人間という生き物は醜い(特に外見) 東洋的審美眼の真骨頂
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近ごろ、各地の博物館や刀剣店などを巡って各種の名刀を目にしてるんだが、
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
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男たるもの、軟弱なイケメンの美しさなどあっても恥ぐらいに思うべき
という考えから、美しさ全般を忌み避けるような考えにも陥りがちだけども。
(俺もそうだったように)
それでは単なるガサツ者になりかねないし、
かといって異性の美しさなどにたぶらかされるのもまた軟派に振れすぎる。
刀の美しさや、それに準ずるような機能美の美しさこそを愛でることで、
ガサツと軟派の両方を排した悠然たる大丈夫となる。
もちろん、男らしさとして尊ぶべき程度の武骨さは保ち続けるし、
結婚して子孫を拵えるため程度の異性関係は持つ。
野蛮人でもなければ軟弱な俗人でもなく、かといって坊さんでもない、
あらゆる面において一つ覚えの痴態を排し去った人の鑑となる。
という考えから、美しさ全般を忌み避けるような考えにも陥りがちだけども。
(俺もそうだったように)
それでは単なるガサツ者になりかねないし、
かといって異性の美しさなどにたぶらかされるのもまた軟派に振れすぎる。
刀の美しさや、それに準ずるような機能美の美しさこそを愛でることで、
ガサツと軟派の両方を排した悠然たる大丈夫となる。
もちろん、男らしさとして尊ぶべき程度の武骨さは保ち続けるし、
結婚して子孫を拵えるため程度の異性関係は持つ。
野蛮人でもなければ軟弱な俗人でもなく、かといって坊さんでもない、
あらゆる面において一つ覚えの痴態を排し去った人の鑑となる。
刀剣文化を発達させた日本人に限らず、東洋人は全体的にヒトという
生き物の外見上の美しさなどを、さほど重視して来なかったようである。
だから歴史上の偉人の肖像画や彫像も粗末なものが多いし、
服飾や髪型もあまり身体の線を強調しないようなものを重用して来ている。
人体の造形というものをあまり美化したがらなかったのは、
肉体を不浄なものと断じている仏教思想の影響などもあるだろうし、
貴人ほど身体の線を隠すような服装を好んで来ているのは、
「易経」繋辞伝における(おそらく孔子の)推奨にも基づいているものである。
美術文化そのものはそれと別に大変発達しており、
仏像彫刻などもギリシャ彫刻を上回るような技法で作られたものが多々見られるが、
それにしても仏様自体は、筋骨隆々でも何でもない微妙な容貌に彫られたものばかり。
仏菩薩よりも格が低いとされる明王や天部がいかめしい筋肉質で造形されることが多い
ことからも、それこそがより偉大な大悟の境地として確信的に形作られていることが確か。
生き物の外見上の美しさなどを、さほど重視して来なかったようである。
だから歴史上の偉人の肖像画や彫像も粗末なものが多いし、
服飾や髪型もあまり身体の線を強調しないようなものを重用して来ている。
人体の造形というものをあまり美化したがらなかったのは、
肉体を不浄なものと断じている仏教思想の影響などもあるだろうし、
貴人ほど身体の線を隠すような服装を好んで来ているのは、
「易経」繋辞伝における(おそらく孔子の)推奨にも基づいているものである。
美術文化そのものはそれと別に大変発達しており、
仏像彫刻などもギリシャ彫刻を上回るような技法で作られたものが多々見られるが、
それにしても仏様自体は、筋骨隆々でも何でもない微妙な容貌に彫られたものばかり。
仏菩薩よりも格が低いとされる明王や天部がいかめしい筋肉質で造形されることが多い
ことからも、それこそがより偉大な大悟の境地として確信的に形作られていることが確か。
そういった風潮が完全に人口に膾炙していたのは、日本なら江戸時代までで、
明治以降は肖像画を実物以上に美化して描いたりする西洋の風習が持ち込まれた。
右画の東郷平八郎などは本人も実際に美男子だったというし、古写真にも、
今の尺度でも美男美女と言えるような男女がそれなりにいたりするから、
美形を世界標準的な価値観で持て囃す傾向もそれなりにあったことが分かる。
しかし、人の美醜を普遍的な美醜と取り違えるようなことまではなく、
極端な言い方をすれば「性器の具合の良し悪し」ぐらいに低俗な要素止まりに
扱われていたものだから、そう大々的にあげつらわれることもなかったわけである。
そんな古き良き清浄文化も徐々に鳴りを潜め、敗戦後ともなれば、
そんな価値観が昔存在していたことまでもが完全に忘れ去られてしまった。
日本人が総出で色ボケに陥り始めたのもその頃からだし、あたかも日本人が
世界標準並みの美意識を持ち始めたように思い込まれている戦後こそは、
日本古来の美意識が完全に形骸化してしまった契機であるといえよう。
明治以降は肖像画を実物以上に美化して描いたりする西洋の風習が持ち込まれた。
右画の東郷平八郎などは本人も実際に美男子だったというし、古写真にも、
今の尺度でも美男美女と言えるような男女がそれなりにいたりするから、
美形を世界標準的な価値観で持て囃す傾向もそれなりにあったことが分かる。
しかし、人の美醜を普遍的な美醜と取り違えるようなことまではなく、
極端な言い方をすれば「性器の具合の良し悪し」ぐらいに低俗な要素止まりに
扱われていたものだから、そう大々的にあげつらわれることもなかったわけである。
そんな古き良き清浄文化も徐々に鳴りを潜め、敗戦後ともなれば、
そんな価値観が昔存在していたことまでもが完全に忘れ去られてしまった。
日本人が総出で色ボケに陥り始めたのもその頃からだし、あたかも日本人が
世界標準並みの美意識を持ち始めたように思い込まれている戦後こそは、
日本古来の美意識が完全に形骸化してしまった契機であるといえよう。
足の裏が世界最高峰の造形とまで言われているほど、
細部まで精緻の限りを尽くした作り込みでいて、
総合的にはやはり一般的な仏像の規格に落ち着いている。
ギリシャ彫刻の影響を受けた初期の仏像は露骨なほどに写実的だった一方、
そこから一旦無益な肉体美を排する抽象化の道を辿った上で、
またある程度の写実性に立ち返り始めていた時代の傑作。
東博などで歴史を追いながら見比べて来たが、
これ以前の仏像は背骨の湾曲を強調した女性的な体つきである一方、
だんだんと背筋のまっすぐな男性的な体つきになっていることもわかる。
安易な肉体美などとは全く別の次元で、ある種の美しさを仏像の人体造形も
表現しようとして来ているのであり、そこに見惚れるほどの感傷を
抱けるようなら、そこで悟りをも開けるようになっているようである。
細部まで精緻の限りを尽くした作り込みでいて、
総合的にはやはり一般的な仏像の規格に落ち着いている。
ギリシャ彫刻の影響を受けた初期の仏像は露骨なほどに写実的だった一方、
そこから一旦無益な肉体美を排する抽象化の道を辿った上で、
またある程度の写実性に立ち返り始めていた時代の傑作。
東博などで歴史を追いながら見比べて来たが、
これ以前の仏像は背骨の湾曲を強調した女性的な体つきである一方、
だんだんと背筋のまっすぐな男性的な体つきになっていることもわかる。
安易な肉体美などとは全く別の次元で、ある種の美しさを仏像の人体造形も
表現しようとして来ているのであり、そこに見惚れるほどの感傷を
抱けるようなら、そこで悟りをも開けるようになっているようである。
先祖代々の栄養不足による小柄化、胴長短足、
骨盤後傾でのヒョロガリ化、巻き肩によるコケシ体型化、…
肉体そのものをそこまで美化しようともして来なかった痕跡は、
現代の美男美女扱いな日本人に至るまで尾を引き続けているし、
中途半端な衣食住の西洋化によって身長ぐらいは伸びながら、
相応のタンパク質摂取が足りてないことによる筋肉量不足が、
昔の日本人にはなかったような身体の歪みや、そのせいでの
新疾患 (ロコモティブ症候群)を招くことともなってしまっている。
人口密度では欧州諸国の5倍以上、アメリカと比べれば10倍以上という
(だだっ広くて人がいないと言われてる北海道でも欧州並みだという)
国土のせまっ苦しさの中で、これ以上日本人が総出で恵体を志しても
邪魔にしかならないのだから、大谷や渡邊みたいな恵体を持て囃すよりも前に、
肉体美なんかを無闇に称賛することの低俗さのほうが見直されて然るべきだといえる。
骨盤後傾でのヒョロガリ化、巻き肩によるコケシ体型化、…
肉体そのものをそこまで美化しようともして来なかった痕跡は、
現代の美男美女扱いな日本人に至るまで尾を引き続けているし、
中途半端な衣食住の西洋化によって身長ぐらいは伸びながら、
相応のタンパク質摂取が足りてないことによる筋肉量不足が、
昔の日本人にはなかったような身体の歪みや、そのせいでの
新疾患 (ロコモティブ症候群)を招くことともなってしまっている。
人口密度では欧州諸国の5倍以上、アメリカと比べれば10倍以上という
(だだっ広くて人がいないと言われてる北海道でも欧州並みだという)
国土のせまっ苦しさの中で、これ以上日本人が総出で恵体を志しても
邪魔にしかならないのだから、大谷や渡邊みたいな恵体を持て囃すよりも前に、
肉体美なんかを無闇に称賛することの低俗さのほうが見直されて然るべきだといえる。
戦後における、日本人の西洋的耽美を推し進める
最大級の代表者となったのが他でもない、あの三島由紀夫である。
右翼の精神的支柱だとか、近代最後の文豪だとかのイメージが強いが、
それらと同時にどういうわけだか本人が好んでいたのが、西洋的な肉体美。
おそらくは西洋的美と東洋的美を混同しながらの唯美主義によって、
東洋文化からはかけ離れるような裸体美の追及にも及んでいたのである。
三島の愛国論や日本文化への賛美自体は見るべきものも多いのに、
このような悪趣味極まる肉体主義と抱き合わされたせいでクソミソに
それらのイメージも悪化し、保守が鼻摘まみ者扱いをされる原因ともなった。
本人が憂慮していたとおり、古来の日本人の精神性は年を重ねるごとに衰退
して行ったが、三島もまたその原因を作った一員であることには変わりない。
小柄で文弱だった三島が下手の横好きでひけらかしたボディビルなどの
肉体主義志向自体は、また別のところでろくな精神性を帯びたりすることも
ない形で興隆し、その点では本人の好みが部分的には受け入れられたともいえる。
東洋的美と西洋的美が到底相容れないことをその体現によって示し、
ほとんどの日本人に前者を棄てて後者を採ることを選択させた三島の業績は、
東洋的審美眼こそを尊ぶ立場からすれば、百害あって一利ないものであった。
最大級の代表者となったのが他でもない、あの三島由紀夫である。
右翼の精神的支柱だとか、近代最後の文豪だとかのイメージが強いが、
それらと同時にどういうわけだか本人が好んでいたのが、西洋的な肉体美。
おそらくは西洋的美と東洋的美を混同しながらの唯美主義によって、
東洋文化からはかけ離れるような裸体美の追及にも及んでいたのである。
三島の愛国論や日本文化への賛美自体は見るべきものも多いのに、
このような悪趣味極まる肉体主義と抱き合わされたせいでクソミソに
それらのイメージも悪化し、保守が鼻摘まみ者扱いをされる原因ともなった。
本人が憂慮していたとおり、古来の日本人の精神性は年を重ねるごとに衰退
して行ったが、三島もまたその原因を作った一員であることには変わりない。
小柄で文弱だった三島が下手の横好きでひけらかしたボディビルなどの
肉体主義志向自体は、また別のところでろくな精神性を帯びたりすることも
ない形で興隆し、その点では本人の好みが部分的には受け入れられたともいえる。
東洋的美と西洋的美が到底相容れないことをその体現によって示し、
ほとんどの日本人に前者を棄てて後者を採ることを選択させた三島の業績は、
東洋的審美眼こそを尊ぶ立場からすれば、百害あって一利ないものであった。
古来より、戦場にあえて裸体で繰り出す武者など居りはせん。
甲冑でも鎖帷子でも、刺子の着物一枚でもいいからなるべく羽織って、
主君や親に仕える身の程である我が命を極力守ろうとする。
本人としては、東洋的美と西洋的美の止揚を実現した
ベストショットの一つのつもりだったのだろうが、
実際にはただの一枚で両者の矛盾性を明示する戯画となっている。
本人も空手家で、合気道の達人である塩田剛三をボディガードにしていた
田中清玄氏のほか、本式の武道を知る人々の三島への評価もすこぶる低い。
この写真における刀の握りもデタラメだし、武道についてはかじった程度で
ろくに取り組んでいなかったのが、多少覚えがある程度の人間からも明らか。
そして何より、彼の美学に賛同できないという武道家が幾人もいる。
武の嗜みだけでなく、文学者としては本領であるはずの精神面における
美意識自体が稚拙で評価に値しないものだと、三島以上に命を危ぶむ経験を
何度も積み重ねていた武道家が話していたのを、俺も聞いている。
甲冑でも鎖帷子でも、刺子の着物一枚でもいいからなるべく羽織って、
主君や親に仕える身の程である我が命を極力守ろうとする。
本人としては、東洋的美と西洋的美の止揚を実現した
ベストショットの一つのつもりだったのだろうが、
実際にはただの一枚で両者の矛盾性を明示する戯画となっている。
本人も空手家で、合気道の達人である塩田剛三をボディガードにしていた
田中清玄氏のほか、本式の武道を知る人々の三島への評価もすこぶる低い。
この写真における刀の握りもデタラメだし、武道についてはかじった程度で
ろくに取り組んでいなかったのが、多少覚えがある程度の人間からも明らか。
そして何より、彼の美学に賛同できないという武道家が幾人もいる。
武の嗜みだけでなく、文学者としては本領であるはずの精神面における
美意識自体が稚拙で評価に値しないものだと、三島以上に命を危ぶむ経験を
何度も積み重ねていた武道家が話していたのを、俺も聞いている。
自衛官が堕落していたからでも、三島が生まれつきの貧体だからでもない。
一番根本的なところの美意識に致命的な欠陥があったからこそ、
ただ一人の賛同者も現場で得られることなく惨めに死んでいったのだ。
切腹の介錯を頼んだ男と事前に同衾までしていたという、悪趣味の極み。
生粋の同性愛者だからではなく、それが東西の美意識の止揚の完成形になると
見込んでの確信犯だったのだから、勘違いの醜態こそがそこで完成されたと言える。
男色は実際、昔の日本にもあったが、それも色事全般を不浄なものと戒める
仏教的価値観の流布があった上でのことである。むしろその不浄の戒めのほうが
本懐であったのにも関わらず、不浄の開き直りとしてごく一部に持て囃されていた
過度の好色のほうを本体と見たあたり、根本的に馬鹿だったのである。
帝大時代の東大を出て大蔵省に入ったという経歴から見て、単なる馬鹿ではない。
戦後における「天才バカボン」の走りであり、その愚かさに見合う末路だったといえる。
一番根本的なところの美意識に致命的な欠陥があったからこそ、
ただ一人の賛同者も現場で得られることなく惨めに死んでいったのだ。
切腹の介錯を頼んだ男と事前に同衾までしていたという、悪趣味の極み。
生粋の同性愛者だからではなく、それが東西の美意識の止揚の完成形になると
見込んでの確信犯だったのだから、勘違いの醜態こそがそこで完成されたと言える。
男色は実際、昔の日本にもあったが、それも色事全般を不浄なものと戒める
仏教的価値観の流布があった上でのことである。むしろその不浄の戒めのほうが
本懐であったのにも関わらず、不浄の開き直りとしてごく一部に持て囃されていた
過度の好色のほうを本体と見たあたり、根本的に馬鹿だったのである。
帝大時代の東大を出て大蔵省に入ったという経歴から見て、単なる馬鹿ではない。
戦後における「天才バカボン」の走りであり、その愚かさに見合う末路だったといえる。
閑話休題
男と女は所詮、内面的な敵対を避けられない生き物同士であり、
どちらかがもう一方に譲ることによってのみ結婚生活なども上手くいく。
現代の日本はフェミニズムとまで行かずとも、単なる人権主義だけでも
男尊女卑が固く禁じられている世の中なものだから、世の男女夫婦たちは皆、
女尊男卑を暗黙の了解とすることでなんとか関係を円滑化している状態にある。
知力であれ技術であれ体力であれ精神力であれ、
男が女に優位を示す根拠となる要素は無数にあるが、
女が男にマウントを取れる材料は極めて少ない。
出産能力は、生理のような生活上の不都合と引き換えのものである上に、
それ自体が決して美しくもなんともないグロテスク沙汰であるものだから、
男に対してマウントを取る材料にまではなりにくい。
男と女では、肉体美や顔面美を普遍的な美と受け止めやすいのが
どちらかといえば女であるものだから、これこそは最大級のマウント材料となる。
男と女は所詮、内面的な敵対を避けられない生き物同士であり、
どちらかがもう一方に譲ることによってのみ結婚生活なども上手くいく。
現代の日本はフェミニズムとまで行かずとも、単なる人権主義だけでも
男尊女卑が固く禁じられている世の中なものだから、世の男女夫婦たちは皆、
女尊男卑を暗黙の了解とすることでなんとか関係を円滑化している状態にある。
知力であれ技術であれ体力であれ精神力であれ、
男が女に優位を示す根拠となる要素は無数にあるが、
女が男にマウントを取れる材料は極めて少ない。
出産能力は、生理のような生活上の不都合と引き換えのものである上に、
それ自体が決して美しくもなんともないグロテスク沙汰であるものだから、
男に対してマウントを取る材料にまではなりにくい。
男と女では、肉体美や顔面美を普遍的な美と受け止めやすいのが
どちらかといえば女であるものだから、これこそは最大級のマウント材料となる。
さほど美人でもない場合が多い日本の女も、トップの女優やモデルの
美しさなどを見て「女とはそういう生き物なのだ」と思い込み、
男を下に見る偏見を養っては、男との付き合いに備える。
その心構えは死ぬ瞬間まで続き、自分のほうが家庭で夫より
優遇されるのも当然のことだと思い込み、夫の死後には何十年と長生きする。
実際に女が見惚れるほど美しいのなんて若い頃の一時だけだろうとて、
始めに犯した毛筋ほどの過ちが積もりに積もって千里となり、万里となる。
まず最原初の内から「人体の美しさなど普遍的な美の内にも入らぬ」
とよくわきまえさせて、女が男にマウントを取る余地など毛筋ほども残さぬ。
さすれば後から暴力などによって無理やり言うことを聞かせるまでもなく、
ほとんど全ての面で自分よりも優位にある男との正しい付き合い方を思い知るであろう。
美しさなどを見て「女とはそういう生き物なのだ」と思い込み、
男を下に見る偏見を養っては、男との付き合いに備える。
その心構えは死ぬ瞬間まで続き、自分のほうが家庭で夫より
優遇されるのも当然のことだと思い込み、夫の死後には何十年と長生きする。
実際に女が見惚れるほど美しいのなんて若い頃の一時だけだろうとて、
始めに犯した毛筋ほどの過ちが積もりに積もって千里となり、万里となる。
まず最原初の内から「人体の美しさなど普遍的な美の内にも入らぬ」
とよくわきまえさせて、女が男にマウントを取る余地など毛筋ほども残さぬ。
さすれば後から暴力などによって無理やり言うことを聞かせるまでもなく、
ほとんど全ての面で自分よりも優位にある男との正しい付き合い方を思い知るであろう。
昔の日本人が、家系図に女子の名前も載せないほどナチュラルな男尊女卑だったのも、
女が男よりも無能な上に、別段女を美の象徴だとも捉えていなかったからである。
出産みたいな惨めな能力と引き換えに、ほとんどの分野で男に劣る能力しか持たない
女という性別の、美しさにおける優位ぐらいは認めてやろうかとて、それもまた許さぬ。
それにより、女が完膚なきまでに男の下位互換扱いとなり、
有無をも言わすことなく男に付き従う身分に押し留められることとなる。
現代の女にとっては地獄にも等しい仕打ちのように映るかも知らんが、
ひるがえって現代の男が女と付き合う際には必ず受け入れさせられている仕打ちでもあり、
男の側がそれを拒む以上は、自分たちの側が甘受する以外に選択肢のない宿命である。
女が男よりも無能な上に、別段女を美の象徴だとも捉えていなかったからである。
出産みたいな惨めな能力と引き換えに、ほとんどの分野で男に劣る能力しか持たない
女という性別の、美しさにおける優位ぐらいは認めてやろうかとて、それもまた許さぬ。
それにより、女が完膚なきまでに男の下位互換扱いとなり、
有無をも言わすことなく男に付き従う身分に押し留められることとなる。
現代の女にとっては地獄にも等しい仕打ちのように映るかも知らんが、
ひるがえって現代の男が女と付き合う際には必ず受け入れさせられている仕打ちでもあり、
男の側がそれを拒む以上は、自分たちの側が甘受する以外に選択肢のない宿命である。
人体の美しさもまた一種の美しさとして認めた上で、
三島のように男の肉体美で女にマウントを取ろうとて、
そんな悪趣味に付き合える者はどこまでも少数派に止まる。
その証拠に、マッチョイズムの流行が著しいアメリカ大陸の性志向までもが見ての通り。
他国以上に女体だけへの執着が強いのは、一種の反作用とでも見るべきか。
女の美しさによるマウントを絶やす方法はただ一つ、
人体の美しさを普遍的な美しさなどとは見なさないことのみ。
その方法は、仏道帰依による色即是空の定立から、
より普遍的な日本刀の美しさへの傾倒など、いくつでもある。
仏門が形骸化している現代においては、後者のほうが手っ取り早いし、
在俗でも実践が可能である点からも、より常識化されて然るべきものである。
帯刀や所有まで行かずとも、認知が行き届くだけでも世の中が変わる。
三島のように男の肉体美で女にマウントを取ろうとて、
そんな悪趣味に付き合える者はどこまでも少数派に止まる。
その証拠に、マッチョイズムの流行が著しいアメリカ大陸の性志向までもが見ての通り。
他国以上に女体だけへの執着が強いのは、一種の反作用とでも見るべきか。
女の美しさによるマウントを絶やす方法はただ一つ、
人体の美しさを普遍的な美しさなどとは見なさないことのみ。
その方法は、仏道帰依による色即是空の定立から、
より普遍的な日本刀の美しさへの傾倒など、いくつでもある。
仏門が形骸化している現代においては、後者のほうが手っ取り早いし、
在俗でも実践が可能である点からも、より常識化されて然るべきものである。
帯刀や所有まで行かずとも、認知が行き届くだけでも世の中が変わる。
かつて女は男を魅了するため、愛する夫と歩いて恥をかかせないために着飾っていた。
今の女は自己満足のため、同性同士での馴れ合いやインスタ映えのために着飾る。
家事や仕事の邪魔になる上に、男からの評判もさほど良くないネイルアート等に凝るのも、
鏡越しでなければ見られない顔や全身と違って、自分自身が肉眼で見て楽しめる手先の装飾だから。
女がそのようであっても別に構わないとされているのも、
女の美しさこそは高尚な芸術の領域にも通ずるものと見なされているから。
女が美しいこと、それ自体に独立的な価値があるのだから、男の好むような
格好やメイクをあえて好むのは恥ずべき「媚び」だとして、同性嫌悪の対象となる。
女に眉と書いて「媚」と書くほど、女が男に媚びるのはごく常識的なこととされていたのが、
今や男が女の機嫌を伺うこと以上の恥とされる。それほどにも人体美への狂信が極まっているということ。
男の側としても、そのような狂信の支配下に置かれている以上はうまく苦言を呈することもできぬ。
そもそもそのような風潮を招いた張本人からして西洋の男なのだから、男の責任であるともいえる。
今の女は自己満足のため、同性同士での馴れ合いやインスタ映えのために着飾る。
家事や仕事の邪魔になる上に、男からの評判もさほど良くないネイルアート等に凝るのも、
鏡越しでなければ見られない顔や全身と違って、自分自身が肉眼で見て楽しめる手先の装飾だから。
女がそのようであっても別に構わないとされているのも、
女の美しさこそは高尚な芸術の領域にも通ずるものと見なされているから。
女が美しいこと、それ自体に独立的な価値があるのだから、男の好むような
格好やメイクをあえて好むのは恥ずべき「媚び」だとして、同性嫌悪の対象となる。
女に眉と書いて「媚」と書くほど、女が男に媚びるのはごく常識的なこととされていたのが、
今や男が女の機嫌を伺うこと以上の恥とされる。それほどにも人体美への狂信が極まっているということ。
男の側としても、そのような狂信の支配下に置かれている以上はうまく苦言を呈することもできぬ。
そもそもそのような風潮を招いた張本人からして西洋の男なのだから、男の責任であるともいえる。
いま、こうして女について積極的に論じ立ててみた所で、少しも浮ついた所がない。
俺自身、少しでも女が絡む話をする時には心が浮つくのを感じていたが、
「女の美しさなどは普遍的な美しさの内にも入らない」という、
このスレの趣旨に沿った文脈で話すのであれば、少しも浮つく所がない。
俺自身が愛欲から解脱したからでも、性欲が減退したからでもない。
今までにも意識的にまでは分断させて来なかった、普遍的な美意識と人体美の
倒錯こそが、そのような惑いを差し挟む元凶になっていたからである。
俺自身、少しでも女が絡む話をする時には心が浮つくのを感じていたが、
「女の美しさなどは普遍的な美しさの内にも入らない」という、
このスレの趣旨に沿った文脈で話すのであれば、少しも浮つく所がない。
俺自身が愛欲から解脱したからでも、性欲が減退したからでもない。
今までにも意識的にまでは分断させて来なかった、普遍的な美意識と人体美の
倒錯こそが、そのような惑いを差し挟む元凶になっていたからである。
どうして今まで気づかなかったのかといえば、俺については複数の名刀の
美しさに触れる機会を持ってこなかったからだが、誰しもがそのような
機会を持つだけで気付けるのかといえば、決してそこまでのことはない。
思うに、ズブの素人が初めて刀の美しさを目にした時に高確率で抱く感覚、
あの妖気にでもあてられたような感覚こそは、現代人としての自らの心中に居座る
稚拙な美意識がガラガラと音を立てて崩れ陥ちそうになっている感覚なのではなかろうか。
せいぜい、女体美あたりを最高の美だなどと思い込んでいられている
幼稚な美意識を、できることならより多くの人間に保っておいてもらいたいものだから、
「名刀には妖気がある」云々の風説によって極力、人々を刀から遠ざけようとしていまいか。
いやむしろ、それならいっそのこと、刀の美しさにあてられて目を覚ませよ!
と当然俺は思うが、婦女子諸君以上にそれが都合の悪い権力者も多かろうな。
美しさに触れる機会を持ってこなかったからだが、誰しもがそのような
機会を持つだけで気付けるのかといえば、決してそこまでのことはない。
思うに、ズブの素人が初めて刀の美しさを目にした時に高確率で抱く感覚、
あの妖気にでもあてられたような感覚こそは、現代人としての自らの心中に居座る
稚拙な美意識がガラガラと音を立てて崩れ陥ちそうになっている感覚なのではなかろうか。
せいぜい、女体美あたりを最高の美だなどと思い込んでいられている
幼稚な美意識を、できることならより多くの人間に保っておいてもらいたいものだから、
「名刀には妖気がある」云々の風説によって極力、人々を刀から遠ざけようとしていまいか。
いやむしろ、それならいっそのこと、刀の美しさにあてられて目を覚ませよ!
と当然俺は思うが、婦女子諸君以上にそれが都合の悪い権力者も多かろうな。
女の耽美症は、男ほどには色情と結び付かない一方で、
自分こそが美の本源であるという認識からの思い上がりや、
美的に思われない事物への執拗な見下しや嫌悪を招く。
それが人生の上でいつ如何なる場合においても通用するのならともかく、
現実にはそうも行かない。見た目に自分ほど美しくない男に抱かれて子を宿し、
腹を痛めて産んだその子の夜泣きに付き合い、おしめまで換えさせられる。
ちっとも思ってたように美しくはない、自分自身の女としての人生の現実に
打ちひしがれてノイローゼとなり、ひどい場合にはネグレクトや虐待にまで走る。
(そこまで行かずとも夫への当たり散らしや別居離婚沙汰ぐらいは当然の権利のように行われる)
女なんて、所詮は男の完全な下位互換に過ぎない、見た目が魅力的なのも
単なる生殖目的だという考えでいれば、そんな思い上がりが原因の苦悩に
駆られるはずもないのに、今となっては大多数の女が抱く苦悩にまでなっている。
自分こそが美の本源であるという認識からの思い上がりや、
美的に思われない事物への執拗な見下しや嫌悪を招く。
それが人生の上でいつ如何なる場合においても通用するのならともかく、
現実にはそうも行かない。見た目に自分ほど美しくない男に抱かれて子を宿し、
腹を痛めて産んだその子の夜泣きに付き合い、おしめまで換えさせられる。
ちっとも思ってたように美しくはない、自分自身の女としての人生の現実に
打ちひしがれてノイローゼとなり、ひどい場合にはネグレクトや虐待にまで走る。
(そこまで行かずとも夫への当たり散らしや別居離婚沙汰ぐらいは当然の権利のように行われる)
女なんて、所詮は男の完全な下位互換に過ぎない、見た目が魅力的なのも
単なる生殖目的だという考えでいれば、そんな思い上がりが原因の苦悩に
駆られるはずもないのに、今となっては大多数の女が抱く苦悩にまでなっている。
結婚・出産・育児という常道的な女の人生を歩まなくとも、
若い頃には美しかった女までもが加齢によっては美貌を損ない、
昔のようにチヤホヤされなくなったことを苦悩のタネとする。
それが安易なフェミニズムへの傾倒の他、諸々の妄言妄動を来たす原因ともなる。
全ては「女こそがあらゆる美の根本」という倒錯からの思い上がりを
元凶としているのであり、まさに始めの過ちの雪だるま式の肥大化に当たる。
女が着飾るのなんて遠い昔からの人類文化の伝統ではあるが、
ただ一つ、女性美なんかをあらゆる美の極致とまで思い込むような勘違いだけは
古来の多数派の常識などではなく、故に今の世の中よりも健全であった。
女が無知だったからではない。事実を正しく認識していたから健全だったのである。
若い頃には美しかった女までもが加齢によっては美貌を損ない、
昔のようにチヤホヤされなくなったことを苦悩のタネとする。
それが安易なフェミニズムへの傾倒の他、諸々の妄言妄動を来たす原因ともなる。
全ては「女こそがあらゆる美の根本」という倒錯からの思い上がりを
元凶としているのであり、まさに始めの過ちの雪だるま式の肥大化に当たる。
女が着飾るのなんて遠い昔からの人類文化の伝統ではあるが、
ただ一つ、女性美なんかをあらゆる美の極致とまで思い込むような勘違いだけは
古来の多数派の常識などではなく、故に今の世の中よりも健全であった。
女が無知だったからではない。事実を正しく認識していたから健全だったのである。
耽美症はその特性上、女が男にマウントを取る材料にしやすいものだから、
その都合の良さ故に女のほうが容易に罹患する。
仏教やイスラムへの帰依によって総出で男尊女卑を徹底している国でもない限りは、
人権意識の低い近世以前にも女が耽美症となることはよくあったようである。
(呂后や則天武后や西太后にかき回されていた頃の中国なども含め)
男の耽美症までもが恒常化するのは、たとえばキリスト教の聖母マリア信仰
などによってそれが文化的に強制された場合が主であり、男個人が自発的に
耽美症となったりするのは、発達障害などの癲狂を原因としている場合にほぼ限る。
(だから電通も頭がイカれるような広告で日本人の色ボケをけしかけ続けている)
老若男女総出で耽美症に罹患することは、女がいい気分でいられると同時に、
過度の情欲に駆られた男からの危害を終生恐れなければならない事態を招く。
実質キリスト教国な今の韓国を含め、宗教によってまで耽美症を全国民に強制
しているような国々の性犯罪率こそは極めて高く、その他の犯罪率も軒並み高い。
(国民の富裕度が高ければ、性犯罪以外の犯罪率は下がる傾向にあるようだが)
>>52に書いたようなノイローゼを女たち自身が患う原因にもなったりと、
耽美症による女の祭り上げは結局、女にとっても利害の両面が大きすぎる毒薬となる。
その都合の良さ故に女のほうが容易に罹患する。
仏教やイスラムへの帰依によって総出で男尊女卑を徹底している国でもない限りは、
人権意識の低い近世以前にも女が耽美症となることはよくあったようである。
(呂后や則天武后や西太后にかき回されていた頃の中国なども含め)
男の耽美症までもが恒常化するのは、たとえばキリスト教の聖母マリア信仰
などによってそれが文化的に強制された場合が主であり、男個人が自発的に
耽美症となったりするのは、発達障害などの癲狂を原因としている場合にほぼ限る。
(だから電通も頭がイカれるような広告で日本人の色ボケをけしかけ続けている)
老若男女総出で耽美症に罹患することは、女がいい気分でいられると同時に、
過度の情欲に駆られた男からの危害を終生恐れなければならない事態を招く。
実質キリスト教国な今の韓国を含め、宗教によってまで耽美症を全国民に強制
しているような国々の性犯罪率こそは極めて高く、その他の犯罪率も軒並み高い。
(国民の富裕度が高ければ、性犯罪以外の犯罪率は下がる傾向にあるようだが)
>>52に書いたようなノイローゼを女たち自身が患う原因にもなったりと、
耽美症による女の祭り上げは結局、女にとっても利害の両面が大きすぎる毒薬となる。
見た目もそう美しくない上に、女へのデリカシーやレディーファーストの精神まで
欠けているとされる日本の男の性犯罪率こそが、主要キリスト教国の10分の1以下で
あるのも、耽美症にまでかかっているような男の数が段違いに少ないからである。
耽美症などではないが故に、女を完全な男の下位互換と見られているからこそ、
いざ女と結婚しようものなら、責任を持って“弱者”を養ってやろうともする。
しかし日本も、女が耽美症にかかっている率は相当に上がってしまった。
女を下位の弱者として養ってやろうとする男と、自分のほうが上位の強者だと
思い込んでいる女、お互いのことを永遠に理解し合えないながらにも、男の側が
奴隷となる主従関係だけは成立し、結婚によって男は必ず地獄の余生を味わうこととなる。
自分たちのほうも耽美症のせいで家事ノイローゼや育児ノイローゼにかかってるから、
女の側も男への同情などは一切せず、逆に家事や育児まで仕事のある夫に押し付けようとする。
そのせいで男はあまりキツイ仕事ができなくなり、稼ぎが減って
共働きしなければやっていけなくなる悪循環をも招く。
欠けているとされる日本の男の性犯罪率こそが、主要キリスト教国の10分の1以下で
あるのも、耽美症にまでかかっているような男の数が段違いに少ないからである。
耽美症などではないが故に、女を完全な男の下位互換と見られているからこそ、
いざ女と結婚しようものなら、責任を持って“弱者”を養ってやろうともする。
しかし日本も、女が耽美症にかかっている率は相当に上がってしまった。
女を下位の弱者として養ってやろうとする男と、自分のほうが上位の強者だと
思い込んでいる女、お互いのことを永遠に理解し合えないながらにも、男の側が
奴隷となる主従関係だけは成立し、結婚によって男は必ず地獄の余生を味わうこととなる。
自分たちのほうも耽美症のせいで家事ノイローゼや育児ノイローゼにかかってるから、
女の側も男への同情などは一切せず、逆に家事や育児まで仕事のある夫に押し付けようとする。
そのせいで男はあまりキツイ仕事ができなくなり、稼ぎが減って
共働きしなければやっていけなくなる悪循環をも招く。
耽美症を耽美症と見定めない内から、
それによる世相の乱れを取り締まろうとした実例は多々見られる。
美女ばかりが優先的に火あぶりに処されていたという魔女狩りをはじめ、
キリスト教圏においても幾多の粛清が図られてはぶり返す歴史が重ねられている。
しかし、西洋はキリスト教以前の古代ギリシャ・ローマに至るまで
最高強度で文化文明を耽美症と合致させ続けて来た社会であるために、
耽美による汚濁の粛清=一概な文化破壊という様相を来してしまう。
一番直近では、共産主義革命あたりがその最たる実例であり、
近代の軟派文化の主たる提供者である資本主義の打倒を西洋的思考によって
実現しようとした結果、共産化した国における文化破壊が一大事業となった。
その共産主義の歴史的挫折によって、世の中はまた一概に文化的堕落を容認する
方向へと振り切れたが、そういった極端から極端への一つ覚えな転換自体が
完全な西洋ペースでの狂態であり、仏教文化や武家文化によって世相の腐敗を
適度に防いでいた、かつての東洋社会の足元にも及ばない愚妹であるという他ない。
それによる世相の乱れを取り締まろうとした実例は多々見られる。
美女ばかりが優先的に火あぶりに処されていたという魔女狩りをはじめ、
キリスト教圏においても幾多の粛清が図られてはぶり返す歴史が重ねられている。
しかし、西洋はキリスト教以前の古代ギリシャ・ローマに至るまで
最高強度で文化文明を耽美症と合致させ続けて来た社会であるために、
耽美による汚濁の粛清=一概な文化破壊という様相を来してしまう。
一番直近では、共産主義革命あたりがその最たる実例であり、
近代の軟派文化の主たる提供者である資本主義の打倒を西洋的思考によって
実現しようとした結果、共産化した国における文化破壊が一大事業となった。
その共産主義の歴史的挫折によって、世の中はまた一概に文化的堕落を容認する
方向へと振り切れたが、そういった極端から極端への一つ覚えな転換自体が
完全な西洋ペースでの狂態であり、仏教文化や武家文化によって世相の腐敗を
適度に防いでいた、かつての東洋社会の足元にも及ばない愚妹であるという他ない。
仏教文化も武家文化も、決して文化破壊によって耽美症を防ぐのではない。
安易な人体美などよりも高尚な抽象美や機能美を寺社仏像刀剣などによって示し、
それを至高のものとして崇めたてることによって、情欲と美意識の倒錯を防ぎ止める。
仏道や武道の修行も奨励はするが、義務とまでするのは正式な身分を持つ僧侶や武士のみ。
天下万民にあまねく府令して実質的に強制していたのは、上記のような情操のほうである。
出家や帯刀が近代化の邪魔になるといっても、明治以降の軍人も帯刀して頭を丸めて
修行並みに厳しい訓練に明け暮れることがままあったのだし、本当に西洋的な近代化と
根本的に相容れなかったのも、耽美症を徹底排除する仏門や武家の気風のほうである。
それこそ、坊主や侍たち自身に限らず、万人が了解して尊重しているのでもなければ、
自分たちのほうの存在意義が根本から失われ去ってしまう志操だったのだし。
安易な人体美などよりも高尚な抽象美や機能美を寺社仏像刀剣などによって示し、
それを至高のものとして崇めたてることによって、情欲と美意識の倒錯を防ぎ止める。
仏道や武道の修行も奨励はするが、義務とまでするのは正式な身分を持つ僧侶や武士のみ。
天下万民にあまねく府令して実質的に強制していたのは、上記のような情操のほうである。
出家や帯刀が近代化の邪魔になるといっても、明治以降の軍人も帯刀して頭を丸めて
修行並みに厳しい訓練に明け暮れることがままあったのだし、本当に西洋的な近代化と
根本的に相容れなかったのも、耽美症を徹底排除する仏門や武家の気風のほうである。
それこそ、坊主や侍たち自身に限らず、万人が了解して尊重しているのでもなければ、
自分たちのほうの存在意義が根本から失われ去ってしまう志操だったのだし。
命知らずな上に、軍刀や情婦の陰毛をお守りにしていたという帝国軍人のあり方も、
表面的には武士や修行僧のあり方と似てなくもないが、ことに耽美症を排する
美意識の高さが全く欠けている点では、近縁の内にすら入らないものである。
官給のスプリング刀は文化的価値のカケラもないような代物だし、
陰毛に至っては言わずもがな。精鍛なる日本刀や精緻なる仏像こそが持ち得る
邪念を取り払う効果などは、少ないどころか微塵もありはしないことが確か。
武士や仏僧こそが持ち得ていた美意識の高さを毛ほどにも持ち合わせていない
連中が命知らずでもあるのだから、獣のような野蛮さまでをも帯びてしまった。
その野蛮さまでもが、軍人たち自身が信奉していた武士道に基づいていたなどと
勘違いされ、今の日本人までもが武士道を野蛮なものだとよく思い込んでいる始末。
透徹した美意識に欠けていたが故に野蛮だったという点では、
帝国軍人も武士よりかは体育会系の現代人あたりに近い。
前者は己れの命を顧みず、後者は仕事上の部下や下請けといった他人の命を
顧みないでいるのだから、どちらのほうがより凶悪に野蛮であるのかも知れたものである。
表面的には武士や修行僧のあり方と似てなくもないが、ことに耽美症を排する
美意識の高さが全く欠けている点では、近縁の内にすら入らないものである。
官給のスプリング刀は文化的価値のカケラもないような代物だし、
陰毛に至っては言わずもがな。精鍛なる日本刀や精緻なる仏像こそが持ち得る
邪念を取り払う効果などは、少ないどころか微塵もありはしないことが確か。
武士や仏僧こそが持ち得ていた美意識の高さを毛ほどにも持ち合わせていない
連中が命知らずでもあるのだから、獣のような野蛮さまでをも帯びてしまった。
その野蛮さまでもが、軍人たち自身が信奉していた武士道に基づいていたなどと
勘違いされ、今の日本人までもが武士道を野蛮なものだとよく思い込んでいる始末。
透徹した美意識に欠けていたが故に野蛮だったという点では、
帝国軍人も武士よりかは体育会系の現代人あたりに近い。
前者は己れの命を顧みず、後者は仕事上の部下や下請けといった他人の命を
顧みないでいるのだから、どちらのほうがより凶悪に野蛮であるのかも知れたものである。
刀の美しさは、殊更に男性的というわけでもなければ、女性的というわけでもない。
刀身自体、細身で優美なものもあれば、太身で豪壮なものもある。
刀装も龍や明王をあしらったいかにも男らしいものから、
花や小動物をあしらった、現代では少女趣味にも見紛いそうなものまである。
ただ、一部の同田貫や美濃刀のように実用第一で美観を蔑ろにしたりするのではなく、
あくまでその美しさをも大事にするというのであれば、刀の美しさは
野蛮なほどに過剰な男性性と、軟弱に過ぎるような女性性の
いずれをも良しとしない、人としての中庸さに与するものとなる。
男性性も女性性も過剰であれば色欲に結びつき、色欲が過剰ならばその邪念から
>>60に書いたような理由で心が騒ぎ、刀と共に無難などではいられなくなる。
如来や菩薩の仏像も殊更に性的な特徴を強調したりしない造形で彫られるように、
普遍性を象徴せんとする美は自ずと過剰な性から遠ざかる。そこから完全に
色欲を捨て去った出家者となるのか、俗世での家系ぐらいは守り続ける君子となるのかは
本人の立場にもよる所だが、天下万人誰しもにとっての浄心の指標となるのには違いない。
刀身自体、細身で優美なものもあれば、太身で豪壮なものもある。
刀装も龍や明王をあしらったいかにも男らしいものから、
花や小動物をあしらった、現代では少女趣味にも見紛いそうなものまである。
ただ、一部の同田貫や美濃刀のように実用第一で美観を蔑ろにしたりするのではなく、
あくまでその美しさをも大事にするというのであれば、刀の美しさは
野蛮なほどに過剰な男性性と、軟弱に過ぎるような女性性の
いずれをも良しとしない、人としての中庸さに与するものとなる。
男性性も女性性も過剰であれば色欲に結びつき、色欲が過剰ならばその邪念から
>>60に書いたような理由で心が騒ぎ、刀と共に無難などではいられなくなる。
如来や菩薩の仏像も殊更に性的な特徴を強調したりしない造形で彫られるように、
普遍性を象徴せんとする美は自ずと過剰な性から遠ざかる。そこから完全に
色欲を捨て去った出家者となるのか、俗世での家系ぐらいは守り続ける君子となるのかは
本人の立場にもよる所だが、天下万人誰しもにとっての浄心の指標となるのには違いない。
あの、野蛮と妖艶を極める物騒大国のロシアでも、
刀を贈答品にするのは好まれていない。
日本では江戸時代まで、刀を贈り合うのが頻繁化し過ぎていたために、
徳川吉宗が倹約のため高価すぎる刀を贈刀にするのを法度で禁止したほどだが、
これは単なる験担ぎなどには止まらない、実相からの文化的相違があってのこと。
刀身を銃弾などと同じ消耗品として捉えている欧米社会では基本、
刃物の美しさを愛でるような慣習がなかったし(刀装具の美しさを愛でることはある)、
武器に強さと美しさの止揚を求めたりすること自体が前代未聞のことだったから。
武器の美しさなどを仮に追求してみたところで、
強さ一辺倒の野蛮な男にも、性的な美しさ一辺倒の妖艶な女にも
取り立てて好まれることがないから、そもそもの需要が始めからありもしない。
まず、性的な美しさに溺れる色情を忌む貞操観念が世を挙げて重んじられた上で、
それを武具の美しさのような方便によって守ろうとする工夫が加味されたことにより
日本刀のような美麗を極める刀が産まれ、それが贈答品としても好まれるに至った。
どちらかといえば、ロシアよりも日本のほうが世界的に稀有な事例だが、
この世に日本刀が実在している以上は、日本の側が遠慮する必要などはないことである。
(日本ほど高品質な刀を鍛えてきた歴史のない朝鮮がどうであるかは知らないが)
刀を贈答品にするのは好まれていない。
日本では江戸時代まで、刀を贈り合うのが頻繁化し過ぎていたために、
徳川吉宗が倹約のため高価すぎる刀を贈刀にするのを法度で禁止したほどだが、
これは単なる験担ぎなどには止まらない、実相からの文化的相違があってのこと。
刀身を銃弾などと同じ消耗品として捉えている欧米社会では基本、
刃物の美しさを愛でるような慣習がなかったし(刀装具の美しさを愛でることはある)、
武器に強さと美しさの止揚を求めたりすること自体が前代未聞のことだったから。
武器の美しさなどを仮に追求してみたところで、
強さ一辺倒の野蛮な男にも、性的な美しさ一辺倒の妖艶な女にも
取り立てて好まれることがないから、そもそもの需要が始めからありもしない。
まず、性的な美しさに溺れる色情を忌む貞操観念が世を挙げて重んじられた上で、
それを武具の美しさのような方便によって守ろうとする工夫が加味されたことにより
日本刀のような美麗を極める刀が産まれ、それが贈答品としても好まれるに至った。
どちらかといえば、ロシアよりも日本のほうが世界的に稀有な事例だが、
この世に日本刀が実在している以上は、日本の側が遠慮する必要などはないことである。
(日本ほど高品質な刀を鍛えてきた歴史のない朝鮮がどうであるかは知らないが)
「刀の美しさは、野蛮すぎる男性性と軟弱すぎる女性性に与しない」
と>>61には描いたが、このうちの「軟弱すぎる女性性」のうちには、
女ならではの心の弱さを原因としたヒステリーをも含む。
野蛮すぎる男とヒステリーに駆られた女、両者の間に
刀なんかを置いたら一体どうなるか、だいたい知れたもの。
ドストエフスキー文学の時代からそんな男女が持て囃されていた
ロシアなんかで刃物が縁起のいい贈り物になるはずがないし、またそこまで
女がヒステリーを表向きにさらけ出していない他の外国でも事態はそう変わらない。
中国であれ朝鮮であれアメリカであれイギリスであれフランスであれ、
日本よりも気の強い女が多い国は枚挙にいとまがないが、
なぜ日本よりも男らしい男が多いとされている国ですらそんななのか。
必要なのは殊更に強い男でも、表向きの態度をよく取り繕う女でもなく、
両者の本音の不埒さをもくじき倒すだけの美しさを持つ刀である。
そうと知れたからには、もう不毛な男女のせめぎ合いは金輪際、全世界で終わりなのである。
と>>61には描いたが、このうちの「軟弱すぎる女性性」のうちには、
女ならではの心の弱さを原因としたヒステリーをも含む。
野蛮すぎる男とヒステリーに駆られた女、両者の間に
刀なんかを置いたら一体どうなるか、だいたい知れたもの。
ドストエフスキー文学の時代からそんな男女が持て囃されていた
ロシアなんかで刃物が縁起のいい贈り物になるはずがないし、またそこまで
女がヒステリーを表向きにさらけ出していない他の外国でも事態はそう変わらない。
中国であれ朝鮮であれアメリカであれイギリスであれフランスであれ、
日本よりも気の強い女が多い国は枚挙にいとまがないが、
なぜ日本よりも男らしい男が多いとされている国ですらそんななのか。
必要なのは殊更に強い男でも、表向きの態度をよく取り繕う女でもなく、
両者の本音の不埒さをもくじき倒すだけの美しさを持つ刀である。
そうと知れたからには、もう不毛な男女のせめぎ合いは金輪際、全世界で終わりなのである。
誰かを傷つけるつもりはないのだけれども、率直に気になる点が4つ。
・無職ゆえ周りの人から敬ってもらえず、肩身が狭くて寂しいのかな?
・本当は楽しく心を通わせたいのに、一方的に自分の話ばかりしちゃうせいで、孤立してるのかな?(自制心のブレーキが効かないほど、寂しさが暴走してるのかな?)
・淋しさに対処できないウサギさんが、愛欲を克服できるのかな?
・愛されたくても愛されたいと言えず、ブクブクと太ったプライドのせいで、ルサンチマンのお化けになっているのかな?
「武士は食わねど高楊枝」とは、普通「やせ我慢」の意味で使われる言葉だが、
宮本武蔵や新井白石ほどにもある種の能力に秀でた浪人だったなら、
逆境などものともしないほどの自信に満ち溢れていたこともあっただろう。
浪人差しは普通一本のみだが、百姓町人と違って長いのを差せたのも誇りの根拠の一つ。
ただ、刀の美しさに相応な内面からの才覚があればこそ真の誇りたり得た一方、
中身カラッポの歩く刀掛け状態の故に、プライドもハリボテということもあったろう。
事実、貧しさに負けて悪行を働くような浪人が
少なからずいたことからも、ろくでもない連中もまたいたことが確かだが。
全員が全員そんなだったとも、それこそが浪人の素性だなどと決めつけるのもおかしい。
いざ登用してみて使い物になった者がいたとすれば、
それは貧しさの中にも真の誇りを克ち得ていたぐらいの傑物であったろうし。
宮本武蔵や新井白石ほどにもある種の能力に秀でた浪人だったなら、
逆境などものともしないほどの自信に満ち溢れていたこともあっただろう。
浪人差しは普通一本のみだが、百姓町人と違って長いのを差せたのも誇りの根拠の一つ。
ただ、刀の美しさに相応な内面からの才覚があればこそ真の誇りたり得た一方、
中身カラッポの歩く刀掛け状態の故に、プライドもハリボテということもあったろう。
事実、貧しさに負けて悪行を働くような浪人が
少なからずいたことからも、ろくでもない連中もまたいたことが確かだが。
全員が全員そんなだったとも、それこそが浪人の素性だなどと決めつけるのもおかしい。
いざ登用してみて使い物になった者がいたとすれば、
それは貧しさの中にも真の誇りを克ち得ていたぐらいの傑物であったろうし。
昔の刀の内でも、戦国期以前の古刀には製法が失伝していて再現不能なものが多いし、
江戸期の新刀や新々刀にも、今より頻繁に作刀されていたために高CPなものが多い。
文明は一方的に進化し続けるものだとか、
金をかけさえすればいいものが作れるとかいった西洋的、
資本主義的な価値観を、その実在によって否定するものが日本刀でもある。
現代医療では治療が不能な難病を、古流の武道やヨガの援用によって治したり、
そのために極力世の不浄を遠ざけて来たりしている俺にとっても、刀は仲間である。
孟子のいう「世の中を掌の上で転がす」感覚を
確かな根拠と共に抱く者が、自己体現の象徴とするに相応しい道具である。
あまりにも世の中のほうが矮小なら、いかなる世の中での仕事にも勝ることも。
江戸期の新刀や新々刀にも、今より頻繁に作刀されていたために高CPなものが多い。
文明は一方的に進化し続けるものだとか、
金をかけさえすればいいものが作れるとかいった西洋的、
資本主義的な価値観を、その実在によって否定するものが日本刀でもある。
現代医療では治療が不能な難病を、古流の武道やヨガの援用によって治したり、
そのために極力世の不浄を遠ざけて来たりしている俺にとっても、刀は仲間である。
孟子のいう「世の中を掌の上で転がす」感覚を
確かな根拠と共に抱く者が、自己体現の象徴とするに相応しい道具である。
あまりにも世の中のほうが矮小なら、いかなる世の中での仕事にも勝ることも。
そりゃあ凄い、同じ様に肩やら腰やら壊した土方連中に広めてやってくれ。
(震え声)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/t65198288...
ワニさんまだ見てたら、こんなのはどうだろうね?
お遍路や霊峰登山用の杖と一緒に立てかけとけば違和感ナシ。
子供がイタズラするような危険がある場所は駄目だがね。
家族がいるのなら、刀は自分の居場所を確保する口実にもなる。
ワニさんまだ見てたら、こんなのはどうだろうね?
お遍路や霊峰登山用の杖と一緒に立てかけとけば違和感ナシ。
子供がイタズラするような危険がある場所は駄目だがね。
家族がいるのなら、刀は自分の居場所を確保する口実にもなる。
童貞無職が恥ずかしくて、
高級取りと人気者が恨めしいばかりに、
「俺のテクニックは100億円」と
妄想してるのか?
そんな空疎な自己宣伝をして、虚しくならないのか?
それとも既にある虚しさに耐え切れなくて、誰かに構ってほしいだけか?
高級取りと人気者が恨めしいばかりに、
「俺のテクニックは100億円」と
妄想してるのか?
そんな空疎な自己宣伝をして、虚しくならないのか?
それとも既にある虚しさに耐え切れなくて、誰かに構ってほしいだけか?
もし自分の腕を本気で信じているなら、
肩の悩みを抱えている人を実際に治して
感謝されてみろ!その方が、こんなトコ
でくだらない承認欲求を満たすよりも
遥かに有意義だ。
恥をかきたくなければ、偉そうにさえ
しなければいいだけの話。
肩の悩みを抱えている人を実際に治して
感謝されてみろ!その方が、こんなトコ
でくだらない承認欲求を満たすよりも
遥かに有意義だ。
恥をかきたくなければ、偉そうにさえ
しなければいいだけの話。
凄いねぇ!でもアウトプット出来るのはヨガだけ?
世に出るとか新政府がとかギャーギャー言ってたけどここ数年でどんな変化あった?
世に出るとか新政府がとかギャーギャー言ってたけどここ数年でどんな変化あった?
いいねえ!妄想が広がってきてて何よりだ
残念なのは以前ほど皆が相手してくれない事
残念なのは以前ほど皆が相手してくれない事
さも鬼の首を獲ったかのように、誇らしげに自慢しているが、難病を治すなんて事はそんなに珍しいことでもない。
治らない病気というのは、ただ単に「病院の治療では治しにくい病気」という意味だったりするし、俺も完治とは行かないまでも、医者に丸投げしないようにして、難病をほぼ全快くらいの所まで治した事くらいはある。
例えば過敏性大腸炎というよく聞く病気ですら、病院の治療で治る確率は50%しかなく、西洋医薬よりも漢方薬が効いたりするわけだが、医学が純粋な科学とは違うのだという事を理解していないと、「病気を治した俺は、医者より凄い」という勘違いをしてしまったりする。
ちなみにアレフを脱会した元信者も、難治性の病気(アトピー)を信仰で治したと証言しているし、持病の快癒をきっかけにのめり込んだオウムの元幹部もいた事から分かるように、病気からの回復は素晴らしい事であっても、そういうのを殊更有り難がっててもどうしようもない。
https://tocana.jp/2018/03/post_16227_entry_3.htm...
治らない病気というのは、ただ単に「病院の治療では治しにくい病気」という意味だったりするし、俺も完治とは行かないまでも、医者に丸投げしないようにして、難病をほぼ全快くらいの所まで治した事くらいはある。
例えば過敏性大腸炎というよく聞く病気ですら、病院の治療で治る確率は50%しかなく、西洋医薬よりも漢方薬が効いたりするわけだが、医学が純粋な科学とは違うのだという事を理解していないと、「病気を治した俺は、医者より凄い」という勘違いをしてしまったりする。
ちなみにアレフを脱会した元信者も、難治性の病気(アトピー)を信仰で治したと証言しているし、持病の快癒をきっかけにのめり込んだオウムの元幹部もいた事から分かるように、病気からの回復は素晴らしい事であっても、そういうのを殊更有り難がっててもどうしようもない。
https://tocana.jp/2018/03/post_16227_entry_3.htm...
「医学が純然たる科学とは言い難い」というのは俺も認めるところだ。
極めていびつで狭い範囲だけを執拗に取り扱っている博物学の一種であり、
数理物理学の理論的な整然さや万物に至るまでの征服性とは対照的なものともいえるが。
それでも、今まさに人々が苦しめられている病を、確立された手法によって確実に
治してかかり命を救うその信頼度の高さ故に、医者こそが最たる尊敬の的ともなっている。
理論的にいびつであっても、治療の原理がよく解明されていて、神秘性などに
頼っている点がないのがかえって民間療法などよりも信頼の置かれている点でもある。
そういった面で、俺が編み出した治療法こそは、むしろ現代医療をも上回っている。
右肩関節の緩みを右股関節に落とし、さらに左股関節や左肩へも分配して引き締める。
伸筋と屈筋、上腕二頭筋と三頭筋、内転筋と外転筋、腓腹筋内側頭と外側頭などの
独立的な調整によってそれを可能とすると共に、それらの不整合による副作用も防ぐ。
そのために活用する技法もまた、全て力学的な根拠を持ち合わせていて神秘性などはない。
(過敏性腸炎も腹直筋と腹斜筋の不整合等を原因としている場合にはこれで治療が可能)
治療の原理が厳密に判明している度合いでも、治療不能とされている病を治せる度合いでも
俺の療法>現代医学療法>その他の民間療法>カルト療法であり、
そもそも現代医学をより高度に理論化させて行く可能性を秘めているのでもある。
極めていびつで狭い範囲だけを執拗に取り扱っている博物学の一種であり、
数理物理学の理論的な整然さや万物に至るまでの征服性とは対照的なものともいえるが。
それでも、今まさに人々が苦しめられている病を、確立された手法によって確実に
治してかかり命を救うその信頼度の高さ故に、医者こそが最たる尊敬の的ともなっている。
理論的にいびつであっても、治療の原理がよく解明されていて、神秘性などに
頼っている点がないのがかえって民間療法などよりも信頼の置かれている点でもある。
そういった面で、俺が編み出した治療法こそは、むしろ現代医療をも上回っている。
右肩関節の緩みを右股関節に落とし、さらに左股関節や左肩へも分配して引き締める。
伸筋と屈筋、上腕二頭筋と三頭筋、内転筋と外転筋、腓腹筋内側頭と外側頭などの
独立的な調整によってそれを可能とすると共に、それらの不整合による副作用も防ぐ。
そのために活用する技法もまた、全て力学的な根拠を持ち合わせていて神秘性などはない。
(過敏性腸炎も腹直筋と腹斜筋の不整合等を原因としている場合にはこれで治療が可能)
治療の原理が厳密に判明している度合いでも、治療不能とされている病を治せる度合いでも
俺の療法>現代医学療法>その他の民間療法>カルト療法であり、
そもそも現代医学をより高度に理論化させて行く可能性を秘めているのでもある。
スレ違いではあるが、なかなか信じ難いことでもあるだろうから、
これ以上のこの手の話がしたかったら以下のスレに移動してくれ。
http://bbs33.meiwasuisan.com/health/1559975762...
これ以上のこの手の話がしたかったら以下のスレに移動してくれ。
http://bbs33.meiwasuisan.com/health/1559975762...
刀の美しさこそを真の美しさとみなす価値観からすれば、
森羅万象のうちの大半は美しいものだと認められるし、
そうでないもののうちの大半もまた美しいものであり得ると認められる。
薄毛のサルに過ぎないヒトの外見の美しさなどに囚われれば、
それとは価値観がひっくり返ったせいで、美しさへの選り好みが
過剰で神経質になり過ぎたあまり潔癖症となったり、他人や他物を
傷付けることに良心の呵責も抱かないサイコパスになってしまったりする。
いずれの価値観に定住するのかを、必ずしも日本刀美への造詣の有無に
頼る必要があるわけではないが、そういった価値観の相反自体は遍在している。
残念ながら、ホモサピエンスの容貌の美しさごときに囚われている
人間が多すぎるが故に、今や地球全土にまで広がっている人類社会が
全体的に荒廃の様相を来しているのが現状である。
美しさの遍在を認めるか、偏在にこだわる余り遍在を損ねるかは、
無軌道な美意識の肥大ではなく、美意識の洗練によってのみ裁き売ることである。
森羅万象のうちの大半は美しいものだと認められるし、
そうでないもののうちの大半もまた美しいものであり得ると認められる。
薄毛のサルに過ぎないヒトの外見の美しさなどに囚われれば、
それとは価値観がひっくり返ったせいで、美しさへの選り好みが
過剰で神経質になり過ぎたあまり潔癖症となったり、他人や他物を
傷付けることに良心の呵責も抱かないサイコパスになってしまったりする。
いずれの価値観に定住するのかを、必ずしも日本刀美への造詣の有無に
頼る必要があるわけではないが、そういった価値観の相反自体は遍在している。
残念ながら、ホモサピエンスの容貌の美しさごときに囚われている
人間が多すぎるが故に、今や地球全土にまで広がっている人類社会が
全体的に荒廃の様相を来しているのが現状である。
美しさの遍在を認めるか、偏在にこだわる余り遍在を損ねるかは、
無軌道な美意識の肥大ではなく、美意識の洗練によってのみ裁き売ることである。
道端の名も無き仏身も国宝級の其れも仏前では等し
[YouTubeで再生]
人体の美醜こそをあらゆる美醜の根本と捉えている欧米人が、
いざ自然を守ろうなどと考えると、これまた人間中心の独善的なものとなり、
牛や豚を食べながらクジラやイルカの命だけは守ろうとするような矛盾に陥る。
欧米人と比べて見た目が美麗とは言い難い人間が多い日本人への
バッシングばかりを強めているのもまた、同様の理由による。
世界を見れば、随一の美男美女産出国と言われているウクライナやアフガニスタンこそが
ずっと血みどろの紛争が冷めやらぬこの世の地獄でもいる。敵対国同士の緩衝地帯だから
混血が進んで美男美女が生まれやすい一方で、争いも多い。それがこの世の実相である。
道端の、もはや侵食で人間の形をほとんど成してもいないようなお地蔵さんにも
手を合わせられる心がけこそが、石が侵食されて様変わりするほどの長期にわたる平和の
原動力ともなる。これもまた肉体の仮初めな美しさへの固執などとは相反する実相である。
何百年にもわたって変わらない美しさを保ち続ける刀剣への愛好によって、
仮初めの美への妄執を断ち切るのは、その中間ぐらいの心がけであろうか。
煩悩と悟りの橋渡しを用意するやり方自体もまた、極めて大乗的なものだが。
人体の美醜こそをあらゆる美醜の根本と捉えている欧米人が、
いざ自然を守ろうなどと考えると、これまた人間中心の独善的なものとなり、
牛や豚を食べながらクジラやイルカの命だけは守ろうとするような矛盾に陥る。
欧米人と比べて見た目が美麗とは言い難い人間が多い日本人への
バッシングばかりを強めているのもまた、同様の理由による。
世界を見れば、随一の美男美女産出国と言われているウクライナやアフガニスタンこそが
ずっと血みどろの紛争が冷めやらぬこの世の地獄でもいる。敵対国同士の緩衝地帯だから
混血が進んで美男美女が生まれやすい一方で、争いも多い。それがこの世の実相である。
道端の、もはや侵食で人間の形をほとんど成してもいないようなお地蔵さんにも
手を合わせられる心がけこそが、石が侵食されて様変わりするほどの長期にわたる平和の
原動力ともなる。これもまた肉体の仮初めな美しさへの固執などとは相反する実相である。
何百年にもわたって変わらない美しさを保ち続ける刀剣への愛好によって、
仮初めの美への妄執を断ち切るのは、その中間ぐらいの心がけであろうか。
煩悩と悟りの橋渡しを用意するやり方自体もまた、極めて大乗的なものだが。
人の醜さに執着している人間の醜さによ。
http://namekkutake.livedoor.blog/archives/17401827.htm...
肉体も顔貌も、醜いよりは美しいほうがいいとも思えようが、
人体の美しさほど機能美から程遠い美しさも他になく、
美しさそのものを競い合う以外のほとんどの分野で足かせとなる。
背の低さや脚の短さ故の重心の低さが時に有利に働き、
脂肪の多さがスタミナや防御力の糧ともなる。
柔軟性を引き換えにした筋肉の付けすぎが運動能力の低下を招き、
自律神経の失調による一層の心神の耗弱をも来たしてしまう。
それでもなお、見た目の美しさと実力の両立ができるのなら、
それに越したことはないのではないかという僅かな希望が残ろうが、
世界最高・最強・最先端を競い合う領域ではそうとばかりも言って居られぬ。
故に、実力よりも巧言令色ばかりが企業人事から偏重され始めてからの日本も弱体化した。
大して国民の見た目が美しくなったわけでもないのに、社会情勢の不安定さだけは
ウクライナやアフガニスタンに一歩も二歩も近づいた。
少なからず性欲のある俗人の立場から言わしてもらえば、
人体の美しさもまたやはり、ないよりはあったほうがいいいと思う。
しかし、それ以外の人としてのいかなる実力にも優先する価値などはないとも思う。
もちろん、世のため人のためを心がける徳性よりも。あくまで先後の問題としては。
肉体も顔貌も、醜いよりは美しいほうがいいとも思えようが、
人体の美しさほど機能美から程遠い美しさも他になく、
美しさそのものを競い合う以外のほとんどの分野で足かせとなる。
背の低さや脚の短さ故の重心の低さが時に有利に働き、
脂肪の多さがスタミナや防御力の糧ともなる。
柔軟性を引き換えにした筋肉の付けすぎが運動能力の低下を招き、
自律神経の失調による一層の心神の耗弱をも来たしてしまう。
それでもなお、見た目の美しさと実力の両立ができるのなら、
それに越したことはないのではないかという僅かな希望が残ろうが、
世界最高・最強・最先端を競い合う領域ではそうとばかりも言って居られぬ。
故に、実力よりも巧言令色ばかりが企業人事から偏重され始めてからの日本も弱体化した。
大して国民の見た目が美しくなったわけでもないのに、社会情勢の不安定さだけは
ウクライナやアフガニスタンに一歩も二歩も近づいた。
少なからず性欲のある俗人の立場から言わしてもらえば、
人体の美しさもまたやはり、ないよりはあったほうがいいいと思う。
しかし、それ以外の人としてのいかなる実力にも優先する価値などはないとも思う。
もちろん、世のため人のためを心がける徳性よりも。あくまで先後の問題としては。
醜いものの殺生に、美しい刃物など使わぬわい。
人の命を奪うものだからこそ、刀剣は美しくあらねばならぬのだ。
命への敬意が籠もればこそ、武具も華麗に装い、刀剣も澄み渡るほどに磨かれねばならない。
憎悪や恨み、憤怒で殺めんとすれば、叩き欠いた錆びた鋸刃で十分。
戦をなんと心得る!
人の命を奪うものだからこそ、刀剣は美しくあらねばならぬのだ。
命への敬意が籠もればこそ、武具も華麗に装い、刀剣も澄み渡るほどに磨かれねばならない。
憎悪や恨み、憤怒で殺めんとすれば、叩き欠いた錆びた鋸刃で十分。
戦をなんと心得る!
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/39887829...
買う気はないが、サムネでもはっきりと目視できるほど
映りがクッキリと立っている鎌倉期の古刀。
これなら軟鉄製の西洋甲冑ぐらいは胴体真っ二つにできるだろう。
貴重な文化財でそんな酔狂をすべきではないが、やればできる。
単純に、通り魔や幼児襲撃に用いるにはオーバースペックである。
宝物として大事にするだけでなく、武具として有効に扱ってやろう
とする場合にも、用途が限られてくることを自ずから察する。
美しい刀を美しく扱おうとすれば、その時に初めて人もまた真の美しさを帯びる。
葵小僧を井上真改で手討ちにする鬼平のように、それが鼠賊の斬殺の時であることも
あるだろうが、社会的な非難の目を向ける余地もないTPOとなるには違いあるまい。
買う気はないが、サムネでもはっきりと目視できるほど
映りがクッキリと立っている鎌倉期の古刀。
これなら軟鉄製の西洋甲冑ぐらいは胴体真っ二つにできるだろう。
貴重な文化財でそんな酔狂をすべきではないが、やればできる。
単純に、通り魔や幼児襲撃に用いるにはオーバースペックである。
宝物として大事にするだけでなく、武具として有効に扱ってやろう
とする場合にも、用途が限られてくることを自ずから察する。
美しい刀を美しく扱おうとすれば、その時に初めて人もまた真の美しさを帯びる。
葵小僧を井上真改で手討ちにする鬼平のように、それが鼠賊の斬殺の時であることも
あるだろうが、社会的な非難の目を向ける余地もないTPOとなるには違いあるまい。
たとえば、上掲の尻懸ような上作の古刀が、
江戸時代の前期までは武家間の贈答品として好まれていた。
あまりにも高額品の取引が頻繁化し過ぎて財政を圧迫していたために、
8代将軍の徳川吉宗が、古刀と高価すぎる刀の贈答を規制した。(当該書参照)
それと同時に吉宗は、特に薄給な中下級の武士の昇給を取り決めた。
贈刀はただの礼物ではなく、家康公の質素倹約志向に倣って薄給を甘受していた
武士たちへの賞与としての意味合いも持ち合わせていたために、その穴埋めを試みたわけだ。
刀を贈ること、特に武家階級のみが佩用を認められている6尺以上の大刀を贈ることは
これまた武家の特権であるために、富豪からの賄賂などとは明確な一線を引くことができる。
それ故に、贈刀自体は仁義道徳的にも殊勝なこととして江戸時代を通じて振興され続けたのだった。
贈答用に傷物や見栄えの悪い刀を用いるのは非礼になるからとて、比較的低ランクで
いながらコストパフォーマンスの高い刀が江戸中期以降は量産されるようになったようで、
それが今に至るまでの関などにおける刃物産業の隆盛の礎ともなっている。
(中部地方の自動車産業の発達とも全くの無関係ではない)
江戸時代のような平和な時代にも刀が好まれ続けたことが、
政治腐敗の予防や鉄工業の隆盛など、多くの恩恵をもたらした。
もちろん美術品として高い価値を持つほどの刀剣が好まれていたが故の所産だから、
低品質な刀剣しか存在しない諸外国が真似たからといって実現できたことでもあるまいが。
江戸時代の前期までは武家間の贈答品として好まれていた。
あまりにも高額品の取引が頻繁化し過ぎて財政を圧迫していたために、
8代将軍の徳川吉宗が、古刀と高価すぎる刀の贈答を規制した。(当該書参照)
それと同時に吉宗は、特に薄給な中下級の武士の昇給を取り決めた。
贈刀はただの礼物ではなく、家康公の質素倹約志向に倣って薄給を甘受していた
武士たちへの賞与としての意味合いも持ち合わせていたために、その穴埋めを試みたわけだ。
刀を贈ること、特に武家階級のみが佩用を認められている6尺以上の大刀を贈ることは
これまた武家の特権であるために、富豪からの賄賂などとは明確な一線を引くことができる。
それ故に、贈刀自体は仁義道徳的にも殊勝なこととして江戸時代を通じて振興され続けたのだった。
贈答用に傷物や見栄えの悪い刀を用いるのは非礼になるからとて、比較的低ランクで
いながらコストパフォーマンスの高い刀が江戸中期以降は量産されるようになったようで、
それが今に至るまでの関などにおける刃物産業の隆盛の礎ともなっている。
(中部地方の自動車産業の発達とも全くの無関係ではない)
江戸時代のような平和な時代にも刀が好まれ続けたことが、
政治腐敗の予防や鉄工業の隆盛など、多くの恩恵をもたらした。
もちろん美術品として高い価値を持つほどの刀剣が好まれていたが故の所産だから、
低品質な刀剣しか存在しない諸外国が真似たからといって実現できたことでもあるまいが。
いや、お陰様で日本刀の美に改めて気づかせていただきました。
その日本刀、現代刀ではありますが、困ったことに海外製が流通跋扈しているとのこと。
日本はクールジャパンなどと、くだらぬ所へ金突っ込まず、日本刀「ブランド」などとは呼びたくはありませんが、日本刀文化の保護に真剣に力を注いでいただきたい。
その日本刀、現代刀ではありますが、困ったことに海外製が流通跋扈しているとのこと。
日本はクールジャパンなどと、くだらぬ所へ金突っ込まず、日本刀「ブランド」などとは呼びたくはありませんが、日本刀文化の保護に真剣に力を注いでいただきたい。
[YouTubeで再生]
こういうのだろう?
ヤフオクでもしょっちゅう出品されては質問欄から警告されてる。
だいたい日本語がたどたどしくて、中華の業者の仕業らしい。
登録証がない時点で日本では違法商品だから警察沙汰だ。
もちろん申請したところで通らないし、
本物を見慣れて来れば遠目からでも偽物だと一目瞭然になる。
鍔とかの刀装具も同様に。
精巧な偽物なんかを作ろうとすれば、原価がかかり過ぎて絶対に割りに合わなくなる。
だから偽銘品等はともかくとして、製法からの偽物に本物が淘汰される心配はまずない。
ただ、この動画のオッサンのように、本物を知らないが故に騙される人間が
多発して刀への評判が悪くなるのは由々しきことだな。現代武道がスポーツ化して
本物の武芸の深遠さからかけ離れているが故に批判されることが多いのとも同じく。
こういうのだろう?
ヤフオクでもしょっちゅう出品されては質問欄から警告されてる。
だいたい日本語がたどたどしくて、中華の業者の仕業らしい。
登録証がない時点で日本では違法商品だから警察沙汰だ。
もちろん申請したところで通らないし、
本物を見慣れて来れば遠目からでも偽物だと一目瞭然になる。
鍔とかの刀装具も同様に。
精巧な偽物なんかを作ろうとすれば、原価がかかり過ぎて絶対に割りに合わなくなる。
だから偽銘品等はともかくとして、製法からの偽物に本物が淘汰される心配はまずない。
ただ、この動画のオッサンのように、本物を知らないが故に騙される人間が
多発して刀への評判が悪くなるのは由々しきことだな。現代武道がスポーツ化して
本物の武芸の深遠さからかけ離れているが故に批判されることが多いのとも同じく。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q24101938...
日本の場合、刀身自体よりも刀装具の詐欺商品の横行のほうがひどい。
真剣はおろか、模造刀に使うのも憚られるような悪趣味な意匠。
日本古来の赤銅や四分一ではなく、青銅か真鍮か、ひどけりゃ亜鉛で作られてる。
これも見慣れてくると一目瞭然だが、ど素人ならたやすく騙されるし、
土産物程度の感覚で買う外国人などはいいカモになるだろう。
これが実は、近年の中国製に始まったことではなく、日本国内でも昔から一定数存在するもの。
戦前に粗悪な官給品の軍刀などを量産していた業者が、失業対策で戦後にも
粗悪な模造品の刀を相当数作り続けたらしく、今でも古い土産物屋などで残滓が散見される。
刀剣文化の軽視自体、日本でも明治以降ずっと長く続いていることで、
偽物を黙認している度合いは寿司や天ぷらの比ではない。
それでも本物が本物ゆえに淘汰される心配がないのも日本刀の貫禄だが、
本物を知らないゆえに勝手に本物まで侮るような風潮が蔓延して、本物の時価が下がり続け、
中華の成金に安く買い叩かれたりすることになってるのはなんとかしたい所だな。
日本の場合、刀身自体よりも刀装具の詐欺商品の横行のほうがひどい。
真剣はおろか、模造刀に使うのも憚られるような悪趣味な意匠。
日本古来の赤銅や四分一ではなく、青銅か真鍮か、ひどけりゃ亜鉛で作られてる。
これも見慣れてくると一目瞭然だが、ど素人ならたやすく騙されるし、
土産物程度の感覚で買う外国人などはいいカモになるだろう。
これが実は、近年の中国製に始まったことではなく、日本国内でも昔から一定数存在するもの。
戦前に粗悪な官給品の軍刀などを量産していた業者が、失業対策で戦後にも
粗悪な模造品の刀を相当数作り続けたらしく、今でも古い土産物屋などで残滓が散見される。
刀剣文化の軽視自体、日本でも明治以降ずっと長く続いていることで、
偽物を黙認している度合いは寿司や天ぷらの比ではない。
それでも本物が本物ゆえに淘汰される心配がないのも日本刀の貫禄だが、
本物を知らないゆえに勝手に本物まで侮るような風潮が蔓延して、本物の時価が下がり続け、
中華の成金に安く買い叩かれたりすることになってるのはなんとかしたい所だな。
痩せてりゃそこそこ美男子なのに、祖父や父に倣って
ブクブクと肥え太り、豚だ19号だと揶揄されて来てはいるが。
そのおかげで米大統領にすら恰幅では負けず、
若さゆえに侮られるような危険性も拭い去っている。
側近が無理にでも太らせただろう計略も大成功というわけ。
この場にヒョロガリのジャニタレなんかがいれば、
どんなにイケメンだったところで下僕か侍従にしか見えまい。
単なる外見というその一点においても、
世間一般で好まれているものと、本当に意味があるものは違う。
むしろ醜怪であるほうが、美麗であるよりも有力たり得る。
だから醜さこそを好めと言われれば、それは俺でも拒むが、
人の美醜などに囚われないようにする心がけぐらいは持ち得よう。
ブクブクと肥え太り、豚だ19号だと揶揄されて来てはいるが。
そのおかげで米大統領にすら恰幅では負けず、
若さゆえに侮られるような危険性も拭い去っている。
側近が無理にでも太らせただろう計略も大成功というわけ。
この場にヒョロガリのジャニタレなんかがいれば、
どんなにイケメンだったところで下僕か侍従にしか見えまい。
単なる外見というその一点においても、
世間一般で好まれているものと、本当に意味があるものは違う。
むしろ醜怪であるほうが、美麗であるよりも有力たり得る。
だから醜さこそを好めと言われれば、それは俺でも拒むが、
人の美醜などに囚われないようにする心がけぐらいは持ち得よう。
>>97
江戸時代までは、どんなに金持ちだろうとも武家以外は所持を禁止されていた
6尺以上の大刀は、まともに使いこなすためにも相当な武芸の修練が必要だから、
タダの成金なんかが持ってても宝の持ち腐れにしかならない、というのもある。
あと、「油断」という言葉は和製熟語で、中国にはない。
刀に油を塗って清浄な鞘に収めて長期間錆を防ぎ続けるような慣習が
中国にはないから、昔輸出されていた日本刀なども皆錆だらけになってしまっている。
刀の保存には最も不適切な、切っ先を下に向けての保存もあちらでは常套なため、
最も重要な物打ちや帽子部分の損傷も著しい。そして、日本刀ほど精魂を込めて
モノを作るという価値観自体がないから、モノへの扱いが全般的に雑である。
日本においては、大宝律令で工芸品への記銘が義務付けられて以来、
責任を持ったモノ作りの風習が連綿と温められて来た。それが日本刀の品質の向上の
真因ともなって来たのだが、幾度となく王朝が古法ごと断絶させられて来た中国では
そのような慣習が定着する余地はなかった。この差は一時の富裕化程度では
到底埋め合わせられるものではなく、必ずや持ち去られた日本刀も哀れな末路を辿る。
要するに、日本刀の精髄はカネではどうにもならないところにあるから、
成金の投機対象としては不適切であるということ。
貧乏でも家の守りを重んずる者の手元にあるほうがよっぽどマシである
江戸時代までは、どんなに金持ちだろうとも武家以外は所持を禁止されていた
6尺以上の大刀は、まともに使いこなすためにも相当な武芸の修練が必要だから、
タダの成金なんかが持ってても宝の持ち腐れにしかならない、というのもある。
あと、「油断」という言葉は和製熟語で、中国にはない。
刀に油を塗って清浄な鞘に収めて長期間錆を防ぎ続けるような慣習が
中国にはないから、昔輸出されていた日本刀なども皆錆だらけになってしまっている。
刀の保存には最も不適切な、切っ先を下に向けての保存もあちらでは常套なため、
最も重要な物打ちや帽子部分の損傷も著しい。そして、日本刀ほど精魂を込めて
モノを作るという価値観自体がないから、モノへの扱いが全般的に雑である。
日本においては、大宝律令で工芸品への記銘が義務付けられて以来、
責任を持ったモノ作りの風習が連綿と温められて来た。それが日本刀の品質の向上の
真因ともなって来たのだが、幾度となく王朝が古法ごと断絶させられて来た中国では
そのような慣習が定着する余地はなかった。この差は一時の富裕化程度では
到底埋め合わせられるものではなく、必ずや持ち去られた日本刀も哀れな末路を辿る。
要するに、日本刀の精髄はカネではどうにもならないところにあるから、
成金の投機対象としては不適切であるということ。
貧乏でも家の守りを重んずる者の手元にあるほうがよっぽどマシである
https://www.seiyudo.com/ka-061111.ht...
>賀州住兼若と言えば、当時の 加州では
>「たとえ禄が低くとも”兼若”を持つ者には嫁にやる」と言われるほどの誉れ高き名工です。
>武用に適した刀であったことが窺い知れます。
刀もただ持つだけではなく、その価値を知った上で持つことこそが、己が誉れともなる。
武に通じ、仁徳に通じる者であるがゆえに、その価値をも計り知ることができるのは、
どんなに大金を持ち合わせていることよりも正真な、刀の所有者としての資格となる。
田宮流居合術の創始者なども、職を転々として4年も貯金した上でやっと肥前忠吉に
刀を特注したという。金で買うとしても、それぐらいの経緯があるほうがよっぽど好ましい。
刀との巡り合いが物語になるような立場こそは、君子士人としても最適である。
その美しさに相応な由緒の一環として自分もまた歴史に名を刻めるように精進すべき。
>賀州住兼若と言えば、当時の 加州では
>「たとえ禄が低くとも”兼若”を持つ者には嫁にやる」と言われるほどの誉れ高き名工です。
>武用に適した刀であったことが窺い知れます。
刀もただ持つだけではなく、その価値を知った上で持つことこそが、己が誉れともなる。
武に通じ、仁徳に通じる者であるがゆえに、その価値をも計り知ることができるのは、
どんなに大金を持ち合わせていることよりも正真な、刀の所有者としての資格となる。
田宮流居合術の創始者なども、職を転々として4年も貯金した上でやっと肥前忠吉に
刀を特注したという。金で買うとしても、それぐらいの経緯があるほうがよっぽど好ましい。
刀との巡り合いが物語になるような立場こそは、君子士人としても最適である。
その美しさに相応な由緒の一環として自分もまた歴史に名を刻めるように精進すべき。
中華の成金に限らず、日本の企業経営者だって、
人材を捨て駒として好き勝手に使い潰すような心がけの悪さでは到底、
名刀を末永く愛好して行くような慈しみ深さも持てまい。
江戸時代なら帯刀身分だった政治家や公務員だって、
民への慈愛など犬猫に対するほどにも持たず、
財界と結託しては庶民を痛めつけて疲弊させているような体たらくなのだから、
法律上の資格以前に、刀を持つに値する人格者としての素養がない。
政官財がグルとなって下々を痛めつけ過ぎているが故に、少子高齢化や
財政難で国が傾いているのも、廃刀によって刀を持つ資格もないような連中を
権力の座に引き込んでしまったがための災難でこそあるといえる。
人材を捨て駒として好き勝手に使い潰すような心がけの悪さでは到底、
名刀を末永く愛好して行くような慈しみ深さも持てまい。
江戸時代なら帯刀身分だった政治家や公務員だって、
民への慈愛など犬猫に対するほどにも持たず、
財界と結託しては庶民を痛めつけて疲弊させているような体たらくなのだから、
法律上の資格以前に、刀を持つに値する人格者としての素養がない。
政官財がグルとなって下々を痛めつけ過ぎているが故に、少子高齢化や
財政難で国が傾いているのも、廃刀によって刀を持つ資格もないような連中を
権力の座に引き込んでしまったがための災難でこそあるといえる。
「今さえよければそれでいい」
「自分さえよければそれでいい」
「自分が生きてる間だけ世の中が無事ならそれでいい」
そんな思いでいる連中が世間の大多数なのだから、
数百年の後にも保たれ続ける日本刀の美しさなんて、猫に小判もいいとこ。
自分個人の命よりも普遍的なもの、
歴史的な功業、血筋、平和と繁栄に満ちた社会の情景、
それらを尊べる心意気の持ち主だけが、刀の真の美しさをも計り知る。
700年間、柄内の茎まで丹念に手入れされ続けて来た刀ならではの美しさ、
それは刀そのものの美しさであると同時に、人の業の美しさでもある。
自意識過剰に溺れることなく、真摯に世を継いでいた者たちの美しさは、
彼らが骨や灰となって消え去った後にも確かに残り続けて行く。
それこそが人という生き物にとっての真の美しさでもあるといえる。
「自分さえよければそれでいい」
「自分が生きてる間だけ世の中が無事ならそれでいい」
そんな思いでいる連中が世間の大多数なのだから、
数百年の後にも保たれ続ける日本刀の美しさなんて、猫に小判もいいとこ。
自分個人の命よりも普遍的なもの、
歴史的な功業、血筋、平和と繁栄に満ちた社会の情景、
それらを尊べる心意気の持ち主だけが、刀の真の美しさをも計り知る。
700年間、柄内の茎まで丹念に手入れされ続けて来た刀ならではの美しさ、
それは刀そのものの美しさであると同時に、人の業の美しさでもある。
自意識過剰に溺れることなく、真摯に世を継いでいた者たちの美しさは、
彼らが骨や灰となって消え去った後にも確かに残り続けて行く。
それこそが人という生き物にとっての真の美しさでもあるといえる。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q30868508...
日刀保の鑑定書付きの、真物らしき井上真改。
(鬼平が凶悪な強盗強姦殺人犯を斬首に処したことで有名な刀)
古研ぎで肌荒れが強いが、それでも地鉄と刃鉄の黒白がクッキリと分かれているし、
上の尻懸ほどではないにしろ映りも出ている。江戸後期の新々刀には、
全体を焼き入れ過ぎて地鉄まで白っぽくなっているものが多く、そういう刀は
曲がりづらい代わりに折れやすい傾向があるが、これはそのような心配もない。
鎬地の幅が広くて鎬が高いものが多いのが江戸時代の刀の特徴だが、
これを含めて井上真改は特にその傾向が強い。そのため、
刀身の強度が高くて相手の刀を鎬で受けることにも長ける一方で、切れ味はやや落ちる。
同じ江戸時代の刀工である虎徹や忠吉が切れ味でも最上大業物に認定されている一方、
井上真改が4ランク中最低の業物に指定されているのもこれが原因と思われる。
日刀保の鑑定書付きの、真物らしき井上真改。
(鬼平が凶悪な強盗強姦殺人犯を斬首に処したことで有名な刀)
古研ぎで肌荒れが強いが、それでも地鉄と刃鉄の黒白がクッキリと分かれているし、
上の尻懸ほどではないにしろ映りも出ている。江戸後期の新々刀には、
全体を焼き入れ過ぎて地鉄まで白っぽくなっているものが多く、そういう刀は
曲がりづらい代わりに折れやすい傾向があるが、これはそのような心配もない。
鎬地の幅が広くて鎬が高いものが多いのが江戸時代の刀の特徴だが、
これを含めて井上真改は特にその傾向が強い。そのため、
刀身の強度が高くて相手の刀を鎬で受けることにも長ける一方で、切れ味はやや落ちる。
同じ江戸時代の刀工である虎徹や忠吉が切れ味でも最上大業物に認定されている一方、
井上真改が4ランク中最低の業物に指定されているのもこれが原因と思われる。
ただ、こういう刀は斬撃時の圧力が高くて三つ胴や四つ胴のような記録を出しにくい代わりに、
刃筋が勝手に通るので力任せに振ってもある程度は切れるという特徴も持ち合わせている。
正宗や郷義弘を真似た高温焼き入れで、刃鉄の硬さも最高度まで高めている。
(鍛え割れの出やすい焼き入れ方法だが、そのような瑕疵も見られない)
その上で切りやすく、折れにくく、鎬で敵の刀を受けることにも長けているということは、
激戦での実用に大変向いた作り込みになっているということである。
(品質ははるかに劣るが、軍刀も形だけはこれを真似ている場合が多い)
刀がサブウェポンかつ首刈り道具だった戦国時代までではなく、
メインウェポンとなった江戸時代だからこその、刀でのより本格的な戦闘を想定した作り込み。
刀は、何も切れ味ばかりが機能性ではないことをよく体現しているといえる。
そしてそこにはまた、切れ味を重視した刀とは別個の美しさがある。
表面上だけではなく、内実から滲み出る美しさに心酔すれば、もう後には戻れない。
刃筋が勝手に通るので力任せに振ってもある程度は切れるという特徴も持ち合わせている。
正宗や郷義弘を真似た高温焼き入れで、刃鉄の硬さも最高度まで高めている。
(鍛え割れの出やすい焼き入れ方法だが、そのような瑕疵も見られない)
その上で切りやすく、折れにくく、鎬で敵の刀を受けることにも長けているということは、
激戦での実用に大変向いた作り込みになっているということである。
(品質ははるかに劣るが、軍刀も形だけはこれを真似ている場合が多い)
刀がサブウェポンかつ首刈り道具だった戦国時代までではなく、
メインウェポンとなった江戸時代だからこその、刀でのより本格的な戦闘を想定した作り込み。
刀は、何も切れ味ばかりが機能性ではないことをよく体現しているといえる。
そしてそこにはまた、切れ味を重視した刀とは別個の美しさがある。
表面上だけではなく、内実から滲み出る美しさに心酔すれば、もう後には戻れない。
新々刀にしたって、新撰組が多用していたような刺突攻撃でブレや曲がりが
生じないようにするために全体の焼き入れを強めにしていたのだから、全くの無意味ではない。
鎌倉時代から幕末までの武家時代において、刀剣は確かに「用の美」を極めた。
馬上からの切りつけを第一に想定した鎌倉期の太刀から、
外の物(アウトレンジ武器)の戦法と共に次々と移り変わっていった室町期以降の古刀に、
諸手刀法の変遷に基づいて徐々に形を変えていった江戸期の新刀や新々刀と、
それぞれがそれぞれの時代に即した最上級の機能美を湛えている。
故に「古刀こそは最高」「刀の序列はあくまで古刀>新刀>新々刀」などという、
おおむねの刀剣愛好家が同意する主張もさほどあてにはならない。
生じないようにするために全体の焼き入れを強めにしていたのだから、全くの無意味ではない。
鎌倉時代から幕末までの武家時代において、刀剣は確かに「用の美」を極めた。
馬上からの切りつけを第一に想定した鎌倉期の太刀から、
外の物(アウトレンジ武器)の戦法と共に次々と移り変わっていった室町期以降の古刀に、
諸手刀法の変遷に基づいて徐々に形を変えていった江戸期の新刀や新々刀と、
それぞれがそれぞれの時代に即した最上級の機能美を湛えている。
故に「古刀こそは最高」「刀の序列はあくまで古刀>新刀>新々刀」などという、
おおむねの刀剣愛好家が同意する主張もさほどあてにはならない。
ただ、武家時代が終わって廃刀が強いられた明治以降となると、話は変わる。
近代までは、軍刀が機甲戦闘に見合わない無用の長物の飾り物として疎まれながら
なんとか残存したが、当然そこに武用のための刀の進化などがありはしない。
(強いて言えば取り回しがいいように六尺強までの短寸が好まれた程度)
現代以降はさらに刀の実用の場がなくなり、ヤクザの抗争でなければ武道練習目的のみとなった。
その武道練習も居合用の細身か試斬用の幅広ばかりが好まれて、いずれも実戦の用には耐えない。
耐えないだけでなく実際、見た目にも美しいものではない。できる限り実戦に近い稽古を
目的とした剣道がGHQの強制で形骸化されたために、刀剣が用の美に即する希望も全く絶えた。
今でも、美麗な刀剣の作成を心がけている刀鍛冶はいるが、そういう流派ほど昔の名刀の
忠実な再現ばかりを志している始末。それも技術の保存のためにやっておくに越したことはない
ことではあるが、武家時代の有機的な刀剣の進化醸成と比べればいささかと言わず心もとない。
刀剣美はもはや、過去の遺物であろうか。
だったらそれに変わるほどの機能美があってもらいたいものだが、
残念ながら一つも見つからない。ということは、時代も劣化しているということであり、
民主主義なぞで世の中がより良くなったなどという考えも虚妄に過ぎないわけである。
近代までは、軍刀が機甲戦闘に見合わない無用の長物の飾り物として疎まれながら
なんとか残存したが、当然そこに武用のための刀の進化などがありはしない。
(強いて言えば取り回しがいいように六尺強までの短寸が好まれた程度)
現代以降はさらに刀の実用の場がなくなり、ヤクザの抗争でなければ武道練習目的のみとなった。
その武道練習も居合用の細身か試斬用の幅広ばかりが好まれて、いずれも実戦の用には耐えない。
耐えないだけでなく実際、見た目にも美しいものではない。できる限り実戦に近い稽古を
目的とした剣道がGHQの強制で形骸化されたために、刀剣が用の美に即する希望も全く絶えた。
今でも、美麗な刀剣の作成を心がけている刀鍛冶はいるが、そういう流派ほど昔の名刀の
忠実な再現ばかりを志している始末。それも技術の保存のためにやっておくに越したことはない
ことではあるが、武家時代の有機的な刀剣の進化醸成と比べればいささかと言わず心もとない。
刀剣美はもはや、過去の遺物であろうか。
だったらそれに変わるほどの機能美があってもらいたいものだが、
残念ながら一つも見つからない。ということは、時代も劣化しているということであり、
民主主義なぞで世の中がより良くなったなどという考えも虚妄に過ぎないわけである。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g36648168...
実用刀の雄として名高い肥後同田貫も、やはり鎬地が広くて刃筋を通しやすい造りになっている。
美術的価値が低いとは言われているが、諸手刀法での戦闘を念頭に置いた上であれば、
井上真改などと同じくまた格別の美しさを帯びたものであるように見受けられる。
兼元や兼定に代表される美濃伝の刀にも似た傾向があり、まさに「武骨の美」とでも言うべき。
殊更にうわべの美しさばかりが愛でられる現代においては格下の扱いを受けやすい部類だが、
本来、刀はそういった着実さと共に美しさまでもが昇華されて行くべきなのである。
美しさで最高峰の扱いを受けている備前刀なども、太刀としての実用性を極めようとしたが故の結実なのだし。
実用刀の雄として名高い肥後同田貫も、やはり鎬地が広くて刃筋を通しやすい造りになっている。
美術的価値が低いとは言われているが、諸手刀法での戦闘を念頭に置いた上であれば、
井上真改などと同じくまた格別の美しさを帯びたものであるように見受けられる。
兼元や兼定に代表される美濃伝の刀にも似た傾向があり、まさに「武骨の美」とでも言うべき。
殊更にうわべの美しさばかりが愛でられる現代においては格下の扱いを受けやすい部類だが、
本来、刀はそういった着実さと共に美しさまでもが昇華されて行くべきなのである。
美しさで最高峰の扱いを受けている備前刀なども、太刀としての実用性を極めようとしたが故の結実なのだし。
いや、あんたの顔が一番醜いよ。
試しに、一番うまく撮れた写真でいいから、ここに自撮りをアップしてみて、みんなの反応を見てみるといい。
それまでの人生が表れた薄気味悪い顔をしているのか、昼間からヤフオクで骨董品を探してそうなジジイの顔つきをしているのかどうか、掲示板を見てる人はそれだけを楽しみにしていると言っても過言ではない。
図書館などで色々調べてて知ったが、井上真改が作刀で好んだ体配は主に
正宗の弟子の郷義弘を参考にしているという。その郷義弘もやはり鎬が高くて、
なおかつ肉置きの少ない刀を好んで作ったという。つまり刃部の断面が
ハマグリ状ではなく三角▽状により近い。側面の画像だけでは分かりづらいが、
これが同様形状の刀の刃筋が通りやすい理由になっているようである。
(つまり鎬が高くてハマグリ刃の度合いも強いようなら刃筋が通りにくくなる)
郷義弘の刀も一度見せてもらって手に取ったこともあるが、かなり異様な刀だ。
乱れ刃と皆焼の中間的な刃紋で、部分的に刃鉄の焼入れが鎬にまで達していた。
さすがに井上真改もそんな所までは真似してないが、南北朝時代の珍奇な作刀の
流行に好んで乗っていた部分もあるように見受けられる、夭折の天才刀工の作。
こういうものを好む人間がいるのもわかるが、決して万人向けではない。
ド派手趣味の秀吉が好んだというのもむべなるかな。
そういう分かりやすい特徴のある名物の影に隠れて、大和伝の尻懸のような
質実剛健で無駄を極力省いた佳作刀が打ち棄てられていくようなことがあるとすれば、
それは避けねばならない。常道あってこその逸脱なのだから。
正宗の弟子の郷義弘を参考にしているという。その郷義弘もやはり鎬が高くて、
なおかつ肉置きの少ない刀を好んで作ったという。つまり刃部の断面が
ハマグリ状ではなく三角▽状により近い。側面の画像だけでは分かりづらいが、
これが同様形状の刀の刃筋が通りやすい理由になっているようである。
(つまり鎬が高くてハマグリ刃の度合いも強いようなら刃筋が通りにくくなる)
郷義弘の刀も一度見せてもらって手に取ったこともあるが、かなり異様な刀だ。
乱れ刃と皆焼の中間的な刃紋で、部分的に刃鉄の焼入れが鎬にまで達していた。
さすがに井上真改もそんな所までは真似してないが、南北朝時代の珍奇な作刀の
流行に好んで乗っていた部分もあるように見受けられる、夭折の天才刀工の作。
こういうものを好む人間がいるのもわかるが、決して万人向けではない。
ド派手趣味の秀吉が好んだというのもむべなるかな。
そういう分かりやすい特徴のある名物の影に隠れて、大和伝の尻懸のような
質実剛健で無駄を極力省いた佳作刀が打ち棄てられていくようなことがあるとすれば、
それは避けねばならない。常道あってこその逸脱なのだから。
今またちょっと調べてきたけど、郷義弘は大和千手院で学んだ鍛治で、
正宗とは無関係だと主張している人間もいるんだな。
真偽のほどは定かではないが、見る人が見れば大和伝系とも取れるぐらい、
作りに実直な側面があった上での奇抜さだから至宝扱いなのだろう。
鎬が高い刀も大和伝に多い一方、相州伝や備前伝は低いものが多いから、
総じて前者に作りの似る郷を大和伝系と見る主張も無根拠ではないとわかる。
しかし、皆焼じみた焼き幅の広さの刀なども好んで作っていることから、
その手の作風の多い相州伝に私淑していた可能性も考えられなくはない。
ーー話が単なる刀剣論ばかりに偏りすぎているから、
刀剣美の思想哲学的な価値というスレの本旨に話を戻すなら、
やはり大和伝のような実直な作刀の心がけの下地があって初めて、
郷義弘のような大名物の昇華もあったわけだから、刀が本物である以上は、
用の美の追及から完全に逸脱することなどはできないということである。
正宗とは無関係だと主張している人間もいるんだな。
真偽のほどは定かではないが、見る人が見れば大和伝系とも取れるぐらい、
作りに実直な側面があった上での奇抜さだから至宝扱いなのだろう。
鎬が高い刀も大和伝に多い一方、相州伝や備前伝は低いものが多いから、
総じて前者に作りの似る郷を大和伝系と見る主張も無根拠ではないとわかる。
しかし、皆焼じみた焼き幅の広さの刀なども好んで作っていることから、
その手の作風の多い相州伝に私淑していた可能性も考えられなくはない。
ーー話が単なる刀剣論ばかりに偏りすぎているから、
刀剣美の思想哲学的な価値というスレの本旨に話を戻すなら、
やはり大和伝のような実直な作刀の心がけの下地があって初めて、
郷義弘のような大名物の昇華もあったわけだから、刀が本物である以上は、
用の美の追及から完全に逸脱することなどはできないということである。
男の見た目なんて業績に付いてくるだけのものなんだから、さほど気にする必要もない。
ただ業績に傷を付けるほどもの醜態を避けるようにすればいいだけとは、
俺も昔からずっと思ってるから、先に顔をひけらかすようなことも避けてるが。
今は多少、考えを修正しててな。
やっぱり「男は顔じゃない」とは思うが、何もかもにかけて「男は見た目じゃない」とも思わない。
その業績に見合った刀剣や甲冑などの装束を以って、我が見た目にも代える。
それにより巧言令色に長ける女子小人の無闇な祭り上げにも牽制をかける。
どうせ我が身もいつかは命尽きて骨となり、灰に帰するものなのだから、
もう少し諸行無常のはかなさに耐える物品を永劫に至るまでのわが形代ともしようぞ。
それを可能とするのも、それなりの業績を己が素養によって挙げられる益荒男だけなのだし。
ただ業績に傷を付けるほどもの醜態を避けるようにすればいいだけとは、
俺も昔からずっと思ってるから、先に顔をひけらかすようなことも避けてるが。
今は多少、考えを修正しててな。
やっぱり「男は顔じゃない」とは思うが、何もかもにかけて「男は見た目じゃない」とも思わない。
その業績に見合った刀剣や甲冑などの装束を以って、我が見た目にも代える。
それにより巧言令色に長ける女子小人の無闇な祭り上げにも牽制をかける。
どうせ我が身もいつかは命尽きて骨となり、灰に帰するものなのだから、
もう少し諸行無常のはかなさに耐える物品を永劫に至るまでのわが形代ともしようぞ。
それを可能とするのも、それなりの業績を己が素養によって挙げられる益荒男だけなのだし。
人は、忘れられる生き物である
http://bbs56.meiwasuisan.com/discussion/1566949904...
誰が立てたか知らんが、ちょうどいいタイミングでうまい提起をしてくれている。
昔から「人は二度死ぬ」といい、一つは命そのものの死、もう一つが人々の記憶からの死。
無名の一般人はもちろんのこと、芸能人やスポーツ選手のような有名人ですら、
箱庭の内側での持て囃し止まりな名声では、じきに人々の記憶から消えて行ってしまう。
美名であれ悪名であれ、後世まで末永くその名や業績が語り伝えられて行く可能性が
最も高いのが政治家、その次が軍人や役人。さらにその次が芸術家や学者あたり。
特に政治や軍事は、優秀な大人の男が最大級の力量を発揮してようやく歴史的な功績に
なるかならないかといった難業なので、自然と歴史上にもそういう人種ばかりが伝えられてる。
刀匠も相当な体力を要する仕事だから、自然と男性名を冠した作品だけが遺されてる。
だから歴史的な功績者との相性がいいと断定するのはちと短絡的だが、我が命の死後に
至るまで名声と共に伝えられ続ける形代となるのに、刀ほど絶好なものも他になく、
故にそれに値するほどの偉人だけが「我が見た目」とする資格をも持つわけである。
全国に名を知られている有名人や政治家を含めて、そんな人間が今の日本には皆無なものだから、
刀の美しさに自己投影してまで刀を楽しむことのできる人間もまずいない状態なわけだが。
http://bbs56.meiwasuisan.com/discussion/1566949904...
誰が立てたか知らんが、ちょうどいいタイミングでうまい提起をしてくれている。
昔から「人は二度死ぬ」といい、一つは命そのものの死、もう一つが人々の記憶からの死。
無名の一般人はもちろんのこと、芸能人やスポーツ選手のような有名人ですら、
箱庭の内側での持て囃し止まりな名声では、じきに人々の記憶から消えて行ってしまう。
美名であれ悪名であれ、後世まで末永くその名や業績が語り伝えられて行く可能性が
最も高いのが政治家、その次が軍人や役人。さらにその次が芸術家や学者あたり。
特に政治や軍事は、優秀な大人の男が最大級の力量を発揮してようやく歴史的な功績に
なるかならないかといった難業なので、自然と歴史上にもそういう人種ばかりが伝えられてる。
刀匠も相当な体力を要する仕事だから、自然と男性名を冠した作品だけが遺されてる。
だから歴史的な功績者との相性がいいと断定するのはちと短絡的だが、我が命の死後に
至るまで名声と共に伝えられ続ける形代となるのに、刀ほど絶好なものも他になく、
故にそれに値するほどの偉人だけが「我が見た目」とする資格をも持つわけである。
全国に名を知られている有名人や政治家を含めて、そんな人間が今の日本には皆無なものだから、
刀の美しさに自己投影してまで刀を楽しむことのできる人間もまずいない状態なわけだが。
尻懸のような古刀期の太刀にしろ、井上真改のような新刀期の打刀にしろ、
ある種の実戦性の高さを追求して用の美をも極めた名刀には違いないのだが、
実はあえて実戦性をないがしろにした名刀というものもまた存在する。
南北朝から室町期にかけて地味に流行していた、1尺〜1尺5寸程度の平造りの小刀。
鎬がないので敵からの斬撃を受け流し辛く、刃こぼれもしやすい。
長さが半端に長いので超接近戦や暗殺のような短刀の用途にも向かない。
にもかかわらずなぜ流行っていたかというと、最上級の斬れ味と絶妙な長さの両立が、
すでに戦死した敵将の斬首や、自分自身が追い詰められた時の自刃用に大変向いていたからである。
これが江戸期以降に規格が厳格化された「脇差」のはしりであるが、
屋内戦闘を想定した鎬造りである場合が多い新刀の脇差と比べても、よりサブウェポン
であることに特化しており、実戦にかけては使って使えないこともない程度の機能しかない。
しかし、これはこれである種の妙味があるし、新刀の脇差以上に無駄を省いた用の美を湛えてもいる。
実戦ではなく、斬首と自刃にこそ用途が特化された、今際の際を象徴する鬼の刑具。
ある種の実戦性の高さを追求して用の美をも極めた名刀には違いないのだが、
実はあえて実戦性をないがしろにした名刀というものもまた存在する。
南北朝から室町期にかけて地味に流行していた、1尺〜1尺5寸程度の平造りの小刀。
鎬がないので敵からの斬撃を受け流し辛く、刃こぼれもしやすい。
長さが半端に長いので超接近戦や暗殺のような短刀の用途にも向かない。
にもかかわらずなぜ流行っていたかというと、最上級の斬れ味と絶妙な長さの両立が、
すでに戦死した敵将の斬首や、自分自身が追い詰められた時の自刃用に大変向いていたからである。
これが江戸期以降に規格が厳格化された「脇差」のはしりであるが、
屋内戦闘を想定した鎬造りである場合が多い新刀の脇差と比べても、よりサブウェポン
であることに特化しており、実戦にかけては使って使えないこともない程度の機能しかない。
しかし、これはこれである種の妙味があるし、新刀の脇差以上に無駄を省いた用の美を湛えてもいる。
実戦ではなく、斬首と自刃にこそ用途が特化された、今際の際を象徴する鬼の刑具。
かの有名な妖刀村正にも実はこの平造り脇差の名品が多く(画像も伝村正)、
>117の正利も村正と同じ千子派の系統である。
こういう機能上から斬れ味に優れた刀を専門的に作っていたのだから、業物が多いのも自然なことだが、
そのぶん実戦性に欠けている面もあるので、反徳川の連中が好んで村正ばかりを求めた結果、
かえって戦闘力を目減りさせるようなことがあったとしても自己責任だといえよう。
村正が徳川に害を為したとされる伝説もみな、奇襲や事故や切腹ばかりで、
正々堂々の戦における敗北などは一つも見当たらない。にもかかわらず、
反幕の意図で村正を好むような連中はみなその魂胆の卑しさが透けて見えてるし、
その卑しさゆえに本当の強さを身につけられることもないのである。
>117の正利も村正と同じ千子派の系統である。
こういう機能上から斬れ味に優れた刀を専門的に作っていたのだから、業物が多いのも自然なことだが、
そのぶん実戦性に欠けている面もあるので、反徳川の連中が好んで村正ばかりを求めた結果、
かえって戦闘力を目減りさせるようなことがあったとしても自己責任だといえよう。
村正が徳川に害を為したとされる伝説もみな、奇襲や事故や切腹ばかりで、
正々堂々の戦における敗北などは一つも見当たらない。にもかかわらず、
反幕の意図で村正を好むような連中はみなその魂胆の卑しさが透けて見えてるし、
その卑しさゆえに本当の強さを身につけられることもないのである。
平造り脇差の鍛刀によっても斬れ味を蓄積していた千子村正の刀を、
徳川家康自身も好み、本人自身は最期まで禁忌扱いに反対していたという。
遺体の斬首や速やかな自刃といった、本来の用途を念頭に置くのであれば、
村正が名刀中の名刀であるのにも違いはなく、家康公もまたそれに反対はすまい。
最上の斬れ味を持つ村正による切腹によって、嫡子信康も速やかに世を去れたと
いうのなら、道具としての刀自体には功こそあれど罪はなかったといえる。
結局、平時の社会においては、斬首や切腹自体が極力避けられてしかるべき
ことなのだから、その用途に特化された村正が忌み避けられたことにも、
多少は江戸期における平和維持の効果があったかもしれない。そして
明治以降に村正が好まれたことが、無駄な戦乱を呼び込む要因になったとも。
徳川家康自身も好み、本人自身は最期まで禁忌扱いに反対していたという。
遺体の斬首や速やかな自刃といった、本来の用途を念頭に置くのであれば、
村正が名刀中の名刀であるのにも違いはなく、家康公もまたそれに反対はすまい。
最上の斬れ味を持つ村正による切腹によって、嫡子信康も速やかに世を去れたと
いうのなら、道具としての刀自体には功こそあれど罪はなかったといえる。
結局、平時の社会においては、斬首や切腹自体が極力避けられてしかるべき
ことなのだから、その用途に特化された村正が忌み避けられたことにも、
多少は江戸期における平和維持の効果があったかもしれない。そして
明治以降に村正が好まれたことが、無駄な戦乱を呼び込む要因になったとも。
また調べてきたが、村正の長尺な刀の作風として、
総合的な作りは平均的ないし若干細身であった上で、なおかつ平肉が枯れるという。
つまり上で述べたような刃の断面がハマグリよりも三角に近い刀であり、
なおかつ重ねも薄くて鎬も低いのだから、平造りの脇差がよく切れるのと
全く同じ原理で切れ味に優れることが約束づけられているといえる。
俺が手にとってみたことのある鑑定書付きの村正(大磨上の小太刀)も、確かにそのような
体配だったと記憶しているが、数多の新々刀などと同じく地鉄が全体的に白っぽかった。
肌が詰んでなくて有機的な模様をしていたのでやっぱり古刀だろうなというのは分かったが、
相州伝の名刀に見られるような、硬軟のメリハリの利いた鋼の折重ねによる荒沸なども見られない。
要するに、細身で平肉も枯らして最上級の斬れ味を追求してはいるものの、
刀身の靭性をそこまで高めているわけではないから、正宗のような
より上位の品質の刀と打ち合わせた場合には、折れたりする危険があるということ。
生半可の刀と比べれば強かろうとも、最高の実戦能力を帯びた刀とまではいえない。
とにかく斬れ味に優れるので具足を着込まない平時のゲリラ戦で、特に相手が名刀持ちでもない
と知れた場合には最高の戦果を発揮するだろう。もはやイジメとも取れなくないが。
総合的な作りは平均的ないし若干細身であった上で、なおかつ平肉が枯れるという。
つまり上で述べたような刃の断面がハマグリよりも三角に近い刀であり、
なおかつ重ねも薄くて鎬も低いのだから、平造りの脇差がよく切れるのと
全く同じ原理で切れ味に優れることが約束づけられているといえる。
俺が手にとってみたことのある鑑定書付きの村正(大磨上の小太刀)も、確かにそのような
体配だったと記憶しているが、数多の新々刀などと同じく地鉄が全体的に白っぽかった。
肌が詰んでなくて有機的な模様をしていたのでやっぱり古刀だろうなというのは分かったが、
相州伝の名刀に見られるような、硬軟のメリハリの利いた鋼の折重ねによる荒沸なども見られない。
要するに、細身で平肉も枯らして最上級の斬れ味を追求してはいるものの、
刀身の靭性をそこまで高めているわけではないから、正宗のような
より上位の品質の刀と打ち合わせた場合には、折れたりする危険があるということ。
生半可の刀と比べれば強かろうとも、最高の実戦能力を帯びた刀とまではいえない。
とにかく斬れ味に優れるので具足を着込まない平時のゲリラ戦で、特に相手が名刀持ちでもない
と知れた場合には最高の戦果を発揮するだろう。もはやイジメとも取れなくないが。
村正の斬れ味が優れているのは、要するに剃刀や包丁やカッターに準ずるような、
並みの日本刀よりも薄刃な作り込みによって鋭利さを稼いでいるからである。
見る者をたぶらかす妖刀扱いされているのも、その見かけからの鋭利さのため。
日本刀は上掲3つのような専門用途のある刃物と比べればはるかに重ねが厚く、
同様の形状の刀を軟鉄などで作ってもろくな切れ味が稼げない作りになっているから、
素人目には切れ味の想像がつき難い。そのため武の素人である犯罪者が日本刀を
凶器として用いることもほとんどないが、村正ならばそうなるとも限らない。
村正を手にして妖艶さを感じるということは、それだけ自らに武の心得がないということ。
素人が適当に振っても人を殺せそうな鋭利さを見るからに帯びているものだから、
素人こそはあてられてしまう。そんな人間はなるべく村正を目にも触れるべきではない。
並みの日本刀よりも薄刃な作り込みによって鋭利さを稼いでいるからである。
見る者をたぶらかす妖刀扱いされているのも、その見かけからの鋭利さのため。
日本刀は上掲3つのような専門用途のある刃物と比べればはるかに重ねが厚く、
同様の形状の刀を軟鉄などで作ってもろくな切れ味が稼げない作りになっているから、
素人目には切れ味の想像がつき難い。そのため武の素人である犯罪者が日本刀を
凶器として用いることもほとんどないが、村正ならばそうなるとも限らない。
村正を手にして妖艶さを感じるということは、それだけ自らに武の心得がないということ。
素人が適当に振っても人を殺せそうな鋭利さを見るからに帯びているものだから、
素人こそはあてられてしまう。そんな人間はなるべく村正を目にも触れるべきではない。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f36899963...
江戸期の代表的な脇差といえばこんな風。
屋内戦闘ではメインウェポンとしての役割も果たせるように尋常な鎬造りとし、
先幅や先重も並みの太刀以上に太めに採ることでハンマー効果を稼いでいる。
銀座で見せてもらった助直や照包の脇差もこれに似た体配をしていた。
二本差しを法的に厳格化させた時代ならではの造り込みだが、正直、
個人的にはあまり好きではない。というのも、ここまでなんでも機能性を
詰め込むのなら、いっそのこと柳生厳包愛用の風鎮切光代のような
片切刃造りにでもしてしまったほうが、より能力が極まるものだから。
見た目がいかにも、栄養不足で縦に伸びてない当時の日本人ぽくもある。
これを含め、名工の作品の刃紋や肌の味わい自体は申し分ないのだが、
現代社会で脇差が特筆して不人気と化してしまっている原因だともいえる。
この世に帯刀身分というものがあるとすれば、脇差は確かに重要な意味を
持ってくるが、江戸期には江戸期の、戦国期には戦国期の独特な脇差文化が
あったからには、これからの時代における最適な脇差というものもまた
模索されて然るべきだろう。むしろ脇差のほうがメインになるような。
江戸期の代表的な脇差といえばこんな風。
屋内戦闘ではメインウェポンとしての役割も果たせるように尋常な鎬造りとし、
先幅や先重も並みの太刀以上に太めに採ることでハンマー効果を稼いでいる。
銀座で見せてもらった助直や照包の脇差もこれに似た体配をしていた。
二本差しを法的に厳格化させた時代ならではの造り込みだが、正直、
個人的にはあまり好きではない。というのも、ここまでなんでも機能性を
詰め込むのなら、いっそのこと柳生厳包愛用の風鎮切光代のような
片切刃造りにでもしてしまったほうが、より能力が極まるものだから。
見た目がいかにも、栄養不足で縦に伸びてない当時の日本人ぽくもある。
これを含め、名工の作品の刃紋や肌の味わい自体は申し分ないのだが、
現代社会で脇差が特筆して不人気と化してしまっている原因だともいえる。
この世に帯刀身分というものがあるとすれば、脇差は確かに重要な意味を
持ってくるが、江戸期には江戸期の、戦国期には戦国期の独特な脇差文化が
あったからには、これからの時代における最適な脇差というものもまた
模索されて然るべきだろう。むしろ脇差のほうがメインになるような。
片切刃造りの刀ってのは基本、みんな注文打ちで、
はじめの所有者の手癖や剣術流派に合わせて作られてるから、
中古で手に入れるのが最も向かない。これが>123画のような
両鎬造りの脇差ほど普及しなかった理由だと思われる。
相手の斬撃を受け流せるように、差表か差裏のどちらかを鎬造りとし、
斬れ味を稼ぐためにもう一方を切刃造りないし平造りにする。
中には表裏が切刃と平造りになっているものなどもあり、
さらに長さや反りも様々で、とても自分にピッタリのものなど見つからない。
この柳生厳包の愛刀も、俺にも合うなどとはとても断定できないが、
ヤフオクなどでたまに見る片切刃造りの刀と比べれば、
段違いに戦闘能力が高いだろうとは見込まれる。
その機能の高さを活かすためには、新陰流の「竜の口」と呼ばれる手の内で
我が身と刀を一体化させねばならず、それが不十分なら自らの体を傷める
ことともなってしまう。玄人中の達人のみが扱う資格のある刀だといえる。
はじめの所有者の手癖や剣術流派に合わせて作られてるから、
中古で手に入れるのが最も向かない。これが>123画のような
両鎬造りの脇差ほど普及しなかった理由だと思われる。
相手の斬撃を受け流せるように、差表か差裏のどちらかを鎬造りとし、
斬れ味を稼ぐためにもう一方を切刃造りないし平造りにする。
中には表裏が切刃と平造りになっているものなどもあり、
さらに長さや反りも様々で、とても自分にピッタリのものなど見つからない。
この柳生厳包の愛刀も、俺にも合うなどとはとても断定できないが、
ヤフオクなどでたまに見る片切刃造りの刀と比べれば、
段違いに戦闘能力が高いだろうとは見込まれる。
その機能の高さを活かすためには、新陰流の「竜の口」と呼ばれる手の内で
我が身と刀を一体化させねばならず、それが不十分なら自らの体を傷める
ことともなってしまう。玄人中の達人のみが扱う資格のある刀だといえる。
今は、刀の実戦機能に焦点を当てて話をしているから、
刀の刃紋の美しさばかりが取り沙汰される一般的な刀剣鑑賞の論議と比べると、
だいぶ刀全体の外形的な体配の話に重点が偏っているといえる。
つまり、刀の大まかな形と刃紋を作り出す刀工だけでなく、
細部に至るまでの完成形を仕上げる研師の仕事にも注目しているといえる。
研師は当然、刀工の「こんな刀を作りたい」という思いを汲んで、
それに沿った刀の正体を引き出す女房役となることを本分としているわけだが、
場合によっては刀の所持者の注文を優先することもあるだろうし、
自分自身のポリシーを優先させることだって部分的にはあるだろう。
しかし、現代の研師が最上研ぎにおける最優先課題としているだろう
「刀の波紋を最も美しく見せる」という使命は、必ずしも武用目的とは両立しない。
斬れ味を上げるためにわざと美観を損ねるほどの寝刃合わせ(鋸刃仕上げ)を行う場合だけでなく、
より一層の斬れ味や耐久性のためにあえて平肉の多さを加減するといった行為もまた、
ただ刃紋の美しさを追求することとは相容れない場合がある。
刀の刃紋の美しさばかりが取り沙汰される一般的な刀剣鑑賞の論議と比べると、
だいぶ刀全体の外形的な体配の話に重点が偏っているといえる。
つまり、刀の大まかな形と刃紋を作り出す刀工だけでなく、
細部に至るまでの完成形を仕上げる研師の仕事にも注目しているといえる。
研師は当然、刀工の「こんな刀を作りたい」という思いを汲んで、
それに沿った刀の正体を引き出す女房役となることを本分としているわけだが、
場合によっては刀の所持者の注文を優先することもあるだろうし、
自分自身のポリシーを優先させることだって部分的にはあるだろう。
しかし、現代の研師が最上研ぎにおける最優先課題としているだろう
「刀の波紋を最も美しく見せる」という使命は、必ずしも武用目的とは両立しない。
斬れ味を上げるためにわざと美観を損ねるほどの寝刃合わせ(鋸刃仕上げ)を行う場合だけでなく、
より一層の斬れ味や耐久性のためにあえて平肉の多さを加減するといった行為もまた、
ただ刃紋の美しさを追求することとは相容れない場合がある。
今の研師は大体が、観賞用と武用の研ぎを完全に分けて請け負っているようだが、
そうせざるを得ないのも、用の美を追求する本分から若干以上に外れてしまっているからである。
名品の天正拵や、この山鳥毛一文字の拵などに見られる柄の形状(立鼓)も、
今の柄巻師がいくら真似してもどうにも再現しきれない凄みを帯びていると言われる。
刀が正真の仕事道具だった武家時代ならではの、実用に駆られた作り込みの妙技を、
その目的性に沿って再現して行く機縁に恵まれないものだから、魂のこもった復元ができない。
研ぎについても似たようなことが言える。
昔の名刀も、ただ刃紋の美しさを引き出そうとしたのではなく、その時代々々の用途に沿った
平肉の加減だとか鎬の高低だとかいった研ぎ上げ上の工夫がなされているからこそ、
現代刀がどうしても再現できない体配からの美しさを帯びていたりもする。
そしてそこにこそ、美しさばかりを追求して引き出されたというわけでもないが故に、
より一層美しい刃紋までもが見られる。名刀の手入れを請け負った研師などはぜひ、
そのあたりの心がけを、初めて仕上げを請け負った古の研師から学んでもらいたいものだ。
そうせざるを得ないのも、用の美を追求する本分から若干以上に外れてしまっているからである。
名品の天正拵や、この山鳥毛一文字の拵などに見られる柄の形状(立鼓)も、
今の柄巻師がいくら真似してもどうにも再現しきれない凄みを帯びていると言われる。
刀が正真の仕事道具だった武家時代ならではの、実用に駆られた作り込みの妙技を、
その目的性に沿って再現して行く機縁に恵まれないものだから、魂のこもった復元ができない。
研ぎについても似たようなことが言える。
昔の名刀も、ただ刃紋の美しさを引き出そうとしたのではなく、その時代々々の用途に沿った
平肉の加減だとか鎬の高低だとかいった研ぎ上げ上の工夫がなされているからこそ、
現代刀がどうしても再現できない体配からの美しさを帯びていたりもする。
そしてそこにこそ、美しさばかりを追求して引き出されたというわけでもないが故に、
より一層美しい刃紋までもが見られる。名刀の手入れを請け負った研師などはぜひ、
そのあたりの心がけを、初めて仕上げを請け負った古の研師から学んでもらいたいものだ。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u29855191...
日本刀には一定数、刀だけでなく「剣」も存在する。
戦闘用ではなく、寺社の法具として主に作成されたもの。
日本式の槍よりもその来歴が古く、槍(特に両鎬槍)の起源にもなったものと思われる。
これが結構、ヤフオクなどでも多く出回っている。
それだけ廃仏毀釈や近年の経営難で廃業してる寺が多いということ。
剣を宝具として用いたりするのは密教系の戒律が厳格な寺が主だが、
そんな寺ほど衰退し、商売にも手を出してるような生臭坊主ほど生き延びる。
戦国時代などともまた別の、文化腐敗としての乱世を象徴する出来事だといえる。
日本刀には一定数、刀だけでなく「剣」も存在する。
戦闘用ではなく、寺社の法具として主に作成されたもの。
日本式の槍よりもその来歴が古く、槍(特に両鎬槍)の起源にもなったものと思われる。
これが結構、ヤフオクなどでも多く出回っている。
それだけ廃仏毀釈や近年の経営難で廃業してる寺が多いということ。
剣を宝具として用いたりするのは密教系の戒律が厳格な寺が主だが、
そんな寺ほど衰退し、商売にも手を出してるような生臭坊主ほど生き延びる。
戦国時代などともまた別の、文化腐敗としての乱世を象徴する出来事だといえる。
寺から流出したらしい剣だけでなく、神社から流出したらしい奉納刀もたまに見る。
こちらも副業をしないとやっていけないほど食い詰めている所が多いとは聞いてるが。
実戦で功を挙げてから奉納されたものではなく、始めから奉納を目的として打ち鍛えられた
刀ともなると、非常な長寸だったり反りが高かったりして実用性が低いものも多い。
法具用の剣と同じく、実用されないことを目的として作られているわけで、
何もかもを使い捨てて止まない大量消費社会に出回るのが極めて危うい。
日本の寺社は信仰の場であると同時に、文化財保護の牙城としても大きな役割を担ってきた。
成金はおろか、並みの名家が代々伝えて行く家宝以上に厳重な保存下に置かれてきた宝物の数々。
平安時代の刀剣を秘蔵しているような所もザラにあり、比較的時代が浅くて希少価値の低いような
ものから手放すようにも心がけているとは思われるが、できればそれもなくて済んで欲しいものだ。
現代の刀剣商や愛好家には所有はおろか、目にする資格もないような輩も多いのだし。
こちらも副業をしないとやっていけないほど食い詰めている所が多いとは聞いてるが。
実戦で功を挙げてから奉納されたものではなく、始めから奉納を目的として打ち鍛えられた
刀ともなると、非常な長寸だったり反りが高かったりして実用性が低いものも多い。
法具用の剣と同じく、実用されないことを目的として作られているわけで、
何もかもを使い捨てて止まない大量消費社会に出回るのが極めて危うい。
日本の寺社は信仰の場であると同時に、文化財保護の牙城としても大きな役割を担ってきた。
成金はおろか、並みの名家が代々伝えて行く家宝以上に厳重な保存下に置かれてきた宝物の数々。
平安時代の刀剣を秘蔵しているような所もザラにあり、比較的時代が浅くて希少価値の低いような
ものから手放すようにも心がけているとは思われるが、できればそれもなくて済んで欲しいものだ。
現代の刀剣商や愛好家には所有はおろか、目にする資格もないような輩も多いのだし。
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スレッドタイトル:人間という生き物は醜い(特に外見)