スーパーカーみたいな実用性の低い車にもまた、
ある種の利用価値があるのは確かだろう。運用資産などとしての。
落書きみたいな現代アートにも何十億という値が付いたりするように、
存在価値を投機目的で水増しするという試みが、特に金満社会では
よく試みられるために、おまえらも「存在価値なんて意味がないw」
と思い込んでしまうようになったのではないか。
俺が言っている「存在価値」というのは、それとはまた別で、
本物の名刀名器や名画が後続の規範となることで、大いなる福徳を人間社会に
もたらして来たがごとき、本質的な貴重さを帯びている場合に限るもの。
大包平の長さに対する軽さなどは、未だに十分な再現が果たせてもいないから、
「もう超えられたから破棄してもヨシ!」なんてことにも、当然できない。
後から後から、さらなる長所が発見できる可能性などもあるから、なおのこと。
俺のいう「存在価値」には、かくのごとき数多の根拠が具わるものだけれども、
存在価値なんて単なる投資対象としての価値ぐらいにしか思えていないが故に、
モノに普遍的な価値などあり得るはずがないと思い込んでしまったりもするのだろうな。ウンウン
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