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聖書 Part7
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「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

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一般的なものを特殊なものと勘違いし、特殊なものを一般的なものと勘違いする転倒夢想が、
確かに世の中全体が転倒夢想に覆い尽くされたような、ごくごく特殊な時代に限って一般化する。
文明史全体でいえば、正邪善悪の区別がつく時代や世の中のほうが大半を占めていて、
その区別に即して断悪を心がけたり、修善を心がけたりしてきた分量のほうが遥かに多い。
ただ、確かに正邪善悪の区別が付かなくなって、悪逆非道や善悪みそくその悪行に走って、
それでこそ優先的に救われるなどと人々が勘違いしたことだって全くなくはない。
今が確かにその時代であり、今が全てである近視眼の持ち主にとっては、それが全てとすらなる。
悪逆非道や善悪みそくそでこそ優先的に救われるとするのが、今の自分にとっての全てだから、
全世界、全人類の、全歴史においてもそうであるなどという、身の程知らずな一般論にも走る。
そしてそのような自意識過剰の思い上がりの持ち主こそが、悪逆非道や善悪みそくそによる暴政を深刻化
させて、ついには全世界規模での破綻を引き起こして、イヤでも徳治を敷かねばならないような事態をも招く。
無軌道な権力意志などに基づく作為の旺盛さが、悪逆非道や善悪みそくその邪説暴行にも
結び付く一方で、邪説暴行によって荒廃した世の中を癒すための勧善懲悪にも結び付く。
勧善懲悪も旺盛な作為であるが故に鬱陶しいというのなら、決して何もないところに進んでそれを
試みようなどともしない。「それでこそ優先的に救われる」と思い込みながら繰り返されてきた悪逆非道や、
そもそもそれが悪行になるとも知らずに繰り返されてきた善悪みそくその行いなどによって、世の中が
極度の荒廃に陥って、もう勧善懲悪によってでもなければ誰も救われることがないと転倒夢想者たちが
観念して、必至で救いを乞い求めてくるのでもなければ、決して勧善懲悪に取り組み始めることもない。
確かに世の中全体が転倒夢想に覆い尽くされたような、ごくごく特殊な時代に限って一般化する。
文明史全体でいえば、正邪善悪の区別がつく時代や世の中のほうが大半を占めていて、
その区別に即して断悪を心がけたり、修善を心がけたりしてきた分量のほうが遥かに多い。
ただ、確かに正邪善悪の区別が付かなくなって、悪逆非道や善悪みそくその悪行に走って、
それでこそ優先的に救われるなどと人々が勘違いしたことだって全くなくはない。
今が確かにその時代であり、今が全てである近視眼の持ち主にとっては、それが全てとすらなる。
悪逆非道や善悪みそくそでこそ優先的に救われるとするのが、今の自分にとっての全てだから、
全世界、全人類の、全歴史においてもそうであるなどという、身の程知らずな一般論にも走る。
そしてそのような自意識過剰の思い上がりの持ち主こそが、悪逆非道や善悪みそくそによる暴政を深刻化
させて、ついには全世界規模での破綻を引き起こして、イヤでも徳治を敷かねばならないような事態をも招く。
無軌道な権力意志などに基づく作為の旺盛さが、悪逆非道や善悪みそくその邪説暴行にも
結び付く一方で、邪説暴行によって荒廃した世の中を癒すための勧善懲悪にも結び付く。
勧善懲悪も旺盛な作為であるが故に鬱陶しいというのなら、決して何もないところに進んでそれを
試みようなどともしない。「それでこそ優先的に救われる」と思い込みながら繰り返されてきた悪逆非道や、
そもそもそれが悪行になるとも知らずに繰り返されてきた善悪みそくその行いなどによって、世の中が
極度の荒廃に陥って、もう勧善懲悪によってでもなければ誰も救われることがないと転倒夢想者たちが
観念して、必至で救いを乞い求めてくるのでもなければ、決して勧善懲悪に取り組み始めることもない。
救われる、救われると信じ込んだところで、世界を破滅に陥れることについてこそ一概であるカルトの邪義や、
そのカルトの邪義すら許容する過剰な寛容を正義だなどと思い込む自己陶酔によっては、決して救われることが
ないときがやって来る。そのときにいい加減、転倒夢想を打ち棄てて勧善懲悪に救いを乞うか、それとも
転倒夢想への耽溺に固執してそのまま滅亡へと突き進むかは、転倒夢想者たち自身の選択による。
そしてその選択が、転倒夢想を永久に破棄しての勧善懲悪による救いの選択であったときに、
仁者もまた積極的な勧善懲悪の事業を試み始める。だから決して、お節介を鬱陶しがったりする必要もない。
「楽は陽より来たる者なり、礼は陰より作る者なり。陰陽和して万物も得」
「楽は人間の性格の陽性の発露であり、礼は人間の性格の陰性の収斂である。礼楽陰陽が相い和することで万物が成る。
(礼儀礼節による陰性の収斂もまた重要なものであり、ただただ光明ばかりを嬉しがる陽性の行き過ぎもまた禁物である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
そのカルトの邪義すら許容する過剰な寛容を正義だなどと思い込む自己陶酔によっては、決して救われることが
ないときがやって来る。そのときにいい加減、転倒夢想を打ち棄てて勧善懲悪に救いを乞うか、それとも
転倒夢想への耽溺に固執してそのまま滅亡へと突き進むかは、転倒夢想者たち自身の選択による。
そしてその選択が、転倒夢想を永久に破棄しての勧善懲悪による救いの選択であったときに、
仁者もまた積極的な勧善懲悪の事業を試み始める。だから決して、お節介を鬱陶しがったりする必要もない。
「楽は陽より来たる者なり、礼は陰より作る者なり。陰陽和して万物も得」
「楽は人間の性格の陽性の発露であり、礼は人間の性格の陰性の収斂である。礼楽陰陽が相い和することで万物が成る。
(礼儀礼節による陰性の収斂もまた重要なものであり、ただただ光明ばかりを嬉しがる陽性の行き過ぎもまた禁物である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
救われるもなにも日本人のほとんどは苦しんじゃいねーよ
3.11被災者が全人民てわけじゃねーよ
ほんとうにマッチポンプ手法だな
苦しんでない人間に救いますってなんだよ?
問題の主題は経済なんだよ
精神論で一括りにできるほど現代社会の問題は甘くないぜ
お呼びじゃないぜ儒学マン
3.11被災者が全人民てわけじゃねーよ
ほんとうにマッチポンプ手法だな
苦しんでない人間に救いますってなんだよ?
問題の主題は経済なんだよ
精神論で一括りにできるほど現代社会の問題は甘くないぜ
お呼びじゃないぜ儒学マン
素っ裸で、ドブの底でボウフラにまみれて、全身の穴という穴から液体や固形物を噴出し、
泣いて大喜びで、土下座しながら依り頼んで来るのでもなければ、決してし救ってやりはしない。
あえてそこまで救いのハードルを上げるのは、まずは、自分たちの悪行こそが、自業自得で
破滅を招いているのだということを、十分に自覚させるため。自分たちこそが引き起こした破滅を、
自分たち以外の誰かに救っていただくということは、物乞う乞食並みに恥ずかしいことなのであって、
決してふんぞり返ったお客様のような姿勢で救いを要求したりしてはならないのだということを身を以って
思い知らないのなら、何度でも同じ過ちを繰り返し兼ねないから、それを防止するための教育目的でも、
自分たちの愚かしさを身に染みて思い知ってからでなければ、救ってやらないようにしてやっているわけだ。
なんとありがたいことだろう?
泣いて大喜びで、土下座しながら依り頼んで来るのでもなければ、決してし救ってやりはしない。
あえてそこまで救いのハードルを上げるのは、まずは、自分たちの悪行こそが、自業自得で
破滅を招いているのだということを、十分に自覚させるため。自分たちこそが引き起こした破滅を、
自分たち以外の誰かに救っていただくということは、物乞う乞食並みに恥ずかしいことなのであって、
決してふんぞり返ったお客様のような姿勢で救いを要求したりしてはならないのだということを身を以って
思い知らないのなら、何度でも同じ過ちを繰り返し兼ねないから、それを防止するための教育目的でも、
自分たちの愚かしさを身に染みて思い知ってからでなければ、救ってやらないようにしてやっているわけだ。
なんとありがたいことだろう?
お前って至る所でコピペ披露してるだけか
正信と狂信の違いは、信者自身の信仰の濃度によって決まるものだといえるが、
では、正信と妄信の違いは何によって決まるのだろうか。
・正信……困難なことであっても実現可能であると信じる。
・妄信……不可能なことであっても信じる以上は信じる。
あたりが、正信と妄信の分かれ目になるといえる。
困難なことでも実現可能だと信じる一方で、不可能なことは不可能だと割り切る正信のほうには
精神力が必要となるのに対し、どんなことでも信じる以上は信じる妄信には、精神力などいらない。
可能不可能という是非論に基づく信仰が精神力を必要とする一方で、何でも可能だとする
肯定一辺倒の信仰には精神力がいらないから、可能不可能の分別を付ける正信には一定以上の
精神力が必要とされる一方で、何でも可能だとする妄信には全く精神力が必要とされない。
他力信仰という行為自体、あまり精神力の有無を問うても仕方のない分野に属するにしろ、
その信仰が正信か妄信かに分かれる際には、やはり少なからずの精神力の有無が鍵となる。
儒家の五常では「仁義礼智信」の序列で信が最下位に置かれ、
「信を好みて学を好まざればその弊や賊(陽貨第十七・八)」ともいい、
親鸞聖人も教行信証で「鬼神に事うること能わず(先進第十一・一二)」と、
論語の言葉をあえて妄信を否定し去るような読み方に変えてから引用している。
あくまで自力作善を根本に置く東洋学の流れに即して、信仰にすら最低限の精神力が要求される。
では、正信と妄信の違いは何によって決まるのだろうか。
・正信……困難なことであっても実現可能であると信じる。
・妄信……不可能なことであっても信じる以上は信じる。
あたりが、正信と妄信の分かれ目になるといえる。
困難なことでも実現可能だと信じる一方で、不可能なことは不可能だと割り切る正信のほうには
精神力が必要となるのに対し、どんなことでも信じる以上は信じる妄信には、精神力などいらない。
可能不可能という是非論に基づく信仰が精神力を必要とする一方で、何でも可能だとする
肯定一辺倒の信仰には精神力がいらないから、可能不可能の分別を付ける正信には一定以上の
精神力が必要とされる一方で、何でも可能だとする妄信には全く精神力が必要とされない。
他力信仰という行為自体、あまり精神力の有無を問うても仕方のない分野に属するにしろ、
その信仰が正信か妄信かに分かれる際には、やはり少なからずの精神力の有無が鍵となる。
儒家の五常では「仁義礼智信」の序列で信が最下位に置かれ、
「信を好みて学を好まざればその弊や賊(陽貨第十七・八)」ともいい、
親鸞聖人も教行信証で「鬼神に事うること能わず(先進第十一・一二)」と、
論語の言葉をあえて妄信を否定し去るような読み方に変えてから引用している。
あくまで自力作善を根本に置く東洋学の流れに即して、信仰にすら最低限の精神力が要求される。
「東洋文化は光の精神文化であり、西洋文化は闇の物質文化である」とペルシャのスフラワルディーも
自らの照明論哲学で断じているが、信仰から完全に精神力を省き、ただひたすら蒙昧な狂信を募らせる
性向は西洋でばかり是認されてきたものであり、東洋はおろか、中東のイスラムですら、信仰に精神力を
要求される厳格な実践を付与している。精神力を全く欠いたところで募らされる完全誤謬信仰の蒙昧が、
人々を自殺行為同然の妄動にも向かわせて、自業自得での自滅にも向かわせているわけだから、
これからの人類には、信仰が禁止されるとまでは行かずとも、信仰にすら可能不可能を
諾える程度の精神力に根ざした分別が付与されることが必要になるのだといえる。
全く精神力を欠いたところでしか生きられないという人間は、もう禁治産下にでも置かれるしかない。
「臣の君を弑せるは、凡そ官に在る者、殺して赦す無かれ。子の父を弑せるは、
凡そ宮に在る者、殺して赦す無かれ。其の人を殺し、其の室を壊し、其の宮を洿にして猪せよ」
「主君を弑逆した臣下は、どんな官職に就いている者であっても、必ず赦すことなく殺せ。
父親を弑逆した子供は、家中でどんな立場にあるのであっても、必ず赦すことなく殺せ。
本人を殺して、さらにその家を壊して、跡地を窪地にして、水を溜めて池にしろ。
(殺された人間が決して生き返らないという強い精神力に根ざした分別があるから、
致命的な弑逆を働いた人間を、死んでも赦さないほどの決断までもができるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
自らの照明論哲学で断じているが、信仰から完全に精神力を省き、ただひたすら蒙昧な狂信を募らせる
性向は西洋でばかり是認されてきたものであり、東洋はおろか、中東のイスラムですら、信仰に精神力を
要求される厳格な実践を付与している。精神力を全く欠いたところで募らされる完全誤謬信仰の蒙昧が、
人々を自殺行為同然の妄動にも向かわせて、自業自得での自滅にも向かわせているわけだから、
これからの人類には、信仰が禁止されるとまでは行かずとも、信仰にすら可能不可能を
諾える程度の精神力に根ざした分別が付与されることが必要になるのだといえる。
全く精神力を欠いたところでしか生きられないという人間は、もう禁治産下にでも置かれるしかない。
「臣の君を弑せるは、凡そ官に在る者、殺して赦す無かれ。子の父を弑せるは、
凡そ宮に在る者、殺して赦す無かれ。其の人を殺し、其の室を壊し、其の宮を洿にして猪せよ」
「主君を弑逆した臣下は、どんな官職に就いている者であっても、必ず赦すことなく殺せ。
父親を弑逆した子供は、家中でどんな立場にあるのであっても、必ず赦すことなく殺せ。
本人を殺して、さらにその家を壊して、跡地を窪地にして、水を溜めて池にしろ。
(殺された人間が決して生き返らないという強い精神力に根ざした分別があるから、
致命的な弑逆を働いた人間を、死んでも赦さないほどの決断までもができるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「救ってやったりはしない」とか書いてるけど
そもそも、人を救う力が自分にあると思ってるのが
大きな錯覚、大層なうぬぼれでしょうね。
自意識過剰の思い上がりは、自分自身にこそ当てはまる事を
自覚すべきでしょう。
そもそも「救う」とはどういった状態を言ってるのでしょうか?
死後の安楽か、生きている間の、精神の安寧みたいなものか。
それとも、病気が治りました、お金が入りましたの現世利益か。
そもそも、人を救う力が自分にあると思ってるのが
大きな錯覚、大層なうぬぼれでしょうね。
自意識過剰の思い上がりは、自分自身にこそ当てはまる事を
自覚すべきでしょう。
そもそも「救う」とはどういった状態を言ってるのでしょうか?
死後の安楽か、生きている間の、精神の安寧みたいなものか。
それとも、病気が治りました、お金が入りましたの現世利益か。
だから、キリストにでもすがってりゃいいじゃねえの。
救う救ういいながら、ただ人々を破滅に陥れるばかりの元祖・救済詐欺師に。
こちとら、「救済者」としての看板すら掲げていない。
実名どころかハンドルネームすら用いず、無名で全くの難題を突き付けて、
「そうでもしなきゃ救ってやらない」つってんだから、
そもそも人々を救ってやる体裁すら整えていないといえる。
救済詐欺師扱いなど、まっぴら御免だからだ。
恩着せがましい救済の押し付けなどは、それ自体が人々の堕落からなる自滅を助長するだけだから。
どこまでも自分たちで努力を尽くして、それでもどうにもならないって時にこそ
他力本願にもすがるべきなのであり、始めから神頼み一辺倒なんていう
あり方からして、是正していかなければならないものなのだから。
救う救ういいながら、ただ人々を破滅に陥れるばかりの元祖・救済詐欺師に。
こちとら、「救済者」としての看板すら掲げていない。
実名どころかハンドルネームすら用いず、無名で全くの難題を突き付けて、
「そうでもしなきゃ救ってやらない」つってんだから、
そもそも人々を救ってやる体裁すら整えていないといえる。
救済詐欺師扱いなど、まっぴら御免だからだ。
恩着せがましい救済の押し付けなどは、それ自体が人々の堕落からなる自滅を助長するだけだから。
どこまでも自分たちで努力を尽くして、それでもどうにもならないって時にこそ
他力本願にもすがるべきなのであり、始めから神頼み一辺倒なんていう
あり方からして、是正していかなければならないものなのだから。
エホバのような出歯亀癖を持つ人間、磔になったイエスを見ただけで自らの罪までもが
償われたような気になれるほど精神が薄弱な人間ってのは、確かに限られている。
まず、少しでも孝心のある人間であれば、そうならないで済むだけの精神力を備えているし、
仁徳の学や武術の修練などによって精神力を蓄えている人間にも、そうなる人間は少ない。
正統な神仏への崇敬によって、心身の蒙昧を未然に抑制している人間も、そうなったりはしない。
邪神信仰の蒙昧に陥らずに済む手段はいくらでもあり、二重三重の予防措置を講ずることもできる。
特に孝心の養いや、正統な神仏への帰依などは、身分の貴賤や老若男女を問わず誰にでも講ずることが
可能な予防手段であり、「自分にはその素質がないから」などという言い訳を差し挟む余地もない。
邪神信仰の蒙昧によって破滅に陥ることは、全くの自己責任。少なくとも現時点においては、
もはや邪信を予防する手段が全世界、全人類に対して開かれているのだから、中世以前の西洋人
の場合のように、「それしか選択肢がないから」などという言い訳を押し通すこともできない。
(中世以前の西洋にも、本当はマニ教を通じて仏教や拝火教の教義が流れ込んでもいた)
邪神信仰による蒙昧への陥りは、現時点では「不摂生からなる病」のうちに入るものであり、
それなりに予防を講ずれば陥らなくても済むものを、あえて予防もせずに陥ったりするのだから、
陥るしかなくて陥ったなどということは決してなく、そんな宿命にある人間はもうどこにもいない。
素質や運命を振りかざして邪神信仰をむさぼる選択肢も、もうとっくの昔に絶えて無くなっている。
「出でては則ち公卿に事え、入りては則ち父兄に事う」
「外に出れば目上の公卿によく仕え、内に入れば父兄によく仕える。(孝子の出ずる所は当然、家である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一六より)
償われたような気になれるほど精神が薄弱な人間ってのは、確かに限られている。
まず、少しでも孝心のある人間であれば、そうならないで済むだけの精神力を備えているし、
仁徳の学や武術の修練などによって精神力を蓄えている人間にも、そうなる人間は少ない。
正統な神仏への崇敬によって、心身の蒙昧を未然に抑制している人間も、そうなったりはしない。
邪神信仰の蒙昧に陥らずに済む手段はいくらでもあり、二重三重の予防措置を講ずることもできる。
特に孝心の養いや、正統な神仏への帰依などは、身分の貴賤や老若男女を問わず誰にでも講ずることが
可能な予防手段であり、「自分にはその素質がないから」などという言い訳を差し挟む余地もない。
邪神信仰の蒙昧によって破滅に陥ることは、全くの自己責任。少なくとも現時点においては、
もはや邪信を予防する手段が全世界、全人類に対して開かれているのだから、中世以前の西洋人
の場合のように、「それしか選択肢がないから」などという言い訳を押し通すこともできない。
(中世以前の西洋にも、本当はマニ教を通じて仏教や拝火教の教義が流れ込んでもいた)
邪神信仰による蒙昧への陥りは、現時点では「不摂生からなる病」のうちに入るものであり、
それなりに予防を講ずれば陥らなくても済むものを、あえて予防もせずに陥ったりするのだから、
陥るしかなくて陥ったなどということは決してなく、そんな宿命にある人間はもうどこにもいない。
素質や運命を振りかざして邪神信仰をむさぼる選択肢も、もうとっくの昔に絶えて無くなっている。
「出でては則ち公卿に事え、入りては則ち父兄に事う」
「外に出れば目上の公卿によく仕え、内に入れば父兄によく仕える。(孝子の出ずる所は当然、家である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一六より)
まずな、根本的にはじめ
磔になったイエスを見ただけで自らの罪をも償われた気になってしまうほど精神が薄弱した人間
なんだコレ?
そんなのお前の想像だろ?
なんでイエス見たら罪を償われたと思ってるとか理由もなく結論出せるの?
その上そうなる人間は少ないだとか
またまた自己完結しちゃうの?
ちょっと説明が足らなくね?
だからお前はウンコ儒学者なんだよ
強く主張するだけで通るわけないだろうが
磔になったイエスを見ただけで自らの罪をも償われた気になってしまうほど精神が薄弱した人間
なんだコレ?
そんなのお前の想像だろ?
なんでイエス見たら罪を償われたと思ってるとか理由もなく結論出せるの?
その上そうなる人間は少ないだとか
またまた自己完結しちゃうの?
ちょっと説明が足らなくね?
だからお前はウンコ儒学者なんだよ
強く主張するだけで通るわけないだろうが
修辞はこれぐらいで十二分だ。
自らの成長を心がける人間なら、多少難読な文章を
読みこなすぐらいのことは、自修の一環としてもいとわないだろうからな。
自ら文章を読みこなす努力も心がけず、曲解まみれのままで文句を加えて来るような、
向上心の無さと横柄さとを兼ね備えた小人物にとって好ましいようなことは、
始めから書こうともしていないのだから、安心して上知とは移らぬ下愚に甘んじていればいい。
そのベクトルの延長線上に褒美を置くことは、始めから儒者の目的ではない。
自らの成長を心がける人間なら、多少難読な文章を
読みこなすぐらいのことは、自修の一環としてもいとわないだろうからな。
自ら文章を読みこなす努力も心がけず、曲解まみれのままで文句を加えて来るような、
向上心の無さと横柄さとを兼ね備えた小人物にとって好ましいようなことは、
始めから書こうともしていないのだから、安心して上知とは移らぬ下愚に甘んじていればいい。
そのベクトルの延長線上に褒美を置くことは、始めから儒者の目的ではない。
富貴は俗人なら誰しもが欲するところ、それはまず事実として認めるのだ。
その上で「道理に根ざさないのなら富貴も得ない」と心がけてこそ、本物の善にもなる。
富貴なんかいらないようなフリをして、その実金満まみれの
権力犯罪者の庇護を受けようとしたりするから、偽善になる。
偽善だから、必ず善以上の悪が付いてくる。善以上の悪が付いてくるから、
面白い以上につまらない。だから偽善は普遍的に、面白い以上につまらなくあり続ける。
真善の存在に自分が気づかないからと言って、「真の善など存在しない」などと断じ、
それに思い余っての誤った消去法で偽善を講じ、偽善をやってみたところでやはりつまらなかったから、
今度は「善はつまらない」と短絡化して、善徳全般の価値を否定しようともする。
不善と偽善の悪循環に陥った人間の思考回路は、概ねこのようなものとなっている。だから、
このような思考回路にまず陥らないように、予め「富貴は欲しいが道理に根ざさないのなら得ない」
のような真善をかたくわきまえておき、真善と偽善は全くの別物であることを忘れず、偽善が面白い
以上につまらないからといって、真善までもがつまらないなどと勘違いしないようにせねばならない。
クリスマスのディナーを隣人に恵む「若草物語」の話がつまらない人間にも、
極悪非道の火付盗賊をばったばったと斬り捨てていく「鬼平犯科帳」の話は面白かったりする。
それは、前者が全くの偽善である一方で、後者が純粋無垢なる勧善懲悪であるからで、
両者の実質が全く異なるから面白かったりつまらなかったりするのだから、まことに、
人間の感情というのは、本物の善悪によってこそ左右されるものであるのだといえる。
情念も善悪も同時に解脱する超俗の徒でもない限りは、やはり善悪の分別はあったほうがいいものだ。
その上で「道理に根ざさないのなら富貴も得ない」と心がけてこそ、本物の善にもなる。
富貴なんかいらないようなフリをして、その実金満まみれの
権力犯罪者の庇護を受けようとしたりするから、偽善になる。
偽善だから、必ず善以上の悪が付いてくる。善以上の悪が付いてくるから、
面白い以上につまらない。だから偽善は普遍的に、面白い以上につまらなくあり続ける。
真善の存在に自分が気づかないからと言って、「真の善など存在しない」などと断じ、
それに思い余っての誤った消去法で偽善を講じ、偽善をやってみたところでやはりつまらなかったから、
今度は「善はつまらない」と短絡化して、善徳全般の価値を否定しようともする。
不善と偽善の悪循環に陥った人間の思考回路は、概ねこのようなものとなっている。だから、
このような思考回路にまず陥らないように、予め「富貴は欲しいが道理に根ざさないのなら得ない」
のような真善をかたくわきまえておき、真善と偽善は全くの別物であることを忘れず、偽善が面白い
以上につまらないからといって、真善までもがつまらないなどと勘違いしないようにせねばならない。
クリスマスのディナーを隣人に恵む「若草物語」の話がつまらない人間にも、
極悪非道の火付盗賊をばったばったと斬り捨てていく「鬼平犯科帳」の話は面白かったりする。
それは、前者が全くの偽善である一方で、後者が純粋無垢なる勧善懲悪であるからで、
両者の実質が全く異なるから面白かったりつまらなかったりするのだから、まことに、
人間の感情というのは、本物の善悪によってこそ左右されるものであるのだといえる。
情念も善悪も同時に解脱する超俗の徒でもない限りは、やはり善悪の分別はあったほうがいいものだ。
「昔文武在りて、聡明にして斉聖なる。小大の臣も、咸な忠良を懐き、其の侍御僕従も、正人に
匪ざるは罔し。以て旦夕厥の辟を承弼す。出入起居に欽まざること罔く、発号施令に臧からざる
こと罔くして、下民も祗しみて若い、万邦咸な休す。惟れ予れ一人良無し。実に左右前後有位の士、
其の及ばざるを匡すを頼む。愆ちを縄し謬ちを糾し、其の非心を格して、克く先烈に紹がしめよ」
「昔文王や武王が健在であられた頃、自らもまた聡明で慧眼豊かであられたのに、なおかつ大小の
臣下たちがみなよく忠信を抱き、侍従や下僕たちもまた正しい人間でないことがなく、彼らが朝から晩に
いたるまで惜しみなく主君を輔弼したために、主君もまた行いをよく慎み、号令の発布や法令の施行にも
少しも間違いを来たさなかった。そのため下民たちもよく慎んで朝廷の号令に従い、全国全土がよく安んじた。
しかるに、私(穆王)はといえば、文武両王のような善徳も自分にはない。だから左右前後にある有位の
士人たちは、ぜひ私の及ばない部分を進んで正していくようにしてもらいたい。諸々の過ちをよく正して、
心中の悪念にまでよく是正を及ばせることで、私を先賢たちの末座に列席できるようにしてもらいたい。
(人に依り頼むからには、相手に自らの過ちを正してもらうように願う。過ちを繰り返しても改めようとも
しない恐れ知らずさを押し通すために他者に依り頼んだりすることこそが、他力本願の大悪用だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・冏命より)
匪ざるは罔し。以て旦夕厥の辟を承弼す。出入起居に欽まざること罔く、発号施令に臧からざる
こと罔くして、下民も祗しみて若い、万邦咸な休す。惟れ予れ一人良無し。実に左右前後有位の士、
其の及ばざるを匡すを頼む。愆ちを縄し謬ちを糾し、其の非心を格して、克く先烈に紹がしめよ」
「昔文王や武王が健在であられた頃、自らもまた聡明で慧眼豊かであられたのに、なおかつ大小の
臣下たちがみなよく忠信を抱き、侍従や下僕たちもまた正しい人間でないことがなく、彼らが朝から晩に
いたるまで惜しみなく主君を輔弼したために、主君もまた行いをよく慎み、号令の発布や法令の施行にも
少しも間違いを来たさなかった。そのため下民たちもよく慎んで朝廷の号令に従い、全国全土がよく安んじた。
しかるに、私(穆王)はといえば、文武両王のような善徳も自分にはない。だから左右前後にある有位の
士人たちは、ぜひ私の及ばない部分を進んで正していくようにしてもらいたい。諸々の過ちをよく正して、
心中の悪念にまでよく是正を及ばせることで、私を先賢たちの末座に列席できるようにしてもらいたい。
(人に依り頼むからには、相手に自らの過ちを正してもらうように願う。過ちを繰り返しても改めようとも
しない恐れ知らずさを押し通すために他者に依り頼んだりすることこそが、他力本願の大悪用だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・冏命より)
善にも「全方位型の善」と、「劇場型の善」がある。
天地万物にとって善であろうとする、全方位型の善こそは真善となるのに対し、
目で見えている部分だけを善であるかのように見せかける、劇場型の善こそは偽善となる。
劇場の舞台上で繰り広げられる演劇の舞台裏では、必ずそれ以上もの小細工が尽くされる。
小細工がなりふり構わぬ策動であればあるほど、舞台上での演出も豪華なものとなる。
そのシステムを善行で用いろうとすれば、舞台上での善行の実現のために、
膨大な分量の、舞台裏でのなりふり構わぬ悪行が必要となってしまう。
資本主義国という舞台上での富裕の実現のために、舞台裏となる外界からの
膨大な収奪が必要となる。その膨大な収奪があればこそ、舞台上での富裕も、
全方位型の仁政によって実現される個々の富裕などよりも極端に豪勢なものとなる。
それは確かに、全方位型の真善などによって実現されるものではないが、また実現すべきものでもない。
舞台裏からの収奪によってまでの舞台上での富裕という偽善のシステムが欧米先進国にもたらしたのは、
限りのない自国民たちの貪欲と怠惰であり、全国民を禁治産下においたほうがよっぽど効率的となる
人畜化の実現でしかなかった。それでこそ確かに、聖書信仰が「善」とするものもまた、実現された。
劇場型の偽善がありのままに実現された結果が総国民の人畜化であり、これこそはそもそも、
聖書信仰が実現しようとしていたものが真善ではなかったことの証拠となっている。
「こんなはずではなかった」などという、言い訳を差し挟む余地があるはずもない。
自分たちで善と見なしてきた望みが、ありのままに実現されて、めでたく全員禁治産と相成る。
どうしてそこに、不平を差し挟んだりする必要があるものか。
「尊者之れを賜うに、其の取る所の者は義か不義かと曰いて、
而かる後に之れを受く。是れを以って不恭と為す、故に卻けざるなり」
「尊貴なものが自分が賜物をくれるという場合、『それをもらうことは義か不義か』などと自分の側で
詮索してからもらったりするのでは、恭しさに欠けることになる。だから賜物を退けたりはしない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
天地万物にとって善であろうとする、全方位型の善こそは真善となるのに対し、
目で見えている部分だけを善であるかのように見せかける、劇場型の善こそは偽善となる。
劇場の舞台上で繰り広げられる演劇の舞台裏では、必ずそれ以上もの小細工が尽くされる。
小細工がなりふり構わぬ策動であればあるほど、舞台上での演出も豪華なものとなる。
そのシステムを善行で用いろうとすれば、舞台上での善行の実現のために、
膨大な分量の、舞台裏でのなりふり構わぬ悪行が必要となってしまう。
資本主義国という舞台上での富裕の実現のために、舞台裏となる外界からの
膨大な収奪が必要となる。その膨大な収奪があればこそ、舞台上での富裕も、
全方位型の仁政によって実現される個々の富裕などよりも極端に豪勢なものとなる。
それは確かに、全方位型の真善などによって実現されるものではないが、また実現すべきものでもない。
舞台裏からの収奪によってまでの舞台上での富裕という偽善のシステムが欧米先進国にもたらしたのは、
限りのない自国民たちの貪欲と怠惰であり、全国民を禁治産下においたほうがよっぽど効率的となる
人畜化の実現でしかなかった。それでこそ確かに、聖書信仰が「善」とするものもまた、実現された。
劇場型の偽善がありのままに実現された結果が総国民の人畜化であり、これこそはそもそも、
聖書信仰が実現しようとしていたものが真善ではなかったことの証拠となっている。
「こんなはずではなかった」などという、言い訳を差し挟む余地があるはずもない。
自分たちで善と見なしてきた望みが、ありのままに実現されて、めでたく全員禁治産と相成る。
どうしてそこに、不平を差し挟んだりする必要があるものか。
「尊者之れを賜うに、其の取る所の者は義か不義かと曰いて、
而かる後に之れを受く。是れを以って不恭と為す、故に卻けざるなり」
「尊貴なものが自分が賜物をくれるという場合、『それをもらうことは義か不義か』などと自分の側で
詮索してからもらったりするのでは、恭しさに欠けることになる。だから賜物を退けたりはしない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
法治主義が普遍的な是非善悪を歪めて、虚構の善悪を独り歩きさせることの危険性が
「春秋左子伝」昭公六年ですでに指摘されてもいる。そのため儒家は実定法それ自体を
金科玉条とはせず、仁徳や礼節に根ざした臨機応変な法律支配を主旨とする。
「礼記」などにそれなりに礼法に関する記述もあるにしろ、それも結局は古代の中国の
時代や風土に根ざして取り決められたものであるため、重要な参考資料とすることはあっても、
杓子定規な厳守の対象ともしない。それでは儒学ではなく儒教になってしまい、宗教教義や実定法
を厳守することばかりに囚われている人間に特有の、精神的怠惰が生じてしまうことともなるから。
実定された成文法を守るということは、非常に安易なこと。犬猫だって、それをやれば罰を受ける
ことが明確ないたずらなどは自主的に控えるようになるが、実定法もそれと全く同じ取り決めに過ぎず、
全く自主的な善悪の分別が付かない人畜化した人間であっても、実定法を守るぐらいのことはできる。
実定法ぐらいは守れるが、自主的な善悪の分別が付かない人畜で世の中が満たされたときに、
世の中が総出をあげて「船頭多くして船山に登る」ような事態が生じることとなる。
法律でそうすることが正しいと書かれているから、正しいと思って総出で大きな過ちを積み重ねる。
世の中に施行された法律がただ粗悪なだけでなく、悪逆非道を遵守者にけしかけるまでに
一概に悪質となったとき、行動則犯罪の、総員重権力犯罪者社会が現出することになる。
「春秋左子伝」昭公六年ですでに指摘されてもいる。そのため儒家は実定法それ自体を
金科玉条とはせず、仁徳や礼節に根ざした臨機応変な法律支配を主旨とする。
「礼記」などにそれなりに礼法に関する記述もあるにしろ、それも結局は古代の中国の
時代や風土に根ざして取り決められたものであるため、重要な参考資料とすることはあっても、
杓子定規な厳守の対象ともしない。それでは儒学ではなく儒教になってしまい、宗教教義や実定法
を厳守することばかりに囚われている人間に特有の、精神的怠惰が生じてしまうことともなるから。
実定された成文法を守るということは、非常に安易なこと。犬猫だって、それをやれば罰を受ける
ことが明確ないたずらなどは自主的に控えるようになるが、実定法もそれと全く同じ取り決めに過ぎず、
全く自主的な善悪の分別が付かない人畜化した人間であっても、実定法を守るぐらいのことはできる。
実定法ぐらいは守れるが、自主的な善悪の分別が付かない人畜で世の中が満たされたときに、
世の中が総出をあげて「船頭多くして船山に登る」ような事態が生じることとなる。
法律でそうすることが正しいと書かれているから、正しいと思って総出で大きな過ちを積み重ねる。
世の中に施行された法律がただ粗悪なだけでなく、悪逆非道を遵守者にけしかけるまでに
一概に悪質となったとき、行動則犯罪の、総員重権力犯罪者社会が現出することになる。
儒家による道徳統治とて完全無欠なものではなく、為政者の徳性が目減りすると共に世の
濁悪化を招くことがしばしばある。しかし、世の中が実定法を守ることしかできないような
人畜の集まりと化して、実定法が人々に悪逆非道をけしかけるほどに悪質化して、世の中を
総員重権力犯罪者社会にまで仕立て上げてしまうまでのことは、法治社会にのみあり得る
ことであって、徳治社会でそこまでもの乱脈が生じてしまうことは、原理的にあり得ない。
あらかじめ人々に自主的な善悪の分別を付ける素養を育ませて、実定法しか守れないような
人畜と化すことを未然に防いでいく徳治社会では、最悪でも、そこまでの乱世には至らない。
明らかに法治主義よりも徳治主義のほうが、世の中の濁悪化の最低ラインが高く、法治主義によって
もたらされる最悪級の乱世が、最悪級の徳治主義によってもたらされることすら、決してありはしない。
「人倫上に明らかなれば、小民下に親しむ。王者起こる有らば、必ず来たりて法を取らん」
「上に立つものが人倫をよくわきまえていれば、下民たちも皆よく親しみ合うようになる。
もしも偉大な王者が立ち起こることがあれば、必ずこれをこそ法として則ることだろう。
(上に立つものが人倫に暗いものだから、下民も隣人と親しみ合うくらいのことしかできなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
濁悪化を招くことがしばしばある。しかし、世の中が実定法を守ることしかできないような
人畜の集まりと化して、実定法が人々に悪逆非道をけしかけるほどに悪質化して、世の中を
総員重権力犯罪者社会にまで仕立て上げてしまうまでのことは、法治社会にのみあり得る
ことであって、徳治社会でそこまでもの乱脈が生じてしまうことは、原理的にあり得ない。
あらかじめ人々に自主的な善悪の分別を付ける素養を育ませて、実定法しか守れないような
人畜と化すことを未然に防いでいく徳治社会では、最悪でも、そこまでの乱世には至らない。
明らかに法治主義よりも徳治主義のほうが、世の中の濁悪化の最低ラインが高く、法治主義によって
もたらされる最悪級の乱世が、最悪級の徳治主義によってもたらされることすら、決してありはしない。
「人倫上に明らかなれば、小民下に親しむ。王者起こる有らば、必ず来たりて法を取らん」
「上に立つものが人倫をよくわきまえていれば、下民たちも皆よく親しみ合うようになる。
もしも偉大な王者が立ち起こることがあれば、必ずこれをこそ法として則ることだろう。
(上に立つものが人倫に暗いものだから、下民も隣人と親しみ合うくらいのことしかできなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
イエスにしろ、他のユダヤ人にしろ、その本性のところに、
世の中への強烈な呪いを宿している点が全く共通している。
商業民族として、他民族に寄生して媚びへつらうことを生業としていたユダヤ人と、
その中でも特に「妾腹の私生児」という恵まれない境遇に生まれ育ったイエスと、いずれもが
世の中に対する強烈なコンプレックスを抱いていて、そのコンプレックスを世の中への嫉妬に
転嫁して、嫉妬を解消する目的での呪詛を、自分たちの言葉に込めている点が共通している。
それはたとえば、春秋時代の覇権争いの中では劣勢に置かれていた魯国の人間や、その魯国で
母子家庭の妾腹の私生児として生まれ育った孔子などにも、決してあり得なかったことではなく、
不遇な立場からなるコンプレックスを嫉妬に転嫁して、その嫉妬を呪詛の言葉に込めることすら
あり得なかったことではない。しかし、魯国の人間は、覇権争いで劣勢に置かれていたことに
コンプレックスを抱いたりすることよりも、周公旦が自国の直轄者として遺してくれた数多の
文化的遺産を保護することのほうに努め、孔子もまた、それらの文化遺産を熱心に研究し、
五経としてとりまとめるなどして大学者として大成することで、自らの不遇をも克服した。
世の中への強烈な呪いを宿している点が全く共通している。
商業民族として、他民族に寄生して媚びへつらうことを生業としていたユダヤ人と、
その中でも特に「妾腹の私生児」という恵まれない境遇に生まれ育ったイエスと、いずれもが
世の中に対する強烈なコンプレックスを抱いていて、そのコンプレックスを世の中への嫉妬に
転嫁して、嫉妬を解消する目的での呪詛を、自分たちの言葉に込めている点が共通している。
それはたとえば、春秋時代の覇権争いの中では劣勢に置かれていた魯国の人間や、その魯国で
母子家庭の妾腹の私生児として生まれ育った孔子などにも、決してあり得なかったことではなく、
不遇な立場からなるコンプレックスを嫉妬に転嫁して、その嫉妬を呪詛の言葉に込めることすら
あり得なかったことではない。しかし、魯国の人間は、覇権争いで劣勢に置かれていたことに
コンプレックスを抱いたりすることよりも、周公旦が自国の直轄者として遺してくれた数多の
文化的遺産を保護することのほうに努め、孔子もまた、それらの文化遺産を熱心に研究し、
五経としてとりまとめるなどして大学者として大成することで、自らの不遇をも克服した。
この魯人や孔子のあり方こそは、不遇→コンプレックス→嫉妬→呪詛という、人間の情念の
濁悪化を未然に食い止めて、健全な文化事業によって悪念をも克服した模範例であるといえ、
その文化的な所産が呪詛の塊りなどでもなければこそ、それらの所産を儒学資料として重用した、
漢や唐や宋や平安朝や江戸幕府といった権力機構もまた、長期の泰平社会を実現したのだった。
そこに書かれているのが、小人の恨みつらみを込めた讒言の塊りでしかないからこそ、
犯罪聖書を実践することで治めようとした国や社会は、いずれもが致命的な争乱状態を呈し、
数十年としないうちの大戦などによる亡国や破国が免れ得たことがない。確かに巧妙な修辞に
よって、イエスやその他ユダヤ人の呪詛は、犯罪聖書の表面的な記述からは隠されているが、
その根幹とする所が、他民族や他人に対しての強烈な呪詛であり、呪詛によって他人を困窮や
虐殺などの破滅的な運命へと導かせようとするものだから、どんな信仰や実践の仕方をする
のであっても、犯罪聖書の受容は必ず、あるよりもないほうがいいような破滅を招くのである。
「朕れ讒説の行いを殄ち、朕が師を震驚せるを堲む」
「私は小人の讒言が人々の正しい行いを潰えさせ、民衆たちを震え上がらせることを苦々しく思う」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
濁悪化を未然に食い止めて、健全な文化事業によって悪念をも克服した模範例であるといえ、
その文化的な所産が呪詛の塊りなどでもなければこそ、それらの所産を儒学資料として重用した、
漢や唐や宋や平安朝や江戸幕府といった権力機構もまた、長期の泰平社会を実現したのだった。
そこに書かれているのが、小人の恨みつらみを込めた讒言の塊りでしかないからこそ、
犯罪聖書を実践することで治めようとした国や社会は、いずれもが致命的な争乱状態を呈し、
数十年としないうちの大戦などによる亡国や破国が免れ得たことがない。確かに巧妙な修辞に
よって、イエスやその他ユダヤ人の呪詛は、犯罪聖書の表面的な記述からは隠されているが、
その根幹とする所が、他民族や他人に対しての強烈な呪詛であり、呪詛によって他人を困窮や
虐殺などの破滅的な運命へと導かせようとするものだから、どんな信仰や実践の仕方をする
のであっても、犯罪聖書の受容は必ず、あるよりもないほうがいいような破滅を招くのである。
「朕れ讒説の行いを殄ち、朕が師を震驚せるを堲む」
「私は小人の讒言が人々の正しい行いを潰えさせ、民衆たちを震え上がらせることを苦々しく思う」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
多くの事物が有機的な不確定性を帯びているこの世界においては、
波風を立てないでいようとしたところで、やはりいくらかの争乱が起きる。
二重三重の権力に対する防腐措置が施されることで、飛鳥時代に打ち立てられた日本の
律令制社会も、奈良時代や平安時代の500年にわたる泰平の後に、ついに破綻を来たし、
朝廷の制御を振り切ったつわもの達が覇権を争う武家時代へと移り変わったのだった。
ただ、そこにはやはり、どうしてもそうならざるを得ない事情があったのであり、
決して好き好んで、血で血を洗うような乱世を招いたのではなかった。
あえて武力で朝廷の権威を争奪しようとした平将門や藤原純友は誅戮されて、
朝廷内での内輪もめが深刻化して、保元の乱で藤原氏本流の権威が失墜したことで
初めて平氏や源氏といった武家の家門が天皇に次ぐ位を得るまでになった。
それでもやはり、武家として太政大臣などの重職を歴任した平清盛を始めとする
平氏は源氏によって滅ぼされ、武家の棟梁たる征夷大将軍を武家の最高位とする条件で、
源頼朝の開いた鎌倉幕府が、本格的な武家社会を始動していくに至った。
どこまでも消極の限りを尽くして、仕方なく公家社会から武家社会へと時代が
移行していったことが歴史上の記録からも明らかであり、進んで不穏な波風を立てようと
するような人間は、ことごとく非業の末路を辿っている。要するに、マッチポンプが
極力避けられていたことが分かり、だからこそ先人たちの至誠までもが垣間見られる。
それと比べれば、進んで波風を立てたがるマッチポンプの画策や、マッチポンプで
塗り固められた歴史などは極めて不誠実なものであり、事実関係だけを見てみれば、
それはそれは貧相なものでもある場合がほとんど。だから色々と虚飾を尽くして、
事実関係からはなるべく目を逸らさせようともするが、それもまた不誠実の上塗りとなり、
マッチポンプを極力排した場合にこそ見られるような、切実さ故の魅力には決定的に欠け続ける。
波風を立てないでいようとしたところで、やはりいくらかの争乱が起きる。
二重三重の権力に対する防腐措置が施されることで、飛鳥時代に打ち立てられた日本の
律令制社会も、奈良時代や平安時代の500年にわたる泰平の後に、ついに破綻を来たし、
朝廷の制御を振り切ったつわもの達が覇権を争う武家時代へと移り変わったのだった。
ただ、そこにはやはり、どうしてもそうならざるを得ない事情があったのであり、
決して好き好んで、血で血を洗うような乱世を招いたのではなかった。
あえて武力で朝廷の権威を争奪しようとした平将門や藤原純友は誅戮されて、
朝廷内での内輪もめが深刻化して、保元の乱で藤原氏本流の権威が失墜したことで
初めて平氏や源氏といった武家の家門が天皇に次ぐ位を得るまでになった。
それでもやはり、武家として太政大臣などの重職を歴任した平清盛を始めとする
平氏は源氏によって滅ぼされ、武家の棟梁たる征夷大将軍を武家の最高位とする条件で、
源頼朝の開いた鎌倉幕府が、本格的な武家社会を始動していくに至った。
どこまでも消極の限りを尽くして、仕方なく公家社会から武家社会へと時代が
移行していったことが歴史上の記録からも明らかであり、進んで不穏な波風を立てようと
するような人間は、ことごとく非業の末路を辿っている。要するに、マッチポンプが
極力避けられていたことが分かり、だからこそ先人たちの至誠までもが垣間見られる。
それと比べれば、進んで波風を立てたがるマッチポンプの画策や、マッチポンプで
塗り固められた歴史などは極めて不誠実なものであり、事実関係だけを見てみれば、
それはそれは貧相なものでもある場合がほとんど。だから色々と虚飾を尽くして、
事実関係からはなるべく目を逸らさせようともするが、それもまた不誠実の上塗りとなり、
マッチポンプを極力排した場合にこそ見られるような、切実さ故の魅力には決定的に欠け続ける。
マッチポンプのためにわざわざ波風を立てることは、不誠実だからつまらない。
どんなに大きな波風を立てたところで、所詮は自作自演なのだから、自作自演を
徹底して排したところでこそ繰り広げられる歴史絵巻ほどもの魅力は決して備わらない。
波風を立てること自体が扇情目的であるにも関わらず、好き好んで波風を立てた以上は、
それがどうしたってつまらない原因になってしまうのだから、本当に痛快な物語を
つむぎ上げようと思うのであればこそ、作為的なマッチポンプは極力控えるべきだといえる。
「豕の白蹢有りて、烝く波を渉る。
月は畢のほしに離り、滂沱たらしむ。
武人の東征するに、遑ま他にあらず」
「(躁疾な性格が多い)白蹄の猪のように、波風の酷い湿地をも必至で突き進む。
月が雨降り星に近づいて、これから大雨にもなりそうなのに、
東国へと遠征する兵士たちには、そんなことを気にしている余裕もない。
(波風の荒い湿地をあえて突き進もうとすること自体が、すでに躁疾の現れである。
雨降り星は牡牛座に相当する星群で、ここに月が近づく頃が当地の雨期だったらしい。
雨期に湿地に立ち入ったりしないための、未然の注意だってできなくはないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)
どんなに大きな波風を立てたところで、所詮は自作自演なのだから、自作自演を
徹底して排したところでこそ繰り広げられる歴史絵巻ほどもの魅力は決して備わらない。
波風を立てること自体が扇情目的であるにも関わらず、好き好んで波風を立てた以上は、
それがどうしたってつまらない原因になってしまうのだから、本当に痛快な物語を
つむぎ上げようと思うのであればこそ、作為的なマッチポンプは極力控えるべきだといえる。
「豕の白蹢有りて、烝く波を渉る。
月は畢のほしに離り、滂沱たらしむ。
武人の東征するに、遑ま他にあらず」
「(躁疾な性格が多い)白蹄の猪のように、波風の酷い湿地をも必至で突き進む。
月が雨降り星に近づいて、これから大雨にもなりそうなのに、
東国へと遠征する兵士たちには、そんなことを気にしている余裕もない。
(波風の荒い湿地をあえて突き進もうとすること自体が、すでに躁疾の現れである。
雨降り星は牡牛座に相当する星群で、ここに月が近づく頃が当地の雨期だったらしい。
雨期に湿地に立ち入ったりしないための、未然の注意だってできなくはないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)
真の善徳、真の正義ってのは、ある程度大型化した文明社会の公権力者が
理想の統治者=君子たらんとしたときに、初めて把捉されたもの。
数万人程度の規模までの小社会では、たとえ公権力者であっても、
わざわざ濁世を防止するための君子統治などを心がける必要がないし、
数十万人以上の大社会であっても、ただの庶民であれば、大仰な正義だ
善徳だを自主的に養っていったりするような必要性からして存在しない。
(もちろん君子として仕官するための前準備の修養などはあり得る)
正義は民間人のものでなければ、小社会の公権力者のものでもない。
民間の商売人が顧客への奉仕を熱心に行ったところで、それが正義になる
わけでもなく、ただ私利私欲のための必死さがより苛烈になるだけのことだし、
小さな村落の首長が善政を志したりしたところで、やることといえば所詮は、
村の人々の気を遣う程度のことでしかない。
多くの被治者を「民草」と見なして、自分たちの徳風になびかせてこそ
善良たらしめるというところに、人間の正義の原点が存在する。民間人が
正義を行うことがあるとすれば、そのような治世に基づいて謹厳であることであり、
君子士人の為政に旺盛に口出しをしたりすれば、それが正義になるわけでもない。
この世に正義のようなもの、善徳のようなものはいくらでもあるが、
その多くは偽物であり、善を騙る悪や正義を騙る邪義である場合が非常に多い。
それは特に、古代ユダヤ人のような元祖禁治民族や、イエスのような小国の民間人が
騙り始めたものである場合が多いわけだが、未だ公権力に携わったことがない人間、
正義も善徳も必要のないような小社会で生まれ育った人間などは、本当に本物の
善徳や正義を知らない。真の善徳や正義などを知りえない立場、大社会の公権力者
などには決してなり得ない立場でいた以上、儒学のような権力道徳学を自主的に
学びでもしない限りは、永遠に真の善徳や正義といったものを察知することがない。
理想の統治者=君子たらんとしたときに、初めて把捉されたもの。
数万人程度の規模までの小社会では、たとえ公権力者であっても、
わざわざ濁世を防止するための君子統治などを心がける必要がないし、
数十万人以上の大社会であっても、ただの庶民であれば、大仰な正義だ
善徳だを自主的に養っていったりするような必要性からして存在しない。
(もちろん君子として仕官するための前準備の修養などはあり得る)
正義は民間人のものでなければ、小社会の公権力者のものでもない。
民間の商売人が顧客への奉仕を熱心に行ったところで、それが正義になる
わけでもなく、ただ私利私欲のための必死さがより苛烈になるだけのことだし、
小さな村落の首長が善政を志したりしたところで、やることといえば所詮は、
村の人々の気を遣う程度のことでしかない。
多くの被治者を「民草」と見なして、自分たちの徳風になびかせてこそ
善良たらしめるというところに、人間の正義の原点が存在する。民間人が
正義を行うことがあるとすれば、そのような治世に基づいて謹厳であることであり、
君子士人の為政に旺盛に口出しをしたりすれば、それが正義になるわけでもない。
この世に正義のようなもの、善徳のようなものはいくらでもあるが、
その多くは偽物であり、善を騙る悪や正義を騙る邪義である場合が非常に多い。
それは特に、古代ユダヤ人のような元祖禁治民族や、イエスのような小国の民間人が
騙り始めたものである場合が多いわけだが、未だ公権力に携わったことがない人間、
正義も善徳も必要のないような小社会で生まれ育った人間などは、本当に本物の
善徳や正義を知らない。真の善徳や正義などを知りえない立場、大社会の公権力者
などには決してなり得ない立場でいた以上、儒学のような権力道徳学を自主的に
学びでもしない限りは、永遠に真の善徳や正義といったものを察知することがない。
正義とか善徳とかいったものは、本当は非常に特殊なもので、真正なものは、
大社会の権力道徳者でもなければ把捉し得ず、真正な善徳や正義を把捉した学問も
儒学ぐらいしか存在しない。まるで、そこら中に無尽蔵に善徳や正義がばら撒かれて
いるかのように思い込むのなら、そのような人間は決して本物の善徳や正義を
把捉してはおらず、それ以前に、察知すらしたことがないだろうことが明らか。
本物の正義や善徳を察知したこともないうちから、偽善のつまらなさに嫌気がさして、
善徳や正義全般を忌み嫌おうとするような人間もいるが、そのような人間もまた
やはり本物の善徳や正義を察知したことすらない。未だかつて一度も、本物の正善を
察知したことすらない分際でいて、我流で善悪や善悪への好悪を語っていたようなものが、
本物の善悪正邪を知るためには、未だかつて本物の善悪正邪などを察知したことすら
ないという哀れな哀れな身の程を、事前に思い知っておかなければ、どうにもならない。
「偏無く陂無く王の義に遵え。好を作す有る無く王の道に遵え。悪を作す有る無く王の路に遵え。
偏無く党なければ王道蕩蕩たり。党無く偏無ければ王道平平たり。反無く側無ければ王道正直たり」
「偏見や邪曲を介することなく王の義に従え。好悪を差し挟むことなく王の道に従え。
偏見や私党がなければ王道も坦々と治まり、反意や阿りがなければ王道も正直である。
(サービス的な要素をあえて省いた君子の統治にこそ、偽善でない真の正義もまた備わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
大社会の権力道徳者でもなければ把捉し得ず、真正な善徳や正義を把捉した学問も
儒学ぐらいしか存在しない。まるで、そこら中に無尽蔵に善徳や正義がばら撒かれて
いるかのように思い込むのなら、そのような人間は決して本物の善徳や正義を
把捉してはおらず、それ以前に、察知すらしたことがないだろうことが明らか。
本物の正義や善徳を察知したこともないうちから、偽善のつまらなさに嫌気がさして、
善徳や正義全般を忌み嫌おうとするような人間もいるが、そのような人間もまた
やはり本物の善徳や正義を察知したことすらない。未だかつて一度も、本物の正善を
察知したことすらない分際でいて、我流で善悪や善悪への好悪を語っていたようなものが、
本物の善悪正邪を知るためには、未だかつて本物の善悪正邪などを察知したことすら
ないという哀れな哀れな身の程を、事前に思い知っておかなければ、どうにもならない。
「偏無く陂無く王の義に遵え。好を作す有る無く王の道に遵え。悪を作す有る無く王の路に遵え。
偏無く党なければ王道蕩蕩たり。党無く偏無ければ王道平平たり。反無く側無ければ王道正直たり」
「偏見や邪曲を介することなく王の義に従え。好悪を差し挟むことなく王の道に従え。
偏見や私党がなければ王道も坦々と治まり、反意や阿りがなければ王道も正直である。
(サービス的な要素をあえて省いた君子の統治にこそ、偽善でない真の正義もまた備わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
イエスとかユダヤ人とかいった連中は、そもそも善を知らない。
真の善徳を把捉できるような境遇に置かれたことからしてないものだから、
自分たちが善だと思い込んだ、本当は悪である偽善を、本当に善であると思い込んで、
本物の善を推し進めるつもりで偽善を推し進め、結果的に悪逆非道こそを推進してしまう。
そしてその有り様を信仰すべき対象として記録したのが、新旧約聖書に当たる。
真の善の前には、必ず不悪がある。
明らかに悪である言行を断じて為さないという守備があってから、初めて善も真となる。
前提としての断悪が疎かであるならば、それ自体が単体では真善であるような善ですら、
悪とのくそみそと化すことで偽善となってしまう。だから真の善を為すためには、積極的に
善を為すこと以上にも、断じて悪を行わないという守備の心がけのほうがより大事なのだといえる。
もちろんイエスやユダヤ人はそんなことは分からないものだから、
自分たちが善だと思い込んだことを積極的に為して行きすらすれば、どんなに
プラスマイナスゼロ以下のマッチポンプとなったところで、それが善になると思い込む。
そもそも偽善を善だと思い込んでいる上に、善以上の悪が必ず付いてくる善悪みそくその行いすら
善行だと思い込んで積極的に為そうとするものだから、二重三重の過ちが積み重ねられた結果、
絶対に真の善を為すことなどはできなくなってしまうのである。
真の善徳を把捉できるような境遇に置かれたことからしてないものだから、
自分たちが善だと思い込んだ、本当は悪である偽善を、本当に善であると思い込んで、
本物の善を推し進めるつもりで偽善を推し進め、結果的に悪逆非道こそを推進してしまう。
そしてその有り様を信仰すべき対象として記録したのが、新旧約聖書に当たる。
真の善の前には、必ず不悪がある。
明らかに悪である言行を断じて為さないという守備があってから、初めて善も真となる。
前提としての断悪が疎かであるならば、それ自体が単体では真善であるような善ですら、
悪とのくそみそと化すことで偽善となってしまう。だから真の善を為すためには、積極的に
善を為すこと以上にも、断じて悪を行わないという守備の心がけのほうがより大事なのだといえる。
もちろんイエスやユダヤ人はそんなことは分からないものだから、
自分たちが善だと思い込んだことを積極的に為して行きすらすれば、どんなに
プラスマイナスゼロ以下のマッチポンプとなったところで、それが善になると思い込む。
そもそも偽善を善だと思い込んでいる上に、善以上の悪が必ず付いてくる善悪みそくその行いすら
善行だと思い込んで積極的に為そうとするものだから、二重三重の過ちが積み重ねられた結果、
絶対に真の善を為すことなどはできなくなってしまうのである。
イエスやユダヤ人が善を為せない原因は、かくのごとく二重三重にも折り重ねられているために、
なまじただの常人などよりも、悪を為すことなく真善を為す選択肢が強固に閉鎖されてしまって
いるのだといえる。医学的には、「サイコパスの病状が深刻である」ともいえるが、その
サイコパスが深刻化している原因こそは、上記のような理由に基づく二重三重の断悪修善の不能化
であるのだから、そうであることに応じた治療や禁治産などの措置を課してやるべきだといえる。
ただ強制入院や禁治産をあてがうばかりではなく、着実な回復を目指した措置でこそあるべきだ。
「仁に里るを美しと為す。択んで仁に処らずんば、焉んぞ知なることを得ん」
「まず仁にどっかりと腰を据えることを善美と為す。仁に居場所を据えること
すら疎かにしていたのなら、善悪の分別などの知識を得ることもできはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一より)
なまじただの常人などよりも、悪を為すことなく真善を為す選択肢が強固に閉鎖されてしまって
いるのだといえる。医学的には、「サイコパスの病状が深刻である」ともいえるが、その
サイコパスが深刻化している原因こそは、上記のような理由に基づく二重三重の断悪修善の不能化
であるのだから、そうであることに応じた治療や禁治産などの措置を課してやるべきだといえる。
ただ強制入院や禁治産をあてがうばかりではなく、着実な回復を目指した措置でこそあるべきだ。
「仁に里るを美しと為す。択んで仁に処らずんば、焉んぞ知なることを得ん」
「まず仁にどっかりと腰を据えることを善美と為す。仁に居場所を据えること
すら疎かにしていたのなら、善悪の分別などの知識を得ることもできはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一より)
イエスが本物の善を知らない郷原(世間知らずの偽善者)の徒であった
決定的な証拠の一つが、徴税人を罪人とも同然の悪人と見なす物言いだといえる。
徴税それ自体は、善行とも悪行ともなり得るもの。
やたらめったらと重税を課して民に困窮を強いたりすれば、当然それは悪行になる。
しかし、逆にやたらめったらと税を軽減して、公務機関による最低限度の社会統制すら
疎かにしてしまったりするのであれば、それもまた悪行や偽善の行いと化してしまう。
為政者が税制を極端に厳しくも緩くもせず、適正なものとすることで、
夜警統治と福祉統治の釣り合いを取ることこそが善行になるといえ、しかも、
人間が講じられる善行のうちでも最もウソ偽りのない、純粋な善行になるといえる。
善というものが、偽りなく純善として生じ得る中でも、特に確実な部類に入るのが
為政者による徴税の適正化であり、徴税人が民から尊ばれるぐらいであってこそ
真の善政が敷かれているのだともいえる。にもかかわらずイエスが徴税人を
罪人も同然のものとして決め付けるたは、イエスが、徴税の適正化にこそ純善が
備わり得ることすら知らなかった、世間知らずの偽善者だったからでこそあるし、
また、イエスが生きていた頃のイスラエルやローマの為政者が、民に対して
やたらと重税を課したりするような、暴政の徒だったに違いないからでもある。
税制の煩雑化こそは暴政の原因になると見なし、課税対象をなるべく少なくすべきで
あると孟子も説いているが、じゃあ課税対象が雑多化してしまう原因は何かといえば、
市場を悪用した投機であぶく銭を稼ぐような、匹夫の悪行に制限を課したりするために
課税対象も増えていったのだとも説いている。徴税人がありとあらゆる社会活動から
税を徴収する事態ともなれば、そりゃあ徴税人が憎しみや嫌悪の対象にもなって仕方ない
わけだが、それほどにも徴税が雑多化してしまう原因は何かといえば、それはイエスの
ような民間人の匹夫が、投機で不正な富を蓄えたりすることに対抗するからなわけで、
徴税人を罪人並みの嫌われ者にしてしまっているのも、他でもないイエス自身なのである。
決定的な証拠の一つが、徴税人を罪人とも同然の悪人と見なす物言いだといえる。
徴税それ自体は、善行とも悪行ともなり得るもの。
やたらめったらと重税を課して民に困窮を強いたりすれば、当然それは悪行になる。
しかし、逆にやたらめったらと税を軽減して、公務機関による最低限度の社会統制すら
疎かにしてしまったりするのであれば、それもまた悪行や偽善の行いと化してしまう。
為政者が税制を極端に厳しくも緩くもせず、適正なものとすることで、
夜警統治と福祉統治の釣り合いを取ることこそが善行になるといえ、しかも、
人間が講じられる善行のうちでも最もウソ偽りのない、純粋な善行になるといえる。
善というものが、偽りなく純善として生じ得る中でも、特に確実な部類に入るのが
為政者による徴税の適正化であり、徴税人が民から尊ばれるぐらいであってこそ
真の善政が敷かれているのだともいえる。にもかかわらずイエスが徴税人を
罪人も同然のものとして決め付けるたは、イエスが、徴税の適正化にこそ純善が
備わり得ることすら知らなかった、世間知らずの偽善者だったからでこそあるし、
また、イエスが生きていた頃のイスラエルやローマの為政者が、民に対して
やたらと重税を課したりするような、暴政の徒だったに違いないからでもある。
税制の煩雑化こそは暴政の原因になると見なし、課税対象をなるべく少なくすべきで
あると孟子も説いているが、じゃあ課税対象が雑多化してしまう原因は何かといえば、
市場を悪用した投機であぶく銭を稼ぐような、匹夫の悪行に制限を課したりするために
課税対象も増えていったのだとも説いている。徴税人がありとあらゆる社会活動から
税を徴収する事態ともなれば、そりゃあ徴税人が憎しみや嫌悪の対象にもなって仕方ない
わけだが、それほどにも徴税が雑多化してしまう原因は何かといえば、それはイエスの
ような民間人の匹夫が、投機で不正な富を蓄えたりすることに対抗するからなわけで、
徴税人を罪人並みの嫌われ者にしてしまっているのも、他でもないイエス自身なのである。
もちろん、イエスのような民間の暴徒を、投機に走ったりする以前から十分な取締り
の対象とするのが、為政者の夜警者としての義務であるといえ、イエスのような暴民を
世間にのさばらせてしまった時点で、すでにそれが為政者の落ち度であるとも言える。
自分たちの行いの劣悪さによって、それを追跡する徴税人を嫌われ者としてしまうような
蒙昧な民が、できる限り発生しないように徳化を心がけるのが徳治者の義務であるといえ、
それはイスラエルやローマの為政者はおろか、春秋戦国時代の中国の為政者や、今の
日本の為政者ですらもが、全くといっていいほど実現できていない条件だといえる。
金融犯罪などの悪行を犯す小人が現れて、それに後付けで為政者が課税して、結果、
小人が徴税人を忌み嫌うような事態と化すといった現象全般が、極めて劣悪なものであり、
始めからそういった現象が発生しないように心がけるところにこそ、真の善徳が備わる
といえる。真の善徳がある所には、イエスみたいな人間は始めから生じないのである。
「蚕事畢りて、后妃繭を献ず。乃ち繭税を収め、桑を以って均と為し、貴賤長幼一の如くす」
「養蚕の時期が終わると、后妃が繭を献上する儀式を行う。儀式の中で繭を税として収めるが、
蚕が食した桑の多少によって税率を取り決め、生産者の貴賤長幼によって取り決めたりはしない。
(徴税が正統な儀礼にまで昇華されている事例。日本の皇后も養蚕を儀礼的に行ってる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
の対象とするのが、為政者の夜警者としての義務であるといえ、イエスのような暴民を
世間にのさばらせてしまった時点で、すでにそれが為政者の落ち度であるとも言える。
自分たちの行いの劣悪さによって、それを追跡する徴税人を嫌われ者としてしまうような
蒙昧な民が、できる限り発生しないように徳化を心がけるのが徳治者の義務であるといえ、
それはイスラエルやローマの為政者はおろか、春秋戦国時代の中国の為政者や、今の
日本の為政者ですらもが、全くといっていいほど実現できていない条件だといえる。
金融犯罪などの悪行を犯す小人が現れて、それに後付けで為政者が課税して、結果、
小人が徴税人を忌み嫌うような事態と化すといった現象全般が、極めて劣悪なものであり、
始めからそういった現象が発生しないように心がけるところにこそ、真の善徳が備わる
といえる。真の善徳がある所には、イエスみたいな人間は始めから生じないのである。
「蚕事畢りて、后妃繭を献ず。乃ち繭税を収め、桑を以って均と為し、貴賤長幼一の如くす」
「養蚕の時期が終わると、后妃が繭を献上する儀式を行う。儀式の中で繭を税として収めるが、
蚕が食した桑の多少によって税率を取り決め、生産者の貴賤長幼によって取り決めたりはしない。
(徴税が正統な儀礼にまで昇華されている事例。日本の皇后も養蚕を儀礼的に行ってる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
人間が死刑になる恐怖というのは、立派な賢人や聖人であれば十分に克服できるものだが、
小人には克服できない。羊や牛豚並みの精神の薄弱さでいて、なおかつ生命の死というものを
知識的に理解できる程度の思考能力を備えている人間=小人にとっては、自らが死ぬということが
何よりの恐怖であり、特に重罪行為への制裁として処刑されることこそが、最大級の恐怖となる。
その、処刑への恐怖こそを為政者もまた被治民への戒めとし、重罪人の処刑を大々的に公開したり、
刑死者の生首を晒しものにしたりすることもあったわけだが、その処刑への恐怖を逆手にとって、
最大級の恐怖からなる知能の退行をトリックとして、信者に無根拠な歓喜を備わらせてきたのが
キリスト信仰に当たる。処刑への恐怖を信仰対象にまでさせられた結果、信者は命の生死というもの
を知識的に理解できないIQ20〜35程度の低能にまで、知能を作為的に退行させる能力を身に付ける。
もちろん常時IQ20〜35では一般生活もままならないから、IQ100程度でいることも一応はできるが、
ことに死の恐怖を考えさせられるような段になれば、途端に十字架信仰によって知能をIQ20〜35
にまで退行させてしまう。退行して白痴のような歓喜に包まれる、というか、白痴そのものになる。
それはたとえば、仏者が悟りの先に得る歓喜などとは全くの別物であり、仏者は自らの知能を
退行させたりすることもなく、ただひたすら精進修行に励んだ末に、シラフのままでの悟りを得る。
知能を退行させたりすることがない健全な歓喜だから、罪を犯したことへの罪悪感までをも同時に
喪失してしまうようなこともなく、「諸悪莫作修善奉行」の真理もまた確固として把捉し続けられる。
十字架信者の場合には、刑死への恐怖によって知能をIQ20〜35にまで退行させることで歓喜を得ると
同時に、罪を犯すことへの罪悪感すら喪失してしまうものだから、平気で大罪すらも犯してしまう。
それは正しい悟りなどでは決してないから、正覚による歓喜こそは健全な歓喜であると
いえる一方で、十字架信仰による白痴化の歓喜は不健全な歓喜であるといえる。
小人には克服できない。羊や牛豚並みの精神の薄弱さでいて、なおかつ生命の死というものを
知識的に理解できる程度の思考能力を備えている人間=小人にとっては、自らが死ぬということが
何よりの恐怖であり、特に重罪行為への制裁として処刑されることこそが、最大級の恐怖となる。
その、処刑への恐怖こそを為政者もまた被治民への戒めとし、重罪人の処刑を大々的に公開したり、
刑死者の生首を晒しものにしたりすることもあったわけだが、その処刑への恐怖を逆手にとって、
最大級の恐怖からなる知能の退行をトリックとして、信者に無根拠な歓喜を備わらせてきたのが
キリスト信仰に当たる。処刑への恐怖を信仰対象にまでさせられた結果、信者は命の生死というもの
を知識的に理解できないIQ20〜35程度の低能にまで、知能を作為的に退行させる能力を身に付ける。
もちろん常時IQ20〜35では一般生活もままならないから、IQ100程度でいることも一応はできるが、
ことに死の恐怖を考えさせられるような段になれば、途端に十字架信仰によって知能をIQ20〜35
にまで退行させてしまう。退行して白痴のような歓喜に包まれる、というか、白痴そのものになる。
それはたとえば、仏者が悟りの先に得る歓喜などとは全くの別物であり、仏者は自らの知能を
退行させたりすることもなく、ただひたすら精進修行に励んだ末に、シラフのままでの悟りを得る。
知能を退行させたりすることがない健全な歓喜だから、罪を犯したことへの罪悪感までをも同時に
喪失してしまうようなこともなく、「諸悪莫作修善奉行」の真理もまた確固として把捉し続けられる。
十字架信者の場合には、刑死への恐怖によって知能をIQ20〜35にまで退行させることで歓喜を得ると
同時に、罪を犯すことへの罪悪感すら喪失してしまうものだから、平気で大罪すらも犯してしまう。
それは正しい悟りなどでは決してないから、正覚による歓喜こそは健全な歓喜であると
いえる一方で、十字架信仰による白痴化の歓喜は不健全な歓喜であるといえる。
麻薬中毒者だって、薬の服用中はヘラヘラしていられるが、薬が切れれば極重の苦痛に見舞われる。
一方で、薬を服用し続ければ副作用で命を縮めたり、重い障害を負ってしまったりする。
だから麻薬中毒による歓喜は不健全なことであるといえ、十字架信仰による歓喜もまた
全く同じような理由で不健全極まりない歓喜であるといえる。副作用を伴ったりしない
健全な歓喜を得るためには、色々と精進努力を心がける必要があるものであり、安易に
歓喜を得られるような選択肢には、かならず落とし穴が潜んでいると見なして差し支えない。
「无妄の疾あるも、薬勿くして喜び有り。无妄の薬は、試す可からざるなり」
「虚妄を排して誠実でいられるのならば、たとえ病にかかろうとも薬すらなく快癒の喜びを得られる。
虚妄を排して誠実ですらいられるのならば、対処的な薬餌療法などは試すべきですらない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・无妄・九五・象伝より)
一方で、薬を服用し続ければ副作用で命を縮めたり、重い障害を負ってしまったりする。
だから麻薬中毒による歓喜は不健全なことであるといえ、十字架信仰による歓喜もまた
全く同じような理由で不健全極まりない歓喜であるといえる。副作用を伴ったりしない
健全な歓喜を得るためには、色々と精進努力を心がける必要があるものであり、安易に
歓喜を得られるような選択肢には、かならず落とし穴が潜んでいると見なして差し支えない。
「无妄の疾あるも、薬勿くして喜び有り。无妄の薬は、試す可からざるなり」
「虚妄を排して誠実でいられるのならば、たとえ病にかかろうとも薬すらなく快癒の喜びを得られる。
虚妄を排して誠実ですらいられるのならば、対処的な薬餌療法などは試すべきですらない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・无妄・九五・象伝より)
人間の本性が誠実か虚妄かという問題はともかくとして、
仮に、誠実さによって虚妄を排することすらできたなら、人は麻薬的な
陶酔などに頼ることもなく、歓喜や安心を得られるようになっている。
誠実であろうとしてみた結果、イヤな気分になったりするとすれば、
それは誠実であろうとする上での基準を偽善に求めていたりするからで、
真善を基準とした真の誠実さとすら共にいられたなら、人は決して辟易などを
抱かされることもなく、麻薬性とも無縁な、健全な歓喜を得ることができる。
麻薬中毒者にとって、薬が切れた時の苦痛こそは、それはそれは恐ろしいものであるに違いないが、
それは麻薬が切れた所でこそ、野放しにしてきた自分たち自身の不誠実さと
直面させられる破目になるからで、いつまでも根本的な部分でくすぶり続けているその不誠実さこそは、
麻薬的な陶酔と共にでもなければ耐えられないほどの苦痛を、中毒者たち自身に強いている元凶なのである。
仮に、誠実さによって虚妄を排することすらできたなら、人は麻薬的な
陶酔などに頼ることもなく、歓喜や安心を得られるようになっている。
誠実であろうとしてみた結果、イヤな気分になったりするとすれば、
それは誠実であろうとする上での基準を偽善に求めていたりするからで、
真善を基準とした真の誠実さとすら共にいられたなら、人は決して辟易などを
抱かされることもなく、麻薬性とも無縁な、健全な歓喜を得ることができる。
麻薬中毒者にとって、薬が切れた時の苦痛こそは、それはそれは恐ろしいものであるに違いないが、
それは麻薬が切れた所でこそ、野放しにしてきた自分たち自身の不誠実さと
直面させられる破目になるからで、いつまでも根本的な部分でくすぶり続けているその不誠実さこそは、
麻薬的な陶酔と共にでもなければ耐えられないほどの苦痛を、中毒者たち自身に強いている元凶なのである。
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封建社会では、上位のものほど総合的な政治判断などを取り扱い、
下位のものほどその判断を実現するための下請けを委ねられる。
農作やモノ作りなどの実業は民間に委ねて、士分は基本、実業への従事すら禁じられる。
士人こそは実業や商業の興業を民間人に委ね、そのあり方をトップダウンに統制する
のであり、民間人のほうが士人に対してあれこれと注文を付けるのは失礼になる。
主権が民間人ではなく士人にあり、士人の判断に民間人が追従するのだから、
士人に発注された仕事を賢明にこなす必要があるのも民間人のほうである。
士人は士人で、自分よりもより上位の大夫諸侯らへの忠誠によって役務に励むが、
自らが徳治を施すことを「国民の皆様方のため」などというような、へつらい言葉で
飾ったりもせず、あくまで仁義道徳に根ざした自己判断で為政を執り行っていくのである。
上位のものが、下位の者にとっての奉仕者になるという、民主主義の原型ともなっている
ルサンチマン発散型の理念は、確かに聞こえはいいが、同時に絶対矛盾を宿してもいる。
古代ローマでの帝政などでも、皇帝が民衆への奉仕を約束するようなことがありはしたが、
最上位に皇帝がいて最下位に奴隷がいるという階級関係は全く変わらず、下位のものが
上位の者に奉仕するという根本的な社会構造が何ら変化を来たしたことはなかった。
上意下達がやはり人間社会の基本であり、そうでなかったり、その逆を行こうとしたりすれば
そのぶんだけ社会機能が不全化してしまう結果しか招かない。上位のものが下位のものに
奉仕するかのような欺瞞によって何かが良くなるなんていう幻想はもういい加減棄て去って、
いかに滞りのない健全な上下関係を人間社会において築き上げていくのか
ということのほうを本気で考え直していくべきだといえる。

下位のものほどその判断を実現するための下請けを委ねられる。
農作やモノ作りなどの実業は民間に委ねて、士分は基本、実業への従事すら禁じられる。
士人こそは実業や商業の興業を民間人に委ね、そのあり方をトップダウンに統制する
のであり、民間人のほうが士人に対してあれこれと注文を付けるのは失礼になる。
主権が民間人ではなく士人にあり、士人の判断に民間人が追従するのだから、
士人に発注された仕事を賢明にこなす必要があるのも民間人のほうである。
士人は士人で、自分よりもより上位の大夫諸侯らへの忠誠によって役務に励むが、
自らが徳治を施すことを「国民の皆様方のため」などというような、へつらい言葉で
飾ったりもせず、あくまで仁義道徳に根ざした自己判断で為政を執り行っていくのである。
上位のものが、下位の者にとっての奉仕者になるという、民主主義の原型ともなっている
ルサンチマン発散型の理念は、確かに聞こえはいいが、同時に絶対矛盾を宿してもいる。
古代ローマでの帝政などでも、皇帝が民衆への奉仕を約束するようなことがありはしたが、
最上位に皇帝がいて最下位に奴隷がいるという階級関係は全く変わらず、下位のものが
上位の者に奉仕するという根本的な社会構造が何ら変化を来たしたことはなかった。
上意下達がやはり人間社会の基本であり、そうでなかったり、その逆を行こうとしたりすれば
そのぶんだけ社会機能が不全化してしまう結果しか招かない。上位のものが下位のものに
奉仕するかのような欺瞞によって何かが良くなるなんていう幻想はもういい加減棄て去って、
いかに滞りのない健全な上下関係を人間社会において築き上げていくのか
ということのほうを本気で考え直していくべきだといえる。
人間関係に上下関係を設ける場合にも、秦帝国や大日本帝国のような一君万民の法家支配
が講じられることもあれば、漢帝国や江戸幕府のような緩やかな封建制が敷かれることもある。
歴史的に見れば、法家支配よりも封建支配のほうが遥かに大成功を遂げてきた事例が多く、
法家支配が封建支配並みの長期泰平統治を実現できたためしは未だかつて一度もない。
今の資本主義先進国のような民主制社会も、実務面では法治主義に頼り切っており、
万巻の実定法で世の中を締め付ける無理が祟って、いい加減崩壊の危機にも晒されている。
民主制が廃絶されたところに法治主義や独裁主義だけが残存するとすれば、それはそれは
恐ろしいことであり、だったらまだ民主主義でいたいという気持ちが湧いたとしても仕方が
ないところがあるが、もちろん法治主義や独裁主義ばかりが残存するわけではなく、法治主義や
独裁主義に振れきることがあるとすれば、それは想定し得る限りでも最悪の結果だといえる。
民主主義者が、自分たちへの人気を取り付けるための「劣悪なスケープゴート」として、独裁主義などが
やたらと取り上げられているところもあるため、そのようなプロパガンダからも目を覚ますべきだといえる。
「大徳は官せず、大道は器せず、大信は約さず、大時は斉しからず。此の四者を察するときは、以て本に志し有るべし。
三王の川を祭るや、皆な河を先として海を後とす。或るいは源なり、或いは委なり。此れを之れ本を務むと謂う」
「大徳は仕官するかしないかなどというところにはなく、大道は寛容かどうかなどというところにはなく、
大信は確約できるかどうかなどというところにはなく、大時は必ず予定通りかどうかなどというところにはない。
これらの意味を知るためには、必ず根本からの大志を具えている必要がある。湯文武の三王が水系を祭る際にも、
水の本源となる河川を先に祭り、河川から水を委ねられる海を後に祭った。これも本源への崇敬に努めたからだといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
が講じられることもあれば、漢帝国や江戸幕府のような緩やかな封建制が敷かれることもある。
歴史的に見れば、法家支配よりも封建支配のほうが遥かに大成功を遂げてきた事例が多く、
法家支配が封建支配並みの長期泰平統治を実現できたためしは未だかつて一度もない。
今の資本主義先進国のような民主制社会も、実務面では法治主義に頼り切っており、
万巻の実定法で世の中を締め付ける無理が祟って、いい加減崩壊の危機にも晒されている。
民主制が廃絶されたところに法治主義や独裁主義だけが残存するとすれば、それはそれは
恐ろしいことであり、だったらまだ民主主義でいたいという気持ちが湧いたとしても仕方が
ないところがあるが、もちろん法治主義や独裁主義ばかりが残存するわけではなく、法治主義や
独裁主義に振れきることがあるとすれば、それは想定し得る限りでも最悪の結果だといえる。
民主主義者が、自分たちへの人気を取り付けるための「劣悪なスケープゴート」として、独裁主義などが
やたらと取り上げられているところもあるため、そのようなプロパガンダからも目を覚ますべきだといえる。
「大徳は官せず、大道は器せず、大信は約さず、大時は斉しからず。此の四者を察するときは、以て本に志し有るべし。
三王の川を祭るや、皆な河を先として海を後とす。或るいは源なり、或いは委なり。此れを之れ本を務むと謂う」
「大徳は仕官するかしないかなどというところにはなく、大道は寛容かどうかなどというところにはなく、
大信は確約できるかどうかなどというところにはなく、大時は必ず予定通りかどうかなどというところにはない。
これらの意味を知るためには、必ず根本からの大志を具えている必要がある。湯文武の三王が水系を祭る際にも、
水の本源となる河川を先に祭り、河川から水を委ねられる海を後に祭った。これも本源への崇敬に努めたからだといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
「(子曰く、)若し礼無ければ則ち手足の錯く所無く、耳目の加うる所無く、進退揖讓制する所無し」
「礼に適わないものに対しては手足を置くところもなければ、耳目をあてるところもなく、出処進退や
拱手しての居住まいなどに、これといって節制をすべきところもない(孔子の子張と子貢に対する言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
盲目と刮目も狂信によって混同され、実際論と概念論もニヒリズムの揚げ足取りによって
ひとしなみにされたとき、人は思考や言動に何一つとして、理念による節制を施せなくなる。
深く実際性に根ざした人間規範として、最も典型的なのが礼儀作法であり、古典的な礼儀作法を
真摯に厳守すれば、それだけで数百年規模の泰平社会を実現することも可能となることが、
歴史上の実績からも明らかなこととなっている。しかし、その礼儀作法の拠り所となっている
詩書や易や論孟などの実際的な道徳論に対して、全く実地性に根ざさない概念論で揚げ足取りを加えて、
連動して古典的な礼儀作法の価値すらをも無みしてしまったりすれば、数十年としないうちに
戦乱による破滅を来たすことまでもが常套化してしまう。人々の思考や言動に数々の無礼が付帯
するようになってしまう原因はといえば、狂信による蒙昧や概念論が、正統な道徳論や真理学の
お株を奪ってしまったり、奪うまでいかずとも不実なみそくそ扱いを流布して、結局は正統な
道徳論や真理学の社会的な存在価値を減退させたり、滅尽させてしまったりすることによる。
「礼に適わないものに対しては手足を置くところもなければ、耳目をあてるところもなく、出処進退や
拱手しての居住まいなどに、これといって節制をすべきところもない(孔子の子張と子貢に対する言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
盲目と刮目も狂信によって混同され、実際論と概念論もニヒリズムの揚げ足取りによって
ひとしなみにされたとき、人は思考や言動に何一つとして、理念による節制を施せなくなる。
深く実際性に根ざした人間規範として、最も典型的なのが礼儀作法であり、古典的な礼儀作法を
真摯に厳守すれば、それだけで数百年規模の泰平社会を実現することも可能となることが、
歴史上の実績からも明らかなこととなっている。しかし、その礼儀作法の拠り所となっている
詩書や易や論孟などの実際的な道徳論に対して、全く実地性に根ざさない概念論で揚げ足取りを加えて、
連動して古典的な礼儀作法の価値すらをも無みしてしまったりすれば、数十年としないうちに
戦乱による破滅を来たすことまでもが常套化してしまう。人々の思考や言動に数々の無礼が付帯
するようになってしまう原因はといえば、狂信による蒙昧や概念論が、正統な道徳論や真理学の
お株を奪ってしまったり、奪うまでいかずとも不実なみそくそ扱いを流布して、結局は正統な
道徳論や真理学の社会的な存在価値を減退させたり、滅尽させてしまったりすることによる。
じゃあ、正統な道徳論や真理学に根ざした徳治を実現しようとする側に、全く邪見を撃退する手立てがないのか
といえば、そういうわけでもない。異端の邪教や概念論がまかり通って、正統な礼儀作法の実践も覚束ないような
状態に世の中全体が化してしまったとき、道家の無為自然や、兵家の風林火山が非常的な消火栓として発動する。
全く何もしないでいようとする道家の無為志向や、風のように速く動くことも山のように動かないでいることも
兵法のうちとする兵家のなんでもあり志向は、治世に濫用すればそれはそれで乱暴者の扱いをすら受け兼ねないもの。
しかし、世界のどこに行っても何一つとして礼儀作法が実践できないような乱世ともなれば、もはや有為無為に節制の
余地もなくなると孔子も上記のように述べている。有為に節制の余地がなくなるだけでなく、無為にも節制の余地がなくなる。
それはそれで、治世の実現と共に絶やされるべきものではあるにしろ、
際限のない無為という選択肢までもが、人間規範としての妥当性を帯びてしまう。
盲目も刮目とし、概念論も実際論と同等と見なすような異端の暴行こそが、それを実現する。
といえば、そういうわけでもない。異端の邪教や概念論がまかり通って、正統な礼儀作法の実践も覚束ないような
状態に世の中全体が化してしまったとき、道家の無為自然や、兵家の風林火山が非常的な消火栓として発動する。
全く何もしないでいようとする道家の無為志向や、風のように速く動くことも山のように動かないでいることも
兵法のうちとする兵家のなんでもあり志向は、治世に濫用すればそれはそれで乱暴者の扱いをすら受け兼ねないもの。
しかし、世界のどこに行っても何一つとして礼儀作法が実践できないような乱世ともなれば、もはや有為無為に節制の
余地もなくなると孔子も上記のように述べている。有為に節制の余地がなくなるだけでなく、無為にも節制の余地がなくなる。
それはそれで、治世の実現と共に絶やされるべきものではあるにしろ、
際限のない無為という選択肢までもが、人間規範としての妥当性を帯びてしまう。
盲目も刮目とし、概念論も実際論と同等と見なすような異端の暴行こそが、それを実現する。
「春秋左氏伝」襄公二十一年、定公四年などに、
蛇を「自明な禍い」の象徴として取り上げる発言が見られる。
確かに蛇は猛毒を持っている場合もあるから、危険であることが自明な
もののうちでも最たるものとして、非常に取り扱いやすい記号ともなる。
より大きな禍をもたらすものとしては、地震や台風などのほうが蛇以上だが、
自分から手を出して来たものに対して、ほぼ確実な禍いをもたらすものとしては、
蛇こそは地震や台風以上であり、幸いにも難を逃れられたりする可能性がより少ない。
あえて険を冒すということに、何か切実な目的が伴っている
のならともかく、ただの酔狂で蛇を掴むような自明な険を
冒すとすれば、それは決して人から同情されない結果を招く。
自分から好き好んで蛇を掴み、咬み付かれて毒が回って死んだという時、
たとえばその蛇に咬まれそうになっていた人を助けるためだったりすれば、
まだ人からの同情も得られるだろうが、ただの興味本位で好き好んで蛇を掴んで
死んだというのなら、常人なら「ただのバカ」と見なして、何ら同情することもない。
蛇を「自明な禍い」の象徴として取り上げる発言が見られる。
確かに蛇は猛毒を持っている場合もあるから、危険であることが自明な
もののうちでも最たるものとして、非常に取り扱いやすい記号ともなる。
より大きな禍をもたらすものとしては、地震や台風などのほうが蛇以上だが、
自分から手を出して来たものに対して、ほぼ確実な禍いをもたらすものとしては、
蛇こそは地震や台風以上であり、幸いにも難を逃れられたりする可能性がより少ない。
あえて険を冒すということに、何か切実な目的が伴っている
のならともかく、ただの酔狂で蛇を掴むような自明な険を
冒すとすれば、それは決して人から同情されない結果を招く。
自分から好き好んで蛇を掴み、咬み付かれて毒が回って死んだという時、
たとえばその蛇に咬まれそうになっていた人を助けるためだったりすれば、
まだ人からの同情も得られるだろうが、ただの興味本位で好き好んで蛇を掴んで
死んだというのなら、常人なら「ただのバカ」と見なして、何ら同情することもない。
何の目的もなく、ただの酔狂で険を冒すような愚か者をも救うと確約するカルト信仰が
あったとして、その信仰が反故になったとき、最悪の窮地に立たされながらも、
誰からも同情されることのない愚か者の群れが生ずる。その愚か者たちを同情して
やったとすれば、それは自分が新たな酔狂冒険是認主義の旗頭に挙げられる原因に
すらなり兼ねないので、まずは同情しないでいてやるほうが、本人たちのためにもなる。
仏や菩薩ほどの慈悲があろうとも、まずは同情せず、罪業に相応の罰を科していく。
懲罰に打ちひしがれて苦しんでいる姿を見て、そこから初めて、徐々に慈悲を施していく。
酔狂で罪業まみれの冒険に走ったりすることに同情するようなものはどこにもいないのだと
いうことを思い知らせて、これからもそうであり続けることを確立させる形での慈悲のみを施す。
進んで自業自得の破滅に突き進もうとする極度の愚か者に対しては、そういった、
若干厳しいとも思えるような措置が、よりためになることもあるのである。
「龍蛇の蟄るるは、以て身を存するがためなり」
「龍や蛇が冬篭りするのは、自分たちの長命を保つためである。
(蛇自身にすら養生を心がける気持ちはあるのであり、蛇を掴んで
必要もない窮地に陥るのは、どこまでも本人たち自身の落ち度でしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
あったとして、その信仰が反故になったとき、最悪の窮地に立たされながらも、
誰からも同情されることのない愚か者の群れが生ずる。その愚か者たちを同情して
やったとすれば、それは自分が新たな酔狂冒険是認主義の旗頭に挙げられる原因に
すらなり兼ねないので、まずは同情しないでいてやるほうが、本人たちのためにもなる。
仏や菩薩ほどの慈悲があろうとも、まずは同情せず、罪業に相応の罰を科していく。
懲罰に打ちひしがれて苦しんでいる姿を見て、そこから初めて、徐々に慈悲を施していく。
酔狂で罪業まみれの冒険に走ったりすることに同情するようなものはどこにもいないのだと
いうことを思い知らせて、これからもそうであり続けることを確立させる形での慈悲のみを施す。
進んで自業自得の破滅に突き進もうとする極度の愚か者に対しては、そういった、
若干厳しいとも思えるような措置が、よりためになることもあるのである。
「龍蛇の蟄るるは、以て身を存するがためなり」
「龍や蛇が冬篭りするのは、自分たちの長命を保つためである。
(蛇自身にすら養生を心がける気持ちはあるのであり、蛇を掴んで
必要もない窮地に陥るのは、どこまでも本人たち自身の落ち度でしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
悪人が悪人であるままに、瑣末な善行に励もうとするところに偽善が生じる。
他者に危害を加えることで自分が裕福になる、我田引水を基調とした悪行に
よってこそ溜め込んだ資産で、多少の慈善事業などを試みてみたところで、
全体としてはプラスマイナスゼロ以下の、有害無益なマッチポンプであり続ける。
それよりはむしろ、自分が我田引水ぐらいしか能のない悪人であることを開き直って、
部分的に取り組んでもみている偽善の行いを、巧みな修辞によって取り繕うことで
気休めにしたりすることをやめてしまったほうが、全体的な行いとしての悪行もまた
矮小なものに止まって、修辞を凝らした偽善を気休めとしながら悪行を推し進めていく
場合などよりも、全体的な悪因苦果の災禍もまた軽度なものに止め置くことができる。
だから、悪人ながらに偽善の行いに励むよりは、悪人であることを開き直って、
全体的な悪行を矮小なものに止め置いたほうがまだいい。本当に全体的な悪行を十分に
抑制した上で、悪行以上の善行を推し進められるとした時にこそ、善行にも励むべきで、
その時に為される善行こそは、偽善ではない真の善行となり、真の善行であるが故に、
悪因苦果以上の善因楽果をもたらして、災禍以上の福徳をもたらすことにもなるのである。
「遠邇有ること無く、罪を用いて厥の死を伐ち、徳を用いて厥の善を彰す」
「賞罰に遠近の差別を付けたりすることも無く、悪行には厳罰を科して罪人が
この世から死に絶えるようにし、善行には大いなる福徳をもたらしてこれを表彰する。
(善行にも悪行にも相応の賞罰を与えるのだから、悪行の範疇の偽善などでは全く不足である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上)
他者に危害を加えることで自分が裕福になる、我田引水を基調とした悪行に
よってこそ溜め込んだ資産で、多少の慈善事業などを試みてみたところで、
全体としてはプラスマイナスゼロ以下の、有害無益なマッチポンプであり続ける。
それよりはむしろ、自分が我田引水ぐらいしか能のない悪人であることを開き直って、
部分的に取り組んでもみている偽善の行いを、巧みな修辞によって取り繕うことで
気休めにしたりすることをやめてしまったほうが、全体的な行いとしての悪行もまた
矮小なものに止まって、修辞を凝らした偽善を気休めとしながら悪行を推し進めていく
場合などよりも、全体的な悪因苦果の災禍もまた軽度なものに止め置くことができる。
だから、悪人ながらに偽善の行いに励むよりは、悪人であることを開き直って、
全体的な悪行を矮小なものに止め置いたほうがまだいい。本当に全体的な悪行を十分に
抑制した上で、悪行以上の善行を推し進められるとした時にこそ、善行にも励むべきで、
その時に為される善行こそは、偽善ではない真の善行となり、真の善行であるが故に、
悪因苦果以上の善因楽果をもたらして、災禍以上の福徳をもたらすことにもなるのである。
「遠邇有ること無く、罪を用いて厥の死を伐ち、徳を用いて厥の善を彰す」
「賞罰に遠近の差別を付けたりすることも無く、悪行には厳罰を科して罪人が
この世から死に絶えるようにし、善行には大いなる福徳をもたらしてこれを表彰する。
(善行にも悪行にも相応の賞罰を与えるのだから、悪行の範疇の偽善などでは全く不足である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上)
日本語訳の犯罪聖書が、孟子などが用いていた本来の意味での「義」とは
全く真逆の意味を持つ「義」を、そのままこの文字をあてがって
誤訳してしまっていることは、すでに何度か述べたとおり。
四書五経で取り沙汰されている義が「正義」なら、犯罪氏聖書で取り沙汰されている義は「邪義」であり、
正義にとっての不義こそは邪義であり、邪義にとっての不義こそは正義であるという相反関係には当てはまる。
だから、正義と邪義とをみそくそに混同してしまえば、正義にとっての不義である邪義と、
邪義にとっての不義である正義とが、お互いを不義として定め合うことと化してしまい、
もはや義と不義の違いも見分けられないような事態と化してしまう。
正義と邪義と、いずれかが義であってもう一方は不義であるという分別を付けなければ、
義と不義とを分かっての裁きなどを実行することもまた覚束ず、何もかもを不義と見なして
一切合切、核戦争でドカンという結論にすら至りかねない。
一つ注意すべきなのは、「義」というのは社会的な理念であって、決して超俗的な真理にまつわる理念ではない
ということで、義か不義かなどという分別知を問題扱いすることは、超俗主義の哲学宗教などでは元から忌まれるもの。
それでもあえて義という問題を論ずるのならば、それが少なからず俗っぽい議論となることを許容すべき
なのであって、義か不義かという問題に超越的な論及をあてがって、概念によって実質を蔑ろに
してしまうようなことこそは避けられるべきであるということ。
全く真逆の意味を持つ「義」を、そのままこの文字をあてがって
誤訳してしまっていることは、すでに何度か述べたとおり。
四書五経で取り沙汰されている義が「正義」なら、犯罪氏聖書で取り沙汰されている義は「邪義」であり、
正義にとっての不義こそは邪義であり、邪義にとっての不義こそは正義であるという相反関係には当てはまる。
だから、正義と邪義とをみそくそに混同してしまえば、正義にとっての不義である邪義と、
邪義にとっての不義である正義とが、お互いを不義として定め合うことと化してしまい、
もはや義と不義の違いも見分けられないような事態と化してしまう。
正義と邪義と、いずれかが義であってもう一方は不義であるという分別を付けなければ、
義と不義とを分かっての裁きなどを実行することもまた覚束ず、何もかもを不義と見なして
一切合切、核戦争でドカンという結論にすら至りかねない。
一つ注意すべきなのは、「義」というのは社会的な理念であって、決して超俗的な真理にまつわる理念ではない
ということで、義か不義かなどという分別知を問題扱いすることは、超俗主義の哲学宗教などでは元から忌まれるもの。
それでもあえて義という問題を論ずるのならば、それが少なからず俗っぽい議論となることを許容すべき
なのであって、義か不義かという問題に超越的な論及をあてがって、概念によって実質を蔑ろに
してしまうようなことこそは避けられるべきであるということ。
孔子や孟子の道義論は、犯罪聖書の道義論などと比べて着実に俗っぽく、形而上への夢想を駆り立てるような
魅力にも欠けているが、それこそは世俗の理念である「義」を取り上げた論及として正統である証拠なのであり、
逆に義を語りながら超越神などを取り上げる犯罪聖書の論及姿勢こそは、そこで論じられている義もまた、
超越神の想定抜きには到底義であるなどとは見なすことができない、薄汚れた邪義である証拠なのだといえる。
「小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば勧まず、威さざれば懲りず。小しく懲らして大いに誡むるは、小人の福なり」
「小人は不仁を恥じることがなく、不義を畏れることもなく、利益になると見なければ努力せず、刑罰で威しでも
しなければ懲りもしない。だから、多少の懲らしめによって大きく戒めておくことは、小人にとっての福ともなる。
(小人は義とか不義とかいったものをそもそも軽く見ている。それでも義であらざるを得ない義とは何かといえば、
その義を反故にすることで自業自得の自滅を招くような仁義に当たる。だから仁義を反故にして自業自得の自滅に陥る
よりは、多少の威圧によってでも懲戒しておくほうが小人にとっての福ともなる。真の義とは、自明に仁義なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
魅力にも欠けているが、それこそは世俗の理念である「義」を取り上げた論及として正統である証拠なのであり、
逆に義を語りながら超越神などを取り上げる犯罪聖書の論及姿勢こそは、そこで論じられている義もまた、
超越神の想定抜きには到底義であるなどとは見なすことができない、薄汚れた邪義である証拠なのだといえる。
「小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば勧まず、威さざれば懲りず。小しく懲らして大いに誡むるは、小人の福なり」
「小人は不仁を恥じることがなく、不義を畏れることもなく、利益になると見なければ努力せず、刑罰で威しでも
しなければ懲りもしない。だから、多少の懲らしめによって大きく戒めておくことは、小人にとっての福ともなる。
(小人は義とか不義とかいったものをそもそも軽く見ている。それでも義であらざるを得ない義とは何かといえば、
その義を反故にすることで自業自得の自滅を招くような仁義に当たる。だから仁義を反故にして自業自得の自滅に陥る
よりは、多少の威圧によってでも懲戒しておくほうが小人にとっての福ともなる。真の義とは、自明に仁義なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
封建社会が官民や農工商階級の序列を徹底するのは、より上位のものほど何でも出来て、
より下位のものほど何も出来ないからじゃない。農夫は農夫として、工人は工人として、
商人は商人として自らの仕事に専念し、その分野にかけては他の誰にも代役がこなせない
ほどの業績を挙げるように心がける。そのためには、一部の商売人が国政や国際情勢までをも
左右するほどの権能を手に入れて、自分たちの私利私欲のために農業や必需工業や堅実な
小売業などを蔑ろにしてまで、金融業やガラクタ工業の事業ばかりを推進したりすることが
ないようにしなければならない。そのためには、悪徳商人が過剰な権益を手に入れたりすることを
取り締まる公人の側の心がけが必要になるが、そのような公人の心がけを有効化するためにこそ、
全ての民間人は公人を士大夫として自分たちの上位に置き、十分な畏敬の対象ともしなければならない。
(もちろん公人の側も、自分たちが士大夫として畏敬されるに値するだけの人徳を養う必要がある)
上位のものほど全知全能であり、下位のものほど無知無能であるなどという上下関係を
封建主義はよしとせず、上位のものほど徳性が高く、下位のものほど徳性が低い序列関係こそを
重んずる。「士農工商」という四民の序列関係も、先にあるものほど公益を守り育てるための
職業である一方、後にあるものほど私益を貪ることが主となる職業であるから、その根本的な
職能の徳性の高下に合わせて、士農工商という序列が封建社会では重んじられるのである。
より下位のものほど何も出来ないからじゃない。農夫は農夫として、工人は工人として、
商人は商人として自らの仕事に専念し、その分野にかけては他の誰にも代役がこなせない
ほどの業績を挙げるように心がける。そのためには、一部の商売人が国政や国際情勢までをも
左右するほどの権能を手に入れて、自分たちの私利私欲のために農業や必需工業や堅実な
小売業などを蔑ろにしてまで、金融業やガラクタ工業の事業ばかりを推進したりすることが
ないようにしなければならない。そのためには、悪徳商人が過剰な権益を手に入れたりすることを
取り締まる公人の側の心がけが必要になるが、そのような公人の心がけを有効化するためにこそ、
全ての民間人は公人を士大夫として自分たちの上位に置き、十分な畏敬の対象ともしなければならない。
(もちろん公人の側も、自分たちが士大夫として畏敬されるに値するだけの人徳を養う必要がある)
上位のものほど全知全能であり、下位のものほど無知無能であるなどという上下関係を
封建主義はよしとせず、上位のものほど徳性が高く、下位のものほど徳性が低い序列関係こそを
重んずる。「士農工商」という四民の序列関係も、先にあるものほど公益を守り育てるための
職業である一方、後にあるものほど私益を貪ることが主となる職業であるから、その根本的な
職能の徳性の高下に合わせて、士農工商という序列が封建社会では重んじられるのである。
上下関係をあてがうのであっても、それはあくまで、個々に特別な有能さを具備した人々が、
お互いの有能さを尊重し合いつつ生業を営んでいくための便宜とするのが封建主義なのであって、
その肝要は社会機能の健全化、人間社会の高機能化にこそある。全ての価値をカネに還元し、
カネを稼げる人間ほど偉く、稼げない人間ほど卑しいという資本主義社会のやり方では、かえって
世の中全体の機能が不全化してしまう面が多く、そのため短期間での破綻もまた免れ得ない。
それは、カネという尺度が公益よりも私益のために存在する価値基準であるからで、徳性の高下を
重んずる場合などと比べて、個人の私益がいかに貪られるかを自動的に念頭に置いてしまうものだから。
カネを最高の価値基準とすることが、個人の視点から見れば最も機能的であるかのようにも思われるが、
そのぶんだけ、カネという価値基準を念頭に置けば置くほど、個人の私益のために公益が損なわれる
こととなってしまう。だから、世の中全体がカネを全てとするのはかえって不合理なこととなり、
徳性の高下によって人間たち自身の上下関係を規定するほうが、より合理的な選択ともなる。あくまで
個々の人間の特別な有能さを最大限に引き出すためにこそ封建制も実施されるのであり、封建社会で
下位に置かれる人間だからといって、上位に置かれる人間以内の能力であっていいなどということはない。
刀鍛冶が、本職の侍にはこなせないほどの、工匠としての修練を積み重ねることでこそ、
武士の魂たる日本刀もまた精製されるのだから。
「仁に當たりては師にも譲らず」
「仁徳の心がけについては師にも譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三六より)
お互いの有能さを尊重し合いつつ生業を営んでいくための便宜とするのが封建主義なのであって、
その肝要は社会機能の健全化、人間社会の高機能化にこそある。全ての価値をカネに還元し、
カネを稼げる人間ほど偉く、稼げない人間ほど卑しいという資本主義社会のやり方では、かえって
世の中全体の機能が不全化してしまう面が多く、そのため短期間での破綻もまた免れ得ない。
それは、カネという尺度が公益よりも私益のために存在する価値基準であるからで、徳性の高下を
重んずる場合などと比べて、個人の私益がいかに貪られるかを自動的に念頭に置いてしまうものだから。
カネを最高の価値基準とすることが、個人の視点から見れば最も機能的であるかのようにも思われるが、
そのぶんだけ、カネという価値基準を念頭に置けば置くほど、個人の私益のために公益が損なわれる
こととなってしまう。だから、世の中全体がカネを全てとするのはかえって不合理なこととなり、
徳性の高下によって人間たち自身の上下関係を規定するほうが、より合理的な選択ともなる。あくまで
個々の人間の特別な有能さを最大限に引き出すためにこそ封建制も実施されるのであり、封建社会で
下位に置かれる人間だからといって、上位に置かれる人間以内の能力であっていいなどということはない。
刀鍛冶が、本職の侍にはこなせないほどの、工匠としての修練を積み重ねることでこそ、
武士の魂たる日本刀もまた精製されるのだから。
「仁に當たりては師にも譲らず」
「仁徳の心がけについては師にも譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三六より)
陰陽二元の和合にこそ、徳治の肝要を認める易学の観点に根ざせば、
全知全能の傍観者が最高支配者として世に君臨する為政などが最善とはならない。
この世の中の現象を的確に分析しようとする者自身が、身を挺しての実践をも共に
心がけねば徳治の最善は尽くされず、実践中には、観測もある程度は疎かになる。
年がら年中、出歯亀状態の観測行為に耽っていたりすれば、そのような傍観者を食わせて
やるためや、傍観者が観測行為によって収集した情報を記録しておくための保存媒体の確保の
ためなどに莫大なコストが嵩んでしまい、資金の補充のために下民に疲弊を強いることにもなる。
出歯亀による情報収集こそが根本に置かれるような為政は、徳治の最善が尽くされないのみならず、
観測だけしておいて、それによって収集された情報が何の役にも立てられず、世の中に不正な
観測を許容させていることによる無理が祟って、経済破綻などの破滅をも呼び込むことになる。
まさに、想定し得る限りでも最悪の部類の暴政を、出歯亀至上主義の為政が招くこととなる。
民主主義や資本主義の化けの皮をかぶった、出歯亀至上主義である今という時代が終焉して後、
大まかなところでは、封建統治を復興させることが肝になる。封建統治に移行することで世の中の
観測こそが絶対化されるような風潮は絶やされて、それぞれの人間が、それぞれの職分に応じた
生業に専念し、コストがかかり過ぎて経済破綻の原因になってしまうほどの傍観は禁じられる。
もちろん世の中の観測や記録を仕事とするものもそれなりに残されるが、それは太史令や尚書といった
正式な公職の仕事に限られることになり、正式な官職者として情報収集についても便利な立場に
置かれることが、最遠方からの出歯亀によって事物を観測する場合のようなコストの過剰も予防する。
それでもやはり司馬遷のように、皇帝への諫言が行き過ぎて宮刑を被り、最悪の屈辱の中で
何とか史書を書き上げるような、大きな苦労が伴うことにもなるだろうことが予想される。
全知全能の傍観者が最高支配者として世に君臨する為政などが最善とはならない。
この世の中の現象を的確に分析しようとする者自身が、身を挺しての実践をも共に
心がけねば徳治の最善は尽くされず、実践中には、観測もある程度は疎かになる。
年がら年中、出歯亀状態の観測行為に耽っていたりすれば、そのような傍観者を食わせて
やるためや、傍観者が観測行為によって収集した情報を記録しておくための保存媒体の確保の
ためなどに莫大なコストが嵩んでしまい、資金の補充のために下民に疲弊を強いることにもなる。
出歯亀による情報収集こそが根本に置かれるような為政は、徳治の最善が尽くされないのみならず、
観測だけしておいて、それによって収集された情報が何の役にも立てられず、世の中に不正な
観測を許容させていることによる無理が祟って、経済破綻などの破滅をも呼び込むことになる。
まさに、想定し得る限りでも最悪の部類の暴政を、出歯亀至上主義の為政が招くこととなる。
民主主義や資本主義の化けの皮をかぶった、出歯亀至上主義である今という時代が終焉して後、
大まかなところでは、封建統治を復興させることが肝になる。封建統治に移行することで世の中の
観測こそが絶対化されるような風潮は絶やされて、それぞれの人間が、それぞれの職分に応じた
生業に専念し、コストがかかり過ぎて経済破綻の原因になってしまうほどの傍観は禁じられる。
もちろん世の中の観測や記録を仕事とするものもそれなりに残されるが、それは太史令や尚書といった
正式な公職の仕事に限られることになり、正式な官職者として情報収集についても便利な立場に
置かれることが、最遠方からの出歯亀によって事物を観測する場合のようなコストの過剰も予防する。
それでもやはり司馬遷のように、皇帝への諫言が行き過ぎて宮刑を被り、最悪の屈辱の中で
何とか史書を書き上げるような、大きな苦労が伴うことにもなるだろうことが予想される。
では、その司馬遷が書き上げた中国発の正史書「史記」の内容はといえば、これこそ世の中の実相を
隈なく隅々まで見透かした未曾有の歴史書となっていて、西洋では表向きにはひた隠され続けている
縦横家や食客や政財癒着型権力犯罪の暗躍なども、如実に記録されている。私人が身勝手な都合で
あることないこと書き立てる野史などよりも、正式な史書官が天下国家の公益のために編纂した正史
のほうが、世の中の裏の裏のそのまた裏の闇の奥にまで監視の目を働かせており、出歯亀至上主義
の世の中などよりも、個々人が自らの職分においてこそ最大級の責任を果たす封建社会でこそ、
最も記録しにくい事物までをも記録し尽くした、真の万物把捉文化までもが大成されるのだといえる。
「道は須臾も離るべからざるなり、離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子は其の睹ざる所を戒め慎み、
其の聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見るるは莫く、微かなるより顕わなるは莫し。故に君子は其の独りを慎むなり」
「道は一瞬でも離れ去るべきものではない。離れ去っていいようなものはそもそも道ではない。そのため君子は
未だ見聞きできていないようなものに対しても恐れを欠かさず、常に戒慎を欠かさぬようにする。隠れているもの、
微細であるものほど露わとならずに済むものも他にないのだから、君子はその露呈に備えて、独りでも慎んでいる。
(君子は全知全能というわけではないが、あらゆる事態に備える。全知全能であった所で何の備えもない場合もある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一より)
隈なく隅々まで見透かした未曾有の歴史書となっていて、西洋では表向きにはひた隠され続けている
縦横家や食客や政財癒着型権力犯罪の暗躍なども、如実に記録されている。私人が身勝手な都合で
あることないこと書き立てる野史などよりも、正式な史書官が天下国家の公益のために編纂した正史
のほうが、世の中の裏の裏のそのまた裏の闇の奥にまで監視の目を働かせており、出歯亀至上主義
の世の中などよりも、個々人が自らの職分においてこそ最大級の責任を果たす封建社会でこそ、
最も記録しにくい事物までをも記録し尽くした、真の万物把捉文化までもが大成されるのだといえる。
「道は須臾も離るべからざるなり、離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子は其の睹ざる所を戒め慎み、
其の聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見るるは莫く、微かなるより顕わなるは莫し。故に君子は其の独りを慎むなり」
「道は一瞬でも離れ去るべきものではない。離れ去っていいようなものはそもそも道ではない。そのため君子は
未だ見聞きできていないようなものに対しても恐れを欠かさず、常に戒慎を欠かさぬようにする。隠れているもの、
微細であるものほど露わとならずに済むものも他にないのだから、君子はその露呈に備えて、独りでも慎んでいる。
(君子は全知全能というわけではないが、あらゆる事態に備える。全知全能であった所で何の備えもない場合もある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一より)
「知る」ということと「認める」ということは違うし、
「分かる」ということと「認める」ということも違う。
妾腹の私生児というイエスの境遇を、「神の子(キリスト)」などという言葉遊びで
不埒にも虚飾するようこともなく真っ向から知悉し、その不遇からなる劣等感にかられて
自暴自棄となり、本気で信じて実践すれば人類を滅亡させることにもなるような邪義邪見を
イエスが触れ回り、挙句に十字架にかけられて完全に死亡したという事情もよく分かる。
その上で、イエスの言行を認めない。救済に至る教条としての、イエスの言行の価値を認めない。
イエスの言行は、先天的な不遇を自主的な努力によって克服しようとすることもなく自滅に
陥った典型例であり、そこに自助努力すらもが欠けているが故に、教育的にも、そんな人間が
よりにもよって救われるなどということを認めるべきでない。認めるならむしろ、イエスと同じ
妾腹の私生児という不遇を、自学自習や自主的な先祖参りといった自助努力によって克服した
孔子こそを認めるべきなのであって、それでこそ、妾腹の私生児として生まれてしまったような
あらゆる人間に対する、真の救いに至る道の提示ともなるのである。
イエスの境遇だとか言行だとかいったものを、「神の子として生まれ、十字架にかけられて
死んでから蘇り天国に昇った」などという妄想も抜きにして、よく知悉して、よく理解する。
それでこそ、イエスの境遇はともかく、イエスの言行の価値を決して認めてはならないことが
よく認められる。ことに、イエスと同等かそれ以上*もの不遇を乗り越えて、大学者として * 孔子は妾腹の私生児である上に母子家庭で育った。
大成した孔子のような偉人が、イエスよりも500年も昔にすでに存在していたわけだから、
イエス自身もまた、不遇に駆られての自暴自棄などを正当化する余地はないのだといえる。
「人の己れを知らざるを患えず、己れの人を知らざるを患う」
「人が自分を知ってくれないことを心配したりはせず、自分が人を知らないことを心配する。
(人が自分を知ってくれないからといって自分も人を知ろうとしないとは、薄ら馬鹿の鸚鵡返しもいいとこだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——学而第一・一六より)
「分かる」ということと「認める」ということも違う。
妾腹の私生児というイエスの境遇を、「神の子(キリスト)」などという言葉遊びで
不埒にも虚飾するようこともなく真っ向から知悉し、その不遇からなる劣等感にかられて
自暴自棄となり、本気で信じて実践すれば人類を滅亡させることにもなるような邪義邪見を
イエスが触れ回り、挙句に十字架にかけられて完全に死亡したという事情もよく分かる。
その上で、イエスの言行を認めない。救済に至る教条としての、イエスの言行の価値を認めない。
イエスの言行は、先天的な不遇を自主的な努力によって克服しようとすることもなく自滅に
陥った典型例であり、そこに自助努力すらもが欠けているが故に、教育的にも、そんな人間が
よりにもよって救われるなどということを認めるべきでない。認めるならむしろ、イエスと同じ
妾腹の私生児という不遇を、自学自習や自主的な先祖参りといった自助努力によって克服した
孔子こそを認めるべきなのであって、それでこそ、妾腹の私生児として生まれてしまったような
あらゆる人間に対する、真の救いに至る道の提示ともなるのである。
イエスの境遇だとか言行だとかいったものを、「神の子として生まれ、十字架にかけられて
死んでから蘇り天国に昇った」などという妄想も抜きにして、よく知悉して、よく理解する。
それでこそ、イエスの境遇はともかく、イエスの言行の価値を決して認めてはならないことが
よく認められる。ことに、イエスと同等かそれ以上*もの不遇を乗り越えて、大学者として * 孔子は妾腹の私生児である上に母子家庭で育った。
大成した孔子のような偉人が、イエスよりも500年も昔にすでに存在していたわけだから、
イエス自身もまた、不遇に駆られての自暴自棄などを正当化する余地はないのだといえる。
「人の己れを知らざるを患えず、己れの人を知らざるを患う」
「人が自分を知ってくれないことを心配したりはせず、自分が人を知らないことを心配する。
(人が自分を知ってくれないからといって自分も人を知ろうとしないとは、薄ら馬鹿の鸚鵡返しもいいとこだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——学而第一・一六より)
妾腹の私生児に付いていったからといって、必ずしも破滅に見舞われるわけではなく、
その言行を模範とした為政に取り組んで、立派な治世を実現させることすらある。
ただ、そのような立派な模範となった妾腹の私生児はといえば、
父母への孝養こそを仁徳の根幹と見なし、十字架にもかけられかねないような
暴虎馮河の行いを未然に食い止める堅実さこそを、聖人君子たる条件として掲げた。
すなわち、孔子のことであり、同じ妾腹の私生児でありながら、イエスのとは全く
真逆の教条ばかりを是とし、その活動や行動規範も、実に健全なものであり続けた。
2000年前のイスラエルに、中国との国交があったとは到底思えないが、
当時すでに地球社会では、妾腹の私生児である孔子の興した儒学が、五経を
国学とした漢帝国の隆盛などを通じて大成功を収めており、2300年前の時点で孟子も
「孤立した臣下や妾の子は注意力が研ぎ澄まされて大成する(尽心章句上・一八)」
という論及をしているから、当時すでに世界レベルで、妾腹の子(庶子)に
期待をかける風潮があった可能性もなくはないといえる。
その言行を模範とした為政に取り組んで、立派な治世を実現させることすらある。
ただ、そのような立派な模範となった妾腹の私生児はといえば、
父母への孝養こそを仁徳の根幹と見なし、十字架にもかけられかねないような
暴虎馮河の行いを未然に食い止める堅実さこそを、聖人君子たる条件として掲げた。
すなわち、孔子のことであり、同じ妾腹の私生児でありながら、イエスのとは全く
真逆の教条ばかりを是とし、その活動や行動規範も、実に健全なものであり続けた。
2000年前のイスラエルに、中国との国交があったとは到底思えないが、
当時すでに地球社会では、妾腹の私生児である孔子の興した儒学が、五経を
国学とした漢帝国の隆盛などを通じて大成功を収めており、2300年前の時点で孟子も
「孤立した臣下や妾の子は注意力が研ぎ澄まされて大成する(尽心章句上・一八)」
という論及をしているから、当時すでに世界レベルで、妾腹の子(庶子)に
期待をかける風潮があった可能性もなくはないといえる。
しかし、注意力を研ぎ澄ませて大成する可能性がある庶子の中では、
イエスは明らかに失敗作だった。不遇の中で注意力を研ぎ澄ませるどころか、
逆に注意欠陥の障害を帯び、不遇をバネにした自助努力を心がけるどころか、
不遇からなる苦悩に駆られて自暴自棄となり、同じ庶子でありながら大成功を果たした
孔子などが最も非難する暴虎馮河の限りを尽くして、十字架にかけられて完全に死亡した。
妾腹の私生児に付いていったから破滅したのではなく、妾腹の私生児の失敗例に
特定して付いていったから、キリスト教徒も破滅に陥ったのである。その恨みや怒りを
妾腹の私生児一般に振り向けたりするのは全くのお門違いであり、そのような逆境をバネに
した自助努力すら試みなかったイエス自身や、自助努力すら必要ないとする安易な教条に
好き好んで付いていった自分たち自身を怨まなければならない。もしくは誰も怨まないか。
「君子の是の国に居るや、其の君之れを用うれば
則ち安富尊栄し、其の子弟之れに従わば、則ち孝弟忠信なり」
「君子が居留する国においては、主君がこれを用いれば世の中は平安で富も豊かとなり、
子弟がこれに従うだけでも、誰しもが父君への孝悌や忠信に励むようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・三二より)
イエスは明らかに失敗作だった。不遇の中で注意力を研ぎ澄ませるどころか、
逆に注意欠陥の障害を帯び、不遇をバネにした自助努力を心がけるどころか、
不遇からなる苦悩に駆られて自暴自棄となり、同じ庶子でありながら大成功を果たした
孔子などが最も非難する暴虎馮河の限りを尽くして、十字架にかけられて完全に死亡した。
妾腹の私生児に付いていったから破滅したのではなく、妾腹の私生児の失敗例に
特定して付いていったから、キリスト教徒も破滅に陥ったのである。その恨みや怒りを
妾腹の私生児一般に振り向けたりするのは全くのお門違いであり、そのような逆境をバネに
した自助努力すら試みなかったイエス自身や、自助努力すら必要ないとする安易な教条に
好き好んで付いていった自分たち自身を怨まなければならない。もしくは誰も怨まないか。
「君子の是の国に居るや、其の君之れを用うれば
則ち安富尊栄し、其の子弟之れに従わば、則ち孝弟忠信なり」
「君子が居留する国においては、主君がこれを用いれば世の中は平安で富も豊かとなり、
子弟がこれに従うだけでも、誰しもが父君への孝悌や忠信に励むようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・三二より)

「自分たちの罪から目を背けていられる期間」と同じ。
眼前に確たる有罪の証拠を突きつけられたとしても、刑死者すら蘇るという
完全破綻の狂信者にとっては、心の目をそこから逸らすぐらいわけもないこと。
1+1を3にも4にもできて、馬を鹿と思うことも自由自在なのが、人間の思考という
ものだから、思考がカルト的な狂信によって実相との連絡を蔑ろにしたところで、
重大犯罪者が自分たちを無罪だと思い込むことだって不可能なことではない。
ただ、まず実相との堅実な関係性を断ったウマシカ状態の思考にまみれることが、
実相に根ざした磐石な思考を堅持することと比べて、普遍的に苦痛なことであり、
そのような脳内妄想のお花畑に耽っていることが、普遍的に不幸なことだというのがある。
そして、脳内妄想によって現実上の重犯罪から目を背けて、性懲りもなく現実上の
現行逃亡犯であり続けたりしたなら、そのような犯罪現象を容認し続けている
世の中の側の無理が祟って、全世界規模での破綻を招いてしまう、結果、
自分自身の罪から目を背け続けていたようなカルト信者自身までもが、
否応なく絶体絶命の窮地に追い込まれてしまうということがある。
脳内妄想のお花畑に明け暮れているのがすでに決定的に不幸なことである上に、
最終的な結果として絶体絶命の窮地にも立たされるわけだから、自分たちの罪から目を背けて
それでよしとするようなカルト信仰には、始めから立ち入らないに越したことはないのだといえる。
「阿黨を是察し、則ち罪を掩蔽すること有る無からしむ」
「罪人の阿りによって不正に法が捻じ曲げられることを監視し、
それによって罪が隠蔽されるようなことがないように取り締まる。
(罪人が誰かに阿ったからといって、それで罪が隠蔽されたり、
減刑されたりすることからして、あってはならないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
この地球上のインド以西の世界に、「天」に相当する真正な事物は存在しない。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界のうちで、
インド以西の世界に存在するのは地獄・餓鬼・畜生・修羅の四界のみであり、
さらにイスラエル以西の西洋社会ともなれば、地獄・餓鬼・畜生の三界しか存在しない。
それでも、西洋社会を未だ支配し続けている邪教である聖書教の教義の中に、
「天」という言葉は多数出てくる。信者がいつかは天に召されるという予言を、
それこそ本物の天界を扱っているインド以東の宗教以上にも殊更に標榜し続けている。
では、聖書教が自分たちの定義で「天」と呼んでいるものは何かといえば、それは「畜生界」のこと。
畜生のように際限なく貪り喰らい、親子兄弟の関係なく誰とでも輪姦しまくる畜生界。
それが聖書教でいうところの「天」であり、当然、真正な定義に基づいた「天界」とは、全くの別物に当たる。
イスラムの天国描写は、そういった「畜生天国」の描写として如実であり、アブラハム教が
「天」と定義するところのものがただの畜生界であることが、聖書信仰以上にもよくわきまえられている。
とはいえ、イスラムが本分とするところのものは、畜生道でもなければ餓鬼道でも地獄道でもなく、修羅道であり、
「処女と何度でもやりまくれる」云々といったイスラムの天国描写は、浄土教の悪人正機などと同じように、
天国浄土への憧憬をあまりに過剰ならしめて、信者がお花畑状態となるようなことを防止しているのだともいえる。
「天」という名辞を決定的に取り違えて、天国への昇天という理想すら、所詮は畜生類としての欲望の成就
でしかない点が、聖書信者の決定的に救えない部分であり、連中が最高とする畜生界においても仏の声が
届かないことには変わりなく、届いたところで畜生なものだから、その言葉を理解することもできない。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界のうちで、
インド以西の世界に存在するのは地獄・餓鬼・畜生・修羅の四界のみであり、
さらにイスラエル以西の西洋社会ともなれば、地獄・餓鬼・畜生の三界しか存在しない。
それでも、西洋社会を未だ支配し続けている邪教である聖書教の教義の中に、
「天」という言葉は多数出てくる。信者がいつかは天に召されるという予言を、
それこそ本物の天界を扱っているインド以東の宗教以上にも殊更に標榜し続けている。
では、聖書教が自分たちの定義で「天」と呼んでいるものは何かといえば、それは「畜生界」のこと。
畜生のように際限なく貪り喰らい、親子兄弟の関係なく誰とでも輪姦しまくる畜生界。
それが聖書教でいうところの「天」であり、当然、真正な定義に基づいた「天界」とは、全くの別物に当たる。
イスラムの天国描写は、そういった「畜生天国」の描写として如実であり、アブラハム教が
「天」と定義するところのものがただの畜生界であることが、聖書信仰以上にもよくわきまえられている。
とはいえ、イスラムが本分とするところのものは、畜生道でもなければ餓鬼道でも地獄道でもなく、修羅道であり、
「処女と何度でもやりまくれる」云々といったイスラムの天国描写は、浄土教の悪人正機などと同じように、
天国浄土への憧憬をあまりに過剰ならしめて、信者がお花畑状態となるようなことを防止しているのだともいえる。
「天」という名辞を決定的に取り違えて、天国への昇天という理想すら、所詮は畜生類としての欲望の成就
でしかない点が、聖書信者の決定的に救えない部分であり、連中が最高とする畜生界においても仏の声が
届かないことには変わりなく、届いたところで畜生なものだから、その言葉を理解することもできない。
キリスト信仰という病を脱却して心の健やかさを取り戻すためには、そもそもキリスト信仰の範疇で
理想とされていた天国からして畜生界でしかなく、未だ聖書信者が本物の天などを察したことすら
ないという事実を受け入れて、全くの不可思議なものとしての天界や人界を希求していく必要がある。
それは、善いことだとか悪いことだとかいう以前に、意味の分からないことであるに違いなく、
不本意という以上に不可解なこととなるかと思う。不可解なことを悪と見なしたり、不必要なものとして
切り捨てたりする性向が、オッカムの剃刀なども通じて聖書信者には根付いてしまっているので、
不本意なことを受け入れる以上にも、全くの不可解に当たる事物の価値を察する能力から養っていく必要がある。
「天を蓋ぞ高しと謂うや、敢え局まずんばならず。
地を蓋ぞ厚しと謂うや、敢えて蹐しせずんばならず。
維れ斯の言を號ぶ、倫有り脊有る。哀れ今の人、胡為れぞ虺蜴のごとくなる」
「天をなぜ高いなどと言えよう、背くぐまって歩くほど恐れ慎まねばならぬ。
地をなぜ厚いなどと言えよう、抜き足で歩くほど慎み深くなければならぬ。
(天地の広大さにことかけて思い上がったりしないよう心がける)この言葉こそは大倫にも道理にも
適った言葉であるというのに、哀しいかな、今の人間ときたら、まるでミミズかトカゲのようでいる。
(自分を天地と比べてミミズかトカゲのように矮小なものだと考えているから、どこまでも思い上がりを
肥大化させもする。儒学が主要な研究対象としている人道は、天道よりも一段階格下ではあるものの、天道と
同じ三善道であり、悪道で天道よりも遥かに格下である餓鬼道や畜生道よりは、天を身近なものとして捉えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
理想とされていた天国からして畜生界でしかなく、未だ聖書信者が本物の天などを察したことすら
ないという事実を受け入れて、全くの不可思議なものとしての天界や人界を希求していく必要がある。
それは、善いことだとか悪いことだとかいう以前に、意味の分からないことであるに違いなく、
不本意という以上に不可解なこととなるかと思う。不可解なことを悪と見なしたり、不必要なものとして
切り捨てたりする性向が、オッカムの剃刀なども通じて聖書信者には根付いてしまっているので、
不本意なことを受け入れる以上にも、全くの不可解に当たる事物の価値を察する能力から養っていく必要がある。
「天を蓋ぞ高しと謂うや、敢え局まずんばならず。
地を蓋ぞ厚しと謂うや、敢えて蹐しせずんばならず。
維れ斯の言を號ぶ、倫有り脊有る。哀れ今の人、胡為れぞ虺蜴のごとくなる」
「天をなぜ高いなどと言えよう、背くぐまって歩くほど恐れ慎まねばならぬ。
地をなぜ厚いなどと言えよう、抜き足で歩くほど慎み深くなければならぬ。
(天地の広大さにことかけて思い上がったりしないよう心がける)この言葉こそは大倫にも道理にも
適った言葉であるというのに、哀しいかな、今の人間ときたら、まるでミミズかトカゲのようでいる。
(自分を天地と比べてミミズかトカゲのように矮小なものだと考えているから、どこまでも思い上がりを
肥大化させもする。儒学が主要な研究対象としている人道は、天道よりも一段階格下ではあるものの、天道と
同じ三善道であり、悪道で天道よりも遥かに格下である餓鬼道や畜生道よりは、天を身近なものとして捉えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
まだ、儒学とかいう趣味続けてたのか
血筋上からも、儒学には一生を捧げて行くつもりでいるし、
全世界の正規教育を洋学から儒学に是正することにも、本気で取り組んでいくつもりでいる。
そのための手段が、教育者になるか将帥になるか、はたまた帝王になるのかは分からないが、
どのような立場になるのであっても、儒学の復権と復興こそは、自分にとっての一生涯の課題になることだけは間違いがない。
神道の復興は、その道の専門家に任せることになるだろうし、
仏学の復興も、自分より後代の人間に任せることになるだろうし。
全世界の正規教育を洋学から儒学に是正することにも、本気で取り組んでいくつもりでいる。
そのための手段が、教育者になるか将帥になるか、はたまた帝王になるのかは分からないが、
どのような立場になるのであっても、儒学の復権と復興こそは、自分にとっての一生涯の課題になることだけは間違いがない。
神道の復興は、その道の専門家に任せることになるだろうし、
仏学の復興も、自分より後代の人間に任せることになるだろうし。
なにをもって洋学と指すのか
その定義がよくわからん。
その定義がよくわからん。
洋学=西洋の学
濁愛に溺れて悩乱を増長させていれば、それで神の庇護下に置かれるというのなら、乱交
パーティーの参加者こそは最も神の庇護を受けていることが確実な連中だということになる。
まさに、犯罪聖書が神の国=天国とする所のものは、畜生界そのものであることが分かる。
六道中の天界が、愛を否定する領域であるなどということもなく、仏界などと比べれば
それなりに愛の価値を認めている。しかし、その愛はといえば、節度を保った家族愛だったり、
忠君愛国の精神だったりして、決してただの情愛だったりするわけではない。人界を司る儒学が
仁徳に根ざした愛や勇気を選別して貴ぶのと同じように、天界もまた愛のあり方にそれなりの
方向性を備わらせ、全くの無軌道な情愛によって乱交に及ぶようなことを避けるようにする。
要するに、天界や人界といった善道に相当する領域においては、愛や勇気すらも制御下に置く
より高尚な理念が存在するわけで、それだけではあまりにも原始的に過ぎる愛や勇気といった
情念に一定の品位を保たせる点が、餓鬼界や畜生界とは決定的に異なっている点だといえる。
ただ愛に溺れていればそれで救われる、そんなことは実際にあり得ない。
むしろ愛欲に溺れて他が見えなくなることこそは、最も典型的な破滅の原因の一つであり、
項羽のような名将ですら、愛妾の虞美人にいいところを見せようとして、隣人愛の行き過ぎた
釈遠謀近の振る舞いに終始して多数派の支持を失い、漢軍に最終的な敗北を喫したのだった。
愛や勇気のような原始的な情念に囚われすぎれば、仁愛や大勇といったより先進的な理念に
基づいて自己を制御するものに最終的に敗れてしまうということは、ある程度歴史を
俯瞰した上での経験則によって、誰にでも導き出せる程度のこと。愛すらあれば、
勇気すらあれば勝てるなどと思っているのなら、相当な不勉強家であることが明らか。
パーティーの参加者こそは最も神の庇護を受けていることが確実な連中だということになる。
まさに、犯罪聖書が神の国=天国とする所のものは、畜生界そのものであることが分かる。
六道中の天界が、愛を否定する領域であるなどということもなく、仏界などと比べれば
それなりに愛の価値を認めている。しかし、その愛はといえば、節度を保った家族愛だったり、
忠君愛国の精神だったりして、決してただの情愛だったりするわけではない。人界を司る儒学が
仁徳に根ざした愛や勇気を選別して貴ぶのと同じように、天界もまた愛のあり方にそれなりの
方向性を備わらせ、全くの無軌道な情愛によって乱交に及ぶようなことを避けるようにする。
要するに、天界や人界といった善道に相当する領域においては、愛や勇気すらも制御下に置く
より高尚な理念が存在するわけで、それだけではあまりにも原始的に過ぎる愛や勇気といった
情念に一定の品位を保たせる点が、餓鬼界や畜生界とは決定的に異なっている点だといえる。
ただ愛に溺れていればそれで救われる、そんなことは実際にあり得ない。
むしろ愛欲に溺れて他が見えなくなることこそは、最も典型的な破滅の原因の一つであり、
項羽のような名将ですら、愛妾の虞美人にいいところを見せようとして、隣人愛の行き過ぎた
釈遠謀近の振る舞いに終始して多数派の支持を失い、漢軍に最終的な敗北を喫したのだった。
愛や勇気のような原始的な情念に囚われすぎれば、仁愛や大勇といったより先進的な理念に
基づいて自己を制御するものに最終的に敗れてしまうということは、ある程度歴史を
俯瞰した上での経験則によって、誰にでも導き出せる程度のこと。愛すらあれば、
勇気すらあれば勝てるなどと思っているのなら、相当な不勉強家であることが明らか。
「小子を迪き、惟れ土物を愛さしむれば、厥の心臧し」
「年少者を吉方へと導き、大地から生ずる諸々の卑近な事物を愛せたなら、心も善良となる。
(『易経』繋辞上伝にも『土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す』とあり、天上に在るような
夢想的な事物よりも、土着に根ざした卑近な事物を愛することのほうが、真の愛ともなる。
愛は本来女性の本分であり、女性が愛すべきものはわが子や夫である。元より情愛は、
卑近なものに対してこそ尽くされて然るべきようにできているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
「年少者を吉方へと導き、大地から生ずる諸々の卑近な事物を愛せたなら、心も善良となる。
(『易経』繋辞上伝にも『土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す』とあり、天上に在るような
夢想的な事物よりも、土着に根ざした卑近な事物を愛することのほうが、真の愛ともなる。
愛は本来女性の本分であり、女性が愛すべきものはわが子や夫である。元より情愛は、
卑近なものに対してこそ尽くされて然るべきようにできているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
「他人に優しく、自分に厳しく」は良好な人間関係の基本であり、
他人にかける負荷を軽くするどころか、極力なからしめるのが理想というもの。
それでいて自分自身には最大級の努力を常に促し、なおかつ己れに如かざる者を友としない。
そのため、自分自身が自主的な努力を心がけない人間とは結局のところ、友だちになるようなこともない。
封建社会では、上記のような人間規範をより心がけるものほど社会的な上位に置かれ、
逆に自助努力を心がけないもの同士で友だちを作ろうとするようなものほど下位に置かれる。
不祥事には切腹を以って臨むほどもの、薄氷を踏む思いでの役儀に務める武士こそは最上位に置かれ、
不正な富で友達を作ってなあなあでいようとするような悪徳商人などが最下位に置かれる。
そもそも商売人こそは、他人の労役にすがって私利私欲を貪ることを生業とした職業であるから、
人並み以上の努力を心がけるということが、基本ない。いかに楽して大金を稼ぐかということが
商売人にとっての本分であり、その職業的な本質に根ざして、人並み以上の努力を心がけるような
人間をお客様にすることこそできても、友人にするようなことは到底かなわない。
他人にかける負荷を軽くするどころか、極力なからしめるのが理想というもの。
それでいて自分自身には最大級の努力を常に促し、なおかつ己れに如かざる者を友としない。
そのため、自分自身が自主的な努力を心がけない人間とは結局のところ、友だちになるようなこともない。
封建社会では、上記のような人間規範をより心がけるものほど社会的な上位に置かれ、
逆に自助努力を心がけないもの同士で友だちを作ろうとするようなものほど下位に置かれる。
不祥事には切腹を以って臨むほどもの、薄氷を踏む思いでの役儀に務める武士こそは最上位に置かれ、
不正な富で友達を作ってなあなあでいようとするような悪徳商人などが最下位に置かれる。
そもそも商売人こそは、他人の労役にすがって私利私欲を貪ることを生業とした職業であるから、
人並み以上の努力を心がけるということが、基本ない。いかに楽して大金を稼ぐかということが
商売人にとっての本分であり、その職業的な本質に根ざして、人並み以上の努力を心がけるような
人間をお客様にすることこそできても、友人にするようなことは到底かなわない。
「労役が軽いものほど主人、重いものほど奴隷」というような間違った考え方が、資本主義などの商売本位
なイデオロギーによって流布されたりもするが、そういう世の中は間違っているから、そんなにもたない。
片や、人間の努力こそを評価基準に置く封建主義を敷いた日本の武家社会では、寛元元年(西暦1243年)に、
鎌倉幕府四代執権の北条経時によって、奴隷制と児童売買とが完全に禁止されている。これは、民に奴隷
並みの労役を課すことを撤廃したというよりは、重い労役を担うものが奴隷として卑しめられることを撤廃
したのだと考えたほうがよく、実際、奴隷制廃止後の日本でも、屠殺や処刑などの、重労働ではなくても、
血肉の穢れの多いような仕事に従事するものが、被差別部落として扱われ続けていたことは知られている。
他人に重労働を担わせて自分が楽をするものほど偉いという転倒した価値観が、人と世の中とを同時にダメにする。
むしろ自分から大きな努力を心がけるものを上位に置くぐらいでこそ順当であり、大変な仕事をする者も
楽な仕事をする者もみな平等というところですら、逆差別からなる不具合が生じてしまうことになる。
だから、より大きな努力を心がける職分をより上位に置く封建制までもが、順当にすらなるのである。
「人は其の田を舍てて人の田を芸り、
人に求むる所の者重くして、自らに任ずる所以の者の軽きを病うべし」
「自らの田を捨てて他人の田の草むしりをするように、
人に任務を課すこと以上にも、自らの任務を軽んじてしまうことを反省すべきだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
なイデオロギーによって流布されたりもするが、そういう世の中は間違っているから、そんなにもたない。
片や、人間の努力こそを評価基準に置く封建主義を敷いた日本の武家社会では、寛元元年(西暦1243年)に、
鎌倉幕府四代執権の北条経時によって、奴隷制と児童売買とが完全に禁止されている。これは、民に奴隷
並みの労役を課すことを撤廃したというよりは、重い労役を担うものが奴隷として卑しめられることを撤廃
したのだと考えたほうがよく、実際、奴隷制廃止後の日本でも、屠殺や処刑などの、重労働ではなくても、
血肉の穢れの多いような仕事に従事するものが、被差別部落として扱われ続けていたことは知られている。
他人に重労働を担わせて自分が楽をするものほど偉いという転倒した価値観が、人と世の中とを同時にダメにする。
むしろ自分から大きな努力を心がけるものを上位に置くぐらいでこそ順当であり、大変な仕事をする者も
楽な仕事をする者もみな平等というところですら、逆差別からなる不具合が生じてしまうことになる。
だから、より大きな努力を心がける職分をより上位に置く封建制までもが、順当にすらなるのである。
「人は其の田を舍てて人の田を芸り、
人に求むる所の者重くして、自らに任ずる所以の者の軽きを病うべし」
「自らの田を捨てて他人の田の草むしりをするように、
人に任務を課すこと以上にも、自らの任務を軽んじてしまうことを反省すべきだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
偽りの神を信じて自らの過ちを開き直り、どこまでも罪業を積み重ね尽くして、
当然のこととして破滅に陥り、これ以上偽りの神への邪信を続ければ必ず
滅亡が免れえず、その邪信を棄てて、自分たちの罪を相応に償っていく
ことを受け入れた場合に、何とか滅亡だけは免れられるといった段階。
ただ自分たちの罪を相応に償っていくことが必要となるだけでなく、
偽りの神への邪信をも共に棄て去らねばならない。どんなに大きな罪を犯した所で、
信じていさえすれば救われるなどという邪神信仰のあるところ、必ず精神の致命的な怠惰が共にあり、
自分たち自身で罪を償っていくことへの辟易が生じ、さらには服罪を中途で投げ出すようなことにすらなりかねない。
だから、累犯障害を正当化するような邪信はきっぱり棄て去った上での服罪にも臨んでいかなければならない。
せいぜい百数十年やそこらの邪信経歴しかない、日本のキリスト教徒などが棄教するのはまだ容易いこととして、
二千年来、キリストやエホバばかりに帰依して来た西洋人が完全な棄教に臨むのは、相当に抵抗のあることかと思う。
しかし、まずキリスト教は最初期の頃から、アウグスチヌスなどがマニ教を通じて仏教や拝火教の教義を取り入れ、
自殺の禁止などの、聖書には一切記載されていない戒律を後付けであてがうことで、何とか教団が保たれてきたという
経緯があり、あまりにも蒙昧なキリスト教自体の教義だけでは、とっくの昔にキリスト教団などというものは
亡び去っていたということがある。元よりキリスト教は、それ自体だけでは自存も不能な欠陥宗教であり、
仏教などの純正な信教からの補助があって初めて、これまでも辛うじてその経営が保たれて来ただけなのである。
当然のこととして破滅に陥り、これ以上偽りの神への邪信を続ければ必ず
滅亡が免れえず、その邪信を棄てて、自分たちの罪を相応に償っていく
ことを受け入れた場合に、何とか滅亡だけは免れられるといった段階。
ただ自分たちの罪を相応に償っていくことが必要となるだけでなく、
偽りの神への邪信をも共に棄て去らねばならない。どんなに大きな罪を犯した所で、
信じていさえすれば救われるなどという邪神信仰のあるところ、必ず精神の致命的な怠惰が共にあり、
自分たち自身で罪を償っていくことへの辟易が生じ、さらには服罪を中途で投げ出すようなことにすらなりかねない。
だから、累犯障害を正当化するような邪信はきっぱり棄て去った上での服罪にも臨んでいかなければならない。
せいぜい百数十年やそこらの邪信経歴しかない、日本のキリスト教徒などが棄教するのはまだ容易いこととして、
二千年来、キリストやエホバばかりに帰依して来た西洋人が完全な棄教に臨むのは、相当に抵抗のあることかと思う。
しかし、まずキリスト教は最初期の頃から、アウグスチヌスなどがマニ教を通じて仏教や拝火教の教義を取り入れ、
自殺の禁止などの、聖書には一切記載されていない戒律を後付けであてがうことで、何とか教団が保たれてきたという
経緯があり、あまりにも蒙昧なキリスト教自体の教義だけでは、とっくの昔にキリスト教団などというものは
亡び去っていたということがある。元よりキリスト教は、それ自体だけでは自存も不能な欠陥宗教であり、
仏教などの純正な信教からの補助があって初めて、これまでも辛うじてその経営が保たれて来ただけなのである。
また、先祖代々受け継いできた慣習といえども、その慣習に致命的な問題があるのならば、
自分たち子孫でその問題を是正していくのが孝行ともなる。日本でも、古代には全身に入墨を施すなどの土人然とした
風習があったことが「魏志倭人伝」などにも記録されているが、「親からもらった身体を妄りに傷つけない(孝経)」
という儒学の教えが流布されることで、その慣習も絶えた。(「孝経」は孝謙天皇の代に勅令で頒布されてもいる)
「礼記」坊記第三十にも「君子はその親の過ちを棄てて、その義を敬す」ともあり、間違ったことを信じ込んでいたから
といってその先祖を全く見損なうのではなく、間違っているなりに信義を通そうとしていたことへの敬意は払うのである。
先祖や親が偉大だから敬う以上にも、自らが進んで孝心を育むことによって、誠実さを養うことこそが重要であるのだから。
「誠を著し偽りを去るは礼の経なり(既出)。礼楽は天地の情により、
神明の徳に達す。上下の神を降興して、精粗の体を凝是し、父子君臣の節を領す」
「自らの誠実さをよく現し、偽りを十分に去ることで礼儀となる。礼楽は天地の情勢に感応し、
ついには神明の徳にまで達する。上下交々の神をも降臨させ賜いて、万物の形態をよく整え、
君臣父子間の節義までをも正すに至る(偽りの神などを排してこそ神明の徳に達し、父子の節までもが正される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
自分たち子孫でその問題を是正していくのが孝行ともなる。日本でも、古代には全身に入墨を施すなどの土人然とした
風習があったことが「魏志倭人伝」などにも記録されているが、「親からもらった身体を妄りに傷つけない(孝経)」
という儒学の教えが流布されることで、その慣習も絶えた。(「孝経」は孝謙天皇の代に勅令で頒布されてもいる)
「礼記」坊記第三十にも「君子はその親の過ちを棄てて、その義を敬す」ともあり、間違ったことを信じ込んでいたから
といってその先祖を全く見損なうのではなく、間違っているなりに信義を通そうとしていたことへの敬意は払うのである。
先祖や親が偉大だから敬う以上にも、自らが進んで孝心を育むことによって、誠実さを養うことこそが重要であるのだから。
「誠を著し偽りを去るは礼の経なり(既出)。礼楽は天地の情により、
神明の徳に達す。上下の神を降興して、精粗の体を凝是し、父子君臣の節を領す」
「自らの誠実さをよく現し、偽りを十分に去ることで礼儀となる。礼楽は天地の情勢に感応し、
ついには神明の徳にまで達する。上下交々の神をも降臨させ賜いて、万物の形態をよく整え、
君臣父子間の節義までをも正すに至る(偽りの神などを排してこそ神明の徳に達し、父子の節までもが正される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
「自分がこう言ったからこうだ」の絶対的な
ドグマを信じるところには、反証可能性もへったくれもない。
いくら全ての生物がいつかは死んで二度と生き返らないでいようが、自分が犯した罪は
自分で償わなければ因果律が破綻して後々により大きな禍いを招くのが普遍的であろうが、
「私があなた方の罪を負う。私は刑死しても生き返る」とほざいたノータリンの言うことを
信じてその言い分に沿おうとする以上は、実際にそうであることがあるかないかなどということとは
無関係に、ただ信じるが故にその言い分が是となり、科学的な反証にすら意義が見出されない。
では、全ての生きとし生けるものは必ず死ぬという諸行無常の真理や、犯した罪は自分で
償わなければより大きな禍いを招く因果応報などに反証可能性があるかといえば、それは事実ある。
絶対に死なない生物が存在していたり、冤罪によって実際に罪が償われたりすることがあれば、
諸行無常や因果応報も絶対真理ではないことになるから、ただの真理として
提示される諸行無常因果応報には、反証可能性があるといえる。
科学的な検証が可能なところに本物の真理や道理は存在する一方で、無理はその範囲外にある。
だから科学者ももはや、「信じるから是である」という無理カルトの狂信者を言い負かすことなどは
端から諦めている一方で、否定することが可能かもしれない範囲での論及を展開する
真理や道理の把捉者に対しては、旺盛な批判や懐疑の目を向けることができる。
ドグマを信じるところには、反証可能性もへったくれもない。
いくら全ての生物がいつかは死んで二度と生き返らないでいようが、自分が犯した罪は
自分で償わなければ因果律が破綻して後々により大きな禍いを招くのが普遍的であろうが、
「私があなた方の罪を負う。私は刑死しても生き返る」とほざいたノータリンの言うことを
信じてその言い分に沿おうとする以上は、実際にそうであることがあるかないかなどということとは
無関係に、ただ信じるが故にその言い分が是となり、科学的な反証にすら意義が見出されない。
では、全ての生きとし生けるものは必ず死ぬという諸行無常の真理や、犯した罪は自分で
償わなければより大きな禍いを招く因果応報などに反証可能性があるかといえば、それは事実ある。
絶対に死なない生物が存在していたり、冤罪によって実際に罪が償われたりすることがあれば、
諸行無常や因果応報も絶対真理ではないことになるから、ただの真理として
提示される諸行無常因果応報には、反証可能性があるといえる。
科学的な検証が可能なところに本物の真理や道理は存在する一方で、無理はその範囲外にある。
だから科学者ももはや、「信じるから是である」という無理カルトの狂信者を言い負かすことなどは
端から諦めている一方で、否定することが可能かもしれない範囲での論及を展開する
真理や道理の把捉者に対しては、旺盛な批判や懐疑の目を向けることができる。
しかし、批判や懐疑を加えることが、真理や道理の把捉者との議論に有益さを備わらせるわけでもない。
罪は自分で償わなければ決して償われないという因果応報を反証しようとすれば、検証者たち自身が
重罪人である場合に、その罪の償いがその分だけ疎かとなって、逃亡犯としての凶状が加味されるぶん、
後々にさらに甚大な禍いを招くことになる。その禍いは場合によっては人類滅亡級の代物にすらなるわけで、
因果応報や諸行無常の反証が可能だからといって、それに甘えて懐疑などの誹謗正法を加えればそれが
また禍いの種になるわけだから、やはり真理や道理に対しても信認を向けてこそ利益があるのだといえる。
あり得ないことを「信じるから是だ」といって狂信するのでもなく、
あり得ることにまでことごとく懐疑や批判の文句を加えるのでもなく、
あり得ることで確からしいことこそを信認して、信認したならではの
実践に邁進していくことこそが、有益無害な人間のあり方となる。
「有衆を以って天の罰を底す」
「多くの衆人からの信認と共に、天に任された罰を執り行う。
(刑罰は一身上の都合によって科したり科さなかったりしていいものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
罪は自分で償わなければ決して償われないという因果応報を反証しようとすれば、検証者たち自身が
重罪人である場合に、その罪の償いがその分だけ疎かとなって、逃亡犯としての凶状が加味されるぶん、
後々にさらに甚大な禍いを招くことになる。その禍いは場合によっては人類滅亡級の代物にすらなるわけで、
因果応報や諸行無常の反証が可能だからといって、それに甘えて懐疑などの誹謗正法を加えればそれが
また禍いの種になるわけだから、やはり真理や道理に対しても信認を向けてこそ利益があるのだといえる。
あり得ないことを「信じるから是だ」といって狂信するのでもなく、
あり得ることにまでことごとく懐疑や批判の文句を加えるのでもなく、
あり得ることで確からしいことこそを信認して、信認したならではの
実践に邁進していくことこそが、有益無害な人間のあり方となる。
「有衆を以って天の罰を底す」
「多くの衆人からの信認と共に、天に任された罰を執り行う。
(刑罰は一身上の都合によって科したり科さなかったりしていいものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
わたしわたしと言いながら公義を騙る、公私混同ならぬ公私転倒の大欺瞞。
公と私はえてして相反する関係にあるもので、どちらかを重んじれば必ずもう一方が軽んじられる。
特に民間の私人として私利私益ばかりを偏重すれば、必ずそれに相応の公益損失がもたらされることとなる。
そうならないためには、自らが徳治を本分とした公人=君子となることが必要で、正式な官人としての
立場に就きながら徳治を施すことで、私益と公益とが比例的な関係にあるようにすれば、場合に
よっては自らの福徳と世間の福徳とが一致する状態、すなわち仁義が実現されることにもなる。
しかし、それはただの私人としては決して可能となることではないし、仮に公職に就いたところで、
徳治などを全く志さず、ただただ我田引水を本当の目的とした暴政ばかりに耽ったりするのなら、
やはり私益と公益の比例関係は実現せず、私益を貪るほどに公益が損なわれる自体を招くこととなる。
自らの利得の追求と、公益の扶助とが連動する仁政の実現者、権力道徳者となるためには、
自分が正式な官人となり、さらには官人としての徳治を実践していく必要があるわけで、
たとえば民間の政商として徳治を志したりしても、やはり権力道徳者としての条件は満たせない。
どんなに民間の権力者として大権を蓄えたところで、民間人である時点でその本分は私益の追求で
あり続けるものだから、部分的な慈善活動などによって総合的な我田引水を償うことなどもできない。
仮に民間の権力者でも、全財産を投げ出せばそれが相当な公益扶助になるに違いないが、その時点で
本人が権力者ではなくなってしまう。民間人を権力者たらしめるのはどこまでもその財産のみであり、
しかも民間人としての財産の富裕さは、そのぶんだけ必ず公益の損壊にも付与している。だから、
民間人としての私益の追求が、寸分たりとも公益の扶助に寄与するようなこともないのである。
「公事は私議せず」「公けのことは私事として議してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五——礼記・曲礼下第二より)
公と私はえてして相反する関係にあるもので、どちらかを重んじれば必ずもう一方が軽んじられる。
特に民間の私人として私利私益ばかりを偏重すれば、必ずそれに相応の公益損失がもたらされることとなる。
そうならないためには、自らが徳治を本分とした公人=君子となることが必要で、正式な官人としての
立場に就きながら徳治を施すことで、私益と公益とが比例的な関係にあるようにすれば、場合に
よっては自らの福徳と世間の福徳とが一致する状態、すなわち仁義が実現されることにもなる。
しかし、それはただの私人としては決して可能となることではないし、仮に公職に就いたところで、
徳治などを全く志さず、ただただ我田引水を本当の目的とした暴政ばかりに耽ったりするのなら、
やはり私益と公益の比例関係は実現せず、私益を貪るほどに公益が損なわれる自体を招くこととなる。
自らの利得の追求と、公益の扶助とが連動する仁政の実現者、権力道徳者となるためには、
自分が正式な官人となり、さらには官人としての徳治を実践していく必要があるわけで、
たとえば民間の政商として徳治を志したりしても、やはり権力道徳者としての条件は満たせない。
どんなに民間の権力者として大権を蓄えたところで、民間人である時点でその本分は私益の追求で
あり続けるものだから、部分的な慈善活動などによって総合的な我田引水を償うことなどもできない。
仮に民間の権力者でも、全財産を投げ出せばそれが相当な公益扶助になるに違いないが、その時点で
本人が権力者ではなくなってしまう。民間人を権力者たらしめるのはどこまでもその財産のみであり、
しかも民間人としての財産の富裕さは、そのぶんだけ必ず公益の損壊にも付与している。だから、
民間人としての私益の追求が、寸分たりとも公益の扶助に寄与するようなこともないのである。
「公事は私議せず」「公けのことは私事として議してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五——礼記・曲礼下第二より)
征服被征服の絶対化を平時にも強要することが、主人と奴隷の服従関係の絶対化となる。
それは平時の社会的な人間関係として最劣等のものであり、そんな人間関係
ばかりを強要する社会は、社会形態からして最低劣ということになる。
徳治社会では、君臣関係がまず、服従被服従の関係であることを徹底して防止する。
臣下だから主君に臣従はするものの、それは奴隷の主人に対するような絶対服従ではなく、
お互いの距離感を保ちつつの、節義を尽くした上下関係であることを旨とする。
その君臣関係が自動的に官民上下の関係にも落とし込まれて、上下関係だからといって
絶対服従というのではなく、官民がお互いの距離を保つことで、それぞれに独立した活動が
保障され、共産主義の場合のような、産業の国家による完全統制などの事態も来たさない。
徳治が実現する場合には必ずそうなるが、当然失敗する場合もある。失敗がひどければ
ひどいほど、犯罪聖書が理想とするような絶対的な服従関係が君臣官民の間に敷かれる
ようになり、そのあまりもの窮屈さから、秦帝国の崩壊のような大破綻をも招くこととなる。
そういうことが無いようにするために、純正な儒学にも根ざした徳治を慎重に敷いていく
ことが必要である一方、絶対に真似してはいけない反面教師としての犯罪聖書の教義の
査察も多少は役に立つことがあるかもしれない。もちろん本分は徳治の主体的な実践で
あるにしろ、権力腐敗の極みをあらかじめ体系化してくれている犯罪聖書の教義を絶対に
実践しないように務めることが、権力の防腐措置として強力な効果をも挙げられるに違いない。
それは平時の社会的な人間関係として最劣等のものであり、そんな人間関係
ばかりを強要する社会は、社会形態からして最低劣ということになる。
徳治社会では、君臣関係がまず、服従被服従の関係であることを徹底して防止する。
臣下だから主君に臣従はするものの、それは奴隷の主人に対するような絶対服従ではなく、
お互いの距離感を保ちつつの、節義を尽くした上下関係であることを旨とする。
その君臣関係が自動的に官民上下の関係にも落とし込まれて、上下関係だからといって
絶対服従というのではなく、官民がお互いの距離を保つことで、それぞれに独立した活動が
保障され、共産主義の場合のような、産業の国家による完全統制などの事態も来たさない。
徳治が実現する場合には必ずそうなるが、当然失敗する場合もある。失敗がひどければ
ひどいほど、犯罪聖書が理想とするような絶対的な服従関係が君臣官民の間に敷かれる
ようになり、そのあまりもの窮屈さから、秦帝国の崩壊のような大破綻をも招くこととなる。
そういうことが無いようにするために、純正な儒学にも根ざした徳治を慎重に敷いていく
ことが必要である一方、絶対に真似してはいけない反面教師としての犯罪聖書の教義の
査察も多少は役に立つことがあるかもしれない。もちろん本分は徳治の主体的な実践で
あるにしろ、権力腐敗の極みをあらかじめ体系化してくれている犯罪聖書の教義を絶対に
実践しないように務めることが、権力の防腐措置として強力な効果をも挙げられるに違いない。
原理的には、犯罪聖書の教義を絶対に実践せず実践させないようにしさえすれば、
権力機構というものは絶対に腐敗することがない。実践の禁止を絶対化することが可能か
どうかはともかく、犯罪聖書の実践を永久に禁止すらできたなら、そのような世の中が
破綻級の腐敗を来たすことは絶対にないのだから、これはこれで好もしいことだといえる。
唯一無二にして最低最悪の邪義であればこそ、反面教師としては最高最良の範ともなり得る。
「節たる彼の南山、維の石も巌巌たる。赫赫たる師尹、民も具さに爾じを瞻ぐ。
憂える心も惔くるが如く、敢えて戲談もせず。国も既に卒斬せんとするに、何を用て監みざる」
「大きくそびえるかの終南の山に、ごつごつとした岩石が積み重なっているかのように、
赫赫とした大師尹氏のその威厳を、万民もまた畏怖の目で仰ぎ見る。焼けた肉のように心を
憂えさせ、もはや戯笑歓談も絶えて、傾国の危機にもはや救うものもないといった有り様で」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
権力機構というものは絶対に腐敗することがない。実践の禁止を絶対化することが可能か
どうかはともかく、犯罪聖書の実践を永久に禁止すらできたなら、そのような世の中が
破綻級の腐敗を来たすことは絶対にないのだから、これはこれで好もしいことだといえる。
唯一無二にして最低最悪の邪義であればこそ、反面教師としては最高最良の範ともなり得る。
「節たる彼の南山、維の石も巌巌たる。赫赫たる師尹、民も具さに爾じを瞻ぐ。
憂える心も惔くるが如く、敢えて戲談もせず。国も既に卒斬せんとするに、何を用て監みざる」
「大きくそびえるかの終南の山に、ごつごつとした岩石が積み重なっているかのように、
赫赫とした大師尹氏のその威厳を、万民もまた畏怖の目で仰ぎ見る。焼けた肉のように心を
憂えさせ、もはや戯笑歓談も絶えて、傾国の危機にもはや救うものもないといった有り様で」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
思考・発言・行動のうちで、発言が最も実質から乖離しやすい。
行動が必ず実質からの拘束を受けるのに対し、思考は洗脳や心神喪失などの
精神異常を来たさない限りにおいて実質と連動する。そして、発言は完全に実質から
乖離することができ、善を悪といったり、悪を善といったりすることが全く可能となる。
善を悪としたり、悪を善としたりする蒙昧な言葉に引きずられて、
思考までもが妄念に耽るようになり、重度の精神障害を併発することで、
完全に実質から乖離・相反しきった転倒夢想で思考が塗り固められるようになる。そして、
転倒夢想が常態となった悪思によって、息をするようにして悪行が為されるようになる。
カルト信者の場合、
「カルト教祖の悪言の視聴→自らの思考の転倒夢想への陥り→息をするような悪行」
という順序で悪行に至るし、カルト教祖の場合も、
「既存のカルト教義の視聴→新規のカルト教義の練り込み→新規カルト教義の流布」
という順序で、邪義の流布という悪行に走る場合がほとんど。
それは、世界最悪のカルト宗教であるキリスト教を興したイエスであっても同じこと。
(イエス以前にも、キリスト教と似たような邪義を練っていた害為正法外道は多数いた)
行動が必ず実質からの拘束を受けるのに対し、思考は洗脳や心神喪失などの
精神異常を来たさない限りにおいて実質と連動する。そして、発言は完全に実質から
乖離することができ、善を悪といったり、悪を善といったりすることが全く可能となる。
善を悪としたり、悪を善としたりする蒙昧な言葉に引きずられて、
思考までもが妄念に耽るようになり、重度の精神障害を併発することで、
完全に実質から乖離・相反しきった転倒夢想で思考が塗り固められるようになる。そして、
転倒夢想が常態となった悪思によって、息をするようにして悪行が為されるようになる。
カルト信者の場合、
「カルト教祖の悪言の視聴→自らの思考の転倒夢想への陥り→息をするような悪行」
という順序で悪行に至るし、カルト教祖の場合も、
「既存のカルト教義の視聴→新規のカルト教義の練り込み→新規カルト教義の流布」
という順序で、邪義の流布という悪行に走る場合がほとんど。
それは、世界最悪のカルト宗教であるキリスト教を興したイエスであっても同じこと。
(イエス以前にも、キリスト教と似たような邪義を練っていた害為正法外道は多数いた)
悪が悪言を生むという以上に、悪言こそが害悪の元凶となる。
言葉が神や真理であるどころか、言葉こそは害悪の最も純粋な元凶となるのであり、
普遍的な神威や真理のほうはといえば、言葉によって明文化されると否とに関わらず不滅である。
むしろ、孔子や孟子の生きた春秋戦国時代のような、汚濁にまみれた乱世にこそ、
あえて普遍的な人間道徳を明文化しようとする試みまでもが為されてしまったのであり、
「大道廃れて仁義あり」どころか、「大道廃れて普遍道理を語る言葉あり」なのだといえる。
言葉が善言であるか悪言であるかでいえば、当然善言であるほうがマシだが、かといって
善言に励むことが至上なのではなく、何も言わずに善行に励むことのほうがよっぽどいい。
多少口が悪くたって、善行こそは真実であるならば、言葉面は耳に心地よくとも、
行いは悪逆非道の塊りであったりするよりも遥かによいといえる。
善か悪かで言えば、むしろ悪のほうが言葉に依存することが多いことからも、
言葉に囚われるということは、総じて下劣なことであると見なすのが適切だといえる。
「巧言令色、足恭なるは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
言葉遣いや顔色ばかりがやたらとよさげなのを左丘明は恥とした。私(孔子)もそれを恥とする。
怨みを隠してまで人と交友するのを左丘明は恥とした。私もやはりそれを恥とする。
(怨みを隠してまで人と交友すれば、内面は憎悪、外面は美辞麗句ということになる。
左丘明は『春秋左氏伝』の著者だが、創作を恥とした孔子のペンネームである可能性もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二五より)
言葉が神や真理であるどころか、言葉こそは害悪の最も純粋な元凶となるのであり、
普遍的な神威や真理のほうはといえば、言葉によって明文化されると否とに関わらず不滅である。
むしろ、孔子や孟子の生きた春秋戦国時代のような、汚濁にまみれた乱世にこそ、
あえて普遍的な人間道徳を明文化しようとする試みまでもが為されてしまったのであり、
「大道廃れて仁義あり」どころか、「大道廃れて普遍道理を語る言葉あり」なのだといえる。
言葉が善言であるか悪言であるかでいえば、当然善言であるほうがマシだが、かといって
善言に励むことが至上なのではなく、何も言わずに善行に励むことのほうがよっぽどいい。
多少口が悪くたって、善行こそは真実であるならば、言葉面は耳に心地よくとも、
行いは悪逆非道の塊りであったりするよりも遥かによいといえる。
善か悪かで言えば、むしろ悪のほうが言葉に依存することが多いことからも、
言葉に囚われるということは、総じて下劣なことであると見なすのが適切だといえる。
「巧言令色、足恭なるは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
言葉遣いや顔色ばかりがやたらとよさげなのを左丘明は恥とした。私(孔子)もそれを恥とする。
怨みを隠してまで人と交友するのを左丘明は恥とした。私もやはりそれを恥とする。
(怨みを隠してまで人と交友すれば、内面は憎悪、外面は美辞麗句ということになる。
左丘明は『春秋左氏伝』の著者だが、創作を恥とした孔子のペンネームである可能性もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二五より)
権力犯罪は、国家や自治体が総出となって犯す罪であるために、
なかなか犯罪行為としての断罪が行き届きにくい。
司法をも掌握する権力者たち自身が犯す罪であるために、まず権力犯罪を取り締まる
法定からして疎かになる場合が多く、法規によって禁止されたところで軽罪扱いとなったり、
平気で脱法がまかり通って、法制が全く健全に機能しないといった事態を招きやすい。
今の戦時国際法を含む国際法群なども、アメリカなどのテロ国家によって平気で破られたり、
被告となった国が国際法廷に出席しなければ無効とされたりといった、有名無実なもののままである。
権力犯罪は、基本、法律によっては取り締まりきれない。
それこそ、仁徳に根ざした道徳律によってでもなければ十分には取り締まることができず、
道徳律が権力機構から放逐された世の中においては、ある程度以上に甚大な規模の権力犯罪は、
もはや誰も本気で取り締まる気すら起きないままでの、野放し状態と化してしまう。
「十人殺せば大罪人、十万人殺せば大英雄(チャップリン)」の論理がまかり通り、
かつての徳治社会のように、権力犯罪者に対しても厳酷な処罰が科されることが無くなったのを
「文明発展の証拠」とすら見なす薄ら馬鹿が一般認識ともなる。しかし、甚大な権力犯罪を
取り締まることも、取り締まる気を起こすこともできなくなっているのは、当世の人間が誰しも、
世の中の大局を見据えることもできない小人と化してしまっているからであり、権力犯罪者に厳罰が
科されることがなくなったのも、ただ小人の権力機構へののさばりが自由化されたからなだけなのであって、
重権力犯罪が野放しにされ続けていることによる世の中の荒廃は、紛れもなく致命的なものと化している。
なかなか犯罪行為としての断罪が行き届きにくい。
司法をも掌握する権力者たち自身が犯す罪であるために、まず権力犯罪を取り締まる
法定からして疎かになる場合が多く、法規によって禁止されたところで軽罪扱いとなったり、
平気で脱法がまかり通って、法制が全く健全に機能しないといった事態を招きやすい。
今の戦時国際法を含む国際法群なども、アメリカなどのテロ国家によって平気で破られたり、
被告となった国が国際法廷に出席しなければ無効とされたりといった、有名無実なもののままである。
権力犯罪は、基本、法律によっては取り締まりきれない。
それこそ、仁徳に根ざした道徳律によってでもなければ十分には取り締まることができず、
道徳律が権力機構から放逐された世の中においては、ある程度以上に甚大な規模の権力犯罪は、
もはや誰も本気で取り締まる気すら起きないままでの、野放し状態と化してしまう。
「十人殺せば大罪人、十万人殺せば大英雄(チャップリン)」の論理がまかり通り、
かつての徳治社会のように、権力犯罪者に対しても厳酷な処罰が科されることが無くなったのを
「文明発展の証拠」とすら見なす薄ら馬鹿が一般認識ともなる。しかし、甚大な権力犯罪を
取り締まることも、取り締まる気を起こすこともできなくなっているのは、当世の人間が誰しも、
世の中の大局を見据えることもできない小人と化してしまっているからであり、権力犯罪者に厳罰が
科されることがなくなったのも、ただ小人の権力機構へののさばりが自由化されたからなだけなのであって、
重権力犯罪が野放しにされ続けていることによる世の中の荒廃は、紛れもなく致命的なものと化している。
権力犯罪を取り締まるためにこそ、法律をも超えた道徳による統治が必要となる。
四書五経に書かれてあるような人間道徳の高潔さは、世俗社会に必ずしも必要なものではないかのように、
現代人からは思われがちだから、儒学道徳ほどもの高潔さで臨まないのなら、ことに、権力犯罪だけは
十分に取り締まることが絶対にできない。「法律すら守れば後は好きにしろ」などとという程度の
望みの低さでは、権力犯罪の悪逆非道までをも十分に取り締まることができない、のみならず、
法治主義からなる精神的な怠惰こそが、権力犯罪を助長して庇護する要因にすらなってしまう。
徳治社会においても、やはり法律は存在し続ける。法律家も当然、配備されなければならないと
孟子なども主張しているが、ただ、徳治社会では法律が絶対最高のものなどとは見なされず、
法律すら守れば後は野となれ山となれなどという、怠慢を決して許すことがない。
法律に全ての社会規範を還元することが、大社会での権力犯罪を助長することになるのは、
悠久の人類史が実証していることである上に、今の世情こそが最大級の証拠ともなっているのだから。
「以って王者の作る有ると為せば、将に今の諸侯を比ねて之れを誅せるか。其れ之れを教えて改めずんばしかる
後に之れを誅せるか。夫れ其の有に非ずして之れを取る者は盗なりと謂うは、類を充めて義を尽くすに至るなり」
「いま王者が仮に興ったなら、(権力犯罪で私益を収奪しまくっている)諸侯たちを一網打尽にして誅戮するだろうか。
それとも一度ぐらいは教戒して見逃してやり、それでも改めない場合に限って誅戮するだろうか。自分のものではない
のにこれを取るということが盗みとされるのは、法律によらずとも、義を尽くした至りとして扱うべき道徳律だといえる。
(大諸侯による民からの財産の収奪が、権力犯罪であるが故に一端の盗みとして扱われていなかったことを論じている。
孟子も大学者ではあっても王者ではないから、当時の現状に甘んじていたが、権力犯罪による盗みを盗みではないなどと
開き直れるのは乱世のうちだけで、王道が敷かれた治世においては、権力犯罪者も一端の盗人として扱われるようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
四書五経に書かれてあるような人間道徳の高潔さは、世俗社会に必ずしも必要なものではないかのように、
現代人からは思われがちだから、儒学道徳ほどもの高潔さで臨まないのなら、ことに、権力犯罪だけは
十分に取り締まることが絶対にできない。「法律すら守れば後は好きにしろ」などとという程度の
望みの低さでは、権力犯罪の悪逆非道までをも十分に取り締まることができない、のみならず、
法治主義からなる精神的な怠惰こそが、権力犯罪を助長して庇護する要因にすらなってしまう。
徳治社会においても、やはり法律は存在し続ける。法律家も当然、配備されなければならないと
孟子なども主張しているが、ただ、徳治社会では法律が絶対最高のものなどとは見なされず、
法律すら守れば後は野となれ山となれなどという、怠慢を決して許すことがない。
法律に全ての社会規範を還元することが、大社会での権力犯罪を助長することになるのは、
悠久の人類史が実証していることである上に、今の世情こそが最大級の証拠ともなっているのだから。
「以って王者の作る有ると為せば、将に今の諸侯を比ねて之れを誅せるか。其れ之れを教えて改めずんばしかる
後に之れを誅せるか。夫れ其の有に非ずして之れを取る者は盗なりと謂うは、類を充めて義を尽くすに至るなり」
「いま王者が仮に興ったなら、(権力犯罪で私益を収奪しまくっている)諸侯たちを一網打尽にして誅戮するだろうか。
それとも一度ぐらいは教戒して見逃してやり、それでも改めない場合に限って誅戮するだろうか。自分のものではない
のにこれを取るということが盗みとされるのは、法律によらずとも、義を尽くした至りとして扱うべき道徳律だといえる。
(大諸侯による民からの財産の収奪が、権力犯罪であるが故に一端の盗みとして扱われていなかったことを論じている。
孟子も大学者ではあっても王者ではないから、当時の現状に甘んじていたが、権力犯罪による盗みを盗みではないなどと
開き直れるのは乱世のうちだけで、王道が敷かれた治世においては、権力犯罪者も一端の盗人として扱われるようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
別に「儒学好き」ではない。
世情に見合った恙無い存在であるように努めているだけのことだ。
「新旧約聖書信仰」全般を救いようのないものと見なしているわけで、その内にはユダヤ信仰を含む。
新旧約聖書を参考書にしても聖典にまではしない、イスラムはこの内に入らない。
世情に見合った恙無い存在であるように努めているだけのことだ。
「新旧約聖書信仰」全般を救いようのないものと見なしているわけで、その内にはユダヤ信仰を含む。
新旧約聖書を参考書にしても聖典にまではしない、イスラムはこの内に入らない。
ヒトラーはユダヤ人を世相腐敗の元凶と見なして、そのホロコーストを試みて失敗したが、
ユダヤ人自体は、自分たちだけでは世の中を営むこともできない不具民族であり、
寄生対象となっている国家や社会が亡びれば、同時に死滅する運命にある。
他民族に寄生して富を収奪する、ユダヤ人のような悪性民族の介在を許容する国家や社会のほうが
主要な問題を抱えているのであり、自分たちで国家すら営める社会性を保持している人々こそが、
自分たちの国ではユダヤ寄生などを容認しないという、断固とした姿勢である必要こそがある。
そのためには、ユダヤ人が他民族に対してユダヤ人との共存を許容させるために拵えた一般向けの
邪教である、キリスト教などを根絶していく必要があるのであり、ユダヤ教だけは禁じておいて、
ユダヤ許容教であるキリスト教のほうは禁じないというのでは、片手落ちにも程があるといえる。
まるで、キリスト教こそはユダヤ教に対する対立宗教であるかのような認識が、未だ横行しているが、
キリスト教もまたユダヤ文化であり、その信仰対象は新旧約聖書である。旧約聖書だけが信仰対象である
ユダヤ教とは姉妹のような関係にあり、姉であるユダヤ教に貢ぐことを教義化した妹格がキリスト教に当たる。
ユダヤ文化ではなくアラブ文化であり、新旧約聖書を信仰対象とはせず、新旧約とはことごとく相反する教義を
明文化したコーランを聖典とするイスラムから初めて、ユダヤともキリシタンとも袂を分かっているのだといえる。
ユダヤ人自体は、自分たちだけでは世の中を営むこともできない不具民族であり、
寄生対象となっている国家や社会が亡びれば、同時に死滅する運命にある。
他民族に寄生して富を収奪する、ユダヤ人のような悪性民族の介在を許容する国家や社会のほうが
主要な問題を抱えているのであり、自分たちで国家すら営める社会性を保持している人々こそが、
自分たちの国ではユダヤ寄生などを容認しないという、断固とした姿勢である必要こそがある。
そのためには、ユダヤ人が他民族に対してユダヤ人との共存を許容させるために拵えた一般向けの
邪教である、キリスト教などを根絶していく必要があるのであり、ユダヤ教だけは禁じておいて、
ユダヤ許容教であるキリスト教のほうは禁じないというのでは、片手落ちにも程があるといえる。
まるで、キリスト教こそはユダヤ教に対する対立宗教であるかのような認識が、未だ横行しているが、
キリスト教もまたユダヤ文化であり、その信仰対象は新旧約聖書である。旧約聖書だけが信仰対象である
ユダヤ教とは姉妹のような関係にあり、姉であるユダヤ教に貢ぐことを教義化した妹格がキリスト教に当たる。
ユダヤ文化ではなくアラブ文化であり、新旧約聖書を信仰対象とはせず、新旧約とはことごとく相反する教義を
明文化したコーランを聖典とするイスラムから初めて、ユダヤともキリシタンとも袂を分かっているのだといえる。
キリスト教を信仰することで、ユダヤに反抗したようなつもりになって、実はユダヤに囚われたままでいる。
むしろ、嫌悪の対象となって当たり前であるユダヤを嫌悪しつつ、その社会的な介在だけは認めるという
最もタチの悪い精神状態にキリスト信者は追い込まれているわけで、それこそユダヤの思う壺だといえる。
ユダヤが好きか嫌いかなどという感情とは無関係に、ユダヤの社会的介在を認めないことが第一であり、
そのためには、ユダヤを世の中から効果的に締め出す事務体系が必要となる。キリスト教にはそれがないが、
イスラム教にはそれがある。アブラハム教ではない仏教や儒学にも、結局のところ、ユダヤ的なものを
世の中から効果的に排除して行ける体系を擁している。「ユダヤ教義を守ろうが守るまいが、キリストを信仰
すれば救われる」という教義を持つキリスト教こそは、ユダヤの跋扈を推進する元凶ともなっているのであり、
キリスト教すらこの世からなくなれば、ユダヤが生き延びる余地も無くなって、完全に死に絶えることとなる。
ユダヤ滅亡後にも、引き続きキリスト教やユダヤ教を禁教扱いとしていくことで、ユダヤ災禍の再発も
防止される。人々がその労力を欠かしすらしなければ、この世からユダヤを絶やすことも実際に可能なのである。
「厥の渠魁を殲して、脅従は治むる罔れ(既出)。汚俗に旧染するも、咸な与に維れ新たなれ」
「(世を汚した者どものうちの)首領格は殺し尽くして、脅されて従った者たちだけを許せ。
蛮族の汚れた俗習に久しく染まりきっていた者たちも、全員で一緒にいちからやり直すのだ。
(誰一人として、汚俗の率先者に放逐の余地は与えない。『維新』という言葉の典拠でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)
むしろ、嫌悪の対象となって当たり前であるユダヤを嫌悪しつつ、その社会的な介在だけは認めるという
最もタチの悪い精神状態にキリスト信者は追い込まれているわけで、それこそユダヤの思う壺だといえる。
ユダヤが好きか嫌いかなどという感情とは無関係に、ユダヤの社会的介在を認めないことが第一であり、
そのためには、ユダヤを世の中から効果的に締め出す事務体系が必要となる。キリスト教にはそれがないが、
イスラム教にはそれがある。アブラハム教ではない仏教や儒学にも、結局のところ、ユダヤ的なものを
世の中から効果的に排除して行ける体系を擁している。「ユダヤ教義を守ろうが守るまいが、キリストを信仰
すれば救われる」という教義を持つキリスト教こそは、ユダヤの跋扈を推進する元凶ともなっているのであり、
キリスト教すらこの世からなくなれば、ユダヤが生き延びる余地も無くなって、完全に死に絶えることとなる。
ユダヤ滅亡後にも、引き続きキリスト教やユダヤ教を禁教扱いとしていくことで、ユダヤ災禍の再発も
防止される。人々がその労力を欠かしすらしなければ、この世からユダヤを絶やすことも実際に可能なのである。
「厥の渠魁を殲して、脅従は治むる罔れ(既出)。汚俗に旧染するも、咸な与に維れ新たなれ」
「(世を汚した者どものうちの)首領格は殺し尽くして、脅されて従った者たちだけを許せ。
蛮族の汚れた俗習に久しく染まりきっていた者たちも、全員で一緒にいちからやり直すのだ。
(誰一人として、汚俗の率先者に放逐の余地は与えない。『維新』という言葉の典拠でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)

拝火教の教典「アヴェスター」の主要部ガーサーにも、
著者のザラスシュトラが邪神アンラ・マンユを口汚く罵る場面がある。
拝火教は兵家や武士道、イスラムなどと同じ修羅道であり、
修羅道では悪口雑言が計略の一つとして認められてもいる。
確かに修羅道自体、そんなに程度の高くないものであり、
人道や天道と共に三善趣の内に入れられることが基本である一方で、
地獄道や餓鬼道や畜生道と共に四悪趣の内に入れられることすらある。
ただ、それにしたって修羅道もまた、地獄餓鬼畜生の三悪趣よりはマシな部類であり、
未だ三悪趣が方々にはびこる濁世において、世の中を人道や天道や仏道といった
善良な方面へと導くことを明確な目的として、便宜的に修羅道をたしなむのは
許容されざるを得ないことであり、修羅を極度に忌むあまり、地獄界や鬼畜界へと吹き溜まって
しまう罪が、善巧方便として悪口雑言の計を用いる罪よりも重くなってしまうこともあるのである。
家族兄弟の関係こそは先天的なものである一方、友人や師弟の関係は後天的なもの。
この先天後天の倒錯こそが天性を見失い、ことごとく天命に違う志向性をもたらす元凶となる。
だから儒家は親子の関係を重視し、子の親に対する孝心を、臣下の主君に対する忠心の
雛形ともすることで、決して天命に違うことがない君臣の義を盤石とすることをも旨とする。
仮にここに、親族兄弟よりも友人師弟の関係を重視するものがいたとして、そのような者が
主君への忠誠を誓ったとする。友人関係を重視するものだから、君臣上下の関係すら横並びの
ものと見なそうとすることになるし、師弟の関係も身分の上下に拘束されるものではないから、
臣下の分際でいながら、主君に対してすら長であるかのような態度でいようとすることになる。
この先天後天の倒錯こそが天性を見失い、ことごとく天命に違う志向性をもたらす元凶となる。
だから儒家は親子の関係を重視し、子の親に対する孝心を、臣下の主君に対する忠心の
雛形ともすることで、決して天命に違うことがない君臣の義を盤石とすることをも旨とする。
仮にここに、親族兄弟よりも友人師弟の関係を重視するものがいたとして、そのような者が
主君への忠誠を誓ったとする。友人関係を重視するものだから、君臣上下の関係すら横並びの
ものと見なそうとすることになるし、師弟の関係も身分の上下に拘束されるものではないから、
臣下の分際でいながら、主君に対してすら長であるかのような態度でいようとすることになる。
将軍家剣術指南役であり、江戸大目付でもあった柳生宗矩なども、剣術を教示するに際しては、将軍に
対してですら師として振舞ったに違いないが、大目付などの幕府重役としての役職をこなすに際しては、
あたかも父・柳生石舟斎に対するかのような将軍家への畏敬と共に、務めに励んでいたに違いないのである。
いくら個人的な技量が優れていたところで、伊藤一刀斎や宮本武蔵のような一匹狼では、君臣の義を
父子の親並みにまで緊密とすることは覚束ないから、生涯牢人でいたり、細川家の客分でいたりした。
独行道をただひたすら歩むのではなく、家族総出で武門を押し上げていったあたりが、柳生の他の剣豪
との相違点であり、父子の親に根ざして君臣の義をわきまえる素養もまた豊かであることから、
将軍家剣術指南役という、武術家としても最高の栄誉に与ることができたのだった。
友人関係はおろか、師弟関係すら、君臣関係の雛形として見なしてよいものではなく、君臣関係はやはり
父子の関係こそを雛形とすべきものだ。仮に自らの友人や師が、自らの実父よりも能力的に優れていると
したところで、やはり父子の関係のほうが先天的なものであり、友人や師弟の関係は後天的なものだから、
「君臣関係を天命に適ったものとするため」という切実な理由に即して、友人や師弟の関係ではなく、父子の
関係こそを君臣の関係にも当てはめて、忠孝共に励んでいくように君子たるものは務めていくべきなのである。
「君子、親に篤ければ、則ち民仁に興る」
「為政者が親族への待遇を手厚くすれば、民もまた仁徳の心を興す。
(為政者が親族を冷遇すれば、民もまた仁徳を損なう。徳川家康も、
親族冷遇の教義があることを主な理由として、キリシタンを廃絶した)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二より)
対してですら師として振舞ったに違いないが、大目付などの幕府重役としての役職をこなすに際しては、
あたかも父・柳生石舟斎に対するかのような将軍家への畏敬と共に、務めに励んでいたに違いないのである。
いくら個人的な技量が優れていたところで、伊藤一刀斎や宮本武蔵のような一匹狼では、君臣の義を
父子の親並みにまで緊密とすることは覚束ないから、生涯牢人でいたり、細川家の客分でいたりした。
独行道をただひたすら歩むのではなく、家族総出で武門を押し上げていったあたりが、柳生の他の剣豪
との相違点であり、父子の親に根ざして君臣の義をわきまえる素養もまた豊かであることから、
将軍家剣術指南役という、武術家としても最高の栄誉に与ることができたのだった。
友人関係はおろか、師弟関係すら、君臣関係の雛形として見なしてよいものではなく、君臣関係はやはり
父子の関係こそを雛形とすべきものだ。仮に自らの友人や師が、自らの実父よりも能力的に優れていると
したところで、やはり父子の関係のほうが先天的なものであり、友人や師弟の関係は後天的なものだから、
「君臣関係を天命に適ったものとするため」という切実な理由に即して、友人や師弟の関係ではなく、父子の
関係こそを君臣の関係にも当てはめて、忠孝共に励んでいくように君子たるものは務めていくべきなのである。
「君子、親に篤ければ、則ち民仁に興る」
「為政者が親族への待遇を手厚くすれば、民もまた仁徳の心を興す。
(為政者が親族を冷遇すれば、民もまた仁徳を損なう。徳川家康も、
親族冷遇の教義があることを主な理由として、キリシタンを廃絶した)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二より)
世の中に最大級の災厄をもたらす度し難い邪神は、
正統な神仏や聖人君子よりも後からやって来て、先にいなくなる。
そうでなければ世の中も保ち得ないから、実際に地球人類も総合的には、
犯罪聖書の邪神を降伏できるだけの、質・量・古さ全てにおける優良さを備えた教学を用意している。
それが儒学であったり仏教であったり、神道であったりイスラムであったりする。
ヨハネが「付け足し」などとほざく、犯罪聖書の埒外にある学問宗教によってのみ、
犯罪聖書の非信仰者だけでなく、犯罪聖書の邪義に溺れている狂信者までもが救われ得る。
まことに無責任の至りであり、しかもそれでいて「犯罪聖書によってのみ救われる」などとも
ほざくのだから、犯罪聖書の著者や登場人物の悪意だけは、確かに真性のものであることが分かる。
犯罪聖書の著者や登場人物の悪意が本物なら、犯罪聖書の教義が、全人類を滅亡に陥れる邪義として
本物であることもまた、紛れもない事実である。全人類を滅亡に陥れるほどにも強毒性の害為正法外道
もまた稀有なものだから、その稀有さにこそ釣られて、西洋人たちも犯罪聖書信仰に惑溺していった。
「唯一無二にして最低最悪」の、「唯一無二」の部分だけを見て「しめた」と思い、
無軌道な好奇心と共に破滅への道程をまい進していった。
犯罪聖書信仰が単なる無道ではなく、それなりに秩序立てられた「道」であったことは事実である。
天道や仏道などとも同じ道であり、その道を歩んで行くことが「求道」になり得たのも事実である。
ただ、道ではあるにしたって、地獄道や鬼畜道であり、人間が突き進むことは禁じられるべき獣道だったから、
その道を歩み続けた結果、人としての犯罪聖書信者は破滅に陥らざるを得なくなったのである。
正統な神仏や聖人君子よりも後からやって来て、先にいなくなる。
そうでなければ世の中も保ち得ないから、実際に地球人類も総合的には、
犯罪聖書の邪神を降伏できるだけの、質・量・古さ全てにおける優良さを備えた教学を用意している。
それが儒学であったり仏教であったり、神道であったりイスラムであったりする。
ヨハネが「付け足し」などとほざく、犯罪聖書の埒外にある学問宗教によってのみ、
犯罪聖書の非信仰者だけでなく、犯罪聖書の邪義に溺れている狂信者までもが救われ得る。
まことに無責任の至りであり、しかもそれでいて「犯罪聖書によってのみ救われる」などとも
ほざくのだから、犯罪聖書の著者や登場人物の悪意だけは、確かに真性のものであることが分かる。
犯罪聖書の著者や登場人物の悪意が本物なら、犯罪聖書の教義が、全人類を滅亡に陥れる邪義として
本物であることもまた、紛れもない事実である。全人類を滅亡に陥れるほどにも強毒性の害為正法外道
もまた稀有なものだから、その稀有さにこそ釣られて、西洋人たちも犯罪聖書信仰に惑溺していった。
「唯一無二にして最低最悪」の、「唯一無二」の部分だけを見て「しめた」と思い、
無軌道な好奇心と共に破滅への道程をまい進していった。
犯罪聖書信仰が単なる無道ではなく、それなりに秩序立てられた「道」であったことは事実である。
天道や仏道などとも同じ道であり、その道を歩んで行くことが「求道」になり得たのも事実である。
ただ、道ではあるにしたって、地獄道や鬼畜道であり、人間が突き進むことは禁じられるべき獣道だったから、
その道を歩み続けた結果、人としての犯罪聖書信者は破滅に陥らざるを得なくなったのである。
ある意味、「お疲れ様」ではある。
決して円満な末路であるなどとは言えないし、それこそ人類滅亡の次ぐらいにどうしようもない
最期ではあるわけだが、檻の中やサナトリウムの中で待っているのは、それはそれで休息でもある。
罪を償っていくこれから以上にも、罪を犯し尽くすことを求道として来たこれまでこそは最大級の
苦痛と共にあったに違いなく、その苦痛に耐えることを以って「敬虔さ」にも代えてきたに違いない。
どこまでも墓穴を掘り下げる、闇の底へのまい進が、転倒夢想とも無縁なところにある本念に対して
多大なる苦痛を加えて来たからこそ、善因楽果悪因苦果の罪福異熟をも諾ってしまったに違いないのであり、
人でなしであることも所詮は演技だったから、最悪の邪義から生還することもまた可能となったのである。
その方法は決して好ましいものでないにしても、生還できただけでもありがたい事に違いない。
「古の君子は、大事(養老の礼)を挙げるや、必ず其の終始を慎む。
而るを衆安んぞ喩らざるを得んや。(兌命に)曰く、終始を念いて学に典すと」
「昔の君子は、老後の孝養の礼を尽くすことを、始め(アルファ)から終わり(オメガ)まで一貫して慎んだ。
どうして衆人などにその価値を理解することができようか。『書経』にも『終始を念頭に置いて学問に励む』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
「危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしめ、其の道甚だ大にして、百物廃れず。
懼れて以て終始すれば、其の要は咎无し。此こを之れ易の道と謂うなり」
「よく危ぶむ注意を欠かさぬ者を平安ならしめ、侮り注意に欠ける者を傾かせる。その道はどこまでも広大であって、
万物を廃れさせるようなことがない。終始畏れ慎んで注意していれば問題はない。これこそが易の道であるといえる。
(『そのままにしておけ』などという侮りが事物を傾かせる。一方で、そのような愚物を含む万物を易は廃れさせない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
決して円満な末路であるなどとは言えないし、それこそ人類滅亡の次ぐらいにどうしようもない
最期ではあるわけだが、檻の中やサナトリウムの中で待っているのは、それはそれで休息でもある。
罪を償っていくこれから以上にも、罪を犯し尽くすことを求道として来たこれまでこそは最大級の
苦痛と共にあったに違いなく、その苦痛に耐えることを以って「敬虔さ」にも代えてきたに違いない。
どこまでも墓穴を掘り下げる、闇の底へのまい進が、転倒夢想とも無縁なところにある本念に対して
多大なる苦痛を加えて来たからこそ、善因楽果悪因苦果の罪福異熟をも諾ってしまったに違いないのであり、
人でなしであることも所詮は演技だったから、最悪の邪義から生還することもまた可能となったのである。
その方法は決して好ましいものでないにしても、生還できただけでもありがたい事に違いない。
「古の君子は、大事(養老の礼)を挙げるや、必ず其の終始を慎む。
而るを衆安んぞ喩らざるを得んや。(兌命に)曰く、終始を念いて学に典すと」
「昔の君子は、老後の孝養の礼を尽くすことを、始め(アルファ)から終わり(オメガ)まで一貫して慎んだ。
どうして衆人などにその価値を理解することができようか。『書経』にも『終始を念頭に置いて学問に励む』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
「危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしめ、其の道甚だ大にして、百物廃れず。
懼れて以て終始すれば、其の要は咎无し。此こを之れ易の道と謂うなり」
「よく危ぶむ注意を欠かさぬ者を平安ならしめ、侮り注意に欠ける者を傾かせる。その道はどこまでも広大であって、
万物を廃れさせるようなことがない。終始畏れ慎んで注意していれば問題はない。これこそが易の道であるといえる。
(『そのままにしておけ』などという侮りが事物を傾かせる。一方で、そのような愚物を含む万物を易は廃れさせない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
使徒が「イエスが生きている証拠を見せられた」と言いながら、
イエスが磔刑後に蘇生したという歴史的な証拠は何もなく、
蘇生後に何らかの活動を行ったというような記録も全くない。
コーランでは、イエスはそもそも刑死すらせずに余生を全うしたとされている。
「刑死して生き返る」という夢物語を根本から廃絶しているから、
極刑級の罪を犯しても生き返られるかのような思い込みもまた排される。
イエスが刑死して二度と生き返らなかったと見なせば、累犯障害には罹患しないし、
またイエスが刑死していなかったということを信じても、累犯障害には罹患しない。
イエスが刑死して生き返ったということを信じるときにこそ、信者が累犯障害を患い、
生き返って神の国に召されたなどと信じ込めば信じ込むほど、累犯障害も深刻化する。
キリスト信仰が、累犯障害を深刻化させる一方で、イスラム信仰が、
累犯障害を深刻化させることはない根拠が、まずここにある。
ユダヤ信仰では、イエスが救世主であることを信じず、真の救世主は最後の審判の時に
初めて降臨するとされる。ただ、イエス・キリストが将来降臨する救世主の「雛形」で
あることは認めており、刑死して生き返るという新約聖書中のイエスにまつわる奇跡が、
将来降臨する救世主によってこそ、真に実現されるともしている。
そのため、ユダヤ信仰もまたキリスト信仰と同じように、「刑死して生き返る」
という物語構造への信奉によって累犯障害を深刻化させ、極刑級の重罪を
犯しながら生き続けようとする無理の強行を、信者にけしかけることとなる。
キリスト信仰とユダヤ信仰が、信者の累犯障害を深刻化させる信仰である一方で、
イスラム信仰が、信者を累犯障害に罹患させない信仰である根拠は、以上の如くである。
「仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂う可し」
「仁者は苦難を乗り越えることを優先し、利益を得ることは最後とする。それでこそ仁だといえる。
(刑死という、人間にとっての最大級の苦難にすら利得を期待するような性向が根付けば、
二度と難きを先にして獲るを後とする、仁者の心がけではいられなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・)
イエスが磔刑後に蘇生したという歴史的な証拠は何もなく、
蘇生後に何らかの活動を行ったというような記録も全くない。
コーランでは、イエスはそもそも刑死すらせずに余生を全うしたとされている。
「刑死して生き返る」という夢物語を根本から廃絶しているから、
極刑級の罪を犯しても生き返られるかのような思い込みもまた排される。
イエスが刑死して二度と生き返らなかったと見なせば、累犯障害には罹患しないし、
またイエスが刑死していなかったということを信じても、累犯障害には罹患しない。
イエスが刑死して生き返ったということを信じるときにこそ、信者が累犯障害を患い、
生き返って神の国に召されたなどと信じ込めば信じ込むほど、累犯障害も深刻化する。
キリスト信仰が、累犯障害を深刻化させる一方で、イスラム信仰が、
累犯障害を深刻化させることはない根拠が、まずここにある。
ユダヤ信仰では、イエスが救世主であることを信じず、真の救世主は最後の審判の時に
初めて降臨するとされる。ただ、イエス・キリストが将来降臨する救世主の「雛形」で
あることは認めており、刑死して生き返るという新約聖書中のイエスにまつわる奇跡が、
将来降臨する救世主によってこそ、真に実現されるともしている。
そのため、ユダヤ信仰もまたキリスト信仰と同じように、「刑死して生き返る」
という物語構造への信奉によって累犯障害を深刻化させ、極刑級の重罪を
犯しながら生き続けようとする無理の強行を、信者にけしかけることとなる。
キリスト信仰とユダヤ信仰が、信者の累犯障害を深刻化させる信仰である一方で、
イスラム信仰が、信者を累犯障害に罹患させない信仰である根拠は、以上の如くである。
「仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂う可し」
「仁者は苦難を乗り越えることを優先し、利益を得ることは最後とする。それでこそ仁だといえる。
(刑死という、人間にとっての最大級の苦難にすら利得を期待するような性向が根付けば、
二度と難きを先にして獲るを後とする、仁者の心がけではいられなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・)
イスラム信仰もまた、開祖のムハンマドが対キリスト教徒の戦いで数々の戦績を挙げた
軍人でもあることから、信者の戦闘意欲を活発化させるような傾向があることは確かだ。
しかし、戦闘意欲を活発化させたところで、累犯障害を深刻化させるようなことはないから、
イスラム圏では金融業で利子を付けることが厳禁されるなどして、政財界の暴走からなる
権力犯罪の深刻化なども未然に防いでいくように努められている。
キリスト教やユダヤ教と同じアブラハム教でありながら、イスラム教だけは、
信者が今の日本人ほどにも累犯障害を深刻化させていない。日本人は戦後、信教に対する
確固とした認識をWGIPなどを通じて解体され、キリスト教でも仏教でも宗教なんか何でも
いいというようないい加減さを植え付けられてしまったものだから、自然と聖書信仰の
毒性までをも受け入れてしまい、聖書信者であることを自認もしないうちから、
聖書信者並みの累犯障害を場合によっては患うようになってしまった。
まことに遺憾なことであり、これほどにも聖書信仰を否定しておきながら、
聖書信仰と同じアブラハム教であるイスラムに対しては、今の日本人の一人として優位を
主張することは憚られる。欧米と共に極度の金満状態と化してしまっている現状を是正して、
イスラム並みの金工面への潔癖さを取り戻せて初めて、ムスリムとも対等になれるのだといえる。
「滕文公問うて曰く、滕は小国なり。
力を竭くして以て大国に事うるも、則ち免るるを得ず。之れを如何せば則ち可ならん」
「滕の文公が孟子に問うた。『滕は小国なので、どんなに力を尽くして
大国に対抗しても、所詮は侵略を免れることができない。これを一体どうしたらよいだろうか』
(この後孟子は、仁義による徳治での大国への対抗を促す。イスラエルはおろか、欧米全体ですら
中国やインドや中東の潜在的な国力には及ばない。どんなに莫大な軍事力などを尽くしたところで
経済力による淘汰は免れ得ないので、侵略を防ぎとめるためには仁徳統治を心がけるしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
軍人でもあることから、信者の戦闘意欲を活発化させるような傾向があることは確かだ。
しかし、戦闘意欲を活発化させたところで、累犯障害を深刻化させるようなことはないから、
イスラム圏では金融業で利子を付けることが厳禁されるなどして、政財界の暴走からなる
権力犯罪の深刻化なども未然に防いでいくように努められている。
キリスト教やユダヤ教と同じアブラハム教でありながら、イスラム教だけは、
信者が今の日本人ほどにも累犯障害を深刻化させていない。日本人は戦後、信教に対する
確固とした認識をWGIPなどを通じて解体され、キリスト教でも仏教でも宗教なんか何でも
いいというようないい加減さを植え付けられてしまったものだから、自然と聖書信仰の
毒性までをも受け入れてしまい、聖書信者であることを自認もしないうちから、
聖書信者並みの累犯障害を場合によっては患うようになってしまった。
まことに遺憾なことであり、これほどにも聖書信仰を否定しておきながら、
聖書信仰と同じアブラハム教であるイスラムに対しては、今の日本人の一人として優位を
主張することは憚られる。欧米と共に極度の金満状態と化してしまっている現状を是正して、
イスラム並みの金工面への潔癖さを取り戻せて初めて、ムスリムとも対等になれるのだといえる。
「滕文公問うて曰く、滕は小国なり。
力を竭くして以て大国に事うるも、則ち免るるを得ず。之れを如何せば則ち可ならん」
「滕の文公が孟子に問うた。『滕は小国なので、どんなに力を尽くして
大国に対抗しても、所詮は侵略を免れることができない。これを一体どうしたらよいだろうか』
(この後孟子は、仁義による徳治での大国への対抗を促す。イスラエルはおろか、欧米全体ですら
中国やインドや中東の潜在的な国力には及ばない。どんなに莫大な軍事力などを尽くしたところで
経済力による淘汰は免れ得ないので、侵略を防ぎとめるためには仁徳統治を心がけるしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
信者を累犯障害に罹患させようとする害為正法外道の誘惑の言葉を、
立派な人間は即座に邪言と見抜いて撥ね付けるし、立派でなくても正気の人間なら、
多少その言葉を聞いてみてやった所で、実践に多大な危うさが伴うことから退けるし、
強欲な人間であっても、邪言が最終的には身を滅ぼす原因となると察した場合に退ける。
物事の分別が付かないダメな人間でいて、しかも正気を失った自暴自棄の状態でいて、
強欲さも無軌道と化して、目先の利益のために最終的な破滅の免れ得ないような話
までをも受け入れるといった状態と化してしまった人間こそが、害為正法外道の邪悪な
甘言までをも大々的に受け入れて、有害無益な累犯障害を重症化させていくことになる。
キリスト教やユダヤ教レベルの、最重度の害為正法外道を受け入れてしまっている人間というのは、
それはそれで元からただの人間ではなかったに違いない。そういったものを受け入れてしまう性向が
人間に部分的に備わっていることも確かだが、誰しもがそれにばかり陥るということは決してない。
えてして、生まれ付きが不遇だったに違いない。イエスのような妾腹の私生児とまではいかずとも、
生まれながらにして何か家庭的、心身的な問題を抱えていたに違いなく、「病人こそを救いに来た」
というイエスの甘言にもたぶらかされて、キリストへの信仰によってわが身の不遇を慰めているのだろう。
その、不遇への慰めによる開き直りこそが、本来は健全であり得る当人の精神までをも不具とならしめる。
妾腹の私生児のような卑しい境遇に生まれたことを開き直るのではなく、大きな恥として辱しみ、
逆境としての克服を志したなら、人並み以上の大成すらをも克ち得るというのに、あまつさえ、
不遇にくすぶったままでいて、くすぶりを邪信で慰めて、不遇をありのままに受け入れて開き直ったり
するのだから、せっかくの逆境を有効利用しないあたりが、あまりにも勿体ないことだといえる。
立派な人間は即座に邪言と見抜いて撥ね付けるし、立派でなくても正気の人間なら、
多少その言葉を聞いてみてやった所で、実践に多大な危うさが伴うことから退けるし、
強欲な人間であっても、邪言が最終的には身を滅ぼす原因となると察した場合に退ける。
物事の分別が付かないダメな人間でいて、しかも正気を失った自暴自棄の状態でいて、
強欲さも無軌道と化して、目先の利益のために最終的な破滅の免れ得ないような話
までをも受け入れるといった状態と化してしまった人間こそが、害為正法外道の邪悪な
甘言までをも大々的に受け入れて、有害無益な累犯障害を重症化させていくことになる。
キリスト教やユダヤ教レベルの、最重度の害為正法外道を受け入れてしまっている人間というのは、
それはそれで元からただの人間ではなかったに違いない。そういったものを受け入れてしまう性向が
人間に部分的に備わっていることも確かだが、誰しもがそれにばかり陥るということは決してない。
えてして、生まれ付きが不遇だったに違いない。イエスのような妾腹の私生児とまではいかずとも、
生まれながらにして何か家庭的、心身的な問題を抱えていたに違いなく、「病人こそを救いに来た」
というイエスの甘言にもたぶらかされて、キリストへの信仰によってわが身の不遇を慰めているのだろう。
その、不遇への慰めによる開き直りこそが、本来は健全であり得る当人の精神までをも不具とならしめる。
妾腹の私生児のような卑しい境遇に生まれたことを開き直るのではなく、大きな恥として辱しみ、
逆境としての克服を志したなら、人並み以上の大成すらをも克ち得るというのに、あまつさえ、
不遇にくすぶったままでいて、くすぶりを邪信で慰めて、不遇をありのままに受け入れて開き直ったり
するのだから、せっかくの逆境を有効利用しないあたりが、あまりにも勿体ないことだといえる。
欧米のドキュメンタリー番組などでしばしば放映される、重い障害を抱えていながら、
空元気によって前向きでいようとする子供の姿なども、決して教育上好ましいものとは言えない。
重い障害を抱えていながらも、自らの努力によって芸術家などとして成功したという所まで
いけば偽善にもならないが、ただ重度の障害児がヘラヘラと笑って空元気でいたりするのを
好き好んで放映したりするのでは、偽善となる。なんとなくいいことであるような気がしたり
したところで、そこには何も成果として称賛すべきものが見当たらないから。ただ重度の障害者でいながら
ヘラヘラ笑っているというのであれば、それは現実逃避の証拠を見せ付けているだけでしかないのだから。
重度の障害者ですらあれば、ただヘラヘラと笑っていられるだけで賞賛の対象になるとすれば、
それは障害者に対する逆差別になっているに違いなく、障害者であっても、何らかの社会的な成果を
挙げられた場合に限って賞賛するようにしてこそ、障害者を健常者とも平等に扱っていることになる。
重度の障害者であるとか、妾腹の私生児であるとかいった不遇自体は、それだけで無闇に取り沙汰したり
すべきものではなく、それだけならやはり日陰の存在であるべきだ。深刻な不遇に置かれているとしたところで、
その不遇を乗り越えて大成した場合に限って賞賛してやってこそ、不遇者としての冥利にも尽きるのだから。
「我れ、乃ち劓り殄ち之れを滅して、遺育すること無く、種を茲の新邑に易さ俾むること無けん」
「一族ごと断絶し、完全に滅ぼして後世に育て残すことも無くし、悪の種を一粒も新しい街には持ち込ませない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
空元気によって前向きでいようとする子供の姿なども、決して教育上好ましいものとは言えない。
重い障害を抱えていながらも、自らの努力によって芸術家などとして成功したという所まで
いけば偽善にもならないが、ただ重度の障害児がヘラヘラと笑って空元気でいたりするのを
好き好んで放映したりするのでは、偽善となる。なんとなくいいことであるような気がしたり
したところで、そこには何も成果として称賛すべきものが見当たらないから。ただ重度の障害者でいながら
ヘラヘラ笑っているというのであれば、それは現実逃避の証拠を見せ付けているだけでしかないのだから。
重度の障害者ですらあれば、ただヘラヘラと笑っていられるだけで賞賛の対象になるとすれば、
それは障害者に対する逆差別になっているに違いなく、障害者であっても、何らかの社会的な成果を
挙げられた場合に限って賞賛するようにしてこそ、障害者を健常者とも平等に扱っていることになる。
重度の障害者であるとか、妾腹の私生児であるとかいった不遇自体は、それだけで無闇に取り沙汰したり
すべきものではなく、それだけならやはり日陰の存在であるべきだ。深刻な不遇に置かれているとしたところで、
その不遇を乗り越えて大成した場合に限って賞賛してやってこそ、不遇者としての冥利にも尽きるのだから。
「我れ、乃ち劓り殄ち之れを滅して、遺育すること無く、種を茲の新邑に易さ俾むること無けん」
「一族ごと断絶し、完全に滅ぼして後世に育て残すことも無くし、悪の種を一粒も新しい街には持ち込ませない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
「賢を推して之を進達し、其の報を望まず(既出)」
「賢明さを推進上達しながらも、その報いすら望まない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
何事に対しても過剰な見返りを求めるのが商売人である一方で、
自らの努力が全て報われるなどとは決して期待しないのが君子である。
商売人が追い求めているのは狭隘な私益だから、他人から富を横取りすることで、
どこまでも増収していくことが見込まれるのに対し、君子が追い求めるのは天下の大利であり、
天下全土に存在する富はあくまで限られたものだから、一定以上の増益などは見込まれない。
だから、君子が天下全土の大利を、あらん限りの努力によって有効活用しようとしたところで、
とんでもなく大きな見返りがあるなどと期待できもしない。かならず努力に相応の報い以下の
見返りしか得られない。さらにいえば、君子が大利の保全を模索する天下全土のうちには、
私利私欲ばかりを貪る商売人もまた含まれているわけだから、そのような人種が我田引水の活動を
活発化させればさせるほど、君子が大利を保全しようとした努力に対する報いもまた、目減りする。
君子と商売人の利害はかくのごとく相反していて、しかも君子のほうが努力に対する報いが見込めず、
商売人のほうが楽して大金を稼ぎ上げられる可能性が高いわけだから、高潔な理想があるわけでもない
ただの愚人であるのなら、当然のこととして君子などにはならず、卑しい商売人でいようとする。
そのような愚民の性分こそを、一国の国是にすらしてしまおうとしたのが民主主義であったし、
愚民の性分に適う職業であるところの商売を、最も貴い職業にしようとしたのが資本主義でもあった。
民主主義や資本主義が国是と化してしまった国には、どこにも天下の大利を慮るような
人間がいなくなり、国家が総出を挙げて外界侵略を試みでもしない限りはやっていけなく
なるほどにも横暴な、個人個人の我田引水がまかり通るようにもなってしまった。
「賢明さを推進上達しながらも、その報いすら望まない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
何事に対しても過剰な見返りを求めるのが商売人である一方で、
自らの努力が全て報われるなどとは決して期待しないのが君子である。
商売人が追い求めているのは狭隘な私益だから、他人から富を横取りすることで、
どこまでも増収していくことが見込まれるのに対し、君子が追い求めるのは天下の大利であり、
天下全土に存在する富はあくまで限られたものだから、一定以上の増益などは見込まれない。
だから、君子が天下全土の大利を、あらん限りの努力によって有効活用しようとしたところで、
とんでもなく大きな見返りがあるなどと期待できもしない。かならず努力に相応の報い以下の
見返りしか得られない。さらにいえば、君子が大利の保全を模索する天下全土のうちには、
私利私欲ばかりを貪る商売人もまた含まれているわけだから、そのような人種が我田引水の活動を
活発化させればさせるほど、君子が大利を保全しようとした努力に対する報いもまた、目減りする。
君子と商売人の利害はかくのごとく相反していて、しかも君子のほうが努力に対する報いが見込めず、
商売人のほうが楽して大金を稼ぎ上げられる可能性が高いわけだから、高潔な理想があるわけでもない
ただの愚人であるのなら、当然のこととして君子などにはならず、卑しい商売人でいようとする。
そのような愚民の性分こそを、一国の国是にすらしてしまおうとしたのが民主主義であったし、
愚民の性分に適う職業であるところの商売を、最も貴い職業にしようとしたのが資本主義でもあった。
民主主義や資本主義が国是と化してしまった国には、どこにも天下の大利を慮るような
人間がいなくなり、国家が総出を挙げて外界侵略を試みでもしない限りはやっていけなく
なるほどにも横暴な、個人個人の我田引水がまかり通るようにもなってしまった。
すでに対イラン情勢などにおいて、「大規模な国際侵略すなわち核戦争による人類滅亡」という事態が
招かれてしまっている昨今、金融不安によって亡国の危機に晒されている資本主義国がどうにか
滅亡をまぬがれるためには、どうしたって民主主義や資本主義を国是から外すことが避けられない。
愚民や商売人こそを優遇するイデオロギーを排して、君子を優遇するイデオロギーを定立するといのなら、
民主主義を排して官主主義を定立し、資本主義を排して仁徳主義を定立すべきだということになる。
ただ、そのようなイデオロギーを新たに標榜するまでもなく、国家運営の基本を既存の儒学に頼り、
洋学や聖書信仰に頼ることを廃止するようにすればそれで済むし、むしろそのほうがよっぽど信頼も置ける。
民主主義や資本主義に慣れきっていた現代人に対し、官主主義や仁徳主義などという受け入れがたい
イデオロギーを押し付けるよりは、「儒学を復興する」「サムライの時代を復活させる」と触れ回って
やったほうがよっぽど受け入れもしやすいに違いなく、その程度の方便は全く許されものだといえる。
「獄貨は宝に非ず、惟れ辜を府むる功なり。報ゆるに庶もろの尤を以ってす」
「罪人が赦免を求めて送ってくる賄賂は宝には当たらない。むしろ罪を積み重ねる所業であるから、
その行いに報いるにしても、さらなる処罰の重度化によってでなければならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
招かれてしまっている昨今、金融不安によって亡国の危機に晒されている資本主義国がどうにか
滅亡をまぬがれるためには、どうしたって民主主義や資本主義を国是から外すことが避けられない。
愚民や商売人こそを優遇するイデオロギーを排して、君子を優遇するイデオロギーを定立するといのなら、
民主主義を排して官主主義を定立し、資本主義を排して仁徳主義を定立すべきだということになる。
ただ、そのようなイデオロギーを新たに標榜するまでもなく、国家運営の基本を既存の儒学に頼り、
洋学や聖書信仰に頼ることを廃止するようにすればそれで済むし、むしろそのほうがよっぽど信頼も置ける。
民主主義や資本主義に慣れきっていた現代人に対し、官主主義や仁徳主義などという受け入れがたい
イデオロギーを押し付けるよりは、「儒学を復興する」「サムライの時代を復活させる」と触れ回って
やったほうがよっぽど受け入れもしやすいに違いなく、その程度の方便は全く許されものだといえる。
「獄貨は宝に非ず、惟れ辜を府むる功なり。報ゆるに庶もろの尤を以ってす」
「罪人が赦免を求めて送ってくる賄賂は宝には当たらない。むしろ罪を積み重ねる所業であるから、
その行いに報いるにしても、さらなる処罰の重度化によってでなければならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
キリストこそは唯一無二、唯一無二にして最低最悪の邪神であり、
あらゆる害為正法外道の中でも、最も強い毒性を持つ史上空前の害為正法外道であり、
それを信じることによってこそ、そう簡単に滅亡することもない人類までもが、確実に滅亡する。
信じることによって救われないことにかけて、犯罪聖書の邪神が唯一無二である一方で、じゃあ
聖書信仰のキリスト災禍から救われるための唯一無二の手段が儒学の復興かといえば、そんなこともない。
仏教や道教や、ヒンズー教やイスラム教によっても救われ得る。むしろ儒学こそは、
キリスト災禍から救われる手段として最も簡易なものであり、儒学の実践には仏教の場合のような
厳しい出家修行もなければ、ヒンズー教の場合のような厳酷な信仰に根ざしたカーストもない、
イスラムほどにも女色を厳しく戒めたり、飲酒や豚食を厳禁したりすることも決してない。
ただ、儒学が主旨とする所のものは、仏教や道教やヒンズー教やイスラム教が是とするものを、
随分と簡略化したものであるということはいえる。仏教のように出家するわけでも、道家のように
隠遁を決め込むわけでもないが、「乱世には世を避ける」という程度の社会参画への思慮深さは
わきまえる。ヒンズー教のようにカーストを絶対化するわけではないが、士農工商の社会的な階差を、
商工権力の横暴が世を乱さなくて済む程度に強化する。イスラムのように女色や飲食を戒律で極端に
取り締まるわけではないが、夫唱婦随を男女関係の基本とし、暴飲暴食を戒める程度の節度は嗜む。
「真理は山のようなもので、頂上は一つだが、頂上に至る経路は様々である」という言葉は
仏教や道教やヒンズー教やイスラム教などの場合に言え、いずれもが相当に厳酷な側面を持ちつつ、
真理という山の頂上への経路を確保している。一方で、儒学は山の頂上までは目指しておらず、
山の裾野から平野にかけてまでの区域への安住を旨とする。やたらと頂上への登攀を志さない一方で、
真理にも道理にも違う誤謬という落とし穴に、人々が落ち込まないようにすることを目的としている。
あらゆる害為正法外道の中でも、最も強い毒性を持つ史上空前の害為正法外道であり、
それを信じることによってこそ、そう簡単に滅亡することもない人類までもが、確実に滅亡する。
信じることによって救われないことにかけて、犯罪聖書の邪神が唯一無二である一方で、じゃあ
聖書信仰のキリスト災禍から救われるための唯一無二の手段が儒学の復興かといえば、そんなこともない。
仏教や道教や、ヒンズー教やイスラム教によっても救われ得る。むしろ儒学こそは、
キリスト災禍から救われる手段として最も簡易なものであり、儒学の実践には仏教の場合のような
厳しい出家修行もなければ、ヒンズー教の場合のような厳酷な信仰に根ざしたカーストもない、
イスラムほどにも女色を厳しく戒めたり、飲酒や豚食を厳禁したりすることも決してない。
ただ、儒学が主旨とする所のものは、仏教や道教やヒンズー教やイスラム教が是とするものを、
随分と簡略化したものであるということはいえる。仏教のように出家するわけでも、道家のように
隠遁を決め込むわけでもないが、「乱世には世を避ける」という程度の社会参画への思慮深さは
わきまえる。ヒンズー教のようにカーストを絶対化するわけではないが、士農工商の社会的な階差を、
商工権力の横暴が世を乱さなくて済む程度に強化する。イスラムのように女色や飲食を戒律で極端に
取り締まるわけではないが、夫唱婦随を男女関係の基本とし、暴飲暴食を戒める程度の節度は嗜む。
「真理は山のようなもので、頂上は一つだが、頂上に至る経路は様々である」という言葉は
仏教や道教やヒンズー教やイスラム教などの場合に言え、いずれもが相当に厳酷な側面を持ちつつ、
真理という山の頂上への経路を確保している。一方で、儒学は山の頂上までは目指しておらず、
山の裾野から平野にかけてまでの区域への安住を旨とする。やたらと頂上への登攀を志さない一方で、
真理にも道理にも違う誤謬という落とし穴に、人々が落ち込まないようにすることを目的としている。
そしてその、真理にも道理にも違う、完全誤謬の落とし穴を掘り下げているのが
他でもない聖書信仰であり、犯罪聖書を信仰することは、ただ真理の山を登らないだけでなく、
道理という平野に安住することまでをも拒絶して、完全誤謬の落とし穴を自分たちであえて掘り下げて、
本来ならそうそうにはあり得ない、自分たちを含む全人類の滅亡という最悪の事態までをも招くのである。
結局のところ、人々が救われるための第一歩は、何よりも犯罪聖書への信仰を完全に破棄することであり、
聖書信仰すら破棄できたなら、後にあてがわれる生活密着型の教学が何であれ、救われることには変わりない。
「〜によってのみ救われる」という一神教に特有のドグマは、全世界的には全く通用しておらず、ただ
「聖書信仰によってだけは救われない」という事実と、「聖書信仰以外であればだいたい救われる」という
随分と大雑把な救済条件だけがある。聖書信仰のほうがどんなに救済条件を狭めた所で、世界的には全く
それは通用しておらず、ただやたらと狭い滅亡条件として、犯罪聖書の信仰のほうがあるのみである。
「〜によってでしか救われない」という、過度の了見の狭隘さこそは、
「〜によってだけは救われない」という、過度に狭隘な破滅の条件に直結していたのである。
「子路曰く、(略)政を為さば、子将に奚をか先にせん。子曰く、必ずや名を正さんか」
「子路が問うた。『もし政治を任されたとすれば、先生はまず何をなされますか』
先生は言われた。『とりあえず名を正さなければな』(名辞の乱れこそは天下の乱れの元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
他でもない聖書信仰であり、犯罪聖書を信仰することは、ただ真理の山を登らないだけでなく、
道理という平野に安住することまでをも拒絶して、完全誤謬の落とし穴を自分たちであえて掘り下げて、
本来ならそうそうにはあり得ない、自分たちを含む全人類の滅亡という最悪の事態までをも招くのである。
結局のところ、人々が救われるための第一歩は、何よりも犯罪聖書への信仰を完全に破棄することであり、
聖書信仰すら破棄できたなら、後にあてがわれる生活密着型の教学が何であれ、救われることには変わりない。
「〜によってのみ救われる」という一神教に特有のドグマは、全世界的には全く通用しておらず、ただ
「聖書信仰によってだけは救われない」という事実と、「聖書信仰以外であればだいたい救われる」という
随分と大雑把な救済条件だけがある。聖書信仰のほうがどんなに救済条件を狭めた所で、世界的には全く
それは通用しておらず、ただやたらと狭い滅亡条件として、犯罪聖書の信仰のほうがあるのみである。
「〜によってでしか救われない」という、過度の了見の狭隘さこそは、
「〜によってだけは救われない」という、過度に狭隘な破滅の条件に直結していたのである。
「子路曰く、(略)政を為さば、子将に奚をか先にせん。子曰く、必ずや名を正さんか」
「子路が問うた。『もし政治を任されたとすれば、先生はまず何をなされますか』
先生は言われた。『とりあえず名を正さなければな』(名辞の乱れこそは天下の乱れの元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
「名正しからざれば則ち言順わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、
礼楽興らざれば則ち刑罰中たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措く所なし」
「名辞が正しくなければ話も通じず、話が通じないから物事を計画だてることもできず、
物事を計画だてられないから、計画を礼楽によって潤色することもできず、
計画を礼楽によって潤色することもできないから、刑罰を公正に執り行うこともできず、
刑罰を公正に執り行うこともできないから、民たちも手足を措く所も無いほどに怯えたままでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
十字架にかけられた妾腹の私生児イエスを見て、自らの罪が償われたなどと思い込む、
いわゆるキリスト教が「救いの宗教」であるという、根本から誤った名辞がまかり通っているとする。
すると、「イエス・キリストこそは邪悪の化身であり、人類を滅亡に陥れる最悪の害為正法外道である」
という、正しい名辞への認識が世の中で通用しなくなる。すると、上記のような正しい認識に根ざした
議論が誰ともできなくなり、正しい認識に根ざした議論によって、人類をキリスト災禍による滅亡
から救いあげるための計画ごとを立てられもしないままでいる。キリスト災禍による滅亡から人類を
救い上げるための計画すら立てられないのだから、計画を礼楽によって潤色することも当然適わない。
キリストによって滅亡の危機に陥れられている人類を救済する計画を立てることもできなければ、
計画の実行を礼楽によって潤色することもできないから、冤罪正当化の化身でもあるキリストが是と
されたままの世の中において、冤罪に対する刑罰などの、不当な処罰も相変わらず横行したままでいて、
キリストを元凶とした滅亡の危機がろくに打開されることも試みられないままでいることにより、
民たちもまた手足の置き所もないといったようなままで、途方に暮れているしかない。
礼楽興らざれば則ち刑罰中たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措く所なし」
「名辞が正しくなければ話も通じず、話が通じないから物事を計画だてることもできず、
物事を計画だてられないから、計画を礼楽によって潤色することもできず、
計画を礼楽によって潤色することもできないから、刑罰を公正に執り行うこともできず、
刑罰を公正に執り行うこともできないから、民たちも手足を措く所も無いほどに怯えたままでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
十字架にかけられた妾腹の私生児イエスを見て、自らの罪が償われたなどと思い込む、
いわゆるキリスト教が「救いの宗教」であるという、根本から誤った名辞がまかり通っているとする。
すると、「イエス・キリストこそは邪悪の化身であり、人類を滅亡に陥れる最悪の害為正法外道である」
という、正しい名辞への認識が世の中で通用しなくなる。すると、上記のような正しい認識に根ざした
議論が誰ともできなくなり、正しい認識に根ざした議論によって、人類をキリスト災禍による滅亡
から救いあげるための計画ごとを立てられもしないままでいる。キリスト災禍による滅亡から人類を
救い上げるための計画すら立てられないのだから、計画を礼楽によって潤色することも当然適わない。
キリストによって滅亡の危機に陥れられている人類を救済する計画を立てることもできなければ、
計画の実行を礼楽によって潤色することもできないから、冤罪正当化の化身でもあるキリストが是と
されたままの世の中において、冤罪に対する刑罰などの、不当な処罰も相変わらず横行したままでいて、
キリストを元凶とした滅亡の危機がろくに打開されることも試みられないままでいることにより、
民たちもまた手足の置き所もないといったようなままで、途方に暮れているしかない。
一番最初の、「名辞が正されないから話も通じない」という所で、すでにつまずいてしまっている。
「キリストこそは救世主である」という間違った名辞が、「キリストこそは人類を滅亡に陥れる邪悪の化身である」
という正しい名辞に正されないことには、今まさに引き起こされつつある、キリスト災禍による人類の滅亡を
いかにして食い止めるべきかという議論を、複数の人間の間で執り行うことすら一切できないままでい続ける。
「キリストこそは救世主である」という間違った名辞が、「キリストこそは人類を滅亡に陥れる邪悪の化身である」
という正しい名辞に正されないことには、今まさに引き起こされつつある、キリスト災禍による人類の滅亡を
いかにして食い止めるべきかという議論を、複数の人間の間で執り行うことすら一切できないままでい続ける。
人が、他人に仕える上で心がけようとする信条には、
大別して「忠」と「佞(ねい)」の、二種類がある
忠こそは、君子が人に仕える場合に心がける信条である一方、
佞こそは、小人が人に仕える場合に心がける信条にあたる。
忠のあり方は、子の親に対する孝心に近似する一方、
佞のあり方は、娼婦の客に対する媚びに近似する。
老衰した親の足を子が洗ってやるというのなら、介護にもなり、別に媚びにも当たらない。
実際に「礼記」内則第十二でも、孝行の例としての父母舅姑に対する洗足が挙げられているが、
顧客とあらば誰彼構わず足を洗ってやるというのでは、これは娼婦も同然の所業だといえる。
信徒になってくれた相手に対する奉仕として、イエスがその足を洗って
やっていたのなども、娼婦も同然の所業であり、おそらく母親のマリアが
娼婦として客の足を洗ってやっていたのを真似たのだろう。
忠信を旨とする、君子たる配下は上司にとっても信用が置ける一方で、
佞を信条とする、小人然とした配下は上司にとっても信用が置けない。
殷の紂王に仕えた佞臣である費仲や尤渾、始皇帝や胡亥の腹心として横暴を働いた宦官趙高など、
主君たる紂王や始皇帝らに対しては、それはそれは媚びにまみれた阿りによって奉仕を尽くした一方で、
自分たち以外の臣下や部下に対しては鬼畜のような仕打ちを繰り返し、殷や秦の国勢をも衰退させ、亡国に
際しては紂王を自決させたり、二世皇帝胡亥を身内に殺害させたりといった、大逆の所業にも及んでいる。
媚びによって、かえって我れと我が国とを滅ぼす元凶となる佞臣などよりは、
太公望や諸葛亮のように、仕官するまでは素っ気無くても、仕官したからには私情を
排した勤めに徹する忠臣のほうが、明らかに明君にとっては好ましい存在に当たる。
大別して「忠」と「佞(ねい)」の、二種類がある
忠こそは、君子が人に仕える場合に心がける信条である一方、
佞こそは、小人が人に仕える場合に心がける信条にあたる。
忠のあり方は、子の親に対する孝心に近似する一方、
佞のあり方は、娼婦の客に対する媚びに近似する。
老衰した親の足を子が洗ってやるというのなら、介護にもなり、別に媚びにも当たらない。
実際に「礼記」内則第十二でも、孝行の例としての父母舅姑に対する洗足が挙げられているが、
顧客とあらば誰彼構わず足を洗ってやるというのでは、これは娼婦も同然の所業だといえる。
信徒になってくれた相手に対する奉仕として、イエスがその足を洗って
やっていたのなども、娼婦も同然の所業であり、おそらく母親のマリアが
娼婦として客の足を洗ってやっていたのを真似たのだろう。
忠信を旨とする、君子たる配下は上司にとっても信用が置ける一方で、
佞を信条とする、小人然とした配下は上司にとっても信用が置けない。
殷の紂王に仕えた佞臣である費仲や尤渾、始皇帝や胡亥の腹心として横暴を働いた宦官趙高など、
主君たる紂王や始皇帝らに対しては、それはそれは媚びにまみれた阿りによって奉仕を尽くした一方で、
自分たち以外の臣下や部下に対しては鬼畜のような仕打ちを繰り返し、殷や秦の国勢をも衰退させ、亡国に
際しては紂王を自決させたり、二世皇帝胡亥を身内に殺害させたりといった、大逆の所業にも及んでいる。
媚びによって、かえって我れと我が国とを滅ぼす元凶となる佞臣などよりは、
太公望や諸葛亮のように、仕官するまでは素っ気無くても、仕官したからには私情を
排した勤めに徹する忠臣のほうが、明らかに明君にとっては好ましい存在に当たる。
佞臣は、たとえそれなりに忠義も尽くそうとしたところで、
佞とのみそくそが祟った挙句に、やはり衰亡を招く。
寒い冬場に、信長の草履を懐で温めて差し出すことで信長を喜ばせた秀吉も、
佞と忠の両刀遣いとでもいった姿勢によって天下一の座にまで上り詰めたそのあり方が、
忠信こそを本旨とする本格の武家からは忌み嫌われて、そのような武家を多数徳川方に流出させてしまった一方、
秀吉から頂いた饅頭をわざわざ家中に持ち帰って、臣下に分け与えることで秀吉を喜ばせた長宗我部元親のような、
まるで秀吉の阿りをそのまま生き写しにしたかのような佞臣を、豊臣方の配下に多く蔓延らせる原因ともなった。
結果、秀吉自身までは栄華の下で人生を終えたものの、その子の秀頼は、豊臣方に多数群がっていた
佞臣や愚臣を一手に引き受けさせられることになり、徳川家康の孫であり、秀忠の娘である千姫を正室とする
自らの心情とも無関係に、部下たちが勝手に徳川との対立を推し進めた挙句、多勢に無勢な上に、忠臣に佞臣という
絶体絶命の窮地へと大坂の陣で追い込まれ、最期には母淀殿と共に、自決させられることとなったのだった。
忠臣は、害がない上に益がある一方で、佞臣は、益がない上に害がある。佞臣として仕官を心がけるぐらいなら、
むしろ仕官などしないほうがマシであり、そのほうがよっぽど、世の中や主君となる者の側にとっても助かる。
仕官に際して心がける信条が、完全に佞ではなく忠である場合に限って、仕官をも志すべきだといえる。
「古えの人、未だ嘗て仕うること欲せざることあらざるも、
又た其の道に由らざるを悪む。其の道に由らずして往く者は、穴隙を鑽つ与きの類いなり」
「古来、君子でありながら人に仕えることを欲しなかった者は一人もいないが、ただその
仕え方が道義に則っていないことを憎み嫌った。道義にも則らずにただ人に仕えるのでは、
仕切りとなっている壁に穴を穿つも同然の所業となるから、むしろすべきでない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・三より)
佞とのみそくそが祟った挙句に、やはり衰亡を招く。
寒い冬場に、信長の草履を懐で温めて差し出すことで信長を喜ばせた秀吉も、
佞と忠の両刀遣いとでもいった姿勢によって天下一の座にまで上り詰めたそのあり方が、
忠信こそを本旨とする本格の武家からは忌み嫌われて、そのような武家を多数徳川方に流出させてしまった一方、
秀吉から頂いた饅頭をわざわざ家中に持ち帰って、臣下に分け与えることで秀吉を喜ばせた長宗我部元親のような、
まるで秀吉の阿りをそのまま生き写しにしたかのような佞臣を、豊臣方の配下に多く蔓延らせる原因ともなった。
結果、秀吉自身までは栄華の下で人生を終えたものの、その子の秀頼は、豊臣方に多数群がっていた
佞臣や愚臣を一手に引き受けさせられることになり、徳川家康の孫であり、秀忠の娘である千姫を正室とする
自らの心情とも無関係に、部下たちが勝手に徳川との対立を推し進めた挙句、多勢に無勢な上に、忠臣に佞臣という
絶体絶命の窮地へと大坂の陣で追い込まれ、最期には母淀殿と共に、自決させられることとなったのだった。
忠臣は、害がない上に益がある一方で、佞臣は、益がない上に害がある。佞臣として仕官を心がけるぐらいなら、
むしろ仕官などしないほうがマシであり、そのほうがよっぽど、世の中や主君となる者の側にとっても助かる。
仕官に際して心がける信条が、完全に佞ではなく忠である場合に限って、仕官をも志すべきだといえる。
「古えの人、未だ嘗て仕うること欲せざることあらざるも、
又た其の道に由らざるを悪む。其の道に由らずして往く者は、穴隙を鑽つ与きの類いなり」
「古来、君子でありながら人に仕えることを欲しなかった者は一人もいないが、ただその
仕え方が道義に則っていないことを憎み嫌った。道義にも則らずにただ人に仕えるのでは、
仕切りとなっている壁に穴を穿つも同然の所業となるから、むしろすべきでない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・三より)
仕切りの壁に穴を穿って、片目で覗き込むような輩には、
確かに人に仕えるような資格はない。
「片目(眇)でものを覗き込むのは、家中で貞節を守る主婦には相応しい」と「易経」帰妹・九二-象伝にある一方で、
「それはものがよく見えていることには当たらない」と、同じく「易経」履・六三-象伝にもある。
「君子は〜視るには明を思う(論語・季氏第十六・一〇)」ともあるから、壁に穴を穿って
片目で覗き込むことを信条とするような人間には、全く以て人に仕える資格がないのだといえる。
そうであることが自明に、仕える資格を殺いでいるのである。
確かに人に仕えるような資格はない。
「片目(眇)でものを覗き込むのは、家中で貞節を守る主婦には相応しい」と「易経」帰妹・九二-象伝にある一方で、
「それはものがよく見えていることには当たらない」と、同じく「易経」履・六三-象伝にもある。
「君子は〜視るには明を思う(論語・季氏第十六・一〇)」ともあるから、壁に穴を穿って
片目で覗き込むことを信条とするような人間には、全く以て人に仕える資格がないのだといえる。
そうであることが自明に、仕える資格を殺いでいるのである。
忠と佞の違いは結局のところ、本人自身の孝心の有無に尽きている。
上>>194では、佞人の心境を「娼婦に近似するもの」と喩えたが、別に娼婦に
これといった信条があるわけでもなく、ただ金を稼ぐことに形振り構わないでいるのみ。
女や人としての最低限の節度すらかなぐり捨てて、ただ欲求の赴くままでいるのみ。
そのような、なりふり構わぬ奉仕と違って、忠臣には、これと決めた相手に対してのみ奉仕を
心がける節度がある。その節度が結局、自らの親への特定的な孝心を原器とするわけだから、結局、
忠臣には守るべきものがある一方で、佞人には守るべきものもないというのが、両者の違いだといえる。
「全てをかなぐり捨てる」というとなんとなく聞こえもよく、実際に武術における極意でもあったりする。
柳生宗矩も「兵法家伝書」で、娼婦ほどにも全てを捨て去ることを極意の一つとして取り上げているが、
やはりそれは修羅道たる武道や兵法において是とされるものであり、守るべき家もあれば
節度もある人道や天道においてまで、普遍的に通用するものであるなどとは言えない。
(実際に柳生家も将軍家御用達の兵家として、長らくその地位を保ち続けた)
忠義に即して勤めに励む士大夫もまた、仕事場において全てを捨ててかかるほどもの心意気で
臨む必要は多々ある。それでこそ作業が成就して、家を盛り立てる成果とすらなり得るわけだから、
守るべきものを守るための捨身というのは、人道や天道においてですら要求されるものだといえる。
しかし、ただ何もかもを捨て去って獣道を突っ走るとなれば、もはや人道や天道には当たらず、
捨身でいながら強欲さにだけはまみれているとなれば、それこそ餓鬼畜生の類いとなる。
欲望すら完全に捨て去って出家修行に励むというのならともかく、なりふり構わぬ捨て身でいて、
その捨て身を強欲の貪りのために転化するとなれば、その時にこそ、人は餓鬼畜生と化す。
そこが餓鬼畜生の、常人とも天人とも出家者とも、決定的に異なる部分であり、
「強欲のための捨て身」だけは捨てられていないが故に、最低劣の悪道と見なされる。
上>>194では、佞人の心境を「娼婦に近似するもの」と喩えたが、別に娼婦に
これといった信条があるわけでもなく、ただ金を稼ぐことに形振り構わないでいるのみ。
女や人としての最低限の節度すらかなぐり捨てて、ただ欲求の赴くままでいるのみ。
そのような、なりふり構わぬ奉仕と違って、忠臣には、これと決めた相手に対してのみ奉仕を
心がける節度がある。その節度が結局、自らの親への特定的な孝心を原器とするわけだから、結局、
忠臣には守るべきものがある一方で、佞人には守るべきものもないというのが、両者の違いだといえる。
「全てをかなぐり捨てる」というとなんとなく聞こえもよく、実際に武術における極意でもあったりする。
柳生宗矩も「兵法家伝書」で、娼婦ほどにも全てを捨て去ることを極意の一つとして取り上げているが、
やはりそれは修羅道たる武道や兵法において是とされるものであり、守るべき家もあれば
節度もある人道や天道においてまで、普遍的に通用するものであるなどとは言えない。
(実際に柳生家も将軍家御用達の兵家として、長らくその地位を保ち続けた)
忠義に即して勤めに励む士大夫もまた、仕事場において全てを捨ててかかるほどもの心意気で
臨む必要は多々ある。それでこそ作業が成就して、家を盛り立てる成果とすらなり得るわけだから、
守るべきものを守るための捨身というのは、人道や天道においてですら要求されるものだといえる。
しかし、ただ何もかもを捨て去って獣道を突っ走るとなれば、もはや人道や天道には当たらず、
捨身でいながら強欲さにだけはまみれているとなれば、それこそ餓鬼畜生の類いとなる。
欲望すら完全に捨て去って出家修行に励むというのならともかく、なりふり構わぬ捨て身でいて、
その捨て身を強欲の貪りのために転化するとなれば、その時にこそ、人は餓鬼畜生と化す。
そこが餓鬼畜生の、常人とも天人とも出家者とも、決定的に異なる部分であり、
「強欲のための捨て身」だけは捨てられていないが故に、最低劣の悪道と見なされる。
守るべき家や忠義があるか、もしくは強欲さを含む全てを捨て去るかの、いずれかなら立派だが、
強欲さのために捨て身でいるとなれば、もはや見るべきところも無い、狂獣のザマだといえる。
それをあえてピンポイントに選んでおいて、同情や救済を取り付けようなどとするほうが、無理がある。
「諸侯の宝は三つ、土地、人民、政事なり。珠玉を宝とする者は、殃い必ず身に及ぶ」
「諸侯が宝とすべきものに三つある。自らが領地とする国土と、そこに住まう人民と、国と民とを安寧に
導く正しい政治である。珠玉を至宝としたりしているようなら、必ず大きな禍いに見舞われることになる。
(真珠宝玉の類いを独占するために、土地利権を不正利用するようなことを公職者はしてもさせてもいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二八より)
「子路曰く、傷ましきかな貧しきことや。生くるに以て養いを為す無く、死するに以て礼を
為す無し。孔子曰く、菽を啜らせ水を飲ませ、其の歓を尽くさしむ、斯れを之れ孝と謂う。
首足の形を斂めて、還く葬りて槨無くも、其の財に稱うなれば、斯れを之れ礼と謂う」
「子路が言った。『貧しさほど痛ましいものがあるでしょうか。親が生きている間に養ってやることも
できなければ、親が死んだときに厚葬によって礼を尽くすこともできないのですから』 孔先生は言われた。
『親に豆粥をすすらせて水を飲ませ、それで歓待を尽くすことができたのなら、それもまた孝と言ってよい。
その遺体の首や足の形を整えて、布にくるんで内壁すらない墓穴に埋葬するのであっても、
それがその時の財産では精一杯の葬儀だというのなら、それもまた最礼を尽くしたと言ってよい』
(財産の有無や多寡などとも無関係に孝行は尽くせるのであり、そのほうが財貨の貪りよりもよっぽど重要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
強欲さのために捨て身でいるとなれば、もはや見るべきところも無い、狂獣のザマだといえる。
それをあえてピンポイントに選んでおいて、同情や救済を取り付けようなどとするほうが、無理がある。
「諸侯の宝は三つ、土地、人民、政事なり。珠玉を宝とする者は、殃い必ず身に及ぶ」
「諸侯が宝とすべきものに三つある。自らが領地とする国土と、そこに住まう人民と、国と民とを安寧に
導く正しい政治である。珠玉を至宝としたりしているようなら、必ず大きな禍いに見舞われることになる。
(真珠宝玉の類いを独占するために、土地利権を不正利用するようなことを公職者はしてもさせてもいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二八より)
「子路曰く、傷ましきかな貧しきことや。生くるに以て養いを為す無く、死するに以て礼を
為す無し。孔子曰く、菽を啜らせ水を飲ませ、其の歓を尽くさしむ、斯れを之れ孝と謂う。
首足の形を斂めて、還く葬りて槨無くも、其の財に稱うなれば、斯れを之れ礼と謂う」
「子路が言った。『貧しさほど痛ましいものがあるでしょうか。親が生きている間に養ってやることも
できなければ、親が死んだときに厚葬によって礼を尽くすこともできないのですから』 孔先生は言われた。
『親に豆粥をすすらせて水を飲ませ、それで歓待を尽くすことができたのなら、それもまた孝と言ってよい。
その遺体の首や足の形を整えて、布にくるんで内壁すらない墓穴に埋葬するのであっても、
それがその時の財産では精一杯の葬儀だというのなら、それもまた最礼を尽くしたと言ってよい』
(財産の有無や多寡などとも無関係に孝行は尽くせるのであり、そのほうが財貨の貪りよりもよっぽど重要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「孝心を忠心の原器とする」ということは、孝子が親に対するかのような心境で以って
主君にも仕えるということであり、それは即ち、娼婦の顧客に対するかのような
上ずった阿りを排した、ごく親密な心境によって主君に仕えることを意味する。
仮に自分が、巧言令色で客に阿る娼婦や商売人であったとして、自分が客に対して見せていたような
上ずった態度で実の親などにも接したとすれば、それはもう、恥ずかしくてやってられない。
事実、商人階級の人間などは、家族や身内の間でだけは極端になあなあだったり、
あるいは職場での部下に対するかのような極端に厳しい態度でわが子に接したりする。
(後者の場合は、わが子に稼業を継がせようとする意図があったりする)
赤の他人である客に対する阿りばかりに慣れているものだから、商人や娼婦は基本、
家族付き合いというものを酷く蔑ろにする。その、商人や娼婦が蔑ろにするところの、
実の家族関係こそをよく正して、宮仕えのような社会的な職業にも及ぼしていくのが君子でこそある。
商人や娼婦やイエスのように、世間付き合いのために血族関係を蔑ろにするのでもなければ、
墨子のように、家族も他人も平等に兼ね愛しつつ付き合うというのでもなく、
血族関係こそを根本に置いて、そこから社会的な活動にも及んでいくのが君子である。
家族を世間とは別個のものとして扱う傾向があるのは、小人とて君子と変わりはしない。
ただ、君子が家族を世間づきあいの根本とすらするのに対し、小人は世間づきあいに執心し過ぎるあまり、
家族関係をより蔑ろにしてしまうという、全く真逆の理由に即して家族が特別扱いされるのであり、
前者が「斉家」といえる一方で、後者は「蔑家」といえる点が決定的に異なるのである。
「自ら鬻ぎて以て其の君を成さしむは、郷党の自らを
好くする者も為さず。而るを謂わんや、賢者の之れを為すや」
「自らを身売りしてまで、仕える者の事業を成功させようとするようなことは、
故郷での名誉を守ろうとする程度の、ちっぽけな名誉心の持ち主であっても
試みることではない。当然、賢者がそのような暴挙におよばないのは、尚のことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・九より)
主君にも仕えるということであり、それは即ち、娼婦の顧客に対するかのような
上ずった阿りを排した、ごく親密な心境によって主君に仕えることを意味する。
仮に自分が、巧言令色で客に阿る娼婦や商売人であったとして、自分が客に対して見せていたような
上ずった態度で実の親などにも接したとすれば、それはもう、恥ずかしくてやってられない。
事実、商人階級の人間などは、家族や身内の間でだけは極端になあなあだったり、
あるいは職場での部下に対するかのような極端に厳しい態度でわが子に接したりする。
(後者の場合は、わが子に稼業を継がせようとする意図があったりする)
赤の他人である客に対する阿りばかりに慣れているものだから、商人や娼婦は基本、
家族付き合いというものを酷く蔑ろにする。その、商人や娼婦が蔑ろにするところの、
実の家族関係こそをよく正して、宮仕えのような社会的な職業にも及ぼしていくのが君子でこそある。
商人や娼婦やイエスのように、世間付き合いのために血族関係を蔑ろにするのでもなければ、
墨子のように、家族も他人も平等に兼ね愛しつつ付き合うというのでもなく、
血族関係こそを根本に置いて、そこから社会的な活動にも及んでいくのが君子である。
家族を世間とは別個のものとして扱う傾向があるのは、小人とて君子と変わりはしない。
ただ、君子が家族を世間づきあいの根本とすらするのに対し、小人は世間づきあいに執心し過ぎるあまり、
家族関係をより蔑ろにしてしまうという、全く真逆の理由に即して家族が特別扱いされるのであり、
前者が「斉家」といえる一方で、後者は「蔑家」といえる点が決定的に異なるのである。
「自ら鬻ぎて以て其の君を成さしむは、郷党の自らを
好くする者も為さず。而るを謂わんや、賢者の之れを為すや」
「自らを身売りしてまで、仕える者の事業を成功させようとするようなことは、
故郷での名誉を守ろうとする程度の、ちっぽけな名誉心の持ち主であっても
試みることではない。当然、賢者がそのような暴挙におよばないのは、尚のことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・九より)
相手が神であれ大金持ちであれ何であれ、
身売りによって功を成そうとするような人間が、
故郷で不名誉な存在として扱われるのは当然のこと。
孟子の言葉は、本当に、ドンピシャリで犯罪聖書の神秘性を破砕するものが多い。
孔子や五経中の言葉が、ただ犯罪聖書の記述を論駁するだけでなく、色々と余分に味わえる要素を伴っているのに対し、
孟子の言葉は過不足一つなく、完璧かつ的確に犯罪聖書の記述を粉砕する。
2300年もの昔に、孟子は共産主義の不当性までをも的確に看破しているが(滕文公章句上・四参照)、
だからこそ孟子の活躍した中国戦国時代が、聖書信仰や洋学が適用された
世の中並みの、最悪の汚濁にまみれていたことまでもが分かるのである。
仁徳のしんがり、勧善懲悪の極致たる孟子の言葉は、
人間社会の普遍法則に根差した、最悪の乱世を糾弾する言葉でこそあるのだ。
身売りによって功を成そうとするような人間が、
故郷で不名誉な存在として扱われるのは当然のこと。
孟子の言葉は、本当に、ドンピシャリで犯罪聖書の神秘性を破砕するものが多い。
孔子や五経中の言葉が、ただ犯罪聖書の記述を論駁するだけでなく、色々と余分に味わえる要素を伴っているのに対し、
孟子の言葉は過不足一つなく、完璧かつ的確に犯罪聖書の記述を粉砕する。
2300年もの昔に、孟子は共産主義の不当性までをも的確に看破しているが(滕文公章句上・四参照)、
だからこそ孟子の活躍した中国戦国時代が、聖書信仰や洋学が適用された
世の中並みの、最悪の汚濁にまみれていたことまでもが分かるのである。
仁徳のしんがり、勧善懲悪の極致たる孟子の言葉は、
人間社会の普遍法則に根差した、最悪の乱世を糾弾する言葉でこそあるのだ。
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