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聖書 Part7


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001 2011/11/22(火) 17:27:53 ID:K4EjJDucuI
「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。

しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。

「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。

ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。

この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。

「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

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265 2012/03/17(土) 14:18:08 ID:jtwfm0cp4w:au
人間社会における、善悪の普遍的な定義は

善……世の中に害以上の益をもたらす。
悪……世の中に益以上の害をもたらす。

である。しかも、善悪とは世俗における倫理上の定義であり、
超俗においてまで絶対的に通用するものではない。だから、人間社会において
善悪が上記のように定義されることこそは、最も普遍的な善悪の定義であるといえる。

善の実践が徳行となり、悪の実践が犯罪となる。
つまり、徳行の普遍的な定義は「世の中に害以上の益をもたらす」であり、
犯罪の普遍的な定義は「世の中に益以上の害をもたらす」であるといえ、
善行や悪行といった行為には、全く以って自明な定義を付与することができるのである。

上記のような普遍的な意味での、善行を為す者に対して然るべき措置は崇敬であり、
悪行を為す者に対して然るべき措置は懲罰である。世の中に害以上の益をもたらすことは
推進されて然るべきことだから崇敬の対象とし、益以上の害をもたらすことは
抑止されて然るべきことだから懲罰の対象とする。社会的な観点から見た場合の、
ごく当たり前の措置であり、なおかつ善悪とは世俗社会においてこそ普遍的な
倫理基準であるから、善行や悪行に対して上記のような措置を施すこともまた、
善とか悪とかいった言葉の名辞に即して、自明に絶対的なことであるといえる。

善悪を、個々人の内面などに限って論ずることからして、すでに間違いである。
善悪は人と人とが関係を持つ人間社会においてこそ発生するものであり、無人島に
ただ一人で完全な自給自足生活を送っていたりするのなら、始めから善悪なんかない。
そうではなく、お互いが仕事を分業し合うことで成り立っている大社会において、
自分が、人から奪う以上にも人に恵むことを優先したり、人に恵む以上にも
人から奪うことを優先したりするところに普遍的な善行や悪行が生ずるのであり、
善とか悪とかいった倫理基準が初めて持ち出されるのも、そこからでしかないのだ。

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266 2012/03/17(土) 14:59:37 ID:jtwfm0cp4w:au
人と人とが密接な経済関係を持つ人間社会においてこそ、初めて善悪という基準もまた
持ち出されるものだから、人間同士が言葉によって意思疎通を成立させていくことを通じて、
善とか悪とかいった倫理基準もまた、世間一般に広く通用するような語義の普遍性を帯びて来ている。

仮に、誰も彼もが自分個人だけで勝手に善悪の定義を新造していたりするのでは、
人間関係においてこそ初めて問題となる善悪を、他人と論じ合うことすらできなくなるのであり、
本当に善悪が個々人の身勝手な定義によってでしか用いられたことがないのなら、
始めから善や悪などという言葉からして、生ずることもなかったはずである。

確かに、個々人が身勝手な定義に即して善悪という基準を用いて、人を欺いたりするような
こともあるが、そもそも人々が善とか悪とかいった言葉を用い始めるようになるきっかけともなった、
人間社会においてこそ普遍的であるが故に、最大級に普遍的な善悪というものが、あるのである。
それが、上記のような定義に基づく善悪であり、結局のところ「本物の善悪」であるといえる。

本物の善悪こそは、罪福異熟によって善因楽果や悪因苦果にも結び付き、
心中の苦楽を普遍的に司ると共に、社会上における普遍的な繁栄や破滅をも呼び込む。

善行に努める者は心中もまた安楽であり、社会的にも繁栄へと導かれる一方、
悪行にひた走る者は心中からして苦悩の塊であり、社会的にも破滅が免れ得ない。

だから、善行に努める者は称賛や畏怖や崇敬の対象とされるべきであるといえる一方、
悪行にひた走る者は非難や軽蔑や懲罰の対象とすべきであるといえる。社会的な倫理基準に
過ぎない善悪を、超俗的な絶対真理にまで還元してみても、やはり同等の結論が導かれるのである。

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267 2012/03/17(土) 15:02:03 ID:6kk9xTbqK6

「欲無くして仁を好む者、畏れ無くして不仁を悪む者は、天下に一人のみ。
是の故に君子は道を議ること己れ自りし、法を置くに民を以ってす」
「無欲なままに仁を好んだり、畏れることなく不仁を憎んだりできる者は、天下でも極めて少ない。
そのため君子はまず自分から道を修めるようにし、法を定めるにしても凡民が守れるようにする。
(旧約の律法なんぞは『徒法』ないし『非実法』の集約であり、それを守ることが善になるとも、
破ることが悪になるとも限らない。守ろうとすることが善を欲することになるともいえないし、
守れないが故に悪に堕しているとも限らない。本物の善悪に基づけば、真実は上記の如くであり、
善を好む者も悪を憎む者も極めて稀だから、君子も民が十分に法を守れるように融通を利かせるのである。
悪法で世の中をがんじがらめにして民を困惑させるようなことからして、君子にあるまじき所業なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

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268 2012/03/19(月) 13:32:14 ID:2pXZGxxQv2
尽十方世界にあまねき法界の縁起を説く華厳経では、主に「光」そのものの光明が描写され、
七宝などの具体的な財物による荘厳はないこともないにしろ、全体における割合は少ない。
一方で、日没する西方への特定的な浄土往生を説く浄土三部経などにおいては、金銀、
瑠璃、珊瑚、琥珀、 硨 磲、碼碯といった具体的な財宝による浄土の荘厳が主となっている。

七宝や、ダイヤやルビーやエメラルドなどの財宝が、いくら美麗な輝きを放つのであろうとも、
それは外部からの光を反射しているからこその輝きであり、財宝そのものから放たれる輝きなどではない。

物質的な財宝の輝きに魅了されている人間は、光源そのものではなく、光の反射物に魅了されている。
この地球上で最も普遍的な光源である太陽に背を向けて、日没する西方を好き好んでいるような人間というのは、
まさにこの反射物の輝きを好む類いの人間であり、光源そのものなどには始めから目が行き届いていないのである。

とはいえ、仏教の浄土信仰などは上記のように、西方浄土の信仰者が物質的な欲望に囚われていることを
十分に了解し、浄土経にあるような金銀財宝によるどぎつい浄土の描写をそのまま仏壇上に復元したりもする。
浄土真宗中興の祖である蓮如も、自分の寺の本尊の阿弥陀如来を枕代わりにして昼寝をしていた一休を
「俺の商売道具に何をする!」と怒鳴りつけて、お互いに笑い合ったというし、西方浄土の信者は完全に、
自分たちが物質的、金銭的な欲望に囚われた煩悩愚縛の凡夫であることを十分にわきまえているのだといえる。

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269 2012/03/19(月) 13:38:10 ID:2pXZGxxQv2
しかるに、犯罪聖書の信者などは、自分たちが光源からの光を反射する財宝への物質的な欲望にこそ囚われて
いることを、わきまえられてすらもいない。外部からの光を反射することで輝いている財宝こそは、光源そのもの
だとすら思い込み、実際にそこにこそ、日光の如き根本性を付与したりする。これは本当に、犯罪聖書の著者など
からして、全く光源たる実物の太陽などへの配慮が行き届いていなかったからであり、太陽こそは光源であり、
財宝などはその光を受けて輝いているだけの存在であるというわきまえが、始めから完全に欠けていたからである。

明らかに、浄土信仰以上にも、犯罪聖書信仰のほうがより不健全たる所以が、ここにある。
浄土信者は、自分たちが物質的な欲望にこそ囚われていることをよくわきまえているが、
犯罪信者のほうは、物質的な欲望に囚われていることこそを、普遍的な光明への希求であるなどと倒錯している。
自分たちの本性のゲスさからすら目を背けて、ゲスさを高尚さであるなどと勘違いして、偉ぶっているのである。
故に、浄土信者以上にも聖書信者こそは、正法の真の高尚さによる度脱もまた、より困難なのである。

勘違いからなる偽りの高尚さで偉ぶっているものだから、卑しさをよくわきまえている者以上にも、救いがたい。
浄土経のえげつない財宝描写よりも、犯罪聖書の偽りの高尚的描写のほうが、凡夫にはかえって有害なのである。

「(易は)天地の化を範囲して過ぎしめず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道を通じて知る」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を規範的な囲いに収めてその度を過ぎさせず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽の転変を通じてそれを知らせる。
(洋の東西に関わらず昼夜はある。孟子も言うとおり、昼の陽気だけでなく夜の陰気もまた重要な要素なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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270 2012/03/20(火) 06:11:23 ID:IcDnvdwrJY
271 2012/03/20(火) 13:25:11 ID:MoelRo85/Q
外部からの光を反射してこそ輝く財宝などを見て、「これこそは勝利の光だ」などと思い込む。
しからば、光源の絶えた暗闇の中では、その勝利の光もまた完全に消え去るのである。

諸外国から巨万の富を収奪し独占することで経済的な優勢を得ている欧米聖書圏が、
特に中東諸国などの産油国、中国などの下請け製造大国を敵に回した争いを激化する、
核攻撃で相手を殲滅するとまでいかずとも、経済封鎖などで交易を断ったならば、
それだけでも自分たち欧米聖書圏のほうが、物質的な貧窮に晒されることになる。

独立もできてない子供が親に対して、あるいは寄生虫が宿主の生物に対してどんなに優勢を
決め込んだところで、やはりそれは偽りの勝利であり、勝敗を論ずるに値する対等性を元から欠いている。

じゃあ、欧米聖書圏と諸外国の関係を「主人と奴隷」の関係に喩えてみればどうかといって、
それは実際に許されることではない。欧米人が「おまえたち中東人や中国人は、主人である俺たちに
資源や製造物を貢ぎ上げるための奴隷だ」と明言したとする。主人と奴隷であるということは、
もはや国際社会全体を一つの国や帝国と見なすも同然であり、しかもその国では奴隷制が認められて
いるということになる。奴隷制はもはや認めないというのが、今の地球人類社会における決定的な
風潮であるから、未だ世の中において奴隷制を施行しようとする欧米に対する革命の名分までもが立つ。

だから欧米社会も一応は、中東諸国や中国とも対等な国際関係という体裁を保たねばならないのであり、
比喩として、欧米人が自分たちと他国とを主人と奴隷の関係に見立てることからして、影でしか許されないのである。

反則に根ざした偽りの勝利は、内実だけでなく外面的な体裁においても、どうにもすっきりとしない
中途半端さを抱えたままであり続ける。周武王の殷に対するような、あるいは漢の高祖の項羽に対するような
痛快無比な勝利とはいかない、色々なわだかまりを持ち越したままに置かれる、偽りの勝利の不恰好な愉悦が、
勝利を気取る欧米聖書圏の民衆にもゆがんだ性格を植え付けて、最終的には大きなストレスともなる。
むしろ、真剣勝負による完全な敗北を受け入れることのほうが、精神衛生上は良好であったりもする。

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272 2012/03/20(火) 13:25:38 ID:MoelRo85/Q
「很いに勝たんことを求むる毋れ」
「争いに勝つことを積極的に求めたりするな。
(争い好きの阿修羅は、争い自体を忌む帝釈天と戦えば必ず負ける。常に争って
勝とうとするような性分こそは、天道に対する絶対的な敗北の原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

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273 2012/03/21(水) 13:35:16 ID:4NKXabteZs
聖書信者の、邪教信仰による純粋精神の薄弱化は極度のものであり、
それこそ聖人君子はおろか、善人や、まともな大人になることすら困難な状態にある。

民主主義によって極端な自意識過剰が蓄えられて、なおかつ資本主義によって、
何もかもをカネで取り扱うことしかできないほどにまで、行為能力の活用技術が衰えてしまっている。
そのせいで、切実な実体経済に根ざした神妙な労働行為に従事することもまた困難となってしまっている。

仮に今、この地球社会の資本や資源の配分が是正されて、切実な労働行為によってのみ自活が
可能となるようなことになれば、その時に真っ先にお荷物になるのは、欧米聖書圏の人間である。
数値上の資本の大半と、地球資源の八割以上を自分たちで独占しつつ経済活動を営んでいるのが、
並みの人類としての扱いを受けつつの経済活動に転換するとすれば、それこそ、長期間無重力状態
の宇宙空間に滞在していた飛行士が、地球に帰還して重力の重みに耐え切れなくて、しばらくは
リハビリ生活を送らされるようなことになる。無重力空間への滞在が長期過ぎた場合には骨粗鬆症
などの重病も併発して、地球に帰還した途端に骨折などの重傷に見舞われることすらあり得るように、
経済的に過度に自由な状態に置かれたことが祟っての、重大な後遺症すらもが残りかねないのである。

日本でも大昔、古墳時代から飛鳥時代にかけて、古墳造営などの事業によって過度に経済的な
繁栄を謳歌した豪族が、律令制度の発足に伴う政治制度改革によって中央を追われたことがあった。
彼らは政界追放後も一般社会に馴染むことができず、方々で屠殺や製革といった、人々が忌み嫌う仕事を
寡占することで吹き溜まりを形成する、いわゆる被差別部落の源流となった。そこにもやはり、甚大な
行為能力を安易に玩ぶことの魔性に囚われたあまりの後遺症があったのであり、過度に経済的な繁栄を
謳歌した人間が、失脚後に一般社会に馴染むことがいかに困難なことであるのかを示す証拠ともなっている。

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274 2012/03/21(水) 13:39:16 ID:4NKXabteZs
古代の日本における、失脚した豪族などに対する緩和ケアが行き届かなかったのは、まだ当時の日本が
近畿中央部などの一部の地域においてしか朝廷の権限が行き届いていなかったからで、追放された豪族が遠方の
僻地に逃げ延びるなどして、朝廷の支配から脱する余地があったからである。武家時代になると、諸地方の平定も
相当に行き届いたものの、やはり実際問題として、一定の勢威を保ったままでいる部落への対処が問題化し続けていた。

現代においては、地位を追われた重権力犯罪者が逃げ延びられるような地域が、もはや地球上のどこにもない。
中央社会から僻地に逃げ延びて、勢力を温存した古代豪族のような真似もできないから、それはもう欧米の
聖書信者にも諦めてもらうしかない。その上で、集団自殺でもしない限りにおいて、多少手荒いほどもの
集中的な治療を受けてもらって、邪教信仰と、それによる行為能力の濫用からなる後遺症とをできる限り完治
してもらうように。それは確かに、相当な苦痛をも伴うことに違いないが、それを乗り越えられすらしたなら、
10億人を超える犠牲者をはじき出した、近現代の重権力犯罪の被害者たちに対する落とし前もまた付くといえる。

「肆に戎疾は殄え、烈假も瑕ざかりき。聞きては亦た式い、諫めは亦た入るる。
肆に成人は徳を有し、小子は造るを有する。古えの人を斁うことなく、髦士をも誉しましむ」
「外界の蛮族は絶滅し、蛮族の悪習も絶やされた。これからは人の言うことを取り入れ、諌めもまた受け入れる。
成熟した大人は徳を湛え、未熟な小子もまたすべきことを為す。老人を遠ざけない一方で、若者もまた楽しませる。
(未熟な小子は未熟な小子で、分をわきまえていればいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思斉より)

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275 2012/03/22(木) 12:00:33 ID:Q44Z3Cs/EM
富を際限なく提供してくれていたのも、神ではなく、単なる生身の権力犯罪者。
しかも、その手管も政商・食客・縦横家と、とっくの昔に東洋で既成され尽くしていたもの。

上記のような手管を用いつつの国際権力犯罪に及ぶことが、中国大陸や日本列島のような
完結しきった閉鎖社会においては致命的な破滅を呼び込むことが、「史記」などの記録を通じて十二分に
戒められていたから、中国や日本では上記のような手管を用いた権力犯罪も未然に食い止められ続けてきた。

また、孟子や朱子による王覇論を通じて、外界征服をひたすら拡大していく覇道よりは、
自国の徳治に専念する王道のほうが優位であることが謳われてきたから、やはり日本や中国のような
儒学の存在する国においては、覇道を捨てて王道を取ることが積極的に嗜まれてきた。

上記のような、世界史上における判例もあった上で、片や欧米聖書圏のほうたるや、
王道よりも劣位とされる覇道によって外界侵略を推し進め、我田引水のための国際権力犯罪を遂行
させるに際しては、政商・食客・縦横家といった、東洋では禁忌とされているような手段までをも行使した。

結果、欧米聖書圏こそは自業自得で、破滅の危機に陥った。

外界侵略が地球全体にまで行き届き、まず覇道を拡大させていくことが近代までに行き詰った。
その後もしばらく、政商や食客や縦横家を用いた国際権力犯罪による欧米聖書圏の我田引水は続いたが、
今日に至って遂に、これ以上そのような我田引水を存続する余地もなくなった。それでいて欧米の側の
内情を見てみれば、どこまでも侵略や我田引水を拡大や肥大化させていくことばかりを念頭に置いた、
ブタのような衆愚の群れで国内が溢れ返っているときた。覇道や国際権力犯罪ありきで成り立ってきた社会が
そのような手段の存続を行き詰らせた挙句に、堅実な内政を疎かにし続けて来過ぎたが故の破滅に見舞われた。

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276 2012/03/22(木) 12:05:34 ID:Q44Z3Cs/EM
覇道や国際権力犯罪ばかりに執着して、自国の王道統治を疎かにした挙句、完全な破滅に見舞われる。
これが「神の業」だというのなら、ずいぶんと神も落ちぶれたものだといえる。もちろん本当は
神の所業でもなんでもない、多少小ざかしげな匹夫小人の悪巧みであったというばかりのことでしかない。

それでいてその、小ざかしい匹夫小人の悪巧みは、見事なまでの犯罪聖書の実践にもなっている。
権力犯罪聖書——通称聖書の余すことなき忠実な実践の先に、あられもない今日の破滅もまたあったのである。

「事を先にして得るを後にするは、徳を崇くするに非ざるや」
「自分が為すべき事を為すのを優先して、何かを得ることは二の次とするのが、徳を高めることになるのではないだろうか。
(イエスの物言いは、まず何かを得ることを第一としていて、それを『神の義の希求』などによって、ごまかしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二一より)

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277 2012/03/23(金) 15:10:44 ID:XtvdWGk2Xs
聖書信者の今日に至る破滅は、欲をほしいままにし過ぎたがためのものである。

エサを与えれば、どこまでも延々と食らい尽くして止まないブタの貪欲さを忌んで、
ムスリムも豚食を禁じている。欲をほしいままにしない手法としてはずいぶん稚拙な部類にも入るが、
少なくとも、欲望を一定以上に肥大化させない指針としては、磐石な機能を伴っているといえる。

キリスト教義の「七つの大罪」のうちにも「貪欲」が入っているが、その大罪としての貪欲すらもが
十字架信仰によって赦されるとされ、イエスの肉を食らうことを祝う「謝肉祭」までもが行われる。
「欲望こそは是だ」というような、悪魔崇拝そのものに当たるような悪徳の標榜まではしないにしても、
欲望を制御する術を一切持ち合わせていないという点では、キリスト教も悪魔崇拝と同等であるといえる。

悪魔崇拝国としての裏の顔を持つアメリカやイギリスだけでなく、純粋なキリスト教圏である欧州諸国もまた、
資本や資源の占有率で全世界のうちでも突出し、一人当たりの生活水準にかけては世界最高レベルをも誇っている。
自分たち自身が現代の権力犯罪にあまり深く携わらずとも、やはり同人種である英米の支配層などとの取引に
よって富裕を得ているからで、米英が直接の権力犯罪大国であるのに対し、欧州は間接の権力犯罪国連合で
あるといえる。いくらそれで、表向きに気品のある生活などを装ってみたところで、米英の悪魔崇拝者と共に
欲をほしいままにしすぎたが故の腐臭が、欧州のキリスト教国の人間からも漂ってくることには変わりないのである。

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278 2012/03/23(金) 15:14:07 ID:XtvdWGk2Xs
「欲張り者は剛毅さに欠ける(公冶長第五・一一の略抄取意)」というように、貪欲は精神の惰弱さこそを元凶とする。
貪欲自体よりも、貪欲の原因となっている惰弱さが本人を悩乱に追いやって、その悩乱を解消する目的で外物への
欲を働かせるという、悪循環を生む。実際には、さらなる貪りなどによって悩乱が解消されることはなく、仮に欲が
一時的に満たされたところで、全く悩乱のほうは解消されていないために、それに対する落胆が加担されたことも相まって、
どこまでも果てしなく、悩乱の解消もできないままに、欲望ばかりをむさぼり続けるという事態に陥ってしまう。

動物のブタが、どこまでも際限なくエサを貪り食らい続けるのも、上記のような心理的理由に基づくのであって、
人間によってイノシシからブタへと品種改造されたことを通じて、ブタも動物ならではの精神障害を患ったのだといえる。
欧米の聖書信者が、どこまでも欲望を貪って止まないのも、やはり全く同じ理由で、際限のない貪欲さの抑制のためには、
それこそブタをイノシシに戻すなみの品種改造すらもが必要になるのかも知れない。もちろんそこまで手荒なことをせずとも、
今の欧米人がそのままで制欲の術をわきまえられたならそれに越したことはないのだが、果たして、ブタに制欲は可能なのやら。

「緝緝翩翩と、謀りて人を譖れんと欲す。爾の言を慎め、爾を信ならずと謂わん」
「ベラベラと不埒な口舌を並べ立てて、謀略によって他人を陥れることばかりを欲している。
貴様のその口舌こそをまず慎んで、自分に人から信用される価値などがないことを思い知れ。
(これはキリスト教徒よりは、開祖のイエス自身や、悪魔崇拝者などに対してこそ言えることだ。妾腹の私生児の
ような不遇に生まれ育って自暴自棄と化した者は、常人が想像も付かないような甚だしさの害欲を抱くことがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巷伯より)

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279 2012/03/24(土) 14:03:05 ID:x1ogUBilWc
「キリストを信じろ」といえば「キリスト以外は信じるな」という含意があり、
「キリストの言うことを聞け」といえば「キリスト以外には耳を貸すな」という含意があり、
「キリストによってこそ救われる」といえば「キリスト信者以外を破滅に陥れる」という含意がある。

常に、自分以外の全てを貶めて、自分だけを是とし、是とさせようとする害他型のドグマが、
聖書信仰の場合はその根本聖典にすら明記されている。イスラムの排他主義ですら、本当は
この聖書信仰のドクマの生き写しなのであり、他者を作為的に貶めることで自分たちを
優等化しようと試みてきた度合いでは、イスラムも聖書信仰には全く及ばないのである。

他者の利益を損なうことで自分が利益を得ようとする我田引水志向は、太古の昔から商売人の悪癖などとして
存在し続けてきた。商品に相応の対価を得るまでが善賈(善良な商人)の営みである一方で、相応以上の
対価をせしめるのが悪徳商人の所業であり、その甚だしさが度を越している場合には摘発の対象ともなった。
旧約の著者や、新約の登場人物となった古代ユダヤ人も、上記のうちでの悪徳商人の部類の派閥だったのであり、
もはや不当利得だけで自分たちが生活しているも同然のような状態だったから、バビロンに捕囚もされた。

商品に相応以上の対価を得ようとする、悪徳商人の所業などに見られる「利害反する有り(韓非子・内儲説下)」
という状態、この状態の是認を信教化したのが聖書信仰であり、そのため聖書信者には必ず、
他者を貶めることで自分たちを優等化しようとする悪癖が具わるようになってしまっている。

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280 2012/03/24(土) 14:03:22 ID:x1ogUBilWc
聖書圏の民衆が、常日ごろから他者を貶めることばかり考えていることをニーチェは「ルサンチマン(嫉妬心)」
と呼んだが、別に民衆が常日ごろから嫉妬心ばかりを抱いているのが、人間社会のデフォルトなどではない。
聖書圏に限っては、他者を貶めることで自分を優等化することが宗教上の理念にすらなってしまっているから、
嫉妬などではなく、もはや義務感によってですら、まずは他者を貶めることを念頭に置いてしまうのである。

他者を貶めることで自分が利益を得ようとする人間は、決して世の中に必須なものなどではない。
ある程度大規模な都市社会には商売人も必要ではあるにしろ、商品に相応の対価のみを得る善賈だけで
十分であり、相応以上の対価を得る悪徳商人は、生じたとすれば全社会を挙げての排除の対象とすべきである。
ましてや、他者を貶めることで自分が利益を得ることが名誉になるなどと見なされるのはもってのほかで、
そのような風潮が世の中に蔓延することを認めないためにも、「他者を貶めれば自分が優等な存在になれる」
とするような誤った考え方を、徹底的な撃滅の対象としていくべきである。他者を貶めることで自分を
優等化しようとするような信教が未だ存在するのなら、それこそ全世界を挙げての撲滅にも取り組むべきである。

「多聞を友とするは、益なり。」
「広く誰しもの言うことを聞き知る者を友とするのは有益である。
(狭く限られたことしか聞こうとしない者を友とするのは無益ないし有害である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・四より)

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281 2012/03/24(土) 22:27:20 ID:iu9AteVtEY:au
儒学道徳は、「純正世間法」。

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282 2012/03/26(月) 16:23:26 ID:Z.rOj3fo9o
「微子は之れ去り、箕子は之れ奴と為り、比干は諫めて死せり。孔子曰く、殷に三仁有り」
「(殷代の末期、紂王の暴虐を憂えて)微子は国を去り、箕子は(狂人のフリをして)奴隷に身を落とし、
比干は(紂王を諌めて怒りにふれ)虐殺された。孔先生は言われた。『殷には三人の仁者が居た』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・一)

重権力犯罪者の暴虐の犠牲となって殺されたり、国を去ったり、あるいはまだ奴隷制が存続していた頃に
奴隷身分に身をやつしたりしている者がいた。「罪の奴隷」などという自己陶酔じみた比ゆではなく、
本当に社会身分上の奴隷に身を落とす、その一方で、重権力犯罪者のほうはお縄ひとつ頂戴することなく
延々と放辟邪侈に明け暮れ、何とか自分たちが罪責を免れ続けようと執心し続けている。

いっそのこと、本当に奴隷になってしまえばいい。

奴隷制なんか、もうシラフの社会で公布されるべきものでもないが、重罪まみれの酩酊に陥っている者に
限っては、禁治産や参政権剥奪などの処分を通じて、奴隷や半奴隷も同然の立場に自分たちを置くのだ。

実際に、今の資本主義後進国では、まだ奴隷でいたほうがいい生活を送れるほどにも酷烈な困窮下に
置かれている者が何億人にも上っている。それも、資本主義先進国から、長年の国際権力犯罪被害に
見舞われ続けて来たからで、資本主義先進国である欧米キリスト教圏の人間が、行為能力を制限されながらも、
一定度の生活は保障される奴隷身分に置かれたならば、独占していた余剰資本が後進国にも回されて、
誰一人として、今のアフリカやインド並みの貧窮に置かれることのない地球社会が実現されるのである。

箕子も狂人のフリをして奴隷に身をやつしたというが、奴隷なら狂人でもできる。
邪神信仰で気が狂ったうちからでも奴隷身分にみをやつし、自分たちの過ちが認められない限りに
おいてそのままであり続け、過ちを認められたところから少しずつ常人としての身分を回復していく。
地球人類の滅亡を食い止めるためにさしあたって行使される措置も、そのあたりが現実的なものになる。

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283 2012/03/27(火) 12:38:41 ID:eQVz7MoHTE
いわゆる、キリスト教徒の「まともな側面」というのは、ちっとも聖書の教義に根ざしていない。

自殺の禁止も、マニ教を通じて仏教からパクったものだし、
クリスマスに家族で集まって祈りを捧げて、家族の結束を高めたりすることも、
親子兄弟の殺し合いを予言しているイエスの言行には、真っ向から反している。

聖書教義には完全に逆らいながらも、クリスマスに家族と食べるチキンなり七面鳥なりが
うまいというのなら、それはむしろ、孝悌を尊ぶ儒学の教えに即してこそ、うまいのである。
犯罪聖書の神に逆らい、四書五経の孔孟らの教えに従うことでこそ、腹を満たしている。
もちろんキリスト教徒が意識的に聖書の教義に逆らっているわけでも、四書五経の教えに
従っているわけでもないが、結果としては、聖書に逆らって四書五経に従ってもいるのである。

そもそも始めから、キリスト教徒たち自身からして、聖書の教義を全面的には受け入れていないのである。
みんながみんな、イエスの代わりに放免される重罪人バラバのようであるのでは世の中も立ち行かないから、
欧州人も最悪の汚れ仕事はイギリス人やマフィアや外国人部隊に任せ、アメリカでも最悪級の金融犯罪などに
直接手を付けているのは、一部の人間に限られている。それらのような深刻な病巣を、聖書信仰を通じて抱え続けて
いるが故に、欧米の全聖書教徒が重大権力犯罪の従犯とも化してしまってはいるわけだが、ほとんどの聖書教徒は、
聖書よりもむしろ儒学や仏教の教えに近似しているような、かりそめのキリスト教教義を通じて気休めもしているのである。

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284 2012/03/27(火) 12:39:56 ID:eQVz7MoHTE
聖書の教義に逆らい、儒学や仏教の教えに従ってきたぶんだけ、キリスト教徒もまた、毅然としていられたのである。
始めから聖書の教えだけに従っていたりしたなら、自分たちのあり方に、寸分の正当性も見出せはしなかった。

聖書信仰は、現実に教団経営を成立させていくことを通じて、女が男になるほどもの変質を来たさざるを得なかった。
そしてその、女が男に変質したぶんだけの差分は全て、異教異学や普遍道理からの借り物でしかなかった。
故にこそ、キリスト教徒は自分たちが、今まで2000年近くにも渡って教団経営の伝統を貫いてきたことを、
聖書信仰を存続させるに値する証拠であるなどとうそぶくこともできないのである。儒学や仏教の
教えに相当するものの借用がなければ、とっくにキリスト教徒などもこの世から絶えていたのだから。

「小人の腹を以て、君子の心と爲さんことを願う。屬厭せんのみ」
「小人の腹は他愛もなくすぐ満たされるものですが、この腹を以って君子の心に代えさせていただきたいものです。
(腹が満たされる満足感と君子の心をすり合わせたりするのは、あくまで小人の所業だが、それもまあよしとしする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十八年より)

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285 2012/03/28(水) 15:43:44 ID:UNhuKVJDwg
孔子が魯の宰相をしていたころ、諸侯の前で不純な音楽を垂れ流す外人が居た。
その男を孔子は礼法違反で処刑した。(「史記」孔子世家を参照)
孔子をただの書生として見くびっていた人々は、それで孔子を見直したが、同時に場違いな
ほどにも礼法に厳格である孔子が、乱世の権力者から遠ざけられる機縁ともなったのである。

礼楽刑政がろくに実践もできない乱世だったから、孔子や孟子も道徳思想を私的に体系化したのである。
すでに詩書礼楽による統治が実現できるようになった漢代においては、陸賈や随何、
叔孫通や董仲舒といった数多の儒者が実際に礼楽統治を敷いていったわけだが、
その創作的な儒者としての業績は、孔子や孟子に遠く及ばないものとなっている。

特に、戦時中は儒学の実践も完全に投げ出していた、叔孫通あたりの立場を慕って言わせてもらうなら、
礼楽統治なんてものは、人工的に実施されない限りにおいては、全く有効化しないのである。

秦始皇帝によって全中国の封建制が廃止された結果、体制転覆と大戦争の後に、
ただの百姓の血筋である劉邦が漢帝国の帝王として全中国を治めるに至った。一方で、
その劉邦こそが、始めは儒者嫌いだったのを、陸賈の誠実さなどから段々儒学を許容し始め、
最終的には詩書礼楽による統治をも取り入れて、400年の長きにわたる治世の礎をももたらしている。

儒者の説く道理も、絶対真理とまではいかないから、確かに世俗的に無効化されることもあるのである。
それどころか、礼楽による統治は人工的に盛り立てていくのでなければ実現し得ない
ことだというのを積極的に認めて行きすらするのであり、一旦礼楽が全国的に廃止されきったならば、
孟子のような、諸侯に対する大上段の構えすら辞さないのである。

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286 2012/03/28(水) 15:48:05 ID:UNhuKVJDwg
「非礼の礼、非義の義は、大人はなさず(既出)」
「偽りの礼、偽りの義などを大人は決して行いはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・六より)

乱世にかりそめに通用させようとするような、変則的な礼儀作法などは、かえって儒者は認めもしない。
世に広く礼楽統治を敷いて行こうとする志しが高ければこそ、ごく狭い範囲だけで適当に
取り決めているだけの「業務用」の礼儀作法などは、鼻であしらう。だから儒者も古来より、
礼儀作法などクソ扱いする道家の論弁にもまたそれなりに耳を傾けて来たのであり、
礼儀作法ばかりに専らであるのが儒者の全てであるなどと思ったら、大間違いなのである。

むしろ、礼儀作法など一切通用せず通用させない事態こそを、一旦は望むのである。
宮廷の柱を剣で打って傷つける輩がいるほどにも、無礼講が当たり前の事態と化していたのを憂慮して
初めて、卑賤の出身である劉邦も叔孫通に礼楽による統治の実施を打診した。未だ礼楽の気風が
残されているのであればまだしも、もはや礼楽など全国的には過去の遺物も同然とされている
ような事態にすでに至ってしまっているのならば、むしろ完全なる無礼講の後に礼楽を再生して
いくことのほうを望む。そのほうが、陰極まってこそ陽となる、陰陽法則にも適っているのだから。

「白馬翰如たり、寇するに匪ず婚媾せんとす。〜寇するに匪ず婚媾せんとすとは、終に尤无ければなり」
「飾り気のない馬に乗って、疾駆して馳せ付ける。その質素さに驚いて、侵略して来るものかと
勘違いするかもしれないが、むしろ結婚しようとするのである。これが咎のない結婚の仕方となる。
(江戸時代までの日本の結婚式は締まりにくい夜に行われていたし、婚礼はむしろザックバランであるほうがいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・賁・六四‐象伝より)

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287 2012/03/29(木) 11:39:34 ID:kuY9HmlI9I
君子は天命を実現するために命を賭すことも時に辞さないが、
かといって、酔狂での博打までは打たない。確実な成果が期待できるわけでもない
危うい試みへと確信を持って従事していくことなどは、忠孝の心がけによって戒める。

主君にしろ親にしろ、臣下や子である場合の自分などと比べて、えてして老獪で、慎重深いものだ。
立場や年齢の高さからなる保守性の高さに対して、時に臣下や子のほうが旺盛な積極性によって
働きかけるべき時すらもがあるが、その逆に、過剰なほどもの主君や親の保守性の高さへの配慮を、
臣下や子である側が、自らのはやり過ぎからなる失策を食い止めるための命綱ともしていくのである。

君臣父子の忠孝関係すら破綻したところに、紛れもない、人としての不善が備わっている。
少なくとも、忠孝関係を保ちつつ事を成すことが、人としての最善を尽くすことになるのと比べて、
忠孝関係を損ないつつ何かをすることは、どんなことであっても、最善を尽くすことにはならない。
だから、忠孝を守りつつ何かを為す場合以上の危険までもが、必ず伴うことになるのである。

何かに確信を持って従事していくというのなら、それは忠孝を保てることに関してでこそあるべきだ。
イエスの言うような、親子兄弟の殺し合いを助長するような行いや信仰に確信を持つことだけは、
絶対に避けるべきことで、むしろそれこそは、確信を持って厭い離れるべきものであるといえる。

子が博打にはまって身を滅ぼすことといえば、子が凶悪犯罪者になってしまうことの次ぐらいに
親を悲しませることだ。博打にも色々とあるが、カルト宗教にはまるのも一種の博打であり、
その教義の内実がどんなものであれ、わが子を愛する親が子を近づけることなどを決して好むものではない。

一方で、親が子に対して確実に奨励できるのは、「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」のような、
どこにも不可解さのないしごく当たり前な徳目の厳守だ。「とにかく、それぐらいのことだけは守ってくれ」
という、最低限の平安を願う気持ちを込めて、親は子に当たり前な範囲での徳目の厳守ばかりを促す。

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288 2012/03/29(木) 11:42:59 ID:kuY9HmlI9I
四書五経に書かれてあるのは、特にそのような当たり前の徳目が主である一方、犯罪聖書に書かれて
あることは、決して当たり前ではない、奇を衒うことばかりに特化された、不可解な教義ばかりである。
仏典に書かれてあることなども時に不可解ではあるが、よく読んでその意味を理解してみれば、
やはり親を不安にさせるような不安定要素は、徹底して省かれていることが分かる。
逆に犯罪聖書をよく読めば、本当に親を悲しませるようなことばかりが書かれていることが分かる。

親が絶対に安心し続けていられるような、当たり前な徳行だけをやり続けていれば、必ずそれこそが
最善を尽くすことになる、とも限らず、親すら付いていけないような高尚なところに、さらに最善を尽くす
余地がある場合もあることが、仏教の存在などからも計り知れるが、かといって、忠孝を損ない尽くすのではなく、
結果的には世の中の忠孝関係をより促進する試みでもあって初めて、それがより最善を尽くすことにもなる。

結果が「親子兄弟を殺し合わせる」なのでは、どうあっても、よりよいなどということが決してあり得ない。
善の根本を完全に損ないつつ何かをすることで、何かが少しでも善くなるなどということは、三世に渡って
あり得ることではない。そして当然、何も善くなることが期待できないことなどに、決して確信を持つべきではない。

「夫れ達なる者は〜慮って以って人に下る。〜夫れ聞なる者は〜之れに居りて疑わず」
「達観者は、人に謙るにしてもよく相手を慮る。うわべの評判だけを気にするものは、これと確信した
ものは二度と疑おうともしない。(小人には信義ぐらいしか守るべきものが見つからないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二〇より)

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289 2012/03/30(金) 13:29:57 ID:1P/Oq4pgmE
調味料や明暗に喩えるなら、聖書信仰は「糖と闇」の宗教だといえる。

文面でそう書いているわけではなくても、塩と書いてあるものが
実際のところ糖であり、光と欠いてあるものが実際のところ闇である。

精神力を培わせる塩の摂取は最小限に控えさせ、逆に精神をとろかしめる
糖ばかりを多量に摂取させて、信者を暗愚な精神へと追いやる。

実際にそれと同等の占領措置を、聖書信者ではない日本人に戦後、聖書圏である
アメリカが強いても居り、そのため元々は世界でも屈指の血気盛んさ備えていた
日本人が今では、それはそれは暗愚な耄碌者ばかりと化してしまったのでもある。

本当に「塩と光」の宗教であるのは、神道だったり仏教だったりする。それに対し、
聖書信仰だけでなく、イスラムを含むアブラハム教全般が「糖と闇」の宗教であり、
そのため甘いものを好む女子の領分である愛を「神の愛」とまでいって標榜しもする。
ただ、アブラハム教のうちでは、イスラムだけは神の愛に「慈愛」が伴っているため、
信者の健康を慮って、糖分の取りすぎによる極度の暗愚への陥りを戒めてもいる。
(その手段が豚食や飲酒の禁止だったり、確信的な女性差別だったりもする)

糖を絶対に摂ってはならないなんてことはないし、闇を全否定するのも実際、無理な話である。
ただ、塩や光と比べれば、糖や闇は低く置かれて然るべきものであり、それでこそ人の健康も
増進される一方、糖や闇を優先して塩や光を劣後したときに、人は大きく健康を損なうのである。

心も病むし、身体も病む。塩分摂取を減らされて糖分摂取を過剰化させられた
戦後の日本人たるや、精神が惰弱化しただけでなく、外貌までもが極端にだらしないものとなった。
そして確かに見た目に相応の、糖尿病などの成人病にも悩まされていて、インシュリン無しでは
生きていけないほどにも、ひどく健康を損なってしまっている場合も多々ある。

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290 2012/03/30(金) 13:32:33 ID:1P/Oq4pgmE
医療技術の進歩によって、確かに現代人の平均寿命は伸びたが、それによって精神寿命は
「中二(14才)」あたりまで縮んだ。中学二年あたりで日本の青少年の多くは、今の世の中の
大人の誰しもが精神的に死んでいることに気づいて憤る。自分がそんな大人になりたくないと思いつつも、
自殺でもしない限りにおいては、やはり世の風潮に流されて、自分もまた精神的に死んだ大人へと成長する。

「聖書信仰こそは、腐った大人を量産する社会的元凶である」ということを以前にも述べたが、
まさに、糖分の摂りすぎと同様の精神的暗愚をもたらすことこそは、聖書信仰が腐った大人を量産して
しまう原因であるといえる。甘いものというと、いかにも「子供が好きなもの」というイメージがあるが、
大人でありながら未だに甘いものばかりを好き好めことで、かえって心身の腐乱を招いてしまうのである。

実際の栄養面でも、糖分を控えて塩分を十分に摂ることが、心身の健康を保つ糧となる。
そしてそれと同じように、聖書信仰を廃絶して仏教や神道などを再興していくことが、
宗教信仰の側面における心身の健康を保っていく源になる。

学問面では、儒学が「塩と光」の学問であり、洋学が「糖と闇」の学問であるため、
洋学を控えて儒学をよく学んでいくことが、健康の増進になる。洋学はなかなか
廃絶とまではいかないだろうから、それこそ「控えめ」ということでいいのである。

「王曰く、来たれ、汝、説。〜若し和羹を作さば、爾じは惟れ鹽梅」
「王の武丁が宰相の傅説を呼んで言った言葉。『もし吸い物を作るとすれば、おまえはそこに投入する塩だ』
(味付けの肝である塩でありながら、王君の下に置かれる臣下である。君臣の義の妙であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)

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291 2012/03/31(土) 13:39:51 ID:AURYZdHWIQ
実物の親には、いい面だけでなく悪い面もいくらでもある。
その親をまずは畏敬の対象とした上で、いい面を受け継いで悪い面を是正していく。
その時にこそ、極端な自己愛にも自己嫌悪にも振り切れない、己が身の程のわきまえも備わる。

では、孔子のように母子家庭で育った妾腹の私生児であり、身元が割り出せたときには
すでに父親も死んでいたとする。その時には、無計画な野合で自らを産ませた父親を、
これまた敬服の対象とはした上で、その過ちを是正していくことを自らの本分ともしていく。
妾腹の私生児ほど、親を反面教師として、自らが精進していく立場に恵まれた人間も
他にないのであり、親がダメな人間だったり、大きな不手際の持ち主だったりすることは、
自力作善による大成の余地を踏まえてみれば、決して完全な不遇であるとも限らないのである。

親が代々祟られかねないほどもの重犯罪者だったりするのならともかく、
妾腹の子を作ってしまったとかの、犯罪とまではいかない失態の持ち主であるという場合、
自らがその恥辱をバネにして大成する余地が確かに生ずる。ただ、親の恥辱をバネにするためには、
まず親を敬うことが必要で、それによって恥辱からなる鬱屈や自暴自棄を克服していかなければならない。
それを怠って、親を敬服どころか嫌悪の対象にすらし、自暴自棄状態で脳内超越神の親などを捏造して、
脳内超越神への偏愛にこと欠けた自己愛や小集団愛を募らせていったとすれば、
それこそ未曾有の害悪をもたらす大失態の積み重ねとなるのである。

妾腹の私生児でありながら聖人君子として大成した孔子と、世界中の鬼畜の親分と化したイエスと、
両者を決定的に断絶したのは、本物の親に対する敬愛の有無だった。片や孝子の鑑となるほどにも
父子の親の保全に努め、片や親子兄弟の殺し合いを促す、父子の親の決定的な毀損者となった。
そこから、全世界全人類の繁栄と滅亡とを決定付ける教学までもが枝分かれしたわけだから、
まさに父子の親を旨とした孝悌こそは、世界人類の存亡栄辱をも決定付ける理念だったのだといえる。

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292 2012/03/31(土) 13:41:28 ID:AURYZdHWIQ
君臣の義はともかく、父子の親までをも徳治の要とする儒家の主張は、それだけを見ても正直、
納得し難いところがある。実際にそう主張する儒学道徳を実践することで、何百年もの治世を実現
してきた統一政権がいくつもあるわけだから、それを以って忠孝の妥当性の証拠に代えることも
できなくはないが、逆に、父子の親の確信的な毀損を教義とすることで、人類滅亡の危機を招いた
キリスト教の存在もまた、忠孝を旨とする儒学道徳の正当性を背理的には証明してくれたのだといえる。

数多の犠牲者をはじき出している手前、まだあまり大きな声でも言えないが、父子の親を崩壊せしめる
キリスト教災禍による人類社会の破滅が、今後の人類社会における、忠孝を旨とした徳治による、
治世の磐石化を決定付ける機縁となってくれるのであれば、それに越したこともないといえる。

「葉公、政を問う。子曰く、近き者説び、遠き者来たる」
「楚国の葉県の知事が孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『近隣の人々は治世を喜び、遠方の人々もまたその評判を聞いて慕ってくるようであるべきです』
(遠方の人々を傷つけて隣人ばかりに懇ろであったりするようでは、そうはいかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一六)

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293 2012/04/02(月) 14:41:44 ID:WJxOe2F2Pg
人としての健全なプライドは、自らの家や、その家を背負って立つ自分自身にこそ備わる。

妾腹の私生児として母子家庭に育った孔子ですら、父親の身元を自分で確かめて、
孔家の継承者としての尊厳を克ち得て後に、聖人君子としても大成した。
あらかじめ名家に生まれた場合だけでなく、不遇の家庭や卑しい家系に生まれた
場合においても、やはり家を背負って立つ所にこそ、真正な誇りが備わり得る。

本物の誇りというのは、あまりあからさまに誇り高ぶるものでもない。
家を背負って立つということは、父や祖父や曽祖父の家督を継いで行くということであり、
特に父や祖父あたりの、存命中に親しめる間柄のうちには、親の善い面も悪い面も
同時に知らされるところが多いため、決して無条件に誇り高ぶれるともいかない。

仮に自らの父親が徳川家康のような完璧帝王だったとしても、
その家業を将軍職などとして継いで行く場合には、二代将軍秀忠のように
薄氷を踏むような思いでいる必要があるため、全く誇り高ぶっている余裕などもない。

じゃあ、人はどういう場合に誇り高ぶるかといって、卑賤を開き直った時に誇り高ぶる。
公家よりも下に置かれる武家の立場から公家の地位を奪い取り、太政大臣などの重職を
簒奪した平氏なども、だからこそ驕り高ぶったのであり、自分たちの目に余る僭越さ
からなる心の不安定さを埋め合わせるためにこそ、異常に高ぶったりもするのである。
(君子は泰らかなりて驕らず。小人は驕りて泰らかならず。子路第十三・二六)

人としての正しいプライドが備わっているのであれ、いないのであれ、誇り高ぶったり
することはしないか、せいぜい酒席の場でのおふざけぐらいで済ましておくべきである。

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294 2012/04/02(月) 14:44:45 ID:WJxOe2F2Pg
漢の高祖劉邦なども、若い頃から誇り高ぶってホラを吹くクセがあったらしいが、
それとは裏腹に臣下の言うことにはよく耳を傾けて、自らに過ちがあれば即座に
改めてもいた。これこそは、劉邦の誇り高ぶり癖が単なる虚勢だった証拠であり、
誇り高ぶりなんぞがただの虚勢であったればこそ、かえってよかった。

平清盛存命中の平氏のように、驕り高ぶりが完全な真性となったとき、本人たちが
自業自得での破滅に至るに及んで、全くの救いようもなくなる。高ぶりをもはや拭い去る
こともできないため、自分たちから救いの手を振りほどくようなことになってしまう。

歴史上において、投降すらすれば救われそうなものを、自らあえて最悪の乱暴に
及んで身を滅ぼしたような類いの人間がかなりの人数見受けられるが、それら全て、
もはや誇り高ぶりを捨て去ることもできないほどに肥大化させてしまった者どもである。

天命のために命を賭したりしたわけでもない、単なる無駄死にであったには違いなく、
そのような死に方がいくら悲劇的なものとして持て囃されるのであっても、決して範と
するには値しない。話として面白いのと、見習うべきなのとは、全く違うことなのだから。

「驕淫矜侉、将に悪に由って終えん。放心を収むると雖も、
之れを閑ぐこと惟れ艱し。資富能く訓えば、惟れ以て年を永うせんに」
「(紂王の放辟邪侈にあてられた元殷の民たちは)誇り高ぶりによるうぬぼれがひどく、
このままでは最悪の末路を辿ってしまうことになりかねない。不埒な思いを一時ぐらいは
収められたとしても、完全に防ぎ止めるのもなかなか困難なこと。(人から嫉まれる原因になる)
財産があっても、やたらと誇り高ぶらぬ恭謙の資質があったなら、長命を全うできるというのに。
(無闇に誇り高ぶって長命を全うできることわりはどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)

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295 2012/04/03(火) 14:31:41 ID:OpTKghfRec
快川紹喜の「心頭滅却すれば火もまた涼し」という辞世の句など、
ただ極重の苦難を耐え抜くだけでなく、そこに余裕すら保っておこうとするきらいがある。

実際に、禅の根本聖典である華厳経にも、「菩薩は地獄の苦しみにも耐えることで悟りを得る」
ということが多々書かれていて、その悟りの味は甘露の如きであるともいう。当然、舌の感ずる甘みではなく、
眼耳鼻舌身意といった感覚器官の苦楽を超越したところにある悟りの常楽が、あたかも甘露のようであるということ。

苦しみを耐え抜いた後に楽しみがあるのではなく、身体的な苦しみのさ中にすら悟りの楽しみがある。
もちろん苦しみ自体を快楽だなどと倒錯するマゾヒズムではなく、身体的な苦しみを超越した所にある悟りを楽しむ。

それは実際困難なことで、それと比べれば、身体的苦痛や不遇からなる苦しみにヒイヒイ喘いでいるほうが
よっぽど簡単なことだ。苦しみを諦観する所には多少なりともの向上が見られる一方、ただ苦しみに引きずられて
喘ぐばかりという所には何の向上もなく、ただ身心をすり減らせて不健全な損壊を招くばかりのことである。

孔子も「粗末な食事と水程度の飲み物、肘を枕にした就寝にも楽しみがある(述而第七・一五)」といい、
「悪意悪食を恥ずる者は友とするに足らず(里仁第四・九)」というから、困窮すら楽しめることを是としている。

一方で、春秋戦国時代の大権力犯罪者である蘇秦は、自分がろくな仕事に就いていないことを親族に責められて憤り、
一念発起して諸国の合従連衡を取り付けて大金を稼ぎ上げ、それにより乱世をさらに激化させたというし、
秦帝国の宰相だった李斯も、便所を走り回るネズミを見て「成功しない人間はあのネズミとも同じだ」と考え、
親友の韓非をも獄中で自殺させるほどもの熾烈な権力争いに身を投じ、
挙句には自らも宦官趙高の計略にはめられて失脚し、処刑されている。

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296 2012/04/03(火) 14:33:35 ID:OpTKghfRec
孔子や顔淵のように困窮を達観できるわけでもなく、むしろ蘇秦や李斯のような困窮へのコンプレックスを抱き、
そのコンプレックスをばねに重権力犯罪者と化して、世の中にあるよりもないほうがマシなほどもの危害を
もたらすというのであれば、むしろそこそこの平凡な生活にでも甘んじてもらってくれたほうが、遥かに助かる。

権力犯罪者としての危うい綱渡り業務などに及ぶよりは、そこそこの生活を手に入れることのほうが遥かに
無難なことであるに違いなく、そのために耐え忍ばねばならない恥辱なども、遥かに少なくて済むはずである。

ということはつまり、「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などと誉められたりする所に、真の名誉はないのである。

儒者や菩薩のように、苦しみすら達観する者はそこにすら楽しみを見出すから、苦しみに耐え抜いたことを
誉めたりすればむしろ、本人たちの達観を「やせ我慢」扱いする名誉毀損にすらなってしまう。もしもそこに賛辞を
送りたいというのなら、極重の苦しみすら楽しみに代えてしまえるそのあり難さへの畏敬をこそ抱くべきなのであり、
「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などという、大人の子供に対するかのような失礼な誉め方は決してすべきでないのである。

そして、苦しみをバネに何でもしてやろうとする、蘇秦や張儀のようなならず者も、決して賛辞の対象とすべきでない。
故に、一端の行為能力を持つ大人に対して、苦しみに耐えることを上から目線で誉めていいような道理はないのである。

「人は楽しむなきに耐えず」
「人は楽しまないでいることに耐えられない。
(罪福異熟も権力犯罪者の側の悪因苦果よりは、道徳者の側の善因楽果からなる歓喜こそが
人々に感銘を与えることで、洗脳状態の人間の心の凍て付きの瓦解を招いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)

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297 2012/04/03(火) 15:00:19 ID:LBdt7MW74g:au
×蘇秦や張儀
○蘇秦や李斯

張儀も、蘇秦と並ぶ戦国時代きっての大悪党で、
袋叩きにされて小便を引っかけられても、弁舌一つで
世の中を引っかき回すことをやめなかったというから、
「蘇秦や張儀や李斯」と訂正してもいい所だ。

孟子は張儀を「婦女子」扱いして揶揄しているが、
権力犯罪者の活動の気概となる「困窮へのコンプレックス」は、
婦女子であればほぼ漏れなく持っているものだといえる。

婦女子自身がそうであるのは、我が子を豊かな境遇で産み育てたい
母性本能から来るのでもあるから、必ずしもいけないことじゃない。
ただ、男が社会的な大成を志すのでも、逆に社会的欲求を捨て去るのでもなく、
自らの地位の低さからなる劣等感にかられて妄動したりするのならば、
それこそこの上なく無様な所業であるといえる。

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298 2012/04/04(水) 14:17:33 ID:MQpftBvjsc
聖書信者に、人並み以上に喜び祝うべき将来などやって来ない。聖書を信じて
その忠実な実践に務めてきた分だけ、人並み以上のより大きな悲しみに見舞われる。

それこそは、「さてしもあるべきことならねばとて(蓮如)」でもある。
悲しむべき、悲しまねばならないことを無理に喜び祝おうとしたなら、
それによってさらに後々に、より悲しむべき、悲しまねばならない大惨事を招く。

最終的には、人類滅亡という絶対不可避な破滅の危機に見舞われて、想定し得る
限りでも最大級の悲しみを受け入れるか、もしくは滅亡を選択するしかなくなる。

そしてそれが、今である。

性懲りもなく凶事を喜び祝おうとするのなら、それは滅亡を選択することになる。
悲しむべき、悲しまねばならないことを相応に悲しむことを受け入れて初めて、
自分たち自身を含む人類の滅亡を回避することを選択することともなる。

たとえば、天下の泰平や国家の長命などは、真に喜び祝うべきことだといえるが、
聖書信者はむしろ、このような公共性を伴った福寿を祝うことを避ける傾向がある。
それでいて、個々人の狭隘な利益の獲得などのほうを執拗に喜ぼうとする傾向があり、
悲しむべきことを喜び祝おうとするだけでなく、喜ぶべきでないことを喜ぼうとしたり、
喜ぶべきことをさして喜ぼうともしなかったりまでするのである。

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299 2012/04/04(水) 14:17:53 ID:MQpftBvjsc
喜怒哀楽の規範が、完全に狂いきっている。
悲しむべきもの、喜ぶべきでないものを喜び、喜ぶべきものを喜ばない。
その結果、普遍的に喜ぶべき物事を立ち消えにさせ、普遍的に悲しむべき
物事をより増長させる。最終的には人類滅亡の危機までをも呼び込んで、
人類史上でも最大級の悲しみを受け入れねばならないような事態にまで、陥ってしまう。

典型的な狂生の末路であり、どこにも疑問点の見当たらない、悪因苦果の因果応報である。
物質的な側面だけでなく、精神的な側面においても因果応報は着実に結実し、邪信にねざして
心を偽って来たことにもまた、それ相応の苦果が実る。そしてその苦果こそは、絶望的である。
自らの心を偽ることを信者にけしかけて来たことこそは、聖書信仰にとっての最大の大罪だといえる。

「喜怒類を以てする者は鮮なく、易うる者は実に多し。詩に曰く、君子如し怒らば、乱庶くば遄かに沮み、
君子如し祉いせば、乱庶くば遄かに已むと。君子の喜怒は、以て乱を已むるなり。已めざる者は、必ず之れを益す」
「喜ぶべきことを喜び、怒るべきことを怒る者は少ないが、これに違う者は非常に多い。詩経(小雅・巧言)にも
『君子が怒るべきものに怒れば、乱も速やかに止む。君子が喜ぶべきことを喜べば、これまた速やかに乱は止む』
とあるが、君子の順当さをわきまえた喜怒哀楽は戦乱を収める一方、これに違う場合には、えてして乱を増すのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十七年より)

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300 2012/04/05(木) 14:00:24 ID:0jV8dzji8g
曾子が年老いて病の床にあるとき、門人に自らの手足を見せて、どこにも傷一つないことを、
「親からもらった身体を終身大事にして来た証拠だ」として誇る泰伯第八・三の逸話。
これは孝悌という、人間精神の根本を誇りとする、非常に威儀深い逸話であるといえる。
(病中の呻吟だから、誇り高ぶりであるとまでは言えない)

そしてその曾子が、「肩をそびやかしてへつらい笑うのは、真夏の炎天下で田畑を耕すよりも疲れる(滕文公下・七)」
ともいう。商売人か奴隷のようにプライドのかけらもなく他者に媚びへつらうことが、孝悌にかけては年老いるまで
薄氷を踏む思いで心尽くしてきた曾子にとってこそ、最大級の肉体的重労働よりも苦痛となるのだという。

プライドにも色々とあり、孝心からなるような真のプライドもある一方で、我流の評価基準に根ざした
全くの無根拠なプライドもまたある。無根拠なプライドは「身の程知らず」の最たる証拠ともなり、それこそ
真のプライドに即するなら、身の程知らずの謗りを拭いたいがために、無根拠なプライドのほうは率先して捨て去るのである。

孝悌に基づくような真のプライドを欠いたところでこそ、逆に無根拠なプライドのほうが肥大化する。
その無根拠なプライドへの依存が高まりすぎて、捨て去ろうにも捨て去れなくなったとき、
無根拠なプライドからなる高慢を阻害する原因となる、孝悌の心がけもまた困難と化してしまう。

実の親への子の孝心を否定して、虚構の超越神への絶対服従を強制する犯罪聖書の教義は、まさに孝心からなる
真のプライドを信者に損なわせて、虚構への服従からなる身の程知らずな思い上がりを蓄えさせる、最たるものである。
肩をそびやかしへつらい笑うことも何ら苦としない下衆がそこに生じ、徳行と楽しみと犯罪の苦しみの区別も付かない、
人としての最低限の品性すら持ち合わせぬ、餓鬼畜生の内面を持つ人非人の群れがそこに生じるわけである。

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301 2012/04/05(木) 14:02:28 ID:0jV8dzji8g
孝心に基づく真の誇りと、脳内超越神への服従に基づく偽りの誇りとは互いに相容れず、
どちらかを嗜む以上は、かならずもう一方が排斥の対象となる。特に何の嗜みもない所に孝心を抱けたなら、
それが脳内超越神への服従を排斥する予防手段となるし、すでに脳内超越神への服従という病に侵されている場合にも、
意識的に孝心を持ち直すことで、無根拠なプライドからなる、身の程知らずな思い上がりを滅尽していくことができる。

「今さら親への孝心を抱くことなんか、こっ恥ずかしい」、現代人の多くは、そう考えもするに違いない。
それもまた犯罪聖書の記述を始めとする、醜悪な邪義に知らず知らずのうちに洗脳下に置かれて来たからなのであり、
「人類滅亡の元凶ともなっている世界最悪の邪教=聖書信仰をこの世から撲滅するため」という大義によってこそ、
現代人もまた、今さら意識的に抱き直すのも気恥ずかしいところのある孝心を持ち直すのが、便利だといえる。

「茲れ殷の庶士、寵に席ること惟れ旧しく、侈を怙みて義を滅す、服人より美なり」
「殷人はみな紂王の寵遇を長く受けてきたため、贅沢ばかりを誇りとして道義を無きものとしている。
服装も分不相応に華美である。(この後>>294の引用に続く。贅沢を誇って道義を滅しているのは聖書信者も同じである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)

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302 2012/04/06(金) 14:14:43 ID:B7H.iefRY6
キリスト教団が、上座部仏教から剽窃して自分たちの根本教義とした「自殺の禁止」、
これはあくまで上座部仏教教義のカタワな剽窃であり、上座部の経典「法句経」のほうには
「無賊害心(何ものをも害する心を持つことなし)」とあり、自害だけでなく、
他者への危害も同時に戒めるのが、本来の正統な宗教教義となっている。

上座部だげでなく、大乗の根本経典である「華厳経」にも
「自らを害せず他を害せず、両ながらに害せず(十行品第二十一の一)」とある。
大乗仏教の場合、密教が自殺行為も同然の荒行に及ぶ場合があり、必ずしも「自らを害せず」
のほうは守られていないが、これは仏教ではなく、仏教以前の実践派宗教であるタントラ教に根ざして
仏の悟りを得ようとする試みであり、純粋な仏教教義としては、大乗も自他を害さぬことを基本としている。

自らを害さず、他者をも害さぬことが、善因楽果の異熟(トートロジー破綻)をも結実させるのであり、逆に
もしも自他を害することに専らであるのなら、それが仏説への違背となるが故に、悪因苦果の異熟を実らせるのである。

自害の禁止は、本当は聖書教義に根ざしているわけでもないにも関わらず、キリスト教団も無理やり
実行してきた。それは決して悪因苦果の温床にもならなかったが、聖書教義に根ざして、他者を害する
風潮だけは大々的に肯定してきたことが、紛れもなく、甚大な悪因苦果を催す元凶ともなってきた。

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303 2012/04/06(金) 14:14:53 ID:B7H.iefRY6
自害は禁止するにも関わらず、他害は根本的な倫理違反として来なかった点が(法律で取り締まるぐらいはあった)、
キリスト教教義の決定的に不完全な部分であった。本当は自他を害しようとする害為全般をよからぬものとすることが
完全なる宗教教義だったのであり、それは即ち、聖書教義ではないと共に、仏教教義である教義だったのだといえる。

宗教教義や、戒律法規に囚われすぎることをよからぬこととする、神道や儒学などの立場もある一方で、
かりに宗教的な戒律に即するというのなら、仏教のような優等な宗教の戒律に即するべきであり、
聖書教(必ずしも現実のキリスト教は聖書教そのものではないが)やその他の有象無象の劣悪な邪教は拠り所と
しないようにすべきであるといえる。そして、教学全般をいちいち頼りにしない、無為自然第一の道家的な
趣きもあり、もう教学論争なんかにいちいち構っていたくないとすることもまた、決して赦されないことではない。

「人能く人を害するを欲すること無き心を充いにすれば、而ち仁も用うるに勝うべからざるなり」
「人がよく他者を害することを欲しない心を大いにしたならば、仁徳もその全てを用いきれないほどに広大となる。
(他者への害心を無制限に肥大化させていったりしたのなら、それに反比例して仁徳も窄むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三一より)

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304 2012/04/07(土) 14:27:15 ID:syjv4H5XHQ
人間精神には、先祖代々の血筋からなる先天的な志向性というものがある。
それは、無理に従おうとせずとも自然と受け継がれるものであり、その志向性の善い部分を
ありのままに受け継いで、悪い部分を修正していくために必要となるのが、親への孝心にあたる。

では、親への孝心を邪神信仰などによって完全にかなぐり捨て、存在すると
仮定した脳内超越神への服従にすがろうとした場合、一体どうなるのかといって、
先祖代々積み重ねられてきた善い志向性は完全に反故にされ、代わりに悪い
志向性だけが、人間以下の畜生同然の品性と共に保全されていくことになる。

先祖代々の血筋に基づく志向性のうちで、善い志向性とは、善人や賢人や聖人、或いは神仏の
如き先祖の志向性のことであり、悪い志向性とは、人間以下の餓鬼畜生も同然の志向性のことだ。
孝心はこのような意味での悪い志向性を捨てて、善い志向性を受け継ぐ効果を持つ一方で、
孝心の欠如は少なからず、善い嗜好性を捨てて悪い志向性を深刻化させていく効果を持つ。

犯罪聖書の邪神にすがることも、上記のような意味での、孝心の欠如に溺れる所業以内の以下であり、
別にこれといって人間精神の向上が期待されるわけではない、のみならず、ただ自分たちの
品性を餓鬼畜生も同然の域へと貶める以外の、何らの効能も持ち合わせてはいない。

犯罪聖書にすがった結果、人間精神以外の何らかの向上が期待できるというのならまだしも、
それすら全くなく、ただ純粋に人間精神の下落ばかりが進行するのみである。邪信によって
人間精神が毀損された結果どうなるかといって、ただ餓鬼畜生も同然の存在と化すのみであり、
これもまた全くの仏教思想などの範疇であり、どこにも珍しがれるものがないのである。

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305 2012/04/07(土) 14:28:52 ID:syjv4H5XHQ
ただ人類史上未曾有の災禍をもたらしているというだけでなく、それによって何ら新たな
発見が得られたわけでもないところが、聖書信仰が決定的につまらない所以でもある。
ただ儒学や仏教といった、聖書信仰よりも以前から存在する東洋の教学の完璧さが改めて
確かめられたというばかりのことであり、何か収穫があったとすれば、それぐらいのことだといえる。

儒学や仏教の純粋な学説教義の是非はともかく、東洋史上における儒者や仏者の誰しもが
完璧超人だったなんてことは決してなく、官僚界や僧団などの腐敗を通じて、相当にダメな奴らが
蔓延るようになっていたことも多々ある。そのような実情はともかくとして、儒仏の教学自体は、
ちゃんと実践するのであれば、確実に聖書信仰の実践以上にも優良な効果が挙げられることが今になって
実証されたわけだから、かつての儒仏の気風をそのまま復興する以上にも、聖書信仰という反面教師を
厳重な差別の対象としつつの、より毅然とした儒仏の実践を心がけていくようにしていけばいいのである。

聖書信仰の実践という未曾有の災禍も、儒仏の実践のより一層の本格化に
寄与するというのなら、それこそ、「禍転じて福と成す」にもなるといえる。

「子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰れか鄹人の子の禮を知ると
謂うや、大廟に入りては、事ごとに問うと。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」
「先生は魯の周公を祀る大神殿に入られると、儀礼のことについて色々と質問された。
ある人が言った。『誰が鄹の役人(孔子の父の叔梁紇)の子は礼儀の知識が豊富だ
などと言ったのだろう。大神殿に入ると、あのように何もかもを質問しているではないか』
先生はこれを聞いて言われた。『大きな神殿ではこのようにするのが礼儀なのだ』
(著名な神殿で我流の振る舞いをして粗相を為さないようにする慎重さが、これまた礼儀なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一五)

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306 2012/04/08(日) 14:03:20 ID:fnji1Tbf3g
「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん(既出)」
「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二より)

常人並みの品性も持たない、IQ40以下の畜人にとっての神といえば、ありのままに牧場主とでもいったところ。
それも、良民を牧する君子などという比喩にも当たらない、まさに畜獣を飼いならす職業上の牧場主そのもの。

本当はIQ100程度の知能を保つ能力を持つ人間をあえて、畜獣同然の品性にまで劣化させて、
その畜人たちを飼育の対象とする牧場主たるや、まさに餓鬼畜生の親分とでもいったところ。
比喩にすら当たらない本物の人間家畜化は、飼い主と畜人の両方ともを鬼畜と化す所業そのものとなる。

そこにこそ、神はいないのである。神もいないし、仏もいない。そして人並みの人間もいない。
神仏や人がそのような鬼畜の領域を察知することはあるが、できる限りなくしていくべきものとするばかりで、
決して承認の対象としたりするものではない。特に人間道徳と仏法とが、そのような鬼畜の所業の徹底的な排除に
臨みもするが、神道に代表されるような正統な神たるや、もはや鬼畜の糾弾にすら及ぶことなく、完全に逐電して、
決して鬼畜の前などに姿を現すこともなかったりする。そのような神はどうあがこうとも、鬼畜には絶対に会えはしない。

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307 2012/04/08(日) 14:05:51 ID:fnji1Tbf3g
特に、高位の神であればあるほど、鬼畜の領域からは遠ざかる。鬼畜の領域などに立ち入ることはおろか、
見聞きすることすら避け、悪趣の領域への察知全般から拒絶してしまう。それほどにも高潔無比なところにこそ、最高格の
神もまたあり、それと比べればまだ低位である神に限って、鬼畜の領域を見聞きしたり察知したりすることもあり得るのである。

鬼畜による侵略が始まった最原初の頃から、最高位の神はとっくに雲隠れを決め込み、少しの抵抗すら行ったこともない。
それでいて最高位に値するだけの品位を同時に岩戸隠れさせることで、本当に世界が破滅の危機に晒されてもいる。

最高位の神が鬼畜と共存することができないのにも、絶対的な理由があるわけで、その威光による世界の救済を
望む以上は、鬼畜のほうがこの世から消え去る必要がある。自分たち鬼畜の分際が、最高位の神などと見聞きし合うことも、
知り合うことも未来劫永世にわたってあり得ないことを諾って、暗黒の愚昧ごと自分たちがこの世から消え去るのである。
鬼畜であるが故に真の神と知り合うこともできないこともまた、進んで鬼畜となった者への罰であると承るのである。

「敬いて神を養う在り」
「十分な畏敬を抱くことで、初めて神にも仕えることができる。
(『養神(我が心のうちの神を養う)』と書いて『神に仕える』という意味になる。
禽獣同然の濁愛などではなく、畏敬こそが養神、すなわち神に仕える真の方法となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十三年より)

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308 2012/04/09(月) 13:30:17 ID:6gLrHF.chQ
知識によって孔子のような恭しさを身に付けることも、愛によって紂王のような奢り高ぶりを抱く場合もある。
そして知識ばかりによって全てが尽くされるということも、愛ばかりによって全てが尽くされるということも、
人間にはあり得ない。そこに畏敬が伴っていないのならば、愛や知識が最善を尽くすこともまたないのである。

無軌道な愛や知識ばかりがあって、畏敬など微塵もないところに、鬼畜としての人間が生ずる。
 鬼畜<人間<神仏
であり、愛や知識と神仏などへの畏敬の均衡を取ることで、初めて人は鬼畜以上の品性を手に入れる。

「畏敬なんてなくて当たり前だ」と思っている現代人には奇異に思える話であっても、本当は、一定度の畏敬を
保っていられてこそ、人間は本物の人間並みの品性をも保つのである。人は決して一人では生きられず、
必ず家族やそれ以上の社会的共同体の構成員としてのみ生存を許されるものだから、その構成員同士の関係を
保全していくための敬意が必ず必要になる。その敬意を育むための手段となるのが、先祖供養を
始めとする神仏への畏敬であり、文明化された大規模な都市社会にもかかわらずではなくだからこそ、
社稷霊廟を丹念に作り込んでの、豪壮な礼楽による儀式での、畏敬の養生すらをも必要としたりする。

してみれば、愛や知識以上にも、畏敬こそは人間社会において必要不可欠なものですらあるといえる。
滅亡へとまっしぐらな集団自殺状態の世の中にも、濁愛や悪知恵は多数介在しているが、畏敬だけはどこにもない。
愛や知識の一部が人類滅亡の元凶とすらなる一方、愛や知識を善用する心持ちでもある畏敬こそは、人類の存続や繁栄を
決定付ける鍵ともなる。愛や知識によって人類の存続や繁栄が決定付けられるわけでもない一方で、畏敬こそはそれを
決定付けるわけだから、人が人としてより積極的に希求していくべきなのも、愛や知識以上にも、畏敬であるといえる。

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309 2012/04/09(月) 13:32:52 ID:6gLrHF.chQ
秦始皇帝の統治理念の拠り所ともなった「韓非子」など、まるでゴシップ誌のような醜悪な政争の記述が目白押しとなっている。
それほどにも腐敗にまみれた政界を強制支配するものとしての法家思想を韓非は提唱し、始皇帝もその一部を秦帝国における
統治理念として採用した。結果、たった十五年で秦帝国は崩壊し、規制緩和を旗頭にした漢帝国に政権を奪われたのだった。

「韓非子」にあるような醜悪なゴシップこそは、別に夫への敬意を持ち合わせているわけでもない、
今の世の中の夫人が非常に好き好むもの。夫への愛などもあったところで、所詮はペットか家畜に対するも同然の愛であり、
武家の女が武士たる男に抱いていたような敬愛が、今の夫婦間において介することなども、決してないわけである。

醜悪な知識と、ペットか家畜に対するかのような下劣な情愛、この二つを今という時代の夫人が、特に好き好んでいる。
故に既婚女性ほど醜悪な内面を持つ生き物も他にないかのような風潮すらもが噴出しているわけで、実際その内心の濁悪さを
国政に流用したりすれば、秦帝国崩壊ほどもの大破綻すらもが必定となるもの。始皇帝の母親の朱姫も、巨根で知られた
呂不韋の食客嫪毒を、それだけの理由で偽宦官として傍に置いて寵愛したというし、傾国間近の帝国には、男に対する微塵の敬愛も
持たない女が多数群がることも事実である。夫や男に対する敬愛を著しく欠いた女の愛や知識こそは、まさに帝国崩壊級もの厄介さを
持つものであり、畏敬を欠いた愛や知識が、まさに世界の破滅をも呼び込む元凶となる実例になっているといえる。

「賢者は狎れて而かも之れを敬し、畏れて而かも之れを愛す」
「賢者は馴れ合うような近親の中にも敬いを抱き、畏れを抱いた上でなおその相手を愛する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

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310 2012/04/10(火) 12:52:19 ID:fziUMeItjg
父母の野合によって身ごもられた妾腹の私生児として産まれ、
なおかつ母子家庭という、義父持ちのイエス以上にも不遇な環境で育った孔子が、
だからといって「聖人君子」として崇めたてられているなどという事実も、全くない。

不遇の中にも、自力で詩書や易、礼法や当時の近代史(春秋史)の勉強や研究に努め、
正統な道徳学の根本正典となる五経(本来は楽経を含む六経だが、楽経は後世に絶えた)を体系化し、
その業績によって漢代400年や唐代300年、江戸徳川260年といった泰平統治を実現する礎ともなった、
歴史上に紛れもないその偉大さこそが、孔子が聖人君子として崇められる理由ともなっているのであり、
本人がひどい不遇で生まれ育ったことなどは、それが猛勉強に励む気概にはなったにしても、決してそれ自体が
賞賛の対象などにはされず、「史記」の孔子世家に一応だけ書き留められる程度の扱いに止められている。

本当に偉大な業績を挙げることで称賛されたり、またそのような人間を称賛したりする所に、真の満足もまたある。
ひどい不遇や身心の不具などに晒された人間を、だからといって称えたりするような不埒なウレシがりなどは、
称える側にも、称えられる側にも根本的な気まずさを植え付けて、決して本当に満足させたりすることがない。

あらかじめ恵まれた環境に生まれ育った人間が、そこからさらに偉大な業績を挙げること以上にも、
相当の不遇に晒された人間が、その不遇をバネにして偉大な業績を挙げることのほうが、喜びもひとしおですらある。
実際、恵まれた環境と才能というのは、易学的にも両立しにくいものとされているから、血筋はよくても能力には
乏しい主君が、血筋は劣るものの能力に長ける臣下を用いる君臣関係こそが、儒学上でも良好なものとされている。

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311 2012/04/10(火) 12:53:58 ID:fziUMeItjg
不遇に生まれ育つことは、その不遇をバネにした大成を志す、逆説的な意味でのチャンスですらあるのに、
あろうことかそのチャンスを蔑ろにして、不遇に甘んじることを正当化したりするから、非常に気まずくなる。
気まずくて、つまらない。せっかくのチャンスを台無しにするその無様さが、易の吉祥法則にも反するものだから、
全体的な空気の流れを丸ごと不吉な方向へと追いやる、「凶相の構築」の元凶にすらなってしまうのである。

妾腹の私生児が必ずしも凶相を呼び込むのではなく、その凶相を正当化しようとする不埒さこそが、決定的な凶相の元凶となる。
妾腹の私生児ほどもの不遇すらをも、自助努力によって乗り越えようとする志しがあり、その志しが大成したならば、それは
人並み以上どころか、人類史上未曾有の大成にすらなり得るのだから、極度の不遇というのは、一種の「諸刃の剣」だといえる。
大成した場合には大いに振るうことを許される一方で、成功できなかった場合には決して振るうべきでない、諸刃の剣である。

「稷は天下に飢える者あれば、己れ由り之れを飢えしむると思えり」
「后稷は天下に飢える者が一人でもいれば、自分が飢えさせているという風に考えた。(万民の主を気取りながら、
民の飢渇を自分の責任だとも考えないエホバこそは、不埒さ極まりない自らの現状をよくわきまえるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)

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312 2012/04/11(水) 14:21:46 ID:hWRKbcQs9A
自利よりも利他を重んじる大乗仏教ですら、自らを利して他者を利することを是とする。
その上で自利一辺倒の小乗(上座部)の信者である声聞や独覚を、
自他を利する大乗の修行者である菩薩よりも下に置く。

自らを利することなく他者を利することを是とするところに、偽善が生じる。
本当に自利を完全にかなぐり捨てて、利他一辺倒であるということは、実際は不可能なことであり、
実情は自利を隠しながら利他に励むことだけを大っぴらにする演技となるばかりである。
そしてその、隠し隠しにしている自利こそは不正に甚大であったりもする。

一定の自利と共に利他を志していることを明示しないものこそは、
一概な利他という演技を隠れ蓑にした、不正に甚大な自利に及びもする。

だから古今東西いつの時代どこの世界においても、自利を捨てて利他を志しているかのように
見せかけているものは必ず、裏では膨大な自利に明け暮れているという不変法則があるのである。

「工、其の事を善くせんと欲すれば、必ず其の器を利す」
「職人も、うまい仕事をしようとする時には、まず自らが用いる道具を充実させる。
(密教でも『利剣』という法具が用いられることがあるが、士農工商のうちの下から二番目である職工から
してすでに、他者を利するための自利がある程度は必要になる。商売人だって、職工以上の高尚な職業の、
仁義に根ざしたあり方に倣うこともできないわけではないが、資本主義はかえってそれを否定している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一〇より)

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313 2012/04/11(水) 14:23:46 ID:hWRKbcQs9A
菩薩行も自他を利することを明示するし、仁義道徳も万人を利して我が利とすることを念頭に置いている。
これらの理念をありのままに実行できるのが、君子としての為政だったり出家修行だったりする一方、
なかなか実行しにくかったり、逆に利他を蔑ろにした自利に及びやすいのが商業である。

完全に利他を捨てて自利一辺倒となれば、それはもはや犯罪者も同然だが、商売人ならまだ、
自利と利他の均衡を取ることができる。とはいえ自利以上の利他を志すことが商売人の義務だったり
するわけではないし、サービスを上回る収益を上げることが商売人の本是とすらされもするのである。

そしてその商売人こそは、「お客さま第一」のような態度でいて、顧客に奉仕することが我らにとっての
全てであるかのように振舞いもする。もちろんそれは完全な演技であり、腹の内ではほぼ必ず、
いかに客からより大きな利益をぶんどるかばかりを考えている。これこそ「自利を捨てた利他一辺倒で
あるかのように見せかけるものこそは、不正な自利を旨とする」の法則にそのまま当てはまる姿だといえる。

絶対にそういう連中が存在してはならないとまでは言わないが、少なくともだからといって偉いなんてことはない。
むしろ、自利も利他もさして志しもしないもののほうがまだマシなぐらいで、世の中のうちでも特に卑しい
部類の人種の所業でこそあることには間違いない。自利を捨ててでも利他を志すなんていう無謀な理念は、
裏での不正な自利を促す以外のいかなる効果も持ち得ないのだから、その理念からして、鼻つまみものだといえる。

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314 2012/04/12(木) 14:19:35 ID:vXQhUp1/xw
アブラハム教は、基本的に「火の宗教」に相当する。
その源流となっているゾロアスター教からして「拝火教」であり、
イランにも多数存在するガス田から立ち昇る火を見て、
古代のペルシャ人も一神教的な世界観を募らせていったのだとされる。

火は人類文明にほぼ必要不可欠な要素であり、どちらかといえば火よりも水を尊重する儒学ですら、
水火が無尽蔵に使えることが文明社会の常識であるように肯んじている。(「孟子」尽心上・二三など参照)
ただ、乾燥した燎原にあっという間に広がったり、火事によって家を丸焼きにしたりする火の
危険性をよく警戒して、慎重な扱いに取り組むことが易学的にも吉祥なこととされている。

文明社会が、火の扱いを慎重化することが概観的な意味での善となるのに対し、
火の慎重な扱いを疎かにして、どこかしこにも戯れに点火しまくることが悪となる。

しからぱ、ただ火を崇めているだけの拝火教が、だからといって悪なんていうことはない。
侵略の業火を他民族や異教徒にまで広げていこうとするユダヤ教から初めて悪が芽生えており、
ユダヤの放火癖に注油までをも加味したキリスト教に至って、邪教としての悪も極まった。
そしてユダヤ=キリストの劣悪な放火癖をコーランの教義によって打ち消すイスラムに至って、
悪の業火はまた消し止められて、善といわずとも不悪というところまでは立ち戻ったのだといえる。

火の扱いを疎かにして火事を広めまくる、文明社会の悪の法則に適っているのがユダヤとキリシタンであり、
拝火教とイスラムは辛うじて、悪の法則までをも満たしてはいない。火の燃え広がる習性と、
燃え続ける習性のいずれかを崇拝の対象としたかが両者の悪不悪を分かったのであり、
燃え広がる火の習性を崇め立てたユダヤ=キリシタンこそは、自分たちでは収拾も覚束ないほどの
罪悪の燃え広がり、破滅の業火を世界中へと飛び火させる元凶ともなったのである。

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315 2012/04/12(木) 14:22:23 ID:vXQhUp1/xw
全世界、地球規模で言えば、ユダヤ=キリスト両聖書教が燃え広がらせた破滅の業火すらをも消し止める
用意は為されていた。ただそれは、インドの仏教や中国の儒学、そして日本などにおける本国以上もの
仏教や儒学の忠実な実践でこそあったのであり、イスラエル以西の世界発展とは基本、無縁だったものである。

自分たち聖書教徒が世界中に燃え広がらせた破滅の業火を、自分たちを含む人類が滅亡しない程度に
消し止めてくださる方がいらっしゃったところで、決してそれは犯罪聖書の神などであるわけではない。
むしろ、いま欧米人が経済戦での敗北などから目の敵にもしている中国人などの先祖こそは、聖書信仰が
この世にもたらす破滅の危機すらをも救ってくれる用意をしてくれていたのだから、まさに憎んでその善を知り、
自分たちが東洋人に頭を上げている余裕なども、もうないのだということをわきまえねばならない。

長年異民族の支配下に置かれることで、相当に野卑なざまと化している今の中国人などを、ありのままに
崇拝の対象などにできるはずもないが、少なくとももう、偉ぶりつつ応対できるような段階にはない。
満州開拓によって今の中国人にも経済進出の余地を与えてやった、日本人などであるのならともかくとして。

「孺子其れ朋せんか、孺子其れ朋せんか。
其れ往くに火の始め燄燄たるも、厥の灼敍する攸、其れ絶えざるが如きこと無かれ」
「若者たちよ、(組織犯罪の元凶となるような)友愛には、くれぐれも気をつけなさい。
それは最初はちょろちょろとくすぶっていた程度の火が、挙句には消し止められなくもなるほどに
燃え広がるようにして蔓延するものだから、決してそれにたぶらかされるようなことがあってはなりません。
(『君子は群して党せず』の典拠の一つ。業火の燃え広がりへの崇拝は、友愛による組織犯罪を肥大化させる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)

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316 2012/04/13(金) 13:56:16 ID:aDysjnmyeI
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...
「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の四に、菩薩がイエスとほぼ同等の受刑の代行によって
死刑囚を救うという記述がある。しかし、菩薩は受刑を肩代わりすることで死んで生き返る
わけではないし、冤罪の引き受けが新たな犯罪現象の拡大にも加担しかねないことを半ば了解し、
それによって生じた全ての犯罪現象の責任すらをも、代わりに負っていくのだという。

それでいてそれは、「一切衆生を救護せんがため」なのだという。
高台に縛り上げられて、槍で突き通されて死ななければならなくなるような重罪人こそを救うためではなく、
それほどもの重罪人を含む、あらゆる衆生を救わんがためにこそ、重罪人の受刑すらも肩代わりするという。

冤罪で十字架にかけられたヒゲで半裸のおっさんを、特定して信じるから救われるなんてことは決してない。
ただ、それほどにも無様な輩を含む一切の衆生を、聖道門の菩薩が救うということはある。

むしろそれこそは、聖道門の菩薩の責務でもある。五逆や誹謗正法に及んだだけで救済の対象から外される
他力の浄土門などではなく、厳しい出家修行に自らが臨んで行く聖道門においてこそ、
尊属殺人犯級の重罪人すらをも救っていくことが義務とされていくのである。

これが、新約犯罪聖書が書かれた約1900年前、ほぼ同時期に書かれた「華厳経」の一節である。
十字架によってこそ救われるなどという選民志向の妄信すら捨て去ったなら、そのような邪信に溺れることで
自らが本当に磔刑級の重罪を犯してしまった人間までをも、聖道門の菩薩が救済していってやるのだと、
新約がでっち上げられた最初期の頃から、すでにインドに誓約されていたのである。

「磔刑級の人間ですら救われる」の真逆に当たる、「磔刑級の人間こそが救われる」という転倒夢想を押し広める
聖書信仰こそは、聖道門の自力仏教をこの世から絶やすほどもの乱世をもたらすものだから、自動的に、聖道門の
菩薩行によって磔刑級の人間が救われる余地も絶やされる。真理とはそもそも、そういう風にできているのである。

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317 2012/04/13(金) 13:57:44 ID:aDysjnmyeI
「華厳経」の十回向品には、一切衆生が無上の智慧に与ることを菩薩が希う記述もまた多々ある。
菩薩は自らの活動によって愚民をこの世から絶やし、君子が小人を先導していく儒学統治以上にも、
誰しもが違逆なき最高智の持ち主となるように努めるのである。それは当然、被支配者である衆生を
ゴイム(家畜)も同然の存在と化す犯罪聖書による支配の下などでは、決して実現し得ないことである。
だからやはり、犯罪聖書への信仰やその実践と、聖道門の信仰やその実践は全く両立し得ないことが分かる。

結局、聖道門の自力仏教を広めていくためにもやはり、聖書信仰を禁止して、儒学による最低限の治世を
実現する必要があり、自力仏教の流布はそこから先の話になる。歴史的には、儒学と仏教が異教異学として
対立関係にあったこともなくはないが、決して利害関係が完全に相反していたわけではなく、それなりに
両立し得るところがあった。しかし、聖書信仰は儒学と自力仏教、いずれとも決定的な排他関係にあり、
いずれかを立てる以上はもう一方が決して立てられはしなくなるものだから、聖書信仰という共通の宿敵を
退治するための協力が、儒学と仏教の間で現時点では可能となっている。厳密には在俗主義と出家主義
という実践面での相違が両者にはあるから、聖書信仰撲滅の後に、両者がまた分裂することも予想される。

「席正しからざれば、坐せず」
「よく席が正されているのでなければ、座らない。
(冤罪磔刑者への信仰によって選別的に座らされる王座などは、不正な座席である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・九)

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318 2012/04/14(土) 13:39:39 ID:exoIxTvRFM
「地の利は人の和に如かず」
「土地がもたらす利益がどんなに大きくとも、人がよく和していることには及ばない。
(外界侵略によって争いの種ばかりを撒き散らした欧米聖書圏の所業は、わずかな人の和ほどの価値もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一より)

敗戦後、日本の関東軍や満蒙開拓団による大陸への遠征が「点と線の征服だった」と揶揄されていたが、
実際には広大な大陸に対して面積規模の開拓を敷き、満州帝国における莫大な工業発展をも実現していた。
それほどにも、関東軍や日本の入植者による開拓が本格的であったればこそ、敗戦持の撤退で
非常な錯綜が巻き起こり、撤退に遅れた入植者に対するソ連兵や中国兵の虐待、日本人の親に
置き去りにされた残留孤児、そして数多の日本兵のシベリアへの抑留といった大問題をも呈したのだった。

むしろ、外界に対して「点と線」の侵略や遠征ばかりをやって来たのが、大航海時代から帝国主義時代に
かけての欧州の聖書圏、「世界の警察」を気取るアメリカ軍や、戦後の日本の資本主義者たちである。

ただ自国の富裕層に暴利を呼び込むためばかりに行われた、近代までの聖書圏による世界中への
植民地支配の拡大は、どこまでも外界の荒廃ばかりをもたらしてきた。国としての征服地域はフィリピンや
ハワイやグアムなどのごく一部に止まるものの、軍役によって日本や朝鮮やベトナム、アフガンや
イラクなどの諸国に多大なる損害をもたらして来たアメリカもまた、ただ被害国を破壊して回るばかりで、
侵攻する以前よりも劣化した社会情勢を当地にもたらし続けているばかりのこと。そして、日本の今の
大企業グループなどの資本主義勢力も、企業としての収益を上げたいがために中国や東南アジアなどへと
進出はするものの、あくまで企業としての利益が本位だから、進出地域の労働者教育なども疎かとし、
特に戦前の開拓を再利用できる中国において、中国人に「昔取った杵柄」での我流の工場経営などを
任せきりにしていることから、昔の技術で今の工業を扱ってしまっているがための深刻な薬品汚染や
不審な爆発事故、極度に劣悪な環境下での生産労働などを催させることとなってしまっているのである。

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319 2012/04/14(土) 13:42:29 ID:exoIxTvRFM
「足の地に於けるや踐む、踐むと雖も、其の蹍まざる所を恃んで、而かる後に善く博むるなり」
「人の足は土地を踏みしめるためにあるが、一生踏みしめ尽くすことの
できない広大な土地があればこそ、土地を踏みしめていくことができる」
(「荘子」雑篇・徐無鬼第二十四・一四より)

自国の統治に専念する王道と、外界への遠征に及ぶ覇道とでは、本質的に王道が優等なものである。
それは、覇道によってはどうしても、遠征先の国々の面積規模に渡る十分な統治が疎かになってしまうからで、
それにより侵略しない場合以上もの、世相の荒廃や民度の低下をも招いてしまいかねないからだ。

戦前の日本による満蒙開拓は、一応清帝国の皇帝でもあった溥儀を満州国の皇帝とし、
日本人も委託という体裁を保っての開拓に臨んだから、植民地支配の場合などにはあり得ないほどもの
工業インフラの充実をももたらした。その引き換えに、敗戦の撤退時における深刻な錯綜も起こり、
中共による満州のインフラ強奪後には、インフラの発展も完全に滞ったわけだが、それでも、
戦前の日本人による王道に即した満州の開拓が「点と線」などではない充実した規模だったからこそ、
今日に至る中国生産の爆発的な発展をももたらしたのである。それにより、欧米経済の空洞化からなる
破綻をももたらしたのだから、これは、王道が覇道を淘汰した現象の端緒であるということがいえる。

あまりにも多くの犠牲をはじき出しつつの辛勝であり、なかなか素直に喜べもしない所が、今はまだ大きい。
王道による覇道の撃退後にも、まだまだしなければならない後始末は山積しているのだといえる。

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320 2012/04/16(月) 12:06:56 ID:riUHpP8NP2
陰陽法則でいえば、天が陽で地が陰。
男が陽で女が陰であり、男女は全く別種の生き物であるのと同じように、
天と地もまた異質な存在同士であり、また異質である所にこそ調和の途までもがある。

陰と陽が同等のものとして扱われたり、また一方がもう一方と比べての極端な差別下に
置かれたりすることが「陰陽不全」となる。健全な陰陽関係たる陽唱陰和と比べて、上記のような
陰陽不全に固執するものは、必ず劣性となる。男女平等を謳いすぎるあまり、人工の停滞や少子高齢化、
それによる移民の受け入れすぎといった問題を呈している欧米先進国や日本などが、男尊女卑が未だ
基本である中国やインドや中東などに、人口面や社会構成面での劣勢に立たされているのがその一例である。

天と地の陰陽関係を不全化する犯罪聖書の邪義が人間社会に及ぼしている悪影響の実例といえば、
何といっても人格神の実在性への狂信からなる、人々の側の身の程知らずな思い上がりの激化である。

聖書信者が致命的な思い上がりを募らせているのはもちろんのこと、聖書信者を
自認しない日本人などもまた、自由主義や民主主義や資本主義といった聖書圏特産の
イデオロギーに精神を毒されて、ひどい思い上がりを募らせてしまったいる場合が多い。

その思い上がりが、自らを神も同然の存在と思い込んでの、実質上の国際権力犯罪をも激化させ、
よって人類を滅亡の危機へとも追いやる元凶となっている。まさに、犯罪聖書の邪義の流布による、
天地の陰陽の不全化こそは、人類を滅亡の危機に追いやっている元凶中の元凶でもあるのだといえる。

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321 2012/04/16(月) 12:11:18 ID:riUHpP8NP2
この宇宙で生物が生息している可能性が高いのは、地球のような環境条件を持つ惑星である。
それは宇宙の果てまで行っても同じことで、人間を含む生物の住まう場所は、基本「地」である。
天上の法則が地上に落とし込まれて人間ができたのではなく、地上の有機物の、ありのままの
複雑な構造化として、人間のような高等生物もまた生じたのである。もちろん、天から
降り注がれた日光のエネルギーを得ることにより、自然生物の育成もまた成し得ているわけだが、
それは決して、「天の構造物的理念」の落とし込みなどではない。地上の有機物の構造的な法則が、
日光という一概なエネルギーを糧にすることで独自に発展し、知能を持つ生物までをも生み出したのだから、
天の神に似て地上の人が造られたのでも、天の神が人を作ったのでもなく、天からはエネルギーだけを
授かることで、地上の側が独自に人間のような高等生物をも造り上げたというのが、科学的に明らかなのである。

上記のような、人間に対する天地の関係は、子に対する父母の関係にも酷似していることから、
陰陽上からも天が父、地が母ともされる。天にも地にもそれぞれ父母がいるのではなく、
天という父と地という母が相交わることで、子たる人もまた生まれたのであるといえる。

天地を丸ごと一家として捉える陰陽思想と比べて、天地をそもそも別個の同質物として捉える
犯罪聖書の邪義の、何とよそよそしいこと。そのよそよそしさが実際の天下国家に適用されたなら、
何一つとしてうまくいくことがなくなるのも、それと引き換えに天地の陽唱陰和が破綻するからなのだし。

「夫れ君子の過ぎる所は化し、存る所は神まり、上下、天地と流れを同じくす」
「君子が通り過ぎる所は、それだけでも民が徳化され、居座るところでは、よく治まる。
人々の上下関係が天地と流れを同じくして、誰しもがよく調和するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一四より)

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322 2012/04/17(火) 13:39:17 ID:HnGXs.wRWU
極端な覚醒状態の躁も、その反動としての鬱も、どちらも誉められたものじゃない。
白昼にはよく目を覚ましてしっかり働き、夜間にはぐっすり眠り込む、
日月の運行に沿ったバイオリズムの管理が人間にとって最も適切であることを
孔子も宰我の昼寝への非難によって肯んじ、孟子も告子章句上・八の昼夜論などで示唆している。

信仰は自らの足でしっかり地に足を付けて立てるような人間ではなく、
もとより何かに依存しながらでしか生きられない弱者こそが拠り所とするもの。
自力作善の能力に長ける丈夫などが信仰に専らであったりしたら、かえって自らの能力を損なうもの。
しょせん自助努力など覚束ない女子供や生粋の小人が、そうであることをよく自覚した上で、
恭しい他力依存の手段とすべきなのが信仰であり、信仰を自己正当化の手段などにしてはならない。

生存欲が旺盛であるということは、根本的に惰弱なこと。在俗の権力学たる儒学でも、
世のため人のために身を挺すことが雄々しいこととされ、仏門に至っては本当に出家によって
俗人としての人生を捨ててしまうことが大雄の選択として推奨される。生存欲がたらたらなのも
やっぱり女子供や小人の領分であり、浄土門の坊主も禅僧や密教僧よりよく長生きする。それに、
聖賢ですら生存欲がないなんてことはないわけで、ただそれが惰弱さの種であることをよく
わきまえて、ことに臨むに及んで超克の対象とする覚悟のほうなどをかえって養うのである。

愛欲もまた、時に断ち切らねばならない時があるもの。人として生まれたならば、愛欲が
全くないなんてことのほうが不健全なわけで、時にそれは、乾燥した野原に一挙に燃え広がる
大火事のようにすら激化するもの。その愛欲を十分に制御の対象として、悪用せずに善用する能力を
養ってこその英雄でもあり、愛欲にまみれて為すべきことも為せなくなる所にこそ、ひ弱の極みもまたある。

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323 2012/04/17(火) 13:41:52 ID:HnGXs.wRWU
目を覚ましていること、信仰を持つこと、自らの足でしっかりと立つこと、生存欲があること、
雄々しくあること、そして愛があること、いずれも人間にとって決してあってならないものなどではない。
扱い方によっては善徳の増進にすら貢献できる、人としてのあり方ばかりなのに、犯罪聖書ときたら、
ことごとくその全ての扱い方を間違え尽くしていて、故に、何一つとしてよくなることがありもしない。

四書五経や仏典と比べて、犯罪聖書が特に異様な題材を取り扱っていたりすることは全くない。
その全ての題材が四書五経以内の四書五経以下であり、また仏典以内の仏典以下でしかない。そして、
犯罪聖書が四書五経以下の仏典以下である要素として、諸々の題材の取り扱い方の致命的な間違い通しがある。

犯罪聖書の記述の過ちを直接的な反駁の対象とした書物といえば、何といってもコーランが代表格である。
コーランの犯罪聖書に対する反駁の仕方が軒並み正しいから、コーランの信仰者であるムスリムは、
犯罪聖書で取り扱っているような題材を元から正しく取り扱っている、四書五経や仏典の実践者や信仰者と
近似したあり方を自然と具えるようにもなっている。犯罪聖書で取り扱っている題材を、正しく扱っている
人々は極めて雑多で、ただ一つの教学にのみ従っているなどということもない。その雑多さを聖書信者が
忌み嫌ったりすることもあるわけだが、雑多であってもそれなりに正しいものと、純一であっても
間違い通しであるものとでは、当然、雑多でも正しいもののほうが、マシ以上であるに決まってる。

「子曰く、吾れ嘗て終日食わず、終夜寝ず。以て思う、益無しと。学ぶに如かざるなり」
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると、無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)

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324 2012/04/17(火) 18:15:12 ID:IEyBnEoLeA
うむ、相変わらずのバカだw

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325 2012/04/17(火) 18:41:00 ID:Rm/jNl3Gc.:au
ほんと、恐いものがなさ過ぎて困る。

この世で最も恐いものばかりに付き合わされて来たものだから。

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326 2012/04/18(水) 13:21:07 ID:QUCMQIUsm.
生存欲にまみれるということは、女々しいことだ。だから、生存を欲することにかけて雄々しい
ということは、女々しさが雄々しいということになり、それこそ、陰陽不全の最たるものとなる。

わが身を捨てて戦地に臨む武者や、身を裂くような修行に臨む出家者であったりすることこそが、
本当に雄々しいこと。戦地で命知らずな激戦を繰り広げ、本当に死者も出すような荒行(千日会峰など)
をやりこなしたりすることこそは、善い場合も悪い場合もあるにしろ、雄々しさの極みに当たるといえる。

戦地に臨みながら逃げ腰でいる武者や、修行の苦しみに耐え切れずに脱落する出家者などは、雄々しさを
志しながらも結局、女々しかったことになり、これもまた陰陽不全の一つだといえる。そんな人間が
少しも賞賛の対象などにされるべきではないのと同じようにして、生存欲にまみれることのような
女々しさの部類が雄々しいこともまた、何ら賞賛の対象などにされて然るべきものでもない。

生存欲にかけては、むしろ女々しいほうがいい。自分の命なんか大したものでもないと謙り、
ことに臨むにかけて、生存欲が思い切りを妨げるようなこともないようにする。それでこそ、
命を捨ててことに臨む思い切りのほうが、その真の雄々しさを貫徹もできるのである。

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327 2012/04/18(水) 13:21:21 ID:QUCMQIUsm.
それでもなお、自らの命を大切にしなければならない事態というものがある。それが、男が家を背負って
立ったり、女が家を守る立場になったりする場合で、このような場合には、男も女も、自らの命に
対する執着などとも無縁なところで、便宜的に自分たちの命を大切にしていく必要があるのである。

それこそが、人が自らの命を大切にしていく最も健全なあり方だといえる。ただ自分が可愛いから
自分の命を惜しんだりするのは逆に不健全なことで、人と人とが協力し合うことで、初めて個人もまた
生きていけるという人間社会の絶対法則にも反しているが故に、むしろなくて然るべきものだといえる。

生存欲にかけて女々しいからといって、すぐさま自らがちり芥のように儚い存在となるのでもない。
むしろ「家を背負って立つ」とか「家を守る」とかいった健全な目的に即して、より生活を充実させて
いけるようにもなるのであり、そこにこそ人が生きるということの、真の幸福もまたあるのである。

「勇を好みて貧しきを疾めば、乱なる」
「雄々しさを好みながら(生存を危ぶませるような)貧窮に喘ぐようであれば、乱暴に走る。
(貧窮をものともしない雄々しさにはかけているから、女々しい自暴自棄にも陥るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一〇より)

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328 2012/04/20(金) 13:17:43 ID:NTaHxCT7j.
「秘すれば花」というのは、武芸を含む技芸の分野においてよく言われること。
仏門の密教も、「秘すれば花」を多用しているから"密"教でもあるわけだが、
秘している内実が虚偽だから秘していたりするのではなく、内実は内実で含蓄があった上で、
その内実をよりよく見せるために内実自体は隠し、その方便的な荘厳のほうを前面に押し出すのである。

日本刀が名刀たる所以は、やはりその本身の出来のよさにあるが、だからといって常に裸の状態を
晒したりするのではなく、鞘などの拵えに納めて持ち歩いたり、飾ったりするのが常態である。
「秘すれば花」というのはそういうものであって、拵えの中身がカラだったり竹光だったりするのでは、
もはや「秘すれば花」ですらない。しかも、中身が空や竹光であるような拵えを見せびらかしておいて、
「これこそは名刀だ」などと偽証したりしたのなら、その中身を見せられたときの落胆も、半端ではあるまい。

聖書信仰の内実は「グノーシズム(認識主義)」あたりが捉えているが、それを興じる者は異端者として、
キリスト教の発足時から徹底的な弾圧の対象とされ続けてきた。秘密仏教(密教)が大乗仏教の一派として
許容されてきたのとは違い、聖書信仰版の密教であるグノーシズムが徹底的な弾圧の対象とされたのは、
グノーシズムこそは「悪魔崇拝」であることが見るに明らかな邪教だからで、内実が悪魔信仰であるにも
関わらず、表向きだけ神聖信仰である聖書信仰は、全く以って「秘すれば花」の条件を満たせていないのである。

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329 2012/04/20(金) 13:20:08 ID:NTaHxCT7j.
内実も真理追究の究極であり、外面もその内実のありのままの荘厳である秘密仏教のようであって初めて
「秘すれば花」の条件も満たせるのに対し、内実が悪魔信仰で外面だけ神聖信仰である聖書信仰などは
その条件を満たせておらず、単なる「二枚舌」に止まっている。だからこそ、それなりに神聖でもあるように
見せかけている、正統派のキリスト教などを含む聖書信仰全般が、総合的に邪宗門でしかないのだといえる。

仏教や儒学の教理に相当するものもそれなりに取り入れて(それらは全く聖書教義に反してもいる)、
多少の無害化にも努めているようなキリスト教団も含めて、やはり聖書信仰は途絶の対象とするしかない。
自殺の禁止や家族の団結など、別に聖書信仰を途絶したからといって同時に廃絶されるものでもなく、むしろ仏教や
儒学を聖書信仰の代わりに受容することを通じて、かえってその意義を深く理解できるようになるものですらある。

古くから仏教や儒学を取り入れてきた日本人が、時に自殺も厭わないのは、顕教の仏教ではなく密教から来ているので、
それに倣うのがイヤなら、密教だけはやめとけばいいだけの話。だからといって、密教を禁止したりする必要もないが。

「王、之れに修むるを播し告げ、厥の指を匿さず。王、用て丕いに欽み、逸言有ること罔くし。民用て丕いに変ず」
「昔、偉大な先王たちは、自らの修め行う所を必ず広く告げ知らせて、その考えを隠したりすることが無かった。
王たち自身がよく言行を慎んで、いい加減な言葉を述べたりもしなかったから、民たちも多いに教化されたのだった。
(衆生を『ゴイム〈家畜〉』と呼んで何も知らせずに専制を働く暴君などがいるから、民もまた愚民のままでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)

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330 2012/04/21(土) 15:17:45 ID:6MUpOSFDnM
儒学上の最重要理念である、子の親に対する「孝」は、父親だけでなく母親にも振り向けられる。
しかしそれは、母が高潔な存在などではなく、腹を痛めて自分を産んでくれた苦労人であることに基づく。
「礼記」表記第三十二にも「母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」とあり、
尊いからではなく親しいから、母への孝養にも努めるのが、儒者としての心得であるとされる。

仏教の場合はもっと辛らつで、「母胎より生み出されたわが身こそは不浄である」と「華厳経」などでも
断じられている。だからこそ俗世での営みを捨てた出家者となることをも勧めるわけで、これと比べれば、
母親に対してもそれなりの親愛に努める儒学のほうがずっと、母という存在に対する見方も優しいといえる。

日本神話では、アマテラスとスサノオのウケヒの際、アマテラスがスサノオのものざねである剣を噛み砕けば
三柱の女神が生まれ、スサノオがアマテラスのものざねである玉を噛み砕けば五柱の男神が生まれたとされる。
これによりスサノオは勝ち名乗りを上げる一方で、アマテラスが皇祖神にして、高天原の最高神ともなっている。

ここから寓意として読み取れるのは、女は男から「玉を噛み砕く」という危害(受精)を被ることで立派な母となり、
高天原(家庭)における主導権を獲得するということ。それは田んぼにクソをひられ、逆剥ぎにした馬の皮を機織場に
投げ込まれるほどもの暴挙であるわけだが、それを受け入れることによってこそ、女もまた立派な母になるということ。

儒学と、仏教と、日本神道と、いずれもが「生殖」という行為を少なからずよからぬものと見なした上で、
それを受け入れてまで自分を産んでくれた母への孝養に努めたり、あるいは出家しての精進修行に励んだり、
また家庭における母親の父親に対する優位を肯定したりする。(あくまで家庭内であり、社会上ではない)

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331 2012/04/21(土) 15:19:08 ID:6MUpOSFDnM
女に姦淫して妊娠して出産させるという男の側の行いは、妊娠して出産する女の側の受動的な行いよりも
下劣なものとして扱われる。その逆に、生殖にまつわる男の側の行いを、女の側の行いよりも上位に置いたならば、
男よりも遥かに大きな苦労をして子を産む、女の立場が報われないことになる。そのせいで女が子を産むことも
面倒扱いされて忌まれるようになり、少子高齢化による人口区分の歪みなどの問題を呈するようにもなるのである。

社会的には、男が上で女が下として扱われるべきである一方、家庭内においては、女が良妻賢母であることに
努める限りにおいて、女が男よりも上位なものとして扱われるべきなのである。それでこそ、「女は内、男は外」という
陰陽法則にも適うことになるわけで、社会的に女を優遇し過ぎたり、逆に家庭内における妻母としての女の立場を
侵害したりしたならば、陰陽法則に違うことにより、内にも外にも致命的な問題ばかりを募らせることになるのである。

「凱風の南自りし、彼の棘の心を吹ける。棘の心の夭夭たる、母氏の劬労す。(ここまで既出)
凱風の南自りし、彼の棘の薪を吹ける。母氏の聖善なるに、我れこそは無令の人なる。
爰なる有の寒泉、浚の下在り。子の七人有るに、母氏は労苦す。
睍𨴐と鳴く黄鳥の、載ち其の音の好ましき。子の七人有りて、母の心を慰むる莫し」
「大風が南方より吹き荒れ、ナツメの幹に当たって風切り音を立てる。その幹の傾く姿のように、母も苦労した。
大風が南方より吹き荒れ、ナツメの枝にも当たって風切り音を立てる。母こそは神聖な存在であるのに、我々ときたら
下衆もいいとこ。冷え切った寒泉が植物の成長を妨げるようにして、七人の子供たちが、母に多大なる苦労をかけもした。
ケンケンと鳴きまわるウグイスの鳴き声も好ましいが、七人もの子供がいながらも、誰一人として母の心を慰められはしない。
(母の苦しみを、子として慰めきることなど到底できはしなくとも、せめてでもこの詩の作者のように母への労わりを持ち、
イスラエル詩篇の作者のように、母の存在を全く蔑ろにした思い上がりに溺れたりはしないように努めたいものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・凱風)

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332 2012/04/22(日) 14:19:47 ID:Nv1a.IDVgU
聖道門の仏道修行などは、終身の苦行による自他への回向を基本としている。
弘法大師も真言宗開祖としての地位を確立して後も、定期的な山篭りによる修行を欠かさなかったというし、
道元禅師も一時の座禅などではなく、永遠の「座禅のための座禅」によってこそ悟りが啓かれると論じる。
日ごろからの修行の無理が祟って、二人とも六十一才や五十四才といった若さで入寂されており、
「苦行による回向」というものを志す以上は、一定の区切りを付けて後は休むなんてことを
期待していてもならないことを、その人生によってありのままに体現されているといえる。

儒者や浄土門の坊主などは、始めから苦行による回向などを志しもしない。
中途半端な志しでそんな危うい試みに臨むべきでないからなのはもちろんのこと、
一概な苦行なんか志さない範囲でも、人としての生活を営む上で避けて通れない苦労というのはいくらでも
あるものだから、そのような不可避なる労苦のほうを着実にこなしていくことのほうを、より重んずるのである。

聖道門の仏者のように、永遠の苦行による回向などを志すまでは行かずとも、人として最低限以上の労苦を
着実にこなしていく儒者や浄土門の坊主程度であるだけでも、十分に健全である。一時の労苦によって永遠の栄華を
手に入れようとするような、因果律の破綻した不健全な生を企図したりするよりは、そのほうがよっぽどマシである。

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333 2012/04/22(日) 14:21:27 ID:Nv1a.IDVgU
「人は労苦に相応の恵みを得る」という、因果律の保存に根ざした法則を、仏教はもちろんのこと、儒学も諾っている。
見えないところからいくらでも利益が湧いて来るみたいな虚妄は完全に排した上で、着実な自助努力によって
世の中を善くしていくことにも取り組んでいく。その結実が例えば、江戸時代までの日本における、
聖人君子の統治によって養われた日本国民の民度の高さだったりもし、民を完全な衆愚状態に
置いたままでいた社会などにはない、個々の庶民からの勤勉さが備わっているのである。

敗戦によって愚民化洗脳が始まってしまった昭和20年以降だけではなく、仏教と本格的な儒学が廃されて、
キリスト教が解禁された明治以降からすでにずっと、日本国民の民度の高さは、一方的な目減りを続けている。
労苦に相応の恵みを得るのではなく、労苦以上の恵みを得ようとする虚妄が少なからず許容されてしまったことから、
日本人の努力意識は、明治以降には目減りすることこそあれど、少しでも嵩を増したりしていることはない。

江戸時代までの日本のほうが、泰平からなる堕落を貪っていたかのように思われがちではあるが、
みずからの労苦に相応の恵みしか得ないわきまえにかけては、明らかに近現代の日本人のそれ以上だった。
無闇やたらに労苦を担うこと以上にも、労苦に相応の恵みしか得ないようにすることのほうが遥かに重要なことであり、
それでこそ、世の中にかける迷惑の度合いが一定以上に増えたりすることもなくて済むのである。

「中谷に蓷有り、暵れて其れ乾ける。
女と仳離して、嘅として其れ嘆ける。
嘅として其れ嘆くは、人の艱難に遇えばこそ」
「谷あいに生えた紫蘇の葉が、すでにしおれて乾ききっている。
君と永遠に離別して、甚だしい悲哀にかられて嘆いている。
甚だしく悲哀にかられて嘆くのは、人との死別に会えばこそ。
(『艱難』とは『死別』のことである。死ねば二度と生き返らない絶対真理に根ざして、
死別は永遠である。それをわきまえているから、この詩の作者も死別をひどく悲しんでいるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・中谷有蓷より)

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334 2012/04/23(月) 13:27:47 ID:kIDjrBjRqE
刀装具のうちでも、特に技術的に重要な役割を持っているのが「ハバキ」で、
ここを鞘の鯉口の内側にかませることで、刀が鞘に固定されるようになっている。

ハバキが鞘とガッチリかみ合いすぎると抜刀に支障が出るし、
逆に緩すぎるとわずかな振動でも抜けてしまうようになる。

絶妙な固定加減を実現するためにハバキに独特の表面仕上げをしたり、
材質に赤銅などの特殊素材を用いたりする工夫が古来より為されてきた。その技術研鑽があればこそ、
抜刀から納刀にいたる一連の動作を洗練させる「居合術」なども発展したわけで、日本人がいかに、
刀剣を鞘から抜いたり納めたりすることにこだわって来たのかを、如実に物語っている事例だといえる。

刀を鞘から抜き差しする一連の動作は、あたかも家の主人たる夫が家から出て外で働き、
また家に戻って来て休暇を取る姿のようでもある。家から出張りっきりで帰る間もないというのも極端だし、
ほとんど仕事がなくて家に籠もりっきりというのも極端である。どちらかといえば、家長たる男が家に
籠もりきりのままでいるほうがより不健全なことで、出張りきりで家に帰る間もなかった男のうちには、
治水工事に東奔西走し続けてすねの毛を擦り切らせ、晩年には跛足となった夏の禹王のような聖人もいる。

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335 2012/04/23(月) 13:29:07 ID:kIDjrBjRqE
家に籠もりきりでいる男にも、台所仕事をしながら政務を執ったという伏羲氏の伝説などもあるし、
道家の老子や列子のように、引きこもりを大肯定する思想家もいる。しかし、片や太古の昔の半人半陀だった
とされる人物だし、片や血で血を洗う春秋戦国時代の、非常的な立場にあった人々の思想である。いずれも
世間一般にそのまま通用させてしまえばいいというような代物ではなく、神の域、天道としてこそ尊ぶべきもの。

俗世に生き、家を守りもしなければならない男にとって、どうしても剣を抜かねばならない時が、確かにある。
あるいは剣を抜くに相当するような、甚大な行為能力の活用に臨まねばならない時がやってくる。
それでこそより多くの人々を活かし、自らもまた家の存続や繁栄に与れることがある。
その時にはもはや躊躇せず、ただまた元の鞘に納まるまでの働きに専念するのみである。

「鞅、剣を用いて以て帥し卒す。欒氏退く。車を攝りて之れに従い、
欒楽に遇いて曰く、楽之れを免れんや、死すとも將に女を天に訴えん」
「范鞅は剣を抜き、兵を率いて戦地に斬り込んだ。敵の欒楽はそれに戦いて退いた。范鞅も車に乗ってこれを追い、
欒楽に追いつくとと叫んだ。『楽め、決して逃してなるものか。たとえ死んででも貴様を天の裁きにかけてやる』
(剣を抜くことは、死をも覚悟した憤激を象徴する。それほどもの覚悟が必要なときもまたある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十三年より)

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336 2012/04/24(火) 15:22:18 ID:9RBXhUN/J6
仁者は自らの徳行に相応の利益を自他に振り向けるし、菩薩も自らが精進に励んだぶんだけの回向を衆生に施す。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。

それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。

人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。

聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。

そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な原因となっている。

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337 2012/04/24(火) 15:24:15 ID:9RBXhUN/J6
仁者は自らの徳行に相応の利益を自他に振り向けるし、菩薩も自らが精進に励んだぶんだけの回向を衆生に施す。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。

それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。

人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。

聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。

そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な理由となっている。

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338 2012/04/24(火) 15:30:05 ID:3jPBBDyMoc:au
儒学の勉強や仏教の修行などによって、賭博のはかなさを十分にわきまえた人間であれば、
賭博志向の旺盛な聖書信仰や洋学が魅力的に見えたりすることもないが、賭博の浅ましさなど、
少しもわきまえられていない未熟者であれば、それが堪えがたい程に魅力的なものに見えたりする。

賭博が本質的に空しいものであることが真実だから、人々の賭博志向を無闇に煽り立て続けて来た
聖書信仰や洋学の蔓延によって、人類もまた破綻からなる滅亡の危機に晒されている。
だから聖書信仰を廃絶し、洋学からも権威を剥奪することがさしあたっての急務となっているが、
本当はそんな事態に追い込まれる以前から、人々に賭博のはかなさをよく啓発していかなかればならないのである。
そのためには儒学や仏教のような、賭博志向を戒める堅実な教学に権威を返還させていただいて、
その流布に努めていくことが最も有効ともなる。手前味噌だが、確かにそうなのである。

「人に分かつに財を以てするを之れ恵と謂い、人に教うるに善を以てするを之れ忠と謂い、
天下の為めに人を得るを之れ仁と謂う。是の故に天下を以って人に与うるは易く、天下の為めに人を得るは難し」
「人に財産を分け与えることを恵みといい、人に善いことを教えることを忠といい、天下のために逸材の人物を得ることを
仁という。天下のために逸材を得ることこそは最も難しく、それと比べれば、天下の全てを人に与えることのほうが容易い。
(『魚を与えるよりも釣竿を与えよ』という援助活動のポリシーがあるが、所詮は与えること止まりなのが安易である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)

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339 2012/04/25(水) 13:58:54 ID:8WgG5IXvt.
十字架こそは、最低の卑しさの烙印となる。

無信仰の重権力犯罪者とも並んで、十字架信仰者こそは、この世で最も恥ずべき立場の存在となる。
ただ恥ずべきだけでなく、参政権剥奪や禁治産や強制入院といった民事処分の対象ともなるが、
それ以上にもも決定的なのは、十字架信仰者であるということが、何ものにも増して
「恥ずべきもの」として扱われるようになることである。

この世で最も誇ってはならないもの、それにことかけて誇り高ぶったり偉ぶったりすることだけは
絶対に許されず、実際に為そうものなら、実力行使による制裁までもが本当に科されるものとなる。

そうしなければ、人類が滅亡するからである。

十字架信仰者もろとも全人類が、完全誤謬信仰の毒性に侵されて、本当に死滅すらしてしまうから。
ただ禁止されるだけでなく、十字架信仰こそはこの世で最も劣悪な所業であると適正に断定されて、
厳重な卑しみの対象とされていくことで、それが魅力的なもの、羨望的なものとして扱われたり
することから根絶していかなければならない。そうでもしなければ、本当に全人類を滅亡へと
追いやってしまうほどに、十字架信仰の毒性こそが真性なものであるからだ。

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340 2012/04/25(水) 13:59:06 ID:8WgG5IXvt.
自分自身が十字架信仰者でなくとも、十字架信仰の権威性を認めて、そのような言行に
及んでしまった人間にとっても、十字架信仰が恥ずべきものとして扱われるようになることが
少なからず、自分たちにとっての連帯的な恥辱ともなる。その度合いがあまりにもひどく、
信仰者でない立場から、十字架信仰者と利権を共有したりまでしてしまっていたりしたならば、
それこそ十字架信仰者並みの差別対象にすらなってしまうのである。

一位:十字架信仰と無縁で、十字架信仰に対して肯定的でもなかった人間
二位:十字架信仰と無縁だが、十字架信仰に対して肯定的だった人間
三位:十字架信仰に肯定的で、十字架信仰者と利権すら共有していた人間
四位:十字架信仰者だった人間

という社会的序列が確立され、三位と四位の人間については実際に処分が科されることともなる。
二位の人間までもが処分されたりすることはないにしろ、一位の人間と比べれば、今までの
自分の思い違いを恥じなければならなくなる。当然、一位の人間が処分を科されたりすることも、
自らを恥じたりする必要もない。一方で、いま一位であるような人間こそは、今の世の中でも
最も恭敬意識の高い人間だったりもして、何事にかけてもみだりに誇り高ぶったりすることは
避けていたりする。本来、人間はそうであるほうがいいのであり、みだりな誇り高ぶりを信者に
奨励していた十字架信仰こそが始めからあって余計であり、なくて別に困らないものだったのである。

「君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義、之れと与にす」
「君子が天下において、絶対に適格だとか、不適格だとかいったことに固執することはない。
ただ、道義と共にあるのみである。(上記の十字架信仰に対する社会不適格宣告も、
『そうしないと人類が滅亡するから』という道義に根ざした理由にこそ基づいている。
十字架信仰者ごと全人類が滅亡しても構わないというのなら、この限りでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一〇より)

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341 2012/04/26(木) 14:28:21 ID:KCTvPjw6Uc
権力犯罪聖書——通称聖書の旧約・トーラーにおけるモーセの十戒、

1.私以外の何者も神としてはならない。
2.偶像を作ってはならない。
3.主の名をみだりに唱えてはならない。
4.週に一度は休日としなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.何をも殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗みを働いてはならない。
9.隣人のことを偽証してはならない。
10.他人の物を欲しがってはならない。

は、6〜9が実罪に対する禁止となっていて、5と10が道徳性をも養わせる善法となっている。
しかし、4があってもなくてもいいような法律となっていて(江戸時代の日本などに曜日制はなかった)、
最初に優先して書かれている1〜3が、決して俗人に強要などすべきではない悪法となっている。

この十戒を全て守ればいいということもないし、全て守らなくていいなどということもない。
6〜9は守るべきで、5や10も守ったほうがよい。一方で、4は守ろうが守るまいがどうでもよく、
1〜3はむしろ守るべきでない。守るべき戒律と守るべきでない戒律のみそくそ、それが十戒にあたる。

十戒の全てを守るべきだとするユダヤ信仰と、十戒など守る必要はないというキリスト信仰と、
いずれもが信者を吉方へと導くことのない、双極性障害への振れ切りの温床とばかりなる。

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342 2012/04/26(木) 14:30:09 ID:KCTvPjw6Uc
削除(by投稿者)

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343 2012/04/26(木) 14:41:31 ID:7dSW7j8Qbc:au
削除(by投稿者)

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344 2012/04/26(木) 20:12:43 ID:KCTvPjw6Uc
「親子兄弟に殺し合いをさせる」という予言をほざいた通り、イエスは明らかに十戒の破戒を
信者に促している。しかも「父母を敬え」「人を殺すな」という、十戒のうちでも特に善良な法規を
特定して破ることを促しており、むしろ「主以外を神としない」といった、劣悪な徒法のほうは
守らなければならないようなことを多数うそぶいてもいる。十戒を「完全に破りとおせ」というのではなく、
むしろ「善法を破って悪法を守れ」という害為の促進のために、十戒の蔑ろすらをも利用しているのである。

十戒を含む、旧約の条項全体を、新約信仰と共に破棄するのが当然、至当ではある。
その上で「父母を敬え」「殺すな」「盗むな」「犯すな」「嘘をつくな」といった善法だけを布令する
儒学や仏教の教えにのみ倣うのがよい。善法も悪法もみそくに扱う徒法を守るのが劣悪であるならば、
そのみそくそな徒法を破る過程で、善法すらをも同時に破ってしまうのもまた、劣悪の二乗である。要するに、
くそみそ信仰のユダヤと、くそみそ全廃信仰のキリシタン、どちらによっても劣悪の極みから抜け出せはしないのである。

「民の亦れ労しめる、汔わくは小しく康んず可し。此の中国に恵み、以て四方を綏ぜん。詭隨のものを縱すなく、
以って無良を謹めよ。式て寇虐と、僭て明を畏れざるものを遏めよ。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定んぜん」
「民は重労働に苦しんでいる、願わくはそこに安寧をもたらしてやるべし。この中国に深い恵みをもたらし、
邪まに従う者を許さず、良からぬ輩の策動を止めよ。それにより侵略の災いと、僭越を畏れぬ者とを根絶やせ。
遠方をも和らげ近場も良くし、我が王も安んじてくれんことを。(自分への恵みなど考えず、民と王とへの恵みを
まず希う高潔さ。それは邪教に従う良からぬ輩を退治し、隣人への偏愛なども廃された所でこそ実現されるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小旻之什・民労より)

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345 2012/04/27(金) 14:08:09 ID:UaOutXvpMI
十字架を背負うことではなく、重荷を率先して背負うことこそは人としての務め。
重荷を捨てて十字架にすがるのは、ただの現実逃避。
綺麗ごとでもなんでもない、人として恥ずべき所業の極み。

重荷を背負うこともできない、未熟の極みな煩悩愚縛の凡夫であるというのなら、自己を誇ることも許されない。
己れの恥ずべき有り様をありのままに恥じ入った上で、南無阿弥陀仏。間違っても、
十字架を背負っている云々といった欺瞞によって、誇り高ぶったりするものではない。

転倒夢想の致命点は、恥ずべきものを誇るところにこそある。
人間はサルからヒトに進化する過程で、毛皮などを羽織る習慣を身に付けながら体毛を
薄くしていったのだから、人間が衣服を着ないで公然と素っ裸でいるのは、確かに恥ずべきことである。
しかし、旧約の損世記に「人間の先祖はエデンの園で素っ裸で暮らしていた」と書いてあるものだから、
聖書圏にはヌーディストビーチなどの、全裸を見せびらかす文化が多数存在している。しかもそれを
道化やポルノではなく、本当に神聖な行いとして誇りにしていたりするのだから、笑いものである。
こういうのが、恥ずべきこと、笑われるべきことを逆に誇りにしている、転倒夢想の一例であるといえる。

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346 2012/04/27(金) 14:11:07 ID:UaOutXvpMI
恥じればいい、笑われればいい。公然と素っ裸になることが、完全に厳禁にまでされなくたって、
それなりに恥ずべきこととされるだけでも十分に、致命的な問題が発生することへの抑止にはなる。

しかしそれこそは、法律などで全裸が厳禁されることよりも、さらに困難なことだったりもする。
人間精神の根本の部分を脅かしている転倒夢想を取り払うことは、ただ頭ごなしに人々の言動を統制したり
するよりも遥かに多くの工夫が必要で、それこそ、進んで重荷を背負っていく心意気までもが必要となる。

全ての人間が重荷を背負っていくのでなくとも、相当数の人間が重荷を背負って坂道を登り続けていく
挺身に努めて行かなければならない。そのためには、信者に重荷を降ろさせて十字架を背負わせ、
しかもそれを誇りとさせるような邪教の、頭ごなしな禁止も差し当たって必要なことである。決して
それが最終手段となるのではなく、重荷を背負って坂道を登り始めていくきっかけになるのみである。

「士の子の長幼を問えば、長ぜるは則ち能く耕すと曰い、幼なるは則ち能く薪を負う、未だ薪を負うこと能わずと曰う。」
「士人の子供の長幼を表現するとき、長じた時には『よく田畑を耕すに値する』といい、幼ければ『よく薪を背負える』
といったり『まだ薪を背負うこともできない』といったりする。(この慣例の援用により、兵士の射儀に失敗した場合、
王君は『まだ自分には薪を背負う仕事が残っている』と謙遜し、他者に仕事を譲ると礼記・曲礼下第二にもある。
薪を背負うことすらできないというのが、幼さの中にもさらに幼いという、未熟さの極みの表現ともなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)

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347 2012/04/28(土) 14:11:34 ID:MO4apwwQx2
世に知らぬ者もいないインド独立の父・ガンジーは、カースト制において最下等の
階級とされている不可触賤民を、「ハリジャン(神の子)」と呼ぶことを提唱した。

今現在、あまり定着してもいないようだが、ヒンズー教徒でありながら、キリスト教もそれなりの
研究対象としていたガンジーが、「キリスト」と同じ「神の子」という意味を持つヒンディー語の呼称を
不可触賤民にあてがおうとしたあたりには、キリスト教の本質に対する看破までもがうかがえる。

キリスト教徒と異教徒との間には、確かにどちらかが不可触賤民として、もう一方が一般人として
扱われざるを得ないほどもの、品位の隔絶が生じている。インドの不可触民や日本の被差別部落などは、
キリスト教のような信教によって差別を受けたのではなく、屠殺や製革や死体処理といった、人々の卑しむ
仕事を請け負っていたから差別されたのだが、キリスト教徒の場合は、キリスト信仰という自己洗脳によって
極度の蒙昧状態に陥り、異教徒と対等に接することもできないほどの異常な品性を帯びてしまったのである。

上記のような違いがあることもあり、インドや日本の被差別民などよりも遥かに、
キリスト教徒には「修辞」の慣習が豊富である。内面に極度の蒙昧を抱えながらも、外面だけは
よさげに見せようとする巧言令色の修練。日本の被差別民などの場合でも、芸能活動に従事する河原者などが
それを講ずることはあったが、あくまで舞台上だけでの話。国家全体がキリスト教を国教としているような
社会において、キリスト教徒は常日ごろから、内面の蒙昧さを巧言令色によってひた隠す慣習が根付いているから、
その修辞としての巧みさも、日本の河原者などとも比べ物にならないほど本格的なものとなっている。

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348 2012/04/28(土) 14:12:15 ID:MO4apwwQx2
その、キリスト教徒の修辞の巧みさを一皮向いた所にあるのは、芸能活動に従事していたわけでもない
インドや日本の被差別民並みか、それ以上もの醜さである。東洋の被差別民は、あくまで世の中に
ある程度不可欠な賤業に従事していたから醜くならざるを得なかった一方、キリスト教徒の内面の
醜さは、キリスト教徒たち自身が必要もなく、わざわざあえて好き好んで得たものである。
だから、キリスト教徒の内面の醜さは、東洋の被差別民の醜さ以上だとすら断定できる。

今だと、屠殺や製革や精肉などは、ロボット化によって、その穢れに直接人が触れないで済むようにできる。
死体処理をしなければならなくなるような事故や処刑などは、できる限りないに越したことはないことだし、
肉食や皮革文化も絶対に世の中に無ければならないものでもない。今の世界人口分のタンパク源を
食肉以外で全て賄おうとすれば、それはそれで問題が生じそうではあるにしろ、今の明らかに
過剰な世界人口もやはり、なだらかにでも減らしていくに越したことはないものだ。

賤業に従事するが故に、差別対象となるような人間もまた、できる限りこの世からいなくなるに越した
ことはない。いわんや、被差別民並み以下の品性に好き好んで自らを貶める、キリスト教徒をや、である。

「民に君たる者、〜信を以って之れを結ぶときは、則ち民は倍かず」
「万民に対して王君たる者が、信実さによって民たちを自分に結び付けておけば、民たちが背くこともない。
(信によって民を結ぶのは正規の王君の業であり、イエスのような民間人の為すべきことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

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349 2012/04/28(土) 19:23:28 ID:MO4apwwQx2
「あなたの容貌は美しい。しかし、
あなたの内面はこの男よりも醜い」

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350 2012/04/30(月) 17:18:16 ID:ieDVAtAdBk
旧約信仰であるユダヤと、新旧約信仰であるキリシタンとで、完全な「一式」である。

「両者こそは対極の関係にある」なんてのは全くの猿芝居で、自分たち自身が政治的な
責任を負わないユダヤ教徒による悪徳商売を世にのさばらせるためにこそ、国家レベルの
大社会を愚民の群れと化すための洗脳支配の手段としての、キリスト教が捻出されたのである。

明らかに、キリスト教圏ばかりでユダヤ商人による悪徳商売が横行していて、
非キリスト教圏においても、キリスト教の布教が容認されたぶんだけ、ユダヤ式の悪徳商売も
流布されている。(キリシタンが解禁になった明治以降に、日本でも資本主義経済が肥大化している)

キリスト教圏と同じアブラハム教圏であるイスラム圏においては、イスラム法により利子経済が
禁止されているので、ユダヤ式の悪徳商法は横行のしようがない。むしろ、ユダヤ商法の問題点を
同じアブラハム教としての立場から綿密に見定めているからこそ、日本や中国やインドのような
非アブラハム教圏以上にも、ユダヤ信仰の実践の横行による世の乱脈も徹底して防げている。

ユダヤの悪行を容認する度合いでは、キリスト教圏>0>非アブラハム教圏≧イスラム教圏
であり、イスラム教がユダヤの悪行を完全に撲滅するのに対し、非アブラハム教はユダヤの悪行を
抑制する程度の効果を持つ。そして、キリスト教だけは、ユダヤの悪行を積極的に推進すらする。

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351 2012/04/30(月) 17:20:09 ID:ieDVAtAdBk
非アブラハム教圏の文化のうちでも、儒学だけは、イスラム教並みにユダヤの悪行を撲滅する効果を持つ。
(信教化された儒学である「儒教」にそこまでの効果がないのは、旧儒教圏である韓国が、東洋でも
突出したキリスト教受容に及ぶことにより、ユダヤ並みの悪徳商売を横行させていることからも分かる)

ただ、儒学こそは、イスラム教以上にも、今の世の中での実践が全く不能な状態と化してしまってもいる。
イスラム圏は、イスラムだけでユダヤ災禍を根絶やしに出来るから、特に儒学を併修せねばならない
義務もないが、非アブラハム教圏は、イスラムに信教を鞍替えしない限りにおいて、何とかユダヤ災禍を
駆逐するためには、必ず儒学を正学としてよく尊重しなければならない。儒学を正学に据える以上は、
儒学と真逆の邪義邪説ばかりを触れ回っているキリスト教も、ユダヤ教と共に廃絶しなければならない。
だから結局、非アブラハム教圏で、ユダヤ=キリスト両聖書教が少しでも容認される余地はない。

イスラム圏は引き続きイスラム信仰によってユダヤ災禍の防止に務められる。非アブラハム教圏は
儒学を正学に据える過程でキリスト教をも廃絶することにより、ユダヤ災禍がイスラム圏並みに防止されて
いくことになる。そしてキリスト教圏は、そのままキリスト教を廃棄することでユダヤ災禍を共に根絶する。
キリスト教を廃絶すれば、当然キリスト教圏は信教面での空白地帯になる。その空しさに耐えられないと
いうのなら仏教を受容するなり、自分たちで新たな無害化宗教を創出するなどすればいい。いずれにしろ、
ユダヤ=キリスト両聖書教の聖典である権力犯罪聖書——通称聖書が必要とされることは、もう二度とない。

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352 2012/04/30(月) 17:36:16 ID:UdkjUqpmxo:au
「王は申伯を遣わすに、路車乗馬をもってす。我れ爾じが居るを図るに、南土に如くは莫し。
爾じに介圭を錫う、以て爾じの宝と作せ。往け、王舅よ、南土を是れ保んぜん」
「周王は申伯を封土へと遣わすに際し、豪勢な車馬を賜い、そして言った。『私がそなたに
相応しい封土だと思うのは南都である。そなたにこの大玉も授けるので、これをそなたの
宝とせよ。さあ、偉大なる大叔父よ往かれし。その力量によって、南都を平定してくだされ』
(『キリストが神から遣わされる』などという表現も、元はといえばこのような、王君による封土への
正式な臣下の派遣を模倣したものである。しかし、もちろん総員商人階級であるユダヤ教徒に領土はないし、
旧約の律法も悪徳商法の一種でしかないわけだから、『形而上から形而下に遣わす』みたいな、実際の
土地関係を無視した表現しか行うことができない。そして、そのような不実な表現で尽くされる所の理念が、
天下全土の平定を実現したりすることも当然なく、この世を餓鬼界と畜生界に分断する元凶ばかりになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・崧高より)

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353 2012/05/01(火) 15:37:54 ID:t9iOwJqlPQ
自分自身、妾腹の子の血筋であることからなる、個人的な経験から分かったことだが、
妾腹の子の血を引く人間は、吃音(どもり)のような軽度の言語障害を患うか、
もしくは二枚舌三枚舌を使い分ける虚言癖を帯びるかの、どちらかに振り切れやすい。

郷党第十・一に「孔子、郷党に於いて恂恂如たり、言うこと能わざる者に似たり」
とあり、果たして「どもり」だったかどうかは知らないが、妾腹の私生児として生を受けた
孔子が、故郷ではあたかも言語障害者かというほどにも、異様にいそいそとしていたとされる。
これは、孔子が自らの生まれの賤しさを心から恥じていた証拠であり、その恥じらいを
バネにして孔子は礼楽を学び、人一倍言語表現などについても正確な知見を得るまでになった。
その正しい言語表現を世間では実用できていたから、よそよそしさを嫌う故郷でだけは
幼少期のように、どもりのような言語障害気味の言葉遣いでもいたと記録されているのである。

妾腹の子としての賤しさに対する恥じらいは、まずどもりのような言語障害として表出する。
その障害を乗り越えるために、孔子のように、礼法などを通じて正しい言葉遣い学べば、
常人並み以上にも立派な言葉遣いを身に付けた聖人君子にすらなり得る。しかし、障害を
乗り越えることを正しい術べによらず、全くの我流によって乗り越えようとしたならば、全く
筋の通らないことを放言したり、二枚舌三枚舌を使い分けたりする虚言癖をこじらせてしまう。

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354 2012/05/01(火) 15:38:07 ID:t9iOwJqlPQ
その代表格がイエス・キリストであり、「私は剣をもたらしに来た」と言ったり
「剣を取る者は剣で滅びる」と言ったりの、あられもない虚言癖を存分に披露している。
イエスだけでなく、その信徒たちも奴の虚言癖を受け継いで、「行いではなく信仰で救われる」
と言ったり「信仰ではなく行いで救われる」と言ったり、「イエスは律法の配下である」
と言ったり「イエスではなく律法によって救われようとすれば救われない」と言ったりする。
(上記の引用は全て「新約聖書」中に両論併記されている)まともな言葉遣いもできない境遇を、
正しい言葉遣いの勉強によって克服したりもせず、ただ放言をしまくる気狂いによって
ありのままに増幅させたのが、イエスの物言いや、その信徒たちの物言いであり、人として
最も許しがたく、また決して見習ったりしてはいけない言語規範の最たるものとなっている。

人間の言語能力は大体、父親ではなく母親から遺伝するから、その母親が娼婦のような賤しい仕事を
していたなら、母親の度し難い言葉遣いが我が子にも遺伝して、最悪の場合、言語障害を発症する。
とはいえ、器質性ではなく心因性の障害だから、克服しようと思えばできるし、克服するとまで行かずとも、
朗々とものを言う能力だけを回復させることもできる。孔子のように完璧に克服すれば、人並み以上にも
正しい言葉遣いを身に付けられたりもする一方、正しい言葉遣いではなく、ただ朗々とものを言う
能力だけをパッション(激情)によって増大すればイエスのようになり、完全に間違った言葉遣いのままで、
ただ朗々とものを言い続けるだけの、甚だしい虚言癖を帯びるようになる。そうなるぐらいならむしろ、
どもりのような言語障害を抱えたままでいるほうがマシであり、そのほうが世にかける迷惑も少なくて済む。

もちろん、正しい言葉遣いの勉強によって言語障害も克服できればよりよいわけで、ただそれは極めて
困難な道のりだから、甚だしい虚言癖の持ち主になるぐらいなら、どもりだったりするほうがマシだという
ことをまずわきまえることのほうが、世の中に最悪の迷惑をかけずに済ませる上での端緒にはなるといえる。

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355 2012/05/01(火) 15:43:28 ID:KTtYESW9Z.:au
「人の禽獣に異なる所以の者は幾ばくにして希し。庶民は之れを去る、君子は之れを存す」
「人と禽獣をより分ける由縁となるものは極めて少ない。庶民はこれを捨てるが、君子はそれを保つことに務める。
(犬のような言葉を話せない動物でも、食べ飽きて残しているエサを片付けようとすれば、急に飛びついて
そのエサを食べ始めたりといった、理に適わない行動を多数する。理に適った言動を守れることこそは、
人と禽獣を分ける由縁であるといえ、虚言癖の旺盛なイエスの言語規範などは決してその由縁とはならない。
かといって、悪徳商法の宗教教義化である、旧約の律法への帰依がその由縁になるなどということもない。
金という末節を至上として、人間自身や農工などを下等なものとして扱う悪徳商売もまた、破綻した所業だから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一九より)

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356 2012/05/02(水) 14:11:49 ID:BKpa2G7bPc
模範的な儒者の言行は、易の法則に適っているから、
この世界、この宇宙において最も自由自在である。

仏者などはさらに、三千大千世界に絶対普遍の真理に合致しようとするから、
自由度については儒者以上だとすらいえるが、結局その言行規範となる「中道」は、
儒者の規範たる「中庸」とも、「中正である」という点において共通することになる。

易に違い、三千大千世界の絶対真理に違う完全誤謬を希求していった先にあったのは、
人間が被る中でも最重度の不自由だった。「刑死しても生き返る」とか、
「冤罪で罪が滅ぼされる」とかいった、明らかに道理に適わない妄想までをも
実現しようとした先にこそ、あらゆる不自由の中でも、最大級の不自由があった。

人間の肘の関節や膝の関節、その他多くの関節部位が、一方向には曲がっても
逆方向には曲がらないような非可逆性を備えている。だからこそ人体は重力の
重みにも耐えて自由に立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることもできる。

自由は、一定の制限がある中にこそ存在するものであり、どんなにおかしな誤謬でも
「なんでもあり」という所では、もはや自由を希求する意味すら霧消してしまう。

非可逆的な関節構造を多数備えた人体が、鍛錬などを通じて、以前には不可能だった
動きを実現できるようになったりする時に、本当に「自由が叶えられた」のだといえる。
それはやはり、肘や膝が逆方向に曲がったりはしない範囲での、高度な身体躁法の
達成に過ぎないわけだが、それでこそ、身体を自由に操ることができたのだともいえる。

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357 2012/05/02(水) 14:14:30 ID:BKpa2G7bPc
自由とは、一定の規定の範囲内で、最大の自由度を獲得することこそを意味する。
「人はいつかは死ぬ」とか、「死んだら二度と蘇らない」とかの最大級の規定すらも
逸脱することはもはや自由ですらない、ただの「暴挙」である。自由には規定があるが、
暴挙には規定がなく、規定がないために、何かを達成することもない。何を達成する
ということもないからこそ、暴挙はもはや自由として扱うに値すらしないのである。

英語のfreedomやlibertyに、上記のような語意が備わっているのかは知らないが、
(おそらく備わっていない)日本語や漢語で「自由」といえば、概ね上記のような意味がある。
そして上記のような意味の「自由」のほうが、暴挙と同様の意味で扱われる「自由」
などよりも遥かに快く、その自由を獲得したところにこそ、真の満足がありもする。
何を達成するわけでもない暴挙の先などには決してない、最大級の満足があるのである。

「君召して擯せ使むれば、色勃如たり、足躩如たり。与に立つ所に揖し、手を左右にす。
衣の前後は襜如たり。趨り進むとき翼如たり。賓退けば、必ず復命して曰く、賓顧ずと」
「国君が孔先生を召して来賓の介添役を命じたとき、先生はその顔色を正され、足もまるで
歩み進めないかのように緊張されていた。会釈の際には左右の手を礼節通り拱かれ、衣服の前後も
整然として乱れ動くことがなかった。小走りして進むときも慎重深く進み、来賓が退出すると、
必ず君に『賓客は(不満にかられて)顧みるようなこともなく退出されました』と報告された。
(孔子の不自由の限りを尽くしたような介添えによってこそ、来賓も満足したのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・三より)

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358 2012/05/03(木) 14:34:56 ID:YqMODdTOC6:au
人間社会を、ごく順当な安定へと導く一般的な道理を、ごくごく
ありのままに記録した書物として、権力道徳聖書——通称四書五経がある。
質でも量でも古さでも発行部数でも、全てにおいて権力犯罪聖書——
通称聖書を上回り、なおかつごく平凡な道理を記録しているだけの書物。

平凡なだけに、完璧な治世を約束するという所まではいかない。
数百年に一回程度の戦乱や、権力者のだらけからなる一定の腐敗なども必ずしも
避けられるものではなく、治世の範囲内における凶悪事件の勃発や、それを
成敗するための残虐な刑罰なども、四書五経だけなら避けられるものではない。

大化の改新から平安末期までの日本のような、死刑すらほとんど行われない
ほどもの治世を実現するためには、それはそれで創作的な理念であるといえる、
仏教への帰依なども嗜む必要がある。権力者から庶民に至るまでの万民が
仏門によく帰依し、莫大な布施によって豪壮な寺院を造営したりすることにまで
努めて初めて、死刑すら必要とされないほどもの、完璧な治世が実現することになる。

ただ、結局そこまで完璧な治世が実現されるというのも、世界人類の平均から言えば、
随分と特異なことだといえる。インドのように万年泰平状態の世の中もあれば、
西洋のように引っ切り無しの戦乱を続けてきた世の中もある。それら全てを総合した
平均としては、それなりに治世もあり、たまには戦乱もあるという程度の歴史を、
太古の昔から積み重ねてきたのが地球人類であるといえる。その、地球人類の平均的な
歴史を運営するための指針として最も適正なのが、四書五経などを正典とする儒学であり、
儒学と比べれば、万年乱世や人類滅亡をもたらす新旧約聖書はもちろんのこと、死刑
一つない万年泰平社会を実現する仏教もまた、それなりに造作的な代物であるといえる。

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359 2012/05/03(木) 14:38:12 ID:4zjnMMAemk
儒学と比べれば、仏教とか聖書教とかいった信教全般が創作的なものである。

キリスト教徒の狂信対象である新約聖書はもちろんのこと、ユダヤ教徒の狂信対象である
旧約聖書(律法含む)もまた、十分に創作的な代物であり、その創作者の意図する所は
「悪徳商法の宗教教義化」だったことが明らかである。そんなものを、何ら人類文化の
標準として扱うには値しないのであり、悪い意味での余計な創意工夫がすでにそこにある。

もちろん創意工夫が絶対にいけないなんてことはなく、仏教のように、完璧な泰平統治の
指針を教義として体系化していった信教もある。その把捉対象とする真理そのものは
不増不減であるにしろ、その真理の悟りからなる安楽を衆生に広めるための方便には
色々と巧みな創意工夫が凝らされている。それは決して全否定すべきものなどではない。

悪い創作は根本から根絶やしにして、善い創作はむしろ積極的に受容していくべきである。
キリスト教徒などにとっては創作物にすら値しないデフォルト文化とされる旧約からして
悪い創作物であることをわきまえて、新旧約全般の価値否定を推進すべきである一方、
仏教については、個々人の出家がほぼ全てである小乗仏教だけでなく、一般衆生の救済の
ための方便の創意工夫にも豊かな、大乗仏教までをも積極的に興隆していくべきである。

上記の指針は、あくまで「創作的な範囲」における指針であり、そもそも「述べて作らず、
信じて古を好む(述而第七・一)」という、創作以前の標準としての儒学などの教理の、
「人として当たり前なわきまえ」としての受容もまた、磐石化していくべきであるといえる。

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360 2012/05/03(木) 14:38:27 ID:4zjnMMAemk
「兔の爰爰たる有り、雉は罦に離る。我が生るるの初め、尚お造る無し。
我が生まるるの後、此れ百憂に逢う。尚くば寐ねて覚むる無からん」
「ウサギは悠々と飛び回り、キジは罠にかかって苦しんでいる。
(人それぞれの運命が極度に分かれている現状を暗に喩えている)
私がまだ生まれたばかりの頃には、これといった造作もない(泰平無事な)世の中だったが、
生まれ育って後には(不埒な造作が横行することにより)百千万の憂いに遭う世となった。
私ももう、永遠に眠り続けて覚めないままでいたいほどもの思いに駆られている。
(悪質な造作創作が、有害無益な憂いを多々世にもたらす。『だから作為全般を捨ててしまえ』
というのなら道家思想に一致するが、儒学や大乗仏教には悪い作為を捨てて善い作為を進める
方針が付随している。ただし、泰平実現のための創作は儒学よりもむしろ仏教のほうが豊富である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・兔爰より)

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361 2012/05/04(金) 12:31:29 ID:dy4WNDN5hE
天道と畜生道は、「資生」を主に取り扱っている領域であるため、確かに似通っている所がある。
人道や餓鬼道が「仕事の場」となるのに対し、天道や畜生道はその仕事によって培われた資生の貯蓄場である。
ただ、人道と比べれば餓鬼道が甚だしい貪欲さに駆られているのと同じようにして、畜生道もまた
天道では忌み嫌われるような、禽獣にも等しいほどの蒙昧な欲望にまみれている。

http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...で書いた、
「女の化粧」を喩えに引いた資生の取り扱い方が、天道と畜生道の相違にもそのまま当てはめられる。
畜生道の女は天道の女と違って、素顔の醜さに対する甚だしいコンプレックスがある。そのコンプレックスを
埋め合わせるために資生堂あたりの化粧を貪り尽くすが、だからといって素顔の醜さに対するコンプレックスが
消えたりすることはない。それとは逆に、天道の女には素顔への異常な劣等感などはないから、化粧をするにしたって
際限のないむさぼりの対象としたりはしない。このような相違が、天道と畜生道との間には全般的に備わっているといえる。

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362 2012/05/04(金) 12:31:40 ID:dy4WNDN5hE
「資生」という言葉は、「易経」坤卦・彖伝に出てくる言葉で、「坤卦こそは万物の資生の源泉である」と彖伝にもある。
ただ、あらゆる資生の源泉たる坤こそは従順を守るべきであるともされ、彖伝にも「天に対して従順たれ」とある。
天に対して従順である資生の貯蓄場こそは天界である一方、天に逆らう身勝手な資生の吹き溜まりが畜生界である。
天の働きとは、要するに易の法則のことであり、易の法則に順おうとする資生が天道に属する一方、
易の法則に反する資生が畜生道に属するのである。

易の根本法則を依拠している四書五経の記述に則ろうとすれば、それによって生じた資生は天道に属する一方、
易にも仏法にも反する完全誤謬の塊である犯罪聖書に則ろうとすれば、そりによって生じた資生が畜生道に拭き溜まる。
易の法則は「この世界」の法則であり、「この宇宙」の法則である一方、その法則を逸脱しようとしているのが
犯罪聖書であるため、資生がその従順さによって天道に属することを決定的に妨げるのである。

「暴君汚吏は、必ず其の経界を慢る」
「暴虐な王君や、貪欲さに汚れた官吏は、必ず境界を守ることを侮る。
(『汚吏』で『貪欲な官吏』を意味する。聖書信者の貪欲さには果てしがなく、まさに汚れの塊である。
その汚れようの原因は、この世界と形而上の境界すら侮る不埒さにあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)

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363 2012/05/05(土) 14:03:30 ID:xyWQ7dPy1k
欧米等の現聖書信者が、自分たちの信仰を全廃した上で、
聖書信仰の真の卑賤さと向き合っていくのは、これからの話である。
しかし、聖書信仰が本質的に何ら栄光とするに値しない恥辱沙汰の極みであるのは、
聖書信仰勃発時から常にそうであり続けてきたことである。今これから急に、聖書信仰が恥辱沙汰と
なるのではなく、最原初の頃からずっと本質的に恥辱沙汰であり続けてきたことを、今わきまえるのである。

決して、真の栄光などではないから、渇望が残るのである。
素顔にコンプレックスを抱く醜女ガ、化粧によって手に入れるような偽りの栄光だから、素顔の醜さへの
劣等感という本心の部分からなる渇望が絶えることがない。そしてその渇望こそは暗愚の至りであり、
そのような渇望を捨て去った先にこそ無量の栄光が生ずるのだとも、大乗仏典の「華厳経」などにもあるのである。

英語で「デフォルト(default、初期条件)」といえば、破産とか崩壊とかの悪い意味合いばかりを持つ。
それは、英語圏を含む聖書圏全体が、聖書信仰によって、初期条件が「駄目」である状態を強いられているからで、
それは地球人類という生物や、その産物としての人類文化全般にとっての初期条件などではない。のみならず、
人類文化の初期条件をありのままに記録している、四書五経の内容などとも真逆の条件ばかりを成しているのであり、
地球人類にとっての真の初期条件はむしろ、聖書信仰によってもたらされた乱脈を後付けでどんなに修復していく
場合以上にも優良なものですらある。聖書信仰が後付けで、人間社会に最低最悪の荒廃をもたらして、そこに
洋学知識などの副作用も過剰な対処療法ばかりによる修復を試みてきた聖書圏の徒労は、どんなに尽くされた所で、
始めから聖書信仰などを受容しないことを初期条件としている場合のマシさを超えられるようなものではない。

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364 2012/05/05(土) 14:05:03 ID:xyWQ7dPy1k
聖書信仰が、断じて「栄光」などではない一方で、
「究極の恥辱沙汰」であったことだけは、確かに間違いがない。

多少よくできたラノベほどにも正気を保てていない、狂人の、狂人による、狂人のための狂信書。
そんなものを2000年にもわたって信じ込み、実践も試み続けてきた聖書信者たちの恥辱たるや、
全員が全員、ヨゴレ芸人かAV女優並みか、あるいはそれ以上のものだとすらいえる。

恥辱まみれな元聖書信者の、名誉を貴ぶ儒学や武士道への転向はなかなか難しいだろうにしろ、忍辱行を貴ぶ仏教への転向
なら比較的容易かとも思われる。2000年に渡る自分たちの歴史を笑い飛ばして、坊主になって一からやり直すのもなかなか
難しいことだろうにしろ、決して不可能なことではないし、ある意味、未曾有の菩薩行にもなるといえるのかもしれない。

「今、天は疾を降せり。殆ど興きず悟らず」
「いま、天は大患を我れに降し、ほとんど起き上がることも、気を確かにしていることもままならない。
(『悟る』の本来の語意は『気を確かにする』である。聖書信仰によって精神の大病を患い、
極度の蒙昧状態に陥ることを『悟る』と言い換えるのは、間違った言葉遣いである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)

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