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聖書 Part7
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「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

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聖書信仰の有害無益さがよくわきまえられて、狂信したりすることがなくなればそれに応じて、作為的な道徳教育に
邁進していく必要などもなくなるのだから、儒学による道徳教育こそは、聖書信仰という罪に対する罰であると考えるべきだ。
「申伯の徳は、柔恵にして且つ直し。此の万邦を揉らぎ、四国に聞まれあり。
吉甫は誦を作る、其の詩は孔とも碩しく、其の風も肆と好ましく、以て申伯に贈す」
「周王の叔父の申伯は、その徳が柔和で恵み深く、それでいて正直である。万邦を和らげて、四方の国々にも評判が囁かれる。
吉甫がそれを賛じて唄った歌も、それはそれは麗しいもので、風流にも適って好ましかったために、申伯に献じられた。
(徳治の成果は歌として献じられるばかり。全世界を投げ出すなんて、どれほどの暴政をやらかしたことやら)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)
邁進していく必要などもなくなるのだから、儒学による道徳教育こそは、聖書信仰という罪に対する罰であると考えるべきだ。
「申伯の徳は、柔恵にして且つ直し。此の万邦を揉らぎ、四国に聞まれあり。
吉甫は誦を作る、其の詩は孔とも碩しく、其の風も肆と好ましく、以て申伯に贈す」
「周王の叔父の申伯は、その徳が柔和で恵み深く、それでいて正直である。万邦を和らげて、四方の国々にも評判が囁かれる。
吉甫がそれを賛じて唄った歌も、それはそれは麗しいもので、風流にも適って好ましかったために、申伯に献じられた。
(徳治の成果は歌として献じられるばかり。全世界を投げ出すなんて、どれほどの暴政をやらかしたことやら)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)
父なし子ではあっても父親の身元を自力で調べ上げ、正式に家を継いだ孔子と、
父なし子である悲哀をそのまま開き直って「神の子」と称したイエスとでは、
実父に対する恭敬の念の有無と、ちゃんと父親の素性を確かめようとした勤勉さの有無とが違う。
結果、孔子は人並み以上に親を敬う孝心を養い、物事をちゃんと調べ上げる洞察力をも得た一方で、
イエスは実父がいたとした場合に、その存在を貶めるような不孝な思いや言動を募らせて、物事の
実際をちゃんと確かめようともしなかったことからなる注意欠陥障害までをも深刻化させていた。
父なしの妾腹の私生児という境遇が、孔子には人並み以上の孝心や洞察力を得させた一方、
イエスには人並み以上に不孝な思いや言動と、深刻な注意欠陥障害とを募らさせた。
両者の違いは、自利作善と他力本願というところにも現れていて、孔子は自学自習によってこそ
孝心や洞察力を養ったのに対し、イエスは脳内妄想神への仮託によって不孝や注意欠陥を募らせた。
神と呼び、父と呼ぶ脳内妄想への他力本願が、不孝や注意欠陥の元凶となったわけだから、
他力本願の悪用の中でも最たるものであるといえ、妾腹の私生児のような恵まれない境遇の持ち主こそは、
自らの不遇からなる怨みつらみを妄想神に仮託して、他力本願の対象としたりしてはいけないのだといえる。
人間の不遇にも色々とあるが、特に妾腹の私生児のような「乗り越えられる不遇」に見舞われている場合には、
自力の努力による克服をまず志すべきであって、そこに怠惰からなる諦めや、諦めからなる不満などを
差し挟むべきではない。どうしても治せない難病にかかっていたり、乱世からなる民への虐げによって、
どうしても自分が困窮した生活から這い上がれなかったりといった、克服がほとんど不可能な不遇に限って
他力本願での気休めも許されるものであり、最善を尽くして、それでも悪人であらざるを得ないところにこそ、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という、親鸞聖人の言葉までもが活きてくるのだといえる。
父なし子である悲哀をそのまま開き直って「神の子」と称したイエスとでは、
実父に対する恭敬の念の有無と、ちゃんと父親の素性を確かめようとした勤勉さの有無とが違う。
結果、孔子は人並み以上に親を敬う孝心を養い、物事をちゃんと調べ上げる洞察力をも得た一方で、
イエスは実父がいたとした場合に、その存在を貶めるような不孝な思いや言動を募らせて、物事の
実際をちゃんと確かめようともしなかったことからなる注意欠陥障害までをも深刻化させていた。
父なしの妾腹の私生児という境遇が、孔子には人並み以上の孝心や洞察力を得させた一方、
イエスには人並み以上に不孝な思いや言動と、深刻な注意欠陥障害とを募らさせた。
両者の違いは、自利作善と他力本願というところにも現れていて、孔子は自学自習によってこそ
孝心や洞察力を養ったのに対し、イエスは脳内妄想神への仮託によって不孝や注意欠陥を募らせた。
神と呼び、父と呼ぶ脳内妄想への他力本願が、不孝や注意欠陥の元凶となったわけだから、
他力本願の悪用の中でも最たるものであるといえ、妾腹の私生児のような恵まれない境遇の持ち主こそは、
自らの不遇からなる怨みつらみを妄想神に仮託して、他力本願の対象としたりしてはいけないのだといえる。
人間の不遇にも色々とあるが、特に妾腹の私生児のような「乗り越えられる不遇」に見舞われている場合には、
自力の努力による克服をまず志すべきであって、そこに怠惰からなる諦めや、諦めからなる不満などを
差し挟むべきではない。どうしても治せない難病にかかっていたり、乱世からなる民への虐げによって、
どうしても自分が困窮した生活から這い上がれなかったりといった、克服がほとんど不可能な不遇に限って
他力本願での気休めも許されるものであり、最善を尽くして、それでも悪人であらざるを得ないところにこそ、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という、親鸞聖人の言葉までもが活きてくるのだといえる。
「与に共に学ぶ可くも、未だ与に道に適く可からず。
与に道に適く可くも、未だ与に立つ可からず。与に立つ可くも、未だ与に権る可からず」
「人と共に学ぶことができたとしても、それで共に道を得られるとは限らない。
共に道を得られたとしても、それで共に同じ立場に立てるとも限らない。
共に同じ立場に立てたとしても、それで共に物事をよく取り計らえるとは限らない。
(自学自習によって聖人として大成した孔子ならではの、自力作善の孤独さの経験則だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三一より)
与に道に適く可くも、未だ与に立つ可からず。与に立つ可くも、未だ与に権る可からず」
「人と共に学ぶことができたとしても、それで共に道を得られるとは限らない。
共に道を得られたとしても、それで共に同じ立場に立てるとも限らない。
共に同じ立場に立てたとしても、それで共に物事をよく取り計らえるとは限らない。
(自学自習によって聖人として大成した孔子ならではの、自力作善の孤独さの経験則だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三一より)
息をするようにして根も葉もない演技をする虚言癖も、
現実の苦難を克服しようともせずに、ただひたすら逃避を続けて来たがための所産。
演技が仕事になるのは、商売人や芸能人まで。君子階級はおろか、
農家や職人ですら、思考の上ずりからなる虚言虚構などは仕事上、百害あって一利もない。
士農工商の位階に即して上位である職業ほど上辺の取り繕いなどでは済まされず、
下位である職業ほど口先だけでのがなりたてがものを言う。
つまり、職業倫理的には演技を不要ないし有害とする職業のほうが優良であり、
演技を有用で有益なものとする職業のほうが劣悪であるといえる。
劇場での演技の舞台なども、視野の範囲としてはごく限られたものであり、
そこばかりを注視していれば必ず死角が生ずる。四方に広がる天下全土のうちでも、
ごく限られた界隈にだけ視界や投げ銭のあて所を与えるのが、演技を用いた職業の根本原理であり、
それは演劇だけでなく、客の前でだけへつらい顔を崩さないでいる商売などについても言えること。
商売や芸能が、あくまで卑賤な職業として、演技を生業とすることはある程度まで許されることだが、
それらが聖職のように崇め祭られたりするのはおかしいし、挙げ句には演技などでことを済ませてはならない
為政者までもが、商売人や芸能人のあり方を倣って巧言令色に努めたりするのもおかしい。
演技を生業とするような職業は賤しい職業だし、そもそも演技という行い自体が、無くて済めばそれに越したことはないもの。
「演技をこの世から根絶しろ」とまではいわないが、少なくとも演技を神聖化するような風潮は絶やすべきだといえる。
演技など、やってみた所で「大根」である内が、現実に生きる人としての充実度も華なのである。
現実の苦難を克服しようともせずに、ただひたすら逃避を続けて来たがための所産。
演技が仕事になるのは、商売人や芸能人まで。君子階級はおろか、
農家や職人ですら、思考の上ずりからなる虚言虚構などは仕事上、百害あって一利もない。
士農工商の位階に即して上位である職業ほど上辺の取り繕いなどでは済まされず、
下位である職業ほど口先だけでのがなりたてがものを言う。
つまり、職業倫理的には演技を不要ないし有害とする職業のほうが優良であり、
演技を有用で有益なものとする職業のほうが劣悪であるといえる。
劇場での演技の舞台なども、視野の範囲としてはごく限られたものであり、
そこばかりを注視していれば必ず死角が生ずる。四方に広がる天下全土のうちでも、
ごく限られた界隈にだけ視界や投げ銭のあて所を与えるのが、演技を用いた職業の根本原理であり、
それは演劇だけでなく、客の前でだけへつらい顔を崩さないでいる商売などについても言えること。
商売や芸能が、あくまで卑賤な職業として、演技を生業とすることはある程度まで許されることだが、
それらが聖職のように崇め祭られたりするのはおかしいし、挙げ句には演技などでことを済ませてはならない
為政者までもが、商売人や芸能人のあり方を倣って巧言令色に努めたりするのもおかしい。
演技を生業とするような職業は賤しい職業だし、そもそも演技という行い自体が、無くて済めばそれに越したことはないもの。
「演技をこの世から根絶しろ」とまではいわないが、少なくとも演技を神聖化するような風潮は絶やすべきだといえる。
演技など、やってみた所で「大根」である内が、現実に生きる人としての充実度も華なのである。
「人の臣為る者が利を懐いて以て其の君に事え、人の子為る者が利を懐いて以て其の父に事え、
人の弟為る者が利を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は終く仁義を去り、
利を懐いて以て相接わるなり。然うして亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。(ここまで既出)
人の臣為る者が仁義を懐いて以て其の君に事え、人の子為る者が仁義を懐いて以て其の父に事え、
人の弟為る者が仁義を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は去く利を去り、
仁義を懐いて以て相接わるなり。然うして王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利を曰わん」
「人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
一身の利欲ばかりを目的に仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが仁義を去ることになり、
ただ自らの利益のためにばかり関係を持つことになる。こうして滅亡しなかった例は未だかつてない。
人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
仁義の実現のために仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが利欲を去ることになり、
ただ仁義の実現のためにのみ関係を持つことになる。こうして王者とならなかった例は未だかつてない。
どうして一身の利欲のことなどを口にしていられようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・四より)
人の弟為る者が利を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は終く仁義を去り、
利を懐いて以て相接わるなり。然うして亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。(ここまで既出)
人の臣為る者が仁義を懐いて以て其の君に事え、人の子為る者が仁義を懐いて以て其の父に事え、
人の弟為る者が仁義を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は去く利を去り、
仁義を懐いて以て相接わるなり。然うして王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利を曰わん」
「人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
一身の利欲ばかりを目的に仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが仁義を去ることになり、
ただ自らの利益のためにばかり関係を持つことになる。こうして滅亡しなかった例は未だかつてない。
人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
仁義の実現のために仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが利欲を去ることになり、
ただ仁義の実現のためにのみ関係を持つことになる。こうして王者とならなかった例は未だかつてない。
どうして一身の利欲のことなどを口にしていられようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・四より)
「言葉」というものはそれ自体が、実相上の陰陽でいうところの「陰」にあたる。
自ら身を挺しての実践こそは「陽」であり、それを記録したり、補強したり
するために言葉や文字を用いるのが、陽唱陰和の吉祥法則に適うことになる。
言葉や文字が絶対と化して、そこに全く実践が伴わなかったりするのは
陽唱陰和の逆になるから不吉であり、怠惰や慢心などの原因ともなってしまう。
有言不実行が最も不吉であり、言行一致がまあまあであり、不言実行がなかなかであり、
実行の後に抑制を利かせた文飾を添えることが最も吉祥であると儒者は見なす。
だから完全に文を捨てて体育会系となるのでもなく、史書や実践思想などとしての
文化活動にはまんざらではなく、王朝の正史編纂が儒者の伝統的な事業ともされて来た。
ただ、言葉を博打のために用いること、契約や法定のために用いることなどを儒者は
なるべく忌避して来ており、そのような言葉によって人々の行いが事前に拘束を被る
ことをよからぬ事と見なして来た。そしてそれは、西洋文化のほぼ全てにも当たる。
言語道断の境地になおあり得る人だとか神仏だとかを、西洋人は太古の昔から
打ち棄ててきた。聖書信仰への罹患後にはもはやそんなものは実在しないとすらされ、
超言語的文化を全てオカルトと見なして憚らなかった。しかし、その言葉を超えた
ところにある実相への帰着こそは東洋文化の根本命題でもあり、だからこそ
東洋文化上の文書群、特に仏典などには微妙不可思議で意味不明なものが多い。
自ら身を挺しての実践こそは「陽」であり、それを記録したり、補強したり
するために言葉や文字を用いるのが、陽唱陰和の吉祥法則に適うことになる。
言葉や文字が絶対と化して、そこに全く実践が伴わなかったりするのは
陽唱陰和の逆になるから不吉であり、怠惰や慢心などの原因ともなってしまう。
有言不実行が最も不吉であり、言行一致がまあまあであり、不言実行がなかなかであり、
実行の後に抑制を利かせた文飾を添えることが最も吉祥であると儒者は見なす。
だから完全に文を捨てて体育会系となるのでもなく、史書や実践思想などとしての
文化活動にはまんざらではなく、王朝の正史編纂が儒者の伝統的な事業ともされて来た。
ただ、言葉を博打のために用いること、契約や法定のために用いることなどを儒者は
なるべく忌避して来ており、そのような言葉によって人々の行いが事前に拘束を被る
ことをよからぬ事と見なして来た。そしてそれは、西洋文化のほぼ全てにも当たる。
言語道断の境地になおあり得る人だとか神仏だとかを、西洋人は太古の昔から
打ち棄ててきた。聖書信仰への罹患後にはもはやそんなものは実在しないとすらされ、
超言語的文化を全てオカルトと見なして憚らなかった。しかし、その言葉を超えた
ところにある実相への帰着こそは東洋文化の根本命題でもあり、だからこそ
東洋文化上の文書群、特に仏典などには微妙不可思議で意味不明なものが多い。
漢字や梵字のような豊潤な書道文化もある一方で、言葉はあくまで言葉であって、
実相そのものではなく、どちらかといえば言葉よりも実相を重んじるべきだという
通念が東洋文化には一貫して存在する。むしろ、言葉を実相の記録係として
割り切って扱ってきたからこそ、豊潤な書道文化までもが発達したのであり、
言葉こそは絶対である西洋においてこそ、文字自体の扱いはかえって粗末である。
言葉を紙面上に表したりした時点で、言葉が実相に汚されたかのように思うから。
むしろ、言葉によって実相が汚されることのほうを問題視すべきなのであって、
ロゴス主義の聖書信仰や洋学を無理に実践しようとした結果、地球規模での環境破壊
などが巻き起こっていることのほうを、ロゴス主義が不吉である証拠だと捉えるべきなのだ。
「司馬牛仁を問う。子曰く、仁者は其の言や鞚。曰く、其の言や鞚は、斯れを之れ
仁と謂うべきか。子曰く、之れを為すこと難ければ、之れを言うに鞚なること無きを得んか」
「弟子の司馬牛が仁について問うた。先生は言われた。『仁者はその言葉が控えめなものだ』
司馬牛『言葉が控えめですらあれば仁と呼べるのでしょうか』 先生は言われた。
『その実践が難しいと思えば、たとえ控えめですらものを言うことができようか』
(仁者は常にその言葉が実践可能であるかどうかを念頭に置いているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・三)
実相そのものではなく、どちらかといえば言葉よりも実相を重んじるべきだという
通念が東洋文化には一貫して存在する。むしろ、言葉を実相の記録係として
割り切って扱ってきたからこそ、豊潤な書道文化までもが発達したのであり、
言葉こそは絶対である西洋においてこそ、文字自体の扱いはかえって粗末である。
言葉を紙面上に表したりした時点で、言葉が実相に汚されたかのように思うから。
むしろ、言葉によって実相が汚されることのほうを問題視すべきなのであって、
ロゴス主義の聖書信仰や洋学を無理に実践しようとした結果、地球規模での環境破壊
などが巻き起こっていることのほうを、ロゴス主義が不吉である証拠だと捉えるべきなのだ。
「司馬牛仁を問う。子曰く、仁者は其の言や鞚。曰く、其の言や鞚は、斯れを之れ
仁と謂うべきか。子曰く、之れを為すこと難ければ、之れを言うに鞚なること無きを得んか」
「弟子の司馬牛が仁について問うた。先生は言われた。『仁者はその言葉が控えめなものだ』
司馬牛『言葉が控えめですらあれば仁と呼べるのでしょうか』 先生は言われた。
『その実践が難しいと思えば、たとえ控えめですらものを言うことができようか』
(仁者は常にその言葉が実践可能であるかどうかを念頭に置いているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・三)
詐欺誘惑型のカルト信仰は、信仰の内側では徹底的な甘やかしを保証する。
あらゆる望みが思うままに叶えられて、あらゆる災厄から自分たちだけは逃れられる、
そこに堅苦しい制約などは一切存在せず、どこまでも思うがままでいられるとする。
そうして、カルト信者の自意識過剰の思い上がりは、信仰と共に無制限に肥大化していく。
言語表現でいえば「ある」「できる」「叶えられる」「愛されている」とかいった肯定的な
言葉ばかりに酔い潰れることで、人の思い上がりというのはどこまでも肥大化して行く。そうして、
何を自主的にやらせる以上にも、完全な禁治産下に置いたほうがよっぽど満足な廃人ができ上がる。
カルト教義に特有の、信仰の内側でだけの肯定の重畳、これがまず一つの、精神薄弱による廃人化を
誘発する原因の一つとなる。一方で、無信仰のニヒリストのように、何もかもをけなし尽くそうとする
否定の重畳もまた、否定の狂気からなる廃人化を誘発する。言葉を専らな肯定のためばかりに用いたり、
逆に専らな否定のためばかりに用いたりすることは精神の不健全化を招くため、そのような
言語表現の濫用に酔い潰れたり、トチ狂ったりするぐらいなら、まだ何も言わないでいたほうがよい。
言葉を専らな肯定に用いることも悪用なら、専らな否定に用いることも悪用である。
少なくとも「ヘタな言葉の用い方」であり、あるものはある、ないものはないと、肯定語と否定語を
巧みに使いこなしていくことで、実相上の吉祥を呼び込むことが、言葉の上手な使い方だといえる。
それでこそ、言語で論ずることによる人格の向上や、治世の盤石化までもが実現されていくことになる。
あらゆる望みが思うままに叶えられて、あらゆる災厄から自分たちだけは逃れられる、
そこに堅苦しい制約などは一切存在せず、どこまでも思うがままでいられるとする。
そうして、カルト信者の自意識過剰の思い上がりは、信仰と共に無制限に肥大化していく。
言語表現でいえば「ある」「できる」「叶えられる」「愛されている」とかいった肯定的な
言葉ばかりに酔い潰れることで、人の思い上がりというのはどこまでも肥大化して行く。そうして、
何を自主的にやらせる以上にも、完全な禁治産下に置いたほうがよっぽど満足な廃人ができ上がる。
カルト教義に特有の、信仰の内側でだけの肯定の重畳、これがまず一つの、精神薄弱による廃人化を
誘発する原因の一つとなる。一方で、無信仰のニヒリストのように、何もかもをけなし尽くそうとする
否定の重畳もまた、否定の狂気からなる廃人化を誘発する。言葉を専らな肯定のためばかりに用いたり、
逆に専らな否定のためばかりに用いたりすることは精神の不健全化を招くため、そのような
言語表現の濫用に酔い潰れたり、トチ狂ったりするぐらいなら、まだ何も言わないでいたほうがよい。
言葉を専らな肯定に用いることも悪用なら、専らな否定に用いることも悪用である。
少なくとも「ヘタな言葉の用い方」であり、あるものはある、ないものはないと、肯定語と否定語を
巧みに使いこなしていくことで、実相上の吉祥を呼び込むことが、言葉の上手な使い方だといえる。
それでこそ、言語で論ずることによる人格の向上や、治世の盤石化までもが実現されていくことになる。
この孟子の言葉なども、天道の好ましい側面と好ましくない側面とを冷徹に論じ上げていて、
決して人間社会がどこまでも弱者への慈しみばかりに充たされたものであるわけではないのだと
よく見定めている。その上で、天道を明らかにしていくことで、弱者への慈しみも豊かな治世を築き上げて
行こうとする心意気を得るわけだから、ただ「信じれば同情される」などという、言語上だけでの肯定一辺倒
への逃げ込みではそのような心意気も得られないために、治世を促進することすら覚束なくなるのだといえる。
「天下に道有れば、小徳は大徳に役せられ、小賢は大賢に役せらる。
天下に道無ければ、小は大に役せられ、弱は強に役せらる。斯の二者は天なり」
「天下に道がある時は、誰しもに最低限の徳や賢さが備わり、その上で小徳の持ち主が大徳の
持ち主に丁重に用いられたり、小賢の持ち主が大賢の持ち主に情け深く用いられたりする。
一方、天下に道の無いときには、ただ大小強弱の力関係があるだけで、小さくて弱いものが、
大きくて強いものに粗暴に扱われるばかりとなる。これもまた天地万物に普遍の道理だといえる。
(天下に道が有れば誰しもが、小さくて弱くとも、大きくて強いものからの同情を得られもする。
信仰の内側でしかそれを得られないとする犯罪聖書の記述は、天下から道を覆い隠す元凶ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・七より)
決して人間社会がどこまでも弱者への慈しみばかりに充たされたものであるわけではないのだと
よく見定めている。その上で、天道を明らかにしていくことで、弱者への慈しみも豊かな治世を築き上げて
行こうとする心意気を得るわけだから、ただ「信じれば同情される」などという、言語上だけでの肯定一辺倒
への逃げ込みではそのような心意気も得られないために、治世を促進することすら覚束なくなるのだといえる。
「天下に道有れば、小徳は大徳に役せられ、小賢は大賢に役せらる。
天下に道無ければ、小は大に役せられ、弱は強に役せらる。斯の二者は天なり」
「天下に道がある時は、誰しもに最低限の徳や賢さが備わり、その上で小徳の持ち主が大徳の
持ち主に丁重に用いられたり、小賢の持ち主が大賢の持ち主に情け深く用いられたりする。
一方、天下に道の無いときには、ただ大小強弱の力関係があるだけで、小さくて弱いものが、
大きくて強いものに粗暴に扱われるばかりとなる。これもまた天地万物に普遍の道理だといえる。
(天下に道が有れば誰しもが、小さくて弱くとも、大きくて強いものからの同情を得られもする。
信仰の内側でしかそれを得られないとする犯罪聖書の記述は、天下から道を覆い隠す元凶ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・七より)
神仏は、神仏としては人間に定義されたものではあるが、
神仏と定義するところの示すものが、超人間的、超人為的な普遍性であることはままある。
絶対的に普遍的な理合を司っている神仏ほど格が高く、脆弱な理合を司るものほど格が低い。
あまりにも脆弱な理合を司っている場合には、神仏ではなく鬼畜や妖怪として扱われ、
それに付いて行けばかえってわざわいを招くものとして、教訓的に忌避の対象とされる。
脆弱な理合は、「無理」に極まる。そしてその無理を司っているのが犯罪聖書の邪神に当たる。
何らの普遍的な理合にも即しておらず、むしろ理合に真っ向から相反しようとしている。
だからそれに即して何をやったってうまくいくことはなく、それを信じた挙句の埋め合わせ
として、何もかもを無機的な作為によって作り直さなければなくなる徒労を生じさせる。
絶対に、超人間的な普遍性の理合にあやかることができなくなるのが犯罪聖書への信仰であり、
それを信仰している限りにおいては、真の超人的な普遍性に即した理合を計り知ることすらできない。
それが「普通の人間」なのではなく、普遍的な理合を見失った人間というのは、甚だしい不能者の部類に入る。
犯罪聖書などを信じていなければ、ただの普通の人間であるだけで、多少は超人的な普遍性を計り知ることが
できるのであって、それが全くできないというのは、普通の人間以上にも蒙昧が深刻化してしまっているから。
神仏と定義するところの示すものが、超人間的、超人為的な普遍性であることはままある。
絶対的に普遍的な理合を司っている神仏ほど格が高く、脆弱な理合を司るものほど格が低い。
あまりにも脆弱な理合を司っている場合には、神仏ではなく鬼畜や妖怪として扱われ、
それに付いて行けばかえってわざわいを招くものとして、教訓的に忌避の対象とされる。
脆弱な理合は、「無理」に極まる。そしてその無理を司っているのが犯罪聖書の邪神に当たる。
何らの普遍的な理合にも即しておらず、むしろ理合に真っ向から相反しようとしている。
だからそれに即して何をやったってうまくいくことはなく、それを信じた挙句の埋め合わせ
として、何もかもを無機的な作為によって作り直さなければなくなる徒労を生じさせる。
絶対に、超人間的な普遍性の理合にあやかることができなくなるのが犯罪聖書への信仰であり、
それを信仰している限りにおいては、真の超人的な普遍性に即した理合を計り知ることすらできない。
それが「普通の人間」なのではなく、普遍的な理合を見失った人間というのは、甚だしい不能者の部類に入る。
犯罪聖書などを信じていなければ、ただの普通の人間であるだけで、多少は超人的な普遍性を計り知ることが
できるのであって、それが全くできないというのは、普通の人間以上にも蒙昧が深刻化してしまっているから。
超人的な理合を把捉する専門家としての神人や仏僧にまでならなくたって、正統な神仏への畏敬も
多少は具えているただの人間であるだけで、相当に現象の理合を直観的に把捉する道は開ける。
ただし、超人的な理合を決定的に見失わせる、犯罪聖書への信仰だけは完全に破棄していることが
大前提であり、それはザビエル侵入以前の日本人や、キリシタンが禁教となった江戸時代の日本人
などであれば当然満たしている条件だった。2000年来、聖書信仰の蒙昧に耽り続けてきた西洋人が
棄教を躊躇うのならまだしも、歴史のほとんどを犯罪聖書と共に歩んではいない日本人が、
受容すればするほど人としてダメになる犯罪聖書を好き好んだりするのは、全く筋が通らない。
それによって自分たちの歴史のほとんどを応用不能なものにしてしまうのだから、世界史上でも
最高級に上質な歴史を育んできた国の人間として、犯罪聖書を亡きものにせずしていいわけがない。
「井に収むを幕する勿れ。孚有れば元吉なり。元吉にして上に在り、大いに成るなり」
「水を恵む井戸に幕を張って取水を制限するようなことをするな。誰にでも水を恵むだけの誠意が
あれば大いに吉祥である。大いに吉祥であって初めて人の上に立てるほどもの偉人として大成できる。
(恵みの大祭司となるキリストが幕屋の内にあるとは、構文上だけでも極めて不吉な記述に当たる。
朝廷の社稷霊廟に幕が張られたり、武家政権が『幕府』と呼ばれたりするのは、自分たちが産業階級を
統制する士大夫であることの一線を引くためで、自分たちがモノを恵む産業階級の主であるからではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・井・上六‐象伝)
多少は具えているただの人間であるだけで、相当に現象の理合を直観的に把捉する道は開ける。
ただし、超人的な理合を決定的に見失わせる、犯罪聖書への信仰だけは完全に破棄していることが
大前提であり、それはザビエル侵入以前の日本人や、キリシタンが禁教となった江戸時代の日本人
などであれば当然満たしている条件だった。2000年来、聖書信仰の蒙昧に耽り続けてきた西洋人が
棄教を躊躇うのならまだしも、歴史のほとんどを犯罪聖書と共に歩んではいない日本人が、
受容すればするほど人としてダメになる犯罪聖書を好き好んだりするのは、全く筋が通らない。
それによって自分たちの歴史のほとんどを応用不能なものにしてしまうのだから、世界史上でも
最高級に上質な歴史を育んできた国の人間として、犯罪聖書を亡きものにせずしていいわけがない。
「井に収むを幕する勿れ。孚有れば元吉なり。元吉にして上に在り、大いに成るなり」
「水を恵む井戸に幕を張って取水を制限するようなことをするな。誰にでも水を恵むだけの誠意が
あれば大いに吉祥である。大いに吉祥であって初めて人の上に立てるほどもの偉人として大成できる。
(恵みの大祭司となるキリストが幕屋の内にあるとは、構文上だけでも極めて不吉な記述に当たる。
朝廷の社稷霊廟に幕が張られたり、武家政権が『幕府』と呼ばれたりするのは、自分たちが産業階級を
統制する士大夫であることの一線を引くためで、自分たちがモノを恵む産業階級の主であるからではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・井・上六‐象伝)
火は文明にとって必要不可欠なものだが、火事や戦火のような災禍をも招くもの。
水もまた農耕などに必須のものだが、洪水や津波となって世に大きな禍を招きもする。
水火ともども人間の十分な管理下に置かれることこそが、人間社会にとっての吉祥法則であり、
水が絶対的、火が絶対的というようなことを極端化するのは、何らかの危うさを招くもの。
そして、水と火の消費バランスとしては、水4:火1程度であることが最も好ましく、
水1:火4などは極めて不吉で、水1:火1でもまだ不十分で、水1:火0や水0:火1でもいけない。
実例を挙げれば、農耕や漁業が水に頼る文明である一方、石油や天然ガスを燃焼させる
機械文明が火に頼る文明であるといえ(焼き畑農業や水力発電などの例外もある)、水に頼る文明を
火に頼る文明の四倍程度重視することが、人間社会を吉方へと導く黄金比になるのだといえる。
今は、石油エネルギーなどの火に頼る文明ばかりに頼りすぎているせいで、水利を重要視しての
農産なども世界レベルでは行き届かず、人間の口数に相応の食物が十分に育て上げられずにもいる。
火に頼る文明の魅力が、世界人口をも爆発させる一方、別に石油が食べ物になるわけでもないから、
人口が増えたに相応の飲食の満足が追いつかず、自然状態以上もの飢渇を多くの人々に強いることとなっている。
水もまた農耕などに必須のものだが、洪水や津波となって世に大きな禍を招きもする。
水火ともども人間の十分な管理下に置かれることこそが、人間社会にとっての吉祥法則であり、
水が絶対的、火が絶対的というようなことを極端化するのは、何らかの危うさを招くもの。
そして、水と火の消費バランスとしては、水4:火1程度であることが最も好ましく、
水1:火4などは極めて不吉で、水1:火1でもまだ不十分で、水1:火0や水0:火1でもいけない。
実例を挙げれば、農耕や漁業が水に頼る文明である一方、石油や天然ガスを燃焼させる
機械文明が火に頼る文明であるといえ(焼き畑農業や水力発電などの例外もある)、水に頼る文明を
火に頼る文明の四倍程度重視することが、人間社会を吉方へと導く黄金比になるのだといえる。
今は、石油エネルギーなどの火に頼る文明ばかりに頼りすぎているせいで、水利を重要視しての
農産なども世界レベルでは行き届かず、人間の口数に相応の食物が十分に育て上げられずにもいる。
火に頼る文明の魅力が、世界人口をも爆発させる一方、別に石油が食べ物になるわけでもないから、
人口が増えたに相応の飲食の満足が追いつかず、自然状態以上もの飢渇を多くの人々に強いることとなっている。
削除(by投稿者)
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「水に頼る文明4:火に頼る文明1」という、微妙な配分が達せられることが最も吉祥なわけで、
別に重農主義であったり、商工業軽視主義であったりすればいいわけでもない。商工業の四倍程度に
農漁業を重視し、農漁業の四分の一程度に商工業を重視すべきということであり、そのうちのどこかを
疎かにしたりするようでは、極端から極端に振れて全体の責任を負わない、小人止まりの性分と化してしまう。
士農工商の位階を重んずる儒学では、確かにどこまでもへりくだる水の特性を称賛する傾向がある。しかし、
水の特性を称賛しつつも、洪水などとして災禍を招く場合があることまでもが指摘されている(>>56などを参照)。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」であり、水を絶対視するのも、火を絶対視するのも、実相に即して不吉である。
水を重視するが火をも重視し、火よりも四倍程度水を重視する。農漁業を重視するが商工業をも重視し、
商工業よりも農耕業を四倍程度重視するといった微妙な均衡は、まさに君子士人のみが取れるものだといえる。
「万乗の国を以って万乗の国を伐つに、箪食壺漿して以て王師を迎えたるは、豈に他有らんや。
水火を避けんがためなり。水益ます深きが如く、火益ます熱きが如くんば、亦た運らんのみ」
「万乗の国が万乗の国を討伐するような蛮行を侵しておきながら、敗戦国の民たちが豪華な食物や美酒を用意して
戦勝国の王師を迎えることがあるとすれば、それは水火の災害の如き暴政から逃れたいがために他ならない。
水害がますます深刻となり、火災がますます加熱するような暴政を敷いたなら、また民たちからの支持を失うことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一〇より)
別に重農主義であったり、商工業軽視主義であったりすればいいわけでもない。商工業の四倍程度に
農漁業を重視し、農漁業の四分の一程度に商工業を重視すべきということであり、そのうちのどこかを
疎かにしたりするようでは、極端から極端に振れて全体の責任を負わない、小人止まりの性分と化してしまう。
士農工商の位階を重んずる儒学では、確かにどこまでもへりくだる水の特性を称賛する傾向がある。しかし、
水の特性を称賛しつつも、洪水などとして災禍を招く場合があることまでもが指摘されている(>>56などを参照)。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」であり、水を絶対視するのも、火を絶対視するのも、実相に即して不吉である。
水を重視するが火をも重視し、火よりも四倍程度水を重視する。農漁業を重視するが商工業をも重視し、
商工業よりも農耕業を四倍程度重視するといった微妙な均衡は、まさに君子士人のみが取れるものだといえる。
「万乗の国を以って万乗の国を伐つに、箪食壺漿して以て王師を迎えたるは、豈に他有らんや。
水火を避けんがためなり。水益ます深きが如く、火益ます熱きが如くんば、亦た運らんのみ」
「万乗の国が万乗の国を討伐するような蛮行を侵しておきながら、敗戦国の民たちが豪華な食物や美酒を用意して
戦勝国の王師を迎えることがあるとすれば、それは水火の災害の如き暴政から逃れたいがために他ならない。
水害がますます深刻となり、火災がますます加熱するような暴政を敷いたなら、また民たちからの支持を失うことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一〇より)
儒者が両親への孝養を重んずるのは、親子関係こそが天下万人に共通普遍の大綱であるからだ。
友人も恋人もいない人間にだって親はいる。孤児ですらどこかに親がいたのであり、
その素性を調べ上げて信敬の対象とすることができる。人間である以上は必ず敬うべき親がいるという
普遍性に即して、儒者は親への敬いをあらゆる人間関係における畏敬の原型ともする。
親への敬いすら欠いたところに、普遍的な畏敬などがあり得るはずがない。
畏敬の基本としての親への敬いを欠けば、どんな畏敬も本質的な誠意を欠いたものとなる。
それは物事の普遍性全般を見くびることに繋がり、些末な私益のために普遍的な公益を蔑ろにする慢心の原因ともなる。
だから万人を利して我が利ともする仁徳と、親への畏敬とは切っても切れない関係にある一方、
万人を害して我が利とする我田引水の欲求にとっては、親への畏敬などは目の上のたんこぶにしかならない。
両親との関係を蔑ろにしてまで得られる利益があるとすれば、その利益は必ず公益を損なう要素を伴っている。
世の中に大迷惑をかけてこそ得られるような利益であるために、親がその真相を知ればひどく悲しむものであったりする。
そのような不正な利得にうつつを抜かすぐらいなら、まだ世の中に利も害ももたらさない鳴かず飛ばずの徒弟で
あったほうがよい。誰が自分の親に聞いてみたところで、誰しもの親が必ずそう答えるに違いない。
「未だ仁にして其の親を遺てる者は有らざるなり」
「未だかつて、仁者でありながら両親との関係を蔑ろにしたものはいない」
(権力道徳聖書——通商四書五経——孟子・梁恵王章句上・一より)
友人も恋人もいない人間にだって親はいる。孤児ですらどこかに親がいたのであり、
その素性を調べ上げて信敬の対象とすることができる。人間である以上は必ず敬うべき親がいるという
普遍性に即して、儒者は親への敬いをあらゆる人間関係における畏敬の原型ともする。
親への敬いすら欠いたところに、普遍的な畏敬などがあり得るはずがない。
畏敬の基本としての親への敬いを欠けば、どんな畏敬も本質的な誠意を欠いたものとなる。
それは物事の普遍性全般を見くびることに繋がり、些末な私益のために普遍的な公益を蔑ろにする慢心の原因ともなる。
だから万人を利して我が利ともする仁徳と、親への畏敬とは切っても切れない関係にある一方、
万人を害して我が利とする我田引水の欲求にとっては、親への畏敬などは目の上のたんこぶにしかならない。
両親との関係を蔑ろにしてまで得られる利益があるとすれば、その利益は必ず公益を損なう要素を伴っている。
世の中に大迷惑をかけてこそ得られるような利益であるために、親がその真相を知ればひどく悲しむものであったりする。
そのような不正な利得にうつつを抜かすぐらいなら、まだ世の中に利も害ももたらさない鳴かず飛ばずの徒弟で
あったほうがよい。誰が自分の親に聞いてみたところで、誰しもの親が必ずそう答えるに違いない。
「未だ仁にして其の親を遺てる者は有らざるなり」
「未だかつて、仁者でありながら両親との関係を蔑ろにしたものはいない」
(権力道徳聖書——通商四書五経——孟子・梁恵王章句上・一より)
「(定公)曰く、一言にして以って邦を喪うこと諸れ有りや。孔子対えて曰く、
言は以って是くの如くならざるも、其れ畿きなれば。人の言に曰く、
予は君たることを楽しむこと無し、唯だ其の言にして予に違うこと莫きを
楽しむなりと。如し其れ善にして之れに違うこと莫くんば、亦た善からずや。
如し不善にして之れに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや(一部既出)」
「定公が問うた。『一言にして国を滅ぼすような言葉があるだろうか』 孔子は答えた。
『言葉はそれによって物事をどうこうすべきものではありませんが、近い言葉であれば知っています。
ある人の言った言葉に、〈私は主君であることを楽しむのではない。自分の言うことに
誰も逆らわないことを楽しむのだ〉というのがあります。もしもこの人の言うことが
正しくて誰も逆らわないのであれば、まあ、特に問題はないといえます。 しかし、
しかし、この人の言うことが間違っていながら誰も逆らわないというのであれば、
これこそは、一言にして国を滅ぼす言葉になるといえるのではないでしょうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一五より)
孔子の反ロゴス主義が如実に現れている言葉。二重三重と、言葉の絶対化の危うさを説き起こしている。
そして実際、孔子自身も、自らの考えや発言の過ちを人に指摘されて素直に改め、
「自分には過ちを指摘してくれる人がいる。なんと幸せなことだろう」と感嘆してもいる。
人と考えや言葉を折り合わせる習慣は、たとえば信長や秀吉にはなかったが、家康にはあった。
部下に対してすら敬称を欠かすことなく、強烈な諫言に対しても耳を傾けるような素直さが
子孫にまで受け継がれたものだから、徳川幕府も十五代もの治世を打ち立てられた一方で、
信長や秀吉は一代や二代限りでの栄華に終始した。確かに全盛期の考えや発言については、
信長や秀吉のそれが諸大名と比べても突出して優秀だったのは確かで、それがあまりにも突出して
優秀すぎたものだから、後を継げるものがいなくなって、高転びの憂き目に遭うこととなったのだった。
言は以って是くの如くならざるも、其れ畿きなれば。人の言に曰く、
予は君たることを楽しむこと無し、唯だ其の言にして予に違うこと莫きを
楽しむなりと。如し其れ善にして之れに違うこと莫くんば、亦た善からずや。
如し不善にして之れに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや(一部既出)」
「定公が問うた。『一言にして国を滅ぼすような言葉があるだろうか』 孔子は答えた。
『言葉はそれによって物事をどうこうすべきものではありませんが、近い言葉であれば知っています。
ある人の言った言葉に、〈私は主君であることを楽しむのではない。自分の言うことに
誰も逆らわないことを楽しむのだ〉というのがあります。もしもこの人の言うことが
正しくて誰も逆らわないのであれば、まあ、特に問題はないといえます。 しかし、
しかし、この人の言うことが間違っていながら誰も逆らわないというのであれば、
これこそは、一言にして国を滅ぼす言葉になるといえるのではないでしょうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一五より)
孔子の反ロゴス主義が如実に現れている言葉。二重三重と、言葉の絶対化の危うさを説き起こしている。
そして実際、孔子自身も、自らの考えや発言の過ちを人に指摘されて素直に改め、
「自分には過ちを指摘してくれる人がいる。なんと幸せなことだろう」と感嘆してもいる。
人と考えや言葉を折り合わせる習慣は、たとえば信長や秀吉にはなかったが、家康にはあった。
部下に対してすら敬称を欠かすことなく、強烈な諫言に対しても耳を傾けるような素直さが
子孫にまで受け継がれたものだから、徳川幕府も十五代もの治世を打ち立てられた一方で、
信長や秀吉は一代や二代限りでの栄華に終始した。確かに全盛期の考えや発言については、
信長や秀吉のそれが諸大名と比べても突出して優秀だったのは確かで、それがあまりにも突出して
優秀すぎたものだから、後を継げるものがいなくなって、高転びの憂き目に遭うこととなったのだった。
この世には、全くの自力によって突出するものと、他力本願によって世を後押しするものと、
人との兼ね合いの中での自力によって最大級の能力を発揮するものとの三種がいる。
この中で、最も汎用的なのは最後者の、自力他力織り交ぜて最大の能力を発揮するものであり、
そこにこそ人間社会の安定の秘訣までもがあるといえる。そしてその、自力と他力両面において
最善を尽くすものというのは、自分自身の考えや言葉などをさして絶対的なものとは見なさない。
歴史上の武将には、代々後世に伝える家訓を遺しているものも多くいるが、家康はあえてそれも遺さなかった。
自分自身を家譜上の完全な完成系とは見なさず、後代にも脈々と家風を練り上げていく余地を残した。
そういった、親子関係に渡ってまで、考え方や教訓の融通を残していく所に、諸行無常の
浮世とも我が家をうまく付き合わせていく秘訣までもが含まれているのだといえる。
強いて言えば、名家が後世にまで代々続く糧とまでなるのは、偉大な先祖の生き様そのものなのであり、
ただ思想や言葉が立派だというばかりで、子々孫々の繁栄が約束されるなどということもないのである。
子孫の繁栄すら約束付けられない思想や言葉が、人間社会の繁栄に貢献するなどということも、当然ない。
「言を食む」「嘘を吐く」(僖公二十八年)
「礼無ければ必ず言を食む」「礼儀をわきまえないものは平気で嘘を吐く」(成公十二年)
「事に臨みて言を食むは、暇ありと謂う可からず」「切羽詰まって嘘を吐くのは、余裕がないからだ」(成公十六年)
「言を食む者は病まざらんや」「嘘ばかり吐くものは自らが精神を病む」(襄公二十七年)
「是れ言を食むこと多し。能く肥ゆること無からんや」「頻繁に嘘を吐いて、よく肥え太っていることだ」(哀公二十五年)
(「言を食む」は、春秋時代に「嘘を吐く」という意味で広く通用していた慣用句。
春秋諸侯もよく言を食むことで不正な利益を得ていた)
(権力道徳聖書——通商四書五経——春秋左氏伝より)
人との兼ね合いの中での自力によって最大級の能力を発揮するものとの三種がいる。
この中で、最も汎用的なのは最後者の、自力他力織り交ぜて最大の能力を発揮するものであり、
そこにこそ人間社会の安定の秘訣までもがあるといえる。そしてその、自力と他力両面において
最善を尽くすものというのは、自分自身の考えや言葉などをさして絶対的なものとは見なさない。
歴史上の武将には、代々後世に伝える家訓を遺しているものも多くいるが、家康はあえてそれも遺さなかった。
自分自身を家譜上の完全な完成系とは見なさず、後代にも脈々と家風を練り上げていく余地を残した。
そういった、親子関係に渡ってまで、考え方や教訓の融通を残していく所に、諸行無常の
浮世とも我が家をうまく付き合わせていく秘訣までもが含まれているのだといえる。
強いて言えば、名家が後世にまで代々続く糧とまでなるのは、偉大な先祖の生き様そのものなのであり、
ただ思想や言葉が立派だというばかりで、子々孫々の繁栄が約束されるなどということもないのである。
子孫の繁栄すら約束付けられない思想や言葉が、人間社会の繁栄に貢献するなどということも、当然ない。
「言を食む」「嘘を吐く」(僖公二十八年)
「礼無ければ必ず言を食む」「礼儀をわきまえないものは平気で嘘を吐く」(成公十二年)
「事に臨みて言を食むは、暇ありと謂う可からず」「切羽詰まって嘘を吐くのは、余裕がないからだ」(成公十六年)
「言を食む者は病まざらんや」「嘘ばかり吐くものは自らが精神を病む」(襄公二十七年)
「是れ言を食むこと多し。能く肥ゆること無からんや」「頻繁に嘘を吐いて、よく肥え太っていることだ」(哀公二十五年)
(「言を食む」は、春秋時代に「嘘を吐く」という意味で広く通用していた慣用句。
春秋諸侯もよく言を食むことで不正な利益を得ていた)
(権力道徳聖書——通商四書五経——春秋左氏伝より)
社会権力により欲望を達すると、その人脈 関係性への恩返しの法則が発生してしまう それもお前のいう兼ね合いだ
つまりキリスト教がそのように作り替えられてきたということも否めないわけだ
もちろん儒学もな
兼ね合いの人間関係のなかで生活するうちに無意識に悪いほうへ向かうこともあるのだよ
それは貸し借り(カネに限らない)における誠実な関係と欲望とソレを叶える権力など様々なちからが作用して まるで魔力のように手に負えないほどに膨れ上がっていく
儒学者には、もう少し社会勉強が必要だよ
つまりキリスト教がそのように作り替えられてきたということも否めないわけだ
もちろん儒学もな
兼ね合いの人間関係のなかで生活するうちに無意識に悪いほうへ向かうこともあるのだよ
それは貸し借り(カネに限らない)における誠実な関係と欲望とソレを叶える権力など様々なちからが作用して まるで魔力のように手に負えないほどに膨れ上がっていく
儒学者には、もう少し社会勉強が必要だよ
そういう権力腐敗の典型例を未然に絶やしていくためにあるのが儒学や玄学なわけでね。
権力掌握のダークサイドに陥った、未熟者としての経験を自慢されてもな。
権力掌握のダークサイドに陥った、未熟者としての経験を自慢されてもな。
お前は知らないよ
権力といのは1対1にもあるということを知らない
そういう小さな関係の一つひとつが社会性を象っているのだ
儒学者も己だけでは存在できないし因果関係に巻き込まれている以上は自分が正気であるという証明は己だけでしかできない
誰がお前を信じてくれるんだよ
キリスト教を大好きなお前のその反応も社会性を歪めるひとつなのだ
権力といのは1対1にもあるということを知らない
そういう小さな関係の一つひとつが社会性を象っているのだ
儒学者も己だけでは存在できないし因果関係に巻き込まれている以上は自分が正気であるという証明は己だけでしかできない
誰がお前を信じてくれるんだよ
キリスト教を大好きなお前のその反応も社会性を歪めるひとつなのだ
権力ってのは決定権のようなものだぞ
主導権ともいえる
社会縮図として友人関係にも当てはめられる
一友人との関係が他の友人との関係に作用するということだ
誰々には何々してやったんだから俺に何々してくれよ
というのが延々とつながってゆくと本来的な自分の感情や目的を見失ってしまう
見失っていなくとも流されてしまうという現実がある
お前の大好きなキリスト権力もそうやって他の影響をふんだんに受けて今に至るのだ
お前の大嫌いな儒学も同じくな
そういう流されてしまう弱さを断ずるお前は冷酷だな
世の中にはアソビという幅があるのだよ
近くは車のハンドルやブレーキ
万引きなんかも私物のバッグに商品を入れていても店を出るまでは犯行にならないとか
お前のように邪は邪と断ずるような文化は一般的にないんだよ
そうするとお前の存在のほうがよほど問題だろ
主導権ともいえる
社会縮図として友人関係にも当てはめられる
一友人との関係が他の友人との関係に作用するということだ
誰々には何々してやったんだから俺に何々してくれよ
というのが延々とつながってゆくと本来的な自分の感情や目的を見失ってしまう
見失っていなくとも流されてしまうという現実がある
お前の大好きなキリスト権力もそうやって他の影響をふんだんに受けて今に至るのだ
お前の大嫌いな儒学も同じくな
そういう流されてしまう弱さを断ずるお前は冷酷だな
世の中にはアソビという幅があるのだよ
近くは車のハンドルやブレーキ
万引きなんかも私物のバッグに商品を入れていても店を出るまでは犯行にならないとか
お前のように邪は邪と断ずるような文化は一般的にないんだよ
そうするとお前の存在のほうがよほど問題だろ
ううむ、なかなか手強い長文勘違いさんが久々に現れましたよ。
こちらにとっても、言葉の綾の修正ぐらいには協力してくれるお方でしょうから、
決して親の敵のように邪見に扱ったりは致しませんよ。
——家康公の口真似をしてみたが、自分にはまだ丸すぎるな。
こちらにとっても、言葉の綾の修正ぐらいには協力してくれるお方でしょうから、
決して親の敵のように邪見に扱ったりは致しませんよ。
——家康公の口真似をしてみたが、自分にはまだ丸すぎるな。
一般的なものを特殊なものと勘違いし、特殊なものを一般的なものと勘違いする転倒夢想が、
確かに世の中全体が転倒夢想に覆い尽くされたような、ごくごく特殊な時代に限って一般化する。
文明史全体でいえば、正邪善悪の区別がつく時代や世の中のほうが大半を占めていて、
その区別に即して断悪を心がけたり、修善を心がけたりしてきた分量のほうが遥かに多い。
ただ、確かに正邪善悪の区別が付かなくなって、悪逆非道や善悪みそくその悪行に走って、
それでこそ優先的に救われるなどと人々が勘違いしたことだって全くなくはない。
今が確かにその時代であり、今が全てである近視眼の持ち主にとっては、それが全てとすらなる。
悪逆非道や善悪みそくそでこそ優先的に救われるとするのが、今の自分にとっての全てだから、
全世界、全人類の、全歴史においてもそうであるなどという、身の程知らずな一般論にも走る。
そしてそのような自意識過剰の思い上がりの持ち主こそが、悪逆非道や善悪みそくそによる暴政を深刻化
させて、ついには全世界規模での破綻を引き起こして、イヤでも徳治を敷かねばならないような事態をも招く。
無軌道な権力意志などに基づく作為の旺盛さが、悪逆非道や善悪みそくその邪説暴行にも
結び付く一方で、邪説暴行によって荒廃した世の中を癒すための勧善懲悪にも結び付く。
勧善懲悪も旺盛な作為であるが故に鬱陶しいというのなら、決して何もないところに進んでそれを
試みようなどともしない。「それでこそ優先的に救われる」と思い込みながら繰り返されてきた悪逆非道や、
そもそもそれが悪行になるとも知らずに繰り返されてきた善悪みそくその行いなどによって、世の中が
極度の荒廃に陥って、もう勧善懲悪によってでもなければ誰も救われることがないと転倒夢想者たちが
観念して、必至で救いを乞い求めてくるのでもなければ、決して勧善懲悪に取り組み始めることもない。
確かに世の中全体が転倒夢想に覆い尽くされたような、ごくごく特殊な時代に限って一般化する。
文明史全体でいえば、正邪善悪の区別がつく時代や世の中のほうが大半を占めていて、
その区別に即して断悪を心がけたり、修善を心がけたりしてきた分量のほうが遥かに多い。
ただ、確かに正邪善悪の区別が付かなくなって、悪逆非道や善悪みそくその悪行に走って、
それでこそ優先的に救われるなどと人々が勘違いしたことだって全くなくはない。
今が確かにその時代であり、今が全てである近視眼の持ち主にとっては、それが全てとすらなる。
悪逆非道や善悪みそくそでこそ優先的に救われるとするのが、今の自分にとっての全てだから、
全世界、全人類の、全歴史においてもそうであるなどという、身の程知らずな一般論にも走る。
そしてそのような自意識過剰の思い上がりの持ち主こそが、悪逆非道や善悪みそくそによる暴政を深刻化
させて、ついには全世界規模での破綻を引き起こして、イヤでも徳治を敷かねばならないような事態をも招く。
無軌道な権力意志などに基づく作為の旺盛さが、悪逆非道や善悪みそくその邪説暴行にも
結び付く一方で、邪説暴行によって荒廃した世の中を癒すための勧善懲悪にも結び付く。
勧善懲悪も旺盛な作為であるが故に鬱陶しいというのなら、決して何もないところに進んでそれを
試みようなどともしない。「それでこそ優先的に救われる」と思い込みながら繰り返されてきた悪逆非道や、
そもそもそれが悪行になるとも知らずに繰り返されてきた善悪みそくその行いなどによって、世の中が
極度の荒廃に陥って、もう勧善懲悪によってでもなければ誰も救われることがないと転倒夢想者たちが
観念して、必至で救いを乞い求めてくるのでもなければ、決して勧善懲悪に取り組み始めることもない。
救われる、救われると信じ込んだところで、世界を破滅に陥れることについてこそ一概であるカルトの邪義や、
そのカルトの邪義すら許容する過剰な寛容を正義だなどと思い込む自己陶酔によっては、決して救われることが
ないときがやって来る。そのときにいい加減、転倒夢想を打ち棄てて勧善懲悪に救いを乞うか、それとも
転倒夢想への耽溺に固執してそのまま滅亡へと突き進むかは、転倒夢想者たち自身の選択による。
そしてその選択が、転倒夢想を永久に破棄しての勧善懲悪による救いの選択であったときに、
仁者もまた積極的な勧善懲悪の事業を試み始める。だから決して、お節介を鬱陶しがったりする必要もない。
「楽は陽より来たる者なり、礼は陰より作る者なり。陰陽和して万物も得」
「楽は人間の性格の陽性の発露であり、礼は人間の性格の陰性の収斂である。礼楽陰陽が相い和することで万物が成る。
(礼儀礼節による陰性の収斂もまた重要なものであり、ただただ光明ばかりを嬉しがる陽性の行き過ぎもまた禁物である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
そのカルトの邪義すら許容する過剰な寛容を正義だなどと思い込む自己陶酔によっては、決して救われることが
ないときがやって来る。そのときにいい加減、転倒夢想を打ち棄てて勧善懲悪に救いを乞うか、それとも
転倒夢想への耽溺に固執してそのまま滅亡へと突き進むかは、転倒夢想者たち自身の選択による。
そしてその選択が、転倒夢想を永久に破棄しての勧善懲悪による救いの選択であったときに、
仁者もまた積極的な勧善懲悪の事業を試み始める。だから決して、お節介を鬱陶しがったりする必要もない。
「楽は陽より来たる者なり、礼は陰より作る者なり。陰陽和して万物も得」
「楽は人間の性格の陽性の発露であり、礼は人間の性格の陰性の収斂である。礼楽陰陽が相い和することで万物が成る。
(礼儀礼節による陰性の収斂もまた重要なものであり、ただただ光明ばかりを嬉しがる陽性の行き過ぎもまた禁物である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
救われるもなにも日本人のほとんどは苦しんじゃいねーよ
3.11被災者が全人民てわけじゃねーよ
ほんとうにマッチポンプ手法だな
苦しんでない人間に救いますってなんだよ?
問題の主題は経済なんだよ
精神論で一括りにできるほど現代社会の問題は甘くないぜ
お呼びじゃないぜ儒学マン
3.11被災者が全人民てわけじゃねーよ
ほんとうにマッチポンプ手法だな
苦しんでない人間に救いますってなんだよ?
問題の主題は経済なんだよ
精神論で一括りにできるほど現代社会の問題は甘くないぜ
お呼びじゃないぜ儒学マン
素っ裸で、ドブの底でボウフラにまみれて、全身の穴という穴から液体や固形物を噴出し、
泣いて大喜びで、土下座しながら依り頼んで来るのでもなければ、決してし救ってやりはしない。
あえてそこまで救いのハードルを上げるのは、まずは、自分たちの悪行こそが、自業自得で
破滅を招いているのだということを、十分に自覚させるため。自分たちこそが引き起こした破滅を、
自分たち以外の誰かに救っていただくということは、物乞う乞食並みに恥ずかしいことなのであって、
決してふんぞり返ったお客様のような姿勢で救いを要求したりしてはならないのだということを身を以って
思い知らないのなら、何度でも同じ過ちを繰り返し兼ねないから、それを防止するための教育目的でも、
自分たちの愚かしさを身に染みて思い知ってからでなければ、救ってやらないようにしてやっているわけだ。
なんとありがたいことだろう?
泣いて大喜びで、土下座しながら依り頼んで来るのでもなければ、決してし救ってやりはしない。
あえてそこまで救いのハードルを上げるのは、まずは、自分たちの悪行こそが、自業自得で
破滅を招いているのだということを、十分に自覚させるため。自分たちこそが引き起こした破滅を、
自分たち以外の誰かに救っていただくということは、物乞う乞食並みに恥ずかしいことなのであって、
決してふんぞり返ったお客様のような姿勢で救いを要求したりしてはならないのだということを身を以って
思い知らないのなら、何度でも同じ過ちを繰り返し兼ねないから、それを防止するための教育目的でも、
自分たちの愚かしさを身に染みて思い知ってからでなければ、救ってやらないようにしてやっているわけだ。
なんとありがたいことだろう?
お前って至る所でコピペ披露してるだけか
正信と狂信の違いは、信者自身の信仰の濃度によって決まるものだといえるが、
では、正信と妄信の違いは何によって決まるのだろうか。
・正信……困難なことであっても実現可能であると信じる。
・妄信……不可能なことであっても信じる以上は信じる。
あたりが、正信と妄信の分かれ目になるといえる。
困難なことでも実現可能だと信じる一方で、不可能なことは不可能だと割り切る正信のほうには
精神力が必要となるのに対し、どんなことでも信じる以上は信じる妄信には、精神力などいらない。
可能不可能という是非論に基づく信仰が精神力を必要とする一方で、何でも可能だとする
肯定一辺倒の信仰には精神力がいらないから、可能不可能の分別を付ける正信には一定以上の
精神力が必要とされる一方で、何でも可能だとする妄信には全く精神力が必要とされない。
他力信仰という行為自体、あまり精神力の有無を問うても仕方のない分野に属するにしろ、
その信仰が正信か妄信かに分かれる際には、やはり少なからずの精神力の有無が鍵となる。
儒家の五常では「仁義礼智信」の序列で信が最下位に置かれ、
「信を好みて学を好まざればその弊や賊(陽貨第十七・八)」ともいい、
親鸞聖人も教行信証で「鬼神に事うること能わず(先進第十一・一二)」と、
論語の言葉をあえて妄信を否定し去るような読み方に変えてから引用している。
あくまで自力作善を根本に置く東洋学の流れに即して、信仰にすら最低限の精神力が要求される。
では、正信と妄信の違いは何によって決まるのだろうか。
・正信……困難なことであっても実現可能であると信じる。
・妄信……不可能なことであっても信じる以上は信じる。
あたりが、正信と妄信の分かれ目になるといえる。
困難なことでも実現可能だと信じる一方で、不可能なことは不可能だと割り切る正信のほうには
精神力が必要となるのに対し、どんなことでも信じる以上は信じる妄信には、精神力などいらない。
可能不可能という是非論に基づく信仰が精神力を必要とする一方で、何でも可能だとする
肯定一辺倒の信仰には精神力がいらないから、可能不可能の分別を付ける正信には一定以上の
精神力が必要とされる一方で、何でも可能だとする妄信には全く精神力が必要とされない。
他力信仰という行為自体、あまり精神力の有無を問うても仕方のない分野に属するにしろ、
その信仰が正信か妄信かに分かれる際には、やはり少なからずの精神力の有無が鍵となる。
儒家の五常では「仁義礼智信」の序列で信が最下位に置かれ、
「信を好みて学を好まざればその弊や賊(陽貨第十七・八)」ともいい、
親鸞聖人も教行信証で「鬼神に事うること能わず(先進第十一・一二)」と、
論語の言葉をあえて妄信を否定し去るような読み方に変えてから引用している。
あくまで自力作善を根本に置く東洋学の流れに即して、信仰にすら最低限の精神力が要求される。
「東洋文化は光の精神文化であり、西洋文化は闇の物質文化である」とペルシャのスフラワルディーも
自らの照明論哲学で断じているが、信仰から完全に精神力を省き、ただひたすら蒙昧な狂信を募らせる
性向は西洋でばかり是認されてきたものであり、東洋はおろか、中東のイスラムですら、信仰に精神力を
要求される厳格な実践を付与している。精神力を全く欠いたところで募らされる完全誤謬信仰の蒙昧が、
人々を自殺行為同然の妄動にも向かわせて、自業自得での自滅にも向かわせているわけだから、
これからの人類には、信仰が禁止されるとまでは行かずとも、信仰にすら可能不可能を
諾える程度の精神力に根ざした分別が付与されることが必要になるのだといえる。
全く精神力を欠いたところでしか生きられないという人間は、もう禁治産下にでも置かれるしかない。
「臣の君を弑せるは、凡そ官に在る者、殺して赦す無かれ。子の父を弑せるは、
凡そ宮に在る者、殺して赦す無かれ。其の人を殺し、其の室を壊し、其の宮を洿にして猪せよ」
「主君を弑逆した臣下は、どんな官職に就いている者であっても、必ず赦すことなく殺せ。
父親を弑逆した子供は、家中でどんな立場にあるのであっても、必ず赦すことなく殺せ。
本人を殺して、さらにその家を壊して、跡地を窪地にして、水を溜めて池にしろ。
(殺された人間が決して生き返らないという強い精神力に根ざした分別があるから、
致命的な弑逆を働いた人間を、死んでも赦さないほどの決断までもができるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
自らの照明論哲学で断じているが、信仰から完全に精神力を省き、ただひたすら蒙昧な狂信を募らせる
性向は西洋でばかり是認されてきたものであり、東洋はおろか、中東のイスラムですら、信仰に精神力を
要求される厳格な実践を付与している。精神力を全く欠いたところで募らされる完全誤謬信仰の蒙昧が、
人々を自殺行為同然の妄動にも向かわせて、自業自得での自滅にも向かわせているわけだから、
これからの人類には、信仰が禁止されるとまでは行かずとも、信仰にすら可能不可能を
諾える程度の精神力に根ざした分別が付与されることが必要になるのだといえる。
全く精神力を欠いたところでしか生きられないという人間は、もう禁治産下にでも置かれるしかない。
「臣の君を弑せるは、凡そ官に在る者、殺して赦す無かれ。子の父を弑せるは、
凡そ宮に在る者、殺して赦す無かれ。其の人を殺し、其の室を壊し、其の宮を洿にして猪せよ」
「主君を弑逆した臣下は、どんな官職に就いている者であっても、必ず赦すことなく殺せ。
父親を弑逆した子供は、家中でどんな立場にあるのであっても、必ず赦すことなく殺せ。
本人を殺して、さらにその家を壊して、跡地を窪地にして、水を溜めて池にしろ。
(殺された人間が決して生き返らないという強い精神力に根ざした分別があるから、
致命的な弑逆を働いた人間を、死んでも赦さないほどの決断までもができるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「救ってやったりはしない」とか書いてるけど
そもそも、人を救う力が自分にあると思ってるのが
大きな錯覚、大層なうぬぼれでしょうね。
自意識過剰の思い上がりは、自分自身にこそ当てはまる事を
自覚すべきでしょう。
そもそも「救う」とはどういった状態を言ってるのでしょうか?
死後の安楽か、生きている間の、精神の安寧みたいなものか。
それとも、病気が治りました、お金が入りましたの現世利益か。
そもそも、人を救う力が自分にあると思ってるのが
大きな錯覚、大層なうぬぼれでしょうね。
自意識過剰の思い上がりは、自分自身にこそ当てはまる事を
自覚すべきでしょう。
そもそも「救う」とはどういった状態を言ってるのでしょうか?
死後の安楽か、生きている間の、精神の安寧みたいなものか。
それとも、病気が治りました、お金が入りましたの現世利益か。
だから、キリストにでもすがってりゃいいじゃねえの。
救う救ういいながら、ただ人々を破滅に陥れるばかりの元祖・救済詐欺師に。
こちとら、「救済者」としての看板すら掲げていない。
実名どころかハンドルネームすら用いず、無名で全くの難題を突き付けて、
「そうでもしなきゃ救ってやらない」つってんだから、
そもそも人々を救ってやる体裁すら整えていないといえる。
救済詐欺師扱いなど、まっぴら御免だからだ。
恩着せがましい救済の押し付けなどは、それ自体が人々の堕落からなる自滅を助長するだけだから。
どこまでも自分たちで努力を尽くして、それでもどうにもならないって時にこそ
他力本願にもすがるべきなのであり、始めから神頼み一辺倒なんていう
あり方からして、是正していかなければならないものなのだから。
救う救ういいながら、ただ人々を破滅に陥れるばかりの元祖・救済詐欺師に。
こちとら、「救済者」としての看板すら掲げていない。
実名どころかハンドルネームすら用いず、無名で全くの難題を突き付けて、
「そうでもしなきゃ救ってやらない」つってんだから、
そもそも人々を救ってやる体裁すら整えていないといえる。
救済詐欺師扱いなど、まっぴら御免だからだ。
恩着せがましい救済の押し付けなどは、それ自体が人々の堕落からなる自滅を助長するだけだから。
どこまでも自分たちで努力を尽くして、それでもどうにもならないって時にこそ
他力本願にもすがるべきなのであり、始めから神頼み一辺倒なんていう
あり方からして、是正していかなければならないものなのだから。
エホバのような出歯亀癖を持つ人間、磔になったイエスを見ただけで自らの罪までもが
償われたような気になれるほど精神が薄弱な人間ってのは、確かに限られている。
まず、少しでも孝心のある人間であれば、そうならないで済むだけの精神力を備えているし、
仁徳の学や武術の修練などによって精神力を蓄えている人間にも、そうなる人間は少ない。
正統な神仏への崇敬によって、心身の蒙昧を未然に抑制している人間も、そうなったりはしない。
邪神信仰の蒙昧に陥らずに済む手段はいくらでもあり、二重三重の予防措置を講ずることもできる。
特に孝心の養いや、正統な神仏への帰依などは、身分の貴賤や老若男女を問わず誰にでも講ずることが
可能な予防手段であり、「自分にはその素質がないから」などという言い訳を差し挟む余地もない。
邪神信仰の蒙昧によって破滅に陥ることは、全くの自己責任。少なくとも現時点においては、
もはや邪信を予防する手段が全世界、全人類に対して開かれているのだから、中世以前の西洋人
の場合のように、「それしか選択肢がないから」などという言い訳を押し通すこともできない。
(中世以前の西洋にも、本当はマニ教を通じて仏教や拝火教の教義が流れ込んでもいた)
邪神信仰による蒙昧への陥りは、現時点では「不摂生からなる病」のうちに入るものであり、
それなりに予防を講ずれば陥らなくても済むものを、あえて予防もせずに陥ったりするのだから、
陥るしかなくて陥ったなどということは決してなく、そんな宿命にある人間はもうどこにもいない。
素質や運命を振りかざして邪神信仰をむさぼる選択肢も、もうとっくの昔に絶えて無くなっている。
「出でては則ち公卿に事え、入りては則ち父兄に事う」
「外に出れば目上の公卿によく仕え、内に入れば父兄によく仕える。(孝子の出ずる所は当然、家である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一六より)
償われたような気になれるほど精神が薄弱な人間ってのは、確かに限られている。
まず、少しでも孝心のある人間であれば、そうならないで済むだけの精神力を備えているし、
仁徳の学や武術の修練などによって精神力を蓄えている人間にも、そうなる人間は少ない。
正統な神仏への崇敬によって、心身の蒙昧を未然に抑制している人間も、そうなったりはしない。
邪神信仰の蒙昧に陥らずに済む手段はいくらでもあり、二重三重の予防措置を講ずることもできる。
特に孝心の養いや、正統な神仏への帰依などは、身分の貴賤や老若男女を問わず誰にでも講ずることが
可能な予防手段であり、「自分にはその素質がないから」などという言い訳を差し挟む余地もない。
邪神信仰の蒙昧によって破滅に陥ることは、全くの自己責任。少なくとも現時点においては、
もはや邪信を予防する手段が全世界、全人類に対して開かれているのだから、中世以前の西洋人
の場合のように、「それしか選択肢がないから」などという言い訳を押し通すこともできない。
(中世以前の西洋にも、本当はマニ教を通じて仏教や拝火教の教義が流れ込んでもいた)
邪神信仰による蒙昧への陥りは、現時点では「不摂生からなる病」のうちに入るものであり、
それなりに予防を講ずれば陥らなくても済むものを、あえて予防もせずに陥ったりするのだから、
陥るしかなくて陥ったなどということは決してなく、そんな宿命にある人間はもうどこにもいない。
素質や運命を振りかざして邪神信仰をむさぼる選択肢も、もうとっくの昔に絶えて無くなっている。
「出でては則ち公卿に事え、入りては則ち父兄に事う」
「外に出れば目上の公卿によく仕え、内に入れば父兄によく仕える。(孝子の出ずる所は当然、家である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一六より)
まずな、根本的にはじめ
磔になったイエスを見ただけで自らの罪をも償われた気になってしまうほど精神が薄弱した人間
なんだコレ?
そんなのお前の想像だろ?
なんでイエス見たら罪を償われたと思ってるとか理由もなく結論出せるの?
その上そうなる人間は少ないだとか
またまた自己完結しちゃうの?
ちょっと説明が足らなくね?
だからお前はウンコ儒学者なんだよ
強く主張するだけで通るわけないだろうが
磔になったイエスを見ただけで自らの罪をも償われた気になってしまうほど精神が薄弱した人間
なんだコレ?
そんなのお前の想像だろ?
なんでイエス見たら罪を償われたと思ってるとか理由もなく結論出せるの?
その上そうなる人間は少ないだとか
またまた自己完結しちゃうの?
ちょっと説明が足らなくね?
だからお前はウンコ儒学者なんだよ
強く主張するだけで通るわけないだろうが
修辞はこれぐらいで十二分だ。
自らの成長を心がける人間なら、多少難読な文章を
読みこなすぐらいのことは、自修の一環としてもいとわないだろうからな。
自ら文章を読みこなす努力も心がけず、曲解まみれのままで文句を加えて来るような、
向上心の無さと横柄さとを兼ね備えた小人物にとって好ましいようなことは、
始めから書こうともしていないのだから、安心して上知とは移らぬ下愚に甘んじていればいい。
そのベクトルの延長線上に褒美を置くことは、始めから儒者の目的ではない。
自らの成長を心がける人間なら、多少難読な文章を
読みこなすぐらいのことは、自修の一環としてもいとわないだろうからな。
自ら文章を読みこなす努力も心がけず、曲解まみれのままで文句を加えて来るような、
向上心の無さと横柄さとを兼ね備えた小人物にとって好ましいようなことは、
始めから書こうともしていないのだから、安心して上知とは移らぬ下愚に甘んじていればいい。
そのベクトルの延長線上に褒美を置くことは、始めから儒者の目的ではない。
富貴は俗人なら誰しもが欲するところ、それはまず事実として認めるのだ。
その上で「道理に根ざさないのなら富貴も得ない」と心がけてこそ、本物の善にもなる。
富貴なんかいらないようなフリをして、その実金満まみれの
権力犯罪者の庇護を受けようとしたりするから、偽善になる。
偽善だから、必ず善以上の悪が付いてくる。善以上の悪が付いてくるから、
面白い以上につまらない。だから偽善は普遍的に、面白い以上につまらなくあり続ける。
真善の存在に自分が気づかないからと言って、「真の善など存在しない」などと断じ、
それに思い余っての誤った消去法で偽善を講じ、偽善をやってみたところでやはりつまらなかったから、
今度は「善はつまらない」と短絡化して、善徳全般の価値を否定しようともする。
不善と偽善の悪循環に陥った人間の思考回路は、概ねこのようなものとなっている。だから、
このような思考回路にまず陥らないように、予め「富貴は欲しいが道理に根ざさないのなら得ない」
のような真善をかたくわきまえておき、真善と偽善は全くの別物であることを忘れず、偽善が面白い
以上につまらないからといって、真善までもがつまらないなどと勘違いしないようにせねばならない。
クリスマスのディナーを隣人に恵む「若草物語」の話がつまらない人間にも、
極悪非道の火付盗賊をばったばったと斬り捨てていく「鬼平犯科帳」の話は面白かったりする。
それは、前者が全くの偽善である一方で、後者が純粋無垢なる勧善懲悪であるからで、
両者の実質が全く異なるから面白かったりつまらなかったりするのだから、まことに、
人間の感情というのは、本物の善悪によってこそ左右されるものであるのだといえる。
情念も善悪も同時に解脱する超俗の徒でもない限りは、やはり善悪の分別はあったほうがいいものだ。
その上で「道理に根ざさないのなら富貴も得ない」と心がけてこそ、本物の善にもなる。
富貴なんかいらないようなフリをして、その実金満まみれの
権力犯罪者の庇護を受けようとしたりするから、偽善になる。
偽善だから、必ず善以上の悪が付いてくる。善以上の悪が付いてくるから、
面白い以上につまらない。だから偽善は普遍的に、面白い以上につまらなくあり続ける。
真善の存在に自分が気づかないからと言って、「真の善など存在しない」などと断じ、
それに思い余っての誤った消去法で偽善を講じ、偽善をやってみたところでやはりつまらなかったから、
今度は「善はつまらない」と短絡化して、善徳全般の価値を否定しようともする。
不善と偽善の悪循環に陥った人間の思考回路は、概ねこのようなものとなっている。だから、
このような思考回路にまず陥らないように、予め「富貴は欲しいが道理に根ざさないのなら得ない」
のような真善をかたくわきまえておき、真善と偽善は全くの別物であることを忘れず、偽善が面白い
以上につまらないからといって、真善までもがつまらないなどと勘違いしないようにせねばならない。
クリスマスのディナーを隣人に恵む「若草物語」の話がつまらない人間にも、
極悪非道の火付盗賊をばったばったと斬り捨てていく「鬼平犯科帳」の話は面白かったりする。
それは、前者が全くの偽善である一方で、後者が純粋無垢なる勧善懲悪であるからで、
両者の実質が全く異なるから面白かったりつまらなかったりするのだから、まことに、
人間の感情というのは、本物の善悪によってこそ左右されるものであるのだといえる。
情念も善悪も同時に解脱する超俗の徒でもない限りは、やはり善悪の分別はあったほうがいいものだ。
「昔文武在りて、聡明にして斉聖なる。小大の臣も、咸な忠良を懐き、其の侍御僕従も、正人に
匪ざるは罔し。以て旦夕厥の辟を承弼す。出入起居に欽まざること罔く、発号施令に臧からざる
こと罔くして、下民も祗しみて若い、万邦咸な休す。惟れ予れ一人良無し。実に左右前後有位の士、
其の及ばざるを匡すを頼む。愆ちを縄し謬ちを糾し、其の非心を格して、克く先烈に紹がしめよ」
「昔文王や武王が健在であられた頃、自らもまた聡明で慧眼豊かであられたのに、なおかつ大小の
臣下たちがみなよく忠信を抱き、侍従や下僕たちもまた正しい人間でないことがなく、彼らが朝から晩に
いたるまで惜しみなく主君を輔弼したために、主君もまた行いをよく慎み、号令の発布や法令の施行にも
少しも間違いを来たさなかった。そのため下民たちもよく慎んで朝廷の号令に従い、全国全土がよく安んじた。
しかるに、私(穆王)はといえば、文武両王のような善徳も自分にはない。だから左右前後にある有位の
士人たちは、ぜひ私の及ばない部分を進んで正していくようにしてもらいたい。諸々の過ちをよく正して、
心中の悪念にまでよく是正を及ばせることで、私を先賢たちの末座に列席できるようにしてもらいたい。
(人に依り頼むからには、相手に自らの過ちを正してもらうように願う。過ちを繰り返しても改めようとも
しない恐れ知らずさを押し通すために他者に依り頼んだりすることこそが、他力本願の大悪用だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・冏命より)
匪ざるは罔し。以て旦夕厥の辟を承弼す。出入起居に欽まざること罔く、発号施令に臧からざる
こと罔くして、下民も祗しみて若い、万邦咸な休す。惟れ予れ一人良無し。実に左右前後有位の士、
其の及ばざるを匡すを頼む。愆ちを縄し謬ちを糾し、其の非心を格して、克く先烈に紹がしめよ」
「昔文王や武王が健在であられた頃、自らもまた聡明で慧眼豊かであられたのに、なおかつ大小の
臣下たちがみなよく忠信を抱き、侍従や下僕たちもまた正しい人間でないことがなく、彼らが朝から晩に
いたるまで惜しみなく主君を輔弼したために、主君もまた行いをよく慎み、号令の発布や法令の施行にも
少しも間違いを来たさなかった。そのため下民たちもよく慎んで朝廷の号令に従い、全国全土がよく安んじた。
しかるに、私(穆王)はといえば、文武両王のような善徳も自分にはない。だから左右前後にある有位の
士人たちは、ぜひ私の及ばない部分を進んで正していくようにしてもらいたい。諸々の過ちをよく正して、
心中の悪念にまでよく是正を及ばせることで、私を先賢たちの末座に列席できるようにしてもらいたい。
(人に依り頼むからには、相手に自らの過ちを正してもらうように願う。過ちを繰り返しても改めようとも
しない恐れ知らずさを押し通すために他者に依り頼んだりすることこそが、他力本願の大悪用だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・冏命より)
善にも「全方位型の善」と、「劇場型の善」がある。
天地万物にとって善であろうとする、全方位型の善こそは真善となるのに対し、
目で見えている部分だけを善であるかのように見せかける、劇場型の善こそは偽善となる。
劇場の舞台上で繰り広げられる演劇の舞台裏では、必ずそれ以上もの小細工が尽くされる。
小細工がなりふり構わぬ策動であればあるほど、舞台上での演出も豪華なものとなる。
そのシステムを善行で用いろうとすれば、舞台上での善行の実現のために、
膨大な分量の、舞台裏でのなりふり構わぬ悪行が必要となってしまう。
資本主義国という舞台上での富裕の実現のために、舞台裏となる外界からの
膨大な収奪が必要となる。その膨大な収奪があればこそ、舞台上での富裕も、
全方位型の仁政によって実現される個々の富裕などよりも極端に豪勢なものとなる。
それは確かに、全方位型の真善などによって実現されるものではないが、また実現すべきものでもない。
舞台裏からの収奪によってまでの舞台上での富裕という偽善のシステムが欧米先進国にもたらしたのは、
限りのない自国民たちの貪欲と怠惰であり、全国民を禁治産下においたほうがよっぽど効率的となる
人畜化の実現でしかなかった。それでこそ確かに、聖書信仰が「善」とするものもまた、実現された。
劇場型の偽善がありのままに実現された結果が総国民の人畜化であり、これこそはそもそも、
聖書信仰が実現しようとしていたものが真善ではなかったことの証拠となっている。
「こんなはずではなかった」などという、言い訳を差し挟む余地があるはずもない。
自分たちで善と見なしてきた望みが、ありのままに実現されて、めでたく全員禁治産と相成る。
どうしてそこに、不平を差し挟んだりする必要があるものか。
「尊者之れを賜うに、其の取る所の者は義か不義かと曰いて、
而かる後に之れを受く。是れを以って不恭と為す、故に卻けざるなり」
「尊貴なものが自分が賜物をくれるという場合、『それをもらうことは義か不義か』などと自分の側で
詮索してからもらったりするのでは、恭しさに欠けることになる。だから賜物を退けたりはしない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
天地万物にとって善であろうとする、全方位型の善こそは真善となるのに対し、
目で見えている部分だけを善であるかのように見せかける、劇場型の善こそは偽善となる。
劇場の舞台上で繰り広げられる演劇の舞台裏では、必ずそれ以上もの小細工が尽くされる。
小細工がなりふり構わぬ策動であればあるほど、舞台上での演出も豪華なものとなる。
そのシステムを善行で用いろうとすれば、舞台上での善行の実現のために、
膨大な分量の、舞台裏でのなりふり構わぬ悪行が必要となってしまう。
資本主義国という舞台上での富裕の実現のために、舞台裏となる外界からの
膨大な収奪が必要となる。その膨大な収奪があればこそ、舞台上での富裕も、
全方位型の仁政によって実現される個々の富裕などよりも極端に豪勢なものとなる。
それは確かに、全方位型の真善などによって実現されるものではないが、また実現すべきものでもない。
舞台裏からの収奪によってまでの舞台上での富裕という偽善のシステムが欧米先進国にもたらしたのは、
限りのない自国民たちの貪欲と怠惰であり、全国民を禁治産下においたほうがよっぽど効率的となる
人畜化の実現でしかなかった。それでこそ確かに、聖書信仰が「善」とするものもまた、実現された。
劇場型の偽善がありのままに実現された結果が総国民の人畜化であり、これこそはそもそも、
聖書信仰が実現しようとしていたものが真善ではなかったことの証拠となっている。
「こんなはずではなかった」などという、言い訳を差し挟む余地があるはずもない。
自分たちで善と見なしてきた望みが、ありのままに実現されて、めでたく全員禁治産と相成る。
どうしてそこに、不平を差し挟んだりする必要があるものか。
「尊者之れを賜うに、其の取る所の者は義か不義かと曰いて、
而かる後に之れを受く。是れを以って不恭と為す、故に卻けざるなり」
「尊貴なものが自分が賜物をくれるという場合、『それをもらうことは義か不義か』などと自分の側で
詮索してからもらったりするのでは、恭しさに欠けることになる。だから賜物を退けたりはしない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
法治主義が普遍的な是非善悪を歪めて、虚構の善悪を独り歩きさせることの危険性が
「春秋左子伝」昭公六年ですでに指摘されてもいる。そのため儒家は実定法それ自体を
金科玉条とはせず、仁徳や礼節に根ざした臨機応変な法律支配を主旨とする。
「礼記」などにそれなりに礼法に関する記述もあるにしろ、それも結局は古代の中国の
時代や風土に根ざして取り決められたものであるため、重要な参考資料とすることはあっても、
杓子定規な厳守の対象ともしない。それでは儒学ではなく儒教になってしまい、宗教教義や実定法
を厳守することばかりに囚われている人間に特有の、精神的怠惰が生じてしまうことともなるから。
実定された成文法を守るということは、非常に安易なこと。犬猫だって、それをやれば罰を受ける
ことが明確ないたずらなどは自主的に控えるようになるが、実定法もそれと全く同じ取り決めに過ぎず、
全く自主的な善悪の分別が付かない人畜化した人間であっても、実定法を守るぐらいのことはできる。
実定法ぐらいは守れるが、自主的な善悪の分別が付かない人畜で世の中が満たされたときに、
世の中が総出をあげて「船頭多くして船山に登る」ような事態が生じることとなる。
法律でそうすることが正しいと書かれているから、正しいと思って総出で大きな過ちを積み重ねる。
世の中に施行された法律がただ粗悪なだけでなく、悪逆非道を遵守者にけしかけるまでに
一概に悪質となったとき、行動則犯罪の、総員重権力犯罪者社会が現出することになる。
「春秋左子伝」昭公六年ですでに指摘されてもいる。そのため儒家は実定法それ自体を
金科玉条とはせず、仁徳や礼節に根ざした臨機応変な法律支配を主旨とする。
「礼記」などにそれなりに礼法に関する記述もあるにしろ、それも結局は古代の中国の
時代や風土に根ざして取り決められたものであるため、重要な参考資料とすることはあっても、
杓子定規な厳守の対象ともしない。それでは儒学ではなく儒教になってしまい、宗教教義や実定法
を厳守することばかりに囚われている人間に特有の、精神的怠惰が生じてしまうことともなるから。
実定された成文法を守るということは、非常に安易なこと。犬猫だって、それをやれば罰を受ける
ことが明確ないたずらなどは自主的に控えるようになるが、実定法もそれと全く同じ取り決めに過ぎず、
全く自主的な善悪の分別が付かない人畜化した人間であっても、実定法を守るぐらいのことはできる。
実定法ぐらいは守れるが、自主的な善悪の分別が付かない人畜で世の中が満たされたときに、
世の中が総出をあげて「船頭多くして船山に登る」ような事態が生じることとなる。
法律でそうすることが正しいと書かれているから、正しいと思って総出で大きな過ちを積み重ねる。
世の中に施行された法律がただ粗悪なだけでなく、悪逆非道を遵守者にけしかけるまでに
一概に悪質となったとき、行動則犯罪の、総員重権力犯罪者社会が現出することになる。
儒家による道徳統治とて完全無欠なものではなく、為政者の徳性が目減りすると共に世の
濁悪化を招くことがしばしばある。しかし、世の中が実定法を守ることしかできないような
人畜の集まりと化して、実定法が人々に悪逆非道をけしかけるほどに悪質化して、世の中を
総員重権力犯罪者社会にまで仕立て上げてしまうまでのことは、法治社会にのみあり得る
ことであって、徳治社会でそこまでもの乱脈が生じてしまうことは、原理的にあり得ない。
あらかじめ人々に自主的な善悪の分別を付ける素養を育ませて、実定法しか守れないような
人畜と化すことを未然に防いでいく徳治社会では、最悪でも、そこまでの乱世には至らない。
明らかに法治主義よりも徳治主義のほうが、世の中の濁悪化の最低ラインが高く、法治主義によって
もたらされる最悪級の乱世が、最悪級の徳治主義によってもたらされることすら、決してありはしない。
「人倫上に明らかなれば、小民下に親しむ。王者起こる有らば、必ず来たりて法を取らん」
「上に立つものが人倫をよくわきまえていれば、下民たちも皆よく親しみ合うようになる。
もしも偉大な王者が立ち起こることがあれば、必ずこれをこそ法として則ることだろう。
(上に立つものが人倫に暗いものだから、下民も隣人と親しみ合うくらいのことしかできなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
濁悪化を招くことがしばしばある。しかし、世の中が実定法を守ることしかできないような
人畜の集まりと化して、実定法が人々に悪逆非道をけしかけるほどに悪質化して、世の中を
総員重権力犯罪者社会にまで仕立て上げてしまうまでのことは、法治社会にのみあり得る
ことであって、徳治社会でそこまでもの乱脈が生じてしまうことは、原理的にあり得ない。
あらかじめ人々に自主的な善悪の分別を付ける素養を育ませて、実定法しか守れないような
人畜と化すことを未然に防いでいく徳治社会では、最悪でも、そこまでの乱世には至らない。
明らかに法治主義よりも徳治主義のほうが、世の中の濁悪化の最低ラインが高く、法治主義によって
もたらされる最悪級の乱世が、最悪級の徳治主義によってもたらされることすら、決してありはしない。
「人倫上に明らかなれば、小民下に親しむ。王者起こる有らば、必ず来たりて法を取らん」
「上に立つものが人倫をよくわきまえていれば、下民たちも皆よく親しみ合うようになる。
もしも偉大な王者が立ち起こることがあれば、必ずこれをこそ法として則ることだろう。
(上に立つものが人倫に暗いものだから、下民も隣人と親しみ合うくらいのことしかできなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
イエスにしろ、他のユダヤ人にしろ、その本性のところに、
世の中への強烈な呪いを宿している点が全く共通している。
商業民族として、他民族に寄生して媚びへつらうことを生業としていたユダヤ人と、
その中でも特に「妾腹の私生児」という恵まれない境遇に生まれ育ったイエスと、いずれもが
世の中に対する強烈なコンプレックスを抱いていて、そのコンプレックスを世の中への嫉妬に
転嫁して、嫉妬を解消する目的での呪詛を、自分たちの言葉に込めている点が共通している。
それはたとえば、春秋時代の覇権争いの中では劣勢に置かれていた魯国の人間や、その魯国で
母子家庭の妾腹の私生児として生まれ育った孔子などにも、決してあり得なかったことではなく、
不遇な立場からなるコンプレックスを嫉妬に転嫁して、その嫉妬を呪詛の言葉に込めることすら
あり得なかったことではない。しかし、魯国の人間は、覇権争いで劣勢に置かれていたことに
コンプレックスを抱いたりすることよりも、周公旦が自国の直轄者として遺してくれた数多の
文化的遺産を保護することのほうに努め、孔子もまた、それらの文化遺産を熱心に研究し、
五経としてとりまとめるなどして大学者として大成することで、自らの不遇をも克服した。
世の中への強烈な呪いを宿している点が全く共通している。
商業民族として、他民族に寄生して媚びへつらうことを生業としていたユダヤ人と、
その中でも特に「妾腹の私生児」という恵まれない境遇に生まれ育ったイエスと、いずれもが
世の中に対する強烈なコンプレックスを抱いていて、そのコンプレックスを世の中への嫉妬に
転嫁して、嫉妬を解消する目的での呪詛を、自分たちの言葉に込めている点が共通している。
それはたとえば、春秋時代の覇権争いの中では劣勢に置かれていた魯国の人間や、その魯国で
母子家庭の妾腹の私生児として生まれ育った孔子などにも、決してあり得なかったことではなく、
不遇な立場からなるコンプレックスを嫉妬に転嫁して、その嫉妬を呪詛の言葉に込めることすら
あり得なかったことではない。しかし、魯国の人間は、覇権争いで劣勢に置かれていたことに
コンプレックスを抱いたりすることよりも、周公旦が自国の直轄者として遺してくれた数多の
文化的遺産を保護することのほうに努め、孔子もまた、それらの文化遺産を熱心に研究し、
五経としてとりまとめるなどして大学者として大成することで、自らの不遇をも克服した。
この魯人や孔子のあり方こそは、不遇→コンプレックス→嫉妬→呪詛という、人間の情念の
濁悪化を未然に食い止めて、健全な文化事業によって悪念をも克服した模範例であるといえ、
その文化的な所産が呪詛の塊りなどでもなければこそ、それらの所産を儒学資料として重用した、
漢や唐や宋や平安朝や江戸幕府といった権力機構もまた、長期の泰平社会を実現したのだった。
そこに書かれているのが、小人の恨みつらみを込めた讒言の塊りでしかないからこそ、
犯罪聖書を実践することで治めようとした国や社会は、いずれもが致命的な争乱状態を呈し、
数十年としないうちの大戦などによる亡国や破国が免れ得たことがない。確かに巧妙な修辞に
よって、イエスやその他ユダヤ人の呪詛は、犯罪聖書の表面的な記述からは隠されているが、
その根幹とする所が、他民族や他人に対しての強烈な呪詛であり、呪詛によって他人を困窮や
虐殺などの破滅的な運命へと導かせようとするものだから、どんな信仰や実践の仕方をする
のであっても、犯罪聖書の受容は必ず、あるよりもないほうがいいような破滅を招くのである。
「朕れ讒説の行いを殄ち、朕が師を震驚せるを堲む」
「私は小人の讒言が人々の正しい行いを潰えさせ、民衆たちを震え上がらせることを苦々しく思う」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
濁悪化を未然に食い止めて、健全な文化事業によって悪念をも克服した模範例であるといえ、
その文化的な所産が呪詛の塊りなどでもなければこそ、それらの所産を儒学資料として重用した、
漢や唐や宋や平安朝や江戸幕府といった権力機構もまた、長期の泰平社会を実現したのだった。
そこに書かれているのが、小人の恨みつらみを込めた讒言の塊りでしかないからこそ、
犯罪聖書を実践することで治めようとした国や社会は、いずれもが致命的な争乱状態を呈し、
数十年としないうちの大戦などによる亡国や破国が免れ得たことがない。確かに巧妙な修辞に
よって、イエスやその他ユダヤ人の呪詛は、犯罪聖書の表面的な記述からは隠されているが、
その根幹とする所が、他民族や他人に対しての強烈な呪詛であり、呪詛によって他人を困窮や
虐殺などの破滅的な運命へと導かせようとするものだから、どんな信仰や実践の仕方をする
のであっても、犯罪聖書の受容は必ず、あるよりもないほうがいいような破滅を招くのである。
「朕れ讒説の行いを殄ち、朕が師を震驚せるを堲む」
「私は小人の讒言が人々の正しい行いを潰えさせ、民衆たちを震え上がらせることを苦々しく思う」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
多くの事物が有機的な不確定性を帯びているこの世界においては、
波風を立てないでいようとしたところで、やはりいくらかの争乱が起きる。
二重三重の権力に対する防腐措置が施されることで、飛鳥時代に打ち立てられた日本の
律令制社会も、奈良時代や平安時代の500年にわたる泰平の後に、ついに破綻を来たし、
朝廷の制御を振り切ったつわもの達が覇権を争う武家時代へと移り変わったのだった。
ただ、そこにはやはり、どうしてもそうならざるを得ない事情があったのであり、
決して好き好んで、血で血を洗うような乱世を招いたのではなかった。
あえて武力で朝廷の権威を争奪しようとした平将門や藤原純友は誅戮されて、
朝廷内での内輪もめが深刻化して、保元の乱で藤原氏本流の権威が失墜したことで
初めて平氏や源氏といった武家の家門が天皇に次ぐ位を得るまでになった。
それでもやはり、武家として太政大臣などの重職を歴任した平清盛を始めとする
平氏は源氏によって滅ぼされ、武家の棟梁たる征夷大将軍を武家の最高位とする条件で、
源頼朝の開いた鎌倉幕府が、本格的な武家社会を始動していくに至った。
どこまでも消極の限りを尽くして、仕方なく公家社会から武家社会へと時代が
移行していったことが歴史上の記録からも明らかであり、進んで不穏な波風を立てようと
するような人間は、ことごとく非業の末路を辿っている。要するに、マッチポンプが
極力避けられていたことが分かり、だからこそ先人たちの至誠までもが垣間見られる。
それと比べれば、進んで波風を立てたがるマッチポンプの画策や、マッチポンプで
塗り固められた歴史などは極めて不誠実なものであり、事実関係だけを見てみれば、
それはそれは貧相なものでもある場合がほとんど。だから色々と虚飾を尽くして、
事実関係からはなるべく目を逸らさせようともするが、それもまた不誠実の上塗りとなり、
マッチポンプを極力排した場合にこそ見られるような、切実さ故の魅力には決定的に欠け続ける。
波風を立てないでいようとしたところで、やはりいくらかの争乱が起きる。
二重三重の権力に対する防腐措置が施されることで、飛鳥時代に打ち立てられた日本の
律令制社会も、奈良時代や平安時代の500年にわたる泰平の後に、ついに破綻を来たし、
朝廷の制御を振り切ったつわもの達が覇権を争う武家時代へと移り変わったのだった。
ただ、そこにはやはり、どうしてもそうならざるを得ない事情があったのであり、
決して好き好んで、血で血を洗うような乱世を招いたのではなかった。
あえて武力で朝廷の権威を争奪しようとした平将門や藤原純友は誅戮されて、
朝廷内での内輪もめが深刻化して、保元の乱で藤原氏本流の権威が失墜したことで
初めて平氏や源氏といった武家の家門が天皇に次ぐ位を得るまでになった。
それでもやはり、武家として太政大臣などの重職を歴任した平清盛を始めとする
平氏は源氏によって滅ぼされ、武家の棟梁たる征夷大将軍を武家の最高位とする条件で、
源頼朝の開いた鎌倉幕府が、本格的な武家社会を始動していくに至った。
どこまでも消極の限りを尽くして、仕方なく公家社会から武家社会へと時代が
移行していったことが歴史上の記録からも明らかであり、進んで不穏な波風を立てようと
するような人間は、ことごとく非業の末路を辿っている。要するに、マッチポンプが
極力避けられていたことが分かり、だからこそ先人たちの至誠までもが垣間見られる。
それと比べれば、進んで波風を立てたがるマッチポンプの画策や、マッチポンプで
塗り固められた歴史などは極めて不誠実なものであり、事実関係だけを見てみれば、
それはそれは貧相なものでもある場合がほとんど。だから色々と虚飾を尽くして、
事実関係からはなるべく目を逸らさせようともするが、それもまた不誠実の上塗りとなり、
マッチポンプを極力排した場合にこそ見られるような、切実さ故の魅力には決定的に欠け続ける。
マッチポンプのためにわざわざ波風を立てることは、不誠実だからつまらない。
どんなに大きな波風を立てたところで、所詮は自作自演なのだから、自作自演を
徹底して排したところでこそ繰り広げられる歴史絵巻ほどもの魅力は決して備わらない。
波風を立てること自体が扇情目的であるにも関わらず、好き好んで波風を立てた以上は、
それがどうしたってつまらない原因になってしまうのだから、本当に痛快な物語を
つむぎ上げようと思うのであればこそ、作為的なマッチポンプは極力控えるべきだといえる。
「豕の白蹢有りて、烝く波を渉る。
月は畢のほしに離り、滂沱たらしむ。
武人の東征するに、遑ま他にあらず」
「(躁疾な性格が多い)白蹄の猪のように、波風の酷い湿地をも必至で突き進む。
月が雨降り星に近づいて、これから大雨にもなりそうなのに、
東国へと遠征する兵士たちには、そんなことを気にしている余裕もない。
(波風の荒い湿地をあえて突き進もうとすること自体が、すでに躁疾の現れである。
雨降り星は牡牛座に相当する星群で、ここに月が近づく頃が当地の雨期だったらしい。
雨期に湿地に立ち入ったりしないための、未然の注意だってできなくはないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)
どんなに大きな波風を立てたところで、所詮は自作自演なのだから、自作自演を
徹底して排したところでこそ繰り広げられる歴史絵巻ほどもの魅力は決して備わらない。
波風を立てること自体が扇情目的であるにも関わらず、好き好んで波風を立てた以上は、
それがどうしたってつまらない原因になってしまうのだから、本当に痛快な物語を
つむぎ上げようと思うのであればこそ、作為的なマッチポンプは極力控えるべきだといえる。
「豕の白蹢有りて、烝く波を渉る。
月は畢のほしに離り、滂沱たらしむ。
武人の東征するに、遑ま他にあらず」
「(躁疾な性格が多い)白蹄の猪のように、波風の酷い湿地をも必至で突き進む。
月が雨降り星に近づいて、これから大雨にもなりそうなのに、
東国へと遠征する兵士たちには、そんなことを気にしている余裕もない。
(波風の荒い湿地をあえて突き進もうとすること自体が、すでに躁疾の現れである。
雨降り星は牡牛座に相当する星群で、ここに月が近づく頃が当地の雨期だったらしい。
雨期に湿地に立ち入ったりしないための、未然の注意だってできなくはないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)
真の善徳、真の正義ってのは、ある程度大型化した文明社会の公権力者が
理想の統治者=君子たらんとしたときに、初めて把捉されたもの。
数万人程度の規模までの小社会では、たとえ公権力者であっても、
わざわざ濁世を防止するための君子統治などを心がける必要がないし、
数十万人以上の大社会であっても、ただの庶民であれば、大仰な正義だ
善徳だを自主的に養っていったりするような必要性からして存在しない。
(もちろん君子として仕官するための前準備の修養などはあり得る)
正義は民間人のものでなければ、小社会の公権力者のものでもない。
民間の商売人が顧客への奉仕を熱心に行ったところで、それが正義になる
わけでもなく、ただ私利私欲のための必死さがより苛烈になるだけのことだし、
小さな村落の首長が善政を志したりしたところで、やることといえば所詮は、
村の人々の気を遣う程度のことでしかない。
多くの被治者を「民草」と見なして、自分たちの徳風になびかせてこそ
善良たらしめるというところに、人間の正義の原点が存在する。民間人が
正義を行うことがあるとすれば、そのような治世に基づいて謹厳であることであり、
君子士人の為政に旺盛に口出しをしたりすれば、それが正義になるわけでもない。
この世に正義のようなもの、善徳のようなものはいくらでもあるが、
その多くは偽物であり、善を騙る悪や正義を騙る邪義である場合が非常に多い。
それは特に、古代ユダヤ人のような元祖禁治民族や、イエスのような小国の民間人が
騙り始めたものである場合が多いわけだが、未だ公権力に携わったことがない人間、
正義も善徳も必要のないような小社会で生まれ育った人間などは、本当に本物の
善徳や正義を知らない。真の善徳や正義などを知りえない立場、大社会の公権力者
などには決してなり得ない立場でいた以上、儒学のような権力道徳学を自主的に
学びでもしない限りは、永遠に真の善徳や正義といったものを察知することがない。
理想の統治者=君子たらんとしたときに、初めて把捉されたもの。
数万人程度の規模までの小社会では、たとえ公権力者であっても、
わざわざ濁世を防止するための君子統治などを心がける必要がないし、
数十万人以上の大社会であっても、ただの庶民であれば、大仰な正義だ
善徳だを自主的に養っていったりするような必要性からして存在しない。
(もちろん君子として仕官するための前準備の修養などはあり得る)
正義は民間人のものでなければ、小社会の公権力者のものでもない。
民間の商売人が顧客への奉仕を熱心に行ったところで、それが正義になる
わけでもなく、ただ私利私欲のための必死さがより苛烈になるだけのことだし、
小さな村落の首長が善政を志したりしたところで、やることといえば所詮は、
村の人々の気を遣う程度のことでしかない。
多くの被治者を「民草」と見なして、自分たちの徳風になびかせてこそ
善良たらしめるというところに、人間の正義の原点が存在する。民間人が
正義を行うことがあるとすれば、そのような治世に基づいて謹厳であることであり、
君子士人の為政に旺盛に口出しをしたりすれば、それが正義になるわけでもない。
この世に正義のようなもの、善徳のようなものはいくらでもあるが、
その多くは偽物であり、善を騙る悪や正義を騙る邪義である場合が非常に多い。
それは特に、古代ユダヤ人のような元祖禁治民族や、イエスのような小国の民間人が
騙り始めたものである場合が多いわけだが、未だ公権力に携わったことがない人間、
正義も善徳も必要のないような小社会で生まれ育った人間などは、本当に本物の
善徳や正義を知らない。真の善徳や正義などを知りえない立場、大社会の公権力者
などには決してなり得ない立場でいた以上、儒学のような権力道徳学を自主的に
学びでもしない限りは、永遠に真の善徳や正義といったものを察知することがない。
正義とか善徳とかいったものは、本当は非常に特殊なもので、真正なものは、
大社会の権力道徳者でもなければ把捉し得ず、真正な善徳や正義を把捉した学問も
儒学ぐらいしか存在しない。まるで、そこら中に無尽蔵に善徳や正義がばら撒かれて
いるかのように思い込むのなら、そのような人間は決して本物の善徳や正義を
把捉してはおらず、それ以前に、察知すらしたことがないだろうことが明らか。
本物の正義や善徳を察知したこともないうちから、偽善のつまらなさに嫌気がさして、
善徳や正義全般を忌み嫌おうとするような人間もいるが、そのような人間もまた
やはり本物の善徳や正義を察知したことすらない。未だかつて一度も、本物の正善を
察知したことすらない分際でいて、我流で善悪や善悪への好悪を語っていたようなものが、
本物の善悪正邪を知るためには、未だかつて本物の善悪正邪などを察知したことすら
ないという哀れな哀れな身の程を、事前に思い知っておかなければ、どうにもならない。
「偏無く陂無く王の義に遵え。好を作す有る無く王の道に遵え。悪を作す有る無く王の路に遵え。
偏無く党なければ王道蕩蕩たり。党無く偏無ければ王道平平たり。反無く側無ければ王道正直たり」
「偏見や邪曲を介することなく王の義に従え。好悪を差し挟むことなく王の道に従え。
偏見や私党がなければ王道も坦々と治まり、反意や阿りがなければ王道も正直である。
(サービス的な要素をあえて省いた君子の統治にこそ、偽善でない真の正義もまた備わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
大社会の権力道徳者でもなければ把捉し得ず、真正な善徳や正義を把捉した学問も
儒学ぐらいしか存在しない。まるで、そこら中に無尽蔵に善徳や正義がばら撒かれて
いるかのように思い込むのなら、そのような人間は決して本物の善徳や正義を
把捉してはおらず、それ以前に、察知すらしたことがないだろうことが明らか。
本物の正義や善徳を察知したこともないうちから、偽善のつまらなさに嫌気がさして、
善徳や正義全般を忌み嫌おうとするような人間もいるが、そのような人間もまた
やはり本物の善徳や正義を察知したことすらない。未だかつて一度も、本物の正善を
察知したことすらない分際でいて、我流で善悪や善悪への好悪を語っていたようなものが、
本物の善悪正邪を知るためには、未だかつて本物の善悪正邪などを察知したことすら
ないという哀れな哀れな身の程を、事前に思い知っておかなければ、どうにもならない。
「偏無く陂無く王の義に遵え。好を作す有る無く王の道に遵え。悪を作す有る無く王の路に遵え。
偏無く党なければ王道蕩蕩たり。党無く偏無ければ王道平平たり。反無く側無ければ王道正直たり」
「偏見や邪曲を介することなく王の義に従え。好悪を差し挟むことなく王の道に従え。
偏見や私党がなければ王道も坦々と治まり、反意や阿りがなければ王道も正直である。
(サービス的な要素をあえて省いた君子の統治にこそ、偽善でない真の正義もまた備わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
イエスとかユダヤ人とかいった連中は、そもそも善を知らない。
真の善徳を把捉できるような境遇に置かれたことからしてないものだから、
自分たちが善だと思い込んだ、本当は悪である偽善を、本当に善であると思い込んで、
本物の善を推し進めるつもりで偽善を推し進め、結果的に悪逆非道こそを推進してしまう。
そしてその有り様を信仰すべき対象として記録したのが、新旧約聖書に当たる。
真の善の前には、必ず不悪がある。
明らかに悪である言行を断じて為さないという守備があってから、初めて善も真となる。
前提としての断悪が疎かであるならば、それ自体が単体では真善であるような善ですら、
悪とのくそみそと化すことで偽善となってしまう。だから真の善を為すためには、積極的に
善を為すこと以上にも、断じて悪を行わないという守備の心がけのほうがより大事なのだといえる。
もちろんイエスやユダヤ人はそんなことは分からないものだから、
自分たちが善だと思い込んだことを積極的に為して行きすらすれば、どんなに
プラスマイナスゼロ以下のマッチポンプとなったところで、それが善になると思い込む。
そもそも偽善を善だと思い込んでいる上に、善以上の悪が必ず付いてくる善悪みそくその行いすら
善行だと思い込んで積極的に為そうとするものだから、二重三重の過ちが積み重ねられた結果、
絶対に真の善を為すことなどはできなくなってしまうのである。
真の善徳を把捉できるような境遇に置かれたことからしてないものだから、
自分たちが善だと思い込んだ、本当は悪である偽善を、本当に善であると思い込んで、
本物の善を推し進めるつもりで偽善を推し進め、結果的に悪逆非道こそを推進してしまう。
そしてその有り様を信仰すべき対象として記録したのが、新旧約聖書に当たる。
真の善の前には、必ず不悪がある。
明らかに悪である言行を断じて為さないという守備があってから、初めて善も真となる。
前提としての断悪が疎かであるならば、それ自体が単体では真善であるような善ですら、
悪とのくそみそと化すことで偽善となってしまう。だから真の善を為すためには、積極的に
善を為すこと以上にも、断じて悪を行わないという守備の心がけのほうがより大事なのだといえる。
もちろんイエスやユダヤ人はそんなことは分からないものだから、
自分たちが善だと思い込んだことを積極的に為して行きすらすれば、どんなに
プラスマイナスゼロ以下のマッチポンプとなったところで、それが善になると思い込む。
そもそも偽善を善だと思い込んでいる上に、善以上の悪が必ず付いてくる善悪みそくその行いすら
善行だと思い込んで積極的に為そうとするものだから、二重三重の過ちが積み重ねられた結果、
絶対に真の善を為すことなどはできなくなってしまうのである。
イエスやユダヤ人が善を為せない原因は、かくのごとく二重三重にも折り重ねられているために、
なまじただの常人などよりも、悪を為すことなく真善を為す選択肢が強固に閉鎖されてしまって
いるのだといえる。医学的には、「サイコパスの病状が深刻である」ともいえるが、その
サイコパスが深刻化している原因こそは、上記のような理由に基づく二重三重の断悪修善の不能化
であるのだから、そうであることに応じた治療や禁治産などの措置を課してやるべきだといえる。
ただ強制入院や禁治産をあてがうばかりではなく、着実な回復を目指した措置でこそあるべきだ。
「仁に里るを美しと為す。択んで仁に処らずんば、焉んぞ知なることを得ん」
「まず仁にどっかりと腰を据えることを善美と為す。仁に居場所を据えること
すら疎かにしていたのなら、善悪の分別などの知識を得ることもできはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一より)
なまじただの常人などよりも、悪を為すことなく真善を為す選択肢が強固に閉鎖されてしまって
いるのだといえる。医学的には、「サイコパスの病状が深刻である」ともいえるが、その
サイコパスが深刻化している原因こそは、上記のような理由に基づく二重三重の断悪修善の不能化
であるのだから、そうであることに応じた治療や禁治産などの措置を課してやるべきだといえる。
ただ強制入院や禁治産をあてがうばかりではなく、着実な回復を目指した措置でこそあるべきだ。
「仁に里るを美しと為す。択んで仁に処らずんば、焉んぞ知なることを得ん」
「まず仁にどっかりと腰を据えることを善美と為す。仁に居場所を据えること
すら疎かにしていたのなら、善悪の分別などの知識を得ることもできはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一より)
イエスが本物の善を知らない郷原(世間知らずの偽善者)の徒であった
決定的な証拠の一つが、徴税人を罪人とも同然の悪人と見なす物言いだといえる。
徴税それ自体は、善行とも悪行ともなり得るもの。
やたらめったらと重税を課して民に困窮を強いたりすれば、当然それは悪行になる。
しかし、逆にやたらめったらと税を軽減して、公務機関による最低限度の社会統制すら
疎かにしてしまったりするのであれば、それもまた悪行や偽善の行いと化してしまう。
為政者が税制を極端に厳しくも緩くもせず、適正なものとすることで、
夜警統治と福祉統治の釣り合いを取ることこそが善行になるといえ、しかも、
人間が講じられる善行のうちでも最もウソ偽りのない、純粋な善行になるといえる。
善というものが、偽りなく純善として生じ得る中でも、特に確実な部類に入るのが
為政者による徴税の適正化であり、徴税人が民から尊ばれるぐらいであってこそ
真の善政が敷かれているのだともいえる。にもかかわらずイエスが徴税人を
罪人も同然のものとして決め付けるたは、イエスが、徴税の適正化にこそ純善が
備わり得ることすら知らなかった、世間知らずの偽善者だったからでこそあるし、
また、イエスが生きていた頃のイスラエルやローマの為政者が、民に対して
やたらと重税を課したりするような、暴政の徒だったに違いないからでもある。
税制の煩雑化こそは暴政の原因になると見なし、課税対象をなるべく少なくすべきで
あると孟子も説いているが、じゃあ課税対象が雑多化してしまう原因は何かといえば、
市場を悪用した投機であぶく銭を稼ぐような、匹夫の悪行に制限を課したりするために
課税対象も増えていったのだとも説いている。徴税人がありとあらゆる社会活動から
税を徴収する事態ともなれば、そりゃあ徴税人が憎しみや嫌悪の対象にもなって仕方ない
わけだが、それほどにも徴税が雑多化してしまう原因は何かといえば、それはイエスの
ような民間人の匹夫が、投機で不正な富を蓄えたりすることに対抗するからなわけで、
徴税人を罪人並みの嫌われ者にしてしまっているのも、他でもないイエス自身なのである。
決定的な証拠の一つが、徴税人を罪人とも同然の悪人と見なす物言いだといえる。
徴税それ自体は、善行とも悪行ともなり得るもの。
やたらめったらと重税を課して民に困窮を強いたりすれば、当然それは悪行になる。
しかし、逆にやたらめったらと税を軽減して、公務機関による最低限度の社会統制すら
疎かにしてしまったりするのであれば、それもまた悪行や偽善の行いと化してしまう。
為政者が税制を極端に厳しくも緩くもせず、適正なものとすることで、
夜警統治と福祉統治の釣り合いを取ることこそが善行になるといえ、しかも、
人間が講じられる善行のうちでも最もウソ偽りのない、純粋な善行になるといえる。
善というものが、偽りなく純善として生じ得る中でも、特に確実な部類に入るのが
為政者による徴税の適正化であり、徴税人が民から尊ばれるぐらいであってこそ
真の善政が敷かれているのだともいえる。にもかかわらずイエスが徴税人を
罪人も同然のものとして決め付けるたは、イエスが、徴税の適正化にこそ純善が
備わり得ることすら知らなかった、世間知らずの偽善者だったからでこそあるし、
また、イエスが生きていた頃のイスラエルやローマの為政者が、民に対して
やたらと重税を課したりするような、暴政の徒だったに違いないからでもある。
税制の煩雑化こそは暴政の原因になると見なし、課税対象をなるべく少なくすべきで
あると孟子も説いているが、じゃあ課税対象が雑多化してしまう原因は何かといえば、
市場を悪用した投機であぶく銭を稼ぐような、匹夫の悪行に制限を課したりするために
課税対象も増えていったのだとも説いている。徴税人がありとあらゆる社会活動から
税を徴収する事態ともなれば、そりゃあ徴税人が憎しみや嫌悪の対象にもなって仕方ない
わけだが、それほどにも徴税が雑多化してしまう原因は何かといえば、それはイエスの
ような民間人の匹夫が、投機で不正な富を蓄えたりすることに対抗するからなわけで、
徴税人を罪人並みの嫌われ者にしてしまっているのも、他でもないイエス自身なのである。
もちろん、イエスのような民間の暴徒を、投機に走ったりする以前から十分な取締り
の対象とするのが、為政者の夜警者としての義務であるといえ、イエスのような暴民を
世間にのさばらせてしまった時点で、すでにそれが為政者の落ち度であるとも言える。
自分たちの行いの劣悪さによって、それを追跡する徴税人を嫌われ者としてしまうような
蒙昧な民が、できる限り発生しないように徳化を心がけるのが徳治者の義務であるといえ、
それはイスラエルやローマの為政者はおろか、春秋戦国時代の中国の為政者や、今の
日本の為政者ですらもが、全くといっていいほど実現できていない条件だといえる。
金融犯罪などの悪行を犯す小人が現れて、それに後付けで為政者が課税して、結果、
小人が徴税人を忌み嫌うような事態と化すといった現象全般が、極めて劣悪なものであり、
始めからそういった現象が発生しないように心がけるところにこそ、真の善徳が備わる
といえる。真の善徳がある所には、イエスみたいな人間は始めから生じないのである。
「蚕事畢りて、后妃繭を献ず。乃ち繭税を収め、桑を以って均と為し、貴賤長幼一の如くす」
「養蚕の時期が終わると、后妃が繭を献上する儀式を行う。儀式の中で繭を税として収めるが、
蚕が食した桑の多少によって税率を取り決め、生産者の貴賤長幼によって取り決めたりはしない。
(徴税が正統な儀礼にまで昇華されている事例。日本の皇后も養蚕を儀礼的に行ってる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
の対象とするのが、為政者の夜警者としての義務であるといえ、イエスのような暴民を
世間にのさばらせてしまった時点で、すでにそれが為政者の落ち度であるとも言える。
自分たちの行いの劣悪さによって、それを追跡する徴税人を嫌われ者としてしまうような
蒙昧な民が、できる限り発生しないように徳化を心がけるのが徳治者の義務であるといえ、
それはイスラエルやローマの為政者はおろか、春秋戦国時代の中国の為政者や、今の
日本の為政者ですらもが、全くといっていいほど実現できていない条件だといえる。
金融犯罪などの悪行を犯す小人が現れて、それに後付けで為政者が課税して、結果、
小人が徴税人を忌み嫌うような事態と化すといった現象全般が、極めて劣悪なものであり、
始めからそういった現象が発生しないように心がけるところにこそ、真の善徳が備わる
といえる。真の善徳がある所には、イエスみたいな人間は始めから生じないのである。
「蚕事畢りて、后妃繭を献ず。乃ち繭税を収め、桑を以って均と為し、貴賤長幼一の如くす」
「養蚕の時期が終わると、后妃が繭を献上する儀式を行う。儀式の中で繭を税として収めるが、
蚕が食した桑の多少によって税率を取り決め、生産者の貴賤長幼によって取り決めたりはしない。
(徴税が正統な儀礼にまで昇華されている事例。日本の皇后も養蚕を儀礼的に行ってる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
人間が死刑になる恐怖というのは、立派な賢人や聖人であれば十分に克服できるものだが、
小人には克服できない。羊や牛豚並みの精神の薄弱さでいて、なおかつ生命の死というものを
知識的に理解できる程度の思考能力を備えている人間=小人にとっては、自らが死ぬということが
何よりの恐怖であり、特に重罪行為への制裁として処刑されることこそが、最大級の恐怖となる。
その、処刑への恐怖こそを為政者もまた被治民への戒めとし、重罪人の処刑を大々的に公開したり、
刑死者の生首を晒しものにしたりすることもあったわけだが、その処刑への恐怖を逆手にとって、
最大級の恐怖からなる知能の退行をトリックとして、信者に無根拠な歓喜を備わらせてきたのが
キリスト信仰に当たる。処刑への恐怖を信仰対象にまでさせられた結果、信者は命の生死というもの
を知識的に理解できないIQ20〜35程度の低能にまで、知能を作為的に退行させる能力を身に付ける。
もちろん常時IQ20〜35では一般生活もままならないから、IQ100程度でいることも一応はできるが、
ことに死の恐怖を考えさせられるような段になれば、途端に十字架信仰によって知能をIQ20〜35
にまで退行させてしまう。退行して白痴のような歓喜に包まれる、というか、白痴そのものになる。
それはたとえば、仏者が悟りの先に得る歓喜などとは全くの別物であり、仏者は自らの知能を
退行させたりすることもなく、ただひたすら精進修行に励んだ末に、シラフのままでの悟りを得る。
知能を退行させたりすることがない健全な歓喜だから、罪を犯したことへの罪悪感までをも同時に
喪失してしまうようなこともなく、「諸悪莫作修善奉行」の真理もまた確固として把捉し続けられる。
十字架信者の場合には、刑死への恐怖によって知能をIQ20〜35にまで退行させることで歓喜を得ると
同時に、罪を犯すことへの罪悪感すら喪失してしまうものだから、平気で大罪すらも犯してしまう。
それは正しい悟りなどでは決してないから、正覚による歓喜こそは健全な歓喜であると
いえる一方で、十字架信仰による白痴化の歓喜は不健全な歓喜であるといえる。
小人には克服できない。羊や牛豚並みの精神の薄弱さでいて、なおかつ生命の死というものを
知識的に理解できる程度の思考能力を備えている人間=小人にとっては、自らが死ぬということが
何よりの恐怖であり、特に重罪行為への制裁として処刑されることこそが、最大級の恐怖となる。
その、処刑への恐怖こそを為政者もまた被治民への戒めとし、重罪人の処刑を大々的に公開したり、
刑死者の生首を晒しものにしたりすることもあったわけだが、その処刑への恐怖を逆手にとって、
最大級の恐怖からなる知能の退行をトリックとして、信者に無根拠な歓喜を備わらせてきたのが
キリスト信仰に当たる。処刑への恐怖を信仰対象にまでさせられた結果、信者は命の生死というもの
を知識的に理解できないIQ20〜35程度の低能にまで、知能を作為的に退行させる能力を身に付ける。
もちろん常時IQ20〜35では一般生活もままならないから、IQ100程度でいることも一応はできるが、
ことに死の恐怖を考えさせられるような段になれば、途端に十字架信仰によって知能をIQ20〜35
にまで退行させてしまう。退行して白痴のような歓喜に包まれる、というか、白痴そのものになる。
それはたとえば、仏者が悟りの先に得る歓喜などとは全くの別物であり、仏者は自らの知能を
退行させたりすることもなく、ただひたすら精進修行に励んだ末に、シラフのままでの悟りを得る。
知能を退行させたりすることがない健全な歓喜だから、罪を犯したことへの罪悪感までをも同時に
喪失してしまうようなこともなく、「諸悪莫作修善奉行」の真理もまた確固として把捉し続けられる。
十字架信者の場合には、刑死への恐怖によって知能をIQ20〜35にまで退行させることで歓喜を得ると
同時に、罪を犯すことへの罪悪感すら喪失してしまうものだから、平気で大罪すらも犯してしまう。
それは正しい悟りなどでは決してないから、正覚による歓喜こそは健全な歓喜であると
いえる一方で、十字架信仰による白痴化の歓喜は不健全な歓喜であるといえる。
麻薬中毒者だって、薬の服用中はヘラヘラしていられるが、薬が切れれば極重の苦痛に見舞われる。
一方で、薬を服用し続ければ副作用で命を縮めたり、重い障害を負ってしまったりする。
だから麻薬中毒による歓喜は不健全なことであるといえ、十字架信仰による歓喜もまた
全く同じような理由で不健全極まりない歓喜であるといえる。副作用を伴ったりしない
健全な歓喜を得るためには、色々と精進努力を心がける必要があるものであり、安易に
歓喜を得られるような選択肢には、かならず落とし穴が潜んでいると見なして差し支えない。
「无妄の疾あるも、薬勿くして喜び有り。无妄の薬は、試す可からざるなり」
「虚妄を排して誠実でいられるのならば、たとえ病にかかろうとも薬すらなく快癒の喜びを得られる。
虚妄を排して誠実ですらいられるのならば、対処的な薬餌療法などは試すべきですらない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・无妄・九五・象伝より)
一方で、薬を服用し続ければ副作用で命を縮めたり、重い障害を負ってしまったりする。
だから麻薬中毒による歓喜は不健全なことであるといえ、十字架信仰による歓喜もまた
全く同じような理由で不健全極まりない歓喜であるといえる。副作用を伴ったりしない
健全な歓喜を得るためには、色々と精進努力を心がける必要があるものであり、安易に
歓喜を得られるような選択肢には、かならず落とし穴が潜んでいると見なして差し支えない。
「无妄の疾あるも、薬勿くして喜び有り。无妄の薬は、試す可からざるなり」
「虚妄を排して誠実でいられるのならば、たとえ病にかかろうとも薬すらなく快癒の喜びを得られる。
虚妄を排して誠実ですらいられるのならば、対処的な薬餌療法などは試すべきですらない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・无妄・九五・象伝より)
人間の本性が誠実か虚妄かという問題はともかくとして、
仮に、誠実さによって虚妄を排することすらできたなら、人は麻薬的な
陶酔などに頼ることもなく、歓喜や安心を得られるようになっている。
誠実であろうとしてみた結果、イヤな気分になったりするとすれば、
それは誠実であろうとする上での基準を偽善に求めていたりするからで、
真善を基準とした真の誠実さとすら共にいられたなら、人は決して辟易などを
抱かされることもなく、麻薬性とも無縁な、健全な歓喜を得ることができる。
麻薬中毒者にとって、薬が切れた時の苦痛こそは、それはそれは恐ろしいものであるに違いないが、
それは麻薬が切れた所でこそ、野放しにしてきた自分たち自身の不誠実さと
直面させられる破目になるからで、いつまでも根本的な部分でくすぶり続けているその不誠実さこそは、
麻薬的な陶酔と共にでもなければ耐えられないほどの苦痛を、中毒者たち自身に強いている元凶なのである。
仮に、誠実さによって虚妄を排することすらできたなら、人は麻薬的な
陶酔などに頼ることもなく、歓喜や安心を得られるようになっている。
誠実であろうとしてみた結果、イヤな気分になったりするとすれば、
それは誠実であろうとする上での基準を偽善に求めていたりするからで、
真善を基準とした真の誠実さとすら共にいられたなら、人は決して辟易などを
抱かされることもなく、麻薬性とも無縁な、健全な歓喜を得ることができる。
麻薬中毒者にとって、薬が切れた時の苦痛こそは、それはそれは恐ろしいものであるに違いないが、
それは麻薬が切れた所でこそ、野放しにしてきた自分たち自身の不誠実さと
直面させられる破目になるからで、いつまでも根本的な部分でくすぶり続けているその不誠実さこそは、
麻薬的な陶酔と共にでもなければ耐えられないほどの苦痛を、中毒者たち自身に強いている元凶なのである。
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封建社会では、上位のものほど総合的な政治判断などを取り扱い、
下位のものほどその判断を実現するための下請けを委ねられる。
農作やモノ作りなどの実業は民間に委ねて、士分は基本、実業への従事すら禁じられる。
士人こそは実業や商業の興業を民間人に委ね、そのあり方をトップダウンに統制する
のであり、民間人のほうが士人に対してあれこれと注文を付けるのは失礼になる。
主権が民間人ではなく士人にあり、士人の判断に民間人が追従するのだから、
士人に発注された仕事を賢明にこなす必要があるのも民間人のほうである。
士人は士人で、自分よりもより上位の大夫諸侯らへの忠誠によって役務に励むが、
自らが徳治を施すことを「国民の皆様方のため」などというような、へつらい言葉で
飾ったりもせず、あくまで仁義道徳に根ざした自己判断で為政を執り行っていくのである。
上位のものが、下位の者にとっての奉仕者になるという、民主主義の原型ともなっている
ルサンチマン発散型の理念は、確かに聞こえはいいが、同時に絶対矛盾を宿してもいる。
古代ローマでの帝政などでも、皇帝が民衆への奉仕を約束するようなことがありはしたが、
最上位に皇帝がいて最下位に奴隷がいるという階級関係は全く変わらず、下位のものが
上位の者に奉仕するという根本的な社会構造が何ら変化を来たしたことはなかった。
上意下達がやはり人間社会の基本であり、そうでなかったり、その逆を行こうとしたりすれば
そのぶんだけ社会機能が不全化してしまう結果しか招かない。上位のものが下位のものに
奉仕するかのような欺瞞によって何かが良くなるなんていう幻想はもういい加減棄て去って、
いかに滞りのない健全な上下関係を人間社会において築き上げていくのか
ということのほうを本気で考え直していくべきだといえる。

下位のものほどその判断を実現するための下請けを委ねられる。
農作やモノ作りなどの実業は民間に委ねて、士分は基本、実業への従事すら禁じられる。
士人こそは実業や商業の興業を民間人に委ね、そのあり方をトップダウンに統制する
のであり、民間人のほうが士人に対してあれこれと注文を付けるのは失礼になる。
主権が民間人ではなく士人にあり、士人の判断に民間人が追従するのだから、
士人に発注された仕事を賢明にこなす必要があるのも民間人のほうである。
士人は士人で、自分よりもより上位の大夫諸侯らへの忠誠によって役務に励むが、
自らが徳治を施すことを「国民の皆様方のため」などというような、へつらい言葉で
飾ったりもせず、あくまで仁義道徳に根ざした自己判断で為政を執り行っていくのである。
上位のものが、下位の者にとっての奉仕者になるという、民主主義の原型ともなっている
ルサンチマン発散型の理念は、確かに聞こえはいいが、同時に絶対矛盾を宿してもいる。
古代ローマでの帝政などでも、皇帝が民衆への奉仕を約束するようなことがありはしたが、
最上位に皇帝がいて最下位に奴隷がいるという階級関係は全く変わらず、下位のものが
上位の者に奉仕するという根本的な社会構造が何ら変化を来たしたことはなかった。
上意下達がやはり人間社会の基本であり、そうでなかったり、その逆を行こうとしたりすれば
そのぶんだけ社会機能が不全化してしまう結果しか招かない。上位のものが下位のものに
奉仕するかのような欺瞞によって何かが良くなるなんていう幻想はもういい加減棄て去って、
いかに滞りのない健全な上下関係を人間社会において築き上げていくのか
ということのほうを本気で考え直していくべきだといえる。
人間関係に上下関係を設ける場合にも、秦帝国や大日本帝国のような一君万民の法家支配
が講じられることもあれば、漢帝国や江戸幕府のような緩やかな封建制が敷かれることもある。
歴史的に見れば、法家支配よりも封建支配のほうが遥かに大成功を遂げてきた事例が多く、
法家支配が封建支配並みの長期泰平統治を実現できたためしは未だかつて一度もない。
今の資本主義先進国のような民主制社会も、実務面では法治主義に頼り切っており、
万巻の実定法で世の中を締め付ける無理が祟って、いい加減崩壊の危機にも晒されている。
民主制が廃絶されたところに法治主義や独裁主義だけが残存するとすれば、それはそれは
恐ろしいことであり、だったらまだ民主主義でいたいという気持ちが湧いたとしても仕方が
ないところがあるが、もちろん法治主義や独裁主義ばかりが残存するわけではなく、法治主義や
独裁主義に振れきることがあるとすれば、それは想定し得る限りでも最悪の結果だといえる。
民主主義者が、自分たちへの人気を取り付けるための「劣悪なスケープゴート」として、独裁主義などが
やたらと取り上げられているところもあるため、そのようなプロパガンダからも目を覚ますべきだといえる。
「大徳は官せず、大道は器せず、大信は約さず、大時は斉しからず。此の四者を察するときは、以て本に志し有るべし。
三王の川を祭るや、皆な河を先として海を後とす。或るいは源なり、或いは委なり。此れを之れ本を務むと謂う」
「大徳は仕官するかしないかなどというところにはなく、大道は寛容かどうかなどというところにはなく、
大信は確約できるかどうかなどというところにはなく、大時は必ず予定通りかどうかなどというところにはない。
これらの意味を知るためには、必ず根本からの大志を具えている必要がある。湯文武の三王が水系を祭る際にも、
水の本源となる河川を先に祭り、河川から水を委ねられる海を後に祭った。これも本源への崇敬に努めたからだといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
が講じられることもあれば、漢帝国や江戸幕府のような緩やかな封建制が敷かれることもある。
歴史的に見れば、法家支配よりも封建支配のほうが遥かに大成功を遂げてきた事例が多く、
法家支配が封建支配並みの長期泰平統治を実現できたためしは未だかつて一度もない。
今の資本主義先進国のような民主制社会も、実務面では法治主義に頼り切っており、
万巻の実定法で世の中を締め付ける無理が祟って、いい加減崩壊の危機にも晒されている。
民主制が廃絶されたところに法治主義や独裁主義だけが残存するとすれば、それはそれは
恐ろしいことであり、だったらまだ民主主義でいたいという気持ちが湧いたとしても仕方が
ないところがあるが、もちろん法治主義や独裁主義ばかりが残存するわけではなく、法治主義や
独裁主義に振れきることがあるとすれば、それは想定し得る限りでも最悪の結果だといえる。
民主主義者が、自分たちへの人気を取り付けるための「劣悪なスケープゴート」として、独裁主義などが
やたらと取り上げられているところもあるため、そのようなプロパガンダからも目を覚ますべきだといえる。
「大徳は官せず、大道は器せず、大信は約さず、大時は斉しからず。此の四者を察するときは、以て本に志し有るべし。
三王の川を祭るや、皆な河を先として海を後とす。或るいは源なり、或いは委なり。此れを之れ本を務むと謂う」
「大徳は仕官するかしないかなどというところにはなく、大道は寛容かどうかなどというところにはなく、
大信は確約できるかどうかなどというところにはなく、大時は必ず予定通りかどうかなどというところにはない。
これらの意味を知るためには、必ず根本からの大志を具えている必要がある。湯文武の三王が水系を祭る際にも、
水の本源となる河川を先に祭り、河川から水を委ねられる海を後に祭った。これも本源への崇敬に努めたからだといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
「(子曰く、)若し礼無ければ則ち手足の錯く所無く、耳目の加うる所無く、進退揖讓制する所無し」
「礼に適わないものに対しては手足を置くところもなければ、耳目をあてるところもなく、出処進退や
拱手しての居住まいなどに、これといって節制をすべきところもない(孔子の子張と子貢に対する言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
盲目と刮目も狂信によって混同され、実際論と概念論もニヒリズムの揚げ足取りによって
ひとしなみにされたとき、人は思考や言動に何一つとして、理念による節制を施せなくなる。
深く実際性に根ざした人間規範として、最も典型的なのが礼儀作法であり、古典的な礼儀作法を
真摯に厳守すれば、それだけで数百年規模の泰平社会を実現することも可能となることが、
歴史上の実績からも明らかなこととなっている。しかし、その礼儀作法の拠り所となっている
詩書や易や論孟などの実際的な道徳論に対して、全く実地性に根ざさない概念論で揚げ足取りを加えて、
連動して古典的な礼儀作法の価値すらをも無みしてしまったりすれば、数十年としないうちに
戦乱による破滅を来たすことまでもが常套化してしまう。人々の思考や言動に数々の無礼が付帯
するようになってしまう原因はといえば、狂信による蒙昧や概念論が、正統な道徳論や真理学の
お株を奪ってしまったり、奪うまでいかずとも不実なみそくそ扱いを流布して、結局は正統な
道徳論や真理学の社会的な存在価値を減退させたり、滅尽させてしまったりすることによる。
「礼に適わないものに対しては手足を置くところもなければ、耳目をあてるところもなく、出処進退や
拱手しての居住まいなどに、これといって節制をすべきところもない(孔子の子張と子貢に対する言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
盲目と刮目も狂信によって混同され、実際論と概念論もニヒリズムの揚げ足取りによって
ひとしなみにされたとき、人は思考や言動に何一つとして、理念による節制を施せなくなる。
深く実際性に根ざした人間規範として、最も典型的なのが礼儀作法であり、古典的な礼儀作法を
真摯に厳守すれば、それだけで数百年規模の泰平社会を実現することも可能となることが、
歴史上の実績からも明らかなこととなっている。しかし、その礼儀作法の拠り所となっている
詩書や易や論孟などの実際的な道徳論に対して、全く実地性に根ざさない概念論で揚げ足取りを加えて、
連動して古典的な礼儀作法の価値すらをも無みしてしまったりすれば、数十年としないうちに
戦乱による破滅を来たすことまでもが常套化してしまう。人々の思考や言動に数々の無礼が付帯
するようになってしまう原因はといえば、狂信による蒙昧や概念論が、正統な道徳論や真理学の
お株を奪ってしまったり、奪うまでいかずとも不実なみそくそ扱いを流布して、結局は正統な
道徳論や真理学の社会的な存在価値を減退させたり、滅尽させてしまったりすることによる。
じゃあ、正統な道徳論や真理学に根ざした徳治を実現しようとする側に、全く邪見を撃退する手立てがないのか
といえば、そういうわけでもない。異端の邪教や概念論がまかり通って、正統な礼儀作法の実践も覚束ないような
状態に世の中全体が化してしまったとき、道家の無為自然や、兵家の風林火山が非常的な消火栓として発動する。
全く何もしないでいようとする道家の無為志向や、風のように速く動くことも山のように動かないでいることも
兵法のうちとする兵家のなんでもあり志向は、治世に濫用すればそれはそれで乱暴者の扱いをすら受け兼ねないもの。
しかし、世界のどこに行っても何一つとして礼儀作法が実践できないような乱世ともなれば、もはや有為無為に節制の
余地もなくなると孔子も上記のように述べている。有為に節制の余地がなくなるだけでなく、無為にも節制の余地がなくなる。
それはそれで、治世の実現と共に絶やされるべきものではあるにしろ、
際限のない無為という選択肢までもが、人間規範としての妥当性を帯びてしまう。
盲目も刮目とし、概念論も実際論と同等と見なすような異端の暴行こそが、それを実現する。
といえば、そういうわけでもない。異端の邪教や概念論がまかり通って、正統な礼儀作法の実践も覚束ないような
状態に世の中全体が化してしまったとき、道家の無為自然や、兵家の風林火山が非常的な消火栓として発動する。
全く何もしないでいようとする道家の無為志向や、風のように速く動くことも山のように動かないでいることも
兵法のうちとする兵家のなんでもあり志向は、治世に濫用すればそれはそれで乱暴者の扱いをすら受け兼ねないもの。
しかし、世界のどこに行っても何一つとして礼儀作法が実践できないような乱世ともなれば、もはや有為無為に節制の
余地もなくなると孔子も上記のように述べている。有為に節制の余地がなくなるだけでなく、無為にも節制の余地がなくなる。
それはそれで、治世の実現と共に絶やされるべきものではあるにしろ、
際限のない無為という選択肢までもが、人間規範としての妥当性を帯びてしまう。
盲目も刮目とし、概念論も実際論と同等と見なすような異端の暴行こそが、それを実現する。
「春秋左氏伝」襄公二十一年、定公四年などに、
蛇を「自明な禍い」の象徴として取り上げる発言が見られる。
確かに蛇は猛毒を持っている場合もあるから、危険であることが自明な
もののうちでも最たるものとして、非常に取り扱いやすい記号ともなる。
より大きな禍をもたらすものとしては、地震や台風などのほうが蛇以上だが、
自分から手を出して来たものに対して、ほぼ確実な禍いをもたらすものとしては、
蛇こそは地震や台風以上であり、幸いにも難を逃れられたりする可能性がより少ない。
あえて険を冒すということに、何か切実な目的が伴っている
のならともかく、ただの酔狂で蛇を掴むような自明な険を
冒すとすれば、それは決して人から同情されない結果を招く。
自分から好き好んで蛇を掴み、咬み付かれて毒が回って死んだという時、
たとえばその蛇に咬まれそうになっていた人を助けるためだったりすれば、
まだ人からの同情も得られるだろうが、ただの興味本位で好き好んで蛇を掴んで
死んだというのなら、常人なら「ただのバカ」と見なして、何ら同情することもない。
蛇を「自明な禍い」の象徴として取り上げる発言が見られる。
確かに蛇は猛毒を持っている場合もあるから、危険であることが自明な
もののうちでも最たるものとして、非常に取り扱いやすい記号ともなる。
より大きな禍をもたらすものとしては、地震や台風などのほうが蛇以上だが、
自分から手を出して来たものに対して、ほぼ確実な禍いをもたらすものとしては、
蛇こそは地震や台風以上であり、幸いにも難を逃れられたりする可能性がより少ない。
あえて険を冒すということに、何か切実な目的が伴っている
のならともかく、ただの酔狂で蛇を掴むような自明な険を
冒すとすれば、それは決して人から同情されない結果を招く。
自分から好き好んで蛇を掴み、咬み付かれて毒が回って死んだという時、
たとえばその蛇に咬まれそうになっていた人を助けるためだったりすれば、
まだ人からの同情も得られるだろうが、ただの興味本位で好き好んで蛇を掴んで
死んだというのなら、常人なら「ただのバカ」と見なして、何ら同情することもない。
何の目的もなく、ただの酔狂で険を冒すような愚か者をも救うと確約するカルト信仰が
あったとして、その信仰が反故になったとき、最悪の窮地に立たされながらも、
誰からも同情されることのない愚か者の群れが生ずる。その愚か者たちを同情して
やったとすれば、それは自分が新たな酔狂冒険是認主義の旗頭に挙げられる原因に
すらなり兼ねないので、まずは同情しないでいてやるほうが、本人たちのためにもなる。
仏や菩薩ほどの慈悲があろうとも、まずは同情せず、罪業に相応の罰を科していく。
懲罰に打ちひしがれて苦しんでいる姿を見て、そこから初めて、徐々に慈悲を施していく。
酔狂で罪業まみれの冒険に走ったりすることに同情するようなものはどこにもいないのだと
いうことを思い知らせて、これからもそうであり続けることを確立させる形での慈悲のみを施す。
進んで自業自得の破滅に突き進もうとする極度の愚か者に対しては、そういった、
若干厳しいとも思えるような措置が、よりためになることもあるのである。
「龍蛇の蟄るるは、以て身を存するがためなり」
「龍や蛇が冬篭りするのは、自分たちの長命を保つためである。
(蛇自身にすら養生を心がける気持ちはあるのであり、蛇を掴んで
必要もない窮地に陥るのは、どこまでも本人たち自身の落ち度でしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
あったとして、その信仰が反故になったとき、最悪の窮地に立たされながらも、
誰からも同情されることのない愚か者の群れが生ずる。その愚か者たちを同情して
やったとすれば、それは自分が新たな酔狂冒険是認主義の旗頭に挙げられる原因に
すらなり兼ねないので、まずは同情しないでいてやるほうが、本人たちのためにもなる。
仏や菩薩ほどの慈悲があろうとも、まずは同情せず、罪業に相応の罰を科していく。
懲罰に打ちひしがれて苦しんでいる姿を見て、そこから初めて、徐々に慈悲を施していく。
酔狂で罪業まみれの冒険に走ったりすることに同情するようなものはどこにもいないのだと
いうことを思い知らせて、これからもそうであり続けることを確立させる形での慈悲のみを施す。
進んで自業自得の破滅に突き進もうとする極度の愚か者に対しては、そういった、
若干厳しいとも思えるような措置が、よりためになることもあるのである。
「龍蛇の蟄るるは、以て身を存するがためなり」
「龍や蛇が冬篭りするのは、自分たちの長命を保つためである。
(蛇自身にすら養生を心がける気持ちはあるのであり、蛇を掴んで
必要もない窮地に陥るのは、どこまでも本人たち自身の落ち度でしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
悪人が悪人であるままに、瑣末な善行に励もうとするところに偽善が生じる。
他者に危害を加えることで自分が裕福になる、我田引水を基調とした悪行に
よってこそ溜め込んだ資産で、多少の慈善事業などを試みてみたところで、
全体としてはプラスマイナスゼロ以下の、有害無益なマッチポンプであり続ける。
それよりはむしろ、自分が我田引水ぐらいしか能のない悪人であることを開き直って、
部分的に取り組んでもみている偽善の行いを、巧みな修辞によって取り繕うことで
気休めにしたりすることをやめてしまったほうが、全体的な行いとしての悪行もまた
矮小なものに止まって、修辞を凝らした偽善を気休めとしながら悪行を推し進めていく
場合などよりも、全体的な悪因苦果の災禍もまた軽度なものに止め置くことができる。
だから、悪人ながらに偽善の行いに励むよりは、悪人であることを開き直って、
全体的な悪行を矮小なものに止め置いたほうがまだいい。本当に全体的な悪行を十分に
抑制した上で、悪行以上の善行を推し進められるとした時にこそ、善行にも励むべきで、
その時に為される善行こそは、偽善ではない真の善行となり、真の善行であるが故に、
悪因苦果以上の善因楽果をもたらして、災禍以上の福徳をもたらすことにもなるのである。
「遠邇有ること無く、罪を用いて厥の死を伐ち、徳を用いて厥の善を彰す」
「賞罰に遠近の差別を付けたりすることも無く、悪行には厳罰を科して罪人が
この世から死に絶えるようにし、善行には大いなる福徳をもたらしてこれを表彰する。
(善行にも悪行にも相応の賞罰を与えるのだから、悪行の範疇の偽善などでは全く不足である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上)
他者に危害を加えることで自分が裕福になる、我田引水を基調とした悪行に
よってこそ溜め込んだ資産で、多少の慈善事業などを試みてみたところで、
全体としてはプラスマイナスゼロ以下の、有害無益なマッチポンプであり続ける。
それよりはむしろ、自分が我田引水ぐらいしか能のない悪人であることを開き直って、
部分的に取り組んでもみている偽善の行いを、巧みな修辞によって取り繕うことで
気休めにしたりすることをやめてしまったほうが、全体的な行いとしての悪行もまた
矮小なものに止まって、修辞を凝らした偽善を気休めとしながら悪行を推し進めていく
場合などよりも、全体的な悪因苦果の災禍もまた軽度なものに止め置くことができる。
だから、悪人ながらに偽善の行いに励むよりは、悪人であることを開き直って、
全体的な悪行を矮小なものに止め置いたほうがまだいい。本当に全体的な悪行を十分に
抑制した上で、悪行以上の善行を推し進められるとした時にこそ、善行にも励むべきで、
その時に為される善行こそは、偽善ではない真の善行となり、真の善行であるが故に、
悪因苦果以上の善因楽果をもたらして、災禍以上の福徳をもたらすことにもなるのである。
「遠邇有ること無く、罪を用いて厥の死を伐ち、徳を用いて厥の善を彰す」
「賞罰に遠近の差別を付けたりすることも無く、悪行には厳罰を科して罪人が
この世から死に絶えるようにし、善行には大いなる福徳をもたらしてこれを表彰する。
(善行にも悪行にも相応の賞罰を与えるのだから、悪行の範疇の偽善などでは全く不足である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上)
日本語訳の犯罪聖書が、孟子などが用いていた本来の意味での「義」とは
全く真逆の意味を持つ「義」を、そのままこの文字をあてがって
誤訳してしまっていることは、すでに何度か述べたとおり。
四書五経で取り沙汰されている義が「正義」なら、犯罪氏聖書で取り沙汰されている義は「邪義」であり、
正義にとっての不義こそは邪義であり、邪義にとっての不義こそは正義であるという相反関係には当てはまる。
だから、正義と邪義とをみそくそに混同してしまえば、正義にとっての不義である邪義と、
邪義にとっての不義である正義とが、お互いを不義として定め合うことと化してしまい、
もはや義と不義の違いも見分けられないような事態と化してしまう。
正義と邪義と、いずれかが義であってもう一方は不義であるという分別を付けなければ、
義と不義とを分かっての裁きなどを実行することもまた覚束ず、何もかもを不義と見なして
一切合切、核戦争でドカンという結論にすら至りかねない。
一つ注意すべきなのは、「義」というのは社会的な理念であって、決して超俗的な真理にまつわる理念ではない
ということで、義か不義かなどという分別知を問題扱いすることは、超俗主義の哲学宗教などでは元から忌まれるもの。
それでもあえて義という問題を論ずるのならば、それが少なからず俗っぽい議論となることを許容すべき
なのであって、義か不義かという問題に超越的な論及をあてがって、概念によって実質を蔑ろに
してしまうようなことこそは避けられるべきであるということ。
全く真逆の意味を持つ「義」を、そのままこの文字をあてがって
誤訳してしまっていることは、すでに何度か述べたとおり。
四書五経で取り沙汰されている義が「正義」なら、犯罪氏聖書で取り沙汰されている義は「邪義」であり、
正義にとっての不義こそは邪義であり、邪義にとっての不義こそは正義であるという相反関係には当てはまる。
だから、正義と邪義とをみそくそに混同してしまえば、正義にとっての不義である邪義と、
邪義にとっての不義である正義とが、お互いを不義として定め合うことと化してしまい、
もはや義と不義の違いも見分けられないような事態と化してしまう。
正義と邪義と、いずれかが義であってもう一方は不義であるという分別を付けなければ、
義と不義とを分かっての裁きなどを実行することもまた覚束ず、何もかもを不義と見なして
一切合切、核戦争でドカンという結論にすら至りかねない。
一つ注意すべきなのは、「義」というのは社会的な理念であって、決して超俗的な真理にまつわる理念ではない
ということで、義か不義かなどという分別知を問題扱いすることは、超俗主義の哲学宗教などでは元から忌まれるもの。
それでもあえて義という問題を論ずるのならば、それが少なからず俗っぽい議論となることを許容すべき
なのであって、義か不義かという問題に超越的な論及をあてがって、概念によって実質を蔑ろに
してしまうようなことこそは避けられるべきであるということ。
孔子や孟子の道義論は、犯罪聖書の道義論などと比べて着実に俗っぽく、形而上への夢想を駆り立てるような
魅力にも欠けているが、それこそは世俗の理念である「義」を取り上げた論及として正統である証拠なのであり、
逆に義を語りながら超越神などを取り上げる犯罪聖書の論及姿勢こそは、そこで論じられている義もまた、
超越神の想定抜きには到底義であるなどとは見なすことができない、薄汚れた邪義である証拠なのだといえる。
「小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば勧まず、威さざれば懲りず。小しく懲らして大いに誡むるは、小人の福なり」
「小人は不仁を恥じることがなく、不義を畏れることもなく、利益になると見なければ努力せず、刑罰で威しでも
しなければ懲りもしない。だから、多少の懲らしめによって大きく戒めておくことは、小人にとっての福ともなる。
(小人は義とか不義とかいったものをそもそも軽く見ている。それでも義であらざるを得ない義とは何かといえば、
その義を反故にすることで自業自得の自滅を招くような仁義に当たる。だから仁義を反故にして自業自得の自滅に陥る
よりは、多少の威圧によってでも懲戒しておくほうが小人にとっての福ともなる。真の義とは、自明に仁義なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
魅力にも欠けているが、それこそは世俗の理念である「義」を取り上げた論及として正統である証拠なのであり、
逆に義を語りながら超越神などを取り上げる犯罪聖書の論及姿勢こそは、そこで論じられている義もまた、
超越神の想定抜きには到底義であるなどとは見なすことができない、薄汚れた邪義である証拠なのだといえる。
「小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば勧まず、威さざれば懲りず。小しく懲らして大いに誡むるは、小人の福なり」
「小人は不仁を恥じることがなく、不義を畏れることもなく、利益になると見なければ努力せず、刑罰で威しでも
しなければ懲りもしない。だから、多少の懲らしめによって大きく戒めておくことは、小人にとっての福ともなる。
(小人は義とか不義とかいったものをそもそも軽く見ている。それでも義であらざるを得ない義とは何かといえば、
その義を反故にすることで自業自得の自滅を招くような仁義に当たる。だから仁義を反故にして自業自得の自滅に陥る
よりは、多少の威圧によってでも懲戒しておくほうが小人にとっての福ともなる。真の義とは、自明に仁義なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
封建社会が官民や農工商階級の序列を徹底するのは、より上位のものほど何でも出来て、
より下位のものほど何も出来ないからじゃない。農夫は農夫として、工人は工人として、
商人は商人として自らの仕事に専念し、その分野にかけては他の誰にも代役がこなせない
ほどの業績を挙げるように心がける。そのためには、一部の商売人が国政や国際情勢までをも
左右するほどの権能を手に入れて、自分たちの私利私欲のために農業や必需工業や堅実な
小売業などを蔑ろにしてまで、金融業やガラクタ工業の事業ばかりを推進したりすることが
ないようにしなければならない。そのためには、悪徳商人が過剰な権益を手に入れたりすることを
取り締まる公人の側の心がけが必要になるが、そのような公人の心がけを有効化するためにこそ、
全ての民間人は公人を士大夫として自分たちの上位に置き、十分な畏敬の対象ともしなければならない。
(もちろん公人の側も、自分たちが士大夫として畏敬されるに値するだけの人徳を養う必要がある)
上位のものほど全知全能であり、下位のものほど無知無能であるなどという上下関係を
封建主義はよしとせず、上位のものほど徳性が高く、下位のものほど徳性が低い序列関係こそを
重んずる。「士農工商」という四民の序列関係も、先にあるものほど公益を守り育てるための
職業である一方、後にあるものほど私益を貪ることが主となる職業であるから、その根本的な
職能の徳性の高下に合わせて、士農工商という序列が封建社会では重んじられるのである。
より下位のものほど何も出来ないからじゃない。農夫は農夫として、工人は工人として、
商人は商人として自らの仕事に専念し、その分野にかけては他の誰にも代役がこなせない
ほどの業績を挙げるように心がける。そのためには、一部の商売人が国政や国際情勢までをも
左右するほどの権能を手に入れて、自分たちの私利私欲のために農業や必需工業や堅実な
小売業などを蔑ろにしてまで、金融業やガラクタ工業の事業ばかりを推進したりすることが
ないようにしなければならない。そのためには、悪徳商人が過剰な権益を手に入れたりすることを
取り締まる公人の側の心がけが必要になるが、そのような公人の心がけを有効化するためにこそ、
全ての民間人は公人を士大夫として自分たちの上位に置き、十分な畏敬の対象ともしなければならない。
(もちろん公人の側も、自分たちが士大夫として畏敬されるに値するだけの人徳を養う必要がある)
上位のものほど全知全能であり、下位のものほど無知無能であるなどという上下関係を
封建主義はよしとせず、上位のものほど徳性が高く、下位のものほど徳性が低い序列関係こそを
重んずる。「士農工商」という四民の序列関係も、先にあるものほど公益を守り育てるための
職業である一方、後にあるものほど私益を貪ることが主となる職業であるから、その根本的な
職能の徳性の高下に合わせて、士農工商という序列が封建社会では重んじられるのである。
上下関係をあてがうのであっても、それはあくまで、個々に特別な有能さを具備した人々が、
お互いの有能さを尊重し合いつつ生業を営んでいくための便宜とするのが封建主義なのであって、
その肝要は社会機能の健全化、人間社会の高機能化にこそある。全ての価値をカネに還元し、
カネを稼げる人間ほど偉く、稼げない人間ほど卑しいという資本主義社会のやり方では、かえって
世の中全体の機能が不全化してしまう面が多く、そのため短期間での破綻もまた免れ得ない。
それは、カネという尺度が公益よりも私益のために存在する価値基準であるからで、徳性の高下を
重んずる場合などと比べて、個人の私益がいかに貪られるかを自動的に念頭に置いてしまうものだから。
カネを最高の価値基準とすることが、個人の視点から見れば最も機能的であるかのようにも思われるが、
そのぶんだけ、カネという価値基準を念頭に置けば置くほど、個人の私益のために公益が損なわれる
こととなってしまう。だから、世の中全体がカネを全てとするのはかえって不合理なこととなり、
徳性の高下によって人間たち自身の上下関係を規定するほうが、より合理的な選択ともなる。あくまで
個々の人間の特別な有能さを最大限に引き出すためにこそ封建制も実施されるのであり、封建社会で
下位に置かれる人間だからといって、上位に置かれる人間以内の能力であっていいなどということはない。
刀鍛冶が、本職の侍にはこなせないほどの、工匠としての修練を積み重ねることでこそ、
武士の魂たる日本刀もまた精製されるのだから。
「仁に當たりては師にも譲らず」
「仁徳の心がけについては師にも譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三六より)
お互いの有能さを尊重し合いつつ生業を営んでいくための便宜とするのが封建主義なのであって、
その肝要は社会機能の健全化、人間社会の高機能化にこそある。全ての価値をカネに還元し、
カネを稼げる人間ほど偉く、稼げない人間ほど卑しいという資本主義社会のやり方では、かえって
世の中全体の機能が不全化してしまう面が多く、そのため短期間での破綻もまた免れ得ない。
それは、カネという尺度が公益よりも私益のために存在する価値基準であるからで、徳性の高下を
重んずる場合などと比べて、個人の私益がいかに貪られるかを自動的に念頭に置いてしまうものだから。
カネを最高の価値基準とすることが、個人の視点から見れば最も機能的であるかのようにも思われるが、
そのぶんだけ、カネという価値基準を念頭に置けば置くほど、個人の私益のために公益が損なわれる
こととなってしまう。だから、世の中全体がカネを全てとするのはかえって不合理なこととなり、
徳性の高下によって人間たち自身の上下関係を規定するほうが、より合理的な選択ともなる。あくまで
個々の人間の特別な有能さを最大限に引き出すためにこそ封建制も実施されるのであり、封建社会で
下位に置かれる人間だからといって、上位に置かれる人間以内の能力であっていいなどということはない。
刀鍛冶が、本職の侍にはこなせないほどの、工匠としての修練を積み重ねることでこそ、
武士の魂たる日本刀もまた精製されるのだから。
「仁に當たりては師にも譲らず」
「仁徳の心がけについては師にも譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三六より)
陰陽二元の和合にこそ、徳治の肝要を認める易学の観点に根ざせば、
全知全能の傍観者が最高支配者として世に君臨する為政などが最善とはならない。
この世の中の現象を的確に分析しようとする者自身が、身を挺しての実践をも共に
心がけねば徳治の最善は尽くされず、実践中には、観測もある程度は疎かになる。
年がら年中、出歯亀状態の観測行為に耽っていたりすれば、そのような傍観者を食わせて
やるためや、傍観者が観測行為によって収集した情報を記録しておくための保存媒体の確保の
ためなどに莫大なコストが嵩んでしまい、資金の補充のために下民に疲弊を強いることにもなる。
出歯亀による情報収集こそが根本に置かれるような為政は、徳治の最善が尽くされないのみならず、
観測だけしておいて、それによって収集された情報が何の役にも立てられず、世の中に不正な
観測を許容させていることによる無理が祟って、経済破綻などの破滅をも呼び込むことになる。
まさに、想定し得る限りでも最悪の部類の暴政を、出歯亀至上主義の為政が招くこととなる。
民主主義や資本主義の化けの皮をかぶった、出歯亀至上主義である今という時代が終焉して後、
大まかなところでは、封建統治を復興させることが肝になる。封建統治に移行することで世の中の
観測こそが絶対化されるような風潮は絶やされて、それぞれの人間が、それぞれの職分に応じた
生業に専念し、コストがかかり過ぎて経済破綻の原因になってしまうほどの傍観は禁じられる。
もちろん世の中の観測や記録を仕事とするものもそれなりに残されるが、それは太史令や尚書といった
正式な公職の仕事に限られることになり、正式な官職者として情報収集についても便利な立場に
置かれることが、最遠方からの出歯亀によって事物を観測する場合のようなコストの過剰も予防する。
それでもやはり司馬遷のように、皇帝への諫言が行き過ぎて宮刑を被り、最悪の屈辱の中で
何とか史書を書き上げるような、大きな苦労が伴うことにもなるだろうことが予想される。
全知全能の傍観者が最高支配者として世に君臨する為政などが最善とはならない。
この世の中の現象を的確に分析しようとする者自身が、身を挺しての実践をも共に
心がけねば徳治の最善は尽くされず、実践中には、観測もある程度は疎かになる。
年がら年中、出歯亀状態の観測行為に耽っていたりすれば、そのような傍観者を食わせて
やるためや、傍観者が観測行為によって収集した情報を記録しておくための保存媒体の確保の
ためなどに莫大なコストが嵩んでしまい、資金の補充のために下民に疲弊を強いることにもなる。
出歯亀による情報収集こそが根本に置かれるような為政は、徳治の最善が尽くされないのみならず、
観測だけしておいて、それによって収集された情報が何の役にも立てられず、世の中に不正な
観測を許容させていることによる無理が祟って、経済破綻などの破滅をも呼び込むことになる。
まさに、想定し得る限りでも最悪の部類の暴政を、出歯亀至上主義の為政が招くこととなる。
民主主義や資本主義の化けの皮をかぶった、出歯亀至上主義である今という時代が終焉して後、
大まかなところでは、封建統治を復興させることが肝になる。封建統治に移行することで世の中の
観測こそが絶対化されるような風潮は絶やされて、それぞれの人間が、それぞれの職分に応じた
生業に専念し、コストがかかり過ぎて経済破綻の原因になってしまうほどの傍観は禁じられる。
もちろん世の中の観測や記録を仕事とするものもそれなりに残されるが、それは太史令や尚書といった
正式な公職の仕事に限られることになり、正式な官職者として情報収集についても便利な立場に
置かれることが、最遠方からの出歯亀によって事物を観測する場合のようなコストの過剰も予防する。
それでもやはり司馬遷のように、皇帝への諫言が行き過ぎて宮刑を被り、最悪の屈辱の中で
何とか史書を書き上げるような、大きな苦労が伴うことにもなるだろうことが予想される。
では、その司馬遷が書き上げた中国発の正史書「史記」の内容はといえば、これこそ世の中の実相を
隈なく隅々まで見透かした未曾有の歴史書となっていて、西洋では表向きにはひた隠され続けている
縦横家や食客や政財癒着型権力犯罪の暗躍なども、如実に記録されている。私人が身勝手な都合で
あることないこと書き立てる野史などよりも、正式な史書官が天下国家の公益のために編纂した正史
のほうが、世の中の裏の裏のそのまた裏の闇の奥にまで監視の目を働かせており、出歯亀至上主義
の世の中などよりも、個々人が自らの職分においてこそ最大級の責任を果たす封建社会でこそ、
最も記録しにくい事物までをも記録し尽くした、真の万物把捉文化までもが大成されるのだといえる。
「道は須臾も離るべからざるなり、離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子は其の睹ざる所を戒め慎み、
其の聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見るるは莫く、微かなるより顕わなるは莫し。故に君子は其の独りを慎むなり」
「道は一瞬でも離れ去るべきものではない。離れ去っていいようなものはそもそも道ではない。そのため君子は
未だ見聞きできていないようなものに対しても恐れを欠かさず、常に戒慎を欠かさぬようにする。隠れているもの、
微細であるものほど露わとならずに済むものも他にないのだから、君子はその露呈に備えて、独りでも慎んでいる。
(君子は全知全能というわけではないが、あらゆる事態に備える。全知全能であった所で何の備えもない場合もある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一より)
隈なく隅々まで見透かした未曾有の歴史書となっていて、西洋では表向きにはひた隠され続けている
縦横家や食客や政財癒着型権力犯罪の暗躍なども、如実に記録されている。私人が身勝手な都合で
あることないこと書き立てる野史などよりも、正式な史書官が天下国家の公益のために編纂した正史
のほうが、世の中の裏の裏のそのまた裏の闇の奥にまで監視の目を働かせており、出歯亀至上主義
の世の中などよりも、個々人が自らの職分においてこそ最大級の責任を果たす封建社会でこそ、
最も記録しにくい事物までをも記録し尽くした、真の万物把捉文化までもが大成されるのだといえる。
「道は須臾も離るべからざるなり、離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子は其の睹ざる所を戒め慎み、
其の聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見るるは莫く、微かなるより顕わなるは莫し。故に君子は其の独りを慎むなり」
「道は一瞬でも離れ去るべきものではない。離れ去っていいようなものはそもそも道ではない。そのため君子は
未だ見聞きできていないようなものに対しても恐れを欠かさず、常に戒慎を欠かさぬようにする。隠れているもの、
微細であるものほど露わとならずに済むものも他にないのだから、君子はその露呈に備えて、独りでも慎んでいる。
(君子は全知全能というわけではないが、あらゆる事態に備える。全知全能であった所で何の備えもない場合もある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一より)
「知る」ということと「認める」ということは違うし、
「分かる」ということと「認める」ということも違う。
妾腹の私生児というイエスの境遇を、「神の子(キリスト)」などという言葉遊びで
不埒にも虚飾するようこともなく真っ向から知悉し、その不遇からなる劣等感にかられて
自暴自棄となり、本気で信じて実践すれば人類を滅亡させることにもなるような邪義邪見を
イエスが触れ回り、挙句に十字架にかけられて完全に死亡したという事情もよく分かる。
その上で、イエスの言行を認めない。救済に至る教条としての、イエスの言行の価値を認めない。
イエスの言行は、先天的な不遇を自主的な努力によって克服しようとすることもなく自滅に
陥った典型例であり、そこに自助努力すらもが欠けているが故に、教育的にも、そんな人間が
よりにもよって救われるなどということを認めるべきでない。認めるならむしろ、イエスと同じ
妾腹の私生児という不遇を、自学自習や自主的な先祖参りといった自助努力によって克服した
孔子こそを認めるべきなのであって、それでこそ、妾腹の私生児として生まれてしまったような
あらゆる人間に対する、真の救いに至る道の提示ともなるのである。
イエスの境遇だとか言行だとかいったものを、「神の子として生まれ、十字架にかけられて
死んでから蘇り天国に昇った」などという妄想も抜きにして、よく知悉して、よく理解する。
それでこそ、イエスの境遇はともかく、イエスの言行の価値を決して認めてはならないことが
よく認められる。ことに、イエスと同等かそれ以上*もの不遇を乗り越えて、大学者として * 孔子は妾腹の私生児である上に母子家庭で育った。
大成した孔子のような偉人が、イエスよりも500年も昔にすでに存在していたわけだから、
イエス自身もまた、不遇に駆られての自暴自棄などを正当化する余地はないのだといえる。
「人の己れを知らざるを患えず、己れの人を知らざるを患う」
「人が自分を知ってくれないことを心配したりはせず、自分が人を知らないことを心配する。
(人が自分を知ってくれないからといって自分も人を知ろうとしないとは、薄ら馬鹿の鸚鵡返しもいいとこだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——学而第一・一六より)
「分かる」ということと「認める」ということも違う。
妾腹の私生児というイエスの境遇を、「神の子(キリスト)」などという言葉遊びで
不埒にも虚飾するようこともなく真っ向から知悉し、その不遇からなる劣等感にかられて
自暴自棄となり、本気で信じて実践すれば人類を滅亡させることにもなるような邪義邪見を
イエスが触れ回り、挙句に十字架にかけられて完全に死亡したという事情もよく分かる。
その上で、イエスの言行を認めない。救済に至る教条としての、イエスの言行の価値を認めない。
イエスの言行は、先天的な不遇を自主的な努力によって克服しようとすることもなく自滅に
陥った典型例であり、そこに自助努力すらもが欠けているが故に、教育的にも、そんな人間が
よりにもよって救われるなどということを認めるべきでない。認めるならむしろ、イエスと同じ
妾腹の私生児という不遇を、自学自習や自主的な先祖参りといった自助努力によって克服した
孔子こそを認めるべきなのであって、それでこそ、妾腹の私生児として生まれてしまったような
あらゆる人間に対する、真の救いに至る道の提示ともなるのである。
イエスの境遇だとか言行だとかいったものを、「神の子として生まれ、十字架にかけられて
死んでから蘇り天国に昇った」などという妄想も抜きにして、よく知悉して、よく理解する。
それでこそ、イエスの境遇はともかく、イエスの言行の価値を決して認めてはならないことが
よく認められる。ことに、イエスと同等かそれ以上*もの不遇を乗り越えて、大学者として * 孔子は妾腹の私生児である上に母子家庭で育った。
大成した孔子のような偉人が、イエスよりも500年も昔にすでに存在していたわけだから、
イエス自身もまた、不遇に駆られての自暴自棄などを正当化する余地はないのだといえる。
「人の己れを知らざるを患えず、己れの人を知らざるを患う」
「人が自分を知ってくれないことを心配したりはせず、自分が人を知らないことを心配する。
(人が自分を知ってくれないからといって自分も人を知ろうとしないとは、薄ら馬鹿の鸚鵡返しもいいとこだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——学而第一・一六より)
妾腹の私生児に付いていったからといって、必ずしも破滅に見舞われるわけではなく、
その言行を模範とした為政に取り組んで、立派な治世を実現させることすらある。
ただ、そのような立派な模範となった妾腹の私生児はといえば、
父母への孝養こそを仁徳の根幹と見なし、十字架にもかけられかねないような
暴虎馮河の行いを未然に食い止める堅実さこそを、聖人君子たる条件として掲げた。
すなわち、孔子のことであり、同じ妾腹の私生児でありながら、イエスのとは全く
真逆の教条ばかりを是とし、その活動や行動規範も、実に健全なものであり続けた。
2000年前のイスラエルに、中国との国交があったとは到底思えないが、
当時すでに地球社会では、妾腹の私生児である孔子の興した儒学が、五経を
国学とした漢帝国の隆盛などを通じて大成功を収めており、2300年前の時点で孟子も
「孤立した臣下や妾の子は注意力が研ぎ澄まされて大成する(尽心章句上・一八)」
という論及をしているから、当時すでに世界レベルで、妾腹の子(庶子)に
期待をかける風潮があった可能性もなくはないといえる。
その言行を模範とした為政に取り組んで、立派な治世を実現させることすらある。
ただ、そのような立派な模範となった妾腹の私生児はといえば、
父母への孝養こそを仁徳の根幹と見なし、十字架にもかけられかねないような
暴虎馮河の行いを未然に食い止める堅実さこそを、聖人君子たる条件として掲げた。
すなわち、孔子のことであり、同じ妾腹の私生児でありながら、イエスのとは全く
真逆の教条ばかりを是とし、その活動や行動規範も、実に健全なものであり続けた。
2000年前のイスラエルに、中国との国交があったとは到底思えないが、
当時すでに地球社会では、妾腹の私生児である孔子の興した儒学が、五経を
国学とした漢帝国の隆盛などを通じて大成功を収めており、2300年前の時点で孟子も
「孤立した臣下や妾の子は注意力が研ぎ澄まされて大成する(尽心章句上・一八)」
という論及をしているから、当時すでに世界レベルで、妾腹の子(庶子)に
期待をかける風潮があった可能性もなくはないといえる。
しかし、注意力を研ぎ澄ませて大成する可能性がある庶子の中では、
イエスは明らかに失敗作だった。不遇の中で注意力を研ぎ澄ませるどころか、
逆に注意欠陥の障害を帯び、不遇をバネにした自助努力を心がけるどころか、
不遇からなる苦悩に駆られて自暴自棄となり、同じ庶子でありながら大成功を果たした
孔子などが最も非難する暴虎馮河の限りを尽くして、十字架にかけられて完全に死亡した。
妾腹の私生児に付いていったから破滅したのではなく、妾腹の私生児の失敗例に
特定して付いていったから、キリスト教徒も破滅に陥ったのである。その恨みや怒りを
妾腹の私生児一般に振り向けたりするのは全くのお門違いであり、そのような逆境をバネに
した自助努力すら試みなかったイエス自身や、自助努力すら必要ないとする安易な教条に
好き好んで付いていった自分たち自身を怨まなければならない。もしくは誰も怨まないか。
「君子の是の国に居るや、其の君之れを用うれば
則ち安富尊栄し、其の子弟之れに従わば、則ち孝弟忠信なり」
「君子が居留する国においては、主君がこれを用いれば世の中は平安で富も豊かとなり、
子弟がこれに従うだけでも、誰しもが父君への孝悌や忠信に励むようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・三二より)
イエスは明らかに失敗作だった。不遇の中で注意力を研ぎ澄ませるどころか、
逆に注意欠陥の障害を帯び、不遇をバネにした自助努力を心がけるどころか、
不遇からなる苦悩に駆られて自暴自棄となり、同じ庶子でありながら大成功を果たした
孔子などが最も非難する暴虎馮河の限りを尽くして、十字架にかけられて完全に死亡した。
妾腹の私生児に付いていったから破滅したのではなく、妾腹の私生児の失敗例に
特定して付いていったから、キリスト教徒も破滅に陥ったのである。その恨みや怒りを
妾腹の私生児一般に振り向けたりするのは全くのお門違いであり、そのような逆境をバネに
した自助努力すら試みなかったイエス自身や、自助努力すら必要ないとする安易な教条に
好き好んで付いていった自分たち自身を怨まなければならない。もしくは誰も怨まないか。
「君子の是の国に居るや、其の君之れを用うれば
則ち安富尊栄し、其の子弟之れに従わば、則ち孝弟忠信なり」
「君子が居留する国においては、主君がこれを用いれば世の中は平安で富も豊かとなり、
子弟がこれに従うだけでも、誰しもが父君への孝悌や忠信に励むようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・三二より)

「自分たちの罪から目を背けていられる期間」と同じ。
眼前に確たる有罪の証拠を突きつけられたとしても、刑死者すら蘇るという
完全破綻の狂信者にとっては、心の目をそこから逸らすぐらいわけもないこと。
1+1を3にも4にもできて、馬を鹿と思うことも自由自在なのが、人間の思考という
ものだから、思考がカルト的な狂信によって実相との連絡を蔑ろにしたところで、
重大犯罪者が自分たちを無罪だと思い込むことだって不可能なことではない。
ただ、まず実相との堅実な関係性を断ったウマシカ状態の思考にまみれることが、
実相に根ざした磐石な思考を堅持することと比べて、普遍的に苦痛なことであり、
そのような脳内妄想のお花畑に耽っていることが、普遍的に不幸なことだというのがある。
そして、脳内妄想によって現実上の重犯罪から目を背けて、性懲りもなく現実上の
現行逃亡犯であり続けたりしたなら、そのような犯罪現象を容認し続けている
世の中の側の無理が祟って、全世界規模での破綻を招いてしまう、結果、
自分自身の罪から目を背け続けていたようなカルト信者自身までもが、
否応なく絶体絶命の窮地に追い込まれてしまうということがある。
脳内妄想のお花畑に明け暮れているのがすでに決定的に不幸なことである上に、
最終的な結果として絶体絶命の窮地にも立たされるわけだから、自分たちの罪から目を背けて
それでよしとするようなカルト信仰には、始めから立ち入らないに越したことはないのだといえる。
「阿黨を是察し、則ち罪を掩蔽すること有る無からしむ」
「罪人の阿りによって不正に法が捻じ曲げられることを監視し、
それによって罪が隠蔽されるようなことがないように取り締まる。
(罪人が誰かに阿ったからといって、それで罪が隠蔽されたり、
減刑されたりすることからして、あってはならないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
この地球上のインド以西の世界に、「天」に相当する真正な事物は存在しない。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界のうちで、
インド以西の世界に存在するのは地獄・餓鬼・畜生・修羅の四界のみであり、
さらにイスラエル以西の西洋社会ともなれば、地獄・餓鬼・畜生の三界しか存在しない。
それでも、西洋社会を未だ支配し続けている邪教である聖書教の教義の中に、
「天」という言葉は多数出てくる。信者がいつかは天に召されるという予言を、
それこそ本物の天界を扱っているインド以東の宗教以上にも殊更に標榜し続けている。
では、聖書教が自分たちの定義で「天」と呼んでいるものは何かといえば、それは「畜生界」のこと。
畜生のように際限なく貪り喰らい、親子兄弟の関係なく誰とでも輪姦しまくる畜生界。
それが聖書教でいうところの「天」であり、当然、真正な定義に基づいた「天界」とは、全くの別物に当たる。
イスラムの天国描写は、そういった「畜生天国」の描写として如実であり、アブラハム教が
「天」と定義するところのものがただの畜生界であることが、聖書信仰以上にもよくわきまえられている。
とはいえ、イスラムが本分とするところのものは、畜生道でもなければ餓鬼道でも地獄道でもなく、修羅道であり、
「処女と何度でもやりまくれる」云々といったイスラムの天国描写は、浄土教の悪人正機などと同じように、
天国浄土への憧憬をあまりに過剰ならしめて、信者がお花畑状態となるようなことを防止しているのだともいえる。
「天」という名辞を決定的に取り違えて、天国への昇天という理想すら、所詮は畜生類としての欲望の成就
でしかない点が、聖書信者の決定的に救えない部分であり、連中が最高とする畜生界においても仏の声が
届かないことには変わりなく、届いたところで畜生なものだから、その言葉を理解することもできない。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界のうちで、
インド以西の世界に存在するのは地獄・餓鬼・畜生・修羅の四界のみであり、
さらにイスラエル以西の西洋社会ともなれば、地獄・餓鬼・畜生の三界しか存在しない。
それでも、西洋社会を未だ支配し続けている邪教である聖書教の教義の中に、
「天」という言葉は多数出てくる。信者がいつかは天に召されるという予言を、
それこそ本物の天界を扱っているインド以東の宗教以上にも殊更に標榜し続けている。
では、聖書教が自分たちの定義で「天」と呼んでいるものは何かといえば、それは「畜生界」のこと。
畜生のように際限なく貪り喰らい、親子兄弟の関係なく誰とでも輪姦しまくる畜生界。
それが聖書教でいうところの「天」であり、当然、真正な定義に基づいた「天界」とは、全くの別物に当たる。
イスラムの天国描写は、そういった「畜生天国」の描写として如実であり、アブラハム教が
「天」と定義するところのものがただの畜生界であることが、聖書信仰以上にもよくわきまえられている。
とはいえ、イスラムが本分とするところのものは、畜生道でもなければ餓鬼道でも地獄道でもなく、修羅道であり、
「処女と何度でもやりまくれる」云々といったイスラムの天国描写は、浄土教の悪人正機などと同じように、
天国浄土への憧憬をあまりに過剰ならしめて、信者がお花畑状態となるようなことを防止しているのだともいえる。
「天」という名辞を決定的に取り違えて、天国への昇天という理想すら、所詮は畜生類としての欲望の成就
でしかない点が、聖書信者の決定的に救えない部分であり、連中が最高とする畜生界においても仏の声が
届かないことには変わりなく、届いたところで畜生なものだから、その言葉を理解することもできない。
キリスト信仰という病を脱却して心の健やかさを取り戻すためには、そもそもキリスト信仰の範疇で
理想とされていた天国からして畜生界でしかなく、未だ聖書信者が本物の天などを察したことすら
ないという事実を受け入れて、全くの不可思議なものとしての天界や人界を希求していく必要がある。
それは、善いことだとか悪いことだとかいう以前に、意味の分からないことであるに違いなく、
不本意という以上に不可解なこととなるかと思う。不可解なことを悪と見なしたり、不必要なものとして
切り捨てたりする性向が、オッカムの剃刀なども通じて聖書信者には根付いてしまっているので、
不本意なことを受け入れる以上にも、全くの不可解に当たる事物の価値を察する能力から養っていく必要がある。
「天を蓋ぞ高しと謂うや、敢え局まずんばならず。
地を蓋ぞ厚しと謂うや、敢えて蹐しせずんばならず。
維れ斯の言を號ぶ、倫有り脊有る。哀れ今の人、胡為れぞ虺蜴のごとくなる」
「天をなぜ高いなどと言えよう、背くぐまって歩くほど恐れ慎まねばならぬ。
地をなぜ厚いなどと言えよう、抜き足で歩くほど慎み深くなければならぬ。
(天地の広大さにことかけて思い上がったりしないよう心がける)この言葉こそは大倫にも道理にも
適った言葉であるというのに、哀しいかな、今の人間ときたら、まるでミミズかトカゲのようでいる。
(自分を天地と比べてミミズかトカゲのように矮小なものだと考えているから、どこまでも思い上がりを
肥大化させもする。儒学が主要な研究対象としている人道は、天道よりも一段階格下ではあるものの、天道と
同じ三善道であり、悪道で天道よりも遥かに格下である餓鬼道や畜生道よりは、天を身近なものとして捉えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
理想とされていた天国からして畜生界でしかなく、未だ聖書信者が本物の天などを察したことすら
ないという事実を受け入れて、全くの不可思議なものとしての天界や人界を希求していく必要がある。
それは、善いことだとか悪いことだとかいう以前に、意味の分からないことであるに違いなく、
不本意という以上に不可解なこととなるかと思う。不可解なことを悪と見なしたり、不必要なものとして
切り捨てたりする性向が、オッカムの剃刀なども通じて聖書信者には根付いてしまっているので、
不本意なことを受け入れる以上にも、全くの不可解に当たる事物の価値を察する能力から養っていく必要がある。
「天を蓋ぞ高しと謂うや、敢え局まずんばならず。
地を蓋ぞ厚しと謂うや、敢えて蹐しせずんばならず。
維れ斯の言を號ぶ、倫有り脊有る。哀れ今の人、胡為れぞ虺蜴のごとくなる」
「天をなぜ高いなどと言えよう、背くぐまって歩くほど恐れ慎まねばならぬ。
地をなぜ厚いなどと言えよう、抜き足で歩くほど慎み深くなければならぬ。
(天地の広大さにことかけて思い上がったりしないよう心がける)この言葉こそは大倫にも道理にも
適った言葉であるというのに、哀しいかな、今の人間ときたら、まるでミミズかトカゲのようでいる。
(自分を天地と比べてミミズかトカゲのように矮小なものだと考えているから、どこまでも思い上がりを
肥大化させもする。儒学が主要な研究対象としている人道は、天道よりも一段階格下ではあるものの、天道と
同じ三善道であり、悪道で天道よりも遥かに格下である餓鬼道や畜生道よりは、天を身近なものとして捉えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
まだ、儒学とかいう趣味続けてたのか
血筋上からも、儒学には一生を捧げて行くつもりでいるし、
全世界の正規教育を洋学から儒学に是正することにも、本気で取り組んでいくつもりでいる。
そのための手段が、教育者になるか将帥になるか、はたまた帝王になるのかは分からないが、
どのような立場になるのであっても、儒学の復権と復興こそは、自分にとっての一生涯の課題になることだけは間違いがない。
神道の復興は、その道の専門家に任せることになるだろうし、
仏学の復興も、自分より後代の人間に任せることになるだろうし。
全世界の正規教育を洋学から儒学に是正することにも、本気で取り組んでいくつもりでいる。
そのための手段が、教育者になるか将帥になるか、はたまた帝王になるのかは分からないが、
どのような立場になるのであっても、儒学の復権と復興こそは、自分にとっての一生涯の課題になることだけは間違いがない。
神道の復興は、その道の専門家に任せることになるだろうし、
仏学の復興も、自分より後代の人間に任せることになるだろうし。
なにをもって洋学と指すのか
その定義がよくわからん。
その定義がよくわからん。
洋学=西洋の学
濁愛に溺れて悩乱を増長させていれば、それで神の庇護下に置かれるというのなら、乱交
パーティーの参加者こそは最も神の庇護を受けていることが確実な連中だということになる。
まさに、犯罪聖書が神の国=天国とする所のものは、畜生界そのものであることが分かる。
六道中の天界が、愛を否定する領域であるなどということもなく、仏界などと比べれば
それなりに愛の価値を認めている。しかし、その愛はといえば、節度を保った家族愛だったり、
忠君愛国の精神だったりして、決してただの情愛だったりするわけではない。人界を司る儒学が
仁徳に根ざした愛や勇気を選別して貴ぶのと同じように、天界もまた愛のあり方にそれなりの
方向性を備わらせ、全くの無軌道な情愛によって乱交に及ぶようなことを避けるようにする。
要するに、天界や人界といった善道に相当する領域においては、愛や勇気すらも制御下に置く
より高尚な理念が存在するわけで、それだけではあまりにも原始的に過ぎる愛や勇気といった
情念に一定の品位を保たせる点が、餓鬼界や畜生界とは決定的に異なっている点だといえる。
ただ愛に溺れていればそれで救われる、そんなことは実際にあり得ない。
むしろ愛欲に溺れて他が見えなくなることこそは、最も典型的な破滅の原因の一つであり、
項羽のような名将ですら、愛妾の虞美人にいいところを見せようとして、隣人愛の行き過ぎた
釈遠謀近の振る舞いに終始して多数派の支持を失い、漢軍に最終的な敗北を喫したのだった。
愛や勇気のような原始的な情念に囚われすぎれば、仁愛や大勇といったより先進的な理念に
基づいて自己を制御するものに最終的に敗れてしまうということは、ある程度歴史を
俯瞰した上での経験則によって、誰にでも導き出せる程度のこと。愛すらあれば、
勇気すらあれば勝てるなどと思っているのなら、相当な不勉強家であることが明らか。
パーティーの参加者こそは最も神の庇護を受けていることが確実な連中だということになる。
まさに、犯罪聖書が神の国=天国とする所のものは、畜生界そのものであることが分かる。
六道中の天界が、愛を否定する領域であるなどということもなく、仏界などと比べれば
それなりに愛の価値を認めている。しかし、その愛はといえば、節度を保った家族愛だったり、
忠君愛国の精神だったりして、決してただの情愛だったりするわけではない。人界を司る儒学が
仁徳に根ざした愛や勇気を選別して貴ぶのと同じように、天界もまた愛のあり方にそれなりの
方向性を備わらせ、全くの無軌道な情愛によって乱交に及ぶようなことを避けるようにする。
要するに、天界や人界といった善道に相当する領域においては、愛や勇気すらも制御下に置く
より高尚な理念が存在するわけで、それだけではあまりにも原始的に過ぎる愛や勇気といった
情念に一定の品位を保たせる点が、餓鬼界や畜生界とは決定的に異なっている点だといえる。
ただ愛に溺れていればそれで救われる、そんなことは実際にあり得ない。
むしろ愛欲に溺れて他が見えなくなることこそは、最も典型的な破滅の原因の一つであり、
項羽のような名将ですら、愛妾の虞美人にいいところを見せようとして、隣人愛の行き過ぎた
釈遠謀近の振る舞いに終始して多数派の支持を失い、漢軍に最終的な敗北を喫したのだった。
愛や勇気のような原始的な情念に囚われすぎれば、仁愛や大勇といったより先進的な理念に
基づいて自己を制御するものに最終的に敗れてしまうということは、ある程度歴史を
俯瞰した上での経験則によって、誰にでも導き出せる程度のこと。愛すらあれば、
勇気すらあれば勝てるなどと思っているのなら、相当な不勉強家であることが明らか。
「小子を迪き、惟れ土物を愛さしむれば、厥の心臧し」
「年少者を吉方へと導き、大地から生ずる諸々の卑近な事物を愛せたなら、心も善良となる。
(『易経』繋辞上伝にも『土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す』とあり、天上に在るような
夢想的な事物よりも、土着に根ざした卑近な事物を愛することのほうが、真の愛ともなる。
愛は本来女性の本分であり、女性が愛すべきものはわが子や夫である。元より情愛は、
卑近なものに対してこそ尽くされて然るべきようにできているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
「年少者を吉方へと導き、大地から生ずる諸々の卑近な事物を愛せたなら、心も善良となる。
(『易経』繋辞上伝にも『土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す』とあり、天上に在るような
夢想的な事物よりも、土着に根ざした卑近な事物を愛することのほうが、真の愛ともなる。
愛は本来女性の本分であり、女性が愛すべきものはわが子や夫である。元より情愛は、
卑近なものに対してこそ尽くされて然るべきようにできているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
「他人に優しく、自分に厳しく」は良好な人間関係の基本であり、
他人にかける負荷を軽くするどころか、極力なからしめるのが理想というもの。
それでいて自分自身には最大級の努力を常に促し、なおかつ己れに如かざる者を友としない。
そのため、自分自身が自主的な努力を心がけない人間とは結局のところ、友だちになるようなこともない。
封建社会では、上記のような人間規範をより心がけるものほど社会的な上位に置かれ、
逆に自助努力を心がけないもの同士で友だちを作ろうとするようなものほど下位に置かれる。
不祥事には切腹を以って臨むほどもの、薄氷を踏む思いでの役儀に務める武士こそは最上位に置かれ、
不正な富で友達を作ってなあなあでいようとするような悪徳商人などが最下位に置かれる。
そもそも商売人こそは、他人の労役にすがって私利私欲を貪ることを生業とした職業であるから、
人並み以上の努力を心がけるということが、基本ない。いかに楽して大金を稼ぐかということが
商売人にとっての本分であり、その職業的な本質に根ざして、人並み以上の努力を心がけるような
人間をお客様にすることこそできても、友人にするようなことは到底かなわない。
他人にかける負荷を軽くするどころか、極力なからしめるのが理想というもの。
それでいて自分自身には最大級の努力を常に促し、なおかつ己れに如かざる者を友としない。
そのため、自分自身が自主的な努力を心がけない人間とは結局のところ、友だちになるようなこともない。
封建社会では、上記のような人間規範をより心がけるものほど社会的な上位に置かれ、
逆に自助努力を心がけないもの同士で友だちを作ろうとするようなものほど下位に置かれる。
不祥事には切腹を以って臨むほどもの、薄氷を踏む思いでの役儀に務める武士こそは最上位に置かれ、
不正な富で友達を作ってなあなあでいようとするような悪徳商人などが最下位に置かれる。
そもそも商売人こそは、他人の労役にすがって私利私欲を貪ることを生業とした職業であるから、
人並み以上の努力を心がけるということが、基本ない。いかに楽して大金を稼ぐかということが
商売人にとっての本分であり、その職業的な本質に根ざして、人並み以上の努力を心がけるような
人間をお客様にすることこそできても、友人にするようなことは到底かなわない。
「労役が軽いものほど主人、重いものほど奴隷」というような間違った考え方が、資本主義などの商売本位
なイデオロギーによって流布されたりもするが、そういう世の中は間違っているから、そんなにもたない。
片や、人間の努力こそを評価基準に置く封建主義を敷いた日本の武家社会では、寛元元年(西暦1243年)に、
鎌倉幕府四代執権の北条経時によって、奴隷制と児童売買とが完全に禁止されている。これは、民に奴隷
並みの労役を課すことを撤廃したというよりは、重い労役を担うものが奴隷として卑しめられることを撤廃
したのだと考えたほうがよく、実際、奴隷制廃止後の日本でも、屠殺や処刑などの、重労働ではなくても、
血肉の穢れの多いような仕事に従事するものが、被差別部落として扱われ続けていたことは知られている。
他人に重労働を担わせて自分が楽をするものほど偉いという転倒した価値観が、人と世の中とを同時にダメにする。
むしろ自分から大きな努力を心がけるものを上位に置くぐらいでこそ順当であり、大変な仕事をする者も
楽な仕事をする者もみな平等というところですら、逆差別からなる不具合が生じてしまうことになる。
だから、より大きな努力を心がける職分をより上位に置く封建制までもが、順当にすらなるのである。
「人は其の田を舍てて人の田を芸り、
人に求むる所の者重くして、自らに任ずる所以の者の軽きを病うべし」
「自らの田を捨てて他人の田の草むしりをするように、
人に任務を課すこと以上にも、自らの任務を軽んじてしまうことを反省すべきだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
なイデオロギーによって流布されたりもするが、そういう世の中は間違っているから、そんなにもたない。
片や、人間の努力こそを評価基準に置く封建主義を敷いた日本の武家社会では、寛元元年(西暦1243年)に、
鎌倉幕府四代執権の北条経時によって、奴隷制と児童売買とが完全に禁止されている。これは、民に奴隷
並みの労役を課すことを撤廃したというよりは、重い労役を担うものが奴隷として卑しめられることを撤廃
したのだと考えたほうがよく、実際、奴隷制廃止後の日本でも、屠殺や処刑などの、重労働ではなくても、
血肉の穢れの多いような仕事に従事するものが、被差別部落として扱われ続けていたことは知られている。
他人に重労働を担わせて自分が楽をするものほど偉いという転倒した価値観が、人と世の中とを同時にダメにする。
むしろ自分から大きな努力を心がけるものを上位に置くぐらいでこそ順当であり、大変な仕事をする者も
楽な仕事をする者もみな平等というところですら、逆差別からなる不具合が生じてしまうことになる。
だから、より大きな努力を心がける職分をより上位に置く封建制までもが、順当にすらなるのである。
「人は其の田を舍てて人の田を芸り、
人に求むる所の者重くして、自らに任ずる所以の者の軽きを病うべし」
「自らの田を捨てて他人の田の草むしりをするように、
人に任務を課すこと以上にも、自らの任務を軽んじてしまうことを反省すべきだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
偽りの神を信じて自らの過ちを開き直り、どこまでも罪業を積み重ね尽くして、
当然のこととして破滅に陥り、これ以上偽りの神への邪信を続ければ必ず
滅亡が免れえず、その邪信を棄てて、自分たちの罪を相応に償っていく
ことを受け入れた場合に、何とか滅亡だけは免れられるといった段階。
ただ自分たちの罪を相応に償っていくことが必要となるだけでなく、
偽りの神への邪信をも共に棄て去らねばならない。どんなに大きな罪を犯した所で、
信じていさえすれば救われるなどという邪神信仰のあるところ、必ず精神の致命的な怠惰が共にあり、
自分たち自身で罪を償っていくことへの辟易が生じ、さらには服罪を中途で投げ出すようなことにすらなりかねない。
だから、累犯障害を正当化するような邪信はきっぱり棄て去った上での服罪にも臨んでいかなければならない。
せいぜい百数十年やそこらの邪信経歴しかない、日本のキリスト教徒などが棄教するのはまだ容易いこととして、
二千年来、キリストやエホバばかりに帰依して来た西洋人が完全な棄教に臨むのは、相当に抵抗のあることかと思う。
しかし、まずキリスト教は最初期の頃から、アウグスチヌスなどがマニ教を通じて仏教や拝火教の教義を取り入れ、
自殺の禁止などの、聖書には一切記載されていない戒律を後付けであてがうことで、何とか教団が保たれてきたという
経緯があり、あまりにも蒙昧なキリスト教自体の教義だけでは、とっくの昔にキリスト教団などというものは
亡び去っていたということがある。元よりキリスト教は、それ自体だけでは自存も不能な欠陥宗教であり、
仏教などの純正な信教からの補助があって初めて、これまでも辛うじてその経営が保たれて来ただけなのである。
当然のこととして破滅に陥り、これ以上偽りの神への邪信を続ければ必ず
滅亡が免れえず、その邪信を棄てて、自分たちの罪を相応に償っていく
ことを受け入れた場合に、何とか滅亡だけは免れられるといった段階。
ただ自分たちの罪を相応に償っていくことが必要となるだけでなく、
偽りの神への邪信をも共に棄て去らねばならない。どんなに大きな罪を犯した所で、
信じていさえすれば救われるなどという邪神信仰のあるところ、必ず精神の致命的な怠惰が共にあり、
自分たち自身で罪を償っていくことへの辟易が生じ、さらには服罪を中途で投げ出すようなことにすらなりかねない。
だから、累犯障害を正当化するような邪信はきっぱり棄て去った上での服罪にも臨んでいかなければならない。
せいぜい百数十年やそこらの邪信経歴しかない、日本のキリスト教徒などが棄教するのはまだ容易いこととして、
二千年来、キリストやエホバばかりに帰依して来た西洋人が完全な棄教に臨むのは、相当に抵抗のあることかと思う。
しかし、まずキリスト教は最初期の頃から、アウグスチヌスなどがマニ教を通じて仏教や拝火教の教義を取り入れ、
自殺の禁止などの、聖書には一切記載されていない戒律を後付けであてがうことで、何とか教団が保たれてきたという
経緯があり、あまりにも蒙昧なキリスト教自体の教義だけでは、とっくの昔にキリスト教団などというものは
亡び去っていたということがある。元よりキリスト教は、それ自体だけでは自存も不能な欠陥宗教であり、
仏教などの純正な信教からの補助があって初めて、これまでも辛うじてその経営が保たれて来ただけなのである。
また、先祖代々受け継いできた慣習といえども、その慣習に致命的な問題があるのならば、
自分たち子孫でその問題を是正していくのが孝行ともなる。日本でも、古代には全身に入墨を施すなどの土人然とした
風習があったことが「魏志倭人伝」などにも記録されているが、「親からもらった身体を妄りに傷つけない(孝経)」
という儒学の教えが流布されることで、その慣習も絶えた。(「孝経」は孝謙天皇の代に勅令で頒布されてもいる)
「礼記」坊記第三十にも「君子はその親の過ちを棄てて、その義を敬す」ともあり、間違ったことを信じ込んでいたから
といってその先祖を全く見損なうのではなく、間違っているなりに信義を通そうとしていたことへの敬意は払うのである。
先祖や親が偉大だから敬う以上にも、自らが進んで孝心を育むことによって、誠実さを養うことこそが重要であるのだから。
「誠を著し偽りを去るは礼の経なり(既出)。礼楽は天地の情により、
神明の徳に達す。上下の神を降興して、精粗の体を凝是し、父子君臣の節を領す」
「自らの誠実さをよく現し、偽りを十分に去ることで礼儀となる。礼楽は天地の情勢に感応し、
ついには神明の徳にまで達する。上下交々の神をも降臨させ賜いて、万物の形態をよく整え、
君臣父子間の節義までをも正すに至る(偽りの神などを排してこそ神明の徳に達し、父子の節までもが正される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
自分たち子孫でその問題を是正していくのが孝行ともなる。日本でも、古代には全身に入墨を施すなどの土人然とした
風習があったことが「魏志倭人伝」などにも記録されているが、「親からもらった身体を妄りに傷つけない(孝経)」
という儒学の教えが流布されることで、その慣習も絶えた。(「孝経」は孝謙天皇の代に勅令で頒布されてもいる)
「礼記」坊記第三十にも「君子はその親の過ちを棄てて、その義を敬す」ともあり、間違ったことを信じ込んでいたから
といってその先祖を全く見損なうのではなく、間違っているなりに信義を通そうとしていたことへの敬意は払うのである。
先祖や親が偉大だから敬う以上にも、自らが進んで孝心を育むことによって、誠実さを養うことこそが重要であるのだから。
「誠を著し偽りを去るは礼の経なり(既出)。礼楽は天地の情により、
神明の徳に達す。上下の神を降興して、精粗の体を凝是し、父子君臣の節を領す」
「自らの誠実さをよく現し、偽りを十分に去ることで礼儀となる。礼楽は天地の情勢に感応し、
ついには神明の徳にまで達する。上下交々の神をも降臨させ賜いて、万物の形態をよく整え、
君臣父子間の節義までをも正すに至る(偽りの神などを排してこそ神明の徳に達し、父子の節までもが正される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
「自分がこう言ったからこうだ」の絶対的な
ドグマを信じるところには、反証可能性もへったくれもない。
いくら全ての生物がいつかは死んで二度と生き返らないでいようが、自分が犯した罪は
自分で償わなければ因果律が破綻して後々により大きな禍いを招くのが普遍的であろうが、
「私があなた方の罪を負う。私は刑死しても生き返る」とほざいたノータリンの言うことを
信じてその言い分に沿おうとする以上は、実際にそうであることがあるかないかなどということとは
無関係に、ただ信じるが故にその言い分が是となり、科学的な反証にすら意義が見出されない。
では、全ての生きとし生けるものは必ず死ぬという諸行無常の真理や、犯した罪は自分で
償わなければより大きな禍いを招く因果応報などに反証可能性があるかといえば、それは事実ある。
絶対に死なない生物が存在していたり、冤罪によって実際に罪が償われたりすることがあれば、
諸行無常や因果応報も絶対真理ではないことになるから、ただの真理として
提示される諸行無常因果応報には、反証可能性があるといえる。
科学的な検証が可能なところに本物の真理や道理は存在する一方で、無理はその範囲外にある。
だから科学者ももはや、「信じるから是である」という無理カルトの狂信者を言い負かすことなどは
端から諦めている一方で、否定することが可能かもしれない範囲での論及を展開する
真理や道理の把捉者に対しては、旺盛な批判や懐疑の目を向けることができる。
ドグマを信じるところには、反証可能性もへったくれもない。
いくら全ての生物がいつかは死んで二度と生き返らないでいようが、自分が犯した罪は
自分で償わなければ因果律が破綻して後々により大きな禍いを招くのが普遍的であろうが、
「私があなた方の罪を負う。私は刑死しても生き返る」とほざいたノータリンの言うことを
信じてその言い分に沿おうとする以上は、実際にそうであることがあるかないかなどということとは
無関係に、ただ信じるが故にその言い分が是となり、科学的な反証にすら意義が見出されない。
では、全ての生きとし生けるものは必ず死ぬという諸行無常の真理や、犯した罪は自分で
償わなければより大きな禍いを招く因果応報などに反証可能性があるかといえば、それは事実ある。
絶対に死なない生物が存在していたり、冤罪によって実際に罪が償われたりすることがあれば、
諸行無常や因果応報も絶対真理ではないことになるから、ただの真理として
提示される諸行無常因果応報には、反証可能性があるといえる。
科学的な検証が可能なところに本物の真理や道理は存在する一方で、無理はその範囲外にある。
だから科学者ももはや、「信じるから是である」という無理カルトの狂信者を言い負かすことなどは
端から諦めている一方で、否定することが可能かもしれない範囲での論及を展開する
真理や道理の把捉者に対しては、旺盛な批判や懐疑の目を向けることができる。
しかし、批判や懐疑を加えることが、真理や道理の把捉者との議論に有益さを備わらせるわけでもない。
罪は自分で償わなければ決して償われないという因果応報を反証しようとすれば、検証者たち自身が
重罪人である場合に、その罪の償いがその分だけ疎かとなって、逃亡犯としての凶状が加味されるぶん、
後々にさらに甚大な禍いを招くことになる。その禍いは場合によっては人類滅亡級の代物にすらなるわけで、
因果応報や諸行無常の反証が可能だからといって、それに甘えて懐疑などの誹謗正法を加えればそれが
また禍いの種になるわけだから、やはり真理や道理に対しても信認を向けてこそ利益があるのだといえる。
あり得ないことを「信じるから是だ」といって狂信するのでもなく、
あり得ることにまでことごとく懐疑や批判の文句を加えるのでもなく、
あり得ることで確からしいことこそを信認して、信認したならではの
実践に邁進していくことこそが、有益無害な人間のあり方となる。
「有衆を以って天の罰を底す」
「多くの衆人からの信認と共に、天に任された罰を執り行う。
(刑罰は一身上の都合によって科したり科さなかったりしていいものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
罪は自分で償わなければ決して償われないという因果応報を反証しようとすれば、検証者たち自身が
重罪人である場合に、その罪の償いがその分だけ疎かとなって、逃亡犯としての凶状が加味されるぶん、
後々にさらに甚大な禍いを招くことになる。その禍いは場合によっては人類滅亡級の代物にすらなるわけで、
因果応報や諸行無常の反証が可能だからといって、それに甘えて懐疑などの誹謗正法を加えればそれが
また禍いの種になるわけだから、やはり真理や道理に対しても信認を向けてこそ利益があるのだといえる。
あり得ないことを「信じるから是だ」といって狂信するのでもなく、
あり得ることにまでことごとく懐疑や批判の文句を加えるのでもなく、
あり得ることで確からしいことこそを信認して、信認したならではの
実践に邁進していくことこそが、有益無害な人間のあり方となる。
「有衆を以って天の罰を底す」
「多くの衆人からの信認と共に、天に任された罰を執り行う。
(刑罰は一身上の都合によって科したり科さなかったりしていいものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
わたしわたしと言いながら公義を騙る、公私混同ならぬ公私転倒の大欺瞞。
公と私はえてして相反する関係にあるもので、どちらかを重んじれば必ずもう一方が軽んじられる。
特に民間の私人として私利私益ばかりを偏重すれば、必ずそれに相応の公益損失がもたらされることとなる。
そうならないためには、自らが徳治を本分とした公人=君子となることが必要で、正式な官人としての
立場に就きながら徳治を施すことで、私益と公益とが比例的な関係にあるようにすれば、場合に
よっては自らの福徳と世間の福徳とが一致する状態、すなわち仁義が実現されることにもなる。
しかし、それはただの私人としては決して可能となることではないし、仮に公職に就いたところで、
徳治などを全く志さず、ただただ我田引水を本当の目的とした暴政ばかりに耽ったりするのなら、
やはり私益と公益の比例関係は実現せず、私益を貪るほどに公益が損なわれる自体を招くこととなる。
自らの利得の追求と、公益の扶助とが連動する仁政の実現者、権力道徳者となるためには、
自分が正式な官人となり、さらには官人としての徳治を実践していく必要があるわけで、
たとえば民間の政商として徳治を志したりしても、やはり権力道徳者としての条件は満たせない。
どんなに民間の権力者として大権を蓄えたところで、民間人である時点でその本分は私益の追求で
あり続けるものだから、部分的な慈善活動などによって総合的な我田引水を償うことなどもできない。
仮に民間の権力者でも、全財産を投げ出せばそれが相当な公益扶助になるに違いないが、その時点で
本人が権力者ではなくなってしまう。民間人を権力者たらしめるのはどこまでもその財産のみであり、
しかも民間人としての財産の富裕さは、そのぶんだけ必ず公益の損壊にも付与している。だから、
民間人としての私益の追求が、寸分たりとも公益の扶助に寄与するようなこともないのである。
「公事は私議せず」「公けのことは私事として議してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五——礼記・曲礼下第二より)
公と私はえてして相反する関係にあるもので、どちらかを重んじれば必ずもう一方が軽んじられる。
特に民間の私人として私利私益ばかりを偏重すれば、必ずそれに相応の公益損失がもたらされることとなる。
そうならないためには、自らが徳治を本分とした公人=君子となることが必要で、正式な官人としての
立場に就きながら徳治を施すことで、私益と公益とが比例的な関係にあるようにすれば、場合に
よっては自らの福徳と世間の福徳とが一致する状態、すなわち仁義が実現されることにもなる。
しかし、それはただの私人としては決して可能となることではないし、仮に公職に就いたところで、
徳治などを全く志さず、ただただ我田引水を本当の目的とした暴政ばかりに耽ったりするのなら、
やはり私益と公益の比例関係は実現せず、私益を貪るほどに公益が損なわれる自体を招くこととなる。
自らの利得の追求と、公益の扶助とが連動する仁政の実現者、権力道徳者となるためには、
自分が正式な官人となり、さらには官人としての徳治を実践していく必要があるわけで、
たとえば民間の政商として徳治を志したりしても、やはり権力道徳者としての条件は満たせない。
どんなに民間の権力者として大権を蓄えたところで、民間人である時点でその本分は私益の追求で
あり続けるものだから、部分的な慈善活動などによって総合的な我田引水を償うことなどもできない。
仮に民間の権力者でも、全財産を投げ出せばそれが相当な公益扶助になるに違いないが、その時点で
本人が権力者ではなくなってしまう。民間人を権力者たらしめるのはどこまでもその財産のみであり、
しかも民間人としての財産の富裕さは、そのぶんだけ必ず公益の損壊にも付与している。だから、
民間人としての私益の追求が、寸分たりとも公益の扶助に寄与するようなこともないのである。
「公事は私議せず」「公けのことは私事として議してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五——礼記・曲礼下第二より)
征服被征服の絶対化を平時にも強要することが、主人と奴隷の服従関係の絶対化となる。
それは平時の社会的な人間関係として最劣等のものであり、そんな人間関係
ばかりを強要する社会は、社会形態からして最低劣ということになる。
徳治社会では、君臣関係がまず、服従被服従の関係であることを徹底して防止する。
臣下だから主君に臣従はするものの、それは奴隷の主人に対するような絶対服従ではなく、
お互いの距離感を保ちつつの、節義を尽くした上下関係であることを旨とする。
その君臣関係が自動的に官民上下の関係にも落とし込まれて、上下関係だからといって
絶対服従というのではなく、官民がお互いの距離を保つことで、それぞれに独立した活動が
保障され、共産主義の場合のような、産業の国家による完全統制などの事態も来たさない。
徳治が実現する場合には必ずそうなるが、当然失敗する場合もある。失敗がひどければ
ひどいほど、犯罪聖書が理想とするような絶対的な服従関係が君臣官民の間に敷かれる
ようになり、そのあまりもの窮屈さから、秦帝国の崩壊のような大破綻をも招くこととなる。
そういうことが無いようにするために、純正な儒学にも根ざした徳治を慎重に敷いていく
ことが必要である一方、絶対に真似してはいけない反面教師としての犯罪聖書の教義の
査察も多少は役に立つことがあるかもしれない。もちろん本分は徳治の主体的な実践で
あるにしろ、権力腐敗の極みをあらかじめ体系化してくれている犯罪聖書の教義を絶対に
実践しないように務めることが、権力の防腐措置として強力な効果をも挙げられるに違いない。
それは平時の社会的な人間関係として最劣等のものであり、そんな人間関係
ばかりを強要する社会は、社会形態からして最低劣ということになる。
徳治社会では、君臣関係がまず、服従被服従の関係であることを徹底して防止する。
臣下だから主君に臣従はするものの、それは奴隷の主人に対するような絶対服従ではなく、
お互いの距離感を保ちつつの、節義を尽くした上下関係であることを旨とする。
その君臣関係が自動的に官民上下の関係にも落とし込まれて、上下関係だからといって
絶対服従というのではなく、官民がお互いの距離を保つことで、それぞれに独立した活動が
保障され、共産主義の場合のような、産業の国家による完全統制などの事態も来たさない。
徳治が実現する場合には必ずそうなるが、当然失敗する場合もある。失敗がひどければ
ひどいほど、犯罪聖書が理想とするような絶対的な服従関係が君臣官民の間に敷かれる
ようになり、そのあまりもの窮屈さから、秦帝国の崩壊のような大破綻をも招くこととなる。
そういうことが無いようにするために、純正な儒学にも根ざした徳治を慎重に敷いていく
ことが必要である一方、絶対に真似してはいけない反面教師としての犯罪聖書の教義の
査察も多少は役に立つことがあるかもしれない。もちろん本分は徳治の主体的な実践で
あるにしろ、権力腐敗の極みをあらかじめ体系化してくれている犯罪聖書の教義を絶対に
実践しないように務めることが、権力の防腐措置として強力な効果をも挙げられるに違いない。
原理的には、犯罪聖書の教義を絶対に実践せず実践させないようにしさえすれば、
権力機構というものは絶対に腐敗することがない。実践の禁止を絶対化することが可能か
どうかはともかく、犯罪聖書の実践を永久に禁止すらできたなら、そのような世の中が
破綻級の腐敗を来たすことは絶対にないのだから、これはこれで好もしいことだといえる。
唯一無二にして最低最悪の邪義であればこそ、反面教師としては最高最良の範ともなり得る。
「節たる彼の南山、維の石も巌巌たる。赫赫たる師尹、民も具さに爾じを瞻ぐ。
憂える心も惔くるが如く、敢えて戲談もせず。国も既に卒斬せんとするに、何を用て監みざる」
「大きくそびえるかの終南の山に、ごつごつとした岩石が積み重なっているかのように、
赫赫とした大師尹氏のその威厳を、万民もまた畏怖の目で仰ぎ見る。焼けた肉のように心を
憂えさせ、もはや戯笑歓談も絶えて、傾国の危機にもはや救うものもないといった有り様で」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
権力機構というものは絶対に腐敗することがない。実践の禁止を絶対化することが可能か
どうかはともかく、犯罪聖書の実践を永久に禁止すらできたなら、そのような世の中が
破綻級の腐敗を来たすことは絶対にないのだから、これはこれで好もしいことだといえる。
唯一無二にして最低最悪の邪義であればこそ、反面教師としては最高最良の範ともなり得る。
「節たる彼の南山、維の石も巌巌たる。赫赫たる師尹、民も具さに爾じを瞻ぐ。
憂える心も惔くるが如く、敢えて戲談もせず。国も既に卒斬せんとするに、何を用て監みざる」
「大きくそびえるかの終南の山に、ごつごつとした岩石が積み重なっているかのように、
赫赫とした大師尹氏のその威厳を、万民もまた畏怖の目で仰ぎ見る。焼けた肉のように心を
憂えさせ、もはや戯笑歓談も絶えて、傾国の危機にもはや救うものもないといった有り様で」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
思考・発言・行動のうちで、発言が最も実質から乖離しやすい。
行動が必ず実質からの拘束を受けるのに対し、思考は洗脳や心神喪失などの
精神異常を来たさない限りにおいて実質と連動する。そして、発言は完全に実質から
乖離することができ、善を悪といったり、悪を善といったりすることが全く可能となる。
善を悪としたり、悪を善としたりする蒙昧な言葉に引きずられて、
思考までもが妄念に耽るようになり、重度の精神障害を併発することで、
完全に実質から乖離・相反しきった転倒夢想で思考が塗り固められるようになる。そして、
転倒夢想が常態となった悪思によって、息をするようにして悪行が為されるようになる。
カルト信者の場合、
「カルト教祖の悪言の視聴→自らの思考の転倒夢想への陥り→息をするような悪行」
という順序で悪行に至るし、カルト教祖の場合も、
「既存のカルト教義の視聴→新規のカルト教義の練り込み→新規カルト教義の流布」
という順序で、邪義の流布という悪行に走る場合がほとんど。
それは、世界最悪のカルト宗教であるキリスト教を興したイエスであっても同じこと。
(イエス以前にも、キリスト教と似たような邪義を練っていた害為正法外道は多数いた)
行動が必ず実質からの拘束を受けるのに対し、思考は洗脳や心神喪失などの
精神異常を来たさない限りにおいて実質と連動する。そして、発言は完全に実質から
乖離することができ、善を悪といったり、悪を善といったりすることが全く可能となる。
善を悪としたり、悪を善としたりする蒙昧な言葉に引きずられて、
思考までもが妄念に耽るようになり、重度の精神障害を併発することで、
完全に実質から乖離・相反しきった転倒夢想で思考が塗り固められるようになる。そして、
転倒夢想が常態となった悪思によって、息をするようにして悪行が為されるようになる。
カルト信者の場合、
「カルト教祖の悪言の視聴→自らの思考の転倒夢想への陥り→息をするような悪行」
という順序で悪行に至るし、カルト教祖の場合も、
「既存のカルト教義の視聴→新規のカルト教義の練り込み→新規カルト教義の流布」
という順序で、邪義の流布という悪行に走る場合がほとんど。
それは、世界最悪のカルト宗教であるキリスト教を興したイエスであっても同じこと。
(イエス以前にも、キリスト教と似たような邪義を練っていた害為正法外道は多数いた)
悪が悪言を生むという以上に、悪言こそが害悪の元凶となる。
言葉が神や真理であるどころか、言葉こそは害悪の最も純粋な元凶となるのであり、
普遍的な神威や真理のほうはといえば、言葉によって明文化されると否とに関わらず不滅である。
むしろ、孔子や孟子の生きた春秋戦国時代のような、汚濁にまみれた乱世にこそ、
あえて普遍的な人間道徳を明文化しようとする試みまでもが為されてしまったのであり、
「大道廃れて仁義あり」どころか、「大道廃れて普遍道理を語る言葉あり」なのだといえる。
言葉が善言であるか悪言であるかでいえば、当然善言であるほうがマシだが、かといって
善言に励むことが至上なのではなく、何も言わずに善行に励むことのほうがよっぽどいい。
多少口が悪くたって、善行こそは真実であるならば、言葉面は耳に心地よくとも、
行いは悪逆非道の塊りであったりするよりも遥かによいといえる。
善か悪かで言えば、むしろ悪のほうが言葉に依存することが多いことからも、
言葉に囚われるということは、総じて下劣なことであると見なすのが適切だといえる。
「巧言令色、足恭なるは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
言葉遣いや顔色ばかりがやたらとよさげなのを左丘明は恥とした。私(孔子)もそれを恥とする。
怨みを隠してまで人と交友するのを左丘明は恥とした。私もやはりそれを恥とする。
(怨みを隠してまで人と交友すれば、内面は憎悪、外面は美辞麗句ということになる。
左丘明は『春秋左氏伝』の著者だが、創作を恥とした孔子のペンネームである可能性もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二五より)
言葉が神や真理であるどころか、言葉こそは害悪の最も純粋な元凶となるのであり、
普遍的な神威や真理のほうはといえば、言葉によって明文化されると否とに関わらず不滅である。
むしろ、孔子や孟子の生きた春秋戦国時代のような、汚濁にまみれた乱世にこそ、
あえて普遍的な人間道徳を明文化しようとする試みまでもが為されてしまったのであり、
「大道廃れて仁義あり」どころか、「大道廃れて普遍道理を語る言葉あり」なのだといえる。
言葉が善言であるか悪言であるかでいえば、当然善言であるほうがマシだが、かといって
善言に励むことが至上なのではなく、何も言わずに善行に励むことのほうがよっぽどいい。
多少口が悪くたって、善行こそは真実であるならば、言葉面は耳に心地よくとも、
行いは悪逆非道の塊りであったりするよりも遥かによいといえる。
善か悪かで言えば、むしろ悪のほうが言葉に依存することが多いことからも、
言葉に囚われるということは、総じて下劣なことであると見なすのが適切だといえる。
「巧言令色、足恭なるは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
言葉遣いや顔色ばかりがやたらとよさげなのを左丘明は恥とした。私(孔子)もそれを恥とする。
怨みを隠してまで人と交友するのを左丘明は恥とした。私もやはりそれを恥とする。
(怨みを隠してまで人と交友すれば、内面は憎悪、外面は美辞麗句ということになる。
左丘明は『春秋左氏伝』の著者だが、創作を恥とした孔子のペンネームである可能性もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二五より)
権力犯罪は、国家や自治体が総出となって犯す罪であるために、
なかなか犯罪行為としての断罪が行き届きにくい。
司法をも掌握する権力者たち自身が犯す罪であるために、まず権力犯罪を取り締まる
法定からして疎かになる場合が多く、法規によって禁止されたところで軽罪扱いとなったり、
平気で脱法がまかり通って、法制が全く健全に機能しないといった事態を招きやすい。
今の戦時国際法を含む国際法群なども、アメリカなどのテロ国家によって平気で破られたり、
被告となった国が国際法廷に出席しなければ無効とされたりといった、有名無実なもののままである。
権力犯罪は、基本、法律によっては取り締まりきれない。
それこそ、仁徳に根ざした道徳律によってでもなければ十分には取り締まることができず、
道徳律が権力機構から放逐された世の中においては、ある程度以上に甚大な規模の権力犯罪は、
もはや誰も本気で取り締まる気すら起きないままでの、野放し状態と化してしまう。
「十人殺せば大罪人、十万人殺せば大英雄(チャップリン)」の論理がまかり通り、
かつての徳治社会のように、権力犯罪者に対しても厳酷な処罰が科されることが無くなったのを
「文明発展の証拠」とすら見なす薄ら馬鹿が一般認識ともなる。しかし、甚大な権力犯罪を
取り締まることも、取り締まる気を起こすこともできなくなっているのは、当世の人間が誰しも、
世の中の大局を見据えることもできない小人と化してしまっているからであり、権力犯罪者に厳罰が
科されることがなくなったのも、ただ小人の権力機構へののさばりが自由化されたからなだけなのであって、
重権力犯罪が野放しにされ続けていることによる世の中の荒廃は、紛れもなく致命的なものと化している。
なかなか犯罪行為としての断罪が行き届きにくい。
司法をも掌握する権力者たち自身が犯す罪であるために、まず権力犯罪を取り締まる
法定からして疎かになる場合が多く、法規によって禁止されたところで軽罪扱いとなったり、
平気で脱法がまかり通って、法制が全く健全に機能しないといった事態を招きやすい。
今の戦時国際法を含む国際法群なども、アメリカなどのテロ国家によって平気で破られたり、
被告となった国が国際法廷に出席しなければ無効とされたりといった、有名無実なもののままである。
権力犯罪は、基本、法律によっては取り締まりきれない。
それこそ、仁徳に根ざした道徳律によってでもなければ十分には取り締まることができず、
道徳律が権力機構から放逐された世の中においては、ある程度以上に甚大な規模の権力犯罪は、
もはや誰も本気で取り締まる気すら起きないままでの、野放し状態と化してしまう。
「十人殺せば大罪人、十万人殺せば大英雄(チャップリン)」の論理がまかり通り、
かつての徳治社会のように、権力犯罪者に対しても厳酷な処罰が科されることが無くなったのを
「文明発展の証拠」とすら見なす薄ら馬鹿が一般認識ともなる。しかし、甚大な権力犯罪を
取り締まることも、取り締まる気を起こすこともできなくなっているのは、当世の人間が誰しも、
世の中の大局を見据えることもできない小人と化してしまっているからであり、権力犯罪者に厳罰が
科されることがなくなったのも、ただ小人の権力機構へののさばりが自由化されたからなだけなのであって、
重権力犯罪が野放しにされ続けていることによる世の中の荒廃は、紛れもなく致命的なものと化している。
権力犯罪を取り締まるためにこそ、法律をも超えた道徳による統治が必要となる。
四書五経に書かれてあるような人間道徳の高潔さは、世俗社会に必ずしも必要なものではないかのように、
現代人からは思われがちだから、儒学道徳ほどもの高潔さで臨まないのなら、ことに、権力犯罪だけは
十分に取り締まることが絶対にできない。「法律すら守れば後は好きにしろ」などとという程度の
望みの低さでは、権力犯罪の悪逆非道までをも十分に取り締まることができない、のみならず、
法治主義からなる精神的な怠惰こそが、権力犯罪を助長して庇護する要因にすらなってしまう。
徳治社会においても、やはり法律は存在し続ける。法律家も当然、配備されなければならないと
孟子なども主張しているが、ただ、徳治社会では法律が絶対最高のものなどとは見なされず、
法律すら守れば後は野となれ山となれなどという、怠慢を決して許すことがない。
法律に全ての社会規範を還元することが、大社会での権力犯罪を助長することになるのは、
悠久の人類史が実証していることである上に、今の世情こそが最大級の証拠ともなっているのだから。
「以って王者の作る有ると為せば、将に今の諸侯を比ねて之れを誅せるか。其れ之れを教えて改めずんばしかる
後に之れを誅せるか。夫れ其の有に非ずして之れを取る者は盗なりと謂うは、類を充めて義を尽くすに至るなり」
「いま王者が仮に興ったなら、(権力犯罪で私益を収奪しまくっている)諸侯たちを一網打尽にして誅戮するだろうか。
それとも一度ぐらいは教戒して見逃してやり、それでも改めない場合に限って誅戮するだろうか。自分のものではない
のにこれを取るということが盗みとされるのは、法律によらずとも、義を尽くした至りとして扱うべき道徳律だといえる。
(大諸侯による民からの財産の収奪が、権力犯罪であるが故に一端の盗みとして扱われていなかったことを論じている。
孟子も大学者ではあっても王者ではないから、当時の現状に甘んじていたが、権力犯罪による盗みを盗みではないなどと
開き直れるのは乱世のうちだけで、王道が敷かれた治世においては、権力犯罪者も一端の盗人として扱われるようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
四書五経に書かれてあるような人間道徳の高潔さは、世俗社会に必ずしも必要なものではないかのように、
現代人からは思われがちだから、儒学道徳ほどもの高潔さで臨まないのなら、ことに、権力犯罪だけは
十分に取り締まることが絶対にできない。「法律すら守れば後は好きにしろ」などとという程度の
望みの低さでは、権力犯罪の悪逆非道までをも十分に取り締まることができない、のみならず、
法治主義からなる精神的な怠惰こそが、権力犯罪を助長して庇護する要因にすらなってしまう。
徳治社会においても、やはり法律は存在し続ける。法律家も当然、配備されなければならないと
孟子なども主張しているが、ただ、徳治社会では法律が絶対最高のものなどとは見なされず、
法律すら守れば後は野となれ山となれなどという、怠慢を決して許すことがない。
法律に全ての社会規範を還元することが、大社会での権力犯罪を助長することになるのは、
悠久の人類史が実証していることである上に、今の世情こそが最大級の証拠ともなっているのだから。
「以って王者の作る有ると為せば、将に今の諸侯を比ねて之れを誅せるか。其れ之れを教えて改めずんばしかる
後に之れを誅せるか。夫れ其の有に非ずして之れを取る者は盗なりと謂うは、類を充めて義を尽くすに至るなり」
「いま王者が仮に興ったなら、(権力犯罪で私益を収奪しまくっている)諸侯たちを一網打尽にして誅戮するだろうか。
それとも一度ぐらいは教戒して見逃してやり、それでも改めない場合に限って誅戮するだろうか。自分のものではない
のにこれを取るということが盗みとされるのは、法律によらずとも、義を尽くした至りとして扱うべき道徳律だといえる。
(大諸侯による民からの財産の収奪が、権力犯罪であるが故に一端の盗みとして扱われていなかったことを論じている。
孟子も大学者ではあっても王者ではないから、当時の現状に甘んじていたが、権力犯罪による盗みを盗みではないなどと
開き直れるのは乱世のうちだけで、王道が敷かれた治世においては、権力犯罪者も一端の盗人として扱われるようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
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