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聖書 Part7
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「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

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それでもなお、自らの命を大切にしなければならない事態というものがある。それが、男が家を背負って
立ったり、女が家を守る立場になったりする場合で、このような場合には、男も女も、自らの命に
対する執着などとも無縁なところで、便宜的に自分たちの命を大切にしていく必要があるのである。
それこそが、人が自らの命を大切にしていく最も健全なあり方だといえる。ただ自分が可愛いから
自分の命を惜しんだりするのは逆に不健全なことで、人と人とが協力し合うことで、初めて個人もまた
生きていけるという人間社会の絶対法則にも反しているが故に、むしろなくて然るべきものだといえる。
生存欲にかけて女々しいからといって、すぐさま自らがちり芥のように儚い存在となるのでもない。
むしろ「家を背負って立つ」とか「家を守る」とかいった健全な目的に即して、より生活を充実させて
いけるようにもなるのであり、そこにこそ人が生きるということの、真の幸福もまたあるのである。
「勇を好みて貧しきを疾めば、乱なる」
「雄々しさを好みながら(生存を危ぶませるような)貧窮に喘ぐようであれば、乱暴に走る。
(貧窮をものともしない雄々しさにはかけているから、女々しい自暴自棄にも陥るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一〇より)
立ったり、女が家を守る立場になったりする場合で、このような場合には、男も女も、自らの命に
対する執着などとも無縁なところで、便宜的に自分たちの命を大切にしていく必要があるのである。
それこそが、人が自らの命を大切にしていく最も健全なあり方だといえる。ただ自分が可愛いから
自分の命を惜しんだりするのは逆に不健全なことで、人と人とが協力し合うことで、初めて個人もまた
生きていけるという人間社会の絶対法則にも反しているが故に、むしろなくて然るべきものだといえる。
生存欲にかけて女々しいからといって、すぐさま自らがちり芥のように儚い存在となるのでもない。
むしろ「家を背負って立つ」とか「家を守る」とかいった健全な目的に即して、より生活を充実させて
いけるようにもなるのであり、そこにこそ人が生きるということの、真の幸福もまたあるのである。
「勇を好みて貧しきを疾めば、乱なる」
「雄々しさを好みながら(生存を危ぶませるような)貧窮に喘ぐようであれば、乱暴に走る。
(貧窮をものともしない雄々しさにはかけているから、女々しい自暴自棄にも陥るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一〇より)

仏門の密教も、「秘すれば花」を多用しているから"密"教でもあるわけだが、
秘している内実が虚偽だから秘していたりするのではなく、内実は内実で含蓄があった上で、
その内実をよりよく見せるために内実自体は隠し、その方便的な荘厳のほうを前面に押し出すのである。
日本刀が名刀たる所以は、やはりその本身の出来のよさにあるが、だからといって常に裸の状態を
晒したりするのではなく、鞘などの拵えに納めて持ち歩いたり、飾ったりするのが常態である。
「秘すれば花」というのはそういうものであって、拵えの中身がカラだったり竹光だったりするのでは、
もはや「秘すれば花」ですらない。しかも、中身が空や竹光であるような拵えを見せびらかしておいて、
「これこそは名刀だ」などと偽証したりしたのなら、その中身を見せられたときの落胆も、半端ではあるまい。
聖書信仰の内実は「グノーシズム(認識主義)」あたりが捉えているが、それを興じる者は異端者として、
キリスト教の発足時から徹底的な弾圧の対象とされ続けてきた。秘密仏教(密教)が大乗仏教の一派として
許容されてきたのとは違い、聖書信仰版の密教であるグノーシズムが徹底的な弾圧の対象とされたのは、
グノーシズムこそは「悪魔崇拝」であることが見るに明らかな邪教だからで、内実が悪魔信仰であるにも
関わらず、表向きだけ神聖信仰である聖書信仰は、全く以って「秘すれば花」の条件を満たせていないのである。
内実も真理追究の究極であり、外面もその内実のありのままの荘厳である秘密仏教のようであって初めて
「秘すれば花」の条件も満たせるのに対し、内実が悪魔信仰で外面だけ神聖信仰である聖書信仰などは
その条件を満たせておらず、単なる「二枚舌」に止まっている。だからこそ、それなりに神聖でもあるように
見せかけている、正統派のキリスト教などを含む聖書信仰全般が、総合的に邪宗門でしかないのだといえる。
仏教や儒学の教理に相当するものもそれなりに取り入れて(それらは全く聖書教義に反してもいる)、
多少の無害化にも努めているようなキリスト教団も含めて、やはり聖書信仰は途絶の対象とするしかない。
自殺の禁止や家族の団結など、別に聖書信仰を途絶したからといって同時に廃絶されるものでもなく、むしろ仏教や
儒学を聖書信仰の代わりに受容することを通じて、かえってその意義を深く理解できるようになるものですらある。
古くから仏教や儒学を取り入れてきた日本人が、時に自殺も厭わないのは、顕教の仏教ではなく密教から来ているので、
それに倣うのがイヤなら、密教だけはやめとけばいいだけの話。だからといって、密教を禁止したりする必要もないが。
「王、之れに修むるを播し告げ、厥の指を匿さず。王、用て丕いに欽み、逸言有ること罔くし。民用て丕いに変ず」
「昔、偉大な先王たちは、自らの修め行う所を必ず広く告げ知らせて、その考えを隠したりすることが無かった。
王たち自身がよく言行を慎んで、いい加減な言葉を述べたりもしなかったから、民たちも多いに教化されたのだった。
(衆生を『ゴイム〈家畜〉』と呼んで何も知らせずに専制を働く暴君などがいるから、民もまた愚民のままでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
「秘すれば花」の条件も満たせるのに対し、内実が悪魔信仰で外面だけ神聖信仰である聖書信仰などは
その条件を満たせておらず、単なる「二枚舌」に止まっている。だからこそ、それなりに神聖でもあるように
見せかけている、正統派のキリスト教などを含む聖書信仰全般が、総合的に邪宗門でしかないのだといえる。
仏教や儒学の教理に相当するものもそれなりに取り入れて(それらは全く聖書教義に反してもいる)、
多少の無害化にも努めているようなキリスト教団も含めて、やはり聖書信仰は途絶の対象とするしかない。
自殺の禁止や家族の団結など、別に聖書信仰を途絶したからといって同時に廃絶されるものでもなく、むしろ仏教や
儒学を聖書信仰の代わりに受容することを通じて、かえってその意義を深く理解できるようになるものですらある。
古くから仏教や儒学を取り入れてきた日本人が、時に自殺も厭わないのは、顕教の仏教ではなく密教から来ているので、
それに倣うのがイヤなら、密教だけはやめとけばいいだけの話。だからといって、密教を禁止したりする必要もないが。
「王、之れに修むるを播し告げ、厥の指を匿さず。王、用て丕いに欽み、逸言有ること罔くし。民用て丕いに変ず」
「昔、偉大な先王たちは、自らの修め行う所を必ず広く告げ知らせて、その考えを隠したりすることが無かった。
王たち自身がよく言行を慎んで、いい加減な言葉を述べたりもしなかったから、民たちも多いに教化されたのだった。
(衆生を『ゴイム〈家畜〉』と呼んで何も知らせずに専制を働く暴君などがいるから、民もまた愚民のままでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
儒学上の最重要理念である、子の親に対する「孝」は、父親だけでなく母親にも振り向けられる。
しかしそれは、母が高潔な存在などではなく、腹を痛めて自分を産んでくれた苦労人であることに基づく。
「礼記」表記第三十二にも「母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」とあり、
尊いからではなく親しいから、母への孝養にも努めるのが、儒者としての心得であるとされる。
仏教の場合はもっと辛らつで、「母胎より生み出されたわが身こそは不浄である」と「華厳経」などでも
断じられている。だからこそ俗世での営みを捨てた出家者となることをも勧めるわけで、これと比べれば、
母親に対してもそれなりの親愛に努める儒学のほうがずっと、母という存在に対する見方も優しいといえる。
日本神話では、アマテラスとスサノオのウケヒの際、アマテラスがスサノオのものざねである剣を噛み砕けば
三柱の女神が生まれ、スサノオがアマテラスのものざねである玉を噛み砕けば五柱の男神が生まれたとされる。
これによりスサノオは勝ち名乗りを上げる一方で、アマテラスが皇祖神にして、高天原の最高神ともなっている。
ここから寓意として読み取れるのは、女は男から「玉を噛み砕く」という危害(受精)を被ることで立派な母となり、
高天原(家庭)における主導権を獲得するということ。それは田んぼにクソをひられ、逆剥ぎにした馬の皮を機織場に
投げ込まれるほどもの暴挙であるわけだが、それを受け入れることによってこそ、女もまた立派な母になるということ。
儒学と、仏教と、日本神道と、いずれもが「生殖」という行為を少なからずよからぬものと見なした上で、
それを受け入れてまで自分を産んでくれた母への孝養に努めたり、あるいは出家しての精進修行に励んだり、
また家庭における母親の父親に対する優位を肯定したりする。(あくまで家庭内であり、社会上ではない)
しかしそれは、母が高潔な存在などではなく、腹を痛めて自分を産んでくれた苦労人であることに基づく。
「礼記」表記第三十二にも「母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」とあり、
尊いからではなく親しいから、母への孝養にも努めるのが、儒者としての心得であるとされる。
仏教の場合はもっと辛らつで、「母胎より生み出されたわが身こそは不浄である」と「華厳経」などでも
断じられている。だからこそ俗世での営みを捨てた出家者となることをも勧めるわけで、これと比べれば、
母親に対してもそれなりの親愛に努める儒学のほうがずっと、母という存在に対する見方も優しいといえる。
日本神話では、アマテラスとスサノオのウケヒの際、アマテラスがスサノオのものざねである剣を噛み砕けば
三柱の女神が生まれ、スサノオがアマテラスのものざねである玉を噛み砕けば五柱の男神が生まれたとされる。
これによりスサノオは勝ち名乗りを上げる一方で、アマテラスが皇祖神にして、高天原の最高神ともなっている。
ここから寓意として読み取れるのは、女は男から「玉を噛み砕く」という危害(受精)を被ることで立派な母となり、
高天原(家庭)における主導権を獲得するということ。それは田んぼにクソをひられ、逆剥ぎにした馬の皮を機織場に
投げ込まれるほどもの暴挙であるわけだが、それを受け入れることによってこそ、女もまた立派な母になるということ。
儒学と、仏教と、日本神道と、いずれもが「生殖」という行為を少なからずよからぬものと見なした上で、
それを受け入れてまで自分を産んでくれた母への孝養に努めたり、あるいは出家しての精進修行に励んだり、
また家庭における母親の父親に対する優位を肯定したりする。(あくまで家庭内であり、社会上ではない)
女に姦淫して妊娠して出産させるという男の側の行いは、妊娠して出産する女の側の受動的な行いよりも
下劣なものとして扱われる。その逆に、生殖にまつわる男の側の行いを、女の側の行いよりも上位に置いたならば、
男よりも遥かに大きな苦労をして子を産む、女の立場が報われないことになる。そのせいで女が子を産むことも
面倒扱いされて忌まれるようになり、少子高齢化による人口区分の歪みなどの問題を呈するようにもなるのである。
社会的には、男が上で女が下として扱われるべきである一方、家庭内においては、女が良妻賢母であることに
努める限りにおいて、女が男よりも上位なものとして扱われるべきなのである。それでこそ、「女は内、男は外」という
陰陽法則にも適うことになるわけで、社会的に女を優遇し過ぎたり、逆に家庭内における妻母としての女の立場を
侵害したりしたならば、陰陽法則に違うことにより、内にも外にも致命的な問題ばかりを募らせることになるのである。
「凱風の南自りし、彼の棘の心を吹ける。棘の心の夭夭たる、母氏の劬労す。(ここまで既出)
凱風の南自りし、彼の棘の薪を吹ける。母氏の聖善なるに、我れこそは無令の人なる。
爰なる有の寒泉、浚の下在り。子の七人有るに、母氏は労苦す。
睍𨴐と鳴く黄鳥の、載ち其の音の好ましき。子の七人有りて、母の心を慰むる莫し」
「大風が南方より吹き荒れ、ナツメの幹に当たって風切り音を立てる。その幹の傾く姿のように、母も苦労した。
大風が南方より吹き荒れ、ナツメの枝にも当たって風切り音を立てる。母こそは神聖な存在であるのに、我々ときたら
下衆もいいとこ。冷え切った寒泉が植物の成長を妨げるようにして、七人の子供たちが、母に多大なる苦労をかけもした。
ケンケンと鳴きまわるウグイスの鳴き声も好ましいが、七人もの子供がいながらも、誰一人として母の心を慰められはしない。
(母の苦しみを、子として慰めきることなど到底できはしなくとも、せめてでもこの詩の作者のように母への労わりを持ち、
イスラエル詩篇の作者のように、母の存在を全く蔑ろにした思い上がりに溺れたりはしないように努めたいものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・凱風)
下劣なものとして扱われる。その逆に、生殖にまつわる男の側の行いを、女の側の行いよりも上位に置いたならば、
男よりも遥かに大きな苦労をして子を産む、女の立場が報われないことになる。そのせいで女が子を産むことも
面倒扱いされて忌まれるようになり、少子高齢化による人口区分の歪みなどの問題を呈するようにもなるのである。
社会的には、男が上で女が下として扱われるべきである一方、家庭内においては、女が良妻賢母であることに
努める限りにおいて、女が男よりも上位なものとして扱われるべきなのである。それでこそ、「女は内、男は外」という
陰陽法則にも適うことになるわけで、社会的に女を優遇し過ぎたり、逆に家庭内における妻母としての女の立場を
侵害したりしたならば、陰陽法則に違うことにより、内にも外にも致命的な問題ばかりを募らせることになるのである。
「凱風の南自りし、彼の棘の心を吹ける。棘の心の夭夭たる、母氏の劬労す。(ここまで既出)
凱風の南自りし、彼の棘の薪を吹ける。母氏の聖善なるに、我れこそは無令の人なる。
爰なる有の寒泉、浚の下在り。子の七人有るに、母氏は労苦す。
睍𨴐と鳴く黄鳥の、載ち其の音の好ましき。子の七人有りて、母の心を慰むる莫し」
「大風が南方より吹き荒れ、ナツメの幹に当たって風切り音を立てる。その幹の傾く姿のように、母も苦労した。
大風が南方より吹き荒れ、ナツメの枝にも当たって風切り音を立てる。母こそは神聖な存在であるのに、我々ときたら
下衆もいいとこ。冷え切った寒泉が植物の成長を妨げるようにして、七人の子供たちが、母に多大なる苦労をかけもした。
ケンケンと鳴きまわるウグイスの鳴き声も好ましいが、七人もの子供がいながらも、誰一人として母の心を慰められはしない。
(母の苦しみを、子として慰めきることなど到底できはしなくとも、せめてでもこの詩の作者のように母への労わりを持ち、
イスラエル詩篇の作者のように、母の存在を全く蔑ろにした思い上がりに溺れたりはしないように努めたいものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・凱風)
聖道門の仏道修行などは、終身の苦行による自他への回向を基本としている。
弘法大師も真言宗開祖としての地位を確立して後も、定期的な山篭りによる修行を欠かさなかったというし、
道元禅師も一時の座禅などではなく、永遠の「座禅のための座禅」によってこそ悟りが啓かれると論じる。
日ごろからの修行の無理が祟って、二人とも六十一才や五十四才といった若さで入寂されており、
「苦行による回向」というものを志す以上は、一定の区切りを付けて後は休むなんてことを
期待していてもならないことを、その人生によってありのままに体現されているといえる。
儒者や浄土門の坊主などは、始めから苦行による回向などを志しもしない。
中途半端な志しでそんな危うい試みに臨むべきでないからなのはもちろんのこと、
一概な苦行なんか志さない範囲でも、人としての生活を営む上で避けて通れない苦労というのはいくらでも
あるものだから、そのような不可避なる労苦のほうを着実にこなしていくことのほうを、より重んずるのである。
聖道門の仏者のように、永遠の苦行による回向などを志すまでは行かずとも、人として最低限以上の労苦を
着実にこなしていく儒者や浄土門の坊主程度であるだけでも、十分に健全である。一時の労苦によって永遠の栄華を
手に入れようとするような、因果律の破綻した不健全な生を企図したりするよりは、そのほうがよっぽどマシである。
弘法大師も真言宗開祖としての地位を確立して後も、定期的な山篭りによる修行を欠かさなかったというし、
道元禅師も一時の座禅などではなく、永遠の「座禅のための座禅」によってこそ悟りが啓かれると論じる。
日ごろからの修行の無理が祟って、二人とも六十一才や五十四才といった若さで入寂されており、
「苦行による回向」というものを志す以上は、一定の区切りを付けて後は休むなんてことを
期待していてもならないことを、その人生によってありのままに体現されているといえる。
儒者や浄土門の坊主などは、始めから苦行による回向などを志しもしない。
中途半端な志しでそんな危うい試みに臨むべきでないからなのはもちろんのこと、
一概な苦行なんか志さない範囲でも、人としての生活を営む上で避けて通れない苦労というのはいくらでも
あるものだから、そのような不可避なる労苦のほうを着実にこなしていくことのほうを、より重んずるのである。
聖道門の仏者のように、永遠の苦行による回向などを志すまでは行かずとも、人として最低限以上の労苦を
着実にこなしていく儒者や浄土門の坊主程度であるだけでも、十分に健全である。一時の労苦によって永遠の栄華を
手に入れようとするような、因果律の破綻した不健全な生を企図したりするよりは、そのほうがよっぽどマシである。
「人は労苦に相応の恵みを得る」という、因果律の保存に根ざした法則を、仏教はもちろんのこと、儒学も諾っている。
見えないところからいくらでも利益が湧いて来るみたいな虚妄は完全に排した上で、着実な自助努力によって
世の中を善くしていくことにも取り組んでいく。その結実が例えば、江戸時代までの日本における、
聖人君子の統治によって養われた日本国民の民度の高さだったりもし、民を完全な衆愚状態に
置いたままでいた社会などにはない、個々の庶民からの勤勉さが備わっているのである。
敗戦によって愚民化洗脳が始まってしまった昭和20年以降だけではなく、仏教と本格的な儒学が廃されて、
キリスト教が解禁された明治以降からすでにずっと、日本国民の民度の高さは、一方的な目減りを続けている。
労苦に相応の恵みを得るのではなく、労苦以上の恵みを得ようとする虚妄が少なからず許容されてしまったことから、
日本人の努力意識は、明治以降には目減りすることこそあれど、少しでも嵩を増したりしていることはない。
江戸時代までの日本のほうが、泰平からなる堕落を貪っていたかのように思われがちではあるが、
みずからの労苦に相応の恵みしか得ないわきまえにかけては、明らかに近現代の日本人のそれ以上だった。
無闇やたらに労苦を担うこと以上にも、労苦に相応の恵みしか得ないようにすることのほうが遥かに重要なことであり、
それでこそ、世の中にかける迷惑の度合いが一定以上に増えたりすることもなくて済むのである。
「中谷に蓷有り、暵れて其れ乾ける。
女と仳離して、嘅として其れ嘆ける。
嘅として其れ嘆くは、人の艱難に遇えばこそ」
「谷あいに生えた紫蘇の葉が、すでにしおれて乾ききっている。
君と永遠に離別して、甚だしい悲哀にかられて嘆いている。
甚だしく悲哀にかられて嘆くのは、人との死別に会えばこそ。
(『艱難』とは『死別』のことである。死ねば二度と生き返らない絶対真理に根ざして、
死別は永遠である。それをわきまえているから、この詩の作者も死別をひどく悲しんでいるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・中谷有蓷より)
見えないところからいくらでも利益が湧いて来るみたいな虚妄は完全に排した上で、着実な自助努力によって
世の中を善くしていくことにも取り組んでいく。その結実が例えば、江戸時代までの日本における、
聖人君子の統治によって養われた日本国民の民度の高さだったりもし、民を完全な衆愚状態に
置いたままでいた社会などにはない、個々の庶民からの勤勉さが備わっているのである。
敗戦によって愚民化洗脳が始まってしまった昭和20年以降だけではなく、仏教と本格的な儒学が廃されて、
キリスト教が解禁された明治以降からすでにずっと、日本国民の民度の高さは、一方的な目減りを続けている。
労苦に相応の恵みを得るのではなく、労苦以上の恵みを得ようとする虚妄が少なからず許容されてしまったことから、
日本人の努力意識は、明治以降には目減りすることこそあれど、少しでも嵩を増したりしていることはない。
江戸時代までの日本のほうが、泰平からなる堕落を貪っていたかのように思われがちではあるが、
みずからの労苦に相応の恵みしか得ないわきまえにかけては、明らかに近現代の日本人のそれ以上だった。
無闇やたらに労苦を担うこと以上にも、労苦に相応の恵みしか得ないようにすることのほうが遥かに重要なことであり、
それでこそ、世の中にかける迷惑の度合いが一定以上に増えたりすることもなくて済むのである。
「中谷に蓷有り、暵れて其れ乾ける。
女と仳離して、嘅として其れ嘆ける。
嘅として其れ嘆くは、人の艱難に遇えばこそ」
「谷あいに生えた紫蘇の葉が、すでにしおれて乾ききっている。
君と永遠に離別して、甚だしい悲哀にかられて嘆いている。
甚だしく悲哀にかられて嘆くのは、人との死別に会えばこそ。
(『艱難』とは『死別』のことである。死ねば二度と生き返らない絶対真理に根ざして、
死別は永遠である。それをわきまえているから、この詩の作者も死別をひどく悲しんでいるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・中谷有蓷より)

ここを鞘の鯉口の内側にかませることで、刀が鞘に固定されるようになっている。
ハバキが鞘とガッチリかみ合いすぎると抜刀に支障が出るし、
逆に緩すぎるとわずかな振動でも抜けてしまうようになる。
絶妙な固定加減を実現するためにハバキに独特の表面仕上げをしたり、
材質に赤銅などの特殊素材を用いたりする工夫が古来より為されてきた。その技術研鑽があればこそ、
抜刀から納刀にいたる一連の動作を洗練させる「居合術」なども発展したわけで、日本人がいかに、
刀剣を鞘から抜いたり納めたりすることにこだわって来たのかを、如実に物語っている事例だといえる。
刀を鞘から抜き差しする一連の動作は、あたかも家の主人たる夫が家から出て外で働き、
また家に戻って来て休暇を取る姿のようでもある。家から出張りっきりで帰る間もないというのも極端だし、
ほとんど仕事がなくて家に籠もりっきりというのも極端である。どちらかといえば、家長たる男が家に
籠もりきりのままでいるほうがより不健全なことで、出張りきりで家に帰る間もなかった男のうちには、
治水工事に東奔西走し続けてすねの毛を擦り切らせ、晩年には跛足となった夏の禹王のような聖人もいる。
家に籠もりきりでいる男にも、台所仕事をしながら政務を執ったという伏羲氏の伝説などもあるし、
道家の老子や列子のように、引きこもりを大肯定する思想家もいる。しかし、片や太古の昔の半人半陀だった
とされる人物だし、片や血で血を洗う春秋戦国時代の、非常的な立場にあった人々の思想である。いずれも
世間一般にそのまま通用させてしまえばいいというような代物ではなく、神の域、天道としてこそ尊ぶべきもの。
俗世に生き、家を守りもしなければならない男にとって、どうしても剣を抜かねばならない時が、確かにある。
あるいは剣を抜くに相当するような、甚大な行為能力の活用に臨まねばならない時がやってくる。
それでこそより多くの人々を活かし、自らもまた家の存続や繁栄に与れることがある。
その時にはもはや躊躇せず、ただまた元の鞘に納まるまでの働きに専念するのみである。
「鞅、剣を用いて以て帥し卒す。欒氏退く。車を攝りて之れに従い、
欒楽に遇いて曰く、楽之れを免れんや、死すとも將に女を天に訴えん」
「范鞅は剣を抜き、兵を率いて戦地に斬り込んだ。敵の欒楽はそれに戦いて退いた。范鞅も車に乗ってこれを追い、
欒楽に追いつくとと叫んだ。『楽め、決して逃してなるものか。たとえ死んででも貴様を天の裁きにかけてやる』
(剣を抜くことは、死をも覚悟した憤激を象徴する。それほどもの覚悟が必要なときもまたある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十三年より)
道家の老子や列子のように、引きこもりを大肯定する思想家もいる。しかし、片や太古の昔の半人半陀だった
とされる人物だし、片や血で血を洗う春秋戦国時代の、非常的な立場にあった人々の思想である。いずれも
世間一般にそのまま通用させてしまえばいいというような代物ではなく、神の域、天道としてこそ尊ぶべきもの。
俗世に生き、家を守りもしなければならない男にとって、どうしても剣を抜かねばならない時が、確かにある。
あるいは剣を抜くに相当するような、甚大な行為能力の活用に臨まねばならない時がやってくる。
それでこそより多くの人々を活かし、自らもまた家の存続や繁栄に与れることがある。
その時にはもはや躊躇せず、ただまた元の鞘に納まるまでの働きに専念するのみである。
「鞅、剣を用いて以て帥し卒す。欒氏退く。車を攝りて之れに従い、
欒楽に遇いて曰く、楽之れを免れんや、死すとも將に女を天に訴えん」
「范鞅は剣を抜き、兵を率いて戦地に斬り込んだ。敵の欒楽はそれに戦いて退いた。范鞅も車に乗ってこれを追い、
欒楽に追いつくとと叫んだ。『楽め、決して逃してなるものか。たとえ死んででも貴様を天の裁きにかけてやる』
(剣を抜くことは、死をも覚悟した憤激を象徴する。それほどもの覚悟が必要なときもまたある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十三年より)
仁者は自らの徳行に相応の利益を自他に振り向けるし、菩薩も自らが精進に励んだぶんだけの回向を衆生に施す。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な原因となっている。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な原因となっている。
仁者は自らの徳行に相応の利益を自他に振り向けるし、菩薩も自らが精進に励んだぶんだけの回向を衆生に施す。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な理由となっている。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な理由となっている。

賭博志向の旺盛な聖書信仰や洋学が魅力的に見えたりすることもないが、賭博の浅ましさなど、
少しもわきまえられていない未熟者であれば、それが堪えがたい程に魅力的なものに見えたりする。
賭博が本質的に空しいものであることが真実だから、人々の賭博志向を無闇に煽り立て続けて来た
聖書信仰や洋学の蔓延によって、人類もまた破綻からなる滅亡の危機に晒されている。
だから聖書信仰を廃絶し、洋学からも権威を剥奪することがさしあたっての急務となっているが、
本当はそんな事態に追い込まれる以前から、人々に賭博のはかなさをよく啓発していかなかればならないのである。
そのためには儒学や仏教のような、賭博志向を戒める堅実な教学に権威を返還させていただいて、
その流布に努めていくことが最も有効ともなる。手前味噌だが、確かにそうなのである。
「人に分かつに財を以てするを之れ恵と謂い、人に教うるに善を以てするを之れ忠と謂い、
天下の為めに人を得るを之れ仁と謂う。是の故に天下を以って人に与うるは易く、天下の為めに人を得るは難し」
「人に財産を分け与えることを恵みといい、人に善いことを教えることを忠といい、天下のために逸材の人物を得ることを
仁という。天下のために逸材を得ることこそは最も難しく、それと比べれば、天下の全てを人に与えることのほうが容易い。
(『魚を与えるよりも釣竿を与えよ』という援助活動のポリシーがあるが、所詮は与えること止まりなのが安易である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
十字架こそは、最低の卑しさの烙印となる。
無信仰の重権力犯罪者とも並んで、十字架信仰者こそは、この世で最も恥ずべき立場の存在となる。
ただ恥ずべきだけでなく、参政権剥奪や禁治産や強制入院といった民事処分の対象ともなるが、
それ以上にもも決定的なのは、十字架信仰者であるということが、何ものにも増して
「恥ずべきもの」として扱われるようになることである。
この世で最も誇ってはならないもの、それにことかけて誇り高ぶったり偉ぶったりすることだけは
絶対に許されず、実際に為そうものなら、実力行使による制裁までもが本当に科されるものとなる。
そうしなければ、人類が滅亡するからである。
十字架信仰者もろとも全人類が、完全誤謬信仰の毒性に侵されて、本当に死滅すらしてしまうから。
ただ禁止されるだけでなく、十字架信仰こそはこの世で最も劣悪な所業であると適正に断定されて、
厳重な卑しみの対象とされていくことで、それが魅力的なもの、羨望的なものとして扱われたり
することから根絶していかなければならない。そうでもしなければ、本当に全人類を滅亡へと
追いやってしまうほどに、十字架信仰の毒性こそが真性なものであるからだ。
無信仰の重権力犯罪者とも並んで、十字架信仰者こそは、この世で最も恥ずべき立場の存在となる。
ただ恥ずべきだけでなく、参政権剥奪や禁治産や強制入院といった民事処分の対象ともなるが、
それ以上にもも決定的なのは、十字架信仰者であるということが、何ものにも増して
「恥ずべきもの」として扱われるようになることである。
この世で最も誇ってはならないもの、それにことかけて誇り高ぶったり偉ぶったりすることだけは
絶対に許されず、実際に為そうものなら、実力行使による制裁までもが本当に科されるものとなる。
そうしなければ、人類が滅亡するからである。
十字架信仰者もろとも全人類が、完全誤謬信仰の毒性に侵されて、本当に死滅すらしてしまうから。
ただ禁止されるだけでなく、十字架信仰こそはこの世で最も劣悪な所業であると適正に断定されて、
厳重な卑しみの対象とされていくことで、それが魅力的なもの、羨望的なものとして扱われたり
することから根絶していかなければならない。そうでもしなければ、本当に全人類を滅亡へと
追いやってしまうほどに、十字架信仰の毒性こそが真性なものであるからだ。
自分自身が十字架信仰者でなくとも、十字架信仰の権威性を認めて、そのような言行に
及んでしまった人間にとっても、十字架信仰が恥ずべきものとして扱われるようになることが
少なからず、自分たちにとっての連帯的な恥辱ともなる。その度合いがあまりにもひどく、
信仰者でない立場から、十字架信仰者と利権を共有したりまでしてしまっていたりしたならば、
それこそ十字架信仰者並みの差別対象にすらなってしまうのである。
一位:十字架信仰と無縁で、十字架信仰に対して肯定的でもなかった人間
二位:十字架信仰と無縁だが、十字架信仰に対して肯定的だった人間
三位:十字架信仰に肯定的で、十字架信仰者と利権すら共有していた人間
四位:十字架信仰者だった人間
という社会的序列が確立され、三位と四位の人間については実際に処分が科されることともなる。
二位の人間までもが処分されたりすることはないにしろ、一位の人間と比べれば、今までの
自分の思い違いを恥じなければならなくなる。当然、一位の人間が処分を科されたりすることも、
自らを恥じたりする必要もない。一方で、いま一位であるような人間こそは、今の世の中でも
最も恭敬意識の高い人間だったりもして、何事にかけてもみだりに誇り高ぶったりすることは
避けていたりする。本来、人間はそうであるほうがいいのであり、みだりな誇り高ぶりを信者に
奨励していた十字架信仰こそが始めからあって余計であり、なくて別に困らないものだったのである。
「君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義、之れと与にす」
「君子が天下において、絶対に適格だとか、不適格だとかいったことに固執することはない。
ただ、道義と共にあるのみである。(上記の十字架信仰に対する社会不適格宣告も、
『そうしないと人類が滅亡するから』という道義に根ざした理由にこそ基づいている。
十字架信仰者ごと全人類が滅亡しても構わないというのなら、この限りでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一〇より)
及んでしまった人間にとっても、十字架信仰が恥ずべきものとして扱われるようになることが
少なからず、自分たちにとっての連帯的な恥辱ともなる。その度合いがあまりにもひどく、
信仰者でない立場から、十字架信仰者と利権を共有したりまでしてしまっていたりしたならば、
それこそ十字架信仰者並みの差別対象にすらなってしまうのである。
一位:十字架信仰と無縁で、十字架信仰に対して肯定的でもなかった人間
二位:十字架信仰と無縁だが、十字架信仰に対して肯定的だった人間
三位:十字架信仰に肯定的で、十字架信仰者と利権すら共有していた人間
四位:十字架信仰者だった人間
という社会的序列が確立され、三位と四位の人間については実際に処分が科されることともなる。
二位の人間までもが処分されたりすることはないにしろ、一位の人間と比べれば、今までの
自分の思い違いを恥じなければならなくなる。当然、一位の人間が処分を科されたりすることも、
自らを恥じたりする必要もない。一方で、いま一位であるような人間こそは、今の世の中でも
最も恭敬意識の高い人間だったりもして、何事にかけてもみだりに誇り高ぶったりすることは
避けていたりする。本来、人間はそうであるほうがいいのであり、みだりな誇り高ぶりを信者に
奨励していた十字架信仰こそが始めからあって余計であり、なくて別に困らないものだったのである。
「君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義、之れと与にす」
「君子が天下において、絶対に適格だとか、不適格だとかいったことに固執することはない。
ただ、道義と共にあるのみである。(上記の十字架信仰に対する社会不適格宣告も、
『そうしないと人類が滅亡するから』という道義に根ざした理由にこそ基づいている。
十字架信仰者ごと全人類が滅亡しても構わないというのなら、この限りでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一〇より)
権力犯罪聖書——通称聖書の旧約・トーラーにおけるモーセの十戒、
1.私以外の何者も神としてはならない。
2.偶像を作ってはならない。
3.主の名をみだりに唱えてはならない。
4.週に一度は休日としなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.何をも殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗みを働いてはならない。
9.隣人のことを偽証してはならない。
10.他人の物を欲しがってはならない。
は、6〜9が実罪に対する禁止となっていて、5と10が道徳性をも養わせる善法となっている。
しかし、4があってもなくてもいいような法律となっていて(江戸時代の日本などに曜日制はなかった)、
最初に優先して書かれている1〜3が、決して俗人に強要などすべきではない悪法となっている。
この十戒を全て守ればいいということもないし、全て守らなくていいなどということもない。
6〜9は守るべきで、5や10も守ったほうがよい。一方で、4は守ろうが守るまいがどうでもよく、
1〜3はむしろ守るべきでない。守るべき戒律と守るべきでない戒律のみそくそ、それが十戒にあたる。
十戒の全てを守るべきだとするユダヤ信仰と、十戒など守る必要はないというキリスト信仰と、
いずれもが信者を吉方へと導くことのない、双極性障害への振れ切りの温床とばかりなる。
1.私以外の何者も神としてはならない。
2.偶像を作ってはならない。
3.主の名をみだりに唱えてはならない。
4.週に一度は休日としなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.何をも殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗みを働いてはならない。
9.隣人のことを偽証してはならない。
10.他人の物を欲しがってはならない。
は、6〜9が実罪に対する禁止となっていて、5と10が道徳性をも養わせる善法となっている。
しかし、4があってもなくてもいいような法律となっていて(江戸時代の日本などに曜日制はなかった)、
最初に優先して書かれている1〜3が、決して俗人に強要などすべきではない悪法となっている。
この十戒を全て守ればいいということもないし、全て守らなくていいなどということもない。
6〜9は守るべきで、5や10も守ったほうがよい。一方で、4は守ろうが守るまいがどうでもよく、
1〜3はむしろ守るべきでない。守るべき戒律と守るべきでない戒律のみそくそ、それが十戒にあたる。
十戒の全てを守るべきだとするユダヤ信仰と、十戒など守る必要はないというキリスト信仰と、
いずれもが信者を吉方へと導くことのない、双極性障害への振れ切りの温床とばかりなる。
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「親子兄弟に殺し合いをさせる」という予言をほざいた通り、イエスは明らかに十戒の破戒を
信者に促している。しかも「父母を敬え」「人を殺すな」という、十戒のうちでも特に善良な法規を
特定して破ることを促しており、むしろ「主以外を神としない」といった、劣悪な徒法のほうは
守らなければならないようなことを多数うそぶいてもいる。十戒を「完全に破りとおせ」というのではなく、
むしろ「善法を破って悪法を守れ」という害為の促進のために、十戒の蔑ろすらをも利用しているのである。
十戒を含む、旧約の条項全体を、新約信仰と共に破棄するのが当然、至当ではある。
その上で「父母を敬え」「殺すな」「盗むな」「犯すな」「嘘をつくな」といった善法だけを布令する
儒学や仏教の教えにのみ倣うのがよい。善法も悪法もみそくに扱う徒法を守るのが劣悪であるならば、
そのみそくそな徒法を破る過程で、善法すらをも同時に破ってしまうのもまた、劣悪の二乗である。要するに、
くそみそ信仰のユダヤと、くそみそ全廃信仰のキリシタン、どちらによっても劣悪の極みから抜け出せはしないのである。
「民の亦れ労しめる、汔わくは小しく康んず可し。此の中国に恵み、以て四方を綏ぜん。詭隨のものを縱すなく、
以って無良を謹めよ。式て寇虐と、僭て明を畏れざるものを遏めよ。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定んぜん」
「民は重労働に苦しんでいる、願わくはそこに安寧をもたらしてやるべし。この中国に深い恵みをもたらし、
邪まに従う者を許さず、良からぬ輩の策動を止めよ。それにより侵略の災いと、僭越を畏れぬ者とを根絶やせ。
遠方をも和らげ近場も良くし、我が王も安んじてくれんことを。(自分への恵みなど考えず、民と王とへの恵みを
まず希う高潔さ。それは邪教に従う良からぬ輩を退治し、隣人への偏愛なども廃された所でこそ実現されるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小旻之什・民労より)
信者に促している。しかも「父母を敬え」「人を殺すな」という、十戒のうちでも特に善良な法規を
特定して破ることを促しており、むしろ「主以外を神としない」といった、劣悪な徒法のほうは
守らなければならないようなことを多数うそぶいてもいる。十戒を「完全に破りとおせ」というのではなく、
むしろ「善法を破って悪法を守れ」という害為の促進のために、十戒の蔑ろすらをも利用しているのである。
十戒を含む、旧約の条項全体を、新約信仰と共に破棄するのが当然、至当ではある。
その上で「父母を敬え」「殺すな」「盗むな」「犯すな」「嘘をつくな」といった善法だけを布令する
儒学や仏教の教えにのみ倣うのがよい。善法も悪法もみそくに扱う徒法を守るのが劣悪であるならば、
そのみそくそな徒法を破る過程で、善法すらをも同時に破ってしまうのもまた、劣悪の二乗である。要するに、
くそみそ信仰のユダヤと、くそみそ全廃信仰のキリシタン、どちらによっても劣悪の極みから抜け出せはしないのである。
「民の亦れ労しめる、汔わくは小しく康んず可し。此の中国に恵み、以て四方を綏ぜん。詭隨のものを縱すなく、
以って無良を謹めよ。式て寇虐と、僭て明を畏れざるものを遏めよ。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定んぜん」
「民は重労働に苦しんでいる、願わくはそこに安寧をもたらしてやるべし。この中国に深い恵みをもたらし、
邪まに従う者を許さず、良からぬ輩の策動を止めよ。それにより侵略の災いと、僭越を畏れぬ者とを根絶やせ。
遠方をも和らげ近場も良くし、我が王も安んじてくれんことを。(自分への恵みなど考えず、民と王とへの恵みを
まず希う高潔さ。それは邪教に従う良からぬ輩を退治し、隣人への偏愛なども廃された所でこそ実現されるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小旻之什・民労より)

重荷を捨てて十字架にすがるのは、ただの現実逃避。
綺麗ごとでもなんでもない、人として恥ずべき所業の極み。
重荷を背負うこともできない、未熟の極みな煩悩愚縛の凡夫であるというのなら、自己を誇ることも許されない。
己れの恥ずべき有り様をありのままに恥じ入った上で、南無阿弥陀仏。間違っても、
十字架を背負っている云々といった欺瞞によって、誇り高ぶったりするものではない。
転倒夢想の致命点は、恥ずべきものを誇るところにこそある。
人間はサルからヒトに進化する過程で、毛皮などを羽織る習慣を身に付けながら体毛を
薄くしていったのだから、人間が衣服を着ないで公然と素っ裸でいるのは、確かに恥ずべきことである。
しかし、旧約の損世記に「人間の先祖はエデンの園で素っ裸で暮らしていた」と書いてあるものだから、
聖書圏にはヌーディストビーチなどの、全裸を見せびらかす文化が多数存在している。しかもそれを
道化やポルノではなく、本当に神聖な行いとして誇りにしていたりするのだから、笑いものである。
こういうのが、恥ずべきこと、笑われるべきことを逆に誇りにしている、転倒夢想の一例であるといえる。

それなりに恥ずべきこととされるだけでも十分に、致命的な問題が発生することへの抑止にはなる。
しかしそれこそは、法律などで全裸が厳禁されることよりも、さらに困難なことだったりもする。
人間精神の根本の部分を脅かしている転倒夢想を取り払うことは、ただ頭ごなしに人々の言動を統制したり
するよりも遥かに多くの工夫が必要で、それこそ、進んで重荷を背負っていく心意気までもが必要となる。
全ての人間が重荷を背負っていくのでなくとも、相当数の人間が重荷を背負って坂道を登り続けていく
挺身に努めて行かなければならない。そのためには、信者に重荷を降ろさせて十字架を背負わせ、
しかもそれを誇りとさせるような邪教の、頭ごなしな禁止も差し当たって必要なことである。決して
それが最終手段となるのではなく、重荷を背負って坂道を登り始めていくきっかけになるのみである。
「士の子の長幼を問えば、長ぜるは則ち能く耕すと曰い、幼なるは則ち能く薪を負う、未だ薪を負うこと能わずと曰う。」
「士人の子供の長幼を表現するとき、長じた時には『よく田畑を耕すに値する』といい、幼ければ『よく薪を背負える』
といったり『まだ薪を背負うこともできない』といったりする。(この慣例の援用により、兵士の射儀に失敗した場合、
王君は『まだ自分には薪を背負う仕事が残っている』と謙遜し、他者に仕事を譲ると礼記・曲礼下第二にもある。
薪を背負うことすらできないというのが、幼さの中にもさらに幼いという、未熟さの極みの表現ともなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
世に知らぬ者もいないインド独立の父・ガンジーは、カースト制において最下等の
階級とされている不可触賤民を、「ハリジャン(神の子)」と呼ぶことを提唱した。
今現在、あまり定着してもいないようだが、ヒンズー教徒でありながら、キリスト教もそれなりの
研究対象としていたガンジーが、「キリスト」と同じ「神の子」という意味を持つヒンディー語の呼称を
不可触賤民にあてがおうとしたあたりには、キリスト教の本質に対する看破までもがうかがえる。
キリスト教徒と異教徒との間には、確かにどちらかが不可触賤民として、もう一方が一般人として
扱われざるを得ないほどもの、品位の隔絶が生じている。インドの不可触民や日本の被差別部落などは、
キリスト教のような信教によって差別を受けたのではなく、屠殺や製革や死体処理といった、人々の卑しむ
仕事を請け負っていたから差別されたのだが、キリスト教徒の場合は、キリスト信仰という自己洗脳によって
極度の蒙昧状態に陥り、異教徒と対等に接することもできないほどの異常な品性を帯びてしまったのである。
上記のような違いがあることもあり、インドや日本の被差別民などよりも遥かに、
キリスト教徒には「修辞」の慣習が豊富である。内面に極度の蒙昧を抱えながらも、外面だけは
よさげに見せようとする巧言令色の修練。日本の被差別民などの場合でも、芸能活動に従事する河原者などが
それを講ずることはあったが、あくまで舞台上だけでの話。国家全体がキリスト教を国教としているような
社会において、キリスト教徒は常日ごろから、内面の蒙昧さを巧言令色によってひた隠す慣習が根付いているから、
その修辞としての巧みさも、日本の河原者などとも比べ物にならないほど本格的なものとなっている。
階級とされている不可触賤民を、「ハリジャン(神の子)」と呼ぶことを提唱した。
今現在、あまり定着してもいないようだが、ヒンズー教徒でありながら、キリスト教もそれなりの
研究対象としていたガンジーが、「キリスト」と同じ「神の子」という意味を持つヒンディー語の呼称を
不可触賤民にあてがおうとしたあたりには、キリスト教の本質に対する看破までもがうかがえる。
キリスト教徒と異教徒との間には、確かにどちらかが不可触賤民として、もう一方が一般人として
扱われざるを得ないほどもの、品位の隔絶が生じている。インドの不可触民や日本の被差別部落などは、
キリスト教のような信教によって差別を受けたのではなく、屠殺や製革や死体処理といった、人々の卑しむ
仕事を請け負っていたから差別されたのだが、キリスト教徒の場合は、キリスト信仰という自己洗脳によって
極度の蒙昧状態に陥り、異教徒と対等に接することもできないほどの異常な品性を帯びてしまったのである。
上記のような違いがあることもあり、インドや日本の被差別民などよりも遥かに、
キリスト教徒には「修辞」の慣習が豊富である。内面に極度の蒙昧を抱えながらも、外面だけは
よさげに見せようとする巧言令色の修練。日本の被差別民などの場合でも、芸能活動に従事する河原者などが
それを講ずることはあったが、あくまで舞台上だけでの話。国家全体がキリスト教を国教としているような
社会において、キリスト教徒は常日ごろから、内面の蒙昧さを巧言令色によってひた隠す慣習が根付いているから、
その修辞としての巧みさも、日本の河原者などとも比べ物にならないほど本格的なものとなっている。

インドや日本の被差別民並みか、それ以上もの醜さである。東洋の被差別民は、あくまで世の中に
ある程度不可欠な賤業に従事していたから醜くならざるを得なかった一方、キリスト教徒の内面の
醜さは、キリスト教徒たち自身が必要もなく、わざわざあえて好き好んで得たものである。
だから、キリスト教徒の内面の醜さは、東洋の被差別民の醜さ以上だとすら断定できる。
今だと、屠殺や製革や精肉などは、ロボット化によって、その穢れに直接人が触れないで済むようにできる。
死体処理をしなければならなくなるような事故や処刑などは、できる限りないに越したことはないことだし、
肉食や皮革文化も絶対に世の中に無ければならないものでもない。今の世界人口分のタンパク源を
食肉以外で全て賄おうとすれば、それはそれで問題が生じそうではあるにしろ、今の明らかに
過剰な世界人口もやはり、なだらかにでも減らしていくに越したことはないものだ。
賤業に従事するが故に、差別対象となるような人間もまた、できる限りこの世からいなくなるに越した
ことはない。いわんや、被差別民並み以下の品性に好き好んで自らを貶める、キリスト教徒をや、である。
「民に君たる者、〜信を以って之れを結ぶときは、則ち民は倍かず」
「万民に対して王君たる者が、信実さによって民たちを自分に結び付けておけば、民たちが背くこともない。
(信によって民を結ぶのは正規の王君の業であり、イエスのような民間人の為すべきことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

「両者こそは対極の関係にある」なんてのは全くの猿芝居で、自分たち自身が政治的な
責任を負わないユダヤ教徒による悪徳商売を世にのさばらせるためにこそ、国家レベルの
大社会を愚民の群れと化すための洗脳支配の手段としての、キリスト教が捻出されたのである。
明らかに、キリスト教圏ばかりでユダヤ商人による悪徳商売が横行していて、
非キリスト教圏においても、キリスト教の布教が容認されたぶんだけ、ユダヤ式の悪徳商売も
流布されている。(キリシタンが解禁になった明治以降に、日本でも資本主義経済が肥大化している)
キリスト教圏と同じアブラハム教圏であるイスラム圏においては、イスラム法により利子経済が
禁止されているので、ユダヤ式の悪徳商法は横行のしようがない。むしろ、ユダヤ商法の問題点を
同じアブラハム教としての立場から綿密に見定めているからこそ、日本や中国やインドのような
非アブラハム教圏以上にも、ユダヤ信仰の実践の横行による世の乱脈も徹底して防げている。
ユダヤの悪行を容認する度合いでは、キリスト教圏>0>非アブラハム教圏≧イスラム教圏
であり、イスラム教がユダヤの悪行を完全に撲滅するのに対し、非アブラハム教はユダヤの悪行を
抑制する程度の効果を持つ。そして、キリスト教だけは、ユダヤの悪行を積極的に推進すらする。
非アブラハム教圏の文化のうちでも、儒学だけは、イスラム教並みにユダヤの悪行を撲滅する効果を持つ。
(信教化された儒学である「儒教」にそこまでの効果がないのは、旧儒教圏である韓国が、東洋でも
突出したキリスト教受容に及ぶことにより、ユダヤ並みの悪徳商売を横行させていることからも分かる)
ただ、儒学こそは、イスラム教以上にも、今の世の中での実践が全く不能な状態と化してしまってもいる。
イスラム圏は、イスラムだけでユダヤ災禍を根絶やしに出来るから、特に儒学を併修せねばならない
義務もないが、非アブラハム教圏は、イスラムに信教を鞍替えしない限りにおいて、何とかユダヤ災禍を
駆逐するためには、必ず儒学を正学としてよく尊重しなければならない。儒学を正学に据える以上は、
儒学と真逆の邪義邪説ばかりを触れ回っているキリスト教も、ユダヤ教と共に廃絶しなければならない。
だから結局、非アブラハム教圏で、ユダヤ=キリスト両聖書教が少しでも容認される余地はない。
イスラム圏は引き続きイスラム信仰によってユダヤ災禍の防止に務められる。非アブラハム教圏は
儒学を正学に据える過程でキリスト教をも廃絶することにより、ユダヤ災禍がイスラム圏並みに防止されて
いくことになる。そしてキリスト教圏は、そのままキリスト教を廃棄することでユダヤ災禍を共に根絶する。
キリスト教を廃絶すれば、当然キリスト教圏は信教面での空白地帯になる。その空しさに耐えられないと
いうのなら仏教を受容するなり、自分たちで新たな無害化宗教を創出するなどすればいい。いずれにしろ、
ユダヤ=キリスト両聖書教の聖典である権力犯罪聖書——通称聖書が必要とされることは、もう二度とない。
(信教化された儒学である「儒教」にそこまでの効果がないのは、旧儒教圏である韓国が、東洋でも
突出したキリスト教受容に及ぶことにより、ユダヤ並みの悪徳商売を横行させていることからも分かる)
ただ、儒学こそは、イスラム教以上にも、今の世の中での実践が全く不能な状態と化してしまってもいる。
イスラム圏は、イスラムだけでユダヤ災禍を根絶やしに出来るから、特に儒学を併修せねばならない
義務もないが、非アブラハム教圏は、イスラムに信教を鞍替えしない限りにおいて、何とかユダヤ災禍を
駆逐するためには、必ず儒学を正学としてよく尊重しなければならない。儒学を正学に据える以上は、
儒学と真逆の邪義邪説ばかりを触れ回っているキリスト教も、ユダヤ教と共に廃絶しなければならない。
だから結局、非アブラハム教圏で、ユダヤ=キリスト両聖書教が少しでも容認される余地はない。
イスラム圏は引き続きイスラム信仰によってユダヤ災禍の防止に務められる。非アブラハム教圏は
儒学を正学に据える過程でキリスト教をも廃絶することにより、ユダヤ災禍がイスラム圏並みに防止されて
いくことになる。そしてキリスト教圏は、そのままキリスト教を廃棄することでユダヤ災禍を共に根絶する。
キリスト教を廃絶すれば、当然キリスト教圏は信教面での空白地帯になる。その空しさに耐えられないと
いうのなら仏教を受容するなり、自分たちで新たな無害化宗教を創出するなどすればいい。いずれにしろ、
ユダヤ=キリスト両聖書教の聖典である権力犯罪聖書——通称聖書が必要とされることは、もう二度とない。
「王は申伯を遣わすに、路車乗馬をもってす。我れ爾じが居るを図るに、南土に如くは莫し。
爾じに介圭を錫う、以て爾じの宝と作せ。往け、王舅よ、南土を是れ保んぜん」
「周王は申伯を封土へと遣わすに際し、豪勢な車馬を賜い、そして言った。『私がそなたに
相応しい封土だと思うのは南都である。そなたにこの大玉も授けるので、これをそなたの
宝とせよ。さあ、偉大なる大叔父よ往かれし。その力量によって、南都を平定してくだされ』
(『キリストが神から遣わされる』などという表現も、元はといえばこのような、王君による封土への
正式な臣下の派遣を模倣したものである。しかし、もちろん総員商人階級であるユダヤ教徒に領土はないし、
旧約の律法も悪徳商法の一種でしかないわけだから、『形而上から形而下に遣わす』みたいな、実際の
土地関係を無視した表現しか行うことができない。そして、そのような不実な表現で尽くされる所の理念が、
天下全土の平定を実現したりすることも当然なく、この世を餓鬼界と畜生界に分断する元凶ばかりになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・崧高より)
爾じに介圭を錫う、以て爾じの宝と作せ。往け、王舅よ、南土を是れ保んぜん」
「周王は申伯を封土へと遣わすに際し、豪勢な車馬を賜い、そして言った。『私がそなたに
相応しい封土だと思うのは南都である。そなたにこの大玉も授けるので、これをそなたの
宝とせよ。さあ、偉大なる大叔父よ往かれし。その力量によって、南都を平定してくだされ』
(『キリストが神から遣わされる』などという表現も、元はといえばこのような、王君による封土への
正式な臣下の派遣を模倣したものである。しかし、もちろん総員商人階級であるユダヤ教徒に領土はないし、
旧約の律法も悪徳商法の一種でしかないわけだから、『形而上から形而下に遣わす』みたいな、実際の
土地関係を無視した表現しか行うことができない。そして、そのような不実な表現で尽くされる所の理念が、
天下全土の平定を実現したりすることも当然なく、この世を餓鬼界と畜生界に分断する元凶ばかりになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・崧高より)
自分自身、妾腹の子の血筋であることからなる、個人的な経験から分かったことだが、
妾腹の子の血を引く人間は、吃音(どもり)のような軽度の言語障害を患うか、
もしくは二枚舌三枚舌を使い分ける虚言癖を帯びるかの、どちらかに振り切れやすい。
郷党第十・一に「孔子、郷党に於いて恂恂如たり、言うこと能わざる者に似たり」
とあり、果たして「どもり」だったかどうかは知らないが、妾腹の私生児として生を受けた
孔子が、故郷ではあたかも言語障害者かというほどにも、異様にいそいそとしていたとされる。
これは、孔子が自らの生まれの賤しさを心から恥じていた証拠であり、その恥じらいを
バネにして孔子は礼楽を学び、人一倍言語表現などについても正確な知見を得るまでになった。
その正しい言語表現を世間では実用できていたから、よそよそしさを嫌う故郷でだけは
幼少期のように、どもりのような言語障害気味の言葉遣いでもいたと記録されているのである。
妾腹の子としての賤しさに対する恥じらいは、まずどもりのような言語障害として表出する。
その障害を乗り越えるために、孔子のように、礼法などを通じて正しい言葉遣い学べば、
常人並み以上にも立派な言葉遣いを身に付けた聖人君子にすらなり得る。しかし、障害を
乗り越えることを正しい術べによらず、全くの我流によって乗り越えようとしたならば、全く
筋の通らないことを放言したり、二枚舌三枚舌を使い分けたりする虚言癖をこじらせてしまう。
妾腹の子の血を引く人間は、吃音(どもり)のような軽度の言語障害を患うか、
もしくは二枚舌三枚舌を使い分ける虚言癖を帯びるかの、どちらかに振り切れやすい。
郷党第十・一に「孔子、郷党に於いて恂恂如たり、言うこと能わざる者に似たり」
とあり、果たして「どもり」だったかどうかは知らないが、妾腹の私生児として生を受けた
孔子が、故郷ではあたかも言語障害者かというほどにも、異様にいそいそとしていたとされる。
これは、孔子が自らの生まれの賤しさを心から恥じていた証拠であり、その恥じらいを
バネにして孔子は礼楽を学び、人一倍言語表現などについても正確な知見を得るまでになった。
その正しい言語表現を世間では実用できていたから、よそよそしさを嫌う故郷でだけは
幼少期のように、どもりのような言語障害気味の言葉遣いでもいたと記録されているのである。
妾腹の子としての賤しさに対する恥じらいは、まずどもりのような言語障害として表出する。
その障害を乗り越えるために、孔子のように、礼法などを通じて正しい言葉遣い学べば、
常人並み以上にも立派な言葉遣いを身に付けた聖人君子にすらなり得る。しかし、障害を
乗り越えることを正しい術べによらず、全くの我流によって乗り越えようとしたならば、全く
筋の通らないことを放言したり、二枚舌三枚舌を使い分けたりする虚言癖をこじらせてしまう。
その代表格がイエス・キリストであり、「私は剣をもたらしに来た」と言ったり
「剣を取る者は剣で滅びる」と言ったりの、あられもない虚言癖を存分に披露している。
イエスだけでなく、その信徒たちも奴の虚言癖を受け継いで、「行いではなく信仰で救われる」
と言ったり「信仰ではなく行いで救われる」と言ったり、「イエスは律法の配下である」
と言ったり「イエスではなく律法によって救われようとすれば救われない」と言ったりする。
(上記の引用は全て「新約聖書」中に両論併記されている)まともな言葉遣いもできない境遇を、
正しい言葉遣いの勉強によって克服したりもせず、ただ放言をしまくる気狂いによって
ありのままに増幅させたのが、イエスの物言いや、その信徒たちの物言いであり、人として
最も許しがたく、また決して見習ったりしてはいけない言語規範の最たるものとなっている。
人間の言語能力は大体、父親ではなく母親から遺伝するから、その母親が娼婦のような賤しい仕事を
していたなら、母親の度し難い言葉遣いが我が子にも遺伝して、最悪の場合、言語障害を発症する。
とはいえ、器質性ではなく心因性の障害だから、克服しようと思えばできるし、克服するとまで行かずとも、
朗々とものを言う能力だけを回復させることもできる。孔子のように完璧に克服すれば、人並み以上にも
正しい言葉遣いを身に付けられたりもする一方、正しい言葉遣いではなく、ただ朗々とものを言う
能力だけをパッション(激情)によって増大すればイエスのようになり、完全に間違った言葉遣いのままで、
ただ朗々とものを言い続けるだけの、甚だしい虚言癖を帯びるようになる。そうなるぐらいならむしろ、
どもりのような言語障害を抱えたままでいるほうがマシであり、そのほうが世にかける迷惑も少なくて済む。
もちろん、正しい言葉遣いの勉強によって言語障害も克服できればよりよいわけで、ただそれは極めて
困難な道のりだから、甚だしい虚言癖の持ち主になるぐらいなら、どもりだったりするほうがマシだという
ことをまずわきまえることのほうが、世の中に最悪の迷惑をかけずに済ませる上での端緒にはなるといえる。
「剣を取る者は剣で滅びる」と言ったりの、あられもない虚言癖を存分に披露している。
イエスだけでなく、その信徒たちも奴の虚言癖を受け継いで、「行いではなく信仰で救われる」
と言ったり「信仰ではなく行いで救われる」と言ったり、「イエスは律法の配下である」
と言ったり「イエスではなく律法によって救われようとすれば救われない」と言ったりする。
(上記の引用は全て「新約聖書」中に両論併記されている)まともな言葉遣いもできない境遇を、
正しい言葉遣いの勉強によって克服したりもせず、ただ放言をしまくる気狂いによって
ありのままに増幅させたのが、イエスの物言いや、その信徒たちの物言いであり、人として
最も許しがたく、また決して見習ったりしてはいけない言語規範の最たるものとなっている。
人間の言語能力は大体、父親ではなく母親から遺伝するから、その母親が娼婦のような賤しい仕事を
していたなら、母親の度し難い言葉遣いが我が子にも遺伝して、最悪の場合、言語障害を発症する。
とはいえ、器質性ではなく心因性の障害だから、克服しようと思えばできるし、克服するとまで行かずとも、
朗々とものを言う能力だけを回復させることもできる。孔子のように完璧に克服すれば、人並み以上にも
正しい言葉遣いを身に付けられたりもする一方、正しい言葉遣いではなく、ただ朗々とものを言う
能力だけをパッション(激情)によって増大すればイエスのようになり、完全に間違った言葉遣いのままで、
ただ朗々とものを言い続けるだけの、甚だしい虚言癖を帯びるようになる。そうなるぐらいならむしろ、
どもりのような言語障害を抱えたままでいるほうがマシであり、そのほうが世にかける迷惑も少なくて済む。
もちろん、正しい言葉遣いの勉強によって言語障害も克服できればよりよいわけで、ただそれは極めて
困難な道のりだから、甚だしい虚言癖の持ち主になるぐらいなら、どもりだったりするほうがマシだという
ことをまずわきまえることのほうが、世の中に最悪の迷惑をかけずに済ませる上での端緒にはなるといえる。
「人の禽獣に異なる所以の者は幾ばくにして希し。庶民は之れを去る、君子は之れを存す」
「人と禽獣をより分ける由縁となるものは極めて少ない。庶民はこれを捨てるが、君子はそれを保つことに務める。
(犬のような言葉を話せない動物でも、食べ飽きて残しているエサを片付けようとすれば、急に飛びついて
そのエサを食べ始めたりといった、理に適わない行動を多数する。理に適った言動を守れることこそは、
人と禽獣を分ける由縁であるといえ、虚言癖の旺盛なイエスの言語規範などは決してその由縁とはならない。
かといって、悪徳商法の宗教教義化である、旧約の律法への帰依がその由縁になるなどということもない。
金という末節を至上として、人間自身や農工などを下等なものとして扱う悪徳商売もまた、破綻した所業だから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一九より)
「人と禽獣をより分ける由縁となるものは極めて少ない。庶民はこれを捨てるが、君子はそれを保つことに務める。
(犬のような言葉を話せない動物でも、食べ飽きて残しているエサを片付けようとすれば、急に飛びついて
そのエサを食べ始めたりといった、理に適わない行動を多数する。理に適った言動を守れることこそは、
人と禽獣を分ける由縁であるといえ、虚言癖の旺盛なイエスの言語規範などは決してその由縁とはならない。
かといって、悪徳商法の宗教教義化である、旧約の律法への帰依がその由縁になるなどということもない。
金という末節を至上として、人間自身や農工などを下等なものとして扱う悪徳商売もまた、破綻した所業だから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一九より)
模範的な儒者の言行は、易の法則に適っているから、
この世界、この宇宙において最も自由自在である。
仏者などはさらに、三千大千世界に絶対普遍の真理に合致しようとするから、
自由度については儒者以上だとすらいえるが、結局その言行規範となる「中道」は、
儒者の規範たる「中庸」とも、「中正である」という点において共通することになる。
易に違い、三千大千世界の絶対真理に違う完全誤謬を希求していった先にあったのは、
人間が被る中でも最重度の不自由だった。「刑死しても生き返る」とか、
「冤罪で罪が滅ぼされる」とかいった、明らかに道理に適わない妄想までをも
実現しようとした先にこそ、あらゆる不自由の中でも、最大級の不自由があった。
人間の肘の関節や膝の関節、その他多くの関節部位が、一方向には曲がっても
逆方向には曲がらないような非可逆性を備えている。だからこそ人体は重力の
重みにも耐えて自由に立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることもできる。
自由は、一定の制限がある中にこそ存在するものであり、どんなにおかしな誤謬でも
「なんでもあり」という所では、もはや自由を希求する意味すら霧消してしまう。
非可逆的な関節構造を多数備えた人体が、鍛錬などを通じて、以前には不可能だった
動きを実現できるようになったりする時に、本当に「自由が叶えられた」のだといえる。
それはやはり、肘や膝が逆方向に曲がったりはしない範囲での、高度な身体躁法の
達成に過ぎないわけだが、それでこそ、身体を自由に操ることができたのだともいえる。
この世界、この宇宙において最も自由自在である。
仏者などはさらに、三千大千世界に絶対普遍の真理に合致しようとするから、
自由度については儒者以上だとすらいえるが、結局その言行規範となる「中道」は、
儒者の規範たる「中庸」とも、「中正である」という点において共通することになる。
易に違い、三千大千世界の絶対真理に違う完全誤謬を希求していった先にあったのは、
人間が被る中でも最重度の不自由だった。「刑死しても生き返る」とか、
「冤罪で罪が滅ぼされる」とかいった、明らかに道理に適わない妄想までをも
実現しようとした先にこそ、あらゆる不自由の中でも、最大級の不自由があった。
人間の肘の関節や膝の関節、その他多くの関節部位が、一方向には曲がっても
逆方向には曲がらないような非可逆性を備えている。だからこそ人体は重力の
重みにも耐えて自由に立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることもできる。
自由は、一定の制限がある中にこそ存在するものであり、どんなにおかしな誤謬でも
「なんでもあり」という所では、もはや自由を希求する意味すら霧消してしまう。
非可逆的な関節構造を多数備えた人体が、鍛錬などを通じて、以前には不可能だった
動きを実現できるようになったりする時に、本当に「自由が叶えられた」のだといえる。
それはやはり、肘や膝が逆方向に曲がったりはしない範囲での、高度な身体躁法の
達成に過ぎないわけだが、それでこそ、身体を自由に操ることができたのだともいえる。
自由とは、一定の規定の範囲内で、最大の自由度を獲得することこそを意味する。
「人はいつかは死ぬ」とか、「死んだら二度と蘇らない」とかの最大級の規定すらも
逸脱することはもはや自由ですらない、ただの「暴挙」である。自由には規定があるが、
暴挙には規定がなく、規定がないために、何かを達成することもない。何を達成する
ということもないからこそ、暴挙はもはや自由として扱うに値すらしないのである。
英語のfreedomやlibertyに、上記のような語意が備わっているのかは知らないが、
(おそらく備わっていない)日本語や漢語で「自由」といえば、概ね上記のような意味がある。
そして上記のような意味の「自由」のほうが、暴挙と同様の意味で扱われる「自由」
などよりも遥かに快く、その自由を獲得したところにこそ、真の満足がありもする。
何を達成するわけでもない暴挙の先などには決してない、最大級の満足があるのである。
「君召して擯せ使むれば、色勃如たり、足躩如たり。与に立つ所に揖し、手を左右にす。
衣の前後は襜如たり。趨り進むとき翼如たり。賓退けば、必ず復命して曰く、賓顧ずと」
「国君が孔先生を召して来賓の介添役を命じたとき、先生はその顔色を正され、足もまるで
歩み進めないかのように緊張されていた。会釈の際には左右の手を礼節通り拱かれ、衣服の前後も
整然として乱れ動くことがなかった。小走りして進むときも慎重深く進み、来賓が退出すると、
必ず君に『賓客は(不満にかられて)顧みるようなこともなく退出されました』と報告された。
(孔子の不自由の限りを尽くしたような介添えによってこそ、来賓も満足したのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・三より)
「人はいつかは死ぬ」とか、「死んだら二度と蘇らない」とかの最大級の規定すらも
逸脱することはもはや自由ですらない、ただの「暴挙」である。自由には規定があるが、
暴挙には規定がなく、規定がないために、何かを達成することもない。何を達成する
ということもないからこそ、暴挙はもはや自由として扱うに値すらしないのである。
英語のfreedomやlibertyに、上記のような語意が備わっているのかは知らないが、
(おそらく備わっていない)日本語や漢語で「自由」といえば、概ね上記のような意味がある。
そして上記のような意味の「自由」のほうが、暴挙と同様の意味で扱われる「自由」
などよりも遥かに快く、その自由を獲得したところにこそ、真の満足がありもする。
何を達成するわけでもない暴挙の先などには決してない、最大級の満足があるのである。
「君召して擯せ使むれば、色勃如たり、足躩如たり。与に立つ所に揖し、手を左右にす。
衣の前後は襜如たり。趨り進むとき翼如たり。賓退けば、必ず復命して曰く、賓顧ずと」
「国君が孔先生を召して来賓の介添役を命じたとき、先生はその顔色を正され、足もまるで
歩み進めないかのように緊張されていた。会釈の際には左右の手を礼節通り拱かれ、衣服の前後も
整然として乱れ動くことがなかった。小走りして進むときも慎重深く進み、来賓が退出すると、
必ず君に『賓客は(不満にかられて)顧みるようなこともなく退出されました』と報告された。
(孔子の不自由の限りを尽くしたような介添えによってこそ、来賓も満足したのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・三より)
人間社会を、ごく順当な安定へと導く一般的な道理を、ごくごく
ありのままに記録した書物として、権力道徳聖書——通称四書五経がある。
質でも量でも古さでも発行部数でも、全てにおいて権力犯罪聖書——
通称聖書を上回り、なおかつごく平凡な道理を記録しているだけの書物。
平凡なだけに、完璧な治世を約束するという所まではいかない。
数百年に一回程度の戦乱や、権力者のだらけからなる一定の腐敗なども必ずしも
避けられるものではなく、治世の範囲内における凶悪事件の勃発や、それを
成敗するための残虐な刑罰なども、四書五経だけなら避けられるものではない。
大化の改新から平安末期までの日本のような、死刑すらほとんど行われない
ほどもの治世を実現するためには、それはそれで創作的な理念であるといえる、
仏教への帰依なども嗜む必要がある。権力者から庶民に至るまでの万民が
仏門によく帰依し、莫大な布施によって豪壮な寺院を造営したりすることにまで
努めて初めて、死刑すら必要とされないほどもの、完璧な治世が実現することになる。
ただ、結局そこまで完璧な治世が実現されるというのも、世界人類の平均から言えば、
随分と特異なことだといえる。インドのように万年泰平状態の世の中もあれば、
西洋のように引っ切り無しの戦乱を続けてきた世の中もある。それら全てを総合した
平均としては、それなりに治世もあり、たまには戦乱もあるという程度の歴史を、
太古の昔から積み重ねてきたのが地球人類であるといえる。その、地球人類の平均的な
歴史を運営するための指針として最も適正なのが、四書五経などを正典とする儒学であり、
儒学と比べれば、万年乱世や人類滅亡をもたらす新旧約聖書はもちろんのこと、死刑
一つない万年泰平社会を実現する仏教もまた、それなりに造作的な代物であるといえる。
ありのままに記録した書物として、権力道徳聖書——通称四書五経がある。
質でも量でも古さでも発行部数でも、全てにおいて権力犯罪聖書——
通称聖書を上回り、なおかつごく平凡な道理を記録しているだけの書物。
平凡なだけに、完璧な治世を約束するという所まではいかない。
数百年に一回程度の戦乱や、権力者のだらけからなる一定の腐敗なども必ずしも
避けられるものではなく、治世の範囲内における凶悪事件の勃発や、それを
成敗するための残虐な刑罰なども、四書五経だけなら避けられるものではない。
大化の改新から平安末期までの日本のような、死刑すらほとんど行われない
ほどもの治世を実現するためには、それはそれで創作的な理念であるといえる、
仏教への帰依なども嗜む必要がある。権力者から庶民に至るまでの万民が
仏門によく帰依し、莫大な布施によって豪壮な寺院を造営したりすることにまで
努めて初めて、死刑すら必要とされないほどもの、完璧な治世が実現することになる。
ただ、結局そこまで完璧な治世が実現されるというのも、世界人類の平均から言えば、
随分と特異なことだといえる。インドのように万年泰平状態の世の中もあれば、
西洋のように引っ切り無しの戦乱を続けてきた世の中もある。それら全てを総合した
平均としては、それなりに治世もあり、たまには戦乱もあるという程度の歴史を、
太古の昔から積み重ねてきたのが地球人類であるといえる。その、地球人類の平均的な
歴史を運営するための指針として最も適正なのが、四書五経などを正典とする儒学であり、
儒学と比べれば、万年乱世や人類滅亡をもたらす新旧約聖書はもちろんのこと、死刑
一つない万年泰平社会を実現する仏教もまた、それなりに造作的な代物であるといえる。
儒学と比べれば、仏教とか聖書教とかいった信教全般が創作的なものである。
キリスト教徒の狂信対象である新約聖書はもちろんのこと、ユダヤ教徒の狂信対象である
旧約聖書(律法含む)もまた、十分に創作的な代物であり、その創作者の意図する所は
「悪徳商法の宗教教義化」だったことが明らかである。そんなものを、何ら人類文化の
標準として扱うには値しないのであり、悪い意味での余計な創意工夫がすでにそこにある。
もちろん創意工夫が絶対にいけないなんてことはなく、仏教のように、完璧な泰平統治の
指針を教義として体系化していった信教もある。その把捉対象とする真理そのものは
不増不減であるにしろ、その真理の悟りからなる安楽を衆生に広めるための方便には
色々と巧みな創意工夫が凝らされている。それは決して全否定すべきものなどではない。
悪い創作は根本から根絶やしにして、善い創作はむしろ積極的に受容していくべきである。
キリスト教徒などにとっては創作物にすら値しないデフォルト文化とされる旧約からして
悪い創作物であることをわきまえて、新旧約全般の価値否定を推進すべきである一方、
仏教については、個々人の出家がほぼ全てである小乗仏教だけでなく、一般衆生の救済の
ための方便の創意工夫にも豊かな、大乗仏教までをも積極的に興隆していくべきである。
上記の指針は、あくまで「創作的な範囲」における指針であり、そもそも「述べて作らず、
信じて古を好む(述而第七・一)」という、創作以前の標準としての儒学などの教理の、
「人として当たり前なわきまえ」としての受容もまた、磐石化していくべきであるといえる。
キリスト教徒の狂信対象である新約聖書はもちろんのこと、ユダヤ教徒の狂信対象である
旧約聖書(律法含む)もまた、十分に創作的な代物であり、その創作者の意図する所は
「悪徳商法の宗教教義化」だったことが明らかである。そんなものを、何ら人類文化の
標準として扱うには値しないのであり、悪い意味での余計な創意工夫がすでにそこにある。
もちろん創意工夫が絶対にいけないなんてことはなく、仏教のように、完璧な泰平統治の
指針を教義として体系化していった信教もある。その把捉対象とする真理そのものは
不増不減であるにしろ、その真理の悟りからなる安楽を衆生に広めるための方便には
色々と巧みな創意工夫が凝らされている。それは決して全否定すべきものなどではない。
悪い創作は根本から根絶やしにして、善い創作はむしろ積極的に受容していくべきである。
キリスト教徒などにとっては創作物にすら値しないデフォルト文化とされる旧約からして
悪い創作物であることをわきまえて、新旧約全般の価値否定を推進すべきである一方、
仏教については、個々人の出家がほぼ全てである小乗仏教だけでなく、一般衆生の救済の
ための方便の創意工夫にも豊かな、大乗仏教までをも積極的に興隆していくべきである。
上記の指針は、あくまで「創作的な範囲」における指針であり、そもそも「述べて作らず、
信じて古を好む(述而第七・一)」という、創作以前の標準としての儒学などの教理の、
「人として当たり前なわきまえ」としての受容もまた、磐石化していくべきであるといえる。
「兔の爰爰たる有り、雉は罦に離る。我が生るるの初め、尚お造る無し。
我が生まるるの後、此れ百憂に逢う。尚くば寐ねて覚むる無からん」
「ウサギは悠々と飛び回り、キジは罠にかかって苦しんでいる。
(人それぞれの運命が極度に分かれている現状を暗に喩えている)
私がまだ生まれたばかりの頃には、これといった造作もない(泰平無事な)世の中だったが、
生まれ育って後には(不埒な造作が横行することにより)百千万の憂いに遭う世となった。
私ももう、永遠に眠り続けて覚めないままでいたいほどもの思いに駆られている。
(悪質な造作創作が、有害無益な憂いを多々世にもたらす。『だから作為全般を捨ててしまえ』
というのなら道家思想に一致するが、儒学や大乗仏教には悪い作為を捨てて善い作為を進める
方針が付随している。ただし、泰平実現のための創作は儒学よりもむしろ仏教のほうが豊富である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・兔爰より)
我が生まるるの後、此れ百憂に逢う。尚くば寐ねて覚むる無からん」
「ウサギは悠々と飛び回り、キジは罠にかかって苦しんでいる。
(人それぞれの運命が極度に分かれている現状を暗に喩えている)
私がまだ生まれたばかりの頃には、これといった造作もない(泰平無事な)世の中だったが、
生まれ育って後には(不埒な造作が横行することにより)百千万の憂いに遭う世となった。
私ももう、永遠に眠り続けて覚めないままでいたいほどもの思いに駆られている。
(悪質な造作創作が、有害無益な憂いを多々世にもたらす。『だから作為全般を捨ててしまえ』
というのなら道家思想に一致するが、儒学や大乗仏教には悪い作為を捨てて善い作為を進める
方針が付随している。ただし、泰平実現のための創作は儒学よりもむしろ仏教のほうが豊富である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・兔爰より)
天道と畜生道は、「資生」を主に取り扱っている領域であるため、確かに似通っている所がある。
人道や餓鬼道が「仕事の場」となるのに対し、天道や畜生道はその仕事によって培われた資生の貯蓄場である。
ただ、人道と比べれば餓鬼道が甚だしい貪欲さに駆られているのと同じようにして、畜生道もまた
天道では忌み嫌われるような、禽獣にも等しいほどの蒙昧な欲望にまみれている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...で書いた、
「女の化粧」を喩えに引いた資生の取り扱い方が、天道と畜生道の相違にもそのまま当てはめられる。
畜生道の女は天道の女と違って、素顔の醜さに対する甚だしいコンプレックスがある。そのコンプレックスを
埋め合わせるために資生堂あたりの化粧を貪り尽くすが、だからといって素顔の醜さに対するコンプレックスが
消えたりすることはない。それとは逆に、天道の女には素顔への異常な劣等感などはないから、化粧をするにしたって
際限のないむさぼりの対象としたりはしない。このような相違が、天道と畜生道との間には全般的に備わっているといえる。
人道や餓鬼道が「仕事の場」となるのに対し、天道や畜生道はその仕事によって培われた資生の貯蓄場である。
ただ、人道と比べれば餓鬼道が甚だしい貪欲さに駆られているのと同じようにして、畜生道もまた
天道では忌み嫌われるような、禽獣にも等しいほどの蒙昧な欲望にまみれている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...で書いた、
「女の化粧」を喩えに引いた資生の取り扱い方が、天道と畜生道の相違にもそのまま当てはめられる。
畜生道の女は天道の女と違って、素顔の醜さに対する甚だしいコンプレックスがある。そのコンプレックスを
埋め合わせるために資生堂あたりの化粧を貪り尽くすが、だからといって素顔の醜さに対するコンプレックスが
消えたりすることはない。それとは逆に、天道の女には素顔への異常な劣等感などはないから、化粧をするにしたって
際限のないむさぼりの対象としたりはしない。このような相違が、天道と畜生道との間には全般的に備わっているといえる。
「資生」という言葉は、「易経」坤卦・彖伝に出てくる言葉で、「坤卦こそは万物の資生の源泉である」と彖伝にもある。
ただ、あらゆる資生の源泉たる坤こそは従順を守るべきであるともされ、彖伝にも「天に対して従順たれ」とある。
天に対して従順である資生の貯蓄場こそは天界である一方、天に逆らう身勝手な資生の吹き溜まりが畜生界である。
天の働きとは、要するに易の法則のことであり、易の法則に順おうとする資生が天道に属する一方、
易の法則に反する資生が畜生道に属するのである。
易の根本法則を依拠している四書五経の記述に則ろうとすれば、それによって生じた資生は天道に属する一方、
易にも仏法にも反する完全誤謬の塊である犯罪聖書に則ろうとすれば、そりによって生じた資生が畜生道に拭き溜まる。
易の法則は「この世界」の法則であり、「この宇宙」の法則である一方、その法則を逸脱しようとしているのが
犯罪聖書であるため、資生がその従順さによって天道に属することを決定的に妨げるのである。
「暴君汚吏は、必ず其の経界を慢る」
「暴虐な王君や、貪欲さに汚れた官吏は、必ず境界を守ることを侮る。
(『汚吏』で『貪欲な官吏』を意味する。聖書信者の貪欲さには果てしがなく、まさに汚れの塊である。
その汚れようの原因は、この世界と形而上の境界すら侮る不埒さにあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
ただ、あらゆる資生の源泉たる坤こそは従順を守るべきであるともされ、彖伝にも「天に対して従順たれ」とある。
天に対して従順である資生の貯蓄場こそは天界である一方、天に逆らう身勝手な資生の吹き溜まりが畜生界である。
天の働きとは、要するに易の法則のことであり、易の法則に順おうとする資生が天道に属する一方、
易の法則に反する資生が畜生道に属するのである。
易の根本法則を依拠している四書五経の記述に則ろうとすれば、それによって生じた資生は天道に属する一方、
易にも仏法にも反する完全誤謬の塊である犯罪聖書に則ろうとすれば、そりによって生じた資生が畜生道に拭き溜まる。
易の法則は「この世界」の法則であり、「この宇宙」の法則である一方、その法則を逸脱しようとしているのが
犯罪聖書であるため、資生がその従順さによって天道に属することを決定的に妨げるのである。
「暴君汚吏は、必ず其の経界を慢る」
「暴虐な王君や、貪欲さに汚れた官吏は、必ず境界を守ることを侮る。
(『汚吏』で『貪欲な官吏』を意味する。聖書信者の貪欲さには果てしがなく、まさに汚れの塊である。
その汚れようの原因は、この世界と形而上の境界すら侮る不埒さにあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
欧米等の現聖書信者が、自分たちの信仰を全廃した上で、
聖書信仰の真の卑賤さと向き合っていくのは、これからの話である。
しかし、聖書信仰が本質的に何ら栄光とするに値しない恥辱沙汰の極みであるのは、
聖書信仰勃発時から常にそうであり続けてきたことである。今これから急に、聖書信仰が恥辱沙汰と
なるのではなく、最原初の頃からずっと本質的に恥辱沙汰であり続けてきたことを、今わきまえるのである。
決して、真の栄光などではないから、渇望が残るのである。
素顔にコンプレックスを抱く醜女ガ、化粧によって手に入れるような偽りの栄光だから、素顔の醜さへの
劣等感という本心の部分からなる渇望が絶えることがない。そしてその渇望こそは暗愚の至りであり、
そのような渇望を捨て去った先にこそ無量の栄光が生ずるのだとも、大乗仏典の「華厳経」などにもあるのである。
英語で「デフォルト(default、初期条件)」といえば、破産とか崩壊とかの悪い意味合いばかりを持つ。
それは、英語圏を含む聖書圏全体が、聖書信仰によって、初期条件が「駄目」である状態を強いられているからで、
それは地球人類という生物や、その産物としての人類文化全般にとっての初期条件などではない。のみならず、
人類文化の初期条件をありのままに記録している、四書五経の内容などとも真逆の条件ばかりを成しているのであり、
地球人類にとっての真の初期条件はむしろ、聖書信仰によってもたらされた乱脈を後付けでどんなに修復していく
場合以上にも優良なものですらある。聖書信仰が後付けで、人間社会に最低最悪の荒廃をもたらして、そこに
洋学知識などの副作用も過剰な対処療法ばかりによる修復を試みてきた聖書圏の徒労は、どんなに尽くされた所で、
始めから聖書信仰などを受容しないことを初期条件としている場合のマシさを超えられるようなものではない。
聖書信仰の真の卑賤さと向き合っていくのは、これからの話である。
しかし、聖書信仰が本質的に何ら栄光とするに値しない恥辱沙汰の極みであるのは、
聖書信仰勃発時から常にそうであり続けてきたことである。今これから急に、聖書信仰が恥辱沙汰と
なるのではなく、最原初の頃からずっと本質的に恥辱沙汰であり続けてきたことを、今わきまえるのである。
決して、真の栄光などではないから、渇望が残るのである。
素顔にコンプレックスを抱く醜女ガ、化粧によって手に入れるような偽りの栄光だから、素顔の醜さへの
劣等感という本心の部分からなる渇望が絶えることがない。そしてその渇望こそは暗愚の至りであり、
そのような渇望を捨て去った先にこそ無量の栄光が生ずるのだとも、大乗仏典の「華厳経」などにもあるのである。
英語で「デフォルト(default、初期条件)」といえば、破産とか崩壊とかの悪い意味合いばかりを持つ。
それは、英語圏を含む聖書圏全体が、聖書信仰によって、初期条件が「駄目」である状態を強いられているからで、
それは地球人類という生物や、その産物としての人類文化全般にとっての初期条件などではない。のみならず、
人類文化の初期条件をありのままに記録している、四書五経の内容などとも真逆の条件ばかりを成しているのであり、
地球人類にとっての真の初期条件はむしろ、聖書信仰によってもたらされた乱脈を後付けでどんなに修復していく
場合以上にも優良なものですらある。聖書信仰が後付けで、人間社会に最低最悪の荒廃をもたらして、そこに
洋学知識などの副作用も過剰な対処療法ばかりによる修復を試みてきた聖書圏の徒労は、どんなに尽くされた所で、
始めから聖書信仰などを受容しないことを初期条件としている場合のマシさを超えられるようなものではない。
聖書信仰が、断じて「栄光」などではない一方で、
「究極の恥辱沙汰」であったことだけは、確かに間違いがない。
多少よくできたラノベほどにも正気を保てていない、狂人の、狂人による、狂人のための狂信書。
そんなものを2000年にもわたって信じ込み、実践も試み続けてきた聖書信者たちの恥辱たるや、
全員が全員、ヨゴレ芸人かAV女優並みか、あるいはそれ以上のものだとすらいえる。
恥辱まみれな元聖書信者の、名誉を貴ぶ儒学や武士道への転向はなかなか難しいだろうにしろ、忍辱行を貴ぶ仏教への転向
なら比較的容易かとも思われる。2000年に渡る自分たちの歴史を笑い飛ばして、坊主になって一からやり直すのもなかなか
難しいことだろうにしろ、決して不可能なことではないし、ある意味、未曾有の菩薩行にもなるといえるのかもしれない。
「今、天は疾を降せり。殆ど興きず悟らず」
「いま、天は大患を我れに降し、ほとんど起き上がることも、気を確かにしていることもままならない。
(『悟る』の本来の語意は『気を確かにする』である。聖書信仰によって精神の大病を患い、
極度の蒙昧状態に陥ることを『悟る』と言い換えるのは、間違った言葉遣いである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)
「究極の恥辱沙汰」であったことだけは、確かに間違いがない。
多少よくできたラノベほどにも正気を保てていない、狂人の、狂人による、狂人のための狂信書。
そんなものを2000年にもわたって信じ込み、実践も試み続けてきた聖書信者たちの恥辱たるや、
全員が全員、ヨゴレ芸人かAV女優並みか、あるいはそれ以上のものだとすらいえる。
恥辱まみれな元聖書信者の、名誉を貴ぶ儒学や武士道への転向はなかなか難しいだろうにしろ、忍辱行を貴ぶ仏教への転向
なら比較的容易かとも思われる。2000年に渡る自分たちの歴史を笑い飛ばして、坊主になって一からやり直すのもなかなか
難しいことだろうにしろ、決して不可能なことではないし、ある意味、未曾有の菩薩行にもなるといえるのかもしれない。
「今、天は疾を降せり。殆ど興きず悟らず」
「いま、天は大患を我れに降し、ほとんど起き上がることも、気を確かにしていることもままならない。
(『悟る』の本来の語意は『気を確かにする』である。聖書信仰によって精神の大病を患い、
極度の蒙昧状態に陥ることを『悟る』と言い換えるのは、間違った言葉遣いである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)
絶対服従を強要する主人と家畜、主人と奴隷の関係性の中にこそ、筆舌に尽くしがたい「汚れ」がある。
特に、屠殺者と肉用獣の関係性にこそ穢れも極まることから、日本やインドでは屠畜業が歴史的に
忌み嫌われても来た。とはいえ、屠畜業が特定して嫌われているなんてのは皮相的なことで、あくまでそこに、
「絶対服従の挙句に殺される」という、精神的不衛生の極みが介していることこそが致命的なことだった。
人と家畜ではなく、人と人との間にもそのような、死すら避けられぬ絶対服従の関係性があり得る。
主人と奴隷の関係がその典型だが、王君と臣下のような、名誉的にすら扱われる人間関係においても、
臣下が主君の為に死をも厭わぬ務めに励むということがある。主人と奴隷の服従関係などと違って、
死をも厭わぬ君臣関係が名誉とされるのは、臣下があくまで自らの意志によって主君への忠誠を誓うからで、
生まれ付きの身分によって主人への絶対服従が科される奴隷や、未熟な内からの奉公に励まされる丁稚などには
始めから得る術もなかった、成熟した大人としての尊厳が守られているからこそ、そこに汚れもないのである。
臣下が自らの意志によって主君に臣従するという選択肢は、儒家と共に、隠遁志向の道家なども許容されていた
東洋社会などにおいてこそ容認されていたものだ。その東洋でも、たとえば始皇帝によって法家支配が敷かれた
秦代などには、労役が万民に対して義務化されていたから、臣下の自己選択による臣従の途なども閉ざされていた。
その、秦代に強制労働に駆り出された劉邦は、強制労働に嫌気が差して逃亡し、反乱軍となって項羽らと共に秦帝国を滅ぼし、
項羽をも破って漢帝国を築いて後には、自らの苦い思い出もあって、なるべく法律による締め付けを緩和した、無為自然の
統治を全国に施すように心がけた。皇后の呂后が高名な隠遁者を宮内に連れて来た時には感激して、思わず呂后の実子を
次期皇帝にすることを認可したともいうから、確かに劉邦には、道家の隠遁志向を貴ぶ心持ちもあったことが分かる。
そのような、度量の大きい主君が多数君臨していた社会であればこそ、不可避なる絶対服従関係の穢れなどを
決して持ち込まない、自由選択による君臣関係が多数実現され、それによる治世もまた実現されて来たのである。
特に、屠殺者と肉用獣の関係性にこそ穢れも極まることから、日本やインドでは屠畜業が歴史的に
忌み嫌われても来た。とはいえ、屠畜業が特定して嫌われているなんてのは皮相的なことで、あくまでそこに、
「絶対服従の挙句に殺される」という、精神的不衛生の極みが介していることこそが致命的なことだった。
人と家畜ではなく、人と人との間にもそのような、死すら避けられぬ絶対服従の関係性があり得る。
主人と奴隷の関係がその典型だが、王君と臣下のような、名誉的にすら扱われる人間関係においても、
臣下が主君の為に死をも厭わぬ務めに励むということがある。主人と奴隷の服従関係などと違って、
死をも厭わぬ君臣関係が名誉とされるのは、臣下があくまで自らの意志によって主君への忠誠を誓うからで、
生まれ付きの身分によって主人への絶対服従が科される奴隷や、未熟な内からの奉公に励まされる丁稚などには
始めから得る術もなかった、成熟した大人としての尊厳が守られているからこそ、そこに汚れもないのである。
臣下が自らの意志によって主君に臣従するという選択肢は、儒家と共に、隠遁志向の道家なども許容されていた
東洋社会などにおいてこそ容認されていたものだ。その東洋でも、たとえば始皇帝によって法家支配が敷かれた
秦代などには、労役が万民に対して義務化されていたから、臣下の自己選択による臣従の途なども閉ざされていた。
その、秦代に強制労働に駆り出された劉邦は、強制労働に嫌気が差して逃亡し、反乱軍となって項羽らと共に秦帝国を滅ぼし、
項羽をも破って漢帝国を築いて後には、自らの苦い思い出もあって、なるべく法律による締め付けを緩和した、無為自然の
統治を全国に施すように心がけた。皇后の呂后が高名な隠遁者を宮内に連れて来た時には感激して、思わず呂后の実子を
次期皇帝にすることを認可したともいうから、確かに劉邦には、道家の隠遁志向を貴ぶ心持ちもあったことが分かる。
そのような、度量の大きい主君が多数君臨していた社会であればこそ、不可避なる絶対服従関係の穢れなどを
決して持ち込まない、自由選択による君臣関係が多数実現され、それによる治世もまた実現されて来たのである。
ひるがえって、聖書信仰が征服下に置いた西洋社会には、始めから自由選択の君臣関係などはなかった。
ほんのこの前まで奴隷制が健在だっただけでなく、聖書信仰が流布される遥か以前から、古代ローマ帝国に
代表される西洋社会は完全な法治主義であり、労役もどこまでも義務的なものであり、自由選択による君臣関係に
名誉が伴うなどという考え方もなかった。そこに、主なる神と信者との絶対服従関係を促す聖書信仰が提唱されて、
案の定、瞬く間に広まったわけで、最原初から今に至るまで一貫して、西洋社会においては、不可避なる
絶対服従関係の汚れを忌み嫌う慣習はおろか、それを穢れとして扱う神経すら存在していたことがない。
仮に、これからも西洋人が、そのような逃れようのない絶対服従関係を許容していくのだとしても、
屠畜級の絶対服従に紛れもない汚れを見出す人々に対してまで、それを強要することなどは、完全に不能である。
ただ、自分たち西洋人だけが、生まれ付きから絶対服従の奴隷的人種として、決してそうではない数多の人々の
絶対的な服従下に置かれることだけが許されることで、自分たち以外にそんな関係性を強要することは全く許されない。
もちろん、西洋人もまた屠畜級の絶対服従の穢れを思い知って、自分たちの内からもそのような下劣な関係性を駆逐して
いくというのならそれでも構わないわけで、そうなった西洋人を、他人種が対等に扱っていくこともまた、吝かではない。
「子曰く、麻冕は礼なり、今や純なるは倹なり。吾れは衆に従わん。
下に拝するは礼なり、今の上に拝むは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん」
「先生は言われた。『礼服には麻の冠を用いるのが慣例だが、近ごろでは倹約のために生成のものを用いる。
(倹約に努めるのはいいことなので)私も今の人々のやり方に従おう。拝礼は堂下で行うのが本来の慣例だが、
近ごろは横柄にも堂上で拝礼する場合が多い。人々のやり方とは違うとはいえ、私は堂下で拝礼することにしよう』
(従うもの自体まで自らが取捨選択する自主性の極み。孔子の乱世における青い鳥状態も、あくまで確信的なものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三)
ほんのこの前まで奴隷制が健在だっただけでなく、聖書信仰が流布される遥か以前から、古代ローマ帝国に
代表される西洋社会は完全な法治主義であり、労役もどこまでも義務的なものであり、自由選択による君臣関係に
名誉が伴うなどという考え方もなかった。そこに、主なる神と信者との絶対服従関係を促す聖書信仰が提唱されて、
案の定、瞬く間に広まったわけで、最原初から今に至るまで一貫して、西洋社会においては、不可避なる
絶対服従関係の汚れを忌み嫌う慣習はおろか、それを穢れとして扱う神経すら存在していたことがない。
仮に、これからも西洋人が、そのような逃れようのない絶対服従関係を許容していくのだとしても、
屠畜級の絶対服従に紛れもない汚れを見出す人々に対してまで、それを強要することなどは、完全に不能である。
ただ、自分たち西洋人だけが、生まれ付きから絶対服従の奴隷的人種として、決してそうではない数多の人々の
絶対的な服従下に置かれることだけが許されることで、自分たち以外にそんな関係性を強要することは全く許されない。
もちろん、西洋人もまた屠畜級の絶対服従の穢れを思い知って、自分たちの内からもそのような下劣な関係性を駆逐して
いくというのならそれでも構わないわけで、そうなった西洋人を、他人種が対等に扱っていくこともまた、吝かではない。
「子曰く、麻冕は礼なり、今や純なるは倹なり。吾れは衆に従わん。
下に拝するは礼なり、今の上に拝むは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん」
「先生は言われた。『礼服には麻の冠を用いるのが慣例だが、近ごろでは倹約のために生成のものを用いる。
(倹約に努めるのはいいことなので)私も今の人々のやり方に従おう。拝礼は堂下で行うのが本来の慣例だが、
近ごろは横柄にも堂上で拝礼する場合が多い。人々のやり方とは違うとはいえ、私は堂下で拝礼することにしよう』
(従うもの自体まで自らが取捨選択する自主性の極み。孔子の乱世における青い鳥状態も、あくまで確信的なものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三)
天地万物大宇宙を司る、易の法則に創造主などがいないのはもちろんのこと、
三千大千世界を包摂する仏法にもまた、決まった作者などはいないのだという。
(「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の三を参照)
いないのである。実際問題、そんな神は。
いるのならともかく、いないのである。神というもの、仏というものが仮に存在するとした所で、
「万物の創造主」とか「形而上の超越神」とかいった存在性を持つ神仏こそは、特に存在しないのである。
それは、「形而上の形而上や、そのまた形而上の世界までをも実際に想定し尽くすことができる」という、
荘子や新井白石が提示した思考実験によってだけでも証明できることである。その上に、物理的にも、
一定以内の自由度の法則によってのみ司られることでこそ成り立っているこの世界が、あらゆる法則を
逸脱した超越者によってかき乱されたりするのであれば、この世界自体が成立しないという結論によって、
絶対的な超越者の存在を否定することもできる。もしも絶対的な超越者などがいたとすれば、その超越者は
あらゆる物質の摩擦係数をもゼロにすることができるはずで、そんなことをされた日には、この地球もあっと
いう間にただの灰の塊と化してしまう。そんな迷惑な絶対者がいない限りにおいて、この地球社会の有機性もまた
保たれているのだから、その地球環境に依存して生きている人間が、絶対的な超越者などを定立することもまた、
迷惑という以上のことではあり得ないから、定立からしてしないに越したことはないと結ぶことが出来るのである。
三千大千世界を包摂する仏法にもまた、決まった作者などはいないのだという。
(「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の三を参照)
いないのである。実際問題、そんな神は。
いるのならともかく、いないのである。神というもの、仏というものが仮に存在するとした所で、
「万物の創造主」とか「形而上の超越神」とかいった存在性を持つ神仏こそは、特に存在しないのである。
それは、「形而上の形而上や、そのまた形而上の世界までをも実際に想定し尽くすことができる」という、
荘子や新井白石が提示した思考実験によってだけでも証明できることである。その上に、物理的にも、
一定以内の自由度の法則によってのみ司られることでこそ成り立っているこの世界が、あらゆる法則を
逸脱した超越者によってかき乱されたりするのであれば、この世界自体が成立しないという結論によって、
絶対的な超越者の存在を否定することもできる。もしも絶対的な超越者などがいたとすれば、その超越者は
あらゆる物質の摩擦係数をもゼロにすることができるはずで、そんなことをされた日には、この地球もあっと
いう間にただの灰の塊と化してしまう。そんな迷惑な絶対者がいない限りにおいて、この地球社会の有機性もまた
保たれているのだから、その地球環境に依存して生きている人間が、絶対的な超越者などを定立することもまた、
迷惑という以上のことではあり得ないから、定立からしてしないに越したことはないと結ぶことが出来るのである。
摩擦係数ゼロの絶対超越神などを想定して、その立場に基づいて物事を考えてみたりすればするだけ、
この地球がただの灰の塊と化すことを促進するだけである。そんな神は実際、存在しない上に、
ただ「存在する」と想定してみただけでも色々な差し障りが生じてしまう、有害無益な概念である。
この世界、この宇宙の一定法則を司っているか故に貴ばれる神や、あらゆる法則を超越するが故に虚空であり、
虚空であるままに貴ばれる仏などは、それはそれでアリだといえる。しかし、この世界、この宇宙の法則を
超越するが故に「実である」とされる神などを想定したなら、そのような神は必ず、この世を灰塵と化すこと
ばかりを促す邪神となる。ありがたいことに、そんな神は実在せず、実際に神として危害をもたらしたりもしない。
一部の累犯障害者たちが、上記のような意味での絶対超越神を騙って、この世を灰と化す試みを未だに模索
し続けてはいるものの、もちろん全くの虚偽であり、本物の神として畏れ敬う価値などは微塵もないのである。
奇しくも、「形而上の超越は虚無である」という仏法の法則にその真相は合致していて、完全なる虚空として
貴ぶにすら値しないものかといえば、そうでもない。絶対超越神を騙る累犯障害者も、自分たち自身が
死んで灰塵に帰した後には、虚空に住まう仏さまとして、敬われるに値する存在ともなるのである。
「聖人の行いは同じくならず。或いは遠ざかり或いは近づき、
或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰すのみ」
「聖人の行いは必ずしも一定ではなく、ある時は遠ざかったりある時は近づいたり、ある時は去ったり
ある時は去らなかったりする。これらは偏に、自らが潔白なままでいようとする志しによるのである。
(必要なのは大胆に近づくことなどではなく、臨機応変な出処進退で身の潔白さを守ることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
この地球がただの灰の塊と化すことを促進するだけである。そんな神は実際、存在しない上に、
ただ「存在する」と想定してみただけでも色々な差し障りが生じてしまう、有害無益な概念である。
この世界、この宇宙の一定法則を司っているか故に貴ばれる神や、あらゆる法則を超越するが故に虚空であり、
虚空であるままに貴ばれる仏などは、それはそれでアリだといえる。しかし、この世界、この宇宙の法則を
超越するが故に「実である」とされる神などを想定したなら、そのような神は必ず、この世を灰塵と化すこと
ばかりを促す邪神となる。ありがたいことに、そんな神は実在せず、実際に神として危害をもたらしたりもしない。
一部の累犯障害者たちが、上記のような意味での絶対超越神を騙って、この世を灰と化す試みを未だに模索
し続けてはいるものの、もちろん全くの虚偽であり、本物の神として畏れ敬う価値などは微塵もないのである。
奇しくも、「形而上の超越は虚無である」という仏法の法則にその真相は合致していて、完全なる虚空として
貴ぶにすら値しないものかといえば、そうでもない。絶対超越神を騙る累犯障害者も、自分たち自身が
死んで灰塵に帰した後には、虚空に住まう仏さまとして、敬われるに値する存在ともなるのである。
「聖人の行いは同じくならず。或いは遠ざかり或いは近づき、
或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰すのみ」
「聖人の行いは必ずしも一定ではなく、ある時は遠ざかったりある時は近づいたり、ある時は去ったり
ある時は去らなかったりする。これらは偏に、自らが潔白なままでいようとする志しによるのである。
(必要なのは大胆に近づくことなどではなく、臨機応変な出処進退で身の潔白さを守ることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
犯罪聖書の邪神の出歯亀ストーカー志向は、たとえば母親の、
まだ幼いわが子に対する注意などとしてであれば、決して悪いものともならない。
穴に落ちそうになっている子供を思わず救いたい気持ちに駆られる、惻隠の情。
孟子が自らの性善説の根拠ともした、その惻隠の情に即して、母親がわが子を注意深く見守り、
立派な大人になるまで責任を持って育てるというのなら、これほど善良なことも他にないといえる。
欧米のユダヤ教徒なども、男系よりは女系の血筋を重んずる傾向があるという。ユダヤ系の
映画監督のスピルバーグの母親なども、子供の育て方に相当な工夫を凝らしていたなどという
逸話があるが、母親がわが子によくー注意を注いで、熱心な養育に努めるというのは、成功する
場合も失敗する場合もあるにしろ、決して咎められて然るべきものであるなどとはいえない。
しかし、その母親のわが子に対する注意力を、成人の男などにまで振り向けたとすれば、
これはもう完全なお節介だといえる。わが子が十分に育った以上は、もう無駄なお節介もしない
というのも賢母の条件である。にもかかわらず、社会に参画する大人すらをも信者とする
ことを前提としている聖書信仰は、その大人に対してまで出歯亀ストーキングを保証する。
だから、それが母としたところで愚母の所業であるといえるし、また聖書の邪神による
監視があるからといって、実の母親がわが子への注意を怠ったりしたとすれば、これまた、
実の母親にまで愚母となることをけしかける、有害無益な悪影響となってしまうのである。
まだ幼いわが子に対する注意などとしてであれば、決して悪いものともならない。
穴に落ちそうになっている子供を思わず救いたい気持ちに駆られる、惻隠の情。
孟子が自らの性善説の根拠ともした、その惻隠の情に即して、母親がわが子を注意深く見守り、
立派な大人になるまで責任を持って育てるというのなら、これほど善良なことも他にないといえる。
欧米のユダヤ教徒なども、男系よりは女系の血筋を重んずる傾向があるという。ユダヤ系の
映画監督のスピルバーグの母親なども、子供の育て方に相当な工夫を凝らしていたなどという
逸話があるが、母親がわが子によくー注意を注いで、熱心な養育に努めるというのは、成功する
場合も失敗する場合もあるにしろ、決して咎められて然るべきものであるなどとはいえない。
しかし、その母親のわが子に対する注意力を、成人の男などにまで振り向けたとすれば、
これはもう完全なお節介だといえる。わが子が十分に育った以上は、もう無駄なお節介もしない
というのも賢母の条件である。にもかかわらず、社会に参画する大人すらをも信者とする
ことを前提としている聖書信仰は、その大人に対してまで出歯亀ストーキングを保証する。
だから、それが母としたところで愚母の所業であるといえるし、また聖書の邪神による
監視があるからといって、実の母親がわが子への注意を怠ったりしたとすれば、これまた、
実の母親にまで愚母となることをけしかける、有害無益な悪影響となってしまうのである。
ユダヤ系で、イエスの母親だったマリアなども、結局はイエスを世界最悪の邪教の開祖に仕立て上げ、
冤罪で磔刑を受けさせることで、永遠に地獄をさまよわせるほどの非業へとわが子を追いやっている。
産み育てるに際しては、エホバが自分の代わりに子供を監視してくれて、育ってからもエホバが後見人になって
くれるなんていう邪信にも即して我が子を産み育てたものだから、実際にその子供のイエスもろくでもない
大人へと成長し、天寿を全うすることもできないままに非業の最期を遂げて、二度と生き返らなかったのである。
犯罪聖書の邪神が担うとされる、信者への絶対的な付きまとい、それは、母親がまだ幼いわが子に
対して抱く注意でこそあるべきなのであり、邪神などがその役目を母親から奪ってはならないのである。
母親こそは頑是ないわが子に対しても細心の注意を払い、成長してからはもう放任しても全く問題もないほどに
立派な大人へと育て上げるべきなのであり、子が幼いうちにも母親からその役割を奪い、成長してからもお節介な
監視を続けるという、犯罪聖書の邪神の有害無益さは、実の母親の存在性と対照することでこそ明白になるのである。
「我れと二人、共に貞す。公は其れ予に万億年を以てし、天を敬い之れを休んず。」
「私(成王)と周公の二人で、共に天下を正していく。公は私に、万億年の永劫に渡るまでの
王道楽土をもたらしてくれた。また天を敬うことで、これを安んじてくれる。(実際の君臣関係であるからこそ
『世の終わりまで』などではなく『万憶年の未来永劫に至るまで』の共なる治世を希求している。不吉極まりない
『世の終わり』などを平気でほざくのも、この世の責任を十分に負うこともない不誠実神である証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
冤罪で磔刑を受けさせることで、永遠に地獄をさまよわせるほどの非業へとわが子を追いやっている。
産み育てるに際しては、エホバが自分の代わりに子供を監視してくれて、育ってからもエホバが後見人になって
くれるなんていう邪信にも即して我が子を産み育てたものだから、実際にその子供のイエスもろくでもない
大人へと成長し、天寿を全うすることもできないままに非業の最期を遂げて、二度と生き返らなかったのである。
犯罪聖書の邪神が担うとされる、信者への絶対的な付きまとい、それは、母親がまだ幼いわが子に
対して抱く注意でこそあるべきなのであり、邪神などがその役目を母親から奪ってはならないのである。
母親こそは頑是ないわが子に対しても細心の注意を払い、成長してからはもう放任しても全く問題もないほどに
立派な大人へと育て上げるべきなのであり、子が幼いうちにも母親からその役割を奪い、成長してからもお節介な
監視を続けるという、犯罪聖書の邪神の有害無益さは、実の母親の存在性と対照することでこそ明白になるのである。
「我れと二人、共に貞す。公は其れ予に万億年を以てし、天を敬い之れを休んず。」
「私(成王)と周公の二人で、共に天下を正していく。公は私に、万億年の永劫に渡るまでの
王道楽土をもたらしてくれた。また天を敬うことで、これを安んじてくれる。(実際の君臣関係であるからこそ
『世の終わりまで』などではなく『万憶年の未来永劫に至るまで』の共なる治世を希求している。不吉極まりない
『世の終わり』などを平気でほざくのも、この世の責任を十分に負うこともない不誠実神である証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)

岩盤のような強固な地盤を是とし、水の性質を低レベルなものとして扱う
キリスト教の理念に真っ向から反している。一方で、どこまでも低いほうへと
落ち続ける水の性質を「君子の謙譲さ」に見立てて褒め称えた孔子の言説や、
地盤の強固さにかまけて注意力をなまらせることを懸念対象とした孟子の論弁
などに基づくなら、むしろ日本の気候風土こそは、謙譲や注意力も豊かな
君子を育む理想的な環境であると見なすことができるのである。
一方で、その孔子や孟子の生まれ故郷である中国でこそ、「湿気の多い低地」を
忌み嫌う傾向があって、「史記」にも「湿気の多い低地に住む人間は長生きできない」
などという迷信が記録されてもいる。もちろん、低地や湿地も多い日本の国民が、
中国人よりも寿命が短いなんてこともないわけで、「湿気嫌い」というのは、どうも中国人に
特有の性格のようである。湿気だけでなく大水も中国人は嫌いで、内陸国であるせいもあって、
海水浴や海鮮食を好まない中国人も多いし、古代中国の魏王朝も、朝貢に来た日本の使節が、
絶海である日本海を超えてやって来たことに畏れを抱き、陸続きである朝鮮半島の諸国
などには銀印を授けていたのを、日本国からの使節に対しては金印を授けたともされる。
たとえば、精神力の惰弱な人間が塩辛い食べ物を嫌ったりするのと同じように、
人間には性格として、湿気とか大水とかを忌み嫌うような傾向が多少はあるのである。
それは孔子や孟子の生まれ故郷である中国の人間といえども同じことで、その世間一般の大衆が
忌み嫌うほどもの「試練」としての湿気の不快さ、大水の扱いにくさなどを乗り越えた所にこそ
君子としての大成までもがあるのであり、それはなかなか、好き好めたりするものでもないのである。
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日本で、これからの季節に到来する梅雨がもたらす多湿や多雨は、長年日本に住み続けている
邦人すらもが不快感を隠さないもので、気温だけなら日本以上である東南アジアやインドの
人間ですらもが、日本の梅雨期の高温多湿の不快さには辟易させられるそうな。それは確かに、なかなか
好き好んだりできるような代物ではないのであり、無理にそれ自体を好いたりする必要もないのである。
ただ、やはりその梅雨期の降雨が日本の農産の豊穣にも貢献するようにして、多湿さとか大水とか
いったような試練が人々にも大成の機縁を与えるのであり、大成を目指す志しが高ければこそ、
好き好むことなどとうてい出来ないような大きな試練にまで臨んで行くのである。
好きだからではなく、試練を乗り越えた先にある大成を目指すためにこそ、それを受容する。
そこまでの努力などやる気も起きないというような人間もいるだろうにしろ、あえてそれを選択するのである。
試練から積極的に逃避することこそを選んできたような人間もまた、当然まったく以って与らぬことである。
「敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鰥。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雲の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鱮。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雨の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は唯唯として。斉の子の帰し止まるに、其の従うや水の如し」
「魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとエザケ(やもめ)が逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで群ら立ち込める雲の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとタナゴが逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるでザンザンと降り注ぐ大雨の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこから制することも出来ない勢いで魚が飛び出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで謙る水の如く。(雨雲には『権勢』という意味もあるが、
湿気や水に由来するために謙譲さをも伴う。謙譲さに欠ける『金権(聖霊)』などとはそこが違うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・敝笱より)

邦人すらもが不快感を隠さないもので、気温だけなら日本以上である東南アジアやインドの
人間ですらもが、日本の梅雨期の高温多湿の不快さには辟易させられるそうな。それは確かに、なかなか
好き好んだりできるような代物ではないのであり、無理にそれ自体を好いたりする必要もないのである。
ただ、やはりその梅雨期の降雨が日本の農産の豊穣にも貢献するようにして、多湿さとか大水とか
いったような試練が人々にも大成の機縁を与えるのであり、大成を目指す志しが高ければこそ、
好き好むことなどとうてい出来ないような大きな試練にまで臨んで行くのである。
好きだからではなく、試練を乗り越えた先にある大成を目指すためにこそ、それを受容する。
そこまでの努力などやる気も起きないというような人間もいるだろうにしろ、あえてそれを選択するのである。
試練から積極的に逃避することこそを選んできたような人間もまた、当然まったく以って与らぬことである。
「敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鰥。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雲の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鱮。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雨の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は唯唯として。斉の子の帰し止まるに、其の従うや水の如し」
「魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとエザケ(やもめ)が逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで群ら立ち込める雲の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとタナゴが逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるでザンザンと降り注ぐ大雨の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこから制することも出来ない勢いで魚が飛び出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで謙る水の如く。(雨雲には『権勢』という意味もあるが、
湿気や水に由来するために謙譲さをも伴う。謙譲さに欠ける『金権(聖霊)』などとはそこが違うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・敝笱より)
え、書けないの
すげえ長すぎるな
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スレッドタイトル:聖書 Part7