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聖書 Part6
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世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。
特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

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「信、義に近ければ、言を復んで可なり。恭、禮に近ければ、恥辱を遠ざくなり。
(ここまで既出)因ること其の親を失わざれば、亦た宗とするも可なり」
「信実さが正義に根ざしていれば、その言葉を信用してもよい。恭敬が礼節を伴っていれば、恥辱を
被るようなことがなくて済む。頼るべき相手を取り違えてすらいなければ、全幅の信頼を置いてもよい。
(邪義を司る神などによりも、正義や礼節にこそ近づこうとすべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一三より)
(ここまで既出)因ること其の親を失わざれば、亦た宗とするも可なり」
「信実さが正義に根ざしていれば、その言葉を信用してもよい。恭敬が礼節を伴っていれば、恥辱を
被るようなことがなくて済む。頼るべき相手を取り違えてすらいなければ、全幅の信頼を置いてもよい。
(邪義を司る神などによりも、正義や礼節にこそ近づこうとすべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一三より)

悩みがないから吉祥なのでもなければ、悩みがあるから不吉なのでもない。
それは基本が唯心論である仏教の唯識思想に即してですら、是認されていること。
IQ40以下への、知能の乱高下を伴う重度精神障害によって、悩みを生ずるような不吉な
出来事の罪深さにだけは理解を働かせなかった結果、悩みを感じないなどということがあっても、
無痛症の人間が致命傷を負っても何も感じないでいるようなもので、現実の破綻は確実に迫ってくる。
本人自身がそのまま死んでしまったとしても、罪障は数多の人間の怨恨などの形で後の世にまで
持ち越され続け、子子孫孫にまで降りかかる、多大なる禍となってやってくる。
むしろ、自然の中での素朴な生活のほうが良さそうなものも、それすら叶わなくなり、
イヤでも強制的に、ある種の「人工的な矯正」に浴さなければならなくなってしまう。
それも本当はないほうがいいぐらいのものなわけだが、人類の滅亡という最悪のシナリオを
回避するための、どうしても避けられない消去法的選択肢として、それがある。
「益者に三楽、損者に三楽。礼楽を節せんを楽しみ、人の善を道うことを楽しみ、
賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり」
「益となる楽しみが三つ、損となる楽しみが三つある。礼楽を規則正しく行うことを楽しむのと、
人の美点を褒め称えることを楽しむのと、賢明な友人を持つことを楽しむのが、益になる楽しみ。
わがままや好き放題を楽しむのと、怠けて遊び呆けるのを楽しむのと、宴会を楽しむのが、損になる楽しみ。
(楽しみを原因の結果として捉え、原因が損となる楽しみを戒め、原因が益となる楽しみを推奨している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・五より)
実力を用いた有為な統治支配を、道家は否定するし、「大道廃れて仁義あり(老子)」という風に、
自覚的な仁愛によって、これまた有為で世の中を統治していこうとすることをも否定している。
本当はこのような、無為自然の統治を心がけるほうが民にとっては気ままなものであり、
作為によって頭ごなしに押さえつけられる実力的支配は、民はできる限り受けたくないもの。
ただ、そのうちの作為による実力支配のうちで、実力支配であるなりの正義を保とうとするのが
儒家の仁徳統治であるのに対し、正義か悪かなどによらず、とにかく実力で徹底的に押さえつけるのが
法家支配、そしてカルト信仰によって一概に劣悪な実力支配を画策するのが犯罪聖書支配だといえる。
品質の優劣で言えば、道家統治>儒家統治>法家支配>カルト支配とでも言ったところで、
道家と儒家には少なからず、強権的な「支配」を忌避する純粋「統治」志向が見られるのに対し、
法家支配とカルト支配には、無為の「統治」をあえて退けてまでの「支配」一辺倒の傾向が見られる。
儒家も、それなりに実力での有為支配を講ずるものではあるが、あくまでより優良とする
ところは無為なる統治であり、有為による統治支配はそれが無理である場合の必要悪とされる。
その必要悪をできるかぎりマシなものにしていこうとするのが儒家の本分でもある辺り、
儒家が優柔不断のそしりを被る原因となると共に、中庸に根ざした正善さの端緒ともなっている。
「驥は其の力を稱せず。其の徳を稱するなり」
「名馬はその力の強さを褒められるのではない。その徳の高さを褒められるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・三五より)
自覚的な仁愛によって、これまた有為で世の中を統治していこうとすることをも否定している。
本当はこのような、無為自然の統治を心がけるほうが民にとっては気ままなものであり、
作為によって頭ごなしに押さえつけられる実力的支配は、民はできる限り受けたくないもの。
ただ、そのうちの作為による実力支配のうちで、実力支配であるなりの正義を保とうとするのが
儒家の仁徳統治であるのに対し、正義か悪かなどによらず、とにかく実力で徹底的に押さえつけるのが
法家支配、そしてカルト信仰によって一概に劣悪な実力支配を画策するのが犯罪聖書支配だといえる。
品質の優劣で言えば、道家統治>儒家統治>法家支配>カルト支配とでも言ったところで、
道家と儒家には少なからず、強権的な「支配」を忌避する純粋「統治」志向が見られるのに対し、
法家支配とカルト支配には、無為の「統治」をあえて退けてまでの「支配」一辺倒の傾向が見られる。
儒家も、それなりに実力での有為支配を講ずるものではあるが、あくまでより優良とする
ところは無為なる統治であり、有為による統治支配はそれが無理である場合の必要悪とされる。
その必要悪をできるかぎりマシなものにしていこうとするのが儒家の本分でもある辺り、
儒家が優柔不断のそしりを被る原因となると共に、中庸に根ざした正善さの端緒ともなっている。
「驥は其の力を稱せず。其の徳を稱するなり」
「名馬はその力の強さを褒められるのではない。その徳の高さを褒められるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・三五より)
自分で他者に損失を与えておいて自分で救う、マッチポンプも大概にしなければならない。
元禄以降、士人の威厳が弱まって商人の営みにたがが外れ始めた江戸時代中期からは、
私服を肥やす悪徳商人を誅罰するという名目を掲げた、義賊的な盗賊行為が横行するようになった。
とはいえもちろん、それも名目どおりなばかりではなく、盗賊たち自身が私欲を満たすために
強盗に及ぶこともあり、特に世相の乱れた時期にはそのような畜生働きのほうが多くなった。
その世相の乱れによる盗賊の跋扈に歯止めをかけていたのが、鬼平こと長谷川平蔵も
一時長官を勤めていた火盗改のような公儀の刑事組織で、当然、義賊か否かなどに依らず、
盗賊行為全般を取り締まりの対象とした。ただ、元禄期の悪貨製造や赤穂事件以降、非合法ではない
商人による悪徳経営もまかり通り始めていたことから、それによって私服を肥やしていような悪徳商人を、
大量虐殺などの度を越した暴行には及ばない範囲で窃盗対象としていた、義賊然とした盗賊などに対しては
島流しなどの比較的軽い刑を科した一方で、別に悪徳経営に乗じているわけでもない普通の商家などに対して
強盗殺人や放火などの重罪加害を及ぼす鬼畜然とした盗賊に対しては、斬首や火あぶりなどの断固たる重罰で望んだ。
初代江戸幕府将軍・徳川家康の貯蓄も尽きて、幕府全体の威徳が衰えた結果、盗賊行為全般を
根絶することまではできなくなって、盗賊行為の軽重によって罰に手心を加えるようになったことは、
確かにマッチポンプに相当するような側面がなかったとはいえない。さりとて、別に幕府や火盗改も好き好んで
マッチポンプをやっていたのではなく、自分たちの威徳が衰えたせいで仕方なくそうさせていただけのこと。
決してマッチポンプを信仰対象にまでして、あえてそれを推し進めようなどとしていたわけでないのは確か。
「約を以て之れを失する者は鮮なし」
「節度を守っていながら何かを失うようなことは、ほとんどない。
(節度を失って暴れまわるもんだから、何もかもを失う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二三より)
元禄以降、士人の威厳が弱まって商人の営みにたがが外れ始めた江戸時代中期からは、
私服を肥やす悪徳商人を誅罰するという名目を掲げた、義賊的な盗賊行為が横行するようになった。
とはいえもちろん、それも名目どおりなばかりではなく、盗賊たち自身が私欲を満たすために
強盗に及ぶこともあり、特に世相の乱れた時期にはそのような畜生働きのほうが多くなった。
その世相の乱れによる盗賊の跋扈に歯止めをかけていたのが、鬼平こと長谷川平蔵も
一時長官を勤めていた火盗改のような公儀の刑事組織で、当然、義賊か否かなどに依らず、
盗賊行為全般を取り締まりの対象とした。ただ、元禄期の悪貨製造や赤穂事件以降、非合法ではない
商人による悪徳経営もまかり通り始めていたことから、それによって私服を肥やしていような悪徳商人を、
大量虐殺などの度を越した暴行には及ばない範囲で窃盗対象としていた、義賊然とした盗賊などに対しては
島流しなどの比較的軽い刑を科した一方で、別に悪徳経営に乗じているわけでもない普通の商家などに対して
強盗殺人や放火などの重罪加害を及ぼす鬼畜然とした盗賊に対しては、斬首や火あぶりなどの断固たる重罰で望んだ。
初代江戸幕府将軍・徳川家康の貯蓄も尽きて、幕府全体の威徳が衰えた結果、盗賊行為全般を
根絶することまではできなくなって、盗賊行為の軽重によって罰に手心を加えるようになったことは、
確かにマッチポンプに相当するような側面がなかったとはいえない。さりとて、別に幕府や火盗改も好き好んで
マッチポンプをやっていたのではなく、自分たちの威徳が衰えたせいで仕方なくそうさせていただけのこと。
決してマッチポンプを信仰対象にまでして、あえてそれを推し進めようなどとしていたわけでないのは確か。
「約を以て之れを失する者は鮮なし」
「節度を守っていながら何かを失うようなことは、ほとんどない。
(節度を失って暴れまわるもんだから、何もかもを失う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二三より)
聖書信仰によってこそ、荒廃させられた世界を修繕するぐらいは当たり前のこと。
犯罪聖書が存在しなかったころぐらいに、平和な世の中を立ち戻らせて、
マイナスプラスゼロの穴埋めを完遂させるなんてのは大前提に過ぎず、
しかもその実動者は、犯罪聖書の信仰者や実践者自身ともなる。
犯罪聖書による荒廃の穴埋めぐらいは済んでから、世の中をさらに繁栄させていくこと、
そこにこそ人としての道義があり、そこで何がなされるのかということを、現時点においては
まだ世界中の誰しもが見据えられてはいない。まずは聖書信仰による世の荒廃を救って
もらわなければ、盲目と化してしまっている今の人々には先にあるものが見えない。
だから、何をしてもらいたいかなどということも今の人々にはまだ見えておらず、
何をしてもらえるのかも分からないような相手に対して、信頼を置くことも
できなければ、その出現に素直な喜びを抱くこともできない。
盲目の苦しみを科す聖書信仰によるマッチポンプが完遂して後に、
望まれること喜べることは、マッチポンプの最中に望んだり喜んだりすることとは
全くの別物となるため、犯罪聖書の記述に即して望まれたり喜ばれたりすることもない。
また、蒙昧に欲望を募らせることも立ち消え、飼い主にじゃれて喜ぶ犬っころみたいな
喜びよりは、人としての品位を保った畏敬などのほうがより重要なものとされていくようになる。
犯罪聖書が回す天下と、それが終焉して後の天下とでは、
人々の志向や言動の規範から、何もかもが刷新される。犯罪聖書中の
ただ一つの記述だって、世の中に通用することはなくなるのである。
「子路、人之れに告ぐるに過ち有るを以てすれば、則ち喜べり」
「孔子の弟子の子路は、人が自分に過ちがあることを指摘してくれると、大変喜んだ。
(蛮勇の徒でもあった子路だが、喜怒哀楽などの感情を正義によって律しようとする程度の徳はあった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・八より)
犯罪聖書が存在しなかったころぐらいに、平和な世の中を立ち戻らせて、
マイナスプラスゼロの穴埋めを完遂させるなんてのは大前提に過ぎず、
しかもその実動者は、犯罪聖書の信仰者や実践者自身ともなる。
犯罪聖書による荒廃の穴埋めぐらいは済んでから、世の中をさらに繁栄させていくこと、
そこにこそ人としての道義があり、そこで何がなされるのかということを、現時点においては
まだ世界中の誰しもが見据えられてはいない。まずは聖書信仰による世の荒廃を救って
もらわなければ、盲目と化してしまっている今の人々には先にあるものが見えない。
だから、何をしてもらいたいかなどということも今の人々にはまだ見えておらず、
何をしてもらえるのかも分からないような相手に対して、信頼を置くことも
できなければ、その出現に素直な喜びを抱くこともできない。
盲目の苦しみを科す聖書信仰によるマッチポンプが完遂して後に、
望まれること喜べることは、マッチポンプの最中に望んだり喜んだりすることとは
全くの別物となるため、犯罪聖書の記述に即して望まれたり喜ばれたりすることもない。
また、蒙昧に欲望を募らせることも立ち消え、飼い主にじゃれて喜ぶ犬っころみたいな
喜びよりは、人としての品位を保った畏敬などのほうがより重要なものとされていくようになる。
犯罪聖書が回す天下と、それが終焉して後の天下とでは、
人々の志向や言動の規範から、何もかもが刷新される。犯罪聖書中の
ただ一つの記述だって、世の中に通用することはなくなるのである。
「子路、人之れに告ぐるに過ち有るを以てすれば、則ち喜べり」
「孔子の弟子の子路は、人が自分に過ちがあることを指摘してくれると、大変喜んだ。
(蛮勇の徒でもあった子路だが、喜怒哀楽などの感情を正義によって律しようとする程度の徳はあった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・八より)
無戒律であり、行不退よりも信不退のほうを重んずる浄土教の自力仏教に対する姿勢と、
旧約の戒律を絶対としないキリスト信仰のユダヤ信仰に対する姿勢は似ている。
しかし、そもそもの自力作善のための律とされる聖道門の仏教の戒律が
自他を害することを体系的に禁止した真の「止至善」の戒律となっているのに対し、
ユダヤの戒律は、それを守ることによってかえって自他を害すること
ばかりが推進される「止偽善」の戒律の羅列となっている。
止至善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信不退の信教が浄土教であるのに対し、
止偽善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信教がキリスト信仰となっている。
無戒律の信仰にだって、それなりの心構えがあるわけで、それは浄土教なら浄土三部経や
「選択本願念仏集」「歎異抄」などに書かれてあるし、キリ信仰なら新約犯罪に書いてある。
絶対に守らなければならない戒律などは皆無ないし些少であるにしろ(五逆や誹謗正法の禁ぐらいはある)、
そこに書かれてあるような心構えに基づいての信仰に徹した結果、止至善の自力仏教の実践に近似
するような効能が得られたり、至偽善のユダヤ教の実践に近似するような効能が得られたりする。
戒律よりも信仰のほうが重要とされているからといって、信仰に戒律主義と別個の効用が
期待されたりするものではなく、やはり戒律の厳守と同等かそれ以上の効果が得られることこそが期待される。
その意味ではやはり、自力仏教と浄土教が同根であるように、キリ信仰とユダ信仰も同じ穴の狢であるといえる。
「如何や昊天。辟言の信ぜざる。彼の行き邁きて、則ち臻る所靡きが如し。
凡百の君子、各おの爾の身を敬せよ。胡ぞ相い畏れざる、天を畏れざるなり」
「ああ、上天よ。なぜ法度のある言葉が信ぜられないのだろうか。まるで誰しもが往く当てもなく彷徨っているかのよう。
(浄土教の信とて正法に結び付く信だが、キリの信は際限のない妄念妄動を正当化して推進する信である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
旧約の戒律を絶対としないキリスト信仰のユダヤ信仰に対する姿勢は似ている。
しかし、そもそもの自力作善のための律とされる聖道門の仏教の戒律が
自他を害することを体系的に禁止した真の「止至善」の戒律となっているのに対し、
ユダヤの戒律は、それを守ることによってかえって自他を害すること
ばかりが推進される「止偽善」の戒律の羅列となっている。
止至善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信不退の信教が浄土教であるのに対し、
止偽善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信教がキリスト信仰となっている。
無戒律の信仰にだって、それなりの心構えがあるわけで、それは浄土教なら浄土三部経や
「選択本願念仏集」「歎異抄」などに書かれてあるし、キリ信仰なら新約犯罪に書いてある。
絶対に守らなければならない戒律などは皆無ないし些少であるにしろ(五逆や誹謗正法の禁ぐらいはある)、
そこに書かれてあるような心構えに基づいての信仰に徹した結果、止至善の自力仏教の実践に近似
するような効能が得られたり、至偽善のユダヤ教の実践に近似するような効能が得られたりする。
戒律よりも信仰のほうが重要とされているからといって、信仰に戒律主義と別個の効用が
期待されたりするものではなく、やはり戒律の厳守と同等かそれ以上の効果が得られることこそが期待される。
その意味ではやはり、自力仏教と浄土教が同根であるように、キリ信仰とユダ信仰も同じ穴の狢であるといえる。
「如何や昊天。辟言の信ぜざる。彼の行き邁きて、則ち臻る所靡きが如し。
凡百の君子、各おの爾の身を敬せよ。胡ぞ相い畏れざる、天を畏れざるなり」
「ああ、上天よ。なぜ法度のある言葉が信ぜられないのだろうか。まるで誰しもが往く当てもなく彷徨っているかのよう。
(浄土教の信とて正法に結び付く信だが、キリの信は際限のない妄念妄動を正当化して推進する信である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
>>200で書いた、中国の伝統的な帝王への即位方法は、即位を請うのが、
これから自分が臣従させることになるだろう群臣であることをも大前提としている。
「君らの上に立つことが畏れ多いから即位を忌避する」という意味もあって、
人間同士の譲り合い求め合いであればこそ、帝王となるものは即位を忌避する。
ただ、その伝統が根付いている中国で、神からの信認を得たりすることが全く無いなんてこともなく、
すでに皇帝などに即位した主君が「封禅」という形で、泰山などの霊山に自らへの信認を祈願することがある。
始皇帝はこの、泰山での封禅を試みて失敗し、弾圧を受けていた儒者たちからの冷笑をも買った。
漢の高祖劉邦は、自らの代では封禅を行わず、呂氏専横の頃や文帝、景帝の代になってもまだ行わず、
匈奴征討も完遂された武帝の代になって初めて封禅が秘密裏に執り行われ、無事成功を果たしたという。
「人事」である皇帝への即位など、それ自体を神霊に要求して頂こうしたりするのは世間外れなことで、
皇帝王覇の現実的なあり方を徹底的に研鑽しぬいている東洋においてこそ、王権神授などは認められていない。
仮に諸国が統一されて皇帝が即位したところで、世の平穏が保たれることが磐石となるまでは封禅も
行わないほうがよいとされ、法家支配で人々を最悪の疲弊に晒していた始皇帝なども封禅に失敗した。
神から授かるべきものと、神に要求してはならないものとの両方があり、特に今のような乱世において、
実利の伴う事物を神から賜るなどということを欲してはならない。乱世はそのほとんど全ての事物が
自業自得の法則に根ざしており、神助を請うべき不確定性などは介在していないから。乱世こそは
迷信などの差し挟みようのない、完全な必然性だけが全てを支配している社会だから。
「衛音は趨數にして志しを煩わしめる」
「衛の音楽は押し付けがましくてせわしないため、自らの志しを煩わしめる。
(神による救済ばかりをせわしなく押し付けてくる犯罪聖書も、
人間自身の自主的な志しを煩わせて不能ならしめる悪影響を及ぼす)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
これから自分が臣従させることになるだろう群臣であることをも大前提としている。
「君らの上に立つことが畏れ多いから即位を忌避する」という意味もあって、
人間同士の譲り合い求め合いであればこそ、帝王となるものは即位を忌避する。
ただ、その伝統が根付いている中国で、神からの信認を得たりすることが全く無いなんてこともなく、
すでに皇帝などに即位した主君が「封禅」という形で、泰山などの霊山に自らへの信認を祈願することがある。
始皇帝はこの、泰山での封禅を試みて失敗し、弾圧を受けていた儒者たちからの冷笑をも買った。
漢の高祖劉邦は、自らの代では封禅を行わず、呂氏専横の頃や文帝、景帝の代になってもまだ行わず、
匈奴征討も完遂された武帝の代になって初めて封禅が秘密裏に執り行われ、無事成功を果たしたという。
「人事」である皇帝への即位など、それ自体を神霊に要求して頂こうしたりするのは世間外れなことで、
皇帝王覇の現実的なあり方を徹底的に研鑽しぬいている東洋においてこそ、王権神授などは認められていない。
仮に諸国が統一されて皇帝が即位したところで、世の平穏が保たれることが磐石となるまでは封禅も
行わないほうがよいとされ、法家支配で人々を最悪の疲弊に晒していた始皇帝なども封禅に失敗した。
神から授かるべきものと、神に要求してはならないものとの両方があり、特に今のような乱世において、
実利の伴う事物を神から賜るなどということを欲してはならない。乱世はそのほとんど全ての事物が
自業自得の法則に根ざしており、神助を請うべき不確定性などは介在していないから。乱世こそは
迷信などの差し挟みようのない、完全な必然性だけが全てを支配している社会だから。
「衛音は趨數にして志しを煩わしめる」
「衛の音楽は押し付けがましくてせわしないため、自らの志しを煩わしめる。
(神による救済ばかりをせわしなく押し付けてくる犯罪聖書も、
人間自身の自主的な志しを煩わせて不能ならしめる悪影響を及ぼす)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
他力本願の依存気質では、自主的な作善によってこそ叶えられる多くのことがどうしても叶えられない。
自力作善の積み重ねによってこそ実現できる理想というものがあって、
そこに神仏への畏敬はあろうとも、精神的怠惰に根ざした依存などは介在のしようがない。
ただ、そこまでいかない範囲、未だ他力本願が主流である範囲において、その本願が他力であるなりに
勧善懲悪である場合と、悪逆非道である場合と、善悪みそくそである場合とがあり、
「望みは何でも叶えられる」ということが前面に押し出されている以上は、
その望みは善悪みそくそか、悪逆非道である場合かのいずれかであるのがほぼ全てとなる。
たとえ他力本願であっても、その本願が勧善懲悪や断悪修善であることがより重要であり、
悪逆非道や善悪みそくそでもいいから、どんな望みでも叶えてくれることなどを
本願とする他力信仰は「邪信」であり、邪信を司る宗教はやはり「邪教」であるといえる。
「志しは滿たしむ可からず」
「大志が安易に満たされることなどを期待してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
自力作善の積み重ねによってこそ実現できる理想というものがあって、
そこに神仏への畏敬はあろうとも、精神的怠惰に根ざした依存などは介在のしようがない。
ただ、そこまでいかない範囲、未だ他力本願が主流である範囲において、その本願が他力であるなりに
勧善懲悪である場合と、悪逆非道である場合と、善悪みそくそである場合とがあり、
「望みは何でも叶えられる」ということが前面に押し出されている以上は、
その望みは善悪みそくそか、悪逆非道である場合かのいずれかであるのがほぼ全てとなる。
たとえ他力本願であっても、その本願が勧善懲悪や断悪修善であることがより重要であり、
悪逆非道や善悪みそくそでもいいから、どんな望みでも叶えてくれることなどを
本願とする他力信仰は「邪信」であり、邪信を司る宗教はやはり「邪教」であるといえる。
「志しは滿たしむ可からず」
「大志が安易に満たされることなどを期待してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「回や其れ庶きか、屢しば空し。賜は命を受けずして貨殖す。億れば則ち屢しば中る」
「(孔子自身による弟子の評価)顔淵はほぼ理想に近い生き方をしている。理想を追い求めて
瑣末な豊かさなどに目もくれないから、しばしば窮乏することがある。子貢は官命を受けもせずに
金儲けに奔走している。投機などの予測がよく当たるところが長所だとはいえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一九より)
自分たちで国家を形成して営んでいく責任を持たないユダ人にしろ、カルト教祖として
邪義を触れ回った挙句に、民間人に対する処刑方法である磔刑で処刑されたイエキリにしろ、
正式な官職に則ることでの天命を受けていない。何をするにしろ民間の分際止まりであり、
何を享受するにしろ民間の資産家止まりとして。人が享受し得るものとしては最高級の
賜り物に当たる、「正式な官職に則った天命」を受けることなどが決してない。
そこに、本質的な言辞からの「君子」と「小人」の違いまでもがあり、小人として
何もかもを受けることでの豊かさを貪るあまり、君子としての天命を受けることにより、
物質的な豊かさ以上にも価値のある、善徳の安楽を賜ることが全くの不能と化してしまっている。
>>167の季桓子の例からも分かるように、天命を受けた君子としては、小人なら享受し放題な
美女の舞楽の観覧なども、ときに自制せねばならなかったりする。それでこそ、卑俗な小人に
甘んずる場合以上もの楽しみに与ることができるのだから、真の楽しみを知るものこそは、
あえて小人としての豊かさの享受を棄ててでも、君子としての天命の享受を採るのだといえる。
「(孔子自身による弟子の評価)顔淵はほぼ理想に近い生き方をしている。理想を追い求めて
瑣末な豊かさなどに目もくれないから、しばしば窮乏することがある。子貢は官命を受けもせずに
金儲けに奔走している。投機などの予測がよく当たるところが長所だとはいえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一九より)
自分たちで国家を形成して営んでいく責任を持たないユダ人にしろ、カルト教祖として
邪義を触れ回った挙句に、民間人に対する処刑方法である磔刑で処刑されたイエキリにしろ、
正式な官職に則ることでの天命を受けていない。何をするにしろ民間の分際止まりであり、
何を享受するにしろ民間の資産家止まりとして。人が享受し得るものとしては最高級の
賜り物に当たる、「正式な官職に則った天命」を受けることなどが決してない。
そこに、本質的な言辞からの「君子」と「小人」の違いまでもがあり、小人として
何もかもを受けることでの豊かさを貪るあまり、君子としての天命を受けることにより、
物質的な豊かさ以上にも価値のある、善徳の安楽を賜ることが全くの不能と化してしまっている。
>>167の季桓子の例からも分かるように、天命を受けた君子としては、小人なら享受し放題な
美女の舞楽の観覧なども、ときに自制せねばならなかったりする。それでこそ、卑俗な小人に
甘んずる場合以上もの楽しみに与ることができるのだから、真の楽しみを知るものこそは、
あえて小人としての豊かさの享受を棄ててでも、君子としての天命の享受を採るのだといえる。
どんなに強く信じて祈ったりしたところで、
重権力犯罪者や重度精神障害のカルト信者である以上は、
徳治社会での正式な官職に就いたりすることは、到底かなわない。
もちろん、権力犯罪者やカルト信者がそんなものに就きたがることからして
まずないことだが、カルトの邪神を信じて祈ったからといって、決して
得ることができないものがこの世に実在していることの証拠になっている。
だからこそ、徳治社会の官職への正式な就業を志すものが、
カルト信仰や権力犯罪などに頼ってはならない。のみならず、
「信じて祈る」などというような、他力本願的な姿勢から自粛して、
その職務に就いたときに実力を発揮するための勉学研鑽にこそ励まねばならない。
そもそも、帝王級に高位な重職を得ることからして、どんなに高等な聖賢に
とっても畏れ多いことだから、そんなものを、エサを目前にした空腹状態の
犬のように執拗に欲したりするようなことからして、絶対にあってはならない。
カルト信仰に依存すること自体はもちろんのこと、カルト信仰に依存した
場合の人間規範にも全く相容れない、原理的に相互不可侵かつ高位な立場が実在する。
早い話しが、小人に対する君子。職務上の立場としても、人としての賢愚としても。
「祭祀は祈らず、蚤やかなることを麾しとせず、
葆大を楽しまず、嘉事を善せず、牲は肥大を及さず、薦は多品を美とせず」
「およそ正式な祭祀というものは、私的な利得を祈ったりはせず、霊験が速やかに現れる
ことなどを期待もせず、効果が甚大であることを喜んだりもせず、絶対によい効果があるなどと
信じ込んだりもせず、無闇に大きな生け贄を用いたりせず(もちろん人間を用いたりするのは
もってのほか)、供え物がやたらと雑多であることを良いことだなどとするものでもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
重権力犯罪者や重度精神障害のカルト信者である以上は、
徳治社会での正式な官職に就いたりすることは、到底かなわない。
もちろん、権力犯罪者やカルト信者がそんなものに就きたがることからして
まずないことだが、カルトの邪神を信じて祈ったからといって、決して
得ることができないものがこの世に実在していることの証拠になっている。
だからこそ、徳治社会の官職への正式な就業を志すものが、
カルト信仰や権力犯罪などに頼ってはならない。のみならず、
「信じて祈る」などというような、他力本願的な姿勢から自粛して、
その職務に就いたときに実力を発揮するための勉学研鑽にこそ励まねばならない。
そもそも、帝王級に高位な重職を得ることからして、どんなに高等な聖賢に
とっても畏れ多いことだから、そんなものを、エサを目前にした空腹状態の
犬のように執拗に欲したりするようなことからして、絶対にあってはならない。
カルト信仰に依存すること自体はもちろんのこと、カルト信仰に依存した
場合の人間規範にも全く相容れない、原理的に相互不可侵かつ高位な立場が実在する。
早い話しが、小人に対する君子。職務上の立場としても、人としての賢愚としても。
「祭祀は祈らず、蚤やかなることを麾しとせず、
葆大を楽しまず、嘉事を善せず、牲は肥大を及さず、薦は多品を美とせず」
「およそ正式な祭祀というものは、私的な利得を祈ったりはせず、霊験が速やかに現れる
ことなどを期待もせず、効果が甚大であることを喜んだりもせず、絶対によい効果があるなどと
信じ込んだりもせず、無闇に大きな生け贄を用いたりせず(もちろん人間を用いたりするのは
もってのほか)、供え物がやたらと雑多であることを良いことだなどとするものでもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
戦国時代から楚漢戦争にかけての古代中国で、口先三寸の口舌だけで
諸侯に国際紛争への介入を奨めて、戦局が悪化したどさくさに紛れて
中間マージンなどの形で巨万の私利を得ることを目的とした実践学派がいた。
その名を「縦横家」という。
諸国を縦横無尽に歩き回って弁舌を振るうその姿から名づけられたものだが、
ちょうど縦横に切るクロスを貴んだり、世界中へと縦横無尽に侵略の
魔の手を広げていったキリスト教徒の姿にも、非常に似通っている。
戦国時代の著名な縦横家としては蘇秦や張儀、
楚漢戦争時のそれとしては蒯通や侯公(平国君)などが挙げられる。
しかし、そのいずれもが車裂きの刑に処されたり、諸侯の怨みを買って逃亡生活の中に命を終えたり、
自分を韓信の飼い犬扱いすることで高祖からの誅殺を免れたり、新たな戦争の火種となり兼ねない
和解案を楚と漢の間に組ませた直後に逐電したりの、ろくでもないような生涯ばかりを送っている。
諸侯に国際紛争への介入を奨めて、戦局が悪化したどさくさに紛れて
中間マージンなどの形で巨万の私利を得ることを目的とした実践学派がいた。
その名を「縦横家」という。
諸国を縦横無尽に歩き回って弁舌を振るうその姿から名づけられたものだが、
ちょうど縦横に切るクロスを貴んだり、世界中へと縦横無尽に侵略の
魔の手を広げていったキリスト教徒の姿にも、非常に似通っている。
戦国時代の著名な縦横家としては蘇秦や張儀、
楚漢戦争時のそれとしては蒯通や侯公(平国君)などが挙げられる。
しかし、そのいずれもが車裂きの刑に処されたり、諸侯の怨みを買って逃亡生活の中に命を終えたり、
自分を韓信の飼い犬扱いすることで高祖からの誅殺を免れたり、新たな戦争の火種となり兼ねない
和解案を楚と漢の間に組ませた直後に逐電したりの、ろくでもないような生涯ばかりを送っている。
キリスト教圏では、縦横家すなわち聖職者であり、そこに思想信条の理想すらもがあると
思い込まれてきたわけだが、縦横家のほかに儒家や道家もあって、それらの優良さと比較した場合の、
縦横家の思想信条としての劣悪さが如実となったために、漢代にはあっさりと滅び去ってしまった。
舌禍で諸国を狂乱に陥れた挙句に私欲を満たすなどという、縦横家のろくでもない有り様を、
儒家よりは道家への憧憬が強いことを明言している司馬遷までもが「史記」で強く非難しており、
貨殖功利を生業とする民間の素封家などに対する扱いのほうが、まだ優しげなほど。
縦横家は、東洋では二千年以上もの昔に絶やされているので、今は批判対象としてあげつらわれる
ことすらほとんどないが、キリスト教徒はこの縦横家に相当するような邪義を、逆に二千年前
あたりから振りかざし始めた輩なわけで、すでにそのあり方を実体験レベルで記憶している人間も
ほとんどいないのが縦横家なもんだから、キリスト教徒と縦横家の有り様が酷似していて、縦横家を
厳正な吟味の元に廃絶してきた東洋の伝統にも則って、キリスト教をも根絶していかなければ
ならないというところまで考えを働かせられている人間も、まだほとんどいないといえる。
「荏染たる柔木を、君子が之れ樹う。往来の行言は、心に之れを数るべし。
蛇蛇たる碩言の、口自り出ずる。巧言の簧くが如く、顔の之れ厚きこと」
「なよなよの弱弱しい細木を、為政者ともあろうものが好んで植え付けているような有り様。
縦横無尽に諸国を往来する讒言の聞き入れは、あたかもそのようなものだと知らねばならない。
詐欺や欺瞞にまみれた讒言が口から出任せる。その巧みさは笛でも吹いているかの如くで、その厚顔さも極まりない。
(この詩が編まれた春秋時代の頃にも、すでに厚顔無恥な縦横家同然の輩がいたようだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
思い込まれてきたわけだが、縦横家のほかに儒家や道家もあって、それらの優良さと比較した場合の、
縦横家の思想信条としての劣悪さが如実となったために、漢代にはあっさりと滅び去ってしまった。
舌禍で諸国を狂乱に陥れた挙句に私欲を満たすなどという、縦横家のろくでもない有り様を、
儒家よりは道家への憧憬が強いことを明言している司馬遷までもが「史記」で強く非難しており、
貨殖功利を生業とする民間の素封家などに対する扱いのほうが、まだ優しげなほど。
縦横家は、東洋では二千年以上もの昔に絶やされているので、今は批判対象としてあげつらわれる
ことすらほとんどないが、キリスト教徒はこの縦横家に相当するような邪義を、逆に二千年前
あたりから振りかざし始めた輩なわけで、すでにそのあり方を実体験レベルで記憶している人間も
ほとんどいないのが縦横家なもんだから、キリスト教徒と縦横家の有り様が酷似していて、縦横家を
厳正な吟味の元に廃絶してきた東洋の伝統にも則って、キリスト教をも根絶していかなければ
ならないというところまで考えを働かせられている人間も、まだほとんどいないといえる。
「荏染たる柔木を、君子が之れ樹う。往来の行言は、心に之れを数るべし。
蛇蛇たる碩言の、口自り出ずる。巧言の簧くが如く、顔の之れ厚きこと」
「なよなよの弱弱しい細木を、為政者ともあろうものが好んで植え付けているような有り様。
縦横無尽に諸国を往来する讒言の聞き入れは、あたかもそのようなものだと知らねばならない。
詐欺や欺瞞にまみれた讒言が口から出任せる。その巧みさは笛でも吹いているかの如くで、その厚顔さも極まりない。
(この詩が編まれた春秋時代の頃にも、すでに厚顔無恥な縦横家同然の輩がいたようだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「如し其の情を得ば、則ち哀矜して喜ぶこと勿かれ(既出)」
「もし犯罪の実情をつかんだりした時には、ただ哀れむばかりで、決して喜んだりしてはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一九より)
この世に喜んではならないこと、喜ぶべきでないことは数多く、
そのような凶事まで喜ぶことは「不謹慎」となる。個々の文化によって不謹慎であることの
異同はあるが、大半の伝統的な文化には少なからず不謹慎と特定するものがある。
お互いに喜ぶことを慎む要素を持つ文化同士なら、その対象に異同があるにしても、
「不謹慎」というものを慮れる神経の持ち主同士であることから、意思の疎通が図れもする。
仏教の戒律とイスラムの戒律にも多くの異同があるが、特に戒律厳守の厳しい上座部仏教などは、
破戒行為の不謹慎さをよくわきまえているために、同じ破戒行為を慎む慣習の持ち主同士として、
上座部仏教徒とムスリムが仲良くしたりすることがあるのが、その例だといえる。
「もし犯罪の実情をつかんだりした時には、ただ哀れむばかりで、決して喜んだりしてはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一九より)
この世に喜んではならないこと、喜ぶべきでないことは数多く、
そのような凶事まで喜ぶことは「不謹慎」となる。個々の文化によって不謹慎であることの
異同はあるが、大半の伝統的な文化には少なからず不謹慎と特定するものがある。
お互いに喜ぶことを慎む要素を持つ文化同士なら、その対象に異同があるにしても、
「不謹慎」というものを慮れる神経の持ち主同士であることから、意思の疎通が図れもする。
仏教の戒律とイスラムの戒律にも多くの異同があるが、特に戒律厳守の厳しい上座部仏教などは、
破戒行為の不謹慎さをよくわきまえているために、同じ破戒行為を慎む慣習の持ち主同士として、
上座部仏教徒とムスリムが仲良くしたりすることがあるのが、その例だといえる。
喜ぶべきでない対象などと共に、不謹慎という考え方を完全に捨て去ってしまうキリスト教徒などには、
そのような他者の不謹慎行為への慮りも根本的にないから、不謹慎というものをわきまえている
大半の異教徒とも根本的に分かり合うことができない。人の死だろうが重大犯罪行為だろうが、
何もかもを嬉しがる自分たちのいかれた神経を他者にまで押し付けるか、もしくはそのような
神経全般を自制するかのいずれかによってでしか、異教徒と接することもできない。
自分たちでは対等に付き合っているつもりでも、何もかもをウレシで塗り固める自分たちの
ガサツな品性に迷惑させられている人々も多いと知らねばならない。不浄のウレシがりを極端に忌む
神道などが、「信教の自由」の名の下にキリスト信仰までが大々的に推進され始めた戦後にひどく衰亡して、
大多数の中小規模の社の宮司が、副業でもしなければ食えなくなっているのもその例の一つだといえる。
「父母之れを愛すれば、喜びて忘れず。父母之れを悪めば、労えて怨みず」
「父母が自分を愛してくれたならば、これを喜んで忘れないようにせよ。
父母が自分を憎むようなことがあれば、それを憂えはしても怨んではならない。
(父母に憎まれることを喜んだり、長年の怨みにしたりしてももちろんいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・一より)
そのような他者の不謹慎行為への慮りも根本的にないから、不謹慎というものをわきまえている
大半の異教徒とも根本的に分かり合うことができない。人の死だろうが重大犯罪行為だろうが、
何もかもを嬉しがる自分たちのいかれた神経を他者にまで押し付けるか、もしくはそのような
神経全般を自制するかのいずれかによってでしか、異教徒と接することもできない。
自分たちでは対等に付き合っているつもりでも、何もかもをウレシで塗り固める自分たちの
ガサツな品性に迷惑させられている人々も多いと知らねばならない。不浄のウレシがりを極端に忌む
神道などが、「信教の自由」の名の下にキリスト信仰までが大々的に推進され始めた戦後にひどく衰亡して、
大多数の中小規模の社の宮司が、副業でもしなければ食えなくなっているのもその例の一つだといえる。
「父母之れを愛すれば、喜びて忘れず。父母之れを悪めば、労えて怨みず」
「父母が自分を愛してくれたならば、これを喜んで忘れないようにせよ。
父母が自分を憎むようなことがあれば、それを憂えはしても怨んではならない。
(父母に憎まれることを喜んだり、長年の怨みにしたりしてももちろんいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・一より)
失礼します。
「アル中を癒され」「脳梗塞より生還」「倒産によるサラ金地獄」
より、御言葉によって「癒され・救われた者」の「証」です。
その「証」として以下の小冊子を制作いたしました。ご希望の方、
お申込みください。(もちろん無料です)
① 「心のマーケティング」 サラリーマン宣教のために
② 「アル中勝利」 私のアル中勝利信仰体験
③ 「ガンに打ち克つ」 ガンにならない・なったらどうする
④ 「聖霊の恵みにあずかる」 どうすれば———
こころを強くする「メッセージ」のご案内
http://www4.ocn.ne.jp/‾kokoro/
ご笑覧ください。 安達三郎
真理そのものは愛執愛着などの通用するものではなく、
正統な顕教に則る以上は、情愛をも捨てての修行に励まなければ
ならないとするのが仏教。ただ、その情愛を積極的に活用することでの
即身成仏を実現する離れ業が、大乗の自力仏教では密教などにあり、
他力仏教には念仏などがある。
むかし、一遍上人が興国寺の法灯国師の前で歌を詠んだ。
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」
国師は「もう少し下の句を工夫されてはいかがですか」といった。
一遍上人は一度その場を退いて、しばらく修行をしてから
また国師の前に現れ、「こう詠み直しました」といって
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
という句を披露した。国師は「そうそう、まさにこれです」と絶賛した。
(沢庵著「玲瓏集」より)
阿弥陀仏自体は歴史上に実在しない仏だし、他力信仰という浄土教の姿勢自体が、
虚構的な方便を一心不乱に信ずることで、結果的に真理の悟りを得ることを目的としている。
その割り切りこそは悟りに至る秘訣でもあるのだから、「南無阿弥陀仏の声ばかりして」
という半ば観察的な下の句を、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と
詠みかえることで、一遍上人も自らの歌を完成させている。
情愛や愛欲といったもの自体が惑いの一種であり、その惑い自体が真理と
合致するなどということはないが、惑いを虚構的な方便に乗せることで、
−1×−1=1的な要領による、結果的な真理への漸近を果たすことはある。
真理そのものを愛しようなどとすれば、かえって真理から遠ざかるにしろ。
「知者は惑わず。(良くも悪しくも、正確な良知こそは人を不惑へと導くものであり、
愛執はかえって人々を邪信による惑いへと陥らせかねないものですらある。ただ、悪人正機などの
巧みな方便によって、執着的な情念が無意識なままでの真理の悟りへと振り向けられることもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三〇より)
正統な顕教に則る以上は、情愛をも捨てての修行に励まなければ
ならないとするのが仏教。ただ、その情愛を積極的に活用することでの
即身成仏を実現する離れ業が、大乗の自力仏教では密教などにあり、
他力仏教には念仏などがある。
むかし、一遍上人が興国寺の法灯国師の前で歌を詠んだ。
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」
国師は「もう少し下の句を工夫されてはいかがですか」といった。
一遍上人は一度その場を退いて、しばらく修行をしてから
また国師の前に現れ、「こう詠み直しました」といって
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
という句を披露した。国師は「そうそう、まさにこれです」と絶賛した。
(沢庵著「玲瓏集」より)
阿弥陀仏自体は歴史上に実在しない仏だし、他力信仰という浄土教の姿勢自体が、
虚構的な方便を一心不乱に信ずることで、結果的に真理の悟りを得ることを目的としている。
その割り切りこそは悟りに至る秘訣でもあるのだから、「南無阿弥陀仏の声ばかりして」
という半ば観察的な下の句を、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と
詠みかえることで、一遍上人も自らの歌を完成させている。
情愛や愛欲といったもの自体が惑いの一種であり、その惑い自体が真理と
合致するなどということはないが、惑いを虚構的な方便に乗せることで、
−1×−1=1的な要領による、結果的な真理への漸近を果たすことはある。
真理そのものを愛しようなどとすれば、かえって真理から遠ざかるにしろ。
「知者は惑わず。(良くも悪しくも、正確な良知こそは人を不惑へと導くものであり、
愛執はかえって人々を邪信による惑いへと陥らせかねないものですらある。ただ、悪人正機などの
巧みな方便によって、執着的な情念が無意識なままでの真理の悟りへと振り向けられることもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三〇より)
兎にも角にも、中国思想の本題は「真理」ではない。
その最大派閥の儒家からして、現実社会の実情から乖離した高遠な形而上論を遠ざけているし、
比較的真理にまつわる考察の多い道家でも、真理把捉の実践手段としての社会的な
無為自然が強く標榜され、真理そのものに対する分析的な説明には乏しい。
そこが、西洋人などが中国思想を軽んずる理由にもなっており、
基本、あまり取っ付きたがらない東洋の思想哲学をあえて論じようとするときには、
真理に対する形而上的で分析的な論及も豊富な仏教哲学などのほうをあげつらいたがる。
しかし、仏教哲学が論じているような本物の絶対真理を、世俗の言葉に置き換えているのが
儒家の説く道理であるわけだし、絶対真理を自力で把捉するための最も基本意的な実践手段
となるのが、道家の説く社会的無為自然でもある。(仏教の場合はこれに出家修行が加わる)
真理そのものを積極的に論じているわけではないにしても、儒家や道家のような代表的な
中国思想は、絶対真理とも親しい関係にあり、根本のところでは不可分な関係にすらある。
そもそも絶対真理とは何の関係もなく、絶対真理に180度背くことを「真理だ」などと妄言する
邪義邪説などと比べれば、見た目には素朴な中国思想のほうが、まだ真理に近い所にあるといえる。
「子貢曰く、夫子の文章は得て聞く可きなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞く可からざるなり」
「子貢がいった。『孔先生の、表層的な文学などに関する話は、分かりやすくて誰にでも聞くことができた。
しかし、形而上的な性情論や天道論についての話は、あまりにも難解でそうそうに聞くことはできなかった』
(ここでいう『天道』が『真理』にも当たり、孔子が本物の真理把捉者でもあったことは、
『易経』繋辞伝における形而上論の秀逸さからも察することができる。ただ、それは明日の
生活の糧こそが至上命題であるような、俗人に説いて聞かせるべきようなものではなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一三)
その最大派閥の儒家からして、現実社会の実情から乖離した高遠な形而上論を遠ざけているし、
比較的真理にまつわる考察の多い道家でも、真理把捉の実践手段としての社会的な
無為自然が強く標榜され、真理そのものに対する分析的な説明には乏しい。
そこが、西洋人などが中国思想を軽んずる理由にもなっており、
基本、あまり取っ付きたがらない東洋の思想哲学をあえて論じようとするときには、
真理に対する形而上的で分析的な論及も豊富な仏教哲学などのほうをあげつらいたがる。
しかし、仏教哲学が論じているような本物の絶対真理を、世俗の言葉に置き換えているのが
儒家の説く道理であるわけだし、絶対真理を自力で把捉するための最も基本意的な実践手段
となるのが、道家の説く社会的無為自然でもある。(仏教の場合はこれに出家修行が加わる)
真理そのものを積極的に論じているわけではないにしても、儒家や道家のような代表的な
中国思想は、絶対真理とも親しい関係にあり、根本のところでは不可分な関係にすらある。
そもそも絶対真理とは何の関係もなく、絶対真理に180度背くことを「真理だ」などと妄言する
邪義邪説などと比べれば、見た目には素朴な中国思想のほうが、まだ真理に近い所にあるといえる。
「子貢曰く、夫子の文章は得て聞く可きなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞く可からざるなり」
「子貢がいった。『孔先生の、表層的な文学などに関する話は、分かりやすくて誰にでも聞くことができた。
しかし、形而上的な性情論や天道論についての話は、あまりにも難解でそうそうに聞くことはできなかった』
(ここでいう『天道』が『真理』にも当たり、孔子が本物の真理把捉者でもあったことは、
『易経』繋辞伝における形而上論の秀逸さからも察することができる。ただ、それは明日の
生活の糧こそが至上命題であるような、俗人に説いて聞かせるべきようなものではなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一三)
人類や諸生物の歴史には、必然性と共にそれなりの恣意も伴っている。
約6500年前の巨大隕石の衝突による地球環境の大きな変化によって、
図体ばかりを大きくしすぎた恐竜のほとんどが絶滅した一方、
その頃はまだネズミのような小動物に限られていた哺乳類は生き延びて、
今になっては人類のような地球上の覇者を輩出するところにまで至っている。
人間以外の動物にはあまり高度な知能がないから、その生死存亡が甚大な
状況変化などの中で、個々の恣意によってどうにかできたりすることが少ない。
それと全く同じように、カルト信仰で知能をチンパン以下にまで低下させる
クセが付いてしまっているキリスト教徒なども、自分たちの恣意によって
これからの運命を切り開いていったりするようなことができない。
しかし、東洋の場合、外界侵略を蒙る以前の宋代までの中国や、上代以降の日本の歴史などは、高度に
賢明な為政者などによる自助努力で彩られていて、だからこそ数百年規模の泰平社会を何度も実現している。
確かに人為によってはどうにもならない部分もあって、だからこそ帝国や幕府などが数百年ごとに政権を交代する
「易姓革命」なども起こってしまっている。それにしたって、泰平を画策する自助努力を全く怠っているせいで、
万年戦乱状態であり続けてしまっているキリスト教圏の歴史などと比べれば、確実に自力で泰平を獲得してきた
頻度が高く、まさに「人事を尽くして天命を待つ」と呼ぶにふさわしい歴史を積み重ねてきているといえる。
(これと比べれば、キリスト教圏の歴史などは「人事も尽くさずに天命ばかりを待つ」の体現だといえる)
約6500年前の巨大隕石の衝突による地球環境の大きな変化によって、
図体ばかりを大きくしすぎた恐竜のほとんどが絶滅した一方、
その頃はまだネズミのような小動物に限られていた哺乳類は生き延びて、
今になっては人類のような地球上の覇者を輩出するところにまで至っている。
人間以外の動物にはあまり高度な知能がないから、その生死存亡が甚大な
状況変化などの中で、個々の恣意によってどうにかできたりすることが少ない。
それと全く同じように、カルト信仰で知能をチンパン以下にまで低下させる
クセが付いてしまっているキリスト教徒なども、自分たちの恣意によって
これからの運命を切り開いていったりするようなことができない。
しかし、東洋の場合、外界侵略を蒙る以前の宋代までの中国や、上代以降の日本の歴史などは、高度に
賢明な為政者などによる自助努力で彩られていて、だからこそ数百年規模の泰平社会を何度も実現している。
確かに人為によってはどうにもならない部分もあって、だからこそ帝国や幕府などが数百年ごとに政権を交代する
「易姓革命」なども起こってしまっている。それにしたって、泰平を画策する自助努力を全く怠っているせいで、
万年戦乱状態であり続けてしまっているキリスト教圏の歴史などと比べれば、確実に自力で泰平を獲得してきた
頻度が高く、まさに「人事を尽くして天命を待つ」と呼ぶにふさわしい歴史を積み重ねてきているといえる。
(これと比べれば、キリスト教圏の歴史などは「人事も尽くさずに天命ばかりを待つ」の体現だといえる)
もうそろそろ、キリスト教圏全体が経済破綻によって崩壊する時期にさしかかっているが、
もしも地球社会の主導権をキリスト教徒が東洋人などに明け渡せば、キリスト教圏の人間も相当な自由の制限
などを蒙るとはいえ、核戦争によって全滅してしまう場合などよりは遥かに無難な将来に与ることができる。
それもあくまで、非キリスト教徒である東洋人などに、自助努力で世の中を最悪の破綻から救い上げられる
能力があるからで、決してキリスト教の邪神の意思による必然だったりするわけではない。
史上最悪級の破綻の元凶に自分たちキリ教徒がなっておきながら、それでも自分たちが救われることを、
キリスト教の神に感謝したりするのは全くのお門違いであり、東洋人ないし人類という種族全体の、
自力での生存能力の高さにこそ感謝や賞賛の意を向けねばならない。仮にその自力での生存すらもが
生物学上の必然性に根ざしていると捉えたとしても、その必然性が進化論などの当たり前な
生物学すら否定するような邪義を触れ回る、インチキ神のもたらした必然などでないのが確か。
「其の位に在ざれば、其の政を謀らず」
「それ相応の地位に就くのでなければ、その地位でこそ行うべき政務の計画もしない。
(自力によって泰平を画策していくためにこそ、地位などの体裁にもメリハリを付ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二七より)
もしも地球社会の主導権をキリスト教徒が東洋人などに明け渡せば、キリスト教圏の人間も相当な自由の制限
などを蒙るとはいえ、核戦争によって全滅してしまう場合などよりは遥かに無難な将来に与ることができる。
それもあくまで、非キリスト教徒である東洋人などに、自助努力で世の中を最悪の破綻から救い上げられる
能力があるからで、決してキリスト教の邪神の意思による必然だったりするわけではない。
史上最悪級の破綻の元凶に自分たちキリ教徒がなっておきながら、それでも自分たちが救われることを、
キリスト教の神に感謝したりするのは全くのお門違いであり、東洋人ないし人類という種族全体の、
自力での生存能力の高さにこそ感謝や賞賛の意を向けねばならない。仮にその自力での生存すらもが
生物学上の必然性に根ざしていると捉えたとしても、その必然性が進化論などの当たり前な
生物学すら否定するような邪義を触れ回る、インチキ神のもたらした必然などでないのが確か。
「其の位に在ざれば、其の政を謀らず」
「それ相応の地位に就くのでなければ、その地位でこそ行うべき政務の計画もしない。
(自力によって泰平を画策していくためにこそ、地位などの体裁にもメリハリを付ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二七より)
人が着実に善を行う秘訣は、あらゆる行動を自制できた上で、
為すべきことのみを為す分別を付けてことに臨む点にある。
遠く離れたところにある小さな的に対して、めくらめっぽうに多数の矢を射れば、
そのほとんどが的を外れる。一矢や二矢ぐらいはまぐれで的に命中することもあるかもしれないが、
めくらめっぽうである以上は、そのほとんどが確率上からして的を外すことになってしまう。
とにかく何もかもをやる能力を身に付けて、それによって善行を為そうなどとするのは
このようなもので、そのほとんどが善行という的を外して、みそくその「くそ」に当たる悪行と化してしまう。
それでは結局、善を為すという以前に、自分が何かを為そうとした試み全般が、大局的な悪行だった
ことになってしまうので、やはり本当に善行を為すためには、何もかもを為せる能力などよりも、
あえて何もしないでいて、そこから確実に善だけを行っていく能力のほうが必要であるといえる。
「君子は徳に進みて業を修む。忠信は徳に進む所以なり。辞を修め其の誠を立つるは、業に居る所以なり。
至るを知りて之れに至り、與に幾ばく可きなり。終わるを知りて之れに終わり、與に義を存す可きなり」
「君子は善徳を進取することで大業を修める。忠節と信実さこそが善徳を進取する原動力となり、文辞を整えて
誠意を立てることで大業を引き立てる。行いを始めるときを見計らってそのときに始めることで、共にことを計るに
値するものとなり、行いを終えるときを見計らってそのときに終えることで、共に道義を守るに値するものとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・文言伝・九三より)
為すべきことのみを為す分別を付けてことに臨む点にある。
遠く離れたところにある小さな的に対して、めくらめっぽうに多数の矢を射れば、
そのほとんどが的を外れる。一矢や二矢ぐらいはまぐれで的に命中することもあるかもしれないが、
めくらめっぽうである以上は、そのほとんどが確率上からして的を外すことになってしまう。
とにかく何もかもをやる能力を身に付けて、それによって善行を為そうなどとするのは
このようなもので、そのほとんどが善行という的を外して、みそくその「くそ」に当たる悪行と化してしまう。
それでは結局、善を為すという以前に、自分が何かを為そうとした試み全般が、大局的な悪行だった
ことになってしまうので、やはり本当に善行を為すためには、何もかもを為せる能力などよりも、
あえて何もしないでいて、そこから確実に善だけを行っていく能力のほうが必要であるといえる。
「君子は徳に進みて業を修む。忠信は徳に進む所以なり。辞を修め其の誠を立つるは、業に居る所以なり。
至るを知りて之れに至り、與に幾ばく可きなり。終わるを知りて之れに終わり、與に義を存す可きなり」
「君子は善徳を進取することで大業を修める。忠節と信実さこそが善徳を進取する原動力となり、文辞を整えて
誠意を立てることで大業を引き立てる。行いを始めるときを見計らってそのときに始めることで、共にことを計るに
値するものとなり、行いを終えるときを見計らってそのときに終えることで、共に道義を守るに値するものとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・文言伝・九三より)
歴史的に、儒者や儒学道徳を敵に回した権力者ってのは、ことごとく自滅の道を辿っている。
仏法のように、敵に回して対抗することすらできないほどに儒学道徳は「最勝」ではないし、
武士でもないような専門の儒者は武術も嗜まないので、焚書坑儒のような虐げの対象にもできなくはない。
しかし、儒学が司っているのが、天地万物に永久普遍の道理であり、
その儒学を忠実な実践の対象としているのが儒者でもあるために、儒書を焼き捨てたり、
儒者を虐げの対象にしたりすれば、そのぶんだけの災禍が本人自身に降りかかる。
焚書や坑儒まではいかなくても、儒学の司る道理に致命的に反するような言行などに
自分が及んだならば、そのぶんだけの自業自得の災禍が本人自身にも降りかかる。
大乗仏教の唯識思想に基づいて「善」とされるものと、儒学で「善」とされるものとが本質的に等価であり、
両者が「悪」とするものもまた本質的に等価であるから、善因楽果悪因苦果の罪福異熟という仏法上の絶対真理
にも即して、儒学で「善」とされるものを行えば楽果に結びつき、「悪」とされるものを行えば苦果に結びつく。
仏法のように、敵に回して対抗することすらできないほどに儒学道徳は「最勝」ではないし、
武士でもないような専門の儒者は武術も嗜まないので、焚書坑儒のような虐げの対象にもできなくはない。
しかし、儒学が司っているのが、天地万物に永久普遍の道理であり、
その儒学を忠実な実践の対象としているのが儒者でもあるために、儒書を焼き捨てたり、
儒者を虐げの対象にしたりすれば、そのぶんだけの災禍が本人自身に降りかかる。
焚書や坑儒まではいかなくても、儒学の司る道理に致命的に反するような言行などに
自分が及んだならば、そのぶんだけの自業自得の災禍が本人自身にも降りかかる。
大乗仏教の唯識思想に基づいて「善」とされるものと、儒学で「善」とされるものとが本質的に等価であり、
両者が「悪」とするものもまた本質的に等価であるから、善因楽果悪因苦果の罪福異熟という仏法上の絶対真理
にも即して、儒学で「善」とされるものを行えば楽果に結びつき、「悪」とされるものを行えば苦果に結びつく。
善悪というものを、儒学の定義とは全く転倒した尺度で定義することもまた可能であるのが、
儒家道徳に真っ向から反する邪義だけを触れ回っている新旧約の実在などからも明らかだが、
そのような邪義の定義する善悪は、仏教の唯識思想が定義する善悪などとは等価ではなく、
儒学の善悪と相反しているのと同じように、仏教の定義する善悪とも180度相反している。
そのため、新旧約に書かれてあるような定義に基づく「善」を行えば災禍に見舞われ、
行わなければ災禍に見舞われることもない。そもそも新旧約には本物の「善」に相当する物事が
ほとんど記載されていないため、新旧約で「悪」とされるものを行えば福徳に与れるなどということも
ほとんどないが、結果的に犯罪聖書の信者や実践者が「悪」と定義しているものの中には、
むしろそれをやったほうが福徳に与れるようなものが多々散見される。(武道や精神修養など)
聖書信仰の場合は、儒学とは逆で、その記述上で「善」とされる行いによってこそ確実な
災禍に見舞われ、信仰上や記述上で「悪」とされる行いによってこそ福徳に与れる場合が多い。
もっとも、犯罪聖書中には福徳に与れるような要素を記した記述自体が元から甚だしく乏しいので、
犯罪聖書の記述に倣わないことよりは、福徳に与れる善良な要素の記述こそが豊富な儒学の正典・
真正聖書=四書五経の記述に倣うことのほうを第一義としたほうがいいに決まっている。
儒家道徳に真っ向から反する邪義だけを触れ回っている新旧約の実在などからも明らかだが、
そのような邪義の定義する善悪は、仏教の唯識思想が定義する善悪などとは等価ではなく、
儒学の善悪と相反しているのと同じように、仏教の定義する善悪とも180度相反している。
そのため、新旧約に書かれてあるような定義に基づく「善」を行えば災禍に見舞われ、
行わなければ災禍に見舞われることもない。そもそも新旧約には本物の「善」に相当する物事が
ほとんど記載されていないため、新旧約で「悪」とされるものを行えば福徳に与れるなどということも
ほとんどないが、結果的に犯罪聖書の信者や実践者が「悪」と定義しているものの中には、
むしろそれをやったほうが福徳に与れるようなものが多々散見される。(武道や精神修養など)
聖書信仰の場合は、儒学とは逆で、その記述上で「善」とされる行いによってこそ確実な
災禍に見舞われ、信仰上や記述上で「悪」とされる行いによってこそ福徳に与れる場合が多い。
もっとも、犯罪聖書中には福徳に与れるような要素を記した記述自体が元から甚だしく乏しいので、
犯罪聖書の記述に倣わないことよりは、福徳に与れる善良な要素の記述こそが豊富な儒学の正典・
真正聖書=四書五経の記述に倣うことのほうを第一義としたほうがいいに決まっている。
日々善行に努めている人間は、そもそも自分で不法行為から自粛するはずなのに、
「善い業に努めている人間の不法を贖う」という物言いからして、すでに矛盾している。
おそらくその心は、「邪神信仰によって知能をチンパン以下にまで低下させることで
罪の意識からなる良心の呵責を停止させること」を犯罪聖書中では「善い業」と呼んでいて、
そのような善い業に努めている人間の不法を、実際にもキリストのような邪神が贖うという意味。
もちろんそんなことは決してなく、カルト信仰で良心の呵責を騙し騙ししつつ罪業に及ぶことが
「善い業」だったりするわけもなく、悪業の極みであるとすらいえ、そのような悪業によって
積み重ねられた不法行為を、自分たちカルト信者の代わりに贖ってくれる邪神なども実在しない。
というわけで、カルト信仰に耽溺することで餓鬼畜生の行いを「善い業」だなどと勘違いしつつ
積み重ねてきた聖書信者たちは、そのほとんどが禁治産などの処分を通じて地獄へと突き落とされる。
それは仏教の六道輪廻にも即した俗界の絶対法則であり、餓鬼畜生でありながら地獄の苦しみだけは
免れてきた今までのほうがまぐれ当たりだっただけのこと。後はもう、地獄餓鬼畜生の三悪趣全体を浄化
してお浄土へと導いてくださる正信などによって、できる限り早期の内の三悪趣からの脱却を目指すのみ。
餓鬼畜生の狂乱を貪りつつ浄土を欣求することはできないから、あくまで三悪趣全体を厭離する覚悟で。
「金、贖刑を作す。眚災は肆赦し、怙終は賊刑す。
欽しまんかな、欽しまんかな。惟れ刑は之れ恤れまんかな」
「(舜帝は)過失で罪を犯したものに対しては、罰金による贖いをも認めるようにし、
過失には寛大な姿勢で臨み、故意の確信犯には死刑などの重刑を以て臨む姿勢を固められた。
舜帝『慎まんかな、慎まんかな。刑罰を執り行うに際しては、片時も油断のないように』
(あまり見た目に美しくない罰金刑なども、架空神による架空の贖いなどよりは堅実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典第二より)
「善い業に努めている人間の不法を贖う」という物言いからして、すでに矛盾している。
おそらくその心は、「邪神信仰によって知能をチンパン以下にまで低下させることで
罪の意識からなる良心の呵責を停止させること」を犯罪聖書中では「善い業」と呼んでいて、
そのような善い業に努めている人間の不法を、実際にもキリストのような邪神が贖うという意味。
もちろんそんなことは決してなく、カルト信仰で良心の呵責を騙し騙ししつつ罪業に及ぶことが
「善い業」だったりするわけもなく、悪業の極みであるとすらいえ、そのような悪業によって
積み重ねられた不法行為を、自分たちカルト信者の代わりに贖ってくれる邪神なども実在しない。
というわけで、カルト信仰に耽溺することで餓鬼畜生の行いを「善い業」だなどと勘違いしつつ
積み重ねてきた聖書信者たちは、そのほとんどが禁治産などの処分を通じて地獄へと突き落とされる。
それは仏教の六道輪廻にも即した俗界の絶対法則であり、餓鬼畜生でありながら地獄の苦しみだけは
免れてきた今までのほうがまぐれ当たりだっただけのこと。後はもう、地獄餓鬼畜生の三悪趣全体を浄化
してお浄土へと導いてくださる正信などによって、できる限り早期の内の三悪趣からの脱却を目指すのみ。
餓鬼畜生の狂乱を貪りつつ浄土を欣求することはできないから、あくまで三悪趣全体を厭離する覚悟で。
「金、贖刑を作す。眚災は肆赦し、怙終は賊刑す。
欽しまんかな、欽しまんかな。惟れ刑は之れ恤れまんかな」
「(舜帝は)過失で罪を犯したものに対しては、罰金による贖いをも認めるようにし、
過失には寛大な姿勢で臨み、故意の確信犯には死刑などの重刑を以て臨む姿勢を固められた。
舜帝『慎まんかな、慎まんかな。刑罰を執り行うに際しては、片時も油断のないように』
(あまり見た目に美しくない罰金刑なども、架空神による架空の贖いなどよりは堅実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典第二より)
「季氏、泰山に旅す。子、冉有に謂いて曰く、女じ救うこと能わざるか。
對えて曰く、能わず。子曰く、嗚呼、曾ち泰山は林放に如かざると謂えるか」
「魯の家老の季氏が、本当は諸侯以上の身分の持ち主のみが執り行える山川を祀る祭を、
こともあろうに中国一の名山とされる泰山で執り行おうとした。孔先生はそれを聞いて、
当時季氏に仕えていた門弟の冉有に訴えた。『おまえは、大きな過ちを犯そうとしている
主人を救うことができないのか』 冉有は答えた。『残念ですが、救うことができません』
先生は嘆いて言った。『ああ、林放のようないち書生ですら礼儀をわきまえているというのに、
泰山がその林放にすら及ばない(林放ほどにも礼儀を知らない)とでも思っているのだろうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・六より)
古えの中国の王侯などが、山川を司るとされる神々を祀る「封禅」の儀式を執り行っていたことが
伝承上からも、各種の史跡からも伺える。特に、内陸国である中国では、名山の神を祭る封禅が
権力を誇示する目的などでよく執り行われていたようで、始皇帝も上記の泰山での封禅を試みて、
大風が吹くなどしたために失敗している。泰山などの、名山での封禅の成功条件は相当に厳しかった
らしく、権力を誇示する目的というよりは、その権力によって獲得された泰平が長続きすることなどを
祈願するために、相応の手続きを踏まえた上で行った場合にこそ、封禅も成功したことになったらしい。
始皇帝はこの泰山での封禅に失敗したが、中原を平定して、匈奴の撃退をも完遂した前漢の武帝は、
天下泰平の永続の祈願を目的としたからこそ、泰山での封禅にも成功している。皇帝ですらもが、
その行状の是非如何によっては、封禅に失敗するような高山すらもがあるのだから、いわんや、
民間の小人が奢り高ぶりの永続を期待したりするために、高い所に上ったりしてなるものかと。
それでは傷が癒されるどころか、傷口に塩を塗って強風に当てるかのようにして、救われることがない。
對えて曰く、能わず。子曰く、嗚呼、曾ち泰山は林放に如かざると謂えるか」
「魯の家老の季氏が、本当は諸侯以上の身分の持ち主のみが執り行える山川を祀る祭を、
こともあろうに中国一の名山とされる泰山で執り行おうとした。孔先生はそれを聞いて、
当時季氏に仕えていた門弟の冉有に訴えた。『おまえは、大きな過ちを犯そうとしている
主人を救うことができないのか』 冉有は答えた。『残念ですが、救うことができません』
先生は嘆いて言った。『ああ、林放のようないち書生ですら礼儀をわきまえているというのに、
泰山がその林放にすら及ばない(林放ほどにも礼儀を知らない)とでも思っているのだろうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・六より)
古えの中国の王侯などが、山川を司るとされる神々を祀る「封禅」の儀式を執り行っていたことが
伝承上からも、各種の史跡からも伺える。特に、内陸国である中国では、名山の神を祭る封禅が
権力を誇示する目的などでよく執り行われていたようで、始皇帝も上記の泰山での封禅を試みて、
大風が吹くなどしたために失敗している。泰山などの、名山での封禅の成功条件は相当に厳しかった
らしく、権力を誇示する目的というよりは、その権力によって獲得された泰平が長続きすることなどを
祈願するために、相応の手続きを踏まえた上で行った場合にこそ、封禅も成功したことになったらしい。
始皇帝はこの泰山での封禅に失敗したが、中原を平定して、匈奴の撃退をも完遂した前漢の武帝は、
天下泰平の永続の祈願を目的としたからこそ、泰山での封禅にも成功している。皇帝ですらもが、
その行状の是非如何によっては、封禅に失敗するような高山すらもがあるのだから、いわんや、
民間の小人が奢り高ぶりの永続を期待したりするために、高い所に上ったりしてなるものかと。
それでは傷が癒されるどころか、傷口に塩を塗って強風に当てるかのようにして、救われることがない。
「揚れる之の水は、束楚をも流さず。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと女じとなり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に女じを迋かす。
揚れる之の水は、束薪をも流さず。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと二人なり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に信ならず」
「障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は汝をたぶらかすことしか考えていないのだから。
障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は実に信用のならないものだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄭風・揚之水)
元より「言」というもの自体が、「前言を覆す」などともいうように、信用性の低い媒体の最たるものであり、
そこに絶対の信頼を置こうなどとすること自体が、腐った木に彫刻を施したり、糞を混ぜた土壁に漆喰を
塗ったりするような儚い徒労でしかないと、孔子も真正福音書・公冶長第五・一〇で言っている。
善にしろ悪にしろ、後戻りができなくなるのは「行い」に及んでからのことで、ただ言ってただけなら
全く信用がならないと同時に、すぐに改められもする。そのような「言」と「行」の性質の違いをよくわきまえて、
信用の対象は全面的に行いのほうとして、その行いの前準備などとしての、言の価値のみを認めるようにせねばならない。
言ってることに全く行いが伴っておらず、むしろ発言に相反する行いばかりやらかしていたりしたならば、
そのような輩の発言から信用してはならない。刑死して三日後に生き返るみたいな、ペテン師の虚言を信じ込んだ結果、
親族兄弟での殺し合いにまで及んだりするのなら、これほどに人として不幸なこともほかにないのだから。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと女じとなり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に女じを迋かす。
揚れる之の水は、束薪をも流さず。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと二人なり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に信ならず」
「障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は汝をたぶらかすことしか考えていないのだから。
障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は実に信用のならないものだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄭風・揚之水)
元より「言」というもの自体が、「前言を覆す」などともいうように、信用性の低い媒体の最たるものであり、
そこに絶対の信頼を置こうなどとすること自体が、腐った木に彫刻を施したり、糞を混ぜた土壁に漆喰を
塗ったりするような儚い徒労でしかないと、孔子も真正福音書・公冶長第五・一〇で言っている。
善にしろ悪にしろ、後戻りができなくなるのは「行い」に及んでからのことで、ただ言ってただけなら
全く信用がならないと同時に、すぐに改められもする。そのような「言」と「行」の性質の違いをよくわきまえて、
信用の対象は全面的に行いのほうとして、その行いの前準備などとしての、言の価値のみを認めるようにせねばならない。
言ってることに全く行いが伴っておらず、むしろ発言に相反する行いばかりやらかしていたりしたならば、
そのような輩の発言から信用してはならない。刑死して三日後に生き返るみたいな、ペテン師の虚言を信じ込んだ結果、
親族兄弟での殺し合いにまで及んだりするのなら、これほどに人として不幸なこともほかにないのだから。
「形而上なるものを之れ道と謂い、形而下なるものを之れ器と謂う(既出)」
「形になって現れているものの上位にあるものを道といい、形になって現れている範囲内のものを器という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
天地万物のような形になっているものをより上位から司っているものこそは道理であり、
万物流転の法則すらをも道理が司っているからこそ、道理それ自体は滅びることがない。
一方で、天地万物の一部である人間社会に、癌細胞や寄生虫のように寄生することで食い扶持を
得る権力犯罪カルトの邪義もまた、天地万物や人間社会を司る道理が普遍的なものであるからこそ、
あたかも光に寄り添う影が、光が照らし出すものと全く同じ形をしているかのようにして、
一定の不変的な法則を持っている。確かに癌細胞や寄生虫のような生物が一定数生ずることも
物理的な法則に根ざしたことであり、その普遍性は物質の安定性などよりも安定的ですらある。
しかし、癌細胞や寄生虫が生き延びるためのカルトの邪義は、その寄生対象ともなる天地万物や
人間社会全体を健全に運営していくための、道理そのものの法則にはことごとく相反しており、
どちらかを優先する以上は必ずもう一方を劣後せざるを得ない。本体である人間社会全体を
蝕むことで自分たちが繁栄する寄生体の生存法則を優先しすぎれば、世の中全体が破綻して、
寄生体もろともの滅亡にすら至りかねない。一方で、寄生生物の生存を完全に禁止して、
人間社会全体の健全な運営ばかりを徹底して行けば、それはほとんどの人間にとっては
有り難い繁栄の糧となるが、寄生生物がある程度は存在して、その内のいくらかとは共存を
計ることも可能であるという、実相に根ざした総合的な法則に即するなら、寄生生物を
完全に絶やしつくして、人類全体の利益ばかりを徹底して優先するということもまた、
あまりにも清濁の併せ呑みを排しすぎた、潔癖に過ぎる過剰反応であるともいえる。
「形になって現れているものの上位にあるものを道といい、形になって現れている範囲内のものを器という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
天地万物のような形になっているものをより上位から司っているものこそは道理であり、
万物流転の法則すらをも道理が司っているからこそ、道理それ自体は滅びることがない。
一方で、天地万物の一部である人間社会に、癌細胞や寄生虫のように寄生することで食い扶持を
得る権力犯罪カルトの邪義もまた、天地万物や人間社会を司る道理が普遍的なものであるからこそ、
あたかも光に寄り添う影が、光が照らし出すものと全く同じ形をしているかのようにして、
一定の不変的な法則を持っている。確かに癌細胞や寄生虫のような生物が一定数生ずることも
物理的な法則に根ざしたことであり、その普遍性は物質の安定性などよりも安定的ですらある。
しかし、癌細胞や寄生虫が生き延びるためのカルトの邪義は、その寄生対象ともなる天地万物や
人間社会全体を健全に運営していくための、道理そのものの法則にはことごとく相反しており、
どちらかを優先する以上は必ずもう一方を劣後せざるを得ない。本体である人間社会全体を
蝕むことで自分たちが繁栄する寄生体の生存法則を優先しすぎれば、世の中全体が破綻して、
寄生体もろともの滅亡にすら至りかねない。一方で、寄生生物の生存を完全に禁止して、
人間社会全体の健全な運営ばかりを徹底して行けば、それはほとんどの人間にとっては
有り難い繁栄の糧となるが、寄生生物がある程度は存在して、その内のいくらかとは共存を
計ることも可能であるという、実相に根ざした総合的な法則に即するなら、寄生生物を
完全に絶やしつくして、人類全体の利益ばかりを徹底して優先するということもまた、
あまりにも清濁の併せ呑みを排しすぎた、潔癖に過ぎる過剰反応であるともいえる。
寄生生物の都合ばかりがあまりにも優先されて、種族全体の存亡までもが危ぶまれるような時機には、
多少は過剰に寄生的生存の邪義を廃絶しようとする動きが生じたとしても仕方がない。しかし、
その先に共産主義的な無理のある絶対平等志向を確立しようとすることも、人間がそのまま飲めば
腹を壊す純水のようなもので、もう少し諸法の実相の有機性に根ざした融通を利かしたほうがよい。
「天地の道は、恒久にして已まず」「天地を司る道理は恒久普遍にして止まることもない」(易経・恆・彖伝)
「天地の化育に賛ずべし」「天地をその道理に基づいて化育することにこそ協賛すべきである」(中庸・二二)
「天地を経緯するを文と曰う」「天地の法則を言葉によって記録してこそ人間の文化である」(左伝・昭公二十八年)
(権力道徳聖書——通称四書五経より)
多少は過剰に寄生的生存の邪義を廃絶しようとする動きが生じたとしても仕方がない。しかし、
その先に共産主義的な無理のある絶対平等志向を確立しようとすることも、人間がそのまま飲めば
腹を壊す純水のようなもので、もう少し諸法の実相の有機性に根ざした融通を利かしたほうがよい。
「天地の道は、恒久にして已まず」「天地を司る道理は恒久普遍にして止まることもない」(易経・恆・彖伝)
「天地の化育に賛ずべし」「天地をその道理に基づいて化育することにこそ協賛すべきである」(中庸・二二)
「天地を経緯するを文と曰う」「天地の法則を言葉によって記録してこそ人間の文化である」(左伝・昭公二十八年)
(権力道徳聖書——通称四書五経より)
言葉が絶対的な信用の対象となることもおかしければ、
絶対的な不信の対象となることもおかしい。
ペテン師の物言いを一辺倒に信じきって、騙され奪われ傷めつけられ殺され滅ぼされる
なんてことは歴史的にも現代的にもよくある話。一方で、もはやペテン的な曲芸戦法を確信犯的に
多用しまくっていたが故に、敵軍からは一方的な不信の対象とされていた蜀漢の軍師諸葛孔明が、
あえてその通りに行う予定の作戦計画を大っぴらにすることで「これは欺瞞工作だ」と敵軍に思い込ませ、
その通りにしない場合の対策を講じていた相手を、その通りの作戦で打ち破るなどということもあった。
言葉とか概念とかいったものは、実相の現実よりも、現実上においてはうつろなものであり、
「概念が根本で、現実が末節だ」などという転倒夢想を哲学者にけしかけたプラトンのイデア論もまた、
思想哲学上の致命的な病理の一つだった。そもそも概念的な言葉を発することから避けて、現実に根ざした
ことだけを語る中国思想が「思想」の健全な姿である一方で、ある程度は概念的な言葉を語りはするものの、
あくまで現実の実相との連絡を緊密に保つインド哲学こそは「哲学」の健全な姿でもあった。現実の実相から
乖離したところで空想的な概念論を垂れ流す哲学が不健全であるなら、そのような空想の病理に即して
現実から乖離しきった言葉を執拗に信じさせる信教もまた、不健全極まりないカルト信仰なのであり、
元から不健全だった人間がそのようなカルト哲学やカルト宗教に溺れるというよりは、むしろそのような
カルト哲学やカルト宗教のせいで、後天的に精神を病むなどの不健全な疾患を被っている場合のほうが多い。
だからこそ、カルト信者やカルト学者を糾弾の対象とするよりは、カルト教学
そのものを適正な排除対象として見据えることのほうが重要なのだといえる。
「至徳の光を奮い、四気の和を動かして、以て万物の理を著す」
「大徳に到れる光を放ち、春夏秋冬の気運をも味方に付けて、万物を司る天理を現す。
(個人的に光を持つなどという輩は差し詰め、万物を司る天理から放たれた
無量の光明を掠め取って我が物扱いしているこそ泥とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
絶対的な不信の対象となることもおかしい。
ペテン師の物言いを一辺倒に信じきって、騙され奪われ傷めつけられ殺され滅ぼされる
なんてことは歴史的にも現代的にもよくある話。一方で、もはやペテン的な曲芸戦法を確信犯的に
多用しまくっていたが故に、敵軍からは一方的な不信の対象とされていた蜀漢の軍師諸葛孔明が、
あえてその通りに行う予定の作戦計画を大っぴらにすることで「これは欺瞞工作だ」と敵軍に思い込ませ、
その通りにしない場合の対策を講じていた相手を、その通りの作戦で打ち破るなどということもあった。
言葉とか概念とかいったものは、実相の現実よりも、現実上においてはうつろなものであり、
「概念が根本で、現実が末節だ」などという転倒夢想を哲学者にけしかけたプラトンのイデア論もまた、
思想哲学上の致命的な病理の一つだった。そもそも概念的な言葉を発することから避けて、現実に根ざした
ことだけを語る中国思想が「思想」の健全な姿である一方で、ある程度は概念的な言葉を語りはするものの、
あくまで現実の実相との連絡を緊密に保つインド哲学こそは「哲学」の健全な姿でもあった。現実の実相から
乖離したところで空想的な概念論を垂れ流す哲学が不健全であるなら、そのような空想の病理に即して
現実から乖離しきった言葉を執拗に信じさせる信教もまた、不健全極まりないカルト信仰なのであり、
元から不健全だった人間がそのようなカルト哲学やカルト宗教に溺れるというよりは、むしろそのような
カルト哲学やカルト宗教のせいで、後天的に精神を病むなどの不健全な疾患を被っている場合のほうが多い。
だからこそ、カルト信者やカルト学者を糾弾の対象とするよりは、カルト教学
そのものを適正な排除対象として見据えることのほうが重要なのだといえる。
「至徳の光を奮い、四気の和を動かして、以て万物の理を著す」
「大徳に到れる光を放ち、春夏秋冬の気運をも味方に付けて、万物を司る天理を現す。
(個人的に光を持つなどという輩は差し詰め、万物を司る天理から放たれた
無量の光明を掠め取って我が物扱いしているこそ泥とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
正統宗教の信者にしろカルトの信者にしろ、当然信じている対象がある。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と念仏ばかりを唱えて他を見ない浄土信者も、
「浄土への往生」という対象を信じて、そのために「阿弥陀仏」に帰依(南無)する。
犯罪聖書の信者なら、「天国への昇天」という対象を信じて、
そのために「キリスト」や「エホバ」に服従する。
歴史上に実在しない仏である阿弥陀仏を信じて、実在の確認されていない浄土への往生を
信仰した結果、浄土信者は、その「方便」に基づいた信仰によって、他力本願なりの悟りを得、
凡夫が浄土への往生の先に期待するのとも等価の精神の安楽を得る。それは事実、可能であること。
実在しない形而上の超越神であるキリストやエホバを信じたところで、
天国に昇天することも絶対にできないし、浄土往生という方便に
即して念仏者が得るような、精神の安楽を得られることもない。
帰依の対象が阿弥陀様であるかキリエホであるかで、実際に浄土や天国に至れるかどうか
という点で大きな違いはないが、ことにそれを「方便」として捉えた場合、その方便に即して
浄土信者が精神の安楽を得ることが可能な一方で、犯罪信者が精神の安楽を得ることは不能である。
一心不乱に信仰することが必ずしも悪いことなわけではないが、悪いものを狂信して
自業自得の破滅に陥ることも多いので、信仰の対象とするものをよく吟味せねばならない。
「君子は微を知り彰を知り、柔を知り剛を知る。萬夫の望みなり」
「君子は物事の機微をよく察知し、明らかなことの成り行きをも真っ直ぐに見据え、
柔弱なものから剛強なものにまで配慮を利かせる。そこにこそ、万人が真に望むものがある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と念仏ばかりを唱えて他を見ない浄土信者も、
「浄土への往生」という対象を信じて、そのために「阿弥陀仏」に帰依(南無)する。
犯罪聖書の信者なら、「天国への昇天」という対象を信じて、
そのために「キリスト」や「エホバ」に服従する。
歴史上に実在しない仏である阿弥陀仏を信じて、実在の確認されていない浄土への往生を
信仰した結果、浄土信者は、その「方便」に基づいた信仰によって、他力本願なりの悟りを得、
凡夫が浄土への往生の先に期待するのとも等価の精神の安楽を得る。それは事実、可能であること。
実在しない形而上の超越神であるキリストやエホバを信じたところで、
天国に昇天することも絶対にできないし、浄土往生という方便に
即して念仏者が得るような、精神の安楽を得られることもない。
帰依の対象が阿弥陀様であるかキリエホであるかで、実際に浄土や天国に至れるかどうか
という点で大きな違いはないが、ことにそれを「方便」として捉えた場合、その方便に即して
浄土信者が精神の安楽を得ることが可能な一方で、犯罪信者が精神の安楽を得ることは不能である。
一心不乱に信仰することが必ずしも悪いことなわけではないが、悪いものを狂信して
自業自得の破滅に陥ることも多いので、信仰の対象とするものをよく吟味せねばならない。
「君子は微を知り彰を知り、柔を知り剛を知る。萬夫の望みなり」
「君子は物事の機微をよく察知し、明らかなことの成り行きをも真っ直ぐに見据え、
柔弱なものから剛強なものにまで配慮を利かせる。そこにこそ、万人が真に望むものがある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)

挙句には弱り果てて、極重の不幸や苦痛の中で早死にして、二度と生き返らない。
かわいそうだが、それが邪神信仰に執心し過ぎてきた者たちの末路。
仮にそこに懲罰者が介在したところで、あくまで当人たちのやつあたりや冤罪の拡散によって
これ以上の災禍の拡大が引き起こるのを防ぐための「自己懲罰」の支援であるのみ。
カルト信仰者が、破滅的で悲劇的な最期を迎えるのは、完全に自業自得ゆえなのであり、キリエホみたいな
実在しない邪神への狂信もまた、自業自得の災禍を増長させるための「悪巧方便」でこそあった。
念仏信仰が、信者に他力本願での悟りを開かせて、
無意識なうちからの断悪修善を助成する「善巧方便」であったのに対し、逆に信者の
蒙昧さこそを募らせて、無意識(カトリック、正教)と意識(プロテスタント、ユダヤ)の
両面からの悪逆非道の推進を助長する悪巧方便であるのが、キリエホ信仰だった。
念仏信仰が、尊属殺人を含む五逆の実行者の帰依を認めない一方で、
キリスト信仰のほうは親子兄弟同士での殺し合いを推奨しているように、
善巧方便への帰依と悪巧方便への帰依は互いに相容れず、どちらかを採る以上はもう一方を棄てるしかない。
悪巧方便であるキリエホ信仰を選択してきた連中は、それによって自動的に念仏信仰を打ち棄ててもきた。
だからこそ自業自得での最悪の破滅にも陥りつつある。ただ、今からでも悪巧方便への狂信を打ち棄てて、
善巧方便である念仏を信仰したり、自力での善の実践学である儒学などの修練に勤めたならば、まだ
救われる余地のある人間は相当に救われて、もはや救われない人間も相当に末期の苦しみを緩和できる。
あくまで、悪巧方便である犯罪聖書への信仰を打ち棄ててこそ、
それが適い、打ち棄てないのなら最悪の結末しか待っていない。
「戎狄を是こに膺ち、荊舒を適こに懲らす、則ち我れを敢えて承むる莫らしむ。
爾をして昌に熾んならしめ、爾をして壽く富ましめる。黄髪も台背なるも、壽くして胥與に試いて、
爾をして昌に大いならしむ。爾をして耆く艾しからめ、萬有千歳までも、眉壽の害わるること有る無けん」
「夷狄をここに討ち取り、蛮族をここに懲らしめる。それでいてもはや我に抵抗しようとする者もいない。
かくして君が代は大いに隆盛し、長寿と富貴とに与れる。髪が黄色くなり、背も丸まったような衰えさらばえた
者にいたるまで、長寿を感謝して君を仰ぎ見、君をさらに大いならしめる。君の長寿と福徳とを祈り、
万有の千歳の後に至るまで、君が代の福寿の損なわれることがないようにと願い奉られる。
(異端の蛮行を容赦なく討ち滅ぼしてこそ、後の天下の千代に八千代に至るまでの福寿が達せらる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・魯頌・閟宮より)
爾をして昌に熾んならしめ、爾をして壽く富ましめる。黄髪も台背なるも、壽くして胥與に試いて、
爾をして昌に大いならしむ。爾をして耆く艾しからめ、萬有千歳までも、眉壽の害わるること有る無けん」
「夷狄をここに討ち取り、蛮族をここに懲らしめる。それでいてもはや我に抵抗しようとする者もいない。
かくして君が代は大いに隆盛し、長寿と富貴とに与れる。髪が黄色くなり、背も丸まったような衰えさらばえた
者にいたるまで、長寿を感謝して君を仰ぎ見、君をさらに大いならしめる。君の長寿と福徳とを祈り、
万有の千歳の後に至るまで、君が代の福寿の損なわれることがないようにと願い奉られる。
(異端の蛮行を容赦なく討ち滅ぼしてこそ、後の天下の千代に八千代に至るまでの福寿が達せらる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・魯頌・閟宮より)

炭素をほとんど含有しないただの軟鉄なら、どんなに打ち据えたところで硬度や強靭さが向上することもない。
孟子が告子章句下・一五で述べているような、「天が大任を任せようとする者に対して与える試練」があったとして、
その試練を与えられる者が、「論語」に書かれてあるような君子道徳を十分に学んでいる者だったとする。
だとすれば、十分に炭素を含んだ鋼が打ち鍛えられることで名刀になるようにして、
王道の覇道に対する優位をも心からわきまえる、孟子のような賢人となれるだろう。
もしも君子道徳のわきまえが不十分なら、炭素の含有量が少し足りない鋼が打ち鍛えられるようにして、
名刀となるのは無理でも、それなりに硬度や靭度を向上させた鋼になる。これがちょうど、
覇道政治にすら価値を見出そうとしていた荀子あたりに相当する練達度となる。
もしも君子道徳のわきまえなどが全くないんなら、あたかも炭素をほとんど含まない軟鉄を打ち据えても
全く硬度が上がらないようにして、いくら試練を加えても全く向上練達の見られない下愚止まりとなる。
これがちょうど、覇道をカルト信仰によってまで推進しようとしたイエスなどに相当する有様となる。
軟鉄を打ち据えたところで、どこまでも軟鉄のままであり、そも打ち据えられることでの向上などを
欲することからして身の程知らずである。軟鉄には軟鉄で、それなりの用途があるのであり、日本刀などの
ごくごく少量の用途にのみ用いられる高炭素鋼などと比べても、その物量的な用途も遥かに多大である。
何万トンもの排水量になる巨船の構造材なども、そのほとんどが軟鉄であり、大きな
ストレスがかかる一部の部位にだけ、多少炭素やニッケルを含有した特殊な鋼材が用いられるのみ。
打ち据えられることでの向上が望めないから用済みだなんてことは決してないから、心配は要らない。
「乃じの弓矢を備え、乃の戈矛を鍛え、乃じの鋒刃を礪ぎ、敢えて善からざること無かれ」
「汝らの弓矢の数を十分に備え、鉾の刃を十分に打ち鍛え、鉾先をよく研ぎ澄まして、いくさの備えに万全を期すように。
(『荘子』にも『研ぎ澄まされた刃物から使い込まれて磨り減っていく』とある通り、刃物が打ち鍛えられて
研ぎ澄まされるのも、それによっていくさなどのために利用されて消費されるために他ならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・費誓より)
欲することからして身の程知らずである。軟鉄には軟鉄で、それなりの用途があるのであり、日本刀などの
ごくごく少量の用途にのみ用いられる高炭素鋼などと比べても、その物量的な用途も遥かに多大である。
何万トンもの排水量になる巨船の構造材なども、そのほとんどが軟鉄であり、大きな
ストレスがかかる一部の部位にだけ、多少炭素やニッケルを含有した特殊な鋼材が用いられるのみ。
打ち据えられることでの向上が望めないから用済みだなんてことは決してないから、心配は要らない。
「乃じの弓矢を備え、乃の戈矛を鍛え、乃じの鋒刃を礪ぎ、敢えて善からざること無かれ」
「汝らの弓矢の数を十分に備え、鉾の刃を十分に打ち鍛え、鉾先をよく研ぎ澄まして、いくさの備えに万全を期すように。
(『荘子』にも『研ぎ澄まされた刃物から使い込まれて磨り減っていく』とある通り、刃物が打ち鍛えられて
研ぎ澄まされるのも、それによっていくさなどのために利用されて消費されるために他ならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・費誓より)
キリの言うことに聞き従えば死んでも生き返られて、天国にも昇ることができる、
やはりそこには俗人特有の下劣な見返り志向が深く根ざしている。
それは事実、あり得ないことで、キリエホへの服従を誓ったり、
その雑言(×御言葉)の数々を無理にでも聞き込んで体得しようなどとすればするほど、
何も信じず、何もしないでいる場合以上もの不幸や破滅が待っているのみ。
また、言葉には相反性が伴っている場合が多く、たとえば「親子兄弟で殺し合え」など
という雑言に聞き従おうなどとすれば、「親族への孝養を篤くせよ」などという金言に
聞き従うことはできなくなる。そのためキリエホのいかれた雑言ばかりに聞き従おうと
している犯罪聖書信者は、人の言うことに耳を貸さない事例も数多く、道理に適った
真に正しい言葉ほどに聞き従うことができないという、最悪の視聴規範をも帯びている。
自力の修養を大成させた聖賢でもないのなら、自分が何かの事業をこなす上で、その精神的、
行動的な拠り所となる他者の言葉や理念にすがるというのも、必ずしも許されないことではない。
しかし、その拠り所となる言葉や理念が、何もしない以上にも劣悪な悪業をけしかけて、
何もしないでいた場合以上もの不幸や破滅を呼び込むような邪義を帯びている場合には、
むしろそんな言葉には聞き従わないほうがマシである。だったらむしろ、何もしないでいる
隠者なりニートなりが、何もしないでいることの精神的な拠り所ともしている言葉なり理念なりを
拠り所としたほうが、過剰な行動を制御するなどの良質な効果が望めて、まだ好ましくすらある。
やはりそこには俗人特有の下劣な見返り志向が深く根ざしている。
それは事実、あり得ないことで、キリエホへの服従を誓ったり、
その雑言(×御言葉)の数々を無理にでも聞き込んで体得しようなどとすればするほど、
何も信じず、何もしないでいる場合以上もの不幸や破滅が待っているのみ。
また、言葉には相反性が伴っている場合が多く、たとえば「親子兄弟で殺し合え」など
という雑言に聞き従おうなどとすれば、「親族への孝養を篤くせよ」などという金言に
聞き従うことはできなくなる。そのためキリエホのいかれた雑言ばかりに聞き従おうと
している犯罪聖書信者は、人の言うことに耳を貸さない事例も数多く、道理に適った
真に正しい言葉ほどに聞き従うことができないという、最悪の視聴規範をも帯びている。
自力の修養を大成させた聖賢でもないのなら、自分が何かの事業をこなす上で、その精神的、
行動的な拠り所となる他者の言葉や理念にすがるというのも、必ずしも許されないことではない。
しかし、その拠り所となる言葉や理念が、何もしない以上にも劣悪な悪業をけしかけて、
何もしないでいた場合以上もの不幸や破滅を呼び込むような邪義を帯びている場合には、
むしろそんな言葉には聞き従わないほうがマシである。だったらむしろ、何もしないでいる
隠者なりニートなりが、何もしないでいることの精神的な拠り所ともしている言葉なり理念なりを
拠り所としたほうが、過剰な行動を制御するなどの良質な効果が望めて、まだ好ましくすらある。
「子路聞くこと有りて、未だ之れ行うこと能わずんば、唯だ聞く有らんことを恐る」
「子路は聞いたことのうちで、まだ自分で行えないでいることがあれば、さらに新たなことを聞くのを恐れた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一四)
とあり、
「子路問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、父兄の在すこと有り、これを如何ぞ、其れ聞くままにこれを行なわんや。
冉有問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、聞くままに斯れを行なえ。公西華が曰わく、由や問う、聞くままに斯れ
行なわんやと。子の曰わく、父兄の在すこと有りと。求や問う、聞くままに斯れ行なわんやと。子の曰わく、聞くままに斯れ
行なえと。赤や惑う。敢えて問う。子の曰わく、求や退く、故にこれを進む。由や人を兼ぬ、故にこれを退く(既出)」
「子路『助言されたままに行ないましょうか』孔子『家族もいるのだから、無鉄砲に助言に従ってもなあ』
冉有『助言されたままに行ないましょうか』孔子『ぜひ助言されたとおりに行ないなさい』
公西華『先生は、子路へは助言に従うことを咎め、冉有へは助言に従うことを勧められた。私には不可解なのですが、
どちらが果たして正しいのでしょうか』孔子『冉有は引っ込み思案だから勧めたが、子路は積極的すぎるから咎めたのだ』
(個々の弟子の性格にあわせた臨機応変な孔子の助言。相手の短所を抑え、長所を伸ばす真の憐れみ深さが窺え、
自分の利益のために相手に助言するような下劣さは微塵も垣間見られない。そも真に誠実な人間はそんなことを思いつかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二二)
とあるから、子路や聖書信者のように、言われたことを全てそのまま行おうとするような蛮行の徒に対しては、
孔子は「もうちょっと思慮を働かせよ」と苦言を呈するだろうことが予想される。元より、聖書信者の場合は、
刑死して三日後に生き返るという、現実には不能なペテンを聞いたままに行おうとしているわけで、それは絶対に不可能なこと
であるために、それの実現を志している以上は、犯罪信者が他者の言うことに耳を傾けることもまた絶対に不可能なわけだが。
「子路は聞いたことのうちで、まだ自分で行えないでいることがあれば、さらに新たなことを聞くのを恐れた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一四)
とあり、
「子路問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、父兄の在すこと有り、これを如何ぞ、其れ聞くままにこれを行なわんや。
冉有問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、聞くままに斯れを行なえ。公西華が曰わく、由や問う、聞くままに斯れ
行なわんやと。子の曰わく、父兄の在すこと有りと。求や問う、聞くままに斯れ行なわんやと。子の曰わく、聞くままに斯れ
行なえと。赤や惑う。敢えて問う。子の曰わく、求や退く、故にこれを進む。由や人を兼ぬ、故にこれを退く(既出)」
「子路『助言されたままに行ないましょうか』孔子『家族もいるのだから、無鉄砲に助言に従ってもなあ』
冉有『助言されたままに行ないましょうか』孔子『ぜひ助言されたとおりに行ないなさい』
公西華『先生は、子路へは助言に従うことを咎め、冉有へは助言に従うことを勧められた。私には不可解なのですが、
どちらが果たして正しいのでしょうか』孔子『冉有は引っ込み思案だから勧めたが、子路は積極的すぎるから咎めたのだ』
(個々の弟子の性格にあわせた臨機応変な孔子の助言。相手の短所を抑え、長所を伸ばす真の憐れみ深さが窺え、
自分の利益のために相手に助言するような下劣さは微塵も垣間見られない。そも真に誠実な人間はそんなことを思いつかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二二)
とあるから、子路や聖書信者のように、言われたことを全てそのまま行おうとするような蛮行の徒に対しては、
孔子は「もうちょっと思慮を働かせよ」と苦言を呈するだろうことが予想される。元より、聖書信者の場合は、
刑死して三日後に生き返るという、現実には不能なペテンを聞いたままに行おうとしているわけで、それは絶対に不可能なこと
であるために、それの実現を志している以上は、犯罪信者が他者の言うことに耳を傾けることもまた絶対に不可能なわけだが。
「去るものは追わず、来たるものは拒まず(尽心章句下・三〇)」という、
孟子が自らの学団の本旨としていた人間関係、これは当然、親族兄弟の間柄の話などではない。
文字通り、もっとも「親密」な間柄である親族同士の関係に関しては、過ちを隠してでも
その親密さを堅守せよと儒者はいう一方で、血のつながりがあるわけでもない他人同士での
友好関係に際しては、くっ付くも離れるも全くの自由というのが儒者の心得でもある。
確かに、全ての人間関係が「去るものは追わず、来たるものは拒まず」では寂しいわけで、
そのような孤独志向に陥ることを決して儒者もよしとしない。ただ、孤独を紛らわすために
他人同士での友人関係ばかりを緊密化させるような優先順位の取り違えは決してよしとせず、
友人関係の簡便さはそのままにして、限られた親族同士での親密さこそを磐石なものとさせる。
古代の中国社会であれ、今の世界や日本社会であれ、全ての他人を友人にできるほど
その規模が小さくはない。利害を共にする友人関係などを偏重すれば、どこかに必ず利害の
反する友人ですらない他人=敵性勢力の派閥を作ってしまう。全ての他人を友人にはできない
からこそ一部の友人を作るのでもあり、そこに関係性の緊密さなどを付与すればするほど
敵との対立もより深刻なものとなる。だから友好関係については簡略なものであることを
是とし、自分では選ぶこともできない親子関係などを、だからこそ緊密さを貴ぶ対象ともする。
全ての人間には先天的に親族関係が備わっているから、親族関係を緊密にすることにまで
不平を唱えるようなことは、どんな人間にとっても根本的に筋の通らないこととなるから。
「(伯夷の)悪を悪むの心を推すに、思れ郷人と立つとき、
其の冠の正しからざれば、望望然として之れを去り、將に浼されんとするが若し」
「伯夷が悪を憎んだその心を推し量ってみるなら、それはあたかも、同郷の人間と共に立ち並んでいるときでも、
冠の被り方が間違っていれば深々と恥じ入ってその場を立ち去り、志しを汚されることを避けるかのようだった。
(隣人との癌細胞的な癒着による腐敗は、正義を志すものであれば徹底して拒絶し、近寄りもしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・九より)
孟子が自らの学団の本旨としていた人間関係、これは当然、親族兄弟の間柄の話などではない。
文字通り、もっとも「親密」な間柄である親族同士の関係に関しては、過ちを隠してでも
その親密さを堅守せよと儒者はいう一方で、血のつながりがあるわけでもない他人同士での
友好関係に際しては、くっ付くも離れるも全くの自由というのが儒者の心得でもある。
確かに、全ての人間関係が「去るものは追わず、来たるものは拒まず」では寂しいわけで、
そのような孤独志向に陥ることを決して儒者もよしとしない。ただ、孤独を紛らわすために
他人同士での友人関係ばかりを緊密化させるような優先順位の取り違えは決してよしとせず、
友人関係の簡便さはそのままにして、限られた親族同士での親密さこそを磐石なものとさせる。
古代の中国社会であれ、今の世界や日本社会であれ、全ての他人を友人にできるほど
その規模が小さくはない。利害を共にする友人関係などを偏重すれば、どこかに必ず利害の
反する友人ですらない他人=敵性勢力の派閥を作ってしまう。全ての他人を友人にはできない
からこそ一部の友人を作るのでもあり、そこに関係性の緊密さなどを付与すればするほど
敵との対立もより深刻なものとなる。だから友好関係については簡略なものであることを
是とし、自分では選ぶこともできない親子関係などを、だからこそ緊密さを貴ぶ対象ともする。
全ての人間には先天的に親族関係が備わっているから、親族関係を緊密にすることにまで
不平を唱えるようなことは、どんな人間にとっても根本的に筋の通らないこととなるから。
「(伯夷の)悪を悪むの心を推すに、思れ郷人と立つとき、
其の冠の正しからざれば、望望然として之れを去り、將に浼されんとするが若し」
「伯夷が悪を憎んだその心を推し量ってみるなら、それはあたかも、同郷の人間と共に立ち並んでいるときでも、
冠の被り方が間違っていれば深々と恥じ入ってその場を立ち去り、志しを汚されることを避けるかのようだった。
(隣人との癌細胞的な癒着による腐敗は、正義を志すものであれば徹底して拒絶し、近寄りもしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・九より)
自力作善が本分な君子であれば神仏に依存したりはせず、祈るにしても、人事を尽くした先にある天命の福徳
こそを祈る。その福徳の内容は、天命の長寿であったり、武運の長久であったり、万民の福寿安寧であったりする。
他力本願の小人なら本当に神仏ばかりに依り縋り、それによって現実上の君子階級への貞順さをも養う。
神仏への祈りの内容も、家内安全だったり無病息災だったり商売繁盛だったりと、個人的な願望の側面が強くなる。
君子の祈りと小人の祈り、いずれも上記のようであるのなら何も問題はないが、世界の破滅を強弁する邪神に
対して、破滅後の自分たちだけの救済だけを祈ったりするのは、元はといえば世界の破滅をも祈っているわけで、
それは天下安泰などの健全な君子の祈りとも、無病息災などの健全な小人の祈りとも相容れることがない。
そもそも世界が破滅に陥るようなことからないように祈るのが健全な祈りであり、まず世界の破滅を祈って
おいてから、自分たちだけの救済を祈ったりすることが不健全な祈りだから、どちらかといえば、マッチポンプ
込みの不健全な祈りが劣後されて、マッチポンプ自体を未然に排する健全な祈りのほうが優先されねばならない。
全世界的にも、世界の一時的な破滅を必要もなく欲して、その実現を執拗に祈っているキリエホ信者などよりも、
そんな珍奇な祈りが叶うことを心の底から嫌がっている真っ当な人間のほうが遥かに多数派でもある。
世界の恒久な安寧を願う大多数の人々の健全な祈りが、世界の破滅を願う少数派の不健全で珍奇な祈りなどよりも
優先されて然るべきなのはもちろんのことで、その結果、破滅後の自分たちだけの救済などを祈っていたキリエホ
信者のほうが、禁治産や参政権剥奪などの処分を被ることになったとしても、それも当たり前のことだといえる。
「祭りは祈ること有り、報いること有り、由りて辟むること有り」
「祭りでは何かを祈ることがあり、それによる報いを期待することがあり、より縋って災厄を遠ざけることがある。
(苦難を期待することではなく、苦難を元から遠ざけようとすることが正しい祈りの姿だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
こそを祈る。その福徳の内容は、天命の長寿であったり、武運の長久であったり、万民の福寿安寧であったりする。
他力本願の小人なら本当に神仏ばかりに依り縋り、それによって現実上の君子階級への貞順さをも養う。
神仏への祈りの内容も、家内安全だったり無病息災だったり商売繁盛だったりと、個人的な願望の側面が強くなる。
君子の祈りと小人の祈り、いずれも上記のようであるのなら何も問題はないが、世界の破滅を強弁する邪神に
対して、破滅後の自分たちだけの救済だけを祈ったりするのは、元はといえば世界の破滅をも祈っているわけで、
それは天下安泰などの健全な君子の祈りとも、無病息災などの健全な小人の祈りとも相容れることがない。
そもそも世界が破滅に陥るようなことからないように祈るのが健全な祈りであり、まず世界の破滅を祈って
おいてから、自分たちだけの救済を祈ったりすることが不健全な祈りだから、どちらかといえば、マッチポンプ
込みの不健全な祈りが劣後されて、マッチポンプ自体を未然に排する健全な祈りのほうが優先されねばならない。
全世界的にも、世界の一時的な破滅を必要もなく欲して、その実現を執拗に祈っているキリエホ信者などよりも、
そんな珍奇な祈りが叶うことを心の底から嫌がっている真っ当な人間のほうが遥かに多数派でもある。
世界の恒久な安寧を願う大多数の人々の健全な祈りが、世界の破滅を願う少数派の不健全で珍奇な祈りなどよりも
優先されて然るべきなのはもちろんのことで、その結果、破滅後の自分たちだけの救済などを祈っていたキリエホ
信者のほうが、禁治産や参政権剥奪などの処分を被ることになったとしても、それも当たり前のことだといえる。
「祭りは祈ること有り、報いること有り、由りて辟むること有り」
「祭りでは何かを祈ることがあり、それによる報いを期待することがあり、より縋って災厄を遠ざけることがある。
(苦難を期待することではなく、苦難を元から遠ざけようとすることが正しい祈りの姿だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
マッチポンプはそれ自体が一種の不義であり、プラスマイナスゼロ以下の悪影響のみをもたらすもの。
そのマッチポンプを講ずる神もまた、プラマイゼロの有害無益な悪影響をもたらす邪神でしかない。
プラマイゼロ以上の好影響をもたらすことと、プラマイゼロ以下の悪影響をもたらすこととは互いに
相容れることではなく、どちらかを司る以上はもう一方を破棄せざるを得ない。だからプラマイゼロ
以下の悪影響をもたらしていた邪神などが、プラマイゼロ以上の好影響に満ちた世界を司ることも
できなければ、そこに赴くための先導者になることすらできない。プラマイゼロ以下の
マッチポンプ災禍を完全に収拾するまでが、せいぜい邪神に課された使命であり、
その使命が果たされた時点で、邪神自身もまた完全な引退を余儀なく果たす。
悪影響が好影響に転じた、万物の位相が根本からひっくり返った世の中は、
それをこそ司るのに相応しいものが、根本から司っていくこととなる。
「君子理無ければ動かず、節無ければ作さず」
「君子は道理が無ければ動かず、節操が無ければ何もしない。
(マッチポンプのような無理無節と共に、君子が何を動作することがあろうか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
そのマッチポンプを講ずる神もまた、プラマイゼロの有害無益な悪影響をもたらす邪神でしかない。
プラマイゼロ以上の好影響をもたらすことと、プラマイゼロ以下の悪影響をもたらすこととは互いに
相容れることではなく、どちらかを司る以上はもう一方を破棄せざるを得ない。だからプラマイゼロ
以下の悪影響をもたらしていた邪神などが、プラマイゼロ以上の好影響に満ちた世界を司ることも
できなければ、そこに赴くための先導者になることすらできない。プラマイゼロ以下の
マッチポンプ災禍を完全に収拾するまでが、せいぜい邪神に課された使命であり、
その使命が果たされた時点で、邪神自身もまた完全な引退を余儀なく果たす。
悪影響が好影響に転じた、万物の位相が根本からひっくり返った世の中は、
それをこそ司るのに相応しいものが、根本から司っていくこととなる。
「君子理無ければ動かず、節無ければ作さず」
「君子は道理が無ければ動かず、節操が無ければ何もしない。
(マッチポンプのような無理無節と共に、君子が何を動作することがあろうか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
天地万物の真理からも、俗世の道理からもかけ離れた所で、
がん細胞増殖の原理にも似た邪義邪説ばかりを触れ回ってきた犯罪聖書信仰、
それしか知らないところで、仕方なくそれを選択した人々が、
あたかも屠殺場に連れて行かれているのを知りもしないでいる家畜のように、
青天の霹靂ともいうべき未曾有の不遇にこれから遭わされる心外さは、察するに余りある。
しかし、邪義邪説に付き従ってきたことが、優先的な昇天に好転するなんてことが
あったとしても、それはおかしな話で、無痛症患者が痛みを感じないからといって、
致命傷を好んで受け続けることが、決して健康の増進などにはならないのと同じように、
邪義邪説への耽溺がプラマイゼロ以下の悪影響を及ぼすことはあっても、
プラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことなどは決してありはしない。
真に天地の真理を悟り、俗世の道理をも察せたならば、それはその人間が
結構な福徳の増進に与ったりの、プラマイゼロ以上の好影響をもたらす機縁ともなる。
しかし、犯罪聖書信仰は決してその機縁のうちに入ってはおらず、むしろ真理の悟りや
道理のわきまえから遠ざかっての、無知蒙昧な放辟邪侈をけしかけるものでしかなかった。
全てが全て、そこまでもの邪教邪信だったわけではなく、世界的に見ても、
真理や道理からの遠ざかりを極大級に増進するほどもの邪教なんて、ごく一部の珍種に限る。
日本の仏教でも、創価あたりが半ばその気を帯びているが、あれもあくまで新興宗教であり、
何百年、何千年という伝統を持ち合わせているわけではない。人々にプラマイゼロ以下の
有害無益な悪影響のみをもたらす邪教でいて、約二千年もの間その存在が容認されてきた
信教などは、世界広しといえども、ユダヤ=キリスト両聖書信仰だけでしかない。
がん細胞増殖の原理にも似た邪義邪説ばかりを触れ回ってきた犯罪聖書信仰、
それしか知らないところで、仕方なくそれを選択した人々が、
あたかも屠殺場に連れて行かれているのを知りもしないでいる家畜のように、
青天の霹靂ともいうべき未曾有の不遇にこれから遭わされる心外さは、察するに余りある。
しかし、邪義邪説に付き従ってきたことが、優先的な昇天に好転するなんてことが
あったとしても、それはおかしな話で、無痛症患者が痛みを感じないからといって、
致命傷を好んで受け続けることが、決して健康の増進などにはならないのと同じように、
邪義邪説への耽溺がプラマイゼロ以下の悪影響を及ぼすことはあっても、
プラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことなどは決してありはしない。
真に天地の真理を悟り、俗世の道理をも察せたならば、それはその人間が
結構な福徳の増進に与ったりの、プラマイゼロ以上の好影響をもたらす機縁ともなる。
しかし、犯罪聖書信仰は決してその機縁のうちに入ってはおらず、むしろ真理の悟りや
道理のわきまえから遠ざかっての、無知蒙昧な放辟邪侈をけしかけるものでしかなかった。
全てが全て、そこまでもの邪教邪信だったわけではなく、世界的に見ても、
真理や道理からの遠ざかりを極大級に増進するほどもの邪教なんて、ごく一部の珍種に限る。
日本の仏教でも、創価あたりが半ばその気を帯びているが、あれもあくまで新興宗教であり、
何百年、何千年という伝統を持ち合わせているわけではない。人々にプラマイゼロ以下の
有害無益な悪影響のみをもたらす邪教でいて、約二千年もの間その存在が容認されてきた
信教などは、世界広しといえども、ユダヤ=キリスト両聖書信仰だけでしかない。
イスラムも一応、ユダキリ信仰と同じアブラハム系の信教ではあるが、その本義である
コーランの内容が、ユダキリの原典である新旧約の毒性を中和することに特化したものと
なっていたため、ユダキリほどにも猛烈な災禍をこの世界におよぼすことはなかった。
「ユダキリほどにはひどくなかった」という消去法的な判断により、最後の審判後に
イスラムは方面の対象となる一方で、ユダキリは色々な制限を課される対象となる。
同じアブラハム教という土俵においてですら、ユダキリこそはイスラム以下ですらある。
「子曰く、賜や、女じは予れを以て多くを学びて之れを識る者と為すか。
對えて曰く、然り非なるか。曰く、非なり。予れは一を以て之れを貫けり」
「先生は言われた。『子貢よ、おまえはわしを多くを学んでそれを認識しているものと見なすか』
子貢は答えた。『はい、違うのですか』 孔子。『違うよ。ただ私は首尾一貫を心がけているだけのものだ』
(犯罪聖書信仰の根本原理の一つともなっている、認識主義グノーシズムの価値の否定や劣後)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三)
ログが若返りして近ごろのレスがとんでしまっているが、とりあえず書いておく。
コーランの内容が、ユダキリの原典である新旧約の毒性を中和することに特化したものと
なっていたため、ユダキリほどにも猛烈な災禍をこの世界におよぼすことはなかった。
「ユダキリほどにはひどくなかった」という消去法的な判断により、最後の審判後に
イスラムは方面の対象となる一方で、ユダキリは色々な制限を課される対象となる。
同じアブラハム教という土俵においてですら、ユダキリこそはイスラム以下ですらある。
「子曰く、賜や、女じは予れを以て多くを学びて之れを識る者と為すか。
對えて曰く、然り非なるか。曰く、非なり。予れは一を以て之れを貫けり」
「先生は言われた。『子貢よ、おまえはわしを多くを学んでそれを認識しているものと見なすか』
子貢は答えた。『はい、違うのですか』 孔子。『違うよ。ただ私は首尾一貫を心がけているだけのものだ』
(犯罪聖書信仰の根本原理の一つともなっている、認識主義グノーシズムの価値の否定や劣後)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三)
ログが若返りして近ごろのレスがとんでしまっているが、とりあえず書いておく。

罪を犯さないでいられるわけがない。それは、罪を犯しまくるための心がけでしかない。
ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たるが、その砲撃のほとんどは大ハズレともなる。
善行ってのはこの内のアタリのようなもので、悪行はこの内のハズレのようなもの。
なんでもやりまくった挙句に多少は善行ともなったところで、それを遥かに上回る規模の
甚大な悪行が必ず付随する。だからこそ「ヘタな鉄砲〜」は総合的には悪行であり、
百発百中の名射撃ばりの純善行であってこそ、総合的にも善行となる。
ヘタな鉄砲〜は誰にでもできるが、百発百中は誰にでもできはしない。だからこそ、
人が何かをすることが善行と呼ぶに値するものとなるのは困難である一方で、
悪行となるのは容易いだけでなく、純善行の自助努力に努めない以上は、
行為能力を帯びた人の行いは、イヤでも悪行としての性格を持つ。
だから「罪を犯さない」「もし犯しても許される」なんていう中途半端な心がけで
人の行いが犯罪行為にならないで済むわけがなく、何かをする以上は必ず犯罪になる。
「断固として罪は犯さない」「もし犯したなら相応の罰に甘んじる」というほどもの覚悟が
あって初めて、人は総合的にも善行を為すことができる。人が善行を為すことが不可能
なのではなく、善行など行えず、悪行しか行えなくなるような、しごく特殊な行動規範を
犯罪聖書信仰こそのみが特定して個別的に信者へとけしかけているのであり、それが
不変的な法則であるなどと思い込むのもまた、全くの思い違いであるに他ならない。
「弁舌は其の当を失う(中略)とき、凡そ衆の動くも其の宜しきを失う」
「諸方に流布された諸々の弁じたてが真っ当さを失ったときに、大衆もまた自分たちの正しい有り方を見失うこととなる。
(罪を無制限に許そうなどとするイエスの蒙昧な弁護や、それを流布する
犯罪聖書自体の弁じたてが、大衆の妄動をけしかける元凶となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
人の欲望こそは、世の中を形作ってもいる。
一人一人に限っての欲望は、老齢などによって衰退していくことがあっても、
欲望にまみれた人間が入れ代わり立ち代わりすることでこそ世の中が形成されている。
世の中すなわち欲望の塊であり、世の中が存在する以上はそこに欲望が遍在している。
だから、欲望から離れるためには世の中そのものを厭い離れる必要があり、
世の中から距離を置いてこそ初めて、欲望以外の何物かを知ることができる。
だから儒家も世俗志向である一方で、濁世からは身を引くことの意義を
伯夷・叔斉の実例なども挙げつつ謳っている。
これを許さない諸子百家も古代の中国にはいて、始皇帝がその思想を厚遇した
韓非の法家思想などがそれに当たる。その主著「韓非子」においては、首陽山
に引きこもることで餓死した伯夷・叔斉両兄弟を、勤労の義務を怠ったとして
罪人も同然の扱いとしている。実際には殷を滅ぼして周朝を打ち立てた武王も、
伯夷・叔斉の偉業を称えて、首陽山一帯を両兄弟の領地扱いともしているわけだが、
隠遁の価値を認めない法家の場合は、このような事実関係もあるまじきこととする。
一人一人に限っての欲望は、老齢などによって衰退していくことがあっても、
欲望にまみれた人間が入れ代わり立ち代わりすることでこそ世の中が形成されている。
世の中すなわち欲望の塊であり、世の中が存在する以上はそこに欲望が遍在している。
だから、欲望から離れるためには世の中そのものを厭い離れる必要があり、
世の中から距離を置いてこそ初めて、欲望以外の何物かを知ることができる。
だから儒家も世俗志向である一方で、濁世からは身を引くことの意義を
伯夷・叔斉の実例なども挙げつつ謳っている。
これを許さない諸子百家も古代の中国にはいて、始皇帝がその思想を厚遇した
韓非の法家思想などがそれに当たる。その主著「韓非子」においては、首陽山
に引きこもることで餓死した伯夷・叔斉両兄弟を、勤労の義務を怠ったとして
罪人も同然の扱いとしている。実際には殷を滅ぼして周朝を打ち立てた武王も、
伯夷・叔斉の偉業を称えて、首陽山一帯を両兄弟の領地扱いともしているわけだが、
隠遁の価値を認めない法家の場合は、このような事実関係もあるまじきこととする。
旧約冒頭の損世記ですでに神による労働の義務化が強弁され、
キリ教徒であれユダ教徒であれ労働を寸分でも怠ることが、いかなる場合であれ
罪と見なされている点に変わりはない。もちろん労働が善行になることもあるが、
公益を損なう我田引水活動が労働と見なされる場合もあり、そのような仕事を
するぐらいなら何もしないでいたほうが事実マシである。そのような事実関係も
全く無視して、とにかく働いとけとする犯罪聖書信仰や法家思想は、世の中と
不可分な欲望を客観的に捉えることもあたわず、常に何もかもが欲望まみれで
あることをも大前提とする。その欲望を脳内超越神に洗脳支配させるか、実定法
に支配させるかだけが、キリエホ信仰と法家思想の異なる点であり、世の中を
隠遁級の実践を伴いつつ客観する視点が全く欠けている点や、だからこそ人間の
欲望を全く客観的に捉えることができないという点までもが共通している。
「子、善を欲すれば、民善ならん」
「(魯の家老の季康子に)あなたのような政治に携わっている人間が善を欲すれば、
それだけでも、人民がそれに倣って善良になりますでしょうに。(欲望を善用する実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)
キリ教徒であれユダ教徒であれ労働を寸分でも怠ることが、いかなる場合であれ
罪と見なされている点に変わりはない。もちろん労働が善行になることもあるが、
公益を損なう我田引水活動が労働と見なされる場合もあり、そのような仕事を
するぐらいなら何もしないでいたほうが事実マシである。そのような事実関係も
全く無視して、とにかく働いとけとする犯罪聖書信仰や法家思想は、世の中と
不可分な欲望を客観的に捉えることもあたわず、常に何もかもが欲望まみれで
あることをも大前提とする。その欲望を脳内超越神に洗脳支配させるか、実定法
に支配させるかだけが、キリエホ信仰と法家思想の異なる点であり、世の中を
隠遁級の実践を伴いつつ客観する視点が全く欠けている点や、だからこそ人間の
欲望を全く客観的に捉えることができないという点までもが共通している。
「子、善を欲すれば、民善ならん」
「(魯の家老の季康子に)あなたのような政治に携わっている人間が善を欲すれば、
それだけでも、人民がそれに倣って善良になりますでしょうに。(欲望を善用する実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)
犯罪聖書の伝承上では、イエスは死刑囚であるバラバの代わりに刑場に引き出され、
他の二人の死刑囚と共に磔刑に処されて死んだという。全ての死刑囚を放免させたのではなく、
一人の死刑囚の刑死を免れさせて、二人の死刑囚を道連れに死なせている。
イエスは別に、当時のイスラエルやローマの法律に触れる罪などを犯したわけではなかった。
ただ、重度の精神障害によって邪義邪説を触れ回り、世界を破滅に陥れる決定的な温床を作った。
それは確かに善くない行いであり、儒学のような正しい学説に即して糾弾廃絶されるべきものだった。
しかし当時のイスラエルには儒学がなく、旧約犯罪聖書のような蒙昧な邪説の塊を自分たちでも
本是と見なしていたものだから、蒙昧な社会で蒙昧な邪説を垂れ流したイエスをどうやって処分すれば
いいのか見当も付かなかった。それで他の死刑囚の代わりに処刑してしまったが、イエスは別に
法律違反という意味での犯罪をやらかしたわけでもなし。本人自身もそれはそれでかわいそうな
精神障害者の一員であり、処分を課すというのなら禁治産や強制入院などの民事処分を課すべきだった。
にも関わらず処刑したのは不当処分であり、死刑囚の代わりに処刑したあたり、重大な冤罪でもある。
他の二人の死刑囚と共に磔刑に処されて死んだという。全ての死刑囚を放免させたのではなく、
一人の死刑囚の刑死を免れさせて、二人の死刑囚を道連れに死なせている。
イエスは別に、当時のイスラエルやローマの法律に触れる罪などを犯したわけではなかった。
ただ、重度の精神障害によって邪義邪説を触れ回り、世界を破滅に陥れる決定的な温床を作った。
それは確かに善くない行いであり、儒学のような正しい学説に即して糾弾廃絶されるべきものだった。
しかし当時のイスラエルには儒学がなく、旧約犯罪聖書のような蒙昧な邪説の塊を自分たちでも
本是と見なしていたものだから、蒙昧な社会で蒙昧な邪説を垂れ流したイエスをどうやって処分すれば
いいのか見当も付かなかった。それで他の死刑囚の代わりに処刑してしまったが、イエスは別に
法律違反という意味での犯罪をやらかしたわけでもなし。本人自身もそれはそれでかわいそうな
精神障害者の一員であり、処分を課すというのなら禁治産や強制入院などの民事処分を課すべきだった。
にも関わらず処刑したのは不当処分であり、死刑囚の代わりに処刑したあたり、重大な冤罪でもある。
犯罪者も精神障害者も、人として劣悪な存在であることには代わりはない。しかし、精神障害者だから
といってすなわち犯罪者であるとも限らず、何も社会的に悪いことをしていないのなら当然犯罪者ではない。
犯罪者なら相応の刑事処分を科すべきである一方で、精神障害者なら相応の民事処理を適用する必要があり、
その方法は具体的には、禁治産だったり強制入院だったり参政権の剥奪だったりする。確かにそれらも
「不遇」に相当するものだが、懲役や処刑などの刑罰行為とは断じて異なるものだといえる。世の中に
多大なる迷惑を加えたから犯罪者、迷惑は加えてないが蒙昧の程度がひどすぎるので精神障害者。
本人たち自身に大した違いが見いだせなくても、世の中の側から見れば決定的な相違を帯びている。
「下殤は土周して園に葬る。遂に機を輿きて往く、途邇きが故なり」
「(昔の礼法では)八歳から十一歳程度の未熟な年頃で亡くなったものは、果樹園(パラダイス)に土葬した。
そんなに遠い場所でもないので、担架のような簡易な道具で遺体を運んで、パラダイスに埋葬した」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曾子問第七より)
といってすなわち犯罪者であるとも限らず、何も社会的に悪いことをしていないのなら当然犯罪者ではない。
犯罪者なら相応の刑事処分を科すべきである一方で、精神障害者なら相応の民事処理を適用する必要があり、
その方法は具体的には、禁治産だったり強制入院だったり参政権の剥奪だったりする。確かにそれらも
「不遇」に相当するものだが、懲役や処刑などの刑罰行為とは断じて異なるものだといえる。世の中に
多大なる迷惑を加えたから犯罪者、迷惑は加えてないが蒙昧の程度がひどすぎるので精神障害者。
本人たち自身に大した違いが見いだせなくても、世の中の側から見れば決定的な相違を帯びている。
「下殤は土周して園に葬る。遂に機を輿きて往く、途邇きが故なり」
「(昔の礼法では)八歳から十一歳程度の未熟な年頃で亡くなったものは、果樹園(パラダイス)に土葬した。
そんなに遠い場所でもないので、担架のような簡易な道具で遺体を運んで、パラダイスに埋葬した」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曾子問第七より)

7月10日に太平洋南部で皆既日食が、1月15日に南極付近で金環日食、12月4日に南極付近で
部分日食が発生しているが、いずれもイスラエルから遠く離れたところでの日食。
西暦29年の11月24日、9時31分〜14時15分までの間にイスラエル付近でも皆既日食が
発生していて、おそらく禍音書もこの日食を記録しているのだと思われる。犯罪聖書も
全くのでたらめばかりを羅列しているのではなく、それなりの事実関係を踏まえつつ、
致命的な虚偽を方々に織り交ぜていることが分かる。
西暦29年11月24日は、ユリウス暦29年11月26日であり、陰暦の11月3日に当たる。
これは、ユリウス暦か陰暦の14日か15日にイエスが刑死したとされる、禍音書の記述と
明らかに食い違っている。イエスが西暦28年ごろに刑死したのが事実だったとしても、
ちょうど刑死した日に日食が起こったのではなく、後付けで刑死した日に
日食が起こったのだと虚飾したのだろうことがうかがえる。
かっこわるっ
全くの夢物語ならまだよさそうなものを、日食とかの事実関係を
無理に引き合いに出したもんだから、事実関係と折り合わせつつの、
みみっちい小細工込みな虚偽虚構であることが、かえって明らかになっちまった。

実際にはこの、西暦前775年9月6日=幽王六年十月朔日辛卯に発生した金環食のほうが有力なようで、
西周の首都である鎬京ではこの日食が観測されないことから、この説を退ける学者も近年いるようだが、
未だ周の配下にあった斉の北部や燕では辛うじてこの日食の観測が可能だったため、周朝を中原一帯を
平定する帝国と見なした場合には、この前775年9月6日説を推すことも未だ可能であることが分かる。
西周の末王である幽王の政治が乱れに乱れ、王自身、愛妾におぼれるなどの蒙昧にかまけて自業自得の
亡国を招きつつあったことが「史記」などにも書かれているが、十月之交の内容も、まさにその濁世を
嘆く姿として見れば筋の通る内容になっている。乱世に生まれて嘆かわしいという、その内容は暗いもの
であっても、そうであることを真摯に書きとめているぶん、実際には同日ではなかったイエスの刑死と
日食とを無理やり掛け合わせたりするような、禍音書の著者の不誠実さと比べての誠実さが際立っている。
「十月の交、朔の辛卯の日。日に之れ食有り、亦た孔とも之れ醜くきなる。
彼の月の微るる、此れ日の微るる。今此の下民の、亦た孔とも之れ哀れなる。
日月凶を告げ、其の行いを用いず。四國に政無く、其の良を用いず。
彼の月の食あるは、則ち維これ其の常なるも、此の日の食あるは、于何ぞ不臧なる」
「十月に月が代わった、朔の辛卯の日、日食が起こった。なんと縁起の悪いことか。
月が隠れて、日まで隠れるとは、今の民たちの、なんと哀れな境遇に置かれたことか。
日月が共に不吉を告げるのも、四方の国にまともな政治が無いのも、善人や善行が用いられないから。
月の満ち欠けはいつものことであるにしても、日が欠けるなどとは、なんと不吉なことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・十月之交より)
西暦29年11月24日は、「土曜日」だ。
仮にこの日にイエスが刑死したとして、「三日後に復活する」というイエスの予言に
即するなら、イエスは土曜日の明々後日である「火曜日」に復活したことになる。
しかし、日食の日に刑死したイエスが、週明けの初めの日、日曜日に復活したと
共観禍音書には明記されている。ここからイエスが刑死した曜日を、三日遡って
「木曜日」とする説と、数え年形式で二日遡って「金曜日」とする説がある。
しかし、いずれの数え方に即しても、土曜日に刑死したイエスが三日後に復活
するとして、土曜日の翌日である日曜日に復活したと見なすことはできない。
そもそも土曜日はユダヤ教の安息日であり、ユダヤ教の慣例に即してこの日に
罪人を処刑するとも考えにくい。禍音書にほぼ書かれているとおりの日食が、
イエスが刑死したとされる時期に起こっていたのも事実だが、その日食が、
ちょうどイエスが刑死した当日に起こったということは、禍音書の記述上の矛盾
からも完全否定される。このように、犯罪聖書は虚偽虚言の塊となっているのだ、
仮にこの日にイエスが刑死したとして、「三日後に復活する」というイエスの予言に
即するなら、イエスは土曜日の明々後日である「火曜日」に復活したことになる。
しかし、日食の日に刑死したイエスが、週明けの初めの日、日曜日に復活したと
共観禍音書には明記されている。ここからイエスが刑死した曜日を、三日遡って
「木曜日」とする説と、数え年形式で二日遡って「金曜日」とする説がある。
しかし、いずれの数え方に即しても、土曜日に刑死したイエスが三日後に復活
するとして、土曜日の翌日である日曜日に復活したと見なすことはできない。
そもそも土曜日はユダヤ教の安息日であり、ユダヤ教の慣例に即してこの日に
罪人を処刑するとも考えにくい。禍音書にほぼ書かれているとおりの日食が、
イエスが刑死したとされる時期に起こっていたのも事実だが、その日食が、
ちょうどイエスが刑死した当日に起こったということは、禍音書の記述上の矛盾
からも完全否定される。このように、犯罪聖書は虚偽虚言の塊となっているのだ、
「共観福音書」を始めとする犯罪聖書の記録姿勢からして、決して信用の置けるものではない。
事実関係を巧妙に捻じ曲げて、絶対にあり得ないことをさもありげに書き記したりする、
その姑息な記録態度からしてサイコパス系の精神障害者のそれであり、登場人物が
精神障害だとかいう以前に、まず著者自身からして重度の精神障害だったことが明らか。
マタイ禍音書27:25などには、「イエスを十字架につける責任は我々とその子孫が負う」と群集が
述べているが、偽証まみれの故に、全く信用のならない禍音書の記録者ども自身にこそ最大の罪責
があるのであり、本当にいたかどうかも知れない群集やその子孫の罪責などは、それに次ぐもの。
共観禍音書の著者は三人いることになっているが、責任が一ところに集約されるのを避けるために、
一人のサイコパス患者があえて三人分の名義で、ほぼ同内容の記録を残した可能性も高い。
それこそ禍音書の記録者が真性の分裂病患者だった根拠であり、それでいて三度もほぼ同じ
妄想を確言したことが、世界を破滅に陥れる上での確信犯だったことの根拠とすらなっている。
虚言癖の持ち主が健忘症を併発しているとも限らず、むしろ自らの発言が虚言だったことを忘れて、
虚言を真実と見なしてかたく記憶しておくなどということもあり得る。虚言癖の持ち主こそは、
自らの蒙昧さからなる危うさを埋め合わせる目的で、一部の記憶を徹底して忘れずにおく脳機能などが
発達することも、今の精神障害者の症例などからも確認されていることであり、重度の精神障害者
だからといって、犯罪行為に及ぶ上での確信犯になることがないなどとは決して断ずることができない。
累犯障害者、確信犯の精神障害者などに、健常者に対するような刑事処分を適用することは確かに
不当処分となる可能性がある。しかし、人さまに危害を加えることにかけての悪性の性向を宿している
サイコパス患者に対しては、精神障害者なりの厳重な処分を科す必要がある。すなわち、行為能力制限や
参政権剥奪や強制入院。サイコパス即殺処分とまではいかずとも、人並みに値しない扱いはやはり必要だ。
事実関係を巧妙に捻じ曲げて、絶対にあり得ないことをさもありげに書き記したりする、
その姑息な記録態度からしてサイコパス系の精神障害者のそれであり、登場人物が
精神障害だとかいう以前に、まず著者自身からして重度の精神障害だったことが明らか。
マタイ禍音書27:25などには、「イエスを十字架につける責任は我々とその子孫が負う」と群集が
述べているが、偽証まみれの故に、全く信用のならない禍音書の記録者ども自身にこそ最大の罪責
があるのであり、本当にいたかどうかも知れない群集やその子孫の罪責などは、それに次ぐもの。
共観禍音書の著者は三人いることになっているが、責任が一ところに集約されるのを避けるために、
一人のサイコパス患者があえて三人分の名義で、ほぼ同内容の記録を残した可能性も高い。
それこそ禍音書の記録者が真性の分裂病患者だった根拠であり、それでいて三度もほぼ同じ
妄想を確言したことが、世界を破滅に陥れる上での確信犯だったことの根拠とすらなっている。
虚言癖の持ち主が健忘症を併発しているとも限らず、むしろ自らの発言が虚言だったことを忘れて、
虚言を真実と見なしてかたく記憶しておくなどということもあり得る。虚言癖の持ち主こそは、
自らの蒙昧さからなる危うさを埋め合わせる目的で、一部の記憶を徹底して忘れずにおく脳機能などが
発達することも、今の精神障害者の症例などからも確認されていることであり、重度の精神障害者
だからといって、犯罪行為に及ぶ上での確信犯になることがないなどとは決して断ずることができない。
累犯障害者、確信犯の精神障害者などに、健常者に対するような刑事処分を適用することは確かに
不当処分となる可能性がある。しかし、人さまに危害を加えることにかけての悪性の性向を宿している
サイコパス患者に対しては、精神障害者なりの厳重な処分を科す必要がある。すなわち、行為能力制限や
参政権剥奪や強制入院。サイコパス即殺処分とまではいかずとも、人並みに値しない扱いはやはり必要だ。
玉鋼が、幾重にも打ち据えられて日本刀となるのは、それでこそ名刀になるためだ。
別に玉鋼が幸せになるためではなく、むしろ絶妙な硬度と強靭さを兼ね備えた名刀となるため。
幸せになることが目的であるのなら、始めからおかしな難儀などを引っかぶる必要もない。
ただひたすら一貫して事なかれ主義であること、それが良くも悪しくも本人が幸せでいる秘訣であり、
試練とか難儀とかいったものが本人の錬度の向上に寄与することはあっても、別に福徳に寄与することはない。
本人の錬度が向上することによって、他者を福徳へと導く聖賢となれる場合もあるが、
それにしたって、自分自身の福徳を増進する目的で試練に臨んだりするもんではない。
安楽無上な極楽浄土への往生を本願とする浄土信仰こそは他力本願、自分では何も苦労を心がけたり
しないでいて、浄土門の坊主なども100歳ぐらいまで長生きしたりする。一方で、自力での厳しい仏道修行に
励む聖道門の仏者の中には、無理がたたって早死にするものも多く、弘法大師なども、ほとんど自殺に等しい
ような穴篭りによって入定してもいる。(ただし、密教的な解釈に即して「今でも生きている」ともされる)
別に玉鋼が幸せになるためではなく、むしろ絶妙な硬度と強靭さを兼ね備えた名刀となるため。
幸せになることが目的であるのなら、始めからおかしな難儀などを引っかぶる必要もない。
ただひたすら一貫して事なかれ主義であること、それが良くも悪しくも本人が幸せでいる秘訣であり、
試練とか難儀とかいったものが本人の錬度の向上に寄与することはあっても、別に福徳に寄与することはない。
本人の錬度が向上することによって、他者を福徳へと導く聖賢となれる場合もあるが、
それにしたって、自分自身の福徳を増進する目的で試練に臨んだりするもんではない。
安楽無上な極楽浄土への往生を本願とする浄土信仰こそは他力本願、自分では何も苦労を心がけたり
しないでいて、浄土門の坊主なども100歳ぐらいまで長生きしたりする。一方で、自力での厳しい仏道修行に
励む聖道門の仏者の中には、無理がたたって早死にするものも多く、弘法大師なども、ほとんど自殺に等しい
ような穴篭りによって入定してもいる。(ただし、密教的な解釈に即して「今でも生きている」ともされる)
善行はどこまでも善行であって、その心は自利ではなく利他にある一方、悪行もどこまでも悪行であって、
その心は利他ではなく自利にある。己れを立たせんと欲して人を立たせたところで、それは利他が結果的に
自利にもつながる因果法則を順当にわきまえているからで、少しでも姑息な見返りを欲したりしたなら、
エセと化した利他が自利にまで結びつくことも、現実問題として期待できるもんじゃない。
それによって自分が幸せになれなくてもいい、不幸や早死にしたってかまわないぐらいの心持ちでの、
全身全霊を投げ打っての、進んで難儀をも引っかぶる本物の利他であってこそ、その利他による結果的な
自利までもが見込める。そうもいかない場合もあるにしろ、少なくとも利他による自利が期待できるようになる。
「(世子曰く)吾れ他日未だ嘗て学問せず、馬を馳せて剣を試みることを好めり。今、父兄百官我れを足るとせず」
「滕の定公の世継ぎが言った。『私は未だかつてまともに勉学をこころがけたことがなく、馬で荒野を駆け巡って
危険を試みるようなことばかりを好んできた。そのせいで、今でも親族や役人たちは私を未熟者扱いしている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・二より)
その心は利他ではなく自利にある。己れを立たせんと欲して人を立たせたところで、それは利他が結果的に
自利にもつながる因果法則を順当にわきまえているからで、少しでも姑息な見返りを欲したりしたなら、
エセと化した利他が自利にまで結びつくことも、現実問題として期待できるもんじゃない。
それによって自分が幸せになれなくてもいい、不幸や早死にしたってかまわないぐらいの心持ちでの、
全身全霊を投げ打っての、進んで難儀をも引っかぶる本物の利他であってこそ、その利他による結果的な
自利までもが見込める。そうもいかない場合もあるにしろ、少なくとも利他による自利が期待できるようになる。
「(世子曰く)吾れ他日未だ嘗て学問せず、馬を馳せて剣を試みることを好めり。今、父兄百官我れを足るとせず」
「滕の定公の世継ぎが言った。『私は未だかつてまともに勉学をこころがけたことがなく、馬で荒野を駆け巡って
危険を試みるようなことばかりを好んできた。そのせいで、今でも親族や役人たちは私を未熟者扱いしている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・二より)
愛と勇気と信念あたりが、人間にとっての最も原始的な感情であると共に、
善用も悪用も自在な諸刃の剣に当たる。愛は偏愛に、勇気は蛮勇に、信念は狂信に
限定されることなどで悪用され、仁愛や大勇や正信などに限定されることで善用される。
偏愛や蛮勇や狂信を排して、仁愛や大勇や正信などを選取することは、愛や勇気や信念よりは
むしろ後天的な智識や礼節などによって可能となることであり、愛や勇気自体を専らに
偏重したなら、その蒙昧な偏重がむしろ、偏愛や蛮勇や狂信をけしかける元凶となる。
だから、人が仁愛や大勇や正信を選取するためには、むしろ一旦だけでも愛や勇気や信念から
遠ざかって、それらを十分に俯瞰する客観性が必要なのであり、始めから終わりまで一貫して
愛や勇気や信念と共にしかいられないなどというのでは、かえって偏愛や蛮勇や狂信の病因となる。
愛も勇気も信念も完全に捨て去って、一生を涅槃静寂のうちに終えるのも、常人からすれば味気ない。
だから、そのような濁念を排し去った領域の求道は専門の仏者に任せきって、常人はその仏者を
遠ざけながらも畏敬することで、ほんの少しでも愛や勇気を客観できる余地を持たせておけばそれでよし。
誰も彼もが坊主に袈裟と化して気味悪がられていた、鎌倉時代後期のようになるのもどうかと思う。
「若し傷を重ねるを愛しまば、則ち傷つけること勿きに如かず。其の二毛を愛しまば、則ち服するに如かず」
「わざわざ相手を傷つけてからその負傷者を哀れみ愛しむぐらいなら、初めから傷つけないで
いるに越したことは無い。白髪交じりの老人にまで我が子に対するような愛を振り向けるぐらいなら、
むしろその年功に敬服したほうがよい。(愛よりも優先すべきことは現実上にいくらでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十二年より)
善用も悪用も自在な諸刃の剣に当たる。愛は偏愛に、勇気は蛮勇に、信念は狂信に
限定されることなどで悪用され、仁愛や大勇や正信などに限定されることで善用される。
偏愛や蛮勇や狂信を排して、仁愛や大勇や正信などを選取することは、愛や勇気や信念よりは
むしろ後天的な智識や礼節などによって可能となることであり、愛や勇気自体を専らに
偏重したなら、その蒙昧な偏重がむしろ、偏愛や蛮勇や狂信をけしかける元凶となる。
だから、人が仁愛や大勇や正信を選取するためには、むしろ一旦だけでも愛や勇気や信念から
遠ざかって、それらを十分に俯瞰する客観性が必要なのであり、始めから終わりまで一貫して
愛や勇気や信念と共にしかいられないなどというのでは、かえって偏愛や蛮勇や狂信の病因となる。
愛も勇気も信念も完全に捨て去って、一生を涅槃静寂のうちに終えるのも、常人からすれば味気ない。
だから、そのような濁念を排し去った領域の求道は専門の仏者に任せきって、常人はその仏者を
遠ざけながらも畏敬することで、ほんの少しでも愛や勇気を客観できる余地を持たせておけばそれでよし。
誰も彼もが坊主に袈裟と化して気味悪がられていた、鎌倉時代後期のようになるのもどうかと思う。
「若し傷を重ねるを愛しまば、則ち傷つけること勿きに如かず。其の二毛を愛しまば、則ち服するに如かず」
「わざわざ相手を傷つけてからその負傷者を哀れみ愛しむぐらいなら、初めから傷つけないで
いるに越したことは無い。白髪交じりの老人にまで我が子に対するような愛を振り向けるぐらいなら、
むしろその年功に敬服したほうがよい。(愛よりも優先すべきことは現実上にいくらでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十二年より)

「魯の家老の季康子が孔子に薬を贈った。孔子はこれを拝礼して受け取った。
しかし、『私は薬のことはよく存じませんので、嘗めるのは避けさせて頂きます』
といって、目上の者から食品を頂いた場合の慣例である味見を行わなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一二)
一見何気ない贈与の記録。しかし、人の命や健康に関わることについては、
礼儀よりも安全のほうを優先させることがある実例になっている。
目上の者からの贈与に関してですら、上記のように礼儀よりも安全のほうを優先する場合があるのだから、
対等のものや格下のものからの贈与であれば、なおのこと。贈与する側のほうが、される側に何らかの
強要をするなんてのは、朝鮮人の民主党議員に対する献金もいいとこ。贈与である以上は最悪の場合、
贈り物を受け取ってもらえなかったり、贈ったからといって何の見返りもなかったりしても、決して
怒ったりしてはならない。それでも何らかの効果を期待して行うのが、贈与というものだから。
そもそも贈り物である以前に、借金のカタだったりもするのだし。
削除(by投稿者)
キリスト教とかユダヤ教とか言ったものは、
その素性を一言でいえば「累犯障害者同盟」だ。
「廃人同盟」ともいえなくもないが、他民族に寄生したり、 他民族を
迫害して暴利をふんだくったりしながらなら生き延びられなくもないから、
全く何らの生活力も持たない、完全な廃人の同盟であるとも言い難い。
それで、他民族に対する吸血が行き過ぎた結果、他民族の精神的物質的苦痛に対する拒絶反応としての
人口爆発をも招き、いい加減自分たちの思想信条である犯罪聖書への信仰を強制的に厳禁しなければ、
人類を確実に滅亡させてしまう事態をも招いた。しかし、累犯障害を邪義によって推し進めることでなんとか
生き延びてきた連中が、邪義の嗜みを剥奪されるとなれば、並みの廃人同然と化して、あっという間に
死に絶えてしまうに違いない。その恐れからなる暴動なども招きかねないから、麻薬が切れた麻薬中毒者
に対するような保護措置を他民族が執り行うことが急務となる。それはそれで、世の致命的な乱れを未然に
防ぐための義務であり、累犯障害の邪義による正当化を現キリスト教徒やユダヤ教徒が完全に禁止される
ことと、禁止された後の完全廃人と化した元聖書信者に対する手厚い保護とが、共に義務的な措置となる。
「孔子曰く、我が門を過ぎ、我が室に入らざるも、我れ憾まざるは、其れ惟だ卿原か。郷原は徳の賊なりと」
「孔子はこう言ったという。『たとえうちの門を通り過ぎ、家に寄ってくれなくても少しも残念に思わないで済むのは、
(イスラエル人のような)田舎者の偽善者あたりかな。田舎の偽善者こそは、徳をそこなう最たるものだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三七より)
その素性を一言でいえば「累犯障害者同盟」だ。
「廃人同盟」ともいえなくもないが、他民族に寄生したり、 他民族を
迫害して暴利をふんだくったりしながらなら生き延びられなくもないから、
全く何らの生活力も持たない、完全な廃人の同盟であるとも言い難い。
それで、他民族に対する吸血が行き過ぎた結果、他民族の精神的物質的苦痛に対する拒絶反応としての
人口爆発をも招き、いい加減自分たちの思想信条である犯罪聖書への信仰を強制的に厳禁しなければ、
人類を確実に滅亡させてしまう事態をも招いた。しかし、累犯障害を邪義によって推し進めることでなんとか
生き延びてきた連中が、邪義の嗜みを剥奪されるとなれば、並みの廃人同然と化して、あっという間に
死に絶えてしまうに違いない。その恐れからなる暴動なども招きかねないから、麻薬が切れた麻薬中毒者
に対するような保護措置を他民族が執り行うことが急務となる。それはそれで、世の致命的な乱れを未然に
防ぐための義務であり、累犯障害の邪義による正当化を現キリスト教徒やユダヤ教徒が完全に禁止される
ことと、禁止された後の完全廃人と化した元聖書信者に対する手厚い保護とが、共に義務的な措置となる。
「孔子曰く、我が門を過ぎ、我が室に入らざるも、我れ憾まざるは、其れ惟だ卿原か。郷原は徳の賊なりと」
「孔子はこう言ったという。『たとえうちの門を通り過ぎ、家に寄ってくれなくても少しも残念に思わないで済むのは、
(イスラエル人のような)田舎者の偽善者あたりかな。田舎の偽善者こそは、徳をそこなう最たるものだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三七より)
西楚の覇王項羽も、中国の中心地の人間からすれば田舎者の偽善者(郷原)だった。
近隣の気に入った人間を手厚くもてなしたりする一方で、遠方の他人や敵兵なら平気で虐殺した。
そのせいで総体的な兵力や大衆からの支持を失い、兵力も支持も増大させた漢王の劉邦に敗れた。
その劉邦のほうはといえば、これまた項羽並みかそれ以上の田舎者だったが、ただ、偽善者ではなかった。
自らの卑しさなども公然とさらけ出し、近隣の親族や友人も、遠方の他人や敵兵もほぼ等しく扱った。
それでこそ兵力や支持をも養ったのだから、偽善者であるよりは卑しさをさらけ出すほうがまだマシなのだといえる。
漢の高祖劉邦も田舎者なら、殷の湯王や周の文王も田舎の中小国の君主。
夏の桀王や殷の紂王、秦の始皇帝や隋の煬帝などの、古くからの都会者や大国の君主のほうが
暴君と化した例は多いのだから、田舎者や中小国の君主であること自体を恥じる必要などはない。
近隣の気に入った人間を手厚くもてなしたりする一方で、遠方の他人や敵兵なら平気で虐殺した。
そのせいで総体的な兵力や大衆からの支持を失い、兵力も支持も増大させた漢王の劉邦に敗れた。
その劉邦のほうはといえば、これまた項羽並みかそれ以上の田舎者だったが、ただ、偽善者ではなかった。
自らの卑しさなども公然とさらけ出し、近隣の親族や友人も、遠方の他人や敵兵もほぼ等しく扱った。
それでこそ兵力や支持をも養ったのだから、偽善者であるよりは卑しさをさらけ出すほうがまだマシなのだといえる。
漢の高祖劉邦も田舎者なら、殷の湯王や周の文王も田舎の中小国の君主。
夏の桀王や殷の紂王、秦の始皇帝や隋の煬帝などの、古くからの都会者や大国の君主のほうが
暴君と化した例は多いのだから、田舎者や中小国の君主であること自体を恥じる必要などはない。
「君子は思うことその位を出でず(既出)」
「君子はその立場においてすべきこと以外は考えない」
(真正福音書・憲問第十四・二八)
国家権力や地方権力、公権力全般に携わる者は必ず、公益だけを目的とした事業のみに専念しなければ
ならない。国益などの公益を蔑ろにする、カルト教祖に付いていく徴税人などがいてもならないし、
王侯相将などが公益を蔑ろにするカルト宗教を、私的に崇拝することすら許されるものではない。
そのような人間は「公務不適合者」であり、あらゆる公共事業への参画を厳重に取り締まらねばならない。
では、ちゃんと自分たちが社会的な治産活動から身を引いた上で、超国家的な視野をも手に入れる
道家や仏門までもが許されないかといえば、決してそんなことはない。それどころか、自分たちが
公務や治産に携わるべきでないことをちゃんとわきまえた上での超国家的な探求に及ぶ道統については、
国家や社会の側からの手厚い扶助すらもが行われてもかまわない。隠遁や出家などの超俗の実践が十分で
あった上で超国家的でもあるものは、社会的利権に介入することで、国益を蔑ろにするような劣悪な邪教の
存在価値を、民衆のガス抜き目的の必要悪としてですら、皆無に帰する好影響すらをも及ぼすものだから、
むしろ上記のような良性の超国家志向の道統を、国家の側がすすんで一定の保護下に置くべきですらある。
もちろん、国家自体は国益を目的として存在し、自分たち自身の実践対象とするのも、儒学のような
完全な世俗志向の学統でなければならない。世俗の公益を守るために、自分たちは儒学のような正学を学び、
キリスト教やユダヤ教のような公益を害する反国家宗教を根絶の対象とし、公益を害さない限りでの
超国家思想を育む仏教や道家などの良性の教学を、他力本願の範囲での扶助の対象とする。
自分たちがすべきことと、自分たちがすべきではないが尊重すべきことと、
自他の誰しもが排除すべきことの三つが、これからの公人には課せられていく。
「君子はその立場においてすべきこと以外は考えない」
(真正福音書・憲問第十四・二八)
国家権力や地方権力、公権力全般に携わる者は必ず、公益だけを目的とした事業のみに専念しなければ
ならない。国益などの公益を蔑ろにする、カルト教祖に付いていく徴税人などがいてもならないし、
王侯相将などが公益を蔑ろにするカルト宗教を、私的に崇拝することすら許されるものではない。
そのような人間は「公務不適合者」であり、あらゆる公共事業への参画を厳重に取り締まらねばならない。
では、ちゃんと自分たちが社会的な治産活動から身を引いた上で、超国家的な視野をも手に入れる
道家や仏門までもが許されないかといえば、決してそんなことはない。それどころか、自分たちが
公務や治産に携わるべきでないことをちゃんとわきまえた上での超国家的な探求に及ぶ道統については、
国家や社会の側からの手厚い扶助すらもが行われてもかまわない。隠遁や出家などの超俗の実践が十分で
あった上で超国家的でもあるものは、社会的利権に介入することで、国益を蔑ろにするような劣悪な邪教の
存在価値を、民衆のガス抜き目的の必要悪としてですら、皆無に帰する好影響すらをも及ぼすものだから、
むしろ上記のような良性の超国家志向の道統を、国家の側がすすんで一定の保護下に置くべきですらある。
もちろん、国家自体は国益を目的として存在し、自分たち自身の実践対象とするのも、儒学のような
完全な世俗志向の学統でなければならない。世俗の公益を守るために、自分たちは儒学のような正学を学び、
キリスト教やユダヤ教のような公益を害する反国家宗教を根絶の対象とし、公益を害さない限りでの
超国家思想を育む仏教や道家などの良性の教学を、他力本願の範囲での扶助の対象とする。
自分たちがすべきことと、自分たちがすべきではないが尊重すべきことと、
自他の誰しもが排除すべきことの三つが、これからの公人には課せられていく。
「(詩に)云く、邦畿千里、惟れ民の止まる所と。(詩に)云く、緡蠻たる黄鳥、丘隅に止まると。
子曰く、止まるに於いて、其の止まる所を知る。人を以てして鳥に如かざる可けんやと。(詩に)云く、
穆穆たる文王、於あ緝熙にして敬いて止まると。人の君と為っては仁に止まり、人の臣と為っては敬に
止まり、人の子と為っては孝に止まり、人の父と為っては慈に止まり、国人と交われば信に止まる」
「詩経に『天子の治められる幾千里の邦家こそは、数多の民の止まるところ(商頌・玄鳥)』といい、
『美声のウグイスも樹木生い茂る丘の片隅に止まる(小雅・緡蠻)』とある。孔先生は言われた。
『鳥ですら自分の居場所に止まるというのに、人が鳥にすら及ばないなどということがあろうか』
また『偉大なる文王も、光明に覆われて敬いに止まる(大雅・文王)』ともある。人の君主となっては
仁徳に止まり、臣下となっては畏敬に止まり、人の子としては親への孝心に止まり、人の親としては
我が子への慈しみに止まり、国民と交わるに際しては信実に止まるようにする。(一国に住まう
人としての己れの立場をよくわきまえて、その国にいる以上は国人に対しても信実であろうとする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・三より)
子曰く、止まるに於いて、其の止まる所を知る。人を以てして鳥に如かざる可けんやと。(詩に)云く、
穆穆たる文王、於あ緝熙にして敬いて止まると。人の君と為っては仁に止まり、人の臣と為っては敬に
止まり、人の子と為っては孝に止まり、人の父と為っては慈に止まり、国人と交われば信に止まる」
「詩経に『天子の治められる幾千里の邦家こそは、数多の民の止まるところ(商頌・玄鳥)』といい、
『美声のウグイスも樹木生い茂る丘の片隅に止まる(小雅・緡蠻)』とある。孔先生は言われた。
『鳥ですら自分の居場所に止まるというのに、人が鳥にすら及ばないなどということがあろうか』
また『偉大なる文王も、光明に覆われて敬いに止まる(大雅・文王)』ともある。人の君主となっては
仁徳に止まり、臣下となっては畏敬に止まり、人の子としては親への孝心に止まり、人の親としては
我が子への慈しみに止まり、国民と交わるに際しては信実に止まるようにする。(一国に住まう
人としての己れの立場をよくわきまえて、その国にいる以上は国人に対しても信実であろうとする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・三より)
犯罪聖書の信者がこれから被る禁治産や参政権剥奪などの措置は、
言うなれば「差別」であり、しかも聖書信者が非聖書信者の格下として扱われる大差別だ。
社会不適合者や公務不適合者として、法経済活動を厳しく制限されるその姿は、明らかに不名誉なものであり、
そこに安住の場を見出すよりは、その不名誉を心から恥じ入って、真人間としての社会復帰や公務復帰をも志すべきだ。
そのためには、人でなし扱いによる禁治産処分なぞを「昇天」も同然のものと見なす犯罪聖書への
憧憬などは根本から捨て去った上で、真っ当な勤労を奨励する儒学などの正学の勉強すらをも心がけねばならない。
そしたら、邪信による累犯障害への罹患が軽度である人間は、存命中に社会復帰や公務復帰を果たせる可能性があるし、
障害が重度の人間も、本人自身の復帰は無理でも、子孫の復帰を促進する程度の貢献を果たすことはできる。
仏門や道家の人間のように、自主的に超俗志向を実践するのではなく、強制的に社会の
第一線からの退場を余儀なくされるのだから、当然僧侶や仙人のような崇敬の対象とされることもない。
犯罪聖書への信仰を捨て去った上で、社会復帰ではなく仏門や仙道を志すことも許されないわけではないが、
サイコパスとADHDを併発した累犯障害者が社会活動を禁止制限されたからといって、超俗での
涅槃静寂に到る近道が開けたわけでもなく、むしろ最大級の遠回りの折り返し地点に到ったのみ。
他の誰よりも涅槃から遠い所から、涅槃を強制されることも最大級の苦痛に違いなく、
どこまでも残酷無惨で、なくて済むならそのほうがマシな悲劇であることでは一貫している。
言うなれば「差別」であり、しかも聖書信者が非聖書信者の格下として扱われる大差別だ。
社会不適合者や公務不適合者として、法経済活動を厳しく制限されるその姿は、明らかに不名誉なものであり、
そこに安住の場を見出すよりは、その不名誉を心から恥じ入って、真人間としての社会復帰や公務復帰をも志すべきだ。
そのためには、人でなし扱いによる禁治産処分なぞを「昇天」も同然のものと見なす犯罪聖書への
憧憬などは根本から捨て去った上で、真っ当な勤労を奨励する儒学などの正学の勉強すらをも心がけねばならない。
そしたら、邪信による累犯障害への罹患が軽度である人間は、存命中に社会復帰や公務復帰を果たせる可能性があるし、
障害が重度の人間も、本人自身の復帰は無理でも、子孫の復帰を促進する程度の貢献を果たすことはできる。
仏門や道家の人間のように、自主的に超俗志向を実践するのではなく、強制的に社会の
第一線からの退場を余儀なくされるのだから、当然僧侶や仙人のような崇敬の対象とされることもない。
犯罪聖書への信仰を捨て去った上で、社会復帰ではなく仏門や仙道を志すことも許されないわけではないが、
サイコパスとADHDを併発した累犯障害者が社会活動を禁止制限されたからといって、超俗での
涅槃静寂に到る近道が開けたわけでもなく、むしろ最大級の遠回りの折り返し地点に到ったのみ。
他の誰よりも涅槃から遠い所から、涅槃を強制されることも最大級の苦痛に違いなく、
どこまでも残酷無惨で、なくて済むならそのほうがマシな悲劇であることでは一貫している。
しかもそれを、犯罪聖書の信者たちは自主的に選択した。
キリスト教徒もユダヤ教徒も、辞めようと思えばいつでも辞められたものを、
あえてそれを選択することでの悲劇的な末路を招いた。家族や友人がそうしていることの
しがらみなどもあっただろうにしろ、むしろ致命的な過ちを犯そうとする家族や友人をなだめ改めさせてこそ
孝行や友情ともなるのであり、あえてその家族や友人に同調したこともまた、不孝や薄情に過ぎなかった。
日陰る北方や、日没する西方への安住を志した欧米のキリスト教徒にとっては、
それが深く血筋に根差した必然的な選択でもあったのかもしれないが、その、
あまりにも見る影もない有り様を認めてやる余地が、この日出ずる極東への定住を志した日本人にこそ、
寸分たりとも持ち合わせられているものではない。寸分たりとも同情してやる余地もまたないが、ただ、
できる限りの最善の処理によって、その非業極まりない運命から、元聖書信者たちをも救い上げていく志しだけがある。
「父母に事うるには幾く諫め、志しの従わざるを見ては、又た敬して違わず、労して怨まず」
「父母に仕える場合には、過ちがあれば慎重に諌め、志しに従ってくれない
場合にもよく敬って逆らおうとせず、どんなに労苦しても怨んだりはしない。
(父母が聖書信者であることを諌めもせず、自分もそれに合わせて聖書信者に
なったような人間は、当然この正学の金言を実行しようとしたこともなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一八より)
キリスト教徒もユダヤ教徒も、辞めようと思えばいつでも辞められたものを、
あえてそれを選択することでの悲劇的な末路を招いた。家族や友人がそうしていることの
しがらみなどもあっただろうにしろ、むしろ致命的な過ちを犯そうとする家族や友人をなだめ改めさせてこそ
孝行や友情ともなるのであり、あえてその家族や友人に同調したこともまた、不孝や薄情に過ぎなかった。
日陰る北方や、日没する西方への安住を志した欧米のキリスト教徒にとっては、
それが深く血筋に根差した必然的な選択でもあったのかもしれないが、その、
あまりにも見る影もない有り様を認めてやる余地が、この日出ずる極東への定住を志した日本人にこそ、
寸分たりとも持ち合わせられているものではない。寸分たりとも同情してやる余地もまたないが、ただ、
できる限りの最善の処理によって、その非業極まりない運命から、元聖書信者たちをも救い上げていく志しだけがある。
「父母に事うるには幾く諫め、志しの従わざるを見ては、又た敬して違わず、労して怨まず」
「父母に仕える場合には、過ちがあれば慎重に諌め、志しに従ってくれない
場合にもよく敬って逆らおうとせず、どんなに労苦しても怨んだりはしない。
(父母が聖書信者であることを諌めもせず、自分もそれに合わせて聖書信者に
なったような人間は、当然この正学の金言を実行しようとしたこともなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一八より)
わざわいをもたらす邪神からの迫害を免れるために、自らまでもが邪神のグルと化すぐらいならば、
徹底して邪神とは無縁であったり、邪神の敵対者であったりすることで迫害を被るほうがまだマシだ。
それは別に、潔癖を守ることで不遇に置かれることが儚くも美しいなどというナルシシズムが満たされるからではなく、
邪神の介在や到来それ自体を有害無益な「ないほうがマシ」なものと見なし、それに与することで自分までもが
「ないほうがマシ」な存在と化してしまうことが危ういからであり、事実、新旧約の犯罪聖書に根ざした
累犯障害者同盟を形成している欧米社会がこれから一挙に摘発を受けるのに対し、半ば過激派の様相まで
呈しつつも、犯罪聖書に根ざした累犯障害に味方していないイスラム圏の人間などは、今回の摘発は免れる。
今までさんざん殺し合いを積み重ねてきた相手である欧米聖書圏が、人類の生存を目的に無能力のウサギの群れと
化してなお、イスラム圏が多くの過激派勢力を輩出したり、一部の石油富豪などを野放しにし続けたりするようならば、
今度はイスラムのほうが摘発対象となる可能性もある。しかし、イスラム過激派にしろ石油富豪にしろ、
欧米との対立や貿易によってこそ生じてしまったスケープゴートなので、欧米のほうすら大人しくなれば、
イスラムもそれに呼応して平静さを取り戻す可能性のほうが高い。イスラム圏における諸々の災禍も、
その元凶であるのは真性の累犯障害者同盟である欧米聖書圏でしかないからこそ、欧米聖書圏こそが
総体からの摘発を被る一方で、イスラム圏はそこまでものトガを背負わされはしないのでもある。
徹底して邪神とは無縁であったり、邪神の敵対者であったりすることで迫害を被るほうがまだマシだ。
それは別に、潔癖を守ることで不遇に置かれることが儚くも美しいなどというナルシシズムが満たされるからではなく、
邪神の介在や到来それ自体を有害無益な「ないほうがマシ」なものと見なし、それに与することで自分までもが
「ないほうがマシ」な存在と化してしまうことが危ういからであり、事実、新旧約の犯罪聖書に根ざした
累犯障害者同盟を形成している欧米社会がこれから一挙に摘発を受けるのに対し、半ば過激派の様相まで
呈しつつも、犯罪聖書に根ざした累犯障害に味方していないイスラム圏の人間などは、今回の摘発は免れる。
今までさんざん殺し合いを積み重ねてきた相手である欧米聖書圏が、人類の生存を目的に無能力のウサギの群れと
化してなお、イスラム圏が多くの過激派勢力を輩出したり、一部の石油富豪などを野放しにし続けたりするようならば、
今度はイスラムのほうが摘発対象となる可能性もある。しかし、イスラム過激派にしろ石油富豪にしろ、
欧米との対立や貿易によってこそ生じてしまったスケープゴートなので、欧米のほうすら大人しくなれば、
イスラムもそれに呼応して平静さを取り戻す可能性のほうが高い。イスラム圏における諸々の災禍も、
その元凶であるのは真性の累犯障害者同盟である欧米聖書圏でしかないからこそ、欧米聖書圏こそが
総体からの摘発を被る一方で、イスラム圏はそこまでものトガを背負わされはしないのでもある。
これと全く同じような理由で、日本の隣国の中国も今回の摘発は免れるが、相も変わらずチベット迫害や尖閣侵略
などの妄動を続けるようであれば、今後の摘発の対象ともなる。今の中国が政治的文化的に荒廃してしまっているのも、
旧約犯罪聖書信者であるマルクスが提唱した共産主義などを国是に据え置いて、自分たちが生み出した儒学のような
良質な正学を打ち棄ててしまっているからであり、やはりその元凶は犯罪聖書のほうにあるから、伝統的に犯罪聖書を
狂信対象としてきた欧米聖書圏のほうにこそ、今の中国の荒廃の最高責任すらもがある。こうして、世界中を鑑みてみるなら、
近現代の世界中の問題の元凶はいつも欧米聖書圏であり、欧米人が犯罪聖書への信奉を廃棄せずにいたことが、あらゆる
害悪の根本となったことが明らかだから、目に見えて荒廃が明らかな中国やイスラムやブラックアフリカの問題責任までをも、
邪神とのグルを確信することで救われようとした、欧米犯罪聖書圏が第一に背負っていかなければならないことが確かだといえる。
欧米露聖書圏がその罪を十全に償ってから後に初めて、非聖書圏の人間の問題責任までもが問われていくこととなる。
マッチポンプを推進する邪神とのグルを確信した連中こそは、グルを拒んで災禍などに見舞われた人々よりも率先して
「害悪の元凶」としての罪を償っていかなければならない。その順序を取り違えて、非聖書圏にばかり責任を転嫁
しているうちは、地球社会の総体的な災禍の分量が増大することこそあれど、少しも目減りすることすらないのだ。
「赤の斉に適くや、肥馬に乗りて軽裘を衣たり。吾れ之れを聞く、君子は急を周いて富めるに継がずと」
「子華が斉に赴く姿といえば、よく肥えた馬に乗って高級な軽衣を羽織る始末。私はこう聞いている。
『君子は貧窮しているものは救うが、富み栄えているものにさらに利得を継ぎ足すような真似はしない』と」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・四より)
などの妄動を続けるようであれば、今後の摘発の対象ともなる。今の中国が政治的文化的に荒廃してしまっているのも、
旧約犯罪聖書信者であるマルクスが提唱した共産主義などを国是に据え置いて、自分たちが生み出した儒学のような
良質な正学を打ち棄ててしまっているからであり、やはりその元凶は犯罪聖書のほうにあるから、伝統的に犯罪聖書を
狂信対象としてきた欧米聖書圏のほうにこそ、今の中国の荒廃の最高責任すらもがある。こうして、世界中を鑑みてみるなら、
近現代の世界中の問題の元凶はいつも欧米聖書圏であり、欧米人が犯罪聖書への信奉を廃棄せずにいたことが、あらゆる
害悪の根本となったことが明らかだから、目に見えて荒廃が明らかな中国やイスラムやブラックアフリカの問題責任までをも、
邪神とのグルを確信することで救われようとした、欧米犯罪聖書圏が第一に背負っていかなければならないことが確かだといえる。
欧米露聖書圏がその罪を十全に償ってから後に初めて、非聖書圏の人間の問題責任までもが問われていくこととなる。
マッチポンプを推進する邪神とのグルを確信した連中こそは、グルを拒んで災禍などに見舞われた人々よりも率先して
「害悪の元凶」としての罪を償っていかなければならない。その順序を取り違えて、非聖書圏にばかり責任を転嫁
しているうちは、地球社会の総体的な災禍の分量が増大することこそあれど、少しも目減りすることすらないのだ。
「赤の斉に適くや、肥馬に乗りて軽裘を衣たり。吾れ之れを聞く、君子は急を周いて富めるに継がずと」
「子華が斉に赴く姿といえば、よく肥えた馬に乗って高級な軽衣を羽織る始末。私はこう聞いている。
『君子は貧窮しているものは救うが、富み栄えているものにさらに利得を継ぎ足すような真似はしない』と」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・四より)

四書五経中でも「論語」だけは現代人にも相当に研究し抜かれて、半ば陳腐化してしまっているので、
(もちろん、四書五経全体を研究対象とすることで初めて見えてくる「論語」の真価もまたある)
「論語」よりは遥かに研究の遅れている「礼記」からも、一つ引用しておくとしよう。
「凡そ技を執るものは力を論ず。四方に適くときは股肱を裸して射御を決す」
「技法を司るものはその技量が試される。そのため、四方の諸国などに赴いても、
股肱を丸裸にするような軽便な格好で射術や御馬の技量の優劣をも決する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
儒者は武技などを本職とはしない文化人だから、それを前面に押し出す目的で長衣を羽織る。
しかし、それはいざ武技の力量が問われるに際しては、実力を発揮する妨げにもなりかねないから、
全力を挙げていることをみせしめる目的で、裸に近い格好で技能を披露することがよしとされる。
弓道の五段位以上の男性が必ずやらされる肌脱ぎでの射的も、この礼法に則っているのだろうし、
儀礼と共に神事でもある相撲の力士がマワシ一張羅となるのも、実は古代中国の礼法にも適っている。
近ごろの中国人には日本の相撲を嫌うものが多いようだが、どうやら四書五経よりも犯罪聖書のほうに
自分たちの精神性を侵食されて、自分たちの古来からの文化の骨太さをも見失ってしまっているようだ。
「苗にして秀でざるものあり。秀でて実らざるものあり(既出)」
「苗のままで成長しないものもいる。成長しても結実しないものもいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)
ただ、苗が成長して実を結ぶことだって約束されたものとも限らないのに、
少数の種から無数の実が結ばれることを期待したりするのは、そのものの考え方自体が
「孟子」に出てくる、穀物の苗を助長してすっかり枯らし尽くしてしまう匹夫の考え方そのものだといえる。
農産に限らず、実物を司る生産業がそんなに容易く利益を上げられるものでないのは、
実際に世の中での生産業に携わったことのある人間なら、誰でも知っていること。
その生産物の流通だけを司る実体経済も、そんなに法外なあぶく銭なんかを生み出せるものではなく、
それこそ「士農工商」の「商」の立場に見合った程度の利益ぐらいしか、商売人も上げられはしない。
実物生産や実体経済からかけ離れたところで、不実なあぶく銭を貪る場合などにだけ
1万ドルが30万ドルに、60万ドルや100万ドルに跳ね上がるようなことも可能となる。
それはまさに不実なことであり、美味として味わえるものがどこにもない。味わって満足できるものが
どこにもないものだから、欲求不満となってさらなる貪りに走るが、その対象が不実なあぶく銭で
ある以上は、どこまでも欲求不満ばかりを助長させてしまう悪循環にしかならない。
個々の苗を着実に結実させていくことを怠って、不正に基づく結実の爆発的増大などを助長しようと
したところで、着実な結実を心がけていく場合以上にも不実な結果を招くことにしかならないのだ。
「苗のままで成長しないものもいる。成長しても結実しないものもいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)
ただ、苗が成長して実を結ぶことだって約束されたものとも限らないのに、
少数の種から無数の実が結ばれることを期待したりするのは、そのものの考え方自体が
「孟子」に出てくる、穀物の苗を助長してすっかり枯らし尽くしてしまう匹夫の考え方そのものだといえる。
農産に限らず、実物を司る生産業がそんなに容易く利益を上げられるものでないのは、
実際に世の中での生産業に携わったことのある人間なら、誰でも知っていること。
その生産物の流通だけを司る実体経済も、そんなに法外なあぶく銭なんかを生み出せるものではなく、
それこそ「士農工商」の「商」の立場に見合った程度の利益ぐらいしか、商売人も上げられはしない。
実物生産や実体経済からかけ離れたところで、不実なあぶく銭を貪る場合などにだけ
1万ドルが30万ドルに、60万ドルや100万ドルに跳ね上がるようなことも可能となる。
それはまさに不実なことであり、美味として味わえるものがどこにもない。味わって満足できるものが
どこにもないものだから、欲求不満となってさらなる貪りに走るが、その対象が不実なあぶく銭で
ある以上は、どこまでも欲求不満ばかりを助長させてしまう悪循環にしかならない。
個々の苗を着実に結実させていくことを怠って、不正に基づく結実の爆発的増大などを助長しようと
したところで、着実な結実を心がけていく場合以上にも不実な結果を招くことにしかならないのだ。
「仁の実は、親に事うる是れなり。義の実は、兄に従う是れなり。智の実は、斯の二者を知りて去らざる
是れなり。礼の実は、斯の二者を節文する是れなり。楽の実は、斯の二者を楽しむ。楽しめば則ち生くる。
生くれば則ち悪くんぞ已む可けんや。悪くんぞ已むべくんば、則ち足の蹈み、手の舞いを知らず」
「仁の結実は、親によくつかえることとなり、義の結実は、それ以外の上位者によく従うこととなり、
智の結実は、この二つをよくわきまえて疎かにしないこととなり、礼の結実は、この二つを節度を以て
うまく実践することとなり、楽の結実は、まさにこの二つをたのしむこととなる。仁義を礼智によって
楽しむところまでいけば、もはや死んだように生きることもなく、本当に生き生きとしていられるようになる。
そうして生き生きとしていられるようになったならば、どうしてそれを押し止めたりすることができようか。
もはや押し止めることも叶わず、手拍子足拍子での舞楽にすら及ぶばかりではないか。
(本当は不実でしかないような結実の乱発よりも、わずかながらでも着実な結実を)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二七より)
是れなり。礼の実は、斯の二者を節文する是れなり。楽の実は、斯の二者を楽しむ。楽しめば則ち生くる。
生くれば則ち悪くんぞ已む可けんや。悪くんぞ已むべくんば、則ち足の蹈み、手の舞いを知らず」
「仁の結実は、親によくつかえることとなり、義の結実は、それ以外の上位者によく従うこととなり、
智の結実は、この二つをよくわきまえて疎かにしないこととなり、礼の結実は、この二つを節度を以て
うまく実践することとなり、楽の結実は、まさにこの二つをたのしむこととなる。仁義を礼智によって
楽しむところまでいけば、もはや死んだように生きることもなく、本当に生き生きとしていられるようになる。
そうして生き生きとしていられるようになったならば、どうしてそれを押し止めたりすることができようか。
もはや押し止めることも叶わず、手拍子足拍子での舞楽にすら及ぶばかりではないか。
(本当は不実でしかないような結実の乱発よりも、わずかながらでも着実な結実を)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二七より)
「夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。人求めざるを病うるのみ(既出)」
「人の道はあたかも大道のように広々としている。ただ誰もこれを求ようとしないことばかりが問題だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
救いに至る真っ当な人の道こそは広々としていて、元から門すらありゃしない。
滅びに至る鬼畜の門こそはやたらと狭く、その定員もごく少数に限られている。
必要もなく、わざわざ、あえて、好き好んで、性懲りもなく選択する、
累犯障害のカルト教義による正当化と、その体系的な実践の深刻化。
それこそは激烈に狭い門でいて、確実な滅びに至る自殺行為の選択肢。
その選択によって滅びに至るものに対し、誰も同情を寄せる気にもなれないほどに、
その選択自体があまりにも奇特すぎる、大馬鹿なド変態の選択。目の前に満漢全席が
用意されているにもかかわらず、自ら好き好んで犬糞を食するような、お花畑の選択。
全く誰からも救いの手を差し伸べてもらえなくなるように、カルトの邪義自体が
元からできている。だから、その邪義への帰服を棄て去ることが、救いの要にもなる。
「賢人に見えんと欲して其の道を以てせざるは、猶お其の入らんことを欲して之れ門をとざすがごとし。
夫れ義は路なり、禮は門なり。惟だ君子は能く是の路に由り、是の門を出入するなり」
「賢人に会うことを欲しながらそれ相応の体裁を整えないのは、あたかも我が室に入って
もらうことを欲しながら、その門を狭く閉ざしているようなものだ。道の体裁が義にかない、
門の体裁が礼にかなっていて初めて、君子もその道を行き、門を出入することが可能となるだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・七より)
「人の道はあたかも大道のように広々としている。ただ誰もこれを求ようとしないことばかりが問題だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
救いに至る真っ当な人の道こそは広々としていて、元から門すらありゃしない。
滅びに至る鬼畜の門こそはやたらと狭く、その定員もごく少数に限られている。
必要もなく、わざわざ、あえて、好き好んで、性懲りもなく選択する、
累犯障害のカルト教義による正当化と、その体系的な実践の深刻化。
それこそは激烈に狭い門でいて、確実な滅びに至る自殺行為の選択肢。
その選択によって滅びに至るものに対し、誰も同情を寄せる気にもなれないほどに、
その選択自体があまりにも奇特すぎる、大馬鹿なド変態の選択。目の前に満漢全席が
用意されているにもかかわらず、自ら好き好んで犬糞を食するような、お花畑の選択。
全く誰からも救いの手を差し伸べてもらえなくなるように、カルトの邪義自体が
元からできている。だから、その邪義への帰服を棄て去ることが、救いの要にもなる。
「賢人に見えんと欲して其の道を以てせざるは、猶お其の入らんことを欲して之れ門をとざすがごとし。
夫れ義は路なり、禮は門なり。惟だ君子は能く是の路に由り、是の門を出入するなり」
「賢人に会うことを欲しながらそれ相応の体裁を整えないのは、あたかも我が室に入って
もらうことを欲しながら、その門を狭く閉ざしているようなものだ。道の体裁が義にかない、
門の体裁が礼にかなっていて初めて、君子もその道を行き、門を出入することが可能となるだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・七より)
「君子は(略)之れを言えば必ず行うべし」(論語・子路第十三・三より)
「大人は言必ずしも信ならず、行い必ずしも果たさず」(孟子・離婁章句下・一一より)
言えば必ずその通りにやる、それだけなら君子の徳目にも大外れなわけでもないが、
「言が本、行が末」なんていう思い込みにまで陥って、大山をあっちからこっちへと
移動させることですら、「そうしろ」と言いさえすれば実現されるなどとまで思い込めば大間違い。
言ったからといって必ずしもその通りにせず、やったからといって必ずしも結果を出すとも限らない、
それでいて言ったことはなるべく言ったとおりにして、やるからにはできるだけの結果を出そうともする、
その姿勢はあたかも「絶対に」というほどに真摯であるのが君子大人であると捉えた場合に初めて、
上記の孔子の言葉と孟子の言葉との間に、大きな矛盾があるわけではないことが分かる。
「論語」と「孟子」および「大学」「中庸」を併せて「四書」とし、儒学の入門書として推薦したのは
南宋の朱子だが、その朱子も「近思録」における易の解釈で、「まず直観的な実相の把握があってから、
その次に初めて数的、言語的な解釈が易に付与された」としている。言葉や数が絶対なのではなく、
漠然とした実相のほうが絶対であり、そこに言葉や数に即した後付けの解釈が備わるという優劣先後の
関係が孔子と孟子の見解、およびその整合性を認める近世最大の儒学派・朱子学によって定立されている。
そしてそれは事実、本当だった。実相か言葉かでいえば実相が先であり、言葉は後。実相ほどに言葉が
優先されて然るべきものではないことが明らかになったから、上記の孔孟の一見矛盾的な言葉同士にも
完全な整合性が確証され、儒者の外見上の優柔不断さが道理に適っていることまでもが証明された。
「大人は言必ずしも信ならず、行い必ずしも果たさず」(孟子・離婁章句下・一一より)
言えば必ずその通りにやる、それだけなら君子の徳目にも大外れなわけでもないが、
「言が本、行が末」なんていう思い込みにまで陥って、大山をあっちからこっちへと
移動させることですら、「そうしろ」と言いさえすれば実現されるなどとまで思い込めば大間違い。
言ったからといって必ずしもその通りにせず、やったからといって必ずしも結果を出すとも限らない、
それでいて言ったことはなるべく言ったとおりにして、やるからにはできるだけの結果を出そうともする、
その姿勢はあたかも「絶対に」というほどに真摯であるのが君子大人であると捉えた場合に初めて、
上記の孔子の言葉と孟子の言葉との間に、大きな矛盾があるわけではないことが分かる。
「論語」と「孟子」および「大学」「中庸」を併せて「四書」とし、儒学の入門書として推薦したのは
南宋の朱子だが、その朱子も「近思録」における易の解釈で、「まず直観的な実相の把握があってから、
その次に初めて数的、言語的な解釈が易に付与された」としている。言葉や数が絶対なのではなく、
漠然とした実相のほうが絶対であり、そこに言葉や数に即した後付けの解釈が備わるという優劣先後の
関係が孔子と孟子の見解、およびその整合性を認める近世最大の儒学派・朱子学によって定立されている。
そしてそれは事実、本当だった。実相か言葉かでいえば実相が先であり、言葉は後。実相ほどに言葉が
優先されて然るべきものではないことが明らかになったから、上記の孔孟の一見矛盾的な言葉同士にも
完全な整合性が確証され、儒者の外見上の優柔不断さが道理に適っていることまでもが証明された。
「苓を采る苓を采る、首陽の嶺に。人の為言を、苟くも信ずる無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟くも然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん。(ここまで既出)
苦を采る苦を采る、首陽の下に。人之為言に、苟くも亦た與する無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟くも亦た然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん。
葑を采る葑を采る、首陽の東に。人の為言に、苟くも亦た従う無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟くも亦た然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん」
「首陽山の頂きで、アマクサを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉を、本当のことだなどと信じるな。アマクサは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも『しかり』などとはするな。偽りだらけの人の言葉を、なぜ『しかり』などとできようか。
首陽山の頂きで、イタドリを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉に、決して与しようなどとは思うな。イタドリは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも与しようなどとは思うな。偽りだらけの人の言葉に、なぜ与することなどできようか。
首陽山の頂きで、カブラを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉に、決してしたがったりるな。カブラは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも従ったりはするな。偽りだらけの人の言葉に、なぜ従ったりすることができようか。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・采苓より)
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟くも然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん。(ここまで既出)
苦を采る苦を采る、首陽の下に。人之為言に、苟くも亦た與する無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟くも亦た然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん。
葑を采る葑を采る、首陽の東に。人の為言に、苟くも亦た従う無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟くも亦た然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん」
「首陽山の頂きで、アマクサを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉を、本当のことだなどと信じるな。アマクサは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも『しかり』などとはするな。偽りだらけの人の言葉を、なぜ『しかり』などとできようか。
首陽山の頂きで、イタドリを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉に、決して与しようなどとは思うな。イタドリは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも与しようなどとは思うな。偽りだらけの人の言葉に、なぜ与することなどできようか。
首陽山の頂きで、カブラを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉に、決してしたがったりるな。カブラは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも従ったりはするな。偽りだらけの人の言葉に、なぜ従ったりすることができようか。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・采苓より)
行動即犯罪の極大級の乱世を画策する邪神の下での、あらゆる思考や言動がつまらなく、
どんなに面白がろうとしても一定以上に面白いことが決してあり得ない。それは、
邪神による支配を完全に廃絶した江戸時代の侍の活躍を描いた「鬼平」のような時代小説が、
邪神の介在を念頭に置いたどんな三文小説や、実際に邪神が介在している今の世での
どんな出来事よりも遥かに面白いという、現実上の把握からだけでも推断することができる。
「小説で面白いからといって、現実でもそうだとは限らないじゃないか」といえば、
それも確かにその通りで、邪神が一切介在しないことが小説ですら面白いのだから、
現実でも邪神が介在しなければ、小説なんかよりもさらに面白いことこれ請け合い。
曾子も現実に根ざした忠告として「悪行を摘発したからってあんまり楽しんでばかりいちゃ
いけないよ(子張第十九・一九)」などと述べており、政治の乱れからなる世の乱れが
悪人の多発をももたらしてしまっていることを忘れてまで、勧善懲悪の楽しみばかりに
ふけってちゃいけないよという、よく事実関係をわきまえた助言を施してくれている。
邪神が一切介在しない健全な世の中は、邪神の介在する世の中よりも遥かに面白い。
それは、別に悟りを啓いたりしているわけでもない普通の庶民にとっても通用的なことであり、
儒学のわきまえすらない庶民こそは、曾子の制動なども振り切って、最大級に邪神の不在を楽しむ。
邪神の介在を根絶する直接的な役割を担う君子などは、むしろそのクリエーターとしての
裏役的な任務に徹すべきであり、もはや享楽の主体は庶民の側となるものだとわきまえたほうがいい。
庶民の楽しみを奪い去ってまで、自分たちばかりが楽しんでいようとしたのが邪神どもでも
あったのだから、その二の轍を踏まず、自他を共に楽しませる仁の楽しみだけを楽しむように。
「徳に於いて薄ければ、礼に於いて虚し」
「仁徳のわきまえが薄弱ならば、礼儀礼節を正したところで虚しいだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
どんなに面白がろうとしても一定以上に面白いことが決してあり得ない。それは、
邪神による支配を完全に廃絶した江戸時代の侍の活躍を描いた「鬼平」のような時代小説が、
邪神の介在を念頭に置いたどんな三文小説や、実際に邪神が介在している今の世での
どんな出来事よりも遥かに面白いという、現実上の把握からだけでも推断することができる。
「小説で面白いからといって、現実でもそうだとは限らないじゃないか」といえば、
それも確かにその通りで、邪神が一切介在しないことが小説ですら面白いのだから、
現実でも邪神が介在しなければ、小説なんかよりもさらに面白いことこれ請け合い。
曾子も現実に根ざした忠告として「悪行を摘発したからってあんまり楽しんでばかりいちゃ
いけないよ(子張第十九・一九)」などと述べており、政治の乱れからなる世の乱れが
悪人の多発をももたらしてしまっていることを忘れてまで、勧善懲悪の楽しみばかりに
ふけってちゃいけないよという、よく事実関係をわきまえた助言を施してくれている。
邪神が一切介在しない健全な世の中は、邪神の介在する世の中よりも遥かに面白い。
それは、別に悟りを啓いたりしているわけでもない普通の庶民にとっても通用的なことであり、
儒学のわきまえすらない庶民こそは、曾子の制動なども振り切って、最大級に邪神の不在を楽しむ。
邪神の介在を根絶する直接的な役割を担う君子などは、むしろそのクリエーターとしての
裏役的な任務に徹すべきであり、もはや享楽の主体は庶民の側となるものだとわきまえたほうがいい。
庶民の楽しみを奪い去ってまで、自分たちばかりが楽しんでいようとしたのが邪神どもでも
あったのだから、その二の轍を踏まず、自他を共に楽しませる仁の楽しみだけを楽しむように。
「徳に於いて薄ければ、礼に於いて虚し」
「仁徳のわきまえが薄弱ならば、礼儀礼節を正したところで虚しいだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
イエスは、人間の心中における普遍的な理性の実在を、一切察しなかった。
朱子学でいうところの「性」、唯識思想でいうところの「阿頼耶識」にあたる普遍的理性の
心中における実在を全く察知せず、元から皆無であるとした上での言行に終始した。
仮に普遍的理性を不在とした場合、人間の心中に何があるということになるのかといえば、
ただの「情」だけがあることになる。朱子学でいうところの「情」、唯識でいうところの「末那識」
だけが心中にあることになり、イエスはこの情や末那識に相当する部分だけを心の全てと見なして、
情や末那識が濁悪に汚損されることを「神の愛」の名の下に深刻化させることだけに与した。
情や末那識に相当する濁念が人間の心中に存在することを、朱子学や唯識思想も決して否定してはいない。
性と情、阿頼耶識と末那識の総合こそは「心」であり、場合によっては情や末那識ばかりに人間の心身が
取り込まれて、性や阿頼耶識による制御が効かなくなる場合があることすらをも認めている。しかし、人間の
心中に普遍的理性としての性や阿頼耶識が実在し、そこに道理や真理の普遍的な判断基準が存在することをも認め、
朱子学に至っては、性による十分な制御を受けた情をも兼ね備えた心が抱く仁愛こそは、至上の愛ともする。
そこら辺、情の濁悪をまんま「神の愛」などと見なすイエスの考えよりも圧倒的に深く、イエスが把握
していた範囲の心よりも遥かに広い範囲の心を捉えられているといえる。故にこそより普遍的な人の心の
理解であるといえ、イエスの心に対する理解を完全な「偏見」と見なすに値する確実な証拠でもあるといえる。
「維れ此の王季は、帝其の心を度り、其の徳音を貊らぐ」
「ああかの文王こそは、帝としてよく人々の心を推し量り、それぞれに
天分として備わっている徳性を鳴り響かせることで、その心を和らげたものだった。
(性と情の総合としての人の心をよく推し量っていたから、天性の善徳を鳴り響かせられた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
朱子学でいうところの「性」、唯識思想でいうところの「阿頼耶識」にあたる普遍的理性の
心中における実在を全く察知せず、元から皆無であるとした上での言行に終始した。
仮に普遍的理性を不在とした場合、人間の心中に何があるということになるのかといえば、
ただの「情」だけがあることになる。朱子学でいうところの「情」、唯識でいうところの「末那識」
だけが心中にあることになり、イエスはこの情や末那識に相当する部分だけを心の全てと見なして、
情や末那識が濁悪に汚損されることを「神の愛」の名の下に深刻化させることだけに与した。
情や末那識に相当する濁念が人間の心中に存在することを、朱子学や唯識思想も決して否定してはいない。
性と情、阿頼耶識と末那識の総合こそは「心」であり、場合によっては情や末那識ばかりに人間の心身が
取り込まれて、性や阿頼耶識による制御が効かなくなる場合があることすらをも認めている。しかし、人間の
心中に普遍的理性としての性や阿頼耶識が実在し、そこに道理や真理の普遍的な判断基準が存在することをも認め、
朱子学に至っては、性による十分な制御を受けた情をも兼ね備えた心が抱く仁愛こそは、至上の愛ともする。
そこら辺、情の濁悪をまんま「神の愛」などと見なすイエスの考えよりも圧倒的に深く、イエスが把握
していた範囲の心よりも遥かに広い範囲の心を捉えられているといえる。故にこそより普遍的な人の心の
理解であるといえ、イエスの心に対する理解を完全な「偏見」と見なすに値する確実な証拠でもあるといえる。
「維れ此の王季は、帝其の心を度り、其の徳音を貊らぐ」
「ああかの文王こそは、帝としてよく人々の心を推し量り、それぞれに
天分として備わっている徳性を鳴り響かせることで、その心を和らげたものだった。
(性と情の総合としての人の心をよく推し量っていたから、天性の善徳を鳴り響かせられた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
闇の快楽に溺れたものが、最終的な破滅に陥るのはどこまでも自業自得であり、
そうなったことの憎悪を光明の側に転嫁したりするのも逆恨みだといえる。
逆恨みだから、憎しみが解消されることもなく、日ごとに憎悪の業火の苦しみばかりを募らせる。
全ては自分たちの責任だったことをわきまえて、憎むなら自分たちを憎み、
光明の側に対してはむしろ自分たち自身の断罪やそれによる救いを希わねばならない。
その時に仮に、光による裁きの表徴が、十字架に張り付けられた半裸にヒゲのおっさんだったとする。
それはもちろん自分自身ではなく、自分の代わりに罪を背負って死ぬ野郎だとされる。
だとすれば、そこに救いを求める罪人の憎悪はまだ自分自身に対して振り向けられてはおらず、
未だ自分以外の誰かに対して、自分自身の罪を擦り付ける逆恨み志向が残存していることが明らか。
十字架信仰もその、罪人の逆恨みを助長するばかりで、本人自身に自業自得の愚かさへの
わきまえを喪失させることの元凶となるばかりなので、それが救いになるなどということも決してない。
一時は救われたような気になれたところで、後々までその罪過を引きずり続けるだけとなり、
自分自身が罪を償わずに死んだところで、子々孫々代々に至る罪障の積み重ねはやはり進行していく。
そうなったことの憎悪を光明の側に転嫁したりするのも逆恨みだといえる。
逆恨みだから、憎しみが解消されることもなく、日ごとに憎悪の業火の苦しみばかりを募らせる。
全ては自分たちの責任だったことをわきまえて、憎むなら自分たちを憎み、
光明の側に対してはむしろ自分たち自身の断罪やそれによる救いを希わねばならない。
その時に仮に、光による裁きの表徴が、十字架に張り付けられた半裸にヒゲのおっさんだったとする。
それはもちろん自分自身ではなく、自分の代わりに罪を背負って死ぬ野郎だとされる。
だとすれば、そこに救いを求める罪人の憎悪はまだ自分自身に対して振り向けられてはおらず、
未だ自分以外の誰かに対して、自分自身の罪を擦り付ける逆恨み志向が残存していることが明らか。
十字架信仰もその、罪人の逆恨みを助長するばかりで、本人自身に自業自得の愚かさへの
わきまえを喪失させることの元凶となるばかりなので、それが救いになるなどということも決してない。
一時は救われたような気になれたところで、後々までその罪過を引きずり続けるだけとなり、
自分自身が罪を償わずに死んだところで、子々孫々代々に至る罪障の積み重ねはやはり進行していく。
聖書信者に孝悌意識が全く欠けているのも、先祖や親が自分たちばかりに責任を押し付けてきた前科が
あるからで、自分たちもまたその親の過ちに倣って、後代や他人へと罪を押し付けて済ませようとしている。
しかし、そんな自転車操業がいつまでも続けられるわけがないことも半ば察知していたから、聖書信者自身、
いつかは終末の裁きがやって来るとも予想していた。そして今がその時であり、罪のなすり付けが自分たち自身を
含む全人類の滅亡に直結し、罪が自分以外の誰かになすり付けられることで解消されたりすることも絶対に
ないというのが結末となった。故に、今さらながら、聖書信者は自分たちや、自分たちの先祖が犯してきた
全ての罪を自分たちで背負い、自分たちこそはその償いに努めていかなければならない。その上での教義的な
拠り所となるのも、自業自得の罪過を他人への憎しみに転嫁することを是とする犯罪聖書などでは決して
あってはならない。それが、聖書信者たち自身も予め期待し尽くしていた、最後の審判の判決であるのだから。
「必ず亡びん。宴語を懐わず、寵光を宣べず、令徳を知らず、同福を受けずんば、將た何を以てか在らん」
「かならず亡びるだろう。語らいを楽しもうともせず、光の尊貴さを称えもせず、まともに仁徳も心得ず、
人々と共なる福徳に与ろうともしないのなら、どうしてこれからも生存していくことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十二年より)
あるからで、自分たちもまたその親の過ちに倣って、後代や他人へと罪を押し付けて済ませようとしている。
しかし、そんな自転車操業がいつまでも続けられるわけがないことも半ば察知していたから、聖書信者自身、
いつかは終末の裁きがやって来るとも予想していた。そして今がその時であり、罪のなすり付けが自分たち自身を
含む全人類の滅亡に直結し、罪が自分以外の誰かになすり付けられることで解消されたりすることも絶対に
ないというのが結末となった。故に、今さらながら、聖書信者は自分たちや、自分たちの先祖が犯してきた
全ての罪を自分たちで背負い、自分たちこそはその償いに努めていかなければならない。その上での教義的な
拠り所となるのも、自業自得の罪過を他人への憎しみに転嫁することを是とする犯罪聖書などでは決して
あってはならない。それが、聖書信者たち自身も予め期待し尽くしていた、最後の審判の判決であるのだから。
「必ず亡びん。宴語を懐わず、寵光を宣べず、令徳を知らず、同福を受けずんば、將た何を以てか在らん」
「かならず亡びるだろう。語らいを楽しもうともせず、光の尊貴さを称えもせず、まともに仁徳も心得ず、
人々と共なる福徳に与ろうともしないのなら、どうしてこれからも生存していくことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十二年より)
キリストによってだけは絶対に救われない。他の八百万の神々のうちの誰に縋ったところで、
キリストに縋る場合以上の救いぐらいは期待できるが、ことにキリストやエホバに縋る以上は、
人間が想定しうる限りでも最悪級の破滅へと自分たちを陥らせることしか絶対に出来ない。
この事実を完全にひっくり返せば、「キリストによってでなければ救われない」となり、
「キリストによってだけは救われない」という命題が永久不変の真実だからこそ、その真逆である
「キリストによってでなければ救われない」という転倒夢想も、一種の不変性を帯びることとなる。
孔子が「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」といったとき、確かに普遍的な道徳律がそこに
定立された。しかしそれと同時に、それとは真逆となる「己の欲せざる所を人に施せ」という
犯罪律の定立までもが暗に示唆されることとなった。自分がされていやなことは人にもするな
などという当たり前な教訓をわざわざ言うまでもなく実践できればそれに越したことはないのに、
わざわざそんなことを強弁したもんだから、その反対としての非常識な犯罪律までもが示唆された。
孔子の生きた春秋時代や、現代のような、非常識な罪悪まみれの世の中に生を受けたからには、
「当たり前な道徳律の定立から始めていかなければ」という気になるのも人情というものだが、
もちろんその道徳律は本来、言うまでもなく当たり前なものばかりであり、あんまり学識として
ひけらかしてもしょうがないような自明さを多々帯びている。だから老荘などの道家の徒は、
わざわざ当たり前な道徳律の強弁などにすら及ぶべきでないとし、孔子もまたそのような
道術者の境地をより高度な達観であるとして、自分のほうがそこまではいかない未熟者である
ことを自覚した上での、当たり前な道徳律としての「儒学」の体系化やその流布に及んでいる。
キリストに縋る場合以上の救いぐらいは期待できるが、ことにキリストやエホバに縋る以上は、
人間が想定しうる限りでも最悪級の破滅へと自分たちを陥らせることしか絶対に出来ない。
この事実を完全にひっくり返せば、「キリストによってでなければ救われない」となり、
「キリストによってだけは救われない」という命題が永久不変の真実だからこそ、その真逆である
「キリストによってでなければ救われない」という転倒夢想も、一種の不変性を帯びることとなる。
孔子が「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」といったとき、確かに普遍的な道徳律がそこに
定立された。しかしそれと同時に、それとは真逆となる「己の欲せざる所を人に施せ」という
犯罪律の定立までもが暗に示唆されることとなった。自分がされていやなことは人にもするな
などという当たり前な教訓をわざわざ言うまでもなく実践できればそれに越したことはないのに、
わざわざそんなことを強弁したもんだから、その反対としての非常識な犯罪律までもが示唆された。
孔子の生きた春秋時代や、現代のような、非常識な罪悪まみれの世の中に生を受けたからには、
「当たり前な道徳律の定立から始めていかなければ」という気になるのも人情というものだが、
もちろんその道徳律は本来、言うまでもなく当たり前なものばかりであり、あんまり学識として
ひけらかしてもしょうがないような自明さを多々帯びている。だから老荘などの道家の徒は、
わざわざ当たり前な道徳律の強弁などにすら及ぶべきでないとし、孔子もまたそのような
道術者の境地をより高度な達観であるとして、自分のほうがそこまではいかない未熟者である
ことを自覚した上での、当たり前な道徳律としての「儒学」の体系化やその流布に及んでいる。
「キリストによってでなければ救われない」などというような、絶対不能の転倒夢想を強弁して
いる側にとっては、その強弁ばかりが自らの拠り所となっている。しかし、「キリストなんかで
救われるわけがない」という当たり前な真実を定立している側にとっては、別にそんな物言い
自体が唯一絶対な自らの拠り所になっているわけでもない。犯罪聖書みたいな珍奇なカルト文書を
完全に眼中から離し去った上での四書五経の勉強、さらには四書五経みたいな当たり前な常識
ばかりを強弁している文書すらうっちゃっての無為自然などにこそ、自らの同一性を見出しており、
「キリストなんかでは絶対救われない」などという当たり前中の当たり前の事実を是とする
ことなんて、ついでのついでの暇つぶしぐらいにしかなっていないのだから、転倒夢想だけが
自分たちにとっての全てである累犯障害カルト信者などとは、余裕の度合いから桁外れであるといえる。
相手よりも必死だからといって、絶対不能の完全誤謬がひっくり返るわけでもなし。
「悪を長じて悛めずんば、従って自らに及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将た能くせん」
「罪悪を積み重ねて改めもしないのなら、いつかはそれによる自業自得の禍いが自らに降りかかる。
そうなってから救ってやろうなどとしたところで、どうしてそんなことが可能だろうか(断じて不可能だ)。
(何度も何度も説き尽くしてきたことと全く同じ内容だが、罪悪の積み重ねを内心で悔いただけで改めた
気になりながら、さらなる罪悪を積み重ねるキリスト信仰が、絶対救済不可な代物であることを確証している。
過ちを行いから改めていく規範を喪失するキリ信仰を破棄しない限りは、絶対に救われることがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隱公九年より)
いる側にとっては、その強弁ばかりが自らの拠り所となっている。しかし、「キリストなんかで
救われるわけがない」という当たり前な真実を定立している側にとっては、別にそんな物言い
自体が唯一絶対な自らの拠り所になっているわけでもない。犯罪聖書みたいな珍奇なカルト文書を
完全に眼中から離し去った上での四書五経の勉強、さらには四書五経みたいな当たり前な常識
ばかりを強弁している文書すらうっちゃっての無為自然などにこそ、自らの同一性を見出しており、
「キリストなんかでは絶対救われない」などという当たり前中の当たり前の事実を是とする
ことなんて、ついでのついでの暇つぶしぐらいにしかなっていないのだから、転倒夢想だけが
自分たちにとっての全てである累犯障害カルト信者などとは、余裕の度合いから桁外れであるといえる。
相手よりも必死だからといって、絶対不能の完全誤謬がひっくり返るわけでもなし。
「悪を長じて悛めずんば、従って自らに及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将た能くせん」
「罪悪を積み重ねて改めもしないのなら、いつかはそれによる自業自得の禍いが自らに降りかかる。
そうなってから救ってやろうなどとしたところで、どうしてそんなことが可能だろうか(断じて不可能だ)。
(何度も何度も説き尽くしてきたことと全く同じ内容だが、罪悪の積み重ねを内心で悔いただけで改めた
気になりながら、さらなる罪悪を積み重ねるキリスト信仰が、絶対救済不可な代物であることを確証している。
過ちを行いから改めていく規範を喪失するキリ信仰を破棄しない限りは、絶対に救われることがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隱公九年より)
精神薄弱の累犯障害者が、カルト信仰を通じて異教徒へと振り向ける憎しみや、
自分たちが脳内で捏造した超越神が異教徒に止めるとされる怒りは、
「憎しみ」や「怒り」としては、偽物である。
十分な善悪の分別を身に付けた道徳者が罪悪に対して抱く憎しみ、
その罪悪を性懲りもなく積み重ねようとする悪人に対して抱く怒りこそは、
「憎しみ」や「怒り」としての純正な方向性を伴っており、本来憎んだり怒ったりは
すべきでない相手に対する、カルト信者の憎しみやカルト神の怒りは、「憎しみ」や
「怒り」としての方向性が根本的に偽りであり、故に偽物の憎しみや怒りであるといえる。
「憎しみ」や「怒り」としては偽物だが、「気狂い」としては確かに本物だ。
隣国である日本や中国に、国力でも国風でも及ばない朝鮮の人間が、強烈な劣等感を溜め込んだ
挙句に、急激にその鬱屈を爆発させる「火病(ファビョン)」という精神疾患の症例があるが、
カルト信者が異教徒に対して振り向けるとされる怒りや憎しみも、本質的にはこの火病と同じであり、
鬱屈からなる気狂いとしては確かに真性である一方で、それが隣国の日本人に対する憎しみや怒りなど
として表出したりするのは仮性だ。とにかく劣等感で鬱屈して今にも爆発しそう、それは確かに本当
のことだが、その爆発力をどうやって発散するかということに、原初からの方向性は定まっていない。
カルト信者の怒りや憎しみが異教徒に振り向けられたり、朝鮮人の怒りや憎しみが日本人に
向けられたりすることに、やはり異教徒や日本人としては心外さや嫌悪感を抱かざるを得ない。
しかし、彼らの怒りや憎しみが本来無軌道なところが、ある種の情報洗脳で異教徒や日本人に
向けられているのが欺瞞であるのも確かな一方で、カルト信者や朝鮮人が、劣等感からなる
膨大な鬱屈を溜め込んでいるのも事実であり、その鬱屈をどうにか噴出させたいという火病の
病巣を抱えているのも本当のこと。その火病の爆発がたまたま異教徒や日本人に振り向けられて
いることとはまた別に、彼らにとっての真性の病としての火病を、どうやって快方に向かわせて
いくべきなのかを、より達観した境地にある異教徒や日本人であれば、考えてやらねばならない。
自分たちが脳内で捏造した超越神が異教徒に止めるとされる怒りは、
「憎しみ」や「怒り」としては、偽物である。
十分な善悪の分別を身に付けた道徳者が罪悪に対して抱く憎しみ、
その罪悪を性懲りもなく積み重ねようとする悪人に対して抱く怒りこそは、
「憎しみ」や「怒り」としての純正な方向性を伴っており、本来憎んだり怒ったりは
すべきでない相手に対する、カルト信者の憎しみやカルト神の怒りは、「憎しみ」や
「怒り」としての方向性が根本的に偽りであり、故に偽物の憎しみや怒りであるといえる。
「憎しみ」や「怒り」としては偽物だが、「気狂い」としては確かに本物だ。
隣国である日本や中国に、国力でも国風でも及ばない朝鮮の人間が、強烈な劣等感を溜め込んだ
挙句に、急激にその鬱屈を爆発させる「火病(ファビョン)」という精神疾患の症例があるが、
カルト信者が異教徒に対して振り向けるとされる怒りや憎しみも、本質的にはこの火病と同じであり、
鬱屈からなる気狂いとしては確かに真性である一方で、それが隣国の日本人に対する憎しみや怒りなど
として表出したりするのは仮性だ。とにかく劣等感で鬱屈して今にも爆発しそう、それは確かに本当
のことだが、その爆発力をどうやって発散するかということに、原初からの方向性は定まっていない。
カルト信者の怒りや憎しみが異教徒に振り向けられたり、朝鮮人の怒りや憎しみが日本人に
向けられたりすることに、やはり異教徒や日本人としては心外さや嫌悪感を抱かざるを得ない。
しかし、彼らの怒りや憎しみが本来無軌道なところが、ある種の情報洗脳で異教徒や日本人に
向けられているのが欺瞞であるのも確かな一方で、カルト信者や朝鮮人が、劣等感からなる
膨大な鬱屈を溜め込んでいるのも事実であり、その鬱屈をどうにか噴出させたいという火病の
病巣を抱えているのも本当のこと。その火病の爆発がたまたま異教徒や日本人に振り向けられて
いることとはまた別に、彼らにとっての真性の病としての火病を、どうやって快方に向かわせて
いくべきなのかを、より達観した境地にある異教徒や日本人であれば、考えてやらねばならない。
「天の怒りをを敬みて、敢えて戲予する無かれ。
天の渝るを敬みて、敢えて馳駆する無かれ」
「天の怒りによく慎んで、放逸にうかれたりすることがないように。
天の心の動きをよく推し量り、その思いを蔑ろにすることがないように。
(ここでいう『天』は犯罪聖書の邪神などではもちろんないが、天が機嫌を良くしたり損ねたり
するものであり、誰にでも怒りをも振り向けるものであり、むしろその怒りによってこそ自分たちが
身を慎んでいくべきだとする。この主張は天を『謹厳な父君』と見なす陰陽思想にも根ざしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
天の渝るを敬みて、敢えて馳駆する無かれ」
「天の怒りによく慎んで、放逸にうかれたりすることがないように。
天の心の動きをよく推し量り、その思いを蔑ろにすることがないように。
(ここでいう『天』は犯罪聖書の邪神などではもちろんないが、天が機嫌を良くしたり損ねたり
するものであり、誰にでも怒りをも振り向けるものであり、むしろその怒りによってこそ自分たちが
身を慎んでいくべきだとする。この主張は天を『謹厳な父君』と見なす陰陽思想にも根ざしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
湿潤なモンスーン気候に覆われている東洋社会には、ほとんど水不足という問題がない。
近ごろでは、人口爆発によって一人頭の水資源の量が減少したせいでの水不足などが
取り上げられてもいるが、それも上下水道が発達した贅沢な水利用を当たり前とした上でのこと。
実物の「水」でも東洋社会は恵まれているほうだが、それ以上に、「渇望」全般をよく制御して、
なんでもかんでも際限なく欲しがるような意地汚さを非と見なす文化が多く提唱されてきている。
カルトではない正統な仏教や道教がその代表格であり、ある程度は俗世での活躍を目論む儒家や
ヒンズー教にも、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」という程度のわきまえが備わっている。
「欲はほしいままにすべからず」であってこそ、餓鬼ではない人間となり、畜生ではない天人となる。
潜在的に渇望まみれな人間こそは餓鬼であり、欲求まみれの天人こそは畜生である。もちろん両者はそれぞれ
全くの別物であり、際限のない渇欲の有無こそは、人と餓鬼、天と畜生を断絶する普遍基準にも当たる。
渇欲を自主的に制御する自律性が具わりすらすれば、どこまでも渇欲を叶え続けてあげようとする邪神の
誘惑なども断ち切れる。何も欲望を棄て去りきらなくたって、「欲はほしいいままにしない」という程度の
わきまえすら備えられたなら、渇望をどこまでも叶え続けようとするような極端志向には走らなくなる。
犯罪聖書では、「服従者に対して神は怒らない」ことが誘惑材料になっているが、>>277の真正聖書の
引用などでは、むしろ「天神の怒りを自重の材料とせよ」とすらしている。これも、喜怒哀楽という
人間的な感情の、全否定しない限りでの善用の判例となっており、とかく極端に走ることで何もかもを
ダメにしているのが犯罪聖書である一方で、できるかぎり極端を避けることで優良な言動規範を
人々に備わらせているのが真正聖書=四書五経であるという法則性が一貫していることがわかる。
近ごろでは、人口爆発によって一人頭の水資源の量が減少したせいでの水不足などが
取り上げられてもいるが、それも上下水道が発達した贅沢な水利用を当たり前とした上でのこと。
実物の「水」でも東洋社会は恵まれているほうだが、それ以上に、「渇望」全般をよく制御して、
なんでもかんでも際限なく欲しがるような意地汚さを非と見なす文化が多く提唱されてきている。
カルトではない正統な仏教や道教がその代表格であり、ある程度は俗世での活躍を目論む儒家や
ヒンズー教にも、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」という程度のわきまえが備わっている。
「欲はほしいままにすべからず」であってこそ、餓鬼ではない人間となり、畜生ではない天人となる。
潜在的に渇望まみれな人間こそは餓鬼であり、欲求まみれの天人こそは畜生である。もちろん両者はそれぞれ
全くの別物であり、際限のない渇欲の有無こそは、人と餓鬼、天と畜生を断絶する普遍基準にも当たる。
渇欲を自主的に制御する自律性が具わりすらすれば、どこまでも渇欲を叶え続けてあげようとする邪神の
誘惑なども断ち切れる。何も欲望を棄て去りきらなくたって、「欲はほしいいままにしない」という程度の
わきまえすら備えられたなら、渇望をどこまでも叶え続けようとするような極端志向には走らなくなる。
犯罪聖書では、「服従者に対して神は怒らない」ことが誘惑材料になっているが、>>277の真正聖書の
引用などでは、むしろ「天神の怒りを自重の材料とせよ」とすらしている。これも、喜怒哀楽という
人間的な感情の、全否定しない限りでの善用の判例となっており、とかく極端に走ることで何もかもを
ダメにしているのが犯罪聖書である一方で、できるかぎり極端を避けることで優良な言動規範を
人々に備わらせているのが真正聖書=四書五経であるという法則性が一貫していることがわかる。
「間關と車の舝が兮き、ああ孌わしの季女の逝く。飢えず渇かず、
徳音の来たり括れる。好友の無しと雖も、式れ燕げ且れ喜しまん」
「御車の車音もカンカンと鳴り響いて、麗しの乙女が嫁入りに行く。
それでこそ飢え渇くこともなく、善いことの訪れであるともいえる。
あまり交友関係が広くなくたって、それだけでも十分に楽しめる。
(飢渇を癒すのが花嫁であるというのは、『男が乾、女が湿』という陰陽法則にも根ざした見解。
父なる神が渇きを癒すなどとは、陰陽法則に根ざして考えれば、おぞましいことこの上ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・車舝より)
徳音の来たり括れる。好友の無しと雖も、式れ燕げ且れ喜しまん」
「御車の車音もカンカンと鳴り響いて、麗しの乙女が嫁入りに行く。
それでこそ飢え渇くこともなく、善いことの訪れであるともいえる。
あまり交友関係が広くなくたって、それだけでも十分に楽しめる。
(飢渇を癒すのが花嫁であるというのは、『男が乾、女が湿』という陰陽法則にも根ざした見解。
父なる神が渇きを癒すなどとは、陰陽法則に根ざして考えれば、おぞましいことこの上ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・車舝より)
「嫁だけもらう。後はいらーん」との、3000年前の大先生からのお達しだ。
(詩経・車舝は、ただの結婚祝賀の歌にしては学術的な思弁性に富むため、
貴族や庶民ではなく、学者の作品である可能性が古来から指摘されている)
(詩経・車舝は、ただの結婚祝賀の歌にしては学術的な思弁性に富むため、
貴族や庶民ではなく、学者の作品である可能性が古来から指摘されている)
イエス坊やが「主から遣わされた業」と強弁しているものの内容は、原理的に絶対に
実現が不可能なものである上に、道義的にもその実現を欲したりすべきものではない。
ただ、不埒にもその実現をあえて欲し、そのための試みにも耽溺していったとすれば、
その実現が絶対に不能であることから、いつまでも延々と試みだけを続けていくことになる。
武術や工芸などの技術の研鑽も、極めようとすれば全くキリがない。どこまでも際限なく
その技能が向上していくものだから、完全なる完成などというものはない。ただ、ちゃんと
研鑽を心がけていけば、自らの技能がどこまでも向上していくのも確かだから、研鑽を続けて
いくに連れて、一定の達成というものが見込める。それが武術における免状の取得であったり、
工芸作品の美観の一定的な達成であったり、工業技術における一定精度の確保であったりする。
そのような一定の達成も見込めた上で、さらなる向上を無限に試み続けていけるのが、
技術の研鑽である一方、「キリストの業」のような絶対不能条件を実現しようとする試みは、
それ自体が実現されることがないのはもちろんのこと、実現を試みる過程で一定の成果を
達成できることすらない。軟鉄をいくら打ち据えても軟鉄のままでいて、鋼にはならないように、
何かが向上するなどということが全く期待できず、それでいて本来の目的も達成されない。
仮にそのような無益な徒労を「生きる糧」にしたならば、それは人間が生きる上での最も
低劣な生活規範としかなり得ない。ただ人間が生きるということにも、いくらでも向上の
余地が見込めるにも関わらず、必要もなくわざわざあえて好き好んで、全く向上を欲しもせず、
なおかつ何の希望も達成されない、何の魅力もない、泥人形同然の人生だけがあることになる。
実現が不可能なものである上に、道義的にもその実現を欲したりすべきものではない。
ただ、不埒にもその実現をあえて欲し、そのための試みにも耽溺していったとすれば、
その実現が絶対に不能であることから、いつまでも延々と試みだけを続けていくことになる。
武術や工芸などの技術の研鑽も、極めようとすれば全くキリがない。どこまでも際限なく
その技能が向上していくものだから、完全なる完成などというものはない。ただ、ちゃんと
研鑽を心がけていけば、自らの技能がどこまでも向上していくのも確かだから、研鑽を続けて
いくに連れて、一定の達成というものが見込める。それが武術における免状の取得であったり、
工芸作品の美観の一定的な達成であったり、工業技術における一定精度の確保であったりする。
そのような一定の達成も見込めた上で、さらなる向上を無限に試み続けていけるのが、
技術の研鑽である一方、「キリストの業」のような絶対不能条件を実現しようとする試みは、
それ自体が実現されることがないのはもちろんのこと、実現を試みる過程で一定の成果を
達成できることすらない。軟鉄をいくら打ち据えても軟鉄のままでいて、鋼にはならないように、
何かが向上するなどということが全く期待できず、それでいて本来の目的も達成されない。
仮にそのような無益な徒労を「生きる糧」にしたならば、それは人間が生きる上での最も
低劣な生活規範としかなり得ない。ただ人間が生きるということにも、いくらでも向上の
余地が見込めるにも関わらず、必要もなくわざわざあえて好き好んで、全く向上を欲しもせず、
なおかつ何の希望も達成されない、何の魅力もない、泥人形同然の人生だけがあることになる。
故に、「目的の達成を志していくことを生きる糧とする」という意味すら持つイエス坊やの
ストイックじみた物言いも、その目的が全くの実現不能である上に、実現を試みる過程で
何らの一定的な成果を期待できるものでもないから、決して評価するに値するものではない。
どこまでも上を目指し続けられる求道というのは、それはそれで技術研鑽上の分野などに
多々あるが、それも決して実現不能な目的の達成などではなく、原理的に実現可能な目的を
達成していこうとする試みだからこそ意義を持つもの。原理的に達成不能な目的を実現しようとする
試みには何の意義もなく、何らの一定的な達成も見込めない、味気ない徒労依存症としかならない。
「久しかる可きは則ち賢人の徳、大いなる可きは則ち賢人の業なり」
「どこまでも恒久不変であるのが賢人の湛える徳であり、どこまでも広大なのが賢人の成す業である。
(業を成そうとすることなどではなく、自らが着実に大業を成していくことこそを賢人は本望とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
ストイックじみた物言いも、その目的が全くの実現不能である上に、実現を試みる過程で
何らの一定的な成果を期待できるものでもないから、決して評価するに値するものではない。
どこまでも上を目指し続けられる求道というのは、それはそれで技術研鑽上の分野などに
多々あるが、それも決して実現不能な目的の達成などではなく、原理的に実現可能な目的を
達成していこうとする試みだからこそ意義を持つもの。原理的に達成不能な目的を実現しようとする
試みには何の意義もなく、何らの一定的な達成も見込めない、味気ない徒労依存症としかならない。
「久しかる可きは則ち賢人の徳、大いなる可きは則ち賢人の業なり」
「どこまでも恒久不変であるのが賢人の湛える徳であり、どこまでも広大なのが賢人の成す業である。
(業を成そうとすることなどではなく、自らが着実に大業を成していくことこそを賢人は本望とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
>>274-275のおさらいでもあるが、
「Aという教条が絶対に真である場合、Aに反する内容を持つ教条A´は偽であることが絶対に真である」
という法則が成り立つ。儒学と聖書信仰、四書五経と犯罪聖書はまさにこの
AとA´の関係にあり、儒学や四書五経こそは世界を平和や繁栄へと導く絶対的な教理であり、
その儒学や四書五経と決定的に相反する背理の陳列でしかないのが聖書信仰や犯罪聖書であるからこそ、
聖書信仰や犯罪聖書は、人類を破滅や滅亡へと追いやる邪義邪見としては絶対に真である。そして、
「転倒夢想者は、絶対に偽であるものを絶対に真であると見なす」
という法則に即して、転倒夢想者である聖書信者は、人類を滅亡に陥れる邪義の陳列として
絶対的な意味を持つ犯罪聖書を、世界を平和や繁栄へと導く絶対的な正義であると確信する。
犯罪聖書が、人類を平和や繁栄とは逆の方向へと陥れる究極の邪義である、にもかかわらずではなく
だからこそ、犯罪聖書こそは人類を平和や繁栄へと導く純良な正義であると完全に誤解する。
最悪の邪義A´こそは狂信の対象とされることがあるのも、結局は最良の正義Aもまた確実に実在するからであり、
その正義Aのほうをありのままに体系化しているのが、儒学や四書五経でもある。儒学や四書五経のような
光明Aが存在するからこそ、その光明に照らし出された闇黒A´としての、聖書信仰や犯罪聖書も存在する。
儒学や四書五経が正義として真に真正だからこそ、その倒置である聖書信仰や犯罪聖書も邪義として真に真邪である。
「真に真○だから信じられる」というような意味合いを、犯罪聖書が持っていることもまた確かなことで、
ただ「邪義として真に真邪である」のを、「正義として真に真正である」と勘違いしてしまったのが
聖書信者なわけで、イスラエル以西のド田舎で世間知らずなままに奇形的な文化だけを発展させ続けてきた
欧米人同士での間なら、その勘違いも通用していたのだ。ただ、あくまでそれは勘違いでしかなかったから、
そのような勘違いが真の正義の前では、鉄球に打ち付けられるガラス球のようにして、粉々に砕け散るしかないのだ。
「Aという教条が絶対に真である場合、Aに反する内容を持つ教条A´は偽であることが絶対に真である」
という法則が成り立つ。儒学と聖書信仰、四書五経と犯罪聖書はまさにこの
AとA´の関係にあり、儒学や四書五経こそは世界を平和や繁栄へと導く絶対的な教理であり、
その儒学や四書五経と決定的に相反する背理の陳列でしかないのが聖書信仰や犯罪聖書であるからこそ、
聖書信仰や犯罪聖書は、人類を破滅や滅亡へと追いやる邪義邪見としては絶対に真である。そして、
「転倒夢想者は、絶対に偽であるものを絶対に真であると見なす」
という法則に即して、転倒夢想者である聖書信者は、人類を滅亡に陥れる邪義の陳列として
絶対的な意味を持つ犯罪聖書を、世界を平和や繁栄へと導く絶対的な正義であると確信する。
犯罪聖書が、人類を平和や繁栄とは逆の方向へと陥れる究極の邪義である、にもかかわらずではなく
だからこそ、犯罪聖書こそは人類を平和や繁栄へと導く純良な正義であると完全に誤解する。
最悪の邪義A´こそは狂信の対象とされることがあるのも、結局は最良の正義Aもまた確実に実在するからであり、
その正義Aのほうをありのままに体系化しているのが、儒学や四書五経でもある。儒学や四書五経のような
光明Aが存在するからこそ、その光明に照らし出された闇黒A´としての、聖書信仰や犯罪聖書も存在する。
儒学や四書五経が正義として真に真正だからこそ、その倒置である聖書信仰や犯罪聖書も邪義として真に真邪である。
「真に真○だから信じられる」というような意味合いを、犯罪聖書が持っていることもまた確かなことで、
ただ「邪義として真に真邪である」のを、「正義として真に真正である」と勘違いしてしまったのが
聖書信者なわけで、イスラエル以西のド田舎で世間知らずなままに奇形的な文化だけを発展させ続けてきた
欧米人同士での間なら、その勘違いも通用していたのだ。ただ、あくまでそれは勘違いでしかなかったから、
そのような勘違いが真の正義の前では、鉄球に打ち付けられるガラス球のようにして、粉々に砕け散るしかないのだ。
「孟子〜曰く、仲尼の徒に桓・文の事を道とする者無し。是れを以て後世に伝うる無く、臣も未だ之れ聞かざるなり」
「孟子は言った。『孔子の学門に学んだものに、斉の桓公や晋の文公のような覇道を専らとした
輩の事跡を専攻の対象としている者はいない。だからそれを後世に伝えようとする者もいないし、
(孔子の孫の子思に学んだ)私自身も専門的な話を聞かされたことはないし、別に聞く気もない』
(邪義邪曲は始めから伝え聞いたり、聞き伝えたりすることから自粛していかなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)
「孟子は言った。『孔子の学門に学んだものに、斉の桓公や晋の文公のような覇道を専らとした
輩の事跡を専攻の対象としている者はいない。だからそれを後世に伝えようとする者もいないし、
(孔子の孫の子思に学んだ)私自身も専門的な話を聞かされたことはないし、別に聞く気もない』
(邪義邪曲は始めから伝え聞いたり、聞き伝えたりすることから自粛していかなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)
「桓公や文公のことなど関知しない」などといいながらも、孟子は春秋戦国時代の諸侯の
覇道政治を相当に細密な部分にまで渡って批判しているし、春秋五覇の盟約の内容などの貴重な
資料すらをも、孟子自身やその弟子が編纂したとされる思想書「孟子」中に遺してくれている。
ただ、孟子の場合は、春秋戦国時代の覇者に対する扱いがほぼ完全に否定的であり、
堯舜禹や湯文武のような(孟子の時代から見ても)古代の聖王の徳治と比べて、
諸侯の覇道政治を「少しも評価するに値しないもの」として、痛烈に批判している。
これが、孟子よりもやや後輩の儒者に当たる荀子であれば違っていて、諸侯の覇道政治を
やはり古代の王政よりも劣ったものと見なしてはいるが、それでも聖王賢臣には至らない
凡人などが便宜的に覇道に介入していくことは是認してしまっている。ここが荀子と孟子の
決定的に食い違うところであり、考え方によってどうとでもいえる性善性悪の人性論争など
よりも遥かに切実な実践面において、孟子と荀子とが互いに相容れない部分だったといえる。
おそらく荀子は、諸侯による覇権主義がいつまでも続き、もう二度と古代の王政が復権すること
はないといったような、一種の諦めを付けていたのではないかと思う。だからこそ覇道政治にも
一定のリップサービスを贈っておこうと思ったのだろうが、荀子が没してまもなく、秦によって
中国が統一され、民からの甚大な怨恨を被る姿勢で全中国を支配しようとした秦や西楚に代わって、
漢が中国全土を治めるようになるやいなや、長期の王政がついに復活してしまった。諸侯の権限を
大幅に弱めて、漢王朝への権限集中を強化するなどの新規策もあったにしろ、孔子や孟子が頑なに
主張していた「覇道を上回る王政」が復権して、中国を当時世界一の大帝国にすら押し上げてしまった。
覇道政治を相当に細密な部分にまで渡って批判しているし、春秋五覇の盟約の内容などの貴重な
資料すらをも、孟子自身やその弟子が編纂したとされる思想書「孟子」中に遺してくれている。
ただ、孟子の場合は、春秋戦国時代の覇者に対する扱いがほぼ完全に否定的であり、
堯舜禹や湯文武のような(孟子の時代から見ても)古代の聖王の徳治と比べて、
諸侯の覇道政治を「少しも評価するに値しないもの」として、痛烈に批判している。
これが、孟子よりもやや後輩の儒者に当たる荀子であれば違っていて、諸侯の覇道政治を
やはり古代の王政よりも劣ったものと見なしてはいるが、それでも聖王賢臣には至らない
凡人などが便宜的に覇道に介入していくことは是認してしまっている。ここが荀子と孟子の
決定的に食い違うところであり、考え方によってどうとでもいえる性善性悪の人性論争など
よりも遥かに切実な実践面において、孟子と荀子とが互いに相容れない部分だったといえる。
おそらく荀子は、諸侯による覇権主義がいつまでも続き、もう二度と古代の王政が復権すること
はないといったような、一種の諦めを付けていたのではないかと思う。だからこそ覇道政治にも
一定のリップサービスを贈っておこうと思ったのだろうが、荀子が没してまもなく、秦によって
中国が統一され、民からの甚大な怨恨を被る姿勢で全中国を支配しようとした秦や西楚に代わって、
漢が中国全土を治めるようになるやいなや、長期の王政がついに復活してしまった。諸侯の権限を
大幅に弱めて、漢王朝への権限集中を強化するなどの新規策もあったにしろ、孔子や孟子が頑なに
主張していた「覇道を上回る王政」が復権して、中国を当時世界一の大帝国にすら押し上げてしまった。
楚漢戦争時、儒者でありながら漢軍方の説客をつとめていた酈生が、当時の漢王劉邦に対して
「秦帝国によって王位を剥奪された、各国の諸侯を元の位に付けることで味方に付けましょう」
と進言し、劉邦も「それはいい考えだ」とうなずいて実行に移そうとした。すると、参謀の張良が
「そんなことをすれば、諸侯の台頭を招いて乱世を激化させるだけです」と反対し、劉邦も結局
この意見のほうを聞き入れて、戦時中からの諸侯制の復興という酈生の意見を後から蹴っている。
諸侯による覇道政治の復興を目論んだあたり、酈生は儒者ではあっても、荀子学派の儒者だったと思われる。
一方、張良は儒者ではなく、兵術をもよくする道術家であり、時に敵軍を巧妙な策謀にかけて打ち負かしたりの、
冷徹な軍略の手堅さによってこそ劉邦にも重用されていた人物。しかし、旧諸侯の戦時中からの復権という
酈生の意見に戦略目的で反対を唱えた張良の考えほうが結果的には、諸侯の覇道政治を否定する孟子の
考えとも一致している。もはや覇権主義社会に半ば順応してしまっていた儒者だった荀子や酈生よりも、
濁世への順応をキッパリと拒絶した儒者である孟子のほうが、漢帝国の創建に最大級の貢献を果たした兵法家である
張良とも同じ意見を唱え、孟子と同じ「諸侯の強権の否定」という考えに即してこそ、張良も軍略を成功させている。
文と武は、妥協を排した徹底的な求道の先にこそ、同じ頂きに至っていて、緩慢な妥協の範囲だけで物事を
どうにかしようとしていた連中よりも、遥かに偉大な成果を挙げてもいる。「極端である」ということは、
えてして悪い結果を招きやすいものだが、儒家や仏門のような中正を重んずる学門において、徹底した研鑽を
し抜くことは、それも一種の極端と取れなくもないが、良い結果をも招いてくれるようで、そこに姑息な妥協などを
差し挟んだほうが、完成間近のジグソーパズルを壊し去ってしまうような、何にもならない徒労にしかならないようだ。
「秦帝国によって王位を剥奪された、各国の諸侯を元の位に付けることで味方に付けましょう」
と進言し、劉邦も「それはいい考えだ」とうなずいて実行に移そうとした。すると、参謀の張良が
「そんなことをすれば、諸侯の台頭を招いて乱世を激化させるだけです」と反対し、劉邦も結局
この意見のほうを聞き入れて、戦時中からの諸侯制の復興という酈生の意見を後から蹴っている。
諸侯による覇道政治の復興を目論んだあたり、酈生は儒者ではあっても、荀子学派の儒者だったと思われる。
一方、張良は儒者ではなく、兵術をもよくする道術家であり、時に敵軍を巧妙な策謀にかけて打ち負かしたりの、
冷徹な軍略の手堅さによってこそ劉邦にも重用されていた人物。しかし、旧諸侯の戦時中からの復権という
酈生の意見に戦略目的で反対を唱えた張良の考えほうが結果的には、諸侯の覇道政治を否定する孟子の
考えとも一致している。もはや覇権主義社会に半ば順応してしまっていた儒者だった荀子や酈生よりも、
濁世への順応をキッパリと拒絶した儒者である孟子のほうが、漢帝国の創建に最大級の貢献を果たした兵法家である
張良とも同じ意見を唱え、孟子と同じ「諸侯の強権の否定」という考えに即してこそ、張良も軍略を成功させている。
文と武は、妥協を排した徹底的な求道の先にこそ、同じ頂きに至っていて、緩慢な妥協の範囲だけで物事を
どうにかしようとしていた連中よりも、遥かに偉大な成果を挙げてもいる。「極端である」ということは、
えてして悪い結果を招きやすいものだが、儒家や仏門のような中正を重んずる学門において、徹底した研鑽を
し抜くことは、それも一種の極端と取れなくもないが、良い結果をも招いてくれるようで、そこに姑息な妥協などを
差し挟んだほうが、完成間近のジグソーパズルを壊し去ってしまうような、何にもならない徒労にしかならないようだ。
結局人は、安逸ばかりを貪ろうとするところで余計な苦労をさせられ、
常日頃からの自主的な努力に励むことでこそ、無駄な労力をも省ける。
常日頃から、合理的な身体躁法を研鑽しぬいてきたヨガ行者や合気道家が、
高齢になってからも腰痛などの関節痛には悩まされず、きびきびとした動作でも
いられるのに対し、若い頃にふんぞり返ってのデスクワークばかりに執心して
来たような人間は、年取ってから一気に背骨が折れ曲がり、腰痛やリュウマチや
ヘルニアなどにも悩まされ、最寄りの商店に歩いて買い物に行くことすら覚束なくなる。
それと同じように、キリシタンが完全禁教されていた江戸時代の日本では、
キリスト教が奨励するような「精神の惰弱化」が許されず、常日頃からこまめな
勤労を心がけることが奨励されていた。それぞれの自主的な勤労を促進するために
七日間の曜日制も撤廃されて、勤労の効率化や合理性が精神面から追求されていた。だから
世界中が氷河期状態の不況に晒されている今の状態でも、日本経済は最大級の安定度を保ち、
低賃金だが作業精度の低い外国人労働者と、日本の労働者との一定の差別化も図れている。
その一方で、今の世界不況の元凶ともなっている欧米キリスト教圏のほうはといえば、
不況の元凶なだけに最悪の苦境に立たされて、なおかつ長年のキリスト信仰によって
深刻な精神の惰弱化を進行させてきたものだから、低賃金でこき使える外国人との間に、
労働作業のクオリティなどの面での差別化を図ることもできず、一方的な移民労働者による
侵食をも招いて、旧来の自国民の失業率や少子化を致命的な規模にまで増大化してしまっている。
常日頃からの自主的な努力に励むことでこそ、無駄な労力をも省ける。
常日頃から、合理的な身体躁法を研鑽しぬいてきたヨガ行者や合気道家が、
高齢になってからも腰痛などの関節痛には悩まされず、きびきびとした動作でも
いられるのに対し、若い頃にふんぞり返ってのデスクワークばかりに執心して
来たような人間は、年取ってから一気に背骨が折れ曲がり、腰痛やリュウマチや
ヘルニアなどにも悩まされ、最寄りの商店に歩いて買い物に行くことすら覚束なくなる。
それと同じように、キリシタンが完全禁教されていた江戸時代の日本では、
キリスト教が奨励するような「精神の惰弱化」が許されず、常日頃からこまめな
勤労を心がけることが奨励されていた。それぞれの自主的な勤労を促進するために
七日間の曜日制も撤廃されて、勤労の効率化や合理性が精神面から追求されていた。だから
世界中が氷河期状態の不況に晒されている今の状態でも、日本経済は最大級の安定度を保ち、
低賃金だが作業精度の低い外国人労働者と、日本の労働者との一定の差別化も図れている。
その一方で、今の世界不況の元凶ともなっている欧米キリスト教圏のほうはといえば、
不況の元凶なだけに最悪の苦境に立たされて、なおかつ長年のキリスト信仰によって
深刻な精神の惰弱化を進行させてきたものだから、低賃金でこき使える外国人との間に、
労働作業のクオリティなどの面での差別化を図ることもできず、一方的な移民労働者による
侵食をも招いて、旧来の自国民の失業率や少子化を致命的な規模にまで増大化してしまっている。

褒め上げるわけにもいかないが、近い将来の崩壊がもはや決定的となっている欧米資本主義諸国
などと比べて、まだ日本のほうが一定の経済的な安定度を保てているのも、精神性の根本的な
惰弱化を促進する犯罪聖書信仰を、江戸時代の頃から徹底して廃絶して来た実績があるからで、
野田だ管だの今の日本の政治家ではなく、最底辺の下民からの勤勉さの底上げをコツコツと積み重ねて
いた徳川将軍家にこそ、欧米キリスト教圏もいま、決定的な敗北を被りつつあるのだといえる。
今の日本の政財界だって、徳川幕府が長年かけて積み上げてきた、「日本人の根本精神からの
勤勉さ」という埋蔵金を、ただひたすら食いつぶし続けることで富裕を保てているだけなのだ。
「之れを堯舜の道よりも軽くせんと欲する者は、大貉小貉なり。
之れを堯舜の道よりも重くせんと欲する者は、大桀小桀なり」
「租税のような民に対する負担を、理想の徳治を施した堯帝や舜帝よりも軽くしようとする者は、
大なり小なりといえども、為政にそれなりの費用が必要となることをわきまえぬ貉のような蛮族であるし、
逆に堯舜よりも重くしようとするものもまた、大なり小なりに関係なく、夏の桀王のような暴君だといえる。
(ただただ信者の負担を軽くして甘やかそうとするイエスの物言いは、蛮行の一種である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一〇より)
人はみないつかは死ぬ、それは当然であると同時に絶対不変の真理であるとして、
問題は死ぬまでの生がどうであるか。満足や納得のいく人生であったかどうかという点で、
やはり人それぞれに違いが生ずる。ちっとも納得のいかない不満だらけのままに人生を
終えることもあれば、ほとんど生きてるうちから涅槃状態というほどにも、納得ずくの
人生を送るものもいる。それは環境よりも、本人の心持ちに支配される面のほうが大きく、
悪意悪食貧賤の中に納得ずくの心持ちであることもあれば、巨万の富を得ながらも
不満たらたらで、ちっとも達観できるところがないような心持ちである場合もある。
だからその点で、本当に満足や納得の心持ちに満ちていた人生は素晴らしかったといえる一方、
どうしたって納得が得られずに、際限のない渇望の中で尽きた人生などは哀しかったといえる。
仏教の六道輪廻なども結局はその、存命中の納得の有無軽重を分かりやすく提示した方便で
あるわけで、地獄のどん底に失墜した亡者が、何千何万回という輪廻転生を重ねることで
初めて品性を向上させられるという説も、それほどにも地獄のどん底に落ち込んだ亡者の
不満が満たされることが困難であることを、分かりやすく解説したものであるといえる。
六道の輪廻転生も方便であるように、キリストの復活や救済も一種の方便であったとする。
六道論のほうは、あくまで輪廻を濁悪なものと見なし、早急な輪廻からの解脱を推奨する一方、
キリストは死後の復活や永遠の生を奨励する。生まれ変わったり生き返ったりするということが
前生の不満の現われなのだから、それはなくて済むのなら無いに越したことはないと考えるのが
まともな考え方であり、仏教はこの考え方にこそ根ざしている。一方で、死後の復活や永遠の生を
「そうあるべきもの」として断ずるキリストの物言いは、人生の不満を深刻化すらさせるべきもので
あるとし、ここがすでに間違っており、仮に方便であると見なしたところで、やはり宜しきものでない。
問題は死ぬまでの生がどうであるか。満足や納得のいく人生であったかどうかという点で、
やはり人それぞれに違いが生ずる。ちっとも納得のいかない不満だらけのままに人生を
終えることもあれば、ほとんど生きてるうちから涅槃状態というほどにも、納得ずくの
人生を送るものもいる。それは環境よりも、本人の心持ちに支配される面のほうが大きく、
悪意悪食貧賤の中に納得ずくの心持ちであることもあれば、巨万の富を得ながらも
不満たらたらで、ちっとも達観できるところがないような心持ちである場合もある。
だからその点で、本当に満足や納得の心持ちに満ちていた人生は素晴らしかったといえる一方、
どうしたって納得が得られずに、際限のない渇望の中で尽きた人生などは哀しかったといえる。
仏教の六道輪廻なども結局はその、存命中の納得の有無軽重を分かりやすく提示した方便で
あるわけで、地獄のどん底に失墜した亡者が、何千何万回という輪廻転生を重ねることで
初めて品性を向上させられるという説も、それほどにも地獄のどん底に落ち込んだ亡者の
不満が満たされることが困難であることを、分かりやすく解説したものであるといえる。
六道の輪廻転生も方便であるように、キリストの復活や救済も一種の方便であったとする。
六道論のほうは、あくまで輪廻を濁悪なものと見なし、早急な輪廻からの解脱を推奨する一方、
キリストは死後の復活や永遠の生を奨励する。生まれ変わったり生き返ったりするということが
前生の不満の現われなのだから、それはなくて済むのなら無いに越したことはないと考えるのが
まともな考え方であり、仏教はこの考え方にこそ根ざしている。一方で、死後の復活や永遠の生を
「そうあるべきもの」として断ずるキリストの物言いは、人生の不満を深刻化すらさせるべきもので
あるとし、ここがすでに間違っており、仮に方便であると見なしたところで、やはり宜しきものでない。
「人はいつかは必ず死ぬ」という実際問題とはまた別に、「存命中に上等な人生を送るか、それとも
下劣な人生を送るか」ということを方便として述べているのだとしても、仏教の六道論が上等な人生
の送り方を指し示した方便であるのに対し、キリストの復活論は下劣な人生の送り方を指し示した
方便であるということになるため、方便としてのキリスト信仰ですら、やはりよくないものだ。
現実問題を語った学術書などではないとしたところで、やはり嗜むに値しないのが犯罪聖書だ。
「鼠を相ても皮あるに、人に而て儀無し。人に而て儀無くんば、死なずして何をか為さん。
鼠を相ても歯あるに、人に而て止無し。人に而て止無くんば、死なすして何をか俟たん。
鼠を相ても体あるに、人に而て礼無し。人に而て礼無くんば、胡ぞ遄やかに死せざらん。
(古代中国語の発音で『皮』と『儀』、『歯』と『止』、『体』と『礼』が語呂合わせになっている)」
「鼠にも毛皮があるのに、人でありながら威儀がない。人でありながら威儀がないのなら、死にもせずに何をするというのか。
鼠にも歯があるのに、人でありながら節度がない。人でありながら節度がないのなら、死にもせずに何を待つというのか。
鼠にも体躯があるのに、人でありながら礼節がない。人でありながら礼節がないのに、なぜ早く死なないのか。
(永遠の命などという節度のないものを欲するようなものは、何もせず何も待たずに、さっさと死ぬべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・相鼠)
下劣な人生を送るか」ということを方便として述べているのだとしても、仏教の六道論が上等な人生
の送り方を指し示した方便であるのに対し、キリストの復活論は下劣な人生の送り方を指し示した
方便であるということになるため、方便としてのキリスト信仰ですら、やはりよくないものだ。
現実問題を語った学術書などではないとしたところで、やはり嗜むに値しないのが犯罪聖書だ。
「鼠を相ても皮あるに、人に而て儀無し。人に而て儀無くんば、死なずして何をか為さん。
鼠を相ても歯あるに、人に而て止無し。人に而て止無くんば、死なすして何をか俟たん。
鼠を相ても体あるに、人に而て礼無し。人に而て礼無くんば、胡ぞ遄やかに死せざらん。
(古代中国語の発音で『皮』と『儀』、『歯』と『止』、『体』と『礼』が語呂合わせになっている)」
「鼠にも毛皮があるのに、人でありながら威儀がない。人でありながら威儀がないのなら、死にもせずに何をするというのか。
鼠にも歯があるのに、人でありながら節度がない。人でありながら節度がないのなら、死にもせずに何を待つというのか。
鼠にも体躯があるのに、人でありながら礼節がない。人でありながら礼節がないのに、なぜ早く死なないのか。
(永遠の命などという節度のないものを欲するようなものは、何もせず何も待たずに、さっさと死ぬべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・相鼠)
ある教義上の言葉を信仰することで、その言葉の定立をより強固なものとならしめる。
それは例えば、念仏宗における「南無阿弥陀仏」という唱名などについても言えることであり、
仏法について丸っきりド素人な庶民などであっても、ただ「南無阿弥陀仏」と
唱えることで、我が仏法の定立を強固なものとならしめたことになる。
そういう、教義の強定立などからは一旦かけ離れたところで、単なる恣意的な
吟味の対象として儒学や四書五経を鑑みれば、別に執拗な信仰や強定立の対象にしなくとも、
自然と「もっともだな」と納得させられるような内容ばかりであることがわかる。
自分から無理に定立しようとしなくても、自らの本性が自然と「是」と見なしてしまう道理。
その道理をありのままに体系化したのが儒学や四書五経であり、さらにその道理を深部まで突き詰めて
絶対真理にまで昇華した上で、信仰による強定立の対象とするにも相応しい荘厳を施したのが仏教であり、
道理を完全に転倒させた無理を執拗な信仰による強定立の対象としたのが聖書信仰だったといえる。
儒学や四書五経には信仰による強定立は全く必要なく、
かえってそれを信仰の対象とした「儒教」のほうが劣化したものとなりやすい。
(官僚腐敗を招いた明代中国の儒教や、古代中国の礼習を杓子定規に実践しようとした朝鮮儒教など)
仏教も、必ずしも信仰を第一とするものではなく、他力本願の信仰一辺倒よりは、
自力での自主的な求道のほうが上等であるとされる。一方で、犯罪聖書のほうはといえば、
こちらは信仰の対象でしかあり得ない。その内容が道理に反する無理であり、
道理のような、自然と納得してしまう意味合いを全く持ち合わせてはいないから、
信仰によって無理に強定立する以外に、それをたしなむ手だてが存在しない。
それは例えば、念仏宗における「南無阿弥陀仏」という唱名などについても言えることであり、
仏法について丸っきりド素人な庶民などであっても、ただ「南無阿弥陀仏」と
唱えることで、我が仏法の定立を強固なものとならしめたことになる。
そういう、教義の強定立などからは一旦かけ離れたところで、単なる恣意的な
吟味の対象として儒学や四書五経を鑑みれば、別に執拗な信仰や強定立の対象にしなくとも、
自然と「もっともだな」と納得させられるような内容ばかりであることがわかる。
自分から無理に定立しようとしなくても、自らの本性が自然と「是」と見なしてしまう道理。
その道理をありのままに体系化したのが儒学や四書五経であり、さらにその道理を深部まで突き詰めて
絶対真理にまで昇華した上で、信仰による強定立の対象とするにも相応しい荘厳を施したのが仏教であり、
道理を完全に転倒させた無理を執拗な信仰による強定立の対象としたのが聖書信仰だったといえる。
儒学や四書五経には信仰による強定立は全く必要なく、
かえってそれを信仰の対象とした「儒教」のほうが劣化したものとなりやすい。
(官僚腐敗を招いた明代中国の儒教や、古代中国の礼習を杓子定規に実践しようとした朝鮮儒教など)
仏教も、必ずしも信仰を第一とするものではなく、他力本願の信仰一辺倒よりは、
自力での自主的な求道のほうが上等であるとされる。一方で、犯罪聖書のほうはといえば、
こちらは信仰の対象でしかあり得ない。その内容が道理に反する無理であり、
道理のような、自然と納得してしまう意味合いを全く持ち合わせてはいないから、
信仰によって無理に強定立する以外に、それをたしなむ手だてが存在しない。
信仰などとは全く無関係に、自然なままに物事を納得するという繊細な感覚は、
無理を無理に狂信しようとするような感情の焼け付きによってはかえって鈍り、
当たり前なことを当たり前なうちに納得することへの理解を、時に完全に喪失させる。
だから無理の狂信者こそは道理がなかなか理解できず、自分たちの都合だけで道理を否定し去りもする。
否定したところでこの世から道理が無くなるわけでもなく、逆らい続ければいつかは
自分たち自身が破滅に陥るのが道理なわけだが、その道理を無理の狂信によって否定し去って
しまっているような連中が、道理を直接的に理解し直すのもなかなか無理なことであり、
だったらまだ、道理を昇華させた絶対真理を信仰の対象として整備した仏教に帰依するほうが、
「急がば回れ」形式での道理理解への近道となるだろう。本当は道理を直接理解できれば、
それだけでも十分なわけだが、道理に反する無理が狂信の対象となったりもするからこそ、
それ自体が信仰の対象としにくい道理以上にも、信仰の対象としての絶対真理が意味を持つこともある。
絶対真理のほうは、結局は両極端を排した中正の道理を是ともするため、
全く中正を欠いた無理信仰の場合のような、排除の対象とする必要もない。
そのため、これからも「信仰」という行為自体が根本から完全否定されたりすることはない。
「恭儉は、豈に声音笑貌を以て為す可けんや」
「真の恭敬や倹約といったものは、口先だけの声色や上っ面だけの容貌などでは、どうにもできないものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一六より)
無理を無理に狂信しようとするような感情の焼け付きによってはかえって鈍り、
当たり前なことを当たり前なうちに納得することへの理解を、時に完全に喪失させる。
だから無理の狂信者こそは道理がなかなか理解できず、自分たちの都合だけで道理を否定し去りもする。
否定したところでこの世から道理が無くなるわけでもなく、逆らい続ければいつかは
自分たち自身が破滅に陥るのが道理なわけだが、その道理を無理の狂信によって否定し去って
しまっているような連中が、道理を直接的に理解し直すのもなかなか無理なことであり、
だったらまだ、道理を昇華させた絶対真理を信仰の対象として整備した仏教に帰依するほうが、
「急がば回れ」形式での道理理解への近道となるだろう。本当は道理を直接理解できれば、
それだけでも十分なわけだが、道理に反する無理が狂信の対象となったりもするからこそ、
それ自体が信仰の対象としにくい道理以上にも、信仰の対象としての絶対真理が意味を持つこともある。
絶対真理のほうは、結局は両極端を排した中正の道理を是ともするため、
全く中正を欠いた無理信仰の場合のような、排除の対象とする必要もない。
そのため、これからも「信仰」という行為自体が根本から完全否定されたりすることはない。
「恭儉は、豈に声音笑貌を以て為す可けんや」
「真の恭敬や倹約といったものは、口先だけの声色や上っ面だけの容貌などでは、どうにもできないものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一六より)
とにもかくにも、誰に認められる以上にも、自分が自分を認められるかどうかが最重要課題。
ほとんど他の誰よりも激烈な批判の目で自分を見て、なおのこと自分を認められるぐらいに
自分自身が相応の修練に努めていたならば、それでもう、この世界この宇宙、三千大千世界に
このわたくしを認めないでいられるものは、原理的にどこにもありはしない。
「自分が自分を認められるかどうか」という根本命題を打ち棄てて、自分以外の誰かに
認められることばかりに執着したとき、人は「演技」をする。自らが全身全霊をなげうって
最善を尽くすことよりも、上っ面が他人から見てよさげに見えることばかりに執心する。
そのぶんだけ全身全霊をなげうっての修練は疎かとなり、人に見せるつもりでもない部分の
堕落は極まって、餓鬼畜生の振る舞いですら「演技の疲れを癒す」などの名目で正当化される。
まず自分が自分を認められてから、その次に自分以外の誰かに認められようとすることと、
自分を認めることは完全に打ち棄てて、他人に認められることばかりに耽溺する場合とでは
根本的な位相が異なり、同じ「認められる」という方向性を持つにも関わらす、全く真逆の
結果を招きすらする。前者は人としての真の大成を実現するのに対し、後者は上っ面だけの
虚飾の肥大化を促進すると共に、全身全霊にわたる本物の自己の、餓鬼畜生化をも助長する。
まず自分が自分を認めることを優先したものは、人から認められるということは相対的に劣後している。
だから、いま仮に誰にも認められないとしたところで、それでもどうということはないし、仮に認めて
くれる相手がいたとしても、その相手が権威のある査定者などでなかったところで、全く構わない。
ほとんど他の誰よりも激烈な批判の目で自分を見て、なおのこと自分を認められるぐらいに
自分自身が相応の修練に努めていたならば、それでもう、この世界この宇宙、三千大千世界に
このわたくしを認めないでいられるものは、原理的にどこにもありはしない。
「自分が自分を認められるかどうか」という根本命題を打ち棄てて、自分以外の誰かに
認められることばかりに執着したとき、人は「演技」をする。自らが全身全霊をなげうって
最善を尽くすことよりも、上っ面が他人から見てよさげに見えることばかりに執心する。
そのぶんだけ全身全霊をなげうっての修練は疎かとなり、人に見せるつもりでもない部分の
堕落は極まって、餓鬼畜生の振る舞いですら「演技の疲れを癒す」などの名目で正当化される。
まず自分が自分を認められてから、その次に自分以外の誰かに認められようとすることと、
自分を認めることは完全に打ち棄てて、他人に認められることばかりに耽溺する場合とでは
根本的な位相が異なり、同じ「認められる」という方向性を持つにも関わらす、全く真逆の
結果を招きすらする。前者は人としての真の大成を実現するのに対し、後者は上っ面だけの
虚飾の肥大化を促進すると共に、全身全霊にわたる本物の自己の、餓鬼畜生化をも助長する。
まず自分が自分を認めることを優先したものは、人から認められるということは相対的に劣後している。
だから、いま仮に誰にも認められないとしたところで、それでもどうということはないし、仮に認めて
くれる相手がいたとしても、その相手が権威のある査定者などでなかったところで、全く構わない。
もちろん、より冷徹な分析と、より普遍的な基準に即して認めてくれるほうが栄誉には違いないが、
その、最も厳正な査定に匹敵する批評眼で自らを観察した上で、自己研鑽によってやっと自分が自分を
認められる段階にまで至れたような人間にとっては、もはや自分以外の査定者が厳正であるかどうか
ということは、「ついで」である。むしろそのとき、外部的な査定者の側こそは、査定の厳正さを査定
される側にすら回ってしまっていて、自分たちの査定水準が認められて、査定させていただくことを
許可されることを、栄誉とすらすべき状況にある。この世界、この宇宙に絶対的な監視者や査定者
などは存在せず、誰しもがその視力をできる限り高めていくことで、なるべく自らの査定水準がより
厳正であるように努めるしかない立場にある。それは、自分も他人も全く変わりはしないことなので、
自分が自分をより厳正な基準に即して査定することにも、最大級の厳正さが備わりもするのだ。
「天爵なる者あり、人爵なる者あり。仁義忠信、善を楽しみて倦まざるは、此れ天爵なり。公卿大夫、此れ人爵なり。
古えの人は其の天爵を修めて、而かも人爵之れに従えり。今の人は其の天爵を修めて、以て人爵を要む。
既に人爵を得て而かも其の天爵を棄つるは、則ち惑えるの甚しき者なり。終には亦た必ず亡いて已まん」
「この世には天から認められて授かる天爵と、人から認められて授かる人爵とがある。仁義忠信のような
善徳を楽しんで、決して疎かにすることがなければ、それがもはや天爵である(自力作善すなわち天爵)。
公卿や高官のような社会上の立場が人爵である。昔の人々はただひたすら天爵を追い求めて、それにたまに
人爵が付いてくるぐらいのものだった。今の人間はたとえ天爵を修めるにしても、ただ人爵を得るためだけに
限っている。しかも人爵を得た途端に天爵のほうは棄て去ってしまうような有様で、これは本末転倒の惑乱も
甚だしいことだ。その程度の心がけでは、せっかく得た人爵すらをも、いつかは必ず失ってしまうことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一六より)
その、最も厳正な査定に匹敵する批評眼で自らを観察した上で、自己研鑽によってやっと自分が自分を
認められる段階にまで至れたような人間にとっては、もはや自分以外の査定者が厳正であるかどうか
ということは、「ついで」である。むしろそのとき、外部的な査定者の側こそは、査定の厳正さを査定
される側にすら回ってしまっていて、自分たちの査定水準が認められて、査定させていただくことを
許可されることを、栄誉とすらすべき状況にある。この世界、この宇宙に絶対的な監視者や査定者
などは存在せず、誰しもがその視力をできる限り高めていくことで、なるべく自らの査定水準がより
厳正であるように努めるしかない立場にある。それは、自分も他人も全く変わりはしないことなので、
自分が自分をより厳正な基準に即して査定することにも、最大級の厳正さが備わりもするのだ。
「天爵なる者あり、人爵なる者あり。仁義忠信、善を楽しみて倦まざるは、此れ天爵なり。公卿大夫、此れ人爵なり。
古えの人は其の天爵を修めて、而かも人爵之れに従えり。今の人は其の天爵を修めて、以て人爵を要む。
既に人爵を得て而かも其の天爵を棄つるは、則ち惑えるの甚しき者なり。終には亦た必ず亡いて已まん」
「この世には天から認められて授かる天爵と、人から認められて授かる人爵とがある。仁義忠信のような
善徳を楽しんで、決して疎かにすることがなければ、それがもはや天爵である(自力作善すなわち天爵)。
公卿や高官のような社会上の立場が人爵である。昔の人々はただひたすら天爵を追い求めて、それにたまに
人爵が付いてくるぐらいのものだった。今の人間はたとえ天爵を修めるにしても、ただ人爵を得るためだけに
限っている。しかも人爵を得た途端に天爵のほうは棄て去ってしまうような有様で、これは本末転倒の惑乱も
甚だしいことだ。その程度の心がけでは、せっかく得た人爵すらをも、いつかは必ず失ってしまうことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一六より)
「陳成子、簡公を弑す。孔子沐浴して朝し、哀公に告げて曰く、陳恒、其の君を弑す。請う、之れを討たん。
公曰く、夫の三子に告げよ。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げずんばならず。君の曰うに、
夫の三子に告げよと。之れを三子に告ぐ。可とせず。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げねばならず」
「斉国の大夫である陳恒が、その主君である簡公を殺した。(乱世といえども主君殺しは大罪なので、)孔子は
斎戒沐浴などの万全の準備を尽くした上で魯の朝廷に出仕し、自らの主君である哀公に告げて言った。『陳恒が
主君殺しの大罪を犯しました。ここにこの討伐を請願致します』 哀公は言った。『私ではなく、三家老に告げなさい』
請願を聞き入れられなかった孔子は『私も魯の高官の末席に連なる身分として、請願しないわけにはいかなかったのだ。
ただ、主君が三家老に告げておけと仰せられたので、そうしよう』と言い、三家老である孟孫・叔孫・季孫に同様の
誓願を告げた。しかし、そこでも請願は聞き入れられなかった。孔子はまた言った。『私も魯の高官の末席に連なる
立場である以上は、(主君殺しという大罪を犯した陳恒の討伐請願を)告げないでいるわけにはいかなかったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二二)
官僚腐敗も相当に深刻なものと化していた春秋時代末期に、孔子は半ば青い鳥状態での、諸国での遊説を兼ねた
仕官を試みていた。ちょうどこの時には、故郷の魯国の下級大夫を務めていたようで、「三子」と呼ばれていた
孟孫・叔孫・季孫らの家老などと比べれば遥かに身分の低い、外野的な立場に置かれていたことがうかがえる。
公曰く、夫の三子に告げよ。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げずんばならず。君の曰うに、
夫の三子に告げよと。之れを三子に告ぐ。可とせず。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げねばならず」
「斉国の大夫である陳恒が、その主君である簡公を殺した。(乱世といえども主君殺しは大罪なので、)孔子は
斎戒沐浴などの万全の準備を尽くした上で魯の朝廷に出仕し、自らの主君である哀公に告げて言った。『陳恒が
主君殺しの大罪を犯しました。ここにこの討伐を請願致します』 哀公は言った。『私ではなく、三家老に告げなさい』
請願を聞き入れられなかった孔子は『私も魯の高官の末席に連なる身分として、請願しないわけにはいかなかったのだ。
ただ、主君が三家老に告げておけと仰せられたので、そうしよう』と言い、三家老である孟孫・叔孫・季孫に同様の
誓願を告げた。しかし、そこでも請願は聞き入れられなかった。孔子はまた言った。『私も魯の高官の末席に連なる
立場である以上は、(主君殺しという大罪を犯した陳恒の討伐請願を)告げないでいるわけにはいかなかったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二二)
官僚腐敗も相当に深刻なものと化していた春秋時代末期に、孔子は半ば青い鳥状態での、諸国での遊説を兼ねた
仕官を試みていた。ちょうどこの時には、故郷の魯国の下級大夫を務めていたようで、「三子」と呼ばれていた
孟孫・叔孫・季孫らの家老などと比べれば遥かに身分の低い、外野的な立場に置かれていたことがうかがえる。
ただ、魯の大夫として少なからず禄を食む立場であった以上は、主君殺しという、権力道徳を決定的に危ぶむ
過ちを犯した斉の陳恒の討伐を請願しないではいられなかった。同じような過ちが魯国でも犯される可能性があるから、
その魯の主君である哀公に陳恒の討伐を進めておくことにも、一定の義務性が生じていた。斉は魯よりも遥かに
大国であり、内乱状態とはいえ、太公望兵法をも受け継いだ強力な兵員をも擁していたわけだから、そこに討伐隊を
送るなど哀公としては恐れ極まりないことだったに違いない。孔子もそれを半ば察していたから「私も請願を告げ
ないでいるわけにはいかない立場だから」というような、半ば請願が聞き入れられないことを始めから見越して
いたかのような嘆息の言葉を、二度にもわたって述べている。
この、告げたところで叶いもしなければ聞き入れられもしないが、自らの落とし前として告げておかねばならない
という感覚は、僭越ながら、今の自分が抱いている感覚とも全く酷似している。今どき仁義道徳を実践しようと
するものもいなければ、その価値を推し量ろうとするものすらほとんどいない。道徳は法律とは違って、誰しもに
遵守を強制すべきものではなく、強制すればかえってそれが「法律的な道徳の享受」ということになってしまい、
道徳の享受としての道を誤ることにすらなってしまう。だから誰かに道徳の価値を見直すことを強制したり、道徳の
実践を強制したりすることもない。ただ、道徳は認めないよりも認めたほうが、実践しないよりも実践したほうが
後々にいい結果を招くものだから、最低限「道徳の奨励」という役目だけを果たしておこうという心持ちでいる。
主君殺しの討伐の請願を、どうせ聞き入れられはしないだろうが告げておかないではいられないという、かの孔子の
心持ちが痛いほどよく分かり、告げたことが叶えられることなんかより、告げておくことで自らに最低限の落とし前が
付けられることのほうが、人としての根本的な納得を磐石ならしめるものであることをも、さらにさらに確信するものだ。
過ちを犯した斉の陳恒の討伐を請願しないではいられなかった。同じような過ちが魯国でも犯される可能性があるから、
その魯の主君である哀公に陳恒の討伐を進めておくことにも、一定の義務性が生じていた。斉は魯よりも遥かに
大国であり、内乱状態とはいえ、太公望兵法をも受け継いだ強力な兵員をも擁していたわけだから、そこに討伐隊を
送るなど哀公としては恐れ極まりないことだったに違いない。孔子もそれを半ば察していたから「私も請願を告げ
ないでいるわけにはいかない立場だから」というような、半ば請願が聞き入れられないことを始めから見越して
いたかのような嘆息の言葉を、二度にもわたって述べている。
この、告げたところで叶いもしなければ聞き入れられもしないが、自らの落とし前として告げておかねばならない
という感覚は、僭越ながら、今の自分が抱いている感覚とも全く酷似している。今どき仁義道徳を実践しようと
するものもいなければ、その価値を推し量ろうとするものすらほとんどいない。道徳は法律とは違って、誰しもに
遵守を強制すべきものではなく、強制すればかえってそれが「法律的な道徳の享受」ということになってしまい、
道徳の享受としての道を誤ることにすらなってしまう。だから誰かに道徳の価値を見直すことを強制したり、道徳の
実践を強制したりすることもない。ただ、道徳は認めないよりも認めたほうが、実践しないよりも実践したほうが
後々にいい結果を招くものだから、最低限「道徳の奨励」という役目だけを果たしておこうという心持ちでいる。
主君殺しの討伐の請願を、どうせ聞き入れられはしないだろうが告げておかないではいられないという、かの孔子の
心持ちが痛いほどよく分かり、告げたことが叶えられることなんかより、告げておくことで自らに最低限の落とし前が
付けられることのほうが、人としての根本的な納得を磐石ならしめるものであることをも、さらにさらに確信するものだ。

不健全で有害無益この上ないものとなる犯罪聖書の記述。
それでも事実、その雑文がこの世界に存在してしまい、長らくの間における服毒の対象ともなって来た。
未だ中毒状態にある狂信者から急激に犯罪聖書を取り上げて、そのままほったらかしにしたりすれば、
麻薬が切れた中毒患者のような最悪の苦痛に見舞われることにもなりかねない。
だから、巨大な脳腫瘍を取り除いた後の空隙に生理食塩水を注入するようにして、
犯罪聖書を没収した元犯罪信者に、四書五経や仏書をあてがうなどの緩和ケアを施したほうがよい。
摘出した脳腫瘍に当たる所の犯罪聖書は、当然その大部分が裁断処分などの対象になる。
ただ、大学病院の標本室に特大の脳腫瘍のホルマリン漬けが保管されるようにして、
ごく一部の犯罪聖書が標本扱いとして保管されることにはなる。
あくまで「よくないもの」、文面的にも寓意的にも実践の対象などにしてはならないものとしての扱いで保管される。
それは、中国諸子百家の内でも特に劣悪な思想を記録している「韓非子」や「墨子」がすでに通った道でもあり、
「韓非子」は生まれ故郷の中国では完全に打ち捨てられたために、日本の江戸時代の
貧乏儒者である太田方全斎が校注書「韓非子翼毳」を書いているし、
「墨子」もほんのこの前まで完全に打ち捨てられていたために、原本すら所在不明となっていた始末。
その程度の扱いとしての犯罪聖書はこれからも遺るし、また、
完全な犯罪マニュアルムックとして、開き直った体裁でゲリラ的に世に出回る可能性もある。
削除(by投稿者)

儒家も儒家で「韓非子」の愛読者だった秦始皇帝に焚書坑儒の憂き目にも遭ったことがあるので、
「目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)」ではなく、「直きを以て怨みに報う(論語)」を実践する目的でも、
犯罪聖書自体を完全な根絶の対象にまではしない。ただ、犯罪聖書の記述を「是」と見なして、
忠実な信仰や実践の材料としていく「犯罪聖書信仰」だけが根絶の対象となるわけで、ただ、
正体が犯罪マニュアルムックでしかない雑文集の扱いを、相応に適正化するだけなのだといえる。
「蔡公、二子を召して、将に之れを納れんとし、之れと盟いて、之れを遣れり。將に師して之れに従わんとす」
「蔡公は子干と子皙の二人を招聘し、この二人を一旦楚に帰国させるため、二人と盟約を結んでから、実際に
この二人を楚に遣わした。これはまさに、蔡公が二人を師として仰ぎ、これに服従しようとした姿だといえる。
(『遣い』は目下の者が目上の者に服従を誓う体裁を意味する。日本も一時は中華帝国に服従する倭王の
体裁を取っていたため中国に遣使を送っていたが、聖徳太子が遣隋使で隋の煬帝に対する対等外交を試み、
菅原道真が遣唐使を廃止したことで、中華帝国の柵封体制からの完全な離脱を果たしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十三年より)
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