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聖書 Part6
▼ページ最下部
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。
特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

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もしも、今すぐに誰しもが犯罪聖書を信じることを辞められたなら、累犯障害の
蔓延にも即座に歯止めがかかって、人類滅亡の危機も未然に食い止めることができる。
しかし、実際問題として多数の犯罪聖書信者がいるものだから、深刻な累犯障害にも歯止めがかからず、
以って人類滅亡の危機を不可避に招きつつある。だからこそ犯罪聖書を信じていられなくなるのだから、
犯罪聖書を信じるものが、全くの自業自得によって、信じていられなくなる状況を招くのだといえる。
犯罪聖書を信じていられなくなるのは、上記の通り、人類が滅亡の危機に晒されるからで、
滅亡の危機を招くのが犯罪聖書の信者である。どこまでも、何もかもが、犯罪聖書信者自身の自己責任。
責任をとるのなら、もちろん聖書信者が責任をとって、服役や強制入院や禁治産などの処分に甘んずる必要がある。
そうしなければ人類が滅亡するため、その場合にも犯罪聖書を信じていられるものは一人もいないが、罪責が
償われて人類の滅亡が食い止められる場合には、必ず聖書信者の側が責任をとって処分を受けることになる。
受けるか受けないかで言えば、受けないで済むに越したことはないような酷烈な処分を聖書信者が受けて、
非聖書信者は受けない。以って、聖書など信じていないほうがよかったということになり、聖書を信じていた者は
必ず、自分が聖書信仰を選択したことを後悔させられる羽目になる。その逆の結果を確証していたのが犯罪聖書の
記述であり、それを信じていたから後悔させられることとなる。まったく同情の余地もないことである。
「予れを信ぜずと謂えるか、閌日の如く有るに」
「空に輝く太陽ほどにも明らかな、この私の言い分すら信じぬというのか。
(暗闇を光とする転倒夢想を信じている時点で、本物の光明への信用を完全に棄て去っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・大車より)
蔓延にも即座に歯止めがかかって、人類滅亡の危機も未然に食い止めることができる。
しかし、実際問題として多数の犯罪聖書信者がいるものだから、深刻な累犯障害にも歯止めがかからず、
以って人類滅亡の危機を不可避に招きつつある。だからこそ犯罪聖書を信じていられなくなるのだから、
犯罪聖書を信じるものが、全くの自業自得によって、信じていられなくなる状況を招くのだといえる。
犯罪聖書を信じていられなくなるのは、上記の通り、人類が滅亡の危機に晒されるからで、
滅亡の危機を招くのが犯罪聖書の信者である。どこまでも、何もかもが、犯罪聖書信者自身の自己責任。
責任をとるのなら、もちろん聖書信者が責任をとって、服役や強制入院や禁治産などの処分に甘んずる必要がある。
そうしなければ人類が滅亡するため、その場合にも犯罪聖書を信じていられるものは一人もいないが、罪責が
償われて人類の滅亡が食い止められる場合には、必ず聖書信者の側が責任をとって処分を受けることになる。
受けるか受けないかで言えば、受けないで済むに越したことはないような酷烈な処分を聖書信者が受けて、
非聖書信者は受けない。以って、聖書など信じていないほうがよかったということになり、聖書を信じていた者は
必ず、自分が聖書信仰を選択したことを後悔させられる羽目になる。その逆の結果を確証していたのが犯罪聖書の
記述であり、それを信じていたから後悔させられることとなる。まったく同情の余地もないことである。
「予れを信ぜずと謂えるか、閌日の如く有るに」
「空に輝く太陽ほどにも明らかな、この私の言い分すら信じぬというのか。
(暗闇を光とする転倒夢想を信じている時点で、本物の光明への信用を完全に棄て去っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・大車より)
たとえば、人間の骨格の関節の自由度は、一般的な力学構造の観点からいえば、かなり自由度が低い。
肘や膝の関節も、脱臼でもしない限りは逆関節の方向には曲がらないようにできていて、
そこにこそ身体の安定度を保つための重要な意味までもが備わっている。
それと同じように、「人は誰しもいつかは死に、二度と生き返らない」というような真理、
「自分で犯した罪の責任は、自分で負わなければならない」というような道理が存在し、
その限定を守った範囲での論理展開や思想展開こそが、生の人間に最大級の自由を与えもする。
人が不死であったり死んでも生き返ったり、自分が犯した罪が他人によって償われたりといったことを
概念上に夢想するだけならいくらでもできる。しかし、それらはまったく真理でも道理でもないから、
現実上においても全くの不能であるために、現実の人間に対してより大きな不自由を課すものですらある。
人は誰しもいつかは死ぬというわきまえがあればこそ、寿命では確実に自分よりも早く死ぬ親に対しての
孝行などを心がけようという気にもなり、その孝行の心がけこそが、人としての全力を尽くす上での
原動力ともなる(>>318参照)。その逆に、諸行無常のわきまえを欠いて孝心をも疎かにしたならば、
あらゆる物事に対して全力を尽くすことができなくなる。だから、真理であるところの諸行無常を
わきまえないよりはわきまえたほうが、人としての全力を尽くすことによる自由度が生まれるとも言える。
肘や膝の関節も、脱臼でもしない限りは逆関節の方向には曲がらないようにできていて、
そこにこそ身体の安定度を保つための重要な意味までもが備わっている。
それと同じように、「人は誰しもいつかは死に、二度と生き返らない」というような真理、
「自分で犯した罪の責任は、自分で負わなければならない」というような道理が存在し、
その限定を守った範囲での論理展開や思想展開こそが、生の人間に最大級の自由を与えもする。
人が不死であったり死んでも生き返ったり、自分が犯した罪が他人によって償われたりといったことを
概念上に夢想するだけならいくらでもできる。しかし、それらはまったく真理でも道理でもないから、
現実上においても全くの不能であるために、現実の人間に対してより大きな不自由を課すものですらある。
人は誰しもいつかは死ぬというわきまえがあればこそ、寿命では確実に自分よりも早く死ぬ親に対しての
孝行などを心がけようという気にもなり、その孝行の心がけこそが、人としての全力を尽くす上での
原動力ともなる(>>318参照)。その逆に、諸行無常のわきまえを欠いて孝心をも疎かにしたならば、
あらゆる物事に対して全力を尽くすことができなくなる。だから、真理であるところの諸行無常を
わきまえないよりはわきまえたほうが、人としての全力を尽くすことによる自由度が生まれるとも言える。
概念夢想の無制限な自由は、かえって現実上における人ととしての自由を損なうものであり、真理や道理に
即した一定の制限をかけた概念であるところの堅実な理念こそが、人に最大級の自由を与えられもする。
その道理や真理を人為的に体系化しているのが儒学や仏教である一方で、道理や真理に反する完全誤謬を
並べ立てて、あたかも真理であるかのようにわめきたてているのがキリスト教やユダヤ教にあたる。
必ずしも「人為的な体系」などに由らずとも、自然と道理や真理をわきまえられればそれでもいいが、
既成の体系に依拠する以上は、本物の真理や道理の体系に則ることで、人としての高い自由度を
得るべきであり、真理にも道理にも反する完全誤謬の猥褻な陳列などに惑わされて、かえって人としての
自由度を狭めるようなことがないようにしたほうがよい。そのほうがより自由な上に、より優良なのだから。
「言うべからざるは言う勿れ、由るべからざるは語る勿れ。醉の言に由らぱ、童羖にも俾出さしむ」
「言うべきでないことを言うな。由るべきでもないようなことを語るな。酩酊した妄言などを
由りどころにすれば、(角のない)黒羊に角を生やさせるようなことまで要求されることとなる。
(由るべきでない戯れ言を由りどころにしてさらなる不自由に見舞われるようなことがないように)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・賓之初筵より)
即した一定の制限をかけた概念であるところの堅実な理念こそが、人に最大級の自由を与えられもする。
その道理や真理を人為的に体系化しているのが儒学や仏教である一方で、道理や真理に反する完全誤謬を
並べ立てて、あたかも真理であるかのようにわめきたてているのがキリスト教やユダヤ教にあたる。
必ずしも「人為的な体系」などに由らずとも、自然と道理や真理をわきまえられればそれでもいいが、
既成の体系に依拠する以上は、本物の真理や道理の体系に則ることで、人としての高い自由度を
得るべきであり、真理にも道理にも反する完全誤謬の猥褻な陳列などに惑わされて、かえって人としての
自由度を狭めるようなことがないようにしたほうがよい。そのほうがより自由な上に、より優良なのだから。
「言うべからざるは言う勿れ、由るべからざるは語る勿れ。醉の言に由らぱ、童羖にも俾出さしむ」
「言うべきでないことを言うな。由るべきでもないようなことを語るな。酩酊した妄言などを
由りどころにすれば、(角のない)黒羊に角を生やさせるようなことまで要求されることとなる。
(由るべきでない戯れ言を由りどころにしてさらなる不自由に見舞われるようなことがないように)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・賓之初筵より)
端的にいって、幼稚なことだ。
自分や自分の周り程度までにしか配慮が働かず、大局の利害を慮れないのは、幼稚なこと。
ド田舎の少数の集落ぐらいならその程度の感覚だけでも済むが、何万何億という
大衆の群がる都市社会でそのような狭量な感覚を振りかざすことは、許されない。
共産主義や独裁主義が全体主義であったことを以て、全体の利益を慮ることを
資本主義者などが嫌悪対象にするが、共産主義にも独裁主義にも仁徳はなく、
個々の家族を基本単位として全体の統率を積み立てていくような、公利を体系的に慮る
志向は存在せず、ただ資本主義やユダヤ信仰の特権志向を感情的に糾弾するばかりの、
これまた幼稚な試みに終始してしまっている。結局のところ、聖書圏には公益保護を
体系的に積み立てていく儒学並みの権力道徳の体系化が皆無であるため、全くの未知なる
存在としての仁徳志向を、全くの無知のままに毛嫌いしているような状態にある。
自分や自分の周り程度までにしか配慮が働かず、大局の利害を慮れないのは、幼稚なこと。
ド田舎の少数の集落ぐらいならその程度の感覚だけでも済むが、何万何億という
大衆の群がる都市社会でそのような狭量な感覚を振りかざすことは、許されない。
共産主義や独裁主義が全体主義であったことを以て、全体の利益を慮ることを
資本主義者などが嫌悪対象にするが、共産主義にも独裁主義にも仁徳はなく、
個々の家族を基本単位として全体の統率を積み立てていくような、公利を体系的に慮る
志向は存在せず、ただ資本主義やユダヤ信仰の特権志向を感情的に糾弾するばかりの、
これまた幼稚な試みに終始してしまっている。結局のところ、聖書圏には公益保護を
体系的に積み立てていく儒学並みの権力道徳の体系化が皆無であるため、全くの未知なる
存在としての仁徳志向を、全くの無知のままに毛嫌いしているような状態にある。
現状の歴史学では、西洋にも封建主義があったように言われているが、西洋で封建主義と
されていたものは、領主が資本家と結託して狭隘な利権を貪って、それで支配者を気取る、
長宗我部の一両具足に相当するようなシステムであり、それは政財の癒着を徹底して禁ずる
儒学道徳に即して「封建統治」と定義できるものではない。権力者すなわち自分たちの利益
ばかりを貪るものという感覚からすれば、その定義によって「封建主義」とされていたものを
嫌悪するのも当然のことであり、そんな封建主義を復活させるべきだなどということも決してない。
儒学道徳に根ざした、政財の癒着を禁ずる封建統治こそが、世界的に見ても、大社会の
大局的な公益を十分に保護することを可能とする統治理念としてほぼ唯一無二のものであり、
それは宋代までの中国や江戸時代までの日本ではそれなりに機能していたものだが、今では全く
機能しておらず、聖書圏にいたってはそのような統治理念が未だかつて存在していたことすらない。
この地球上から消滅してからすでに久しい、仁徳に根ざした封建統治の復旧は、それなりの労力や
研究を要するものではあるが、現実に実現が可能ではあるもの。もちろん、ムラ社会レベルの狭隘な
土族意識によって大社会を支配しようとするような、カルトの邪義の廃絶はまったくの大前提だが。
「維れ桑と梓にも、必ずや恭み敬まいて止まん。
瞻るとして父に匪ざるは靡、依るとして母に匪ざるは靡し。
毛もてにも属さず、裹にも罹かず。天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん」
「(神前に供えたりもする)桑や梓を見るだけでも、慎み敬う心を募らせる。
実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
されていたものは、領主が資本家と結託して狭隘な利権を貪って、それで支配者を気取る、
長宗我部の一両具足に相当するようなシステムであり、それは政財の癒着を徹底して禁ずる
儒学道徳に即して「封建統治」と定義できるものではない。権力者すなわち自分たちの利益
ばかりを貪るものという感覚からすれば、その定義によって「封建主義」とされていたものを
嫌悪するのも当然のことであり、そんな封建主義を復活させるべきだなどということも決してない。
儒学道徳に根ざした、政財の癒着を禁ずる封建統治こそが、世界的に見ても、大社会の
大局的な公益を十分に保護することを可能とする統治理念としてほぼ唯一無二のものであり、
それは宋代までの中国や江戸時代までの日本ではそれなりに機能していたものだが、今では全く
機能しておらず、聖書圏にいたってはそのような統治理念が未だかつて存在していたことすらない。
この地球上から消滅してからすでに久しい、仁徳に根ざした封建統治の復旧は、それなりの労力や
研究を要するものではあるが、現実に実現が可能ではあるもの。もちろん、ムラ社会レベルの狭隘な
土族意識によって大社会を支配しようとするような、カルトの邪義の廃絶はまったくの大前提だが。
「維れ桑と梓にも、必ずや恭み敬まいて止まん。
瞻るとして父に匪ざるは靡、依るとして母に匪ざるは靡し。
毛もてにも属さず、裹にも罹かず。天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん」
「(神前に供えたりもする)桑や梓を見るだけでも、慎み敬う心を募らせる。
実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
大航海時代には、酒色を絶って方々を侵略掠奪してまわる北欧の海賊などもいたらしいが。
小悪を自制する偽善によって、大悪を犯しまくることから目を背ける欺瞞は、カルト信仰の常套手段だといえる。
自力仏教の比丘戒でも飲酒は禁じられているが、強盗殺人のような大悪を徹底して禁ずる戒律もあった上でのことで、
異教徒や異民族、遠方の他人らが相手ならいくらでも殺しまわり奪いまわって構わないというような、
聖書信仰などのカルト信仰に特有の落ち度は事前に完全に絶やされている。その上で飲酒や邪淫の
禁止までもが取り決められているのだから、仏戒の禁酒などは決して偽善でも欺瞞でもないといえる。
飲酒も淫行も節度を持って行えばよいとする儒学道徳も、何事にも節度を持たせる中庸の一環としてあるため、
小悪は厳禁して大悪は黙認する両極端に陥っている犯罪聖書の邪義などよりはまだマシなものだといえる。
酒色を否定せず、場合によっては奨励すらするところが、儒学の信教としての低劣さの根拠と見なされもするが、
結果として聖書信仰のようなカルト信仰よりはまだ優良な言動規範を実践者に具えさせるようにもなっている。
逆に言えば、儒学の実践並みのまともさすら保てない信教や学術こそは、ありのままにカルトの邪教邪学なのだといえる。
「賢を賢とし色に易う(学而第一・七)」
「賢者が賢者であることを素直に認めて、まるで色を好むかのように慕う」
「惟だ酒は量無くも、乱には及ばず(郷党第十・八)」
「酒も『絶対にこの量まで』と決めるのでは楽しめないのでそこまでは決めないが、ただ酒乱に及ぶまでは飲まないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語より)
小悪を自制する偽善によって、大悪を犯しまくることから目を背ける欺瞞は、カルト信仰の常套手段だといえる。
自力仏教の比丘戒でも飲酒は禁じられているが、強盗殺人のような大悪を徹底して禁ずる戒律もあった上でのことで、
異教徒や異民族、遠方の他人らが相手ならいくらでも殺しまわり奪いまわって構わないというような、
聖書信仰などのカルト信仰に特有の落ち度は事前に完全に絶やされている。その上で飲酒や邪淫の
禁止までもが取り決められているのだから、仏戒の禁酒などは決して偽善でも欺瞞でもないといえる。
飲酒も淫行も節度を持って行えばよいとする儒学道徳も、何事にも節度を持たせる中庸の一環としてあるため、
小悪は厳禁して大悪は黙認する両極端に陥っている犯罪聖書の邪義などよりはまだマシなものだといえる。
酒色を否定せず、場合によっては奨励すらするところが、儒学の信教としての低劣さの根拠と見なされもするが、
結果として聖書信仰のようなカルト信仰よりはまだ優良な言動規範を実践者に具えさせるようにもなっている。
逆に言えば、儒学の実践並みのまともさすら保てない信教や学術こそは、ありのままにカルトの邪教邪学なのだといえる。
「賢を賢とし色に易う(学而第一・七)」
「賢者が賢者であることを素直に認めて、まるで色を好むかのように慕う」
「惟だ酒は量無くも、乱には及ばず(郷党第十・八)」
「酒も『絶対にこの量まで』と決めるのでは楽しめないのでそこまでは決めないが、ただ酒乱に及ぶまでは飲まないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語より)
「陪臣国命を執れば三世にして失わざること希なし」
「国君でもないような下賤の身分の者が国運を握るような業務を
執り成し続けたならば、三代のうちに亡国のわざわいを招かないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・二より)
とあり、正式な公人でもないイエスのような卑人が、自分を通じて国レベルの人数の
人間の命運を執り成したりしたならば、大きな禍いを招かないはずがない。そして、
「徳を執りて弘からずんば(略)焉んぞ有りと為さん、焉んぞ亡しと為さん」
「徳を施すことがさして広くもないようならば、いてもいなくてもどうでもいいようなものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二より)
とあるため、ごく一部の相手にしか救いを施さないような選民志向の邪義を本来、
大して有り難がるべきでもないのに、国を挙げて犯罪聖書を国是としていたりする
欧米諸国などの聖書信仰の享受姿勢もまた、大誤りであることが断定できる。
犯罪聖書を大々的に流布しようとする試みも過ちならば、大々的に享受しようとする試みも過ち。
少なくとも、儒学道徳に即して完全なる過ちと見なされる行いであり、儒学を実践しようと
心がけるのであれば、もう二度と大々的な犯罪聖書の享受などを認めてはならない。
18禁のエログロ本のような、十分な村八分扱いを世の中から受けた上での享受ならばまだしも、
公然と大々的に、犯罪聖書のような有害図書が享受されることまでをも許すわけには決して行かない。
それを許してしまった時点で、決して儒学が実践されたことにはならない。「儒学の実践」という
選択肢は決して選ばれたことにならない。少しでもそれで、儒学が実践できたなどと思ってはならない。
別に「絶対に儒学を実践しろ」などと強制もしないが、仮に儒学の実践を選択する以上は、
犯罪聖書の大々的な享受の根絶ぐらいは、大大前提となることを覚悟しなければならない。
「国君でもないような下賤の身分の者が国運を握るような業務を
執り成し続けたならば、三代のうちに亡国のわざわいを招かないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・二より)
とあり、正式な公人でもないイエスのような卑人が、自分を通じて国レベルの人数の
人間の命運を執り成したりしたならば、大きな禍いを招かないはずがない。そして、
「徳を執りて弘からずんば(略)焉んぞ有りと為さん、焉んぞ亡しと為さん」
「徳を施すことがさして広くもないようならば、いてもいなくてもどうでもいいようなものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二より)
とあるため、ごく一部の相手にしか救いを施さないような選民志向の邪義を本来、
大して有り難がるべきでもないのに、国を挙げて犯罪聖書を国是としていたりする
欧米諸国などの聖書信仰の享受姿勢もまた、大誤りであることが断定できる。
犯罪聖書を大々的に流布しようとする試みも過ちならば、大々的に享受しようとする試みも過ち。
少なくとも、儒学道徳に即して完全なる過ちと見なされる行いであり、儒学を実践しようと
心がけるのであれば、もう二度と大々的な犯罪聖書の享受などを認めてはならない。
18禁のエログロ本のような、十分な村八分扱いを世の中から受けた上での享受ならばまだしも、
公然と大々的に、犯罪聖書のような有害図書が享受されることまでをも許すわけには決して行かない。
それを許してしまった時点で、決して儒学が実践されたことにはならない。「儒学の実践」という
選択肢は決して選ばれたことにならない。少しでもそれで、儒学が実践できたなどと思ってはならない。
別に「絶対に儒学を実践しろ」などと強制もしないが、仮に儒学の実践を選択する以上は、
犯罪聖書の大々的な享受の根絶ぐらいは、大大前提となることを覚悟しなければならない。
寛容さにだって、節度というものがある。
一度過ちを犯した者を「今度からは気をつけろよ」と諭して許してやる程度の寛容さは必要でも、
何度も何度も同じ過ちを繰り返しながら改めようともしない相手までをも許すような義理はさすがにない。
昨今の欧米聖書圏によるイラクやアフガン、パレスチナやリビアなどへの侵攻も、アレクサンドロスの
東征や十字軍遠征を模した意味をもある程度備えていて、自分たちの行いを過去の歴史になぞらえて権威化
しようとする意図がある。それでは過去の中東社会などに対する聖書圏の征服行為が正当だったとされる
根拠は何かといえば、それこそは聖書信仰に当たる。犯罪聖書にそれが正しい行いとなると啓示されているから、
正しいとされるドグマ。犯罪聖書の存在性が根本から過ちであったことが明らかとなった時点で、聖書中の正当性は全て
不当性に反転し、正しい行いの積み重ねだと思ってやってきたことが全て、大きな過ちの繰り返しだったということになる。
一度過ちを犯した者を「今度からは気をつけろよ」と諭して許してやる程度の寛容さは必要でも、
何度も何度も同じ過ちを繰り返しながら改めようともしない相手までをも許すような義理はさすがにない。
昨今の欧米聖書圏によるイラクやアフガン、パレスチナやリビアなどへの侵攻も、アレクサンドロスの
東征や十字軍遠征を模した意味をもある程度備えていて、自分たちの行いを過去の歴史になぞらえて権威化
しようとする意図がある。それでは過去の中東社会などに対する聖書圏の征服行為が正当だったとされる
根拠は何かといえば、それこそは聖書信仰に当たる。犯罪聖書にそれが正しい行いとなると啓示されているから、
正しいとされるドグマ。犯罪聖書の存在性が根本から過ちであったことが明らかとなった時点で、聖書中の正当性は全て
不当性に反転し、正しい行いの積み重ねだと思ってやってきたことが全て、大きな過ちの繰り返しだったということになる。
カルト信者が正しいと思い込んで繰り返してきた過ちが全て、一つの大きな過ちであったと見なすことも出来なくはない。
その上で「今度からは間違いを繰り返すなよ」と諭して今回だけは許すということも、絶対にできないわけではない。
ただ、そのためには、個別の過ちの繰り返しの元凶となってきた、犯罪聖書への信仰の完全破棄が絶対条件となる。
ただ「信仰するのを辞めました」と宣言するだけではなく、救いようのない邪義の塊りでしかなかった有害図書などを
国を挙げての金科玉条にすら祭り上げてきた、自分たちの無様なあり方を大いに反省して、もう二度と犯罪聖書の
邪義などを信仰したりはしないと自他に確約し、実際にそうであるように努め続けて行く必要がある。
一旦「聖書信仰は辞めました」などと宣言したとしても、まるで麻薬中毒者がヤク禁を振り切って麻薬の服毒を
再開してしまうようにして、聖書信者が犯罪信仰を再開してしまう可能性もあるわけで、それはもはや完全に
過ちの繰り返しである。持続的な聖書信仰の範疇における過ちの繰り返しを丸々ひとつの過ちと見なしたとしても、
それが新たな純一の過ちとなるために、完全な過ちの繰り返しと見なされて、二度と許されることはないだろう。
聖書信仰の範疇で個別的な過ちが繰り返されるときではなく、「聖書信仰」という根本的な過ちが繰り返されたときに、
もう二度と元聖書信者が許されることもないのだと、これから聖書信仰を破棄する者たちも覚悟しなければならない。
「今、殷民は乃ち神祇の犧牷牲用を攘竊し、以て容れて将に食らいて災無し」
「紂王が暴政を行う昨今、殷の民たちは神祇祭祀のための供え物である犠牲や穀物すらも私的に掠め取り、
その罪すらもお互いに受け入れあって盗品を貪り食らい、罰を受けもしない。(受け入れてはならない重罪の例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・微子第十七より)
その上で「今度からは間違いを繰り返すなよ」と諭して今回だけは許すということも、絶対にできないわけではない。
ただ、そのためには、個別の過ちの繰り返しの元凶となってきた、犯罪聖書への信仰の完全破棄が絶対条件となる。
ただ「信仰するのを辞めました」と宣言するだけではなく、救いようのない邪義の塊りでしかなかった有害図書などを
国を挙げての金科玉条にすら祭り上げてきた、自分たちの無様なあり方を大いに反省して、もう二度と犯罪聖書の
邪義などを信仰したりはしないと自他に確約し、実際にそうであるように努め続けて行く必要がある。
一旦「聖書信仰は辞めました」などと宣言したとしても、まるで麻薬中毒者がヤク禁を振り切って麻薬の服毒を
再開してしまうようにして、聖書信者が犯罪信仰を再開してしまう可能性もあるわけで、それはもはや完全に
過ちの繰り返しである。持続的な聖書信仰の範疇における過ちの繰り返しを丸々ひとつの過ちと見なしたとしても、
それが新たな純一の過ちとなるために、完全な過ちの繰り返しと見なされて、二度と許されることはないだろう。
聖書信仰の範疇で個別的な過ちが繰り返されるときではなく、「聖書信仰」という根本的な過ちが繰り返されたときに、
もう二度と元聖書信者が許されることもないのだと、これから聖書信仰を破棄する者たちも覚悟しなければならない。
「今、殷民は乃ち神祇の犧牷牲用を攘竊し、以て容れて将に食らいて災無し」
「紂王が暴政を行う昨今、殷の民たちは神祇祭祀のための供え物である犠牲や穀物すらも私的に掠め取り、
その罪すらもお互いに受け入れあって盗品を貪り食らい、罰を受けもしない。(受け入れてはならない重罪の例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・微子第十七より)
神といい、仏といい、至上の尊格であればあるほど、最良の善行から最低の悪行までをも網羅する。
その上で、最良の善行に最大の福徳が、最低の悪行に最大の災禍が自業自得で及ぶことの磐石さを司る。
禍福をもたらすのはそれぞれの善行や悪行そのものであり、絶対普遍の神仏ほど罪福異熟をただ見守ることに特化する。
罪悪を積み重ねようとも自らに帰依すらすれば救いをもたらし、善徳を積み重ねようとも自らに帰依しなければ
災禍をもたらすというような作為の塊りである神は、神であるとしたところで「邪神」であり、本地垂迹に基づけば
魑魅魍魎の妖怪や地獄の亡者にすら相当するもの。善行には福徳が、悪行には災禍がもたらされるのが無為自然に根ざした
普遍的な道理である一方、悪行に福徳を、善行に災禍をもたらそうとするのは無為自然の道理に反する危うい無理に当たる。
普遍性に根ざさない無理を司るものだから、そのような邪神も、それ自体が危うい存在にあたり、道理を司る真に
上等な神仏などと比べれば、その権威が失墜するなどの形での、衰亡の危機に晒されることが免れ得ない。
その上で、最良の善行に最大の福徳が、最低の悪行に最大の災禍が自業自得で及ぶことの磐石さを司る。
禍福をもたらすのはそれぞれの善行や悪行そのものであり、絶対普遍の神仏ほど罪福異熟をただ見守ることに特化する。
罪悪を積み重ねようとも自らに帰依すらすれば救いをもたらし、善徳を積み重ねようとも自らに帰依しなければ
災禍をもたらすというような作為の塊りである神は、神であるとしたところで「邪神」であり、本地垂迹に基づけば
魑魅魍魎の妖怪や地獄の亡者にすら相当するもの。善行には福徳が、悪行には災禍がもたらされるのが無為自然に根ざした
普遍的な道理である一方、悪行に福徳を、善行に災禍をもたらそうとするのは無為自然の道理に反する危うい無理に当たる。
普遍性に根ざさない無理を司るものだから、そのような邪神も、それ自体が危うい存在にあたり、道理を司る真に
上等な神仏などと比べれば、その権威が失墜するなどの形での、衰亡の危機に晒されることが免れ得ない。
道理を司る上等な神仏とて、社会的な権威がある程度失墜することはあるが、何しろ司っているのが普遍的な道理なものだから、
どんなに人工的な権威の剥奪を被ったところで、いつでもその権威の規矩準縄に根ざした復興が可能である。一方で、
罪福異熟を捻じ曲げようとするような無理を司る邪神の場合は、一旦その権威を喪失すれば、その復興は二度と叶わない。
道理はどんなに捻じ曲げられたところで最後には通されるものだから、いくらでも復興が可能である一方、無理のほうは、
始めから実は通っていないものを無理に通そうとし続けた挙句に、いい加減通しているフリすらできなくなって衰亡するもの
であるから、何も筋を通したところがなくて、挙句にブラフごと倒壊するというその無様さを以て、二度と復興も叶わなくなる。
道理を司る上等な神仏を敬うことには、その普遍性に信念を託すことで信念を貫くという意味が備わるが、
無理を無理やり通そうとする邪神への敬意は、それこそ無理を無理やり通そうとする我の張り通しとなるばかりで、
そこにもまた、普遍性に根ざして貫こうとする信念などとは別個の危うさが帯びている。両者の敬意は根本的に全くの
別物であり、普遍性に根ざした信念を育てる正統な神仏への畏敬はぜひ行うべきである一方で、ただ我の張り通しを助長する
ばかりである、邪神に対する狂信まみれな敬いなどは棄て去るべきである。別に邪神に唾棄する嫌悪者になれというのでもなく、
邪神に心を囚われるようなこと自体をなくすべきであり、好悪も畏敬も侮蔑も何もない、ただのゴミ扱いをすることが妥当である。
「其の上に事うるや敬」
「(君子は)目上の者に仕える場合に敬いを抱く。
(六道論で人間以下とされる地獄餓鬼畜生を敬ったりもしない。
人間以上とされる天界の神や仏界の仏だけが敬うにも値する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六より)
どんなに人工的な権威の剥奪を被ったところで、いつでもその権威の規矩準縄に根ざした復興が可能である。一方で、
罪福異熟を捻じ曲げようとするような無理を司る邪神の場合は、一旦その権威を喪失すれば、その復興は二度と叶わない。
道理はどんなに捻じ曲げられたところで最後には通されるものだから、いくらでも復興が可能である一方、無理のほうは、
始めから実は通っていないものを無理に通そうとし続けた挙句に、いい加減通しているフリすらできなくなって衰亡するもの
であるから、何も筋を通したところがなくて、挙句にブラフごと倒壊するというその無様さを以て、二度と復興も叶わなくなる。
道理を司る上等な神仏を敬うことには、その普遍性に信念を託すことで信念を貫くという意味が備わるが、
無理を無理やり通そうとする邪神への敬意は、それこそ無理を無理やり通そうとする我の張り通しとなるばかりで、
そこにもまた、普遍性に根ざして貫こうとする信念などとは別個の危うさが帯びている。両者の敬意は根本的に全くの
別物であり、普遍性に根ざした信念を育てる正統な神仏への畏敬はぜひ行うべきである一方で、ただ我の張り通しを助長する
ばかりである、邪神に対する狂信まみれな敬いなどは棄て去るべきである。別に邪神に唾棄する嫌悪者になれというのでもなく、
邪神に心を囚われるようなこと自体をなくすべきであり、好悪も畏敬も侮蔑も何もない、ただのゴミ扱いをすることが妥当である。
「其の上に事うるや敬」
「(君子は)目上の者に仕える場合に敬いを抱く。
(六道論で人間以下とされる地獄餓鬼畜生を敬ったりもしない。
人間以上とされる天界の神や仏界の仏だけが敬うにも値する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六より)
①まず始めに、善でも悪でもないものがあった。
善悪が人間という知能生物に特有の尺度である以上、自然に善悪は存在しないが、
その無為なる自然にありのままに適応して生きていた原初の人類にもまた、善悪はなかった。
②その次に、殊更な善悪を未だ察知しないままに、とりあえず作為を積極化しておく試みが生じた。
古代中国における農作の発明や、古代の極東社会で土器文明として発達していた貯蔵の慣習、
古代オリエント社会における文字文化や土建の発達などがそれに当たり、未だそこに善悪などという
基準が遍在しているしていることも察知されていなければ、善悪を推し進めていくような意識もなかった。
③その次に、文明に善悪という倫理基準が遍在していることを察知して、「勧善懲悪」という
方向性に即して文明を潤色していく試みが生じた。堯舜禹らによる権力道徳の実践がそれであり、
ただ馬鹿でかいことをやろうとする場合などには決して見られない、世の中を着実な
平和や繁栄へと導こうとする、優良な文明の体系性がそこから備わり始めた。
④そしてその次に、巨大化した文明社会の中で、少数の部落民がガン細胞的な悪性の性向を
蓄えて、他民族や異教徒を迫害や収奪の対象にしてまで自分たちが生きて繁栄しようとする、
「悪逆非道」の方向性を一概化しようとする試みが生じた。古代ユダヤ人にとってのユダヤ教の
発症などがそれであり、迫害されて当然なほどにも劣悪な選民志向が案の定弾圧を受け、全く
民族としての血統なども継承されないままに、信仰形態だけが辛うじて存続していくこととなった。
⑤さらにその次に、ユダヤ信仰級の悪逆非道すらをも「それでもいいじゃないか」と開き直ることを
詭弁によって潤色する「偽善」の試みが生じた。それがイエスによるキリスト信仰の触れ回りであり、
その肝要は「悪からの救い」などではなく、「悪を無制限に受け入れる偽善の深刻化」にこそあった。
善悪が人間という知能生物に特有の尺度である以上、自然に善悪は存在しないが、
その無為なる自然にありのままに適応して生きていた原初の人類にもまた、善悪はなかった。
②その次に、殊更な善悪を未だ察知しないままに、とりあえず作為を積極化しておく試みが生じた。
古代中国における農作の発明や、古代の極東社会で土器文明として発達していた貯蔵の慣習、
古代オリエント社会における文字文化や土建の発達などがそれに当たり、未だそこに善悪などという
基準が遍在しているしていることも察知されていなければ、善悪を推し進めていくような意識もなかった。
③その次に、文明に善悪という倫理基準が遍在していることを察知して、「勧善懲悪」という
方向性に即して文明を潤色していく試みが生じた。堯舜禹らによる権力道徳の実践がそれであり、
ただ馬鹿でかいことをやろうとする場合などには決して見られない、世の中を着実な
平和や繁栄へと導こうとする、優良な文明の体系性がそこから備わり始めた。
④そしてその次に、巨大化した文明社会の中で、少数の部落民がガン細胞的な悪性の性向を
蓄えて、他民族や異教徒を迫害や収奪の対象にしてまで自分たちが生きて繁栄しようとする、
「悪逆非道」の方向性を一概化しようとする試みが生じた。古代ユダヤ人にとってのユダヤ教の
発症などがそれであり、迫害されて当然なほどにも劣悪な選民志向が案の定弾圧を受け、全く
民族としての血統なども継承されないままに、信仰形態だけが辛うじて存続していくこととなった。
⑤さらにその次に、ユダヤ信仰級の悪逆非道すらをも「それでもいいじゃないか」と開き直ることを
詭弁によって潤色する「偽善」の試みが生じた。それがイエスによるキリスト信仰の触れ回りであり、
その肝要は「悪からの救い」などではなく、「悪を無制限に受け入れる偽善の深刻化」にこそあった。
まず善でも悪でもない自然の状態①があり、次に善悪を察知しないままに作為をただ積極化する試み②があり、
その次に作為によって大規模化した文明を勧善懲悪によって規律していこうとする試み③があり、その次に
大規模化した文明社会の中で自分たちばかりが我田引水によって繁栄しようとする悪逆非道の試み④があり、
さらにその次に、我田引水の悪逆非道を一般にまで赦させようとする偽善の深刻化の試み⑤があった。
善でも悪でもないものが一番、善悪を知らぬままの作為が二番、勧善懲悪が三番、悪逆非道が四番、
そして悪逆非道の寛容という偽善が五番。イエキリの試みは五番目という極めて遅い順番であり、
しかもイエキリ自身は一番目から三番目を知らず、四番目しか知らなかった。四番目の悪逆非道が
人類社会のデフォルトだとすら思い込んでいたものだから、「神の前には救いはない」などという
全くトンチンカンな物言いにも及んだ。神以前の世界に救いがないのではなく、イエキリがデフォルト
だと思い込んでいた悪逆非道常套化④以降の世界にこそ救いがないのであり、イエキリがデフォルトと
していたものからイエキリ自身の妄言までを根こそぎ摘み取るのが、人間にとっての真の救いとなる。
④と⑤を完全に摘み取ったからといって、この世界に何も残らないなんてことも決してなく、
純良な①と③が②を着実に統御していく、この上なく優良な文明社会が築き上げられていくこととなる。
それはちょうど、④と⑤が伝統的に存在しなかった、聖書信仰流入以前の東洋社会に近似するものともなる。
その次に作為によって大規模化した文明を勧善懲悪によって規律していこうとする試み③があり、その次に
大規模化した文明社会の中で自分たちばかりが我田引水によって繁栄しようとする悪逆非道の試み④があり、
さらにその次に、我田引水の悪逆非道を一般にまで赦させようとする偽善の深刻化の試み⑤があった。
善でも悪でもないものが一番、善悪を知らぬままの作為が二番、勧善懲悪が三番、悪逆非道が四番、
そして悪逆非道の寛容という偽善が五番。イエキリの試みは五番目という極めて遅い順番であり、
しかもイエキリ自身は一番目から三番目を知らず、四番目しか知らなかった。四番目の悪逆非道が
人類社会のデフォルトだとすら思い込んでいたものだから、「神の前には救いはない」などという
全くトンチンカンな物言いにも及んだ。神以前の世界に救いがないのではなく、イエキリがデフォルト
だと思い込んでいた悪逆非道常套化④以降の世界にこそ救いがないのであり、イエキリがデフォルトと
していたものからイエキリ自身の妄言までを根こそぎ摘み取るのが、人間にとっての真の救いとなる。
④と⑤を完全に摘み取ったからといって、この世界に何も残らないなんてことも決してなく、
純良な①と③が②を着実に統御していく、この上なく優良な文明社会が築き上げられていくこととなる。
それはちょうど、④と⑤が伝統的に存在しなかった、聖書信仰流入以前の東洋社会に近似するものともなる。
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「牛山の木は嘗て美なるも、其の大国に郊たるを以て、斧斤之れを伐る。以て美と為す可けんや。是れ其の日夜の
息する所、雨露の潤す所、萌櫱の生ずる無きに非ざるも、牛羊又た従いて之れを牧す。是れを以て彼の若く濯濯たるなり。
人其の濯濯たるを見、以て未だ嘗て材有らずと為すも、此れ豈に山の性ならんや。人に存る者と雖も、豈に仁義の心無からんや。
其の良心を放つ所以の者も、亦た猶お斧斤の木に於けるが如きなり。旦旦と之れを伐らば、以て美と為す可けんや」
「昔、斉国の牛山は美しい木々の生茂る名山として知られていたが、都市の近郊にあったせいで誰しもがその植生の木々を
斧まさかりで伐って取ったため裸山となってしまい、到底美しいとは呼べない外見になってしまった。日々の自然風土や
雨水も新たな木々の芽を生やさせようとはするものの、木を伐った跡地にさらに人が牛羊を放牧したりするものだから、
やはり木々が生長するだけの余裕もない。大雨の雨水を受け止めることもできずに、よく土石流を巻き起こしてもいるが、
それを以て『牛山には始めから木材になるような木などなかった』としたりする。どうしてこれが山の本来ある通りの姿だなどと
いうことがあろうか。これと同じような言いがかりで、生まれながらの人間には仁義を志す心がないなどと決め付けてしまって
いいものか。決してそんなはずはなく、人に良心が欠けているのも、元はといえば木々の生い茂っていた山を後から開墾して
禿山にしてしまっているようなもの。毎日良心の芽を刈り取ってばかりいて、どうしてかつての牛山のような美しさになれようか。
(ちょうどユダヤの行いは牛山の木々を刈り取る行いに、キリストの行いは禿山となった牛山に家畜を放牧する行いに該当する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・八より)
息する所、雨露の潤す所、萌櫱の生ずる無きに非ざるも、牛羊又た従いて之れを牧す。是れを以て彼の若く濯濯たるなり。
人其の濯濯たるを見、以て未だ嘗て材有らずと為すも、此れ豈に山の性ならんや。人に存る者と雖も、豈に仁義の心無からんや。
其の良心を放つ所以の者も、亦た猶お斧斤の木に於けるが如きなり。旦旦と之れを伐らば、以て美と為す可けんや」
「昔、斉国の牛山は美しい木々の生茂る名山として知られていたが、都市の近郊にあったせいで誰しもがその植生の木々を
斧まさかりで伐って取ったため裸山となってしまい、到底美しいとは呼べない外見になってしまった。日々の自然風土や
雨水も新たな木々の芽を生やさせようとはするものの、木を伐った跡地にさらに人が牛羊を放牧したりするものだから、
やはり木々が生長するだけの余裕もない。大雨の雨水を受け止めることもできずに、よく土石流を巻き起こしてもいるが、
それを以て『牛山には始めから木材になるような木などなかった』としたりする。どうしてこれが山の本来ある通りの姿だなどと
いうことがあろうか。これと同じような言いがかりで、生まれながらの人間には仁義を志す心がないなどと決め付けてしまって
いいものか。決してそんなはずはなく、人に良心が欠けているのも、元はといえば木々の生い茂っていた山を後から開墾して
禿山にしてしまっているようなもの。毎日良心の芽を刈り取ってばかりいて、どうしてかつての牛山のような美しさになれようか。
(ちょうどユダヤの行いは牛山の木々を刈り取る行いに、キリストの行いは禿山となった牛山に家畜を放牧する行いに該当する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・八より)
>>341の孟子の言葉に従うなら、牧畜は元から森林の生い茂っている山岳などではなく、
平地の草原や砂漠などで行うべきだということになる。「牧畜なんかやめてしまえ」というのでは、
「それなりに大規模化した文明社会を勧善懲悪によって司る」という儒家の理念にも即さないので、
農牧もそれなりに奨励はするが、ちゃんと規定された区画の範囲だけでの農牧に専念させることが、
儒家の理念に即すことにもなるし、百姓の警護者兼統率者としての武家の本懐にも沿うことになる。
他にも、孟子は市場にかける税率などについても色々と細かい論及を行っているし、工業従事者が
あまりにも凝った技巧によって為政者を誘惑するようなことがあってはならないと「礼記」月令第六にもある。
総じて民間人の分をわきまえぬ放辟邪侈を十全に取り押さえることを士人道徳たる儒学は旨としていて、
民間人の放辟邪侈をありのままに大肯定する自由主義の民主主義とは全く真逆の志向性を備えているといえる。
じゃあ、民間人の放辟邪侈を取り押さえにかかる士人のほうはどうかといって、それこそどんなに清廉な
民間人よりもさらに清廉な聖人賢人でなければならず、そうでなければ民間人を取り押さえる名分も立たない。
今の日本やギリシャの公務員みたいな、民間人以上にもだらけきっている有様では、到底そんな名分は立たない。
じゃあ今の民間人並みにモーレツに働きまくればいいのかといえばそんなこともなく、やって善いことと悪いこと
との分別を厳格に付けて、善いことは進んで行い、悪いことは断じて行わない行動規範の優良さによってこそ
民間の小人に対しても差をつけるべきで、政財界の癒着による重権力犯罪は黙認しておきながら、飲酒運転や
刃物携帯みたいな、それ自体は誰にも迷惑のかからない軽罪ばかりを取り締まっている今の警察や検察なども、
このような士人としての素質を全く欠いているため、全員クビにして新たに採用をやり直すべきだとすらいえる。
平地の草原や砂漠などで行うべきだということになる。「牧畜なんかやめてしまえ」というのでは、
「それなりに大規模化した文明社会を勧善懲悪によって司る」という儒家の理念にも即さないので、
農牧もそれなりに奨励はするが、ちゃんと規定された区画の範囲だけでの農牧に専念させることが、
儒家の理念に即すことにもなるし、百姓の警護者兼統率者としての武家の本懐にも沿うことになる。
他にも、孟子は市場にかける税率などについても色々と細かい論及を行っているし、工業従事者が
あまりにも凝った技巧によって為政者を誘惑するようなことがあってはならないと「礼記」月令第六にもある。
総じて民間人の分をわきまえぬ放辟邪侈を十全に取り押さえることを士人道徳たる儒学は旨としていて、
民間人の放辟邪侈をありのままに大肯定する自由主義の民主主義とは全く真逆の志向性を備えているといえる。
じゃあ、民間人の放辟邪侈を取り押さえにかかる士人のほうはどうかといって、それこそどんなに清廉な
民間人よりもさらに清廉な聖人賢人でなければならず、そうでなければ民間人を取り押さえる名分も立たない。
今の日本やギリシャの公務員みたいな、民間人以上にもだらけきっている有様では、到底そんな名分は立たない。
じゃあ今の民間人並みにモーレツに働きまくればいいのかといえばそんなこともなく、やって善いことと悪いこと
との分別を厳格に付けて、善いことは進んで行い、悪いことは断じて行わない行動規範の優良さによってこそ
民間の小人に対しても差をつけるべきで、政財界の癒着による重権力犯罪は黙認しておきながら、飲酒運転や
刃物携帯みたいな、それ自体は誰にも迷惑のかからない軽罪ばかりを取り締まっている今の警察や検察なども、
このような士人としての素質を全く欠いているため、全員クビにして新たに採用をやり直すべきだとすらいえる。

者ばかりだから、全員クビになって一からやり直すぐらいのつもりでいるべきだ。今の世の中の誰一人として、
聖書信仰が根絶されて儒学道徳が流布されるこれからの時代に、今のままでいられることはないと知れ。
「伐冰の家は、牛羊を畜せず。(略)国家に長として財用を務むる者は必ず小人自りす。
小人をして国家を為めしめれば、災害並び至る。善者ありと雖もまたこれを如何ともするなし」
「葬祭に遺体や供物の腐敗防止のための氷を用いる卿大夫階級の家では、すでに財産が十分である
ことをわきまえて、牧牛や牧羊による利殖を行ったりはしない。国家に長たらんとしながら利殖財用を
追い求める者は、必ずくだらない小人としての本性を宿している。そのような小人に国運をも担わせたならば、
ありとあらゆる災害が巻き起こり、たとえ最善を尽くす者がいたとて、どうすることもできない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・十より)
最初の内に厳しい態度でいたほうが、後々になって寛大な恩赦を加えていける。
始めの内ばかり寛大な態度でいて、最後にはFEMAみたいな絶対隷従を強いたりするほうが、
それこそさんざん可愛がって来た牧畜を最後には精肉にする、屠殺屋の所業だといえる。
始めの内ばかり寛大な態度でいて、最後にはFEMAみたいな絶対隷従を強いたりするほうが、
それこそさんざん可愛がって来た牧畜を最後には精肉にする、屠殺屋の所業だといえる。
大規模な徳治社会の権力機構には、必ず君臣関係が伴う。
私見によって政務を取り仕切る立場にあるのが君主である一方、あくまで君命に即して政務を執り行うのが臣下。
政務を主観的に執り行う代わりに君主は実務を直接執り行わず、私情を排した臣下こそが直接的に民衆をも統治する。
君主が私情によって直接民を統治するのでは、気に入った民を厚遇して気に入らない民を冷遇するようなこと
にもなりかねないので、本人自身は私情を排した臣下が「君子(君主の弟子)」として民の直接統治に携わる。
天皇や将軍に直接お目通りできる臣下も昔はごくごく限られていて、民はおろか、下級の士人ですら
みだりに主君に接することは許されなかった。そこまでして為政者同士での階級差別を重んじていたのも、
民に対する私情のうつろいが君主に備わってしまうことを避けるためでこそあった。
封建社会は、民のうちでも商家や部落を差別下に置くが、それは商家や部落こそが、主君にとって好意を持たれやすい
誘惑的な要素を備えているからで、楽して大金を稼ぐその生業としての安易さに主君が籠絡されてしまったなら、
それこそ致命的な傾国の元凶ともなってしまうから、あえて民の中でも商家や部落に相当するような職業を下賤扱いした。
商家や部落が嫌いだからではなく、客を堕落からなる破滅へと追いやる娼婦も同然の職分であるからこそ、
清廉を旨とする権力道徳者にとっての忌避対象とされていた。私情によってはむしろ好みやすい安易さを
帯びているからこそ、私見によって政務を取り仕切る主君が直接接することは禁じられていたのだ。
「父母存すれば、友を以て死せるを許さず、私財を有せず」
「父母が存命であるというのなら、友人のために命を賭すようなことはせず、財貨をわたくしするようなこともしない。
(父がいることを豪語しながら磔刑によって刑死し、私的に囲い込んだ信者への
友愛を果たそうとしたイエスの行いは、自己完結した現象として非礼に当たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
私見によって政務を取り仕切る立場にあるのが君主である一方、あくまで君命に即して政務を執り行うのが臣下。
政務を主観的に執り行う代わりに君主は実務を直接執り行わず、私情を排した臣下こそが直接的に民衆をも統治する。
君主が私情によって直接民を統治するのでは、気に入った民を厚遇して気に入らない民を冷遇するようなこと
にもなりかねないので、本人自身は私情を排した臣下が「君子(君主の弟子)」として民の直接統治に携わる。
天皇や将軍に直接お目通りできる臣下も昔はごくごく限られていて、民はおろか、下級の士人ですら
みだりに主君に接することは許されなかった。そこまでして為政者同士での階級差別を重んじていたのも、
民に対する私情のうつろいが君主に備わってしまうことを避けるためでこそあった。
封建社会は、民のうちでも商家や部落を差別下に置くが、それは商家や部落こそが、主君にとって好意を持たれやすい
誘惑的な要素を備えているからで、楽して大金を稼ぐその生業としての安易さに主君が籠絡されてしまったなら、
それこそ致命的な傾国の元凶ともなってしまうから、あえて民の中でも商家や部落に相当するような職業を下賤扱いした。
商家や部落が嫌いだからではなく、客を堕落からなる破滅へと追いやる娼婦も同然の職分であるからこそ、
清廉を旨とする権力道徳者にとっての忌避対象とされていた。私情によってはむしろ好みやすい安易さを
帯びているからこそ、私見によって政務を取り仕切る主君が直接接することは禁じられていたのだ。
「父母存すれば、友を以て死せるを許さず、私財を有せず」
「父母が存命であるというのなら、友人のために命を賭すようなことはせず、財貨をわたくしするようなこともしない。
(父がいることを豪語しながら磔刑によって刑死し、私的に囲い込んだ信者への
友愛を果たそうとしたイエスの行いは、自己完結した現象として非礼に当たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
ロックフェラーやロスチャイルドが、キリスト教圏20億人を破滅に追いやった手管が
畜獣の屠殺まんまなものだから、部落出身者も向こう800年は世間様に対して大きな顔ができない。
こっちのほうが、松本ドラゴンのヤクザ会見なんかよりよっぽど致命的。
畜獣の屠殺まんまなものだから、部落出身者も向こう800年は世間様に対して大きな顔ができない。
こっちのほうが、松本ドラゴンのヤクザ会見なんかよりよっぽど致命的。
重罪を犯したために責任をとって死なねばならない者がいる。
大きな使命を帯びているために生き続けねばならない者がいる。
そういった、正当な人間の運命を特定的に、概念夢想に
よって破綻させようとする試みが、十字架信仰に当たる。
つまり、重罪を犯した人間は責任を取らせずに生き延びさせようとし、
大きな使命を帯びた人間には活躍の余地も与えずに死なせようとする。
それが十字架信仰によって実現しようとするものであり、まったく
もって、不正の実現によって正義を反故にする試みであるといえる。
それ以外に十字架を信仰する意義はないので、大きな使命を帯びて正義を
実現しようとする者は十字架を信仰しない。十字架を信仰しないものだから、
十字架を信仰するものからすれば「生きなくてよい者」ということにもなる。
だから十字架信者は自明に、正義の反故を惜しみなく進めていくことになる。
十字架信仰は悪と偽善の味方である一方で、真の正義の宿敵であり、
決して味方などではあり得ない。正義の味方たり得ない要素を十字架信仰が
自明に帯びているにも関わらず、十字架信者が正義との親和を求めたりするのも
薄ら馬鹿げたことで、十字架信仰だけは絶対に破棄するのでなければ、正義や
正義を実現する者の味方になれることは永遠にないのだと知らねばならない。
マッチポンプのポンプで味方のフリなどをしたところで、必ずそれ以上の
マッチ災禍によって、ポンプで埋め合わせきれない規模の損害を同時に与えている。
どこまでいっても、正義に対して利益以上の損害を与え続けるのが十字架信仰であり、
十字架信仰を破棄しないことには、正義に利する味方たり得る可能性すら生じない。
大きな使命を帯びているために生き続けねばならない者がいる。
そういった、正当な人間の運命を特定的に、概念夢想に
よって破綻させようとする試みが、十字架信仰に当たる。
つまり、重罪を犯した人間は責任を取らせずに生き延びさせようとし、
大きな使命を帯びた人間には活躍の余地も与えずに死なせようとする。
それが十字架信仰によって実現しようとするものであり、まったく
もって、不正の実現によって正義を反故にする試みであるといえる。
それ以外に十字架を信仰する意義はないので、大きな使命を帯びて正義を
実現しようとする者は十字架を信仰しない。十字架を信仰しないものだから、
十字架を信仰するものからすれば「生きなくてよい者」ということにもなる。
だから十字架信者は自明に、正義の反故を惜しみなく進めていくことになる。
十字架信仰は悪と偽善の味方である一方で、真の正義の宿敵であり、
決して味方などではあり得ない。正義の味方たり得ない要素を十字架信仰が
自明に帯びているにも関わらず、十字架信者が正義との親和を求めたりするのも
薄ら馬鹿げたことで、十字架信仰だけは絶対に破棄するのでなければ、正義や
正義を実現する者の味方になれることは永遠にないのだと知らねばならない。
マッチポンプのポンプで味方のフリなどをしたところで、必ずそれ以上の
マッチ災禍によって、ポンプで埋め合わせきれない規模の損害を同時に与えている。
どこまでいっても、正義に対して利益以上の損害を与え続けるのが十字架信仰であり、
十字架信仰を破棄しないことには、正義に利する味方たり得る可能性すら生じない。
「民に好悪喜怒哀楽有り、六気に生ず。是の故に則を審かにして類を宜しくし、以て六志を制す。
哀に哭泣有り、楽に歌舞有り、喜に施舍有り、怒に戦有り。喜に於いては好を生じ、怒に於にては悪を生ず。
是の故に行いを審かにして令を信し、禍福に賞罰し、以て死生を制す。生は好物なり、死は悪物なり。
好物は楽しみ、悪物は哀しむ。哀楽失わざれば、乃ち能く天地の性に協う。是れを以て長久なり」
「人民には好悪喜怒哀楽といった感情があり、これら六つが天の気から生じた普遍的なものである。
そのため仁者はその法則を詳らかによく分類し、六つの心がけによってよく統制していくのである。
哀しみに対しては哭泣を心がけ、楽しみに対しては歌舞を心がけ、喜びに対しては節制を心がけ、
怒りに対しても節度を守った体系的な臨戦を心がける。この内の喜びが愛好の因子となり、怒りが憎悪
の因子となる。そのため人民の喜怒に配慮を効かせつつも、為政者としては善人の徳業や悪人の罪業を
詳らかに調べ上げ、慎重な命令によって善悪禍福に相応の順当な賞罰を下し、善人を生かしたり、悪人を
死なせたりすることに節度を持たせる。生かされることは愛好に値し、死なされることは憎悪に値する。
愛好できる者は嬉しがりにならない程度にその活躍を楽しみ、憎悪の対象となる者にもなるべく哀悼を
心がける。喜怒を制した哀楽を失うことがなければ天地の性情にも適い、天下国家の福徳も長久となる。
(人民の好悪を参考にした善人の出世や、悪人の処刑が世の中の福徳の長久にもつながる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十五年より)
哀に哭泣有り、楽に歌舞有り、喜に施舍有り、怒に戦有り。喜に於いては好を生じ、怒に於にては悪を生ず。
是の故に行いを審かにして令を信し、禍福に賞罰し、以て死生を制す。生は好物なり、死は悪物なり。
好物は楽しみ、悪物は哀しむ。哀楽失わざれば、乃ち能く天地の性に協う。是れを以て長久なり」
「人民には好悪喜怒哀楽といった感情があり、これら六つが天の気から生じた普遍的なものである。
そのため仁者はその法則を詳らかによく分類し、六つの心がけによってよく統制していくのである。
哀しみに対しては哭泣を心がけ、楽しみに対しては歌舞を心がけ、喜びに対しては節制を心がけ、
怒りに対しても節度を守った体系的な臨戦を心がける。この内の喜びが愛好の因子となり、怒りが憎悪
の因子となる。そのため人民の喜怒に配慮を効かせつつも、為政者としては善人の徳業や悪人の罪業を
詳らかに調べ上げ、慎重な命令によって善悪禍福に相応の順当な賞罰を下し、善人を生かしたり、悪人を
死なせたりすることに節度を持たせる。生かされることは愛好に値し、死なされることは憎悪に値する。
愛好できる者は嬉しがりにならない程度にその活躍を楽しみ、憎悪の対象となる者にもなるべく哀悼を
心がける。喜怒を制した哀楽を失うことがなければ天地の性情にも適い、天下国家の福徳も長久となる。
(人民の好悪を参考にした善人の出世や、悪人の処刑が世の中の福徳の長久にもつながる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十五年より)
「黙してこれを識し、学びて厭わず、人を誨えて倦まず。何か我れに有らんや(一部既出)」
「いいことを学んでもひけらかさずに自分で覚えておき、成果がなかなか見られなくても学び続けることを厭わず、
分からず屋を教誨し続けても倦み疲れたりはしない。それぐらいのことは、私には別に何でもないことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二より)
教学に対する儒者の絶倫加減は、自分たちが学問の対象としている権力道徳が永久不変の道理であることを
主因としている。どんな詭弁やごまかしによっても突き崩すことのできない絶対普遍の道理だからこそ、
学び教え続けても決して倦み疲れたりすることがない。無理な運動は身体に祟って、イヤでも疲れるが、
呼吸を乱さない程度の適度な運動なら、疲れてやめるような気になったりはしないのとも同じ。
その、儒者の学問対象である絶対普遍の道理に真っ向から反する完全誤謬の無理を羅列しているのが
新旧約聖書こと権力犯罪聖書で、絶対普遍の道理の反転であるだけに、そこに書かれている無理も
また絶対普遍の方向性を備えているのは確か。絶対普遍の道理の「絶対普遍」だけを借りとって、
列車がレールの上を走り続けるような容易さで以て、無理だらけな権力犯罪を進行させ続ける。
絶対普遍のレールに乗っかって、まるで息をするように無理もなく学び続けたり、狂信し続けたりしていられる
点では四書五経と犯罪聖書は確かに共通している。四書五経の引用を延々と続けても全く倦み疲れないからこそ、
犯罪聖書を引用し続けることも狂信者にとっては全く倦み疲れないことなのだろうと個人的にも察知できる。
「倦み疲れて負ける」ということは、四書五経の勉学者と犯罪聖書の狂信者、いずれにも決してあることではない。
ただ、勉強しているものが道理であるが故に、現実社会を破綻させずに繁栄させるか、狂信しているものが無理で
あるが故に、現実社会を繁栄させずに破綻させるかという違いだけが、四書五経の勉学を存続させて、犯罪聖書の
狂信を途絶させる決定的な分かれ目となる。どちらかがダウンするまでではなく、聖書信者が死ぬまで続けられる決闘。
儒者のほうが自業自得で死んだりすることはないので、聖書信者の自業自得での自滅だけが終末として予定される。
「いいことを学んでもひけらかさずに自分で覚えておき、成果がなかなか見られなくても学び続けることを厭わず、
分からず屋を教誨し続けても倦み疲れたりはしない。それぐらいのことは、私には別に何でもないことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二より)
教学に対する儒者の絶倫加減は、自分たちが学問の対象としている権力道徳が永久不変の道理であることを
主因としている。どんな詭弁やごまかしによっても突き崩すことのできない絶対普遍の道理だからこそ、
学び教え続けても決して倦み疲れたりすることがない。無理な運動は身体に祟って、イヤでも疲れるが、
呼吸を乱さない程度の適度な運動なら、疲れてやめるような気になったりはしないのとも同じ。
その、儒者の学問対象である絶対普遍の道理に真っ向から反する完全誤謬の無理を羅列しているのが
新旧約聖書こと権力犯罪聖書で、絶対普遍の道理の反転であるだけに、そこに書かれている無理も
また絶対普遍の方向性を備えているのは確か。絶対普遍の道理の「絶対普遍」だけを借りとって、
列車がレールの上を走り続けるような容易さで以て、無理だらけな権力犯罪を進行させ続ける。
絶対普遍のレールに乗っかって、まるで息をするように無理もなく学び続けたり、狂信し続けたりしていられる
点では四書五経と犯罪聖書は確かに共通している。四書五経の引用を延々と続けても全く倦み疲れないからこそ、
犯罪聖書を引用し続けることも狂信者にとっては全く倦み疲れないことなのだろうと個人的にも察知できる。
「倦み疲れて負ける」ということは、四書五経の勉学者と犯罪聖書の狂信者、いずれにも決してあることではない。
ただ、勉強しているものが道理であるが故に、現実社会を破綻させずに繁栄させるか、狂信しているものが無理で
あるが故に、現実社会を繁栄させずに破綻させるかという違いだけが、四書五経の勉学を存続させて、犯罪聖書の
狂信を途絶させる決定的な分かれ目となる。どちらかがダウンするまでではなく、聖書信者が死ぬまで続けられる決闘。
儒者のほうが自業自得で死んだりすることはないので、聖書信者の自業自得での自滅だけが終末として予定される。
「神農氏没して、黄帝、堯、舜氏作る。其の変を通じて、民を使わして倦ましめず、神をして之れを化し、民を使わして
之れを宜しくせしむ。易は窮まれば則ち変じ、変ずれば則ち通る。通れば則ち久し。是れを以て天より之れを祐け、
吉にして利ろしからざる无からしむ。黄帝、堯、舜、衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸れを乾坤に取ればなり」
「(基本は無為自然によって天下を治め、部分的に易に根ざした技巧によって統治も行っていた)神農が没して、
黄帝や堯、舜らが治める代となると、作為的な物事の変化を加えることで、民を使役しても倦み疲れないようにさせた。
形而上的な神妙さによって変化を起こすことで、民をよく楽しませるようにした。易の法則では行き詰まりの先に
変化が起こり、その変化によって道理が通り、それによって長らく泰平が開かれるが、その法則に則って天からの
神助をも受け、吉祥にして、縁起の悪いことがないようにした。黄帝や堯舜が、垂れ下がりのあるような非実用的な
服装のままで政治を行っても天下がよく治まったのは、その政治を易の陰陽乾坤の法則によく則らせたからである。
(易の法則に真っ向から反する暴政を行うことで、民を最悪の苦痛に追いやりながらも、倦み疲れさせないこともまた可能
である。ただしその場合には天下は治まらず、垂れ下がりのないような実用的な服を着て対策を尽くしても破綻は免れ得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
之れを宜しくせしむ。易は窮まれば則ち変じ、変ずれば則ち通る。通れば則ち久し。是れを以て天より之れを祐け、
吉にして利ろしからざる无からしむ。黄帝、堯、舜、衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸れを乾坤に取ればなり」
「(基本は無為自然によって天下を治め、部分的に易に根ざした技巧によって統治も行っていた)神農が没して、
黄帝や堯、舜らが治める代となると、作為的な物事の変化を加えることで、民を使役しても倦み疲れないようにさせた。
形而上的な神妙さによって変化を起こすことで、民をよく楽しませるようにした。易の法則では行き詰まりの先に
変化が起こり、その変化によって道理が通り、それによって長らく泰平が開かれるが、その法則に則って天からの
神助をも受け、吉祥にして、縁起の悪いことがないようにした。黄帝や堯舜が、垂れ下がりのあるような非実用的な
服装のままで政治を行っても天下がよく治まったのは、その政治を易の陰陽乾坤の法則によく則らせたからである。
(易の法則に真っ向から反する暴政を行うことで、民を最悪の苦痛に追いやりながらも、倦み疲れさせないこともまた可能
である。ただしその場合には天下は治まらず、垂れ下がりのないような実用的な服を着て対策を尽くしても破綻は免れ得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
正統な神仏を崇める純正な信教でも、神仏による加護を期待するということは当然ある。
ただ、その崇敬対象が神である以上は、たとえ最高級の大神であろうとも「絶対的な加護」などは期待しない。
神のフリした鬼畜などではない、本物の神々の住まう天界もまた、絶対的な普遍性を供えた世界ではなく、
それなりの盛衰を伴うものであり、長寿と大きな福徳を保証されながらも、天人五衰もまたあるものだから、
その神に対して加護を期待する者もまた、自力作善に後付けで施す潤色ぐらいのものとして神護を嗜む。
では、仏に加護を期待する場合はどうかといえば、確かにその加護は絶対普遍にして金剛不壊となる。
ただ、本質的に仏は人格神ではなく、純粋かつ優秀なある種の哲理なのであり、その哲理を理解し体得すること
でこそ絶対的な加護を期待できるものであるため、人格者に依存するアブラハム教のような格好は似つかわしくない。
ただ、仏法への他力本願の体裁を取ることもまた一応は可能なことであり、念仏による浄土信仰などがそれに当たる。
最も簡素で容易い仏護の得方が念仏であり、他力本願なりの荘厳は加えられているにしても、やはりあらゆる仏門の
中でも、最も本格的な荘厳にも欠けているため、余裕があれば念仏以上に高尚な聖道門への帰依を目指したくなる。
ただ、そんな余裕がないという状態、世が地獄の業火に晒されて仏道修行どころではないという時代に
おける消火栓代わりの役目などを、念仏のような他力本願型の仏門が負うことができる。
ただ、その崇敬対象が神である以上は、たとえ最高級の大神であろうとも「絶対的な加護」などは期待しない。
神のフリした鬼畜などではない、本物の神々の住まう天界もまた、絶対的な普遍性を供えた世界ではなく、
それなりの盛衰を伴うものであり、長寿と大きな福徳を保証されながらも、天人五衰もまたあるものだから、
その神に対して加護を期待する者もまた、自力作善に後付けで施す潤色ぐらいのものとして神護を嗜む。
では、仏に加護を期待する場合はどうかといえば、確かにその加護は絶対普遍にして金剛不壊となる。
ただ、本質的に仏は人格神ではなく、純粋かつ優秀なある種の哲理なのであり、その哲理を理解し体得すること
でこそ絶対的な加護を期待できるものであるため、人格者に依存するアブラハム教のような格好は似つかわしくない。
ただ、仏法への他力本願の体裁を取ることもまた一応は可能なことであり、念仏による浄土信仰などがそれに当たる。
最も簡素で容易い仏護の得方が念仏であり、他力本願なりの荘厳は加えられているにしても、やはりあらゆる仏門の
中でも、最も本格的な荘厳にも欠けているため、余裕があれば念仏以上に高尚な聖道門への帰依を目指したくなる。
ただ、そんな余裕がないという状態、世が地獄の業火に晒されて仏道修行どころではないという時代に
おける消火栓代わりの役目などを、念仏のような他力本願型の仏門が負うことができる。
「困ったときの神頼み」という通り、他力本願による神仏の加護などをやたらと欲するような人間は、元から困っている。
常日頃から絶えず大きな苦悩に晒され続けているから、自分以外の誰かに依存していなければ居ても立ってもいられない。
それは絶対に無かるべきことだとも言いはしないが、あるかないかでいえば無いに越したことはない。浄土教であれ
拝火教であれアブラハム教であれそれ以外の他力信仰であれ、他力信仰を卒業して自力作善を目指していけるのなら、
それに越したことはないのであって、「他力信仰こそは自力作善よりも優等なものだ」などというような転倒夢想は決して
許されるものではない。浄土信者も自分が煩悩具縛の凡夫であったり、今という時代が自力作善どころではない乱世で
あったりすることを理由として他力信仰に帰依するのであり、自力作善が可能ならそっちを選択するぐらいのつもりでいる。
浄土系の坊主が生臭なのも全くもって上等なことであり、他力信仰ごときをやたらと聖化しようとするほうが頭がおかしい。
「天は下民を降し、之の君を作て、之の師を作つ。惟れ其の上帝を助け之れを寵する曰なり。
四方の罪有るも罪無きも、惟だ我れに在り、天下曷ぞ敢えて厥の志しを越すもの有らんや」
「天はこの世によろずの民たちを生み降して、そこに一人の主君を立て、その師となる者を立てた。
これは天の上帝の事業を助けて、世に住まう民たちをよく安んじようとするためであった。
天下の四方の果てに至るまで、罪有るものを罰して罪なきものを賞する責任が、我らにこそある。
この天下に誰一人として、我々の志しを越える気概の持ち主はいない。(『書経』遺失部分の
孟子による引用。易の法則に根ざしたこの世界の様相を整えることを政治の根幹としていた
古代中国の為政者にとっては、自分たちの為政が天帝の事業を助け整えるものと考えられていた。
天上の神による加護を受けるどころか、天神の試みを自分たちが助けていくのだとすら考えて
いたわけで、それほどもの自助努力を心がける志があってこそ、仁政もまた達成できるのだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
常日頃から絶えず大きな苦悩に晒され続けているから、自分以外の誰かに依存していなければ居ても立ってもいられない。
それは絶対に無かるべきことだとも言いはしないが、あるかないかでいえば無いに越したことはない。浄土教であれ
拝火教であれアブラハム教であれそれ以外の他力信仰であれ、他力信仰を卒業して自力作善を目指していけるのなら、
それに越したことはないのであって、「他力信仰こそは自力作善よりも優等なものだ」などというような転倒夢想は決して
許されるものではない。浄土信者も自分が煩悩具縛の凡夫であったり、今という時代が自力作善どころではない乱世で
あったりすることを理由として他力信仰に帰依するのであり、自力作善が可能ならそっちを選択するぐらいのつもりでいる。
浄土系の坊主が生臭なのも全くもって上等なことであり、他力信仰ごときをやたらと聖化しようとするほうが頭がおかしい。
「天は下民を降し、之の君を作て、之の師を作つ。惟れ其の上帝を助け之れを寵する曰なり。
四方の罪有るも罪無きも、惟だ我れに在り、天下曷ぞ敢えて厥の志しを越すもの有らんや」
「天はこの世によろずの民たちを生み降して、そこに一人の主君を立て、その師となる者を立てた。
これは天の上帝の事業を助けて、世に住まう民たちをよく安んじようとするためであった。
天下の四方の果てに至るまで、罪有るものを罰して罪なきものを賞する責任が、我らにこそある。
この天下に誰一人として、我々の志しを越える気概の持ち主はいない。(『書経』遺失部分の
孟子による引用。易の法則に根ざしたこの世界の様相を整えることを政治の根幹としていた
古代中国の為政者にとっては、自分たちの為政が天帝の事業を助け整えるものと考えられていた。
天上の神による加護を受けるどころか、天神の試みを自分たちが助けていくのだとすら考えて
いたわけで、それほどもの自助努力を心がける志があってこそ、仁政もまた達成できるのだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
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「周公の才の美なるも、驕り且つ吝かならしめば、其の余も観るに足らざるなるのみ(既出)」
「周公ほどの優れた才知があろうとも、おごり高ぶってけち臭いようなら、見る影もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一一より)
知識を得たからといっておごり高ぶるのは何も絶対条件ではなく、知識以前の精神的な
修養を欠いた未熟者に限っての不手際でこそある。そういう未熟者は本質的に「餓鬼」であり、
常日ごろ飢渇にあえいでいるところに水をもらった時のように、知識を淫らに貪ろうとする。
知識以前の自己が十分に堅実であり、知識を得ることも満たされた状態のデフォルトに対する
付加要素程度に考えられたなら、知識を得たからといっておごり高ぶるようなこともなくなる。
愛は創造にも破壊にも与する情念だが、ことに全くの無軌道である愛情は、概ね創造以上の破壊を招く。
理知に根ざした仁愛であってこそ破壊以上の創造や、創造したものの維持にも務めることができ、
そのような仁愛は大人だけが抱くことができるもの。恋人か夫か我が子あたりにしか愛を振り向ける
ことができない女子供などの場合には、朝廷に出仕する夫の上衣を喜んで何度も作り直す、「詩経」
緇衣の作者の女のようであるべきだ。いい年した男であっても、仁を志せない以上は同じように。
「飛龍天に在り、大人を見るに利ろし。/飛龍天に在るは、大人の造なり」
「飛龍が天を舞っている、まさに大人にお目にかかれるときである。
飛龍が天を舞うのは、大人の偉業が造り上げられるときに限るからだ。
(偏愛にまみれた小人が造り上げるものと共に飛龍は天を舞わない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・九五−象伝)
「周公ほどの優れた才知があろうとも、おごり高ぶってけち臭いようなら、見る影もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一一より)
知識を得たからといっておごり高ぶるのは何も絶対条件ではなく、知識以前の精神的な
修養を欠いた未熟者に限っての不手際でこそある。そういう未熟者は本質的に「餓鬼」であり、
常日ごろ飢渇にあえいでいるところに水をもらった時のように、知識を淫らに貪ろうとする。
知識以前の自己が十分に堅実であり、知識を得ることも満たされた状態のデフォルトに対する
付加要素程度に考えられたなら、知識を得たからといっておごり高ぶるようなこともなくなる。
愛は創造にも破壊にも与する情念だが、ことに全くの無軌道である愛情は、概ね創造以上の破壊を招く。
理知に根ざした仁愛であってこそ破壊以上の創造や、創造したものの維持にも務めることができ、
そのような仁愛は大人だけが抱くことができるもの。恋人か夫か我が子あたりにしか愛を振り向ける
ことができない女子供などの場合には、朝廷に出仕する夫の上衣を喜んで何度も作り直す、「詩経」
緇衣の作者の女のようであるべきだ。いい年した男であっても、仁を志せない以上は同じように。
「飛龍天に在り、大人を見るに利ろし。/飛龍天に在るは、大人の造なり」
「飛龍が天を舞っている、まさに大人にお目にかかれるときである。
飛龍が天を舞うのは、大人の偉業が造り上げられるときに限るからだ。
(偏愛にまみれた小人が造り上げるものと共に飛龍は天を舞わない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・九五−象伝)
有り体に言って、仁は「万有愛護」に当たる。
天下万人に対して最低限の配慮を利かせる程度の愛。
それは親族に対する愛ほどにも親密ではない一方で、全くの他人ともなれば
飢え渇こうが、殺されようが全くお構いなしというほどもの薄情でもない。
仁は完全なものであるが故に、一度得られたなら棄て去れもしない一方で、
さらにその上を追い求めていくということもない。無限は数学的には規定しにくいものとされるが、
人間の思考が漠然と無限を規定することは全く可能なことであり、その無限に即した愛を仁とする。
故に、さらにそれ以上やそれ以外を規定してそれを愛したりしなかったりすることがない。
もちろん、そんな愛は漠然とし過ぎて散漫になりがちなのも確かなので、仁者は
親族への親愛をまず第一として、そこから天下万人への程度を保った仁愛を施す。
親族への親愛もまた、狭く深いことにかけては絶対的に無限なものであり、
「追い求めていく」なんていう悠長な情緒を差し挟む余地はない。
自らの愛が狭く深いことにかけても、広く浅いことにかけても絶対的に無限なものだから、
「愛を追い求めていく」などという幼稚な情緒は、仁者には存在しないのである。
「往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし」
「すでに犯された過ちを諌めても仕方がないが、未だに犯され続けて
いる過ちは、そのまま見逃したりせずに糾弾を追い求めていくべきだ。
(聖書信仰を破棄した後ならともかく、未だに聖書信仰という大きな過ちを続けていく以上は、
それに対する糾弾を追い求め続けてやまない。この発言は、無益な社会活動を続けようとする
孔子に対する隠者の諌めの言葉であり、無為自然の隠遁を是とする道家の立場からも、
犯され続けている過ちを諌めることまでもが否とはされない根拠にもなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・五より)
天下万人に対して最低限の配慮を利かせる程度の愛。
それは親族に対する愛ほどにも親密ではない一方で、全くの他人ともなれば
飢え渇こうが、殺されようが全くお構いなしというほどもの薄情でもない。
仁は完全なものであるが故に、一度得られたなら棄て去れもしない一方で、
さらにその上を追い求めていくということもない。無限は数学的には規定しにくいものとされるが、
人間の思考が漠然と無限を規定することは全く可能なことであり、その無限に即した愛を仁とする。
故に、さらにそれ以上やそれ以外を規定してそれを愛したりしなかったりすることがない。
もちろん、そんな愛は漠然とし過ぎて散漫になりがちなのも確かなので、仁者は
親族への親愛をまず第一として、そこから天下万人への程度を保った仁愛を施す。
親族への親愛もまた、狭く深いことにかけては絶対的に無限なものであり、
「追い求めていく」なんていう悠長な情緒を差し挟む余地はない。
自らの愛が狭く深いことにかけても、広く浅いことにかけても絶対的に無限なものだから、
「愛を追い求めていく」などという幼稚な情緒は、仁者には存在しないのである。
「往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし」
「すでに犯された過ちを諌めても仕方がないが、未だに犯され続けて
いる過ちは、そのまま見逃したりせずに糾弾を追い求めていくべきだ。
(聖書信仰を破棄した後ならともかく、未だに聖書信仰という大きな過ちを続けていく以上は、
それに対する糾弾を追い求め続けてやまない。この発言は、無益な社会活動を続けようとする
孔子に対する隠者の諌めの言葉であり、無為自然の隠遁を是とする道家の立場からも、
犯され続けている過ちを諌めることまでもが否とはされない根拠にもなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・五より)

公益を図ることが最高目的ではない商売人なりにも、最低限の仁義があったという。
もちろん商売人の最高目的は私益の追求であり、仁義を慮るとしたところで、
迷惑をかけない程度に世間様から利益をせしめるように注意するぐらいが商売人としては関の山。
本当に仁徳を志すのなら始めから商売人などにはならずに、君子になろうとする。
商売人のうちで私益にしか目がいかないか、公益にもある程度の配慮が働くかは、
最悪かマシか程度の違いであり、非商人の立場からすれば五十歩百歩、目くそ鼻くそとすら言えるもの。
ただ、それにしたって「三方よし」を心がけるマシな商売人と、私益のためには亡国の画策すら
厭わないような最悪の悪徳商人とであれば、まだ前者を優遇して後者を冷遇ないし根絶すべきだといえる。
寄生国を敗戦や崩壊に追い込むほどに私益しか念頭に置かないユダヤ商人と、一応三方よしを
念頭に置いておく近江商人とであれば、近江商人を残してユダヤ商人を捨てるべきだといえる。
商売全体が治世では劣後されるべき職業ではあるにしろ、その商業の内側にも選別すべき余地がある。
「天地交わらざるは否なり。君子以て徳を倹にし難を辟く。栄するに禄を以てすべからず」
「天地が相交わらぬ『否』の相の時、君子は己れの才徳をひけらかさずに難を避ける。
(君子としては本望の成就である)禄を食むことすら栄光としてはならない。
(君子は栄光とすべきでないものを栄光としないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・象伝)
日本で敗者復活を容認する慣習が根深いのは、チェスで禁止されている
手駒の利用が将棋では可能であることなどからもうかがえる。
閉鎖的な島国で人間関係が息苦しくなりすぎないための便宜でもあったのだろうが、
それにしたって、復活した敗者が途端に勝者以上の厚遇を受けるなんてことはない。
長い長い懲罰の先に、初めて人並みの扱いを受けるようになったりするだけで、
敗者だから即勝者以上になれるだなんてことはもちろんない。
後の大勝に結び付けるために、擬似的に敗北を受け入れるなどということもあるが、
それは綿密な計画があって初めて可能となること。未だ権勢の豊かな項羽に対して面従腹背を
尽くしていた劉邦が、暴挙からなる自業自得で項羽が支持を失ってからは一気に攻めかかって
勝利を勝ち得たのも、参謀の張良らによる穏健な策略があって初めて可能となったこと。
チンパンジー以下に知能を低下させる、精神薄弱化洗脳がトリックだった聖書信仰に
そんな綿密な推し量りは毛頭なく、禁治産処分のサナトリウム生活あたりが
信者救済の関の山でもあった。明らかにそれは人並み以下の扱いを受ける事態であり、
敗者復活を認めても敗者ゆえの厚遇までは認めない日本の伝統的なシステムにも則っているし、
十分な計算があって初めて可能となる、擬似的な敗北を通じての勝利なわけでもない。
手駒の利用が将棋では可能であることなどからもうかがえる。
閉鎖的な島国で人間関係が息苦しくなりすぎないための便宜でもあったのだろうが、
それにしたって、復活した敗者が途端に勝者以上の厚遇を受けるなんてことはない。
長い長い懲罰の先に、初めて人並みの扱いを受けるようになったりするだけで、
敗者だから即勝者以上になれるだなんてことはもちろんない。
後の大勝に結び付けるために、擬似的に敗北を受け入れるなどということもあるが、
それは綿密な計画があって初めて可能となること。未だ権勢の豊かな項羽に対して面従腹背を
尽くしていた劉邦が、暴挙からなる自業自得で項羽が支持を失ってからは一気に攻めかかって
勝利を勝ち得たのも、参謀の張良らによる穏健な策略があって初めて可能となったこと。
チンパンジー以下に知能を低下させる、精神薄弱化洗脳がトリックだった聖書信仰に
そんな綿密な推し量りは毛頭なく、禁治産処分のサナトリウム生活あたりが
信者救済の関の山でもあった。明らかにそれは人並み以下の扱いを受ける事態であり、
敗者復活を認めても敗者ゆえの厚遇までは認めない日本の伝統的なシステムにも則っているし、
十分な計算があって初めて可能となる、擬似的な敗北を通じての勝利なわけでもない。
聖書圏にもいくらかの策謀を企図する慣習がありはするようだが、その発祥も近世以降で、
カトリックなどからの弾圧を受けたせいで陰湿なひがみの持ち主のたまり場にもなり、
あまり理性に根ざした優秀な策謀をこしらえることもできなかった。つまり、
「陰謀」止まりになったということで、それは策謀として下手であったからこその結果だった。
遥か3100年前、太公望の時代から策謀を一種の兵法として厳格に捉え、その深化にも
努めてきたのが東洋人であればこそ、一時の負けを通じて恒久的な勝利を得るような離れ業をも
可能としたのであって、それはむしろできないほうが普通なこと。勝つためには勝たねば
ならないと考えるのがごく普通なことで、負けて勝つことすら可能とするような超絶技巧を、
チンパン以下の知能指数であるキリスト教徒などが実現し得なかったのも、当たり前の至りだといえる。
「苟くも仁を志せば、悪むこと無し」
「少しでも仁を志せたなら、憎む気持ちというのは自然となくなるものだ。
(仁者が憎しみを抱くのも、仁をうっかり忘れた時。『仁者こそはよく人を憎めもする〔里仁第四・三〕』
とあるのは、普段憎しみに囚われていない仁者が急激に抱く憎しみこそが最大級の憎しみともなるから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・四より)
カトリックなどからの弾圧を受けたせいで陰湿なひがみの持ち主のたまり場にもなり、
あまり理性に根ざした優秀な策謀をこしらえることもできなかった。つまり、
「陰謀」止まりになったということで、それは策謀として下手であったからこその結果だった。
遥か3100年前、太公望の時代から策謀を一種の兵法として厳格に捉え、その深化にも
努めてきたのが東洋人であればこそ、一時の負けを通じて恒久的な勝利を得るような離れ業をも
可能としたのであって、それはむしろできないほうが普通なこと。勝つためには勝たねば
ならないと考えるのがごく普通なことで、負けて勝つことすら可能とするような超絶技巧を、
チンパン以下の知能指数であるキリスト教徒などが実現し得なかったのも、当たり前の至りだといえる。
「苟くも仁を志せば、悪むこと無し」
「少しでも仁を志せたなら、憎む気持ちというのは自然となくなるものだ。
(仁者が憎しみを抱くのも、仁をうっかり忘れた時。『仁者こそはよく人を憎めもする〔里仁第四・三〕』
とあるのは、普段憎しみに囚われていない仁者が急激に抱く憎しみこそが最大級の憎しみともなるから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・四より)

まさに光と闇こそは、正邪善悪の正しい認識と、その転倒夢想とを表徴する
最たるものであり、易学も正邪善悪の分別法を「陰陽」に見立てて提示してもいる。
光と闇ほど相違が明白なものは他になく、「光は闇である」「闇は光である」
というような混同が、生まれつきの全盲者でもなければありはしない。
視力を持つ生物は必ず光と闇を見分け、光と闇を見分けるためにこそ視力を持ってもいる。
光と闇を見分けないのなら元から視力などいらないのだから、視力を肯定する以上は
明暗の区別をつける。仏教のように眼識の普遍性を否定して善悪を超越する
のならともかく、視力を肯定するのなら必ずそこに明暗の区別がある。
明暗の区別がある以上は、正しい区別と間違った区別とがある。
光が光であり、闇が闇であることは、視力の肯定者である以上は普遍性を付与すること。
しからばなぜ、光を闇とし闇を光とする過ちが生ずるのかといえば、それは見た者の
脳内での錯覚による。暗いところで見た多少明るいものが、明るいところではむしろ
暗い部類のものに見えたりするように、視覚情報を処理する大脳後頭葉が明暗の区別を錯覚する。
それと同じように、本当は悪の部類に入るものを、善であるかのように錯覚させる
洗脳情報が大脳側頭葉に一時保存され、自我がその情報を是と見なせば前頭葉に長期保存される。
そのような反倫理洗脳が日々蓄積されていけば、本人自身が自発的に善悪を転倒させた
劣悪な思考や言動ばかりをこなすようになって、正しい思考や言動ができなくなってしまう。
若いうちなら、そのような洗脳からの脱却もまだ可能だったりするが、寿命の大半を
洗脳状態に置かれ続けてきた高年者などの場合には、もはや完全な洗脳からの脱却も不可能。
せいぜい本人たちが光と見なしているものを無理やり闇とさせ、闇と見なしているものを
無理やり光とさせるぐらいしか、本人たちを洗脳の蒙昧からなる破滅から引き止めるすべはない。
本人たち自身はまだ光を闇と、闇を光と強固に思い込んでいるのだから、嫌がるところを無理やり
闇から引き剥がして光に繋ぎ止めるしかない。本人たち自身は、光から引き離されて闇に
つなぎとめられる仕打ちだと誤認識するような処置こそは、本当に被洗脳者を救う手立てとなる。
「坤は厚く物を載せ、徳は无疆に合し、含弘光大にして、
品物ことごとく亨る。(略)王事に従うとは、知光大なればなり」
「全陰の坤卦は極めて多くの事物をその上に湛え、全陽の乾卦と同等の聖徳で以て
万物を光が満たすようにことごとく包含してその使命を成就させる。
王君に臣従する形でことを行えばうまくいくが、これはその知恵が光大であるからだ。
(全陰の坤卦は確かに、全陽の乾卦と似たような性質を持ってはいるが、
万物を地の底から突き上げる縁の下の力持ち的な存在であり、
主導者ではなく追従者としてやっていってこそうまくいく。
全知全能とされる聖書の神なども、追従者ですらあれば吉祥なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・彖伝、六三象伝より)
洗脳状態に置かれ続けてきた高年者などの場合には、もはや完全な洗脳からの脱却も不可能。
せいぜい本人たちが光と見なしているものを無理やり闇とさせ、闇と見なしているものを
無理やり光とさせるぐらいしか、本人たちを洗脳の蒙昧からなる破滅から引き止めるすべはない。
本人たち自身はまだ光を闇と、闇を光と強固に思い込んでいるのだから、嫌がるところを無理やり
闇から引き剥がして光に繋ぎ止めるしかない。本人たち自身は、光から引き離されて闇に
つなぎとめられる仕打ちだと誤認識するような処置こそは、本当に被洗脳者を救う手立てとなる。
「坤は厚く物を載せ、徳は无疆に合し、含弘光大にして、
品物ことごとく亨る。(略)王事に従うとは、知光大なればなり」
「全陰の坤卦は極めて多くの事物をその上に湛え、全陽の乾卦と同等の聖徳で以て
万物を光が満たすようにことごとく包含してその使命を成就させる。
王君に臣従する形でことを行えばうまくいくが、これはその知恵が光大であるからだ。
(全陰の坤卦は確かに、全陽の乾卦と似たような性質を持ってはいるが、
万物を地の底から突き上げる縁の下の力持ち的な存在であり、
主導者ではなく追従者としてやっていってこそうまくいく。
全知全能とされる聖書の神なども、追従者ですらあれば吉祥なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・彖伝、六三象伝より)

その中では比較的明るいBの部分がキリスト信仰。
BとAは同じ明るさなのでAもキリスト信仰と同等だが、
非聖書圏である棒の影の外では、キリスト信仰もまた一種の暗がりに相当する。
精神薄弱による不能状態が、かつて「白痴」という差別語で呼ばれていた。
これは精神薄弱の蒙昧にあるものが、全くつまらないようなことでもいちいちウレシ
がったりしていたことから来ている。それと同じように、全くトンチンカンな実定法の
違反者を容赦なくコロし尽くしていく旧約のユダヤ教義に強迫観念を抱いてしまった
被洗脳者が、そこでキリストを信仰した時にこそ、キリストが光明であるかのように映る。
本当は元から精神薄弱でない状態、ユダヤ教義からなる強迫観念なんかに囚われていない
状態こそは真に明るい状態であり、その状態から鑑みれば、白痴がウレシがっているような
ものはみな全くつまらないものばかりだし、キリスト信仰だって陰湿な暗がりのうちに入る。
暗闇の中で比較的明るく見える暗がりは、本当の明るみの中では真っ暗闇にも等しいのだ。
「季子然問う、仲由、冉求は大臣と謂う可きか。子曰く、吾れ子を以って異なるを之れ問うと為せり。
曾ち由と求を之れ問う。所謂大臣なる者は、道を以て君に事え、不可なれば則ち止む。今の由と求や、
具臣と謂う可きか。曰く、然れば則ち之れ従う者か。子曰く父と君を弑するには、亦た従わざるなり」
「魯の家老の身内である季子然が問うた。『あなたの弟子で、いま私に仕えております子路と冉求とでは、
どちらのほうが優れた臣下と呼べるでしょうか』 先生は言われた。『私はあなたがもっとマシなことを
聞いてくるものかと思っていましたが、子路や冉求のことですか。大臣というものは、道義に即して
主君に仕え、それが不可能であれば辞職も辞さないものです。しかし、あの二人はただあなたに
くっ付いていってるだけの存在です』 季子然『では私に対して常に絶対服従でいるのでしょうか』
『さすがに親や主君を殺すような真似をすれば、服従もしないでしょう』 (凡庸な臣下である子路や
冉求ですら、親子兄弟での殺し合いを画策するような者には従わない。キリストに服従するということは、
ユダヤ洗脳の外側で見れば、まさに下の下の下の、奴隷人畜と化すどす黒い真っ暗闇であることが分かる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二四)
曾ち由と求を之れ問う。所謂大臣なる者は、道を以て君に事え、不可なれば則ち止む。今の由と求や、
具臣と謂う可きか。曰く、然れば則ち之れ従う者か。子曰く父と君を弑するには、亦た従わざるなり」
「魯の家老の身内である季子然が問うた。『あなたの弟子で、いま私に仕えております子路と冉求とでは、
どちらのほうが優れた臣下と呼べるでしょうか』 先生は言われた。『私はあなたがもっとマシなことを
聞いてくるものかと思っていましたが、子路や冉求のことですか。大臣というものは、道義に即して
主君に仕え、それが不可能であれば辞職も辞さないものです。しかし、あの二人はただあなたに
くっ付いていってるだけの存在です』 季子然『では私に対して常に絶対服従でいるのでしょうか』
『さすがに親や主君を殺すような真似をすれば、服従もしないでしょう』 (凡庸な臣下である子路や
冉求ですら、親子兄弟での殺し合いを画策するような者には従わない。キリストに服従するということは、
ユダヤ洗脳の外側で見れば、まさに下の下の下の、奴隷人畜と化すどす黒い真っ暗闇であることが分かる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二四)
イエスは、ユダヤ洗脳という真っ暗闇の中に「心神喪失の気休め」という
多少光っぽいものをもたらしただけで、それもユダヤ洗脳の外側から見れば暗闇である。
ユダヤ洗脳を全くの抜きにして、キリスト信仰だけを見てみれば、それは一つの暗闇である。
マッチポンプの脆弱なポンプであり、マッチの大火を少しも消しとめはしない小水である。
ユダヤ洗脳とキリスト信仰とが、マッチポンプという暗闇のセットであるため、
この世から「暗闇の標準」を絶やすというのなら、この二つを絶やすべきだ。
ユダキリを絶やしたからといって、この世から暗闇が消え去るなんてこともなく、
ヤクザやマフィアみたいな宗教性を持たない闇組織が存続することはあり得る。
しかし、そういった闇組織は宗教信仰などによる正当化を受けずに、始めから
村八分扱いを受けるため、社会的な多数派にはなり得ない。「犯罪稼業」という
暗闇がカルト信仰によって正当化推進されたときにこそ致命的な災禍を招くが、
それは同時に、当該のカルト信仰が犯罪稼業の標準を捉えている場合にも当たる。
多少光っぽいものをもたらしただけで、それもユダヤ洗脳の外側から見れば暗闇である。
ユダヤ洗脳を全くの抜きにして、キリスト信仰だけを見てみれば、それは一つの暗闇である。
マッチポンプの脆弱なポンプであり、マッチの大火を少しも消しとめはしない小水である。
ユダヤ洗脳とキリスト信仰とが、マッチポンプという暗闇のセットであるため、
この世から「暗闇の標準」を絶やすというのなら、この二つを絶やすべきだ。
ユダキリを絶やしたからといって、この世から暗闇が消え去るなんてこともなく、
ヤクザやマフィアみたいな宗教性を持たない闇組織が存続することはあり得る。
しかし、そういった闇組織は宗教信仰などによる正当化を受けずに、始めから
村八分扱いを受けるため、社会的な多数派にはなり得ない。「犯罪稼業」という
暗闇がカルト信仰によって正当化推進されたときにこそ致命的な災禍を招くが、
それは同時に、当該のカルト信仰が犯罪稼業の標準を捉えている場合にも当たる。
浄土信仰の悪人正機も犯罪稼業の正当化にすら見えなくもないが、実際のところ、
悪人正機も仏法の標準を捉えた正確な仏説であり、仏説であることのほうが
主体となって、信者を無意識から断悪修善へと導くようになっている。
だから浄土信仰は犯罪稼業を推進しないが、ユダキリ信仰はそうではない。
仏法に即していないのはもちろんのことだが、犯罪稼業を正当化する邪念の標準としては
えらく出来たもので、その点に関して疑いを差し挟む余地はない。この世に暗闇をもたらす
邪教の標準としてユダキリがピッタシカンカンなのは間違いないので、その負の名誉に即して、
まともな倫理観に基づいた場合の標準としての根絶措置をも受け入れるべきなのである。
「蟄蟲咸な俯して内に在り、皆な其の戸を墐る。
乃ち獄刑を趣し、有罪を留むる毋し。祿秩の當たらず、供養の宜しからざる者を收む」
「寒気が増して虫たちがみな内に入ろうとするため、戸を塗り固めて侵入を防ぐようになったころ、
王者は処刑を促して、もはや重罪人を牢屋の暗闇にとどめておかない。収入が不正に多かったり、
身だしなみが分不相応に華美であったりする者に対しても、矯正を講ずる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
悪人正機も仏法の標準を捉えた正確な仏説であり、仏説であることのほうが
主体となって、信者を無意識から断悪修善へと導くようになっている。
だから浄土信仰は犯罪稼業を推進しないが、ユダキリ信仰はそうではない。
仏法に即していないのはもちろんのことだが、犯罪稼業を正当化する邪念の標準としては
えらく出来たもので、その点に関して疑いを差し挟む余地はない。この世に暗闇をもたらす
邪教の標準としてユダキリがピッタシカンカンなのは間違いないので、その負の名誉に即して、
まともな倫理観に基づいた場合の標準としての根絶措置をも受け入れるべきなのである。
「蟄蟲咸な俯して内に在り、皆な其の戸を墐る。
乃ち獄刑を趣し、有罪を留むる毋し。祿秩の當たらず、供養の宜しからざる者を收む」
「寒気が増して虫たちがみな内に入ろうとするため、戸を塗り固めて侵入を防ぐようになったころ、
王者は処刑を促して、もはや重罪人を牢屋の暗闇にとどめておかない。収入が不正に多かったり、
身だしなみが分不相応に華美であったりする者に対しても、矯正を講ずる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
孔子の言うことと、イエスの言うことは漏れなく全て相反しているため、
どちらかを師とする以上は必ずもう一方を反面教師としなければならない。
一方の師のいうことをよく聞いてその実践に務め、もう一方の反面教師の
言うことはいい加減に聞いておいて、絶対に実践なんかしないように努める。
仏教でいう「顕教」に即するなら、反面教師の言うことは元から聞くべきですらない。
悪の規範を聞くだけ有害無益なことであり、最初から完全に無視し去ってしまう。
「密教」に即するなら、反面教師の言うことも一応は聞いておいて、それを実践する
誘惑に対しては、絶対不動の姿勢を貫くことが修行の一環として認められもする。
清濁併せ呑んだ上で断悪修善に持ち込む密教のほうが、もし修行が成就できたなら、
始めから清濁併せ呑まずに断悪修善を始める顕教よりも、より優位になれるという。
ただ、密教の修行を成就させることは不可能にも等しいほど困難なことであるために、
弘法大師の興した真言密教ですら、大師に匹敵するほどもの後継者が未だ現れていない。
どちらかを師とする以上は必ずもう一方を反面教師としなければならない。
一方の師のいうことをよく聞いてその実践に務め、もう一方の反面教師の
言うことはいい加減に聞いておいて、絶対に実践なんかしないように努める。
仏教でいう「顕教」に即するなら、反面教師の言うことは元から聞くべきですらない。
悪の規範を聞くだけ有害無益なことであり、最初から完全に無視し去ってしまう。
「密教」に即するなら、反面教師の言うことも一応は聞いておいて、それを実践する
誘惑に対しては、絶対不動の姿勢を貫くことが修行の一環として認められもする。
清濁併せ呑んだ上で断悪修善に持ち込む密教のほうが、もし修行が成就できたなら、
始めから清濁併せ呑まずに断悪修善を始める顕教よりも、より優位になれるという。
ただ、密教の修行を成就させることは不可能にも等しいほど困難なことであるために、
弘法大師の興した真言密教ですら、大師に匹敵するほどもの後継者が未だ現れていない。
今ここでは、権力犯罪聖書(通称聖書)の邪悪な記述をしらみつぶしに潰しつつ、
権力道徳聖書(通称四書五経)の記述の正しさを確認するという、密教的な作業を
試みているが、これも決して容易いことではなく、ヘタすれば犯罪聖書の邪義に
取り込まれて、劣悪な思考規範や言動規範が身に付くことにすらなってしまいかねない。
だから誰しもにこんな荒行を勧めるようなことは決してせず、世間一般の多くの人々に
対しては、始めから犯罪聖書なんか読まずに四書五経だけを勉強する、顕教的な修学の
ほうを推奨していく。もちろんここでの密教的な勉学も「誰にも教えない」なんてことは
ないが、修学を希望するものには、全人生をふいにするぐらいの覚悟を必ずしてもらう。
孔子が正義の教師として極めて優れている一方で、イエスが邪悪の教師として極めて
秀でているのも確かなことなので、イエスのほざく邪義には絶対に取り込まれず、
取り込まれた場合には禁治産にすら甘んずるというぐらいの覚悟でいてもらう。
「父母舅姑の所に在るとき、(略)足垢つくときは、湯を沸かして洗わんと請う」
「父母や舅、姑の所にいる時は、その足に垢が付けば、自分から湯を沸かして洗おうとする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
権力道徳聖書(通称四書五経)の記述の正しさを確認するという、密教的な作業を
試みているが、これも決して容易いことではなく、ヘタすれば犯罪聖書の邪義に
取り込まれて、劣悪な思考規範や言動規範が身に付くことにすらなってしまいかねない。
だから誰しもにこんな荒行を勧めるようなことは決してせず、世間一般の多くの人々に
対しては、始めから犯罪聖書なんか読まずに四書五経だけを勉強する、顕教的な修学の
ほうを推奨していく。もちろんここでの密教的な勉学も「誰にも教えない」なんてことは
ないが、修学を希望するものには、全人生をふいにするぐらいの覚悟を必ずしてもらう。
孔子が正義の教師として極めて優れている一方で、イエスが邪悪の教師として極めて
秀でているのも確かなことなので、イエスのほざく邪義には絶対に取り込まれず、
取り込まれた場合には禁治産にすら甘んずるというぐらいの覚悟でいてもらう。
「父母舅姑の所に在るとき、(略)足垢つくときは、湯を沸かして洗わんと請う」
「父母や舅、姑の所にいる時は、その足に垢が付けば、自分から湯を沸かして洗おうとする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
ただ「愛する」ということは、人間にとって最低レベルの情念であることが
孔子や孟子によって再三に渡って指摘されている。「愛しても敬いがないんなら獣畜も同然だ」
と孟子もいい、人間なら愛という感情に高い品性の備わった体系性を持たせるべきだとする。
たとえるなら、ボノボやチンパンジーも同然の、獣的に無軌道な愛が「洪水」である一方で、
親愛や仁愛といった志向性の備わった愛は、「治水によって自在に扱えるようになった用水」だといえる。
親愛や仁愛が人間精神に制御されて、その糧として自在に用いることができるようになった愛である一方で、
獣愛は人間精神の制御を全く受けない愛で、発露が行き過ぎると人間精神のほうを阻害すらするものである。
人間精神の部下となった親愛や仁愛こそは世の中に有益な影響をもたらす一方で、それ自体が一個の
至高価値と化した状態の仁愛は、世の中に氾濫すればするほど有害な影響を招く。獣愛も夫婦の営みや程度を
守った色遊びに用いられるぐらいなら許されても、人間社会を司る原理などとしては絶対に用いてはならない。
獣愛がメディアなどでも大々的にもてはやされて、それ以上の価値など存在しないような風潮にまで
持っていかれている点では、今の日本も聖書圏と様相を一にしている。君父への敬愛や万有愛護の仁愛を
蚊帳の外に追いやって、獣愛を原動力とする強欲ばかりを煽って、奴隷や牛馬も同然の過酷な経済活動に
従事させる。その原動力となっているのが一応は愛の一種であり、愛ゆえに多少は気休めともなるから、
民衆も自分たちが酷い迫害下に置かれていることを自覚しながらも、今の世の中の根本的なあり方に
疑義を呈するところまでには頭が回らない。まさに、愛の「鎮痛剤」としての悪用の最たるもの。
孔子や孟子によって再三に渡って指摘されている。「愛しても敬いがないんなら獣畜も同然だ」
と孟子もいい、人間なら愛という感情に高い品性の備わった体系性を持たせるべきだとする。
たとえるなら、ボノボやチンパンジーも同然の、獣的に無軌道な愛が「洪水」である一方で、
親愛や仁愛といった志向性の備わった愛は、「治水によって自在に扱えるようになった用水」だといえる。
親愛や仁愛が人間精神に制御されて、その糧として自在に用いることができるようになった愛である一方で、
獣愛は人間精神の制御を全く受けない愛で、発露が行き過ぎると人間精神のほうを阻害すらするものである。
人間精神の部下となった親愛や仁愛こそは世の中に有益な影響をもたらす一方で、それ自体が一個の
至高価値と化した状態の仁愛は、世の中に氾濫すればするほど有害な影響を招く。獣愛も夫婦の営みや程度を
守った色遊びに用いられるぐらいなら許されても、人間社会を司る原理などとしては絶対に用いてはならない。
獣愛がメディアなどでも大々的にもてはやされて、それ以上の価値など存在しないような風潮にまで
持っていかれている点では、今の日本も聖書圏と様相を一にしている。君父への敬愛や万有愛護の仁愛を
蚊帳の外に追いやって、獣愛を原動力とする強欲ばかりを煽って、奴隷や牛馬も同然の過酷な経済活動に
従事させる。その原動力となっているのが一応は愛の一種であり、愛ゆえに多少は気休めともなるから、
民衆も自分たちが酷い迫害下に置かれていることを自覚しながらも、今の世の中の根本的なあり方に
疑義を呈するところまでには頭が回らない。まさに、愛の「鎮痛剤」としての悪用の最たるもの。
愛は愛で、これからもあるのである。親愛や仁愛はおろか、獣愛だって完全に否定されはしない。
ただ、獣愛に関しては、今のような至上の存在としての地位は剥奪されて、公けには劣後されるべき
ものとなり、愛を語るなら親愛や仁愛を語るべきだということになる。親愛や仁愛は人間道徳に調律
された愛であるため、結局それら自体よりも「人間道徳」という枠組みのほうが総体的な理念ともなる。
今の世界人口爆発の元凶ともなっている、目的性抜きの単なる愛を至高の理念として世の中に押し付けることが、
もう許されない。単なる愛を至上命題として掲げるのはアブラハム教の特性なので、単なる愛を世の中の
至高理念にしないことは自動的に、地球社会での、アブラハム教の多神教に対する劣後ともなる。
「男女別ありて然る後に父子親しみ、父子親しみて然る後に義生る。
義生りて然る後に礼作り、礼作りて然る後に万物安し。別なく義なきは、禽獣の道なり」
「情愛が押し殺せるぐらいに男女の分別が付けられて初めて父子すらもが親しめるようになり、
父子が親しめるようになって初めて偽りでない道義心が起こる。本物の道義心が備わってから初めて
本気で礼節を嗜むようになり、本気で礼節が嗜めるようになってから初めて、何もかもが安泰となる。
男女の分別も付けられなくて女々しい情愛にまみれ、道義心も持てずにいるのでは禽獣も同然だ。
(父子の心は男女の情愛などよりも嗜み難いものだからこそ、情愛の総体的な劣後が必須となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
ただ、獣愛に関しては、今のような至上の存在としての地位は剥奪されて、公けには劣後されるべき
ものとなり、愛を語るなら親愛や仁愛を語るべきだということになる。親愛や仁愛は人間道徳に調律
された愛であるため、結局それら自体よりも「人間道徳」という枠組みのほうが総体的な理念ともなる。
今の世界人口爆発の元凶ともなっている、目的性抜きの単なる愛を至高の理念として世の中に押し付けることが、
もう許されない。単なる愛を至上命題として掲げるのはアブラハム教の特性なので、単なる愛を世の中の
至高理念にしないことは自動的に、地球社会での、アブラハム教の多神教に対する劣後ともなる。
「男女別ありて然る後に父子親しみ、父子親しみて然る後に義生る。
義生りて然る後に礼作り、礼作りて然る後に万物安し。別なく義なきは、禽獣の道なり」
「情愛が押し殺せるぐらいに男女の分別が付けられて初めて父子すらもが親しめるようになり、
父子が親しめるようになって初めて偽りでない道義心が起こる。本物の道義心が備わってから初めて
本気で礼節を嗜むようになり、本気で礼節が嗜めるようになってから初めて、何もかもが安泰となる。
男女の分別も付けられなくて女々しい情愛にまみれ、道義心も持てずにいるのでは禽獣も同然だ。
(父子の心は男女の情愛などよりも嗜み難いものだからこそ、情愛の総体的な劣後が必須となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
容量オーバー寸前なので、次スレへ移動。
四書五経 Part7
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132188235...
どこかで経験したような流れだな。
四書五経 Part7
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132188235...
どこかで経験したような流れだな。
↑「ショックによる死傷者」ってフレーズが良いね。
教養が滲み出てる。
教養が滲み出てる。
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