みそ「富や貴い身分は誰しもが欲する所だが、 
 正しい道義に基づいていないのなら、それらを得てはいけない」 
 (権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・五より)   
 くそ「不正にまみれた富で友達を作りなさい」 
 (権力犯罪聖書——通称聖書——ルカ禍音書16:9より)   
 たとえば、全く相反する意味を持つこれら二つの主張を同時に容認したとすれば、 
 それは「矛盾許容論理」が発動することとなるわけで、それは、論語と聖書が本屋の同じ本棚に 
 仲良く並べられていたりする、今という時代を全面的に支配している論理であるともいえる。   
 この論理は、相反する主張のうちでも、特に正しくないほうの主張、劣悪な主張である側にとっては 
 全く問題がない一方で、正しいほうの主張、優良な主張である側にとっては、問題があり過ぎるわけで、 
 あたかも味噌と糞の混合物が、糞のような廃棄物として扱うことはできても、味噌のような食べ物としては 
 扱うことがもはやできないように、矛盾を許容するみそくその論理は、糞の側ばかりとっての一方的な 
 味方となり、味噌である側にとってはただただ一方的な敵になるばかりだという、普遍法則がある。   
 このようなみそくその論理の蔓延の弊害としての、味噌の側の一方的な損失と、糞の側の一方的な利得の 
 増長を食い止めるためには、糞の側にあたるものを、十分な否定や劣後の対象にする必要がある。   
 たとえば、論語と聖書の場合でいえば、劣悪な主張ばかりを羅列した聖書の側を発禁処分にしたり、 
 禁書にまではしなくても、有害図書指定を施すなどして、本屋や図書館の一般書コーナーからは追い出す 
 などの措置を講ずることがそれにあたり、そこまでの措置を講ずることで初めて、論語のような 
 優良な主張ばかりを列挙した良書の価値もまた、活かされていくことができるようになる。   
 現代社会は、とにもかくにも矛盾許容論理=みそくその論理が全体性を征服してしまっている社会であり、 
 それを「平等化社会」などという言葉で美化する人間もいるが、実のところ、みそくその論理が普遍化して 
 しまっている世の中というのは、糞の側ばかりにとって一方的な得になり、味噌の側にとってはただただ 
 一方的な損失を被らされるばかりであるだけの、世の中であるのだということを勘違いしてはならない。
 
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