
間違ったものを信じてしまったこと以上にも、 
 間違っていようとも信じようとしたことこそは、最大の過ちではなかったか?   
 西洋では、完全誤謬信仰ほどもの勢いでキリストを信仰することこそは、美徳ともされていた。 
 南北戦争時代のアメリカなどで、南部のアメリカ人が奴隷制の廃止に執拗に反対していたのも、 
 主人に対しては有無を言わず絶対服従であろうとする奴隷のあり方が、完全誤謬信仰の敬虔さにも 
 比肩するものであるために、奴隷がある種の「倫理的な存在」であるとすら見なされていたからだ。   
 一方、儒家の五常「仁義礼智信」のうちでは、この順番の通り、「信」こそは最低位の理念とされる。 
 もともと孟子が「仁義礼智」の四つの理念を「四端」として提示し、後に荀子が王侯同士での盟約の 
 厳粛さなどを根拠に「信」を定立し、前漢の代に董仲舒がこれらを合体させて「仁義礼智信」とした。 
 そういった五常の成立の経緯からも、「信」こそは、五常の内でも特筆して低位な理念であることが 
 紛れもないわけだが、儒家においてそれほどにも「信」が低位な理念として扱われてきたのも、 
 「信」が完全誤謬信仰の様相すらをも来たさざるを得ない場合がある理念であるからこそだった。   
 危篤状態に陥った父親が、朦朧にかられておかしな遺言を発したのを、死後に反故にした息子の逸話が 
 「礼記」や「左伝」にも書き留められているとおり、儒家では完全誤謬信仰級の絶対的な服従意識などに 
 即して物事が為されることが「非礼」としてすら扱われている。絶対信仰に根ざした完全服従などは 
 ろくなものではないという認識で一律されていたから、主人への絶対服従を強いられる奴隷なども 
 決して倫理的な存在などとしては扱われず、実際に日本でも鎌倉時代から奴隷制が撤廃されている。   
 信を絶対化するというのなら、自動的に完全誤謬信仰もまた絶対的な意義を帯びる。 
 優良なものを信じて劣悪なものを信じない分別なども二の次三の次とされて、あからさまな過ちを 
 犯そうとしている主人すらをも追従する奴隷的な態度こそは由とされる。そこからもう、過ちだったはずだ。 
 間違ったものを信じる以上にも、間違っててもいいから信じていようとする態度こそが、最大の過ちだった。
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