完全誤謬信仰 邪教信仰の正体


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001 2012/06/09(土) 15:58:20 ID:VWU.vCMbWQ
邪教の定義といえば、「閉鎖的」「不正利得が目的」「卑猥な性奥義がある」
といったものが代表的とされる。これらは別に間違った定義であるとも
言い切れないが、邪教一般の定義としては、それぞれに特殊過ぎるものである。

邪教の最も普遍的な定義は、「完全誤謬信仰を内包している」である。

「完全誤謬信仰」とは、
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
という信仰のことだ。

信者に1+1=3の絶対肯定すらけしかける邪信の根本理念、それが完全誤謬信仰。
この信仰に陥った宗教信者は極度に蒙昧な白痴、完全なる馬鹿ともなる。

衆生を愚民化することは、今だとメディア洗脳などで無宗教的にも行われているが、
邪教に基づく完全誤謬信仰は、信者がそれを積極的に嗜好し、頑なに信仰を
固持し続けようとすらするものであるために、単なる公共への垂れ流しによって
画策されるメディア洗脳などよりも、さらに度し難い側面を持っているのである。

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002 2012/06/09(土) 18:34:52 ID:5rOD6KAS.2
003 2012/06/09(土) 18:48:30 ID:DaWb8yD.qU:au
癪にさわるということは、思い当たる所があるんだろうな。
正直でよろしい。

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004 2012/06/09(土) 18:48:35 ID:VWU.vCMbWQ
完全誤謬信仰こそは、邪教信仰の「酩酊」の源泉でもある。

「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」という
信仰を脳内に満たせば、それによってあらゆる論理的な思考回路がショートする。
それにより、アルコール摂取で脳細胞が麻痺した場合のような快楽にも見舞われる。

必ずしも完全誤謬信仰に依らずとも、完全誤謬信仰並みの酩酊にかられることはある。
アル中患者や、幼少期に最低限健康で文化的な生活に与れなかった人間などが、飲酒や
癇癪などの手段によって、己れの脳内を完全誤謬信仰並みの酩酊で満たすこともある。

アル中患者が禁酒や節酒に務めることが困難であるようにして、完全誤謬信仰者が
自己酩酊を節制することも困難なことだし、生まれや育ちが極度に不遇であった
人間が、癇癪によって非論理性へと逃避するようにして、完全誤謬信仰者もまた、
酩酊へと逃避しないではいられないような諸事情があったりするのである。

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005 2012/06/09(土) 19:10:24 ID:VWU.vCMbWQ
マルクスは、「宗教はアヘンだ」と言ったが、
完全誤謬信仰を内包している邪教こそは、特定してアヘン並みの
麻薬性を兼ね備えるのであり、完全誤謬信仰を排した正当な信教であれば、
中毒レベルの麻薬性などは決して伴わないのである。

完全誤謬信仰を内包していることが邪教の条件であるのとは逆に、
一貫して完全誤謬信仰を排除し抜いていることこそが、正当な信教の条件である。
それにより、完全誤謬信仰レベルの酩酊に耽ることを避けるように信者に促し、中毒級の酩酊に
耽ることに逃避したりはしないで済むぐらいの、正しい思考や言動をも心がけさせるのである。

してみれば、完全誤謬信仰を内包している聖書信仰のような邪教は、
確かにアヘンも同然であるといえる一方、完全誤謬信仰を排除する正統仏教などの
正当な信教は、むしろアヘン中毒級の中毒を予防や治療すらしてくれるものであるといえる。

必ずしも信教などに依らずとも、飲酒や癇癪などによって人間が完全誤謬信仰級の
酩酊にかられることもあるわけで、宗教一般を信仰することでもしないことでもなく、
完全誤謬信仰を特定して排除することこそが、アヘン並みの麻薬性に溺れない条件となる。
その中には、完全誤謬信仰を特定して排除する信教こそを信仰することもまた含まれるのである。

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006 2012/06/09(土) 19:34:04 ID:PccTxmypaE
あぁ、そうか?

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007 2012/06/09(土) 21:21:57 ID:DaWb8yD.qU:au
完全誤謬信仰の酩酊に溺れているからこそ、邪教の信者は、常人なら
鼻つまみもの扱いして遠ざけるような凶行をも、平気でやってのけるわけだよ。

善因楽果、悪因苦果の罪福の道理は、それはそれで普遍的なものではあるが、
悪因苦果の苦しみを紛らわすことができるものも、それはそれで一応ある。

信教において、それは完全誤謬信仰であるといえ、酒や麻薬に頼ることもなく、
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
という論理の服用だけによって、悪因苦果を感じ取る神経をも麻痺させる。

罪服が天地万物三千大千世界に遍在するにも関わらず、
悪因苦果をもたらす悪逆非道を確信的に行う邪教が存在するのも、
偏に完全誤謬信仰の酩酊が悪因苦果の苦しみを覆ってしまうからに他ならない。

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008 2012/06/09(土) 21:52:23 ID:VWU.vCMbWQ
完全誤謬信仰者が、
「私は自分の信じているものが完全に間違っていると認めます」
などと明言することもありはしないのだ。

本人としては、あくまで信仰の対象が正しいものだと思っている。
ただ、その信仰の度合いが「完全に間違っていたとしても信じる」という程にも
強烈であり、その信仰の強烈さによって、1+1を3にも4にもしてしまえる酩酊に没入する。
1+1が3にも4にもなる酩酊のさ中にあるから、完全に間違っている信仰対象であろうとも
「間違っていない」「完全に間違っていない」「完全に正しい」と開き直ることができる。

だから完全誤謬信仰者が、別に「私が信じているものは完全に間違っている」
などと認めたりすることもなく、未だ完全誤謬信仰のさ中にある限りにおいて、
「私の信じているものは正しい」「完全に正しい」とも決め込むのである。

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009 2012/06/09(土) 22:22:16 ID:VWU.vCMbWQ
親鸞聖人が、弟子(門人)に「ちっとも極楽浄土なんか行きたくありません。ずっと現世に
止まっていたいです」と言われたとき、「親鸞も同感じゃよ」と答えたというエピソードや、

蓮如上人が、寺の本尊の阿弥陀如来像を枕に昼寝をしている一休和尚を見つけて、
「俺の商売道具に何をする!」と叱り付けて共に笑い飛ばしたというエピソードなど、

ちぃーっとも、完全誤謬信仰の場合に見られるような「信仰の強烈さ」が垣間見られない。

その「正信故の余裕」は、諸々の真宗信者にも落とし込まれて、真宗の坊主や信徒こそは、
信仰への敬虔さが寸分も垣間見られない、生臭仏教徒の代名詞ともなっている。

しかし、それも真宗の信仰が完全誤謬信仰などではないからこその、シラフさの現れである。
生臭なのは、真宗に戒律や修行事項がないからで、別に信仰が疎かだからではない。

生臭な上に敬虔さも見られないものだから、信仰すら疎かなものと勘違いされかねないが、真宗の
信仰もまた磐石なものであり、ただ完全誤謬信仰者に見られるようなわかりやすい敬虔さこそは
信仰の証であるなどと思い込んでいる人間からすれば、自業自得で捉え所がないだけのことである。

出家修行などの厳重な正法の実践に敬虔であるのは善いことだが、ただの信仰に敬虔であるという
のは考えものである。なぜならそれは、完全誤謬信仰を原因とした敬虔さの可能性があるからで、
完全誤謬信仰に基づいて信仰に敬虔であるぐらいなら、むしろ信仰などしないほうがマシなのである。

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010 2012/06/10(日) 00:19:34 ID:u67XLiVHkI
おもしろいよ
今読んだ限りでは私は、完全誤謬信仰の典型は
施政者の思考のように思えた。
白を黒と言わねばならない立場のかわいそうな人たちだ。
が、この話はこの先どこへいくのか。

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011 2012/06/10(日) 09:05:48 ID:gzAzJGrcNA:au
信仰対象が客観的に見て正しいかどうかなどはどうでもいい、
ただ、自分が信じているものだからそれは正しい。
信じる以上はそれを正しいものだと断定する。その時確かに、
本人自身の信仰自体は、完全誤謬信仰に陥っている。

「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
というほどもの勢いによって、対象を信じている。
だからこそ「信じているから」などという自家中毒的な理由によって、
信仰対象が無条件に正しいものであるなどと断定することもできる。

信仰対象が正しいか間違っているかなどとは無関係に、
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
というほどもの勢いで対象を信じること自体が、完全誤謬信仰である。

邪教こそは、それほどもの信仰の勢いによって、
教義の劣悪さから信者に目を背けさせている必要がある。
でないと、ボロが出るから。

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012 2012/06/10(日) 13:35:47 ID:6z1tKgxaa.
悪因苦果の罪福異熟が天地万物に恒久普遍であるからこそ、
邪教の完全誤謬信仰もまた、甚だしい中毒性を帯びる。

良心の呵責からなる苦痛を呼び込む悪行を為してから、
邪教の完全誤謬信仰からなる酩酊によって、気を紛らわす。
酩酊で気を紛らわしたところで、悪行の罪を順当な処罰によって
償いでもしない限りは、悪因苦果も持ち越されたままである。
酩酊が途切れれば、また甚大な苦痛に見舞われるので、
(逃亡犯や現行犯で居続けたがための多重の苦しみも加味される)
罪を罰によって償わない限りにおいては、完全誤謬信仰の
酩酊によって気を紛らわさずにはいられなくなるのである。

悪因苦果と、それを紛らわすための酩酊とでの悪循環。
それを最も汎用的に実現するのが、邪教の完全誤謬信仰であり、
ある程度以上に精神が薄弱な人間にとっては、酒や麻薬の快楽に
頼る以上にも容易く、また恒常的に嗜めるものとなるのである。

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013 2012/06/11(月) 15:33:58 ID:q70KQJb6HQ:au
完全誤謬信仰に没入できる程にも精神の薄弱な人間は、たとえば「論語」中で
「小人」という言葉で表現されている人種の性向を概ね備えているし、
仏教教義において「餓鬼」とか「畜生」とかいった言葉で表現される事物の性向をも多少は兼ね備えている。
(完全誤謬信仰に没入することでこの傾向は深刻化もする)


「聖人や賢人とまではいかない」という意味で「論語」で用いられている「善人」や、
仏道や天道と比べれば程度の低いものとされる「人道」に相当する品性すら
備えられていたなら、人が完全誤謬信仰に陥ったりすることはない。
善人や人道に要求される程度の精神力だけでも、
人が完全誤謬信仰への没入を抑止することは十分に可能である。

善人や人道程度の境地にある人間であれば、麻薬にも手を出さない。
酒や煙草程度なら手を出しても、麻薬や完全誤謬信仰にまでは手を出さない。
それらにまで手を出そうとする程もの不埒さを、あらかじめ自制しているから。

もちろん、酒や煙草や色事にすら手を出さない境地というのもあるが、
最低限、麻薬や完全誤謬信仰ぐらいには手を出さないという善人や人道の境地が、
社会的に容認されるに値する最低限の域でもあるといえ、
さらにそれ以下、麻薬や完全誤謬信仰にすら手を出してしまう域こそは、
もはや社会的な容認すらされるべきでない、アウトローの域であるといえる。

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014 2012/06/12(火) 06:12:31 ID:Zq3zEtFBIA

 ちゃんと気が付くかな?  信仰よりも・・・・愛し合う事ですよ。

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015 2012/06/12(火) 08:01:45 ID:s8zhKzHYoA
既に語りつくされ分析されつくされた事を、さも自分が解き明かしたかのように。

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016 2012/06/12(火) 11:03:43 ID:tzg0QeFmwk:au
その割りには、宗教信仰全般を否定したり肯定したりする論調しかどこにも見られないがね。

完全誤謬信仰を内包している信教と、そうでない信教の分別が付いているんなら、
前者を排して後者を保護していくこともまたできるはずだが。

実態は全くそうではなく、信教全般が是認されることで、麻薬性の強い完全誤謬信仰込みの邪教が
蝗害級に蔓延したり、その反動で信教全般が否定されて、完全誤謬信仰など内包していない
素朴な正信までもが十把一絡げな批判対象となったりしてばかりいるわけだが。

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017 2012/06/12(火) 11:48:28 ID:hilhcFHMx2
「完全誤謬信」なんて言う、なんとなく
偉そうに聞こえる言葉を思いついたので
とりあえず、スレ立てしまったのかな!?

「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
って書いてるけど、特定の宗教を盲信してる人達などは
そもそも、自分たちの信仰が「間違っていても」なんて言わないでしょう。

ただ、(世間一般で考えられている)邪教と
他の宗教とを見分ける判断基準に関しては、面白い論点だと思います。

この前読んだメルマガに、見分け方の一つが紹介されてました。
お経の中に「依法不依人」と言う言葉があるそうです。
「仏法を拠り所としても、人を拠り所としてはいけない」と言う意味です。
既存の仏教教団は、教祖の言葉がどのお経のどの部分を指すのか
重視するのに対し、新興宗教教団は「教祖の言葉」が全てで
お経に書かれていない事を言いだす傾向にある。
宗教に限らず「ソースは自分」と言いだす人間は信頼するに値しない。
そう考えるのが賢明だとの事。

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018 2012/06/12(火) 13:32:24 ID:tzg0QeFmwk:au
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
>って書いてるけど、特定の宗教を盲信してる人達などは
>そもそも、自分たちの信仰が「間違っていても」なんて言わないでしょう。
それに対する答えは>>8ですでに書いている。完全誤謬信仰の肝要は、
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」
という程もの勢いで、信者が対象を狂信することであるとも>>11に書いている。

 
「閉鎖的で利殖を志す」ということであれば、ユダヤに限らずとも、
日蓮宗の一派などでも該当する。「卑猥な性奥義がある」ということでも、
グノーシズムなどに限らず、真言宗の一派などについてもあてはまる。

聖書教か仏教かなどに依らず、上記のような定義に基づいて邪教と見なせる宗派は
存在するので、聖書教を邪教と見なし、仏教を邪教ではないと見なす根拠にはならない。

しかし、今の世で聖書教こそは人類を滅亡へと陥れるほどもの災禍を招いている一方、
仏教は比較的活動を自粛して、総体的には世の中にかける迷惑を最小限にも控えている。

総体として、聖書教が人類を滅亡に陥れる邪教であり、仏教がそのような性向を
持たない善教であることが実証されているわけだが、では、聖書教全般を邪教と見なし、
仏教全般を邪教ではないと見なす根拠となる、邪教の「純粋な定義」は何だろうか。

それこそは、「完全誤謬信仰を内包している」という定義である。
聖書教は正統か異端か、多数派か少数派かなどに関わらず、必ず完全誤謬信仰を
帯びているのに対し、仏教で正統とされている宗派、多数派である教派などは必ず
完全誤謬信仰を排している。一部の少数派や異端派などに、完全誤謬信仰めいている
信仰までもが必ずしもなくはないが、あくまで少数の異端派止まりであるため、仏教
という信教が総体として、聖書教のような人類破滅の元凶となったりすることはない。

「完全誤謬信仰を内包している」という定義に基づく邪教こそは、確かに
人類滅亡の温床にすらなる。だからこそ「邪教」の定義としても最勝なのである。

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