実は、俺も子供のころ、ほんの一時だけスーパーカーに憧れてたことがあるんだが、
あまりにもの実用性のなさや、事故一つで大破する儚さですぐに萎えたもんだ。
車に燃費や運搬性のような実用性を要求すれば、自動的に軽やミニバンになる。
そもそも「自動車」という規格自体が、どちらかといえば名画よりも便所紙寄りの、
利用価値を高めることで存在価値を失っていく部類の物品だと知れたわけである。
刀もまた、決して実用性を蔑ろにしていいような器物ではない。
鎌倉期の太刀は馬上からの斬り付けのために、戦国期の片手打は集団での徒士戦のために、
江戸期の新刀は剣術稽古のスキルを応用しやすいように最善の作り込みがなされていて、
その上で、美術研磨を施せば無類の美しさを放つ神々しさをも兼ね備えている。
時勢によっては、武具としての高い実用性を帯びながらも、戦がなくなり、斬首刑すら
ろくに行われなくなるほど平和の確立された時代には、実用品としての価値を失う代わりに、
美術品としての存在価値を高めていく、そのような万能性を帯びているのが日本刀であり、
ただひたすら存在価値ばかりを追い求めている部類の宝物などとは、また意味合いが異なる。
存在価値と利用価値を高い次元で両立させられるのが器物にとっての理想ではあるが、
残念ながら未熟な物欲の持ち主たちからの需要によって、両者が相反するようなモノばかりが好き好まれて、
近代工業もまたその手の物品ばかりを儲け目的で量産し、世界をゴミで溢れ返らせてしまったのである。
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