サイズが 480KB を超えています。500KB を超えると書きこめなくなるよ。
聖書 Part7
▼ページ最下部
「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

※省略されてます すべて表示...
別に「儒学好き」ではない。
世情に見合った恙無い存在であるように努めているだけのことだ。
「新旧約聖書信仰」全般を救いようのないものと見なしているわけで、その内にはユダヤ信仰を含む。
新旧約聖書を参考書にしても聖典にまではしない、イスラムはこの内に入らない。
世情に見合った恙無い存在であるように努めているだけのことだ。
「新旧約聖書信仰」全般を救いようのないものと見なしているわけで、その内にはユダヤ信仰を含む。
新旧約聖書を参考書にしても聖典にまではしない、イスラムはこの内に入らない。
ヒトラーはユダヤ人を世相腐敗の元凶と見なして、そのホロコーストを試みて失敗したが、
ユダヤ人自体は、自分たちだけでは世の中を営むこともできない不具民族であり、
寄生対象となっている国家や社会が亡びれば、同時に死滅する運命にある。
他民族に寄生して富を収奪する、ユダヤ人のような悪性民族の介在を許容する国家や社会のほうが
主要な問題を抱えているのであり、自分たちで国家すら営める社会性を保持している人々こそが、
自分たちの国ではユダヤ寄生などを容認しないという、断固とした姿勢である必要こそがある。
そのためには、ユダヤ人が他民族に対してユダヤ人との共存を許容させるために拵えた一般向けの
邪教である、キリスト教などを根絶していく必要があるのであり、ユダヤ教だけは禁じておいて、
ユダヤ許容教であるキリスト教のほうは禁じないというのでは、片手落ちにも程があるといえる。
まるで、キリスト教こそはユダヤ教に対する対立宗教であるかのような認識が、未だ横行しているが、
キリスト教もまたユダヤ文化であり、その信仰対象は新旧約聖書である。旧約聖書だけが信仰対象である
ユダヤ教とは姉妹のような関係にあり、姉であるユダヤ教に貢ぐことを教義化した妹格がキリスト教に当たる。
ユダヤ文化ではなくアラブ文化であり、新旧約聖書を信仰対象とはせず、新旧約とはことごとく相反する教義を
明文化したコーランを聖典とするイスラムから初めて、ユダヤともキリシタンとも袂を分かっているのだといえる。
ユダヤ人自体は、自分たちだけでは世の中を営むこともできない不具民族であり、
寄生対象となっている国家や社会が亡びれば、同時に死滅する運命にある。
他民族に寄生して富を収奪する、ユダヤ人のような悪性民族の介在を許容する国家や社会のほうが
主要な問題を抱えているのであり、自分たちで国家すら営める社会性を保持している人々こそが、
自分たちの国ではユダヤ寄生などを容認しないという、断固とした姿勢である必要こそがある。
そのためには、ユダヤ人が他民族に対してユダヤ人との共存を許容させるために拵えた一般向けの
邪教である、キリスト教などを根絶していく必要があるのであり、ユダヤ教だけは禁じておいて、
ユダヤ許容教であるキリスト教のほうは禁じないというのでは、片手落ちにも程があるといえる。
まるで、キリスト教こそはユダヤ教に対する対立宗教であるかのような認識が、未だ横行しているが、
キリスト教もまたユダヤ文化であり、その信仰対象は新旧約聖書である。旧約聖書だけが信仰対象である
ユダヤ教とは姉妹のような関係にあり、姉であるユダヤ教に貢ぐことを教義化した妹格がキリスト教に当たる。
ユダヤ文化ではなくアラブ文化であり、新旧約聖書を信仰対象とはせず、新旧約とはことごとく相反する教義を
明文化したコーランを聖典とするイスラムから初めて、ユダヤともキリシタンとも袂を分かっているのだといえる。
キリスト教を信仰することで、ユダヤに反抗したようなつもりになって、実はユダヤに囚われたままでいる。
むしろ、嫌悪の対象となって当たり前であるユダヤを嫌悪しつつ、その社会的な介在だけは認めるという
最もタチの悪い精神状態にキリスト信者は追い込まれているわけで、それこそユダヤの思う壺だといえる。
ユダヤが好きか嫌いかなどという感情とは無関係に、ユダヤの社会的介在を認めないことが第一であり、
そのためには、ユダヤを世の中から効果的に締め出す事務体系が必要となる。キリスト教にはそれがないが、
イスラム教にはそれがある。アブラハム教ではない仏教や儒学にも、結局のところ、ユダヤ的なものを
世の中から効果的に排除して行ける体系を擁している。「ユダヤ教義を守ろうが守るまいが、キリストを信仰
すれば救われる」という教義を持つキリスト教こそは、ユダヤの跋扈を推進する元凶ともなっているのであり、
キリスト教すらこの世からなくなれば、ユダヤが生き延びる余地も無くなって、完全に死に絶えることとなる。
ユダヤ滅亡後にも、引き続きキリスト教やユダヤ教を禁教扱いとしていくことで、ユダヤ災禍の再発も
防止される。人々がその労力を欠かしすらしなければ、この世からユダヤを絶やすことも実際に可能なのである。
「厥の渠魁を殲して、脅従は治むる罔れ(既出)。汚俗に旧染するも、咸な与に維れ新たなれ」
「(世を汚した者どものうちの)首領格は殺し尽くして、脅されて従った者たちだけを許せ。
蛮族の汚れた俗習に久しく染まりきっていた者たちも、全員で一緒にいちからやり直すのだ。
(誰一人として、汚俗の率先者に放逐の余地は与えない。『維新』という言葉の典拠でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)
むしろ、嫌悪の対象となって当たり前であるユダヤを嫌悪しつつ、その社会的な介在だけは認めるという
最もタチの悪い精神状態にキリスト信者は追い込まれているわけで、それこそユダヤの思う壺だといえる。
ユダヤが好きか嫌いかなどという感情とは無関係に、ユダヤの社会的介在を認めないことが第一であり、
そのためには、ユダヤを世の中から効果的に締め出す事務体系が必要となる。キリスト教にはそれがないが、
イスラム教にはそれがある。アブラハム教ではない仏教や儒学にも、結局のところ、ユダヤ的なものを
世の中から効果的に排除して行ける体系を擁している。「ユダヤ教義を守ろうが守るまいが、キリストを信仰
すれば救われる」という教義を持つキリスト教こそは、ユダヤの跋扈を推進する元凶ともなっているのであり、
キリスト教すらこの世からなくなれば、ユダヤが生き延びる余地も無くなって、完全に死に絶えることとなる。
ユダヤ滅亡後にも、引き続きキリスト教やユダヤ教を禁教扱いとしていくことで、ユダヤ災禍の再発も
防止される。人々がその労力を欠かしすらしなければ、この世からユダヤを絶やすことも実際に可能なのである。
「厥の渠魁を殲して、脅従は治むる罔れ(既出)。汚俗に旧染するも、咸な与に維れ新たなれ」
「(世を汚した者どものうちの)首領格は殺し尽くして、脅されて従った者たちだけを許せ。
蛮族の汚れた俗習に久しく染まりきっていた者たちも、全員で一緒にいちからやり直すのだ。
(誰一人として、汚俗の率先者に放逐の余地は与えない。『維新』という言葉の典拠でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)

拝火教の教典「アヴェスター」の主要部ガーサーにも、
著者のザラスシュトラが邪神アンラ・マンユを口汚く罵る場面がある。
拝火教は兵家や武士道、イスラムなどと同じ修羅道であり、
修羅道では悪口雑言が計略の一つとして認められてもいる。
確かに修羅道自体、そんなに程度の高くないものであり、
人道や天道と共に三善趣の内に入れられることが基本である一方で、
地獄道や餓鬼道や畜生道と共に四悪趣の内に入れられることすらある。
ただ、それにしたって修羅道もまた、地獄餓鬼畜生の三悪趣よりはマシな部類であり、
未だ三悪趣が方々にはびこる濁世において、世の中を人道や天道や仏道といった
善良な方面へと導くことを明確な目的として、便宜的に修羅道をたしなむのは
許容されざるを得ないことであり、修羅を極度に忌むあまり、地獄界や鬼畜界へと吹き溜まって
しまう罪が、善巧方便として悪口雑言の計を用いる罪よりも重くなってしまうこともあるのである。
家族兄弟の関係こそは先天的なものである一方、友人や師弟の関係は後天的なもの。
この先天後天の倒錯こそが天性を見失い、ことごとく天命に違う志向性をもたらす元凶となる。
だから儒家は親子の関係を重視し、子の親に対する孝心を、臣下の主君に対する忠心の
雛形ともすることで、決して天命に違うことがない君臣の義を盤石とすることをも旨とする。
仮にここに、親族兄弟よりも友人師弟の関係を重視するものがいたとして、そのような者が
主君への忠誠を誓ったとする。友人関係を重視するものだから、君臣上下の関係すら横並びの
ものと見なそうとすることになるし、師弟の関係も身分の上下に拘束されるものではないから、
臣下の分際でいながら、主君に対してすら長であるかのような態度でいようとすることになる。
この先天後天の倒錯こそが天性を見失い、ことごとく天命に違う志向性をもたらす元凶となる。
だから儒家は親子の関係を重視し、子の親に対する孝心を、臣下の主君に対する忠心の
雛形ともすることで、決して天命に違うことがない君臣の義を盤石とすることをも旨とする。
仮にここに、親族兄弟よりも友人師弟の関係を重視するものがいたとして、そのような者が
主君への忠誠を誓ったとする。友人関係を重視するものだから、君臣上下の関係すら横並びの
ものと見なそうとすることになるし、師弟の関係も身分の上下に拘束されるものではないから、
臣下の分際でいながら、主君に対してすら長であるかのような態度でいようとすることになる。
将軍家剣術指南役であり、江戸大目付でもあった柳生宗矩なども、剣術を教示するに際しては、将軍に
対してですら師として振舞ったに違いないが、大目付などの幕府重役としての役職をこなすに際しては、
あたかも父・柳生石舟斎に対するかのような将軍家への畏敬と共に、務めに励んでいたに違いないのである。
いくら個人的な技量が優れていたところで、伊藤一刀斎や宮本武蔵のような一匹狼では、君臣の義を
父子の親並みにまで緊密とすることは覚束ないから、生涯牢人でいたり、細川家の客分でいたりした。
独行道をただひたすら歩むのではなく、家族総出で武門を押し上げていったあたりが、柳生の他の剣豪
との相違点であり、父子の親に根ざして君臣の義をわきまえる素養もまた豊かであることから、
将軍家剣術指南役という、武術家としても最高の栄誉に与ることができたのだった。
友人関係はおろか、師弟関係すら、君臣関係の雛形として見なしてよいものではなく、君臣関係はやはり
父子の関係こそを雛形とすべきものだ。仮に自らの友人や師が、自らの実父よりも能力的に優れていると
したところで、やはり父子の関係のほうが先天的なものであり、友人や師弟の関係は後天的なものだから、
「君臣関係を天命に適ったものとするため」という切実な理由に即して、友人や師弟の関係ではなく、父子の
関係こそを君臣の関係にも当てはめて、忠孝共に励んでいくように君子たるものは務めていくべきなのである。
「君子、親に篤ければ、則ち民仁に興る」
「為政者が親族への待遇を手厚くすれば、民もまた仁徳の心を興す。
(為政者が親族を冷遇すれば、民もまた仁徳を損なう。徳川家康も、
親族冷遇の教義があることを主な理由として、キリシタンを廃絶した)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二より)
対してですら師として振舞ったに違いないが、大目付などの幕府重役としての役職をこなすに際しては、
あたかも父・柳生石舟斎に対するかのような将軍家への畏敬と共に、務めに励んでいたに違いないのである。
いくら個人的な技量が優れていたところで、伊藤一刀斎や宮本武蔵のような一匹狼では、君臣の義を
父子の親並みにまで緊密とすることは覚束ないから、生涯牢人でいたり、細川家の客分でいたりした。
独行道をただひたすら歩むのではなく、家族総出で武門を押し上げていったあたりが、柳生の他の剣豪
との相違点であり、父子の親に根ざして君臣の義をわきまえる素養もまた豊かであることから、
将軍家剣術指南役という、武術家としても最高の栄誉に与ることができたのだった。
友人関係はおろか、師弟関係すら、君臣関係の雛形として見なしてよいものではなく、君臣関係はやはり
父子の関係こそを雛形とすべきものだ。仮に自らの友人や師が、自らの実父よりも能力的に優れていると
したところで、やはり父子の関係のほうが先天的なものであり、友人や師弟の関係は後天的なものだから、
「君臣関係を天命に適ったものとするため」という切実な理由に即して、友人や師弟の関係ではなく、父子の
関係こそを君臣の関係にも当てはめて、忠孝共に励んでいくように君子たるものは務めていくべきなのである。
「君子、親に篤ければ、則ち民仁に興る」
「為政者が親族への待遇を手厚くすれば、民もまた仁徳の心を興す。
(為政者が親族を冷遇すれば、民もまた仁徳を損なう。徳川家康も、
親族冷遇の教義があることを主な理由として、キリシタンを廃絶した)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二より)
世の中に最大級の災厄をもたらす度し難い邪神は、
正統な神仏や聖人君子よりも後からやって来て、先にいなくなる。
そうでなければ世の中も保ち得ないから、実際に地球人類も総合的には、
犯罪聖書の邪神を降伏できるだけの、質・量・古さ全てにおける優良さを備えた教学を用意している。
それが儒学であったり仏教であったり、神道であったりイスラムであったりする。
ヨハネが「付け足し」などとほざく、犯罪聖書の埒外にある学問宗教によってのみ、
犯罪聖書の非信仰者だけでなく、犯罪聖書の邪義に溺れている狂信者までもが救われ得る。
まことに無責任の至りであり、しかもそれでいて「犯罪聖書によってのみ救われる」などとも
ほざくのだから、犯罪聖書の著者や登場人物の悪意だけは、確かに真性のものであることが分かる。
犯罪聖書の著者や登場人物の悪意が本物なら、犯罪聖書の教義が、全人類を滅亡に陥れる邪義として
本物であることもまた、紛れもない事実である。全人類を滅亡に陥れるほどにも強毒性の害為正法外道
もまた稀有なものだから、その稀有さにこそ釣られて、西洋人たちも犯罪聖書信仰に惑溺していった。
「唯一無二にして最低最悪」の、「唯一無二」の部分だけを見て「しめた」と思い、
無軌道な好奇心と共に破滅への道程をまい進していった。
犯罪聖書信仰が単なる無道ではなく、それなりに秩序立てられた「道」であったことは事実である。
天道や仏道などとも同じ道であり、その道を歩んで行くことが「求道」になり得たのも事実である。
ただ、道ではあるにしたって、地獄道や鬼畜道であり、人間が突き進むことは禁じられるべき獣道だったから、
その道を歩み続けた結果、人としての犯罪聖書信者は破滅に陥らざるを得なくなったのである。
正統な神仏や聖人君子よりも後からやって来て、先にいなくなる。
そうでなければ世の中も保ち得ないから、実際に地球人類も総合的には、
犯罪聖書の邪神を降伏できるだけの、質・量・古さ全てにおける優良さを備えた教学を用意している。
それが儒学であったり仏教であったり、神道であったりイスラムであったりする。
ヨハネが「付け足し」などとほざく、犯罪聖書の埒外にある学問宗教によってのみ、
犯罪聖書の非信仰者だけでなく、犯罪聖書の邪義に溺れている狂信者までもが救われ得る。
まことに無責任の至りであり、しかもそれでいて「犯罪聖書によってのみ救われる」などとも
ほざくのだから、犯罪聖書の著者や登場人物の悪意だけは、確かに真性のものであることが分かる。
犯罪聖書の著者や登場人物の悪意が本物なら、犯罪聖書の教義が、全人類を滅亡に陥れる邪義として
本物であることもまた、紛れもない事実である。全人類を滅亡に陥れるほどにも強毒性の害為正法外道
もまた稀有なものだから、その稀有さにこそ釣られて、西洋人たちも犯罪聖書信仰に惑溺していった。
「唯一無二にして最低最悪」の、「唯一無二」の部分だけを見て「しめた」と思い、
無軌道な好奇心と共に破滅への道程をまい進していった。
犯罪聖書信仰が単なる無道ではなく、それなりに秩序立てられた「道」であったことは事実である。
天道や仏道などとも同じ道であり、その道を歩んで行くことが「求道」になり得たのも事実である。
ただ、道ではあるにしたって、地獄道や鬼畜道であり、人間が突き進むことは禁じられるべき獣道だったから、
その道を歩み続けた結果、人としての犯罪聖書信者は破滅に陥らざるを得なくなったのである。
ある意味、「お疲れ様」ではある。
決して円満な末路であるなどとは言えないし、それこそ人類滅亡の次ぐらいにどうしようもない
最期ではあるわけだが、檻の中やサナトリウムの中で待っているのは、それはそれで休息でもある。
罪を償っていくこれから以上にも、罪を犯し尽くすことを求道として来たこれまでこそは最大級の
苦痛と共にあったに違いなく、その苦痛に耐えることを以って「敬虔さ」にも代えてきたに違いない。
どこまでも墓穴を掘り下げる、闇の底へのまい進が、転倒夢想とも無縁なところにある本念に対して
多大なる苦痛を加えて来たからこそ、善因楽果悪因苦果の罪福異熟をも諾ってしまったに違いないのであり、
人でなしであることも所詮は演技だったから、最悪の邪義から生還することもまた可能となったのである。
その方法は決して好ましいものでないにしても、生還できただけでもありがたい事に違いない。
「古の君子は、大事(養老の礼)を挙げるや、必ず其の終始を慎む。
而るを衆安んぞ喩らざるを得んや。(兌命に)曰く、終始を念いて学に典すと」
「昔の君子は、老後の孝養の礼を尽くすことを、始め(アルファ)から終わり(オメガ)まで一貫して慎んだ。
どうして衆人などにその価値を理解することができようか。『書経』にも『終始を念頭に置いて学問に励む』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
「危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしめ、其の道甚だ大にして、百物廃れず。
懼れて以て終始すれば、其の要は咎无し。此こを之れ易の道と謂うなり」
「よく危ぶむ注意を欠かさぬ者を平安ならしめ、侮り注意に欠ける者を傾かせる。その道はどこまでも広大であって、
万物を廃れさせるようなことがない。終始畏れ慎んで注意していれば問題はない。これこそが易の道であるといえる。
(『そのままにしておけ』などという侮りが事物を傾かせる。一方で、そのような愚物を含む万物を易は廃れさせない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
決して円満な末路であるなどとは言えないし、それこそ人類滅亡の次ぐらいにどうしようもない
最期ではあるわけだが、檻の中やサナトリウムの中で待っているのは、それはそれで休息でもある。
罪を償っていくこれから以上にも、罪を犯し尽くすことを求道として来たこれまでこそは最大級の
苦痛と共にあったに違いなく、その苦痛に耐えることを以って「敬虔さ」にも代えてきたに違いない。
どこまでも墓穴を掘り下げる、闇の底へのまい進が、転倒夢想とも無縁なところにある本念に対して
多大なる苦痛を加えて来たからこそ、善因楽果悪因苦果の罪福異熟をも諾ってしまったに違いないのであり、
人でなしであることも所詮は演技だったから、最悪の邪義から生還することもまた可能となったのである。
その方法は決して好ましいものでないにしても、生還できただけでもありがたい事に違いない。
「古の君子は、大事(養老の礼)を挙げるや、必ず其の終始を慎む。
而るを衆安んぞ喩らざるを得んや。(兌命に)曰く、終始を念いて学に典すと」
「昔の君子は、老後の孝養の礼を尽くすことを、始め(アルファ)から終わり(オメガ)まで一貫して慎んだ。
どうして衆人などにその価値を理解することができようか。『書経』にも『終始を念頭に置いて学問に励む』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
「危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしめ、其の道甚だ大にして、百物廃れず。
懼れて以て終始すれば、其の要は咎无し。此こを之れ易の道と謂うなり」
「よく危ぶむ注意を欠かさぬ者を平安ならしめ、侮り注意に欠ける者を傾かせる。その道はどこまでも広大であって、
万物を廃れさせるようなことがない。終始畏れ慎んで注意していれば問題はない。これこそが易の道であるといえる。
(『そのままにしておけ』などという侮りが事物を傾かせる。一方で、そのような愚物を含む万物を易は廃れさせない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
使徒が「イエスが生きている証拠を見せられた」と言いながら、
イエスが磔刑後に蘇生したという歴史的な証拠は何もなく、
蘇生後に何らかの活動を行ったというような記録も全くない。
コーランでは、イエスはそもそも刑死すらせずに余生を全うしたとされている。
「刑死して生き返る」という夢物語を根本から廃絶しているから、
極刑級の罪を犯しても生き返られるかのような思い込みもまた排される。
イエスが刑死して二度と生き返らなかったと見なせば、累犯障害には罹患しないし、
またイエスが刑死していなかったということを信じても、累犯障害には罹患しない。
イエスが刑死して生き返ったということを信じるときにこそ、信者が累犯障害を患い、
生き返って神の国に召されたなどと信じ込めば信じ込むほど、累犯障害も深刻化する。
キリスト信仰が、累犯障害を深刻化させる一方で、イスラム信仰が、
累犯障害を深刻化させることはない根拠が、まずここにある。
ユダヤ信仰では、イエスが救世主であることを信じず、真の救世主は最後の審判の時に
初めて降臨するとされる。ただ、イエス・キリストが将来降臨する救世主の「雛形」で
あることは認めており、刑死して生き返るという新約聖書中のイエスにまつわる奇跡が、
将来降臨する救世主によってこそ、真に実現されるともしている。
そのため、ユダヤ信仰もまたキリスト信仰と同じように、「刑死して生き返る」
という物語構造への信奉によって累犯障害を深刻化させ、極刑級の重罪を
犯しながら生き続けようとする無理の強行を、信者にけしかけることとなる。
キリスト信仰とユダヤ信仰が、信者の累犯障害を深刻化させる信仰である一方で、
イスラム信仰が、信者を累犯障害に罹患させない信仰である根拠は、以上の如くである。
「仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂う可し」
「仁者は苦難を乗り越えることを優先し、利益を得ることは最後とする。それでこそ仁だといえる。
(刑死という、人間にとっての最大級の苦難にすら利得を期待するような性向が根付けば、
二度と難きを先にして獲るを後とする、仁者の心がけではいられなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・)
イエスが磔刑後に蘇生したという歴史的な証拠は何もなく、
蘇生後に何らかの活動を行ったというような記録も全くない。
コーランでは、イエスはそもそも刑死すらせずに余生を全うしたとされている。
「刑死して生き返る」という夢物語を根本から廃絶しているから、
極刑級の罪を犯しても生き返られるかのような思い込みもまた排される。
イエスが刑死して二度と生き返らなかったと見なせば、累犯障害には罹患しないし、
またイエスが刑死していなかったということを信じても、累犯障害には罹患しない。
イエスが刑死して生き返ったということを信じるときにこそ、信者が累犯障害を患い、
生き返って神の国に召されたなどと信じ込めば信じ込むほど、累犯障害も深刻化する。
キリスト信仰が、累犯障害を深刻化させる一方で、イスラム信仰が、
累犯障害を深刻化させることはない根拠が、まずここにある。
ユダヤ信仰では、イエスが救世主であることを信じず、真の救世主は最後の審判の時に
初めて降臨するとされる。ただ、イエス・キリストが将来降臨する救世主の「雛形」で
あることは認めており、刑死して生き返るという新約聖書中のイエスにまつわる奇跡が、
将来降臨する救世主によってこそ、真に実現されるともしている。
そのため、ユダヤ信仰もまたキリスト信仰と同じように、「刑死して生き返る」
という物語構造への信奉によって累犯障害を深刻化させ、極刑級の重罪を
犯しながら生き続けようとする無理の強行を、信者にけしかけることとなる。
キリスト信仰とユダヤ信仰が、信者の累犯障害を深刻化させる信仰である一方で、
イスラム信仰が、信者を累犯障害に罹患させない信仰である根拠は、以上の如くである。
「仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂う可し」
「仁者は苦難を乗り越えることを優先し、利益を得ることは最後とする。それでこそ仁だといえる。
(刑死という、人間にとっての最大級の苦難にすら利得を期待するような性向が根付けば、
二度と難きを先にして獲るを後とする、仁者の心がけではいられなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・)
イスラム信仰もまた、開祖のムハンマドが対キリスト教徒の戦いで数々の戦績を挙げた
軍人でもあることから、信者の戦闘意欲を活発化させるような傾向があることは確かだ。
しかし、戦闘意欲を活発化させたところで、累犯障害を深刻化させるようなことはないから、
イスラム圏では金融業で利子を付けることが厳禁されるなどして、政財界の暴走からなる
権力犯罪の深刻化なども未然に防いでいくように努められている。
キリスト教やユダヤ教と同じアブラハム教でありながら、イスラム教だけは、
信者が今の日本人ほどにも累犯障害を深刻化させていない。日本人は戦後、信教に対する
確固とした認識をWGIPなどを通じて解体され、キリスト教でも仏教でも宗教なんか何でも
いいというようないい加減さを植え付けられてしまったものだから、自然と聖書信仰の
毒性までをも受け入れてしまい、聖書信者であることを自認もしないうちから、
聖書信者並みの累犯障害を場合によっては患うようになってしまった。
まことに遺憾なことであり、これほどにも聖書信仰を否定しておきながら、
聖書信仰と同じアブラハム教であるイスラムに対しては、今の日本人の一人として優位を
主張することは憚られる。欧米と共に極度の金満状態と化してしまっている現状を是正して、
イスラム並みの金工面への潔癖さを取り戻せて初めて、ムスリムとも対等になれるのだといえる。
「滕文公問うて曰く、滕は小国なり。
力を竭くして以て大国に事うるも、則ち免るるを得ず。之れを如何せば則ち可ならん」
「滕の文公が孟子に問うた。『滕は小国なので、どんなに力を尽くして
大国に対抗しても、所詮は侵略を免れることができない。これを一体どうしたらよいだろうか』
(この後孟子は、仁義による徳治での大国への対抗を促す。イスラエルはおろか、欧米全体ですら
中国やインドや中東の潜在的な国力には及ばない。どんなに莫大な軍事力などを尽くしたところで
経済力による淘汰は免れ得ないので、侵略を防ぎとめるためには仁徳統治を心がけるしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
軍人でもあることから、信者の戦闘意欲を活発化させるような傾向があることは確かだ。
しかし、戦闘意欲を活発化させたところで、累犯障害を深刻化させるようなことはないから、
イスラム圏では金融業で利子を付けることが厳禁されるなどして、政財界の暴走からなる
権力犯罪の深刻化なども未然に防いでいくように努められている。
キリスト教やユダヤ教と同じアブラハム教でありながら、イスラム教だけは、
信者が今の日本人ほどにも累犯障害を深刻化させていない。日本人は戦後、信教に対する
確固とした認識をWGIPなどを通じて解体され、キリスト教でも仏教でも宗教なんか何でも
いいというようないい加減さを植え付けられてしまったものだから、自然と聖書信仰の
毒性までをも受け入れてしまい、聖書信者であることを自認もしないうちから、
聖書信者並みの累犯障害を場合によっては患うようになってしまった。
まことに遺憾なことであり、これほどにも聖書信仰を否定しておきながら、
聖書信仰と同じアブラハム教であるイスラムに対しては、今の日本人の一人として優位を
主張することは憚られる。欧米と共に極度の金満状態と化してしまっている現状を是正して、
イスラム並みの金工面への潔癖さを取り戻せて初めて、ムスリムとも対等になれるのだといえる。
「滕文公問うて曰く、滕は小国なり。
力を竭くして以て大国に事うるも、則ち免るるを得ず。之れを如何せば則ち可ならん」
「滕の文公が孟子に問うた。『滕は小国なので、どんなに力を尽くして
大国に対抗しても、所詮は侵略を免れることができない。これを一体どうしたらよいだろうか』
(この後孟子は、仁義による徳治での大国への対抗を促す。イスラエルはおろか、欧米全体ですら
中国やインドや中東の潜在的な国力には及ばない。どんなに莫大な軍事力などを尽くしたところで
経済力による淘汰は免れ得ないので、侵略を防ぎとめるためには仁徳統治を心がけるしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
信者を累犯障害に罹患させようとする害為正法外道の誘惑の言葉を、
立派な人間は即座に邪言と見抜いて撥ね付けるし、立派でなくても正気の人間なら、
多少その言葉を聞いてみてやった所で、実践に多大な危うさが伴うことから退けるし、
強欲な人間であっても、邪言が最終的には身を滅ぼす原因となると察した場合に退ける。
物事の分別が付かないダメな人間でいて、しかも正気を失った自暴自棄の状態でいて、
強欲さも無軌道と化して、目先の利益のために最終的な破滅の免れ得ないような話
までをも受け入れるといった状態と化してしまった人間こそが、害為正法外道の邪悪な
甘言までをも大々的に受け入れて、有害無益な累犯障害を重症化させていくことになる。
キリスト教やユダヤ教レベルの、最重度の害為正法外道を受け入れてしまっている人間というのは、
それはそれで元からただの人間ではなかったに違いない。そういったものを受け入れてしまう性向が
人間に部分的に備わっていることも確かだが、誰しもがそれにばかり陥るということは決してない。
えてして、生まれ付きが不遇だったに違いない。イエスのような妾腹の私生児とまではいかずとも、
生まれながらにして何か家庭的、心身的な問題を抱えていたに違いなく、「病人こそを救いに来た」
というイエスの甘言にもたぶらかされて、キリストへの信仰によってわが身の不遇を慰めているのだろう。
その、不遇への慰めによる開き直りこそが、本来は健全であり得る当人の精神までをも不具とならしめる。
妾腹の私生児のような卑しい境遇に生まれたことを開き直るのではなく、大きな恥として辱しみ、
逆境としての克服を志したなら、人並み以上の大成すらをも克ち得るというのに、あまつさえ、
不遇にくすぶったままでいて、くすぶりを邪信で慰めて、不遇をありのままに受け入れて開き直ったり
するのだから、せっかくの逆境を有効利用しないあたりが、あまりにも勿体ないことだといえる。
立派な人間は即座に邪言と見抜いて撥ね付けるし、立派でなくても正気の人間なら、
多少その言葉を聞いてみてやった所で、実践に多大な危うさが伴うことから退けるし、
強欲な人間であっても、邪言が最終的には身を滅ぼす原因となると察した場合に退ける。
物事の分別が付かないダメな人間でいて、しかも正気を失った自暴自棄の状態でいて、
強欲さも無軌道と化して、目先の利益のために最終的な破滅の免れ得ないような話
までをも受け入れるといった状態と化してしまった人間こそが、害為正法外道の邪悪な
甘言までをも大々的に受け入れて、有害無益な累犯障害を重症化させていくことになる。
キリスト教やユダヤ教レベルの、最重度の害為正法外道を受け入れてしまっている人間というのは、
それはそれで元からただの人間ではなかったに違いない。そういったものを受け入れてしまう性向が
人間に部分的に備わっていることも確かだが、誰しもがそれにばかり陥るということは決してない。
えてして、生まれ付きが不遇だったに違いない。イエスのような妾腹の私生児とまではいかずとも、
生まれながらにして何か家庭的、心身的な問題を抱えていたに違いなく、「病人こそを救いに来た」
というイエスの甘言にもたぶらかされて、キリストへの信仰によってわが身の不遇を慰めているのだろう。
その、不遇への慰めによる開き直りこそが、本来は健全であり得る当人の精神までをも不具とならしめる。
妾腹の私生児のような卑しい境遇に生まれたことを開き直るのではなく、大きな恥として辱しみ、
逆境としての克服を志したなら、人並み以上の大成すらをも克ち得るというのに、あまつさえ、
不遇にくすぶったままでいて、くすぶりを邪信で慰めて、不遇をありのままに受け入れて開き直ったり
するのだから、せっかくの逆境を有効利用しないあたりが、あまりにも勿体ないことだといえる。
欧米のドキュメンタリー番組などでしばしば放映される、重い障害を抱えていながら、
空元気によって前向きでいようとする子供の姿なども、決して教育上好ましいものとは言えない。
重い障害を抱えていながらも、自らの努力によって芸術家などとして成功したという所まで
いけば偽善にもならないが、ただ重度の障害児がヘラヘラと笑って空元気でいたりするのを
好き好んで放映したりするのでは、偽善となる。なんとなくいいことであるような気がしたり
したところで、そこには何も成果として称賛すべきものが見当たらないから。ただ重度の障害者でいながら
ヘラヘラ笑っているというのであれば、それは現実逃避の証拠を見せ付けているだけでしかないのだから。
重度の障害者ですらあれば、ただヘラヘラと笑っていられるだけで賞賛の対象になるとすれば、
それは障害者に対する逆差別になっているに違いなく、障害者であっても、何らかの社会的な成果を
挙げられた場合に限って賞賛するようにしてこそ、障害者を健常者とも平等に扱っていることになる。
重度の障害者であるとか、妾腹の私生児であるとかいった不遇自体は、それだけで無闇に取り沙汰したり
すべきものではなく、それだけならやはり日陰の存在であるべきだ。深刻な不遇に置かれているとしたところで、
その不遇を乗り越えて大成した場合に限って賞賛してやってこそ、不遇者としての冥利にも尽きるのだから。
「我れ、乃ち劓り殄ち之れを滅して、遺育すること無く、種を茲の新邑に易さ俾むること無けん」
「一族ごと断絶し、完全に滅ぼして後世に育て残すことも無くし、悪の種を一粒も新しい街には持ち込ませない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
空元気によって前向きでいようとする子供の姿なども、決して教育上好ましいものとは言えない。
重い障害を抱えていながらも、自らの努力によって芸術家などとして成功したという所まで
いけば偽善にもならないが、ただ重度の障害児がヘラヘラと笑って空元気でいたりするのを
好き好んで放映したりするのでは、偽善となる。なんとなくいいことであるような気がしたり
したところで、そこには何も成果として称賛すべきものが見当たらないから。ただ重度の障害者でいながら
ヘラヘラ笑っているというのであれば、それは現実逃避の証拠を見せ付けているだけでしかないのだから。
重度の障害者ですらあれば、ただヘラヘラと笑っていられるだけで賞賛の対象になるとすれば、
それは障害者に対する逆差別になっているに違いなく、障害者であっても、何らかの社会的な成果を
挙げられた場合に限って賞賛するようにしてこそ、障害者を健常者とも平等に扱っていることになる。
重度の障害者であるとか、妾腹の私生児であるとかいった不遇自体は、それだけで無闇に取り沙汰したり
すべきものではなく、それだけならやはり日陰の存在であるべきだ。深刻な不遇に置かれているとしたところで、
その不遇を乗り越えて大成した場合に限って賞賛してやってこそ、不遇者としての冥利にも尽きるのだから。
「我れ、乃ち劓り殄ち之れを滅して、遺育すること無く、種を茲の新邑に易さ俾むること無けん」
「一族ごと断絶し、完全に滅ぼして後世に育て残すことも無くし、悪の種を一粒も新しい街には持ち込ませない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
「賢を推して之を進達し、其の報を望まず(既出)」
「賢明さを推進上達しながらも、その報いすら望まない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
何事に対しても過剰な見返りを求めるのが商売人である一方で、
自らの努力が全て報われるなどとは決して期待しないのが君子である。
商売人が追い求めているのは狭隘な私益だから、他人から富を横取りすることで、
どこまでも増収していくことが見込まれるのに対し、君子が追い求めるのは天下の大利であり、
天下全土に存在する富はあくまで限られたものだから、一定以上の増益などは見込まれない。
だから、君子が天下全土の大利を、あらん限りの努力によって有効活用しようとしたところで、
とんでもなく大きな見返りがあるなどと期待できもしない。かならず努力に相応の報い以下の
見返りしか得られない。さらにいえば、君子が大利の保全を模索する天下全土のうちには、
私利私欲ばかりを貪る商売人もまた含まれているわけだから、そのような人種が我田引水の活動を
活発化させればさせるほど、君子が大利を保全しようとした努力に対する報いもまた、目減りする。
君子と商売人の利害はかくのごとく相反していて、しかも君子のほうが努力に対する報いが見込めず、
商売人のほうが楽して大金を稼ぎ上げられる可能性が高いわけだから、高潔な理想があるわけでもない
ただの愚人であるのなら、当然のこととして君子などにはならず、卑しい商売人でいようとする。
そのような愚民の性分こそを、一国の国是にすらしてしまおうとしたのが民主主義であったし、
愚民の性分に適う職業であるところの商売を、最も貴い職業にしようとしたのが資本主義でもあった。
民主主義や資本主義が国是と化してしまった国には、どこにも天下の大利を慮るような
人間がいなくなり、国家が総出を挙げて外界侵略を試みでもしない限りはやっていけなく
なるほどにも横暴な、個人個人の我田引水がまかり通るようにもなってしまった。
「賢明さを推進上達しながらも、その報いすら望まない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
何事に対しても過剰な見返りを求めるのが商売人である一方で、
自らの努力が全て報われるなどとは決して期待しないのが君子である。
商売人が追い求めているのは狭隘な私益だから、他人から富を横取りすることで、
どこまでも増収していくことが見込まれるのに対し、君子が追い求めるのは天下の大利であり、
天下全土に存在する富はあくまで限られたものだから、一定以上の増益などは見込まれない。
だから、君子が天下全土の大利を、あらん限りの努力によって有効活用しようとしたところで、
とんでもなく大きな見返りがあるなどと期待できもしない。かならず努力に相応の報い以下の
見返りしか得られない。さらにいえば、君子が大利の保全を模索する天下全土のうちには、
私利私欲ばかりを貪る商売人もまた含まれているわけだから、そのような人種が我田引水の活動を
活発化させればさせるほど、君子が大利を保全しようとした努力に対する報いもまた、目減りする。
君子と商売人の利害はかくのごとく相反していて、しかも君子のほうが努力に対する報いが見込めず、
商売人のほうが楽して大金を稼ぎ上げられる可能性が高いわけだから、高潔な理想があるわけでもない
ただの愚人であるのなら、当然のこととして君子などにはならず、卑しい商売人でいようとする。
そのような愚民の性分こそを、一国の国是にすらしてしまおうとしたのが民主主義であったし、
愚民の性分に適う職業であるところの商売を、最も貴い職業にしようとしたのが資本主義でもあった。
民主主義や資本主義が国是と化してしまった国には、どこにも天下の大利を慮るような
人間がいなくなり、国家が総出を挙げて外界侵略を試みでもしない限りはやっていけなく
なるほどにも横暴な、個人個人の我田引水がまかり通るようにもなってしまった。
すでに対イラン情勢などにおいて、「大規模な国際侵略すなわち核戦争による人類滅亡」という事態が
招かれてしまっている昨今、金融不安によって亡国の危機に晒されている資本主義国がどうにか
滅亡をまぬがれるためには、どうしたって民主主義や資本主義を国是から外すことが避けられない。
愚民や商売人こそを優遇するイデオロギーを排して、君子を優遇するイデオロギーを定立するといのなら、
民主主義を排して官主主義を定立し、資本主義を排して仁徳主義を定立すべきだということになる。
ただ、そのようなイデオロギーを新たに標榜するまでもなく、国家運営の基本を既存の儒学に頼り、
洋学や聖書信仰に頼ることを廃止するようにすればそれで済むし、むしろそのほうがよっぽど信頼も置ける。
民主主義や資本主義に慣れきっていた現代人に対し、官主主義や仁徳主義などという受け入れがたい
イデオロギーを押し付けるよりは、「儒学を復興する」「サムライの時代を復活させる」と触れ回って
やったほうがよっぽど受け入れもしやすいに違いなく、その程度の方便は全く許されものだといえる。
「獄貨は宝に非ず、惟れ辜を府むる功なり。報ゆるに庶もろの尤を以ってす」
「罪人が赦免を求めて送ってくる賄賂は宝には当たらない。むしろ罪を積み重ねる所業であるから、
その行いに報いるにしても、さらなる処罰の重度化によってでなければならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
招かれてしまっている昨今、金融不安によって亡国の危機に晒されている資本主義国がどうにか
滅亡をまぬがれるためには、どうしたって民主主義や資本主義を国是から外すことが避けられない。
愚民や商売人こそを優遇するイデオロギーを排して、君子を優遇するイデオロギーを定立するといのなら、
民主主義を排して官主主義を定立し、資本主義を排して仁徳主義を定立すべきだということになる。
ただ、そのようなイデオロギーを新たに標榜するまでもなく、国家運営の基本を既存の儒学に頼り、
洋学や聖書信仰に頼ることを廃止するようにすればそれで済むし、むしろそのほうがよっぽど信頼も置ける。
民主主義や資本主義に慣れきっていた現代人に対し、官主主義や仁徳主義などという受け入れがたい
イデオロギーを押し付けるよりは、「儒学を復興する」「サムライの時代を復活させる」と触れ回って
やったほうがよっぽど受け入れもしやすいに違いなく、その程度の方便は全く許されものだといえる。
「獄貨は宝に非ず、惟れ辜を府むる功なり。報ゆるに庶もろの尤を以ってす」
「罪人が赦免を求めて送ってくる賄賂は宝には当たらない。むしろ罪を積み重ねる所業であるから、
その行いに報いるにしても、さらなる処罰の重度化によってでなければならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
キリストこそは唯一無二、唯一無二にして最低最悪の邪神であり、
あらゆる害為正法外道の中でも、最も強い毒性を持つ史上空前の害為正法外道であり、
それを信じることによってこそ、そう簡単に滅亡することもない人類までもが、確実に滅亡する。
信じることによって救われないことにかけて、犯罪聖書の邪神が唯一無二である一方で、じゃあ
聖書信仰のキリスト災禍から救われるための唯一無二の手段が儒学の復興かといえば、そんなこともない。
仏教や道教や、ヒンズー教やイスラム教によっても救われ得る。むしろ儒学こそは、
キリスト災禍から救われる手段として最も簡易なものであり、儒学の実践には仏教の場合のような
厳しい出家修行もなければ、ヒンズー教の場合のような厳酷な信仰に根ざしたカーストもない、
イスラムほどにも女色を厳しく戒めたり、飲酒や豚食を厳禁したりすることも決してない。
ただ、儒学が主旨とする所のものは、仏教や道教やヒンズー教やイスラム教が是とするものを、
随分と簡略化したものであるということはいえる。仏教のように出家するわけでも、道家のように
隠遁を決め込むわけでもないが、「乱世には世を避ける」という程度の社会参画への思慮深さは
わきまえる。ヒンズー教のようにカーストを絶対化するわけではないが、士農工商の社会的な階差を、
商工権力の横暴が世を乱さなくて済む程度に強化する。イスラムのように女色や飲食を戒律で極端に
取り締まるわけではないが、夫唱婦随を男女関係の基本とし、暴飲暴食を戒める程度の節度は嗜む。
「真理は山のようなもので、頂上は一つだが、頂上に至る経路は様々である」という言葉は
仏教や道教やヒンズー教やイスラム教などの場合に言え、いずれもが相当に厳酷な側面を持ちつつ、
真理という山の頂上への経路を確保している。一方で、儒学は山の頂上までは目指しておらず、
山の裾野から平野にかけてまでの区域への安住を旨とする。やたらと頂上への登攀を志さない一方で、
真理にも道理にも違う誤謬という落とし穴に、人々が落ち込まないようにすることを目的としている。
あらゆる害為正法外道の中でも、最も強い毒性を持つ史上空前の害為正法外道であり、
それを信じることによってこそ、そう簡単に滅亡することもない人類までもが、確実に滅亡する。
信じることによって救われないことにかけて、犯罪聖書の邪神が唯一無二である一方で、じゃあ
聖書信仰のキリスト災禍から救われるための唯一無二の手段が儒学の復興かといえば、そんなこともない。
仏教や道教や、ヒンズー教やイスラム教によっても救われ得る。むしろ儒学こそは、
キリスト災禍から救われる手段として最も簡易なものであり、儒学の実践には仏教の場合のような
厳しい出家修行もなければ、ヒンズー教の場合のような厳酷な信仰に根ざしたカーストもない、
イスラムほどにも女色を厳しく戒めたり、飲酒や豚食を厳禁したりすることも決してない。
ただ、儒学が主旨とする所のものは、仏教や道教やヒンズー教やイスラム教が是とするものを、
随分と簡略化したものであるということはいえる。仏教のように出家するわけでも、道家のように
隠遁を決め込むわけでもないが、「乱世には世を避ける」という程度の社会参画への思慮深さは
わきまえる。ヒンズー教のようにカーストを絶対化するわけではないが、士農工商の社会的な階差を、
商工権力の横暴が世を乱さなくて済む程度に強化する。イスラムのように女色や飲食を戒律で極端に
取り締まるわけではないが、夫唱婦随を男女関係の基本とし、暴飲暴食を戒める程度の節度は嗜む。
「真理は山のようなもので、頂上は一つだが、頂上に至る経路は様々である」という言葉は
仏教や道教やヒンズー教やイスラム教などの場合に言え、いずれもが相当に厳酷な側面を持ちつつ、
真理という山の頂上への経路を確保している。一方で、儒学は山の頂上までは目指しておらず、
山の裾野から平野にかけてまでの区域への安住を旨とする。やたらと頂上への登攀を志さない一方で、
真理にも道理にも違う誤謬という落とし穴に、人々が落ち込まないようにすることを目的としている。
そしてその、真理にも道理にも違う、完全誤謬の落とし穴を掘り下げているのが
他でもない聖書信仰であり、犯罪聖書を信仰することは、ただ真理の山を登らないだけでなく、
道理という平野に安住することまでをも拒絶して、完全誤謬の落とし穴を自分たちであえて掘り下げて、
本来ならそうそうにはあり得ない、自分たちを含む全人類の滅亡という最悪の事態までをも招くのである。
結局のところ、人々が救われるための第一歩は、何よりも犯罪聖書への信仰を完全に破棄することであり、
聖書信仰すら破棄できたなら、後にあてがわれる生活密着型の教学が何であれ、救われることには変わりない。
「〜によってのみ救われる」という一神教に特有のドグマは、全世界的には全く通用しておらず、ただ
「聖書信仰によってだけは救われない」という事実と、「聖書信仰以外であればだいたい救われる」という
随分と大雑把な救済条件だけがある。聖書信仰のほうがどんなに救済条件を狭めた所で、世界的には全く
それは通用しておらず、ただやたらと狭い滅亡条件として、犯罪聖書の信仰のほうがあるのみである。
「〜によってでしか救われない」という、過度の了見の狭隘さこそは、
「〜によってだけは救われない」という、過度に狭隘な破滅の条件に直結していたのである。
「子路曰く、(略)政を為さば、子将に奚をか先にせん。子曰く、必ずや名を正さんか」
「子路が問うた。『もし政治を任されたとすれば、先生はまず何をなされますか』
先生は言われた。『とりあえず名を正さなければな』(名辞の乱れこそは天下の乱れの元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
他でもない聖書信仰であり、犯罪聖書を信仰することは、ただ真理の山を登らないだけでなく、
道理という平野に安住することまでをも拒絶して、完全誤謬の落とし穴を自分たちであえて掘り下げて、
本来ならそうそうにはあり得ない、自分たちを含む全人類の滅亡という最悪の事態までをも招くのである。
結局のところ、人々が救われるための第一歩は、何よりも犯罪聖書への信仰を完全に破棄することであり、
聖書信仰すら破棄できたなら、後にあてがわれる生活密着型の教学が何であれ、救われることには変わりない。
「〜によってのみ救われる」という一神教に特有のドグマは、全世界的には全く通用しておらず、ただ
「聖書信仰によってだけは救われない」という事実と、「聖書信仰以外であればだいたい救われる」という
随分と大雑把な救済条件だけがある。聖書信仰のほうがどんなに救済条件を狭めた所で、世界的には全く
それは通用しておらず、ただやたらと狭い滅亡条件として、犯罪聖書の信仰のほうがあるのみである。
「〜によってでしか救われない」という、過度の了見の狭隘さこそは、
「〜によってだけは救われない」という、過度に狭隘な破滅の条件に直結していたのである。
「子路曰く、(略)政を為さば、子将に奚をか先にせん。子曰く、必ずや名を正さんか」
「子路が問うた。『もし政治を任されたとすれば、先生はまず何をなされますか』
先生は言われた。『とりあえず名を正さなければな』(名辞の乱れこそは天下の乱れの元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
「名正しからざれば則ち言順わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、
礼楽興らざれば則ち刑罰中たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措く所なし」
「名辞が正しくなければ話も通じず、話が通じないから物事を計画だてることもできず、
物事を計画だてられないから、計画を礼楽によって潤色することもできず、
計画を礼楽によって潤色することもできないから、刑罰を公正に執り行うこともできず、
刑罰を公正に執り行うこともできないから、民たちも手足を措く所も無いほどに怯えたままでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
十字架にかけられた妾腹の私生児イエスを見て、自らの罪が償われたなどと思い込む、
いわゆるキリスト教が「救いの宗教」であるという、根本から誤った名辞がまかり通っているとする。
すると、「イエス・キリストこそは邪悪の化身であり、人類を滅亡に陥れる最悪の害為正法外道である」
という、正しい名辞への認識が世の中で通用しなくなる。すると、上記のような正しい認識に根ざした
議論が誰ともできなくなり、正しい認識に根ざした議論によって、人類をキリスト災禍による滅亡
から救いあげるための計画ごとを立てられもしないままでいる。キリスト災禍による滅亡から人類を
救い上げるための計画すら立てられないのだから、計画を礼楽によって潤色することも当然適わない。
キリストによって滅亡の危機に陥れられている人類を救済する計画を立てることもできなければ、
計画の実行を礼楽によって潤色することもできないから、冤罪正当化の化身でもあるキリストが是と
されたままの世の中において、冤罪に対する刑罰などの、不当な処罰も相変わらず横行したままでいて、
キリストを元凶とした滅亡の危機がろくに打開されることも試みられないままでいることにより、
民たちもまた手足の置き所もないといったようなままで、途方に暮れているしかない。
礼楽興らざれば則ち刑罰中たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措く所なし」
「名辞が正しくなければ話も通じず、話が通じないから物事を計画だてることもできず、
物事を計画だてられないから、計画を礼楽によって潤色することもできず、
計画を礼楽によって潤色することもできないから、刑罰を公正に執り行うこともできず、
刑罰を公正に執り行うこともできないから、民たちも手足を措く所も無いほどに怯えたままでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
十字架にかけられた妾腹の私生児イエスを見て、自らの罪が償われたなどと思い込む、
いわゆるキリスト教が「救いの宗教」であるという、根本から誤った名辞がまかり通っているとする。
すると、「イエス・キリストこそは邪悪の化身であり、人類を滅亡に陥れる最悪の害為正法外道である」
という、正しい名辞への認識が世の中で通用しなくなる。すると、上記のような正しい認識に根ざした
議論が誰ともできなくなり、正しい認識に根ざした議論によって、人類をキリスト災禍による滅亡
から救いあげるための計画ごとを立てられもしないままでいる。キリスト災禍による滅亡から人類を
救い上げるための計画すら立てられないのだから、計画を礼楽によって潤色することも当然適わない。
キリストによって滅亡の危機に陥れられている人類を救済する計画を立てることもできなければ、
計画の実行を礼楽によって潤色することもできないから、冤罪正当化の化身でもあるキリストが是と
されたままの世の中において、冤罪に対する刑罰などの、不当な処罰も相変わらず横行したままでいて、
キリストを元凶とした滅亡の危機がろくに打開されることも試みられないままでいることにより、
民たちもまた手足の置き所もないといったようなままで、途方に暮れているしかない。
一番最初の、「名辞が正されないから話も通じない」という所で、すでにつまずいてしまっている。
「キリストこそは救世主である」という間違った名辞が、「キリストこそは人類を滅亡に陥れる邪悪の化身である」
という正しい名辞に正されないことには、今まさに引き起こされつつある、キリスト災禍による人類の滅亡を
いかにして食い止めるべきかという議論を、複数の人間の間で執り行うことすら一切できないままでい続ける。
「キリストこそは救世主である」という間違った名辞が、「キリストこそは人類を滅亡に陥れる邪悪の化身である」
という正しい名辞に正されないことには、今まさに引き起こされつつある、キリスト災禍による人類の滅亡を
いかにして食い止めるべきかという議論を、複数の人間の間で執り行うことすら一切できないままでい続ける。
人が、他人に仕える上で心がけようとする信条には、
大別して「忠」と「佞(ねい)」の、二種類がある
忠こそは、君子が人に仕える場合に心がける信条である一方、
佞こそは、小人が人に仕える場合に心がける信条にあたる。
忠のあり方は、子の親に対する孝心に近似する一方、
佞のあり方は、娼婦の客に対する媚びに近似する。
老衰した親の足を子が洗ってやるというのなら、介護にもなり、別に媚びにも当たらない。
実際に「礼記」内則第十二でも、孝行の例としての父母舅姑に対する洗足が挙げられているが、
顧客とあらば誰彼構わず足を洗ってやるというのでは、これは娼婦も同然の所業だといえる。
信徒になってくれた相手に対する奉仕として、イエスがその足を洗って
やっていたのなども、娼婦も同然の所業であり、おそらく母親のマリアが
娼婦として客の足を洗ってやっていたのを真似たのだろう。
忠信を旨とする、君子たる配下は上司にとっても信用が置ける一方で、
佞を信条とする、小人然とした配下は上司にとっても信用が置けない。
殷の紂王に仕えた佞臣である費仲や尤渾、始皇帝や胡亥の腹心として横暴を働いた宦官趙高など、
主君たる紂王や始皇帝らに対しては、それはそれは媚びにまみれた阿りによって奉仕を尽くした一方で、
自分たち以外の臣下や部下に対しては鬼畜のような仕打ちを繰り返し、殷や秦の国勢をも衰退させ、亡国に
際しては紂王を自決させたり、二世皇帝胡亥を身内に殺害させたりといった、大逆の所業にも及んでいる。
媚びによって、かえって我れと我が国とを滅ぼす元凶となる佞臣などよりは、
太公望や諸葛亮のように、仕官するまでは素っ気無くても、仕官したからには私情を
排した勤めに徹する忠臣のほうが、明らかに明君にとっては好ましい存在に当たる。
大別して「忠」と「佞(ねい)」の、二種類がある
忠こそは、君子が人に仕える場合に心がける信条である一方、
佞こそは、小人が人に仕える場合に心がける信条にあたる。
忠のあり方は、子の親に対する孝心に近似する一方、
佞のあり方は、娼婦の客に対する媚びに近似する。
老衰した親の足を子が洗ってやるというのなら、介護にもなり、別に媚びにも当たらない。
実際に「礼記」内則第十二でも、孝行の例としての父母舅姑に対する洗足が挙げられているが、
顧客とあらば誰彼構わず足を洗ってやるというのでは、これは娼婦も同然の所業だといえる。
信徒になってくれた相手に対する奉仕として、イエスがその足を洗って
やっていたのなども、娼婦も同然の所業であり、おそらく母親のマリアが
娼婦として客の足を洗ってやっていたのを真似たのだろう。
忠信を旨とする、君子たる配下は上司にとっても信用が置ける一方で、
佞を信条とする、小人然とした配下は上司にとっても信用が置けない。
殷の紂王に仕えた佞臣である費仲や尤渾、始皇帝や胡亥の腹心として横暴を働いた宦官趙高など、
主君たる紂王や始皇帝らに対しては、それはそれは媚びにまみれた阿りによって奉仕を尽くした一方で、
自分たち以外の臣下や部下に対しては鬼畜のような仕打ちを繰り返し、殷や秦の国勢をも衰退させ、亡国に
際しては紂王を自決させたり、二世皇帝胡亥を身内に殺害させたりといった、大逆の所業にも及んでいる。
媚びによって、かえって我れと我が国とを滅ぼす元凶となる佞臣などよりは、
太公望や諸葛亮のように、仕官するまでは素っ気無くても、仕官したからには私情を
排した勤めに徹する忠臣のほうが、明らかに明君にとっては好ましい存在に当たる。
佞臣は、たとえそれなりに忠義も尽くそうとしたところで、
佞とのみそくそが祟った挙句に、やはり衰亡を招く。
寒い冬場に、信長の草履を懐で温めて差し出すことで信長を喜ばせた秀吉も、
佞と忠の両刀遣いとでもいった姿勢によって天下一の座にまで上り詰めたそのあり方が、
忠信こそを本旨とする本格の武家からは忌み嫌われて、そのような武家を多数徳川方に流出させてしまった一方、
秀吉から頂いた饅頭をわざわざ家中に持ち帰って、臣下に分け与えることで秀吉を喜ばせた長宗我部元親のような、
まるで秀吉の阿りをそのまま生き写しにしたかのような佞臣を、豊臣方の配下に多く蔓延らせる原因ともなった。
結果、秀吉自身までは栄華の下で人生を終えたものの、その子の秀頼は、豊臣方に多数群がっていた
佞臣や愚臣を一手に引き受けさせられることになり、徳川家康の孫であり、秀忠の娘である千姫を正室とする
自らの心情とも無関係に、部下たちが勝手に徳川との対立を推し進めた挙句、多勢に無勢な上に、忠臣に佞臣という
絶体絶命の窮地へと大坂の陣で追い込まれ、最期には母淀殿と共に、自決させられることとなったのだった。
忠臣は、害がない上に益がある一方で、佞臣は、益がない上に害がある。佞臣として仕官を心がけるぐらいなら、
むしろ仕官などしないほうがマシであり、そのほうがよっぽど、世の中や主君となる者の側にとっても助かる。
仕官に際して心がける信条が、完全に佞ではなく忠である場合に限って、仕官をも志すべきだといえる。
「古えの人、未だ嘗て仕うること欲せざることあらざるも、
又た其の道に由らざるを悪む。其の道に由らずして往く者は、穴隙を鑽つ与きの類いなり」
「古来、君子でありながら人に仕えることを欲しなかった者は一人もいないが、ただその
仕え方が道義に則っていないことを憎み嫌った。道義にも則らずにただ人に仕えるのでは、
仕切りとなっている壁に穴を穿つも同然の所業となるから、むしろすべきでない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・三より)
佞とのみそくそが祟った挙句に、やはり衰亡を招く。
寒い冬場に、信長の草履を懐で温めて差し出すことで信長を喜ばせた秀吉も、
佞と忠の両刀遣いとでもいった姿勢によって天下一の座にまで上り詰めたそのあり方が、
忠信こそを本旨とする本格の武家からは忌み嫌われて、そのような武家を多数徳川方に流出させてしまった一方、
秀吉から頂いた饅頭をわざわざ家中に持ち帰って、臣下に分け与えることで秀吉を喜ばせた長宗我部元親のような、
まるで秀吉の阿りをそのまま生き写しにしたかのような佞臣を、豊臣方の配下に多く蔓延らせる原因ともなった。
結果、秀吉自身までは栄華の下で人生を終えたものの、その子の秀頼は、豊臣方に多数群がっていた
佞臣や愚臣を一手に引き受けさせられることになり、徳川家康の孫であり、秀忠の娘である千姫を正室とする
自らの心情とも無関係に、部下たちが勝手に徳川との対立を推し進めた挙句、多勢に無勢な上に、忠臣に佞臣という
絶体絶命の窮地へと大坂の陣で追い込まれ、最期には母淀殿と共に、自決させられることとなったのだった。
忠臣は、害がない上に益がある一方で、佞臣は、益がない上に害がある。佞臣として仕官を心がけるぐらいなら、
むしろ仕官などしないほうがマシであり、そのほうがよっぽど、世の中や主君となる者の側にとっても助かる。
仕官に際して心がける信条が、完全に佞ではなく忠である場合に限って、仕官をも志すべきだといえる。
「古えの人、未だ嘗て仕うること欲せざることあらざるも、
又た其の道に由らざるを悪む。其の道に由らずして往く者は、穴隙を鑽つ与きの類いなり」
「古来、君子でありながら人に仕えることを欲しなかった者は一人もいないが、ただその
仕え方が道義に則っていないことを憎み嫌った。道義にも則らずにただ人に仕えるのでは、
仕切りとなっている壁に穴を穿つも同然の所業となるから、むしろすべきでない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・三より)
仕切りの壁に穴を穿って、片目で覗き込むような輩には、
確かに人に仕えるような資格はない。
「片目(眇)でものを覗き込むのは、家中で貞節を守る主婦には相応しい」と「易経」帰妹・九二-象伝にある一方で、
「それはものがよく見えていることには当たらない」と、同じく「易経」履・六三-象伝にもある。
「君子は〜視るには明を思う(論語・季氏第十六・一〇)」ともあるから、壁に穴を穿って
片目で覗き込むことを信条とするような人間には、全く以て人に仕える資格がないのだといえる。
そうであることが自明に、仕える資格を殺いでいるのである。
確かに人に仕えるような資格はない。
「片目(眇)でものを覗き込むのは、家中で貞節を守る主婦には相応しい」と「易経」帰妹・九二-象伝にある一方で、
「それはものがよく見えていることには当たらない」と、同じく「易経」履・六三-象伝にもある。
「君子は〜視るには明を思う(論語・季氏第十六・一〇)」ともあるから、壁に穴を穿って
片目で覗き込むことを信条とするような人間には、全く以て人に仕える資格がないのだといえる。
そうであることが自明に、仕える資格を殺いでいるのである。
忠と佞の違いは結局のところ、本人自身の孝心の有無に尽きている。
上>>194では、佞人の心境を「娼婦に近似するもの」と喩えたが、別に娼婦に
これといった信条があるわけでもなく、ただ金を稼ぐことに形振り構わないでいるのみ。
女や人としての最低限の節度すらかなぐり捨てて、ただ欲求の赴くままでいるのみ。
そのような、なりふり構わぬ奉仕と違って、忠臣には、これと決めた相手に対してのみ奉仕を
心がける節度がある。その節度が結局、自らの親への特定的な孝心を原器とするわけだから、結局、
忠臣には守るべきものがある一方で、佞人には守るべきものもないというのが、両者の違いだといえる。
「全てをかなぐり捨てる」というとなんとなく聞こえもよく、実際に武術における極意でもあったりする。
柳生宗矩も「兵法家伝書」で、娼婦ほどにも全てを捨て去ることを極意の一つとして取り上げているが、
やはりそれは修羅道たる武道や兵法において是とされるものであり、守るべき家もあれば
節度もある人道や天道においてまで、普遍的に通用するものであるなどとは言えない。
(実際に柳生家も将軍家御用達の兵家として、長らくその地位を保ち続けた)
忠義に即して勤めに励む士大夫もまた、仕事場において全てを捨ててかかるほどもの心意気で
臨む必要は多々ある。それでこそ作業が成就して、家を盛り立てる成果とすらなり得るわけだから、
守るべきものを守るための捨身というのは、人道や天道においてですら要求されるものだといえる。
しかし、ただ何もかもを捨て去って獣道を突っ走るとなれば、もはや人道や天道には当たらず、
捨身でいながら強欲さにだけはまみれているとなれば、それこそ餓鬼畜生の類いとなる。
欲望すら完全に捨て去って出家修行に励むというのならともかく、なりふり構わぬ捨て身でいて、
その捨て身を強欲の貪りのために転化するとなれば、その時にこそ、人は餓鬼畜生と化す。
そこが餓鬼畜生の、常人とも天人とも出家者とも、決定的に異なる部分であり、
「強欲のための捨て身」だけは捨てられていないが故に、最低劣の悪道と見なされる。
上>>194では、佞人の心境を「娼婦に近似するもの」と喩えたが、別に娼婦に
これといった信条があるわけでもなく、ただ金を稼ぐことに形振り構わないでいるのみ。
女や人としての最低限の節度すらかなぐり捨てて、ただ欲求の赴くままでいるのみ。
そのような、なりふり構わぬ奉仕と違って、忠臣には、これと決めた相手に対してのみ奉仕を
心がける節度がある。その節度が結局、自らの親への特定的な孝心を原器とするわけだから、結局、
忠臣には守るべきものがある一方で、佞人には守るべきものもないというのが、両者の違いだといえる。
「全てをかなぐり捨てる」というとなんとなく聞こえもよく、実際に武術における極意でもあったりする。
柳生宗矩も「兵法家伝書」で、娼婦ほどにも全てを捨て去ることを極意の一つとして取り上げているが、
やはりそれは修羅道たる武道や兵法において是とされるものであり、守るべき家もあれば
節度もある人道や天道においてまで、普遍的に通用するものであるなどとは言えない。
(実際に柳生家も将軍家御用達の兵家として、長らくその地位を保ち続けた)
忠義に即して勤めに励む士大夫もまた、仕事場において全てを捨ててかかるほどもの心意気で
臨む必要は多々ある。それでこそ作業が成就して、家を盛り立てる成果とすらなり得るわけだから、
守るべきものを守るための捨身というのは、人道や天道においてですら要求されるものだといえる。
しかし、ただ何もかもを捨て去って獣道を突っ走るとなれば、もはや人道や天道には当たらず、
捨身でいながら強欲さにだけはまみれているとなれば、それこそ餓鬼畜生の類いとなる。
欲望すら完全に捨て去って出家修行に励むというのならともかく、なりふり構わぬ捨て身でいて、
その捨て身を強欲の貪りのために転化するとなれば、その時にこそ、人は餓鬼畜生と化す。
そこが餓鬼畜生の、常人とも天人とも出家者とも、決定的に異なる部分であり、
「強欲のための捨て身」だけは捨てられていないが故に、最低劣の悪道と見なされる。
守るべき家や忠義があるか、もしくは強欲さを含む全てを捨て去るかの、いずれかなら立派だが、
強欲さのために捨て身でいるとなれば、もはや見るべきところも無い、狂獣のザマだといえる。
それをあえてピンポイントに選んでおいて、同情や救済を取り付けようなどとするほうが、無理がある。
「諸侯の宝は三つ、土地、人民、政事なり。珠玉を宝とする者は、殃い必ず身に及ぶ」
「諸侯が宝とすべきものに三つある。自らが領地とする国土と、そこに住まう人民と、国と民とを安寧に
導く正しい政治である。珠玉を至宝としたりしているようなら、必ず大きな禍いに見舞われることになる。
(真珠宝玉の類いを独占するために、土地利権を不正利用するようなことを公職者はしてもさせてもいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二八より)
「子路曰く、傷ましきかな貧しきことや。生くるに以て養いを為す無く、死するに以て礼を
為す無し。孔子曰く、菽を啜らせ水を飲ませ、其の歓を尽くさしむ、斯れを之れ孝と謂う。
首足の形を斂めて、還く葬りて槨無くも、其の財に稱うなれば、斯れを之れ礼と謂う」
「子路が言った。『貧しさほど痛ましいものがあるでしょうか。親が生きている間に養ってやることも
できなければ、親が死んだときに厚葬によって礼を尽くすこともできないのですから』 孔先生は言われた。
『親に豆粥をすすらせて水を飲ませ、それで歓待を尽くすことができたのなら、それもまた孝と言ってよい。
その遺体の首や足の形を整えて、布にくるんで内壁すらない墓穴に埋葬するのであっても、
それがその時の財産では精一杯の葬儀だというのなら、それもまた最礼を尽くしたと言ってよい』
(財産の有無や多寡などとも無関係に孝行は尽くせるのであり、そのほうが財貨の貪りよりもよっぽど重要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
強欲さのために捨て身でいるとなれば、もはや見るべきところも無い、狂獣のザマだといえる。
それをあえてピンポイントに選んでおいて、同情や救済を取り付けようなどとするほうが、無理がある。
「諸侯の宝は三つ、土地、人民、政事なり。珠玉を宝とする者は、殃い必ず身に及ぶ」
「諸侯が宝とすべきものに三つある。自らが領地とする国土と、そこに住まう人民と、国と民とを安寧に
導く正しい政治である。珠玉を至宝としたりしているようなら、必ず大きな禍いに見舞われることになる。
(真珠宝玉の類いを独占するために、土地利権を不正利用するようなことを公職者はしてもさせてもいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二八より)
「子路曰く、傷ましきかな貧しきことや。生くるに以て養いを為す無く、死するに以て礼を
為す無し。孔子曰く、菽を啜らせ水を飲ませ、其の歓を尽くさしむ、斯れを之れ孝と謂う。
首足の形を斂めて、還く葬りて槨無くも、其の財に稱うなれば、斯れを之れ礼と謂う」
「子路が言った。『貧しさほど痛ましいものがあるでしょうか。親が生きている間に養ってやることも
できなければ、親が死んだときに厚葬によって礼を尽くすこともできないのですから』 孔先生は言われた。
『親に豆粥をすすらせて水を飲ませ、それで歓待を尽くすことができたのなら、それもまた孝と言ってよい。
その遺体の首や足の形を整えて、布にくるんで内壁すらない墓穴に埋葬するのであっても、
それがその時の財産では精一杯の葬儀だというのなら、それもまた最礼を尽くしたと言ってよい』
(財産の有無や多寡などとも無関係に孝行は尽くせるのであり、そのほうが財貨の貪りよりもよっぽど重要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「孝心を忠心の原器とする」ということは、孝子が親に対するかのような心境で以って
主君にも仕えるということであり、それは即ち、娼婦の顧客に対するかのような
上ずった阿りを排した、ごく親密な心境によって主君に仕えることを意味する。
仮に自分が、巧言令色で客に阿る娼婦や商売人であったとして、自分が客に対して見せていたような
上ずった態度で実の親などにも接したとすれば、それはもう、恥ずかしくてやってられない。
事実、商人階級の人間などは、家族や身内の間でだけは極端になあなあだったり、
あるいは職場での部下に対するかのような極端に厳しい態度でわが子に接したりする。
(後者の場合は、わが子に稼業を継がせようとする意図があったりする)
赤の他人である客に対する阿りばかりに慣れているものだから、商人や娼婦は基本、
家族付き合いというものを酷く蔑ろにする。その、商人や娼婦が蔑ろにするところの、
実の家族関係こそをよく正して、宮仕えのような社会的な職業にも及ぼしていくのが君子でこそある。
商人や娼婦やイエスのように、世間付き合いのために血族関係を蔑ろにするのでもなければ、
墨子のように、家族も他人も平等に兼ね愛しつつ付き合うというのでもなく、
血族関係こそを根本に置いて、そこから社会的な活動にも及んでいくのが君子である。
家族を世間とは別個のものとして扱う傾向があるのは、小人とて君子と変わりはしない。
ただ、君子が家族を世間づきあいの根本とすらするのに対し、小人は世間づきあいに執心し過ぎるあまり、
家族関係をより蔑ろにしてしまうという、全く真逆の理由に即して家族が特別扱いされるのであり、
前者が「斉家」といえる一方で、後者は「蔑家」といえる点が決定的に異なるのである。
「自ら鬻ぎて以て其の君を成さしむは、郷党の自らを
好くする者も為さず。而るを謂わんや、賢者の之れを為すや」
「自らを身売りしてまで、仕える者の事業を成功させようとするようなことは、
故郷での名誉を守ろうとする程度の、ちっぽけな名誉心の持ち主であっても
試みることではない。当然、賢者がそのような暴挙におよばないのは、尚のことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・九より)
主君にも仕えるということであり、それは即ち、娼婦の顧客に対するかのような
上ずった阿りを排した、ごく親密な心境によって主君に仕えることを意味する。
仮に自分が、巧言令色で客に阿る娼婦や商売人であったとして、自分が客に対して見せていたような
上ずった態度で実の親などにも接したとすれば、それはもう、恥ずかしくてやってられない。
事実、商人階級の人間などは、家族や身内の間でだけは極端になあなあだったり、
あるいは職場での部下に対するかのような極端に厳しい態度でわが子に接したりする。
(後者の場合は、わが子に稼業を継がせようとする意図があったりする)
赤の他人である客に対する阿りばかりに慣れているものだから、商人や娼婦は基本、
家族付き合いというものを酷く蔑ろにする。その、商人や娼婦が蔑ろにするところの、
実の家族関係こそをよく正して、宮仕えのような社会的な職業にも及ぼしていくのが君子でこそある。
商人や娼婦やイエスのように、世間付き合いのために血族関係を蔑ろにするのでもなければ、
墨子のように、家族も他人も平等に兼ね愛しつつ付き合うというのでもなく、
血族関係こそを根本に置いて、そこから社会的な活動にも及んでいくのが君子である。
家族を世間とは別個のものとして扱う傾向があるのは、小人とて君子と変わりはしない。
ただ、君子が家族を世間づきあいの根本とすらするのに対し、小人は世間づきあいに執心し過ぎるあまり、
家族関係をより蔑ろにしてしまうという、全く真逆の理由に即して家族が特別扱いされるのであり、
前者が「斉家」といえる一方で、後者は「蔑家」といえる点が決定的に異なるのである。
「自ら鬻ぎて以て其の君を成さしむは、郷党の自らを
好くする者も為さず。而るを謂わんや、賢者の之れを為すや」
「自らを身売りしてまで、仕える者の事業を成功させようとするようなことは、
故郷での名誉を守ろうとする程度の、ちっぽけな名誉心の持ち主であっても
試みることではない。当然、賢者がそのような暴挙におよばないのは、尚のことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・九より)
相手が神であれ大金持ちであれ何であれ、
身売りによって功を成そうとするような人間が、
故郷で不名誉な存在として扱われるのは当然のこと。
孟子の言葉は、本当に、ドンピシャリで犯罪聖書の神秘性を破砕するものが多い。
孔子や五経中の言葉が、ただ犯罪聖書の記述を論駁するだけでなく、色々と余分に味わえる要素を伴っているのに対し、
孟子の言葉は過不足一つなく、完璧かつ的確に犯罪聖書の記述を粉砕する。
2300年もの昔に、孟子は共産主義の不当性までをも的確に看破しているが(滕文公章句上・四参照)、
だからこそ孟子の活躍した中国戦国時代が、聖書信仰や洋学が適用された
世の中並みの、最悪の汚濁にまみれていたことまでもが分かるのである。
仁徳のしんがり、勧善懲悪の極致たる孟子の言葉は、
人間社会の普遍法則に根差した、最悪の乱世を糾弾する言葉でこそあるのだ。
身売りによって功を成そうとするような人間が、
故郷で不名誉な存在として扱われるのは当然のこと。
孟子の言葉は、本当に、ドンピシャリで犯罪聖書の神秘性を破砕するものが多い。
孔子や五経中の言葉が、ただ犯罪聖書の記述を論駁するだけでなく、色々と余分に味わえる要素を伴っているのに対し、
孟子の言葉は過不足一つなく、完璧かつ的確に犯罪聖書の記述を粉砕する。
2300年もの昔に、孟子は共産主義の不当性までをも的確に看破しているが(滕文公章句上・四参照)、
だからこそ孟子の活躍した中国戦国時代が、聖書信仰や洋学が適用された
世の中並みの、最悪の汚濁にまみれていたことまでもが分かるのである。
仁徳のしんがり、勧善懲悪の極致たる孟子の言葉は、
人間社会の普遍法則に根差した、最悪の乱世を糾弾する言葉でこそあるのだ。
西洋で概念論(イデア論)を初めて提唱したのはプラトンだが、
プラトンは哲学上の志向性としてのイデア論を打ち出したまでで、
それを体系的な宗教信仰に結び付けるまでのことはしなかった。
「形而上の超越神」という概念を絶対的な信仰対象とし、
「それを信仰するならばどのような実践を心がけるべきか」ということを
挙げ連ねたのがイエスを含む古代ユダヤ人であり、超越神エホバ自体の
様態を具象化することまでは避けられるものの、エホバには人格があり、
エホバの人格が好むようなあり方を信者が心がけるべきだとする。
儒学にも、一応は拠り所とする概念論が存在する。それが「易経」などに記された
陰陽五行思想であり、八卦や六十四卦が示し出す数理法則を、占いだけでなく、
人がいかにあるべかということを具体的に指し示すための雛形ともする。
陰陽五行思想の発祥は、イデア論やエホバ信仰よりも数千年は古く、
プラトンやイエスよりも年上である孔子の代の頃には、もはや完成されきっていた。
イエスよりは年上だが、プラトンよりは年下である孟子の代には、もはや陰陽五行自体を
儒者がいちいち論じ立てることすら廃れ、陰陽法則は個々の儒者たち自身が完全に体得
していることを前提とした上での、世俗的な人間学や社会学の論じたてが主流となっていた。
陰陽五行思想が、コンピューターシステムの内部を構成するプログラムなら、
陰陽五行自体を語らない儒学道徳は、OSやOS上のアプリケーションシステムとでもいった所で、
より根本的な宇宙の絶対法則から取り上げているのは陰陽五行だが、そのぶんだけ事務性に欠ける。
そのため、最悪の乱世だった中国の戦国時代には、陰陽五行そのものの語り立ては控えられ、兵学も
それまで主流だった陰陽道兵法に代わって、孫子や呉子の実用的な兵法が重用されるようになっていた。
プラトンは哲学上の志向性としてのイデア論を打ち出したまでで、
それを体系的な宗教信仰に結び付けるまでのことはしなかった。
「形而上の超越神」という概念を絶対的な信仰対象とし、
「それを信仰するならばどのような実践を心がけるべきか」ということを
挙げ連ねたのがイエスを含む古代ユダヤ人であり、超越神エホバ自体の
様態を具象化することまでは避けられるものの、エホバには人格があり、
エホバの人格が好むようなあり方を信者が心がけるべきだとする。
儒学にも、一応は拠り所とする概念論が存在する。それが「易経」などに記された
陰陽五行思想であり、八卦や六十四卦が示し出す数理法則を、占いだけでなく、
人がいかにあるべかということを具体的に指し示すための雛形ともする。
陰陽五行思想の発祥は、イデア論やエホバ信仰よりも数千年は古く、
プラトンやイエスよりも年上である孔子の代の頃には、もはや完成されきっていた。
イエスよりは年上だが、プラトンよりは年下である孟子の代には、もはや陰陽五行自体を
儒者がいちいち論じ立てることすら廃れ、陰陽法則は個々の儒者たち自身が完全に体得
していることを前提とした上での、世俗的な人間学や社会学の論じたてが主流となっていた。
陰陽五行思想が、コンピューターシステムの内部を構成するプログラムなら、
陰陽五行自体を語らない儒学道徳は、OSやOS上のアプリケーションシステムとでもいった所で、
より根本的な宇宙の絶対法則から取り上げているのは陰陽五行だが、そのぶんだけ事務性に欠ける。
そのため、最悪の乱世だった中国の戦国時代には、陰陽五行そのものの語り立ては控えられ、兵学も
それまで主流だった陰陽道兵法に代わって、孫子や呉子の実用的な兵法が重用されるようになっていた。
それと同じようにして、陰陽五行そのものを社会問題に適用することが廃れ、陰陽法則を体得した儒者が、
全くの世俗の言葉だけで社会問題をも論ずることが主流となり始めたわけで、一見概念性に欠けるように
思われる儒者の言葉の裏側にはいつも、数千年来の陰陽五行思想というバックボーンが常に備わっている。
プラトンやイエスが概念志向を打ち出す以前から、孔孟を始めとする儒者はあえて概念論を避けて、
真理法則に根ざした概念である陰陽五行を体得した上で、世俗にこそ肉迫した言葉を述べることを
選択していたわけで、それは、概念論なんか全く知らずに主観的な論弁ばかりに終始するのとは違う。
真理法則に根ざした概念の把捉→真理法則の体得→世俗の言葉や実践への演繹
という積み立てが事前にあって初めて、儒者も切実な社会問題ばかりを論じ立てているわけだから、
そこに後退性を見出したりするとすれば、それは、トラック競走で周回遅れのランナーが、
一番のランナーの前を走っていることで一等賞気取りになっているようなものだといえる。
「孔子魯の司寇と為りて、用いられず。祭に従いて、燔肉至らず。冕を脱がずして行る。
知らざる者は以て肉の為めと為せり。其の知る者し以て礼無きが為めと為せり」
「孔子が魯の法務大臣となったとき、自らの意見が全く候公に取り入れられないでいた。
祭祀に従事しても、しきたりとなっている食肉の下賜も自分にはなされなかったために、
孔子は冠も脱がずにその場を去って退官した。物を知らぬ人間は『たかが肉のために』と
思うだろうが、物を知る人間からすれば、礼儀に欠けることこそが問題であったのだと分かる。
(郷党第十・八にも肉食にまつわる礼儀作法が多々載っているが、肉の扱いにすら、
形而上の法則にも即した、儀礼的な手法をあてはめることはできるのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・六より)
全くの世俗の言葉だけで社会問題をも論ずることが主流となり始めたわけで、一見概念性に欠けるように
思われる儒者の言葉の裏側にはいつも、数千年来の陰陽五行思想というバックボーンが常に備わっている。
プラトンやイエスが概念志向を打ち出す以前から、孔孟を始めとする儒者はあえて概念論を避けて、
真理法則に根ざした概念である陰陽五行を体得した上で、世俗にこそ肉迫した言葉を述べることを
選択していたわけで、それは、概念論なんか全く知らずに主観的な論弁ばかりに終始するのとは違う。
真理法則に根ざした概念の把捉→真理法則の体得→世俗の言葉や実践への演繹
という積み立てが事前にあって初めて、儒者も切実な社会問題ばかりを論じ立てているわけだから、
そこに後退性を見出したりするとすれば、それは、トラック競走で周回遅れのランナーが、
一番のランナーの前を走っていることで一等賞気取りになっているようなものだといえる。
「孔子魯の司寇と為りて、用いられず。祭に従いて、燔肉至らず。冕を脱がずして行る。
知らざる者は以て肉の為めと為せり。其の知る者し以て礼無きが為めと為せり」
「孔子が魯の法務大臣となったとき、自らの意見が全く候公に取り入れられないでいた。
祭祀に従事しても、しきたりとなっている食肉の下賜も自分にはなされなかったために、
孔子は冠も脱がずにその場を去って退官した。物を知らぬ人間は『たかが肉のために』と
思うだろうが、物を知る人間からすれば、礼儀に欠けることこそが問題であったのだと分かる。
(郷党第十・八にも肉食にまつわる礼儀作法が多々載っているが、肉の扱いにすら、
形而上の法則にも即した、儀礼的な手法をあてはめることはできるのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・六より)
やたらと強制的、命令的であることがすでに
主人と奴隷、客と商売人や娼婦の関係に合致している。
父母と子供、祖父母と孫の関係などがそこまで一方通行的であることはなく、
ただ先天的な上下関係のみを自然と受け入れる。どうあっても親子の関係が友人並みに
横並びになるなんてこともく、仮に完全な横並びなどを強制したりすれば、かえって親情を損なう。
親子の関係こそは、主人と奴隷ほどにも絶対的な上下関係でもなければ、
友人同士ほどにも完全な横並び関係でもない、上下左右の中庸に適った人間関係であり、
だからこそ絶対服従でも絶対平等でもうまくいかない君臣関係の雛形とする上でも最適である。
君臣関係と父子関係、いずれもがうまくいかせることの極めて難しい人間関係に当たる。
主人と奴隷のように絶対的な服従関係であることも、友人同士のようにただの横並び関係で
あることも極めて簡単なことであり、そこに精神的な修練が必要とされたりすることもない。
一方で、君臣関係や父子関係をうまくいかせようとすれば、絶対的な上下でも横並びでもない
均衡の取れた関係を保つ上での旺盛な精神力をも必要とする。だから、徳治社会の君臣関係を
成功させられる君子は一部の人間に限られ、難儀な宮仕えに勤める者として畏敬の対象ともされる。
主人と奴隷、客と商売人や娼婦の関係に合致している。
父母と子供、祖父母と孫の関係などがそこまで一方通行的であることはなく、
ただ先天的な上下関係のみを自然と受け入れる。どうあっても親子の関係が友人並みに
横並びになるなんてこともく、仮に完全な横並びなどを強制したりすれば、かえって親情を損なう。
親子の関係こそは、主人と奴隷ほどにも絶対的な上下関係でもなければ、
友人同士ほどにも完全な横並び関係でもない、上下左右の中庸に適った人間関係であり、
だからこそ絶対服従でも絶対平等でもうまくいかない君臣関係の雛形とする上でも最適である。
君臣関係と父子関係、いずれもがうまくいかせることの極めて難しい人間関係に当たる。
主人と奴隷のように絶対的な服従関係であることも、友人同士のようにただの横並び関係で
あることも極めて簡単なことであり、そこに精神的な修練が必要とされたりすることもない。
一方で、君臣関係や父子関係をうまくいかせようとすれば、絶対的な上下でも横並びでもない
均衡の取れた関係を保つ上での旺盛な精神力をも必要とする。だから、徳治社会の君臣関係を
成功させられる君子は一部の人間に限られ、難儀な宮仕えに勤める者として畏敬の対象ともされる。
封建社会での君臣関係は、そのまま官民上下の関係にも落とし込まれる。
主君と臣下がまるで主人と奴隷のような関係でいれば、官人と民間人の関係も主人と奴隷の
関係のようになる。それでは卑屈なんで、仮に君臣すら友人も同然の横並び関係にしたなら、
官民の関係も友人同然となって、政財の癒着による重権力犯罪などが巻き起こされることともなる。
卑屈なほどに服従的でもなければ、無礼なほどに友好的でもない、絶妙な均衡を保った
上下関係が君臣間で実現したとき、官民上下、天下国家のあらゆる上下関係が良好なものとなる。
それでこそ封建制が成功したといえ、そのような優良な封建制が実現されたことが嘗ての中国や日本
には多々あるが、体系的な徳治思想を持たない西洋で実現された試しはない。中国でも、徳治を排して
法治を絶対化した秦朝時代や、今の共産制下では実現されていないし、日本でも今は実現されていない。
絶対平等の社会など、所詮は幻想でしかなく、政財産官の癒着による重権力犯罪の勃発を
防ぎ止めるためだけにも、官民上下の序列を徹底することが必須となる。しかし、その上下関係が
主人と奴隷の関係のように卑屈であるのでは人間の尊厳にも関わるから、君臣上下の関係を親子の
関係のように親密なものとすることで、官民の関係も、序列はあるものの、親密でもあるようにする。
そこにこそ、誰もかれもを絶対的な平等下に置いたりする以上にも、健全な人間関係があるのでもある。
「惟れ孝なれば、兄弟に友に、克く有政に施す」
「孝行であればこそ、兄弟や友人にも情け深くいられ、立派な政治をも執り行うことができる。
(この文は原文損失後の復元部分だが、『論語』為政第二・二一に同様の原文からの引用がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
主君と臣下がまるで主人と奴隷のような関係でいれば、官人と民間人の関係も主人と奴隷の
関係のようになる。それでは卑屈なんで、仮に君臣すら友人も同然の横並び関係にしたなら、
官民の関係も友人同然となって、政財の癒着による重権力犯罪などが巻き起こされることともなる。
卑屈なほどに服従的でもなければ、無礼なほどに友好的でもない、絶妙な均衡を保った
上下関係が君臣間で実現したとき、官民上下、天下国家のあらゆる上下関係が良好なものとなる。
それでこそ封建制が成功したといえ、そのような優良な封建制が実現されたことが嘗ての中国や日本
には多々あるが、体系的な徳治思想を持たない西洋で実現された試しはない。中国でも、徳治を排して
法治を絶対化した秦朝時代や、今の共産制下では実現されていないし、日本でも今は実現されていない。
絶対平等の社会など、所詮は幻想でしかなく、政財産官の癒着による重権力犯罪の勃発を
防ぎ止めるためだけにも、官民上下の序列を徹底することが必須となる。しかし、その上下関係が
主人と奴隷の関係のように卑屈であるのでは人間の尊厳にも関わるから、君臣上下の関係を親子の
関係のように親密なものとすることで、官民の関係も、序列はあるものの、親密でもあるようにする。
そこにこそ、誰もかれもを絶対的な平等下に置いたりする以上にも、健全な人間関係があるのでもある。
「惟れ孝なれば、兄弟に友に、克く有政に施す」
「孝行であればこそ、兄弟や友人にも情け深くいられ、立派な政治をも執り行うことができる。
(この文は原文損失後の復元部分だが、『論語』為政第二・二一に同様の原文からの引用がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
子供の見た目は可愛くたって、その性格は残忍なもの。
ちゃんとした躾も受けないところでは、どこまでも陰湿な野蛮さを募らせる。
当然のこととして、子供は社会性が低い。
中には社会性の高い子供もいるが、子供の社会性が低いのはごく当たり前のこと。
人生経験も短い上に、自分よりもはるかに体格の大きな大人たちで構成されている
世の中で一人前に振舞ったりするほうが無理のある話で、親にそのようであることを
強制される子役芸能人なども、心の病を患って成人後に色々な問題を起こしたりする。
子供の内に労役の免除などの、社会的責任の軽減が施されるのは全く妥当なことだが、
大人になっても子供並みの無責任のままで社会に居座るのは、当然よくない。子供の無責任性の
妥当さを羨ましがって、成人の社会人がいつまでも子供のように無責任のままでいたがるのも不当なことだし、
まだ子供の内からだろうとも、自分が一人前の責任を負えない未熟者であることに劣等感を抱いて、
早く一人前の大人になろうと日々、勉学などの努力に励むべきだといえる。
ちゃんとした躾も受けないところでは、どこまでも陰湿な野蛮さを募らせる。
当然のこととして、子供は社会性が低い。
中には社会性の高い子供もいるが、子供の社会性が低いのはごく当たり前のこと。
人生経験も短い上に、自分よりもはるかに体格の大きな大人たちで構成されている
世の中で一人前に振舞ったりするほうが無理のある話で、親にそのようであることを
強制される子役芸能人なども、心の病を患って成人後に色々な問題を起こしたりする。
子供の内に労役の免除などの、社会的責任の軽減が施されるのは全く妥当なことだが、
大人になっても子供並みの無責任のままで社会に居座るのは、当然よくない。子供の無責任性の
妥当さを羨ましがって、成人の社会人がいつまでも子供のように無責任のままでいたがるのも不当なことだし、
まだ子供の内からだろうとも、自分が一人前の責任を負えない未熟者であることに劣等感を抱いて、
早く一人前の大人になろうと日々、勉学などの努力に励むべきだといえる。
「易経」蒙卦では、童子の未熟さがよくないことだとされる一方で、旅卦では、未熟者なりに
精進に励む童子の貞節さがよいものとして扱われてもいる。過渡的な存在としての子供の成長意欲は
大人ですら見習うべきものである一方で、未だ蒙昧なままの子供の未熟さをよいものなどとして扱い、
挙句には大人までもが子供の未熟さを見習うようになるのでは、無様の至りとしかなり得ない。
愛に濁愛と仁愛があり、勇気に匹夫の勇と大勇があるように、子供もにまた未熟さと成長意欲という、
悪い側面と善い側面の両方があるのであり、悪い側面は悪い側面として戒めた上で、善い側面のみを評価して、
大人すらもが模倣の対象とするのが理想なのであり、ただの全否定や全肯定で済む話ではない。
大人が子供の全てを見習うべきだなんてことは決してないから、「とにかく子供のようになれ」というのなら、
それは紛れもなく不当なことであり、ろくな将来が待っていないことだけが確かだ。大人が完全に子供の
ようでいるというのなら、当然、子供並みの行為能力制限も受けて然るべきだということになるからな。
「敢えて聖言を侮り、忠直に逆らい、耆徳を遠ざけ、頑童を比づく、
時れを乱風と謂う。(略)卿士身に一つ有らば、家必ず喪び、邦君身に一つ有らば、国必ず亡ぶ」
「聖賢の言葉を侮り、忠義と正直とに真っ向から逆らい、老獪な有徳者を遠ざけて、頑迷な児童ばかりを近づける、
これを乱風という。このような風習が卿士にあればその家は必ず滅ぶし、一国の君主にあればその国は必ず亡ぶ。
(頑童だけを好き好んで近づける天の国は必ず亡びる運命にあるし、耆徳を遠ざける神の家も必ず滅びる運命にある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
精進に励む童子の貞節さがよいものとして扱われてもいる。過渡的な存在としての子供の成長意欲は
大人ですら見習うべきものである一方で、未だ蒙昧なままの子供の未熟さをよいものなどとして扱い、
挙句には大人までもが子供の未熟さを見習うようになるのでは、無様の至りとしかなり得ない。
愛に濁愛と仁愛があり、勇気に匹夫の勇と大勇があるように、子供もにまた未熟さと成長意欲という、
悪い側面と善い側面の両方があるのであり、悪い側面は悪い側面として戒めた上で、善い側面のみを評価して、
大人すらもが模倣の対象とするのが理想なのであり、ただの全否定や全肯定で済む話ではない。
大人が子供の全てを見習うべきだなんてことは決してないから、「とにかく子供のようになれ」というのなら、
それは紛れもなく不当なことであり、ろくな将来が待っていないことだけが確かだ。大人が完全に子供の
ようでいるというのなら、当然、子供並みの行為能力制限も受けて然るべきだということになるからな。
「敢えて聖言を侮り、忠直に逆らい、耆徳を遠ざけ、頑童を比づく、
時れを乱風と謂う。(略)卿士身に一つ有らば、家必ず喪び、邦君身に一つ有らば、国必ず亡ぶ」
「聖賢の言葉を侮り、忠義と正直とに真っ向から逆らい、老獪な有徳者を遠ざけて、頑迷な児童ばかりを近づける、
これを乱風という。このような風習が卿士にあればその家は必ず滅ぶし、一国の君主にあればその国は必ず亡ぶ。
(頑童だけを好き好んで近づける天の国は必ず亡びる運命にあるし、耆徳を遠ざける神の家も必ず滅びる運命にある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
溺れる者は藁をも掴み、藁を掴んで救われた気になりながら、そのまま溺れ死ぬという救済詐欺。
まず、意味もなく溺れるような人間が発生しないように務めることが先決であり、
そのためには、世の中を溺死者だらけの乱世へと陥れる旧約教義の実践を禁止し、
詩書や易の理念に適った正統な礼法によって、世相を引き締めていくことが肝要となる。
しかし、すでに溺れてしまっている人間が多数発生しているという場合、
「左伝」や「史記」にあるような先人の過ちと、その対処法とを参考にして、速やかな処分を施す。
その際に、「裾に触れただけで病が治った」などという新約の記録のような、あまりにも安易である上に
本当のところ虚偽であり、その手法に則ればかえって病状を深刻化させるような邪義を決して適用せぬこと。
左伝や史記にも、問題に対して誤った対処を行ったために、かえって傷口を広げたような記録が多々あり、
それは総じて、安易な救いを求めたがために、自業自得で大破綻に陥るといったものばかりである。
秦朝の悪宦官趙高も、反乱軍に対する秦軍の劣勢が皇帝の耳に届くことにより、自らの責任までもが
問われることを恐れて、外部と皇帝との情報疎通を完全に遮断した。秦軍大将の章邯からの再三に渡る
援軍の要請も全て握りつぶし、それでいて劣勢の責任を全て章邯に押し付けて、その家族をも皆殺しにした。
それを戦地で知らされた章邯は怒り狂って、遂には自らも反乱軍に寝返った。戦況が趙高を介することなく
直接皇帝の耳に届けられた頃には、もはや反乱の遂行による秦帝国の滅亡までもが決定的となっていた。
宦官趙高の、その場しのぎに終始する安易さこそが、秦帝国の崩壊をも決定付けた。
このような安易さへの逃げ込みからなる失敗例も、日本史以上に清濁併せ呑んでいる中国史上などには
数多いため、溺れる者が藁をも掴むような安易さを奨励する新約の記述などと共に、反面教師とすべきもの。
まず、意味もなく溺れるような人間が発生しないように務めることが先決であり、
そのためには、世の中を溺死者だらけの乱世へと陥れる旧約教義の実践を禁止し、
詩書や易の理念に適った正統な礼法によって、世相を引き締めていくことが肝要となる。
しかし、すでに溺れてしまっている人間が多数発生しているという場合、
「左伝」や「史記」にあるような先人の過ちと、その対処法とを参考にして、速やかな処分を施す。
その際に、「裾に触れただけで病が治った」などという新約の記録のような、あまりにも安易である上に
本当のところ虚偽であり、その手法に則ればかえって病状を深刻化させるような邪義を決して適用せぬこと。
左伝や史記にも、問題に対して誤った対処を行ったために、かえって傷口を広げたような記録が多々あり、
それは総じて、安易な救いを求めたがために、自業自得で大破綻に陥るといったものばかりである。
秦朝の悪宦官趙高も、反乱軍に対する秦軍の劣勢が皇帝の耳に届くことにより、自らの責任までもが
問われることを恐れて、外部と皇帝との情報疎通を完全に遮断した。秦軍大将の章邯からの再三に渡る
援軍の要請も全て握りつぶし、それでいて劣勢の責任を全て章邯に押し付けて、その家族をも皆殺しにした。
それを戦地で知らされた章邯は怒り狂って、遂には自らも反乱軍に寝返った。戦況が趙高を介することなく
直接皇帝の耳に届けられた頃には、もはや反乱の遂行による秦帝国の滅亡までもが決定的となっていた。
宦官趙高の、その場しのぎに終始する安易さこそが、秦帝国の崩壊をも決定付けた。
このような安易さへの逃げ込みからなる失敗例も、日本史以上に清濁併せ呑んでいる中国史上などには
数多いため、溺れる者が藁をも掴むような安易さを奨励する新約の記述などと共に、反面教師とすべきもの。

仏教思想などを参考にした厳重な為政に務めているため、反面教師とすべきほどにも決定的な落ち度を
残している事例が非常に少ない。もちろん、冷酷な人間なども多く出て来るが、その冷酷さが巻き起こす
問題なども大体が内輪もめに終始して、世相を傾かせるほどもの大問題に発展することが極めて稀である。
それでもやはり、日本史にも反面教師とすべき大問題を呈した事件がいくらかある。
保元の乱における藤原氏の醜悪を極めた地位争い、それに乗じて貴族のお株を乗っ取り、
武家として天皇をも圧迫するほどの専横を働いた平家の暴挙など、まさに反面教師の鑑であり、
朝廷の秩序が決定的に乱れたことからなる武家社会の到来後は、まずは戦乱ありきの世の中を
いかにして治めるかという修羅道の探求が、主な日本史上の課題となり始めたのだった。
武家時代の日本史は、安易さが即座に死へと結び付いているため、これまた反面教師としての
参考にはしにくい。安易さの中で、ある程度生き延びた挙句に惨死するという、緩慢とした物語構造は、
東洋ではやはり古代の中国史のほうが参考になる。安易な救いばかりに逃げ延びた挙句の大破綻、それは、
紀元後2012年の間、西洋人がキリスト信仰の下で生き延びて来た挙句に、ついに体験することでもある。
「凡そ君に侍る時は、紳を垂れ、足は齊を履むが如くす」
「主君に持座するときは帯を垂れ、足は裳(袴など)の裾を踏むようにする。
(袴の裾を踏む和服もこの礼法に則る。裾に触れたりすれば足を引っ張る無礼ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
イスラエルがイランに大規模攻撃を仕掛ければ、イランも核ミサイルなどによって報復する。
それに対してイスラエルも核で報復。大量核保有国のアメリカや中国も参戦して報復の応酬状態となり、
遂には世界核対戦の様相を呈する。そうなると確実に、人類は地球上から滅亡することになる。
イスラエルや聖書信者だけが生き延びて、中東諸国やその他の非聖書信者だけが死に絶えるという事態は、
事実あり得ない。そのような画策を試みたところで、イスラエルや聖書信者ごと全人類が滅亡するのみ。
イスラエルがこの世から消滅し、欧米の聖書信者が禁治産や参政権剥奪などの、個々の病状に見合った
適正な処置を受けた場合にだけ、全人類が破滅を免れることを通じて、元イスラエル人や元聖書信者も救われる。
悪性の寄生民族であるイスラエル人や、そのイスラエル人の行状を正当化した犯罪聖書の信者が、
犯罪聖書の記述に見合った形で、自分たちが破滅から救われるということだけは絶対にない。
キリストによってもエホバによっても、イスラエル人や聖書信者が救われるということだけは、絶対にない。
それに対してイスラエルも核で報復。大量核保有国のアメリカや中国も参戦して報復の応酬状態となり、
遂には世界核対戦の様相を呈する。そうなると確実に、人類は地球上から滅亡することになる。
イスラエルや聖書信者だけが生き延びて、中東諸国やその他の非聖書信者だけが死に絶えるという事態は、
事実あり得ない。そのような画策を試みたところで、イスラエルや聖書信者ごと全人類が滅亡するのみ。
イスラエルがこの世から消滅し、欧米の聖書信者が禁治産や参政権剥奪などの、個々の病状に見合った
適正な処置を受けた場合にだけ、全人類が破滅を免れることを通じて、元イスラエル人や元聖書信者も救われる。
悪性の寄生民族であるイスラエル人や、そのイスラエル人の行状を正当化した犯罪聖書の信者が、
犯罪聖書の記述に見合った形で、自分たちが破滅から救われるということだけは絶対にない。
キリストによってもエホバによっても、イスラエル人や聖書信者が救われるということだけは、絶対にない。
一方で、いまイスラエル人やその他の聖書信者に当たる人間が救われる方法は、いくらでもある。
犯罪聖書以外の、数多の優良な正統教学のうちに救いを求めることであり、世界的に認知されているような
代表的な正統教学であれば、大体のものによって救われ得る。洋学は、人間の生活規範を全般的に取り仕切る
学問や宗教ではないので不適だが、儒学を含む、人間規範を全般的に取り扱っている教学で、西洋原産でも
カルトでもないような教学であれば、だいたいのものによって破滅から救われるぐらいのことは保証される。
ただ、これまで真正聖書(四書五経)と犯罪聖書(新旧約聖書)の記述をここで比較して来たその内容からも
分かる通り、正統な教学と犯罪聖書の教義とは、ことごとくその位相が相反しているため、どちらかに従う以上は、
もう一方への随順は捨て切らなければならない。正統な教学同士、たとえば儒学と浄土教を兼修することはできても、
儒学と聖書信仰や、浄土教と聖書信仰を兼修して、共に実践対象としていくことなどは絶対にできないからだ。
ことに、聖書信仰を棄却することは必須であり、そこまでは確実に有無を言わせないところではある。しかし、
聖書信仰を捨てた先にある選択肢は、まさに無尽蔵であり、絶対にこうしなければならないなどということも全くない。
形而上の超越神という、極端に貧相な虚構への狂信ばかりに惑溺して来た聖書信者にとって、その先の選択肢が
無限であることがかえって恐怖の対象ともなるのかもしれないが、よく整備された人の道が無尽蔵に
拓かれているのだから、獣道ばかりをまい進して来た今まで以上に、安心してもいいのである。
「无妄有りて、然る後に畜う可し」
「盲目や虚妄を十分に排してから、初めて(教導などの)蓄積にも務めていくべきである。
(盲が盲を教導することを『そのままにしておけ』などとほざく犯罪聖書の記述よりも、明らかに誠実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)
犯罪聖書以外の、数多の優良な正統教学のうちに救いを求めることであり、世界的に認知されているような
代表的な正統教学であれば、大体のものによって救われ得る。洋学は、人間の生活規範を全般的に取り仕切る
学問や宗教ではないので不適だが、儒学を含む、人間規範を全般的に取り扱っている教学で、西洋原産でも
カルトでもないような教学であれば、だいたいのものによって破滅から救われるぐらいのことは保証される。
ただ、これまで真正聖書(四書五経)と犯罪聖書(新旧約聖書)の記述をここで比較して来たその内容からも
分かる通り、正統な教学と犯罪聖書の教義とは、ことごとくその位相が相反しているため、どちらかに従う以上は、
もう一方への随順は捨て切らなければならない。正統な教学同士、たとえば儒学と浄土教を兼修することはできても、
儒学と聖書信仰や、浄土教と聖書信仰を兼修して、共に実践対象としていくことなどは絶対にできないからだ。
ことに、聖書信仰を棄却することは必須であり、そこまでは確実に有無を言わせないところではある。しかし、
聖書信仰を捨てた先にある選択肢は、まさに無尽蔵であり、絶対にこうしなければならないなどということも全くない。
形而上の超越神という、極端に貧相な虚構への狂信ばかりに惑溺して来た聖書信者にとって、その先の選択肢が
無限であることがかえって恐怖の対象ともなるのかもしれないが、よく整備された人の道が無尽蔵に
拓かれているのだから、獣道ばかりをまい進して来た今まで以上に、安心してもいいのである。
「无妄有りて、然る後に畜う可し」
「盲目や虚妄を十分に排してから、初めて(教導などの)蓄積にも務めていくべきである。
(盲が盲を教導することを『そのままにしておけ』などとほざく犯罪聖書の記述よりも、明らかに誠実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)
気狂いでも、主人への服従意識だけは持つことができる。
十字架を視認することで自らの罪が償われたような気になる、
キリスト信仰という事故に遭ったとき、人は鏡映認知障害に罹患する。当該の障害に
罹患した人間は、自らの気分によって知能をIQ40以下にまで平気で低下させるようになる。
人間の大人を平均とした場合のIQ40以下は、チンパンジーやイルカやクジラ、
ゾウなどの最高等動物の平均知能よりもやや低い知能に当たり、
ちょうど犬と同程度の知能に当たる。
犬には基本、鏡映認知能力がなく、何度も鏡を見せる訓練によって、
辛うじて鏡に映った姿が自分の姿であることに気づいたりする。
その犬にも、飼い主に対する旺盛な服従意識があり、躾がなってない
犬であっても、主人になついて擦り寄ってくるぐらいのことは普通にする。
その犬と同じように、キリスト信仰によって知能をIQ40以下にまで低下させた重度精神
障害者も、自らが「主なる神」と想定したものに対する服従意識ぐらいは抱くことができる。
知能が原始生物のように全く皆無となるのではなく、犬ぐらいの低能は保全されるのが、
キリスト信仰という精神障害の特徴であり、器質性の精神障害者にも単純労働ぐらいは
できるように、心因性であるキリスト信仰の精神障害者でも、奴隷としての労働ぐらいはできる。
十字架を視認することで自らの罪が償われたような気になる、
キリスト信仰という事故に遭ったとき、人は鏡映認知障害に罹患する。当該の障害に
罹患した人間は、自らの気分によって知能をIQ40以下にまで平気で低下させるようになる。
人間の大人を平均とした場合のIQ40以下は、チンパンジーやイルカやクジラ、
ゾウなどの最高等動物の平均知能よりもやや低い知能に当たり、
ちょうど犬と同程度の知能に当たる。
犬には基本、鏡映認知能力がなく、何度も鏡を見せる訓練によって、
辛うじて鏡に映った姿が自分の姿であることに気づいたりする。
その犬にも、飼い主に対する旺盛な服従意識があり、躾がなってない
犬であっても、主人になついて擦り寄ってくるぐらいのことは普通にする。
その犬と同じように、キリスト信仰によって知能をIQ40以下にまで低下させた重度精神
障害者も、自らが「主なる神」と想定したものに対する服従意識ぐらいは抱くことができる。
知能が原始生物のように全く皆無となるのではなく、犬ぐらいの低能は保全されるのが、
キリスト信仰という精神障害の特徴であり、器質性の精神障害者にも単純労働ぐらいは
できるように、心因性であるキリスト信仰の精神障害者でも、奴隷としての労働ぐらいはできる。
知能がIQ40以下にまで乱高下する精神障害者には、仁義道徳が決定的に理解できない。
主人が仁徳者であると暴君であるとに関わらず、奴隷は主人に絶対服従しかできないように、
鏡映認知能力が破損しているレベルの低能者には、仁徳を自らの判断基準に据える能力がない。
だから、不仁が即ち傾国や乱天下に結び付く公職などには絶対に就いてはならないし、
公職でなくとも、大規模な行為能力を運用する民間業などにも携わってはならない。
そうでもしなければ必ず、本人たちが世の中を破滅に陥らせる元凶となってしまうから。
もちろん、それほどにも行為能力を制限されることが、人として当然のことなんかであるわけもない。
それほどにも、人間という生物が犬並みの知能に陥るということが危険極まりないことだからで、
二本足で歩いて、両手で巧みな作業ができる人として生まれたからには、その能力を四つ足の
下等動物並みの知能によって使い回すような怠慢に及んではならない義務があるのである。
「犬馬も其の土性に非ざれば畜わず。珍禽奇獣は国に育わず。
遠物を宝とせざれば、則ち遠人格る。宝とする所、惟れ賢なれば、則ち邇人安んず」
「犬や馬もその土地に土着のものでなければ飼わない。珍獣も面白がって国内に持ち込んだりはしない。
遠方の珍品などを重宝しなければ、逆に遠方の人からやって来てくれる。至宝とする所のものが
(珍奇な宝物や禽獣などではなく)賢聖であれば、身の回りの人々も安心するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・旅獒より)
主人が仁徳者であると暴君であるとに関わらず、奴隷は主人に絶対服従しかできないように、
鏡映認知能力が破損しているレベルの低能者には、仁徳を自らの判断基準に据える能力がない。
だから、不仁が即ち傾国や乱天下に結び付く公職などには絶対に就いてはならないし、
公職でなくとも、大規模な行為能力を運用する民間業などにも携わってはならない。
そうでもしなければ必ず、本人たちが世の中を破滅に陥らせる元凶となってしまうから。
もちろん、それほどにも行為能力を制限されることが、人として当然のことなんかであるわけもない。
それほどにも、人間という生物が犬並みの知能に陥るということが危険極まりないことだからで、
二本足で歩いて、両手で巧みな作業ができる人として生まれたからには、その能力を四つ足の
下等動物並みの知能によって使い回すような怠慢に及んではならない義務があるのである。
「犬馬も其の土性に非ざれば畜わず。珍禽奇獣は国に育わず。
遠物を宝とせざれば、則ち遠人格る。宝とする所、惟れ賢なれば、則ち邇人安んず」
「犬や馬もその土地に土着のものでなければ飼わない。珍獣も面白がって国内に持ち込んだりはしない。
遠方の珍品などを重宝しなければ、逆に遠方の人からやって来てくれる。至宝とする所のものが
(珍奇な宝物や禽獣などではなく)賢聖であれば、身の回りの人々も安心するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・旅獒より)
病や怪我を治すのと、治しもせずにモルヒネなどの気休めをあてがうのとでは全く違う。
手術や投薬治療の際に、鎮痛目的の麻酔をあてがったとしても、それもまた気休めで、
近代医療に於いてですら、麻酔の過剰投与によって患者が昏睡状態から目覚めなくなったり
といった医療ミスが相次いでいる。患者を激痛からなるショック死や衰弱に陥らせないための
鎮痛目的での麻酔投与が医療上有効となる場合があるにしたって、それは激痛を感じ取る脳神経系の、
心因性の疲弊を紛らわすための措置なのであって、器質的には外科医療上、麻酔投与というのは
全くなくて済むに越したことはない。実際に、十分に精神力を保っている壮年の患者が、
大怪我の手術でも麻酔を断って、その結果、術後の経過がより良好になったりした事例もある。
然るに、聖書信仰はただの麻酔の過剰投与であり、手術や投薬に相当するような医療行為は
全く行っていない。ただ世の中という存在に対して、大きな病や怪我をもたらして、
重症患者となった世の中に、十字架信仰という麻酔を過剰に投与する。それで患者は治療されたような
気分にはなるが、全く治療に相当する措置は受けておらず、聖書教義によってこそもたらされた
重病や大怪我は、十字架信仰による患者自身の昏睡の水面下で、むしろ深刻化すらしてしまっている。
イエスが信者の病を治した云々の禍音書の記述から、キリストが「医神」として扱われる場合があるが、
これは全くの事実誤認である。仮に医神であるとしたところで、「ヤブの麻酔科医神」であり、
患者の病や怪我を治癒するどころか、余計に深刻化させて、そこに気休めの昏睡を与えてやってるのみ。
手術や投薬治療の際に、鎮痛目的の麻酔をあてがったとしても、それもまた気休めで、
近代医療に於いてですら、麻酔の過剰投与によって患者が昏睡状態から目覚めなくなったり
といった医療ミスが相次いでいる。患者を激痛からなるショック死や衰弱に陥らせないための
鎮痛目的での麻酔投与が医療上有効となる場合があるにしたって、それは激痛を感じ取る脳神経系の、
心因性の疲弊を紛らわすための措置なのであって、器質的には外科医療上、麻酔投与というのは
全くなくて済むに越したことはない。実際に、十分に精神力を保っている壮年の患者が、
大怪我の手術でも麻酔を断って、その結果、術後の経過がより良好になったりした事例もある。
然るに、聖書信仰はただの麻酔の過剰投与であり、手術や投薬に相当するような医療行為は
全く行っていない。ただ世の中という存在に対して、大きな病や怪我をもたらして、
重症患者となった世の中に、十字架信仰という麻酔を過剰に投与する。それで患者は治療されたような
気分にはなるが、全く治療に相当する措置は受けておらず、聖書教義によってこそもたらされた
重病や大怪我は、十字架信仰による患者自身の昏睡の水面下で、むしろ深刻化すらしてしまっている。
イエスが信者の病を治した云々の禍音書の記述から、キリストが「医神」として扱われる場合があるが、
これは全くの事実誤認である。仮に医神であるとしたところで、「ヤブの麻酔科医神」であり、
患者の病や怪我を治癒するどころか、余計に深刻化させて、そこに気休めの昏睡を与えてやってるのみ。
元より医療に頼るまでもなく、自らが壮健なままでいられるのが重畳なのであり、
仮に病や怪我に侵されたところで、自らが悩乱を十分に排していられたなら、
医者はおろか、薬にすら頼らなくてもすぐに治癒すると「易経」无妄卦にもある。
そもそも病や怪我に侵されないのが一番。
侵されたとしても医者や薬に頼ることなく治せるのが二番。
どうしても治しきれなくて、信頼の置ける医者や薬に頼るのが三番。
麻酔の過剰投与で気休めだけさせておいて、後は野となれ山となれというのが四番。
近日の死去が必至な末期ガン患者でもない限りは、四番目の選択肢にだけは決して手出しをしてはいけない。
「凡そ技を執りて以て上に事うる者は、祝、史、射、御、医、卜、
及び百工。凡そ技を以て上に事うる者は、二に事えず。官を移さず。
郷を出ずれば士と齒せず。家に仕うる者は、郷を出ずれば士と齒せず」
「技能によってお上に仕える職分には、祝祀、史書編纂、射芸、御車、医者、占い師、そして職人などがある。
(徳性ではなく)技能によってお上に仕えるものは(信頼が置けないので)、二度と仕官を繰り返すことを認めない。
自らが仕えていた主君の領地を出れば、もはや士としては認められない。家内の仕事に就いていた者を郷外で士として
認めることはできないからだ。(東洋で技能者が有徳者よりも下に置かれていた理由の一つ。唯一神に仕える
イエスが医者のような技能の持ち主であるというのなら、二度と他の相手に仕えることはできないことにもなる。
何らかの技能に長けたものというのは、そのぶん了見が狭まるもので、社会適応力が低まるのは当然なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
仮に病や怪我に侵されたところで、自らが悩乱を十分に排していられたなら、
医者はおろか、薬にすら頼らなくてもすぐに治癒すると「易経」无妄卦にもある。
そもそも病や怪我に侵されないのが一番。
侵されたとしても医者や薬に頼ることなく治せるのが二番。
どうしても治しきれなくて、信頼の置ける医者や薬に頼るのが三番。
麻酔の過剰投与で気休めだけさせておいて、後は野となれ山となれというのが四番。
近日の死去が必至な末期ガン患者でもない限りは、四番目の選択肢にだけは決して手出しをしてはいけない。
「凡そ技を執りて以て上に事うる者は、祝、史、射、御、医、卜、
及び百工。凡そ技を以て上に事うる者は、二に事えず。官を移さず。
郷を出ずれば士と齒せず。家に仕うる者は、郷を出ずれば士と齒せず」
「技能によってお上に仕える職分には、祝祀、史書編纂、射芸、御車、医者、占い師、そして職人などがある。
(徳性ではなく)技能によってお上に仕えるものは(信頼が置けないので)、二度と仕官を繰り返すことを認めない。
自らが仕えていた主君の領地を出れば、もはや士としては認められない。家内の仕事に就いていた者を郷外で士として
認めることはできないからだ。(東洋で技能者が有徳者よりも下に置かれていた理由の一つ。唯一神に仕える
イエスが医者のような技能の持ち主であるというのなら、二度と他の相手に仕えることはできないことにもなる。
何らかの技能に長けたものというのは、そのぶん了見が狭まるもので、社会適応力が低まるのは当然なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
近世から近代にかけての欧米キリスト教圏による植民地侵略で、
未だ最悪の荒廃に追い込まれたままの状態であるブラックアフリカにおいて、
不遇からなる悩乱が無軌道な乱交による人口爆発を招いていることはすでに述べた。
それと同じように、悩乱と飢餓との相乗効果による戦乱もブラックアフリカでは著しく、
食資源や水資源などを巡っての縄張り争いが絶えず、また欧米キリスト教徒がもたらした
異民族同士での奴隷制支配が、体制革命を名目としたルワンダ紛争などの戦乱をも招いている。
正式に国教をブードゥー教としたベナンなどの先進的な国も含めて、今でもほとんどの
ブラックアフリカ諸国の実質的な国教は、カトリックやプロテスタントといったキリスト教である。
植民地化に際し、欧米の宣教師がアフリカの土着宗教を破壊してキリスト信仰を現地民に
強制したことがそのまま名残りを止めているわけだが、キリスト信仰がブラックアフリカの
諸国民の、実質からなる食糧不足を解消できていないのはもちろんのこと、飢餓や貧困からなる
信者の悩乱すらもなだめ切れてはいない。物質的貧窮からなる苦悩を十字架信仰によって
気休めきれているのならまだしも、少しも気休めにすらなっていないから、苦悩の解消を
目的とした乱交による人口爆発や、食資源を巡っての戦乱などがひっきりなしに続いている。
ただし、ブラックアフリカにキリスト教があてがわれたままでいることで、確実に奏している効果もある。
それが、ブラックアフリカの人々が、自分たちの貧窮からなる苦悩を、自分たちの言葉によって
国際社会に向けて十分に訴えていくという、発言の選択肢の芽を摘んでいること。元より文字を持たなかった
アフリカの土人社会において、「聖書に『満足した』と書かれているのだから満足しろ」などという
ロゴス信仰からなるドグマを押し付けられた場合に、もはや言葉で不満を述べることも憚られるようになる。
未だ最悪の荒廃に追い込まれたままの状態であるブラックアフリカにおいて、
不遇からなる悩乱が無軌道な乱交による人口爆発を招いていることはすでに述べた。
それと同じように、悩乱と飢餓との相乗効果による戦乱もブラックアフリカでは著しく、
食資源や水資源などを巡っての縄張り争いが絶えず、また欧米キリスト教徒がもたらした
異民族同士での奴隷制支配が、体制革命を名目としたルワンダ紛争などの戦乱をも招いている。
正式に国教をブードゥー教としたベナンなどの先進的な国も含めて、今でもほとんどの
ブラックアフリカ諸国の実質的な国教は、カトリックやプロテスタントといったキリスト教である。
植民地化に際し、欧米の宣教師がアフリカの土着宗教を破壊してキリスト信仰を現地民に
強制したことがそのまま名残りを止めているわけだが、キリスト信仰がブラックアフリカの
諸国民の、実質からなる食糧不足を解消できていないのはもちろんのこと、飢餓や貧困からなる
信者の悩乱すらもなだめ切れてはいない。物質的貧窮からなる苦悩を十字架信仰によって
気休めきれているのならまだしも、少しも気休めにすらなっていないから、苦悩の解消を
目的とした乱交による人口爆発や、食資源を巡っての戦乱などがひっきりなしに続いている。
ただし、ブラックアフリカにキリスト教があてがわれたままでいることで、確実に奏している効果もある。
それが、ブラックアフリカの人々が、自分たちの貧窮からなる苦悩を、自分たちの言葉によって
国際社会に向けて十分に訴えていくという、発言の選択肢の芽を摘んでいること。元より文字を持たなかった
アフリカの土人社会において、「聖書に『満足した』と書かれているのだから満足しろ」などという
ロゴス信仰からなるドグマを押し付けられた場合に、もはや言葉で不満を述べることも憚られるようになる。
古来から豊潤な文字文化を発展させてきている中国やインドなどの東洋社会ならまだしも、文字文化の
ないところに急激にロゴス信仰をあてがわれれば、もはやその文面通りに言葉を使うことしか許されない
という状態が固着化してしまい、聖書に「飢餓でも満足した」と書いているものだから、自分たちが飢餓
による不満を溜め込んでいながらも、口では「満足している」と言うことしかできないようにすらなってしまう。
人類社会の退廃は、もうかなりの長期間に渡って、「暗黒大陸」とも呼ばれるブラックアフリカ社会に
定着したままでいる。それは、単なる土人社会であるという以上にも、劣悪な高度文明の有害廃棄物が
押し付けられたままでいる結果としての退廃なのであり、ちょうど欧米キリスト教圏の物質文明的な繁栄と
コインの裏表のような関係にある。ここにこそ、キリスト教圏の高度文明が決して褒められたようなものではない、
紛れもない根拠までもがあるのであり、欧米社会の繁栄の副産物としてのブラックアフリカの荒廃から
目を背けている限りにおいて、欧米社会の文明の高度さに対する賞賛や羨望までもが成立するのである。
欧米キリスト教圏起源の高度文明に与りながら、その代償としてのブラックアフリカの荒廃を無視する
ところにこそ、救いようのない罪がある。江戸時代以前の日本並みに、西洋文明の受容を拒絶した上で
アフリカの荒廃までをも無視するというのならまだしも、西洋文明の旺盛な受容者でいて、アフリカからは
目を背けるというのでは、それこそ強盗殺人犯も同然の振る舞いとなる。地球の裏側のアフリカの問題を
やたらと取り立てるのが偽善であるかのように決め付けられたりもするが、西洋文明の享受者である以上は、
たとえ日本人であろうとも、確実にアフリカの餓死児童の生き血を吸って生きている。隣国中国での食人の
風習に眉をひそめながら、自分たちはアフリカ人の血をすすって生きている。なんと矛盾した態度であろうか。
ないところに急激にロゴス信仰をあてがわれれば、もはやその文面通りに言葉を使うことしか許されない
という状態が固着化してしまい、聖書に「飢餓でも満足した」と書いているものだから、自分たちが飢餓
による不満を溜め込んでいながらも、口では「満足している」と言うことしかできないようにすらなってしまう。
人類社会の退廃は、もうかなりの長期間に渡って、「暗黒大陸」とも呼ばれるブラックアフリカ社会に
定着したままでいる。それは、単なる土人社会であるという以上にも、劣悪な高度文明の有害廃棄物が
押し付けられたままでいる結果としての退廃なのであり、ちょうど欧米キリスト教圏の物質文明的な繁栄と
コインの裏表のような関係にある。ここにこそ、キリスト教圏の高度文明が決して褒められたようなものではない、
紛れもない根拠までもがあるのであり、欧米社会の繁栄の副産物としてのブラックアフリカの荒廃から
目を背けている限りにおいて、欧米社会の文明の高度さに対する賞賛や羨望までもが成立するのである。
欧米キリスト教圏起源の高度文明に与りながら、その代償としてのブラックアフリカの荒廃を無視する
ところにこそ、救いようのない罪がある。江戸時代以前の日本並みに、西洋文明の受容を拒絶した上で
アフリカの荒廃までをも無視するというのならまだしも、西洋文明の旺盛な受容者でいて、アフリカからは
目を背けるというのでは、それこそ強盗殺人犯も同然の振る舞いとなる。地球の裏側のアフリカの問題を
やたらと取り立てるのが偽善であるかのように決め付けられたりもするが、西洋文明の享受者である以上は、
たとえ日本人であろうとも、確実にアフリカの餓死児童の生き血を吸って生きている。隣国中国での食人の
風習に眉をひそめながら、自分たちはアフリカ人の血をすすって生きている。なんと矛盾した態度であろうか。
「斉、大いに餓う。黔敖、食を路に為り、以て餓者を待ちて之れを食らわしむ。餓者の袂を蒙り履を
輯めて、貿貿然として来たる有り。黔敖、左に食を奉げ、右に飲を執る。曰く、嗟、来たり食らえと。
其の目を揚げて之れを視て曰く、予れは唯だ嗟来の食を食らわず。以て斯に至れるなりと。従って謝す。
終には食せずして死す。曾子之れを聞きて曰く、微なるかな、其の嗟するや去る可し。其の謝するや食す可し」
「斉国で大きな飢饉があった。資本家の黔敖は多くの食物を道に並べて、餓えた者たちにこれを与えていた。
飢餓者の中に袂で顔を覆って足を集めるような歩き方で、いかにも衰えた様子で来るものがあった。黔敖は
左手に食物を持ち、右手に飲料を持って『さあ食え』といかにも恩着せがましく言った。飢餓者は其の目を挙げて
黔敖を見ると、『私はこういった恩着せがましい偽善者の振舞う飲食を拒絶して来たから、ここまで餓えているのだ』
と言った。黔敖は詫びて謝りつつ飲食を振舞おうとしたが、遂にその飢餓者は何も飲み食いせずに死んだ。曾子はこれを
聞いていった。『微妙なところだ。恩着せがましい振る舞いは断ればいいが、謝りまでするのなら受けてもいいだろう』
(この飢餓者はおそらく、黔敖のような悪徳政商の横暴によって地位を追われた没落貴族か何かなのだろう。
清廉な徳治者を自らの横暴によって放逐したことで、国家規模での大飢饉までをも招いてしまっているのだから、
悪徳政商が飢餓者に飲食を提供するというのなら、平身低頭土下座しながらぐらいであって初めて妥当だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
輯めて、貿貿然として来たる有り。黔敖、左に食を奉げ、右に飲を執る。曰く、嗟、来たり食らえと。
其の目を揚げて之れを視て曰く、予れは唯だ嗟来の食を食らわず。以て斯に至れるなりと。従って謝す。
終には食せずして死す。曾子之れを聞きて曰く、微なるかな、其の嗟するや去る可し。其の謝するや食す可し」
「斉国で大きな飢饉があった。資本家の黔敖は多くの食物を道に並べて、餓えた者たちにこれを与えていた。
飢餓者の中に袂で顔を覆って足を集めるような歩き方で、いかにも衰えた様子で来るものがあった。黔敖は
左手に食物を持ち、右手に飲料を持って『さあ食え』といかにも恩着せがましく言った。飢餓者は其の目を挙げて
黔敖を見ると、『私はこういった恩着せがましい偽善者の振舞う飲食を拒絶して来たから、ここまで餓えているのだ』
と言った。黔敖は詫びて謝りつつ飲食を振舞おうとしたが、遂にその飢餓者は何も飲み食いせずに死んだ。曾子はこれを
聞いていった。『微妙なところだ。恩着せがましい振る舞いは断ればいいが、謝りまでするのなら受けてもいいだろう』
(この飢餓者はおそらく、黔敖のような悪徳政商の横暴によって地位を追われた没落貴族か何かなのだろう。
清廉な徳治者を自らの横暴によって放逐したことで、国家規模での大飢饉までをも招いてしまっているのだから、
悪徳政商が飢餓者に飲食を提供するというのなら、平身低頭土下座しながらぐらいであって初めて妥当だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「華厳経」でも、尊格名を通じて肯定されている「愛すべし」という理念。
ただ、愛すべき対象は人それぞれであり、誰かに命令されてそれを
愛するという受動的な愛ではなく、自主的に義務感を抱いて対象を愛する、
純粋に能動的な愛の肯定としての「愛すべし」でこそある。
儒学に基づくなら、全ての俗人が愛すべきなのは、「愛することが仁政に貢献するもの」だといえる。
君子が親に対して親愛を、主君に対して敬愛を、そして配下や下民に対して慈愛を抱いたなら、
それが仁政を実現する手立てになるから、君子は上記のような志しを持って愛すべきだといえる。
ただ、上記の例の時点で、すでに愛すべき対象が事前に決定されて、儒学という教学によって受動的に
愛させられていることになる。そこは確かに、完全なる自由下での能動的な愛を肯定する大乗仏教など
とは違う点であり、決して儒学自体が、完全に自由な愛などというものを認めているわけではない。
まず、儒学の受容を選択することから、完全な自由意思に基づくべきなのであり、完全な自由選択によって
儒学を受容した結果、その実践として、君父や下民に対する、それぞれの段階に見合った愛を義務的に抱く。
それでこそ、自由意思に即して「愛すべし」とする華厳思想と、儒学の実践もまた両立されることになる。
儒学の実践の内実はガチガチであり、強制的にやらされるとなれば、それはそれは大きな辟易を
抱かされるもの。だからこそ、儒学の受容を選択すること自体は完全な自由意思に基づくべきであり、
誰かに強制されたりされそうになれば、とんずらして雲隠れしてしまえばいいのである。
一切強制されることもなく、全くの自由意思で儒学の実践を選択したときにこそ、
自らが君子となったときの、君父や民への愛もまた、純粋に一途なものであり得るのだから。
「外、敵無く、内、順いて治まる。此れを之れ盛徳と謂う」
「外界には敵となるものがおらず、内政でも誰しもが随ってよく治まっている。このような状態を盛徳という。
孟子も『仁者に敵なし』というが、敵がいることからしてすでに、不仁にして薄徳なのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・聘義第四十八より)
ただ、愛すべき対象は人それぞれであり、誰かに命令されてそれを
愛するという受動的な愛ではなく、自主的に義務感を抱いて対象を愛する、
純粋に能動的な愛の肯定としての「愛すべし」でこそある。
儒学に基づくなら、全ての俗人が愛すべきなのは、「愛することが仁政に貢献するもの」だといえる。
君子が親に対して親愛を、主君に対して敬愛を、そして配下や下民に対して慈愛を抱いたなら、
それが仁政を実現する手立てになるから、君子は上記のような志しを持って愛すべきだといえる。
ただ、上記の例の時点で、すでに愛すべき対象が事前に決定されて、儒学という教学によって受動的に
愛させられていることになる。そこは確かに、完全なる自由下での能動的な愛を肯定する大乗仏教など
とは違う点であり、決して儒学自体が、完全に自由な愛などというものを認めているわけではない。
まず、儒学の受容を選択することから、完全な自由意思に基づくべきなのであり、完全な自由選択によって
儒学を受容した結果、その実践として、君父や下民に対する、それぞれの段階に見合った愛を義務的に抱く。
それでこそ、自由意思に即して「愛すべし」とする華厳思想と、儒学の実践もまた両立されることになる。
儒学の実践の内実はガチガチであり、強制的にやらされるとなれば、それはそれは大きな辟易を
抱かされるもの。だからこそ、儒学の受容を選択すること自体は完全な自由意思に基づくべきであり、
誰かに強制されたりされそうになれば、とんずらして雲隠れしてしまえばいいのである。
一切強制されることもなく、全くの自由意思で儒学の実践を選択したときにこそ、
自らが君子となったときの、君父や民への愛もまた、純粋に一途なものであり得るのだから。
「外、敵無く、内、順いて治まる。此れを之れ盛徳と謂う」
「外界には敵となるものがおらず、内政でも誰しもが随ってよく治まっている。このような状態を盛徳という。
孟子も『仁者に敵なし』というが、敵がいることからしてすでに、不仁にして薄徳なのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・聘義第四十八より)
慈善活動なんかは、キリスト教系の団体が多いよね。救世軍とか。
聖書の中で、隣人愛がつよくうたわれていて、その実践も求められるからか。
奪い、与えるのが、彼の宗教の特色なのかもしんないけど。
東洋では、あんまりそういうの定着してないよな。
仏教系、ましてや儒学系?の慈善団体なんか聞いたことがない。
小乗メインの国では、坊さんに対する布施は一般的でも
それ以外への施しの文化ってあまり無い様な気もする。
究極的に、仏教は、「悟り=執着を捨てる=気にするな」の精神だから
貧乏でも、病気で死にかけてても、心穏やかに全てを受け入れましょう
って感じだから・・きっと、そのせいかも。
聖書の中で、隣人愛がつよくうたわれていて、その実践も求められるからか。
奪い、与えるのが、彼の宗教の特色なのかもしんないけど。
東洋では、あんまりそういうの定着してないよな。
仏教系、ましてや儒学系?の慈善団体なんか聞いたことがない。
小乗メインの国では、坊さんに対する布施は一般的でも
それ以外への施しの文化ってあまり無い様な気もする。
究極的に、仏教は、「悟り=執着を捨てる=気にするな」の精神だから
貧乏でも、病気で死にかけてても、心穏やかに全てを受け入れましょう
って感じだから・・きっと、そのせいかも。
儒学や仏教は、始めから奪わないからだ。
万人を利して我が利ともする仁義道徳の実践を体系化した儒学と、
物乞いを含む出家行を通じて成道や涅槃を目指す仏教と、
いずれもがまず、他者から奪って自分が生きることを根本に置いていない。
奪っていないから、自分のせいで誰かが不幸になることもなく、
他人を不幸にしている罪悪感からなる苦悩を紛らわすために、
奪った富の一部を返却して気を紛らわしたりする必要もないから、
儒学や仏教が「他者に与えること」などを念頭に置いたりすることもない。
万人を利して我が利ともする仁義道徳の実践を体系化した儒学と、
物乞いを含む出家行を通じて成道や涅槃を目指す仏教と、
いずれもがまず、他者から奪って自分が生きることを根本に置いていない。
奪っていないから、自分のせいで誰かが不幸になることもなく、
他人を不幸にしている罪悪感からなる苦悩を紛らわすために、
奪った富の一部を返却して気を紛らわしたりする必要もないから、
儒学や仏教が「他者に与えること」などを念頭に置いたりすることもない。
一切皆苦の濁世の悩乱の中で、苦悩をさらに増大させるような悪行に及ぶことを
儒学も仏教も強く戒める。その手法の一つが「因果応報のわきまえ」であり、
諸法因果を哲理として説く仏教だけでなく、「こういった罪を犯せばこのような災禍を招く」
といったような、漠然とした因果律のわきまえが儒学でもある程度たしなまれる。
(究極的にいえば、儒学上の全ての論及も結局は因果律に適ってもいる)
因果律を破綻させようとするような不埒な言行に及ばないことはもちろん、
ただ因果律の普遍性をよくわきまえることだけでも、相当な爽快感が得られる。
因果性の破綻した馬鹿なものの考え方は、それ自体が糞詰まりのような悩乱を
包摂している一方で、深く因果律に根ざしたものの考え方にはそのような悩乱が
全く伴っていないために、自然と常日ごろから爽快な心持ちのままでいることができる。
因果律に深く根ざしたものの考え方と、実践上の浄行とが両立しているときに、
人は最大級の爽快感を得る。究極的にはそれは悟りともなり、あらゆる苦悩から解き放たれもする。
もちろんそこにまで至るのは甚だ困難なことであるにしろ、少しだけでも近づくぐらいのことはわけもない。
糞詰まりの悩乱を完全に解消するのは困難であるにしろ、軽減するぐらいのことは、今から誰にでも
できることで、ただ諸法因果の理を諾って、なるべくそこに近づこうとするだけでいいのである。
「下民の孽いは、天自り降せるに匪ず。僔沓して背き憎む、職ら競れ人に由る」
「世の民が禍いに遭うのは、何も天が禍いを降しているからではない。つまらぬ人間同士が
迎合したむろして、憎しみや怒りを募らせて謀反心までも抱く、そういった連中の存在こそが原因なのである。
(怒りや憎しみを無闇に募らせて吹き溜まるユダヤ人の悪念こそが、
旧約中でエホバの業とされているような禍いをも招くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・十月之交より)
儒学も仏教も強く戒める。その手法の一つが「因果応報のわきまえ」であり、
諸法因果を哲理として説く仏教だけでなく、「こういった罪を犯せばこのような災禍を招く」
といったような、漠然とした因果律のわきまえが儒学でもある程度たしなまれる。
(究極的にいえば、儒学上の全ての論及も結局は因果律に適ってもいる)
因果律を破綻させようとするような不埒な言行に及ばないことはもちろん、
ただ因果律の普遍性をよくわきまえることだけでも、相当な爽快感が得られる。
因果性の破綻した馬鹿なものの考え方は、それ自体が糞詰まりのような悩乱を
包摂している一方で、深く因果律に根ざしたものの考え方にはそのような悩乱が
全く伴っていないために、自然と常日ごろから爽快な心持ちのままでいることができる。
因果律に深く根ざしたものの考え方と、実践上の浄行とが両立しているときに、
人は最大級の爽快感を得る。究極的にはそれは悟りともなり、あらゆる苦悩から解き放たれもする。
もちろんそこにまで至るのは甚だ困難なことであるにしろ、少しだけでも近づくぐらいのことはわけもない。
糞詰まりの悩乱を完全に解消するのは困難であるにしろ、軽減するぐらいのことは、今から誰にでも
できることで、ただ諸法因果の理を諾って、なるべくそこに近づこうとするだけでいいのである。
「下民の孽いは、天自り降せるに匪ず。僔沓して背き憎む、職ら競れ人に由る」
「世の民が禍いに遭うのは、何も天が禍いを降しているからではない。つまらぬ人間同士が
迎合したむろして、憎しみや怒りを募らせて謀反心までも抱く、そういった連中の存在こそが原因なのである。
(怒りや憎しみを無闇に募らせて吹き溜まるユダヤ人の悪念こそが、
旧約中でエホバの業とされているような禍いをも招くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・十月之交より)

諾うとされる「罪福(善因楽果悪因苦果の自業自得)」、これもまた因果応報の一つであり、
世俗社会に生きる一般人にとっては、最も重要な部類の因果律にも当たる。
(超俗であれば善悪をも超脱できるため、罪福も必ずしも絶対的なものではなくなる)
因果律に適ったものの考え方というのは、まるで快便のようで、極めて壮快である一方、
因果律の破綻しているものの考え方は、まるで糞詰まりのようで、極めて苦痛である。
両者を判別する能力があり、前者の壮快さと後者の苦痛さとを少なからず察するのが
愚童持斎心以上の住心の持ち主からで、最下等である異生羝羊心の持ち主の場合は、まったく
両者の判別も付かないから、どこまでも当たり前のこととして因果律の破綻したものの考え方を続け、
自分では自覚症状もないままに、常日ごろから糞詰まりの悩乱にあえぎ続けることになる。
因果応報の理を悟るとまではいかずとも、諾うまでいけば、少なくとも糞詰まりの悩乱を避けて、
快便の爽快さを保っていこうと心がけることができるが、因果応報を諾ってすらいないというのなら、
少しも悩乱を避けることができず、生きることが常に最重度の苦痛と共にのみあり続けることになるのである。
それこそ、どうしようもない不幸だといえる。生きることがありのままに最大級の苦痛と共に
あるという、それはそれはあられもない事態であり、千年生きようが二千年生きようが、
快便の爽快さの中で一日だけ生きるほどの満足もないままであり続けることに変わりないのである。
それが、「価値のない人生」なのかといえば、何ともいえない。
仏教的な観点に即するなら、この世は一切皆苦であり、悟りを拓くことで初めて
完全に苦しみから解き放たれるとする。しからば、悟りを拓くまでには至っていない俗人にあるのは、
苦しみが多いか少ないかという違いだけであり、愚童持斎心程度の境地にある儒者などの人間とて、
生きる苦しみから完全に解き放たれているわけではないことには変わりがないのだから。
苦しみの少ない幸福な人生に価値があり、苦しみの多い不幸な人生に価値が無いというのなら、
罪福を諾う愚童持斎心以上の境地の人生にこそより価値があり、「罪福って何それ? おいしいの?」
状態の異生羝羊心止まりな人生にこそ、より価値がないといえる。別にこれが、普遍的な価値基準に
根ざした判断だとも思わないが、幸不幸に全ての価値を還元するというのなら、そういうことになる。
「莫莫たる葛藟も、條枚に施びん。豈弟の君子は、福を求めて回わざる」
「ボウボウと生い茂る葛の蔓も、樹木に執拗に巻き付くようにして、
ゆったりと楽しんでいる君子もまた、幸福を追い求めることに間違いがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・早麓より)
仏教的な観点に即するなら、この世は一切皆苦であり、悟りを拓くことで初めて
完全に苦しみから解き放たれるとする。しからば、悟りを拓くまでには至っていない俗人にあるのは、
苦しみが多いか少ないかという違いだけであり、愚童持斎心程度の境地にある儒者などの人間とて、
生きる苦しみから完全に解き放たれているわけではないことには変わりがないのだから。
苦しみの少ない幸福な人生に価値があり、苦しみの多い不幸な人生に価値が無いというのなら、
罪福を諾う愚童持斎心以上の境地の人生にこそより価値があり、「罪福って何それ? おいしいの?」
状態の異生羝羊心止まりな人生にこそ、より価値がないといえる。別にこれが、普遍的な価値基準に
根ざした判断だとも思わないが、幸不幸に全ての価値を還元するというのなら、そういうことになる。
「莫莫たる葛藟も、條枚に施びん。豈弟の君子は、福を求めて回わざる」
「ボウボウと生い茂る葛の蔓も、樹木に執拗に巻き付くようにして、
ゆったりと楽しんでいる君子もまた、幸福を追い求めることに間違いがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・早麓より)
自分が致命的な落ち度を抱えている場合でも、他人の些細な落ち度までよく見えるということはある。
何万人とパレスチナ人を虐殺しているイスラエルが、中東諸国の強権政治を非難したりもできる。
(しかもその強権政治からして、イスラエルからの侵略を食い止めるための対抗措置だったりする)
人類を滅亡に陥れるほどもの大悪行に及んでいる重権力犯罪者が、市井のどうということもない若造の
一挙一動の中の些細な落ち度を非難して、それで自分たち自身の甚大な落ち度から目を背けたりもする。
そのとき、目は見えていないのではなく、むしろ見えすぎている。その見えすぎる監視力がすべて
他人のほうにばかり向けられて、自分自身には全く向けられていないことこそが問題なのである。
自らの落ち度にこそ目を向けるためには、むしろ監視力の高さなどないぐらいでいい。
収監された囚人が外界の事物を見聞きもできない環境下でこそ更生に務めるように、むしろ外界の事物への
不埒な出歯亀行為を企てるような手段が閉ざされたところでこそ、十分な内省にも務めることができる。
何万人とパレスチナ人を虐殺しているイスラエルが、中東諸国の強権政治を非難したりもできる。
(しかもその強権政治からして、イスラエルからの侵略を食い止めるための対抗措置だったりする)
人類を滅亡に陥れるほどもの大悪行に及んでいる重権力犯罪者が、市井のどうということもない若造の
一挙一動の中の些細な落ち度を非難して、それで自分たち自身の甚大な落ち度から目を背けたりもする。
そのとき、目は見えていないのではなく、むしろ見えすぎている。その見えすぎる監視力がすべて
他人のほうにばかり向けられて、自分自身には全く向けられていないことこそが問題なのである。
自らの落ち度にこそ目を向けるためには、むしろ監視力の高さなどないぐらいでいい。
収監された囚人が外界の事物を見聞きもできない環境下でこそ更生に務めるように、むしろ外界の事物への
不埒な出歯亀行為を企てるような手段が閉ざされたところでこそ、十分な内省にも務めることができる。
もちろん、収監されたからといって必ずしも十分な内省に務めるとも限らず、古代ユダヤ人のように
バビロン収監中に甚大な被害妄想を蓄えたものもいれば、日本のヤクザのように服役を「別荘通い」
ぐらいにしか考えていないものもいる。収監されたから反省するとも限らないし、また収監されなければ
反省しないとも限らない。収監される前から自分たちで反省して、相応の罰を受けるために自分たちからこそ自首して、
檻の中で自分たち自身の罪と面と向かい合っていくというのが、罪に服する手順としてはこの上ないあり方だといえる。
収監されなければならないほどもの落ち度であれ、そうでないのであれ、自らの落ち度と向かい合う上では
他人に対する監視などはかえって疎かにすらなるものだ。善因楽果悪因苦果の罪福異熟も、真理と道理の結節点とでも
いった存在であり、天理の一つとも見なせなくはない。そして天道である道家の老子こそは「戸を出ずして天下を見、
窓をうかがわずして天道を見る」とも言っている。道理を知るために見るべきものは、外などにはないのである。
「巽にして耳目聡明なり。(略)是れを以て元いに亨るなり」
「木鶏のような質朴な徳の持ち主でいて、なおかつ耳目が聡明であるなら、これによって大成する。
(「君子は見るには明を思う〈論語〉」ともあるが、耳目が聡明である以前に、有徳者であることが大事なのだ。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・鼎・彖伝より)
バビロン収監中に甚大な被害妄想を蓄えたものもいれば、日本のヤクザのように服役を「別荘通い」
ぐらいにしか考えていないものもいる。収監されたから反省するとも限らないし、また収監されなければ
反省しないとも限らない。収監される前から自分たちで反省して、相応の罰を受けるために自分たちからこそ自首して、
檻の中で自分たち自身の罪と面と向かい合っていくというのが、罪に服する手順としてはこの上ないあり方だといえる。
収監されなければならないほどもの落ち度であれ、そうでないのであれ、自らの落ち度と向かい合う上では
他人に対する監視などはかえって疎かにすらなるものだ。善因楽果悪因苦果の罪福異熟も、真理と道理の結節点とでも
いった存在であり、天理の一つとも見なせなくはない。そして天道である道家の老子こそは「戸を出ずして天下を見、
窓をうかがわずして天道を見る」とも言っている。道理を知るために見るべきものは、外などにはないのである。
「巽にして耳目聡明なり。(略)是れを以て元いに亨るなり」
「木鶏のような質朴な徳の持ち主でいて、なおかつ耳目が聡明であるなら、これによって大成する。
(「君子は見るには明を思う〈論語〉」ともあるが、耳目が聡明である以前に、有徳者であることが大事なのだ。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・鼎・彖伝より)
「キリストは、刑死して蘇ることにより、全ての人々の罪を償った」という文章は、
「キリスト(神の子)」という名前の存在が、「刑死して蘇る」という手段によって、
「全ての人々の罪を償う」という目的を達成することの因果律が、全く満たされていない。
神の子だから、刑死しても蘇るというのが、すでに不当である。
死刑は受刑者を殺すために行う刑罰であり、相手が神の子だというのなら、
神の子が死んで二度と蘇らないような処刑方法によって殺さねばならない。
(死んで蘇るような死刑を行うということは、刑罰が当たらず濁っているということでもある)
しかし、仮に神の子が不死であり、どんな処刑方法によっても死なせることが
できないとする。それなら始めから神の子は処刑などによって死なないのであり、
わざわざ刑死してから蘇るなどという道理は通らない。神の子が死ねるという場合にも、
死なないという場合にも、「死んで蘇る」という手段が実現されることはない。
そして、「刑死して蘇る」という手段によって、「全ての人々の罪を償う」という
目的が達成されること、これこそが絶対にあり得ない。仮に自分が強盗被害に遭ったとして、
強盗犯が罪を償いもせずに自分の前にやって来て、「キリストが刑死して蘇ることで
俺の罪も償われたから、二度と俺の罪を問うたりするな」とほざき、強奪した物品も一切
返却しなかったとする。それで、強盗犯自身を許してやれたり、するわけがないのであり、
「罪は加害者自身が償わなければならない」という因果律の保存は、犯罪の加害者ではなく
被害者の立場から考えてみた場合に、あまりにも自明なものであることが判明するのである。
神の子が刑死して蘇るか、刑死して蘇ることで全ての人々の罪を償うかどうかということは、
因果関係に即して考えてみるなら、その論理構造からして、自明に破綻しているのであり、
諸法因果の仏教的観点に即するなら、強く否定することが心がけられなければならないものですらある。
「キリスト(神の子)」という名前の存在が、「刑死して蘇る」という手段によって、
「全ての人々の罪を償う」という目的を達成することの因果律が、全く満たされていない。
神の子だから、刑死しても蘇るというのが、すでに不当である。
死刑は受刑者を殺すために行う刑罰であり、相手が神の子だというのなら、
神の子が死んで二度と蘇らないような処刑方法によって殺さねばならない。
(死んで蘇るような死刑を行うということは、刑罰が当たらず濁っているということでもある)
しかし、仮に神の子が不死であり、どんな処刑方法によっても死なせることが
できないとする。それなら始めから神の子は処刑などによって死なないのであり、
わざわざ刑死してから蘇るなどという道理は通らない。神の子が死ねるという場合にも、
死なないという場合にも、「死んで蘇る」という手段が実現されることはない。
そして、「刑死して蘇る」という手段によって、「全ての人々の罪を償う」という
目的が達成されること、これこそが絶対にあり得ない。仮に自分が強盗被害に遭ったとして、
強盗犯が罪を償いもせずに自分の前にやって来て、「キリストが刑死して蘇ることで
俺の罪も償われたから、二度と俺の罪を問うたりするな」とほざき、強奪した物品も一切
返却しなかったとする。それで、強盗犯自身を許してやれたり、するわけがないのであり、
「罪は加害者自身が償わなければならない」という因果律の保存は、犯罪の加害者ではなく
被害者の立場から考えてみた場合に、あまりにも自明なものであることが判明するのである。
神の子が刑死して蘇るか、刑死して蘇ることで全ての人々の罪を償うかどうかということは、
因果関係に即して考えてみるなら、その論理構造からして、自明に破綻しているのであり、
諸法因果の仏教的観点に即するなら、強く否定することが心がけられなければならないものですらある。
この世界の因果律が恒久普遍のものであるか否かということは、現代物理学などによっても
しばし論題に挙げられることではあるが、概ね、巨視的な因果律が保存されることでは同意が付いている。
プランクスケール級の微視的な領域においては未だ不明な点がある(ということにされている)ものの、
この世界の総体はえてして因果律の保存に司られていることが、物理的な観点からも認められている。
仏教的見地に即して強く肯定したりせずとも、因果応報の理をわきまえることは至極実用的なことであり、
キリスト教圏の西洋人といえども、自然科学を取り扱う場合などには因果律に根ざしたものの考え方を
自然とさせられているのであって、それでこそ科学を発展させられてきてもいるのである。
ただ、西洋人が金融業を営む場合などに際しては、因果律の破綻したキリスト教的なものの考え方を
持ち越していたりするものだから、限られた富を無限の資産によって回そうとするような暴挙にも
及んでしまい、結果として致命的な財政破綻を招いて、崩壊の危機に晒されたりもするのである。
アウグスチヌスによる上座部仏教教義(自殺の禁止など)の剽窃以来、ずっと、キリスト教徒は
キリスト教義による破綻を、仏教教義による救助で補うという歴史を繰り返して来たのであり、因果律に
適わないキリスト教教義だけで、キリスト教徒がこれまで生き延びられてきたような事実もないのである。
むしろ、キリスト教徒たち自身にすら破滅の種子ばかりを撒き散らしてきたキリスト教という
邪教の正体を知って、間違ってキリストやエホバに向けられていた信奉を、古来から本当に
信奉すべき存在であり続けてきた、お釈迦様などへと向けるようにすべきなのである。
「彼の泉水を相るに、載つ清み載つ濁る。我れ日びに禍いに構う、曷ぞや能ち穀きと云わん」
「泉水がせわしなく清まったり濁ったりするように、私も日々禍いに遭う。どうしてこれでいいなどと
いうことがいえようか。(ピューリタンも一つの極端であり、極端な濁悪からの振れ切りでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・四月より)
しばし論題に挙げられることではあるが、概ね、巨視的な因果律が保存されることでは同意が付いている。
プランクスケール級の微視的な領域においては未だ不明な点がある(ということにされている)ものの、
この世界の総体はえてして因果律の保存に司られていることが、物理的な観点からも認められている。
仏教的見地に即して強く肯定したりせずとも、因果応報の理をわきまえることは至極実用的なことであり、
キリスト教圏の西洋人といえども、自然科学を取り扱う場合などには因果律に根ざしたものの考え方を
自然とさせられているのであって、それでこそ科学を発展させられてきてもいるのである。
ただ、西洋人が金融業を営む場合などに際しては、因果律の破綻したキリスト教的なものの考え方を
持ち越していたりするものだから、限られた富を無限の資産によって回そうとするような暴挙にも
及んでしまい、結果として致命的な財政破綻を招いて、崩壊の危機に晒されたりもするのである。
アウグスチヌスによる上座部仏教教義(自殺の禁止など)の剽窃以来、ずっと、キリスト教徒は
キリスト教義による破綻を、仏教教義による救助で補うという歴史を繰り返して来たのであり、因果律に
適わないキリスト教教義だけで、キリスト教徒がこれまで生き延びられてきたような事実もないのである。
むしろ、キリスト教徒たち自身にすら破滅の種子ばかりを撒き散らしてきたキリスト教という
邪教の正体を知って、間違ってキリストやエホバに向けられていた信奉を、古来から本当に
信奉すべき存在であり続けてきた、お釈迦様などへと向けるようにすべきなのである。
「彼の泉水を相るに、載つ清み載つ濁る。我れ日びに禍いに構う、曷ぞや能ち穀きと云わん」
「泉水がせわしなく清まったり濁ったりするように、私も日々禍いに遭う。どうしてこれでいいなどと
いうことがいえようか。(ピューリタンも一つの極端であり、極端な濁悪からの振れ切りでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・四月より)
「刑死して蘇る」という文章は、自己完結した情報として、権力道徳上の不正を帯びている。
死刑は受刑者を死滅させるために行う刑罰であり、死刑に処した人間が生き返ってしまう
というのでは、「刑罰あたらず」ということになり、社会統治上の不正行為ともなってしまう。
仮に相手が「神の子」であったとしたところで、もしも死刑に処するというのなら、神の子
が完全に死滅して、二度と生き返らないような方法で処刑するのが刑務者としての義務であり、
処刑したにもかかわらず生き返ったりしたのでは、刑務者にとっての不手際となってしまう。
そのような為政上の不正を、神の子がこの世にもたらしたとすれば、それは人々の罪を代わりに
償うどころか、世の中に不正を蔓延させることで、誰しもに無駄な罪状を背負わせる結果とすら
なってしまうわけだから、まさにキリスト(神の子)こそは、人々の罪を一切償うこともなく、
代わりに「権力犯罪の横行する社会に安住する」という従犯の罪を誰しもに着せたのだといえる。
もちろん、キリストが刑死して蘇ったというところからすでにフィクションであり、刑死して
二度と生き返らなかったか、もしくは始めから刑死していなかったかのいずれかであるというのが
真相であるには違いない。しかし、仮に「刑死して蘇った」というのが事実であったとしても、
それで「全ての人々の罪が償われた」とするのでは全く筋が通っておらず、むしろ「誰しもに
権力犯罪の従犯となる罪を着せた」とするほうが、因果関係が満たされていることにもなる。
フィクションかノンフィクションかなどという違いによらず、「刑死して蘇ることで
全ての人々の罪を償う」という構文が自己完結して、倫理的な因果関係を満たしていないのである。
刑死して蘇るということは、それ自体が不正なことだから、不正にまみれることにしかならないのである。
死刑は受刑者を死滅させるために行う刑罰であり、死刑に処した人間が生き返ってしまう
というのでは、「刑罰あたらず」ということになり、社会統治上の不正行為ともなってしまう。
仮に相手が「神の子」であったとしたところで、もしも死刑に処するというのなら、神の子
が完全に死滅して、二度と生き返らないような方法で処刑するのが刑務者としての義務であり、
処刑したにもかかわらず生き返ったりしたのでは、刑務者にとっての不手際となってしまう。
そのような為政上の不正を、神の子がこの世にもたらしたとすれば、それは人々の罪を代わりに
償うどころか、世の中に不正を蔓延させることで、誰しもに無駄な罪状を背負わせる結果とすら
なってしまうわけだから、まさにキリスト(神の子)こそは、人々の罪を一切償うこともなく、
代わりに「権力犯罪の横行する社会に安住する」という従犯の罪を誰しもに着せたのだといえる。
もちろん、キリストが刑死して蘇ったというところからすでにフィクションであり、刑死して
二度と生き返らなかったか、もしくは始めから刑死していなかったかのいずれかであるというのが
真相であるには違いない。しかし、仮に「刑死して蘇った」というのが事実であったとしても、
それで「全ての人々の罪が償われた」とするのでは全く筋が通っておらず、むしろ「誰しもに
権力犯罪の従犯となる罪を着せた」とするほうが、因果関係が満たされていることにもなる。
フィクションかノンフィクションかなどという違いによらず、「刑死して蘇ることで
全ての人々の罪を償う」という構文が自己完結して、倫理的な因果関係を満たしていないのである。
刑死して蘇るということは、それ自体が不正なことだから、不正にまみれることにしかならないのである。
「康誥に曰く、惟れ命は常ならずと。善なれば則ち之れを得、不善なれば則ち之れを失うを道う」
「『書経』の康誥に『天命に常に一定しているところはない』とあるが、善であればこれを得られるし、
不善であればこれを失うのである。(それほどにも不善を避けて善でいることは難しいということ。
天命を得てこそ人は活きることが出来、失った所では畜生も同然の惰生をを貪るしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・十より)
「『書経』の康誥に『天命に常に一定しているところはない』とあるが、善であればこれを得られるし、
不善であればこれを失うのである。(それほどにも不善を避けて善でいることは難しいということ。
天命を得てこそ人は活きることが出来、失った所では畜生も同然の惰生をを貪るしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・十より)
人間の欲望には限りがないが、この世の富には限りがある。
だから、誰しもの欲望を際限なく叶えてやろうとすれば、
必ずその欲望を満たしてやるための富が不足して、富の奪い合いのための戦乱や、
一方的な富の収奪が固定化されたことによる深刻な飢餓や貧窮が生ずることとなる。
そこまで事態が悪化する前にまず、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」というわきまえを
誰しもが抱き、欲望を適度化させた人々全員に対する、富の適正な配分を仁政によって実現するのが
俗世の人道というものであり、隣人愛や友愛の偏重によって人道を見失い、自分のごく近隣の
相手同士だけで際限のない欲望を叶えようとして、挙句には世界を戦乱や貧困に陥れるというのは
畜生道ないし餓鬼道であり、そのような世界全体が地獄も同然の様相を呈しているといえる。
別に、この世が地獄と化すこと自体を好き好んで画策する人間がいるというのではなく、
際限なく個人的な欲望を叶え尽くそうとした結果として、世界のほうが地獄も同然の状態と化すのであり、
そのような事態をもたらす小人に、大局の様相を見計らえるような優れた視力は元から備わっていない。
だから、自分たちでも知らず知らずのうちに、世界を地獄へと豹変させる元凶となった小人が、
いざ摘発を受けるという段になっても「なんで俺たちが?」という疑問を本気で抱くことになる。
第二次大戦中に、ナチスドイツに徹底的な弾圧を受けたユダヤ人などがまさにその例で、
アインシュタインのような天才科学者を含め、当時のユダヤ人の誰しもが、自分たちが弾圧の対象と
されたことに本気で疑問を抱き、心の底から本当に、ナチスやヒトラーに対する不平をも募らせていたのである。
だから、誰しもの欲望を際限なく叶えてやろうとすれば、
必ずその欲望を満たしてやるための富が不足して、富の奪い合いのための戦乱や、
一方的な富の収奪が固定化されたことによる深刻な飢餓や貧窮が生ずることとなる。
そこまで事態が悪化する前にまず、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」というわきまえを
誰しもが抱き、欲望を適度化させた人々全員に対する、富の適正な配分を仁政によって実現するのが
俗世の人道というものであり、隣人愛や友愛の偏重によって人道を見失い、自分のごく近隣の
相手同士だけで際限のない欲望を叶えようとして、挙句には世界を戦乱や貧困に陥れるというのは
畜生道ないし餓鬼道であり、そのような世界全体が地獄も同然の様相を呈しているといえる。
別に、この世が地獄と化すこと自体を好き好んで画策する人間がいるというのではなく、
際限なく個人的な欲望を叶え尽くそうとした結果として、世界のほうが地獄も同然の状態と化すのであり、
そのような事態をもたらす小人に、大局の様相を見計らえるような優れた視力は元から備わっていない。
だから、自分たちでも知らず知らずのうちに、世界を地獄へと豹変させる元凶となった小人が、
いざ摘発を受けるという段になっても「なんで俺たちが?」という疑問を本気で抱くことになる。
第二次大戦中に、ナチスドイツに徹底的な弾圧を受けたユダヤ人などがまさにその例で、
アインシュタインのような天才科学者を含め、当時のユダヤ人の誰しもが、自分たちが弾圧の対象と
されたことに本気で疑問を抱き、心の底から本当に、ナチスやヒトラーに対する不平をも募らせていたのである。
神がこの世を破滅に陥れているのではなく、自分たちの放辟邪侈こそはありのままに破滅の元凶である。
「自分たちが際限のない欲望を叶えようとするから、この世もまた戦乱や貧困に見舞われる」という、
言葉にしてみれば当たり前な因果関係を、現実社会に生きる人間としてわきまえているものは、結構少ない。
そもそも、因果応報のことわり自体を蔑ろにする場合が非常に多く、株式市場で際限なく肥大化した資本によって、
限られた富を取引したりしていることなどもその例だといえる。「キリストは、刑死して蘇ることで、全ての
人々の罪を償った」のような因果律の破綻した文章が、未だ権威として扱われるようなことすらあるわけだから、
そのような風潮からまず是正していくことで、因果関係を無視した思考や言行を未然に食い止めて行き、
それにより上記のような因果関係の、恒常的なわきまえまでをも実現していくようにしなければならない。
そのほうが、ただ「欲はほしいままにすべからず」という教条を絶対化する以上にも、根本的な対処にもなる。
「小人は(略)其の人を使うにおよびては、備わらんことを求む」
「つまらない人間は、人に何かをさせようとする時には、なんでもやることを求める。
(自分が奴隷並みの品性だから、他人に対しても奴隷並みに何でもやることを求めるのである。
『備わるを一人に求むることなかれ〈微子第十八・一〇〉』である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二五より)
「自分たちが際限のない欲望を叶えようとするから、この世もまた戦乱や貧困に見舞われる」という、
言葉にしてみれば当たり前な因果関係を、現実社会に生きる人間としてわきまえているものは、結構少ない。
そもそも、因果応報のことわり自体を蔑ろにする場合が非常に多く、株式市場で際限なく肥大化した資本によって、
限られた富を取引したりしていることなどもその例だといえる。「キリストは、刑死して蘇ることで、全ての
人々の罪を償った」のような因果律の破綻した文章が、未だ権威として扱われるようなことすらあるわけだから、
そのような風潮からまず是正していくことで、因果関係を無視した思考や言行を未然に食い止めて行き、
それにより上記のような因果関係の、恒常的なわきまえまでをも実現していくようにしなければならない。
そのほうが、ただ「欲はほしいままにすべからず」という教条を絶対化する以上にも、根本的な対処にもなる。
「小人は(略)其の人を使うにおよびては、備わらんことを求む」
「つまらない人間は、人に何かをさせようとする時には、なんでもやることを求める。
(自分が奴隷並みの品性だから、他人に対しても奴隷並みに何でもやることを求めるのである。
『備わるを一人に求むることなかれ〈微子第十八・一〇〉』である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二五より)
極端から極端に走るコーカソイドの悪癖は、有色コーカソイドとして極端な浄行に
務めるものの多いインドにおいても、釈迦の中道志向によって否定されている。
極端な富貴と、極端な貧困の両極端こそが、人を苦しみへと陥れる。
貧困が苦しみとなるのは誰しもが知るところだが、極端な富貴もまた、諸法因果の
ことわりに根ざした大局社会の破滅を必ず招くため、必ず大きな苦しみの原因ともなる。
富貴と貧困の両極端に走らない中道ないし中庸こそが、真理に根ざして最も苦しゅうない。
苦しみをあえて好き好むマゾヒストでもない限りは、富の多寡などに極端なこだわりを
持ちすぎないことが、一番幸福な結果にも結び付くのだから、それを奨励するどころですらない。
マゾヒストか自殺志願者でもないような、大多数の常人は、富への極端な執着などを
持たないことでこそ、望みの結果を得る。極端に膨大な自己資産を蓄えて、その場限りの
酒池肉林の遊蕩に耽ったりするほうが、後々により大きな禍いを招く。自分が死んでからどころか、
生きている内からそれはやって来て、楽しみ過ぎたに相応の過剰な苦しみを必ず被ることとなる。
欲望を捨て去るのではなく、洗練させてみたならば、極端な遊蕩などで自らの望みが成就する
見込みはないことが分かる。だから自らの心の底からの望みに即して、酒池肉林の放辟邪侈も退ける。
人の欲望が必ず放辟邪侈に結び付くなどと考えるほうが、見通しの甘い未熟者の決め付けなのであり、
そのような妄断を是とする世の中全体が、もはや欲望の何たるかすらをも見失ってしまっている。
最大級に自らの欲望を叶え尽くすためにこそ、自業自得の自滅を招くような、過度の遊蕩も避けるのである。
腹黒く、どこまでも望みを叶え尽くさんとするからこそ、自己資産の極端な積み重ねのような、
さほどでもない奇行にも手を出さないのである。そこに欲望の捨て去りなどはなく、より洗練された大望を
着実に叶えていく人としての成長があるのであり、極端から極端に走る未熟者には未だ与り知らぬ愉悦があるのである。
務めるものの多いインドにおいても、釈迦の中道志向によって否定されている。
極端な富貴と、極端な貧困の両極端こそが、人を苦しみへと陥れる。
貧困が苦しみとなるのは誰しもが知るところだが、極端な富貴もまた、諸法因果の
ことわりに根ざした大局社会の破滅を必ず招くため、必ず大きな苦しみの原因ともなる。
富貴と貧困の両極端に走らない中道ないし中庸こそが、真理に根ざして最も苦しゅうない。
苦しみをあえて好き好むマゾヒストでもない限りは、富の多寡などに極端なこだわりを
持ちすぎないことが、一番幸福な結果にも結び付くのだから、それを奨励するどころですらない。
マゾヒストか自殺志願者でもないような、大多数の常人は、富への極端な執着などを
持たないことでこそ、望みの結果を得る。極端に膨大な自己資産を蓄えて、その場限りの
酒池肉林の遊蕩に耽ったりするほうが、後々により大きな禍いを招く。自分が死んでからどころか、
生きている内からそれはやって来て、楽しみ過ぎたに相応の過剰な苦しみを必ず被ることとなる。
欲望を捨て去るのではなく、洗練させてみたならば、極端な遊蕩などで自らの望みが成就する
見込みはないことが分かる。だから自らの心の底からの望みに即して、酒池肉林の放辟邪侈も退ける。
人の欲望が必ず放辟邪侈に結び付くなどと考えるほうが、見通しの甘い未熟者の決め付けなのであり、
そのような妄断を是とする世の中全体が、もはや欲望の何たるかすらをも見失ってしまっている。
最大級に自らの欲望を叶え尽くすためにこそ、自業自得の自滅を招くような、過度の遊蕩も避けるのである。
腹黒く、どこまでも望みを叶え尽くさんとするからこそ、自己資産の極端な積み重ねのような、
さほどでもない奇行にも手を出さないのである。そこに欲望の捨て去りなどはなく、より洗練された大望を
着実に叶えていく人としての成長があるのであり、極端から極端に走る未熟者には未だ与り知らぬ愉悦があるのである。
下記のような、周代までの古代中国の肉食に関する礼法は、これからの食文化を考えていく上でも参考になる。
極端に肉食に依存している現代と、肉食を極端に戒めていた近代以前の日本と、いずれもが
これからの世の中においてそのまま適用するのも難しいものであるには変わりない。
「諸侯は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、
士は故無くして犬豕を殺さず、庶人は故無くして珍を食さず」
「諸侯でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また庶民は正当な理由無くして以上の獣の肉のような珍味を食してはならない。
(『左伝』荘公十年などにも、官職者を『肉食の者』と呼ぶ描写があるが、
『四つ足のものは椅子とテーブル以外はなんでも食う』という中国でも、
周代までは獣肉食は公職者に限って許されるものだった。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
「君は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、士は故無くして犬豕を殺さず。
君子は庖廚を遠ざけ、凡そ血気有るの類いは、身づから踐さざるなり」
「主君でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また、為政者階級の人間は自分では屠場に入らず、殺せば血が流れる類いの生き物を自分では殺さない。
(部落差別のない中国でも、為政者が血肉の穢れを忌むぐらいの風習はあった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
食肉利権を公有化するなどの方法が、今すぐにでも思いつくことができる手段だが、果たして。
極端に肉食に依存している現代と、肉食を極端に戒めていた近代以前の日本と、いずれもが
これからの世の中においてそのまま適用するのも難しいものであるには変わりない。
「諸侯は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、
士は故無くして犬豕を殺さず、庶人は故無くして珍を食さず」
「諸侯でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また庶民は正当な理由無くして以上の獣の肉のような珍味を食してはならない。
(『左伝』荘公十年などにも、官職者を『肉食の者』と呼ぶ描写があるが、
『四つ足のものは椅子とテーブル以外はなんでも食う』という中国でも、
周代までは獣肉食は公職者に限って許されるものだった。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
「君は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、士は故無くして犬豕を殺さず。
君子は庖廚を遠ざけ、凡そ血気有るの類いは、身づから踐さざるなり」
「主君でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また、為政者階級の人間は自分では屠場に入らず、殺せば血が流れる類いの生き物を自分では殺さない。
(部落差別のない中国でも、為政者が血肉の穢れを忌むぐらいの風習はあった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
食肉利権を公有化するなどの方法が、今すぐにでも思いつくことができる手段だが、果たして。
全知全能というものを突き止めれば、そこには監視行為としての
出歯亀(不正な監視)も含まれるし、活動行為としての犯罪も含まれる。だから、
全知全能でいて、実際にその能力を行使したならば、その者は必ず、出歯亀の犯罪者になる。
その時点ですでに、当人が勧善懲悪を為すことだけは絶対に叶わなくなる。
全知全能の実践者すなわち勧善懲悪の不能者であり、
全知全能は、実践してしまった時点で、すでに全知全能ではなくなるのである。
だから、「為すこと無くして為さざる無きなり(荘子)」という状態が、全知全能の極致でもあり、
監視も活動も、何も為さないでいる限りにおいて、その者もまた本当に全知全能であり得る。
そして、いざ何かを実践するとなれば、その時は勧善懲悪に徹する。
監視を行うのなら出歯亀ではなく目付(正規の監視)となるようにし、
活動には必ず罪悪が伴わないようにする。その限りにおいて、本人にも「凶状」が
付帯しないので、隠居して何もしなくなった時に、また全知全能ともなり得るのである。
全知全能をありのままに実行したならば、出歯亀の犯罪者としての凶状が付帯してしまうので、
いざまた無為に立ち戻ったとしても、勧善懲悪がもはや不能であるため、全知全能ではなくなる。
全知全能は無為に付し、行動は勧善懲悪のみに徹する、それでこそ普遍的に全知全能でもある。
出歯亀や犯罪込みで全知全能を実行してしまったならば、その時点で、人間にとっての
最も愉悦的な行動たる、勧善懲悪の実行が不能となってしまうのだから、全知全能を実行に
移してしまうことほど、当人を最低最悪の不能者と化してしまう愚行も他にないのだといえる。
出歯亀(不正な監視)も含まれるし、活動行為としての犯罪も含まれる。だから、
全知全能でいて、実際にその能力を行使したならば、その者は必ず、出歯亀の犯罪者になる。
その時点ですでに、当人が勧善懲悪を為すことだけは絶対に叶わなくなる。
全知全能の実践者すなわち勧善懲悪の不能者であり、
全知全能は、実践してしまった時点で、すでに全知全能ではなくなるのである。
だから、「為すこと無くして為さざる無きなり(荘子)」という状態が、全知全能の極致でもあり、
監視も活動も、何も為さないでいる限りにおいて、その者もまた本当に全知全能であり得る。
そして、いざ何かを実践するとなれば、その時は勧善懲悪に徹する。
監視を行うのなら出歯亀ではなく目付(正規の監視)となるようにし、
活動には必ず罪悪が伴わないようにする。その限りにおいて、本人にも「凶状」が
付帯しないので、隠居して何もしなくなった時に、また全知全能ともなり得るのである。
全知全能をありのままに実行したならば、出歯亀の犯罪者としての凶状が付帯してしまうので、
いざまた無為に立ち戻ったとしても、勧善懲悪がもはや不能であるため、全知全能ではなくなる。
全知全能は無為に付し、行動は勧善懲悪のみに徹する、それでこそ普遍的に全知全能でもある。
出歯亀や犯罪込みで全知全能を実行してしまったならば、その時点で、人間にとっての
最も愉悦的な行動たる、勧善懲悪の実行が不能となってしまうのだから、全知全能を実行に
移してしまうことほど、当人を最低最悪の不能者と化してしまう愚行も他にないのだといえる。
ことに、行動に限っていえば、勧善懲悪こそが、全知全能の実行の上にすらある。
勧善懲悪者が全知全能の実行者になることはできても、出歯亀や権力犯罪にまで手を染めた
全知全能の実行者が、勧善懲悪の実行者になることは、もはや存命中には二度と叶わない。
「勧善懲悪→全知全能の実行」は可能でも、「全知全能の実行→勧善懲悪」は不能なわけだから、
人間というもの、行いについては勧善懲悪である内が華だということが、全知全能を
込みにした論議においても、磐石な普遍性を伴っていることが分かるのである。
すでに全知全能の実行に及んでしまった者共については、ご愁傷様という他はないが、
これからの世を背負っていく人々にとっては、上記のような普遍法則のわきまえが必須だといえる。
「子游曰く、吾が友の張や、能うこと難きを為すなり。然れども未だ仁ならず」
「子游が言った。『私の友人の子張は、人ができないようなこともうまくやってのけるが、
だからといって仁者だったというようなことは未だない』(仁徳と多能は比例しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一五より
勧善懲悪者が全知全能の実行者になることはできても、出歯亀や権力犯罪にまで手を染めた
全知全能の実行者が、勧善懲悪の実行者になることは、もはや存命中には二度と叶わない。
「勧善懲悪→全知全能の実行」は可能でも、「全知全能の実行→勧善懲悪」は不能なわけだから、
人間というもの、行いについては勧善懲悪である内が華だということが、全知全能を
込みにした論議においても、磐石な普遍性を伴っていることが分かるのである。
すでに全知全能の実行に及んでしまった者共については、ご愁傷様という他はないが、
これからの世を背負っていく人々にとっては、上記のような普遍法則のわきまえが必須だといえる。
「子游曰く、吾が友の張や、能うこと難きを為すなり。然れども未だ仁ならず」
「子游が言った。『私の友人の子張は、人ができないようなこともうまくやってのけるが、
だからといって仁者だったというようなことは未だない』(仁徳と多能は比例しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一五より
真理や道理に根ざした本物の善悪正邪ってのは、ある程度以上に大きな都市社会で、
しかも仁徳を志す聖人君子が出現しないことには、なかなかその全貌が明らかにならない。
イスラエルやギリシャ程度の小社会で、善悪の分別が普遍化することがないのはもちろんのこと、
古代ローマや今のアメリカのような、誰一人として聖人君子となることを志しているわけでもない
衆愚型の大社会においても、普遍的な善悪正邪が思想体系などによって標準化されることもない。
そういった社会の人間が、「普遍的な善悪などは存在しない」などとほざくのは、自分たちが特定して、
普遍的な善悪の分別に与れたことのない、田舎者ないし大都会の衆愚であるからなだけである一方、
中国の仙人やインドの沙門が「善悪など虚妄だ」と述べるのは、彼らが超俗的な観点から、世俗の
倫理基準に過ぎない善悪正邪の「普遍性の小ささ」を指摘しているからであって、始めから普遍的な
善悪なんか知らない愚者と、善悪の普遍性の小ささまでも知り尽くしている聖者との差は、歴然としてある。
超俗的な観点から、善悪の普遍性の小ささを諦観する場合は一旦措くとして、自分が普遍的な善悪正邪
などは全く知らない立場から社会に参画し、そこで何かをやったとして、それが普遍的な勧善懲悪
たり得たりすることもまずない。勧善懲悪は、遠的の射的ほどにも実践がピンポイントなものであって、
めくらめっぽうに矢を射放ったからといって、それが的に命中するようなこともまずないからだ。
勧善懲悪だけでなく、善でも悪でもない行いに徹するということもまた、社会的には非常に難しいことで、
無軌道な欲望の思うが侭でいたりすれば、それだけで人の営みというものには、概ね罪悪が入り混じるもので
あるため、悪を行わないためにこそ、勧善懲悪以上にも徹底的な禁欲が必要とされることにもなるのである。
しかも仁徳を志す聖人君子が出現しないことには、なかなかその全貌が明らかにならない。
イスラエルやギリシャ程度の小社会で、善悪の分別が普遍化することがないのはもちろんのこと、
古代ローマや今のアメリカのような、誰一人として聖人君子となることを志しているわけでもない
衆愚型の大社会においても、普遍的な善悪正邪が思想体系などによって標準化されることもない。
そういった社会の人間が、「普遍的な善悪などは存在しない」などとほざくのは、自分たちが特定して、
普遍的な善悪の分別に与れたことのない、田舎者ないし大都会の衆愚であるからなだけである一方、
中国の仙人やインドの沙門が「善悪など虚妄だ」と述べるのは、彼らが超俗的な観点から、世俗の
倫理基準に過ぎない善悪正邪の「普遍性の小ささ」を指摘しているからであって、始めから普遍的な
善悪なんか知らない愚者と、善悪の普遍性の小ささまでも知り尽くしている聖者との差は、歴然としてある。
超俗的な観点から、善悪の普遍性の小ささを諦観する場合は一旦措くとして、自分が普遍的な善悪正邪
などは全く知らない立場から社会に参画し、そこで何かをやったとして、それが普遍的な勧善懲悪
たり得たりすることもまずない。勧善懲悪は、遠的の射的ほどにも実践がピンポイントなものであって、
めくらめっぽうに矢を射放ったからといって、それが的に命中するようなこともまずないからだ。
勧善懲悪だけでなく、善でも悪でもない行いに徹するということもまた、社会的には非常に難しいことで、
無軌道な欲望の思うが侭でいたりすれば、それだけで人の営みというものには、概ね罪悪が入り混じるもので
あるため、悪を行わないためにこそ、勧善懲悪以上にも徹底的な禁欲が必要とされることにもなるのである。
結局、普遍的な善悪正邪の分別を知らないままに、旺盛な社会活動に参画したりすれば、自然と悪逆非道や
善悪みそくその行いに結び付いてしまう。あからさまに殺し回り奪って回るだけの悪逆非道も後ろめたい
ものだから、悪行のうしろめたさをちょっとした慈善で気休めする、善悪みそくその行いが大多数となるが、
善悪みそくその範疇では、善行が悪行の規模を常に下回り続けるため、所詮は善行も偽善の範囲に止まる。
普遍的な善悪正邪など始めから知らなかったために、自然と善悪みそくそや悪逆非道の行いばかりに
終始してしまった人々に対して、その過ちを糾弾する場合、初犯である以上は、過失として扱うべきである。
大社会の大局法則から、普遍的な善悪正邪の倫理基準を見抜いた、孔子や孟子のような聖人君子が未だ
現れたこともなく、その思想体系をまともに聞き知ったこともないというような社会において、これまでに
犯されてきた過ちについては、全て過失として扱うほかはない。プラトンやアリストテレスや、モーセや
イエスなどが、普遍的な善悪の分別を計り知り得たことなども一度もないないわけだから、そのような愚人
たちの言行ばかりを倫理基準にして来たような社会の人間の過ちに、何らの故意性を見出すこともできない。
正しいということも、間違っているということも、結局のところ、誰もよく分かってはいなかった社会で、
倫理基準のオピニオンリーダーとされていたような連中の発言などにも、何ら参考とすべきところはない。
そうであることを諾うのと引き換えに、そのような社会でこれまで犯されて来た過ちも、全て過失扱いとなる。
「刑肅しくして俗敝るれば、法に則るに常無し」
「刑罰ばかりが厳しくて俗習から乖離するようなことになれば、法を守ろうにも常なる所がない。
(妾腹の私生児として妄言を垂れ流したからといって処刑されたイエスの存在自体が、
まともに法に則ることも覚束ない不法状態を、この世に呼び込む原因ともなっている。
不法状態の元凶たるイエスが、不法者を『知らない』などとほざく資格もないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より
善悪みそくその行いに結び付いてしまう。あからさまに殺し回り奪って回るだけの悪逆非道も後ろめたい
ものだから、悪行のうしろめたさをちょっとした慈善で気休めする、善悪みそくその行いが大多数となるが、
善悪みそくその範疇では、善行が悪行の規模を常に下回り続けるため、所詮は善行も偽善の範囲に止まる。
普遍的な善悪正邪など始めから知らなかったために、自然と善悪みそくそや悪逆非道の行いばかりに
終始してしまった人々に対して、その過ちを糾弾する場合、初犯である以上は、過失として扱うべきである。
大社会の大局法則から、普遍的な善悪正邪の倫理基準を見抜いた、孔子や孟子のような聖人君子が未だ
現れたこともなく、その思想体系をまともに聞き知ったこともないというような社会において、これまでに
犯されてきた過ちについては、全て過失として扱うほかはない。プラトンやアリストテレスや、モーセや
イエスなどが、普遍的な善悪の分別を計り知り得たことなども一度もないないわけだから、そのような愚人
たちの言行ばかりを倫理基準にして来たような社会の人間の過ちに、何らの故意性を見出すこともできない。
正しいということも、間違っているということも、結局のところ、誰もよく分かってはいなかった社会で、
倫理基準のオピニオンリーダーとされていたような連中の発言などにも、何ら参考とすべきところはない。
そうであることを諾うのと引き換えに、そのような社会でこれまで犯されて来た過ちも、全て過失扱いとなる。
「刑肅しくして俗敝るれば、法に則るに常無し」
「刑罰ばかりが厳しくて俗習から乖離するようなことになれば、法を守ろうにも常なる所がない。
(妾腹の私生児として妄言を垂れ流したからといって処刑されたイエスの存在自体が、
まともに法に則ることも覚束ない不法状態を、この世に呼び込む原因ともなっている。
不法状態の元凶たるイエスが、不法者を『知らない』などとほざく資格もないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より
日出ずる極東国たるこの日本こそは、プレート衝突や活断層だらけの地震の巣であり、
プレート型地震を原因とした大津波による被害もまた甚大なものとなる場合が多々ある。
さらには台風や梅雨による暴風雨にも日夜晒されている、まさに自然災害のメッカであり、イエスが
「住むべきでない土地」の内に入れた土地を、まるでありのままに具現化したような地勢の国土だといえる。
しかし、その日本でこそ、日ごろから薄氷を踏むような注意を欠かさない、神経の俊敏さを具えた人物が
多数生まれ育ってもいる。物事の隅々にまで行き渡る注意力の高さが、近代以降にも、精密な電子機械文明の
発展などに大きく寄与し、国産の工業製品の信頼度の高さでは、今でも世界随一の水準を保ち続けている。
惜しむらくは、日本人のずば抜けた注意力の高さが現時点においては、内政と外政のいずれにもおける
政治行為に全く反映されていないことである。今の日本の政治的な無策さが結果的には、国際社会の妄動
からなる争乱を野放しにする結果をも招いていて、このままだと自他共なる破綻すら免れ得ないのである。
今の日本では、儒書で「君子」や「小人」と呼ばれるうちの「小人」に当たる人種が、政治に携わっている。
いくら日本といえども、誰しもが必ず君子並みの注意深さを具えてまでいるわけではなく、江戸時代に
百姓以下の身分だった者の内で、特に武士による教化の行き届いていなかったような者の末裔の中には、
外国人並みかそれ以上にも注意力に欠ける者が多少存在する。また、そのような生粋の小人による感化を被って、
それなりに教化されていたような血筋でありながらも、自らが小人然と化してしまったような現代人もいる。
注意力の豊かな君子こそが政治に携わるためには、律令制や封建制に相当するような政治体制を
確立することによる、王道統治の実現が必要になる。権力者同士がひっきりなしの共食いを続ける
覇権主義社会などでは、君子もその能力を発揮することはできず、特に清廉な君子などは隠退を決め込んで、
表社会に足を踏み入れることから拒絶するようになる。だから「君子なんかいらない」となれば元の木阿弥で、
乱世を鼻つまみ者扱いする君子の気難しさこそは、治世の礎ともなるのだということを諾う他はないのである。
プレート型地震を原因とした大津波による被害もまた甚大なものとなる場合が多々ある。
さらには台風や梅雨による暴風雨にも日夜晒されている、まさに自然災害のメッカであり、イエスが
「住むべきでない土地」の内に入れた土地を、まるでありのままに具現化したような地勢の国土だといえる。
しかし、その日本でこそ、日ごろから薄氷を踏むような注意を欠かさない、神経の俊敏さを具えた人物が
多数生まれ育ってもいる。物事の隅々にまで行き渡る注意力の高さが、近代以降にも、精密な電子機械文明の
発展などに大きく寄与し、国産の工業製品の信頼度の高さでは、今でも世界随一の水準を保ち続けている。
惜しむらくは、日本人のずば抜けた注意力の高さが現時点においては、内政と外政のいずれにもおける
政治行為に全く反映されていないことである。今の日本の政治的な無策さが結果的には、国際社会の妄動
からなる争乱を野放しにする結果をも招いていて、このままだと自他共なる破綻すら免れ得ないのである。
今の日本では、儒書で「君子」や「小人」と呼ばれるうちの「小人」に当たる人種が、政治に携わっている。
いくら日本といえども、誰しもが必ず君子並みの注意深さを具えてまでいるわけではなく、江戸時代に
百姓以下の身分だった者の内で、特に武士による教化の行き届いていなかったような者の末裔の中には、
外国人並みかそれ以上にも注意力に欠ける者が多少存在する。また、そのような生粋の小人による感化を被って、
それなりに教化されていたような血筋でありながらも、自らが小人然と化してしまったような現代人もいる。
注意力の豊かな君子こそが政治に携わるためには、律令制や封建制に相当するような政治体制を
確立することによる、王道統治の実現が必要になる。権力者同士がひっきりなしの共食いを続ける
覇権主義社会などでは、君子もその能力を発揮することはできず、特に清廉な君子などは隠退を決め込んで、
表社会に足を踏み入れることから拒絶するようになる。だから「君子なんかいらない」となれば元の木阿弥で、
乱世を鼻つまみ者扱いする君子の気難しさこそは、治世の礎ともなるのだということを諾う他はないのである。
注意力の乏しい小人しか政治に携わらない覇権主義社会においてこそ、内憂外患が現実化する一方、
君子が統治する王化社会においては、君子自身が予め内憂外患への十分な注意力を働かせるため、
内憂外患の内容が現実化することがない。王道統治の実現を訴える孟子こそは、内憂外患への注意をよく
払うべきだということを告子章句下・一五で言っているのもだからこそであり、内乱も国際紛争も始めから
防ぎとめられている治世においてこそ、常日ごろから君子階級の人間による細心の注意までもが尽くされるのである。
岩盤の上に安住しきることで来たす注意力の乏しさこそは乱世を招く一方、
常日ごろから地震や洪水への警戒をも欠かさない注意力の高さこそが治世を守るのだから、
為政に携わるべきなのは当然、後者の素養に恵まれている人間だといえる。
「荘公の位に即くに及んで、之れが為めに制を請う。公曰く、制は岩邑なり。虢叔死せり。他の邑は唯だ命のままにせん」
「鄭で荘公が即位すると、母の武姜が弟の段に制という名の邑をくれてやってくれと頼んだ。すると荘公は言った。
『制は岩で形成された要害の地ですが、むかし虢叔という男が制の要害としての堅固さをたのみにしてうつつを抜かし、
自業自得で死んだことがあります。(ですから弟に制をやるのはお勧めできません。)他の村でしたらどこでも構いませんが」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公元年より
君子が統治する王化社会においては、君子自身が予め内憂外患への十分な注意力を働かせるため、
内憂外患の内容が現実化することがない。王道統治の実現を訴える孟子こそは、内憂外患への注意をよく
払うべきだということを告子章句下・一五で言っているのもだからこそであり、内乱も国際紛争も始めから
防ぎとめられている治世においてこそ、常日ごろから君子階級の人間による細心の注意までもが尽くされるのである。
岩盤の上に安住しきることで来たす注意力の乏しさこそは乱世を招く一方、
常日ごろから地震や洪水への警戒をも欠かさない注意力の高さこそが治世を守るのだから、
為政に携わるべきなのは当然、後者の素養に恵まれている人間だといえる。
「荘公の位に即くに及んで、之れが為めに制を請う。公曰く、制は岩邑なり。虢叔死せり。他の邑は唯だ命のままにせん」
「鄭で荘公が即位すると、母の武姜が弟の段に制という名の邑をくれてやってくれと頼んだ。すると荘公は言った。
『制は岩で形成された要害の地ですが、むかし虢叔という男が制の要害としての堅固さをたのみにしてうつつを抜かし、
自業自得で死んだことがあります。(ですから弟に制をやるのはお勧めできません。)他の村でしたらどこでも構いませんが」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公元年より
「この教えを守る者は末世に不遇を被る」というような意味のことが「法華経」にも
書かれてあるが、華厳経と同じように、法華経もまた自力作善の聖道門の経典に当たる。
聖道門の仏教などには、誰も在家信者としてすら帰依する余裕もなくなるような乱世において、
未だ法華の教えすらも忠実に守ろうとするものが、世間から浮くというのがその含意であり、
蘇我氏や平氏の横暴が未だ冷め遣らぬ頃に法華経に帰依していた聖徳太子や源頼朝も、自分たちで
それなりの実績を挙げながらも、あまり恵まれているともいえないような晩年を迎えている。
日蓮宗や創価学会の信者が世間で嫌われたりするのは、法華経の教えを忠実に守っているからではなく、
法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて、他を貶める独りよがりさが忌み嫌われているからなのであって、
これは法華経というよりは、日蓮や池田大作のほうに、信者を孤立化させている原因があるのだといえる。
キリスト教徒やユダヤ教徒が異教徒から忌み嫌われるのは、新旧約聖書に書かれている教条自体が、
異教異見を貶めて迫害の対象とするものであるからで、法華経の教条が末世に通用しない聖道門の教えだから
実践者が世間から浮くのとも、法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて他を貶めるから嫌われるのとも、
根本的に意味が違う。新旧約に書かれている内容自体が、信者を嫌われ者と化す原因となっているのだから、
経典の内容自体が信者を鼻つまみ者と化しているわけではない法華信仰とは、似て非なる代物であるといえる。
もちろん、個々の信徒や神父の独りよがりさが嫌悪の対象になることもあるが、ことに、嫌悪や糾弾の対象と
することが効果的なのは、あくまで独りよがりの元凶となっている事物に限るのであって、法華信仰の場合、
それは法華経ではなく日蓮や池田大作である一方、キリスト教やユダヤ教の場合、それは新旧約聖書である。
書かれてあるが、華厳経と同じように、法華経もまた自力作善の聖道門の経典に当たる。
聖道門の仏教などには、誰も在家信者としてすら帰依する余裕もなくなるような乱世において、
未だ法華の教えすらも忠実に守ろうとするものが、世間から浮くというのがその含意であり、
蘇我氏や平氏の横暴が未だ冷め遣らぬ頃に法華経に帰依していた聖徳太子や源頼朝も、自分たちで
それなりの実績を挙げながらも、あまり恵まれているともいえないような晩年を迎えている。
日蓮宗や創価学会の信者が世間で嫌われたりするのは、法華経の教えを忠実に守っているからではなく、
法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて、他を貶める独りよがりさが忌み嫌われているからなのであって、
これは法華経というよりは、日蓮や池田大作のほうに、信者を孤立化させている原因があるのだといえる。
キリスト教徒やユダヤ教徒が異教徒から忌み嫌われるのは、新旧約聖書に書かれている教条自体が、
異教異見を貶めて迫害の対象とするものであるからで、法華経の教条が末世に通用しない聖道門の教えだから
実践者が世間から浮くのとも、法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて他を貶めるから嫌われるのとも、
根本的に意味が違う。新旧約に書かれている内容自体が、信者を嫌われ者と化す原因となっているのだから、
経典の内容自体が信者を鼻つまみ者と化しているわけではない法華信仰とは、似て非なる代物であるといえる。
もちろん、個々の信徒や神父の独りよがりさが嫌悪の対象になることもあるが、ことに、嫌悪や糾弾の対象と
することが効果的なのは、あくまで独りよがりの元凶となっている事物に限るのであって、法華信仰の場合、
それは法華経ではなく日蓮や池田大作である一方、キリスト教やユダヤ教の場合、それは新旧約聖書である。
「罪を憎んで人を憎まず」というが、信者の独りよがりを増進させる邪教についても、
「邪教を憎んで信者を憎まず」ということがいえる。いくら目先の信者の独りよがりさを憎んだ所で、
信者たちも意志薄弱と化して、ただある種の狂信に隷従している子羊というばかりの存在なのだから、
信者たち自身を嫌悪や糾弾の対象にしても、それは、暖簾に腕押し糠に釘というばかりのことになる。
むしろ、信者が肩透かしを食らわされたと思うほどにも、信者たち自身は糾弾の対象などにせず、
信仰の対象となっている新旧約や日蓮や大作だけを徹底して糾弾の対象とし、「えんがちょ」扱いともする。
川の源流に濁りの原因があるのなら、源流を浄化すらすれば、川下もまた自然と澄んでいくものだから、
川下の濁りをいちいち浄化して回るような徒労に及ぶぐらいなら、源流の浄化にこそ専念すべきだといえる。
「冉豎、陳武子を射、手に中たる。弓を失いて罵る、以て平子に告げて曰く、君子有り、白皙、鬒鬚眉、甚口なりと。
平子曰く、必ずや子彊なり、乃ち諸の亢うこと無かりしや。對えて曰く、之れを君子と謂えり、何をか敢えて之れに亢わん」
「冉豎が陳武子という将兵を射た。矢はその手に当たり、陳武子は弓を取り落として、憤激のあまり冉豎をののしった。
冉豎は退却して陣中で平子に告げた。『先ほどの戦いで、色白で立派な髭に眉、それに大きな口の君子に出会いました』
平子『それは子彊(陳武子)だろう。対抗したりしなかっただろうな』 冉豎『君子なのに、どうして対抗できましょうか』
(陳武子は手を射られて戦闘不能になりながらも、命を永らえたことに憤激して、冉豎をののしったのである。その使命感の
高さこそは君子に値するものだったのであり、冉豎も対抗することに怖れを抱いて、そのまま退却したのである。敵将に罵られ
ながらも、そこに相手の使命感の高さを汲み取って、難戦となることを避けて退却した冉豎もまた中々の人物だったといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)
「邪教を憎んで信者を憎まず」ということがいえる。いくら目先の信者の独りよがりさを憎んだ所で、
信者たちも意志薄弱と化して、ただある種の狂信に隷従している子羊というばかりの存在なのだから、
信者たち自身を嫌悪や糾弾の対象にしても、それは、暖簾に腕押し糠に釘というばかりのことになる。
むしろ、信者が肩透かしを食らわされたと思うほどにも、信者たち自身は糾弾の対象などにせず、
信仰の対象となっている新旧約や日蓮や大作だけを徹底して糾弾の対象とし、「えんがちょ」扱いともする。
川の源流に濁りの原因があるのなら、源流を浄化すらすれば、川下もまた自然と澄んでいくものだから、
川下の濁りをいちいち浄化して回るような徒労に及ぶぐらいなら、源流の浄化にこそ専念すべきだといえる。
「冉豎、陳武子を射、手に中たる。弓を失いて罵る、以て平子に告げて曰く、君子有り、白皙、鬒鬚眉、甚口なりと。
平子曰く、必ずや子彊なり、乃ち諸の亢うこと無かりしや。對えて曰く、之れを君子と謂えり、何をか敢えて之れに亢わん」
「冉豎が陳武子という将兵を射た。矢はその手に当たり、陳武子は弓を取り落として、憤激のあまり冉豎をののしった。
冉豎は退却して陣中で平子に告げた。『先ほどの戦いで、色白で立派な髭に眉、それに大きな口の君子に出会いました』
平子『それは子彊(陳武子)だろう。対抗したりしなかっただろうな』 冉豎『君子なのに、どうして対抗できましょうか』
(陳武子は手を射られて戦闘不能になりながらも、命を永らえたことに憤激して、冉豎をののしったのである。その使命感の
高さこそは君子に値するものだったのであり、冉豎も対抗することに怖れを抱いて、そのまま退却したのである。敵将に罵られ
ながらも、そこに相手の使命感の高さを汲み取って、難戦となることを避けて退却した冉豎もまた中々の人物だったといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)

邪信にかまけた悪逆非道による、自業自得での破滅の危機である。
十億人規模の犠牲者をはじき出している、聖書圏の資本主義者による重大権力犯罪、
その反動として発生している、人類滅亡級の危険性を伴った、世界規模での人口爆発。
その人口爆発を食い止めるためには、聖書信仰という邪教を破棄しての、
自分たち自身での罪の償いが必要になるし、逆に聖書信仰を破棄せずに、
相も変わらず冤罪乱発の悪逆非道を続けたなら、本当に人類も滅亡へと
追い込まれ、それにより、これまた聖書信仰までもが強制的に途絶させられる。
誰に躓かせられるでもなく、聖書信者たち自身の邪信にかまけた悪逆非道が、
どうあっても聖書信仰を潰えさせざるを得ない事態を、自業自得で招いている。
聖書信者に、聖書信仰を躓かせるのは、聖書信者たち自身である。
ゆえに、仮に「信仰を躓かせる者は不幸である」というのなら、
聖書信者たち自身こそは、最大級の不幸者でもあるといえる。
信仰の対象が何であれ、信仰という形である種の一途さを貫いてきたこと、それ自体は、
何に対してもいい加減であったりするよりも、まだ見ようのあることだといえる。
仏門もまた、出家者は自力修行に一途であり、在家や他力の信者は、信仰にかけて一途である。
また、信教ではない儒学においても、親への孝心や主君への忠心が一途であることが奨励される。
何かにかけて一途であることの指針となるのが、「教学」たるものの本分であり、
教学の「教」の部分を省いて、何のための学なのかも不審と化してしまっている洋学などと違い、
一途であるべき指針を明確に打ち出しているが故に、立派な教学である点こそが、儒学の評価さるべき点でもある。
しかるに、聖書信仰もまた、「信仰にかけて一途であれ」という指針と共にある教学ではあるはず
だったのに、その一途であり続けてきた信仰を、否応なく躓かせざるを得ないような事態とあいなった。
それは、聖書信仰という教学の「学」の部分が、悪逆非道の指針でこそあり、故に、それに対する
信仰もまた邪信としかなり得なかったために、邪信に対して一途であり続けて来たが故の自業自得として、
それ自体は決してダメなものというわけでもない「一途さ」までをも、潰えさせざるを得なくなったのである。
一途さにも、正しい指針への一途さと、邪まな指針への一途さとがあるのであり、
正しい指針に基づいていてこそ一途さも貫ける一方、邪まな指針にしか基づいていないのならば、
その一途さ自体を潰えさせざるを得ないような事態を、最終的には必ず招いてしまうのである。
ここにこそ、正邪善悪の決定的な分岐点までもがある。
正しいものへの一途さだから続けられ、邪まなものへの一途さだから続けられない。
両者の関係性は全くの非可換であるが故に、正邪を転倒させたり、善悪を無みしたりすることも叶わない。
邪義を正義と夢想する転倒は、それ自体が自業自得での断絶を強いられることにより、
もはや相対化のしようもない、完全なる過ちであったことまでもが確定するのである。
「吾れ幸いにして囚わるることを得ん」
「(負けるのは当然のこと、)無事に捕虜となれたならば、それだけでも幸福というものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十五年より)
何に対してもいい加減であったりするよりも、まだ見ようのあることだといえる。
仏門もまた、出家者は自力修行に一途であり、在家や他力の信者は、信仰にかけて一途である。
また、信教ではない儒学においても、親への孝心や主君への忠心が一途であることが奨励される。
何かにかけて一途であることの指針となるのが、「教学」たるものの本分であり、
教学の「教」の部分を省いて、何のための学なのかも不審と化してしまっている洋学などと違い、
一途であるべき指針を明確に打ち出しているが故に、立派な教学である点こそが、儒学の評価さるべき点でもある。
しかるに、聖書信仰もまた、「信仰にかけて一途であれ」という指針と共にある教学ではあるはず
だったのに、その一途であり続けてきた信仰を、否応なく躓かせざるを得ないような事態とあいなった。
それは、聖書信仰という教学の「学」の部分が、悪逆非道の指針でこそあり、故に、それに対する
信仰もまた邪信としかなり得なかったために、邪信に対して一途であり続けて来たが故の自業自得として、
それ自体は決してダメなものというわけでもない「一途さ」までをも、潰えさせざるを得なくなったのである。
一途さにも、正しい指針への一途さと、邪まな指針への一途さとがあるのであり、
正しい指針に基づいていてこそ一途さも貫ける一方、邪まな指針にしか基づいていないのならば、
その一途さ自体を潰えさせざるを得ないような事態を、最終的には必ず招いてしまうのである。
ここにこそ、正邪善悪の決定的な分岐点までもがある。
正しいものへの一途さだから続けられ、邪まなものへの一途さだから続けられない。
両者の関係性は全くの非可換であるが故に、正邪を転倒させたり、善悪を無みしたりすることも叶わない。
邪義を正義と夢想する転倒は、それ自体が自業自得での断絶を強いられることにより、
もはや相対化のしようもない、完全なる過ちであったことまでもが確定するのである。
「吾れ幸いにして囚わるることを得ん」
「(負けるのは当然のこと、)無事に捕虜となれたならば、それだけでも幸福というものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十五年より)
聖書信仰は、発祥地であるイスラエルよりも以西の人間に積極的に取り入れられた一方で、
イスラエル以東の人間に積極的に取り入れられたような痕跡は、全くと言っていいほどない。
常に、西洋の宣教師なり侵略勢力なりが、独りよがりな押し付けによって、東方の諸地域にも勝手に
聖書信仰を流布しているだけで、東方人が自分たちから積極的に聖書信仰を求めたことなどは、一度もない。
常に必ず、西洋の側からのお節介極まりない押し付けがあってから後に、東洋でも聖書信仰が流通している。
日出ずる東方への親しみを、東方への安住という実践と共に育んできた東洋人にとって、聖書信仰の
内容は、何ら魅力的に映る所すらない。その言うところはどこまでも「不正を義とする」というまでの
ことであって、正しき義を実践からの光明への親しみによって育んできた東洋人にとっては、その内容が
極端な拒絶反応を催させるものですらあり、そもそも親しみを抱くなどという以前の問題ですらある。
罪を犯しすぎて正義の光明に与れなくなっているのは、どこまでも
聖書信者たち自身だけであり、全人類一般に対して普遍的に言えたりすることではない。
自分たちこそが独走的に罪悪の暗闇に没頭し尽くしているだけで、暗闇から救われる
手段があったとしても、それにすがる必要があるのもまた聖書信者たち自身だけである。
「自分たちこそが特定して罪悪の暗闇のとりこと化している」という、厳粛な状況判断も覚束ないままに、
「誰しもが罪を犯して暗闇にある中で、自分たちだけが信仰によって義とされる」と断じていることまた
専らな妄断であり、現実把握すら覚束ない中での妄断なものだから、その判断内容もまた全くの虚偽である。
まずは、自分たちこそが特定して罪悪の虜であるという現実を把握する、その上で、そうであっても
救われる方法をさらに模索したとする。そしたらそれは、妄念への没頭を主旨とする聖書信仰などでは
あり得ないことが自ずと明らかになる。あったところで、それは聖書信仰ではない。聖書信仰こそは
自分たちを暗闇の奥底へと貶めている元凶であるのだから、人並みの光明に与るためにこそむしろ、
聖書信仰を根本から破棄することが必要であるのだと思い知らされるほかはないからだ。
イスラエル以東の人間に積極的に取り入れられたような痕跡は、全くと言っていいほどない。
常に、西洋の宣教師なり侵略勢力なりが、独りよがりな押し付けによって、東方の諸地域にも勝手に
聖書信仰を流布しているだけで、東方人が自分たちから積極的に聖書信仰を求めたことなどは、一度もない。
常に必ず、西洋の側からのお節介極まりない押し付けがあってから後に、東洋でも聖書信仰が流通している。
日出ずる東方への親しみを、東方への安住という実践と共に育んできた東洋人にとって、聖書信仰の
内容は、何ら魅力的に映る所すらない。その言うところはどこまでも「不正を義とする」というまでの
ことであって、正しき義を実践からの光明への親しみによって育んできた東洋人にとっては、その内容が
極端な拒絶反応を催させるものですらあり、そもそも親しみを抱くなどという以前の問題ですらある。
罪を犯しすぎて正義の光明に与れなくなっているのは、どこまでも
聖書信者たち自身だけであり、全人類一般に対して普遍的に言えたりすることではない。
自分たちこそが独走的に罪悪の暗闇に没頭し尽くしているだけで、暗闇から救われる
手段があったとしても、それにすがる必要があるのもまた聖書信者たち自身だけである。
「自分たちこそが特定して罪悪の暗闇のとりこと化している」という、厳粛な状況判断も覚束ないままに、
「誰しもが罪を犯して暗闇にある中で、自分たちだけが信仰によって義とされる」と断じていることまた
専らな妄断であり、現実把握すら覚束ない中での妄断なものだから、その判断内容もまた全くの虚偽である。
まずは、自分たちこそが特定して罪悪の虜であるという現実を把握する、その上で、そうであっても
救われる方法をさらに模索したとする。そしたらそれは、妄念への没頭を主旨とする聖書信仰などでは
あり得ないことが自ずと明らかになる。あったところで、それは聖書信仰ではない。聖書信仰こそは
自分たちを暗闇の奥底へと貶めている元凶であるのだから、人並みの光明に与るためにこそむしろ、
聖書信仰を根本から破棄することが必要であるのだと思い知らされるほかはないからだ。

暗闇の中に義の指標などを提示したところで、その一切合切が暗がりの範疇の代物でしかないために、
暗がりの中でだけ義とされているものもまた普遍的には不義の内に入るものである。だから、
自分たち自身が暗闇をもたらしている聖書信仰の内側で義とされているようなものにすがったところで、
所詮は不義のうちでしかないから、それによって救われるようなことも当然ないのである。
犯罪聖書の教義は、本当に致命的な勘違いの塊である。正統な自家教学が豊富な東洋の人間からすれば
「どうしてこれほどにも・・」と思わされるほどにも、複雑骨折状態の勘違い思い違いのオンパレードであり、
しかも複雑骨折がろくに整復もされないままに、グチャグチャにひん曲がったままの状態で癒合してしまい、
まともな形状に矯正するためには、今一度骨を砕き尽くさなければならないというほどにも、勘違いの
正当化や美化による固着化が進行してしまっている。だから、たかが勘違いを解きほぐしてやるだけでも、
上記ほどにも錯綜した論及が避けられなくなる。これが元聖書信者はもちろんのこと、ただの常人にすら
なかなか理解の困難な代物であることが、自分でも察知されるもの。あまり一気に直し尽くしてしまおう
などともせず、なるべく長い期間をかけた、丹念な治療に専念していくように、聖書信者たちにも促すほかはない。
「言行は君子の枢機なり。枢機の発は栄辱の主なり」
「自らの言行こそは、君子にとって最も重要なものである。それが為された瞬間に、自らの栄光や恥辱も決まるのである。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
邪神信仰の悪因苦果によって、実際に自分自身が禁治産や服役、処刑などの処分に遭う場合と、
自分自身はそこまで行く前に、現行逃亡犯であることを貫き通したままで人生を終える場合と、
いずれにおいても、善を善とし悪を悪とする、名辞が正された後の世の中における最大級の不名誉を被る。
180度転倒夢想の完全誤謬を、2000年間も性懲りもなく信じ込んできた血筋であることなどは、
これから2000年以上、インドや昔の日本の被差別階級も同然の人種として扱われたとしても全く仕方がない
十分な事由になる。実際にそれほどまでにも、不能信仰者の血筋を徹底的な差別下に置かなければ、
また今と同じような人類滅亡の危機が再来することにもなりかねないのであり、仮に今回の危機が免れ得た所で、
同じような滅亡の危機を何度も何度も呼び込んでいたなら、そのうち本当に滅亡すら来たしかねないから、
不能信仰に耽溺してしまうような性向を宿している血筋について、子々孫々の代々に至るまでの
禁治産や参政権剥奪などの、一定以上の社会的制限を科す必要までもが出てくることになるのである。
本当にそうするかどうか、するとして、どの程度の制限になるかといったことは、現時点ではまだ確定まではしていない。
実際に制限を科し始めた所で、後々に加減を加えていくことだって、当然あり得る。ただ、上記のような、
想定としても最大級に酷烈な制限すらをも元聖書信者が無条件に受け入れるというのでもなければ、自業自得で
破滅の危機に陥っている今の聖書信者たちを、救ってやれる人間ですら、救ってやろうともしないだろう。
異教徒や異人種と対等であることを自分たちから拒絶し、累犯障害によって不正に蓄えた甚大な権益の
嵩にかかって無根拠に偉ぶっている、今の白人の聖書信者などを、救ってやれる人間だって、救ってやりたくもない。
自分自身はそこまで行く前に、現行逃亡犯であることを貫き通したままで人生を終える場合と、
いずれにおいても、善を善とし悪を悪とする、名辞が正された後の世の中における最大級の不名誉を被る。
180度転倒夢想の完全誤謬を、2000年間も性懲りもなく信じ込んできた血筋であることなどは、
これから2000年以上、インドや昔の日本の被差別階級も同然の人種として扱われたとしても全く仕方がない
十分な事由になる。実際にそれほどまでにも、不能信仰者の血筋を徹底的な差別下に置かなければ、
また今と同じような人類滅亡の危機が再来することにもなりかねないのであり、仮に今回の危機が免れ得た所で、
同じような滅亡の危機を何度も何度も呼び込んでいたなら、そのうち本当に滅亡すら来たしかねないから、
不能信仰に耽溺してしまうような性向を宿している血筋について、子々孫々の代々に至るまでの
禁治産や参政権剥奪などの、一定以上の社会的制限を科す必要までもが出てくることになるのである。
本当にそうするかどうか、するとして、どの程度の制限になるかといったことは、現時点ではまだ確定まではしていない。
実際に制限を科し始めた所で、後々に加減を加えていくことだって、当然あり得る。ただ、上記のような、
想定としても最大級に酷烈な制限すらをも元聖書信者が無条件に受け入れるというのでもなければ、自業自得で
破滅の危機に陥っている今の聖書信者たちを、救ってやれる人間ですら、救ってやろうともしないだろう。
異教徒や異人種と対等であることを自分たちから拒絶し、累犯障害によって不正に蓄えた甚大な権益の
嵩にかかって無根拠に偉ぶっている、今の白人の聖書信者などを、救ってやれる人間だって、救ってやりたくもない。
おまえらは自分たちから進んで、自分たちが救われる芽を摘んでいるのだから、自分たちが救われない責任を
自分たち以外の誰かに押し付ける資格もない。おまえらが他者に対して蓄えてきた甚大な蔑視は、ありのままに
おまえら自身に全てはね返っていくのであり、それがとんでもない苦痛になることは、こちらが不当に蔑まれた
経験の持ち主であることからも、十分に察知している。その苦痛をおまえらが自主的に受け入れでもしないのなら、
たとえ救ってやろうとしたところで、後々に反発するなり訴えるなりしてくるのが見え透いているから、そのような
恩を仇で返す所業に及ぶことが紛れもない分際に対して、当然、こちらから救ってやりたいなどと思うこともない。
今まで聖書圏において蓄積されて来た、2000年にわたる不正の歴史、その全ての罪責を子々孫々の代々に渡るまで
償い続けていくことを完全に承諾するのでもなければ、決して救おうとすらしない。人類史上でも未曾有の規模の
大罪を償っていかなければならないことからも、全地球人類の内でも、最も不幸な運命こそをこれから受け入れて
いかなければならない、その運命こそを自分たちから進んで受け入れて、絶対に不平も言わないと約束しなければならない。
これもあくまで、「考え得る限りでも最も悲惨な運命」という一つの想定であり、実際の処分が全くその通りに
なるとも確定してはいない。しかし、上記ほどにも酷烈な運命すらをも受け入れるということを、想定の範囲内としては
承らねばならず、実際にそうなったとしても文句の一つも言わないということを、完全に諾わなければならない。
欧米聖書圏中でも最大級の権力犯罪大国であるアメリカやイギリスこそは、同時に最大級の訴訟大国でもあり、
自分たちのペースでは、不平があれば訴えるのが当然だとしているのが見るに明らか。だからこそ、
最悪の運命であっても文句一つ言わず受け入れるということを、正式に誓約でもして来ないのならば、
こちらも救ってやる気にすらなりもしない。これもまた一つの、身から出たサビだといえる。
自分たち以外の誰かに押し付ける資格もない。おまえらが他者に対して蓄えてきた甚大な蔑視は、ありのままに
おまえら自身に全てはね返っていくのであり、それがとんでもない苦痛になることは、こちらが不当に蔑まれた
経験の持ち主であることからも、十分に察知している。その苦痛をおまえらが自主的に受け入れでもしないのなら、
たとえ救ってやろうとしたところで、後々に反発するなり訴えるなりしてくるのが見え透いているから、そのような
恩を仇で返す所業に及ぶことが紛れもない分際に対して、当然、こちらから救ってやりたいなどと思うこともない。
今まで聖書圏において蓄積されて来た、2000年にわたる不正の歴史、その全ての罪責を子々孫々の代々に渡るまで
償い続けていくことを完全に承諾するのでもなければ、決して救おうとすらしない。人類史上でも未曾有の規模の
大罪を償っていかなければならないことからも、全地球人類の内でも、最も不幸な運命こそをこれから受け入れて
いかなければならない、その運命こそを自分たちから進んで受け入れて、絶対に不平も言わないと約束しなければならない。
これもあくまで、「考え得る限りでも最も悲惨な運命」という一つの想定であり、実際の処分が全くその通りに
なるとも確定してはいない。しかし、上記ほどにも酷烈な運命すらをも受け入れるということを、想定の範囲内としては
承らねばならず、実際にそうなったとしても文句の一つも言わないということを、完全に諾わなければならない。
欧米聖書圏中でも最大級の権力犯罪大国であるアメリカやイギリスこそは、同時に最大級の訴訟大国でもあり、
自分たちのペースでは、不平があれば訴えるのが当然だとしているのが見るに明らか。だからこそ、
最悪の運命であっても文句一つ言わず受け入れるということを、正式に誓約でもして来ないのならば、
こちらも救ってやる気にすらなりもしない。これもまた一つの、身から出たサビだといえる。
「天の不善を假に助くは、之れに祚いするにあらざるなり。
其の凶悪を厚くして、之れに罰を降さんがためなり。且つ之れを譬うるに天の如し」
「天が不善人を仮に助けることがあったとしても、それは幸いをもたらしてやるためなどではない。その凶悪さを
増進させて高転びさせてから、そこにこそ天罰を下すためである。かつ、これこそは天の業と見なすにも相応しい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十一年より)
其の凶悪を厚くして、之れに罰を降さんがためなり。且つ之れを譬うるに天の如し」
「天が不善人を仮に助けることがあったとしても、それは幸いをもたらしてやるためなどではない。その凶悪さを
増進させて高転びさせてから、そこにこそ天罰を下すためである。かつ、これこそは天の業と見なすにも相応しい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十一年より)
こちらが「絶対にこうする」などと言ったりすることはない。しかし、
そちらでは「仮にそうなったとしても、絶対に文句は言わない」と言わなければならない。
そちらでは「仮にそうなったとしても、絶対に文句は言わない」と言わなければならない。
「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ(学而第一・八」
「過ちて改めざる、これを過ちという(衛霊公第十五・三十」
儒家で許される過ちは始めの一つまで。一度許されて後に同じ過ちを犯せば、二度と許されない。
もしも七の七十倍、四百九十回の同じ過ちを繰り返したなら、
始めの一つを除く四百八十九回の過ちの責任を完全に取らせることになる。
(もちろん、そこまで行く前に死刑になっていたりもする)
こういう、儒家の側の倫理的規定も一つの「分別」であり、分別それ自体は
「法性に得入」することはないと「華厳経」菩薩問明品第十などにある。
それでは、上記にあるような俗諦ではなく、真諦たる苦集滅道の
四諦の悟りに根ざした八正道の実践のために仏者が守る戒律はどうかといえば、たとえば律宗が
規定する比丘二百五十戒の止持戒(禁止事項)があり、その段階は以下のように分かれている。
一、波羅夷……………邪淫、窃盗、殺人、妄語の四戒。最も重い罪で、犯した者は二度と僧侶になることができない。
二、僧残………………全十三戒。僧侶の資格を剥奪されるが、僧伽の決議によって資格を回復できる場合がある。
三、不定………………異性と二人でいること。二戒。犯した場合に何らかの罰を科されるが、罰則は不定。
四、尼薩耆波逸提……僧侶が持ってはならないものを持つこと。三十戒。所有したものを捨てさせられる。
五、波逸提……………僧侶に相応しくない行い。九十戒。犯すと懺悔をさせられる。(一般には罪とされないものばかり)
六、四提舎尼…………食事に関する四つの作法。一人の比丘に対する懺悔をさせられる。
七、百衆法……………行儀作法に関する百の取り決め。
八、滅浄法……………僧侶間での争いごとに関する七つの禁止事項。
以上の四+十三+二+三十+九十+四+百+七=二百五十戒が、出家者が必ず守らなければならない律となる。
このうちで「一度犯しただけで二度と許されない過ち」が四つの波羅夷罪であり、「一度犯しただけで罰を被り、
決議や懺悔によって僧籍残留ぐらいは許される過ち」が僧残、不定、尼薩耆波逸提の計四十五戒であり、
「犯しても懺悔すれば許される過ち」が波逸提、四提舎尼、百衆法、滅浄法の計二百一戒に当たる。
「過ちて改めざる、これを過ちという(衛霊公第十五・三十」
儒家で許される過ちは始めの一つまで。一度許されて後に同じ過ちを犯せば、二度と許されない。
もしも七の七十倍、四百九十回の同じ過ちを繰り返したなら、
始めの一つを除く四百八十九回の過ちの責任を完全に取らせることになる。
(もちろん、そこまで行く前に死刑になっていたりもする)
こういう、儒家の側の倫理的規定も一つの「分別」であり、分別それ自体は
「法性に得入」することはないと「華厳経」菩薩問明品第十などにある。
それでは、上記にあるような俗諦ではなく、真諦たる苦集滅道の
四諦の悟りに根ざした八正道の実践のために仏者が守る戒律はどうかといえば、たとえば律宗が
規定する比丘二百五十戒の止持戒(禁止事項)があり、その段階は以下のように分かれている。
一、波羅夷……………邪淫、窃盗、殺人、妄語の四戒。最も重い罪で、犯した者は二度と僧侶になることができない。
二、僧残………………全十三戒。僧侶の資格を剥奪されるが、僧伽の決議によって資格を回復できる場合がある。
三、不定………………異性と二人でいること。二戒。犯した場合に何らかの罰を科されるが、罰則は不定。
四、尼薩耆波逸提……僧侶が持ってはならないものを持つこと。三十戒。所有したものを捨てさせられる。
五、波逸提……………僧侶に相応しくない行い。九十戒。犯すと懺悔をさせられる。(一般には罪とされないものばかり)
六、四提舎尼…………食事に関する四つの作法。一人の比丘に対する懺悔をさせられる。
七、百衆法……………行儀作法に関する百の取り決め。
八、滅浄法……………僧侶間での争いごとに関する七つの禁止事項。
以上の四+十三+二+三十+九十+四+百+七=二百五十戒が、出家者が必ず守らなければならない律となる。
このうちで「一度犯しただけで二度と許されない過ち」が四つの波羅夷罪であり、「一度犯しただけで罰を被り、
決議や懺悔によって僧籍残留ぐらいは許される過ち」が僧残、不定、尼薩耆波逸提の計四十五戒であり、
「犯しても懺悔すれば許される過ち」が波逸提、四提舎尼、百衆法、滅浄法の計二百一戒に当たる。
儒家道徳の、一度目の過ちだけはゆるすという規定と比べれば極めて精密であり、中には懺悔すれば許されるような、
儒家以上にゆるいと言えるような戒も多くある(ただし、世俗社会では守る必要もないとされているような戒ばかりである)。
しかし、「一度犯せば二度と許さない」とする罪が波羅夷として四つあり、「犯せば必ず罰を科される」とする罪が
全部で四十九戒もある。「どんな罪を犯しても七の七十倍の回数ほどにも許す」なんてことはもちろんないわけで、
四諦八正道という真理に根ざした仏門の出家修行が、儒家以上に厳しい規定に即していることこそあれど、
より緩い規定に即しているなどということは、全くもってないわけである。
俗世の分別たる俗諦を、正法に得入するものではないとして低く見る仏門においても、俗諦をありままに実践する
儒学以上にも厳しい規定に即した出家を是とする。これは、釈迦が真諦や真俗二諦の修得に精進した結果、
実践面では世俗道徳の中庸と同じ、中正志向である「中道」が最も真理に適っていると再認したからで、
絶対真理の求道の先にあったのはやはり、過ちは一度ぐらいは許しても二度とは許さない世俗道徳と同等か、
それ以上にも厳しい言動規範の守備であり、「過ちは七の七十倍の回数繰り返しても許す」などとする、極端な放逸を
よしとするものなどではけっしてなかった。世俗の道理だけなく、絶対真理もまた、決してそんなものを是とはしない。
「敬讓以て此れを行うときは、過ち有ると雖も、其れ甚しからず。夫れ恭なれば過ち寡し」
「畏敬と辞譲の心をもって物事を行えば、過ちを犯したとしてもそんなに甚だしいものとはならない。
それに恭しさが伴っていれば、自然と過ちも少なくなっていくものだ。(甚だしい過ちを
際限なく繰り返すような人間の心には、畏敬も辞譲も恭しさも全く欠けているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より
儒家以上にゆるいと言えるような戒も多くある(ただし、世俗社会では守る必要もないとされているような戒ばかりである)。
しかし、「一度犯せば二度と許さない」とする罪が波羅夷として四つあり、「犯せば必ず罰を科される」とする罪が
全部で四十九戒もある。「どんな罪を犯しても七の七十倍の回数ほどにも許す」なんてことはもちろんないわけで、
四諦八正道という真理に根ざした仏門の出家修行が、儒家以上に厳しい規定に即していることこそあれど、
より緩い規定に即しているなどということは、全くもってないわけである。
俗世の分別たる俗諦を、正法に得入するものではないとして低く見る仏門においても、俗諦をありままに実践する
儒学以上にも厳しい規定に即した出家を是とする。これは、釈迦が真諦や真俗二諦の修得に精進した結果、
実践面では世俗道徳の中庸と同じ、中正志向である「中道」が最も真理に適っていると再認したからで、
絶対真理の求道の先にあったのはやはり、過ちは一度ぐらいは許しても二度とは許さない世俗道徳と同等か、
それ以上にも厳しい言動規範の守備であり、「過ちは七の七十倍の回数繰り返しても許す」などとする、極端な放逸を
よしとするものなどではけっしてなかった。世俗の道理だけなく、絶対真理もまた、決してそんなものを是とはしない。
「敬讓以て此れを行うときは、過ち有ると雖も、其れ甚しからず。夫れ恭なれば過ち寡し」
「畏敬と辞譲の心をもって物事を行えば、過ちを犯したとしてもそんなに甚だしいものとはならない。
それに恭しさが伴っていれば、自然と過ちも少なくなっていくものだ。(甚だしい過ちを
際限なく繰り返すような人間の心には、畏敬も辞譲も恭しさも全く欠けているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より
確かに、個人的な経験からも、儒学だけで、
真理に根差した儒学の価値までをも計り知ったということはない。
浄土信仰の悪人正機なども通じて初めて、
世俗の道徳学であることに専らな儒家教学が、奇妙キテレツな七色変化で人々を眩惑する、
洋学や聖書信仰よりも普遍的に優良なものであることを計り知れたのであり、もしも始めから
儒学一辺倒であったりしたなら、多くの人々と同じように、儒学の地味さへの辟易ばかりを抱いて、
洋学や聖書信仰の普遍的な劣悪さを見抜くこともまたできなかっただろう。
江戸時代までの日本人もまた、仏菩薩への帰依を通じて、
俗人の実践としては仏法に基づいても満足なものである、儒学道徳の実践にも努めていたのだろう。
廃仏棄釈後の日本で儒学道徳が信奉されにくいのも、
仁義道徳が仏法による後認を失っているからなのだろう。
真理に根差した儒学の価値までをも計り知ったということはない。
浄土信仰の悪人正機なども通じて初めて、
世俗の道徳学であることに専らな儒家教学が、奇妙キテレツな七色変化で人々を眩惑する、
洋学や聖書信仰よりも普遍的に優良なものであることを計り知れたのであり、もしも始めから
儒学一辺倒であったりしたなら、多くの人々と同じように、儒学の地味さへの辟易ばかりを抱いて、
洋学や聖書信仰の普遍的な劣悪さを見抜くこともまたできなかっただろう。
江戸時代までの日本人もまた、仏菩薩への帰依を通じて、
俗人の実践としては仏法に基づいても満足なものである、儒学道徳の実践にも努めていたのだろう。
廃仏棄釈後の日本で儒学道徳が信奉されにくいのも、
仁義道徳が仏法による後認を失っているからなのだろう。
聖書信仰にけしかけられた希望は、失望ですらない、絶望によって終わる。
誰かにまだ責任を押し付ける気になれるような範囲での「失望」ではなく、
もはや茫然自失の、一切の気力も尽き果てた「絶望」によって終わる。
誰かにまだ責任を押し付ける気になれるような範囲での「失望」ではなく、
もはや茫然自失の、一切の気力も尽き果てた「絶望」によって終わる。
失望によって終わるというのなら、たとえば犯罪聖書の舞台やネタ元になっている
中東諸国などに破滅の責任を負わせようとするような気力が、元聖書信者にも残るだろう。
しかし、旧約聖書は中東人の中でも落ちこぼれ中の落ちこぼれであるイスラエルの囚人が
バビロンやペルシャの文化習俗を剽窃して適当に改ざんした記録の寄せ集めという代物であり、
何ら中東文化の正式な記録として取り扱うに値するようなものではない。また、新約聖書は
中東人ですらない、マタイらローマ人によって古代ローマ公用語(コイネー)で書かれており、
もはやその原初から完全な西洋文化であったことが確かである。新旧約共に、今の中東では
イスラムの聖典コーランに信用性で劣るものとされ、新旧約の教義とはことごとく相反する
教義が記されたコーランのほうが、中東人に総出を上げての信仰や実践の対象ともされている。
西洋人が聖書信仰を糧に、世界的な覇権を獲得し始めた大航海時代以降、
大日本帝国を除くほぼ全ての非西洋諸国が西洋列強の前に屈従し、植民地支配などの屈辱を被った。
第二次世界大戦での敗戦以降は、日本も特にアメリカの隷従下に置かれ、どさくさに紛れて
戦勝国となった中国など以上にも、国際的な発言権を失った。現時点における「世界の支配者」が
欧米聖書圏であり続けているのは間違いないことで、だからこそ逆に、今の地球社会が人口爆発や
環境破壊といった破滅の危機に晒されている責任を、自分たち欧米人以外の誰かに負わせることもできない。
西洋人が、この世界における絶対的な覇権を聖書信仰によって確立しようとしたために、その見返り
として絶対的な破滅の運命をも辿ることとなった責任を、西洋人以外の誰かが負うことも全くできない。
中東諸国などに破滅の責任を負わせようとするような気力が、元聖書信者にも残るだろう。
しかし、旧約聖書は中東人の中でも落ちこぼれ中の落ちこぼれであるイスラエルの囚人が
バビロンやペルシャの文化習俗を剽窃して適当に改ざんした記録の寄せ集めという代物であり、
何ら中東文化の正式な記録として取り扱うに値するようなものではない。また、新約聖書は
中東人ですらない、マタイらローマ人によって古代ローマ公用語(コイネー)で書かれており、
もはやその原初から完全な西洋文化であったことが確かである。新旧約共に、今の中東では
イスラムの聖典コーランに信用性で劣るものとされ、新旧約の教義とはことごとく相反する
教義が記されたコーランのほうが、中東人に総出を上げての信仰や実践の対象ともされている。
西洋人が聖書信仰を糧に、世界的な覇権を獲得し始めた大航海時代以降、
大日本帝国を除くほぼ全ての非西洋諸国が西洋列強の前に屈従し、植民地支配などの屈辱を被った。
第二次世界大戦での敗戦以降は、日本も特にアメリカの隷従下に置かれ、どさくさに紛れて
戦勝国となった中国など以上にも、国際的な発言権を失った。現時点における「世界の支配者」が
欧米聖書圏であり続けているのは間違いないことで、だからこそ逆に、今の地球社会が人口爆発や
環境破壊といった破滅の危機に晒されている責任を、自分たち欧米人以外の誰かに負わせることもできない。
西洋人が、この世界における絶対的な覇権を聖書信仰によって確立しようとしたために、その見返り
として絶対的な破滅の運命をも辿ることとなった責任を、西洋人以外の誰かが負うことも全くできない。
聖書信仰も、そのハイライトであるキリスト劇は事実上、西洋人の自家製(古代ローマ製)であるし、
キリスト信仰やユダヤ信仰を2000年の長きにわたって性懲りも無く続けているのも、西洋人だけである。
だから聖書信仰による破滅の責任が、西洋人自身以外の誰のものでもあるはずはないし、西洋人が
外界侵略の魔の手を伸ばし始めたのも、全くの聖書信仰による酔狂からであり、戦前の大日本帝国の
ような自己防衛目的などがあったわけでも全くない。だから、覇権主義の行き過ぎによって破滅の運命を
辿ることとなった責任を、これまた自分たち西洋人以外の誰かに押し付けるようなことも、まったく出来はしない。
自分たち以外の誰かに責任を押し付けてやろうとするような、不埒な気力を未だ残した範囲での
失望などであってはならない。今までの全ての責任は自分たち自身にのみあり、今まさに世界が
滅亡の危機に陥っていることもまた、自分たち自身にのみ責任があるのだとわきまえねばならない。
そのとき確かに、聖書信者は「絶望」するだろう。絶望して自殺することもあるだろうし、
また絶望でもしなければ気が狂うほどにも、正気を保てないということにもなるだろう。
「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ5:16)」という犯罪聖書による洗脳が説かれて、
西洋社会が「歓喜世界」であることが終了し、絶望と悲しみで満たされた暗闇の世界となる。
畢竟、躁から鬱への振れ切りであり、鬱は鬱で決して人間の健康な精神状態などであるわけではない。
躁鬱の双極への振れ切り全般を治療していくことが肝心であり、決して鬱で終わりだなどと思ってはいけない。
キリスト信仰やユダヤ信仰を2000年の長きにわたって性懲りも無く続けているのも、西洋人だけである。
だから聖書信仰による破滅の責任が、西洋人自身以外の誰のものでもあるはずはないし、西洋人が
外界侵略の魔の手を伸ばし始めたのも、全くの聖書信仰による酔狂からであり、戦前の大日本帝国の
ような自己防衛目的などがあったわけでも全くない。だから、覇権主義の行き過ぎによって破滅の運命を
辿ることとなった責任を、これまた自分たち西洋人以外の誰かに押し付けるようなことも、まったく出来はしない。
自分たち以外の誰かに責任を押し付けてやろうとするような、不埒な気力を未だ残した範囲での
失望などであってはならない。今までの全ての責任は自分たち自身にのみあり、今まさに世界が
滅亡の危機に陥っていることもまた、自分たち自身にのみ責任があるのだとわきまえねばならない。
そのとき確かに、聖書信者は「絶望」するだろう。絶望して自殺することもあるだろうし、
また絶望でもしなければ気が狂うほどにも、正気を保てないということにもなるだろう。
「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ5:16)」という犯罪聖書による洗脳が説かれて、
西洋社会が「歓喜世界」であることが終了し、絶望と悲しみで満たされた暗闇の世界となる。
畢竟、躁から鬱への振れ切りであり、鬱は鬱で決して人間の健康な精神状態などであるわけではない。
躁鬱の双極への振れ切り全般を治療していくことが肝心であり、決して鬱で終わりだなどと思ってはいけない。
「晋の師帰る。范文子後れて入る。武子曰く、吾れ爾じを望むと為すこと無くなるかと。
對えて曰く、師、功有り。国人喜んで以て之れを逆えん。先に入れば、必ず耳目を属けん。
是れ帥に代わりて名を受くなり。故に敢えてせず。武子曰く、吾れ免るるを知れりと」
「晋の師団が母国に帰還したとき、范文子だけは遅れて帰国した。父の武子は言った。
『おまえの速やかな帰還をどれほどわしが待ち望んでいたと思うのか』 范文子は答えていった。
『今度の戦では元帥の郤克どのが大変大きな手柄を上げました。帰還すれば誰しもが喜んで迎えましょうが、
にもかかわらず私が先に帰国すれば、私にばかり先に衆目が向くこととなってしまいます。それでは私が
元帥殿に代わって名声を受けるようなことになってしまいますので、あえて先に帰国しなかったのです』
武子は言った。『ああ、それは恙なくて済んだことだ』(失望転じて安心と為した例。教訓とすらなり得る些細な
失望すら徹底して退けてきた犯罪聖書信者の歓喜志向が、肥大化した希望を絶望へとも振り切らせるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公二年より)
對えて曰く、師、功有り。国人喜んで以て之れを逆えん。先に入れば、必ず耳目を属けん。
是れ帥に代わりて名を受くなり。故に敢えてせず。武子曰く、吾れ免るるを知れりと」
「晋の師団が母国に帰還したとき、范文子だけは遅れて帰国した。父の武子は言った。
『おまえの速やかな帰還をどれほどわしが待ち望んでいたと思うのか』 范文子は答えていった。
『今度の戦では元帥の郤克どのが大変大きな手柄を上げました。帰還すれば誰しもが喜んで迎えましょうが、
にもかかわらず私が先に帰国すれば、私にばかり先に衆目が向くこととなってしまいます。それでは私が
元帥殿に代わって名声を受けるようなことになってしまいますので、あえて先に帰国しなかったのです』
武子は言った。『ああ、それは恙なくて済んだことだ』(失望転じて安心と為した例。教訓とすらなり得る些細な
失望すら徹底して退けてきた犯罪聖書信者の歓喜志向が、肥大化した希望を絶望へとも振り切らせるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公二年より)
自分たちが犯してきた罪悪に見合った純正な懲罰を、
さも不当な仕打ちを被るかのような気分で受け入れたりしていてはならない。
その心境でどんなに甚大な懲罰を受けようとも、決して心から反省したりすることはないのだから。
心からの反省すら本物であれば、実地に科す懲罰もそんなに甚だしいものである必要もない。
しかし、罪を悔いてその悔いを改める、キリスト信仰などに特有の「悔い改め」は、
「サイコパス患者の心中での反省の演技」でしかなく、心の中ですら反省を演ずる、自己欺瞞の悪癖を
患ってしまっているような人間にとってこそ、本当に心の底から反省することもまた、極めて困難なこととなる。
心の底から本当に反省するためには、精神力がいる。
不当な仕打ちを被るような心境で懲罰を受けることにも、心中で反省を演じるだけの悔い改めにも、
全く精神力はいらないが、心から本当に反省することには、旺盛な精神力が必要とされる。
のみならず、心から本当に反省するということは、それ相応の健全な精神性を抱くということである。
一人前の精神力があれば、人は始めから進んで罪を犯そうなどとはしない。
健全な精神性は、社会的には畏敬や辞譲、恭順などの心がけとして現れ、
その恭敬辞譲の豊かさが自然と、甚だしい罪を犯したり、より多くの罪を犯そうとしたりする
不埒さを立ち消えにさせてしまうのである。(>>252の「礼記」からの引用を参照)
その一人前の精神力を失って、ただひたすら罪悪まみれの濁生をまい進することほど不実な人生もなく、
その一切合切が、一定の精神力と共にある最低レベルの人生と比べてみても、より有苦無楽なものであり続ける。
罪に対する罰を受けることが苦しいとかいう以前に、罪悪まみれを進行させる人間精神の喪失こそは
多大なる苦しみの発端であり、懲罰もまた、その苦しみの発端を消し去るためにこそ科されるものである。
さも不当な仕打ちを被るかのような気分で受け入れたりしていてはならない。
その心境でどんなに甚大な懲罰を受けようとも、決して心から反省したりすることはないのだから。
心からの反省すら本物であれば、実地に科す懲罰もそんなに甚だしいものである必要もない。
しかし、罪を悔いてその悔いを改める、キリスト信仰などに特有の「悔い改め」は、
「サイコパス患者の心中での反省の演技」でしかなく、心の中ですら反省を演ずる、自己欺瞞の悪癖を
患ってしまっているような人間にとってこそ、本当に心の底から反省することもまた、極めて困難なこととなる。
心の底から本当に反省するためには、精神力がいる。
不当な仕打ちを被るような心境で懲罰を受けることにも、心中で反省を演じるだけの悔い改めにも、
全く精神力はいらないが、心から本当に反省することには、旺盛な精神力が必要とされる。
のみならず、心から本当に反省するということは、それ相応の健全な精神性を抱くということである。
一人前の精神力があれば、人は始めから進んで罪を犯そうなどとはしない。
健全な精神性は、社会的には畏敬や辞譲、恭順などの心がけとして現れ、
その恭敬辞譲の豊かさが自然と、甚だしい罪を犯したり、より多くの罪を犯そうとしたりする
不埒さを立ち消えにさせてしまうのである。(>>252の「礼記」からの引用を参照)
その一人前の精神力を失って、ただひたすら罪悪まみれの濁生をまい進することほど不実な人生もなく、
その一切合切が、一定の精神力と共にある最低レベルの人生と比べてみても、より有苦無楽なものであり続ける。
罪に対する罰を受けることが苦しいとかいう以前に、罪悪まみれを進行させる人間精神の喪失こそは
多大なる苦しみの発端であり、懲罰もまた、その苦しみの発端を消し去るためにこそ科されるものである。
人間精神の不在は、人間の不在も同然であり、精神性を欠いた者の人生は「人生」の名にすら値しない、
非人の人生、非人生だといえる。その範疇に権力犯罪者やカルト信者が止まり続けることを前提に
懲罰を科したり、禁治産や参政権剥奪に処したりするようなこともまた、始めからしないのである。
不当な仕打ちを被るような気分で懲罰を科されたり、ただ演技で反省するだけの悔い改めをしたりするのなら、
結局、罪過の増長の元凶になっている人間精神の喪失も、いつまでも治療されないままで終わるのであり、
そのような徒労も同然の処置すらもが、仮に近代法学や精神医学によって認められることがあったとしても、
儒学や仏学によって認められたりすることはない。儒仏の仕置きによって何かをどうこうしようというのなら、
狭劣見からなる非実法や煩悩法の溜め込みによる緩慢さを、根本から排していく俊敏さに全面的に甘んじなければならない。
「其の背に艮まりて其の身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ず。咎无し」
「自らの精神が(何らの感受力もない)背に止まって、身体の感受に翻弄されたりすることがない。
人のいる庭などに行っても、背が人を見ないようにして、人の動向に翻弄されることがない。全く問題ない。
(これといった感受機能もない背に精神を置くことで、他人の動向に極端に翻弄される薄弱さが立ち消える。
『背を向ける』というといかにも傲岸じみているが、自己を統御する精神力はむしろ背にあるべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・艮・卦辞より)
非人の人生、非人生だといえる。その範疇に権力犯罪者やカルト信者が止まり続けることを前提に
懲罰を科したり、禁治産や参政権剥奪に処したりするようなこともまた、始めからしないのである。
不当な仕打ちを被るような気分で懲罰を科されたり、ただ演技で反省するだけの悔い改めをしたりするのなら、
結局、罪過の増長の元凶になっている人間精神の喪失も、いつまでも治療されないままで終わるのであり、
そのような徒労も同然の処置すらもが、仮に近代法学や精神医学によって認められることがあったとしても、
儒学や仏学によって認められたりすることはない。儒仏の仕置きによって何かをどうこうしようというのなら、
狭劣見からなる非実法や煩悩法の溜め込みによる緩慢さを、根本から排していく俊敏さに全面的に甘んじなければならない。
「其の背に艮まりて其の身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ず。咎无し」
「自らの精神が(何らの感受力もない)背に止まって、身体の感受に翻弄されたりすることがない。
人のいる庭などに行っても、背が人を見ないようにして、人の動向に翻弄されることがない。全く問題ない。
(これといった感受機能もない背に精神を置くことで、他人の動向に極端に翻弄される薄弱さが立ち消える。
『背を向ける』というといかにも傲岸じみているが、自己を統御する精神力はむしろ背にあるべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・艮・卦辞より)

まんまと社会的な懲罰を逃げおおせたところで、累犯障害者の心中こそは、
悪因苦果からなる極重の苦痛にまみれ続けている。それは、善業こそを積み重ねた聖者が
燃え盛る業火の中に身を置く以上もの苦しみであり、終始焼身自殺以上もの心中の苦しみに
あえぎ続けているからこそ、仏教弾圧に抗議してサイゴンで焼身自殺した僧侶について、カトリック教徒で
南ベトナム大統領顧問夫人だったマダム・ヌーも、「あんなのはただの人間バーベキューよ」と言ってのけたのだ。
自分たちでは隠しおおせたつもりでいても、聖書信者の心中こそは紛れもなく、極重の辛苦にまみれきっている。
それこそはいかなる物質的貧窮や身体的苦痛以上もの、人としての最大級の辛苦であり、どんな外的優遇に
置かれた所で、聖書信者がこの世で最も不幸な人種であり続けていることには変わりない。だから欧米の
聖書信者も、自分たちだけで八割以上もの地球資源を独占して、自分たちが植民化によって最悪の荒廃に
陥れたアフリカやインドをそのままにしておいていたところで、罪悪感の一つも抱かないでいられている。
そこまでしても、自分たち聖書信者こそは、この地球上で最も不幸な生き物であり続けていることには変わりないのだから。
邪信によって植え付けられた心中における最大級の苦痛を紛らわすために、物質的・肉体的な栄華ばかりを追い求め、
世界中の人々を資源不足からなる貧窮にまで追いやってはみたものの、やはり自分たち聖書信者こそは相も変わらず、
この世で最も不幸な人種であり続けている。それどころか、国際権力犯罪の積み重ねによってさらなる罪悪の辛苦にまみれ、
あたかもヘルニアで終始ウーウー唸り続けている老犬か何かのように、精神の殺伐化を極度に募らせてもいる。
心中の苦しみを紛らわすために、物質的な栄華を追い求めたのがすでに間違いであり、むしろ服罪や出家修行のような、
修身に相当する行いを通じてこそ、罪悪の辛苦の根絶にも努めるべきであった。「西洋文明こそは物質主義の権化」という
風にも見なされがちだが、その背景には「邪神信仰による心中の激痛」という、度しがたい見返りが常に存在し続けて来たのであり、
そんなものがあって初めて肥大化させられて来た西洋文明というものが全般的に、不健全極まりないものであるには違いないのである。
2000年前に邪信を抱き始めて、今に至るまでずっと、聖書信者こそは、この地球上で最も恵まれない人種であり続けている。
終末期にあたる近現代には、膨大な利権を自分たちだけで寡占して、外界の人間を貧窮や戦乱によって苦しめる元凶ともなった、
にもかかわらずではなくだからこそ、聖書信者はさらなる精神的苦痛をも募らせたのであり、この世で最も不幸な存在で
あり続けていることでは一貫している。これから罰を受けるなり、精進修行に励むなりするとしても、それこそは最悪の
苦しみから脱していく初めての機縁にこそなるのであり、さらなる苦しみの積み重ねなどには、決して当たらないのである。
「天を尊び地を親しむ。故に民に報いを美するを教う」
「天を尊び地に親しむことで、民に因果応報の善美なることを教化する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
修身に相当する行いを通じてこそ、罪悪の辛苦の根絶にも努めるべきであった。「西洋文明こそは物質主義の権化」という
風にも見なされがちだが、その背景には「邪神信仰による心中の激痛」という、度しがたい見返りが常に存在し続けて来たのであり、
そんなものがあって初めて肥大化させられて来た西洋文明というものが全般的に、不健全極まりないものであるには違いないのである。
2000年前に邪信を抱き始めて、今に至るまでずっと、聖書信者こそは、この地球上で最も恵まれない人種であり続けている。
終末期にあたる近現代には、膨大な利権を自分たちだけで寡占して、外界の人間を貧窮や戦乱によって苦しめる元凶ともなった、
にもかかわらずではなくだからこそ、聖書信者はさらなる精神的苦痛をも募らせたのであり、この世で最も不幸な存在で
あり続けていることでは一貫している。これから罰を受けるなり、精進修行に励むなりするとしても、それこそは最悪の
苦しみから脱していく初めての機縁にこそなるのであり、さらなる苦しみの積み重ねなどには、決して当たらないのである。
「天を尊び地を親しむ。故に民に報いを美するを教う」
「天を尊び地に親しむことで、民に因果応報の善美なることを教化する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
いま急に神の加護を失うのではなく、始めから神の加護など無かったことに気づくのである。
聖書信仰は、その最原初の頃から今に至るまで、聖書信者たち自身を破滅に追いやる元凶でのみ有り続けて来た。
カトリック教団の発足期には、信者がイエスを真似ての自殺行為を大量に多発させたことから、
信者数の減少を危ぶんだ元マニ教徒のアウグスチヌスが、上座部仏教から自殺の禁止(無賊害心)の教義を
剽窃して信者にあてがうことで、教団経営が傾くのを防ぐなどしていた。まず始めにそういった、
破滅を食い止める消火栓的な教義を聖書信仰外からパクることで、初期のキリスト教団も一定の安定度を保った。
聖書信仰による破滅を、異教の教義の剽窃による補強で何とか食い止めるといった状態で、聖書圏は
「暗黒時代」という形での、数百年にわたる停滞状態での存続を保った。その後に、聖書信者の極端な蒙昧の
ぶり返しとしての文化振興(ルネサンス)、啓蒙主義が発達し、聖書信者並みの蒙昧を取り繕うものとしての
精密科学や特殊な政治学、極端に華美な演劇や音楽などが生じた。それが今の人類社会をも支配状態に
置いているわけだが、たとえば、江戸時代の日本などには、上記のような西洋文明はほぼ完全に存在しなかった。
純粋に東洋の叡知と技術力とだけを以って、貧しくとも潤沢な文化生活を営んでいた。それと比べれば、
今の西洋文明に支配された世の中は、特に資本主義国における物質的な豊満などが甚だしいものの、
その根本の部分の文化性は甚だしく低劣なものばかりで、「聖書信者並みの蒙昧」が常にその根底に控えている。
自分たちの根本の部分に、聖書信仰という破滅の種子を抱えているからこそ、聖書信者はその取り繕いとしての
人工文明を自力で発達させた。それは決して神の加護などではなく、邪神の危害から何とか逃れようとせんがための、
自力での避難の過程における副産物でこそあった。それは確かに、東洋人などが自力で産み出すこともなかった
ようなものばかりであり、一時は東洋人もまた、西洋人の優れた側面として羨望の対象にすらしていたものである。
聖書信仰は、その最原初の頃から今に至るまで、聖書信者たち自身を破滅に追いやる元凶でのみ有り続けて来た。
カトリック教団の発足期には、信者がイエスを真似ての自殺行為を大量に多発させたことから、
信者数の減少を危ぶんだ元マニ教徒のアウグスチヌスが、上座部仏教から自殺の禁止(無賊害心)の教義を
剽窃して信者にあてがうことで、教団経営が傾くのを防ぐなどしていた。まず始めにそういった、
破滅を食い止める消火栓的な教義を聖書信仰外からパクることで、初期のキリスト教団も一定の安定度を保った。
聖書信仰による破滅を、異教の教義の剽窃による補強で何とか食い止めるといった状態で、聖書圏は
「暗黒時代」という形での、数百年にわたる停滞状態での存続を保った。その後に、聖書信者の極端な蒙昧の
ぶり返しとしての文化振興(ルネサンス)、啓蒙主義が発達し、聖書信者並みの蒙昧を取り繕うものとしての
精密科学や特殊な政治学、極端に華美な演劇や音楽などが生じた。それが今の人類社会をも支配状態に
置いているわけだが、たとえば、江戸時代の日本などには、上記のような西洋文明はほぼ完全に存在しなかった。
純粋に東洋の叡知と技術力とだけを以って、貧しくとも潤沢な文化生活を営んでいた。それと比べれば、
今の西洋文明に支配された世の中は、特に資本主義国における物質的な豊満などが甚だしいものの、
その根本の部分の文化性は甚だしく低劣なものばかりで、「聖書信者並みの蒙昧」が常にその根底に控えている。
自分たちの根本の部分に、聖書信仰という破滅の種子を抱えているからこそ、聖書信者はその取り繕いとしての
人工文明を自力で発達させた。それは決して神の加護などではなく、邪神の危害から何とか逃れようとせんがための、
自力での避難の過程における副産物でこそあった。それは確かに、東洋人などが自力で産み出すこともなかった
ようなものばかりであり、一時は東洋人もまた、西洋人の優れた側面として羨望の対象にすらしていたものである。
しかし、聖書信仰というマッチに対するポンプとしての西洋文明は、それだけではやはり、
聖書信仰の蒙昧によって燎原に広がった大火を消し止めるには不十分なものであった。
何よりも西洋文明には、聖書信者並みの精神のへたりを根本から治癒していく心がけが全く欠けており、
マッチポンプの「ポンプ」としての域を出ることにまでは全く頭が回っていなかった。西洋の学者や
文化人たち自身からして、聖書信者や牧師の子供だったりするものだから、たとえアンチキリストなどに
なろうとも、聖書信仰まずありきでものを考えるという病理から抜け出すことはついぞ出来なかったから。
ニーチェも「神など始めからいない」とは言わず、「神は死んだ」とだけ言った。神なり、神の加護なりが
少しでも存在していたかのような気でいるのは、元祖ニヒリストの無神論者ですら同じであり、「徹頭徹尾、
自分たちが神の加護などに与れたことなどは一度もない」というほどの達観を得ている西洋人は、今の所一人もいない。
未だ信者であるか否かなどを問わず、聖書信仰の呪縛に心を囚われているのは、西洋人のほぼ全てであり続けている。
聖書信仰こそは、西洋人がどんなに努力を尽くしたところで、並みの人類以上たり得ないままでいさせる因子であった。
高度な文明構築によっていくら穴を埋めようとしても、必ず聖書信仰によって掘り下げられる墓穴は、
それ以上にも大きくて深い。無宗教的な文化生活を営むに際しても、必ず何もしないでいる人間以上もの罪悪を
聖書信仰の実践のほうが呼び込んでくる。故に、全ての西洋人もまた、アジアのいち匹夫ほどの品性たり得もしない。
神の加護ではなく、邪神からの危害を2000年ぶりに取り払うためにこそ、聖書信仰の破棄が試みられるのであり、
それによって元聖書信者が危険に晒されるのではなく、むしろ危険を免れるのであると知るべきである。
聖書信仰の蒙昧によって燎原に広がった大火を消し止めるには不十分なものであった。
何よりも西洋文明には、聖書信者並みの精神のへたりを根本から治癒していく心がけが全く欠けており、
マッチポンプの「ポンプ」としての域を出ることにまでは全く頭が回っていなかった。西洋の学者や
文化人たち自身からして、聖書信者や牧師の子供だったりするものだから、たとえアンチキリストなどに
なろうとも、聖書信仰まずありきでものを考えるという病理から抜け出すことはついぞ出来なかったから。
ニーチェも「神など始めからいない」とは言わず、「神は死んだ」とだけ言った。神なり、神の加護なりが
少しでも存在していたかのような気でいるのは、元祖ニヒリストの無神論者ですら同じであり、「徹頭徹尾、
自分たちが神の加護などに与れたことなどは一度もない」というほどの達観を得ている西洋人は、今の所一人もいない。
未だ信者であるか否かなどを問わず、聖書信仰の呪縛に心を囚われているのは、西洋人のほぼ全てであり続けている。
聖書信仰こそは、西洋人がどんなに努力を尽くしたところで、並みの人類以上たり得ないままでいさせる因子であった。
高度な文明構築によっていくら穴を埋めようとしても、必ず聖書信仰によって掘り下げられる墓穴は、
それ以上にも大きくて深い。無宗教的な文化生活を営むに際しても、必ず何もしないでいる人間以上もの罪悪を
聖書信仰の実践のほうが呼び込んでくる。故に、全ての西洋人もまた、アジアのいち匹夫ほどの品性たり得もしない。
神の加護ではなく、邪神からの危害を2000年ぶりに取り払うためにこそ、聖書信仰の破棄が試みられるのであり、
それによって元聖書信者が危険に晒されるのではなく、むしろ危険を免れるのであると知るべきである。
「晋の平公の亥唐に於けるや、入れと云えば則ち入り、坐れと云えば則ち坐り、食えと云えば則ち食う。
疏食菜羹と雖も、未だ嘗て飽かず。蓋し敢て飽かざるなり。然れども此れに終わるのみ。
与に天位を共にせざるなり。与に天職を治めざるなり。与に天禄を食まざるなり」
「晋の平公の賢者亥唐に対する態度といえば、ボロ屋に出迎えられても、入れと言われれば入り、
座れと言われれば座り、食えと言われれば食うといった有り様。玄米飯や野菜汁のような粗食でも
飽きることなく食した。賢者の勧めだから飽きるわけにもいかなかったからだが、ただこればかりで終わった。
亥唐と天位を共にすることもなければ、天職を共に修めることもなく、天禄を共に食むことも結局なかった。
(『共にいる』ぐらいのことはできても、『共に天命に与る』までのことは、なかなか覚束ないものだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・三より)
疏食菜羹と雖も、未だ嘗て飽かず。蓋し敢て飽かざるなり。然れども此れに終わるのみ。
与に天位を共にせざるなり。与に天職を治めざるなり。与に天禄を食まざるなり」
「晋の平公の賢者亥唐に対する態度といえば、ボロ屋に出迎えられても、入れと言われれば入り、
座れと言われれば座り、食えと言われれば食うといった有り様。玄米飯や野菜汁のような粗食でも
飽きることなく食した。賢者の勧めだから飽きるわけにもいかなかったからだが、ただこればかりで終わった。
亥唐と天位を共にすることもなければ、天職を共に修めることもなく、天禄を共に食むことも結局なかった。
(『共にいる』ぐらいのことはできても、『共に天命に与る』までのことは、なかなか覚束ないものだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・三より)
人間社会における、善悪の普遍的な定義は
善……世の中に害以上の益をもたらす。
悪……世の中に益以上の害をもたらす。
である。しかも、善悪とは世俗における倫理上の定義であり、
超俗においてまで絶対的に通用するものではない。だから、人間社会において
善悪が上記のように定義されることこそは、最も普遍的な善悪の定義であるといえる。
善の実践が徳行となり、悪の実践が犯罪となる。
つまり、徳行の普遍的な定義は「世の中に害以上の益をもたらす」であり、
犯罪の普遍的な定義は「世の中に益以上の害をもたらす」であるといえ、
善行や悪行といった行為には、全く以って自明な定義を付与することができるのである。
上記のような普遍的な意味での、善行を為す者に対して然るべき措置は崇敬であり、
悪行を為す者に対して然るべき措置は懲罰である。世の中に害以上の益をもたらすことは
推進されて然るべきことだから崇敬の対象とし、益以上の害をもたらすことは
抑止されて然るべきことだから懲罰の対象とする。社会的な観点から見た場合の、
ごく当たり前の措置であり、なおかつ善悪とは世俗社会においてこそ普遍的な
倫理基準であるから、善行や悪行に対して上記のような措置を施すこともまた、
善とか悪とかいった言葉の名辞に即して、自明に絶対的なことであるといえる。
善悪を、個々人の内面などに限って論ずることからして、すでに間違いである。
善悪は人と人とが関係を持つ人間社会においてこそ発生するものであり、無人島に
ただ一人で完全な自給自足生活を送っていたりするのなら、始めから善悪なんかない。
そうではなく、お互いが仕事を分業し合うことで成り立っている大社会において、
自分が、人から奪う以上にも人に恵むことを優先したり、人に恵む以上にも
人から奪うことを優先したりするところに普遍的な善行や悪行が生ずるのであり、
善とか悪とかいった倫理基準が初めて持ち出されるのも、そこからでしかないのだ。
善……世の中に害以上の益をもたらす。
悪……世の中に益以上の害をもたらす。
である。しかも、善悪とは世俗における倫理上の定義であり、
超俗においてまで絶対的に通用するものではない。だから、人間社会において
善悪が上記のように定義されることこそは、最も普遍的な善悪の定義であるといえる。
善の実践が徳行となり、悪の実践が犯罪となる。
つまり、徳行の普遍的な定義は「世の中に害以上の益をもたらす」であり、
犯罪の普遍的な定義は「世の中に益以上の害をもたらす」であるといえ、
善行や悪行といった行為には、全く以って自明な定義を付与することができるのである。
上記のような普遍的な意味での、善行を為す者に対して然るべき措置は崇敬であり、
悪行を為す者に対して然るべき措置は懲罰である。世の中に害以上の益をもたらすことは
推進されて然るべきことだから崇敬の対象とし、益以上の害をもたらすことは
抑止されて然るべきことだから懲罰の対象とする。社会的な観点から見た場合の、
ごく当たり前の措置であり、なおかつ善悪とは世俗社会においてこそ普遍的な
倫理基準であるから、善行や悪行に対して上記のような措置を施すこともまた、
善とか悪とかいった言葉の名辞に即して、自明に絶対的なことであるといえる。
善悪を、個々人の内面などに限って論ずることからして、すでに間違いである。
善悪は人と人とが関係を持つ人間社会においてこそ発生するものであり、無人島に
ただ一人で完全な自給自足生活を送っていたりするのなら、始めから善悪なんかない。
そうではなく、お互いが仕事を分業し合うことで成り立っている大社会において、
自分が、人から奪う以上にも人に恵むことを優先したり、人に恵む以上にも
人から奪うことを優先したりするところに普遍的な善行や悪行が生ずるのであり、
善とか悪とかいった倫理基準が初めて持ち出されるのも、そこからでしかないのだ。
人と人とが密接な経済関係を持つ人間社会においてこそ、初めて善悪という基準もまた
持ち出されるものだから、人間同士が言葉によって意思疎通を成立させていくことを通じて、
善とか悪とかいった倫理基準もまた、世間一般に広く通用するような語義の普遍性を帯びて来ている。
仮に、誰も彼もが自分個人だけで勝手に善悪の定義を新造していたりするのでは、
人間関係においてこそ初めて問題となる善悪を、他人と論じ合うことすらできなくなるのであり、
本当に善悪が個々人の身勝手な定義によってでしか用いられたことがないのなら、
始めから善や悪などという言葉からして、生ずることもなかったはずである。
確かに、個々人が身勝手な定義に即して善悪という基準を用いて、人を欺いたりするような
こともあるが、そもそも人々が善とか悪とかいった言葉を用い始めるようになるきっかけともなった、
人間社会においてこそ普遍的であるが故に、最大級に普遍的な善悪というものが、あるのである。
それが、上記のような定義に基づく善悪であり、結局のところ「本物の善悪」であるといえる。
本物の善悪こそは、罪福異熟によって善因楽果や悪因苦果にも結び付き、
心中の苦楽を普遍的に司ると共に、社会上における普遍的な繁栄や破滅をも呼び込む。
善行に努める者は心中もまた安楽であり、社会的にも繁栄へと導かれる一方、
悪行にひた走る者は心中からして苦悩の塊であり、社会的にも破滅が免れ得ない。
だから、善行に努める者は称賛や畏怖や崇敬の対象とされるべきであるといえる一方、
悪行にひた走る者は非難や軽蔑や懲罰の対象とすべきであるといえる。社会的な倫理基準に
過ぎない善悪を、超俗的な絶対真理にまで還元してみても、やはり同等の結論が導かれるのである。
持ち出されるものだから、人間同士が言葉によって意思疎通を成立させていくことを通じて、
善とか悪とかいった倫理基準もまた、世間一般に広く通用するような語義の普遍性を帯びて来ている。
仮に、誰も彼もが自分個人だけで勝手に善悪の定義を新造していたりするのでは、
人間関係においてこそ初めて問題となる善悪を、他人と論じ合うことすらできなくなるのであり、
本当に善悪が個々人の身勝手な定義によってでしか用いられたことがないのなら、
始めから善や悪などという言葉からして、生ずることもなかったはずである。
確かに、個々人が身勝手な定義に即して善悪という基準を用いて、人を欺いたりするような
こともあるが、そもそも人々が善とか悪とかいった言葉を用い始めるようになるきっかけともなった、
人間社会においてこそ普遍的であるが故に、最大級に普遍的な善悪というものが、あるのである。
それが、上記のような定義に基づく善悪であり、結局のところ「本物の善悪」であるといえる。
本物の善悪こそは、罪福異熟によって善因楽果や悪因苦果にも結び付き、
心中の苦楽を普遍的に司ると共に、社会上における普遍的な繁栄や破滅をも呼び込む。
善行に努める者は心中もまた安楽であり、社会的にも繁栄へと導かれる一方、
悪行にひた走る者は心中からして苦悩の塊であり、社会的にも破滅が免れ得ない。
だから、善行に努める者は称賛や畏怖や崇敬の対象とされるべきであるといえる一方、
悪行にひた走る者は非難や軽蔑や懲罰の対象とすべきであるといえる。社会的な倫理基準に
過ぎない善悪を、超俗的な絶対真理にまで還元してみても、やはり同等の結論が導かれるのである。
「欲無くして仁を好む者、畏れ無くして不仁を悪む者は、天下に一人のみ。
是の故に君子は道を議ること己れ自りし、法を置くに民を以ってす」
「無欲なままに仁を好んだり、畏れることなく不仁を憎んだりできる者は、天下でも極めて少ない。
そのため君子はまず自分から道を修めるようにし、法を定めるにしても凡民が守れるようにする。
(旧約の律法なんぞは『徒法』ないし『非実法』の集約であり、それを守ることが善になるとも、
破ることが悪になるとも限らない。守ろうとすることが善を欲することになるともいえないし、
守れないが故に悪に堕しているとも限らない。本物の善悪に基づけば、真実は上記の如くであり、
善を好む者も悪を憎む者も極めて稀だから、君子も民が十分に法を守れるように融通を利かせるのである。
悪法で世の中をがんじがらめにして民を困惑させるようなことからして、君子にあるまじき所業なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

七宝などの具体的な財物による荘厳はないこともないにしろ、全体における割合は少ない。
一方で、日没する西方への特定的な浄土往生を説く浄土三部経などにおいては、金銀、
瑠璃、珊瑚、琥珀、 硨 磲、碼碯といった具体的な財宝による浄土の荘厳が主となっている。
七宝や、ダイヤやルビーやエメラルドなどの財宝が、いくら美麗な輝きを放つのであろうとも、
それは外部からの光を反射しているからこその輝きであり、財宝そのものから放たれる輝きなどではない。
物質的な財宝の輝きに魅了されている人間は、光源そのものではなく、光の反射物に魅了されている。
この地球上で最も普遍的な光源である太陽に背を向けて、日没する西方を好き好んでいるような人間というのは、
まさにこの反射物の輝きを好む類いの人間であり、光源そのものなどには始めから目が行き届いていないのである。
とはいえ、仏教の浄土信仰などは上記のように、西方浄土の信仰者が物質的な欲望に囚われていることを
十分に了解し、浄土経にあるような金銀財宝によるどぎつい浄土の描写をそのまま仏壇上に復元したりもする。
浄土真宗中興の祖である蓮如も、自分の寺の本尊の阿弥陀如来を枕代わりにして昼寝をしていた一休を
「俺の商売道具に何をする!」と怒鳴りつけて、お互いに笑い合ったというし、西方浄土の信者は完全に、
自分たちが物質的、金銭的な欲望に囚われた煩悩愚縛の凡夫であることを十分にわきまえているのだといえる。
しかるに、犯罪聖書の信者などは、自分たちが光源からの光を反射する財宝への物質的な欲望にこそ囚われて
いることを、わきまえられてすらもいない。外部からの光を反射することで輝いている財宝こそは、光源そのもの
だとすら思い込み、実際にそこにこそ、日光の如き根本性を付与したりする。これは本当に、犯罪聖書の著者など
からして、全く光源たる実物の太陽などへの配慮が行き届いていなかったからであり、太陽こそは光源であり、
財宝などはその光を受けて輝いているだけの存在であるというわきまえが、始めから完全に欠けていたからである。
明らかに、浄土信仰以上にも、犯罪聖書信仰のほうがより不健全たる所以が、ここにある。
浄土信者は、自分たちが物質的な欲望にこそ囚われていることをよくわきまえているが、
犯罪信者のほうは、物質的な欲望に囚われていることこそを、普遍的な光明への希求であるなどと倒錯している。
自分たちの本性のゲスさからすら目を背けて、ゲスさを高尚さであるなどと勘違いして、偉ぶっているのである。
故に、浄土信者以上にも聖書信者こそは、正法の真の高尚さによる度脱もまた、より困難なのである。
勘違いからなる偽りの高尚さで偉ぶっているものだから、卑しさをよくわきまえている者以上にも、救いがたい。
浄土経のえげつない財宝描写よりも、犯罪聖書の偽りの高尚的描写のほうが、凡夫にはかえって有害なのである。
「(易は)天地の化を範囲して過ぎしめず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道を通じて知る」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を規範的な囲いに収めてその度を過ぎさせず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽の転変を通じてそれを知らせる。
(洋の東西に関わらず昼夜はある。孟子も言うとおり、昼の陽気だけでなく夜の陰気もまた重要な要素なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
いることを、わきまえられてすらもいない。外部からの光を反射することで輝いている財宝こそは、光源そのもの
だとすら思い込み、実際にそこにこそ、日光の如き根本性を付与したりする。これは本当に、犯罪聖書の著者など
からして、全く光源たる実物の太陽などへの配慮が行き届いていなかったからであり、太陽こそは光源であり、
財宝などはその光を受けて輝いているだけの存在であるというわきまえが、始めから完全に欠けていたからである。
明らかに、浄土信仰以上にも、犯罪聖書信仰のほうがより不健全たる所以が、ここにある。
浄土信者は、自分たちが物質的な欲望にこそ囚われていることをよくわきまえているが、
犯罪信者のほうは、物質的な欲望に囚われていることこそを、普遍的な光明への希求であるなどと倒錯している。
自分たちの本性のゲスさからすら目を背けて、ゲスさを高尚さであるなどと勘違いして、偉ぶっているのである。
故に、浄土信者以上にも聖書信者こそは、正法の真の高尚さによる度脱もまた、より困難なのである。
勘違いからなる偽りの高尚さで偉ぶっているものだから、卑しさをよくわきまえている者以上にも、救いがたい。
浄土経のえげつない財宝描写よりも、犯罪聖書の偽りの高尚的描写のほうが、凡夫にはかえって有害なのである。
「(易は)天地の化を範囲して過ぎしめず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道を通じて知る」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を規範的な囲いに収めてその度を過ぎさせず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽の転変を通じてそれを知らせる。
(洋の東西に関わらず昼夜はある。孟子も言うとおり、昼の陽気だけでなく夜の陰気もまた重要な要素なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
削除
外部からの光を反射してこそ輝く財宝などを見て、「これこそは勝利の光だ」などと思い込む。
しからば、光源の絶えた暗闇の中では、その勝利の光もまた完全に消え去るのである。
諸外国から巨万の富を収奪し独占することで経済的な優勢を得ている欧米聖書圏が、
特に中東諸国などの産油国、中国などの下請け製造大国を敵に回した争いを激化する、
核攻撃で相手を殲滅するとまでいかずとも、経済封鎖などで交易を断ったならば、
それだけでも自分たち欧米聖書圏のほうが、物質的な貧窮に晒されることになる。
独立もできてない子供が親に対して、あるいは寄生虫が宿主の生物に対してどんなに優勢を
決め込んだところで、やはりそれは偽りの勝利であり、勝敗を論ずるに値する対等性を元から欠いている。
じゃあ、欧米聖書圏と諸外国の関係を「主人と奴隷」の関係に喩えてみればどうかといって、
それは実際に許されることではない。欧米人が「おまえたち中東人や中国人は、主人である俺たちに
資源や製造物を貢ぎ上げるための奴隷だ」と明言したとする。主人と奴隷であるということは、
もはや国際社会全体を一つの国や帝国と見なすも同然であり、しかもその国では奴隷制が認められて
いるということになる。奴隷制はもはや認めないというのが、今の地球人類社会における決定的な
風潮であるから、未だ世の中において奴隷制を施行しようとする欧米に対する革命の名分までもが立つ。
だから欧米社会も一応は、中東諸国や中国とも対等な国際関係という体裁を保たねばならないのであり、
比喩として、欧米人が自分たちと他国とを主人と奴隷の関係に見立てることからして、影でしか許されないのである。
反則に根ざした偽りの勝利は、内実だけでなく外面的な体裁においても、どうにもすっきりとしない
中途半端さを抱えたままであり続ける。周武王の殷に対するような、あるいは漢の高祖の項羽に対するような
痛快無比な勝利とはいかない、色々なわだかまりを持ち越したままに置かれる、偽りの勝利の不恰好な愉悦が、
勝利を気取る欧米聖書圏の民衆にもゆがんだ性格を植え付けて、最終的には大きなストレスともなる。
むしろ、真剣勝負による完全な敗北を受け入れることのほうが、精神衛生上は良好であったりもする。
しからば、光源の絶えた暗闇の中では、その勝利の光もまた完全に消え去るのである。
諸外国から巨万の富を収奪し独占することで経済的な優勢を得ている欧米聖書圏が、
特に中東諸国などの産油国、中国などの下請け製造大国を敵に回した争いを激化する、
核攻撃で相手を殲滅するとまでいかずとも、経済封鎖などで交易を断ったならば、
それだけでも自分たち欧米聖書圏のほうが、物質的な貧窮に晒されることになる。
独立もできてない子供が親に対して、あるいは寄生虫が宿主の生物に対してどんなに優勢を
決め込んだところで、やはりそれは偽りの勝利であり、勝敗を論ずるに値する対等性を元から欠いている。
じゃあ、欧米聖書圏と諸外国の関係を「主人と奴隷」の関係に喩えてみればどうかといって、
それは実際に許されることではない。欧米人が「おまえたち中東人や中国人は、主人である俺たちに
資源や製造物を貢ぎ上げるための奴隷だ」と明言したとする。主人と奴隷であるということは、
もはや国際社会全体を一つの国や帝国と見なすも同然であり、しかもその国では奴隷制が認められて
いるということになる。奴隷制はもはや認めないというのが、今の地球人類社会における決定的な
風潮であるから、未だ世の中において奴隷制を施行しようとする欧米に対する革命の名分までもが立つ。
だから欧米社会も一応は、中東諸国や中国とも対等な国際関係という体裁を保たねばならないのであり、
比喩として、欧米人が自分たちと他国とを主人と奴隷の関係に見立てることからして、影でしか許されないのである。
反則に根ざした偽りの勝利は、内実だけでなく外面的な体裁においても、どうにもすっきりとしない
中途半端さを抱えたままであり続ける。周武王の殷に対するような、あるいは漢の高祖の項羽に対するような
痛快無比な勝利とはいかない、色々なわだかまりを持ち越したままに置かれる、偽りの勝利の不恰好な愉悦が、
勝利を気取る欧米聖書圏の民衆にもゆがんだ性格を植え付けて、最終的には大きなストレスともなる。
むしろ、真剣勝負による完全な敗北を受け入れることのほうが、精神衛生上は良好であったりもする。
「很いに勝たんことを求むる毋れ」
「争いに勝つことを積極的に求めたりするな。
(争い好きの阿修羅は、争い自体を忌む帝釈天と戦えば必ず負ける。常に争って
勝とうとするような性分こそは、天道に対する絶対的な敗北の原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「争いに勝つことを積極的に求めたりするな。
(争い好きの阿修羅は、争い自体を忌む帝釈天と戦えば必ず負ける。常に争って
勝とうとするような性分こそは、天道に対する絶対的な敗北の原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

それこそ聖人君子はおろか、善人や、まともな大人になることすら困難な状態にある。
民主主義によって極端な自意識過剰が蓄えられて、なおかつ資本主義によって、
何もかもをカネで取り扱うことしかできないほどにまで、行為能力の活用技術が衰えてしまっている。
そのせいで、切実な実体経済に根ざした神妙な労働行為に従事することもまた困難となってしまっている。
仮に今、この地球社会の資本や資源の配分が是正されて、切実な労働行為によってのみ自活が
可能となるようなことになれば、その時に真っ先にお荷物になるのは、欧米聖書圏の人間である。
数値上の資本の大半と、地球資源の八割以上を自分たちで独占しつつ経済活動を営んでいるのが、
並みの人類としての扱いを受けつつの経済活動に転換するとすれば、それこそ、長期間無重力状態
の宇宙空間に滞在していた飛行士が、地球に帰還して重力の重みに耐え切れなくて、しばらくは
リハビリ生活を送らされるようなことになる。無重力空間への滞在が長期過ぎた場合には骨粗鬆症
などの重病も併発して、地球に帰還した途端に骨折などの重傷に見舞われることすらあり得るように、
経済的に過度に自由な状態に置かれたことが祟っての、重大な後遺症すらもが残りかねないのである。
日本でも大昔、古墳時代から飛鳥時代にかけて、古墳造営などの事業によって過度に経済的な
繁栄を謳歌した豪族が、律令制度の発足に伴う政治制度改革によって中央を追われたことがあった。
彼らは政界追放後も一般社会に馴染むことができず、方々で屠殺や製革といった、人々が忌み嫌う仕事を
寡占することで吹き溜まりを形成する、いわゆる被差別部落の源流となった。そこにもやはり、甚大な
行為能力を安易に玩ぶことの魔性に囚われたあまりの後遺症があったのであり、過度に経済的な繁栄を
謳歌した人間が、失脚後に一般社会に馴染むことがいかに困難なことであるのかを示す証拠ともなっている。
古代の日本における、失脚した豪族などに対する緩和ケアが行き届かなかったのは、まだ当時の日本が
近畿中央部などの一部の地域においてしか朝廷の権限が行き届いていなかったからで、追放された豪族が遠方の
僻地に逃げ延びるなどして、朝廷の支配から脱する余地があったからである。武家時代になると、諸地方の平定も
相当に行き届いたものの、やはり実際問題として、一定の勢威を保ったままでいる部落への対処が問題化し続けていた。
現代においては、地位を追われた重権力犯罪者が逃げ延びられるような地域が、もはや地球上のどこにもない。
中央社会から僻地に逃げ延びて、勢力を温存した古代豪族のような真似もできないから、それはもう欧米の
聖書信者にも諦めてもらうしかない。その上で、集団自殺でもしない限りにおいて、多少手荒いほどもの
集中的な治療を受けてもらって、邪教信仰と、それによる行為能力の濫用からなる後遺症とをできる限り完治
してもらうように。それは確かに、相当な苦痛をも伴うことに違いないが、それを乗り越えられすらしたなら、
10億人を超える犠牲者をはじき出した、近現代の重権力犯罪の被害者たちに対する落とし前もまた付くといえる。
「肆に戎疾は殄え、烈假も瑕ざかりき。聞きては亦た式い、諫めは亦た入るる。
肆に成人は徳を有し、小子は造るを有する。古えの人を斁うことなく、髦士をも誉しましむ」
「外界の蛮族は絶滅し、蛮族の悪習も絶やされた。これからは人の言うことを取り入れ、諌めもまた受け入れる。
成熟した大人は徳を湛え、未熟な小子もまたすべきことを為す。老人を遠ざけない一方で、若者もまた楽しませる。
(未熟な小子は未熟な小子で、分をわきまえていればいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思斉より)
近畿中央部などの一部の地域においてしか朝廷の権限が行き届いていなかったからで、追放された豪族が遠方の
僻地に逃げ延びるなどして、朝廷の支配から脱する余地があったからである。武家時代になると、諸地方の平定も
相当に行き届いたものの、やはり実際問題として、一定の勢威を保ったままでいる部落への対処が問題化し続けていた。
現代においては、地位を追われた重権力犯罪者が逃げ延びられるような地域が、もはや地球上のどこにもない。
中央社会から僻地に逃げ延びて、勢力を温存した古代豪族のような真似もできないから、それはもう欧米の
聖書信者にも諦めてもらうしかない。その上で、集団自殺でもしない限りにおいて、多少手荒いほどもの
集中的な治療を受けてもらって、邪教信仰と、それによる行為能力の濫用からなる後遺症とをできる限り完治
してもらうように。それは確かに、相当な苦痛をも伴うことに違いないが、それを乗り越えられすらしたなら、
10億人を超える犠牲者をはじき出した、近現代の重権力犯罪の被害者たちに対する落とし前もまた付くといえる。
「肆に戎疾は殄え、烈假も瑕ざかりき。聞きては亦た式い、諫めは亦た入るる。
肆に成人は徳を有し、小子は造るを有する。古えの人を斁うことなく、髦士をも誉しましむ」
「外界の蛮族は絶滅し、蛮族の悪習も絶やされた。これからは人の言うことを取り入れ、諌めもまた受け入れる。
成熟した大人は徳を湛え、未熟な小子もまたすべきことを為す。老人を遠ざけない一方で、若者もまた楽しませる。
(未熟な小子は未熟な小子で、分をわきまえていればいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思斉より)
▲ページ最上部
ログサイズ:702 KB 有効レス数:375 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
思想・哲学掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
スレッドタイトル:聖書 Part7