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聖書 Part8
▼ページ最下部
世に「聖書」として扱われている書物が、単なる学術書や文芸書などと決定的に異なっている点は、
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。
「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。
中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。
キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。
世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。
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やはりその程度にも大きな差異があるが、まず人々に心の豊かさをもたらす信教と、
そうでない信教との両方がある。人々に最悪級の心の貧しさをもたらすのが他でもない聖書信仰で、
だからこそ金持ち同士での争いすら時に巻き起こさせるのに対し、ヒンズー教などは比較的、
信者に心の豊かさをもたらす信教だから、相当な貧困下においても信者を最悪の妄動にまでは至らせない。
当然、人々に心の豊かさをもたらす教学を推進して、心の貧しさをもたらす教学を排していくべきで、
たとえ世界中の貧富の格差を埋め合わせてみたところで、誰しもが聖書信者並みの心の貧しさのままでいたり
したなら、紛争の多発化なども防げない。一方で、誰しもがインド人並みの心の豊かさを身に付けたなら、
誰しもが今のインド並みの貧困下に置かれた所で、紛争級の妄動にまでは至らない。別に誰しもが今の
インド人並みの貧しさに置かれるべきでもないが、最悪そうなったところで、心の豊かさにだけよって
争いを未然に食い止めることだってできなくはないのだという見本に、今のインドなどがなってくれてもいる。
この地球上の資源含有率などからいっても、世界中の誰しもが今の欧米人並みの富裕に与れるなんてことも
あり得ない。ただ資源占有率を均すだけなら、誰しもがインドネシア人やフィリピン人並みの生活を
送らされることにもなるわけで、だからといって誰しもが今のインドネシア人やフィリピン人を
目指すべきだなどということもないとは、すでに>>132-133にも書いた。フィリピンのキリスト教はおろか、
インドネシアのイスラム教ですら、人々に心の豊かさをもたらすことにかけて長けた信教であるなどという
ことはないわけで、心の豊かさについて見習うべきなのはむしろインド人などのほうである。さらに言えば、
今のインド人以上にも、仏教圏だった頃のインド人のあり方などを見習うほうが、よりうってつけでもある。
そうでない信教との両方がある。人々に最悪級の心の貧しさをもたらすのが他でもない聖書信仰で、
だからこそ金持ち同士での争いすら時に巻き起こさせるのに対し、ヒンズー教などは比較的、
信者に心の豊かさをもたらす信教だから、相当な貧困下においても信者を最悪の妄動にまでは至らせない。
当然、人々に心の豊かさをもたらす教学を推進して、心の貧しさをもたらす教学を排していくべきで、
たとえ世界中の貧富の格差を埋め合わせてみたところで、誰しもが聖書信者並みの心の貧しさのままでいたり
したなら、紛争の多発化なども防げない。一方で、誰しもがインド人並みの心の豊かさを身に付けたなら、
誰しもが今のインド並みの貧困下に置かれた所で、紛争級の妄動にまでは至らない。別に誰しもが今の
インド人並みの貧しさに置かれるべきでもないが、最悪そうなったところで、心の豊かさにだけよって
争いを未然に食い止めることだってできなくはないのだという見本に、今のインドなどがなってくれてもいる。
この地球上の資源含有率などからいっても、世界中の誰しもが今の欧米人並みの富裕に与れるなんてことも
あり得ない。ただ資源占有率を均すだけなら、誰しもがインドネシア人やフィリピン人並みの生活を
送らされることにもなるわけで、だからといって誰しもが今のインドネシア人やフィリピン人を
目指すべきだなどということもないとは、すでに>>132-133にも書いた。フィリピンのキリスト教はおろか、
インドネシアのイスラム教ですら、人々に心の豊かさをもたらすことにかけて長けた信教であるなどという
ことはないわけで、心の豊かさについて見習うべきなのはむしろインド人などのほうである。さらに言えば、
今のインド人以上にも、仏教圏だった頃のインド人のあり方などを見習うほうが、よりうってつけでもある。
未だイギリス連合下に置かれ、最悪級の貧困に喘がされているがための非常的な措置として、酷烈なカースト制を
敷いている今のインドなどよりも、古代中国と並んで世界最大級の繁栄を謳歌していた、仏教圏だった頃の
インドのあり方などを見習うほうが、心の豊かさの蓄え方を教わる上では適している。今のインド人もまた、
昔のインド文化を糧としているわけだから、インドの歴史性もまた決して無視されていいものではないといえる。
——真正聖書=四書五経にまつわる論議としては、今日は道はずれ気味になってしまったが、
「より重大なのは物質的貧富以上にも心の貧富である」という認識が、四書五経中でも一貫されている。
ただ、俗世の道徳学たる儒学の聖典であるために、四書五経などでは抽象的な心論は少なく、
心か本で財物が末であるという本末認識を大前提とした、具体的な実践論などのほうが豊富である。
そうであることをよくわきまえた上で四書五経を読めば、その記述内容に納得がいくことも多いのである。
「信を講じ睦を修む、之れを人の利と謂う。争奪相殺す、之れを人の憂いと謂う」
「信実さを養って人々との親睦に務めることが、人としての利益である。争って奪い合い殺し合うのは憂いである。
(平和によってお互いの利益を損なわないことが、ありのままに利益である。物質的な富裕も利益なら、
平和によってお互いの利益を守ることもまた利益なのだから、両者を対立的なものとして捉えたりする必要はない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
敷いている今のインドなどよりも、古代中国と並んで世界最大級の繁栄を謳歌していた、仏教圏だった頃の
インドのあり方などを見習うほうが、心の豊かさの蓄え方を教わる上では適している。今のインド人もまた、
昔のインド文化を糧としているわけだから、インドの歴史性もまた決して無視されていいものではないといえる。
——真正聖書=四書五経にまつわる論議としては、今日は道はずれ気味になってしまったが、
「より重大なのは物質的貧富以上にも心の貧富である」という認識が、四書五経中でも一貫されている。
ただ、俗世の道徳学たる儒学の聖典であるために、四書五経などでは抽象的な心論は少なく、
心か本で財物が末であるという本末認識を大前提とした、具体的な実践論などのほうが豊富である。
そうであることをよくわきまえた上で四書五経を読めば、その記述内容に納得がいくことも多いのである。
「信を講じ睦を修む、之れを人の利と謂う。争奪相殺す、之れを人の憂いと謂う」
「信実さを養って人々との親睦に務めることが、人としての利益である。争って奪い合い殺し合うのは憂いである。
(平和によってお互いの利益を損なわないことが、ありのままに利益である。物質的な富裕も利益なら、
平和によってお互いの利益を守ることもまた利益なのだから、両者を対立的なものとして捉えたりする必要はない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
漢帝国のような徳治制の社会においては、王侯による恩赦の発布が重要な政治行為の一環とされていた。
「漢書」の帝紀における歴代皇帝の詔勅もその多くが恩赦にまつわるもので、罪人の釈放や減刑が、
法定刑を含む規制の緩和、正月祭などを民が自由に催すことの許可などと共に、頻繁に下されていた。
恩赦を発する理由はといえば、「龍が現れた」「鳳が飛んだ」なども含む、今だとオカルトじみて
聞こえるような瑞祥だったりもするが、とにかく適当な理由すら付けて赦令を下していたということ。
一方で、それほどにも恩赦を多発できたのは、当該の国家の朝廷なり幕府なりが積極的な徳治に努めることで、
世の中の福徳の余りある程もの増進を果たしていたからで、そのような努力も行われない法治主義の国家
などで恩赦を乱発したりしたなら、それによる世相不安の深刻化すらもが免れられなくなるのである。
法治国家ですら恩赦の多発化などは警戒せねばならないのだから、人々に権力犯罪や我田引水を
けしかける邪教に支配された社会などで、恩赦などを通用させる余地がないこともまた明らかである。
犯罪行為への恩赦といわず、破産を通じての借金の踏み倒しなどを容認するだけでも、相当に危うい。
今の日本などはまだ、全体に比べての破産者や生活保護者が少数に止まっていて、しかも全国民を挙げての
健全な自活が旺盛なものだから、落伍者を保護してやることだってできなくはない。(それでも保護を
受けることを恥じて自殺する者が多数に上っているが)一方で、全国民を挙げての浪費が甚だしい
アメリカや、公務員による富の食いつぶしが著しいギリシャなどでは、国全体での破綻までもが
危ぶまれる事態と化してしまっている。特に、アメリカの破綻は国を挙げての借金踏み倒しの先に
行き着いたものだといえ、為政者が徳治を心がけているわけでもないのに、民事と刑事両面における
赦免を乱発しすぎた挙句に、国家全体が破綻の様相を呈することとなった典型となっているのである。
「漢書」の帝紀における歴代皇帝の詔勅もその多くが恩赦にまつわるもので、罪人の釈放や減刑が、
法定刑を含む規制の緩和、正月祭などを民が自由に催すことの許可などと共に、頻繁に下されていた。
恩赦を発する理由はといえば、「龍が現れた」「鳳が飛んだ」なども含む、今だとオカルトじみて
聞こえるような瑞祥だったりもするが、とにかく適当な理由すら付けて赦令を下していたということ。
一方で、それほどにも恩赦を多発できたのは、当該の国家の朝廷なり幕府なりが積極的な徳治に努めることで、
世の中の福徳の余りある程もの増進を果たしていたからで、そのような努力も行われない法治主義の国家
などで恩赦を乱発したりしたなら、それによる世相不安の深刻化すらもが免れられなくなるのである。
法治国家ですら恩赦の多発化などは警戒せねばならないのだから、人々に権力犯罪や我田引水を
けしかける邪教に支配された社会などで、恩赦などを通用させる余地がないこともまた明らかである。
犯罪行為への恩赦といわず、破産を通じての借金の踏み倒しなどを容認するだけでも、相当に危うい。
今の日本などはまだ、全体に比べての破産者や生活保護者が少数に止まっていて、しかも全国民を挙げての
健全な自活が旺盛なものだから、落伍者を保護してやることだってできなくはない。(それでも保護を
受けることを恥じて自殺する者が多数に上っているが)一方で、全国民を挙げての浪費が甚だしい
アメリカや、公務員による富の食いつぶしが著しいギリシャなどでは、国全体での破綻までもが
危ぶまれる事態と化してしまっている。特に、アメリカの破綻は国を挙げての借金踏み倒しの先に
行き着いたものだといえ、為政者が徳治を心がけているわけでもないのに、民事と刑事両面における
赦免を乱発しすぎた挙句に、国家全体が破綻の様相を呈することとなった典型となっているのである。
罪を許すということには、当然それなりのリスクが伴う。そのリスクを見越した上で、自ら徳治を心がける
天皇なり皇帝なりが大赦を下すようなこともあるが、それは決して誰しもにできるようなことではない。
ただ能力がなくてできないというばかりでなく、それなりの立場にいるのでなければできない。
カルト宗教の指導者や商売人などは、その立場からして天下国家規模の運営責任を担うものではないから、
世の中に害を与える規模の刑事的、民事的過ちを勝手に許してやったりしていいはずもないのである。
徳治社会でも法官は法官で別にいて、ただの事務処理者として徳治を実施する王侯や高官の下に置かれる。
上司からの命令でもないうちは、法官は民に対する信賞必罰を心がけ、民もまたそれに従う。その頻度が
法治社会と比べて少ないということはあっても、守らせ守らせられる法規というものがやはり一定以上にはある。
誰しもが誰しもと無条件に許し合うなんていうことは、法治社会はおろか、徳治社会でもあり得ないことで、
罪を許されることばかりを欲するような卑しい身分の者ほど、(小人は恵を懐う。里仁第四・一一)
最後まで信賞必罰に則ったままの存在でいることを、徳治社会でも強要され続けるのである。
法で禁止されるべき様な悪行は自律的に行わず、むしろ善行によって世の大利の目方を増しすらするような
君子であって初めて、他人の罪を許してやれるだけの度量すらもが備わるのだから、自分が罪を許されたい
がために、他人の罪を許してやろうとするような考えが通用していい余地などは、どこにもないのだといえる。
「天道は善に福し淫に禍す。〜肆に台れ小子、天命の明威を将し、敢えて赦さず」
「天道は必ず正善なる者に福徳を授け、淫悪にふける者に災禍を下す。だからこそ私もまた、
その天命に根ざした明らかな威徳によって、罪を罰するに際しても、あえて赦そうとしないのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)
天皇なり皇帝なりが大赦を下すようなこともあるが、それは決して誰しもにできるようなことではない。
ただ能力がなくてできないというばかりでなく、それなりの立場にいるのでなければできない。
カルト宗教の指導者や商売人などは、その立場からして天下国家規模の運営責任を担うものではないから、
世の中に害を与える規模の刑事的、民事的過ちを勝手に許してやったりしていいはずもないのである。
徳治社会でも法官は法官で別にいて、ただの事務処理者として徳治を実施する王侯や高官の下に置かれる。
上司からの命令でもないうちは、法官は民に対する信賞必罰を心がけ、民もまたそれに従う。その頻度が
法治社会と比べて少ないということはあっても、守らせ守らせられる法規というものがやはり一定以上にはある。
誰しもが誰しもと無条件に許し合うなんていうことは、法治社会はおろか、徳治社会でもあり得ないことで、
罪を許されることばかりを欲するような卑しい身分の者ほど、(小人は恵を懐う。里仁第四・一一)
最後まで信賞必罰に則ったままの存在でいることを、徳治社会でも強要され続けるのである。
法で禁止されるべき様な悪行は自律的に行わず、むしろ善行によって世の大利の目方を増しすらするような
君子であって初めて、他人の罪を許してやれるだけの度量すらもが備わるのだから、自分が罪を許されたい
がために、他人の罪を許してやろうとするような考えが通用していい余地などは、どこにもないのだといえる。
「天道は善に福し淫に禍す。〜肆に台れ小子、天命の明威を将し、敢えて赦さず」
「天道は必ず正善なる者に福徳を授け、淫悪にふける者に災禍を下す。だからこそ私もまた、
その天命に根ざした明らかな威徳によって、罪を罰するに際しても、あえて赦そうとしないのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)
自分たちでこの世に破滅をもたらしておいて、
自分たちこそは特定して救われようとするようなガン細胞人種こそは、
仮に一切衆生が救われるとした所で、最後まで救われないままでい続けなければならないことが確か。
仮に誰かが救われないことになるのだとすれば、
そのようなガン細胞人種こそが特定して救われないことになるのも確か。
自分たち全員が、ガンが切除されるようにして死滅させられるのだとすれば、ガン細胞人種も
「死なば諸共」で、自分たちごと全人類を滅亡に陥れるヤケクソにすら及びかねない。
下劣ではあるにしろ、小人の心情としてはそれも分からないことはないから、
救済対象を選別するような小乗志向ではなく、一切衆生を救済していくことを旨とする
大乗志向によってこそ救済に取り組んでいくぐらいのことは、救済者も心がけたほうがいいといえる。
それでも実際問題、現世では救われない者がいる。
この世に害悪をもたらして自分たちが救われようとする、ガン細胞人種としての心得を
最後まで捨て去ろうとしないもの、邪教の棄教と引き換えの救済にすら応じようとしないものは、
どんなに大きな災厄からも人々を救い出せるほどもの手腕を持つ救済者によってですら、救われることはない。
救われ得ないから救われないのではなく、自分自身が救われることを拒み通しているから、救われない。
まるで如来か菩薩ほどにも救済能力に長けた者がいたとすれば、大罪を積み重ねて来たキリスト教徒や
ユダヤ教徒を、棄教後に救い取ることですらできなくはないだろう。「華厳経」十回向品第二十五の四にも、
菩薩が冤罪によってこの世に撒き散らされる災厄すらも十分に除滅するとあるから、冤罪信仰である
キリスト教が撒き散らす災厄からすら、菩薩が一切衆生を救い出すことも不可能ではないに違いない。
自分たちこそは特定して救われようとするようなガン細胞人種こそは、
仮に一切衆生が救われるとした所で、最後まで救われないままでい続けなければならないことが確か。
仮に誰かが救われないことになるのだとすれば、
そのようなガン細胞人種こそが特定して救われないことになるのも確か。
自分たち全員が、ガンが切除されるようにして死滅させられるのだとすれば、ガン細胞人種も
「死なば諸共」で、自分たちごと全人類を滅亡に陥れるヤケクソにすら及びかねない。
下劣ではあるにしろ、小人の心情としてはそれも分からないことはないから、
救済対象を選別するような小乗志向ではなく、一切衆生を救済していくことを旨とする
大乗志向によってこそ救済に取り組んでいくぐらいのことは、救済者も心がけたほうがいいといえる。
それでも実際問題、現世では救われない者がいる。
この世に害悪をもたらして自分たちが救われようとする、ガン細胞人種としての心得を
最後まで捨て去ろうとしないもの、邪教の棄教と引き換えの救済にすら応じようとしないものは、
どんなに大きな災厄からも人々を救い出せるほどもの手腕を持つ救済者によってですら、救われることはない。
救われ得ないから救われないのではなく、自分自身が救われることを拒み通しているから、救われない。
まるで如来か菩薩ほどにも救済能力に長けた者がいたとすれば、大罪を積み重ねて来たキリスト教徒や
ユダヤ教徒を、棄教後に救い取ることですらできなくはないだろう。「華厳経」十回向品第二十五の四にも、
菩薩が冤罪によってこの世に撒き散らされる災厄すらも十分に除滅するとあるから、冤罪信仰である
キリスト教が撒き散らす災厄からすら、菩薩が一切衆生を救い出すことも不可能ではないに違いない。
しかし、キリスト教徒やユダヤ教徒が、それらの邪教信仰を続けている限りにおいては、
どんなに有能な菩薩や如来といえども、それらの人々を救い取ることが不可能であり続けるだろう。
キリスト信仰やユダヤ信仰を貫くことによって、仏法のような純正な手法によって救われることを
自分たちが一貫して拒絶し続けているのだから、能力的に十分救えたところで、原理的に救うことができない。
最後まで邪信を貫こうとする者がいれば、その分だけ救われない者の数も増えてしまう。
だから一切衆生の救済能力者が現れたところで、相変わらず救われない者がいる可能性も残る。
そのような不届き者にあらかじめ反省を促して、邪信を完全に捨て去る覚悟を得させてから自分が世に
降臨することもまた救済者の義務であるに違いなく、救済者はただ現れればいいというばかりでもないといえる。
一切衆生を救い取る能力者がいたところで、それ即ち一切衆生救済の機縁となるわけでもない。
救済を受ける者もまた、邪教の完全永久棄教などの用意を整えられた時こそが、真の救済の機縁ともなる。
救済者と衆生の間にすら、八卦が二重に積み重なって六十四卦になるが如き相乗性が、断固として備わっているのである。
「年を薀む毋かれ、利を壅むる毋れ、姦を保つ毋れ、慝を留むる毋れ。災患を救い、禍乱を恤い、
好悪を同じくして王室を獎けよ。或いは茲の命を間さば、司慎司盟、名山名川、群神群祀、先王先公、
七姓十二国の祖、明神も之れを殛し、俾其の民を失い、命を隊し氏を亡ぼし、其の国家を踣さしめん」
「年毎の収穫を退蔵して民に分け与えるのを怠ったりせず、その他の利益についても退蔵したりせず、
姦邪の甚だしい者を保護してやったりもせず、悪い隠し事をそのままにしておいたりもするな。それでいて
災難憂患をよく救い、禍乱が巻き起こることを警戒し、好悪を同じくして玉を助けていくようにせよ。
この命すら守らない国があれば、全世界、ありとあらゆる山川神霊、王侯やその祖霊に至るまでが総力を
挙げての殺戮に臨み、民も失わせてその命なきものとし、国家丸ごとの取り潰しを完遂することだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左子伝・襄公十一年より)
どんなに有能な菩薩や如来といえども、それらの人々を救い取ることが不可能であり続けるだろう。
キリスト信仰やユダヤ信仰を貫くことによって、仏法のような純正な手法によって救われることを
自分たちが一貫して拒絶し続けているのだから、能力的に十分救えたところで、原理的に救うことができない。
最後まで邪信を貫こうとする者がいれば、その分だけ救われない者の数も増えてしまう。
だから一切衆生の救済能力者が現れたところで、相変わらず救われない者がいる可能性も残る。
そのような不届き者にあらかじめ反省を促して、邪信を完全に捨て去る覚悟を得させてから自分が世に
降臨することもまた救済者の義務であるに違いなく、救済者はただ現れればいいというばかりでもないといえる。
一切衆生を救い取る能力者がいたところで、それ即ち一切衆生救済の機縁となるわけでもない。
救済を受ける者もまた、邪教の完全永久棄教などの用意を整えられた時こそが、真の救済の機縁ともなる。
救済者と衆生の間にすら、八卦が二重に積み重なって六十四卦になるが如き相乗性が、断固として備わっているのである。
「年を薀む毋かれ、利を壅むる毋れ、姦を保つ毋れ、慝を留むる毋れ。災患を救い、禍乱を恤い、
好悪を同じくして王室を獎けよ。或いは茲の命を間さば、司慎司盟、名山名川、群神群祀、先王先公、
七姓十二国の祖、明神も之れを殛し、俾其の民を失い、命を隊し氏を亡ぼし、其の国家を踣さしめん」
「年毎の収穫を退蔵して民に分け与えるのを怠ったりせず、その他の利益についても退蔵したりせず、
姦邪の甚だしい者を保護してやったりもせず、悪い隠し事をそのままにしておいたりもするな。それでいて
災難憂患をよく救い、禍乱が巻き起こることを警戒し、好悪を同じくして玉を助けていくようにせよ。
この命すら守らない国があれば、全世界、ありとあらゆる山川神霊、王侯やその祖霊に至るまでが総力を
挙げての殺戮に臨み、民も失わせてその命なきものとし、国家丸ごとの取り潰しを完遂することだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左子伝・襄公十一年より)
ガン細胞が人体に勝つということは、原理的にあり得ない。
寄生する人体に勢力で勝って、人体を殺してしまったなら、自分も死ぬのみ。
だからせいぜい劣勢にある範囲だけで悪さをするのが関の山で、
虚栄を真の繁栄だなどと思い込んでのから騒ぎに終始するのみなのである。
ガン細胞ではなく、寄生虫や、卵を宿主に産み付ける虫などの内に、
宿主を殺してまで養分を吸い尽くす種がいくらかある。寄生菌の
冬虫夏草などもその部類だが、これらの寄生生物は、宿主となる
生物との異質性が十分であり、人間の白人と有色人種ほどにも
近似的な関係にあったりはしない。もしも白人がこのような
寄生生物のマネごとをして、宿主である他の地球人類を滅ぼそう
などとしたりしたなら、自分たちもまた同質の人類であるために、
住環境を失うなどの大きな危害を被り、決してただでは済まなくなる。
欧米の白人キリスト教徒も、せいぜい地球人類にとってのガン細胞止まりで、
宿主を殺してまで自分たちが生き延びられるような生物とまではいかない。
そこが多かれ少なかれ選民志向の持ち主であり続けてきた欧米キリスト教徒にとっての、
大きな見当違いだった部分であり、他者を殺してでも自分たちが生き延びる勢いでの、
異教徒に対する悪逆非道の限りを尽くしてきたことへの決まりも付かない所だともいえる。
人間同士の関係が、人体とガン細胞程度の関係に発展することはある一方で、宿主と、
宿主を殺し尽くす能力のある寄生生物の関係にまで発展することは、原理的にあり得ない。
寄生する人体に勢力で勝って、人体を殺してしまったなら、自分も死ぬのみ。
だからせいぜい劣勢にある範囲だけで悪さをするのが関の山で、
虚栄を真の繁栄だなどと思い込んでのから騒ぎに終始するのみなのである。
ガン細胞ではなく、寄生虫や、卵を宿主に産み付ける虫などの内に、
宿主を殺してまで養分を吸い尽くす種がいくらかある。寄生菌の
冬虫夏草などもその部類だが、これらの寄生生物は、宿主となる
生物との異質性が十分であり、人間の白人と有色人種ほどにも
近似的な関係にあったりはしない。もしも白人がこのような
寄生生物のマネごとをして、宿主である他の地球人類を滅ぼそう
などとしたりしたなら、自分たちもまた同質の人類であるために、
住環境を失うなどの大きな危害を被り、決してただでは済まなくなる。
欧米の白人キリスト教徒も、せいぜい地球人類にとってのガン細胞止まりで、
宿主を殺してまで自分たちが生き延びられるような生物とまではいかない。
そこが多かれ少なかれ選民志向の持ち主であり続けてきた欧米キリスト教徒にとっての、
大きな見当違いだった部分であり、他者を殺してでも自分たちが生き延びる勢いでの、
異教徒に対する悪逆非道の限りを尽くしてきたことへの決まりも付かない所だともいえる。
人間同士の関係が、人体とガン細胞程度の関係に発展することはある一方で、宿主と、
宿主を殺し尽くす能力のある寄生生物の関係にまで発展することは、原理的にあり得ない。
犯罪聖書の信者はおろか、著者や登場人物たち自身もまた、全くそれに気づいていなかった。
その理由はといえば、古代オリエントや古代ローマにおいて、資産家でもある
支配階級と、一方的な搾取対象とされている被支配階級との断絶が極端であり過ぎて、
後者あっての前者という認識すらもが疎かにされていたことが挙げられる。
東洋においても支配被支配の関係は当然あるが、支配者が資産家でもあったりしたなら、
支配者こそは被支配者にとっての寄生体になってしまうという社会の実相をわきまえて、
支配階級と資産家を分断して、資産家を民間人の中でも特に賤しい存在として冷遇することが
四民制やカースト制によって嗜まれていたために、実際には被支配者にとっての寄生体に過ぎない、
資産家兼支配者を、あたかも被支配者の捕食者であるかのように思い違うことまでは避けていたのだった。
古代オリエントの遺跡や、西洋の伝統建築などにも巨大で美麗なものが多々あるが、
そこに住む人々が人間社会の実相を捉えられていたとはいい難い。あまりにも壮大な建築物の
中に引きこもって、外界との直接的な関係を断つのが支配者にとっての恒でもあったから、
支配者と被支配者を総合した世界の実相をわきまえることもできなかった。土建こそは人類文明の
極致みたいな所もあるが、これが土建によって人類社会の実相を見損なうこともある実例となっている。
土建もまた、世のため人のためにあってこそのものだということがいえるのである。
「世の守りなり。身の能く為す所に非ざるなり」
「この地は世世に渡って守り継がれて来たもの。自分一身の身勝手によってどうしていいものでもない。
(過去の為政にまでよく思いを致して、この世に身勝手の通用する余地などないことをわきまえている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
その理由はといえば、古代オリエントや古代ローマにおいて、資産家でもある
支配階級と、一方的な搾取対象とされている被支配階級との断絶が極端であり過ぎて、
後者あっての前者という認識すらもが疎かにされていたことが挙げられる。
東洋においても支配被支配の関係は当然あるが、支配者が資産家でもあったりしたなら、
支配者こそは被支配者にとっての寄生体になってしまうという社会の実相をわきまえて、
支配階級と資産家を分断して、資産家を民間人の中でも特に賤しい存在として冷遇することが
四民制やカースト制によって嗜まれていたために、実際には被支配者にとっての寄生体に過ぎない、
資産家兼支配者を、あたかも被支配者の捕食者であるかのように思い違うことまでは避けていたのだった。
古代オリエントの遺跡や、西洋の伝統建築などにも巨大で美麗なものが多々あるが、
そこに住む人々が人間社会の実相を捉えられていたとはいい難い。あまりにも壮大な建築物の
中に引きこもって、外界との直接的な関係を断つのが支配者にとっての恒でもあったから、
支配者と被支配者を総合した世界の実相をわきまえることもできなかった。土建こそは人類文明の
極致みたいな所もあるが、これが土建によって人類社会の実相を見損なうこともある実例となっている。
土建もまた、世のため人のためにあってこそのものだということがいえるのである。
「世の守りなり。身の能く為す所に非ざるなり」
「この地は世世に渡って守り継がれて来たもの。自分一身の身勝手によってどうしていいものでもない。
(過去の為政にまでよく思いを致して、この世に身勝手の通用する余地などないことをわきまえている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
古代から近現代に至るまで、「ユダヤ人」を称する旧約信者が
生業としてきた政商とか金融ヤクザとか悪徳外交家とかいった職分は、
それを敵に回す国や民族のみならず、味方に付ける国や民族すらをも破滅に陥れる。
だからこそ、古来からユダヤ人を重用してきた欧州諸国なども引っ切り無しの
興亡を続け、1000年前の国体をそのまま保てているような国も一つもないのである。
「ユダヤ人」は民族でも人種でもなく、旧約聖書の信者のことである。
それでいて、国を挙げて旧約を信仰している国などは、近年のイスラエル建国以前には
一つとして存在しなかった。旧約信仰が国家や民族レベルで保たれていたような
事実もなく、主にキリスト教圏において、ゲリラ的にユダヤ人を称する旧約信者が
生じては消え、生じては消えを繰り返してきたのみである。
仮に、旧約の神によって旧約信者が救われるとした所で、そもそも旧約信者という存在自体が、
救われる対象としての実体性を保てていない。キリスト教圏において、無責任な家族計画によって
一般家庭からはじき出された孤児なり私生児なりが旧約信者としての悪行を繰り返しては消え去り、
悪行を繰り返しては消え去りを繰り返しているだけなのだから、未だかつて旧約信者たる
ユダヤ人が救われたことはおろか、ユダヤ人がユダヤ人として、誰かに救われる
対象としての体裁を保てていたことすらないことが確かなのである。
キリスト教も、ユダヤ教における神の救いを敷衍して、自分たちが神に救われるとしている。
そもそも始めから全く救われる体を保てていないユダヤ教徒のようにして、自分たちキリスト教徒
もまた救われるという完全矛盾。救われる救われると豪語しながら、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、
信仰によって救われるということが如何なることであるのかすら、全く見えていないのである。
生業としてきた政商とか金融ヤクザとか悪徳外交家とかいった職分は、
それを敵に回す国や民族のみならず、味方に付ける国や民族すらをも破滅に陥れる。
だからこそ、古来からユダヤ人を重用してきた欧州諸国なども引っ切り無しの
興亡を続け、1000年前の国体をそのまま保てているような国も一つもないのである。
「ユダヤ人」は民族でも人種でもなく、旧約聖書の信者のことである。
それでいて、国を挙げて旧約を信仰している国などは、近年のイスラエル建国以前には
一つとして存在しなかった。旧約信仰が国家や民族レベルで保たれていたような
事実もなく、主にキリスト教圏において、ゲリラ的にユダヤ人を称する旧約信者が
生じては消え、生じては消えを繰り返してきたのみである。
仮に、旧約の神によって旧約信者が救われるとした所で、そもそも旧約信者という存在自体が、
救われる対象としての実体性を保てていない。キリスト教圏において、無責任な家族計画によって
一般家庭からはじき出された孤児なり私生児なりが旧約信者としての悪行を繰り返しては消え去り、
悪行を繰り返しては消え去りを繰り返しているだけなのだから、未だかつて旧約信者たる
ユダヤ人が救われたことはおろか、ユダヤ人がユダヤ人として、誰かに救われる
対象としての体裁を保てていたことすらないことが確かなのである。
キリスト教も、ユダヤ教における神の救いを敷衍して、自分たちが神に救われるとしている。
そもそも始めから全く救われる体を保てていないユダヤ教徒のようにして、自分たちキリスト教徒
もまた救われるという完全矛盾。救われる救われると豪語しながら、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、
信仰によって救われるということが如何なることであるのかすら、全く見えていないのである。
救われた先に何があるか、いかなる条件を以ってして救われたとするか、それすらまともに
考えることもないままに「救い」という救いを求め、かえって事実上の破滅を呼び込んできた。
そもそも自分たちが救済されるビジョンすら明確ではなかったのだから、その先に受刑者や
強制入院患者や禁治産者としての処遇が待ち受けていた所で、別に心外だったりはしないはずだ。
「これは自分の想定していた救済とは違う」なんてこともないのだから、心外であるはずもない。
救われるか救われないか以前に、自分が救われる対象としての体裁を保てているかが問題である。
浄土信者やムスリムは、救われようが救われまいが、救われる対象としての体裁を保てている、
一方で、キリスト教徒やユダヤ教徒は、仮に救うことができたところで、そもそも本人たち自身
からして、誰かに救われる対象としての体裁を保とうとした試しすらないことが確かなのである。
ユダヤ=キリスト両聖書教は、誰にも救われない宗教である以前に、誰からの救いをも拒み通す宗教でこそある。
誰かに救われ得るような体裁をことごとくかなぐり捨てることで、最大級の破滅を自他に招き寄せる
ことばかりを目的としている宗教であり、誰かに救われるなんていう体裁からして、始めから虚構
でしかなかったのである。そして、今になって人類滅亡級の破滅を呼び寄せて、なおかつその
信仰によって誰からの救いをも拒み通そうとしている。救いも拒み通して破滅を呼び込み続ける、
その行いは今までどおり一貫していて、ただ完全に絶体絶命である点だけが特別なところである。
絶体絶命だから、聖書信仰を破棄してでも誰かに救いを求めるしかない。それもまた完全に、
「誰からの救いをも拒み通す信教」としての聖書信仰に対する、今まで通りの扱いだといえる。
考えることもないままに「救い」という救いを求め、かえって事実上の破滅を呼び込んできた。
そもそも自分たちが救済されるビジョンすら明確ではなかったのだから、その先に受刑者や
強制入院患者や禁治産者としての処遇が待ち受けていた所で、別に心外だったりはしないはずだ。
「これは自分の想定していた救済とは違う」なんてこともないのだから、心外であるはずもない。
救われるか救われないか以前に、自分が救われる対象としての体裁を保てているかが問題である。
浄土信者やムスリムは、救われようが救われまいが、救われる対象としての体裁を保てている、
一方で、キリスト教徒やユダヤ教徒は、仮に救うことができたところで、そもそも本人たち自身
からして、誰かに救われる対象としての体裁を保とうとした試しすらないことが確かなのである。
ユダヤ=キリスト両聖書教は、誰にも救われない宗教である以前に、誰からの救いをも拒み通す宗教でこそある。
誰かに救われ得るような体裁をことごとくかなぐり捨てることで、最大級の破滅を自他に招き寄せる
ことばかりを目的としている宗教であり、誰かに救われるなんていう体裁からして、始めから虚構
でしかなかったのである。そして、今になって人類滅亡級の破滅を呼び寄せて、なおかつその
信仰によって誰からの救いをも拒み通そうとしている。救いも拒み通して破滅を呼び込み続ける、
その行いは今までどおり一貫していて、ただ完全に絶体絶命である点だけが特別なところである。
絶体絶命だから、聖書信仰を破棄してでも誰かに救いを求めるしかない。それもまた完全に、
「誰からの救いをも拒み通す信教」としての聖書信仰に対する、今まで通りの扱いだといえる。
「天の方に虐いせるとき、然かるも謔謔とする無かれ。老夫の灌灌とするにも、小子は蹻蹻とす。
我れを匪として耄せると言い、爾が憂い用て謔とせる。将に熇熇多として、救い薬す可からず」
「天がまさに大禍を下せるときにすら、不埒な享楽に耽っていたりすべきではない。それを知る私
のような老人は戦々恐々としているが、小僧っ子どもはといえば未だケラケラと浮かれたままでいる。
私のこの態度こそを老耄として非難し、この憂いをもただの諧謔として歯牙にもかけぬ。将にいま、
禍いの火も方々へと燃え広がりつつあるが、だからといって救ってやるべきだとすらいえない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
自ら破滅を追い求め続けている連中を救ってやったりして、どうしようというのか。
破滅こそを欲している者どもに対する救いなど、ただの有難迷惑にしかならないじゃないか。
我れを匪として耄せると言い、爾が憂い用て謔とせる。将に熇熇多として、救い薬す可からず」
「天がまさに大禍を下せるときにすら、不埒な享楽に耽っていたりすべきではない。それを知る私
のような老人は戦々恐々としているが、小僧っ子どもはといえば未だケラケラと浮かれたままでいる。
私のこの態度こそを老耄として非難し、この憂いをもただの諧謔として歯牙にもかけぬ。将にいま、
禍いの火も方々へと燃え広がりつつあるが、だからといって救ってやるべきだとすらいえない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
自ら破滅を追い求め続けている連中を救ってやったりして、どうしようというのか。
破滅こそを欲している者どもに対する救いなど、ただの有難迷惑にしかならないじゃないか。
イエスの行いは、見習えるものではないし、見習うべきものでもないし、
本人が人々に見習わせるに値するものたろうとしたものですらない。
イエスのマネをしたって、ただ死ぬだけで生き返れるわけでも、昇天できるわけでもない。
現実問題そうだから、カトリックの祖であるアウグスチヌスも、信者がイエスのマネをして
自殺することを公的に禁止した。その論拠はといえば、「神からもらった命を大事にしなさい」
などというもので、これこそ、イエス自身がまったく反故にしたはずの代物である。故に、
カトリックはその原初の頃から、イエスの行いが全く見習えないものであるのみならず、
見習うべきでないものであることすらをもとっくに認めてしまっているのだといえる。
そのカトリックに反目する形で、ドイツで生じたプロテスタントも、イエスの教えは
全く守ることもできないものばかりであることを主張した上での、信仰義認を本是とした。
カトリックにはまだ、イエスの教えの内に何か守るべき有意義なものがあることを
認めようとする傾向があったが、プロテスタントはそれすらをも全否定した。
結局、キリスト教圏の人間は、その最原初のころから、
全人生を挙げて見習うに値するだけの大師を得たことがない。
全ての師弟関係が「一過性の事務」止まりでしかない完全な横並び関係、それをキリスト教徒は
「神の下での平等」とすら嘯いて来たらしいが、なんと空しい人間関係を続けてきたものだろう。
全人生を挙げて師とすべきものを見習い、自分もまた全人生を挙げての師とされるに値する
だけの賢聖となる、そこにこそ人間にとっての、人並み以上の向上もまた存在し得るのであり、
それを欠いたところにはもはや、凡人並みかそれ以下の、衆愚の集いしかあり得ないのである。
本人が人々に見習わせるに値するものたろうとしたものですらない。
イエスのマネをしたって、ただ死ぬだけで生き返れるわけでも、昇天できるわけでもない。
現実問題そうだから、カトリックの祖であるアウグスチヌスも、信者がイエスのマネをして
自殺することを公的に禁止した。その論拠はといえば、「神からもらった命を大事にしなさい」
などというもので、これこそ、イエス自身がまったく反故にしたはずの代物である。故に、
カトリックはその原初の頃から、イエスの行いが全く見習えないものであるのみならず、
見習うべきでないものであることすらをもとっくに認めてしまっているのだといえる。
そのカトリックに反目する形で、ドイツで生じたプロテスタントも、イエスの教えは
全く守ることもできないものばかりであることを主張した上での、信仰義認を本是とした。
カトリックにはまだ、イエスの教えの内に何か守るべき有意義なものがあることを
認めようとする傾向があったが、プロテスタントはそれすらをも全否定した。
結局、キリスト教圏の人間は、その最原初のころから、
全人生を挙げて見習うに値するだけの大師を得たことがない。
全ての師弟関係が「一過性の事務」止まりでしかない完全な横並び関係、それをキリスト教徒は
「神の下での平等」とすら嘯いて来たらしいが、なんと空しい人間関係を続けてきたものだろう。
全人生を挙げて師とすべきものを見習い、自分もまた全人生を挙げての師とされるに値する
だけの賢聖となる、そこにこそ人間にとっての、人並み以上の向上もまた存在し得るのであり、
それを欠いたところにはもはや、凡人並みかそれ以下の、衆愚の集いしかあり得ないのである。
キリスト教圏において蓄積されて来た、洋学にまつわる知見や技術なども、その全てが
一過性の事務止まりな代物で、全人生を挙げて学んだり身に付けたりするに値するものではない。
だからこそ、人生を挙げての修練に取り組んでいく必要がある、儒学や仏道や武道などと
比べて、それを教えてくれる相手が偉大だなどということもない。少なくとも、洋学の知識や
技能の持ち主だからといって、尊敬に値する人間だったりすることはなく、仮に尊敬に値する
人間でもあるのなら、必ず別の側面での、人生を挙げての研鑽に取り組んでいたりするのである。
それにしたって、洋学知識の持ち主が、かりそめの尊敬の対象にされたりすることはある。
西洋医学の知識の持ち主である医師などがその最たる例だが、医者に対する尊敬などは、
キリスト教の牧師や宣教師に対する懺悔などと同レベルの、困った時の依り縋りの体現でしかない。
健全なうちからのより一層の向上などではなく、病気や怪我や悪行などの、負の問題を呈した
後にそれを救っていただこうというまでものでしかないから、医師や牧師や宣教師などを
敬った所で、本人自身が人並み以上の向上を果たせたりすることは永久にないのである。
全人生を挙げて見習うに値する大師への尊敬は、そのような敬いとも全く異なる。
別に自分が追い詰められているわけでもないうちからの、積極的に積み立てられていく尊敬。
その尊敬によってのみ、人もまたより一層の向上があり得るのだから、困った時の神頼み、
困った時の師頼みなどに全ての尊敬を集約させたりしていてもならないことが分かるのである。
「籩豆の事は、則ち有司存せり」
「お祭りのお供えのことなどは、係りの祭司がいるから任せればよい。(君子の本分ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・四より)
一過性の事務止まりな代物で、全人生を挙げて学んだり身に付けたりするに値するものではない。
だからこそ、人生を挙げての修練に取り組んでいく必要がある、儒学や仏道や武道などと
比べて、それを教えてくれる相手が偉大だなどということもない。少なくとも、洋学の知識や
技能の持ち主だからといって、尊敬に値する人間だったりすることはなく、仮に尊敬に値する
人間でもあるのなら、必ず別の側面での、人生を挙げての研鑽に取り組んでいたりするのである。
それにしたって、洋学知識の持ち主が、かりそめの尊敬の対象にされたりすることはある。
西洋医学の知識の持ち主である医師などがその最たる例だが、医者に対する尊敬などは、
キリスト教の牧師や宣教師に対する懺悔などと同レベルの、困った時の依り縋りの体現でしかない。
健全なうちからのより一層の向上などではなく、病気や怪我や悪行などの、負の問題を呈した
後にそれを救っていただこうというまでものでしかないから、医師や牧師や宣教師などを
敬った所で、本人自身が人並み以上の向上を果たせたりすることは永久にないのである。
全人生を挙げて見習うに値する大師への尊敬は、そのような敬いとも全く異なる。
別に自分が追い詰められているわけでもないうちからの、積極的に積み立てられていく尊敬。
その尊敬によってのみ、人もまたより一層の向上があり得るのだから、困った時の神頼み、
困った時の師頼みなどに全ての尊敬を集約させたりしていてもならないことが分かるのである。
「籩豆の事は、則ち有司存せり」
「お祭りのお供えのことなどは、係りの祭司がいるから任せればよい。(君子の本分ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・四より)
人事を尽くした上で天命を待つのなら、寝て待とうが起きて待とうが、いずれでも構いやしない。
着実な善因楽果を期待するのであれば、何も強制捜査を待つような態度でいる必要もない。
自らの為してきた試みが善因楽果に相当するか、悪因苦果に相当するかすら分からないから、
強制捜査を待つようなおどおどした態度でしかいられない。そして、それ程にも不注意であるからには、
悪因苦果に結び付く悪行を為してきた可能性のほうが高いので、それはそれは恐ろしくもあろう。
もちろん、悪逆非道を尽くしておきながら「何とかなるさLet it be」と開き直って平然としている
場合もなきにしもあらずで、だからこそ素直に摘発にも応じられるというのなら、摘発を警戒
している場合よりも神妙だといえる。というわけで、悪因苦果を待ち受ける悪人といえども、
できる限り警戒を捨てて、自然体で処遇に甘んじていくほうがまだマシなのだといえる。
自らの行いに責任を感じているのであれば、善を為したのであれ悪を為したのであれ、
その結果に恐れおののいたりすることもなく、泰然として結果を受け入れるばかりのはずだ。
僥倖であれ災難であれ、自らの行いからすれば心外な結果がもたらされた場合に人は恐れおののき、
行いとの因果関係を説明されて納得するか、もしくはそれでも納得いかなくて不満を抱き続けたりする。
自らの行いとは全く無縁な、他者からの一方的な仕打ちを警戒すべきだということはあるし、
また自分自身が悪因苦果を呼び込むような過ちを犯さないように慎んでいくべきだともいえる。
その上で、自らの責任ある行いに対する報いまでをもいちいち警戒すべきもないということが言える。
警戒すべきものとそうでないものとの分別を付ける、そのあり方が以上のようであるべきだということ。
着実な善因楽果を期待するのであれば、何も強制捜査を待つような態度でいる必要もない。
自らの為してきた試みが善因楽果に相当するか、悪因苦果に相当するかすら分からないから、
強制捜査を待つようなおどおどした態度でしかいられない。そして、それ程にも不注意であるからには、
悪因苦果に結び付く悪行を為してきた可能性のほうが高いので、それはそれは恐ろしくもあろう。
もちろん、悪逆非道を尽くしておきながら「何とかなるさLet it be」と開き直って平然としている
場合もなきにしもあらずで、だからこそ素直に摘発にも応じられるというのなら、摘発を警戒
している場合よりも神妙だといえる。というわけで、悪因苦果を待ち受ける悪人といえども、
できる限り警戒を捨てて、自然体で処遇に甘んじていくほうがまだマシなのだといえる。
自らの行いに責任を感じているのであれば、善を為したのであれ悪を為したのであれ、
その結果に恐れおののいたりすることもなく、泰然として結果を受け入れるばかりのはずだ。
僥倖であれ災難であれ、自らの行いからすれば心外な結果がもたらされた場合に人は恐れおののき、
行いとの因果関係を説明されて納得するか、もしくはそれでも納得いかなくて不満を抱き続けたりする。
自らの行いとは全く無縁な、他者からの一方的な仕打ちを警戒すべきだということはあるし、
また自分自身が悪因苦果を呼び込むような過ちを犯さないように慎んでいくべきだともいえる。
その上で、自らの責任ある行いに対する報いまでをもいちいち警戒すべきもないということが言える。
警戒すべきものとそうでないものとの分別を付ける、そのあり方が以上のようであるべきだということ。
警戒対象に上記のような分別を付けることが、自らの生活全般にとっての適切な緩急ともなる。
たとえば、スポーツ化してしまっている今の剣道や柔道は、選手がこぞって力んでばかりいる
ものだから、長年現役で続けていくことも叶わなくなってしまっているが、古武道や合気道など
であれば、力の緩急からして訓練の対象とされているから、年老いてもなお続けていられたりする。
そのような緩急織り交ぜることによる耐久性を、警戒にまつわる上記のような分別ももたらしてくれる。
残念ながら、近現代の文明社会というのは、上記のような警戒の分別を持たないままでいるような
人間こそを保護してやるために発展してきている所がある。自らの行いに責任を持たないから、
その結果を警戒したりする一方で、他者からの侵害への警戒は警察任せ、自らの行いの修正も法律任せ
という人間のためにばかり今の社会は拵えられていて、そのために不注意極まりない人間ばかりが
溢れ返る社会とも化してしまっている。これが民主主義や法治主義の弊害であるともいえる一方、
不注意と無価値な注意とを人々に植え付ける方向性は、犯罪聖書にすらあらかじめ備わっていた
ようなので、近代以降に極度に問題化してしまっている人間規範の是正は、民主主義のような
近代的理念以前にまで、その問題の根本性を突き詰めていく必要があるようである。
「寝るに尸せず。居るに容せず」
「(孔先生は)寝るときも死体のような無様な寝方はされなかった。一方で、
家などで燕居している時にまで無闇に威儀を正したりはせず、ゆったりとしておられた。
(就寝中には就寝中なりの正し方があるし、覚醒中にも覚醒中なりの休み方がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一八より)
たとえば、スポーツ化してしまっている今の剣道や柔道は、選手がこぞって力んでばかりいる
ものだから、長年現役で続けていくことも叶わなくなってしまっているが、古武道や合気道など
であれば、力の緩急からして訓練の対象とされているから、年老いてもなお続けていられたりする。
そのような緩急織り交ぜることによる耐久性を、警戒にまつわる上記のような分別ももたらしてくれる。
残念ながら、近現代の文明社会というのは、上記のような警戒の分別を持たないままでいるような
人間こそを保護してやるために発展してきている所がある。自らの行いに責任を持たないから、
その結果を警戒したりする一方で、他者からの侵害への警戒は警察任せ、自らの行いの修正も法律任せ
という人間のためにばかり今の社会は拵えられていて、そのために不注意極まりない人間ばかりが
溢れ返る社会とも化してしまっている。これが民主主義や法治主義の弊害であるともいえる一方、
不注意と無価値な注意とを人々に植え付ける方向性は、犯罪聖書にすらあらかじめ備わっていた
ようなので、近代以降に極度に問題化してしまっている人間規範の是正は、民主主義のような
近代的理念以前にまで、その問題の根本性を突き詰めていく必要があるようである。
「寝るに尸せず。居るに容せず」
「(孔先生は)寝るときも死体のような無様な寝方はされなかった。一方で、
家などで燕居している時にまで無闇に威儀を正したりはせず、ゆったりとしておられた。
(就寝中には就寝中なりの正し方があるし、覚醒中にも覚醒中なりの休み方がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一八より)
「親始めて死するときは、〜夫れ悲哀中に在り、故に形外に変わるなり。
痛疾心に在り、故に口は味わいを甘しとせず、身美に安んじざるなり」
「親が始めて死んだともなれば、その悲哀は内より溢れ出て、外貌すらをも
変容させてしまう。痛疾が心に深く止まっているために、口もよくものを
味わうことができず、身も決して美を楽しんだりすることができない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・問喪第三十五より)
痛疾心に在り、故に口は味わいを甘しとせず、身美に安んじざるなり」
「親が始めて死んだともなれば、その悲哀は内より溢れ出て、外貌すらをも
変容させてしまう。痛疾が心に深く止まっているために、口もよくものを
味わうことができず、身も決して美を楽しんだりすることができない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・問喪第三十五より)
昔の儒礼のように、孝子が親の喪に絶食級の悲しみを抱いて、
泣き通して乞食のごとくやせ衰えて、一時的には杖すら突くように
なったとして、当然それをいつしか喜びに換えたりするわけでもない。
親の喪のごとき悲しみは、春夏秋冬のうちの冬のようなもので、
人間生活のうちでは辛い時期でありながらも、春の息吹を
返させるために、原理的に欠くべからざるものともなっている。
親族の喪なども大して重視しない現代社会で、悲しみなんてのは、
ハッピーエンドで終わるドラマの途中経過としてぐらいしか許容されない。
それ以上の悲しみは全て排斥の対象とされて、出来る限り常日ごろから
嬉しがっていられたらそれに越したことはないとされている。
悲しみと楽しみでは、むしろ悲しむことのほうを優先すべきですらある。
常日ごろから満腹状態であいるよりは、多少腹をすかした状態でものを食べるほうが
おいしいく感じられるのとも同じように、悲しむべきことを十分に悲しむ心がけが
あって後に初めて、楽しむべき物事を十分に楽しむこともまたできるようになる。
儒礼では上記のように親の喪に悲しみを尽くすことなどを推奨しているし、
仏法も諸行無常や一切皆苦などという、悲しみの至りでありながらも絶対的である真理を
よくわきまえた先にこそある、泥沼の中のハスの花のごとき悟りを重視しているのである。
泣き通して乞食のごとくやせ衰えて、一時的には杖すら突くように
なったとして、当然それをいつしか喜びに換えたりするわけでもない。
親の喪のごとき悲しみは、春夏秋冬のうちの冬のようなもので、
人間生活のうちでは辛い時期でありながらも、春の息吹を
返させるために、原理的に欠くべからざるものともなっている。
親族の喪なども大して重視しない現代社会で、悲しみなんてのは、
ハッピーエンドで終わるドラマの途中経過としてぐらいしか許容されない。
それ以上の悲しみは全て排斥の対象とされて、出来る限り常日ごろから
嬉しがっていられたらそれに越したことはないとされている。
悲しみと楽しみでは、むしろ悲しむことのほうを優先すべきですらある。
常日ごろから満腹状態であいるよりは、多少腹をすかした状態でものを食べるほうが
おいしいく感じられるのとも同じように、悲しむべきことを十分に悲しむ心がけが
あって後に初めて、楽しむべき物事を十分に楽しむこともまたできるようになる。
儒礼では上記のように親の喪に悲しみを尽くすことなどを推奨しているし、
仏法も諸行無常や一切皆苦などという、悲しみの至りでありながらも絶対的である真理を
よくわきまえた先にこそある、泥沼の中のハスの花のごとき悟りを重視しているのである。
悲しみが楽しみに変わるのではなく、総体として悲しみの多い人生がより楽しみを楽しむ。
もちろん悲しみ通しなどではなく、悲しむべきものを悲しむことで、楽しむべきものをより楽しむ。
たとえば、道義を貫いたがための貧賤などは決して悲しむべきものではないから悲しまない、
一方で、道義を貫くことが貧窮に繋がってしまうような乱れた世情はよく悲しんで、
その世情を自力他力の精進によって改善していけた場合に、自分一身の富貴ばかりを
楽しもうとする小人などが決して与ることのない、無上の楽しみを得たりもする。
悲しむべきを楽しみ、楽しむべきを悲しもうとする転倒夢想はえてして、
総体として悲しむ分量を減らす。この世には実際、悲しむべきもののほうが
楽しむべきものよりも随分と多いから、両者を転倒させれば、楽しむべき
もののほうが悲しむべきものよりも遥かに多いことになってしまう。
悲しむべきものは決して楽しもうともしたりせずに、よく悲しんで、それからいざ
楽しむべきものを目の当たりにしたときに、初めてそこで楽しむようにする分別を付ける。
そしたら人間が生きていく限りにおいて、最も楽しい楽しみを楽しめるようになる。
人間の楽しみは鬼畜の悲しみ、鬼畜の楽しみは人間の悲しみであったりするものなので、
自分が鬼畜ではない人間であるように心がければ、自然と最高の楽しみにも与れるようになる。
もちろん悲しみ通しなどではなく、悲しむべきものを悲しむことで、楽しむべきものをより楽しむ。
たとえば、道義を貫いたがための貧賤などは決して悲しむべきものではないから悲しまない、
一方で、道義を貫くことが貧窮に繋がってしまうような乱れた世情はよく悲しんで、
その世情を自力他力の精進によって改善していけた場合に、自分一身の富貴ばかりを
楽しもうとする小人などが決して与ることのない、無上の楽しみを得たりもする。
悲しむべきを楽しみ、楽しむべきを悲しもうとする転倒夢想はえてして、
総体として悲しむ分量を減らす。この世には実際、悲しむべきもののほうが
楽しむべきものよりも随分と多いから、両者を転倒させれば、楽しむべき
もののほうが悲しむべきものよりも遥かに多いことになってしまう。
悲しむべきものは決して楽しもうともしたりせずに、よく悲しんで、それからいざ
楽しむべきものを目の当たりにしたときに、初めてそこで楽しむようにする分別を付ける。
そしたら人間が生きていく限りにおいて、最も楽しい楽しみを楽しめるようになる。
人間の楽しみは鬼畜の悲しみ、鬼畜の楽しみは人間の悲しみであったりするものなので、
自分が鬼畜ではない人間であるように心がければ、自然と最高の楽しみにも与れるようになる。
「其の労すべきを択びて之れを労す、又た誰をか怨みん」
「自分から労苦すべきものを選んで労苦しているのだから、どうして誰かを怨んだりすることがあろう。
(自分で選んだわけでもない使役に労苦させたりしたなら、怨みを恐れなければならなくもなる。
四書五経には『労苦を厭うな』という意味の金言も多いが、それも自主的な労苦についてのことだからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
「自分から労苦すべきものを選んで労苦しているのだから、どうして誰かを怨んだりすることがあろう。
(自分で選んだわけでもない使役に労苦させたりしたなら、怨みを恐れなければならなくもなる。
四書五経には『労苦を厭うな』という意味の金言も多いが、それも自主的な労苦についてのことだからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
行為能力制限、いわゆる禁治産は、近代になってからイギリスなどで提唱されたものだが、
昔の封建社会の庶民には政治的権限はなく、奴隷には商行為の権限すらなかったわけで、
古来から人類は、禁治産と同等の意味を持つ階級差別を行ってきていることが分かる。
その階級差別が民主主義や自由主義によって撤廃されて、誰でも望みすらすれば
最大級の行為能力を活用できる体裁をあてがわれるようになった。実際には、最大級の
政治的経済的権限を掌握することに対して暗黙裡の制限がかけられていたりもするが、
(各国主要銀行の不正な金利公表値の操作などにも、融資対象を選別する意図があった)
体裁だけでも、誰しもが無制限の行為能力活用の権限を与えられたことによって、
封建制や奴隷制が敷かれていた頃にはなかったような問題を多く来たすようにもなった。
そのような問題のうちでも最大級に当たるのが、人口爆発である。
自分の血統を家系として責任を持って繋いでいく覚悟もないような人間にまで、
無制限に稼いではやりたい放題でいる権限を与えてしまったせいで、総体としての
人口も爆発した。帝王将軍や大名諸侯などの支配者こそが責任ある家系の保ち方を体現して、
行為能力面で士人以下とされた民間人などにもそのあり方を見習わせていったりしたなら、
それなりの人口調節も可能となるが、行為能力の面で、責任能力のある人間もない人間も
横並びにさせられたような状態では、そのような手段に基づく人口調節もできなくなるからだ。
今また、かつての階級差別をそのまま復活させるというのでは、大きな反発も免れられない。
かといって、このまま誰しもの無制限な行為能力活用などを容認し続けていたなら、
人口爆発による世界の破滅までもが免れられなくなる。だから両者の中間を取って、
民事法的な基準に即した禁治産処理を実施していくというのも、一つの手だとはいえる。
昔の封建社会の庶民には政治的権限はなく、奴隷には商行為の権限すらなかったわけで、
古来から人類は、禁治産と同等の意味を持つ階級差別を行ってきていることが分かる。
その階級差別が民主主義や自由主義によって撤廃されて、誰でも望みすらすれば
最大級の行為能力を活用できる体裁をあてがわれるようになった。実際には、最大級の
政治的経済的権限を掌握することに対して暗黙裡の制限がかけられていたりもするが、
(各国主要銀行の不正な金利公表値の操作などにも、融資対象を選別する意図があった)
体裁だけでも、誰しもが無制限の行為能力活用の権限を与えられたことによって、
封建制や奴隷制が敷かれていた頃にはなかったような問題を多く来たすようにもなった。
そのような問題のうちでも最大級に当たるのが、人口爆発である。
自分の血統を家系として責任を持って繋いでいく覚悟もないような人間にまで、
無制限に稼いではやりたい放題でいる権限を与えてしまったせいで、総体としての
人口も爆発した。帝王将軍や大名諸侯などの支配者こそが責任ある家系の保ち方を体現して、
行為能力面で士人以下とされた民間人などにもそのあり方を見習わせていったりしたなら、
それなりの人口調節も可能となるが、行為能力の面で、責任能力のある人間もない人間も
横並びにさせられたような状態では、そのような手段に基づく人口調節もできなくなるからだ。
今また、かつての階級差別をそのまま復活させるというのでは、大きな反発も免れられない。
かといって、このまま誰しもの無制限な行為能力活用などを容認し続けていたなら、
人口爆発による世界の破滅までもが免れられなくなる。だから両者の中間を取って、
民事法的な基準に即した禁治産処理を実施していくというのも、一つの手だとはいえる。
ただ、奴隷制や、政財癒着の甚だしい西洋的封建制はともかく、政財の分離こそを目的と
していた東洋的封建制を特定して復活させることは、反発される程のことでもないだろう。
漢帝国ほどにも潔癖を期した東洋的封建支配であれば、君子階級の処罰や、引責目的での
自殺や下野なども相次ぐため、民間からの人材の抜擢も随時行われていくことになるし、
日本の武家社会でも奴隷制が撤廃されていたように、政財の癒着を徹底して排除した
東洋的封建制によってこそ、奴隷制という最悪の階級差別を撤廃できたりもするのだから。
民間人は全て政治的権限を剥奪され、禁治産全般にかけては民事法的な処置があてがわれる。
一方で、為政者のあり方にはかつての東洋的封建制があてがわれ、徹底して責任ある為政を
執り行っていくことが義務付けられていくようにする。それが、現時点での最善策になるといえる。
政治的権限だけでなく、民間での経済的権限すらをも禁治産によって制限される人間は、
実質上はかつての奴隷階級とも同等の処遇に置かれることになるわけだが、それはあくまで
邪教信仰に基づく心神喪失などの已む無き理由があってのこととされる。それが、ただ
頭ごなしに行為能力を奪われていたかつての奴隷などとは違った部分であるといえる。
破滅の回避のために、上記のような措置が敷かれた後の世において、君子階級として
振る舞えることこそは誉れとなり、禁治産にまで甘んじさせられることこそは恥じになる。
陰惨な絶対差別に基づく上流階級の傲慢や下流階級の卑下などはこれからもないようにするが、
それぞれの処遇を受けることが誉れになったり、恥になったりすることはこれからもある。
恥になるような処遇をできる限り脱却して、誉れとなるような処遇にこそ与っていこうと
誰しもが志して、世の中総出を挙げての向上が嗜まれていくほうが、よりよいからだ。
していた東洋的封建制を特定して復活させることは、反発される程のことでもないだろう。
漢帝国ほどにも潔癖を期した東洋的封建支配であれば、君子階級の処罰や、引責目的での
自殺や下野なども相次ぐため、民間からの人材の抜擢も随時行われていくことになるし、
日本の武家社会でも奴隷制が撤廃されていたように、政財の癒着を徹底して排除した
東洋的封建制によってこそ、奴隷制という最悪の階級差別を撤廃できたりもするのだから。
民間人は全て政治的権限を剥奪され、禁治産全般にかけては民事法的な処置があてがわれる。
一方で、為政者のあり方にはかつての東洋的封建制があてがわれ、徹底して責任ある為政を
執り行っていくことが義務付けられていくようにする。それが、現時点での最善策になるといえる。
政治的権限だけでなく、民間での経済的権限すらをも禁治産によって制限される人間は、
実質上はかつての奴隷階級とも同等の処遇に置かれることになるわけだが、それはあくまで
邪教信仰に基づく心神喪失などの已む無き理由があってのこととされる。それが、ただ
頭ごなしに行為能力を奪われていたかつての奴隷などとは違った部分であるといえる。
破滅の回避のために、上記のような措置が敷かれた後の世において、君子階級として
振る舞えることこそは誉れとなり、禁治産にまで甘んじさせられることこそは恥じになる。
陰惨な絶対差別に基づく上流階級の傲慢や下流階級の卑下などはこれからもないようにするが、
それぞれの処遇を受けることが誉れになったり、恥になったりすることはこれからもある。
恥になるような処遇をできる限り脱却して、誉れとなるような処遇にこそ与っていこうと
誰しもが志して、世の中総出を挙げての向上が嗜まれていくほうが、よりよいからだ。
「言未だ之れに及ばずして言う、之れを躁と謂う。(ここまで既出)
言之れに及びて言わず、之れを隠と謂う。未だ顔色を見ずして言う、之れを瞽と謂う」
「まだ自分が言う番でもないのに勝手にしゃべり出すのは『躁』という過ちである。
自分が言う番になっても何も言おうとしないのは『隠』という過ちである。
相手の顔色も窺わずに一方的にものを言うのは『瞽』という過ちである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・六より)
犯罪聖書(新旧約聖書)の信者以前に、犯罪聖書に登場する神や登場人物、
そして犯罪聖書の著者自身が、四書五経が提示する君子としてのあり方を全く満たせず、
逆に小人としてのあり方ばかりに従っている。信者がダメな人間であるのは聖書信仰も
大いに認めていることであって、それは仏門の浄土信仰などとも同じくする所である。
しかし、聖書信仰はその教祖やクリエーターからして全くダメな人間ばかりで、ダメ人間が
ダメ人間を教導するという、どこにも締まりのない体裁でしかないことが特殊なのである。
四書五経が提示する君子像などを、誰しもが体得できたならそれに越したことはないが、
そこまではなかなか覚束ないから、一部の有志が君子としての修養やそれに基づく仕官に
よって小人止まりな衆生を導いていくというのが、儒学でも現実的な所として認められていて、
漢や唐や江戸幕府などの儒学による統治を成功させた社会も、実際にはその程度のものであった。
誰しもが君子である社会とまでいかずとも、一部の君子が多数の小人を教導していく社会を
画策していく程度で、十分に治世は達成できる。一部の君子を養成していくぐらいなら、
中国みたいな環境的に恵まれているわけでもない国ですら何百年と続けていけるというのに、
あまつさえ、中国と比べれば遥かに異民族からの侵略などのリスクも低い地理条件にある
西洋の人間こそは、小人が小人を支配する宗教的政治的体制しか今まで画策してこなかった。
言之れに及びて言わず、之れを隠と謂う。未だ顔色を見ずして言う、之れを瞽と謂う」
「まだ自分が言う番でもないのに勝手にしゃべり出すのは『躁』という過ちである。
自分が言う番になっても何も言おうとしないのは『隠』という過ちである。
相手の顔色も窺わずに一方的にものを言うのは『瞽』という過ちである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・六より)
犯罪聖書(新旧約聖書)の信者以前に、犯罪聖書に登場する神や登場人物、
そして犯罪聖書の著者自身が、四書五経が提示する君子としてのあり方を全く満たせず、
逆に小人としてのあり方ばかりに従っている。信者がダメな人間であるのは聖書信仰も
大いに認めていることであって、それは仏門の浄土信仰などとも同じくする所である。
しかし、聖書信仰はその教祖やクリエーターからして全くダメな人間ばかりで、ダメ人間が
ダメ人間を教導するという、どこにも締まりのない体裁でしかないことが特殊なのである。
四書五経が提示する君子像などを、誰しもが体得できたならそれに越したことはないが、
そこまではなかなか覚束ないから、一部の有志が君子としての修養やそれに基づく仕官に
よって小人止まりな衆生を導いていくというのが、儒学でも現実的な所として認められていて、
漢や唐や江戸幕府などの儒学による統治を成功させた社会も、実際にはその程度のものであった。
誰しもが君子である社会とまでいかずとも、一部の君子が多数の小人を教導していく社会を
画策していく程度で、十分に治世は達成できる。一部の君子を養成していくぐらいなら、
中国みたいな環境的に恵まれているわけでもない国ですら何百年と続けていけるというのに、
あまつさえ、中国と比べれば遥かに異民族からの侵略などのリスクも低い地理条件にある
西洋の人間こそは、小人が小人を支配する宗教的政治的体制しか今まで画策してこなかった。
小人が小人を支配する体制しか許されて来なかったから、西洋社会も真の治世には
一瞬たりとも与れず、春秋戦国時代の中国の如き争乱を数千年の永きにわたって続けてきた。
その争乱を永続させるペースと、軍事技術などの発展とが相まって、もはや自分たちの
争乱によって地球人類を滅亡させかねない状態にまで至ってしまった。
まさに、「小人始めありて終わりなし(晋書)」をありのままに
体現したような結末で、そのような結末に至らしめた最たる原因もまた、
「小人の小人による小人のための伝道書」である新旧約聖書の右に出るものはなかったといえる。
西洋人が、西洋人だからといって君子による社会統治を絶対にできないとも限らない。
小人統治を絶対化する聖書信仰などを捨てて、潔く君子統治こそを試みていく方向に切り替えたなら、
長年の異民族支配による荒廃も著しい今の中国人などよりも、先に君子統治を実現すらできるかもしれない。
もちろん今すぐに可能となるということもあり得ず、聖書信仰を捨てて、聖書信仰によってこそ
患ってしまった凶状を十分に拭い去って後に、始めて君子統治も可能になると見込まれる。
もちろん、これからも一切皆小人の体制のままでいて、もはや自分たちでは社会運営もままならないために、
東洋人による委任統治を受けたいというのならそれでもいいわけだが、さすがにそうであり続ける
ことにまでは耐え難い屈辱を抱いて、自分たちでも君子統治を実現していけるように
心がけていくほうが、人間性を尊ぶ東洋人としての立場からも好しとできるものだ。
それでこそ、人間が人間を家畜のように支配する陰惨な時代もまた、終焉を迎えるのだから。
一瞬たりとも与れず、春秋戦国時代の中国の如き争乱を数千年の永きにわたって続けてきた。
その争乱を永続させるペースと、軍事技術などの発展とが相まって、もはや自分たちの
争乱によって地球人類を滅亡させかねない状態にまで至ってしまった。
まさに、「小人始めありて終わりなし(晋書)」をありのままに
体現したような結末で、そのような結末に至らしめた最たる原因もまた、
「小人の小人による小人のための伝道書」である新旧約聖書の右に出るものはなかったといえる。
西洋人が、西洋人だからといって君子による社会統治を絶対にできないとも限らない。
小人統治を絶対化する聖書信仰などを捨てて、潔く君子統治こそを試みていく方向に切り替えたなら、
長年の異民族支配による荒廃も著しい今の中国人などよりも、先に君子統治を実現すらできるかもしれない。
もちろん今すぐに可能となるということもあり得ず、聖書信仰を捨てて、聖書信仰によってこそ
患ってしまった凶状を十分に拭い去って後に、始めて君子統治も可能になると見込まれる。
もちろん、これからも一切皆小人の体制のままでいて、もはや自分たちでは社会運営もままならないために、
東洋人による委任統治を受けたいというのならそれでもいいわけだが、さすがにそうであり続ける
ことにまでは耐え難い屈辱を抱いて、自分たちでも君子統治を実現していけるように
心がけていくほうが、人間性を尊ぶ東洋人としての立場からも好しとできるものだ。
それでこそ、人間が人間を家畜のように支配する陰惨な時代もまた、終焉を迎えるのだから。
罪業の無制限な拡大と共なる聖書圏の維持が、人類の滅亡に直結するようになる前には、
聖書信仰こそが信者たちにとっても、本当に「確かな拠り所」であったに違いない。
聖書信仰こそが信者たちにとっても、本当に「確かな拠り所」であったに違いない。
ルネサンス以降、西洋でも聖書信仰の酩酊ばかりに耽っていることは少しずつ目減りし、
産業革命以降はもはや宗教信仰のほうが下火となった。それでも西洋人にとっての
一番の心の拠り所としての聖書信仰は健在であったが、英蘭などによる植民地支配の激化、
米ペリー艦隊の地球の裏側(日本)への到達などで、西洋人の世界的覇権が良くも悪しくも
飽和点に達した。聖書信仰こそを根本的な拠り所としての、覇権の拡大が強制的に終結し、
地球という限られた世界の範囲内での暴慢の拡大という、いつかは破裂する風船の膨張の
如き危険な時代を歩み始めることとなった。それをいち早く察知したのが哲学者のニーチェで、
「神は死んだ」という宣言によってこそ、信仰の酩酊を原動力とした西洋人の無制限な
暴慢の拡大に歯止めをかけようともしたが、麻薬的酩酊を伴う聖書信仰を剥奪されることが
西洋人にとっては麻酔切れの如き苦痛を伴うことだから、結局うまくいくこともなく、
ニーチェ自身もニヒリズムにやられて発狂するなど、新たな問題を来たすばかりのこととなった。
聖書信仰は、信者の「依存症」を深刻化させる。何に対する依存といわず、とにかく何ものかに
依存しておこうとする依存症一般が人一倍深刻なものとなる。そこまで信者や学生の依存症を
深刻化させる宗教や学問も多くはなく、他力信仰の浄土教ですらもが、信者の信仰依存を
抑制させるような働きを持ち合わせている。聖書信仰によって患った強度の信仰依存を
他の宗教や学問で埋め合わせるというのも得策ではないし、薬物による緩和ケアなども
なおさら推奨できるものではないといえる。麻薬中毒患者が一旦は閉鎖病棟などに隔離されて、
薬切れによる極度の苦痛と引き換えの依存症からの脱却を試みる。そのような措置が成功して後に、
元聖書信者に対して低依存性の「確かな拠り所」をまたあてがう。聖書信仰がもはや誰にとっての
「確かな拠り所」でもあり得なくなってしまっている一方で、これからも「確かな拠り所」とするに
値する思想哲学宗教などはいくらでもある。ただ、それらは聖書信仰と比べれば依存性が遥かに低いから、
依存症を克服して後の元聖書信者にこそあてがっていくようにしなければならないのである。
産業革命以降はもはや宗教信仰のほうが下火となった。それでも西洋人にとっての
一番の心の拠り所としての聖書信仰は健在であったが、英蘭などによる植民地支配の激化、
米ペリー艦隊の地球の裏側(日本)への到達などで、西洋人の世界的覇権が良くも悪しくも
飽和点に達した。聖書信仰こそを根本的な拠り所としての、覇権の拡大が強制的に終結し、
地球という限られた世界の範囲内での暴慢の拡大という、いつかは破裂する風船の膨張の
如き危険な時代を歩み始めることとなった。それをいち早く察知したのが哲学者のニーチェで、
「神は死んだ」という宣言によってこそ、信仰の酩酊を原動力とした西洋人の無制限な
暴慢の拡大に歯止めをかけようともしたが、麻薬的酩酊を伴う聖書信仰を剥奪されることが
西洋人にとっては麻酔切れの如き苦痛を伴うことだから、結局うまくいくこともなく、
ニーチェ自身もニヒリズムにやられて発狂するなど、新たな問題を来たすばかりのこととなった。
聖書信仰は、信者の「依存症」を深刻化させる。何に対する依存といわず、とにかく何ものかに
依存しておこうとする依存症一般が人一倍深刻なものとなる。そこまで信者や学生の依存症を
深刻化させる宗教や学問も多くはなく、他力信仰の浄土教ですらもが、信者の信仰依存を
抑制させるような働きを持ち合わせている。聖書信仰によって患った強度の信仰依存を
他の宗教や学問で埋め合わせるというのも得策ではないし、薬物による緩和ケアなども
なおさら推奨できるものではないといえる。麻薬中毒患者が一旦は閉鎖病棟などに隔離されて、
薬切れによる極度の苦痛と引き換えの依存症からの脱却を試みる。そのような措置が成功して後に、
元聖書信者に対して低依存性の「確かな拠り所」をまたあてがう。聖書信仰がもはや誰にとっての
「確かな拠り所」でもあり得なくなってしまっている一方で、これからも「確かな拠り所」とするに
値する思想哲学宗教などはいくらでもある。ただ、それらは聖書信仰と比べれば依存性が遥かに低いから、
依存症を克服して後の元聖書信者にこそあてがっていくようにしなければならないのである。
人間にとって、聖書信仰よりも遥かに磐石な拠り所となるものはいくらでもある。ただ、
それらはほぼ全て聖書信仰よりも依存性が低い。依存性が低いものだから、未だ聖書信仰の
酩酊のさ中にあるような人間には拠り所として脆弱であるようにすら思われる。それは自らの
依存症が深刻であり過ぎるがための自業自得の偏見に過ぎないのであり、依存症すら克服できたなら、
「不退転」ということにかけて紛れもなく聖書信仰以上たり得るものはいくらでもあるのだ。
拠り所を何も持たずにいられるほど強い人間がそんなに多くないことは、純粋な哲理教学
としては世界でも最優等である仏教ですらもが認めている所である。だから仏門にも他力本願の
浄土門があるが、同時にその浄土門までもが、依存症を軽減していく方向性を備えてもいる。
依存を皆無にまではなかなかできないが、なるべく減らしていくようにするというのが、
全ての人間にとっても健全なあり方となるのであり、それでも残存してしまう依存癖を決して
誇ったりもせず、むしろ恥じるぐらいのことが、女子供を含む全ての人類に守られていくように
なるのが適当である。そしてそれは、今という時代にはもはや必須なことともなっている。
「三日斎して、一日之れを用うるも、猶お敬わざるを恐る」
「たった一日の祭事のために三日間の斎戒沐浴を尽くしたとしても、まだ敬いが足りてはいないかと恐れる。
(君子が薄氷を踏むように物事を恐れ慎みながら為す姿の一例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
それらはほぼ全て聖書信仰よりも依存性が低い。依存性が低いものだから、未だ聖書信仰の
酩酊のさ中にあるような人間には拠り所として脆弱であるようにすら思われる。それは自らの
依存症が深刻であり過ぎるがための自業自得の偏見に過ぎないのであり、依存症すら克服できたなら、
「不退転」ということにかけて紛れもなく聖書信仰以上たり得るものはいくらでもあるのだ。
拠り所を何も持たずにいられるほど強い人間がそんなに多くないことは、純粋な哲理教学
としては世界でも最優等である仏教ですらもが認めている所である。だから仏門にも他力本願の
浄土門があるが、同時にその浄土門までもが、依存症を軽減していく方向性を備えてもいる。
依存を皆無にまではなかなかできないが、なるべく減らしていくようにするというのが、
全ての人間にとっても健全なあり方となるのであり、それでも残存してしまう依存癖を決して
誇ったりもせず、むしろ恥じるぐらいのことが、女子供を含む全ての人類に守られていくように
なるのが適当である。そしてそれは、今という時代にはもはや必須なことともなっている。
「三日斎して、一日之れを用うるも、猶お敬わざるを恐る」
「たった一日の祭事のために三日間の斎戒沐浴を尽くしたとしても、まだ敬いが足りてはいないかと恐れる。
(君子が薄氷を踏むように物事を恐れ慎みながら為す姿の一例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
「春秋左氏伝」僖公十九年の、「人間を生贄に用いたりしてはならない」
という意味の発言の引用がこの聖書スレでの初めての真正聖書からの引用だった。
「イエスは人間であると同時に神の子だった。だから生贄にされても構わない」
だとしたら、神の子こそは人間以下の畜生同然の存在でしかなかったことになる。
実際には、イエスの「神の子(キリスト)」という自称は、自らが妾腹の私生児で
あることを開き直っての皮肉的な自称であったわけだが、じゃあ妾腹の私生児であれば
畜生も同然の存在として生贄にされても構いやしないのかといえば、決してそんなこともない。
妾腹の私生児といえども、孔子のような大学者や一休宗純のような名僧、長谷川平蔵のような
花形の武士として大成できる可能性もあるわけだから、ただ妾腹の私生児であるというだけの
理由で、頭ごなしに畜生並みの扱いを受けたりするのであれば、それはそのような処遇を
講じようとする世の中のほうが倫理的に間違っていると見なす他はないのである。
では、自らが妾腹の私生児であることにコンプレックスを抱いて、それを発散するために
自分を神の子だなどと触れ回ったりする、過ちを犯した妾腹の私生児の場合はどうかといえば、
これは確かに、人間以下の畜生並みの存在としてすら扱いたい気持ちにもなりかねない所がある。
しかし、それでも自分の側にまともな神経が備わっているのならば、そのような「かわいそうな人」
を哀れんで、丁重に禁治産などの保護措置を施してやるようにすべきである。もしも自分たちが
それを怠って、畜生並みと断定した妾腹の私生児を、冤罪事件のカモにして社会的動乱を勃発
させるようなことをしたとしたなら、それはそうした人々の側にも大きな罪があるといえる。
という意味の発言の引用がこの聖書スレでの初めての真正聖書からの引用だった。
「イエスは人間であると同時に神の子だった。だから生贄にされても構わない」
だとしたら、神の子こそは人間以下の畜生同然の存在でしかなかったことになる。
実際には、イエスの「神の子(キリスト)」という自称は、自らが妾腹の私生児で
あることを開き直っての皮肉的な自称であったわけだが、じゃあ妾腹の私生児であれば
畜生も同然の存在として生贄にされても構いやしないのかといえば、決してそんなこともない。
妾腹の私生児といえども、孔子のような大学者や一休宗純のような名僧、長谷川平蔵のような
花形の武士として大成できる可能性もあるわけだから、ただ妾腹の私生児であるというだけの
理由で、頭ごなしに畜生並みの扱いを受けたりするのであれば、それはそのような処遇を
講じようとする世の中のほうが倫理的に間違っていると見なす他はないのである。
では、自らが妾腹の私生児であることにコンプレックスを抱いて、それを発散するために
自分を神の子だなどと触れ回ったりする、過ちを犯した妾腹の私生児の場合はどうかといえば、
これは確かに、人間以下の畜生並みの存在としてすら扱いたい気持ちにもなりかねない所がある。
しかし、それでも自分の側にまともな神経が備わっているのならば、そのような「かわいそうな人」
を哀れんで、丁重に禁治産などの保護措置を施してやるようにすべきである。もしも自分たちが
それを怠って、畜生並みと断定した妾腹の私生児を、冤罪事件のカモにして社会的動乱を勃発
させるようなことをしたとしたなら、それはそうした人々の側にも大きな罪があるといえる。
総督ピラトがイエスを磔刑に処すとき、群集もまた「そいつを十字架にかけろ」とこぞって
豪語していた。ピラトもその怒声に圧される形で、罪状も不明確なイエスを磔刑で殺した。
妖言乱行の過ちを犯した、至らない妾腹の私生児を、だからといって畜生並みの存在と断定して、
生贄にするが如き過剰処刑に服させた。イエス本人すらもがそれを欲していたようではあるが、
明らかにイエスだけでなく、当時のイスラエルやローマ全体が、特定の人間を畜生以下の存在と
見なして憚らぬ不徳さで覆い尽くされていたといえ、だからこそ、人間をいけにえとして十字架に
かけるような過ちが犯されながらも、誰一人としてそれを糾弾することすらしないでいたのである。
春秋時代の中国でも、捕虜となった軍人が生贄に用いられるなどの事例が何度かあったようだが、
同時に僖公十九年にそれを適格に糾弾した司馬子魚のように、人間を生贄にすることが不徳の
至りとなることを冷静に見抜いているものもいた。だからイエスのような蒙昧状態の妾腹の
私生児が現れた所で、それを生贄にしようなどとすることが社会的に許されるはずもなかった。
イエスが愚かな妾腹の私生児だからといって、本人を生贄にまで処したのは、当時のイスラエル人
やローマ人の罪でもあったのであり、イエスが心神喪失者であるが故に無罪であるというのなら、
イスラエル人やローマ人全体が代わりにその罪を負って行かねばならないとすら言えるのである。
「唯だ天下の至聖、〜凡そ血気有る者の尊親せざる莫し」
「天下でも飛び切りの聖人こそは、血肉ある人々のうちでも尊び親しまざる者がない。
(むしろ仰ぎ見る人々の側こそが血肉を尽くして、天下の至聖を尊親するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
豪語していた。ピラトもその怒声に圧される形で、罪状も不明確なイエスを磔刑で殺した。
妖言乱行の過ちを犯した、至らない妾腹の私生児を、だからといって畜生並みの存在と断定して、
生贄にするが如き過剰処刑に服させた。イエス本人すらもがそれを欲していたようではあるが、
明らかにイエスだけでなく、当時のイスラエルやローマ全体が、特定の人間を畜生以下の存在と
見なして憚らぬ不徳さで覆い尽くされていたといえ、だからこそ、人間をいけにえとして十字架に
かけるような過ちが犯されながらも、誰一人としてそれを糾弾することすらしないでいたのである。
春秋時代の中国でも、捕虜となった軍人が生贄に用いられるなどの事例が何度かあったようだが、
同時に僖公十九年にそれを適格に糾弾した司馬子魚のように、人間を生贄にすることが不徳の
至りとなることを冷静に見抜いているものもいた。だからイエスのような蒙昧状態の妾腹の
私生児が現れた所で、それを生贄にしようなどとすることが社会的に許されるはずもなかった。
イエスが愚かな妾腹の私生児だからといって、本人を生贄にまで処したのは、当時のイスラエル人
やローマ人の罪でもあったのであり、イエスが心神喪失者であるが故に無罪であるというのなら、
イスラエル人やローマ人全体が代わりにその罪を負って行かねばならないとすら言えるのである。
「唯だ天下の至聖、〜凡そ血気有る者の尊親せざる莫し」
「天下でも飛び切りの聖人こそは、血肉ある人々のうちでも尊び親しまざる者がない。
(むしろ仰ぎ見る人々の側こそが血肉を尽くして、天下の至聖を尊親するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
真っ当な神仏を尊崇する人間は、「立派な人間」という意味での君子になり、
邪まな神にすがろうとする人間は、「つまらない人間」という意味での小人になる。
君子たることを社会的に落とし込めば聖王や賢臣となり、長寿繁栄にも与れる一方で、
小人であることを落とし込めば悪徳商人や死兵となり、短命や破滅にも追い込まれる。
四書五経では、祖霊を祭ることを重んじる人間が君子、軽んじる人間が小人程度の
判別があるだけで、小人が邪神にすがることで己の性向を強化するようなことまでは
提示されていない。当時まだ、世界最悪の邪神信仰である聖書信仰もなかったわけだから、
そんな物事をわざわざあげつらわなかったのも当然のことだが、たとえば殷の紂王が
愛妾妲己に溺れて遊興に耽りすぎて国を滅ぼしたり、周の幽王がこれまた愛妾の褒姒に
心を惑わされて、諸侯からの信頼を失って王権を失ったりといったことはすでにあった。
邪神にすがって己の品性を下落させることも、男が女色に溺れてダメになるのと
似たようなもので、問題なのは、決してただ色を好むようにして邪神を信じる
ことではなく、あまりにも一概すぎて他を忘れ去るほどにも色に溺れるようにして、
邪神への信仰に溺れ去ってしまうことである。孔子も魯国に仕官中、上司の季桓子が
斉国から送られて来た女楽団をただ受け入れただけでは見限らなかったが、季桓子が
その舞楽に溺れて三日間も朝廷に顔を出さなかったことには見限りを付け、魯を去ってもいる。
社会人である以上、酒色遊興を拒み通すなんてのも潔癖すぎることで、軽く嗜む程度なら
時に奨励すらされるものである。ただ、それで済むこともなく、完全に溺れきって身を
滅ぼすようなことにもなりかねないもので、酒色がそうであるようにして、邪神信仰もまた
ちょっとかじるぐらいでは済まずに、どこまでも深みにはまっていきやすいものなのである。
邪まな神にすがろうとする人間は、「つまらない人間」という意味での小人になる。
君子たることを社会的に落とし込めば聖王や賢臣となり、長寿繁栄にも与れる一方で、
小人であることを落とし込めば悪徳商人や死兵となり、短命や破滅にも追い込まれる。
四書五経では、祖霊を祭ることを重んじる人間が君子、軽んじる人間が小人程度の
判別があるだけで、小人が邪神にすがることで己の性向を強化するようなことまでは
提示されていない。当時まだ、世界最悪の邪神信仰である聖書信仰もなかったわけだから、
そんな物事をわざわざあげつらわなかったのも当然のことだが、たとえば殷の紂王が
愛妾妲己に溺れて遊興に耽りすぎて国を滅ぼしたり、周の幽王がこれまた愛妾の褒姒に
心を惑わされて、諸侯からの信頼を失って王権を失ったりといったことはすでにあった。
邪神にすがって己の品性を下落させることも、男が女色に溺れてダメになるのと
似たようなもので、問題なのは、決してただ色を好むようにして邪神を信じる
ことではなく、あまりにも一概すぎて他を忘れ去るほどにも色に溺れるようにして、
邪神への信仰に溺れ去ってしまうことである。孔子も魯国に仕官中、上司の季桓子が
斉国から送られて来た女楽団をただ受け入れただけでは見限らなかったが、季桓子が
その舞楽に溺れて三日間も朝廷に顔を出さなかったことには見限りを付け、魯を去ってもいる。
社会人である以上、酒色遊興を拒み通すなんてのも潔癖すぎることで、軽く嗜む程度なら
時に奨励すらされるものである。ただ、それで済むこともなく、完全に溺れきって身を
滅ぼすようなことにもなりかねないもので、酒色がそうであるようにして、邪神信仰もまた
ちょっとかじるぐらいでは済まずに、どこまでも深みにはまっていきやすいものなのである。
邪神信仰を「ちょっと嗜む」なんてことが果たしてできるのかを考えてみるに、
たとえば密教修行での試練の一環などとしては不可能でもなさそうではある。
しかし、あまりにも危険すぎて万人には勧められないし、修行の失敗者が
カルト宗教家としての悪行に走るようなことにもなりかねないといえる。
ユダヤ=キリスト両聖書教もまた、本来はそのような「失敗した密教」だったと
考えられなくもない。別に古代のユダヤ人らが、正統なタントラ教の修行などに
失敗して邪教を生成し始めたとも限らないが、ユダヤ教やキリスト教の宗教
としての存在性は十分、密教の失敗と見なすに値するものとなっている。
ちょっと嗜むことすら憚られるという点では、邪神信仰は酒色以上だともいえる。
最低でも、妻が夫の浮気を怨む程度以上には、邪教信者であることも怨まれて然るべきだ。
邪教信仰を嗜む危険性よりは、酒色を嗜む危険性のほうが遥かに小さいのだから。
「蔽芾たる甘棠、翦る勿れ敗る勿れ、召伯の憩いし所」
「よく生い茂った甘棠の樹を伐るでない、傷つけるでない。かつて周の賢臣召公も、その木蔭で憩われたのだから。
(『生い茂った甘棠の樹』は召公の威徳の暗喩。その威徳の下で召公自身もまた憩うていた。
邪教の神やそれへの邪信などと違い、君子の威徳はそれがありのままに憩いの場なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・召南・甘棠より)
たとえば密教修行での試練の一環などとしては不可能でもなさそうではある。
しかし、あまりにも危険すぎて万人には勧められないし、修行の失敗者が
カルト宗教家としての悪行に走るようなことにもなりかねないといえる。
ユダヤ=キリスト両聖書教もまた、本来はそのような「失敗した密教」だったと
考えられなくもない。別に古代のユダヤ人らが、正統なタントラ教の修行などに
失敗して邪教を生成し始めたとも限らないが、ユダヤ教やキリスト教の宗教
としての存在性は十分、密教の失敗と見なすに値するものとなっている。
ちょっと嗜むことすら憚られるという点では、邪神信仰は酒色以上だともいえる。
最低でも、妻が夫の浮気を怨む程度以上には、邪教信者であることも怨まれて然るべきだ。
邪教信仰を嗜む危険性よりは、酒色を嗜む危険性のほうが遥かに小さいのだから。
「蔽芾たる甘棠、翦る勿れ敗る勿れ、召伯の憩いし所」
「よく生い茂った甘棠の樹を伐るでない、傷つけるでない。かつて周の賢臣召公も、その木蔭で憩われたのだから。
(『生い茂った甘棠の樹』は召公の威徳の暗喩。その威徳の下で召公自身もまた憩うていた。
邪教の神やそれへの邪信などと違い、君子の威徳はそれがありのままに憩いの場なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・召南・甘棠より)
「子曰く、吾れ嘗て終日食わず、終夜寝ず。以て思う、益無しと。学ぶに如かざるなり(既出)」
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
上記のように孔子は言うけれども、もしも飲まず食わずの修練を孔子が可としたなら、
弟子たちはこぞってそのような修練に励んだに違いない。だから陳で糧食を絶たれる危機に遭った折にも、
孔門の弟子たちの多くは飢えをしのぎながら孔子に付き随い続けたのだし、孔子が提示する理想の君子像の
忠実な実践に務めるあまり、無理がたたって夭折してしまった顔淵のような弟子までもがいたのである。
とはいえ、決して孔子の弟子が揃いも揃って精鋭揃いだったのでもなく、子貢のように孔子が反対する
投機で身銭を稼いでいた弟子もいれば、宰我のように文辞は得意でも実践や情緒の伴わない弟子もいた。
そうでありながらも、できる限り孔子の教えを固く守ろうとする弟子たちが相次いだのは、ひとえに孔子自身
の知見や人格の優秀さがあったからで、もしもそれがなかったら、弟子たちも単なる野次馬止まりな連中
ばかりとなり、「しばらく寝ないでおけ」程度の師からの指示すらも守られることはなかったはずなのである。
当初、孔子の学団はただの私塾でしかなかったわけで、社会的な位階からいえばさほどのものでも
なかったわけだが、それでも当時の孔子と弟子たちのやりとりが「論語」や「礼記」などに詳述されて、
2000年以上にわたって研究の対象とされてきた。それは、孔子とその弟子の関係が「理想の師弟関係」
としてこの上ないものでもあったからで、厳しすぎず優しすぎない中庸の保たれたその教育姿勢が、
近世までの日本や中国における教育体制のあり方としても、参考にされ続けてきたからである。
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
上記のように孔子は言うけれども、もしも飲まず食わずの修練を孔子が可としたなら、
弟子たちはこぞってそのような修練に励んだに違いない。だから陳で糧食を絶たれる危機に遭った折にも、
孔門の弟子たちの多くは飢えをしのぎながら孔子に付き随い続けたのだし、孔子が提示する理想の君子像の
忠実な実践に務めるあまり、無理がたたって夭折してしまった顔淵のような弟子までもがいたのである。
とはいえ、決して孔子の弟子が揃いも揃って精鋭揃いだったのでもなく、子貢のように孔子が反対する
投機で身銭を稼いでいた弟子もいれば、宰我のように文辞は得意でも実践や情緒の伴わない弟子もいた。
そうでありながらも、できる限り孔子の教えを固く守ろうとする弟子たちが相次いだのは、ひとえに孔子自身
の知見や人格の優秀さがあったからで、もしもそれがなかったら、弟子たちも単なる野次馬止まりな連中
ばかりとなり、「しばらく寝ないでおけ」程度の師からの指示すらも守られることはなかったはずなのである。
当初、孔子の学団はただの私塾でしかなかったわけで、社会的な位階からいえばさほどのものでも
なかったわけだが、それでも当時の孔子と弟子たちのやりとりが「論語」や「礼記」などに詳述されて、
2000年以上にわたって研究の対象とされてきた。それは、孔子とその弟子の関係が「理想の師弟関係」
としてこの上ないものでもあったからで、厳しすぎず優しすぎない中庸の保たれたその教育姿勢が、
近世までの日本や中国における教育体制のあり方としても、参考にされ続けてきたからである。
しかるに、今の教育体制はといえば、厳しすぎるか優しすぎるかのいずれかでしかない。
西洋由来のスパルタ教育で徹底的に教え込むか、もしくは生徒のわがままを無条件に受け入れるかの、
アメかムチかの教育でしかあり得ない。孔子とその弟子のような、お互いがどこまでも学究を
研鑽し続けていくもの同士としての、双方向的な教学などはどこにもなく、ただ教師が生徒に対して
一方的に知識を教え込むことだけが全てとされている。生徒が教師に対して口出しできるのは、
せいぜい「その知識は間違っていませんか」程度のところまでで、生徒こそが教師に対して
さらなる知見や人格の向上を促していく余地などは、微塵も存在していないのである。
師弟関係は、「君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友」の天下の達道のうちで下から二番目の優先順位に当たり、
上下関係を伴う人間関係としては最低のものともなっている。そのようなわきまえがあればこそ、教師だから
といってヘタに偉ぶったりもせず、生徒の学知すらをも参考にしつつの教学を発展させて行けたりもする。
それ程にも人として真摯な存在であればこそ、教師としての自分に対して生徒たちが誠心誠意随順して
行こうとすらするようになるのであり、それでこそ師から弟子へと仁智が伝承されて行けるのでもある。
「讒諂の民、比黨して之れを危うくする者有れども、身は危うくす可くも、
志しは奪う可からざるなり。起居危うしと雖も、竟に其の志しを信ぶる有り」
「人を裏切り貶めようとする者が、こぞって儒者を危うからしめようとしたところで、
それによって身を危うからしめる程度のことはできても、志しや願いまで奪い去ることはできない。
起居動作に未だ危うい点があった所で、儒者ならば結局は自らの志願を貫き通してしまう。
(身も危うからしめて、願いも聞き入れられない。儒者にすら及ばないというのなら、そういうこともあるだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
西洋由来のスパルタ教育で徹底的に教え込むか、もしくは生徒のわがままを無条件に受け入れるかの、
アメかムチかの教育でしかあり得ない。孔子とその弟子のような、お互いがどこまでも学究を
研鑽し続けていくもの同士としての、双方向的な教学などはどこにもなく、ただ教師が生徒に対して
一方的に知識を教え込むことだけが全てとされている。生徒が教師に対して口出しできるのは、
せいぜい「その知識は間違っていませんか」程度のところまでで、生徒こそが教師に対して
さらなる知見や人格の向上を促していく余地などは、微塵も存在していないのである。
師弟関係は、「君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友」の天下の達道のうちで下から二番目の優先順位に当たり、
上下関係を伴う人間関係としては最低のものともなっている。そのようなわきまえがあればこそ、教師だから
といってヘタに偉ぶったりもせず、生徒の学知すらをも参考にしつつの教学を発展させて行けたりもする。
それ程にも人として真摯な存在であればこそ、教師としての自分に対して生徒たちが誠心誠意随順して
行こうとすらするようになるのであり、それでこそ師から弟子へと仁智が伝承されて行けるのでもある。
「讒諂の民、比黨して之れを危うくする者有れども、身は危うくす可くも、
志しは奪う可からざるなり。起居危うしと雖も、竟に其の志しを信ぶる有り」
「人を裏切り貶めようとする者が、こぞって儒者を危うからしめようとしたところで、
それによって身を危うからしめる程度のことはできても、志しや願いまで奪い去ることはできない。
起居動作に未だ危うい点があった所で、儒者ならば結局は自らの志願を貫き通してしまう。
(身も危うからしめて、願いも聞き入れられない。儒者にすら及ばないというのなら、そういうこともあるだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
聖書圏における犯罪聖書以外の書物というのは、そのどれもが矮小である。
分量的にも犯罪聖書以下のものがほとんどだし、その内容も一過性の消費物止まりで、
後世にまで伝えていくだけの普遍的な価値を湛えているものなども極めて少ない。
(かろうじて、修辞を養う上で有用なものなどが、古典として残って行ってもいる)
全ての書物は犯罪聖書以下でしかないと思い込み、いつかは犯罪聖書によって全てが
刷新されるために、今生での普遍性の追求などにも大した意味はないとまで思っているから。
犯罪聖書が、質でも量でも古さでも、「最低限度の東洋古典」である四書五経以下なのだから、
その犯罪聖書よりも漏れなく矮小なものとして著された、全ての西洋古典もまた四書五経以下である。
聖書圏は、全般的に「勉学不遇の地」なのである。
犯罪聖書が勉学対象として不適であるだけでなく、その犯罪聖書よりもさらに下等なものとして
書かれた全ての書物までもが、本格的な勉学の対象とするに値しないものであり続けてきたのだから。
聖書圏には、本格的な勉学などが未だかつてあったことはないのである。
正統な道統に即しているわけでもない、我流の学者の我流の知識をかじるぐらいまでが
勉学の全てであって、あたかも儒者が数多の漢籍を体系的に読み込んだり、仏僧が大蔵経を
読み尽くして実践したりするほどもの勉学は、聖書圏においてはあり得たことがないのである。
非聖書圏の東洋人にとっては、洋学知識ばかりを詰め込まされてきたことを反省して、
東洋学などへ回帰することが「勉強のし直し」となるが、聖書圏の西洋人の場合などには
なかなかそうもいかない。東洋学への勉学姿勢を西洋学に落とし込むのは可能な一方で、
西洋学への勉強姿勢を東洋学に落とし込むのは、はなはだ困難なことであるから。
分量的にも犯罪聖書以下のものがほとんどだし、その内容も一過性の消費物止まりで、
後世にまで伝えていくだけの普遍的な価値を湛えているものなども極めて少ない。
(かろうじて、修辞を養う上で有用なものなどが、古典として残って行ってもいる)
全ての書物は犯罪聖書以下でしかないと思い込み、いつかは犯罪聖書によって全てが
刷新されるために、今生での普遍性の追求などにも大した意味はないとまで思っているから。
犯罪聖書が、質でも量でも古さでも、「最低限度の東洋古典」である四書五経以下なのだから、
その犯罪聖書よりも漏れなく矮小なものとして著された、全ての西洋古典もまた四書五経以下である。
聖書圏は、全般的に「勉学不遇の地」なのである。
犯罪聖書が勉学対象として不適であるだけでなく、その犯罪聖書よりもさらに下等なものとして
書かれた全ての書物までもが、本格的な勉学の対象とするに値しないものであり続けてきたのだから。
聖書圏には、本格的な勉学などが未だかつてあったことはないのである。
正統な道統に即しているわけでもない、我流の学者の我流の知識をかじるぐらいまでが
勉学の全てであって、あたかも儒者が数多の漢籍を体系的に読み込んだり、仏僧が大蔵経を
読み尽くして実践したりするほどもの勉学は、聖書圏においてはあり得たことがないのである。
非聖書圏の東洋人にとっては、洋学知識ばかりを詰め込まされてきたことを反省して、
東洋学などへ回帰することが「勉強のし直し」となるが、聖書圏の西洋人の場合などには
なかなかそうもいかない。東洋学への勉学姿勢を西洋学に落とし込むのは可能な一方で、
西洋学への勉強姿勢を東洋学に落とし込むのは、はなはだ困難なことであるから。
聖書信仰は、侵略地に「勉強嫌い」をもたらす。
それも、信仰への酩酊者を増大させると同時に、侵略地に現存する勉学の本格性を
損なわせるからで、本来なら勉学を志せたはずの人間が、環境が聖書信仰下な
ものだから勉学嫌いになってしまったなんてこともいくらでもあったはずである。
孔子の弟子の子路なども蛮勇の徒だったが、その勇気を「智仁勇」の三才として善用できるのが
儒学であればこそ、孔子にも随順できた。もしも子路が聖書圏に生まれていたなら、勇気なんて
野蛮なものでしかないと決め付けるその風潮にも圧されて、きっと勉強嫌いになっていたに違いない。
正当な道統に根ざした本格的な勉学や、その対象となるだけの文書資料などは、聖書圏はおろか、
今の日本でもほとんど巷に出回らないものとなってしまった。東洋古典も抄訳でそのごく一部が
出版されたりするぐらいで、決して体系的な勉学の対象にされるだけの体裁などは整っていない。
聖書信仰を廃絶することは、体系的な学問全般の復興にもつながる。
日本人などにとっては久しぶり、西洋人にとっては初めてとなる、体系的な学問の享受。
勉強嫌いにとっては恐ろしいことのように思われるかもしれないが、決して君が嫌っている
類いの勉学を復興していこうとしているわけではないのだから、安心せられたい。
「天下国家を為むるに〜凡そ事豫めすれば則ち立ち、豫めせざれば則ち廃す。言前に定まれば則ち
跲かず、事前に定まれば則ち困まず、行い前に定まれば則ち疚しからず、道前に定まれば則ち窮せず」
「天下国家を平定するような大業は、かならず前もっての用意が整っている場合にのみ実行に移し、用意が
整っていないようであれば踏み止まる。言うべきことも前もって定まっていればつまずかず、やる事も定まって
いれば苦しむようなこともなく、行いも定まっていれば疚しい所もなく、道筋も定まっていれば窮することもない。
(前もってすべての用意を整えているのだから、始めから苦しんだり疚しがったりすることもないはずである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
それも、信仰への酩酊者を増大させると同時に、侵略地に現存する勉学の本格性を
損なわせるからで、本来なら勉学を志せたはずの人間が、環境が聖書信仰下な
ものだから勉学嫌いになってしまったなんてこともいくらでもあったはずである。
孔子の弟子の子路なども蛮勇の徒だったが、その勇気を「智仁勇」の三才として善用できるのが
儒学であればこそ、孔子にも随順できた。もしも子路が聖書圏に生まれていたなら、勇気なんて
野蛮なものでしかないと決め付けるその風潮にも圧されて、きっと勉強嫌いになっていたに違いない。
正当な道統に根ざした本格的な勉学や、その対象となるだけの文書資料などは、聖書圏はおろか、
今の日本でもほとんど巷に出回らないものとなってしまった。東洋古典も抄訳でそのごく一部が
出版されたりするぐらいで、決して体系的な勉学の対象にされるだけの体裁などは整っていない。
聖書信仰を廃絶することは、体系的な学問全般の復興にもつながる。
日本人などにとっては久しぶり、西洋人にとっては初めてとなる、体系的な学問の享受。
勉強嫌いにとっては恐ろしいことのように思われるかもしれないが、決して君が嫌っている
類いの勉学を復興していこうとしているわけではないのだから、安心せられたい。
「天下国家を為むるに〜凡そ事豫めすれば則ち立ち、豫めせざれば則ち廃す。言前に定まれば則ち
跲かず、事前に定まれば則ち困まず、行い前に定まれば則ち疚しからず、道前に定まれば則ち窮せず」
「天下国家を平定するような大業は、かならず前もっての用意が整っている場合にのみ実行に移し、用意が
整っていないようであれば踏み止まる。言うべきことも前もって定まっていればつまずかず、やる事も定まって
いれば苦しむようなこともなく、行いも定まっていれば疚しい所もなく、道筋も定まっていれば窮することもない。
(前もってすべての用意を整えているのだから、始めから苦しんだり疚しがったりすることもないはずである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
君子道徳が信教とも別物のもの(儒学)として醸成されて来ている極東社会では、
あまり大都市の中心部などに巨大な霊地を拵えたりすることははばかられて来た。
伊勢神宮や出雲大社も田舎である三重や島根に建てられ、比叡山や高野山もその名のとおり、
山岳地帯に造られている。このうちでも、山あいでありながら比較的京都に近い位置にある
比叡山では、昔から僧団の腐敗が重ね重ね問題になって来ていて、宗教施設が大都市の
世俗的権力と癒着することがいかに大きな問題に結びつくかを実証する例ともなっている。
イスラムのように政教一致を完全に開き直るのならまだしも、キリスト教圏は一応、そのほとんどの
国がすでに政教分離を国是として掲げている。にもかかわらず米大統領は聖書に手を置いて宣誓し、
その他の西洋諸国でもキリスト教団勢力を嵩にかかった政治家が政権を得て国家元首となったりしている。
度し難いほどに政教の分離がやりきれないままでいるのも、西洋の社会構造からして、大都市の中心部に
巨大な教会がいくつも林立しているような体たらくだからで、本当に政教を分離させるというのなら、
キリスト教圏の場合は、キリスト教を廃教に追い込むぐらいは必須な実相と化してしまっているからだ。
儒学に相当するような、無宗教的かつ実践的な権力学が西洋にはないものだから、今に至るまで
権力の中枢に宗教勢力がはびこるザマと化してしまっている。近世ごろから相当数の無宗教的な
政治学や社会学を西洋人もこしらえ始めたが、そのほぼ全てが現実性を欠き、共産主義のような高潔な
理想を謳う政治イデオロギーほど、左翼(変革主義)としての節操のなさを来たしてしまってもいる。
だから西洋の場合、保守的な派閥ほど宗教勢力との癒着が甚だしいという事態をも招いているわけで、
保守派こそは儒学のような無宗教的な学問によって為政を取り仕切ることが正当であることからすれば、
まったく事態が転倒しきったままに固着した、複雑骨折の様相を呈してしまっているといえる。
あまり大都市の中心部などに巨大な霊地を拵えたりすることははばかられて来た。
伊勢神宮や出雲大社も田舎である三重や島根に建てられ、比叡山や高野山もその名のとおり、
山岳地帯に造られている。このうちでも、山あいでありながら比較的京都に近い位置にある
比叡山では、昔から僧団の腐敗が重ね重ね問題になって来ていて、宗教施設が大都市の
世俗的権力と癒着することがいかに大きな問題に結びつくかを実証する例ともなっている。
イスラムのように政教一致を完全に開き直るのならまだしも、キリスト教圏は一応、そのほとんどの
国がすでに政教分離を国是として掲げている。にもかかわらず米大統領は聖書に手を置いて宣誓し、
その他の西洋諸国でもキリスト教団勢力を嵩にかかった政治家が政権を得て国家元首となったりしている。
度し難いほどに政教の分離がやりきれないままでいるのも、西洋の社会構造からして、大都市の中心部に
巨大な教会がいくつも林立しているような体たらくだからで、本当に政教を分離させるというのなら、
キリスト教圏の場合は、キリスト教を廃教に追い込むぐらいは必須な実相と化してしまっているからだ。
儒学に相当するような、無宗教的かつ実践的な権力学が西洋にはないものだから、今に至るまで
権力の中枢に宗教勢力がはびこるザマと化してしまっている。近世ごろから相当数の無宗教的な
政治学や社会学を西洋人もこしらえ始めたが、そのほぼ全てが現実性を欠き、共産主義のような高潔な
理想を謳う政治イデオロギーほど、左翼(変革主義)としての節操のなさを来たしてしまってもいる。
だから西洋の場合、保守的な派閥ほど宗教勢力との癒着が甚だしいという事態をも招いているわけで、
保守派こそは儒学のような無宗教的な学問によって為政を取り仕切ることが正当であることからすれば、
まったく事態が転倒しきったままに固着した、複雑骨折の様相を呈してしまっているといえる。
できることなら、西洋諸国の全ての教会を儒学の学校にしてしまう。可能であれば、
それで政教の癒着にかけては万事解決できるといえる。結果、西洋では宗教施設がほぼ皆無になる。
それが心もとないというんだったら、西洋式の神社なりお寺なりを、都市の郊外などに造り直す。
今ある教会を神道や仏教に改宗したからって、それで政教癒着の腐敗が防ぎ止められる
ともいかないのは、上記の比叡山の腐敗例からも分かるとおり。
たとえば、今ある教会が全てモスクにすげ替えられるような、西洋人が最も恐れる形の宗教征服は
なくても済む。一方で、世俗権力から宗教勢力を追っ払うという措置はやはり必要になる。
聖書信仰の酩酊にかられて、世界でも最も劣悪な為政を続けてきた聖書圏にとって、
これからも政教癒着の腐敗を長らえながら存続していけるすべだけはあり得ないのである。
「以て城郭を築き、都邑を建て、竇窖を穿ちて、囷倉を修む可し。
乃ち有司に命じて、民を趣して收斂せしめ、菜を畜うるを務め、積聚を多くせしむ。
乃ち麥を種うるを勧め、或いは時を失うこと毋らしむ。其れ時を失うありては、罪を行うて疑う無かれ」
「城郭を築き、都市を建造して、大穴を穿ってそこを穀倉とするようにする。諸々の役人たちに命じて、
民たちに租税を収めさせ、同時に野菜などの蓄財を多くするように促す。麦類などを植えることも勧めて、
決して命令に違うことがないようにする。命令に従わない場合には有罪であることを疑わぬように。
(都市こそは、封建的な人間の営みの産物なのだから、不埒な幻想の対象としたりすべきでもない)」
(権力道徳聖——通称四書五経——礼記・月令第六より)
それで政教の癒着にかけては万事解決できるといえる。結果、西洋では宗教施設がほぼ皆無になる。
それが心もとないというんだったら、西洋式の神社なりお寺なりを、都市の郊外などに造り直す。
今ある教会を神道や仏教に改宗したからって、それで政教癒着の腐敗が防ぎ止められる
ともいかないのは、上記の比叡山の腐敗例からも分かるとおり。
たとえば、今ある教会が全てモスクにすげ替えられるような、西洋人が最も恐れる形の宗教征服は
なくても済む。一方で、世俗権力から宗教勢力を追っ払うという措置はやはり必要になる。
聖書信仰の酩酊にかられて、世界でも最も劣悪な為政を続けてきた聖書圏にとって、
これからも政教癒着の腐敗を長らえながら存続していけるすべだけはあり得ないのである。
「以て城郭を築き、都邑を建て、竇窖を穿ちて、囷倉を修む可し。
乃ち有司に命じて、民を趣して收斂せしめ、菜を畜うるを務め、積聚を多くせしむ。
乃ち麥を種うるを勧め、或いは時を失うこと毋らしむ。其れ時を失うありては、罪を行うて疑う無かれ」
「城郭を築き、都市を建造して、大穴を穿ってそこを穀倉とするようにする。諸々の役人たちに命じて、
民たちに租税を収めさせ、同時に野菜などの蓄財を多くするように促す。麦類などを植えることも勧めて、
決して命令に違うことがないようにする。命令に従わない場合には有罪であることを疑わぬように。
(都市こそは、封建的な人間の営みの産物なのだから、不埒な幻想の対象としたりすべきでもない)」
(権力道徳聖——通称四書五経——礼記・月令第六より)
仏法を悟った者は、犯罪聖書の神の名の下での救いなどが決してありはしないことをも悟る。
そこまでいかない、仁徳の把捉者でも、犯罪聖書への信仰にすがる界隈が世の中に多大なる害悪を
もたらすという大局的な実情をわきまえて、そんなものにすがらず、すがらせないようにしていく。
真理と道理いずれにおいても、犯罪聖書などにすがらないことを磐石化する名分はいくらでも立てられる。
これはつまり、心の内面と社会性のような外面、両面から聖書信仰の不当性が確立されているということでもある。
心の持ちようのような内面においても、犯罪聖書なんかを信仰するよりはしないほうがマシで、
社会にもたらす害益度のような外面においても、信仰しないほうがマシであることが完全に結論づけられる。
それが可能であるのは、仏教や儒学による真理学や権力道徳学の体系化が蓄えられてきたからで、
仏教や儒学が既存していればこそ、聖書信仰の全くの有害無益さもまた明らかになったのだといえる。
全くの有害無益にもかかわらず、犯罪聖書や聖書信仰がこの世に生じてしまったのは、地球全体としては
極西の小部落社会にあたる、欧米やイスラエルにまで仏法や仁徳の教化が覚束ないでいたからで、
それらの部落社会の人々が聖書圏外の文化としての仏教や儒学を具体的に察知することができるように
なったのも、自分たち自身が大航海時代などを通じて、外界への進出を試みるようになってからだった。
いくら全くの有害無益とはいえ、そうであることを実証してくれる確たる体系にも与れないで
いた限りにおいて、聖書信仰を続けてしまったことは、やはり過失として扱うことができる。
近世に四書五経の一部などが西洋に輸入されて、シノワズリなどの中国文化の流行があって後にも、
まだ四書五経と犯罪聖書の記述の相反性にまでは察知が及ばず、犯罪聖書が四書五経と比べれば
質でも量でも古さでも全ての面において劣る有害無益の書であることが把握できなかったとしたなら、
その時点でもまだ、西洋人が聖書信仰に基づいて悪逆非道を続けることに過失性が伴っていたことになる。
そこまでいかない、仁徳の把捉者でも、犯罪聖書への信仰にすがる界隈が世の中に多大なる害悪を
もたらすという大局的な実情をわきまえて、そんなものにすがらず、すがらせないようにしていく。
真理と道理いずれにおいても、犯罪聖書などにすがらないことを磐石化する名分はいくらでも立てられる。
これはつまり、心の内面と社会性のような外面、両面から聖書信仰の不当性が確立されているということでもある。
心の持ちようのような内面においても、犯罪聖書なんかを信仰するよりはしないほうがマシで、
社会にもたらす害益度のような外面においても、信仰しないほうがマシであることが完全に結論づけられる。
それが可能であるのは、仏教や儒学による真理学や権力道徳学の体系化が蓄えられてきたからで、
仏教や儒学が既存していればこそ、聖書信仰の全くの有害無益さもまた明らかになったのだといえる。
全くの有害無益にもかかわらず、犯罪聖書や聖書信仰がこの世に生じてしまったのは、地球全体としては
極西の小部落社会にあたる、欧米やイスラエルにまで仏法や仁徳の教化が覚束ないでいたからで、
それらの部落社会の人々が聖書圏外の文化としての仏教や儒学を具体的に察知することができるように
なったのも、自分たち自身が大航海時代などを通じて、外界への進出を試みるようになってからだった。
いくら全くの有害無益とはいえ、そうであることを実証してくれる確たる体系にも与れないで
いた限りにおいて、聖書信仰を続けてしまったことは、やはり過失として扱うことができる。
近世に四書五経の一部などが西洋に輸入されて、シノワズリなどの中国文化の流行があって後にも、
まだ四書五経と犯罪聖書の記述の相反性にまでは察知が及ばず、犯罪聖書が四書五経と比べれば
質でも量でも古さでも全ての面において劣る有害無益の書であることが把握できなかったとしたなら、
その時点でもまだ、西洋人が聖書信仰に基づいて悪逆非道を続けることに過失性が伴っていたことになる。
当時すでに、中国も元や金や清といった異民族国家による支配が相次ぎ、中国国内での仁徳統治も
相当に疎かになっていた。いくら四書五経に優れた記述が多いとはいえ、原産地の中国がろくにその
実践も覚束ないでいたというのでは、四書五経の実践可能性が未だ疑われたままでいたとしても仕方がない。
四書五経が実際に世界レベルでの実用も可能であることを実証しているのは、漢代や唐代における
中華帝国の成功であり、それはもはや1000年以上もまえのことである。それでも当時の
儒学統治が類いまれな成功を果たしていたことが分かるのは、漢書や唐書のような正史書における
当時の治世の綿密な記録と、その記録に即した史跡の残存や発掘などがあるからである。
儒学というよりは、武士道による統治という印象が強い日本の江戸時代における泰平統治なども、
実際には武力が行使されたりすることは極めてまれで、概ねは儒学や朱子学を根幹とした文治を
旨としていたことが、すでに倒幕の熱も冷めきった今になってこそ、冷静に見極められつつもある。
今やっと、世界規模での儒学や仏教による統治を復興してく目処が立った。
そうしなければ西洋人までもが、過失ではない確信犯としての罪を負わされることに
なるだけの文化研究上の素地が整ったから。今までの聖書信仰者の罪は過失として扱われる一方で、
これからは決して、聖書信仰に基づく罪業の拡大が許されないようにもなったから。
これが「時宜」というもので、「中庸」二十章でも「義とは(時)宜なり」と、語呂合わせでその道義性を諾っている。
時宜に即せなかったがために大罪を犯し続けて来てしまった聖書信仰者のあり方にも、逆説的な道義性を見るのである。
「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ」
「(訳は不要だろう。権力道徳者にとって、仁徳は目指すだけでなく、依り頼むものですらある)」
(権力道徳性——通称四書五経——論語・述而第七・六より)
相当に疎かになっていた。いくら四書五経に優れた記述が多いとはいえ、原産地の中国がろくにその
実践も覚束ないでいたというのでは、四書五経の実践可能性が未だ疑われたままでいたとしても仕方がない。
四書五経が実際に世界レベルでの実用も可能であることを実証しているのは、漢代や唐代における
中華帝国の成功であり、それはもはや1000年以上もまえのことである。それでも当時の
儒学統治が類いまれな成功を果たしていたことが分かるのは、漢書や唐書のような正史書における
当時の治世の綿密な記録と、その記録に即した史跡の残存や発掘などがあるからである。
儒学というよりは、武士道による統治という印象が強い日本の江戸時代における泰平統治なども、
実際には武力が行使されたりすることは極めてまれで、概ねは儒学や朱子学を根幹とした文治を
旨としていたことが、すでに倒幕の熱も冷めきった今になってこそ、冷静に見極められつつもある。
今やっと、世界規模での儒学や仏教による統治を復興してく目処が立った。
そうしなければ西洋人までもが、過失ではない確信犯としての罪を負わされることに
なるだけの文化研究上の素地が整ったから。今までの聖書信仰者の罪は過失として扱われる一方で、
これからは決して、聖書信仰に基づく罪業の拡大が許されないようにもなったから。
これが「時宜」というもので、「中庸」二十章でも「義とは(時)宜なり」と、語呂合わせでその道義性を諾っている。
時宜に即せなかったがために大罪を犯し続けて来てしまった聖書信仰者のあり方にも、逆説的な道義性を見るのである。
「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ」
「(訳は不要だろう。権力道徳者にとって、仁徳は目指すだけでなく、依り頼むものですらある)」
(権力道徳性——通称四書五経——論語・述而第七・六より)
「今、同室の人に闘う者有れば、之れを救うに被髪纓冠して之れを救うと雖も可なり。
郷鄰に闘う者有れば、被髮纓冠して往きて之れを救うは則ち惑いなり。戸を閉ざすと雖も可なり。(既出)」
「いま仮に、自分と同じ部屋で問題を呈した者がいれば、無冠の乱れ髪のままでこれを救おうとしても構わない。
しかし、自分の住む地域で問題を呈した者がいたとして、これに対してまで無冠の乱れ髪のままで救いの手を
差し伸べに行ったりすれば、それは惑いというものだ。我が家の戸を閉めて、そ知らぬ振りでいても構わない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
ごく近くの隣人であれば、私人として争いに割って入るも可。しかし戸外の他人ともなれば、
衣冠束髪の正式な公人でもない限りは争いに関わるべきでもないという、絶妙な距離感覚。
仁徳者は極端な個人主義でもなければ、天下万人に無限の博愛を注ぐような夢想家でもない。
世の中における人と人との関わりの深さによって、関わり方を自在に調整していく技術家でこそある。
その仁徳者が天下国家に対して好影響を与えるだけの能力を発揮するためにこそ、正式な公人としての
立場が必要になる。上記のとおり、無名の私人の分際で市街の問題にまでおせっかいに関わろうとする
ことは不適切なことだと仁者なら考える。それは個人主義だからではなく、公人による適切な処理を
邪魔しないためであり、むしろ公人こそが市井の問題を完璧に処理することを企図しているからでもある。
殺人すら、正式な兵士や刑吏として適切にこなすのなら、一切の罪障を帯びなくて済んだりもする。
それほどにも公人という立場は、私人とは隔絶した特別性を帯びるものであり、そうである
ことを私人までもがよく尊重したならば、公人も市井の争いなどを完璧に処理して、やむなく
行われる戦闘などの場合にも、余裕を持って正義ある戦いに臨めていけるようにもなるのである。
郷鄰に闘う者有れば、被髮纓冠して往きて之れを救うは則ち惑いなり。戸を閉ざすと雖も可なり。(既出)」
「いま仮に、自分と同じ部屋で問題を呈した者がいれば、無冠の乱れ髪のままでこれを救おうとしても構わない。
しかし、自分の住む地域で問題を呈した者がいたとして、これに対してまで無冠の乱れ髪のままで救いの手を
差し伸べに行ったりすれば、それは惑いというものだ。我が家の戸を閉めて、そ知らぬ振りでいても構わない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
ごく近くの隣人であれば、私人として争いに割って入るも可。しかし戸外の他人ともなれば、
衣冠束髪の正式な公人でもない限りは争いに関わるべきでもないという、絶妙な距離感覚。
仁徳者は極端な個人主義でもなければ、天下万人に無限の博愛を注ぐような夢想家でもない。
世の中における人と人との関わりの深さによって、関わり方を自在に調整していく技術家でこそある。
その仁徳者が天下国家に対して好影響を与えるだけの能力を発揮するためにこそ、正式な公人としての
立場が必要になる。上記のとおり、無名の私人の分際で市街の問題にまでおせっかいに関わろうとする
ことは不適切なことだと仁者なら考える。それは個人主義だからではなく、公人による適切な処理を
邪魔しないためであり、むしろ公人こそが市井の問題を完璧に処理することを企図しているからでもある。
殺人すら、正式な兵士や刑吏として適切にこなすのなら、一切の罪障を帯びなくて済んだりもする。
それほどにも公人という立場は、私人とは隔絶した特別性を帯びるものであり、そうである
ことを私人までもがよく尊重したならば、公人も市井の争いなどを完璧に処理して、やむなく
行われる戦闘などの場合にも、余裕を持って正義ある戦いに臨めていけるようにもなるのである。
公人だけでなく私人までもが仁徳者である、誰しもが仁義を尊ぶ世の中であるに越したことはないが、
だからといって私人である仁者が、公人と全く同じような振る舞いをすべきだなんてことも全くない。
私人と公人とではあまりにも立場が違えばこそ、全く真逆の行いに務めるべきことすらザラにある。
だからこそ、誰しもが公共性を最大級に尊重しようとした場合でも、上記の孟子の言のようなあり方が妥当となる。
個人主義だからではなく、公共性を尊ぶためにこそ、私人は公共レベルの物事にみだりに関わろうとしない。
ただそうであるだけでなく、自分が重度の犯罪被害などに遭った場合にも、その対処を公的機関に
まずは一任し、私的に仕返しをしたり争ったりすることもなるべく控えるようにする。
それでも全く公的機関が処理をしてくれず、同様の怠慢が国中や世界中で蔓延して、いよいよ革命によって
体制を刷新でもしなければならず、しかも自分が新たな体制における権力者になるしかないとしたならば、
仕方なく自分がその立場に立って、自分に危害を加えて来た相手にも対する、公的な処罰を科すことだろう。
だから結局、自分に危害を加えて来た相手とも私的に争ったりすることは、永久にないままである。
仁徳者であるなら、他人に不条理な危害を加える犯罪者などと争ったりすることも徹底的に避けて、
逆にこちらの側が一方的かつ公正な処罰を当人たちに科すことだけに専念し続けるのである。
「醜夷に在りて争わず」
「同等の立場にある者同士として争ったりはしない。
(犯罪に私的な報復を加えたりすれば、自分も犯罪者となる。同じ穴の狢としての争いは避ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
だからといって私人である仁者が、公人と全く同じような振る舞いをすべきだなんてことも全くない。
私人と公人とではあまりにも立場が違えばこそ、全く真逆の行いに務めるべきことすらザラにある。
だからこそ、誰しもが公共性を最大級に尊重しようとした場合でも、上記の孟子の言のようなあり方が妥当となる。
個人主義だからではなく、公共性を尊ぶためにこそ、私人は公共レベルの物事にみだりに関わろうとしない。
ただそうであるだけでなく、自分が重度の犯罪被害などに遭った場合にも、その対処を公的機関に
まずは一任し、私的に仕返しをしたり争ったりすることもなるべく控えるようにする。
それでも全く公的機関が処理をしてくれず、同様の怠慢が国中や世界中で蔓延して、いよいよ革命によって
体制を刷新でもしなければならず、しかも自分が新たな体制における権力者になるしかないとしたならば、
仕方なく自分がその立場に立って、自分に危害を加えて来た相手にも対する、公的な処罰を科すことだろう。
だから結局、自分に危害を加えて来た相手とも私的に争ったりすることは、永久にないままである。
仁徳者であるなら、他人に不条理な危害を加える犯罪者などと争ったりすることも徹底的に避けて、
逆にこちらの側が一方的かつ公正な処罰を当人たちに科すことだけに専念し続けるのである。
「醜夷に在りて争わず」
「同等の立場にある者同士として争ったりはしない。
(犯罪に私的な報復を加えたりすれば、自分も犯罪者となる。同じ穴の狢としての争いは避ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
歴史的人物の言行を逐一伝説化して、何気ないような振る舞いに至るまで
全て記録するような風習は、それこそ孔子や釈迦こそを実質的な原初としている。
釈迦などは、臨終時の横臥が頭北面西だったことまでもが言い継がれている。
生まれた瞬間に七歩歩いて、天地を指差して「天上天下唯我独尊」と唱えたなど、
実際にはあり得ないような逸話までもが釈迦の行業に仮託されていて、
伝説的な人物に日頃の行いから範を取ろうとしていくことはむしろ、
仏教や儒学の盛んな東洋においてこそ最大級の隆盛を果たしていたとすらいえる。
しかるに、西洋では史上最高の伝説的人物とされるイエスからして、
サイコパスの重度精神障害者だった。その言行を真似しようとすればするほど
自分たち自身まで心身を患ってしまうことになるから、正教か旧教か新教かに
関わらず、イエスの言行をそのまま真似することは程々にすべきとされた。
(今の韓国キリスト教あたりは、相当にイエスの真似を試みてもいる)
他人の言行をことさらな範にしたりしない性向が付与された結果、西洋人も
自意識過剰の思い上がりを募らせた個人主義者ばかりとなった。一方で、
イエスの言行が真似ではなく信仰の対象とはされ続けたから、信仰を通じての
内面からの精神障害の伝染はそれなりに来たしていた。そのような、イエスの言行
までは真似しなくとも、信仰を通じてイエス並みの精神障害者と化した西洋人が、
自分たちの言行をフィクションをも踏まえつつ小説化することが「文学」ともされた。
全て記録するような風習は、それこそ孔子や釈迦こそを実質的な原初としている。
釈迦などは、臨終時の横臥が頭北面西だったことまでもが言い継がれている。
生まれた瞬間に七歩歩いて、天地を指差して「天上天下唯我独尊」と唱えたなど、
実際にはあり得ないような逸話までもが釈迦の行業に仮託されていて、
伝説的な人物に日頃の行いから範を取ろうとしていくことはむしろ、
仏教や儒学の盛んな東洋においてこそ最大級の隆盛を果たしていたとすらいえる。
しかるに、西洋では史上最高の伝説的人物とされるイエスからして、
サイコパスの重度精神障害者だった。その言行を真似しようとすればするほど
自分たち自身まで心身を患ってしまうことになるから、正教か旧教か新教かに
関わらず、イエスの言行をそのまま真似することは程々にすべきとされた。
(今の韓国キリスト教あたりは、相当にイエスの真似を試みてもいる)
他人の言行をことさらな範にしたりしない性向が付与された結果、西洋人も
自意識過剰の思い上がりを募らせた個人主義者ばかりとなった。一方で、
イエスの言行が真似ではなく信仰の対象とはされ続けたから、信仰を通じての
内面からの精神障害の伝染はそれなりに来たしていた。そのような、イエスの言行
までは真似しなくとも、信仰を通じてイエス並みの精神障害者と化した西洋人が、
自分たちの言行をフィクションをも踏まえつつ小説化することが「文学」ともされた。
イエスほどものあからさまな奇行にまでは及ばずとも、イエス並みの精神障害を
患った状態で為される西洋人の言行のフィクションを踏まえた記録、当然それは
孔子や釈迦のような史実上の政賢の言行と比べて取るに足らないものである。
のみならず、紂王や蘇秦や趙高のごとき、史実に即して記録された大悪人と比べても
匿名性があるために、糾弾の的にしにくいという一層の度がたさを帯びているといえる。
孔子や釈迦だけでなく、その他の歴史上の「真の偉人」たちの言行を範としたり
することには、やはりそれなりの意義があるから、他者の言行を何もかも見習いの対象と
しないなどという所に振れきるのは決してよくない。ただ、言行を見習ったり信仰の対象と
したりするせいで、かえって何も見習わなければいいほどもの劣悪な言行規範が自らに
植え付けられてしまうような凶人なり、その文学的表現なりもまたいくらでもあるものだから、
純粋な犯罪行為の摘発や防止を目的とした、犯罪心理の参考対象とするのでもなければ、
みだりにそのような凶人の言行を真似することも、信奉したりすることもすべきでない。
西洋の文学者なんて、出版社やパトロンに商略結婚を強いられたせいで、結婚に対する
極度の嫌悪感を抱いていたりするのが常だから、その作品を参考にすればするほど
まともな恋愛や結婚から遠ざかりもする。そういう事情があるのも知らずに、「文学
だから高尚」「読んで自分のためになる」なんて思い込むのも、哀れなことだといえる。
「天と水と違い行くは訟なり。君子以って事を作すに始めを謀る」
「天と水とが食い違った状態になるのは訟(争いごとの卦)である。
君子はそのような事態を招かないために、始めからことを慎重に計画して行く。
(天啓を謳う狂人が水徳に違うことを豪語するとは、まさに争いごとの兆しである。
そのような狂人の言行を持て囃したとすれば、そのような人間全員が少なくとも君子ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・訟・象伝より)
患った状態で為される西洋人の言行のフィクションを踏まえた記録、当然それは
孔子や釈迦のような史実上の政賢の言行と比べて取るに足らないものである。
のみならず、紂王や蘇秦や趙高のごとき、史実に即して記録された大悪人と比べても
匿名性があるために、糾弾の的にしにくいという一層の度がたさを帯びているといえる。
孔子や釈迦だけでなく、その他の歴史上の「真の偉人」たちの言行を範としたり
することには、やはりそれなりの意義があるから、他者の言行を何もかも見習いの対象と
しないなどという所に振れきるのは決してよくない。ただ、言行を見習ったり信仰の対象と
したりするせいで、かえって何も見習わなければいいほどもの劣悪な言行規範が自らに
植え付けられてしまうような凶人なり、その文学的表現なりもまたいくらでもあるものだから、
純粋な犯罪行為の摘発や防止を目的とした、犯罪心理の参考対象とするのでもなければ、
みだりにそのような凶人の言行を真似することも、信奉したりすることもすべきでない。
西洋の文学者なんて、出版社やパトロンに商略結婚を強いられたせいで、結婚に対する
極度の嫌悪感を抱いていたりするのが常だから、その作品を参考にすればするほど
まともな恋愛や結婚から遠ざかりもする。そういう事情があるのも知らずに、「文学
だから高尚」「読んで自分のためになる」なんて思い込むのも、哀れなことだといえる。
「天と水と違い行くは訟なり。君子以って事を作すに始めを謀る」
「天と水とが食い違った状態になるのは訟(争いごとの卦)である。
君子はそのような事態を招かないために、始めからことを慎重に計画して行く。
(天啓を謳う狂人が水徳に違うことを豪語するとは、まさに争いごとの兆しである。
そのような狂人の言行を持て囃したとすれば、そのような人間全員が少なくとも君子ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・訟・象伝より)
そもそも、「神の計画」などはなかった。
古代ユダヤ人であれイエスであれ、その行いは「小人は険を犯して僥倖を求める(中庸・一四)」
であることで一貫していたのであり、その「僥倖」を自分たちの中で「神の計画の成就」に勝手に
すり替えて、無闇に険を犯したがる自分たちの小人さ加減から目を逸らしたがっていただけなのでもある。
形而上の超越神による計画などがなかったのみならず、古代ユダヤ人やイエスが、
「神の物語」に仮託して成就させようとしていた実際的な計画などからして、やはりなかった。
政商として国家に寄生することで法外な富をせしめるユダヤ人の行いや、冤罪事件の画策で
世の中を未曾有の争乱に陥れたイエスの行いなどは、ただ自分たちの富裕欲を満たしたかったり、
妾腹の私生児としての自らの負い目を、間違った方法によってでも晴らしたかったりといった動機によって
試みられたというばかりのものでしかない。そこに「神の物語」としての粉飾を加えて、単なる悪行として
早急に摘発される場合以上もの「存在性の延命」の余地を与えたのも、古代ユダヤ人やイエス自身に、
「人々を末永く争乱や破滅に陥れ続けたい」という、自分一身の生涯をも超えた悪意が備わっていたからだ。
それでいて、自分たちが捏造した「神の計画」がいつかは成就するかのように予言しておいてもいる。
それは、深刻な政商詐欺の被害下に置かれた国家が、いつかは財政破綻によって崩壊してしまうということを、
古代ユダヤ人もまた政商詐欺集団としての身の上から実地に経験していたからに違いなく、たとえ政商詐欺の
社会的容認や拡大を、巧妙なカルト教義によって無理に推進し続けてみたところで、所詮は害悪の塊でしかない
政商詐欺なぞを推進し続けた先にあるのが、国家レベルの破綻であるということをも潜在的に察知していたからだ。
古代ユダヤ人であれイエスであれ、その行いは「小人は険を犯して僥倖を求める(中庸・一四)」
であることで一貫していたのであり、その「僥倖」を自分たちの中で「神の計画の成就」に勝手に
すり替えて、無闇に険を犯したがる自分たちの小人さ加減から目を逸らしたがっていただけなのでもある。
形而上の超越神による計画などがなかったのみならず、古代ユダヤ人やイエスが、
「神の物語」に仮託して成就させようとしていた実際的な計画などからして、やはりなかった。
政商として国家に寄生することで法外な富をせしめるユダヤ人の行いや、冤罪事件の画策で
世の中を未曾有の争乱に陥れたイエスの行いなどは、ただ自分たちの富裕欲を満たしたかったり、
妾腹の私生児としての自らの負い目を、間違った方法によってでも晴らしたかったりといった動機によって
試みられたというばかりのものでしかない。そこに「神の物語」としての粉飾を加えて、単なる悪行として
早急に摘発される場合以上もの「存在性の延命」の余地を与えたのも、古代ユダヤ人やイエス自身に、
「人々を末永く争乱や破滅に陥れ続けたい」という、自分一身の生涯をも超えた悪意が備わっていたからだ。
それでいて、自分たちが捏造した「神の計画」がいつかは成就するかのように予言しておいてもいる。
それは、深刻な政商詐欺の被害下に置かれた国家が、いつかは財政破綻によって崩壊してしまうということを、
古代ユダヤ人もまた政商詐欺集団としての身の上から実地に経験していたからに違いなく、たとえ政商詐欺の
社会的容認や拡大を、巧妙なカルト教義によって無理に推進し続けてみたところで、所詮は害悪の塊でしかない
政商詐欺なぞを推進し続けた先にあるのが、国家レベルの破綻であるということをも潜在的に察知していたからだ。
キリスト教徒やユダヤ教徒は、当然こんなことは認めないだろうし、カルト教義の流布者としての
古代のユダヤ人やイエス自身に「実際はこうなんだろうが」と、上記のような分析を提示してみたところで、
自己と他者とを同時に偽る有能な詐欺師根性に基づいて、頑なに「そんなことはない」と否認するにも違いない。
しかし、「政商カルト詐欺の聖書」通称聖書への信仰が2000年にわたって推進され続けてきた
結果はといえば、紛れもなく上記のような分析こそが百発百中していたがためのものとなっている。
本物の神の計画があったわけでもなければ、神の計画に仮託した何らかの人為的な計画があったわけでもない。
ただ、致命的な社会破綻を来たすまでの、政商詐欺による放辟邪侈を推進していくための悪巧方便が、最終的な
社会破綻までをも「神の計画の成就」などと偽証することであったのみ。聖書信仰の「蜜月」は、あったとした
ところで「最後の審判」以前までのものであり、しかもその蜜月もまた罪業まみれであるがために、常に一定以上
の良心の呵責を孕んできた。確かに「最後の審判」以後に、その潜在的な良心の呵責が晴らされていくことにも
なり得るが、それは自分たちが政商詐欺の支援からなる蜜月を剥奪されて、人並み以上に自分たちの罪を償っていく
ようになるからなのだから、「神の計画の成就」たるや、いかにお粗末なものだったのかが知れたものだといえる。
「大いに為す有らんとするの君は、必ず召さざる所の臣有りて、謀ること有らんと欲すれば、
則ち之れに就く。其の徳を尊び道を楽しむこと是の如くならずんば、与て為す有るに足らざればなり」
「真に大業を為そうとする君には、必ず招き寄せない類いの臣下がいて、計画を企てる場合にも
自分から臣下の居場所に赴いて行った。君自身がそれほどにも徳を尊んで道を楽しむのでなければ、
本当に大いなる計画を成就させることなどはできないからだ。(イエスは神の計画を成就させるために、
自分から神のいる天国へと赴いて行った。計画主謀者である神がイエスのほうへと赴かないからには、
イエスがさほど有能な配下でないか、計画そのものがどうでもいいものだったかのいずれかだったのだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下より)
古代のユダヤ人やイエス自身に「実際はこうなんだろうが」と、上記のような分析を提示してみたところで、
自己と他者とを同時に偽る有能な詐欺師根性に基づいて、頑なに「そんなことはない」と否認するにも違いない。
しかし、「政商カルト詐欺の聖書」通称聖書への信仰が2000年にわたって推進され続けてきた
結果はといえば、紛れもなく上記のような分析こそが百発百中していたがためのものとなっている。
本物の神の計画があったわけでもなければ、神の計画に仮託した何らかの人為的な計画があったわけでもない。
ただ、致命的な社会破綻を来たすまでの、政商詐欺による放辟邪侈を推進していくための悪巧方便が、最終的な
社会破綻までをも「神の計画の成就」などと偽証することであったのみ。聖書信仰の「蜜月」は、あったとした
ところで「最後の審判」以前までのものであり、しかもその蜜月もまた罪業まみれであるがために、常に一定以上
の良心の呵責を孕んできた。確かに「最後の審判」以後に、その潜在的な良心の呵責が晴らされていくことにも
なり得るが、それは自分たちが政商詐欺の支援からなる蜜月を剥奪されて、人並み以上に自分たちの罪を償っていく
ようになるからなのだから、「神の計画の成就」たるや、いかにお粗末なものだったのかが知れたものだといえる。
「大いに為す有らんとするの君は、必ず召さざる所の臣有りて、謀ること有らんと欲すれば、
則ち之れに就く。其の徳を尊び道を楽しむこと是の如くならずんば、与て為す有るに足らざればなり」
「真に大業を為そうとする君には、必ず招き寄せない類いの臣下がいて、計画を企てる場合にも
自分から臣下の居場所に赴いて行った。君自身がそれほどにも徳を尊んで道を楽しむのでなければ、
本当に大いなる計画を成就させることなどはできないからだ。(イエスは神の計画を成就させるために、
自分から神のいる天国へと赴いて行った。計画主謀者である神がイエスのほうへと赴かないからには、
イエスがさほど有能な配下でないか、計画そのものがどうでもいいものだったかのいずれかだったのだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下より)
いくらイエスを慕ったり、十字架上のイエスを侮辱した連中を憎んだりしようとも、
それが俗悪で濁念にまみれた、当時のイスラエルやローマの世情を復元させる温床にしかならない。
たとえば、春秋時代末期から戦国時代にかけての中国(司馬遷は「秦代」と定義する)もまた、
子が親を殺し、臣下が主君を殺す最悪の争乱状態にあった。最悪の乱世は精神衛生上でも極めて有害で、
孔子や孟子のような強靭な精神力の持ち主か、さもなくば老荘列のような世間からの隠退者でもなければ
心の健全さを保てないでもいた。そのような時代性を真っ向から肯定しての、実定法支配や悪徳外交を
体系化した韓非や鬼谷の論説などを為政の参考としたなら、それによって当時の乱れた世相までもが
復元されることとなってしまう。イエス磔刑の記録などを持て囃すこともまた、それと同等の問題を
来たし得るもので、世相全体の「穢れ」を濃縮した代物であることでは、全く共通しているのである。
犯罪聖書の記録にも邪気がこもっているし、書物としての「韓非子」や「鬼谷子」の内容にも邪気が伴っている。
そのような邪気を日本人は「穢れ」として一般的に解釈し、記録や思想に限らず、精神衛生面から穢れを帯びて
しまっているような事物や人物全般を差別下に置いたりもしていた。日本人自身、穢れを「血肉」に類推するなど、
理論性を欠いた判別を拠り所にしてもいたから、今では迷信的なものとして退けられつつあるけれども、
穢れとは要するに邪気のことであり、それはたとえば、春秋戦国時代の中国や、イエス磔刑時の
イスラエルやローマに蔓延していた世相からの邪気などとも同定することができるのである。
春秋戦国時代に、主に秦人たちがもたらしていた醜悪な世相は、あまりにも度し難いことから、
中国でも漢代や唐代に排斥の対象とされ、当時の原型をとどめている系譜というのはもはや中国にもない。
日本でも、中国から渡来してきた秦人の内でも、特に穢れの甚だしい者は被差別部落の構成員となる
などの運命を辿ったが、唯一、僻地の土佐国に落ち延びた長宗我部氏だけは、古代の秦人の系譜を色濃く
残しながら、被差別部落となることまでは免れつつの延命を、幕末に至るまで辛うじて保ち続けていた。
それが俗悪で濁念にまみれた、当時のイスラエルやローマの世情を復元させる温床にしかならない。
たとえば、春秋時代末期から戦国時代にかけての中国(司馬遷は「秦代」と定義する)もまた、
子が親を殺し、臣下が主君を殺す最悪の争乱状態にあった。最悪の乱世は精神衛生上でも極めて有害で、
孔子や孟子のような強靭な精神力の持ち主か、さもなくば老荘列のような世間からの隠退者でもなければ
心の健全さを保てないでもいた。そのような時代性を真っ向から肯定しての、実定法支配や悪徳外交を
体系化した韓非や鬼谷の論説などを為政の参考としたなら、それによって当時の乱れた世相までもが
復元されることとなってしまう。イエス磔刑の記録などを持て囃すこともまた、それと同等の問題を
来たし得るもので、世相全体の「穢れ」を濃縮した代物であることでは、全く共通しているのである。
犯罪聖書の記録にも邪気がこもっているし、書物としての「韓非子」や「鬼谷子」の内容にも邪気が伴っている。
そのような邪気を日本人は「穢れ」として一般的に解釈し、記録や思想に限らず、精神衛生面から穢れを帯びて
しまっているような事物や人物全般を差別下に置いたりもしていた。日本人自身、穢れを「血肉」に類推するなど、
理論性を欠いた判別を拠り所にしてもいたから、今では迷信的なものとして退けられつつあるけれども、
穢れとは要するに邪気のことであり、それはたとえば、春秋戦国時代の中国や、イエス磔刑時の
イスラエルやローマに蔓延していた世相からの邪気などとも同定することができるのである。
春秋戦国時代に、主に秦人たちがもたらしていた醜悪な世相は、あまりにも度し難いことから、
中国でも漢代や唐代に排斥の対象とされ、当時の原型をとどめている系譜というのはもはや中国にもない。
日本でも、中国から渡来してきた秦人の内でも、特に穢れの甚だしい者は被差別部落の構成員となる
などの運命を辿ったが、唯一、僻地の土佐国に落ち延びた長宗我部氏だけは、古代の秦人の系譜を色濃く
残しながら、被差別部落となることまでは免れつつの延命を、幕末に至るまで辛うじて保ち続けていた。
その長宗我部勢が、幕末に坂本龍馬や中岡慎太郎のような悪徳外交家、岩崎弥太郎のような悪徳政商を輩出し、
半ば米英のような外圧の犬ともなりつつの、近現代の日本の国家体制の枠組みを造り上げた。始めのうちは、
その文明開化の奇抜さなどから「悪いものでもない」ような評価を受けてもいたが、段々その、内面の穢れを
物質的な虚飾で取り繕うメッキが剥がれて行き、今ではもはや日本全土が穢れまみれとなったことが如実化
してしまい、意味不明な凶悪事件や、未成年者のいじめなどの問題が多発化するようにもなってしまっている。
日本の世相腐敗の元凶は主に、この古代の秦人の系譜を受け継ぐ邪気ではあるが、だからといって日本人たちが
今の世相を許容しているというのではない。西洋文明の大々的な流入こそが、今の世相を容認せざるを得ない
主な理由だと考えられていて、西洋文明の根幹は未だキリスト教だから、結局のところ、キリスト教を容認する
ことを通じて、秦人の末裔たちがもたらしている今の腐れ切った世相をも黙認させられてしまっているのである。
秦人による支配が日本の世相腐敗の主因なら、キリスト教教義にも基づくその是認もまた腐敗の副因であり、
両者が相まって日本社会の腐敗も磐石なものとなってしまっている。両者が相まえるのも、いずれもが、
昔の日本人が「穢れ」と呼んで忌み嫌っていた所の邪気を帯びているからで、穢れというものは二重にも
三重にも折り重なることで、その甚大さを増すものであることが分かる。あまりにも甚大であるからといって、
その処理をおざなりにすることもなく、一つ一つの穢れの根源から着実に拭い去っていく努力が必要だといえる。
「夫れ人必ず自ら侮りて、然る後に人之れを侮る。
家必ず自ら毀ちて、而る後に人之れを毀つ。国必ず自ら伐ちて、而る後人之れを伐つ」
「人は必ず自らを侮ることがあってから、しかる後に人にも侮られることがある。
自分から家をダメにするようなことがあってから、人に家をだめにされるようなことがある。
自分から国を亡ぼすようなことをするから、他国に亡ぼされるようなこともある。
(これはイエス本人と、イエスを侮辱していた当時のイスラエル人やローマ人全員に言えることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
半ば米英のような外圧の犬ともなりつつの、近現代の日本の国家体制の枠組みを造り上げた。始めのうちは、
その文明開化の奇抜さなどから「悪いものでもない」ような評価を受けてもいたが、段々その、内面の穢れを
物質的な虚飾で取り繕うメッキが剥がれて行き、今ではもはや日本全土が穢れまみれとなったことが如実化
してしまい、意味不明な凶悪事件や、未成年者のいじめなどの問題が多発化するようにもなってしまっている。
日本の世相腐敗の元凶は主に、この古代の秦人の系譜を受け継ぐ邪気ではあるが、だからといって日本人たちが
今の世相を許容しているというのではない。西洋文明の大々的な流入こそが、今の世相を容認せざるを得ない
主な理由だと考えられていて、西洋文明の根幹は未だキリスト教だから、結局のところ、キリスト教を容認する
ことを通じて、秦人の末裔たちがもたらしている今の腐れ切った世相をも黙認させられてしまっているのである。
秦人による支配が日本の世相腐敗の主因なら、キリスト教教義にも基づくその是認もまた腐敗の副因であり、
両者が相まって日本社会の腐敗も磐石なものとなってしまっている。両者が相まえるのも、いずれもが、
昔の日本人が「穢れ」と呼んで忌み嫌っていた所の邪気を帯びているからで、穢れというものは二重にも
三重にも折り重なることで、その甚大さを増すものであることが分かる。あまりにも甚大であるからといって、
その処理をおざなりにすることもなく、一つ一つの穢れの根源から着実に拭い去っていく努力が必要だといえる。
「夫れ人必ず自ら侮りて、然る後に人之れを侮る。
家必ず自ら毀ちて、而る後に人之れを毀つ。国必ず自ら伐ちて、而る後人之れを伐つ」
「人は必ず自らを侮ることがあってから、しかる後に人にも侮られることがある。
自分から家をダメにするようなことがあってから、人に家をだめにされるようなことがある。
自分から国を亡ぼすようなことをするから、他国に亡ぼされるようなこともある。
(これはイエス本人と、イエスを侮辱していた当時のイスラエル人やローマ人全員に言えることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
刑事や政治も「礼楽刑政」の秩序に即して、
ただの事務処理以上にも厳粛なものとして執り行われたほうがよい。
乱世にはなかなかそういうわけにもいかないこともあるにしろ、
恒常的な為政や刑事にかけては、礼楽の潤色を加えたほうが安定することが、
周や漢や唐や平安朝などの治世の成功からも容易に察することができる。
宗教の内でも、神道や密教や道教やバラモン教などは、礼楽統治を補佐する能力を持つ。
バラモンをカーストの最高位に置いているインドが、内政にかけては万年泰平状態を
確立できているのも、バラモンが祭司として実質的な礼楽統治の指導者ともなっているからだ。
礼楽統治の補佐になるわけでもなければ、障害になるわけでもない部類の宗教として
禅仏教や浄土教があり、これらは礼楽統治の覚束ない乱世を治世へと正しかえす
消火栓としての役割に長けているし、また治世が取り戻されて後の、武家階級や庶民階級に
とっての、煩瑣な体系性を省いた簡易的な拠り所としての役割すらをも担っていけるものである。
治世における礼楽統治の補佐役になるわけでもなければ、乱世を治世に引き戻す能力を具えて
いるわけでもない、礼楽統治の覚束ない最悪の乱世こそをもたらして恒常化させようとする
類いの宗教なり、学術なりがある。宗教としてはユダヤ教やキリスト教がそれに当てはまり、
学術としては大半の洋学、中国諸子百家中の法家や縦横家などがそれに当てはまる。
イエスの冤罪磔刑劇のごとき、あられもない醜態を刑事が帯びたりするのであれば、
それにより刑政の秩序も極端に乱れ、礼楽によって統制するどころではない状態が恒常化
してしまうことにもなる。さらに、イエスを神の子(キリスト)として崇め立てて信仰の対象と
したりしたなら、絶対に礼楽統治など不能と化した乱れた為政が、完全に固着化することになる。
ただの事務処理以上にも厳粛なものとして執り行われたほうがよい。
乱世にはなかなかそういうわけにもいかないこともあるにしろ、
恒常的な為政や刑事にかけては、礼楽の潤色を加えたほうが安定することが、
周や漢や唐や平安朝などの治世の成功からも容易に察することができる。
宗教の内でも、神道や密教や道教やバラモン教などは、礼楽統治を補佐する能力を持つ。
バラモンをカーストの最高位に置いているインドが、内政にかけては万年泰平状態を
確立できているのも、バラモンが祭司として実質的な礼楽統治の指導者ともなっているからだ。
礼楽統治の補佐になるわけでもなければ、障害になるわけでもない部類の宗教として
禅仏教や浄土教があり、これらは礼楽統治の覚束ない乱世を治世へと正しかえす
消火栓としての役割に長けているし、また治世が取り戻されて後の、武家階級や庶民階級に
とっての、煩瑣な体系性を省いた簡易的な拠り所としての役割すらをも担っていけるものである。
治世における礼楽統治の補佐役になるわけでもなければ、乱世を治世に引き戻す能力を具えて
いるわけでもない、礼楽統治の覚束ない最悪の乱世こそをもたらして恒常化させようとする
類いの宗教なり、学術なりがある。宗教としてはユダヤ教やキリスト教がそれに当てはまり、
学術としては大半の洋学、中国諸子百家中の法家や縦横家などがそれに当てはまる。
イエスの冤罪磔刑劇のごとき、あられもない醜態を刑事が帯びたりするのであれば、
それにより刑政の秩序も極端に乱れ、礼楽によって統制するどころではない状態が恒常化
してしまうことにもなる。さらに、イエスを神の子(キリスト)として崇め立てて信仰の対象と
したりしたなら、絶対に礼楽統治など不能と化した乱れた為政が、完全に固着化することになる。
礼楽統治の原典中の原典である四書五経の記述と、イエキリを神格化した犯罪聖書の記述が
ことごとく相反しているのみならず、それらの実践と信仰とが決定的に相反してもいる。
四書五経を実践する以上は犯罪聖書への信仰を取りやめねばならず、犯罪聖書への
信仰に固執し続ける以上は、絶対に四書五経を実践することはできない。
ただ政治や刑事をまともなものとする、それだけのために犯罪聖書への信仰を廃絶する
というのでは正直、浅い。ただ刑政を健全化していこうとすることと、犯罪聖書を
信仰することとでは、必ずしも相反した関係になく、両者が並立してしまった結果、
また聖書信仰によって乱れた刑政がもたらされてしまうようなことにもなりかねない。
政治や刑事を礼楽によって潤色する、そこに目標を定めることで初めて、聖書信仰を
この世から否応なく廃絶して行けるようにもなり、礼楽統治との決定的な相反性に即して、
この世から完全に聖書信仰が根絶された結果、刑政の健全性もやっと安定化することになる。
刑政を極度の乱脈に陥れる邪教が、極大級の災禍をすでにもたらした後であればこそ、
礼楽によっての為政の潤色までもが、半ば義務性を帯びるようになってしまったのである。
「楚子、巣車に登りて以て晋軍を望む。子重、大宰伯州犁をして王の後に侍らしむ。王曰く、
〜幕を張れり。曰く、先君に虔卜するなり。幕を徹せり。曰く将に命を發せんとするなり」
「楚の共王が櫓付きの車に登って晋軍を遠望した。大宰相の伯州犁が子重の命で王に近侍した。
王は言った。『あそこで幕を張っているのは何だ』 伯州犁『あれは先君の霊に伺いを立てているのです』
王『あ、幕を外したぞ』 伯州犁『今から伺いによって得られた命令を下そうとしているのです』
(幕が裂けて神異に適うなんて道理はない。特に正式命令絶対のまともな軍人ならそう考える)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十六年より)
ことごとく相反しているのみならず、それらの実践と信仰とが決定的に相反してもいる。
四書五経を実践する以上は犯罪聖書への信仰を取りやめねばならず、犯罪聖書への
信仰に固執し続ける以上は、絶対に四書五経を実践することはできない。
ただ政治や刑事をまともなものとする、それだけのために犯罪聖書への信仰を廃絶する
というのでは正直、浅い。ただ刑政を健全化していこうとすることと、犯罪聖書を
信仰することとでは、必ずしも相反した関係になく、両者が並立してしまった結果、
また聖書信仰によって乱れた刑政がもたらされてしまうようなことにもなりかねない。
政治や刑事を礼楽によって潤色する、そこに目標を定めることで初めて、聖書信仰を
この世から否応なく廃絶して行けるようにもなり、礼楽統治との決定的な相反性に即して、
この世から完全に聖書信仰が根絶された結果、刑政の健全性もやっと安定化することになる。
刑政を極度の乱脈に陥れる邪教が、極大級の災禍をすでにもたらした後であればこそ、
礼楽によっての為政の潤色までもが、半ば義務性を帯びるようになってしまったのである。
「楚子、巣車に登りて以て晋軍を望む。子重、大宰伯州犁をして王の後に侍らしむ。王曰く、
〜幕を張れり。曰く、先君に虔卜するなり。幕を徹せり。曰く将に命を發せんとするなり」
「楚の共王が櫓付きの車に登って晋軍を遠望した。大宰相の伯州犁が子重の命で王に近侍した。
王は言った。『あそこで幕を張っているのは何だ』 伯州犁『あれは先君の霊に伺いを立てているのです』
王『あ、幕を外したぞ』 伯州犁『今から伺いによって得られた命令を下そうとしているのです』
(幕が裂けて神異に適うなんて道理はない。特に正式命令絶対のまともな軍人ならそう考える)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十六年より)
禅書「無門関」第二則:百丈野狐
「百丈和尚が説法していると、一人の老人が『自分は参禅に失敗して五百回
野狐としての生を送らされている修行者の化身です。どうか自分を野狐としての
生から解き放ってください』と言った。百丈和尚が『不味因果』と言うと修行者は
悟りを開いて野狐としての生を脱した。『すでに野狐としての身は裏山にあります』
という修行者の言葉通り、裏山で野狐の死体が見つかり、荼毘に付した。(略省取意)」
上記の公案など、実は老人がただの参禅者で、百丈和尚との禅問答に
臨むために、あらかじめ狐を仕留めておいて一芝居うったのだとも考えられなくはない。
禅仏教が隆盛を極めていた当時の中国でなら、それぐらいする人間もいたかもしれず、
実際芝居だったのだろうが、だからといってこの公案の有難みが揺らぐわけでもない。
新約犯罪聖書におけるイエスの復活劇なども、読み方によっては、ただマリアか誰かが
イエスの遺体を穴蔵から持ち出しただけで、復活後のイエスによる弟子たちに対する
説法なども、単なる弟子たちの脳内妄想でしかなかったと考えられなくはない。しかし、
そんなことを信仰者である以上は疑ってはならないし、もしもそういう風に考えて
しまったならば、新約の記述などには何の有難みもないことになってしまうのである。
釈迦の説法も方便ばかりなら、それに後続する仏者たちの言説も方便だらけ。
それでいて、それらの方便がウソや芝居を踏まえていることが知れたところで、
だからといってその有難味に亀裂が生じるようなことも一切ない。それは、仏者の
根本的な発言姿勢からして、諸法実相のことわりをかたくわきまえたものであり、
形而上の超越神による世界の創造みたいな、全くの嘘偽りを教義の根幹に据えるような
過ちを徹底して排したものであるからで、発言以前、行動以前に仏者が本来在住して
いる「道」というものからして、常人やカルト教徒とは段違いなものなのである。
「百丈和尚が説法していると、一人の老人が『自分は参禅に失敗して五百回
野狐としての生を送らされている修行者の化身です。どうか自分を野狐としての
生から解き放ってください』と言った。百丈和尚が『不味因果』と言うと修行者は
悟りを開いて野狐としての生を脱した。『すでに野狐としての身は裏山にあります』
という修行者の言葉通り、裏山で野狐の死体が見つかり、荼毘に付した。(略省取意)」
上記の公案など、実は老人がただの参禅者で、百丈和尚との禅問答に
臨むために、あらかじめ狐を仕留めておいて一芝居うったのだとも考えられなくはない。
禅仏教が隆盛を極めていた当時の中国でなら、それぐらいする人間もいたかもしれず、
実際芝居だったのだろうが、だからといってこの公案の有難みが揺らぐわけでもない。
新約犯罪聖書におけるイエスの復活劇なども、読み方によっては、ただマリアか誰かが
イエスの遺体を穴蔵から持ち出しただけで、復活後のイエスによる弟子たちに対する
説法なども、単なる弟子たちの脳内妄想でしかなかったと考えられなくはない。しかし、
そんなことを信仰者である以上は疑ってはならないし、もしもそういう風に考えて
しまったならば、新約の記述などには何の有難みもないことになってしまうのである。
釈迦の説法も方便ばかりなら、それに後続する仏者たちの言説も方便だらけ。
それでいて、それらの方便がウソや芝居を踏まえていることが知れたところで、
だからといってその有難味に亀裂が生じるようなことも一切ない。それは、仏者の
根本的な発言姿勢からして、諸法実相のことわりをかたくわきまえたものであり、
形而上の超越神による世界の創造みたいな、全くの嘘偽りを教義の根幹に据えるような
過ちを徹底して排したものであるからで、発言以前、行動以前に仏者が本来在住して
いる「道」というものからして、常人やカルト教徒とは段違いなものなのである。
それ程にも拠って立つ境地が高尚であればこそ、巧みな方便までをも尽くしての説法
までもが許されるというもので、常人以下の品性しか持たないカルト教祖やカルト信者は
もちろんのこと、ごく一般的な常人ですら、方便的な比喩表現を濫用したりすべきではない。
字面通りとはまた別の意味があったり、大した意味もないことを大げさに述べ立てたり
といった寓意的表現は、精進を積んだ仏者の境地などからすれば善用も可能とした所で、
常人やそれ以下の境地においては、ほぼ悪用のためにしか用いられない。本格的な
仏門が軒並み絶やされた状態にある、今の日本で流通している寓意的表現なども、
十中八九、愚民化のためのメディア洗脳のような悪質な目的しか備わっていない。
悪巧方便まみれな今の世の中で、善巧方便こそを駆使した仏説を急激に取り入れてみても、
悪巧方便とくそみそに扱われて、かえってその貫目を下げるようなことにすらなりかねない。
だから、これからの世の中を改善していく指針としては、やはり方便的な表現を極力省いた
儒説などをまずは根幹に据えるべきで、仏門の興隆は「次の次」ぐらいに考えておくべき
だといえる。これも、方便が悪用のために駆使されている現状に即した便宜なのである。
「我が心は石に匪ずんば、転ばす可からざるなり。
我が心は席に匪ずんぱ、巻き込む可からざるなり。威儀は棣棣として、選るべからざるなり」
「我が心はそこいらの石っころでもないのだから、転ばせたりすることもできはしない。
我が心はむしろでもないのだないのだから、巻き込んだりすることもできはしない。
この意義深さまでは、決して譲れはしない。(むしろで巻かれて、墓穴の前に石っころを
転がされた刑死者の遺体が紛失したからといって、そこに心もなければ威儀深さもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・柏舟より)
までもが許されるというもので、常人以下の品性しか持たないカルト教祖やカルト信者は
もちろんのこと、ごく一般的な常人ですら、方便的な比喩表現を濫用したりすべきではない。
字面通りとはまた別の意味があったり、大した意味もないことを大げさに述べ立てたり
といった寓意的表現は、精進を積んだ仏者の境地などからすれば善用も可能とした所で、
常人やそれ以下の境地においては、ほぼ悪用のためにしか用いられない。本格的な
仏門が軒並み絶やされた状態にある、今の日本で流通している寓意的表現なども、
十中八九、愚民化のためのメディア洗脳のような悪質な目的しか備わっていない。
悪巧方便まみれな今の世の中で、善巧方便こそを駆使した仏説を急激に取り入れてみても、
悪巧方便とくそみそに扱われて、かえってその貫目を下げるようなことにすらなりかねない。
だから、これからの世の中を改善していく指針としては、やはり方便的な表現を極力省いた
儒説などをまずは根幹に据えるべきで、仏門の興隆は「次の次」ぐらいに考えておくべき
だといえる。これも、方便が悪用のために駆使されている現状に即した便宜なのである。
「我が心は石に匪ずんば、転ばす可からざるなり。
我が心は席に匪ずんぱ、巻き込む可からざるなり。威儀は棣棣として、選るべからざるなり」
「我が心はそこいらの石っころでもないのだから、転ばせたりすることもできはしない。
我が心はむしろでもないのだないのだから、巻き込んだりすることもできはしない。
この意義深さまでは、決して譲れはしない。(むしろで巻かれて、墓穴の前に石っころを
転がされた刑死者の遺体が紛失したからといって、そこに心もなければ威儀深さもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・柏舟より)
働け、地蔵
自分たちの最たる拠り所である新旧約聖書からして、芝居や妄想の塊でしかない。
だから聖書信者は「人生は芝居だ」という風にも潜在的に考えて、
芝居としての趣向を凝らしたような生き方を目指そうとしてしまう。
匹夫匹婦であるのなら、それでも構わない場合もあるが、
多くの衆生の命運を一手に引き受けるような君子階級の人間が
そのようであるのなら、舞台上と舞台裏を使い分ける姑息さが結局は、
より多くの負担を民に強いるような結果ともなってしまう。
一般に、芝居の得意な者は着実に生きることが苦手だし、逆に着実に生きることに
専念している者は、芝居を演じるようなことを「恥ずかしい」と感じるものである。
大国の社稷宗廟の壇上では盛大に振る舞えた所で、ほんの数人の観衆の前で
芝居がかった行いをさせられることすらをも恥ずかしがるようなこともあるわけで、
着実に生きることの誠実さと、あえて芝居を踏まえようとする浮つきとには、
排他関係が備わっているとすらいえるのである。
芝居ばかりを人生の全てだなどと考えて来た人間が、いざ実地に根ざした振る舞いを
させられるとしても、これまた小っ恥ずかしいものがあるだろうとうかがえる。
社交上やメディア上での振る舞いを、立派な修辞で塗り固めてきた人間ほど、
それを取り払ってまで真剣に生きさせられることが億劫に感じられるものだ。
だから聖書信者は「人生は芝居だ」という風にも潜在的に考えて、
芝居としての趣向を凝らしたような生き方を目指そうとしてしまう。
匹夫匹婦であるのなら、それでも構わない場合もあるが、
多くの衆生の命運を一手に引き受けるような君子階級の人間が
そのようであるのなら、舞台上と舞台裏を使い分ける姑息さが結局は、
より多くの負担を民に強いるような結果ともなってしまう。
一般に、芝居の得意な者は着実に生きることが苦手だし、逆に着実に生きることに
専念している者は、芝居を演じるようなことを「恥ずかしい」と感じるものである。
大国の社稷宗廟の壇上では盛大に振る舞えた所で、ほんの数人の観衆の前で
芝居がかった行いをさせられることすらをも恥ずかしがるようなこともあるわけで、
着実に生きることの誠実さと、あえて芝居を踏まえようとする浮つきとには、
排他関係が備わっているとすらいえるのである。
芝居ばかりを人生の全てだなどと考えて来た人間が、いざ実地に根ざした振る舞いを
させられるとしても、これまた小っ恥ずかしいものがあるだろうとうかがえる。
社交上やメディア上での振る舞いを、立派な修辞で塗り固めてきた人間ほど、
それを取り払ってまで真剣に生きさせられることが億劫に感じられるものだ。
体裁にばかりこだわり過ぎてきたから、いざ実質を直視させられるとなれば、
辛くて辛くて仕方がない。そういう人間が、特に大国の命運を左右するほどもの
場で立ち回るというのも危険極まりないので、やはり引退を勧める他はないといえる。
むしろ、体裁の修辞など苦手だった者のうちで、特に志しあるような者こそが、
体裁の取り繕いばかりに固執しすぎて瓦解してしまった後の旧聖書圏における、
諸国内での後始末役となったりするのにもふさわしいだろう。
修辞にばかりこだわり過ぎて、実質的なことに携われなくなった連中も、
ただ泣き寝入りするんじゃなくて、ピエロ的な存在として場を沸かせるぐらいの
仕事はできなくもないから、それは目指してもいいだろう。もう修辞をカッコ付けの
ために用いたりはせずに、純粋な笑いや楽しみのために用いる。そのためには当然、
芝居がかった修辞に神性を付与するような風潮も絶やしていかねばならない。
芝居でない、実地に根ざした言行の潤色こそは礼儀作法なのであり、
芝居がかった礼儀ほど、礼儀としては贋物としての様相を帯びてしまう。
そういう礼儀作法の特色をわきまえて、もっぱら礼節の修練に務めるものと、
礼制に縛られて堅苦しくなった世の中を罪の無い程度の道化的な芸能によって
楽しませてリラックスさせるものとの両方があったほうが、「礼楽統治」の名にも適う。
本来、四書五経は四書六経だったのであり、六経のうちに含まれていた「楽経」が
すでに絶えて現存していない。楽経の律をありのままに復興して今の世のにあてがうのも
無理があるんで、そこを新たに工夫して創造していくことにも、それなりの意義が
備わるといえる。儒学の実践も、復古主義ばかりでは最善が尽くされもしないのである。
辛くて辛くて仕方がない。そういう人間が、特に大国の命運を左右するほどもの
場で立ち回るというのも危険極まりないので、やはり引退を勧める他はないといえる。
むしろ、体裁の修辞など苦手だった者のうちで、特に志しあるような者こそが、
体裁の取り繕いばかりに固執しすぎて瓦解してしまった後の旧聖書圏における、
諸国内での後始末役となったりするのにもふさわしいだろう。
修辞にばかりこだわり過ぎて、実質的なことに携われなくなった連中も、
ただ泣き寝入りするんじゃなくて、ピエロ的な存在として場を沸かせるぐらいの
仕事はできなくもないから、それは目指してもいいだろう。もう修辞をカッコ付けの
ために用いたりはせずに、純粋な笑いや楽しみのために用いる。そのためには当然、
芝居がかった修辞に神性を付与するような風潮も絶やしていかねばならない。
芝居でない、実地に根ざした言行の潤色こそは礼儀作法なのであり、
芝居がかった礼儀ほど、礼儀としては贋物としての様相を帯びてしまう。
そういう礼儀作法の特色をわきまえて、もっぱら礼節の修練に務めるものと、
礼制に縛られて堅苦しくなった世の中を罪の無い程度の道化的な芸能によって
楽しませてリラックスさせるものとの両方があったほうが、「礼楽統治」の名にも適う。
本来、四書五経は四書六経だったのであり、六経のうちに含まれていた「楽経」が
すでに絶えて現存していない。楽経の律をありのままに復興して今の世のにあてがうのも
無理があるんで、そこを新たに工夫して創造していくことにも、それなりの意義が
備わるといえる。儒学の実践も、復古主義ばかりでは最善が尽くされもしないのである。
今日の引用は有名な「苛政は虎よりも猛なり」の典拠。
ちょっと長いが、よく読みさえすれば、この話に出てくる嬪婦と比べれば、いかにマリアが
貞順でもなければ、世のことわりをろくにわきまえられてもいない匹婦だったのかが分かる。
しかもそれは、イエスが復活したか否かに関わらずの、普遍的な巧拙の差異ともなっている。
「孔子泰山の側を過ぐ。婦人の墓に哭する者有りて哀し。夫子して之れを聴き、子貢を使いして之れに問わしむ。曰く、
子の哭するや、壹に重ねて憂い有る者に似たりと。而ち曰く、然り。昔者吾が舅虎に死し、吾が夫も又た死し、今吾が子も
又た死せりと。夫子曰く、何為れぞ去らざるや。曰く、苛政無ければなり。夫子曰く、小子之れを識せ、苛政は虎よりも猛なりと」
「孔子が泰山の麓を通り過ぎるとき、一人の婦人が墓の前でひどく号泣しているのを見て不憫な気持ちになった。孔子は弟子の
子貢を使わせて質問させた。『あなたの泣く様は尋常なものではありません。何か多難でもあったのでしょうか』 婦人は答えた。
『はい、私の舅はこの地で虎に襲われて死に、夫もまた死に、いままた我が子までもが虎に襲われて死んだのです』 孔子が問うた。
『そこまで多重の災難に遭われながら、なぜこの地を去らないのですか』 婦人。『ここでは苛政が敷かれるようなことが
ないからです』 孔子はこれを聞いて弟子に言った。『記録しておきなさい。苛政の危害は虎の危害よりも甚だしいものだと』
(マリアはおそらく哀しみのあまり幻覚を見て、イエスが復活したかのような妖言を触れ回ってしまったのだろうが、それによって
現聖書圏にもたらされた苛政の甚だしさは、貞順な婦人が舅と夫と我が子とを虎に殺されて二度と生き返らない以上のものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
ちょっと長いが、よく読みさえすれば、この話に出てくる嬪婦と比べれば、いかにマリアが
貞順でもなければ、世のことわりをろくにわきまえられてもいない匹婦だったのかが分かる。
しかもそれは、イエスが復活したか否かに関わらずの、普遍的な巧拙の差異ともなっている。
「孔子泰山の側を過ぐ。婦人の墓に哭する者有りて哀し。夫子して之れを聴き、子貢を使いして之れに問わしむ。曰く、
子の哭するや、壹に重ねて憂い有る者に似たりと。而ち曰く、然り。昔者吾が舅虎に死し、吾が夫も又た死し、今吾が子も
又た死せりと。夫子曰く、何為れぞ去らざるや。曰く、苛政無ければなり。夫子曰く、小子之れを識せ、苛政は虎よりも猛なりと」
「孔子が泰山の麓を通り過ぎるとき、一人の婦人が墓の前でひどく号泣しているのを見て不憫な気持ちになった。孔子は弟子の
子貢を使わせて質問させた。『あなたの泣く様は尋常なものではありません。何か多難でもあったのでしょうか』 婦人は答えた。
『はい、私の舅はこの地で虎に襲われて死に、夫もまた死に、いままた我が子までもが虎に襲われて死んだのです』 孔子が問うた。
『そこまで多重の災難に遭われながら、なぜこの地を去らないのですか』 婦人。『ここでは苛政が敷かれるようなことが
ないからです』 孔子はこれを聞いて弟子に言った。『記録しておきなさい。苛政の危害は虎の危害よりも甚だしいものだと』
(マリアはおそらく哀しみのあまり幻覚を見て、イエスが復活したかのような妖言を触れ回ってしまったのだろうが、それによって
現聖書圏にもたらされた苛政の甚だしさは、貞順な婦人が舅と夫と我が子とを虎に殺されて二度と生き返らない以上のものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
四書五経中では、主に孔子や曾子が、よく孝養を尽くして
親の事業を忠実に受け継ぎ、親のやり方を最低でも三年は
改めないでおくことなどを理想として掲げていたりするけども、
親が重大犯罪者やカルト信者だったりする場合にまで、これらの言説を
そのまま守っていくのもどうかと思われる。孝行が経書にあるような通りに
実践されてしかるべきなのも、「人中の人」たる君子階級の人間でこそあり、
犯罪者やカルト信者はおろか、単なる民間人の子供ですら、儒説のままの
孝行を心がけたりしたなら、色々と齟齬を来すことになりかねない。
そもそも、人類発祥の地であるアフリカから日出ずる東方へのグレート・ジャーニーを試み、
大陸の極東付近に安住したのが中国人や日本人であるわけで、その先祖代々の実績があればこそ、
孝行をも当たり前のこととして重んじているというのもある。人類発祥地のアフリカからさらに
日没する西方や日陰る北方へと、「暗闇への逃避」を先祖代々続けてきた欧米人などからすれば、
潜在面からの親や先祖への尊敬意識が低いということもあり得るわけで、だからこそ、
親子兄弟の殺し合いすらをも促す邪教などを好き好んで信仰できたのだともいえる。
そういった先天的な要素に即して、善行を為しやすかったり為しにくかったり、
悪行を為しやすかったり為しにくかったりすることも確かにあるが、決して「絶対」ではない。
偉人の親から小人の子が、小人の親から偉人の子が生まれるということもあるし、
仮に「蛙の子は蛙」だったとした所で、やはり相応の系譜の改善に勤めていくことができる。
理想的な家系に生まれた子供が、親の事業を忠実に受け継いでいく上でも、孝行の際に
親への絶対服従を固持したりするのではなく、親が過ちを犯した場合には諫言も辞さないぐらいの
自主性を持つべきだと「礼記」などにも記されているわけで、結局、先天的にであれ後天的にであれ、
自分が善行を為す上での肝心要となるのが、自らの自主性であることには変わりない。
親の事業を忠実に受け継ぎ、親のやり方を最低でも三年は
改めないでおくことなどを理想として掲げていたりするけども、
親が重大犯罪者やカルト信者だったりする場合にまで、これらの言説を
そのまま守っていくのもどうかと思われる。孝行が経書にあるような通りに
実践されてしかるべきなのも、「人中の人」たる君子階級の人間でこそあり、
犯罪者やカルト信者はおろか、単なる民間人の子供ですら、儒説のままの
孝行を心がけたりしたなら、色々と齟齬を来すことになりかねない。
そもそも、人類発祥の地であるアフリカから日出ずる東方へのグレート・ジャーニーを試み、
大陸の極東付近に安住したのが中国人や日本人であるわけで、その先祖代々の実績があればこそ、
孝行をも当たり前のこととして重んじているというのもある。人類発祥地のアフリカからさらに
日没する西方や日陰る北方へと、「暗闇への逃避」を先祖代々続けてきた欧米人などからすれば、
潜在面からの親や先祖への尊敬意識が低いということもあり得るわけで、だからこそ、
親子兄弟の殺し合いすらをも促す邪教などを好き好んで信仰できたのだともいえる。
そういった先天的な要素に即して、善行を為しやすかったり為しにくかったり、
悪行を為しやすかったり為しにくかったりすることも確かにあるが、決して「絶対」ではない。
偉人の親から小人の子が、小人の親から偉人の子が生まれるということもあるし、
仮に「蛙の子は蛙」だったとした所で、やはり相応の系譜の改善に勤めていくことができる。
理想的な家系に生まれた子供が、親の事業を忠実に受け継いでいく上でも、孝行の際に
親への絶対服従を固持したりするのではなく、親が過ちを犯した場合には諫言も辞さないぐらいの
自主性を持つべきだと「礼記」などにも記されているわけで、結局、先天的にであれ後天的にであれ、
自分が善行を為す上での肝心要となるのが、自らの自主性であることには変わりない。
自主性を排除して、全くの服従によってことを為したりする所にこそ、悪行がある。
服従的であれば絶対に悪行に結び付くわけでもないが、ある程度以上に劣悪な悪行は
ほぼ必ず卑屈な服従意識と共にある。自らの狂気によって近隣の児童を殺傷した神戸の少年Aも、
己れの狂気を「バモイドオキ神」などという架空神に仮託しての凶行に及んでいたわけで、
ある程度以上に非常識な凶行に走る人間というのは、必ずといっていいほど
そういった倒錯的な服従意識を原動力としているものなのである。
必ずしもではないが、自主性のほうが善行に結び付きやすく、服従性のほうが悪行に結び付きやすい。
特に、何物にも優先して自主性があることが善行に結び付きやすく、逆に何物にも優先して服従性が
あることが悪行に結び付きやすい。自主性によって拠り所を選んだり、服従的である中で自主的な
行いを為したりすることもあるが、何よりもまず優先すべきなのは、自主性のほうだといえる。
犯罪聖書の神への服従を捨てて、他の服従対象を探したりするのではなく、まず服従ありきなものの
考え方から卒業して、常にまず自主性がある生き方というものを、目指していくべきなのだといえる。
「先王の礼楽を制するや、〜将に以って民に好悪を平らかにすることを教え、人道の正しきに反らしんめんとすればなり」
「昔の聖王が礼楽による統制を実施したのは、それによって民たちに好悪の情を平らかにすることを教えて、
正しい人道に引き戻してやろうとしたからだ。(情念の汚濁を鎮めて自分たちの自性に返らせた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
服従的であれば絶対に悪行に結び付くわけでもないが、ある程度以上に劣悪な悪行は
ほぼ必ず卑屈な服従意識と共にある。自らの狂気によって近隣の児童を殺傷した神戸の少年Aも、
己れの狂気を「バモイドオキ神」などという架空神に仮託しての凶行に及んでいたわけで、
ある程度以上に非常識な凶行に走る人間というのは、必ずといっていいほど
そういった倒錯的な服従意識を原動力としているものなのである。
必ずしもではないが、自主性のほうが善行に結び付きやすく、服従性のほうが悪行に結び付きやすい。
特に、何物にも優先して自主性があることが善行に結び付きやすく、逆に何物にも優先して服従性が
あることが悪行に結び付きやすい。自主性によって拠り所を選んだり、服従的である中で自主的な
行いを為したりすることもあるが、何よりもまず優先すべきなのは、自主性のほうだといえる。
犯罪聖書の神への服従を捨てて、他の服従対象を探したりするのではなく、まず服従ありきなものの
考え方から卒業して、常にまず自主性がある生き方というものを、目指していくべきなのだといえる。
「先王の礼楽を制するや、〜将に以って民に好悪を平らかにすることを教え、人道の正しきに反らしんめんとすればなり」
「昔の聖王が礼楽による統制を実施したのは、それによって民たちに好悪の情を平らかにすることを教えて、
正しい人道に引き戻してやろうとしたからだ。(情念の汚濁を鎮めて自分たちの自性に返らせた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
イエスがイスラエルでの妄言妄動に及んでいた頃、すでに中国では漢帝国による
潤沢な礼楽統治が敷かれ、インドでも仏教振興による文化的な隆盛を迎えていた。
漢帝国が2100年前にはすでに、ペルシャやアレクサンドリアなどの国の存在も察知し、
それなりに使節をも向かわせていたことが「史記」などにも記録されている。さすれば、
2000年前に東方社会の隆盛がイスラエルやローマにまで聞き知られていなかったと、完全に
断定することもできない。とはいえ、当時の西方社会の人間の国際レベルでの社交性などは
知れたもので、古代のギリシャ人もシリア以東を「アジア」の一言で片付けるほどもの無知さ加減
だったわけだから、まあ、総体的にはまだまだ世間知らずの田舎者だったろうことが察せられる。
イエスもそのような、極西の部落社会の世間知らずな田舎者の一人だったに違いなく、
世界中を自らの教説によって征服する野望を抱いてみたところで、所詮はローマやその外縁を
征服するぐらいの視野でしかなかったはずである。それだけでイエスの抱いていたような
野望は満たされたことになるわけだが、哀しいかな、井の中の蛙であるイスラエルの部落民が
「全世界」と考えていたような世界なんてのは、本当の全世界のうちではごく一部の
部落社会でしかなかった。だから結局、キリスト教というものが全世界における多数派に
なるようなことは叶わず、大航海時代以降の暴力的な征服によっても、文化面から
キリスト教こそを世界の多数派が支持するものとさせることはついぞ叶わなかった。
存在性の根本からして、キリスト教やユダヤ教はその程度のものでしかあり得ない。
全世界を暴力によって「制覇」するぐらいのことはできた所で、完全な統治下に置いて
自分たちのものとするようなビジョンは始めから存在していない。だから、かつての
モンゴル帝国のように、世界中を暴力で荒らし回った挙句に自滅してしまうのが関の山で、
その先に何ら栄光や名誉などが待ち受けているわけでもないこともまた、原理的なことである。
その程度のものであることで、キリスト教やユダヤ教は始めから完全に満足しきっているのだから。
潤沢な礼楽統治が敷かれ、インドでも仏教振興による文化的な隆盛を迎えていた。
漢帝国が2100年前にはすでに、ペルシャやアレクサンドリアなどの国の存在も察知し、
それなりに使節をも向かわせていたことが「史記」などにも記録されている。さすれば、
2000年前に東方社会の隆盛がイスラエルやローマにまで聞き知られていなかったと、完全に
断定することもできない。とはいえ、当時の西方社会の人間の国際レベルでの社交性などは
知れたもので、古代のギリシャ人もシリア以東を「アジア」の一言で片付けるほどもの無知さ加減
だったわけだから、まあ、総体的にはまだまだ世間知らずの田舎者だったろうことが察せられる。
イエスもそのような、極西の部落社会の世間知らずな田舎者の一人だったに違いなく、
世界中を自らの教説によって征服する野望を抱いてみたところで、所詮はローマやその外縁を
征服するぐらいの視野でしかなかったはずである。それだけでイエスの抱いていたような
野望は満たされたことになるわけだが、哀しいかな、井の中の蛙であるイスラエルの部落民が
「全世界」と考えていたような世界なんてのは、本当の全世界のうちではごく一部の
部落社会でしかなかった。だから結局、キリスト教というものが全世界における多数派に
なるようなことは叶わず、大航海時代以降の暴力的な征服によっても、文化面から
キリスト教こそを世界の多数派が支持するものとさせることはついぞ叶わなかった。
存在性の根本からして、キリスト教やユダヤ教はその程度のものでしかあり得ない。
全世界を暴力によって「制覇」するぐらいのことはできた所で、完全な統治下に置いて
自分たちのものとするようなビジョンは始めから存在していない。だから、かつての
モンゴル帝国のように、世界中を暴力で荒らし回った挙句に自滅してしまうのが関の山で、
その先に何ら栄光や名誉などが待ち受けているわけでもないこともまた、原理的なことである。
その程度のものであることで、キリスト教やユダヤ教は始めから完全に満足しきっているのだから。
イエスが全世界とみなしていたごく一部の部落社会などではなく、本物の全世界においては、
キリスト教によって信じるものが救われ、信じぬものが救われないなどという道理が通らない。
全国全土がキリスト教に支配されたローマ国内において、信仰を拒むものが虐殺されたり
したとしても、全世界でその身勝手さが通用するようなことはあり得ず、無理に通用させよう
として大量破壊兵器による異教徒の殲滅などを試みたなら、自分たちまでもがその煽りを
受けての滅亡がまぬがれ得ない。自分たちよりも異教徒のほうが遥かに多数派なのだから、
異教徒全員を殲滅しようなどと試みたところで、自分たちのほうが先に絶滅して、
異教徒のほうが部分的に生き延びたりする可能性のほうがまだ高い。
キリスト教で、全世界が征服できると思ったことからして、すでに勘違いだった。
教祖イエスの「この教説なら世界が征服できる」という見込みも全くの当て外れなら、
それを信じて、イエスの教説に即した世界征服を試みたキリシタンの見込みもまた全くの当て外れ。
邪教というものは、勘違いや当て外れによってこそ生ずる。その間違いを無理に押し通そうとした
結果、世界中に災禍を振りまき、何らの偉大な成果も挙げられない。それが邪教の全てなのである。
「徳の流行は、置郵して命を伝うるよりも速やかなり」
「徳が世界に流行していく速度は、どんなに便利な手段によって命を宣べ伝えるよりも速い。
(徳が広がっていくときにはそれ程にも速やかなのだから、徳を宣教する必要などはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)
キリスト教によって信じるものが救われ、信じぬものが救われないなどという道理が通らない。
全国全土がキリスト教に支配されたローマ国内において、信仰を拒むものが虐殺されたり
したとしても、全世界でその身勝手さが通用するようなことはあり得ず、無理に通用させよう
として大量破壊兵器による異教徒の殲滅などを試みたなら、自分たちまでもがその煽りを
受けての滅亡がまぬがれ得ない。自分たちよりも異教徒のほうが遥かに多数派なのだから、
異教徒全員を殲滅しようなどと試みたところで、自分たちのほうが先に絶滅して、
異教徒のほうが部分的に生き延びたりする可能性のほうがまだ高い。
キリスト教で、全世界が征服できると思ったことからして、すでに勘違いだった。
教祖イエスの「この教説なら世界が征服できる」という見込みも全くの当て外れなら、
それを信じて、イエスの教説に即した世界征服を試みたキリシタンの見込みもまた全くの当て外れ。
邪教というものは、勘違いや当て外れによってこそ生ずる。その間違いを無理に押し通そうとした
結果、世界中に災禍を振りまき、何らの偉大な成果も挙げられない。それが邪教の全てなのである。
「徳の流行は、置郵して命を伝うるよりも速やかなり」
「徳が世界に流行していく速度は、どんなに便利な手段によって命を宣べ伝えるよりも速い。
(徳が広がっていくときにはそれ程にも速やかなのだから、徳を宣教する必要などはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)
古今東西を問わず、道理や真理は普遍的なもので、本来わざわざ文面におこすまでもない。
それでもあえてそれを文面におこしたなら、それは、四書五経や仏典のようになる。
文面におこそうと思えばおこせるのは、道理や真理にも少なからず「一概」な側面があるからで、
一概さが備わっているからには、その一概さを反転させることができる。たとえば、
道理でも真理でも是とされる理念に「中正(中庸、中道)」があるが、中正の反対には
両極端がある。中正に対して一概であることが理に適うのとは反対に、両極端であることに
対して一概であることが理に反することともなる。そうして道理や真理に反する「悪」が生ずる。
悪は正理の反対を行っているわけだから、意外と正理にも似ていたりする。
天使と悪魔みたいな、聖書圏における正義と悪のパブリックイメージは全くの虚構であり、
本物の道理や真理を基準とするなら、儒学や仏教こそは正義である一方、聖書信仰はそれ自体が
丸ごと悪の塊である。カトリックや正教も含む聖書信仰全体が悪そのものであるとしたならば、
いま人々が考えているような悪のパブリックイメージからはいささかかけ離れていて、それらが悪で
ある一方、儒学や仏教のほうが正義であるという断定には、なかなか納得がいきにくいものと思われる。
聖書信仰全体の中には、それなりに良さげなことも掲げられている。
モーセの十戒のうちにも、父母への尊崇や強盗殺人の禁止などのまともな戒律が一応は含まれているし、
人々に平和をもたらす、繁栄をもたらすといった、本物の正義においても最終目的とされるような
預言までもが存在していたりする。それでいてやはり聖書信仰が丸ごと悪であるのは、それらの
よさげな教義が所詮は虚飾の綺麗事止まりで、その具体的な実践手段にも乏しく、結局全体としての
教義の信仰や実践を心がけた以上は、破滅や滅亡こそが呼び込まれるものでしかないからだ。
聖書教義中の美辞麗句なども、そのような災禍を知らず知らずの内に呼び込ませる偽証としての
役割しか果たしていない。偽証も偽証で悪質なものであり、聖書教義の劣悪さを取り繕うどころか、
その編纂姿勢からの卑劣さを加味しての、より一層の粗悪さを裏付けるものともなっている。
それでもあえてそれを文面におこしたなら、それは、四書五経や仏典のようになる。
文面におこそうと思えばおこせるのは、道理や真理にも少なからず「一概」な側面があるからで、
一概さが備わっているからには、その一概さを反転させることができる。たとえば、
道理でも真理でも是とされる理念に「中正(中庸、中道)」があるが、中正の反対には
両極端がある。中正に対して一概であることが理に適うのとは反対に、両極端であることに
対して一概であることが理に反することともなる。そうして道理や真理に反する「悪」が生ずる。
悪は正理の反対を行っているわけだから、意外と正理にも似ていたりする。
天使と悪魔みたいな、聖書圏における正義と悪のパブリックイメージは全くの虚構であり、
本物の道理や真理を基準とするなら、儒学や仏教こそは正義である一方、聖書信仰はそれ自体が
丸ごと悪の塊である。カトリックや正教も含む聖書信仰全体が悪そのものであるとしたならば、
いま人々が考えているような悪のパブリックイメージからはいささかかけ離れていて、それらが悪で
ある一方、儒学や仏教のほうが正義であるという断定には、なかなか納得がいきにくいものと思われる。
聖書信仰全体の中には、それなりに良さげなことも掲げられている。
モーセの十戒のうちにも、父母への尊崇や強盗殺人の禁止などのまともな戒律が一応は含まれているし、
人々に平和をもたらす、繁栄をもたらすといった、本物の正義においても最終目的とされるような
預言までもが存在していたりする。それでいてやはり聖書信仰が丸ごと悪であるのは、それらの
よさげな教義が所詮は虚飾の綺麗事止まりで、その具体的な実践手段にも乏しく、結局全体としての
教義の信仰や実践を心がけた以上は、破滅や滅亡こそが呼び込まれるものでしかないからだ。
聖書教義中の美辞麗句なども、そのような災禍を知らず知らずの内に呼び込ませる偽証としての
役割しか果たしていない。偽証も偽証で悪質なものであり、聖書教義の劣悪さを取り繕うどころか、
その編纂姿勢からの卑劣さを加味しての、より一層の粗悪さを裏付けるものともなっている。
聖書信仰は、本物の善悪正邪を覆い隠す。そうして人々に悪逆非道を推進させるから、
誰も悪を悪とわきまえながら悪を為すようなことからしてない。だから悪ではないのではなく、
だからこそ真性の悪である。悪を悪だとわきまえながら悪を為すなんてことは人間には
不可能で、未だそのわきまえが疎かである限りにおいて悪行もまた推進されるものなのだから。
聖書信仰が未だ黙認されている現状の世界において、本物の正邪善悪は誰にもわきまえられていない。
正義も悪もいくらでも唱えられているというのに、誰一人として正義や悪の正体を見据えられてはいない。
だからまず、「誰も本物の正邪善悪を知らない」という前提に立ち返った上で、正しい善悪のわきまえを
養っていくべきだといえる。まず善悪を論ずるのではなく、未だ誰も善悪などわきまえられていないことを
思い知ることからやり直す。聖書信仰がもたらした史上最悪の災禍からの脱却も、そこからのみ可能となる。
「夫れ天は、未だ天下を平治するを欲せざるなり。如し天下を平治するを
欲すれば、今の世に当たりて我れを舍きて其れ誰ぞや。吾れ何為れぞ不予ならんや」
「天は未だにこの天下を平安に統治することを望んでおられない。もしも天下を平安に統治することを
望まれたなら、今の世で自分をおいて他に適任な補佐者がいるだろうか。どうしてめげたりする必要があろうか。
(天地懸隔、天道が是とも非ともなる実情をつぶさにわきまえてこそ、不遇にもめげない強さが養われる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一三より)
誰も悪を悪とわきまえながら悪を為すようなことからしてない。だから悪ではないのではなく、
だからこそ真性の悪である。悪を悪だとわきまえながら悪を為すなんてことは人間には
不可能で、未だそのわきまえが疎かである限りにおいて悪行もまた推進されるものなのだから。
聖書信仰が未だ黙認されている現状の世界において、本物の正邪善悪は誰にもわきまえられていない。
正義も悪もいくらでも唱えられているというのに、誰一人として正義や悪の正体を見据えられてはいない。
だからまず、「誰も本物の正邪善悪を知らない」という前提に立ち返った上で、正しい善悪のわきまえを
養っていくべきだといえる。まず善悪を論ずるのではなく、未だ誰も善悪などわきまえられていないことを
思い知ることからやり直す。聖書信仰がもたらした史上最悪の災禍からの脱却も、そこからのみ可能となる。
「夫れ天は、未だ天下を平治するを欲せざるなり。如し天下を平治するを
欲すれば、今の世に当たりて我れを舍きて其れ誰ぞや。吾れ何為れぞ不予ならんや」
「天は未だにこの天下を平安に統治することを望んでおられない。もしも天下を平安に統治することを
望まれたなら、今の世で自分をおいて他に適任な補佐者がいるだろうか。どうしてめげたりする必要があろうか。
(天地懸隔、天道が是とも非ともなる実情をつぶさにわきまえてこそ、不遇にもめげない強さが養われる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一三より)
自らの拠り所とするものが絶対的であることにかまけて驕り高ぶったりすることは、
女子供のような依存的傾向の強い者ですらもが、なるべく避けるべきことだといえる。
漢の呂后や淀殿のような、自らの夫が強大であることの嵩にかかって悪女ぶりを発揮した
歴史上の女も居るように、依存性を高めることによってこそ深刻化する驕りというものがある。
男であってもそれはあり得ることで、邪教の虚構神への依存によって驕り高ぶることもその一つである。
しかしたとえば、邪教信仰が正統な神仏への崇敬によってそれなりに抑制されているこの日本において
ですら、依存的傾向を強めて驕りを募らせる男というのがかなり居る。それらの男は神でも仏でもなく、
立憲制によって絶対化された「法権」を嵩にかかって偉ぶっている。特に分かりやすいのは現今の
腐敗甚だしい警察官などだが、ただの民間の企業社員などであっても、憲法27条に明記されて
いる「労働の義務」を自分が果たせていることなどに基づいて驕り高ぶったりする。これもまた、
一人前であるはずの男が、何らかの絶対的存在への精神的依存によって驕りを募らせた例だといえる。
一国における主君への忠義なども、時には隷従とすり替えられての驕りに発展してしまうことがある。
戦前の大日本帝国における権力者の驕りなどもその例で、主君たる天皇陛下への忠節に励むということを
口実に、自制を放棄してのやりたい放題に及んでいった。そうではなく、主君のために自ら自主性を持って
事業に務めることが真の忠義にもなるのであり、そこは奴隷的服従などとも混同してはならない部分だといえる。
実際問題として、この世界、この宇宙に絶対的な超越神などはいない。そんなものは存在しないから、
自らが自主的な存在であることにこそ恭しさが伴わねばならない。ドイツ人哲学者のニーチェのように、
キリスト教徒ばりの依存症を持ち越したままで無神論者となり、永遠を結婚相手に見立てての
思い上がりに及んだりしたなら、それによって気が狂ってしまうことにすらなりかねない。
女子供のような依存的傾向の強い者ですらもが、なるべく避けるべきことだといえる。
漢の呂后や淀殿のような、自らの夫が強大であることの嵩にかかって悪女ぶりを発揮した
歴史上の女も居るように、依存性を高めることによってこそ深刻化する驕りというものがある。
男であってもそれはあり得ることで、邪教の虚構神への依存によって驕り高ぶることもその一つである。
しかしたとえば、邪教信仰が正統な神仏への崇敬によってそれなりに抑制されているこの日本において
ですら、依存的傾向を強めて驕りを募らせる男というのがかなり居る。それらの男は神でも仏でもなく、
立憲制によって絶対化された「法権」を嵩にかかって偉ぶっている。特に分かりやすいのは現今の
腐敗甚だしい警察官などだが、ただの民間の企業社員などであっても、憲法27条に明記されて
いる「労働の義務」を自分が果たせていることなどに基づいて驕り高ぶったりする。これもまた、
一人前であるはずの男が、何らかの絶対的存在への精神的依存によって驕りを募らせた例だといえる。
一国における主君への忠義なども、時には隷従とすり替えられての驕りに発展してしまうことがある。
戦前の大日本帝国における権力者の驕りなどもその例で、主君たる天皇陛下への忠節に励むということを
口実に、自制を放棄してのやりたい放題に及んでいった。そうではなく、主君のために自ら自主性を持って
事業に務めることが真の忠義にもなるのであり、そこは奴隷的服従などとも混同してはならない部分だといえる。
実際問題として、この世界、この宇宙に絶対的な超越神などはいない。そんなものは存在しないから、
自らが自主的な存在であることにこそ恭しさが伴わねばならない。ドイツ人哲学者のニーチェのように、
キリスト教徒ばりの依存症を持ち越したままで無神論者となり、永遠を結婚相手に見立てての
思い上がりに及んだりしたなら、それによって気が狂ってしまうことにすらなりかねない。
そうではなく、禅僧のように徹底的なしごきの下で己れの自意識過剰を叩き潰し、
恭しさの中にも恭しさを湛えられるようになってこそ、超越神など存在しないこの世界、
この宇宙における最前線の自主性を自らが保てるようにもなるのである。
自主性と恭しさとでの良循環を本体として、社会的には君臣関係や父子夫婦関係などの上下関係も嗜む。
そういう人間であってこそ、社会においても有益無害な功績を挙げられる可能性が生ずる。それとは逆に、
何かにかけて依存を全てとしているようならば、結局、害以上の益を産み出せたりするようなこともない。
自主性によってこそ恭しさが養われ、依存性によってこそ驕りを募らせることになる。
それが、この世界この宇宙の実相に即した人間性の法則である。この世に介在する人間としては、
自主的であることも依存的であることも実際に両方ともあり得ることだが、どちらかといえば
依存的であることよりも自主的であることのほうを尊ぶべきで、より自主性の高い男や大人を、
より依存性の高い女や子供よりも尊ぶなどの実践がそのために推奨されもするのである。
虚構の絶対神への強依存などを至尊としたなら、この位相はひっくり返ってしまうが、そしたら人間は
恭しさを萎縮させて驕り高ぶりを募らせるようになる。知ってるようでいて誰も知らない基本法則だといえる。
「四夷の左衽も、咸な頼らざるは罔く、予れ小子も永く多福を膺けん」
「四方の遠方に至る異族までもが、この周朝の徳を依り頼まないことがない。私もまたその多福を受けたい。
(周の康王の即位時の言葉。世界中の誰しもを禍いから守る以上に、多福に与らせる。また周の威徳がそれほど
ものものであればこそ、周の王こそは最終的にそのおこぼれに与る。志しの高さと遠慮とが尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
恭しさの中にも恭しさを湛えられるようになってこそ、超越神など存在しないこの世界、
この宇宙における最前線の自主性を自らが保てるようにもなるのである。
自主性と恭しさとでの良循環を本体として、社会的には君臣関係や父子夫婦関係などの上下関係も嗜む。
そういう人間であってこそ、社会においても有益無害な功績を挙げられる可能性が生ずる。それとは逆に、
何かにかけて依存を全てとしているようならば、結局、害以上の益を産み出せたりするようなこともない。
自主性によってこそ恭しさが養われ、依存性によってこそ驕りを募らせることになる。
それが、この世界この宇宙の実相に即した人間性の法則である。この世に介在する人間としては、
自主的であることも依存的であることも実際に両方ともあり得ることだが、どちらかといえば
依存的であることよりも自主的であることのほうを尊ぶべきで、より自主性の高い男や大人を、
より依存性の高い女や子供よりも尊ぶなどの実践がそのために推奨されもするのである。
虚構の絶対神への強依存などを至尊としたなら、この位相はひっくり返ってしまうが、そしたら人間は
恭しさを萎縮させて驕り高ぶりを募らせるようになる。知ってるようでいて誰も知らない基本法則だといえる。
「四夷の左衽も、咸な頼らざるは罔く、予れ小子も永く多福を膺けん」
「四方の遠方に至る異族までもが、この周朝の徳を依り頼まないことがない。私もまたその多福を受けたい。
(周の康王の即位時の言葉。世界中の誰しもを禍いから守る以上に、多福に与らせる。また周の威徳がそれほど
ものものであればこそ、周の王こそは最終的にそのおこぼれに与る。志しの高さと遠慮とが尽くされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
妾腹の子として孔子を産んでしまった自らの不徳を恥じて、自分からは父親の身元を教えなかった
孔子の母親と、不倫ないし売春で夫以外の男の子供を身ごもってしまったために気が狂って幻覚を見、
その子供(イエス)を「神の子」だなどと思い込んでしまったマリアとでは、いずれもが不徳な母親では
あったにしても、その往生際の善し悪しに大差があったというもの。その母親からの影響が、孔子にも
イエキリにもなかったとは言えず、成長後の人生に多大な影響を及ぼしただろうことも確かである。
孔子の母親には言うべきでないことを言わない分別があったから、孔子も分別ある物言いを心がけるように
なったのだろうし、マリアがあることないことしゃべくる気狂いの虚言者であったればこそ、イエスもまた
あることないこと平気で駄弁りまくる虚言癖持ちのカルト教祖になってしまったのだろうとも考えられる。
母親の善し悪しについては、確かにイエスの母親のマリアこそは最悪の狂人であり、孔子の母親は
そこまではいかない分別の持ち主だっということが言える。しかし、孔子には育ての父親がいなかった一方、
イエスには育ての父親ともなった義父のヨセフがいた。そのヨセフへの孝悌によって自らの正気を育んで
いくこともできなくはなかったはずなのに、イエスはあえてそれを拒んだ。大工屋というヨセフの
生業の卑しさに嫌悪を抱いたのか知らないが、少なくとも自らがヨセフの系譜を継いだりすることを、
マリアの「神の子を身ごもった」という妄言にも味方するかたちで退けた。
孔子が若年の頃に、倉庫番や農牧者などのさして尊貴とも言えない仕事に従事して、
それでも任務を忠実にこなすことを旨としていたことが「孟子」万章章句下・五などにも記録されている。
そういう、与えられた立場に即して真摯でいる姿勢がイエスにも備わっていたなら、狂った母親の
「おまえは神の子だ」なんていう言い分も退けて、大工であるヨセフへの孝悌などにも尽くせたはずだが、
それができなかったのは、イエスに孔子並みの自主的な立場のわきまえが欠けていたからで、イエスが
マリアの狂気に取り込まれて自らまでもが狂人と化してしまったことにも、イエス自身の責任があるといえる。
孔子の母親と、不倫ないし売春で夫以外の男の子供を身ごもってしまったために気が狂って幻覚を見、
その子供(イエス)を「神の子」だなどと思い込んでしまったマリアとでは、いずれもが不徳な母親では
あったにしても、その往生際の善し悪しに大差があったというもの。その母親からの影響が、孔子にも
イエキリにもなかったとは言えず、成長後の人生に多大な影響を及ぼしただろうことも確かである。
孔子の母親には言うべきでないことを言わない分別があったから、孔子も分別ある物言いを心がけるように
なったのだろうし、マリアがあることないことしゃべくる気狂いの虚言者であったればこそ、イエスもまた
あることないこと平気で駄弁りまくる虚言癖持ちのカルト教祖になってしまったのだろうとも考えられる。
母親の善し悪しについては、確かにイエスの母親のマリアこそは最悪の狂人であり、孔子の母親は
そこまではいかない分別の持ち主だっということが言える。しかし、孔子には育ての父親がいなかった一方、
イエスには育ての父親ともなった義父のヨセフがいた。そのヨセフへの孝悌によって自らの正気を育んで
いくこともできなくはなかったはずなのに、イエスはあえてそれを拒んだ。大工屋というヨセフの
生業の卑しさに嫌悪を抱いたのか知らないが、少なくとも自らがヨセフの系譜を継いだりすることを、
マリアの「神の子を身ごもった」という妄言にも味方するかたちで退けた。
孔子が若年の頃に、倉庫番や農牧者などのさして尊貴とも言えない仕事に従事して、
それでも任務を忠実にこなすことを旨としていたことが「孟子」万章章句下・五などにも記録されている。
そういう、与えられた立場に即して真摯でいる姿勢がイエスにも備わっていたなら、狂った母親の
「おまえは神の子だ」なんていう言い分も退けて、大工であるヨセフへの孝悌などにも尽くせたはずだが、
それができなかったのは、イエスに孔子並みの自主的な立場のわきまえが欠けていたからで、イエスが
マリアの狂気に取り込まれて自らまでもが狂人と化してしまったことにも、イエス自身の責任があるといえる。
こうやって、東洋随一の聖人君子である孔子の経歴とも丹念に照らし合わせてみればこそ、
イエスもまた決して悲劇の人というばかりではなく、自業自得で非業を呼び込んだならず者でもあった
ことが明らかになる。ただイエスやマリアの行業にしか目を向けないのならそこまでは察知できず、
ただ新約の物語構造の非業さ加減に打ちひしがれて、恐れおののくぐらいのことしかできなかったりする。
比較対象としての孔子を知らない内には、イエスを信奉してしまったとしても仕方がないほどに、
新約の物語構造は偽善劇として巧妙である。だから今までにイエスを信奉してしまったことを過失と
見なしても妥当だといえるが、こうしてイエスのならず者さ加減や、新約の物語構造の化けの皮が
剥がされたからには、もはやイエスや新約を信奉の対象などにすることも一切許されることはない。
未だ人口に膾炙するような形での情報発表を尽くしているわけではないから、聖書信仰に完全な歯止めを
かけることにも今少しの時間はかかるかも知れないが、理論的に証明された以上は、証明されていなかった
頃に立ち戻るなどということももはやない。人類の未来はもはや、聖書信仰が絶えていく方向にしかない。
「人、道を弘むに能う。道、人を弘むるに非ざるなり」
「人間自身のみが正道を弘めていくことができる。正道が道を弘めていくことなどはできない。
(外力によって何かをしてやれる神などには、永久に不可能なことである。実在しないとはいえ、
マリアはそのような妄想上の邪神にすがり、イエスもまたそのような悪癖をあえて継いだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二九より)
イエスもまた決して悲劇の人というばかりではなく、自業自得で非業を呼び込んだならず者でもあった
ことが明らかになる。ただイエスやマリアの行業にしか目を向けないのならそこまでは察知できず、
ただ新約の物語構造の非業さ加減に打ちひしがれて、恐れおののくぐらいのことしかできなかったりする。
比較対象としての孔子を知らない内には、イエスを信奉してしまったとしても仕方がないほどに、
新約の物語構造は偽善劇として巧妙である。だから今までにイエスを信奉してしまったことを過失と
見なしても妥当だといえるが、こうしてイエスのならず者さ加減や、新約の物語構造の化けの皮が
剥がされたからには、もはやイエスや新約を信奉の対象などにすることも一切許されることはない。
未だ人口に膾炙するような形での情報発表を尽くしているわけではないから、聖書信仰に完全な歯止めを
かけることにも今少しの時間はかかるかも知れないが、理論的に証明された以上は、証明されていなかった
頃に立ち戻るなどということももはやない。人類の未来はもはや、聖書信仰が絶えていく方向にしかない。
「人、道を弘むに能う。道、人を弘むるに非ざるなり」
「人間自身のみが正道を弘めていくことができる。正道が道を弘めていくことなどはできない。
(外力によって何かをしてやれる神などには、永久に不可能なことである。実在しないとはいえ、
マリアはそのような妄想上の邪神にすがり、イエスもまたそのような悪癖をあえて継いだのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二九より)
「幸せ」を求めない
http://bbs0.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/toriaezu/13462310...
幸いは、最悪かマシか、死刑か奴隷化かといった最悪状態での切り抜けを意味する。
モンゴル帝国が全世界に派遣を拡大させていった時にも、殺されるか、
さもなくば奴隷になるかという強要によって異民族を屈服させていた。
それによって征服下に置かれ、奴隷として何とか生き延びた人間の末裔が今の
中国人だったりするから、古代にはなかったような卑屈さをどこか帯びていたりもする。
大日本帝国において欧米列強と奮闘し、討ち死にした日本人は誇りを保てたのかも
しれないが、最終的に米英らに敗戦して支配下に置かれた今の日本人たるや、
民族としての誇りなどは皆無に等しい状態ともなってしまっている。
そんな、何とか今まで生き延びてきた中国人や日本人こそは、幸いでもある。
モンゴル帝国や米英に屈従してでも生き延びたが故に、殺された人間などよりも幸い。
幸いだが、そんなことを嬉しがる日本人や中国人も居はしない。ただ恥を忍んで生き延びた
ばかりのことで、むしろ戦って殺された人々に対するコンプレックスを抱いてすらいる。
米英やモンゴル帝国が、「殺すか奴隷にするか」みたいな粗悪な流儀によって世界中へと
覇権を拡大させていったことからして、あるよりもないほうがマシな災禍でしかなかった。
それによって死んだ人間も、隷従して生き延びた人間も、ないほうがマシな危害を被ったのみ。
しかしそもそも、欧米キリスト教圏やモンゴルからして、「不幸か幸いか」しかない社会だった。
キリスト教圏がそうであるのは聖書に書いてある通りだし、モンゴル地域もまた子が親を殺し、
同族間で奪い合い殺し合うことも辞さない状態であり続けていることが、古代の
北方民族である匈奴の「史記」や「漢書」などにおける記録からも明らかである。
http://bbs0.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/toriaezu/13462310...
幸いは、最悪かマシか、死刑か奴隷化かといった最悪状態での切り抜けを意味する。
モンゴル帝国が全世界に派遣を拡大させていった時にも、殺されるか、
さもなくば奴隷になるかという強要によって異民族を屈服させていた。
それによって征服下に置かれ、奴隷として何とか生き延びた人間の末裔が今の
中国人だったりするから、古代にはなかったような卑屈さをどこか帯びていたりもする。
大日本帝国において欧米列強と奮闘し、討ち死にした日本人は誇りを保てたのかも
しれないが、最終的に米英らに敗戦して支配下に置かれた今の日本人たるや、
民族としての誇りなどは皆無に等しい状態ともなってしまっている。
そんな、何とか今まで生き延びてきた中国人や日本人こそは、幸いでもある。
モンゴル帝国や米英に屈従してでも生き延びたが故に、殺された人間などよりも幸い。
幸いだが、そんなことを嬉しがる日本人や中国人も居はしない。ただ恥を忍んで生き延びた
ばかりのことで、むしろ戦って殺された人々に対するコンプレックスを抱いてすらいる。
米英やモンゴル帝国が、「殺すか奴隷にするか」みたいな粗悪な流儀によって世界中へと
覇権を拡大させていったことからして、あるよりもないほうがマシな災禍でしかなかった。
それによって死んだ人間も、隷従して生き延びた人間も、ないほうがマシな危害を被ったのみ。
しかしそもそも、欧米キリスト教圏やモンゴルからして、「不幸か幸いか」しかない社会だった。
キリスト教圏がそうであるのは聖書に書いてある通りだし、モンゴル地域もまた子が親を殺し、
同族間で奪い合い殺し合うことも辞さない状態であり続けていることが、古代の
北方民族である匈奴の「史記」や「漢書」などにおける記録からも明らかである。
不幸か幸いかのいずれかでしかあり得ない社会というのは、それ以上の多福を追い求める
余地のある社会と比べて、総体的に、不幸か幸いかのうちの「不幸」の部類に入ってしまう。
争いによって外界を制覇して勝ち誇ったりした所で、自分たちが不幸か幸いかでしか
あり得ない以上は、所詮は清潔な世界にまでゴミを撒き散らしただけでしかなかった、
不幸まみれな自分たちの行状の真相に、いつかは気づいて打ちひしがれるしかない。
モンゴル帝国の場合は、自分たちがチベット仏教に帰依することでその恥をすすいだ。
欧米キリスト教勢力も結局は、仏教あたりへの帰依によって今までの汚辱を清算することに
なるのだろうが、自分たちで特段独自の信教を持ち合わせているわけでもなかったモンゴル人
と比べて、キリスト教徒には自分たちの信教がある。その信教を捨ててまで恥をすすぐ必要が
あるのは、モンゴル人などにはなかった障壁だといえ、より一層の思い切りが必要ともされる。
人類史上、全世界規模の覇権が掌握されることは、モンゴル帝国とキリスト教勢力とで最低二度
あった。しかいずれもが覇権止まりで、全世界が威徳ある王権によって統治された試しは未だない。
「三度目の正直」があるかないかは、世界規模の覇権主義の不実さが二度にわたって実証された
これからにこそ明らかになり得る。覇権はただのゴミの撒き散らし止まりだったが、王権は果たして。
「善人上に在れば、則ち国に幸民無し。
諺に曰く、民之の幸多きは、国の不幸なりと。是れ善人之り無きを謂うなり」
「善人が政治を執れば、国に幸いを乞い求める民がいなくなる。古語に『民に幸いを求める
者が多いのは、国が不幸である証拠だ』とあるのも、善人が政治を執っていないことを意味する。
(人々に幸いに与ることをけしかけるからには、国家社会規模での不幸を画策しているのだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十六年より)
余地のある社会と比べて、総体的に、不幸か幸いかのうちの「不幸」の部類に入ってしまう。
争いによって外界を制覇して勝ち誇ったりした所で、自分たちが不幸か幸いかでしか
あり得ない以上は、所詮は清潔な世界にまでゴミを撒き散らしただけでしかなかった、
不幸まみれな自分たちの行状の真相に、いつかは気づいて打ちひしがれるしかない。
モンゴル帝国の場合は、自分たちがチベット仏教に帰依することでその恥をすすいだ。
欧米キリスト教勢力も結局は、仏教あたりへの帰依によって今までの汚辱を清算することに
なるのだろうが、自分たちで特段独自の信教を持ち合わせているわけでもなかったモンゴル人
と比べて、キリスト教徒には自分たちの信教がある。その信教を捨ててまで恥をすすぐ必要が
あるのは、モンゴル人などにはなかった障壁だといえ、より一層の思い切りが必要ともされる。
人類史上、全世界規模の覇権が掌握されることは、モンゴル帝国とキリスト教勢力とで最低二度
あった。しかいずれもが覇権止まりで、全世界が威徳ある王権によって統治された試しは未だない。
「三度目の正直」があるかないかは、世界規模の覇権主義の不実さが二度にわたって実証された
これからにこそ明らかになり得る。覇権はただのゴミの撒き散らし止まりだったが、王権は果たして。
「善人上に在れば、則ち国に幸民無し。
諺に曰く、民之の幸多きは、国の不幸なりと。是れ善人之り無きを謂うなり」
「善人が政治を執れば、国に幸いを乞い求める民がいなくなる。古語に『民に幸いを求める
者が多いのは、国が不幸である証拠だ』とあるのも、善人が政治を執っていないことを意味する。
(人々に幸いに与ることをけしかけるからには、国家社会規模での不幸を画策しているのだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十六年より)
古代オリエント文明の遺跡に刻まれた文字列なども、解読してみれば、
どうということもないような内容のものばかりであることがすでに知られている。
そこに精神文化としての秀逸さなどはなく、かえって俗悪な文化ばかりが
当時の社会にもすでに根付いていたことが明らかとなっている。
ヘブライ文化や西洋文化も、その古代オリエント文化の系譜を汲む文化であり、
精神文化として特に優れているようなことは全くない一方で、俗悪さを極めることにかけては、
確かに東洋文化が忌避するような技巧が尽くされている。新旧約聖書や諸々の西洋古典も
そのような俗悪な文化を文章におこしたものであり、確かにそれによって金融物質主義的な
卑俗さを発展させていくことはできるが、何ら人間精神の洗練に与したりすることはない。
古代オリエントの豪華絢爛な遺跡と比べれば、随分と矮小であるインドのモヘンジョダロ遺跡
などは、矮小ながらにもインド独特の風水(バーストゥ・シャーストラ)を理念とした設計が
施されていて、その設計理念は寺院を始めとする東洋中の仏教建築にも受け継がれている。そして
ヴェーダやウパニシャッドや仏典といった、インド古典にもその理念は巧妙に埋め込まれていて、
俗悪さを排し、悟りを得た明鏡止水の境地こそを文明化していく指針としての価値をも帯びている。
しかしたとえば、仏教建築のうちでも浄土系の寺の堂内の造形などには、相当に卑俗なものもある。
内陣はキンキラキンに塗りたくられ、天井には数多の天女が待っているような下世話な造形は、
それこそ古代オリエントこそを源流とする西方浄土思想に根ざしたもの。浄土教を含む仏教全般
において提示されている「地獄」という観念もまた、元はといえば古代オリエントの発祥である。
どうということもないような内容のものばかりであることがすでに知られている。
そこに精神文化としての秀逸さなどはなく、かえって俗悪な文化ばかりが
当時の社会にもすでに根付いていたことが明らかとなっている。
ヘブライ文化や西洋文化も、その古代オリエント文化の系譜を汲む文化であり、
精神文化として特に優れているようなことは全くない一方で、俗悪さを極めることにかけては、
確かに東洋文化が忌避するような技巧が尽くされている。新旧約聖書や諸々の西洋古典も
そのような俗悪な文化を文章におこしたものであり、確かにそれによって金融物質主義的な
卑俗さを発展させていくことはできるが、何ら人間精神の洗練に与したりすることはない。
古代オリエントの豪華絢爛な遺跡と比べれば、随分と矮小であるインドのモヘンジョダロ遺跡
などは、矮小ながらにもインド独特の風水(バーストゥ・シャーストラ)を理念とした設計が
施されていて、その設計理念は寺院を始めとする東洋中の仏教建築にも受け継がれている。そして
ヴェーダやウパニシャッドや仏典といった、インド古典にもその理念は巧妙に埋め込まれていて、
俗悪さを排し、悟りを得た明鏡止水の境地こそを文明化していく指針としての価値をも帯びている。
しかしたとえば、仏教建築のうちでも浄土系の寺の堂内の造形などには、相当に卑俗なものもある。
内陣はキンキラキンに塗りたくられ、天井には数多の天女が待っているような下世話な造形は、
それこそ古代オリエントこそを源流とする西方浄土思想に根ざしたもの。浄土教を含む仏教全般
において提示されている「地獄」という観念もまた、元はといえば古代オリエントの発祥である。
仏教はそういった、古代オリエント発祥の俗悪文化も丸ごと飲み込んだ上での精神文化の
洗練を旨としているため、相当に清濁併せ飲んでもいる。ほとんど清濁を併せ飲んですらいない、
清浄一辺倒なのが日本の神道文化などで、部分的には古代中国の祭祀文化なども受け継いではいるが、
あまりにも清浄一辺倒であるために、すでに中国での伝統は絶えて、日本にのみ残るものとなってもいる。
「文化」にかけては、より精神性の洗練されたものこそを貴び、そうでないものを卑しむように
すべきだが、カネやモノの魔性を最大級に増幅してくれるのは、かえって俗悪な文化のほうである。
西洋文明こそは東洋文明よりも物質的に豊満だし、東洋においても、精神性の重視に特化された
神道文化がとっくの昔に中国では滅びるなど、洋の東西を問わず精神文化こそは「脆弱」である。
カネやモノを第一とする俗悪な文化によってこそ、古来から人々は自業自得の苦悩を募らせて来た。
始めからそのような俗悪な文化を退けて、高尚な文化にのみ与ればいいものを、カネやモノの魔性に
囚われて結局は俗悪な文化ばかりを貪り、そのせいであえて高尚な文化を退けてきてもしまった。
そのような、自業自得での苦難を呼び込む俗悪文化の、ここ2000年来の根幹となっているのは、
西洋文化のうちでも特に唯一無二とされる聖書文化でこそある。そのことは素直に認めた上で、
世界中を俗悪さの洪水で飲み込み尽くした後のけじめとして、思い切って聖書文化から捨て去る。
それがいま必要とされていることである上に、実現できたなら、極めて好ましいことでもある。
古代オリエントを源流とする物質主義的文化が、精神的に優れていたなんてことは一貫して
なかったのだから、数千年来の悪癖から人類が解放される、吉事中の吉事になるといえる。
洗練を旨としているため、相当に清濁併せ飲んでもいる。ほとんど清濁を併せ飲んですらいない、
清浄一辺倒なのが日本の神道文化などで、部分的には古代中国の祭祀文化なども受け継いではいるが、
あまりにも清浄一辺倒であるために、すでに中国での伝統は絶えて、日本にのみ残るものとなってもいる。
「文化」にかけては、より精神性の洗練されたものこそを貴び、そうでないものを卑しむように
すべきだが、カネやモノの魔性を最大級に増幅してくれるのは、かえって俗悪な文化のほうである。
西洋文明こそは東洋文明よりも物質的に豊満だし、東洋においても、精神性の重視に特化された
神道文化がとっくの昔に中国では滅びるなど、洋の東西を問わず精神文化こそは「脆弱」である。
カネやモノを第一とする俗悪な文化によってこそ、古来から人々は自業自得の苦悩を募らせて来た。
始めからそのような俗悪な文化を退けて、高尚な文化にのみ与ればいいものを、カネやモノの魔性に
囚われて結局は俗悪な文化ばかりを貪り、そのせいであえて高尚な文化を退けてきてもしまった。
そのような、自業自得での苦難を呼び込む俗悪文化の、ここ2000年来の根幹となっているのは、
西洋文化のうちでも特に唯一無二とされる聖書文化でこそある。そのことは素直に認めた上で、
世界中を俗悪さの洪水で飲み込み尽くした後のけじめとして、思い切って聖書文化から捨て去る。
それがいま必要とされていることである上に、実現できたなら、極めて好ましいことでもある。
古代オリエントを源流とする物質主義的文化が、精神的に優れていたなんてことは一貫して
なかったのだから、数千年来の悪癖から人類が解放される、吉事中の吉事になるといえる。
「公曰く、敢えて問う、何をか身を成すと謂う。孔子對えて曰く、物に過ぎざるなり。
公曰く敢えて問う、君子何をか天道を尊ぶや。孔子對えて曰く、其れ已まざるを尊ぶ。日月は東西相い従いて
已まざるが如し、是れ天道なり。閉じずして其れ久し、是れ天道なり。〜仁人は物に過ぎず、孝子は物に過ぎず。
是の故に、仁人の親に事うるや天に事うるが如く、天に事うるや親に事うるが如し。是の故に孝子は身を成す」
「哀公が孔子に問うた。『身を成すとはどういうことであろう』 孔子は答えた。『事物の理に合致して離れぬことを言います』
哀公。『君子はなぜ天道を尊ぶのか』 孔子。『天道はいつまでも止むことがありません。そのために尊ぶのです。
日月の軌道は東西に巡って決して止むことがありません、これが天道です。閉じることもなく久しい、これが天道です。
仁人や孝子は事物の理に合致して、決して逸脱することがありません。そのため仁人が親に仕える姿たるや、まるで
天道に仕えるが如くであり、天道に使える姿もまた、親に仕えるが如くであります。そうして孝子もまた身を成すのです』
(事物の理に合致して逸脱することのない仁人や孝子たれば、天道が永遠であるが如く、成道もまた永遠となる。
それは、久しくして止まぬ、太陽や月の運行の下でこそ計り知られることでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
公曰く敢えて問う、君子何をか天道を尊ぶや。孔子對えて曰く、其れ已まざるを尊ぶ。日月は東西相い従いて
已まざるが如し、是れ天道なり。閉じずして其れ久し、是れ天道なり。〜仁人は物に過ぎず、孝子は物に過ぎず。
是の故に、仁人の親に事うるや天に事うるが如く、天に事うるや親に事うるが如し。是の故に孝子は身を成す」
「哀公が孔子に問うた。『身を成すとはどういうことであろう』 孔子は答えた。『事物の理に合致して離れぬことを言います』
哀公。『君子はなぜ天道を尊ぶのか』 孔子。『天道はいつまでも止むことがありません。そのために尊ぶのです。
日月の軌道は東西に巡って決して止むことがありません、これが天道です。閉じることもなく久しい、これが天道です。
仁人や孝子は事物の理に合致して、決して逸脱することがありません。そのため仁人が親に仕える姿たるや、まるで
天道に仕えるが如くであり、天道に使える姿もまた、親に仕えるが如くであります。そうして孝子もまた身を成すのです』
(事物の理に合致して逸脱することのない仁人や孝子たれば、天道が永遠であるが如く、成道もまた永遠となる。
それは、久しくして止まぬ、太陽や月の運行の下でこそ計り知られることでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
それを好き好んで得ようとするものに限って「摂取不捨」となるのが完全誤謬であるのに対し、
好むと好まざるとに関わらず、悟ってしまった以上は摂取不捨となるのが完全真理である。
そこは真理と誤謬とで決定的に異なる点であり、真理への悟りは拒んだところで二度と捨て
去れはしないのに対し、誤謬への惑溺は自分が拒みすらすればいつでも捨てられるものである。
仮に精神外科手術などによって、キリスト教レベルの劣悪教義にしか安住していられない
白痴状態を固定化してしまったとする。そしたらもう二度とキリスト信仰を拒絶することも
できなくなるわけだから、摂取不捨の強度が増すといえるが、その場合、悪知恵を駆使しての
キリスト信仰の体系的な実践も覚束なくなるため、害悪の度合いも皆無に帰することになる。
片やキリスト信仰による重度知的障害レベルへの知能退行を可能としながら、片や常人
以上の知能によって金融詐欺などの悪行に及び、不正な暴利をせしめることをも可能とする。
そういった、知能を乱高下させられる重度精神障害者のキリスト教徒であればこそ、信仰が
財物としての実利にも結び付く。ただ知能退行の酩酊に酔い痴れるだけでなく、高い知能を
駆使する能力もあればこそ、キリスト教圏が悪逆非道による勢力の拡大を推し進めていく
こともできたわけだが、残念ながら、その知能の高さこそが「善行は普遍的な安楽に結び付き、
悪行は普遍的な辛苦に結び付く」という、罪福異熟の絶対真理をも悟らざるを得なかったのである。
悪逆非道を可能とする高い知能を保つ以上は、悪因苦果に基づく自分たちの行いの惨めさに
気づかざるを得ない。一方で、そのような真理に気づかないでいようとしたなら、もう二度と
高い知能を駆使した悪行に及ぶことができない。ここが、キリスト信仰の頭打ち地点だといえる。
高知能を保てば不必要に苦しみ、低知能を固定化すれば廃人としての立場が決定的になる。
さすれば、キリスト信仰を保守するメリットなどはもはやどこにもない。今までも本当は
なかったが、これからはもう、信仰にメリットがあるかのように思い込んでいることすらできぬ。
好むと好まざるとに関わらず、悟ってしまった以上は摂取不捨となるのが完全真理である。
そこは真理と誤謬とで決定的に異なる点であり、真理への悟りは拒んだところで二度と捨て
去れはしないのに対し、誤謬への惑溺は自分が拒みすらすればいつでも捨てられるものである。
仮に精神外科手術などによって、キリスト教レベルの劣悪教義にしか安住していられない
白痴状態を固定化してしまったとする。そしたらもう二度とキリスト信仰を拒絶することも
できなくなるわけだから、摂取不捨の強度が増すといえるが、その場合、悪知恵を駆使しての
キリスト信仰の体系的な実践も覚束なくなるため、害悪の度合いも皆無に帰することになる。
片やキリスト信仰による重度知的障害レベルへの知能退行を可能としながら、片や常人
以上の知能によって金融詐欺などの悪行に及び、不正な暴利をせしめることをも可能とする。
そういった、知能を乱高下させられる重度精神障害者のキリスト教徒であればこそ、信仰が
財物としての実利にも結び付く。ただ知能退行の酩酊に酔い痴れるだけでなく、高い知能を
駆使する能力もあればこそ、キリスト教圏が悪逆非道による勢力の拡大を推し進めていく
こともできたわけだが、残念ながら、その知能の高さこそが「善行は普遍的な安楽に結び付き、
悪行は普遍的な辛苦に結び付く」という、罪福異熟の絶対真理をも悟らざるを得なかったのである。
悪逆非道を可能とする高い知能を保つ以上は、悪因苦果に基づく自分たちの行いの惨めさに
気づかざるを得ない。一方で、そのような真理に気づかないでいようとしたなら、もう二度と
高い知能を駆使した悪行に及ぶことができない。ここが、キリスト信仰の頭打ち地点だといえる。
高知能を保てば不必要に苦しみ、低知能を固定化すれば廃人としての立場が決定的になる。
さすれば、キリスト信仰を保守するメリットなどはもはやどこにもない。今までも本当は
なかったが、これからはもう、信仰にメリットがあるかのように思い込んでいることすらできぬ。
イカサマで一方的に利益を巻き上げられ続けることが確実な違法賭博、キリスト信仰の実態は
そのようなもので、さっさとやめるに越したことはないが、博打中毒の心理に陥ってしまって
いるような人間には、それもなかなか難しい。博打を打つことそれ自体が脳内麻薬を分泌させて
くれるのが楽しいからやめられない。イカサマと分かっていてもやめられない、博打にかけての
バカであることが、当該の博打がイカサマであることへの冷静な認識を上回ってしまっている
ために、傍目には愚かしさ極まりない墓穴掘りを延々と続けるようなザマに陥ってしまっている。
「イカサマでしかない」という冷静な認識が、中毒状態からなるバカをほんの少しでも
上回れたなら、キリスト信仰をやめることだって実際にできる。真理はイカサマではないから、
そんな理由によって捨て去れはしないが、キリスト教教義は真理に違う完全誤謬だから、
誤謬であることに対する冷静な認識が、ほんの少しでも信仰狂いに打ち克てたなら、
キリスト信仰については、そういった手続きに即して確かに捨て去ることができる。
何の価値もないうえに害がある、しかもそうであることが理知によって完全に察知されて
しまっている。そこから目指すべきなのはもはや脱却のみで、これ以上の耽溺などであるはずもない。
そしてその手段は以上の如くであり、何一つとして不満や不足を唱える余地もないといえる。
「故旧、大故なければ、則ち棄てず」
「古くからの馴染みは、致命的に大きな過ちでもない限りは捨てない。
(キリスト信仰ももう2000近くの歴史を持つが、大きな過ちであったと
確認できたなら捨ててもよい。それが人道に根ざした分別ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・一〇より)
そのようなもので、さっさとやめるに越したことはないが、博打中毒の心理に陥ってしまって
いるような人間には、それもなかなか難しい。博打を打つことそれ自体が脳内麻薬を分泌させて
くれるのが楽しいからやめられない。イカサマと分かっていてもやめられない、博打にかけての
バカであることが、当該の博打がイカサマであることへの冷静な認識を上回ってしまっている
ために、傍目には愚かしさ極まりない墓穴掘りを延々と続けるようなザマに陥ってしまっている。
「イカサマでしかない」という冷静な認識が、中毒状態からなるバカをほんの少しでも
上回れたなら、キリスト信仰をやめることだって実際にできる。真理はイカサマではないから、
そんな理由によって捨て去れはしないが、キリスト教教義は真理に違う完全誤謬だから、
誤謬であることに対する冷静な認識が、ほんの少しでも信仰狂いに打ち克てたなら、
キリスト信仰については、そういった手続きに即して確かに捨て去ることができる。
何の価値もないうえに害がある、しかもそうであることが理知によって完全に察知されて
しまっている。そこから目指すべきなのはもはや脱却のみで、これ以上の耽溺などであるはずもない。
そしてその手段は以上の如くであり、何一つとして不満や不足を唱える余地もないといえる。
「故旧、大故なければ、則ち棄てず」
「古くからの馴染みは、致命的に大きな過ちでもない限りは捨てない。
(キリスト信仰ももう2000近くの歴史を持つが、大きな過ちであったと
確認できたなら捨ててもよい。それが人道に根ざした分別ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・一〇より)
死を闇とみなし、生を栄光と見なして、闇への恐怖を原動力とした
盲滅法な生を貪ろうとするから、そういった者同士での争いまでもが生ずる。
思い切って生こそを闇と見なし、死こそを光と見なしてしまう。
それにより暗愚な生を切り抜けての明るい死こそを目指す。
それぐらいのほうが、高い知能によって「個体の死」というものを
察知してしまっている人間のような生き物にとっては、適切なあり方ともなる。
もちろん、生が闇だからといって暗愚な生ばかりに専らでいようと
するのではなく、栄光の死に向けたなりの生をも送ればよい。
生きてる間の放辟邪侈ばかりに專らでいたなら、後世に笑いものにすら
なりかねない一方、未来永劫にわたって人々に好影響を及ぼし続けるような
偉大な功績を挙げたなら、それにより死後に至るまでの名声が得られるというもの。
その死後の名声も、自らの子孫の繁栄などの実利的価値を帯びもするわけで、
生きてる内から個体の生死を超えた大偉業を志すことにも、確かな意味があるのだと言える。
「どうせ死後に渡るまで評価されるような偉業を挙げた所で、自分自身には
何の利益もないじゃないか」と、重度の個人主義者であれば考えるのに違いない。
子々孫々の代々に至るまでの、自らの系譜の継承などにもさして価値を見い出せず、
とにかく自分が生きてるうちにどれだけ幸せでいられるかばかりを全てとしているのだから。
盲滅法な生を貪ろうとするから、そういった者同士での争いまでもが生ずる。
思い切って生こそを闇と見なし、死こそを光と見なしてしまう。
それにより暗愚な生を切り抜けての明るい死こそを目指す。
それぐらいのほうが、高い知能によって「個体の死」というものを
察知してしまっている人間のような生き物にとっては、適切なあり方ともなる。
もちろん、生が闇だからといって暗愚な生ばかりに専らでいようと
するのではなく、栄光の死に向けたなりの生をも送ればよい。
生きてる間の放辟邪侈ばかりに專らでいたなら、後世に笑いものにすら
なりかねない一方、未来永劫にわたって人々に好影響を及ぼし続けるような
偉大な功績を挙げたなら、それにより死後に至るまでの名声が得られるというもの。
その死後の名声も、自らの子孫の繁栄などの実利的価値を帯びもするわけで、
生きてる内から個体の生死を超えた大偉業を志すことにも、確かな意味があるのだと言える。
「どうせ死後に渡るまで評価されるような偉業を挙げた所で、自分自身には
何の利益もないじゃないか」と、重度の個人主義者であれば考えるのに違いない。
子々孫々の代々に至るまでの、自らの系譜の継承などにもさして価値を見い出せず、
とにかく自分が生きてるうちにどれだけ幸せでいられるかばかりを全てとしているのだから。
だからこそ、後世の笑い者になるような放辟邪侈にも及び、まるで暗愚な生の典型
のような生ばかりを貪った挙句に死ぬ。そしてそのような人生を送った人間こそは、
死こそが闇であるかのようにも考える。本当は生きてる内こそが人並み以上の暗闇であり、
その暗闇から死によって解き放たれるのですらあるのに、自らの生こそが自業自得の
暗闇であった責任を死に擦り付け、死こそが闇であるかのように決め付ける。そうして
死を憎み、栄光としての生をより一層に追い求めようとするが、そのような人間が追い
求めている生こそは生粋の暗愚な生でもあるのだから、どこにも光の差し込む余地がない。
光を追い求めているつもりで、実はより一層の暗闇を追い求めてしまっているような
悪循環に陥ってしまっている人間ともなれば、死後に至るまでの栄光のような、
真の光を追い求めることに即座に鞍替えすることも覚束ない。まずは自分たちの
明暗に対する認知が転倒していることを悟って、その転倒を是正していくところ
から始めなければならない。主体的に光を追い求めることはまだ人に譲り、まず闇を
追い求める悪癖を癒すことから専念していく。そういった役割分担が必要となっていく。
「禹崩じ、三年の喪畢りて、益、禹の子を箕山の陰に避く。朝覲訟獄する者、益に
之かずして啓に之く。曰く、吾が君の子なりと。謳歌する者は益を謳歌せずして啓を謳歌す」
「夏の禹王が崩じて後、三年の喪が終わり、禹王の重臣だった益は禹の子の啓を箕山の陰に
追いやった。すると、拝謁するものも訴訟を請う者もみな益を避けて啓の所に通うようになった。
みな『啓こそは我が君の子ではないか』と称え、益の世を謳歌せずに啓の世を謳歌した。
(居場所の陰陽などどてはなく、自らの徳の有無が雌雄を決した例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・六より)
のような生ばかりを貪った挙句に死ぬ。そしてそのような人生を送った人間こそは、
死こそが闇であるかのようにも考える。本当は生きてる内こそが人並み以上の暗闇であり、
その暗闇から死によって解き放たれるのですらあるのに、自らの生こそが自業自得の
暗闇であった責任を死に擦り付け、死こそが闇であるかのように決め付ける。そうして
死を憎み、栄光としての生をより一層に追い求めようとするが、そのような人間が追い
求めている生こそは生粋の暗愚な生でもあるのだから、どこにも光の差し込む余地がない。
光を追い求めているつもりで、実はより一層の暗闇を追い求めてしまっているような
悪循環に陥ってしまっている人間ともなれば、死後に至るまでの栄光のような、
真の光を追い求めることに即座に鞍替えすることも覚束ない。まずは自分たちの
明暗に対する認知が転倒していることを悟って、その転倒を是正していくところ
から始めなければならない。主体的に光を追い求めることはまだ人に譲り、まず闇を
追い求める悪癖を癒すことから専念していく。そういった役割分担が必要となっていく。
「禹崩じ、三年の喪畢りて、益、禹の子を箕山の陰に避く。朝覲訟獄する者、益に
之かずして啓に之く。曰く、吾が君の子なりと。謳歌する者は益を謳歌せずして啓を謳歌す」
「夏の禹王が崩じて後、三年の喪が終わり、禹王の重臣だった益は禹の子の啓を箕山の陰に
追いやった。すると、拝謁するものも訴訟を請う者もみな益を避けて啓の所に通うようになった。
みな『啓こそは我が君の子ではないか』と称え、益の世を謳歌せずに啓の世を謳歌した。
(居場所の陰陽などどてはなく、自らの徳の有無が雌雄を決した例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・六より)
「漢書」食貨志などを読んでみても、漢の治世中、民が土に安んじて本業(農業など)に
励んでいる頃には国レベルでの収支が安定し、蓄積も十分となったのに対し、
流民が増大して末業(商業など)ばかりを興じるようになった頃には、
国富が不足して餓え死ぬ民までもが頻発するようになったとある。
だから君子階級でもないような一般民が無闇に遠出することを推奨したりすべきではないし、
さらには為政者こそが必要もなく民を方々へと引きずり回すともなれば、なおさらのことである。
だからこそ昔の東洋の封建社会では、関所を設けて民の自由な往来に一定の制限をかけるなどしていた。
一方で、君子階級こそは科挙としての登用や参勤交代などを通じて中央と地方を頻繁に往来し、
諸国を皇帝や将軍の十分な統制下に置く助っ人としての役割をも発揮していた。
為政者は腰が軽く、民は腰が重いというのが、社会的な陽唱陰和の実現の上でも格好となり、
民をよく土着させて下手な往来をも思い止まらせられたなら、なにも全住民を戸籍登録し
尽くしたりする必要もない。関所による往来管理も厳粛だった江戸時代にこそ、無戸籍の
漂泊民などの存在も多少は容認されていたのに対し、関所も撤廃されて行商の往来なども
無制限と化した明治以降にこそ、全国民に対する住民登録が必須なものともなった。
民主主義社会において、民こそは諸国の往来なども勝手気ままに行える自由の徒となるのに対し、
為政者こそは地元の組織票みたいな、ある種の限られた勢力による拘束を被る存在となる。結果、
民間人の政商や悪徳外交家こそが国家権力以上もの権能を手に入れるようなことにもなりかねず、
そのような事態を来たした時にこそ、もはや世界レベルでの大破綻までもが逃れられるものではない。
中東地域のような、農産も覚束ない不毛の地に暮らす者が、シルクロード交易のような商業によって
食いつなぐことは不可避なことでもあるにしろ、モンスーン気候の東洋社会や、欧米社会のような、
土着による自活が可能である地域においてまで流民をのさぱらせるのは余計なことであり、
その程度があまりにもひどければ、上に書いたような理由での大破綻すらもが免れられない。
励んでいる頃には国レベルでの収支が安定し、蓄積も十分となったのに対し、
流民が増大して末業(商業など)ばかりを興じるようになった頃には、
国富が不足して餓え死ぬ民までもが頻発するようになったとある。
だから君子階級でもないような一般民が無闇に遠出することを推奨したりすべきではないし、
さらには為政者こそが必要もなく民を方々へと引きずり回すともなれば、なおさらのことである。
だからこそ昔の東洋の封建社会では、関所を設けて民の自由な往来に一定の制限をかけるなどしていた。
一方で、君子階級こそは科挙としての登用や参勤交代などを通じて中央と地方を頻繁に往来し、
諸国を皇帝や将軍の十分な統制下に置く助っ人としての役割をも発揮していた。
為政者は腰が軽く、民は腰が重いというのが、社会的な陽唱陰和の実現の上でも格好となり、
民をよく土着させて下手な往来をも思い止まらせられたなら、なにも全住民を戸籍登録し
尽くしたりする必要もない。関所による往来管理も厳粛だった江戸時代にこそ、無戸籍の
漂泊民などの存在も多少は容認されていたのに対し、関所も撤廃されて行商の往来なども
無制限と化した明治以降にこそ、全国民に対する住民登録が必須なものともなった。
民主主義社会において、民こそは諸国の往来なども勝手気ままに行える自由の徒となるのに対し、
為政者こそは地元の組織票みたいな、ある種の限られた勢力による拘束を被る存在となる。結果、
民間人の政商や悪徳外交家こそが国家権力以上もの権能を手に入れるようなことにもなりかねず、
そのような事態を来たした時にこそ、もはや世界レベルでの大破綻までもが逃れられるものではない。
中東地域のような、農産も覚束ない不毛の地に暮らす者が、シルクロード交易のような商業によって
食いつなぐことは不可避なことでもあるにしろ、モンスーン気候の東洋社会や、欧米社会のような、
土着による自活が可能である地域においてまで流民をのさぱらせるのは余計なことであり、
その程度があまりにもひどければ、上に書いたような理由での大破綻すらもが免れられない。
農産技術と交通機関が共に発展した近代社会において、かつての東洋的封建社会ほどもの
徹底的な民の土着や鎖国政策が敷かれるべきだとも断定できないが、少なくともこの地球上
から餓死者がいなくなる程度にまでは、民の身勝手な放浪にも制限をかけるべきだといえる。
具体的にどのくらいかといえば、やはり民間人のフットワークが為政者のフットワークを
下回る程度までだといえる。そしたら世界規模での財政破綻が回避できて、その結果として
飢餓や戦乱のような社会問題も未然に防がれるようになる。いくら文明が進歩しようとも、
為政者こそが民の一歩先を行くべきだという陰陽法則までもが破綻することはないのである。
「梁の恵王曰く、寡人の国に於けるや、心を尽くせるのみ。河内凶すれば、
則ち其の民を河東に移し、其の粟を河内に移す。河東凶せるも亦た然り。隣国の政を察するに、
寡人の心を用うるに如く者無し。隣国の民少なきを加えず、寡人の民多きを加えざるは何ぞや」
「梁の恵王が孟子に問うた。『わしのこの国に対する姿勢は、ただ心を尽くすというばかりのものだ。
もし河内地方が飢えるようなことがあればその民を河東に移し、河東からも支援の穀類を河内に運ばせる。
河東が飢えた場合にもこの逆の対策を施す。周りの国を見ても、これほどにも内政に心を尽くしている国は
ないというのに、周りの国の民が減ることもなければ、わしの国の民が増えることもないのはなぜだろう』
(このあと孟子が指摘するとおり、恵王は農繁期や斧斤時もお構いなしに民を身勝手に引きずり回しているから、
そのせいで自分こそが飢饉を引き起こしてしまっている。住民登録のために帝国の民を引きずり回して、ろくに
その宿場も用意しなかった皇帝アウグストゥスなども、この恵王並みかそれ以上の暗君だったことだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・三より)
徹底的な民の土着や鎖国政策が敷かれるべきだとも断定できないが、少なくともこの地球上
から餓死者がいなくなる程度にまでは、民の身勝手な放浪にも制限をかけるべきだといえる。
具体的にどのくらいかといえば、やはり民間人のフットワークが為政者のフットワークを
下回る程度までだといえる。そしたら世界規模での財政破綻が回避できて、その結果として
飢餓や戦乱のような社会問題も未然に防がれるようになる。いくら文明が進歩しようとも、
為政者こそが民の一歩先を行くべきだという陰陽法則までもが破綻することはないのである。
「梁の恵王曰く、寡人の国に於けるや、心を尽くせるのみ。河内凶すれば、
則ち其の民を河東に移し、其の粟を河内に移す。河東凶せるも亦た然り。隣国の政を察するに、
寡人の心を用うるに如く者無し。隣国の民少なきを加えず、寡人の民多きを加えざるは何ぞや」
「梁の恵王が孟子に問うた。『わしのこの国に対する姿勢は、ただ心を尽くすというばかりのものだ。
もし河内地方が飢えるようなことがあればその民を河東に移し、河東からも支援の穀類を河内に運ばせる。
河東が飢えた場合にもこの逆の対策を施す。周りの国を見ても、これほどにも内政に心を尽くしている国は
ないというのに、周りの国の民が減ることもなければ、わしの国の民が増えることもないのはなぜだろう』
(このあと孟子が指摘するとおり、恵王は農繁期や斧斤時もお構いなしに民を身勝手に引きずり回しているから、
そのせいで自分こそが飢饉を引き起こしてしまっている。住民登録のために帝国の民を引きずり回して、ろくに
その宿場も用意しなかった皇帝アウグストゥスなども、この恵王並みかそれ以上の暗君だったことだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・三より)
漢の高祖劉邦も、まだぶらつき者だった頃に見知らぬ老人から
「あなたの人相は見たこともないほど素晴らしい」と言われたといい、
おそらくそれを励みにしての出世をも志したのに違いない。
この手の、あまり根拠があるわけでもないような予言なり占いなりも、個人的な励みに
するぐらいなら他愛ないものだが、予言の内容が不埒だったり、無理に根拠を付けて
信憑性を持たせようとしたりし始めると、色々と度し難い側面を帯びてくるようになる。
魏の曹操がまだ下級役人の小倅でしかなかったころ、これまた顔相見の達人が
曹操の元に現れ、「おまえは乱世の奸雄の相を帯びている」と指摘した。それが警告目的
だったのか、そうなることを推奨したのかは知れないが、実際に曹操は、三国時代において
最も腐敗した国情を帯びた国でもある魏の実質的な帝王ともなった。その存命中には漢室の存命を
許したものの、息子の曹丕の代にはついに帝位を簒奪させ、後漢の治世に終止符をも打たせた。
おそらく、自他共に認める形で実行されただろうこの曹家の横暴も、元はといえば曹操がまだ若年
であった頃の「おまえは乱世の奸雄になる」という、人からの予言をも原動力にしていたに違いない。
予言とか瑞祥とかいったものを、一貫して善用に付すのならまだしも、悪用に及ぶこともいくらでもできる、
そして悪用に及ぶ場合のほうがその実践も遥かに込み入っていて、予言がそれだけで物語になっていたりする。
未来には、確定的な要素もあれば、不確定的な要素もある。全てを総合すれば少なからず不確定的だから、
予言に基づく必然性などばかりに頼らずに、自らもその場その場での自主的な判断を講じていくべきである。
そうともせず、予言への狂信ばかりに一辺倒で、もはや聞く耳も持たないというのならば、その姿勢自体が
すでに最善を尽くしていないあり方となる。何もかもを去来今の三世に渡って自由自在にできる超越神などは
実際に存在せず、予定調和的であることもあれば、そうでないこともあることにかけてこそ普遍的である
万事万物の実相に即して、予言などは参考程度のものとして、まず自助努力のほうを心がけるべきなのである。
「あなたの人相は見たこともないほど素晴らしい」と言われたといい、
おそらくそれを励みにしての出世をも志したのに違いない。
この手の、あまり根拠があるわけでもないような予言なり占いなりも、個人的な励みに
するぐらいなら他愛ないものだが、予言の内容が不埒だったり、無理に根拠を付けて
信憑性を持たせようとしたりし始めると、色々と度し難い側面を帯びてくるようになる。
魏の曹操がまだ下級役人の小倅でしかなかったころ、これまた顔相見の達人が
曹操の元に現れ、「おまえは乱世の奸雄の相を帯びている」と指摘した。それが警告目的
だったのか、そうなることを推奨したのかは知れないが、実際に曹操は、三国時代において
最も腐敗した国情を帯びた国でもある魏の実質的な帝王ともなった。その存命中には漢室の存命を
許したものの、息子の曹丕の代にはついに帝位を簒奪させ、後漢の治世に終止符をも打たせた。
おそらく、自他共に認める形で実行されただろうこの曹家の横暴も、元はといえば曹操がまだ若年
であった頃の「おまえは乱世の奸雄になる」という、人からの予言をも原動力にしていたに違いない。
予言とか瑞祥とかいったものを、一貫して善用に付すのならまだしも、悪用に及ぶこともいくらでもできる、
そして悪用に及ぶ場合のほうがその実践も遥かに込み入っていて、予言がそれだけで物語になっていたりする。
未来には、確定的な要素もあれば、不確定的な要素もある。全てを総合すれば少なからず不確定的だから、
予言に基づく必然性などばかりに頼らずに、自らもその場その場での自主的な判断を講じていくべきである。
そうともせず、予言への狂信ばかりに一辺倒で、もはや聞く耳も持たないというのならば、その姿勢自体が
すでに最善を尽くしていないあり方となる。何もかもを去来今の三世に渡って自由自在にできる超越神などは
実際に存在せず、予定調和的であることもあれば、そうでないこともあることにかけてこそ普遍的である
万事万物の実相に即して、予言などは参考程度のものとして、まず自助努力のほうを心がけるべきなのである。
「世子生まるれば、則ち君沐浴し朝服す。夫人も亦た之の如くす。皆な阼階に立ちて西卿す。
世婦、子を抱いて西階より升る。君之れに名づけ、乃ち降る。適子庶子は外寝に於いて見、其の首を撫で
咳きて之れに名づく。礼初めに帥うも、辞無し。凡そ子に名づくるに、日月を以てせず、国を以てせず、隱疾を以てせず、
大夫、士の子は敢えて世子と名を同じくせず。妾、将に子を生まんとするに、月辰に及び、夫れ人を使いて日に一たび
之れを問わしむ。子、生まれて三月の末、漱浣し夙斎して内寝に見ゆ。之れを礼すること始めて室に入るが如くす。
君已に食し徹し、之れを使して特り餕せしめ、遂に入御す。公庶子生まるるときは、側室に就く。三月の末、其の母
沐浴し朝服して君に見ゆ。擯者其の子を以て見ゆ。君賜ふ有る所なれば、君之れを名づく。衆子は則ち有司を使て之れを名づく」
世婦、子を抱いて西階より升る。君之れに名づけ、乃ち降る。適子庶子は外寝に於いて見、其の首を撫で
咳きて之れに名づく。礼初めに帥うも、辞無し。凡そ子に名づくるに、日月を以てせず、国を以てせず、隱疾を以てせず、
大夫、士の子は敢えて世子と名を同じくせず。妾、将に子を生まんとするに、月辰に及び、夫れ人を使いて日に一たび
之れを問わしむ。子、生まれて三月の末、漱浣し夙斎して内寝に見ゆ。之れを礼すること始めて室に入るが如くす。
君已に食し徹し、之れを使して特り餕せしめ、遂に入御す。公庶子生まるるときは、側室に就く。三月の末、其の母
沐浴し朝服して君に見ゆ。擯者其の子を以て見ゆ。君賜ふ有る所なれば、君之れを名づく。衆子は則ち有司を使て之れを名づく」
「国君の嫡子が生まれた時には、主君は沐浴して正装をする。夫人たちも同じようにし、東の階段に立って西を見る(追儺目的)。
宮女が子を抱いて西の階段から昇って来ると、主君がこれに名づけて、また階段を下る。嫡子の実弟や庶子の場合には寝殿の外で
その首を撫でながらつぶやくようにして名付ける。基本的な礼式は嫡子の場合と同じだが、訓戒などの辞を与えたりはしない。
子を名付ける上では日月星辰の名を以てせず、国名を以てせず、隠れた悪い意味があるような言葉を以てせぬようにする。
国君以下の大夫や士の子は、あえて主君の嫡子と同じ名前にしたりはしない。妾が子を産もうとするときには、臨月ごろから
使いを毎日よこして子が産まれたかを問う。子が生まれて三ヶ月の後に、略式の斎戒沐浴をして妾の居場所に行く。妾はまるで
初めて夫に出会ったかのように振る舞い、まず夫が先に料理を食してから、その食べ残しを食べ、後に正式に侍御するようになる。
公君の庶子が生まれた時には側室に養わせる。子が生まれて三月の後に、母は沐浴し正装して君に見え、乳母がその子を抱える。
特に気に入った妾の子であれば君自らが子に名付ける。そうでない諸々の庶子の場合には、係りの役人に任せて名付けさせる。
(一夫多妻が常套であった封建時代にも、それなりに子を名づけたり妾を侍御させたりする上での礼式があった。その礼式を尽く
破って、夢想に即した根拠で妾腹の私生児を無闇に祝福したり、神の子だなと呼ばわったりする。それら全てが患いごとであり、
そのような根拠に即して『イエス』と名付けたりしたことも、『子に名づくに隱疾を以てせず』という礼制に反している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
宮女が子を抱いて西の階段から昇って来ると、主君がこれに名づけて、また階段を下る。嫡子の実弟や庶子の場合には寝殿の外で
その首を撫でながらつぶやくようにして名付ける。基本的な礼式は嫡子の場合と同じだが、訓戒などの辞を与えたりはしない。
子を名付ける上では日月星辰の名を以てせず、国名を以てせず、隠れた悪い意味があるような言葉を以てせぬようにする。
国君以下の大夫や士の子は、あえて主君の嫡子と同じ名前にしたりはしない。妾が子を産もうとするときには、臨月ごろから
使いを毎日よこして子が産まれたかを問う。子が生まれて三ヶ月の後に、略式の斎戒沐浴をして妾の居場所に行く。妾はまるで
初めて夫に出会ったかのように振る舞い、まず夫が先に料理を食してから、その食べ残しを食べ、後に正式に侍御するようになる。
公君の庶子が生まれた時には側室に養わせる。子が生まれて三月の後に、母は沐浴し正装して君に見え、乳母がその子を抱える。
特に気に入った妾の子であれば君自らが子に名付ける。そうでない諸々の庶子の場合には、係りの役人に任せて名付けさせる。
(一夫多妻が常套であった封建時代にも、それなりに子を名づけたり妾を侍御させたりする上での礼式があった。その礼式を尽く
破って、夢想に即した根拠で妾腹の私生児を無闇に祝福したり、神の子だなと呼ばわったりする。それら全てが患いごとであり、
そのような根拠に即して『イエス』と名付けたりしたことも、『子に名づくに隱疾を以てせず』という礼制に反している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
本当の親子関係であれば、主従関係を尽くすことが
どこまでいっても「主人と奴隷の関係」ような殺伐としたものにはならない。
実の親子関係はもちろんのこと、養父子の関係であろうとも、
本当に恭敬を尽くした上下関係を志したなら、そこに殺伐さなどは介されない。
ただ、やはり養父と養子などだと、実の親子並みの親密さを育むことがなかなか難しい。
だから「君臣父子夫婦」の三綱に基づき、主君への忠誠に類推して養子が養父への
尊敬を尽くすということが昔は嗜まれていた。だからこそ、侍社会でも同等の
家格の武家同士での養子縁組などが滞りなく行われてもいたが、将軍や大名のような
三綱五常の実践対象ともできる実質的な主君が廃されて、天皇一尊の立憲君主制が敷かれた
明治以降にはそうもいかなくなり、旧来の養子縁組ありきな家系保全がままならなくなって
しまったことから、お家断絶などの憂き目に遭う武家が多発したりもしたのだった。
実の親子関係や、三綱五常の保護下にある養父子関係であれば、そこで上下関係を講じようとも、
決してその関係性が殺伐化したりすることはなく、むしろ無闇に対等関係であろうとしたりした
場合にこそ、対立や喧嘩などの問題が生ずる。それは、親子関係というものが「家」という
流れの中に自然と存在するものだからで、上下関係を講ずればその流れに自然と乗れる一方、
無闇な対等関係であろうとした場合にこそ、その流れに逆らうことにもなるからだ。
親戚関係でもないような、全くの赤の他人同士であるのなら、始めからそんな流れが
備わっていることはない。主君と臣下の関係ですら、他人同士ならそんな流れはないから、
まずは親子関係における序列を尽くした上で、その序列を君臣間に及ぼすのでなければ、
いくらそれ自体に恭敬を尽くした所で、君臣関係もまた殺伐としたものになりかねない。
どこまでいっても「主人と奴隷の関係」ような殺伐としたものにはならない。
実の親子関係はもちろんのこと、養父子の関係であろうとも、
本当に恭敬を尽くした上下関係を志したなら、そこに殺伐さなどは介されない。
ただ、やはり養父と養子などだと、実の親子並みの親密さを育むことがなかなか難しい。
だから「君臣父子夫婦」の三綱に基づき、主君への忠誠に類推して養子が養父への
尊敬を尽くすということが昔は嗜まれていた。だからこそ、侍社会でも同等の
家格の武家同士での養子縁組などが滞りなく行われてもいたが、将軍や大名のような
三綱五常の実践対象ともできる実質的な主君が廃されて、天皇一尊の立憲君主制が敷かれた
明治以降にはそうもいかなくなり、旧来の養子縁組ありきな家系保全がままならなくなって
しまったことから、お家断絶などの憂き目に遭う武家が多発したりもしたのだった。
実の親子関係や、三綱五常の保護下にある養父子関係であれば、そこで上下関係を講じようとも、
決してその関係性が殺伐化したりすることはなく、むしろ無闇に対等関係であろうとしたりした
場合にこそ、対立や喧嘩などの問題が生ずる。それは、親子関係というものが「家」という
流れの中に自然と存在するものだからで、上下関係を講ずればその流れに自然と乗れる一方、
無闇な対等関係であろうとした場合にこそ、その流れに逆らうことにもなるからだ。
親戚関係でもないような、全くの赤の他人同士であるのなら、始めからそんな流れが
備わっていることはない。主君と臣下の関係ですら、他人同士ならそんな流れはないから、
まずは親子関係における序列を尽くした上で、その序列を君臣間に及ぼすのでなければ、
いくらそれ自体に恭敬を尽くした所で、君臣関係もまた殺伐としたものになりかねない。
家においてこそ、上下関係が親密さと共に遍在できるのは、先祖代々に渡る系譜の継承があるから。
今から四代前ともなれば、父子ともにその先祖と触れ合ったことすらないのが当たり前なもので、
そのような神秘的な領域にまで配慮を働かせる必要があるから、親子関係が秩序的であることでこそ
親密さが損なわれなくても済む。別に、やたらと愛し合っているから親密でいられるというばかりでもない
のだから、他人同士で親子並みの愛し合いを心がけてみた所で、同等の結果が得られたりするものではない。
先祖代々の系譜の継承があるから、実の親子関係だけでなく、養父子関係すらもが秩序立てに
よってこそ親密さを保てる。一方で、そのような事実があるわけでもないから、他の上下関係をいくら
秩序立ててみたところで、それが親密さに結びつくようなことはなく、かえって殺伐さばかりを助長する。
だから本当は、全ての上下関係を親子関係の派生系として捉えるべきなのであり、それが叶わないのなら、
世界中が上下関係に基づく殺伐さに見舞われることになる。その殺伐さを嫌うあまり、あらゆる上下関係を
この世から排する平等主義などを希求し、挙句には父子の親までをも損なうことにすらなってしまうのである。
「今商王受、〜正士を囚奴とし、郊社を修めず、宗廟を享らず。
〜上帝順わず、祝ちて時の喪を降す。爾其れ孜孜として、予れ一人を奉じ、恭しみて天の罰を行え」
「いま殷の紂王は、(数多の暴虐を列挙して)立派な人々をも囚人や奴隷とし、社稷霊廟を修繕して
先祖の神を祭り尊ぶこともしない。天帝もまたこれを美しとせず、現状を断ち切っての大喪を下される。
おまえたちも孜孜としてよく励み、天命を受けた我れ(武王)こそを奉じて、慎んで天の罰を行うがよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
今から四代前ともなれば、父子ともにその先祖と触れ合ったことすらないのが当たり前なもので、
そのような神秘的な領域にまで配慮を働かせる必要があるから、親子関係が秩序的であることでこそ
親密さが損なわれなくても済む。別に、やたらと愛し合っているから親密でいられるというばかりでもない
のだから、他人同士で親子並みの愛し合いを心がけてみた所で、同等の結果が得られたりするものではない。
先祖代々の系譜の継承があるから、実の親子関係だけでなく、養父子関係すらもが秩序立てに
よってこそ親密さを保てる。一方で、そのような事実があるわけでもないから、他の上下関係をいくら
秩序立ててみたところで、それが親密さに結びつくようなことはなく、かえって殺伐さばかりを助長する。
だから本当は、全ての上下関係を親子関係の派生系として捉えるべきなのであり、それが叶わないのなら、
世界中が上下関係に基づく殺伐さに見舞われることになる。その殺伐さを嫌うあまり、あらゆる上下関係を
この世から排する平等主義などを希求し、挙句には父子の親までをも損なうことにすらなってしまうのである。
「今商王受、〜正士を囚奴とし、郊社を修めず、宗廟を享らず。
〜上帝順わず、祝ちて時の喪を降す。爾其れ孜孜として、予れ一人を奉じ、恭しみて天の罰を行え」
「いま殷の紂王は、(数多の暴虐を列挙して)立派な人々をも囚人や奴隷とし、社稷霊廟を修繕して
先祖の神を祭り尊ぶこともしない。天帝もまたこれを美しとせず、現状を断ち切っての大喪を下される。
おまえたちも孜孜としてよく励み、天命を受けた我れ(武王)こそを奉じて、慎んで天の罰を行うがよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
「人の患いは、好んで人の師となるに在り」
(離婁章句上・二三)
親子以外の上下関係、特に師弟関係などは、親が子に教師をあてがう場合でもないのなら、
あくまで弟子となる側の自由意思によって形成されるべきものだ。一旦師弟となって、
ものを教わるからには、厳しい教育姿勢なども受け入れなければならなくなるが、
まず師弟となるかどうかという所で、弟子となる側の自由意思による従属の
決断がないのならば、いくら師となろうとする側ばかりが師ぶったところで、
全く真の師弟関係と見なすには値しないままであり続けるのである。
古来から「信者になるか殺されるか」という最悪の覇道によって信者を獲得してきた
キリスト教の神なんぞに、真に自らの弟子であると見なすことのできる相手など、一人もいない。
自分が誰かの親代わりになる資格などがないのはもちろんのこと、人に何かを教えてあげる教師
として適格となる程度の資格すらをも、覇権志向によってあらかじめかなぐり捨てているといえる。
親でもなければ教師でもない、単なる「情報屋」としての役割ていどは、確かに聖書教が果たした。
世界の征服を企てる過程で博物志向をも大いに発揮し、理論と実物の両面における豊富な情報を収集した。
しかしそれとて、世界中の財宝を自分たちだけで独り占めにしようとする下衆な下心があってのことで、
実際にそれらの情報を駆使することで、世界中の資源の八割以上を欧米聖書圏だけで独占するほどもの
暴挙を実現しているわけだから、何ら尊敬するにも値しない。今さら情報屋としての仕事ぶりに
対する報酬を与えてやったりする必要もないし、大体そんな余裕ももうこの地球上にはない。
(離婁章句上・二三)
親子以外の上下関係、特に師弟関係などは、親が子に教師をあてがう場合でもないのなら、
あくまで弟子となる側の自由意思によって形成されるべきものだ。一旦師弟となって、
ものを教わるからには、厳しい教育姿勢なども受け入れなければならなくなるが、
まず師弟となるかどうかという所で、弟子となる側の自由意思による従属の
決断がないのならば、いくら師となろうとする側ばかりが師ぶったところで、
全く真の師弟関係と見なすには値しないままであり続けるのである。
古来から「信者になるか殺されるか」という最悪の覇道によって信者を獲得してきた
キリスト教の神なんぞに、真に自らの弟子であると見なすことのできる相手など、一人もいない。
自分が誰かの親代わりになる資格などがないのはもちろんのこと、人に何かを教えてあげる教師
として適格となる程度の資格すらをも、覇権志向によってあらかじめかなぐり捨てているといえる。
親でもなければ教師でもない、単なる「情報屋」としての役割ていどは、確かに聖書教が果たした。
世界の征服を企てる過程で博物志向をも大いに発揮し、理論と実物の両面における豊富な情報を収集した。
しかしそれとて、世界中の財宝を自分たちだけで独り占めにしようとする下衆な下心があってのことで、
実際にそれらの情報を駆使することで、世界中の資源の八割以上を欧米聖書圏だけで独占するほどもの
暴挙を実現しているわけだから、何ら尊敬するにも値しない。今さら情報屋としての仕事ぶりに
対する報酬を与えてやったりする必要もないし、大体そんな余裕ももうこの地球上にはない。
覇権主義の拡大を通じて、聖書圏こそはこの世界、この宇宙にまつわる最大級の物質的情報を獲得した。
そこにはあまりにも多くの犠牲が伴っていた上に、精神的理解も全く欠けたままであり続けてきたのだから、
専ら精神修養を心がけてきた東洋社会などと比べて、聖書圏がより偉大な功績を挙げられたなどということは
全くもってない。どこまでも小人の妄動ゆえの所産というまでのことで、見下されこそすれど、見上げられる
ことなどがあって然るべきでないことでは一貫している。そうであることがまず大前提としてあった上で、
あまりにも甚大な災禍を聖書圏がこの地球上にもたらしたことへの弁償代として、聖書圏において蓄積
されてきた博物的情報が提供されることにより、聖書権の人間の罪状が多少軽減するということはある。
全くの見返り抜きで、この世界の復興や繁栄のために聖書圏の博物情報が無制限に活用されて、それでやっと
聖書圏の人間の罪が差し引きゼロになるか、やっぱり有罪なままかといったところで、親代わりや教師は
おろか、単なる情報屋として自分たちを誇れるようなことすらまずないままであり続ける。所詮は聖書信者
として為したことが、少しでも有益無害であるようなことも決してないのだから、完全に聖書信仰を棄却し、
聖書信仰による罪も完全に償って後にやっと、元聖書信者が誇りを取り戻していく余地も生ずるのだといえる。
「其が心を懲らさずして、覆りてその正しきを怨む」
「自分の(過った)心を懲らしめることもせずに、(己の過ちと他人の正しきを)覆して正しいものを責めようとする。
(謂れ無き危害を他者に及ぼすようなやからの心理はえてしてこのようなもので、それほどもの
妄念に囚われた愚か者であるからこそ、自分を他人の親だなどとまで倒錯してしまえるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
そこにはあまりにも多くの犠牲が伴っていた上に、精神的理解も全く欠けたままであり続けてきたのだから、
専ら精神修養を心がけてきた東洋社会などと比べて、聖書圏がより偉大な功績を挙げられたなどということは
全くもってない。どこまでも小人の妄動ゆえの所産というまでのことで、見下されこそすれど、見上げられる
ことなどがあって然るべきでないことでは一貫している。そうであることがまず大前提としてあった上で、
あまりにも甚大な災禍を聖書圏がこの地球上にもたらしたことへの弁償代として、聖書圏において蓄積
されてきた博物的情報が提供されることにより、聖書権の人間の罪状が多少軽減するということはある。
全くの見返り抜きで、この世界の復興や繁栄のために聖書圏の博物情報が無制限に活用されて、それでやっと
聖書圏の人間の罪が差し引きゼロになるか、やっぱり有罪なままかといったところで、親代わりや教師は
おろか、単なる情報屋として自分たちを誇れるようなことすらまずないままであり続ける。所詮は聖書信者
として為したことが、少しでも有益無害であるようなことも決してないのだから、完全に聖書信仰を棄却し、
聖書信仰による罪も完全に償って後にやっと、元聖書信者が誇りを取り戻していく余地も生ずるのだといえる。
「其が心を懲らさずして、覆りてその正しきを怨む」
「自分の(過った)心を懲らしめることもせずに、(己の過ちと他人の正しきを)覆して正しいものを責めようとする。
(謂れ無き危害を他者に及ぼすようなやからの心理はえてしてこのようなもので、それほどもの
妄念に囚われた愚か者であるからこそ、自分を他人の親だなどとまで倒錯してしまえるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
欧米聖書圏ではごく当たり前な存在として受け止められている、
一部富裕層の組織的共謀に基づく大規模な金融犯罪や国際権力犯罪、
近ごろだとイルミナティやフリーメイソンのような外的名義で行われている
カルト犯罪が、たとえばこの日本だと「そんなものがあるわけがない」みたいな
受け止められ方をする。「そんなものが社会的な健在を許されるはずがないから」と、
自分たちの常識では考えてしまうから。キリスト教圏でもなければ、ユダヤ教徒を
庇護するような慣習があったこともないこの日本で、国や世界を破滅に陥れる程もの
カルト犯罪が容認され続けるなどということが、想像すらできるものではないから。
(オウム真理教によるカルトテロがあっという間に一掃された実例などもある)
そのような、日本でなら決して黙認されることもないような組織的カルト犯罪が聖書圏で
横行し続けているのも、他でもない、聖書圏が「聖書圏」であるからにほかならない。
別にカルト指定を受けているわけでもないような、正統とされているような
キリスト教であろうとも、普遍的な基準からいえば、その教義が十分にカルト的である。
神の所業であれ悪魔の所業であれ、聖書信仰は「マッチポンプ」を容認する信仰である。
犯罪聖書中における神や悪魔の所業が丸っきりマッチポンプそのものなのだから、どんなに
真っ当に聖書の記述を信じてみた所で、必ずマッチポンプを容認させられる破目におちいる。
だから、イルミナティのような悪魔崇拝のカルト犯罪組織が悪行を企てるのであっても、
そこに「大戦での勝利」みたいな正義めいた「ポンプ」の要素が付加されるのであれば、
それだけで全てのキリスト教徒がカルト犯罪全般を黙認してしまうことになる。
マッチポンプを宗教的に容認する風潮のある社会では、例えそれが、自分たちが敵視している
悪魔崇拝者によるものであろうとも、マッチポンプ型のカルト犯罪が横行することを、一定以上に
容認してしまう状態が続くことになる。それが聖書信仰に基づくとは限らないが、聖書信仰で
ある以上は必ず、マッチポンプ型の悪逆非道を容認し続けるザマに陥るようになっている。
一部富裕層の組織的共謀に基づく大規模な金融犯罪や国際権力犯罪、
近ごろだとイルミナティやフリーメイソンのような外的名義で行われている
カルト犯罪が、たとえばこの日本だと「そんなものがあるわけがない」みたいな
受け止められ方をする。「そんなものが社会的な健在を許されるはずがないから」と、
自分たちの常識では考えてしまうから。キリスト教圏でもなければ、ユダヤ教徒を
庇護するような慣習があったこともないこの日本で、国や世界を破滅に陥れる程もの
カルト犯罪が容認され続けるなどということが、想像すらできるものではないから。
(オウム真理教によるカルトテロがあっという間に一掃された実例などもある)
そのような、日本でなら決して黙認されることもないような組織的カルト犯罪が聖書圏で
横行し続けているのも、他でもない、聖書圏が「聖書圏」であるからにほかならない。
別にカルト指定を受けているわけでもないような、正統とされているような
キリスト教であろうとも、普遍的な基準からいえば、その教義が十分にカルト的である。
神の所業であれ悪魔の所業であれ、聖書信仰は「マッチポンプ」を容認する信仰である。
犯罪聖書中における神や悪魔の所業が丸っきりマッチポンプそのものなのだから、どんなに
真っ当に聖書の記述を信じてみた所で、必ずマッチポンプを容認させられる破目におちいる。
だから、イルミナティのような悪魔崇拝のカルト犯罪組織が悪行を企てるのであっても、
そこに「大戦での勝利」みたいな正義めいた「ポンプ」の要素が付加されるのであれば、
それだけで全てのキリスト教徒がカルト犯罪全般を黙認してしまうことになる。
マッチポンプを宗教的に容認する風潮のある社会では、例えそれが、自分たちが敵視している
悪魔崇拝者によるものであろうとも、マッチポンプ型のカルト犯罪が横行することを、一定以上に
容認してしまう状態が続くことになる。それが聖書信仰に基づくとは限らないが、聖書信仰で
ある以上は必ず、マッチポンプ型の悪逆非道を容認し続けるザマに陥るようになっている。
儒学や仏教のような、マッチポンプ型の悪行の有害無益さを具さに見極めて、始めから
そのような悪行の専らな防止に努めていく教学を本旨とするのであれば、例えばこの日本のように、
イルミナティの如きカルト犯罪組織の存在を徹底して拒絶し尽くす風潮を生み出すこともできる。
今はそのような国も限られているが、世界中が日本並みにカルト犯罪組織の市民権を全否定
していけるようになったならば、始めからイルミナティ級の激甚カルトは生じないようになる。
そうなるためには、ただマッチポンプの存在価値を否定し尽くす文化を広めていくのみならず、
マッチポンプを黙認してしまうような要素を含む文化を駆逐していく必要までもがある。
必ずしもマッチポンプによる悪行に自分たちが及ぶわけではなくても、キリスト教やユダヤ教は
全てが全て、マッチポンプを容認してしまうぐらいの要素は必ず含有しているものだから、
この世からマッチポンプ犯罪を根絶してくためには、キリスト教やユダヤ教の根絶から
務めて行く必要がある。カルト組織のマッチポンプ犯罪が人類の滅亡にすら手をかけ始めて
いる現今においては、もはや聖書信仰からの根絶が急務にすらなっているのである。
「昔の大猷に若って、治を未乱に制し、邦を未危に保んじよ」
「古えの大道に則って、未だ乱が生じぬ内からよく統制し、万邦が危機に陥る前からよく保全せよ。
(具体的には、大水の害が生じたりする前からの治水を心がけるなど。大水害を
生じさせてからのマッチポンプなども当然、始めから企てさせないようにする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・周官より)
そのような悪行の専らな防止に努めていく教学を本旨とするのであれば、例えばこの日本のように、
イルミナティの如きカルト犯罪組織の存在を徹底して拒絶し尽くす風潮を生み出すこともできる。
今はそのような国も限られているが、世界中が日本並みにカルト犯罪組織の市民権を全否定
していけるようになったならば、始めからイルミナティ級の激甚カルトは生じないようになる。
そうなるためには、ただマッチポンプの存在価値を否定し尽くす文化を広めていくのみならず、
マッチポンプを黙認してしまうような要素を含む文化を駆逐していく必要までもがある。
必ずしもマッチポンプによる悪行に自分たちが及ぶわけではなくても、キリスト教やユダヤ教は
全てが全て、マッチポンプを容認してしまうぐらいの要素は必ず含有しているものだから、
この世からマッチポンプ犯罪を根絶してくためには、キリスト教やユダヤ教の根絶から
務めて行く必要がある。カルト組織のマッチポンプ犯罪が人類の滅亡にすら手をかけ始めて
いる現今においては、もはや聖書信仰からの根絶が急務にすらなっているのである。
「昔の大猷に若って、治を未乱に制し、邦を未危に保んじよ」
「古えの大道に則って、未だ乱が生じぬ内からよく統制し、万邦が危機に陥る前からよく保全せよ。
(具体的には、大水の害が生じたりする前からの治水を心がけるなど。大水害を
生じさせてからのマッチポンプなども当然、始めから企てさせないようにする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・周官より)
「正統か異端かに関わらず、「マッチポンプ」という権力犯罪現象を容認するのが
全ての聖書信仰の通義だから、この世からマッチポンプ系の権力犯罪を根絶するためには、
正統派とされるものを含む、全ての聖書信仰の根絶にも務めなければならない」
今日書いたことを要約すれば、こうなる。
その理由は全文を読んで理解してもらう他はないが、
さしあたっての軍人などに対する速やかな情報伝達を必要とするのなら、こう言う。
全ての聖書信仰の通義だから、この世からマッチポンプ系の権力犯罪を根絶するためには、
正統派とされるものを含む、全ての聖書信仰の根絶にも務めなければならない」
今日書いたことを要約すれば、こうなる。
その理由は全文を読んで理解してもらう他はないが、
さしあたっての軍人などに対する速やかな情報伝達を必要とするのなら、こう言う。
他人が最悪の不幸に追い込まれている中で、
自分がそれよりはまだマシな境遇に置かれていることへの相対的な幸福感を抱く
という性向が、人間には残念ながら備わっている。日本の小中高におけるいじめ問題
などもそのような性向に起因していて、いじめっ子となる側も別にさして恵まれた境遇に
いるわけでもないが、そのような立場から同級生などをいじめることで相対的な優越感を
抱くという場合が非常に多く、教師や親にろくな教育を受けていないことなども常なので、
これは完全に人としての精神的な未熟さに基づいて来たしてしまった問題だといえる。
ほんの形式ばかり、体裁ばかりだけでも人よりマシそうでいられたらそれで幸せ、
そういった、人としての向上心が完全に途絶え切った人間ばかりが楽しみとする幸せも、
自分たち自身が全世界、全人類のうちでも最低最悪の立場に追い込まれた時には、ついに絶える。
自分たちよりももっと不幸そうなもの、もっと恵まれていなさそうなものを探し尽くしても、
もはやどこにもそんな相手が見つからない、それ程にも自分たち自身が最悪の立場に陥る。
そこまで自分たち自身を追い詰める人間もそう多くはないが、他者をより悲惨な境遇に
陥れることで、自身の境遇の相対的なマシさ加減を幸せがることを本旨とするユダヤ=
キリスト両聖書教が最終的に行き着いた帰結点というのは、まさにそれだった。
何が何でも他者を自分たち以上に貶めようとする意地汚さに即して、異教徒を硬軟織り混ぜた
徹底的な迫害下に置いてはみたものの、それによって全世界が人類滅亡級の危機に晒される
ことともなった。今の世界で最大級の影響力を誇っているのが自分たちで、しかもその世界を
究極の破滅に陥れている張本人も自分たちなのだから、もはや自分たちで責任を取る他はない。
責任を取る以上は自分たちが最下等の処遇に甘んじることすら必ずしも避けられるものではない、
そういった、実質面からの最悪の不遇がすでに確定してしまっていることがまず一つ。
自分がそれよりはまだマシな境遇に置かれていることへの相対的な幸福感を抱く
という性向が、人間には残念ながら備わっている。日本の小中高におけるいじめ問題
などもそのような性向に起因していて、いじめっ子となる側も別にさして恵まれた境遇に
いるわけでもないが、そのような立場から同級生などをいじめることで相対的な優越感を
抱くという場合が非常に多く、教師や親にろくな教育を受けていないことなども常なので、
これは完全に人としての精神的な未熟さに基づいて来たしてしまった問題だといえる。
ほんの形式ばかり、体裁ばかりだけでも人よりマシそうでいられたらそれで幸せ、
そういった、人としての向上心が完全に途絶え切った人間ばかりが楽しみとする幸せも、
自分たち自身が全世界、全人類のうちでも最低最悪の立場に追い込まれた時には、ついに絶える。
自分たちよりももっと不幸そうなもの、もっと恵まれていなさそうなものを探し尽くしても、
もはやどこにもそんな相手が見つからない、それ程にも自分たち自身が最悪の立場に陥る。
そこまで自分たち自身を追い詰める人間もそう多くはないが、他者をより悲惨な境遇に
陥れることで、自身の境遇の相対的なマシさ加減を幸せがることを本旨とするユダヤ=
キリスト両聖書教が最終的に行き着いた帰結点というのは、まさにそれだった。
何が何でも他者を自分たち以上に貶めようとする意地汚さに即して、異教徒を硬軟織り混ぜた
徹底的な迫害下に置いてはみたものの、それによって全世界が人類滅亡級の危機に晒される
ことともなった。今の世界で最大級の影響力を誇っているのが自分たちで、しかもその世界を
究極の破滅に陥れている張本人も自分たちなのだから、もはや自分たちで責任を取る他はない。
責任を取る以上は自分たちが最下等の処遇に甘んじることすら必ずしも避けられるものではない、
そういった、実質面からの最悪の不遇がすでに確定してしまっていることがまず一つ。
そもそも、他者を貶めることで自分たちの相対的なマシさを幸せがろうなどとすること自体が
専らな悪行であり、故につまらない。そのような所業に始めから手を染めないようにしてきた
他の人々などと比べて、悪因苦果の甘受という道理の面から不遇にあり続けてきたことが二つ。
実物面と心理面、両面において、聖書信者こそは世界最悪の不遇に追い込まれ、以って、
他社を貶めることで自分たちを幸せがる醜悪な論理の推進も、完全に潰えることとなった。
上にも書いたとおり、この論理は未成年における「いじめの論理」などにも通じているもので、
いじめっ子の抱くような未熟故の思い上がりを社会的に発展させ尽くしたなら、最終的に
どうなるのかといったことの見本ともなっている。結果は、他でもない最悪の破滅だったわけで、
聖書信者だけでなく、いじめを好んでいるような未成年や大人もまた、この事実を神妙に
受け止めて、自分たちが好き好んでいることの因果応報をも恐れ慎むようにすべきだといえる。
「周公、武王に相たり、紂を誅し奄を伐ち、三年にして其の君を討ち、飛廉を海隅に駆りて
之れを戮す。国を滅ぼす者五十、虎、豹、犀、象を駆りて之れを遠ざけ、天下大いに悦べり」
「魯の周公は武王の首相として殷の紂王を誅殺し、紂王を助けた奄国を征伐し、三年をかけて
そこの主君を討ち取り、紂王の寵臣だった飛廉も海辺の果てに追い込んでこれを誅戮した。
殷紂の暴虐の連帯責任で取り潰した国は五十に上り、トラやヒョウやサイやゾウのような害獣をも
遠方へと追っ払っため、天下の人々がみな大いに喜んだ。(仁者のもたらす喜びは局地的でない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句・九より)
専らな悪行であり、故につまらない。そのような所業に始めから手を染めないようにしてきた
他の人々などと比べて、悪因苦果の甘受という道理の面から不遇にあり続けてきたことが二つ。
実物面と心理面、両面において、聖書信者こそは世界最悪の不遇に追い込まれ、以って、
他社を貶めることで自分たちを幸せがる醜悪な論理の推進も、完全に潰えることとなった。
上にも書いたとおり、この論理は未成年における「いじめの論理」などにも通じているもので、
いじめっ子の抱くような未熟故の思い上がりを社会的に発展させ尽くしたなら、最終的に
どうなるのかといったことの見本ともなっている。結果は、他でもない最悪の破滅だったわけで、
聖書信者だけでなく、いじめを好んでいるような未成年や大人もまた、この事実を神妙に
受け止めて、自分たちが好き好んでいることの因果応報をも恐れ慎むようにすべきだといえる。
「周公、武王に相たり、紂を誅し奄を伐ち、三年にして其の君を討ち、飛廉を海隅に駆りて
之れを戮す。国を滅ぼす者五十、虎、豹、犀、象を駆りて之れを遠ざけ、天下大いに悦べり」
「魯の周公は武王の首相として殷の紂王を誅殺し、紂王を助けた奄国を征伐し、三年をかけて
そこの主君を討ち取り、紂王の寵臣だった飛廉も海辺の果てに追い込んでこれを誅戮した。
殷紂の暴虐の連帯責任で取り潰した国は五十に上り、トラやヒョウやサイやゾウのような害獣をも
遠方へと追っ払っため、天下の人々がみな大いに喜んだ。(仁者のもたらす喜びは局地的でない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句・九より)
親からもらった我が身を無闇に危うからしめることと、
我が身可愛さが全てで他者への配慮を著しく欠くこととの、両方が中正を損なっている。
前者は若者や男が陥りやすい傾向である一方、後者は年寄りや女が陥りやすい傾向であり、
ある程度は老若男女がそれぞれにそのような性向を帯びつつ世の中を形成していくものでもあるが、
それも無闇もっぱらであり過ぎたりしたのなら、必ず乱世などの弊害をもたらすものである。
今だと欧米聖書圏の人間の、自分たちばかりを可愛がって他者を顧みない性向の過剰が、
世界中のあらゆる災厄の元凶ともなっている。「人権」「自由」「平和」などと色々な美辞麗句で
飾り立ててみてはいるものの、要は自分たち自身を底なしに可愛がってい続けたいというだけのこと。
女々しすぎる事もとっくの昔に開き直り済みで、イギリスのように本当に老婆を王君にしている国もある。
高年の女あたりが最もその傾向を極大化させる「我が身可愛さが全て」という心理が、全世界における
金科玉条にまで指定され、捨て身の荒業はおろか、一人前の責任を負うために相応の苦労をすることすら
評価が保証されない事態と化している。とにかく自分個人の安居や栄華が達成されていることこそは
最評価の対象とされ、その条件を満たしやすい富豪あたりが成功者のみならず、偉人としてすら扱われている。
何も、誰しもが赤穂義士のような捨て身の生き方こそを目指すべきだなどということはないし、
それ以上にも見るべき所のない犬死になどなら、むしろ避けることを心がけるべきであるにも違いない。
しかし、今という時代があまりにも「我が身可愛さ」の偏重に振れきってしまっている世の中だから、
もう少し世相を中正に反す目的でも、自己犠牲的な生き方の復権を目指していくべきだといえる。
我が身可愛さが全てで他者への配慮を著しく欠くこととの、両方が中正を損なっている。
前者は若者や男が陥りやすい傾向である一方、後者は年寄りや女が陥りやすい傾向であり、
ある程度は老若男女がそれぞれにそのような性向を帯びつつ世の中を形成していくものでもあるが、
それも無闇もっぱらであり過ぎたりしたのなら、必ず乱世などの弊害をもたらすものである。
今だと欧米聖書圏の人間の、自分たちばかりを可愛がって他者を顧みない性向の過剰が、
世界中のあらゆる災厄の元凶ともなっている。「人権」「自由」「平和」などと色々な美辞麗句で
飾り立ててみてはいるものの、要は自分たち自身を底なしに可愛がってい続けたいというだけのこと。
女々しすぎる事もとっくの昔に開き直り済みで、イギリスのように本当に老婆を王君にしている国もある。
高年の女あたりが最もその傾向を極大化させる「我が身可愛さが全て」という心理が、全世界における
金科玉条にまで指定され、捨て身の荒業はおろか、一人前の責任を負うために相応の苦労をすることすら
評価が保証されない事態と化している。とにかく自分個人の安居や栄華が達成されていることこそは
最評価の対象とされ、その条件を満たしやすい富豪あたりが成功者のみならず、偉人としてすら扱われている。
何も、誰しもが赤穂義士のような捨て身の生き方こそを目指すべきだなどということはないし、
それ以上にも見るべき所のない犬死になどなら、むしろ避けることを心がけるべきであるにも違いない。
しかし、今という時代があまりにも「我が身可愛さ」の偏重に振れきってしまっている世の中だから、
もう少し世相を中正に反す目的でも、自己犠牲的な生き方の復権を目指していくべきだといえる。
ちょうど、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三武将が、命知らず・保身過剰・攻防自在の適例となっている。
信長は命知らずの破壊行為に及びすぎたし、秀吉は晩年に保身の鬼と化して人々からの信奉を失った。
この両者の両極性を反面教師として模範的な天下取りたり得たのが家康公であり、三方ヶ原の戦いで
先陣切って戦うことで命の危機に晒されたこともあれば、大坂の陣では血気にはやる若手の侍たちに制動
をかける側にも回っていた。かと思いきや、大やぐらに据えた最新型の大砲で大坂城を砲撃するなど、その
行いに出処進退自由自在な融通があり、これこそは保身にも捨て身にも振り切れない中正な生き方だといえる。
今が老齢期の秀吉のような、保身過剰ばかりに覆われている世の中だから、次は信長のような命知らずばかりに
世の中が覆われるべきだなどということもない。確かに、秦帝国崩壊後に項羽のような猪武者が暴れまわった
ようにして、保身に過ぎた世相の跳ねっ返りとしての捨て身屋の多発が生ずることも、必ずしも完全に避けられる
ことではないが、最終的に目指すべきなのは、あくまで家康公のような攻防自在の中正の境地であり、
そこに最終的に収まることでこそ、世の中も本当の平安や繁栄にあり付けるようになる。
うだる程にも保身まみれな時代が続いたからといって、漫画やSFでよく描かれているような「世紀末社会」
などを希求するのも考えものである。それこそ、カルト文化にとっての思うツボともなるのだから。
「父母没すと雖も、将に善を為さんとするに、父母の令名を貽さんと思いて、必ず果たす。
将に不善を為さんとするにも、父母の羞辱を貽さんことを思いて、必ず果たさず」
「すでに父母が没してからも、善を為すからには、父母の名を挙げることを念頭に置いて、必ず果たそうとする。
悪を為しそうになった時にも、そのせいで父母を辱めてしまうことを思い起こして、必ず踏みとどまるようにする。
(家の名誉や辱めは死後にまで続く。それは自分個人の保身ばかりに拘泥することで得たり守れたりするものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
信長は命知らずの破壊行為に及びすぎたし、秀吉は晩年に保身の鬼と化して人々からの信奉を失った。
この両者の両極性を反面教師として模範的な天下取りたり得たのが家康公であり、三方ヶ原の戦いで
先陣切って戦うことで命の危機に晒されたこともあれば、大坂の陣では血気にはやる若手の侍たちに制動
をかける側にも回っていた。かと思いきや、大やぐらに据えた最新型の大砲で大坂城を砲撃するなど、その
行いに出処進退自由自在な融通があり、これこそは保身にも捨て身にも振り切れない中正な生き方だといえる。
今が老齢期の秀吉のような、保身過剰ばかりに覆われている世の中だから、次は信長のような命知らずばかりに
世の中が覆われるべきだなどということもない。確かに、秦帝国崩壊後に項羽のような猪武者が暴れまわった
ようにして、保身に過ぎた世相の跳ねっ返りとしての捨て身屋の多発が生ずることも、必ずしも完全に避けられる
ことではないが、最終的に目指すべきなのは、あくまで家康公のような攻防自在の中正の境地であり、
そこに最終的に収まることでこそ、世の中も本当の平安や繁栄にあり付けるようになる。
うだる程にも保身まみれな時代が続いたからといって、漫画やSFでよく描かれているような「世紀末社会」
などを希求するのも考えものである。それこそ、カルト文化にとっての思うツボともなるのだから。
「父母没すと雖も、将に善を為さんとするに、父母の令名を貽さんと思いて、必ず果たす。
将に不善を為さんとするにも、父母の羞辱を貽さんことを思いて、必ず果たさず」
「すでに父母が没してからも、善を為すからには、父母の名を挙げることを念頭に置いて、必ず果たそうとする。
悪を為しそうになった時にも、そのせいで父母を辱めてしまうことを思い起こして、必ず踏みとどまるようにする。
(家の名誉や辱めは死後にまで続く。それは自分個人の保身ばかりに拘泥することで得たり守れたりするものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
古代のイスラエル宗教やギリシャ学の形成に携わった人間というのは、非常に少ない。
儒学の祖である孔子の下には3000人の弟子が集まっていたというし(「史記」孔子世家参照)、
その中でも六芸(易詩書礼楽春秋)に通じている高弟が72人に上ったという。その高弟の一人
である曾子などにも、常に七十人程度の従者がいたというから(「孟子)離婁章句下・三二参照)、
昔から儒学というものがいかに膨大な数の人々に支持され研鑽されてきたのかが分かるというもの。
片や、イエスに随順した弟子なんてのはたったの13人止まりで、その弟子すら、イエスの命令も
聞かずに居眠りしていたような体たらく。そのイエスの興したキリスト教が爆発的に広がったのも、
「信じるか殺されるか」という強圧的な態度によって宗教的覇権を拡大していったからに他ならず、
決して自分たちから進んでキリスト信仰を取り入れていったような人間がいたからでもない。
西洋では宗教だけでなく、学術のほうでも、古代のアカデミアの頃からの伝統として、学術を
完全な専門機関の寡占下に置き、在野の研究者の権威を一切認めないという姿勢が貫かれている。
科挙試験のような実地の役人登用試験こそが決定的な関門とされ、それまでの勉学は私塾に依ろうが
自学自習に依ろうが自由とされていた中国の学術姿勢などと比べても、「学問をする資格」自体を世間
一般から剥奪する性格が強かったため、学術の存在目的が全くの商工業目的に限られる様相をも呈した。
(アカデミアの如き専門機関を運営していくために、結局は商工組合などのスポンサーを必要とするから)
たとえば、秦帝国による法家支配が敷かれていた頃の中国などにおいても、在野の学者が勝手に
政治学的意見を述べたりする「横議」が法的に禁止されて、その禁を破った儒者を多数穴埋めにして
処刑するなどの暴政がまかり通っていた。とはいえ、市井に至るまでの儒学の普及率は、洋学のそれ
などとは段違いなものだから、家の壁に儒書を塗り込んで隠したり、狂人のフリをして摘発を免れたり
していた数多の儒者の協力にも基づいて秦帝国が討伐を受け、漢帝国が新たに樹立されもした。
儒学の祖である孔子の下には3000人の弟子が集まっていたというし(「史記」孔子世家参照)、
その中でも六芸(易詩書礼楽春秋)に通じている高弟が72人に上ったという。その高弟の一人
である曾子などにも、常に七十人程度の従者がいたというから(「孟子)離婁章句下・三二参照)、
昔から儒学というものがいかに膨大な数の人々に支持され研鑽されてきたのかが分かるというもの。
片や、イエスに随順した弟子なんてのはたったの13人止まりで、その弟子すら、イエスの命令も
聞かずに居眠りしていたような体たらく。そのイエスの興したキリスト教が爆発的に広がったのも、
「信じるか殺されるか」という強圧的な態度によって宗教的覇権を拡大していったからに他ならず、
決して自分たちから進んでキリスト信仰を取り入れていったような人間がいたからでもない。
西洋では宗教だけでなく、学術のほうでも、古代のアカデミアの頃からの伝統として、学術を
完全な専門機関の寡占下に置き、在野の研究者の権威を一切認めないという姿勢が貫かれている。
科挙試験のような実地の役人登用試験こそが決定的な関門とされ、それまでの勉学は私塾に依ろうが
自学自習に依ろうが自由とされていた中国の学術姿勢などと比べても、「学問をする資格」自体を世間
一般から剥奪する性格が強かったため、学術の存在目的が全くの商工業目的に限られる様相をも呈した。
(アカデミアの如き専門機関を運営していくために、結局は商工組合などのスポンサーを必要とするから)
たとえば、秦帝国による法家支配が敷かれていた頃の中国などにおいても、在野の学者が勝手に
政治学的意見を述べたりする「横議」が法的に禁止されて、その禁を破った儒者を多数穴埋めにして
処刑するなどの暴政がまかり通っていた。とはいえ、市井に至るまでの儒学の普及率は、洋学のそれ
などとは段違いなものだから、家の壁に儒書を塗り込んで隠したり、狂人のフリをして摘発を免れたり
していた数多の儒者の協力にも基づいて秦帝国が討伐を受け、漢帝国が新たに樹立されもした。
漢帝国においては市井での横議も許可され、私的な儒学の勉強によって能力を養ったものが
高官として登用されることなども頻発するようになった。それでこそ漢帝国も400年にわたる
治世を打ち立てられたわけで、学問が象牙の塔の内側などに隠し込まれずに、広く万人に
よって享受されていくことの有意義さが歴史的に証明された実例ともなっている。
徳川幕府開府後の江戸時代の日本においても、数多の経書や兵法書や仏典が官命で増刷され、
当時世界一の識字率と共に、人々が揃いも揃って最高級の学術文化を享受することができていた。
その頃に養われた民度の高さがあればこそ、明治以降、敗戦以降と徐々に強化されていった愚民化洗脳の
下でも、未だ日本人の民度が世界最高級の水準を保てている。「高尚なことは全て一部の人間に任せ、
あとの人間はみな畜生も同然ののんべんだらりとした生活を送る」という西洋的な俗悪支配が推進
され続けている中にも、未だ大多数の日本人が節度ある振る舞いを心がけようとしているのは、大昔に
先祖が取った杵柄としての、高尚な学術理解にも基づく本能からの品格が未だに残されているからだ。
大昔から「一部の宗教家や知識人と、大多数の愚民」という体制を続けてきた西洋社会などには、
当然そのような根拠に基づく民度の高さはない。民たち自身に自主的な民度の向上を促したところで
決してそんなことも不可能であり、権力者こそが高尚な文化を象牙の塔にしまい込む悪癖を払拭し、
人々に広く学問享受や勉学の余地を与えていくようにしなければ、これ以上の民度の向上も見込めない。
象牙の塔を打ち壊して大々的にその中身を開示してみた結果、洋学も聖書教もろくでもない代物で
あったことがバレてしまうというのならそれまでのことで、もうそんなものをもったいぶって
高嶺の花に掲げておくことから永久に辞めてしまうに越したことはないのである。
高官として登用されることなども頻発するようになった。それでこそ漢帝国も400年にわたる
治世を打ち立てられたわけで、学問が象牙の塔の内側などに隠し込まれずに、広く万人に
よって享受されていくことの有意義さが歴史的に証明された実例ともなっている。
徳川幕府開府後の江戸時代の日本においても、数多の経書や兵法書や仏典が官命で増刷され、
当時世界一の識字率と共に、人々が揃いも揃って最高級の学術文化を享受することができていた。
その頃に養われた民度の高さがあればこそ、明治以降、敗戦以降と徐々に強化されていった愚民化洗脳の
下でも、未だ日本人の民度が世界最高級の水準を保てている。「高尚なことは全て一部の人間に任せ、
あとの人間はみな畜生も同然ののんべんだらりとした生活を送る」という西洋的な俗悪支配が推進
され続けている中にも、未だ大多数の日本人が節度ある振る舞いを心がけようとしているのは、大昔に
先祖が取った杵柄としての、高尚な学術理解にも基づく本能からの品格が未だに残されているからだ。
大昔から「一部の宗教家や知識人と、大多数の愚民」という体制を続けてきた西洋社会などには、
当然そのような根拠に基づく民度の高さはない。民たち自身に自主的な民度の向上を促したところで
決してそんなことも不可能であり、権力者こそが高尚な文化を象牙の塔にしまい込む悪癖を払拭し、
人々に広く学問享受や勉学の余地を与えていくようにしなければ、これ以上の民度の向上も見込めない。
象牙の塔を打ち壊して大々的にその中身を開示してみた結果、洋学も聖書教もろくでもない代物で
あったことがバレてしまうというのならそれまでのことで、もうそんなものをもったいぶって
高嶺の花に掲げておくことから永久に辞めてしまうに越したことはないのである。
「君に事える者は量りて後に入り、入りて後に量らず。
凡そ人に乞い假るもの、人の為めに事え従う者も亦た然りとす。
故に上に怨み無く、下も罪から遠ざかるなり。密を窺わず、旁りに狎れず、旧故を道わず、戯色せず」
「主君に仕える者はまず可否を量って後に仕えるようにし、仕えてから量ったりしないようにする。
人に何かを乞い求めたり、君に限らず誰かに仕えたりする場合にも、必ずこれと同じようにする。
自分にとって秘密裏とされていることを濫りに窺ったりせず、無闇に馴れ馴れしくしたりせず、
昔の過ちを改めて指摘したりせず、巧言令色を弄んだりしないようにする。
(イエスの復活すら万人には秘密裏であるのに、上記のような正しい
礼儀に即してキリスト教が人々に受け入れられたはずもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
凡そ人に乞い假るもの、人の為めに事え従う者も亦た然りとす。
故に上に怨み無く、下も罪から遠ざかるなり。密を窺わず、旁りに狎れず、旧故を道わず、戯色せず」
「主君に仕える者はまず可否を量って後に仕えるようにし、仕えてから量ったりしないようにする。
人に何かを乞い求めたり、君に限らず誰かに仕えたりする場合にも、必ずこれと同じようにする。
自分にとって秘密裏とされていることを濫りに窺ったりせず、無闇に馴れ馴れしくしたりせず、
昔の過ちを改めて指摘したりせず、巧言令色を弄んだりしないようにする。
(イエスの復活すら万人には秘密裏であるのに、上記のような正しい
礼儀に即してキリスト教が人々に受け入れられたはずもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
善因楽果悪因苦果の因果応報に特定の超越的な基準などは存在せず、
全くの人間自身の定義に因っている。とはいえ人間は「五体を持つ胎生の霊長」
といったような特定の範囲内にのみ存在する生物だから、その範囲に即して
それぞれが善とみなすもの、悪とみなすものも自然と似通っていくことになる。
善とは本来楽果を期待すべきものであり、悪とは本来苦果を期待すべきもので
あると人間自身が言葉の交わし合いの中からも自然と定義していっているから、
誰しもが楽果に与れるものを善、苦果に苛まれるものを悪と、自然に定義しもする。
しかし、善因楽果悪因苦果の因果応報に何らかの超越的な基準が存在し、
その基準によって外的に善悪が決められるとしたなら、そうもいかなくなる。
自分が苦果の因子であるように思えるものも善である可能性があることになるし、
楽果の因子であるように思えるものが悪である可能性もまたあることになる。
善因楽果悪因苦果を人工的に規定しようとする試みの一つが実定法であり、
仮に実定法で「強盗殺人をしなければ死刑」と規定されていたために、強盗殺人を
しなかっただけで死刑になるとしたなら、それが苦果であるために、強盗殺人をしない
ことが悪であり、強盗殺人を行うことが比較的な善であることにすらなってしまう。
旧約冒頭のモーセ五書を「律法(トーラー)」とする犯罪聖書もかくの如くであり、
トーラーに規定されている法規の大半は、自然に人々が定義する善悪などとは
大幅に乖離した、虚構の善悪を取り決める「徒法」の集成となっている。人間個人の
自然な感覚とは全く以て無関係なところに、無機質な虚構の倫理構造を構築していく
そのあり方は、近代法学に基づく法治主義社会などにも少なからず応用されてしまっていて、
六法の如き法文構造による倫理的締め付けの強化が、人々に極度の精神的怠慢をもたらし、
もはや人間自身の自然な感覚に基づく善悪などはなかったことにすらされてしまっている。
全くの人間自身の定義に因っている。とはいえ人間は「五体を持つ胎生の霊長」
といったような特定の範囲内にのみ存在する生物だから、その範囲に即して
それぞれが善とみなすもの、悪とみなすものも自然と似通っていくことになる。
善とは本来楽果を期待すべきものであり、悪とは本来苦果を期待すべきもので
あると人間自身が言葉の交わし合いの中からも自然と定義していっているから、
誰しもが楽果に与れるものを善、苦果に苛まれるものを悪と、自然に定義しもする。
しかし、善因楽果悪因苦果の因果応報に何らかの超越的な基準が存在し、
その基準によって外的に善悪が決められるとしたなら、そうもいかなくなる。
自分が苦果の因子であるように思えるものも善である可能性があることになるし、
楽果の因子であるように思えるものが悪である可能性もまたあることになる。
善因楽果悪因苦果を人工的に規定しようとする試みの一つが実定法であり、
仮に実定法で「強盗殺人をしなければ死刑」と規定されていたために、強盗殺人を
しなかっただけで死刑になるとしたなら、それが苦果であるために、強盗殺人をしない
ことが悪であり、強盗殺人を行うことが比較的な善であることにすらなってしまう。
旧約冒頭のモーセ五書を「律法(トーラー)」とする犯罪聖書もかくの如くであり、
トーラーに規定されている法規の大半は、自然に人々が定義する善悪などとは
大幅に乖離した、虚構の善悪を取り決める「徒法」の集成となっている。人間個人の
自然な感覚とは全く以て無関係なところに、無機質な虚構の倫理構造を構築していく
そのあり方は、近代法学に基づく法治主義社会などにも少なからず応用されてしまっていて、
六法の如き法文構造による倫理的締め付けの強化が、人々に極度の精神的怠慢をもたらし、
もはや人間自身の自然な感覚に基づく善悪などはなかったことにすらされてしまっている。
ある程度以上に大規模な社会であれば、古今東西を問わず法制による社会管理というものが
多少は必要となるものである。とはいえ当該の社会が徳治社会であるのならば、法文による
善悪の規定などよりも、人間自身が自然と合致させる普遍的善悪のほうをより尊重する。
それすらなくなるのが法治社会であり、何も大社会だからといって必ずしも法治社会で
なければならないわけではなく、法治社会には必ず徳治を上乗せすることができる。
人間自身の自然な取り決めから乖離した所に作為的な善悪を置く、それを根絶すべきだ
などとまでは言わないが、少なくともそんな行いを良質なものだなどと見なすべきではない。
「神が即した法規に即して善を為し、神の計らいによって楽果を受ける」というような
虚構の因果応報の流布も大概にすべきであり、そんな所に真の善因楽果などあり得ない
とすら考えてしかるべきだ。そんな所に全てを還元するというのなら、かえって
それによる甚大な悪因苦果の最終的なぶり返しこそが危ぶまれるというものだ。
「仁は天下の表なり、義は天下の制なり、報は天下の利なり」
「仁は天下に遍くその正大さを表すものであり、義はその正大さに即して天下を制するものである。
そしてその仁義の報いが天下の大利となる。(大乗仏教の唯識思想などが構築される500年以上前から、
善因楽果の因果応報が自明なものとして把捉されている。仁徳に超越者の介在の余地などはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
多少は必要となるものである。とはいえ当該の社会が徳治社会であるのならば、法文による
善悪の規定などよりも、人間自身が自然と合致させる普遍的善悪のほうをより尊重する。
それすらなくなるのが法治社会であり、何も大社会だからといって必ずしも法治社会で
なければならないわけではなく、法治社会には必ず徳治を上乗せすることができる。
人間自身の自然な取り決めから乖離した所に作為的な善悪を置く、それを根絶すべきだ
などとまでは言わないが、少なくともそんな行いを良質なものだなどと見なすべきではない。
「神が即した法規に即して善を為し、神の計らいによって楽果を受ける」というような
虚構の因果応報の流布も大概にすべきであり、そんな所に真の善因楽果などあり得ない
とすら考えてしかるべきだ。そんな所に全てを還元するというのなら、かえって
それによる甚大な悪因苦果の最終的なぶり返しこそが危ぶまれるというものだ。
「仁は天下の表なり、義は天下の制なり、報は天下の利なり」
「仁は天下に遍くその正大さを表すものであり、義はその正大さに即して天下を制するものである。
そしてその仁義の報いが天下の大利となる。(大乗仏教の唯識思想などが構築される500年以上前から、
善因楽果の因果応報が自明なものとして把捉されている。仁徳に超越者の介在の余地などはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
なぜ「しれっと」した書き込みは連続規制ではないのですか
明和は今日で終わり。書き込みも無意味で無駄。
「聖書」の話題になるとしつこいのがいるからなぁ。
情報傍受システムで何もつくるきにもならない。ほんまに
しょうーもないのはその手段と結局自分等のはばきかせ。
明和は今日で終わり。書き込みも無意味で無駄。
「聖書」の話題になるとしつこいのがいるからなぁ。
情報傍受システムで何もつくるきにもならない。ほんまに
しょうーもないのはその手段と結局自分等のはばきかせ。
「最終的な安楽への到達」というものが、結局のところ、東洋では一貫して劣後されている。
極楽浄土への往生を乞い願う浄土教ですら、来世に往生する「体失往生」よりも、
現世でありのままに往生する「不体失往生」のほうが本懐だとされている。
他力信仰としてみれば不自然な気もするが、生きてるうちからの成道による有余涅槃があって、
死んで無余涅槃に達するという仏法のあり方に即すれば、むしろこのほうが至当となっている。
>>259の「礼記」からの引用を見ても分かるように、東洋文化というのは概ね、善因楽果悪因苦果の
罪福異熟に対する漠然とした察知が伴っている。罪福異熟を特に理論的に究明しているのは大乗仏教の
唯識学派だが、別に唯識派に限らずとも、他の多くの東洋思想哲学宗教が罪福異熟に相当する法則を予め
諾っている。また、それぐらいは当然のこととして踏まえているような教学(儒学や仏教など)こそが正統
とされ、それすら踏まえられていないような教学(縦横家や害為正法外道など)こそが異端ともされている。
自らの身命を損なってまで孝養に務められた者はいない、孝養にすら務められないのだから、
天下のための仁行などにも当然務められはしないというのが、儒家の基本的な姿勢でもある。
この考え方も、善因楽果の諾いに強固に根ざしていて、もしもこの逆に、自殺行為や親子兄弟での
殺し合いなどによって天国の到来のような結果が得られるとするならば、これは「悪因楽果」を肯定して
いることになり、実際にキリスト教などはかくの如き罪福異熟に違背する法則を肯定しているわけである。
「苦難の先に福徳が待っている」と言えばいかにも聞こえがよく、実際に孟子も告子章句下・一五で
それに似たことを言ったりもしているわけだが、楽果の因子となる行いはあくまで善行だから、
善行を為すにことかけての「浩然の気」からなる清々しさが必ず付帯している。だから、
行いとしてどんなに苦難であるとした所で、悪行を為す時に伴うような、疚しさからなる
不健全な苦しみなどは伴わない。だから「(悪徳商人のように)肩をそびやかして諂い笑うのは、
真夏の炎天下に田畑を耕すよりも疲れる(滕文公章句下・七)」ともいうのである。
極楽浄土への往生を乞い願う浄土教ですら、来世に往生する「体失往生」よりも、
現世でありのままに往生する「不体失往生」のほうが本懐だとされている。
他力信仰としてみれば不自然な気もするが、生きてるうちからの成道による有余涅槃があって、
死んで無余涅槃に達するという仏法のあり方に即すれば、むしろこのほうが至当となっている。
>>259の「礼記」からの引用を見ても分かるように、東洋文化というのは概ね、善因楽果悪因苦果の
罪福異熟に対する漠然とした察知が伴っている。罪福異熟を特に理論的に究明しているのは大乗仏教の
唯識学派だが、別に唯識派に限らずとも、他の多くの東洋思想哲学宗教が罪福異熟に相当する法則を予め
諾っている。また、それぐらいは当然のこととして踏まえているような教学(儒学や仏教など)こそが正統
とされ、それすら踏まえられていないような教学(縦横家や害為正法外道など)こそが異端ともされている。
自らの身命を損なってまで孝養に務められた者はいない、孝養にすら務められないのだから、
天下のための仁行などにも当然務められはしないというのが、儒家の基本的な姿勢でもある。
この考え方も、善因楽果の諾いに強固に根ざしていて、もしもこの逆に、自殺行為や親子兄弟での
殺し合いなどによって天国の到来のような結果が得られるとするならば、これは「悪因楽果」を肯定して
いることになり、実際にキリスト教などはかくの如き罪福異熟に違背する法則を肯定しているわけである。
「苦難の先に福徳が待っている」と言えばいかにも聞こえがよく、実際に孟子も告子章句下・一五で
それに似たことを言ったりもしているわけだが、楽果の因子となる行いはあくまで善行だから、
善行を為すにことかけての「浩然の気」からなる清々しさが必ず付帯している。だから、
行いとしてどんなに苦難であるとした所で、悪行を為す時に伴うような、疚しさからなる
不健全な苦しみなどは伴わない。だから「(悪徳商人のように)肩をそびやかして諂い笑うのは、
真夏の炎天下に田畑を耕すよりも疲れる(滕文公章句下・七)」ともいうのである。
浩然の気からなる清々しさすら伴わない、疚しさばかりにまみれた不健全な苦しみの先に、楽果が
期待できるなんてことまでは、さすがにない。それは罪福異熟の絶対真理にも即して断じられることだし、
上記のような儒学レベルの漠然とした論及に即しても、納得づくめで断定する他のないものである。
自分が強盗殺人を犯して逃亡し回っていて、当局の操作から逃げ回ってもはやヘトヘトでいる、それ程にも
苦労したから罪が報われるなんていう、都合のいい話が当然あるはずもなく、往生際も悪く逃げ回り続けて
来たことによる罪状が新たに加味されて、一層の重刑が科されるというばかりのことにしかならない。
「悪因楽果」などというものが存在しない実例もかくの如くであり、どこにも不思議な所はないといえる。
努力して苦労するにも、そうすべき処と、そうすべきでない処がある。考えてみれば、当たり前のことである。
「昔、仲尼蜡賓に与り、事畢りて、観の上に出て遊び、喟然と而て嘆く。
仲尼の嘆くは、蓋し魯を嘆くなり。言偃側らに在りて曰く、君子何を嘆く。孔子曰く、
大道の行われるや、三代の英に与れる、丘未だ之れに逮ばざるなり、而こうして志有り」
「昔、孔子が魯の蜡祭に賓客として招かれたとき、祭事の後に観台の上に登って、溜息をしながら嘆いた。
孔子が嘆いたのは魯の現状を嘆いてのことだった。近侍していた弟子の言偃が『なぜ嘆いているのですか』
と問うと、孔子は答えた。『夏殷周の三代の頃には、英智によって世に大道が敷かれていたというのに、
私は未だそれに及ぶことができない。志しだけはあるというのに』(その嘆き方も聖人君子ならではのもので、
心の中ではなく天下に大道が敷かれることこそが望みなのだから、下手な気休めも決して及びはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
期待できるなんてことまでは、さすがにない。それは罪福異熟の絶対真理にも即して断じられることだし、
上記のような儒学レベルの漠然とした論及に即しても、納得づくめで断定する他のないものである。
自分が強盗殺人を犯して逃亡し回っていて、当局の操作から逃げ回ってもはやヘトヘトでいる、それ程にも
苦労したから罪が報われるなんていう、都合のいい話が当然あるはずもなく、往生際も悪く逃げ回り続けて
来たことによる罪状が新たに加味されて、一層の重刑が科されるというばかりのことにしかならない。
「悪因楽果」などというものが存在しない実例もかくの如くであり、どこにも不思議な所はないといえる。
努力して苦労するにも、そうすべき処と、そうすべきでない処がある。考えてみれば、当たり前のことである。
「昔、仲尼蜡賓に与り、事畢りて、観の上に出て遊び、喟然と而て嘆く。
仲尼の嘆くは、蓋し魯を嘆くなり。言偃側らに在りて曰く、君子何を嘆く。孔子曰く、
大道の行われるや、三代の英に与れる、丘未だ之れに逮ばざるなり、而こうして志有り」
「昔、孔子が魯の蜡祭に賓客として招かれたとき、祭事の後に観台の上に登って、溜息をしながら嘆いた。
孔子が嘆いたのは魯の現状を嘆いてのことだった。近侍していた弟子の言偃が『なぜ嘆いているのですか』
と問うと、孔子は答えた。『夏殷周の三代の頃には、英智によって世に大道が敷かれていたというのに、
私は未だそれに及ぶことができない。志しだけはあるというのに』(その嘆き方も聖人君子ならではのもので、
心の中ではなく天下に大道が敷かれることこそが望みなのだから、下手な気休めも決して及びはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
悟りをひらいた者こそは、悲観を捨てて楽観(常楽我浄)に入るのでも
あるからこそ、西洋人などなら「ニヒリズムだ」などとも決め付けかねない
ような教義的特徴をも持つ仏教が、東洋では真摯に貴ばれて来てもいる。
厳格すぎて気が狂う者も昔はよく居たという、座禅修行などを通じて悟りをひらくことで、
かえって「蠢動含霊のウジ虫に至るまで価値があることに気づく(山本玄峰)」という。
禅仏教こそは特定の神を尊崇したりすることもない、ニヒリズムにも最も近しい教義を持つが、
ニーチェやヒトラーの如き西洋のニヒリストと違って、禅僧は無宗教的な愛執に至るまで
全ての情念を捨離しきって、無念無想の極みの先にこそ悟りをひらく。そしてその悟りこそは
無闇に事物を軽視したり嫌悪したりすることもない、歓喜と恭敬とを兼ね備えてもいるのである。
それは、ニヒリズムを抱いた人間が必ずしも到れるような境地ではなく、適切な精進修行も介さない
限りにおいては到底、到れるものでもない。特に、無宗教的な愛執に至るまでの全ての情念を俗世で
振り切ることが極めて困難で、それに失敗してしまうからこそ、単なるニヒリストというのは概ね、
悲観にまみれた情念に囚われて、万事万物に対する軽蔑や嫌悪を抱くようになってしまうのである。
その悲観的な情念を楽観的な情念に転換するために、ニヒリストから神格信仰者へと転向するとする、
それが先祖崇拝程度に止まるのなら決して悪くはないし、架空の神仏を信仰対象とするのであっても、
当該の神仏の品質がそれなりに上等であれば、情念そのものの制御が効いて問題を来すことがない。
しかし、信仰の対象が全知全能の絶対超越神などであるために、まるで何でも買ってくれる
売春相手を溺愛する娼婦か何かのような心境に自らが陥ったとする。そしたらそのような対象を
信仰してしまったせいでどこまでも情念が激化することになり、その情念が「失神」によって楽観から
悲観に転じたりしたならば、自殺級の悪念に自らが見舞われるようなことにすらなってしまうのである。
あるからこそ、西洋人などなら「ニヒリズムだ」などとも決め付けかねない
ような教義的特徴をも持つ仏教が、東洋では真摯に貴ばれて来てもいる。
厳格すぎて気が狂う者も昔はよく居たという、座禅修行などを通じて悟りをひらくことで、
かえって「蠢動含霊のウジ虫に至るまで価値があることに気づく(山本玄峰)」という。
禅仏教こそは特定の神を尊崇したりすることもない、ニヒリズムにも最も近しい教義を持つが、
ニーチェやヒトラーの如き西洋のニヒリストと違って、禅僧は無宗教的な愛執に至るまで
全ての情念を捨離しきって、無念無想の極みの先にこそ悟りをひらく。そしてその悟りこそは
無闇に事物を軽視したり嫌悪したりすることもない、歓喜と恭敬とを兼ね備えてもいるのである。
それは、ニヒリズムを抱いた人間が必ずしも到れるような境地ではなく、適切な精進修行も介さない
限りにおいては到底、到れるものでもない。特に、無宗教的な愛執に至るまでの全ての情念を俗世で
振り切ることが極めて困難で、それに失敗してしまうからこそ、単なるニヒリストというのは概ね、
悲観にまみれた情念に囚われて、万事万物に対する軽蔑や嫌悪を抱くようになってしまうのである。
その悲観的な情念を楽観的な情念に転換するために、ニヒリストから神格信仰者へと転向するとする、
それが先祖崇拝程度に止まるのなら決して悪くはないし、架空の神仏を信仰対象とするのであっても、
当該の神仏の品質がそれなりに上等であれば、情念そのものの制御が効いて問題を来すことがない。
しかし、信仰の対象が全知全能の絶対超越神などであるために、まるで何でも買ってくれる
売春相手を溺愛する娼婦か何かのような心境に自らが陥ったとする。そしたらそのような対象を
信仰してしまったせいでどこまでも情念が激化することになり、その情念が「失神」によって楽観から
悲観に転じたりしたならば、自殺級の悪念に自らが見舞われるようなことにすらなってしまうのである。
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