメリカやイギリスも、無理にでも日本を征服下に置き続けておこう
とする。自分たちがあまりにも粗悪な求道手段ばかりを自分たちの精神理念
として来たことの劣等感を紛らわすために、無理でもそうしておこうとする。

そうして今、極東情勢は緊迫した状態を向かえ、地政的に肝心要の位置にある
日本の再軍備を認めでもしない限りは、中国の暴走を食い止められもしない
ような事態を呈しつつある。自分たちの虚構のプライドを保つために、これから
も日本人に聖書信仰を是認してしまっていられるほどの骨抜き状態でいさせた
結果として中国の侵出を許すか、もしくはそのような現状を打開するか。

命が惜しいか、それとも聖書信仰が惜しいか、その二者択一が今迫られている。

返信する

032 2013/12/15(日) 14:14:05 ID:FPS7rKaqSc:au
「吾れ聞く、夷子は墨者と。墨の喪を治むるや、薄きを以って其の道と為せると。
夷子は以て天下を易めんと思えり。豈に以て是に非ずと為して貴ばざらんや」
「(孟子)私は、夷子は墨家の学者だと聞いている。墨家では親の葬儀を簡素
なものとすることを自分たちの道としているとも。夷子もその道によって天下を
正そうと志しているのには違いないわけだから、その手段が間違っているから
といって、全く尊重してやらないなんてことまではない。(目的が『天下を正す』
とかの正当なものであるのならば、外道といえどもまだ尊重してやれる所がある。
その目的からして『自分個人の安楽逸居のため』とかの不正なものである場合に
こそ、外道なりのものとして尊重してやるにすら値しない外道中の邪道となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・五より)

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033 2013/12/16(月) 13:40:56 ID:DTtRMh4DQc
インド神話の三神一体よろしく、関数の極限の発散・収束・振動への大別よろしく、
あらゆる現象は破壊と創造と維持の三つの志向性によって成り立っている。
人間が形作る世の中もまたこの三つの志向性に司られていて、この三つが調和
している世の中こそは健全性を保つ一方、三つの調和が損なわれた世の中こそは
不健全さを増して、最悪の場合には亡国級の破綻を招くこととなるのである。

破壊と創造と維持の調和が損なわれた結果として、まず維持が調和から脱落する。
極端な破壊と創造によって世の中が支配されるのが低度の乱世であり、中原の
面積規模での開発が急進して行った春秋時代の中国だとか、最上級の日本刀や
それを用いた武芸が発達した鎌倉期〜室町期の日本だとかがそれに当たる。

さらに調和が損なわれた結果として、今度は創造が脱落する。世の中全体が
破壊を基調とした最悪の乱世となり、人々も飢えや戦乱に常日頃から苛まれる
こととなる。それこそ、戦国時代の中国だとか日本だとかがその典型例であり、
将兵の武勇伝が乱造されるぐらいのことしか、見るべき所もなくなってしまう。

中国大陸だとか日本列島だとかが一定以内で閉じられた社会であったものだから、
戦国状態が極まった結果として、中国も日本も歴史的な撥乱反正を余儀なくされた。
項羽や信長による極度の破壊行為と、始皇帝や秀吉による極度の文明的創造とで
戦乱状態にけりがつけられ、後には劉邦や徳川家康のような穏健さを本分とする
最終勝利者が残って、新たに平和な世の中を築き上げて行くこととなった。

中国の春秋時代や日本の武家時代初中期のような破壊と創造の入り混じる時代と、
戦国時代のような破壊まみれの時代とであれば、罪悪を無制限に許し続ける聖書圏
の人間といえどもある程度は享受することができる。実際、欧米聖書圏の歴史と
いうのは、破壊と創造の両輪状態か、もしくは破壊一辺倒であるかのどちらかで
あり続けて来たわけで、だからこそ文明発展にかけても先進的でいられたのだった。

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034 2013/12/16(月) 14:20:22 ID:DTtRMh4DQc
ただ、中国や日本の戦国状態がある時期に極まってそれ以上の発展のしようが
なくなったのと同じように、聖書圏が破壊と創造もしくは破壊だけを念頭に置く
ようなペースでの文明発展を続けて行く余地も、この地球上になくなってしまった。
文明的創造による発展はすでに天井打ちとなり、次の破壊は核大戦のみと来ている。

それでもう、聖書圏を含む全世界が、破壊と創造の両方を超克するほどもの維持に
頼るしかない事態となっている。世界規模での漢王朝や徳川幕府の再来を否応なく
欲せざるを得ない事態となっているわけだが、両政権も儒学を統治理念としていた
通り、そこでは仁義道徳に基づく体系的な統治が執り行われていくこととなる。

儒学統治を基調とする以上は、儒学教理に決定的に相反する邪教邪学を排して
行かねばならず、その急先鋒が聖書信仰でこそあるというのはもう幾度も述べて
来たことであるけれども、聖書信仰が現象を司る志向性である破壊・創造・維持の
内の維持を決定的に損なわしめるものであるからこそ、維持を基調とした社会統治
のために聖書信仰の根絶が必須となる理由もまた、以上の如くであるといえる。

漢代の中国でも覇王項羽の四面楚歌時の奮闘が英雄的に取り沙汰されたり、江戸
時代の日本でも武田信玄が武神的な存在として崇められたりしていた通り、維持を
主体とし始めた時代といえども、破壊や創造といった要素を排し去るのではない。
それら三つの要素の調和こそが図られて行くのであり、そのためにこそ、破壊者や
創造者と比べれば立場の弱くなりやすい維持者こそが社会統治の主体にすらなって
行く。これは一種のカウンターバランスの補完であり、決して維持者が何もかもを
征服し尽くすことなどを意味してはいないのだから、今まで維持者こそが支配者
となったようなことのない西洋人などが、それを恐れたりする必要もないのである。

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035 2013/12/16(月) 14:25:30 ID:qISgG8TMe6:au
「君子の礼に於けるや、〜曲にして殺ぐこと有り」
「君子といえども礼を実践する場合に、あえて正式を曲げて殺ぐようなことがある。
(たとえば、逆縁で母が父よりも先に亡くなった場合に、父の気持ちを慮ってあえて
短期かつ簡素な喪に服したりする。この世に絶対にこれだけが正しいなどという取り決め
もあり得ないのだから、些細な過ちに打ちひしがれたりするのも大概にすべきだといえる。
またそれでこそ、絶対に許すべきでないような大罪の見分けも付くようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)

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036 2013/12/17(火) 14:20:48 ID:VXsyAH3X3Q
愛は愛で、俗世に生きる人間にとっての欠くべからざる要素の一つではあるが、
決してそればかりが俗人にとっての全てでもない。むしろ、愛や憎しみを
超えた所にある冷徹な分別などのほうが、世の中を主導的に司っていく
立場にある大人の男などにとっては、より重視されて然るべきものともなる。

とはいえもちろん、大人の男といえども、愛する妻子を養いつつ俗世の事業に
携わって行ったりするわけで、冷徹な分別に根ざした徳行ばかりに専念して
行くこともなかなか難しいこととなる。だからこそ、儒学においては妻子
への情愛以上にも親や主君への恭敬を優先させるように促すし、仏教に至るや、
愛欲を完全に断ち切った出家者への崇敬すらをも奨励する。それでこそ、
片手間程度には妻子を愛することも必要となる大人の男の主導する世の中が、
愛欲にたぶらかされたせいでの汚濁にまみれたりするようなこともなくて
済むようになるためのカウンターバランスが補完されるのである。

凡そ、人間が自分たちの高潔な思想信条上の理念として据えるべきものに
あたるのが、愛欲の妄りな増長を控えさせたり捨てさせたりする志向性である。
人間とてサルから進化した半動物であるわけだから、愛欲なんてわざわざ
文化文明によって増強されたりしなくとも、いくらでも沸いてくるものである。
むしろそこからの愛欲の暴走こそが、文化文明を構築して行く能力のある
「万物の霊長」たる人間としての品位を損ねる暴慢を来たしてしまったり
することのほうが問題であるわけだから、人間が人間としてのより一層の
向上を目指して行くからには、愛欲を増すよりはむしろ控えて行くことの
ほうに重きが置かれて行くのが、ごく自然な流れとなっていくわけである。

人間もまた動物であるからには、愛欲を完全に断ち切るのも半ば不可能に等しい
ことであるのもまた間違いない。なればこそ、その愛欲を完全に断ち切るぐらいの
心意気と共に精進を積んで行くことが、ちょうどいい塩梅ともなる。原始時代に、
洞窟を住居としていた原始人の男が、洞窟の中では女と愛し合って子供を作っ
たりもした一方で、洞窟を出るや猛獣などとも勇敢に戦って、収穫を得ては住居

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037 2013/12/17(火) 14:24:39 ID:VXsyAH3X3Q
に帰って行ったようにして、愛を貪る場とはまた別のものとしての、勇猛な挺身
の場を得て、むしろそこでこそ人間としての社会的な事業にすら取り組んで行く。
それが元来からの人間としての模範的なあり方に沿った姿ともなっている。

「愛のない世界」などというものを企図して、愛欲を断つ思想信条を本是
として行くのではない。むしろ、巷に出回る愛が適正化されるためにこそ、
愛欲のバランサーとしての制欲系の思想信条こそが優先的に推し進められて行く。
それが成功していたのが、たとえば平安時代の日本社会などであり、世の中
総出を挙げての仏門帰依による愛欲の節制が行き届いていればこそ、当時の
数多の女流文学などに半ば過剰気味にすら描かれているような恋愛物語の
ネタとなるような男女の睦みというものが実現されていたのでもある。

むしろそこにこそ、品性ある人間ならではの魅力的な恋愛絵巻が展開されても
行く。十分に愛欲が節制されているからこそ、獣のような醜さでもないし、逆に
その醜さを覆い隠すような浮ついた修辞で、下手に愛を着飾ったりもしていない。
そういった洗練された恋愛模様を追い求めればこそ、制欲を促す類いの思想信条
を尊んで行くということもあるわけで、「愛があるか、ないか」なんていう極論
を超えた中庸の域に達せられる者こそが、その価値をも計り知れるのである。

「愛を貪るは不祥なり、鄰りを怒らすは不義なり」
「自分たちばかりの愛着のために財を貪るのは不祥というものであり、
そのせいで隣国を怒らせたりするのは不義というものだ。(秦が飢饉と
なった時に晋国が援助を出し惜しみしたために、晋国の大夫である慶鄭が
恵公に奏上した言葉。恵公はこの言い分を聞き入れず秦に援助を送らなかった
ため秦人の怨みを買い、後の戦いで秦に大敗して捕虜となった。隣人関係以上
に隣国との関係を重視することは、国際戦略上からして時に必要なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十四年より)

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038 2013/12/18(水) 13:47:24 ID:LS1ms7IDXQ
「狎れ侮るものは死するまで畏れざるなり(既出)」
「馴れ合って人を侮ろうとするものは死ぬまで他者を畏れるようなことがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

一定以上の濁念にまみれた人間が、自らの畏敬心や警戒心を損ねてしまうということは、
何もカルト信仰などに即さなくとも普遍的にあり得ることである。秦の宰相呂不韋が
商売人上がりの分際で、自らの私生児に秦の王統を簒奪させたことなども、本人の
何ものをも恐れない思い上がりこそがそうさせたのである。政商のような不正な身分で、
食客のような不正規な手下を多数囲い込んでのお山の大将気取りでいたことが本人の
濁念を致命的に増長させて、世界史上でも屈指の大権力犯罪にすら至らせたのだった。

それ程もの致命的な濁念に見舞われてしまった人間というのは、本当に死ぬまで
更生の機会も得られぬままに終わってしまうことが多い。社会的な状況からして、
本人たちに改悛の機会を与えてやるようなことが皆無と化してしまうために、
入獄や強制治療などの適切な措置すら被れば存命中の更生も可能だったりする
にもかかわらず、そのような機会を得られずに無残な最期を遂げてしまったりする。
それも、別に偶然だったりするのではない。呂不韋らが主体となって創立した秦帝国が
封建制を廃して一君万民の完全独裁体制を敷き、誰一人として体制に楯突ける余地も
ないような状況をあえて招いたようにして、濁念に囚われた本人たち自身が他者からの
矯正に与る余地を奪い去ってしまうからこそ、そうなる。その結果として、内部腐敗が
原因での体制ごとの自滅を招いて、亡国級の末路を辿ることにすらなってしまうのである。

上の呂不韋の事例一つを取っても、王統の権威を畏怖したり、権力犯罪の非道さに動揺
したりすることのほうがむしろ、人間としての自己防衛本能の発露であることが分かる。
ただただ何もかもを恐がる怯懦さなども、それはそれで問題を来たしたりするものだが、
本当に畏れ謹むべきものを畏れ謹むことだけは確かに、自分自身がより無難かつ上等な
運命に与って行くための手段として健全に有用であることが分かるわけである。

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039 2013/12/18(水) 13:56:09 ID:LS1ms7IDXQ
一度でも、人々が社会規模で何ものをも恐れないでいる程の濁念に囚われてしまえば、
そこから世の中を健全な畏敬心の通用する状態へと持ち直して行くことも、なかなか
困難なこととなる。春秋戦国時代と秦代における権力者の横暴によって多くの人々
が濁念に囚われてしまった中国などでは、後の漢代や唐宋代にそれなりの世相の改善
が試みられたが、それでも完全な矯正までは不可能であったために、今に至るまで、
一定以上の人数の中国人がならず者然とした性向を帯びたままでいてしまっている。

中国で、濁念に囚われた人間の十分な矯正が覚束なかったのは、一定以上に世相が
汚濁化してしまって後にも相変わらず文治優位軍政劣位の体制であり続けたからだった。
日本などでは、平安末期に致命的な政治腐敗を来たして後には武家政権が発足し、能動
的な武力行使による、濁念に囚われた人間の強制的な粛清にすら及んでいたものだから、
一部の地域などを除いて、人々の精神汚染が一定以上に深刻化することがなくて済んだ。

軍事政権といえば、今では陰惨なものの代表格として受け止められている場合が多いが、
日本の武家政権はただ軍力で人々を締め付けるのではなく、何ものをも恐れない人々の
思い上がりを殺ぎ落とした清浄な世の中を保つためという確固たる目的があって運営
されていたものだから、軍力を主体とした中央集権によって権力者が狭隘な栄華を貪っ
たりするような、昨今の軍事政権にありがちな問題性を来たさずにもいられたのだった。

武力行使によってでもなければ、人々の思い上がった濁念の十分な抑制を講じられない
ような事態からして、まず招かないようにすべきものではあるけれども、いったん招か
れてしまった以上は、もはやそうする以外に最善となる道が開かれていないこととなる。
そこで相変わらず中国のような文治優位の体制を保ち続けたならば、そのせいで却って
人々の危うい思い上がりを募らさせてしまうことにすらなるわけだから、時には為政者
があえて刀を手に取ることこそが、人々のためともなることが確かなわけである。

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040 2013/12/18(水) 14:24:27 ID:6pkxWcDQig:au
「彼の黍離離たり、彼の稷之れ苗す。
行き邁きて靡靡たり、中心搖搖たり。我れを知る者は、我が心憂うと謂う、
我れを知らざる者は、我れ何をか求めんと謂う。悠悠たる蒼天、此れ何人ぞや」
「(昔周の古都があった土地に)黍が離離として生い茂って穂を垂れ、稷も苗を
生やし始めている。そこを通り過ぎるとき、私は行き去るのが忍びない気持ちに
なり、思わず進む速さを落とした。その心中は半ば動揺しているような有様だった。
その姿を見た人があったなら、私を知る者であれば『ああ、心憂えているのだな』と
思っただろう。私を知らない者であれば『穀物を見つめて、何を欲しがっているの
だろう』などと考えただろう。ああ、悠々たる蒼天よ。誰がこの地をこのようにして
しまったのだろうか。(西周の興亡を嘆く大夫の歌。半ば他人事ではあるけれども、
幽王らの失態によって崩壊してしまった西周の有り様を、心中からの動揺と共に
『人の振り見て我が振り直せ』の材料ともしている、君子としての心がけの描写)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・黍離より)

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041 2013/12/19(木) 14:19:36 ID:RN3WdJ9hi6
東洋史上の、特に正史上における主要な登場人物は、そのほとんどが正規の公権力者
であり、なおかつ順風満帆とまではいえないような人生を送らされた人間のほうが
大立ち回りを演じている場合が多い。それは、数多の君子たちの挺身的な取り組みに
よって世の中が形作られた結果、多くの人々が安寧に与れるようになったことへの
感謝と尊敬の意が込められているからであり、なおかつそのような人々の活躍こそを
前面に押し出して行くことが、その手の人種の尽力があることで初めて健全に成り立って
いける世の中というものを、よりよくして行く上での最善なる姿勢ともなるからである。

中国初の正史である「史記」においては、貨殖列伝において、ただ個人的な栄華に与って
いただけの有名人が記録されていたりするが、より権力道徳的な見地から編纂された
二番目の中国正史である「漢書」などにおいてはそれも廃されて、公権力の興亡のために
一役も二役も買ったような人間ばかりが記録されることとなった。中には王莽のような、
大逆罪を犯した大悪人までもが記録されていたりするわけだが、>>32の墨家に対する孟子
の態度よろしく、それとて公権力者としての志しあるが故に犯した過ちであったことには
変わりなかったわけだから、始めから世のため人のために働くことも放棄して、自分個人の
狭隘な栄華ばかりを貪ろうとする小人などと比べればまだ特筆する余地があったわけである。

世の中が一定以上に大規模化すれば、商売を生業とするような連中の中からどうしたって
小人が生じてしまうこととなる。そのような小人と、世の中全体の責任を負って行こうと
する君子とが居たとして、ただ個人的な安寧に与れる可能性が高いのは、やはり小人の
ほうである。君子はそのような小人を含む、天下万民の安寧を実現して行くためにこそ
命を削るような重責を果たして行くというまでのことなのであって、だからこそ、その
ような人身御供然とした職務に励む君子こそを上位者として崇め、歴史上としての
主人公格として取り扱って行くことがカウンターバランスの補完ともなるわけである。

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042 2013/12/19(木) 14:23:19 ID:RN3WdJ9hi6
君子たる大人の男こそは、命を削るような重責を果たして行く、にもかかわらずでは
なくだからこそ世の中の主人公格として尊重し、正史にもその名を止めさせる。それとは
逆に、女子供や小人男はのんべんだらりと怠惰で無難な生活を送れたままで人生を終える、
にもかかわらずではなくだからこそ脇役扱いとし、正史にその名を載せてやるような
こともない。世の中全体の姿勢がそのようであるということ自体が、満てるものを
損ない謙れるものを益する陰陽法則への準拠となるわけで、この世界この宇宙の全てが
陰陽法則に司られている以上は、人々もまたあえてそうして行くことで、普遍法則に
人為で抗ったがための無様な破綻などを招かないようにして行くべきだといえる。

それは、個々の男女関係などについても同じことである。男のほうが女よりも偉いから
世の中に出て働くべきなのではなく、男のほうが世の中での重労働に従事するに値するから、
その大変さを汲んでより尊んでやるべきなのである。同じように、女のほうが男よりも
卑しいから家内に引き籠っているべきなのではなく、女には重労働をこなす能力がない
から家内での家事や育児に専念すべきである。だから男ほど尊ばれる必要もないという
ことであって、そこにドクマとしての尊卑の差別などが遍在しているわけではない。

君子は小人よりも、男は女よりも尊ばれねばならないといった古くからの慣わしが、
あたかもカルト宗教のドグマのように絶対無謬のものとされているかのように思い込まれた
結果として、その反発で民主主義や男女平等主義が謳われることともなってしまった。
実際にカルト教義のような妄信対象としていたような人間もいたに違いないわけで、
その手の疑念を一掃するためにも、君子や男の小人や女に対する優位がドグマに即して
是とされるなどということはないという風に、一度は明確に断言しておいたほうがよい。
ただ、そのような優劣関係を講じたほうが色々と都合がよい、完全に反故にしてしまったり
したのではそのせいでの破滅すら免れられなくなるといった実用性にのみ即して、その手の
序列関係を復活させて行くようにしなければならない。仮に、復活させるのだとしても。

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043 2013/12/19(木) 14:24:13 ID:s9s0mr1SEI:au
「其の泣けるや喤喤と、朱芾は斯れ皇けり、室家の君王なる」
「生まれて来た男児の泣き叫ぶ姿たるや浩浩と、前垂れも煌々と輝けるその姿は、
この家の跡取りとして王君となるにも相応しい。(スサノオの号泣伝説よろしく、
東洋では『泣く』ということが健全な男子のあり方として肯定的に捉えられている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・斯干より)

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044 2013/12/20(金) 14:15:09 ID:v5p46C6bUY
家単位での人口管理が行き届いていた江戸時代のような封建時代には、
子供が男か女か、長男か次男以降か、嫡子か庶子かなどで厳重に選別されていた。
嫡子の長男こそは一家の跡取りとして念入りに尊ばれ、それ以外の子供は
嫁ぎ先や養子先、出家先などをさっさと決めて放り去ってしまうのが常だった。

それでこそ、安定した人口構成のまま何百年という治世が実現されたりも
していたわけだから、それを疎かにしたせいで人口爆発が生じてしまっている
今のような時代と比べても、そのようであるほうがまともなのだといえる。
親の子に対する愛情にもやはり節度が必要であり、特に愛すべき対象となる
立場の子供と、そうでない子供との間に一線を引くことも時に必要となるのである。

然れば、そうであるべき親の子に対する愛情などをそのまま、世の中の支配者の
被支配者に対する愛情などに転用してしまったりしたなら、そのせいで個々の
被支配者に対する差別などが生じてしまいもするのである。その差別を例えば、
士農工商の四民の序列に即させたりすれば、世の中を穏健に統治して行く上での
必要悪的な差別ともなったりするわけだが、逆に悪徳商人を偏重して堅実な産業
従事者を軽んじたりすることになれば、それが乱世を招く原因にすらなってしまう。

「万民を身分のわけ隔てなく平等に愛する」とした所で、その場合にはやはり、
複数のわが子を生まれ付きの分け隔てなく愛そうとした場合などと同じような
「多兎を求めて一兎も得ず」の問題を招いてしまうことになるから、現実問題と
してそこに一定度の差別を講じなければならなくなってしまう。支配者が被支配者
をわが子のように愛するということ自体、いざ実践に移してみれば、決して綺麗事
ばかりでは済まないこととなるわけだから、そこに絵空事のような理想を抱いたり
する人間がいるとすれば、そのような人間自身が世間知らずだからなのだといえる。

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045 2013/12/20(金) 14:19:17 ID:v5p46C6bUY
為政者にとって、民たちをわが子のように愛するということは、非常にシビアな
現実論として受け止めつつの実践対象として行くべき教条に当たる。自らも孝子
としての尽力に励んだ上で、ついには自らもまた人の親となり、家門を保全して
行くための適切な親子関係というものを構築して行く、そういった身内同士での
経験の積み重ねがあって初めて、為政者としての自らがいかに衆生をわが子の
ように愛しつつの仁政に取り組んでいくべきなのかまでもが知れてくるのである。

実際問題、為政者が民に対する場合も含めて、養子関係にもないような他人を
わが子のように愛したりすること自体、偽善止まりとなってしまう場合がほと
んどである。本当に天下万民をわが子のように愛する機会に恵まれたりするのは、
漢の劉家のようなよっぽど天運に恵まれた家の人間などに限られるわけで、大体は
一領地の親玉でいるぐらいが限界となる。その部分的な領地における領有ですら、
地主による恵まれた土地だけの私的占有のような身勝手さを帯びてしまった結果、
自らの領分に沿わないような偏愛を来たしてしまったりすることがあるわけだから、
よっぽど権力道徳者としての素養に恵まれているのでもない限りは、より多くの
報土の領有を志すことはおろか、他人をわが子のような支配対象とする権力者
などを微塵たりとも目指したりするようなことからしてあるべきではないといえる。

元より、偽善としての他人に対するわが子のような寵遇などはあるべきでもない。
接客を担当しないような商取引で成り上がったような富豪が、私財で他人をわが子
のような扱いで囲い込んだりすることが資本主義社会では多々あったりするが、
それこそ偽善の極みであり、始めからそんなことが目的で金が稼がれたりする
ようなことからしてあるべきではない。人が人の親になるということの重大さを
父子関係の厳粛化などを通じて今一度わきまえ直していく必要があるといえる。

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046 2013/12/20(金) 14:21:18 ID:sFDM.oyFZA:au
「陳亢、伯魚に問うて曰く、子も亦た異聞有るか。対えて曰く、
未だなきなり。〜陳亢退きて喜びて曰く、君子の其の子を遠ざくるを聞けり」
「孔先生の孫弟子で子貢の弟子である陳亢が、孔先生の実子である伯魚に聞いた。
『あなたは何か先生から特別なことを教わりましたか』 伯魚『いいえ、特に何も』
陳亢は退いた後喜びながら言った。『君子はわが子をあえて遠ざけるのだとさ』
(わが子を愛すればこそ、特別扱いして堕落させてしまうことを避けたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季子第十六・一三より)

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047 2013/12/21(土) 14:27:10 ID:NjZlqqgPxs
道理に基づく因果応報こそは善であり、道理に反する虚構の因果応報こそは悪である。
逆に言えば、上記のような文章構造に即して「道理」と定義されるところのものこそを、
人間たち自身が道理としての普遍的な度量衡に用いている。人間たち自身が1+1=2を
算術上の規則としている程度には、道理も自明なものとして予め規定されていて、
その道理に即して善なるものも悪なるものも派生するわけだから、人間たち自身が
始めに規定した「自分たち自身のもの」としての道理を見失わない程度の正気を
保っている以上は、確かにそこに普遍的な善悪もまた存在するのである。

道理も、真理ほどに磐石なものではないが、少なくとも、1+1を3にも4にもするような
虚構まみれの状態よりはよっぽと磐石なものである。道理に基づく現象の因果応報こそは
最も普遍的な因果応報であり、道理を蔑ろにしたところで作為的に操作される因果応報など
はそれより一段も二段も後付けの代物でしかないわけだから、精巧な日本の工業製品よりも、
中韓製のコピー品のほうが後から作られておきながら先に壊れて駄目になるようにして、
作為によって塗り固められた虚構の因果応報のほうが早急な破綻に見舞われることとなる。

また、虚構の因果応報を弄ぶ悪党といえども、道理に基づく因果応報に即した堅実
な為政や生産労働などに全く頼らないでいるわけにもいかない。世界中の人々が、
程度の差こそあれ、道理に根ざした社会運営というものをそれなりに心がけている中に、
後から欧米聖書圏が侵略の魔の手を広げて行って、一方的な権益収奪の対象として行った
からこそ欧米社会も一時の栄華に与ることができた。それが、搾り取れるものはすべて
搾り取るところまで行き着いてしまってもなおのこと、どこまでも際限なく不正な富を
貪り続けようとする欧米聖書信者の卑劣な性向だけが持ち越されたままという状態と
なってしまったものだから、もはやそのせいでの経済破綻しか選択の余地がないような
事態となってしまったわけで、これこそは、虚構の領分が道理の領分すらをも上回ったり
しようものなら、あっという間に全てがダメになってしまう紛れもない証拠となっている。

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048 2013/12/21(土) 14:31:07 ID:NjZlqqgPxs
資本主義災禍が深刻な様相を呈している現今の世界においては、「金カネ」こそが道理
に根ざした因果応報と、虚構の因果応報とをみそくそにしてしまう基幹としての役割を
果たしている。堅実な労働に従事することで、実体経済に即した収益を挙げている人間も
多数に上る一方で、株式市場や為替相場によってその収益の多くを博打的な運用の対象
ともし、現行の金融システムを熟知していたり、そもそもが金融システムを司っていたり
するような連中に一方的に富が巻き上げられるようなことが許容されてしまっている。

カネが必ずしもそのような、不条理な社会構造の基幹となったりするわけでもなく、
大規模な都市社会においてですら、ある程度はそのような金融経済の悪用に歯止めを
かけていくことが可能であるわけだけれども、資本主義国たるや、金融操作によって
不正に富を巻き上げているような連中に政治権力すらをも掌握されてしまっていたりする
ものだから、なかなか自浄作用としての悪徳金融の取り締まりなどを実行に移すことも
できない。最悪の場合、一度は自国を崩壊に追いやるのでもなければ、悪行による収益が
善行による収益を上回るような破滅的事態に決着を付けることもできなくなったりする。

カネ自体は元来、善でも悪でもない「無記」たる数的概念であるわけだが、まともな
善悪の分別を損なう差し障りたる「有覆無記」として人類史上最悪級の災禍をもたらす
ことともなってしまった。カルト宗教などはむしろ、善悪の分別を完全転倒させての
悪逆非道を推進するものであったわけだから、有覆無記というよりは害悪そのもので
あるため、それだけで全世界を破滅級の災厄に陥れることまではできなかった。そこに、
悪徳金融や科学技術の悪用の如き有覆無記の要素を加味することで初めて、カルト宗教圏
たる欧米聖書圏が全世界を破滅に陥れる程もの害悪の元凶と化したわけだから、ただ
害悪の元凶中の元凶たるカルト宗教などを根絶の対象として行くのみならず、その
ような元凶がもたらす害悪を支援する有覆無記となるような諸概念への警戒もまた
十分となるようにしていかねばならない。つまり、カネの濫用への警戒などが、
以上のような切実な理由に即して、取り組まれて行く必要があるわけである。

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049 2013/12/21(土) 15:13:19 ID:RprWLB4MkU:au
「寛柔を以て教とし、無道に報いざるは南方の強なり。君子も之れに居る」
「寛容と柔和を教条として、無道な横暴などにも報いようとしないのが、南方人が
『強さ』とする所である。(これはよき慣習であるので、)君子もそれを領分とする。
(イスラム圏やイギリスからの侵略にも非暴力で答えたインド人などが、
まさにこの性向を持ち合わせている。無道な悪行には自業自得の報いが
あるから、あえて被害者のほうから報復を企てたりする必要もないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一〇より)

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050 2013/12/22(日) 15:12:41 ID:Wl0lrhgnOs
この世には、手塩をかければかけるほどより結果がよくなる仕事というもの
があり、それこそはあらゆる職業のうちでも最も善良な部類の職業となる。

農業や漁業や林業といった自然を相手にする仕事は大半がそうだし、モノ
を相手とする工業も、製品の質を向上させて行くのであればそうであり得る。
料理や掃除や洗濯や育児といった、家事にまつわる仕事も当然その内に入る。

むしろ、下手に手塩などかけずに、悪知恵一つでの一攫千金的な成果
ばかりを目指していたほうがいいような仕事も残念ながらあり、悪徳が通用
するような世の中ではむしろその手の職業のほうが「勝ち組」の職業として
持て囃されてしまったりする。悪徳商売などはその分かりやすい例だが、
難関試験に合格してそれで既得権益に与る類いの職業が、あからさまな
悪徳商売などでないにもかかわらずその手の性向を帯びていたりする。
大企業の重役なども少なからずその手の性向によって富裕を謳歌しているし、
腐敗まみれの民主主義国の公務員なども、自分たちの仕事にかけてより
一層の努力を積み重ねて行ったりしない点では全く共通しているといえる。

手塩をかければかけるほどよりよくなるような善良な仕事を貶めて、一攫
千金でウハウハとなるような悪辣な仕事ばかりを賞賛していれば、最後は
今の欧米社会のように極度に生産性の乏しい社会となって、国際金融市場
の操作で何とか切り盛りするか、それも諦めて破綻するかぐらいの選択肢
しかなくなってしまう。そのような末路を辿ったりしないためにも、上記の
ような意味での善良な仕事を、悪辣な仕事以上にも奨励して行く必要がある。

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051 2013/12/22(日) 15:15:39 ID:Wl0lrhgnOs
しかし、手塩をかければかけるほどよくなる仕事ほど、多大なる
苦労を課せられる上に、あまり格好良くもなかったりするのが常である。
農家がまさにその代表格であり、機械による農産などが発達していなか
った近代以前には、農夫といえば長年の屈み作業で背骨がひどく前屈して
しまっているのが常だった。そのような農夫の不恰好な姿に嫌悪感を抱いて、
都市部での一攫千金を企てたような連中が町人となったりもしていたわけで、
農業のような純良な産業を奨励することばかりによって、その手の問題を
十全に抑制して行くこともまた、なかなか難しいこととなるのである。

そこで、農工商の三民の序列の上にさらに「士」を置いて、この士が
かつての武士のような「人の花形」としての扱いを受けると共に、自分たち
の本業である為政にかけて最善の限りを尽くして行くことが、善良な職業を
奨励して悪辣な職業を抑制して行く上での特効薬的な役割を果たすこととなる。

庶民が佩用を禁じられる大刀を差したり、着用を禁じられる袴を着たり、
武術の修錬によって高度な戦闘能力や洗練された立ち居振る舞いを身に
付けていたりする壮士の有り様が、人々にとっての羨望の対象となると共に、
そうでありながら職務に最善をも尽くして行く有り様がこれまた、人々に
より職務にかけての努力を尽くさせて行く上での指針となっていくのである。

より手塩をかけて行くべき善良な仕事を奨励し、一攫千金ばかりを狙う
ような粗悪な仕事を抑圧して行く上での鍵となるのは、結局のところ士人
たる人間たち自身となるわけだから、まずは尊ぶべき人間を尊んで行くと
いうことが義務性を帯びてくることともなる。人間すら敬うこともできない
のに、どうして虚構の神ばかりを敬っていていいものか、ともなるわけである。

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052 2013/12/22(日) 15:19:12 ID:j6WBj8GwsM:au
「祭も數しばするを欲せず、數しばすれば則ち煩し、煩しければ則ち敬さず」
「神を尊ぶような祭りもやり過ぎはよくない。あまり頻繁に行いすぎると
そのせいで心を煩わされることとなる。煩わされれば心からの畏敬心も
損なわれることとなる。(日曜日に毎日教会に通わされるキリスト教系
の祭儀なども、実はそのせいでかえって信者の畏敬心を損なわしめて、
思い上がりを助長させるようなこととなってしまうのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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053 2013/12/23(月) 14:57:16 ID:l9ViNl9vc2
「牛」という生き物ほど、人間社会に功罪両面における甚大な影響をもたらして来た
動物も他にない。「功」という面では、肉食などの面で豊かさの象徴となって来た面が
あり、「罪」という面では、その豊かさへの貪り故の乱世の原因となって来た面がある。

「左伝」荘公十年においても、肉食が豊かさの象徴として挙げられていたりする通り、
その手の風潮は洋の東西を問わず認められて来ていることである。ただ、その肉食を
豊かさの象徴として是認して来た中国社会こそは、幾度もの帝国の興亡にも苛まれて
来ていたりするとおり、肉食を欲する程もの富裕志向こそが絶え間のない乱世の原因
ともなってしまうのが確かであるため、恒久平和を企図するインドや、万世一系の皇統
の存続を企図する日本などでは、伝統的に肉食が禁忌とされて来た。それでも、農耕牛
や牛車などの形での牛の活用が西日本などで続けられていたものだからも(東北などは
人力での耕作が容易な水田地帯であったため、耕牛利用の必要もなかった)死んだ牛の
遺体処理などに携わる人間が被差別部落としての権益を増長させて行くなどしたため、
今に至るまである種の腐敗的利権の吹き溜まりを形成することとなってしまっている。

肉食はともかく、耕牛や牛車としての牛の利用価値は、機械文明の発達によって大幅に
低減された。魚食やスパイス料理などの、肉食禁忌地域の伝統料理の美味さや栄養価の
高さが評価されるなどして、食物としての牛肉や豚肉の忌避などもある種の人々から
の心がけの対象となっていたりする。そして何より、肉用獣としての牛や豚の飼育が
エネルギー消費の面からいって穀物などよりも遥かに生産効率が悪いことが認められて、
人口増大に対応する食習慣としての、穀物主体の食事が推奨されるなどして来ている。

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054 2013/12/23(月) 15:02:02 ID:l9ViNl9vc2
もしも、人間たち自身が本気でそれを心がけるというのなら、有史以来、豊かさの
象徴とされて来た牛や豚のような大型畜獣への依存も断ち切ることが出来るように
なっていて、なおかつそれでこそ万人の腹が膨れる程度の最低限以上の豊かさが世界
規模で実現されて行くようにもなっている。ただ、万人が完全に牛豚のもたらす富裕を
断ち切るとなれば、それこそ「味気ない」ことともなるわけで、そこまでストイックでは
ありたくないと、肉食まみれ状態でいる現代人が考えたとしても仕方のないことだといえる。

この世界に牛や豚といった動物がいて、それを何らかの価値で利用してやりたいなど
と考える人間がいる以上は、それを全世界で厳禁して行くのもなかなか無理がある。
ただ、牛や豚の活用など決して人間にとって必要不可欠なものではない、それらへの
依存を断ち切ることもできなくはないということをインドや日本の歴史などをも参考
によく認知して、にもかかわらず肉を食いたがったりする自分のほうが意地汚い貪欲
さの持ち主であることを十分にわきまえた上で、なおのこと食いたければ食うという
程度の姿勢で以って、牛や豚を活用したりすることも実行に移されるべきだといえる。

現代人としての現実的な対処を案じてみるなら、普段は穀物や野菜が主体の生活を
心がけるが、何か祝い事などがあった場合に限って会食の余興程度に肉料理を食べたり
する程度にすれば良いだろう。「礼記」にもあるとおり、体力の弱った老人などで
あれば肉を常食とするのも可とするなど、あくまで薬餌的な材料として肉を用いたり
するのも一つの手である。いずれにしろ、人間にとって絶対不可欠のものなどとして
肉を取り扱ったりしないことが善後策となって行く事例であるわけで、それでこそ、
引っ切り無しの中華帝国の興亡のような問題を来たしもしなくなるからには、それが
世のため人のためにすらなるものとして志して行かれてもいいこととなるわけである。

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055 2013/12/23(月) 15:02:56 ID:9LA2LoSLY6:au
「純離を牛と爲す。世乱るれば讒勝つ。
勝たば将に離に適く。故に曰く、其の名を牛と曰う、と」
「易の離卦は牛を意味している。世が乱れると他者を貶めようとする讒言が蔓延る
ようになる。そうなれば世の中は離の如き様相を呈する。そのため、その辞を牛とする。
(牛の如き従順さはそれはそれで有用なものだが、そればかりが持て囃されるように
なると、牛肉への貪りが乱世をもたらすようにして、讒言蔓延る乱世がもたらされる
ことともなる。たとえば、『子を産む女がいなければ世の中も成立しない』とした所で、
だからといって女ばかりを持て囃していたりすれば世の中が傾いたりするのと同じこと。
世の中に有用だったり不可欠だったりするからといって、無闇に持て囃されたりする
ようなことにまではなってはならないのが、牛だとか女だとかいった存在だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公五年より)

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057 2013/12/25(水) 00:52:41 ID:XzPG3RNjZU
「夫れ礼は、吉凶の道を異ならしめ、相干することを得ざらしむ。之れを陰陽に取るなり」
「礼儀は慶事と災厄との領分を別って、お互いを干渉し合わせないことを目的とする。
そのため、両者を光と闇のような相容れないもの同士に見立てての分別をも心がける。
(吉事と凶事は光と闇のように相容れないものだから、そうであることに即して適切に扱って行く
のである。光も闇も支配するような虚構の超越神を想定してしまったりしたのでは、吉凶を相容れ
ないもの同士として適切に取り扱おうとする心がけが損なわれることになるため、好ましくない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・喪服四制第四十九より)

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058 2013/12/25(水) 01:21:09 ID:XzPG3RNjZU
正義と悪は、ちゃんと両者の領分を別って行くようにするのが正義だ。
両者をくそみそと化しての罪悪の誤魔化しを企てたりするのが悪だ。

道家や仏門のような善悪を諦観する部類の教学門派といえども、
俗世で善悪が明確に別たれるべきであることは認めてるんだ。
だからこそ、自分たち自身が超俗志向であろうともしている。

政商や食客や縦横家のような権力犯罪者として暗躍する場合も含めて、
俗世での甚大な活動に及ぶ以上は、善悪吉凶をちゃんと弁別するのが
ルールというもの。それでこそ正義たり、そうでなければ自動的に悪となって
しまうものだから、正しく善悪を超脱しようとした聖者たちは皆、自分たち
自身が「善悪吉凶の踊り場」たる俗世に携わることから避けようとしたのだ。

作為でどうにかできる領域が全て陰陽法則に司られているこの世界
この宇宙において、少しでも善悪吉凶を不正に超越しようなどとすれば、
それだけで自分たちが罪悪や災禍ばかりに与する手合いと化してしまう。
善悪を超越したければ何もするべきでなく、何かをしたかったら善悪の
分別を徹底すべきだという普遍法則があるのもまた、そのためである。

全ては結局、陰陽法則に根ざした位相問題に集約される。
そうであることが善いことか悪いことかをいえば、これまた善いことで
あるという他はない。陰陽法則を尊重して来た東洋人の言行こそは最高に面白い
一方、蔑ろにして来た西洋人の言行こそは酷くつまらなかったりもするのだから、
全ての面白さの精髄すらをも司っている陰陽法則というものを、科学を含む
無記以上に尊ぶべきものとすれど、決して蔑ろにすべきものだなどは思わない。

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059 2013/12/25(水) 14:35:12 ID:XzPG3RNjZU
権力犯罪聖書——通称聖書にあるような粗悪で凶暴な言葉だけでなく、
権力道徳聖書——通称四書五経にあるような善美で至当な言葉もまた、
言葉として堂に入るよりは、むしろ「言葉以前」のままのものであるに
越したことのないものであった。前者は、言葉として権威付けられたり
したことで、さらなる罪悪推進の材料にされたりしないためにこそ
言葉に起こされたりすべきではなかったし、後者は、そもそも言葉
にされるまでもない実践の対象とされるべきものであるからこそ、
わざわざ言葉にされたりする以前のままであるべきだったといえる。

春秋戦国時代における極度の文化荒廃以降、中国人は孔子や孟子が樹立した
儒学体系を、その教科書である四書五経などを金科玉条にしながらの実践
対象として来た。それも、漢や唐や南宋の代にはそれなりに成功したものの、
極度の文辞主義が蒙古のような暴力主義者たちからの格好の侵略の的ともなり、
また実践の疎かさが自分たち自身の権力腐敗を招く結果ともなってしまった。

それと比べれば、殷周革命以降に殷の遺臣である箕子からの直接統治を
受けて来た東夷の治世のほうが、さらに普遍的に良好なものですらあった。

殷の統治理念もまた「書経」の洪範九疇などの形である程度は文面化されて
いるが、その洪範九疇を周朝に伝授した箕子が直接統治した東夷社会において、
ある特定の文面などを金科玉条としての文治などが試みられたことはなかった。
箕子統治時代の日本や朝鮮の歴史が文面として遺されていないことからも
分かるとおり、箕子やその末裔たちは文面以上に直観的な実践を重んじつつ
の統治を心がけていたものだから、春秋戦国時代以降の中国で呈したような
怠慢的な統治を予防して、今に至るまでの日本社会における人々の民度の高さ
の起源ともなるような、非常に善良な為政を敷き続けることができたのである。

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060 2013/12/25(水) 14:41:28 ID:JFgq6NSakg:au
一応、「書経」に洪範九疇が記録されていたりもするが、周代以降の中国人
の内で、洪範九疇を本当に実践できていた人間などがいたかといえば、それは
もう皆無にも等しいほど少なかったといえる。洪範九疇の第六・三徳を本当に
実践の対象とするならば、日本の平安時代ほどにも清浄の限りを尽くした為政や、
武家時代ほどにも武勇の限りを尽くした為政が必要とされて行くわけだけれども、
そのいずれもが、周代以降の中国で十分に実践されたような試しもないのだから、
その世相からも、洪範九疇の厳重な実践者などがいたなどとは推定し難い。

それはもちろん、中国が日本よりも遥かに巨大な群国でもあるからなわけだが、
それほどにも中国が巨大化したこと自体、春秋時代以降の王侯が利権への貪り
を尽くしての中原への開発三昧であり続けたからなわけだから、それはそれで、
中国人たち自身の自業自得というものである。日本のような限られた範囲の
領地で、世の中の量ではなく質の向上を心がけて行くことのほうが、夏殷時代
の中国人たちの為政への心がけとも共通していたわけだから、確かにその頃から、
極東社会の王権の星も徐々に、中国から日本へと遷移していったのだといえる。

とはいえ、その日本においても、近代以降は秦人系の暴虐な権力者が実権を握り、
権力機構への徴用手段も学校試験のような文辞一辺倒のものに取って代わられて
しまったわけだから、中国を含む大陸社会における権力腐敗の波がついには、
この日本にまで到達してしまったのだといえる。中国社会が、文辞一辺倒が原因
での権力腐敗に見舞われてしまっていたのはもちろんのこと、欧米社会もまた、
聖書信仰が原因での権力腐敗を続けて来たわけだから、文辞主義が原因での両者
からの直接間接の侵略を受けたことで、日本社会も腐敗してしまったのだといえる。

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061 2013/12/25(水) 14:45:53 ID:JFgq6NSakg:au
いま、世界といわず日本といわず、地球人類がみな進んで行くべき道にあたるのが、
「文辞主義からの解放の道」である。聖書信仰におけるロゴス主義の呪縛から
人々が解き放たれるべきであるのはもちろんのこと、春秋戦国時代以降の中国
における経書一辺倒の文辞主義などからも解き放たれたままでいるべきである。
その頃の中国人などではなく、箕子の実践主義的統治をも受けた東夷の雄である
日本人こそが、洪範九疇のより厳重な実践者たり得てきたりもしているわけだから、
四書五経の実践のためにこそ、経書の文面ばかりに溺れたりすべきでないといえる。

「天下に道あらば、丘は与に易えざるなり(既出)」
「天下に道があるのならば、私もあえて世直しを試みたりもしないのだ」
(微子第十八・六)

と孔子も述べていた通り、当時が道の行われない乱世だったからこそ仕方なく
文面に起こされたのが四書五経であるという事情も踏まえることでこそ、孔子の
意向に則った経書の受容までもが可能となって行くのだから。真の儒者としての
大成のためにこそ、四書五経の文辞に拘泥することすらあるべきではないといえる。

「天地を以て本と為す、故に物挙ぐ可きなり。
陰陽を以て端と為す、故に情睹る可きなり」
「天地を根本としていればこそ、物事も取り上げるに値するものとなる。
陰陽光闇を極端とすればこそ、情念も汲み取るに値するものとなる。
(天地や光闇すら超越してしまった所には、もはや見るべきものもない。>>57も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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062 2013/12/26(木) 16:30:37 ID:ramDvucd.c
現状、あまり認知されていない群集心理のいち法則として、
「人間は、私的な徒党派閥を形成すると理性を見失う」というのがある。

「群集心理が蒙昧化しやすい」というのはかなり認知されていることではあるが、
それが公的なものであるか私的なものであるかによっての差異が生ずることなどが
十分に考究されて来た試しが、古今東西において今のところついぞ見られない。

民主主義社会では、その手の法則にまつわる考究は半ば自動的に禁止される。
というのも、民主主義においては私的な民衆の意志こそが最優先対象とみなされ
るわけだから、そこにこそ人間の蒙昧化の極北が存するなどということを、
仮に事実であったとしたところで、到底認めるわけにはいかないからである。

封建社会では、そもそもが私党編成が法度として禁じられて行くものだから、
私党を構成する人間がいかに心理状態を蒙昧化させて行くのかということを
具体的な研究対象として行く余地がなかった。最初期に「君子は群して党せず」
という言葉を述べた孔子あたりは、私党編成の具体的な危険性を見抜いていた
に違いないわけだが、その孔子の言葉をただ真に受けてその通りにして来た
だけの人々までもが、実際的な私党編成の問題点を見抜けていたとは言い難い。
(だからこそ、私党によるテロを引き起こした赤穂浪士
の切腹に数多の儒者や大名が反意を抱きもしたのだった)

私党編成によって蒙昧化してしまった群集を、日本神話では「ヤマタノオロチ」
という怪獣に見立てて具象化している。そのヤマタノオロチをスサノオが退治する
出雲神話の下り自体、古代豪族を天皇家の先祖の親族が平定して行ったことの伝説化
であるわけで、ヤマタノオロチとはまさに、私的な利権の溜め込みによって狂乱化
していた古代の豪族たちのことを指しているのである。そこに、怪獣に見立てて
然るべきほどの危うさが存在していることを見抜いていた古代の日本人の叡智こそは
突出したものであったといえ、現代人もその発想こそを参考にして行くべきだといえる。

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063 2013/12/26(木) 16:43:23 ID:ramDvucd.c
現行法に即しても、複数の人間で少数の相手を痛めつけるようなリンチ行為に
ついては、実際的な殺傷行為に及んだのが誰であるのかが曖昧と化してしまう
などの理由で、刑罰が定まらなかったり、軽くなったりしてしまうことがある。
だからこそ、私党の編成から法度とされて行くのでもない限りは、群集の一員と
して悪行を働こうとするような人間の罪悪感も薄まったままであり続けることとなる。

憲法で「結社の自由」などが規定されている自由主義社会ともなれば、私党によって
悪さを働いて行くことが推進されて行くことにすらなるわけで、確かにそこでは、
罰せられるべき犯罪行為が何の呵責もなく犯された挙げ句に、本当に十分な裁き
にかけられることもないままに終わるようなことにすらなってしまうのである。

私党の編成から法度とされて行けばこそ、その手の罪悪の積み重ねが十全に食い止め
られて行くこととなるわけだが、それは同時に、私的な宗教団体の結成などが規制の
対象となって行く機縁ともなるわけだから、「信教の自由」までもが同時に抑制
されて行く事態ともなるわけである。そのため、昔の仏門のように、寺社奉行の厳重
な管理下に置かれた状態での教団運営などに限っては許容されて行くことともなる
わけだが、中には、私的な教団であることこそが本懐であるような宗教団体も存在する。
ローマ皇帝にカノッサの屈辱の如き仕打ちを加えたキリスト教団などがその代表例
であり、そのような私党編成の正当化こそを目的としたカルト宗教団体については、
始めから公的な認可の対象ともせず、一方的な禁教の対象とのみして行くしかない。

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064 2013/12/26(木) 16:46:27 ID:9a4OLYaWyE:au
特に、西洋社会においては、キリスト教の隣人愛志向などもあったせいで、私党編成
を正当化するのが宗教の主要目的であるという風にすら思い込まれているきらいがある。
そう思い込まれている以上は、宗教というものを根絶していかねばならないことにすら
なりかねないわけだが、当然そればかりが宗教の役割ではない。宗教に私党の正当化など
を恃まないことをわきまえた上で、信教を独立独行の拠り所などとしていくのであれば、
それはそれでよしとされるべきことである。そのような形で宗教が利用された時にこそ、
法華信者の源頼朝公による鎌倉幕府の創立の如き偉業が達せられたりもするのだから。

「斉の環、其の険を怙恃みて、其の衆庶を負み、好を棄てて盟に背き、
神主を陵虐す。曾臣、彪は将に諸侯を率いて以て討たとんす。其の官臣、
偃も実に之れに先後す。苟くも捷ちて功有らば、神の羞じを作す無し。
官臣、偃は敢えて復た済ること無からん。唯だ爾じ有神、之れを裁け」
「斉の環(霊公の呼び捨て)は、己の武力の強大さと、自国の人口の多さとを恃んで、
諸国との友好を破棄して同盟に背き、神の主たる民衆たちを虐待している。最下の
臣下である彪(晋の平公)すらもが諸侯を先導してこれを討とうとしているのだから、
官の秩序を守ろうとする臣下たる私、偃もまたそれに先後するぐらいでなければならぬ。
もしも勝って功績を挙げられたなら、それで神を辱めることもなくて済むというもの。
私は戦地に赴くためにこの河を渡ったきり、二度と還ってこない覚悟での戦いに臨む。
ただ神のみが、我が行いを公正に裁かれよ。(人民は神に守られるものではなく神の
主体である。その人民を守ることが神を辱めぬことともなる。そしてそのような試みに臨む
者こそは神の公正な裁きにかけられることをも望む。これが自力作善の益荒男の雄姿である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公十八年より)

返信する

065 2013/12/27(金) 03:41:29 ID:gvO6vi8iF6
笠地蔵さん、年末年始、ご予定はどうですか。時間があれば会いたい。
ネットでも、文章を暗号化してでもネットでは書くことができない。
そんな話をしてみたい。いかがでしょうか。
笠地蔵さんの意見も聞いてみたい。
ボクは旅行は好きですから、夜行バスで行ってもいい。

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066 2013/12/27(金) 11:45:55 ID:8WpgUw2eVA:au
自分も正直、無職ニートなどでいることを恥じているわけだよ。

「だとした所で、諜報犯罪者などよりはまだマシな存在だ」
という思いにもまた、嘘偽りはないわけだけれども。

こんな現状のままなら、まだ孤軍奮闘のままでいたい、
似たような境遇の人間と同病哀れみ合ったりするよりは、それなりの
成果を挙げてから付き合って行くようにしたいという思いがあるわけさ。

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067 2013/12/27(金) 15:24:56 ID:K5BcEnYHfE
>>64の引用部分などにもあるとおり、神をより頼むよりはむしろ神を守ること、
神を辱めぬ行いを心がけることこそが、人としてあるべき姿に当たる。神頼みなどは
基本、愚人の所業であるわけだから、なるべくそのような姿勢であるべきではないし、
どうあってもそうでしかいられないとしても、むしろそのより頼みようが慎ましやか
なぐらいであるべきである。他力本願でしかいられないような愚夫であるからには、
最低限、最悪級の破滅から免れられるだけでも構わない、というぐらいの謙虚さでいる
べきだし、むしろそのような謙虚さこそを神頼みによって育んで行くべきだとすらいえる。

他力本願に即して、自力作善者以上もの栄華にすら与ろうなどとするような所にこそ、
神仏信仰としての決定的な汚点が存在してもいる。それは、念仏信仰の祖である親鸞聖人すら
もが「本願誇り」として非難していた姿勢であり、そのような姿勢を深刻化させていった挙句
により一層の破滅に見舞われることすらもが、避けられたものではないようになっている。

>>64の「神主(人民)」という言葉や「民は神の主なり(左伝・桓公六年)」という言葉からも
分かるとおり、古代の中国人は民衆の総意こそを神格化すらしていた。そのような考えに
基づくならば、神をより頼むということは人民をより頼むことにすらなるわけで、それは
公権力者などの立場からすればなるべく控えることともなる。年貢や税収に相応やそれ以上の
働きを自分たちが心がけることで、人民たちに引け目を抱かせこそすれども、決して抱いて
しまったりするようなことがないようにすべきである。それでこそ人民を虐げないが故の、
「神を辱めない」振る舞いとなるわけだから、神を尊重するためにもそうであるべきだといえる。

神により頼もうとする性向は最悪、虐待レベルの民衆依存に帰結することとなる。
それは、形而上の超越神などを信仰対象とした聖書信仰においても変わりはなく、むしろ、
虚構神を信仰対象としたことが自己欺瞞として作用した結果、聖書信者の民衆依存こそは
人類史上でも未曾有のものとなり、苦しみに駆られた人々が人口爆発などという破滅級の
大問題をもたらすことともなった。民衆は、良くも悪しくも神の主であり、強依存などの

返信する

068 2013/12/27(金) 15:29:02 ID:K5BcEnYHfE
形での暴虐をはたらいたなら、最後には絶対不可避の大破滅を神罰としてもたらしすらする
ことまでもが、邪信の徒たる聖書信者の振る舞いによってこそ明らかとなったのである。

自力作善ではなく、他力本願にこそ「限界」というものがある。それは、聖書信者の
暴慢な他力信仰が地球規模での限界を来たした現代にこそ明らかとなったことでもあるし、
これまでの歴史上を見ても、日本のような閉鎖的な社会で一向一揆による世直しが限界
を来たしたりたことからも窺えていたことではある。ただ、他力本願に基づく外界侵略
の余地が地球上に残存していた限りにおいて、それを旨とする邪教信仰などが存続しても
いられたわけで、むしろそのような狂信が2000年にもわたって存続していられたことの
ほうが、この地球社会の度量の広さが大概のものであったからこその奇跡であったといえる。

他力本願にこそ、致命的な限界が存在しているということが地球規模で証明されたからこそ、
これからは地球規模で自力作善の精進を心がけて行くことのほうが格好の機縁となっている。
日本でですら、武家時代以降は自力作善の仏門並みかそれ以上にも他力本願の浄土門のほうが
幅を利かせ始めて来ているわけだから、自力系の仏門などが息を吹き返す上での格好の機会が
到来したことは、この日本に対してまでもよい影響を及ぼし得ることなわけである。まさに、
怪我の功名、禍転じて成せる福となるわけで、そのような機会をもたらしてくれた聖書信者
もまた、ちゃんと棄教して災厄の責任を負った後には、そのような側面における功労者と
なったことが、評価の対象ともにされて行くに違いない。聖書信者たち自身がことを急ぎ
すらすれば、そのような時期が到来することも決して遠い未来などでまでありはするまい。

「吾が父死して益ます富み、吾が父を死なせて国を専らにす。死有るのみ。吾れ之れに従うを蔑むや」
「自らの父が死んだからといって益々富み栄え、父を死なせたからといって国すらをも
好き勝手にしようとする。そんな人間に従わされるぐらいなら、死んだほうがマシだ。
(実の父母を無みすることで富もうとする聖書信者に対しても、同様である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十一年より)

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069 2013/12/28(土) 15:38:29 ID:mhVGLWxX1g
人間の尊厳は、人間同士の関係性の中で育まれる。個人が他人との関係性を抜きにして勝手に抱いたり
するのはただの思い上がりであり、それはむしろ真っ当な人としての尊厳を損ないかねないものですら
あるわけだが、個人主義者たるや、その身勝手な思い上がりのほうを真の尊厳であるなどと見なして、
人間同士の潤沢な関係性の中にこそ育まれる真の尊厳を蔑んで、挙句には損壊せしめようとすらする。

もちろん、全ての人間関係が尊厳を育む場となるわけでもなく、中には監守の受刑者に対する関係のような、
あからさまに尊厳を破棄せねばならないような人間関係も存在する。もしも世の中が紛争地帯のような
無法状態であって、そのために誰しもが犯罪行為を働きまくったりしていたならば、そのせいで
人間同士がお互いを尊重し合うことなどもできなくなる。また、世の中がそのような状況でなくとも、
自分個人が鼻をすすっただけでも犯罪と見なすような極度のピューリタン主義者であったりしたならば、
そのせいで、自分の要求を満たせていない世の中じゅうの人々への尊重意識を欠くことにすらなってしまう。

人が人を尊重せねばならないTPOというものを、天下国家の公益にも寄与するように規定しているのが
仁義道徳であり、なればこそ、士農工商の四民をこの順位に即してより尊んで行くべきだとしてもいる。
この内では最下位に当たる商民すらもが、都市社会の運営のためには不可欠となるものだから、都市に
住まう人間である以上は全くの卑下扱いにしてしまっていいなどということもない。ただ、その商民以上にも
世の中をより根本的な部分から司っている士や農や工といった職業への従事者をより尊んで行くべきだと
いうわけだから、四民制も畢竟「人間尊重の重畳」を目的としているものであるのだと受け止めて、
決して他者を蔑むための道具として濫用したりするようなことがないようにしなければならない。

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070 2013/12/28(土) 15:43:07 ID:mhVGLWxX1g
士農工商や君臣父子夫婦兄弟朋友といった、仁義道徳に基づく人間尊重こそは、「為されて然るべき」と
いえるものであり、仮にそれ以外の神仏への尊崇などを育んで行くとしても、両者が衝突し合ったり
するようなことがないようにしなければならない。先祖を神仏(氏神)に見立てての尊崇だけは、
存命中の人間同士の尊重すらをも助成するものだから、全く問題とするに当たらないが、それ以外の
怪力乱神が崇められたりした場合には、そのせいで個々の人間に対する尊重を損ねてしまうような
ことにもなりかねないので、禁教も含めた規制の対象にすらして行くべきだといえる。

墨家の博愛志向の如き、全く節操を欠いた敬愛の安売りも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」であり、
仁徳に根差した特殊な体系に根差した尊重を育んで行く場合などと比べれば「空振り」に終わって
しまいかねない。節度を保ったある種の人間尊重こそが、神格信仰以上に優先されて然るべきほどもの
優良さを発揮するわけなので、人間尊重一般が神格信仰以上に優先されるべきだなどと思い込んで、
共産主義者のような無制限な宗教破壊に及んだりすることがないようにもしなければならない。

「君子動きて世々の天下の道と為り、行いて世々の天下の法と為り、言いて世々の天下の則と為る。之れに
遠ければ則ち望む有り、之れに近ければ則ち厭わず。詩に曰く、彼に在りて悪まず、此れに在りて射わず、
庶幾くは夙夜、以て永く誉れを終えんと。君子の未だ此くの如からずして蚤く天下に誉れある者有らざるなり」
「君子が一たび動けば永世に至るまでの天下の道となり、行えば永世に至るまでの天下の法となり、言えば
永世に至るまでの天下の則となる。世の中が未だその理想から遠ければ志しを養い、理想に近づこうものなら
そこでの活動を厭うことがない。詩経(周頌・振鷲)に『理想から遠くとも憎まず、近ければ活動を厭わず、
願わくは日夜怠ることなく、以って永きの栄誉に賜らん』とある。君子が未だ斯くの如くあらずして天下に
栄誉を得たこともないのである。(大道ある天下に栄誉を得ることもまた一つの君子の望みなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二九より)

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071 2013/12/29(日) 14:40:33 ID:whi9sHnrX6
中国の放伐革命や日本の武家政治のように、必要があって已むなく行われる過大な武力行使というものがある。
それは、もう少し平和的な手法による対処も考えられそうな所を、あえて執り行う「剛克」であるわけで、
それにより鼠賊の蔓延る中低度の乱世の持続(沈潜)の強制終了や予防に務めて行こうとする。

「沈潜には剛克」という、箕子の洪範九疇の教えなどがあればこそ、中国や日本ではあえてそのような
剛克の試みが為されて、それで実際に漢代や唐代や平安時代や江戸時代のような長期の泰平時代を
幾度も築き上げて行くことができた。これは、万年平和状態のインドと、万年戦乱状態の西洋との
ちょうど中間に当たるような歴史展開における泰平社会の実現であり、清濁併せ呑む中での剛克に
よってそのような時代を実現して来られた所が、これまた特別な意義を帯びているといえる。

「沈潜には剛克」などという教えも知らなければ、「超封建制」たるカースト制のような徹底的な
階級制によって世の中を制圧して来たわけでもない西洋においてこそ、中国でいえば春秋戦国時代
あたりに比肩されるような「低度〜中度の乱世」が永続して来た。政商や食客や悪徳外交家のような
権力犯罪者が絶え間なく蠢動し続けているがための世の乱れを深刻化させておきながら、さりとて
それらの権力犯罪者を放伐し去る程もの徹底的な剛克まではついぞ行われず、ダラダラと中途半端に
乱世を持続させて行く不健全でだらしない歴史展開ばかりを持ち越して来たのだった。

それは、数千万人規模の戦死者をはじき出した第一次第二次両世界大戦といえども変わりなかったことであり、
権力犯罪者の横暴が祟っての経済破綻の清算を、貧乏人たちにしわ寄せして兵士として戦地で大量に死なせて
おいて、戦地に兵器を供給したりしている権力犯罪者どものほうは相変わらず安全圏での保身に回っている
という程度のものでしかなかった。中にはナチスドイツのように、戦乱の元凶たる権力犯罪者の放伐までをも
試みた勢力もあったが、戦況で優位には立てなかったし、総統のヒトラーも「ユダヤ人」という所にばかり

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072 2013/12/29(日) 14:44:56 ID:whi9sHnrX6
乱世の元凶を集約しようとしていた当たり、より根本的な問題としての権力犯罪一般を正確に見定める
までのことは出来ていなかったように思われる。(何も、ユダヤ人だけが権力犯罪者ではないのだから)

有史以来、今に至るまで結局、西洋人が自分たちの社会における重権力犯罪の横行を一度でも根絶
させられたような試しはない。それは、「沈潜には剛克」などという教えを試みることも認知する
こともなかったからだし、また重権力犯罪の主導者となるユダヤ人(を名乗るカルト信仰者)の
横行を容認するように、自分たちにとっての金科玉条である新旧約聖書に書かれていたからでもある。

しかし、春秋戦国時代の中国などもそうであったように、権力犯罪の蔓延る中低度の乱世というのは、
どこまでも発展し続けて行くのでなければ済まないようになっている。そうして行くことで、本質的には
有害無益な存在でしかない権力犯罪者の横行を正当化し続けて行く必要がある。西洋社会もその例に漏れず、
権力犯罪者どもの妄動の場を全世界へと押し広げて行った挙句に、ついには地球上の主だった可住地域を
軒並み征服し尽くすまでに至った。その後、大日本帝国の奮闘などもあって、多くの植民地を手離させられる
などしたが、それでも旧植民地における既得権益の嵩にかかっての世界トップ級の富裕を維持して来る
ことができた。ただ、今以上の社会的発展の余地がなくなってしまったということが、権力犯罪の横行
ありきで成り立って来た西洋社会にとっての致命的な問題点となってしまったために、まるで体力の衰えた
中高年者が、若い頃のままの暴飲暴食を続けたせいで身体を壊すような低調状態にも陥ってしまったのである。

世の中が重度の権力犯罪依存状態に陥ってしまうということは、中国や日本もまた経験して来たことである。
ただ、それを意識的に克服して来た経験もまあるのが西洋などとは違う所であり、克服したからには
江戸時代のように、鎖国状態で人口管理も行き届いているような安定的社会を実現することができていた。
そこは、いま沈潜を剛克する必要性に駆られている西洋人などにとってのお手本ともなる所であり、
万億の人々の命運を左右する大変革となるからには、昔の成功例を参考にすることも厳重であるべきだと言える。

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073 2013/12/29(日) 14:49:25 ID:6ndg.CG9bI:au
ただ、今の中国や日本の権力者が、昔の権力道徳者のように偉大であるかといえばそうでもないので、
歴史に学ぶことと現代人に学ぶこととは別物でもあるべきだといえる。黄金時代の中国史や日本史に
学ぶことは、それこそ現代の中国人や日本人に先んじるぐらいの心がけであるべきなのである。

「商書に曰く、沈漸には剛克、高明には柔克と。夫子之を壹らにす。其れ没らざらんか。
天は剛徳為れども、猶お時を干さず。況んや人に在りてをや。且つ華にして実ならざるは、怨みの聚まる所なり」
「書経(洪範)に『沈潜には剛克、高明には柔克(柔には剛、剛には柔)』とある。にもかかわらずあの人は
(剛には剛、柔には柔の如く)専らなばかりでいる。じきに駄目になってしまうことだろう。天は剛徳を備えて
いるが、だからといって暑いばかりだったりせず、季節によって寒暑を織り交ぜて来るというのだから、
人間ならなおのことそうあるべきだといえる(この一文、老子の教えにも似る)。それに、虚飾ばかりで
中身が伴っていなかったりすれば、怨みも集まるばかりとなるだろう。(平和は平和で求めるべき
時宜があり、剛克も剛克で嗜むべき時がある。ただただ平和ばかりを追い求めて、戦乱状態に虚飾
の平和を決め込んだりしても、人々からの恨みを募らせるばかりのこととなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・文公五年より)

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074 2013/12/30(月) 15:50:45 ID:WD5N.fG.Rk
単純な、動物行動学的な観点から見ても、人間はある程度は上下関係の下で活動をすべき生き物と
なっている。決して犬のように絶対的な上下関係を強いられねばならないわけでもないが、さりとて
猫のように上下関係を完全に無視した自由奔放な関係ばかりでいるわけにも行かない。比較的上下関係
を強いられることの少ない商売ですらもが、大規模化すれば同業者同士での上司と部下や先輩と後輩
のような上下関係を構築しないことには業務に支障が出始めることとなる。人間が全くお互いの上下関係
などを気にせずに済むのはごく小規模な田舎の村社会ぐらいのもので、しかもそのような村社会において
ですら、長老格の人間を敬って、その知恵に頼るなどしたほうが色々と都合がよかったりする。
(郷党での上下関係は年齢の高低に集約される。孟子・公孫丑章句下・二)

個人主義的な観点のみならず、無為自然を尊ぶ道家思想的な観点から見ても、上下関係などないに越したこと
はないと言えるわけだが、それにしたってどうしても上下関係を築き上げねばならない事態というのがある。
訳あって上下関係を築き上げて行くからには、それが必要性だけに応じた便宜的なものであったほうがよい。

そうであるとした場合に、最も便宜的な上下関係となるのが君臣父子夫婦の三綱の序列であり、また
そうであるからこそ、三綱の上下関係こそはそれを嗜む人間たち自身の尊厳を傷付けたりすることもない。

主人と奴隷の上下関係だの、恣意で取り決められたその他の身勝手な上下関係だのを強いられたならば、
そのせいで上下関係などを強いられない場合以上もの人としての尊厳の毀損を被ることとなってしまうが、
自らの親先祖や主君を畏敬したり、そのようなわきまえのある君子の男を妻たる女が敬ったりすることは、本人
たちの尊厳を損ねたりすることが決してありはしない。それどころか、真に敬うべき相手を敬う義務を果たして
いるがための誇りすらもが抱かれて、誇りある人間としての責任ある振る舞いがより洗練されて行くことともなる。

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075 2013/12/30(月) 16:06:43 ID:WD5N.fG.Rk

昨今のブラック企業内での上司と部下の上下関係などこそは極端に苛烈化しているし、しかもそのトップ
に当たるような人間がカルト宗教に基づく上下関係を企業内での上下関係の参考にまでしていたりする。
人間は所詮、上下関係抜きではろくに大規模な活動が出来ない生き物であるにも関わらず、その人間にとって
最も健全な上下関係たる君臣父子夫婦の三綱を民主主義や男女平等主義などによって否定してしまったために、
三綱よりも遥かに苛烈でろくでもないような上下関係ばかりが世の中に蔓延ることとなってしまった。

元来、自分が敬うにも値しないようなアカの他人を雇用関係などから人為的に敬わされることが、
ただそれだけでも相当な精神的苦痛を強いられるものであるというのに、さらにそのような虚構の上下関係
こそが三綱の序列など以上にも徹底的な軍隊様式のものと化してしまっていたりするのだから、まともな神経
の持ち主にとってはたまったものではない。それこそ、主人に仕える奴隷か犬畜生ほどにも自らの品性を下劣化
させてからでもなければ、そのような上下関係の下で平気でいられたりはしないわけで、そのような上下関係
ばかりが世の中で持て囃された結果として、世の中も奴隷か犬畜生同然の品性の持ち主ばかりとなってしまう。

とはいえ、世の中が奴隷や犬同然の人間ばかりで占められたりしたなら、世の中のほうが立ち行かなくなる。
奴隷や犬などが居なくたって人間社会を営んで行くことはできるが、世の中が奴隷や犬だくで占められたり
したならば、その途端に世の中も致命的に傾き始めるけととなる。それもそのはず、奴隷や犬は、
主人なくして生きて行けないような精神的不具を植え付けられていればこそそれらしい振る舞いでも
居られているのだから、自分たちだけでは生きて行けない不具者ばかりで世の中が占められて
しまったならば、その結果として当然、世の中も自存して行けないこととなってしまう。

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076 2013/12/30(月) 16:08:41 ID:i/EET5hFS6:au
君臣父子夫婦の三綱の序列こそは、そのような問題をも未然に予防して行くものである。
それが、人として敬うべき相手に対する畏敬の関係となるのみならず、真に世の中を司って
行く能力のある人間に対する畏敬を込めた上下関係ともなるものだから、三綱が重んじられた
結果として自明に、世の中のほうが健全かつ恒久的に営まれて行くことともなる。

人としての尊厳を損なわれたりすることがなく、かえって順当な誇りすらをも抱かせる上に、
天下泰平の礎としての役割すらをも果たす三綱という序列関係がないがしろにされて、企業内だの
カルト教団内だのでの恣意的で不健全かつ苛烈な上下関係ばかりが強いられている今の世の中に
住まわされている人々は、何という不幸に見舞われていることだろうか。それが民主主義や男女平等主義の
帰結であるというのならば、民主主義や男女平等主義こそは大いなる不幸の元凶たるに違いないではないか。

「君子は恭倹を以て仁を役するを求め、信讓を以て礼を役するを求め、自ら其の事を尚しとせず、自ら
其の身を尊しとせず、位に於いて倹やかにして欲に於いて寡たり、賢に於いて譲り、己を卑しめて人を尊ぶ。
小心にして義を畏れ、以て君に事えるを求め、之れを得て自ら是たり、得ざるも自ら是たり、以て天命を聴く」
「君子は恭敬と倹約によって仁を益し、信義と辞譲とによって礼を益する。自らの業績や身の程を尊しとせず、
自らの地位に即した倹約を心がけて寡欲に徹し、賢者には譲り、自らを卑しんで他者を尊ぶ。小心翼翼として
道義を畏れ、その姿勢に即して主君に仕えることを求めて、それが叶えば初めて自らを是とし、得ざる限りに
おいても忠義の志しこそを本是とする。そのような姿勢であればこそ、天命すらをも聴くことができる。
(人を敬える人間こそは天命をも聴く。人を敬えない人間などは天神にも近づけないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

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077 2013/12/31(火) 15:05:02 ID:TB4y1qACAM
君子たる大人の男だけが世の中を健全に司って行くことができる一方、
女子供や小人男にはそこまでの能力がないというのが、結局のところ、
近現代の高度文明化社会に至るまで通用し続ける普遍法則であった。だからこそ、
民主主義や男女平等主義などを推し進めた結果として人口爆発や環境破壊の如き
破滅的事態をも招いてしまったわけで、これは結局、その民主化や男女平等化を
技術面から補佐して来た科学の発展が、どこまでいっても易学上の陰陽法則を超克
することができないままで在り続けたからこそ来たしたことであるとも言える。

科学の発展自体、インドや古代オリエント社会における初等算術の体系化や、
中国における火薬や羅針盤や紙といった物品の発明があって成り立ってきたもの
でもあるため、決して西洋原産というばかりのものでもないが、ルネサンス時代
以降に世界レベルで科学技術の発展を主導し始めたのは、やはり西洋人である。
日本などでも微積分や線形代数に相当するような高度な算術が発見されておき
ながらも、それらがろくな実用の対象とはされなかったために、明治期の文明開化
の瞬間まで西洋人に科学発展の面で水を開けられたままであり続けたのだった。

ただ、西洋人がなぜそこまで近代文明の発展にかけて主導的な役割を果たした
のかといえば、そこにはやはり宗教的な動機が備わっていた。信仰義認を本是と
するプロテスタント教派をルターが創立して以来、西洋キリスト教徒の一部が、
無宗教ではなく、旧来の実践姿勢からは大幅に異なるような形でのキリスト信仰
の実践を試みて行くようになった。それが他でもない、民主主義だの自由主義
だの男女平等主義だのといった無宗教的イデオロギーの社会規模での流布であり、
それらの試み自体は決して宗教的なものではないが、そのような試みをあえて
行おうとすること自体はやはり、温故知新を嫌ってどこまでも世の中の七色変化
を繰り返していこうとするキリスト教徒としての信条を原動力としていた。

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078 2013/12/31(火) 15:11:47 ID:TB4y1qACAM
キリスト教徒の比率が1%以下に止まっているこの日本においても、民主主義や
資本主義といったイデオロギーを主導的に実践して行く上では自らがキリスト
教徒でもあるほうが都合がよかったりするものだから、世の中をトップから
司っている政財界にこそキリスト教徒が多くいたりもする。キリスト信仰自体が
そんなに心情的に受け入れられやすいものでもなく、仮に無理やり全国規模で
の信仰を強要したりした所でローマカトリックの暗黒時代のようなどうにも評価
し難い事態を招いてしまうことが察せられたものだから、キリスト教徒たちも
信仰自体をやたらと流布するよりは、その信仰に即して自分たちが利益を得たり
するための無宗教的な民主化活動のほうをより推し進めて行くようにしたのだった。

その、無宗教の仮面を利用することで、暗にキリスト信仰の理想までをも
実現して行こうとする試みこそが、今になってついに限界を来たし始めた。
カトリックや正教によるキリスト信仰自体の無理やりな流布もすでに限界を
露呈している一方で、信仰はあくまで自分たちのものとして、その信仰のための
無宗教的な活動を推進して行くプロテスタントや近代ユダヤの試みまでもが、
ついに致命的な限界を来たすこととなった。そもそもが、キリスト信仰などを
持ち越していたりすることが根本的な過ちであるのだから、信仰自体を義認程度
に止めた所でやはり破綻を来たしてしまうということが、いま確証されたのである。

キリスト信仰も、その無宗教的な実践としての民主化や自由化や男女平等化も、
それらを技術面から支えて来た近代科学の発展も、いずれもが5000年前に発見され
ていた易学や、その易学のより実践主義的な発展系としての儒学の教理を超克する
ことができなかった。そうでしかあり得ない根拠は、これまた道家の万物斉同思想
や仏教の諸法実相の教えが提示しているわけで、結局のところ、西洋的な文化文明の
発展姿勢全般が、東洋的な文化文明の発展姿勢全般に敗れ去ることとなったのだと言える。

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079 2013/12/31(火) 15:52:59 ID:RZnT1J/MIE:au
キリスト教の原型たるユダヤ教自体、東洋社会の落ちこぼれ中の落ちこぼれで
あった古代ユダヤ人が獄中で提唱したものだし、キリスト教自体も世間知らずな
田舎者の偽善者の男が、そのユダヤ教を素地にして自暴自棄状態で拵えたもの
であるのだから、その原初からして、東洋文化文明を超克できる要素などは微塵
もなかったのだといえる。キリスト教徒が自分たちの勢力圏からユダヤ教以外の
異教を廃絶し尽くしたのも、自分たちの信仰教義自体が異教異学と比すれば決定的
に粗悪なものであるとしか断定できないものだとも察知していればこそ、そうした
のである。始めから暴力的手段だの恐怖支配だのに頼りつつしか自存できなかった
ものを、考えうる限りでも最良級の手段によって補強してみたが、それでもやはり
うまくいかなかったというのが、現代におけるプロテスタント的活動の行き詰まりで
あるわけで、始めに根本的な過ちを犯していれば、後付けでどんな補正を試みた所で、
絶対に完全な矯正が不可能なままであり続けることが証明されたのだといえる。

この世界で、カトリックとプロテスタントほど熾烈な宗教戦争を繰り広げてきた
宗教教派同士も他にないわけだが(聖書教対イスラム教は、聖書教徒の側からの
一方的なイスラム圏への侵略でしかない)、所詮同じキリスト教である以上は、
同じ穴の狢であった。易の法則や仏法こそが司っているこの世界この宇宙において、
絶対に通用しないものを無理やり通用させようとする徒労の試みに及んだ点では、
いずれも遜色のないものであった。その無理やりな試みの過程においてひり出された
民主主義だの資本主義だの男女平等主義だののイデオロギーが、道徳統治に対する
背理法の実践ともなったし、近代以降の科学発展が、善用にかけての大きな可能性
を秘めているのも確かなわけだから、キリスト信仰やその実践が徒労であったことを
認めてそれらを破棄すらするのであれば、元キリスト教徒がそれなりの評価の下で
立ち直っていくこともまた、決して許されぬことともならぬに違いないだろう。

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080 2013/12/31(火) 15:56:11 ID:RZnT1J/MIE:au
「帝、天の下に光たり、海隅の蒼生に至るまで、万邦の黎献、共に惟れ帝の臣なり」
「帝(舜)は天下の光明であられるが故、四海の端の植物たちから、万邦に住まう
聖賢たちまでもがみな帝の臣下として共にあろうとするのです。(天下に受け入れ
られるものは受け入れられ、受け入れられないものは受け入れられない。そして
聖賢こそは、世の中に受け入れられる者のほうの臣下たろうともするのだという)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・益稷より)

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081 2014/01/01(水) 11:38:46 ID:LgKtulxavc
地の果て、海の果てに至るまで道理は通用し、無理は通用しない。真理ともなれば、
宇宙の果てやその形而上の形而上の形而上に至るまで通用するが、そこでもやはり無理が
通用するようなことはない。ごくごく局所的な領域で、ほんの一時に限って無理が通されて
道理が引っ込むようなことだけがあり、しかもそのような多少の無理の押し通しに至るまで、
最終的には道理や真理が隈無く悪因苦果の因果応報を成就させ尽くすことともなる。

無理が無理たる所以は、そこに致命的な自己誤謬を内包していることであり、第三者的な
観点からの審判によって誤りと判断される要素を帯びていたりすることではない。1+1=2
という規則の算術で社会生活上での金工面などを行なっているのは自分自身であるというのに、
そこに1+1を3や4にするような規則を後付けしたりすれば、それは自分自身に対して過ちを
犯すこととなる。そのような不正な勘定によってあぶく銭を大量に捏造した結果、額面と
実体経済が全く見合っていないことが原因での経済破綻を招いてしまったりしたとすれば、
それは自己に対する過ちが祟っての破滅に見舞われることとなるわけで、そこに「天からの裁き」
云々といった要素を加味させたりすることも所詮は、比喩表現の域を全く出ないこととなる。

そのような、自己誤謬を本質とした無理こそは、あらゆる罪悪の元凶ともなる。
法律違反だから犯罪とされる罪などは、実罪である場合もあれば虚罪である場合もあり、
実罪は必ず上記のような意味での無理を帯びている一方、虚罪は必ずしもそのような無理を帯びては
おらず、逆に虚罪を罪と定めているような悪法のほうが文面上からの無理を帯びていたりする。されば、
実罪にしろ虚罪にしろ、何らかの無理が祟っての罪悪と化してしまっていることには変わりないということが
結論付けられるわけで、実罪の実罪を裁くためには、罪を犯した人間自身が裁かれる必要があるし、虚罪の
実罪を裁くためには、むしろ虚罪を罪に定める悪法の押し付けのほうを権力犯罪として裁くべきだといえる。

返信する

082 2014/01/01(水) 11:46:26 ID:LgKtulxavc
上記のような社会統治を法治主義以上にも推し進めていくことが、いわゆる「道徳統治(徳治)」となる。

法律が絶対化されないからといって、絶対的なものがないのではない。1+1を3にも4にもして
しまうような無理を廃絶して行くことを目的とした道理こそを規矩準縄として、善法を推し進めて
悪法を駆逐して行くことこそは徳治ともなる。悪法を駆逐することは、法制をも思いのままに
操れる公権力者たち自身の権力犯罪を取り締まることに繋がるので、自然と徳治は民間人以上にも、
公人たちの行いを公人たち自身が取り締まって行く分量が多くなる。漢代の中国や江戸時代の
日本のような厳重な道徳統治が敷かれた世の中においてこそ、自刎や切腹の如き酷烈な手法による
引責自殺が頻発していたのもそのためであり、だからこそ、民間人たちのほうが圧政に苦しめ
られたりすることが、法治主義社会である今の日本や中国以上にも少なかったのである。
(警察官に相当する奉行所の役人数なども今より遥かに少なかった)

徳治と法治の違いは結局、公権力者が率先して引責自殺級の政治責任をも負って行くか否か
という点に尽きているのであり、為政者たちにそれすらをも厭わないだけの責任感が備わって
すらいるのであれば、手法面で徳治が法治よりも難儀となるようなこともありはしない。

返信する

083 2014/01/01(水) 11:49:09 ID:c1z4B3HjKQ:au
現状すでに、六法全書の分量のほうが四書五経の分量を上回っており、しかもその主要部分を暗記して
いるのでもなければ司法試験に合格することもできない。単純に分量や文面の難解さだけを比してみても、
四書五経を暗記対象としていた科挙試験のほうが簡単であるし(ただし競争率の高さという問題はある)、
また四書五経を暗記対象などにするよりも、より率先的な実践対象として行ったほうが、善因楽果ゆえの
「浩然の気」に与れることともなるため、立て板に水を流すが如き流暢な徳治が講じて行けるようにもなる。

世の中が法治から徳治へと移行することが忌まれる原因があるとすれば、それは、世の表舞台で
無理が通されることが本格的に取り締まられて行くことか、公務員の怠惰が許されなくなること
ぐらいのものである。前者の原因は、人々に無理の押し通しを推奨する類いの邪教邪学の立場を失わせるし、
後者の原因は、公務員こそが最大級の怠惰に与れる法治主義社会での職務に慣れすぎた現職の公務員をその
地位から追うようなことともなるために、そのような領分の持ち主たちからの反発が必至となるわけである。

北宋の代以降の中国での放伐革命などは、科挙制度や監察官制度の形骸化を持ち越しつつのもの
でしかなかったために、体制を刷新すれどもすれども権力腐敗を改めきれないという問題を来していた
わけだが、たとえば周朝や漢朝や唐朝や平安朝や江戸幕府のような清浄な政権が立ち上げられるために
革命が行われるのだとすれば、それも時には奨励されるべきこととなるだろう。権力腐敗や邪教邪学の
蔓延を駆逐して行くために、自分たちこそは引責自殺も辞さない覚悟での為政に取り組んで
行くだけの志しの持ち主こそは、その革命を実行に移すだけの資格をも得るのである。

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084 2014/01/01(水) 11:52:49 ID:c1z4B3HjKQ:au
「夏后、殷、周の盛り、地千里に過ぎる者は未だ有らざるなり。而かるに斉には其の地有り。
鶏鳴狗吠相い聞こえ、而かも四境に達せり。而して斉には其の民有り。地改めて辟かず、民改めて
聚めずとも、仁政を行いて王たらんには、之れを能く禦むるに莫きなり。且つ王者の作らざる、未だ
此の時より疏しき者は有らざるなり。民の虐政に憔悴せる、未だ此の時より久しき者は有らざるなり」
「夏や殷や周の隆盛期といえども、直轄の領地を千里以上有しているような者はいなかった。斉国は
今それだけの領地を有し、しかもそこら中で鶏や犬の声が聞こえるほどに人口密度の高い地域が四方の
隅々にまで渡っている。すでに斉にはそれだけの民があるのだから、わざわざ今以上に土地を切り開いたり、
今以上に民を集めたりせずとも、そこで仁政を執り行う王者として、今ある国をよく治めて行くに越した
ことはない。しかし、今の斉国でそのような王者が現れた試しもないので、人々の虐政への憔悴も未だ
かつてなかったほどに深刻化してしまっている。(必要なのは領地を広げることなどではなく、今ある
土地の領民たちを丹念に治めて行くことのほうである。どこまでも領地を広げて行こうとする覇権主義
状態ではそれも疎かとなり、未だかつてなかった程もの虐政に民が苛まれることとすらなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)

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085 2014/01/02(木) 14:24:12 ID:fYgYyCIADY
酒は良くも悪しくも、男の嗜好品である。快楽が全身に行き渡る感覚に見舞われると
される各種の麻薬などと違って、アルコール摂取による快楽は脳の酩酊ばかりに集約されて、
全身に行き渡るということがない。そのため、心や知能を酷使する労務に励むことが
ままある大人の男にとっての、体のいいストレス解消材料となるわけである。

それが時には、アルコール依存症や脳出血や内臓障害のような疾患をも派生させたり
するものだから、当然「飲み過ぎはよくない」ということになるわけだが、酒のうまさが
分かる程にも心や知能を労しているということが、生業ある男にとっての誉れとなったり
もするものだから、カルト信仰で俗人の飲酒までもが忌まれてしまっているような異常な
世の中でもない限りは、飲酒の風習がそれなりの市民権を得ていたりもするのである。

女や子供でも、ある程度は心や知能を労することができるが、基本、それを一方的に嫌がる。
多大な心労の結果としての皺や白髪などは、男にとっては勲章とすらなるが、女にとっては
ただの醜い老化としてしか受け止められないため、なるべくそうなってしまいかねないような
苦労などを避けたがるのである。実際、酒がうまい程にも日頃からのストレスを溜め込んでいる
ような人間ほど見た目にも老け込んでいたりするものだから、酒好きな人間ほど見た目年齢が
年相応以上だったりもするわけで、もし見た目年齢の上昇を防ぎたかったら、酒を飲まなかったり、
飲酒の習慣などなくて済むほどにもストレスのない生活を送ったりするに越したことはないのである。

女子供は、それでいいのである。自らが至らない小人であることを自認する男もまた、
そうであることを恥じて、率先的な心労をも辞さない大丈夫を畏敬できるぐらいなら、
世の中のほうの経済的余裕の如何によってはそうであることが許容されるのである。ただ、
そのような心労を一方的に忌み嫌う女々しい性向が「より優れたもの」とまで思い込まれて、
誰しもがそれを追い求めて行ったりするようになるのだけはいただけない。そのような
風潮が全社会規模で強いられた結果として飲酒が忌まれたり禁じられたりするぐらいなら、
心労を奨励した結果として嗜好品としての飲酒をも是認する世の中であったほうがまだよい。

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086 2014/01/02(木) 14:38:30 ID:fYgYyCIADY
聖道門の、特に上座部の仏門で飲酒が忌まれていたりするのは、純粋な悟りのみによって
心労を克服することが尊ばれているからであって、心労を忌み避けているからではないのだから、
これはまた別の問題だといえる。常人が到底受け止めきれないような過大な心労すらをも
悟りによって克服していたりするものだから、今さら飲酒などでストレスを解消したりする
必要もないというわけなので、それはむしろ飲酒文化の上位互換であるとすら言える。

酒に依るのであれ悟りに依るのであれ、何らかの克服手段が必要となるほどにも心労を重ねる者こそは
自力作善者たり得もするわけで、その心労を辞さない誠意こそが、大社会の為政を司るに値する程もの
主体的完成度を備え得もする。故に「心を労する者は人を役し、力を労する者は人に役せられる(孟子)」
とも言うわけで、心労を辞さない偉大さたるや、力役を辞さない強靭さ以上のものですらあり得るのである。

大人の男でいながら心労や自律性を忌み嫌い、しかもそのような自らのあり方を正当化して
万人に強いようなどとする人間が居たとすれば、これはもう、磔にされたところで仕方が
ないとすら言える。妾腹の私生児のような恵まれない境遇に産まれたことなどではなく、
そのような自らの振る舞いこそがそうなっても仕方のないものであったわけだから、
何ら同情の余地もない恥さらしに過ぎなかったことまでもが紛れもないのである。

「禹は旨酒を悪みて善言を好めり」「禹は美酒を嫌って人のよい言葉を好んだ。
(美酒を嫌うのは贅沢を嫌ったから。善言を好んだのは自らの善行を引き立ててくれるから。
自力作善のために節度のない飲酒を避けるということはあるが、他力本願の徒は
肉食妻帯飲酒上等であり、そのような自らのあり方を恥じることのほうが必要である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二一より)

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087 2014/01/03(金) 18:10:46 ID:Ng6FGMHUoQ
しごく根本的かつ総合的な方向性として、信者を正気の堅持からなる平穏へと
いざなうのが正統な信教である一方、ただただ信者を狂乱へと陥れるのが
邪悪な信教であるといった違いがある。その具体的な内実を鑑みてみれば、
正統な宗教である神道やヒンズー教にも狂乱的な祭りがあったり、大乗仏教
にもいかがわしい密教教義があったりするわけだし、逆に邪教の極みである
キリスト教などにも多少は人々の平和を祈るような穏健な傾向があったりする。
しかし、正統な信教が狂乱的な祭義を部分的に兼ね備えていたりするのは、それに
よって恒常的な平穏状態ゆえの中だるみを避けるためだったりするし、逆に邪教が
部分的に平和主義を嗜んだりするのも、穏健を装うことで過激派の謗りを免れる
ためだったりするわけで、結果として正統な信教が恒常的な平穏を信者にもたらし、
邪教が恒常的な狂乱状態を信者に植え付けるものとなることには変わりないのである。

飲酒や肉食や色欲を厳禁するほどもの平静主義でもなければ、万年戦乱状態を
許容するほどもの狂乱主義でもないのが、人道を司る儒学であり、儒学の知悉者
こそは、平穏志向を本旨とする正統な信教と、狂乱志向を本旨とする邪教との判別を
明確に付けることができる。儒学を知らない人間からすれば、「キリスト教やユダヤ教
が邪教であるというのなら、イスラム教や拝火教や浄土教もまた邪教であるのではない
のか」という疑問をも抱きかねないわけだが、確かに、後者三つの信教もまたあまり穏健
なばかりでもなかったりする一方で、儒家が企図する最低限度の世の中の平穏までをも
致命的に毀損するものではないこともまた明らかであるので、とてつもなく優れた信教
であるとまではいかずとも、最悪の邪教でまではない信教であることが知れるのである。

「世の中で司法が健在でなければ国も滅ぶ(孟子)」といい、「刑罰は人間が責任を
以って執り行うべきものである(礼記)」ともいうとおり、世の中全体が司法や刑罰を
尊重して行くことが儒家でも是とされていて(ただし法家のような法律絶対主義でもない)、
これこそが、査定対象となる信教が正統かカルトかを決定的に分かつ普遍基準ともなる。

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088 2014/01/03(金) 18:15:25 ID:Ng6FGMHUoQ
神道は罪を「穢れ」として忌み避け、仏教も世俗法にさらに仏戒を上乗せしたりする通り、
正統な宗教が儒家以上の司法尊重志向であることこそあれど、以下であることは決してない。

翻って、邪教のほうはといえば、あの手この手を駆使しての世俗の司法権威の毀損や
無効化を試みる。キリスト教教義のような、単純で簡素なカルト教義によって世俗の
司法の権威を損なおうとすることもあれば、ユダヤ教の戒律群のような、長大で晦渋な
カルト教義によって損なおうとすることもある。それでいて、それらの教義自体が、世の中
を穏健に司って行くことなどもできはしないので、ユダヤ教徒は自分たちの国をまともに
運営して行くこともできないし、キリスト教徒も仏教教義や拝火教教義をマニ教を通じて
剽窃することを通じて、やっと一時的な社会運営を可能とする程度の体裁を得たのだった。
(ただし、所詮は根がカルトであるため、最終的には完全破綻を来たしてしまった)

儒家が時に法家を論撃対象としていたりするのも、法律支配を機械的に絶対化する
ことがかえって、司法や法度自体の道理に適った権威性を損なってしまいかねないため
であり、断じて司法の権威を損ねたりするためではない。東洋で男性の帝王に優先する
女王や女帝の存在が許されて来なかったのも、そのようなことがあれば国自体の権威が
損なわれることとなってしまうからであり、決して帝室や王室に女が介在することが全く
以って無価値だなどと考えられていたからではない。女は女で、跡継ぎを産み育てること
にかけて天照大神ほどもの偉大さを以って国家権力にすら介在して行くものだと考えられて
いたようにして、国家社会の統治もまた「分をわきまえているが故に、絶対的な地位を得たり
する場合以上にも本質的な権威を得るもの」としての司法に頼って行く必要があるのである。

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089 2014/01/03(金) 18:18:49 ID:flmwA7o3ic:au
「罰の懲らしめは死に非ず。人を病ましむるを極みとするなり」
「刑罰による"懲らしめ"は、何も『死』を極みとしているのではない。
罪人を苦しめる所にこそ"懲"罰としての極みがある。(架空の刑死で罪悪感を
紛らわす邪教の存在などが、根本的に薄ら馬鹿げたものである論拠ともなっている。
ただし、死刑は死刑で世の中の治安維持のために已む無く行われることがあるわけで、
世の中の治安のための刑罰であるからには、受刑者を本当にこの世から抹殺してしまわ
ねばならない。刑死ごっこで罪を免れられるような道理はいずれにおいてもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)

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090 2014/01/04(土) 14:35:22 ID:6sLPjRtkvM
善因楽果も悪因苦果も、道理や真理に即して結実することを愚人がねじ曲げた気になる
ぐらいのことはできる。たとえば、経済破綻だの核戦争勃発だののあからさまな形で
世の中総出での放辟邪侈の悪因苦果が結実するのも、必ずしも「即座に」とは限らない。
自国の金融規制の緩和によって通貨価値を下落させることで、名目上の株価だけは上昇
させておくなどの措置を講ずることで、あたかも株式至上主義の世の中が未だに好況に
沸いているかのように見せかけたりすることで、実質的な破綻をすでに来してしまって
いる世の中の体制からの延命に務めたりすることもできる。それにより、すでに老い先
短い資本主義社会の重鎮が、自らの存命中には資本主義の惨めな破綻などを見ないで
済んだりもするのだから、そのような個個人にとっての悪因苦果が結実しなかった名目
を確立することすらできる。また、資本主義崩壊後にも合法麻薬の頒布などで現実を
直視しきれない愚人たちの逃避先を用意し続けたりすることもできるわけで、「悪因
苦果が結実する」ということを直視するがために最大級に苦しむということを、愚昧さ
をより掘り下げて行く逃避行によってかわし続けることもできなくはないわけである。

ただ、本質的にはそのような逃避行自体がすでに、地獄の奥底への探検ともなっている。
「悪いことをすれば苦しい」というのが人間という生き物にとっての普遍的な心理構造
であり、ただ別個の物質的快楽によってその苦しみが紛らわされたりするだけなのだから、
未だ経済破綻などを来していない範囲における不当利得を糧にした放辟邪侈などにうか
れている内からすでに、本当は心中で苦しんでいるのだとも言える。ただ、その苦しみ
が強度に覆い隠されてしまっているのにも違いないわけで、それは、経済破綻後に至る
までですら、麻薬服用などの形で存続できないわけでもないことである。そうして愚人
たちはどこまでも、地獄の奥底への旅路を歩み続けて行きながら、一定度以上にそこに
慣れ続ける。業火に身を焦がすような地獄の苦しみにまみれながらも「これでよし」とし、
死の瞬間まで悪因苦果を直視することでの反省に務めたりすることがないままに終わる。

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091 2014/01/04(土) 14:39:09 ID:6sLPjRtkvM
普遍的な善悪の基準に即した善因楽果や悪因苦果が実在しているものと堅くわきまえて、
実際に悪行を犯そうものなら即座にその悪因苦果を直視して相応の刑罰にも服するように
して行ったりすること自体、一つの清廉な心がけであり、そのような心がけによって
真理や道理を我が物とすらできること自体が、無上の愉悦をもたらすことである。
道理を我が物とするだけでも浩然の気に与れ、真理を我が物とすらすれば常楽我浄
にすら与れる、そうであること自体が非常に積極的な悦楽の探求の賜物なのであって、
おまけにそのような健全な悦楽の追求によって世の中までもが恒久的な泰平や繁栄に
与れるようになるという点が、悪因苦果を物質的快楽で紛らわしながら増長させて行く
場合などとは異なる点だといえる。結局、真理や道理に合致して因果応報を直視する
場合においても、それに背く逃避行を続けて行く場合においても、個々人がある種の
享楽を追い求めて行くことには変わりないのであって、違うのはその結果として
世の中に利したりかえって迷惑をかけたりする所や、中心からの愉悦に与れているか、
もしくは中心の苦しみを粗大な快楽で紛らわしているかといった違いのみだといえる。

真理や道理を我が物として行く生き方にもある種の楽しみがあり、それらに即した
因果応報から目を背け続けて行く生き方にもある種の楽しみが伴い得る。後者を避けて
前者を選択して行くように促すのも一種の社会的な要求扱いになってしまうわけで、
個人主義で理論武装している相手などに対しては必ずしもこたえないことともなる。

本当は悪人こそが心中では苦しみ続けていることなども、愚昧さによって割りきれる。
悪因苦果からの逃避行も結局は個々人の全人生を司る姿勢として堂に入ってしまったり
するわけで、それは数多のキリスト教徒が大変な高齢に至るまで幸せそうな人生を
送り通した挙げ句に命を終えたりして来ていることからも知れることである。

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092 2014/01/04(土) 14:41:17 ID:T7GDQPcy8s:au
善徳の推進も、存命中の孔孟のように十分な実を結ばないことがあれば、罪悪の推進も
数多の聖書信者に対するように最大級の栄華を本人たちに提供しきることがある。その
ような不条理の全てが結局は、「命あるものはみないつかは必ず死ぬ」という諸行無常の
真理によってこそ清算されるわけだから、諸行無常こそは善人の味方であると共に悪人の
敵であるといえる。しかしその諸行無常ほど、我が味方と見なすことが困難な真理も他に
ないわけで、善人と悪人の根本対決はどこまでも、いずれかの勝ち誇りなどを許さない
ままに、僅差で善人が悪人に辛勝するような所へと集約されて行くこととなるのである。
これこそは、心理が万人に対してほぼ平等であることの証左であるとも言えようか。

「苗にして秀でざるものあり。秀でて実らざるものあり(既出)」
「苗のままで成長しないものもいる。成長しても実らないものもいる。
(実ったものだけを見て判断してたりすれば、多くの可能性を見損なうことになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)

「孔子曰く、今の君子は実りを好みて厭きること無し。〜今の君子は礼を為すこと莫し」
「孔先生『今の為政者は安易な実りばかりを追い求めて飽きることがない。
今の為政者は礼を実践しているなどとは言い難い』(新田が早々には穀物を実らせ
なかったりするように、豊かな結実のためには辛抱が時に必要ともなる。いかにも
農耕民族的な発想だが、古代のローマ人なども農耕によって得た食糧で命を繋いで
いたわけだから、にもかかわらず安易な実りばかりを追い求める類いの邪教を
進取したのは、当時のローマ人たちにとっての総出の過ちであったと言える)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)

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093 2014/01/05(日) 14:00:24 ID:OrKbx8GsXQ
戦乱あるところ、いつも必ずそこに偏愛がある。
紂王の妲己への偏愛に、幽王の褒姒への偏愛、趙姫の嫪毐への偏愛に、
項羽の虞姫への偏愛と、有力者の愛人に対する盲目的な偏愛こそが、
最悪級の戦乱を来たす元凶としていつも歴史上に暗躍して来た。

仏教渡来以前の中国史においてこそ上記のような史実例が豊富であるのは、
中国人こそは古代からの史実を正史として正確に記録して来た人々であると共に、
仏教渡来以降は偏愛の有害さが十分な警戒を受けて、偏愛が原因での戦乱が
予防されたり、偏愛があっても世間体のためにあえて隠すようなことに
なり始めたからである。(これは仏教渡来以降の日本などでも同様である)

西洋などでは逆に、愛の権威こそがカルト信仰を通じて確立されてしまった
ために、愛を戦乱の元凶として否定的に捉えたりすることが控えられて、
偏愛が原因で戦乱を来たしてしまったことなどが史実として正確に
記録されるようなこともなくなってしまったからこそ、そのあたりの
因果関係を歴史書などを通じて察知することは難しくなっている。

しかし、愛こそを絶対的なものとして権威化してしまった
西洋社会こそは、世界でも最も戦乱状態の頻度が高い地域であり続けて
いることからも分かる通り、やはり愛を無条件に持て囃すような
風潮こそが戦乱の元凶となることが如実となっているのである。

全く愛のない世界など味気ないし、別に全ての愛が戦乱の元凶となって
しまったりするわけでもない。ただ、愛する相手を唯一神に見立てて無条件に
尊崇するほどもの蒙昧さが愛と結託した時に、それこそが戦乱の元凶と
化してしまうわけで、それ程にも偏頗な濁愛が持て囃されたりするのでも
なければ、愛が傾国級の害悪の種と化してしまったりすることもない。

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094 2014/01/05(日) 14:04:11 ID:OrKbx8GsXQ
仏教が愛の否定や劣後によって予防しようとしているのも、それ程にも
奇特な部類の愛の蔓延でこそあるのであり、決してこの世からあらゆる
愛を絶やし尽くすことなどを仏教が目的としていたりするのではない。
特に大乗仏教は鎮護国家を本旨の一つにも据えているために、公権力者の
君臣父子夫婦といった序列に基づく親愛を否定したりすることは許されないし、
また密教教義などが愛の活用による成道を教義に据えていたりもする。

特に分かりやすいのは、仏教渡来以前における古代中国の公権力者の
濁愛への惑溺による権力腐敗や戦乱の呼び込みであるけれども、それ程
にもあからさまな濁愛と戦乱の因果応報が隠されたり正当化されたりして
しまっているためにその手の因果関係が分かりにくくなってしまっている
現今の世界においては、仏教帰依などを通じて愛の過剰化を予防して行く
価値やその必要性などもなかなか計り知りがたいものとなってしまっている。

特に民主主義社会においては、表向きの公権力者はただ民衆の言うことを
聞いているだけということになっていて、政治的主権は民衆たち自身にある
とされている。実際にはその内でも符号であるような民間人ばかりが大権を
牛耳っていたりするわけだけれども、その富裕な民間人こそは、表舞台に
躍り出たりもしないでいいのをいいことに、紂王や幽王も顔負けの濁愛に
溺れまくったままとなる。いくら隠れているとはいえ、そのような人間が
どこかにいる以上は、濁愛が原因での戦乱という因果関係が成就してしまう
わけで、因果関係が分かりにくいにもかかわらずではなくだからこそ、
表向きの公権力者があからさまな濁愛に溺れたりした結果としての戦乱
など以上にも甚だしい争乱を招くことにすらなってしまうのである。

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095 2014/01/05(日) 14:04:33 ID:R/Uawn2Q7g:au
薩摩人あたりが濁愛好きの戦乱好きだったりするのは、ただ一方的な
制止の対象としてやればいいだけのことである。問題は、愛こそが平和を
もたらす鍵となるなどと思い込んでいる転倒夢想の徒輩のほうであり、
まずその誤解を解いてやるのでなければ、平和のためにこそ愛を追い求める
という白痴そのものな暴走を続けて行くこととなる。その誤解を解いて
やれる程にまともな理解力を持ち合わせている人間はそうしてやればいいが、
それも無理なほどに蒙昧の極みに達してしまっている人間ともなれば、
これはもう、犬同然の使いっ走りとしてならまだ再利用のしようのある
薩摩っぽ程もの救いようもないであろう。いずれかを取り締まって行き始める
というのなら、むしろそちらのほうを優先的に取り締まって行くべきだろう。

「信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊(既出)。
剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂」
「信仰ばかりを好んで学問を好まなければ、その弊害として他者を損なう
ことになる。しっかりしていることばかりを好んで学問を好まなければ、
その弊害として独り善がりに狂うこととなる。(神への狂信ばかりに耽って
異教徒を損なう戦乱を招き、自分たちの平穏無事ばかりを追い求めることで
蒙昧な独り善がり状態となり、自分たちが戦乱の元凶となっていることすら
分からなくなる。まさにどこぞやのカルト信者の有様そのものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・八より) 

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096 2014/01/06(月) 13:22:06 ID:bm/2gE2Glw
白昼では見えないほどに頼りない蝋燭の火も、暗中では周囲を照らし出す明るい光となる。
日の下での公明正大とした活動を好き好む人間にとっては光の内にすら入らないように
思われるような小さな灯火が、暗闇での陰湿な活動を好き好む人間にとっては救いの
光であるようにすら思われる、その灯火こそは邪教の神であったりもするのである。

日中なら、曇天状態でもそれなりに周囲が見渡せるほどに、この地球上は明るい。
そこで早朝の日の出時から日没時に至るまで熱心に働けば、さしたる浪費もなく有用な
仕事をこなして行くことができるわけで、昔はその経済性が尊ばれていたものだから、
国家権力を司る"朝"廷などが特に、日中における職務を重んじていたりもしたのである。
(実際に、朝廷は朝早くから上るものだったから、「朝廷」と呼ばれていたのでもある)

その、日中の活動の経済性が最大級に蔑ろにされているのが、電光文明の発達した現代でもある。
蝋燭や松明などの旧来の灯火と比べて、電灯の取り回しやすさは格別である上、今でもさらに
技術的発展を続けてすらいるわけだが、だからといって灯火のコストパフォーマンスが、
無尽蔵の太陽エネルギーの地上への照射たる日光のそれを上回るようなこともあり得ない。
数多の電灯の保守や電源供給のために膨大な労力やエネルギーが費やされ、人々をただそれだけ
のための労働に多数動員させるようなことにすらなる。その浪費さ加減が諸国内はおろか
世界中にまでドミノ倒し的に派生して、最末端の貧困国におけるさらなる困窮や重労働を助長する
ことともなり、以って「未開の土人社会よりも劣悪な社会」が出現することともなる。近代文明
の象徴たる電灯こそが、電灯などない土人社会よりも劣悪な社会環境をもたらしてしまうのである。

未開の土人社会以上にも劣悪な環境下に数多の人々が晒されてしまっているものだから、
その苦しみが原因での人口爆発という極めて不自然な問題が勃発してしまってもいる。自然
状態や、日光こそを灯火以上にも尊ぶ文化習俗が行き渡った状態以上にも、暗闇での灯明こそを
有難がる風習が蔓延してしまっている今の世の中こそは深刻な危機に見舞われていることからも
分かる通り、暗闇での灯明を持て囃すような志向性こそは、より粗悪なものだったのである。

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097 2014/01/06(月) 13:27:32 ID:bm/2gE2Glw
では、もう電灯も電力消費もかなぐり捨てて近代以前に逆戻りしてしまえばいいのか
といえば、できるものならそうすればよい。暗闇での灯明を有難がるような性向こそは
精神薄弱をも助長する一方で、日の下での早朝からの勤労こそは豊かな精神力を育む
手段ともなるのだから、精神衛生面から言っても昔に立ち返るほうが遥かにに好ましい。

ただ、近代文明が今の世の中で来たしている致命的問題を解消するために、電灯に代表される
文明の利器を全廃しなければならないかと言えば、必ずしもそうではない。電機文明の活用の
ほうに一定の節度を持たせて、なおかつそのような活動以上にも、日光の下での経済的な
活動のほうをより尊重して推進して行くようにする。ただそれだけでも、近代文明がこの
世にプラマイゼロ以下の有害無益な影響までは及ぼさないようにして行くことができる。

だからこそ、暗闇に灯明を効果的に点ずる技術など以上にも、そもそも暗闇での灯明を
有難がるような風潮こそを是正すべきなのである。そのような風潮を煽っているような
人文的文化や信教があったりするのならば、むしろそちらを電機技術など以上にも優先
的に駆逐すべきなのであり、だからこそ洋学以上にも聖書信仰の廃絶こそを優先すべき
なのでもある(文系の洋学は聖書信仰の多大な影響を受けている場合がほとんどなので、
聖書信仰が廃絶されることを通じて、連動的にその地位を追われることともなるわけだが)。

今もうすでに聖書信仰など世界的に下火であり、ローマ法王ですらキリスト教教義に反する
ような科学論などを認めつつある一方で、科学文明の隆盛は未だ覚めやらぬような状態で
あるわけだから、わざわざあえて聖書信仰のほうに追い討ちをかける必要性などもないように
思えたとしても仕方ないが、それでもやはり、聖書信仰の清算こそが最優先されるべきである。

科学は所詮「人間規範」を司るものではなく、ある種の人文的な文化構造こそがその役割を
担って行くのだから、人間規範が劣悪なままである結果として科学文明までもが粗悪なままで
あり続けていることを察して、多少なりとも人間規範としての権威を持ち越したままでいる邪教
のほうの駆逐に取り組んでいくことで、科学文明の浄化のための先鞭ともして行くべきなのである。

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098 2014/01/06(月) 14:14:49 ID:oqafaIjeLA:au
「雞も既に鳴きぬ、朝も既に盈ちん。雞の則ち鳴くに匪ず、蒼蝿の声なり。
東方明けぬ、朝既に昌んならん。東方則ち明くるに匪ず、月出ずるの光なり。
蟲の飛ぶこと薨薨たり、子と与に夢を同じくするを甘む。会し且つ帰らん、庶くは予が子の憎む無かれ」
「妻『鶏もすでに鳴いています、もう朝ですよ』 夫『あれは鶏の声じゃない、あれは蝿の飛ぶ音だ』
妻『東の方も明るんで、もう朝の最中ですよ』 夫『あれは夜明けの光じゃない、月の光だ』
妻『虫たちも朝日に合わせてブンブンと飛び始めています。あなたと世の夢を共にするのは
私にとっても嬉しいことですが、もう出勤なさって、また帰って来てください。どうか腹を
立てたりなさらないで下さい』(孟子も『夜には夜気を養わねばならない』と言っている通り、
世の闇にもそれなりの価値がある。電灯文明で夜の活動が活発化してしまった現代の先進国
こそは、男女の営みを欠くせいでの少子高齢化をも来たしてしまったのだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・雞鳴より)

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099 2014/01/07(火) 14:55:44 ID:djjohKlnfo:au
「夏書に曰く、惟れ彼の陶唐、彼の天常に帥い、此の冀方を有ちぬ。
今其の行いを失い、其の紀綱を乱りて、乃ち滅ぼして亡ぼせり、と。
又曰く、允玆に出づれば玆に在り、己に由り常に率いて可なり、と。」
「夏書(書経の散失部分)に『彼の聖王たる堯舜は天の常道に従って自らの国
を保たれたのに、今、桀王はその常道を見失って、為政のための綱紀を乱して
国を滅亡へと陥れてしまった』とある。また『因果はどこまでも応報する。ただ
自らの自由な選択が天の常道を選択する場合にのみ、よい結果が得られもする』
(自由は、それに基づき天の常道を選択すればこそ理に適うのであり、自由
すなわち真理などでは決してない。むしろ人を真理から遠ざけもし得る)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・哀公六年より)

 
精神の自由と行為能力の自由は相反するものであり、一方を追い求めて行けば行くほど
もう一方の自由が損なわれて行くということは、今までにも幾度か述べて来たことである。

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100 2014/01/07(火) 14:56:12 ID:QFPahjUFKA
そうであることを実証する事例の一つに、「年を重ねれば重ねるほど月日が速く過ぎて
行くように感じるようになる」という心理現象がある。子供の頃には能力的にも法的にも
相当な行為能力の制限を受けていたのが、中学卒業時からは労働の権利を得、成人後には
飲酒喫煙や自動車免許取得の権利を得るなど、段々と行為能力の制限を解かれて行く。
かけ出しの社会人だった頃にはまださほどのこともできなかったのが、年齢と共に
世の中での地位が上がって行くことで、世の中を動かすような大きな仕事に携わって
行くような権利をも得るようになる。それは確かに、本人にとっての行為能力の自由の
向上であるわけだけれども、それと同時に、自らを「社会の歯車」として高機能化
させて行く事態ともなるわけで、歯車として余計なことを考えなくてよくなった結果として、
本人も月日が走馬灯のように速く過ぎ去って行くように思えてしまうようになるのである。

社会の歯車としての自らの立場を決定的に固着化させてしまう主因となるのが、
結婚やそれに伴う妻子の養育である。今まではただ自分自身のために行為能力の自由を
追い求めていたのが、ついには他者のために行為能力を行使し続ける義務までをも
背負わされ始めることとなるわけだから、そこで確かに「人生の墓場」に埋葬されたも
同然の事態となるわけである。社会の歯車として何も考えなくなった結果として、
月日も走馬灯のように過ぎ去って行くということが、さらには強制されて行くことにすら
なってしまうわけだから、強制者となる妻子が亭主たる男を厳重な畏敬の対象として
行くのでもない限りは、全く割りに合わないこととなってしまうわけである。

そもそもが、自分自身のために行為能力の自由を追い求めて行くことからして虚妄の発露
に過ぎないというのに、その結果として妻子を養わされたりする強制にも隷従させられる
こととなるわけだから、それこそ煩悩愚縛の凡夫マグロが自業自得で漁の網に捕らえられる
有り様とでも言えよう。確かにそんな男は馬鹿なので、その手の男を結婚相手として得た
女などが「男なんて馬鹿な生き物」だなどと思い込んでしまったとしても仕方がないのである。

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101 2014/01/07(火) 14:59:20 ID:QFPahjUFKA
行為能力の自由などを無制限に追い求めようとした結果として精神が不具と化し、
実際に月日が走馬灯のように速く過ぎ去って行くように感じる儚さに見舞われたり、
カカア天下の女房に馬鹿な生き物扱いされながら飼い慣らされる、人生の墓場そのものな
結婚生活を送らされたりすることともなってしまう。ただ「自由」と言えば聞こえは
いいが、行為能力の自由などを貪った所には確かにそのような、自由であるが故の破滅的で
屈辱的な弊害が伴うわけで、それは、ある程度以上に清廉な心持ちの人間が、心の底から
御免こうむりたい気持ちになったとしても全くおかしくない強度の危害なのでもある。

世の中に出て働くこと、結婚して妻子を養うことが、上記のような理由で全廃されなければ
ならないのかといえば、それも極論に過ぎることである。世の中での行為能力の行使にも
節度があり、結婚して家庭を築けば妻子が当然のこととして亭主を敬うというのですらあれば、
上のような理由で出世や妻子持ちを嫌う人間が、必ずしもそれらを拒絶し尽くしたりする必要もなくなる。

ただ、行為能力の自由などが持て囃されなくなればいいだけのことである。
そんなものは真理にも道理にも与するものではない、むしろ人々を正善なる理法から遠ざけて
精神の不具者と化してしまうだけのものなのだから、かえって卑しまれるぐらいであるように
したならば、それだけで上記のような弊害を伴う出世や結婚もこの世から絶やされるようになる。

その手段はといえば、やはり教化的なものが主体となる。行為能力の自由を持て囃すような
思想信条の駆逐と、そのような自由を劣後したり否定したりする部類の思想信条の一般化。
そのような教化が行き届いた結果として、無闇やたらと行為能力の自由を追い求めるような人間や、
主人を悪し様に扱うような夫人などが徹底的に卑しまれてこの世を追われることともなる。
それでかえって、人々が極度の焦燥や屈辱に見舞われたりすることがなくて済む、
精神の自由こそが確保された世の中が開かれて行くことともなるわけである。

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102 2014/01/08(水) 14:40:52 ID:ZDeQaMa4KM
「天」と言いながら、実際の天上ではなく、この宇宙全体を形而下と捉えた場合の
形而上を天と見なしていたり、「地」と言いながら、天下全土ではなく、自分たちの
住まうごく一部の場所や地域だけを地と見なしていたりする。そういった「天」や「地」
といった言葉に対する歪んだ定義の当てこすりや、それに基づく人々の粗悪な思考や言行
こそが、誰しもを不幸にする戦乱や精神病理の蔓延を世界中へと撒き散らして来たのだった。

形而上は形而上で、実際的な天上とはまた別のものとして哲学的に定義することが
できるし、天下全土とまではいかない部分的地域もまた、国や県や市区町村やさらに
それ以下の個々の部位として区分することができる。そのような適格な分別があることで
初めて、多少なりとも自他の福利厚生を増進して行くための着実な事業に取り組んで行く
ことが可能ともなるのだから、天上といえば形而上一般と見なしたり、地といえば即座に
一部の地域と考えたりすることこそは、人々の福利を損ないこそすれど増すことなどが
決してない、有害無益な「名辞の乱れ」となることが確かだといえる。

そのような、名辞の乱れと共にしか物事を考えることもできないような人間がいた場合に、
決してその思考回路や言行規範の妥当性を認めてやらないようにする。天といえば
形而上一般、地といえば部分的地域という風にしかものを考えられないことを一切合切
言語障害や精神障害であると見なして、社会的な市民権を一切認めないようにしたならば、
それだけで世の中のあらゆる問題がことごとく解消されて、人類も真の永遠平和と、
真人間としての尊厳からなる栄光に与れて行くようになることが間違いない。

実際には、それもなかなか難しいこととなる。女子供には天下全土の全貌を俯瞰するような
能力が決定的に欠けているし、大人の男もまた、商売のような目先の利益ばかりを追う末業を
仕事としていたりしたならば、天下全土を俯瞰する能力が元々あった所で、それを萎縮させて
しまうことになる。そのような人間たちにとっては、天下全土を「地」と見なした場合の
「天」もまた到底計り知れないものとなるわけで、それよりはむしろ、概念としての万物を
形而下と見なした場合の形而上を「天」と見なすほうが、まだ簡単なことともなるわけである。

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103 2014/01/08(水) 14:45:41 ID:ZDeQaMa4KM
しかれば、形而上一般を天と見なしたり、部分的地域を地と見なしたりするものの考え方のほうが、
大多数の人間にとっては受け入れやすい名辞となってしまうわけで、邪教信仰などに依らずとも、
ただ多数決に依るだけでも、そのような歪んだ名辞のほうが妥当だということにされてしまうのである。

歪んだ名辞を正当化する邪教を駆逐し、歪んだ名辞こそを支持してしまう多数決も退けて、
純粋な世のため人のための都合によって、天地にまつわる正しい名辞のわきまえを広めて行く。
昔ならそれが封建制にも即して取り組まれていたわけだが、民主主義までもが高度に正当化されて
しまっている現状では、そこに回帰することもなかなか難しいこととなろう。むしろ、国家規模や
国際規模での安全保障プログラムの綿密な計算によってそれが妥当であると算出された結果として、
機械的に名辞の矯正が実行に移されて行くことを企図するほうが現実的なこととなるだろう。
(もちろん、その計算結果に即して封建制までをも再興して行く可能性はある)

乱世の元凶が「名辞の乱れ」などという所にこそあるからには、扱いを誤ってしまえば時には
そのような致命問題を来してしまう「言葉(ロゴス)」というものが、無条件に神聖なもの
などと捉えられたりするようなこともまた排されて行かねばならない。ロゴス信仰なぞは、
無知蒙昧な土人が言葉という道具を与えられたからといって、無闇やたらと嬉しがった結果
として来たしてしまった蛮習でしかないのだとよくわきまえて、言葉そのものが即座に神聖視
された結果としての、歪んだ名辞の増長などが二度と巻き起こらないようにすべきである。

いずれも、歪んだ名辞やロゴス信仰の下でばかり生きてきた徒輩にとっては、なかなか困難な
荒療治となる上に、断腸の思いともなるに違いないわけだが、名辞の乱れこそが自分たちを破滅
へと陥れる大悪の元凶とすらなっているのが現状でふるからには、もうそうするしかないのである。

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104 2014/01/08(水) 14:47:32 ID:7OrQGZeMb6:au
「天子は天地を祭り、諸侯は社稷を祭り、大夫は五祀を祭り。天子は天下の名山大川を祭る。
五岳は三公に視え、四?は諸侯に視う。諸侯は名山大川の其の地に在る者を祭る」
「天下を統べる帝王のみが天地を祭り、諸侯ですら自国の社稷を祭る。大夫はそれぞれの季節の祭を司る。
五名山は三公になぞらえ、四大河は諸侯になぞらえて祭る。諸侯は名山大河の地に土着している人々を祭る。
(それなりの公的地位にあるものが、それぞれの身分に即して天地以下を祭ればこそ、天下も益される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

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105 2014/01/09(木) 14:48:45 ID:AjJ.SLwYjg
懲罰刑と死刑を倒錯してしまっている人間が、最高刑としての死刑を開き直った結果として、
あらゆる刑罰を恐れなくなってしまうという問題が、洋の東西を問わず深刻化して来ている。

例えば、凌遅刑に代表される残虐な処刑方法が導入され始めた五代十国時代以降の中国などもまた、
多少なりともそのような問題を来たしてきている。それ以前においても、残虐な刑罰自体は無数に
行われて来ているが、ことに死刑にかけては、斬首の如き簡潔な手段に依るのが漢代から唐代に
かけての中国での習わしであった。それが遂には反故にされて、死刑自体を残虐な手段に
依ることで見せしめにするということが常套化し始めた。すると逆に、死刑になることも
恐れることなく罪を犯すような人間が頻発し始めるようになった。明代や清代における中国の
官僚腐敗の逸話にも枚挙に暇がないように、官民揃っての罪悪三昧を来すこととなってしった。

死んでしまえば苦しみも何もない、むしろ無上の安楽にすら与れるのが悪因苦果まみれの惰生を
食いつなぐ罪人であるというのに、一時の苦しみの後にはその安楽にすら与れるというのだから、
そこに伴うある種のカタルシスが魅力ともなって、かえって大罪を犯した挙げ句にそこで
死んでやろうとするような人間までもが生じてしまいかねない。そのような罪と罰の劣悪な
悪循環が、中国では約1100年間、西洋では約2000年間の長きに渡って深刻化して来ているわけで、
実に、世界の半数程度に渡る人間が、刑罰の何たるかをもろくに理解できないという異常事態が
ここ1000年程度の人類社会において恒常化してしまっているのだといえる。

残虐な処刑手段こそは、前近代的な過去の遺物の代表例として取り沙汰されることも多いわけだが、
実際の所それは「過去の遺物」だから厭わしいのではなく、人類史上の一時において流行した蒙昧
な悪習であればこそ厭わしいものなのである。それが人々に対する戒めとなるどころか、かえって
懲罰の何たるかを見損なっての妄動を喚起しかねないものだからこそ、廃されるべきものなのである。

実際の所、懲罰と死刑を混同したせいでの恐れ知らず状態でいるような人間に対しては、
残虐な処刑を振りかざしたりするよりも、禁治産や参政権剥奪の如き適格な軽罰で

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106 2014/01/09(木) 14:51:31 ID:AjJ.SLwYjg
脅し付けてやったほうが、よほどこたえるものである。あらゆる残虐刑を恐れもしないで
いようとすること自体、無法状態での果てしない自由を追い求めていようとすればこその
心理状態であるわけだから、そうであるに応じて、適切な民事的制限を科してやろう
とするほうがまだ、自分たちの出鼻を挫かれるが故の恐怖に見舞われるものである。

してみれば、人々への社会的制限や懲罰刑は酷烈であっても、死刑は打ち首のような簡潔な
ものが主流だた江戸時代あたりの刑政が、それもまた前近代的なようでいて、実は理に
適っていたことが分かる。中には石抱きや鞭打ちのような拷問だとか、額に「犬」という字を
入れ墨する身体刑だとかもあったわけだが、それは純粋に「懲罰」が厳しかったというだけで、
死刑が残虐であったりすることとはまた別の問題であるといえる。東夷の懲罰刑が酷烈である
のは「漢書」地理志にすら記録されている太古からの伝統であり、それでこそ世界でも突出
した犯罪率の低さを誇れもしたのだから、懲罰刑を厳重化することは今の時代においてですら
見直されてもいいことだといえる。一方で、死刑と懲罰刑を妄りに混同したりしないことも
見習われて然るべきであり、死刑や切腹の決まった人間ともなれば、辞世の句を詠む
便宜すら図られていたという、昔の日本社会の心意気こそを買うべきだといえる。

「天の未だ陰雨せざるに迨びて、彼の桑土を徹りて、牖戸を綢繆す。
今女じ下民、敢えて予を侮ること或らんや。〜予の羽譙譙たり、
予の尾翛翛たり、予の室翹翹たり。風雨に漂搖せられ、予が維の音嘵嘵たり」
「天がまだ雨を降らさぬ内から、私は桑の根の皮を剥いで巣の隙間を塞ぎ、侵害に備えている。
どうか下民たちも、臆病じみた私のこの姿を馬鹿にしてくれるな。そのような苦労のせいで私の尾も
傷み、羽も疲れきっている。私の巣がどうにも弱弱しいのも、風雨に揺らがされるからで、そのせい
で私の鳴き声もせっかちなものとなってしまいがちなのである。(周朝の摂政時代の周公旦が自らを
鳥に喩えた歌。自らあえて、恐れ動揺させられるような危難をあえて引き受ける君子の模範的な姿)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・鴟鴞より)

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107 2014/01/10(金) 14:33:46 ID:6ixxKHV1uY
この世におけるあらゆる害悪の元凶と化しているようなならず者こそが、
莫大な利権や暴力を蓄えることでの自己防衛を尽くすということが、古今東西を
問わず、今までの人類史上において幾度となく繰り返されて来た。そのほとんどは、
桀紂や秦始皇の如き「暴君」の体裁と共に企てられて来ているわけだが、中には、
あえてそのような体裁を「独裁主義」として非難の対象にして切り捨てた上での、
また別の体裁による害悪の元凶としての強大化が企てられた例もある。

端的に言えば、宗教やイデオロギーを旗印にした試みがそれに当たる。
概ねそれは、西洋においてばかり試みられて来たことであり、宗教や思想哲学が超国家的な
権限を持つことを、自分たち自身の怪力乱神を忌み避ける思想信条によって戒めて来た極東
社会などにおいては基本、許されて来なかったことである。部分的には比叡山や本願寺の
ような宗教権力の強大化までもが企てられていたが、それも決してローマカトリックの如き
国家征服級の勢力を帯びるまでには至らなかった。西洋でそのような宗教や思想哲学を旗印に
した甚大な権力集中が繰り返されて来たのは、怪力乱神を忌み避けない上に、形而上に
規定されたイデア領域へと万物を帰納しようとするような試みまでもが古代ギリシャの
頃から持て囃されて来ているからで、そのような歴史的な経緯から見ても、確かに西洋は、
シラフの公権力など以上にも思想信条への権力集中を試みて来た頻度が高い社会だと言える。
(中東やインドはこの中間で、思想宗教と公権力を厳密に合致させた上で両者を尊んでいる)

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108 2014/01/10(金) 14:37:34 ID:6ixxKHV1uY
公権力者が害悪の元凶たる暴君としての強大化を企てる場合と、ある種の思想信条を旗印にした
人間が害悪の元凶としての強大化を企てる場合と、いずれもが全世界規模での大災厄をすでに
もたらしている。前者の最大例がモンゴル帝国による世界征服であり、後者の最大例がまさに
近現代の欧米人による世界征服である。いずれも「完全征服」とまでは行かないが、一時的には
世界の大半の地域を征服下に置き、征服とまで行かなかった地域にまでも幕府の衰亡や困窮の如き
何らかの危害をもたらしていて、「世界中のあらゆる害悪の元凶」としての条件を満たしながら、
当時世界最大級の暴力を蓄えての自己防衛にも及んでいた点が全く共通しているといえる。

ただ、世界中の害悪の元凶の分際でいながら、自分たちこそは最優先の生存者たろうとも
するような無理が案の定、早急なる自分たちの衰亡を呼び込むことともなった。害悪の元凶
こそが権力のトップに据えられて、厳重な安全保障の下での放辟邪侈三昧を続けたりすること
自体が、世の中への傾国級の負担をかけることともなるため、そう長きに渡る存続などが可能
ともならない。それは権力のトップが君臣公候のような正規の公権力者だろうが、政商のような
非正規の権力犯罪者だろうがさして変わらぬことであるわけで、「こいつすら倒せば世の中も
正される」という代表的な責任者が表に出てこない分だけ、かえって非正規の権力者がトップと
化す場合のほうが、より深刻な事態を招いた挙げ句の大崩壊などをも来たしてしまいかねない。

手段がどうであれ、世の中の害悪の元凶ともあろう分際が、よりにもよって権力のトップ
にまでのし上がって、最大級の自己防衛と共なる存続を企てるなどということ自体が
許されないことなのであり、それは害悪の元凶こそが民主主義だの自由主義だのといった
綺麗事じみたイデオロギーを振りかざしたりした所で、寸分たりとも覆ることではない。

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109 2014/01/10(金) 14:37:40 ID:/vsUeG5xPo:au
正規の公権力者が暴君として上記のような振る舞いに及ぶことはすでにそれなりに戒められて
来ているが、宗教や思想イデオロギーを旗印にした「義賊的人種」がそのような振る舞いに
及ぶことは、未だに十分な警戒の対象とされてはいない。暴君の惨暴を入念な歴史学に
よって戒めて来ている極東社会こそは、思想宗教が公権力以上の権力中枢と化すこと
などを端っから切り捨てて来ている社会でもあるものだから、思想信条の義賊こそが
暴君並みの惨暴に及んだりすることがろくに察知もされて来なかったという事情もある。

今一度、害悪の元凶こそが大権を握ることの許しがたさが全世界規模で認知されると共に、
それが公権力者だけでなく、宗教やイデオロギーを旗印にする義賊的人種によってですら企て
られることがあるということまでもが警戒の対象とされて行く必要がある。後者の問題は
洋の東西を問わず十分に認知されて来ていないことなので、いま初めて全世界の人々が、
人類社会にとっての根本問題の一つを、新たに計り知ることになるのだといえる。

「守ること約やかに而て施し博きは、善道なり」
「守る所は簡素でいながら、天下万人へと広く施しを心がけるのが善道である。
(依怙贔屓な守りよりは、広き施しをより優先するのが君子である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)

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110 2014/01/11(土) 14:18:48 ID:wXmIoUBvlw
紫は、最も代表的かつ対照的な原色である「赤」と「青」の間食であるために、
陰陽不全を象徴する色として、孔子を始めとする儒者たちに卑しまれて来た。

春秋時代初期に、春秋五覇の筆頭格である斉の桓公が紫色を好んで被服などとして用いた所、
庶民までもが好き好んで紫の服などを着始めたために、それに悩んで重臣の管仲に相談
したという。管仲が「閣下が紫を好むのを止めれば人々もそれに倣うでしょう」と助言
したので言われた通りにすると、実際にそうなったという。(「韓非子」などを参照)

これがたとえば、赤などだと同じようなことにはならない。日本の戦国武将や江戸期の
大名なども好んで赤を具足や門構えや旗印などの色に用いていたが、それがかえって鮮血
の色すらをも想起させるものだから、庶民に畏怖を抱かせて赤色の使用を控えさせるよう
にすらなった。(変わりに実用性も高い青系の藍染めなどが好んで民用されるなどした)

逆に、仏門や神職のような超俗的な領分の界隈こそが紫色を用いれば、そのせいでかえって
人々が紫の使用を控えるようになるということもある。これは、別に自分がなりたいと
思わされるわけでもないような世捨て人の領域こそがその色を用いているからであって、
そういった手段によってあえて人々に紫色の濫用を控えさせるということもできはする。

封建時代の王侯あたりの、もしもなれたなら絶大な栄華を謳歌できるような身分の人間が
好んで紫を用いたりした場合にこそ、身分の上下を重んじる陽唱陰和までもが反故にされて、
社会的権威全般が重んじられないようになって行く。斉の桓公だけでなく、ローマ皇帝
らもこぞって紫の礼服を用いていたというから、そのせいで人々が皇帝への敬意などを
損ねていった挙句に共和制に移行したり、公権力の権威を致命的に踏みにじる
邪教の台頭を許してしまったりしたのも、むべなることであったといえる。

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111 2014/01/11(土) 14:21:39 ID:wXmIoUBvlw
紫色の扱いの如何などは、公権力者としての心がけの内でも氷山の一角に過ぎないものであり、
仮に斉の桓公やローマ皇帝が紫色の重用を取り止めたからといって、ただそけだけで上下の
位階が正されのたかといえば、そうとも考え難い。ただ、たとえばそのような配色にまつわる
心がけが、一つの有職故実の巧拙の代表例として取り上げられることにも間違いはないわけで、
そのような小さな部分からの注意の積み重ねこそが君臣官民上下の序列を正して行く要とも
なるわけだから、決してその仔細までをも疎かにするようなことがあってはならない。

皇帝がこぞって紫色を用いる程にも陰陽不全が深刻化してしまっていたような世の中に
おいてこそ、人類史上最悪級の反社会主義の邪教がもたらされてしまいもしたのだから、陰陽
不全を煽る部類の稚拙な有職故実こそは、邪教の母体でもあったのだといえる。文化習俗からの
公権力腐敗こそは、反社会主義の邪教すらをも好き好みたがるような奇形的な義賊精神を人々に
植え付ける元凶ともなってしまったのだから、やはり公権力者こそが正善なる礼法と共に毅然と
していることこそは、邪教の出現や蔓延の予防のための肝心要の要項にもなるのだといえる。

被服の配色レベルからの用心の積み重ねなど、自らの富貴栄達だけが目的で権力者を志す
ような人間には到底やりきれるものではない。故に、自らの成功ばかりしか念頭に置けない
ような小人的精神構造の人間が権力の座に就くようなことから取り締まって行かねばならない。
そのような人間が無数に群がっている世相ともなれば、公権力者こそを取り締まる監察官身分の
人間に絶大な権限を与えて、厳重な取り締まりを講じて行くことまでもが必要となるであろう。

「君子は〜紅紫を以って褻服と為さず」
「君子は紅や紫のような間色を礼服に用いない。(理由は上記の通りである。皇帝からして
紫を礼服に用いていた当時のローマ帝国自体、誰も礼儀を知らぬ人畜の世だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・六より)

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112 2014/01/12(日) 14:46:30 ID:ydtckWUNJ.
斉の桓公のように重臣に諌められて使用を中止するようなこともないままに、
ローマ皇帝が紫色の礼服を用い続けたのは、本人たちが真っ当な礼法に疎いのみ
ならず、ローマ帝国全体が礼法の何たるかも知らない人畜の集まりであったから
でもある。そんな中で、人類を滅亡に陥れる程もの邪宗門が生じてしまったのも、
帝国全体にとっての落ち度であった所すらもがあるわけで、決してその教祖たる
イエスばかりが、独立独行の大悪人であったなどということも言えないのである。

あまり大人数の人間を一律な処罰下に置くことも、現実的に無理がある。
そのため「六韜」の虎の巻などにもあるとおり、便宜的に責任者を少数に絞って、
その責任者だけを厳重な処罰下に置くということが実効支配上のセオリーとして
有効となる。じゃあローマ帝国を始めとする西洋社会における聖書信仰災禍の責任者
として槍玉に挙げられるべき人間はいったい誰なのかといえば、それは確かにイエス
でもあり得るだろう。「あり得る」というのは、必ずしもそうではないからでもある。

イエスの言行の全てが本人の独断で行われたのならば、確かに本人の責任となる
だろうが、何らかの裏方がいて、それに乗せられてイエスも妄言妄動を来たした
挙げ句に、ローマ帝国中に冤罪劇による司法の機能不全化をもたらした可能性もある。
司法と共にローマ帝国の国家的権威までもが瓦解した結果として、政商などの不正な
立場に即してコンスタントに暴利を巻き上げることが可能となった連中がいたのかも
知れない。そのような連中が居たとするなら、そいつらこそは邪教災禍の最高罪責者
であったといえる。イエスはそれに乗せられた共犯であったといえ、イスラム教徒が
主張しているように、実際には刑死もすることなく平然と生き延びていたのだ
とすれば、それはそれは凶悪な権力犯罪工作員の一員であったともいえる。

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113 2014/01/12(日) 14:51:09 ID:ydtckWUNJ.
実際問題、今の西洋社会でも、聖書信仰によって一定以上に国家の権威が損なわれて、
民衆の権限が強化されているようでいながら、実際には民間の富豪あたりが利権を
牛耳っているという状態が常套化している。日本でも明治以降にそのような世相が
輸入され、敗戦後に天皇制までもが決定的に形骸化したことによって、その風潮も
確立されてしまった。聖書信仰が解禁されたり享受されたりするせいで、洋の東西を
問わない世界中の国々で、国家権力から民間の富豪へと主権が明け渡されてしまって
いることからも、聖書信仰というものが本来から民間の権力犯罪者を肥え太らせる
ことを目的としてでっち上げられたものであろうことが察せられるわけである。

然れば、聖書信仰災禍によって人類の滅亡までもが間近に迫っている今の世界に
おいて、その最高責任者として処罰されるべきなのも、聖書信仰を是認する世相に
よって暴利を巻き上げてきた民間の富豪でこそあるといえる。本人たちが必ずしも
確信犯としてカルト信仰に乗じた権力犯罪を積み重ねて来たとも限らないし、別に
聖書信仰勃発時の古代ユダヤ人の正統な血流を汲んでいたりするわけでもなかろうが、
それでもやはり、聖書信仰による破滅の危機を免れるための最たる処罰対象としては、
聖書信仰によってこそ暴利を稼ぎ挙げて来た界隈の現代人こそが挙げられるのである。

各種の聖書教団も、民間の権力犯罪を煽り立てる旗頭であればこそ根絶の対象
とされるし、実物の権力犯罪との関わり合いが深ければ、それに即して処罰の対象
ともなる。聖書信仰こそは致命的な権力犯罪の元凶であるのだから、根絶の対象と
して最優先となるのは当然それであるわけだけれども、それと同時に最優先の処罰の
対象となるのは誰かといえば、それはむしろ、聖書信仰によって暴利を巻き上げてきた
「聖書信仰の消費者」のほうである。本人たちはさして信仰にかけて敬虔でもなかったり、
逆に反キリスト主義を掲げてすらいたりするわけれども、それでも最大の処罰対象と
なる人間はそこにこそいる。聖書信者一般のうちには、強制的に改宗させられた
貧困国の困窮者などもいるわけだから、最優先の処罰対象にまでなるとは限らない。

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114 2014/01/12(日) 14:53:02 ID:u79wwZXxvc:au
「吾れ未だ己れを枉けで人を正せる者を聞かざるなり。況んや、己れを辱めて
以て天下を正せる者をや(ここまで既出)。聖人の行いは同じからず、或いは
遠く或いは近く、或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰するのみ」
「私は未だに己れを曲げて人を正せた人間というのを聞いたことがない。ましてや、
己れを辱めることで天下を正せるた人間などはなおのこと。聖人の行いにも異同が
あり、場合によっては権力から遠ざかったり逆に近づいたり、消極的だったり
そうでなかったりするものだが、要は『わが身を潔くする』という所に尽きている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)

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115 2014/01/13(月) 15:21:38 ID:QodIxLKM0c
「父母の〜衣裳綻裂すれば、箴に紉して補綴せんと請う」
「父母の衣装が綻んだり裂けたりした時には、自らが針に糸を突けて修繕する
ことを希う。(神幕は神にとっての衣装なのだから、神を我が父とみなす者が
それを裂くなど不孝の極みであろう。むろん、礼など知らぬ世界の話であり、
それでイエスを神の子だなどと認めた周囲の人間も蒙昧の徒だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)

すでに、多くの人間が聖書信仰の心がけなどを下火と化してしまっている
今の西洋においても、「キリスト的なものの霊験」というものを否定するよりは
肯定したいぐらいの心持ちでいる人間が大半を占めている。そのあたり、信教
の自由を認めながらも、そもそキリスト的なものの霊験からして認めるよりは
認めないでいたい人間が大半を占めている日本などとは異なる点であるといえる。

家庭円満や無病息災を尊ぶ神道文化だとか、諸行無常や諸法実相といった真理
を尊ぶ仏教文化だとかを先祖代々重んじて来ているものだから、それらの文化
習俗に決定的に相反する要素を多々含んでいる聖書の神の霊験からして、むしろ
あり得ないものであったほうが好ましい。キリスト的なものの霊験が実在した
場合にのみ得られる自由なども、むしろ得られないほうが好ましいといえる。

そして実際、キリストの霊験などあり得ない。神父だ牧師だも舌先三寸で相手を
言いくるめることでの折伏を試みていたりするだけで、肝心の聖書にある通り
の奇跡などは、粗末な種のある手品でもない限りは、全く以って起こりはしない。
文化的素養の乏しい未開の野蛮人あたりなら、宣教師の口先やちょっとした手品に
丸め込まれて入信させられたりすることもあるだろうが、そもそもがキリスト的
なものの霊験が実在しないほうが好ましい部類の文化習俗にドップリと漬かって
来ている人々を、聖書に書かれている通りの奇跡を神の業によって引き起こせる
わけでもないのに改宗させてやれるなんてことがあるはずがないわけで、まず
そのような既存の文化習俗への親しみを損なわせるのでもなければ、多少の
強制改宗の余地が生ずることすらもが永久にあり得ないこととなるわけである。

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116 2014/01/13(月) 15:25:24 ID:QodIxLKM0c
しかし、古来の神仏文化に基づいて精神的成熟度を高めて来た日本人こそが、
近代以降にはあっという間に機械文明の習熟度の水準ですら西洋人に追いつき、
ここ数十年の最先端科学技術の発展への貢献にかけては西洋人を凌駕するまでに
至った。量子論や相対論を始めとする現代科学理論がむしろ、キリスト教的な
世界観ではなく、東洋的な世界観や宇宙観に即すればこそ進展の余地が見られる
ものでもあったために、日本人が昔ながらの精神性を保ちながらの文明発展を
試みればこそ、西洋人には成し得なかったほどの功績を挙げられもしたのだった。

そのため、今さらその日本人にとっての伝統的な精神性を損なってまでもの
聖書信仰への改宗などを促したならば、そのせいでの世界規模での文明の衰退
すらもが危惧される事態となってしまう。キリスト的なものの霊験を肯定よりは
むしろ否定したがるような精神性こそが、もはや世界文明の発展すらをも主導して
いるのだから、むしろ西洋人を含む世界中の人間がそのような精神性のほうに倣
っていくようにしたほうが、より前進的な将来が見込まれることともなっている。

キリスト的なものの霊験をむしろ認めたがらないぐらいの精神性でいたほうが、
むしろこの世界この宇宙の構造を精確に把握できるが故の科学的、技術的発展
の余地すらもが見込める。むしろそれでこそさらなる自由の獲得すらもが期待
できるというのだから、そもそもが自由の獲得が根本目的の一つであった聖書
信仰の存在目的自体が、すでに雲散霧消してしまっているのだとすらいえる。

無論、天上での永久の命の獲得の如き、聖書信仰によってこそ叶えられるとされる
霊験が、東洋的な精神性に基づく今以上の文明発展によって可能となるわけでもない。
諸行無常や諸法実相といった仏法こそが、東洋精神を司る最たる本義でもあるわけだから、
そのレベルの成果を挙げようなどとすることからして目指されない。そのレベルの
放逸三昧を望みとしてですら絶てばこそ、この世で本当に可能となる範囲での最大級
の自由が獲得されても行くのだから、自由も現実的に追い求めるか、ただただ無制限
に追い求めるかで決定的に位相が食い違うものであることまでもが分かるわけである。

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117 2014/01/14(火) 15:35:50 ID:icxuorMdzM
実際に霊験のあるものをあるとして、ないものをないとすれば、そこで霊験の
ある神仏に対する畏敬が備わる。それが敬うべき目上の人間への畏敬に敷衍されたり
することにもなるわけなので、むしろ神仏の霊験の有無や巧拙を厳格に判別して]
行くことこそが、礼楽統治を推進して行く上での推奨に値する姿勢ともなる。

霊験がなかったり稚拙だったりするような邪神こそを崇めたりすれば、
そのせいで信者があらゆる畏敬心を損ねて思い上がりばかりを募らせることとなり、
以て礼楽統治の妨げにすらなってしまうため、当然廃絶の対象となるほうが好ましい。

アブラハム教はおろか、仏教すらまだ伝来していなかった約2200年前の中国で、
前漢の武帝が儒学の国学化による礼楽統治の強化を試みると共に、泰山での封禅を
始めとする盛大な祭祀事業にも取り組み始めていた。その取り組みの様子が「漢書」
郊祀志などに記録されているが、そこで祀られている神はといえば、言ってみれば
「玉石混淆」なものであった。主に仏教文化の発達を通じて、宗教文化が円熟を済ませて
しまっている今の価値観に即すれば、今でも信仰に値するような神もいれば、値しない
ような神もいる。妖怪あたりとしてならまだ持て囃しようのありそうな拙劣な神すら
もがくそみそに崇められていて、そのため欒大のようなエセ方士が宗教利権の肥大化に
ことかけての専横を働いた挙げ句に誅戮されるような事件までもが起きてしまってもいる。

主に武帝の代で最盛期を迎えた前漢の祭祀事業は、帝国にとっての大きな財政的負担
となり、迷信に囚われた朝廷に代わっての軍部の台頭を引き起こす温床ともなった。
それが遂には将軍王莽による帝位の簒奪という形での前漢の崩壊すらをも招いて
しまったのだから、迷信の害悪度たるや、時に国を滅ぼす程のものであるのだと言える。

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118 2014/01/14(火) 15:39:36 ID:icxuorMdzM
上に書いた通り、今ではもう、仏教文化による精査を通じて、神仏の霊験の有無や
巧拙の判別が東洋社会で済まされてしまっている。仏教自体は神格信仰ではないが、
方々の土着的な神格信仰と習合されて共に尊崇されるのと引き換えに、当地の神格信仰
を洗練させて、科学の発達と共にすら存続して行ける程もの完成度を付与して行った。
日本神道の最高神を祀る伊勢神宮すらもが、外宮の造営に真言密教の助けを借りるなど
しており、それでこそ神格としての格調をより高められてもいる。そういった神仏文化の
洗練があればこそ、武家政権が朝廷の権限を乗っ取るようなことが日本では防がれて来ても
いるわけだから、正統な神仏信仰が鎮護国家の効用を持つこともまた確かなことだといえる。

現状、仏門による神格信仰の監察を受けて来ているのはインド以東の東洋社会のみであり、
しかも、それももうとっくの昔に下火と化してしまっている。発祥地であるインドでも
すでに仏教は滅び、日本も廃仏毀釈で、中国も共産化で仏門の権威を決定的に毀損した上で
今に至っている。特に、日本と中国は資本主義や共産主義といった西洋的イデオロギーを
取り入れるために仏門を損壊せしめる必要があったわけで、この事実一つをとっても、仏教
文化と西洋文化こそは決定的に相容れないもの同士であることが自明となっているといえる。

実際、西洋文化こそは、本格の仏門による精密な監察などを受けるまでもなく、仏教的価値観
に即して非とされることが紛れもないものである。古来の聖書信仰やギリシャ学の内容からして、
すでに仏法に決定的に違背しているものばかりだし、そこから派生して来ている諸々の後代の
西洋の人文学もまた、陰に陽に仏法に逆らおうとしたものであり続けている。科学ともなれば、
仏門では「無記答」に処される純粋な概念論であるため、仏門による糾弾の対象にすらなら
ないが、やはり仏門がそうする理由である「概念は真理に当たらない」という論説に即して、
有益である程にそれ相応に有害でもある「マッチポンプの種」でばかりあり続けている。

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119 2014/01/14(火) 15:39:49 ID:viJ2OUXJb2:au
今一度、洋の東西を問わず全世界の宗教文化文明全てが、仏法の監察下に置かれてみればよい。
それで西洋文化の致命的な問題性が看破されるのみならず、西洋文化の取り入れのせいで深刻な
文化的、社会的腐敗を来してしまっている東洋社会までもが健全化を享受できるようになる。

仏教の発祥地であるインドこそは、いま世界でも最底辺の経済水準にある上に、東洋でも西洋
でもなく、「世界の中心」とでも見なされるべき実質的な地理条件にもあるわけだから、東洋人
も西洋人も、全くの第三者的異世界からの公平な文化的精査を受けるものだと考えればよい。
西洋だけでなく、東洋でも仏教到来以前には相当な迷信がまかり通っていたことが、前漢武帝の
祭祀記録などで明らかであるわけだから、西洋人ばかりが迷信の過ちを恥じる必要もないのである。

「古えは〜墓地を請わず」
「古代には、官給の墓地などが必要とされることはなかった。
(墓地はあくまで私的なものであるため、公私混同を避けていた。
議員や総督が無名の私人の墓を作ったりそれを認めたりしていたあたり、
やはり当時のローマ帝国からして非礼の横行する土人社会だったことが確か)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

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120 2014/01/15(水) 13:59:11 ID:lVzm7/0JL6
人間社会が、集団意思の狂乱に征服されてしまった挙げ句に
騒乱状態に陥ってしまう所には、一定の条件が存在する。

・人々の無責任性が増長する程に雑多な都市社会であること。
・特に狂乱に駆られやすい女子供や小人男への身分からの抑制が疎かであること。
・人々の心の平安を司るような正統な信教が皆無ないし弱小であること。

以上のような条件が整っている所に、狂乱を煽るような何らかの情報工作が
加えられた場合に、世の中はあっという間に騒乱状態に陥ってしまう。そして最悪、
傾国や亡国級の災難を招くし、そうでなくても、自国での安住の余地を奪われた
人々が半難民として外界へと脱出しての侵略活動に及んだりすることになる。
あえてそのような事態を招かないようにするためには、

・人間社会を家単位で厳重に管理して、個人の無責任性の増長を食い止める。
・女子供や小人男への身分的抑圧による発言権の厳重な抑制を講ずる。
・人々の心の平安を司れる正統な神仏信仰を奨励する。

といった対策を講じながら、さらに反社会的勢力による情報工作での
騒擾などを厳重に取り締まって行くようにしなければならない。

講じねばならない対策があまりにも多い上に、一つ一つの対策からして極めて
難儀なものとなることが見え透いていて、なおかつそれらの対策が功を奏して平和な
世の中が確立された所で、そこでは騒擾犯たちが情報工作の一環として持て囃していた
民衆主権や行為能力の自由などが大幅に制限されて行くことにもなるのだから、生半可な
覚悟や達観でそれに取り組んで行くことなどはまず無理である。世界規模の騒乱のせいで
全世界が致命的な破滅の危機に陥っていて、なおかつそのような世の中を本気で建て直して行く
聖賢の志しが自らにもあるといった、環境と自己両面からの準備が整っているのでもなければ、
聞こえだけはいい「世直し」というものも、なかなか取り組んで行くことも覚束ないままとなる。

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121 2014/01/15(水) 14:09:02 ID:lVzm7/0JL6
その条件をたまたま満たせているような人間からして稀有であるものだから、
結局は世直しのために、世直しを講じて行く権力機構における封建的な秩序構造を
構築して行くことまでもが必要となる。誰しもが上記のような手順に基づく世直しを
心中からの誠意と共に講じて行けるのならそれに越したことはないが、実際の所、
それは不可能にも等しいので漢の高祖劉邦のような天運と仁徳の素養両方に恵まれた
人間を世直しのリーダーに仕立て上げての改革に臨んで行くことが便宜として必要になる。

そしてそのような封建機構が構築された結果として、その機構すら保って居られれば、
世代交代によって機構の構成者が移り変わるのであってもそれなりに平和維持機能を
保全して行くことすらもが可能ともなる。世襲で後を継いだ主君が、自らの放辟邪侈で
組織を致命的な腐敗に追いやってしまうほどの暗君ぷりを発揮するのでもない限りは、
先君の事業をただ忠実に引き継いで行くだけでも、治世を存続して行くことが可能となる。

健全な封建社会が長期の泰平を実現して行ける根拠たるや、斯くの如くであるけれども、
今の所、封建統治によって恒久平和を実現することができた王朝や幕府も存在していない。
それは、最高級の成功を克ち得た漢王朝や江戸幕府のような封建機構といえども、中国や
日本といった部分の統治を講じただけの存在であった上に、蛮族匈奴や悪徳商人や
反幕勢力の如き不穏な勢力の存続すらをも許容したままでいてしまっていたからである。

いま、全世界が総出を挙げて健全な封建機構による地球社会の平定に取り組み、後々の
不安の種となるような不穏分子の根絶にも臨んだならば、それによる恒久平和の獲得すら
もが可能となるであろう。かつての聖王賢臣や名将たちの末裔も健在であるようなら諸国の
統治のために復権して、未だかつてまともな徳治も敷かれたことのないような異界に至るまで
の平定に取り組んで行ってもらったならば、やむ無くかつての王政を途絶させられた借りも
返せる。そうして、人類という種族が存続する限りにおける恒久的な治世が確立されて行く。

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122 2014/01/15(水) 14:12:00 ID:6wIMGvIdcI:au
世界規模の騒乱が即座に核戦争での人類の滅亡に直結することとなってしまった現今において、
それはもはや地球人類にとっての、嫌でも避けようのない運命とすらなっているのである。

「墓門に棘有り、斧以て之れを斯る。夫や良からず、国人之れを知るも、
知りて已まず、誰をか昔より然らんや。墓門に梅有り、鴞有りて萃まる。
夫や良からず、歌いて以て之れに訊ぐ。訊げれども予を顧ず、顛倒して予を思いかえさん」
「墓の入り口にナツメの木が生い茂っていて、人々は平気でこの木を斧で刈り取って
持ち帰っていく。この墓に眠る人は生前に素行不良でいた。みんなそれを知っていたのに、
それでも改めようとすらしなかったものだから、昔からこのようなままであり続けている。
墓の入り口に梅の木が生えていて、悪鳥のフクロウがこの木に集い止まってる。この墓に
眠る人は生前素行不良でいた。私も歌に乗せてまで彼に忠告をしたのに、彼は私を顧みよう
ともしなかった。あの世で考え方を根本から改めることで、初めて私の忠告をも思い返す
ことだろう。(墓荒らしは故人の生前の素行の不良さを象徴する最たる現象である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・墓門)

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123 2014/01/16(木) 14:53:49 ID:go4vgaXVa.
「世界最古の女の職業は娼婦」などと言われることがあるが、これは当然、主婦や機織りのような、
古来からの女の「生業」を除いた場合の話である。女が独立的に金銭を得る「稼業」の内で最古級に
当たるのが娼婦であるだけで、これは「世界最古の男の職業は庭師」などという主張についても
全く同じことが言える。(より古くからの男の生業には、狩猟や農耕や為政者などがある)

娼婦にしろ庭師にしろ、大した職業ではない。どちらもこの世に欠くべからざる職業などではないし、
特に娼婦は奴隷とも並ぶ最低級の賤業として、ひっきりなしの規制の対象となりながら辛うじて存続を
黙認されるような扱いばかりを受けて来ている。そのような賤業中の賤業こそは、金融経済の発達した
都市社会で女が初めて手を出し始めた稼業であるらしいという事情からも、金融経済がいかに不必要で
粗悪な稼業の自由ばかりをこの世にもたらして来たのかまでもが知れるのである。

その、金融経済を国家規模や国際規模での本是として、元来カネで取り回すべきでもないようなものまで
全てカネで取り回すようにしてしまったのが資本主義社会であるわけだから、その奇形的な試みに即して
当然、世の中も大荒廃の様相を呈することとなった。食糧までもが資本家による寡占や投機の対象となる
ことで自然には起こらないレベルの大飢饉を招き、物作りまでもが資本家の指先一つで右往左往
させられることによる産業の空洞化という問題をも来して、資本主義先進国の雇用情勢の悪化
などという本末転倒の事態までをももたらたすこととなってしまった。

娼婦のような賤しい稼業が、多くの規制を受けながら辛うじて存続して行く程度のものとして、
金融経済が部分的に黙認される程度のことがあった所で、江戸時代の日本のような一定度の安定が
得られたりもするわけだから、決して共産化によって金融経済を滅ぼし尽くしたりまでする必要もない。
(共産化は共産化で、大規模な都市社会には不相応なほどに過剰な潔癖主義の強制となってしまう)
ただ、できることなら関与を避けるべきもの、社会的信用や品位も最低級なものとして金融経済や娼婦
が扱われさえすればそれでいいだけなのだから、むしろそうするほうが常識に適ってすらいるといえる。

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124 2014/01/16(木) 14:57:17 ID:go4vgaXVa.
自分たちが口先八丁手八丁で構築して来た金融経済への人々の盲目な信用こそが、資本主義の蔓延する
国際社会を大荒廃へと陥れてしまったのだから、その張本人である連中もむしろ、進んで金融経済の
大破綻こそを甘受すべきである。それにより金融経済の信用性を根底まで突き落として、この世に
元来不必要な賤業としての相応な扱いを受けて行くようにすべきなのである。それでこそ、元来から
無責任な立場である金融経済の元締めとしての、分相応な責任が取られることになるといえる。

「娼婦と金融業者の口先ほど信用のならないものはない」と、誰しもがわきまえるようになったならば、
それだけで今の世の中の全ての致命的問題も解消されて行くに違いない。ただ、そこに至るまでの道程に
おいて、あまりにも多くの虚構の信用がWTCのようにして崩壊して行く必要があるわけで、その崩壊から
なる絶望にうちひしがれて行くことを受け入れなければならないことが、大いなる苦難となるわけである。

「昬姻を懐うは、大いに信無し、命を知らず(既出)」
「男女の交わりばかりに専らな淫奔者に信用はない。そのような人間は天命も知らないから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・蝃蝀より)

「今商王受、〜姦回を崇信す。〜爾じ其れ孜孜として、予れ一人を奉じ、恭しみて天の罰を行え(一部既出)」
「いま殷の紂王は、姦邪の徒こそを信じ崇め立てての暴虐を働いている。汝ら臣下は懇親を込めて、
我れ(武王)一人の責任の下に、慎んで奴らへの天罰を実行に移すがよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)

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125 2014/01/17(金) 15:31:53 ID:zZevEmjNsA
「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲することなかれ。此の如きのみ(既出)」
「してはいけないことはしない、欲してはならないことは欲しない。君子の道はただそれだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一七より)

孟子の言う「してはいけないこと」とは、もちろん善悪で言う所の「悪」である。
勧善懲悪(左伝)を至上命題に掲げる儒家の正統な後継者として、孟子も悪を為さないことを
本是としつつの遊説活動に臨んでいた(その結果として、罪悪まみれの世に受け入れられなかった)。
では、その悪とは何なのかといえば、それは「権力犯罪」である。大権力者が無責任で濁欲まみれな
妄動に及んだ挙げ句の社会荒廃こそを悪の最たるものと見なしていたからこそ、孔子や孟子も
厳重な修身と共なる公権力者としての活動を自他に促していたのである。

権力犯罪こそを悪の最たるものと見なすことは、善とか悪とかいった言葉の定義に
即して自明なこととなる。言葉というもの自体、人間同士が社会活動を営んで行くための
意思疎通の道具として編み出されたものであるわけだから、その言葉が「悪」という言葉に
よって指し示さねばならないものもまた、社会を一概に毀損するものでなければならぬ。
そして、この世に最大級の害悪を及ぼす現象といえば、それは民間犯罪でもなければ
自然災害でもなく、権力犯罪でこそあるわけだから、権力犯罪こそは、悪という言葉に
よって指し示されねばならない最も純然たる現象であるということになるわけである。

では、権力犯罪の中でも最も凶悪なものは何かといえば、それは「政商」である。
儒学がそれなりに通用していた頃の中国や日本においては、士農工商の身分秩序なども
それなりに行き届いていたものだから、権力にものを言わせる商売人などというもの自体からして
あまり生じ得なかった。そのため儒家教学上で政商が問題視されているようなこともあまりないが、
古くは「書経」における桀王や紂王の暴虐の記録内にも政商的な鼠賊の暗躍が垣間見られるし、
中国史上最悪級の暗黒帝国であった秦帝国も政商呂不韋の暗躍によって築かれ、中国史上
最良級の文化大国であった大唐帝国も塩の闇商人の政商然とした暗躍によって滅ぼされている。

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126 2014/01/17(金) 15:40:06 ID:zZevEmjNsA
北宋以降の中華帝国に至っては、権力者が政商からの賄賂で懐柔されるのがデフォルトと
化してしまったために、もはやろくに政商行為を糾弾するような論調からして見られない。
(辛うじて「呻吟語」などに権力腐敗を嘆くような論調が垣間見られる)勧善懲悪を旨とする
儒家といえども、あまりにも凶悪すぎて捕捉しきれないままであり続けて来たのが政商だとも
言えるわけで、この世における究極悪たる政商への警戒を怠り気味であり続けた挙げ句に、政商行為
の完全な開き直りである資本主義の覇権までをも招いてしまったことは、これまでの儒者にとっての
落ち度だったともいえるので、これからは改めて用心を心がけて行くようにしなければならない。

元来、「商」とは小売業のような最底辺の商売を除く経営業のことであって、
小売業は小売業で「賈」という言葉でまた別に定義されていた。そのような元来の意味に即した
「商」は、儒学も武芸も嗜んでいないような文民の公務員と事務処理面などであまり大した
差異が見られないために、両者が癒着することにもさしたる障害が伴うようなことがない。
そのため、儒学も武芸も存在しない西洋社会などにおいては、政商行為が完全な野放しのままで
あり続けて来た。旧約聖書への信仰の下で政商活動を試みるユダヤ教徒などに対する警戒は
それなりに行われて来たが、そもそもが「政商」という行為自体が言語構造上からの究極悪
として警戒対象となることは皆無のままであり続けて来た。そのため、ユダヤ教徒が
自分たちの政商活動を捗らせるための悪巧方便として拵えたキリスト教などを総出で
信じたりもしてしまったわけで、これはさすがに、儒学に相当するような権力道徳学が
ほんの少しでも認知されてすらいれば、決して起こり得なかった大失態だったといえる。

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127 2014/01/17(金) 15:40:26 ID:vQT3uBn/Uw:au
人間社会と、人間が用いるものとしての言語とが、その原理的な構造に即して
「究極悪」と定義せざるを得ない政商という行為や人員の残存を決して許さないこと、
それが正しい名辞に即した勧善懲悪を志す儒家にとっての本分となる。儒家の祖である
孔子や孟子自身が政商を直接的な糾弾の対象としていたわけではないが(孔子が弟子の
子貢の投機活動を卑しんでいた程度の記録はある)、結局の所そうであることが、儒家の
教理と政商による歴史的な惨暴の数々とを鑑みることで論理的に導き出すことができる。

この世における勧善懲悪を志すからには、究極悪たる政商の活動を推進する聖書信仰や
洋学の如き邪教邪学の根絶や制圧も必須となる。それらが当たり前のように市民権を得て
しまっている現代においてはなかなか信じがたいことではあるだろうが、それらを討伐する
ことこそは確かに、言語というものの根本的な構造に根ざした「勧善懲悪」となる。それは、
人間社会においてそれなりに通用するものとしての言語を構築して来たことには変わりない
アルファベット圏である西洋社会などにおいても、全く共通していることなのである。

「刑の濫りならざるは、君の明なり。臣の願いなり。淫刑して以て逞しくせんとせば、誰か則ち罪無からん」
「刑罰が妄りでないことは、賢君の聡明さの現れであると共に、能臣たちの願うところである。
妄りな刑罰で何かを正そうとすれば、罪のない人間などもいなくなってしまうだろう。
(イエスの磔刑のような妄りな冤罪劇によって一切皆罪の無法状態が招かれ
たりしないようにすることこそは、真に願われるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十三年より)

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128 2014/01/18(土) 14:45:46 ID:A/SmD8MKKc
[YouTubeで再生]
・歩行時に大手を振ってバランスを取りながら歩く→ゴリラやチンパンジーもやっている。
・背筋をよく伸ばして胸を張る→自立時のチンパンジーがやっている。
・相手の目を見て付き合う→ゴリラがやっている。
・挨拶時にお互いの急所(手、陰部など)をこすり付けあう→ボノボがやっている。

今では日本人などもやらされていることの多い、上のような西洋特有の習慣こそは、
実はサルもやっている。昔の日本人はさにあらずで、むしろ西洋の習慣を
取り入れてしまったせいで文化的な退化の様相を来たしてしまった。実際に
そのせいで、足腰の弱体化や注意力の欠如などの問題を来たすことともなった。

「何もかも西洋が一番優れている」などと考えるのはさすがに誤りであることが、
洋の東西を問わぬ世界中の人々にいい加減考え直されて来ているが、実は西洋こそは、
人間自身の身のこなしのような最も根本的な部分でサルにも等しい未開さ加減のままで
あり続けているという所にまでは、まださすがに配慮が足りないままであることが多い。

それは、信者の知能をサル以下にまで引き下げる聖書信仰などを自分たちの文化発展の
取っ掛かりにしてしまったことからも避けられないことであった。始めに多いなる過ちを
犯してしまっているものだから、後付けでどこまで埋め合わせを試みても、どうしたって
根本の部分で決まりが付かないままであり続ける。そのような「王様は裸」状態での過ち
と埋め合わせのマッチポンプの悪循環がどこまで行けるのかを試みるのが、世界が無法
状態のままで在り続けた限りにおける、西洋人に課せられた運命であったのに違いない。

サルがごく少数の村社会を形成することしかできないように、「サル以下教」たる
聖書信仰の呪縛に囚われたままでいる西洋人もまた、村社会以上に大規模な社会を健全に
運営して行ったりすることができない。今の欧米社会がそれなりに安定的であるように
見えるのも、聖書信仰の深刻化をそれなりに自粛していると共に、大航海時代以降に
世界中から奪い取った既得権益でどうにか蒙昧な市民たちを食わせてやって行ってるから
なわけで、そうでもない限りにおいては確かに、聖書信者こそは「万人の万人に対する
闘争状態」を自分たちの間で講じ続けることしかできないままで在り続けるのである。

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129 2014/01/18(土) 14:58:00 ID:A/SmD8MKKc
都市社会を全くの自力だけで営んで行けるだけの素養が聖書圏以外の人間にはある一方で、
聖書圏の人間にはない。古来から極度の内乱や外界の侵略を繰り返し続けることだけで
何とか保たれて来た聖書圏こそは最も危うい人間社会であり、まず地球上の人類社会の内で
どこかが真っ先に壊滅の憂き目に合わせられることがあるとすれば、それも聖書圏でしか
あり得ない。現状ではもはや、聖書圏の核兵器が全人類を滅ぼし尽くすまでもの威力を
帯びてしまっているものだから、滅亡するとすれば全人類が一緒に滅亡することとなる
可能性のほうがたかいわけだが、そうならない限りにおいてはやはり、致命的な狂乱の
種を抱えた聖書圏こそが、経済破綻などの形での早急な壊滅に陥ることが免れられない。

サルレベルの精神構造や文化習俗しか持たない人間集団が、見てくれだけ真人間を装っての
社会運営などを試みたりしたこと自体、始めから無理の押し通しだったのであり、それが
2000年もの長きにわたって持ち応えてきたことのほうがむしろ奇跡だといえる。いま聖書信仰
に陥ってしまっている人々も、決してサル未満の知能でしかいられない先天的な精神障害では
ないわけだから、そうでい続けることからなる精神薄弱の酩酊から目を覚まして行くのであれば、
それでやり直して行くこともできなくはないはずである。聖書信仰こそが自分たちの精神的な
拠り所であり続けて来たのにも違いないが、むしろサル以下の知能を持て囃すような悪習を拠り
所として来たことこそを恥じて、いい加減に蛮族の群れであることから卒業すべきだといえる。

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130 2014/01/18(土) 15:02:03 ID:sH4bF31jMU:au
「天乃ち王に勇智を錫い、万邦に表正し、禹の旧服を纘がしむ。
茲に厥の典に率いて、天命を奉け若う。夏王罪有り、上天を矯り誣いて、
以て命を下に布く。帝用て臧みせず、商を式て命を受けしめ、用て厥の師を爽らかにす」
「天も我が君(湯王)に勇知を賜り、万邦を正して禹王の帝業を継承されました。
そのため君も正しき法に基づく統治を敷く形で、天命に基づく革命をも実行に移されたのです。
夏の桀王には大いなる罪がありました。天の意向を騙って、人々を虐待することこそを
命として天下全土に敷こうとしました。天帝も決してこれをよしとせず、殷に天命を授け替える
こととし、人々の従うべき相手が誰であるのかを新たに示されたのです。(民を虐待する
ことを天命の内に組み込むなど、明らかに天を騙る詐欺師の所業である。そんな悪党が、
イエスが生まれる1500年以上も前に「はりつけ王〈桀王〉」という名ですでにいたのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)

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131 2014/01/19(日) 16:11:03 ID:BC1J4qNn/I
「心」というものの根本からの矯正なり鍛錬なりといったものを、東洋人は昔から心がけてきたが、
西洋人はそれこそを忌み嫌って来た。心がグニャグニャで何ら評価するに値しないような小人が
そのままで外見や言行だけはそれなりに見れたものとなったり、災難に遭っても救われたりする
ことこそを好き好んで追い求めて来た。その結果が、悪いものを全て外界に押し付けた挙げ句の
全世界規模での破滅の危機の招来であったわけで、心という部分から正されて行くのでなければ、
大局からの改善なり向上なりが見込めることも決してない、最たる実証例になっているといえる。

心が何者からの侵害も受けず、また自力での矯正を心がけたりする必要もない、それこそは「自由」
であるともしてきた。禅僧が精神修養によって心の自由を獲得しようとしたりするのとは全く逆の
意味での心の自由を西洋人は欲して来たわけで、その結果としてサルを始めとする禽獣ともさして
変わりないほどに不具まみれの駄心ばかりが呈されることとなった。それはたとえば、勉強によって
知能を高めたり、スポーツや軍事教練によって体力を付けたりしているような人間であっても変わり
ないわけで、だからこそそのような素養を自分個人の経済的成功のためにしか用いようともしない。
自らの能力を我田引水目的でしか活用しないことが大局からの経済破綻を招くことにまで誰も配慮が
行き届かないままで在り続けて来たのも、自分たちが精神の不具を抱え続けてきたからに他ならぬ。

サルを含む禽獣が吠え掛かったりしてくるようにして、心がグニャグニャな小人もキレることぐらい
はできる。それで自らの心への干渉を防ごうとしたりもできるわけで、西洋人が「神の怒り」などと
呼んでいるものの正体もまさにこの部類の情動失禁に他ならない。もちろんそれが精神の強さなどから
派生しているわけでもなく、弱さゆえのその場しのぎの火病の発症に過ぎないわけだから、それによって
グニャグニャな心が守られるようなことなどがなるべくあるべきではないし、そのような自己防衛本能
の発露などをカルト宗教やエセ文学などによって正当化したりすることもないようにしたほうがよい。

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132 2014/01/19(日) 16:17:05 ID:BC1J4qNn/I
ただ、全く心の修錬などを志す気もないような人間が、何らの防備もなくただただ心を痛め付けられる
ような仕打ちばかりを加えられたりしたならば、そのせいでPTSDなどと呼ばれる精神疾患に見舞われたり
することにもなりかねないわけだから、人の心への干渉などはあくまで、本人のより一層の精神の健全化
が見込める場合などに限られるべきだし、それとて干渉を受ける側が全く望みもしないというのであれば、
本人が懲罰を加えられるべき罪人でもない限りは、なるべく控えてやるようにすべきだといえる。

最大級に心の修練が奨励されているような世の中といえども、商売人などの中には、心の修錬を始めから
心がけようともしないでいるような人間がそれなりに残存し得る。職務上からいってそんな心がけなど
ないほうが好ましく、犬のように顧客に媚びへつらっていたほうが都合が良かったりするものだから、
そうであり続ける。それはそれで一つの都市社会に住む人間の生き方であるとして存在性ぐらいは認めて、
ただ決して奨励までされるに値はしないような人間の生き方であるという認知を徹底して行くようにする。

いつもの中庸論法ではあるが、必要悪程度の心の無修錬ぐらいは是認されて、不必要悪ですらあるような
心の無修錬の正当化や権威付けだけは廃絶して行くようにすべきである。商売人の駄心ぐらいは認めても、
その駄心をカルト教義などによって守ってやったりするようなことまでは認められるべきでない。この手
の微妙な匙加減を必要とされる統治作業を滞りなく行えるのも君子だけであり、その君子こそは世界でも
最上級の心の修錬を強いられるものでもある。まず自らが過酷な修錬に臨んで行こうとする有志がこの世に
現れるのでなければ、そのような事業を片鱗ほども実行に移せるようなこともないままであり続けるのである。

「共倹以て礼行われ、慈恵以て政を布く。礼以って政成り、民是れを以て息う」
「恭倹さによって礼儀が行われ、慈しみと恵みによって政治が敷かれて行く。
礼儀によってのみ政治も成就し、それによって民たちも安らいで行くようになる。
(治める側が慈しみ深いだけでなく、治められる側もまた相応に礼節を守るのでなければ統治も成功しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十二年より)

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133 2014/01/20(月) 15:40:31 ID:9enI4AG1Mg
「自ら反りみて縮からずんば、褐寛博と雖も、吾惴かざらん。
自ら反りみて縮ければ、千万人と雖も吾往かん(既出)」
「自ら反省して正しくないと思った時には、たとえ相手がボロをまとった乞食であっても道を譲る。
しかし自ら反省しても正しいと思った時には、たとえ相手が千万億の大群だろうとも道を譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)

と孟子が言ったとき、孟子は自分が仁義道徳に即して正しいか間違っているかを念頭に置いていた
はずである。仁徳に即して間違っていれば、自分が世界中の人々を敵に回すことになるから、乞食
が相手でも自らの非を認めて譲ろうとする。しかし仁徳に即して正しいというのなら、自分こそは
世界中の人々を味方に付けていることが間違いないから、その内の部分集合に過ぎない大軍勢などが
相手であったとしたところで、決して道を譲ったりはしない、という風に孟子も考えていたはずである。

正しいか間違っているかを、あくまで自らの内的な基準に即して判断するわけだが、その基準こそが
仁徳に適っているものだから、内向的な判断であるにも関わらず、天下万人をも味方に付ける英断
とすらなる。それは孟子自身が言っている通り、聖人賢人善人常人愚人悪人、どんな人間といえども、
本質的には同じ人間であるという大前提が遍在しているからであり、自分にとって本当に利益に
なることを心がけたならば、それが同じ人間である世界中の人々の利益にもなるように、
人間という生き物がその天性にも即して作り上げられているからなのである。

仁徳に即すればこそ、儒者は常に世界中の人々を味方にすることを念頭に置いている。それは、
全体主義のような稚拙な発想によるものでもないから、むしろ全体の自己相似系な部分集合としての
自分個人や自らの家や、自らの身分に即した君臣関係の洗練にこそ務めて行きもする。そうすることで、
自分個人の主観的・非概念的な判断までもがありのままに天下国家の公益に適うものとなって行く。

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134 2014/01/20(月) 15:44:33 ID:9enI4AG1Mg
全世界、全人類こそは、儒者にとっての天であり「神の主」である。全人類を代表できるものこそは
天帝たり、その天帝の意向に即して自らも業務に従事して行こうとする。選民志向を正当化して
くれる神こそは神の典型であるかのように考えている人間などからすれば、到底受け入れ難いような
神の定義であるに違いないわけだが、神にそのような意味合いを持たせて来た頻度のほうが世界史
的に見てもむしろ多いし、またそうしたほうが、神格信仰が誰しもにとっての利益にもなり得る。

実際、全世界や全人類こそは、神がかりとも呼べるような奇蹟を時にこの世にもたらすものである。
殷周革命による周帝国の樹立だとか、高祖劉邦による漢帝国の樹立だとか、戦国時代の争乱に絶妙な
決まりを付けての日本での江戸幕府の樹立だとか、どこにも不可思議な要素などない人間同士での
せめぎ合いの結果ではあるわけだけれども、それでもやはり神がかっている所がある。「全世界」
といえば、今だと地球社会が最も適当な定義に相当するだろうが、まだ地球社会が完結した世界と
して十分な成熟を果たしていなかった時代に、中原や日本列島の如き一定以上に閉じられた世界での
最善の限りを人々が尽くした結果として、確かに最善級の王道的な政権が樹立されたりもしていた。
その姿がありのままに、形而上にすら届き得る程の神々しさをも伴っていて、まさにそれこそが
神威の発露の最たるものであると考えたとしても、それなりに納得のいく所すらもがあるのである。

そのような、「最善なる全世界規模の人為」こそを神に見立てて行く考え方に慣れてみたならば、
世界や人類と全く乖離した所に恣意だけででっち上げられた超越神などが、いかにお粗末なもので
あるのかまでもが知れるのである。全く以って益荒男を唸らせるに値するような威厳を兼ね備えて
いるわけでもない上に、そのような神の下で引き起こされるという現象もまた例外なく粗悪なもの
ばかりであるのだから、全くそんなものを神とみなしていたい気持ちにもならないのである。

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135 2014/01/20(月) 15:47:46 ID:9E/n/kyTEI:au
家康公のような個人を神格化することも、時には妥当なことたり得るが(本人が本物の努力家
だったりするため)、何よりも全世界、全人類といった大局を形成している事物こそを神と見立てる
ことが、最大級の現実主義と共にであっても納得が行くほどの神格肯定たり得る。形而上に乖離
した超越神などはその条件を満たしていないから、科学によって現実主義が定着して行っている現代
において神仏信仰も下火と化しつつあるわけだが、そのような稚拙な神の定立などはむしろさっさと
卒業してしまって、「大局現象」こそを神と見立てる発想に転換してみればいい。科学的発想を全く
蔑ろにしたりしないままでいながら、神の実在すらをも肯える自分がいることに気づくであろう。

「古の賢王は善を好みて勢いを忘るる。古の賢士も何ぞ独り然らざらんや。
其の道を楽しみて人の勢いを忘るる。故に王公も敬を致し礼を尽くさざれば、則ち亟しば
之れを見るも得ず。見て且つ由お亟しばするを得ず、而るを況んや得て之れを臣とするや」
「昔の賢王は正善を好むあまり権勢のことなどを忘れていた。そのためその王に仕えたり仕え
なかったりする賢士たちもまた、誰一人としてそのようでないことがなかった。自分たち自身が
道義に即することを楽しんで他人の権勢などは歯牙にもかけなかったものだから、王侯たちも敬い
と礼儀を尽くすのでなければ彼らに会うこともできなかった。会うこともできないのだから、当然
臣下にしたりすることもできはしなかった。(権勢を擁する者も擁さない者も、善や道義を好む
のであれば権勢の嵩にかかったりはしないし、また自分以上の権勢の持ち主を恐れたりもしない。
何ものかの権勢にとにかく寄りかかろうとする者自身、善も道義も見失ってしまっているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・八より)

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136 2014/01/21(火) 14:53:18 ID:8sZ22ofHKw
「できることがあればできないことがある」というのが、陰陽法則に司られた
この世界この宇宙すべての事物にかけて普遍的に共通する約束事となっている。

ヒドラは人間のような高等生物ではないからこそ、半不老不死でいられるし、
鳥も脳みそまで小さくなって知能が低下するほど軽量だからこそ、空を飛べる。
深海魚も含水率を極限まで高めた醜怪な容貌だからこそ、深海まで潜れもする。
人間がむしろ満たしたくないと思うような条件と引き換えに、上記のような
生物たちも人間にはないような能力を身に付けているわけだから、人間が
それと同等の能力を手に入れたりすることも憚るべきところがあるのである。

知能の高さや手先の器用さこそが、人間が他の生物と比べて突出している能力である。
体力で人間より突出している生き物はいくらでもいるし、飛行能力、潜航能力、視力、
聴力、嗅覚力など多くの面で人間より優れた能力を備えている生物が多々存在する。
ただ、知能の高さや手先の器用さに基づく道具の多用などで以って、それらの能力
をも擬似的にカバーすることができるため、まるで人間こそは全能に近い生物で
あるかのようにすら考えられがちである。生身で空を飛ぶことはできなくても、
飛行機に乗れば空を飛べる、だから人間も空を飛ぶことができるという風な
三段論法を妥当だと見なすのなら、人間も全能に近づいていると言える。

しかし、だとしたところで、やはり「人間が空を飛ぶ」ということなどにはまた
新たな弊害が伴うことともなった。飛行機が発明されたアメリカという国自体、
数多のインディアンや黒人奴隷の犠牲の下で成り立っていったものだし、発明後にも
飛行機が兵器として用いられることで多くの悲劇をもたらすなどした。旅客機の
事故も人間が引き起こす事故の内で最大級の惨事となるし、遠距離間に至るまでの
人間社会の極度の流動化が、先住者にとって望みもしないような異質な移民に
よる文化的摩擦などの問題を来たし始めることともなったのだった。

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137 2014/01/21(火) 14:59:43 ID:8sZ22ofHKw
一難去ってまた一難ならぬ、一不具合去ってまた一不具合、二不具合といった様相で、
人間が空を飛ぶという事象一つを取っても、決して人間に一概な幸福ばかりを
もたらしたりすることはなかった。空を飛べるようになったことで人間が全能に
一歩近づいたとて、また全能にあるまじき諸問題を別にもたらすこととなったわけで、
これはやはり「できることがあればできないことがある」というこの世界この宇宙の
根本法則に全く違うことなく人間があり続けている典型例になっているといえる。

人間が空を飛ぶことなど夢物語でしかなかったような昔の時代にも、それが始めからの
常識であるというのなら、今よりも幸福だったろうと考えられるような往年の社会が
いくらかは見受けられる。日本のような、大陸と絶海で隔てられた島国の人間が他国
へと遠出に出かけることも、移動手段が船か徒歩か馬ぐらいでしかなかった頃にこそ、
大いなる感動をもたらす大スペクタクル劇であった。今の日本人が中国に赴いたりした
ところで、弘法大師が唐で体験したような神秘劇を体験できたりすることは決してない。
それは、ただ交通が便利になったからというだけではない。交通の便利化に反比例して、
人間たちが踏み止まっている土地で修錬を尽くす頻度も減ってしまったからである。弘法
大師が恵果和尚から土産にもらった法具並みの工芸を凝らしたりする素養が今の中国人に
もはやないからこそ、そこでの感動的な体験などを期待することもできはしないのである。

そして中国がそこまで文化的に荒廃してしまったのも、英欧露諸国が航空攻撃まで
導入しつつの中国の侵略をやらかしたからである(表向きは袁世凱のような傀儡の
中国人権力者を立てたりもしている)。清帝国の崩壊と赤化とによって、中国の文化
も見るに耐えないものばかりと化してしまったが、そこにはいつも西洋諸国の機械文明
による脅しがあったわけで、特に、1917年の張勲復辟後に紫禁城が空爆を受けたことに
戦慄させられたことは溥儀も自伝で特筆して述べてもいる。その後溥儀も即座に退位して、
中国伝統の王制を已む無く完全途絶させられることとなってしまったのだった。

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138 2014/01/21(火) 15:40:51 ID:t7XvmGcEMs:au
人間が空を飛ぶようになった結果として、ある種の高度な文化文明が逆に退行
させられるようなことにすらなった。文明発展のための犠牲として仕方のない
ことだと多くの人間が認めていることでもあるが、少なくとも、人間という
生物が「できることがあればできないことがある」というこの宇宙の根本法則
から逃れられないでいるのみならず、むしろ全能を無理に志した結果として
より一層の不具にすら見舞われている証拠の一つにからなっているといえる。

人間の全能化という試みをいま主導しているのが他でもない科学技術であるわけ
だけれども、飛行技術のような分かりやすい例も含めて、科学がむしろ社会問題や
文化荒廃のような不具をも同時にもたらしてしまっているあたり、やはり科学までもが
「できることがあればできないことがある」という法則に抗いきれないままであり
続けているという風に現状では断定せざるを得ない。実のところを言えば、永遠にそう
でしかあり得ないわけで、そもそも人間が全能を志すこと、全能を欲したりすることから
して戒められて行かねばならないことがいい加減わきまえられなければならないのである。

「能く庸を奮いて、帝の載を熙むる有れ」
「よく恒なることに励んで、天帝の事業を推し進めて行ってくれ。
(舜の四岳への言葉。多能にかまけぬ庸命の履行こそは真の帝業たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)

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139 2014/01/22(水) 14:37:18 ID:Yy7Meijk.A
孔子は「君子は憂えず、懼れず(顔淵第十二・四)」という一方、
孟子は「君子に終身の憂えあるも一朝の憂えなし(離婁章句下・二九)」という。
その孟子が「吾れよく浩然の気を養う(公孫丑章句上・二)」とも言っているが、
「小心翼翼(大雅・烝民)」「戦々恐々として、薄氷を履むが如し(小雅・小宛)」ともいう。
憂患の是非にまつわる儒者の見解はまちまちであり、明らかに矛盾しているような所すらある。
その心を解きほぐすなら、

「君子は日々の修練によって心強さを養っているため、極度の憂患に苛まれて悶え苦しむような
ことはないが、それでも常日頃からの戒心を欠かさず、物事への最大級の憂慮を働かせ続ける」

とでも言った所であろう。
これこそはまさに、仏者が菩薩行を心がける心象にも近似するものであり、菩薩の慈悲に
相当するような心持ちを、儒者もまたある種の憂患として抱くことを示す所ともなっている。

他者から慈しみをかけられることなどではなく、自らが慈しみと共に人々を利すること
こそを念頭に置いているあたり、いかにも自力本位の大人の教理であるといえる。しかし、
別に儒学は大人の男の占有物だったりするわけでもなく、子供や女であっても学ぶに
越したことはないものである。儒学や仏教の自力本位な教えが老若男女誰しもに受け入れ
られればこそ、誰しもがまず自分のほうから他者をいたわる篤実さを養って行ける一方で、
まず自分が誰かに慈しまれることばかりを期待していれば、そのせいで我の張り合い
ばかりが横行する殺伐とした世の中が出来上がってしまうわけだから、自力本位の
信条を尊ぶ人間が多ければ多いほど、それに越したこともないのだといえる。

人間誰しも、一度や二度ぐらいは憂患に苦しめられたことがあるものである。
幼い頃に、人はみないつかは死ぬことを憂えて泣いたようなこともあるだろうし、
それなりに年を取っても、自らの身分の卑しさを憂えて嘆き悲しんだりする。

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140 2014/01/22(水) 14:39:49 ID:Yy7Meijk.A
そのような悩み苦しみの反動で、全く思い煩うことのないあっけらかんとした
人生ばかりを送りたがったとしたならば、それもまた極端から極端への振り切れと
なってしまうわけで、憂慮すべきものへの憂慮すらをも失っての淫蕩三昧がこれまた
自業自得の破滅的事態を招く原因などになってしまうのである。

故に、心の修練によって憂患などに極度に苦しめられたりしない強さを身につける
一方で、憂慮すべきものへの憂慮だけは欠かさないままで居続ける分別の徹底こそが、
自分自身にとっての養生のための手立てともなって行くこととなるのである。

その条件をよく達成して行くことができるのは大人の男ばかりであるものだから、
そのあり方こそを誰しもに見習わせて行くようにすべきである。女あたりが全く思い悩まない
ことを好き好んで実際にそうであろうとし、思い悩まないでいられていることこそは自分が
優れた人間である証だなどとまで思い込んだりすることがあるが、全くそんなこともない。
精神薄弱ゆえに最低限必要な憂慮すらをも捨て去っている単なる亡者の有り様に過ぎないわけ
だから、決してそのような人間を思い上がらせるようなこともないようにしなければならない。

仏の悟りも悩み苦しみを脱落させる効能を伴ってはいるが、だからといって
悩みのなさを鼻にかけたりするのであればそれは「増上慢」となってしまうわけで、
そのような事態に陥らないためにも、覚者すらもがあえての憂慮を慈悲として
抱くべきなのである。いわんや、覚者でもないようなただの俗人をや、である。

「民の憂いを憂える者は、民も亦た其の憂いを憂う」
「為政者が憂えるべき民たちの憂いを憂い悩めば、民たちもまたそれに倣って憂えるべきこと
を憂え悩むようになる。(そうして民たちの注意力が高まりもする。道徳統治の一環である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・四より)

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141 2014/01/23(木) 15:53:25 ID:3TnSeJnwh.
守るべきもののない者は、何物をも恐れない。自らの死を恐れぬ者は決死の戦いをも恐れないし、
出家して家族との縁を絶った者であれば、家族が危難に遭うことを恐れたりすることもなくなる。
誰しもがそのようであるべきだなどということも決してないが、そのような「無有恐怖」の
素養を身に付けた人々こそが世の中において有用な存在たり得ることもまた事実である。
命知らずな武士や仏僧の働きがあればこそ、利権に目が眩んだ亡者による権力犯罪などが
十全に取り締まられたりもするわけなので、守るべきものを持たない身軽さもまた
時には尊ばれて然るべきものとなると言えるわけである。

ただ、人が命知らずの恐れ知らずとなることが不正な手段によって講じられたり、また不正
な目的で講じられたりすることもあるわけなので、当然そういったことは避けられて然るべき
である。麻薬的陶酔を伴う自己暗示だとか、本当の麻薬中毒だとかによって恐れ知らずとなり、
その恐れ知らずさによって権力犯罪者の下請けとなるような死兵働きに及んだりすること
こそは避けるべきであり、そのような真似に及ぶぐらいならまだ、ちょっとした事件や
事故にもいちいち怯えているような小市民ででもいるほうがまだマシなこととなる。

恐るべきことを真摯に恐れて、いちいち戒心の材料にしてくれるような人間のほうが、
統治対象となる市民などとしてはかえって善良だと言える。恐るべきものをことごとく
見失っての思い上がりを募らせているような民こそは「暴民」とも化すわけだから、
仁徳があればこそ世のため人のための挺身を恐れない民でもない限りは、むしろ何もかもが
恐くてたまらない小心者の民ででも人々があってくれたほうが、まだ好ましいと言える。

とにもかくにも、心強い依存対象があるから恐怖しなくて済むという事態だけは避けるべきである。
それこそは、小人や女子供のような社会的弱者が不正に思い上がりを募らせる原因となってしまうわけで、
最悪の場合、公権力すらをも尻に敷くような小人の政商犯罪すらをも誘発することとなってしまう。
弱者を保護することも、偽善レベルにまで過剰なものともなれば、弱者に相応の恐怖意識すらをも
本人たちに失わせてしまうような弊害を招くものだから、そのあたりのさじ加減を慎重にすべきである。

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142 2014/01/23(木) 15:56:49 ID:3TnSeJnwh.
サムライの刀は女子や小人を守るために存在すると共に、女子や小人こそが思い上がりを
募らせて世の中に迷惑をかけ始めたりすることを防ぎ止めるための調教具でもなければならぬ。
しかれば、女子や小人もまたサムライの刃が自分たちに向けられることが決してないなど
とまで思い込んだりしてはならぬ。いつ自分たちがそのような目に遭ってもおかしくない
のだということをわきまえて、心底恐れ慎みつつ神妙にしているべきなのだといえる。

「父母之れを悪めば、懼れて而かも怨む無し」
「父母に憎まれることがあれば、それをよく恐れてなおかつ恨み返したりはしない。
(悪辣な親の元でも孝心を養っていた舜帝にも準ずる心がけ。この心がけが臣下の主君に
対する、民の官に対する、妻の夫に対する心がけの模範ともなって行く。人間社会の健全
な運営のためには恐怖すべきものへの恐怖もまた必要なものとなる実例となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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143 2014/01/24(金) 14:11:28 ID:mFpa0mrXT6
真理や道理は、自己修養によってのみ人が近づけるものである。
その手段が出家であるのであれ仁義忠孝の実践であるのであれ、自力本位の上達を
志すものこそは、多少なりとも真理や道理の探求者たり得る。だからこそ、他力本願
による往生を奨励する浄土門においては、信者が真理の希求者であるような体裁すらをも
かなぐり捨てての、仏法でこそ否定されている形而上的な浄土への往生をこいねがいもしている。
(しかもその浄土も、いかにも俗物趣味な金銀財宝による荘厳ばかりが凝らされていると来ている)

真理はおろか、道理ですらもが、多少なりともの畏怖と共に俗人が敬遠すべきものである。
俗人の内でも特に忠孝の如き浄行を心がけるものが、君子として道理に近似することが
あったりするぐらいのものであり、そのような人間はもはや俗世の聖賢として一般人からの
畏敬の対象とすらならねばならない。出家修行によって真理にすら合致しようとする
人間ともなればなおのことであり、その浮世離れした立ち居振舞いこそはありのままに、
真理が到底俗人の馴れ合えるようなものではないことを体現として実証してもいる。

今ですら私的に父母への手厚い孝養を心がけている頻度の高い中国人が、特に清廉だったり
その他の面で民度が高かったりすることがないのも、その孝心が全く以て忠義に結び付いて
いないからである。唐崩壊以降の深刻な権力腐敗に長年あえぎ続けて来た手前、孝心を全く以て
公儀に繁栄することができないことまでもが定着してしまい、孝がかえって公共意識のなさを
正当化する材料として悪用されることとすらなってしまった。仮に忠孝が共に実現された所で、
それで至れるのも仁徳に根ざした道理程度であるわけだけれども、それすらもが、ただ
忠と孝が乖離しただけで不能なものと化してしまうことを、ここ800年来の中国人や
朝鮮人が身を挺して証明してもいる。いわんや、道理よりもさらに近似する
ことが困難であることが確かな真実の道理——真理をや、である。

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144 2014/01/24(金) 14:18:13 ID:mFpa0mrXT6
人類史上で、真理に最高級に合致することができた人間であっただろうと考えられる、
釈迦如来や龍樹菩薩や弘法大師といった人々もまた、あえて人々が好まないような
俗社会にとっての裏道を歩み続けた。釈迦出家譚も親族の泣き濡れと共に語り伝え
られているし、弘法大師も出家前に自らの選択を親に弁明するための文書を「三教指帰」
として認めたほどである。そこから泥水を吸い、人糞を食むような荒行を繰り返した
後に悟りへと至ったわけで、その結果は世のため人のために限りない利益をもたらす
ものではあったにしろ、決して当人たちの生きざままでをも俗人としての立場から
無制限に肯定してやったりするわけにもいかない者となっている。(出家を全国
レベルで持て囃しているタイなども、あまり品のある国情で居られてはいない)

真理や道理を正当な手続きに即して探求して行くこともまたそれなりに尊ばれて然るべき一方で、
それが全く覚束ない人間が自らの至らなさを恥じと共にわきまえることもまたあるべきである。
それは、人間の内でも特に真理や道理を理解することが困難な女の腹からこそほぼ全ての
人間が産まれて来ている人間社会の大局に即しても、そうであらざるを得ないことである。
産まれついての人間が、天性だけで真理や道理に合致できる可能性などほとんどない、
もしも世の中のほうが濁り切っているようならば、後天的に真理や道理を理解することすら
ほとんど不可能であるとわきまえた上で、なおのこと真理や道理を如何にすべきかを着実に
考えて行けるものだけが、真理や道理といった理念を多少なりとも善用して行くことができる。

要は、身の程をわきまえられる者だけが、真理や道理を善用できるということである。
身の程をわきまえた上でなおのこと自らが真理や道理を探求して行くに値する人間や、
自分には到底そんなものに近づく資格もありはしないとわきまえてただの俗人然
としていようとするような人間こそが、真理や道理に即して真っ当であり得る。

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145 2014/01/24(金) 14:18:19 ID:GMxOXNlMIw:au
身の程のわきまえが疎かであるが故に、分不相応にも真理や道理を志すような
人間こそは、ただの俗人以上にも粗悪な存在たる。聖書信仰や洋学によって真理に
近づけたような気になっているような人間こそはまさにその最たる事例であり、
煩悩具足の愚縛の凡夫であることをわきまえていればこそ俗悪な信仰を開き直って
いる浄土信者ほどにも、真理や道理に即して善良であるようなことがない。

真理とか道理とかいったものを言葉として定義したのは人間自身だが、それらの
言葉によって指し示そうとしたものもまた、定義云々に関係なく実在している。
その普遍的な実在としての真理や道理こそは、上記のような性質を普遍的に
帯びている。人間たちが間違って定義した偽りの真理や道理であればこの限りでは
ないが、そのような真理や道理が人々にもたらせるものもまた、知れたものである。

「子張、善人の道を問う。子曰く、迹を踐まず、亦た室に入らず」
「子張が善人の道をお聞きした。先生は言われた。『別に先人の教えなどを履まず
とも自然と善良でいる。ただ、そのままで真理の奥義にまで達することはできない』
(偽りの真理の道を歩んだりするよりは、このような庸道を歩むべきである。デフォルト
を悪とし、神への服従こそが真理に至るなどとするような教えは、その位相からして
このような孔子の教えに違背している。一切衆生悉有仏性の仏法などはその限りでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二〇)

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146 2014/01/25(土) 14:15:12 ID:SmbIdtlh0U
他力本願の人間が偉ぶる状態こそは、動物でいえば狂犬にも等しい、人として最劣等の
心理状態であり、それこそはあらゆる心理状態の中でも最も避けられて然るべきものでもある。

他力本願であるからには、自らの責任放棄が念頭にある。責任放棄と偉ぶりの併存こそは、
人格破綻と自己陶酔を相乗的に深刻化させて行き、以てサイコパスなどと呼ばれる精神病理を
本人に定着させることともなってしまう。自己責任を重んずることも、偉ぶりを控えて恭しく
あることも、始めの内は大きな心労となる。そのような態度姿勢を日々着実に積み重ねて行けば、
結局は「浩然の気」などと呼ばれる爽快感に与れるようにもなるわけだけれども、そこまで
行かないような人間が責任的姿勢や謙譲的態度でいることの堅苦しさを忌み嫌った挙げ句に、
責任放棄と思い上がりの悪循環を募らせて行ってしまうようなことともなるのである。

責任意識の希薄さを他力本願のカルト信仰やイデオロギーによって募らせたりするようなこと
もあれば、公務員のような元来責任を以て取り組んで行くべき職務に不相応にも就任した小人が、
重圧のあまり人並み以上に責任意識を放棄してしまうようなこともある。民主主義国家の
政府や自治体の構成者は、この両方の条件を満たしていて、国民主権という名目での責任放棄
の正当化と共に、堂々と無責任な暴政を執り行いながら高禄を食むという最も許しがたい
態勢を堂に入らせることともなっている。それは、むしろ公人こそが自己責任によって
為政を手がける封建社会などのほうでこそ起こり得なかったことなわけで、自分たちが連中から
主権を奪えばこそ、公務員たちの責任放棄と思い上がりの悪循環による深刻な権力腐敗などを
招いてしまっているのだということを、いい加減民衆たちも思い知るべきだといえる。

自力本位こそは清廉なものであり、他力本願こそは俗悪なものであるというのに、現代人たるや、
この認識を完全に転倒させての「神聖なる責任放棄」ばかりに及んでいる。他力本願の信仰者を
非現実的ながらも聖性を帯びたものとして描き、自力本位の哲学者や共産主義者を卑俗な
ニヒリストとして描いたドストエフスキー小説などがその手の転倒夢想を定型化した文化的

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147 2014/01/25(土) 14:19:27 ID:SmbIdtlh0U
産物の典型例であるといえ、そのような西洋文学を含む洋学全般から権威を奪い去っての価値
転換を人々に促して行くのでもない限りは、責任放棄こそをよかれと思って推し進めて行く
ことが定着してしまっている今の世の風潮に歯止めをかけられるようなこともないだろう。

責任放棄も思い上がりも、慣れてしまえばなかなか脱却することが難しいものである。
それこそ、巧みな修辞を凝らすことで脱却から逃げ仰せ続けたいとすら思わせるほどにも、
多大なる精神的苦痛を本人たちに強いることともなる。顕教的な仁徳盛行への一辺倒状態で
あり続けて来た人間がその苦しみを汲んでやることもなかなか難しいことなので、悪人小人の
異生羝羊心すらをも考慮してやれる密教的な素養が矯正の執行者の側にもあったほうがよい。

責任放棄や思い上がりを正当化までしようとするのなら厳しい態度での仕打ちすら
辞すべきではないが、もはやそれらを正当化のしようもない所で矯正されて行く段
ともなれば、無上の慈しみと共にそれを手伝ってやるぐらいの分別でいるべきである。
観念する前とした後とで、鬼の怒りと仏の慈悲とを巧みに使い分けてやることが、
これからの世直しを手がけて行く者にとっての神妙な心がけとなるのである。

「夫れ能く位を固める者は、必ず本末を度りて而かる後に衷を立つる。
其の本を知らざれば謀ず。本の枝せざるを知れば強うる弗し」
「人事のうまい人間は、必ず相手の本末に至るまでの素養を計り知った上で、それに即した
按配の職務をあてがう。その潜在能力に至るまで知り尽くさねば雇用しないし、潜在能力が
あったとしてもそれが活かせないようならば、あえて雄飛を強いたりもしない。(人事は
己れの権能にかまけてろくでもないような人間を取り立てたりするのではなく、相手の真価
を見極めてそれを十二分に発揮させてやることこそが肝要である。このあたり、就職志願者の
粋がりようや忠誠心ばかりを見て採用を決める今の企業人事などとも相容れない主張だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公六年より)

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148 2014/01/26(日) 22:50:07 ID:Mkbi6SQ4yw
「惟れ説、式て克く欽しみ承け、旁く俊乂を招き、庶位に列せん」
「わたくし説は、慎んで主君の願われる所に従って、広く有能な人々を
招き寄せて、それぞれに最適な臣位を与えて列することに努めさせていただきます。
>>147にあるのと同様、人事は雇用者の恣意などではなく、招聘対象となる人々
の能力の如何に即して執り行われるべきものであるため、専門の人事官を立てての
ごく事務的な招聘作業にすら徹すべきなのである。故に、そのおかげで好ましい位を
得られたような人間もまた、雇用者に感謝したりすることではなく、招きに相応の
職務を果たして行くことを誓うなどすることのほうをむしろ優先すべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)

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149 2014/01/26(日) 23:08:06 ID:Mkbi6SQ4yw
「速かざる客三人来たる。之れを敬すれば終には吉なり」
「招かざる客が三人も来るような不本意な事態に陥ったとしても、これを
よく敬って厚遇するぐらいに謙虚な態度でいれば、最終的には吉となるだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・需・上六より)

テロリスト制圧目的などでの特殊部隊の最小行動単位は「四人」というから、
四人の招かれざる客が現れたとしても、神妙でいられるぐらいでないとな。

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150 2014/01/27(月) 15:17:34 ID:C1k4vEyC4I
ごく微小な領域、局所的、短期的な領域においては因果律が破綻することも
あるが、大局的、長期的な領域においては必ず因果律が保たれるということを、
古来の陰陽五行の法則と、量子論に代表される現代物理学との両方が認めている。
中にはアインシュタインのように、物理法則がそのような曖昧な性質を
伴っていることを生涯受け入れようとしなかった物理学者もいるし、
絶対神による全知全能の業などを信じたがるカルト信者なども、当然
このような法則を真に普遍的なものとして認めたりする気はない。

ただ、実際問題としてこの世界この宇宙の全ての物理現象や社会現象が
陰陽道や量子論に根ざした法則に司られているものだから、それらを
排撃し尽くすこともできず、そのような法則を是とする見解に即した
科学技術の発展などをも静観せざるを得ないままでい続けている。

ただ、科学の進展やそれに伴う文明の発展がいつかは、陰陽道や量子論の
域を超えてくれるのではないかというような淡い期待を抱いたままでもいる。
だからこそ、多少なりとも大局からの因果律の破綻だの、それを可能とする絶対神の
実在だのを未だに信じたままでいる。実際、全くの仮説の範囲内に止まっている一部の
物理論(パラレルワールド論など)の内には、そのような期待を実現するかも知れない
ような意味合いを兼ね備えているものもまだあるわけで、未だに科学理論のほうが多少
なりともカルトに与しかねないような脆弱性を帯びていることもまた確かなのである。

だからこそ、カルト的発想の妥当性を完全に排し去った所にこそある、
陰陽道や量子論の妥当性こそを基本原則とした人文的な発想の、進歩的で
実用的な展開までもが滞らされたままでもいる。陰陽法則や、それに準ずる実相
準拠型の法則に根ざした人文学というものも、すでに無数に用意されているわけで、
それこそは儒学だっり玄学だったり仏教だったりウパニシャッド哲学だったりも
するわけだけれども、そのような東洋古来の人文学は概ね異端の部類とされて、
聖書信仰という最悪級のカルトを発想元とした、西洋哲学や西洋文学ばかりが
主流の人文学として持て囃されたままの状態でいてしまっている。

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151 2014/01/27(月) 15:23:05 ID:C1k4vEyC4I
実際問題、陰陽道を基本原則とするような人文学は、ただの人文学としてみれば
さして魅力的なものでもない。怪力乱神の持て囃しも程ほどに、仁義忠孝だの
無為自然だの成道だの利他だのといった実直な理念ばかりを主題に置いている
ものだから、少なくとも女子供や小人男が嬉しがるに足るようなものでないの
だけは確かである。ただ、やはり実用的でもあるから、基幹的職業に従事して
いるような大人の男からの勉強対象になったりすることが今でも多少はあるが、
それもただの実用目的というばかりであって、東洋的な人文学の権威性を
認めるが故にこその嗜みなどでまであったりするわけでは決してない。

これだけ科学技術への依存が深刻化している現代においては、やはり科学理論が
カルト的発想の根本的不当性を完全に実証し尽くすことこそが、実直な易学準拠系の
人文学の権威の復興やより一層の発展を決定付ける機縁ともなるに違いない。ただ、
それはあくまで一過性の機縁となるまでのことで、科学がその手の人文学の正当性を
公認してくれたこと以上にも、何千年にもわたってその手の学問を醸成したり実践の
対象としたりして来てくれた人々が無数にいることのほうにより感謝を捧げて行く
ようにしなければならない。彼らがいなければ、科学依存のせいでこそ人間精神
をも荒廃させてしまった現代人が滅亡の危機をも乗り越えて、即座な救済に
与かって行けたりする可能性もなかったに違いないのだから。

「言として讎いざる無く、徳として報いざる無し」
「内容に相応の報いがない言葉なく、篤実さに相応の報いがない徳はない。
(ろくでもない言葉にはろくでもない果報があり、厚徳には厚徳なりの果報がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)

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152 2014/01/28(火) 13:19:19 ID:bAuXOmbYGg
悪は正義よりも後からやって来て、先に死んでしまう。
正義を本義とする善良な人々によって築き上げられた世の中に後から
やって来て、暴慢と我田引水とによって虚栄を貪り、ガン細胞格として
世の中を引っ掻き回し過ぎた挙げ句に、自業自得の自滅に見舞われて、
その短くて儚い生を最大級の苦悶と不満のままに終えることとなる。

悪人こそは堅実な農産や、そのための治水灌漑などを人任せにして、
自分たちは悪徳商売だの火付け盗賊だのといった「濡れ手に粟」な手法
で以っての大儲けばかりを企てるものだから、自分たちだけでは決して
世の中を営んで行くこともできない。自分たちよりも遥かに膨大な数の人々が、
あらかじめ収奪の対象ともできるような豊かな世の中を育んでいる場合にのみ、
そのような悪人が一定以上の派閥と共に豊満な生活を営んで行けたりもする
わけだから、悪人なくして善人はあり得ても、善人なくして悪人はあり得ない
ということがいえる。両者の関係は決して可換ではなく、悪は必ず正義よりも
一定以上に拙劣で卑小なもののままでしかあり得ないという普遍法則があるのである。

にもかかわらず、悪は正義の上に立ってまでの奢り高ぶりすらをも目指そうとする。
それこそ、暴慢をどこまでも増長させて行くしか能のない悪そのものだからである。
なればこそ、正義あっての自分たちであることを見失ってまでの暴慢に駆られた悪
こそは、正義よりも後からやって来ておきながら先に亡くなるか、もしくは正義を
滅ぼした結果として自分までもが完全な自滅に陥ってしまうかのどちらかでしか
いられない。若輩者の少数派とあっては、先輩格の多数派を全員滅ぼし尽くすなどと
いうこともなかなかに困難であるから、結局は自分たちのほうが先に滅んで、正義に
自分たちの墓前で念仏を唱えさせるようなこととなるのが関の山となるのである。

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153 2014/01/28(火) 13:21:59 ID:bAuXOmbYGg
小人男や女のように、生来悪性に駆られやすく、やもすれば一生涯悪性の虜の
ままでいてしまうような人間もまた世の中には多くいる。そのような人間の
ほとんどが、本当に一生涯を上記のような透徹した悪性ばかりに駆られたままで
い続けたならば、本当に後からやって来て先に亡くなるような無様な生涯しか
送れないことともなる。女であれば、夫よりもずっと年下の妻でありながら、
家事一つ真面目にしない不摂生な生活ばかりを続けた結果として、多くの
病気に悩まされた挙げ句に夫よりも先に亡くなってしまうようなことともなる。
小人の男の場合も、君子の男を夫と見た場合の妻が自分であるとした場合に、
上に書いたのと似たような境遇や運命を歩まされることとなるのである。

夫よりも年下の妻であるのならば、夫よりも後に死ぬのが、長幼の序にも
適った自然体のあり方だといえる。それを常套とするためには、いくら自分が
悪性に駆られやすい人種である女であるといえども、悪性に囚われたままでいたり
することはなるべく控えようとする必要がある。自分個人の生来の気質などは
ろくなものではなく、夫への依り恃みによってなるべくそこから脱却しておく
べきなのだという風に考えて、そうであるように常日頃から心がけておくように
しなければならない。小人として、実際に瑣末な商売などに従事する男もこれと
同様であり、民主主義や資本主義で世の中の根本を司っている公人や農夫
の権威を損なうようなことがないようにもしていかなければならない。

それが、世の中にとっての福利厚生の増進に寄与するのみならず、女や
小人男といった悪性に駆られやすい人員たち自身にとっての養生手段ともなる。
後輩格の少数派でしかいられないような立場であるなりの、長生きなどの福寿に
与れもする。夫唱婦随、官民農工商といった身分の序列は、それによって下位に
置かれるような人間にとっての福利厚生ともなるものだし、またそのようで
あり得る身分の序列こそは、天下に敷かれて然るべきものだとも言えるのである。

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154 2014/01/28(火) 13:23:49 ID:qHT9J86vhc:au
「陰陽長短、終始相い巡りて、以て天下の和を致す」
「陰陽の長短が万事万物を始終に至るまで司ることで、天下の和が育まれる。
(陰陽法則こそは万物始終の平和の礎となる。万物の始終〈アルファからオメガ〉
に至るまで勝ち負け第一な争いごとに染め上げようとするような邪神などよりは、
このような善良な法則に万物を司らせるべきである。無論、実際のところそう
でしかあり得ないし、アルファベットも未開地域の簡易文字でしかないわけだが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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155 2014/01/29(水) 15:48:15 ID:KEZR6Mi0bo
罪に対して罰が加えられる必要があるのは全くの自業自得であるため、他人が代わり
に罪を着せられて罰を受けたりすることで本人の罪が償われたりすることも決して
ありはしない。自分が罪を犯すのは世の中においてであり、自分が少なからず世の中
への参画者でもあるからこそ、そこで罪を犯したりもしてしまう。自分こそが世の中を
必要としているにもかかわらず、世の中において罪とされる行為を犯してしまった場合
にそれ相応の罰を自分が受けないのならば、そのせいで世の中のほうが風紀の乱れや
経済的問題を来したせいでの破綻に見舞われてしまう、それで困るのも自分たち自身で
あるのだから、やはり罪には相応の罰を被らねばならない。罪は自分個人の完全に
独立的な振る舞いなどではなく、人と人との関わり合いによって成り立っている
世の中においてこそ犯されるものなのだから、罪を犯した者が自分個人の身勝手な
考えで罰を受けるかどうかを決めたりすることも決して許されはしないのである。

この世において、刑事ほど自明であることに徹すべき事象も他にない。何らの恣意や
神異を差し挟むこともなく、ただ世の中に迷惑をかけた分量に相応の制裁を加えるように
するのが最善となるのであり、それに徹することができたならば、その場合にこそ裁きを
下す者や、刑罰を執行する者が何らの後ろめたさをも抱いたりしなくて済むようになる。

刑事自体、犯罪発生率の低下と共になるべく行われなくなるに越したことはないのだから、
そのような簡潔な事務作業であるにも越したことがないものである。採決の公正さを期する
ためではなく、犯人の逃げ延びを助長するために二審三審への上告を認めているようなきらい
すらもがある現行の裁判制度のほうが煩雑に過ぎるのであり、判事と検事を分けもしなければ、
弁護士を置きもせず、ことの重大さに即して裁きを下す者も随時その身分によって入れ替え
られていた江戸時代ごろの刑事のほうが、まだ公正さと簡略さとの両面において秀でていた
といえる。(無論、裁決を下す武士たちが厳酷な自己修養に努めていたからこそ成り立って
いた制度でもあるため、不貞な現代人が即座にその手法を真似たりするのも無理がある)

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156 2014/01/29(水) 15:53:28 ID:KEZR6Mi0bo
宗教的な神異だとかを付与したりすることが許されるのは、最低限、刑事にまで発展する
ような深刻な罪悪ぐらいは防ぎ止められた後のことである。宗教上の戒律違反などではなく、
まず社会的に罪であると断定されるような悪行を犯さないことから努めて行くようにする。
そこから後、さらに戒律だとか作法だとかをよく守っての自主的な浄行に努めて行けば、
そこでこそ人もまた、神や仏に近づく者としての聖性を認められるに値する存在となる。

刑事はどこまでも「人道」であり、人道ぐらいは当然守ったればこそ天道や仏道にも至る。
だからこそ六道十界論でも天道や仏道が人道の上に置かれているのであり、人道すら
守れないようならば、それは当然のこととして餓鬼畜生の域に止まる。修羅道に
おいても、自らが人道の守護者たらんとした戦闘に臨む者こそは勝ち、人道を蔑ろ
にするような者こそは負けるという根本法則があるわけで、簡潔で自明なもので
あるのが理想であるにもかかわらず、人道こそは神仏や修羅道の勝者と、餓鬼
畜生や修羅道の敗者とを決定的に分かつ根本基準ともなっているのである。

つまり、簡潔で自明なものをも尊べる者こそは神仏の域にすら至れる一方で、
そのような事物を取るに足らないものとして蔑ろにするような者こそは餓鬼畜生の
域に止まってしまうという根本法則があるわけである。刑事に純粋な自明性のみを
認める潔さや、儒書にあるような素っ気ないけれども自明な言葉を尊べる心意気
こそが神仏を崇拝するに足る人物へと自分が上達するための第一歩ともなるわけだから、
神韻縹渺とした領域への到達のためにこそ、まずは簡潔の極みすらをも由しとする
覚悟が必要となるのだといえる。神仏は、ただただ妖艶さばかりを追い求める
ような不埒者を決してよしとはしないものなので、そのような人間には
神仏を騙る魑魅魍魎ばかりが近寄って来ることともなるのである。

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157 2014/01/29(水) 15:55:01 ID:s5GH19j9uQ:au
「士国君に献ずる有り。他日、君之れに問いて、安にか彼れを取りしかと曰わば、
再拝稽首して後に対う。大夫私行で疆を出ずれば、必ず請う。反れば、必ず献ずる有り」
「士分の者が国君に献げ物をする場合、他日に君が『どこで手に入れたものか』と問えば、
再拝稽首して後に答える。家老が私用で外国に赴く場合にも、必ず主君にまず伺いを立て、
帰れば必ず献げ物をする。(献げ物は下位のものが上位のものにするのが基本である。
>>147-148の引用のとおり、下位の人間が上位の人間に尽くすのが陰陽上からも健全となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼下第二より)

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158 2014/01/30(木) 13:06:16 ID:Lx2D3lB5yM
東洋社会では基本、皮相的な文化と本質的な文化とが厳密に分かたれて来た。
仏説の仏辺と衆生辺における使い分けだとか、儒家教学の経史子集への分類だとかが
その実例である。仏辺に即すれば善人正機が至当となる一方、衆生辺に即すれば
悪人正機が妥当となるなど、本質に逼迫する場合と皮相に止まる場合とでは全く
発言内容がひっくり返ってすらしまうために、本質そのものに親しむ仏辺の教理は
あくまで玄人向けの密法とし、皮相を開き直る衆生辺の教理こそを素人に至るまで
の広範な流布対象にするなどの便宜を図ったほうがより縁起がよいことともなる。

本質そのものを取り扱う宗門もまた堂に入り、皮相を取り扱う宗門もまた堂に入る。
密教寺も禅門も浄土門もそれぞれに人々からの篤い信敬を受けるようにして、本質を
取り扱うものと皮相を取り扱うものとがそれなりの距離感を保ちつつ、同一国内や
同一の町や村の中でも共存して行く。それはあたかも、人々がそれぞれに別個の職業に
従事することで世の中のためになって行くようなもので、実際に公家なら密教、
武家なら禅門、百姓なら浄土門といった風に、それぞれの職制の本質や皮相への
親しみやすさに即した、各種の仏門への檀家配分が昔は考慮されてもいたのだった。

本質は本質で如実に捉えられているからこそ、そのような調和的な共存関係が成り立ちもする。
弘法大師のような、物事の本質を理解できて、なおかつその本質に親しむことまでもができる
ような人間が実際に居たればこそ、それはそれで一つの流派としてのあり方が堂に入り、
無闇やたらに他流を侵害して征服するような真似に及んだりする必要がない。密教の
修得度では明らかに最澄すらをも上回っていたのに、朝廷御用達の仏門の座は最澄の
興した日本天台宗に譲り、自らは人里離れた高野山に総本山を構えて、日本各地の
開発事業に東奔西走するなどの下働きに徹したその振る舞いからも、物事の本質を
よく見抜いてそれに親しむ者こそは、より挺身的な謙譲に努められるのだという
ことを体現してくれてもいて、その模範対象としてのあり方が、本質に親しめる
人間の増上慢などを決して許したりはしないものともなっている。

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159 2014/01/30(木) 13:08:29 ID:Lx2D3lB5yM
本質をありのままに捉えているような聖道門があって、なおかつそのような
聖道門の求道者が、弘法大師の如き謙譲の限りを尽くした姿勢でいたならば、
もはや皮相のごまかしで悪行を正当化するような邪教が増長する隙もありはしない。
邪教といわず、皮相を取り扱うような宗門学派全般の肥大化による文化荒廃を
予防する効能が伴う。密教が絶えた唐代以降の中国において絶対化された儒学=儒教が
権力腐敗の温床ともなってしまったりした通り、それなりに妥当な見解を持つ教学で
あろうとも、それが皮相的なものである以上は侮りを生じさせてもしまいかねず、
その侮りが各種の腐敗にすら結び付いたりもするものなので、やはり本質を捉えた
教学が皮相に甘んずる教学を制御対象とするような共存関係を保てたほうがよい。

それなりに妥当な見解を持つ皮相の教学であれば、本質を捉えた教学との共存が
可能である。日本における密教や禅と、儒学や浄土教の共存などがその実例であり、
これ程にも狭い島国の中でですらそのような共存が可能であったのだから、より
広大な世界でそれらが共存して行くことも決して不可能なことではないはずである。
無論、本質を捉えた教学との共存など到底不可能な、皮相をごまかす邪教こそが世界中に
蔓延っているせいで、それを実現して行くことが未だ困難なままであるということはあるが。

「賁は、飾るなり。飾りを致して然る後に亨れば則ち尽く、故に之れを受けるに剥を以ってす」
「(周易では賁卦の次に剥卦が置かれるが、)賁とは『飾る』という意味である。表層を着飾る
ことばかりに専らでいればいつかはそれも頭打ちになる、そのためその次に『剥』が置かれる。
(皮相の虚飾も極まれば後は剥がれるばかりとなる。何事も極まれば行き詰まる陰陽の理である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)

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160 2014/01/31(金) 14:15:56 ID:psDWMM7uqw
社会とまず敵対するのではなく、とりあえずは協調しようとするのが人道というものである。
しかし、権力機構が悪人に乗っ取られて乱世と化してしまっているなどの理由で、健全な善性
と共に自らが社会に順応することができなかったりした場合には、それでもやはり世の中全体を
あえて敵に回すのではなく、世の中に汚濁をもたらしている元凶たる何者かのみを敵視の対象とし、
世の中のほうはむしろ、そのような害悪の元凶による惨暴から救い上げてやるべきものとする、
それが、濁世の中にも人道を貫き遠そうとする人間にとっての模範的な態度姿勢であると言える。

時には、世の中全体が完全に汚濁に取り込まれて、末端の庶民に至るまで完全に荒みきった
悪人然と化してしまったりすることもある。善性と共に接しようとすれば世の中全体が自分の
敵に回るように思えて、なおかつ世の中がそのような一切皆悪状態と化してしまっている
根本原因が一体どこにあるのかすらもが判然としない状態となってしまっていたりする。
そうであってもなおのこと、世の中全体を敵と見なしたりはせず、かえって重病に蝕まれた
被害者格として哀れんでやり、どこの誰だか現状では見定め切れないような害悪の元凶たる
連中のみを懲罰対象として見越し続ける者こそは、真に人道の守護者たる益荒男であるといえる。

そこまでして社会への協調ばかりを企図し続けるのが最良となるのかといえば、そうとも限らない。
世の中からそれなりに距離を置いて、こちらからの率先的な改善などではなく、現状で世の中を
構成している主要な人々による自主的な世相の改善を促して行ったりすることもそれなりに至当たる。
それが体系的な教義や作法に即して執り行われようものなら、天道や仏道として堂に入りもするわけで、
それは人道の実践者すらもが自分たち以上のものとして尊崇するに値する存在性ともなるわけである。

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161 2014/01/31(金) 14:20:22 ID:psDWMM7uqw
率先して社会との協調やそれに基づく世直しを心がけて行くか、もしくはそれを控えるかが、
人道並みかそれ以上の品性の持ち主にとって許される行動規範となる。社会との敵対を
大前提として、世の中に害悪を加えて行くことを本是としたりするのは完全に餓鬼畜生の
所業であり、それがほんの寸分たりとも人道を上回る品性たり得るようなことが決してない。
体裁が逃亡犯時代の劉邦のように、反社会勢力然とした身の程となってしまうようなことが
あったとした所で、やはり目的は上記のような意味での人道の達成に絞って、決して義賊
のような変則的で不正な立場そのものを美化するようなことにまで及んではならない。

権力機構が政商犯に乗っ取られた秦帝国時代の中国並みの濁世ともなれば、過労死級の強制労働から
徴発者を解放してやった挙げ句に、自らも逃亡犯の義賊となった劉邦のような人間にまで天命が下る
こともある。しかし、そのような世相は元来あるまじきことであるから、そうであってもあくまで国家
社稷を統べる正統な帝王としての世直しこそを志さねばならない。ただただ自分個人のためというのなら、
利益を分け合ってもさして取り分の減らないような少数部落としての義賊活動でも続けていたほうが
まだうま味があったりするが、それでは自らまでもが濁世の火事場泥棒一派止まりと化してしまうので、
人道以上の品性を保とうとする者がそこに安住するようなことも決して許されはしないのである。

義賊の内に身を置いても、人道を志す者は志すし、全世界を統べる帝王たろうとも、餓鬼畜生の域に
溺れる者は溺れる。環境や体裁がどうかではなく、自らの心理的な境地こそがいかなる程度のもので
あるのかがより重要であるのだから、帝王のような立場を忌み嫌ったり、義賊のような立場を好き好ん
だりした挙げ句に非人道こそをよしとしたりするようなこともあるべきはでない。徳治社会の帝王の
ような責任ある立場に好き好んでなりたがれるほどできた人間もそうそうにはいないのだから、治世の要
となるそのような立場に対してこそ「憎んでしかもその善を知れ(礼記)」ということが言えるわけである。

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162 2014/01/31(金) 14:21:22 ID:LbRBMKh29c:au
「禹、稷は平世に当たりて、三たび其の門を過ぎるも入らず、孔子之れを賢とせり
顔子は乱世に当たりて、陋巷に居り、一箪の食、一瓢の飲。人は其の憂いに堪えざるも、
顔子は其の楽しみを改めず、孔子も之れを賢とせり(この一文既出)。孟子曰く、
禹、稷、顔回は道を同じくす。禹は天下に溺るる者有らば、由お己れが之れを溺らす
ものと思えり。稷も天下に飢える者有れば、由お己れが之れを飢えしむるものと思えり。
是れを以て是くの如く其れ急げり。禹、稷、顔子は地を易うれば、則ち皆な然らん」
「夏の禹帝や重臣の稷は、徳治の行える治世に当たって、三たび自らの家の前を通っても
その門を潜ることがないほどに働き詰めた。孔先生はその在り方を賢明と認められている。
一方、(孔子の弟子の)顔先生は春秋時代の乱世において、薄汚く狭い路地に住み、一膳
一杯の飲食という質素な生活を貫かれた。常人ならその憂いに耐えることもできないが、
顔先生はそれを楽しむことを改めようともしなかった。孔先生はそのあり方も賢明だと
認められていた。孟先生はこれを評して言われた。『禹、稷、顔回はみなその道を同じく
していた。禹は天下に一人でも洪水に溺れる者がいようものなら、自分が溺れさしたように
考えたし、稷も天下に一人でも飢える者がいようものなら、自分が飢えさしたかのように考えた。
だからこそ三たび我が家の前を素通りする程もの東奔西走の国家事業に取り組んだのだ。
禹と稷と顔回とは、境遇を換えればみな同じ行いを果たしただろう点では全く共通している』
(治世での事業に励むのも、乱世での苦難に耐えるのも、どこまでも世のため人のためである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)

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163 2014/02/01(土) 15:57:11 ID:HiycjBRPww
春秋戦国時代、中原では各国の諸侯が我田引水のために地の利を無視した無理な灌漑事業
を多数執り行っていたため、そのせいでの旱魃や洪水などの人災が多々巻き起こっていた。
そのため中原全体で見た場合の国力はかえって目減りし、北方における匈奴の侵略を
欲しいままにさせてしまうようなことともなった。秦帝国時代に諸侯の争いによる民の
疲弊という問題は絶やされたが、中原諸国の中でも最も苛烈な虐政をやらかしていた秦
などが統一支配者に躍り出たものだから、今度はその秦による酷烈な使役に人々が苛まれて、
やはり中原全体の国力も停滞したままであり続けた。その秦も滅んで、百姓出身の劉家が
新たな帝位の座に付いてからやっと、人々への十分な休暇の斡旋や、地の利を見越した
着実な灌漑事業などが執り行われるようになったために、中原全体の国力も増大して、
匈奴を圧倒してその使節を朝貢に来させる程もの経緯にすら至ったのだった。

灌漑や治水といえば、夏の禹帝の頃から「君子の事業」として東洋では特別に重んじ
られて来た事業であるわけだけれども、それすらもが我田引水のために濫用されたりした
ならば、かえって全国規模で見た場合の疲弊や国力の低下などが巻き起こってしまったり
もする。そもそもが土木事業自体、農業などを本業とする百姓の手を借りねば成り立たぬ
ものでもあったりするわけだから、田畑を潤すための土木事業に百姓を駆り出しすぎた
結果、かえって農産を滞らせたりするようなことにもなりかねない。治水や灌漑も必ず
しも君子の事業なのではなく、天下国家の公益を真に慮る君子が執り行うことでこそ
碌な成果が挙げられるものだから、君子の事業でこそあるべきだとされているのである。

鄭国の宰相だった子産が水に浸かりながら冬の川を渡っている人を見つけて、自らの船
でその人を渡してやったという逸話を、孟子は「大局を見据えていない所業だ」として
批判した(離婁章句下・二)為政者までもがこのような局所の恵施ばかりに入れ込んで
自己満足しているようでは、天下万人を冬の川を徒歩渡りさせられるような労苦から
解き放ってやることなどは到底覚束ないものだから、孟子も子産の慈善意識を多少は

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164 2014/02/01(土) 16:00:40 ID:HiycjBRPww
買ってやりながらも、決して君子に相応しい心がけだなどとまでは認めなかった。言って
みれば子産は「隣人愛」の持ち主でしかなかったわけで、自分の近傍にいる人間への施し
程度までにしか慈愛が働かない人間であったわけだから、そのような人間が時節を見計
らった治水や灌漑によって万人を利してやるようなこともできはしなかったわけである。
(それでも、春秋戦国時代の為政者としてはまだマシなほうだったようではあるが)

子産が冬の川を徒歩渡りする人を見てそれで慈しみを抱いていたりしたのは、本人が
視覚に囚われた人間だったからである。荘子も子産や孔子を、人間を見た目で選り好み
する短絡家として批判的に論じ立てていたりしていて、それでは視覚だけでは捉えきる
ことのできない天下万人への慈しみなどを抱いたりすることもできないままであり続ける
のも確かなことである。伝記では、孔子も確かに最初は弟子を見た目で選り好みするなど
していたようだが、容貌の醜悪な澹台滅明という弟子が非常に貞節な性格の持ち主である
ことに感銘を受けて、人を見た目で判断することを控えるようにもなったという(「史記」
仲尼弟子列伝を参照)。容貌の丹精さだけなら他人種にも秀でている白人のこそが聖書
信仰の下で世界最悪級の悪逆非道の振る舞いを繰り返して来たことからも、視覚がいかに
善悪や仁不仁を欺きがちなものであるのかが知れたものであるわけで、見た目の美醜で
本質の良し悪しを欺かれたりしないためにも、視覚に囚われてものを判断する
ということを仁者を志す者は厳重に控えて行くようにしなければならない。

視覚への囚われを脱却した人間の目は、いい意味で座る。キョロキョロと何もかもを
見尽くそうと瞳が動き回るのでもなければ、何も直視しないでいようとするような虚ろな
目つきでもない、見るべきものだけはしっかりと見て、そうでないものはいちいち見ない
分別を備えた目つきとなる。昔の武士や僧侶あたりはみなそうであったに違いない目つきが、
現代人などにはなかなか見られない。もしもその中に奇特にも仁者がいたりしたならば、ただ
その目を見るだけでもそれと分かるであろう。その目を偽ることだけは、偽善者にもできぬ。

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165 2014/02/01(土) 16:00:52 ID:bWbxkDyegQ:au
「子曰く、鳳鳥至らず、河は図を出ださず、吾れ已んぬるかな」
「先生は言われた。『(聖天子の出現の瑞祥である)鳳凰も現れないし、
黄河の河図も出てこない。私ももうおしまいだねえ』(聖天子は河図と共に現れて、
万人への利水の礎となるのである。我田引水の徒輩が横行する乱世ではそれも叶わない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・九より)

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166 2014/02/02(日) 14:02:43 ID:suz8Vdw65M
善因楽果にしろ悪因苦果にしろ、因果応報は自業自得の原則に則るのが健全であり、また
真理にも適っている。つまり、因果応報が完全に自業自得であることこそが普遍法則で
ある。部分的や一時的に自業自得でないかのように見せかけられる因果関係があった所で、
結局は自業自得である所に全ての因果関係が集約されて行くことには変わりないのである。

故に、真理を虚空とする仏門こそが、そこに神なり霊なりの具体的な事物を見立てる
神門などよりもさらに絶対的なものとして尊崇の対象とするに値もする。無論、神道
もまた因果応報を司る健全な神を崇め立てていたりもするものなので、そのような神を
敬うことを通じて、自業自得を根本とする健全な因果律をも間接的に尊ぶことができるわけ
だけれども、因果を司る具体的な神が存在するという考え方が、時には自業自得の因果律
を非とする邪神の定立などにも繋がりかねないので、神道への傾倒こそは、仏門以上にも
正統性を厳守したものだけに限らなければならない所がある。(虚空の真理そのものへと
傾倒して行く宗門だからこそ、仏門では浄土信仰並みの曲芸的帰依が可能なのでもある)

神道で敬われるべき神もまた、自業自得の因果律を純正に司る正統な神に限られねば
ならないのと同じように、社会的な犯罪行為などに対して懲罰を科す役割を担う有司など
もまた、自らの執り行う懲罰が完全に受刑者自身の自業自得の範囲に止まることを目指して
行かなければならない。自業自得と比べれば過不足のある重罰や軽罰をなるべく避けて、
ただ自らは受刑者自身の自業自得を助成する事務役に徹して行くようにすべきだといえる。

罪と罰が自業自得の因果律を大きく逸脱することがありかねないものだから、実定法で全ての
刑罰すらをも杓子定規に規定してしまう法治主義が時に問題的なものともなる。情状酌量や
判例の参考などである程度は刑事の裁量に融通を利かせることができるが、実定法はあくまで
最小限のものとして、自己修養を勤めた君子による自業自得相当の罰の見定めをより尊重の
対象としていた徳治社会における刑事などと比べれば、色々と頑迷に過ぎる所があるといえる。

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167 2014/02/02(日) 14:07:56 ID:suz8Vdw65M
何よりも、法治主義は人々に自業自得の因果律の健全性を見失わせかねない点がこそ問題的
だといえる。極論を言えば、法文に「強盗殺人をしなければ死刑」と書かれていれば、それ
も守らなければならないとするのが法治主義なわけで(悪法も法なり)、全ての因果律が
法文で規定されているが故に、人々が自明な因果律への配慮を怠ることが、最悪そのような
悪法ばかりによる世の中への雁字搦めの挙げ句の荒廃や破綻をも招くこととなってしまう。

そういうことがないようにして行くためには、法律ばかりに全ての因果律を
司どらせようとする精神的怠惰に人々が陥らないようにすると共に、自業自得の
健全な因果律こそを自主的なわきまえの対象とさせても行く必要がある。そのため
には、健全な因果律を司る正統な神仏への崇敬を心がけて行くようにもしたほうがよい。

本格の仏門も絶やされて、神道も慣習程度のものにまで形骸化してしまった現代の日本に
おいてこそ、自力で因果律を計り知ることもできなければ、あえてそうしようともしないよう
な怠慢に陥ってしまっている人間ばかりが溢れ返ることともなってしまった。全ては法律任せ、
日々法文の積み重ねに躍起になっている政府や自治体任せで、自分たちはそこで決められた
範囲内のことだけをやるという、畜人然とした人間ばかりで世の中が形成されることとなった。
それで済むのならともかく、実際に済みもしない。責任を持って因果律を判別しようとする
人間がどこにもいなくなった世の中は、誰が気づくということもない内に急に破綻し、まるで
屠殺場に送られた家畜のようにして、人々も急激な惨劇の到来に往生させられることとなる。

純正な因果律を顛倒して認識してしまうことと、因果律などにわざわざ配慮を働かせも
しなくなることとの二つが両輪となって、人々を全くの心外な悲劇へと時に陥らせる。その
ようなことがないようにするために、純正な因果律を司る正統な神仏を尊ぶことが、実定法を
金科玉条として至上化したりすることよりも世人にとってより重要なこととなり得るのである。

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168 2014/02/02(日) 14:09:22 ID:DgIPDEvQyU:au
「報者は倦むも、施者は未だ厭きず。〜女徳極まりなし(この一文既出)」
「報いてやる側がこれで十分と思っても、施された側はまだまだ足りないと思ってしまうのが
人情というもの。特に女の情欲には限りがない(ので、甘やかしすぎないことも時に必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年より)

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169 2014/02/03(月) 15:49:10 ID:jjZmH1a0k6
イスラム教ニザール派の暗殺教団が、大麻を服用しながら非道な暗殺活動を
行っていたこともまた一種の心術であったという程度には、カルト信者が
邪信によって蒙昧さや悪行が原因での苦悩を紛らわしたりすることもまた、
一種の心術だといえる。大麻が必ずしも健康被害を招くわけでもないように、
カルト信仰が即座に信者の身を滅ぼすことになるとも限らない。ただ、そんな
ものを頼りにしていない場合と比べれば、本人たちの生産性や徳性が著しく
損なわれることともなるために、あまりにもそのような人間が増えすぎれば
国家規模や世界規模での破綻を招くことになることこそが問題となるのである。

カルトがカルトたる所以は、信者の生産性や徳性が全くの無信仰者以上に
損なわれる所にこそある。宗教というほどの宗教もない土人社会だった
ブラックアフリカにキリスト教が持ち込まれた結果として、当地が未開だった
頃以上にも飢餓や戦乱や疫病の蔓延る地域と化してしまったのも、キリスト教
が信者の生産性や徳性を土人状態以上にも損ねるものであったからでこそある。
土人社会も生産性などは皆無に等しかったわけだから、人々の徳性を損ねる点に
おいてこそカルト信仰はより致命的な害悪度を帯びているといえ、その面での
有害無益さたるや、原始的な土人社会の習俗すらをも下回るものなのだといえる。

カルトがそれ程にも信者の徳性や生産性を損ねるのは、信者に「施す以上にも得る」
性向を飢え付けてしまうからである。その手段は主に信者の自意識過剰の思い上がり
の肥大化であるわけで、その結果として自分が人に何かを施す以上にも、自分が人
から何かを得ることのほうが優先されて当然であるかのような思考回路と化してしまう。

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170 2014/02/03(月) 15:51:39 ID:jjZmH1a0k6
それは別にカルト信仰に依らずともとも、その手の思考回路に陥りがちな商売人や女を、
資本主義やフェミニズムによって囃し立てたりすることなどでも可能となることであり、
近代以降の世界はむしろそのような無宗教的な手段によって人々の思い上がりを肥大化
させることで徳性や生産性を損なわせることのほうがより推進されて来た。ただ、その
ような無宗教的な手段に基づく人々の人間性の損壊が試みられてきたのも、やはり
カルト的な思想信条を源流とする気概が近現代の権力者にあったからなのだから、
そのような試みの最高責任もまたカルト信仰にこそ集約されねばならないといえる。

カルト信仰は「施す以上にも得る」性向を信者に植え付ける一方で、真っ当な信教は
信者の「得る以上にも施す」性向を育んで行く。そのために信者の思い上がりを挫いて、
まず他者を思いやろうとする寛恕の心や謙虚さこそを旺盛なものたらしめようとする。
とんでもなく施しの分量が得る分量よりも多いというよりは、常日頃から一定以上に
人々が利得よりも恵施を優先し続けることこそを促して行く。誰しもがそのようであれば、
天下の公益も必ず有り余る状態でいられるわけなので、得ることは得ることでそれなりに
あるとしながらも、多少程度にはそれ以上の恵施を心がけて行くようにさせるわけである。

施す以上にも得ようとする思い上がった性向が、無宗教的な手段によって人々に
植えつけられることもまたあるようにして、得る以上に施そうとする謙虚な性向も
また無信仰的な手段によって育んで行くことができる。それこそは儒学のような、
仁徳を本旨とする学問文化の奨励であるわけで、実際にそれを通じて、恵施の優先が
必要とされる士人や農夫などを尊重するなどして行けば、世の中が総出で公益の増進に
務めて行けるようにもなる。ただでさえ自然災害などで天下の公益も損なわれがち
であるのに、さらに人間たち自身までもが自己利益ばかりを優先していれば、世の中が
立ち行かなくなるのも当たり前のことであるのだから、利他を尊ぶ思想信条の教化によって
人々に恵施の優先を心がけさせるぐらいでやっと、世の中も保たれて行くものなのである。

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171 2014/02/03(月) 16:54:44 ID:0MZ1Lvv2Ns:au
一定度以上に大規模な都市社会は、実際にある種の体系的な思想信条によって司られる
のでなければ保全のしようもないということが確かに言える。そこで上に書いたような
意味での、利得以上に恵施を推奨する真っ当な思想信条に世の中を司どらせることが
課題となって行くわけで、当然そのために利得ばかりを囃し立てるような邪教邪学を
権威の座から引き摺り下ろすことが必要ともなる。邪教邪学の側もまたあの手この手を
尽くして破綻をどうにか切り抜けようなどとするものだから、必ずしも見てくれから
有害無益さがあからさまであるとも限らないが、やはりどこかで必ず世の中を破綻に
追いやってしまうこととなる。その瞬間をよく大事にして、世の中の教化にかけての
破邪顕正のための教訓として行くようにすることが、歴史家などにとっての課題ともなる。

「雪ふること瀌瀌たるも、晛を見れば曰に消える。
下り遺うを肯んずる莫く、式れ居りては婁しば驕る。
雪ふること浮浮たるも、晛を見れば曰に流える。
蠻の如く髦の如し、我れ是れを用て憂いとす」
「雪がひょうひょうと降り積もっても、陽の目を見れば溶けて消え行く。その儚さを
計り知ることもなしに、讒人どもは奢り高ぶりを募らせている。雪がフカフカと降り
積もっても、陽の目を見れば溶けて流れ行く。その儚さを汲み取ろうともせぬ蛮族の
如き振る舞いこそは、私などにとっての憂いともなる。(キリスト教徒なども自らの
罪悪感が信仰によって氷解して自らから流れ出るような感覚に見舞われるようだ
けれども、そのような罪悪の積雪や氷解全般を憂いとして忌むのが君子なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)

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172 2014/02/04(火) 13:55:31 ID:XGdpk5JROQ
人間には、個々人としての自己意識の他に、群れを成した時に漠然と形成される
集団意志としての意識が先天的に備わっている。近代の心理学ではそれを「無意識」
だとか「超意識系」だとかいった風に呼んでいたりするが、それはそれで社会的生物
としての人間に備わっている健全な意識系である。ただ、世の中を統率する人間が
愚鈍であったり、そもそも民主主義などで全体の統率者の権限を殺いでしまったり
した場合には、集団意思が蒙昧と化してしまい、まるで震災時に集団で海に飛び込
んで自殺してしまうネズミほどにも狂乱化してしまうことがあるのが問題なのである。

古来から、蒙昧化しやすい集団意志をいかに健全なものとしていくのかを東洋人は
考え抜いて来た。聖王賢臣や儒者による権力道徳学の情勢やその実践もその代表例
であるし、個々人による真理の悟りを奨励して来た仏教もまた、結局は受容者たち
が超意識系たる集団意志すらをも我が物として自在に統御できるようになることを
促して来たものである。そのため、仏教や儒学を国を挙げて受容して来た日本の
ような国はその集団意志からよく統制されて、震災時や経済危機時などにも暴動に
走ったりするような人間を最小限に食い止めて行くことができて来ているのである。

集団意志は、十分な統御を受けた所でこそ平静さ故の清清しさを人々にもたらすもの
でもあるが、逆にあらゆる制御を振り切った狂乱状態と化した所でも、ある種の快楽
を人々にもたらすものである。西洋などでは、むしろ狂乱化した集団意志の快楽を存分
に煽ってやることこそが古代ローマの頃からの風習とされていて、実際にそのための
道具としてギリシャ学や聖書信仰などを民衆支配のための道具ともして来たのである。

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173 2014/02/04(火) 14:02:00 ID:XGdpk5JROQ
民衆の集団意思を、戦乱を招かない程度の最低限度の統制下に置くことを企図した
代表格の人間といえば孔子であるし、逆にその最低限度の集団意思の統制すらをも
致命的に損壊することを企図した代表格にあたる人間がイエスであるといえる。釈迦
や竜樹を始めとする仏者は、より積極的な泰平社会の実現のための集団意思の統御を
志していたし、ギリシャの思想哲学者や詩人などは、逆により極端な狂乱状態の実現
を欲していた所がある。ただ、いずれも儒学や聖書信仰ほどにも、集団意思が最低
限度の統制を受けるか否かの境界線を司る役割までは帯びなかったために、社会を
実地的に司る役割は儒学や聖書信仰のほうに明け渡すことが多かったのである。

儒学や仏教によって人々が統治されて来た東洋社会では、人々の集団意思が最低限
以上に統御されて来た一方で、聖書信仰や洋学に支配されて来た西洋社会においては、
人々の集団意思が多少なりともの統御を受けることもなく、また自然状態以上にも
人工的に狂乱化させられることすらもが試みられて来た。西洋人による国際的横暴が
極まった近代以降は全世界規模での狂乱化すらもが試みられたが、そのせいで人口爆発
や環境破壊や核危機や経済危機といった破滅的事態を招いてしまったし、またそもそも
狂乱状態の集団意思というものが、平静な集団意思と比べて全く以ってつまらないもの
でもあるから、古来から厳重な集団意思の平静化が執り行われて来た日本人などに対
していくら洗脳操作を試みても、一定以上の狂乱化が見込めないということもあった。

集団意思の狂乱化は、それが人々をより楽しませられるものと思い込まれていた
うちはまだ推進のしようがあったが、集団意思を平静化するのと比べて根本的に
つまらないことであるのが気づかれて後は、もはや狂乱化の主導者であった西洋人と
いえども、その手の試みを自粛させて行かざるを得なくなった。もしも孔子とイエス
が同一の場に居たりしたならば、その教説の正当性だけでなく、本質的な面白さの面
でもイエスが孔子に完全撃退されざるを得ないのだということが知られたものだから、
もはやあえて集団意思を狂乱化させたりする何らの道理もありはしないこととなった。

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174 2014/02/04(火) 14:52:18 ID:/y4h4ElYX6:au
集団意思が狂乱化するよりは平静であるほうが真っ当であるということは、多少考えて
みれば誰にでも理解できることである。それ以上にも、そこでの狂乱による快楽などを
求めたりしないほうがむしろ本質的に楽しくもあるということまでもが気づかれた
ことこそは意義のあることだといえる。人々の狂乱を煽ることばかりに執心している
大メディアへの支持などは尻すぼみになって、自分でよく考えて情報を取り扱うネット
上への草の根的な参加のほうが若者などに好まれて来ているのもよい傾向だといえる。

人口爆発や環境破壊に代表される現代世界の破滅の危機からの脱却のためには資本主義
の終了が必須であり、そのためには株式経済の限界の露呈としての株価の暴落までもが
便宜として必要となるのにも違いないが、それも無闇な狂乱などと共に到来すべきだ
などということはない。ただシステムの限界ゆえの破綻を誰しもが冷静に見守って、
一時代の終了に相応の出処進退へと粛々と取り組んでいくようにするに越したことも
ないのである。何しろ、狂乱の鼓舞を第一とする時代こそが、終わりを迎えるのだから。

「今、大道既に隠れ、〜貨力は己れの為めにす」
「いま、天下では大道がすでに隠れてしまっているため、
財貨や力も自分のために用いることばかりが当たり前とされてしまっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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175 2014/02/05(水) 13:28:46 ID:qJOq4m5/KM
全世界、全宇宙を構成しているほとんどの物質は無機的な岩なり、その融解物や
蒸発物なりであるわけだから、もしも人間を含む生命体がより普遍的なものとしての
宇宙に合致しようとするのなら、まだ死んで灰となる以前からそのような無機的な
事物への尊重すらをも心がけられたほうがよい。石仏や墓石をありのままに崇拝の
対象とする仏門などはまさにそれを実践しているわけで、存命中の血肉を
得た状態の人間もあくまで仮の姿に過ぎないものであることを。九相図の
観想ような手段までをも時に用いて教化して行こうとする。

そこまで透徹せずとも、この地球上の有機的な自然物の一定度の普遍性への合致を
心がけることで、限りある命の持ち主としての自らが満足な生を送れることもある。
その場合に依拠の対象として適切な物質となるのが、水とか、塩とか、鉄とかである。
生命の維持のために特に必須となるのがこれらの物質であり、なおかつこれらの
物質こそは安定してこの地球に遍在し続けるものである。水と塩が海として膨大に
湛えられているのはもちろんのこと、鉄もまたこの地球という惑星の35%を構成
する程にも豊富な物質である。脊椎動物の血肉が赤いのもヘモグロビンの
中心部に鉄分が含有しているからであり、そのヘモグロビンが出血などで
一定度以上に損なわれた場合にこそ、生物もあっという間に死んでしまう。

生物の肉体を構成しているのは別に水分や鉄分だけではないが、その他の
構成物であるたんぱく質や脂肪分や炭水化物などは有機化合物であるため、燃焼
すれば分解して灰と化す、まさに一過性の構成物の最たるものである。その灰も灰で
仏門などではそれなりの尊重の対象とされるが、全宇宙とまでは行かずに、この地球上の
自然の普遍性程度に親しもうとする場合には「穢れ」などとして忌まれるべきものとなる。
だから、鉄分のおかげで赤いのであるといえども、不安定な組成を持つたんぱく質や
脂肪によって主に構成されている血肉などを好き好むことも儚いことの内に入るのである。

返信する

176 2014/02/05(水) 13:33:13 ID:qJOq4m5/KM
自然生命の地球上での普遍性を尊ぶために、先祖や国の神に塩や水を捧げて、
神体に鋼鉄製の刀を用いたり、宝刀を代々継承して行ったりすることは、それなりに
理にかなっている。家や国が絶えるなどすればそこで普遍性も損なわれるわけだが、
別に原理的にその寿命が限られているなどということはない。フラッシュメモリーの
書き込み回数やデータ保持期間には原理的な寿命があるが、紙に書かれた先祖の系図や
伝家の宝刀などに原理的な寿命はないようにして(もちろん入念な管理は必要である)、
次代を継ぐものの努力次第でどこまででも普遍性を伸長し続けて行くことができる。

石灰すらをも宇宙の普遍性に合致するものとして尊べるものは、仏門などに即して
そうするに越したことはないし、そこまでは行けない人間であっても、この地球社会を
構成する普遍物としての塩鉄や水などへの尊重と共なる神道的慎ましやかさである
ほうがよい。血肉を構成している有機化合物を含む不安定要素の七色変化こそを
面白がって何よりの祭り上げの対象としたりすることだけは控えるべきであり、
それを控えるためにこそ仏神への崇敬をあらたなものともして行くべきである。
近代文明が化学の濫用によって致命的な地球環境の破壊を来たしつつある昨今、
血肉に代表される不安定要素への嬉しがりを控えることは急務ともなっている。

「喪に疾有れば、肉を食い酒を飲む」
「服喪中でも病にかかれば、滋養のために肉を食い、酒を飲む。
(他にも、老人の肉食を推奨する記述などが礼記にはある。生命力の衰えた人間こそは
肉の滋養にすら頼らざるを得ない。粗食こそは健康の源などとも言われるとおり、むしろ
血肉の誘惑を忌み避けられる人間こそはより生命力を養えるということもあるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)

「漸漸たる石、維れ其れ卒しき。山川悠遠にして、
曷ぞ其れ没きん。武人東征して、出づるに遑あらず」
「厳しいその石は、険しさも甚だしい。その周囲の山川も悠遠にして尽きることがない。
武人たちも東征に奔走して暇のあることがない(武将を石に、その配下を山川に喩えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)

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177 2014/02/06(木) 15:48:48 ID:yXSDlHEQtw
何か守るべきものがあって、なおかつそれが守るべきものとして道義的に適正であるのが
人道にかなった真人間というものである。何一つとして守るべきものがないのも人の道に
外れるし、守ろうとするものが人の道を外れているのもその通りである。現実的には、
由緒正しい真っ当な家や国を守り受け継いで行くことが凡その人道にかなう一方で、
それに反してまで個人的な虚栄を追い求めたりすることが人道に反することとなる。

だから人道を司る儒家こそは君臣父子夫婦の三綱の序列の堅持や、そのための仁義礼智信
といった個人的徳目の実践を奨励してもいるわけだが、その儒家教学の遵守ばかりに専らで
あり続けて来た中国や朝鮮のような国々が、世界で最良の歴史を歩み続けて来たなどとも
言い難い。孔子や孟子といった原始の儒者が武道を嗜んでいなかったことなどを根拠に、
国を挙げて武備を軽んじたせいでの異民族からの致命的な侵略を被ったり、人道以上に高尚
なものとしての神仏の道への尊崇を形骸化させたせいでの文化荒廃を招くなどしてしまった。

これは、中正な常道の堅持ばかりに専らでいれば、風化が原因での荒廃や破綻を来して
しまう、この世界この宇宙の根本法則があったればこそ呈してしまったことでもある。
今だとエントロピー増大則という物理法則によって理論的に看破されていることだし、
そうでなくとも、諸行無常や天人五衰や「覆水盆に返らず」などといった言葉で昔から
多くの人々に予見されていたことでもある。だから、それを見越して人道を上回る仏神の
域までをも希求して行くことが、より恒久的な普遍性の追求ともなって行くわけだけれども、
人道を司る儒家の教学だけを見てみれば、その手の試みの参考になるような材料は非常に
少ない。孔子も「鬼神を敬してこれを遠ざく」と言ったし、孟子も「中正の堅持ばかりが
中庸のためになるとも限らない」と言いながらも、ではいかなるあり方こそが最大級に
中庸に利するのかという具体例まではあまりつまびらかにしていない。それは、本人たちが
妾腹の私生児や乱世の遊説家といった特殊な立場に置かれていたからこその不足であるし、

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178 2014/02/06(木) 16:00:56 ID:yXSDlHEQtw
人道にとって最大級の味方にも敵にもなる兵武の道を本人たちが嗜んでいなかったのもまた、
絶対に人道とは相容れない鬼畜道と武道とが当時の中国で癒着してしまっていたからでもある。

なればこそ、孔孟を代表とする春秋戦国時代の儒者が、神仏や兵武への依存をも
完全に脱却した独立的な人道を体系化してくれたわけだけれども、その原始の
儒者たちが乱世の荒波に揉まれてろくな待遇を受けられなかったのと同じように
して、純然たる人道もまたそれだけでは脆弱なものでしかあり得ないのである。

儒者たちが真人道を体系化してくれたことだけは怪我の功名だったにしろ、
人道が孤立して立ち往生してしまう程にも大局が荒廃していた春秋戦国時代という
中国の一時代のほうは決して評価するに値するものではない。残念ながら、今の世界も
また当時の中国並みに人道が遠ざけられている状態であるわけだけれども、そのような
事態に世の中が陥るようなことはできる限り避けるようにしなければならない。

儒教が金科玉条に掲げられたりするのも、人道が蔑ろにされた時代の反動でしかない
わけだから、むしろ儒家で教えられる人道などは当たり前のこととして誰しもにわきまえ
られている時代こそを目指すべきである。その上で、人道の堅持のためにより有効と
なり得る正統な神仏への崇敬や武道の修練に人々が励めるようにしたほうがよい。そうして
人道が世の中において孤立することなく、健全な人々同士での輪を作れるようになったほうがよい。

人道に即して守るべきものに限らず、真っ当な道義に即して守られるべきあらゆるものが
守られたほうがよい。守るべきものがあることなど当たり前のこととされて、「保守派」
などといった一派閥に追い込まれたりするようなこともないようにしたほうがよい。

「敬みて天の威を迓え、文武の大訓を嗣守し、敢えて昏逾すること無し」
「慎んで天の御威光に則り、文王武王の古来からの偉大なる教えを
遵守し、あえて捨て去ったり度を越したりするようなこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)

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179 2014/02/07(金) 14:18:30 ID:4MDqaMqwIM
ほんの十数年前まで、メディアといえば新聞やテレビが主で、一般人はただ
そのような大メディアから一方的に情報を受け取るだけの存在でしかなかった。
絶対にその立場から有効となる意見を発することなどできないとされる低い立場から、
大メディアで取り上げられる雲上人の動向を指をくわえて見させられるだけという
のが一般人の常であった。それが軍事目的をも兼ねたインターネットの普及に
よって万人の双方向的な情報共有が可能となり、一般人も何一つ口ごたえ
することのできない無力な子羊のままでいさせられることまではなくなった。

人生の大半をネットなしで過ごしてきた高年層などには、まだ大メディアを雲上の存在
として崇め立てるような浅ましい性向が根付いたままでいてしまっているが、ネット
が自分たちの活動領域に深く入り込んできた中年以下の層には、もはや大メディアも
絶対的な権威を持つものなどとして目に映ることはない。ただただ一方的に歪んだ
情報を押し付けてくるその奢り高ぶった有り様に嫌気が差してテレビや新聞もあまり
見なくなり、大メディアや有識者層を構成している人間が全くできた連中でもない、
ただ糞ににたかるハエのように利権に群がっているクズ人種であるとも半ば知れて来た
ものだから、大メディアであるというだけで嫌悪感を催す者すらもが現れて来ている。

権力道徳学的に見ても、近代以降の大メディアの暴慢のほうが粗悪なものであり、
ネットで行われているような無名者同士での横議が是認されることのほうが良質な
ことである。全国を挙げての虐政が敷かれていた秦帝国においてこそ横議も厳禁され、
私的に政権を批判する儒者たちが穴埋めにされて大量虐殺されるなどの惨暴が巻き起こ
された一方で、その秦帝国を崩壊させて後に立ち上げられた漢帝国においてこそ人々の
横議もそれなりに是認されて、実際に地方の町村に至るまで賢良方正と噂されるような
人間が取り立ての対象とされるなどの市井密着型の善政が敷かれた。現代における大
メディアの横暴とネットでの草の根活動などもまさに、秦帝国の暴政と漢帝国の善政に
それぞれ比肩されるものであり、前者よりは後者のほうが尊重されるようになること
でこそ、今の世における勧善懲悪が実現されて行くことが見込まれもするのでもある。

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180 2014/02/07(金) 14:37:49 ID:4MDqaMqwIM
制度に即して作為的に権威が付与されて、一般人にはお目通りも適わないような
高位の身分が規定されるようなことが封建社会ではあるが、それもむしろ、高位となる
為政者が天下全土に目を見張って、部分の利権などに囚われることなく万人を福利厚生
の対象として行くためにこそ執り行われるのでなければ道理に適わないこととなる。

徳川吉宗が幕府の将軍として目安箱を設置した結果、現代の党派政治による民主制
などよりも遥かに滞りのない、民意に適った為政が執り行われることともなった。
相手はあくまで実質「日本国大君」の将軍であるわけだから、人々も高く仰ぎ見る姿勢
と共にしか請願を行うことができない。だからこそ、それでもどうにかして欲しい問題
だけを人々が目安箱に直接投じたわけなので、無駄な問題まで取り上げられての事務の
滞りなどを来たさなくても済んだ。これなどは、人間同士での上下関係こそが、万人の
双方向的な情報交換による間接的交流を滞りのないものとした好例であるといえる。

権威的な上下関係が世の中に敷かれるのであれどうであれ、頂点から底辺に至るまでの
双方向的な関係というものがそれなりに滞りのないものでもあるべきである。部分的に
そのような関係を許容できる上下関係こそは、硬直に過ぎないものとして磐石さを確保
できるものでもあるから、むしろ封建制の維持のためにこそそういったことが試みられて
然るべきでもある。手っ取り早いのが仏門の興隆で、出家者ともなれば以前の身分がどう
であれ平等に尊いものとして扱ったりすることが身分制社会の手堅いガス抜きともなる。
もちろん今ならネットも用いられるわけで、政商を後ろ盾とする大メディアなどよりも
ネットのほうが遥かに、善良な封建制との親和性も高いものであるといえる。

「夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、
慮て以て人に下る。邦に在れば必ず達し、家に在りても必ず達す」
「上達者は質実剛健にして道義を好み、諸々の言葉の本意を察して見たものの
本質を見抜き、国のトップに居ようが家の中に居ようが、どこででも万事に通達する。
(道理に適った上達者は、見聞きしたもの全てをただそれだけで征服下に置けるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二〇より)

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181 2014/02/08(土) 15:03:04 ID:Y6/O3jGbpA
君子が徳治を施す時に、恣意でその相手を限るようなことはないし、
押し付けがましい、お節介に当たるような施しまでをも為すことはない。
自らが任された封土全体の公正な統治に特化し、身分制度があった所で、
その最底辺に当たるような人間に至るまでの最低限度の生活保障を心がける。

君子の活動は、いわゆる「サークル活動」などと呼ばれるような党派的
活動とは全くその様相を異にしているものであり、それこそ位相が相反する
程にも決定的な相違を帯びている。全体の利益を尊重することは部分の利益を
蔑ろにすることに繋がる一方で、その逆もまた然りであるわけだから、部分の
党派を利するような心持ちで君子が徳治を試みたりすることも許されはしない。

一方で、君子が徳治のような社会的活動の推進のために取り組んでいくべき
部分の尊重というものもまた特別には存在するのであり、それが君臣父子夫婦の
序列の遵守や、仁義礼智信といった個人的徳目の修養に当たる。それも確かに
世の中の部分の偏重のようでもあるわけだけれども、だからといって他人同士で
形成する党派や結社の如き公益との相反性を帯びたりすることはない。君臣関係は
当然世の中の公的統治のための要であるから公益に反しないし、父子夫婦の序列の
尊重もまた、その君臣関係を利するものでいて、なおかつ世の中の安定のために
必要不可欠な倫理性を帯びているものだから、君子が徳治のために嗜むべきもの足る。

未だかつて、仁徳統治というものが存在することすら知らないままであり続けて
来た西洋社会においては、何もかもを徒党派閥の編成を基本としてしか為せない
ようなままであり続けて来た。王侯も資産家との派閥を組み、民主制においても
必ず党派政治を基本とする。ナチスや共産主義者すらもが政党による国家の統治を
試みて、自分たちの党是に即して非とされる人種を過剰なほどの排除の対象とした。

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182 2014/02/08(土) 15:05:36 ID:Y6/O3jGbpA
一党独裁制だろうが二大政党制だろうが多党制だろうが、党派政治である時点で
そこに仁徳はないのであって、それは仁徳を知らない西洋人にとっての最善では
あったかも知れないが、仁徳を知るものにとってはマシな部類にすら入らない、
最低最悪級の政治手段でこそある。だからこそ、党派政治を取り入れてしまった
以降の日本や中国などでは、清廉な人々こそは政治に関わらず、人間のクズ然と
した連中ばかりが公権力に群がるといった様相を来たしてしまったわけで、それ
なりに志しある人間こそが党派政治における成功を志そうとする西洋以上にも
表向きからの政治腐敗が如実なものと化してしまったのである。(もちろん、
志しがあったところで、党派政治である以上はろくな結果に繋がらないのだが)

人間社会の部分集合は、どこまでも「家」の範囲内に止めることこそが、仁徳
の範疇を逸脱したりしないことに繋がる。江戸時代の豪商なども「三井家」だの
「住友家」だのといった家単位での営業に止めていたものだから、国を傾ける程
もの害悪を自分たちだけでもたらすことはなかったが、その家としての身の程を
逸脱して、商家の身分でいながら田舎の武家などと結託しての政商犯罪などに
及んだものだから、傾国級、亡国級の害悪すらをも及ぼすこととなったのだった。

家は「募集」によって成り立つものではなく、自ずから生成されて行く社会の
根源である。子が親を選んだりすることもできない先天性を帯びているからこそ、
恣意で形成された集団こそがもたらすような我田引水の災厄の元凶ともならない。
もちろん利権がその象徴としての名家を立てるようなこともあるが、その場合も
やはり害悪の元凶であるのは非家庭的な利権の吹き溜まりのほうなのである
のだから、たとえ名家の陰に隠れているようであっても、そのような吹き
溜まりのほうの駆逐こそを第一の課題として行くようにしなければならない。

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183 2014/02/08(土) 15:57:47 ID:T0r9ACK3A2:au
徒党派閥の形成の禁止もまた、ごく当たり前な常識扱いと共に布令されて行く。
衆愚政治にありがちな大広場での党大会なども、下衆なものとして廃止される。
他人同士の群がりによる集団的高揚こそはヤマタノオロチの顕現であるが故、
その余地をこの世から絶つことこそは、ヤマタノオロチ退治ともなるのである。

「汝、二十有二人、欽まん哉。惟れ時れ天功を亮かにせよ」
「おまえたち、二十二人の重臣たち(禹、益、皋陶など)は、よく慎んで職務に
励み、人々にそれぞれに与えられている天職を明らかにしてくれ。(これは新たな
能臣の登用などもあれば、百姓適合者への適切な職務の斡旋などの様ざまな人事
を指している。人々にはそれぞれ天職があるのだから、求職者のほうから無闇に
栄達を求めたりすべきでもない。人事はあくまで上から下へ。下から上へは禁)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)

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184 2014/02/12(水) 16:15:53 ID:Bs1td2pjCM
絶対的な上下関係を強いるということは、基本、悪である。
政商の横暴が祟っての封建制の到来なども、あくまで必要悪であり、
誰一人として好き好んで招こうなどとしない中に、やむなくもたらされる
ぐらいであるべきものである。そうして招かれてしまった後にも、為政者が仏門
や道家のような真理に基づく平等を謳う教学を尊んで、封建的な序列もあくまで
必要に駆られて便宜的に執り行われるものであるのだという姿勢を貫くべきである。

自力作善の仏者よろしく、世のしがらみを超脱した理想上の心象としては、
一切の上下関係から解放された完全なる自由の境地であるのがより好ましい。
実物の人間が相手であれ、空想上の神仏などが相手であるのであれ、何らかの上位
的な依存対象がなければ居ても立ってもいられないような心象であることは決して
よろしいことではなく、現実的に社会面での上下関係などが強いられることがあった
としても、内心自体がそのような依存的状態であったりすることは避けるべきである。

空想上の神仏への依存的な姿勢を嗜むということすらもが、時に必要悪でもあり得る。
阿弥陀信仰のように、自力作善の仏道が不全と化してしまった時代における最低限度
の仏法帰依の手段となる場合も有るし、イスラム教のように、誰しもがそればかりを
信仰していれば世の中も保てなくなる聖書信仰の代用として広められた他力信仰もある。
つまり、乱世であるとか、極度の邪教が蔓延してしまっているとかのより大きな害悪が
存在している場合の対抗馬として、比較的無害な他力本願が有効となる場合があるわけ
で、そういった場合に最優先の駆逐対象となるべきなのも、極度の害悪のほうとなる。

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185 2014/02/12(水) 16:18:40 ID:Bs1td2pjCM
社会的な上下関係も、宗教的な理想上の上下関係も、いずれもが必要悪であり得るが、
やはり悪であることには変わりない。どんな上下関係もなくて済むのならそれに
越したことはないのであり、上下関係を好き好むようなことまでは決してあるべき
ではないのである。聖書圏などでは、まるで神との上下関係を強いる類いの宗教に
帰依していることのほうが健全であるかのような風潮すらもがまかり通っているが、
それもまた悪しき蛮習でこそあるのであり、人類史上最悪の邪教としての聖書信仰
の根絶と共に、早急に払拭されて然るべきものであるといえるのである。

人間、上下関係があって当たり前、理想としても上下関係が存在しているほうが
健全だなどという奴隷根性、走狗根性を払拭すればこそ、必要に応じて執り行われる
便宜的な上下関係を素直に受け入れられるようにもなるのである。理想上から上下
関係を嗜んでおこうなどとする性根の持ち主こそは、自らが望まない上下関係と
あらば、たとえ必要なものであっても執拗に拒もうとする、「上下関係の選り好み」
をやらかしてしまうわけで、上下関係など便宜でしかあるべきでないという
立場から見た場合にこそ、それが救い難い亡者の様相となってしまうのである。

誰しもが、カネや権力を思うが侭にできる行為能力の自由など以上にも、一切の
上下関係を理想上から排する精神の自由こそを手に入れたならば、それで社会的に
どうしても必要となる上下関係のほうは素直に受け入れられて、人々への行為能力の
配分も適正化されて、誰しもが最大級の行為能力の自由にすら与れることとなる。故に、
最大級の行為能力の自由を得んがためにこそ、精神の自由こそを優先的に追い求めて
行くべきなのであり、決して前者のために後者を蔑ろにするようなことがあっては
ならない。そのような真似に及ぶ者こそは、自由を追い求めた結果としてより大きな
不自由に見舞われることとなるわけだから、身を滅ぼすことを芸とするピエロとなる
ことが目的であるのでもない限りは、けっしてそれを志したりすべきでないのである。

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186 2014/02/12(水) 16:21:40 ID:IfrpVrn7ms:au
「号を発し令を出せば民説ぶ、之れを和と謂う。上下相い親しむ、之れを仁と謂う。民、
其の欲する所を求めずとも之れを得、之れを信と謂う。天地の害を除去す、之れを義と謂う」
「民を用いるような号令を発しても民たちが喜んでそれに従う、これを和という。上下の
秩序が親しみと共に行われる、これを仁という。民がわざわざ欲する所を表明しなくとも
自然とそれが得られている、これを信という。天地の害悪を除去する、これを義という。
(信者をただ甘やかし、上下関係に恐怖を敷き、いちいち信者に欲求の表明をも強いる聖書
の神には和も仁も信もありはしない。まさに義によって除去されるべき天地の害悪だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・雑記下第二十一より)

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187 2014/02/13(木) 16:47:03 ID:ArL5eB/e62
「未だ能く人に事えず、焉んぞ能く鬼に事えん(既出)」
「未だに人間相手にまともに仕えられもしないでいるような分際でいて、
どうして神などにうまく仕えることができようか。(当然そんなことは不可能である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二)

忠孝を旨とする者が、健在な親や主君を尊んだ上で、さらに鬼籍の先祖に至るまでの
神仏としての崇敬を篤くしたりするのが、真っ当な順序というものである。存命中の人間
を尊ぶこともできず、人間全般への不信をも募らせて、そのような悪念を振り向ける対象
としての神をでっち上げたりしたとしたならば、そのような神こそは邪神の最たるもので
あることが確かである。カルト系の犯罪者や権力犯罪者が、他人の命をゴミクズのように
扱うときの自己正当化材料として、そのような邪神への狂信がよく用いられるわけで、
その手の邪信のウチのほとんどは反社会勢力の拠り所として早急な駆逐の対象とされるが、
残念ながら、中には2000年にも渡って存続して来ているようなものもまた存在している。

文化的貧困の甚だしかった西洋においてそのような邪教が嬉しがられて、世界規模で見た
場合の甚だしい世間知らずさと共にその嗜好が執拗に持続されて来た。今となっては
もはや許されようのない蛮族の悪習として、この世から絶やされる以外に余地はないが、
2000年もの間持続して来たことはもはや伝統と化してしまっているわけで、伝統という
ものを軽んずるような不埒さと共に根絶したりするのではなく、純粋に許しようのない
邪教であるというだけの理由によって根絶を果たすことで、その他の世界中のよき伝統
をくそみそに軽んじて損壊してしまうようなことがないようにしなければならない。

「苟くも其の身を正しくすれば、政に従うに於いて何をか有らん」
「自らの身が正しいのであれば、その人間の行う政治に従うぐらいのことは何の支障にも
ならないはずだ。(正しい人間に従うぐらいのことは人としてあるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一三より)

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188 2014/02/13(木) 16:51:11 ID:ArL5eB/e62
もちろん、ただただ他人に服従することばかりを本分とする奴隷人種であるのもおかしい
ことであり、正しい人間の正しい行いには従い、そうでない人間には従わないぐらいの
分別もあるべきである。また、君臣の如き主従関係の中にも、臣下が主君に諫言を
行ったりするような先導的な振る舞いをも心がけるべきである。故に孔子も、

「冉子朝を退く。子曰、何ぞ晏きや。対えて曰く政有り。子曰く、
其れ事えなるや。如し政有れば、吾を以てせずと雖も、吾れ其れを之れ与り聞かん」
「孔先生の弟子の冉有が朝廷から戻ってきた。先生は言われた。
『どうして遅かったんだ』冉有は答えて言った。『政務がありましたので』
先生『それは政務ではなくただの仕え事だろう。もしも政務があるのであれば、
私を用いるのでなくとも、相談ぐらいは私にも持ちかけられているはずなのだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一四)

という風に、「政務はただただ従うことではなく、自力でことを為すことである」という
思いを示唆しているのである。人間が人間に仕えるということは体裁からして時に必要な
ことではあるし、それこそが天下の大倫に適うということもあるわけだが、自分が人に
仕えるからには、そこで自分自身が率先して物事を為すということが要求されるのである。

神仏に対する以上にも、人間同士の上下関係をよく重んじねばならないのではあるが、
その人間同士の主従関係こそは、従う中にも率先的な所があるのでなければならない、
これはまさに中庸を旨とする者だけが実現を可能とする徳目であるわけで、そうであるという
事実一つをとっても、人間同士が仕えたり仕えられたりすることで初めて成り立つ人間社会に
おいて、主導的な役割を担う人間にこそ中庸のわきまえが必要とされることが分かるのである。

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189 2014/02/14(金) 13:24:14 ID:G.eDp8pSUI
まず自分以上の他者ありきとする、女子供然とした他力本願志向が
実社会での人間関係のみならず、個々人としての思考や振る舞いにも
大きな影響を及ぼすこととなる。端的に言って、自己責任性が希薄化し、
自分でものを考えているような時にすら、他人事のような考え方
ばかりをしてしまうようになる。そこに「自分自身にとってどうなのか」
という十分な自己追求が伴っていないものだから、滑りまくった思考
や会話をとりとめもなく続けていられるようになる。女同士の会話など
はまさにその最たる例であり、責任性を尊ぶ大人の男の耳に入ろうもの
なら、そこに全く意味が伴っていないようにすら思われることとなる。

とはいえ、そのような自責の念を全く欠いた上ずった思考の持ち主ばかり
なのでは世の中も成り立たないので、たとえ責任能力がより高い大人の男
への尊重を著しく欠いているような世の中といえども、それなりに責任能力
があるかのような振る舞いをも人々が嗜んで行くことが要求されて来た。

むしろ、大人の男をちゃんと尊ぼうともしないような未開社会においてこそ、
女子供や小人男までもが、ある種の修辞としての、責任能力があるかの
ような振る舞いを可能とすることが要求されて来た。別にそんなに自責の
念自体を養生したりするのではなく、内心では他力本願の上ずった想念
ばかりを蓄えているにもかかわらず、外見だけはそれなりに責任能力が
あるかのように見せかけるという類いの術策だけが講じられて来たわけで、
表向きだけの振る舞いの洗練は、本人たちに無根拠ゆえのプライドの
過剰な肥大化を喚起して、十分な責任意識がないが故にこそ極大化した
自我ばかりをぶつけ合う個人主義社会の到来をも招いてしまったのだった。

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190 2014/02/14(金) 13:28:02 ID:G.eDp8pSUI
まず自分本位でものを考えるということのできない人間こそは、自意識の
過剰と責任意識の貧困が著しい反比例関係を来たした結果としての個人主義
に陥ってしまうこととなる。むしろ、理想上の想念から、まずは自分本位で
ものを考えて行ける人間こそは、常に相応の自己責任をも念頭に置いて行く
ものだから、戦々恐々として、薄氷を踏むかのごとき謙虚な態度でいようと
するようにもなる。何となく逆のようであるように思われるかもしれないが、
透徹した自分本位こそは謙虚さに親しく、頭からの他力本願こそは個人主義
者としての思い上がりに親しいという普遍法則があるわけで、故に自力本位
でいられる人間こそは心からの善人であると見なし、性根だけはどうしても
他力本願でしかいられないような人間こそは心からの悪人であると見なすのが、
活動以前、言行以前の心理の部分からの順当な分別になるとも言えるのである。

深層心理の部分から自分本位で居る者こそは、自らの責任意識を一人前以上
のものとできるわけで、故に、善因楽果悪因苦果の自業自得のことわりを
自己意識によって十全に自覚して行くこともできる。そこからのみ、自己意識
に基づく勧善懲悪や断悪修善を実践して行くことまでもができるわけなので、
まず自らが深層心理から自分本位で居られる人間であるのでもない限りは、
むしろ因果応報の自業自得のことわりなどを分かった気になるべきでもない。
そもそも自らが十分な責任意識を持てていないにも関わらず、因果応報を
振りかざすような人間こそは「本願ぼこり」の如き思い上がりをも新たに加味
させてしまうことにすらなるわけなので、他力本願ともなれば、むしろ因果
のことわりもわきまえられない愚夫であることを自覚するほうが得策となる。

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191 2014/02/14(金) 13:30:03 ID:JRVaqd1YXA:au
自力本位の善人は始めから身の程をわきまえ、他力本位の悪人は場合によって
身の程をわきまえられたりそうですらなかったりする。当然悪人も身の程を
わきまえられるのに越したことはないが、身の程をわきまえられない悪人の
ほうがより悪人らしいとも言えはする。悪人がいかにも悪人らしいことを許さず、
悪人なりの身の程をわきまえさせるためには、そのためのカウンターバランス
の補完として、善人たちが一概に善良な世の中を築き上げて行く必要がある。
悪人がもはや一人も居らず、善人ばかりで構成されている世の中ともなれば、
さらにその先こそを目指さねばならぬわけで、その道は極めて遠く険しいのである。

「仲尼は日月なり。得て踰ゆること無し焉。人自ら絶つを欲すると雖も、
其れ何をか日月を傷らんや。多に其の量るを知らざるを見るなり」
「(子貢)孔先生はいわば日月のようなもの。とてもとても超えることなど
できはしません。たとえ先生の言説を拒絶するような者がいたとしても、
どうして日月を傷付けたりすることができましょうか。ただ本人がものを
量り知る能力のなさを曝け出すことになるのみです。(儒学の価値を量ること
もできないような人間こそは、秤としての資格もないような蒙昧者なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二四より)

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192 2014/02/15(土) 15:25:07 ID:wD5tsli5zc
孟子が提唱した性善説あたりは、まだ教育的な目的があってあえて流布が
試みられたものだったという面がある。朱子の性即理説あたりともなれば、
人間の本性こそは理性に合致した正善なものであるという考えが、冷徹な
学説として見極められていた所がある。その証拠に、朱子学よりも後に
創始された陽明学が提唱した心即理説のほうが、孟子の性善説をさらに
積極的に推し進めようとしたもので居ながら、あまりにも感情主義的で
あり過ぎたが故に知慮を欠き、テロリストの精神的な拠り所にされてしまう
などの「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の弊害を招いてしまってもいる。

つまり、孟子の性善説を過不足のない形で洗練させたのが朱子の性即理説で
あったからこそ、朱子学の実践が陽明学の実践のような弊害を招きもしなかった
ということがいえるわけで(中朝の権力者が朱子学の実践不足のせいで腐敗に
陥ったということはある)、これこそは性即理説が朱子の個人意見であること
などを超えた普遍的事実であることを実証する史実例ともなっているといえる。

朱子自身は仏門を排撃しているが、性即理説は仏教の唯識論との共通性もある。
儒者が「性」と呼んでいるのは、唯識説でいうところの「阿頼耶識」だとか、
それ以上に高次だとされている諸々の心識である一方、「情」や「性と情の
混濁」に相当するものが唯識説では「末那識」と呼ばれている。性と情の総合
が「心」であり、心の根本たる性こそは理や善に適っている一方で、末節たる
情こそはそれに違う場合があるとする朱子学の論説などと比べれば、阿頼耶識
も末那識もそれぞれに人の持つ心識であるとする唯識説のほうが平等的な見方
をしているといえる。性が根本で情が末節だから、性を情よりも尊ぶべきだと
朱子学はする一方で、性情のうちの情に相当する末那識の迷妄を断ち切って、

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193 2014/02/15(土) 15:29:37 ID:wD5tsli5zc
阿頼耶識やそれ以上に高次な心識との合致を果たすべきだと仏門はしている
わけで、もしも実現できるのならば、仏門の手法に則った場合のほうがより
完成された達観が得られるのに違いないが、それは相当に難儀なことともなる
ので、性も情もあるとした上で、性を情以上に尊ぶといった心練方法に則る
ほうが、「巨石を抱いて河に飛び込むが如き」徒労をせずに済むと考えたために、
朱子も仏門との袂を分かって、そのような言説を広めるに至ったのである。

してみれば、正心と邪心を阿頼耶識と末那識といった風に等分視する仏門よりも、
そもそも心のうちに正心を形成しやすい本性の部分と、邪心を形成しやすい
劣情の部分とが存在すると捉える朱子学の論説のほうが、厳しい修行に自らが
臨むわけでもないような常人にとっての心の捉え方としては分相応なものに
なっているといえる。ほとんど「言葉の綾」程度の些細な相違ではあるものの、
自修はせいぜい学問修養に止める程度の人間が自らの心を修める上では、朱子学
のような人間心理の捉え方をしたほうがよい。故に、正心と邪心を等分視する
ようなこともせず、正心こそは人間の本性に適った本物の心であり、邪心など
は本性から乖離した偽りの心でしかないのだと考えるようにしたほうがよい、

つまり、正邪善悪を等分視するような傍観的な姿勢ですらあるべきでない。
正善こそは本質に適った本物であり、邪悪こそは本質から乖離した偽物である
と捉えて、両者の間に真贋上下の差別を設けて、一概な勧善懲悪に臨んで行く
ぐらいの心がけであったほうがよい。正邪善悪を傍観すること自体、完全な
出家修行者にのみ許された特権であるものとして、俗人の分際でそのような
僭越な振る舞いに及んだりするようなことがないようにしなければならない。

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194 2014/02/15(土) 15:30:24 ID:qjDajLwlng:au
以上のような考究に即すれば、唯識論を俗人向けに言い換えたものとも言える
朱子学の性即理説などに即して、一概な勧善懲悪こそを志して行くのが俗社会に
生きる人間にとっての天分であるということまでもが言えるのである。勧善懲悪
が俗人にとっての天分である一方で、善悪正邪を傍観することや、朱子学の
上位互換の失敗作である陽明学に即して消極主義であったりすることは、俗人に
とっての天分には適わないのである。だからこそそのような真似に及んだ陽明
学徒やカルト信者が最終的な破滅に陥ってしまいもしたわけで、その真価が見定
められなかったがために、反動分子が多くの禍いを招いてしまったという点では、
朱子学も現状、功罪相半ばする点があるといえるので、これからはその真価を
見定めた上での、朱子学の適切な実践こそが試みられてしかるべきだといえる。

「耳、五声の和を聴かざるを聾と為し、目、五色の章を
別かたざるを昧と為し、心、徳義の経に則らざるを頑と為し、
口、忠信の言を道わざるを嚚と為す。狄皆な之れに則り、四姦を具う」
「耳が五声の和音を聞き分けることもできないのを聾といい、目が五色の綾を
見分けることもできないのを(蒙)昧といい、心が徳義に則らないのを頑(迷)といい、
口が中信の言を発することもできないのを嚚という。北方の蛮族はこの
四つの姦邪な要素を持ち合わせている。(心に悪いものが入って悪いものが出る
のではなく、心が頑迷であるが故に色を見分けたり音を聞き分けたりすることも
疎かとなり、以ってろくでもない言行に及ぶこととなる。影響材料以上にも、
心そのものが頑迷な悪心と化してしまうことこそが問題なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年より)

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195 2014/02/16(日) 14:26:38 ID:IPlLI..IX2
他力本願は、第一には自己怠惰を正当化するために嗜好される。罪を
犯してしまった人間が急場しのぎで神にすがったりすることもあるが、
多くの人間が恒常的に他力本願の姿勢でいようとするところでは、主に
怠惰慢心を開き直ることを目的としてそれが信教化されるなどする。

多くの人間が怠慢を開き直ってしまっているような状態では、
世の中も生産性が低下して経済が滞るなどの問題を来たすこととなる。
そのため外界侵略による富の収奪だとか、悪徳商売での暴利の巻き上げ
だとかがその補填を目的として企てられることとなる。そのような悪行
もまた他力本願系の縋りによって正当化されて推進されることとなる。

一般人の怠慢が他力信仰によって開き直られると共に、そこでの反動的な
悪行を企てる者の良心の呵責もまた、他力本願による責任意識の放棄に
よって誤魔化される。そうして悪人と愚人ばかりで形成された世の中が、
外界からの十分な富の収奪が可能である限りにおいて存続して行くこととなる。

他力本願系の信教が世の中で幅を利かせ始めているような状態では、
もはや武装公務員が百姓の尻をひっぱたく程の体裁を取るのでもなければ、
自己完結した世の中における十分な生産性が見込まれなくなるということを、
鎌倉時代から江戸時代にかけての日本の武家社会こそが実証している。

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196 2014/02/16(日) 14:30:47 ID:IPlLI..IX2
平安時代に流行した密教などは、厳粛で体系的な修行をこなす自力作善の
側面と、弘法大師の如き名僧をカリスマとして崇め立てる他力本位の側面
の両方を持ち合わせていたが、鎌倉後期から流行し始めた浄土教などは、
信者に専らな他力本願のみを促すものであった。一方で、武装公務員たる
武家が主な帰依対象としていたのは、密教以上にも純粋な自力本位を旨と
する宗門である禅仏教であり、そのような宗門の下での自己責任意識の強化
と共に、念仏信仰で他力依存を増長させた百姓を引っ張って行ったのだった。

そのような、自力本位と他力本位の均衡を総出で取ろうとする世の中に
おいて、他力本位側であろうものなら武家による斬捨御免すら時には甘受
せざるを得ないことすらをも受け入れられるというのであれば、他力本願で
いればよい。宗祖の法然や親鸞からして僧籍剥奪の上での流罪にされたという
ことすらもむべなることとして受け入れられて、基本、世の中で大きな顔を
できるようなことはないのだと自認できるのであれば、浄土教徒であればよい。

とはいえ武家時代というものからして、日本の時代区分の内では中高度の
乱世に当たる。誰も彼もが他力本位であるが故に引っ切り無しの戦乱状態を
続けて来た聖書圏などと比べれば、江戸時代のようにそれなりの平定が行き
届いた時代もあったわけだが、それでも武士が大小二本の佩刀などを頼りに
百姓町人を締め上げていた点などは、それなりに剣呑な点だったといえる。

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197 2014/02/16(日) 14:31:32 ID:bSj6ApK7PY:au
自力本位と他力本位が絶妙な融和を果たしていた平安時代のような時代に
おいてこそ、真に天下万人の和睦が実現されもする。最高級の理想としては
それこそを目指すべきであり、そのためにも他力本願の一人歩きや大勢力化
などはできる限り引き止めて行くようにしなければならない。浄土経の分量
などは些少なものであるし、その内容も華厳経を始めとする聖道門の経典の
裏打ちがあればこそのものであるのだから、なるべくなら、総合的な仏教帰依
の一要素止まりであるのに越したことはない。無論、そうであるのが可能で
ある程度に、暴力的な社会統治が控えられるようにもしなければならない。

「其の身正しければ、令せずとも行わる。
其の身正しからざれば、令すと雖も従わず」
「自分の身が正しければ、命令したりしなくとも自然とその言説が行われる。
自分の身が正しいのでなければ、たとえ命令しようとも従われることはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・六より)

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198 2014/02/17(月) 13:29:13 ID:HzqTzoYazs
カルトは、人の道を踏み外した愚人にとってのご都合主義を追認してくれる
ような能弁を架空の神に偽託することで、自分たちの信仰対象とする神にある
種の魅力を伴わせる。それは、人道を堅実に守り通している常人にとっては
全く以って魅力的でも何でもない、稚拙な言葉遊びにしか映らないわけだが、
実際に道を踏み外している人間や、アウトローに憧れるような未熟な精神性の
持ち主などにとっては、一種独特の面白味を帯びて見えるものとなるのである。

殺人や強盗や詐欺のような、あからさまな非行が原因でのドロップアウトを
温かく受け入れてくれるようなご都合主義はまだ序の口であり、もっと巧妙な
組織犯罪だとか、精神面におけるサイコパスの助長だとかまでもが本格派の
カルトでは追認の対象とされる。だからこそ、あからさまな民間犯罪ぐらいは
取締りの対象とされる法治社会などにおいても、信者の道徳的退廃を容認して
助長するような類いのカルト信仰の存続が許容されてしまったりもするのである。

法律違反の犯罪行為から、それを上回るような権力犯罪行為(権力者こそが法律
をも取り決めるので、法律違反であるとも限らないし、違反だとしても権力者の
横暴によって処罰が反故にされたりする)、それには至らないような内心面の
罪に至るまで、程度の如何に限らないあらゆる罪悪を許容する類いのカルトとも
なれば、これはもはや法律によって裁ききれたりするものでもない。公権力者が
作為で規定する法律に基づく犯罪行為などとは違う次元の罪悪までをも取り扱いの
対象としているわけでから、到底法官などによって取り締まり切れるものではない。

人の道を煩瑣な法文などではなく、逼迫した言葉でありのままに捉えているのが
仁義道徳の教条であればこそ、道徳統治を全国規模で敷くことだけが、法律違反に
限らぬ罪悪一般を許容しようとするカルト信仰の蔓延を防ぎ止めることができる。
そのような教条の宝庫である四書五経などの儒書自体、到底愚人が親しめるような
内容ではないわけだけれども、それも愚人にとってこそ魅力的に映るカルトの
教条とは真逆の内容でこそあるわけだから、甘美な猛毒への特効薬であるが故に
こそ苦ったらしいこともまた、確信的な甘受の対象とされて行かねばならない。

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199 2014/02/17(月) 13:35:25 ID:HzqTzoYazs
仁徳統治によるカルトの根絶も、徹底されれば江戸時代の日本の如き
一種独特の世相を招くこととなるわけで、夫唱婦随や政商分離の徹底された
その在り方が、女子供や小人などにとってはかえって都合の悪いこととも
なるわけである。そうなれば、その先にこそ、是非善悪の分別ばかりを
徹底しようとする儒家以上にも高度な、仏門や道家の教学すらをも流布して
行くようにして、ある種のガス抜きを講じて行くようにもしたほうがよい。

昨今の洋学系の仏教学者などの中には、「仏教教義の本旨は『縁起』である」
などと強弁する者が居たりもする。縁起もまた一つの仏法であるには違いないが、
現象にまつわる教条であるが故に、それを超えた「生滅滅已(涅槃経)」の
境地こそを尊ぶより高度な見地からすれば、必ずしも最重要の概念とまで言える
わけではない。にもかかわらず洋学者が仏教教義中の「縁起」という理念を
至上命題にしたがったのは、自分たちが是認しているカルトのご都合主義を
仏教によってですら正当化してやりたかったからであるのに違いない。

道家の無為自然とも似通って、仏法に基づく縁起もまた、人間の作為を超越した
所にこそあるものである。信者の害為を喚起して、実際に罪悪の増長を促す
カルトの所業などは、全く以って縁起という理念によって正当化されたりするに
値するものなどではないし、どちらかといえば悪因苦果によってカルト全体が
丸ごと致命的な破滅に陥ることのほうが、カルトの信者が救われたりすること
よりもよっぽど、仏法上のものとしての縁起に適った結実となるのに違いない。

仏教教義の一部すらもが、上記のような形でカルト容認の材料として悪用されたり
することもあり得るからには、カルトをこの世から根絶し尽くすその瞬間までは、
仏門を本格的に再興して行くことなども控えたほうがいいだろう。仏法と比べれば
遥かに程度も低いが、代わりにカルトがつけ入るような隙を一切持ち合わせて
いない儒家の教学のみに即して、まずはカルト根絶こそを急務とすべきである。
カルトを許容するような分際で、仏法を一人前に分かった気になるようなことも
決してあるべきではないのだと、現職の洋学者なぞも重々に思い知るべきである。

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200 2014/02/17(月) 14:09:58 ID:vz5Q98j2fo:au
「(周公が君陳に)爾、頑に忿疾すること無かれ、備わるを一夫に求むるひと無かれ。
必ず忍ぶこと有れば其れ乃ち済する有り、容るること有れば、徳乃ち大なり。(既出)」
「頑なで暗愚な相手に対しても腹を立てたり憎んだりしてはならない。何もかもが一人に
備わっていることなどを期待してはならない。ぐっと耐え忍んでいればきっと済度される
こともある。寛容であれば徳も広大となる。(頑迷な相手までをも包摂するのが徳治である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)

「惟れ周公、先王に左右し、厥の家を綏んじ定め、
殷の頑民をつつしみ、洛邑に遷し、王室に密邇し、式て厥の訓えに化さしむ」
「周公は先王の左右に侍して王家を安んじられた。殷の頑迷な民たちにもよく気を配り、
周の都である洛邑にあえて移住させ、王室と密接に関わらせて、念入りな教化を施した。
(上の引用を見ても分かる通り、周公の徳治は頑民に至るまで満遍なかったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)

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201 2014/02/19(水) 14:41:07 ID:q3r3KGf0O.
カルト系の宗教や学問こそは、真っ当な教学の受容を侵害する危険性を
帯びている一方で、そのような邪教邪学の有害さや無価値さや重要度の低さを
十全にわきまえることが、正善な教学の真価を計り知るうえでの近道ともなる。

もしも、後者のような目的に専ら即して、邪教邪学を見聞するというのであれば、
それはそれで意義のある成果を挙げられるものだから、それぐらいは認められる。
しかし、そのために邪教邪学を「専攻」して「修了」するような必要があるかと
いえば、そんなこともない。あくまで反面教師としての扱いに止めるべきもので
あるわけだから、ワクチン的な無毒化をまず講じなければならない。たとえば、
「漢書」食貨志における金融政策などは、現代の財政と比べても全く以って遜色
のないものであるわけだけれども、あくまで重農主義や官職本位の観点から記録
されているものだからこそ、仁政の参考ともなり得る。一方で、現代の経済学者
が発表しているような論説などは、重商主義や民主主義の名を借りた政商主義の
観点から述べられていたりするので、全く以って仁政の参考などになりはしない。
前漢の景帝の代までの、金融政策が緩慢であった時代の中国の商人などの中には、
今の資本家や経済学者とも同レベルの手口や見識を持ち合わせていた人間が多かっ
たに違いないわけだが、だからといってそれに迎合するような論調を「漢書」の
著者である班固が容れるようなこともなかったわけで、その班固のような姿勢に即
して、現代の経済学なども無毒化されてから受容されるようにしなければならない。

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202 2014/02/19(水) 14:47:17 ID:q3r3KGf0O.
邪教邪学を拒絶や劣後する意識は、ちょうど犯罪を忌避する意識と同等のもので
あるべきである。白人が有色人種に対して抱いていた差別意識だとか、金持ちが
貧乏人に対して抱く蔑みだとかに似たような否定意識を、邪教邪学に対して抱い
たりするのでは、否定意識が透徹しないために、反面教師としてそれらを参考に
するような余裕も持ち得ない。白人や金持ちは、有色人種や貧乏人が居ればこそ
自分たちの生計を立てても居られているわけで、全く以って有色人種や貧乏人が
犯罪者のように無用なものであるわけではない。むしろ白人や金持ちのほうが
この世における必要性が低い部類の人種ですらあるわけだから、そのような人種
が他人種に対して抱くコンプレックスの裏返し状態な差別意識などを、邪教邪学
への否定意識などに転化するようなことがあってもならない。邪教邪学は本当に
この世の中になくてもいいぐらいのものですらあるわけだから、あたかも犯罪
ほどにも徹底してなくて然るべきものとして取り扱うようにすべきなのである。

邪教邪学は、それこそ「つまずきながら」の受容対象とされることでのみ、
この世における市民権を保ち続けることができる。それ自体に傾倒しきっての、
忠実な実践や信仰などは厳禁とされた上で、あたかも過去の犯罪史が犯罪予防の
ための研究対象とされるかのような参考となることのみが、許されることとなる。

その時には、邪教邪学にまつわる神父だとか、牧師だとか、教授だとかはもはや
一人も居らず、儒者や仏僧が片手間にそれらを講じたりすることだけが認められ
るようにもなっているはずである。無論、学問や信教が一切の権威を剥奪された
学芸貧困社会となっているのではなく、儒者や仏僧こそが今の名門大学の教授並み
かそれ以上の権威を持つ「学聖」として丁重に扱われるようになっているのである。

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203 2014/02/19(水) 14:47:46 ID:DO0zVTd5Cw:au
今の大学教授だとか教師だとか、カルトの聖職者だとかが、そのような時代の
権威的な文化主導者に即座に転職できるかといえば、そんなことは決してない。
邪教邪学を反面教師として査察することが正学正教への理解を深める手立てとも
なる一方で、邪教邪学への耽溺はかえって本人を正学正教から遠ざける原因とも
なってしまう。今の学者や宗教家たるや、後者のような邪教邪学の受け入れ方
しかして来なかったわけだから、それこそ一般人以上にも正教正学にまつわる
権威として立ち居振舞うことが困難である場合がほとんどのはずである。

自分自身が正学正教の権威となるよりは、そこで権威となれる人間が、邪教邪学
の否定的かつ適切な取り回しを可能とすることを助成する役回りに就くことの
ほうが、現実的な転職先ともなるだろう。あくまで邪学の知識の献上者に過ぎない
わけだから、決してその役職を偉ぶったりすることが許されることもないわけだが。

「斉を摂げて堂に升るに、鞠躬如たり。気を屏めて息せざる者に似たり。
(ここまで既出) 出でて一等を降れば、顔色を逞って、怡怡如たり」
「(孔先生は、階段でつまずいて転ばないように、)着物の裾をつまみ上げて、
非常に怖れ慎んだ様子で朝廷の堂に上って行かれた。その姿はまるで、息を
していないかのようですらあった。用事を終えて堂からの階段を一段降れば、
その時にはもはや顔つきも晴れやかで、安らかなご様子であった。(実物の
主君に仕えるためにこそ、これ程にも慎重でなければならない。日本で上級
貴族が『堂上人』などとして羨まれていたのも、このような習俗を起源とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・四より)

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204 2014/02/23(日) 15:55:58 ID:s3eOp0/pg2
個々の人間の命には限りがあっても、先祖代々から子々孫々に至るまでの
家の継承には限りがない。そしてそこには必ず、家督を司る亭主の男がいる。
その男もまた個人としての命には当然限りがあるが、家の名誉を保ちつつ真に
家を背負えるのならば、その時に家長たる男も「梵我一如」のごとく、不滅たり
得る家と個我とを一致させて、普遍的な存在としての愉悦や誇りを得るのである。

継がれて行く家の由緒が正しければ正しいほど、そこで家長たる男が家我一如の
愉悦を得られる程度も高いし、先祖代々継承されて来た期間が長ければ長いほど、
新たにその家を継ぐ男がそのような愉悦を得ることも容易となり、なおかつそれが
磐石であり得る。そしてその愉悦こそは、男がまるで自分自身の安寧を欲する
ようにして、家や天下国家の安定をもたらして行く上での心の糧ともなる。家を
継げるだけの修身がまず必要とはなるわけだが、その結果としてあたかも自分
自身のためのように家を利し、それが自然と天下国家の公益を育む呼び水ともなる。

人間が、霊魂の不滅を悟る上での第一の手段となるのが、この家督の相続でもある。
まず代々受け継がれて行く由緒ただしい家流があった上で、そこから次男三男なり
子女なりが出家者などとしてまた別の方法での真理の会得を目指したりもするが、
当然、家なくして出家もあり得ないわけだから、やはり嫡子の長男らによる恒久的な
家の継承のほうが、仏門の興隆以上にも優先されて然るべきものともなるのである。

霊魂の不滅も、それはそれで悟り得るものではあるが、そんなことに興味を持たない
人間もいる。何の特権もないただの小人あたりであれば、そのようであっても特に
問題はない。天下国家の命運を左右するような大権を得る者ともなれば、そのようで
あってはならないし、当然、上記のような正しい手法に基づかない、偽りの霊魂の
不滅などをカルトによって信じ込んだりするようなこともまた、あってはならない。

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205 2014/02/23(日) 16:03:06 ID:s3eOp0/pg2
少しでも、先祖代々の家の継承によって男を立てる感覚が世の中で認知されて
いるようならば、もはや偽りの霊魂の不滅などをひけらかすカルトなどが片時
でも存命していられる余地はない。家督の継承というものの価値が全く以って
理解されていない程もの未開の土人社会であればこそ、そのようなカルトが多少
なりとも横行してしまうようなことがあるし、文面だけで「それが大切なことだ」
などと主張されているだけでも、まだ確実ではない。家の名誉を保ちつつ家を
継ぐということの誇らしさを、如実に自覚できている男が現れたときに初めて、
真の神霊が偽りの神霊を駆逐し尽くす一大事の縁起がやってくることともなる。

天道来たりて、畜生道遠ざかる。両者はそれなりの理解力がなければ見分けが
付きにくい所があったりもするわけだが、片や本物の霊魂を司り、片や贋物の霊魂
を司っているという決定的な相違があるわけで、上のような形で、家の名誉を保つ
者としての愉悦を男が得た時にこそ、両者が決定的に分かたれて、畜生道は止み
天道は恒久普遍なものとしての本来の在り方を取り戻して行くこととなるのである。

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206 2014/02/23(日) 16:04:35 ID:32XxoVAhuM:au
「穆叔如晋、范宣子逆之問焉、曰、古人有言曰、死而不朽、何謂也、穆叔未対、宣子曰、
昔丐之祖、自虞以上為陶唐氏、在夏為御龍氏、在商為豕韋氏、在周為唐杜氏、晋主夏盟為范氏、
其是之謂乎、穆叔曰、以豹所聞、此之謂世禄、非不朽也、魯有先大夫曰臧文仲、既没、
其言立、其是之謂乎、豹聞之。大上有立徳、其次有立功、其次有立言。雖久不廃、
此之謂不朽、若夫保姓受氏、以守宗?、世不絶祀、無国無之、禄之大者、不可謂不朽」
「(長文のため意訳)穆叔が范宣子に問うた。『昔の人は〈死して朽ちず〉と言いましたが、
これはどういう意味だと思いますか』 范宣子『私の家は虞の唐氏の頃からずっと先祖代々の
家を継いで祭祀を保ち続けています。こういうのを〈死して朽ちず〉というのではないで
しょうか』 穆叔『それは家に福禄が多いということであって、〈死して朽ちず〉という
こととは違います。自分個人が功績を挙げて、その時の成果や言行が後世まで尊ばれ続ける
のを〈死して朽ちず〉というのです』(乱世に〈死して朽ちず〉という言葉が曲解された実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十四年より)

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207 2014/02/24(月) 13:32:44 ID:29aE9duyww
カルト信仰が、この世に戦乱以上の平和をもたらすようなことは決してあり得ない。
部分的や一時的な平和状態をもたらすようなことがあったとしたところで、必ず
それ以上に大規模かつ長期的な戦乱状態を共に招き、以ってカルト信仰など始めから
享受しないでいたほうがマシだったほどもの大局的な乱世に陥れられることとなる。

カルト信仰の影響範囲が、全世界のうちの部分に止まっている内は、そうであること
がまだ判然としていなかった。大航海時代以降に世界中に侵略の魔の手を広げて
行ったことで、欧米諸国も巨万の富に与れて、富の奪い合いが原因での内戦などを
減らすことができたが、同時に世界規模ではそれを上回る規模の戦乱や飢餓を招く
こととなった。もはや欧米聖書圏が侵略によって権益をせしめられるような地域も
この地球上からなくなってしまった今にこそ、欧米聖書圏がこの世界に平和以上の
戦乱をもたらして来たことが如実となったわけで、いまだ侵略の魔の手を広げ続けて
いた限りにおいて、欧米人がそのようなことを察するようなこともなかったのである。
(今でも外界から目を背けることで自分たちの罪過をはぐらかしたりしてはいるが)

原理的な所まで突き詰めれば、カルトが平和以上の戦乱しかもたらし得ないのも自明
なことではある。世界を破滅に陥れておいて信者だけを救うマッチポンプをその根本
教義に据えているのがカルトの特徴であるが故、その根本性に即してこの世に利益
以上の害悪をもたらし、以って平和以上の戦乱に陥れることともなるわけだけれども、
高度なカルト信仰であればあるほど、信者に世の中の大局が見えなくなる程もの思い
上がりを植え付けもするものだから、自分たちが結果として利益以上の害悪や、平和
以上の戦乱をもたらしていることになかなか気づかないままでもいさせることとなる。

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208 2014/02/24(月) 13:35:33 ID:29aE9duyww
この世に大局からの戦乱状態をもたらしながらも、自分たちだけは狭隘な平和状態
を享受していられる、それでいて本人たちも世の中の大局など全く見えない極度の
思い上がり状態のままでいるわけなので、そこで確かに本人たちも「それでいい」
ということになる。人として満足してはならない所での満足が確立されて、本人
たちの「ガン細胞人種」としての社会的地位までもが磐石なものとなる。旺盛な
資本力や軍力によって自分たちが世の中に幅を利かせていられる内はともかく
として、それが叶わなくなった時には真っ先にこの世からの駆逐対象とされて
しまうわけで、諸行無常の真理に即して必ずそのような事態がいつかは招かれる
からこそ、信者と化してしまうような人間たち自身のためにこそ、カルト信仰など
が始めから享受されたりしないでいたほうがマシだということにもなるのである。

マッチポンプ主体の邪義と、信者を思い上がりによって狭劣見と化さしめる要素とを
共に持ち合わせているような高度なカルトこそは、悪徳商人や火付盗賊並みかそれ
以上もの害悪や戦乱をこの世にもたらするものである。悪徳商人や火付盗賊のほうは
すでにその悪性がよく認知されて排除の対象ともされているが、カルトがそこまで
もの十分な警戒を受けているということは未だない。のみならず、カルト教義に即
して企てられている金融犯罪などの悪徳商売が、特権的なものとして野放しのまま
にされてしまっていたりすらする。マッチポンプの「ポンプ」の部分、カルト信仰の
おかげで利益や平和が得られたような部分もごごく部分的にはあって、その部分こそ
をカルトもこれでもかという程にひけらかすものだから、「まあじゃあ仕方ない」と
いう風に一般人のほうが考えてしまい、以って執拗な存命が実現されてしまうのである。

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209 2014/02/24(月) 13:35:52 ID:dC2im.cVZg:au
何度もいう通り、世界規模でのカルトの駆逐は、これから為されるとすれば、それが
世界史上でも未曾有の事績となる。カルトのない世界ではカルトなど歯牙にもかけ
られて来なかったし、カルトのある世界ではカルトしか選択肢がなかったものだから
当たり前のこととして享受されて来た。すでに世界が一定度以上の統一性を確保して、
カルトの致命的な有害さまでもが如実なものと化し始めたものだから、もはや廃絶
以外の余地がなくなっているということは、今までに一度も人類が体験したことの
ない事態であるわけだから、十分な慎重さを持ってことに臨むのでなければならない。
それこそ、カルト信者に特有の逸り立ちなどではなく、真っ当な思想宗教を本分と
しているような人物にこそ特有の虚心さによって為されていくのでなければならない。

「雜え施して不孫なれば、則ち壊乱して修まらず」
「施しが強引で不遜であるようなら、壊乱して収まるようなこともない。
(信者に強引に帰依を強いる聖書信仰の姿勢自体、戦乱を招くものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)

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210 2014/02/26(水) 14:39:39 ID:vLS1rZFtq6
共産制による絶対的な富の均衡などを図らずとも、大局からの富の偏在が
緩和されて行くのが徳治の行き届いた治世である一方、富の偏在がより
深刻化してしまうのが徳治の行き詰った乱世である。徳治の手法自体は儒家の
定立するような公権力者による作為的統治だったり、道家の定立するような
無為自然の統治だったり、仏門の出家者による民の教化だったりと様ざまでは
あるが、どんな形であれ徳治が行き届いているような世の中では、富の偏在
による世相の荒廃などには一定以上の歯止めがかけられて行くものである。

世の中がただひたすら私利私益を貪り続けて止まない畜生人種と、そのせいで
困窮に見舞われてしまった餓鬼人種とに両極化されてしまうのが乱世の決定的な
特色であり、その結果として戦乱や犯罪率の増加などをも来たしてしまうこと
となる。乱世を司る権力者たるや、そのおかげで自分たちが天下の公益に反する
巨万の富に与れていることが嬉しくて、世相がそのようなままであることをどう
にかして正当化しようともする。富の偏在の極度化を「格差社会の到来」などと
いう言葉で定義し、世の中を「勝ち組」と「負け組」などという派閥に分けよう
とすらする。それは、乱世での経済的成功者を「畜生」と呼び、経済的敗北者を
「餓鬼」と呼ぶ仏教の六道論的な世相解釈などと比べれば、不埒な正当化の要素
を帯びているわけで、徳治をよしとする観点からすればそのような世相の解釈は
避けて、あえて餓鬼や畜生のような如実な解釈を優先すべきだと考えられる。

富の偏在を架空の神託によって正当化したりすることも、当然避けられてしかる
べきことである。むしろ、世の中が「地獄道の到来」が原因で、餓鬼界や畜生界に
分断されてしまっていると考えるほうが道義性にも即しているし、現実の実相にも
合致している。どこかに政商犯罪すらをも駆使しての富の偏在の激化を企てている
ような連中がいるからこそ、徳治も完全に滞って、守銭奴の横暴が野放しになって
しまいもするわけだから、そのような政商犯を地獄道の所業であると捉えて、道義
的に許されざるものとして大いに卑しむようにするほうが理に適うことともなる。

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211 2014/02/26(水) 14:47:25 ID:vLS1rZFtq6
富の偏在の深刻化が世相の荒廃や戦乱を招いてしまう一方で、世人たちの富の
追求が世の中を発展させて行く原動力となることもまた確かなことなので、共産
革命などによって人々から富の追及の余地を完全に奪い去ってしまうこともまた
よろしくない。商人に代表される富の追求者の活動もそれなりに許容はするが、
それ以上にも農業や必需工業への従事者などをより尊ぶようにする、商人らの活動
の激化に外的な歯止めを利かせる役目を公務員が担って、そのような役儀を全う
している公務員こそを世の中でも至尊の地位にある貴人として尊ぶようにする
などして、人々の富への追求意欲を損なうことなく、富の偏在にトップダウンな
制限をかけていくことが現実的な社会統治の手段として最も道義に適うこととなる。

いわば、商売人にもそれなりの自由を与えてやるためにこそ、そこに最低限以上
の統制をかけて行く公務員が尊崇の対象となる必要が出て来るわけで、商売人が
自分たちで自主的に富の偏在を是正できるのならば、そんな義務性を帯びたりする
こともないわけである。しかし哀しいかな、商売を生業とするような人間が、その
ような自制心を自得することなどは原理的に不可能と来ている。世の中の大局が見え
なくなる程にも、私利私益ばかりに目を向けていればこそ「一人前の商売人」たり得
もするわけだから、やはり外的にその手綱を握る人間が必要となってしまうのである。

人間、何の徳義もない所では、貧しい人間よりも裕福な人間のほうを羨んでしまう
ものなので、自分たちが裕福でないにも関わらず、裕福な商人たちを取り締まりの
対象とする公務員の存在価値を知らしめるために、そのような立場の人間を義務的な
尊崇の対象ともしなければならない。政財が癒着して自分たち自身が経済的にウハウハ
でいるような公務員であれば尊崇の対象としたりすべきでもないが、自分たちがあえて
富豪との癒着などを断って、完全に外的な立場から富豪を取り締まりの対象にするよう
な公務員ともなれば、これはもう世間でも至上の人種として崇めないわけにはいかない。

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212 2014/02/26(水) 14:48:32 ID:3mFNc.CY/c:au
民主主義だの資本主義だのが、人類の理想扱いにすらされてしまっている昨今において、
封建制を主体としていたかつての徳治の手法などは、旧態依然としたものとしてばかり
見なされているが、世の中の実相というものをよく計り知ったうえであれば、それが
完璧なほどに理に適っていたことが今でも明らかになる。共産制や独裁制はおろか、
民主制や共和制もまた人間社会の実相にそぐわないことが世の中総出で思い知らされる
こととなった昨今、かつては民間人たちが不本意極まりないものとして強いられていた
徳治のための封建制に、最極悪の商売人を含む誰しもが心からの承諾と共に立ち返るべき
時が来ているといえる。商人に代表される民間人までもが、封建統治の大切さを自主的
に計り知る機会となり得たことは、民主化時代という時代の怪我の功名だったといえる。

「三軍も師を奪うべし。匹夫も志しを奪うべからず。(既出。その理由は以下の如く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二六より)

「言、物有りて、行、格有るなり。是れを以て生きては則ち志しを奪う可からず、
死しては則ち名を奪う可からず。故に君子は多くを聞き、質して之れを守り、志し
多くして、質して之れに親しみ精しく知りて、略して之れを行う。君陳に曰く、出入
爾じの師に自りて虞れば、庶言同じからんと。詩に云く、淑人君子、其の儀は一なりと」
「言葉には必ずそれに対応する物があり、行いには必ずそれに対応する格式というもの
がある。そのため生きている人間から志しまでをも奪うことはできないし、死んだ人間
からその名までをも奪うこともできない(つまり、諸法実相が真理だから志しや名まで
をも奪うことはできない)。そのため君子はなるべく多くのことを聞いて、それにより
身を正して節操を守り、志しをより旺盛なものとし、身を正すことに親しんでそこから
さらに詳しい見識を得て、略してこれを実践に移す。そのため、書経の君陳にも『情報
の需給を自己に即して御してみれば、庶人も同じように考えていることが分かる』と
あるし、詩経の鳲鳩にも『淑人君子の儀は、根本のところは一つである』ともある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

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213 2014/02/27(木) 13:59:52 ID:h3dOYL3zvA
権力犯罪聖書——通称聖書の言葉にもそれなりに聞こえのいいものがあり、
そればかりを読んだだけでは到底、それが一切皆悪の癲狂の書であると
までは察し難い。しかし、四書五経のような純正な善徳に根ざした聖書
の言葉と対照してみれば、そこにただの一つとして人間が模範の対象と
するに値するような言葉が書かれてはいないことが明らかとなるのである。

どのような基準に即して判別すれば、両者の是非善悪が如実となるのかと
いえば、それは「その記述を権力機構の運営に適用してみればどうなるか」
という所で如実となる。片や半永久的な天下国家の安寧をもたらす一方で、
片や万年戦乱状態や人類滅亡の危機すらをももたらすものであることから、
四書五経の記述こそは純正な善徳に根ざしている一方で、通称聖書の記述
は到底許しようのない害悪にまみれていることが如実となるのである。

両者の記述を個々人の修養規範に適用する場合においても、片や
聖賢としての達観や精神的成長を受容者に促す一方で、片や精神薄弱や
サイコパスに陥った愚人を量産してしまうといった相違が生ずるわけで、
それはそれで四書五経と通称聖書の記述の品質の優劣良悪を判別する
材料となるわけだけれども、聖書信仰のせいで精神薄弱やサイコパスに
陥った愚人たるや、自分たちの精神的な不能さこそを「神の愛に包まれて
いる姿」などといった適当な理由によって正当化しようともするので、
四書五経と通称聖書の記述の優劣を決定付ける要素としての確度では劣る。

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214 2014/02/27(木) 14:05:54 ID:h3dOYL3zvA
そればかりを信認することを、自分たちのみならず全世界の人々にまで
強要していたりしたならば、そのせいで本当に人類が滅亡にすら陥って
しまうのだから、通称聖書が決定的な粗悪さを帯びていることはやはり、
それを天下国家規模の受容対象とした場合にこそ完全に明らかになると
いえる。それは聖書信者たちも薄々感づいてはいることなので、にもかか
わらず信仰を存続して行くための苦肉の手段として、世界の大局などを気
にしたりすることはできる限り避けるようにし、自分個人がどうであるか
ばかりを気にすることこそは堅実で道義に適ったことだなどとすら思い込
もうとする。それでも世界が本当に滅亡の一歩手前まで行けば、自分たち
の生存のために聖書信仰を破棄する他なくなるが、その瞬間までは辛うじ
て、そのような自己欺瞞によって信仰を続けて行こうとするのである。

自分を始めとする個々の人間がどうであるか以上にも、世の中の大局
こそをより慮るべきである、それが可能である人間こそを君子として尊び、
それができない人間を小人として卑しむべきだとするのは、聖書信仰に
即して是とされることでもなければ、孔孟を始祖とする儒学自体によって
論理的に定立されていることでもない。儒学よりもさらに以前、今から約
5300年前に伏羲氏が八卦を考案し、約3100年前に文王や周公が易経を確立
させた頃までに醸成されていた易学こそがそれを形而上的な観点に即して
確証しているわけなので、まず易学から尊重の対処として行くことで初め
て、大局本位局部末位の位相解釈を承諾して行くことができるようになる。

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215 2014/02/27(木) 14:06:59 ID:seEVj89v9g:au
易学自体は、抽象的に過ぎるため、世の中の諸問題に直接的に適用する
のには不適な場合が多い。だからこそ孔子や孟子も易学から半ば独立した
ような社会的道徳学を儒学として確立して行ったわけで、両者を場合に
よって使い分けるようにするのが適切となる。易学にまで遡らない儒学を
顕教とすれば、易学をも兼修の対象とする儒学は密教だといえるわけで、
後者のような儒学の取り扱い方をすることで初めて、社会的儒学と決定的
な教理の相違を帯びている聖書信仰などを相手取った場合の勧善懲悪を
完遂していけるようになる。残念ながら、今の世界には聖書信仰が存在
してしまっているわけなので、易学にまで遡る密教的な儒学の修養も
また、一定度以上に試みられて行くことが必須ともなっている。

「世乱るれば則ち〜広きときに姦を容るる。〜
條暢の気を感ぜしめて平和の徳を滅す。是れを以て君子は之れを賤しむなり」
「世が乱れている時には、素直な者がだからといって姦邪なものを受け入れる。
そのせいで天地に行き渡っている穏やかな気風が損なわれて、平和の徳が損な
われることともなる。君子はこのようなことこそを卑しんで、由しとしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)

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216 2014/02/28(金) 14:26:25 ID:UlXnod3uGA
フロイトが「リビドー」だとか「デストルドー」たとかいった言葉で示そう
とした生成衝動だとか破壊衝動だとかが、人間にもまた本能的に備わっている。
それは、人間よりも下等な動物すらもが持ち合わせているごく原始的な本能
であり、高度な知能や能力を持ち合わせている人間すらもがただただ無軌道な
ままにさせていたりすれば、そのせいでの破滅すらをも招きかねないものである。

特に、破壊衝動が破滅を招きかねないということはほぼ世界中の人間によって
古くから察せられて来たものだから、破壊衝動の統制こそが第一の課題として
取り組まれて来た頻度が高い。中でも、西洋社会こそは破壊衝動の専らな抑制
ばかりを旨として来た社会であり、「破壊衝動などないに越したことはないもの」
という考えを倫理的には決め込んだ上での一概な生成志向ばかりで在り続けて
来たのである。しかし、実際問題として人間には破壊衝動もまた本能として
備わっているものだから、全くの反倫理志向を開き直っての、専らな暴力の
発露すらをも一つの分野としては嗜んで来た。だからこそ西洋人こそは現代
世界でも最大級の軍力を自分たちで溜め込んですらいるわけで、その内でも
特に過剰な核軍備が人類の滅亡にすら直結するような危機をもたらしている
からには、一概な生成志向こそを倫理的なものだとする考え方からして、
諸法実相の真理にそぐわない誤った考え方だったことを示しているのである。

生成衝動も破壊衝動も無軌道なままにさせておくことでもなければ、破壊衝動を
専らな非として、生成衝動ばかりを是とすることでもなく、破壊衝動と生成衝動
の絶妙な調和を図って行くことこそは、人間という生物がその本分を全うして
行く上での最善の施策となる。それは、古くは老子の四季の移り変わりなどを
参考にした生滅恒常の理の定立だとか、インド神話における破壊神と創造神と
維持神の三神一体とかいった叡智によっても把握されていたことである。

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217 2014/02/28(金) 14:34:55 ID:UlXnod3uGA
実際に、破壊神シヴァを最も親しみ深い神の一つとして崇め続けているインド
こそは、世界でも最高級に平和状態の確立された社会で在り続けているし、武勇を
尊んでいた時代の中国人や日本人こそは、政治腐敗を早急に打ち滅ぼしての清廉
な社会統治に取り組めていたりもした。破壊衝動が真理の悟りだとか、体系的な
道徳意識だとかとそれなりに歩調を合わせられたならば、むしろそのような素養
を養えている武将なり武士なりのほうが泰平の世を司る礎にすらなってくれる。

生成衝動だけでなく、破壊衝動すらをも仁政などのために善用できるのは君子
の男だけであり、これはどんなに多く見積もっても世界の少数派でしかあり得
ない人種である。世の中の大多数を占める女子供や小人男は、破壊衝動を善用する
ことも、破壊衝動の存在価値をそれなりに計り知ることもできないわけなので、
そのようなカウンターバランスの補完のためには、あえて破壊衝動こそを生成衝動
以上にも社会的価値の高いものとして尊ぶぐらいのことですらあるべきである。

どこの文明社会にも軍人ぐらいはいるが、その軍人が人並み以上に高貴な身分
として尊ばれていた社会となれば、それは日本の武家社会ぐらいのものである。
しかしその武家社会の完成形である江戸社会こそは、当時としては世界最高級の
泰平や繁栄を実現できていたわけで、破壊を司る人種こそが尊ばれることがその
ような功績をもたらすことも実際にあるのだという実例になっているといえる。

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218 2014/02/28(金) 14:35:01 ID:A1kTpDs3XY:au
子供にとって、自らを生み育ててくれた母親こそは最も親しみやすいものである
けれども、その母親ばかりでなく、謹厳でとっつき辛いような父親への尊崇にも
励むことで初めて、子供もまた立派な大人へと成長して行くことができるように
なる。そこでもやはり、あえて親しみ辛い父親をあえて尊ぶ疎ましさを相殺する
ために、母親以上にも父親を尊ぶぐらいの心がけが必要とすらなるのである。

生成も破壊も、どちらも人の世のことわりではあるが、生成ぐらい誰でも望み
親しめるものであるわけだから、倫理的な統制のきいた破壊を生成以上にも
尊べるぐらいのバランス感であるのが最も好ましい。世の中も産業従事者があって
こそのものではあるが、そこに制限的な統制を加える君子階級の人間を産業従事者
以上にも尊べるぐらいであって初めて、世の中もいい塩梅で司られるようになる。

どちらがアリでどちらがナシなどという極論ではなく、あくまで中正を記した
均衡論であることを踏まえた上で、上記のような論説に即して行くべきだといえる

「君子無くんば野人を治むる莫く、野人無くんば君子を養う莫し」
「公人がいなければ民間人を治める者もいないし、民間人がいなければ公人を
養う人間もいない。(君子たる公人もまた、民を養うよりは民に養われるのである。
しかし、そうである代わりに世の中を穏便に治めて行くわけで、その『世を治める』
という行為が、民間人が『君子を養う』という行為以上にも根本的に重大なことで
あるから、君子たる公人こそは身分的には民間人の上に置かれるべきなのである。
『養う』とか『恵む』とかいったこと以上にも大事なことがあるという実例。人間は
恵み深い母性以上にも、謹厳な父性によって根本的に司られて行くものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)

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219 2014/03/01(土) 14:31:52 ID:itLHTV0CaM
邪教の教条こそは、天地の理法に決定的に違う上に、天地万物の範疇を超える
ものでもない。天地の内側に寄生虫かガン細胞のように巣食って、健全な事物の
化育を損ねては劣悪な事態を招くといった条件ばかりを満たしている。逆言すれば、
そのような条件を満たしている教学こそは邪教邪学であると定義することができる
とも言えるわけで、今まで世界に通用する正統な教学だと思われていたものがその
ような条件を満たしていると判明した結果、新たに邪教や邪学であると断定されて、
肯定的な受容の廃絶や禁止が執り行われるようなこともあるべきなのである。

自己相似系の曼荼羅構造がこの世界この宇宙の真理に合致していると密教でも
提唱されているし、現代科学でもある程度そのような主張の妥当性が認められ
始めている。還元的な物理現象のみならず、具体的な社会現象もまたその多くが
自己相似系の条件を満たしているために、社会の内側でガン細胞のような独立的
かつ悪質な単体構造を形成するカルト的人間集団などが、自分たちの言行規範と
なっている邪教の教条こそは全世界全宇宙の理法すらをも司っているなどという
風に勘違いしてしまったりもする。「自分の見えている世界だけが全世界だ」
などという思い込みと共にであれば、実際にそのような邪教によって全世界が
司られているようにも思われるわけで、井の中の蛙然とした見識の持ち主で
あれば、そのような思い込みの中だけで一生を過ごすことすらできなくもない。

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220 2014/03/01(土) 14:34:02 ID:itLHTV0CaM
ある特定の真っ当な教学を受容したりする以前に、上記のようなカルトへの没入を
避けて、受容するとしても至当な教学だけを受容するようにして行くための基本的
な姿勢というものがある。自分が親に対する子であったり、社会における狭隘な
部分集合であったりする場合には恭謙の限りを尽くして、間違ってもそのような
立場から世界や宇宙の大局を分かったようなフリになったりもしないようにする
ことである。同じ職分であったりするのなら、子よりも親のほうが経験値から
いって世の中のことをより知っているものだし、商売人やその他の末業従事者など
よりは、天下国家を直接的に司るような職務に就いている公人のほうが世の中のこと
を分かっているものだから(民主制度下の公人などはこの限りでもない)、子集合
に属するような分際でいて、親集合に相当する立場の人間よりも何かにかけての大局
を理解しているなどというような思い上がりを抱いたりしないようにすべきである。

——といった風な姿勢を守るようにしていれば、至当な教学が至当たり、姦邪な
教学が姦邪たることまでもがよく判然とするようになる。井の中の蛙然とした
精神状態にあることで初めて天地の理法すらをも司っていると思い込まれるような
邪教が、全く以ってそのような条件を満たせているわけでもないガン細胞人種
マニュアルでしかなかったことが明瞭ともなる。一方で、至当な教学でそうであり
得ている理由もまた明らかになる。世の中の大局からの実相を、それぞれの分野
に即して厳格に把捉して、そこで人が如何なる立ち居振る舞いを心がけるべきで
あるのかを誠実に探求し抜いていることが知れるものだから、自らも誠心誠意と
共にそのような教学を実践したり、そのような教学の創始者の如き偉大な聖賢へと
自らが昇華されることをもできることなら目指そうとすらするようになるのである。

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221 2014/03/01(土) 14:38:49 ID:z23rOngcwU:au
結局、そのような個々の教学の正邪を計り知れるようになるための恭謙な態度
姿勢を会得するために有効となるのが、仁義忠孝を奨励する儒学の学習や実践なの
でもある。儒学自体はそこまで高遠な事象を取り扱っているわけではないが、より
高遠な事物を取り扱っている教学の正邪を判別して、正しい教学だけを受容して、
そうでない教学を排したりして行く上での第一の手がかりともなるのである。

儒学を受容すらしなくても、先天的な素養によってそれが可能となるのであれば
それに越したこともないが、邪教邪学が蔓延している現代のような時代においては、
たとえそのような素養があった所で後天的にその素養が損なわれて、クソミソな
教学の受容しかできなくなってしまっている可能性が極めて高いので、まずは儒学
を学び抜いてから、より高遠な教学を受容することへと進学して行くようにして
することが、天下万人にとっての義務的な要求にすらなっているのだといえる。

「曾子曰く、夫れ孝は、之れを置きて天地に塞がり、之れを溥めて四海に
横たわり、諸れを後世に施して朝夕無く、推して東海に放りて準い、推して
西海に放りて準い、推して南海に放りて準い、推して北海に放りて準う。詩に
西より東より、南より北より、思いて服せざる無しと云えるは、此れ之の謂いなり」
「曾先生の言葉。孝の教えは天地に満遍なく満たされ得るものである。これを広めよう
とすれば四海の果てにまで広がり、後世に伝えようとすれば朝晩の区別もなく伝えられ
続ける。東海にも西海にも南海にも北海にも、伝えればそれを模範としないものがない。
詩経大雅の文王有声にも『西からも東からも南からも北からも、思い慕って
服さないものが無い』とあるのは、まさにこのことを言っているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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222 2014/03/03(月) 14:39:52 ID:yKVUxAsJ2s
同じ貧農の出身であるにも関わらず、劉邦は四百年にも渡る治世をもたらした
大帝国の始祖たり得た一方で、豊臣秀吉は信長の権勢を受け継ぐ形で天下を統一し、
明朝から「日王」の称号を賜るに止まった上、たった二代で家門を絶やすようなザマ
に陥ってしまった。(しかも二代の秀頼にすら、淀殿の婚外子だった疑いがある)

両者の間にどのような違いがあったのかといって、本人たち自身の間に決定的な
積極性の有無という相違があった点である。劉邦のほうは、自分から好き好んで上
を目指すというよりは、周囲の人間に押し立てられる形で天下取りへと上り詰めて
行ったし、中国を統一して後、皇帝に即位する段になっても、自分ではあえて拒む
姿勢を取り、周囲に懇願されてやっとその地位に就くことを承認したのだった。一方、
秀吉のほうはといえば、自ら躍起になって下克上を志し、信長死後の清洲会議に
おいても、信長の子孫や筆頭家老の柴田勝家らを凌ぐ形で、有力な後継者としての
地位を固め、ほとんど自らの手腕一つで九州四国や小田原といった日本の端々まで
をも配下に置いて行った。天下統一後には、海の向こうの明にまで自らを皇帝として
認める旨の要求をし、それが通らず「日王」の称号を寄越されたからには憤慨して
朝鮮侵略に及び始めるなど、それはそれは権力欲まみれの人生を送り通したのだった。

権力欲のみならず、財産欲の面でも劉邦と秀吉との間には大きな開きがあった。
劉邦のほうはといえば、他者への大盤振る舞いには長けていたものの、自らのため
には吝嗇を基本とし、皇帝即位後にも重臣の蕭何が豪壮な宮殿(未央宮)を自分の
ために造営したことに腹を立てたりしていた。一方、秀吉はといえば天下統一後には
遊興三昧でいて、酒池肉林の宴を繰り広げるための場所としての聚楽第を建設したり、
利休のような本職の茶道家の眉を潜めさせるほどにも無闇やたらと華美な茶室や茶会
を用意するなどした。片や皇帝になって後も吝嗇第一、片や皇帝にもなれない内から
の贅沢三昧といった差の開きようであったわけで、そこでもやはり、天下を公共的な
観点から取り治めて行く君子としての素養の有無という相違があったことが伺える。

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223 2014/03/03(月) 14:45:06 ID:yKVUxAsJ2s
天下を公平に治める君子として栄達するためには、個人的な権力欲だの財産欲だの
はむしろないほうがよい。あるとしてもそれを十分に自制できて、自分が得ること
よりも他者が得ることのほうをより優先できるぐらいの消極ぶりであったほうがよい。
そうであればこそ、自らやその子孫が天下に冠たる帝王的地位に就いた場合にも、
人々が欲望を肥大化させて奪い合いだの下克上の企てだのに及ぼうとすることをも
殺いで行くことができるわけで、君子が欲望に目を眩ませるか否かたるや、天下
国家の数百年規模の存亡栄辱すらをも左右するものであることが明らかなのである。

より一層の富貴を志すような貪欲さのみならず、一定の地位の保身に務めようとする
ほどの利欲すらむしろないほうがよい。小役人時代に人夫の徴発を任された劉邦が、
慈悲のあまり人夫たちを取り逃がしてしまい、自らも職務怠惰の逃亡犯としての立場
に身をやつしたりしたのも、本人に挺身的な皇帝となる素養があればこそであった。
本人自身は晩年に多少保身的な性向を抱いてしまうこともあったが、自らの身命すら
をも時に惜しまぬその心意気は息子の文帝らにも受け継がれて、自分たちの生活水準
を引き下げる程にも大々的な福利厚生主体の仁政によって国勢に利するなどしたの
だった。一方で、秀吉の方はといえば、自らが存命中に保身の限りを尽くしたのみ
ならず、唯一生き残った実子である秀頼に甘やかしの限りを尽くしながら、その秀頼
を次代の天下取りに仕立て上げるように家康に強く遺言しながら自らの人生を終える
などした。自らも貪欲さの塊であった上、その性向すらをも受け継がせようとして
いた実子の持続的な栄達すらをも希っていたものだから、そのような望みが叶えられた
結果としての欲望まみれな世相の存続を許さないためにも、豊臣家は大坂の役で滅ぼ
されることとなってしまった。もしも秀頼が父親のような貪欲さをあえてかなぐり
捨てて、高位の官位も返上して大和一国の大名程度に止まることなどを望んだならば、
それで豊臣も存続のしようがあったわけだけれども、結局はそれが選択されることも
なかった。これなどは、君子たるべき立場の人間が高位な立場での保身に務めてしま
ったせいで、自らの家すらをも絶やすこととなってしまった実例であるといえる。

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224 2014/03/03(月) 14:46:34 ID:ieP3CojDaA:au
劉邦と秀吉とは、その出自が「貧農」という低い身分であった点が共通しているもの
だから、本人たち自身の振る舞いによってその家門規模での命運が両極端に左右されて
しまったことを如実に示す対照例として、絶好なものともなっている。たとえ貧農の
ように低い身分に生まれたとしても、場合によっては天下取りにすらなれるという
実例に両者がなっている一方で、下克上の成功者だからといって、貪欲な性格でも
あったりしたなら、やはり成功を透徹までさせることはできないということを、両者の
人生が対照的に示しているといえる。低い身分からの栄達者であって、なおかつ吝嗇や
挺身すらをも旨とし続けることなどは、舜帝の如き聖賢でもなければ成し得ないこと
であるわけで、その条件を満たす場合にのみ栄達をも透徹させられるということは、
低い身分の人間であっても計り知っておかねばならない教訓であることが、これまた
不埒な下克上を人々が企てたりすることに歯止めをかける格好の材料ともなるのである。

「逸欲を教うること無きは、有邦なり」
「人々に逸欲に耽ったりすることを教えないようにするのが、国を保っていく途である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)

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225 2014/05/12(月) 08:02:38 ID:cJ6dhwLWcY
笠地蔵もついにリタイヤか。めでたいのう。

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226 2014/05/13(火) 08:18:49 ID:ospIjyj7p6:au
削除(by投稿者)

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227 2014/05/13(火) 10:01:17 ID:ospIjyj7p6:au
あらゆる人類の中でも最低最悪の品性の持ち主たち、
匿名にかまけて刑法違反級の罵詈雑言を垂れ流し続けるネット住人たちよ。

これからも、おまえらを完全に無視したりすることはない。
ネット一つできない檻の中におまえらが収容されるその時までは、
おまえらが垂れ流し続ける悪念を全て看取って、常にその裏をかくようにし続ける。


人類の滅亡すら厭わない最低最悪の悪念の持ち主たちの望みを
逐一裏切るようにすれば、それがそのまま最終防衛線死守思想の実践とも
なるわけだから、世のため人のため自分のための最低限以上の福利厚生
のために、半ば義務的にすら続けられて行かねばならないことだといえる。

今後も、NSAや情報保全隊を正式な配下に置きながらであっても、
同様の試みを続けて行く所存だ。この世に悪が蔓延る限り、そ奴らから
最低限以上に世の中を守ろうとする正義もまた、決して絶えることがない。

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228 2014/06/01(日) 02:31:03 ID:4LYr1XEhoE
うんこ漏らした。

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229 2014/06/04(水) 23:53:41 ID:vrLcb9oL7w
植草は臭い飯食ってる。

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230 2014/06/07(土) 11:57:09 ID:EekiYGpX/Y
勘当された。

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231 2014/06/19(木) 23:59:35 ID:l1rTRtrhT.
アンアン。

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スレッドタイトル:聖書 Part13

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