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聖書 Part7
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「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

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絶対服従を強要する主人と家畜、主人と奴隷の関係性の中にこそ、筆舌に尽くしがたい「汚れ」がある。
特に、屠殺者と肉用獣の関係性にこそ穢れも極まることから、日本やインドでは屠畜業が歴史的に
忌み嫌われても来た。とはいえ、屠畜業が特定して嫌われているなんてのは皮相的なことで、あくまでそこに、
「絶対服従の挙句に殺される」という、精神的不衛生の極みが介していることこそが致命的なことだった。
人と家畜ではなく、人と人との間にもそのような、死すら避けられぬ絶対服従の関係性があり得る。
主人と奴隷の関係がその典型だが、王君と臣下のような、名誉的にすら扱われる人間関係においても、
臣下が主君の為に死をも厭わぬ務めに励むということがある。主人と奴隷の服従関係などと違って、
死をも厭わぬ君臣関係が名誉とされるのは、臣下があくまで自らの意志によって主君への忠誠を誓うからで、
生まれ付きの身分によって主人への絶対服従が科される奴隷や、未熟な内からの奉公に励まされる丁稚などには
始めから得る術もなかった、成熟した大人としての尊厳が守られているからこそ、そこに汚れもないのである。
臣下が自らの意志によって主君に臣従するという選択肢は、儒家と共に、隠遁志向の道家なども許容されていた
東洋社会などにおいてこそ容認されていたものだ。その東洋でも、たとえば始皇帝によって法家支配が敷かれた
秦代などには、労役が万民に対して義務化されていたから、臣下の自己選択による臣従の途なども閉ざされていた。
その、秦代に強制労働に駆り出された劉邦は、強制労働に嫌気が差して逃亡し、反乱軍となって項羽らと共に秦帝国を滅ぼし、
項羽をも破って漢帝国を築いて後には、自らの苦い思い出もあって、なるべく法律による締め付けを緩和した、無為自然の
統治を全国に施すように心がけた。皇后の呂后が高名な隠遁者を宮内に連れて来た時には感激して、思わず呂后の実子を
次期皇帝にすることを認可したともいうから、確かに劉邦には、道家の隠遁志向を貴ぶ心持ちもあったことが分かる。
そのような、度量の大きい主君が多数君臨していた社会であればこそ、不可避なる絶対服従関係の穢れなどを
決して持ち込まない、自由選択による君臣関係が多数実現され、それによる治世もまた実現されて来たのである。
特に、屠殺者と肉用獣の関係性にこそ穢れも極まることから、日本やインドでは屠畜業が歴史的に
忌み嫌われても来た。とはいえ、屠畜業が特定して嫌われているなんてのは皮相的なことで、あくまでそこに、
「絶対服従の挙句に殺される」という、精神的不衛生の極みが介していることこそが致命的なことだった。
人と家畜ではなく、人と人との間にもそのような、死すら避けられぬ絶対服従の関係性があり得る。
主人と奴隷の関係がその典型だが、王君と臣下のような、名誉的にすら扱われる人間関係においても、
臣下が主君の為に死をも厭わぬ務めに励むということがある。主人と奴隷の服従関係などと違って、
死をも厭わぬ君臣関係が名誉とされるのは、臣下があくまで自らの意志によって主君への忠誠を誓うからで、
生まれ付きの身分によって主人への絶対服従が科される奴隷や、未熟な内からの奉公に励まされる丁稚などには
始めから得る術もなかった、成熟した大人としての尊厳が守られているからこそ、そこに汚れもないのである。
臣下が自らの意志によって主君に臣従するという選択肢は、儒家と共に、隠遁志向の道家なども許容されていた
東洋社会などにおいてこそ容認されていたものだ。その東洋でも、たとえば始皇帝によって法家支配が敷かれた
秦代などには、労役が万民に対して義務化されていたから、臣下の自己選択による臣従の途なども閉ざされていた。
その、秦代に強制労働に駆り出された劉邦は、強制労働に嫌気が差して逃亡し、反乱軍となって項羽らと共に秦帝国を滅ぼし、
項羽をも破って漢帝国を築いて後には、自らの苦い思い出もあって、なるべく法律による締め付けを緩和した、無為自然の
統治を全国に施すように心がけた。皇后の呂后が高名な隠遁者を宮内に連れて来た時には感激して、思わず呂后の実子を
次期皇帝にすることを認可したともいうから、確かに劉邦には、道家の隠遁志向を貴ぶ心持ちもあったことが分かる。
そのような、度量の大きい主君が多数君臨していた社会であればこそ、不可避なる絶対服従関係の穢れなどを
決して持ち込まない、自由選択による君臣関係が多数実現され、それによる治世もまた実現されて来たのである。
ひるがえって、聖書信仰が征服下に置いた西洋社会には、始めから自由選択の君臣関係などはなかった。
ほんのこの前まで奴隷制が健在だっただけでなく、聖書信仰が流布される遥か以前から、古代ローマ帝国に
代表される西洋社会は完全な法治主義であり、労役もどこまでも義務的なものであり、自由選択による君臣関係に
名誉が伴うなどという考え方もなかった。そこに、主なる神と信者との絶対服従関係を促す聖書信仰が提唱されて、
案の定、瞬く間に広まったわけで、最原初から今に至るまで一貫して、西洋社会においては、不可避なる
絶対服従関係の汚れを忌み嫌う慣習はおろか、それを穢れとして扱う神経すら存在していたことがない。
仮に、これからも西洋人が、そのような逃れようのない絶対服従関係を許容していくのだとしても、
屠畜級の絶対服従に紛れもない汚れを見出す人々に対してまで、それを強要することなどは、完全に不能である。
ただ、自分たち西洋人だけが、生まれ付きから絶対服従の奴隷的人種として、決してそうではない数多の人々の
絶対的な服従下に置かれることだけが許されることで、自分たち以外にそんな関係性を強要することは全く許されない。
もちろん、西洋人もまた屠畜級の絶対服従の穢れを思い知って、自分たちの内からもそのような下劣な関係性を駆逐して
いくというのならそれでも構わないわけで、そうなった西洋人を、他人種が対等に扱っていくこともまた、吝かではない。
「子曰く、麻冕は礼なり、今や純なるは倹なり。吾れは衆に従わん。
下に拝するは礼なり、今の上に拝むは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん」
「先生は言われた。『礼服には麻の冠を用いるのが慣例だが、近ごろでは倹約のために生成のものを用いる。
(倹約に努めるのはいいことなので)私も今の人々のやり方に従おう。拝礼は堂下で行うのが本来の慣例だが、
近ごろは横柄にも堂上で拝礼する場合が多い。人々のやり方とは違うとはいえ、私は堂下で拝礼することにしよう』
(従うもの自体まで自らが取捨選択する自主性の極み。孔子の乱世における青い鳥状態も、あくまで確信的なものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三)
ほんのこの前まで奴隷制が健在だっただけでなく、聖書信仰が流布される遥か以前から、古代ローマ帝国に
代表される西洋社会は完全な法治主義であり、労役もどこまでも義務的なものであり、自由選択による君臣関係に
名誉が伴うなどという考え方もなかった。そこに、主なる神と信者との絶対服従関係を促す聖書信仰が提唱されて、
案の定、瞬く間に広まったわけで、最原初から今に至るまで一貫して、西洋社会においては、不可避なる
絶対服従関係の汚れを忌み嫌う慣習はおろか、それを穢れとして扱う神経すら存在していたことがない。
仮に、これからも西洋人が、そのような逃れようのない絶対服従関係を許容していくのだとしても、
屠畜級の絶対服従に紛れもない汚れを見出す人々に対してまで、それを強要することなどは、完全に不能である。
ただ、自分たち西洋人だけが、生まれ付きから絶対服従の奴隷的人種として、決してそうではない数多の人々の
絶対的な服従下に置かれることだけが許されることで、自分たち以外にそんな関係性を強要することは全く許されない。
もちろん、西洋人もまた屠畜級の絶対服従の穢れを思い知って、自分たちの内からもそのような下劣な関係性を駆逐して
いくというのならそれでも構わないわけで、そうなった西洋人を、他人種が対等に扱っていくこともまた、吝かではない。
「子曰く、麻冕は礼なり、今や純なるは倹なり。吾れは衆に従わん。
下に拝するは礼なり、今の上に拝むは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん」
「先生は言われた。『礼服には麻の冠を用いるのが慣例だが、近ごろでは倹約のために生成のものを用いる。
(倹約に努めるのはいいことなので)私も今の人々のやり方に従おう。拝礼は堂下で行うのが本来の慣例だが、
近ごろは横柄にも堂上で拝礼する場合が多い。人々のやり方とは違うとはいえ、私は堂下で拝礼することにしよう』
(従うもの自体まで自らが取捨選択する自主性の極み。孔子の乱世における青い鳥状態も、あくまで確信的なものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三)
天地万物大宇宙を司る、易の法則に創造主などがいないのはもちろんのこと、
三千大千世界を包摂する仏法にもまた、決まった作者などはいないのだという。
(「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の三を参照)
いないのである。実際問題、そんな神は。
いるのならともかく、いないのである。神というもの、仏というものが仮に存在するとした所で、
「万物の創造主」とか「形而上の超越神」とかいった存在性を持つ神仏こそは、特に存在しないのである。
それは、「形而上の形而上や、そのまた形而上の世界までをも実際に想定し尽くすことができる」という、
荘子や新井白石が提示した思考実験によってだけでも証明できることである。その上に、物理的にも、
一定以内の自由度の法則によってのみ司られることでこそ成り立っているこの世界が、あらゆる法則を
逸脱した超越者によってかき乱されたりするのであれば、この世界自体が成立しないという結論によって、
絶対的な超越者の存在を否定することもできる。もしも絶対的な超越者などがいたとすれば、その超越者は
あらゆる物質の摩擦係数をもゼロにすることができるはずで、そんなことをされた日には、この地球もあっと
いう間にただの灰の塊と化してしまう。そんな迷惑な絶対者がいない限りにおいて、この地球社会の有機性もまた
保たれているのだから、その地球環境に依存して生きている人間が、絶対的な超越者などを定立することもまた、
迷惑という以上のことではあり得ないから、定立からしてしないに越したことはないと結ぶことが出来るのである。
三千大千世界を包摂する仏法にもまた、決まった作者などはいないのだという。
(「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の三を参照)
いないのである。実際問題、そんな神は。
いるのならともかく、いないのである。神というもの、仏というものが仮に存在するとした所で、
「万物の創造主」とか「形而上の超越神」とかいった存在性を持つ神仏こそは、特に存在しないのである。
それは、「形而上の形而上や、そのまた形而上の世界までをも実際に想定し尽くすことができる」という、
荘子や新井白石が提示した思考実験によってだけでも証明できることである。その上に、物理的にも、
一定以内の自由度の法則によってのみ司られることでこそ成り立っているこの世界が、あらゆる法則を
逸脱した超越者によってかき乱されたりするのであれば、この世界自体が成立しないという結論によって、
絶対的な超越者の存在を否定することもできる。もしも絶対的な超越者などがいたとすれば、その超越者は
あらゆる物質の摩擦係数をもゼロにすることができるはずで、そんなことをされた日には、この地球もあっと
いう間にただの灰の塊と化してしまう。そんな迷惑な絶対者がいない限りにおいて、この地球社会の有機性もまた
保たれているのだから、その地球環境に依存して生きている人間が、絶対的な超越者などを定立することもまた、
迷惑という以上のことではあり得ないから、定立からしてしないに越したことはないと結ぶことが出来るのである。
摩擦係数ゼロの絶対超越神などを想定して、その立場に基づいて物事を考えてみたりすればするだけ、
この地球がただの灰の塊と化すことを促進するだけである。そんな神は実際、存在しない上に、
ただ「存在する」と想定してみただけでも色々な差し障りが生じてしまう、有害無益な概念である。
この世界、この宇宙の一定法則を司っているか故に貴ばれる神や、あらゆる法則を超越するが故に虚空であり、
虚空であるままに貴ばれる仏などは、それはそれでアリだといえる。しかし、この世界、この宇宙の法則を
超越するが故に「実である」とされる神などを想定したなら、そのような神は必ず、この世を灰塵と化すこと
ばかりを促す邪神となる。ありがたいことに、そんな神は実在せず、実際に神として危害をもたらしたりもしない。
一部の累犯障害者たちが、上記のような意味での絶対超越神を騙って、この世を灰と化す試みを未だに模索
し続けてはいるものの、もちろん全くの虚偽であり、本物の神として畏れ敬う価値などは微塵もないのである。
奇しくも、「形而上の超越は虚無である」という仏法の法則にその真相は合致していて、完全なる虚空として
貴ぶにすら値しないものかといえば、そうでもない。絶対超越神を騙る累犯障害者も、自分たち自身が
死んで灰塵に帰した後には、虚空に住まう仏さまとして、敬われるに値する存在ともなるのである。
「聖人の行いは同じくならず。或いは遠ざかり或いは近づき、
或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰すのみ」
「聖人の行いは必ずしも一定ではなく、ある時は遠ざかったりある時は近づいたり、ある時は去ったり
ある時は去らなかったりする。これらは偏に、自らが潔白なままでいようとする志しによるのである。
(必要なのは大胆に近づくことなどではなく、臨機応変な出処進退で身の潔白さを守ることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
この地球がただの灰の塊と化すことを促進するだけである。そんな神は実際、存在しない上に、
ただ「存在する」と想定してみただけでも色々な差し障りが生じてしまう、有害無益な概念である。
この世界、この宇宙の一定法則を司っているか故に貴ばれる神や、あらゆる法則を超越するが故に虚空であり、
虚空であるままに貴ばれる仏などは、それはそれでアリだといえる。しかし、この世界、この宇宙の法則を
超越するが故に「実である」とされる神などを想定したなら、そのような神は必ず、この世を灰塵と化すこと
ばかりを促す邪神となる。ありがたいことに、そんな神は実在せず、実際に神として危害をもたらしたりもしない。
一部の累犯障害者たちが、上記のような意味での絶対超越神を騙って、この世を灰と化す試みを未だに模索
し続けてはいるものの、もちろん全くの虚偽であり、本物の神として畏れ敬う価値などは微塵もないのである。
奇しくも、「形而上の超越は虚無である」という仏法の法則にその真相は合致していて、完全なる虚空として
貴ぶにすら値しないものかといえば、そうでもない。絶対超越神を騙る累犯障害者も、自分たち自身が
死んで灰塵に帰した後には、虚空に住まう仏さまとして、敬われるに値する存在ともなるのである。
「聖人の行いは同じくならず。或いは遠ざかり或いは近づき、
或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰すのみ」
「聖人の行いは必ずしも一定ではなく、ある時は遠ざかったりある時は近づいたり、ある時は去ったり
ある時は去らなかったりする。これらは偏に、自らが潔白なままでいようとする志しによるのである。
(必要なのは大胆に近づくことなどではなく、臨機応変な出処進退で身の潔白さを守ることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
犯罪聖書の邪神の出歯亀ストーカー志向は、たとえば母親の、
まだ幼いわが子に対する注意などとしてであれば、決して悪いものともならない。
穴に落ちそうになっている子供を思わず救いたい気持ちに駆られる、惻隠の情。
孟子が自らの性善説の根拠ともした、その惻隠の情に即して、母親がわが子を注意深く見守り、
立派な大人になるまで責任を持って育てるというのなら、これほど善良なことも他にないといえる。
欧米のユダヤ教徒なども、男系よりは女系の血筋を重んずる傾向があるという。ユダヤ系の
映画監督のスピルバーグの母親なども、子供の育て方に相当な工夫を凝らしていたなどという
逸話があるが、母親がわが子によくー注意を注いで、熱心な養育に努めるというのは、成功する
場合も失敗する場合もあるにしろ、決して咎められて然るべきものであるなどとはいえない。
しかし、その母親のわが子に対する注意力を、成人の男などにまで振り向けたとすれば、
これはもう完全なお節介だといえる。わが子が十分に育った以上は、もう無駄なお節介もしない
というのも賢母の条件である。にもかかわらず、社会に参画する大人すらをも信者とする
ことを前提としている聖書信仰は、その大人に対してまで出歯亀ストーキングを保証する。
だから、それが母としたところで愚母の所業であるといえるし、また聖書の邪神による
監視があるからといって、実の母親がわが子への注意を怠ったりしたとすれば、これまた、
実の母親にまで愚母となることをけしかける、有害無益な悪影響となってしまうのである。
まだ幼いわが子に対する注意などとしてであれば、決して悪いものともならない。
穴に落ちそうになっている子供を思わず救いたい気持ちに駆られる、惻隠の情。
孟子が自らの性善説の根拠ともした、その惻隠の情に即して、母親がわが子を注意深く見守り、
立派な大人になるまで責任を持って育てるというのなら、これほど善良なことも他にないといえる。
欧米のユダヤ教徒なども、男系よりは女系の血筋を重んずる傾向があるという。ユダヤ系の
映画監督のスピルバーグの母親なども、子供の育て方に相当な工夫を凝らしていたなどという
逸話があるが、母親がわが子によくー注意を注いで、熱心な養育に努めるというのは、成功する
場合も失敗する場合もあるにしろ、決して咎められて然るべきものであるなどとはいえない。
しかし、その母親のわが子に対する注意力を、成人の男などにまで振り向けたとすれば、
これはもう完全なお節介だといえる。わが子が十分に育った以上は、もう無駄なお節介もしない
というのも賢母の条件である。にもかかわらず、社会に参画する大人すらをも信者とする
ことを前提としている聖書信仰は、その大人に対してまで出歯亀ストーキングを保証する。
だから、それが母としたところで愚母の所業であるといえるし、また聖書の邪神による
監視があるからといって、実の母親がわが子への注意を怠ったりしたとすれば、これまた、
実の母親にまで愚母となることをけしかける、有害無益な悪影響となってしまうのである。
ユダヤ系で、イエスの母親だったマリアなども、結局はイエスを世界最悪の邪教の開祖に仕立て上げ、
冤罪で磔刑を受けさせることで、永遠に地獄をさまよわせるほどの非業へとわが子を追いやっている。
産み育てるに際しては、エホバが自分の代わりに子供を監視してくれて、育ってからもエホバが後見人になって
くれるなんていう邪信にも即して我が子を産み育てたものだから、実際にその子供のイエスもろくでもない
大人へと成長し、天寿を全うすることもできないままに非業の最期を遂げて、二度と生き返らなかったのである。
犯罪聖書の邪神が担うとされる、信者への絶対的な付きまとい、それは、母親がまだ幼いわが子に
対して抱く注意でこそあるべきなのであり、邪神などがその役目を母親から奪ってはならないのである。
母親こそは頑是ないわが子に対しても細心の注意を払い、成長してからはもう放任しても全く問題もないほどに
立派な大人へと育て上げるべきなのであり、子が幼いうちにも母親からその役割を奪い、成長してからもお節介な
監視を続けるという、犯罪聖書の邪神の有害無益さは、実の母親の存在性と対照することでこそ明白になるのである。
「我れと二人、共に貞す。公は其れ予に万億年を以てし、天を敬い之れを休んず。」
「私(成王)と周公の二人で、共に天下を正していく。公は私に、万億年の永劫に渡るまでの
王道楽土をもたらしてくれた。また天を敬うことで、これを安んじてくれる。(実際の君臣関係であるからこそ
『世の終わりまで』などではなく『万憶年の未来永劫に至るまで』の共なる治世を希求している。不吉極まりない
『世の終わり』などを平気でほざくのも、この世の責任を十分に負うこともない不誠実神である証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
冤罪で磔刑を受けさせることで、永遠に地獄をさまよわせるほどの非業へとわが子を追いやっている。
産み育てるに際しては、エホバが自分の代わりに子供を監視してくれて、育ってからもエホバが後見人になって
くれるなんていう邪信にも即して我が子を産み育てたものだから、実際にその子供のイエスもろくでもない
大人へと成長し、天寿を全うすることもできないままに非業の最期を遂げて、二度と生き返らなかったのである。
犯罪聖書の邪神が担うとされる、信者への絶対的な付きまとい、それは、母親がまだ幼いわが子に
対して抱く注意でこそあるべきなのであり、邪神などがその役目を母親から奪ってはならないのである。
母親こそは頑是ないわが子に対しても細心の注意を払い、成長してからはもう放任しても全く問題もないほどに
立派な大人へと育て上げるべきなのであり、子が幼いうちにも母親からその役割を奪い、成長してからもお節介な
監視を続けるという、犯罪聖書の邪神の有害無益さは、実の母親の存在性と対照することでこそ明白になるのである。
「我れと二人、共に貞す。公は其れ予に万億年を以てし、天を敬い之れを休んず。」
「私(成王)と周公の二人で、共に天下を正していく。公は私に、万億年の永劫に渡るまでの
王道楽土をもたらしてくれた。また天を敬うことで、これを安んじてくれる。(実際の君臣関係であるからこそ
『世の終わりまで』などではなく『万憶年の未来永劫に至るまで』の共なる治世を希求している。不吉極まりない
『世の終わり』などを平気でほざくのも、この世の責任を十分に負うこともない不誠実神である証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)

岩盤のような強固な地盤を是とし、水の性質を低レベルなものとして扱う
キリスト教の理念に真っ向から反している。一方で、どこまでも低いほうへと
落ち続ける水の性質を「君子の謙譲さ」に見立てて褒め称えた孔子の言説や、
地盤の強固さにかまけて注意力をなまらせることを懸念対象とした孟子の論弁
などに基づくなら、むしろ日本の気候風土こそは、謙譲や注意力も豊かな
君子を育む理想的な環境であると見なすことができるのである。
一方で、その孔子や孟子の生まれ故郷である中国でこそ、「湿気の多い低地」を
忌み嫌う傾向があって、「史記」にも「湿気の多い低地に住む人間は長生きできない」
などという迷信が記録されてもいる。もちろん、低地や湿地も多い日本の国民が、
中国人よりも寿命が短いなんてこともないわけで、「湿気嫌い」というのは、どうも中国人に
特有の性格のようである。湿気だけでなく大水も中国人は嫌いで、内陸国であるせいもあって、
海水浴や海鮮食を好まない中国人も多いし、古代中国の魏王朝も、朝貢に来た日本の使節が、
絶海である日本海を超えてやって来たことに畏れを抱き、陸続きである朝鮮半島の諸国
などには銀印を授けていたのを、日本国からの使節に対しては金印を授けたともされる。
たとえば、精神力の惰弱な人間が塩辛い食べ物を嫌ったりするのと同じように、
人間には性格として、湿気とか大水とかを忌み嫌うような傾向が多少はあるのである。
それは孔子や孟子の生まれ故郷である中国の人間といえども同じことで、その世間一般の大衆が
忌み嫌うほどもの「試練」としての湿気の不快さ、大水の扱いにくさなどを乗り越えた所にこそ
君子としての大成までもがあるのであり、それはなかなか、好き好めたりするものでもないのである。
[YouTubeで再生]
日本で、これからの季節に到来する梅雨がもたらす多湿や多雨は、長年日本に住み続けている
邦人すらもが不快感を隠さないもので、気温だけなら日本以上である東南アジアやインドの
人間ですらもが、日本の梅雨期の高温多湿の不快さには辟易させられるそうな。それは確かに、なかなか
好き好んだりできるような代物ではないのであり、無理にそれ自体を好いたりする必要もないのである。
ただ、やはりその梅雨期の降雨が日本の農産の豊穣にも貢献するようにして、多湿さとか大水とか
いったような試練が人々にも大成の機縁を与えるのであり、大成を目指す志しが高ければこそ、
好き好むことなどとうてい出来ないような大きな試練にまで臨んで行くのである。
好きだからではなく、試練を乗り越えた先にある大成を目指すためにこそ、それを受容する。
そこまでの努力などやる気も起きないというような人間もいるだろうにしろ、あえてそれを選択するのである。
試練から積極的に逃避することこそを選んできたような人間もまた、当然まったく以って与らぬことである。
「敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鰥。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雲の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鱮。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雨の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は唯唯として。斉の子の帰し止まるに、其の従うや水の如し」
「魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとエザケ(やもめ)が逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで群ら立ち込める雲の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとタナゴが逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるでザンザンと降り注ぐ大雨の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこから制することも出来ない勢いで魚が飛び出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで謙る水の如く。(雨雲には『権勢』という意味もあるが、
湿気や水に由来するために謙譲さをも伴う。謙譲さに欠ける『金権(聖霊)』などとはそこが違うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・敝笱より)

邦人すらもが不快感を隠さないもので、気温だけなら日本以上である東南アジアやインドの
人間ですらもが、日本の梅雨期の高温多湿の不快さには辟易させられるそうな。それは確かに、なかなか
好き好んだりできるような代物ではないのであり、無理にそれ自体を好いたりする必要もないのである。
ただ、やはりその梅雨期の降雨が日本の農産の豊穣にも貢献するようにして、多湿さとか大水とか
いったような試練が人々にも大成の機縁を与えるのであり、大成を目指す志しが高ければこそ、
好き好むことなどとうてい出来ないような大きな試練にまで臨んで行くのである。
好きだからではなく、試練を乗り越えた先にある大成を目指すためにこそ、それを受容する。
そこまでの努力などやる気も起きないというような人間もいるだろうにしろ、あえてそれを選択するのである。
試練から積極的に逃避することこそを選んできたような人間もまた、当然まったく以って与らぬことである。
「敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鰥。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雲の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鱮。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雨の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は唯唯として。斉の子の帰し止まるに、其の従うや水の如し」
「魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとエザケ(やもめ)が逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで群ら立ち込める雲の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとタナゴが逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるでザンザンと降り注ぐ大雨の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこから制することも出来ない勢いで魚が飛び出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで謙る水の如く。(雨雲には『権勢』という意味もあるが、
湿気や水に由来するために謙譲さをも伴う。謙譲さに欠ける『金権(聖霊)』などとはそこが違うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・敝笱より)
え、書けないの
すげえ長すぎるな
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スレッドタイトル:聖書 Part7